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ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ)
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ロシア・ジャコバン主義をめぐる研究史概観
早坂. 真理
茨城大学教養部紀要(22): 29-54
1990
http://hdl.handle.net/10109/9888
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お問合せ先
茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係
http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html
ロシア・ジャコバン主義をめぐる研究史概観
早 坂 真 理
On the Russian Jacobinism
一the outline of historiography一
Makoto HAYASAKA
口}は じ め に
ナロードニキ運動とその思想は,1870年前後にその基本的方向が確立し,1881年3月1日の
4
u人民の意志」党によるアレクサンドルニ世の暗殺において頂点をなしたものとされ,1)とりわけ
ピョートル・ラヴロフとミハイル・バクーニンがこの時期のイデオロギーを代表していたとみなさ
れている。ラヴロフによれば1人間の叡知やモラルの発達こそが人類の進歩の最大の指標であり,
バクーニンにとっては人民革命への本能に訴えたステンカ・ラージンやプガチョフの農民
反乱の伝統こそ想起されるべきであった。こうした考えは,この時期にはじまる「人民のなかへ」の
活動家たちの生活信条や世界観に色濃く反映し,ロシアの伝統的な農村共向体を基礎に未来社会を
展望し,また政治的自由を求める闘争はブルジョワジー固有のものであるゆえに政治闘争に代えて
社会革命が主張されたのであった。だカ㍉ 1870年代末になると,それまでとは正反対にツァリー
ズムとの闘いのなかでテロリズムに走る傾向が強まり,革命党の建設をめざすなど政治闘争へ傾斜
していった。
皿
アうした傾向はすでに1860年代初頭のザイチネフスキーの「青年ロシア」の運動や60年代末の
ネチャーエフの諸活動のなかに窮え,70年代中葉に現れる『警鐘』派の運動に引き継がれていった
といわれる。しかしこの傾向は,ナロードニキ運動のなかでは亜流もしくは異端としてしか扱われ
なかった。その理由として,第一に,当時において革命の事業のためには殺人さえいとわないネチャーエ
フ流のやり方(1868−69年)に対する道義的な反発が一般に強く,政治闘争を忌み嫌う傾向が強
かったこと,第二に,これに深く関与したバクーニンを攻撃するマルクス派の格好の材料となり,第
一インター内部の主導権争いを反映していたこと,などが挙げられる。一般にこの傾向はロシア・
ジャコバン主義と呼ばれ,そしてこれを代表する人物としてピョートル・トカチョーフ(1844−86年)
の名を挙げることが多い。
同時代人の評価ばかりでなく,ロシア十月革命後,ボリシェヴィキーの思想的起源をめぐって,
「人民の意志」党の諸活動に加わった人々のあいだでその政治闘争や陰謀主義を肯定的に評価し,そ
の伝統を誇りをもって復活させようとする気運が生じたことが挙げられる。またその逆にメンシェ
30 茨城大学教養部紀要(第22号)
ヴィキーをはじめ暴力革命全体に反対する側から,レーニン主義は正当なマルクス主義に由来せず,
ロシァ革命運動史の異端であるロシア・ジャコバン主義を継承しているにすぎないとする見方が広
まった事実にも注目しなければなるまい。蓋し,レーニンがr国家と革命』 (1917年)で展開し
た国家権力の奪取の思想やr何をすべきか』 (1902年)で示した前衛党建設の思想的由来をロシ
ア・ジャコバン主義に求める見方が一般に定着していたためである。そうしてみると,パリ・コミ
ユーンを総括したマルクスの『フランスの内乱』(1871年)とこれと対立したバクーニンのr国家
性とアナーキー』(1873年)の内容の比較検討を踏まえ,この対抗関係のなかから生成してくる
ロシア・ジャコバン主義にまでその起源をたどることが課題となってくる。言い換えれば,社会主
義論の根本的見直しを含め,レーニン主義固有のものとされてきた国家論や組織論の思想的起源を
歴史研究の対象としてとり上げることが必然的に求められることになる。
ロシア・ジャコバン主義に関する実証的研究は,トカチョーフの革命理論を中心にこれまでなされ
てきたとはいえ十分ではない。イデオロギー上の公式主義的解釈が必要なのではない。必要なのは
実証的研究である。本稿では,とりあえずこれまでのトカチョーフ研究を跡づけ,ロシア・ジャコ
バン主義をめぐる様々な解釈上の諸見解を整理し,欠落している問題を明らかにしてゆくことにす
る。
(2)ボリシェヴィズムの先駆者
プレハーノブは『われわれと異なる諸見解』(1884年)において,ナロードニキの諸潮流のな
かでトカチョーフの革命理論こそが「人民の意志」党のテロリズムの理論的根拠となっているとし
て,直接には「人民の意志」党の理論家でrわれわれは革命から何を期待するか』(1883年)の
著者エリ・ア・チホミーロフを強く批判した3)プレハーノブはこの著書をもって最初のマルクス主義組織
「労働解放団」の理論的位置を明確にするとともに,マルクス主義とナロードニキ主義を区別し,
トカチョーフ主義者としてチホミーロフを批判したのである。のちにロシア社会民主労働党がメン
シェヴィキーとボリシェヴィキーに分裂した際(1903年)にも,メンシェヴィキーがレーニンをジ
ヤコバンあるいはブランキストとして非難したことを想起すれば,ロシア・ジャコバン主義からレ
一ニン主義への継承関係については,ロシア・マルクス主義の成立如何にかかわる重大問題を含ん
でいることがわかる。ボリシェヴィキーの権力掌握後,亡命した多くのメンシェヴィキーを含む人々の意識には,
ボリシェヴィキーの思想にロシアの土着思想の影響をみる向きが強かった。なかでもベルジャーエ
フはメンシェヴィキーをマルクス・エンゲルスの正統な嫡流とみなし,他方ロシァ・ジャコバン主
義をボリシェヴィズムの先駆者であると考え,ロシア精神史におけるその土着的要素を強調してボ
3)
潟Vェヴィズムの西欧的起源を否定したのである。
ロシア・ジャコバン主義に対する関心は1917年のロシア革命を頂点に高まり,様々な形で議論
されたが,その特徴を大把みにすれば,一方で相手を非難する材料として(たとえばメンシェ
ヴィキー等の側から),他方で「人民の意志」党以来の英雄的な革命の伝統を強調し,自らの路線を
正統化する論拠として(ボリシェヴィキーの側から)ロシア・ジャコバン主義の系譜を利用しよ
うとする二つの傾向がみられた。そして革命の熱気の醒めやらぬ1920年代 トカチョーフの革命
理論を中心にロシア・ジャコバン主義に関する本格的な検討が開始されたのである。
十月革命以前は,トカチョーフはナロードニキの理論家として比較的知られた存在であったとは
早 坂:ロシア・ジャコバン主義をめぐる研究史概観 31
いえ,どちらかといえばその関心は気革命家トカチョーフ”よりも’文芸批評家トカチョーフβに
向けられがちであった。当然ながら革命後は独創的な革命網領の立案者としての側面が研究
対象となり,とりわけトカチョーフがもっとも早くロシア社会にマルクスの『経済学批判』
の序言を紹介した人物(1865年)として注目を浴びることになった。こうした環境のなかで登場
した若きボリシェヴィク,コズィミンは,1922年にrぺ・エヌ・トカチョーフと1860年代の革
命運動』を著し,初期のトカチョーフの諸論文のなかには未熟ながらも気階級闘争”や覧史的唯物
論’の萌芽が認められるとしてトカチョーフを’最初のマルクス主義者”とみることも可能である
と述べた。ただしこの評価はあくまでも留保つきであった。コズィミンによると,たとえばトカチョ
一フの思想に特有な「経済的唯物論」はあくまでも1860年代特有の功利主義を基礎とし,また
「歴史飛躍の理論」にしても現状を救済する方法として功利主義的考えを基礎に編み出されたもの
でしかないという。コズィミンはつぎのように書いている。
「このようにトカチョーフの構成のなかでは,経済的唯物論はより緊密な形で功利主義的道徳性の
理論と結びついている。彼にとっては,いずれの場合も等しく理論的必然性をもって人間固有の自己
保存本能に基礎を置いている。自分の存在を保証し,存在の手段を拡大することをめざしながら,
人間は個人生活や社会生活において,あらゆる諸条件の下で自分に有利に働くよう思索しようとす
る。
いまわれわれがみてきたように,トカチョーフは実際に史的唯物論の支持者であったと認めてよ
い。しかしながら,彼の社会政治諸見解のなかに,われわれは,マルクスや彼の支持者たちが与え
た史的唯物論の形態から一連の逸脱も発見する。トカチョーフはあらゆる人間生活の諸現象を基本
的には経済的理由に帰している。彼は唯物論的方法を歴史諸現象の研究に応用しようと努める。彼
にとっては階級闘争の思想は無縁ではなかった。同時代の国家を彼は支配階級の利益を守る機関で
あると考えた。当時の経済学や法学のなかに彼はブルジョワジーのイデオロギーを発見する。しか
し,それとともにトカチョーフは自己の経済的唯物論の根拠づけを,本来彼が発見できないはず
の,すなわち功利主義のなかに,ダーウィンの生存闘争の理論のなかに発見しようと努め
る。だから彼の思想には,本来マルクスの学説にあるはずの階級闘争の明晰さや鋭さの欠如した
諸学説が混合しているのである。同時に,トカチョーフは歴史における個人や偶然性の役割を過大
評価する。したがって歴史飛躍の可能性についての彼の信仰は,経済的唯物論と結びつくものとは
いえず,彼が意識しようとなかろうと,この理論を完全に否定しているのである。それゆえ彼の予
測が,トカチョーフが著作活動をはじめてから30年経ったロシアで広く理解されている社会政治諸
見解についてどれほど的中し,われわれを驚かせているといっても,われわれは多くの点でトカ
