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広 報 連 絡

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広 報 連 絡
[様式第3号]
資料提供年月日
平成29年1月4日
課
問い合わせ先
名
中央図書館
直通
電
話
1 月 4 日のみ(閉館日のた
め)
担
広
当
者
報
223-3373
223-0094
職名・氏名
館長
宮本嘉彦
職名・氏名
学芸副専門監
飯島章仁
連
絡
1
件
名
企画展示「岡山市立図書館設立 100 周年記念・第 32 回
坪田譲治文学賞記念 坪田譲治展 ~故郷への思い」の
開催について
2
日
時
平成 29 年 1 月 5 日(木)~3 月 5 日(日)
休館日 毎週月曜日(ただし 1 月 9 日(祝)は開館)
開館時間 10 時~18 時(木曜日は 11 時~19 時)
3
場
所
岡山市立中央図書館 2 階視聴覚ホール前展示コーナー
北区二日市町 56 番地 電話 086-223-3373
入場無料
4
趣
旨
岡山市立中央図書館では例年、坪田譲治文学賞(岡山市
主催)の発表時期にあわせて関連資料の特別展示を行っ
てきましたが、このたびは所蔵品から生家と故郷にまつ
わる資料と、10 代の多感な一時期を過ごした旧制中学時
代の関連資料を中心に展示し、彼の人格形成の糧となり
作家活動を支えることになった故郷への思いを、師友と
の関係なども含めて紹介します。
岡山市立図書館は平成 28 年度に設立 100 周年を迎えましたが、岡山市出身の児童文学者、
坪田譲治の関係資料を遺族等(おもに長男の坪田正男氏と三男の坪田理基男氏)からの寄
贈により多数所蔵しています。譲治は東京で作家活動を行いましたが、終生にわたり故郷
の記憶を大切にし、生まれ育った岡山の田園地帯の情景を数々の作品の着想源にしていま
す。そこでこのたびの企画展示では、生家と故郷にまつわる資料と旧制中学時代の師友と
の関係を物語る資料を展示し、作家の故郷への思いをたずねてみます。
1
故郷の岡山の農村
坪田譲治(1890(明治 23)年~1982(昭和 57)年)は、御野郡石井村字島田(現、岡
山市北区島田本町)に生まれました。坪田家は村の豪農の子孫で、父の平太郎はランプ芯
製造の島田製織所を経営する資産家でした。早稲田大学へ進学して小川未明、鈴木三重吉、
山本有三らと出会い、文学を本格的に学ぶまでの譲治の生活の舞台は故郷の岡山の農村で
あり、彼の文学世界は心に深く刻まれたその田園風景を背景に形作られました。
父の早世で兄の醇一が会社を継ぎ、はじめのうちは譲治も時折故郷へ帰ったり大阪支店
長を務めたりして経営を手伝いましたが、彼の文学作品からうかがうに一族間で紛糾もあ
ったらしく、譲治は 40 歳を最後に会社の経営から離れて貧窮の中、東京で文学一筋の道を
進みます。そして 40 歳代半ばを過ぎる昭和 10 年代に相次いで単行本化された「お化けの
世界」「風の中の子供」「子供の四季」の 3 作で文壇に名声を得て、子どもたちの視点によ
る新たな小説世界を切り開き、日本の児童文学に大きな足跡を残しました。
ここでは下記の予定で、石井村の生家に関する資料と、後年に譲治が帰郷したときの写
真を展示します。市内北区幸町に本館があった 1966(昭和 41)年に、岡山市立図書館の設
立 50 周年を記念して開催された坪田譲治の講演会の際の写真も展示します。
坪田譲治
生家の瓦
島田製織所製
家庭用アイスクリーム製造器(坪田久氏、坪田醇氏寄贈)
ランプ芯を製造した譲治の生家、島田製織所の製品
綱島賢一
油彩画「坪田譲治生家」
(坪田正男氏寄贈)
写真パネル「生家の中庭にて」(昭和 30 年 2 月)(以下、写真パネルは坪田正男氏寄贈)
同「生家土蔵前にて」(昭和 30 年)
同「岡山市立図書館 50 周年記念講演会
―館長室にて姉伊丹政野と―」(昭和 41 年)
同「「びわの実学校」編集同人等と郷里岡山へ」
