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ケニアの換金作物栽培と多国籍企業

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ケニアの換金作物栽培と多国籍企業
商学研究論集
第38号 2013.2
ケニアの換金作物栽培と多国籍企業
切り花産業を事例として
The Multinational Corporation and Cash Crop in Kenya:
the Case of Cut Flower Sector
博士後期課程 商学研究科 2009年度入学
佐々木 優
SASAKI Suguru
【論文要旨】
IMF・世界銀行がケニアに介入し,「経済の自由化」を強要した結果,ケニアは換金作物への依
存を強めるとともに,換金作物産業に対する様々な介入の緩和・撤廃を進めた。特に切り花産業
は,経済の自由化と規制緩和を背景に急速に発展したが,他方で,換金作物依存に伴う様々な問題
を政治経済構造に及ぼした。
切り花産業の発展がケニア国内に及ぼした影響として,「複数政党制の導入に向けて共闘したキ
クユ人とルオ人が分裂したこと」があげられる。換金作物は,ケニア政府にとって「貧困の農民層
から富を収奪するための資源」であったが,権威主義体制の維持にも利用された。複数政党制導入
後の総選挙では,野党間の分裂によってモイ(与党)が勝利したが,それは「ケニア人農民の貧困」
と「政治体制の混乱」の維持を示唆した。
さらに1980年代後半,政府の市場介入が緩和されたため,オラソダの多国籍企業はケニアの切
り花産業に本格的に参入し,同産業を掌握した。切り花産業は,貧困の農民層に対して,「政府に
よる権威主義体制の維持」に「多国籍企業による直接的な富の収奪」を付加するものであった。
【キーワード】切り花産業
複数政党制移行 権威主義体制 構造調整政と経済の自由化 多国籍
企業の参入
論文受付日 2012年9月24日 大学院研究論集委員会承認日 2012年11月7日
1
【目次】
1.はじめに
2.コーヒー産業の衰退と切り花産業の台頭
a 国際コーヒー協定の崩壊とケニア・コーヒーの衰退
b 切り花産業の台頭と経済成長
3.切り花産業の発展が誘引した諸問題
a 切り花栽培の拡大と野党の分裂
b オランダの切り花産業参入
4.おわりに
1. はじめに
独立後のケニアでは,経済成長を達成するため,貴重な外貨獲得源である換金作物の栽培が進め
られた。農業部門はGDPの3割程度に留まっているが,労働力の70∼80%が農業に従事し,さら
に農産物輸出も輸出産品全体の40∼60%近くを占めている(表1を参照)。特に,コーヒーの国際
市場価格が高騰した1970年代半ば,ケニアは換金作物輸出の拡大に伴って,年平均8%という高い
経済成長率を達成した。ただし1980年代後半以降,主要輸出産品だったコーヒーの生産地である
セントラル州(農耕に適した土地の豊富な地域)では,切り花などの園芸作物の栽培が中心となっ
ていた。園芸作物栽培が拡大した背景には,IMF・世界銀行による構造調整政策(Structural Ad−
justment Plan:SAP)がある。
第二次石油危機を契機に一次産品の需要が減退したため,ケニアの経済状態は悪化していた。経
済成長率は9.5%(1977年)から5.6%(1980年)まで鈍化し,インフレ率も年平均11%以上に達
していた。経済状態の悪化に陥ったケニアは,1980年にIMF・世界銀行から追加融資を受けるこ
ととなったが,追加融資の条件としてSAPを導入しなければならなかった1。ただし, SAPの目
的が経済状態の改善であったにもかかわらず,経済状態は悪化し続け,対外累積債務も増大してい
たため,SAP導入後のケニアは外貨獲得源である換金作物への依存を強めなければならなかっ
た。確かに,換金作物栽培はケニアに外貨をもたらしたが,大勢の貧しい農民は,換金作物依存に
よって,更なる貧困状態に陥った。
SAP(経済の自由化)が途上国の政治経済に及ぼした影響について,様々な評価がある。例え
ばフセインとファルキー(Husain and Faruqee)は,対アフリカ構造調整政策の成果を分析し,
経済自由化政策および規制緩和がケニアの経済発展や工業化の推進に貢献したとことを論じてい
1世界銀行は,農産物の生産費用が割高になっている要因として,政府介入とマーケティング・ボードの問題
を指摘している。そして,途上国経済に見られる問題(政府介入)を改善するうえで,構造調整政策(市場
自由化)を実施することの必要性を主張している(World Bank[1998], p.11)。