チョーフが全生涯にわたり1860年代人にとどまっていたことに目を閉ざすことはできないのであ
る。」4)
コズィミンは,1933年には若干の修正を加え,論文rぺ・エヌ・トカチョーフとマルクス主義
の問題に寄せて』のなかで,トカチョーフの理論には糟級闘争”の理論はなかったとし,マルク
5)
X主義との関係を全面的に否定した。トカチョーフ選集の刊行は七刊本の予定でコズィミンの編
集により1932年から開始され,1937年までに第六刊まで刊行されたが,第七刊は出版されなか
った。監修者コズィミンはその理由についてなにも語っていない。この選集第一刊(1932年)の
32 茨城大学教養部紀要(第22号)
序文においてコズィミンは,脆弱な産業発展や産業労働者の弱体というロシアの後進性こそがトカ
チョフを完壁な意味でマルクス主義者にしなかった理由であるとし,つぎのように述べている。
「トカチョーフがマルクス主義者でなかったとしても,当時のロシアでは彼ほど強く深くマル
クスの学説を理解したものはいなかった。この点では90年代の合法マルクス主義者の直接の先駆
者であるエヌ・イ・ズィーベルを例外とするが,しかしズィーベルはトカチョーフよりもはるかに
よくr資本論』の著者の経済学説を分析したとはいえ,戦闘的階級的性格をもったマルクス主義は
理解しなかった。
トカチョーフの革命理論の構成においては,マルクスの影響が終わるところをからブランキズム
6)
窿Wャコバン主義がはじまったのである。」
マルクス主義が結局定着しなかったことを指摘する一方で,コズィミンはトカチョーフがバ
クーニンやラヴロフのアナーキズム的傾向を批判した点をとくに評価し,革命国家の役割を重視し
たトカチョーフの革命理論とレーニンのr国家と革命』の理論展開との強い関連性をも併せ
て示唆している。7)このようなコズィミンの思考の揺れは,ロシア・ジャコバン主義をめぐる当時
の熱い論争に規定されたものと思われる。したがって,トカチョーフがマルクス主義者であったか否か
についてのみならず,ボリシェヴィキーの先駆者であったかどうかの問題もまた重要な議論の対象
となっているのである。
(3》ロシア・ジャコバン主義論争
1920年代に入り,国内戦がほぼ終息しソヴィエト・ロシア社会がしだいに安定を取り戻してきたこ
ろ,ボリシェヴィズムの思想的源流をめぐって19世紀以来のロシア革命運動史を問い直す気運が生
じ,広汎な論争が展開された。ソヴィエト史において1920年代ほど自由な言論活動が保証された
時代はほかになく,スターリン体制の成立に至るまでこの論争は続いた。バクーニンとネチャーエ
フの諸活動をロシア革命運動の先駆とみるスチェクロフやポロンスキーの諸研究を皮切り
にバクーニン研究が著しく進展し,これと並行してロシア・ジャコバン主義についても研究が進み,
やがてゴーレフとシネイラおよびミツキェヴィチとバトゥーリン間の著名な二つの論争に発展して
いった。8)
まず1921年にrオーギュスト・ブランキ』を著したゴーレフ は,ブランキズム特有の陰謀主
義,秘密結社,権力奪取,革命独裁の思想が十月革命の際にボリシェヴィキーが採った小数精鋭の
職業的革命家集団による権力奪取の方法,そしてレーニンが評価した「人民の意志」党によるテロ
リズム戦術と重なり合い,1°)正統マルクス主義とブランキズムが矛盾なく一致すると主張した。ま
たブランキが1848年には大衆運動を重視した点をとり上げ,マルクスの史的唯物論・階級闘争論
と同じものがブランキの思想のなかにもみられ,19世紀中葉のブランキ派の精力的な活動がマルク
スに影響を与えずにはおかなかったとして,バブーフ,ブランキ,マルクスへと続く革命思想の継
承関係を確認しようとした。恐らく,メンシェヴィキーにかつて属していたゴーレフの目には,彼
が考える正統派マルクス主義とレーニン主義とが直接つながるものとは映らなかったのであろう。
このようにブランキズムとプロレタリア革命・階級闘争とも結合させ,トカチョーフを復権させな
早 坂:ロシア・ジャコバン主義をめぐる研究史概観 33
がら,ゴーレフはこの延長線上にレーニンを「マルクス主義の科学的理論で武装したロシアのバ
11)
uーフ」と呼んだのである。
このゴーレフの所論に反駁を加えたのがシネイラである。彼によれば,政治闘争とりわけ小数者
による独裁はブランキズム特有のもので,階級闘争を無視したものである。この前提に立って,レ
一ニンのことばを引用しながらシネイラはこう述べた。
「われわれはブランキストではない。小数者による権力奪取の支持者ではない。. (そうした
試みは一早坂一)多数者に自分の意志を無理強いしようとする小数者の試みであり,マルクス主義
12)
フブランキ主義的歪曲である。」
同様にシネイラはプロレタリア独裁についても,これはブランキズムとは本来無縁であり,ブラ
ンキズムを「階級闘争を否定する理論」であると規定してつぎのように述べた。
「(プロレタリア独裁は一早坂一)資本主義社会における階級闘争の必然的結果である。この理
論はマルクスによってのみ与えられた。」13)
シネイラによれば,マルクス主義的階級闘争が政治闘争の諸形態をブランキズムから受け継ぐこ
とはあり得ず,プロレタリア独裁をめざす政治闘争の諸形態は本質的にマルクス主義固有のもので
ある。かりにもし共通性があるとしても, ’革命性”のみであり,そのかぎりで十月革命も「人民
14)
フ意志」党の伝統を継承したと主張できるにすぎない。
ロシア・ジャコバン主義については,つぎに述べるミツキェヴィチとバトゥーリンの論争がより本
質を突いている。しかしこれも研究分析というよりはイデオロギー論争の性格を免れない。ミッキ
エヴィチの主張の核心は,ザイチネフスキーの激文r青年ロシア』 (1862年)やトカチョーフの
rロシアにおける革命的プロパガンダの諸任務』(1874年)で明確にした革命的小数者による革
命独裁の理論こそが,ボリシェヴィキー・イデオロギーの先駆にほかならないとした点である。た
だザイチネフスキーやトカチョーフがプロレタリアートの役割を評価しなかった点について,ミッ
キェヴィチは当時のロシアには階級と認められる労働者階級が存在しなかったためであると説明し
たが,15)まさに人民大衆の自発性を期待しなかったことこそ,バトゥーリンが小ブルジョワ急進主
義であると非難したところでもあった。この非難に対しミツキェヴィチは, r警鐘』の綱領の第三
節で示された六つの課題を小ブルジョワ急進主義克服の方法として,またプロレタリア社会主義の
方法と理念を明確化したものとして挙吠反論の根拠とした評それではこのようにボリシェヴィズ
ムとロシア・ジャコバン主義が表面上のみならず本質的に一致するとみる理由は何なのであろうか。
ミツキェヴィチの所論をみてみよう。
専制政治,大衆の不満,インテリゲンツィアの窮乏化萌芽段階にあるロシア資本主義,こうし
た諸条件こそがインテリゲンツィアの意識のなかにジャコバン思想を植えつけたのである。ツァリ
一ズムは確実な基礎をもっていないゆえに,これに真っ向から対抗できる強固な中央集権的組織さ
えあれば権力奪取は容易である。西欧社会主義の影響,ロシアの産業発展の未成熟堅実な小ブル
ジョワ的農民的土地所有が確立していない段階こそ,社会主義理念を実現する好機である。こうし
34 茨城大学教養部紀要(第22号)
た条件に適合する社会主義理念を表明したものこそロシア。ジャコバン主義であり,具体的な
運動を展開したのが「土地と自由」とこれを継承した「人民の意志」党であった。政治権力を奪取
し社会内部で農業革命を推進し,社会主義を実現するという彼らの政治プログラムはボリシェヴィ
キーの戦略と矛盾なく一致する。のちに「人民の意志」党が壊滅したあと,プロレタリアートに支
持基盤を求めたのがボリシェヴィキーであり,そうしなかったのがエスエルであった。「人民の意
志」党と「全土地割替え」派はともに「土地と自由」を母体としているが,党建設とか権力奪取と
いった政治闘争を主張しない後者にボリシェヴィキーとの継承関係をみるのは無理である。した
がって,「人民の意志」党の方が断然ボリシェヴィキーに近い。ミツキェヴィチはまたロシアの
後進性を踏まえ,以上の文脈で労農同盟も可能であったとし,レーニンがr何をなすべきか』で展
開した党組織論に言及して,トカチョーフの理論との共通性を認めようとした。17)ミツキェヴィ
チは注記のなかでこの論文を当時のソヴィエト史学の最高権威,ボクロフスキーの著作を
読んだ直後に執筆したと述べ,ボクロフスキーと自分が完全に一致していると強調しながら,バト
ウーリンの所論を古臭いものと断定した。㈹ ミッキェヴィチの論文は十月革命五周年を記念して執
筆さ礼当初『イズヴェスチア』誌に掲載される予定であったが編集部により却下されたという。
結局全ロシア政治犯協会の雑誌であるr苦役と流刑』誌に掲載されることになったが,19)そのいきさ
つを考えると,このr苦役と流刑』という雑誌は70年代のナロードニキの流れを汲む革命家たちが
運営していたせいもあって,レーニン主義の起源をロシア・ジャコバン主義に求めることに寛容で
あったためである。
ところでこのミッキェヴィチの論文に強い反駁を加えた,以下に紹介するバトゥーリンの論文に
は,『プロレタリア革命』誌の編集部からミッキェヴィチの論文が異端説であることを示すために
特別に執筆依頼されたというわくがっいていた。2ωバトゥーリンによれば,ミツキェヴィチは
プロレタリア革命の本質を理解しておらず,ロシア・ジャコバン主義という名称も,要するにフラ
ンス大革命期のジャコバンからの借用にすぎず,本来急進的小ブルジョワによる革命独裁論の模倣
にすぎない。バトゥーリンはこう述べている。
「ザイチネフスキーやトカチョーフの理論はボリシェヴィズムの起源ではなく,フランス大革命
21)
フ花がロシアという不適当な土譲で狂い咲きしたものにすぎない。」
ミーツキェヴィチが小ブルジョワ急進主義を克服する例として挙げたトカチョーフのr警鐘』の綱
領について,バトゥーリンはそれが四つの点でプロレタリア社会主義とは無縁であるとみた。第一
に,プロレタリア社会主義は漸進的に発展するものではない。第二に,生産手段は国家に移譲すべきで農
村共同体にではない。第三に,国家権力の中枢機構の廃絶は単に行政・政治機構のみならず,経済的
統制機構までも廃絶されるはずである。第四に,トカチョーフが同胞愛や連帯性で維持されると考えた
