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2004連合平和行動

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2004連合平和行動
2004連合平和行動
感想文集
連合群馬
ー目
次―
平和行動 in 沖縄・・・・・・・・・・・・・・・・・
1∼
8
平和行動 in 広島・・・・・・・・・・・・・・・・・
1∼
6
平和行動 in 長崎・・・・・・・・・・・・・・・・・
1∼
5
平和行動 in 根室・・・・・・・・・・・・・・・・・
1∼
5
平和行動 in 沖縄
日
程
2004年6月21∼23日
平和オキナワ集会
オキナワ平和交流会
22日 ピースフィールドワーク(沖縄戦に学ぶ)
23日 沖縄県主催「沖縄全戦没者追悼式」
21日
参加者
氏
オオハシ
大橋
13名
名
ユタカ
豊
産別名
所
属
連合群馬
(電機連合・日立労組高崎支部)
カナイ
マサユキ
雅之
連合群馬・社会貢献活動委員会
(電機連合・沖電気労組)
アライ
セイイチ
精一
電機連合
日立労組高崎支部
コスゲ
ミツオ
光男
電機連合
関東三洋セミコンダクターズ労組
カンザワ
コウジ
幸治
電機連合
関東三洋セミコンダクターズ労組
ソノダ
ヒロノリ
浩則
電機連合
三洋電機労組アメニティ支部
スズキ
トシユキ
利之
電機連合
三洋電機労組半導体支部
スズキ
トモヒデ
智秀
電機連合
三洋電機労組半導体支部
タカハシ
シンイチ
慎一
電力総連
東電労組
コバヤシ
シンヤ
慎也
電力総連
東電労組
ヒラヤマ
カズキ
一城
情報労連
東京情報通信建設労組和興支部
タムラ
タカユキ
情報労連
国際電設労組
基幹労連
大同スターテクノ労組
金井
新井
小菅
神沢
薗田
鈴木
鈴木
高橋
小林
平山
田村
イシオカ
石岡
隆幸
ススム
進
連合群馬・社会貢献活動委員会
電機連合・沖電気労組
金井 雅之
今回初めて平和集会に参加をしましたが、参加する前は、戦争とは昔の出来事、そして
身近に感じることが出来にくい事のように思っていました。ところが現地での平和集会、
ピースフィールドワーク、全戦没者追悼式への参列を通じて、戦時下の厳しかった状況、
沖縄全土の混乱した状況、そして多くの尊い命が奪われていった状況など、現実にその場
所で起こったという事を痛感させられ、戦後の傷跡が現在の生活の中でも残っていること
にショックを受けました。特に2日目のピースフィールドワークの地元住民と日本軍が雨
のように降注ぐ爆弾から生き延びるため非難していた『糸数の壕』の見学では、当時使っ
ていたであろう食器の一部が現在でも壕の内部に散在し、非難した人たちの当時の厳しい
生活を感じました。また、県主催の全戦没者追悼式では、文字通り沖縄戦で尊い命を奪わ
れた日本人、外国人を問わず全戦没者に対しての慰霊祭であることを初めて知るとともに、
戦後58年が経過しようとするなかで、現在でも身元が明らかでない戦没者の身元調査が
続いており、年に数名の方の名前が慰霊碑へ刻まれているとのことに対しても、改めて平
和への強い願いを感じました。
連合群馬からは13名が参加を
しましたが全員が平和の尊さを感
じた行動であったと思います。そ
の思いを込めて、組合員一人ひと
りに折っていただいた千羽鶴は、
平和祈念公園内の群馬県戦没者慰
霊碑とひめゆりの塔へ献納させて
いただきました。平和とは何か、
改めて考え直すことが出来た平和
集会 in 沖縄でしたが、平和の尊さ
を忘れないように、そして継続し
私たちの子孫にも伝えていく必要
があると感じました。
平和祈念公園内にある「ひめゆりの塔」
電機連合・日立労組高崎支部
新井 精一
この度、連合「沖縄平和集会」に昨年の長崎集会に引き続き団の一員として参加させて
頂きました。率直なことを申させて頂くと、多分幼稚な言い方になってしまうかも知れま
せんが、軍隊という組織的な武器を持った兵(つわもの)が、女、子供までを盾に「何々
の為に」との理由で戦ったこと、又は戦わなければならなかったことと、イラクでの米兵
の乱痴気騒ぎが重なり、個人の正義が殺されてしまう現実を改めてこの年になって味わい
ました。多分会社生活でも近い事が起きているのかも知れません。
今回、長崎と異なって団を編成しての行動となりました。団の皆様とそれぞれの「悲惨
な戦争」への共有な想いを持てた事は、今後の平和への想いをそれぞれの立場で家族、友
人、職場の人たちへ伝える事でどんな事があっても「人が人を殺してしまう事を認めては
いけない」という輪を広げる原点となったことと思います。
そして、連合沖縄の皆様が、色々な勉強をして私達のガイドとして時間を費やし、そし
て彼らの想いを訴えようとする努力と想いに感動し、連合群馬としても何かのアクション
をとる事は出来ないだろうかと考えて帰路についた私でした。
電機連合・関東三洋セミコンダクターズ労組
小菅 光男
神沢 幸治
電機連合及び群馬地協に昨年加盟し、初めて「平和行動」に参加させて頂きまして本当
に有難うございました。これもー重に電機連合及び群馬地協に加盟していなければ、参加
する事無く通り過ぎて行ってしまった事だと思います。
まず、1日目の第1部は「平和な地球を求めて」という次第で講演がありました。その
中で、元白梅学徒看護隊の崎島麗子さんの平和への証言という話がありました。
「白梅学徒
看護隊」とは、昭和20年3月6日∼6月4日まで、学徒勤労動員令によって従軍補助看
護婦として女子高の4年生、56名編成の学徒隊のことを言います。短期間の看護教育を
受け3ヶ月という短い期間ではありましたが、学徒看護隊の任務についての苦難を証言さ
れました。続いて、
「日米地位協定」の講演ですが、今回の講演を聞いて日米地位協定の改
正を求める動きが、県・連合を始めとし経済団体やNGOなど多くのところから主権・人
権・環境の視点で全面改正の動きがある事を改めて知る事になりました。また、連合から
も日米地位協定の抜本見直しに向けた13項目(基地の提供・措置・環境保全等や雇用条
件・租税・裁判権など)にわたる要求が出ています。
2日目のピースフィールドワークでは、平和祈念公園・平和の礎・糸数壕・ひめゆりの
塔を視察し、ひめゆりの塔で
は連合群馬として千羽鶴を折
って献納し、平和集会への参
画と参加による平和意識の向
上を図りました。この日、い
ちばん心に残った事は、一緒
にピースフィールドワークに
参加し案内をしてくれたスタ
ッフの方が言った言葉ですが
「終戦後59年が経つが、ま
だ戦争は終わって無い」とい
う言葉が頭から離れませんで
した。
今回の 平和行動では、平和
が あってこそ県民や労働者の
オキナワ集会「崎島麗子さん」の講演
生活が維持できることを原点に考えさせられる大変貴重な体験が出来ました。戦争の悲惨
さを風化させることなく、平和行動の大切さや平和維持に努め「恒久平和」が来る日まで
労働組合としても取り組んで、より多くの組合員に「戦争の悲惨さや歴史」を伝え平和に
対する意識を高めるよう進めていきます。
電機連合・三洋電機労組アメニティ支部
薗田 浩則
沖縄のイメージは飛行機会社の宣伝戦略に乗せられて「リゾート」
「観光」と、画一化さ
れてきていますが、そんな上辺だけのイメージでは払拭できない程の傷を沖縄は負ってい
ます。組合員の添乗員ガイドの説明では「本土決戦を遅らせる為に沖縄県民は捨石にされ
