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新たな勉強の始まり 1、淮南子(えなんじ)の思想について

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新たな勉強の始まり 1、淮南子(えなんじ)の思想について
新たな勉強の始まり
私たち日本人は、リズム論に基づく生活を続けながら日本的精神を生き、かつ、同時に、
「哲学的宗教」である道教にエールを送りながら「日中友好親善」を深めて行かなければ
ならないのではないか。ヨーロッパアメリカ文明は、キリスト教も含めて終焉を迎えてい
る。これからあるべき「哲学的宗教」は多神教でなければ世界はやって行けないと思う。
日本の宗教は多神教だが、残念ながら哲学の裏打ちがない。中村雄二郎のリズム論はその
端(はし)りでしかない。したがって、世界の人びとに日本人の宗教観を理解してもらう
ことは難しい。「哲学的宗教」である道教は世界最強の宗教である。「哲学的宗教」であ
る道教にエールを送りながら、私たちのやれることをやって行こう。これから大事なこと
は、中村雄二郎のリズム論を発展させることである。そのためには、多くの人が「野生の
思考」に関係のある思想や哲学を書いていく必要がある。
私は、今後多くの人によって「野生の思考」に関係のある思想や哲学が書かれることを大
いに期待しながら、私の論文『日本的精神と中村雄二郎の「リズム論」』の第2章第3節
に、「野生の思考」と関係のある思想や哲学をピックアップしておいた。それらは、これ
からあるべき哲学を見据えての私の勉強の成果であるが、こういった勉強はこれからも引
き続き続けて行きたいと考えており、その成果は次のとおりである。
1、淮南子(えなんじ)の思想について
金谷治の「淮南子(えなんじ)の思想・・・老荘的世界」(1992年2月、講談社)は
難解な淮南子の入門書である。漢の武帝の頃、淮南(わいなん)の地を治めた淮南(わい
なん)王・劉安(りゅうあん)の生涯のみならず、時代背景にも詳しい。 劉安(りゅうあ
ん) のもとには大勢の学士食客が集まり、数多くの著作を残した。2000年後の今日
に伝わる『淮南子(えなんじ)』がそれである。その内容は複雑多様、諸子百家から戦国
的自由思想の伝統、また、処世や政治、天文や神話伝説まで集合されている。全体の基調
は老荘的なものに貫かれその百科全書的な内容が人々をひきつけてきた。 淮南子(えな
んじ) 混迷の世を生きる現代人に贈る必読の人世哲学の書である。
淮南子(えなんじ)は、日本へはかなり古い時代から入ったため、漢音「わいなんし」で
はなく、呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。淮南鴻烈(わいなんこうれつ)と
もいう。劉安・蘇非・李尚・伍被らが著作した。
第1巻から第21巻まであり、そのほとんどが道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思
想を交えて書かれており、第21巻「 要略」が結論部分で、儒家・法家・陰陽家の思想を
包含する形で老荘思想が説かれている。
その内容については、「松岡正剛の解説」 に詳しい。松岡正剛は、淮南子の内容につい
て、次のように解説している。すなわち、
『 儒家・法家・陰陽家の思想の歴史的な系譜をよく継ぎつつも、そこに楚の風土にもと
づく価値観を大胆かつ慎重に加えてみせたのが、淮南王によってまとめられた『淮南子』
だったのである。』
『 たしかに『淮南子』には、天文地理から神話伝説まで、政治論から処世術まで、みん
な入っている。儒家・道家・法家のいずれの知識もまぜこぜの目で収集されている。
その一方で、『淮南子』には独特の編集感覚が満ちた。このことは読み始めれば、す
ぐ伝わってくる。とくに目立つのは、アーカイブの全容を巧みに道家の思想 によって柔ら
かく統合しようとしていることで、そうすることによって、複雑多様な「事」(事象)を
「道」(タオ)によっておしなべた。そう言っていいな ら、全体に老荘思想と神仙タオイ
ズムの気配が漂っていて、百科いちいちの詳細を伝えるというよりも、つねにメゾスコ
ピックな言語風致でつないでみせたの だ。』
『 楚国とは、淮南の時代をさかのぼる数百年前からの、この土地の国俗(くにぶり)の
総称をいう。そこは老子(1278夜)や屈原が生まれた国であって、かつまた孔子や墨
子(817夜)が君子を求めて訪れた「風韻まつりごと」の地であった。その楚の国が
『淮南子』の背景で動いている。』
『 とくに洞庭湖を望む楚の国には、山河に育まれた神仙や巫祝の文化が横
していた。
けれどもそこは、中華の国々か らみれば「礼教の外」であり、野蛮(南蛮=夷狄)の象
徴でもあった。』
『 その周の基軸モデルから見れば、楚の社会文化なんてものは(呉や燕もそうであるけ
れど)、たんなる辺境なのである。』
『 そうした楚の地にいつしか「楚辞」(そじ)が生まれた。楚辞は土地伝来のシャーマ
ニックな巫歌の伝承にもとづき、それ以前の古代中国にはまったく見られな かった新し
い文芸の異風をつくりあげた。それまでの北の『詩経』が集団的な楽歌だったとすれば、
南の「楚辞」は屈原や宋玉や景差といった強烈な個性を育 て、やがて滅びゆく楚風を偲
ぶ「負の文芸」としての異色を極めたのである。』
『 楚王は代々「熊」の文字を名につけるようになっていく。わが国のアイヌやマタギ同
様に、かれらが熊のトーテムを信仰していたことはあきらかだ。』
『 斉・晋と 争った。その斉の威王や宣王の時代、都の臨輜(りんし=輜はサンズイ)
の稷門の館に千人をこえる学士が集まったのが、諸子百家の黄金時代だったわけであ
る。』
『 楚の窮状は亡国の憂き目の様相を呈してきた。懐王はなんとかこの苦境を凌ごうとす
るが、どうにもうまくない。ここに登場してきたのが屈原だったのである。 屈原は、孤立
無援となった楚が存続するには六国が同盟して秦に当たるよりほかはないと懐王に提言す
るのだが、なかなか受容されない。それどころか、側近た ちの讒言も加わって2度にわ
たって放流された。懐王が秦に捕らえられて客死したのちに次王となった頃攘王(けい
じょうおう)のときは、江南に流されて9年 もの流浪を強いられた(実際に9年間だっ
たかどうかはわからない)。
こうして屈原は公憤に震え、義憤に怒り、私憤に悶えて、ついに洞庭湖のほとりの泪羅
(べきら)の淵に身を投げ、悲劇の生涯を了える。』
『 その屈原が祖国を思い、万感無念の裡に綴ったのが、楚辞文芸の傑作中の傑作『離
騒』(りそう)だった。いまは詳しいことは書かないが、『離騒』は375句におよぶ長
編詩で、すべての漢詩の半分はここに始まったとも思える特異な技巧と壮絶な内容を湛え
ている。 ちなみに『離騒』の前半は、屈原が自叙伝ふうに出自や学知を詠い、その後は
王を扶(たす)けて理想を求めたにもかかわらず、讒言のために失脚したことを嘆 じる。
そのうえで、王また当初の約束を忘れてしまった以上、いまや自分の心を知る者はどこに
もいないという悲憤を訴える。
後半では、こうとなってはいっそ現世を越えて天地の果てまで遍歴し、 新たな理念の理
解に達しようとするのだが、その希いすらもはや叶わないことを知る。まるでバニヤンの
『天路歴程』の一千年の先読みなのである。そこでいっ たん現世を見つめなおすのだ
が、時代が汚辱にまみれている以上はもはや祖国をも捨てざるをえないと決意する、しか
し屈原という男、決して望郷の念も捨てら れず、ついに死をもって祖国に殉ずるほかない
ことを、みずから歌い切ったまま楚辞を了えていく。だいたい、こういうふうになってい
る。』
『 屈原が泪羅に身を投じたのち、楚はあっけなく滅亡し、50年後には秦の始皇帝によ
る中国統一になる(前221)。その秦もわずか十数年で滅んでしまうと(前206)、
時代は漢帝国の世になって、その武帝のときに淮南の王の劉安が「離騒についての解説」
を頼まれるのである。なぜ武帝は、辺境の淮南王が楚辞の伝承の意味を紐解くことを期待
したのだろうか。この
、ちょっと難しそうであるが、ここには大事な暗合がある。実は
楚に は「莫敖」(ばくごう)という重要官職があり、そこが国家祭祀を司っていたのだ
が、屈原の一族である屈氏がその職掌を担っていたのだった。』
『 楚辞とは、その莫敖が操っていた言霊技能の発露でもあったのである。淮南王とその
膝下(しっか)にある者たちは、この格別な技能を継承した。』
『 しかしながら、それほど特異な才能を保持していた淮南王の劉安が、それならなぜ、
自害せざるをえないほどの運命を背負ったのか。また、劉安が多くの者を集 めて『淮南
子』をタオの香りに満ちた編集で満たす気になったのは、なぜなのか。そこには劉の一族
の驚くべき悲劇があったのである。』
『 そのほかいろいろなことが重なり、淮南王としては中央と対立せざるをえなくなり、
王自身も謀反をおこす決断にまで追いこまれていった。しかし、こんな消極的な謀反がう
まくいくはずがない。淮南王の“計画”はたちまち漢室に察知され、行き場を失った劉安は
自殺する。謀反に加わったとされた者たちもみな死罪に処せられ、淮南の国は没収されて
しまったのである。劉長母子が自害し、餓死していった宿命が、ここに三代にわたって踏
襲されたような恐るべき結末だった。』
『 淮南王が命じた『淮南子』はその後も執筆や編集が進んだ。恐るべき悲劇によって死
没した王ではあったのに、『淮南子』はあたかも王の直下の指導にもとづくように、進
していったのだ。いやいや、それだけではなかった。そのうち、淮南王は謀反によって自
死したのではなく、天に昇って仙人になったのだという感懐が淮南の世人のあいだに沸き
上がっていくようになった。このことこそ驚くべきことである。わが国の早良親王や菅原
道真の例にみられるような、いわゆる怨霊観念によるものではなかった。めっぽう陽気な
昇仙幻想なのである。この
はのちの後漢の王充の『論衡』にも綴られた。「淮南王は食
客を好んだので、道士や方士が次々に集まり、奇方異術の蘊蓄をかたむけ、王またそれを
会得して道(タオ)を悟り、家族もろともに昇仙していった」というふうに。
むろん王充はこんな話を信じていたのではない。けれども、そんな昇仙譚が後漢の時
代に伝わるほどに、死後の淮南王については神仙めく
である。実際にも、干宝の『捜神記』にも
が付きまとっていた ということ
洪の『神仙伝』にも、八公の手引きによって
淮南王が羽化登仙した不思議な経緯がまことしやかに綴られ ている。これが何を意味して
いるかといえば、『淮南子』の執筆編集にもそうした神仙陰陽道を加味したミスティッ
ク・モードが次々に付与されたということなのだ。が、そこでは、たんに陽気な仙人が仕
立てられただけではなかったのである。』
『 いまに残る『淮南子』はいろいろ散失があって21
になっている。それでもまこと
