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グローバリゼーションと英語教育1

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グローバリゼーションと英語教育1
25
創造的な学習活動のためのクロス・スクール・ワーキング 25
山住 勝利 グローバリゼーションと英語教育
1
グローバリゼーションとは何か
本報告論文の目的は、グローバリゼーションと英語教育の関係を考察す
ることである。とは言え、この主題全体にわたって検討することは、この
ような短い報告論文の取り扱う範囲を超えているので、日本におけるグ
ローバリゼーションと英語教育の関係ということに主題をあらかじめ限定
しておきたい。なお本報告論文は、フィールドワークによって具体的な
データを収集し分析するという方法をとるのではなく、できる限り理論的
な立場から主題を考察しようとするものである。
今日「グローバリゼーション」という言葉は、各国間の政治・経済・文
化の結合性が世界規模に変容、拡張していることを示すものとして広く使
われるようになった。ジョン・トムリンソン(000, p.)は、
「グローバリゼー
ションとは近代の社会生活を特徴づける相互結合性と相互依存性のネット
ワークの急速な発展と果てしない稠密化を意味する」
と言う。一般的には、
あたかも現代社会に生きる人にとって無視できない事態として「グローバ
リゼーション」は口にされる。しかしながら、グローバリゼーションの概
念が正しく定義された上で使用されているとは思えない。そもそもグロー
バリゼーションと言っても、政治・経済・文化、どの側面から考えるかに
26 山住 勝利
よってその捉え方も異なり、そしてまた各側面がどのように関係し合って
いるのかを見極める必要があり、定義するにも一筋縄ではいかない。それ
でも現代はグローバル化の時代であるという漠然とした感覚が、少なくと
も日本では、現代社会における様々な事柄について話し合う時の前提に
なっているように見える。それはなぜか。
テレビやインターネットを通してわれわれは日々、世界に関する大量の
多様な情報を得ている。ある意味それらのメディアは、われわれから遠く
離れた世界に向けられた、時間稼動の覗き窓あるいは監視窓のような機
能を果たしている。その窓からは、世界で起こっている様々な出来事や
色々な場所で生きる人びとの生活などが見える。われわれは距離も時間も
関係なく、その窓から各国が、各個人が間接的であるにせよ何かしら繋
がっている様子を想像することができるのである。そのような状況の中
でわれわれは、(少なくとも情報に関しては)グローバル化が進んでいること
を感じ取るのではないだろうか。それは、ポール・ヴィリリオ(, p.)
の言葉を借りれば、
「まなざしのグローバリゼーション」とでも言えるも
のである。小窓から世界に向けられた「まなざし」は、地球全体を明るみ
に出そうとするだろう。そうしてわれわれは現代がグローバリゼーション
の時代であることを漠然と感じ取るのである。
しかし、グローバリゼーションがあくまで世界化の完了に至る「過程」
を示す概念であるにもかかわらず、あたかも日本はもうすでにグローバル
化したかのように、そして地球全体は均質化されたかのように、グローバ
リゼーションは漠然と曖昧に把握されてしまっているのではないだろう
か。そして、このようなグローバリゼーションという概念の曖昧さがグ
ローバリゼーションと英語教育を短絡的かつ決定的に結びつける要因に
なっていると考えられる(文部科学省のホームページにおける遠山敦子[00年
当時の文部科学大臣]
、「
『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」参照)
。と
言うのも、最近とみに英語教育の重要性が経済的・文化的グローバリゼー
グローバリゼーションと英語教育 27
ションとの関連から唱えられるようになったが、グローバリゼーションが
文字通りある過程として捉えられるならば、英語教育とグローバリゼー
ションとの結びつきは決定的なものではなく、ひとつの暫定的な繋がりで
しかないはずだからだ。それにもかかわらず、グローバリゼーションと英
語教育が繋ぎ合せられるのは、グローバリゼーションという状況下でもっ
とも有用な(支配的な)言語は英語であるという現時点における英語の優位
性のためである。その見方は事後的なものであり、言い換えれば、グロー
バル化が完了したという前提での判断であるだろう 。いずれにせよ、英
語とグローバリゼーションとの結びつきは次のようになる。現代はグロー
バリゼーションが急速に進行する時代である。それゆえ英語を学習し、身
に付けなければならない。英語を自由に操る能力は、グローバリゼーショ
ンにおいて未来を切り開いていくための非常に有力な武器となるだろう。
だがしかし、グローバリゼーションの時代に学ぶべき英語とはどのよう
な言語なのだろうか。
英語で世界を解釈する
続いてグローバリゼーションについて、今度は別の角度から考えてみた
い。
フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの対話集『記号と事件』に興味深い
発言がある。ある対話者によるとドゥルーズは、年にミシェル・フー
コーに向かって次のように言ったという。
「あなた(=フーコー)は、『他人にかわって語るのは下劣だ』という、
とても重要なことを教えてくれた最初の人間だ」、と。(ドゥルーズ,
, p.)
