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§44. 実在的 なもののしるし 、あるいは『知覚の現象学』における幻影肢

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§44. 実在的 なもののしるし 、あるいは『知覚の現象学』における幻影肢
リ
ア
ル
サ イ ン
§44. 実在的なもののしるし、あるいは『知覚の現象学』における幻影肢
ベルクソンの純粋知覚に関する論と比較するために、今度はメルロ=ポンティの両義的な知
覚に関する理論を見ておこう。取り上げるのはここでもまた幻影肢の問題である。私たちにと
って問題の核心と思われる部分に一気に迫るために、メルロ=ポンティにとって幻影肢がどの
ようなものであるかをまず要約しておこう。彼にとって重要なのは、この現象が純粋に生理学
的な説明によっても、純粋に心理学的な説明によっても説明しつくされないという点である。
例えば、切断の直後は、想像上の腕は大きなものである場合もあるが、患者が切断の事実を
受け入れるにつれて、この想像上の腕は徐々に小さくなり、ついには残された部位のうちに
ぴったりとはまりこみ、その部位の感覚と一致してしまう。このことが意味するのは、幻影肢は
単なる大脳生理学的・神経学的プロセスの産物であるといった、純粋に生理学的な説明によ
っては説明がつかないということである。他方で、脳へと向かう知覚伝達組織を切断してしま
うと幻影肢が消滅してしまうという事実は、幻影肢が単なる患者の個人史、つまり彼の思い出
や情動、意志や信念などといったものの産物であるといった、純粋に心理学的な説明によっ
ては説明がつかないということを意味している。だが、この症状の研究によって、経験論/合
理主義、外的説明/内観的説明などといった二者択一を超える、ある新たな分析様態――
、、
実存論的分析――が可能になるということは、私たちの問題設定にとって本質的なことでは
、、
ない。私たちにとって重要な点、それは幻影肢が、時間的なものと空間的なものの境界その
ものを転覆させ(reverse)つつも保存する(reserve)という仕方で揺り動かすというところにあ
る。
というのも、力の二つの成分が合力を決定するように、二つの条件の系列がともどもに現
、、、、
象の決定に参加することが可能となるためには、同じ一つの作用点、もしくは 共通の場
、、、、、、、、
、、、
(terrain commun)が必要なのに、空間のうちにある(dans l’espace)「生理的事実」とどこに
、、、
もない(nulle part)「心的事実」、つまり即自の領域に属する神経衝動という客観的過程と、
対自の領域に属する承認と拒絶、過去の意識と情動というような思惟(cogitationes)、以上
の両者にとって共通の場なるものが、いったいいかなるものであるかが、分からないからであ
る。
この「共通の場」、今ここ(now-here)にあるものとどこにもない(no-where)ものとの間のこの
ほとんど不可能でありながら、しかし必要な分有とはいったいいかなるものであろうか。それ
は、時間と分かちがたく錯綜した、両義的な空間性であり、「世界への我々の現前の抽象的
形式であるような(……)あの本源的な空間性」である。このことが一段と複雑さを増すのは、
幻影肢がただ単に諸感覚(知覚)と知性作用(脳)との間の区別にのみ関わるのではなく、そ
れらの諸感覚の間の区別にも関わるものであるからである。例えば、触覚は、視覚が見ない
、、、、、、
諸事物にも触れることができるが、「触覚は視覚と同じように空間的なのではない」し、「諸感
1
覚の各器官は、それぞれなりの仕方で対象に問いかける」。語の植物学的な意味における
「対応分布」(vicariance)――環境条件の分断された地域に姉妹種が分布すること――は、
諸感覚の隠された本性、それらの不和(mésentente)、ある種の「諸力能の争い」(conflit des
facultés)を明らかにする。そしてまさにここに幽霊的な空間性が現れる。
感覚は、あるものについての感覚でないならば、そもそも感覚ではないであろう。(……)あ
らゆる感官は、もしそれらが何らかの形の存在に我々を近づけるはずのものであるならば、
、、、
つまりそれらがまさに感官であるならば、空間的である。そしてそれと同じ必然性によって、
、、、、
それらはすべて同じ空間に向かって開かれていなくてはならない。もしそうでない場合には、
感官が我々に伝える感覚的存在は、当該の感官にとってしか存在しないことになるだろう、
、、
――ちょうど幽霊が夜しか現れないように(……)。おそらく、各々の感覚的経験の中にか、
各々の意識の中にか、いかなる合理性をもってしても追い払うことのできない「幽霊」がいる
のであろう。
ここで言う幽霊とは何であろうか。それは幽霊的な空間性のことに他ならない。あらゆる感覚