− 2一
表1 主要換金作物輸出の推移(ケニア・シリング)
コーヒー
輸出全体
15068
18354
19,980
24,640
30,680
34,160
72,500
83,420
97,340
118,200
114,459
114,445
115,406
119,764
121,434
131,394
136,698
159,061
209,918
228,181
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2
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2
園芸作物
(注)“輸出全体”には農産物以外の全ての輸出産品が含まれる。また表中の比率
は,輸出全体に占める“コーヒー・紅茶・園芸作物の総計(割合)”を示し
ている。
(出所)Economist lntelligence Unit ‘‘Country Profile[2003−2008]より著者f乍成。
る2。アキヤマ(Akiyama)もまた,ケニアのコーヒー生産を事例に,市場自由化の有効性を主張
している3。他方,SAPの問題点に関して,カルファンタソ(Carfantan)は, IMF・世界銀行に
よる政策が途上国の農業生産に悪影響を及ぼしたことを論じている4。福田も,SAP導入後のアフ
リカ諸国の小規模な企業や資源が先進諸国(多国籍企業)に支配されている実態を分析している5。
さらに松田は,SAPに伴う都市部の経済悪化が農村部にまで波及していることを指摘した6。また
換金作物経済の諸問題に関して,佐久間は途上国の農民の貧困状態と換金作物依存の連関を指摘し
ているが,佐久間の指摘は,クリチェン(Krichene)が分析した東アフリカのコーヒー生産にお
ける諸問題と合致している7。
ケニアはアフリカ諸国のなかでもいち早くSAPを導入した国だが,経済状態は構造調整導入後
も悪化し続けているため,SAPの有効性を見出すことは困難である。また切り花産業が勃興した
2Husain and Faruqee[1994], pp.209−212。
3Akiyama[2001], pp.83−109。
4カルファンタン[2009],pp.20−22。
5福田[2011],pp.132−134。
6松田[1995],p.34。
7佐久間[2001],pp.222−225,およびKrichene[1998], p.10。
3
1990年代,ケニアの経済成長率は改善傾向に転じたが,ケニア人農民の生活状態は全く好転して
いない。SAPが本格的に実施された1990年代,ケニアでは切り花や果物を中心とする園芸作物の
生産が富裕の農民層を中心に進められ,2003年以降にはケニア最大の輸出産品にまで成長してい
る。確かに園芸作物輸出の発展は,マククロッチとオオタ(McCulloch and Ota)が指摘している
ように,ケニア経済の発展や雇用の創出に貢献した側面も見られる8。だが切り花産業の発展は,
カルファソタンや佐久間らが批判的に論じているように,むしろ換金作物依存に伴う弊害をより悪
化させているのではないだろうか。
そのため本稿では,SAPの本格化とともに発展した切り花産業を事例に,換金作物依存によっ
て生じた諸問題を分析する。本稿の構成として,まずケニアの切り花産業が台頭した背景を概観す
るため,「コーヒー産業の停滞」から「切り花産業の発展」までの変遷について論じる。続いて,
切り花産業の発展によって生じた諸問題を,政治経済の両側面から分析する。総じて,IMF・世
界銀行主導の経済自由化を背景とする「切り花産業の発展」は,ケニアに貧困の継続と政治的混乱
をもたらしたことを解明する。
2. コーヒー産業の停滞と切り花産業の台頭
IMF・世界銀行がSAPを強要して以降,ケニアの対外累積債務は4.8億ドル(1970年)から
33.9億ドル(1980年)となり,さらに1990年に入ると70億ドル超にまで増大した。また1980年代
後半,ケニアは先進諸国(債権国)の債務返済要求を背景に,コーヒーや紅茶など換金作物に依存
していたが,国際コーヒー協定(lnternational Coffee Agreement:ICA)が崩壊したため,コーヒー
以外の作物を栽培しなければならなくなった9。国際市場価格の急落によってコーヒー産業が停滞
傾向に陥ったため,1980年代後半∼1990年代初頭,ケニアは外貨獲得源となり得る新たな換金作
物として,切り花などの園芸作物を生産・輸出するようになった。
a.国際コーヒー協定の崩壊とケニア・コーヒーの衰退
