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J .F a c .Cu . lE d u .S a g aU n i v . Vol .2 ,No .2( 1 9 9 8 )81-91 8 1 r マーラーと G .T h .フェヒナ -J 聖 子 品 茂 M a h l e ra n dG .T h .F e c h n e r S h i g e r uTAKANO は,それ自体興味深いものであるばかりでなく, グスタフ・テオドール・フェヒナー ( 1 8 0 1 1 8 8 8 ) 彼の倒々の作品解釈にとって是非とも必要で、ある。 は,今日ではおもに「ウェーパー:フェヒナーの しかし,他の思想家との関係と陪様に,マーラ 法則」で記憶されている心理学者である。人間の とフェヒナーの関係で知られている事実はけっし 受け取る感覚的刺激を数量化して心理的反応、との て多くはない。この問題に少しでも詳しく立ち入 関係を数学的にあらわして,実験心理学ないしは ろうとすると,それはすでに推測となり,具体的 精神物理学 P s y c h o p h y s i kの基礎を築いた。彼は な作品との関保付けは内容解釈の領域に踏み込む 自然科学者であるだけでなく偉大な思想家でもあ 結果となるのは避けられないであろう。 F . B e r g e r ・ り,こうしたフェヒナーの研究も心 S e e l eと肉体 がマーラーの人智学的解釈でフェヒナーのことを の関係といった哲学的関心に接ざしたものであっ 好んで扱おうとしているような例は別として 2), た。被はへルマン・ロッツェとともに,当時を代 大部分のマーラー研究てつェヒナーのことが取り 表する汎心論者 P a n p s y c h i s tであったし,晩年に 上げられていないのは,したがって当然かもしれ S p i r i t i s m u sにさえ傾倒したことが知 ない。しかし,推論をおそれずにマーラーの世界 られている。このライフツィとの顔学は,フロイ 観や思想を明らかにしようとする努力によってし 9 世紀末から 2 0世紀初頭にかけ トをはじめとする 1 か,マーラーの作品の理解は進農しないであろう。 てのドイツ/オーストリアの思想家たちに消しが 彼の思想や世界観についての盤かな手掛かりでさ たい世界観的影響をあたえた。 え,それなしに作品を単に「音楽的に」解釈する この時代のドイツ文北関に生きた音楽家マー ラーも,フェヒナーの世界観に強く共鳴したひと ことに比べれば,はるかにマーラーの音楽の実像 に近づくことを可能にしてくれるのである。 りである。マーラーへのフェヒナーの影響につい 本論では, F l o r o sの研究以後に出された資料や ては,後述するように,マーラ…自身の言葉や問 研究なども参考にしながら,マーラーとフェヒ 時代人たちの証言が残されている。そのことは, ナーの関保を再検討し,今後の研究の可能性をさ D . M i t c h e l lや DeLaGrangeらの浩識な信記な ぐってみたい。 どによっても蝕れられているが,フェヒナーの著 2 . マーラ…の康器科学への関心とブヱヒナ…の 作の内容にも踏み込んだある程度詳しい暗究は, これまでのところ日o r o sのものが唯一である。 1 ) マーラーの世界観的な背景を明らかにすること f 下からの形務上学j 1 9 0 1年 1 2月にドレスデンでおこなわれた彼の交 8 2 高 野 茂 響曲第 2番の演奏に際してマーラー自身が書いた たるまでの説明を求められた。そして彼は とされる標題は,次のような根源的問いかけから マーラーの熱心な質問にみられる明日析な理解 始まっている。 力とその徹底した探究心に舌を巻いたもの 3 ) だった。 耳を襲する日常の i 喧騒を圧倒して,恐ろしく も真撃な声がわれわれの心をとらえて響く。 e i s tにか つまりマーラーの世界観は,精神や霊 G [死後には]何がくるというのか? この世 かわる宗教的,形部上学的領域と自然科学的領域 の生とはいったい何なのか?そして死とは? という,一見相反するふたつの地平が統合される われわれにとって永遠に続くものはあるの ところに成立しているのである。それはまた,マー か?すべてはただのとりとめのない夢なのか, ラーの生きた時代の哲学や思想の直面していた問 それともこの世の生と死には何か意味がある 題の反映でもある。当時の科学の急速な発達は科 のか? 学万能主義を助長し,物理/化学的に認識できる 在物に物事の実体を据える唯物論 M a t e r i a l i s m u s 曲では,人間の生と死の難題は f 復活 を招来する。科学的成果は厳密に検証されたもの A u f e r s t e h u n g Jの確信へと導かれる。次の作品で であるだけに,誰もが認めざるをえない客観性を マーラーは,さらに自然全体,超越的な領域まで もっている。科学はそれまで信じられてきた迷信 をふくんだ全世界の生成や成り立ちに関心を向け, 的なものを白日のもとにさらし,その虚偽の実態 壮大な字詰論 K osmologieを展開するにいたる。 をことごとくあばき出してきた。とはいえ干ヰ学は, この r [自然が〕一歩一歩高昇し発 人間の精神的な領域を解明するには,脳科学がさ 展していくそのあらゆる段階をあらわした音楽 かんな今日ですら,まだ粧遠い段階にある。それ r それは生命のない自然からはじま ばかりか科学は,唯物論に立脚する以上,すでに この交響曲 3番は, 詩j であり, り,神の愛へと高まっていく戸。マーラーと親し 原理的に形而上学的思考とはそもそも次元を異に かった人々は,彼がつねにこの種の宗教的,形市 しているとも言える。形而上学と科学は融合しが 上学的問題に心を奪われていたことを,ひとしく たく,入閣の心におjり切れなさを残しながらそれ ぞれ別倒の道を歩まざるをえない状況は, 1 9世紀 している。 しかし,マーラーのこうした世界の究極原理 にはますます進行していった。 l e t z t eD i n g e nへの関心は,単に抽象的,観念的な フェヒナーはまさにそうした時代に生きた科学 ものではなかった。そのことは,彼の自然科学へ 者であり,魂 S e e l eと肉体のアポ 1 )アに正面から の関心に端的にあらわれている。