交換組織は,プロレタリア社会主義とは無縁で,精々プルードンのいう人民銀行を連想させる
22)
烽フにすぎない。
ミツキェヴィチがロシア・マルクス主義とボリシェヴィズムを19世紀革命運動の諸潮流を
総合したものとみたのに対し,バトゥーリンは,マルクス主義は本来古典派経済学,ヘーゲル弁
早 坂:ロシア・ジャコバン主義をめぐる研究史概観 35
証法,ユートピア社会主義の三つの総合から成り立っており,もしロシア・マルクス主義およびボ
リシェヴィズムをトカチョーフの思想に結びつけようとするのであれば,マルクス主義としての本質を否
定しなければならなくなる。なぜならトカチョーフは古典派経済学をブルジョワ的として拒否し,
ヘー Qル弁証法を無意味と斥け,さらに自らユートピア社会主義の立場を貫き,その域を出なかっ
たからである。23)ロシアではジャコバン主義とは無関係に第一インターの綱領にしたがう南部ロシ
ア労働者同盟や北部ロシア労働者同盟が登場し,ナロードニキの小ブル的農民社会主義やロシア・
ジャコバン主義に厳しい対決を挑み,ロシア・マルクス主義の発展に貢献したからである。それゆ
え彼らの先駆者である「労働解放団」の前身,「全土地割替え」派こそミツキェヴィチが称賛し
た「人民の意志」党よりもはるかにボリシェヴィキーに近いといわなければならない。24)バトゥー
リンの総括では,トカチョーフの理論はむしろエスエルの小ブルジョワ路線の先駆者ということに
なる。バトゥーリンはさらに,ミッキェヴィチが拠りどころとしたボクロフスキーのトカチョーフ論
についても厳しい態度で臨んだ㌘)因に,ボクロフスキーは,ロシァ・ジャコバン主義とレーニン主
義との継承関係を大筋で認あている。彼は1924年に『若き親衛隊』誌に論文「ロシア革命史におけ
るレーニン」を発表し,こう書いている。
「自分の考えでは,若干急いだ結論ではあるが,レーニンは自分が摂取したジャコバンたちの思想め影
響下にあった。. 小ブルジョワの学説であるジャコバンたちの学説がレーニンのイデオロギー
に流れ込むことはなかったし,あり得るはずもなかった。, しかし,ひとつの問題が最初にロシ 26)ア・ジャコバンたちによって準備され発展していった。すなわち権力奪取の問題がそれである。」
以上の引用にみるとおり,ボクロフスキーはラヴロフとバクーニンのふたつの潮流のなかにあっ
て細流でしかなかったとはいえ,ザイチネフスキーのr青年ロシア』が予言的性格をもつ「最初の
27)
{リシェヴィキーの資料」であるとみなし, レーニンへの継承性を認めたのである。このボクロ
フスキーの見解はロシア・ジャコバン論争のなかでかなり重みをもつものとなった。
先に紹介したゴーレフは,1925年にr軍事的唯物論者』誌に論文「ブランキズム全体および部
分的にロシア・ブランキズムに関する問題に寄せて」を発表し,ここではとくにフランスの若き共
産主義者,モーリス・ドマンジェの最新のブランキズム研究の成果を踏まえ,1870年代から80年代
にかけての国際関係の危機に臨んで世界革命の気運がみられたとし,フランスのブランキ
派とロシア・ジャコバンの間で緊密な協力関係があった事実を紹介し,なおもレーニンへ至る思想
的筋道を解明しようとした18)これはのちに紹介するポリス・ニコラエフスキーの論文(後述,
第六節)と資料の扱いの面で重なる部分があり,重要な論文である。いずれにしても,先にも触れ
たように,かつてメンシェヴィキーに属していたゴーレフ等の目には,レーニン主義は正統なマル
クス主義とは映らなかったのである。
一連の論争に終止符を打ったのは,1931年にrプロレタリア革命』誌に載った編集部宛のスタ
一リン書簡であった。スターリンはこの書簡のなかで,トロッキーのいわゆる左翼反対派をロシァ
・ジャコバン主義の類であると付会し,陰謀主義的な内部破壊活動と同列にあるものと規
定したのである39)、以降レーニンの神格化・絶対化が押し進められたことを思えば,この手紙の
もつ意味は極めて大きい。かくしてロシァ・ジャコバン主義に関する論争はうやむやのままに中止さ
36 茨城大学教養部紀要(第22号)
れ,慎重なコズィミンもあえてトカチョーフとレーニンと結びつけたり,ボリシェヴィズムの起源
を探ることはやめたのである。トカチョーフ全集が完結しなかったのはそのためである。このスタ
一リン書簡はr苦役と流刑』誌に転載され,末尾で編集部の自己批判も発表された。30)以後バトゥ
一リンの見解に代表される硬直したイデオロギー統制が確立されていく。1938年にヤロスラフス
キーの編集でrソ連邦共産党史』 (通称r小教程』)が発表されると,公式主義解釈によってナロー
ドニキの諸潮流は60年代の「革命的民主主義者」と不自然に対比さ礼その上マルクス・レーニン
主義に敵対する小ブルジョワ急進主義であると断罪され否定されていったのである。31)
こうした環境のなかで沈黙を強いられた古参ボリシェヴィク,コズィミンは,スターリン
の死後ようやく,言い換えれば彼自身の死(1957年)後でもあるが,1959年のr歴史雑
誌』に論文「ロシア解放運動のブルジョワ民主主義段階におけるナロードニキ主義」を発表し,こ
のなかでレーニンへの回帰を呼びかけるとともに,かつてレーニンの生きていた1920年代に自分
が展開したロシア・ジャコバン主義解釈を改めて世に送ったのである。32)
働 亡命者の諸見解
先に触れたベルジャーエフの評価も含めて,ロシア・ソ連邦以外でもロシア・ジャコバン主義に関
する紹介文や論稿は1920年代から現れはじめ,なかでも1929年に亡命者メリグノーフによって
書かれた強い非難の調子を含むものが当時のロシア・ジャコバン主義の評価を代表している。彼は
こう述べている。
「悪名高いレーニン主義それは古いロシアのネチャーエフ主義,マルクス主義の専門用語で洗
練さ礼不信の容器を拡大したブランキズムの特殊ロシア版に当たる。これこそボリシェヴィズム
の本当の起源である。ちがいはただ60年代・70年代の傾向で,一般的にいえば当時の革命運動のな
かで弱い傾向であったものが,権力奪取について話しをやめようとしない小数の若きユートピアンの
未熟で抽象的な理論だったという事実である。彼らの本当の理論的指導者にして最初のロシア・マ
ルクス主義者,トカチョーフでさえ,彼らに“病める人々”という名を与えている。同時代の人
々は同じ印象をのちにレーニンが借用したネチャーエフの組織「人民裁判」やr革命家の教理問答』
の内容から受けている。しかしこれらの’病める人々”やドストエフスキーの描く“悪霊”たちは,
健康な精神を蝕む革命時に登場するのみである。このことは生活のなかに犯罪を織り込む革命の病
理学である。これは現代に生きるボリシェヴィキーが未来へ向かって突進する際にもつレーニンの
松明である。どんなによくみても,このジャコバン主義は人民蔑視であり,あらゆる詐欺行為の実行
を容認し,人間というものを盲目的大衆として扱うものである。」33)
メリグノーフの上述の評価は,明らかにボリシェヴィキーに対する嫌悪に由来するものであった。
アメリカでロシア史研究の基礎を築いたカルポヴィチによる短い論文(1944年)34)が,メリグノー
フの見解を引き継いでいる。この論文は二つの部分からなり,前半はトカチョーフの思想考察,
後半はレーニンとトカチョーフの関連性を論じている。トカチョーフのマルクス主義についてカル
ポヴィチはこう述べている。
「トカチョーフがマルクスの著作を熟知していた最初のロシア急進主義者のひとりであり,ロシ
早 坂:ロシア。ジャコバン主義をめぐる研究史概観 37
アの資本主義発展を明確に捉え,いくつかの著作のなかで経済史的解明に着手したことは事実とは
いえ,彼のマルクス主義が限界をもっていることも明らかである。その理由は,彼がロシアに 35)おける潜在的革命勢力としてのプロレタリアートについて全く語らなかったことだけで十分である。」
カルポヴィチはトカチョーフの思想のなかに階級闘争論がないとみて,トカチョーフのマル
クス主義を過大評価したりはしなかった。それとともにレーニンのマルクス主義についてもその特
異性をこう指摘した。
「レーニンのマルクス主義の特徴がロシア・マルクス主義以前のある種の概念の借用にあり,マ
ルクス主義のつぎ木であるということを大胆に述べてみたい。」36)
いうまでもなく,ある種の概念こそ40年前にトカチョーフが掲げた公式にほかならない。カルポ
ヴィチはこう続けて述べている。
「何人かのメンシェヴィキー系の批判者たちがレーニンのやり方を70年代のテロリズムへの回帰
(陰謀主義を指す一早坂一)であるとレーニンを批判したとき,レーニンはその挑戦に対し必要な
のは社会民主主義者ジェリャーボブであると反駁した。同じ論拠に立ってレーニンは社会民主主義
者トカチョーフと呼ぶこともできたであろう。」37)
それでは,カルポヴィチの考えるトカチョーフとレーニンのあいだの具体的な共通性は何であろうか。
第一は少数者による革命党の必要性についてである。トカチョーフは農民(人民)の支援を不要とは考え
なかったが,党との関係では従属的存在とみていた。彼は人民の自発的革命に期待せず,また
新しい社会を建設する能力に懐疑的であった。カルポヴィチによれば,レーニンもまたこうした懐
疑的な態度を農民のみならず産業労働者に対してもとった。労働者階級だけでは精々労働組合主
義の範囲内でしか活動できない。したがって,長期にわたって革命を持続させ,外部からの妨害
を防ぐためには,組織された革命党は絶対に必要である。トカチョーフのことばを借りれば,労働
者階級に自覚を強制しなければならないのである。38)
第二は権力奪取の問題である。1917年11月,臨時政府に対する最後の攻撃の前夜,レーニンはボリシ
エヴィキー中央委員会への勧告のなかで「権力奪取が蜂起の出発点である。政治的任務は権力奪取
のあと明らかとなるであろう」と述べているが,これはトカチョーフがラヴロフ批判のなかで用い
た’いまやらなければ永久に革命は実現できない”という主張と合致する。この・いまやら
なければ永久に革命は実現できない” ということばには,ロシアの資本主義化を予防す
る意味が含まれており,R9)レーニンはもちろんトカチョーフのように単純な図式化はしな