た」事を強調していました。換言すれば、日本軍が戦争戦術の一つとして、国民を死に追
いやることを選んだということです。軍人も国民であり、「国民が国民を死に追いやる。
」
これはまさに悲劇であります。ロシア・中国戦勝に味をしめ、自国の力を過信しアメリカ
に奇襲攻撃で宣戦布告、一時は優勢が伝えられましたが、すぐにジリ貧、撤退に撤退を重
ねた末、尻拭いを沖縄県民が担ってしまったのです。
戦争の最終局面では、老人・女・子供がガマ(洞窟)や墓の石室に隠れて、暑さと餓えを
耐え忍んで居るところへ、日本軍残兵が占拠し、追い出されて爆撃や火炎放射器で、焼き
殺されたと史実も語っています。日本は被害者という一面もありますが、在日外国人が従
軍慰安婦として軍に奴隷や家畜のように扱われていた、という話を聞くと日本は加害者の
側面を持っていると感じました。
戦争という狂気が引き起こして
しまった数々の犯罪について、沖
縄での戦争について我々は真正
面から見つめ直し、何を誤ってこ
うなってしまったのかを検証し
て平和の大切さを改めて学んで
行く必要がある事に気付かされ
ました。そして、自分の中で風化
させないように、今後の生活の中
で「平和」に関する感度をブラッ
シュアップして行きたいと考え
ています。最後に、全ての戦争被
害者に対してご冥福をお祈りい
たします。合掌。
連合沖縄組合員のガイドによるアブチラガマの説明
電機連合・三洋電機労組半導体支部
鈴木 利之
台風6号の影響もなく、猛暑の6月21日から23日の3日間、連合の平和行動in沖
縄が開催されました。この取り組みは、戦争の悲惨さや歴史を認識し、戦争体験者や現地
の生の声を聞き、平和に対する意識を高め、自分で見聞きしてきたことや想いを語り継ぎ
の行動で風化させないことを目的としています。
今回、連合群馬では初めて団を編成しての参加で、その一員として参加しました。参加
する前は、沖縄戦についてはほとんど無知でしたが、那覇市民会館で行われた集会では児
童・生徒の若者たちの平和メッセージ朗読や、平和への証言では白梅学徒看護隊(従軍補
助看護婦)の体験談などを聞き、沖縄戦は太平洋戦争における最後の日米決戦でありまし
たが、結果的に日本軍が住民を盾に犠牲を強いた戦争であったことを知りました。
また、間違った教育、集団自決の強要やスパイ容疑での虐殺と「米兵より、日本軍が怖か
った。」と言う生存者の声もあるぐらい悲惨で残酷な戦争だったそうです。
視察では平和祈念資料館、糸数の壕、ひめゆりの塔を見学しました。いちばん印象に残
ったのは、糸数の壕(糸数アブチラガマ)で、全長270mの真っ暗闇の自然シェルター
内に、日本軍と600人以上の負傷兵、住民200名余りが雑居し、身動きも取れないよ
うななかで、ひめゆり学徒隊が負傷兵の手当てを行い、住民は盾にされながら日本無条件
降伏までの期間を過ごしたそうです。その壕内は米軍に攻撃されたあとが生々しく残って
おり、戦争の恐ろしさを強く痛感しました。
また、沖縄戦で群馬県人830名余りが犠牲となり、平和祈念公園の平和の礎に埋葬さ
れていることを知り大変驚きました。
平成16年沖縄全戦没者追悼式では、イラクへの人道支援や多国籍軍派遣など、多くの
問題を抱える小泉首相ですが、「米軍基地縮小へ努力する。」と公約され、その実現に向け
邁進して欲しいと思いました。
沖縄では戦後59年たった今でも、住民は米軍基地の問題や米兵の問題を抱え戦ってお
り、口を揃えるように「戦争は、まだ終わっていない。」と言います。そして、戦争の悲惨
さ、戦争の残酷さは、大人から子供へとしっかりと語り継がれています。
これから広島、長崎、根室と集会が開催されますが、少しでも多くの人に参加していた
だき、平和について考え、平和の大切さを知って欲しいと思います。
電機連合・三洋電機労組半導体支部
鈴木 智秀
私が持つ沖縄のイメージは、青い空と透き通る海、珊瑚礁や星の砂、長寿で陽気な人達、
ドラマ「ちゅらさん」の舞台、観光の町…。あげれば良いことばかりが思いつきす。
しかし、今回平和行動へ参加し、さまざまな歴史・事実を知り、実際に起きた現場に立
ち、そして、後世に戦争の悲惨さを伝える語り部さんの話しに、こんなに心が動かされる
経験は初めてでした。では少し歴史と実際、見て聞いて、感じてきたことを書きたいと思
います。
沖縄戦は日本で唯一の地上戦が行われ、本土防衛の準備が完了するまでの単なる時間稼
ぎの展望のない捨石戦。そのため、多くの住民が駆り出され、犠牲となったという事実を
知ることができたのがひめゆりの塔や沖縄平和祈念公園内の資料館でした。館内には、写
真や当時を再現したジオラマ、ビデオ放映をはじめとし、多くの住民の証言など、当時の
様子、戦争の悲惨さ、悲しさ、無力さ、絶望感、そして復興にかける思いを見ることがで
きました。
実際の戦場として糸数壕(アブチラガマ)を訪れました。沖縄には珊瑚の隆起によって
自然とできたガマ(沖縄の方言で洞窟)はシェルターの役目をしていたそうです。懐中電
灯を片手に中に入ると、外の暑さを忘れさせてくれる涼しさでした。しかしガイドの説明
によると、奥は軍関係者、入り口付近が住民、明かりはほとんど無く、住民や負傷者など
でごった返す状態に、何日も過ごさなければならないなど、悲惨な状態で異臭も立ち込め、
最終的には米軍の攻撃を受け入り口付近から火炎放射やガソリンを入れられ天井付近が真
っ黒になり、今でも爆風による缶が天井に刺さっていました。こんな事実があったなんて
想像もつかないし、この場に足を運ばなければ経験することのできない貴重な体験でした。
決してこの惨劇を繰り返してはいけないと思いました。
最後に、ガイドの方の説明では、
「沖縄の人にとっては、まだ戦争は
終わっていない」ということ。それ
はいまだに島の1割を占める米軍
基地問題や、地位協定問題などがま
だ残っているからです。私が住んで
いる群馬では、想像もできないこと
でした。振り返ると沖縄戦のことは、
この時期を除いては、ほとんど放送
が無く、語られることさえあまりな
いように感じます。是非、私を含め
多くの皆さんが戦争について考え、
語り、そして、未来に向かって戦争
の無い平和な世界を作っていかな
懐中電灯で照らしなら歩いたアブチラガマ内
ければいけないと強く感じました。
電力総連・東電労組
高橋 慎一
私の沖縄に対する印象は、リゾート地で綺麗なイメージしかありませんでしたが、平和
行動に参加して今までの私が無知だった事に気付き、沖縄の歴史を知ることで戦争の悲惨
さを十分認識することになりました。
沖縄は、住民を巻き込んだ地上戦を経験し、多くの方が亡くなった事は学生時代に勉強
しましたが、実際どのような事が起きていたか等は全く知りませんでした。地位協定につ
いても、私の生活に直接関係ないものと考えていました。米軍基地が多いという認識しか
なく、沖縄県民が騒音で苦しんでいる事など他人事のように思っていましたが、那覇空港
で着陸の際に低空飛行をしたことについて、未だに沖縄の空は米軍に支配されていて地位
協定が関係している事を聞き、沖縄の方以外も生活に深く影響している事を思い知らされ
ました。
資料館など数箇所訪れましたが、一番印象に残った場所は糸数壕です。暗闇の中、壕の
中を歩いて行き、死体安置
所付近で懐中電灯の明かり
を消した時、何も見えず天
井から水滴が落ちてくるな
どかなり薄気味悪く、現在
では全く想像出来ない場所