28 山住 勝利
この発言が示唆するのは、代表行為の倫理の問題である。すなわち、だ
れが他人のために語ることができるか、という問題だ。ドゥルーズ(,
p.)が代表行為を批判するのは、
「『なんぴとたりとも否定できない』とか、
『万人が認めざるをえない』といった言葉の後にはかならず虚偽かスロー
ガンがひかえているということを(……)熟知している」からである。ドゥ
ルーズ(, p.)は、フーコーの哲学を巡る著書『フーコー』を著した
が、彼が試みたのは、
「フーコーにかわって語ることではなく、横断線を
引き、フーコーから私のほうに延びる対角線をつくってみること」だった
と言う。それが、ドゥルーズがフーコーの哲学を探究するためにとった方
法だと考えられる。その方法は、フーコーの思想を代弁するものでも、解
釈するものでもないだろう。ドゥルーズ(, p.)は、また、次のよう
にも言う。
フーコーの方法は一貫してあらゆる解釈法に対立するものでした。ど
んなことがあっても解釈するな、ひたすら実験せよ、というわけです
……。
ここで気付くことは、だれか他者を代弁することのないように解釈を避
けるべきであるということだ。解釈とは、ある意味で他者を領有してしま
う行為であり、そこには何ら思考というものがない。しかし、他者から
「延びる対角線をつくってみる」という実験を試みることによって、両者
の間で非人称的な新たな思考が創造される。ドゥルーズ(, p.)によ
れば、「思考とは解釈ではなく、実験」なのである。言い換えるなら、解
釈は対象を解釈者の領土に取り囲む行為であるのに対して、思考は始点も
終点もない線上でおこなわれる創造的な活動だと考えられる。この相違点
にフーコーが、そしてドゥルーズが解釈に対立した理由があるのだろう。
つまり、解釈はこれまでとは異なる新しい考えを生み出さないということ
グローバリゼーションと英語教育 29
である。
私には「フーコーの方法」について議論する能力はないが、上記のドゥ
ルーズからの引用を別の視点から見れば、われわれはグローバリゼーショ
ンについても同様のことが言えるかもしれない。すなわち、グローバリ
ゼーションが―ファーストフードのチェーン店が世界中いたるところに拡
張していくように―均質の世界に向かう過程を意味するなら、そこには必
然的に世界を手なずけ利用できるように解釈する過程が含まれるのではな
いかということだ。この場合、グローバリゼーションという語は、とりわ
け経済的、文化的な世界統合という側面から捉えられることになるだろ
う。Linと Luck(Lin & Luck, 00, pp.⊖) が指摘するように、資本主義的
グローバリゼーション(capitalist globalization)では、
「新植民地化」と「文化
とイデオロギーの均質化と支配」が生じる可能性がある。その反対に、伝
達的グローバリゼーション(communicative globalization) は、
「国境を超えた
連帯や、異文化・異民族間の混成主体」をもたらすことが考えられる。し
かしながら、ここでわれわれが注意したいことは、これら二つのグローバ
リゼーションのあり様についてではなく、多かれ少なかれ両者に共通して
行われるであろう解釈、世界を解釈するために用いられる言語はどのよう
なものなのか、ということである。
もちろん、解釈に使われる言語は英語である。たとえばコンピュータ使
用における英語の優位性にはっきりと示されているように、英語は世界を
解釈することにおいて非常に便利で強力な言語である。スーザン・ソンタ
グ(00, pp.⊖00)は次のように言う。
英語という言語が、国際的な世界語に格上げされたそもそものいき
