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http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/ Title Author(s) Editor(s
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Author(s)
「ことば」について
伊藤, 嘉啓
Editor(s)
Citation
Issue Date
URL
大阪府立大学紀要(人文・社会科学). 1990, 38, p.17-27
1990-03-31
http://hdl.handle.net/10466/10746
Rights
http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/
﹁ことば﹂について
嘉
啓
あります。ところが、一たび、酸欠状態になりますと、急に、しかも
気を意識したりは、しません。むしろ、全く意識しないのが、普通で
す。私たちは、絶えず、呼吸してゐますが、呼吸するたびごとに、空
のでありますから、例へて見れば、丁度、空気のやうなものでありま
このやうに、ことばといふものは、大へん日常的な、ありふれたも
中で生活して居ります。
とは、実に巧みな表現ですが、私たちは、文字どほり、ことばの海の
とばのうみ、といふ辞書を拡大したものであります。﹁ことばのうみ﹂
といふ有名な国語辞書がありますが、あれは、もとく、﹃言海﹂1こ
は、日常何ら特別の意識なしに、ことばを使ってをります。﹁大言海﹂
ことばといふものは、大へんありふれたものでありまして、私たち
ではありません。逆に、思ひがけない︼致に、驚かされることもあり
か、気になる所です。
とは、別の単語で区別するのです。これなども、どうしてさうなるの
に、気になり出すのであります。英語では、象のハナは、人間のハナ
せん。それが、一たび、英語といふ外国語の媒介物を入れますと、急
自明的でありまして、一々、どれが主語、どれが述語などとは考へま
ます。母国語だけにひたってみると、この程度の文章は、あまりにも
が主語なのか、それとも、﹁鼻が﹂が主語なのか、分らなくなって了ひ
例へば、﹁象は鼻が長い﹂といふ日本語を、英語にする場合、﹁象は﹂
なくは、使へなくなります。
く使へないばかりでなく、外国語を意識すると、母国語さへも、何気
ます。仮定法では、過去形は現在を、過去完了形は過去をあらはす、
つまり、テンスが一つずれると英文法では説明しますが、日本語でも、
この﹁だったら﹂は、過去の意味ではなく、現在をあらはしてゐます。
﹁ぼくが金持ちだったら、世界一周旅行をするのに﹂と表現します。
ことばに砂いて、空気の酸欠状態のやうなものは、何でせうか。私
外国語を読んだり、書いたり、話したりするのは、実に不自由な、
︵二︶ 外 国 語
しかし、外国語に接した場合、二つの言語の違ひを知らされるだけ
く﹂使ふことは、出来なくなります。それ禄、外国語だけが、何気な
が、外国語を読んだり、書いたり、話したりする時になると、﹁何気な
外国語に接した時だと思ひます。いつも、何気なく使ってみることば
藤
強烈に空気を意識するやうになります。
j ことばと日常
伊
たち誰もが、しばく経験する、ことばを強く意識する時といふのは、
一17一
(轍
が、ことばといふものを、そしてことばと密接に結びついてみる文化
時には、もどかしくイうくすることもありますが、まさにそのこと
﹂言葉という言葉はすべて貧しすぎるとぼくには見えるほどです﹂
的な特徴を帯びてぼくの前に現われ、その特徴を記述するのに、
私たちは、普通、こ︾までは思はないのですが、ホーフマンスター
︵川村二郎訳︶
ゲーテは、﹁外国語を知らない者は、自国語についても何も知らない﹂
ルは、私たちが常日頃、漠然と、ことばに対してもってみるイメージ
といふものを、更に、一歩をす∼めれば、存在そのものを、考へる一
と云ってゐます。最近、外国語の教育について、外国人とのコミュニ
を、拡大してみせてくれます。
と、云ってゐます。
ケーションの面だけが取上げられる傾向がありますが、外国語を学ぶ