イギリス政府(王室)がコーヒー生産に適していたケニアを植民地にしたため,大勢のヨーロッ
パ人が入植するとともに,農耕に適した土地の売却(収奪)や,賃金労働への従事をケニア人農民
に強要した10。そのため,コーヒーを含む換金作物の栽培は植民地支配の象徴であったが,独立以
8McCulloch and Ota[2002], pp.6−7。
9国際コーヒー協定は「コーヒー生産国に一定の利益を供与すること」を目的に設けられた国際的な制度であ
り,具体的には国際市場価格を一定水準に維持するための規制(輸出割当制度)を実施していた。しかし輸
出割当制度には,①加盟国間の輸出割当の不平等に伴う途上国の生産量の制約(McMahon[1989], pp.297−
298;pp.312−313,およびAfrican Research Limited[1966−1990]),②二重市場に伴う価格の不安定性(田
中早苗[2008],pp.18−19),③生産国(ブラジル)と消費国(アメリカ)が輸出量の制限を巡って対立して
いたこと(深沢[1978],pp.268−269),という問題を抱えており,それらの問題はICAの経済条項が機能
不全に陥る要因となった。
4
図1 ケニアのコーヒー輸出額と国際市場価格の推移
2so
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ssssutw出額(100万$) +国際市場価格(米セント/ポンド〉
(出所)FAOSTAT(2012年8月23日閲覧)およびlnternational Coffee Organization(2012
年7月13日閲覧)より著老作成。
降のケニアは,経済成長や外貨獲得を目的にそれらの作物を栽培し続けた。市場価格が高水準にあ
った1970年代半ばまで,コーヒー輸出量が2.5倍にまで拡大したこともあり,ケニアは年平均8.5%
という高い経済成長率を達成した。だが1980年代以降,第二次石油危機や国際コーヒー協定の機
能不全を背景に,コーヒーの国際市場価格が1ポンド(約454グラム)当たり200,4米セント
(1977年)から70.3米セソト(1989年)まで下落したため,輸出額は最盛期の4割程度にまで減少
した(図1を参照)。
生産国がICOの規制によって輸出できなかった大量のコーヒーを放出したことに加えて,先進
諸国の消費量が飽和状態に陥ったことで,市場価格は最安値を更新し続けた11。ケニアのコーヒー
産業は市場価格の急落に伴って徐々に停滞し,農民もコーヒー生産から撤退するようになった12。
1019世紀末,イギリスは植民地政策として,ウガンダーモンバサ間の鉄道建設や,東アフリカ地域の換金作物
生産地の開拓(農地開発)を実施した。植民地政策を背景として,ヨーロッパ人入植者たちがコーヒーや紅
茶などの換金作物をケニアで栽培するようになったが,特にローマカトリックの宣教師たちは,アフリカ人
に対する布教活動に加えて,コーヒーをケニアに持ち込む役割も担っていた(Waters[1972], pp.164−165)。
11加盟生産国によるコーヒー放出に便乗するかたちで,ICA非加盟国も大量のコーヒーを輸出するようになっ
た。特に非加盟国だったベトナムの輸出量は,9200トン(1985年)から約9万トン(1989年)となり,そ
して1993年には12.2万トンにまで増加した。ベトナムがコーヒーの輸出量を増大させた要因として,ICAの
崩壊に加えて,妹尾はベトナム政府の土地政策を指摘している。1990年代前半,ベトナム政府は,個人に対
して土地所有権を交付し,さらに土地の移転を認可する政策を実施した。農地の実質的な私有制が承認され
たため,農民のコーヒー生産への参入が容易となった。さらに,コーヒー生産者に対する減税措置やベトナ
ム・コーヒーの高生産性も,ベトナムのコーヒー輸出が急増した要因となっている(妹尾[2009],pp.206−
209)。また長は,ベトナム・コーヒーの発展要因として,コーヒー栽培に対する投資の拡大を指摘している。
1990年代半ば,地方公務員や都市部の住民によるベトナムの中部高地(コーヒー生産用地)の購入が活発化
しているが,このような富裕層の参入はベトナムを世界有数のコーヒー生産国にまで成長させた一因となっ
ている。(長[2005],pp.289−296)。
5
b.切り花産業の台頭と経済成長
1970年代まで,ケニアで栽培されていた園芸作物は主に国内消費用の野菜や果物などであった
が,1980年代以降,切り花(特にバラ)を中心とする輸出向けの園芸作物が,コーヒーに替わる
新たな外貨獲得源として栽培されるようになった。ただし園芸作物の栽培には,灌概や温度・品質
