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4 中世の人びと(PDF:381KB)

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4 中世の人びと(PDF:381KB)
2014.6.30 更新
解説シート No.1-4
ちゅうせい
ひ と
中 世 の人 びと
かまくら じ だ い
むろまち じ だ い
(鎌 倉 時 代 ・室 町 時 代 )
………………………………………………………………………………………………………
平安時代の末頃から鎌倉時代にかけて、この地域は葛西氏が治めていまし
ごう
た 。 葛 西 氏 は 葛 西 33郷 (江 戸 川 区 、 葛 飾 区 ほ か )を 伊 勢 神 宮 に 寄 進 し ま し た 。
みくりや
こ れ を「 葛 西 御 厨 」と い い ま す 。御
厨 の 記 録 に は 今 井 、小 岩 、篠 崎 な ど
区 内 の 地 名 が 18個 登 場 し ま す 。
16世 紀 に な る と 、こ の 地 は 、小 田
ほうじょう
原の 北条 氏の勢力下に入りまし
た。
次第に開発が進み、人口も増え
て 、耕 地 も 広 が っ て い き ま し た 。そ
い た び
の よ う す は 、板 碑 の 分 布 に よ っ て あ
る程度知ることができます。
板 碑 は 、鎌 倉 か ら 室 町 時 代 に か け
く よ う と う
て つ く ら れ た 供 養 塔 で す 。そ の 分 布
に よ る と 、鎌 倉 時 代 に は 小 岩 か ら 篠
葛西御厨の郷名
崎、東葛西などの江戸川沿いの地
い ち の え さかいがわ
こ ま つ が わ さかいがわ
域 、ま た 一 之 江 境 川 や 小 松 川 境 川 に 沿 っ た 地 域 に 集 落 が で き 、室 町 時 代 に な
ると、今の葛西をのぞく区内全域に広がっていたようです。
さ と み
室町時代の末、関東では上杉、北条、里見、太田といった有力な武士達が
対抗して、しばしば戦乱に見舞われました。
こ う の だ い かっせん
里見と北条による国府台合戦では、このあたりも戦場となり、田畑をあら
され、戦闘にかりだされるなど農民達も少
なからぬ被害を受けています。
てんぶん
天 文 7年 (1538)の 第 一 次 の 国 府 台 合 戦 は 、
うじつな
うじやす
関東進出をめざす小田原の北条 氏綱、氏康
ふ
し
お ゆ み よしあき
あ
わ
さ と み よしたか
父 子 が 、下 総 の 小 弓 義 明 、安 房 の 里 見 義 尭 と
国 府 台 (千 葉 県 市 川 市 )で 戦 い ま し た 。 小 弓
義明が戦死して北条方の勝利に終わりまし
たが、小弓氏の滅亡によって里見氏は房総
最大の勢力となりました。
そ の 後 、上 杉 方 の 勢 力 を 関 東 か ら 追 い 出 し
えいろく
て 力 を 得 た 北 条 氏 康 は 、永 禄 7年 (1564)に 再
よしひろ
び国府台で里見義尭の子、里見義弘と戦い
十念寺所有の板碑
ま し た (第 二 次 国 府 台 合 戦 )。 苦 戦 の 末 、 北
(江戸川区指定有形文化財)
条氏康は里見氏を破り、関東は北条氏の勢力下に入りました。
しかし、多年にわたる戦いのなかで築きあげられた北条氏の関東支配も、
てんしょう
天 正 18年 (1590)豊 臣 秀 吉 の 小 田 原 攻 め に よ っ て 、一 挙 に 失 わ れ て し ま い ま し
た。そして、この小田原攻めの功労により関東を領することになった徳川家
康の登場によって、新しい時代を迎えました。
江戸川グラウンド側から国府台を望む
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