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迷妄の愛から覚醒の愛へ

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迷妄の愛から覚醒の愛へ
Hosei University Repository
67
迷妄の愛から覚醒の愛へ
-TheMceandtheGood論一
..…・Everymanshiftlbra]]therestpandletnomantakecarelbrhimself(T7ie71gmpestより)
山本長
はじめに
統的スタイルのアナクロニズムにも拘らず、この
IrisMurdochの11作目の小説IY1ejMibeandthe
小説はFrankBaldanzaも注目したilopenness1l3と
Goodlは、ShakespeareのAMkLsummerMghtls
Dr巴a、現代版とも言える、LondonとDorsetの海
一つである。例えば、ASevBImHbadのような
浜を舞台にした一夏の愛をめぐっての騒動と収束
''closedl1な作品と違って、本来の哲学者然とした
自称するMurdoch特有の自由度を有した作品の
を描いている。何組かの男女の織りなすドラマの
Murdochではなくて、’1moreaccidentalandsepaP
幕はWhitehaUのオフィスでの役人の死で切って落
とされる。meBelI(1958)、TheUhjmm(1963)、
rateandfi・eecharactersl14をもった反「クリスタリ
mheIiajianGirゾ(1964)、TheTYmeoftbeAngCjs
現われた作品に仕上がっている。そもそもクリス
ン」な小説の作家としてのMurdoChの-面がよく
(1966)など彼女の多くの作品で繰返される男女
タリンな人間存在などありえず、人間そのものが
の離合集散のモチーフはここでも健在である。
不透明な存在であるからである。
ストーリーは例によってかなり錯綜していて、登
本稿では、こういった'1open11な小説中の主要な
場人物も多数である。その上、主人公と言えそう
テーマであるく愛〉と、それをめぐる多様な作中
な人物同士の関係も複雑で、作者は意識して特定
人物たちの綴れ織の中に立系と横系を見出しなが
の主人公への中央集権化を阻止しているようであ
ら、この〈愛〉がどのように弁証法的運動を展開
る。彼女一流の性格描写は多層的なポリフォニー
していくのかを論じたい。
のそれであって、広角レンズ付リアリズムに徹し
ながらも、散漫にもならず、細部にいたるまで注
意が行き届いている。多くのすぐれたストーリー・
1
戯曲『出口なし」(HUiSQOs)で「地獄とは他
テラーの手法に似てこの小説もまた、すぐれて帰
者のことだ」とサルトルが言っているのに対し、
納的かつゲシュタルト的なものになっている。先
Murdochは彼の自己中心性を批判したが5、サル
に上げた諸作品に比較して、ゴシック的背景やデ
トルにとっては嘔吐をもよおさせるような、むき出
モニックな登場人物は中和され、より洗練された
しの偶有的他者こそMurdochの関心の対象となっ
英国人中流階級が好みそうな作品になっている。
ている。他者への絶えざるラヴコールを旨とする
GE1iotのMYddIemaI1chなどに見られる田園小説
Murdochは、この小説において種々のペアリング
的要素(すなわちTrescombeHouseを中心とし
を紡いでは解き、また紡ぐという手法をとってい
たDorset地方)とV、WoolfのMilaDaIIowayの
る。その中にミステリアスな事件を絡ませて、高
Londonに見られるアーバンな要素を交叉させた欲
級な推理小説、風俗喜劇(comedyofmanners)
張りな構成となっているのも「ブルジョワ公共圏」
仕立てとなっている。
に歓迎されるゆえんではないかと思われる2.この
小説は始まりが肝要であるとするならば、この
ことは迷妄の都会と覚醒の地方というヴィクトリ
作品では政府役人のJosephRadeechyがWhitehall
ア朝の小説を坊佛させる伝統的な作家群の嫡子と
してのMurdochが、そのマジック・サークル内に
変わらずうまい手法である。WhitehaUはLondon
留まっているとも言えよう。こういった言わば伝
中心部の官庁であり、UhderthelVet(1954)、
の自室でピストル自殺したことから始まるのも相
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BmnoIsD1℃a、(1969)、AWbmCMd(1975)、
ォーカス的手法をもつ三人称小説であって、Mul迄
利己的な愛のJohnと、「一貫した目的を欠いた道
徳観」をもつ一途なJessicaは、「本当にお互いを
なんとか理解しようとする努力を全くしなかった」
(p,85)のである。Kateとの自由な恋愛に傾斜し
てゆくDucaneは、Jessicaの熱狂ぶりに息苦しさ
を覚え、追いつめられてゆく。作者は労働者階級
出のJessicaと中上流階級出のDucaneの出自の差
異による恋愛観の温度差を埋め難いものとして提
dochの作中人物における平等主義と分散主義が
示している。また、Ducaneは運転手として雇っ
徹底されている。
ているFiveyにもホモセクシャルな興味をいだいて
いる。そしてOctavianはDucaneのことを「良識
豊かな人間で、本当に慎み深い人間」と言い、
TYjeGr泡en1mght(1993)、最新作の.ノacksonb
Dilemma(1995)などの諸作品に活写されている
この大都市のジオグラフィーは、リアリスト作家
としてのMurdochの面目躍如というところである。
ただし、MisDalIowz1yの一人称的視点からでは
なく、多数の作中人物の視点を通しての、パンフ
役所の局長OctavianGrayから、その法律顧問
の友人JohnDucaneがこの事件の調査を頼まれる。
自殺か他殺かという点や、役所内でのスキャンダ
ルが外部へ漏洩しないかなど複雑な様相を帯びた
事件である。彼はRadeeChyがこの役所の秘密の
地下室へ裸女を連れ込み、いけにえ用の殺した鳩
などの道具立てで黒ミサをしていたことを、役所
の下級役人PeterMcGrathという小悪党から聞き
出し、追及する。「トロイのヘレン」という謎の女
こそMcGrathの妻であり、Radeechyとも関係を
もっていたのである。さらに彼女はMcGrathの家
を訪ねたDucaneを誘惑し、彼の家に侵入して裸
で迫ってくるが、彼女はRadeechyだけでなく、こ
の事件の第一発見者でGrayの部下Richard
Ducane自身も子どものときからはっきりと自分は
善良な人間になるんだという目的をもっていたの
である。彼はこの段階ではまだ利己的な愛に捕ら
われがちな'1themce11に留まっていることが分かる。
自由な洗練された愛とは一体どのような愛を言う
のか。サルトルが「存在と無」で、自由は意識の
「自己超出」という契機に求められているが、果
たして意識の絶対的自己超出などあり得るのだろ
うか。これに通底すると思われるヘーゲルの自己
意識の自由とは、人間がどうしても独立した自我
でありたいという欲望であり、それは人間のあり
もしない全体像への幻想にすぎないのではないか
Biranneとも関係をもっていたことが分かる。43
と思われる。コギト的な愛はlithenicel1としては成