ブルーノ・ヴア 取り組んだ思想、家であった。マーラーがフェヒ ルターは次のように書いている。 ナ…の思想、に強<J iI きつけられたのは,そうした 5 ) 開題意識を共有していたためだと思われる。 S . 彼のようなファウスト的人間は,あらゆる存 J a e g e rは,フェヒナーの精神物理学をはじめとす 在と出米事の究極的意味を探究したいという る諸研究を,次のように意味付けている。 6 ) 衝動につねに駆られていたが,彼は開時に現 世的な存在や出来事そのものとも幾干のきず この対立,フェヒナ…の言葉を使えは「昔話 なと関心によって結ばれ,入閣の精神生活に 的法則性としての夜の見方 Na c h t a n s i c h t,つ もひろく目を開いていた。とりわけ自然科学 まり自然科学や極端な唯物論者および社会民 的知識とその進歩は彼をはげしく魅了した。 ちの標携する魂のない機械主義と, 彼の友人であったさる物理学者は,彼に新し それと対立する,個々の人時が存在している い研究成果について学問的な専門的細部にい ことについて経験的に実感される意味や統一 『マーラーと G .Th.フェヒナ 8 3 惑にもとづく直接的に意味付けられた自然観, べられている筒所はあるが,彼らの個人的なつな 美学的自然観としての昼間の見方 T a g e s a n - がりを示唆するものは何もない。フェヒナーは, s i c h tとの対立,そしてこれらの見方を超個人 1 6オの若きで大学入学を許されてライブツィヒに 的な脈絡において把撞する必要性にうながさ やってきて以来,ずっとこの地で生涯を送ったが, れて,フェヒナーは,自然科学者としてまた マーラーがもし彼と知り合う機会があったとすれ 思慮、深い一市民として,知識と信仰の統一, ば,それはマーラーがこのライブツィヒの市立劇 物質と精神,運命と自由の統一への開いを投 場で第 2 指揮者をつとめていた 1 8 8 6年夏から 1 8 8 8 げかけ,それをすでにかなり専門化し独立的 年末までの時期であることが考えられる。しかし となってしまった学問的状況のなかで敢えて 0 オ代の後半という その時フェヒナーはすで、に 8 取り扱おうとしたのである。 齢に達しており, 1 8 8 8年 1 1月には亡くなっている。 ヴ、アルターは次のように言い切っている。「マー 今日のわれわれの自には,フェヒナーの r f 死後 r ラーがフェヒナーと知り合うことがなかったのは の生に関する小書j, ツェントアヴェスタ J ,ナ 残念だf 。この{ツェント・アヴェスタ j の著者は, ンナ j など哲学的,世界観的著作は,一見したと きっと彼の親友となれただろうに。 J8) ころ宗教的,神秘主義的にみえるかもしれない。 マーラーがブェヒナーのいくつかの著作に親し しかし,フェヒナ…はそこでただいたずらに荒唐 み,その内容に強〈共感していた事実は,多くの 無稽な宗教的信条を述べたわけで、はなしわれわ 資料から明らかである。ふたたび、ヴ会アルターによ れにはいかに奇異にみえようと,彼の「死後の生j ると, も「万物有魂説 A l l b e s e e lu n g s l e h r eJも,この世界 彼に長く消えることのない印象をあたえた。また で観察された事実からの婿納的推論により導き出 f ナンナ,または植物の精神生活について j は , r フェヒナーの f ツェント・アウ、ェスタ j は された「でからの形而上学 M etaphysik von 彼を心からの喜びでいっぱいにした jという 9)。ハ u n t e n J 7) なのである。そこに自然科学と形市上 ンブルク時代のマーラーの友人フェルディナン 精神と物質,魂と肉体の統一を唱えるフェヒ ナーの理論の要諦がある。 トプフォールは, r フェヒナーの心理学的,哲学 的著作は彼の想像力を強く刺激し,天使が球形を マーラーは自然を愛し,儲々の自然現象の多様 していることについてのフェヒナーの理由付けは, さや神秘性に引きつけられたといわれている。彼 彼をすっかりとりこにした jと述べている問。これ の自然科学への強い関心は,こうした自分のじか らは,マーラーの知人たちの多くの証言のほんの に観察し体験した自然現象に対ーする興味に基づい 一部にすぎない。 ている。しかし彼の自然への科学的とも蓄える関 マーラー自身がフェヒナーについて雷及してい 心の行き着く先は,唯物論的,機械論的世界親で るのは,現在わかっているところでは, 1 9 0 3 年と はなく,ゲーテの場合と同じく,自然の中で侍か 1 9 0 5 年に妥のアルマに宛てた 3通の手紙において 精神的なものが活動しているという認識である。 である。これらの手紙は,以前のアルマ編集によ その点で,マーラーの立場はフェヒナーの「下か 妾への手紙j にはなしようやく最近になっ る f らの形部上学」と相通じるものをもっていたと雪 て出版された。その該当館所を以下に掲げておく。 える。 委への手紙 1 ( 1 9 0 3 年4 月2日付) ll) 3 . マーラーとフヱヒナーのつながり マーラーがフェヒナーと面識がなかったことは, ぼくはここで,深い思索と俗世間の憶騒とに ニ分された生活を送っている。ーその合間に ほほ確実である。マーラーの手紙にも,知人たち ~;rくはいま『ツェント・アウ。エスタ j にのめ の証言にも,フェヒナーの著作や思想について述 り込んでいる。この本は,ぽくが昔から知っ 8 4 高 野 ていること,自分で見たこと,体験したこと 茂 とのあいだでフェヒナーのことが少なからず話 を,まるで愛しい親友の顔のようなかたちで, 題になっていたことも明らかである。その事実は, 心の自の前に示してくれる。ー アルマの囲想録ではまったく触れられていなかっ フェヒナーがりュッケルトのような感じ方や ただけに,たいへん興味深い。ただ彼女が彼に宛 見方をしているのにはび、っくりだ。ふたりは てて番いた手紙はすべて本人によって破棄されて とても関係の深い人間同士だ。一ぽくの一面 しまったから,残念ながらフェヒナーをめぐる もまた,その仲間の三人吾として加わる。こ 人のやりとりの詳細を知ることはできない。 のふたりを知っている人関の少ないこと/き これ以前のマーラ…の手紙にはフェヒナーにつ みがそれを理解できたら,きみにとって大き いて触れた箇所は見い出きれないが,この時期に な収穫になるよ。