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第3巻第1号 2002年10月 - 15年戦争と日本の医学医療研究会
Vol. 3 No. 1 ISSN 1346 – 0463 October, 2002 Journal of Research Society for 15-years War and Japanese Medical Science and Service 15年戦争と日本の医学医療 研究会会誌 第3巻・第1号 2002年10月 目 次 第7回研究会特集 15年戦争と私の青春時代-ちょっとかわった私の人生90年をかえりみて戸を叩かれる日本-滞日1年間の感想 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 関東軍関連の陸軍病院について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 広島共立病院での在韓被爆者渡日治療と在外被爆者支援の現状について・・ 桑原 笪 竹内 青木 第8回研究会特集 15年戦争と東北帝国大学・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 15年戦争戦争末期における「東北1純農村の医学的分析」の評価をめぐって 魯迅と日中 15 年戦争・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・ 医学医療界の責任の構造・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一戸 富士雄 中谷 敏太郎 渡辺 襄 西山 勝夫 英武 志剛 治一 克明 ご案内 15年戦争と日本の医学医療研究会 第9回および第10回研究会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 15年戦争と日本の医学医療研究会会誌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 編集後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1 8 12 18 24 38 42 50 7 55 56 Articles Special Editions for the 7th Conference 15-years War and in my Young Days・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・Hidetake KUWABARA 1 Japan being knocked again by the destiny: rethinking and feeling about my one-year life in Japan Da Zhigang 8 On the Army Hospitals of Kantogun・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ Jiichi TAKEUCHI 12 Invitation treatment for A bomb survivors in Korea and support for A bomb survivors out of Japan Katsuaki AOKI・・・ 18 Special Editions for the 8th Conference 15-years War and Tohoku Empire University ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ Fujio ICHINOHE・・ Minoru TAkAHASI MD and social medicine at the last stage of the 15-years War Tositaro NAKATANI Luxun and Japan-China 15-years War ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ Takashi Watanabe The Outline of War Responsibility related to the Japanese Medicine・・・・・・・・・・・Katsuo NISHIYAMA 38 42 50 Information: The 9th and 10th Conference ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ Whole Articles List・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ Editorial Note ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7 55 56 15年戦争と日本の医学医療研究会 Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service 24 Vol. 3 No. 1 ISSN 1346 – 0463 October, 2002 Journal of Research Society for 15-years War and Japanese Medical Science and Service 15年戦争と日本の医学医療 研究会会誌 第3巻・第1号 2002年10月 目 次 第7回研究会特集 15年戦争と私の青春時代-ちょっとかわった私の人生90年をかえりみて戸を叩かれる日本-滞日1年間の感想 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 関東軍関連の陸軍病院について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 広島共立病院での在韓被爆者渡日治療と在外被爆者支援の現状について・・ 桑原 笪 竹内 青木 第8回研究会特集 15年戦争と東北帝国大学・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 15年戦争戦争末期における「東北1純農村の医学的分析」の評価をめぐって 魯迅と日中 15 年戦争・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・ 医学医療界の責任の構造・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一戸 富士雄 中谷 敏太郎 渡辺 襄 西山 勝夫 英武 志剛 治一 克明 ご案内 15年戦争と日本の医学医療研究会 第9回および第10回研究会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 15年戦争と日本の医学医療研究会会誌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 編集後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1 8 12 18 24 38 42 50 7 55 56 Articles Special Editions for the 7th Conference 15-years War and in my Young Days・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・Hidetake KUWABARA 1 Japan being knocked again by the destiny: rethinking and feeling about my one-year life in Japan Da Zhigang 8 On the Army Hospitals of Kantogun・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ Jiichi TAKEUCHI 12 Invitation treatment for A bomb survivors in Korea and support for A bomb survivors out of Japan Katsuaki AOKI・・・ 18 Special Editions for the 8th Conference 15-years War and Tohoku Empire University ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ Fujio ICHINOHE・・ Minoru TAkAHASI MD and social medicine at the last stage of the 15-years War Tositaro NAKATANI Luxun and Japan-China 15-years War ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ Takashi Watanabe The Outline of War Responsibility related to the Japanese Medicine・・・・・・・・・・・Katsuo NISHIYAMA 38 42 50 Information: The 9th and 10th Conference ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ Whole Articles List・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ Editorial Note ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7 55 56 15年戦争と日本の医学医療研究会 Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service 24 Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service October, 2002 第 7 回研究会記念講演 15 年戦争とわたしの青春時代 ―ちょっとかわった私の人生 90 年をかえりみて― 桑原 英武 うえに病院、治安維持法国賠同盟 15-years War and in my Young Days Hidetake KUWABARA Ueni Hospital and National Reaparations Union for Maintenace of Paublic Order Act キーワード Keywords: 旧制高校生活 life of the high school under the old system、地下生活 underground activity 、 獄 中 生 活 life of prison as a criminal of ideology 、 医 師 へ の 道 processing to a doctor ご紹介いただいた桑原英武です。90 歳になりま してやはり年はあらそえませんで、足腰がおとろ えましたし、目・耳なども不自由になってまいり ました。またこの研究会にふさわしい材料をとく に持ってもいませんので再三おことわりしました が、ご紹介ありましたように水野先生がきわめて ご熱心に、戦前の珍しい青春時代の体験を話して もらえれば良いということで、断りきれませんで した。90 歳になって今だから言えることもあり、 私の体験を、エピソードを交えておはなしし、お 役に立てればと思って厚かましく参上致しました。 ですから雑談的に聞いていただければ有り難いと 思っております。 中国から渡来した古い家系の子孫でないかと思い ます。京都一中の伝統や気風のなかに学問や文化 を尊ぶ気風がありました。当時全国的に配属軍人 がおって軍事教練が行われていましたが、京都一 中では異和感がありました。陸軍士官学校入学の 勧誘が来るのですが、入学するものは政府の意思に 反して非常に少ないのです。私達の 3~4 年前のノ ーベル賞を貰った湯川秀樹さん、この方も学者の 子弟ですが受賞後の記念講演の時に、京都一中の 伝統は軍人の伝統がない、学問・文化人を尊ぶ京 都一中の学風・雰囲気があるのだと話されました。 それを聞いて成る程なあと思いました。当時の京 都一中は世間の風潮に反するところが多かったの です。 (註)*1912 年は、7 月 30 日に大正に改元。 <岩波日本総合年表>では《この年米価騰貴で 下層民の生活困窮、一家離散増加、木賃宿・無料 宿泊所も繁盛》とある。 1918 年、東京帝大に「新人会」創立。<H.スミ ス「新人会の研究」>では《「新人会」の創立は、 「学生運動」という言葉が持続力を有し、主旨明 快で組織的な政治活動を指すものとすれば、近代 日本の学生運動のはじまりということが出来 る。》としている。 *父・桑原 斉(1951 年、66 歳で死去)は大分県 生まれ、熊本医専卒、親戚からの勧めもあり卒後 すぐ鐘紡の工場医となる。勤務先は大分県中津、 岡山、京都と転勤、子どもの教育上の配慮もあっ てという。母・フジ(1972 年、87 歳で死去) 。英 武は 1912 年(明 45)1 月 1 日、大分県西国東郡 西真玉村に生まれた。この年の 7 月末、大正に 改元。大正 7 年、岡山県上道郡西大寺小学校入 学、同 13 年同小卒業。 1.(旧制)中学卒業まで、とくに京都でのこと 1912 年に大分県で生まれまして、岡山一中 2 年 から京都一中にかわりました。当時どことも地方 の名門校ではゲートルをまいて、軍事教官が校門 に待っていてゲートルの巻き方が悪いなどと怒ら れる時代でした。ところが京都一中に来てみると 岡山に比べて雰囲気が全然違うのです。京都は底 冷えする所ではありますが、岡山ではオーバーな ど着るのはもってのほかだというのですが、京都 ではゲートルは巻かなくてよい、オーバーは自由 に着てよろしいと、中学の気風がコロット違うの です。京都という所は平安京からの 1200 年の伝統 といいますか、同級の学友も平安京の古い時から の名家の子弟がいるのです。茶道宗匠の千家の子 息の千君、出雲路という代々神官の家の人、僧侶 の古い寺の子弟とかです。また京都帝大の教授や 総長の息子もいました。当時は松井元興総長、応 用化学専攻で理学部長から総長になられましたが、 その一人息子の松井 清君はのち三高のとき一緒 につかまった仲ですし、考古学の浜田青陵教授の長 男もいました。その頃は余り気がつきませんでし 2. 第三高等学校(文・甲)でのこと たが、戦後新医協の大阪支部長もしてもらった鴨 京都一中の 4 年から三高の文・甲に入りました。 脚光増君も中学の同級で、変った名前で鴨脚(イチ 兄弟は男 5 人で私以外はみな医科工科に進みまし ョウ)といいますがどうしてもあの字では読めない。 た。親父は医者でありましたが、上の兄弟は理科 形の上からそう読むと思っていましたが中国では 系だから、自分ひとりは好きなところへ行かせて あの字をイチョウと呼ぶんです。 * 連絡先:茨木市西駅前町 10-912 〒567-0032 Address: Nishiekimaecho, Ibarakishi, Osaka 567-0032 JAPAN -1- 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 くれと言ったんです。後から親父が言ったそうで すが、文科にやったことは誤った、刑務所へ行く ようなことになったのは文科へやったからだと親 戚に言っていたそうです。三高に入学したのは昭 和 3 年で、共産党の 3.15 の最初の大弾圧の時で、 昭和天皇の即位のときです。その頃私は何もなか ったのですが、丁度人並みに人生如何に生きるべ きかと模索をしておったときでした。高等学校の 1 年の時は運動部活動に終始し合宿などしていま した。2 年になった時に 4.16 事件、第二次共産 党の大検挙がありまして、1 年上の人が 7 人ほど 検挙され、放校処分が行われました。それの復学 運動の学生運動がおこり、学生大会を開いたので す。がその時は否決されたのです。1 年上の人た ちが私達のチューターでした。峠一夫、長曽我部、 蓬城,平沢栄一とか云う人たちです。後に大阪の 知事になった黒田了一さんも彼らと同級でしたが、 当時はラクビーばかりやってこっちの傾向はない んです。それから鈴木といって、東京都知事をや った人も同じ学年です。私たちの 1 年上のクラス は三高の伝統のなかでも、一番進歩的な人が多い クラスでした。私も 2 年になってやっと学生運動 のなかで社会科学研究会に参加しました。当時半 非合法の研究会でしたが別に法律で禁止していた わけでありません。全国高等学校長会議やなんか で、文部省でこれを認めないようにという記事も 出ておりましたから、半非合法の研究会であった わけです。研究会を植物園で開いたりしておりま した。 当時私には、本ではブハーリンの「唯物史観」が 役に立ちました。また当時京大には河上 肇さん がおられ、私は先生の講義を聴きに行った覚えが あります。 2 年の夏休みの時に、父が鐘紡の工場医局の医 局長をしていましたが、昼日中に川端署の特高刑 事が来て家から私が引っ張られて行ったんです。 それで家はもうびっくり仰天で、当時天皇にはむ かうということ、戦争反対などと言うと両親など はどうしていいのかわからんぐらいびっくり仰天 です。ところがその時は、一緒に現職の京大総長 の一人息子もひっぱられました。当時京大の総長 と言うと大変権威がありまして、とくに三高など には絶大な影響力がありまして、総長の方からの もみ消しがありました。だからその時は私や松井 君などは 1、2 日で帰へされて、結局学校の方も不 問に付して何ら処分は無かったのです。だから、 当時一緒に捕まった松井君も、のち京都大学経済 学部教授になりましたし、堀君も神戸大学の教授 になりました。しかし私の方はマルクス主義も生 かじりの時だったんですが、家でバレてしまった ものですから、両親の監視も厳しくなってきまし た。私も若かった、18 歳です。この道を行くか、 親の言うことを聞いてこのままいわゆる立身出世 の道を行くか、どちらかを選ばねばならんほどに 家庭の事情がなっていました。そのうち、とくに 母親の顔色がだんだん変ってきまして、下手をす -2- ると私が殺されて母親が自殺しかねないような凄 惨な雰囲気になってきまして、私も若かったから 家を捨て主義に生きようと決心しました。1 年先 輩で放校処分になった長曽我部、峠、小西正雄が 大阪の金属労働者組合で、左翼労働組合運動に参 加しているのを頼って、少しも知らない大阪へ、 着の身着のままで家出をして学校も飛び出して、 大阪の旧評議会系の労働組合に入りました。前年 の 3.15 事件の後で、労農党、共産青年同盟、労 働組合評議会の 3 団体は禁止されているのです。 ところが評議会の本部は解散されていますが、全 国にある単位労働組合は健在なんです。それで私 は、大阪の東も西も知らないままに、大阪金属労 働者組合北支部の常任として、<横田秀三>の名 前で活動に入ったのです。 (註)*長兄は医師.1964 年に 61 歳で死去。 次兄は康則氏、医師、大阪府保険医協会理事長、 1982 年 77 歳で死去。三兄は歯科医師、1992 年 85 歳で死去。四兄は近畿大学工学部教授、1989 年 79 歳で死去。 *1894(M27):高等学校令:明治期に第一から 第八までのナンバー・スク-ル設立。 *1918(T7)年:大学令:(公私立大学・単科大学 を認め、学部制とする)。高等学校令:(公私立を 認め、文理科制とする。7 年制を本体とする高等 普通教育の完成機関となる)。1918~22 年:9 高 等学校新設(新潟、松本、山口、松山、水戸、山形、 佐賀、弘前、松江)、1923~26 年:8 校新設(東京 <7 年制>、大阪、浦和、福岡、静岡、高知、 姫路、広島)。1926 年:高校 31 校、同学生数 1 万 6584 人。 *1924 年:高等学校長会議「社会科学研究会解 散措置を申し渡す」。この年末迄に殆ど全ての大 学・高校には社会科学研究会が結成されていた。 *1925 年:治安維持法制定。 *1927 年:この年、三高文科合格者数(文甲: 75 名、文乙:37 名、文丙:35 名) *1928 年:東京帝大新人会、京都・九州・東北各 帝大社会科学研究会に解散命令。 *《学生運動地下潜行の時代(1928~34)》 [H. スミス 新人会の研究] 3. 労働組合運動から地下活動へ 先輩の峠一夫、小西正雄、平沢栄一などの指導 を受けながら、労働組合運動の一番末端の常任と なりビラまき、ストライキの応援、そのたびに捕 まっては留置場に検束されたり、拘留されたりして、 年のうち半分ぐらいは警察の留置場に入れられる ようなオルグ活動をやっておりました。丁度合法 から非合法に転換する最中でして、間もなく労働組 合が事務所を持っている方が危険になりまして、結 局地下へ潜らざるを得なくなりました。そして昭 和 5 年の、2.12 事件の時に組合ごと検挙されまし て、2 カ月くらいブタ箱に放り込まれました。し かし当時は正式の共産党員でありませんし、また 私も若かったです。当時は日本の司法制度は遅れ Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service ておりまして自白を偏重するのです。つまり共産 党に入党しているかどうかを本人に自白させるま で拷問するわけです.自白がないと刑を科して刑 務所に下獄させるわけにいかないのです。だから 共産党員でないのは長期の留置はされますが、2・ 3 カ月すると出されるのです。拷問というのも共 産党員だと自白させるために徹底的にやるのです。 私らのときは、まだ入いってないし、若いし、初犯 だから、自由法曹団の弁護士ももう 2 度と実際運動 しませんと公判で言えば、絶対執行猶予で外へ出て また活動できるからと言って勧めるのです。当時 はまだ若くて、全然止める氣はなくて、今度こそは 本式の共産党のルートに入って、本格的な地下活動、 共産党活動を十分準備してやろうと考えました。 随分食うに困りましたから、今度は食うにこまら んように親父のトラの子の通帳と印鑑を盗んで生 活資金にしようと云うことで充分準備をしました。 昭和 7 年の暮れ、大橋静市という関西資金局の 同志の手ずるで 2 度目の地下に潜ったのです。私 は労働運動を希望していたのですが、資金局のルー トで入ったものですから当面資金局で大衆団体の オルグを兼ねて、大衆団体の中に資金網を作りオ ルグすると言う任務でした。当時の長老であった 岩井弼次さんあたりの持っているシンパ網だとか、 それと大衆団体、新興教育連盟とか演劇連盟とか当 時のコップ(KOPF:日本プロレタリア文化連盟) のいろんな団体にシンパ網と資金網を作っていき ました。当時は完全に地下活動ですから全部街頭 連絡で、何時何分どこそこの通り、東と西から出発 して途中で逢って、すれちがって知り合ったよう にして横道にそれて、それから喫茶店に入って連 絡すると言うものでした。朝から晩までやってた わけです。2 年前に、2.12 事件の時には大阪の共 産党が全部やられて刑務所に入っているものです から、そのあとで共産党と全協の再建を一生懸命や ったけれども中央との連絡がとれないままに私は 捕まったのです。今度、2 度目の時は正規の共産 党のルートで行ってました。この 2 年のあいだに 資金局が整備されていました。私が 2 度目に潜っ た時は宿舎も民家の 2 階借り、服装も、生命保険の 外交員というふれこみなので、その名刺もちゃん と 100 枚用意して、保険の勧誘員の一式の書類も 用意し、ちゃんとした革のカバンに入れ、そして 疑われないようハウスキーパーまで用意されてま した。 資金局の、当時テクとよんでいましたが家屋技 術部が全部用意してくれ、一定の最低生活の資金 も用意されると言うようになっていました。悲壮 な決意で始めたのですが 3 ヶ月もしないうちに街 頭連絡中につかまりました。これは資金局の上の ほうが検挙されたためだと思うのです。それであ まりやられなかったのです。普通は地方で検挙さ れますと、まず上部との連絡を徹底的に追及する わけです。次の連絡日時とか場所を、上の方との 連絡を徹底的に拷問を加えて調べるわけです。そ して芋蔓的に中枢に向かって行くわけですがこの -3- October, 2002 時は余りしなかった。まあ、竹刀でどついたり、 鼻からヤカンの水を窒息寸前まで入れるなどの一 通りのことはしましたが、徹底的に逆さ吊りにし て殴るというような、小林多喜二が殺された時の ようなことはなかったのです。向こうも目的が無 かったらやりません。向こうだって拷問するのは 大変です。こんなこというと叱られるかもしれま せんが、刑事だって安月給です。拷問云うたら夜 中まで大変な肉体労働です。こっちだって大変で すが、安月給の刑事も共産党員だと認めさせない と手柄になりませんからね。有罪にして刑務所に 入れるためには。起訴できないし、公判が維持で きないですから。 一寸若いときのことにさかのぼりますが、三高 の 2 年の頃は今の“赤旗”になりますが「第二無産 者新聞」というのの配布責任者になっていました。 同級生の 3 分の 1 くらい読者にしておりました。 一応一番年若いくせに私は信頼されていたんでし ょう。大阪に飛び出して左翼労働運動に行くという 時、同級生にそう云うと、こそっと非合法でクラ ス会を開いてくれたのです。総代が間違えて担任 の栗原先生に伝えたので先生も。私が地下に踏み 切って学校を飛び出して行く壮行会みたいなもの でした。これは三高でも空前絶後でこの後にもな かったようです。そういう雰囲気の時代でした。 また、後のことになりますが、僅かなあいだの 半合法時代の労働運動の経験でしたが、これが戦 後になりますと大変貴重なものとなりました。戦 後急速に民主化し、各大学にも労働組合が雨後の 筍のように出来ます。私も当時大阪大学に居まし て、共産党の細胞長として公然化してやりました。 阪大の教職員組合をまず理学部に、そして工学部 に作りました。医学部は一番封建的でなかなか出 来なかったのです。医学部などは労働組合という と暴力団みたいな感じを持ておるんです。私のわ ずかな労働運動の経験ですが、労働組合とはどう いうものか、規約が要るとかそういうことも全然 1 人も知らんですから、実に貴重なものとなりま した。大阪中に労働組合をいろんな所に作って回 りました。当時起こった大学法案の進駐軍による 押し付けに対する反対運動も起こしました。私が 阪大におったもんですから、伝統のない阪大が中 心になって、大阪中の大学に大学法案反対大阪地 方連絡会を組織し初代の事務局長になり、委員長 には理学部の伏見康治教授がなりました。私の恩 師の今村阪大総長が、反対集会で大学の総長とし てははじめて、反対の意向を表明したことが翌日 の“赤旗”の一面に大きく出たりしました。戦後 はじめて商大の学生や阪大もはじめて街頭のデモ を行いました。 ちょっとそれましたが、2 度目に入ったとき昭 和 8 年ですが、今から思いますと戦前の共産党が 一番全国的に充実していた時ではないかと思いま す。司法省が戦後発表した、治安維持法による検 挙者と起訴者数の数字が出ていますが、検挙者数 は 3.15 の時は 3000 名、4.16 の時は 5000 名で 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 すが、昭和 8 年は 18397 名、うち起訴されたもの 1285 名で極端に多いのです。昭和 8 年は先に云い ましたように、資金局やテクが非常に充実してい ました。小林多喜二や岩田義道が殺されるのがこ の前後で、宮本顕治が最後とらえられたのが昭和 8 年 12 月で実際には共産党の中央が壊滅するわけ です。最後に袴田が捕まるのが昭和 10 年 3 月で、 これで中央委員がいなくなります。もう昭和 9, 10 年は共産党の中央は無かったようなものですね。 今度こそ本格的にと思ったのですが僅か 3 ヶ月 で捕らえられてしまったのです。2 度目でしかも 執行猶予期間でした。([註]1930 年治安維持法違 反で起訴され、32 年 5 月保釈、同年 9 月懲役 2 年, 執行猶予 4 年<大阪地裁>判決) 。即座に猶予が取 り消され、ほっておいても刑務所にやられます。 ですから、あまり拷問も徹底的でなくすみました。 2 度目に未決監に居た昭和 8 年 12 月に皇太子が 生まれた。これは刑務所の中にいますと、今の天 皇ですね、皇太子。男が生まれるか、女が生まれ るか、これ大変な違いなんです。皇太子が生まれ たら恩赦だ。即座に刑が 4 分の 1 減刑で、刑務所 から出られるですから、受刑者には緊張感があり ました。それ皇太子が生まれたとなると、余り大 きな声は出せませんが大万歳です。我々思想犯は 恩赦しないだろうと思っていたら、4 分の 1 減刑 となりました。( 〔註〕1933、昭 8 年 2 月検挙され、 玉造署、府庁地下室、北区拘置所<未決監>、大 阪刑務支所<未決監>と転々。同年 12 月皇太子誕 生で半年減刑。翌 34 年 12 月予審結審、懲役 3 年 の判決、大阪刑務所服役) 。共産党の場合未決が長 くて 1 年半未決に居りました。この頃思想犯がど んどん検挙される。思想犯は独房、雑居房には入 れません。いろんな策動をするからということで ね。警察の留置所でも思想犯はそれ以外の犯罪者 の雑居房には 1 人しか入れないのです。私達のよ うな若い者でも未決期間が長いですから、それと 思想犯ということで一目おかれてまして、古狸に なって監房長―牢名主にされるんです。腹が減っ てどうにもならないのですが、新入りは半ば腐っ た南京米の飯が食べられずこっちに持ってくるの で、それでやっと腹の減ったのを処理していまし た。当時の非人道的な虐待、ノミ・ダニ・南京虫 といった状態・処遇はこれこそ拷問です。そうい う苦労もありましたが、しかし若いということで すか、そういうことは少しも苦痛ではなかったで すね。マルクス主義の正しさというのは揺るがな かったですね。ただ当時のアカ攻撃で家族やなに かにえらい迷惑をかけました。親父はそのため会 社をクビになるし、兄弟の結婚問題や就職などに さしさわることなども随分ありました。親の期待 に反して、親の通帖を親の目を盗んで持ち出した りひどい事をしました。しかし親というのは子ど もにあきらめないんですね。私はこれで前科 2 犯 になるのですが、決して諦めないんですね。ある 意味では信頼してくれていたのです。そういうこ とで、あまり共産党に大した貢献もしていないの -4- に、仕事もしていないのに、5 年も刑務所に入る のは割に合わないというか、そうは思わなかった と思いますがそんなことでした。3 年目か 4 年目 に独房にいる時、親父は開業医になっていて、か えって良いんですね、自由開業の医者はね。それ で立身出世はあきらめて、自由業の医者になって いれば何とかいけるんじゃないかと、自分の体験 から親父は考えたようです。ただ前科 2 犯で、実 刑を受けているから医者にはなれんだろう、まさ かなれるとは思っていなかったと思います。が、 いろいろ奔走してくれて、なれなくもないという ことになりました。その前年(昭 11)に「思想犯 保護観察所」というのが治安維持法改悪の中で出 来ました。思想犯の刑余者や出てきたもの、起訴 猶予になったものを保護観察し思想善導する制度 が出来たのです。そこで親父が刑務所長や観察所 長に相談したのです。とくに刑務所長は同県人だ ということで頼ったところ、大変同情されて出来 なくはなさそうだということになったのです。当 時の医師法では 1 年の禁固以上の刑を受けたもの は医師免許状を下付せざることあるべし、とある のです。しかし実際には実刑を受けて医師免許状 を出したことは前例がないそうです。6 年以上の 刑だと公民権がなくなって、徴兵権も選挙権も無 くなり、絶対に医師にはなれないのです。私は 5 年ですからすれすれですが。それで親父がとにか く医者の学校を受けるだけ受けろということでし た。今まで家に散々迷惑をかけたので恩返しとし て、受けるだけは受けようと思いました。保護観 察期間中で仮釈放も予定されていましたが、盛岡 の岩手医専だけが入学試験が残っていたのです。 他のところはもう 3 月中に試験は終わっていたの です。やっと 4 月 3 日の神武天皇祭に大阪刑務所 から仮釈放になったのです。当時昭和 12 年で、一 寸でもアカの気があれば駄目なときでした。100 人採るのに 1000 人受けた時代ですから、もうはじ めから除外されるのですから。ところで、思想犯 保護観察所と言うのは建て前は思想善導して、更 生させようというのですし、向こうの手柄にもな らんでもないと言うことで、黙って行かすという 了解のもとで受けたのです。そうしたら合格しま した。しかし前科 2 犯で実刑を受けています。最 初の時の公判の前、丁度 20 歳になり徴兵検査があ りまして、小学校で 200 人ばかり受けました。こ の時私だけ憲兵に呼び出されました。最初に起訴 されて特高の管轄下にあったものですから。当時 は満州事変が始まる前ですから、それと大正デモク ラシーの名残があったのですか、憲兵や陸軍など も一目おいて敬遠していたんですね。憲兵も司令 官も全然説教しないです。ただ起訴されて保釈さ れているという身分だけ調べるんです。徴兵司令 官は大佐でしたが、最後に書類をまじまじとみて 体はどこも悪くないが、第二乙にしておくと言うん です。当時第二乙だったら現役で召集されなかっ たんです。これは逆にいうと軍隊が赤化されたら たまらんということで敬遠されたんだろうと思う Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service October, 2002 年で、当時は一寸でもアカがかっていれば大変な ときですが逆に頼んでくれたのです。そしたら今 村先生のところ、結核の今村内科に紹介してくれ ました。そこで今村内科に入りました。今村先生 はそうした経緯は知っておられたはずですが、こ れはその後もわからないのですが、私には一言も 何も聞かれないのです。本学出の人と同じように 扱ってくれるのです。それで入局したのはいいの ですが、医師免許証が要るのです。これがないと 開業出来ないのです。医師免許証は卒業とともに 出るんです。私の場合はこのときに前科が出るの です。戸籍謄本などを出さねばならないからそれ には前科 2 犯がでるのです。それで私には免許証 をくれないのです。日本で実刑を受けたもので医 師免許証を出した前例がないということで、1 年 以上の禁固に引っかかるわけです。それで司法省 に、思想犯保護観察所は司法省管轄ですので掛け 合ってもらいました。何故 4 年間勉強したのに免 許証出さないのか、遺憾だと。司法省が厚生省に 喧嘩してくれました。当時は思想問題が優先の時 代でしたから厚生省が折れて、こういう人こそ軍 医になって欲しいと言ったそうです。そう云う経 緯で半年ほど遅れましたが免許証は出ました。当 時は前科を隠すのに一生懸命でした、終戦まで。 今村先生は何も言われませんでした。 軍医に召集される前に、マル秘の会合が病院の 階段教室でありました。正規の医局員以外は入れ ないで開かれました。金ぴかの石井四郎中将が来 て 16 ミリの映画とスライドを写して講演をしたの に出た覚えがあるんです。その頃の医学部長は佐 谷さんですがどういう関係で来たのか。石井中将 は京都大学出身で多くのグルンドの人を部下、幹 部に使っています。が阪大は京都とは関係がうす いのです。しかしやはり防疫給水部の活動という 話に来たのです。大学にいろいろ縁をつけようと して来たのでしょう。当時私は自分の前科を隠す のに一生懸命でしたから、余りこのことに気をか けませんでしたが、今から調べてみても一寸わか らんと思います。16 ミリかなんかで、中国の捕虜 を惨殺するのが写っているんです。 当時は普通医専や医大を出るとみな軍医になっ たのです。軍医が足りませんから。丙種だとか色 んなことでロートル老軍医といいまして、大学の講 師などで長く大学に居た人もみな軍医予備員とし て志願させられたのです。私も毎年軍医予備員に 他の人と一緒に志願するのですが、私だけ即日帰 されるんです。というのは、軍医は将校ですから 前科のあるのは陸軍も海軍も採らないのです。軍 医予備員の志願をしないと当時は、懲罰召集で二 等兵で招集されてえらい目に会うんです。私は毎 年志願するのですが前科があるものですから、即 日帰郷になるのです。