(昭和 43 年 5 月)
2
坪田譲治
色紙「故郷に花静なる田園あり」
坪田譲治
色紙「古里の小川にまだ鮒は居るだろうか」
旧制中学時代
譲治は生家に近い岡山市立石井尋常小学校を卒業すると、岡山市丸の内(現、岡山市北
区丸の内)の養忠学校へ明治 35 年 4 月に入学しました。これは旧藩主の池田家や旧家老の
日置家の援助で明治 17 年に旧制岡山中学の予備学校として発足した学校ですが、明治 37
年に日置家の旧領地の金川へ移転して五年制の旧制金川中学校(第二次大戦後は岡山県立
金川高等学校を経て現在の岡山県立岡山御津高等学校)へ改組されたので、譲治は明治 40
年 3 月の卒業まで中国鉄道(現在の JR 津山線)の汽車で通学しました。しかし近く(北区
御津紙工(しとり)天満)に姉の政野も嫁いでおり、未知の世界ではなかったようです。
譲治はこの時期に文学への関心を高めたようで、後年の文章(随筆『読書の思い出』
(『児
童文学入門―童話と人生―』(「朝日文化手帖 14」朝日新聞社、1954(昭和 29)年に初出。
『坪田譲治全集』第 12 巻、新潮社、1978(昭和 53)年、237~239 頁に再録)で「私が文
学的になっていたのは中学四、五年のころからだ」と回想し、夢中で読みふけった書物を
記しています。そのうち薄田泣菫の『白羊宮』と『暮笛集』、横瀬夜雨『花守日記』、綱島
梁川『病間録』は譲治の金川中学在学中の時期の刊本(明治 38~39 年)が当館にあり、譲
治が手に取って愛読したそのものではないものの、同様の本を展示します。
また、『ロビンソン・クルーソー』、『アラビアン・ナイト』、『唐詩選』、土井晩翠『天地
有情』は、譲治の遺族から当館へ寄贈された彼の旧蔵書を展示します。それらは譲治の旧
制中学時代より後の出版ですが、後年にもさまざまな版を入手して自身の文学の糧とした
ことがわかり、若い児童文学者の育成のために 1961(昭和 36)年に自宅の一隅に設けた「び
わのみ文庫」の蔵書でもあった本です。とりわけ『唐詩選』は、このたび展示する簡野道
明『唐詩選詳説』(上・下)(明治書院、1929(昭和 4)年初版、譲治旧蔵書は 1937(昭和
12)年の第 13 版)など多数があり、彼の漢詩への傾倒がうかがえます。
このほか前掲の『読書の思い出』には、今回展示はありませんが、上田敏『海潮音』、国
木田独歩『独歩集』、島崎藤村の詩、田山花袋『文章世界』なども愛読書にあがっています。
なお譲治の名声を高めた代表作『風の中の子供』は、金川付近で旭川へ合流する宇甘(う
かい)川の流域や、宇甘川を遡った姉の嫁ぎ先の紙工天満の地の情景を取り入れています
ので、1936(昭和 11)年の初版本(竹村書店刊)はないものの、以後の諸本を展示します。
このほかの展示品に、下記を予定しています
写真パネル「伊丹東慶の屋敷(譲治の姉・政野の嫁ぎ先)
」(小合信恵氏寄贈)
坪田譲治
色紙「故郷の花なり名を知らず」(絵、伊丹政野)
坪田譲治
自筆原稿「京山の思出」
(坪田正男氏寄贈)
小穴隆一
油彩画「T 君」
(坪田正男氏寄贈)および自筆原稿「童話作家と故郷」
(坪田理
基男氏寄贈)
。春陽会に属した洋画家で、芥川龍之介や坪田譲治の作品の装丁や挿絵も担当
した小穴隆一による肖像画は、譲治が文壇に地歩を占めた 50 歳を少し過ぎた頃の姿です。
小穴隆一「T 君」(1942(昭和 17)年)
3
金川中学で出会った人々
金川中学は、旧岡山藩家老直系の日置健太郎の尽力で、彼のかつての領地で旧制中学校
として整備されました。豊田恒雄校長のもと、教師に沼田頼輔、山田貞芳、蔵知矩、羽生
芳太郎(永明)など岡山の歴史学や文学の研究で優れた業績を残す俊才が集い、有為な人
材を育てていましたが、譲治はこれら師友の謦咳(けいがい)に触れて 10 代のひとときを
過ごしています。
ただ、譲治が後年に書いた文章では、学校そのものへの愛着がおおむね低く、中学時代
のことも、早稲田における教室での学びにも、あまり高い評価を与えていません。彼にと