で生活していた事を考える
と、当時の方の苦しさを充
分に実感出来ました。
今後は、学んできた事に
ついて多くの方に伝えてい
き、未だ終わっていない『沖
縄戦』について永遠に忘れ
られる事が無いように考え
ていきたいと思います。
頭上に気をつけて入ったアブチラガマの入り口
電力総連・東電労組
小林 慎也
今回、初めて平和集会に参加させてもらいました。自分なりに考えさせられることも多
く大変勉強になりました。
私自身、沖縄に行くのは初めてのことであり、沖縄のイメージといえば青い空と海の観
光地というものでしかありませんでしたが、私よりも若い現地を案内してくれた青年部の
方の「私たちにとっての戦争はまだ終わっていない」
「私たちが当たり前と思っていたこと
は実はそうではない、おかしいことなのだ」という言葉を聞き、そのイメージは一変しま
した。
まず、目を引いたのは、軍事基地の多さと大きさであった。テレビ等で見聞きすること
は何度もあったが、移動の先々に基地があり、町と隣り合うように大きな基地がある光景
はとても異様に思えました。
戦争体験者の話も聞くことができ、沖縄戦は非戦闘員を巻き込んだもので敵国ばかりで
なく、日本の軍も住民にとっては恐怖の存在であったと思います。実際多くの方が戦中、
戦争終結後に犠牲となり、視察した糸数の壕、ひめゆりの塔など戦争の傷跡は今も消える
ことなく、知識としての戦争と実際にそこで見聞きする戦争とのギャップの大きさは私の
想像を超えていました。無数にある慰霊碑や平和公園なども、戦争の悲惨さとともに二度
と戦争はしてはならないと我々に伝えていました。
普段、平和について考えることなど皆無でありいましたが、自分の目で見て感じること
の大切さがわかりました。
何も起こらなくて当たり前、平和なのは当たり前というように、だんだんと感覚が麻痺
していると言っていました。親の世代も戦争を知らず、当時を知る人も少なくなっていく
中で、沖縄の人達は世代での受け継ぎがうまくいっていると感じました。私もそれを見習
い、平和であることの大切さを伝えていかなければいけないと思いました。
情報労連・東京情報通信建設労組和興支部
平山 一城
6月21日∼23日の日程で全国から各都道府県の仲間約2千名が沖縄に集結し「職
場・地域から世界へ!!つくろう平和と人権」をテーマに『04連合 平和行動 in 沖縄』
に参加してきました。自分は平和行動に参加するのは初めてでしたが、沖縄へはプライベ
ートで行ったことがありました。温暖な気候のもと綺麗な海辺でのんびりと時間を過ごし
たり、地元料理を食べたりしました。今回平和行動 in 沖縄へ参加するにあたり、事前に関
係資料が配付され沖縄の歴史について勉強しました。
今から59年前の沖縄で、地上戦を繰り広げ20万人を超えるかけがえのない、罪のな
い人たちの命が奪い去られました。驚いたのは一般市民の戦死者が軍人よりも上回ってい
ることです。1972年に本土復帰を果たしたものの、現在国内の米軍基地の約75パー
セントが残っていて、航空機による騒音等に苦しめられている状況です。今までの認識で
は、太平洋戦争というと原爆投下され今なお被爆に苦しむ人々の姿、広島・長崎の印象が
強く思い出されます。
しかし、実際に平和祈念公園・平和祈念資料館・平和の塔・ひめゆりの塔の見学、「沖縄
全戦没者追悼式」への参加、更には沖縄戦にて兵隊や住民達が使用した糸数アブチラガマへ
潜入、戦場跡地を体験し沖縄戦の悲惨さのみが残りました。特に印象に残ったのはひめゆ
りの塔(平和祈念資料館)で、本来なら楽しい青春時代を過ごすはずの女学生が強制的に
戦場へと駆り出され、戦場で亡くなられた方々の写真・生前の様子・戦死状況が展示され、
更には実際戦場を体験した人の話を聞くことができ、とても胸が痛くなりました。
また平和祈念資料館、平和祈念公園には、地元幼稚園生(五、六才位)が実際に使用し
た魚雷・大砲・武器等を見学している姿を目にしました。自分はとても驚きました。まだ
幼い子供達には武器等の見学
は抵抗があると思ったからで
す。私たちが住む町に置き換え
たら到底考えつきませんし、も
ちろんそのような見学施設も
ありません。自分は思いました。
小さい頃から過去の事実を知
り平和の重要性を自然と身に
付けていく。ここに数々の苦難
を乗り越えた沖縄県民の強さ
と平和を訴える統一した心を
感じました。
今回の連合 平和行動in 沖
実際に使用されていた旧日本軍の酸素魚雷
縄 に参加して改めて戦争の悲惨さと平和の大切さを痛感しました。今日、イラク問題ま
た世界各地では戦争・紛争等起きている場所がありますが、平和を強く訴えたいと感じま
した。過去の悲惨な出来事を忘れることなく二度と同じ過ちを繰り返さぬよう次世代に正
しく伝え、平和について考える機会を増やし、またそのための環境を整える活動等をして
いきたいと思います。
最後に貴重な体験を与えて頂き感謝しています。今後もこの平和行動を続けていただき
たいと思います。
情報労連・国際電設労組
田村 隆幸
6月21日、平和行動に参加して初めて沖縄の地を踏みました。
その日は平和集会と交流会に参加し、平和集会では平和メッセージの朗読が印象的でし
た。小学生から高校生までの、それぞれの代表作品が読み上げられ、私と同様に戦争を経
験していない世代からの平和に対する熱い思いが伝わってきました。また交流会では、郷
土料理や民謡、空手、舞踊などの琉球文化にふれ貴重な体験ができました。
2日目のピースフィールドワークでは戦争の残酷さを肌で感じた気がしました。
糸数壕という洞窟の中は何とも言えない空気でした。59年前、今自分が立っている場
所では多くの人々が苦しみ、そして命を落としていったのです。
また、平和記念資料館でも沖縄戦の生々しい歴史を経験しました。
最終日の6月23日には、沖縄全戦没者追悼式に参列し、世界平和を願いました。そし
て、平和行動の全行程を終えた時、資料館の壁に書かれた一文を思い出します。
「戦争をおこすのは人間です。しかし、それ以上に戦争を許さない努力のできるのも私達
人間ではないでしょうか。」私はこれを読んで思いました。戦争を許さない努力のできる人
間になろうと。
人は何故争うのか?争う事により得るものは何なのか?それは痛みであったり、悲しみ
であったりします。人を笑顔に導くものは決して得られないでしょう。
沖縄で経験した3日間をできるだけ多くの人に伝えたいと思いました。平和がいかに大
切なのかを。
ひめゆりの塔で平和を祈り、折り鶴を献納
平和行動 in 広島
日
程
2004年8月
5∼
6日
ピースウォーク
連合平和ヒロシマ集会
6日 平和祈念式典
5日
参加者
10名
氏
名
産別名
所
属
アライ
新井 精一
セイイチ
電機連合
日立労組高崎支部
アサイ
浅井 英克
ヒデカツ
電機連合
ヨコオ労組
ホリウチ
堀内 真治
シンジ
電機連合
ヨコオ労組
チシマ
ユカ
情報労連
NTT労組上信越総支部
由希子
情報労連
NTT労組上信越総支部
アライ
新井 恒子
ツネコ
電力総連
東電労組
イシハラ
石原 秀和
ヒデカズ
自治労
小野上村職労
オオタキ
大滝 優子
ユウコ
自治労
安中市職労
アベ
阿部 和彦
カズヒコ
連合群馬
(電力総連・東電労組)
ナカムラ
ミワ
連合群馬・女性委員会
(全国一般・恵風会労組)
千島 友香
サカキ
榊
ユキコ
中村 弥和
電機連合・日立労組高崎支部
新井 精一