さつは、偶然のなせるわざだった。決定的瞬間をひとつ挙げれば、
一九二〇年代(のはず)
、民間航空で用いる国際語として英語が採択
されたことである。
(…)これより大きく、決定的だと思われる要因は、
30 山住 勝利
4
4
4
4
コンピュータの遍在だろう―また別の交通形態の運び手、精神的な交
通の乗り物としてのコンピュータは、支配的な言語を必要とした。た
しかに、個々人の機材のインターフェイス上の指示はそれぞれの国の
言語になっていることが多いが、ネットに接続してサーチをかけよう
としれば、英語の知識が必要となる。(強調原文)
様々な分野でグローバル化が進展する状況下において何らかの国際共通
語が必要とされる現在、ソンタグ(00, p.0) が指摘するように、「英語
をさしおいてその役割を担い得る候補があるだろうか」。国際語=英語と
いう図式は、たとえそれが暫定的なものであるとしても、少なくとも現在
では決定事項のようなものである。英語は、その国際性ゆえ、地球の表面
をなめらかにする。そのような英語を身に付けることは世界を理解するの
に大いに役立つだろう。だから、多くの人が国際語の英語を話すことがで
きるようになりたいと思うのである。またその欲望は、英語で世界を解釈
する欲望と隣り合わせの関係にあるのではないだろうか。だが、しかし、
国際語となった英語というのは、ただ解釈するため、あるいは単にコミュ
ニケーションのためだけに用いられるものなのだろうか。
現代世界で成功するための優れた文章
英語の使用に関して、アメリカの詩人、ゲーリー・スナイダー(000,
pp.⊖)は次のように述べている。
最近まで「よい言語の慣用」は権力と高い地位にある人々の話し方が
基準になっていた。このような言語は首都(ロンドン、またはワシント
ン)の言葉であり、こういった標準はそれを使うことによって生じる
社会的および経済的利点と結びついていた。もうひとつの標準は技術
グローバリゼーションと英語教育 31
的文章で、これは明晰さと構成を主眼にしたものであり、当然のこと
ながら現代世界において成功しようと願う者の装備の重要な道具のひ
とつである。このような文章は本質的に退屈であるが、しかしそれは
まっすぐな畝を次々に作っていくトラクターのような有用性を備えて
いる。
ここでスナイダーが説明しているのは英語による優れた文章とは何かと
いうことであるが、それは「学術論文や博士論文、助成金の申請書、法律
(ス
文書における告発と反論、報告書、長期計画書、戦略計画報告書など」
ナイダー, 000, p.)に見られる文章である。これらの文章が優れていると
されるのは、文章が論理的な構成で明瞭に書かれているからにほかならな
い。優れた文章は、確定した基準(書き方の型)を持ち、はっきりした目標
=答えを指向する。かつての基準はロンドンやワシントンの言葉によって
書かれた文章であり、現代では技術的文章ということである。
英語で優れた文章を書く能力は、将来の社会的成功を渇望する日本の子
供たちにとってだけでなく、英語を学ぶ者すべてにとって強力な道具とな
るだろう。だから、彼/彼女らはライティングの面においても高い英語能
力を身に付けることに価値を見いだすことができるのである。言い換えれ
ば、優れた文章中に見られる英語は、究極のグローバリゼーションの言語
(really
なのである。しかし、スナイダー(000, p.)は、
「本当に優れた文章」
good writing) とは「より多様で、より興味深く、予測がつかないものであ
る。それは幅広く、深い知性で書かれるものなのである」と言い、様々な
要素がダイナミックに溶け合った世界を描き出す「本当に優れた文章」が