そのとき,きみの眼をふさ マーラーがフェヒナーをはじめて知ったわけでは いで光を遮断している多くのつまらぬ考えを ないことはさ当然である。実欝マーラーは,友人の 取り去ることができるだろう。一きみの手紙 ジークフリ…ト・ 1 )ピナー ( 1 8 5 6 1 9 1 1 ) を通じて から感じられるのは,きみの心が不自由であ フェヒナーをかなり早い時期から知っていた可能 るためにさみが苦しみあがいているというこ 性がある。 DeLaG rangeは , とだ。一きみはまだぽくから僅かなことしか ブツィヒでフェヒナーのもとで学んだことのある r 彼は,かつてライ リピナーの勧めで,フェヒナーの神秘主義的著作 学びとっていない, ということさ/ を読んでいた J , と述べている。(イ豆し,その根拠 は明らかにされていない。) 14) 1 9 0 3年 1 0月2 3日付)叫 妻への手紙 2 ( きみがフェヒナーを読んでいるのを知って, リピナーがライブツィヒでブェヒナーと交友関 とてもうれしい。きみの考えが深まっていく 係にあったのは, 1 8 7 5年から翌年にかけてである。 のが見てとれる。きみの書いていることを読 .ブレンターノのもと それまで、ヴィ…ン大学の F むと,そんな心の動きがわかるし,きみがf 高 で哲学を学んでいたりピナーは,その時,一時的 みJに身を言まき続けていることがわかる。 にライブツィヒ大学に移籍して勉学を続けていた。 まだ二十歳にもなっていないこの早熟の天才(彼 姿への手紙 3 ( 1 9 0 5年 8月2 5臼付)臼) の名高い f 解放されたプロメテウス j は1 8 7 6年の ぼくは『フェヒナーの美学J(最高におもしろ 出版)が7 0 才代半l ぎの老哲学者と親しく交友して い本で,きみもとても気に入ると思うよ)を いた様子を,フェヒナーの弟子の Hugner ・は次の たずさえてきた。きみがぼくの札に霞いたま ように伝えている。 まにしたあのー情だけの本だ。 15) 最初の意の 真ん中でい,ぽくはこの本が 2巻目であること [フェヒナー以外] 1 )ビナーはほとんど交擦 に気づいた。一第 1巻は,つまり列王手の中と というものをしなかった。少なくとも同級生 いうことなのだ。ーそれなのにぼくは,平気 との友達付き合いはなかった。わたしは彼が, でこの 2巻目を読み進めていたわけだ。 そ あのすぐれた老教授であるフェヒナー,あの して今の今,その本を主客室に霞き忘れたこと 尊敬すべき精神物理学者にして美学者のフェ に気がついた。南部鉄道に手紙を番かなけれ ヒナーといっしょにいるのを何度となく自に ば!この本は正直で物の分かった人が見つけ した。その光景をみた人々は,信じられない てくれたのではないか, という気がするから。 ふうだった。この白髪の紳士はめったに家か ら外に出たがらなかったからだ。・・・この稀 以上の手紙から,マ…ラーがいかにフェヒナー にみる奇人は老紳士とをして,他の人々とまっ の思想に共感していたかがよくわかる。また彼と たく同じようにローゼンタールを散策させる r ",ーラーと G . T h .フェヒ ことに成功したのである。 8 5 は当然であるが,シェリングやオーケンの自然哲 学にも大いに感化され,この頃すでに物理的な世 フェヒナーの熱烈な崇拝者であった医師のヨ…ゼ 界と精神との関係を模索しはじめるのである。 フ・ブロイアーによれば, どまでにこのフェヒナーの{言車買を手等ていたことに 1 8 2 3 年には博士号と教授資格を獲得, 1 8 3 1年から 8 3 4 年に 二年間,物理の劫教授をつとめたあと, 1 は死去した B r a n d e sの後任として正教授に就任 する。その潤 1 8 3 3 年に結婚している(生涯子供に なる。同 恵まれなかったという)。 リピナーはブェヒナー をうながして,まだ‘未完成だ‘った草稿を一驚の本 にまとめさせたというが,若いリピナーはそれは マーラーはこの当時,ヴィーン音楽院に入学し それから数年してフェビナーの生活に一大転機 たばかりだったカえまもなくライフ。ツィヒからも がおとずれる。それは践の不調で‘ある。本人の書 どったリピナーと知り合つことになる。彼は 4才 いた 年上の 1 )ピナーと,アルマと結婚してから何年か える主観的色彩現象を研究するために,色 yゲラス の空白期間があるものの,生濯にわたって親しく を通して太陽を J 疑視したり,色の微妙な違いを日 イすき合い,自分よりもはるかに博識なこの友人か 没にいたるまで観察し続けたりして J ,こうした設 らほとんど圧倒されるほどの影響を受けるのであ の酷使が原因ではないか, とのことである。病名 )ピナーとの交友 る。したがってマーラーがこの 1 さえわからないこの践の故揮は頭痛をともなって f 履援 L e b e n s l a u f Jによると,彼は「光の与 をつうじてフェヒナ…を詳しく知るようになった いた。彼の眼はもはやあらゆる光に耐えられず, ことには,ほとんど疑問の余地はないように忠わ 1 8 3 9 年末頃には大学での講義が続けられなくなる れる。 くらいまで状態が悪化してしまう。無為の生活が 何年も続いたあと, 1 8 4 3 年に限の状態や頭痛が急 ヰ.フェヒナーの生;震と思想 17) フェヒナーは 1 8 0 1 年にナイセ河東岸の街グロー 速に間援,徐々に研究活動を再開し, 1 8 4 6 年から は遊 2時間の公開講義を担当できるようになった。 ス・ゼルヒェン G rosS a h r c h e nに 5人兄弟の次男 それらの講義は「もはや物理に関するものではな として生まれた。父親は牧師だったが,母方の親 く,別のテーマ,つまり最高の菩,世界の究櫨原 戚もふくめて多くが牧師という家系である。この i el e t z t e nD i n g e n ,人類学,肉体と魂の関係, 理d ことは,自然科学を志したフェヒナーの自を宗教 精神物理学,美学, 自然哲学といった,それ以後 的問題にも向けていく環境的要因のひとつとなっ の著作で、扱ったテーマに関する講義であった。 J 援 たであろう。 5オで父裁を失った彼は,兄ととも の病気による数年間の無為の生活は,ブェヒナー にやはり牧師である伯父にひきとられて数年間育 の学者としての活動,哲学,世界観の形成/完成に てられ,教育された。