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東京ジャーミィ(2014.12.10)

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東京ジャーミィ(2014.12.10)
東京ジャーミィ(2014.12.10)
英語教室のディビッド先生に誘われて、小田急線「東北沢駅」の近くでエジプト料理を頂いた後、
歩いて「代々木上原駅」近くにある東京ジャーミィを訪れました(写真 1)。閑静な住宅街の一角に
突如として現れる異国の建物。ここが東京渋谷区かと一瞬思ってしまいます。アラビア語でジャ
ーミー(camii)とは、毎週金曜日に集団礼拝を行うための、大きなマスジッド(モスク)のことだそう
です。建物の横に在る説明書きに拠れば、ここは「東京に移住したカザントルコ人によって 1938
年に祈りの場としてオープンされ、1986 年に老朽化のため取り壊され、その後トルコ共和国宗教
庁ならびに東京モスクファンデーションによって再建された」ものだそうです。
イスラム教徒のための礼拝堂ですが、宗教に関係なく何方でも見学できるとのことで、写真2
の様なアーチ型の入口からお邪魔しました(但し、女性が中に入る時は、頭をスカーフで覆う事が
必要だそうで、スカーフは入口で貸して頂けます。) 中に入ると写真3の様に建物は中空(ドーム)
になっていて、シャンデリアが天井からつりさげられている以外は、華美なものは有りません。こ
こでメッカの方向に向かって額づいて礼拝します。イスラム教は、仏教やキリスト教と違い、仏像
やキリスト像を祀ると言うような偶像崇拝を禁じています。そのためかどうかは分かりませんが、
ステンドグラスから差し込む光が幻想的でした。その他にも写真4のような幾何学模様のデザイ
ンの皿が展示されていました。
トルコと言えば、親日的であることはテレビ放送等で知られている所ですが、そのきっかけとな
ったのが、御存知の様に、1890 (明治 23) 年和歌山県串本町沖で発生したオスマン帝国海軍の
エルトゥールル号遭難事件です。この船は木造フリゲート艦で、親善訪日使節団として明治天皇
に親書を奉献し、その帰途遭難(台風)に逢ったのです。この時に地元の人々が救出に当たった
が、乗務員約 600 のうち、500 名以上のトルコ人が遭難したと伝えられています。
異国情緒を訪ねに出かけては如何でしょうか。
(写真 1)
(写真2)
(写真3)
(写真4)
宮本三郎記念美術館(2014.11.19)
友人宅からの帰り道、宮本三郎記念美術館に立ち寄りました。ここは東急「自由が丘駅」から
歩いて 10 分程の閑静な住宅街に在り、世田谷美術館の分館として、旧宮本三郎アトリエ兼自宅
を公開しているものです。彼は洋画家として 1938 年に渡欧し、その翌年には第二次世界大戦勃
発のため帰国することとなりました。その後陸軍省の嘱託として藤田嗣治(つぐはる)、小磯良平
等とともに従軍画家として戦意を高揚・鼓舞する絵を描きました。今回の展示は、「従軍体験と戦
後の再出発」と題したものです。作品の中で特に知られているものは、「山下、パーシバル両司令
官会見図」で、これは 1942(昭和 17)年の第2回帝国芸術院賞を受け、御存知の方も多いと思い
ます。館内の説明書きに拠れば、宮本三郎は戦争画を描くことにそれ程抵抗感はなかったみた
いで、それ故生き生きとした描写が可能だったのかと思われます。
本絵は、1941 年 12 月 08 日、英国領マレー及びシンガポールへの日本軍の奇襲上陸及びそ
の後の降伏交渉を題材としたものです。その時作戦を指揮したのが陸軍大将であった山下奉文
(ともゆき)でした。彼は本作戦の勝利により国民的英雄となりましたが、戦争終結とともに米軍に
捕虜(後に戦犯)として捕えられ、フィリピン軍事裁判において絞首刑にされました。伝えによれば、
彼は処刑される前に懺悔の念を込めた遺言として、「新日本建設には、私達のような過去の遺物