あることを示唆している。われわれはそのような文章をたとえば文学の中
に見つけ出すことが可能かもしれない。と言うのも文学における文章は、
スナイダーが言うような「より多様で、より興味深く、予測がつかないも
の」に満たされているからである。さらに文学は、登場人物たちに対する
32 山住 勝利
共感、反感、同意、失望などによって「自分でもなく自分たちのものでも
ない存在のために涙を流す能力を醸成し、鍛錬してくれ」(ソンタグ, 00,
p.)る。文学は、本質的に解釈や正しい答えといったものとは無関係で
あり、むしろ、様々な予期せぬ事態に対峙する過程で創造的な思考を発
展させるのを手助けする媒体である 。ここで私は文学的文章の対極にあ
る、
「トラクターのような有用性を備え」た技術的文章を全面的に否定し
たいわけではない。文学における「本当に優れた文章」がどのような性質
の文章かを示すために、あえて二項対立的に述べているのである。
再びスーザン・ソンタグ(, p.)によれば、文学を含めた芸術作品は、
「概念的知識(これは、哲学、社会学、心理学、歴史のような論述的ないし科学的知
識の特色である)を生じさせるのではなく、昂奮とか、囚われてがんじがら
めにされて参加したり判断したりする現象に似たものを生じさせる」
。こ
の指摘からすぐに明らかになることは、文学作品に関して人は囚われの身
となり興奮状態に陥ることはあっても、―学者でもない限り―科学的に
解釈することはないということである。それゆえソンタグ(, p.)は、
芸術作品にあれやこれやとちょっかいを出すような俗物根性的解釈に対し
て、
「解釈は芸術を手におえるもの、気安いものにする」のだと批判する。
解釈は芸術作品について誰もが共有することのできるひとつの答えを提示
するだろうが、解釈された作品とそれを見る者との間には対話的な関係は
成立しないだろう(Yamazumi, 00)。作品に興奮する前にそれを見る者は
答えを知ってしまっているのだから。つまり、解釈は対話を拒否する。そ
れゆえ、文学を解釈し手なずけることによって、われわれは文学が生じさ
せる興奮をつかみ損なうのである。
とりわけ文学の場合、われわれはその作品の言葉の流れの中で様々な出
来事や人びとに出会う。文学はわれわれの想像力を刺激し、新たな世界の
捉え方をもたらす潜在力を有しているのである。このように文学における
言語はそれに触れる者の視界を拡張するが、グローバリゼーションの言語
グローバリゼーションと英語教育 33
としての技術的文章は、ある決まった基準の枠に順応するようわれわれに
迫る。グローバリゼーションの言語はその明晰性ゆえ他者とのコミュニ
ケーションを極めて円滑にするだろうが、型どおりの、そして興奮を欠い
た文学の解釈のように退屈な言葉となる恐れもある。それに対して文学
の言葉は、予測不可能なことや情動あるいは「汚辱に塗れた人びとの生」
(フーコー, 000)といった、つねに基準から逸脱したこと―しかしそれは人
生の多様な光景である―を表す。ちなみにフーコー(000, p.)によれば、
世紀以降の近代文学が担うことになったのは次のような「《汚辱》のディ
スクール」である。
彼ら[文字をあまり知らない者や文盲の者]はそこ[王に宛てた監禁
嘆願書]に不器用な言葉や乱暴な言葉、粗野な表現を混ぜこみ、そう
することでおそらく嘆願により力強さと真実味を与えようと考えてい
たのだ。その時、その重々しく、逸脱した文の中に、支離滅裂な言
葉のかたわらに剥き出しで不器用で耳障りな表現が吹き出してくる。
すなわち、義務的で儀式的な言語に、苛立ち、怒り、激怒、パッショ
ン、怨恨、叛乱が絡まりつくのである。
この時代に学ぶべき英語とは?
