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「道徳心理学」について
「道徳心理学」について1 安彦一恵 日本の「倫理学」研究者の間で、近年「道徳心理学」への関心が高まっている。しかし筆者は、 そこには“危うい”ところが在るとも見ている。一つには、いわゆる「心理学」等「科学」系の 「道徳心理学」への、極論すれば無反省な“飛び付き”といったところが見られる。そしてもう 一つとして、或る種伝統的な「倫理学」系の「道徳心理学」において論点となっているところが ――学史的な個別研究の展開は見られるのだが、 「道徳性」に関する事柄そのものとしては――十 分にフォローされておらず、したがって、そこに出てくる(研究)課題性に無反省であるという ところが在る。 多くの考察課題を抱えたまま(前期)高齢者年代に近づいてきたということもあって、研究会 当日の「報告」は、趣旨としては、 「道徳心理学」に関わる諸論点について特に若手の研究者の考 察を促すことを明確に目的としたが、本稿でも、 「論稿」としてはやや異例となるが、その“目的” を引き継いだものとしたい。 (主として脚註で、関連するテーマで研究されている各研究者をいわ ば“狙い撃ち”するというかたちで、 「ここはXX(氏)[以下、敬称は省略させて頂きたい]に考 察をお願いしたい」といった趣旨の付記を行ないたい。 ) 筆者自身の考察作業として位置づけるなら本稿(および口頭報告)は、 (テーマ的には)2年位 前から私自身始めている「道徳心理学」的考察を展開させるものである。本稿に直接的に関わる ものとしては 2009/06,2009/072が在るが、これらは林誓雄、佐藤岳詩、児玉聡の(たまたまであ るが)同時に『倫理学年報』第 58 集に掲載された三論文への(批判的)コメントというスタイル のものであった。本稿で特にこれら三氏に言及するのは3、その故である。 一 「道徳心理学」ブームについて 近年の「道徳心理学」ブームについて筆者は基本的なレヴェルで危惧を感じている。筆者の専 門は(哲学の一分野としての)倫理学であるが、ここで問題とする「道徳心理学」も哲学あるい 1 本稿は、京都生命倫理研究会との共催で 2010 年 12 月 26 日に京都大学文学部で行われた研究会 で行った同一論題の口頭報告を――当日は、原稿を用意せず、筆者の研究用メモに多少手を加え たレジュメのみに基づいて話したが、その際の録音に失敗したということもあって ― 少しく再 構成的に纏め直したものである。 2 以下、関連拙稿については、このように公表の年/月で表記するが、タイトル・掲載誌等は、 筆者のwebsite page = http://www.edu.shiga-u.ac.jp/~abiko/gyouseki/paper.html で確認して頂 きたい。 3 以下、三氏への言及は、この『年報』掲載稿、および、上記拙稿への回答稿( 『dialogica』第 13 号)に(のみ)関わるものである。 - 115 - は倫理学系の「道徳心理学」であって、それは道徳の動機性を問うものとして実は「倫理学」の 伝統的な一領域でもある4。ここから見るなら、近年の「道徳心理学」ブームは、――そこにはま た、道徳の「心理」現象を「脳」現象として考察するという脳神経倫理学のブームが重ね合わさ れてもいるのだが――この伝統的な( 「倫理学」としての)考察を半ば放棄して単純に「科学」的 知見に“飛び付く”といったかたちのものであるとも言いうる。まず、この点に関して批判的に、 「科学」的(道徳心理学的)知見を援用する場合に併せて考えなければならないことを、――「科 学論」 ( 「科学哲学」 )とも関わって(狭義での) 「倫理学」の枠を超える部分を含むことにもなる のであるが――主要なものに限って論点として(再)確認しておきたい。 「心理」現象に関する科学的知見を援用することそのものは正当なものであると言いうる。主 要には「認識論」の領域でかつて(クワイン等) 、 「自然化された認識論」として「科学」への依 拠が説かれたが、それはこれと軌を一にするものでもある。しかしここで(同時に) 、当の「科学」 (伝統的「哲学」の「心理」考 そのものが一枚岩でないということ5に留意しなければならない。 