身分をひたかくしにしてい た時ですから、みんな不思議に思うのです。昭和 18 年 3 度目の時には即日帰郷といわないのです。 そのまま陸軍病院校に行って見習士官になって軍 医少尉になったのです。日本のファ―ストケース んです。そういう経験があるものですから、今度岩 手医専に合格して入学式に学校へ行ったら、呼び 出されたので、これは前科がバレたかと思ったん ですが、新入生総代で答辞を述べろといわれたの です。それでやれやれと思いました。 (註)*岩手医学専門学校(1928 年、昭 3 開学)<昭 3 年には昭和医専、九州医専、大阪女子高等医専 開学。さらにその前年大阪高等医専開学> 1929(昭 4) 山本宣治代議士刺殺さる。 *1930 年 最初の無産者診療所・大崎無産者診 療所設立。 *1931(昭 6) 満州事変、翌年満州国建国宣言。 4. 岩手医学専門学校で医学の道へ、そして大阪大 学今村内科に入局 思想犯保護観察所は、盛岡へ移るので私の身分 を移管せねばいかんのです。仙台にも保護観察所 があるのです。仙台に移管されれば盛岡に近いで すから、4 年間医者の学校に行く間にどこかから か身分がバレルでしょう。バレたらどうなります かね、退学にでもなるかもしれない。4 年間どこ かで必ずバレると私は思っていました。しかし思 想犯保護観察所の方も仙台に移管はしない、その代 わり休みのたびに成績表を持って必ず来所せよと いう条件で、4 年間学校に通ったのです。私はバ レたときのことを考えていましたが、1 年から 4 年までいつも総代で成績も良い、学校の先生も成績 には弱いですからいつもトップですので感心して いるんです。それで結局 4 年間バレずにすんだん です。そういうことは学友にも云えないし、また 先生方にも云えません。しかし信頼は厚いほうで すし、配属将校もものすごく信頼してくれた。配属 将校は朝倉大佐といいまして当時の陸軍の革新派 でした。時々一緒に飲むこともあったんですが、話 していると向こうは陸軍の革新派でどこか通ずる とこがあるんです。勿論違うのですが、向こうも 政治腐敗に怒っているんです。学徒の閲兵検閲の あるたび私は大隊長でしたから信頼絶大でした。 最高学年の時、皇紀 2600 年の大祝典があったんで す。昭和 15 年 10 月 14 日。それに各大学・専門学 校から 1 人代表として参加することになったので す。代表が皇居の前へ行って、天皇の前で紀元は 2600 年と歌わねばならんことになったんです。文 句なしに私が学校の代表になって、行かねばなら なくなったんです。そこで思想犯保護観察所に天 皇の前に行かねばならなくなったがどうしたらよ いか相談したら、しょうがないから行けというこ とになりました。 卒業もめでたく済まして、大阪に帰って来まし た。親父は大阪で開業していましたので、大阪大 学の医局に入りたい、内科をやりたいということ を云いました。思想犯保護観察所と刑務所長が、 特に刑務所長が乗り出してくれました。この人は 東大出の人で学生時代柔道部でした。当時の大阪 大学医学部長は東大出身の佐谷有吉という人でし たが、刑務所長が直接頼んでくれました。昭和 16 -5- 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 ということで、こういう経歴の人はいないんです。 どうも軍の方で身分証明書や戸籍謄本などをなく したんだろうと思うんです。というのは、2 日ほ どして私のところへ身分証明書出したかと尋ねに 来たんですよ。それは志願の時に出していますよ と言うと、それから何も言ってきません。ところ がその後軍医少尉に任官する時にばれて二等兵に されるかどうされるかと思っていたのですが、一 旦通ったら軍隊ではそのまま行くんですね。その まま最後までばれずに行きました。おかげで私が 90 歳まで生きているのは、16・17 年に軍医予備員 に志願した軍医などはフィリピン要員として南方 に送られ、途中で撃沈されて皆死んでいるんです。 私は 18 年の終わりで、もう南方に行けなくなり内 地勤務になったのです。おかげで今まで生きられ たのです。共産党の、治安維持法のおかげとも言 えるのです。 敗戦、復員後、阪大第三内科に戻り、共産党に再 入党してから私は公然化しました。阪大で共産党 細胞を作って細胞長になって大阪の共産党の再建 にあたりました。初代の大阪北地区委員長に選ば れ、関西地方委員にもなりました。そして阪大に 教職員組合を作り、大学法案反対運動を行いまし た。そしたら大恩ある恩師の今村教授は戦後大阪 大学の総長になりましたが、イールズ旋風―大学 教職員のレッドパージが起こりました。昭和 24 年 頃でしたか。今村総長のところへもイールズが来 て、GHQが持っている共産党のリストを見せる からパージをするようにと話を持ってきたらしい のです。今村先生は思想的には何もないのですが、 古武士的なところがあって、他所の干渉に抵抗す る学者的一面がありまして、うちは共産党細胞を 公認していないから見せて要らないと断ったので す。断ったということは、私が公然化し役員とし ての届けもしてありますから、出されれば私が真 っ先に出るからでしょうか。陰に陽に断ったとい うことを聞いております。そのために阪大だけは レッドパージがなかったんです。他の大学では GHQ によって無理やりパージを進駐軍命令にのっ てやったもんですから、裁判になりましてからな かなか解決せず往生している、長い間各大学では 困った悩みの種だったんです。だから今村先生が 亡くなって大学葬のとき、次の総長の文化勲章を 貰った赤堀四郎さんが、今村総長がイールズを受 け付けなかったのは何よりも有り難い、裁判で苦 労せずに済んだのは今村先生の御かげだと、追悼 式で述べられたことを私は覚えています。 終戦の翌年、関西医療民主化同盟が 1 月に結成 されています。これは戦前の無産者診療所に関係 した人たちが中心になって作ったんですが、これ が西日本の民医連、保険医協会、新医協を作る母 体になっているのです。2 年後にそれぞれ、研究 者は新医協、開業医は保険医協会、民主診療所は 民医連を作ったわけです。その時には私は共産党 に復党して、党委員会で西日本の医療関係の担当 責任者だったのです。多くの民医連の院所作りに -6- 携わりました。 いまでも、三高のクラス会が開かれています。 私のいたクラスは一寸変っていまして、私が飛び 出した翌年に学生のストライキがありまして、私 のクラスでは半分くらいが処分されたのです。私が そういうことの先鞭をつけたものですから、本当 は 2 年で飛び出しているので資格はないのですが、 どうしても入ってくれというので今でも参加して いるのです。ところが私のクラスは文科ですから、 医者は 1 人もいないのです。最高裁の判事になった のが 2 人、法務大臣に 1 人なっているのです。彼等 がお前は 4 年間も刑務所に入っているんだから、 医者になれる訳がない、ニセ医者じゃないかいうて きかんのです。残念ながら今回は戦後のことを語 る時間はありませんが,私の生きた 90 年は連続し ているのです。 (註)*昭和 6 年大阪帝国大学設置(前身は大 阪府立医学校、同高等医学校、府立大阪医科大 学)。 *1905(明 38)大阪府立高等医学校に肺労科増 設<佐多学長兼任>。 *1925 今村荒男教授着任(’31 肺労科は第三 内科に改称) 。 *昭和 11 年「医療と社会」誌 第一輯<編・発 行:中野信夫、発行所:大阪東成診療所 (1933.7~37.11)所長:桑原康則。この年第四 輯まで刊行、戦前はこれで断。 *大阪刑務所<明治 15 年(1882)大阪府西成郡 北野・川崎両村地内に監獄新設し堀川監獄分署 と呼称、のち大阪府監獄署。(扇町公園) 。大 11 年(1922)監獄官制改正で大阪刑務所に改称。 昭 3 年、堺市田出井町に大阪刑務所新築落成。 *第 13 代所長:岡部 常(在任:昭 11.3~16. 8)。>《大阪刑務所創立 100 周年記念史誌、昭 58》。 *昭和 18(1943)年 軍医予備員志願、大手前 陸軍病院入隊。 *同年 12 月召集、奈良陸軍病院付軍医見習士官。 *翌年由良要塞重砲付軍医少尉(沼島出張) *昭 20 年 9 月 召集解除 阪大三内復員。 〔註〕桑原先生戦後の略歴 1946 年、大阪大学全学職員組合・初代書記長、関西 医療民主化同盟・幹事、新日本医師連盟・副会長、 新日本医師協会・大阪支部長、日本共産党大阪北地 区・初代委員長、同関西地方委員。1948 年、日本 共産党関西地方委員(保健対策責任者・科学技術 部長)。1949 年、医学博士(大阪大学)。1950 年、 上二病院長、関西民病連会長。1953 年全日本民医 連・副会長。1956 年、日本共産党大阪府委員、大 阪社会保障推進協議会・副議長。1959 年、大阪民 医連・会長。1960 年、小児マヒ対策大阪府協議 会・副会長。1963 年、日中友好協会大阪府連・副 会長。1967 年、大阪市長候補(日本共産党公認)。 1982 年、治安維持法国賠同盟・大阪府本部会長 ('95、同名誉会長)。1983 年、治安維持法国賠・ Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service October, 2002 以上は、2000.10.22 の桑原英武先生の米寿をお 祝いするつどいで配布された「経歴書」から 中央本部副会長('93、同会長、'95 同名誉会長) 桑原先生のおもな著作(共著を含む) 1) 生理休暇読本、1947 2) よい国保をつくるには―八つの実現目標―、 1959 3) あすへの記念碑―上二病院の 30 年、1979 4)「民医連創設のころ、全日本民医連、1979 5) 「民医連運動の軌跡、全日本民医連、1983 6) 「天皇と戦争犯罪、治安維持法国賠同盟、1988 <本稿は桑原先生が当日講演されたものを、テープ から再録し、桑原先生に監修して頂いたものです。 講演の最後に質疑応答がありましたが、桑原先生の お答えのうち講演の補足になる部分は、講演の中 に適時追加しました。また章建てとその見出し、章 の〔註〕は当方の責任で行いました。(水野 洋) ご案内 第 9 回 15 年戦争と日本の医学・医療研究会 日 時 2002 年 11 月 17 日(日)11 時—17 時 会 場 東京大学医学部 医教育研究棟 参加費 1000 円 記念講演 「戦争と医療」 野村 拓(前国民医療研究所 長) 13 時~14 時 昼休み 一般講演 1. 母子保健人口増殖国策史 尾澤彰宣(産婦人科医師) 2. 15 年戦争と日本民族衛生学会 Ⅰ 莇 昭三(城北病院) 3. 伊藤千代子の死-治安維持法下の拘束精神病 小口廣登(労働者教育協会) 4.「人骨の会」の取り組み 南 典男(都民中央法律事務 所) 5. 日中医学大会 2002(北京、2002.11.4-6)において "15-years War and Japanese Medicine"を報告して 莇 昭三、西山勝夫 閉会後、懇親会 事務局 大津市瀬田月輪町 滋賀医大予防医学講座 西山勝夫 ℡ 077-548-2188 FAX 077-548-2187 E-mail [email protected] 予告:第 10 回研究会および第 4 回会務総会 京都・同志社大学 2003年3月16日 戸を叩かれる日本 -7- 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 滞日一年間の感想 @ 志剛 黒龍江省社会科学院北東アジア研究所 Japan being knocked again by the destiny: rethinking and feeling about my one-year life in Japan Da Zhigang 去年の 9 月 1 日から今年の 7 月 31 までの 11 ヶ 月間、ほぼ 1 年近くですが、日本の各地の友達の 熱意と課題調査の必要で、日本列島のあちこち (全部とは言えないが)を歩き回わりました。普 通の自費留学生がなかなか体験できないことばか りをいろいろと味わえたと思います。それらの体 験は私にとって単なる滞日体験だけではなくて、 将来の日本研究にとても貴重なもので、大事にし たいと思います。以下は短い滞日の中で、私にと っては特に異なると思って、感じたことに焦点を 絞って話させていただきたいと思います。 訪日 7 回目日本を知るにはまだ早い 1996 年 5 月、日本国際交流基金の「アイヌ民族 と中国ホジェン族の文化比較研究」というプロジ ェクトで初めて来日、それから 6 年間も経ちまし て、今回の来日も 7 回目になりました。とはいえ、 日本のことを分かるにはまだ十分とは思いません。 6 回目まではいずれも 15 日間の短期滞在で、調査 にもシンポにも、日本での日程にもいずれも日本 の友達や事務側によって予め作られた計画に沿っ て活動、移動した訪日でした。十何年の日本研究 体験をもっていると言っても、日本の政治・経 済・社会・文化、特に日本の民族構成・社会の開 放程度・日本の国際化などへの理解はほとんど本 による先入観と馬上の花見に過ぎなかったことで、 肌での日本認識は余りなかったと思います。 去年 9 月 1 日から日本国際交流基金の招聘で、 初めての割合自由な長期滞在が出来たおかげで日 本観察がある程度出来たと思います。今回のテー マは「日本の多民族化・多文化化の現状に関する 調査」ということであり、課題の実施によって日 本の各地を歩き回って現地調査したり、窓口とし て私を受け入れた池田先生の研究室の皆様をはじ めとするいろんな日本人と付き合ったり、生活の ために必要な手続き(電気・ガス・水道・電話・ 不動産・引越し)などを自らしたりすることを通 して、日本民族・日本人への認識がだんだん表面 から内部に及んで来ました。今考えると、国内に いるときに教えられてきた「日本民族は心理的に とても排外的な民族」、「日本社会はナショナリズ ムによる右傾の社会」、「日本人は付き合いにくい タイプ」などの教えは現実から外れる或は偏る部 分も有ることを、いろいろことを通して分かりま した。今までの滞日生活の 1 番大きかった収穫と いえば、なんとなく私の固執していた日本観を修 正したことにあると考えます。とはいえ、激変し ていく日本や変わりつつある日本人、そして進路 を見失っている日本社会、政治スキャンダルの噴 出したこの 1 年間の日本を 7 回目の訪日によって もう分かったとはどうしても言えません。7 回目 の訪日は極端に言えば、日本研究好きな私を日本 という国の事情に 1 歩近づけただけで、日本を分 かるにはまだまだ早いのです。 日本の戦後の民主主義を支えてきた国会の運営 や、国会議員のことに、なんとも言えない違和感 を持ちます。テレビから国会議員の記者会見や出 かける様子を見て堂々としているというより威張 っているように感じます。人民に奉仕するイメー ジはぜんぜん捕捉できません。逆に昔の日本の幕 府の将軍や地方の大名の巡行や外出する時の様子 を連想させられます。なんとなく封建民主主義、 戦後のアメリカによる改革で、強制的に民主主義 の道に変えられた結果のゆがみではないかという 感じがでます。アジアでは、よく台湾の民衆が日 本から学んだ、これからは中国の民衆が台湾から 学ぶだろうと言われているのですが、あれはアジ ア或は中国の未来の方向として確かによいかどう か私は疑問を持っています。 もう 1 つは日本の憲法には政教分離ということ を明文に書いたにもかかわらず、創価学会という 宗教団体に支えられる公明党の入閣を認めている のは日本の政治・民主主義の弱さ・限度を現して いると思います。日本のことを知るほどに迷いが ふかまるとも言えます。これは私が回りの皆様に 滞日感想を述べる際に 1 番ドキドキし困ると思う 点です。 驚異(驚かせたこと)ばかりの一年間 これは「幸か不幸か」わかりませんが、去年 9 月 1 日から今までに 10 ヶ月間、いろいろ驚いたこ とが起こりました:アメリカの同時多発テロ事件・ * 連絡先:〒150018 中国黒龍江省哈爾浜市道里区友誼路501号省 社会科学院前楼313室 E-mail: [email protected](中国)[email protected](日本) Address 501 Youyi Road, Harbin 150018, PRC -8- Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service 国際的な反テロ包囲網及びタリーバン崩壊とアフ テロ特措法成立と自衛隊艦をインド洋へ派遣・外 務省の一連の不祥事・相次ぐ疑惑の国会・有事法 制、ガンの再建・中東和平の前途見えない紛争、 中国のWTOの加盟・五輪の招致成功・上海サミ ットの無事開催、日本の小泉内閣の構造改革・デ フレ対策・個人情報保護法案、郵政関連法案、医 療法案、住民基本台帳ネットなどの審議を巡る与 野党の攻防、敬宮愛子の誕生と帝位の継承・核に ついての発言など。特に日本滞在中、中日関係に 必ず影響がついてくるいくつかのことを体験しま した。本来両国国交 30 周年にあたる祝うべき年に、 小泉首相の春大例祭の靖国神社参拝、閣僚の相次 ぐ「失言」 、経済面の競争による貿易摩擦、瀋陽の 駆け込み事件の処理を巡って双方の食い違い、不 審船の引き上げの交渉、在日中国人の犯罪の増加 と凶悪化などが有りました。日本に住む中日関係 の悪化を見たくない私には冷や汗ばかり掻かされ ました。 以上を日本で見たり感じたり出来たことは、私 にとって特別な意味があると考えられます。メデ ィア統制の中国でなかなか味わえない報道の自由 さに羨望とびっくりする一方、言論の自由を許そ うとしない中国の悲しいことの反対に言論自由の 元に現れる日本の世論の方向性の怖さも感じまし た。中国の日本研究の場合には、分野によって多 少異なりますが、中日歴史・外交関係を研究する 場合には、国に定められる方向性に沿って研究し なければならない、教科書問題もそうなんです。 新しい歴史教科書を作る会の歴史現実と古事記・ 日本書紀の神話を混ぜている史観にどうしても賛 成できないのですが、ほかの教科書についての情 報をありのままに民衆に伝えなければならない。 枠を設置してその枠を超えると追及されやすい、 研究の自由は主に政治に影響を与えない文化・社 会に集めます。公式の場合には親日的な発言はみ んな遠慮します。そうしないと、売国賊と言われ、 問題となります。東北地方では若手日本研究者が 異なる見解を述べて、論文に書いて批判されるケ ースも有ります。 枠の中でやっている研究はどのぐらいの意味と 価値があるのか、いつも悩んでいます。この点で いうと、京大の自由な学術空気と想像力のある伝 統をうらやましく思います。 滞日後半に会議のために急遽一時帰国しました。 日本に多少住み慣れた今年 3 月上旬でした。半年 ぶりに中国のダイナミックさを再び感じてきまし たが、日本のメディアに言われるような経済的な 脅威を感じませんでした。逆にレイオフ・失業者 によるデモの地下消息がいくつかこっそり耳に入 りました。 中国国内で見る日本と、日本で近距離で見る日 本と、どれぐらいの差異があるかについて簡単に 言えませんが、日本で見る日本はもっとも真実に 近いでしょう。 -9- October, 2002 日本は多民族社会を迎える タイトルでは、戸を叩かれるという言葉を使い ました。それは運命に叩かれる、一種のチャン ス・チャレンジという意味もあります。具体的に は、1853 年のアメリカの黒艦の来襲とその後の明 治維新がもし日本近現代化の初めての開国と言え るならば、現在の日本は激変の時代に置かれてい て、史上例をみない異文化・異民族への付き合い を考える国民意識の転換期を迎えていると言える でしょう。 国連のデータによりますと、190 余りの会員国 の中には、1 つの民族の人口がその国の総人口の 90%以上を占める国は全体の 24%で、1 つの民族 の人口がその国の総人口の 50%以上を占める国は 全体の 49.7%で、どの民族の人口もその国の総人 口の半分にならない国は全体の 27%であり、7 割 の国では国民 10 人のなかに 1 人或は 1 人以上が少 数民族です。日本の場合には、法務省の統計で 2001 年末までに在日外国人が 177 万人いて、日本 総人口の 1.4%を占めていることがわかりました。 この数字だけ見れば、単一民族と言われる日本が 確かに稀に見ない存在であり、そのためか、日本 国内の民族問題に触れると、焦点はいつもアイヌ と在日韓国人・朝鮮人に集められて、普通の日本 人としては自ら民族問題を考える人が少ないよう です。 では、日本という国は一体多民族の社会かそれ とも単一民族であるか、と問われると、なかなか 定義と結論の出にくい状態になると言わざるを得 ないでしょう。日本の歴史を遡って特に日本列島 の日本人の起源から見ると、当時の日本列島が交 通の発達しない東アジアの交通ルート、海のシル クロードの終点としては最初から多民族の集まり 場所で、欧米の文化と民族が当時開放している日 本で交流、融合しました。渡来人・帰化人・原住 民という存在がそれを証明したと考えられます。 その後、長い歳月において日本国家・日本人・日 本社会・日本文化という均質化のシステムの確立 によって、単一民族、単一文化という社会メカニ ズムが造られたと思います。日本の特殊性と対照 して当時中国から東南アジアまでにある諸国は漏 れなく多民族・多文化の国家(今も続けている) で、国民統合があっても少なくとも 1 つの主体文 化の中にはいくつかの次元の文化が含まれます。 民族学の理論から見ると人数の多寡にもかかわ らず、人種と言葉の差異さえあればその民族とし ての地位を認めなければなりません。日本国内に 国連に原住民と認められるアイヌ人、15 世紀島津 藩の侵略により日本人に強制的に変えられる沖縄 人、異民族を植民した背景にある在日韓国人・朝 鮮人及びその文化の存在さえあれば、日本を「単 一民族国家」或は「単一文化社会」と言えなくな るでしょう。現代に入ると、交通・通信手段の目 覚しい発展に伴って、国を跨るビジネス・観光・ 労働・難民などの移動が可能になり、すでに議論 されるアイヌなどの民族問題のほかに、日本の少 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 子化で外国人労働者の大量受け入れと国際結婚に よる日本社会の多民族化・多文化化はもう避けら れない官民が直面すべき課題になるでしょう。 以上の動きに呼応して、日本でもようやく多民 族社会の有様にたいする関心が高まって来ました。 学術面だけでなく民間団体をはじめとする国民の 関与があちこちに見られます。もちろん、欧米の 多民族化・多文化化の複雑さ・政府レベルの積極 的な対応に比べてまだ比較できません。日本の多 民族化・多文化化の動きは長い間単一民族観が社 会の常識として語られる神話に隠されてしまって、 異民族への同化や差別という国の政策・国民の感 情を簡単に変えることが出来ないのは遺憾ながら 今の現実で、言い換えれば、時間のかかることだ と思われます。幸いなのは多民族化・多文化化す る趨勢の明らかな日本においては制度面を含む積 極的な対応がもう水面上に浮かび始め、米原の町 合併では外国人による投票権を認めること、在日 永住の外国人に参政権を与えようとする議論も国 会レベルで議論され、今度 1 ヶ月にわたって熱戦 をかわした日韓共催のワールドカップなど、いず れも「空白の 10 年」と呼ばれている息苦しい中に 出ている一部の排外情緒を払拭して、人種・民族 問題をタブー視する傾向を見直す絶好のチャンス と一種のチャレンジだと確信します。 去年の 10 月から半年に亘って、日本の多民族 化・多文化化についてインタネットと現地調査に よるアンケートを実施してきました。回収標本数 が 90 部に留まっていますが、回答者は日本の関東、 関西、東北、北陸、西南、北海道に分布していて、 科学的に欠陥があり充実とはいえないが一部の日 本人の民族観念をはじめて分かるようになったと 考えられます。アンケート内容は回答者の便宜を 余り図らない長すぎる欠点があることに反省しな がら、参考としてその中の 4 つの点だけを取り上 げたいと思います。 A. 日本国内に民族問題があるかどうかという 問いに、90%(勝手ですが回収した分だけに基づ くもの)の人があると答え、アイヌ、在日韓国 人・朝鮮人のことを取り上げました。70%の人は 厳密に言えば日本が単一民族国家ではないと答え、 30%の人は昔確かに民族問題があった、しかし、 同化によって民族の標としての言葉・文字などが もうなくなるから、国民国家か単一民族国家かと 言わざるを得ないという指摘があった。 B. 日本の多民族化・多文化化の動きに賛成か 反対かという問いに、95%の人は歓迎・賛成・自 然だと答えています。多民族社会への対応の寛容 さを見せる一方で、政府の行政をはじめとする国 民意識、言葉、心の壁などの生活の基本が短期間 で変えられないから、けっこう時間がかかりそう な付き合いではないかと心配していました。 C. 日本社会に普遍に存在している異民族そし て自民族の一部への差別・所謂島国根性の排外に ついては 70%の人が残念・改善すべきと答えてい ます。その中の 50%の人はそれが大和民族意識・ - 10 - 天皇制の歴史・偏る教育・閉鎖な環境にかかわり、 国際化と多文化化(多文化共生)は差別の解消に プラスの役割を果たせる。10%の人は外国人の流 入による凶悪犯罪が増加したり国レベル各種摩擦 による生ずる軋轢によって、次世代で新たな現代 排外意識を醸成させる恐れがあると指摘しました。 D. 40%の人は多民族化の社会を建立する前提は まず日本国内にある歴史的な、現代的な有形・無 形な差別を取り除かなければならないと指摘して、 部落民・アイヌ・在日韓国人・朝鮮人・在日外国 人労働者などへの結婚・就職・教育・参政権など の差別と普通の女性・障害者・肉体労働者への差 別を挙げました。 私個人としての結論というと、世界的なグロバ ール潮流にしろ、地縁政治・地縁経済の立場にし ろ、日本は必ず到来してくる多民族社会に挑戦す る必要があり、いわゆる単一民族構成を維持する 必要はないと考えます。ご存知のように欧米諸国 と同じで日本の出生率の低下が大きな問題になっ ています。今の経済状態・成長率を維持していく には、やはり他国からの移住者・労働者が必要と なるわけです。なかなか難しい対応ですが問題よ りメリットが大きいと思います。歴史を見ても、 多民族融合の時代は日本社会の大発展を促した時 代でもあったことをもう証明できました。欧亜各 民族との上澄み交流があったからこそ、今日みた いな日本文明と日本文化ははじめてあったと言え ます。歴史には驚かせる類似性があり、新しい世 紀に涌いている多民族化と多文化化の動きは日本 社会を推進させるもう 1 つの原動力になれるかも 分かりません。 アジアの中の日本と中国 本屋などではよく「アジアと日本」、「日本とア ジア」という類似タイトルの本が見られ、日本の 欧米志向による欧米化の気持ちの溢れるものとし か考えられません。すなわち、日本は地理的にア ジアにあるにもかかわらず、心理的には欧米国家 であるという古い考えを浮かびあがらせています。 欧米の影響はもう生活の隅々にまでに及び、全民 金髪もその極端な例で、実際の子供、小学生の髪 を見たら、黒いです。 ここでアジアの中の日本と中国という使い方の 意味はアジアから外れる日本、特殊な日本ではな くて、ほんとうのアジアの一員、普通の一員とし て、アジア諸国と付き合ってほしいということを 強調したい。これは、日本が地縁政治・経済から 逃れられない事実の存在で、アジア周辺諸国、特 に中国との付き合う基本であり、脱欧入亜・脱亜 入球の前提でもあります。 同じアジアにある中国と日本は 1972 年からの国 交正常化以来、各分野における交流と合作は著し い発展を遂げてきました。貿易額は当時の 11 億ド ルから 2001 年の 877 億ドルに躍進しました。2001 年までに日本が累積中国側に 441 億ドルを投資し て、中国が日本に 81 億ドルを投資しました。日本 Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service に来る留学生も当時の 3 人から現在の 45000 人に 猛烈増加しました。2000 年で中国人が 40 万人日 本を訪問することに対して 128 万の日本人が中国 を訪れました。 中日経済界・産業界は過去日本側の一方の援助 から相互の競争に変わるにしたがって、問題点も 露呈し始めました。中国が強くなることへの心 配・中国経済・軍事脅威論への懸念・両国民間で 広がる不信・在日中国人による凶悪な犯罪・歴 史・教科書などが注目されつつあります。 ここで、特に強調したいのは、中日間の国際結 婚の行方です。これは今度滞日中の調査内容の 1 つでもあります。先に結論をまとめますと、外国 人と日本人の結婚は日本の単一民族構成を多民族 構成に変わることを加速できます、文化上の単一 化は変えられます。 日本厚生労働省の統計で、2000 年 22 組の結婚 の中に 1 組は国際結婚です。東京都 23 区、大阪府 ではこの割合はそれぞれ 10:1、12:1 となって最 も高い。国際結婚は日本の国土開発の不均衡によ る農村部のお嫁さん受け入れ難の問題を反映する 一方、日本社会の国際化の加速を見せていると言 え、評価したい。日本人との国際結婚の中に中国 が 4 年連続トップで、2000 年で 10000 人を突破し、 全体の 3 分の 1 を占めます。中国人との結婚によ る子供は 20581 人です。中日国際結婚はいろいろ トラブルがあるが双方の因縁を結ぶ国際ベビーの 増加によって、未来の日本社会を変えるというの は事実であり、中日関係を安定させる 1 つの要因 だと思います。 激変している日本への期待 滞日 1 年近く、本屋に寄ったりテレビを見たり 日本人と話したりするときに特に興味深く感じた のは世界中に日本人みたいに自己分析のすきな民 族が多分いないということでしょう。自分の民族 の長所・短所、異文化と付き合うことの利害、穏 やかさの中によく出る危機感など随所に見られま す。氾濫するほど多かったことにびっくりしまし た。しかし、議論していることが本当に行動力に 変わることはめったにありません。文字・議論に とどまって終わるケースが多すぎて、空回り、口 だけということから日本歴史上の「小田原評定」 を思い浮かびます。日本の国際化も小泉の構造改 革も国会の法案審議も外交上の二転三転もいずれ もそういう印象で、それこそ変えなければ、日本 はまた「失う 10 年」を失うかもしれませんと憂鬱 しています。 日本の友達と舞鶴へ遊びに行ったときに、現地 のガイドの解説をそばから聞いたことが有ります。 綺麗な舞鶴湾の歴史と現実の解説の中に、戦争中 に起こった強制連行された韓国人を乗せた船の爆 - 11 - October, 2002 発事件を略したことに気が付きました。そうだ、 あれは戦争中に日本がやっている強制連行につな がります。韓国人だけでなく、秋田県の花岡事件、 北海道の劉連仁事件などいろいろ出てきました (中国の場合には、歴史そのものをちゃんと紹介 します:哈爾浜の場合には日本初代首相の伊藤博 文の暗殺こと、関東軍の第三軍司令部とか)。何か 見えない圧力がなければこういう簡単な歴史事実 を認めるのはそんなに難しいですかと不思議で質 問したいと思いました。 日本経済の長引く不況の影響か、在日中国人の 凶悪犯罪のかかわり合いか、帰国を選択する中国 の留学生が増えてきました。その内の一部分が帰 国して反日派になることを心配します。日本文部 科学省の統計で、2001 年 5 月までに在日各種留学 生が 78812 人いる、その内自費留学生が 68270 人 で、中国からの留学生は全体の 50%を占めていま す。しかし、中国人留学生で奨学金をもらう割合 がわずか 10%しかすぎません。大勢の留学生は飲 食店、販売、サービス業で働いて生活を維持して います、風俗業でかせぐ学生がいます。平均月給 5 万円前後で物価の高い日本での暮らしは厳しい。 生活・仕事に差別待遇を受け、怒って学業をやめ て帰国するケースも多くなりそうで、帰国後反日 派の立場に立っている人が少なくありません。こ こで、在日中国人留学生の犯罪を言い逃れる用意 はないですが、これは留米親米、留日反日の 1 つ の要因ではないでしょうか。これからの留学生の 犯罪が増加することにもつながることは避けられ ません。学生の質より数を重視・留学試験(6 月 16 日実施)の逆効果・困難すぎる学位取得の道・ 奨学金の少なさなど、現行の留学政策を変えない と、留学生にとって悲劇で、中日関係も不幸にな ります。これについて日本政府にはちゃんと対応 し、適切な措置をとって貰いたいと申しあげたい。 21 世紀の中日友好は中堅的な知日派と親日派が欠 かせないものだと確信します。もちろんここで言 う親日・知日ということは日本のことがなんでも 良いという認識タイプではなくて、冷静に未来志 向で両国の関係を考えることの出来る中日関係の 「メッセンジャ」、「使者役」をさしてると思いま す。 (著者は、中国黒龍江省社会科学院北東アジア研 究所助教授、「北方中日信息簡訊」編集長で、平 成13年度日本国際交流基金招聘外国人学者として 京都大学総合人間学部に2002年8月まで滞在、その 間の第7回研究会で「戦争の後遺症はまだ続く― 黒龍江省から見る15年戦争」の一般講演を頂い た。本稿は帰国後に寄稿していただいたものを編 集委員会の責任で編集したものである。) 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 関東軍関連の陸軍病院について 竹内冶一 大阪府保険医協会 On the Army Hospitals of Kantogun Jiichi TAKEUCHI Osaka Medical Practitioners Association キーワード Keywords:従軍慰安婦 sexual slave by Japanese army、第731部隊 Unit 731 in Manchuria of Kantogun、毒ガス弾 poison gas bomb、流行性出血熱 epidemic haemorrhagic fever 著者は第1巻第1号で軍医について知れるところ を若干述べた。今回は軍医以上にその実態の解り にくい陸軍病院について知り得た限りのことを述 べる。ここで特に関東軍関連の陸軍病院を選んだ のは、比較的理解しやすい構成になっているため である。旧満州地区は戦乱の地区でないため、病院 設置以来ほとんど移動していないこと、他の中国 大陸や南方戦線と違って数字を冠した野戦病院名 ではなく、地名を明記していることである。 1937年以来急激に増加する関東軍陸軍病院の8年 間の推移を年代順に3時期に分けた。医師数などの 記載はないが、院長の階級(少佐、中佐、大佐、 少将、中将)によって病院規模の類推がある程度 可能である。すなわち、手元に「満州第137部隊 誌」という記録があるが、これは東寧第二陸軍病 院のことである。これによると、院長は岩田稔軍 医中佐で以下16名の軍医及び見習医官である医師 がいることが判明した。薬剤師将校2名、齒科医師 将校1名、看護婦20名、衛生兵・軍属・一般兵併せ て250名ばかりいて陸軍病院としてはかなりの規模 といえる。普通の病院より看護婦数が少ないが、 看護業務の多くの部分を衛生兵が行うので、パラ メディカル全体として少なくはない。 軍医中将、少将という高い位の医師がいるのは、 新京第一、ハルピン第一、興城第一、チチハルの各 陸軍病院である。これは病院規模もさることなが ら、そこには 関東軍総司令官・方面軍司令官と幕僚など大将、 中将という高位高官がいるところだからであろう。 これ以外は師団長(中将)が多いところでも院長 は大抵軍医大佐以下である。 六十四病院(表3)の存在場所をみると、数字的 には断然東部国境が多い。東部国境には要塞や重 要な軍事施設や師団が集中しており、兵隊も多く、 従って病院も東部国境に集中したのであろう。 陸軍病院はどのような仕事をしたのか。 兵の健康管理と衛生環境の整備という主任務以 外に日本の軍隊独特の任務がある。 1つは兵隊が多数数いるところに必ずある従軍慰 安所の管理、特に慰安婦の検黴及び治療である。 麻生軍医の記録によれば、慰安婦には2割内外に性 病が存在する。一番多いのは淋病と軟性下疳で、 ときには梅毒もある。前記麻生軍医は兵士を性病 から守るために朝鮮半島の若い女性を慰安婦に当 てることを進言し、軍最高部がそれを実行に移し た。まさに侵略戦争以外には起こり得ないことで あり、日本人以外のアジア人蔑視の表れである。 従軍看護婦の記するところでは、慰安婦の治療 といっても、病気でただれ、荒れ果てた局所にヨ ードチンキかマーキュロクロームを塗るくらいの ことしかしない。当時性病用薬剤はサルファ剤 か六〇六号しかなく、極めて貴重なものとして兵 隊にしか使わなかった。 