やがて兄の絵画の勉強のた とって本質的な体験となった。 め(ふたたび合流した)一家はドレスデンに移る。 フェヒナーの主な著作は,いずれもこの嬬気自 フェヒナーは 1 6 オになると阜くも大学入学資格を 復後に世に出されている。それらの中から哲学的, 得て,ライブツィヒで毘学を学びはじめる。貧し 世界観的な内容のものを中心に挙げるとすると, かった披は本麗でアルバイトをして生活していた しかし彼の関心はすでに多方面に向かっていたと "Na n n ao d e ru b e rd a sS e e l e n l e b e nd e rP f l a n z e n " rナンナ,あるいは植物の精神生活につ ( 1 8 4 8 )( いて J ),“Z e n d A v e s t ao d e ru b e rd i eD i n g ed e s Himmelsu n dd e sJ e n s e i t s .VomS t a n d p u n k td e r 8 5 1 ) Uツェント・ N a t u r b e t r a c h t u n g "( 3Bde,1 いう。震学や物理学といった自然科学にたずさわ アヴェスタ,あるいは天空と来世の事柄について。 るブェヒナーが唯物論的な考え方に傾いていくの 自 然 観 察 に も と づ く 考 察J ),“E l e m e n t ed e r が , B i o tの物理学の教科書の懇訳/加筆の機会を 得る。これをきっかけにあまり輿味をもてなかっ た産学から物理学へと研究の重心を移していく。 高 野 茂 8 6 P s y c h o p h y s i k "( 1 8 6 0 )( r 精神物理学要嬬j )“ ,V o r - 像が簡略にのべられている。この著作は彼がライ s c h u l ed e rA e s t h e t i k "( 1 8 7 6 )( f美学入門 J ), “D i e ブツィヒ大学の物理学の正教授に就任した当時の T a g e s a n s i c h tg e g e n u b e rd e r N a c h t a n s i c h t " ものであるから,彼の神秘主義的傾向は援の病気 f 畳関の見方と夜の見方J ) : などである。 18) ( 1 8 7 9 )( の前にはすでにはっきりしたかたちをとっていた 北欧神話における光の神パルドルの妥の名を冠 ことになる。彼によれば, I 人間は地上に一回きり した『ナンナ J( 1 8 4 8 )は,失明の危機をまぬがれ ではなく,三田生きる。彼の生の最初の段階は垣 たブェヒナーによる神秘的体験にもとづいている。 常的な眠り,第二の段階は眠りと覚醒の交代,第 大地の同じ場所に盟定されて移動の自由を持たず, 三段階は永遠の覚醒jとして特散づけられる 20)。わ 動物の神経系に棺当するものを持たず,一見して れわれのこの世の生は第こ段階,死後の来世が第 意志のようなものもなく受動的である植物は,そ 三段階だが,第一段階は誕生以前で,フェヒナー れゆえ精神をもたないとする一般のとらえ方に はそれを,具体的には受精にはじまる胎児の時期 フェヒナーを境問を呈する。彼はそれに反論し批 として考えているようだ。来世のことは,それが 判的検討を加えるという方法で,植物にも精神が 存在するにせよしないにせよ,この涯の生の段踏 宿っているという彼の信念を証明してみせようと ではふつう知り持ないと考えられているが,彼は する。 誕生以前のこと(つまりすでに起こってしまった 『ツェント・アヴ、エスタ J( 1 8 5 1 ) は 3巻からな こりを現世から捉えるのと陪じ状況を,来世と る大著である。第 1部と第 2部は「天空の事柄に 現世の関係にそのままあてはめて,来世について ついて J ,第 3部は「来世の事柄について」と題さ 推論的に論じる(つまり現世のことが回想される れている。ここで「天空 HimmeU というのは, ような一歩先の段階を推論する),という方法を いわゆる天上の世界のことではなく,われわれの とっている。そこでは外的感覚器官にたよること 生活関としての地球をうちに含み込んだ大自然, なく表象のもととなる光波や振動波を直接感じる つまり宇宙を意味している。フェヒナーによれば, ことができ引また現世では肉体に閉じ込められ 地球もひとつの生命体であり,それ自身の魂を て不自出だった魂関志の直接的な交流が可龍とな もっているが,字富もさらに大きなレウ、エルで魂 る2へしかし来世はこの世の精神的行動の成果を を持った生命である。よりミクロなレウ、エルでは, 出発点としており,その意味で現世と来世は連続 植物や無生物にいたるまですべてに生命が宿って している。人関がしばしば現世的科書にこだわら おり,それらが複雑な相互交流を行いながら関係 ずに真理を追求したり倫理的な行動をとるのは, し合い,それらは全体としてより高度な(それら そうした行動が来世で有益となるという予感によ の単なる総和以上の)生命体を実現していく。世 るものだ, 界はこうしたあらゆるレヴ、エルの階層から成り 政治的に結束させる精神的理念は,われわれ個人 立っている。したがってフェヒナーのこうした自 (および死者たち)の魂が交流しあう中で生まれ l l b e s e e l u n g s l e h r e(もしくは 然観は,万物有魂論 A る精神的成果であり,それは来世の借入のレウーエ 汎心論P anpsychismus), 群 集 生 態 学 S y n e - ルをこえた生命体 O r g a n i s m u sの一部を構成する c h o l o g i e,ケストラーのホロン理論 19) などの融合 べきものである。そして, と言えるだろう。一方, I 来最 J e n s e i t s Jは死後に 実現するより高い段階の生である。 という 。また人々を宗教的,倫理的, 23) I 人関 M e n s c h h e i tの第 三段階の精神生活の発展は,人関の進歩と発展と たがいに手をたずさえあって進行する。 