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“Metzengerstein” は悲しまない ——E. A. Poe と〈ファントム〉の詩学

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“Metzengerstein” は悲しまない ——E. A. Poe と〈ファントム〉の詩学
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“Metzengerstein” は悲しまない
——E. A. Poe と〈ファントム〉の詩学──
小原 文衛
1
“Metzengerstein”。 E. A. Poe 最初期のテクストの一つである(初出は 1832
年)1。このテクストの主人公 Frederick Metzengerstein は重大な対象喪失を経
験する。父親G──が若くして死ぬ。ほどなくして母親Mary も死んでしまう。
こうして Frederick は 18 歳にして主人の地位を継承する。我々がはたと立ち
止まることになるのはここである。我々は一つの脱落に直面する。それは悲哀
(喪=mourning)の脱落である。つまり,Frederick は悲しまないのだ。Freud 以
降,読解という作業に取り組む我々にとって、 “Metzengerstein” というテクス
トが手強いテクストたる所以はここにある。
Freud 以降,厳密には “Trauer und Melancholie”(1917)以降,死は断じてそ
の場限りの出来事ではありえない 2 。Freud 最初期のテクスト Studien uber
Hysterie(1895)においてすでに先駆的理解がなされていた通り 3,死,対象喪
失という出来事には,つねに悲哀・喪の心的過程が随伴するはずなのである。
一般化の弊害を恐れずにいうなら,それは悲しむということであり,想起を中
心とした一種記憶の仕事である。“Trauer und Melancholie” においてはじめて,
Freud はこの仕事を「喪の仕事 Trauerarbeit」と呼ぶことになる。とりわけ死
という究極的形態をとる対象喪失は,つねに何らかの精算を迫る。対象喪失の
後「悲哀感のおこらぬことはかえって理屈にあわぬ」ことだと Freud は考え
ていた(F
137)。
喪の不在。“Metzengerstein” のテクストをひも解けば,対象喪失に随伴する
べき喪の心理の記述が,いかに希薄であるかが明らかになるはずである。
Frederick の “the natural sorrow” は,彼の “atrocious and reckless behavior” に席
を譲り(P II 193),母親 Mary の死に関する記述のなかでも彼の喪の心理は完
2 小原 文衛
璧な宙づり状態にある(P II 371)。さらに,Marie Bonaparte がいかにも精神分
析家らしい挙措で注意を喚起している通り(Bonaparte 274-5),件の母の死に
関する説明的な記述すら,1850 年版で削除される運命を辿る。Bonaparte の精
神分析的伝記とは異なる道を行くことを意図する我々にとっても,この削除は,
以下の読解が示す通り,極めて重大な意味を持つことになるのである。
Frederick は何故に悲しまないのか?何故に彼の喪の過程は宙づりとなるの
か?本論考を縦断する第一の問いがこれである。先に言及した母親の死に際し
た Frederick の心的世界について,こんな記述がある。“...a barrier had long since
arisen in the channel of all holy thoughts and gentle recollections.”(P II 71)ここに
含意されているのは, Frederick において,想起的な心的作業としての喪の仕
事がつねに挫折の運命を辿るということだと考えられる。
喪の挫折。喪の仕事とは,死という出来事によって典型化される過去につい
ての遡及的理解に他ならない。このような過程の挫折は,どんな帰結をもたら
すのか?それが反復強迫である。Freud が記述するように,「〈理解されなかっ
たもの〉は,やがてふたたび立ち現われてくるのである。それは救済されない
霊魂のように,解決や救済をうるまでは浮かばれない」(F V 258)。遡及的理
解というかたちで精算されない過去は,強迫的な反復という形で自己主張を開
始する。喪の仕事に関する論考の中で, Margarete Mitscherlich-Nielsen も次の
ように記述する。“When denial, repression, and derealization of the past take place of
working through, a compulsion to repeat is unavoidable, even though it may be