管理を行うための設備費用など多額の投資が必要であったことから,1980年代半ばまで,園芸作
物栽培に参入できた農民は一部の富裕層のみであり,輸出量も僅かでしかなかった。
しかし,経済の自由化(規制緩和)が進展した1980年代後半,オランダ資本による投資や買収
の拡大に伴い,ケニアの園芸作物産業は急速に発展した13。オランダを初めとするヨーロッパの多
国籍企業が多数参入し,生産拡大を進めたため,ケニアの園芸作物の輸出額は,約9300万ドル
(1987年:コーヒー輸出額の39.6%)から約4.2億ドル(1992年:コーヒーとほぼ同額)にまで拡
大している14。園芸作物のなかでも,特に切り花はケニア有数の換金作物にまで成長した。バラや
カーネーショソを中心とする切り花は,主にセントラル州やナイロビ周辺のナイバシャ
(Naivasha)やテイカ(Thika),ケニア山北西部,エレゴン山南東部で栽培されている15。これら
の地域では主にコーヒーが栽培されていたが,市場価格の下落を背景に,富裕の農民層は発展しつ
つあった切り花への転作を進めていた。
1980年代に経済状態が悪化していたが,切り花への転作が進展したため,経済成長率は1990年
代初頭より上昇に転じている(図2を参照)16。さらに切り花産業の発展は,コーヒー産業の停滞
に直面した貧しい農民に新たな雇用機会をもたらしており,約5万人の農民および失業者が切り
花産業に従事するようになった17。ただし園芸作物は,貧困の農民層の生活環境を改善させておら
ず,むしろ「政府(間接的には多国籍企業)が農民から富を収奪する」というケニア農業(貧困の
121993年,中南米を中心とするコーヒー生産国は,需給バランスを改善するため,コーヒー生産国連盟(As−
sociation of Coffee Producing Countries:ACPC)を結成した。このときAPACは,需給バランスの改善およ
び市場価格の上昇を促すため,輸出割当制度と同様の輸出規制を加盟生産国に課していたが,市場価格の急
激な下落に対して余り有効ではなかった。ACPCの機能不全については児玉[2003]および田中早苗
[2008]を参照。
13オラソダには国際的な切り花市場があり,切り花の生産・流通に対して強い影響力を有していた。
14ケニアの園芸作物は主にヨーロッパへ輸出されている。切り花に限定すると,66%がオランダ,25%がイギ
リス,7%がドイツ,2%がフラソスに輸出されている。また,ヨーロッパが輸入する園芸作物の25%は,ケ
ニア産となっている。ヨーロッパに輸出された切り花や果物は,ヨーロッパ域内での消費に加えて,世界各
地へ新たに輸出される(Export Processing Zones Authority(Kenya)[2005], pp.9−10)。
15 @1bid, pp.4−7。
16園芸作物産業への移行に加えて,既存の紅茶産業が,モイ政権の支援を背景に発展し続けていた。ケニア西
部を中心に行われていた紅茶産業は,ケニアの重要産業であるとともに,レント創出の温床ともなってい
た。紅茶産業の発展と政府介入に関しては,Argwings−Kodhek[2004],児玉谷[1985]およびLele and
Christiansen[1989]を参照。
17コーヒーはプランテーション栽培が主流であり,1987年時点で約5.7万人の農民がプランテーショソに従事
していた。しかし1991年,約1万人賃金労働者が失業し,発展途上の園芸作物産業に新たな雇用機会を求め
た。
6
198ア 1988198919901991 1992199319941995t996 」997 199819992000200120022003200420052006
一コーヒー tSSSI園芸作物 一■ト経済成長率(%)
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05
04
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02
01
00
8
図2 コーヒーおよび園芸作物の輸出額と経済成長率の推移
100万$
(出所)FAOSTAT(2012年6月25日閲覧), The Economist Intelligence
Unit:EIU[1987−2007],及びUnited Nations Statistics Division
(2012年7月19日閲覧)より著者作成。
農民層)を取り巻く構造に,「多国籍企業による直接的な収奪」という状況を付加している。
3.切り花産業の発展が誘引した諸問題
