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企画展パンフレット
Lafcadio Hearn & Percival Lowell 100th Anniversary of the Death of Lafcadio Hearn ラフカディオ・ ラフカディオ・ハーン没後 ハーン没後100 没後 100 年記念 企画展 ハーン と ローエル HEARN Birth 1850 1855 1889 Japan 1890 Death 1904 1916 LOWELL Birth TOYAMA Death 神々の国に惹かれた知的巨人たちと富山 10 月 17 日(日)~24 24 日(日) 北日本新聞ギャラリー 富山市安住町 2-14(TEL.076-445-3300) 11 月 13 日(土)~12 12 月 5 日(日) 立山カルデラ砂防博物館 立山町芦峅寺ブナ坂(TEL076-481-1160) ラフカディオ・ ラフカディオ・ハーン没後 ハーン没後 100 年記念事業富山実行委員会 北日本新聞社㈱ 北日本新聞社㈱ 立山カルデラ 立山カルデラ砂防博物館 カルデラ砂防博物館 馬場はる 南日恒太郎 田辺隆次 田辺重治 旧制富山高等学校とヘルン文庫の開設に貢献した馬場はると南日三兄弟 ローエルの ローエルの著書をめぐる 著書をめぐるハーン をめぐるハーンの ハーンの手紙 『極東の 極東の魂』The Soul of the Far East, Houghton Mifflin, New York, 1888 1889 年 7 月、ハーンは友人のジョージ・グールドに書き 送った。 「グーリー、素晴らしい本を見付けました。本の中の本 です! それは途方もなく巨きく、驚嘆すべき、神の手 になるような本です。一行たりとも飛ばさずに読んでく ださい。・・・・」 『NOTO 知 られざる日本 られざる 日本の 辺境 』 NOTO : An 日本 の 辺境』 Unexplored Corner of Japan, Atlantic Monthly, January, February, March, April, 1891 ハーンはチェンバレンへの手紙で「私はローエル氏とと もに、一歩一歩、西方能登へと日本の旅をしました。あ たかも本当にこの体が彼に同行しているほどに生々し く、このたびのあらゆる喜びと困惑、危険を感じなが ら。・・・」と書いている。 『神秘の 神秘の日本』 日本』Occult Japan, Houghton Mifflin, 1895 「日本国民には個人的性格が欠落する」と断定するロー エルに対し、この本を読んだハーンは「個性の欠如にこ そ、日本人のもっとも魅力的な特色が現れている」とチ ェンバレンに書き送る。 ごあいさつ ラフカディオ・ハーン没後 100 年にあたり、「ハー ンとローエル」と題して富山・北陸の視点からラフカ ディオ・ハーン研究の一角に、新しい光をあてようと 試みました。 バイ船経営から近代海運業へと進んだ富山市 岩瀬の馬場はる刀自が、巨額の寄付を富山県に 申し出られたことから創設されるに至った7年制の 旧制富山高等学校は、今年で80年余の歴史を刻 んでいます。初代校長・南日恒太郎は、すでに英 語教育者として全国に知られた人でしたが、この新 設の高等学校に優れた教官と学生を集め、また、 この学校創設を機に、富山を「文化の中心地とす る」べく、小泉家に残されたラフカディオ・ハーンの 全蔵書約 2,500 冊を馬場はる刀自の寄付で購入し ました。 2000 年はラフカディオ・ハーン生誕 150 年記念 行事を開催いたしましたが、その後「富山八雲会」 が結成され、その県民の運動は長足の発展を遂げ るにいたりました。当企画展示はその成果の一端を ご案内するものでもあります。 本展の開催にあたり、貴重な資料を快くお貸し いただきました所蔵者の方々、ならびにご支援ご 協力を賜りました関係各位に対し、心から御礼を申 し上げます。 