察とも大きく重なっていた) 「内観主義」から出発した「心理学」は、科学性を重要視するという ことで「客観性」 ( 「間主観性」 )に定位して、客観的現象である「行動」を対象とする「行動主義」 へ大きく転回した。それが 80 年代、 「心理」を「行動」へと還元し尽すことはできないとして、 その「行動主義」を批判するかたちで「認知革命」が展開されていった。コンピュータ科学とも 連動するかたちで、そこで様々な心モデルが提示されていった。 「認知科学」 「認知哲学」として 「古典的計算主義」vs.「コネクショニズム」といった論争軸が形成されてもいった。 近年の fMRI 技術に依拠した脳神経科学は、 「心理」現象研究のまた新たな段階だと見ることが できる。しかしながら、それはこの展開に対してどういう位置を占めていると見るべきなのか。 “脳を見る”ということは客観的な事柄である。とすると、それは新たな段階の「行動主義」と も言いうるのか。特に近年の「道徳心理学」ブームが脳神経科学定位的であるところから、この ことを含めて、そもそも「心理」現象の解明とは何かといった、まさしく哲学的な検討が( 「哲学」 ないしは「倫理学」プロパーの研究者であるなら)なされるべきであろう。これは、 「自然(科学) 主義」を説いた当のたとえばクワインが、 「 (科学)哲学者」として同時に引き受けていた課題で もある。 たとえば東京大学・信原グループでも脳神経倫理学研究への展開を示しているが、そこでは「認 知哲学」研究の実績が踏まえられていることもあって、この“哲学性”が担保されていると言い うる。これに対して、 ( 「倫理学」系統の) 「生命倫理学」の一つの展開としての脳神経倫理学受容 には、――「生命倫理学」については、この研究会でかつて指摘したところであるが、そもそも の「生命」現象に関する、生物科学とも連動した科学哲学的考察( 「生物学の哲学」 )の無視とい 4 近年の主要業績で言うなら、成田和信の『責任と自由』勁草書房、2004 は端的にこの倫理学的 道徳心理学のものである。 5 典型的事例として、 「物理(学)的還元主義(reductionism)」と(端的には生物現象の自立性を 説く) 「創発主義(emergentism)」との対立を挙げておきたい。 - 116 - うかたちで、それがすでに「哲学」放棄的なところをもっていたとも言いうるのだが――“哲学 性”が希薄であるというところが在る。 「倫理学」という看板を下ろさないのであれば、これは問 題的なところである。 しかしながらそもそも、 「脳」現象解明は「心理」現象解明にどのような意味をもっているので あろうか。 「脳」現象を――「心理」現象から区別して、あるいは端的に「心理」現象など無視し ても構わないとして――そのものとして対象とするというのでなければ、この問いを問うことは 必須のことであろう。それは基本的に、これはこれで伝統的な(イギリス経験論に起源をもつと も言いうる) 「心の哲学」の一連の考察にコミットしていくことでもある。 ここで異論として、かつての「行動主義」が、いわば「心理」をブラックボックス化して、端 的に「行動」そのものを対象としたという側面をもつのと同趣旨で、あるいはその展開として、 「脳」現象を直に「行動」と結びつければいいと語られるかもしれない。これに対して我々は、 「倫理学」としては、そもそも「行動」とは何かと問わなければならない、と言いたい。 「行動主 義」も当の「行動」を一定の内容をもつものとして想定していた。特に人間の「行動」である場 合、たとえば「それは挨拶である」として、社会的意味内容をもつものとしても想定していた。 しかしながら、そうした内容的行動性はいわば自体的に措定され(てく)るものであろうか。観 察者の一定の(行動)認知の枠組みが在って、その前提の上で始めて措定されるものではなかろ うか。そして言うまでもなく、こうした認知枠組みは(観察者の) 「心理」的事象である。ここに は、当の排除したものを前提とするという基本的難点が在る。この問題は、 「倫理学」が「行為の 哲学(倫理学) 」として、それ自身別個に展開してきた議論にコミットすることを要請してくるも のである。 