広島平和集会に縁あって連合群馬の団の一員として参加させて頂きました。
平和公園は個人的には数回訪ねたことがありました。しかし、今回は団の一員としての
参加であり、改めて連合の集会の段取りに感動しました。沖縄、長崎、広島とそれぞれの
平和集会をそれぞれ違った視点で捉え(当然の事ですが)、全国から集まる連合に集う構成
員に感動と「核の怖さ」を充分に伝える姿勢、正にその地でその犠牲者に接していないと
分からない事をこの短期間の中でメッセージとして参加した者に、否応無しに伝えてくれ
るそのパワーは素晴らしいことと考えます。
戦争は犠牲者の数で、比較出来るものでは有りませんが、広島集会への参加者、特に外
国人の多さに驚きと、関心の高さ=「世界平和」への願いを痛感しました。
これら戦争の犠牲者が全国に滞在し、今も大変な思いで生活している事に「連合として
何か出来る事はないのか?」との思いで、原点に戻って考えることも必要かと考えます。
平和ヒロシマ集会で行った折り鶴献納
情報労連・NTT労組上信越総支部
千島 友香
幼少の頃、私の育った地区では、毎年夏になると必ず「はだしのゲン」が上映されてい
ました。当時まだ小さかった私は、その映像を見て本当に恐い思いをした記憶があり、今
でもなお、当時見た映像ははっきりと覚えています。しかし今回の平和行動で、私が見た
こと、聞いたこと、学んだことの全ては、その何十倍も何百倍も辛く、苦しく、とても悲
しい「現実」でした。戦争の悲惨さ・原爆の恐ろしさの象徴とも言うべき原爆ドームを始
めとした数々の戦跡や、大きく湾曲したガラス瓶など当時の状況を生々しく物語る品々、
1日目の記念式典で見た衝撃的な映像など、思わず目を背けたくなってしまうような信じ
られない事実がそこにはありました。その中でも、
「喉の乾きに耐え切れず、傷口から出る
膿を飲んだ」という話には強い衝撃を受けました。私も夏の暑い日に、炎天下で作業をし
ている時などに喉が乾いて辛い思いをしたことは何度かありますが、
「喉が乾いたら水が飲
める」ということは当たり前のように思っていました。当たり前のことが当たり前ではな
い現実…私はその一文を読んだときに「水があることが当たり前」と思っていた自分とそ
の程度の暑さで大変だと思った自分がとても恥ずかしくなりました。
実際に戦争を経験した世代が減少していく中、これからは戦争を知らない私達が後の世
代に伝えていかなければならないという役割を担っています。しかし、人から伝えられた
ことを正確にかつ「当事者」として伝えていくことは、正直とても難しいことです。私が
この二日間で学んだことは、
「戦争」というとても大きな闇のほんの一握りでしかありませ
んが、日本が今の平和な時代を築きあげるまでに多くの命を奪われ、たくさんの犠牲を払
い深い傷跡を残したということを絶対に風化させないためにもこの貴重な経験を平和のた
めに少しでも役立てることができればと思っています。
情報労連・NTT労組上信越総支部
榊 由希子
「暑いっ」そう思って時計を見ると8時15分でした。今この瞬間に、目の前の全てが
なくなってしまうなんて、誰も想像できなかったと思います。広島は中学の修学旅行以来
です。今思えば、あの頃の私は友達同士の楽しい旅行という気持ちだけで広島の地を訪れ
ていたように感じます。あの頃見たものが、今回はまた違った形で私の目に映りました。
今にも崩れてしまいそうな灰だらけの三輪車が小さな命の尊さを訴えています。羽を広げ
た鶴が2センチにも満たない程の大きさで平和のありがたさを教えてくれます。貞子さん
の話は以前から知っていましたが、あんなにも小さな鶴をどんな気持ちで折っていたのか
と、なんとも言えない気持ちになりました。それと同時に戦争への強い憤りを感じました。
これから何年経っても、日本人である私たちがいつまでも語り継いでいくべき戦争の傷跡
だと感じています。
今ある生活がどんなに幸せであり、どんなに恵まれた環境なのか、改めて実感させられ
ました。日頃、忘れかけていた大切なことを学べた気がします。とても貴重な経験になり
ました。それと同時にこれからもこの平和が続くことを祈っています。
連合広島組合員ガイドより
モニュメントの説明を受ける参加者
電力総連・東電労組
新井 恒子
世界で初めて原爆被害を受けた広島の平和集会及び広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念
式に10名で団を編成し参加してきました。行程的には、8月5日の6時20分に自宅を
出発し、6日の19時に帰宅という中で、炎天下でのピースウォークや集会、また慰霊・
祈念式参加という体力勝負も感じる内容でした。
ピースウォークでは、平和記念公園内を、連合広島のピースガイドからモニュメントの
説明を受けながらほぼ一周しました。参加者は777名と聞きました。
モニュメントは「原爆ドーム」
「原爆の子の像」
「原爆死没者慰霊碑」
「峠三吉詩碑」等は
良く耳にするものでしたが、その他いくつかの慰霊塔や碑また記念館が設立され、
「被爆し
たアオギリ」が移植されています。
「広島平和記念都市建設法」に基づく平和記念施設とし
て整備されている公園ですが、一つ一つのモニュメントには言葉つくせぬ思いが多く感じ
られ、派遣目的である「現地を見て戦争の悲惨さを感じとり」ました。
広島厚生年金会館で行われた2004平和ヒロシマ集会はコンサートに続き開会され、
黙祷をささげ、目の中には昼間訪れたモニュメントが思い起こされました。続く「折り鶴」
の献納では、連合群馬からは平和の願いを込め、24,000羽を8人の団員が献納しま
した。また、ビデオ「ヒロシマ・原爆の記録」の上映があり、内容は原爆の恐ろしさはも
ちろんですが、思わず目を閉じてしまいたい場面が数多くあり、この有様を伝えなくては
いけない哀しさ(全世界が平和で有れば、核などなければ…)が身にしみて感じられまし
た。その後、主催者代表で笹森連合会長が挨拶を皮切りに挨拶や、ピースメッセージ、ピ
ースリレー、ヒロシマからのアピールが続き、「原爆許すまじ」合唱で閉じられました。
翌日、広島平和記念公園で行われた広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式は、朝早
くより多くの人々が集まり、死没者名簿の奉納や献花、そして8:15の黙とう、平和宣
言や、平和への誓い、挨拶、最後に「ひろしま平和の歌」合唱で終了しました。
ところどころに「こども代表」が係わり、次世代への継承に真剣に取り組んでいました。
全世界で戦いが全く無くならないならば、広島、長崎の悲惨さは語り継いでいく事は重要
で、責任があると思い
ます。
広島平和記念資料館
では、原爆の悲惨な実
態を訴えているのはも
とより、戦争への歴史
から、なぜ広島が原爆
の投下地に選ばれたの
か、そして平和活動の
内容まで今まで伝え聞
いていたものとの違い
におどろく内容もあり
ました。何も知らずに
広島の地に着いた人は、
進んだ都会に来たと感
じるのではないでしょ
うか。が、広島平和記
広島市原爆死没者慰霊式の様子
念公園を訪れ見聞きすれば必ず「平和」について再考せずにはいられなくなるでしょう。
有事関連法が成立し、不安定なイラクへ自衛隊が派遣されている中での原爆慰霊式・平
和祈念式に(復興人道支援の必要性はわかっても)、不自然さを感じるのは私ばかりでしょ
うか。核拡散防止条約(NPT)は?核軍縮は?