って本当に大切だったのは、小川未明や鈴木三重吉、山本有三のような文学者たちとの出
会いで、彼らから本格的な文学への道を教わり、作家としての自己形成がなされたことを
たびたび振り返っています。
しかし、金川中学の後身の県立金川高等学校で編纂された八十年記念誌『臥龍』
(1963(昭
和 38)年)への寄稿文(「金川中学の思い出」同書 89~92 頁)では、彼は金川までに目に
する光景、とりわけ牧山の美しい風景を称揚し、当時の級友や恩師を振り返って書いてい
ます。「らいらくな」日置先生や、「謹厳にして温厚な」豊田先生、担任でもあった羽原宇
三郎先生の厳しい英語の授業、沼田先生の西洋史は「今も忘れられない、名講義」で、「人
格者」の山田先生は「大口をあけて笑われる姿が、今も目に残って」いる、そして「岡山
地方の歴史で功績を残された」蔵知先生などと。
このうち沼田頼輔(ぬまた
らいすけ
1867(慶応 3)~1934(昭和 9)年、号・瓶堂)
は神奈川県出身で、始めは山本姓。1893(明治 26)年に岡山県師範学校教諭。しばらく岡
山を離れたのち 1903(明治 36)年から金川中学教諭となり、史蹟や古文献を調査して岡山
県下の考古学や歴史学の基礎を築きますが、1911(明治 44)年に岡山を去り、東京で山内
侯爵家の家史編纂にあたるなどしました。後年に出版された主著『日本紋章学』で学士院
恩賜賞を受賞。金川ではここを居城に日蓮宗を保護した戦国大名の松田氏の研究に打ち込
み、
『備前法華の由来』
(1936(昭和 11)年刊)や『松田氏事蹟考』が後にまとめられます
が、岡山藩の歌人、篠岡春泉の評伝『腮髯長(あぎとのひげなが)』
(1905(明治 38)年)
と吉備の女性伝『吉備姫鑑』(1908(明治 41)年は、譲治の金川在学中に取り組んでいた
著書です。また、『作州菅家一党勤王事蹟』は沼田の自筆稿本です。
山田貞芳(やまだ
さだよし
1869(明治 5)年~1920(大正 9)年
号・臥雲)は、
岡山藩の支藩、生坂藩士の家系に生まれ、池田家の家史編纂に携わったのち金川中学教諭
となり、備作恵済会感化院(のち三門学園、現在の岡山県立成徳学校)の院長も務めまし
た。山田は漢文学と歴史に造詣が深く、沼田頼輔らと『備前軍記』『備中略史』『美作古城
記』など多数の岡山地方史の古典を校訂したほか、岡山藩の漢詩人や歌人および熊沢蕃山
や津田永忠に関する論考を発表し、1911(明治 44)には第一期の岡山市史編纂で委員長を
務め、1920(大正 9)年までに全 1 巻本が刊行されました。山田は蔵書家としても名高く、
没後に貴重な古典籍を多数含む 3540 冊の蔵書が、少年期に彼の私塾で学んだ公森太郎(大
蔵官僚から朝鮮銀行副総裁などを経て中国銀行頭取)や蔵知矩らの友人たちの尽力で、1919
(大正 8)年に開館した岡山市立図書館(当時は岡山市立岡山図書館)へ 1928(昭和 3)
年に寄付されました。その多くは昭和 20 年 6 月 29 日の岡山空襲で失われましたが、特に
貴重な図書 88 冊が疎開され現在も岡山市立中央図書館に所蔵されています。坪田譲治は漢
詩文にも深い理解を有していましたが、金川中学では山田貞芳が漢文学を講じていました。
蔵知
矩(くらち
ただし
1869(明治 2)~1944(昭和 19)年
号、堅石)は、岡山
藩士の家に生まれ、岡山県師範学校で学び、小学校教員を経て金川中学教諭となり、1909
(明治 42)年以後は山陽高等女学校(現、山陽学園)などで教鞭をとり、同校教頭を経て
晩年は池田家の古文書整理をし、岡山市史編纂委員会で昭和初期の第二期岡山市史編纂に
携わりました。歴史家で岡山藩政史に詳しく、第二期『岡山市史』の第三巻の多くと第四
巻の一部を執筆したほか、『神戸事変と滝善三郎』『慶応四年正月
神戸事変の顛末』『牧野
権六郎先生伝』などの岡山藩の幕末維新期の人物伝や、『備前岡山城』などの著書を残して
います。松原三五郎に本格的に洋画を学んでおり、松田氏の居城がかつて玉松城と呼ばれ