私たちも、ことばの不十分さは、何かと、思はないではありません。
つの大きな動機となるのです。
ことは、私たちに、ことばや文化について考へさせる働きもして居り
例へば、﹁筆舌につくし難し﹂といふやうな成句もありますし、﹁こと
ところが、これとは全く逆に、ことばは豊か過ぎる、ことばであら
ばでは、云ひあらはせないほど美しい﹂などとも云ひます。
ます。
︵三︶ ことばは豊かか、貧しいか
はすと、物事が誇大になって了ふ、と云はれることもあります。
﹁こうしたものすべてが、ぼくに与えられる啓示を宿す器となる
と云ひ、つゴけて、
きざりにされた馬鍬です、日だまりに寝そべる犬です。⋮⋮﹂
すが、幾つかあげてみますと、それはたとえば如露です、畠に置
﹁言葉はぼくを見捨てるのです。⋮⋮愚にもっかない例で恐縮で
の手紙﹂と云ってみるエッセイで、ことばについて、
八七四・1一九二九︶は、﹁手紙﹂1日本では、普通、﹁チャンドス卿
であります。
何故なら、この人の悩みは、ひとへに、このことばのせるだったから
特な雰囲気がありました。この人は、かうしたことばを憎みました。
麗句1つまり、善悪美醜に対する大袈裟なことばが作り出す一種独
の人は、ある小さな町の牧師館で育ちました。そこには、説教の美辞
失敗や期待はつれではなく、大きな、普遍的な意味での幻滅です。そ
た経験を聞かされます。そこで語られてみるのは、さ︾いな、個々の
スのサン・マルコ広場で、ある男と知合ひとなり、その人から幻滅し
トーマス・マン︵一八七五−一九五五︶の極く初期の作品に、﹁幻滅﹂
ことができるのです。これらの一々が、またその他おびただしい
この人にとって、人生は、全くのところいろくの大袈裟なことば
ことばについては、いろくの人が、さまざまな発言をしてゐます。
数にのぼる似たようなものが、ふだんなら、気にかけるまでもな
から成り立ってるました。その人は、人間からは、神様のやうな善良
と題する短編があります。この中で、ナレーターの﹁私﹂は、ヴェニ
いとあっさり高をくくって見すごすのに、思いもかけず、無理強
と、身の毛もよだつ邪悪とを期待し、人生からは、すばらしい美しさ
オーストリアの詩人で、劇作家でもあったホーフマンスタール︵一
いに呼び寄せることなぞとてもかなわぬある瞬間に、崇高な感動
一18一
と恐ろしさを期待しました。ところが、その期待は、すっかり裏切ら
極端に違った感想を述べてみるのは、大へん興味深いところです。
世紀のドイツ文学を代表する作家ですが、それが、ことばについて、
ことばは豊かだ、と思ひますよ。貧弱で、狭くるしい人生とくらべれ
と詩人たちは、私に歌ひました。どうして、どうして、大違ひです。
そして、云ひます。﹁ことばは貧しい。悲しいかな、ことばは貧しい、
筈ではなかったのか。たゴこれだけだったのか、と思って了ふのです。
るやうな美術品の前に立っても、これは美しい。でも、もっと美しい
のか。たゴ、これだけだったのか、と。また、人々がほめそやしてみ
又は、方便に過ぎないといふ暗黙の前提があります。
でもまた、ことばよりも大事なものが確かにあり、ことばは、手段、
で、ことばは通じなくても、愛は通じる、と云はれたりしまして、こ﹀
した。この場合、ことばは軽んじられてゐます。また、国際結婚など
とがありますが、それは、ことばだけで実行の伴はぬ人といふ意味で
るでせうか。数年まへに、﹁口先き人間﹂といふことばが、はやったこ
私たちは、普段、ことばに対して、どのやうなイメージを抱いてみ
︵四︶ 乏しい時代としての現代
れ、幻滅するのです。
ある晩、その人の家が火事になりました。家全体が火につ︾まれ、
その人は転げるやうに、外に飛び出しました。そして、思ひました、
ば、あふれるほど豊かです﹂
これは、ことばとは、ある事柄を伝へるための一種の道具のやうな
これが火事だな。でも、火事とは、もっと恐ろしいものではなかった
私たちにも、これと似たやうな経験がないではありません。台風の
ものである、といふ見方です。そこでは、当然、大事なのは、ことば
と云ふことばから、私たちがイメージする方が、たぶん実物をこえて
侍児扶潜門無力 始是新著恩沢時
春寒含蓄華清池 温泉水管洗凝脂
廻眸一笑百再生 六宮粉黛無顔色
