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「原風景」を探しに フィールドワークにでかけよう
特集「人間心理学科の今」 「原風景」を探しに フィールドワークにでかけよう 浮ヶ谷 幸 代 わたしの専門は文化人類学という学問です。ここでは私が担当している授業の一つ、 フィールドワークという人類学の方法論を使った授業「質的研究法演習」を紹介しま す。テーマは「原風景と私」です。 文化人類学を学ぶ上で一番大事なことは「相対化」という考え方です。わたしたち が普段当たり前と思っている暮らしを当たり前ではないと気づかせるきっかけは、異 文化世界との出会いです。異文化との遭遇によって自分自身の当たり前を問い、自文 化を改めて考えることが「文化人類学的に考える」ということになります。 当たり前の暮らしを「相対化」するための方法は「異文化世界」との出会い以外に もあります。それは時間軸からとらえる視点です。その視点とは、今の自分や今の暮 らしを、過去のできごとにもどり、過去の自分や過去の暮らしの視点から考え直す視 点のことです。そして、「今」の自分を相対化することで、これからどう生きていく のかという「未来」への視点を見つけることができるというわけです。 これは一見「自分探しの旅」のようにも思えますが、ここでは未知の世界を旅す ることで自分を見つけ出すのではありません。かつて自分が暮らした場所で、かつ て生きていた自分を探すことから、「今」と「未来」につながる自分を発見すること になるということです。そのためには、文化人類学が基本とするフィールドワーク という方法が役に立ちます。 授業は「原風景試論 ―― 原風景と生活空間の創造に関する一考察 ――」という論 文を読むことから始めます。論文にある「原風景の構造」から大事なポイントを3点 にまとめます。それは、①原風景とは客観的、静的な風景ではなく、主観的であり、 感覚的であり、動態的な風景であるという点です。かつて生まれ育った場所に立った 47 とき、五感と沸き起こる感情を意識すること。風の音や葉のこすれる音、木の幹の匂 い、町のざわめき、夕暮れに走る車のライトのあかり、給食室からの匂い、生ぬるい ミルクの味、スーパーの惣菜の匂い、プールの塩素の匂い、田んぼの土の冷さ、ざら ざらした砂、じいじのごつごつした手…など。②過去を懐かしむノスタルジアとは異 なり、思い出したくもない、蓋をしたくなるものをも含めて、安心と不安を掻き立て る心象風景であることです。そして、③未来志向としての原風景という3点です。自 分が育ってきた場所に立ち、その当時の自分が何を感じ、何を思い、どのような行動 をとったかをフィールドワークすることで、過去の自分の一部を掘り起こします。過 去の自分と現在の自分とのつながりを再確認することで、その延長線上に未来の自分 が見えてくるということを伝えます。 以上のポイントを踏まえ、学生は以下のプロセスに従って課題に取り組みます。 (1) 幼稚園(保育園)から小学校低中学年までのあいだにあったエピソード(8個まで) を書き出す。(2)エピソードを手書きの地図にマッピングする(イメージ地図)。グー グル地図(実際の地図)にもマッピングする。イメージ地図と実際の地図とを比較し、 距離の遠近のズレから経験の変化を知る。(3)エピソードの場所にカメラとメモ帳を もって実際に行ってみる(フィールドワーク)。(4)エピソードに登場する人(家族、 祖父母、幼友だち、近所の人)に話を聞く(インタビュー)。(5)(3)と(4)につい て整理してまとめる。(6)エピソードの場所の過去と現在について比較し、変化した ところ、変化していないところについて一覧表にする。場所が「変化した」というこ とは、自分自身も「変化している」(成長している)はず。(7)未来の自分を想像し、 未来の自分に向けてメッセージを書く。(8)作成した「私と原風景」をレジュメ発表 する(プレゼンテーション)。(9)レポートを作成する。 これまで100人以上の学生がレポートを作成しましたが、学生がとりあげたエピ ソードを紹介すると、公園、小学校、駄菓子屋、幼稚園・保育園、通学路、空き地、 買い物、かつての自宅などです。エピソードを通して、発見したことがいくつかあり ます。「原風景として思い出される場所には必ずだれかいた」というように、①「原 風景とは関係性が埋め込まれた場所」であるという点です。家族や祖父母、幼稚園(保 育園)の先生や近所の知り合いのおばちゃんの存在が原風景を形作っています。なか でも興味深いのは駄菓子屋の存在です。駄菓子屋の店主(おじいちゃん、おばあちゃ ん)の様子が描かれていますが、「親切、声をかけてくれた」あるいは「薄暗い、怖 い表情、黙っている等」という店主との明暗のある交流が描かれています。