Comments
Description
Transcript
宇野少将 が艦長を務め た旗 艦
と 年まで、日本海軍の象徴とし 門﹂は﹁大和﹂に旗艦の座を譲る昭 和 て長く君臨。太平洋戦争を最後ま で生き抜き、数ある戦艦の中で﹁長 門 ﹂だけが、被 弾してもなお海 上 に姿を表していました。 ﹁長門﹂は、 を象徴するかのような最期をむか 場 宇野少将 出市が 身 艦長を務めた旗艦 なが かつて日本海軍の象徴だった戦艦﹁長門﹂ 。 終戦まで稼動可能な状態で生き残 った唯一の日本戦艦でした。 こうして太平洋戦争の開戦から 終 戦 まで を 見 届 け た﹁ 長 門 ﹂でし れら世界最強クラスの戦艦は﹁ビッ たが、戦後米軍に接収され、時代 時 中の 長門 戦 えます。その場 所はマーシャル諸 年、 グ・セブン﹂と呼称されました。 島のビキニ環礁でした。昭和 国 民に 米国の核実験に標的艦として使用 とって 日 本 海 開戦と終戦を見届け 軍 を 代 表 する ︻長門の最期︼ 昭和 年の米国核実験に 使用されました。7月1日 は大小いくつもの実験艦が 門﹂はほぼ無傷。 月 日 の第1実験 ︵空中爆発︶ で ﹁長 の 第2 実 験︵ 水 中 爆 発 ︶で なか﹁長門﹂はやや傾きなが は他国の戦艦が次々と沈む らも健在でした。しかし4 ありませんでした。夜中か 日後の朝、海面にその姿は ら未明にかけての間、だれ 年の数 に見られることもなく沈没 令長官・山本五十六大将が座乗し 太平洋戦争開戦時に連合艦隊司 ず海中へと姿を消します。日本の かび続けますが、4日後、人知れ 後まで沈まなかったことは、 門﹂が2度被爆しても4日 に、 今なお世界を脅かし続ける﹁核﹂ の証明﹂と宣伝されました。 る証 拠 ﹂ ﹁ 日 本の 造 艦 技 術 当時日本で﹁長門が名艦た 月 によって終止符を打たれました。 感覚ではありません。 ﹁今日こそは で死ね﹂と手榴弾を一発 には﹁もしもの時はそれ で し た。 戦 の差が歴 然 装 備、補 給 軍では兵器、 松 葉 杖 を 竹で自 作し、2か月 以 上 が、 動けない者は置いて行かれます。 した。やがて撤 退 命 令 が 出 ました って膿 を 出 し、切 断 だけは 免 れ ま り ました。麻 酔 無 しでハサ ミで 切 くの 戦 友 が 家 族の 名 を 呼 び な が ら 葬式が済んでいました。戦地では多 全滅だったので、実家ではわたしの し かった。 部 隊 が ほ ぼ いた と き は 本 当 に 懐 か にしないためにも、次世代の人たち めに死んでいった彼らの思いを無駄 が死にす ぎました。祖 国 を 守るた 強かったです。あまりにも多くの友 まつばづえ うみ 場では敵 を 人を思い出しますし、魚も食べられ に今の平和をしっかり引き継いで欲 ません。 ﹁もっと早く戦 争 をやめて 死んでいきました。生きて帰れると もう帰ってこないよ﹂と夫の戦友に いれば、死なずにすんだかもしれな かけてタイまでおよそ ㎞以上、1 言われました。それでもまだ夫のこ い﹂ 。残された遺族はみんなそう言 殺 さないと とをあきらめきれませんでした。 ﹁川 しいと思います。 に沈んで亡くなった﹂と聞いたせい せん。残るのは悲しみだけですから。 んでした。いまでもあの す る ために 再 婚 し ませ わたしは主人 を 供 養 とはありませんでした。 ついに夫が帰ってくるこ そして、何 年 待っても、 います。戦争は絶対にしてはいけま 思わなかったから、生還した喜びよ 写真を ぎょく 日、ラジオの玉 くて、魚が食べられなくなりました。 