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バタイユからカフカへ:文学の至高性

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バタイユからカフカへ:文学の至高性
バタイユからカフカへ
──文学の至高性──
古 永 真 一
『文学と悪』(1957)に収録されているバタイユのカフカ論が未完に終わった『至高性』に収録さ
れる予定であったことは、あまり注目されていないようである。
『文学と悪』のカフカ論では、カ
フカと共産主義の関係が考察されているが、この論考が『クリティック』に掲載された際の時代状
況や『至高性』において論じられている文脈が考慮されていないために、全体として論旨が明瞭と
は言い難いものになっている。『文学と悪』のカフカ論では、至高性という語がさしたる説明もな
しに用いられており、バタイユがカフカをなぜ論じたのかという意図が伝わりにくいものになって
いる。
そもそもバタイユがカフカに関心を抱いていたというのも意外に思われないだろうか? なぜバ
タイユは、晩年の集大成とも言うべき重要な著作になるはずだった『至高性』にカフカ論を収録し
ようとしたのだろうか?
本稿では、まずバタイユがカフカ論を最終的にどのように位置づけようとしていたかを論じ、次
にバタイユのカフカ論を批判した論文に注目することによって、
そこから共産主義とカフカの関係、
さらに至高性と共産主義の関係に触れ、バタイユのカフカ論を文学の至高性という視点から再考し
たいと思う。
1. オクラホマ論争?
バタイユは、「共産主義の批判にさらされるカフカ」と題するカフカ論(1950)を『クリティック』
に発表した後、1953年の春から『呪われた部分』第三巻にあたる『至高性』(第一巻『消尽』(既刊)、
第二巻『エロティシズムの歴史』(未完))を書きはじめるのだが、その際に以下のようなプランを残
している。
「第一部 現代社会における至高性に対する闘争
第一章、第二章 共産主義と至高性 --- 133 ---
第三章 禁止
第二部 至高性の歴史
第一章 死
第二章 キリスト教?あるいはもっと一般的な(エリアーデについての論文)?
第三章 軍事的なものと宗教的なものの対立(デュメジルについての論文)
第四章 騎士団 エロティシズムと文学への移行
第五章 ヘミングウェイ──唯一の可能性を示すための生き残りの例として、ただし、過去を志向
しており、何ら新しいものはなし
第三部 新しい至高性
第一章 カフカ
第二章 ニーチェ──『84』と未発表のもの
第三章 ニーチェとレーファーキューン──そして展開の内部に ニーチェとイエス(1)」
当時のバタイユが『至高性』という著作をどのようなパースペクティヴで構想していたか窺い知
ることができるが、本稿の論旨からすると、第三部の「新しい至高性」でニーチェと共にカフカの
名前がしるされていること、共産主義と至高性の関係についてバタイユが関心を抱いていたことが
興味深い。ニーチェに傾倒していたバタイユが「新しい至高性」を論じるにあたってニーチェを中
心に据えているのは当然だとしても、ニーチェとともにカフカの名前がしるされているのは、カフ
カがこれまでバタイユの代表的な著作で言及されていないだけに印象深い。
同じ年の12月から翌年の1月にかけてバタイユはプランを練り直しているが、その内の第四部が
「芸術の自律性」と名付けられ、ここにもカフカの名前がしるされている。
「4. 芸術の自律性(そこでは、とるにたらない優越性が見いだされる)
第一章 芸術と至高性についての一般論──予定
第二章 カフカ──とりわけガベルとアメリカについて再考
第三章 ニーチェ──再考
第四章 トーマス・マン──再考
第五章 ニーチェとイエス──再考(2)」
ガベルというのは、
『クリティック』にカフカ論を寄稿したジョゼフ・ガベルという人物を指し
ている。バタイユが『クリティック』にカフカ論を発表した三年後、ジョゼフ・ガベルは、同誌に
掲載された「カフカ、疎外の小説家」(1953)の中でバタイユを名指しで批判しているのである。バ
タイユはそれに対する反論の必要を感じていたのだろう。ガベルの批判がカフカの長編小説『アメ
リカ』の最終章「オクラホマの野外劇場」の解釈を論拠とするものであったことから、
「カフカ─
--- 134 ---
─とりわけガベルとアメリカについて再考」とバタイユはプランにしるしたのかと思われる。