concealed.”(Mitscherlich-Nielsen 406)喪の挫折を前にした今,我々がテクスト
に嗅ぎ付けなくてはならないことは,何らかの反復なのである。
Frederick は何故に悲しまないのか?我々はこのように問う。故に我々は
Frederick という〈人物〉を寝椅子に横たわらせて,彼の生活史に何らかの反
復を追うことになる。しかし,我々はここに至って,Frederick という〈個人〉
を対象とする character analysis の限界に直面することになる。テクストを縦断
しつつ,反復を追う我々は Frederick という〈個人〉だけを問題としていては
理解不可能な反復に遭遇することになるからである。以下,父母という喪失対
象に対する Frederick の喪の不在の問題からはいったん迂回することになるが,
後に判明するように,この反復の考察は我々を元の進路に復帰させ,我々の発
した問いに一つの帰結をもたらすことになるのである。
“Metzengerstein” は悲しまない 3
2
Berlifitzing 家と Metzengerstein 家。この二つの家系は数世紀に渡り,極度の
敵対関係にある。前者の主人たる人物が Wilhelm Berlifitzing 伯爵である。彼は
すでに老齢の身であるが,馬への異常とも映る偏愛によって知られる。身体の
虚弱,高齢,知的無能にもかかわらず,日々危険な狩猟への参加を続けるので
ある。Frederick が父親G──の死により主人たる地位を継承した4日目の晩,
火災が発生した馬小屋からその偏愛対象を救出しようとした Berlifitzing 伯爵
は,もろとも焼け死んでしまう。
伯爵の焼死という事件の直後, Frederick は後に “Metzengerstein” というテ
クストの究極的なタブローを共に構成することになる
“a gigantic and fiery-
colored horse”(P II 190)を受け取る。この馬は額に W.V.B.という烙印
があることから,火災のあった伯爵の馬小屋から脱出したものと目されるが,
Berlifitzing 城の人々はこの馬の所有権を主張しない。 “... all at the castle are
positive in denying any knowledge of the horse.”(190)伯爵の焼死の時点,Frederick
は Metzengerstein 館の一室で自らの家系の来歴が描かれているタペストリーを
眺めていた。Frederick の視線は,このタペストリーに描かれる,ある形象に
釘付けになるが,その形象こそが,“an enormous, and unnaturally colored horse” で
ある(188)。この馬は宿敵である Berlifitzing 家の持ち馬として描かれており,
その騎手は Metzengerstein 家の人物によって刺し殺されている。この描かれた
馬は,Berlifitzing 城の馬小屋の炎から飛び出してきた馬の “the very counterpart”
だとテクストに記されている( 190)。さらに, Frederick は件のタペストリー
の一部分が消失したという事実を知る。これ以降, Frederick は馬との一種想
像的な二項関係の中に自らの存在を制限し,取り憑かれたように日々乗馬を続
ける。そしてある嵐の晩,突如として凄まじい炎が Metzengerstein 館を包む。
件の馬は,Frederick を乗せたまま,炎の中に姿を消す。
Frederick は死んだ。それも Berlifitzing 伯爵と同じように,馬とともに,炎
の中で。さらに, Frederick の馬との関係性は, Berlifitzing 伯爵が自分の馬に
示した偏愛とどこか似ている。ここには何らかの類似性がある。馬との関係性
において,Berlifitzing 伯爵は David R. Saliba が指摘する通り,“insane” である
といえる(Saliba 98)。件の嵐の晩,乗馬に向かう Frederick も “a maniac” の
ようだと記されている(P II 195)。伯爵と馬との関係性,Frederick と馬との
4 小原 文衛
関係性。二つの関係性に類似点を見出すことは,二つの関係性の間に反復の一
形式を見出すことと一である。このテクストでは,現在の時点で,少なくとも
二人の人物が連続して同じような最期を遂げたと考えられる。
二つの関係性,二つの死の間に想定される反復性。二つの死,これらは二人
の主人の死である。我々がここで注意しなくてはならないのは,このテクスト
に出来する主人の死は三つであるということである。もう一人の主人が死んで
いる。そう,G──である。彼はどのようにして死んだのか。実はG──の死
