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人外魔境10 地軸二万哩

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人外魔境10 地軸二万哩
人外魔境
ホモ・コウダッス
有尾人
小栗虫太郎
ムラムブウェジ
大魔境﹁悪魔の尿溜﹂
フランスの自動車会社シトロエ
ンの探検隊︱︱。これは、米国地
理学協会ほどの大規模なものでは
1
ないが、とにかく一営利会社とし
てはなかなかの仕事をしている。
最初は、アフリカのサハラ沙漠を
トラクター
牽引車で突破し、続いて、ペルシ
キャ
ア、中央アジアを経てペキンまで、
キャタピラー
無限軌道をうごかしていった大旅
ラヴァン
行隊をさえだしている。
さて、その三回目の計画である
が、すでに選定もすみ雨期あけを
待つばかりだそうである。それも、
2
これまでのような自動車旅行では
おくそく
なく、謎と臆測と暗黒のうちにう
ずもれている、前人未踏の神秘境
を指しているのだ。
では、どこか? そんな土地が
まだこの地球上にあるのかと、読
者諸君は不審がるだろうが、ある
とも大有りである。
テラ・インコグニタ
﹁未踏地帯﹂と、精密な地図にさ
え白圏のままに残された個所が、
3
まだ四、五か所はある。それらの
土地は、なにか踏みいれば驚天動
地的なものがあるだろうと、聴く
だに探奇心をそそりたてる神秘境
なのである。
そこでまず、選定会議にのぼっ
た候補地をあげることにしよう。
そうして、シトロエンの探検隊が
これからゆこうという場所が、い
しの
かにそれらさえも凌ぐ超絶的な地
4
位にあるかということを、読者諸
もら
君にはっきりと知って貰おう。
Folls
de
Dio
リオ・フォルス・デ・デ
一、南米アマゾン河奥地の、“R
io
ィオス
s”の一帯。
二、北極にちかい、グリーンラン
ドの中央部八千尺の氷河地帯にあ
よみじ
るといわれる、“Ser︲mik
セルミク・シュアー
︲Suah”の冥路の国。
5
し な
ダ
プ
シ
パ
マ
三、支那青海省の“Puspam
ー
ada”いわゆる金沙河ヒマラヤ
パイアンカラ
の巴顔喀喇山脈中の理想郷。
四、?
第一のアマゾン河奥地というの
は﹁神々の狂人﹂と訳される。こ
こへは、米国コロンビア大学の薬
ガ
ス
学部長ラマビー博士一行が探検し
しょうれいしつねつ
たが、ついに瘴癘湿熱の腐朽霧気
地帯から撃退されている。ただ、
6
ヴィクトリア・レギア
かわ
白骨をのせた巨蓮の食肉種が、河
も
面を覆うているのが望遠レンズに
映ったそうである。
第二の神秘境は、エスキモー土
そり
人が狂気のように橇を駆ってゆく
すみか
という、グリーンランドの中央部
シュアー
にある邪霊の棲所である。そこは、
オーロラ
極光にかがやく八千尺の氷河の
峰々。そこには、ピアリーやノル
デンスキョルド男でさえもさすが
7
ゆきかねたというほどの︱︱氷の
奥からふしぎな力を感ずる場所だ。
ぼんご
第三は、梵語で花酔境と訳され
る。そこは、遠くからみれば大乳
海を呈し、はいれば、たちこめる
ねはん
花香のなかで生きながら涅槃に入
ユー
るという、ラマ僧があこがれる理
トピア
とうはん
想郷である。彼らは、そこを﹁蓮
マニ・バードメ
中の宝芯﹂と呼んで登攀をあせる
けれど、まだ誰一人として行き着
8
いっぴじん
すみか
いたものはない。そのうえ、古く
せんがいきょう
は山海経でいう一臂人の棲所。新
しくは、映画の﹁失われた地平線﹂
の素材の出所とにらむことのでき
へんきょう
る︱︱まさに西北辺疆支那の大秘
境といえるのである。
しかし、以上の三未踏地でさえ
足もとにも及ばぬという場所がいっ
ど こ
たい何処にあってなにが隠れてい
るのか、さぞ読者諸君はうずうず
9
となってくるにちがいない。それ
は赤道中央アフリカのコンゴ北東
ム
ラ
ム
ブ
部にある。すなわち、コンゴ・バ
ェ
ジ
にょうだめ
ンツウ語でいう“M'lambu
ウ
wezi”訳して﹁悪魔の尿溜﹂
といわれる地帯だ。そこには、ま
だ人類が一人として見たことのな
しゅうえんち
い、巨獣の終焉地﹁知られざる森
セブルクルム・ルクジ
の墓場﹂が、あると伝えられてい
る。
10
ではここで、この謎の地域がけっ
して私のような、伝奇作者のでた
ラ
イ
ト
らめでないという証拠に、英航空
フ
専門誌“Flight”に載った
講演記事を抜粋してみよう。講演
者は、ナイロビ、ムワンザ間のウ
エアウェーズ
イルスン航空会社のファーギュス
ンという操縦士だ。
私も、悪魔の尿溜攻撃は、数回
11
にわたって試みましたが、結局空
からも征服は不可能という惨めな
結論を得たばかりです。
飛行機万能の現代では、航空機
の前に未踏地はなし︱︱とまでい
ムラムブウェジ
われるのに、なぜ悪魔の尿溜だけ
には敗退したか? 悪気流か? それも一因でしょう。
だいたい、悪魔の尿溜の北側は
大絶壁になっております。そのう
12
えがゼルズラと呼ばれる流沙地帯
なのですが、そこは、上空の空気
きはく
が非常に稀薄で、よく沙漠地方に
ヒート・ヴァキューム
おこる熱真空ができるのです。
そこへ来ると飛行機はもうよろ
よろめ
よろと蹌踉きます。しかし、絶壁
下にひろがる悪魔の尿溜の湿林は
のうちょう
しょ
濃稠な蒸気に覆われてまったく見
もや
通しが利きません。その靄か、沼
うき
気か、しらぬ灰色の海に、ときど
13
き異様な斑点があらわれるのです。
私は思い切って、最後の飛行の
時ぐっと下降してみました。とこ
ガ ス
ろが、いままで、濃霧か沼気かと
思っていたのが驚いたことに雲の
ように群れている微細な昆虫だっ
たのです。横三十マイルにもひろ
ムラムブウェジ
がる悪魔の尿溜の上空をぎっしり
かぶゆ
と埋めて、おそろしい蚊蚋の大群
が群れているのです。マラリア、
14
くち
デング熱の病原蚊、睡眠病の蠅、
チ
ュ
フ
ァ
Tufwao
ああ、その大
毒蚋、ナイフのような吻の大馬蠅
の
集雲!
悪魔の尿溜に、よしんば金鉱が
隠されてあろうとダイヤモンドが
転がっていようと、あるいは珍奇
獣虫がいようと原人がいようとも、
えいごう は
この永劫霽れようとも思われない
毒の羽虫の雲を除くには、恐らく
15
ガスマスクをつけ防虫完備の工兵
が、優に一師団をもってしても数
年はかかろうかと思われます。
これが飛行家の観察した悪魔の
尿溜だが、つぎに、その奥にある
といわれる巨獣の墓場のことであ
る。おそらく読者諸君も、ゴリラ
チンパンジー
や黒猩々などの類人猿や、野象に
かぎって死体をみせぬのをご承知
16
であろう。してみると、どこか到
底人間には行けぬ密林の奥にでも、
彼らの死場所がなければならない。
ムラムブウェジ
悪魔の尿溜がこの条件にぴったり
はま
と嵌っているわけだが、これも作
者の創作と思われては困るから、
歴然としたパラッフィン・ヤング
卿の赤道アフリカ紀行、﹁コンゴ
カブト・ニリ
からナイル河水源へ﹂のなかの一
記事を引用しよう。
17
晴天だと、ルウエンゾリ山が好
箇の目標になるのだが⋮⋮、降り
も や
だして雨霧に覆われてからは、た
さまよ
とげいばら つたかずら
だ足にまかせて密林のなかを彷徨
ぬかるみ
いはじめた。泥濘は、荊棘、蔦葛
とともに、次第に深くなり、絶え
あり
ず踊るような足取りで蟻を避けな
がら、腰までももぐる野象の足跡
に落ちこむ。
すると、前方約百ヤードほどの
18
あたりに、ぴしぴし枝を折りなが
あか
らドス赭いものが動いてゆく。ゴ
リラだ! 私はこのコンゴの奥ふ
かくにくるまで、ゴリラには一度
も逢わなかったのだ。そこで、ほ
ウィンチェスター
とんど衝動的に連発銃をとりあげ
ようとした。すると、土人が一人
コ
飛びついて銃をおさえ、
ソ
﹁旦那、あのゴリラは恩人でがす。
レコア
殺すなんて、英人の旦那らしくも
19
ねえでがすぞ﹂
ソ
土人は、ゴリラのことを“So
コ
ko”という愛称で呼んでいる。
あっけ
私は声を荒らげるよりも呆気にと
られて、
と
﹁なぜいかんのだ。ゴリラが獲れ
るなんて千載に一遇ではないか﹂
ぞ う
﹁それがです。旦那は、野象の穴
ほうみ
へ落ちたとき、磁針をお壊しなすっ
わし
たので、儂らは、どっちへどう出
20
たらこの森を抜けられるか、いま
コ
途方に暮れているでがす。そこへ、
ソ
あのゴリラが教えてくれたでがす
よ。つまり、おらが歩んでゆく先
が北に当るぞちゅうて⋮⋮﹂
コ
﹁そんなことが、お前にどうして
分るね?﹂
ソ
﹁あのゴリラは、いま森の墓場へ
死ににゆこうとしているのだ。そ
れが、わしらにはゆけねえ悪魔の
21
ムラムブウェジ
ソ
コ
尿溜にあるちゅうだ。ゴリラはな、
雨が降るとあんなには歩きましね
え。ぼんやりと、手を頭にのせて
しゃが
ソ
コ
じっと蹲んでおりますだ。わしら
ちっ
は、幼けなときからゴリラをみて
るだが、雨んなかを、死神にひか
ソ
れて歩かせられてゆくような、ゴ
コ
リラにかぎって北へゆかねえもの
はねえでがす﹂
ムラムブウェジ
私にはその悪魔の尿溜の一言が
22
ぴいんと頭へきた。事によったら、
いまいる我々の位置が途方もなく
深いのではないか。そういえば、
ン
ゴ
ー
密林のはずれにあるマヌイエマの
ク
クンゴー
部落で、“Kungo”といって
かぶゆ
いる蚊蚋の大群が、まさに霧のご
もうもう
とく濛々と立ちこめている。私は、
そう分るとぞっと寒気だち、あの
ゴリラがいなければ死んだかもし
れぬと思うと、いま頭に手を置い
23
てのそりのそりと歩いてゆく、墓
めいふく
場への旅人に冥福の十字をきった
のである。
そうこう
ヤング卿はこうして倉皇と逃げ
かえって、危く一命を完了した。
の
なまじ進めば、北は瞬時に人を呑
きこんやど
む危険な流沙地域。他の三方は、
ボ ア
ゴ リ ラ ス ツ
王蛇でさえくぐれぬような気根寄
り ぎ
生木の密生、いわゆる﹁類人猿棲
24
ォ ー ネ
息地帯﹂の大密林。だが、読者諸
君、そこへ踏みいって無残にも死
きせきてき
に、奇蹟的にも大記録を残すこと
のできたわが日本人の医師がいる
のだ。その踏破録を、シトロエン
文化部の発表に先だって、これか
つづ
ら物語風に書き綴ろうとするので
ある。
有尾人ドドの出現
25
ポルトガル
葡領東アフリカの首都モザンビ
イクは、いま雨期のまっ盛りにあ
る。
くろんぼ
人が腐る、黒人の膚からは白髪
のような菌がでる︱︱そういう、
雨期特有のおそろしい湿熱が、い
まモザンビイクをむんむんと覆い
つつんでいる。雨、きょうもこの
島町は湯滝のような雨だ。
毒蠅のマブンガを避けて閉めきっ
26
ている室のなか、座間の研究所の
一室に、アッコルティ先生がいる。
イタリア・メドナ大学の有名な動
物学の、この先生はなにものを待っ
じ
ているのだろう?! 焦れきって
あごひげ
あえ
顎髭からはポタリポタリと汗をた
うんき
らし、この※気に犬のように喘い
でいる。
﹁座間君、カークが僕になにを見
せようというのだね。僕が、アッ
27
たまげ
と魂消るようなものというから船
を下りたんだが⋮⋮﹂
﹁秘中の秘です。なんとでも、先
生のご想像にお任せしましょう﹂
﹁じゃ、オカピか、ゴリラかね﹂
﹁はっはっはっは、そんな月並み
なものなら、お引き止めはしませ
んよ﹂
座間はただ、さも思わせぶった
ほほえ
ようににたりにたりと微笑んでい
28
る。彼は、三十をでたばかりの青
おお
年学徒、小柄で、巨きな顔で、や
さしそうな目をしている。しかし、
一目肌をみればそれと分るように、
テ
座間は純粋の日本人ではない。三
ル テ ィ オ
分混血児︱︱アデンの雑貨商だっ
た日本人の父、黒白混血のイタリ
ア人を母とした三つの血が、医専
を日本で終えても故国にはとどま
らず、はるばる熱地性精神病研究
29
にモザンビイクへきたのであった。
といるわいるわ、女には舞踏病
ラマーナヤーナ
サ
リ
ム
バ
ヴ
ィ
の静止不能症、男には、マダガス
ロ
カル特有の“Sarimbavy”
コ
や“Koro”そこへ、モザンビ
イク一の富豪アマーロ・メンドー
サの援助があり、ついに研究所を
ひらき土着の決心をした。そうし
て、座間は黒人の神となった。生
やぶくさ
涯を、熱地の狂人にささげ、藪草
30
ひょ
にうずもれようとも、あわれな憑
ういもうそう
依妄想から黒人を救いだそうとす
ヒューマニズム
る︱︱座間は人道主義の戦士だっ
た。そうして、六年あまりもモザ
ンビイクで暮すうちに、彼はカー
クという密猟者と親しくなった。
次いで、よくカークをつれて奥地
へゆく、アッコルティ先生とも知
りあいになったわけである。しか
アフリカ
しいま、ちょっと南阿から寄港し
31
た先生を、なぜ座間が引きとめて
いるのか。たしかに、なにかの驚
くべきものをアッコルティ先生に、
みせようとしているのは事実であ
るが、一体なんであろう?!