2つ目に第731部隊との関連がある。第731部隊に は技師と称する医学研究者が多数(数百名)いた が、それ以外に軍医も多数(5、60名)いた。1938 年ころから、東部ソ満国境に“流行性出血熱”が 大流行し、関東軍兵士もおびただしく罹患、関東 軍上層部には大問題となった。日本にはない奇病 で原因・病態がよく解らず、結局基礎医学者の多 い第731部隊に原因究明の命令が下り、大連支部長 の安東洪次が班長となって細菌・病理・衛生学者 が究明に当たった。地域は北から孫呉、虎林、東 安、八面通、牡丹江、二道崗などの大発生地があ って、これらの地域の陸軍病院が協力しているで あろう(表3)。それ以外に第731部隊と各陸軍病 院との有機的連携はなお不明である。 3つ目は毒ガス弾との関係である。広島県大久野 島で生産した毒ガスは小倉の曾根工場で毒ガス弾 となり、ハルピンの第731部隊で生体実験され、次 いでチチハルの第516部隊に運ばれ、中国大陸の戦 線で2.091回に及び実際に使用された。 現在、この毒ガス弾の遺棄物が黒竜江省の北安 付近で大量に発見された。対ソ連用か。1995年以 来日費用と長年月がかかるといわれている。 この毒ガス弾にチチハル、北安の陸軍病院などが *連絡先:茨木市若園町9番20号 〒567-0894 E-mail [email protected] Address: 9-20 Wakazonocho, Ibaraki, Osaka 567-0894 JAPAN - 12 - Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service に比べてまだ比較できません。日本の多民族化・ 多文化化の動きは長い間単一民族観が社会の常識 として語られる神話に隠されてしまって、異民族 への同中両国政府共同で処理に当たっているが、 莫大なかかわっている可能性が高い。 4 つ目はアヘンとの関係である。旧満州国の熱 河省(現在遼寧省西部地区)に関東軍は大量のケ シを栽培、アヘンを密造し中国人に売りつけてい た。中国人はアヘンで民族滅亡してもよいという ことか。三井、三菱などの商社が担当し日本政府 自体も巨額の利益を挙げ、重要な戦費としている。 アヘン政策は満州国の重要施策であり、大蔵省か ら派遣され、満州国経済部次長(実際上の大臣) であった古海忠之(岸信介の後任)が担当し、戦 後戦争犯罪人として裁かれ、その悪辣無道なアヘ ン政策がすべて明らかになった。このアヘン問題 に陸軍病院は関与していないか。日本人の民間医 師の関与は記録に残っている。 次に元東安第一陸軍病院の看護婦であった本田 恭子という人が書いた「牡丹江を越えて」という 本の中で東安第一陸軍病院のことを記述しており、 院長は笹川竹蔵大佐であり、看護婦は総数につい て正確には書いていないが、20 名前後のようであ る。恐らく前記の東寧第二陸軍病院とあまり変わ らない規模であったようである。日常の仕事は通 常病院と変わりないように察せられる。ただここ で感動的なのは、1945 年 8 月 9 日ソ連軍の侵攻に より、病院が危険になり、翌日患者の護送脱出の ため列車による南下を笹川院長に命ぜられ、列車 輸送は 2 時間ほど行ったところ、哈達河鉄橋がソ連 機に爆破されて徒歩脱出に転換するが、5 日後敗 戦となり、収容所に入れられる。そのときソ連兵 が銃を突き付け、女を出せと強硬に迫るが軍医は 銃を胸に当てられても一歩も引かず看護婦を提供 することを拒否し続けた。何度もこのようなこと があったが、軍医の態度は一貫していた。著者は軍 医の勇気に深く感謝の気持ちを記述している。感 動的な物語である。軍医・衛生兵ら男はシベリヤ へ、看護婦・軍属の女性たちは翌年帰国した。 以上、兵隊の医療以外に日本軍中国侵略の暗部 に陸軍病院が少なからず関係しているらしいこと を述べたが、詳細については今後の研究にまちた い。 - 13 - October, 2002 最後に、1937 年の日中事変以来、各戦線の広が りで軍医及び陸海軍病院は飛躍的に増加し、医師 数の不足が深刻化した。政府は直ちに軍医増強の ため 1938 年から 9 帝大(東京、京都、北海道、東 北、九州、名古屋、大阪、京城(ソウル)、台北) と官立 6 単科医科大学(千葉、新潟、金沢、岡山、 長崎、熊本)に付属臨時医学専門学校を作り、さ らに次の各地(前橋、青森、松本、東京医齒、徳 島、米子、旅順、樺太)に官立医学専門学校を新 設した。また次の各地(鹿児島、岐阜、三重、山 口、兵庫、福島、山梨、高知、福岡医齒、京都府 立付属、北海道、秋田、奈良、和歌山、広島以上 府県立、横浜市、名古屋市、大阪市と朝鮮半島で は平壌、大邱、咸興、光州)に公立医学専門学校 を新設した(福島、京都府立付属、秋田、名古屋 市立は女子医専)。この膨大な慌てふためいた急増 の医師養成も敗戦直前の設立が多かったので、修 業年限 4 年を 3 年に縮めるなどの瀰縫策も間に合 わず、新設校で軍医になったのは僅かであった。 そしてこの乱立で戦後の医学校政策は大混乱を巻 き起こした。これも戦争の後遺症であることを付 言しておく。 参考文献 1) 帝国陸軍編成総覧第 1、2、3 巻 森松俊夫ほか 芙蓉書房出版、1978 2) 戦史叢書「関東軍」1、2 巻 防衛庁防衛研 朝雲 新聞社、1974 3) 従軍慰安婦 正・続 千田夏光 講談社、1984 4) 満 州 国 の 内 幕 古 海 忠 之 証 言 雑 誌 世 界 6 岩波書店、1998 5) 731 部隊作成資料 田中・松村 不二出版、1991 6) 昭和陸軍阿片謀略の大罪 藤瀬一哉 山手書房新 社、1992 7) 続現代史資料 阿片問題 岡田ほか みすず書房、 1986 8) 日本の中国侵略と毒ガス兵器 歩 平 明石書店、 1995 9) 満州第 731 部隊誌 小森 茂 鹿島孔版社、1987 10) 牡丹江を越えて 本田恭子 光陽出版社、1997 11) 新制大学への転換と医齒系学校 神谷昭典 医 学史研究会、2000 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 図 中国東北部地図 - 14 - Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service 表1 関東軍病院一覧(1) 1937~39年ころ (帝国陸軍編制総覧 第1巻より) 関東軍直轄地区陸軍病院 院長 注記 一 興城 神田千治軍医中佐 1 戦前には軍医養成専門の学校はない。 二 奉天 神戸 守軍医中佐 すべて医師になったものが志願する 三 哈爾賓 家原小文治軍医少将 か、できあがった医師を召集した。 四 新京 伊吹月雄軍医大佐 2 軍医学校という名の学校はすべて特 五 旅順 菱木重嗣軍医中佐 殊な、軍隊のみにある医療・公衆衛 六 鉄嶺 三村英梧軍医中佐 生などと軍事教練を教えた。 七 東寧 山田正雄軍医大佐 3 召集された医師は軍医学校に入り二 八 哈爾賓第一 高崎英彦軍医大佐 ケ月間訓練を受け、見習士官となり 九 密山 矢野義徳軍医大佐 曹長の位であった。期間は半年。後 十 綏陽 矢田重信軍医大佐 少尉に任官した。 十一 哈爾賓第二 堀田邦之助軍医中佐 4 軍医はすべて将校なので、激戦で兵 十二 綏芬河 松家守義軍医中佐 科の将校が皆戦死すれば兵隊を指揮 十三 宝清 塩加井勝軍医中佐 しなければならない。 十四 半載河 竹松常雄軍医中佐 5 軍医・陸海軍病院がどのようなもの 十五 公主嶺 小川正男軍医中佐 であったかは軍隊記録のように詳述 十六 延吉 上牧 猛軍医中佐 した系統的記録はほとんどないので 十七 遼陽 山村恵作軍医中佐 文学作品や部隊誌などを読むしかな 十八 佳木斯 金田友三郎軍医中佐 い。以下に作品例を示す。 十九 柳樹屯 本多隆元軍医中佐 三谷秀治 黄塵(稲次軍医を小説化) 二十 錦州 菅原丙夫軍医中佐 第一三七部隊誌(東寧第二陸軍病院) 二十一 海城 長岡正人軍医中佐 本田恭子 牡丹江を越えて 二十二 湯崗子 金光三郎軍医中佐 (東安第一陸軍病院看護婦の手記) 二十三 承徳 三浦友三郎軍医中佐 戦史叢書 関東軍(2)481頁 二十四 桃南 崎田平二軍医中佐 6 軍病院は民間人を診療しない。中国 第三軍 人も同様。中国人は使用人にもしない。 二十五 牡丹江 衛藤 恰軍医少将 中国人を入れるのは生体解剖とかの手 二十六 穆稜 西 正中軍医中佐 術の実験台にするときのみ。 第四軍 二十七 孫呉 角田真一軍医大佐 二十八 黒河 萩本 弘軍医中佐 二十九 曖琿 西岡留次郎軍医中佐 三十 北安 田代 徹軍医中佐 - 15 - October, 2002 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 表2 関東軍病院一覧(2) 1940~1942年ころ (帝国陸軍編制総覧 関東軍直轄地区陸軍病院 番号 地区 院長 一 大連 伊佐信雄軍医大佐 二 興城第一 三 奉天 鳥海保一軍医大佐 四 哈爾賓第一 斎藤順作軍医大佐 五 新京第一 村上徳治軍医少将 六 旅順 原野広生軍医中佐 七 公主嶺 須野敏夫軍医中佐 八 遼陽第一 九 柳樹屯 今村朔雄軍医中佐 十 熊岳城 十一 哈爾賓第二 十二 錦州 宮川勉太郎軍医中佐 十三 海城 三上慎蔵軍医中佐 十四 遼陽第二 稲田精一軍医中佐 十五 金州 十六 新京第二 十七 白城子 倉原玉記軍医中佐 十八 四平 大井久夫軍医中佐 十九 興城第二 金光義勇軍医中佐 二十 阿城 高橋正高軍医中佐 二十一 承徳 樋代利治軍医中佐 二十二 鉄嶺 佐々木恆助軍医中佐 二十三 敦化 増沢武男軍医中佐 第十師団 二十四 佳木斯第一 深谷鉄夫軍医大佐 二十五 富錦 北河 斉軍医中佐 二十六 佳木斯第二 中野義雄軍医中佐 二十七 興山 第一方面軍 二十八 牡丹江第一 三輪不二雄軍医大佐 二十九 牡丹江第二 神戸 守軍医中佐 三十 寧安 第十二師団 第六十三兵站病院 森嶋 巌軍医中佐 第六十五兵站病院 丹原驍夫軍医中佐 第八十四兵站病院 小山 哲軍医中佐 三十四 東寧第一 坪倉 利軍医大佐 第2巻より) 番号 地区 院長 三十五 東寧第二 岩田 稔軍医中佐 三十六 東寧第三 三十七 穆稜 岡田 耕軍医中佐 第五軍 三十八 密山 三十九 宝清 四十 虎頭 四十一 東安第一 西 雅憲軍医大佐 四十二 東安第二 河野通豊軍医中佐 四十三 虎林 水野甚兵衛軍医中佐 四十四 斐徳 四十五 宝東 四十六 林口 中尾六次軍医中佐 四十七 綏陽 清水友次郎軍医中佐 四十八 二道崗 佐藤信治軍医中佐 四十九 綏芬河 服部保一軍医中佐 五十 平陽鎮 桑畑勇雄軍医中佐 五十一 杏樹 小田民治軍医中佐 五十二 勃利 北村義雄軍医中佐 第二方面軍 第一、第二、第三、第四野戦病院 第七十八兵站病院 藤井 恭軍医中佐 第八十九兵站病院 深谷 正軍医中佐 五十九 孫呉第一 三宅惣八郎軍医大佐 六十 孫呉第二 六十一 神武屯 羽田野義夫軍医中佐 六十二 北安 森本和雄軍医中佐 六十三 嫩江 渡辺五郎軍医中佐 六十四 曖琿 佐沢 直軍医中佐 六十五郎 黒河 第六軍 六十六 海拉何時第一 奥村 貢軍医大佐 六十七 海拉何時第二 内匠登茂雄軍医中佐 六十八 免渡河 外に関東軍防疫給水部として石井四郎以下 十六人の幹部軍医の名がある。 - 16 - Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service 表3 関東軍陸軍病院一覧(3) 1943~1945年ころ(帝国陸軍編制総覧 第3巻より) 関東軍直轄地区陸軍病院 番号 地区 院長 第一 大連 大井久夫軍医大佐 第二 興城第一 石井脩三軍医少将 第三 奉天 林 利治軍医大佐 第四 鉄嶺 佐々木恆助軍医中佐 第五 新京第一 村上徳治軍医中将 第六 金州 宮崎厚一軍医中佐 第七 新京第二 岩橋利夫軍医大佐 第二十一旅順 古屋 徹軍医大佐 第二十七公主嶺 須野敏夫軍医大佐 第三十三四平 佐沢 直軍医大佐 第三十九遼陽第一 大屋音市軍医大佐 第五十一柳樹屯 今井省二郎軍医大佐 第五十二熊岳城 金城政亀軍医中佐 第五十四錦州 宮川勉太郎軍医中佐 第五十五海城 藤沢 静軍医中佐 第五十六ハルピン第一 嘉悦三毅夫軍医中将 第五十七ハルピン第二 谷島悟郎軍医中佐 第五十八遼陽第二 第六十一興城第二 金光義男軍医中佐 阿城陸軍病院 高橋正高軍医中佐 二 第一方面軍ほか 第三十八チャムス第一 長谷川重一軍医中佐 第九十 チャムス第二 中野義雄軍医中佐 第九十一興山 園田佐武郎軍医中佐 第九十二富錦 川合武夫軍医中佐 第八牡丹江第一 藤本砂重軍医大佐 第二十四東安第一 笹川竹蔵軍医大佐 第二十五林口 中尾六次軍医大佐 第六十 敦化第一 増沢武男軍医中佐 第六十九斐徳 久奥博雄軍医中佐 第七十 密山 第七十二宝東 長野一郎軍医中佐 第七十五勃利 谷村一治軍医中佐 第七十六綏芬河 上島成人軍医中佐 番号 地区 院長 第七十七 二道崗 原 健一軍医少佐 第二十二 琿春 福山正明軍医大佐 第二十三 東寧第一 鈴木 清軍医大佐 第二十八 延吉 明渡侃一軍医大佐 第三十 老墨山 路次徳一軍医大佐 第六十四 敦化第二 増沢武男軍医中佐 第六十五 東寧第二 岩田 稔軍医中佐 第六十七 東寧第三 林 政美軍医少佐 第三十二 虎林 水野甚兵衛軍医大佐 第三十四 綏陽 渡辺 譲軍医少佐 第三十七 牡丹江第二 武田 要軍医中佐 第六十三 牡丹江第三 鳩田哲郎軍医少佐 第六十六 穆稜 木村 正軍医中佐 第六十八 虎頭 安倍哲夫軍医少佐 第七十三 宝清 大脇達雄軍医少佐 第七十四 平陽鎮 桑畑勇雄軍医中佐 第七十八 杏樹 波藤政隆軍医少佐 第七十九 鶏寧 松坂治一軍医中佐 第八十 八面通 田中政喜軍医中佐 三 第三方面軍ほか 第三十一 白城子 西川為雄軍医少佐 第八十一 阿爾山 中山勝英軍医少佐 第八十八ハイラル第二 外島進一軍医少佐 第九 チチハル 井上文夫軍医少将 第二十六ハイラル第一 槙 哲夫軍医中佐 第三十五 孫呉第一 三宅惣八郎軍医大佐 第八十一 富拉爾基 小橋徳義軍医中佐 第八十三 黒河 清水 伸軍医大佐 第八十四 曖琿 西村正勝軍医中佐 第八十五 北安 渡辺 孝軍医中佐 第八十六 嫩江 吉村信英軍医中佐 第八十九 免渡河 森 義雄軍医中佐 関東軍軍医部長 小川得五郎軍医大佐 関東軍第七三一部隊長 石井四郎軍医中将 - 17 - October, 2002 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 広島共立病院での在韓被爆者渡日治療と 在外被爆者支援の現状について 青木克明 広島共立病院 Invitation treatment for A bomb survivors in Korea and support for A bomb survivors out of Japan Katsuaki AOKI Hiroshima Kyoritu Hospital キーワード Keywords: 在外被爆者 A bomb survivors out of Japan、在韓被爆者渡日治療 treatment project in Hiroshima for A bomb survivors in Korea 1. 韓国人被爆者の概況 1910 年の韓国併合=植民地化から日本人と韓国 人の相互往来が拡大し、1945 年 8 月の時点では在 日朝鮮人は強制徴用、出稼ぎ等をあわせて約 200 万人といわれる。広島の三菱重工、造船所では 2800 人、長崎の三菱造船所では 7000 人の朝鮮人 が徴用工として働いていた。三菱の徴用工は男子 寮にて集団で被爆している。 また、米、綿花、繭(三白)の増産をもとめる 日本の農地支配と過酷な小作料搾取のため離農者 が続出し、日本への出稼ぎが増加した。広島では 主に 8 ヶ所にかたまって居住していた。 韓国原爆被害者協会によると広島の原爆で 5 万 人の朝鮮人のうち 3 万人が死亡、長崎の原爆では 2 万人のうち 1 万人が死亡し、合計 3 万人の生存 者のうち 2 万 3000 人が朝鮮に帰国した。 1978 年の調査では登録被爆者は 9362 人で、出 身地は陝川が 38%、慶南が 15%、ソウル、畿湖、 慶北が 11%、湖南が 8%、釜山が 6%となってい る。広島への移住の理由は陝川では生活のためが 80%近くを占めており、慶南、釜山も 60-70%と 高い。一方、徴用が多いのは畿湖 80%、湖南 60%、 ソウル 40%などである。 陝川は山林が 80%を占める辺鄙な村で 85%が 農民で自給自足に近い生活をしていたが、収穫物 は日本にとりあげられ、農民は食料不足となり、 離農者が続出して生活の場を求めて渡日すること になった。 なぜ陝川出身者の多くが広島を選ん だのかは不明であるが、広島は軍需産業が盛んで、 労働力が不足しており、世話好きで経済的にも安 定した人が知人を呼び寄せ、飯場などに紹介する ルートが出来たためと考えられる。同郷者が寄り 集まり助け合って生活していたが、被爆後に陝川 に帰った者は 5000 人といわれている。 在韓被爆者は何の補償も治療も受けることなく 放置されてきた。韓国も国民皆保険制度はあるが、 自己負担は 4 割である。在日中は被爆者手帳があ れば日本人と同様に医療費は無料となり、健康管 理手当ての支給をうけることができるが国外に出 ると医療と生活の保障は打ち切られる。日本並み の保障を求める声が強いが次善の策として渡日治 療を希望する方は多い。原爆手帳取得も日本政府 側から行われたものではなく、1972 年の孫振斗氏 の裁判闘争によって勝ち取られたものである。 1990 年、韓国政府は初めてラジオ、新聞を通し て広島、長崎での被爆者はもよりの保健所に申し 出るように呼びかけた。その結果「韓国原爆被害 者協会」に新たに 900 人の被爆者が登録された。 1991 年夏に韓国政府は初めて被爆者の実態調査 を行った。1890 人(広島 1729 人、長崎 161 人) が調査され、うち、67%が火傷、打撲傷などを受 けていた。89%に後遺症があり、36%は活動制限 があり年間 40 日以上は寝ている。67%が病気にか かりやすいと答えた。31%は出産、子供の発育に 不安をもっている。被爆時の損傷が現状回復が不 可能な障害となっているものは 21%に及んだ。現 在かかえている困難は 46%が生計問題、23%が治 療問題と答えた。 ノテウ大統領と海部首相により 40 億円の「在 韓被爆者支援特別基金」が設置された。 健康福祉センター(被爆者養護老人ホーム)の 設置、定期健康診断の実施、治療費自己負担分の 国庫肩代わり(窓口無料は 12 指定病院のみで他は 償還性、歯科治療は適応外)継続を決定した。個 人への配布は「補償」になるので行われないこと となった。原爆被害者協会員には月額 10 万ウオン (約1万円)が会費 5000 ウオンを差し引いて支給 されているが、2005 年には枯渇するといわれてい る。新たに協会員になるには渡日して原爆手帳を 取得してくることが被爆者は 2161 人、うち被爆者 手帳の保持者は 874 人で約 40%である。最も被爆 者が多い陝川での手帳を取得していることが条件 となっており、渡日と、被爆証人探しの困難さか ら、新入会出来る方は少ない。 * 連絡先 〒731-0121 広島市安佐南区中筋 2-19-6 広島共立病院 E-mail [email protected] Address: Hiroshima Kyoritu Hospital , 2-19-6 Nakasuji, Asaminamiku, Hirosima 731-0121 JAPAN - 18 - Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service 大韓赤十字社の調査では 2001 年 9 月現在、在韓被 爆者は 2161 人、うち被爆者手帳の保持者は 874 人 で約 40%である。最も被爆者が多い陝川での手帳 取得率は 26%ともっとも低い。 2. 在韓被爆者渡日治療の経過 1965 年朴大統領時代 日韓基本条約締結 政府は両国間の戦後処理は終わったとする 日本 1980-86 年 政府間協定による渡日治療実施 「原爆被害の特殊性を考慮し、人道的見地か ら」18 回実施。広島原爆病院 226 人 長崎原爆 病院 123 人 合計 349 人、期間は 2 カ月、渡航費、 移動費は韓国が負担、治療費は日本が負担して、5 年間をめどとして実施された。 5 年後、日本政府は国内移動費も補償としての 性格をもつため支払いしない方針とし、ひきつづ き韓国側に渡航費、国内移動費の負担を求めたが、 招請治療にもかかわらず国内移動費まで求められ るのには合意できないとして、韓国側から打ち切 りが行われた。 1978 年の「韓国の被爆者を招く会」から 1984 年、 渡日治療委員会による受け入れへの発展 1978 年、三重県の日本キリスト教団桑名教会 (原崎清牧師)が約 1000 万円を募金して治療を広 島に委託した。広島の渚キリスト教会所属の 5 人 が現地委員となり、委員長に河村虎太郎氏(河村 病院院長)が就任、河村病院で治療を受け入れた。 期間は限定せず完治に近くして帰国させた。78 年 から 84 年の間に延べ 20 人を受け入れた。 河村病院では国家間事業による原爆病院での 2 ヶ月の治療では不十分な方も受け入れて治療を継 続していた。国家間の合意による渡日治療が中断 されようとする状況の中で、民間のボランテアで 在韓被爆者の受け入れを継続し、1984 年に民間病 院で治療を行おうとするプロジェクト「渡日治療 委員会」ができた。委員会結成の呼びかけ人には 杉本県医師会長、福原市医師会長、横路広大教授、 平岡敬広島市長などが加わり会長には河村病院長 河村譲医師が就任した。 会は「韓国原爆被害者協会運動に協力し、韓国 に原爆病院を建設して日本並みの被爆者治療をお こなうことを国に要求するが、悲惨な現状は猶予 できないので民間での渡日治療を実現する。『償 い』というより『申しわけない』という立場で治 療をおこなう平和運動であり、政治活動はしな い」と性格づけている。年会費 1000 円で会員を募 集し、カンパをつのり、1 人の受け入れに約 10- 15 万円かかる渡航費、滞在費をまかなうとともに、 渡日中のお世話をおこなうことを任務としている。 委員会は毎月定例幹事会を行い、患者報告、韓国 原爆被害者協会が人選して推薦してきた新規申請 者の受け入れ決定などをおこなっている。日常的 に活動している委員は 4 人だが高齢になってきて おり、若いボランティアの参加が望まれている。 - 19 - October, 2002 委員会事務局は河村病院内にあったが現在は本通 り商店街のホープビル 3 階に移転して、原爆被害 者相談員の会、NGO 事務局と共同使用している。 2000 年度の会計報告によると収入は募金 222 件 (個人 137、基督教団婦人会 54 など)355 万円の み、支出は交通費 231 万円 入院雑費 119 万円、 ニュース発行費 45 万円、通訳バイト手当て 86 万 円など 562 万円で 208 万円の赤字となっている。 繰越金は 960 万円に減少している。 原爆手帳の切り替えや健康管理手当ての申請業 務は広島 YWCA、広島共立病院相談室が実施して いる。一時は広島市内 6 病院に長崎、大阪、防府 を加えた 9 病院で患者を受け入れていたが、現在 は河村病院と広島共立病院の 2 病院に減少してい る。医療をめぐる厳しい情勢と、意思疎通の困難 さなどから敬遠する施設が増えたためである。 渡日治療は 2002 年 3 月までで 468 人に達した。 うち 51 人 11%を広島共立病院で受け入れた。最 も多数の受け入れをしている河村病院の報告では 1984 年から 2000 年 8 月までに 337 人を受け入れ 16 例(4.7%)の悪性疾患が発見されている。特に 胃癌が 11 例(3.3%)という高率だが進行癌は 1 例のみであった。大腸癌が 3 例、食道癌 2 例(胃 との重複癌)子宮癌、直腸カルチノイド各 1 件が 発見され、治療を受けている。共立病院でも悪性 疾患は 4 人に 5 件発見されており同様に高率であ る。 99 年 11 月には陝川原爆福祉会館の職員 7 人が 研修に来広し、広島共立病院にも見学にこられた。 3. 渡日治療のプロセス ●本人が韓国原爆被害者協会の支部長に「渡日治 療申請書」を提出 ●支部長は申請書に推薦文をそえて韓国原爆被害 者協会本部に提出 ●本部では会長の推薦書をそえて広島の「渡日治 療委員会」に送付 ●渡日治療委員会では毎月末の幹事会で新規申請 者の受け入れを決定する 1 人が 2 回まで渡日可(2 回目は 3 年以降が原 則)、癌の経過観察の場合は医師の指示により 3 月、半年、1 年後の招請も可能 ●渡日が決定した被爆者に対して病状、治療の希 望などを電話で聞きとる。 ●渡日 3、4 月前に入院先、渡航日などを決定。2 月前には渡航の手配をし招請状を送付する ●1 週間前に入院時諸雑貨を準備して前日に病院 に届ける。 ●患者送迎、入院中の援助、被曝証言の聞き取り などを委員会が行う ●病院相談室は原爆手帳の切り替え、銀行の通帳 つくり、健康管理手当ての申請をする ●通訳は留学生などのバイト 2 人を雇い、週 1- 2 回の通訳業務を依頼している。 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 れることを決定した。96 年は 4 人、97 年 2、98 年 2、99 年 8 人を受け入れた。 2000年からは病棟機能再編により、受け入れ病 棟を4階に変更した。この病棟は内科、外科系混合 病棟であったが、内科が撤退し、代わって渡日治 療を担当することとなった。病棟看護婦は被爆者 医療の重要な柱として自覚し、コミュニケーショ ンをはかるため毎朝韓国語を勉強している。また、 手術の対象となる方が増えてきて癌告知や手術の 承諾などで問題がでてきた。渡日治療委員会と連 携を密にして、手術や大きな検査が必要な時には 説明の場に立ちあっていただき、手術室まで通訳 に同行していただくなどの協力を得ている。 4. 広島共立病院での渡日治療の経過 渡日治療委員会からの呼びかけに応えて1990年6 月に受け入れを開始した。当時入院患者の 20%、 外来患者の 18%が被爆者であった。内科医師全員 が、一度は主治医となる方針としたが、現在は清 水院長と青木副院長が担当となっている。 90 年 2 人、91 年 3 人、92 年 4 人を受け入れた が、93 年から 95 年は中断した。理由は帰国後の 治療継続が保証されていないこと、3 カ月の長期 滞在はベッド運用上問題となってきたためであっ た。 96 年渡日治療委員会から改めて受け入れの要望 がだされ、2 ヵ月以上ということでなく、治療に 必要な期間という条件をつけて 6 階病棟で受け入 5. 渡日治療 51 人の集計 90 年 2 91 年 3 92 年 4 93-95 年 0 受け入れ人数 96 年 97 年 4 2 98 年 2 99 年 8 00 年 14 01 年 12 虚血性心疾患 19 糖尿病 11 高血圧性心疾患 4 脳血栓 1 変形性脊椎症 1 実施検査一覧 胸 XP、心電図、腹部エコー、心エコー、胃 カメラ、大腸、女性は乳癌健診 腹部 CT 甲状腺エコー 専門科受診 外科、整形外科、眼科、耳鼻科、婦人科 性別 男 31 人 女 20 人 受診時年齢 50 歳台 6 人、60 才台 22 人、70 歳台 23 人、平均 67、5 歳 所属 陝川 11、慶北 12、釜山 7、慶南 7、ソウル 8、慶湖 3、湖南 2 主治医 清水院長 37、木山副院長 3 青木副院長 2、他 7 名がそれぞれ1人を担当 副主治医(手術担当)青木 5、他 3 名 被爆距離 男 2 キロ以内 16 人 2 キロ以遠 14 人 入市 1 人 女 2 キロ以内 6 人 2 キロ以遠 12人 健康管理手当て(判明分、重複あり) 診断と治療 6. 手術を受けられた方の紹介 歯の治療 20 初期は義歯製作が多かったが 歯痛に限定してから減少 脊椎疾患 22 リハビリなど 白内障 8 眼内レンズ手術実施 4 高血圧 10 内服 前立腺肥大症 7 前立腺手術 1(広大) 膝関節症 8 リハビリ、関節注射など 狭心症 6 心臓カテーテル検査実施 3 糖尿病 10 教育と治療 大腸ポリープ 6 ポリープ切除 4 大腸部分切除手術追加 1 胃ポリープ 4 生検 肩関節周囲炎 4 リハビリ、関節注射など 痔核 4 痔核切除手術 4 下肢静脈瘤 2 静脈瘤抜去手術 2 陳旧性脳梗塞 2 喘息 2 痛風 2 転移性肝癌 2 甲状腺腫 2 陳旧性肺結核 2 甲状腺癌 甲状腺切除術施行 胃癌 胃全摘手術施行 転移性脳腫瘍 陳旧性心筋梗塞 内頚動脈瘤 脳底動脈循環不全 三叉神経痛 義眼(大学にて作成) 慢性肝炎 胆石症 腎嚢胞(穿刺術施行) 膀胱脱 (他院で手術) 閉塞性動脈硬化症 皮下腫瘍 (切除) アレルギー 心房細動 - 20 - Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service LS 1930.12.30(71 歳)男 陝川支部 被爆地 舟入本町 2.0 キロ 広島の舟入川口町で 生まれ、江波に居住、被爆時は 16 才で三菱造船の 工員養成学校に通っていた。父の代わりに建物疎開 の勤労奉仕で富士見町に出かけ、児玉小児科病院の 屋内で被爆した。足をはさまれたが脱出して自宅に 帰り、4、5 日いちじく畠で野宿した。12 月に父の 故郷陝川に帰ったが言葉がしゃべれずからかわれた。 21 歳で朝鮮戦争がおこり、志願して進んで危険な 目にあった。28 歳で陝川に帰って結婚したが心臓 が悪く何度も意識を失った。82 年に大腸癌の手術 をした。費用が足りず自宅を人に貸して家賃の何年 分かを前払いでもらって工面した。原爆手帳をもら って渡日治療ができるようになり、喉頭癌がみつか って治療を受けた。その後は声が出しにくい。 日本は私たちを強制的に日本人にして徴用し、戦争 に負けると国籍をはずして補償をしない。筋が通ら ない話だ。 治療経過 1996.10.11-12.2 1 回目の渡日治療 下咽頭腫瘍が 発見され日赤に転院して放射線治療施行 2000.1.13-4.6 2 回目の渡日治療 胃 癌 が発 見さ れ 胃全 摘手 術 実施 体 上 部後 壁に 15x15mm のⅡc 低分化腺癌 2001.1.9-2.2 3 回目の渡日治療 エコー、CT にて肝腫瘍あり(S8 に 2 センチ大) 針生検にて胃癌の肝転移と診断された。 本人に告知して韓国の病院に治療を委託した 2001 年 11 月 胃癌肝転移により韓国にて死去 渡日中に広島医療生協原爆被害者の会員と懇意と なり、2001 年 4 月、韓国原爆被害者協会陝川支部 との姉妹結縁の橋渡し役となった。 渡日中に平和公園の韓国人原爆慰霊碑そばのどん ぐりを持ち帰り、自分のビニールハウスで育てた。 広島の会員の協力でどんぐりは「アラカシ」と判明 した。広島を懐かしがる友人に苗をわけてあげた。 陝川の冬は零下 15 度になるため、枯れた苗もあっ たが、根元から新たな芽吹きが出ている。 LS氏と広島医療生協原爆被害者の会会長 丸屋博 氏との交流は NHK が取材して 2 回にわたって放映 された。LS氏は丸屋氏のすすめにより「自分史」 を完成させている。 BB 1939.8.13(62 歳) 女 釜山支部 2001.4.3-6.5 来日 被爆状況 皆実 2.5 キロ 広島の知人をたよって渡日し、家族 7 人で専売公 社の近くに住んでいた。父は荷役会社で働き、母は 日本人の家事手伝いをしていた。6 才の時自宅で被 爆した。母は家の下敷きとなったが父とおじが助け 出した。遊びに出ていた末の弟は亡くなった。近く の竹林で野宿した。おじが「ここにいると朝鮮人は 殺される」といってきて、いっしょに闇舟を調達し て帰国した。おじはそのため全財産を使い果たした。 父の故郷に引き上げたが大勢のため祖母と母のおり - 21 - October, 2002 あいが悪くなり、母は妹弟を連れて、自分の兄弟を 頼って出て行ってしまった。自分と姉が残された。 髪の毛が抜けて体調が悪くなった。祖母は 9 歳だっ た自分をソウルの女中奉公に出した。3 年後に朝鮮 南北戦争がおこり奉公先から出た。女中奉公、紡績 工場で働いた後、21 歳で農業をしている男性と結 婚して 5 人出産したが 2 人は亡くなった。母の消息 を探しつづけてきたが、妹とともに広島にいること がわかり 45 年ぶりに再会した。母は 30 歳台で乳癌 の手術を受け、その後も病気がちで生活保護を受け ていた。弟は釜山でなくなっていた。 実施検査、治療 エコーにて甲状腺癌が発見された。内痔核 もあり希望にて同時に手術施行、甲状腺左葉 亜全摘、脱肛根治手術(PPH)、12x8mm 乳 頭癌 リンパ節転移は認めない。 手術前の説明には渡日治療委員会の金牧師、在日 の妹さんが同席した。手術時は麻酔がかかるまで通 訳が付き添った。 術後の経過は良好 甲状腺機能は正常にて内服は 必要なし。 KH 1933.6.20(65 才)男 入院期間 1999.5.10-8.6 被爆状況 三篠本町 1 丁目 小学校の木造教室内で 被爆、左肩打撲 1.7 キロ 広島県総領町生れ、江波小学校 6 年のとき教室で 被爆、顔をガラスで切っていた。父は翌日死亡した。 韓国人は今の放水路の土手に防空壕をつくって食料 を蓄えてしのいでいた。9 月始めに 60 世帯が集ま って宇品から 200-300 人で出航したが台風にあい 大島で他の船と衝突して船の修理に 1 月かかった。 対馬をでてから機関が故障して漂流となり馬山沖で 救助された。慶尚北道金泉で叔父を手伝って農業を した。19 歳でキリスト協会にはいり、26 歳で結婚 した。27 歳から軍隊に志願して入隊した。除隊後、 伝道師になる決意をして高麗総神学校に入り、1974 年に牧師となった。 ドイツと日本はおなじように侵略をして、ドイツ は事実を子供に教えて、賠償を払い続けているが、 日本はアジアに与えた残酷さを教えないし反省しな いのはなぜか。私は韓国人だが日本で生まれたので 日本がアジアから尊敬されないのが残念だ。どんな に時間がたっても歴史の真実は消えない。被害者が 生きている間に謝罪して早くけじめをつけたほうが 日本のためになる 実施検査、治療 6.15 痔核根治手術実施、歯の治療 術後の経過は良好 7. 在外被爆者の現状と運動 在外被爆者は現在約 5000 人といわれ、韓国 2100 人、北米 1000 人、北朝鮮 900 人、南米 180 人など 30 数カ国にわたっている。韓国、北朝鮮は日本へ の出稼ぎ、徴用中の被爆である。北米は戦前の移民 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 者が帰国中に被爆したもの、米兵と結婚して渡米し た女性などであり米国籍者と永住権所有者が混在し ている。南米は主に戦後の移民者で、韓国籍の 1 人 以外は日本国籍者であるが、移民にさいして被爆の 有無を問われたものはごくわずかであった。いずれ の国でも、被爆者とわかるとさまざまな差別を受け ており、いまだに被爆者であることを隠しつづけて いる方も少なくない。 在外被爆者は長らく放置されてきたが、相互援助 と日本政府に補償をもとめる組織が 1967 年韓国、 1971 年北米、1984 年ブラジルに相次いで結成され た。これらの運動の結果、在外被爆者であっても来 日して被爆者手帳を取得することが可能となったが 手帳を持っているものは 4 割にすぎない。健康管理 手当は来日中に限って支給され、出国にともなって 打ち切られている。これは 1974 年の厚生省衛生局 長通達に基くものであり、軍人恩給などが在外者に も継続支給されているのに比して理不尽な措置とい える。 1998 年ソウルの郭貴勳さんが、出国による健康管 理手当の打ち切りを不当として大阪地裁に提訴をお こない、証人として在米原爆被害者協会の倉本寛司 名誉会長と在ブラジル原爆被爆者協会の森田隆会長 が出廷し、はじめて 4 カ国の被爆者が共同した援護 運動がはじまった。2001 年、郭さんは勝訴したが、 国は高裁に控訴して裁判がつづいている。 国は地裁敗訴の後 2001 年 8 月に「在外被爆者に 関する検討会」を設置して 12 月までに 5 回の会合 を持ち報告書作成した。「居住地により援護の程度 に差があるのは不合理であり何らかの施策を講じる べき」いいながら内容はお粗末で、在外被爆者の規 定の整備をおこなう(手帳は国内でのみ有効である と明記など)ことと、H14 年度予算で 5 億円を計 上して広島長崎県市が在外被爆者の健康保持のため におこなう事業に援助し半額を旅費にあてて、3 年 以内に手帳の交付がされてない全ての在外被爆者 (推定 2800 人)が渡日して手帳の発行を受けるこ とができることとするというものである。国内と同 等の援護を望む在外被爆者の思いとは大きくかけは なれたものであった。 