核兵器の恐怖、戦争の悲惨さは、群馬の地でマスコミ頼りの情報ばかりでは知り得ませ
ん。現在いる自分は、どの様な犠牲の上に成り立っているのかも知りませんでした。被爆
者の平均年齢は72才を超えたそうです。
「声」
「さけび」
「訴え」が年々届きにくくなると
危惧されています。
県連合が、平和行動で各地に派遣しているわずかの人達でも、
「こんな思いは、もう二度
と誰もしてほしくない」
(平和の誓い)という願いを込め、被爆の状態を伝えることが核兵
器廃絶の行動を続けていく一歩になりうるのです。この行動は毎年継続していただきたい
と思います。
自治労・小野上村職労
石原 秀和
8月5日、6日の2日間「平和行動 in 広島」に参加させていただきました。私は広島に
行くのも初めて、また連合の平和行動への取り組みに参加するのも初めてで、何もわから
ず、最初はただ観光目的で広島に行くような気持ちでいました。しかし、現地に着き平和
記念公園内で開催していたピースウォークに参加し原爆ドームをはじめとするモニュメン
トを見学しているうちにただの観光だけで今回の参加を終わらせてしまってはいけないと
思いました。
連合広島の皆さんの平和への熱心な取り組みや「連合平和ヒロシマ集会」に参加した全
国の仲間たち、そして平和祈念式に参加された多くの人々の平和を想う気持ちを感じて、
戦争の悲惨さや歴史を多
くの人に知ってもらうた
めにも今回の平和行動は
重要なものだと思いまし
た。 私たちが安心して
暮らし、働いていくには
何よりも社会が平和でな
くてはなりません。今回
の平和行動で学んだこと
をより多くの人に伝え、
核兵器のない平和な社会
の実現のために今後も平
和活動に取り組んでいき
たいと思います。
平和ヒロシマ集会であいさつを行う連合笹森会長
自治労・安中市職労
大滝 優子
原爆が投下された地、広島に降り立ち、連合平和行動 in 広島に参加しました。内容はピ
ースウォーク、連合平和ヒロシマ集会、平和祈念式典に参加するというものでした。
ピースウォークでは、モニュメントに案内され、それぞれにガイドがついて説明を聞き
ましたが、私達の他にも周りには語り、聞く人々でいっぱいでした。そこには語り継がね
ばならないという広島の想いがあふれているようでした。
連合平和ヒロシマ集会での被爆後間もない記録映像は、反射的に目をそらしてしまうほ
ど辛く悲惨なもので、核兵器被害の現実を突きつけられました。
平和祈念式典に参加した後、原爆死没者慰霊碑の前に立ち手を合わせていると、本当に
安らかに眠れる日はいつ来るのだろうと以前聞いた言葉が頭をよぎりました。その時、平
和な社会に向けて行動するしかないと意識させられました。
広島という土地で見聞きする原爆被害や核兵器廃絶への想いは、そこに行くことでより
強く印象に残りました。ここに原爆が投下されたと思うと実感が増し、目の前のこの風景
を見るだけで今という時に感謝せずにはいられません。
被爆60年の来年まで
を核兵器の無い世界の実
現に向けた「記憶と行動
の一年にする」という平
和宣言は、戦争や核兵器
について改めて見つめな
おし平和について今一度
考えていかなければなら
ないと考えさせるもので
した。私たちに今できる
ことは何ですか。いつこ
の現実が戦争に変わるか
わからないのです。平和
について考え行動してい
くこと、常に胸に留めて
おきたいものです。
ピースウォークで平和記念公園内の説明に聞き入る参加者
連合群馬・女性委員会
群馬一般・恵風会労組
中村 弥和
今回私は、連合群馬の女性委員会からの派遣でした。
ピースウォークでは、連合広島の方々によるピースガイドで平和記念公園内のモニュメ
ントの紹介がありました。やはり、実物を目で見て、そして耳で聞くことでその一つ一つ
を心に刻む事が出来たと思います。連合主催の平和ヒロシマ集会では、折り鶴の献納を行
いました。ビデオ上映「ヒロシマ・原爆の記録」では、核兵器の恐ろしさを改めて思い知
らされました。
集会の最後に「原爆許すまじ」の合唱がありました。私は以前、長崎の平和集会に参加
した事があったので、この「原爆許すまじ」を歌う事が出来ましたが、この歌に初めて出
会った人は、歌が分からないと思いました。以前長崎の集会では、開会の前に会場でこの
歌がBGMとして流されていたと思います。 せっかくの集会ですから、皆が祈りを込め
て、心一つに合唱できる様、工夫があればいいと思いました。翌8月6日、平和記念公園
には世界中から多くの人々が訪れていました。8:15の黙祷、そして平和の鐘の音を聞
き人類全ての人々が平和に暮らせる事を心から願いました。
「原爆許すまじ」を合唱する参加者
平和行動 in 長崎
日
程
2004年8月
8∼10日
8日 連合平和ナガサキ集会
長崎原爆犠牲者慰霊式典
9日 平和シンポジウム
万灯流し
参加者
8名
氏
名
アクザワ
タケシ
産別名
所
属
毅
電機連合
三洋電機労組ハイテック支部
オカザキ
カズヒロ
一宏
電機連合
三洋電機労組ハイテック支部
カワバタ
マサキ
電機連合
ヨコオ労組
武井亜矢子
情報労連
NTT労組上信越総支部
ヨシダ
マキト
牧人
自治労
安中市職労
ツチヤ
マサオミ
正臣
自治労
藤岡市職
セイ ムラ
ソウイチ
宗一
連合群馬
(情報労連・NTT労組)
ナガイ
ナオキ
連合群馬青年委員会
(情報労連・NTT労組)
阿久澤
岡崎
川端
タケイ
真樹
吉田
アヤコ
土屋
清村
永井
直樹
電機連合・三洋電機労組ハイテック支部
阿久澤 毅
8月9日午前11時02分、大きなサイレンの轟きと共に黙祷を始めました。気温は3
0℃を優に超え、猛暑の中での黙祷でした。しばらくすると、心地よい風が私の身体を通
り過ぎて行きました。今、私がこの心地よさを感じていられるのは、平和であるからに違
いないと思いました。しかし世界の各地では、死と背中合わせでやっとの思いで生きてい
る人が数え切れないほどいるのです。広島で、長崎で、こんなに多くの人の尊い命が奪わ
れ、核兵器の恐ろしさを皆知っているにも係わらず、世界には約3万もの核兵器が保有さ
れている。そして今でも、核兵器の製造、実験の段階で多くの人たちに被害が及んでいる
事を知り、改めて核とは「係わりたくない代物」だと痛感しました。
同じ9日、皮肉にも関西電力美浜原発3号機で蒸気漏れが発生しました。放射能は漏れ
なかったものの5人の尊い命が奪われてしまいました。原子力発電が止まったら、日本の
電力事情は大変な事になると分かってはいるが、人命と快適な生活と、どちらが大切な事
かを考えさせられる事件でありました。
世界で唯一の被爆国「日本」
。我が国に課せられた使命は、国を挙げて核の恐ろしさを世
界に伝え、平和な社会を目指すために核をこの世から1日も早く廃絶することではないで
しょうか。
私たちは、平和は当たり前だと思っていますが、2004平和行動 in 長崎に参加して、
平和であることの有り難さを改めて認識させられる絶好の機会となりました。そして、こ
の平和は、世界中の人々と分かち合わなければ、広島や長崎や世界の各地で戦争の犠牲と
なった人々の御魂が報われないのではないでしょうか。百聞は一見に如かずと言います。
2度と過ちを犯さないためにも、一人でも多くの人に平和行動に参加してもらい、戦争の
悲惨さを自分の目に焼き付けて欲しいと思います。