では、ガベルのバタイユ批判はどのようなものだったのか。その前にその批判の意図を推し量る
ためにガベルがどのようにカフカを論じているか触れておきたい。
ガベルは、精神分析の用語を用いて、カフカと彼の作品をマルクス主義的な観点から解釈する。
フランソワーズ・ドルトなどの精神分析の著作を援用しつつ、「疎外」や「物象化」といったマル
クス主義特有の語彙を用いながらカフカの作品が論じられている(3)。カフカがユダヤ人として疎外
された状況にあったということから、ユダヤ人問題について思索していた青年時代のマルクスと重
ね合わせ、物象化という概念がカフカの作品理解の鍵となると考える。『城』のKは失業者であり、
『アメリカ』のカールは移民であるという状況は、人間は世界に異質な者として存在しているとい
うライトモチーフとなり、そうした条件のもとに、カフカの作品は「人間による人間の搾取と不平
等に基づいた社会を完璧にリアルに表したイメージ」を描いているとガベルは言う。作品を社会批
判の手段に還元する意図はないとしながら、『城』において官僚と労働者の間の階級格差が現れて
いる箇所を物象化を示す例として挙げ、ガベルの読解の力点は、プロレタリアートの側からみた不
平等な社会を象徴するような描写をカフカの作品に見いだすことに置かれている。例えば、
『城』
において村で一番の宿屋は城で働く官僚たちにあてられているといったことや、クラムという名の
労働者と主人公のKの間、村と城の間にコミュニケーションがないといったことである。こうした
立場から、ガベルは、城に恩寵を見るマックス・ブロートの宗教的な解釈に疑問を呈し、城に法体
系の物象化を見るルカーチの説に与して、城を官僚機構の象徴として解釈する。他方で、カベルは、
フランス社会学の知見を援用する形で宗教的な要素が作品に現れていることを認め、カフカは、人
間を破壊する存在を前にしてヌミノーゼ的とも言える宗教的な感情を抱いているとし、同時にそう
した存在に対して反抗を試みていることを一つの病理として解釈している。
「カフカに見られる二つの矛盾した世界──反抗の世界と宗教的な世界──は、おそらく彼の性格の本
質的に分裂病的な下地を示す数多くの現れの一例となっている。(4)」
このような分裂病気質は、例えば『審判』のヨーゼフ・Kが役人と被告という二重の世界を生き
なければならないということに現れており、精神医学で言われる「解離」 (dissociation)なのだとガ
ベルは主張する。『アメリカ』についてもアメリカという国は「去勢された者から見た非人間的な
世界のイメージ」であり、主人公カールは、父親に不品行を罰せられて追い出された去勢者であり、
その結果、女性たちを前にして積極的な行動を取らないのだと述べている。さらに、去勢という言
葉は、割礼の儀式を連想させ、父に罰せられて移民となった主人公はユダヤ人の境遇と重なる。そ
して、疎外され去勢された主人公が最後に辿り着く約束の地がオクラホマの野外劇場であり、そこ
にカフカの歴史的展望が見られるとガベルは解釈しているようだが、それは同時にバタイユ批判に
もなっている。
--- 135 ---
「カフカを焚刑にすべきか? と1926年に先見の明がある週刊誌が問いかけたことがあった。ジョルジ
ュ・バタイユ氏が、この焚書に最初に賛同した者──そしてそれは最も危険な者である──はカフカ
自身だと指摘したのはその通りである。しかし、バタイユがカフカがある種の世界で不興を被ってい
るのは、「歴史的な展望の欠如」だとしていることは認めがたい。オクラホマの野外劇場の存在だけで
も──カフカの社会計画は述べられていないにせよ──こうした命題に反駁するのに十分だろう。(5)」
ガベルは、註の中でもバタイユを批判している。
「バタイユによれば、カフカには「約束の地の否認」が認められ、それは共産主義者たちが抱く敵意の根
(6)
拠となっていると言う。だが、オクラホマの野外劇場はどうなのか?したがって、問題は別にある。
」
周知のように『アメリカ』の最終章「オクラホマの野外劇場」では、少年カールがアメリカでホ
テルのエレヴェーターボーイを解雇されたりしながら放浪を重ねる中で、サーカスを見世物とする
一座に採用される経緯が描かれている。ガベルは、それを共産主義の描く理想社会の実現の象徴と
して解釈しているのだろう。カフカが共産主義陣営からは冷遇されるなかで(7)、ガベルがマルクス