にエンサイクロペディックだ。次のように構成される。1=原道(根本を問う)、2=俶
真(めでたい真理)、3=天文、4=地形、5=時則(時の問題)、6=覧冥(見えざる
ものについて)、7=精神、8=本経 (大本の意味)、9=主術(人生と政治)、10
=繆称(誤
論)、11=斉俗(世俗同化論)、12=道応(タオについて)、13=氾
論(広く論じるこ と)、14=
言(要点の言葉)、15=兵略、16=説山(エピ
ソードいろいろA)、17=説林(エピソードいろいろB)、18=人間(処世とは何
か)、 19=修務(人としてのありかた)、20=泰族(大いなる帰結へ)、21=要略
(まとめ)。これらの中身を今夜はいちいち説明はしないけれど、その大略は21=要略
でわかる。その冒頭に、こう書いてある。「道を言いて事を言わざれば世とともに浮沈す
るなく、事を言いて道を言わざれば化と与(とも)に游息することなし」というふうに。
深遠な道(タオ)を述べながら現実の事を言わなければ、世俗とともに生活することな
どできないし、現実の事ばかり述べて深遠な道(タオ)を語らなければ、自然とともに遊
び息(いこ)うことはできない。そういう主旨で編集したというのだ。これは、ずばり荘
子(726夜)の「逍遥遊」の思惟そのものであり、「斉物」の考え方そのものだ。1=
原道で次のように言っているのは、さらに老荘的世界観そのものだった。 「道は、これ
を植(た)つれば天地に塞がり、これを横たうれば四海に弥(わた)り、これを窮まりな
く施(もち)うるとも朝夕盛衰するところなし。これを舒 (の)ぶれば六合(=四方上
下)に幎(おお)い、これを巻けば一握りにも盈(み)たず。約(つづま)やかにして而
も能(よ)く張り、幽(くら)くして而も 能く明らかに、弱くして而も能く強く、柔にし
て而も能く剛なり。これ、甚だ悼にして潤、甚だ繊にして微なり」。』
『 しかし漢の帝国の形ができあがるにつれ、武帝はこれらのエンジンを取り込む面倒を
感じ始めたのだったろう。国家経営からすると、辺境各地の特異なエンジンの適用をいち
いち組み立てようとするのは、コストもかかりすぎるのだ。 それよりも第1には、中央
からの「制度設計」をゆきわたらせさえすれば、これらのエンジンなど相手側が適当にア
プリをしてくれる。それには優秀な役人をふ やして送りこめばよかった。また第2には、
辺境の人材をそのままとりこんでしまえば(アメリカの移民政策のように)、そのもとも
と国々の由縁や由緒などど うでもよくなった。そして第3に、何にもまして儒教を拡張
し、これに周辺の多様な思想をとりこんでしまえばいいだけなのである。
これが武帝の古代帝国主義政策である。ということは、ここにおいて中央と辺境ははっ
きり切断されたわけである。辺境は見捨てられたのだ。では、それで淮南王はどうしたの
か。』
『 淮南王は武帝の制度設計に抗したのである。制度に対するに衆智をもって対抗したの
だ。そのため一方では 「積力衆智」「無為自然」「万物一如」をもって、そのエンサイク
ロペディックな思想の記述を柔軟にしていった。これが『淮南子』のまぜこぜ加減の按配
に なっている。その他方では、自分たちが生まれ育ってきた背後の“歴史言語マザー”の特
異性を持ち出した。ここで“マザー”というのは、老子や屈原の時代の古法を用いた観念技
術的なコンセプトと、それをいかして古詩を詠じる表象技能的なフレーズとを、祖国や母
国のために組み上げていく“母型構造”のことをいう。“楚≒淮南マトリックス”とでもいう
ものだ。このような“マザー”によって淮南王は何をしたかというに、遠い楚の文化を背景
に、淮南の地に来し方行く末のための歴史文化と言語表現の再編集が可能であるのか、問
うたわけである。『淮南子』は、その柔軟記述と特異マザーの関係について、こんなふう
に説明をしている。「縮約できていながらも張り、漠然としているのに明快で、弱そうに
見えて実は強靭な、つまりは柔にしてしかも剛であるような内実」を構成表現することこ
そ、この『淮南子』という試みの最も重要な目的なのである、と。しかしながら、すでに
述べてきたように、それらのすべてが間に合わなかったのである。いっさいは挫折した。
淮南王は謀反の罪に問われ、志し半ばで悲劇の王になった。けれどもその意図の大半は、
いまなお『淮南子』そのものによって語り継がれることにもなったはずである。このこと
をこそ、今夜は言っておきたかった。』・・・と。
なお、松岡正剛は、 金谷治の「淮南子(えなんじ)の思想・・・老荘的世界」(199
2年2月、講談社) について、つぎのように述べている。すなわち、
『 本書は『淮南子』をめぐる数少ない好著である。とくに淮南王の悲劇の淵源と『淮南
子』にひそむ老荘的思考についての指摘において、先駆的な一冊だった。もとはサーラ叢
書(平楽寺書店)として50年前の1959年に刊行された。金谷治さんは東北における
中国思想史研究の
城を淡々と築いた人で、岩波文庫の『論語』『荘子』『孫子』『韓非
子』の訳業をはじめ、老子、孟子、易、諸子百家、荻生徂徠にも造形が深い。『中国思想
を考える』(中公新書)など、きっと初心者に恰好だ。』・・・と。
金谷治は東北の人である。そしてその東北は「辺境の地」である。「辺境の地」とは、中
央の文化の及ばない遠隔の地をいうのではない。中央の文化の影響を受けながらも、古来
からのその地域独特の文化を有している地域のことである。日本の中でいえば、その典型
的な地域が東北である。東北の文化、それは、中沢新一いうところの「野生の文化」であ
るが、宮沢賢治などの感性豊かな人には「野生の感性」が息づいているようだ。金谷治も
東北の人で、そういう「野生の感性」があるのだろう、哲学者として「辺境の地の持つ
力」というものが自ずと判っていたようだ。
金谷治の書いた「淮南子(えなんじ)の思想・・・老荘的世界」(1992年2月、講談
社)を読んで私がいちばん強く思うのは、老荘思想のような物凄い思想が何故あのような
「辺境の地」に誕生したかということである。それは、私の思うに、グノーシスの力によ
る。金谷治は、そのことを知っていて、「淮南子(えなんじ)の思想・・・老荘的世界」
(1992年2月、講談社)では、その点に力点を置いて解説しているように思えてなら
ない。
淮南子はグノーシスであり、それによって確立した老荘思想は儒家・法家・陰陽家の思想
を包含したまったく新しい哲学である。今のところこの新しい哲学を凌駕する哲学はな
い。それが「淮南子(えなんじ)の思想・・・老荘的世界」(1992年2月、講談社)
という本を読み終えた私の考えである。それでは以下において、その本の核心的な部分を
紹介しておきたい。金谷治は、その本の中で次のように述べている。すなわち、
『 道のことだけをいうのでは世俗とともに生活できない。しかしまた、現実のことばか
りをいうのでは、自然と合一して遊び息(いこ)うことができない。つまり、形而上的な
深遠な道を説くのは、わずらわしい雑多な変化の多い現実にとらわれないで、超越的な心
境に遊べるようにという、そのための配慮からだ、というのが要路篇のことばである。』
『 人間的な道義を守ってできるだけの努力をしていくというのが、儒家の立場であっ
た。しかし、道家の人びとは、そうした人間的な努力の空しさをあまりにも深く知りすぎ
た。』
『 儒教の論理では、何よりも賢人による政治、道徳による政治として、「人材」をたの
み、「叡智」に依頼することが多かった。しかし、「積力衆智」の主張は、「人材を恃)
たの)むに足らず」「智は以って天下を治むるに足らず」として個人的な智能を尊重せ
ず、一派の学問思想にこだわらないでひろく民間の輿論にも耳を傾けることを要求す
る。』
『 「物に先んじて為さず」「己より出る(い)だすことなき」無為の立場、聖人はそれ
を完全に守る人である。だからこそ、世界の動きを注視して、その時その時に応じてもっ
とも適切な行動がとれるのである。』
『 「老子」では、無為を説くのは実は「為さざることなき」万能を求めるためであり、
無私になるのは「能く私を為しとげる」ためである。「老子」を通読すると、その消極的
なことばづかいの裏に、烈しい現実的な欲求、世俗的な成功主義のひびきを聞くことがで
きるであろう。荘子的な真人(道を完全に体得した者)と老子的な聖人(タイミング見て
行動する無為の人。してみると、「淮南子」の統一の「場」は、そのまま老荘を統一する
立場であったといえるであろう。』
『 「恬然(てんぜん)として無思、澹然(たんぜん)として無慮」、すぐれた人物の行
動は全く自然と合一する。だから、人がその「道の働き(宇宙の働き)」に従っていくと
いうのには、まず無思無慮になること、人間的なさかしらをすてることが必要である。
「万物は固(もと)より自然なり、聖人は何をか事(つと)めん。」、ここにいわゆる無
為自然の哲学が強調される。』・・・と。
金谷治の書いた本「淮南子(えなんじ)の思想・・・老荘的世界」(1992年2月、講
談社)の核心部分は、以上のとおりである。
今回の勉強の最後に、「老子」の第五十五章を取り上げておきたい。「老子」( 蜂屋邦
夫注訳、2008年12月、岩波書店)によると、「老子」の第五十五章は次のようなも
のである。すなわち、
『 豊かに徳をそなえている人は、赤ん坊にたとえられる。赤ん坊は、蜂やさそり、まむ
し、蛇も刺したり咬んだりはせず、猛獣も襲いかからず、猛禽もつかみかからない。骨は
弱く筋は柔らかいのに、しっかりと拳(こぶし)を握っている。男女の交わりを知らない
のに、性器が立っているのは、精気が充実しているからである。一日中泣き叫んでも声が
がかれないのは、和気が充足しているからである。』・・・と。
つねに和の状態にあること、これが「道」にかなっている。宇宙の原理によってすべてが
動いている。だから、すべてのもののあり方は、「つねに和の状態」にあることであり、
その恒常性が大事なのである。人間は、本来は赤ん坊のごとく純粋無垢であるが、生まれ
たときから少しでも生活をよくしようという欲が出てくる。その体験によって、人間は本
来の姿から次第次第にかけ離れていく。そして河合隼雄のいうアイデンティティーが形成
されていく。自分の心もそうだし、自然に働きかける事によって、自然も変化していく。
私たちの心も自然も「つねに和の状態」にあるべきという恒常性の大事な事を老子は言っ
ているのである。それが「老子」第五十五章である。恒常性の哲学といっていいかもしれ
ない。
この恒常性の哲学は、私たち人間のあり方としての「無の哲学」になるし、自然との関係
でいえば「自然保護の哲学」になる。私は今「老子」第五十五章を何度も読み返しつつそ
う感じている。「無の哲学」については、すでに私の論文「日本的精神と中村雄二郎のリ
ズム論」に書いたが、「自然保護の哲学」についてはまだ書いていないので、今後、その
勉強をして参りたいと考えている。
2、自然の哲学
はじめに
C・W・ニコル、クライヴ・ウィリアムズ・ニコルは、日本の自然保護に対する取り組み
