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第48号 - FPU兵庫

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第48号 - FPU兵庫
FPU北近畿(兵庫・京都)
F P U 北近畿
(兵庫・京都)
機 関 紙
第 48 号
月刊 平和統一 NEWS
F P U 北 近 畿
〒650-0022 兵庫県神戸市中央区元町通 7-1-2
ネオアージュ神戸元町 1001 号
TEL.078-360-0757 FAX.078-367-4323
HP:http://fpuhg.main.jp/
E-mail:[email protected]
HU
UH
HU
UH
第48号
発 行 FPU 北近畿
発行人 趙 希 秀
2012 年 8 月 1 日
趙希秀 FPU 北近畿/FPU 兵庫会長 逝去される
去る 6 月 10 日 FPU 兵庫結成 7 周年記念講演会に、ソウル
より理学博士をお招きした折の趙希秀会長のご様子は、一般健
康人と全く変わりのないご様子でした。しかし、実際は、入院
中の病院から外出許可を得て、FPU の発展と祖国の平和統一を
願うばかりの大会参加でした。その後、7 月4日に心臓の手術
をされましたが、経過が思わしくなく、手術後、意識を回復す
ることなく7月13日午前7時25分に聖和されました。パラ
ム(風)と共に趙希秀会長は新生のために、永遠の生命を天国
に向けて旅立たれました。
趙希秀会長の人柄は、神の恩恵を見出すことが出来る深い信
仰に基づく、良心と寛容の人でした。その心性を想い忍ぶ時、
襟を正さざるを得ません。論文・随筆集『在日の和合と祖国回
復、そして平和統一への道』は言うに及ばず、本誌『平和統一
NEWS』の 6 月 1 日の巻頭言として飾られた社説とも云うべき『真の愛による和解統一』は生前の遺作として
誰にでも理解しやすい言葉で、
「FPU 兵庫結成 7 周年記念講演会」のパンフレットに記述されている代表として
の挨拶である同名の『真の愛による平和統一』と共に、在日の一人として真摯に韓(朝)日の末永き親交と互い
の友情と繁栄を願い、祖国の平和統一を願われて、それを遺訓として天国へ新生の為に旅立たれたのでした。
現世に残る私達は月に一度の『平和統一 NEWS』の編集会議をはじめと
し、(定例役員会、常任理事会、賢仁会、歴史探訪、韓国料理講習会、各地
においての平和統一セミナー、啓蒙講座)等、さまざまな機会に適切な御助
言と、御鞭撻、御指導をいただきました。私達の一人ひとりが生きているか
ぎりは、趙希秀会長はその名を歴史に、私達の胸
内にとどめることでありましょう。翌日(7 月
14 日)午後 7 時より帰歓式(御通夜)が宗教法
人・世界基督教統一神霊協会の大阪教会にて、壮
麗で感動的に参会者の尊敬を集めて「式次第」を
終えました。次翌日(7 月 15 日)の聖和式は午
前 10 時 30 分より、同教会にてお別れの会として、
趙希秀会長の御遺体を安置する柩の内に参会者一
同が順番に 1 人づつ香華(花)を手向けて、柩を
いっぱいに埋めました。すべての行事が終了した
後、御遺体は祖国へ向うべく寝台車に移され多数
の見送りの緊張の中を、最寄りの関西空港へ向か
われました。趙希秀会長の「帰歓式」及び「聖和
式」に御参会されました皆様方に、厚く謝意を表
させていただきます。
第33回料理講習会が開催される
2012年6月23日(土)新長田駅前ピフレホール3階にて、韓国料理サークル「ムグンファ」の第33回
料理講習会が開催されました。全体で25名が参加した中、タックボク
ムタン、チェンバングックス、ミョクネングック3品を講師の説明を聴
いた後、レシピの作り方を確認しながら楽しく作りました。
今回料理のテーマは以前も紹介した事があったチェンバングックスを、
そうめんを蕎麦に替えて味付けや盛り付けもアレンジして、作りあげま
した。特に韓国料理は、講師の年齢(30代~50代)また地方によっ
て、味の好みも味付けもそれぞれ違います。今後も料理研究会を開き料
理について学びたい方がたの為に、一層良い料理講習会にして行きたい
と願っています。
次回8月25日にはプルコギサンチュサム(焼肉野菜巻き)
、オジンオ
チェムチム(さきイカ和え)、デェンジャンクック(韓国みそ汁)を紹介
し、閉会しました。
平和統一聯合
Federation
for
Peace
and
Unification
1
FPU北近畿(兵庫・京都)
月刊 平和統一 NEWS
第48号
新羅(3)
阪神支部長
尾道宗継
在位60年の間、王と王妃は内には民を慈しみ、産業を奨励し、国を力づける一方、外には外敵の侵略