たことを沼田頼輔が見出すと、松樹をモチーフに金川中学の校章をデザインしています。
羽生芳太郎(はにう
和 5)
よしたろう、のち永明(えいめい)
1868(慶応 4)~1930(昭
号、東洋)は、現在の長野県飯田市の出身で、国学院などで学んだのち 1996(明
治 29)年から旧制岡山中学校の教師として岡山へ赴任し、幕末の岡山藩の歌人、平賀元義
の研究を始めました。一時期、郷里の飯田へ帰りますが、1906(明治 39)年に再び来岡し、
金川中学校や西大寺高等女学校で教えたのち、1911(明治 44)年から上京して青山学院教
授などを務めました。『注解平賀元義歌集』や遺稿が死後に出版された大著『平賀元義』な
どがあり、彼が膨大な資料を整理して研究し広く世に紹介した万葉調の歌人、平賀元義の
作品は、正岡子規に強い感銘を与えました。
なお、坪田譲治が養忠学校へ入学した年には、のちに作曲家となって「赤とんぼ」や「か
らたちの花」などの名曲を残した山田耕筰(1886(明治 19)~1964(昭和 40)年)が、
姉の夫の E・ガントレットが英語とラテン語を教えるために第六高等学校へ赴任していたこ
とから岡山へきており、坪田譲治も同学年の山田耕筰を知っていたことがわかっています。
山田耕筰の回想録(『はるかなり青春の調べ』かのう書房、1985(昭和 60)年)にも養忠
学校時代のことが出ていますが、生徒どうしのもめごとなど記され、明るい話題ばかりで
はありません。しかし彼も金川高等学校の八十周年記念誌『臥龍』へ文を寄せていて、そ
の中では坪田譲治の寄稿文と同様に表現が和らぎ、学校への思いが肯定的になっています。
上述の金川中学の教師たちは岡山の地域史の基礎を築いた歴史家や文学史家ですので、
当館には彼らの著作が豊富に収蔵されています。それらを養忠学校~金川中学の当時の様
子がうかがわれる文献、
『臥龍』(1963(昭和 38)年)とあわせて展示します。
坪田譲治は父からの影響があり、学校での学びもあってか(明言されてはいないが)、中
学時代から唐詩選を愛読しており、漢詩文への理解が深く、作品でしばしば触れたほか、
折々に漢詩を色紙や軸に揮毫しており、それらも当館の所蔵品から展示します。譲治は詩
の意味をかみくだいて易しい表現に改め、素朴な筆致の文字で表しています。
坪田譲治
色紙「送別」
(昭和二年十月東京狐塚に於て)(坪田正男氏寄贈)王維による
坪田譲治
色紙「友はいづくに在りやと問うこと勿れ
昭和二十三年秋(坪田正男氏寄贈)
坪田譲治
色紙「名園有別天地
坪田譲治
色紙「先師に遺訓有り
唯山中の静寂に耳を傾けよ」
王維の詩「田園楽」に基づくとみられます
老樹不知歳時」(坪田正男氏寄贈)
道を憂へて貧きを憂へず」(森田平三郎氏寄贈)
論語の「君子憂道不憂貧」に基づく
坪田譲治
軸物「浮雲遊子意
落日故人情」(坪田正男氏寄贈)
坪田譲治
軸物「老馬も千里の夢」
(坪田理基男氏寄贈)
李白の詩による
三国志から、曹操の言葉「老驥櫪に伏すも志千里に在り」による
坪田譲治『故園随筆』(十一組出版部、1943(昭和 18)年)
(坪田譲治旧蔵書)
郷里を回想した随筆が多数掲載されています。表紙は梅原龍三郎に学び国画会で活躍
した洋画家、中村好宏がデザインしています。
※なお、この展示にあたり、先行研究として下記の文献等を参考にしています。
善太と三平の会『坪田譲治の世界』
(岡山文庫 150)日本文教出版、1991(平成 3)年。
山根知子「坪田譲治
作品の舞台
―島田―」『ノートルダム清心女子大学紀要』第 27
巻第 1 号(通巻 38 号)、2003(平成 15)年、日本語・日本文学編 45~57 頁。
山根知子「坪田譲治の金川中学校時代
―金川中学校関係資料を中心に―」『ノートルダ
ム清心女子大学紀要』第 37 巻第 1 号(通巻 48 号)、2013(平成 25)年、日本語・日本文
学編 12~27 頁。
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