累積債務の増大と経済状態の更なる悪化に直面したケニアは,外貨獲得源である換金作物に偏重
し続け,特に1990年代以降,切り花生産の拡大を推し進めた18。しかし切り花栽培は,外貨獲得に
は貢献したが,換金作物依存による弊害(政府による富の収奪と政治的な混乱)を助長するととも
に,多国籍企業による直接的な富の収奪を可能にした。
a.切り花栽培の拡大と野党の分裂
ケニアの換金作物産業は,権威主義的な政治体制の維持と強固に結びついており,例えばコー
ヒー産業の発展は,初代大統領だったケニヤヅタ(キクユ人出身)の支持基盤であるセントラル州
のエリート層を繁栄させた。また紅茶産業は,2代目大統領モイ(カレソジン人出身)の支持基盤
であるリフトバレー州のエリート層を繁栄させるとともに,権威主義体制の強化を誘引していた。
そして,一党独裁体制から複数政党制への移行を余儀なくされた1990年代初頭,モイは反政権派
を瓦解させるために切り花産業を利用した。
切り花産業が発展した1990年代,ケこアでは複数政党制の導入に対する機運が高まっていた。
反政権派が複数政党制の導入を求めた背景には,モイ政権による権威主義体制(大統領権限の強化
にみられる独裁的政治体制)があげられる19。特にルオ人とキクユ人の政治的エリート層は,モイ
18構造調整政策がケニアに及ぼした影響については佐々木[2012]を参照。
19大統領の専権事項として,主に①閣僚や上級官僚・裁判官の任免,②国会の開会・閉会,③地方自治の機能
が大統領府直轄とされていたことがあげられる(津田[2007b], pp.43−44)。またモイ政権に加えて,反政
権派が政治的権力を獲得しようとしたことも,複数政党制導入が求められた要因となっている。
7
表2 ケニアの大統領選挙の結果(1992年)
立候補妻 獲得票数 得票率
モイ(KANU) 1,964,421 36.4
マティバ(FORD−Asili) 1,412,476 26.2
キ1ノ弍ギ (DP) 1,028,152 19.1
オディンガ(FORD−Kenya) 946,572 17.6
その億(儘補{者4名) 37,830 0.7
計 5,389,451 100.0
(出所)The Economic Intelligence Unit:EIU[1987−2007]
より著者作成。
表3 ケニアの総選挙のおける州別獲得議席数(1992年)
計
100
31
31
23
1
3
(出所)The Economic Intelligence Unit:EIU[1987−2007]より著者作成。
4
92
52
02
01
08
42
32
ナイロビ特別区
14
懸璽懲
11
ノースイースタン州
4
m7一6
コースト州
ウエスタン州
11
セントラル州
繭難灘 聾
2
9 1
1 01
ニャソザ州
鞠癬獲
2
1
2 012311
リフトバレー州
イースタソ州
w躍・’.
だ
3
90
臼 177σ081
蕪蕪
灘
188
政権による権力集中および一党独裁体制の強化を非難するとともに,民主主義回復フォーラム
(Forum for the Restoration of Democracy:FORD)を結成し,複数政党制の導入を要求した。さら
にモイ政権は,国際社会からも政治体制の民主化(複数政党制)の実施を迫られていた。
このためモイ政権は,1991年12月に(名目上)複数政党制の導入を決定したが,1992年に実施
された大統領選挙ではモイが36.4%の得票率で勝利し,総選挙でもKANUが188議席中100議席を
獲得した。そのため,モイおよびカレンジン人エリートが率いる与党ケニア・アフリカ国民同盟
(Kenya Africa National Union:KANU)は,複数政党制導入後も,独裁的な政治体制を保持した
(表1および表2を参照)。
野党勢力が総選挙および大統領選挙で勝利できなかった政治的要因として,野党の分裂があげら
れる。総選挙が実施された1992年,複数政党制導入を主張していたFORDは,ルオ人を中心とす
る民主主義回復フォーラム・ケニア(FORD−Kenya)と,キクユ人を中心とする民主主義回復フ
ォーラム・アシリ(FoRD−Asili)に分裂した(図3を参照)20。キクユ人とルオ人が分裂した背景
には,モイ政権による弾圧や選挙制度の改正,野党内で統一の候補者を擁立できなかったことな
ど,政治的対立が指摘されている21。ただし,経済的要因(切り花産業の発展)もまた,キクユ人
一8一
図3 ケニアの政党再編の変遷(1990∼2000年代)
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(出所) 津田[2007a]。