に関する記述には,彼が若くして死んだということ以外,何の情報もない。こ
れは裏を返せば,彼の死に関してテクストは開かれているということであり,
推論的な接ぎ木を行うことが可能だということだ。すなわち,他の二人の主人
の死が何らかの反復を構成している以上,演繹法によって,第一の主人たるG
──も同じような最期を遂げたと考えることが可能なのである。
“Metzengerstein” とは “a horse” が位置移動を繰り返す物語である,このよ
うに想定してみてはどうだろう。馬は順繰りに位置を変えていく。その帰結と
してこんな反復が生まれる。ある人物(G──)が馬との関係性のなかで死に
いたり,また一人の人物(Berlifitzing 伯爵)が同様の死を遂げ,さらに別の人
物(Frederick)が同じような死を遂げる。これがテクストを縦断する反復強迫
なのだと想定してみよう。すると,我々がここで相手にしているのは Freud 的
な個人的無意識ではなくなる。この反復強迫は超個人的に構成されている。少
なくとも3人の〈人物〉がこの反復の構築に関与しているのだ。我々は Freud の
枠組みを超えて,一つの概念を想定する。それを暫定的に超個人的無意識と呼
ぶことにする。
3
超個人的無意識。実は Freud のテクストにもこれに似た考え方がないわけ
ではない。例えばこんな記述がある。「ひとりの人間の〈無意識〉が,〈意識〉
を避けながら,他の人間の〈無意識〉に反応することができるのは,まことに
注目に値する」(F VI 106)。しかし,Freud 自身がこの概念を本格的に深化・
発展させることはなかった。この深化・発展は,
Nicholas Abraham と Maria Torok
の「ファントム」理論として顕在化することになる。
ファントムの理論。ここでは,ある世代の主体の無意識にあるギャップ(=
“Metzengerstein” は悲しまない 5
抑圧)が次の世代に属する主体の無意識に移植される。間無意識的な伝達の過
程。「ひとりの人間の〈無意識〉
」の割れ目は初発状態のまま,
「他の人間の〈無
意識〉」に移植される。この際に媒体となるのが言語である。親と子というモ
デルでは,子供は親の言語から無意識的なギャップ,未知の,認識されない知
識(“a nescience”)を受け取ることになる。この “unknown phantom” はホスト
である子供に寄生する。さらに,である。 “Its effect can persist through several
generations and determine the fate of an entire family line.”(Abraham/Torok 140) こ
のギャップは親の言語に寄生する一つの裂け目,一つの秘密として機能する。
“The unspeakable secret suspended within the adult is transmitted silently to the child
in undigested form and lodges within his or her mental topography as an unmarked
tomb of inaccessible knowledge.”(Rashkin 27-8)到達不可能な知。表現不可能
な秘密。それが住まうトポスが「クリプト」である。抑圧空間としてのクリプ
ト。この抑圧は Freud 理論における「力動的抑圧」とはラディカルに異なる。
これは「保存的抑圧」である( Abraham/Torok 159)。「保存的抑圧」において
は抑圧という事実すら抑圧されてしまう。徹底的な無視の機能である。徹底的
な沈黙,徹底的な秘密。Jacques Derrida が指摘する通り,「ファントム」にお
いて問題となるのは「他者のクリプト」なのである(レヴェック/マクドナル
ド 102)
。
Abraham と Torok は,その臨床的な経験の過程で,ある世代に属する無意
識を問題とする際に,不可避的にそれ以前の世代に属する無意識をも考慮に入
れる必要を迫られることになった。 Abraham と Torok が扱うことになったの
は一種抑圧の系譜学,秘密の系譜学である。つまり,一族そのものの無意識,
超個人的な無意識である。個人的な無意識から超個人的な無意識へ。彼らの道
筋は “Metzengerstein” の読解において我々が辿った道筋と酷似している。我々
がこの道程において遭遇したのは一つの反復強迫である。Abraham と Torok に
よれば,ファントムも果てしない反復を産み出すという(Abraham/Torok 175)。
到達不可能の知,非知としてのファントムは,同時に遡及的な理解の作業を挫
折させるものの謂いでもある。すなわち原理上,ファントムに喪の仕事の挫折
を帰することが可能なのである。だとすれば,我々の読解では,過去把捉的な
作業としての喪の仕事自体が超個人的な性質を備えていることが要求されるこ