折からそこへ、扉があいて若い
男が姿を現わした。一見、黒白混
つら
血児とわかる浅黒い肌、きりっと
せいかん
はつらつ
かもしか
ひき締った精悍そうな面がまえ、
したい
ことに、肢体の溌剌さは羚羊のよ
32
うな感じがする。
せ き
ジョジアス・カーク︱︱国籍は
アメリカ
合衆国だが有名なコンゴ荒し︱︱
禁獣を狩っては各地へ売る、白領
コンゴのお尋ねものの一人だ。
カークはお待ち遠さまと微笑ん
で見せて、右手を扉のそとにだし
しきい
たまま閾から入ってこない。やが
て、彼の手にひかれてこの室内へ、
まったく予期以上とばかりアッコ
33
ルティ先生が目をみはる、世にも
不思議な生物がはいってきたのだ。
まったく、そのときの先生の驚き
モノクル
ようといったらなかった。一眼鏡
の、目をあけたままポカンと口を
た
うな
あけ、やっと経ってから正気がつ
いたように、
ホモ・コウダッス
﹁おう、有尾人!﹂と唸るように
つぶや
呟いた。
それは、全身を覆う暗褐色の毛、
34
丈は四フィートあるかなしかで子
供のようであり、さらに一尺ほど
せんこつ
の尾が薦骨のあたりからでている。
といって、骨格からみれば人間と
いうほかはないのだ。しかし、頭
そ
の鉢が低く斜めに殺げ、さらに眉
じょうがんかきゅう
のある上眼窩弓がたかい。鼻は扁
かがっこつ
平で鼻孔は大、それに下顎骨が異
しさい
常な発達をしている。仔細に見る
までもなく男性なのである。
35
それはまあいいとして、この有
や ぎ
尾人からは、山羊くさいといわれ
にお
る黒人の臭いの、おそらく数倍か
たま
と思われるような堪らない体臭が、
むんむん湿熱にむれて発散されて
くる。アッコルティ先生は、ハン
カチで鼻を覆いながらじっと目を
す
据えた。
おとな
﹁ふむ、温和しいらしい。ときに、
なつ
君らには懐いているかね﹂
36
﹁ええ、そりゃよく﹂とカークが
煙草の輪を吐きながら答えた。
と
﹁すると、これを獲ってから大分
になるんだね﹂
こ こ
﹁いいえ、此処へきてまだ七日ば
かりですよ。第一ドドが、僕の手
に落ちてから二週間とはなりませ
ん﹂
﹁ドドとは⋮⋮﹂
﹁僕らがつけた、この紳士の名前
37
です﹂
﹁はっはっはっは、じゃ、有尾人
ドド氏というわけだね﹂
とアッコルティ先生が笑ってい
げ
るなかにも、なにやら解せぬよう
な色が瞳のなかにうごいている。
野生のもの、しかも智能のたかい
猿人的獣類が、わずか十日か二週
なつ
間でこうも懐くはずがあるだろう
か。
38
﹁ときに、君はこのドド氏をどこ
で獲ったのだね﹂
﹁場所ですか﹂とカークは思わせ
ぶったようにすぐには答えず、ま
いち
ず、ドドを捕まえるにいたった一
ぶ
仍始終を語りはじめた。
﹁とにかく、ドドが懐いたという
のは、最初の出がよかったからで
すよ。僕は先生のお説の、ゴリラ
定期鬱狂説を利用して、今度こそ
39
六尺もある成獣を捕えてやろうと
思って出かけたのです﹂
アッコルティ先生は、前年度の
学会にゴリラ定期鬱狂説を発表し
しかい
ホ ビ ー
て、斯界に大センセーションをま
き起した。
メランコリー
ゴリラには、憂鬱病と恐怖症が
周期的にきて、その時期がいちば
つの
た
ん狂暴になりやすいという。そし
くもん
て苦悶が募って来て堪えられなく
40
ヒ
ラ
セ
ウ
ム
な
なると“Hyraceum”を甜
めにきて緩和するというのだ。ヒ
ハイラックス
ラセウムとは、岩狸が尿所へする
尿の水分が、蒸発した残りのねば
わ
ねばした粘液で、カークはこのヒ
ほ ら
ラセウムのある樹洞のまえに、陥
な
穽を仕掛けようとしたのであった。
わ な
﹁僕は陥穽をにらんで四昼夜も頑
張っていました。すると、五日目
の昼になってとうとうやって来ま
41
した。それが、なん歳ぐらいのも
のか藪の密生で分りませんが、と
にかく、ぴしぴし枝を折りながら
ほ ら
樹洞のほうへやってくる。やがて、
えらい音がしてどっと土煙があが
りました。しめた、生きたゴリラ
なら十万ドルもんだと、さっと土
人と一緒に勢いよく飛びだすと⋮
⋮どうでしょう、たしかに落ちた
はずのゴリラの真正面に向きあっ
42
てしまったのです。しかし、すぐ
相手は四足で逃げ出しましたがね﹂
わ な
﹁ほほ、陥穽に落ちたのがそのゴ
リラでないとすると⋮⋮ドドかね﹂
のぞ
﹁そうなんです、しかし、覗きこ
んだときはさすが驚きましたよ﹂
﹁そうだろう。君みたいな⋮⋮、
しんせき
コンゴ野獣の親戚でも、これには
驚くだろう。しかし、最初のうち
は抵抗しただろうが﹂
43
﹁それがしないのです。じつに、
フラムベジア
ひどい苺果痘にかかっていたので
す。僕は、なにより可愛想になっ
こう
てきて、さっそく皮膚に水銀膏を
なすってやると、大分落ちついて
きました。もう以前のように幹へ
こす
からだを擦ったり、泥を手につけ
か
て掻きむしるようなことはしませ
ん。ただ、目をほそめて僕の手に
かん
ある、水銀膏の罐をものほしそう
44
にながめているのです。それで僕
はこいつは物になると思って、そ
おとり
の罐を囮に手近かの部落まで、と
うとうドドをなにもせずにひっ張っ
てきたのです﹂
﹁なるほど、さすがはジャングル
の名人芸だね﹂
思わずアッコルティ先生は感嘆
も
の声を洩らした。
フラムベジア
﹁それから、ドドの苺果痘のほう
45
なお
は座間君の手ですっかり癒りまし
た。ですから、僕と座間君にはむ
ろんのこと、この研究所の出資者
メンドーサ氏の令嬢、マヌエラさ
なつ
んにも非常に懐いているんです﹂
ちょうどそこへ、扉がわずかに
開いて、うつくしい顔がのぞいた。
うわさ
今も今とて噂したマヌエラ嬢だっ
シー
た。彼女は、真白な洗いたての敷
ツ
布のようにどこからどこまで清潔
46
な感じのする娘だ。座間とは婚約
の仲、また人道愛の仕事の上でも
かたく結びついている。
﹁先生が、どういう風にドドを観
察なさるか、伺いにあがりました
わ﹂
マヌエラの明るい声の調子が、
さわ
アッコルティ先生の気分を爽やか
にしたとみえて、先生はさっそく
観察の発表をはじめた。
47
はじめに尾をさして、いわゆる
ワイシェ・シュワンツ
薦骨奇形の軟尾体だといった。つ
ぎに、全身を覆う密毛がしらべら
れ、その一本立ての三本くらいを、
チンパンジー
黒猩々特有の排列と説明する。さ
らに、ドドの後頭部が大部薄くなっ
アントロボビテークス・カルヴス
ているのが、﹁黒猩々的禿頭﹂そっ
くりながら⋮⋮耳も、円形の黒猩々
ンパンジー・オーレン
耳。つぎに、眉がある部分の上眼
窩弓がたかいのも、黒猩々特有の
48
ものだと先生はいう。そうなって、
次第にドドは人間黒猩々間の、雑
交児ということに証明されそうに
なってきた。
がぜん
すると、先生が俄然言葉を改め、
ドドの頭上に片手を置いていった
のである。
ミクロケファレン
﹁これがね、いわゆる小頭という
やつだ。つまり、頭骨の発達がな
く脳量がない。したがって、智能
49
の度が低いという原人骨同様だ﹂
原人という言葉にどっと部屋中
が騒がしくなった。誰よりも、マ
ヌエラがまっ先に質問をした。
﹁じゃ、ドドが原人なんでござい
ますね。とうに、数百万年もまえ
に死滅しているはずの⋮⋮﹂
﹁とにかく、人間黒猩々の雑交児
という説に、これはむろん並行し
ていえると思うね。いや、わしは
50
断言しよう。古来、いかなる蛮人
にもこれほど下等な頭骨はない︱
︱と﹂
生きている原人、血肉をもった
原始人骨︱︱まさに自然界の一大
驚異といわなければならない。
では、ドドはどうして生まれ、
どこから来⋮⋮、また純粋の人間
とすればどうして数百万年も、固
有のかたちが変えられずに伝わっ
51
たのだろうか。
でまず、ドドを人獣の児として
考えてみよう。そうすると、なぜ
さまよ
群居をはなれて彷徨っていたのだ
ろうか。捨てられたか⋮⋮追放さ
れたか⋮⋮? あるいは、ずうっ
と幼少時から孤独でいたとすれば
ボ ア
野獣や、王蛇が横行する密林でぬ
けぬけ生きられるわけはない。ま
た、故郷のジャングルをしたう郷
52
け ぶ
愁といったものも、ドドには気振
りにさえもみえないのだ。
郷愁を感じない、野生動物がど
こにあるだろうか。つかまって、
環境がちがったときはどんな生物
でも、食物をとらなかったりして
郷愁をあらわすものだが、それが
ドドには不思議にもないのだった。
すると、カークをふり向いてアッ
コルティ先生がいった。
53
﹁まだ捕獲した場所を聴いてなかっ
たね。いったい、このドドをどこ
で見つけたんだ?﹂
﹁それが、ほぼ東経二十八度北緯
イギリス
四度のあたりです。英領スーダン
ベルギー
と白領コンゴの境、⋮⋮イツーリ
ゴ リ ラ ス ツ ォ ー ネ
の類人猿棲息地帯から北東へ百キ
ムラムブウェジ
ロ、﹃悪魔の尿溜﹄の魔所へは三
十マイル程度でしょう﹂
ムラムブウェジ
悪魔の尿溜︱︱それを聴くと同
54
時に、一座はしいんとなってしまっ
た。ただ、屋根をうつ大雨の音だ
とどろ
けが轟いている。
﹁そうか、悪魔の尿溜のそばか︱
︱﹂
アッコルティ先生もここまで来
あきら
ると、あっさり断念めたように投
げやりな口調になった。ドドを、
悪魔の尿溜と組合せることは、も
う科学者の領域ではなかったから
55
である。
それから先生は、ドドのために
きゅうきょ
急遽帰国する決意をし、あたふた
と時計をみながら帰っていった。
そのあと、座間とカークが疲れた
ス
ク
ような目で、ぼんやりと屋並みを
ながめている。
モ
砂糖菓子のような回教寺院の屋
しょうぐん
根も港の檣群も、ゆらゆら雨脚の
むこうでいびつな鏡のようにゆれ
56
も や
ている。そのとき、仏マダガスカ
レンチ・マダガスカルサービス
ル航空の郵便機が、雨靄をくぐり
くぐり低空をとおってゆく気配。
座間は、むっくり体をおこして言っ
た。
﹁君、あれなんだがね﹂
﹁あれって? 飛行機がどうした
というんだね﹂
﹁つまり、ドドのことなんだ。ド
ドは、飛行機をみてもけっして恐
57
がらないのだぜ。かえって、嬉し
そうな目付きで、奇声さえあげる。
ムラムブウェジ
そうかといって、﹃悪魔の尿溜﹄
インペリアル・エ
エール・アフリカ
の近傍に航空路はないよ。英帝国
アウェーズ
航空も、フランスの亜弗利加航空
も、それぞれ地図のうえで半度以
上も隔っている。奇怪だ。猿人、
原人といわれるドドが飛行機に驚
ボ ア
かない。それでいて、王蛇や豹を
みるとひどく恐がる﹂
58
﹁きっと﹃悪魔の尿溜﹄探検の飛
行機でもみたんだろうよ。しかし、
五度や六度で、馴れるとは思われ
ないな﹂
太古以前の、原始生活をしてい
たはずのドドが飛行機に驚かない
︱︱これはまさに不思議以上だ。
やはりこれはアッコルティ先生が
一度疑ったように、ドドは一種の
作りものではないのか。そう思っ
59
てながめると、とうてい想像もで
きないようなおそろしい秘密が、
ドドの肉体に隠されているように
思われて、しみじみそら恐しくさ
えなる。
も や
暗くなってきた。すると、雨靄
のむこうから、ボーッと汽笛がひ
エルダー・デムスター
びいてくる。E・D・Sの沿岸船
ベンガジ丸が、いまモザンビイク
にはいってきたのだ。しかしその
60
ムラムブウェジ
船は、やがて悪魔の尿溜へ一同を
か
駆りやろうとする、運命の使者を
乗りこませていたのである。
ミス・ジキル・ハイド
善玉悪玉嬢
ベンガジ丸には、ヤン・ベデー
ツというベルギー青年が乗りこん
でいた。
これは、マヌエラの父の旧友の
61
つついづつ
息子で、マヌエラとは筒井筒の仲
・ ・
だが、うまがあわぬというのか、
マヌエラは非常に彼を嫌っていた。
それに、どこへいっても腰の落ち
つかぬ男で、先ごろまで、エジプ
コ・パイロット
トのミスル航空会社で副操縦士を
していたが、そこでも、喧嘩をし
たらしくモザンビイクに帰ってき
たのである。マヌエラの父が親代
りで、ヤンの父の遺産を保管して
62
いるからだった。
ところがヤン・ベデーツがくる
と、研究所の空気がきゅうに乱れ
てきた。それはヤンが患者を汚な
ぎゃくたい
がったり虐待するばかりか、座間
やカークには、この混血児めと蔑
視的な態度を見せるからだった。
﹁なにか、ありましたんでしょ
う?﹂
今日も今日とて案じ顔に、座間
63
の胸のボタンをいじりながらマヌ
エラが、やさしい上目使いをして
訊ねた。
﹁さっき、ヤンがたいへんな目を
して、ハアハアいいながら水を飲
んでいましたよ。それからカーク
さんは、拳固のへんに辛子膏をな
すっていらっしゃるんですの﹂
﹁じゃ、やったんでしょう。カー
クは、いつかやってやると言って
64
ましたからね。ジャングルの主が
野牛を殴りとばすような勢いでやっ
たんじゃ、ヤン君もさぞ痛かった
でしょう。しかし、ヤン君の身に
もなれば⋮⋮﹂
﹁え? なんのことですの﹂
とが
マヌエラは聞き咎めた。
﹁つまり、三年ぶりでここに帰っ
てくると、あなたには思いがけな
い僕という人間ができている。八
65
つ当りしたくなるのも無理はない
でしょうよ﹂
しかし、マヌエラはかなしそう
な目をして、
ひが
﹁あの人がじぶん勝手な僻みでど
ういう考え方をしようと、それに
ず
あたしたちまでひき摺られるわけ
はありません。ねえ、ヤンはヤン、
こっちはこっちですわ﹂
か
と、香りのいい髪を嗅がすよう
66
に、座間の胸のなかへ頬をうずめ
る。
﹁あたしは、あなたの日本の血を
尊敬してますわ﹂
まるで素直な子供のような言い
方であった。座間には、それが弱
い電気のように、快よく響いてく
る。すると、マヌエラがふと話題
を変え、
﹁そうそう、この週の報告をしな
67
きァなりませんわ。でも、ドドは
相変らずですの﹂
じゅんいく
と、引き受けたドド馴育の結果
を話しだした。
﹁火がわかったのが三週まえでし
たね。手工はどうでしょう?﹂
せ
﹁まだ、そんなにお急きになったっ
て⋮⋮。でも、先生から言いつけ
られたことは、ちゃんちゃんとし
てますわ。ちかごろは、いったい
68
ドドがどんな機嫌でいるか︱︱つ
まり、ドドの感情表出も見ていま
す﹂
﹁はあ、それがわかりますかね﹂
﹁ええ、第一ドドは笑われるのを
嫌います。それに、色も知ってい
るし記憶力もたしかです。また、
相当な学習能力もあります。それ
すい
で、いつもあたしが使っている水
せん
仙色の封筒ね、あれを、構内のポ
69
ストに入れるのを昨日あたりから
覚えましたの﹂
﹁ほう、そりゃお手柄だ、それか
じりょう
ら、先生がいわれた餌料による実
験は?﹂
それによって、ドドが原人か人
獣児であるか、その点がはっきり
と分るはずだった。
もちろん、これはアッコルティ
先生の指図で、難しく言えば﹁皮
70
膚色素の移行﹂の研究である。た
とえば、果実を主食とする黒人に
たいし、その量を減らすと皮膚の
色が淡くなる。また淡黒色のホッ
テントットに常食の乳を減らすと、
その色がしだいに濃くなってくる。
ことに、その変化がはやいのが類
人猿で、つまり、ドドがたべる生
果の量を減らして、その効果をい
ち早くみようというのだった。
71
マヌエラは、餌料のことを聞く
とが
と、かるく口を尖らせて、
﹁いけませんわ。ドドは人間です
わ。科学ってなんて残酷なんでしょ
たんぱく
う。やれ、ドドに蛋白を与えろ、
チンパンジー
もし黒猩々の血があればてきめん
に衰弱するとか、食べものを減ら
して皮膚の色をみろとか⋮⋮、そ
んなこと、それは動物にすること
だと思いますわ。ドドはあくまで
72
人間で、あたくしの友だちです﹂
ふかい、同情の念とかたい信念
とで、マヌエラがきっぱりと言い
切った。彼女の、骨にまで浸みた
カトリックの教育は、よくこうし
ゆ り
た場合、一歩も退かせないのだ。
きよ
座間は浄らかな百合の花をみるよ
こうこつ
うに、しばしマヌエラの顔を恍惚
とながめていた。
まったく、ドドはマヌエラのそ
73
ばを一瞬の間もはなれようとしな
い。いないと、いまも聴えるよう
に悲しそうな叫び声をたてる。
お嬢さん、いまに魅入られます
よ︱︱と、カークは冗談に言った
けれど、まったく二人の親密さに
はそう言いたくなる。
ところが、その夜不思議な出来
事がおこった。
夜になると、温度はいくぶん下
74
けんたい
がるけれど、その倦怠さと発汗の
かさ
気味わるさ。湿気の暈が電灯の灯
をとりまいている。
うな
こういう時には、ドドの唸り声
さえもちがってくる。じつに、誰
でも平常でなくなるような、蒸し
暑い、いやな晩であった。
その夕、座間はヤンと激論を戦
わした。それは、ドドを売れば十
万やそこらにはなるだろうから、
75
それにヤンの資産をくわえて研究
所を拡張し、名実兼ねた総合病院
にしようというのだった。つまり、
座間がしている社会施設を、ヤン
が営利化しようというのである。
しかし、これには、なによりマ
ヌエラが真向から反対した。それ
せせらわら
でも、ヤンは嘲笑って、なアにお
父さんを説き伏せて晩にきますよ
しゃあしゃあ
と、洒々と自信ありげに帰っていっ
76
たのである。そうして、研究所に
一つの危機がくることになった。
と、その夜、座間が寝つかれな
いので、書斎へゆこうとしたとき、
ドドの部屋のまえをとおると、鍵
がおりてない。そこへ、患者面会
人がやすむ部屋のほうで、微かに
ごそりごそりと音がする。まさか、
ドドが逃げるわけはないがと、そっ
とその部屋の扉をひらいたときだっ
77
た。思わず、あッと叫びそうなの
から
を辛くも抑えたほど、座間ははげ
おどろ
しい駭きにうたれた。
そこにいたのは⋮⋮ドドではな
い。さっきの憎しみを忘れたよう
に、ヤンとマヌエラが抱かんばか
りに向き合っている。座間はまず、
じぶんの目を疑った。続いて、耳
までも疑わねばならぬような会話
を聞いた。
78
﹁あたしを愛してくれますか﹂
ちょっと、漁色にすさんだヤン
でもふるえた声で言うと、
﹁ええ、あたしも愛してくれます
い き
か﹂とマヌエラも切なそうに呼吸
をする。
あのマヌエラ、昼間のマヌエラ
がなんという変りかた?!