の甘さを鋭く指摘している。https://books.google.co.jp/books?isbn=4569783384
加藤規芳:1949 年、埼玉県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。角川書店編集部に7 年
間 勤務ののち、八ヶ岳に移住。世界各地を歩き、国内外の自然保護、アウトドア・
フィールド、ロングトレイルなどをテーマに執筆活動を続ける。また、日本での ロングト
レイル普及に尽力している。現在、横浜市在住。『ジョン・ミューア・ トレイルを行く』
(平凡社)が、1999 年度「第8回JTB紀行文学大賞」を受賞。 著書に『メインの森をめ
ざして―アパラチアン・トレイル3500キロを歩く』(平 凡社)、『森の聖者―自然保護
の父ジョン・ミューア』(山と渓谷社)、『森の 暮らし、森からの旅』(平凡社)、
『大きな、巨きな木』(福音館書店)など多数。昨年死亡。
加藤規芳は次のように言っている。
もっとも重要なこととして、日本の管理システムの問題もある。C・W・ニコルの言葉に
「日本の国立公園のレンジャー(自然保護官)にあうのは、クマに会うより難しい。」と
いう名言があった。そのくらい少ない。日本全国の現状としては、正規のレンジャーは約
260名(アメリカではヨセミテだけで800名)、他に自然保護官補佐が約80名、無
償の自然公園指導員約3000名、ボランティアが約1800名いる。アメリカでは、レ
ンジャーが子供たちの憧れの的だ。
日本の場合、問題は環境省の予算が少なすぎることだ。そのためには、自然保護の哲学を
作らなければならない。その上で、美しい自然をもつ日本の国家百年の計を作らなければ
ならない。
なお、私たち人間の「自然との接し方の重要性」については、以前に書いた次のようなも
のがある。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/ryu/kyodarai.html
自然と接するということを止め、工業化・機械化によって機械を利用してそれに任せてい
ろんなことをおこなうようなことになると本当の自然とかけ離れてきま す。そうすると人
間の自然との接し方も機械的になってきて、密接な関係ではなく、機械に接する時のよう
に人間としての気持ちも機械的になってきます。
機械科学は人間に非常に裕福な生活や楽な環境を与えてくれたのですが、それと同時に今
言ったような人間の本性が変わってくる。人間性のところから狂ってき ます。テクノロ
ジーと科学というものがあれば、人間はなんでもできると思うようになる。われわれが働
きかければ自然をどうにでもできるという間違った方向 に進んでしまう恐れがあります。
自然の哲学
中村雄二郎のリズム論から自然保護が導かれるか?
中村雄二郎は、そのリズム論で自然保護の重要性を言っている訳ではないが、私の考えで
は、自然保護は結局「場所」の問題である。私たち人間と「場所」とのコミュニケーショ
ンという観点から、自然との関係で「場所」の問題を考えるとき、その基本は、「失われ
た自然の回復」である。
さあ、それでは、中村雄二郎のリズム論における「場所」の問題を振り返っておこう。
中村雄二郎によれば、そもそも「場所」というものは、コミュニティーとか環境というよ
うな<存在根拠(基体)としての場所>のほかに、<身体的なものとし ての場所>、<象徴
的な空間としての場所>、そして<論点や議論の隠された所としての場所>の三つがある
という。 では、<論点や議論の隠された所としての場所(トポス)>とはなにか。中村の説明を紹
介する。 『 <論点や議論の隠された所としての場所(トポス)>は、古代レトレックでいうところ
のトピカ(トポス論)の持つ問題性をもっと広い観点から捉えなおしたも のである。もとも
とアリストテレスではトピカとは、自分の行おうとする議論はいかなる種類の事柄にかか
わるか、どのような話題から始めるべきか、を決める ものであった。キケロによれば、
隠された場所がわかれば隠されたものがたやすく見出されるように、十分な議論をしよう
とすれば、その場所つまりロクス(ト ポス)を知らなければならない。こうしてトピカは発
見の術とも呼ばれ、政治や法律の具体的な事例についての議論に不可欠なものとされた。
このトピカは蓋然性の上にのっとった議論であるため、永い間、とくに近代世界に
至って、不確かなものとして退かれることが多かった。しかし、近年になっ て、具体的な
事例や問題の考察と議論において、適切な論点を発見することがいかに必要であるか、ま
た、現実の多面的な豊かさを考えると、蓋然性を受け入れ ることがどんなに正確である
か、が見直されてきている。必然的な真理のもとづく議論はたしかに正確ではあるが、そ
うした議論はいくらしたところで、問題の 持つすべての局面を考察したことにはならな
いからである。つまり、正確な推論の出発点となる前提は、えてして単に現実の一局面し
か表わさず、したがってそ こからの結論もおのずと限られたものになるからである。 』
哲学者の説明は難しく、私たちにはちょっと理解しにくいが、私流に判りやすく説明
したいと思う。風土もそうだが、環境というものは人々の感性に強い影響を 与える。環
境にはいろいろあって、地質学的な環境、地理的な環境、生態系的な環境、歴史的な環
境、文化的な環境などがある。そういった環境がうまく整えら れた「場所」では、人々
の感性はそれなりに養われるし、それなりの学習も自ずとできる。門前の小僧習わぬ経を
詠む・・・という訳だ。
すなわち、環境がうまく整えら れた「場所」では、人々の感性はそれなりに養われると
いうことなのである。
中村雄二郎と老荘思想を包含したこれからの哲学は、当然、老子の第五十五章を引き継
ぐ。純粋無垢な赤ん坊のような「道」「無」を体験し得る「場」が必要で、それがこの地
球上に数多くなければならない。これが自然保護の必要な所以である。それが今後あるべ
き哲学である。すなわち、今後あるべき哲学として、自然保護の重要性が主張される筈
だ。それが私の考えである。
先の「1、淮南子(えなんじ)の思想について」で紹介したが、老子の第五十五章とは、
『 豊かに徳をそなえている人は、赤ん坊にたとえられる。赤ん坊は、蜂やさそり、まむ
し、蛇も刺したり咬んだりはせず、猛獣も襲いかからず、猛禽もつかみかからない。骨は
弱く筋は柔らかいのに、しっかりと拳(こぶし)を握っている。男女の交わりを知らない
のに、性器が立っているのは、精気が充実しているからである。一日中泣き叫んでも声が
がかれないのは、和気が充足しているからである。』・・・というものである。
これを受け、「1、淮南子(えなんじ)の思想について」の最後に、次のように述べた。
すなわち、
『 つねに和の状態にあること、これが「道」にかなっている。宇宙の原理によってすべ
てが動いている。だから、すべてのもののあり方は、「つねに和の状態」にあることであ
り、その恒常性が大事なのである。人間は、本来は赤ん坊のごとく純粋無垢であるが、生
まれたときから少しでも生活をよくしようという欲が出てくる。その体験によって、人間
は本来の姿から次第次第にかけ離れていく。そして河合隼雄のいうアイデンティティーが
形成されていく。自分の心もそうだし、自然に働きかける事によって、自然も変化してい
く。私たちの心も自然も「つねに和の状態」にあるべきという恒常性の大事な事を老子は
言っているのである。それが「老子」第五十五章である。恒常性の哲学といっていいかも
しれない。
この恒常性の哲学は、私たち人間のあり方としての「無の哲学」になるし、自然との関係
でいえば「自然保護の哲学」になる。私は今「老子」第五十五章を何度も読み返しつつそ
う感じている。』・・・と。
以上のとおり、 中村雄二郎と老荘思想を包含したこれからの哲学は、当然、老子の第五
十五章を引き継ぐ。純粋無垢な赤ん坊のような「道」「無」を体験し得る「場」が必要
で、それがこの地球上に数多くなければならない。これが自然保護の必要な所以である。
それが今後あるべき「自然の哲学」である。
3、「野生の思考」について
私の論文『日本的精神と中村雄二郎の「リズム論」』の 第2章第3節『「リズム論に基
づく生活」について 』の「2」において詳しく説明したが、その要点は、次のとおりで
ある。すなわち、
『 形而上学的にいえば、二度の革命的 変化があるという。第一次が一神教の成立がも
たらした宗教によって思考のしかたが変り、思考能力がある程度セーブされた。自由奔放
な流動的知性というものが、これを中沢新一はレヴィ・ストロースに敬意を表して「野生
の思考」と呼んでいる。』
『 「野性の思考」は日常的な生活を支配し、「宗教的思考」は非日常的生活を支配して
いた。それらの違いははっきりしているが、違いを認めつつ思考は流動的である。それ
は、山口昌男のいう「両義性の論理」に通底するものがあるのであるが、中沢新一はそれ
を「対称性社会の知恵」だと呼んでいる。』
また、私は「新たな勉強」という論考の『 1、淮南子(えなんじ)の思想について』
で、「 金谷治の書いた「淮南子(えなんじ)の思想・・・老荘的世界」(1992年2
月、講談社)を読んで私がいちばん強く思うのは、老荘思想のような物凄い思想が何故あ
のような「辺境の地」に誕生したかということである。それは、私の思うに、グノーシス
の力による。」と述べ、「グノーシス」の説明にリンクを張ったが、「グノーシス」をひ
と言で言えば、「辺境の地」において「文明」と「野蛮」の統合が起こるが、その統合さ
れた思考が「野生の思考」である。
以上をさらに要約すれば、「野生の思考」とは、宗教によって思考能力がある程度セーブ
される以前の自由奔放な流動的知性であるし、また「グノーシス」によって統合された思
考ということになるが、これでは「野生の思考」を判りやすくかつ正確に説明したとは言
い難いように思う。そこで、私は、今ここで、「野生の思考」とは「宮沢賢治の思考のよ
うなもの」と理解する事にする。
中沢新一はその著書「ミクロコスモス1」(2007年4月、四季社)において、「宮沢
賢治は理想の農場をつくり、そこを人間と動物、人間と自然のあいだに生み出されるべき
通底路をつくりたかったのだと思います。」と言っているが、そのような農場とは、「宇
宙との一体感を直感する」、そのことが可能な「場」としての農場だと私は思う。宇宙と
の一体感とは、動物や自然との一体感のことである。
さらに、 中沢新一はその著書「ミクロコスモス1」(2007年4月、四季社)におい
て、『 トーテミズムの体系は、人間と自然とのあいだに失われた永遠の関係を回復する
ことによって、宇宙のなかの人間の位置について、全体を直観する知性をあたえようとし
てきたのである。「野生の思考」という本(レヴィ・ストロース)には、このようなトー
テミズムの世界の豊かさが、たぐいまれな思考力と文章力によって、みごとに表現されて