歳のDucaneは、28歳の小学校教師JessicaBird
立し得るが、’1thegoodlIに至るまでの此岸に留ま
を愛人にしていたが、別れ話を持ち出している。
彼はさらに友人のGrayの妻Kateとは友情以上の
自由な恋愛関係めいた仲で、この小説の題名の
Ilthenice11にあたる。また彼は自尊心の強いカルヴ
ィン主義的スコットランド人で、ローマ法の研究
をしているインテリである。このように法に携わる
法廷弁護士としての自分と、Jessicaとの恋愛関係
でのあいまいな態度の自分との間でディレンマに
陥っている。別れ話を持ち出したDucaneにJessi
caは言う。
IIYouaren1tthinkingofme,Johnlknowit・
YOu1rethinkingofyourselfⅡ(p、82)
すると、彼は答えて言う。
'1We1regottosimplifythings、Onehasgotto
simplibonelsnfe・'1(p、82)
っているだけであると作者は言いたいのであろう。
Murdochはこのような価値の審級をこの小説の題
名に掲げているのである。BrendanHemessyが
次のように述べているのも妥当と言えよう。
ThethemeistheselfsearchingofDucane・
TheenqUiryfbrceshimtomakemoraljudge
mentsSincehefeelsthisispresumpmousinfactthisfeelingdrewhimawayfiPoma
careerthatwouldhavemadehimajudgeheinvestigateshimselftoascertainhowwo形
thyheistomakejudgementsonothers.‘
また、普通の健全な精神をそなえて人生は楽し
いと思っているプチブル的なOctavianとKateと
DucaneはそれぞれI1thenice1lというグループの一
員である。
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2
0ctavianとKateGrayの別荘であるTrescombe
Houseについて、ここは!'thenice1Iたちにとり次の
ようなところである。「ドーセットではあらゆるも
のが丸味を帯びている。ドーセットではすべての
ものがちょうど頃合いの大きさをしている。この
思いはDucaneには言い知れぬ満足感を与えてい
る。」(p47)。この邸にはGray夫妻と娘Barbara
の他に、PaulaBiranneとその双生児のEdwardと
Henrietta、Octayianの兄のmeodore、Ducaneが
Londonから連れてきた食客の学者WmyKost、
Kateの学友で寡婦MalyC10thierとその年頃の息
子Pierceが住み、ここは一種のコミューンとなっ
ている。
この人たちの中で、ギリシアのPmpertiusの研
究をしている古典学者のWillyは、大戦中のダッ
ハウの強制収容所での過酷な体験によるトラウマ
を負いながらここの別棟に食客となって隠遁生活
を送っている。夫を事故で失ったMaryは、思春
期の息子Pierceとこの屋敷に身を寄せながらここ
の住人たちの世話を焼いていて、wmyに愛情を寄
せ、「精神と同様生血でもって人を愛することが何
よりも一番重要なことだ」と十分に理解している。
DucaneはMaryにWillyと結婚すべきだとすすめ
る。Maryは、夫婦げんかのあと表に飛び出した夫
のAlistairが目の前で単にひかれて死んだことの後
悔にかられ、wuly同様過去の悲しい体験から立
ち直れないでいる。wiuyは彼女の愛を知りながら
も、幼い頃に黒海のほとりの公園で知り合った少
女とその犬のこと、好意からその犬にポールを与
えると、そのボールを喉につまらせて犬が死んだ
こと、その少女との別れなどを彼女に話す。同情
したMaryは結婚しようと言うが、「インポテンツ
なんだ」とWilMま答える。そしてDucaneに対し
てこう言う。
IHappiness,lsaidWUly,IisamatterofoneIs
mostordinaryeverydaymodeofconscious‐
nessbemgbusyanduvelyandunconcerned
withselfTobedamnedisfOroneIsordinary
everydaymodeofconsciousnesstobe
unremittingagomzmgpreoccupationwith
selfKp、187)
この二人について作者はDucaneの目を通してl1two
goodpeople1l(p,193)と言っているが、作者は上
の引用のように決して主人公とは言えない作中人
物に重要な言及をしばしさせることが多い。この
引用では、幸福は西洋個人主義道徳の彼方、善悪
の彼岸にこそあり得ると言うのである。「呪われて
いること」こそ自由ということに捕らわれて間断
なく苦悶することであると言っている。愛他主義
について言えば、Ducaneは、Jessicaとの情事で
不透明な局面に埋没しているのに「自分自身を、
他人を助けることが、生まれつきの行いになって
いるという強いうぬぼれをもち、清く生きている
かなりきびしい人物として描くことに慣れていた」
(pl87)ことからして、無私の行為にはまだ達し
ていない。このことは、人間の幸福と道徳(正し
い行為)は一致すべしというソクラテスープラト
ン流のドグマであると判断ができる。しかし「善
いこと」の本来のシニフィエは利他的行為ではな
く、むしろ利己的行為であろう。つまり、
自分自身にとって快いもの、美しいもの、豊かな
ものを創り出すような行為・能力から来ているの
CD●●●●。●
であろう。Ducaneは、WillyやPaUla、Jessicaを
助けようとしても、すでにニーチェ流の「力」を
自分の現在の混乱のため失っていることを自覚し
ていて、「もう力がなくなったということなのだ。
Wmyに手を差し出すだけの力もないんだ」(p、188)
と艇められた自己評価をしている。彼は信仰を捨
ててはいるが、「ピューリタン的な内気さと自制
心」があり、そこがJessicaには「身震いするほど
の恋情を起こさせるのである。竹田青嗣が「エロ
スの世界像」7で次のような趣旨の発言をしている。
ニーチェの「道徳の系譜」にあるように、本来の
「gut(よい)-schlecht(わるい)」という力の価
値から「gut(善い)-b6se(悪い)」という倫
理的な価値へ移し替えられて、「善い」は、本来
の利己的な快いもの、美的なもの、豊かなものと
いうエロス的な「よい」と対立するものへと押し
込められ、否定されるべきものとなってしまった
のは、キリスト教の道徳や近代哲学における客観
認識への信仰が元凶であるとニーチェは言いたい
のであろう。ディオニュソス的原理を是とする彼
は、プラトニズムが、善と美を強調しすぎる点と、
キリスト教による善と美との乖離・対立に関して、
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道徳はエロスを抑圧してきたと批判している。彼
ら彼女を突き落として殺したRadeechyを脅迫し
の力の思想は、すぐれて美的なもの、エロス的な
ていた。さらに小悪党のPeterMcGrathは、その
ものの思想だと竹田は述べている。Ducaneはその