j 叫 来 世 このフェヒナーの来世論は,この著作よりもか では,個人の意識はそのまま個別に存続する一方 なり以前に D r.Misesという仮名で世に出された で,魂罰法;の藍接的な触れ合いと交流をつうじて, “B u c h l e i nvomLebennachdemTod" ( 1 8 3 5 ) 入閣は大きなひとつの精神として発展していく。 ( f 死後の生についての小書J ) においてその全体 f マーラーと G.Th.フェヒナ 5 . マーラーの作品への影襲撃 8 7 マーラーはまず伝統的キリスト教の教える死後の われわれがマーラーの世界観や音楽観について プロセスを描いてみせてから,それに対するアン 知りたいと思ったとき,依拠すべき資料の大部分 チテーゼとして自分自身の信念を提示する。マー は,いわゆる「角笛交響曲 J(交響出第 ラーは既成宗教と関係なし死後の生について語 1-4番) の時代のものである。彼の生i 援でいえば,結婚ま るのである。 での半生にさきたる。それ以蜂に参考になる資料が フェヒナーも,キリスト教の教義に配癒しなが 急、に減少してしまうのは,ひとつにはマーラーの らも,問じ立場に立っている。彼は「キリスト教 身近にあって彼のなまの言葉を忠実に記録したパ やユダヤ教やその飽の宗教がふつう教えているよ ウア…:レヒナーのような人がいなかったためで , うな,死後の魂の行く天国や地獄は存在しない J あるが,マーラー自身が「標題音楽j に嫌気がさ と述べている。 2 6 ) し,自分の語ろうとすることをすべて音楽に託そ 次に第 2交響曲の終楽家の歌詞(第 1節がク うとしたことが最大の理由であろう。自分の作品 ロップシュトック,あとはマーラーの自作)から, について,また自分自身について言葉で語ること フェヒナーの思想、と関連していると思われる筒所 青熱を失ったしまったかのようであ に,すっかり f を引用し,若干のコメントを付しておく。 27) る 。 したがって,マーラーの音楽作品へのフェヒ ナーの影響を考察しようとするとき,彼の初期の 角笛交響 交響曲が問題になるのは必然であろう。 f 1 ) Wiedera u f z u b l u h nw i r s tdug e s a t! ふたたび花開くために,おまえは種まかれたの だ! ( 第 1節) 曲jのなかで,マーラーの世界観が明確に現れて これはクロップシュトックによる部分で,新約 いるのは第 2番と第 3番である。(第 1番の表現内 5主 3 6節 聖 書 の コ リ ン ト の 信 徒 へ の 手 紙 I,第 1 容は第 2番に受け継がれているし,第 4番は第 3 ( iあなたが蒔くものは,死ななければ命を得ない 番に対する補選としてとらえることができる。)こ ではありませんか。 J ) にもとづいている。種と収 れまでのマーラー研究者たちは,フェヒナーの影 穫のたとえは,フェヒナーが貯んだものである。 を主としてこのふたつの交響曲の内容に見てき しかも聖書のこの文句は, 1 )ピナーが f 解放され f 復活」の考え 1 8 7 6 )でそットーとしで巻頭に たプロメテウス J( にフェヒナーの来世の思想が,第 3交響曲の「世 掲げているものでもある。前述のようにマーラー た。簡単に替えば,第 2交響曲の 界の段階的発展j にフェヒナーの f 万物有魂説」 の友人となるフェヒナーは,このデ、ヒ、ユ一作が世 というのである。もとより確実 に出るすぐ前にライブツィヒでフェヒナーと親し な証拠があるわけではないが,こうした指摘は く付き合っており,この作品へのフェヒナーの影 けっして的はずれで、あるとは言えない。 響が推測されている。したがって歌詞のこの部分 が関係している, は,フェヒナーと 1 )ピナーの存在をぬきにして語 5 . 1 第 2交響織 第 2交響曲の終楽章は, ることはできない。 r ヨハネ黙示録jの終末 の日の情景から始まる。最後の審判を受けるべく 2) Esg e h td i rn i c h t sv e r l o r e n ! おまえからは 死者たちは墓から出て列をなして行進していく。 情も失われはしない/ しかし,いよいよ審判が始まろうとするそのとき, Deini s t,d e i n,wasdug e s e h n t . おまえが熱 標題は言う。「すると見よ,そこに審判はない。罪 心に求めたものはおまえのもの。 人も,正しい者も,偉大な者も,また卑小な者も Dein , wasdug e l i e b t,wasdug e s t r i t t e n ! お いない。罰も報いもないのだ。j25) これが少なくと まえの愛したもの,得ょうと関ったものは, もドグマ的なキリスト教でないことは明白である。 おまえのものだ l ( 第 2節) 8 8 高 野 フェヒナーにあっては,この世で精神的に得た 茂 5 . 2 第 3交響曲 成果は来世の生の出発的となる。「人のこの世の生 この交響曲の表現内容についてマーラー自身の のあり方 D a s e i nがその入の来世の生の基礎をな 語った記録は,他の作品を庄倒して多い。各楽章 すのであるから,人は来世の幸福なあるいは不幸 に付けようとしたタイトルの草案は少なくとも 1 0 な生の諸条件を,この澄の(内的および外的)行 を越えるが,それらのドキュメントは,各楽章が 為の結巣のうちに自ら生み出しているのであ 自然の発展の各段階を代表していることを示して る 。 J2めたとえ自分の努力や行為が死によって無 いる。そうしたタイトルの最終慈案と思われるも に帰してしまうかに思われでも,それは次の生に のを以下に示す。間 有効に作用するのである。上記の歌詞の部分は, こうしたフェヒナーの来世論に沿って解釈すべき であろう。また歌詞の最後一句も同じ意味をあら 「夏の真主主の夢 j 第 1部 :パーンは自覚める わしている。 Wasdug e s c h l a g e n,z uG o t twirde sd i c h 第 1楽章:夏が行進してくる(バッカスの行進) t r a g e n . おまえの〔心織の]鼓動が,おまえ 第 2部 を神のもとに運んでいくだろう。(第 6節) 第 2楽章:野の花がわたしに語ること 「おまえの[心騒の]鼓動 J ,正確には「おまえ [の心戯〕が脈打ったところのもの j とは,この 第 3楽章:森の動物たちがわたしに語ること 第 4楽章:人間がわたしに語ること 第 5楽章:天使わたしに語ること 世で生きたことの成果を意味している。 