在ブラジル被爆者協会の森田さんは長年陳情を続 けてきたが、年老いた被爆者がブラジルから 1 日か けて渡日することは不可能であり、もはや訴訟しか 手段は無いと決断して、2002 年 3 月に広島地裁に 海外にあっても被爆者としての地位を確認すること と打ち切られた健康管理手当の支給をもとめて提訴 した。森田さんはその直前に心臓病で入院され来日 できなかったが、広島の平和活動家の手で訴訟が進 行している。 在韓被爆者には不十分ながらも援護がおこなわれ ているが、在米被爆者には隔年の出張検診と少数の 帰国治療がおこなわれているにすぎない。南米検診 に同行した厚生官僚は「やがて被爆者は死んでしま うのだから、これだけのことをしておけばいい」と 語ったそうである。 - 22 - 被爆者に残された日々は多くはない。1 日も早く 在外被爆者にも国内と同等の援護が受けられるよう 世論を喚起していくことが必要である。 在外被爆者援護に関する動き 韓国 1967年 韓国原爆被害者援護協会発足(77 年に 韓国原爆被害者協会に改称)補償運動を おこす 1971 年 大阪に「韓国の原爆被害者を救援する市 民の会」発足 1972年 孫振斗氏が被爆者健康手帳申請脚下取り 消し訴訟をおこし 78 年、最高裁で勝訴 1992 年 三菱長崎造船所で徴用中に被爆した金順 吉氏が未払い賃金、強制連行、被爆に対 して提訴 1998年 ソウルの郭貴勳氏が大阪地裁に出国によ る健康管理手当て打ち切りを不当として 提訴 1998年 韓、米、伯、日の被爆者が共同で日本政 府に被爆者援護法の在外被爆者への適応 を訴える 1999年 釜山の李康寧氏が長崎地裁に同様の援護 法訴訟をおこす 2001 年 6 月 大阪地裁で郭貴勳氏が勝訴、国が控訴 して高裁での争いに、支援の署名 14 万筆 2001 年 10 月 陝川の李在錫氏が大阪地裁に援護法 訴訟をおこす 2001 年 12 月 長崎地裁で李康寧氏が勝訴 国が 控訴して高裁での争いに 米国 1965年 ロサンゼルスに「原爆友の会」結成 1976年 在米原爆被害者協会設立 会長 倉本寛 司氏(米国籍)現会員 1000 人被爆者手 帳所有 650 人 1977年 広島県医師会などの渡米検診が開始、2 年に 1 回継続 4 ヶ所で実施、99 年の受 診者 414 人 1988 年 広島県医師会が在米被爆者里帰り治療始、 検診受診者から毎年 5 人を招待して 2001 年までに 14 回 78 人を治療 ブラジル 1984年 在ブラジル原爆被爆者協会結成 会長 森田隆氏 現会員数 160 人(1 人以外日 本国籍) 1985年 日本から検診医師団派遣開始 北米と 交互に隔年実施 2000 年の第 9 回検診 の受診者は 63 人 1989年 南米被爆者実態調査 総数 188 ブラ ジル 153 アルゼンチン 19 ボリビア 8 パラグアイ 4 ペルー4 被爆者手帳所 有者 56 人被爆 45 周年を記念して 5 人 の被爆者に広島での帰国治療を行なっ た。以後 2000 年までに 35 人を受け入 Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service October, 2002 れており、今後毎年 3 人を受け入れる 予定。 2002 年 3 月 森田隆氏 健康管理手当て打ち切り を不当として広島地裁に提訴、支援す る会結成 北朝鮮 2001 年 3 月時点での生存被爆者は 930 人、優先 的に病院で治療が受けられるとされている。 HOPE ビル 3F Tel/Fax 082-246-8699 郵便振替 01380-4-69413 銀行口座 広島銀行本店 普通 2822792 被爆者援護法研究会(代表 田村和之広大教授) 原爆被害者相談員の会(代表 鈴木勉広島女子大教 授) 〒730-0052 広島市中区大手町 1-5-17 HOPE ビル 3F 各支援団体の連絡先 韓国の原爆被害者を救援する市民の会 (会長 市場淳子)年会費 4000 円 〒560-0003 豊中市東豊中町 4-21-10 市場方 ℡/Fax06-6854-7308 郵便振替 00970-8-28307 在韓被爆者渡日治療広島委員会 (代表 河村 譲 河村病院長)年会費 1000 円 〒730-0052 広島市中区大手町 1-5-17 HOPE ビル 3F 郵便振替 01340-7-6888 在ブラジル被爆者裁判を支援する会 (会長 田村和之広大教授)年会費 2000 円 〒730-0052 広島市中区大手町 1-5-17 参考文献 1) 市場淳子 ヒロシマを持ちかえった人々―「韓国 の広島」はなぜうまれたか、凱風社 2) 在韓被爆者が語る被爆 50 年 3) 韓国の原爆被害者を救援する市民の会 4) 被爆者が被爆者でなくなるとき、同上 5) 森田隆 ブラジル・南米被爆者の歩み、刊行委 員会発行 6) 倉本寛司 在米 50 年 私とアメリカの被爆者、 日本図書刊行会 7) 平成 13 年度 原爆被爆者対策事業概要 広島県 - 23 - 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 第 8 回研究会記念講演 15 年戦争と東北帝国大学 一戸 富士雄 宮城県歴史教育者協議会 15-years War and Tohoku Empire University Fujio ICHINOHE History Educationalist Conference of Miyagi Prefecture 1. はじめに 15 年戦争期における戦争遂行の国家政策に帝国 大学としての東北帝国大学の戦争協力・加担の研究 体制とその研究内容がいかように貫かれていたか、 また戦後そのことについて究明・反省することにい かに無自覚であったかという点を論じようとするの が、本講演の主旨である。 なお、15 年戦争と銘うっているが、主として 1937 年の日中全面戦争開始から 1945 年の敗戦に至 るまでの約 8 年間(つまり、本多光太郎第 6 代総長 の末期と、熊谷岱蔵第 7 代総長のほぼ全期)である ことを、まずお断りしておきたい。 これまで本研究会は、主として個々の医学者・医 療関係者の研究内容と体制としての医学部や医療機 関の戦争協力とその責任について論じてきたように 思われるが、私はそれらのことと共に、帝国大学 (そして総合大学)としての医学部の役割、ならび に医学者総長としての戦争協力についての指導性と いう視点から特に論じてみたい。 東北帝大の歴史は、1907(明治 40)年の東北帝国大 学設置の勅命ではじまるが、医学部の前身は 1887(明治 20)年の第二高等中学校医学部の創設、も しくは 1901(明治 34)年の仙台医学専門学校の創立 にはじまる。その意味で、京都帝大に次ぐ第三の帝 国大学としての東北帝大各学部のなかで、最も長い 歴史を有しているのが医学部である。 なお、『文部省第 73 年報』(昭和 20 年度)によれ ば、医学部の教官数は 141 名で大学の学部全体のそ れの 36%を占めている。その意味からも東北帝大 の中核を担っていたのは医学部であった(そのほか は、理学部 97 名、工学部 79 名、法文学部 73 名で ある。さらに学部とは別に 10 の付置研究所がある)。 このことは学内における医学部の人事的優位性と戦 時体制化における医学部出身の熊谷岱蔵総長出現の 背景を物語っている。 2. 帝国大学の特質-国家への隷属性について 東北帝大は何よりも帝国大学令に基づいて創立さ れた。政府は 1886(明治 19)年に帝国大学令を制 定したが、その第 1 条で「帝国大学ハ国家ノ須要ニ 応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攷究スルヲ以テ 目的トス」と規定した。つまり帝国大学は帝国主義 国家の要求する学術研究と人材養成を目的とし、政 府の高級官僚や指導的技術者などを育成・補給する 最高学府として位置づけられた。帝国大学としての この国家への隷属性は、学問の自由・大学の自治と いう大学が依って立つ根源的本質と対立し、時には 多くの悲劇と犠牲を現出させていった。 1918(大正 7)年、政府は帝国大学令を改正して、 新たに大学令を公布した。大正デモクラシーの時代 状況のもと、官立の総合大学のみならず、公私立大 学の設立・昇格の社会的要求が高まり、その門戸を 拡大するために新たな大学令が制定された。しかし その第1条には帝国大学令の規定をそのまま継承す ると共に、新しく「兼テ人格ノ陶治及国家思想ノ涵 養ニ留意スヘキモノトス」という国家主義的な教育 を新たな目的として付加した。 アジア太平洋戦争を目前とした 1940(昭和 15) 年に、文部省は「大学教授ノ責務」と題した訓令を 出した。そこでは全ての大学教授の最も重要な責務 として、特に天皇信仰の教育政策の基本理念である 『国体ノ本義』に基づく、教育と研究の指導を要求 していた。 以上の 2 つの法令と文部省訓令を通して、各大学 のなかでも特に帝国大学の研究と教育の国家への隷 属性意識は、疑問の余地のない程自明の理であるか のように大学に深く浸透していった。しかし学問の 自由・真理の探求に基づく国家への批判の自由とい う大学の根源的本質に照らした時、この歪んだ日本 的大学観・研究像は著しい逸脱であり誤謬であり、 さらには反学問的・非科学的であることは、こんに ちではあまりにも明白である。 3. 東北帝国大学の誕生 東北帝大の創設は、先述のように 1907(明治 40)年の東北帝国大学設立の勅令に基づくもので、 これは京都帝大創設の 10 年後の、第 3 の帝国大学 としての誕生であった。この社会的背景は、日露戦 争での勝利を受けて帝国主義国家としてアジアにそ の覇権を確立するための指導的人材の育成を根底と したものであった。 東京帝大や京都帝大の後塵を拝して発足した後発 * 連絡先:〒982-0022 仙台市太白区鹿野本町 21-1 Address: 21-2 Kanohonchyo, Taihaku-ku, Sendai 982-0022 JAPAN - 24 - Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service は自然科学系部門 13 に対し、社会・人文科学系部門 はわずか 1 にすぎない。その意味であまりにもバラ ンスを欠いた研究体制で、学内構成上の奇形性は東 北帝大の大きな特質をなしていた。 そのことは、創立以来今日に至る約 90 年間の歴 代総長が文学部出身の 2 名を除いてすべて自然科学 系部門出身者によって占められてきた事実にも反映 している。 このような大学構成上のいちじるしい跛行性は、 大学行政や大学全体の研究体制とその問題意識の面 で、東北帝大の特質を強く規定してきたといっても 過言ではない。つまり「科学至上主義」が前面に出 て無批判的に軍部や政府の要求に応えた戦時研究が 横溢した点である。そこにはもはや大学の研究の自 由という大学存立の根源にかかわる問題意識もなけ れば、社会科学的な視点の深みも稀薄であった。そ の点に関しての具体的な事実については後述したい。 大学としての東北帝大は、自らの存在意義と独自の 研究方法を強く自覚して研究を推進してきた。それ がこれまで東北大学内部からよく言われる「学術研 究第一主義」 (あるいは単に「研究第一主義」)とい う伝統的な学風である。帝大の眼目を「研究第一」 に置くことはあまりにも当然すぎる理であるにもか かわらず、東北帝大があえて「研究第一主義」を旗 印に掲げた意味は、後発大学として東京・京都両帝 大に伍して(あるいはそれを凌駕する)研究業績を あげる自覚的な気概を高揚させるためのもの、とい ってよいのかもしれない。同時にこの「研究第一主 義」の学風に関連して、東北大学副総長馬渡尚憲は 初代総長沢柳政太郎の言説に触れ、「研究第一主 義」における「学術研究」の目的を「実用忘れざる の主義」との沢柳の説をうけて、「本学の『実用主 義』は、『学術研究』すなわち研究教育が、政府の その時々の要求に直接応じるような有用性ではなく、 もっと広く普遍的に人間や社会・産業にとっての有 用性や効用をもつべきことを説いている」1)と解説 している。 もちろん大学の学問研究が、いわゆる「象牙の 塔」に閉じこもって社会関係と一切絶縁して存立す ることはあり得ず、むしろ社会の進歩発展に研究成 果が貢献すべき大学の社会的使命は重視しなければ ならない。したがって馬渡副総長のいう「広く普遍 的に人間や社会・産業にとっての有用性や効用」を 強調することの意味は理解できなくはない。しかし 「政府のその時々の要求に直接応じるような有用性 でなく」と、戦時中の東北帝大の研究をきわめて善 意に解説しているとするならば、歴史上の事実に照 らして考えると大きな誤りであると言わざるを得な い。 以下その点を、東北帝大の戦時下の戦争協力と戦 時研究の実態の検証を通して、明らかにしていきた い。 5. 戦時下の 2 人の「自然科学系」総長 5-1. 第 6 代総長本多光太郎 第 6 代総長の本多光太郎は、東北帝大に付置され た金属材料研究所長として長い間重要な役割を果た してきた人物で、また国内的にも日本金属学会会長 として積年指導に当たってきた日本を代表する物理 学者であった。しかも 1917 年のKS鋼、1933 年の 新KS鋼などの世界的な発明によって国際的名声を 夙にかち得た最高の科学者のひとりで、日本最初の 文化勲章の受章を受けた人でもあった。その本多は 1931 年に総長に就任するが、その総長としての行 政的「功績」は、国家総動員体制のもとで国策を無 批判に受容し、さらにそのことを好機として積極的 に戦時研究体制を推進していったことにあった。な かでも本多の研究機関であった金属材料研究所は、 彼の総長在任期間中 3 度の官制改正を実現させて所 員や助手を増員し、航空機材料及び磁気材料の研究 を積極的に展開していった。まさに金属材料研究所 はその充実発展によって、「斬界ニ貢献セル処極メ テ大」2)という実績を築き上げていった。その意味 で金属材料研究所は、「戦時下において単なる研究 所にとどまらず、(軍の)技術廠たる資格をも具備 するようになってきた」3)と大学史で評されるほど、 軍事の基礎研究機関化の道を歩み続けていった。そ れは総長としての本多光太郎の積極的な指導性によ るものにほかならない。 併せて彼は、東北帝大の第 2 の付置研究所である 農学研究所と、工学部に航空学科の各創設に尽力し 成功させた。前者は戦時体制下における食糧増産を 中心とする農業資源の開発を意図したものであり、 また後者は軍の要請に応じて航空機製作技術者の養 成を目的とした学科の新設であった。 1937(昭和 12)年制定された第 1 回文化勲章受 賞者となった本多光太郎は、当時東北帝大総長の地 位にあった。その国家的栄誉をバックに、政府や軍 部は東北帝大総長としての彼の指導性に期待し、彼 もまたその期待に応えようと誠実に尽力し、研究条 4. 東北帝国大学の特質とその問題 東北帝大の特質を考える時、何よりも自然科学系 の学部・付置研究所の圧倒的優位がいやが上にも目 につく。 先述のように、敗戦時までの学部構成は医・工・ 理の自然科学系 3 学部に対して、社会・人文科学系 学部は法文学部の1学部にすぎない(因みに法・ 経・文・教の 4 学部の発足は、戦後の 1949 年にな ってからである)。 また勅令による付置研究所の設置は東北帝大の場 合、金属材料研究所をはじめとする 10 の研究所す べてが自然科学に関するものである。東京帝大に東 洋文化研究所、京都帝大に人文科学研究所、また東 京商科大学に経済法研究所と東亜経済研究所が付置 されていることを考えると、東北帝大の自然科学系 付置研究所独占の状況は、きわめて異常であると言 わざるを得ない。仮に 1 研究所を 1 学部並にカウン トした場合(事実、大学評議会の評議員は各学部長 と共に各研究所所長が就任していた)、東北帝大で - 25 October, 2002 - 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 とが大学の使命である、とは考えなかった」7)、そ して「『社会』が戦争を要し、『国家』が軍国化する なら、ただちにそれに応じればいいという単純さで あった」7)と、後世、東北大学の「正史」から評さ れた総長であった。その後任者である熊谷も、その 意味で忠実な後継者たる「業績」を後述のように積 み重ねていった。総長としての就任期間が主として アジア太平洋戦争期と重なっていただけに、自然科 学者らしい合理的論理的理性に立つ大学の根本理念 の認識はきわめて乏しく、その点では本多よりも積 極的に軍事研究とその体制の推進に全力を傾注して いった。その具体的な事例を、付置研究所や軍事関 連学科などの創設・新設問題を通して、次に論じて みたい。 件の拡充発展を何よりも喜んでいた。科学研究の 「充実」がどのような国家的意図のもとで実現して いったのかは、そもそも問題外のことであった。帝 国大学の研究使命は、国家政策にひたすら順応・奉 仕することにあるとの大前提が、自明の理として単 純に確信していたからであった。彼にとっては社会 科学的な根源的問いは理解できなかったし、そもそ もそのことを考えようともしなかった。その意味で 世界的な自然科学者でありながら、社会科学的洞察 力とは無縁の、当時の大方の日本国民が所有してい た通俗的で国粋主義的な国家認識とほとんど変わる ところがなかった。すぐれた自然科学者でありなが ら国家認識の上では非科学的な国体信仰の持ち主で あり、そこに科学者総長の「悲劇性」を見る思いが する。 5-2. 第 7 代総長熊谷岱蔵 A. 熊谷総長の大学行政面での特質 本多光太郎の後を継いだ第 7 代総長熊谷岱蔵は、 その意味で本多以上に輪をかけた「自然科学者」総 長であった。熊谷は医学界における結核研究の泰斗 であるが、「科学至上主義」的な自然科学者で、本 多同様社会科学的な洞察力を欠いたまま、ファシズ ム体制に積極的に便乗して軍事関連の多くの付置研 究所の創設に全力を尽くしていった。 熊谷の場合は、本多ほどの国際的名声や全国的な 人脈に乏しいだけに、本多以上に国家権力に迎合し、 東北帝大の国策的な戦時研究やその研究機関づくり に指導性を発揮していった。その奮闘ぶりは涙ぐま しい程で、時にはいささか「喜劇的」でさえあった。 例えば 1941(昭和 16)年 10 月の東北帝大報国隊結成 式に臨んだ隊長(同時に総長)としての熊谷は、 「馬上ゆたかに国民服を着用し、挙手の礼をもって 学生に応え」4)たが、それが大真面目であればある 程、「教授・学生はそこに時勢とその力の象徴を見る にすぎなかった」4)という。しかしこの熊谷の「泰 然たる姿勢は、学外に向かっては信頼を繋ぎえたら しい」4)と評されている。その「学外」とはもちろ ん政府であり軍部であり、その「信頼を繋」ぐため の、慇厳な医学者総長らしからぬ「演出」ぶりであ った。それだけに短身肥満な彼の馬上でのひたむき な風体に、学生たちは「普通の鐙では足が届かない ので、特別注文だそうだ」5)と秘かに揶揄していた という。その気負った威厳ぶりに学生たちは、権力 迎合と戦時協力の象徴を見い出したからであろう。 アジア太平洋戦争直前の熊谷総長の面目躍如の感が 深い。なおこの東北帝大報国隊とは、各学部を大隊 とする戦時組織体で、「有事に際しては挺身して、 学内外の各種国防関係事務に協力」6)する学内一丸 となった戦時報国の実践隊であった。 熊谷はその総長就任期間(1940 年 5 月~1946 年 2 月)を通して、一貫して国家や軍部の要求に応え て、大学あげて戦時研究と戦争協力に狂奔していっ た。前任者の本多光太郎は「戦争(の本質)を論議 し、軍部を批判し、世の進むべき針路を明示するこ - 26 - B. 軍事関連の付置研究所・学科の急増ぶり 1939 年以降設置された各帝大に付置された(官 制公布による)研究所数は、『東京大学百年史』 8) によれば、東京帝大 3、京都帝大 6、東北帝大 8、 九州帝大 4、北海道帝大・大阪帝大・名古屋帝大各 2 の計 27(ほかに植民地にある台北帝大 2、京城帝大 1)となっている。そのうち東京帝大・京都帝大各 1が人文・社会科学系であるから、自然科学系付置 研究所は 7 帝大全体で 24 であることを考えると、 東北帝大 8 は異常に高く全体の 3 分の 1 を占めてい る。しかもそれらのすべてが直接(または間接)に 軍事にかかわる基礎研究機関であることに特に注目 すべきである。この一事例だけでも、軍部が東北帝 大にいかに大きな期待を寄せたかがわかる。なお、 『東京大学百年史』の表8)によれば東北帝大の付置 研究所の設立数は 8 となっているが、後述する航空 医学研究所(1943 年 10 月)の設立が欠けているの で、実態としてはその設立数は 9(つまり全帝大の 自然科学系付置研究所設立総数の 36%)と正すべ きである。 なお、本多総長期には付置研究所の設立は、農学 研究所(1939 年 8 月)のみであり、また学科の新 設は工学部の航空学科(1939 年 4 月)にとどまっ ていた。それに比して熊谷総長期には 8 つの付置研 究所の創設ラッシュを実現させ、また学科の新設と しては3学科(工学部に通信工学科・鉱山学科、理 学部に地球物理学科)を誕生させた。この点からも 熊谷の帝大総長としての行政手腕の卓抜性と戦時下 国家権力への積極的な迎合と追随ぶりが明確に窺い 知ることができる。 その 8 つの付置研究所の性格・研究内容は次の通 りである。(年月は官制公布のそれ)。 (1) 選鉱製錬研究所(1941 年 3 月) 重要金属資源の選鉱製錬の研究、特に商工 省や軍部の緊急要請に応えてのコバルト取得 やニッケル鉱の選鉱研究などが中心であった。 初代所長の浜住松ニ郎は政府の科学審議会の 委員でもあった。 (2) 抗酸菌病研究所(1941 年 12 月) アジア太平洋戦争突入のわずか 1 週間の後に Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service り、海軍技術研究所島田実験所所長として大学 を留守にすることが多くなった。 なお『東北帝国大学学報』の記事によれば、 電気通信研究所には海軍大臣・陸海軍大将・陸 軍師団長・陸海軍技術研究所所長・航空廠廠長 などの軍最高幹部の来学・見学が相次いでおり、 その頻度数は金属材料研究所に次いで実に多い。 そのことは、軍部がこの電気通信研究所の研究 内容にいかに大きな期待を寄せていたかがわか る。 (7) 非水溶液化学研究所(1944 年 1 月) 戦時中、化学工学科の教授であった八田四 郎次は、「液態アンモニアの使用によって起爆 薬の原料なる窒化ナトリウムを安全に大規模 に生産する方法が開発されたことは軍需への 格別の貢献となり、非水溶液化学研究所新設 の動機となったのである」9)と戦後に回顧して いる。そして陸軍燃料廠の斡旋によって研究 上の必要資材を入手でき、航空機などの液体 燃料及び潤滑油の開発研究に全力を傾注して いった。 (8) 硝子研究所(1945 年 1 月) 敗戦を目前にしての最後の付置研究所の創 設であった。ここでの硝子研究は、電気絶縁 体半導体や理化学用ガラス・水晶ガラスなどの 総合研究をめざしたが、間もなく敗戦となり、 戦後先述の非水溶液化学研究所に吸収された。 熊谷総長時代の付置研究所の設立は、以上 の通り 8 研究所と他に類例を見ない異常とも 言える激増ぶりだった。しかもそのいずれも が軍の期待のもと軍事研究に何らかの形でか かわるものであったことは、先述の通りであ る。 さらにこの期間、東北帝大に 3 学科の新設 も実現していた(年月は新設のそれ)。 (1) 工学部通信工学科(1941 年 4 月) 通信工学科は軍ならびに軍需産業の指導的 技術者養成とその研究を目的に設置された。 そして敗戦に向かう段階になると陸海軍の技 術研究所の分室と化し、軍と一体となって電 波兵器の研究開発に従事していった。1939 年 4 月の工学部航空学科の新設と相まって、東北 帝大における軍ならびに軍需産業の技術者養 成が本格的に展開されていった。 (2) 工学部鉱山学科(1944 年 10 月) 東北地方は全国金属鉱山のおよそ 3 分の 1 を 占めていただけに、戦争遂行に不可欠な重要地 下資源の探鉱・採鉱などの指導的な技術者養成 を目的に設置された。この学科の誕生について は学外では仙台鉱山監督局局長、学内では熊谷 総長らの尽力に負うところが大であったといわ れる。 (3) 理学部地球物理学科(1945 年 1 月) 戦争遂行上気象学の研究はますますその重 要性を増すと共に、また地下資源開発のため 設立されたもので、戦力増強の国策上から青少 年の体位向上、中でも当時亡国病とまで言われ た結核の予防および治療は、兵士と軍需工場工 員の健康を確保するための必須の基礎条件であ った。その国力の増進・戦力増強という戦時国 策遂行の重要性に鑑みて、内科学の泰斗熊谷は 総長在任ながら、自ら初代所長を兼任する程の 力の入れようであった。 (3) 科学計測研究所(1943 年 1 月) 戦力増強に伴う工作精度の向上のための科 学計測研究の国家的緊急性が、海軍航空技術 廠などから強調されて、その要請を受けて付 置された。一時は、海軍の研究所として経営 し、研究内容は東北帝大に一任するという案 まで出た程、海軍側は強力にバックアップし、 海軍航空技術廠技師 2 名が兼任助教授として 研究に従事した。主な研究テーマとして、航 空高度計、強力爆弾、光学兵器、爆風圧力、 航空機用転輪羅針儀などについて研究であっ た。 なお、隣地に技術院や海軍航空本部の援助 によって財団法人航空精密計測研究所が創設 されたが、理事長には総長の熊谷岱蔵が就任 していた。 (4) 航空医学研究所(1943 年 10 月) 医学部の戦時研究(戦争協力)と戦争責任 を考える際、学部の航空医学講座(1939 年開 設)の問題と共に、避けては通れない重い課 題をもっている。その意味でこのことについ て後でやゝ詳しく論じてみたい。 (5) 高速力学研究所(1943 年 10 月) 航空医学研究所と同日(10 月 5 日)に誕生 した、東北帝大としては通計 7 番目の付置研 究所で、総長熊谷を委員長とする学内の高速 力学研究所拡充委員会の尽力によって発足し た。軍部の要請のもとに、日立製作所、三菱 重工業、中島飛行機などの軍需産業の寄付金 を得て、①艦船の高速化のための船舶推進器 の空洞現象ならびにそれに用いる翼型の研究、 ②ポンプの小型高速化の研究、③噴射推進式 飛行機用のジェットエンジンの研究が行われ た。 (6) 電気通信研究所(1944 年 1 月) 東北大学に付属されていた電気通信研究所は すでに 1935 年 9 月に設置されていたが、政府 によって官制公布された付置研究所に昇格した のはその 9 年後の 1944 年であった。電気通信 研究所は工学部の通信工学科・電気工学科と事 実上一体となって、主として海軍の軍事研究に 従事していった。例えば潜水艦探知のための水 中音響学の研究、軍の飛行機を借りての電波実 験などに当たっていった。また電気通信研究所 所長抜山平一は、多摩陸軍技術研究所東北帝大 分室長を兼任し電波兵器の研究に専念し、一方 電気工学科の教授渡辺寧は海軍技術師兼務とな - 27 October, 2002 - 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 に物理探鉱学が重視されるようになって地球 物理学科が新設された。 以上のように、戦時下の要求に応えて各種付置研 究所の驚異的な簇生と学科の新設は、何よりも熊谷 総長の強い熱意と巧みな行政手腕に負うところが多 い。軍や政府・軍需産業の動向・要望に実に敏感に反 応し、精力的に関係機関と折衝し、それをほぼ実現 させていったそのエネルギーと行政能力は、並みの 学者には見られない特筆すべきものがあった。 C.総長としての熊谷の大学像 帝大総長の熊谷は、科学者としての合理的論理的 英知・節度よりは、むしろ当時の一般国民とほぼ同 レベルの時局認識・国家観に立つ現実主義的な感 覚・観念で事に処していった、と言っても過言では ない。医学研究者としての国民の健康と人間の尊厳 性、そして普遍的なヒューマニズムに徹する理念・ 良心を、はるかに後景に追いやり、自らの研究の砦 と大学機関の「発展・拡充」のみに最大の関心を払 い、そのために巧みに軍や政府に迎合・追随してい った、と断ぜざるを得ない。社会科学的な洞察力を 欠落させ、大学の自治・学問の自由についての根源 的認識を持ち得ない、科学者総長の時局便乗型の 「科学至上主義」の行きつく退廃・醜悪を、総長と して最高学府の場で演出していったのが、熊谷岱蔵 (そして本多光太郎も)であった。 その点を象徴する重大な汚点を残した大学の「自 殺」行為は、いわゆる人民戦線事件の際にとった熊 谷総長の信じ難い言動であった。 1938(昭和 13)年 2 月、いわゆる人民戦線事件 で、東北帝大法文学部助教授宇野弘蔵らが検挙され、 そして 12 月に治安維持法違反の容疑で起訴され、 文部省は宇野を休職処分に付した。しかし仙台地方 裁判所(第 1 審)と宮城控訴院(第 2 審)は、いずれも 宇野を無実と決した。この判決を受けて当然のこと ながら法文学部教授会は、休職中の宇野の復職を決 議した。しかし熊谷総長はこの決議を文部省に伝達 することを逡巡したので、法文学部長はその手続き を適切に遂行するように申し入れたが、法に基づい て学内の教官の名誉と身分を守るべきはずの熊谷総 長はついに動かなかった。それのみか、結局形式的 な復職辞令を出して、5 日後には依願免官の辞令10) で辞職させるという実に姑息な手段を弄して、表面 (大学の体面)を繕ったのである。総長たるものが学 問の自由の何たるものかを理解する能力を欠いたま ま、文部省や政府に忠勤を尽くした行為であった。 東北大学の歴史に一大禍根を残した不祥事件と断じ ざるを得ない。大学の「自殺」行為といわれる所以 である。そのことを、比較的に穏健な『東北大学五 十年史』の記述でさえ力をこめて次のように告発し ている。「勝手にこれと思うものを検挙すれば、法 では無実となっても大学は追われる。警察・検事の 主観的な認定で、大学の教授は自由に追放できたの である。総長もそれを守らず」、「法と裁判はなおあ ったにせよ、事実は思いのままに、気にいらぬ教授 は追放できたのである」。 11) そして熊谷総長のもと - 28 - で(彼の意のままに)、その後も法文学部の辰野講師 の検挙と追放、服部(英太郎)教授の「自発的辞職」 の強要などが相次いでいった。このようにして大学 の自治を「自殺」させた熊谷総長時代の東北帝大は、 「亡国的な様相が深められて」11)いった。 熊谷総長の非理性的な社会認識の通俗性について は、総長としての卒業式や入学式に際しての告辞に も鮮やかに表出されている。例えば 1942 年 10 月の 入学式においては、大学を「天業に翼賛し奉るとこ ろの、真の国士を養成する国家最高の錬成道場」12) と位置づけ、新入生に対し「いみじくもこの聖代に 生を享けて、天業に翼賛し奉るを得る幸運に感激し、 課せられた自己の責務を明白に把握し、あらゆる国 家の要請に対して、挺身任に赴くの覚悟を、只今こ の席に於いて明確にせられたい」12)と殉国挺身の国 士になるよう、強烈に決意を促したのであった。そ こには最高学府の総長としての知性と理性の冷静な 発露はほとんど感じられず、あるのは「錬成道場 長」としての狂信的な信念の強要であった。もはや 大学の使命は学問的な真理の探求にあるのではなく、 「大学ニ在ル者ハ世界無比ノ武器ヲ作ル学理ト技術 ノ研究ニ総力ヲ挙ゲテ精進致シテヲルノデアリマ ス」 13)(熊谷総長の仙台中央放送局におけるラジオ 放送)と自ら位置づけ自賛していた。これでは東北 帝大はあたかも軍の技術研究所や造兵技術廠と化し (事実そうした実態化を深めていったが)、総長はま るでその所長や廠長であるかのように「一切ヲ捧ゲ テ、戦力増強ノタメニ、驀進、驀進、タダ驀進アル ノミデアリマス」13)(同上)と、自らを奮い立たせ るかのような激情的な口吻でこのラジオ放送の結び としていた。そこには医学者としての冷静に人間の 尊厳性を深く見つめる科学者総長の倫理性の一かけ らも、見出すことはできない。 6. 科学者の戦時動員 戦時体制化における政府の科学政策遂行上きわめ て重要な役割を果たしたのは、半官半民の日本学術 振興会と官制に基づく研究動員会議(戦時研究員制 度)であった。 日本学術振興会は、満州事変突入の翌 1932 年、 政府の強力な援助のもと、歴代の内閣総理大臣経験 者を会長におき、「文化ノ進展、産業ノ開発、国防 ノ充実ニ資シ」14)(同会寄付為第 3 条)するを目的 として創立された。1937 年の日中戦争開始以降は、 軍の軍事研究の要求に応えて「事変緊研究」、さら にはアジア太平洋戦争期には決戦下の全面的な軍事 研究に専念し、大学(とくに帝国大学)・軍・軍需 産業・政府の研究機関などや個人にばく大な補助金 を 交 付し 、軍 事 研究 を推 進 して いっ た 。因 みに 1938 年時の特別及び小委員会委員の委員は合計 726 名いるが、大学関係者が 357 名と全体の 49%を占 めていた(ほかに陸海軍委員が 87 名など)。その中 でも東京帝大は 134 名、京都帝大は 59 名、そして 東北帝大が 35 名とこれら 3 帝大だけで 228 名を占 め、日中全面戦争初期の段階からすでにこれら帝大 Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service は軍事研究に深くかかわっていた。15) 圧倒的に軍事的劣勢に追い込まれていた 1943 年 10 月に、政府は研究者の総動員体制を完全に遂行 するために、官制で研究動員会議を公布し、翌年 1 月には閣令として戦時研究員規程が公布された。研 究動員会議官制の第 1 条では「研究動員会議ハ内閣 総理大臣ノ監督ニ属シ大東亜戦争ニ際シ戦争目的達 成ノ為科学技術ノ研究ニ関スル国ノ全力ヲ傾注シテ 急速ニ成果ヲ挙グルヲ要スル科学技術ニ関スル重要 研究課題及其ノ解決ニ必要ナル措置ノ決定ヲ為スヲ 以テ目的トス」16)と、研究動員会議の基本的性格を 明示していた。そして会長には現職の内閣総理大臣 (発足時は東条英機)が、副会長には技術院総裁が 就任した。かくして大学の主要な教授・研究者は根 こそぎ動員体制に組み込まれ、戦時研究に従事させ られることになった。その際全国の戦時研究の中枢 を担わさせられたのが、臨時戦時研究員設置制に基 づく「戦時研究員」であった。 政府によって任命された、この戦時研究員は東北 帝大の場合、私の調査による中間的判明分は 34 名 である。私の見るところ、その戦時研究員は当時の 最重要の緊急課題であった航空機生産に関連する研 究者が中心であった。したがって工学部や各付置研 究所を中心とした学内の航空科学研究委員会の委員 が多く任命されており、医学部の場合航空医学講座 の教官と航空医学研究所の所員が名を連ねていた。 October, 2002 役割を担っていった。こうして医学部は直接的にも 間接的にも全体として戦時医学の研究と教育の責任 を負わせられていった。 B. 宮城県医師会での国防医学の指導 東北帝大医学部が学外(とくに宮城県医師会)に おける戦時体制強化の一翼を担って、指導的役割を 果たしていた事実も指摘していく必要がある。『宮 城県医師会史』によれば、戦力増強のために医療政 策が、疾病予防や健民修練を中心とした健兵健民政 策に重心が移されるに伴って医師会も改編されて、 1942 年 12 月 10 日に新しい宮城県医師会(国民医 療法医師会)が設立された。これまでの開業医のみ の医師会から、大学教授・官庁技師の中で医師の免 許状を有する全ての医師資格者を包含する、政府の 協力機関たる本質をもつ(日本医師会長は内閣が任 命、各道府県医師会長は厚生大臣が任命)国策医師 会の新発足であった。 この宮城県医師会の活動に東北帝大医学部の教授 たちは積極的な役割を果たしていった。例えば決戦 体制化の 1944 年 11 月の医師補習教育講習会(県医 師会主催、会場は東北帝大医学部中央講堂)では、 講師として、仙台師団参謀長岡本政継(「時局講 演 」 )、 東 北 帝 大 法 文 学 部 長 広 浜 嘉 男 (「 皇 国 医 道」)のほかに、次の医学部教授たちが指導に当た っていた。大里俊吾(「結核」)、中沢房吉(「近代化 学」)、桂重次(「戦時外科」)、黒屋政彦(「防疫」) などであった。19) またその 1 週間前に(東北 6 県)保健衛生指導者 講習会(主催は財団法人更新会、会場は東北帝大医 学部中央講堂)が開催されたが、ここでも講師陣の 主役は東北帝大教授たちであった。すなわち仙台師 団兵務部長太田藤太郎(「戦場精神」)を除いて、総 長熊谷岱蔵( 「時局ト結核対策」)、篠田糺(「時局ト 母性保護」)、佐藤彰一(「時局ト乳幼児保護」)、近 藤正二(「戦時下ニ於ケル栄養問題」) 、林雄造(「時 局トトラコーマ撲滅」)などであった。