BiranneとRadeechyだけでなくDucaneをも、「ト
ピューリタン的出自により、精神的に健全な者と
ロイのヘレン」(つまりMcGrathの妻Judy)の美
そうでない者とを分け隔てる恐ろしい深淵がある
人局の役で恐喝していた。McGrathが小型カメラ
と感じている。彼の言う「精神的」とは、エロス
を使用していたのは、耐eHightjiromtbe
的含意のない近代合理主義、キリスト教的倫理主
EnchantBr(1956)でLusiewicz兄弟とRosaを隠
義の延長線上にあるもので、悪しきディコトミー
し撮りしていたCalvmBlickと似ていて、Murdoch
に引き裂かれた迷いの中で、彼は苦悶するのであ
風リアリズムの小道具として効果がある。
る。
Radeechy、Claudia、Biranneの三角関係、
それでもDucaneは、GraV夫妻の娘Barbaraや
Wmyに力を貸せないでいるが、一方Malyに息子
Radeechy、Judy、Bilanne、McGrath、Ducane
の多角的な関係は、Murdoch特有の情痴的カテ
のPierceのことで頼りにされてもいて、彼女には
キズムの証左である。Murdochは、あるインタビ
Paulaが何かに怯えている(たった一回の性交渉
ューで、Dickensのように登場人物の多い「開い
をもった相手の陶工EIicがオーストラリアから船
た」構想の小説を書きたいと言っていることか
でイギリスに向かい、再会したいと手紙を寄越し
ている)と思われるので相談に乗ってほしいと頼
ら8、この小説もIlopemessl1をもった好例である。
また、Biranneは、McGrajhの上司でRadeechy
まれもするほど信頼がある。「君はわれわれみんな
の部下であり、Paulaと離婚しているが、Ducane
の慨悔を聞く僧だから」とwiuyにも言われてい
の事件調査に次第に介入してゆく。第一発見者の
る。
彼こそRadeechyの死の真相を知っている人物で
wulyに対しもう一人の隠遁した影のような人物
TheodoreもWUly同様重要な発言をしていること
あるので、Ducaneは彼への好奇心がつのり、追求
に注目したい。
のBiranneとRadeeChyとも関係をもっていたJudy
IlAllisvanity,Willy,andmarlwalksinavain
shadow.…Weknowitonlyasillusion.Ⅱ
(p、283)
してゆくと、真相を次第にもらすようになる。そ
は、Ducaneが帰宅すると寝室で裸体のまま待っ
ていて誘惑しようとする。惑わしのシレンならぬ
「ヘレン」は彼に「力」を貸してほしいと言う。
罪意識に苛まれている。Murdoch好みのオリエン
ilOnlyyoucanreallysaveme,Mr・Honey.・・・
youIresodifferentandgoodiI(p、258).かように
Ducaneは、i1goodl1な人と言われても、二人の女
性と火遊びをしてJudyのような悲惨な女性に哀れ
タリズムがこの小説にも散見できる。この「影」
みをかけてやることもできずに自分は完全に「白
というクリシェはやがてこの作品のクライマックス
く塗りたる墓」なのだと思う。プラトンの「饗宴」
に関係する伏線となる。
のディオティマという賢女からの話によると、善
また、「われわれは影だ」とも言っていて、インド
の寺院での修業僧の青年を死なせた過去の事件の
人間のもつ大きな、あるいは小さな悪を、Mu,匙
の美しさは高貴な行為を生み出す役割を果すので
dochはこれまでの作品群で例証してみせてきた。
あるからして、DucaneはJudyたちについては
Theo(dore)という名がgodの意味であるのも暗
示的であるが、n1eoのインドでの悪、Willyのダ
'1good'1なる者にはまだなっていないと言える。彼
ッハウの収容所での裏切りによる悪、それにこの
サの行われていたWhitehallの地下室にもぐり込ん
小説での冒頭でのRadeechyの死によって次第に
だときに感じとる。自分の外部にも、自分の内部
は大きな悪、小さな悪を、McGrathの案内で黒ミ
解明されてくるilacertaindrea1inessofevi''1など
にも人を破滅させる力のある悪が存在する。
がそうである。
Radeechyはその悪魔や神を弄んでいたのだと分か
RichardBiranneは、上司Radeechyの妻Clau‐
diaと情事をもっていた上に、Claudiaへの嫉妬か
ってくる。Ducaneの現実への覚醒の始まりであ
る。
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Malyの息子PierceとGray夫妻の娘Barbaraは
意していた。旺盛な想像力の持主の彼女は、「こ
二人とも思春期にあって、Pierceはこの時期にあ
の洞窟の中で罠にかかったり、溺れたりする恐ろ
りがちな特有な敏感さで、「ここでは何か起こりつ
しい場面を想像していた」(P,61)。この洞窟は
つある。何か暴力的で、恐ろしい事が」(p,275)
「子どもたちの神話の中ではもっとも重要な位置を
と言い、この小説のストーリー上の伏線になって
占めていた」(p61)。思春期から大人の世界への
いる。MuldoChは少年・少女(ここでは他にも双
入口にさしかかったPierceは、このタブーを犯す
生児EdwaldとHenriettaも)や動物(犬のMingo
年頃になっていた。Barbaraが遠ざかりつつあると
や猫のMomose)の描き方が実にうまい作家であ
恥辱と絶望に陥った彼は、恐ろしくもあったが、
る。例えば近作のTheG1℃enjmjght(Chatto&
Windus,1993)でもMoy、Harvey、SeftonAleph
にその中で過してみたいという強い欲求に捕らえ
この聖なる洞窟へ泳いで入り込み、潮の干満の間
や、迷い犬のAnaxなどその子孫たちである。T7ie
られる。ここでのシーンは、DucaneがWhitehall
lVYceandtheGoodでは、PierceはBa「bamへの愛
の暗黒の地下室へ侵入することとアナロジーをな
がなかなか伝わらず苛立ち傷付きやすくなってい
している。トム・ゾーヤーが洞窟を探検してみた
る。この小説は、Ducaneを中心とした大人たち
くなるように、子どもにはそこが〈恐怖〉とく誘
と、二人の少年少女の教養小説(ビルドウングス
惑〉の門であり、大人になるイニシエイションの
ロマン)という-面も有している。成熟したエロ
場であるのだろう。「アリババと40人の盗賊」で、
スと、ダフニスとクロエ的エロスのパラレルはこの
頭目の命令で盗賊たちが小さな壷にもぐり込むよ
小説に厚味を与えているとも言えよう。その他に、
うに、これは胎児が母親の腹の中にいるのと同じ
EdwardとHenriettaが空飛ぶ円盤をしばしば目撃
姿勢であり、事実、Pierceを探して洞窟内にあと
しているのも、子どもは幻視する能力を有する存
から泳ぎ入ったDucaneとPierceは同じ一枚の衣
在であるからであろうか。
服の中に縮こまって身を寄せ合うという窮屈な姿
勢で暖をとるのも、胎内回帰という無意識的な欲
3
望からであろう。洞窟が子宮であるとする解釈は
KateはDucaneたちにI1YOuareallmydea1宅hil‐
陳腐ではあるが、「ヨナコンプレックス」とガスト
dren.Ⅱと言ってI'thenice1'の中心的なひとりである
