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シンガポールの足跡

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シンガポールの足跡
日本人墓地
至マレーシア
ジョホールバール
音吉の足跡
日本人会
住居 オーチャードロード
大統領官邸の南 現イスタナパーク他
教会 プレビテリアン教会(長老教会)
墓地 ブキティマキリスト教墓地(現病院)
会社 ベッカーベルガーダー商会
キリスト教墓地跡
旧音吉の墓(現在は病院)
日本大使館
オー
チャ
ード
ロー
伊勢丹
ド
大統領官邸
アーサーズシート
音吉の亡くなった場所
ブ
キ
テ
ィ
マ
ロ
ー
ド
ニコルハイウェイ
H ラッフルズ
プレビテリアン教会
フォート
カニング
パーク
チャイナタウン
ビクトリヤホール
音ベ
吉ッ
のカ
会ー
社・
ベ
ル
ダ
ー
商
会
マリーナ
ベイ・サンズ
マリーナ湾
・ギュツラフの妻メアリーギュツラフ
最期の地 シグラップ地区
アーサーズ・シート
●港コーリャ桟橋へ上陸
フォートフラフートンより祝砲上がる
●上陸コースーニューブリッジロード
H オリエンタル
マーライオン
・妻の弟 1 月 19 日 英国軍艦オーディン号で寄港
ド
ー
ロ
チ
ー
ビ
セントアンドリュース
マリーナ
マンダリン H
アデルフィホテル
コリ
ヤキ
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ニ
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ブ
リ
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ジ
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サウ
ド
ス
ロ
ード ブリ
ッジ
コールマン
ブリッジ
港
文久 2 年(1862 年)
ヒル
スト
リー
ト
ギュツラフ夫人
音吉の娘の墓
シンガポール
歴史博物館
・妻の母ケイトブラウン
遣欧使節団の足跡
線
岸
海
の
昔
・音吉の娘エミリールイザ・オトソン
空
ギ
ン
ャ
チ
至
高島屋
イスタナ・パーク
音吉の住居
親族の墓 フォートカニングパーク
↓
シンガポールでの
音吉の足跡概略図
クリフォード桟橋
コールマンブリッジ
↓
ヒルストリート
↓
コールマンストリート
●ホテルーアデルフィ(音吉が訪問した宿舎)
音吉は 150 年前のシンガポールをなぜ終の棲家としたのか
1 上海の英国デント商会で働く音吉にとって、アヘン戦争、そして太平天国の乱と続く中国内での戦乱体験は、祖国日本では考えられない事であった。
しかし、祖国日本への帰国の思いを断ち切らざるを得なかった音吉が、選んだ地はシンガポールであった。
2 音吉は、祖国の鎖国政策がゆえに帰国を拒否された。そんな境遇にあってこそ、世界の動向を学んだ音吉にとっては、日本の進むべき道が、平和な開国と確たる国防の体制であることは明らかであった。
外にあって、自分が祖国に出来ることは何か、を思い続けたことであろう。
3 大国英国に身を置く立場から、東南アジアの中心地としてシンガポールを適地と選んだことは、若くしてアメリカ、欧州への航海の中で身についた知恵であったと思う。
しかも、スエズ運河の大事業が1858年より着工され、完成が近づきつつあることは、ヨーロッパとの交易も視野に入れ、最適の地と考えたのでしょう。
4 音吉は、ハワイへも幾度も訪問し、ふるさと小野浦に良く似た風景をどんなにか思ったことだろう。それに最も似ているのは、シンガポールであったと思う。
うしろに小高い山を負い、前は世界につながる海がある・・・・温暖で美しいシンガポールをこよなく愛していたことでしょう。
5 英国を祖国とする妻の親族と家族の幸せを考え、交易への夢とその拠点として、シンガポールを終の棲家としたのではないでしょうか。
2011年7月31日現在 斎藤宏一 記
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