また、友 だち同士で小銭を握りあれこれ品定めしている今の子どもの振る舞いに当時の自分を 48 重ねて、「今も変わらない子どもたちの姿が微笑ましかった」などと描かれています。 また、「フィールドワークをすること」や「原風景と出会うこと」の意味について も考察されています。「原風景の場に立つことで、かつての経験をいまの経験として 重ねることができる」「小さい頃の自分が帰ってきた」と表現したり、「私はその地で 確かに時を刻んでいた」「変わっていない場所を見ることで、そこはかつての自分が そこにいたということを証明してくれているように見えた」と書いています。昔と現 在がつながる感覚、大事なものが偶然発見されたような感覚を経験し、子どもの頃 の自分を確認できる場所であると表現しています。こうした発見は②「アイデンティ ティを構築している」と言えるでしょう。 さらに、「原風景の場所はかつて落ち込んだ場所でもあり、そこから立ち直るべく 力を温存していた場所でもある」「原風景は思い出にかかわるモノがなくても、空間 がある限り、色あせない」「これからどう生きていけばいいかを考える場所」という ように、原風景をたどることは、過去の自分と今の自分とのつながりを考え、これか らの③「自分の生き方を考える」みちしるべになることがわかります。 自分の生き方を見つけた一人の学生を紹介します。授業が中盤にさしかかった頃、 研究室を訪れて「この授業を受けると苦しくなる。小学校の頃いじめられていたので、 その頃のことは思い出したくない」と言いました。わたしは「嫌なことは無理に思い 出す必要はないし、書きたいことだけを書けばいい」と伝えました。最後に、次のよ うな感想をくれました。 全体発表で「昔の記憶を覚えていないため、この課題をやりきれるか不安だったが、実際 行ってみるといろいろなエピソードを思い出すことができた。記憶を忘れていたのではなく、 頭の隅に押し込めていたのだと思った」といった学生がいましたが、私もこの課題に取り組 む前は同じことを思っていましたし、「昔の記憶」を思い出すのもいや、という気持ちさえあ りました。しかし、いざまとめてみると、エピソードは結構出てくるし、恐れていた過去の 記憶もそれほど怖くありませんでした。こういう記憶はときどき思い出すことで、自分がが んばる原動力のようなものになれると思いました。 学生は「課題に取り組んでよかった。自分にも良い思い出があったことに気がつい た」と伝えに来てくれました。わたしは「嫌な思い出も良い思い出もあなた自身を作っ ているのは事実。でも、良い思い出の中で生きてきたのも確かなこと。これからは良 い思い出の中の自分を糧に自信をもって生きていってほしい」と伝えました。 人間心理学科には幼少時に辛い経験をしている学生が少なからずいます。そうした 49 学生にこのような課題に取り組ませるのは酷な場合もあります。一方、「原風景と私」 に取り組むことで生きていく自信がついた学生もいることを実感しました。 ところで、授業が進むなか思わぬ問題が生じました。「学生の発表内容は個人情報 なので適切に対処してほしい」という申し出があったのです。原風景のエピソードは 私的経験の集積ですから、たしかにすべて個人情報といえます。近年、個人情報に関 するリスク管理の問題や個人情報保護の重要性が問題になっています。わたしはさっ そく学生たちに配布資料の後処理の仕方(シュレッダーにかける等)について告知し ました。 他方で、それぞれの④原風景にかかわる情報を互いに共有することの意義も痛感し ました。個人情報への過度の反応からは生まれ得ない‘豊かさ’を実感することができ ました。他人を知る、自分の生き方を考えるきっかけとなっていたのです。以下に感 想を抜粋します。 ・原風景は“その人らしさを知る一つの手がかり”という言葉を聞いて、原風景とはただかつて の思い出の地というだけではなく、もっと色んな、その人それぞれの生き方、考え方など に影響を与えるものなのだろうなと思った。 ・これまでいろんな人の原風景を聞いてきたが、その場所から友だちや家族と過ごしたエピ ソードやそこで出会った人などを思い出したりする。その人が場所から感じられることは 様々だが、その場所の存在が、自分がどう過ごしてきたか、どんな思いだったのかを思い 出させられるもので、ある意味ではそれが自分の一部であると思った。自分を形づくって きたものなのだと。だからこそ、原風景はその人にとってとても意味のあるものなのだと 思いました。 こうした学生の感想から、個人情報の保護以上に意味のあること、そして⑤「授業 は学生と教師との学び合いの中にある」ということを改めて確認することができまし た。今後も授業を進める中でさまざまな課題が生じてくると思います。思わぬ副産物 を期待しつつ、これからも試行錯誤しながら学生とともに授業を作っていきたいと 思っています。 50