ン・バシュラールが称している旧約聖書のヨナが
が、Octavianとの二週間のタンジール旅行から帰
怪魚に呑み込まれた腹も子宮願望のヴァリアント
宅してみると、TrescombeHouseでは何かが変化
である。ユングも「子宮の羊膜の内側を満たす水」
していることを感じとる。Piemeと同様に孤独な
こそ人類の`憧れる究極の故郷であると言っている。
Paulaは、夫に片足を切断するほど傷め付けられ
羊水への回帰、その水をたたえる子宮への郷愁、
た不倫相手のEricから行先のオーストラリアより
ふつうは成人になるにつれてその郷愁はいや増し
帰国する旨の手紙を再びもらい、ぞっとするよう
てくる。そして生暖かく、快く、やわらかで、心
な恐ろしい何かが起こるという暴力の予感に怯え
を癒してくれる女性の性器に侵入する欲望を強め
続けていた。だが、衝動的なEricから、船上で富
る。男は一匹の魚となって、自ら生まれ、かつま
豪の娘と知り合って結婚することになったという
た生ませる故郷へとひたすら川を遡上する。この
追信を受け取る。彼女はDucaneに「君は再び太
小説の潤沢な海水のイメージ。GumarlsCaveは
陽の中に出られたんだ」と言われる。何かが起こ
満潮の時は溢れる体液をみなぎらせてオルガスム
るという予感は、34-36章の洞窟のシーンとなっ
に達しようとするヴァギナの隠嶮をもつ。今や
てクライマックスに達する。これらの章だけのため
Pierceを、そしてDucaneを呑み込もうとしている
に、あとの残りの章は付け加えられていったとし
のだ。Pierceは潮が満ちる前に引き返せなくなり、
か思えないほど濃密でドラマチックな数章である。
この試練は「死」で終わるかもしれないと思う。
MaryClothierはGunnarisCaveという干潮の時
この「死」は、彼には崇高な「愛」の対象であっ
だけ入口が開く洞窟について、すでに7章で子ど
た。エロスの果ての「死」、そして力の充実はすで
もたちに中に入って泳いではいけないと厳しく注
にして「死」を予想させるものとなっている。水
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から生まれて水に帰って死す、つまりはエロスと
開けた洞窟、虚無としてのヴァギナに恐怖しつつ
Ducaneは、死を前にして自分を卑小な「一匹の
ネズミ」として眺めた、。「自分自身のわずかな利
益と楽しみを探し出して、あくせく立ち回ってい
悦惚となり呑み込まれてゆくだけである。その際
去勢コンプレックスに捕らわれたかもしれない。洞
よく気のおけない楽しみを得るために、人によく
窟に閉じ込められ、出るに出られなくなったPierce
思われたいがために…」。死の現実に直面し、迷
は暗黒の中で様々な映像を思い浮かべる。
妄の世界内存在からの覚醒が始まることになる。
「人を裁くこと、人の上に立つこと、力をふるうこ
タナトスの弁証法である。void(空)としてロを
続いて入ってきたDucaneにもいろいろな映像が
浮かんでは消えてゆく。その前に目についた白い
ひな菊とその匂い。34,35,36章にひな菊が出て
る一匹のネズミとして気楽に暮らすために、心地
と、ただひたすら求めに求めることなど何の価値
もないことなのだ。愛し、和解し、許すことだけ
くるが、〈生>とく愛〉のシンボルなのであろう
が重要なのだ。すべての力は罪悪であり、すべて
か。プルーストの「オーキッド」(蘭の花)の描写
を連想させる。彼は激しい恐怖とともに野ウサギ
の法は脆弱である。愛が唯一の正義なのだ」と思
う。愛すなわち正義、正義とは「美」がそうであ
の穴をゆっくりと落ちていくアリスの姿や,、Maly
るように、本来人間のエロス的欲望の対象である
qothierや、RichardBiranneの顔を思い浮かべる。
彼は泳ぎ回った末にやっとPierceを見付けるが、
と竹田が指摘していることとu、軌を-にしてい
る。今までは法に携わる真面目な者としてDucane
もう引き戻すことはできずに、海水がどんどん沸
は、人を裁き、人の上に立ち、力をふるい、何か
き立ち突進してくる。「死」を悟った彼は次のよ
(幸福)を求めて、Iithenice1'としての途を進んで
うに思う。
Iwonderifthisistheend,thoughtDucane,
andifsowhatitwillallhaveamountedt0.
HowtawdryandsmallithasaUbeen、Hesaw
himselfnowasaUtUerat,abusylitUescurly
ingratseeldngoutitsownlittleadvantages
andcomibrts,ToliveeasUy,tohavecosy
familiarpleasures,tobeweUthoughtofHe
felthisbodysUffeningandhenesUedcloser
toMingoIsinvinciblewarmth・Hepatted
PierceIsshoulderandbulTowedhishand
beneathiLHethought,poor,poorMary,The
colouredimageswereretumingnowtohis
closedeyes,HesawthefaceofBirannenear
tohim,asmasUentElm,moⅥ、9,mouthing,
butunheardHethought,ifIevergetoutof
herelwnlbenoman'sjudge・Nothingis
worthdoingexcepttokillthelitUerat,notto
judge,nottobesupenor,nottoexercise
power,nottoseek,seek,seek、Toloveandto
reconcileandtofbrgive,orUythismatters、All
powerissinandalllawisfiPailty、Loveisthe
onlyjusticeForgiveness,reconcihation,not
law.(p、315)
きた。しかし、無意識にだが、出来ない人間、弱
い人間、ハンディキャップのある人間を抑圧して
しまうことになる。一方、弱い人間は無意識に強
さに憧れ、自らの弱さをさまざまなく物語>に転
化したり、ルサンチマンを生み落としたりすると、
竹田は岸田秀の唯幻論について解説している。し
かし、ソクラテスープラトンが、善きこと=美し
いこと、人の幸福=道徳(すなわち正しい行為)
という等式を樹立してしまったことに対してニー
チェの反乱を招いた。
人は死を前にしたとき、死という最大の不安の
乗り越えとしての連続性を渇望するがゆえ愛(エ
ロス)を欲望する。非連続の切断された個体とし
ての我は、サルトルの言う「地獄としての他者」
への愛(エロス)を介して、はるかなDNAの彼方
へと切断されたもう一つの他者へ求愛の眼差しを
向けようとする。眼差しに凝縮されたエロスは、
相手の身体を見ているのに拘らず、一つの思念で
ある以上〈幻想〉である。子宮としての洞窟と、
虚無という死を予想させる地獄に達する暗い地下
の洞窟をたどる誕生と死の弁証法は、他者への愛
を欲望することにより見事に結実する。Ducaneと
Pierceが、この愛の覚醒をこの洞窟で体験すると
いうことは一種の〈通過儀礼>であり、二人の成
長を物語ることになる。人が一度死して、洞窟や