とになる。
6 小原 文衛
4
超個人的な喪の対象。これに対する遡及的理解の挫折が,テクストに反復強
迫を引き起こしているのだと我々は考える。そして我々はテクストに一つの語
を見出す。“a pall”(P II 189)。葬礼に相関的な語である。長い迂回を経て,我々
は再び Frederick が抱える喪の問題に戻ることができる。というのは,この
“a
pall” という語は件のタペストリーを見つめる際に Frederick が感じた何らか
の不安と直喩的に連結する語だからである。このシニフィアンはタペストリー
に対する彼の心的態度を決定づけている。我々が言いたいのは,タペストリー
によって具現される何らかのものに対して, Frederick は服喪者の位置にある
ということなのである。タペストリーはここで一種死者のような役割を付与さ
れている。
そこで,我々も件のタペストリーに目を向けてみる。ここには Metzengerstein
家の来歴が絵物語的に描かれている。つまり,このタペストリー自体が一つの
テクストを形成しているのである。Jerome DeNuccio がこう指摘する通りであ
る。“The tapestry serves as a historical text, a chronicle of the events and characters
that have preceded him.”(DeNuccio 75)ここでいくら強調しても足りないこと
は,この “a historical text” の構成には,Metzengerstein 家のみならず,Berlifitzing
家も関与しているということである。タペストリーの物語のテクストは両家の
関係性によって成立しているからである。だとすれば,このタペストリーによ
って具現されているのは,とりわけ両家の主人たちにとって,過去そのもので
あるということができる。David H. Hirsch は,“The work of art that have caught
Metzengerstein’s attention bring him in contact with an unknown and evanescent past.”
と記述し,さらにこう指摘する。“The ‘historic’ past is preserved in the work of art.”
(Hirsch 43-4)この段階で,“Metzengerstein” のテクストにおける真の服喪的
対象は何なのか,という問いに一つの回答が与えられることになる。それは一
つの物語,両家の歴史的過去なのである。これは同時に
“Metzengerstein” と
いうテクストにとっては過去そのものを意味する。
二つの家が織りなす一つの過去。この超個人的対象に対する遡及的理解の仕
事が挫折させられているために,テクストには反復強迫が出来するのである。
これは同時にテクスト自体が何らかの喪の病を患っているということであり,
反復強迫は一つの症候であると同時に一つの効果である。このテクストにおい
“Metzengerstein” は悲しまない 7
ては,過去への視線はなぜかつねに遮断される運命を辿ることになる4。そし
て同時に,逆説的ではあるが,この遮断のゆえにこそ,過去は何らかの自己主
張を開始するのである。このテクストの読解において,Charles E. May は過去
が現在に及ぼす不可避的な影響に言及し(May 18),Edward H. Davidson はこ
のテクストのテーマを “the compulsive past working out in the present” と規定す
る(Davidson 142)が,このような主張は件の逆説の理解を経由してはじめて
なされるべきなのである。過去は閉ざされる。だからこそ自己主張を開始する。
ここに来てはじめて,我々は第一の問い,つまり何故に Frederick は悲しま
ないのか,という問いに一つの答えを与えることができる。簡単にいえば,
Frederick は悲しまないのではない,悲しめないのである。過去把捉的な理解
の作業は,テクストそのものの仕組みによって,彼には閉ざされている。言い
換えると,(物語として形成される)過去そのものという共有された超個人的
な対象に対する喪の仕事の挫折によって,父母に対する Frederick の喪の仕事
は挫折するべく設えられている。彼の「無意識」はテクストの「無意識」によ
ってつねにすでに決定づけられているのだ。彼の個人的な喪の仕事の不在は,
“Metzengerstein” というテクストの論理によってプログラムされているのであ
る。
5
馬が移動する物語としての “Metzengerstein”。馬は位置移動を繰り返し,反
復強迫を設定し, Metzengerstein/Berlifitzing 一族の運命を決定づける。我々