主義の語彙を用いて『アメリカ』の一つの挿話から「歴史的展望」を導き出すのは興味深くもある
が、自らの世界観へひきつけるために作品から「メッセージ」を読みとろうとしすぎたきらいがあ
る。カフカの作品の中で例外的に「ハッピーエンド」で終わる『アメリカ』──終わるといっても
未完の小説なのだが──を取り上げて、カフカの「思想」に「約束の地」を読みとるというのは説
得力に欠けている。
文学作品を精神分析や社会思想に還元するような形の読解が情趣をそぎ、説得力に欠けるのは言
うまでもない。しかしながら、文学をいかに歴史との関係の中で価値づけるのかという政治的な問
題は、当時の時代状況からすれば、避けて通れないものであり、その問いかけはバタイユ自らが主
宰する雑誌『クリティック』の内部から突きつけられることになった。カフカをどう解釈するかと
いう問題と共産主義に対してどのような姿勢をとるかという問題が密接に結びついていた状況にあ
って、バタイユは文学と社会的現実との関係についての考察を迫られていたのである。バタイユが
『至高性』にカフカ論を収録しようとした背景には、このような経緯があったからだと思われる。
2. 至高性と共産主義
バタイユは、こうした「政治と文学」の問題についてどのように考えていたのだろうか。この問
題をバタイユのカフカ論が『至高性』の一部に収録されるはずだったという事実から探ってゆくと、
『至高性』において共産主義の問題が大きく取り上げられていることを看過することはできないだ
--- 136 ---
ろう。ガベルへの反論の必要をバタイユが感じていたのも、そこに共産主義の問題が避けられない
ものとして感じられていたからだと推測される。実際、この時期、バタイユは『クリティック』に
二度にわたって「共産主義とスターリン主義」 (1953)という論文を寄稿しているし、『至高性』の
草稿には共産主義の問題についてかなり紙片が割かれている。
当時の時代状況をふりかえってみると、 1953年という年は、スターリンが死去し、マレンコフ、
ついでフルシチョフが首相に就任するという政局が大きく動いた年であり、ベリヤの解任、処刑、
東ベルリンでの暴動にソ連軍が介入した年でもある。そのほかにもバタイユが共産主義の問題を扱
った背景としては、戦後まもない1945年10月にフランス共産党が総選挙で161議席を獲得し、国会
の第一党になり、1947年まで政権に参画していたということ、フランス共産党がある時期までスタ
ーリン主義を擁護する立場をとりながらも国民の一定の支持を獲得していたという事実も重要だろ
う。
バタイユは1931年から1933年までマルクス主義者ボリス・スヴァーリンの主宰する民主共産主義
サークルに参加し、機関誌『社会批評』に「消費の概念」や「ファシズムの心理構造」といった論
文を発表したことからわかるように左翼系知識人であった。この時期のバタイユは、社会における
異質なものの探求を通じて、フランス社会学が注目した社会における聖なるものをプロレタリアー
トの階級闘争に結びつけるという可能性を探っていた。戦後のバタイユは、これまでの「異質学」
を最終的には至高性という概念のもとに多面的に掘り下げてゆくのだが、そこで共産主義の問題に
直面する。至高性とは端的に言って、非生産的な消尽へと差し出される恍惚のモメントであるが、
それがともするとアナーキズムや神秘主義として曲解される危険性があり、共産主義者に限らず社
会の変革を訴える者にとって「不真面目」や「不可解」に映ったことは想像に難くない。そのため
バタイユは、至高性という概念を様々な角度から検討し、歴史的にも真正なるもの──ただしそれ
は体験自体を拠り所とし、いかなる観念論的な倒錯にも陥らないかぎりにおいてだが──であるこ
とを論じようとする。しかしながら、至高性を論じるにあたって歴史的に遡れば、サルトルの『文
(8)
学とは何か』
でバタイユの蕩尽の理論は過去において存在した祝祭への郷愁に過ぎないと切り捨
てられ、現在という瞬間的な享受を問題とすれば、既に触れたように歴史的展望に欠けるという批
判を浴びることになる。
バタイユに「歴史的展望」が欠けているとすれば、以下のような見解が一因であると思われる。
「この世界がどうなるかということは、考えないようにしよう。それは私たちにはわからないことであ
.........
るし、この世界は、いかなる点においても認識に見合ったものではないからだ。世界がこうはならな
....