に過ぎない職業軍人或は阿諛追従(あゆついしょう)せる無節操なる政治家、侵略戦争に合理的
基礎を与えんとした御用学者等を断じて参加させてはなりません。」と述べたと言われています。
組織から外され、支持するものの居ない個人となった元指導者の偽らざる言葉だったと思います
が、時代が経ると人間はまた元に戻る様です。
従軍画家であった藤田嗣治は、戦争協力に対する国内の批判に嫌気が差して日本を去ったと
言われています。宮本三郎はどうであったのでしょう。恐らく心の中で物凄い葛藤が在ったものと
思います。その後、彼は有名な「ヴィーナスの装い」を世に出しています。
六義園 (2014.11.10)
以前の天気予報では曇りから雨とのことでしたが、予想に違いて孟冬の行楽日和となりました。
高校時代の友人と東京メトロ南北線の駒込(こまごめ)駅で待ち合わせし、特別名勝の六義園(りく
ぎえん)に紅葉を訪ねてきました。ここは縁起に拠れば、元禄十五 (1702) 年に川越藩主であっ
た柳沢吉保(よしやす)が自らの設計で築造した回遊式築山泉水庭園(かいゆうしきつきやません
すいていえん)で、紀州和歌山の「和歌の浦」(わかのうら)を模したものと言われています。その後
時代が下り、明治に入って三菱の創業者である岩崎弥太郎の所有となり、昭和十三年に岩崎家
から東京市に寄贈・整備され、同年十月に公開の運びとなったと言われています。
内庭大門(ないていおおもん)を入って程無く、庭の入口の石に、篆書(てんしょ)で「六義園八景」
と書かれた石碑が有り、「若浦春曙、筑波陰霧、吟花夕照、東叡幽鐘、軒端山月、蘆邊水禽、紀
川涼風、士峰青雲」の八景の文字が見えます。
茶室に合わせて後代の人が作ったと思われる草の戸を入ると、刈り込んだ芝生の庭の先に広
い池が見え、妹背山(いもせやま)が有る中島が配置されています(写真1)。池には中国の伝説の
島である蓬莱島(ほうらいじま)や臥龍石(がりゅうせき)が配置され、気宇壮大さに入場者の目が
引付けられます。池の縁を暫く進むと、吹上茶屋があり、心静かに抹茶を御馳走(有料)になりまし
た。大名屋敷の庭園では主に黒松が植えられていますが、この茶屋の傍の松は太い赤松で、懸
崖にて池の中まで枝が伸びて、見事なものです。
茶屋を後に、歩みを進めると、比高 20 メートルは有ると思われる築山(つきやま:人工的に土を
盛った山)の藤代峠(ふじしろとうげ)が有り、そこから庭園を一望できます(写真2)。櫨(はぜ)の葉
が赤く紅葉していますが、もみじはまだ少し時期が早い様でした。ここは見事な枝垂桜(しだれざく
ら)が有る事でも有名です。それもそのはず、ここ駒込は桜の「染井吉野」の里でもあります。是非
足をお運びください。紅葉は11月の下旬から12月の上旬が見頃と思います。
(写真1)
(写真2)
小石川後楽園 (2014.11.10)
六義園から南北線を南に、後楽園駅で降り、東京ドームの隣の小石川後楽園へ紅葉を訪ねて
きました。御存知の様に小石川後楽園が在った場所は、その昔、水戸徳川家の中屋敷(後に上
屋敷)で、黄門様で有名な「光圀公」(みつくにこう)が住んでいました。
六義園と同様、ここ小石川後楽園は回遊式築山泉水庭園として、寛永六 (1629) 年に水戸徳
川家の祖、頼房公(よりふさこう)により造られ、光圀公の代に完成したと言われています。現在の
入口は南西角(写真1)に有りますが、元々の表門は南東に有り、屋敷の規模は東京ドームを含
めた広大なものであったようです。他の大名庭園と異なり、ここには現在では在りませんが唐門
を隔てて、内庭(うちのにわ)(写真 2 )と後庭(大きな庭)が二つ在り、流石、御三家に相応しい規模
を備えております。
入口から入りますと、先ず枝垂桜の大木が皆を迎えます。その後ろに大泉水(池)が中央に有
り(写真 3)、蓬莱島を配置して、作庭家の徳大寺左兵衛の名を冠した大きな徳大寺石が見えます
(写真 4)。ここは江戸から京都までの道中の名所を配置した作庭になって居り、琵琶湖や京都の