ではグローバリゼーションの時代に学ぶべき英語とはどのような言語な
のだろうか。やはり技術的な英語なのか、それとも文学的な英語なのか。
これまで日本で英語を学ぶ子供たち(中学生と高校生)は、主に受験のた
めに勉強してきた。英語を身に付けるということが学習動機ではなく、受
験科目の内のひとつとして不可避的に英語に接してきたのである。だか
ら、子供たちがやるべきことは、あくまで英語科目で合格点を取り受験に
34 山住 勝利
合格することであった。ところが、最近の英語教育を巡る議論では、受験
のための英語ではなく、グローバルゼーションが進む社会の中で生き残る
ための道具としての英語が重視されるようになってきた。そして文部科学
省は、子供たちの英語でのコミュニケーション能力を強化する意図を持っ
た教育課程の改革に乗り出した(O'Donnell, 00, p.0)。その意図は明らか
にグローバリゼーションの到来を反映するものである。00年月日、
当時の文部科学大臣(遠山, 00)は、
「
『英語が使える日本人』の育成のた
めの行動計画の策定について」の中で次のように述べている。
今日においては、経済、社会の様々な面でグローバル化が急速に進展
し、人の流れ、物の流れのみならず、情報、資本などの国境を越えた
移動が活発となり、国際的な相互依存関係が深まっています。(……)
このような状況の中、英語は、母語の異なる人々の間をつなぐ国際的
共通語として最も中心的な役割を果たしており、子どもたちが世紀
を生き抜くためには、国際的共通語としての英語のコミュニケーショ
ン能力を身に付けることが不可欠です。
ここで主張されていることは、なぜ英語のコミュニケーション能力が必
要とされるかと言えば、グローバリゼーションが進展したからだ、という
ことである。たしかに、グローバリゼーションによって「相互結合性と相
互依存性のネットワークの急速な発展」(トムリンソン, 000, p.)が起こっ
ている。だが、それだからと言って、日本の子供たち全員が英語のコミュ
ニケーション能力を必要とするとは思えない。加えて、なぜ「母語の異な
る人々の間」で使われる言語が英語なのだろうか。上記の引用は、非常に
短絡的にグローバリゼーションと英語教育を結び付けているように見え
る。それは、とりあえずグローバリゼーションを話のきっかけにする世間
の人びとの会話と大差ない。それでもしかし文部科学大臣の言葉は、多く
グローバリゼーションと英語教育 35
の日本人には説得力があるかもしれない。山田雄一郎(00, p.0)が指摘
するように、「多くの人は、英会話能力を絶対視して、それこそが社会的
な成功の鍵だと思いこんでいる」という英語に対する強い偏見があるか
らである。その偏見を支持するかのように文部科学大臣は、「子どもたち
が世紀を生き抜くためには、国際的共通語としての英語のコミュニケー
ション能力を身に付けることが不可欠」だと述べているのである。
さらにここで注意すべきは、英語が「社会的な成功の鍵」になるものと
して捉えられるなら、その英語は、われわれがすでに考察した、
「トラク
ターのような有用性を備え」た技術的文章のような性質の英語であると考
えられることだ。グローバリゼーションの時代に学ぶべき英語とは、文学
的な英語ではなく、やはり技術的な英語なのである。しかし、これまで文
学的な英語についても考えてきたわれわれから見れば、技術的な英語すな
わちグローバリゼーションの英語は、予測不可能な要素を排除する、不寛
容な言語であるとも言える。もしグローバリゼーションが均質化ではな
く、その逆に、世界観の多様化を意味するのであるなら、実は文学がグ
ローバリゼーションの時代に学ぶべき英語のよき例をわれわれに示すので
はないだろうか。
最後に、文学的な英語の例のひとつとしてジャック・ケルアック()
の『メキシコ・シティ・ブルース』から引用しておきたい。ケルアックは
その詩集のはじめに以下のような注意書きを記した。その注意が明確に示
すのは、文学が許容する、基準からの逸脱である。
NOTE
I want to be considered a jazz poet
blowing a long blues in an afternoon jam
session on Sunday. I take choruses;
36 山住 勝利
my ideas vary and sometimes roll from
chorus to chorus or from halfway through
a chorus to halfway into next. (Kerouac, )
注意
俺のことは、日曜の午後のジャムセッションで
長々とブルースを吹いているジャズ詩人だと
思ってほしい。のコーラスを吹くが、
俺のアイデアは変わっていき、時々
コーラスからコーラスへ、あるコーラスの途中から
次のコーラスの途中へ転がっていく。
注
本報告論文は、英文で書かれた Globalization and English language education を
日本語に訳した上で加筆したものである。
英語を中心にした教育制度が子供たちにどのような文化的アイデンティ
ティをもたらすかについては、香港のことではあるが、Lin & Luk の分析を参
考にすることができる。
読むことと人格形成との関係については、Yamazumi(00)を参照。
引用文献
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Kerouac, J.()
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. Local creativity in the face of global domination:
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グローバリゼーションと英語教育 37
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スナイダー , G. (000). 山里勝己・田中泰賢・赤嶺玲子訳『惑星の未来を想像
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