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地下(WhitehaUの一室)の暗黒の中に下降し、
のドアの美しいペンキの色、ピカピカ光る車など
再び光の外界へと復活することは人格を向上させ、
日常気にも止めないものに、彼は喜びを見出す。
新しき人としての光合成を遂げさせるのである。
洞窟での体験のあと、彼は変身を遂げたのである。
ヨナは鯨の腹から三日後に脱するが、この二人は
干潮になったので、洞窟という子宮から脱する。
さらに洞窟のエピファニーは伝染してゆく。
こうしてDucaneはlithegoodi1としての活動を開
始する。ソクラテスが巫女のディオティマから聞
いたこととして、エロス(恋)は何故「美しいも
4
の」とかかわるのかというその理由は、「美」が
わが子を失おうとするMaryは、洞窟の外のポ
「善きもの」とつながっており、「美」と「善きも
ートの中で悲しみにくれながら、目前で事故死し
の」は「幸福」の根源であるとのことである。人
た夫への自責の念にかられ、溺死するであろう息
間の欲望は、およそ「幸福」を目指すが、恋愛の
子のことを考える。人は死者のことを愛すること
欲望だけが「幸福」の根源である「美」と「善き
ができるのだろうかと。
IIDeathhappens,lovehappens,andallhuman
Ufeiscompactofaccidentlchance.…n1ere
isonlyoneabsoluteimperative,theimpera‐
tivetolove,'1(p、318)
もの」を求める。Ducaneの場合、Jessicaとのこ
と、Kateとのことは自我(=自尊心)に捕らえら
れていて、恋愛の欲望はこの自我に従属している
のにすぎなかったが、周囲をよく見ることによっ
て相手側が人を愛するという心の「美」に打たれ、
驚く。自我の超出によって新しく、「美」を発見
そして人は、それ自身一塊の土くれ、脆い混合物、
し、その美への欲望をつのらせてゆく。いわば「恋
混沌とした偶然の世界に立つ束の間の「影」(a
momentaryshadow)なのだと理解する。この啓
愛の結晶作用」と言うものであろう。いったん恋
愛にとりつかれた人は、疑えないものとしてのデ
示は、Ducaneの「一匹のネズミ」、Theoの「わ
カルトのコギトを乗り越えて、プラトンのいう〈狂
れわれは影だ」と言うことのトートロジーである。
気〉のようなものに支配される。死、戦争、人
彼女の「愛」は何かに対する愛というのであれば、
生、恋、真の〈実体>とは出来事であって、概念
「死」と「変化」に対する「愛」であり、偶然の
ではなく、一つの〈不定法〉になることである。
海原の上を、死者たちの身体の上を動く、ほとん
Ducaneはく分子〉になって活動する。
どそれと気付かない程に「非人格的で冷たい愛」
まず、彼はBiranneに対し、もし君がPaulaの元
であった。それはまだ「美の欠如した愛」でもあ
に戻る可能性を試してみる気があるならRadeechy
ったが、彼女はDucaneとPierceが洞窟から脱出
事件について一切沈黙を守ると言う。人間の法と
し、救助された翌日、まったく突然に旧友である
いうものはきわめて大まかな正義で、君が陥って
はずのDucaneに対する恋に陥っていることを自覚
する。Murdochの恋愛のドラマツルギーは、しば
いる情況を取り扱うにはあまりにも拙劣な道具で、
自分は神の役目を果たそうと思ってはいないとも
しば思いがけなくごく身近にその対象者がいるこ
言う。和解させることにして、重要な証拠である
とを最後になって自覚するというパターンが多い。
Radeechyの告白寳をBiranneに返してやる。その
次にJudy、Jessica、Kateこの三人の女性が、そ
幻想としての欲望は、もう一つの幻想と結び合う。
われわれは肉体の幻想に憧れる、時には尻ごみす
れぞれDucaneに手紙を書き、回心ともいうべき
るが、幻想と知りつつも彼女は「電気ショックの
結果を報告する。
ような肉体的痙箪をもってDucaneのイメージを浮
JudyはDucaneへ「あなたは私の人生を変えて
かべ、目もくらむような喜びでふるえた」(p、342)。
くれました」と瞥き、Ducaneの運転手FYveyとい
Ducaneも一夜たち目覚めると、生きている自
っしょにオーストラリア行きの船に乗ったとあっ
分を、「今まで通りの自分を見出すということは、
た。
絶対的な喜びであった」。アールズコート・ロード
Jessicaからの手紙では、「あなたをとても愛し
の騒音や、小さな通りのあかあかとした輝き、表
ていたと思っていたのは間違いだったと思う。私
Hosei University Repository
74
Iま虚偽や隠し事はきらいです。私から自由になっ
行為は、Paulaには耐え難くも忌まわしいものであ
てほっとしておられるでしょう。どうか手紙や電
る。RichardはDucaneに促されて、Paulaと何度
話を下さいませんように」(p、328)とあり、
DucaneはJessicaの「損われない、完成された熱
ピッドとヴィーナスのエロティックな絵の前で会
情を美しい感動的なものだと、今にして分かるの
い、二人は発情し、和解する。Murdochは、me
であった」(p、328)。
BenでのDomの回心や、meSea,meSBaでのテ
イチアーノの「ペルセウスとアンドロメダ』、レム
Kateからの手紙では、余りに多くのことが突然
もデートしたAnA1Iegmy(「審意」)というキュー
起こってしまったこと、楽しいことばかりで苦し
ブラントの「タイタス」などのように、作品中に
いことは一切味わうことがないのだということ、愛
何度も絵画を利用しているが、彼女はプラトンと
のメカニズムはそれ自身の奇妙なエネルギーを持
違って、文学を含む偉大な芸術は文化と世代を越
っていること(E・フロムの言う愛は人間の中にあ
えて基本的な真理を明らかにすることができると
る能動的な力であるとしているのに似ている)、あ
主張している。プロンズィーノのこの絵は寓意画
であり、エロティックなヴィーナス(美)とキュ
なたが私を欺かないと思っていたのにということ、
とアブロディジィアをともに欠いた一種の戯れ・
ーピッド(愛)の逸楽の喜びの陰に「欺職」と
「嫉妬」が隠され、爬虫類の背と竜の尾、獣の下
半身で、右の前腕に左手、左の前腕に右の掌を付
けた乙女は、その美しい右手は実は左手、サソリ
か小ヘビをもつ毒ある手で、その逆の手は甘い蜜
ゲームとしての愛(?)なのであろうか。
の巣を差し出している。M・リーヴェイ・パノフス
Ducaneは、自分の行為がJessicaよりもKateに
厳しい感じを与えたのだろうか、JessicaがKate以
キーの解釈では、「一見〈善い>と見えながら〈悪
上に自分を愛していたということだったのだと思
はいくつかの意味を付与されたものであり、Mul迄
他に女性がいたのならあなたを好きにはならなか
ったであろうこと、Jessicaと幸福になってほしい
ことなどが列記されていた。拘束しない、拘束さ
れない、洗練された愛とは何であろうか。エロス
い〉手で甘いものを出す」と言っている。この画
う。結局、問題なのはいい気になっていた愚かな
dochの絵画美術への関心が尋常ではないことを示
自分であったと自己覚醒に至る。さらにDucane
すシンボル的な意味を有し、リニアーな小説にあ
は、このさなかにRadeechyが地下室に残した暗号
文(cryptogram)の謎を解く。黒ミサでの逆十
って平面の二次元的な絵画をモチーフに採用する