宗皇帝の楊貴妃も、白楽天の﹃長恨歌﹄の中の
系と理科系とにわければ、大まかに云って、文科系では、ことばの占
を云はさぬ力で、ことばを押し殺して了ひます。学問の世界を、文化
度︶の一面を持ってるます。そこでは、実験とか、観察とかゴ、有無
とまでは行かないまでも、非ことば主義︵ことばに重きを置かない態
す。科学技術は、反ことば主義︵積極的にことばを、否定する態度︶
云へます。それには科学技術の発達が、無関係ではない、と思はれま
ではなくて、事柄です。
被害甚大といふので、その近くに住んでみる知人に見舞状を出して尋
みるのではないかと思はれます。
める比重が重く、理科系では、それが軽いと云へると思ひます。とこ
ねてみると、マスコミの報道ほどではなかったり、極めつきの美人と
ホーフマンスタールもトーマス・マンも、私たちが日常、自覚する
ろが、最近では、文科系でも考古学や歴史学などで、発掘や資料の調
このやうな、ことば軽視の傾向は、最近、特に強くなってみるとも
ことは、あまりないが、しかし、云はれてみれば、さうだ、といふこ
査が盛んになって来てをりまして、こ﹀でも、実物主義が幅をきかせ
いふ触れ込みで、会ってみると、それほどでない場合があります。玄
とを、拡大して見せてくれてゐます。二人とも、ほゴ同じ年代で、今
一19一
描写出来るからです。それで、フランスのジイド︵一八六九−一九五
の方が、ことばによる小説よりも、さういふ場面は、はるかに適切に
行った﹂といふやうな表現は、ほとんど、無意味となりました。映画
とへば、﹁彼は部屋に入ると、帽子と外套とを脱いで、それから窓辺に
である小説に、決定的な影響を与へました。映画が登場して以来、た
何も学問の世界だけではありません。映画の発明は、ことばの芸術
てをり、ことばの価値は相対的に下落してゐます。
ルの方に重点が移って了ひます。これもまた、一種のことばの軽視現
ことばそのものではなく、ことばのやり取り、ことばのキャッチ・ボー
味を失って、と、までは行かなくとも、より希薄に、軽くなりまして、
ピードで、ことばが縦横に飛び交ひます。かういふ場合、ことばは意
の、タレントや司会者の饒舌です。そこでは、一昔まへの何倍ものス
他方、むやみやたらと、ことばが使はれる一面もあります。テレビで
このやうに、現代はことばにとって、乏しい時代でありますが、あ
象です。
るいは、乏しいからこそ一層、ことばといふものを考へるのに、有利
ヘ、映画などではあらはせない、小説でなければ表現出来ないも
のを求めて、純粋小説といふものを考へました。その見本として書い
なりますと、小説とは何か、が問題となり出しました。バルザック︵一
な立場に立ってるるとも云へます。ルネサンス時代に発生した、小説
のプラスとマイナスなどを考へることから始めねばならぬ苦しい立場
七九九−一八五〇︶は、特に、小説とは何か、などと考へる必要なし
たのが、﹁にせ金つくり﹄︵一九二六年︶といふ小説です。
に追込まれてゐます。
に、約百編ほどの小説を書き、それをまとめて、﹁人間喜劇﹂と称しま
といふジャンルは、たちまちのうちに、文学の主流にまでなりました
先に引用したホープマ﹂ンスタールのエッセイも、そのやうな趨勢の
したが、それから四十年後に生まれたゾラ︵一八四〇1・一九〇二︶は、
最近の小説には、風景描写が少なくなってゐますが、十九世紀の作
中で書かれたのであり、現代において、ますく貧しくなって行かざ
まつ﹁実験小説論﹄︵一八八○年︶といふものを書いて、自分の方法を
が、小説とは、詩とか、ドラマに比べますと、格段にルーズなスタイ
るを得ないことばについての考察でありました。
反省し、確認してから、﹃居酒屋﹂とか、映画化されて有名な﹁ナナ﹂
家であるトルストイ︵一八二八−一九一〇︶などは、ことばに絶対の
私たちの暮らしの中でも、ことばの必要度と云ひませうか、使用頻
が入ってみる﹁ルーゴン・マカール叢書﹂︵一八七一−九三︶を完成さ
ルでありまして、はじめのうち、小説はどう書くべきかなど、考へる
度と云ったらい︾のですか、それは年々減少してゐます。電車の切符
せてゐます。つまり、小説にとって、乏しい時代になって、小説のあ
信頼を置いて、風景とか、情景を、細密描写してをります。しかし、