かったが・それに近い立場をとった・すなわち・シアの産業ブルジ・ワジーの相対鰯さを強調し・その脆弱さゆえにレーニンはロシアではブルジョワ革命からプロレタリア革命へ即時移行
できる条件が整っていると考え,また封建的遺制にあえぐ農民のあいだにくすぶる革命的不満がこ
の移行を容易にすると予測したのである。レーニンによれば,ブルジョワジーが強力となり農民が
封建的遺制から解放されたあとでは革命のチャンスは増大するよりも反対に遠のくにちがいないと
38 茨城大学教養部紀要(第22号)
いう。とりわけレーニンがストルイピンの農業改革に警告を発した理由こそまさにそれであった。
同じく1914年の戦争も革命の好機到来とみて歓迎したのである。⑪
カルポヴィチによれば,このような経済に対する政治の優位を主張するレーニンの考えこそ,ま
ぎれもない正統派マルクス主義からの逸脱なのである。カルポヴィチはさらにレーニンからスター
リンに至るソヴィエト・ロシアの政治過程をみながら,クーデタによるプロレタリア独裁の樹立,
そして国家権力を駆使して上からソヴィエト体制にふさわしい社会的・経済的基礎を創出したこ
4D
ニこそトカチョーフの提起した課題が着実に実現されている証拠とした。 結局のところ,マ
ルクス主義者レーニンとナロードニキ・トカチョーフのあいだにはさしたる違いはない。このよう
にレーニン主義のなかに潜む非マルクス主義的要素をあかるみに出すことによって,カルポヴィチ
はトカチョーフを「レーニンの先駆者」として位置づけたのである。以上みてきたカルポヴィチの
トカチョーフ論は,アメリカの歴史学会に特徴的な近代化理論に立脚しており,冷戦期の反ソヴィ
エト・イデオロギーの基礎ともなった。
(5)第二次世界大戦後の研究動向
第二次世界大戦後は,とくにアメリカではカルポヴィチの見解が基本的に受け継がれた。た
とえば1969年にr最初のボリシェヴィク』を著したウィークスは,①大衆に社会主義を教育する
デクラッセしたインテリゲンツィアと陰謀家による党の形成,②革命的少数者による中枢権力の奪
取,③エリート的党組織内での極端な中央集権主義,④革命を遂行した同じインテリゲンッィアに
よって指導される強力な社会主義的独裁の樹立,⑤社会を新しい社会主義的秩序につくり変える永
続革命の遂行,⑥国家の死滅を引き延ばすこと,⑦革命後の政治的反対派に対する不寛容,リベラ
ル・ブルジョワジーに対する軽蔑,独裁制を維持するための公安委員会の設置,⑧目的を達成する
ためのあらゆる手段の行使と日常的宣伝活動との厳密な区別,⑨疑似マルクス主義経済イデオロ
ギー,⑩ロシアが社会主義革命を実現し得るブルジョワジーの弱い環であるという認識,以上
十項目を検討し,レーニン主義との強い関連性を認めようとした。42)そして若きレーニン
43)
ェジュネーブ滞存中に丹念にトカチョーフの文献を読んでいた事実を傍証とし,ウィークス
はトカチョーフは厳密な意味でマルクス主義者ではなかったが,最初のボリシェヴィクとしての資
格は十分に備えているという結論に達したのである。
1973年に「レーニン,一革命家の誕生と発展』を発表したスィーンも,基本的にこのウィーク
スの解釈を引き継いだ。44)さらに別の論文でもカルポヴィチやウィークスに倣い,ロシアが
資本主義化するのを防ぐ方法としてインテリゲンツィアの指導による予防革命(preventive
revolution)を評価し,革命国家の必要という見地からレーニンのr何をなすべきか』の主張が
すでにトカチョーフの思想のなかで準備されていた,と結論づけた85)こうした主張には,
冷戦という国際関係における反ソヴィエト姿勢が強く反映している。
しかしながら,いま述べたウィークスやスィーンを除けば,ロシア・ジャコバン主義とボリシェ
ヴィズムの関係にこだわる研究はとくにない。 イタリアの歴史家ヴェントゥーリの大著
rロシア民主主義』(1955年)でも,レーニン主義との関連を軽々に論ずる姿勢はない。
ヴェントゥーリはコズィミンと基本的に同じ立場をとり,トカチョーフを1860年代のロシア社会
に現れたジャコバン的傾向を1870年代に国際的ブランキズムへ移植させた人物であると考えた。46)
早 坂:ロシア・ジャコバン主義をめぐる研究史概観 39
そうした観点からトカチョーフをチェルヌイシェフスキーの継承者であると位置づけ,彼のいう
経済的唯物論にしても平等主義的理想を実現する政治的武装として,その起源を18世紀の啓蒙主義
の時代に遡るものとみて,そのジャコバン主義におけるエリート主義には啓蒙主義的理想が濃厚で
あるとの考えを示した。47)
ナロードニキ主義に関する優れた社会学的分析rロシア資本主義論争』(1969年)を著したポ
一ランドのヴァリッキは,後発資本主義国の社会に共通する人民主義の比較検討の立場からトカチ
ヨーフのエリート主義的なジャコバン主義を,後発資本主義国に共通するインテリゲンツィアの思
想類型であると考えた。ヴァリッキによれば,1860年代末から1870年代初に形成される古典的
ナロードニキの思想がロシアの資本主義化に対する単なる反作用にとどまらず,西欧資本主義と西
欧社会主義に対するロシアの民主々義的インテリゲンツィアの鋭い反応でもあり,要するに,西欧
を模範とすることがロシアの将来にとって望ましいか否かという伝統的な根本問題に回帰するもの
で,この観点こそまさにマルクスによって与えられたというのである。48)
アメリカのバーディもまた,安易にボリシェヴィズムとの関係にこだわる姿勢を批判し,またイ
デオロギー論争でしかなかった1920年代のロシア・ジャコバン論争や冷戦期の反ソ的観点から
のトカチョーフ論には与せず,レーニンはトカチョーフの戦術をまねただけである,と述べるにと
49)
ヌめた。 バーディの研究はトカチョーフを正面からとり上げた本格的な研究であるが,とくにト
カチョーフのマルクス主義については,ヴァリッキが「トカチョーフのこの独特の「経済的唯物論」
はマルクス主義とはいえず,むしろマルクス主義の幾つかの要素ともっと原始的な功利主義(個人
の行動における直接的な経済的動機の役割を過度に強調する)との奇妙な結合であった」(日南田訳)と述
べた点を捉え,トカチョーフの「歴史飛躍の理論」についてもそれが1860年代の思想環境のなかで必
然的に生まれた主体性論の表明であるとみなした。50)だからトカチョーフの革命理論においては,
生存闘争における人間的営為の介在がとくに強調され,調和へ導くインテリゲンツィアの役割が過
5D
蛯ノ評価されているというのである。 したがって,トカチョーフがロシアは資本主義へ向かって
進んでいるとするマルクス主義的分析を受け入れる一方,資本主義はつねに進歩的であると単純にみ
るエンゲルスの解釈を斥け,反対に資本主義の到来を警戒したのは,バーディによれば,まさ
に彼の主体性論のゆえにほかならないというのである。ほかのナロードニキ同様西欧社会の悪を避ける
ことを期待し,その認識から生まれたものこそほかならぬ「歴史飛躍の理論」だったというわけで
ある。このようなインテリゲンッィア・革命家の心理状態を,バーディはヴァリツキのいう「後進
●
ォの特権」の典型的な表現とみた。52)
ソ連邦でも近年トカチョーフの関する論究がマルクス・レーニン主義の規範に触れない範囲でな
されつつある。研究の絶対量は多くないとはいえ,それでも脱イデオロギー化は着実に進み,研究
面での実証性は高まってきている。まず「人民の意志」党の革命理論を扱ったトヴァルドフスカヤ
の著書rロシア社会主義思想1870−80年代』(1969年)は,1870年代初頭のアナーキズム
的社会闘争路線がやがて「人民の意志」党のテロリズム路線への転換,すなわち政治闘争重視へ転
換してゆく過程を捉え,権力奪取の必要と上からの社会革命の実施という主張が結局のところトカ
チョーフの革命理論を受け継いだものにほかならないと結論している。53)
r歴史の諸問題』誌に論文「ロシア・ブランキズム史の若干の諸問題」(1971年)を発表した
セドーフによれば,ロシア・ジャコバン主義もまた農民の利益を代弁するナロードニキ主義のひとつにほ r
1
40 茨城大学教養部紀要(第22号)
かならず,ツァリーズムとの闘いのなかから教訓として生み出されたものである。その上でセドーフは
「レーニンはブランキズムの伝統を批判し,陰謀戦術が労働階級とは無縁であるとしながらも,同時に
大きな共感と支持をもってこの派の理論家たちが提起した問題設定,とりわけ権力奪取に
54)
ヨ心を示した」と述べた・ この解釈にはもはや硬直した他党派批判の姿勢はない。そればかり
か,かつてのバトゥーリンについても,「(バトゥーリンが一早坂一)批判に熱中する余り,ロシ
アの社会民主主義の先駆者に関する重要問題をとり去ってしまった」と強く批判し,続けて「周
知の通り,方法論,歴史的背景からして,この問題はレーニンの『何をなすべきか』のなかで解決
済みである」と述べている。55)そして1870年代の革命家たちがロシアの後進性のゆえに
マルクスの学説をそのまま受け入れることがなかったのは当然で,第一インター・ロシァ
支部をつくったひとたちのあいだでさえナロード浜キ的見解から離れていたわけではなく,
トカチョーフもそうした思想環境のなかにいたのだと説明した。『警鐘』で展開された国
家権力奪取の思想や革命独裁論も1870年代のロシア生活の革命的改造の必要性から生み
だされ,革命を促進する原動力となったものであり,アナーキズム的傾向や自由主義的傾
向の克服に少なからざる貢献をなしたこそむしろ特筆されなければならないとしている♂6)
このセドーフの論文はあくまでも概観にすぎないが,コズィミン以後絶えてなかったロシア・
ジャコバン主義研究の脱イデオロギー化がソ連邦でも着実に進んでいることを示したものとして注
目されてよい。
57)
アうした環境の変化のなかで1975年にトカチョーフ選集が出された。プスタルナーコフとシ
ヤフマートフの連名で出されたその序文では,トカチョーフをボリシェヴズムの先駆者であったか
否かにはあえて言及せず,58)考察の対象をとりあえず社会学分析に限定している。彼らによれば,
トカチョーフは1860年代のチェルヌイシェフスキーの後継者であり,その経済的唯物論にはマル
クス主義を受け入れる場合でも,歴史過程におけるリーチノスチの役割を重視する主観主義的姿勢
が強くみられ,59)その意味でトカチョーフは独創的な主体性論者であった。60)ただ同じナロードニ