丁度このとき、おおきな伸びを
しながらカークが降りてきた。す
79
ると、ヤンはいきなりマヌエラを
突きはなし、手をふりながら向う
の扉から消えてしまった。座間は、
この世界がまっ暗になったような
ぼうぜん
気持で、ただその場に茫然と立ち
すく
竦んでいた。
と、ヤンの姿が消えたと思った
とき、またも座間をあっと言わせ
るようなことが起った。
む く
それは、清浄無垢なマヌエラと
80
も思われない⋮⋮、また淑女たら
ずとも普通の町家の女でも、よも
や口にはしまいと思われるような
しゅうわい
醜猥な事柄を、まるでじぶん自身
に言いきかすかのように、マヌエ
しゃべ
ラがべらべらと喋りはじめたから
だ。
マヌエラ! 断じて幽霊ではな
ヒューマニズム
い、真実のマヌエラだ。昼間の、
くじ
灼かれようとも挫けない人道主義
81
の天使が、夜は、想像もされない
別貌をしてあらわれたのだ。どっ
ちだ? どっちが本当のマヌエラ
かと、座間は白痴のように頭を振
り振り廊下へでていった。
と出会いがしらに、ドドの手を
引いてカークがやってきた。
じゅんいく
﹁君、馴育掛りのお嬢さんへよう
くいわなきァ駄目だぜ。鍵を忘れ
たもんだから勝手にでちまって、
82
こいつ
こうふん
それに、此奴までがえらく亢奮し
ている﹂
﹁どこにいたんだ?﹂
﹁患者面会人室の廊下の羽目際だ。
こうふん
なにか、こいつが亢奮するような
ことがあったらしい﹂
なるほど、これまでのドドには
決してみられなかった、一種異様
かぎ
な激情のさまを呈している。犬歯
はぐき
を歯齦まで鉤のようにむきだして、
83
ぎ
瞳は充血で金色にひかっている。
き
そして、ひくい唸り声を絶れ絶れ
にたてながら、今にもかくれた野
性がむんずと起きそうな、カーク
でさえハッと手をひくような有様
だった。
それからドドをいれて扉に鍵を
うな
おろすと、座間はカークを促がし
ながら戸外へ出ていった。やがて
本土とのあいだが二町ばかりにせ
84
まっている、有名なマラガシュの
入江に出た。
湯のような雨⋮⋮くらい潮が⋮
⋮ぽうっと燐光にひかる波頭をよ
せてくる。そして砂上の、ひいた
あとは星月夜のようにうつくしい。
だが座間は、どうしてカークとこ
んなところへ来たのかじぶんでも
分らなかった。
しょ
﹁どうしたい、いやに悄んぼりし
85
て⋮⋮。まさか、猫の死骸に念仏
をいいにきたんじゃないだろうが﹂
カークは、いつもとちがって底
たた
気味悪さを湛えている座間を景気
づけるように言った。すると、座
間はいきなりふり向いて、
﹁おい、僕にドドを売っちゃくれ
まいか﹂
﹁えッ、ドドを売れって?!﹂カー
クも少からず驚いて、
86
﹁なんのためだ。僕の手から買っ
てどうするつもりだ﹂
びうかん
思わず見上げる座間の眉宇間に
は、サッと一閃の殺伐の気がかす
めてゆく。殺してやる! マヌエ
ラがあの魔性のものに魅込まれた
のでなければ、ああも奇怪な二重
人格をあらわすわけはない。と、
知らず識らず、この入江の腐肉の
気にさそわれてきた座間である。
87
カークは早くも、それを悟った
と見え改まったような調子で、
﹁じゃ、その話を真剣にとるがね。
すると、まず、売る売らないに先
だって、決めておきたいことがあ
る。それは、ドドが獣か人間かと
いうことだ。売っていい動物か、
売ってはならない人か⋮⋮サア座
間君どっちだろう﹂
の ど
言われて、座間の咽喉がぐびっ
88
ふる
と鳴った。しかし、ちょっと顫え
ただけでなにも言えなかった。
﹁人身売買⋮⋮奴隷売買を⋮⋮い
まこの現代に口にする奴があるか
ね。それとも、ドドを人獣の児と
して︱︱その場合を君はどう考え
る? 混血だ、おなじことだよ。
チンパンジー
テ ル テ ィ オ
ドドが黒猩々と人のまざりなら僕
ミュラート
は、半黒、君は三分混血児だ。僕
らが白人以下のものとして蔑視さ
89
れるのも、君が、半分の獣血をみ
とめて、ドドを売れというのも⋮
⋮﹂
し
そのカークの言葉を身に滲むよ
うに聴きながら、座間はくらい海
しおさい
の滅入るような潮騒とともに、ひ
むせ
そかに咽びはじめていたのだ。
*
90
その一夜は寝床のなかで転々と
しながら、ついにまんじりともし
なかった。マヌエラと、ドドの奇
怪な行動を考えあぐめばあぐむほ
さ
ど、ますます頭が冴えて眠れるど
ころではなかった。
マヌエラのあれは、﹁ジキル博
士とハイド氏﹂のように二重人格
なのか︱︱と、ますます糸のもつ
れが深まるなかで、座間は追及の
91
鬼のようになっていた。それとも、
ドドに同情を深めすぎた結果か?
けが
といって淑女を涜すような想像
はしなかったが、もしやあるかも
知れないドドの魔性が、恋情とと
から
もにマヌエラに絡みついたのでは
なかろうか。
あのときドドは羽目を隔ててい
たが、それを透して、なかのマヌ
エラを遠くから動かす︱︱そんな
92
ウィッチ・ドクター
ことは、土人の魔法医者なら朝飯
まえの仕事だ。まして、飛行機を
みても驚かぬようなドドには、な
にか底しれぬものがある。
マヌエラ自身の素質か、ドドの
魔性かと、廻り燈籠のような疑問
が考え疲れたあげくふと消えて、
座間は思いがけもしなかった大き
な穴が、じぶんの足下に口を開い
ているのに気がついた。ああ、二
93
重人格でもなければ、ドドの魔性
でもない。たんなるマヌエラの裏
切りなのだ。ヤンがきてその純白
の肌を見、振返って座間の黒々と
した皮膚をみたとき、マヌエラは
一途に座間が嫌いになったのだ。
ばいた
売女、売女め! とかきむしるよ
うな言葉を、寝床のなかで座間は
ほ
咆えたてていた。やがて夜があけ
た。雨が暁の微光に油のように光
94
りはじめてきた。
その翌夜、カークを書斎に呼び
いれて、座間は気負ったように話
しはじめた。
﹁君、僕は旅行しようと思う﹂
﹁よかろう、君はきのうの晩ちょっ
と変だったが、きっと、過労のせ
いだと思う。どこへゆくね? ス
イスかウィーンかね﹂
な か
﹁いや、この大陸のずうっと内核
95
へゆきたいんだ。コンゴのイツー
テラ・
リからずうっと北へ︱︱僕は、未
インコグニタ
踏地帯にゆく﹂
﹁え?﹂
ムラムブウェジ
﹁ぼくは﹃悪魔の尿溜﹄へゆくん
だ!﹂
ナイルの水源閉塞者
あぜん
カークは唖然として座間を見詰
96
めていたが、やがて、
﹁よし、聴こう。しかし、命がけ
の観光なんてないからね。むろん、
目的もあり見込みもあってのこと
だろう﹂
﹁そうだ。ときにカーク、君はコ
ンゴへいり込んで禁獣を狩る。そ
れで、いちばん金になったときは
どのくらいなもんだ﹂
﹁マア、五万ドルかね。オカピを
97
獲ったときは、そのくらいになっ
たが﹂
﹁ゴリラは?﹂
の そ
﹁あれは獲れん。あいつは、遅鈍
こうかつ
ついているようだがそりゃ狡猾で、
おまけに残忍ときてるんだから始
オラン・ウータン
チンパンジー
末がわるいよ。いっそ、猩々のよ
プロフェッサー
うな教授然としたやつか、黒猩々
みたいな社交家ならいいがね、ど
ペ シ ミ ス ト
うも、厭世主義者とか懐疑主義者
98
というやつは、猟師にはいちばん
扱いにくいんだよ。しかし、射殺
しただけでも二、三万にはなるだ
ろう﹂
﹁じゃ、そのゴリラが⋮⋮、無数
と、死体をならべている渓谷があっ
たとしたら⋮⋮。ざっと、世界の
大学を六百とみて、それに、骨格
一つずつ売ったにしても、千万長
者にはなれる。だが、それは君の
99
仕事だ。僕の目的は別のほうにあ
る﹂
﹁冗談いうな﹂カークはからから
わら
と嗤いはじめた。
﹁本気で聴いてりゃいい気になっ
て、そんなとこが、もしあるなら
俺が逃すもんか﹂
﹁あるとも﹂座間は自信気たっぷ
りにいう。
﹁僕は、友情にかけ君の勇気を信
100
じていう。ところで、君は、ヘロ
ドトスという歴史家を知っている
かね﹂
﹁むろん、みたことはないが名だ
けは知っている。ギリシアに、昔
ものしり
いたという博識だろう﹂
﹁そうだ。ところが、そのヘロド
トスが書いたなかに、ナイル河の
水源についてこういうことがある﹂
ヘロドトスが、ナイルの水源に
101
ついて次のような話を、エジプト
サイスの長官からミネルバで聴い
たことがある。
カブト・ニリ
ナイルの水源は、クロフィス及
びメンフィスという、シェーネと
エレファンティス間にある二つの
モンス・ルーヌラ
山巓︱︱呼んで半月の山脈という
ル
ク
渓谷の奥にある。その半月の山脈
コ
には“Colc”という湖があり、
オ
バメティクス王が、綱を数千“o
102
ギ
エ
gye”も垂れたが底に届かずと
ある。つまり、ナイルの水源は、
その奥にあるというのだ。
パルス・ラディコスス
さらにそこには、﹁盤根の沼﹂
セプルクルム・ルクジ
ホモ・コウダッス
﹁知られざる森の墓場﹂があり、
ピクミエン
矮人が棲み有尾人がいる。そして
ムラムブ
それが、場所というのが悪魔の尿
ウェジ
溜で、棲んでいる矮小有尾人がす
なわちドドとなる︱︱座間がこう
結論したのである。
103
﹁なるほど、しかしその、むずか
しいラテン語を説明してもらおう
じゃないか﹂
パルス・ラディコスス
﹁それはね、﹃盤根の沼﹄という
さくそう
のは、錯綜たる根の沼だ。沼が盤
根錯綜たる、叢林のしたにあると
いう意味だ。それから﹃知られざ
セプルクルム・ルクジ
る森の墓場﹄というのは、巨獣の
しゅうえんち
終焉地だ。死体をみせぬ象や類人
猿がそこにきて眠るという。ねえ
104
カーク、どっちにしても、悪魔の
ムラムブウェジ
尿溜じゃないか。しかも、有尾人
ドドの故郷だ﹂
そういえば、カークもそれに似
たような土人の伝説を聴いたこと
がある。ヌグンベという、ドド発
見地の近傍の部落だが、そこから
オ
悪魔の尿溜の方向にあたる北西か
レ
たの山腹に、“Leo”という奥
しれぬ洞窟があるのだ。︱︱そこ
105
が、人類発祥の地だという。つま
り、太古のとき動物とともに、彼
らの祖先がその洞から出てきたと
いうのだ。
まったく、そういえば数えきれ
ぬほどあるではないか。こういう、
無稽な伝説が探検によって裏書き
され、また、そういうものがしば
しば因となって、探検欲をうごか
し大発見をさせたことが!