を防ぐ礎を堅固なものとした。英明な王の治下で民は日々の生業に励みつつ、暮らしを楽しんだ。人々はお
互いに協力して、生業に力を傾けたので、民の倉庫には穀物がぎっしり詰まり、衣食住に心を砕くことはな
かった。徐羅伐では夜でも門を閉ざすことなく、野には稲穂が積み上げられたままであった。
あるとき、楽浪(アクラン)の人が攻めてきたが、平和を守り、信義に硬い徐羅伐の人々の暮らしぶりを
直接まのあたりにすると、盗みにきた自分たちが恥ずかしく思い、おのずから退いたということもあった。
このような噂が近隣に広がり、他国の民さえも二聖人の徳を慕い、徐羅伐に群れ集まった。また、諸国は使
者を遣わし、国交を深めようとした。王と王后は斯盧六村を巡幸して民政を司る一方、農業と養蚕を勧め、
土地をよく耕し、生産にいそしむよう諭した。 王は本来、天界に属する人であり、政を見るたびに天上に
昇っては、天帝に新羅の事情をことごとく奏上し、これに関する仰せを聞くと、再び地上に降りるのであっ
た。朴赫居世王が即位して61年目を迎えたある日、日ごろ王の寵愛を受けていた愛妾がぜひ一度でもよい
から、王について天界へ行ってみたいと申し出た。
「陛下、一度だけでもかまいません。私めも天界にお連れ下さいませ」 しかし、いくら愛する寵姫の頼み
といえども、それだけは聞き入れることができなかった。
「天界は天人にあらずんば昇れぬ所だ。ほかの願いならいざ知らず、こればかりは聞くわけにはいかぬ。そ
のような戯れは申さぬほうが身のためであるぞ」とたしなめたが、何分にも寵姫の天界にあこがれる気持ち
は想像以上に強く、考えを翻すことはできなかった。寵姫は後に引かず、粘り強く王に懇願した。
「陛下、たった一度で結構です。その後どのような目に遭おうともかまいませぬ。お願い申し上げます」王
は諭すだけでは足りないと考え、厳しく言い渡した。
「何度申しても同じこと、地上に住む不浄の者が行けば天界が汚れる。これ以上聞く耳持たぬ」寵姫はきま
りが悪かった。その気持ちはいつの間にか口惜しい思いに変わった。
{王様が行ける所にどうして私が行けぬことがあろう}という身の程をわきまえぬ考えがふつふつと湧き上
がってきた。
「ならば、私にも考えがございます」この言葉を聞いて、王は彼女が天界に昇ってみたいという愚かな考え
を諦めたものと思っていた。ところが、ある日、王がいつものように天界に上がろうとすると、前もって知
っていた寵姫はすばやく蝿に姿を変えて王が乗る天馬の耳の中に人知れず身を隠した。王はそのようなこと
とは思いもよらず、いつものように天馬を駆って昇った。王が天界へ昇り、天帝に謁見して、政の報告をし、
さまざまな用事を済ませているうちに、七日間が過ぎ去ってしまった。王は一日でも早くに地上に帰り責務
を果たさねばならぬと思い、天帝に暇乞いの挨拶をするために謁見した。しかし、礼を受ける天帝のようす
はいつもとは異なり、とげとげしく、怒気を帯び、王を厳しく叱責した。
「禁を犯した者が地上に帰ることは許さぬ」王にとって寝耳に水のことであった。
「臣がいったいどのような禁を破ったと仰せになられるのでございましょう。何とぞお教え下さい」天帝は
依然怒りを抑えかねる面持ちで、
「このたび、不浄なる地上の者を連れ込んだのを知らぬと申すか」
「臣にはまったく身に覚えがございません。そのような筈はございません」
「ならば、汝の馬の耳にいる者はいったい何だと申すのか」天帝はことば厳しく問いただすのであった。
王はそのときになって、ようやく思い当たることがあった。
{さてはあの女が愚かなことをしでかしたのか}しかし、もはや時すでに遅かった。覆水は盆に還らない。
王は帝の前にひれ伏し、己が不覚をただただ詫びるほかなかった。
「重い罪とは存じておりますが、どうかお許しを」しかし、天の法は厳格であった。いくら詫び、許しを乞
うたとて法の裁きから逃れることはできなかった。天帝は申し渡した。
「汝は魂をここに留め、肉体のみ地上に降りるがよい」判決は下された。その場で魂を抜かれた肉体は新羅
の地に落ちていった。
王が宮廷を留守にしているときだというのに、一天俄かにかき曇り、雷鳴轟き稲妻がひらめくやひどいど
しゃ降りとなった。人々は怖気づき、恐れおののきながらもどうすることもできなかった。都の人々は天界
に行かれた王の身に何か災いが起きたのではないかと、しきりに王の身を案じた。そのときである、突然天
地を揺るがすばかりの轟音とともに大きな肉塊が空から落ちてきた。人々が傍に近寄ってみると、それは五
つに引き裂かれて落ちてきた、朴赫居世の痛ましい屍であった。
このことがあって暫くしてから、后の閼英もこの世を去った。彼らは皆、世を去った国王夫婦に生前受け