いる。』と述べているが、私たちのおなじみの人でいえば、宮沢賢治こそ「野生の思考」
を身につけた人であったと思う。多くの方は、宮沢賢治といえば、どういう人であるかを
イメージできるし、「宮沢賢治の思考のようなもの」といえば、どのような思考かをイ
メージでできる。
以上が、「野生の思考」とは「宮沢賢治の思考のようなもの」と理解する所以である。草
野心平の思考もおなじようなものである。
なお、 中沢新一はその著書「ミクロコスモス1」(2007年4月、四季社)において、
『 チベットの先生は、「あなたは過去の生において、カンガルーというあの奇妙なオー
ストラリアの動物だったことがあります。』と言ったことを紹介した上で、『ぼくはオー
ストラリアの砂漠に住むカンガルーで、夜明けから日没まであきもせず目の前にあるあの
赤い山を見つづけていた』と述べているが、チベットの先生も中沢新一も「野生の思考」
の身についた人であったのであろう。こういう「野生の思考」についての哲学的説明とし
ては、田邊元の「種の論理」がある。
私は、今後多くの人によって「野生の思考」に関係のある思想や哲学が書かれることを大
いに期待しながら、論文「日本的精神と中村雄二郎のリズム論」の第2章第3節の「4」
に、「野生の思考」と関係のある思想や哲学をピックアップしておいたので、「野生の思
考」については、上述の新たな説明の他にそれらも参考にしていただければありがたい。
4、 宮沢賢治について
私は、先に「野生の思考」とは「宮沢賢治の思考のようなもの」と述べた。多くの方は、
宮沢賢治といえば、どういう人であるかをイメージできるし、「宮沢賢治の思考のような
もの」といえば、どのような思考かをイメージでできる。それが私の狙いであり、哲学者
でない限りそれ以上のことは望まないが、ただ哲学を志す人には、宮沢賢治のリズム性を
ご理解いただきたいと思う。宮沢賢治のリズム性、それはニーチェのリムム性との繋がり
である。
ニーチェも宮沢賢治も、「宇宙のリズム」を感じることができた。そのことを以下におい
て説明したい。
1、「宇宙のリズム」という言葉について
中路正恒の著書「ニーチェから宮沢賢治」(1997年4月、創言社)の「永遠回帰の思
想」の「第三の考察:結論」というところで、「肯定はどのように学ばれるか」という
テーマで「宇宙のリズム」に関して次のように述べている。すなわち、
『 肯定は、しかし〈ひらめき〉として与えられるように見える。それはやはり変わらず
に、循環の激しい物質的な流動である。しかし、その激し い物質の流れにおいて、ひと
は時として循環する宇宙の〈生命〉と言うべきものの動きを、感得しうるのである。激し
い〈ひらめき〉の数々が構成する、時と強 さと色彩の区切りに、人は時として、循環す
る宇宙の生命そのもの、つまり「宇宙のリズム」を、聴きとることができるのである。』
『 宇宙の生命としてのそのリズムが聴きとられる瞬間が訪れてくる、ということは、確
かに「不思議」としか言いようがなく、言わば、ただ瞬間 の〈贈与〉によって、われわ
れはそれを聴きとりうるようになるのである。この聴きとる能力を何によって与えられた
か、ということも、われわれは言うことが できない。ただある時、その〈時〉の贈与に
よって、われわれは宇宙の生命の動きを聴きとることができるようになるのである。』
『 宇宙の生命、そして「宇宙のリズム」。微小においては、それは原子のリズムであ
り、クォークのリズムである。そして細胞のリズムや天体のリズ ム、等々・・・カールハ
インツ・シュトックハウゼンがそれを聴きとり、名付け、そしてその音楽が表現している
ような、さまざまな次元の、さまざまな リズムである。そしてそのリズムのすべてにおい
て、鋭角的な〈ひらめき〉が、音の生命でもあり宇宙の生命でもあるものとして、瞬間的
に輝き、またひしめく のである。』
『 そしてそれらの「宇宙のリズム」に、われわれはみずからを合わせ、みずからそれに
参与することができるのである。われわれは〈ひらめき〉のリズムを構成しつつ、みずか
らを生きた宇宙の循環の中に組み込むのである。』
『 そして、このように「宇宙のリズム」に参与し、そこにみずからを組み込むことは、
循環する宇宙とのあいだに、祝福を交わしあうことであり、循 環を肯定することなので
ある。このように、肯定にかかわる一切は、本質的に音楽的な出来事であり、また音楽の
本質は、本来このように肯定を表すことである のである。』・・・と。
この「宇宙のリズム」というのは、中路正恒の名付けた言葉であるが、ニーチェのいう
「啓示というリズム」のことである。それでは以下において、 ニーチェのいう「啓示とい
うリズム」について詳しく説明したいと思う。
2、 ニーチェのいう「啓示というリズム」
私は、私の電子書籍「さまよえるニーチェの亡霊」でニーチェのことをいろいろ書いた
が、「宇宙のリズム」に関連した部分で重要な見落としをしていたので、この際、以下に
おいて、その点を補充しておきたい。
まず、ニーチェの著作についてであるが、晩年最後の「この人を見よ」という誠に重要な
著作がある。
電子書籍「さまよえるニーチェの亡霊」で書いたように、 1886年にニーチェは『善悪の
彼岸』を自費出版した。この本と、1886年から1887年にかけて再刊したそれまでの著作
(『悲劇の誕生』『人間的な、あまりに人間的な』『曙光』『悦ばしき知識』)の第2版
が出揃ったのを見て、ニーチェはまもなく読者層が伸びてくるだろうと期待した。事実、
ニーチェの思想に対する関心はこのころから(本人には気づかれないほど遅々としたもの
ではあったが)高まりはじめていた。
ニーチェは1888年に「ヴァーグナーの場合」、「ニーチェ対ヴァーグナー」、「偶像
の黄昏」、「アンチクリスト」、「この人を見よ」という5冊の著作を書き上げた。
これらはいずれも、長らく計画中の大作『力への意志』のための膨大な草稿をもとにした
ものである。健康状態も改善の兆しを見せ、夏は快適に過ごすことができた。この年の秋
ごろから、彼は著作や書簡においてみずからの地位と「運命」に重きを置くようになり、
自分の著書(なかんずく『ヴァーグナーの場合』)に対する世評について増加の一途をた
どっていると過大評価するようにまでなった。
『偶像の黄昏』と『アンチクリスト』を脱稿して間もない44歳の誕生日に、自伝『この人
を見よ』の執筆を開始。これは最後の著作となる。『力への意志』も精力的に加筆や推敲
を重ねたが、結局これを完成させられないままニーチェの執筆歴は突如として終わりを告
げる。
この際、この点について補足説明をしておこう。 ニーチェは『力への意志』を著すために
多くの草稿を残したが、本人の手による完成には至らなかった。ニーチェの死後、これら
の草稿が妹のエリーザベトによって編纂され、同名の著書として出版された。だから「力
への意志」という書物の中身については、ニーチェの考えの完成したものではないという
ことだ。「力への意志」という書物自体は未熟なのである。ただし、力への意志という言
葉は『ツァラトゥストラはこう語った』や『人間的な、あまりにも人間的な』の中でも登
場し、その概念をうかがい知ることができ る。このことは、「力への意志」という主題
がニーチェにとって著作としてまとまったものになるほど成長することはついになかった
ということであり、言って みれば、ニーチェは哲学者として責任感旺盛できわめて慎重な
性格だったということである。まじめすぎるほどまじめだったのである。そのまじめな彼
が、その自信を持って本音を書いたのが、晩年最後の著書「この人を見よ」である。した
がって、ニーチェの哲学の心髄を理解するためには、 晩年最後の著書「この人を見よ」が
きわめて重要である。私はその内容を電子書籍「さまよえるニーチェの亡霊」で書いたの
だが、実は、最重要な部分「啓示というリズム」、これは中路正恒のいう「宇宙のリズ
ム」ということだが、その部分をうかつにも見落としていた。それをこの際、補充してお
きたい。
『 ニーチェは『この人を見よ』の中で、自分のインスピレーションの経験を記してい
る。』
『 インスピレーションとは(昔の人のいう)啓示(Offenbarung)である。』
『 啓示という事態は、リズム的な諸関係を(リズム的に)把握する直観(本能)
(Instinkt)である。』
以上述べたように、ニーチェには啓示の体験があった。しかし、ニーチェとしては、「神
の啓示」とは言えないので、何とか啓示の説明を科学的しようと当時の科学的知見をフル
稼働して宇宙の波動というものを考え出した。そして、その「宇宙の波動」の働きによっ
て、苦に満ちた現実の世俗の世界を肯定することができるとした。神に助けを求める必要
はない、キリスト教に助けを求める必要はない、あの世に行って安らぎを得るなどと妄想
する必要はない。現実の世俗の世界をイキイキと生きる道を歩いて行くべきだ。それが
ニーチェの基本的な思想である。そのことをニーチェをして悟らしめたのが、「啓示と言
うリズム」なのである。つまり、それが中路正恒のいう「宇宙のリズム」なのである。
中路正恒は、宮沢賢治はその「宇宙のリズム」を感じることのでき希有な人であるとい
う。次にその点につき中路正恒の結論部分のみここに紹介しておきたい。中路正恒の詳し
い説明については、彼の著書「ニーチェから宮沢賢治」(1997年4月、創言社)をご
覧いただきたい。現在、その内容をネットでも読むことができる。
3、宮沢賢治と「宇宙のリズム」
中路正恒は、その著書「ニーチェから宮沢賢治」(1997年4月、創言社)で次のよう
に述べている。すなわち、
『 詩「原体剣舞 連」において最後に語られている願望は「雹雲と風とをまつれ」、であ
る。 それは先に引用した「鬼神をまねき」につづいて、次のような3行として語 られ
る。
樹液(じゆえき)もふるふこの夜(よ)さひとよ
赤ひたたれを地にひるがへし
雹雲(ひよううん)と風とをまつれ 』
『 鬼神たちがやってきている。おののくべき、きびしい夜である。樹液すらふ るえて
いる。そこを一夜中、舞を舞い続け、鬼神たちを楽しませる。赤いひた たれのひるがえ
り。赤をひるがえして舞い続けることが、雹雲と風とをまつる ことになるように、その
ように舞い続けること。赤い色が翻る。地には赤を翻 させる舞が続き、その赤の翻り
が、天上の雹雲と、風のリズムに呼応する。地 と天の間、地の赤と天の黒雲との間に一
つのリズムの呼応が生じるとき、鬼神 もまた怨恨の念を失い、亡霊たちの思念は、こと
ごとく、風のごとくに消失す る。そうしたリズムを生み出すまつり、舞い、としての
〈気圏の戦士〉たちの 、鎮魂、慰霊の剣舞踊り。四方から呼び寄せられた亡霊、鬼神た
ちは、この天 地を結ぶリズムの動きの中に、慰められ、充足し、そして清らかに消え去
るの だ、と賢治は語ろうとしているのではないだろうか。怨霊を鎮めうる〈験(げ
ん)〉の力とは、こうして天地を遍くわたらしめるひとつのリズムを打ち立て る力に尽