は次に,何故にテクストにおいて過去自体が抑圧されることになるのか,何故
に遡及的理解は挫折させられるのか,という問いを発することになるが,これ
は同時に,“a horse” はいかなる格位を占めているのか,と問うことに他なら
ない。
この馬が,件のタペストリーから抜け出してきたものだということは文理的
に明らかである。馬が抜け出したことでタペストリーの一部分が消失すること
になる 5。これは同時に裂け目・ギャップが「過去」としての「歴史的テクス
ト」に現出することに他ならぬ。つまり,馬は過去というテクストに空隙・裂
け目を生じさせる何ものかなのである。どうも件の馬は Abraham と Torok に
おけるファントムに類似した機能を果たしているようだ。
8 小原 文衛
我々は一つの比較を行うことによってこの確信を強めることができるかもし
れない。“Metzengerstein” の究極的なタブロー,つまり,Frederick の最期の場
面と,同じく Poe の後期のテクスト “The Oblong Box”(1844)におけるクラ
イマックス,つまり画家 Wyatt の死の場面との間には幾つかの類似点が見出
される。“The Oblong Box” は一種隠蔽についての物語である。ここでは,愛
する妻の遺骸を長方形の箱に隠蔽して航海に臨んだ男が,大風に遭遇して沈没
せんとする船から,件の長方形の箱を救出しようとする。物語の最後までこの
箱の内容物は判明しないのだが,とにかく,この箱もろとも,この男
Wyatt
は海中に姿を消す。愛着対象もろとも,海中に姿を消す人物。炎と水という差
異こそあれ, “The Oblong Box” のタブローは “Metzengerstein” のタブローに
どこか似ている。さらに Frederick のように,Wyatt は箱との関係性のなかで
は “the madman” と呼ばれるのだ(P V 287)!また、Frederick が馬に乗った
まま,炎の中に姿を消す場面にはこんな記述がある。
“The agony of his
countenance, the convulsive struggle of his frame, gave evidence of superhuman
exertion.”(強調筆者,P II 196)一方,難破した船に戻ろうとする Wyatt の描
写には次のような記述が見出されるのである。“Mr. Wyatt, in fact, sprang from the
boat, and as we were yet in the lee of the wreck, succeeded, by almost superhuman
exertion, in getting hold of a rope which hung from the fore-chains.”(強調筆者,P V
286)ここで使用される “superhuman exertion” という表現。文脈の違いこそあ
れ、我々は Poe の詩・小説を通して,この表現が現れるのはこの2回きりで
あるという事実を確認するにつけ,二つのテクストの間に存在する何らかの相
関性を改めて認識することになるのである。
この比較において,馬と長方形の箱とは隠喩的なシニフィアンの連鎖を形成
している。そこで長方形の箱がテクストにおいていかなる機能を果たしていた
かということを想起してみる。長方形の箱,これは表出しえない秘密として機
能していたのだ。我々が想定したファントムと “a horse” との連関についての
確信が強まる 6。ファントム理論自体が,すでに確認した通り,秘密について
の一つの理論であるからだ。だとすれば,A. H. Quinn が指摘している事実,
つまり “Metzengerstein” のテクストが後に “The Horse-Shade” なるタイトルを
与えられるという事実にも注目すべきである( Quinn 337)。“shade” のシノニ
ムの一つに “phantom” があること,これも単なる偶然ではないのかもしれな
い。ここまでの読解が教えるように, “Metzengerstein” というテクスト自体が
“Metzengerstein” は悲しまない 9
ファントムについての一解釈をアレゴリカルに供給するとも考えられるからで
ある。
Metzengerstein/Berlifitzing 一族の織りなす過去(“historical text”)には何ら
かの表現不可能な秘密が存在したのかもしれない。この秘密の故にこそ,過去
は棄却されざるをえなかったと考えられる。G──,Berlifitzing 伯爵,Frederick。
これらの人物を反復強迫の構成子とし,テクストを縦断する超個人的無意識の
核となるのが,この秘密なのである。不可知・不可触の秘密。 Frederick が相
続した財産のなかにはこの秘密も同時に梱包されていたのだ。我々はこう問い
たくなる。では,一体この秘密とはいかなるものなのか?