別言するなら、この問題は行為同定・記述の問題である。 (そもそも)行為はどう同定・記述さ れるべきであろうか。筆者からするなら、これは(また)いかなる規範理論(規範倫理(学) )を 採るべきかと重なるものである。ここに在る事態は、そもそもの行為同定・記述が(それぞれ) 一定の規範的立場と一体になっているということである。 近年の「道徳心理学」においてよく――たとえば道徳的(判断)性向の検証において――用い られるものとして「トローリー(トロッコ)問題」が在る。この問題において、personal なケー スと non-personal なケースとの区別がなされ、両ケースにおいて(ほぼ)等しい判断を下す性向 と、異なった判断を下す性向との(有意的な)差異が(データ)提示されたりしているが、これ に対して言うなら、前者の性向では、行為同定においてそもそも両ケースを(personal, non-personalとして)区別していないというところが在ることを指摘しなければならない。そこでは行為 (いずれも“personal”であると言おうと思えば言えるかたちで) 「一人を犠牲に は、両方とも、 して五人を救う」 (と同定される)行為である。 これに対して、そもそも両ケースの区別(そのもの)がそうであるのであるが、後者の性向と しては行為は、言ってみれば「基礎行為」 (ダントー)として(あるいは、それに近いところで) 、 (太った)一人の男」であるか「ス 自分の身体動作が直接(物理的に)関わるところの、それが「 - 117 - イッチ」であるかの別を有意化するものである。ここでは(その)行為は、それぞれ(別様に) 「男を突き落とす行為」 「スイッチを切り替える行為」であり、 「1人の死と5人の生存」はその帰 結である。これに対して前者の性向においては――「帰結」という言い方はむしろ後者の性向に 基づく言い方であって――行為はいずれも端的に「1人を犠牲にして5人を救う行為」である。 6 この問題は、 「意図」と「単に予期されていること」との別、あるいは「近接的意図」と「遠い 意図」との区別として、いわゆる「二重結果説」(をめぐる論争)で問われているものでもある 7 。そこでも論争に決着がないのと同様に、この問題をめぐってもいずれが(より)妥当な性向・ 判断であるのかに決着がつかないのは、そもそもの行為同定レヴェルで性向、したがって規範倫 理の相違が効いているからである。 (それぞれ内在的に整合的である場合)いずれの規範倫理が(より)妥当であるのかは、決着 のつかないものであると筆者は見ているのであるが、ここから勝義に「倫理学」の課題として残 されてくるのは、 (メタ倫理学として)それぞれに対して内在的に解明することである。この点に 関して一点だけ述べておくと、上述の前者の性向に内在する規範倫理が「功利主義」である(と これは妥当に言いうる)のに対して、後者の性向が「義務論」として把握されるのは問題である と筆者は考えている。とりあえず言うと、やや個別的となるが、カトリックの「道徳的絶対(moral absolutes)」 (への定位)の立場(的なもの)と把握する方がまだましであると見ている。 科学的心理学については、もう一つ論点として指摘しておかなければならないことが在る。そ れは、いわば強く科学性を主張する心理理論が、日常的な心理理解( “folk psychology” )との相 違をも説いているところと関わるものである。実験心理学の場合、被験者の口頭報告をもデータ として収集している。しかるに、被験者は(日常人として)この「日常心理学」 (心理解)を(当 然)有していて、 「報告」がこれによって規定されているとも考えられる。ここに“科学的”心理 学――脳神経科学の(心理)考察は強くこの立場のものである――との齟齬は生じないのであろ うか。研究者の――特に道徳性を問題とする場合、それが日常人としてもっている――日常的心 理観との齟齬の可能性も指摘できる。 ヘアは「日常言語学派」に属する論者であって、その、 「道徳言語」の分析というかたちを採る 道徳分析は、最終的には「日常(道徳)言語」を審廷とするものである。