きるのだ、と賢治は言おうとしているのではないだろうか。恐らくこ ういう解釈だけ
が、「雹雲と風とをまつれ」という願望を、究極的な、充分な 願望として、打ち出すこと
の意味を説明するであろう。天地を呼応させるリズ ムの生産装置としての「原体剣舞」、
こういうものを賢治は、〈気圏の戦士〉 としての舞手たちの舞いに読み取り、また期待
したのであろう。』
『 そうであるとすれば、「打つも果てるもひとつのいのち」という、詩行の末尾 に語
られる思想は、生命というものは根源においては一つであるが、それが現 実の生におい
ては必然的に異なった別々の形を取り、異なった立場を取り、あ い対立せざるをえない
のだ、という思想、根源の一性にこの世の葛藤や対立か らの救済を見出そうとする思
想、とは、はっきりと異なった思想を語っている ことになるであろう。つまり賢治にお
いては、より実践的、実行的なことが問 題なのであり、現実に月が銀の矢並みを射そそ
ぐリズムを見出し、生み出すこ とが重要なのであり、獅子座に火の雨を散らせるリズム
を見出し、生み出すこ とが重要なのである。しかも、多くのいかさま師たちがやるよう
に、そう見せ かけるのではなく、本当にそれを見出し、生み出すことが問題なのであ
る。従 って、「打つも果てるもひとつのいのち」という思想は、単に前景であって、 本
当の思想は、或るひとつの〈宇宙のリズム〉を把握することの内にあるので ある。そし
て、この捉えられた或るひとつの〈宇宙のリズム〉の中で、本質的 に多数であるいのち
たちが、同じ時の流れを経験するのである。それが喜びで あり、歓喜であり、そして救
済である、と賢治はわたしたちに語っているので ある。賢治が語っていることは、イデ
オロギーでもなく、またいかさまでもな い。』
『 そして、ここにおいて、つまり生の本質的な多数性の、現実に把握され、生み 出さ
れ、享受される喜びにもとづく、承認と肯定において、宮沢賢治の思想は 、ニーチェの
思想と非常によく似た場所にあるのである。ニーチェもまた、生の本質的な多数性の、こ
の承認と肯定によって、意志は根源において一つであ る、というまやかし的な思想を語
る哲学者と対決したのである。』
『 ニーチェの思想との比較は、また後の機会にゆだねたいが、「ひとつのいのち 」と
いう賢治の思想は、私の苦において誰かの快を肯定し、また私の快におい て誰かの苦を
肯定する、相互性の交流、乃至は立場の相互的な交換、の〈場〉 を明示するが、それは
決して、根源における自他の差異の解消、他者と自己の 根源における消滅、のようなこ
とを語ろうとしているわけではない。これにつ いて例えば、「なめとこ山の熊」や「注
文の多い料理店」などの作品において 追究される、立場の相互的交換の問題を思い浮か
べていただきたい。前作にお いては相互的交流は美しく成立し、後者においては成立し
ないのであるが、こ のいずれの場合にも、根源的な一への自他の解消が問題なのではな
く、常に多 数的である生の、交流をもつ再生産が問題なのである。そしてこの交流を可
能 にする〈場〉がどこにあるかが問題であろう。そして私は、その最も厳密な思 索にお
いて、賢治は、その〈場〉を、天と地を結ぶリズムが生成するところに 認めていた、と
考えるのである。原体剣舞連は、宮沢賢治によって、相互的交 流の〈場〉を形成する
〈宇宙のリズム〉の生成装置として、把握され、そして 詩として定着された、と私は考え
るのである。』・・・と。
以上述べてきたように、「宇宙のリズム」というのは、ニーチェのいう「啓示というリズ
ム」であり、冒頭に述べたように、中路正恒の考えでは、 それは原子のリズムであり、
クォークのリズムである。そして細胞のリズムや天体のリズ ムなのである。
5、「宇宙のリズム」について
1、今まで勉強してきたこと
(1)祈り・・・その科学的説明
宮崎県の南部の海上に幸島(こうじま)という無人島がある。そこには数十匹の野生の
日本猿が,以前から生息していた。独創的な「棲み分け理論に基づく今西進化論」で世界
的に著名な生物学者,今西錦司京都大学教授が主宰する同大学の動物学教室では,195
2年にこの幸島の野生猿の生態研究のために,餌付けを開始した。このフィールドワーク
には今西教授の門下生である徳田喜三郎,伊谷純一郎両博士が責任者となり,京都大学の
動物教室の若い研究者たちがそれに従事した。
幸島に生息する野生の猿に,研究者たちがこれまでの猿たちの食物であった植物の芽
や,つぼみ、果実といった自然のものに替えて,新しく餌付けのためのサツマイモを与え
始めた。最初に専従者たちが予想していたより容易に,このサツマイモの餌付けは成功し
た。この島の野生猿たちは,意外とこのサツマイモを気に入ったようであった。しかし、
これらのサツマイモには、砂や泥が付いて汚れたものがかなりあったので、猿たちはそれ
らを嫌って残すことがあった。
そのような状況下である日突然,群れの中の生後18ヶ月の若い雌猿が,そのイモを海
辺に持っていき,海水に浸けて洗って食べることを思いついた。塩味が付いたイモは、若
い雌猿にとってこれまでにない美味なものであったろう。しかも海水に浸けることで、砂
や泥の汚れも取れるという利点がある。早速この雌猿は、母親にイモを洗うことを教え
た。やがてその食習慣は他の猿にも、非常にゆっくり伝播していった。ここまではごく当
たり前の現象である。私たちの社会の中にも見られるように、新しい習慣を頑なに拒絶す
る猿もいたのである。現在では「100匹目の猿効果」といわれている、奇妙な現象が生
じたのは、サツマイモの餌になって6年目のことであった。この100匹目の猿の加入に
よって、あたかも臨界量を突破したかのように、その日の夕食時にはほとんど全部の猿
が、イモを洗って食べるようになったのである。さらに、もっと驚くべきことが同時に
起った。海を隔てられている別の無人島の野生猿のコロニーにも、本州の高崎山のコロ
ニーにも、このサツマイモを洗う食習慣が自然発生したのである。
後にこれは「100匹目の猿」現象と呼ばれるようになり、いまでは猿以外のものにも、
同様な現象例の認められることが、他の科学者によって指摘されている。
この「100匹目の猿」現象のような現象は科学的現象であるにも関わらず、未だ科学
的な説明が定着していない。そこで、私は「100匹目の猿」現象のような現象の科学的
説明を試みた。その詳細は、わたくしの電子書籍『「100匹目の猿」が100匹』をご
覧いただくとして、結論的には、「宇宙のリズム」の存在を考えないと説明がつかないと
いうこと、そして「祈り」というものはその「宇宙のリズム」との響き合い(共鳴)であ
ることを明らかにした。
確かに「宇宙のリズム」というものは存在するのである。
(2)波動の海・・・この宇宙のすべてが波動
皆さんはあらゆる物質はエネルギー(波動)であるということはご存知であろうか? 物
質が波動であることは量子物理学の常識であって、非科学的な話ではない。
物質の構成要素である原子は、原子核とそのまわりの電子でできており、原子核は陽子と
中性子でできている。陽子と中性子および それらの間に交換されるπ中間子などは素粒
子と呼ばれ,従来はこれ以上分割することのできない究極の粒子と考えられてきた。しか
し、新しい素粒子が次々と 発見されてその数が増えるとともに,M.ゲル・マン,G.ツワイ
クはこれらの粒子も複合体であり、さらに小さいクォークと呼ばれる超素粒子で構成され
ているとする説(クォーク説)を提唱した。
陽子・中性子・電子・ニュートリノ以外に素粒子と思われる粒子が続々と発見された。そ
して驚くなかれその数は軽く 100種類(一説には300種類とも言われる)を越えて
しまった。なんと、自然界に存在する原子の数(92個)より素粒子の方が多い、という
事態になって しまったのだ。
ところで、量子物理学には、「粒子と波動の二重性」という原則がある。「粒子と波動の
二重性」とは、物理学及び物理化学において、全ての物質やエネルギーは粒子的な性質と
波動的な性質の両方を持つという考え方である。この二重性は古典的な粒子説、波動説の
欠点を補い、微小系の振る舞いを完全に記述できる。この表面上のパラドックスを説明す
るために、量子物理学の様々な解釈が試みられている。二重性の考え方は、クリスティ
アーン・ホイヘンスとアイザック・ニュートンにより光の本性についての対立した理論が
提出された1600年代に遡る。アルベルト・アインシュタインやルイ・ド・ブロイらの研
究によって、全ての粒子は波動の性質を持つという現代の理論が出来上がった。この現象
は、素粒子だけではなく、原子や分子といった複合粒子でも見られる。実際にはマクロサ
イズの粒子も波動性を持つが、波長が短すぎるため、通常は波動性は観測されない。した
がって、私たちの理解としては、「粒子と波動の二重性」という原則は主として素粒子に
適応される原則と理解しておいてもあながち間違いではない。
さて、100匹目の猿現象などの不可思議な科学的現象、祈り、インスピレーション、自然
呪力、を説明する場合、すべての物質は素粒子から成っているので、その波動性に焦点を
当てて説明するのが合理的である。そういう説明の仕方が方法論としてけっして非科学的
という訳ではない。科学的である。すなわち、すべての物質は波動であるとして、私は、
100匹目の猿現象などの不可思議な科学的現象、祈り、インスピレーション、自然呪力、
を説明することとしている。このような限定をする限り、すべての物質は波動であると言
い切っても差し支えないだろう。すなわち、この宇宙に存在するすべてのものは波動であ
る。この宇宙は波動に満ちている。この宇宙は「波動の海」である。
だから、私たち人間もその「波動」を感じてあらゆる物を見えるままに認識しているので
ある。人間みんなが見ているリンゴは貴方の見ているリンゴとまったく同じリンゴであ
る。しかし,他の動物がリンゴをどのように見ているか,それはその動物になってみなけ
れば判らない。違う形や色に見えているかもしれない。「波動」とはそういうものであ
る。
(3)自然呪力・・・挑戦した人たち
まず最初に、いくつかの歴史的事実を紹介しておきたい。
最澄は空海より一年ほど先に帰国したが、帰国当時、桓武天皇は病床にあり、最澄は宮中
で天皇の病気平癒を祈っている。一方、空海は、大同元年(806年)10月に帰国、 その
17年後、神泉苑で密教の心髄である「雨乞い」のための呪術を行使する。
嵯峨天皇の823年(弘仁14年)、東寺は空海に、西寺は守敏(しゅびん)に下賜され、ぞ
れぞれ管主に就く。その以前から空海と守敏とは何事にも対立していたと言われる。824
年(天長元年)、即位して間もなくの淳和天皇は、喫緊(きっきん)の政治課題の解決に素
早く動いた。7年連続で長引く干ばつに対して、東寺の空海と西寺の守敏に対して祈雨の
修法を命じたのである。守敏が1週間にわたって修法を行うも効果少なく、次に空海が当