いだろうと言うことで十分である。(9)」
つまり、バタイユ的唯物論は、このようなプラグマティックな現実認識に裏打ちされており、根
拠の無い希望や信仰に基づいた理論は考察の対象とならない。『至高性』では主として「世界がど
--- 137 ---
うであったか」という点から分析がなされているが、そこでは共産主義者たちが夢想する「革命」
の実現可能性というものが、歴史的にみて不可能に近いということが以下のように主張されてい
る。
「古典的なマルクス主義と同時に現代のマルクス主義に抗して私が強調したいのは、イギリスやフラン
スの革命以来の近代のすべての大革命と、崩壊しつつある封建体制との関連である。つまり、これま
でのところ、ブルジョワ支配が確立した体制を打倒するような大革命は、一度も起こっていないとい
うことだ。ある体制を覆した大革命はすべて、封建社会が含みもつ至高性によって動機付けられた反
抗から始まっている。(10)」
周知のようにマルクス主義の理論によれば、社会主義革命が起こるのは、資本の蓄積が進んだ産
業の発展が最も高い水準に達した国々においてであり、発展途上国においては、市民革命へ熟する
契機をはらんでいても、社会主義革命の可能性は低いとされていた。ところが、現実には、資本主
義社会が豊かになればなるほど、給与所得者の生活は改善され、革命というラディカルな反抗形態
をとる動機も弱まり、むしろ農業を中心とする封建制の名残りを帯びている中国やロシアにおいて
革命が生じた。こうした事態は、先進国においてプロレタリア革命が起こることを信じていたレー
ニンやトロツキーにとってまったく予想外の展開であったし、結果として、共産主義は、貧しい国
が人民に過酷な蓄積を課すことによって産業構造を一挙に転換するためのイデオロギーという色彩
を帯びるようになった。ロシアや中国の労働者階級がそうであったように、十分な蓄積を行わなか
ったブルジョワに代わって、プロレタリアートが蓄積へと駆り立てられるという結果へ行き着いた
のだった。バタイユは、このように共産主義革命の変遷をたどることで、マルクス主義的な問題設
定以外の観点から歴史を捉えなおす必要を感じたのだと思われる。バタイユの考えでは、革命が体
制に対する反抗によって生じる出来事だとすれば、そこには、封建社会において顕著であった至高
性という契機が認められるのであって、資本主義社会が豊かになることは、社会主義革命を促すど
ころか至高性の衰退をもたらすのであり、結果として革命の可能性を減退させる。マルクス主義の
理論と実際の歴史の展開とに齟齬が生じるなかで、バタイユは、前近代的な社会から近代的な社会
へ移行したことの意味を至高性が困難になってゆく過程として考察している。
このようにバタイユ的な歴史観では、封建社会においては、富を非生産的で至高なやり方で消尽
することが重視されるということ、ブルジョワ的な社会では、資力や諸手段の蓄積が優先されるこ
とが、前近代的な社会から近代的な社会への移行を示す指標となる。ところで、バタイユが封建社
会と言う時、単に土地の所有形態を示すのではなく、大土地所有者が至高性を享受していたという
ことを示している。人々を驚嘆させるために教会や宮殿などの様々な大建築が建造された結果、国
家の財政が圧迫される一方で、他方では、その非生産的な消尽によって至高性の輝きに間接的に触
れる機会のあった民衆は、それを革命という反抗へ転移させる可能性を秘めていた。蓄積に励むこ
--- 138 ---
となく常軌を逸した蕩尽を繰り返す支配階級に対立する形でしばしば革命が生じたのだが、ブルジ
ョワ的な社会では、生産の諸手段を増大させることが優先され、至高性は衰退し、富の分配は個人
の差異化を際だたせるための消費として消尽の強度は失われてゆく。ブルジョワジーが権力を掌握
した後、1848年の6月暴動、パリ・コミューン、スパルタクス団の蜂起だけが大規模な大衆蜂起と
して記録されているが、バタイユによれば、労働者たちは、ブルジョワジーと共闘した際の容易な
る展開に幻惑されていたのであり、権力の行使に長けているブルジョワジーに無知であったために、
反乱はたちまち制圧されることになった。このような「歴史的展望」にたったとき、肝要なのは、
未来への展望を性急に描くことではなく、社会の上部構造がどのように決定されるのか従来のマル
クス主義とは別の観点から仮説をたてることである。
「社会の上部構造がどのように確定されるかということは、資財の超過部分を生産手段を作り出すこと
に充てることと密接に関わっている。その場合、生産手段をブルジョワたちが個人で所有しようと、
それとも集団的に労働者たちが所有しようと、たいした問題ではない。第一に重要なのは、生産手段
の増大であり、国の生産力の総量が拡大することである。経済構造の面から考えると、この点こそ、封
建制社会と産業の発展した社会とを分かつ相違の本質なのだ。(11)」
共産主義は、生産能力の拡大を集団で目指す思想であり、教育や国防、公共事業など生産の効率