上の“folk psychology” との関係の問題が、科学的道徳性分析とこのような道徳分析との間にも在りうると了解できる。 やや別の観点からのものであるが、筆者の質問に対して佐藤は「日常言語の背後にある論理規則」 を取り出したのだとして、 (分析される) 「言語」の普遍性(普遍的レヴェル)にヘアは定位して いるのだと(一種、たとえばチョムスキーのような普遍主義的な)回答をしてくれたが、普遍性 と科学性とはまた別の事柄であろう。したがって、なお問わなければならないのだが、科学的心 6 この行為同定・記述の問題性については、2008/06a の一部でテーマ的にも論じてある。 以上「二重結果説」 、ないし、そこにおける行為同定・記述の問題にはついては、2006/03b を 参照頂きたい。 7 - 118 - 理学に依拠する場合、このヘアのような「言語分析」の立場はどう位置づけられることになるの か。 二 動機性をめぐって(1) ――内在主義・外在主義論争―― 「心理」を考察するということは、同時に、 (道徳的)行為の「動機」を問うということでも ある。言うまでもなく近年の「道徳心理学」においても、行為の動機性は中心的なテーマである。 しかしこれは、 伝統的な倫理学的道徳心理学がまさしくそれを論究対象としてきたところである。 少なくとも「倫理学」として「道徳的心理学」を展開するのであるなら、この伝統的議論――そ れは現在なお活発な議論が展開されており、その一端として科学的道徳心理学の援用もなされて いるのだが――にコミットすることが必須である。その倫理学的動機論の中核を占めるのは「内 在主義か外在主義か」という論点である。 これについては、 (ヒュームに起源が在るとされる)いわゆる「信念-欲求理論」の(再)確認 が重要である。というのは、それはそれ自身二義的であるからである。一方では、 「欲求」が行為 (究極)目的を措定し、理性が( 「道具的理性」として)その目的に対して手段となる具体的行為 を「信念」として措定すると説くものとされる。この了解のもとで、その(目的-手段に関わる) 「信念」 がそのまま具体的行為を動機づけるか否かという問題が設定されている。 換言するなら、 その「信念」が(手段知の)道具的理性の事柄であるとして、それが「実践的」であるか否かが 問われている。 しかし、他方、ここで言う「実践的」はカントのタームで言うならむしろ「実用的(pragmatisch)」 であって、それと区別される(カント的意の) 「実践的(praktisch)」は目的措定そのものに関わ るのであって、その限りの理性的目的措定としての道徳的「信念」――これは言うまでもなく理 性的道徳信念となる――がそのまま動機づけを与えるか、換言して(カント的意での) 「実践的理 性」が存在しうるかとも問いえる。 「信念-欲求理論」は、他方では、この意での実践理性を否定 して、動機づけには別途「欲求」が必要であると説くものであるとも了解されている。 これに対してたとえばネーゲルは、いわば廉価された道徳判断である「自愛の思慮的(利口的) (prudential)」判断について、その実践性を説いている。また、これを受けてたとえばマクダウ エルは、――明瞭に「内在主義」として――「道徳的判断」についてその実践性を説いている。 理性的道徳「信念」を抱くものはいわば真にそうであるとき――換言して「徳」を身に付けてい るとき――、それがただちに(行為への)動機づけを与えると説いている。8 8 9 10 以上については、2009/06、というか、そこで言及した関連諸論稿を参照頂きたい。 この事態を表すものとして、 “besire” (すなわち belief かつ desire の状態) (Altham,J.E.J.) 概念が提起されている。 10 筆者の解明要請に対して佐藤はまた、ヘアが自説を、 「内在主義者とは、人は……それに一致 した行為に対して何らかの仕方で動機づけられていることなしには道徳的判断……を誠実に行う ことはできない、と考える者である」として、 「内在主義」としても自己規定していることを紹介 してくれた。