も、コーヒーや紅茶、酒やビールなどの飲み物も、すべて、自動販売
り方が問はれたやうに、ことばについても、私たちは、現在、より問
必要は全くなかったのですが、全盛期も過ぎた十九世紀のすゑごろに
機で間に合ひます。ことばは要りません。テレビのニュースでも、大
ひやすい状態にあると云ってい︾やうに思ひます。
二十世紀の作家は、文学の独自性とは何か、とか、ことばによる表現
事件がおこると、アナウンサーなり、キャスターがなにか説明するま
へに、何秒間か、無言のま﹀、現場の様子が放映されます。しかし、
一20一
一)
三巻、三二五四︶などと歌はれてをります。おそらくは、そのころ接
触のあった中国一すなはち、漢文と比べてみて、日本語の方が、微
少なかれ、類似の考へはあるだらうと思はれます。それは、簡単には、
は、何も、日本だけにあるのではなく、世界のどの地域にも、多かれ
あるやうに、ことばにも魂があると信じてをりました。かうした考へ
わが国では、昔から、言霊の信仰があります。人々は、人間に魂が
の正体が、昔は、より﹁あらは﹂であったと云ふべきかもしれません。
持ってるました。あるいは、私たちには覆ひかくされて了つたことば
昔の人々は、ことばに対して、現代の私たちとは少し違った考へを
語学の研究﹄︶
柄を述べるのに無数の語彙と表現法がある﹂︵土井忠生﹁吉利支丹
ある。即ち多くの点でギリシア語うテン語にも勝て居り同一の事
﹁日本語はあらゆる言語の中で最も典雅にして最も豊富な言語で
ての手紙で、
のため、日本語の学習に熱心でありましたが、その上司︵学林長︶あ
はれてるます。十六世紀後半、イエズス会士たちは、キリスト教布教
もとく日本語は、世界の諸言語の中でも、すぐれたことば、と云
︵五︶ ことばの力
呪文といふものからも分かります。ことばには、何か神秘な力がある
と、書き送ってゐます。日本語のかういふ特質にもよるのでせうか、
妙な差違までも、云ひ分けられる、と判断した︾めかと思はれます。
と思ふからこそ、呪文をとなへるのです。﹁千一夜物語﹄、通称﹃アラ
日本では言霊の思想が、強く意識されました。
ことだぼ
ビアン・ナイト﹂は、云ふまでもなく、アラビア地方を中心とした民
それでは、ヨーロッパでは、どうなってみるか、と云ひますと、新
はじめ ことば とも
約聖書の﹁ヨハネ伝﹂は、次のやうな書き出しではじまってゐます。
話の集大成ですが、その中の﹁アリババと四十人の盗賊﹄に出て来る
﹁開けゴマ1﹂も、呪文の一つです。
つとして之によらで成りたるはなし。之に生命あり、この生命は
﹁太初に言あり、言は神と僧にあり、言は神なりき。この言は太
人の光なりき﹂
森鴎外の小説に、﹃百物語﹄といふのがあります。夜、何人かが集ま
つ終るごとに、一つづつ明りを消して行き、最後に真暗闇になると、
こ︾でも、ことばには、命があったのです。
初に神とともに在り、万の物これに由りて成り、成りたる物に一
いのち
ほんたうに、お化けぷ出るといふのが、百物語です。これは鴎外の発
どこに於いても、昔は、ことばが、より﹁あらは﹂でありました。
り、明りを沢山つけておき、かはるがはる、お化けの話をし、話が一
明ではなく、昔から云はれたことであり、江戸時代にも、﹃百物語﹄と
今は、それが覆はれて了つたのです。しかし、ことばは、その本来も
つてみる力を失ったわけではありません。ある一言が、時として、剣
いふ本が出ております。こ︾にも、ことばには、お化けを実際に出す
などによる攻撃よりも、相手に、はるかに致命的な傷を負はせること
だけの力があるとする考へがあります。
ことばの持つ神秘な力の作用は、日本では大へん強く意識されたや
もあるし、または、ちょっとした誉めことばが、人を有頂天にしたり
やまと
うに思はれます。﹃万葉集﹄にも、﹁日本の国﹂は﹁言霊の幸はふ国﹂
︵五巻、八九五︶とか、﹁敷島の日本の国は、書霊の黒くる国ぞ﹂︵十
一21一
力です。同じやうなことは、﹁オセロ﹄にも、見られます。オセロが最
ブルータス側から、シーザー側へ、真反対に向かせるのは、ことばの
歳﹂を叫びながら、暗殺者たちの家を襲撃します。市民の気持ちを、
されて、たちまち、掌をかへしたやうに、態度を豹変し、﹁シーザー万
でブルータスの側についてみた市民たちはアントニーのことばに動か