19) これらの 講習会はいずれも仙台師団首脳の基調講演のもと、 「皇国」、「戦時」、「時局」といった決戦下の国防医 学普及の技術指導を、東北帝大医学部が各教室をあ げて担っていた。 総長熊谷岱蔵の戦争協力の面での、主導的役割に ついて、次の事柄も指摘しておきたい。1943 年 12 月に宮城県医師会員を中心に、大日本国防衛生協会 宮城県支部が結成されたが(会場は宮城県医師会 館)、そのとき支部長に選任されたのは熊谷岱蔵で あった(なお名誉顧問は仙台師団長)。この席上、 財団法人大日本国防衛生協会会長・陸軍大将荒木貞 夫は講演のなかで、特に「本県は大学総長閣下が陣 頭に立ち幹部一同結束しているのが何と言うても強 味である」と称賛していた。その中で荒木が強調し ているように、大日本国防衛生協会の目的は「国防 の完璧を期するため」であり、具体的には壮丁以上 の「中堅層は郷軍の強化に重点を注ぎ」、次に「青 少年・乳幼児・母体・壮年・老年と鍛えゆく」、さ 7. 医学部の戦時研究 A. 医学部全体の戦争協力 医学部における戦時関連の研究と教育は、アジア 太平洋戦争を中心に、基礎・臨床を問わず各教室と も深浅はあるものの何らかの形ですすめられていっ た。人々の健康と人間の尊厳性を求めての研究とい う社会的使命を第一義としているはずの医学界にと って、この時代はまさに「暗黒の時代」であった。 その現実は東北帝大といえども例外ではない。例え ば、第 2 解剖学教室の瀬戸八郎教授は軍医として招 集され、仙台第2陸軍病院に勤務の傍ら、軍服姿で 医学部での教育・研究に携わっていた。また第 1 病 理学教室の木村男也教授は 1943 年 10 月、陸軍司政 長官としてマレー熱帯医学研究所所長に赴任して行 った。第 2 生理学教室の本川弘一教授は低圧負荷と 脳波についての研究をおこなっていたが、それは後 述する航空医学研究の一端をなすものであった。ま た眼科学教室の今泉亀撤助教授は航空眼科学領域の 研究に携わっており、耳鼻咽喉科学教室の立木豊教 授と片桐主一助教授も航空医学としての「加速度の 聴器に及ぼす影響に関する実験的研究」に従事して いた。 17) こうしてアジア太平洋戦争末期の医学部 (もちろん全学的にも)の研究は、「戦力増強関係 のものを主」18)とする状況となっていった。学部学 生の多くが軍医となって召集されていくなか、1939 (昭和 14)年 5 月に設置された臨時付属医学専門 部(第 1 期生の卒業は 1942 年)の場合、実態とし て軍医養成を主目的とする軍幹部供給学校としての - 29 - 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 らには「防空衛生の方面も考え、民族の強化を図り、 他に頼らず自分の力で勝ち抜く決意を固め」る事と した。20)「銃後」にあるすべての国民が戦争に勝ち 抜くための医学・衛生の「国防組織」が、この大日 本国防衛生協会であった。そしてその宮城県支部長 として率先指導の任に当たったのが総長熊谷岱蔵で あった。 C. 医学部の航空医学研究 医学部の組織的な戦時研究として、1939 年 9 月 22 日に閣議決定された航空医学講座の設置、なら びに 1943 年 10 月 5 日に官制公布された航空医学研 究所が付置された。 前者の閣議決定の際の、 (東北帝大医学部)「航空 医学講座設置ノ理由」によれば、「航空医学ノ目的 ハ航空ニ従事スル人体ノ生理及病理ヲ研究シ更ニ航 空ニ因ル人体ノ故障、病態ノ予防並ニ治療ヲ研究シ 以テ航空ノ進歩発達ニ資スルニ在リ」21)と規定して いる。日中戦争が拡大するに及んで、ますます軍用 機の高性能化が求められるに従って、航空医学の研 究発達が渇望されていた。ところが陸海軍の一部研 究機関を除いては、大学における航空医学を専攻す る講座は存在していない状況であったので、軍事医 学のその分野では国際的な後進性に喘いでいた。そ の意味で軍部は火急の課題として、大学における航 空医学の組織的研究体制の確立を、政府に強く求め ていた。 そこで政府は全国に先駆けて、東北帝大に航空医 学講座を決定した。その理由の 1 つは「本大学医学 部ニ於テハ夙ニ内科研究室等ニ於テ航空ノ生理並ニ 病理ノ領域ニ於ケル研究ニ着手シ相当ノ成果ヲ収 メ」21)てきたこれまでの業績が高く評価されたから であった。特に当時第2内科の加藤豊次郎教授の低 酸素医学についての研究は注目を浴びていた。22)理 由の 2 つはこれまでの業績に照らして「軍ヨリ此ノ 領域ニ属スル研究ヲ委託セラレ又連年軍ヨリ大学院 学生トシテ派遣セラレタル軍医モ亦此ノ研究ニ従事 シテ相当ノ業績ヲ挙ゲツツアリ」21) という、軍とし て最も信頼をおくに価する実績があったからにほか ならない。 第 1 次世界大戦当時からいち早く航空医学の重要 性を強く認識し研究を続けていた加藤豊治郎は、航 空講座の新設を時の本多総長に諮り、文部省に働き かけ 1939 年に漸く実現したのだった。当時文部大 臣は陸軍大将荒木貞夫で、彼は国防医学の必要性を 痛感していたので、念願かなっての誕生であったが、 これは東北帝大にとって実に 22 年ぶりの新講座開 設であった。なおこの陰には時の陸軍航空本部長 (のちの総理大臣兼陸軍大臣)東条英機の尽力があ ったことを考えると、軍部がいかに東北帝大に期待 していたかがわかる。 付置研究所としての航空医学研究所の官制公布は、 1943 年 10 月 5 日であった。先の航空医学講座の設 置の 4 年後のことである。アジア太平洋戦争の局面 が決定的に不利となった日本軍にとって、航空機決 - 30 - 戦に最後の望みを託さざるを得なくなり、航空機の 飛躍的増産、航空技術・能力の増進が叫ばれ、そし てそれに伴って航空医学の総合的向上が緊急の課題 となっていた。そこで政府は名古屋帝大と共に東北 帝大に航空医学研究所の設置を閣議決定したのだっ た。 そのときの「航空医学研究所設置ノ理由」によれ ば、政府として東北帝大に付置する理由を次のよう に説明していた。そこには東北帝大における長年に わたる航空医学研究の実績が強調されており、「殊 ニ昭和 14 年度ニ於テハ全国ニ魁ケテ航空医学講座 ガ医学部ニ設置セラレ、航空医学一般ニ就キ研究並 ニ授業ヲナシ来リタリ」23)と、これまでの研究業績 が大前提とされていた。それと共に、東北帝大が総 合大学として全学あげての航空医学の総合研究が可 能であることのメリットをあげていた。「而シテ本 学工学部ニハ航空工学科アリ、法文学部ニハ実験心 理学ノ講座アリ、金属材料研究所ニハ低温研究部ノ 設置アリ」23)と、学内の関連研究機関との協力によ る学際的総合研究が期待されている。たしかに東北 帝大には航空医学研究所員として同研究所スタッフ のほかに、法文学部の大脇義一(実験心理学)、工 学部の松平正寿(無線・電気材料学)の他学部、な らびに医学部内の林雄造(角膜疾患)、中沢房吉 (体液蛋白)、立木豊(聴覚生理)などが加わって 航空医学を総合的に研究していた。単科医科大学に はみられない総合大学としての東北帝大らしい共同 研究が推進されていった。 なお航空医学研究所の構成員としては、所長加藤 豊次郎(低酸素医学)、専任教授として佐藤煕(生 理学)、航空医学講座との兼任教授の松田幸三郎 (生理学)が主メンバーであった。本研究所の戦時 研究は軍部と密接な連携のもとに行われたので、陸 軍航空技術研究所には加藤と佐藤が、また海軍航空 技術廠には(同廠からの転出の)松田がそれぞれ関 係を密にして研究を進めた。 研究所の機構上では、第 1 研究部(航空の生病理 学的方面の研究)と第 2 研究部(航空の生体に及ぼ す物理学的並に心理学影響の研究)の 2 部に分かれ て、それぞれの研究テーマは大略次の通りであった。 第 1 研究部では、1・気圧・気温・温度の急変化 に於ける生理及び病理 2・低圧・高圧・低温・高 温・低湿・高湿に於ける生理及び病理 3・高々度 飛行の生病理 4・身体均衡維持機能の生病理 5・ 航空に於ける性能並に疲労の研究 などの研究であ った。24) 第 2 研究部では、1・急速度の航空・急昇降・急 旋回等に因る加速度の影響 2・航空機の震動の生 体に及ぼす影響 3・高度に於ける宇宙線其他の放 射線の生体に及ぼす影響 4・航空燃料に因る瓦斯 中毒の研究 5・航空に於ける五官器機能の心理学 的研究 6・偵察及び観測に関する研究 7・標識の 識別性能に関する研究 8・偽装に関する実験的研 究 などの研究であった。24) なお、「当時はすでに戦況も悪く、研究員も僅か Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service であり、研究の資材などにも事欠き、責任は重く感 じても研究実績は余り上がらなかった」25)といわれ る。しかし、その研究実績の如何にかかわらず、航 空医学の実に多岐にわたる研究テーマは、戦時研究 なるものの研究範囲の広がりとその深さについて考 えさせる点が多い。それと共に、この研究テーマの いくつかは当研究所の自主的選択によって決められ たのではなく、加藤豊次郎所長の航空技術廠からの 軍委託研究であったり、また彼が内閣より主任戦時 研究員を命じられていたこともあったり、また大日 本航空技術協会の第 13 部会(航空医学)の部会長 としての委嘱による研究であったりすることが多か った。そこには大学の生命である研究の自由はほと んど存在せず、軍や政府の戦争遂行にひたすら奉仕 する国家隷属の単なる「技術官僚」の感を深くする のみである。 October, 2002 ている。 しかし東北帝大医学部教授としての黒屋が、1939 年 12 月の上海出張後に寄稿した、東北帝大医学部 艮陵学友会会誌『艮陵』第 51 号(1940 年 1 月)の 「一科学者の観たる上海の今昔」に次のような記述が 見える。「我々医科方面のものが陸海軍衛生部隊又 は獣医学部隊と密接な連絡を保ち器械薬局の供給に 又は人的資源の補充、又戦時に非れば出来ぬ戦傷其 他の研究に幾分の力を致した(中略)此努力は今後 も猶続けられ或は軍の依嘱に依る中支衛生状態の調 査に或はコレラ予防剤百万人分の調整となって現は れて居ります」。29) 文中に「戦時に非れば出来ぬ戦 傷其他の研究」とあるが、その「其他の研究」につ いての明示がないが、気にかかる文言である。また 石井部隊とは明記していないが、軍の衛生部隊と密 接な関係のもとで細菌研究に従事していたことは明 瞭である。しかも東北帝大教授として「今後も猶続 けられ」ているというのである。細菌戦部隊は関東 軍防疫給水部(満州 731 部隊・石井部隊)が特に有 名であるが、ほかにも北京に北支那派遣軍防疫給水 部(甲 1855 部隊) 、南京に中支那派遣軍防疫給水部 (栄 1644 部隊)、広東に南支那派遣軍防疫給水部 (波 8604 部隊)、シンガポールに南方防疫給水部 (岡 9420 部隊)がそれぞれ配置されていた。上海 は中支那派遣軍の占領下にあったので、上海自然科 学 研 究所 細菌 学 部門 の黒 屋 政彦 らの 研 究は 、栄 1644 部隊(多摩部隊)に活用されていた可能性は ないとは言い切れない(なお、栄 1644 部隊は上海 にも支部をおいて、細菌戦の研究と実験をおこなっ て い た )。 そ し て 黒 屋 は 、 東 北 帝 大 教 授 と し て 「(1939 年)現在も(上海自然科学研究所の細菌研 究と)尚多少の関係を有する私」29)と自ら述べてい る点からも、軍との関係を仙台においても引き継い で続行していた可能性がある。 黒屋政彦と軍との細菌研究との関係で気になる第 2 点として、東北帝大教授として中国本土やいわゆ る「満州」への出張がしばしば見られることである。 『東北帝国大学学報』の彙報欄によれば、黒屋はそ の地域に 4 回の研究出張していて、特出した回数で ある。その各回の研究出張の記事は次の通りである。 「上海地方ニ於ケル細菌学研究ノ為 12 月 27 日ヨリ 約 20 日間ノ予定ヲ以テ出張」( 『学報』第 240 号、 昭和 14 年 12 月) 、「上海地方ニ於ケルコレラ菌ノ毒 素ニ関スル研究ノ為 6 月 25 日ヨリ約 1 ヶ月ノ予定 ヲ以テ中華民国ヘ出張セラレタリ」(『学報』246 号、 昭和 15 年 6 月) 、「満州国並ニ中華民国ニ於ケル伝 染病視察研究及ビ上海ノ自然科学研究所ニ於ケル研 究輔導ノ為 8 月 1 日ヨリ 2 ヶ月間ノ予定デ満州及ビ 中華民国ヘ出張サレタ」(『学報』第 260 号、昭和 16 年 8 月)、「満州国及ビ中華民国ヘ出張ヲ命ス」 (『学報』第 274 号、昭和 17 年 10 月)と 4 回の海 外出張の記事が見える。1938 年に東北帝大に赴任 して以来、翌年から毎年海外出張している教授は、 黒屋以外はきわめて稀で、それだけ彼の細菌学研究 が重視されていたと思われる。出張先の中国は上海 D. 1 つの推測としての細菌学教室の問題 これまで、戦時研究と戦争協力にかかわる組織体 としての東北帝大の諸機関と「科学者」総長の非論 理的(非科学的)な社会認識に立つ積極的役割につ いて論じてきたが、ここでは個人としての戦時研 究・戦争協力について、若干言及してみたい。 戦時中の医学部細菌学教室は、深浅の差こそあれ 何らかの形で軍に協力を求められ、中には 731 部隊 における京都帝大の例のように軍の細菌戦研究に深 くかかわっていることもあった。東北帝大の場合、 私が調べた範囲では軍の細菌戦研究との関係につい て、目下のところ具体的には確認できていない。 ただし、1938 年から 1960 年までの戦時期間を含 む時期、細菌学の教授に就任していた黒屋政彦の細 菌研究について、次の状況から軍の細菌戦研究に関 わっていた可能性を捨て切れない。第 1 点として、 彼が東北帝大に赴任したのは、1931 年以降の上海 自然科学研究所員時代の菌体成分の研究を当時熊谷 岱蔵が高く評価し、招聘したのだといわれる。26)そ の上海時代の彼の研究領域はコレラ・赤痢の菌型の ほか、結核の化学療法や細菌化学療法、細菌化学 (微生物化学)と多岐に及んでおり、なかでも「生 化学的な研究手法を日本で初めて細菌学に応用し、 チフス菌の沈降反応である『黒屋―川上の沈降反 応』の発見者として知られている」27) すぐれた業績 をあげていた。これらの研究が 731 部隊の細菌研究 と関係があるかどうか不明であるが、『上海自然科 学研究所』の著者の次の記述は特に注目すべきであ る。「東北大学教授に転じていた(上海自然科学研 究所)元細菌学科の黒屋政彦ら、いくつかのチーム が進めていた、国産ペニシリン(碧素)開発プロジ ェクトを、石井が強力にバックアップしている」28) との指摘があるからである。どのように石井四郎が 「強力にバックアップ」したのかその具体的な内容 の説明がないので不明であるが、著書の佐伯修は 「石井たちが(上海自然科学)研究所を自分たちの 細菌戦のネットワークの中に積極的にとり込もうと した形跡は(中略)見当たらなかった」28) と判断し - 31 - 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 自然科学研究所が中心であり、「満州」の出張先は 特定できないが、専門の研究分野から見てハルビン の満州医科大学の可能性が高い。もしかしたらハル ビン郊外の 731 部隊の施設であるかもしれない。推 測の範囲を出ない事柄については、史料的裏付けで 立証することが今後の課題である。 細菌学教室の黒屋政彦の役割とは別に、昆虫学の 朴沢三ニとその弟子加藤陸奥雄の研究について一言 触れておく必要がある。常石敬一著『医学者たちの 組織犯罪』によれば、石井四郎が深くかかわってい た陸軍軍医学校防疫研究室には嘱託研究員制度があ り、その嘱託となった帝国大学の教官たちが軍医学 校または防疫研究室の研究上の相談にのっていたと いわれる。常石氏がその防疫研究室の実質的管理責 任者であった内藤良一(悪名高いミドリ十字の元会 長)に問うたところ、内藤は次のように述べていた。 「昆虫学の嘱託で朴沢三ニさんがいましたね。当時、 東北大学の昆虫学の偉い大家で、実際に研究をした のはお弟子の加藤さんでした。加藤さんは戦後東北 大学に戻られ、後に学長になられた方です」。30) 意 外な人物が、731 部隊とつながる陸軍軍医学校防疫 研究室の嘱託(あるいは師の助手役)として、ダー ティーな業務に従事した経歴を持っていた。戦後そ のことが何ら問われることなく学長という要職に選 出させた、東北大学の戦争責任の無自覚(無責任) ぶりについては、後で述べることにする。 8. ファシズムのなかでの、良心の灯 荒れ狂うファシズムの嵐に翻弄された戦時下の東 北帝大の中にあって、ごく少数であるが、醒めた目 で狂気の時代を見つめ良心の灯を消さなかった人々 もいた。先述したように人民戦線で逮捕された経済 原論の宇野弘蔵や別の治安維持法違反容疑で逮捕さ れた社会政策の服部英太郎などはそのような人たち であった。医学部の教授の場合は逮捕者はいなかっ たが、助手や学生らに多くの逮捕者が出た。 逮捕された学生たちに思想善導教官として 1936・ 1937 の両年にわたって指導したのが、皮膚科学教 室の教授太田正雄(つまり作家の木下杢太郎)であ った。太田は学生たちに森鴎外の作品を通してヒュ ーマニズムの文化を吸収させようとして、その会の 名称を「鴎外の会」とした。太田は、「東洋の古典 だけでは完全なヒューマニティに達することはむず かしい。やはりヨーロッパのヒューマニティを容れ なければならぬ。(中略)両者の間に意を注いだの は、森鴎外に及ぶものはいない」31)として、国学や 日本主義を排してヒューマニズムを基本において、 学生たちを「善導」した。作家木下杢太郎らしい浪 漫主義が溢れた「鴎外の会」であった。1937 年、 太田が東京帝大に転出した後、特高警察から治安維 持法違反の疑いある集会として警告を受け、1938 年の夏、事実上解散した。わずかの期間ではあった が、荒れ狂うファシズムの嵐の中で、太田が指導し た「鴎外の会」に鮮やかな良心の灯を見る思いがす る。 - 32 - また小児科学教室の教授佐藤彰は、日頃から人の 痛みがよく分かる人柄で、医局員からは慈父のよう に敬愛されていた教授であったといわれる。そうし た人柄か、1944 年の出征する卒業生を送るに際し、 「与謝野晶子の『君死にたまうことなかれ』の全詩 を餞として、必ず帰ってこいとはげました」32) とそ の時の教え子が記している。その場所が医学部中央 講堂という説と、最後の講義を行った教室(黒板に その全詩を書いたという)という説との 2 説あるが、 いずれにせよ反戦の疑いがかけられる危険をおかし ての、出征する教え子たちへの大胆なメッセージで あった。人間のいのちと尊厳を守ることを何より使 命とする医学者の真摯な生きる姿勢を見る思いがす る。敗戦の前年という厳しい状況のもとでも、医学 者の中に微かなヒューマニズムの息吹を感じさせる 出来事であった。 9. 「尽忠報国」研究者の悲劇 1945 年 8 月 15 日の敗戦は、戦時体制に積極的に 奉仕していた東北帝大にとって信じることのできな い「悪夢」だった。 熊谷総長は、その年の 4 月の入学式の総長告辞の なかで、「今皇国存亡ノ歴史的瞬間ニ於テ(中略) 国家ノ要請ニ対シテハ身ヲ挺シテ任ニ赴クノ覚悟ヲ 明確ニ把持セラレタイノデアリマス」33) と本土決戦 に向けての即時決起を求めた。そして「諸子ハ学内 ニ於テ戦時重要研究ニ従事スル場合モ、又出デテ勤 労動員、防空防衛ニ加ハル場合モ、斉シクソレガ国 家焦眉ノ要請ニ基クモノナルコトヲ肝ニ銘ジ、帝国 大学ノ学生タルニ恥ヂザル働ヲシテ貰ヒタイ」33)と、 特に帝国大学の学生としての自覚と使命の遂行を強 く促していた。帝国大学こそ「其ノ全機能ヲ挙ゲテ 国家緊急ニ副ハントシテ居ル」33)からである。 その 4 ヶ月半後に、その帝国大学の依って立つ大 日本帝国は崩壊した。その瞬間、熊谷岱蔵総長はど のような感慨に浸っていたか、残念ながらその言動 を記した資料に触れる機会をもっていない。その年 の 5 月 22 日の「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」奉読 式において、「我等ハ唯死ヲ決シテ(尽忠報国の) 大イナル任務ノ達成ニ邁進スル」34) と、死を賭して 必勝の決意を改めて期していただけに、その衝撃の 深さの程は計り知れないものがあったに違いない。 その熊谷総長が「戦争遂行上不可欠ノモノ」として 強く期待していた非水溶液化学研究所所長の原龍三 郎(戦時研究のロケット推薬が専門)の 8 月 15 日 について、次のような記録が残されている。熱烈な 「忠君・愛国の士」と称された人物であっただけに、 「最後までの必勝を期して力を尽くしておられたよ う」35)だったが、敗戦の報に接した時のショックは あまりにも大きかった。「玉音放送」を悲痛な嘆き の中で聞いた原龍三郎は、「あの詔勅は私には陛下 の真意とは思われず、君側の奸人のために己むを得 なかったのだろうと思った」35)というのであった。 科学戦の局面においても既に敗戦必至の客観状勢に ついて、非科学的な皇国史観的な盲信で目が眩んで Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service らも戦犯が出るかもしれない」、「出るとすれば先ず 本多先生だ」37)という噂が流れるほど、本多光太郎 の戦争責任問題が取り沙汰されて、彼は厳しい状況 に立たされた。しかし金属材料研究所の設備は接収 されることもなく、又米軍は彼を戦争犯罪人として 糾弾することはなかった。本多は自分自身以上に戦 争責任問題で苦境に立たせられていた昭和天皇を、 1947 年金属材料研究所に案内した際、心労で衰え ていた天皇を見て思わず目頭が熱くなったといわれ る。彼にとっては、昭和天皇の戦争責任問題はそも そも論外であったからであった。また彼は自分自身 の戦争協力は帝国大学としては当然の使命であると 認識していただけに、戦争責任問題についても、何 ら反省していなかったと思われる。 いる事態は、あまりにも幼稚で憐憫さえ感じさせら れる。敗戦を信じるに至った動機が「日本臣民とし ては、いかなる場合でも陛下の御指示には従わねば ならない」35)という強烈な天皇信仰によるたもので あった。もはやその決断には科学研究者としての知 性も理性も見出すことはできない。あるのは科学と は無縁の信仰であり盲信である。 同じ東北帝大教授で歯車の研究で権威とされてい た成瀬政男の場合は、更に狂信的であった。彼の著 書に『日本技術の母胎』というたいへん珍しい本が ある。というのは「改訂普及版」と銘うったこの本 の発行月日は、昭和 20(1945)年 10 月 10 日、つ まり敗戦より約 2 か月後の出版であるにもかかわら ず、「必勝」の信念をこの期に及んで平然と吐露し ている本だかである。工学者成瀬は、あたかも敗戦 の歴史的現実は認めたくないと主張しているかのよ うである。そうでなければ「狂信的信仰告白の書」 なのかもしれない。科学者としての彼の技術論の根 底にあるのは、「技術は神の御稜威の 1 つの現はれ」 36) という「神道的技術論」で、科学技術の研究の際 には彼は、「齋戒沐浴し、身のあかと心のけがれを 洗ひ去り、神我一体」となる「禊をしてをります」 36) と告白している。だから彼は、熱烈な天皇主義的 作家横光利一の「日本は勝てる」という「大東亜戦 争必勝論」36)に共感し、堂々と敗戦後に公刊したの であった。本気に敗戦を信じることができず、今な お「日本必勝論」をふりかざしているならば、ドンキ ホ-テ的であるか、さもなければ狂気としか言いよ うがない。これが歯車の権威といわれた東北帝大教 授成瀬政男の、敗戦 2 か月後の非科学的な社会認識 の惨憺たるレベルなのである。 本多光太郎の場合も、根底的にはほぼ同様の天皇 主義的社会認識の所有者であった。問題の「8 月 15 日」、彼は金属材料研究所に所長事務取扱としてい た。その時の歴史的瞬間の状況を『本多光太郎伝』 の作者石川悌次郎は、次のように記述している。 「その日正午、本多光太郎は金研の本多記念館の玄 関ホールに全職員を集めて、泣くが如く訴えるが如 き天皇放送を聴いた。滅多に感情を面に出さないこ の人が、双頬を涙の筋で濡らすほどに泣いた」。 37) しかし、彼は気を取り直し所員一同に向かって、 「われわれは今まで通り、いや今まで以上に研究に 努力して行けばそれでえゝと思う。決して失望落胆 してならんよ」37)と励ましたという。その「研究」と は、「時局の要請」に対応した、兵器用の特殊鋼を 中心とした軍需の基礎的研究で、所員・職員総勢 231 名が、「本多光太郎の指揮棒の下での戦時研究」 37) であった。本多の意識の中には政府や軍部の要求 する戦時研究についての反省は微塵もなかった。あ るのは敗戦を招いた帝国臣民としての、昭和天皇に 対する痛苦に満ちた申し訳無さと無念の思いだった。 そして金属材料研究所が「軍部の至上命令に従って 陸海軍の兵器生産に協力したことを進駐軍がどの程 度に重大視しているかという問題」37) を、本多は何 よりも苦慮していた。そして「(東北帝国)大学か - 33 October, 2002 10. 戦争協力についての自己総括の問題 A. 戦争の社会科学者総長(東京大学) 大日本帝国の崩壊を受けて、東京帝国大学(そし て 1947 年からは東京大学)の総長に、社会科学者 が多く選出されるようになった。その象徴的な登場 が政治学者の南原繁総長の誕生であった。敗戦直後、 新憲法の制定、朝鮮戦争前夜という激動する時代状 況に、南原は入学式や卒業式の場で自由主義的視点 で鋭くコミットしていた。彼は、社会科学者として の深い洞察力と高い知性で、大学のあるべき姿を明 示していった。 南原は入学式で 3 回、卒業式で 5 回総長としての 「演述」をおこなっているが、その中で特に注目さ れる発言は、1947 年 4 月の入学式での「科学と人 間形成」、翌 1948 年 4 月の入学式での「大学と学問」、 同年 9 月の卒業式での「人間の使命」 、そして 1949 年 3 月の卒業式での「平和の擁護者」の各演述であ る。 1947 年 4 月の入学式では、戦時中の大学の状況 を意識して「われわれの文明の将来は、科学的知識 そのものの進歩にではなく、何にそれが利用される かの目的に懸かってゐる」38)と、求められるべきは 盲目的な科学至上主義ではなく、社会科学的な社会 認識であることを強調していた。戦時体制下の大学 の戦争協力についての深い反省に立つ痛切な批判で あった。 翌 1948 年 4 月の入学式での演述は、さらに痛烈 であった。「一かどの学者になった者でさへ、学問 的真理の意義を会得しない者は、直ちに名誉や利益 と苟合して、臆面もなく時の権力者の道具となり果 てるのである。われらは戦時中、かかる事例を多く 見た。憐れむべきは、豊かな天分を持ちながら、学 問の何たるやを知らないがために、その本来の道程 から、この悲しむべき邪路に引き入れられた者たち である」。39) 南原のいう「時の権力者の道具となり 果て」た、「学問の何たるやを知らない」「悲しむべ き邪路に引き入れられた者たち」との糾弾の言葉を、 当時健在であった本多光太郎と熊谷岱蔵の 2 人の東 北帝大元総長たちは、どのような思いで接したので あろうか。知りたいものである。 - 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 『東北帝国大学学報』や『東北大学学報』にそれぞ れ掲載されていたはずであるが、残念なことにこの 時期の分の欠号が多く、大半は閲覧できない。残存 しているのは、1947 年 9 月・翌 1948 年 3 月、そし て 1949 年 3 月の各卒業式にすぎない(ほかに 1948 年 9 月の医学部卒業式)。 1947 年の卒業式での総長告辞は学徒出陣や勤労 動員から復帰してきたこれら卒業生に対し、「自分 の力で考へ、実行して行かなければならぬ」42)と処 世訓を諭すにとどまっていた。翌 1948 年の卒業式 でも「吾々最高の学府に学ぶものは自ら進んで、我 民族の礼節即ち徳性を維持高上させねばなりませ ん」43)と、戦後の道徳退廃に対処するための倫理の 実践躬行を強く訴えていた。敗戦後の社会の根本的 大変化の社会科学的意味について何ら考察すること なしに、単に現象的事象に対する象徴的な道徳論を 述べるにとどまっていた。1949 年の卒業式でも総 長は、外来の文明・思想に対する盲目的な「権威」 崇拝の弊害をたしなめると共に、社会における「不 信虚言を観破すること」によって、「わが国家の中 堅層たるべき人々はその人格純化高上を心掛けて戴 き度い」と強調している44)が、それはどこか中学生 に対する道徳の授業を想起させる。 この医学者総長佐武安太郎の告辞は、社会認識と しての洞察力は通俗的で、先述の東京大学総長南原 繁の政治学者(つまり社会科学者)らしい鋭い問題 意識と深い洞察力、そして日本の未来についての志 の高さと対比する時、その落差はあまりに甚だしい。 その落差の大きさは、佐武の総長告辞に対する卒業 生総代の答辞に比しても一目瞭然である。卒業生の 多くは戦火を潜り抜け、そして多くの学友を失って きただきに、「国民主権を確定し、恒久の平和を念 願し、以て国際社会に名誉ある地位を占めるべく全 力をあげ、此の崇高なる理想と目的を達成すること を誓っている」43)と、新憲法の理念に熱い期待を表 明していた(1948 年) 。また翌 1949 年の答辞では、 「新憲法に闡明せる戦争放棄の崇高なる意義」を再 確認すると共に、「人類の滅亡を招くべき戦争の脅 威」、なかんずく「原子力による戦」(核戦争)の危 険性を強調し、「冷静な批判力を以て国民大衆と共 に平和樹立の理想の戦と新たなる建設の使命に邁進 する事を誓い」、その答辞を結んでいた。44) あの総 長告辞とこの卒業生総代の答辞のあまりにも鮮やか な落差の意味を考える時、告辞する側の、南原繁の いう「学問の何たるやを知らない」「悲しむべき邪 路に入れられた者」の無自覚なる故の無慙な姿を想 起することは、考え過ぎなのであろうか。 同じ年の 9 月の卒業式では、南原は初めて戦時中 の加害の問題について言及し、戦争責任問題をさら に深めていった。「永い間わが国民的圧制と搾取を 続けてきた朝鮮と満州と、なほ戦争によりわれらの 同胞が多くの蛮行と汚穢をまき散らした東亜の諸国 を見よ。そこには(中略)同じく時代の苦難に喘ぎ つつある人類大衆がゐる」40) と注意を喚起し、さら に「これらの国の人との間にわが国民の犯した罪過 を償ひ、その名誉を回復するものは誰か」40) と問い かけて、その歴史的役割を果たすよう卒業生に訴え ていた。その当時、日本国民の間でまだアジアへの 加害問題の認識が大きくなかっただけに、けだし慧 眼というべきであろう。 そして 1949 年 3 月の卒業式での演述は、「平和の 擁護者」と題していた。先ず日本国憲法の世界的先 駆性の意義を強調し、そしてその真の平和の確立と 民主主義社会のための実践者となるよう、卒業生に 呼びかけていた。さらに注目すべきことに、最後に 餞の言葉として「諸君は今後いかなる職場に在らう とも、常に平和の擁護者、平和の戦士とし、耀く平 和日本の建設に不断の努力を続けられよ」41) と格調 高く訴えていた。そしてこれからの人生のあり方と して、「平和の試煉はこれからである。われわれは 飽くまで我々の掲げた理想と立場を操守し、最悪の 場合には我々の主義と主張に殉じようではないか」 41) と、平和と民主主義のためにたたかい続けるよう 切望し、「さらば諸君の首途に祝福を祈る」41) と結 んでいた。歴代の東京大学総長の中で、これほど社 会の進歩と平和の実現を希求し、またこれ程時代を リードした輝いた総長は、南原繁をおいて私は知ら ない。 B. 戦後の自然科学者学長(東北大学) 東京大学の総長南原繁の言説を大きく引用したの は、戦時協力の自己総括と戦争責任について、東北 大学との対比において考えてみたかったにほかなら ない。 東北帝大の第 7 代総長熊谷岱蔵の次の総長は、同 じ医学部出身で第1生理学教室の佐武安太郎で、そ の就任期間は戦後の 1946(昭和 21)年 2 月から 1949(昭和 24)年 3 月までの約 3 年間であった。 戦後の東京大学総長が政治学(南原繁)・経済学 (矢内原忠雄)と社会科学者が続くのに対し、東北 大学の戦後最初の総長は依然として自然科学者(こ の場合は医学者)であった。東北大学の学長は今日 に至るまで医学部・工学部系の自然科学者が圧倒的 で、これまでの 18 人中文学部出身の 2 人を除く 16 人がそうである。したがって社会学系総長が1人も 出現していない事が、何よりも東京大学と決定的に 異なる点である。自然科学系総長(学長)がもたら す問題性については、社会科学者総長南原繁が先述 したとおりで、そのことは戦後の歴代の東北大学学 長にも適合することが多い。 敗戦直後の東北大学の入学式や卒業式での総長告 辞は、ほんのわずかしか見ることができない。本来 C. 学問の自由、そして大学の本質 そもそも「学問」とは何か、そして「学問の自 由」「研究の自由」とは何なのか。その意義を歴史 的に考察した好著に、家永三郎の『大学の自由の歴 史』がある。政府が帝国大学に求めた存立意義は、 1886(明治 19)年の帝国大学令第 1 条の「帝国大 学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥 - 34 - Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service の場合、社会的「権威者」という地位を一応保持で きたのは、自己の専門性の高さの故であって、決し て社会意識の高さそれ自体を意味していない。むし ろその社会的地位の故に、自らあたかも社会的指導 者であるかのように振舞うのは無邪気であり滑稽で すらある。 歴代の東北帝大総長の多くも例外でなかった。 特に本多光太郎・熊谷両総長の場合、その印象が強 い。この両総長の強烈な「通俗性」(低俗性)によ って、戦時下の東北帝大は壮大な軍の技術廠化の道 を邁進していった。その意味で、「科学者」総長と いう名の非科学的社会認識の低劣さがもたらした結 果についての、ふたりの責任はきわめて重い。 ヲ攷究スルヲ以テ目的トス」という規定に明らかで ある。そこでいう「国家」とは、歴史的には天皇制 国家を意味し、その政府の必要とする官僚・技術者 の養成であり、そのための知識・技術の研究と提供 を教授たちの任務とされた。この規定が長らく帝国 大学(そして遺憾ながら今日の国立大学においてさ え)の研究上の自由を呪縛・制約していった。国家 や教会権力との対立・たたかいの結果、大学におけ る研究の自由を獲得したヨーロッパの大学史とは違 って、圧倒的に国家権力の庇護のもとに育成されて きた官学(とくに帝国大学)優位の歪んだ伝統が、 大学を強く自己規定していった。この通俗的大学観 を鋭く批判したのは、自由主義的な憲法学者美濃部 達吉であった。家永三郎は美濃部の次の論文を引用 して、司法権の独立と共に、大学の自治の必然性を 強調している。「官立大学の教授が管吏であり政府 の俸給を受けて居るからといふ理由で、官立大学の 教授は政府の命令に従はねばならぬといふのは、恰 も裁判官は国の官吏であり政府の俸給を受けて居る 者であるから裁判官は政府の命令に従はねばならぬ といふのと同様の誤である」45)(原典は美濃部達吉 「京大法学部壊滅の危機」(『議会政治の検討』所 収))。まことに明快な学説である。大学の本質は、 単に政府の命令を拒否する自由を有するのみならず、 政府の政策批判、さらには国家の存立そのものを批 判的に研究する自由を有している。そのことを踏ま えて家永は、「批判的精神を生命とする学問研究に よって到達した結論が、現実の社会組織に対し批判 的否定的判断をとるにいたる場合を生ずるのも、こ れまた学問の本質に照らして当然であるとしなけれ ばならない」46)と、「学問の自由」「研究の自由」の 本質について明確に規定している。 その原理的大前提についこの基本的認識が稀薄な わが国の帝国大学は、「国家ノ須要ニ応ズル」こと に何ら疑問をいだかず、それのみか自ら進んで国家 政策に迎合し、研究上の優遇と自らの大学の拡充強 化に傾注していった。国家の原理や政府の政策につ いての研究上の自由なくして、批判の学として本質 をもつ学問の発展はあり得ない。自らこの根源的な 研究上の自由を封印することは、大学の自殺行為に ほかならない。 さらに厳しく指摘せざるを得ない点は、総長をは じめとする教授などの大学構成員の、社会認識につ いての信じ難い程の通俗性(時には低俗性)である。 そのことについて家永は次のように鋭く批判してい る。「大学教授の専門的学識の高さと、社会人とし ての社会意識の低さの、あまりにも大きな乖離」47) は、こんにちでも珍しくない光景である。「むしろ 研究者でない一般社会人の社会意識よりも低劣な場 合さえ少なくない。(中略)時には社会的意識の低 いことが学者の誇りであり、社会的意識の高いこと は学者として邪道にふみ入ったものと考えられてい る場合さえあるようだ」47)との指摘は実に辛辣であ る。