第 6楽章:愛がわたしに語ること 3) Wase n t s t a n d e ni s t,d a smussv e r g e h e n . 生まれ出たものは滅びなければならない。 前:iAのように,この交響曲は「一段ずつ高まって Wasvergangen,a u f e r s t e l 淀川滅びたもの いく発展の段賠のすべてをふくんだ音楽詩Jであ は,よみがえらなくてはならない I( 第 4節) り,それは「生命のない自然からはじまって,神 およぴ の愛にまで高まっていく j。もう少し彼の詳しい説 A u f e r s t e h n,j aa u f e r s t e h nw i r s t du,mein 明を開こう。 neinemNu! Herz,i 30) よみがえるだろう, わが心麟よ,一瞬ののちに! ( 第 6節) 生命のない硬E ました物資か を , 前に書いたように,フェヒナーは人間の生に三 この楽 r 岩山が私に語ること jと名付けてもよ つの段階を考えている。この世の生のあとには来 かろう一一生命がしだいに身を振り離し,一 世の生が続く。それは一段高い段階の生である。 段階ごとに,花,動物,人間といったより高 人間は死んだあと,ふたたび肉体を得て地上での 度な発展形態に分北していって,最後に精神 をくりかえすのではなしより高度な荘窓の次 の領域,つまり f 天使たち jにまで達する・・・・ 元へと移行するのである。最終句の「神のもとへ」 は,そのことを意味している思われる。 ツェント・アヴェスタ j のなか フェヒナーも f もっともこの第 2交響曲の死生観に影響をあた で自然(世界)を段階分けして考えている。彼は えているのはフェヒナーだけではなし特にゲー 人陪を,無機物,植物,動物の上に位置づけ,地 テの影響を考慮しなくてはならない。筆者の知る 上の存在の最高牲としている。マーラーは第 1 楽章 かぎりで,ブェヒナーとゲーテの関係を論じたま (とくに序奏部)で「生命のない自然j をイメー とまった研究はない。 ジし, I 岩山がわたしに語ること J と呼んだ。した がって地上の存在の階潜構造について,マーラー f マーラーと G .Th.フェヒ 8 9 を「深い謹厳をもった楽章Jとし, (当初予定され とフェヒナーは一致している。 次にマーラ…とニーチェの関係をめぐって古く ていた第 7楽童話「子供がわたしに語ること」をふ から注目されてきた第4 楽章の歌詞を検討してみ くめた)それ以外の「フモールの楽章j と区別し f ツァラトゥストラ j から取られ ており 3へ自然の諸段階をあらわす中でも,作者の た「真喪中の詩jには,次のような句が見られる。 31) 主観性のもとに見られた自然と一定の距離をもっ る。ニーチェの て認識された自然といったニュアンスの違いがあ I c hs c h l i e f !I c hs c h l i e f ! わたしは眠った/ わたしは眠った/ ることを示唆している。 一方,フェヒナーの自然段階説も,その内容は Aust i e f e mTraumb i ni c he r w a c h t ! 深い夢 からわたしは自覚めた/ けっして単純ではない。eI然には,無機物から人 間にいたる各段賠があるほか,これらの存在をそ の内に含んだ地球があり,それはさらに大きな宇 ここで, r 人関 l 土地上に一回きりではなく,三割生 宙に統合されるのである。この地球→宇宙という r 第 きる。彼の生の最初の段階は恒常的な眠り,第一 階層構造は,地上のもののそれとは区別して, の段階は賦りと党翠の交代,第三段階は永遠の覚 一の暗愚構造 d i ez w e i t eS t u f e n l e i t e r J と呼ばれ 躍である」というフェヒナーの生命観を考えると, ている問。そこに属する各階層は,地球にせよ字詰 この詩をフェヒナーに沿って解釈することも可能 にせよ,すべての構成要素が有機的に関係しあっ であるようにおもわれる。それによって,ニーチェ てまとまった生態系を形成し,それぞれひとつの f 天使j の世界がくること(この 大きな生命体をなしている。無機物が生命に関係 交響曲の解釈上の最大の難問)も説明できる。フェ づけられるのは,こうした生きた全体を支えてい ヒナーの第三段轄(永遠の覚醒)は,言うまでも る…要素としてである。同 の引用のあとに なく「天使がわたしに語ること j である。 マーラーの描く f 花J の世界は,彼がフェヒナー の f ナンナj を愛読していたことを考えると,捕 5 . 3 その他の作品 前にみたように,マーラーは 1 9 0 3年 4丹の妥へ 物にも魂があるとするフェヒナーの考えを色畿〈 )ュッケルトの親近性に の手抵で,フェヒナーと 1 反映している。彼は植物を根本的に動物と異なる ついて熱っぽく書いている。マーラ…研究におい ものとは考えず,両者を進イちの連続したプロセス てフェヒナーとリュッケルトの関係に最初に住自 r 嵐のような風が野原 したのは S . W u r f f e lである。彼はフェヒナ…が を吹きぬけ,草花を揺るがすとき,草花はかろう リュッケルトの詩集に関する書評で彼に共感を示 じて茎に支えられながら,より高い世界へ救済さ した事実を指捕し,マーラーとフェヒナーと の上でとらえている。彼は, れることを懇顧するかのような坤き声をあげ,す 神秘的汎神論 m y s t i s c h e r リュッケノレトをともに f すり泣くのだJと諾っている。 P a n t h e i s m u s J と関係づけた。 32) しかし第 3交響曲の各楽章は,単純に世界の諾 段轄を 1 ) 頂序よくならべたものではない。第 1 楽章は 37) そのことを踏まえたよで,さらに一歩踏み込ん だ見解を示しているのは DeLaGrangeである。 「生命のない自然j にくわえて,生命をもたらす 彼は,マーラーの後年の本質的問題に対する新し 自然の作用を「バッカスの行進Jとして象徴的に い世界観の発端が『亡き予をしのぶ歌j であると 描いてもいる。