を上げるために必要な欲求には応じても、バタイユが至高性と呼ぶようなモメントに関係する「贅
沢な」欲望を認めはしない。ある有用な目的は、他の目的を満たすための目的であるとすれば、そ
の目的の連鎖は結局のところ限りがないわけであり、そのための活動が人間の様々な欲求を満たす
ためになされるにしても、現在という瞬間の享受には至らないということがバタイユにとっては批
判の対象となる。
このように共産主義を解釈するならば、芸術作品を共産主義的な歴史的展望に立って解釈するこ
とはバタイユにとっては論外であり、元来「贅沢な」欲望に呼応するはずの芸術を目的へと奉仕す
る労働へと還元することになってしまう。バタイユがカフカと共産主義の関係を論じたのは、生産
と消尽という軸から歴史的なパースペクティヴを描くことで衰退した至高性の痕跡をたどっていっ
た結果、目的や効率性という観念的な操作に従属しない形態の一つとして芸術という領域があった
からかと思われる。『至高性』という書物は、ニーチェと共産主義の関係を唐突に論じたまま、未
完で終わってしまったが、本来ならば、そこにカフカ論が収まることによって、芸術の至高性を十
分な形で論じるはずであったと思われる。カフカが一部の共産主義者から蛇蝎のごとく嫌われてい
たということ、あるいは逆にイデオロギーに奉仕させるために利用されていた状況において、カフ
カ論は、共産主義と至高性の関係を論じるにあたって効果的な主題だったのである。
--- 139 ---
3. バタイユからカフカへ
それではバタイユはどのようにカフカを読み込んでいたのだろうか? まずバタイユは、カフカ
を「目的」というものが罠として現れることを描いた作家だと述べている。その論拠としてカフカ
がモーゼについて語っている一節 (12)──モーゼが約束の地に入れなかったのは、人生の短さゆえ
ではなくそれこそが人間の生であるということ──を引用して、目的という概念はすべて一様に意
味がないと断言する。このようなともするとニヒリスティックな主張の矛先は、直接には世界を改
革するという「目的」をもった共産主義へと、それと同時に観念論的な操作のもつ従属作用一般へ
と向けられている。
「行動」することには、ある目的の実現に向かって現在の欲求や欲望を断念し、
何かしらの労働に従事することを意味するが、その目的が社会にとって有害ではない限り、一般的
に善であり、悪くとも批判されるべきことではないように見える。ところが、バタイユは、その目
的の内実に関係なく、現在時の享受を妨げる概念は批判されるべきであり、カフカこそは、目的と
いう目的が罠であることを描き出した作家だと言う。先のモーゼの挿話を受けてバタイユは以下の
ように解釈している。
「これは、単にこれこれの善が虚しいということだけでなく、目的という目的は、すべて一様に意味が
ないということを表している。すなわち、一つの目的とは、常に、水の中の魚のように時間の流れの
.......
中に希望もなく投げ入れられている、宇宙の運動の中の任意の一点でしかないのだ。それというのも 、
.... ..................
この場合、ほかならぬ人間の生が問題だからである。(13)」
カフカの作品には歴史的展望がないというのは誤りである、というガベルのバタイユ批判は、目
的には意味などないというバタイユのこうした発言に触発されたのかと思われる。ガベルは、バタ
イユがここで問題にしている「人間の生」というのをマルクス主義的文脈から疎外されていない生
だとし、『アメリカ』はそうした「約束の地」へと辿り着く物語だと解釈する。それに対して、バ
タイユは、「人間の生」というものを、書くことや読むことといった行為を通して生きられる体験
として捉えているように思われる。つまり、作品の意味や価値は作品外の理念や思想にではなく、
文学的体験とでも名付けられるものそれ自体にあるということである。例えば、バタイユはカフカ
の作品において顕著な、不幸の強度が増してゆくプロセスを評価する。『審判』や『城』の主人公
たちは、理不尽な現実を前にして右往左往する中で、不幸が強まることによって生の防御壁が瓦解
し、未来を前提とするあらゆる価値が相対化され、不安の中で未知なるものを予感するが、それが
何なのかは読者にも最終的に明らかにされない。未知なるものを宗教的な啓示や哲学的な認識に帰
すことのない、このような危機的な位相においては、極度の緊張の中で「死」と対峙することを余
儀なくされるわけだが、このようなプロセス自体が行動や効率性の優位を挫く至高なる契機を包含
しているとバタイユは考える。
--- 140 ---
このようにカフカが開示してみせたのは、苦悩が恍惚へと反転する体験であって、この体験は神
の恩寵でもなければ、何らかの思想を例証するでもなく、それ自体何に対しても奉仕もしなければ
役にもたたない無用なものである。この点について、バタイユは、カフカ自身が自分の著作を焼き
捨てようとしたことに着目し、カフカの作品は本質的に燃やされるために書かれていると述べてい