て、今度は逆に、暗殺の不当性を説明します。さうすると、さっきま
を熱烈に歓迎します。ところが、その直後に、アントニーがあらはれ
タスが、暗殺の正当性を、市民に訴へます。市民たちは、ブルータス
すでにシーザーは暗殺されてをります。暗殺計画の中心人物、ブルー
ば、シェークスピアの﹃ジュリアス・シーザー一です。第三幕第二場、
すが、ことばの力を、私たちに、まざくと見せてくれるのは、例へ
﹁ペンは剣よりも強し﹂といふ格言︵ブルワー開リットン︶がありま
もします。
イゾルテはマルケ王と結婚しました。しかし、トリスタンとイゾルテ
へだて︾をり、かへりの船の上で、二人は恋におちます。約束どほり、
を迎へに行きます。マルケ王の国とイゾルテの住んでみる国は、海を
勇士トリスタンは、叔父マルケ王の求婚の使者となって、イゾルテ
は、ワーグナーの作品の中でも、最高の傑作と云はれてるます。
一八三︶に、﹁トリスタンとイゾルテ﹂といふオペラがあります。これ
いてみる文学作品から、例をあげてみますと、ワーグナー︵一八一三
この東と西のことばへの対応の違ひを、ことばと最も密接に結びつ
の平均的な意見が反映してみると思ひます。
新聞広告ですから、平凡な内容ですが、そのためにかへって、私たち
昭和六三年七月四日、朝日新聞夕刊︶
いかと確信してるみたいね﹂︵﹁赤ちゃんの発育とスキンシップ﹂
メリカ人というのは、一般に言葉で最終的に通じ合えるんじゃな
ろで通じ合えるんじゃないかとかなり信じている。ところが、ア
の恋は、募るばかりです。二人は、密会して、熱烈に愛を歌ひますが、
愛の妻デズデモーナを殺すのは、イアゴーのことばによって、デズデ
モーナが姦通してみると思ひ込んだからです。ことばの力の大きいこ
密告した者があり、二人は、逢引の現場を、マルケ王にとりおさへら
このオペラを、私たち日本人は、傑作であると認めつ﹀も、何かな
れます。
とは、改めて、驚くほどです。
︵六︶ ことばへの対応、東と西
トリスタンとイゾルテの逢引の場面ですが、二人は自分たちの愛につ
じめない一点があるのを感じます。一体どこに? 第二幕第二場は、
ことばと私たちとの関係が、昔と今とで、相違があるやうに、文明
いて、ながくと、くどい程に歌ひます。
私は憎んで歎きます。
不倶戴天のこの敵を
たくらみぶかい昼、
︵トリスタン︶昼、昼、
の違ひによっても、ことばへの対応には、それぐに特色があるやう
です。あるいは、ことばに対する違ひが文明の区別を作ってみるとい
ふ方がい﹀のかもしれません。
先日、新聞の広告欄でしたが、次のやうな記事がありました。
﹁日本人っていうのは、あまり話をしなくても、言葉以外のとこ
一22一
●
は、徳兵衛をかくまってみるのですが、お初が、死ぬる覚悟が聞きた
い、と独り言になぞらへて、﹁足で問へば、下にはうなづき、足首とつ
面は、大へん象徴的に出来てゐます。お初は縁先に腰かけ、縁の下に
愛の悩みの復讐に
て喉笛撫で、﹃自害する﹄とそ知らせける﹂とあり、つゴけて、﹁互に
あなたが明りを消したやうに
あ︾消せたらと思ひます。
ものはいはねども、肝と肝とにごたへつ﹀、しめりくてるたりける﹂
わたしも不遜な明るさを
およそ昼間の明るさに
この最も大事な場面で、恋する二人は、ことばによる会話をしませ
︵国立文楽劇場床本︶となってゐます。
苦しさや
ん。それでみて、十分に、心と心とは通じ合へたのです。
もとつかないやうな
つらさがあるでせうか。
ヨーロッパ人は、どこまでも、ことばで説明しようとします。それ
に対して、日本人は大事なことであればある程、ことばを少なくして、
[⋮⋮⋮]
︵イゾルデ︶恋人の私は自分の家に
強情に明りをかざしたのよ。
何しろ、我国は、昔から、﹁言霊の幸はふ国﹂でありましたし、十一世
を重視し、他方が、軽視してみると云へるやうなものではありません。
ことばのもつ﹁さし示す﹂特質にゆだねようとするのです。丁度、日
[⋮⋮⋮] ︵高木 引言︶
紀のはじめ世界がまだ叙事詩の段階にありました時に、世界に先駆け
明りをかざしたけれども、
このやうな調子で、まだく長くつゴきます。一般に、日本人は、
て、より細かで︵心理描写︶、より複雑な︵筋立て︶ことばの芸術であ
本画において余白は、何も描いてみない、単なる空白ではなくて、描
