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シンポジウム:「メルロ=ポンティとフランス文学」
シンポジウム:「メルロ=ポンティとフランス文学」 シンポジウム趣旨 初期の著作(『行動の構造』『知覚の現象学』)から後期の草稿群(『見えるものと見え ないもの』)に至るまで、メルロ=ポンティは自国の文人たち(モンテーニュ、ミシュレ、 プルースト、ヴァレリー、クローデル、サン=テグジュペリ、シモン、等々)から、表現を 頻繁に援用している。それでは当該の作家を専門とする方々から見て、こうした援用はどの ような価値と特徴を備えているのだろうか。本シンポジウムでは、ミシュレ、ヴァレリー、 プルーストの専門家をお招きして、それぞれの作家と作品についてお話しいただくとともに、 メルロ=ポンティによる解釈の是非を論じてみたい。 司会:加賀野井秀一(中央大学) 津森圭一(パリ第 3 大学博士課程)、「メルロ=ポンティとプルーストの風景論」 「風景」 « paysage »は、「自然が観察者に対して提示する土地の一部分あるいは大地の広が り」と定義される。これに対してアラン・コルバンは、『風景と人間』において、風景を 「空間を鑑賞するまなざし」であるとみなし、観察者の主観に重きを置いた。だが、風景は それを認識するものの精神に存在する主観的な像であると一方的に断定してもいいのであろ うか。プルーストは事物の印象が、対象物と自己のうちに半分ずつ存するものだと『見出さ れた時』で述べている。ミシェル・コローは、主体と対象の間との距離に着目し、風景の奥 行きの彼方を画する「地平」« horizon »に着目した。視像の消失点「地平」と自己の視点の 双方があって初めて風景は生まれるのである。本発表では、メルロ=ポンティの風景論およ び、プルーストが具体的に描写する風景描写を分析し、アミエルの「風景は精神の状態その ものである」という命題の是非について検討する。 安永愛(静岡大学)、「ヴァレリーとレオナルド・ダヴィンチ」 1895 年にヴァレリーは『レオナルド・ダヴィンチ方法序説』と題した評論を発表する。 残された作品や手稿から想像されるレオナルド・ダ・ヴィンチの知覚や創造をミメティック に再構成した特異なテクストである。ダ・ヴィンチは万能の天才の名の下に、魔術的、ある いはオカルティックな存在として祀り上げられてきたが、ヴァレリーは本作品において、 ダ・ヴィンチのミメーシスにより「天才論」の脱神話化を図るとともに、ダ・ヴィンチの名 に託して、知覚と想像力の極限的なモデルを展開してみせる。ジャンルとしての哲学に不信 を持っていたヴァレリーは、ダ・ヴィンチに哲学者の相貌を見出すことになる。本発表では、 ヴァレリーがレオナルド・ダ・ヴィンチの名に託した知覚と創造のありよう、その現象学的 といってよい記述に着目し、「曖昧なものの領域の縮減」を旨としていたこの時期のヴァレ リーが、逆説的に神秘や驚異に触れていくプロセスを追ってみたい。 大野一道(中央大学)、「ミシュレの革命観」 メルロ=ポンティは『弁証法の冒険』の終章に、ジュール・ミシュレの『フランス革命史』 の初めの方にある言葉2~3を引いている。つまり通常の時間が停止し「永遠の一閃」が輝 き出る瞬間として革命をとらえている箇所である。そこには彼の民衆観や、ルネサンスとフ ランス革命とを直結させる独自の歴史観が絡み合っている。「永遠」は上の方、天上から閃 き出すのではなく、大地の奥底、下の方、「民衆」のうねりの中から一挙に湧き出るといっ たイメージである。こうした彼の革命観、歴史観に、果たしてメルロ=ポンティは共感した のか。ミシュレについてお話する中で、皆様にそれを判断していただけたら幸いです。