キであるラヴロフやミハイロフキーと較べ,トカチョーフは理論社会学の面ではるかに客観主義に
近く,経済的唯物論への接近が容易だったのである。6Dとはいえ,トカチョーフのブランキズムは
経済的唯物論を基礎としながら,あくまでも主観主義的立場を固守したために結局マルクス主義へ
は移行しなかった,というのが彼らの結論であった。
日本のナロードニキ研究は,和田春樹氏のrマルクス・エンゲルスと革命ロシア』(1975年)に
みられるように,かつてのスターリン時代の教条的なロシア革命史解釈の批判を大きな課題とし,
ナロードニキ主義の復権とりわけ「人民の意志」党の復権を通してロシア革命史の再評価を試みる
ものであり,この方向が今日主流となっているといえよう。「人民の意志」党の政治闘争の展開との関連で,結
局トカチョーフの革命理論が「人民の意志」党へ継承されていったのは間違いない,と考える和田
氏は,「人民の意志」党創立50周年に当たる1929年からマルクス死後50年に当たる1933年にか
けて行われた論争の過程で「人民の意志」党をロシアの気バブーフ主義”とみてボリシェヴィズム
の先駆と置いたチェオドローヴィチのr苦役と流刊」誌の長大な論文に示唆されたところが大きい
と述べている。62)続いてやってくるスターリン体制が,一切の異端の否定の上に,ナロードニキ主
義の徹底的な否定の上に成立している点を批判的に考察しつつ,事実は全く逆に「1848年,マルク
ス主義の登場とほぼ時を同じくして,ゲルツェンの中に結晶したナロードニキ主義は,マルクス主義
早 坂:ロシア・ジャコバン主義をめぐる研究史概観 41
とともに立ち,たがいに影響しあい,変貌しつつ,存在しつづけたロシア革命の根元的思想である」
と述べ,さらにロシア・ナロードニキ主義の後継者がいまも第三世界に生まれている13を指摘し
ているが,こういう視角は,著者も述べているように,ヴァリツキの主張に負うところが
大きい。
トカチョーフそのものを扱ったものではないが,石川郁男氏のrゲルッェンとチェルヌィシェフ
スキー』(1988年)のなかでも若干言及されている。1850年代末から60年代初にかけてのロシ
ア社会思想史上の世代間論争を扱ったこの研究のなかで石川氏もまた,欧米やコズィミン以来の
ソ連邦の研究蓄積を踏まえ,啓蒙主義的で科学的合理主義的な立場に立つチェルヌィシェフキーの
社会主義論がやがてザイチネフスキーの青年ロシアやトカチョーフの革命理論へ受け継がれてい
ったとしている。たとえば著者は,1877年にr警鐘』の印刷所においてr共同体と国家』
と題して出版されたチェルヌィシェフスキーの二論文,「共同体的所有に対する哲学的偏見の批判
と「経済活動と立法」の二論文に触れ,第一の論文は共同体的土地所有の現在の初期の形態から最
高の形態への直接的移行の可能性と必然性を示しているとし,また第二論文はこの移行の実現を助
けなければならない実際的手段,すなわち国家の干渉を定めたとして,まさにこの点こそがトカチ
ヨ榊フによるラヴロフやバクーニンに対する批判の論拠となっていると主張した。そして革命的少数
者による国家権力の掌握とそれに続く社会主義社会の樹立の理論を,トカチョーフがチェルヌイシ
エフスキーの理論から一面的に発展させたとみる著者は,トカチョーフの結論の引き出し方がたと
え我田引水的な解釈であるとしても,それもまたチェルヌイシェフスキーの理論のなかに本来潜ん
でいたのではなかったのかと推論するのである。64)下里俊行氏の論文「1860年代におけるトカチ
ヨーフの社会統計研究 一犯罪・貧困・生産諸カー 」 (1988年)は,1860年代にすでにトカ
チョーフの思想的骨格が形成されていたことを論証する,着実な社会学研究をめざしている。65)
以上みてきたように,現在ではロシア・ジャコバン主義の研究はもはやイデオロギー解釈で裁断
されることはなく,着実な実証研究の段階に入っていることがわかる。しかしなお多くの場合,ロ
シア革命思想史の枠内で論究されるにとどまり,僅かにヴェントゥーリが指摘しているように,国際
社会主義運動と関連づけて検討する態度は希薄であるように思われる。そうした意味でのロシア
・ジャコバン主義の起源をめぐる最初の論稿は,実は1926年に早くも出されていた。r苦役と流
刑』誌に発表された元メンシェヴィク,ポリス・ニコラエフキーの論文「最後のジャコバン,70
年代人,ガスパル・ミハイル・トゥールスキー」66)がそれである。しかし,なぜかこれまでこの論
文はあまり評価されてこなかった。その理由は,おそらくロシア・ジャコバン主義がトカチョーフ
の革命理論を中心に考察されてきたためであり,その背後にいたトゥールスキ(ポーランド語風に
表記する)の役割とその活動経歴が殆ど考慮されてこなかったためと思われる。次節では,国家論
の起源に迫る,換言すればロシア・ジャコバン主義をロシアの土着性に還元するのではなく西欧起
源に迫るものとして,国際的ブランキズムの広がりを論じたニコラエフスキーの論文の内容を紹介
してみよう。
⑥ トゥールスキ略伝
これまで述べてきたロシア・ジャコバン主義の研究は概ねボリシェヴィキー革命の性格づけにか
かわるものであり,今日に至るまで初期マルクス主義の形成と前衛党建設についての二つの観点か
42 茨城大学教養部紀要(第22号)
ら論議されてきた。しかしながら,同時期の国際社会主義運動の黎明期における国際的連帯の
なかでどのようにロシア・ジャコバン運動が展開されてきたかについては,総合的な研究はこれま
でなされてこなかった。ソ連邦では,ブランキズムー般について,それがプロレタリアートの解放
とは無縁な少数のエリートによる急進的小ブルジョワジーの一揆主義であると規定され,研究対象か
ら外されてきた。さらにニコラエフスキーの記述に含まれているポーランドの民族解放運動との関
連についても,多くの場合ロシア革命運動史の周辺に位置づけられ,正面から取り組まれることは
なかった。こうしたなかで,唯一ニコラエフスキーのトゥールスキ略伝がそれを解明する手掛かり
を与えているのである。
カスペル・ミハウ・トゥールスキは1847年,ヘルソン県チラスポル郡(現在はソ連邦モルダヴ
イア共和国)の富裕なポーランド地主の家に生まれた。初等・中等教育をオデッサのギム
ナジウムで受け,その後ハリコフ大学へ進学した。1867−68年にかけて何らかの政治事
件に連座し,アルハンゲリスク県に追放されるが,翌1869年3月に国外へ亡命し,以後56年
間亡命生活を送ることになる。67)オデッサからイスタンブルを経てチューリヒへやってきたトゥー
ルスキは,ここでロシア人亡命者グループと接触をもち,定かではないが,おそらくバクーニンの
息のかかったr人民の事業』誌にかかわるようになったらしい。1869年末か1870年のはじめころ
パリへ向かい,そこで第二帝制の崩壊を目撃する。
パリではそのころブランキ派の活躍がめざましく,アンリ・ロシュフォールが自分の主催するrマ
ルセィエーズ』誌にブランキ派の人たちを結集しており,トゥールスキもこれに参加していた
らしい。パリでは多くの亡命ポーランド人が早くからブランキの秘密結社「季節社」に関係してお
り,トゥールスキがブランキ派と接触を深あたことは容易に想像できる。ブランキがr祖国は危機
に瀕す!』誌を発表すると,トゥールスキはただちに,国防政府の支援を旗印にプロイセン軍と闘
うガリバルディのボージュ軍団に志願し,このなかのポーランド人部隊に参加した。11年後,彼
はジュネーヴでのガリバルディ追悼集会(1882年7月2日)でボージュ軍団の意義についてこう
演説している。
「それは,ゲルマン民族に対してフランス人を擁護するためではない。神の恩寵によりヨーロッ
パの生きた反動,ドイッ人解放の最大の障害として侵略的な軍国主義を体現するプロセイン
王と対決する共和制フランスを防衛するためのものであった。」68)
ここには明らかにブランキのr祖国は危機に瀕す!』への傾向が窮える。ヴェルサイユとベルリン
の間で休戦協定が締結された直後,突如勃発したパリ・コミューンにトゥールスキは呼応し,このと
き結成されるポーランド人部隊の一員となった。「血の一週間」のときも彼は無事に生き残り,チ
ユー
潟qに脱出することができた。1871年から1873年にかけてチューリヒはロシア人やポーラ
ンド人亡命者の中心地となっていた。ここではバクーニンが第一インター・スラヴ支部の結成に尽
力しており,ポーランド社会民主同盟がその影響のもとにつくられていた。トゥールスキは早速こ
69)
フ組織に加わるが,まもなくバクーニンの路線に反対する動きをとるようになる。
同じころスイスにはネチャーエフが潜んでいた。バクーニンとの絆を断ち,独自の運動体をつく
ろうとするネチャーエフには支持者は少なかった。そこで彼はバクーニンの腹心,ザンフィル・ラ
早 坂:ロシア・ジャコバン主義をめぐる研究史概観 43
リーの力を借りてトゥールスキ等ポーランド人グループと接触を図り,まもなく協力関係をつく
るのに成功した。しかしトゥールスキのアジトにかくまわれたことが災いし,ここに頻繁に出入り
していた帝制ロシアのスパイ,アドルフ・ステムプコフスキによって身元をあばかれ,官憲に引き
渡されるという皮肉な事態が起こるのである。70)このネチャーエフとトゥールスキの結びつきを,
のちの『警鐘』派との関連でニコラエフスキーはこう述べている。
「このトゥールスキとネチャーエフとの結びつきは単に二人の亡命者のつき合いだけではなかっ
た。それははっきりと政治的結合のしるしをもっている。のちの「警鐘』派は自らをネチャーエフ
の事業を継承するものとみなし,また細心の注意を払ってネチャーエフの組織的伝統を保持しよう
とし,彼の組織に対する姿勢を受入れようとした。この面でネチーエフのトゥールスキやトカチョ
一フに対する影響は疑うべくもないのである。」7D
しかしニコラエフスキーはこれにとどまらず,ネチャーエフ自身が当時すでにジャコバン主義に
強く傾斜していたことを証言している。ラリーの証言を借りて,ネチャーエフの鞄のなかにはルソ
一のr告白」やロベスピエールのr演説集』などがあり,そして1860−70年代のロシアの革命
家たちのあいだでルソーやロベスピエールを読む者は少なく,1793年のジャコバン派に対するフ
ランスのブランキ派の心酔がネチャーエフを介してr警鐘』派へ伝えられ,そのため同誌にはロベ