た徳を偲びながら涙を流した。大きな御陵を築き、一つの墓に葬ることにした。ところが、怪しいことに、
工事に取り掛かると、大蛇の群れが寄り集まって、造営するのが困難であった
蛇に妨げられ、やむを得ず五ヶ所に分けて陵墓を築いた。これが、有名な慶州の五陵である{一説に、五陵
は朴赫居世王、閼英王后、儒理王(ユリワン)、婆娑尼師今王(バサニサグムワン)
、南解王(ナムへワン)
五人の朴氏陵とも}
。当時の人々は、蛇が出たので「蛇陵」とも称した。
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2
FPU北近畿(兵庫・京都)
月刊 平和統一 NEWS
播磨と渡来人(第33回)
楽浪河内
第48号
姫路支部長
英裕司
『万葉集』の中に次の歌がある。
ふるさとは遠くあらず一重山
越ゆるがからに
思ひぞ我(あ)がせし
(通訳) 故郷は遠いというわけでもない。山を一つ隔てるばかりなのに恋しくてたまらないよ。
作者は、高丘連河内(たかおかのむらじかわち)という人物である。8世紀を代表する文人のひと
りと言われている。実は、高丘連河内というのは改姓した名である。
若いころは別の名であった。
当初は、楽浪河内(さざなみのかわち)といった。楽浪河内・・。
そう、彼は『播磨国風土記』の編集にかかわった中心人物である。
『播
磨国風土記』の中に渡来人伝承が多く記載されているのは、楽浪河内
によるところが大きい。彼の父は、百済の僧・沙門詠で、663年の
白村江の戦いの際、百済滅亡に伴い亡命してきた。楽浪河内自身は、
日本生まれの在日2世にあたる。彼の生まれ育った地域には、多くの
亡命百済人がいたのだろう。そのため、日本に生まれながらも百済の
生活習慣や文化に触れる機会が多かった。何よりも父から祖国につい
ての話を聞かされて育ち、祖国にたいする思いが強かった。それだけ
でなく、幼少時より特別な英才教育を受けて育ったようだ。
(聖武天皇の肖像画)
後に最高官位である大学頭に任命されていることからも、そのことが伺える。播磨国府におい
ても、その能力は如何なく発揮された。彼の卓越した行動力、編集力によって、『播磨国風土記』
はわずか2年で完成している。これは全国トップの速さであった。当時の上司であった巨勢朝臣邑
治の目に留まったのは言うまでもない。巨勢朝臣邑治は遣唐使副使を務めた国際派で、後に聖武天
皇の初代内閣(?)8人のひとりになったエリートであった。その引き立てがあったのかどうか定
かではないが、その後の楽浪河内は出世街道を突き進んだ。721年には当時の皇太子(後の聖武
天皇)の教育係(東宮侍講)に選ばれている。なんと、楽浪河内は聖武天皇の先生であったのだ。
この時の教育係は16人であった。そのメンバーには明らかに渡来系と思われる人物が多数含まれ
ている。中でも、4歳で百済より亡命してきた山上憶良が有名だ。このことから聖武天皇は幼少よ
り渡来系の文化や学問を多く吸収して育ったと考えられる。 また楽浪河内は文人として優れてい
ただけではなかった。どうやら建築技術にも明るかったと思われる。後年、恭仁京造営や紫香楽宮
造営にも責任ある立場を与えられているからだ。相当に優秀な人物だったことがわかる。冒頭の歌
は、恭仁京造営の際に、山ひとつ隔てた故郷・奈良を慕って詠まれたものだ。日本生まれで日本育
ちであった楽浪河内にとっての故郷は、あくま
で奈良の地であった。その自然な感情が表現さ
れている歌だと思われる。しかし、彼の心の奥
に秘めた本当の故郷とは、どこだったのだろう
か。それは、幼少時より父に繰り返し聞かされ
た祖国の地であったのではないだろうか。
(楽浪河内が若き日に赴任した播磨国府があったと
される現在の姫路市
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and
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郵便局、総社付近)
3
琵琶湖一周・野宿の旅
黄砂の丘で
第48号
詩人 阿木哲郎
(教職歴47年、
明石市)
月刊 平和統一 NEWS
風が吹くと黄砂が舞いあがる
露になった地に 異形の人群れ
虚ろになった眼窩 虚空指す指
破れた皮膚から 骨を覗かせて
地塵に座臥する 死者たちの影
風が止むと 黄砂が舞い落ちる
大地は砂に埋れ 人影は消え
そして風は再び 砂を拭い去り
あなたは鹿追う狩人か
峠を越えてきた褓負商か
殻竿をたたいた農夫か
ホミや鍬打った鍛冶か
悪霊をはらった巫堂か
あなたは あなたは あなたは
あなたは あなたは
あいぐ あいぐ あいぐ あいぐ
あいぐ あいぐ あいぐ あいぐ