猛暑の中での長崎原爆犠牲者慰霊式典
電機連合・三洋電機労組ハイテック支部
岡崎 一宏
連合群馬の一員として参加をした今回の平和行動では、8月8日に連合平和ナガサキ集
会、9日に長崎原爆犠牲者慰霊式典や平和シンポジウム、万灯流しに参加しました。
連合平和ナガサキ集会では、高校生平和大使の報告や演劇仕立てで行われた構成詩、「親
子で綴る平和の願い PartⅢ」から、戦争の悲惨さ、原爆の恐ろしさを改めて感じる
ことができました。長崎原爆犠牲者慰霊式典は長崎市の主催で、小泉首相をはじめ、各党
の党首も訪れ、被災者や長崎市民のみならず、全国から大変多くの方が出席され、規模の
大きさにも驚かされました。私
たちの通常の生活の中で、戦争
や原爆などを意識することは
ほとんどといってゼロに等し
いですが、こんなにもたくさん
の人が戦争や原爆で無くなっ
た方の慰霊と、その悲惨な経験
をこれからの社会づくりに活
かしていこうとしている姿に
心が打たれました。
今後は、自分たちの組合活動
におきかえ、政治活動やボラン
ティア活動などに、この経験を
活かしていきたいと考えます。
平和シンポジウムの様子
情報労連・NTT労組上信越総支部
武井 亜矢子
「なぜ広島に?」
「なぜ長崎に原爆が投下されたのか?」こんなことは、長崎に行くまで
1度も思いませんでした。
「私には関係ない。」どこかでそう思っていたのかもしれません。
今から59年前の1945年8月9日午前11時2分、長崎に原子爆弾が投下されて、
7万人余りの人々が犠牲になりました。
長崎原爆資料館等を見て周り、愕然としました。原子爆弾が投下された瞬間の映像、壁
に焼き付けられた人の跡、真っ黒に焼け焦げたお弁当箱、何もかもが無残なものになって
いました。想像を絶するくらい熱くて、悪夢の時間を過ごしたのだろうと思いました。戦
争で身近な人を失ってしまった人の悲しみはとても深く、心に響く何かがありました。こ
んなことはもう2度と起きてはならないと思います。戦争は、人を不幸にしても、決して
幸せにはしてくれないのです。「私には、関係ない。」と思った自分がとても恥ずかしくな
りました。今は、
「平和な世界を祈りたい。」強くそう思っています。
自治労・安中市職労
吉田 牧人
2004年8月8日(日)∼9日(月)の間、
「職場・地域から世界へ!つくろう平和と
人権」の統一スローガン、
「すべての核兵器廃絶と核実験の禁止。恒久平和の実現を!被爆
者の叫びを世界へ。
」のサブスローガンのもと、4つの行動、
「2004平和ナガサキ集会」
・
「平和シンポジウム」
・「原爆犠牲者慰霊式典」・「万灯流し」を連合に結集する全国の仲間
と共に行動しました。
「2004平和ナガサキ集会」では、全国の仲間が、核兵器廃絶と世界の恒久平和を願
う気持ちを一つにして参加しました。59年前の8月9日午前11時2分、原爆による非
人道的攻撃が8月6日の広島に続き、長崎にも投下され、一瞬にして7万余の人々の尊い
命が奪い去られました。連合長崎を中心として「親子で綴る平和の願い」と題した構成詩
では、平和運動の「次世代への継承」を親子で考えるとし、歌と朗読で被爆体験・恒久平
和を参加者の心にとどけました。被爆の記憶が薄れつつある中で、被爆の実相を次世代へ
継承していかなければなりません。
「平和シンポジウム」では、
「高校生平和大使」がパネリストとなり、平和運動への熱き
思いを語っていただきました。1998年から国連へ「平和大使」として派遣されて以来、
これまでの活動は被爆地長崎の若者の真剣な願いとして国連に大きな影響を与え、また、
この取り組みを機に長崎県内では、若者の平和活動が活性化し、「高校生1万人署名運動」
をはじめとする様々な活動が生まれてきました。若者が自主的に運動をつくり、仲間に丁
寧に呼びかけ「次世代への平和運動の継承」が芽生えている長崎の高校生に、あらためて
「反戦・平和の取り組み」の大切さ、活動する力をもらいました。
「万灯流し」は、原爆殉難者慰霊奉賛会主催、連合長崎共催で行われました。平和運動
および戦争・原爆の悲惨さを次世代に継承していくとともに、市民と一体となって「市民
参加型」の平和運動を推進していくための行動です。厳しい戦時下で、犠牲となった市民
に「ひとすじの灯を」という呼びかけで、川面に浮かぶ2000灯に慰霊と平和の願いが
込められています。
「原爆犠牲者慰霊式典」では、8月9日、午前11時2分、一斉に黙祷。静まりかえっ
た平和公園で、59年前
の惨劇が、現実として振
り返られる時、「恒久平
和」がすべての人々の心
の中で熱く芽生えたの
ではないでしょうか。長
崎平和宣言では、世界の
超大国の核兵器廃絶を
訴えました。また、アメ
リカを中心としたイラ
ク戦争など、世界各地で
戦争が絶えません。人間
の生命を軽んじる行為
が日常的に繰り返され
ています。アメリカを追
従する小泉首相は、どん
な気持ちで被爆地長崎
構成詩で被爆体験や平和への思いを参加者に伝えた平和ナガサキ集会
を訪問しているのでしょうか。
最後に、長崎の高校生からの「若者の熱きメッセージ」を受け、被爆の実相や命の尊さ
を学ぶことにより、平和について考え、一人ひとりが平和の問題に関心を持ち、行動する
ことが、核兵器の廃絶と世界平和の実現につながります。全国各地の仲間と連帯し、核兵
器のない真の平和な世界を実現するために、努力していかなければなりません。
自治労・藤岡市職員組合
土屋 正臣
今から59年前、広島に原爆が投下されてから3日後の1945年8月9日午前11時
2分、第二の原子爆弾が投下され、7 万人あまりの人々が犠牲となりました。原爆は熱線・
爆風・放射線などの被害を与え、現在でも多くの人々が放射線障害の後遺症で苦しんでい
ます。
今回の長崎の旅は、自分なりにメディア等の媒体を介して得てきた59年前の長崎の「あ
の日」の出来事を直接原資料と向き合うことで理解を深め組合活動としての平和運動のあ
るべき姿を模索することを目的としました。歴史的な背景を捉え、今後のあるべき社会の
将来像を議論するための第一歩は遺されあるいは伝えられてきた史資料の分析にあります。
旅は8月8日から10日の3日間実施されました。第1日目は平和集会に参加し、第2
日目には長崎原爆犠牲者慰霊式典、平和シンポジウム、浦上川における万灯流しに参加し
ました。この旅の中で特に印象的だったのは、長崎原爆資料館の見学です。展示は核兵器
廃絶と世界の恒久平和の実現という明確なコンセプトのもとに、熱線・爆風・放射線によ
る被害の状況を遺された様々な資料や被爆者の証言を通じて浮き彫りにしています。こう
したことを踏まえたうえで、展示はさらに日中戦争や太平洋戦争の様相など、原爆投下に
いたるまでの政治的・社会的背景まで掘り下げて考察し、東西冷戦時代の核兵器開発競争
とその後の米ソ対立構造の変化に伴う核兵器の拡散と地域紛争における核兵器使用の危険
性を指摘しています。
組合活動における平和運動もまた、単に事実の羅列によって惨状を訴え、感傷に浸るも
のであってはなりません。必要なことは「戦争=悪」という前提に立った上で、過去の事
実を正確に捉え、そこに至るまでの背
景について分析・考察を行い、将来に
おける平和で安全な社会像を模索す
ることにあります。こうした一定の結