りも、戦友を失った悲しみのほうが 歳のころ、昭 和 眺めて 年8 月 か、夫がおぼれたことを思うと苦し 升の米 と 草 と 水 だけで、しか ばね かつての旗艦、長門(資料提供/大和ミュージアム) を よけて歩 き 続 けました。出 発 時 帰 国して金田駅に着 与えられていました。 しゅりゅうだん 危ないぞ﹂と毎日思いましたよ。 へい 意味を持つ暗号﹁ニイタカヤマノボ 年 ったこともあり、 戦中は、 この ﹁長門﹂ インチ︵ ・6㎝ ︶級の主砲を持 ぶ ﹁長 レ 1208﹂が発信されます。 奇な運命を終えました。 ﹁長 ﹁長門﹂でした。 ていた﹁ 長 門 ﹂ 。この艦 内から﹁ 真 戦争も長門の運命も、皮肉なこと し た﹁ 長 門 ﹂は、 福智町市場出 日とする﹂の を受け、他国の戦艦が沈むなか浮 された﹁長門﹂は、2発の原子爆弾 身の 宇 野 積 蔵 珠 湾 攻 撃日を い そ ろ く 少 将︵ 当 時 大 戦 艦 といえ ば 25 自分が死ぬ、 しは、象 に 乗 せら れて 後 方 にさが 戦 闘 中 に 左ひ ざ を 撃 た れ た わ た 地のビルマ︵ 現 ミャンマー︶ 年 以 降は消 耗 戦 に 着いたと たん 最 前 線 で 激 あまりにも多くの人が死にすぎた 桑野武平 戦 戦でした。昭 和 21 もう人間の でやられっぱなしです。米軍と日本 たしが 年に2歳年上の夫 ︵定夫さん︶ と返事 いる ﹂ が来ま ち たちは生後半年になる娘を亡くしま 昭和 飲み子の息子と帰りを待ちました。 音放送で知った敗戦は、言葉になり 帰ってくる﹂と信じていました。終 の顔が見られるという出産の数か月 おん 新婚時の木森さん夫妻 木森ハ 戦から3か月過ぎたころ﹁木森君は いまでもあの人を思い出します 写った写真を送ると、夫から﹁朝晩 戦地のビルマに、子どもと一緒に ませんでした。その時も﹁夫は必ず きました。しかし、もうすぐ子ども 15 前、夫は再度出征してしまいました。 20 幸いにも新しい命を授かることがで した。ひたすら夫の無事を祈り、乳 し、2年後に帰国。その後、わたし と結 ばれ ました。直 後に夫は出 征 わ 7 26 21 唯一終戦まで生き残った最後の日本戦艦です。 幼いころ活発で体 17 月 から お 8 佐︶が、昭和7 代艦長を務 よそ1年間、第 めた戦艦です。戦後有名になった や ま と 12 した。2人で悲しみに暮れましたが、 500 19 19 10 祈り 最後の戦艦 ﹁大和﹂は、存在そのものが極秘だ 国民から親しまれました。 が連合艦隊を代表する戦艦として ら世界最大の ㎝ 主砲と高速な機 ﹁長門﹂は大正9年の竣工当時か 41 動力を持つ戦艦でした。この時期、 40 つ戦艦は世界で7隻しかなく、こ 16 誤報で桑野武平さんが供養された町葬 世界で初めて41㎝砲を搭載した長門。竣工当時は最 強最速の戦艦だった。 (資料提供/大和ミュージアム) 12 戦後、米国による核実験の実験艦となり、 終戦を過ぎてもなお心の傷が消えることはありません。 特集 ● 祈り 忘れ得ぬ日々 特集 ● 13 う市場出身の宇野少将。市場小、東筑中、海軍兵学校 を卒業。昭和2年に海軍大佐となり、羽黒・加賀・霧島・ 長門の艦長を歴任する。昭和8年に海軍少将となり、 翌年、海軍砲術学校校長に就任。昭和17 年1月25日、 海軍砲術学校卒業式の式場で倒れ死去、享年 52 歳。 争で抱え、胸にとどめた記憶を語っていただきました。 15 強度を誇示した後、人知れず姿を消しました。 【宇野積蔵少将】格が良かったとい