大堰川(おおいがわ)、木曽路等が出て来ます。紅葉はまだ早い様です。申し訳ないので、去年の
紅葉を写真 5 に掲載します。見頃は11月下旬から12月上旬です。是非足のお運びを。
(写真1)
(写真 3 )
(写真2)
(写真4)
(写真5)
慶應義塾大学三田校舎 (2014.08.18)
江戸時代の二ケ領用水の水騒動に関連して、傍証にする古文書がないものかとインターネッ
トで検索した際、武州橘樹郡木月村(ぶしゅうたちばなぐんきづきむら:現川崎市中原区木月)の
徳植家(とくうえけ)古文書が三田の慶応義塾大学文学部の古文書室で閲覧可能(2週間前の予
約要)とのことで、行って来ました。午後一時からの受付でしたので、少し時間が有り、キャンパス
を見学しました。言うまでも無く慶応義塾の前身は福沢諭吉氏により、安政 5 (1858) 年に創立さ
れた蘭学塾で、現在の中央区明石町に当たる築地鉄砲洲に有りました。その後、慶應4(1868)
年に現在の地に移り、年号を取って慶應義塾としたと言われています。
写真 1 は、昭和 44 年に重要文化財に指定された慶應義塾図書館(現旧図書館)で、義塾創立
50 周年を紀念した日本人の設計・制作による赤と白を基調とした洋風レンガ作りの建物です。流
石に独立自尊を校是とした福沢翁の考えが生きていることが分かります。
夏の陽光を遮った木立の庭に御影石の台座が有り、その上に若者の像が有ります(写真 2)。
台座には小泉信三先生の揮毫による「丘の上の平和なる日々に征て還らぬ人々を思ふ」の文が
有ります。その言葉は、先の大戦に学徒出陣で亡くなった学生を偲ぶとともに、多くの教職者の
「二度と学生を戦場に送らない」と言う自戒を込めた不戦の誓いでもあるのです。ブロンズの若者
は、集団的自衛権で紛糾している日本をどのように眺めているのでしょうか。「還らざる友よ 君
の志はわれらが胸に生き 君の足音はわれらの学び舎に 響き続けている」
慶應は多くの著名人を輩出しています。特に「三田文学」に象徴されるように、文学関係者が
多く、図書館の右手奥の小高く築山された場所に、劇作家、演出家、批評家で日本の演劇界の
革新にその半生を捧げたと言われる小山内薫(おさないかおる)の胸像が有ります(写真 3)。また
一般には秋刀魚(さんま)の歌で知られる佐藤春夫の、「殉情詩集」の「断章」の詩碑が有ります。
彼の揮毫によるものでしょうか綺麗な漢字かな交じりの詩です(写真 4)。「さ満よひ来れ者 秋草
の ひとつ残り亭 咲きに希里 おも可け 見えて 奈つ可し久 手折連は久る志 花散りぬ」(さ
まよひくれば あきくさの ひとつのこりて さきにけり おもかげ みえて なつかしく たおればく
るし はなちりぬ)。この他に久保田万太郎らの歌碑が有ります。そう言えば、小生が夢中で読ん
だ「断腸亭日乗」(だんちょうていにちじょう)の作者・永井荷風(かふう)も慶應の教授を務めていま
した。
さてさて、話は尽きませんが、古文書の件に戻りますと非常勤の担当者が資料を出してくれて
おりました。閲覧すると、その殆んどは宗門別悵、租税や金銭貸借に関する訴訟で、肝心の水騒
動に関するものは有りませんでした。日本では古文書のデジタルアーカイブ作業が遅れていて、
せめて目次だけでも作成し、公開してくれればと思うのですが、中々思う様に行かないものです。
(写真 1)
(写真 2)
(写真 4)
(写真 3)
秋を聴きに-殿ヶ谷戸庭園 (2014.08.11)
野分の風(台風 11 号)の過ぎた本日、JR 中央線国分寺駅の南側に位置する殿ヶ谷戸(とのが
やと)庭園に、秋を聴きに行ってきました。ここは 2011 年に国指定名勝となった都立庭園です。元
は三菱合資会社社員の江口定條(さだえ:後の南満州鉄道副総裁)が大正 2 年から別荘を構え、
赤坂の庭師仙石荘太郎の手により次郎弁天池(写真 1)を含めて作庭されたと言われています。
その後、三菱合資会社の経営者岩崎彦彌太(ひこやた:創業者彌太郎の孫)が昭和 4 年にこの別