主催: 主催:ラフカディオ・ ラフカディオ・ハーン没後 ハーン没後 100 年記 念事業富山実行委員会 北日本新聞社 ㈱ 立山カルデラ 立山カルデラ砂防博物館 カルデラ砂防博物館 旧制富山高等学校ヘルン文庫 全日空 馬場記念公園ヘルン文庫石碑 協力・ 協力・資料提供: 資料提供:富山県 松江市 北日本放 送 ㈱ 富山県立山博物館 池田記念美術 館(新潟県) 新潟県) 富山大学 富山国際大学 富 山市科学文化センター 東亜天文学会 ANA Lafcadio Hearn ラフカディオ ハーン 年 譜 ■ギリシア時代 ギリシア時代 1850(嘉永 1850(嘉永3 嘉永3)-1852( 1852(嘉永5 嘉永5) 1850 年 6 月、ギリシャのレフカス島レフカダの町で誕生。両親は 英国陸軍軍医補チャールズ・ブッシュ・ハーンと現地の旧家の娘ロ ーザ・アントニオ・カシマチ。二人の結婚は祝福されなかった。 ■アイルランド時代 アイルランド時代 1852( 1852(嘉永5 嘉永5)-1863( 1863(文久3 文久3) 母とハーンはダブリンの父実家に渡る。母は4歳のハーンを大叔母 サラ・ブレナンに預けギリシャへ。3年後父は再婚し新妻とインド ハーン生家 サラ・ブレナンと に赴任。 ■イギリス時代 イギリス時代 1863( 1863(文久3 文久3)-1869( 1869(明治2 明治2) 1863 年、イギリス北部アショーの聖カスパート校に入学。15 歳の 時遊戯中ロープの結び目で左眼失明。17 歳の時、大叔母の破産で 中退。 ■アメリカ(シンシナティ) シンシナティ)時代Ⅰ 時代Ⅰ 1869(明治 1869(明治2 明治2)-1877(明治 1877(明治 10) 1869 年、移民船でニューヨークへ。シンシナティで印刷屋の手伝 いの傍ら図書館へ通う。『シンシナティ・エンクワイヤラー』紙に マルシア・フォーリー 若きハーン 寄稿、24 歳に正式社員。1875 年、黒人女性マルシア・フォーリー と結婚、破綻。 ■アメリカ(ニューオーリンズ) ニューオーリンズ)時代Ⅱ 時代Ⅱ 1877(明治 1877(明治 10)10)-1882(明治 1882(明治 15) クレオールの民俗文化と深く交わる。アイテム社に就職し記事にイ ラストを載せ、計 175 の原画を描く。1882 年タイムズ・デモクラ ット社で活躍。 ■アメリカ(ニューオーリンズ) ニューオーリンズ)時代Ⅲ 時代Ⅲ 1882(明治 1882(明治 15)15)-1887(明治 1887(明治 20) 万国産業綿花博覧会を取材し、医学者高峰譲吉 高峰譲吉と出会い、文部省派 高峰譲吉 遣の服部一三 服部一三と縁を持つ。 『クレオール俚諺集』 、 『クレオール料理』 服部一三 などを出版。民族音楽の宝庫である西インド諸島に憧れる。 エリザベス・ビスランド ハーンの描いた挿絵 ■マルティニーク時代 マルティニーク時代 37 歳~ 1887(明治 20) 20)-1890(明治 23) 23) バラクータ号で西インド諸島へ出発。サンピエールに滞在。1889 年、パーシバル パーシバル・ パーシバル・ローエルの ローエルの『極東の 極東の魂』を読む。 ■横浜到着 1890( 1890(明治 23) 23) ハーパー社通信員として画家ウェルドンとともに4月日本到着、5 月同社との契約を解約。服部一三と帝大教授チェンバレンの助力で 服部一三 島根県尋常中学校教師となる。 ■松江時代 1890( 1890(明治 23) 23)-1891( 1891(明治 24) 24) 8月松江に着任。近代文明に侵されていない松江に喜ぶ。生徒達に 松江大橋 慕われた。松江藩士小泉湊の娘セツと出会い一生の伴侶となる。11 月、セツとその家族を伴い熊本へ。 ■熊本時代 1891( 1891(明治 24) 24)-1894( 1894(明治 27) 27) 近代都市熊本に失望するが、第五高等学校校長嘉納治五郎は、比較 的自由な授業をさせてくれた。