かういふ抽象的な会話をしません。しかも、男女の愛といふことばで
る﹃源氏物語﹄を作り出し、後に、欧米の人々をも驚倒させたのです。
私の恋人もかつては
は、﹁云ひあらはしにくい﹂ものを、かうまで執拗に表現することは、
その日本人が、ことばを軽視してみるとは思へません。二つの相違は、
いてある部分よりも、より充実した空間であるのに、通じます。
まつ、ありません。
ことばのもつさまぐな性質の、どこに、より多くの重点をおくかに、
明るくとりみだしながら
日本の類似の舞台作品と対比してみれば、その差違は、より明らか
ヨーロッパでは、辞書の編纂が盛んです。﹁盛ん﹂といふと、何かたゴ、
欧米と日本とのことばへの対応の違ひは、単純に、一方が、こと憾
になります。近松門左衛門︵一六五三一一七二四︶の﹃曽根崎心中﹄
かね
は、やくざな友だちに銀をかして了ひ、その銀をかへしてもらへない
数が多いだけのやうに聞こえますが、ヨーロッパ人は、辞書作りに情
自分の胸の中に
ばかりか、悪態までつかれた徳兵衛は、かねてなじみの遊女お初と心
熱をそ﹀ぎます。︵こ﹀で、辞書といふのは、断るまでもないと思ひま
よってみると思ひます。
中する話です。そのなかで、徳兵衛とお初とが、心と心とを通はす場
一23一
す。これだけで、もう二十五年もか、つたのでありまして、その後は、
六三年まで﹀ありまして、分量から云へば、AからFの途中でありま
が関係したのは、弟が先に死に、そして兄が死ぬのですが、その一八
編纂してをります。一八三八年に着手されたこの辞書で、グリム兄弟
グリム童話でおなじみのグリム兄弟は、有名なドイツ語の辞書を、
りません。︶
すがことばの辞書です。事柄の辞書、百科事典はいまは、対象ではあ
ことばは真実の周辺をめぐりながら、真実を指し示めしてみるのです。
から、ブッダはそれを衆生に説かれた︵﹁ことば﹂︶のでありますから、
これに対して、仏教では、ブッダの﹁体験﹂︵悟り︶があって、それ
れるのです。
神なりき﹂であります。こ︾では、第一にまつ、ことばの本質が問は
間に与へられます。つまり、﹁太初に言あり、言は神と僧にあり、言は
ありまして、そのために、﹁ことば﹂は絶対であり、一方的に神から人
キリスト教にあっては、﹁体験﹂に先だつて、﹁ことば﹂があるので
﹁こと﹂の花びら
ことばの様相は、さまぐであり、地域により、文明により、時代
︵七︶
大勢の学者が寄り集まって、この仕事を受けつぎ、完成したのは、そ
れから九十七年後の一九六〇年、着手から数へると、百二十二年か︾
つた勘定になります。その間、三百八十冊の分冊として刊行され、総
べージ数三万六〇〇〇ページであります。
これは、何も、ドイツだけの特殊事情ではないのです。イギリスに
それら総てに通ずるものがあるだらうことは、容易に予想できます。
も、大きな辞書があります。OED−O×hoa野口窃q房げU一〇自。冨蔓です。により、まちくではあるけれども、それが同じことばである以上、
日本では、かうした大がかりな辞書はありません。その代り、詳細
な注釈ならあります。﹁万葉集﹂や﹁古今集﹂などの歌集には、もちろ
ることによって、神へ到達しようといふのです。この伝統をふまへて、
哲学者のハイデガー︵一八八九一一九七六︶は、ことばによって、存
ヨーロッパには、聖書解釈の伝統があります。聖書の本文を解釈す
グリムの辞書やOEDに匹敵するやうな辞書はありません。
ん、﹁源氏物語﹂にも、﹁古事記﹂にも詳細な注釈があります。しかし、
辞書は、一語々々の本質を説明し、それから、その語の派生的な用
少し違ってみるかもしれません。私たちは、こ﹀に机が見えれば、﹁こ﹀
でゐます。ハイデガーがいふ﹁存在﹂といふのは、私たちの常識とは、
合、より大事なのは、前後関係からその場の一回限りの意味を指摘す
に机がある﹂一つまり﹁机が存在する﹂ことが分り、﹁存在﹂とはさ
在に迫らうとしました。.ハイデガーは、ことばを﹁存在の家﹂と呼ん
ることです。
法を列挙しますが、注釈では、その語の本質は二次的であり、この場
ことばへの対応のこのやうな違ひは、一体、何に由来してみるので
れば、机の存在志ますく確かなものになります。しかし、私たちが、