時大内裏に南接していた神泉苑にて修法を行うが1滴の降雨もない。調べると空海の名声
を妬む守敏により国中の「龍神」が瓶に閉じ込められていた。しかしただ1体、「善女龍
王」だけは守敏の手から逃れていたので天竺の無熱池(むねつち)から呼び寄せて国中に
大雨を降らせたという。
この「神泉苑での雨乞い伝説」については、次を参照されたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/amagoisin.pdf
次に、日蓮が行なった呪術である。
日蓮が鎌倉での布教を開始された当時、毎年のように、異常気象や大地震等の天変地異が
相次ぎ、大飢饉・火災・疫病(伝染病)などが続発していた。特に、1257年8月に鎌
倉地方を襲った大地震は、鎌倉中の主な建物をことごとく倒壊させる大被害をもたらし
た。日蓮は、この地震を機に、世の不幸の根本原因を明らかにし、それを根絶する道を世
に示すため、駿河国(現在の静岡県中央部)にある岩本実相寺で一切経を読まれたのであ
る。この歴史的事実の持つ意味は大きい。皆さんも是非このことをしっかりと銘記してお
いて欲しい。
次の歴史的事実は、蒙古襲来の「弘安の役」の際の呪術である。叡尊上人(1201∼1290)
は、1281年「弘安の役」の際、亀山天皇の依頼を受け560人の持戒僧を従えて、岩
清水八幡宮において敵国降伏の祈願を行った。その結果、七日七夜の修法を終えた日に神
風が吹いたと言われている。
次に、「チベットのケツン先生」の話を紹介しておきたい。「チベットのケツン先生」と
は、中沢新一がそう呼んでいるチベットの名僧・「ケツン・サンボ」のことである。中沢
新一の著書「チベットの先生」(平成27年2月、角川ソフィア文庫)には、次のように
書かれている。すなわち、『 寒風や霰(あられ)の被害から村人を守るというのが、密
教行者である私(ケツン先生)の、重要な努めであった。自然の背後にある力をコント
ロールするのである。』・・・と。
以上述べてきたとおり、最澄、空海、日蓮、叡尊、 ケツン・サンボは、呪力によって病
気を治したり、天変地異をコントロールした。呪力によって病気を治すというのは、池口
恵観(いけぐちえかん)はその著「密教の呪術・・その実践と応用」で述べているし、ま
た井上日召が実際に行なっているので、疑いのない科学的事実であると思うので、ここで
は取り上げない。問題は、呪力によって天変地異がコントロールできるのかどうかであ
る。
天変地異をコントロールするために行なった、空海、日蓮、叡尊、 ケツン・サンボなど
の名僧の強力な呪術を、説明の都合上、私は「自然呪術」と呼んでいる。問題は、「果た
して「自然呪術」によって自然の猛威は治まるのか?」ということである。私は、治まる
と考えており、その力を「自然呪力」と呼ぶことにしている。「自然呪力」について私の
考えを申し述べる前に、まずは祈祷(きとう)について説明したいと思う。
(4)祈祷(きとう)について
哲学は科学的事実を前提にしなければならない。祈りの科学(1)「100匹目の猿が1
00匹」で書いたように、世の中には到底現在の科学の理論では説明できない科学的事実
がある。事実、本当に摩訶不思議なことが起っているのに、それが現在の科学では説明で
きないものがいくつかある。私は、 電子書籍「100匹目の猿が100匹」でそのいく
つかを取り上げて、宇宙は「波動の海」であるという前提に立った哲学を語った。
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その後の作品「今西錦司のリーダー論と松尾稔の技術論」「怨霊と祈り」「祈りの国にっ
ぽん」「天皇はん」「地域通貨」「野生の思考と政治」「平和国家のジオパーク」も、
「祈り」に焦点を当てて書いたので、そのシリーズを「祈りの科学シリーズ」とした。
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そして今私は、「自然呪力」というものが果たしてある得るものなのかどうか、それを問
題にしている。そこでその問題に少しでも肉薄するために、今までの「祈りの科学シリー
ズ」をベースに「呪力」というものの勉強をした。
天変地異を空海や日蓮などの名僧の強力な「祈り」によって解消する、その強力な「祈
り」は「祈祷(きとう)」と呼んでいいかと思うが、問題は「祈祷」によって「自然呪
力」が発揮されるのかどうかである。私の抱える哲学的課題でいちばん難しい問題はその
問題である。つまり、天変地異が怨霊によって発生したり、それが名僧といわれる人の
「呪力」によって治まるというようなことがはたしてあり得るのか、という問題である。
一般的に、「呪力」というものはさまざまであり「呪い」も呪力の一種である。「祈り」
もそうだし、「祈祷」もそうだが、「呪力」のうちで「祈祷」がもっとも強力である。そ
の「祈祷」については、ホワイトヘッドの哲学があるのでこの際ここに紹介しておきた
い。「祈祷」に関わる部分がホワイトヘッドの哲学の核心部分であると思う。それは次の
ようなものである。
『 量子の世界では、宇宙と人間の脳に限らず、ホワイトヘッドのいう「活動的存在」
は、すべて同じ原理で動いているのである。「活動的存在」の生成する原理を「エネルゲ
イアの原理」という。(中略)・・すべて「エネルゲイアの原理」によって生じてくるの
である。(中略) 何か神や霊魂のようなものを感じながら「祈祷」を行う場合、その
「祈祷」の中に神や霊魂は姿を現すのである。つまり、「祈祷」というものがいろんな形
で行われているが、それはとりもなおさず神や霊魂が私たちとともにいることの証明であ
る。神や霊魂が存在するのかしないのか、そんな議論は不要である。「祈祷」が行われて
いるという事実を持って「神や霊魂は存在する」と断言していいのである。』
以上のとおり、ホワイトヘッドによれば、「祈祷」が行われているという事実を以て「神
や霊魂は存在する」と断言していいのであるが、このことは同時に「祈祷」の効果もある
ということを意味している。「祈祷」以外にも呪力を発揮するいろいろなものがあるとい
うことは、神や霊魂という「活動的存在」の活動がいろいろな形で生じうることを示して
いるのだが、神や霊魂という「活動的存在」の活動のうち、「祈祷」によって引き起こさ
れる「神の働き」がもっとも活発であることはいうまでもない。「神の働き」を引き出す
ためには、何にもまして「祈祷」が強力であることを是非ともご理解いただきたい。
ホワイトヘッドの哲学に基づいて考えていくと、「祈祷」によって、天変地異が解消する
ということはあり得るという結論になる。
叡尊らの行なった蒙古襲来の「弘安の役」の際の呪術がそうであるように、「祈祷」は必
ずしも密教だけのものではない。日本では「祈祷」は仏教伝来以後日本古来の呪法と結び
つきながらしばしば行われ、聖徳太子が父用明天皇のために法隆寺を建立したこと、天武
天皇が皇后鸕野皇女(後の持統天皇)のために薬師寺を建立を行ったことも「祈祷」の一
環であったとされる。また、鎮護国家の思想とも結びついて「金光明経」や「仁王経」の
読経が盛んに行われた。だが、「祈祷」が広く行われるようになったのは密教伝来以後の
平安時代以後のことである。最澄につづいて空海の影響力が大きいが、その後の天台密教
の影響力も忘れてはならない。平安時代中期には皇室から庶民に至るまで、国家の大事か
ら日常の些事まで全て「祈祷」によって解決しようとする風潮が高まった。天皇個人のた
めの「祈祷」を行う護持僧が、延暦寺・園城寺・東寺などの密教の大寺院の高僧から選任
されたほか、国家・宮中行事として宮中で正月に開催される後七日御修法などが開かれ、
この他にも天災・疫病・出産など様々な名目で各種の「祈祷」が行われた。
天台密教には「祈祷」に長けた人がいるので、この際すこしお話ししておきたい。天台密
教の円仁、円珍、安念、浄蔵のことである。これらの人は、「祈祷」によって「自然呪
力」を発揮したという訳ではないが、強力な「呪力」を身につけていた人たちであるの
で、天変地異が大きな国家問題になっていた時代であれば、おそらく「自然呪力」を発揮
したものと思われる。
空海が活躍したのちに、天台密教は、円仁や円珍などの入唐求法によって、天台密教の呪
術を磨いて行く。
最澄門下の俊英であった円仁(794∼864年)は、44歳で入唐、約10年間滞在し
て密教を学んだ。空海の真言密教に対抗すべく、天台密教の大成に腐心したが、その最大
の成果は、空海が唐で密教を学んだ青龍寺(しょうりゅうじ)で、当時の高僧・義真(ぎ
しん)から「蘇悉地法(そしつじほう)」を伝授されたことである。台蜜(たいみつ)で
は、「蘇悉地法(そしつじほう)」がきわめて重要とされているが、それは円仁が金胎両
部(こんたいりょうぶ)を統合するものとして、この「蘇悉地法(そしつじほう)」を位
置づけたためである。
円仁とならび称される台蜜の巨頭・円珍(814∼891年)は、37歳のとき、しばし
ば夢に比叡山の鎮守神である山王明神が現れ、入唐求法を強く勧められ、その旨を文徳天
皇に上表したところ、入唐を勅許された。入唐後、開元寺で梵字などを習得した後、天台
山の諸寺を巡礼、さらに青龍寺(しょうりゅうじ)で、当時の中国密教の第一人者・法全
(はっせん)から金胎両部(こんたいりょうぶ)と阿闍梨位(あじゃりい)の灌頂(かん
じょう)を受け、真言密教を詳しく伝授された。特に、法全(はっせん)は、「金剛頂経
(こんごうちょうじょうきょう)」に基づく曼荼羅・五部心観(ごぶしんかん)を、円珍
に授けた。その後、円珍は、大興禅寺(たいこうぜんじ)で、インド僧の大学者・知恵輪
三蔵(ちえりんさんぞう)からも密教の奥義を伝授された。在唐6年を経て、円珍は約1
000巻もの経典を携えて帰朝した。円珍については、日本に居ながら唐の青龍寺(しょ
うりゅうじ)の火災を霊視、比叡山から香水(こうずい)をまいて加持すると、さしもの
火災も鎮火したという話など、円珍の法力を示す話が数多く伝えられている。
さらに、比叡山には、安然(あんねん)という比類なき大学匠がでて、天台宗の密教化は
完成の域に達していく。安念は、空海の即身成仏義を深く勉強して、当時としては、空海
の弟子と言えども安念にかなう者はいなかったようだ。当時、安念は密教の第一人者で
あったのである。したがって、天台宗の密教は、安念のお陰で,完成の域に達したと考え
られている。
もう一つ、「天台密教の呪術」何と言っても「浄蔵」である。天台密教の僧侶・浄蔵は偉
大な人物であり、平安時代中期の朝廷にとってなくてはならな い人であった。特に将門
の乱のとき天皇を中心とする朝廷は歴史上最大に危機に陥るのだが、それを救ったのが
「浄蔵の呪術」である。「浄蔵」については、是非、次をご覧頂きたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyouzou.pdf
(5)自然呪力の科学的説明は可能か?