スピエールの演説やサン・ジュストの著作の多くが翻訳され,紹介されたのだと述べている。72)
ともかくトゥールスキがネチャーエフと強い結びつきをもったことこそ重要である。ネチャーエフ
が逮補されたあと,トゥールスキは彼の奪還闘争を試み,まもなく「スラヴ・サークル」というジ
ヤコバン組織をつくり,トカチョーフを味方に引き入れて「警鐘』派の陣容を整えていく。トゥー
ルスキは死去する直前,革命運動史家ブールツェフへの書簡のなかでこう述べている。
「あなたがたが『警鐘』の綱領と呼んでいるこの結社の綱領は,トカチョーフがここに来る以前
につくられたものである。彼は到着直後ラブロフの周辺にいたが,陰謀的に彼をわが方に引き入れ
たのである。」73)
この証言は重要である。ラヴロフもまた1873年の3月ころジャコバン・グループによるr前進』
編集部やバクーニン派に対するカリカチュアが出されていたことを記している。74)このトゥーノヒス
キ等の活動はロンドン亡命中のブランキ派の動きと運動するものであった。前年の1972年の9月,
第一インター・ハーグ大会においてマルクス派とバクーニン派の対立は最終段階を迎え,分裂へ
と向った。このときブランキ派は政治革命や国家権力の掌握を掲げる立場から当初は総評議会に加
わりマルクス派を支持していたものの,総評議会のニューヨーク移転決議には断固反対し,総評議会
からの脱退を宣言する。マルクス派との決別に当たってブランキ派の指導者,エドゥアール・ヴァイヤ
ンが起草したのが, rインターナショナルと革命』であった。翌年トゥールスキ等はこれをロシア語
に訳し自分たちの見解を示した序文をつけて発表し,ついでネチャーエフを擁護するフランス語の
パンフレットを公開した(1874年春)。75)これら二つの文書をもって公然とラヴロフとバクー二
ンに対する攻撃を開始したのである。こうしてトカチョーフがラヴロフやエンゲルスとの公開論争
を開始する以前に,すでにロシア・ジャコバン主義の運動体が形成されていたのである。ニコラエフ
44 茨城大学教養部紀要(第22号)
スキーは,つぎのように述べている。
「最初のロシア・ポーランドのジャコバン・サークルは,ネチャーエフが自由の身であった最後
の数か月間に着手した組織の核以外の何物でもない。...1870年代のr警鐘』派が思想受容の
みならず組織の受容においてもネチャーエフやネチャーエフ主義と結合したものだったということ
である。.,.もちろんこの事業の面で指導的役割を演じたのはトカチョーフである。理論的準
備という面で文才のある彼はトゥールスキ等ほかのジャコバンたちよりも格段に優れていた。彼
はあらゆる綱領面の基礎的諸問題に関してr警鐘』派の立場を確定した。そのためフランスのブラ
ンキズムの諸要素と純粋にロシア・ナロードニキ主義とを結びつけ,ユートピア的であるが純粋に
ヨーロッパ的な権力奪取というブランキ派の思想を編み合わせ,またすくなくともユートピア的な
ロシアの農村共同体の固有性に対する独自のロシア的信仰に託そうとしたのである。このように二
重に強固な輪に身を置いてトカチョーフはロシア・ジャコバン主義のイデオロギーを確立すること
76)
ェできた。こうしてこのイデオロギーはロシア革命運動史に入っていったのである。」
トゥールスキはむしろ組織活動の面で能力を発揮し, 「政治犯支援のための相互扶助基金」や「人
民解放団」の創設にかかわった。前者は公然組織として資金調達の役割を果たし,後者は中央
集権化された陰謀組織としてロシア内部のザイチネフキーやネチャーエフの流れを汲む諸グループ
との緊密な連絡網つくり上げようとした。この「人民解放団」は,1874年にブランキ派が結成し
た「革命的コミューン」と緊密に提携しており,トゥールスキ自身もその構成員であったという。
ブランキ派の有力なコミュナールであったヴァイヤン,クールネ,グランジェもまたr警鐘』誌の
共同編集者に名前を連ねることになった。その後1880年にブランキが長い獄中生活から解放され
て政治活動に復帰すると,ブランキ派は政治誌『神もなければ主人もいない』誌を発行しはじめ,
トゥールスキとトカチョーフもこれに参加することになる。
『警鐘』派は革命的少数者による変革理論と並んで,まもなく直接行動,すなわち政治体制を打
倒する戦術として政治テロとともに広汎な革命的宣伝を主張しはじある。この必要をとくに強調し
たのはトゥールスキであった。トカチョーフは強固な革命的少数者による前衛組織の方を重視して
この戦術には消極的であり,ふたりのあいだに対立が起きたという。トゥールスキが1877年から
翌年にかけてr警鐘』に「革命的プロパガンダ」と題する一連の論文を発表したことがそのきっか
けであったという。トカチョーフは以後r警鐘』の主要な活動から身を引きトゥールスキが事実上
77)
柱x鐘』派全体を統括していくことになる。
しかしながら,続く1880年代はロシアの革命運動にとってもフランスのブランキ派にとって
も活動しにくい困難な時代となった。フランスでは1881年にパリ・コミューン戦士に対する大赦
が行われ,政治活動が合法化されるとともに従来の陰謀工作が意味を失ったからである。古い陰謀
路線を守ろうとするインテリ・グループは組織を去り,大勢はヴァイヤンの路線にしたがって日常的労
働運動へ転換し,ほかの社会主義諸勢力と提携する方向へ進んでいく。ロシアでも「人民の意志」
党によるアレクサンドルニ世暗殺を頂点としてテロリズムの時代は終わりを告げようとする。トゥ
一ルスキは1888年から翌年にかけてジュネーブで「人民の意志」党の残党とともにr自由』
誌を創刊するが,新しい知見を示すには至らず,またマルクス主義政党の設立にもかかわることな
早 坂:ロシア・ジャコバン主義をめぐる研究史概観 45
78)
ュ,まもなくロシアの革命運動から身を引くのである。
1890年代に入ってまもなくトゥールスキはポーランド社会党に参加するが,もはや目立つ活動
をすることはなかった。ポーランドの民族解放はr警鐘』派時代からのひとっの大きな課題
であった。トゥールスキの晩年はまさにポーランドの独立運動とともにあった。1920年のソ連
・ポーランド戦争に臨んでは,彼は病をおして新生ポーランド軍に志願しようとさえした。ニース
でポーランド問題を擁護する小雑誌を発行するが,このなかにはもはや社会主義の香りは微塵も
なく, 「祖国は危機に瀕す!」を掲げたかつての古いブランキズムへの追憶とガリバルディのボー
ジュ軍団におけるポーランド人部隊の賛美のみが書かれているだけであったという。ニースで長い
闘病生活ののち1924年6月26日,死去した。79)
以上がニコラエフスキーの伝えるトゥールスキの略伝である。ロシア・ジャコバン主義の運動は
極端な秘密主義を採ったため,確実な史料は多く残されていない。また1870年代のロシアの革命
運動においてはネチーエフ主義を引き継ぐものには激しい非難が浴びせられる雰囲気があり,客
観的にみてもロシア・ジャコバン主義の運動は孤立したものだったのかもしれない。けれども, 『警
鐘』の綱領が生まれた背景を考えれば,フランスのブランキ派の強い影響力や,さらにポーラ
ンドの民族連動との関連を無視できず,この時期の国際的関連のなかでこの運動が形成さ
れていった側面を見逃すわけにはいかない。ニコラエフスキーの論文はそのことを示唆している
のである。
(7)問題の限定と研究の方向
さて前節で紹介したニコラエフスキーの紹介と,これまでの研究状況を踏まえるならば,
今後のトカチョーフ研究は,1860年代のロシアでの彼の評論活動を中心に社会学的に分析する場
合と亡命後の1870年代前半から革命家として実践活動に入ってからの時期の二つの側面から検討しなく
てはなるまい。トカチョーフが革命的実践へ移行してからの時期,すなわち後者に限定すると,も
ちうんニコラエフスキーの記述にもあるように, r警鐘』の綱領がかならずしもトカチョーフ単独
によるものではない可能性が高いゆえに,トカチョーフがどのような経緯でトゥールスキを中心と
するジャコバン・グループに参加していったのかが何よりも具体的に解明されなければならない。
トカチョーフは1873年の暮れに亡命したあと,一時ラヴロフの主催するr前進』誌に参加する
が,見解の不一致からまもなくrロシアにおける革命的諸任務』(1874年4月)を発表してラヴ
ロブと絶縁し,っいでこの両者の争いに中傷を加えたエンゲルスに対してrエンゲルス氏宛の公開
書簡』(1874年12月)を書いて自分の政治的立場を明らかにした。けれども,その後r警鐘』の
綱領の発表(1875年12月)に至る約一年間のトカチョーフの消息はまったく不明である。この空
白の一年間のもつ意味はとくに重要と思われる。というのも,前二著に認められる著しいバクーニン主
義の色彩とr警鐘』の綱領にみられるブランキズム的傾向との著しい落差が何に由来するものなのかが
不明だからである。これまで多くの研究者はこれを無視し,ジャコバン主義者としてのトカチョ
一フの思想的一貫性と独創性のみを強調してきた。
コズィミンはトゥールスキ等のスラヴ・サークルの介在の事実を認めながらも,この時期をトカ
80)
`ョーフの思想的発展の過程と捉えており,研究者の多くもこの立場を踏襲してきた。セドーフ
はコズィミンにしたがいながらも,綱領がいまもって誰によって起草されたかは確認されていない
46 茨城大学教養部紀要(第22号)
と述べている。81)ヴェントゥーリはこの時期にトカチョーフにどのような変化があったかについて
は情報が少なく空白の時期であった82乏した上で,1876年にかけてトカチョーフがr警鐘』誌上に
精力的に発表した一連の論文が,主に当時のバクーニン派の論客であったド・パープ批判に向
けられていたとし, r警鐘』派におけるトカチョーフの活動を国際的ブランキストの運動へ転換す
る過程と捉え,83)さらに注記でトゥールスキの数少ない著作であるr政治における理想主義と唯物
論』 (1876年)やのちにトゥールスキが「人民の意志」党の残党とともにジュネーヴで発行した
84)
虫ゥ由』(1888−89年)の内容にも言及するなど,トゥールスキの存在にとくに注目している。
バーディはパリ・コミューンを闘ったブランキ派との接触が極めて重要であることは認めたが,