しかしヘアのこの言は、 「道徳」言語使用(判断)の「論理的」特性を述べたもので 9 - 119 - ちなみにヒュームを、独自のかたちで「外在主義」と解釈する林誓雄は、おそらくは、 「道徳的 信念」はたとえば「知覚的信念」と異なって――「感情」が関与するものとして――それ自身一 定の動機づけ的性格をもつものとしつつ(も) 、それが(実効的に)実際の(行為へと至る)動機 づけを与えるかは「偶然的」であるとする。この「一定の動機づけ」を「信念」に認めることを 「内在主義」と呼びうるとしても、それが必然的に行為へとは至らないというのがヒュームの考 え方であるとして、そこに「動機的外在主義」を設定する。 厳密に言うなら、いわゆる「自然的徳」 (の事柄)の場合は、 「共感」に依拠した「信念」がそ のまま動機づけを(必然的に)与える――いわばマクダウエルの「徳」に当たるものが「人間本 性(human nature)」に在る――としても、 「人為的徳」の場合はそれとは別であると林は解釈して いる。 「自然的徳」はいわば小さな集団内で有効に作動する――これは、進化倫理学が確認してい るところでもある――ものであるが、 「人為的徳」 ( 「正義」 )は本来(近代的商業社会の)大きな 社会の原理となるものである。 『道徳原理の研究』に即して、――「拡大された共感」というかた ちで――ここで大きな社会においても「共感」が働くという、いわば(全般的) 「共感倫理」主義 者としてヒュームを解釈する論者も居るが、林は明確にこれを退けて、 (これ自身「人間本性」の 一面である) 「利己心」が道徳的行為(つまり「正義」の実行)へと導く心的メカニズムを独自の 解釈としてヒュームの主張から取り出そうとしている。 とりわけこの集団の大・小の別ということから見るなら、このヒューム的(人為的)道徳性は、 児玉聡が紹介・依拠している「二重プロセスモデル」理論が言う「分析的システム」に対応する。 (対して「共感倫理」は「経験的システム」に対応する。 )こう重ねて見るなら、この理論は道徳 性(心理)分析としていかにも不完全なものに見える。 「 (理論)理性」が、功利主義的な「最大 多数の最大幸福」という判断を下すとき、それが文字通り自動的に行為(実行)を帰結すると説 いている、すなわち、別途に「欲求」が必要でないと想定されているように見える。言うとする なら純粋内在主義である。これは、果たして「功利主義的行為」の心理的メカニズムを明らかに したものと言えるであろうか。 「心理」の多くの部分がなおブラックボックスに入れられているよ うに見える。11 であるからでもあろう、この「理論」のもとで「功利主義」を優位化するGreene あって、必ずしも人々の「心理」の事実を語ったものではない。であるから佐藤も、 「外在主義と は動機づけには欲求が不可欠であると考えるものである。この一般的な意味で言うならば、ヘア はむしろ外在主義者である」と述べているのだと了解できる。また一般に、近年の「メタ倫理学」 の「内在主義」 (規定)は、このヘアのような論理的(=定義的)内在主義であるものが多いよう に思える。それに対して、本稿が求めているのは―― 林がヒュームの「外在主義」を語るときも そうであるが――心理的事実としての「内在主義」である。 11 ここで、このブラックボックスには実は何も入っていないと見ることも可能である。しかしそ れは、いわば純粋知性存在とも言いうる機械として行為者(agent)を見ることである。そこには意 識(心理)がないのでそもそも「理性」的存在ではないとも言いうるかもしれないが、しかし、 「 (理論的)理性」を「認知(+推論)能力」とみなすなら、機械にも ― 状況認知のためのセン サーを備えたものとしては ― 「理性」を帰属させることもできよう。 (唐突であるが、認知哲学 者のヴァン・ゲルダーに「表象なき認知」というカテゴリーが在る。 )ちなみに( 「自由意志論」 - 120 - も、一面では功利主義的道徳性(作動)における感情(情動)の必要性を――いまのところは、 それがどういうものなのかを示すことなしに――語っている。林のヒューム解釈はこの欠を埋め るものという意味をももっている。換言するなら、林の基本的スタンスそのものは倫理学史であ るが、ここで「倫理学」プロパーの考察(の蓄積)へのコミットが必要であるということである。 