は空間的だが、それはそれぞれなりの仕方においてであるということ、そして諸感覚の統一
性と多様性が同時に維持され、それによってこの「同一の空間」、この神秘的な通底器が含
意されるということ、それこそがメルロ=ポンティの亡霊的なものの現象学、ある「昏い空間」の
憑在論を構成するものである。コンサートホールで、閉じていた眼を再び開くと、目に見える空
間は思っていたより狭く、窮屈で、みすぼらしいものに思われることがある。また、他者のパー
スペクティヴが私にとって異邦的なものであるのと同様、各々の感覚の空間的領域は、他の
諸感覚にとって、ある「絶対的に認識不可能なもの」である。それは、
ちょうど幻覚にとり憑かれた人にとって、知覚された事物の存する明晰な空間(espace
clair ) に 、 他 の 光 景 の 現 れ う る 「 昏 い 空 間 」 ( espace noir ) が 不 思 議 な 仕 方 で
(mystérieusement)重なるような具合である。(……)こういった記述は、批判主義の哲学に
とっては、珍奇な経験的事実を提供するにとどまり、アプリオリな確実性には何の影響も及ぼ
すものではないであろうが、われわれにとっては哲学的重要さをもつことなのである。それと
いうのも、空間の統一性は、感覚的諸領域の相互の噛み合いのうちにのみ存しうるからであ
る。
この空間性は最終的には状況的な空間性に他ならないように思われる。よく知られているよ
うに、メルロ=ポンティは、「位置の空間性」(spatialité de position)と「状況の空間性」
(spatialité de situation)の二つの空間性を区別している。前者(位置の空間性)は、客観的
で静態的、ほとんど幾何学的な仕方で、他の諸物の位置や外的な座標軸に対して定められ
た各々の位置を指示する。後者(状況の空間性)は、主観的で動態的かつ身体的な空間であ
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る。手にペンを握っているとき、私は、手と腕、腕と二の腕などがなす角度を計算することなく、
直接的に私の手の位置を知っている。このとき、私はどこにペンがあるのかを、その結果、ど
こに私の手があるのかを、ある「絶対的な知」によって知っており、それはあたかも「砂漠にい
る原始人が、これまでに踏破した距離と出発点からの偏流角を思い出して加算していくなどと
いったことをせずとも、毎瞬間一挙に正しい方角を知っているよう」(PP 117)なのである。状況
の空間性、それはしたがって、どこにもない(no-where)の空間性を両義的な仕方で融合して
いる、今ここ(now-here)の空間性であり、そのようにして、「ある対象への能動的身体の投錨、
その任務に向きあった身体の状況」(id.)を指し示しているのである。そしてメルロ=ポンティが
このような特異な時間・空間概念を含んだ両義的な知覚の理論を発展させたのも、まさにベ
ルクソンに対抗してのことであった。
本来の時間に立ち返るためには、ベルクソンがしたように、時間の空間化を棄てることは
必要でもなければ十分でもない。時間が空間と相容れないのは、あらかじめ客観化された空
間が考えられていて、(……)世界への我々の現前の抽象的形式である、あの本源的な空間
性が考えられていない場合のみであるから、時間の空間化を排することは必要ではない。ま
た、ひとたび、時間の空間的用語への組織的な翻訳が棄てられても、なおも時間の本来的直
観からはなはだ隔たったままでいることもありうるのだから、例の条件は十分ではない。ベル
クソンに起こったことは、まさにこれである。持続は、「自己自身を重ねて雪だるま」をつくると
彼が言い、無意識の中に即自的な追憶を蓄積するとき、彼は時間を保存された現在でもって、
進化を進化し終えたものでもって、構成しているのである。
、、、、、、、、、
メルロ=ポンティは、時間の空間化を批判すると同時に、どこかに保存された一連の現在によ
って時間を再構成しようとするという点で、いわばベルクソンの「二枚舌」を糾弾しているので
あるが、この糾弾が最も激越な形で展開されているのが、幻影肢を論じた個所なのである。
ベルクソンが知覚と行動の統一性にこだわり、それを言い表すために、「感覚運動過程」
アンガジェ
(processus sensori-moteurs)という用語を作るとき、彼は明らかに意識を世界の中に参 加
させようとしている。しかし感覚することが一つの性質を表象することで、運動が客観的な空
間における移動であるならば、たとえ芽生えの状態において捉えられた場合でも、感覚と運
動との間には、いかなる妥協も不可能である。そして両社は対自と即自として互いに区別さ
れている。概してベルクソンは、身体と精神とが時間を媒介として通じ合うということ、精神で
あるということは、時間の経過を支配することであり、身体を持つことは現在を持つことである