106
ここに⋮⋮、いまその洞窟のか
なたには悪魔の尿溜がある。しか
もそこが、半獣児ドドの発生地に
目されている。
ムラムブウェジ
﹁どうだ君、悪魔の尿溜なら何億
年も処女でいられるよ。そこでは、
動物も、植物も原始地球のままだ。
さつりく
獣交も、殺戮も自然律にすぎない。
そこで僕は、アッコルティ先生の
説をもう一歩すすめるよ。つまり
107
⋮⋮ドドは、そこにいる原始人と
親和的な、黒猩々との雑交児だろ
うということだ。第一、親を有尾
人とするのには、尾がある。それ
以外は、外見、智能といいそっく
チンパンジー
りの黒猩々だ﹂
カークは、すっかり圧倒されて
しょんぼりと瞬いている。座間の、
ちがった人のような不思議な情熱
を、どこに、こんな静かな男にこ
108
んなものがあったのだろうと⋮⋮、
相手の唇を呆然とながめていたの
である。
﹁それから﹂と座間はすべるよう
に続けてゆく。
﹁なぜドドが郷愁を感じないかと
いうことが、僕にはやっと分った
フラ
ような気がするよ。それはね、苺
ムベジア
果痘をわずらって死期を知ったの
だ。そして、死ぬために森の墓場
109
へいった。そうなると、もうじぶ
んは帰れない⋮⋮、これから、知
らない世界へゆかねばならぬとい
うことが、彼らには本能的にわか
る。そこへ、ドドは道をちがえた
のだ。そして、森の墓場へはゆけ
ず、君の手に落ちた⋮⋮。だから
君にも抵抗をしない⋮⋮。こんな
人里へきても郷愁を感じない⋮⋮。
ねえカーク、僕はその墓場へ、悪
110
ムラムブウェジ
魔の尿溜へゆきたいんだよ﹂
原人、類人猿、象もそうだろう?
彼らが、死期をさとって森の墓
場へゆこうとするときは、まった
く本能的に帰郷の意志がなくなる
という︱︱座間の明快な推測であっ
た。
さび
しかし、そういう座間が、淋し
むくろ
そうに微笑んでいる。恋の空骸が、
死をもとめるかわりに未踏地をえ
111
らんだのだろう。やがて、カーク
とのあいだにかたい盟約が成りたっ
た。
ところが、そのことをマヌエラ
に話すと、意外にも彼女が一緒に
ゆこうと言いだしたのだ。犠牲が、
ねがう幸福のほうに、マヌエラを
向けようとするとき、意外にも、
それを蹴って敢然とゆくという。
座間はすっかり分らなくなってし
112
まった。
間もなく、マヌエラのあとを蛇
のように追う、ヤンを加えドドを
連れて、まずさいしょの根拠地と
なるコンデロガへ発ったのである。
﹁ちかごろ、七郎はどうしちまっ
たのよ﹂
話があると、マスカの実が地上
に垂れさがっている陰へ、マヌエ
ラが座間を呼びこんだ。雨期あけ
113
い
の灼りつけるような直射のしたは、
ひなた
影はすべてうす紫に、日向の赭土
は絵具のように生々しい。それが
コンデロガを発つ探検第一日の前
日だった。
マヌエラは、胸に飛びこみたい
衝動を抑えているように、ぱちぱ
ちと伏目で瞬いている。
﹁どうもしませんよ。僕は、相変
らずの僕ですが﹂
114
﹁いいえ、ちがっています。まえ
は、そんな冷ややかな七郎ではあ
りませんでした。女は、そんな点
にはいちばん敏感ですのよ。ねえ、
さわ
なにか、お気に障るようなことが
あって?﹂
すると、座間がまた迷うのであ
る。それまでは、ヤンとあの夜の
狂態はなんだと、彼はマヌエラに
しんい
瞋恚の念を燃やしていた。それが、
115
こうして見ている、初々しさ⋮⋮
たどたどしさ。なんだかじぶんの
ほうが思い過しのような、座間に
はそんな感じさえしてくる。
あれ以後、ヤンとマヌエラのあ
よそよそ
いだは非常に外々しいものだった。
少なくとも、ああしたことは一度
だけらしく、翌日は、ヤンが根城
にしようとした総合病院化を、父
にすがって一蹴してしまったので
116
ある。これにはヤンも座間と同様
おどろいたことだろう。しかし、
彼は一夜の甘味をけっして忘れる
ような男ではない。どんなに白眼
視され相手にされなくても、また
のチャンスを狙いながら探検隊を
はなれなかったのである。
まったくマヌエラには、座間も
ヤンもおなじ考えにちがいない。
不思議な女だ、二重人格かドドの
117
所業かと⋮⋮、ヤンが、鉄面皮を
発揮して探検隊に加われば、座間
はあれこれと非常に迷いながらも
頑固な壁をマヌエラに立てつづけ
ているのだった。
ところで、この探検の費用はマ
ヌエラの父がだし、それも座間が
いや
疲労を癒す物見遊山としか考えて
いない。
ほうこう
カークも、大湿林の咆吼をよぶ
118
と
狂風を感じはするが⋮⋮、死を賭
して、不侵地悪魔の尿溜をきわめ
ようなどとは、夢にもさらさら思
わないことだった。そしてまた、
マヌエラも、おなじように考えて
いた。ただ、しばらく仕事から離
れればと⋮⋮、ちかごろ座間の様
子がじつに変であるだけに、どう
かこの旅行で静養してくれと、じっ
さい悪魔の尿溜のことなど最初か
119
ら頭になかった。しかも、座間と
てもおなじように変ってきている。
それは、さいしょカークと二人
だけと思ったところへ、意外にも
マヌエラが加わるし、ヤンが追っ
てくる。そうして、絶えずマヌエ
ラの美しさをみていると、この探
ムラムブウェジ
検は、じつに悪魔の尿溜攻撃にあ
るのではなく、ヤンを除く、天与
のまたとない機会のように思われ
120
わに
てきた。密林、鰐のいる河、野獣、
毒蛇。ここでは、下手人に代って
くれるあらゆるものが豊富だ。
と、その考えが、やはりヤンに
もあるらしい。そうして、二人は
胸に敵意をひめながら、どうやら
さいしょの意図とはちがってしまっ
た探検隊が、数日後はコンデロガ
を発ったのである。
ムラムブウェジ
ところで、悪魔の尿溜攻撃の進
121
路であるが、それは、西方、南方
ゴ リ ラ ス ツ ォ
の境界部はコンゴの﹁類人猿棲息
ー ネ
地帯﹂、北は、危険な流沙地域で
ある大絶壁にかこまれ、わずか東
のほうに密林帯が横たわっている。
ところが、これまでの数回の探検
隊とも、そこへはいると同時に消
息を絶ってしまうのだ。まったく、
ミ イ ラ
木乃伊取りが木乃伊というあの言
葉のように、あとからあとからと
122
続いても一人の生還者もない。し
かし一同は、ともかくその道をゆ
くことにした。
二百の荷担ぎ︱︱それに、車や
家畜をふくめた長蛇の列が、イギ
リス駐屯軍の軍用電線にそうて、
ありづか
蟻塚がならぶ広漠たる原野を横ぎっ
い
てゆく。土の反射と、直射で灼り
らば ほろぐるま
つくような熱気には、騾の幌車に
いてもマヌエラは眠ってしまう。
123
か
やがてゆくと、白蟻が草を噛みきっ
たあとがある。兵隊蟻の、襲撃を
避けるため不毛の地にしてしまう。
白蟻がちかければ沢がちかいのだ。
気のせいか、草の丈がだんだんに
伸びてゆく。間もなく、第一日の
夜営地になる、うつくしい沢地が
・ ・ ・ ・
あらわれたのだった。
たてあおい
水際には、蜀葵やひるがおのあ
いだにアカシヤがたっている。水
124
る り
は、一面に瑠璃色の百合をうかべ
やか
肉色のペリカンが喧ましい声で群
れている。マヌエラは、こんな楽
園が荒野のなかにあるのかと、い
そいそと水際を飛びあるきはじめ
た。そこへ、カークが記憶がある
といいだした。
ブッシュ
﹁その沢から、あの藪地を越えて、
ほぼ十マイルもいったところが、
ドドの発見地なんだ。おいドド久
125
く に
しぶりで故郷へかえろうぜ﹂
しかしドドは、マヌエラのうご
きを貪るように追っている。まっ
すね
白な脛、花を摘んで伸びたときの
うつくしい均斉。
それを追いもとめる目には通じ
もだ
ない意志に、悶えるようなかなし
そうな色がうかんでいる。
またドドは、ここへ来てから何
ものかの呼び声をうけている。と
126
きどき、段状にかさなってゆく中
央山脈の、一染の、樹海と思われ
るあたりをおそろしい目でながめ
ず
ていたり、なにより、葉摺れの音
にもびくっとなるし、あらゆる野
さ
性のものが呼び醒まされようとし
ている。それには、座間もカーク
もとっくから気がついていたのだ。
﹁ドドは、森の墓場へゆき損って
人の手に落ちた。しかし今に、そ
127
のとき失った野性が強くなるか、
それともマヌエラに惹かれて人の
世にとどまるか︱︱いずれはどち
らかになると思うよ。しかし、注
意は充分しなきァならんね﹂
探検隊がドドを連れてきたには
目的があったのである。それは、
さいしょカークと逢ったその場所
へゆけば、おそらく故郷を思いだ
して先頭にたつのではないか。そ
128
うして隊が、その跡に続けば人に
はわからない、悪魔の尿溜への極
秘の道をゆけるのではないか︱︱
と。しかし、その試みは失敗に終っ
てしまった。ドドは、はじめて覚
えたマヌエラの魅力に、帰郷の意
志などはとっくに失ってしまって
いる。
その夜、はじめて夜明けまえに
ほうこう
ライオンの咆吼を聴いた。藪地の
129
セ ン
ホーンド・
なかで、豹にやられるらしい小野
ズ
豚の声もした。やがて、危険な角
ヴァイパー
蛇のいる藪地を越えたとき、はや
隊のうえにおそろしい不幸が舞い
落ちてきた。
らば
それは、抵抗のつよい騾をのぞ
くほか、いそいで河中に追いこん
らくだ
だ水牛六頭以外は、野牛も駱駝も
馬も羊も、みな毒蠅のツェツェに
たお
斃されたのだ。それからが、文字
130
バガジス
どおりの難行であった。荷担ぎは、
かさ
荷が嵩んだので値増しを騒ぎだし、
は
土はあかく焼けて亀裂が這い、ま
さに地の果か地獄のような気がす
かんぼく
る。灌木も、その荒野にはところ
きょうぼく
どころにしかない。たまに、喬木
があっても枯れていて、わずか数
発の弾でぼろりと倒れてしまうの
である。
しかし、もうそこは山地にちか
131
い。左には、連嶺をぬいて雪冠を
いただいている、コンゴのルウェ
か
ンゾリがみえる。そのしたの、風
グラナイト
化した花崗石のまっ赭な絶壁。そ
こから、白雲と山陰に刻まれはる
ばるとひろがっているのが、悪魔
でいが
か ば
の尿溜につづく大樹海なのである。
あか
翌暁、赭い泥河のそばで河馬の
声を聴いた。その、楽器にある
テューバのような音に、マヌエラ
132
は里が恋しくなってしまった。
しかしまだ、ここは暗黒アフリ
とばくち
カの戸端口にすぎない。きのう見
きょくそう
た、藪地のおそろしい棘草、その
タランツラ・マグヌス
密生の間を縫う大毒蜘蛛︱︱。し
おお
かし今日は、いよいよ草は巨きく
樹間はせまり、奥熱地の相が一歩
ごとに濃くなってゆくのだ。そし
て、この三日の行程が四十マイル
弱。最後の根拠地となるマコンデ
133
ひる
部落にはいったのが、翌日の午過
ぎだった。
ここから、想定距離二十マイル
の山陰に、悪魔の尿溜の東端をみ
るはずなのである。そしていよい
よ、これまで経てきた平穏な旅は
おわり、百年の道にも匹敵するそ
の二十マイルへ、悪魔の尿溜攻撃
がはじまるのだった。
バガジス
﹁とんでもねえ。荷担ぎにゆきァ、
134
ゆ
死にに往くようなものさァ﹂
ポ ム ピ
酋長がぐいぐい棕櫚酒をあおっ
ムトクワーネ
たり印度大麻を喫ったり、すこぶ
る上機嫌のなかでもこれだけは聴
かなかった。
﹁マア、論より証拠というだで、
ちょっと見てもらいますべえ﹂
外にでると、連嶺のしたは一面
の樹海だ。樹海のはての遠いかな
たに、ゆらゆら煙霧のようなもの
135
が揺ぎあがっているのがみえる。
すると、そばの土人がおそろしそ
うな声でさけんだ。
﹁ほうれ、煙が鳴るだよ﹂
気のせいか、その煙霧がブウン
と鳴っているような気がする。や
いおう
がて、陽が落ちかかると硫黄色に
かがやいて、すでにそのときは塊
雲のように濃くなっていた。煙が
鳴る︱︱人煙皆無の大樹海のかな
136
たに、毎日、日暮れちかくになる
とこの霧が湧くという。そしてそ
れ以来、この部落を通過して悪魔
の尿溜を衝こうとする、探検隊が
一人も帰ってこないのだ。しかし、
ゆ
往けるところまでというとやっと
バガジス
承知して、あくる日、荷担ぎとと
もに密林をわけはじめたのである。
そこは、虎でもくぐれそうもな
つたかずら
い蔦葛の密生で、空気は、マラリ
137
し
ヤをふくんでどろっと湿っけてい
さそり
る。大蟻、蠍、土亀の襲撃を避け
猿群を追いながら⋮⋮、よくマヌ
エラがゆけたと思うほどの、難行
五時間後にやっと視野がひらけた。
その地峡で、軍用電線が鍵の手
にまがっている。すなわちその線
を前方に伸ばせないものが、あら
たに迫っている密林の向うにある
のだろう。案の定、荷担ぎどもは
138
動かなくなってしまった。ゆけ、
金をやるぞとあまり語気がつよい
ヤ・ムグリ・ワンゲ
と、おう、お嬶ァ︱︱と、なかに
は泣きだすものが出てくる。
じっさい、ここで一同は戻ろう
としたのだった。探検の熱意は、
もう誰にもなく、ただカークの指
揮でここまで来ただけでも、一同
にとれば大成功といえよう。する
と、座間一人がなんと思ったのか、
139
強くゆくことを主張したのである。
殺意が⋮⋮、この静かな男の面
おお
上を覆い包んでいるのを、そのと
き誰も気が付くものはなかった。
この機会、最後の密林のなかでヤ
や
ンを殺ろう。と、身丈ほどもある
気根寄生木の障壁、そのしたに溜っ
ているどろりとした朽葉の水。そ
れが、燈火へ飛びこむ蛾の運命と
なるのも知らず、ともかく、荷担
140
ぎを待たして前方に足をすすめた
のである。
そのとき、地峡をとおる蛇を追
うために、カークが野火をはなっ
しゃば
た。その煙りが、娑婆をうつすい
ちばん最後のものになったのが、
隊のなかの誰と誰だろうか。そう
して、最後の密林行がはじまった