とルオ人の分裂を後押しした。
キクユ人(ケニア最大の勢力)とルオ人(ケニア第二の勢力)の共闘は脅威だったため,モイ政
権は,IMF・世界銀行に強要された「規制の緩和・撤廃」を野党の分裂に利用し,キクユ人一ルオ
人の協調関係の崩壊を図った22。具体的には,切り花の生産や流通に対する政府介入を排して,
「キクユ人エリート層のみが換金作物による利益を直接享受できるような状況」をつくり出したこ
とである。
切り花生産の盛んなセソトラル州やナイロビ周辺はキクユ人が大勢住む地域であったが,コー
ヒー生産の場合,マーケティング・ボード(政府)が生産・流通に規制を課していたため,モイ政
権下において,キクユ人生産者(エリート層)は利益を直接得ることができなかった。またルオ人
エリート層も,栽培する砂糖などの換金作物がマーケティング・ボードによって管理されていたた
め,生産・流通における介入(政府による利ざやの収奪)が不可避であった。
しかし,切り花栽培には政府の市場介入が実施されなかったため,キクユ人エリート層は莫大な
20FORD−Kenyaでは,オギンガ・オディンガ(Jaramogi Oginga Odinga)が,またFORD−Ailiはケネス・マ
ティバ(Kenneth Matiba)が政党の代表となった。他方,与党KANUも,ムワイ・キバキ(Mwai Kibaki)
を筆頭に,モイ政権に批判的なキクユ人議員らが政党から離脱し,民主党(Democratic Party:DP)を設立
した。
21論旨が不明瞭となるため,政治的要因に関する詳細な分析は控える。ただし,選挙制度の改正に言及する
と,モイ政権は当選の条件として「最低5州で,25%以上の得票を義務づける条項」(5州25%ルール)と
いう制度を新たに設けていた。ケニア人有権者の投票行動は「自身の民族や利害関係者(候補者)に投票す
る」という傾向が強かったため,最大多数だったキクユ人の票は,DPとFORD−Asiliに分裂してしまった
(津田[2000]および[2001]を参照)。
22高橋[2011],pp.184−199。
9
利潤を獲得することが可能になった。だがルオ人エリート層は,マーケティング・ボードによる市
場介入(生産・流通・市場価格の規制等)が継続されていたため,換金作物によって創出された富
の全てを得られなかった23。ケニアの農業資源(換金作物)に伴う利潤獲得に差異が生じたことで,
キクユ人エリート層は莫大な富を獲得するとともに,ルオ人エリート層に対して資金面で優位に立
った。だがルオ人は,換金作物によってもキクユ人ほどの利益を得られなかったことで,勢力(富)
を拡大させたキクユ人に対して不信感を抱くようになった。切り花産業の発展によって生じた「キ
クユ人一ルオ人間の不調和」は,モイ政権が直面していた「野党勢力の分断」という課題を解決さ
せたが,それはケニアの政治構造を混乱させる一因ともなった。さらに,国際社会から経済自由化
(切り花産業の民営化)が強要されたため,貧困の農民層は多国籍企業の参入に伴う問題に直面し
た。
b.オランダの切り花産業参入
世界全体の切り花貿易は1980年代より急速に拡大しており,1990年代に入ると1000億ドル規模
にまで達している。特に,世界有数の切り花輸出国であるオラソダ(輸出額は20億ドル以上)は,
国際的な需要拡大を受け,切り花の増産を進めていた。ただし,オラソダ国内での生産は費用が割
高となることや国土が余り大きくなかったことから,ケニアなど他の地域に生産拠点を求めてい
た。このとき,オランダ資本がケニア市場へ容易に参入できた背景には,IMF・世界銀行による
SAPの影響,特に「市場自由化の強要」があげられる。
IMF・世界銀行がケニア政府に規制の緩和・撤廃を強要するまで,ケニア政府は園芸作物産業
に対して様々な規制を課していた。切り花産業への規制には,苗木の購入や作付けに関する認可,
輸出ライセンスの発行,市場取引への介入等があげられる。しかしIMF・世界銀行が,経済状態
の悪化を改善するという名目のもと,経済の自由化や規制の緩和・撤廃を強要したため,1986
年,ケニア政府は,換金作物産業のなかでも特に未成熟であった園芸作物産業に対する規制介入を
撤廃した24。これらの規制緩和・撤廃を背景に,オランダ資本をはじめとする欧州の多国籍企業が
ケニアの切り花産業へ本格的に参入するようになった。
またオランダが切り花生産地としてケニアを選んだ要因には,①四季や気候の影響が少ないこと
(特にケニア中央部の気候は雨期・乾季のみで安定していたこと),②生産地域の標高が高いため,