という点を、いみじくも洞察した。身体とは意識の生成における瞬間的な切断面であると、彼
は言っている (Matière et Mémoire, p. 150)。しかし身体は彼にとって、われわれが客観的身
体と呼んだものにとどまっている。意識は認識であり、時間は依然として「今」の系列であって、
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たとえ時間が「それ自身のうえに雪だるまのように」積み重なろうとも、空間化された時間の
中に自己を繰り広げようとも、この点に変わりはない。したがってベルクソンは、「今」の系列
を緊張させたり弛緩させたりすることができるにすぎない。つまり彼は時間の三次元が自己を
構成する統一的な運動にまでは決して思い至らない。そして、なぜ持続が現在のうちに押し
潰され、意識が身体と世界の中に自己を拘束するのか、その理由が不明である。
メルロ=ポンティにとって、ベルクソンはこうして知覚のリアルを取り逃していることになる。だ
が、メルロ=ポンティがベルクソンを糾弾しているまさにそのポイントが、同時に、彼のベルクソ
ン読解において彼がとり逃していることを明らかにしてくれる。まるで、ある対象に対して一方
から投げかけられた光が、対象の背後に影を作り出してしまうように。こう言い換えてもよい。
メルロ=ポンティがベルクソンのイマージュ概念に非難していることは、ドゥルーズならば「映画
的」と形容する性格に他ならない。メルロ=ポンティは言うだろう、「たしかに、バックグラウンド
はある。「クリシェからある真のイマージュを引き剥がす」というのもいいだろう、だが、それは
純粋な視覚的=聴覚的イマージュのようなものであるはずがない。夢見てはいけない。前人
格的でも匿名的でもよいが、ともかくそれは具象的で、実在的で、肉的で、歴史的で、要する
に「状況的」でなければならない」と。そして、これこそが『知覚の現象学』の最後の言葉である
ように思われるのだ。
絶対的な流れそのものが、自己自身の視線のもとに、「一個の意識」として、あるいは人間
として、あるいは受肉した主体(sujet incarné)として、姿を現すのである。それというのもこの
流れは、ある現前の――つまり自己への、他人への、世界への現前の――領野(champ de
présence)であって、この現前が、この流れの自己理解の出発点たる自然的・文化的世界へ
と、それを投げ出すからである。(……)私とは私の見るすべてであり、私とは相互主観的な
一つの領野である。それも、私の身体や私の歴史的状況があるにもかかわらずというのでは
なく、むしろ逆に、子の身体であり、この状況であり、それらを通じて他のすべてであることに
よって、そうなのである。(……)状況という観念は、われわれの自己拘束の出発点において、
絶対的自由なるものを排除する。排除するのであるが、それは実は到達点においても同様で
ある。(……)私とは心理学的・歴史的な一つの構造である。(……)この意味深い生、私がま
さにそれであるところの自然と歴史のこの一定の意義、これは私の世界への接近を制限する
ものではなく、逆に世界と交通する私の手段であるからである。
私たちは先に(§41)、ベルクソンのイマージュ論・知覚論に関して現象学者たちによってなさ
れた批判は、たいていが『物質と記憶』第1章の読解に基づいているが、実際に事態が複雑
になるのはその後の章においてであると述べておいた。ここでさらに興味深い点を付け加え
ておこう。ドゥルーズの『シネマ』二巻のそれぞれにおいて描写されている「運動イメージ」と
「時間イメージ」という二つの体制のうち、前者は『物質と記憶』第1章の「注釈」に基づいてお
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り、後者は第2・3章のそれに基づいている。これら二つの体制の転回点こそ、映画の歴史上
おそらく最も大きな地殻変動の一つであるとドゥルーズは見ているが、その時期こそ、『知覚
の現象学』が刊行された戦後なのである。まさにこの理由によってもまた、私たちは『物質と
記憶』の争点をよりよく理解するために、一方でメルロ=ポンティの『知覚の現象学』と併せ読
む必要があるのであり、他方で、そこで浮かび上がってくる論点をよりよく理解するために、
『物質と記憶』第2・3章とともに『精神のエネルギー』に収められた幾つかの論文を併せ読む
ことが必要不可欠となる。こうして、私たちの読解から浮かび上がってくる『物質と記憶』の像
は、『時間イメージ』と題されたドゥルーズの『シネマ』第二巻同様、夢(rêve)と幽霊(revenant)
による甘美な復讐(sweet revenge)のような形をとることとなろう。あたかもメルロ=ポンティが
真理の半分しか知覚していなかったかのように。
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