る(14)。このことは、作品の使用価値とは、何らかの目的の達成のために寄与する交換価値として
ではなく、その場で消尽される非生産的な行為そのものにあることを示している (1 5)。カフカが
『死刑宣告』の執筆中、その主人公が自殺する結末を書くときに射精のことを考えたというマック
ス・ブロートへの一節(「きみは、この最後の文章が何を意味するか知っているかい。僕はこれを
書きながら、猛烈な射精のことを考えたんだよ。」)をバタイユは引用しているが(16)、このことは、
エロティシズムと死との親近性というバタイユ的な主題を意味するだけでなく、書くこととエロテ
ィシズムと死、という三つの項においてバタイユが文学について語っていることを明らかにしてい
る(17)。つまり、バタイユは、カフカのエロティシズムを作品の内にせよ外にせよ男女の関係に限
らず、書くという行為そのものが包含するエロスとして解釈している。バタイユが書評を書いたカ
フカ論の著者であるミシェル・カルージュが書くという行為に父親に対する敗北感を補償する働き
を見ていたのに対して、バタイユは、「喜びの至高性を、つまり、存在が至高なやり方で無へと横
滑りすること──この無とは、他者たちが存在に対してそうであるような無である──を表してい
(18)
るということがわかる。
」と述べているのは、バタイユが書くという行為に対して、現実に対す
る代償行為とは異なる次元で捉えていたことを示している。つまり、書くということを代償行為と
いうリビドーのエコノミーに還元することなく、主体が言葉を介して非人格的な動きへと巻き込ま
れていく体験としてバタイユは考えていたのである。
認識主体にとっては自己が内部であるならば他者は外部であり、死は個体の有限性を示す無とし
て、不可能なものとして表象される。死とは、本質的に死という言葉でしか名付けえぬ未知のもの
である。バタイユが問題としているのは、自と他という枠組みに基づいた個体意識のたががはずれ、
無へと開かれることで自己と他者の区別が無効となり、通常の認識からコミュニカシオンによる認
識へと転じることで、死がもはや空虚ではなく存在の充溢となるような位相である。「至高の横滑
り」を通じて「内部」となった他者とは、強度の情動によって引き裂かれた際の主体による認識の
限界点であり、シュミラークルとしてしか召還されえない死という非現実性が痕跡として残す不在
が指し示すものとしか定義不可能な対象である。
「他者」
「死」
「存在」
「無」といった言葉を駆使し
てバタイユが示そうとした至高性とは、死の隠喩によって指し示される非 -知のモメントを個とい
う契機から表象されていた死という外部たる虚無が存在の充実性のもとに苦悶の中で非現実の瞬間
として生きられる体験のことなのだ(19)。
このようにバタイユはカフカを論じることで文学の至高性を問題としている。文学の至高性とは、
文学作品と呼ばれるテキストを読み書くことの特異性をバタイユ的な「内的体験」の次元において
捉えることである。供犠に象徴されるような原初的な至高性たる宗教的なパトスが、共産主義や資
--- 141 ---
本主義といった社会システムの変化の中でいかなる変遷をたどったかを描こうとする時、文学は、
経済的効率性に対する無力や無意味によって至高なる主観性の表現を受け持つようになったとバタ
イユは解釈する。
カフカ論において父子関係の比喩でカフカの本質的な子供っぽさが語られるのは、文学がこの無
力さと結びついているからである(20)。父が意味するのは、目的の優位や権威であり、効率性の価
値であり、子供はそれに対する反抗や無責任な態度を示すと言うことができるだろう。バタイユは、
カフカの短編「国道の子供たち」を引用しながら、遊び仲間にまぎれこんでゆく際にカフカが感じ
た少年時の躍動を強調し、陰鬱で悪夢のような世界を描いたという月並みなカフカ像を転覆しよう
とする。この少年時の至高の躍動は、
「目的を追い求める行動」から逃れる契機として死という主
題と結びつく。というのも、少年時の躍動においては死の恐怖から労働へと陶冶することを根拠と
する秩序は壊乱し、未来に何も目指さず何も求めず現在という瞬間を無心に享受するため、最終的
には死と隣接することも十分にあり得るからである。この時、無益にして無力な自由に酔いしれる
ことが可能になるとバタイユは考える。カフカの作品に現れる「子供っぽさ」を先にガベルが分析
した精神分析的な解釈に基づいた病理や退行ではなく、言語により言語秩序が壊乱した世界を生き
る試みを示すのだとすれば、こうしたカフカの「子供っぽさ」は、文学の至高性の様相を示すもの
であり、その文学的体験の無力と不真面目さの肯定の現れなのである。精神分析という一つの知の
体系に照らし合わせて、そこから遡及する形で正常と病理に分割し、後者にそれらしき名称を与え
て事足りるとする態度は、バタイユ的な観点からすれば、文学の本質をまったく理解していないこ
とを露呈するふるまいであり、古代から脈打つ至高性の契機を単なる倒錯の徴候として抑圧するこ
とになるのである。
....