地を這い 空翔る 砂嵐の慟哭
生きていたそのままの姿で
異形となった人々の群れよ
肉を抉られ その抉られた肉の後に
鉄条を打たれ
叫ぶ喉なく つかむ掌なく
風と砂に洗われ続ける
怒りの民族よ
いまも
わたしの記憶の向こうから
黒々とその声こだまし
姿浮かび続ける
褓負商=(ボブサン)担い商人。
ホミ=農具。柄の短い鎌。
巫堂=(ムーダン)神霊を感得する
能力を持つ女性。
FPU北近畿(兵庫・京都)
9
FPU 兵庫副会長 元臨済宗東福寺派 京都総本山 塔頭 即宗院 曺 小 煥
朽ちてきたアジサイにかわり、白や紅のムクゲ(無窮花)が路地を彩ります。
韓国(朝鮮)の国の花ムクゲは万葉集の時代、すでに日本に伝わっていました。
いま「在日」とよばれる韓国・朝鮮人の多くは 102 年前の「韓国併合」のあと日本に来た人々や彼らの子
孫です。祖国が日本の圧政から開放されても 60 万人が帰国できず日本にとどまりました。私もその内の 1 人
になります。祖国の分断。日本での差別。苦難の中で人権を求めてたたかう「在日」の 1 人でもあるのです。
日本は今後、アジアでどう生きてゆくか考えさせられます。
私の両親は韓国を支配した日本に土地調査事業法という美名のもとに祖父伝来の家・屋敷・田畑などを次々
と奪われたのであった。一家が裸同然に立ち退いた後、その地には日本帝国陸軍の蛮行と力を背景とした巨大
資本企業である住友紡績が入ってきたのである。10 分の 1 の土地があれば一家は食い凌ぐ事が出来るからと
関係行政に父は 2 日間、懇願したが 3 日目に右腕を激しく傷つけられて帰って来たと私は北朝鮮へ 1962 年
に帰国する長兄から聞いた事がある。長兄と父が家財道具を 1 点でも取り出す為に近づくと有刺鉄線が早くも
既に張りめぐらされ関東軍憲兵が銃口を向けて立っていたとも長兄は語った。
一家の生活は耐え難い苦しみに落とし入れられた。侵略を受けた故郷では生活のめどが立たず、侵略した側
の日本の大阪へ知る辺を訪ねて古里を離れたのである。一家は釜山港から連絡船で下関港に上陸した。その 3
日後に港から約 40km 東の国鉄厚狭駅構内の石炭集積場の路地で私が生まれたという。産湯とてなく、新聞
紙を揉みほぐし蒲団がわりにして石炭箱に入れて東に向かったのである。母は渡日前からの心労でめっきりと
心身の衰弱が激しくその上、生れて初めての連絡船の船酔いで食事もままならず生れた赤子の為の母乳が出な
かったのである。3 日目になって通りすがりの民家から湯を貰って未だ生きていた赤子の身体を洗い、貰い乳
をしたそうである。折しも冬に入った 12 月の末であった。新聞紙を小さくちぎって柔らかく揉みに揉んで産
着の身辺を覆い囲ったという。
5 日目になって死んでいたら、山の辺の片隅か川原の土手にこの赤子を埋めて大阪へ向かうつもりでいたと
後年、(ナチス・ヒトラーと同じ侵略国家の頭目である、昭和天皇と同じ年に生まれ、同じ年にみまかった)
母が 88 歳で他界する間際に涙ながらに語るのを聞いた。その時からが赤子の現在までに至る「他郷暮し・タ
ヒヤンサリ」の始まりとなった。
「初めての海峡」を渡って日本に来たのは実に母の胎内であった。
「再びの海
峡」は「涙の連絡船」と呼ぶに相応しかった。その船に乗ったのは 2007 年、故郷の地を離れ二度とその土
を踏むことなく、異郷の地である日本でみまかった父母と兄、妹の遺骨を本貫の地である慶尚南道・洛東江の
上流にある、古代に伽耶と称された新羅・比斯伐(ヒサボル現在の昌寧郡)の山へ散骨し、土に返すためであ
った。その折、祖国を歩いて一周し「みたびの海峡」を連絡船で帰って来た。
この時が祖国を回復し、故郷を回復し得た時であると表現し得るのではないかと思った。
さて、日本に上陸して 3 日目に生まれた赤子は 5 日間、産湯とて無く、いつ死んでいても不思議ではない
状況であった。時あたかも 1933 年 12 月 23 日の同じ日に、昔、江戸城と呼ばれた宮殿の宮内庁病院の殺菌・
消毒された一室で男の赤子が真綿に包まれて、産声をあげていた。共にすくすくと成長した。8 年後 1941
年、国民小学校 1 年の時、太平洋戦争が鳴り物入りで開始された。宮殿の奥の少年と、侵略された側の民族の
少年は共に軍国少年であった。今想えば、昭和一桁(8 年)生まれのこれらの人間が一番純粋に日本帝国の軍
国主義を叩きこまれているのではないかと思えるふしが多くあった。韓国人少年は、胸の内でいつしか東京の
宮殿の奥に住まふあの少年と陸軍士官学校か、陸軍大学校あたりで御学友になれるのではないかという若しか
したらとの淡い夢、希望を画いていた。
日本帝国の敗戦に到る 1945 年迄、大いに勉学に励んだのはその為であった。