荘を買取り、庭園建築として紅葉亭(こうようてい) (写真 2)を新築し、又、津田サク氏の作庭により
回遊式林泉庭園(かいゆうしきりんせんていえん)として庭園全体を充実させたと言われていま
す。
この地は、「国分寺崖線」(こくぶんじがいせん)と呼ばれる太古の多摩川が武蔵野台地を侵食
した河岸段丘で、この崖線は等々力渓谷に繋がっています。この河岸段丘の崖を上手く利用した
のがこの庭園です(写真 3)。又、崖線部分には湧水が見られ、ここにも東京都の名湧水があり、
写真 4 に目られるように水がとても綺麗で、この水は次郎弁天池に流れています。
ところで、本日の目的である「秋を聴きに」は何処へ行ってしまったのでしょうか。野分の風が
過ぎたとは言え、庭園の赤松や欅を吹く風は強く、まさに、「秋きぬと 目にはさやかに 見えねど
も 風の音にぞ 驚かれぬる」でした。まだ紅葉には時期が早い様です。(写真 5)
(写真 1)
(写真 2)
(写真 3)
(写真 4)
(写真 5)
伝法院 (2014.04.28)
高校時代の友人と浅草寺(せんそうじ)の伝法院(でんぽういん)を尋ねました。浅草寺門前は平
日に関わらず中学の修学旅行生でしょうか一杯居ましたし、ここ一年の円安の為でしょうか各国
からの旅行者が雷門をバックに大勢記念写真に納まっていました。ここ伝法院は、浅草寺の本坊
(僧正や住職の住む場所)として安永6(1777)年に創建され、元禄年間に現在の名称になったと言
われています。約 3,700 坪の庭園は寛永年間(1624~45)に小堀遠州によって築庭されたと伝え
られ、元禄年間に輪王寺宮家の直轄となり明治まで秘園とされ、一般には非公開でした。つい2
年前期間限定で、一般公開されました。流石に小堀遠州の手によるだけに「庭園の便(たよ)りお
かしく…」と言う事でしょうか、心和む空間でありました(写真 1)。ここで面白い先人の知恵を発見
しました。水面の段差を利用した落葉等を掻き集める工夫です(写真 2)。掻き集める水面の方(写
真の上方)を木堰により本池より若干低くして、重力により自然に水の流れを作って落葉を集めて
いるのです。小堀遠州がそれを目的として作庭しているとしたら天才ですが、小生にはもっと後世
の人の知恵の様に思われました。
(写真 1)
(写真 2)
旧安田庭園(2014.04.28)
伝法院(でんぽういん)から足を進めて旧安田庭園(きゅうやすだていえん)を尋ねました。両国
国技館の北側に位置する都心でありながら閑静な場所に有ります(写真 1)。ここはもと常陸国笠
間藩主本庄因幡守宗資により元禄年間(1688~1703)に築造された汐入回遊式庭園と伝えられ
ています。庭園の南西隅に隅田川の水を導き入れる汐入の堰が有り、汐の満ち干により水面が
上下して小島が水没したり現れたりする仕掛けになっています。浜離宮恩賜公園の庭園も同じ仕
掛けです。但し、墨田川の水質悪化により現在は汐入の堰が締め切られており、その代り、ポン
プにて汐の干満を人工的に作っているとのことです。明治維新後は、旧備前岡山藩主池田侯の
邸となり、次いで旧安田財閥の安田善次郎氏の所有となりました。氏の没後大正 11 年東京市に
寄附され、その後色々と整備されて、一般公開されています。天気が良かったので、雀達も気持
ち良く水浴びしていました(写真 2)。入場無料です。年金生活者の小生にとっては、有難い場所で
す。JR 総武線両国駅から歩いて5分位の所に有ります。是非、足をお運びを。
(写真 1)
(写真 2)
日比谷公園-伊達政宗終焉の地説明サイン除幕式 (2014.04.18)
日比谷公園の一角に嘗て伊達藩の上屋敷(外桜田上屋敷)が有り、仙台藩祖政宗公から忠宗
公、綱宗公の三代に亘り居住していたそうです。高校時代の友人に誘われて、「伊達政宗終焉の
地説明サイン除幕式」が公園の心字池の北側にて有るとのことで行って来ました。当日は寒の戻
りが来て寒い日で、しかも曇りがちのため参加者は関係者を含めて約 30~40 名程でした。関係