三 「トローリー問題」実験の解釈をめぐって このことを確認しておくとして論を進める。この「二重プロセスモデル」理論を支えるものと して、脳神経科学的知見として、とりわけてVM(ventromedical)患者(VM部位が損傷してい る者)が“正常者”との反応の差異を示すというデータが援用されている。 (そして、この部位が ( “義務論”的)道徳性の部位であると解釈されてもいる。 )その際また、上述のトローリー問題 がタスクとして被検者に提示されてもいる。しかしながら、ここで押さえておかなければならな い重要な問題性が在る。それは、 (実験の制約上やむをえないのでもあろうが) “問題”に対応し た(実際の)行為を遂行させることをタスクとするものではなく、或る意味で単に、どういう行 為が適切かと問うという、いわば知的タイプの反応を検査するに留まっている、ということであ る。VM患者が功利主義的判断を下す傾向に在るという確認も、あくまでそのように(知的に) 判断することの確認に留まる。そう判断する傾向に在る者が(実際のケースに遭遇して)その判 断通りに行為することまで確認されてはいない。 筆者は(むしろ逆に) 、容易に功利主義的判断を下す患者は、実際に功利主義的行為遂行には至 りにくいと考える。その程度は“義務論”的判断を下す(したがって、personal な場合と non-personal な場合とで有意的な差異を示す)多くの正常者の場合の行為遂行性の程度を下回る の文脈で) 「硬い決定論者」である Smilansky の道徳説に、一種の美的道徳という道徳観が在る。 ちょうど人体の美に“内面”が非有意であるように、無意識に端的に行為として利他的な在り方 を彼は一種美的な道徳性として提示している(2010/06 参照) 。彼は「 (救助)犬」を例として挙 げているが、機械(たとえば救命ロボット)の振舞いはそうした理想的道徳性だと見ることも可 能である。 しかし、人間には「意識」 (心)が在る。したがって、そこにはやはり感情が伴うと考えられる。 しかしまた、機械はその仕様(プログラム)に従って作動するのであるが、それをさらに「傾性 (disposition)」と見るとして、 「本能」と呼ばれるものは、これを意識関係(化)的に呼び直し たものだと見ることも可能である。 「本能」とはその作動が「なぜそうするのか」と問えぬもので ある。機械と同様に「ただそうなっているから」としか言えぬものである。 「道徳法則を意識して いること」を「理性の事実」とカントは呼んでいるが、それも(案外)このことと同じであるの かもしれない。ヒュームで言っても、その「自然」もそういうものであろう。 しかしながらさらに、児玉が指摘しているように、――大きな集団(社会)に適合的に――「分 析的システム」は「経験的システム」の偏向を補正するものでもある。いわば感情性(の、進化 の帰結としての近傍者優先性)の作動に規制が加えられるのである。このメカニズムは当然「本 能」を超えるものである。ここに、 「分析的システム」 、したがって「功利主義」道徳の動機性の 最大の究明点が在る。同時に、ヒュームの「自然」は上のままでいいとして、カントの「道徳性」 も単に「事実」といって済まないものであるということにもなる。以下でも触れるが、ここに「義 務意識」 「義務感」という現象の解明すべき最大の論点が在る。 - 121 - ものであろう、と見ている。つまりVM患者は――丁度「1と5とではどちらが大きな数か」を 判断するときと同じように――純粋に知的にトローリー問題に回答しているのである。 では、功利主義的な行為を動機づけるものは何であるのか12。それはやはり感情性であると考 える。しかしその感情性は、いわば自然的には、眼前の人( “personal”なケースでは眼前の「太 った男」である)に向かうものである。その者に「共感」が働くことになる。であるから正常な 者は――実際に行為を求めるタスクでなく、単にその場合どうするであろうかと仮説的に問われ る場合であっても――男を“利用して”トローリーを止めて5人を救済するようには動機づけら れないのである。逆に言って、その男を“利用”したりしないように動機づけられるのである。 