字、殺された鳩、裸女、こういった無意味で他愛
ていると言えよう。
ことによって小説の結構にふくらみと奥行を与え
ない仕かけは、ただ子どもだましで、グロテスク
なものであり、小さな悪の例証にすぎなかった。
5
大きな悪、恐るべき悪(例えば、戦争、奴隷制、
JohnDucaneは、なぜ自分は旧友のMalyと激
人間の人間に対する非人間的行為)を引き起こし
しい恋に陥ってしまったのだろうかと不思議に思
たものは、Biranneや自分のような人間の「平然
って自分の愛の分析をする。「Maェyとは道義的な
とした自己正当化の無慈悲な利己主義の中に存在
考え方の点で似ているということは知っていた。
していたのだ」(pp、330331)と悟り、法律顧問と
彼女の存在様式が自分に倫理的な、形而上学的で
しての職の辞表をOctavianに書くことになる。彼
すらある世界に対する、また善の実在に対する確
は洞窟のエピファニーで開眼し、「人を裁くこと」
信を与えたと彼は言っている。しかし、善を弁別
をやめたのである。
することは愛の本質の中にあるのである。そして
PaulaはDucaneの説得に従って、かつての夫
至高の愛は、ともかくも幾分かは善なるものに対
RichardBiranneを何度も二人で行ったナショナ
する愛である。Ducaneは、自分とMaryが両方に
ル・ギャラリーのブロンズィーノの絵の前で待つ
とって善であるものによって意志を通わせていた
ことにした。暴力をふるわれたという重い事実が
ということをはっきり意識していたし、また常に
この二人の間には厳然と残っている。たった一度
意識してきたのであった。」(p、344)。これは、恋
の情事の相手Ericの足を切断するほどの夫の暴力
する人間同士がともに自らの外部にある理想(魂
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75
の美)を求めるということである。その理想は
れにはRichardとPaulaのことも含まれていて、
「善きもの」へと至らなければならず、究極的には
「Johnはたしかに実にすばらしい仲裁人だ」と
「唯一特別の知識」(プラトンの「真」)に行き着
Octavian、「とても悲しいわ。わたしたちの家がす
くべきであるとソクラテスは言うであろう。このよ
っかりバラバラになってしまったようだわ。みんな
うにしてエロスの正しい道をたどってきた者は、そ
行ってしまうもの…わたしたちDucaneは神様だと
の途上で「突如として、本性驚嘆すべき、ある美
思っていたんだわ。ところが結局は、わたしたち
を観取するに至る」とソクラテスは「饗宴」で言
とまったく同じような人間なんだわ」とKateも言
っている。ブロンズィーノの『寓意」で発情した
う。Dacuneはカリスマ性が失せて、現実の等身
BiranneとPaulaのように、エロスはこのように突
大の存在として二人の目に映ずるようになったの
如として顕現する。エロスは人を美しく善きもの
である。
に触れさせる媒介者(ダイモン的存在)だとプラ
トンのエロス諭では言われている。エロスがダイモ
TrescombeHouseに残された二人のhermitの
ン的存在であれば、エロスは〈幻想〉に終ること
もありうる。ブロンズィーノの「寓意』は、だか
うちWiUyは、LondonのDucaneの家で彼の留守
中訪ねて来たJessicaと偶然に性交渉をもったが、
らこそ逆の手に「善」と「悪」が表現されている
「自分は死んだ人間だ」と言い、Trescombeに彼
のだし、「悪」が「善」と見間違えられるのであ
女が訪ねて来ても会おうとしない。「ぼくは現在の
る。至高の愛に至るのは並大抵のことではない。
ない単なる過去なのだ」と言って、ダッハウでの
作者は何とかしてDucaneにこの善に対する至高
自分の裏切り行為をもう一人のhemUtであるTheo
の愛を体現させようとしているようである。
に告白する。Theoが言うには、「人は他人の要求
それ故に彼は、Maryのもつ様々な美点、彼女
する自分の罪をすぐに忘れなければならない。で
に寄せる絶対的な尊敬・信頼などが彼がもつ「複
もどうやって。要は善なるものを愛する以外重要
雑な力」に支配されて、愛へと成長していったと
なことは何もないということだ。悪を見ずに善な
感じとるのである。そして彼女こそ自分よりもす
るものを見つめることだ」(p、355)。善なるものを
ぐれていると偶像視したときに、恋に陥ったと言
見つめることが悪を打ちくだき、善に達すること
うことはあり得ると思った。Ducane自身、Jessi‐
Ca、Kateとのことや、Radeechy事件などの混乱
なのであろう。見ること=注意(attention)が、
Murdochの処女作UhdemhejVet以来彼女の諸作
状態にあって、自分への尊敬の念が失われていく
品の中にリゾームとなって縦横に走っているのは、
中で、だれか別の人間の中に高潔な人間の像を樹
シモーヌ・ベイユの影響であるというのが定説と
立する必要を感じて、自己への卑下を慰めてくれ
なっている'2。
る恰好な女性としてMaryを欲望したのである。つ
まり、Maryこそl1amotherofgoddess11で、llthe
6
motherofnPescombel1であるとDucaneは悟った
最終章(40章)の大団円では、Trescombe
のである。そしてWillyをMaryに結び付けようと
Houseからの離散が始まる。Shakespeareのロマ
した当初の自分の魂胆は偽善であったのだと分か
ンス劇のようにその結末は華やいだものである。犬
る。MaryこそI1thegood11であると、時間をたっぷ
のMingoと猫のMontroseが仲良くいっしょのバ
りかけて認識するに至ったのである。
スケットの中に入っているのがこの小説の大団円
Gray夫妻の娘BarbaraとPierceがついに性的に
の様子を象徴している。かくてDucaneはMaryと
結ばれ、いわばもう一つのイニシエイションが結
結婚し、Pierceを息子とし、この母子は邸から出
果することは、この作品の中で小鳥のベアリング
などによって暗示されている。そして、Gray夫妻
て行く。しかもDucaneが、Judyといっしょに旅
立った運転手のFiveyの代わりに雇ったのはPeter
もタンジール旅行でのまるでハネムーンのような甘
McGrathだった。
い生活で性的に満たされ、DucaneとMalyの仲に
T1Ieoは、インド滞在中若い修行僧を事件に巻
ついて「まるで交尾の季節みたいだ」と言う。こ
き込みガンジス川で死なせた過去の罪を負いイン
Hosei University Repository
76
ドを離れていたが、唯一の頼りだった老人が死ん
だという手紙をインドから受け取る。Theoは
Ducaneのように、自分を廃虚の中のネズミと見な
していて、それを自分自身の中に生き、堕落した
空虚なものと見なしている。
TheohadbeguntogUmpsethedistance
whichsepaTatesthenicefromthegood,and
thevisionofthisgaphadterrifiedhissouL
(p359)
FiPankBaldanzaの言うように、「この小説の向か
うところは、ふつう過去の出来事への利己的な先
入主に捕らわれた妄想的なデーモンの悪魔払いの
儀式である」'3゜こわれた廃虚と、その中のネズミ
のイメージは、死への接近、生まれながらにして