目で見、手で触れたのは、﹁机﹂でありまして、﹁机がある﹂では、あ
ういふものだと、単純に考へがちです。まして、手で触れてみたりす
せうが、それらの奥には、それぐの幾の宗教とことばとの関係が、
りませんでした。机といふ物は、目で見、手で触れることが出来ます
せうか。おそらくは、さまぐな要因が複雑にからみ合ってみるので
何ほどかの程度に、反映してみるやうに思はれます。
一24一
ことばの欠けてみるところには、何物も存在しない。思ふやうに使
ふことを云ってをります。
ハイデガーは、﹁ことば﹂︵b騎ミご試︶と題する講演の中で、かうい
す。私たちは、しばく存在者を存在そのものと混同してしまひ豪す。
うなものを、﹁存在者﹂、机がある、の﹁ある﹂を﹁存在﹂と区別しま
は、目で見ることも、手で触れることも出来ません。そこで、机のや
が、﹁その物がある﹂、といふこと、﹁机がある、存在する﹂といふこと
あらう。ことばがこのやうなことをかなへてやる限り、人間の本質は、
で、話しかけることが、人間に出来ないならば、人間は人間でないで
な仕方で、大抵は、声に出さずに、﹁それはある﹂︵δω一〇〇す︶といふ形
も、絶えず、いたるところがら、それぐのものに対して、さまぐ
話すといふ能力が、人間を人間として、特色づけてるる。⋮⋮もし
す。
また、﹁ことばへの道﹂といふ講演では、かういふことも云ってゐま
の存在者は、名前が必要である。これがことばであって、そのことば
この存在するものを、詩人は表現しようとする。そのためには、そ
そして、かうつゴけます。
ひます。要するに、人間は、.ことばといふ家で、存在と出会ふのです。
これで、ことばと存在と人間との三者の関係は明らかになったと思
等に並べることは出来ない、とハイデガーは繰返し云ってゐます。
﹁話す﹂といふ能力は、人間がもつてみるその他の諸々の能力と同
ことばにもとづいてみるのである。
によって、すでに存在してをり、または存在してみると思はれるもの
ハイデガーは、﹁ことば﹂といふ日本語に大へん興味をもちました。
へることばがあってはじめて、物に存在が与へられる。
が、具体的にされるのである。
すが、それは、ことばによってもたらされるのです。私たちは、こと
で、木の葉または、花びらと考へました。︵この発想はドイツ語の国①#
からです。﹁こと﹂は﹁事﹂と﹁言﹂とに通じ、﹁ば﹂は﹁は﹂の転化
﹁ことば﹂といふことばは、ことばの本質を端的に示してみると見た
ばの家で、存在と接するのです。ことばの欠如してみるところで、存
には、葉と花びらの両方の意味があるところがら来てゐます。︶つまり
つまり、存在は自らをかくしながら、存在者としてあらはれるので
在と接することは出来ません。
夢の中でも、話します。声に出さずに、たゴ聞いたり、読んだりして
ハイデガーによりますと、人間は話します、目覚めてみる時よりも、
が、普通に思ってみるのよりは、広く考へてるます。
るのが、人間です。この﹁話す﹂といふのも、ハイデガーは、私たち
本居宣長︵一七三〇1一八〇一︶は、﹃古事記﹄の詳細な注釈である﹃古
のです。似たやうな主張は、日本にもあります。江戸時代の国学者、
段と思ひがちですが、ハイデガーは、そのやうな考へを否定してみる
私元ちは、ばくぜんと、ことばは存在を伝達する道具、または、手
けです。
﹁ことば﹂といふのは、﹁こと﹂に由来する花びらといふことになるわ
みる時にも、いや、それどころか、働いてみる時にも、又は、余暇を
事記伝﹄の総論で、
この存在者に存在を与へるところのことばを繰って話すことが出来
楽しんでみる時にも、人間は、絶えず、何らかの仕方で、話してみる
﹁意と事と言とは、みな相称へる物にして、上ッ代は、意も二
ココロ コト コトパ アヒカナ
のです。︵b紺憩§らぎ︶
一25一
してみるのでありまして、ハイデガーが、﹁ことば﹂といふ日本語は、
事柄を伝へる単なる手段と見ないで、ことばが、即ち、事柄であると
と、こ∼では、一そう詳しく述べてをります。本居宣長は、ことばは
は、古言古歌にある也﹂︵﹁うひ山踏み﹄一︵ラ︶︶
なせる事をしりて、その世の有さまを、まさしくしるべきこと
ま相かなへるものなれば、後世にして、古の人の、思へる心、
ならず、心のさまも、又歌にて知ルべし、言と事と心とは其さ