今西錦司は、「ほとんどの科学者はヒィジクスに囚われているが、ヒィジクスで説明でき
ない科学的事実がある。」と言っているが、もちろんヒィジクスで説明できるものはそれ
でいい。しかし、ヒィジクスで説明できない場合には、科学的知見をフルに生かして、哲
学的に思考を重ねるしかない。思考停止は世の中の発展に役立たない。ヒィジクスで説明
できない不思議な科学的事実については、私の電子書籍「女性礼賛」で詳しく述べた。
http://honto.jp/ebook/pd_25249962.html
ここでは、それも参考にしながら、私の基本的な考えを整理しておきたい。
宇宙は波動の海。波動が乱れると天変地異が起こり疫病が発生する。
地球のあらゆるところに宇宙からの波動が届いているが、地域的に波動の乱れのあるとこ
ろは、天変地異や疫病が発生しやすい。波動の乱れを整えるには、地上から祈りというか
呪力の波動を発っする必要がある。
現在の科学的知見によれば、宇宙はすべて波動の海である。そこで私はいろいろと考えた
結果、「私たち人間の発する祈りというか呪力の波動は、私たちの霊魂の持つ波動特性と
共鳴現象を起こして、宇宙的な存在となる。」・・・と考えている。これをこれから「祈
りのプロトウェーブ」と呼ぼう。「祈りのプロトウェーブ」は、霊魂の存在を前提として
いる。
「祈り」というものは、通常、神や仏に祈るのであるが、人形や七夕飾りなどの飾り物を
飾ることによって祈る場合もあるし、言の葉や音の葉によって祈る場合もある。また、歌
舞伎の睨みや相撲の四股、或いは道教の禹歩(うほ)などの仕草によって祈る場合もあ
る。しかし、根幹的なものは、やはり通常の祈り、すなわち神や仏に対する祈りであろ
う。したがって、以下において、説明上、「祈りのプロトウェーブ」は、神や仏に対する
祈りとお考えいただきたい。
さて、上に述べたように、宇宙は波動の海である。そこで、私は、「波動が乱れると天変
地異が起こり疫病が発生する。」・・・と考えている。
地球のあらゆるところに宇宙からの波動が届いているが、地域的に波動の乱れのあるとこ
ろは、天変地異や疫病が発生しやすい。波動の乱れを整えるには、地上から祈りというか
呪力の波動を発っする必要がある。
ここで私が問題にしているのは、宇宙的な現象であるから、地上から発する祈りというか
呪力の波動は、よほど強烈なものでなければならない。プロトタイプが数多く糾合されな
ければならない。そのためには、最澄とか空海とか日蓮などの名僧の祈りというか「呪
力」が必要である。この名僧の強烈な祈りを「リーディングウェーブ」と呼ぼう。これに
よって数多くのプロトタイプの波動が糾合されて非常にビッグな波動が発生する、そのよ
うにお考えいただきたい。
その最終的な非常にビッグな波動を私は「ファイナルウェーブ」と呼んでいる。名僧に
よって最終的に形成される波動という意味である。これらはすべて宇宙に存在する霊魂を
前提としており、宇宙的な現象である。名僧のリーディングタイプの呪力によって、数多
くのプロトタイプの祈りが糾合されて、最終的に形成されるビッグな波動、つまりファイ
ナルウェーブによって、宇宙の「波動の海」は穏やかになり、天変地異や疫病が解消する
のである。
2、 チベットのラマ・リンポチェ・・・その認識と実際
次に、これは最近の出来事であり、しかも重要な歴史的出来事であると思うので、「チ
ベットのケツン先生」の話を詳しく紹介しておきたい。「チベットのケツン先生」とは、
中沢新一がそう呼んでいるチベットの名僧・「ケツン・サンボ」のことである。中沢新一
の著書「チベットの先生」(平成27年2月、角川ソフィア文庫)には、次のように書か
れている。すなわち、
『 ゴンボ先生(正式名はジェラマ・ゴンボ・リンポチェといい、非常にすぐれた密教の
行者で、サンボ先生の先生である。)とともに、1943年の秋、私(ケツン先生)たち
は大きな巡礼の旅に出発した。』
『 その年の10月21日のことである。チェロカ地方に向かった私(ケツン先生)たち
の一行は、ウーカルタクという土地に着いた。ここはその昔、グル・リンポチェの妃で
あったイェシェ・ツォギャルが深い瞑想の中で、虹の身体をあらわしたという、まことに
神聖な土地だった。私たちが石ころだらけの山道を登って、その聖地にたどり着いたと
き、空の雲がびっくりするほどにまばゆい、虹のような色彩を発光したのだ。雲はゆっく
りと変化しながら、さまざまな不思議な形をあらわした。私たちはみんな、「ほお!!」
と賞賛の声をあげた。ゴンボ先生も目を細めて、この光景を見入っておられた。「見てご
らん。あの雲、まるで捧げものを持った天女みたいじゃないか」仲間の若い修行者の一人
が叫んだ。見るとたしかに、美しい衣を風になびかせた天女、手に捧げものを入れた器を
うやうやしく捧げ持って、天空を見上げている姿が、オレンジ色に染まった雲の中からあ
らわれてくるようなのだ。その雲がゆっくり空を流れていく様子は、本当にうっとりする
ほど美しかった。輪郭もくっきりと浮かび上がった、向こうの山の頂きには、壮麗な虹の
色を映した薄い雲が、長々と天空に向かってたちのぼりときおりそこから閃光が放たれて
いる。あたり一面の大気が、このとき不思議な香りを放ちだしたのには、みんなまたびっ
くりした。誰もが、今まで体験したこともなかったような、心地よい快感にうっとりして
いた。誰かが「きれいな音楽が聞こえてこないか」と言いだした。私たちは、耳をすませ
た。すると不思議なことに、お寺で聞くはずの笛や太鼓やドラの音そっくりの音が、空の
上から降ってくるように、たしかに感じられるのだ。私たちが驚き騒いでいると、その内
にこの瞑想場にこもって修行している人たちまでもが、小屋の扉を開けて、外に出てき
た。その人たちも、この光景には度肝を抜かれたようだった。「空に壮大なマンダラがあ
らわれた」とか、口々に驚きを語り合っている。ウーカルタクの修行者たちも、ゴンボ先
生のお供でやってきた者たちも、このような脅威の現象を目のあたりにして、いつまでも
空を見上げて、口々に驚嘆を語りあった。そして、この現象は、太陽が完全に沈んでしま
うまで、何時間も続いたのである。』
『 ところが、そんなことがあった四日後の10月25日の朝のことである。すでに山の
端から昇った太陽が、さんさんと陽光を大地に降り注いでいるのに、同じ空からは雨が降
りかかり、その異様な天候のさなか、大地震が大地をゆらゆらと揺さぶりはじめたのだ。
空には不気味な音響がとどろきわたり、大地から閃光がほとばしり出た。地震は長い間続
いた。そして、大地の揺れがおさまったのちも、不気味なとどろきと閃光の瞬(またた)
きは、やまなかった。私たち弟子は、この天変地異を体験して、すっかり恐ろしくなり、
落ち着きを失って、みな大急ぎでゴンボ先生のいらっしゃる瞑想小屋の前に集まってき
た。』
『 皆は口々に「先生、これは一体どうしたことなのでしょうか」と質問した。するとゴ
ンボ先生は落ちついた様子で、こうおっしゃった。『心と存在の本性を見通してしまった
ラマが亡くなろうとしているときには、前兆としてよくこういう不思議な現象がおこるも
のなのだ。それが、私にいま起ころうとしている。』・・・と。
そして、ゴンボ先生は、そののちに大事な弟子のために最後の教えをし教え終わってか
ら、亡くなるのだが、その際にも誠に不思議な現象が起こったのだが、この点については
省略する。興味のある方は 中沢新一の著書「チベットの先生」(平成27年2月、角川ソ
フィア文庫)を読んでもらいたい。神から選ばれた人が亡くなるときには、天変地異が起
こるのだということが、私のいちばん言いたいことである。その天変地異は神の意志の現
れであり、神は、大事な弟子のために最後の教えをし教え終わるまで死んではならぬとい
うことを意思表示なさるのであろう。ゴンボ先生はその神の意志のまま生き、そして死ん
でいかれた。同じことが日蓮にも起こっている。
なお、大勢の弟子どもの集まっているところで、神から選ばれた人が最後の説教をすると
きには、 二番目の『 』の不思議な現象が起こるらしい。これも神の意志で、みんなを
祝福し、神から選ばれた人の応援をしているらしい。これと同じ現象が、釈迦の最後の説
教「法華経」の場面で起こっている。下記のとおりである。
釈迦はそれらシヴァらの列席を意識しながら、まず軽い説経を行った後、口をつぐんで瞑
想に入り込んだ。このとき、いくつかの摩訶不思議な現象が起こり、そのあとでいよいよ
重大な説教が始まるのだが、このあたりの描写は 、中村圭志の著書「超訳法華経」(2
014年3月10日、中央公論社)がもっとも優れていると思うので、そこから引用させ
ていただいた。以下の字の色を青色に変えてある部分は 中村圭志の著書「超訳法華経」
からの引用である。この場を借りて、中村圭志に感謝申し上げるとともにすばらしい翻訳
をされたことに対し深甚なる敬意を表させていただく。
釈迦はそれらシヴァらの列席を意識しながら、まず軽い説経を行った後、口をつぐんで瞑
想に入り込んだ。 不思議なことに、このとき、天空から「天上の花」である曼荼羅華、
摩訶曼荼羅華、曼珠沙華、摩訶曼珠沙華が降ってきた。
そして、説経の舞台「霊鷲山」を含めて全仏国土が動き、動き合い、揺れ、揺れ合い、震
え、震え合った。この奇跡的な光景を見た聴衆たちは、人間も、各種の生き物も、シヴァ
ら霊的存在も、歓喜して釈迦を凝視する。
すると、釈迦は、眉間の「白毫(びゃくごう)」と呼ばれる神秘的なスポットから光線を
放つ。光のビームはまっすぐ東の空に向かう。まわりの世界は一瞬のうちに真っ暗にな
る。東方の上空がオーロラのように輝きだす。そのオーロラは映画のスクリーンのように
なっている。そこには無数の生き物たちの光景が映し出されている。
その光景は、六つの空間に分かれている。ひとつはどうやら地獄界の光景らしい。恐ろし