また第 6楽章(終楽章)は「天使」 する E . K r a v i t tの考えを支持し,この永遠の繰り よりもさらに高位の段轄というよりも,神の「永 返しとしての世界橡は,ニーチェの哲学,東洋思 遠の愛」を携野に入れた「すべての存在に対する 想,そしてフェヒナーの汎心論 P anpsychismus わたしの認識 Empfindungの総括J33) としての意 に近いものであることを指摘する。そして,次の 味をもっている。マーラーはこの楽章と第 4楽章 ように番いている。 f この確信は, r 大地の歌j で 9 0 高 野 十全にそして最も感動的に表現される。この作品 で使われた詩が東洋から来たものであることと, フェヒナーの哲学とリュッケルトの詩が東洋の影 1 間然の符合とはいえな Q0 } 21J 3 。 、 t v をうけていることは, これらの研究者たちは,フェヒナーの影響を マーラーの後期作品にも認めうるという見通しを 示したにすぎない。今後の,フェヒナーの著作の 内容にまで踏み込んだ研究が期待される。 注) 1 )C o n s t a n t i nF l o r o s :G u s t a v Mahler 1 .D ie 巴 W eltG u s t a vM a h l e r si ns y s t e m a t i g e i s t i g s c h e rD a r s t e l l u n g .Wiesbaden1 9 7 7 .S . 1 1 0 f f . 巴r .V i s i o nund 2 ) Frank B e r g e r :GustavMahl M y t h o s .Versuche i n e rg e i s t i g e nB i o g r a p h i e . S t u t t g a r t1 9 9 3 .S .2 7 2f . 3 )E i n Gluck ohne R u h ' .D i eB r i e f e Gustav r M a h l e r sanAlma.E r s t eG e s a m t a u s g a b e .狂 e a u s g e g e b e nunde r l a u t e r tvonH e n r y L o u i sd e La Grange und G u n t h e rW e i s s .R e d a k t i o n : r .B e r l i n1 9 9 5 .S . 8 7 KnudMartne H日 , M i l d e n b u r g宛の手紙。 Gustav 4 )1 8 9 6年7f Mahler B r i e f e . Neuausgabe e r w e i t e r t und 巴v i d i e r tvonH e r t aB l a u k o p f .( B i b l i o t h e kd巴T r I n t e r n a t i o n a l e nGustavMahlerG e s e l l s c h a f t ) Wien/Hamburg1 9 8 2 .S . 1 6 6 h l er .E i nP o r t r a t . 5 ) BruonW a l t e r :G u s t a v担 a MiteinemNachwortunde i n e rD is k o g r a p h i e 巴h a r tKroher . Tasch 巴n bu n e uh r s g . vonEkk c h e rz u rM u s i k w i s s e n s c h a f t, h r s g .vonR i c h a r d .S. 1 0 0f . S c h a a l,Bd.7 2 . Wilhelmshaven1 9 81 6 )S i e g f r e i d] a e g e r :F e c h n e r sP s y c h o p h y s i kim t a n s c h a u u n g .I n :G.T. K o n t e x ts e i n e r W巴l F e c h n e randP s y c h o l o g y,P a s s a u1 9 8 8 .S .5 1 7)この言葉は F l o r o sがフェヒナーの思想、を特徴 つ、けて言まったもの。日 o r o s,o p .c it . , S. 1 1 1 8 ) Bruno W a l t e r :Thema und V a r i a t i o n e n . E r i n n e r u n g e n und G e d a n k e n .F r a n k f u r t am Main1 9 8 8 . (NewYork1 9 4 7 ) S . 1 1 6 r .E i nP o r t r at . 9 ) BrunoW a l t e r :G u s t a vMahle S . 1 0 1 1 0 )F e r d i n a n dP f o h l :GustavM a h l e r .E i n d r u c k e 巴n . undE r i n n e r u n g e na u sdenHamburger] a h r H r s g .vonKnudM a r t n e r .Hamburg1 9 7 3 .S .2 0 1 1 )E i nGluckohneR u h ' .S . 1 4 8 崎 茂 1 2 )I b i d .,S . 1 7 3 1 3 )I b i d .,S . 2 5 7 r .Vol . l . 1 4 )H e n r y L o u i sd eLaGrange:Mahle NewYork1 9 7 3,p . 1 0 1 1 5 )M i c h a e lH e i d e l b e r g e r :D iei n n e r eS e i t ed e r .G ustavTheodorF e c h n e r sw i s s e n s c h a f t Natur l i c h p h i l o s o p h i s c h eW e l t a u f f a s s u n g .[ P h i l o s o p h i s c h eAbhandlungenB d .6 0 ] F r a n k f u r ta . M.1 9 9 3 .S .8 8 1 6 )I b i d .,S . 