害虫被害が少ないこと,③KLMオランダ航空の運航によって,航空輸送が容易になったこと,④
ケニア人農民を安価で雇用できたことがあげられる25。さらに,生産費用が高額だったためにケニ
23モイ政権は,マーケティング・ボードが農民の収入を保証するための制度であると主張した(Republic of
Kenya[1983], pp.177−181)。しかしマーケティソグ・ボードは,政府が農民から超過利潤を強制的に収奪
するための制度でもあった(Lofchie[1989], pp.61−62)。また,農民が農産物売買の代金を受け取るまで
の期間は,数か月∼1年以上を擁することが度々生じた。
241MF・世界銀行による経済自由化への誘導に関しては坂元[2006]および[2008]を参照。
一10一
ア人主体の切り花生産が進展しにくかったことも,オランダ資本による寡占状態が形成された要因
となっている。
さらに,切り花農園を経営するためには多額の初期投資が必要だったが,ケニア人農民の平均月
収は30∼40ドル程度しかなく,参入できる農民はごく一部の富裕層に限られていた26。しかしオラ
ソダ企業は,切り花栽培に必要な灌概設備の設置や化学肥料・農薬の投入,新種の苗木の購入や繁
殖といった生産設備の投資に加えて,生産された切り花を保管するための冷蔵設備を設置するため
の初期費用を容易に捻出できた。また温度管理の備わった輸送路の確保に関しては,オラソダの航
空会社KLMがケニア航空を買収したことで解決しており,さらに販売面に関しても,テスコ
(Tesco)やマークス・アンド・スペンサー(Marks&Spencer)など,欧州系スーパーマーケッ
トへの販売網が確保されるなど,オラソダ資本による生産・流通基盤の構築(切り花産業の支配)
が進められた27。
国際社会による規制撤廃の圧力や,外資による切り花生産への参入拡大に伴い,ケニア人が経営
する多くの切り花企業が多国籍企業の傘下の子会社となった。切り花生産会社で組織されたケニア
切り花協会(Kenya Flower Council)には約40社のバラ生産会社が加盟しているが,その約半数
がオランダ資本やイギリス資本の系列企業である。多国籍企業傘下の切り花会社には,例えばオラ
ンダ資本のオセリアン社(Oserian Ltd.)やマリダディ社(Maridadi flowers Ltd.),イギリス企業
の子会社であるデ・イブ・ローズ社(Dave Roses Ltd.)やフィソレイズ社(Finlays Horticulture
Ltd.)がある28。またケニア資本の切り花農園も存在するが,その大部分はキクユ人のエリート層
が経営している。
豊富な資金力を持つオラソダ企業は,ケニア資本の農園を安価で買収し,さらには生産設備や流
通網に対する様々な投資を行うことで,ケニアの切り花産業を掌握した。市場価格の下落によって
コーヒー栽培からの撤退を余儀なくされた小農の中には,資金不足から自身の農地で切り花栽培を
行うことができず,所有地を大土地所有者に売却する者も現れた29。それらの小農は,最低限の生
活費(食費)を確保するため,新たな雇用(賃金労働)を求めて切り花のプラソテーショソ農園や
都市部へ流出していった。もっとも,切り花産業によって創出された雇用は5万人以上,また関
連産業では7万人以上とされるが,農…業部門に従事する賃金労働者は約200万人であり,賃金労働
25新川・関[2006],pp.28−29。またジョージ(George, S)が「アグリビジネスが第三世界に進出する要因は,
安い労働力や高い利益率だけではない。企業活動を第三世界に移すことによって企業が支払う税金の総額は
実質的に安くなる」(George[1977], pp.149−150)と指摘するように,生産・輸出に関する制度上の利点
も,多国籍企業が容易に参入できた要因である。
261haの土地に簡易のビニールハウスと諸設備を設ける場合,最低でも約11万ドルのi費用が必要であった(福
井 [2009], pp.52−53)0
27岩井[2002],pp.92−93。
28欧州系の多国籍企業以外にも,アメリカに本社を置くバーバリー社(Beverly Flowers Ltdi)やインドおよ
び中東系の企業がケニアに進出し,切り花や果物などの園芸作物を生産・輸出している。
29ただし小農の中には,土地を売却せず,トウモロコシなどへの転作やコーヒー栽培を継続する者もいた。
11一
図4 コーヒーおよび切り花生産の超過利潤と諸税の流れ
(出所)著老作成。
者を含めた全ての農民数は1000万人以上(労働人口の7割以上)となっていることから,切り花