残念ながら、このことに気づいていない大学研 究者が多いといわざるを得ない。特に総長(学長) - 35 October, 2002 11. 戦争協力についての戦後責任 大日本帝国崩壊以降すでに 57 年になるが多くの 大学においてその戦争責任問題は依然として未決の ままである。そして今日、戦争に直接的に協力・加 担した世代が大学から退場した後、ますます大学の 戦争責任問題は後景に追いやられている。しかし大 学自身がその問題につい自己総括し、そのことを通 して歴史の教訓を得ることは、これからますます重 要になってきているのでなかろうか。今嵐のように 吹きすさんでいる国公立大学の独法化問題や産学官 の密接な連携体制強化にどう対処すべきかという今 日的課題に、直面させられているからである。歴史 に学ばない者は、同じ過ちを繰り返す危険性がある、 と言われる。そうした過ちを繰り返さないためには、 戦後世代による戦前の大学の戦争責任を総括する事 が、今改めて必須の課題となっているのでなかろう か。 このような問題意識で戦争世代が自己の大学の戦 争協力・加担を総括することは、「戦争の知らない 者の戦後責任」を果す一助となるにちがいない。そ の際、戦後の科学運動史上の次の2つの出来事が、 大いに参考になるにちがいない。 1 つは、日本学術会議第 6 回総会(1950 年 4 月) での、戦争のための科学研究放棄宣言である。その 総会で次のように高らかに宣言している。「1949 年 1 月、日本学術会議はその創立にあたって戦時中に 日本の科学者がとりきたった行動を厳粛に反省する とともに科学を文化国家世界国家の礎たらしめよう とする固い決意を内外に表明した。(中略)科学者 としての節操を守るためにも戦争を目的とする科学 の研究にはこんご絶対に従わないわれわれの決意を 表明する」48) 。「科学者の国会」として全国の各分 野を網羅した全科学者の代表による、戦争協力拒否 の宣言である。科学者が戦時中の戦争協力について 深く反省し、科学者として平和に向けての決意を国 の内外に宣言したことの意義は大きい。これは日本 の科学者の「戦後責任」の第 1 歩であり、大学の戦争 協力総括の 1 つの有力な方向性を示したものといえ よう。 さらに注目すべき出来事は、1987 年 2 月に制定 した名古屋大学平和憲章である。旧帝大の 1 つとし - 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 て大学独自に戦時中の戦争協力・加担について自己 総括したものである。その前文で名古屋帝国大学の 戦争責任について、率直に次のように総括・反省し ている。「わが国の大学は、過去の侵略戦争におい て、戦争を科学的な見地から批判し続けることがで きなかった。むしろ大学は、戦争を肯定する学問を 生みだし、軍事技術の開発にも深くかかわり、さら に、多くの学生を戦場に送りだした。こうした過去 への反省から、(中略)戦争遂行に加担するという あやまちを二度とくりかえさない決意をかためてき た」。49) その大学は帝国大学を中心とする日本のす べてを指しているが、特殊具体的には名古屋帝大 (そして本稿の課題からすれば東北帝大も)を意味 していることは言うまでもない。 そしてその反省を具体的に生かすために、6 項目 にわたる課題を明示している。その第 2 項目は「大 学は、戦争に加担するというあやまちを二度とくり かえしてはならない。われわれは、いかなる理由で あれ、戦争を目的とする学問研究と教育には従わな い」49)と、名古屋大学として戦力協力・加担を断固と して拒絶している。その大前提のもと、厳格に次の よう枠組みを定め、その決意の徹底化を期している。 「そのために、国の内外を問わずに、軍関係機関お よびこれら機関に所属する者との共同研究をおこな わず、これらの機関からの研究資金を受け入れない。 また、軍関係機関に所属する者の教育はおこなわな い」。49) この規定は研究のみならず教育に至るまで の徹底化を企図したものである。そして第 1 項目は、 平和な未来を建設するための科学的な戦争と平和に ついての研究と教育の遂行である。「平和に貢献す る学問研究と教育をすすめる大学」として、「平和学 の開講をはじめ、一般教育と専門教育の両面におい て平和教育の充実をはかる」というのである。49)「真 理と平和を希求する人間の育成」を教育の基本とす るこの大学にふさわしいこの平和学の研究と教育は、 国立大学における先駆的で画期的な指針として高く 評価される(なお、他の 4 項目については省略)。 この名古屋大学平和憲章の制定は、単に学長や教 授たちの手によるだけでなく、全構成員による全学 投票によって確定したものである。つまり飯島宗一 学長の積極的熱意のもと、各学部教官・大学院生・ 学生・生協会員・職員などの各組織体の全学的合意 を元に、成立したのである。その意味で、内容の卓 抜性と共に、その制度の民主性において、大学史上 画期的な 1 ページを築いたものと、高く評価される ものである。 そして、この 15 年戦争期における名古屋大学の 戦争責任を明確にし、さらにその過ちを二度と繰り 返さないための反省とその決意の元、戦後 42 年に おいてもなお、改めて平和な未来に向けての「戦後 責任」を誠実に果そうとしたものである。 東京大学においてこうした「戦争責任」のとり方 がなされたかどうか、私は不敏にして知らない。あ の南原繁の志高い指導性をもってしても、「巨象」 東京大学を全学的に転換させることは難しかったの - 36 - ではなかろうか。 東北大学の場合、戦後 15 年にして公刊された 『東北大学五十年史』を紐解いても、この種の試み はほとんど記載されていない。あたかも戦前の延長 の上に、戦後にそのまま接続しているかのような東 北大学の戦後史である。先に引用した日本学術会議 第 6 回総会の、戦争のための科学研究放棄宣言(決 議)に対応する学長や評議会の動きを見い出すこと はできない。先述の名古屋大学平和憲章の制定を、 当時の東北大学学長はどのような思いで見ていたの だろうか。戦後の歴代の学長たちは、大学の根源に かかわるそうした社会科学的洞察力をそもそも持ち 合わせていなかったのかもしれない。東北大学が、 戦前の戦争協力・加担問題について総括をなし得な かったのは、その戦争責任についての自覚が何ら存 在してなかったのではないかと思われる。例えば、 先述した陸軍軍医学校防疫研究室で細菌戦と関係の 深い昆虫の研究に従事していた加藤陸奥雄が戦後東 北大学学長に就任したことや、関東軍の 731 部隊で ペストやコレラの細菌戦研究の中枢にいた岡本耕造 の医学部(第 1 病理学教室)教授としての戦後にお ける赴任などが、具体的にそのことを物語っている。 ましてや「戦後責任」についての認識は、全く念頭に なかったにちがいない。その「病根」はまことに深 く、今なおそれは強固に生き続けている。 12. おわりに この拙論において、東北帝大の、2 人の総長をリ ーダーとして積極的に戦争協力・加担してきた戦時 下の戦争責任と、医学部の戦争協力問題を中心に論 じてきたものであるが、そのことについて自己総括 と反省、そして「戦後責任」と向き合うことなしには、 こんにちの大学の危機にはっきり対抗できないので はないかと考える。つまり、こんにち産学官の密接 な連携強化を学内からも当然視する風潮の中、政府 による国公立大学の独立法人の嵐が吹きすさんでい る。戦時中との様相は異なるとはいえ、学内におい て「国策」に追随することは止むを得ないと安易に 諦めていく傾向も少なくない。この大学の存亡をか けた危機に際し、歴史の真実の解明を通して、歴史 の教訓として考える一助ともなれば幸いである。 なお、一言を追加すれば、この拙論は過去に犯し たことを告発し指弾することのみを意図したもので はない。その際、本会の代表世話人である莇昭三氏 の次の論述は強く意識したつもりである。戦時体制 下の「社会的な異常時には、医療はほとんど必然的 に『権力』と結びついてきたのである。そしてさら に、日本の軍国主義はヒットラーのように外からの 権力奪取ではなく、権力の内部からの奪取であった (加藤周一)ところに、多くの医師たちが一億総ぐ るの体制に矛盾を抱かずに追随していった要因とも なっている」。50) ここでは医師の場合であるが、大 学人においても全く同様である。問題はこの歴史事 実を忘れ去り、歴史から何も学ばず同じような過ち を繰り返す危険性に陥ることである。「権力の内部 Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service 18) 前掲 3 735p 19) 宮城県医師会『宮城県医師会史・沿革編』422・ 423・425p 1976 20) 同上書 360p 21) 国立公文書館所蔵 2A-12-類 2193 22) 前掲 5 233p 23) 国立公文書館所蔵 2A-12-類 2687 24) 前掲 3 775p 25) 前掲 5 479p 26) 前掲 5 216p 27) 佐伯修『上海自然科学研究所』 115p 1995 28) 同上書 222・223p 29) 東北帝大医学部艮陵学友会会誌『艮陵』第 51 号 17p 1940 30) 常 石 敬 一 『 医 学 者 た ち の 組 織 犯 罪 』 235p 1994 31) 前掲 5 991p 32) 前掲 5 567p 33) 前掲 6 第 304 号(昭和 20 年 4 月) 34) 前掲 6 第 306 号(昭和 20 年 6 月) 35) 東北大学反応化学研究所『創立 50 周年記念 誌』 165p 1995 36) 成瀬政男『日本技術の母胎』 156・159・172p 37) 石川悌次郎『本多光太郎伝』 325・329・330p 1964 38) 東 京 大 学 『 東 京 大 学 歴 代 総 長 式 辞 告 辞 集 』 265p 1997 39) 同上書 284p 40) 同上書 295p 41) 同上書 301p 42) 東北大学庶務課『東北大学学報』第 334 号(昭 和 22 年 10 月) 43) 同上 第 340 号(昭和 23 年 4 月) 44) 同上 第 352 号(昭和 24 年 4 月) 45) 家永三郎『大学の自由の歴史』 62p 1962 46) 同上書 234p 47) 同上書 193p 48) 坂田昌一『科学者と社会』 55p 1972 49) 名 古 屋 大 学 『 名 古 屋 大 学 五 十 年 史 』 通 史 ニ 706~708p 1995 50) 莇昭三『戦争と医療』 191p 2000 からの奪取」にどう対抗すべきなのか。医学・医療関 係者として何よりも「人間の尊厳を守り、真実を探 求する」善意ある誠実な人々と、いかに広く大きく 結合・結集していくかが、大きな課題でなかろうか。 この小論の究極的な願いはそこにある。 <お断り> 本稿は、仙台での「第 8 回 15 年戦争と医学医療 研究会」での記念講演を元にしたものであるが、そ の論旨を変えずに大巾に補充修正したものである。 なお文章は論文体に変えてある。 参考文献 1) 馬渡尚憲「本学の理念を歴史に学ぶ」(「東北大 学百年史編纂室ニュース」第 6 号) 2) 「東北帝国大学金属材料研究所事業拡張及研究 部門改廃理由書」(国立公文書所蔵、2A・12・類 2684) 3) 東 北 大 学 『 東 北 大 学 五 十 年 史 』 上 392 p 1960 4) 同上書・上 405・406p 5) 東北大学(医学部)艮陵同窓会『艮陵同窓会百 二十年史』82p 1998 6) 東北帝大庶務課『東北帝国大学学報』第 262 号 (昭和 16 年 10 月) 7) 前掲 3 400p 8) 東京大学『東京大学百年史』通史ニ 750・751 p 1985 9) 八田四郎次「昭和 10 年頃より昭和 20 年頃まで」 (『東北大学工学部化学系創立 75 周年記念 誌』25p 1993) 10) 前掲 6 第 253 号(昭和 16 年 1 月) 11)前掲 3 370p 12) 前掲 6 第 274 号(昭和 17 年 10 月) 13) 前掲 6 第 289 号(昭和 19 年 1 月) 14) 日本学術振興会『日本学術振興会要覧』13p 1944 15) 日本学術振興会『特別及ビ小委員会ニヨル総合 研究ノ概要』第 4 回(13 年度)9~12p 1939 16) 日本科学史学会『日本科学技術史大系』第4 巻・通史 4 446p 1966 17) 前掲 5 167・174・920・931・932p - 37 October, 2002 - 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 15 年戦争末期における 『東北一純農村の医学的分析』 の評価をめぐって 中谷敏太郎 中通リハビリテーション病院 Minoru TAkAHASI MD and social medicine at the last stage of the 15-years War Tositaro NAKATANI Nakadoori Rehabilitation Hospital キーワード Keywords: 高橋實 M. TAKAHASI、社会医学 social medicine、治安維持法 Maintenance of Public Order Act、15 年戦争末期 last stage of 15-years War '36.4 月、大学医学部教授会が有利な判定。医化 学教室 (井上嘉都治教授) で実験助手。 '36.9 月、正式復学。 '37.2 月、太田正雄皮膚科学教授 (木下杢太郎) を 中心に『森鴎外の会』。同年 10 月当局から解散命令。 '38.3 月、医学部卒業。 '38.6 月、岩手県医薬購買販売利用組合連合会所 属・志和村診療所就職。 '40.7 月、『東北一純農村の医学的分析』を同連合 会から出版。 '41.4 月、医学部医化学教室入局。 『分析』に対し て'41 年 10 月 10 日、中央社会事業協会から賞状を 授与。 '42.1 月、同著作を朝日新聞社から再版。 '42.11.25. 『 分 析 』 に 対 し て 新 治 安 維 持 法 (41.3.10.)違反で検挙起訴、収監 2 年。 '44.3 月、東北大学医学部依願免官。44.6 月仙台 地裁刑事部で「懲役 2 年,5 年間猶予」の有罪判 決。 '44.4 月、盛岡農村医学研究所に入所。44.6 月、 岩手県農業会盛岡病院内科科長。 '45.4 月、秋田県女子医学専門学校講師兼付属病 院内科科長。 '45 年 11 月、秋田県花岡鉱山強制就労中国人労働 者の検診を行い報告書作成。 '48.8 月、『農村衛生の実証的研究・・東北一純農 村の医学的分析』と改題して、日本学生図書協会か ら再々版。 '50.8 月、宮城厚生協会坂病院に就職。 '69.6 月、全日本民医連会長に就任。 '86.2 月 、 以 前 の 表 題 で 仙 台 文 化 出 版 社 か ら 再々々版。 1. はじめに 15 年戦争末期、高橋實が岩手県志和村診療所 の時期に行った疫学・社会医学的研究が、1940 年 7 月に単行本『東北一純農村の医学的分析』 ( 以下『分析』) として出版された。この著書は 当時の政治権力から 2 つの相反する評価を受けて いる。1 つは'41.10.10、中央社会事業協会からの 表賞であり、もう 1 つは'42.11.25、『分析』に対す る新治安維持法違反による有罪判決である。この 奇妙な経過について、莇昭三を刊行委員長として 発刊された『高橋實・人と著作』(1994.1)の中で 私が書いた短い解説を基にして、それを敷衍する 形で以下論述する。 2. 高橋實の年譜 '32.4 月、東北大学医学部入学と同時に日本共 産主義青年同盟('31.12 月に渡辺宗治ら 10 名で組 織) に加盟、'34 年春に肺結核で大学病院、二ヶ 月後福島市の大原病院に転院。 '34.9 月 11 日 (この年、東北地方の冷害・大凶 作で、秋から冬にかけ、借金累積、娘の身売り、 欠食児童、行き倒れ、自殺、厳寒など惨状を極め る) 宮城県特高課による改正治安維持法('28.6.29) の一斉検挙で転院 1 ヶ月後の大原病院の病床で逮 捕連行 (同時に 100 名近い労働者、農民、市民、 学生逮捕) 。1 年ほどたらい廻しの後有罪判決。 '35.8 月はじめ肋膜炎再発、腹膜炎併発し心身の 衰弱激しく、転向書「共産主義の正さを否定出来 ぬが、実践を放棄する。社会的良心のある医者と して、一介の技術者として生きていきたい」を提 出する。 8 月末「病気のための保釈」出獄。特 高の監視下で生活。 36.2 月、執行猶予判決。 * 連絡先:〒010-0012 秋田市南通みその町 5-40 Adress: 5-40 Misono-cho, Minamidori, Akita, 010-0012 JAPAN - 38 - Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service 2002 3. どのような時代であったか 3-1. 戦時体制下の衛生・医療行政については、莇 昭三『医師たちの十五年戦争』と、厚生省医務局 『医制百年史』を参照されたい。一言だけ付言す ると、15 年戦争の経済・政治・行政の軸はもち ろん戦力増強であって、兵力及び生産力の根源で ある国民の保健衛生の向上は総力戦体制の確立上 不可欠な必要条件であり、わが国の歴史上でも、 この時代のように国民保健の問題に高い政治的関 心が払われたことはなかったと言えることである。 しかし努力の甲斐は全く見られず、国民の衛生指 標は低下する一方であった。すなわち、出生率 ('20:人口千対 36.3、'36:30.0)、人口自然増加率 ('25:15.6、'36:12.4)、結核死亡率 ('36 年人口 10 万対 200 を超えて 209、'38:211、'39:217、 '40:214、'41:215、'42:223、'43:234)、壮丁の甲種合 格 率 ('22:36.2 、 '26:35.4 、 '36:30.0 、 '37:40.0 、 '38:28.0、'40:26.8、'43:25.8、'45:20.5%) 。 3-2. この富国強兵策は農業政策にも大きな変更を 加えていった。農業経済学の森武麿は「15 年戦 争は全国民的動員による総力戦形態で戦われたた めに日本の社会構造の変化には著しいものがあり、 国家独占資本主義の成立、寄生地主制の凋落」と いう「日本の経済的社会構造の根本的な編成替が 確実に進行していった時代」であったと分析して いる。 そして'40.8 月には「国是遂行の原動力たる国 民の資質、体力の向上ならびに人口増加に関する 恒久的方策特に農業及農家の安定発展に関する基 本方策を樹立す」ることを目的とした「基本国策 要綱」が閣議決定された。その一つの柱であるフ ァシズム農業法制は'38.4 月「農地調整法」を頂 点として強力に促進されたのである。 October, ことを文献的に分析し、これが「資本の農村侵入の 現実形態であり、また農村労働力の賃金労働への転 化」の要因となっていることを示した。しかしこの 「星から星まで」の長時間労働支出を以てすら生産 諸条件の再生産が危殆に瀕し、農民の生活資料が生 物学的に必要な最低限にまで切りつめられている実 情を明らかにして、これを「社会衛生学的検索のた めの基礎」前提とした。しかしもちろんここでは、 侵略的・軍国的・天皇制帝国主義への直接の言及は ない。 4-2. このような視点の下で「結核が社会的疾患で あること」を証明していく。それには発生及び蔓延 の疫学的特質、結核死が所得を初めとして種々な社 会的因子と密接に関係していること、農村の都市に 対する特徴的な差異などを文献的に考察する。その 上で結核の発生と蔓延の実態を実証するための集団 検診を展開し、「結核と社会」の課題に自然科学 的に接近していった。しかも 1 自治体のなかで唯一 の診療所、只 1 人の医師という日常的な医療実践を 果たしながら、この一連の調査を総人口 5,000 人の 悉皆調査という形で遂行して、ツ反陰性者全員に BCG を接種したのである。 この疫学研究は、まず住民の 100%ツ反検査と喀 痰培養検査、結核患者の感染経路の追跡から始まっ たのであるが、東北大学の熊谷教授の注目するとこ ろとなり、これも 100 %の胸部間接レ線撮影が実 現した。この研究は'40 年の結核学会で大きく注目 され、雑誌『結核』18 巻 6 号に掲載されている (筆者はこの文献を入手できないでいるが、『人と著 作』に松田道雄の『帝国大学新聞』('40 年 10 月 9 日号)書評「生活探究の記録・高橋實著『東北一純 農村の医学的分析』が再録されていて、松田はその 内容に触れ、極めて高く評価している) 。 5. 「実証的研究」が引き出した相反する評価 ここで、一方では戦争遂行の至上戦略としての農 民の健康保全という国策に沿っていることと、一方 では国体変革を図る明瞭な共産主義の立場にあると いうことで、相反する評価が発生してくる。 4. 『分析』の要点 4-1. 高橋はまず志和村の農業経済学的分析から入 る。それを要約すると、「資本主義的社会に於け る農業=農村は如何なる発展傾向をとって来たか を此の村で分析し、農村医学的調査に生命を吹き 込むことを試みる」。それには「資本は農業をど う捉えるか、すなわち資本は農業に於ける生産形 態、及び所有形態をどう変革するか、そしてこの 過程はどの様に進行し、又どの様な結果を生ずる か」、「資本が種々の形態と手段によって農業・農 村を自己に従属させ、自己の姿に型どって変型さ せる過程」を知ることから始まるとしている。そ して「大土地所有の分解による所有規模の落層現 象と、5 反以上 2 町未満耕地経営農家戸数グルー ブへ向けての」移行は志和村でも認められている ことを証明する。しかしこれは単なる小自作農民 の解放を意味するのではなく、小農民は「高い地 代、多額の負債利子、租税負担や肥料などの生産 原材料負担を可能にするために」「反当労働投下 量の激増を求めざるをえなくさせられている」こ と、そしてこの現実が過剰労働をもたらしている 5-1. 権力はなぜ表彰したのか 1941 年 10 月 10 日『分析』は、財団法人中央社 会事業協会会長・正二位勲一等伯爵・清浦奎吾 (元 貴族院議長・元首相) および社会事業文献賞審査委 員会委員長・従三位勲二等男爵・穂積重遠 (法学博 士・元東大法学部長) の名で、「頭書の文献審査の 結果我国社会事業の進展に資する處甚大なるものあ るを認め茲に賞金を贈りて之を表彰す」と賞状を与 えられている。なぜ権力は表彰したのかを、方法論 と実践の 2 つの側面から考えてみる。 ①方法論の側面から。前述の森武麿も「政府が 『農村ガ最モ優秀ナル兵力及ビ労力ノ供給源』であ るとして、農村・農民を戦争とファシズムの主要な 基盤としていたことは、まぎれもない事実であっ た」と書いているように、侵略的帝国主義権力にと - 39 - 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 月 第3巻1号 2002 年 10 っては農民の健康の確保は最重点課題であって、 農民の健康破壊の現実とその社会経済的な根源を 知って対策を講ずる上で、『分析』は彼らにとっ ても有効な研究であったと考えることができる。 つまり高橋の志和村での実践の時期は、侵略的 帝国主義と国家独占資本主義の矛盾が進行し崩壊 に瀕しつつある危機の時期であり、寄生地主制の 解体を緊急課題とせざるを得ない時代であった。 高橋が志和村に就職したのは、まさに厚生省の創 設、国家総動員法が制定された 38 年であり、農 地調整法が成立した年でもあったのである。これ は耕作地主を含む生産農民の地位を保障する立法 であって、不在地主・不耕作地主の歴史的敗北を もたらす必然性を貫徹せざるを得ない富国強兵策 であった。このような社会背景の中で『分析』の 農業論は、マルクス主義的方法の如何を問わず、 国家権力の志向と一致するものであったと言える のである。しかし高橋は侵略的帝国主義・ファッ シズム体制との関連には意識的に言及せず、独占 資本主義の発達にともなう必然的な農業過程とし て記述していることは前述した。 ②実践の側面から。『分析』は志和村での日々 の実践のなかで生まれた。それは『人と著作』に 掲載されている『農村医療の諸問題』や『わが愛 は山の彼方に』で、生き生きと描写されている。 高橋は'40 年 10 月の『医療制度改善方策』に始ま る、医師・医療の総動員体制の確立を先取りする 形で、卒業と同時に無医村化していた古びた診療 所に自ら求めて赴任する。 そして農民医療組合運動の中で、「たえざる精 神の緊張、睡眠不足、過労にみまわれ」ながら、 毎日の診療に挺身し、ついに 3 年目の秋に自治体 と協力して、結核に焦点を合わしたレベルの高い 診療所を建設した。「農村の典型的診療所を目的 として設計した病床 20 を有する新診療所であり、 結核病床 10 床の付属病棟、レントゲンや気胸療 法装置、結核菌検査設備をそなえた、完全な農村 医療・対結核設備が完成したのである」と述べて いる。1 ヵ月延患者は外来約 1,500 人・入院約 400 人に達した。1 人でこの過大な日常診療をこ なし、疫学研究を進めながら、日本で最初の自主 的な「志和村結核予防会」を組織して、発見した 結核患者の医療費はこの予防会の最高機関で負担 能力を査定し、全額負担の甲、半額負担の乙、全 額免除の丙の 3 段階に区別した。39 年秋に集団 健診で発見された患者 63 名の中、甲は 7、乙は 20、丙は 36 名であった。 さらに「結核予防会」に依拠しつつ、結核検診 にとどまらず、地域座談会と講演活動を進め、機 関紙『農村医療』を発行して保健教育宣伝活動を 行い、これは診療、予防衛生、疫学研究の 3 者を 統一した実践であって、まさに国家が求める農村 医師の典型像を示したのであった。しかもこの 『分析』などに基づく熊谷等の結核学会での報告 「農村ニ於ケル結核ノ研究」は、国民結核対策の 戦術的基本を提示するものとして重要な役割を果 たしうるものであったであろう。したがってこの報 告と『分析』は、我が国の軍事的富国強兵戦略の 1 つとされた'42.8 月の閣議決定『結核対策要綱』の 理論的・実践的な指針としての意義を持つものであ ったと言えよう。 5-2. 権力はなぜ弾圧したのか しかし一方では、この『分析』出版が新治安維持 法違反であるとされて、東北大学では法学部・服部 英太郎、農学部・須永重光と共に、高橋は'42.11.に 再び検挙・起訴されたのである。そして 1 年半の収 監の後に、'44.3 月 31 日仙台地裁で、主文「被告人 を懲役 2 年に処す。但し本裁判確定の日より 5 年 間右刑の執行を猶予す」という判決を受ける。 この判決の理由を要約すると、「『コミンテルン』 か世界『プロレタリアート』の独裁に依る世界共産 主義社会の実現を標榜し世界革命の一環として我国 に於ては革命手段に依り国体を変革し私有財産制度 を否認し『プロレタリアート』の独裁を通じて共産 主義社会の実現を目的とする結社にして日本共産党 は其の日本支部として其の目的たる事項を実行せん とする結社なることを知悉しながら何れも之を支持 し前記両結社の目的達成に資せんことを企て」たこ と。その証拠は「昭和 15 年 7 月頃『東北一純農村 の医学的分析』と題し共産主義的観点より農村保健 衛生問題を分析し農村疾病就中肺結核は専ら我国資 本主義経済機構の矛盾に原因するものと看做し其の 機構的検討及対策が必要なることを示唆したる論説 を執筆し之を・・単行本として発行し」、さらに昭 和 16 年 2 月~17 年 1 月の間に同様の共産主義的 観点に立った五つの論文を雑誌などに発表したこと も加えて、「以て一般大衆の共産党主義的啓蒙に務 め」たことを認定できるとしたのである。 そしてこれは「国体の変革を目的とする結社の目 的遂行の為にする行為を為したる点は治安維持法改 正法律第 1 条後段に、私有財産制度の否認を目的と する結社の目的遂行の為にする行為を為したる点は 同法第 10 条に該当する」ものであるから、「懲役 2 年に処すべきところ」であるが、「証人藤田敏彦 (東北大医学部生理学教授、その兄、橋田邦彦は第 2 次・第 3 次近衛内閣および東条内閣での文部大 臣)の証言によれば被告人は頭脳明敏にして極めて 研究心に富み若年にして基礎医学に於て成果を挙げ たるのみならず臨床方面にも努力を重ねて熟達し志 和村在勤当時は農村医療の為真摯なる活動を為して 尠からざる貢献を為したることを認める」ことが出 来るし被告人の上申書と供述では「爾後は文筆活動 を一切断ちてひたすら臨床医家として挺身すべく就 中軍医を出願して大東亜戦下軍陣医学に尽瘁して奉 公の誠を致さんことを冀い居る」ので今後「更に過 誤に陥ること」はないだろうから「刑の執行を猶予 するを相当と認め同法第 25 条を適用し本裁判確定 の日より 5 年間右刑の執行を猶予する」という判 決になったのである。 なお控訴事実中に、「昭和 12 年 2 月頃より同年 10 月頃までの間数回に亘り東北帝国大学医学部学 - 40 - Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service 2002 生 H.O.等と会合し森鴎外著『大塩平八郎』、アン ドレジイド著『ソヴィエート旅行記』等を左翼的 見地より解説して・・『コミンテルン』並日本共 産党の目的遂行の為にする行為を為した」とある が、証拠不十分であるし「判示事実と包括一罪の 関係ありとして」取り上げないとしている。 この起訴と判決は次の 3 点から見ても、治安維 持法下では当然であったと考える。 ①高橋は大 学 2 年生の時治安維持法違反で逮捕され、 2 年 の実刑の上で執行猶予処分の身分のまま保護観察 法の対象となっていた。この要注意人物が無医村 に入って医療実践のかたわら大規模な研究、しか も初版の序文に「農村衛生が内包する諸矛盾は、 農村生産手段の所有関係のもつ矛盾と関連して考 察すべである」と述べ、農民の健康破壊の実態を マルクス主義の立場から研究し公刊したのだから、 当局が注目することは当然である。 ②またこの序文では「農村に在る青年医師は 『上医医国・中医医人・下医医病』の意味を実践 によって学ぶべきである」と書いて、国体変革を 煽動している。 ③この研究の方法論は『日本資本主義発達史講 座』に基づいていることは歴然としている。戦後 に高橋は「日本帝国主義の性格を全面的に分析し、 日本の情勢の特徴と革命の展望をより明確にする ことが、国内的にも国際的にも切実な課題となっ ておりました。『講座』は、きわだって画期的な その成果であり、私の『分析』も、その努力のひ とつです。私は 2 回の弾圧にもかかわらず『32 年テーゼ』は導きの星でありました。私の『分 析』は当然この『テーゼ』によって導かれたので す」と回想している。いくら表現を抑えてもこの ような思想的背景を、思想裁判の裁判官たちが見 抜けないはずはない。(ただし『人と著作』の中 で若月俊一は高橋のコミンテルンや 32 テーゼに 対する過大な評価には異論を述べている) 。 もっと重い判決が当然であるのに、治安維持法 としては最も軽い判決になったのは、藤田敏彦、 熊谷岱蔵、太田正雄(木下杢太郎)という証言の 重みもあり、高橋を表彰した側である帝国の権威 を背景にした穂積重遠の証言も加わったこと、さ らに高橋に対する岩手県と志和村農民の厚い信望 があることなどによると考えることができる。 - 41 October, 6. おわりに 以上、志和村での高橋實の 3 年間を、15 年戦争 の末期という激動の中で垣間見ることによって、歴 史を前進させる強靱で巨きな人間の典型像の 1 つを 知ることができる。 それは、この 3 年間の農村臨床医師としての典型 的な実践と、マルクス主義的社会科学の方法論に意 識的に依拠した社会医学的研究によって究明された 農民の健康破壊の実証的な研究が、戦争末期という 国家存亡の危機的状況のなかで、支配権力の内部で 発展する理論的・戦略的矛盾を、自らの生命を睹し て明るみに引きずり出したということである。 そしてコミンテルンと、その 27 年および 32 年テ ーゼをめぐる評価と、高橋のそれへの傾倒について の検討は別にしても、当時の侵略的日本帝国主義が 他民族に対して言語を絶した加害と、日本国民の生 命・生存・自由への徹底的で時として殺戮を含んだ 抑圧に真正面から抵抗し、ガリレイの精神をたくま しく継承した高橋を、われわれは永く記念すべきで はなかろうか。 参考文献 1) 「高橋實・人と著作」刊行委員会 (委員長・莇 助三) 、「わが愛は山の彼方に」萌文社、1994 年 1月 2) 高橋實「東北一純農村の医学的分析・・岩手県 志和村に於ける社会衛生学的調査(復刻版)」仙 台文化出版社、1986 年 2 月 3) 岩波「近代日本総合年表」第 4 版、2001 年 11 月 4) 医学史研究会・川上武「医療社会化の道標・25 人の証言」勁草書房、・1969 年 7 月 5) 莇昭三「戦争と医療・・医師たちの十五年戦 争」かもがわ出版、2000 年 9 月 6) 厚生省医務局「医制百年史」ぎょうせい、1976 年 9月 7) 江口圭一「1910~30 年代の日本・・アジア支 配への途」岩波講座・日本通史第 18 巻、1994 年 7月 8) 雨宮昭一「戦時統制論」岩波講座・日本通史第 19 巻・1995 年 3 月 9) 森武麿「戦時下農村の構造変化」岩波講座・日 本歴史第 20 巻、1976 年 7 月 10) 萩野富士夫「特高警察」岩波新書、2000 年 9 月 - 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 魯迅と日中十五年戦争 渡辺 襄 日本中国友好協会宮城県連 Luxun and Japan-China 15-years War Takashi Watanabe Japan China Friendship Association in the Miyagi Prefecture 1. はじめに-幻のインタビューと魯迅の死因疑惑 魯迅は日中 15 年戦争の発端となった柳条湖事件 (1931 年 9 月 18 日、中国の呼称は“九一八事 件”)が始まると日本の侵略に版図の拡大をめざし た野蛮な「抜都」(チンギスハーンの孫、バツー) を見、その戦火が飛び火した第 1 次上海事変('32 年 1 月 28 日、中国の呼称は“一二八事変”)では 銃弾の犠牲になってもおかしくない戦場に身をお き、日中関係の動向と前途に関心と危惧を持ちつ づけた。 魯迅は盧溝橋事件の起きる約 8 か月前、'36 年 10 月 19 日に亡くなった。その前日、18 日に日本 の新聞社の上海特派員(内山完造は毎日新聞の松 本槍吉記者とするが、奥田杏花の回想から朝日新 聞の吉田記者と推察)から緊迫する日中関係をめ ぐってインタビューを受けることになっていたが、 このインタビューは幻と化してしまった。死の 2 日前、17 日正午頃胡風に呼び出されて外出し、鹿 地亘と池田幸子夫妻を訪ねて雑文の翻訳にあたる 鹿地に助言をあたえた後、内山書店に立ち寄った さい時局談義に応じているうちにこのインタビュ ーの約束ができたようである。帰宅後、魯迅の体 調が急変したため 18 日午前に予定したインタビュ ーはキャンセルされてしまった。このインタビュ ーが実現していたら魯迅はどのようなメッセージ を日本人に残したであろうか? 魯迅は上海の共同租界に住むようになってから、 多くの日本人とさまざまな交渉を持った。なかで も内山完造とは住宅の賃貸、水道光熱費の支払い や郵便物の取次ぎなど私生活上の面倒から日本の 作家・文化人たちとの対談などまで広く深い関係 をもつこととなった。魯迅とその家族は病気にな ると日本人医師たちの診察を受けた。魯迅の最後 を看取ったのは須藤五百三ら日本人医師であった。 魯迅を師と仰ぐ青年作家や木刻作家たちと文壇の 弔問客が魯迅の枕辺に見たのは許広平母子と周建 人夫妻、胡風らのほか 6 名の日本人すまわち内山 夫妻、鹿地夫妻、日高清磨嵯、河野さくらであっ た。 それほど日本人と関わりが深かった魯迅であっ たが、彼の死因をめぐって、弟の周建人や妻の許 広平そして遺児の周海嬰ら親族は主治医だった須 藤五百三の加療に対して不満と不信を表明し、'49 年、'53 年、'82 年、2001 年と繰り返している。 2. 魯迅の戦時体験 ①魯迅の上海時代 魯迅が許広平といっしょに上海に住むようにな った時期は'27 年 10 月から'36 年 10 月までであり、 中国革命史のうえでは第一次国共合作の破綻から 第二次国共合作直前までにあたる。 蒋介石の反共クーデター('27 年 4 月 12 日)直 後、中国には北京の張作霖、南京の蒋介石、武漢 の汪兆銘と 3 つの政権が乱立したが、'28 年 7 月ま でに国民党による北伐の完成をへて、'31 年 11 月 南京国民政府が誕生する。