論に達すると共に、今後の平和運動の
展開について考える手がかりを得る
ことができた点で今回の旅はきわめ
て有意義でありました。
犠牲になった長崎市民の慰霊と平和への願いをこめて行った万灯流し
連合群馬・青年委員会
情報労連・NTT労組
永井直樹
広島・長崎に原子爆弾が投下されて59年。
今回、8月8日∼10日に行われた連合平和行動 in 長崎に参加しました。
平和行動に参加するのは今回が広島に続き2回目になりますが、戦争を知らない私にと
っては、長崎での戦争の爪跡を見学できたことは非常に良い経験となりました。当時の状
況を原爆資料館で見学し、長崎原爆犠牲者慰霊平和記念式典で被爆者代表の恒成正敏さん
の平和への誓いを聞くことで本当の意味での戦争や原爆の悲惨さを知りました。この長崎
平和行動に参加することができ、あらためて『二度と戦争は起こしてはいけない』という
思いと、今回学んだことを『風化させてはいけない』という意識が沸いてきました。
今の私が感じていることは、日本中が平和になりすぎていて平和に対する考え方が薄れ
てきているような気がするということです。
戦争は絶対に起こしてはいけない。そして、核兵器廃絶のために平和運動はこれからも
続けていかなければいけないと思います。
原爆で多くの命を失った悲しみを、平和を希求するエネルギーに変えてきたヒロシマ・
ナガサキは、原爆死没者への祈りをささげながら、平和への決意を新たにし、平和の思い
を世界に発信し続けています。平和は、与えられるものではなく、作り出すものであると
同時に、世界平和は実現可能なものです。悲惨な経験を後世に伝えていき、そして恒久平
和を実現するために行動するのです。
みなさんも職場、家庭、友人と、
「平和実現にむけて何ができるか」考えてみてはどうで
すか?「戦争と暴力の世紀」であった20世紀ではなく、21世紀を「平和と共生の世紀」
にしていくためにも。
平和祈念公園内にある「ある日のある少女の手記」の石碑
平和行動 in 根室
日
程
2004年9月24∼27日
25日 フィールドワーク(青空全体集会・分科会セミナー)
北方領土返還要求!平和ノサップ集会
26日
四島よ帰れ!平和ふるさと祭り
参加者
12名
氏
名
カワシマ
川島 貞美
サダヨシ
連合群馬前橋地協
(電機連合・東芝機器労組)
ハギワラ
萩原 浩二
コウジ
連合群馬館林地協
(電力総連・東電労組)
ホシノ
星野 秀彦
ヒデヒコ
連合群馬伊勢崎地協
(JAM・関口精機労組)
ヤギハラ
八木原伸明
ノブアキ
JAM
関口精機労組
イシカワ
石川 忠好
タダヨシ
電力総連
東電労組
オカダ
岡田 敏雄
トシオ
情報労連
NTT労組
シタラ
ヤスヒロ
JPU
JPU群馬
JPU
JPU群馬
設楽 康博
タムラ
ススム
田村
進
産別名
所
属
サクライ
桜井 祐貴
ユウキ
化学総連
信越化学労組
サイトウ
斉藤 光治
ミツジ
基幹労連
大同渋川労組
アベ
阿部 和彦
カズヒコ
連合群馬
(電力総連・東電労組)
サカウエ エリコ
連合群馬
事務局
坂上恵理子
連合群馬・前橋地協
電機連合・東芝機器労組
川島 貞美
初めて北方領土返還要求行動に参加させていただき、近くて遠いわが国の領土だと強く
感じました。北海道の北東に位置する歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の北方四島は、
第二次世界大戦終了直後、ソ連により不法占拠され今に至っています。
歴史的にみても、一度も外国の領土になったことがないわが国固有の領土であり、国際
的取り決めから見ても、わが国に帰属すべき領土であることは疑う余地がないと思います。
終戦直後、北方領土元居住者を始め、根室の人々の領土返還要求の声は、北海道全域に
広がり、さらに全国各地に浸透してきました。
納沙布岬での連合全体集会では、全国各地の連合に集う仲間と地元の皆さん等、総勢2,
000名で北方領土返還要求集会アピールをしました。そして、根室漁協始め地元の婦人
会の皆さんにより、平和ふるさと祭りとして、他では味わえない海の幸を頂くことが出来
ました。
また、21世紀を戦争のない平和な世紀にするために、領土問題を解決してロシアと平
和条約を結び、特に北方領土在住のロシ
ア人島民とのビザなし相互交流は、友好
を深める上で重要だと思います。連合は
ビザなし交流13年目に独自で「連合の
船」で国後島を訪問し、島民との交流を
行ってきました。
今回納沙布岬に立ち、歯舞群島まで3
kmの距離しかなく、肉眼ではっきり見
え一日も早い返還の実現をと思い、納沙
布集会でのアピールを職場や地域に持ち
帰り、多くの人に伝えることが必要だと
感じました。
夕日が沈む国後島
連合群馬・館林地協
電力総連・東電労組
萩原 浩二
北海道根室へ到着後は、バスでの移動距離があり疲労がありましたが、北方四島交流セ
ンター(ニホロ)において青空全体集会およびセミナーの参加をし、今回の目的である北
方領土問題を少し理解しました。すぐ近くに見えている国後島へは行けそうで行けない実
態にあり、目の前にあるので信じ難いことでした。日本国土であり渡航できない実態にあ
る北方四島は、近くて遠い島である。日本の領土で漁業をする上でお金をロシアに支払っ
ていること自体、おかしな状況であり早期返還を実現するよう日本政府が交渉をすべきで
あると思いました。
最初に青空集会にて返還掛け合いコール等を皮切りにスタートした今回の平和集会は、
多くの参加者と寒さでびっくりしました。つづいて6セミナーあるうちの2セミナーへ参
加し、その一つのセミナー『四島(しま)へのわが思い』については、今まで他人の事の
ように思っていた内容が自国で起こっている現実である事を実感しました。元島民である
浜松氏の人生の話しを聞き、内容としては、戦争前の暮らし、終戦後、ソ連(今はロシア)
の侵略に合い北海道へ逃げてきた様々な苦労等、さらにその後の生活のことでありました。
従来から日本の国土であるにもかかわらず戻れない島民のもどかしさを少し理解しました。
またこの内容を職場の仲間等に伝え、今後の活動へつなげて行きたいと思いました。
翌日は、最東端の岬である納沙布にて平和ノサップ集会へ参加し、目の前の歯舞群島が
ロシア占領地域であることに早く返還してもらいたいことを強く感じました。
今回参加にあたり、基礎知識の一部しかありませんでしたが、北方領土問題は、国民一
人一人が理解し一日でも早い返還になるよう国や国民が一致団結し返還のために様々な施
策をしていかなければならないと思いました。また、現状そこに住んでいるロシア人との
交流の必要性もあり、なかなか一筋縄ではいかないことも実感しました。ただし、今まで
以上の友好活動の継続がなければますます返還は難しくなり、現状より少しではあります
が良い方向に向かっていくことを信じています。
最後に今回の参加は、今後の平和活動をすすめていく中で大変勉強になりました。他の
平和集会等も参加し一人一人の理解活動も併せて活動したいと思います。
青空全体集会で返還掛け合いコール
電力総連・東電労組
石川 忠好
9月25日(土)
・26日(日)に行われる「北方領土返還要求2004平和行動 in 根
室」に参加しました。
北方領土問題とは、日本国有の領土である四島を、第二次世界大戦の終了直後ソ連軍に