しかし他方、 「人命」の価値の道徳的知識が働いて(数の大小の知の前提の上で)葛藤が生じるこ とになる。 (これは反応の遅れとして示されていると解釈できる。 )単純に帰結的事態の点から見 るなら「1人が死ぬこと」の方が「5人が死ぬこと」より善であることは明らかであるからであ る。再度言うが、VM患者の場合は、この道徳知が、しかし(相当程度に純粋に)知的に働いて 功利主義的判断を下せるのである。しかしそれは、あくまで、実際に行為へと動機づけられるこ ととは別である。行為への動機づけには、やはり感情が必要であると考えられる。だが“personal” なケースの場合、それは自然的には非-功利主義的に振舞うことへと動機づける。 そこで、 (逆に)功利主義的に振舞うことに動機づけられるとするなら、さらに何が作動して いるのか。我々は、 「想像力」が決定的に重要であるのではなかろうかと考える。男を“利用しな い”ことの帰結とも言いうる「5人の者の死」に対して想像力によって(いわば仮想的に) 「共感」 が働くという機制がそこで作動するのだと考えうる13。換言するなら、VM患者に欠落している のは、 (感情そのものではなく)想像力なのではなかろうか。 ここには(さらに) 、しかし通常はむしろそれが有意化される行為記述としては「男を死に至ら しめる」という側面が在るのだが、その「男を突き落とす」行為を実行する者の場合、そこから 帰結される非難を引き受けるかたちでの、その意味での自己犠牲を伴って、より強く「共感」が 働いていると推測できるかもしれない。ここから見るなら、平均的な正常者の場合は、いわゆる 「自分の手を汚さない(keep one’s hands clean)」という、一種利己的な道徳性が作動して、そ れが(自己犠牲的に)功利主義的に行為することを妨げているのかもしれない。 しかしまた、これはいわば極限的な場合である。これに対する平常の場合は、主要に働いてい るのは、むしろ自己利益心(感情)であるかもしれない。その場合、人々が道徳的行為をするの は、 「それが結局、自己利益となる」という推論が協働しているからだと推測できる。そしてこの 推論には、容易に(自己利益との結びつきが)推論できる場合とそうではない場合との段階性を 伴った相違が在る。実際の行為(に近似したもの)をタスクとして求める実験において、VM患 12 この問いは、なによりも、日本において規範倫理として最も鮮明に「功利主義」を説く児玉に 向けられうるものである。氏には、以下の論点提起に対する反応を期待したいところである。 13 ここで、あるいはハーサニ( “extended sympathy” )に関連づけることもできよう。しかし、 林によるなら、これは退けられそうである。また、児玉はここでどう語ってくるであろうか。 - 122 - 者も、推論の難しい場合は行為を実行しないが容易な場合は行為を実行するという事実が確認さ れている。これは、VM患者にも「感情」が在るのであって、むしろ推論能力が(あるいは、推 論とは諸事項を関係づけることであるのだが、そこに前提として必要になってくる諸事項そのも のを意識化するものとしての「想像力」が)低下しているのだとも解釈可能である。 脳神経科学的知見に即してここで我々が展開したのは、一つのメタ倫理学的考察である。知見 として提示されている(各種の)道徳性について、その解明を試みているものである。しかし他 方それは、多く「推測」に留まっている。それを「実証」にまでもたらすためにはやはり科学的 検証が(なお)必要であるとも我々も考える。しかし、我々に言わせるなら、その科学的検証は、 我々のようなメタ倫理学的「推測」を「仮説」として引き取ってもらって、その統制のもとでな くては生産的にはならないであろう。極論して言うなら、やみくもに実験を繰り返してデータを 蓄積しても、それは道徳現象のより適切な解明には繋がらないだろうと見ている。 ここで、科学に対して倫理学者が適切な解析枠組みを提示すべきであると我々は主張している のであるが、しかし他方、そのためには、 「倫理学」は自身、その道徳性分類枠組みをなお彫琢し たものとして提示するという課題性をもっている。 四 動機性をめぐって(2)――「義務論」?