産業によって創出された雇用はごく僅かでしかなかった30。しかも,賃金労働者によって創出され
た富(超過利潤)の大部分は,プランテーションの経営者(オラソダ資本)が獲得しており,労働
者には僅かな賃金しか支払われなかった31。
「多国籍企業が貧しい農民の創出した富を収奪する」という構造は,政府が実施したマーケティ
ング・ボード制度と類似する32。ヤーギンとスタニスロー(Yergin and Stanislaw)が「外資系多
国籍企業がこれらの産品の『超過利潤(レント)』をすべて独占するのか,国有企業が介入するの
か,選択の余地はふたつにひとつしかないように思えた。(中略)もっとも被害を被ったのは一般
市民である33」と指摘しているように,ケニア人農民には「政府か,もしくは多国籍企業による富
の収奪」という選択肢しか与えられなかった(図4を参照)。
「経済の自由化」および「換金作物産業の発展」は,確かに経済成長率の上昇や農産物輸出の増
加をもたらしたが,他方で,「農民から更なる富を収奪するための仕組み」を強化した。切り花プ
ランテーショソの経営者(多国籍企業および先進諸国)が,ケニアを「安価な労働力と土地・生産
設備の確保が容易な国」としてしか捉えていないことから,切り花産業の発展は,ケニア(特に貧
30ケニアの切り花産業に従事する労働者についてはExport Processing Zones Authority(Kenya)[2005]を参
照。
31ケニア人農民一人当たりの平均所得(年額)は,1979年時点で552ドルであったが,1989年には521ドルに
まで減少していた。また,切り花プランテーションに従事する労働者の平均賃金は,コーヒー農園における
賃金と同程度(1日1∼3ドルほど)であり,決して高給ではなかった。
32多国籍企業が生産・流通を実質的に管理している様相は,政府の農産物市場への介入と同質のものであり,
IMF・世界銀行等による「市場介入(生産・流通の管理)」への批判は,他方で,「多国籍企業による管理
(介入)」を創出した構造調整そのものに対する批判にもつながり得る。農業部門への政府介入にっいての詳
細は児玉谷[1985]を参照。
33Yergin and Stanislaw[1998], pp.88−91。
一12一
しいケニア人農民)にとって,政治的混乱と貧困の蔓延に帰結するしかない。
4. おわりに
多額の対外債務を抱えたケニアは,換金作物への依存を更に強めたが,ケニア経済を牽引した
コーヒー産業が停滞したため,コーヒー産業の代替として,切り花を中心とする園芸作物の生産拡
大を進めた。またケニアの切り花産業は,オランダ資本の参入によって急速に発展するとともに,
コーヒー産業の停滞に伴う経済への悪影響を緩和させた。しかし切り花産業の実態は,ケニア国内
に「政治的な混乱」と「農民の貧困状態の悪化」をもたらすものでもあった。
1990年代初頭,キクユ人やルオ人を中心とする野党の各勢力は複数政党制の導入を目指して協
調していた。だがモイ政権は,キクユとルオを分裂させるため,発展しつつあった切り花産業を利
用して,キクユ人エリート層だけが富を獲得できるような状況をつくり出した。野党は,「モイ政
権による選挙制度改正」という政治的要因に加えて,「切り花産業の発展によって生じた,キクユ
人・ルオ人間の富の格差」という経済的要因が生じたため,勢力が分散し,1992年の総選挙で敗
北した。
さらに多国籍企業の本格的な参入は,ケニアの切り花生産の拡大に貢献したが,他方で,ケニア
人農民が貧困から脱却できない状態を創出した。切り花産業に従事する農民は日当1∼3ドル程度
で雇用されているが,切り花農園を経営する多国籍企業やケニア人のエリート層は多額の利益を得
ている。これまでの作物においては,政府(エリート層)が「農民が創出した富」を収奪していた
が,切り花に関しては,エリート層による収奪に加えて,多国籍企業による収奪が行われるように
なった。
切り花は,経済の自由化政策を契機としてケニア最大の輸出作物にまで成長したが,他方で,ケ
ニア人農民の貧困状態を継続させ,さらには野党内部の分裂とモイ政権の独裁体制の維持に貢献し
た作物でもあった。IMF・世界銀行による構造調整政策および経済自由化の強要は,換金作物に
対する過度の依存や政治経済の混乱,さらには大勢の農民の貧困状態の悪化を誘引していることか
ら,ケニアを「先進諸国にとって都合の良い農業国(先進諸国が消費する農産物を生産するための
国)」に変容させるうえで,最適な手段であったと言える。そして切り花は,独立後のケニアを
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