よって不法に占領され半世紀を経過した現在においてもなおロシアの占拠が続いています。
このようなことは知っていましたが、現地を訪れることによってもっともっと詳しいこと
を学習することができました。
一日目に訪れた北方資料館の展示資料は今までに目にすることがなかった展示物を拝見
することとなりました。また、いまだかつて一度も外国の領土になったことのない日本国
有の領土を証明する「条約から見た北方領土」資料の前で足は止まりました。自分の中で
はわかったつもりでありましたが、この資料で条約・歴史に対する知識の浅さを再認識さ
せられました。
また、セミナーにも参加することができました。
「ふるさとへのわが思い」元島民であり
子供の時に姉二人と島を出た浜松とみさんより生のお話を聞くことができました。
幼いときの島での生活から、子供三人で島から出て知人のお宅にたどり着くまで、死と
背中合わせでの道のり……。やさしく語る言葉に涙をこらえることができませんでした。
平和とは何か、今あらためて考え直さなくてはいけないと思いました。
今回の一連の連合平和行動では多くの人が参加をしてきました。資料や活字からは学ぶ
とことのできない「大きなもの」
「強く心に残るもの」を学ぶことができました。参加者で
ある我々は、早期返還を願うだけでなく、この地で学んだことをいろいろな場を通じて広
く伝えていくことが肝要であると感じました。
最東端の納沙布岬・約3km.先には歯舞群島が見える
情報労連・NTT労組
岡田 敏雄
「北方領土返還」をスローガンに初めて平和行動in根室に参加しました。平和行動に
おいては過去、沖縄・広島に参加したことかありますが、自分の中では北方領土について
は他の平和行動とは違った印象を持っていました。それは沖縄・広島・長崎は戦争の悲惨
さ、残虐さといった生々しい印象が強いのですが、北方領土に関してはそういったモノで
はなく、領土問題という政治的問題という認識が強かったのです。確かに、沖縄や広島、
長崎においては戦争において数多くの尊い命が犠牲になったばかりか、今なお基地問題や
原爆の後遺症などで苦しんでいる人々がたくさん存在し、毎年、平和記念式典などはマス
コミで大きく報道され、国民の関心も高いと思います。それに比べ、北方領土については
過去に政府広報のTVコマーシャルなどがされたものの、自分の周りの人たちを含め、関
心が低いことは否めないと感じます。北方四島が太平洋戦争末期の旧ソ連の一方的な宣戦
布告から戦争終結後の占拠状態に至る過程で犠牲になった方々、強制的に島を追い出され
た方々が数多く存在していること、果たしてそれをきちんと理解している人が日本国民の
中にどの位いるのでしょうか。
平和行動の一環であるフィールドワークに参加して、この間の旧ソ連(ロシア)との領
土返還交渉や元島民の方の話を聞き、戦争というモノのもう一つの側面を理解することが
できました。改めて痛感させられたことは、戦争で一番被害を受けるのは政治家や官僚、
軍部の中枢でもなく、何も罪もない市民であるということ。北方領土においては、島民は
もちろん、根室をはじめとする北方領土周辺で漁をする漁師の方々など、生活する上で今
もさまざまな規制というか犠牲を強いられています。尊い命が犠牲になることはいうまで
もなく悲惨で許されるべきことではありませんが、命が犠牲にならなくともそこに暮らす
人々の生活が犠牲になるのであればそれも当事者にとってはとても悲惨なことなのです。
過去の日露両国の交渉における経過からすると今後も返還交渉は難航することが予想さ
れる。国のメンツも大事だとは思いますが国民あって国が成り立っているのです。何も今、
四島に住んでいるロシア人を追い出すといっているのではなく、彼らもある意味では被害
者かもしれない。ビザなし交流をキッカケとして四島のロシア人と日本人との交流がはじ
まり、民間レベルではお互いを尊重しながら今後のより良い方向を見出しつつある。政府
間交渉においても当事者意
識を持った対応が望まれま
す。
そして、今の自分に出来
ることは、一人でも多くの
人にこの体験を語り広めて
いくこと。まずは、自分の
家族にはきちんと伝えなけ
ればなりません。これが平
和行動の礎となると思いま
す。
フィールドワークでのセミナーの様子
基幹労連・大同渋川労組
斉藤 光治
連合主催の北方領土返還要求「連合平和行動in根室集会」へ関東ブロックの一員として
参加してきました。
私は、北方領土返還の行事・集会に参加するのは、今回が初めてです。自分の目と耳で
しっかりとこの問題を勉強し整理するためにもと、言う思いで参加してきました。
9月24日に羽田空港から釧路入り、翌日の25日の最初の行動として「もっと知ろう
ヨ。北方四島」のフィールドワークを北方四島交流センターで青空集会の後でそれぞれ参
加者の聞きたいこと・勉強したいことの課題別ごとのテーマ会場へ参加しました。私は、
一つ目のセミナーでは、日口交渉の課題と展望と題し「今明らかにする日口返還交渉秘話」
(講師:兵藤長雄氏元外務省欧亜局長)と「海に横行する密漁」(報告者:本間浩昭氏)
のセミナーに参加し、戦後59年間の領土返還への日本政府と当時ソビエトとの交渉の一
端を聞くことができました。
しかし、戦後59年間の北方領土問題にいまだ決着のついていない現状を見れば大変な
両国間の課題であると改めて肌で感じ取った次第です。そんな漠然とした思いで、次の日
の納沙布集会へ参加しました。
天気は、バスガイドさんに言わせれば「こんなに国後島・歯舞諸島がはっきり見えるの
は、めずらしい」と言うくらい良い晴れの日でした。目の前には、すぐその先に歯舞群島・
国後島が手にとるように身近に感じられるくらいの距離です。午前中は、会場内で地元の
連合北海道のみなさんの心遣いにより早お昼をご馳走になり北海道の旬のさんまや鮭・ほ
たて・じゃがいもなどなどに舌鼓をうち満腹になりました。12時より集会が開催され、
びっくりしたのは、この24日に連合としてはじめて国後島を訪問した「連合の船」の代
表者から報告がされました。島内での限られた時間内での交流会の事や、ビザなし交流会
等、初めて聞き大変感激しました。そして、さらに集会の中では、択捉島の当時日本人が
暮していた証拠の2棟の建物の保存運動についての取り組みが話されていました。そして、
もう一つ重大な問題で根室近郊の「米軍実弾演習の矢臼別における強行実施」の問題です。
海を隔てているとはいえ、ロシアとは国境を接しており、演習は、日口友好を阻害する何
ものでもありません。
この納沙布集会は、日口友好平和条約締結、四島返還を早期に実現しなければならない
重大な日本の課題を背負った
取り組みであり、この59年間
の政府・国民が領土問題につい
て本当に返還するために何を
してきたのか、もう一度しっか
りと総括し今後、北方領土返還
のための「10年計画案」くら
い示し取り組まなければ帰る
ものも返してもらえない、今の
日本の国情をロシアは、判断し
ていると思いました。
私は、自分のできることは何
か、これからこの課題をしっか
りと自分自身の周りから応援
していきたいと考えています。
返還要求への思いを強めた平和ノサップ集会
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