暗黒的天皇制国家による植民地支配は韓国(朝鮮)人に対しての不条理な人種差別・蔑視・偏見と、はかり
しれない莫大な物質的・精神的損害を与えた。その深い傷あとは現在も琵琶湖の大津に母校のボートレースの
応援に加わろうとやってきた在日青年の心の内に残っている。青年は貧しい家庭ではあったが家郷を離れて上
京し、今、琵琶湖畔に漕艇の試合の応援に参加して寮歌、逍遥歌、琵琶湖周航の歌等をたっぷり演習し、わが
人生「最高の青春の日」と胸の轟く様な感動を体験したばかりなのに、湖の岸辺に佇む青年の胸内は、日本が
いかに韓(朝鮮)半島の人びとの暮らしや文化を踏みにじったかを次第に知るようになり心を痛めるのであっ
た。祖国と青春を見つめて暗く、憂鬱な日が長らくいつ迄もつづいた。かつての祖国と民族に対する抑圧と収
奪は(指紋押捺等があり)在日にとって決して過去のものではなかった。
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FPU北近畿(兵庫・京都)
「2012年
月刊 平和統一 NEWS
第48号
ロンドン・オリンピック」と「テロ予告」
京都大学名誉教授・FPU京都会長
渡辺 久義
これを書いている時点で、ロンドン・オリンピックの開会が明日に迫っている。このオリンピックが無
事終わってくれることを祈るが、ここには不穏な空気がかなり前から漂っていることは、事実として知っ
ておかねばならない。メディアは当然ながら、テロへの警備の異常な物々しさ以外には何も伝えないが、
インターネットの世界では、相当の証拠をあげて、何か恐ろしいことが起こる可能性があることを警告す
るサイトがかなりある。
これらはその大半が、人を怖がらせようといったタチの悪いものではないのは明らかなので、そのいく
つかを紹介する。その根拠の一つは、半ば公然とした、人を食ったテロの予告である。これは 9.11 テロ
がすでにそうであった。
「イルミナティ・カード」という 330 枚からなるという遊びのカードがあり、こ
の中の2枚がまぎれもなく、9.11 のツインタワー攻撃とペンタゴン攻撃の様子を描いている(illuminati
cards を検索すれば最初に出てくるから、いやでも目に入る)。このカードが発売されたのが 1995 年だ
というから 9.11 の 6 年前であり、このテロは予定されていたものと考えるほかはない。この中にもう 1
枚、「ビッグベン」らしい時計台が攻撃されて倒れかかっているのを背景に、五輪の色の服を着た5人の
人物を配した絵がある。これも予告かと誰でも考えたくなるだろう。
「人を食った」話は特に、9.11 の起こる少し前に、イルミナティ代表ともいえるニック・ロックフェ
ラーが、映画監督のアーロン・ルッソに得意げに語った予言がそうだ。ロックフェラーはルッソ監督に、
近いうちにある大事件が起こるから見ているがよい(何とは言わなかった)、これがきっかけとなってア
メリカ兵がアフガニスタンやイラクに侵攻して、敵の大将がいそうな洞穴を覗いたりすることになるが、
そんな所に敵がいるものか、とすべて見通しているように話したという。
今度のオリンピックも同じである。おそらくニック・ロックフェラーが起草したと思われる「イルミナ
ティと 300 人委員会の 21 項目の目標」と称するものがあり、これはイルミナティが悪逆の限りを尽く
して、世界人口を今の何分の一かにするという臆面もない将来計画である。項目 11 に、「このような危
機を次から次へとつくり出し、あらゆる人々が自分で自分のあり方を決定できなくなり、これらの危機に
対処しきれなくなるようにする」とある。これによく似た表現が、ロックフェラー財団の公表している
Scenarios for the Future of Technology and International Development にもあり、そこには「大
規模な破局的出来事が、これほど息つく暇もないほど起こる世界に対して、誰も心の準備をしていなかっ
た」とあり、続いて「2010 から 2020 までは〈運命の 10 年〉と名付けられたが、それには十分な理
由がある。13,000 人を殺した 2012 オリンピックの爆撃は…」と、ロンドン・テロがすでに起こった
ことのように過去形で書かれている。私はこれにかなり前から気付いていた(詳しくは創造デザイン学会
HPを参照)。ロンドン・オリンピックは「息つく暇もなく起こる」予定の、世界的カタストロフィの一
つであるらしい。
彼らの謎かけ遊びのようなテロ「予告」は、これにとどまらない。「100,000 to die at the London
Olympics」といった動画サイト(和訳字幕付きがあったと思う)を見てもらえれば、いかに彼らがあら
