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戦後七十年 銃後の守り

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戦後七十年 銃後の守り
戦後七十年
銃後の守り
玉名市
竹内美智子(86)
昭和十六年(一九四一)十二月八日、日米大東亜戦争が始まりました。私はその年の春に
小学校を卒業して、熊本県立高瀬高等女学校一年に入学いたしました。
戦時中、男子二十才になると兵役が課せられ、徴兵検査をうけた若者は陸・海・空の兵隊
さんとして戦地に赴き、また、日本国土の守りにつきました。軍律は特に厳しく、それは軍
歌にも歌われました。
戦争初期は「勝った、勝った!!」でラジオから流れる「大本営発表」を家族みんなで聞
きました。
「欲しがりません、勝つまでは」
「贅沢は敵だ」と、国民は心を一つにして「勝つ」
…と思い込んで不自由を常として、銃後の守りを固めました。
しかし、時がたつにつれ、物資は不足し(家庭にある金具、かなものは、みな供出せよ)
とのお上の通達があり、私の家はすべての金物と仏壇のお鈴おりんまで供出いたしました。
食料不足もひどくなり、御飯の中にウドンを折って入れたり、唐芋入りごはん、あわ飯…白
米のごはんは、特別な日だけ母が炊いてくれました。米、砂糖、マッチ、衣料品などが配給
制になり、家族の人数に応じて切符が配られます。お金はあっても物は買えません。(私の
家は高瀬町で小さな呉服店を営んでおりましたが、品物不足のため、のちにとうとう廃業い
たしました。収入の無くなった家に、私はお勤めをした月々の給料を封を切らずに母に渡し
ました。ありがとうねと云って喜んだ母の顔、忘れません。)
女学生の私達は、農繁期には働き手が居なくなった農家に班別にわかれ、奉仕作業に行き
ました。田植の準備から田植え、田の草取り、そして稲刈りまで、町の子も馴れない農作業
を、一生懸命にお手伝いをしました。また、学校の運動場の片隅は唐芋畑になりました。畑
の耕やしから苗の植え付け、手入れ、収穫まで授業の一環として、授業中に先生のご指導で
作業をしました。当時は、唐芋の茎もすじを取り、蕗のようにして食べました。
母たちは、白エプロン姿に「大日本国防婦人会」のタスキを掛けて、出征兵士の見送りや、
戦没者のご遺骨お出迎え、また町葬参列、おまいりとよく出掛けていました。六才上の姉は
女学校の裁縫の時間は、軍服の破れを縫ったりしたそうです。また姉は娘時代に舞踊を習っ
ていましたので、踊りの先生や友だちと一緒に、熊本の陸軍病院へ傷病兵士の慰問にも何度
か行きました。
女学生の制服は、入学当時はセーラー服でしたが、のちには国民服というカーキ色の服に
かわりました。そして、みんながモンペ服もよく着るようになり、私も母の着物をモンペ服
に縫い直し、絣のモンペを着用しました。四年生になると、各自服装はバラバラでした。
昭和十九年(一九四四)、女学校四年に進級した私達は荒尾陸軍造兵廠に学徒動員されま
した。一クラス約五十名を一小隊として、親元を離れて荒尾二造内の寮での生活です。私は、
第五小隊長として秋に動員されました。寮では朝早く太鼓の音で起床、身支度を整え、小隊
毎に点呼があり、先生に人員の報告をします。それから工場に向けて寮を出発、個人の自由
は許されず、すべて団体行動です。白色の前ボタンつき上衣に白の長ズボン、まるで男子の
ような服を着て一小隊ずつ隊列を組んで行進していきます。途中食堂に寄って朝食を、ご飯
も味噌汁も器は竹です。孟宗竹を切った器に、食事当番がよそってくれます。これから八時
間働くため、しっかり食べました。食事を済ませて工場へ…工場での仕事は、黄色い粉(火
薬)を筒状の袋に詰める填薬の仕事。
(縦18センチくらい直径3.5センチくらい)の筒に
詰め、トントンと机上にたたきます。小さい爆弾を作りました。
約二百五十名の錦中隊(高瀬高女隊)はみな、力を合わせ真面目に頑張りました。工場内で
のご指導は軍人さんです。担当の根岸軍曹様は、お人柄の良いお方で、友人みな好きと云っ
ていました。夕方仕事を終えると帰途、夕食と入浴を済ませて寮へ帰ります。小隊毎の行進
で、いつも歌をうたいながら。
寮には女学校の先生方が二名ずつおいでになり、監督ご指導をしてくださいました。夕方
寮での時間が唯一自由です。友だちと仲良く遊んだり、家族に手紙を書いたりしてうれしい
時間でした。第一小隊は約十ヶ月、第五小隊は約半年間の学徒動員でした。卒業後就職が決
まっていた私は二十年三月末の卒業式まででしたが、友人の中には八月十五日の終戦まで働
いた人も居たそうです。銃後の守りとご奉仕でした。
昭和十九年、二十年には戦局もいよいよ厳しく、日本国土殆んどすべてのまちは米空軍の
爆撃をうけて焼野原、焼土と化しました。八月六日に広島に原子爆弾が投下、八月九日長崎
に再び原爆が投下されて何十万人もの人々が戦争の犠牲になられました。ピカ・ドンといっ
て、その威力にみな驚きました。
玉名市には昭和十九年に福岡大刀洗陸軍飛行学校の分校大浜飛行場玉名教育隊が開校さ
れましたが、二十年五月に二度の空爆を受け活動不能になりました。今大浜旭町の入口に当
時の記憶を止めるため、地元の方の手に依り看板が掲げられています。この時の空襲で同級
生が亡くなりました。家族と共に自宅防空壕に避難したところに「直撃弾」が落ちたのです。
一六才という若さで―。さぞ無念であったろうと思います。この時私も高瀬五つ角の自宅裏
の防空壕に入りましたが、頭上に大きな無気味な敵機の爆音を聞き、ドカンドカンと飛行場
に落ちる爆弾の大爆発音を耳にし、生きた心地はしませんでした。幸い高瀬の町は無事で、
家族と共にホッと致しました。
昭和二十年(一九四五)八月十五日、終戦の詔勅はラジオでこの耳で聞きました。戦争に
敗けた悔しさよりも、ああこれで夜の燈火管制もなく恐ろしい敵機襲来もなく安心して眠れ
る―と安堵いたしました。
今年は戦後七十年、女学校のクラスメートも多数鬼籍に入り、わたしの両親、姉、兄、弟
も亡くなり、とても寂しい気持ちでいます。でも、七十年間を平和に暮らせたこと、焼野原
の国土から立ち直り素晴らしい発展を遂げた現在の日本の国、ほんとうに良かった…と私は
思っています。今毎日を健康で平穏に暮らせる幸せを、有難さを、感謝の念をもってすごし
ております。そして強く思います。
「戦争は二度と起こしてはなりません!!」
銃後で戦争を体験した私は声高に叫びます。
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