不明な点の多いr警鐘』の綱領の成立事情にはあまりこだわらず,「トカチョーフはヨーロッパ的
ブランキストになる以前にすでにロシア・ジャコバンであった」と述べたヴェントゥーリの見解を
そのまま受け入れている。85)そしてトカチョーフが亡命後rエンゲルス氏宛の公開書簡』において
人民一農民を本能的共産主義者と称賛したとしても,農村共同体というのは保守的性格をもっている
ゆえに直接未来の新しい社会の核にはなりえないとしてアナーキストの願望を拒否した点を評価し
て,1875年以前にすでにトカチョーフは平等主義的理想を掲げる反人民的なジャコバン主義者に
なっていた,と考えた。86)このようにトカチョーフを一方的に高く評価するバーディの見解は,レ
87)
t・ディチの回想録にみえるネガティヴなトゥールスキの人物評価に影響された結果とも考えられる。
和田氏は前述の論考のなかでトカチョーフとエンゲルスの論争にも言及し,マルクスとエンゲルス
がチェルヌィシェフスキーの主張を受け入れることによって共同体を基礎にロシアが飛躍する可能
性を認めるに至ったとする一方で,バクーニンやネチャーエフとの闘争の経過とトカチョーフ自身
の彼らを弁護する主張にみられる誇張とに影響されたマルクスとエンゲルスが,飛躍の条件として
西欧でのプロレタリア革命の勝利と勝利した革命による物質的援助しかないと反論することによっ
て,トカチョーフと対立したのだとしている。88)このように和田氏もまた,トカチョーフのジャコ
バン主義者としての一貫性をみているのである。
プレハーノブは「人民の意志」党をトカチョーフ主義として批判する際,奇妙なことにトゥール
スキがr警鐘』に発表した一連の論文「革命的プロパガンダ」(1877−78年)を故意に批判材料
に用いている。89)プレハーノフは個人的にトゥールスキを知っていたはずである。それにもかかわらず,
このように混同したのはなぜであろうか。トカチョーフが健筆を振るったのは1876年から翌年ま
でである。r警鐘』を一瞥すれば明らかなように,紙面の内容は1878年を境に大きく変化し, go)
とりわけフランス人ブランキストやポーランド人亡命者の寄稿が目につく。トカチョーフがロシア
から亡命する以前にすでに自己のブランキズム理論を確立していたか否かは重要な検討課題である
が,以上みてきたようにいまなお定説はないのである。解明の鍵を握っているのは,まさにトゥー
ルスキの『警鐘』派における諸活動ではないのだろうか。
空白の一年間をめぐって亡命地での様々に交錯する政治環境を分析する際,スィーンが紹介した
二つの史料はとくに重要である。91)しかしながら,ニコラエフスキーが所在を突きとめることので
きなかった,1873年から1874年初にかけてトゥールスキが執筆したとみられるこの二つのパン
フレットが物語る国際的ブランキズムの運動には,スィーミン自身まったく関心を示していない。
この二つの史料を座標軸の中心に据えて,パリ・コミューンや第一インター史まで射程に収めた総
92)
∮I視野で検討するとなれば,コズィミンのr第一インターナショナル・ロシア支部』(1957年),
早 坂:ロシア・ジャコバン主義をめぐる研究史概観 47
マイヤーのr知識と革命』 (1955年)13鳥山成人氏の「ラブリズムの形成」(1960年),94)
95)
c泣iールのr第一インターナショナルの崩壊,1871年のロンドン会議』(ユ963年), コン
96)
tィノの論文「バクーニンとネチャーエフ」(1966年)などはとくに重要であり,これらの研
究を十分批判的に検討し,また関連する史料が多く含まれているレーニング編集のrバクーニン・
9の
Aルシーヴ』 を丹念に分析して史実を明らかにしていかなければなるまい。
ポーランド史学でもナロードニキ研究はポーランドの独立運動との関連でかなりの蓄積があるが,
ここでは19世紀以来のッァリーズムと対決する根強い民族解放史観に基づいて描く傾向が強い。古く
98)
ヘポーランド社会党の活動家であったクルチツキのr革命ロシア』(ユ911年) があり,第二次
大戦後ではバズィロフやヴァヴルィコヴァの諸研究99)にその傾向が窮われる。そうしたなかでヴァ
ヴルィコヴァの史料紹介を兼ねた論文「ポーランド人とネチャーエフ事件」 (1962年)100)は,ト
ウールスキがどういう経緯でネチャーエフと接触をもち,のちにロシア・ジャコバン主義の運動を
準備していったかを当時のポーランド人亡命者の社会状況を背景に説明している点で貴重な文献で
ある。このほか一月蜂起(1863−64年)後のヨーロッパ社会主義運動との連関のなかにポーラン
ドの初期社会主義運動を位置づける作業を進めたロマニュコヴァによる史料紹介と解読loDやパリ.コミュ_
ンに参加したポーランド人を扱ったヴィチャンスカの麟02}は,当時の亡命ポーランド人をめぐる政治
環境を解明したものとして価値の高いものである。これらと同一線上でなされたボレイシャの一連
103)
フ研究 は,ロシア・ジャコバン主義の形成のみならず,幅広ぐロシア革命運動史にかかわる重要
な史料を駆使している。とりわけパリ・コミューン以来トゥールスキと密接な関係をもっていたコ
ミューンの軍事指導者にして,のちに第一インター総評議会の重要なメンバーともなったヴァレリ
・ヴルブヒフスキの評伝は,黎明期のポーランド社会主義の形成を考える上でも重要な研究である。
また通史としてチョウコシ夫妻の共著によるrポーランド社会主義史概観』(1972年)104)は,ユ9
世紀ロシア史も射程に収め,ロシア革命運動との関連を追いながらポーラシド社会主義を捉えたも
のとして注目されるべきである。
ソ連邦では,革命情勢研究の一貫として一月蜂起百周年を記念してロシアの革命運動とポーラン
ドの民族解放運動との連帯を軸に,ポーランドの研究者との共同研究が行われ,とくに科学アカデ
ミーのスラヴ・バルカン研究所が中心となってこの課題にとり組んできた♂05)なかでもスヌィトコ
のrロシアの革命的ナロードニキとポーランドの社会運動(1865−1881)』(1969年)1ま1°6)その
代表的成果である。スヌィトコの研究は民族主義的色彩の強いポーランド史学との距離を埋めるこ
とを主眼とし,そのため一月蜂起以降のいわゆる「有機的労働」をポーランド王国(ロシア領)社
会のブルジョワ化の過程と捉え,労働階級の成熟とともに結成されるマルクス主義的なプロレタリ
アート党(1881−83年)の意義にすべてを還元させており,この点では従来からのマルクス主義
史学の大枠を出るものとはなっていない。この方向はディヤコフ等のその後の研究1°7}こ受け継がれ
ていくが,東欧の社会主義運動史との関係でロシア・ジャコバン主義を扱う研究は今日なお出されて
いないのである。
ニコラエフスキーの所論に立ち帰って,ロシア・ジャコバン主義の起源を黎明期の西欧社会主義
運動のなかに位置づけるとすれば,どうしてもパリ・コミューンの総括をめぐって第一インター
が崩壊していく過程をマルクス対バクーニンの対立に象徴される「権威主義」対「反権威主義」の
対抗の枠組みのなかで改めて捉え直し,錯綜する個々の動きを検証する作業が必要となる。日本で
48 茨城大学教養部紀要(第22号)
こうした視角を打ち出したのは柴田三千雄氏である。1⑬しかしここではマルクス対バクーニンの対
立に対象を絞り込むために, 「権威主義」の大きな実践的運動のひとつであったブランキ派の動向
には注意が払われていない。柴田氏が指摘した「反権威主義」の系譜を詳述した福井憲彦氏の研究109)
は注目に値いするが,しかしここでもブランキ派の活動については僅かに触れるのみで,もちろ
ん柴田氏にしても福井氏にしても東欧を視野に収めた検討はしていない。フランスのブランキズム
との関係でいえば当事者であったダ・コスタのrブランキストたち』 (1912年)110)や,若き共
産主義者としてロシア革命に強い共感を示したドマンジェによるバブーフ,ブオナローティ,ブランキ,
および『警鐘』派と密接な関係をもったヴァイヤンについての一連のモノグラフィ111)はとくに重要
である。なかでもブランキ伝はロシァ語にも翻訳され,これに注目したゴーレフによって,トカチョー
フやトゥールスキがブランキ派の雑誌r神もなければ主人もいない』 (1880−1881年)にかか
わっていた事実が紹介されている。n2)
以上を総合的に検討し対象を絞り込むならば,ロシア・ジャコバン主義の諸活動のなかでとくに
この運動の影の立て役者であったトゥールスキを座標軸の中心に据えて,従来の研究で欠落してい
た二つの視角,すなわち第一にパリ・コミューン以後のブランキ派による社会主義運動,第二に一
月蜂起以後のポーランド人亡命者の諸活動,この二つを軸にロシア・ジャコバン主義を再考する
ことが今後求められるべきであろう。そうした研究の蓄積の上に,マルクスのrフランスの内乱』,
レーニンのr国家と革命』やr何をなすべきか』で提起され,20世紀にもたらされた国家論や革命
戦術の起源を明らかにし,かつその問題性もまた指摘できるのではないだろうか。そればかりで
なく,社会主義論の総合的見直しを含めて東欧固有の問題としての社会主義と民族の関係について
も,新しい歴史像が浮かび上がるのではないだろうか。
〈註〉
1)F.Venturi, Roots of Revolution, a History of the Populists and Socialist Movements in
Nineもeenth Century Russia, New York(ll Populismo Russo.1952).pp.xxxiトxxxiii.
2)F.B. nJlexaHoB, Ha田H Pa3HorJlacHH, CoqHHeHHH. T. II,1>1.1923 cTp.153−165.
3)ベルジヤーエフ, 「ロシア共産主義の歴史と意味」『ベルジヤーエフ著作集」(7),田中・新谷共訳.1960年,
98−101頁。
4)B.n. Ko3bMHH, H. H. TKaqeB H peBo照)μHoHHoe丑BH>Ke卜玉He l 86(レx ro皿oB, N.1922 cTp.72−73.
5)B.n. Ko3bMHH, H. H. TKaqeB, OqepKH H3 HcToP回H pa照oHa川3Ma, K Bonpocy o60THo田eHHH「1. H.