ゆる機会に、楽しんで大量虐殺テロをほのめかしているかがわかる。Georgia Guidestones という項目
を検索してみればわかるが、彼らイルミナティの最終目標は世界人口を5億に減らすことだと、8 カ国語
で石に刻まれて宣言されている。多くの警告者が言うように、彼らにとって我々は「奴隷」であり「家畜」
であって、良心の呵責というものは存在しないことを忘れてはならない。
このオリンピックが実質的にイルミナティ主催であることは、あの気味の悪い一つ目のマスコットのお
披露目動画を見ればわかる。なぜ一つ目か。ここに使われているのは明らかに東洋人の子供であり、彼ら
はハイル・ヒトラーの仕草をさせられ、マスコットと手をつないで歩く地面は、市松模様になっている。
これはなぜそうなのかご自分で調べていただきたい。難しい謎解きではない。メイン会場の照明塔がなぜ
ピラミッドの形であるかも。一方、解説をしてもらわないとわからない謎もある。毎日、新聞に出るあの
ロゴ・マークも謎であり、隠された意味があることは確かである。何にせよ、スポーツの祭典に隠し事が
多いなどということは、それだけで失格と言わねばならない。
イルミナティとその配下は、なぜこの時期に、こんなに露骨に、追い詰められた猛獣のような挙動に出
るのだろうか。その背後にある理由を突き止めなければ、何も解決しないと私は思っている。これは来る
べき集団アセンション(進化、次元上昇、地球の振動数上昇)に関係するだろう。中丸薫さんが言ってい
るように、「彼らは息苦しくなっている」と考えるべきである。
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FPU北近畿(兵庫・京都)
月刊 平和統一 NEWS
第48号
サムゲタン
参鶏湯
在日平和統一婦人会兵庫支会
会長
朴 享 宣
参鶏湯は、暑い夏の初伏・中伏・末伏に、日本の土用の丑の日におけるウナギのように、三伏(初・
中・末の最も暑い時期)の日に食べると健康に良いとされる。このため夏の間だけ提供する食堂が
多いですが、専門店では一年中食べることができます。丸鶏の水炊きペクスク(白塾)と餅米で作
る粥が一つとなってできたタックク(鶏肉のスープ)が原型とされますが、古くから名薬として、
材料そのものが入手の難しいものでした。
1920年以後、粉末で入れた高麗人参が丸のままとなり、人参の効能を強調するため「参鶏湯」
とされました。これも30~40年前とされています。
参鶏湯は、普通ひな鶏を使い、その中に高麗人参・もち米・干しナツメ・栗・松の実・ニンニク
など薬膳料理の食材としてよく知られたものを詰めた後、水に入れて、2~3時間じっくり煮込む
料理です。
参鶏湯は材料さえ手に入れば家庭でも簡単に作ることができます。鶏肉は、韓国では参鶏湯用に
若鶏を処理したものが販売されており、日本の韓国食材店でも冷凍ものを扱うところがあります。
調理品のレトルトパックも販売されていて手軽に味わうことができます。
う こっけい
専門店では、*烏骨鶏の肉を用いた「烏骨鶏湯」や漆の木と一緒に煮込んだ「漆鶏湯」を出す
ところがありますが、通常のものより栄養価が高いとされ、値段も高いです。参鶏湯は鶏一羽丸ご
と入れて作るので、結構カロリーが高く、最近は薬膳料理として「緑豆鰒参鶏湯」もあります。夏
バテや疲れている時など、疲労回復の為、召し上ってみませんか。
*ニワトリの一品種。皮・肉・骨ともに暗紫色なのでこの名がある。天然記念物。
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第48号
「紅茶エトセトラ」
18世紀のイギリス紅茶とトワイニング
FPU兵庫渉外部長
金 豊 鎬
第一章と第二章で見た通り、17 世紀にイギリスのコーヒーハウスで初めて茶が売り出されて以降、宮廷をは
じめとして人々の間に茶が普及し、やがて中国から直接に茶を買い付けるようになり、福建省の発酵茶(紅茶)を
知るにおよんで、18 世紀にはますますその需要は増えていった。当時の様子を知る格好の資料として、トワイ
ニングの歴史がある。 初代のトーマス・トワイニングは 1675 年、イングランド西部のグロスター・ペイン
スウィックという所に生まれた。彼の父は毛織物の職工だったが、1684 年、不況のため一家はロンドンに移住
した。 トーマスははじめ職工として工場に年季奉公に出たが、ロンドンの自由市民権を得ると、1701 年には
東インド会社の商人のもとで働き始め、1706 年「トムのコーヒーハウス」をロンドンのストランドに開店した。
ここは貴族や上流階級の人たち、学生、弁護士、教区の聖職者や検事まで、さまざまな人士の集まる地域だった。