のである。
すると間もなく、樹間がきらき
141
らと光りはじめてきた。森がつき
る︱︱とそのとき、どこに潜んで
いたのか十四、五人のものが、一
同をぐるりと取り囲んでしまった。
かしら
見なれぬ土人だ。しかも、頭だっ
た一人は短いパンツをつけている。
ナマ・サンガ
﹁やあ、今日は﹂
カークが進みでて愛想よく挨拶
をした。しかし、練達な彼がぐっ
かす
とつかえ、語尾が消えるように嗄
142
れてしまったのだ。拳銃が⋮⋮無
気味な銃口をむけている。やがて、
あご
顎でぐいぐい引かれて森をでると、
こうばく
したは、広漠たる盆地になってい
ぶ
る。草葺きが、固まっているなか
に、倉庫体のものさえある。
﹁ここは、どこだね﹂
おび
カークが一同を怯えさせまいと
するように、言った。すると、そ
ウンベカント・クライス
の男の口から意外にも、未探地帯
143
︱︱とドイツ語が洩れた。アッと、
はなすじ
顔をみると鼻筋の正しい、色こそ
熱射に焼けているが、まぎれもな
い白人だ。
﹁驚いたろう。俺は、ここに二十
年あまりもいる。万一有事のとき、
へいそく
ナイルの水源を閉塞するためにか
くれている。俺はドイツ人でバイ
エルタールという男だ﹂
こうして、想像を絶する悪魔の
144
ムラムブウェジ
尿溜の怪奇のなかへと、運命の手
が四人のものを招きよせてゆくの
だった。
シュシャア・タール
﹁猿酒郷﹂の一夜
一行の導かれた盆地は谿谷の底
あか
といった感じで、赭い砂岩の絶壁
をジグザグにきざみ、遥か下まで
いしばし
石階が続いている。それが、盆地
145
の四方に一か所ずつあって、それ
以外の場所は野猿にも登れそうも
ない。しかし、五人のものは、な
んの危害もうけなかった。かえっ
て、怪人バイエルタールは上々の
ご機嫌だった。
﹁ここで、白人諸君に会おうとは
ュ
シ
ャ
ア
まったく夢のようだ。どうだ、
シ
“Shushah”という珍しい
や
ものを飲らんかね﹂
146
や し
といって、怪人は椰子の殻にど
ろりとしたものを注いで、
﹁ねえ君らも、子供の時に猿酒の
話を聴いたろう。それが、ここへ
アクワ・シミェ
きてみると、立派に﹃猿酒﹄とい
ぶど
えるものがあるんだよ。これは黒
いちじく
ほ ら
猩々がこっそり作っている。野葡
う
萄や、無花果の類を樹洞で醗酵さ
せ、それを飲るもんだからああい
う浮かれ野郎になっちまうんだ、
147
はっはっはっはっは、それでここ
シュシャア・タール
を﹃猿酒郷﹄と名付けることにし
たんだがね﹂
そういって尻ごみをする一同に
あお
ダ
ッ
はカッサバ澱粉のパンをすすめ、
シュシャア
じぶんは﹁猿酒﹂を呷り“Dag
ガ
ga”という、インド大麻に似た
麻酔性の葉を煙草代りに喫ってい
る。その両方の酔いがもう大分ま
わったらしく、バイエルタールは
148
あや
だんだん懆しくなってきた。半白
の髪の様子ではもう五十にちかい
うっと
だろう。ただ剛気そうな目が、恍
りとした快酔中にもぎらついてい
る。
やがて、問われるままに、ここ
へ来た話をしはじめた。
﹁俺はもと、ドイツ領東アフリカ
駐屯軍の一曹長だったが、一九一
六年の三月にタンガンイカ湖で敗
149
れた。そのとき俺たちの隊が退路
にまよい、北へ北へといってヴィ
クトア・ニールにでた。それはも
う話にならぬような悲惨な旅で、
一人減り、二人減りで百人もいた
隊が、しまいには六、七人になっ
てしまった。みんな熱病にかかっ
たり、毒蛇にやられてしまった。
それで、とうとうここまで逃げ
のびると、さすがにイギリス軍も
150
やってこなくなった。きっと、悪
や
魔の尿溜ちかくで斃られちまった
と、奴らは考えたにちがいない。
しかし俺たちは生きのびていた。
まるで、ロビンソン・クルーソー
のような生活をして、大戦がいつ
終ったかも知らないし、おまけに
子まで出来た。はッはッはッは、
むろんお袋は土人の女だがね﹂
こう言ってバイエルタールは、
151
まえん
ろれ
妙にぎらぎらする瞳でマヌエラを
す
見据えた。魔烟のために、大分呂
つ
律が怪しくなっているし、調子も、
うきうきと薄気味悪いほどである。
﹁ところで、つい一昨年のこと、
ここへマコンデから宣教師がふら
ふらと迷い込んできた。みるとド
イツ人なんだ。話がはずんだ。大
戦が終ったということもそのとき
く に
聴いたし、故国も変ってしまって
152
ナチスという、反共の天下になっ
た事も初めて知った。だが、外地
へゆく宣教師には特別の使命があ
る。スパイもやれば宣伝もやる。
彼はそういう種類の男だったのだ。
それで、ともかく部落は全滅した
ということにして、あることない
こと大嘘をこき混ぜて、マコンデ
の部落へいい触れさした。つまり、
ここが行ってはならない危険な場
153
所になったということを、帰りし
なに触れさしたわけだよ。しかし、
俺とその男のあいだには、かたい
約束ができていた。いいか、俺は
どんな蛮地にいようとも、立派な
ドイツ国民として行動して見せる
のだ﹂
この今様ロビンソン・クルーソー
がなにを言いだすのだろうと、一
同は興味深く顔をのぞき込んだが、
154
ひと
斉しくのっぴきならぬ危険が起り
そうな予感を覚えた。バイエルター
ルは、そしらぬ顔つきでお喋りを
続ける。
﹁それはね、万一事ある場合、た
とえば英仏相手の戦いがおこった
ブルー ブラック
場合、まず青と黒ニールの水源を
エチオピアでとめてしまう。それ
ホワイト
から、俺は白ニールにでて上流を
閉塞する。と、どうなる?! エ
155
ひ
ジプトの心臓ナイル河の水が、底
からから
ききん
をみせて涸々に乾あがるだろう。
かんがいすい
むろん灌漑水が不足して飢饉がお
こる。舟行が駄目になるから交通
ほうはい
は杜絶する。そうなって、澎湃と
おこってくる反乱の勢いを、ミス
ルの財閥や英軍がどうふせぐだろ
うか﹂
折から天空低く爆音が聞えた。
ムラムブウェジ
毎夕、悪魔の尿溜からくる昆虫群
156
ソープストーン
をふせぐために、石鹸石、その他
ま
の粉霧を上空から撒くのだという。
それがマコンデからみえる﹁鳴る
霧﹂の正体だったのだ。ドドが飛
行機をみても驚かぬわけは、おそ
らくここの近くにいたために、機
影を知っていたせいであろうと察
せられた。
それから、その飛行機のことを
たず
バイエルタールに訊ねると⋮⋮英
157
領ケニアの守備隊で同僚を殺し、
偵察機一台をさらってここへ逃げ
こんできた英人飛行士で、その後、
縦断鉄道測量隊をヤンブレで襲い、
当分防虫剤やガソリンには不自由
しないと、バイエルタールは鼻高々
の説明だった。
その間も彼の目は、寝ているド
は
ドの背に置かれたマヌエラの手の
な
うえを、まるで甜め廻すように這
158
いずっているのだが、どうやらそ
れも、ただの酔いのせいではなさ
そうに思われてきた。と突然、彼
こうしょう
は割れるような哄笑をはじめた。
﹁分ったろう、俺はナイルの閉塞
者なんだ。はっはっはっはっは、
君らは妙な顔をして、俺を島流し
の狂人とでも思ってるだろうが、
それもよかろう。しかし、ここに
は武器もあり爆薬もある! それ
159
に、月に一度は連絡機がくる。サ
ヴォイア・マルケッティの大輸送
ノルド・アフリカ・アヴィアチオーネ
機が、北アフリカ航空の線から飛
んでくる。倉庫もある、飛行場も
あれば格納庫もある。全部、巧妙
な迷彩で上空からわからんように
なっている﹂
探検の一同は、聴いているまに
あお
だんだんと蒼ざめてきた。今宵に
も、命がなくなるかもしれぬおそ
160
ろしい危機が、いま次第に切迫し
つつあるのを知ったのである。お
そらく、これまでの探検隊に生還
者がなかったのも、ここでバイエ
ルタールに殺されたからにちがい
ない。かほどの、国の興廃にもか
かわる大機密を明して、無事に帰
すはずはない。カークをはじめ一
ほう
人も声がなく、喪けて死人のよう
になってしまった。
161
ところが、座間一人だけはさす
が精神医だけに、ほかの人たちと
は観察がちがっていた。バイエル
タールの言葉を聞いていると、と
きどき他のことを急にいいだすよ
ほんいつ
うな、意想奔逸とみられるところ
が少なくない。これは精神病者特
有の一徴候なのだ。
普通の人間でもこんな隔絶境に
みわけ
半月もいたら少々の嘘にも判別が
162
つかなくなるだろう。それが、バ
イエルタールのは二十と数年︱︱
宣教師のでたらめをまことと信ず
るのも無理はない。そのうえ、彼
しび
はインド大麻で頭脳を痺らせてい
るのだ。
けれど今となっては、それがじ
きちがい
ぶんたちには狂人の刃物も同様。
もう、どうあがこうにも⋮⋮、彼
の狂気の犠牲となるより他はなさ
163
そうに思われる。
防虫組織や飛行機などは、いか
にも神秘境と背中合せの近代文明
という感じだが、ナイルの閉塞、
イタリア機の連絡とは、じつに華
やかながら実体のない、狂人バイ
オーロラ
エルタールの極光のような幻想だ。
シュシャア・パラスト きょぜん
いやいま、この猿酒宮殿に倨然と
いる彼は、そのじつ、悪魔のよう
な牧師の舌上におどらされている、
164
あわれなお人よしの痴愚者なんだ
と、座間だけはそう信じていたの
である。
やがてドドをまじえた一行五人
は小屋に押しこめられた。もっと
も、番人もつけられず鍵もおろさ
れない。武器も弾薬も依然として
手にある。これはバイエルタール
の手抜かりというわけではなく、
いしばし
四か所の石階に厳重な守りがある
165
からだ。
アフリカ奥地の夜、山地の冷気
こおろぎ
が絶望とともに濃くなってゆく。
がま
ほ
蟇と蟋蟀が鳴くもの憂いなかで、
ハイエナ
ときどき鬣狗がとおい森で吠えて
いる。その、森閑の夜がこの世の
最後かと思うと、誰一人口をきく
ものもない。ときどき君が言いだ
したばかりにこんな目に逢ったの
だと、ヤンが座間を恨めしげに見
166
るだけであった。
と時が経って暁がたがちかいこ
ろ、座間にとっては思いがけぬ事
わ
件が降って湧いた。一見大して奇
もないようだったが、重大な意味
があった。それはとつぜん、マヌ
けだる
エラが気懶そうな声で、なにやら
ひと
独り言のようなものをドイツ語で
言いはじめたのであった。
めす
﹁明日、牝をのぞいた残りを全部
167
や
殺るというんだ。人道的な方法と
いうからには、アカスガの毒を使
うだろう﹂
驚いたことに、男のような言葉
だ。調子も、抑揚がなく朗読のよ
うである。そして、これがなかで
もいちばん奇怪なことだが、いま
しゃべ
マヌエラが喋っているドイツ語を、
当の本人が少しも知らないのであ
りゅうちょう
る。知らない外国語を流暢に喋る
168
︱︱そんなことがと、一時は耳を
疑いながらまえへ廻って、座間は
マヌエラをじっと見つめはじめた。
しっ
﹁マヌエラ、どうしたんだ、確か
りおし!﹂
しかしマヌエラの目は、狂わし
すわ
げなものを映してぎょろりと据っ
ている。ひょっとすると心痛のあ
お か
まり気が可怪しくなったのかもし
うわごと
れない。その間も、なおも譫言は
169
続いてゆく。
﹁逃げやしないかな﹂
﹁大丈夫、武器は取りあげてない
から、まさかと思っているだろう。
いしばし
第一、石階には番人がいるし⋮⋮
そこを逃げても、マコンデ方面は
網目のようだからな﹂
こうした気味の悪い独語が杜絶
えると、闇の鬼気が、死の刻がせ
まるなかでマヌエラだけをつつん
170
でしまう。彼女は、ちょっと間を
置くとまたはじめた。
﹁水牛小屋の地下道は分りっこね
えんだ。何時だ? 三時だとす
りゃ、あと二時間だが﹂
一体マヌエラは誰の言葉を真似
ているのだろう? 座間は微動だ
もせず冷静な目で、じっとマヌエ
ラをながめていたが、思わず⋮⋮
この時首をふった。すると、おな
171
じようにマヌエラも首を振る。ハッ
とした座間が今度は試みに唇をと
がらした。とまた、マヌエラがお
なじ動作を繰りかえす。とたんに、
座間はわッとマヌエラを抱きしめ
た。やがて、むせび泣きとともに
二人の頬の合せ目を、涙が小滝の
ようにながれてゆくのだった。
﹁ああ君?!﹂
カークはじぶんとともに冷静だっ
172
た座間が、近づく死の刻に取乱し
てしまったのだと思った。しかし
座間はすこしも腕をゆるめずに、
まるで恋情のありったけを吐きだ
してしまうように、泣いたり笑っ
たりもう手のつけようもない狂乱
振りだった。が、座間は狂ったの
ではなかった。彼は、悦びと悲し
ぎ
みの大渦巻きのなかで、こんなこ
き
とを絶れ絶れに叫んでいた。
173
ラ
タ
ー
タ
ー
︵“Latah”だ。マヌエラに
ラ
はマレー女の血がある“Lata
h”は、マレー女特有の遺伝病、
発作的神経病だ。ああ、いますべ
てが分ったぞ。あの夜の、ヤンと
もと
のあの狂態の因も⋮⋮、いま、マ
ヌエラの発作が偶然われわれを救っ
タ
ー
てくれることも⋮⋮︶
ラ
“Latah”は、さいしょ軽微
な発作が生理的異状期におこる。
174
そのときは、じぶんがなにをして
はっきり
いるかが明白と分っていながら、
どうにも目のまえの人間の言葉を
真似たくなり、またその人の動作
エヒョーキネジー
をそのまま繰りかえす︱︱つまり、
エヒョーラリー
反響言語、返響運動というのがお
こる。してみると、いつかのあの
夜も、と︱︱座間には次々へと浮
んでくるのだ。
あのとき⋮⋮、ヤンが、あたし
175
を愛してくれますか︱︱と小声で
言うと、ちょうど、それそっくり
の言葉をマヌエラが繰りかえした。
また、抱こうと腕をかけると彼女
もおなじ動作をした。それから淑