は、史に伝はれるを、その史も、言を以て記したれば、言の外
しらんとするに、そのいへりし言は、歌に伝はり、なせりし事
﹁今の世に在て、その上代の人の、言をも事をも心をも、考へ
大体、同じやうなことを説明してゐます。
と、云ってゐますし、学問の方法論をまとめた﹃うひ山踏み一でも、
も言も上ッ代、後ノ代は、意も事も言も後ノ代﹂
の鉄道自殺は、何の関係もありません。あのやうな愛と苦悩の存在が
をヒントに書かれたのですが、美貌の人妻の愛と苦悩の存在に、実際
す。トルストイの﹁アンナ・カレーニナ﹂は、実際にあった鉄道自殺
これは何も詩や歌に限ったことではありません。小説でも、同様で
ための素材に過ぎないといふ理由が、こ﹀にあります。
ことばは存在を伝達する単なる道具ではなくて、存在はことばを生む
と思ふなら、それは錯覚です。この歌が、自然の景色を作ったのです。
ます。この歌を読んで、私たちが、いかにも実際の景色を詠んだ歌だ、
せん。一旦、歌が出来上がって了へば、今度は、ことばが存在を作り
せう。しかし、その情景といふ存在は、この歌のための素材に過ぎま
ってみるのです。この歌を生む何程かの動機となった情景はあったで
れを受身に写したのではなく、積極的に、ことばによって、情景を作
やうだ、と、よく云はれますが、このやうな情景が、まつあって、そ
しみ酒\とするといふのです。この歌は、まるで一幅の日本画を見る
のに通じます。
芸術である﹃アンナ・カレーニナ﹂といふ小説が、あのやうな存在を
あって、それをトルストイが写し取ったのではありません。ことばの
コトバ ワザ ココロ
事柄とことばに共通する﹁こと﹂から咲き出した花びらと解してみる
現代でも、中国文学の吉川幸次郎は、﹁存在はことばのためにある﹂
作ったのであります。
︵八︶ をはりに
といふ逆説的表現を好んで用ゐました。この場合の﹁存在﹂といふの
は、存在と存在者とを区別してみない乙思ひますが、普通には、さう
いふ存在を、ことばが伝へると思はれてるます。しかし、ことばが存
ことばは、とらへやすいやうでありながらとらへたと思ふと、する
在を作ることもあります。文学作品、特に、詩の場合がさうです。
例へば、﹃百人一首﹄にも入ってみる、寂蓮法師の歌、
りと手から逃げて行きます。
何を指してみるか、日本人なら、知らない人はゐません。ところが、
﹁犬﹂といふことばは、誰でも知ってゐます。﹁犬﹂といふことばが、
村雨の露もまだひぬまきの葉に霧たちのぼる秋の夕ぐれ
一時的にサッと降る村雨、その村雨が降り過ぎて、まだ乾かない木々
の葉のあたりには、もう夕霧が立ちのぼって来て、秋の夕暮の感じが、
﹁犬﹂といふものは、この世の中に一匹もみないとい﹁ふのです。中国
一26一
の諸子百家の一人である公孫龍︵前三二〇?1前二五〇?︶は、﹁白馬
非馬﹂、白い馬は馬ではない、と云ひました。白い馬とか、栗毛の馬と
かはみるが、そのどれでもない馬といふものはみない、といふのです。
だから、白い馬は、馬ではないわけです。同じ理由から、﹁犬﹂といふ
ものはみません。みるのは、黒い犬とか、ブチの犬です。
先に、私は﹁彼は部屋に入ると、帽子と外套を脱いで、それから窓
辺に行った﹂といふやうな表現は、今日の小説では、ほとんど無意味
となった、と云ひました。さういふ描写は、映画の方が、小説よりも、
すぐれてみるからです。しかし、さうとばかりは単純に云へないとこ
ろもあります。映画でなら、﹁彼﹂は何らかの具体的な男でなければな
りませんし、部屋も豪華か、質素か、帽子はソフトか、毛皮か、外套
の色はグレーか、黒か、それとも茶色か、形はシングルか、ダブルか、
等々、どれか一つに決めなくてはなりませんが、ことばによる表現の
場合は、それらすべてを包含することが出来ます。
ことばといふものは、大へん日常的で、ありふれてみるのですが、
なかくその全貌を見せてくれません。﹁あらは﹂でありながら﹁神秘
に満ちてみる﹂のが、ことばであります。﹁人間とは何か﹂とか、﹁存
在とは何か﹂と同じやうに、ことばに対する問ひもまた、永遠に問は
れつゴけるだらうと思ひます。
一27一
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