8 7 e i d e l b e r g e r 1 7 ) フェヒナーの生涯については, H による前掲舎の第 1 部,および、時議:に付録として L e b e n s 収録されているフェヒナー窃身による " l a u f " ( S . 3 8 7 f f . ), MaxW e n t s c h ε r :F e c h n e rund L o t z e . ( G e s c h i c h t ed e rP h i l o s o p h i ei nE i n z e l .V I I1 .D i eP h i l o s o p h i ed e r d a r s t e l l u n g e n,Abt 1 .B d . 3 6 ) Munchen1 9 2 5 .を主と n e u e r e nZ e i tI して参考にした。 1 8 ) 本論文で使用したフェヒナーの著作を以下に さ j さげる。 DasB u c h l e i nvomLebennachdemT o d e .E r s t d r u c k1 8 3 6 .S t .Goar1 9 9 5 . ( D i ek l e i n eB i b l i o I ) t h e k,B d .I Nannao d e ru b e rd a sS e e l e n l e b e nd e rP f l a n z e n . .V0 ,1 8 4 8 .E s c h b o r n Na c h d .d e rA u s g .Lpz,L 1 9 9 5 . d -Av e s t ao d e ru b e rd i eD i n g ed e sHimmels Z巴n undd e s] e n s e i t s .VomS t a n d p u n k td e rN a t u r b e t r a c h t u n g .3B d e .Unv 巴r a .N a c h d .d e rA u s g . .Eschborn1 9 9 5 . Lpz,1 8 51 . D ieT a g e s a n s i c h tg e g e n u b e rd e rN a c h t a n s i c ht N a c h d .d e rA u s g .Lpz,B r e i t k o p fundH a r t e l, 1 8 7 9 . E s c h b o r n1 9 9 4 . ホロン革命j 問中三 1 9 ) アーサー・ケストラ- r 彦-"1吉岡佳子訳工作会 ( 1 9 8 3 ) r 機械の中の艶 日高敏除・長野敬訳ぺりかん社 ( 1 9 6 9 ) を参照。ケストラーによれば,この世界の多くの ものは階層的構造をもっている。そのなかの各段 階的要素は半ば独立した自律牲をもっているが, 同時により上伎の階層に従属してその指示にし たがう。世界のたいていの存在物は「全体である とともに部分でもある Jというこのヤヌス的ニ商 伎をもっている。ケストラーはこうした性格を, (彼自身の考えた用語でHホロン jと名付けてい る 。 2 0 ) F巴c h n e r :B u c h l e i nvomLeben. . . , S .9 . 2 1 )I b i d .,S . 4 8f 2 2 )I b i d .,S . 1 0f . r 7ーラーと G.Th.フェヒナー j 2 3 )I b i d .,S . 1 7 f . 2 4 )I b i d .,S . 2 9 i n Gluck o h n e 2 5 ) 前述のマーラーによる標題 E R u h ' .S . 8 9 p .c i , . t S. 1 8 2 6 ) F e c h n e r,o u s t a v Mahler:Symphoni巴 2 7 ) 歌詞の引用は, G Nr. 2 .P a r t i t ur . ( K r i t i s c h e Gesamtausgabe, B d . 2 ) 1 9 7 0から。 2 8 )F e c h n e r :Zend …A v e s t aBd.3,S . 3 0 2 2 9 )1 8 9 6年8月6日付, MaxMarschalk宛の手紙。 G u s t a vMahlerB r i e f e,S. 1 7 3 )エ・パウアー=レヒナ- r グスタフ・ 3 0 ) ナター 1 マーラーの思い出 j へルベルト・キリアーン編 高野茂訳音楽之友社 ( 1 9 8 8 ) p. 1 1 3 u s t a v Mahler:Symphonie 3 1 ) 歌詞の引用は, G .3 .P a r t i t ur . ( K r i t i s c h e Gesamtausgabe, Nr B d . 3 ) 1 9 7 4から。 3 2 ) パウア-=レヒナー 前掲番 p . 9 6 f j2 9日付, F r i e d r i c hLoehr宛の手紙。 3 3 )1 8 9 5年 8 GustavMahlerB r i e f e,S . 1 2 7 .1 l6 3 4 ) パウア一口レヒナ一 前掲番 p 己s t aBd. 1,S .3 1 9f . 3 5 )F e c h n e r :Zend…Av 3 6 )I b i d .,S . 2 6 3 7 )S t e f a nBodoW u r f f e l :'UndL i e bundL e i d ! UndTraumundW e l t ! 'GustavMahlersT e x t wahl und T e x t b e h a n d l u n g .I n :Das G u s t a v …M a h l e r F e s tHamburg,1 9 8 9 .S . 5 0 2 h l e r 3 8 )H e n r y L o u i sd eLaGrange:Gustav抗 a V0 1 . 2 . Vienna:The y e a r s o f c h a l l e n g e ( 1 8 9 7 1 9 0 4 ) Oxford/NewYork,1 9 9 5 .p . 8 3 1 9 1