女らしくもない醜猥なひとり言も、
コプロラリー
思えば醜言症という症状の一つな
のだ。ああ、マヌエラにはマレー
の血があるのだ。おそらく、マレー
人系統のマダガスカル人の血が、
176
何代かまえに混入したのであろう。
そしていま、それがいく代か経っ
てマヌエラにあらわれたのだ。
わざわ
血の禍い、やはりマヌエラも純
粋の白人ではない。しかし、いま
一人もものを言わないこの小屋の
なかで、どうして知りもせぬドイ
ツ語で喋ったのだろう。それが、
エヒョーラリー
反響言語のじつに奇怪なところで
ある。遠くて、普通の耳には聴え
177
ぬような音も、異常に鋭くなった
発作時の、聴覚には響いてくるの
である。
今しも、バイエルタールの部下
くつおと
二人が靴音立てて、小屋のまえを
通り過ぎていったところを見ると、
マヌエラは、彼らの会話を口真似
したに違いない。それでは水牛小
屋の地下道というのこそ、唯一の
まぎれのない逃げ道だ。
178
こうして、マヌエラをめぐるあ
らゆる疑惑が解けた。まるでハイ
ド氏のような二重人格も、怪奇を
みもう
おもわせたドドの魅魍も、さらに、
いま五人のものが浮びあがろうと
ひっきょう
することも、畢竟マヌエラに可憐
な狂気があるからだった。座間は、
息をふきかえした愛情のはげしさ
ゆうよ
に泣きながら、もう一刻も猶予で
きないことに気がついた。
179
﹁諸君、助かるかもしれん。とに
かくすぐに水牛小屋へゆこう﹂
まず、醜言症を聴かせぬためマ
さるぐつわ
ヌエラには猿轡をし、ドドを連れ
て、そっと一同が小屋を忍びでた
のである。そこには、地下からう
ねうねと上へのびて東方の絶壁上
へでる、やっと這ってゆけるほど
の地下道があった。一同はこうし
シュシャア・タール
て、猿酒郷を命からがら抜けでた
180
のである。
やがて樹海の線に暁がはじまっ
たころ、おそらく追手のかかるマ
コンデとは反対に、いよいよ、悪
ムラムブウェジ
魔の尿溜へと近付く密林のなかへ、
心ならずも逃げこんで行くのだっ
た。
な だ
雪崩れる大地
181
密林はいよいよふかく暗くなっ
メガテリウム・グラスこうし
て行った。大懶獣草の犢ほどの葉
とげ
うっそう
や、スパイクのような棘をつけた
つたかずら
大蔦葛の密生が、鬱蒼と天日をへ
きょぜん
だてる樹葉の辺りまで伸びている。
はかげ
また、その葉陰に倨然とわだかまっ
だこ
ている、大蛸のような巨木の根。
そのうえ、無数に垂れさがってい
る気根寄生木は、柵のようにから
こぶ
まり、瘤のように結ばれて、まさ
182
に自然界の驚異ともいう大障壁を
なしているのだった。しかも、下
すね
はどろどろの沢地、脛までもぐる
ホーンド・ヴァイパー
なかには角毒蛇がいる。
むかで
蜈蚣の、腕ほどもあるのがバサ
かさ
リと落ちて来たり、絶えず傘にあ
ひる
たる雨のような音をたてて山蛭が
血を吸おうと襲ってくる。まった
くバイエルタールの魔手をのがれ
たのは一時だけのことで、またあ
183
らたな絶望が一同を苦しめはじめ
た。
﹁殺してよ、座間﹂
マヌエラが、しまいにはそんな
うつ
ことを言いだした。そして、虚ろ
な、笑いをげらげらとやってみた
り、ときどき嫌いなヤンへにッと
ながしめ
流眄を送ったりする。彼女もだん
だん、正気を失いはじめてきたの
だ。
184
さすがにカークだけは、絶えず
おの
斧をふるって道をひらいてゆく。
ばんえんしょうう
しかし、蛮煙瘴雨に馴れたこの自
然児も、わずか十ヤードほどゆく
のに二、三時間も死闘を続けるの
では、もうへとへとに疲れてしまっ
た。一本の、馬蔓の根がとおい四、
五町先にあって、切るとずうんず
うんと密林がうめきだし、しばら
くカサコソと何者かが追ってくる
185
ような無気味な音をたてている。
カークも全精力がつき、ぐたりと
樹にもたれた。
﹁どうする? なにか、こうした
らというような見込みでもあるか
ね﹂
﹁どうするって?! 一体どうな
りゃいいんだ﹂ヤンが、ぎょろっ
と血ばしった目でふり向いた。
﹁われわれは、いっそバイエルター
186
ルに殺されちまやよかったんだ﹂
とおく、一つ、鉛筆のような陽
しま
の縞が落ちている。そのほかは、
闇にちかいこの密林のなかは、沢
じんうん
地の蒸気をうずめる塵雲のような
か や
昆虫だ。それを、蚊帳ヴェールで
避ければ布目にたかってくる。も
ムラムブウェジ
う、悪魔の尿溜へはいくばくもな
いのだろう。
ところが、そういう筆舌につく
187
せぬ難行のなかで、一人ドドだけ
は非常に元気だった。マヌエラを
背負い、ときどき樹にのぼっては
ふつ
木の実をとってくる。いま密林に
ささや
抱かれ大自然に囁かれ、野性が沸
ぜん よみがえ
然と蘇って来たのである。それを
あざけ
ヤンが見て嘲るようにいった。
﹁こいつのためだ。こいつを、わ
ざわざ故郷へ送りとどけるために、
四人の人間がくたばろうとするん
188
だ。おい獣、貴様、マヌエラさん
うれ
というお嫁さんがいて嬉しいだろ
うぜ﹂
こうしてどこという当てもなく
さまよ
彷徨い続けるうちに、やがて日も
暮れて第一夜を迎えた。カークは、
危険な地上を避けて手頃な樹を選
ぼうと思い、ひょいと頭上をみる
ゆ
と、枝を結いつけたのが目に入っ
た。ゴリラの巣だ。しかしゴリラ
189
は、一日いるだけでまたほかへ巣
を作る習性がある。してみるとこ
のうえもない宿である。
第二日︱︱。
一行全部ひどい下痢と不眠のな
しょうき
かで明けていった。湿林の瘴気が
コレラのような症状を起させ、一
夜の衰弱で目はくぼみ、四人はひょ
ろひょろと抜け殻のように歩いて
ゆく。
190
ひげ
全身泥まみれで髭はのび、マヌ
む
エラまで噎っとなるような異臭が
する。そしてこの辺から、巨樹は
やどりぎ
死に絶え、寄生木だけの世界になっ
てきた。これが、パナマ、スマト
ほふ
ラと中央アフリカにしかない、ジャ
ングルの大奇景なのである。
いちじく
つまり、寄生木や無花果属の匍
く
匐性のものが、巨樹にまつわりつ
いて枯らしてしまうのだ。そのあ
191
ま
とは、みかけは天を摩す巨木であ
じゃ
りながら、まるで綿でもつめた蛇
かご
籠のように軽く、押せば他愛もな
くぐらぐらっと揺れるのである。
つたかずら
森が揺れる。一本のうごきが蔦蔓
につたわって、やがて数百の幹が
ざわめくところは、くらい海底の
真昆布の林のようである。四人と
も、それには幻を見るような気持
だった。
192
ちょうど正午ごろに、大きな野
象らしい足跡にぶつかった。つぶ
きょくけい
れた棘茎や葉が泥水に腐り、その
コーヒー
池のような溜りが珈琲色をしてい
る。しかし、そこから先は倒木も
あって、わずかながら道がひらけ
た。しかしそれは、ただ真西へと
悪魔の尿溜のほうへ⋮⋮まさに地
獄への一本道である。
疲労と絶望とで、男たちはだん
193
だん野獣のようになってきた。ヤ
ンがマヌエラ共有を主張してカー
なぐ
クに殴られた。しかしカークでさ
い き
え、妙にせまった呼吸をし、血ば
しった眼でマヌエラをみる、顔は
醜い限りだった。
第三日︱︱。
しょうき
ヤンが、その日から肺炎のよう
ひょうこう
な症状になった。漂徨と泥と瘴気
とおそろしい疲労が、まずこの男
194
のうえに死の手をのべてきたのだ。
ひどい熱に浮かされながら、幹に
そうろう
すがり、座間の肩をかりて蹌踉と
ゆくうちに、あたりの風物がまた
一変してしまった。
大きな哺乳類はまったく姿を消
イグアナ
はちゅう
し、体重はあっても動きのしずか
ボ ア
な、王蛇や角喇蜴などの爬虫だけ
の世界になってきた。植物も樹相
が全然ちがって、てんで見たこと
195
もない根を逆だてたような、気根
が下へ垂れるのではなくて垂直に
上へむかう、奇妙な巨木が多くなっ
た。それに、絶えず微震でもある
のか足もとの地がゆれている。
してみると、土の性質が軟弱に
すべ
なったのか、それとも、地辷りの
危険でもあるのだろうか? この
辺をさかいに巨獣が消えたのと思
きゆう
い合わせて、これがたんなる杞憂
196
ではなさそうに考えられて来た。
くず
いまにも足もとの土がざあっと崩
れるのではないか︱︱踏む一足一
足にも力を抜くようになる。しか
ムラムブウェジ
しここで、悪魔の尿溜の片影をと
らえたようでも、森はいよいよ暗
はて
く涯もなく深いのだ。
すると熱の高下の谷のようなと
ころで、ヤンがマヌエラをそっと
葉陰に連れこんだ。
197
﹁あなたは、モザンビイクに帰り
たいとは思いませんか﹂
突然のことに、マヌエラはきょ
とんと目をみはった。蚊帳ヴェー
ルを透いて、なんでこの期になっ
て思いださせようとするのかと、
涙さえ恨めしげにひかっている。
﹁どうしました? なぜ、黙って
いるんです﹂
﹁疲れたんですわ。あたし、なに
198
か言おうにも、言い表せないんで
す﹂
﹁いや、モザンビイクへ帰れる確
実な方法が唯一つあるんです。そ
れは、バイエルタールのところへ
また引っ返すことだ。ねえ、あの
男は白人の女を欲している﹂
とかげ
そういって、ヤンは蜥蜴のよう
な目をよせてくる。足がふらつい
や
て、病苦に痩せさらばえた顔は生
199
きながらの骸骨だ。マヌエラはぞっ
と気味わるくなってきた。おまけ
に、座間とカークは泥亀を獲りに
いっていない。
﹁僕とあなたがゆきァ、バイエル
タールがなんで殺しましょう。そ
うして観念してあすこにいるうち
にゃ、いつか抜けだす機会がきっ
とくると思うんです。ねえ、あな
たの分別一つでモザンビイクへ帰
200
れる。それとも、奴らに義理をた
のたれじ
てて、ここで野垂死にしますかね﹂
﹁でもあたし、あなたのいう意味
がすこしも分りませんけど﹂
﹁それがいかん。あいつら二人は、
僕が今夜のうちにきっと片付けて
みせます。熱がさがったとき、不
寝番になるはずですからね﹂
と言いながら、ヤンはじりじり
マヌエラにせまってくる。しかし
201
それは、どうせ死ぬものなら行き
がけの駄賃と、まるで泥で煮つめ
ふ て ぶ て
たような絶望の底の、不逞不逞し
さとしかマヌエラには思われなかっ
た。熱くさい呼吸、それを避けよ
うともがけばぐらぐらっと地がゆ
れる。とその瞬間⋮⋮、意外にも
ヤンがわっと悲鳴をあげたのであ
る。
ドドだ。犬歯を牙のようにむき
202
うな
だして、もの凄い唸り声をたて、
か
唇はヤンを噛んだ血でまっ赤に染っ
ている。憤怒のために、ドドは野
せっぱ
性に立ち帰ったのである。切羽つ
ピストル
まったヤンが拳銃をだそうとする
と
と、その手にまたパッと跳びつい
た。それなり二人は、ひっ組んだ
まま地上を転がりはじめたのだ。
大柄な獣さえこない禁断の地響
きに、とつぜん、足もとがごうと
203
地鳴りを始めた。
と見る⋮⋮ああ、なんという大
凄観! とつぜん、目前一帯の地
お
がずずっと陥ちはじめたのである。
すく
マヌエラは足もとを掬われてずで
つた
んと倒れたが、夢中で蔦にすがり
つきほっと上をみると、今しも森
こずえ
が沈んでゆくのだ。梢が、一分一
にぶ
寸とじりじりと下るあいだから、
あ
まるで夢のなかのような褪せた鈍
204
しまめ
い外光が、ながい縞目をなしてさっ
と差しこんできたのである。森が
しずむ! マヌエラは二人の格闘
ひび
もわすれ、呆然とながめていた。
むかで
大地の亀裂が蜈蚣のような罅か
らだんだんに拡がるあいだから、
かし
吹きだした地下水がざあっと傾い
だ方へながれてゆく。しかし、そ
くず
うして崩れてゆく地層のうえにあ
る樹々は、どうしたことか直立し
205
つる
たままである。攀縁性の蔓植物の
緊密なしばりで、おそらく倒れず
すべ
にそのまま辷るのだろう︱︱と考
えたが、それも瞬時に裏切られた。
水の噴出がみるみる土をあらっ
て幹根があらわれる。やがて、数
む
尺下の支根が露きでても⋮⋮、ま
るで根ごと地上に浮きでて昇って
ゆくような、奇怪な錯覚さえ感じ
てくるのだ。なんという樹か。そ
206
の地底までも届くようなおそろし
い根を、マヌエラは怪物のように
ながめていた。この時耳もとで座
間の声がした。
プティ・ラディックス
﹁おう、深井の根!﹂
ニティルダ・アンティクス
それが、旧根樹という絶滅種で
はないのか。根を二十身長も地下
に張るというこのアフリカ種は、
こくど
とうに黒奴時代の初期に滅びつつ
あったはずである。
207
と、見る見る視野がひらけた。
思いがけぬ崩壊が風をおこして、
もうき
地上の濛気が裂けたのである。と
つ
たんに、三人がはっと息を窒めた。
さえぎ
それまで、濛気に遮られてずっと
続いていると思われた密林が、こ
こで陥没地に切り折れている。
ムラムブウェジ
悪魔の尿溜︱︱。
と三人は眩くような亢奮に我を
忘れた。陥没と、大湿林の天険が
208
いかなる探検隊もよせつけぬとい
かき
われる、この大秘境の墻の端まで
きたのだ。と思うと、眼下にひろ
クレーター
がる大摺鉢地のなかを、なにか見
えはせぬかと瞳を凝らしはじめる。
しかしそこは依然として、濛気
と昆虫霧が渦まく灰色の海で、絶
ひび
壁の数かぎりない罅も中途で消え
てしまい、いったいどこが果でど
こが底か︱︱この大秘境を測るこ
209
とさえ許されない。ただ枯れた幹
ニティルダ・アンティクスさくそう
をおとした旧根樹の、錯綜の根が
きょうじん
ゆらぐ間にみえるのだ。強靱な、
ピラミッド型の根が幹を支えてい
るうちに、幹は枯れ、地上に落ち
たに
たその残骸は、まるで谿いっぱい
く も
にもつれた蜘蛛糸をみるようであっ
た。やがてその枯色も、鎖ざしは
じめた昆虫霧にうっすらと霞んで