.........
「私たちは、カフカの作品において、その社会的な面と、家族に関する性的な面と、最後に宗教的な面
とを区別して考えてみることはできる。しかしこのような区別は、煩わしいばかりで、ともすると浅
薄に思われる。というわけで、私は、ここまで論じるにあたり、これらの面が一つに溶け合うような
観点を導入しようとしたのである。(21)」
このような観点からすれば、「子供っぽさ」という主題は、社会に対する反抗という「社会的な
面」のみにおいて理解されるべきではなく、同時にエディプスコンプレックスという仮説からリビ
ドーのエコノミーを説明する「家族に関する性的な面」のみが強調されるべきでもなく、あるいは
古代社会の祝祭へのノスタルジーへと還元するような「宗教的な面」において未開人と子供を同一
視してしまうことも避けなければならない。至高性という問題設定こそがバタイユにとって「これ
らの面がひとつに溶け合うような観点」でなのであり、この点において、カフカと共産主義の関係
は考察されなければならず、それと同時に共産主義者がカフカは焚刑に値すると恐れた理由も明ら
かになる。カフカは、
「行動」や「効率性」といった共産主義であれ資本主義であれその社会の存
--- 142 ---
続に不可欠の概念の自明さを根底から揺るがし、子供っぽさという至高の躍動から死の限界まで読
者を惹きつける危険な作家なのであり、バタイユによれば、この毒性こそ文学の至高性を示すので
ある。
以上のように、バタイユのカフカ論は、最初に『クリティック』に発表された後、同誌において
批判を浴びる中で、『至高性』へ推敲を加えた形で収録される計画がノートとして残されていたわ
けであったが、結局は、
『文学と悪』に収録されることになった。そのために当時の共産主義と文
学の問題という時代背景が抜け落ち、バタイユの言う「至高性」が説明不足のままカフカと結びつ
けられることになった。本稿はこうした文脈を再構成することを試みたわけだが、そこで明らかと
なったのは、バタイユがカフカの作品の特異性を主として「死」と「子供っぽさ」という観点から、
自らの思想の集大成ともいえる至高性という主題を文学の体験として深めようとしていたことであ
る。それは共産主義への批判も暗に含まれていたが、主眼となるのは、あくまでも文学的な体験の
位相を探ることであった。さらに、こうした体験の無力さが強調されていたことは、当時の時代状
況を鑑みると特筆すべきことであるが、共産主義に対抗する世界変革の手段として文学を過大評価
も過小評価もしていなかったということを示している。なぜなら文学作品を政治的な次元で評価し
たり貶めたりすることは、文学作品の特異性を有用性の観点によって平板化してしまうからだ。バ
タイユがカフカから感得したものとは、全体主義国家のアレゴリーや不条理な実存、歴史的展望を
示す物語といった重々しい解釈ではなく、言語の推論的な従属作用を逆手にとって「意味」や「目
的」「効率性」を擦り抜けてゆく文学言語を通じて賭的な動きの中へと生が転じる文学の至高性だ
ったのである。
注
(1)O.C., VIII, pp.602-603.
(2)O.C., VIII, p.604.
(3)Joseph GABEL, « Kafka, Romancier de l’aliénation », in Critique, no 78, novembre 1953.
神経症的な幼女
をドルトが人形で治療したという挿話から、ガベルは、カフカが動物の登場する話に自らのコンプレ
ックスと自閉症を投影したと解釈し、「巣穴」を自閉症を描いた作品だとしている。
(4)Ibid.
(5)Ibid.
(6)Ibid.
(7)カフカは希望を描いたのか絶望を描いたのかという問題は議論の的となっていたが、とりわけソビ
エトではカフカアレルギーが強かったようである。 1963年にプラハ近郊で開かれたカフカについての
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国際会議をもって、東側においてカフカが公に認められたという経緯が当時の共産党員へのインタビ
ューという形で以下の論考に詳しく述べられている。 Antonin Liehm, «Franz Kafka dix ans après», Les
Temps modernes, no 323, juillet 1973.
(8)Jean-Paul SARTRE, «Qu’est-ce que la littérature?» in Situation II, Gallimard, 1948, p.225.