1893 年 長男一雄が生まれる。 ■神戸時代 1894( 1894(明治 27) 27)-1896( 1896(明治 29) 29) 神戸クロニクル社で論説を執筆。1896 年、帰化願いが完了しイギ リス人ラフカディオ・ハーンは、日本人小泉八雲 小泉八雲となる。 小泉八雲 ■東京時代 1896( 1896(明治 29) 29)-1904( 1904(明治 37) 37) 帝国大学文科大学に招聘され、富山市出身の田辺隆次 田辺隆次らが学ぶ。著 田辺隆次 作の傍ら、子どもには厳しい教育を施す。1903 年突然解雇され早 稲田大学の招聘で 1904 年3月より出講。9月 26 日、心臓発作の 長男一雄とセツ ハーンとセツ ため死去。 Percival Lowell パーシバル ローエル 年 譜 ローエルと富山 1855( 1855(安政 2) 3月 13 日アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに オーガスタス・ローエルの長男として生まれる。 1876( 1876(明治9 明治9)ハーヴァード大卒業。甥とともに英国からシリアへ旅行 1883( 1883(明治 16) 16)春日本着。8 月、朝鮮国特別外交使節団秘書官として渡米。 1889 年5月 3日~5日 上野から高崎、碓氷峠、 軽井沢、直江津、能生。 6日 糸魚川の姫川、親不知子不知から 三日市泊。島 島 薬 局 前 案 内板 → 1884( 1884(明治 17) 17)2月日本着。夏、シンガポール、インド、欧州経由で帰米。 1886( 1886(明治 19) 19)『朝鮮――朝の静けさの国』を出版 1888( 1888(明治 21) 21)”The Soul of the Far East” East”「極東の 極東の魂」を出版。 出版。 1889( 5月能登半島旅行を 1889(明治 22) 22)1月日本着、5 月能登半島旅行を決行。 決行。6月帰米。 7日 三日市から氷見まで 富山湾沿いに進み氷見泊。 伏木辺り 伏木辺り漁師小屋 → 1890( 1890(明治 23) 23)1月欧州旅行、6月帰米。冬、日本へ欧州回りで出発。 1891( 「能登」 1891(明治 24) 24)4月日本着。 能登」をアトランティック・マンスリー誌 連載。8月木曾御岳に登山。10 月日本出帆。 1892( 1892(明治 25) 25)12 月、横浜着、天文台設置の調査。 8日 氷見から荒山峠を越え、 和倉温泉に泊まる。 9日 和倉温泉から蒸気船で 1893( ハーン訪問実現 1893(明治 26)「 26)「秘教的神道」連載。ハーン )「 ハーン訪問実現せず 訪問実現せず。 せず。年末、日本を去る。 穴水に。 1894( 1894(明治 27) 27)「神秘な日本」出版。アリゾナ州にローエル天文台創設。 再び七尾に戻り宿泊。 ボラ待 ボラ待ち櫓→ 1895( 「火星」を出版。 1895(明治 28) 28)火星に高等生物と運河の存在を提唱する。 1916(大正5 大正5)計算により海王星のかなたの惑星Xを予知。11 月 12 日死去。 1930( 1930(昭和5 昭和5)ローエル天文台のトムボーは惑星Xを発見。写真撮影成功。 プルートー(冥王星)と命名される。 10 日 七尾から能登街道を通り、 倶利伽羅を越え、再び越中に。 石動に泊まる。 11 日 石動から人力車で散居村を過ぎ高岡、富山へ。 富山で師範学校の生徒に会う。 ローエルの ローエルの旅程 「針ノ木越え」を思い立ち、 上滝から本宮付近泊。 12 日 人夫を雇い、真川沿いに進み 夕方、立山下温泉に。 13 日 積雪や事故の話を聞き針ノ木 越えを断念。 夜遅く芦峅「宝泉坊」泊。 「宝泉坊」 宝泉坊」門の跡→ 14 日 宝泉坊隠居と語り帰路に。 上市、滑川を経て三日市泊。 ※その後、長野、塩尻、天竜下りを楽しみ東京へ戻る。 注 パーシバル・ローエル「能登・人に知られざる日本の辺境」宮崎正明訳より