確かに,件の秘密の内容に関しては幾多の推論が可能である。表現不可能な
ものとしての,タペストリー(=history )にぽっかり空いた穴としての秘密。
少なくともこの物語/歴史の構成員にとってこの秘密が唾棄すべき,忌まわし
き,あるいは恥ずべき性質のものであるということは,ファントム的な効果が
テクストを縦断するという事実からも充分推論可能である。しかし同時に,我々
はこの決定不可能性こそが
“Metzengerstein” というテクストにおける
“a
horse” の位置移動を決定づけ,反復強迫に力動性を付与しているのだという
ことを忘れてはならない。ファントムの効果が出来するべく,秘密は秘密のま
まに留まる。かくて秘密は移植される。これは沈黙の移植である。
ここで,もともとファントムという語が,精神分析という空間において,患
者の言説が聞き手としての分析家の無意識にもたらす一つの形成物を指してい
たという事実を確認しておこう(Abraham/Torok 140)。精神分析という空間に
おいて,移植の媒体となるのはもちろん語り,言語である(Talking Cure !)。
“Metzengerstein” というテクスト空間においてはタペストリーに具現化される
物語がファントム移植の媒体となっていた。ここでも言語である 7。だとすれ
ば,我々の読解という空間で同様の効果が起きないという保証はどこにあろう
か。今ここに出来している Metzengerstein/Berlifitzing 一族の秘密についての
確定不能性。これこそ “Metzengerstein” という語りが我々にもたらすファン
トム効果の一つなのだとも考えられる。
6
Frederick が炎の中に姿を消した後,“a horse” は再び我々の前に姿を現す。
10 小原 文衛
まるで不死鳥のように8。“A white flame still enveloped the building like a shroud,
and, streaming far away into the quiet atmosphere, shot forth a glare of preternatural
light; while a cloud of smoke settled heavily over the battlements in the distinct
colossal figure of——a horse.”(強調ポオ,P II 196)これがテクストの末尾で
ある。ここで物語は終わるのだ。我々が最後の最後に手にしたシニフィアンは
何であったか。そう, “a horse” である。初出の版ではこの末尾の部分に続い
て,“Frederick, Baron Metzengerstein, was the last of a long line of princes. His family
name is no longer to be found among the Hungarian aristocracy.”(Mabbot 29)とい
う文章が存在していた。しかし, 1836 年版以降,このコーダはなぜか削除さ
れる。この削除は
“a horse” というシニフィアンを末尾に置くための操作,
テク ス ト そ の も の が 要 請 し た 操 作 だ っ た と も 考 え ら れ る 。 そ し て,
“Metzengerstein” の語りのそもそもの動因こそが,こうして我々に,最後に,“a
horse” を託すことだったのかもしれない。かくて馬の位置移動は継続するの
であろう。
だとしたら,我々読者もすでにして “a horse” との関係性に取り込まれてい
るのかもしれない。最後の最後に “a horse” を手にした時,我々は何をすべき
なのか。それは書くことである。語り手の挙措にならって,新たなるテクスト
が紡ぎ出されることを願って,そして末尾にこんな言葉を残して。
“Metzengerstein” 解釈の余剰,一つの秘密,超越的なシニフィエの介入を拒
否するシニフィアン──〈a horse〉。
*本稿は,日本英文学会中部支部第 51 回大会(於富山大学)での発表原稿に大幅な加
筆修正を加えたものである。
Notes
1 テクストは,James A. Harrison 編を使用。以下,引用の際には(P 巻数 頁数)
