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イメージ, それは常にダンスなのか

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イメージ, それは常にダンスなのか
Kobe University Repository : Kernel
Title
イメージ、それは常にダンスなのか(Roland Huesca, <>,
dans Jean-Marc Lachaud et Olivier Lussac (eds.), Arts et
nouvelles technologies, Paris, L'Harmattan, 2007,
pp.173-182)
Author(s)
小坂井, 雅世
Citation
美学芸術学論集,4:94-96
Issue date
2008-03
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81002336
Create Date: 2017-03-30
9
4
美学芸術学論集
神戸大学芸術学研究室
2008年
【
論文紹介】
「
イメージ、それは常にダンスなのか」
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2007,
pp.1
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2.
小坂井
雅世
芸
本稿は 2007年に出版 された、ジャン-マルク ・ラシ ョー、オ リヴィェ ・リュサ ック編 『
術 と新たなテクノロジー』に収められた論文、ローラン ・ウエスカ著 「
イメージ、それは常
にダンスなのか」の紹介である。
「
ダンス」 と呼ばれるものは現在、ジャンル横断的な幅広い取 り組みがなされ、一元的に
定義することは難 しい。なかでもコンテンポラリー ・ダンスと呼ばれ るものは、身体のみが
メデ ィア として示 され るのではなく、映像や造形美術などと共に、多層的なメディアの一つ
として提示 されることがある。その様な状況下で、本論文はあらためてダンスとは何か とい
う問題 を提起す るような作品を扱っている。具体的には、モーシ ョン ・ピクチャーを軸 とし
た諸作品、マース ・カニングハムの FBi
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)な ど が
文中で扱われる。カニングハムと言えば、ジ ョン ・ケージとのコラボ レーションや、ポス ト・
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モダンダンス- とつながっていくと言われている初期の作品が有名であるが、後年テクノロ
ジーを使用 した新 しい試み- と向かっている。本論文で扱われる 陶 i
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d』は、作品 と同名の
システムのモーション ・キャプチャーによって実現 された身体像が、ダンサーの身体に併置
されたものだ。観客には、舞台前後の薄い幕に投影 された身体像の踊 りが、現実の身体の踊
りと重なって見える。また、ダンサー、振付家であるコルジノの 『ca
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s2』においても、
モーション ・キャプチャーによる擬人的な身体像を含む映像 自体が、ダンス として提示 され
ている (
また、映像内映像を用いるなど、スクリーン上のバーチャルな空間が意識 されてい
る)
。『
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』では、『ca
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ダンス-映像」の作品群が
「
コレグラフィックに」展示 されている1。それ らはただ作品を羅列 しただけではなく、現実
の空間 と映像内の空間が動的にくみあわされるかたちで構成 されている。
これ らの作品は、今まで自明なもの として語 られてきたダンスとい うジャンル 自体に再考
を促す。そ して、それに対 して文章で応えたのがこの 「
イメージ、それは常にダンスなのか」
であると言えよう。 ウエスカはダンスをかつての美的な基準にそって考えるのではなく、大
きく分けて以下の二点にそって考えた。一つは運動を知覚 させ ること。 もう一つはダンサー
が関わること (
直接的/間接的に)である。
ウエスカはこのシンプルなダンスの定義を、コンテンポラリー ・ダンスの状況に照 らし合
わせつつ、三つの節にそって論 じているoひ とつは「
捉えられた現実」という節で、『Bi
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』を
解説 しつつ論 じている。そこでは、モーション ・ピクチャーによる身体像の動きと、現実の身体
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の動きの関係において、 「
本物 らしいものは、本物 と紙一重」であると述べ、「
この振 り付け世界
の改革は、踊る主体の消失の可能性を告げるものなのだろうか」とい う問題提起がなされる2
。二
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』がメインに論 じられ る。 ウエスカは、
つ 目は 「
ダンサー とその分身」 とい う節で、『
『
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』をダンスであると定義することで、ダンス とい う言葉が含む範囲を、目の前で
行われ る身体運動 としてだけではなく、イメージとしての身体運動の領域内にまで広げる。