い精神的な苦しみの中にいる生き物たちがいる。別の区画には餓鬼界が映っている。飢え
に悩まされる生き物たちの世界だ。さらに畜生界がある。これは精神的にも肉体的にも原
始的なレベルに退化したものたちの世界だ。そして阿修羅界がある。これは人間並み、あ
るいは神々並みの精神的水準を保ちながらも、あくまでも闘争し合う、いつまでも不安を
抱えている者たちの世界だ。そして平凡な人たちの暮らす人間界がある。平凡な人たちも
また、やはり数多くの悩みを抱えている。さらに天界において神々のように暮らしている
者たちの様子が映し出されてる。世界の最も高いところに暮らす彼らは幸せそうに見える
が、心の底にはやはり一抹の不安を抱いている。なぜなら彼らもまたいつでも下の世界の
レベルの世界に落ちる可能性を持っているからである。そんな6種類の生命のあり方をつ
ぶさに観察できるのである。
釈迦は瞑想の境地から離れて、声聞の中でも知恵いちばんとうたわれる舎利弗に向かって
説き始める。聴衆はみな耳をそばだてて聞き入る。釈迦は言う。
「ブツダという存在の知恵は際限なく深い。その知恵の門をくぐるのはたいへん難し
い。」
「大宇宙にはさまざまな平行世界がある。あなたがたまたま住んでいるこの銀河宇宙を含
む世界は、娑婆(しゃば)世界だ。この世界のブツダが私である。極楽世界も平行世界の
一つだが、その世界のブツダは阿弥陀(あみだ)である。」
この世はそれら平行世界と繋がっている。繋がっているということは、波動を通じて繋
がっているということだが、この世のブツダである釈迦は、そういう平行世界のブツダと
響き合うことができ、そういうブツダの力を借りながら、この世で慈悲と愛の実践を行っ
ている。
以上が私の論文「法華経の霊性」の一部であるが、その中に「平行世界」というのが出て
くる。 宇宙におけるすべての現象は波動現象であり、宇宙は「波動の海」 である。その
「波動の海」の中に「平行世界」というのが存在するらしい。それに関する最新の科学が
「弦理論」であり、それを一般向けに解説したのが「ミチオ・カク」の著書「超空間」
(1994年12月、翔泳社)である。ミチオ・カク(加來道雄、1947年生まれ)は日
系アメリカ人(3世)の理論物理学者で、専門は素粒子論。弦理論に大きな貢献があり、
いわゆる弦の場の理論の創始者の一人である。その ミチオ・カク(加來道雄 )の科学的
説明について、私はの論文「法華経の霊性」を書いた後に、少し勉強した。それをこの際
紹介しておきたい。それについては次をごらん下さい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kamikokoro.pdf
3、新たな勉強・・・宇宙のリズムについて
「新たな勉強の始まり」の「4、 宮沢賢治」の最後に述べたように、「宇宙のリズム」
というのは、ニーチェのいう「啓示というリズム」であり、中路正恒の考えでは、 それ
は原子のリズムであり、クォークのリズムである。そして「細胞のリズム」や「天体のリ
ズ ム」なのである。
「宇宙のリズム」とは「天体のリズム」と「細胞のリズム」を合わせた統一概念 である
が、「天体のリズム」については、先ほど「 2、 チベットのラマ・リンポチェ・・・そ
の認識と実際 」のところで詳しく説明した。ここでは、「細胞のリズム」について説明
することとしたい。
「細胞にリズム」に関しては、シェルドレイクの「形態形成場」の仮説というのがあっ
て、これを勉強する必要がある。 それは誠に画期的な科学的仮説であり、電子書籍「<百
匹目の猿>が100匹」ではその説明をした。「<百匹目の猿>が100匹」の第11章でも述 べ
たが、1924年フランスの物理学者ド・ブロイは、電子に波としての性質を見出し、 「す
べての物質は波動である」と考えて、物質波と名づけた。物質波の提唱当時はそのあ ま
りにも常識はずれの説ゆえに無視されていたが、その後シュレディンガーによる波動方程
式として結実する。波動方程式の性質、つまり波動の性質についてはいろいろ疑問点が
あって未だ定説というものがないが、物質が波動であることは今や量子物理学の常識と考
えてよく、非科学的な話ではない。あらゆる物質は「波動」なのである。
脳ばかりでなく身体自体もそもそも波動(細胞のリズム)の固まりであるが、特に脳に
は外からの刺激に よる波動も加わって、特別の働きをしているのである。宇宙にはいろん
な波動があり、私たちの脳もその作用を受けている。だとすれば、脳の中では、内からの
波動 (細胞のリズム)と外からの波動(天空のリズム)が共振を起こすだろうというこ
とは容易に想像できることだが、脳と直結している身体の特殊な部分(例えば母親の腹の
中の胎児)においても波動の共振が起りう ると私は考えている。もちろん、それが科学的
事実かどうかは,まだ分からない。しか し、それに関連してシェルドレイクの「形態形成
場」の仮説というものがある。それは誠に画期的な科学的仮説である。
シェルドレイクの「形態形成場」というものは、まったく新しい概念であるが、そもそ
も量子物理学でいうところの「場」とは、空間において、ある性質を持った特定の物質が
存在する場合に、その物質に作用し、何らかの力が発生させるという空間的な性質であ
る。
シェルドレイクの「形態形成場」というものは、あらゆる物質、それは波動の固まりで
あるが、それに作用し、何らかの力によって何らかの効果を及ぼすというものである。
さて、私は、私の論文「日本的精神と中村雄二郎のリズム論」の第2章第2節の「5、
「編集」は「リズム」である」の中で次のように述べた。すなわち、
『 「記憶の再生」ということについては、私なりに勉強したことがあって、それを私の
電子書籍「書評・日本の文脈」の補筆『「こころ」とは何か?・記憶、学習、について』
に書いた。』
『 その説明では、記憶の再生ということがリズムであると述べている訳ではないが、梅
沢博臣と高橋康の量子場脳理論によれば、記憶の再生というものが脳の中の波動現象つま
りリズムであると理解することができるのである。』
『 量子場脳理論の以上のような理解に立って、この際ここでは、記憶の再生はリズムで
あると言い切っておきたいと思う。』・・・と。
しかし、「細胞のリズム」についての説明をしていなかったので、この際ここで、『「こ
ころ」とは何か?・記憶、学習、について』の中から「細胞のリズム」について説明して
おきたい。このことについて、「1リットルの宇宙論・・量子脳力学への誘い」(治部眞
里、保江邦夫、1991年3月、海鳴社)では次のように言っている。すなわち、
『このポラリトンガ、宇宙における光子のように直接に見ることができるならば、脳の表
層を覆う大脳皮質はポラリトンの集団が飛び交う、まばゆいばかりの宇宙として写るので
はないでしょうか。ポラリトンは1リットルの宇宙、脳の中に輝く満点の星に譬(たと)
えられるのです。』・・・と。
実に良い譬(たと)ですね。美しい。この満天の星に譬えられるポラリトンが引き起こ
す物理現象が、どうも記憶や意識のもとになっているらしい。このことを「1リットルの
宇宙論」では次のように言っている。すなわち
『大宇宙の中で電子が引き起こす現象といえば、超伝導、オーロラ、ファイヤーボールの
生成など、どれをとってみても光子が重要な役割を果たしています。実は、光子と電子は
互いに密接に関連していて、ことに電子は光子をやり取りすることによって互いに作用し
合うという性質を持っています。』・・・と。
「1リットルの宇宙論」では、光子が脳の中でも重要な役割を果たしていると言ってい
るのだが、この点については次のように説明している。すなわち、
『わが国の現代物理学の父と謳われている仁科芳雄の研究や、ノーベル物理学賞をとられ
て朝永振一郎の研究は、電子と光子についての不思議な性質を解き明かす研究だったので
す。光子があってはじめて、電子は多様な物理現象を生み出し大宇宙を美しく飾ってくれ
るのです。いくら場の量子論をもってきたとしても、もし電子なら電子だけ、あるいは光
子なら光子だけしか存在しないのであれば、そこには何も起こらないといってよいでしょ
う。これもまた場の量子論からの帰結なのです。朝永振一郎やアメリカのファインマン、
それにスイスのスチュッケルなどにより、電子と光子の間の素過程を記述するための量子
論である量子電磁力学が完成したのは20世紀の中頃のことでした。その時点から、われ
われは電子の運動の背後には必ず光子が存在し、宇宙の中を駆け巡る電子たちは光子に
よって互いに強く結びつけられることを知っています。このような電子と光子のつながり
があってはじめて、一つの電子は他の電子と関わった運動を見せることができるのです。
これと同じことが1リットルの小宇宙、脳の中を駆け巡るポラリトンたちの運動について
もいえるのです。』・・・と。
「細胞のリズム」というのは、夜空に輝く満天の星と同じような「脳の中に輝く満点の
星」なのである。
場の量子論というのは、宇宙全体に適用される一般的かつ普遍的な理論体系だが、脳の中
のミクロの世界にも適用できる統一的な物理法則であり、脳に関する物理的な学問は量子
脳力学と呼ばれている。今まで縷々説明してきた私の説明では、私の説明不足もあって、
すんなり理解できなったかと思う。しかし、ともかく量子脳力学という学問があり、量子
脳力学では、生命というもの、記憶や意識というもの、そして心の実態というものが、物
理的に理解されるようになってきているということだけはご理解いただけたのではないか
と思う。私のつたない説明をきっかけとして「脳と心の量子論」や「1リトルの宇宙論」
を読んでいただければ、私としては大変ありがたいと思う。
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