(9)O.C., VIII, p.346. 邦訳『至高性』(湯浅博雄、中地義和、酒井健訳)、人文書院、1990, p.179.
本稿で
の引用文は、訳文を統一させるために邦訳を参照した上で新たに訳出したことをお断りしておく。
(10)Ibid., p.321. 邦訳『至高性』、p.136.
(11)Ibid., p.331. 邦訳『至高性』、pp.154-155.
(12)O.C., IX, p.272.
邦訳『文学と悪』、p.235.「彼が約束の地を、その死の前夜にしか見ることができ
ないように宿命づけられていたということは、信じられない事実である。この至上の予見は、おそら
く人間の生が、いかに不完全な一瞬でしかないかを表す事実に他ならないのだろう。それというのも、
この種の生(約束の地の期待 )は、たとえ無制限に持続することがあるとしても、その実現はただの一
瞬でしかないからだ。モーゼがカナンの地に入ることができなかったのも、彼の生があまりに短かっ
たからではなく、それこそが人間の生だからである。」(Journal intime . Suivi d’ Esquisse d’une
Autobiographie. Considérations sur le Péché. Méditations. Introduction et traduction par Pierre KLOSSOWSKI,
Grasset, 1949, p.189-190 (19 octobre 1921).
(13)O.C., IX, p.272.
邦訳『文学と悪』、p.235.
ちなみにバタイユが引用しているのは、以下の文献か
らである。 Michel CARROUGES, Franz Kafka, Labegerie, 1949, p.103.
(14)O.C., IX, p.271.
邦訳『文学と悪』、p.234.「いずれにせよ、カフカを焚刑に処するという考えは─
─たとえそれが一つの挑発であったとしても──共産主義者の考えでは、理に適っていたのである。
この想像上の炎は、カフカの諸作品をよりよく理解する上で役にたつ。すなわち、それは、燃やされ
るために書かれた書物、つまり、まさに燃やされることだけが欠けている客体なのである。これらの
書物は現にそこにある。しかし、消滅するためにそこにあるのだ。まるでもはや既に無化されてしま
っているものであるかのように、そこにあるのである。
」
(1 5)使用価値と交換価値という問題設定でバタイユを論じたものとして以下の論文を参照。
Denis
HOLLIER, «La valeur d’usage de l’impossible», Documents, 1929, no 1, Paris, Jean-Michel Place, 1991, I.
(16)O.C., IX, pp.281-282.
(17)O.C.,VIII, p.447.
邦訳『文学と悪』、p.254.
邦訳『至高性』、 pp.323-324. 「私たちは、恋愛を越えたところで、自分と不特定
な同類とに共通する、ある主観性を、うまく表現できる見通しなどないままそれでも表現しようとす
る行為へと投げ出されて、生きている。この不特定の同類とは、文学が対象とするものであるが、私
たちが主観性を彼に伝達する時、彼は私たちにこの主観性を感得させる。このような至高性はおそら
くは、耐え難いものの中での窒息である。それは、空虚な状態をもたらす射精を、
「死んでしまわない
ではいられない」と叫ばせる恍惚を思わせる。だが、もはや趣味道楽などが問題なのではない。至高
な芸術は、可能なるものの極限に至る。」
(18)O.C., IX, p.282.
(19)O.C., IX, p.282.
邦訳『文学と悪』、p.255.
邦訳『文学と悪』、p.260.
「私たちは、存在がある形態から他の形態へと移行す
ることに対して基本的に注意を払うけれども、それは誤ってそうしているにすぎない。私たちは、生
まれながらに不具なために、他者たちを、まるで彼らが外部にしか存在しないものとして認識するが、
しかし他者たちとは、わたしたちに劣らず、内部に存在するのだ。ところで、私たちが死を考える時、
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世界はただ充実したものだけで構成されているのにもかかわらず、個人としての不安から、死の残す
空虚が頭から離れない。しかしながら、この非現実的な死は、空虚の感情を残しながら、苦しめると
同時に、私たちの心を惹きつける。というのも、この空虚は、存在の充実性のもとにあるからだ。」
(20)バタイユの名は参照されていないが、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリのカフカ論におい
ても、カフカの作品における「子供」という主題(“le bloc d’enfance”)が取り上げられており、彼ら独自
の存在論へとカフカの作品を組み込む形で論じられている。
( Gills DELEUZE , Félix GUATTARI,
Kafka, Pour une littérature mineure, Les Éditions de Minuit, 1975, p.141.)
(21)O.C., IX, p.284.
邦訳『文学と悪』、p.260.
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