者の設置の説明・挨拶、伊達政宗公や支倉常長に扮した伊達武将隊(写真 1)による発声の後、
除幕式が行われました。式は 15 分位の短いもので、その後記念写真等の撮影が有りました。何
も知らずにこの公園を訪れた外国の御婦人三人組は、何が起こっているのかと興味津々に見て
いて、早速記念写真に納まっていました。彼女達は鎧兜が珍しく、手で感触を確かめつつ、この
武将達は何処に住んでいるのかと思ったに違いありません。『ひょっとすると、外国人向けのツア
ーガイドは間違っていて、本当はサムライは日本のどこか人目に付かない山里にひっそりと住ん
でいて、この様なイベントの際にギャラを貰って出て來ると言う生活をしているに違いない』と、彼
女たちは固く信じているのかもしれません。
向井潤吉アトリエ館(2014.04.11)
東京世田谷区弦巻(つるまき)に有る、アトリエ館を訪ねました(写真)。ここは向井潤吉が昭和 8
年から居所及びアトリエとして使用していた所を、彼の作品と共に世田谷区へ寄贈したもので、
平成 5(1993)年から世田谷美術館の分館として運営されているものです。彼の作品は NHK 教育
テレビ(ETV)で紹介されているのでご覧になられた方も多いと思います。彼の対象はその殆んど
が茅葺屋根の民家と背景の里山で、それを油彩にて懐かしい日本の原風景に描いています。展
示作品は 40 点程で多くは有りませんが訪れる人が少ないので、じっくり鑑賞出来ます。是非足を
お運びください。場所は東急田園都市線の「駒澤大学駅」から西に歩いて 10 分位の閑静な場所
に有ります(月曜休館)。
川瀬巴水―太田郷土博物館特別展 (2014.01.12)
東京太田区西馬込(まごめ)に有る太田郷土博物館に、川瀬巴水(かわせはすい)展を見に行き
ました。NHK 教育テレビ(ETV)の「日曜美術館」にて、彼の作品の紹介が有りましたのでご存知の
方も多いと思います。彼は明治16年東京新橋に生を受け、鏑木清方(かぶらききよかた)に師事
して日本画を学び、それと共に伝統的な木版画である浮世絵の再興を目指し、「新版画」に力を
注ぎました。浮世絵などの美術的価値の高い木版画には、絵師、彫師と摺師の三人が必要とな
ります。巴水は絵師として、全国各地を巡り、風景画を中心に活躍し、約 700 の作品を残したと伝
えられています。
小生の印象では、巴水の「新版画」は伝統的な浮世絵に比べて、対象物をより写実的に再現
しようとした分、多少ぼってりとした感じがしました。当日(1/12)、摺師の実演が有り、多くの見物
客で賑わっていました(写真 1)。ゴッホ等に影響を与えた浮世絵が、それに携わる職人さん達を
含めて再興されるのは、日本人として望むところです。
特別展は 1 月 19 日までと、作品を入れ替えて 1 月 25 日~3 月 2 日まで(月曜休館)無料です
ので、浮世絵再興の為、是非皆様足をお運びください。最寄駅は、都営浅草線西馬込駅です。
東禅寺-但木土佐 (2013.11.08)
港区高輪に在る臨済宗妙心寺派別格本山東禅寺(とうぜんじ)を尋ねました。JR 品川駅中央
口から歩いて 10 分位の、第一京浜(国道 15 号線)から少し離れた所にある古刹です。ラザフォー
ド・オールコックの「大君の都」を読んだ読者の方には、最初のイギリス公使館として利用された
場所として知られた場所です。(写真 1)
小生が本寺を訪れたのは、郷里仙台の戊辰戦争敗戦の責任を取って明治 2 年 5 月に東京で
刎首(ふんしゅ:打首)の刑に処せられた但木土佐(ただきとさ)が葬られた寺であることを知ったた
めです。彼は仙台藩の黒川郡吉岡城の領主で、破産状態であった仙台藩の財政を、倹約・殖産
興業政策により再建するために尽力しました。このため、藩主慶邦侯の信任を得て、奥羽列藩同
盟の盟主であった仙台藩の執政として手腕を振ったのです。また、彼の父君、但木弘行公(インタ
ーネット情報では「直行」と有りますが、同一人物です。2014.11.08 黒川郡大和町保福寺御住職