と示す。
2 Freud のテクストは,人文書院刊『フロイト著作集』を使用。引用の際には(F
巻数 頁数)と示す。
3 例えば,以下の記述には喪の心的過程の特質が凝縮されている。「ところが病
人が死んでしばらくたつと,彼女の内部で再現作用がはじまり,そのために病気
や臨終にまつわるいろいろな場面がもう一度眼前に彷彿としてくる。彼女は毎日
一つ一つの印象をことあらたに体験し,それについて泣き,またそれについて自
“Metzengerstein” は悲しまない 11
らを慰めるのである」(F VII 134)。
4 この点において,一種特権的な位置にあると想定されるのが語り手である。語
り自体が一つの遡及的理解であると目されるからである。しかし実際には,
Metzengerstein 家と Berlifitzing 家の間に存在する敵対関係の起源を同定する際に
も,語り手はその起源を古い予言に求め,この予言自体には意味がないと判断す
る。結局,Metzengerstein 家・ Berlifitzing 家間の過去についての語り手の言説は
不完全なものたらざるをえない。さらに,後に判明するように,件の “a horse” と
いうシニフィアンは,最終的な局面においても,この「語り」というかたちの「理
解」にとっては依然として剰余のままである。言い換えれば,語りにとって,こ
のシニフィアンは未消化なものに留まるわけである。
5 この消失以後,Frederick は件の部屋を厳封し,鍵を預かることにする(P II 191)。
つまり,裂け目の生じた過去/物語を厳封してしまうわけである。このシークェ
ンスはまさに “Metzengerstein” というテクストの論理を象徴的に行為化してい
る。つまり,過去への視線の遮断である。
6 ただし,次のような差異を指摘することも重要であろう。つまり,“the oblong
box” はクリプト的に機能しており,“a horse” はファントム的に機能していると
いうことである。
7 我々の想定する超個人的無意識は Jung のいう「集合的無意識」と何らかの類
似を示すかもしれない。例えば,Saliba も件のタペストリーについて次のように
記述する。“On a deeper level they [=the tapestries] symbolize what Carl Jung would call
the archaic fragments of the collective unconscious.”(Saliba 101)しかし,Jung 自身
はこうも記述している。“There exists a ... psychic system of a collective, universal, and
impersonal nature which is identical in all individuals. This collective unconscious does
not develop individually but is inherited.”(Jung 43)ここで付言しておくべきこと
は,我々のいう超個人的無意識の作用は物語・言説の流通がある範囲に限られる
ということである。言語を媒体とする超個人的無意識の作用は後天的なものであ
り,断じて先天的なものではない。よって,「遺伝」という言辞は,我々にとっ
て,ファントム移植過程の一隠喩としてのみ機能する。
8 Susan/Stuart Levin は , そ の 論 考 の な か で , “the legendary Phoenix” と
“Metzengerstein” の “a fiery-colored horse” との関連性を追究している( Levin
53)
。半世紀ごとに自らを焼尽し,灰の中から再び飛翔する “the legendary Phoenix”
のイメージの述語は反復そのものであると言えよう。この関連性は、ここまで我々
が行ってきた反復についての考察の理論的支柱を部分的に補強することになる。
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12 小原 文衛
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