その一方、中国共産党 は都市労働者の運動と農村での土地革命および根 拠地づくりをかかげ、'28 年 2 月井岡山に革命根拠 地を樹立し'31 年 11 月中華ソビェト共和国臨時政 府を江西省瑞金に成立させた。 上海の共同租界、フランス租界にはわずかだが 市民的自由を保つ時空があったから、国民党によ る白色テロを逃れて、多くの作家たちが上海に集 まってきた。 その約 9 年間、文学と革命をめぐって論争につ ぐ論争に明け暮れたが、魯迅は中国文壇の重鎮と して国民党の文化包囲作戦に対抗する中心となっ たのである。ここでは最初の「革命文学論争」に ついて略述するにとどめる。 '28 年魯迅は、創造社や太陽社に属するプロレタ リア文芸を標榜する青年作家たちから古い意識を 反映し、過去の暗黒しか書けない小ブルジョアジ ー作家だと露骨な人身攻撃もふくむ論争を仕掛け られた。 理論の水準も低いし中国の現実に対する真剣な 考察を欠いた論難に対して魯迅は真っ向から反撃 した。この論戦は国民党の文化弾圧が激しくなっ たこと、中国共産党の側にセクト主義への反省が 生まれて魯迅と団結する方針がはっきり打ち出さ れたことから年内に終息したが、魯迅は自らマル クス主義文芸理論を学んで進化論から階級論を受 け入れる立場へと変貌をとげ、封建的宗教的社会 の反逆児、ブルジョア階級の謀反者、ロマンチッ クな革命家の「諍友」(嬰秋白)となった。 '30 年 2 月自由運動大同盟がフランス租界で結成 された。魯迅も発起人の 1 人になったことから、 * 連絡先 〒983-0861 仙台市宮城野区鉄砲町 166 プラザ和光 205 号 E-mail jcfa-miyagi@wakwak,com Address 205 Puraza Wako, 166 Teppo-machi, Miyaginoku, Sendai, Miyagi 983-0861 JAPAN - 42- Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service 文憲兵大尉に指揮させたという。 火付け人は田中隆吉(上海公使館付陸軍武官補佐 官、少佐)であり、前年 10 月初旬ころ板垣征四郎 (関東軍参謀)に 2 万円で依頼され、不足は鐘紡上 海出張所から 10 万円出させたこと、その狙いは満 州国建国に対する国際的な非難をかわすためであっ たことを田中本人が戦後になって証言している。第 一次上海事変もまた謀略から始まったのである。 開戦に至る経過では村井倉松上海総領事と呉鉄城 上海市長の間で次のようなやり取りが交わされた。 21 日村井倉松上海総領事は呉鉄城上海市長に対し て、①市長の陳謝、②加害者の処罰、③被害者への 保障、④排日の取締と抗日団体の解散を要求した。 27 日回答が寄せられ、①②③は受け入れるが、④ についてはあいまいなままであった。そこで同日あ らためて 28 日午後 6 時を期限とする最後通牒をだ した。28 日午後 3 時、中国側から全面受け入れの 回答があったが、午後 4 時、租界に戒厳令がしかれ た。 それ以前、22 日日本政府は兵力の増強を決定し た。陸戦隊は増派によって 1,800 余名となった。こ れに対して、中国の第 19 路軍は約 31,000 名、市街 地にバリケードをきづくなど臨戦態勢を固めたから、 すでに一触即発の状態となっていた。 戦闘の経緯を簡単ながら見ておこう。28 日午後 8 時、塩沢幸一第 1 遣外艦隊司令官は戒厳令施行によ り警備にあたるとの声明を発表、午後 11 時 20 分、 出動命令を下す。陸戦隊は北四川路西側の閘北(ざ ほく)に出動した。そこはもともと租界外で中国の 領域であったから、待ち受けていた第 19 路軍と激 烈な市街戦に入った。日本軍は、中国軍の激しい抵 抗にあって多大な犠牲を強いられたが、3 回目の増 派のすえ、やっと 3 月 1 日に中国軍の背後をつき、 2 日第 19 路軍を退却させることができた。この間、 上海に権益を集中させていたイギリス、アメリカ、 フランスの圧力や国際連盟での孤立に苦慮していた から、3 日日本側は一方的に戦闘中止を声明し、や っと戦火が収まった。 3 月下旬から、国際連盟の勧告をいれて、日本・ 中国のほかイギリス・アメリカ・フランス・イタリ アの関係4か国をまじえて停戦会議が始まり、5 月 5 日停戦協定が締結された。抗日運動の取り締まり、 第 19 路軍の更迭、浦島・蘇州河岸の非武装化をみ とめたうえで日本軍は撤退するという内容で、翌日 から日本軍は撤退を始めた。その間、ねらいどおり 3 月 1 日「満州国」を建国させたが、4 月 29 日上海 の天長節祝賀式場で白川義則上海派遣軍司令官・野 村吉三郎海軍第三艦隊司令長官・植田謙吉第九師団 長・重光葵公使・村井倉松総領事らが朝鮮人の爆弾 テロにあう事件が起き、植民地経営の危うさを示す ことになった。 上海事変で日本軍は戦死 769 名、負傷 2,322 名、 戦闘員の損害率 17%で、満州事変の 3 倍近い犠牲 をだした。中国側は軍人 14,000 名が死傷したうえ、 民間人の犠牲も大きく死者 8080 名、負傷 2240 名、 国民党浙江省党部から逮捕状が申請され、そのため 内山完造宅に単身で 1 か月避難しなければならなか った。この逮捕状は魯迅が亡くなるまで有効とされ た。 同年 3 月左翼作家連盟の結成大会では議長をつと め記念講演もした。その後も機関誌に投稿し継続発 行を援助し若手を育成するなど必要な援助を与えた。 ②満州事変に対する見方 魯迅は満州事変について「日本人は『人を食う血 の口を大きく開いて』、東三省を呑んでしまった」 (「『民族主義文学』の任務と運命」、'31 年 10 月、 「二心集」)と侵略の意図を見抜き、「中国人が他人 にしたがってソ連を破壊しに行く序曲」であるとと らえ将来は対ソ戦に発展すると考えていた(「中国 文壇の幽霊」 、'34 年 11 月、「且介亭雑文」 )。 日本の中国侵略は拡大の一途をたどり満州全土の 占領後、日本は上海事変を引き起こして「満州国」 を建国させ('32 年 3 月) 、熱河の占領('33 年 3 月) から華北に侵入して北平(現在の北京)まで 50 キ ロに迫った。この時点で小休止かとみえたが、盧溝 橋事件('37 年 7 月)を機に全面戦争に突入し、8 年 後、日本の敗戦で終わった('45 年 8 月 15 日)。 魯迅は日本の中国侵略と外交政策を局面ごとに短 い言葉ながら鋭く批判した。と同時に国民党政府が 日本には不抵抗政策をとる一方、中国共産党の撲滅 と革命根拠地の掃討を執拗に実行していることに批 判のペンを振るった。 しかし'33 年ごろから魯迅の執筆活動に対する当局 者の圧迫がいちだんと強まると、ペンネームを次々 とかえるなどして対抗した。『准風月談』では 20 個、 『花辺文学』では 28 個のペンネームを使っている。 また、公然とした出版ができなくなると自費または 半ば自費出版し内山書店を委託販売所にして戦闘的 な文筆活動を続けたのである。 満州事変・上海事変以後に出版された魯迅の雑文 集は『三閑集』『二心集』('32、以下の数字は発行年 を示す)『偽自由書』('33)『南腔北調集』『准風月 談』('34)『集外集』('35 年)『花辺文学』('36)『且 介亭雑文』『且介亭雑文二集』『且介亭雑文末編』 ('37)『集外集拾遺』 ('38)であり、そのすべてに満 州事変または上海事変に言及した雑文を収録してい る。 ③上海事変―50 日の避難生活 開戦から休戦まで 柳条湖事件から約 4 ヵ月後、戦火は上海に飛び火 した。1 月 18 日午後、上海の日本山妙法寺の僧侶と 信者計 5 名が三友実業社という中国のタオル工場前 で中国人 60 名余に襲われる事件が起き、これに対 して 20 日未明居留民の日本青年同志会の会員 30 余 名が報復に出て三友実業社に放火し、中国人巡捕と 衝突して双方に死傷者がでた。 この 2 つの事件はいずれも謀略であった。先の事 件は買収された中国人が襲撃し、後の事件は重藤憲 - 43 October, 2002 - 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 行方不明 10,400 名であった。 「満州国」建国後、関東軍は熱河省と華北に向け 侵攻する。'33 年 1 月山海関の攻略、3 月熱河の陥落、 喜峰口など長城抗戦をへて北平までわずか 30~50 キロに迫った。こうして 5 月 31 日塘沽停戦協定が 結ばれ、柳条湖事件から始まった日本の軍事的膨張 に一段落がつけられることになった。 魯迅の戦時体験―被弾、便衣隊狩、3 回の避難 被弾 魯迅は満州事変が上海に飛び火するなどとは予想 もしなかった。増田渉あて'32 年 1 月 5 日付けの手紙 に「上海は安全だろー」と書いていた。2 回目の避 難の後、許寿裳あて 2 月 22 日付けの手紙には「こ とのほか思いがけないことだった」と書いていた。 しかし魯迅は事変の銃火で危うく犠牲になるとこ ろであったし、50 日にもわたる避難生活を余儀なく されることになった。 魯迅は開戦の日、28 日午前、許広平と篠崎病院に 通院した。午後、付近が騒々しくなった。正午ころ、 魯迅は景雲里の周建人宅を訪ねて、まもなく戦争が 始まりそうだから北四川路の自分の所に行こう、な にかあっても離れ離れにならずにすむからと話した。 周建人たちは一家そろって昼食の最中であった。息 せき切って飛び込んできた魯迅の様子にただならぬ ものを感じたが、その日は家主の家賃値上げ通告を うけて裁判所に申し立てに行くことにしていた。魯 迅は裁判所の用事がすんだら、すぐに来るようにと 約束させて帰っていった。 午後 4 時に上海共同租界工部局(租界の行政組 織)が戒厳令を布告したから、日中双方の住民は安 全を求めて移動しはじめた。一時は徒歩、人力車、 荷車、人力車、自動車が道路をうめつくす雑踏ぶり となった。人力車を雇おうにも雇えなかったから、 しかたなく周建人夫妻は 1 人ずつ子供を抱いて北四 川路の魯迅宅に急いだ。 戒厳令の布告後、各国軍隊は受け持ち区域の警備 についたが、日本軍は警備態勢にはいらなかった。 そのため、もともと日本軍の担当である北四川路一 帯は閑散となった。夜になっても、戦闘は始まらな かった。今日は戦争はおきないようだからといって、 周建人はいったん自宅に戻ると言い出し、女中もそ れならいっしょに帰りたいと言い出した。あれこれ 引き止められたが結局、2 人は帰っていき、妻の王 薀如と 2 人の子供はそのまま残ることになった。 午後 8 時になって、塩沢司令官は戒厳令施行によ り警備にあたるという声明を発表し、午後 11 時 20 分陸戦隊に出動命令を出した。日本軍が出動したの は北四川路西側の閘北であり、そこは租界外の中国 領であったから、午後 12 時ころ中国軍との戦闘が 始まった。 魯迅たちが世間話に興じているうち、急に停電と なった。はす向かいの日本海軍陸戦隊司令部が騒々 しかった。皆で屋上にのぼってみると、司令部の中 庭に、たくさんの兵士が集合し、やがてトラック部 - 44- 隊が次々と南に向かって出動していく様子が見えた。 居留民団の万歳、万歳の声が何回も闇夜にこだまし た。ほどなくして、遠くで銃声が聞こえだし、だん だんはげしくなり、そのうち頭上を銃弾がかすめて くるようになった。戦闘がすぐ近くで始まったので 急いで階下に避難した。そのうち、銃声が 2 発、ま じかに聞こえた。1 発は真向かいから撃ってきた。 もう 1 発は通りに面した魯迅の書斎兼寝室に飛び込 みテーブルの横をつき抜け、穴をあけた。もしいつ もどおり魯迅が椅子に坐って書きものをしていたら、 腹部を貫通していたであろう。 便衣隊狩り 周建人はその晩、景雲里の自宅に戻った。翌 29 日は戦闘が激しく身動きがとれずにいたところ 30 日早朝、日本軍(あるいは自警団もいっしょか)の 便衣隊狩りに捕われてしまった。周建人は捕虜収容 所に連行される途中で、薬屋の日本人店員(一説で は内山完造)が身元を保証してくれたのでやっと釈 放された。その日が 30 日だったか、31 日だったか は検討の余地がある。 便衣隊とは平服の抗日ゲリラ兵のことである。30 日に塩沢司令官の名前でだされた便衣隊狩りの布告 には「便衣隊は射殺、便衣隊を幇助するものは同 罪」とされ、30 日と 31 日虹口区と日本軍管轄地区 で便衣隊狩りがいっせいに始められて 500 名近くが 逮捕され、数百名が処刑されたという。 29 日は 1 日中、はげしくいきかう戦火のなかで 魯迅たちは生きた心地もしなかった。このときの気 持ちを先に紹介した親友の許寿裳あての手紙には次 のように書いた。 「戦火のなかに突然陥れられ、血刃が道をふさぎ、 弾丸が部屋に飛び込み、まさに命胆石に迫るの趣で した。 」 30 日夜明け頃、魯迅宅にも日本兵が便衣隊の捜 索にやって来た。しかし男は老人ひとり、ほかは女 子供ばかりだったのですぐに立ち去った。その後、 内山書店の鎌田誠一がかけつけ、昨日このアパート から日本軍にむけて発砲した者がいたこと、また何 者かが発砲したりすれば今度は皆さんの嫌疑を晴ら す手だてがなくなるから全員で内山書店に避難した 方がいいと内山完造の意思を伝えた。 避難生活 30 日午後、簡単な着替えと数枚の布団だけを持 って、魯迅は同居人全員といっしょに内山書店の 2 階に避難した。そこには、かねてから知り合いの山 本初枝が長男の正路をともなって先に避難していた。 山本初枝は日清汽船船長の正雄の妻、高級住宅街と して知られていた千愛里で内山完造の隣りに住んで いた。アララギ派の歌人であり内山書店の漫談会の 常連であったことから魯迅とも親交があった。 このとき、周建人がいっしょに避難したかどうか を検討する。と言うのはそれぞれの回想に違いがあ るからである。 Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service 2 月 6 日午後全員でイギリス租界の内山書店支店 に向かった。日本軍が厳戒態勢をしくなか、中国人 だけではどんな難癖をつけられるかもわからないと いうので、店員の鎌田誠一が案内役をつとめること になった。久しぶりに目にした市街地はまだあちこ ちに戦禍のあとがなまなましかった。北四川路を南 下して蘇州河の検問にさしかかった。ふだんは中国 人がイギリス租界に入るのは難関だったが内山完造 の名刺で何事もなく通過できた。「この人は私のよ く知っている人物です、私が身元を保証します」と 直筆でしたためた名刺が交通手形の役目をはたした のである。こうして全員がイギリス租界四川路の鈴 木洋行 2 階にある内山書店支店にたどりつくと、支 店長の王宝良が出迎えてくれた。 やっと、『魯迅日記』はこの日からまた体裁をと とのえて記述される。 「2 月 6 日 旧暦元旦。曇り。午後、全員いっし ょにイギリス租界の内山書店支店へ避難、10 人 1 室で雑魚寝をする。 」 この「10 人」とは魯迅一家 3 名と女中 2 名、周 建人一家 4 名と女中 1 名である。幾日もたたないう ちに、外出した周建人が買ってきたお酒をのんだと いう記述からは、砲火にさらされる危険から逃れる ことができた安心感と九死に一生を得た万感の思い を読みとれる。 周建人の回想はこの時期が空白となっている。妻 の王薀如は周建人が女中の阿二といっしょに魯迅宅 に戻ってきたと回想しているから 30 日の避難はい っしょだったことになる。山本初枝は内山完造が周 建人を連れて戻ってきたとき、魯迅が「アーよかっ た」と喜んだと回想している。それだと周建人はい っしょでなかったことになろう。内山完造は陸戦隊 に連行される途中の周建人一家を見つけ出したので 事情を話して釈放してもらったと回想しているが、 日時を特定できる手がかりはない。 「魯迅日記」をみると、最初の避難と 2 回目の避 難では記述に微妙な違いがあることに気づかされる。 両方とも「同居者全員いっしょ」となっているが、 最初はの人数は書かれず、2 度目は「10 人」とはっ きり書いている。 29 日も 30 日も戻ってこないから、激戦の巻き添 えにあったのではないか、便衣隊狩りで拘留された のではないかと周建人の安否が気づかわれ心配がつ のった。周建人が内山書店に連れ戻されるまでの間、 弟思いの魯迅がどんなに心配したことか。この心労 を反映して「魯迅日記」には「1 月 31 日」の日付そ のものがまったくの空白になってしまったのではな いか。 内山書店 2 階の避難生活について、許広平と山本 初枝はそれぞれ回想記を残しているので簡単に紹介 しておく。 罹災状況 その後、魯迅は自分たちの家族と周建人一家が無 事であったことと罹災状況を北京の母親や友人たち に知らせる手紙を書き送っている。 母にあてた手紙には罹災状況が克明に書かれてい る。それによると、家屋の損傷は小さい被害で済ん だこと、泥棒に入られて 70 元相当が被害にあった ことなどのほか、海嬰がはしかに罹ったので暖かい 旅館に 3 回目の避難をしたこと、弟一家の家屋が半 壊し住めなくなったことを知らせている。 また安否を気づかって新聞に尋ね人広告をだして 行方をさがしてくれた友人宅をたずねてお礼を述べ ている。開戦後、魯迅の行方が忽然と消えたことか ら、その安否を心配して日本留学時代からの親友た ちが動き出した。許寿裳が魯迅の安否をたずねる電 報を陳子英にうつと、陳がすぐに新聞の尋ね人欄に 広告を出し行方を捜し始めたというのである。 『魯迅日記』2 月 21 日には、 「午後に三弟<周建人のこと>をつれて子英を訪ね る」 とあり、翌日の日記には、 「季信に手紙を出す」 と記述されている。子英とは陳子英、季信とは許寿 裳のことで、2 人とも日本に留学して以来の友人で ある。避難当時に示された友情に対してお礼を述べ、 罹災状況などを報告したものであろう。 2 月初旬日本人居留民にも一時帰国が勧告された。 このとき、山本初枝らも一時帰国した。『魯迅日 記』には 3 月 11 日に山本夫人から手紙をもらい、 許広平の回想: 「私たちは階上の小部屋にとじこもり、子供たち が大声をあげたりしないように気をつかいながら、 じりじりと日をおくった。耳元に響く銃声、通りに 積みあげた砂嚢の傍を哨戒する衛兵の靴音は、ひと びとが声をひそめていたために、かえって手にとる ように聞こえた。」 山本初枝: 「書店の 2 階は電気を消して、一歩も外出せず、 不自由な生活だった。今日は無事だが、明日はどう なるか誰にもわからない日々であった。陸戦隊の水 兵がバッタリ倒れるのを目にした。許広平と 2 人で 共同炊事をした。内山完造が『ここで死んでも本望 だ、皆な本が好きな人たちばっかりだから』と壁際 にうずたかく積まれた書籍を見上げて笑いながら冗 談にまぎらした。周建人は昼間は中国服を脱いで書 店の店員と同じように仕事をした。」 内山書店の外では激しい市街戦、艦砲射撃、空爆 が続いたが、閘北でも呉淞(ウースン)でも日本軍 は中国軍の抵抗にあって戦局は膠着状態がつづいた。 戦火の拡大と長期化が予想されたから、共同租界の イギリス人街・アメリカ人街やフランス租界に安全 を求める避難民の列がたえなかった。日本軍が制圧 し、居留民が殺気だっている日本人街はもはや安全 とはいえず、長期の潜伏に耐えられるものではなか ったから、魯迅たちも安全地帯に移動することにな った。 - 45 October, 2002 - 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 翌日には返事を書き送ったと記述している。その後 も 3 月 29 日、4 月 7 日、5 月 30 日、6 月 3 日、6 月 12 日に山本夫人から手紙をもらったことを記録して いる。その後、6 月 29 日に山本夫人と内山夫人が連 れ立って魯迅宅を訪れたことが記述されている。こ の時は上海に戻った挨拶と同時に、まもなく日本に 帰国することを知らせにきたのであろう。すでにこ の情報は鎌田誠一から聞いて知らされていた。5 月 9 日増田渉あての手紙で、山本正雄船長が日本に引 揚げることになれば、「そーすると奥様も上海へ来 られません。それもさびしい事の一です」と書いて いた。山本夫人は 7 月 3 日魯迅の宴会に出席し、7 月 5 日海嬰におみやげの自転車をとどけ、7 月 11 日 魯迅から旧体詩 2 作を揮毫した書を贈られた。7 月 18 日増田渉あての手紙に「山本夫人はもー帰られま した」と消息を書き送っている。山本初枝は増田渉 についで数多く魯迅の手紙を受け取った日本人とな っている。 2 月中旬以降、内山完造も呉淞路の出星商会に身 を隠した後帰国し、5 月中旬まで上海に戻らなかっ た。その間、魯迅が内山書店の店員給料と使用電気 料金を立替え払いしていた。 3 月 3 日の停戦実施により、ようやく上海の戦火 は収まった。しかし、北四川路にかつての賑やかさ が戻るには時間がかかった。市街に賑やかさが戻っ た頃、日中両国にはもはやちょっとやそっとでは繕 うことのできない裂け目ができてしまった。 と、上海の有力紙『申報』などが日本を罵倒し侮蔑 する記事を数多くのせるようになった。こういう風 潮のなかで魯迅は「この排日の声が上がっているさ なかに、私は敢えて決然と中国の青年に忠告する。 日本人にはわれわれのみならうだけの価値」がある と言いきった。事変後、中国の出版界が争って日本 特集をだしたが、それらのもとには日本人の日本研 究があると論じ、日本人が平常から自分の国や東三 省、外国についてよく研究しているのにくらべ、 「私たち自身何があるか」と問いかけて、日本や諸 外国の研究のほかなによりも自国の政治・経済・文 化・内戦と「処刑」など社会の現実を研究して新し い興国史を編み出して「戦いの号令」「活路」にし ようと呼びかけたのである('31 年 11 月 30 日付 「文芸新聞」 、 「集外集拾遺補編」 )。 しかし、この日中友好論は上海事変の戦時を体験 して深化せざるを得なかった。1 年後、魯迅が病気 の母親をお見舞いすべく北京を訪れたさい、北京輔 仁大学で学生に向けた講演の内容を検討する(「今 春の感想二つ」、'32 年 11 月 30 日付北京『世界日 報』 、「集外集拾遺」 )。 その講演のなかで、魯迅は抗日十人団や学生軍の 抗日活動をとりあげ、中国はバッジや訓練服を看板 に満足して「ふまじめ」なのに、日本軍は「まじ め」にそれらを抗日の証拠として受け取るから「ど うしたってひどい目にあう」と両者の「気質の違 い」を問題にした。 1 年前に声高に主張した「見習うだけの価値」は もはや影をひそめ、集団としての「気質の違い」に 注意をうながしているところに、上海事変で多数の 生命を犠牲にし体験したことから魯迅の得た「教 訓」があるように思われる。 魯迅は満州事変が起きた直後、雑文「『民族主義 文学』の任務と運命」では日本の勇士たちも中華の 勇士たちも一致して「日支親善」とか「友誼」と主 張するが、事実と口先では一致せず、主人と奴隷が はたして「共存共栄」できるかどうかは「瀬戸際」 だと疑問を投げかけていた。しかし今や事態は明白 となった。 魯迅の思いはその後折に触れて、①旧体詩の揮毫、 ②日本の雜誌に発表した日本語の文章、③日本から 訪ねてきた有名人との対話を通じて対日メッセージ を送ることになった。 3. 魯迅の日中友好観と対日メッセージ 排日・抗日の気運 上海は満州事変の直後から、排日・抗日運動がさ かんに展開された。'31 年 9 月、上海抗日救国連合会 の結成大会では①軍事動員で日本を駆逐する、②総 工会と失業者で救国義勇軍をつくる、③日本からの 水害慰問品を返還する、④対日経済断行を実施する など 4 項目の政府要求を採択した。荷役からはじま って郵便・水道・電気・紡績・皮革などの労働組合 がストライキに突入し、12 月南京で政府に対日軍事 行動をうながす 3 万人の学生デモが敢行され弾圧さ れて多数の死傷者を出す事件がおきるなど抗日運動 は広がりをみせた。 10 月対日経済断交が実施され、違反者は懲戒処分 とされ、さらに重大な違反者は「漢奸」として極刑 に処されることになった。急速に日本商品に対する 不買運動が広まり、上海の銀行家協会は日本人との 取引をいっさい断つことを決めた。年末には上海に おける輸入総額中日本商品の割合は前年の 29%から わずか 3%に落ち込んでしまった。在華紡はストラ イキによる操業停止がつづき、約 90%が閉鎖となっ た。このなかで、内山完造らが開いていた日本語学 校も閉鎖の憂き目にあっている。 旧体詩の揮毫 開戦後、魯迅は多くの日本人に旧体詩の書を揮毫 して贈っているが、そのなかで 32 年 7 月山本初枝 あてと、33 年 6 月西村真琴あての旧体詩を取り上 げる。いずれも上海事変を題材にして魯迅の思いが こめられている。 山本あての旧体詩 2 つだが、ここでは「一・二八 戦後に作る」と題された作品をとりあげる。この詩 は、『集外集拾遺』におさめられている。 戦雲暫斂残春在 重礟清歌両寂然 日中友好観と対日メッセージ 満州事変が拡大し、日本が吉林と遼寧を占領する - 46- Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service 『プロレタリア文学』『朝日新聞』『文芸』のほか単 行本の序文として 33 年以降に発表されたものであ る。本稿と関連する文章を取り上げ検討する。 「同志小林の死を聞いて」は、33 年 2 月プロレ タリア作家小林多喜二虐殺の報道に接して書かれた ものである(「プロレタリア文学」33 年第 4・5 合 併号、中国 81 年版『魯迅全集 8』「集外集拾遺補 編」)。従来は魯迅の作かどうか未詳とか、胡風から 受け取ったとする江口渙と、内山書店を通じて送ら れ藤枝丈夫が翻訳したとする山田清三郎との証言に くい違いがあるとの解説もあった(岩波版『魯迅選 集』第 12 巻) 。 大意は次の通り。日中両国の大衆はもともと兄弟 なのに、資産階級に欺かれて敵味方に分かれて血を 流しあっているが、無産階級とその先駆者は自らの 血を流してその境界線を洗い流そうとしている。小 林多喜二の死はそのことを実証した。 「内山完造作『生ける支那の姿』序」では「自分 の考えでは日本と支那との間はきっと相互にはっき りと了解する日が来ると思ふ。昨今新聞には又盛ん に『親善』とか『提携』とか書き立てて居るが、来 年になったら又どんな文字をならべるか知らんけれ ども、兎に角今は其時でないのである」ときっぱり と政府レベルの動きを批判している。 35 年1月、広田弘毅外相の 3 原則演説で反日運 動の取締り、経済提携、日華親善を提案すると、こ れに応えて 2 月排日運動の厳禁を訓令するなど日本 の対中侵略を容認する蒋介石の融和的な動きがでて きた。そのことに一石を投じたものである。 「私は人をだましたい」では、「遠からず支那で は排日即ち国賊、と云ふのは共産党が排日のスロー ガンを利用して支那を滅亡させるのだと云って、あ らゆる処の断頭台上にも×××を仄して見せる程の 神前になるだらうが、併しかうなってもまだ本当の 心の見える時ではない」と一歩踏み込んで書いてい る。×××の部分は「日章旗」の伏字である。この 文章は「終りに臨んで血で個人の予感を書添へて御 礼とします」と結ばれている。この時点では、国民 党と中国共産党の抗日民族統一戦線は見通すことが できなかったのである。 我亦無詩送帰棹 但従心底祝平安 大意は次のとおり。 戦雲しばらくやんで 残春あり 重砲と清歌と ふたつながら寂然たり 我もまた 詩の帰棹を送る無し ただ心の底から 平安を祈るのみ 事変のさなか避難生活をともにした山本に対する 送別の詩には、日中の相克という悲しむべき事態の 中で、歌うべき言葉をもたぬという魯迅の思いが率 直にこめられている。 西村あての旧体詩「三義塔に題す」は上海事変の さなかに持ち帰った鳩をめぐる物語に題詠を求めら れて作った。 奔 霆飛熛 殲人子 敗井頽垣@餓鳩 偶値大心離火宅 終遺高塔念瀛州 精禽夢覚仍銜石 闘士誠堅共抗流 度尽劫波兄弟在 相逢一笑泯恩讐 大意は次のとおり。 雨あられと銃弾砲弾が降って 人の子を殲し 崩れ落ちた人家に 飢えて飛べない鳩が残さ れた たまたま大心にあい 火宅を離れ ついに高い塔を遺して 瀛州(えいしゅう、日 本のこと)をおもう 精禽 夢覚めて なお石を銜み 闘士 誠を堅くして 共に流れに抗す 劫波を度り尽して 兄弟在り 相逢うて一笑すれば 恩讐滅ぶ 持ち帰った中国の鳩と日本の鳩との間に小鳩をも うけたら平和の鳩として上海に送ろうと念願してい たが中国の鳩が死んだためこの思いを果たせなかっ た。そこで西村が鳩の絵に和歌一首を添えて送って きて、魯迅に題詠を求めてきたのである。和歌は次 の通り。 西東国こそ異へ小鳩等は親善(したしみ)あへり 一つ巣箱に 西村が鳩に寄せた愛護の気持ちと日中友好を願う 善意を「大心」ととらえ、魯迅は双方の間に横たわ る「劫波」(大梵天の 1 日の長さ、人間の 43 億 3 千 2 百万年にあたる)にたとえらるような懸隔を「精 禽」や「闘士」になって何時の日か渡りきって行く と目も眩むような規模で返したのである。 魯迅は、上海事変後、日中間には「劫波」とたと えられる深い深淵が隔たってしまったと認識し始め たことはまちがいない。 日本から訪ねてきた有名人との対話から 魯迅の文壇的な名声が上がってくると、日本の新 聞社や出版社が魯迅と日本の作家や文化人を対談さ せる企画をするようになった。その仲介をしたのは 内山書店であり、内山完造であった。開戦後に会見 した作家・文化人には林芙美子('32 年) 、木村毅、 井上紅梅('33 年)、賀川豊彦、鈴木大拙('34 年)、 野口米次郎、長与善郎('35 年)、横光利一、武者小 路実篤(36 年)などの「有名人」がいた。 このなかで魯迅と野口米次郎の対談をとりあげて おく。東京朝日新聞の企画で、'35 年 10 月 21 日上 海郊外の六三園で行われた。野口はカルカッタ大学 の招聘を受けて日本の文学、美術について講演をす る旅行の途上であった。野口の「魯迅と語る」が朝 日本の雜誌に発表した日本語の文章 魯迅には日本語で書いた文章 15 編(うち談話 3 編)がある。4 編は藤原鎌足編集の日本語誌『北京 周報』に 23 年に掲載されたもの、11 編は『改造』 - 47 October, 2002 - 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 日'35 年 11 月 21 日付に掲載された。魯迅はその文章 について「野口様ノ文章ハ僕ノ云フタ全体ヲカイテ 居ナイ、書イタ部分モ発表ノ為メカ、ソノマゝ書イ テ居ナイ」と増田渉あての手紙('36 年 2 月 3 日)に 感想を書き送った。 野口の書いた対談記事では、魯迅は日本人に中国 理解がないと断言したことを紹介しながら、日本と 中国の孔子に対する扱い方、魯迅に対する国民党政 府の言論抑圧、お互いが相手に対する認知などを語 り合い、最後に野口が中国の植民地統治を進言した のに対して、魯迅が反発して打ち切りになってしま っと書かれている。その場のやり取りはつぎのよう であった。 野口「インドにおけるイギリス人のやうに、どこ かの国を家政婦のやうに雇って国を治めてもらった ら、一般民衆はもっと幸福かも知れない。」 魯迅「どうせ搾取されるなら外国人より自国人にさ れたい。詰り他人に財産を取られるより自分の倅に 使はれた方がいいやうに……詰り感情問題になって 来ます。」 対談のなかでとりあげられたテーマは野口が書い たとおりだったであろうが、内容的には魯迅がそん なことを言うはずもない箇所も指摘できる。自らの 文学への転進を留学を終えて帰国後と語ったとする 部分などである。この点は仙台医学専門学校在学中 の幻灯事件にであってからという魯迅が生涯崩さな いで貫いた言い方に照らしても野口の聞き違いとし か言いようがない。 同席した内山は後にこの対談の内容を中国の将来、 日中関係、そしてこの場面のやりとりを 3 点にまと めN氏とL氏の「詩の対話」として「只だ恍惚と聴 いた」と書いている。 この点に関連して、「ドストエーフスキイのこ と」のなかで圧迫される者の「虚偽」は圧迫者に対 しては「徳」であると書いた一節を取り上げて、一 歩踏み込んだ解説をしていることに注目しなければ ならない。 「非圧迫者は圧迫者に対して、奴隷でなくて、敵 である、決して友人とは成り得ない、だから相互の 道徳は決して同じでない」(「且介亭雑文二集、後 記」、35 年年末から 36 年年始にかけて)。 満州事変の直後には、圧迫者と圧迫される者を主 人と奴隷ととらえ「共存共栄できるか」と苦悶して いるかにみえたが、この時点では両者は敵対関係に あると発展させている。 4. 最後の漫談会 魯迅は約 9 年間に 400 回ほど内山書店を訪れてい るという。内山書店では片隅に茶席をもうけ、お客 さんの座談の場に供していた。魯迅はその場所を好 み、毎回のように座談にふけっていたという。 亡くなる 2 日前、魯迅は久しぶりに内山書店を訪 れて、居合わせた日本人たちと漫談ならぬ時局談義 にふけった。その場に居合わせたのは上海総領事館 チームと野球の親善試合を終えて引揚げる上海記者 団チームのメンバーたちなどであった。 たまたま魯迅を見かけた奥田杏花も加わった。そ の回想文によると、魯迅は日中関係は近く衝突がお きそうだと悲観的な予感を語り、続けて中日親善の 見通しについては中国の軍備が日本軍備の水準に達 したとき初めて実現できる、これはひ弱な子供とき かん坊な子供が仲良く遊ぶようになるのはひ弱な子 供が強くなるしかないのと同じだと語ったという。 5. 魯迅の死因をめぐる疑惑 須藤医師の病状経過報告から 魯迅は'36 年 10 月 19 日早朝 5 時 25 分に亡くなっ た。残された魯迅の遺族と親族たちは、その死因を めぐって主治医の須藤五百三が「謀殺したのではな いか」とか、「治療の手遅れがあったのではない か」という疑惑を持ち続けていた。 須藤医師の「魯迅先生の病状経過」には、'36 年 3 月から死亡に至るまでの病状が記録されている。 それをまとめると 3 月肺結核の末期症状としての喘 息症状でる、5 月 37、8 度の発熱が続く、5 月トー マス・ダン医師の往診をうける、6 月福民病院の松 井勝冬医師により胸部のX線撮影をうける、7 月体 重が 37.8 キロを記録、10 月にはいり体重が増え回 復に向かうも同月 18 日喘息の発作が始まり気胸を 起こし、19 日午前 5 時 20 分心臓麻痺を起こし絶命。 許広平と周建人のもった疑惑 許広平は須藤医師の治療経過報告と実際の治療に あわないところがあるという疑問を早くからもって いたようである。 周建人は'49 年 7 月北京から上海にいる許広平に あてて、魯迅が死んだとき須藤医師による「謀殺」 か「治療の手遅れ」が原因だという疑いの声があっ たと言い、上海解放のいま須藤医師が上海にいるか どうか探しだして取り調べようと提案していた。 戦後、'53 年内山完造が引揚者の受け取りに中国 に行って許広平にあったとき、この話を聴かされて 内山は即座にそんなことはないと強く否定したとい う。 胸部X線の検討から '48 年後、'84 年魯迅胸部X線写真フィルムを複製 するとともに、2 月専門家による検討会が行われ、 その後 7 月鑑定書をつくった。それによると「専門 家は一致して①慢性気管支炎、重症の肺気腫と肺大 皮包、②両方の肺の上中部の慢性肺結核病、③右側 の結核性滲出性胸膜炎を指摘した。亡くなる直前の 病状記録からも、魯迅の死因は上述の疾病をもとに した左側の自発性気胸と認める」とあり、須藤医師 の診断と根本矛盾はないと評価が下された。魯迅の 死因に須藤医師の責任を問うなどは根拠がないと断 定されたのである。 6. まとめ 21 世紀に時代は進み、日中両国の国交回復が実 - 48- Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service 現して 30 年が過ぎた。この間、両国の政治、経済、 学術文化、人事交流などは飛躍的に拡大発展を遂げ たが、その華々しさの陰というか深部のところでは 魯迅が野口に語った「感情問題」がひっそりと生き 続けている。戦争加害者の側から被害者に対する謝 罪や侵略の認識が故意に遅らされてきたため、日本 の側に戦争の記憶をよみがえらせるような言動がで てくると中国側(だけでなくその他の戦争被害国) に反発と批判の感情が社会的に広がる。 魯迅ほど日本人に親しまれている作家にして、そ の死因をめぐっていまだに疑惑がとけないのである。 2001 年 5 月魯迅の子息周海嬰が改めてこの疑惑に言 及したのは歴史教科書問題に触発されたからとされ ている(河北新報'01 年 5 月 16 日) 。 日中両国の国民どおしが侵略戦争の歴史認識をめ ぐって折り合いをつけることなくして日中友好関係 のゆるぎない基盤をつくることはできない。このこ とを指摘して本稿を閉じる。 1972.11 17) 「太平洋戦争史1 満州事変」青木書店、1971. 