に確認済み。)は、仙台叢書第十一巻に登場する「国恩記」の第二回町民救済活動(國恩再興)を
サポートした人物でもあり、領民からは尊敬されていました。
幕末はどの藩もそうであったように、尊皇派と佐幕派、攘夷派と開国派が同一藩内で対立して
いました。彼は藩の学問所であった養賢堂(ようけんどう)の学頭で漢学者であった大槻盤渓(おお
つきばんけい)の国際情勢の認識に基づく開国論に強く影響を受け、佐幕開国の立場を取りまし
た。錦の御旗を盾に薩摩・長州藩主導による徳川・会津の徹底掃討に反対し、平和裏の解決に
尽力しましたが力及ばす、戊辰戦争に突入したことは諸資料の伝えるところです。
インターネットの情報に拠れば、本寺は一般に公開されていないとのことです。それを承知で、
但木土佐の情報が少しは得られるのではないかと思って、行ってみました。寺は山門を開けてい
るものの、本堂の扉を閉めて本当に人を寄せ付けない佇まいでした(写真 2)。住職の奥さんと見
られる女性が偶々通りかかったので、墓所を見たいとは言わずに、「済みません。古文書を研究
している者です。こちらに埋葬されている但木土佐についてお聞きしたいと思って来たのですが。」
と切り出したら、寺務所の所へ案内され、住職は内側に座り、小生は外で立っての、本当の立ち
話をすることが出来ました。
住職の話によると、「但木土佐の墓所は、平成になって一関に改葬された」との事。小生が「但
木土佐は仙台藩の黒川郡吉岡の領主だったので、一関とは関係ないと思いますが、どうして一
関に改葬されたのでしょうかね」と尋ねたら、「経緯は知らないが、兎に角、一関です」と自信満々
な回答でした(註参照ください)。ひょっとすると同じ墓所に埋葬されている大槻盤渓先生と勘違い
されているのではと思いながら、小一時間ばかり話し込みました。
ここで但木土佐が刎首に処せられたのは、官軍の一方的な処置と一般の人は考えるでしょう
が、どの様な処置かは藩主に委ねられて仙台において処理するべきとの官軍の温情を残すもの
でした。しかし、仙台藩内の政敵であった重臣により、但木土佐は仙台に帰ること無く、麻布の仙
台藩下屋敷において処刑されたのでした。歴史とは必ずしも良人に対して暖かいものでは無い
のです。
訪れる人も少ないお寺の隅で、住職とお話しできたことを幸運に思って帰りました。
(註)
その後、友人の指摘により、「一関」では無く「一の坂」の小生の聞き間違いであり、調べてみ
ると、確かに、但木土佐の墓所は宮城県黒川郡大和町吉田字一ノ坂 28 保福寺でした。
(写真 1)
(写真 2)
九品仏-等々力渓谷(2013.10.30)
東急大井町線の「九品仏(くほんぶつ)駅」で下車して、九品仏の境内を散策しました。九品仏:
正式名称は、「九品山唯在念仏院浄真寺(くほんざんゆいざいねんぶついんじょうしんじ)」といい
ます。九品仏と通称呼ばれているのは、上品上生(じょうぼんじょうしょう)から下品下生(げぼんげ
じょう)までの九体の阿弥陀如来様を安置したお寺であることに由来します。ここは、三年に一度、
本堂と上品堂の間に渡された仮設の橋を菩薩の面をかぶった僧侶らが渡る行事、「お面かぶり」
で有名です。お寺は、ざっと 300 年以上前の江戸時代初期に開山されたもので、どっしりとした山
門(写真 1)や鐘楼の作りが、古刹であることを示しています。訪れた日は、本堂が公開されており、
普段は見ることの出来ない額(「一鐘破夢響清晨」(写真 2))や、心字池が見られました。紅葉やイ
チョウの黄葉はまだ少し早いみたいでした。
次に近くの等々力(とどろき)渓谷を散策しました。最寄駅は、同じく東急大井町線の「等々力駅」
です。都心で自然の森の中に渓谷が有るのは、ここ等々力渓谷のみではないかと思います。ここ
は関東ローム層の南端を谷沢川(やざわがわ)が侵食して出来た約 1 キロメートルの渓谷と説明
が有りました。ローム層の間から湧水があり、その一部は滝となっております(写真 3)。この滝の
傍に等々力不動尊があり、毎年正月には沢山の参詣者が訪れます。以前来た時は、小川に生き