しまったのである。︱︱大秘境
210
ムラムブウェジ
すそ
﹁悪魔の尿溜﹂はちらりと裾をみ
せ、それなり千古の神秘を人にみ
せることをしなかった。
三人はしばらく感慨ぶかげに立っ
ていた。しかし気がつくと、その
格闘のまま、ヤンとドドの姿が消
えてしまっているのだ。たぶん、
ひっ組んだまま陥没地に落ちたの
だろうと、マヌエラは気もそぞろ
であったが、やがて紅い蔓花で花
211
環を編んで、じぶんを救おうとし
て死んで故郷へもどったドドのた
めに、接吻とともに底しれぬ墓へ
投げこんだ。
そうして、歯がぬけたような淋
しさが来たが、また陥没がはじま
りそうなので此処を引きあげねば
ならなかった。しかし三人は、そ
の日一日は酔ったような気持でい
た。前人未踏の、この東端までき
212
て悪魔の尿溜をのぞいたのは、お
そらく有史以来この三人だけかと
思うと、自然の尊位と威力を踏み
にじった気にもなるが、なにより
ここを出て人里に帰ることが、い
まのところいちばんの問題になっ
ている。
といって、南へゆけばコンゴの
ゴ リ ラ ス ツ ォ ー ネ
﹁類人猿棲息地帯﹂、そこではこ
の惨苦を繰りかえすにすぎない。
213
してみると、北端にあたる大絶壁
へ︱︱いまアメリカ地学協会の探
検があるはずだが⋮⋮。
と、協議がまとまって進むこと
になったが⋮⋮、これまでどおり、
けいきょく
巨草荊棘を切りひらいてゆくので
はいく月かかるかも知れない。そ
のあいだ、この衰弱ではとうてい
保つまいし、なによりこの二、三
ボ ア
日来王蛇に狙われどおしである。
214
﹁ずいぶん、考えりゃ保つもんで
すわね﹂
マヌエラが、ボロボロの斧をな
がめてふうっと吐息をし、なにや
ら、座間に言えというような目配
せをした。すると、座間が胸の迫っ
たような声で、
﹁じつはカーク、いまマヌエラと
も相談したことだがね。ここで、
君一人に自由行動をとってもらい
215
たいのだ﹂
﹁なぜだ﹂
とカークはびっくりして目をみ
はって、
だしぬけ
﹁あんまり、唐突な話で訳がわか
らんが﹂
﹁それは、こういう訳だ。君なら
ここを抜けだして人里へゆけるだ
ろう。なまじ、僕ら二人という足
手まといがあるばかりに、せっか
216
く、ある命を君が失うことになる。
お願いだ。明日、僕らにかまわず
た
ここを発ってくれないか﹂
﹁そうか﹂
あき
としばらくカークは呆れたよう
に相手をみていたが、
﹁なるほど、君らを捨ててゆくの
や す
はいと容易いが、しかし、ここに
残ってどうするつもりだ﹂
﹁悪魔の尿溜へ、僕とマヌエラが
217
踏みいるつもりなんだ﹂
﹁なに﹂
と、カークもさすがに驚いて、
クレーター
﹁じゃ君らは、あの大陥没地へ身
を投げるつもりか⋮⋮﹂
﹁そうだ、初志を貫く。だいたい
いんじゅんこそく
これが、僕の因循姑息からはじまっ
か
たことだから、むろん、じぶんが
ま
蒔いた種はじぶんで苅るつもりだ
よ。マヌエラも、僕と一緒によろ
218
こんで死んでくれる。ただ、君だ
けは友情としても、どうにも僕ら
の巻添えにはしたくないんだ﹂
カークはマヌエラを振り向いた。
あきら
彼女の目は断念めきったあとの澄
たた
んだ恍惚さを湛えて、にんまりと
座間をみている。おそらく全人類
ムラムブ
中のたった二人として、悪魔の尿
ウェジ
溜の底を踏んだときの二人の目は
あの、ペンも想像も絶するおどろ
219
くべき怪奇と、また、恋の墓場と
してのうつくしい夢をみるだろう。
カークは、言葉を絶ってしばらく
考えていた。
たそがれ
密林は、死んだような黄昏の闇
ボ ア
のなかを、ときどき王蛇がとおる
ゴウッという響きがする。と、と
ひざ
つぜん、カークがポンと膝をうっ
て言った。
﹁座間、名案があるぞ。僕にそん
220
ば か げ
キ
な莫迦気たことを、いわないでも
すむようになるぞ﹂
﹁えっ、なにがあるんだ?﹂
テ
フ
ェ
テ
フ
ェ
﹁それは、この蔦葛のうえを“K
ン
intefwetefwe”に利
用するんだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁つまり、コンゴの土語でいう
﹃自然草の橋﹄という意味だ。あ
あ、これまでなぜ気がつかなかっ
221
たんだろう﹂
キ
ン
テ
フ
リビングストーンのマヌイエマ
テ
フ
ェ
探検の部に、その“Kintef
ェ
wetefwe”のことがくわし
く記されてある。
︱︱マヌイエマ近傍では、川を
覆うて生草の橋ができる場合があ
る。つまり、両岸からの蔓が緊密
にからみ合って、それがひろい川
だと河床ちかくまで垂れてくる。
222
ふとん
踏むとふかふかとした蒲団のよう
な感じで、足を雪から出すように
抜きあげながら進む。
それがここでは、人間の身長の
とりで
倍以上のたかさで、蔦や大蔓が砦
のようにかためている。
その自然の架橋を、いよいよ生
気を復した三人がゆくことになり、
やがて、マヌエラを押しあげてそ
223
のうえに立ったのである。この大
湿林を、まさか上方からながめよ
うとは思わなかったが、さすがそ
の大眺望にはしばらく足を停めた
ほどだ。地平線は、樹海ではじま
り樹海でおわっている。一色のふ
かい緑は空より濃く、まさに目の
ゆくかぎりを遮るものも、またこ
の単色をやぶる一物さえもないの
だ。そうしてついに、この大湿林
224
を抜けることができたのである。
楽々と、それまできた十倍以上
を踏破し、北側の傾斜からまわっ
て、絶壁のうえへ出ることができ
た。
見おろすと、眼下の悪魔の尿溜
はいちめんの灰色の海だ。その涯
がうつくしい残陽に燃え、ルウェ
ンゾリの、絶嶺が孤島のようにう
しょうれい
かんでいる。しかし、瘴癘の湿地
225
からのがれてほっとしたかと思え
ば、ここは一草だにない焦熱の野
である。
赤い、地獄のような土がぼろぼ
ろに焼けて、たまに草地があると
思えばおそろしい流沙であった。
そしてそこから、雨期には川にな
サンド・リヴァ
る砂川が現われ、絶壁のちかくで
地中に消えている。
﹁有難うカーク、どれほど君のた
226
めに助かったことだろう﹂
﹁ほんとうですわ﹂
座間とマヌエラが真底から感謝
した。それは、きて以来一滴も口
きかつ
にしない、おそろしい飢渇から救
サンド・リヴァ
われたからだ。カークが砂川の下
の粘土層のうえが、地下流だとい
うのをやっと思いだしたからであ
る。ほかにも、ここへくると大枝
をもってきて、ささやかながら小
227
屋も建てられた。そうして、熱射
も避け、水も手に入れ、ときどき
鳥をうっては腹をみたす。が、な
により困ったのは青果類の欠乏で、
きづか
そろそろ壊血病の危険が気遣われ
るようになってきた。
すると、ちょうど六日目の午後
に、一台の飛行機が上空に飛んで
きた。待ちに待ったアメリカ地学
協会のものらしい。三人が飛びだ
228
して上着をふっていると、その飛
行機からすうっと通信筒が落ちて
来た。駆けよって、ひらいてみる
と、明日午後に︱︱と書いてある。
ながい惨苦ののちにやっとモザン
ビイクに帰れる。マヌエラは、感
きわまって子供のように泣きはじ
めた。
ショック
しかしそのとき、その衝撃が因
でまたラターがおこった。今度は、
229
カークのまえなので隠すこともで
きず、座間はその晩ねむれるどこ
ろではなかった。
︵可哀そうな、かなしいマヌエラ。
ここで、よしんば助かるにしろ、
先々はどうなろう。治るまい、お
きちがい
そらく真の狂人に移ってゆくだろ
う︶
たきび
暗中に、目を据えて焚火を見つ
や
めながら、座間は痩せ細るような
230
しゅうわい
思いだった。いまに、醜猥な言葉
をわめき散らすようになれば、美
しいマヌエラは死に、ただ見るも
のの好色をそそるだけになる。よ
しんば助かっても空骸がのこる。
恥と醜汚のなかでマヌエラの肉体
が生きるだけ⋮⋮。
するとその時、座間の目のまえ
へ幻となって、一匹の野牛の顔が
あらわれた。
231
それは、コンデロガを発って間
こうげん
もなく、曠原の灌木帯で野牛を狩っ
た時のこと、砂煙をたてて、牝の
指揮者のもとに整然と行動する、
その一群へ散弾をぶちこんだ。す
ると、腹をうたれたらしい一匹が
めちゃめちゃ
もがいていると、他が危険をおか
おど
してそれに躍りかかり、滅茶滅茶
に角で突いて殺してしまったので
ある。どうせ、駄目なものは苦し
232
ませぬようにと、野獣にも友愛の
さつりく
わら
殺戮がある。医師にも、陰微な愛
として安死術がある。
ハイエナ
焚火のむこうで鬣狗が嗤うよう
にうずくまっている。とたんに、
怪しい幽霊がじぶんをみているよ
うな気がした。やがて、夢も幻も
ないまっ暗な眠りがはじまったと
き、座間は胸にかたい決意を秘め
たのであった。
233
翌朝、もう数時間後にはここを
去ろうというとき、マヌエラは絶
ムラムブウェジ
壁の縁にたっていた。悪魔の尿溜
の大景観を紙にとどめようとして、
彼女がしきりとスケッチをとって
いる。そこへ、座間が背後からし
かげろう
のび寄ってきた。陽炎が、まるで
ほのお
焔のようにマヌエラを包んでいる。
まぶた
頭が熱し、瞼が焼けて、じぶんは
お
地獄に墜ちてもマヌエラを天に送
234
つぶ
ろうと、座間は目を瞑り絶叫に似
た叫びをあげていた。
しかも、マヌエラをみるとまた
決意が鈍ってくる。大きな愛だと
心をはげまし近寄ってゆくうちに
サンド・リヴァ
知らず知らず、座間は砂川へはいっ
てしまった。そこには殺すものが
死に、殺されるものが生きる一つ
の偶然が潜んでいたのだ。彼は、
水はなくとも砂が動くことは知ら
235
なかった。徐々に、彼のからだが
前方にはこばれてゆき、やがて、
あっという間もなく地上から消え
てしまったのである。
それなり、座間の姿はけっして
現われてこなかった。ただわずか
な間に消えてしまったことが、ま
のろい
るで秘境﹁悪魔の尿溜﹂の呪のよ
うに、マヌエラさえ思うよりほか
になかった。
236
ムラムブウェジ
遂に﹁悪魔の尿溜﹂敗る
座間は死に、残る二人は助けら
れた。
マヌエラは、疲労と悲嘆のあげ
く床についてしまったが、それか
ら一月後に一通の手紙が舞いこん
できた。上封は、ヌヤングウェ駐
在英軍測量部とあり、ひらくとな
かにはもう一通の封書がある。そ
237
れは、泥によごれ血にまみれては
いたが、目を疑うほどの驚きは、
いと
愛しいマヌエラへ、シチロウ、ザ
マより︱︱とあるのだ。マヌエラ
は指先を震わせて封を切った。
タ
マヌエラよ、天罰が私にくだっ
ラ
た。あなたを、このうえ“Lat
ー
ah”で苦しませるのは忍びぬと
思いそっとあの断崖からつき落そ
238
サンド・リヴァ
うとしたとき⋮⋮私は、砂流に運
ばれて地中に落ちこんだ。それは
わ
地中より湧きいで地中に消える暗
黒河であった。
なん時間後か、なん日後か、と
にかく私は闇のなかで目をさまし
よみじ
た。おそろしい冷気、冥路という
のはこれかなと思ったほどだ。そ
してどこかに、滝があるような水
とどろ
流の轟きがする。しかし、まだ私
239
が死んでないということは、やが
てからだを動かそうとしたときはっ
きりと分った。節々が灼けるよう
うず
に疼くのだ。私は、それでもやっ
と起きあがった。手さぐりで、か
ざつのう
らだを探ってみると雑嚢がある。
なかには、ライターもあり固形ア
ルコールもある。︱︱ああ、この、
短い鉛筆でくわしくは書けない。
そこで、服地をすこし破いて固
240
形アルコールで燃すと、ぐるりが
ぼんやり分ってきた。何処もかも
が真白にみえる。目を疑った。す
ると、天井から雪のようなものが
な
落ちてきた。甜めて見ると唇につ
うんと辛味を感じた。それでやっ
サンド・リヴァ
と分った。私は砂川から岩塩の層
に落ちこんだのだ。地下水が岩塩
を溶かしてつくる塩の洞窟だ。マ
ヌエラ、あなたには想像もできま
241
い。まるで月世界の山脈か砂丘の
せきじゅん
ような起伏、石筍、天井からの無
数の乳房、それが、光をうけると
きよ
パッと雪のようにかがやく。浄ら
クレヴァス
かな⋮⋮まったくこんな中で死ね
れば有難いと思った。
うね
畝もある。なかには氷罅もある。
ひょう
ときどき、雹のようなのがばらば
らっと降ったり、粉塩を小滝のよ
うに浴びることがある。と、ふと
242
おお
そばの壁をみたとき、思わず私は
い き
はっと呼吸をとめた。そこには巨
きな粗毛だらけのまっ黒な手が、
つか
私を掴もうとするようにぬうっと
突きでている。
マヌエラ、これが悪魔の尿溜の
セブルクルム・ルクジ
神秘﹁知られざる森の墓場﹂だ。
類人猿が、じぶんを埋葬にくる
しゅうえんち
悲愁の終焉地だと思うと、私はそ
くず
の壁を無性にかき崩した。すると、
243
な だ
その響きにつれてどっと雪崩れる。
ああマヌエラ、塩を雪のようにか
ぶって起きあがったとき、一つ二
つ、臨終そのままの姿であるいは
うずく
立ち、あるいは蹲まり、あるいは
腕を曲げ、ゴリラや黒猩々が浮き
彫りのように現われてくる。まっ
たく絶えざる水蝕でかわるこの洞
窟の中では、これが数百年あるい
はなん千年まえのものか。ともか
244
く、塩にうずまってすこしも腐ら
ずに、今日まで原形を保ってきた
のだ。ああ、私は悪魔の尿溜に入
りこんで、最奥の神秘をみた全人
類中のたった一人の男だ。
そうして、間もなく死ぬだろう
じぶんさえも忘れ、ただ人間が自
然に対してした最大の反逆を、歓
喜のなかで溶けるように味わって
いたのだ。
245
それから、滝は地底へと落ちて
いる。それを知って、私は非常に