トムの店は繁盛し、1717 年には店を拡張するまでになる。当時の店の台帳の一部が今も残っていて、それには
店で扱った品物や客が細かく記されている。 たとえば、1715 年~20 年の台帳の記されている顧客は約 350
名で、教会、ホテル経営者、貴族、地主、法律家などがいる。 1729 年の台帳には、顧客リストに 900 人以
上の名が記され、取り引き商品も細かく記載されている。主に茶とコーヒーで、その他ワイン、リキュール、セ
イロンのヤシ油、炭酸水、オレンジ、レモン、クリーム、バター、砂糖、タバコ、蝋燭など多種にわたっていた。
1742 年~58 年になると、顧客の数は 1446 人に増え、貴族、牧師、医者、法律家の他、議員もいる。取り
引きでは茶の需要が特に伸びていることが目につく。 1741 年にトーマスが他界すると、息子のダニエルが店
を継いだ。茶の需要は増え続け、東インド会社による茶の輸入量も増加を続けたが、これに目をつけたイギリス
政府は茶の税金を引き上げる。すると税金を払わずに流通する密輸品が、オランダから大量に流れ込み、茶をあ
つかう店にはつぶれるところも出てきた。 トワイニングの二代目のダニエルが 1762 年に 49 歳で他界する
と、その息子リチャードがあとをつぐ。しかし政府の課税率は年々引き上げられ、茶商は窮地に追い込まれた。
イギリスでは、早くも 1660 年に茶が課税対象になっていた。チャールズ二世は、ロンドン市内に急増して
いたコーヒーハウスで飲まれていたカップ売りの紅茶に消費税にかけている。それ以来、イギリスでは 1964
年に課税制度が変わるまでの 300 年間にわたって、紅茶に対する税が、何度も改定されながらも存在し続けた。
政府が税を上げるのは、戦争などによって支出が増えるときである。たとえば 1695 年に増税されたのは、
1690 年に広東港から各国に輸出された茶は、イギリスに 600 万ポンド(約 2724 トン) のほか、オランダに
450 万ポンドなどとなっているが、スウェーデンに 240 万ポンド、フランスに 210 万ポンドなどとなってい
るが、イギリス以外の国が買い付けた茶の半分近い量は、そこからイギリスに密輸品として持ち込まれていたと
いう(『茶の世界史』角山栄)。 こうなると紅茶の密造業者も現れ、偽の紅茶も出回るようになる。彼らは密輸
品の中国茶にリンボク(バラ科の常緑樹)の葉、カンゾウ、そして一度使われた出がらしの茶葉を貧しい人たちに
集めさせ乾燥させたものなどを混ぜて、粗悪なまがい物を作っていた。
1784 年、三代目リチャード・トワイニングが、世間に公正な茶を見直すように、悪徳業者の手口を暴露した
一分の中にも「トネリコ(モクセイ科の落葉樹)の葉を天日で乾燥させ、さらに火で少し焼いた後、床に並べる。
それから足で踏んで細かく砕く。それらの葉を集め、羊の糞を水で溶かした樽に浸した後、また床に干して乾燥
させて仕上げる」 というひどい偽物が記されている。
ここまでひどい偽物でなくても、1869 年のスエズ運河開通以前は、中国から運ばれる茶は、帆船が喜望峰を
回ってほぼ半年以上もかけて風雨とたたかいながらくるものだったので、途中で変質・劣化することが多かった。
そこで茶商は変質してしまった茶に上質な茶を混ぜて、品質を保とうとした。これが今日も伝統として残ってい
る、イギリスの紅茶のブレンド技術なのである。
トワイニングは上流階級の人を顧客にし、品質が保障された茶を売っていたので、高価でも人気があったが庶
民の大量消費の勢いを取り込むことはかなわなかった。しかも増税はとどまることを知らなかった。
この間、東インド会社は平均 1 ポンドにつき 4 シリング 6 ペンスで売っていたが、それが税金の引き上げに
よって 7 シリング 6 ペンスにまではね上がっている。この時、三代目のリチャード・トワイニングは、政府に
茶税の引き下げを申し入れた。
「税金を高くすれば、密輸品が増え正規の取り引きが減るので、結局税収も減る。
それよりも、税を下げれば、正規のルートの商売が成り立つので、税金は流通量分がきちんと入る」と。この申
し入れは時の首相のウィリアム・ピットに受け入れられ、1784 年、減税が実現した。これによって、1768
年には 589 万ポンド(約 2674 トン) だった年間消費量(正規ルート)が、1785 年には 1085 万ポンド(約
4926 トン) はね上がり、税収入も 6 万ポンド以上になったのだ。税金が引き下げられ価格差がなくなると、粗
悪な密輸品は姿を消した。東インド会社は、増大する茶の需要に応えるため、新たに 45 隻の大型船を新造し、