物は見当たりませんでしたが、今日、本当に小さい魚一匹を見つけて感動しました。夏でも涼し
いこの渓谷ですが、紅葉はまだ早いようです。皆様、時間が有りましたら足をお運びください。
(写真 1)
(写真 2)
(写真 3)
根津界隈(2011.04.29)
書道仲間の根津梅子さんに誘われて、躑躅(つつじ)で有名な文京区根津にある「根津神社」を
訪れました。ここ根津は谷中、上野公園や東京大学の近くに位置し、町の中を不忍通りの幹線が
走っている下町の風情が色濃く残っている町です。頃合も丁度躑躅の盛りと言うことで、千代田
線の「根津駅」で下車し、地図を見ながら大体の道順を頭の中で描いていました。通りに出たら、
地図を頼りにするまでもなく、根津神社からの帰りやこれから訪れる人で歩道は一杯で、その人
達が群がっている方向へ行けば、根津神社へ行きつくことは間違いなしの賑わいでした。
根津神社は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、大山咋命(おおやまくいのみこと)、大国主命(おお
こくぬしのみこと)、菅原道真公を祭神としているとのことですが、本当のところは徳川六代将軍と
なった徳川家宣(いえのぶ)の生誕の地であったため、千駄木にあった社をこの地に移し、社領
500 石を附し、権現造りの社殿としたのが事実みたいです。鳥居を入り 50m 程行くと石造りの小さ
な太鼓橋があり、正面に楼門が聳え、その左手が小高い山というより崖になっており、そこに躑
躅が色取り取りに咲いています。
株は二千株位あるでしょうか、それはまるで「みやま霧島咲き誇り、山紅に……」さながらに、
初夏の空を染めていました。クレオパトラ、楊貴妃や小野小町のように、民族が違うとそれぞれ
の美しさが際立って見る人々の脳裏に焼き付くものですが、楊貴妃や西施のような同じ民族の美
人が一か所に沢山いると一人一人の美しさが分からなくなるものです。但し、花だけはその例外
に洩れ、同じ種類の花が沢山集まると相乗効果で美しさが一層際立ちます。
楼門を潜ると、そこは拝殿から唐門を越えて参拝の人が列をなしていました。正月以外に人々
がこんなに列をなしているのを見たことが有りません。何時から日本人はこんなに信心深くなった
のでしょうか。人々の間を抜け神社の左側に出ると、そこは昔懐かしい祭りの世界でした。昭和
30 年代はどこの地方でも神社、仏閣の縁日には出店が軒を連ね、参拝客の目を引いたものです。
特に子どもに取ってはお小遣いが3倍以上も貰える非日常の世界が有りました。30 円くらいのお
金を手に握りしめ、風船釣り、射的、セルロイドのお面、ラムネ、怪獣のおもちゃ、怪しげなサッカ
リン入りの粉、綿菓子、お人形等々、何を買おうかと店を眺めながらのわくわくする高揚した気分
が有りました。しかし、経済成長とともに地域の祭り文化は変わり、子供達はわくわくする気分を
ファミコンやテレビゲームに求め、コミュニケーションを大切にする地域社会は崩壊の道を進めま
した。
しかし、ここには昔の祭りの世界が有りました。祭りで売っている品物を大人が冷静に眺めた
ら首をかしげるような物なのかも知れません。あるいは、子供達が夜店で買った品物がまやかし
だと後から分かって父親に怒られ、失敗したと思っても、それが祭りだと思うことが必要なのかも
しれません。祭りでは冷静に現実を眺めてはいけないのかもしれません。
帰り道、途中で昔懐かしい金太郎飴を製造している店屋で飴を5本(1 本 150 円)購入しました。
店は老夫婦が二人で製造から販売を手掛けており、奥の作業場で主人が飴を主に作っているみ
たいで、奥さんが客の応対をしていました。但し大勢の客の扱いに奥さんは馴れないみたいで時
間が掛っており、見かねた主人が交代で客の応対に変わっていました。下町の駄菓子屋は何処
の店も跡取りがおらず、この様な職人の方が居なくなれば遅からず店をたたむことになるのでし
ょう。
向島百花園(2011.04.22)