死すという空虚な生活であったが、それまでの欺
職に満ちた混乱の自分をどう変化させたらいいの
かあのインド老人なら答えてくれたかも分からな
かった。iiThenice1IとI1thegood11、この両者を隔
てている距離が見え始めたのは、過去の自分のエ
ゴイズムによって現実から逃避していたことを真
正面から見つめようとすることからであろう。エ
ゴイズムとしての愛と、無私の愛の差異に気付き、
インドへ戻る決心をする。これはシモーヌ・ベイ
ユが工場の住み込みの女工となって〈受苦〉に耐
える愛の行動を起こす逸話を連想させる。「おそら
くは自分は結局あの緑の谷間で死ぬことになろう」
とTheoは言う。i'T1lenice1lである人々は、「この
最終章で描かれているたくさんの結合によって表
現されている人間臭い愛のたぐいを、またIIthe
good11である人々は無私・超越した精神的な愛に
帰する者」MとBaldanzaは類別していて、さらに、
ある種の無私はこれら二つの愛が最高のそれのと
きには共通するものであると付け加えている。こ
こでも、TheoがWiUyに語った「善なるものを愛
する以外重要なことは何もない」ということが、
至高の愛とは悪を斥け、善なるものへの愛である
ことを再確認することになる。このシニフィエは、
けだしプラトニズムのプロパガンダそのものである。
プラトンの洞窟の比喰について、Murdochは
meFh℃andtbeSiJn15でこう言っている。
ThepnsonersintheCaveareatfirstchained
C
toftlcethebackwallWhereantheycansee
areshadows,castbyaHrCWhichisbehind
them,ofthemselvesandofobjectsWhichare
calTiedbetweenthemandtheflre・Laterthey
managetotumroundandseethefireand
theohjectswhichcasttheshadows・LaterstiU
theyescapeftDmtheCave,seetheoutside
woddintheUghtofthesun,andfinaUythe
sunitselfTYlesunrepresentstheFbrmofthe
GoodinwhoseUghtthetruthisseemit
revealstheworld,hithertomvisible,andis
alsoasourceoflife.(P4)
DeborahJohnsonは、幻想のイメージをもつこ
の洞窟は潜在的な真理の在り処、すなわち巫女
(シビラ)の洞窟という暗黒かつ不可思議な二面
性を有していると言っている'6.プラトンの洞窟の
比嶮は、フェミニズムの批評からは疑問が残る。
LuceIrigamyによると、洞窟のプラトン的イメー
ジは一連の対立項の組み合わせを提示していると
いう。すなわち、内と外、高低、日光と地中の
火、逃亡した人間と囚人、真実と影、真とベー
ル、現実と夢、知覚と感覚、善悪、単一と多数
といった組み合わせである。これは悪しきものか
ら良きものへの<飛躍〉であり、〈上昇〉である。
高みへ向かって場を移動すること、直線的に進行
することであって、垂直的でもあり、男根崇拝的
ではないのか。こういった〈飛躍>においては、
交渉、転位、つまり上記の二つの対立項の領域の
往来といった可能性が閑却されていると言うので
ある。洞窟子宮説という誤った地誌学は、洞窟と
外なる世界すなわち忘れられたヴァギナ間の回廊、
通路を省略し、無視しているとも言っている。こ
のいつたふうに洞窟の異なった見方をすることは、
この比楡の中の太陽と同一視されている神聖父性
的ロゴスという単一原理によって否定されてしま
っている。Lucelrigarayは、西洋哲学のディスク
ールに表われている男性システムに特権を与えて
いることに対して、この比楡に存在するメタファ
ーのネクサス(主一従関係)を応用する目的で詳
細にこのネクサスを転倒してみせる。彼女は、太
陽=ロゴス、善のもつ眩惑、絶対神の醤気楼、そ
れに目を向ける者を盲目にし、過去に囚われた洞
Hosei University Repository
77
を克服するには道徳的に強いとか弱いとかという
窟に戻っても何一つ見えなくなるだろうという読
み方をする。太陽に至る道は、やがて視覚の喪失
正しい概念を人はもたなければならないであろう。
につながる。筆者には、洞窟への解釈が男性原理
だがMurdochは、水泳は溺れることもあるからみ
に偏向しているというのが適切か否かよりも、こ
なだめだとでも言っているふうである。〈内省〉は
の小説における洞窟でのイニシエイションを受け
いかなるものでも〈唯我論>に至る危険な道の一
るのは二人とも男性だったことに、Murdochのう
歩だと感じているようである。文芸批評において
とうかい
イクション上の鞘晦と美学偏重力x垣間見られるの
は、作品から作者が切り離されているその程度に
にむしろ興味を覚える。
応じてすぐれているかいないかが分かると言うので
RubinRabinovitzが言うように、Murdochはよ
ある。例えば、トルストイは成功しているが、ド
く読者を困惑させ、不可解な印象を与えさえする
ストエフスキーは成功していないというふうに。
作家で、作品上未解決の問題がたくさんある理由
Murdochは、フィクションにおいて、諸概念を隠
の一つとしては、彼女がその哲学的概念を小説に
そうとするよりも、教訓主義を避けているのであ
含ませたいと思うと同時に抑制もしたいという相
ろう。以上がRabinovitzの大体のマードック論で
矛盾する気持ちがあるからだというのも首肯け
ある。作家の不在と作中人物の自由な存在こそ、
る]7。また、彼女の哲学に関する著作を読まない
彼女の小説作法の真骨頂であろう。
と、知的な読者でも小説中に提示されている道徳
的立場について不確実な点と、プロットがもつす
結びにかえて
べての意味が把握されるわけではないという感じ
この作品の幕切れにあたり、Paulaの双子の
をもったまま小説を読み終えることになる。しか
EdwardとHemiettaはTV番組「X-ファイル」の
しMurdochの哲学の著作を読むと、シモーヌ・ペ
モルダーとスカリーのようにまたも美しい空飛ぶ円
イユについての理解が必要になってくるが、ベイ
盤を見る。二人には見えるが大人たちには見えな
ユとMurdoch両者の思想の大部分はプラトニズム
い。「円盤に乗っている人たちは善良な人たちだと
に基づいているようである。また、彼女はカント、
思う」。「あの人たちはとても賢いから何も害を与
ヘーゲル、サルトルや言語分析学派などの批評を
えることをしないんだ」(p362)と二人は言う。
ものしているが、その中にキルケゴールを加えても
その場所は、PierceとDucaneが洞窟内のエピフ
よい。そのわけは、彼がより無神論的な実存主義
ァニーを体験したGunnarisCaveの上の崖のふち
者たちとちがって、孤立した個人の世界からは宗
で、これまでも何回か円盤を見たことがあったの
教のもつ不可思議さを取り除くことをしなかった
である。Murdochは「善なる人間はついには太陽
点にあるからである。その他に、MurtinBuber、
を見ることができる者だとプラトンは説明してい
GabrielMarcel、』.L、Austin、G、E、MooreStuart
る」と言っている。上記の引用にあるように太陽