落胆した。なぜなら、もしその地
下水が絶壁へでていれば、そこか
うかが
ら、悪魔の尿溜の大観を窺うこと
ができるし、また位置が低ければ
あるいは出ることもできよう。し
かし駄目だ。私は底から盛りあがっ
ほうこう
てくる暗黒の咆哮に、いよいよ出
口がなく、いま岩塩の壁で密閉さ
246
れていることを悟った。事実も、
絶えず洞窟の形が水蝕で変ってい
るらしい。
すると私は、ここの低温度がひ
じょうに気になってきた。獣類な
らともかく人間は、うかうかする
と凍死する危険がある。まったく、
アフリカ奥地の夏に凍え死ぬなん
て、ここが地下数十尺の場所とは
いえ皮肉なもんだと思った。
247
すると、そこへ一つの考えがう
かんできた。それはいうのもじつ
に厭なことだが、いま暖をとるも
のといえばそれ以外にはない。私
は、類人猿の死骸に目をつけた。
それからのことは、婦人である
あなたには詳述を避ける。とにか
く、ここへ死にに来て相当の期間
生きていたものには、体内にほと
んど脂肪の層がない。ともあれ⋮
248
アルコール
⋮やつらを燃やしてみることにし
た。
く ち
さいしょ、口腔に固形酒精をい
れて、それに火をつけた。まもな
く火が脳のほうへまわって眼球が
あな
燃えだした。ごうっと、二つの窩
がオレンジ色の火を吹きはじめた。
洞内が、なんともいえない美しさ
にじ
に染んでゆくのだ。裂け目や条痕
の影が一時に浮きあがり、そこに
249
ク レ ヴ ァ ス
氷河裂罅のような微妙な青い色が
ときいろ
みみず
よどんでいる。淡紅色の胎内⋮⋮、
は
そこを這いずる無数の青蚯蚓。し
かし、死骸は枯れきっていてなん
なまぐさ
の腥さもない。
私は、そうして暖まり、肉も喰っ
こそう
た。しかし肉は、枯痩のせいか革
ま ず
を噛むように不味かった。マヌエ
ラ、私がなにをしようと許してく
れるだろうね。
250
ところが、三つほど燃やして四
つ目をひきだそうとしたとき、ふ
いに天井が岩盤のように墜落した。
雪崩れが、洞内の各所におこって
ぼう
濛っと暗くなった。それが薄らぐ
と崩壊場所の奥のほうがぼうっと
明るんでいる︱︱穴だ。それから、
うよきょくせつ
紆余曲折をたどって入口のへんに
まで出た。そこには、最近のもの
らしい四、五匹が死んでいる。マ
251
ヌエラ、私は洞をでてはじめて外
の空気を吸った。いよいよ私は悪
ムラムブウェジ
魔の尿溜のなかにでたのだ。
もうき
夜だった。空には、濛気の濃い
あか
層をとおして赭色にみえる月が、
かさ
すばらしく、大きな暈をつけてど
んよりとかかっている。私はいま
だに、これほど超自然な不思議な
光輝をみたことはない。中天にぼ
やっとした散光をにじませ、その
252
光はあっても地上はまっ暗なのだ。
すると、この森閑とした死の境
ほうこう
域へ、どこか遠くでしている咆哮
が聴えてきた。それが、近くもな
らず遠くもならず、じつにもの悲
しげにいつまでも続いている。と、
それから間もなくのこと、ようや
く、暁ちかい光がはじまろうとす
るところ、ふいに私の目のまえに
まっ黒なものが現われた。ぎょっ
253
として、それを見つめながら、じ
あとじさ
りじりと後退っていった。
マヌエラ、なんだと思うね。カー
クほどの身の丈で、お父さんより
肥っていて、片手を頭にのせてず
しりずしりと歩いてくる。時には、
りょうあし
両肢をかがめその長い手で、地上
は
を掃きながら疾風のようにはしる
︱︱ゴリラだ。私は、それと分る
あご
とぞっと寒気がし、顎ががくがく
254
となり、膝がくずれそうになった。
私は懸命に洞の中へ飛びこみ、最
前の穴らしい窪みをみつけて隠れ
ほらあな
た。が、その洞穴は、浅くゆき詰っ
ている。なお悪いことに、そのゴ
うずくま
ぶつ
リラが穴のまえで蹲ったのだ。や
かいい
がて、夜が明けたとき、視線が打
か
わら
衝った。私は、あの傀偉な手の一
撃でつぶされただろうか。
しばら
マヌエラ、私は暫くしてから嗤
255
いはじめたのだよ。じぶんながら、
うかつ
なんという迂闊ものだろうと思っ
た。なんのために、そのゴリラが
森の墓場へきたか忘れていたのだ。
ゴリラはさいしょ、私をみたとき
低く唸ったが、ただ見るだけで、
なんの手だしもしない。
七尺あまり、頭はほとんど白髪
でよほどの齢らしい。つまり、老
衰で森の墓場へきたのだと、私は
256
やっとそう思った。野獣がここへ
くるときは闘争心は失せ、なによ
り彼らを狂暴にする恐怖心を感じ
ぬらしい。そして食物もとらず餓
えながら、静かに死の道にむかっ
てゆくのだ。マヌエラ、ここで私
よみじ
コ
は冥路の友を得たのだ。
ソ
Soko︱︱と、やがてそのゴ
コ
リラをそっと呼んでみた。この
ソ
“Soko”というのはコンゴの
257
ケ
ワ
土語で、むしろ彼らにたいする愛
ワ
おり
称だ。それから、Wakhe,W
ケ
akhe︱︱と、檻のゴリラへす
る呼声をいっても、その老獣はふ
り向きもしなかった。
ただ遠くで、家族らしい悲しげ
な咆哮が聴えると︱︱ほとんどそ
れが、四昼夜もひっきりなく続い
ひ
たのだが︱︱そのときは惹かれた
ようにちょっと耳をたて、しかも
258
それも、ただ所作だけでなんの表
情にもならない。そうして、私と
ゴリラと二人の生活が、十数日間
にわたって無言のまま続いた。私
は、同棲者になんの関心も示さな
い、こんな素っ気ない男をいまだ
にみたことはない。
さて、もう鉛筆もほとんど尽き
ようとしている。あとは、簡略に
して終りまで書こうと思う。
259
それから、私は精神医としてい
かにゴリラを観察したか、特にアッ
コルティ先生に伝えて欲しいと思
う。それからも、毎日ゴリラはそ
だる
の場所を動かず、ただ懶そうに私
をみるだけだった。衰弱のために、
もう動くのさえどうにもならぬら
しい。私が脈を見てもぼんやりと
委せているだけだ。しかし、これ
は森の墓場へきたという本能だけ
260
ではなく、先天的にゴリラという
メランコリア
やつは体質性の憂鬱症なのである。
アブノルメ・テンデンツ・
つまり、﹁沈鬱になり易い異常的
デプレショネン
傾向﹂がある。ああ、また鉛筆の
しん
芯が折れた。もう私は、これを書
いてはいられない。
ここで早く、あなたへの愛とカー
クへの友情と、やがて私が死ぬだ
ろうということを書かねばならな
い。私は、ながらく肉食ばかりし
261
たため壊血病にかかった。いまは、
はぐき
歯齦の出血が、日増しにひどくなっ
てゆく。そうだ! 病の因となっ
た青果類はむろんのこと、この悪
ムラムブウェジ
魔の尿溜には一点の緑すらもない
のだ。昆虫霧で、日中さえ薄暮の
しおざわ
ように暗い。その下は、ただ鹹沢
かさ
の結晶が瘡のようにみえるだけで、
ニティルダ・アンティクス
旧根樹の枯根がぼうぼうと覆うて
いる。
262
その根をゴリラのように伝わる
ことが出来ればいいが、人間で、
おまけに今の私にはそんな体力は
ない。まったくのところ、どこか
の一隅に有尾人がいるかもしれな
い。またどこかに、象の腐屍がご
ろごろ転っていて、それを食う群
虫がその昆虫霧かもしれない。し
かし、この一局部にいてはなにも
分らないのだ。ただ、ここが森の
263
墓場であり、荒廃と天地万物が死
ささや
を囁いてくる、場所であることだ
けは知っている。
がらんちょう
私はきょうめずらしく鵜※をつ
かまえた。よくあなたがドドを馴
らして、木のポストに入れさせて
いた封筒のことを思い出したのだ。
私はそれで、この手紙を書いてそ
がらんちょう
の封筒にいれ、鵜※に結びつけて
放そうと思う。運よく⋮⋮、そん
264
な機会は万一にもあるまいが、も
し、あなたの手に入ればそれは愛
の力だ。
私は、この墓場に埋まる最初の
人間として⋮⋮悪魔の尿溜にいり
込んだはじめての男として⋮⋮ま
た、ゴリラと親和した唯一の人と
して⋮⋮ことに、あなたへの献身
をいちばん誇りとする⋮⋮。
いま、午後だが大雷雨になって
265
きた。もう一日、この手紙を続け
がらんちょう
て、鵜※を放すのを延ばそう。
マヌエラ、この一日延ばしたこ
わざわい
とがたいへんな禍となった。といっ
て、いま私が死のうとしているの
ではない。私が、いままで心を向
けていたあらゆるものの価値が、
まるで、どうしたことか感ぜられ
なくなってしまったのだ。あなた
のことも、カークのこともこの悪
266
ムラムブウェジ
ささい
魔の尿溜征服も、いっさい過去の
ちり
ものが塵のように些細にみえてき
た。
どうしたことだろう。じぶんで
そうであってはならないと心を励
じゅばく
ましても、その力がまるで咒縛さ
れているように、すうっと抜けて
しまうのだ。きっとマヌエラ、こ
ムラムブウェジ
れは魂を悪魔の尿溜に奪われたの
だろう。人間という動物であるも
267
のが森の墓場へきて、恋人をおもっ
しゃば
たり娑婆を恋しがったりすること
が、そもそも悪魔の尿溜の神さま
にはお気に召さないのかもしれな
タブー
い。戒律だ。それを破った私は当
然罰せられる。それで今日から、
セブルクルム・ルクジおきて
﹁知られざる森の墓場﹂の掟に従
うことになった。いや、おそろし
い力に従わせられたのだ。
今朝、ゴリラがちょうど二週間
268
目に死んだ。
しおざわ
私は、鹹沢のへりにいて洞窟に
ぎ
いなかったが、そこへ妙な、聴き
き
なれない音が絶れ絶れにひびいて
くる。それが、洞窟のほうなので
さっそく戻ると、ゴリラがまさに
死のうとする手でじぶんの胸をう
ち、かたわらの石をうっては異様
な拍子を奏でているのだ。私もゴ
リラに音楽があるという噂は聴い
269
ていたけれど、その音は、﹁いま
遠い、遠いところへゆく﹂と叫ん
でいるようなもの悲しげなものだっ
た。私は、とたんに哀憐の情にた
まらなくなってきて、ゴリラの最
み と
期を見護ろうと膝に抱えたとき、
意外な、軽さにすうっと抱きあげ
てしまった。
まったく、力のあまりというの
が、その時のことだろう。ながい、
270
こそう
絶食と塩分の枯痩とで、そのゴリ
ラは骨と皮になっていた。それに
しても、この私とてもおなじよう
や
に痩せ、まして、壊血病になやみ
ながらこの老巨獣を、抱きあげら
れたことはなんといっても不思議
であった。私は、ここにいる間に
森の人になったのではないか。痩
せても二百ポンド以上のものを軽々
とのせ、その両手をみたときは泥
271
のような酔心地だった。
ゴリラを抱いた。と、すべて人
間社会にあるものが微細にみえて
きた。個人も功績も恋愛などとい
うものも、すべて吹けば飛ぶ塵の
ようにしか考えられなくなった。
マヌエラ、これが悪魔の尿溜の墓
の掟なのだ。獣は野性をうしない、
人は人性をわすれる︱︱私も死に
ゆく巨獣となんのちがいがあろう。
272
ムラムブウェジ
こうして、私は、悪魔の尿溜を
征服し、そうして征服されたのだ。
だがマヌエラ、まだ私はさような
らだけはいえるよ。
座間の手記は、ここで終ってい
ムラムブウェジ よ う き
た。悪魔の尿溜の妖気に、森の掟
に従わされ、よしんば生きていて
も遠い他界の人だ。不思議とマヌ
エラには一滴の涙もでなかった。
273
彼女はなかに、もう一通同封さ
れている英軍測量部の手紙をとり
あげた。
敬愛するお嬢さま︱︱同封の書
きた
信を、お送りするについて、一奇
ん
譚を申しあげねばなりません。そ
れは、この発信地のヌヤングウェ
のポスト下には、同封の書信を握
りしめた異様な骸骨が横たわって
274
いたのです。それは、丈が四フィー
トばかりで、人間とも、類人猿と
もつかぬ不思議なものでありまし
た。当地は、おそろしい蟻の繁殖
地で、朝の死体は夕には、肉はお
ろか骨の髄まで食われてしまうの
です。ただ、その骸骨が不思議な
ものであっただけに、その旨を御
興がてらに申し添えて置きます。
275
ドドだ! マヌエラは、大声で
さけんだ。
ドドは、ヤンと一緒に陥没地へ
落ちたが、やはり生きていたのだ。
がらんちょう
そうして、座間が放った鵜※をと
らえ、肢に結びつけてある封筒を
みたとき、急にあの訓練を思いだ
してヌヤングウェのポストへいっ
たのだ。そしてそのあいだの、百
マイルの道に精も根もつき、やっ
276
たど
こんとう
と辿りついて昏倒したところを残
忍な蟻どもに喰われたのだろう。
彼女は、草原の熱風に吹きさら
される骨を思い、座間の怪奇を絶
した異常経験には、一滴も、流さ
なかった涙をすうと滴らした。
それから、ドドの血がついた封
筒に唇をあて、人間よりも、高貴
な純真なドドのために、心からの
親しさでそっと十字を印したので
277
ある。
278
底本:﹁人外魔境﹂角川ホラー文
庫、角川書店
1995︵平成7︶年1月
10日初版発行
底本の親本:﹁人外魔境﹂角川文
庫、角川書店
1978︵昭和53︶年6
月10日発行
※本作品中には、身体的・精神的
資質、職業、地域、階層、民族な
279
どに関する不適切な表現が見られ
ます。しかし、作品の時代背景と
価値、加えて、作者の抱えた限界
を読者自身が認識することの意義
を考慮し、底本のままとしました。
︵青空文庫︶
入力:藤真新一
校正:鈴木厚司
2001年7月20日公開
青空文庫作成ファイル:
280
このファイルは、インターネット
の図書館、青空文庫︵http:
//www.aozora.gr.
jp/︶で作られました。入力、
校正、制作にあたったのは、ボラ
ンティアの皆さんです。
281
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