TKaqeBa K MapKcH3My,<JIHTepaTypoHoe Hac諏e五cTBo・>7−8(1933), cTp.120−122.
6)B.rL K。3bM凪H3 HcT。P、, peB・訓・・HH・輪lc・・BP・ccH・,砥1961・Tp.391β92.
7)ibid., cTp.401−402.
8)V.Varlamov, Bakunin and Russian Jacobins and Blanquists, C. Black(ed.), Rewriting
Russian History, New York 1955・これはロシア革命前後からスターリン時代に至るボリシェヴィキー
党の性格をめぐるいくつかの論争を整理し,ロシア・ジャコバン主義をそのなかに位置づけた史学史論文
早坂:ロシァ・ジャコバン主義をめぐる研究史概観 49
である。 「
X) B.FopeB, OrK)cT BJIaHKH,ハへ. 1921.
10)B.FopeB,06肱Ho』H/MH MapKcH3Ma瓢ehHoe po五cTBo c 6JlaHKH3MoMP(oTBeT Ha 3aMeTKy T. CHHeHpa),
(〈HeqaTbレl PeBo調IouH月・》J\危5 (1925), cTp. l l 6.
11)ibid., CTP.119.
12)CHHeHpa, EcTb川BMapKcH3Me瓠eMeHTbl 6」IaHKH3MaP,(〈HeqaTb H PeBoJIK)uHH》>JM…5(1925), cTp.114,
13)ibid., cTp.115.
ユ4)CHHeHpa,3aK誕K)qHTeJlbHoe c諏oBo K双HcKyccHH o69JleMeHTax 6JlaHKH3Ma B MapKcH3Me,<<neqaTb H PeBo一
調卜o[」HH・>Jy…7 (1923), cTp. 122.
15)H。C..M職KeBHH, K Bonpocy o KopH只x 6c岨b【11eBH3Ma,〈・KaTopra M Ccb匠JIKa・>3(16)(1925), cTp.93.
16)ibid., CTP.95.
17) ibid., CTP.97−100。
18)ibid., CTP.101。
19)Varlamov, op. cit., pp.318−319.
20) ibid., p.318.
21)H.BaTyp湘, E】救e o HBeTax pyccKoro HKo6HHcTBa,<<Hpo諏eTapcKa月PeBo涯foHH月・>」嘔8(43)(1925), cTp.100. ,
22) ibid., cTp.102.
23) ibid., cTp.103.
24) ibid., CTP.106.
25) ibid., CTP.ユ09.
マ
Q6)N.H. noKpoBcK崩, Jle}皿H B HcTop四pyccKo益peBo』田uHH,(覗o』o双a兄rBap朋H・)撞2・3(1924).〔未見〕。シネ
イラの下記の文献からの引用による。CHHeHpa, E田e o MapKcH3Me睦6』aHKH3向e, npeA田ecTBeHHHKH H
HpeeMH列K匿,<《neqaTb H PeBo爪)uH月・>」糧2(1925), cTp.110.
27)CHHeHpa, E[ue o MapKc睦3Me, oP. cit。
28)B・FopeB, K Bonpocy o 6』aHKH3Me Boo6山e H pyccKoM 6』aHKH3Me B qacTHocTH,〈BoHHcTByK)田賢H N[aTe一
」1Ha』HcT・〉漣4 (1925), cTp.101。117.
29)目・B・CTa甜H, O HeKoTopbIx Bonpocax HcTopHH 60』b田eBH3Ma, nHcbMo B pe江aKu目K)}KypHaJla“npo配TapcKaH
PeBo舐川朋”,.<<KaTopra H CcbMKa>>11・12(1931), cTp.7・18.
30)OT pe八a細聞}KypHa」la‘‘KaTopra H Ccb1」IKa・〉, ibid., cTp.23・28.
3Dこの経緯については,和田春樹「マルクス・エンゲルスと革命ロシァ、(勤草書房,1975年)の第七章「ロシ
ア革命から農業集団化へ」409−459頁が詳しい。この和田氏の叙述は以下の論文に拠っている。
Jonathan Frankel, P纂rty Genealogy and the Soviet Historians(1920−i938), SZω‘c
Reひ‘εω, view, vol.xxv, N血4(Dec.1966),pp.563−603.
32)B・H.Ko3bMHH, HapoムH四ecTBo Ha 6yp>Kya3Ho・AeMoKpaT四ecKoM∋Tane ocBo60πHTeJlbHoro双βH}KeH朋
BPoccHH, B:レ13 HcTop四peB㎝K)UHoHHo荊Mbic』H B Pocc湘, oP. cit., cTP.638・727.
33)Varlamov, op. cit., p.325
34)M.Karpovich, A Forerunner of Lenin:P. N. Tkachev,餓e Rω‘εωq〆Po砒‘cs(July,
1944), pp.336−350. ’
50 茨城大学教養部紀要(第22号)
35)ibid., p.346.
36) ibid., p.347.
37)ibid.層
38)ibid.
39) ibid., p.349.
40) ibid., p.350.
41)ibid.
42)A.Weeks, The First Bolshevik−a Political Biography of Peter Tkachev, New York I968.
. 9 ・ ,
PP・Vl1Hv・
43) ibid., pp.3−7.
44)R.H. W. Theen, Lenin−Genesis and Development of a Revolutionary, New York 1974.
45)R.H. W. Theen, Seizure of Political Power as the Prologue to Social Revolution:The
Political Ideas of P. N. Tkachev in the Early 1870’s,(hη,αd‘απ 8Zαひ‘c 8加(∫‘θ8, 1 (4)
(Winter 1970), pp.385−392.
46)Venturi, oP. cit., P.390.
47) ibid., p.398.
48)A.Walicki, The Controversy over Capitalism. Oxford 1969.
邦訳,ヴァリッキ,Pロシア資本主義論争一一ナロードニキ社会思想史研究一』ミネルヴァ書房,1975年
(日南田静馬ほか訳),とくに第三章「ナロードニキ主義とマルクス主義」を参照せよ。
49)D.Hardy, Peter Tkachev, the Critic as Jacobin, Washington 1977, p.304, pp.312.313.
50)ibid., pp.42−50.
51)ibid., pp.161−172.
52)ibid., p.124.
53)B.A. TBap江oBcKaH, Co叩a諏HcTHqecKaH Mblc。唖b PoccHH Ha py6e涯{e 1870−1880−x roAo臼, IM.1969. cTp.
231−234.社会闘争から政治闘争への転換をプレハーノブ的傾向とレーニン的傾向とに区別して論述
する立場は,かつてのゴーレフの主張を思わせるものがある。
54) 瓢.F, Ce丑oB, HeKoTopble Hpo勧eMbl HcTopHH 6』aHKH3Ma B PoccHH,くBonpocbl HcTopHH・》」蓮10(1971),
CTP.40.
55)ibid., CTP.43.
56) ibid., CTP.54.
57)B.Φ.nycTapHaKoB H B.ムへ. IHaxMaToB(pe/L), HeTp HHKHTHq TKaqeB, CoqHHeH朋B丑Byx ToMax,、IM.1975.
58)ibid., T.1,cTp.40−41.
59)ibid., T.1,cTp.54−55, cTp.58−60.
60)ibid., T.1,CTP.62.
61)ibid., T.1,CTPβ7.
62)和田春樹,前掲,437頁,454頁。
63)同上,470−472頁。
64)石川郁男,%ラレツェンとチェルヌイシェフスキー一ロシア急進主義の世代論争一」未来祉1988年214−230頁。
早 坂:ロシア・ジャコバン主義をめぐる研究概観 51
65)下里俊行, 「1860年代におけるトカチョーフの社会統計研究 犯罪・貧困・生産諸力 」, r一橋研
究」(81)1988年,1−20頁。
66)B.HHKoJlaeBcKH軋HaMHTH Hoc、旺eムHero HKo6HHua ceMH丑ecHTH照a(Facnap IMHxaHJI TypcKH薩),〈・KaTopra H
CcbLIKa・>」\&11 (1926), cTp.211−227.
67) ibid., CTP.213.
68)ibid., CTP。215.
69)ibid.
70) ibid., cTp.216.
71) ibid., CTP.217.
72)ibid.
73) ibid., cTp.218−219.
74) ibid., cTp.219.
75)ibid.この一一二つの文献は以下の通り。
(1)HpeπHcJoB盟e,レIHTepHauHoHa護匿PeBoJI}o照H no rloBo型FaarcKoFo KoHrpecca,口K)pHx l 873.
(2)Qulques mots d’un groupe socialiste r6volutionnaire russe a propos de la brochure《Alliance
de la d6mocratie socialiste》,〔出版地は不明〕1874.(1×2)はともにスイーンの以下の論文に収録。
R.H. Theen, The Russian Blanquists and the Hague Congress, C㍑ηαd‘απ8Zαひ‘c 8加d‘εs,
1.no.2(summer 1969), pp.347−376.
なお(1)はレーニング編のバクーニン・アルシーヴ第二巻所収の仏訳から英訳されたものである。
cf. A. Lehning(6d.), Archives Bakounine, voL皿:Michel Bakounine et les conflits dans
1’Interbationale・1872.(Leiden 1965), PP.369−370.
76) ibid., CTP.221.
77) ibid。, cTp.222−223.
78)ibid., cTp.226.
79) ibid., cTp.227.
80)Ko3bMHH, H3 HcToP剛peBo護K〕UHoHHo前Mbic川BPocc聞, oP. cit.,cTp.364−366.
81) Ce丑oB, oP. cit.,cTp.47.
82)Venturi, op. cit., p。417.
83)ibid・・PP・422・423・たとえばAHapxHqecKoe rocy丑apcTBo,くda6aT・)Ni5,6,9(1876)をみよ。
84) ibid., pp.779−781.
85)Hardy, op. cit., p.277, Venturi, op. cit., p.403.
86) ibid., pp.272−273.
87)ibid, P・250,刀』・困, Pycc・a・peB・細・・HH…M・rp・u朋70−…双・B, HeTp・・p・、1920,,Tp.84.85.
88)和田春樹,前掲,51−70頁。
89)ibld…Tp・147, P…澗・HHa・np・・a・aH・・,・d・6aT・〉,漣1,2,3,4,5,6(1877),聯(1878),蕊1,2(1879).
をみよ。
90)OT p・八aK醐‘Ha6aT…,・・Ha6aT、,(1878).
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早 坂:ロシア・ジャコバン主義をめぐる研究概観 53
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54 茨城大学教養部紀要(第22号)
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