3450 名の船員を雇用した。
1809 年、
リチャードはインペリアル保険会社の会長に就任 1810 年には東インド会社の理事に推薦される。
世を去ったのは 1824 年。 それ以前、1818 年には 4 代目のリチャード二世が経営を引き継ぎ、ヴィクトリ
ア女王即位の 1837 年、トワイニング家に王室御用達の許可証が与えられた。やがて時代はアヘン戦争による
茶貿易の自由化、スエズ運河の開通とインド・セイロンでの茶栽培など、新たな展開を見せるが、トワイニング
はこれらを乗り切って発展を続け、現在の 10 代目スティーブン・トワイニングに到っている。
平和統一聯合
Federation
for
Peace
and
Unification
7
FPU北近畿(兵庫・京都)
月刊 平和統一 NEWS
活動内容
『千字文』と韓国語〔3〕
曺 小 煥
宇 宙 洪 荒
집 우
チップ ウ
집 주
チップ
チウ
넓을 홍
ノルブル
第48号
7 月 15 日
趙希秀FPU北近畿・
兵庫会長 帰還式
趙希秀FPU北近畿・
兵庫会長 聖和式
行事案内
8 月 07 日
8 月 25 日
거철 황
コチョル
ホン
7 月 14 日
定例役員会
第 34 回韓国料理講習会
ファン
編集後記
ウ
チュ
コウ
クワ
おほぞらは おほいに おほき なり
これは 4 字熟語での 250 行の第 2 行目であ
る。空間や時間は広大で、茫漠(広い)としてい
るの意味である。
(宇宙)=宇は上下四方の空間をいい、宙は現
在・過去・未来の時間をいう。「徍古来今を宙と
謂い、四方上下を宇と謂う」
(『准南子』斉俗訓)
より。
(洪荒)=洪は「大きい」
、荒は「蕪(あ)れる茫
漠として広いさま。
宇というのは天が万物におおいかぶさってい
る形が家の屋根のようなのでそれを宇(家=屋根
の意)という。宙というのは、(永久の時間)を
いう。洪は「大」の意味であり、荒は極遠の地の
さらにその外側の場所をいう。『帝王世紀』の文
に見える。
∴『千字文』よもやま話し①
王仁(わに)・古代の百済からの渡来人・応神
朝に来日し、
『論語』10 巻・
『千文字』一巻を天
皇に献上したという。両書とも中国から韓半島へ
渡って来たものの、中国語は一切跡形もなく立ち
消えて、韓国語で日本列島に上陸していたのである。
それというのも日本列島の各地の国々は、百済
の分国的性格を持っていたからである。
∴『千字文』よもやま話し②
次回は「宇宙洪荒」の韓国(朝鮮)語素読による
解説をこころみてみる。それは古代さながらの姿
をかもし出す『千字文』を幼い時期から一字一句、
おろそかにせずに身を律して学んできた民族の
ありのままの独特・風俗を映し出すことであろう。
月刊『平和統一 NEWS』
<編集委員会>
委 員 長
趙 希 秀
副委員長
曺 小 煥
編集局長
福田秀樹
編集委員
朴 享 宣
編集委員
金 豊 鎬
編集委員
高木 実
❑これは故趙希秀会長と私のある日の会話
のひとこまである。
『月刊誌の文章というか、記事というのは、
読む力のある人と出会わなければ書けませ
んね』……
苦労して一つ仕上げると時間は 30 日間あ
るわけだから構想は充分に練れるわけだ。
どちらが言い出した発言かは記憶にないが
私としては、会長の読書力との切磋琢磨(意
見交換)であった。趙会長という個人の持
つ人格、教養、知性等の読書力が私をして、
文脈を整えさせ、誤字を少なくさせたとい
えよう。
本誌が発行されて 4 年が過ぎたが、今日
までを振り返ってみると何よりも、読書人
としての知性の巨大なその事柄が想ひ出さ
れる。
(曺)
❑趙希秀FPU北近畿/兵庫会長が聖和さ
れました。6月30日手術前、一時帰宅さ
れた間に書かれた最後の原稿が『平和統一
NEWS』47号のTOP記事です。いつ
もなら、会長ご自身の記事は、2面に入れ
るのが普通です。しかし、今回はTOPに
持ってきてくださいと、自ら指示されました。
このこだわりは、なんだったのでしょう。
今となっては、この記事が会長の遺言と
なりました。在日の和合統一に人生のすべ
てをかけたその姿は、本当に素晴らしく尊
敬します。趙希秀会長の意志を継ぎ『眞の
愛による和解統一』のスローガンのもと、
FPU兵庫の会員と共に、南北統一に向け
た努力を続けていきます。
(樹)
機関紙
投稿記事募集
交流の広場への投稿記事を募集して
います。
FAX.078-367-4323
E-mail:[email protected]
平和統一聯合
Federation
for
Peace
and
Unification
8
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