先日(4/22)、香道仲間の澄田華子さんに誘われて墨田区東向島にある「向島百花園」を訪れ
ました。前々から永井荷風の「断腸亭日乗」に出てくる隅田川界隈を探索したいものと思っていま
したので、澄田さんの誘いを心から喜びました。
向島百花園は、澄田さんの説明では仙台出身の骨董商佐原鞠塢(さわらきくう)が、交友のあ
った江戸の文人墨客の協力を得て花の咲く草花鑑賞を中心とした花園を開設し、園は梅を主体
に作られましたが、その後、詩経や万葉集に詠まれた植物を集め、四季を通じて花が咲くように
なっているとのことです。
庭門には蜀山人(「断腸亭日乗」では大田南畝として登場。同一人物です)の扁額があり、両脇
に大窪詩仏の「春夏秋冬花不断」、「東西南北客争来」の木板が掛っていました。まさに商人好み
の言葉です。先日の大震災で傾きかけたのか、細木で庭門の両側をつっかえていたのがなんと
も無粋に見えました。
小生が訪れた時は桜の花が散り、躑躅の花や牡丹の花が少数ではありますが新緑に映えて
美しく咲き誇っていました。特に木瓜(ぼけ)の花は「万緑叢中紅一点」の言葉が良く似合っていま
した。
芭蕉、蜀山人、其角、月岡芳年等の文人墨客の句碑が庭内に多く見られます。
これから藤、葛、朝顔が見頃になります。是非足をお運びください。(東武スカイツリーライン
「東向島」下車徒歩 10 分位です。)
この後、隅田川から浅草寺の伝法院を尋ねましたが、それはいずれまたの機会に。
三井記念美術館(2010.10.31)
本日、日本橋室町の三井本館 7 階にある三井記念美術館に江戸時代の画家、円山応挙展を
見に行きました。
中学校では「幽霊」を描いた画家として習ったような気がして余り印象の強い画家ではなかっ
たのですが、色々作品を見ると、若い時代にオランダの絵に影響を受け、詳細な遠近法により三
十三間堂を描いたものが目を引きました。しかし、彼がその遠近法を駆使して障壁画や襖絵を描
くことは無かったみたいです。
彼は大名や寺院が好む伝統的な障壁画に幾分遠近法の影を残して、大作を作っています。
国宝の「雪松図屏風」は金箔の上に松を配し雪の白さを際立たせた応挙の大作ですが、重要
文化財の「雪梅図屏風」は白無地に墨の濃淡のみで梅と雪の白さを描いたもので、国宝に劣ら
ぬ素晴らしさを感じさせます。白無地の紙は日焼けして一部褐色になっていましたが、墨の濃淡
が梅の枝の遠近を感じさせています。これ以外にも雲竜図等の大作が有りますので是非足をお
運びください。
静嘉堂文庫美術館 (2010.10.15)
秋の日和に、世田谷区岡本にある静嘉堂文庫(せいかどうぶんこ)美術館に行って来ました。
田園都市線の二子多摩川駅から歩いて 20 分位の閑静な住宅街から少し離れた山の天辺にその
建物は有ります。この建物は三菱財閥の二代目社長である岩崎彌之助(いわさきやのすけ)とそ
の息子の岩崎小彌太(四代目社長)が塊集した美術品(主に陶磁器)を展示するためのものです。
今回は、中国陶磁名品展(12 月 5 日まで)が開催されていました。流石に岩崎家だけあって、塊
集品は超一流のものでありました。その中で目を引いたのは、国宝に指定されている「曜変天目
(ようへんてんもく)」と重要文化財である「油滴天目(ゆてきてんもく)」でした。これらはどちらも現
在の中国福建省建陽市にある建窯で焼かれたもので、その青く輝く光彩が何とも言えず素晴らし
いものでした。
物の本によれば、曜変というのは、内部の漆黒の釉面に結晶による大小さまざまの斑紋が群
をなして一面に現れ、その周りが瑠璃色の美しい光彩を放っているものを指して呼んだものだそ
うです。
現代の様に化学がそれ程進んでいない時代にあって、あの煌びやかな光は、見る者を釘付け
にしたに違いないと確信しました。
是非皆様も一度、静嘉堂文庫美術館へ足をお運びください。(田園都市線の二子多摩川駅か
ら歩いて 20 分位、バスの便もあります)
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