現実世界 とイメージ世界 との対比において、 ヴィリリオが言 うよ うにそれはただの運動のイ
リュージ ョンたる 「
運動学的幻想」、「
情報の唇気楼」であると捉 えることもできる3
。しか し、
生の身体を持たぬクローンたちは、む しろ生の身体 との差異 と同一性 を浮き彫 りに し、違っ
た視点- と知覚の慣習を変化 させ るとウエスカは述べる。三つ 目の 「
ダンスなのだろうか、造
形芸術なのだろうか ?」は、この論文の結論 にあたる部分である。そこでは、身体表現 として
のダンス と造形芸術が、かぎ りな く接点を近 しくするよ うな状況が語 られ る。その上で先に
述べた作品がダンスであるな らその根拠は何処にあるのかが論 じられ る。マルセル ・デュシ
ャンが芸術 を宙吊 りに した時のよ うに、コルジノが 「
振付家」 と呼ばれ ることは唯名論的で
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』によって提示された空間の運動性が、間接的
ある部分 もあるOしか し、『
にだが踊る身体によってもたらされたのだとい う点において、造形芸術ではないとい うのがウエ
スカの主張である。たしかに上記の作品のように身体がモーション ・キャプチャーによってデー
タ化 された状況では、超人的な技 も、過剰なほどのジャンプも、 うつ りゆく形態の単なる記録データでしかない。 しかし、ウェスカが言 うには 「
それがダンスと言えるのは、それがある劇
場でそのアーテ ィス トの生の歴史-物語 とい うべき彼の世界観や識見そ して肉体的な経験を
もとに しているか らである。またそれがダンス と言 えるのは、ダンサーがいて、彼 らが運動
の知性 をたえず働かせているか らである」 4。ウエスカは、 ドゥルーズ/ガタ リの 『
哲学 とは
何か』の議論を援用 しつつ、ダンサーが間接的に しか関わっていないコルジノの作品群で も、
ダンサーの運動がつ くりだ したイメージそれ 自体が強度 を持つがゆえに、ダンス とみな しう
るのだ とい うことを言った5。ウエスカによると、上記の諸作品は、ダンサーの行為 との直接
的な連関が絶たれたかのようにみえて、ダンサーか ら派生 した運動それ 自身が 「
ダンス」 と
なっているのだ。 ウエスカはこれ を文中で 「
ニコル&ノベール ・コルジノは、素材をダンサー
たちからではなく、ダンスから、そして運動それ 自体から、取 り出したのだ」 とい う言葉で表 し
ている6。
もはやダンスの実践は多層化 しているにも関わ らず、末だ一つの概念に規定 されている現
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3 ゥェスカは身体映像 とその背後の存在に関する議論の中で、ヴィリリオの 『
消滅の美学』 (
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) より以下の文章を引用 している。 「
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)自身に魅了された人間は、自らの分身つまり
知性を持つ亡霊を作 り出 し、鏡像にその知の蓄積を託すのであるO我々は、未だ運動学的幻想の領野に、コンピューターの
画面に投げ込まれた情報の唇気横の領野にいるのだ。与えられたものはアパティアであって、この科学的無感覚性によって、
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2)
人間に情報を与えれば与えるほど、その人間の周l
卿 こ世界の砂漠がますます広がる事態が引き起こされる。」(
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5 ゥェスカは議論の中で、ジル ・ドゥルーズ、フェリックス ・
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哲学 とは何か』(
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)
より以下の文字を引用 している。「
アー トがその素材をもって目指 しているこ
とは、対象を知覚することから、また、知覚するi三
体の諸々の状態から、被知覚態 とでも言 うべきものを引き離すことであ
り、それはまた、ある状態から別の状態-の移行 としての諸々の情動作用から、(
被)情動態 とでも言 うべきものを引き離す
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状がある。 ウエスカはそれを交通整理 し、ひ とつの方向性 を指 し示 したといえる。彼はダン
スとい うジャンルを据え置いたままで、その定義を再考 したのだ。 さらにはこの論考は、ダ
ンサーが現前 していても、いなくても、どちらの場合にも対応するようなダンス概念を打ち
立てた。現状においてこの論文の意義は、その大月
旦なダンス概念の更新にあるだろ う。 この
意見は、生の舞台を賞賛する声 とは違った意見を呈することができる。また、現代において
は舞台などを DVD や動画共有サイ トで見る状況が多 くあるが、それ らをダンスと考えるか
否かの考察-の、一つの足がか りとなるだろ う。注意 して読むならば、 ドゥルーズ/ガタリ
を引用する際に、ダンスが作者か ら独立 して世界を作 り上げるといったにも関わらず、結局
はダンサーの介入をキー としてダンスを語っているところは、再考の余地があるよ うにも感
じられるが、この論文であえてダンスを定義 しなお したことは、今 日の状況において上演芸
術を考える際に、有効なひ とつの理論的足場 となることだろ う。
(
こざかいまさよ:
神戸大学人文学研究科博士課程前期課程)
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