11 18) 江口圭一「十五年戦争の開幕 ●満州事変の開 幕から二・二六事件へ」小学館文庫、1988.9 18) 千葉光則秘蔵写真で知る近代日本の歴史[3]「満 州事変」フットワーク出版社、1991.12 19) 三野正洋「わかりやすい日中戦争」光人社、 1998. 3 20) 臼井勝美「新版 日中戦争」中公新書、2000.4 21) 「魯迅先生紀念集」上海書店復刊、1979.12 22) 「魯迅日文作品集」上海文芸出版社、再版、 1993 23) 「青木文庫「魯迅選集」第 1~第 5 巻、三刷版、 1972.11 24) 「魯迅選集」第 1~13 巻、岩波書店、改訂版第 2 刷、1966.9 25) 「魯迅全集」81 年版第 1~16 巻、人民文学出 版社、1981 26) 「魯迅生平史料匯編』第 5 輯上下、天津人民出 版社、1986.5 27) 「魯迅と日本 魯迅生誕 110 周年仙台記念祭展 示図録」1992.9 28) 「ドキュメント昭和世界への登場 2 上海共同 租界 事変前夜」角川書店、1986.5 29) 高田淳「魯迅詩話」中公新書、1971.4 30) 飯倉照平「魯迅」講談社、1980.11 31) 伊藤虎丸「魯迅と日本人 アジアの近代と 「個」の思想」朝日選書、1983.4 32) 丸尾常喜「魯迅 花のため腐草となる」集英社、 1985.5 33) 「近代文学における日本と中国」汲古書院、 1986.10 34) 奥田杏花「死ぬ二日前の魯迅さん」週刊朝日、 1936.11.8 号 35) 内山完造「魯迅さん」 、図書、1960.2 月号 36) 渡邊襄「魯迅と日高清磨嵯」季刊中国、No. 17、1989 年夏季号 37) 泉彪之助「魯迅の胸部X線写真」日本医事新報、 No. 3034、1983.5.19 38) 泉彪之助「魯迅と二人の医師」日本医事新報、 No. 3346、1988.6.11 39) 渡辺新一「「魯迅日記』中の空白の一日」 、中央 大学論集第 12 号、1991.3 参考文献 1) 許広平「魯迅回想録」松井博光訳、筑摩書房、 1968.9 2) 許広平「暗い夜の記録」安藤彦太郎訳、岩波新書、 1959.4、第 4 刷 3) 周建人「回憶大哥魯迅」上海教育出版社、2001.9 4) 周海嬰「魯迅与我七十年」中国・南海出版公司、 2001.9 5) 内山完造、 「魯迅の思い出」社会思想社、1979.9 6) 陳漱渝「日本讀者対于魯迅死因的看法」 、「魯迅史 実求真録」湖南文芸出版社、1987.9 7) 「魯迅研究年刊 1984」陝西人民出版社、1985.6 8) 「魯迅研究資料」1992 年 2 月号、文物出版社、 1977. 11 9) 「上海魯迅研究 7」百家出版社、1996.10 10) 許寿裳「亡友魯迅印象記」人民文学出版社、 1977 11) 周国偉、彭暁「尋訪魯迅在上海的足跡」上海教 育出版社、1987.8 12) 「中国近現代史」上、東京大学出版社、1982.6 13) 姫田光義「第 6 章世界恐慌と中国」の第 1 節か ら第 4 節まで 14) 「入門 中国の歴史」中国初級中学歴史教科書、 明石書店、2001.11 15) 王瑤「現代中国文学講義 第二分冊 左翼作家 連盟の十年」実藤恵秀ほか訳、河出書房、1955. 11 16) 嬰秋白「魯迅雑感選集の序」 、 「魯迅選集 第 3 巻 随感録 北京通信」第 3 刷、青木文庫、 - 49 October, 2002 (本稿は第 8 回研究会での報告に加筆しまとめたも のである) - 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 日本の医学医療界の戦争責任の構造 西山勝夫 滋賀医大予防医学講座 The Outline of War Responsibility related to the Japanese Medicine Katsuo NISHIYAMA Department of Preventive Medicine, Shiga University of Medical Science キーワード Keywords: 戦争犯罪 war crime、戦争法規 war regulations、医の倫理 medical ethics、国際法 international law、史実 historical fact 学 50 年史(1967)がふれている例(莇、2000)を 除いて、関係する医学医療界がかかわった史実とし て公式に認知したものは皆無に等しい。 本研究会第 2 回総会(2001.6.16)で採択された「今 後の研究会の運営について」は、研究会が当面重視 する課題として、 ・日本病理学会、日本細菌学会、日本産業衛生学会、 日本民族衛生学会、日本精神神経学会等と 15 年戦 争との関係 ・15 年戦争における日本医学会、日本医師会、日 本歯科学会、日本薬剤師学会、日本看護協会等の役 割について ・日本赤十字社と 15 年戦争、軍医学校、軍医団学 会と 15 年戦争 ・731 部隊、伝染病研究所、九大生体解剖事件 ・最近の自衛隊の医学・医療研究の方向の分析 ・「15 年戦争と医学・医療」に関係した経験や文 書・記録の収集 ・各都道府県の医師会史等の分析 ・国際協力、国外の資料・証言の収集 などをあげている。 中塚(2000)は「15 年戦争」を考える視点につ いて論じているが、15 年戦争以前に日本は台湾を 侵略し台北帝国大学に、朝鮮を侵略し京城帝国大学 に医学部を設立したりしていることをみても、15 年戦争で侵略に日本の医学医療界が突然加担したと いうわけではないことは明らかだろう。 このように認知されるべき史実の解明に関して残 されて課題は多々ある。 1. はじめに 15 年戦争と日本の医学・医療研究会は、2000 年 6 月 17 日に設立されたので調度 3 年目を迎えた。 この間、研究(会)のあり方について、様々な議論が なされた。15 年戦争と日本の医学・医療に関する 研究課題として、戦争が日本の医学医療煮にどのよ うな影響を及ぼしたか、日本の医学・医療界には戦 争に関してどのような責任があるか、責任があると すれば責任をとるということはどういうことかを解 明することがあげられてきた。 昭和天皇が免責され、天皇を中心とした侵略戦争 推進、戦争犯罪の全容が十分に解明されないまま 21 世紀を迎えた。日本の侵略戦争により、アジア 諸国を初め各地に回復しがたい損害を受けたり、心 身の痛手に苦悩する人々、日本に謝罪と償い求める 人々がいること、侵略戦争であったことを認めよう とせず、謝罪や被害の償いをしない日本に対し平和 への脅威を感じ、侵略の不信を抱き、それに備えよ うとする国々や人々があることなどから、日本の戦 争責任問題は日本が国際社会で平和に共存していく ためにどうしても解決しなければならない問題であ る。これまでの国際法によれば、戦争犯罪に対する 処罰は個人に対して行われてきたが、既に 21 世紀 に入り、日本の侵略戦争、戦争犯罪に直接加担し、 その責任を問われるべき人々の多くは鬼籍に入り、 その責任問題を考えるとするならば、それは子孫の 問題となりつつある。 ところで、日本国家が 15 年戦争あるいは侵略戦 争、戦争犯罪を認め、謝罪し、補償すれば、日本の 医学医療界の責任問題、ことさらに論ずる必要はな いのであろうか。 本稿では、主にこの点に関して、本研究会会誌に 掲載された著述や研究会例会をもとに、日本の医 学・医療界の戦争責任を論じたい。 3. 責任の規準 3-1. 現代の規準に基づいた責任の検討 罪刑法定主義などに基づく遡及による裁き・認定 は許されないという論は国際法・国際倫理の発展を 見ない議論ということが戦争犯罪ではいわれてきた し、このことは医学医療の領域にも当てはまるだろ う。また、現代の医学医療界が直面している問題を いかに解決していくかという視点で、現代社会で公 認周知されている規準とのかかわりで検討したほう 2. 史実としての認知 本研究会では、さまざまな角度から、日本の医学 医療界の 15 年戦争へのかかわりが検討れてきた (別表)が、九州大学生体解剖事件について九州大 * 連絡先:〒520-2192 大津市瀬田月輪町 滋賀医科大学予防医学講座 Address: Department of Preventive Medicine, Shiga University of Medical Science Tsukinowacho, Seta, Otsu 520-2192 JAPAN E-mail: [email protected] - 50- Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service が実践的、生産的だろう。現代から遡って、「何が」 「いつから」「いかに」医学医療界の責任という形 で成立してきたかというかかわりで検討した方が、 これからの医学医療界にかかわる国際法・国際倫理 の発展にとっても有益だろう。 戦争違法化の歴史をみると、既に 19 世紀から戦 争行為の規制の国際法制定の努力が行われてきた。 1919 年のハーグ条約では、戦争の法規慣例違反と して、殺人と虐殺、組織的テロリズム、人質の殺害、 文民の拷問、文民の故意の餓死、強姦、強制売春の ための婦女の誘拐、文民の追放、劣悪な条件での文 民の監禁、敵の軍事作戦と関連した文民の強制労働、 軍事占領中の主権の侵害、被占領地域の住民中から の兵士の強制的募集、被占領地域の住民の国籍剥奪 の企て、略奪、財産の没収、違法なまたは法外な軍 税の取り立ておよび徴発、通貨の引き下げ及び偽造 通貨の発行、集団刑罰を科すこと、恣意的な荒廃と 財産の破壊などについて定められている。医学医療 界がかかわった史実の犯罪性についても、これらの 基準によって、認知、認定されるのは当然であろう。 3-2. 医学医療にかかわる罪 土屋(2002)は「日本軍が行った人体実験はなぜ 『悪い』のか・序論」で 以下のように論じている。 すなわち、 ①プロイセン宗教・教育・医療大臣「病院・外来 診療所その他の医療施設長に対する命令」、プロイ セン宗教・教育・医療大臣「病院・外来診療所その 他の医療施設長に対する命令」(1900) ②ドイツ保健評議会「新治療法および人間に対す る科学的実験の実施に関する指針」(1931) ③ニュルンベルク・コード(1947) ④ヘルシンキ宣言:ヒトを対象とする医学研究の 倫理的原則(1964、最新版2000) を実定的な法のようにみなして、日本軍が行った人 体実験が基準に違反していることを根拠に法的制裁 を科すことはできない。しかし、これらの内容は人 間を対象に実験的治療や科学的実験を行わざるを得 ないという、医療および近代医学の本質的要請に対 応して作られたものである。したがって、これらの 基準は、単なる実定法的な意義だけではなく、時代 や地域を超えた自然法的な普遍性を持っている。プ ロイセンの大臣命令とドイツの1931年指針は、15年 戦争期の医学が、これらの基準が適用される段階に 達していたと述べている。 この考え方は「罪刑法定主義」「事後法」だから といって、人道と平和にそむく世界戦争の責任者が なんの罪にも問われないとすれば、そのほうがむし ろ 重 大で ある と する 現代 の 戦争 犯罪 観 (藤 田、 1995)と相通ずる。ところで、ドイツ医学を範とし てきた、当時の日本の医学界はプロイセンの命令や 指針を学んだのだろうか。このことも検討すべき問 題だろう。 3-3. 現代の戦争犯罪観 今日では、戦争犯罪は、平和に対する罪、戦争犯 October, 2002 罪(戦争ルール違反の罪) 、人道に反する罪、国際 軍事法廷によって有罪とされた犯罪集団および組織 の成員であることの4つに分類され、現在も問題を 含みつつ発展している。これらの罪は批准などの国 内手続きの有無に関わらず、国際法、国際倫理が優 先するという規範が確立してきたのが世界史の流れ である。 医学医療の罪を考える場合にも当然現代の医学医 療の倫理観とその展開を理解しておく必要がある。 戦争であるかないかに関わらず、侵略であるかない かに関わらず医療人、医学医療組織に求められる国 際法、慣行、倫理の視点から検討されねばならない であろう。 前述の九州大学 50 年史は九州大学生体解剖事件 に関する「許されざる『世紀のメス』が捕虜を徒殺 したものでなかったにせよ、この手術に関する記録 は全く残っておらず、結果として単なる戦争医学の 汚辱にしかなっていない」という記述は、ニュルン ベルク・コード(1947)、ヘルシンキ宣言(1964) 後のことであり、実定法的にも明らかに問題であり、 生体解剖を肯定しているのではないかとすら思わせ るという莇の批判(2002)は当然であろう。 3-4. 現代の医学医療の倫理観 3-4-1. 医の倫理 日本医師会は 2000 年になってようやく「医学お よび医療は、病める人の治療はもとより、人びとの 健康の維持もしくは増進を図るもので、医師は責任 の重大性を認識し、人類愛を基にすべての人に奉仕 するものである」ことを趣旨とする医の倫理綱領 (定例代議員会)を定めたが、戦後日本が何かと範 にしてきた米国では 1980 年に米国医師会・医の倫 理原則が定められている。しかし、世界医師会はも っと早く、ジュネーブ宣言(1948 年 9 月、第 2 回 世界医師会総会)や、下記のような医の倫理の国際 綱領を定めている(1949 年 10 月、第 3 回世界医師 会総会で採択、1968 年 8 月、1983 年 10 月絵会で 修正) 。 医師の一般的な義務 ・医師は、常に専門職としての行為の最高の水準を維持 しなければならない。 ・医師は、患者の立場に立って、営利に影響されること なく、自由にかつ独立して専門職としての行為を行うべ きである。 ・医師は、すべての医療行為において、人間の尊厳に対 する共感と尊敬の念をもって、十分な技術的・道徳的独 立性により、適切な医療の提供に献身すべきである。 ・医師は、患者や同僚医師を誠実に扱い、人格や能力に 欠陥があったり、欺まん、またはごまかしをするような 医師の摘発に努めるべきである。 次の行為は、反倫理的行為とみなされる。 a) 自国の法律及び医師会の医の倫理基準に認められて いる以外の、医師による自己宣伝・広告になるような行 為 b) 患者の紹介や、患者をなんらかの機関に斡旋したり、 紹介したりするだけのために金銭やその他の報酬を授受 すること。 - 51 - 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 ・医師は、患者、同僚医師、他の医療従事者の権利を尊 重し、そして患者の信頼を守るべきである。 ・医師は、患者の身体的及び精神的な状態を弱める影響 をもつ可能性のある医療に際しては、患 者の利益のため にのみ行動すべきである。 ・医師は、発見や新しい技術や、非専門職関係による治 療に対しては、非常に慎重であるべきである。 ・ 医師は、自らが検証したものについてのみ、保証すべ きである。 病人に対する医師の義務 ・医師は、常に人命保護の責務を心に銘記すべきである。 ・医師は、患者に対し誠実を尽くし、自己の全技能を注 ぐべきである。診療や治療に当り、自己の能力が及ばな いと思うときは、必要な能力のある他の医師に依頼する よう努めるべきである。 ・医師は、患者について知り得たすべての秘密は、患者 の死後においても絶対に守るべきである。 ・医師は、他の医師が進んで緊急医療を行なうことがで きないと確信する場合には、人道主義の 立場から緊急医 療を行なうべきである。 医師相互の義務 ・医師は、同僚医師が自分に対してとってもらいたいの と同じような態度を、同僚医師に対してとるべきである。 ・医師は、同僚医師の患者を引き抜くべきではない。 ・医師は、世界医師会が承認した「ジュネーブ宣言」の 趣旨を守るべきである。 (以上日本医師会訳) ここにもられた多くの国際的合意が第 2 次世界 大戦後わずか 3、4 年の間に成立したと考えるより はやはり医学医療の国際的経験の蓄積・慣行が明文 化された、また、2000 年の修正が最終的なもので はなく今後も国際的な合意の発展・展開により改正 されるであろうと考えるほうが自然であることはヒ ポクラテスの誓詞に遡るまでもなく明らかだろう。 医学医療の普遍的社会機能を戦争との関連で言及 したものとして、古くは武力紛争下で救護のために 働く人や施設を攻撃しないという国際的な約束をし た国際赤十字条約(ジュネーブ条約)がある。最初 の条約は 1864 年に成立し、188 ヶ国が加盟してい る(1999.8.1 現在)。これは、現在、次の四つの条 約と二つの追加議定書でなりたっている。 1. (陸の条約)陸の上で戦って傷ついた兵士を助 ける。 2. (海の条約)海の上で戦って傷ついた兵士を助 ける。 3. (捕虜の条約)敵につかまった兵士を守る。 4. (文民の条約)戦いに直接参加しない一般の人 たちを守る。 (以下日本未批准) 5. (第 1 追加議定書)国と国の武力紛争(民族独 立戦争を含む)の犠牲者を守る。 6. (第 2 追加議定書)内戦の犠牲者を守る。 日本の医学医療界はこのような条約に準じて戦争 に対処したかどうか問われるのは当然であろう。 療・看護に直結しない医学的研究については、今日 ではヘルシンキ宣言は欠かせないが、2000 年の修 正においても紆余曲折を経ており、今後も改正が試 みられるだろう。 4. 医学医療界の罪と戦争責任、戦争犯罪の一般論 の枠組みとの関連 4-1. 医学医療の領域の専門性の歴史 医学医療の活動・社会的機能の特徴のひとつは、 医師(看護婦、現在では看護師)以外は「医師」 (看護婦)という名称を用いられない特別な資格あ る者にのみ、人体を傷つけるような行為が疾病治療 のために、上述した規範のもとで社会から負託され ていることであろう。このようなもとで医学医療界 の人々は医学医療情報などと関連・付随して一般の 人々に比べてより多く・より詳しく内外の情勢(戦 況などを含む)を知ることができるであろう。 以上のような枠組みで、別表に示されたような 個々の事項について、①医学医療界や医療人のかか わりの事実の認知、②罪の有無・内容・程度の認定、 ③それはどのような状況・過程(歴史的)で起こっ たか、被害の性質と程度、類似発生の有無、責任の 所在、謝罪・償い・罰・処置のあり方など責任のと り方、再発防止の計画・実行・点検などの解明・説 明がなされねばならないだろう。 4-2. 個人責任(指導者・部下の立場) 医学界医療界のトップにあったものの指導者責任 は以上で尽きると思われるが、その下にあった者に はいわゆる上官命令の抗弁で責任を免れることがで きるだろうか。 日本は、絶対主義的天皇制のもとで、教育勅語や 軍事勅諭を刷り込まれ、「上官の命令は朕の命令」 で神聖不可侵・絶対服従であったから自分には責任 がないなどという抗弁がある。 藤田(1995)は、一般に、戦争において、違反行 為は往々にして上官命令によって行われ部下は上官 命令に対する絶対的服従を求められ、「命ぜられた 行為が違法であることを知らなかった」あるいは 「知ることを合理的に期待されなかった」から無実 であるという抗弁、あるいは命令内容が犯罪行為で あること知っていた場合でも「従わなければ重大な 個人的被害を受けることを実感した」からという抗 弁などを認識と恐怖の両側面から捉えている。「軍 隊内の秩序罰の脅威は、未だ人道・人間性を蹂躙す る行為についての兵士の人間としての責任を免除す るものではないからである」という刑法学者佐伯の 結論を引用し、責任免除は、相手被害国の一般国民 の立場を無視することになると述べている。また、 ベトナム戦争におけるソンミ事件の例で、軍法の諸 点の全般にわたって情報をえていない最低の知性の 兵士でさえ、子供や無辜の市民を殺すことが戦争法 の最も基本的な原則に反するということを理解でき ないはずがないと抗弁が退けられた例を示している。 これに習うなら、医師等による上官命令の抗弁は 処罰の軽減について考慮されうるもの以上ではあり 3-4-2. 人体実験の普遍的な遵守条件 直接の医療を目的としない、あるいは患者の治 - 52- Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service えないし、「戦争だから仕方がなかった」などの抗 弁は責任免除の論外ではあろう。 4-3. 「15 年戦争と日本の医学医療」に関する戦後 の無反省(不作為、黙認、抗弁、容認、支持) 既に述べたように、第二次大戦後も戦争の違法性、 医の倫理に関する国際的な発展は不断になされてお り、反省の基準が戦前戦中のように見えない状況で もなかった。かって日本医学医療の範であったドイ ツの医学医療界の第二次大戦後の反省過程も日本に 知られていないわけではない。大阪保険医協会の戦 後 50 年決議のように戦後設立された日本の医師団 体の反省の取り組みもあり、国内的にも医学医療界 自身が取り組みうる機会がなかったわけではない。 医学医療界外の人々や被害者からの指弾も数えきれ なくあった。しかし、戦前戦中から絶えることなく 今日にいたっている医学医療界の様々の組織やその トップを担ってきた人々は、史実の認知すら試み進 めようとしない不作為、黙認、抗弁、容認、支持な どの態度や言動で無反省のまま 21 世紀を迎えた。 このこと自体が医の国際的倫理、たとえば「医師は、 患者や同僚医師を誠実に扱い、人格や能力に欠陥が あったり、欺まん、またはごまかしをするような医 師の摘発に努めるべきである」(前掲、世界医師会 の倫理綱領)という精神・規範にもとるだろう。 5. 結語 戦前戦中世代が引退し世を去っていく時代の責任 問題について、家永(1985)や高橋(1999)は、事 実を認め判断を下すことの必要性を説いているが、 それは日本の医学医療界にもまず第一に求められる べきことであろう。日本の医学医療界の実体は 2.で 例示したが必ずしも明解ではないが、日本医師会や 日本学術会議のような専門家のナショナルセンター 的組織機関や厚生労働省のような政府機関が果たす 包括的な指導的責任は必須であろう。認められた事 実に対する判断はさしあたって、現在の国際法や国 際倫理が基準とするのがよいであろう。そして、あ ってはならないことと判断された事実が、戦中の国 October, 2002 際法や国際倫理の段階ではいかに判断されるのかと 振りかえり、あってはならないことと判断されたこ とについての経緯を解き明かすことであろう。これ らについては、戦後長年わたって無反省であった経 緯についての解明も重要だろう。このような解明を 通じてえられる教訓が 21 世紀において、同じよう なことを繰り返す心配のない具体的な施策の立案を 可能とし、またその取り組み自体が施策の実施を醸 成するであろう。 その他に、医学医療界にかかわる罪として認定さ れた史実に関する謝罪や償いのあり方なども検討さ れねばならない。 15 年戦争と日本の医学医療研究会が発足した当 時は周辺事態法が問題になっていたが、今はアメリ カの戦争に日本が自動的に巻き込まれる危険のある 有事法制が問題になっている。有事法制に、国公立 病院の医師や看護師も有無をいわさず動員し、それ に反対する者は罰を受け、犯罪者にされてしまうこ となどが盛り込まれていることが医学医療界の人々 自身にどれだけ広く知らされているのだろうか。 「この道はいつか来た道」とならないようにする上 でも、上述のような取り組みは重要だろう。 参考文献 1) 莇昭三 15 年戦争と日本の医療、15 年戦争と医 学・医療研究会会誌、1(1)、1-17、2000 2) 家永三郎 戦争責任、岩波書店、1985 3) 高橋哲哉 戦後責任論、講談社、1995 4) 土屋貴志 日本軍が行った人体実験はなぜ「悪 い」のか・序論(下)、15 年戦争と医学・医療 研究会会誌 2(2)、30-39、2002 5) 中塚明 「15 年戦争」を考える視点、15 年戦争 と医学・医療研究会会誌 1(1)、46-49、2000 6) 藤田久一 戦争犯罪とは何か、岩波新書 380、 1995 (本稿は、2002 年 6 月 16 日、仙台にて開催された 第 8 回 15 年戦争と医学・医療研究会における一般 講演をまとめたものである。) - 53 - 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 別表 第3巻1号 2002 年 10 月 15 年戦争と医学・医療研究会会誌にみる日本医学医療界の罪(見出しは著者名と会誌の巻号をあらわす) *731 部隊・生体解剖・生体実験 ・莇 1(1) 戦前・戦後、黙認してきた医学界、軍医教育 ・門脇 1(1) 吉村寿人の罪、京都大学の人脈と責任、医学医療の倫理、戦後の日本生理学会誌論文を巡る責任、医科系大学 及び講座教室の戦争協力、戦後の大学の責任(兵庫県立医大、京都府立医大、神戸女子大、兵庫医大)、京都救世 会館公害研究所、叙勲 ・常石 1(2) 人体実験を猿の実験と偽る、人体実験は医学界においてほとんど誰もが知っていた・周知の事実であった、明 白な論文や思い出が戦後も医学雑誌に掲載された、医学者・医者の特権意識、人体実験は日常的営みであり特 別な行為でない、医者の職能は生死の判断であるはず(圧力に屈したのか、時流に乗ったのか、戦争を利用した のか)、戦後医学界の研究は 731 部隊などの「成果」とは無縁のところで進められたのか、日本社会全体として は日本医学界を信頼していない ・淵上 1(2) 吉村寿人の場合の戦争・罪・贖罪、「戦争だったんですよ。分からなければ勉強しなさい」寒気生理学・航空 生理学、1956 年北海道濤沸湖氷上耐寒訓練の医学上の指導、日本学術会議南極特別委員会(長谷川東大伝研所長、 戸田金沢大学長、北野政次委員、1956 年) ・竹内 2(1) 医師・医学者の戦争責任一 1 開業医の軌跡から、医学会・医師会・保険医協会、日本伝染病学会 ・土屋 2(1) 日本軍が 1930 年代初めから 1945 年にかけて中国の地で行った人体実験や生体解剖による虐殺が「悪い」こと であるといえる根拠を示そうとする、日本軍が行った人体実験(①手術の練習台にする、②病気に感染させる、 ③確立されていない治療法を試す、④極限状態における人体の変化や限界を知る。 ・湯浅 2(2) 中国の戦地陸軍病院での生体解剖(捕虜・住民を対象に部隊軍医の緊急手術教育・手術演習)、入院患者用の食糧 強奪、チフス菌を師団防疫給水部に送付、部落民強制連行・奴役、朝鮮婦女子を性奴隷にするための性病検査、 生体解剖・手術演習は北支軍全体で行っていた *医学医療の侵略戦争遂行体制の構築 ・莇 1(1) 軍医(団) ・陸軍軍医学校、大学医学部、医大、医専、医学研究所、病院、医師会、医学会、健民健兵政策・保 健所・厚生省設立 ・竹内 1(1) 侵略兵士の健康管理、従軍慰安婦(日本軍による性奴隷)の検黴・治療、731 部隊等への関与、要塞築造、戦闘指 揮 *断種・優生学 ・石原 1(1) 優生学・国民優生法・人口問題確立要項・妊産婦手帳、民族衛生学会 優生思想、国民優生法・優生保護法・母胎保護法、植民地皇民化 ・尾澤 1(2) ・尾澤 2(2) 妊産婦手帳(現行母子健康手帳) *後方支援 ・西山 1(1) 日本産業衛生学会:国内・侵略地における労働衛生 *侵略日本人の現地馴化・疾病対策 ・西山 1(1) 日本衛生学会 *医学医療組織・医師・医学者の戦争翼賛 ・莇 1(1) 全体、日本医師会・医学会 ・西山 1(1) 日本産業衛生学会、日本衛生学会 ・若田 2(1) 日本病理学会:軍陣医学・軍陣病理学、731 部隊との関係、精神障害者を対象とした研究 ・莇 2(1) 日本外科学会: 発表演題への影響、総会運営への影響、その他 ・藤野 2(1) ファシズム期の医療政策、ファシズム期と戦後見主主義期の連続性(国民優生法と優生保護法、花柳病予防法と 性病予防法、癩予防法とらい予防法) ・竹内 2(1) 医師・医学者の戦争責任-1 開業医の軌跡から ・莇 2(2) 日本内科学会: 学会運営、演説会発表演題への影響 *九州大学生体解剖事件 ・莇 1(1) 生体解剖の犯罪性、大学当局・医学部・職員の責任、戦後責任、「世紀のメス」「当時として権力に抗すること は不可能」 *日本国民の健康被害・疲弊困憊・医療の崩壊 ・莇 1(1) (1)身長縮み、体重が減少した子供たち(2)主食の欠配─「戦争浮腫」の多発、徴用労働の強化─健康被害の拡大 (3)蔓延する結核─死亡率は統計開始以来の最高値(4)伝染病の流行─明治時代に逆行(5)餓死させられた精神病院 の患者たち(6)軍から追い出された一般の入院患者(7)焼け出された入院患者─戦災による医療機関の消失 ・色部 1(2) 精神病院の実態 ・秋元 1(2) 精神障害者の被害、ナチス・ドイツの障害者抹殺、戦争に反対するということ ・飯島 2(1) 原爆攻撃、原爆被害者の救護と・医療、原爆被災・災害の調査研究 ・秋元 2(2) 治安維持法による拘禁精神病 ・前田 2(2) 治安維持法と無産者診療所、保健所・保健婦 *「15 年戦争と日本の医学医療」の無反省(不作為、黙認、抗弁、容認、支持) ・莇 1(1) 医学界全般、九州大学 ・西山 1(1) 日本産業衛生学会、日本衛生学会 ・門脇 1(1) 日本生理学会、大学(京都大学、兵庫県立医大、京都府立医大、神戸女子大、兵庫医大) ・中塚 1(1) 学術会議 ・淵上 1(2) 学術会議、大学、大学(京都大学、東京大学、金沢大学) ・若田 2(1) 日本病理学会 ・莇 2(1) 日本外科学会 ・竹内 2(1) 731 部隊員であった一医師の戦中・戦後の言行、医学会・医師会・保険医協会、日本伝染病学会、ドイツの医 師と医師会の場合、従軍慰安婦 ・竹内 2(2) 731 部隊員であった一医師の戦中・戦後の言行、新潟大学の医学博士学位授与 ・莇 2(2) 日本内科学会 - 54- Journal of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service October, 2002 15年戦争と日本の医学医療研究会会誌論文総目次 第 1 巻・第 1 号(創刊号)2000 年 11 月 十五年戦争と日本の医療 日本産業衛生学会および日本衛生学会の日本の侵略戦争へのかかわり 日本における近代戦争と出産の歴史 医学と戦争−通史的に 京都府立医大吉村寿人元学長と731部隊 十五年戦争下の軍医について 「15年戦争」を考える視点 莇 西山 石原 水野 門脇 竹内 中塚 昭三 勝夫 明子 洋 一郎 治一 明 1 18 25 34 39 44 46 第1巻・第2号 2001年5月 731部隊をどう捉えるか 国民優生法史 人口戦を支えた厚生運動 戦時下、一精神科医の軌跡 —精神病院と工場衛生課での仕事を帳して 戦争・罪・贖罪 —吉村寿人の場合— 15年戦争と精神障害者—「'96 平和のための戦争展・小平」での講演— 常石 尾澤 色部 淵上 秋元 敬一 彰宣 祐 輝夫 波留夫 1 4 10 14 20 第2巻・第1号 2001年10月 原爆と日本の医学 飯島 宗一 十五年戦争と日本病理学会:会誌にみる侵略戦争への荷担とその責任 若田 泰 十五年戦争と日本外科学会総会 莇 昭三 日本ファシズムと医療 藤野 豊 731部隊員であった一医師の戦中・戦後の言行より(医師・医学者の戦争責任) 竹内 治一、原 日本軍が行った人体実験は なぜ「悪い」のか・序論 土屋 貴志 第 2 巻・第 2 号 2002 年 5 月 戦地陸軍病院での生体解剖 湯浅 謙 治安維持法と拘禁性精神病 秋元 波留夫 731部隊員であった一医師の戦中・戦後の言行より(医師・医学者の戦争責任)(2) 竹内 治一、原 15年戦争と日本内科学会総会 莇 昭三 私の戦前・戦中の保健婦活動は何だったのか 前田 黎生 日本軍が行った人体実験は なぜ「悪い」のか・序論 (下) 土屋 貴志 妊産婦手帳(現行母子健康手帳)の人口戦史 尾澤 彰宣 第 3 巻・第 1 号 2002 年 10 月 15年戦争と私の青春時代-ちょっとかわった私の人生90年をかえりみて桑原 戸を叩かれる日本-滞日1年間の感想 @ 関東軍関連の陸軍病院について 竹内 広島共立病院での在韓被爆者渡日治療と在外被爆者支援の現状について 青木 15年戦争と東北帝国大学 一戸 15年戦争戦争末期における「東北1純農村の医学的分析」の評価をめぐって 中谷 魯迅と日中 15 年戦争 渡辺 医学医療界の責任の構造 西山 英武 志剛 治一 克明 富士雄 敏太郎 襄 勝夫 予告:第 10 回研究会および第 4 回会務総会 京都・同志社大学 2003年3月16日 - 55 - 1 14 32 40 文夫 43 53 1 4 文夫 10 15 22 30 40 1 8 12 18 24 38 42 50 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第3巻1号 2002 年 10 月 編集後記 今号の発行予定日は 2002 年 10 月 15 日でしたがやや遅れてしまいましたことを最初にお詫び申し上 げます。 東北大学で学び、恩師の大学院進学の勧めにのらないで民間企業に就職した田中耕一氏がノーベル 賞を受賞したという知らせが、本誌今号の第 8 回研究会特集の巻頭を飾る記念講演「15 年戦争と東北 帝国大学」編集中に入ってきた奇遇に驚きました。本研究会は発足以来、年 3 回の研究会のうち 1 回 は、東京、京都以外でということで、今年は刈田啓四郎会員のお世話により東北大学医学部でされ た。その際の記念講演をもとに一戸富士雄氏にご寄稿いただいたものである。本研究会では、医学関 係の学会については、産業衛生学会、衛生学会、病理学会、外科学会、内科学会を主題にした報告が なされたきたが、大学については今回が初めてで、非常に学ばされた。これが教訓となっていろいろ な大学のかかわりの解明が進められれば、と強く思いました。 今号も研究会特集のみであるが、第 7 回研究会のほうでは、「戦争の後遺症はまだ続く-黒龍江省か らみる 15 年戦争」報告の@(だ)志剛氏については中華人民共和国への帰国後の電子メールのやり取 りで、編集委員会で編集を一任される形で日本語で寄稿していただくことになった。不備について は、外国人の著作掲載は今号がはじめてで、不慣れな編集委員会に責任があるということでご容赦を お願いします。「妊産婦手帳(現行母子健康手帳)の人口戦史」は第 2 巻第 2 号掲載済、「ハンセン病 と小笠原登」が別の機会にとなりました。第 8 回研究会のほうでは、「仙台空襲時の医療」は他の学会 誌(岩倉政城「」医学評論)に掲載済、「軍医として、ビルマ敗軍戦に参加して」についてはお送りい ただいたという玉稿が編集委員会に届かず、控えのコピーもないということで掲載できないという残 念な事態となってしまいました。 このように新たなトラブルなどがあったにもかかわらず、何とか月内に発行できほっとしました。 ご寄稿いただいた著者の方々ありがとうございました。 ところで、第 8 回研究会開催直前に東北大学医学部で開催された幹事会では、日中国交正常化 30 周 年を記念して中華人民共和国の北京で 2002 年 11 月 3 日 6 日にわたって開催される日中医学大会 2002 年に幹事全員の連名で本研究会の活動を紹介する演題を提出しようということになりました。演題や 発表内容を準備する上で、会員以外の講師のご協力も得て会誌発行を継続できてきたことが大変役立 っています。懸念していました演題受理も滞りなく通知があり、莇昭三幹事長とともに北京行き・発 表の準備を進めているところです。皆様のお手元に今号が届く頃には北京で様々な交流の幕が開かれ ていることと思います。11 月 17 日の第 9 回研究会でその報告が無事できればと今は念じています。 本誌の発展のために、さらに多くの方々にご寄稿をいただくようお願いします。 (編集委員長 西山勝夫) 投稿規定 (2001 年 9 月 22 日幹事会) 会員の皆さんからの、論文・総説・随想・書評・資料解題などの積極的なご寄稿をお待ちしておりま す。その際には既刊号を参考にし、原稿には題目、キーワード、著者の氏名・肩書き・所属・連絡先住 所(以上は邦文、欧文)、電話・FAX・E-mail アドレスを記したものを先頭頁とし本文、参考文献を記し て下さい。2 万字以内を目安にレジュメ形式ではなく文章にして下さい。提出書式は、電子式の場合は A4 用紙に 12pt で印刷したもの及びフロッピーディスク(フォーマット形式、使用ワープロソフトの種 類・バージョンを記載の上)です。 手書きの場合は市販の 400 字詰原稿用紙に記入して下さい。なお図表はコピーしますので良質のもの をお願いします。当分は手作りですので電子文書での寄稿にご協力の程を願います。 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌編集委員会 委員長 西山 勝夫 (滋賀医科大学教授) 副委員長 水野 洋 (元大阪府立勤労者健康サービスセンター長) 委 員 門脇 一郎 (京都城南診療所医師) - 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