Hampshireなどの哲学者がマードックの著作に影
は「善の形相」、プラトニズムでいうイデアであ
響を与えていると指摘している。ただし、Mu喉
る。円盤は、太陽の光を借りずにそれ自体の光で
dochは自身を哲学的小説家ではないと否定してい
輝いていた。太陽の光を直接見ることはbhndness
るのだが、それは小説家としてドグマティックな
をかえって引起こしやすいのに、円盤の光は目を
傾向をもつことの恐れがあるからである。彼女は
傷めることなく、修羅や五濁無仏の世に晒されて
他者の出来事に最も関心をもっていて、愛情ある
いない幼い子たちの無垢な目には善の形相の表象
関心こそ愛の成就に必要だと繰り返し発言してい
としての円盤が見えるのである。「他者との関係は
る。彼女には、自らの概念を正確に定義するのに、
善を志向する運動である」とエマニュエル・レヴ
愛情ある関心といっそうの好奇心との間の差異は
ィナスは「実存から実存者へ」岨で述べていて、「善
ほとんどない。Murdochの弱点の一つに<主観
においては他者の実存することのほうが、私の実
性>の危険を余りに強調しすぎるきらいがあるこ
存することよりも私に重要である」とし、「他なる
とである。自己認識に至るには、ある程度は道徳
もののために、その身代りとしてあること、他者
や愛を成就する必要があるし、道徳的危機の変転
の責任を引き受けること、愛すること」'9と対談で
Hosei University Repository
78
t)語っている。一方において「地獄とは他者のこ
Good,AEaj「1yHmoumbleDelbat(1970),An
とだ」というサルトルについて言えば、「嘔吐」の
AccjdentaノM、(1971)などをIidomesbicnovels11と
ロカンタンがマロニエを見て吐き気をもよおすの
言っている。
は、不透明で複雑で還元不可能な現実の人間や物
3.FrankBaldanza,lITheNiceandtheGood,Ioin
に対してであって、そこには孤立した個人の救い
MOdemFYchronSmdieqXV(Autumn,1969),
ようのない苦悩が読み取れる。レヴィナスのよう
p417.
に利己的実践から利他的実践へと視点をシフトす
4.jbjdbp、417.
ることは、苦悩が深すぎて不可能なことであろう
5.IrisMurdoch,Sam画RbmantibRa血naHSt(Lon‐
か。それ故に小説家としてのサルトルヘの評価は
ともかく、哲学者としてのサルトルはアンガジュ
マンに身を挺したのではないのだろうか。レヴィナ
スの立場はMurdochの小説家としての立場に近い
もののように思われる。梅原猛は賢治論で言って
don:Fbntanal953).
6.BrendanHennessy,「アイリス・マードック」室
谷洋三著訳、英潮社、1977年、p53.
7.竹田青銅、「エロスの世界像」、講談社学術文庫、
1997年。
いる。「賢治は、おのれを殺す利他の行によっての
8.「英語研究」4月号、研究社、1969年。
み、仏の世界へ行けると考えていたようである。
9.デポラ・ベーコンは、伸び縮みするアリス(「不
他のためにおのれの命をささげること、おのれを空
思議の国のアリス」、「鏡の国のアリス」の主人公
しゅうして他人のためにつくすこと、もちろんそれ
の少女)を男根の象徴と言っており、野ウサギの
は大乗仏教の菩薩行の理想である」。ここにはベ
穴はミルチア・エリアーデの言うように地下のこ
イユの思想が生きている。他者への必死の求愛行
為が見られる。Murdochの思想は道徳哲学を中心
とであるから子宮をも象徴すると思われる。
10.小さなネズミは男性性器の象徴であるとフロイ
にすえているが、驚くほど東洋思想、なかんずく
トの弟子・心理学者のマリー・ポナパルトは言っ
仏教やインドの思想に近い。オックスフォードで
ている。、H・Lawrenceの短編小説nhmgsにも
哲学を講じていたMurdochはギリシア以来の哲学
ヨーロッパ文明に疲れて新大陸に渡ろうとした男
を東洋の思想と融合させることで、哲学で果たし
女がうまく行かずに尾羽打ち枯らして帰国するが、
得なかったことを小説で実験してみたかったのか
自らを「片隅に追いやられたネズミ(窮鼠)」と
もしれない。さらに太古へと人間の誕生にまでさ
称する例もある。
かのぼって、これらの哲学はミトコンドリア・イ
11.前掲書「エロスの世界像」、p、64.
ヴに行き着くかもしれない愛の哲学ではないのだ
12.例えば、FrankBaldanzaは、SimoneWeUの
ろうか。ここの子どもたちもTiPescombeHouseか
attentionを「個人の現実に向けられた正当で愛あ
らPaulaに連れられて去り、「ヒモロギ」の地は寂
るまなざし」とMurdochが言っていることに注目
しくなり、もう一つのAMidsummerNight1s
Dreamは幕を引くことになる。愛の島シテールは
lishers,1974),p27.またRubmRabinovitzも、特
どこにでも偏在し得るのかどうか。そしてロンド
にT7ieFIightsの中での愛の問題で対等の愛でな
ンでは果たして円盤が見られるのであろうか。
ければ愛は成立し得ないとMurdoChが言っている
している。hiSMizmbchOJewYOrk,TWaynePUb
とし、人はバランスのとれた愛はattentionを通し
て成就できるとしているのも彼女がattentionとい
〈注〉
うタームをWeilから借用していて、attentionは他
LIrisMuldoch,meMbeandtheGood(London:
者の現実の正確な理解から成立するもので、この
Chatto&wmdus,1968).ただしここでのテキスト
理由からl1see11はMurdochのフィクションでは重
は(HalTnondsworth:PengumBooks,1969)を
要だと述べている。lnisMUmOch,OJewYork&
用い、以下()内に引用ページ数を付す。
2.DonnaGelstenbergerは、meSandbas比(1957),
AnUnolツテCialRDse(1962),meハHCeandthe
LondomColumbiaUniversityPress,1968),p、17.
13.IITheNiceandtheGood,lImMOdemF允加、
Studies,XV(Autumn,1969),p427.
Hosei University Repository
79
14.ihid
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O)dbrdUniversiUPress,1977).
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18.EmmanuelLevinas,DejbKiStBncedlもxjStzmム
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ら実存者へ」西谷修訳、朝日出版社、1987年)
l9EmmanuelLevinas,Qui6tes-vDus?byFrangois
Poiri6(Paris:LaManufacture’1987)(「暴力と聖
悩一レヴイナスは語る」内田樹訳、国文社、1991
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