―― 次に、 「義務論」という(分類枠組みの)問題性として、その概念的曖昧さということをも念頭 に置いて、この課題性に関わる論点の提起を行ってみたい。 「義務論」は多義的な用語である14。 「二重プロセスモデル」でもデータ解釈にこの語が援用されているが、それは、その周辺的意味 に即したものに過ぎないであろう。 (まず)その中心的意味を我々として措定する必要が在る。 「義務論」とは文字通りには、 「義務に従うこと」を優位化する立場のことだと言いうるが、そ うだとすると、たとえば「功利主義」でも、 「最大多数の最大幸福(を実現せよ) 」という義務を 優位化するものだと言いうる。 「義務」規定との関係だけで見るなら、これも「義務論」だと言え ることになる。というか、およそすべての規範倫理的立場が、 「義務」との関係でこのように見る ことができることになる。義務論vs.帰結主義――言うまでもなく、 「功利主義」は「帰結主義」 の一形態である――という伝統的対比を(なお)尊重するなら、 「義務論」はこの後者となるべく 重ならない規定でなければならない。15 では、この両者はどこで相違することになると見るべきなのか。我々はここで、――本稿は「道 徳心理学」として「動機性」に焦点を合わせているのだが、それとも整合的に――手がかりとし 14 これについては 2008/06a を参照頂きたい。 「功利主義」を判定基準として、事後的に行為の実際の帰結を有意化するものと了解するなら 話は別になるが、本稿では「功利主義」を、そうした事後主義・ 「現実主義(actualism)」として ではなく、――行為の動機性を問題とする以上当然のことでもあるが――行為嚮導性(action guidanceness)に定位して、言ってみれば「意図主義(intentionalism)」の観点で(これについて も 2008/03aを参照頂きたい) 、あくまで「最大多数の最大幸福」 (を義務として、その実現)を意 図するもの、と了解している。 15 - 123 - てW・D・ロスの“desire to do one’s duty”16ということを「義務論」の核心として措定して みたい。 「義務」に従うことは( 「道徳的」であるための)共通の最低条件であるとして、 「義務論」 の場合は、そのこと自身にいわば焦点が合わされている。カントが言う「道徳法則への尊敬」も その一側面である。これに対して「帰結主義」では、 (当然「義務」に従うとして、 )その義務に 「功 従った結果生じる、しかし、その当の義務が実現を命じている事態に焦点が合わされている。 利主義」の場合それは、 「なるべく多くの者が幸福である」という事態である。 そうであるとして、近年の内在主義・外在主義議論の一つの中心点となっているものとしてM・ スミスの議論が在る(樫則章他の邦訳書『道徳の中心問題』ナカニシヤ出版,2006)17。その一つ に「道徳的偏執18(moral fetishism)」という論点設定が在る。我々は、否定的にこう評価される 事態がロスの言う上述の「自分の義務を遂行することへの欲求」 (の事態)と重なるものであると 見ている。 やや長い引用になるが、B・ウイリアムズを援用してスミスはこう説いている。 ウィリアムズは次のような男性について考えてみるよう私たちに求める。すなわち、自分の妻 を救うか、それとも赤の他人を救うかの選択を迫られて、自分の妻を救うことを選んだ男性で ある。多くの道徳哲学者はそのような場合でさえ、善良な人は公平な配慮によって動かされる だろうから、この男性を動機づける思考はせいぜいのところ、 「助けを求めているのは自分の 妻であり、この種の状況では男性が各自の妻を救うことは許されうることだ」というものでな ければならないと考えている。しかし、ウィリアムズの批判によれば、これはまったく間違っ た考えである。そのような考えは、夫に「一つの余分な思考」をさせることになる。そして、 このことを理解するために、ウィリアムズは私たちに妻の視点から状況を見るように求めてい る。妻は、夫の「 〔夫を〕動機づける思考が、要するに」 、夫が救った相手は他ならぬ自分の妻 であるということであって欲しいと望むだろうが、それはまったく正当なことである。もしも これ以上の動機づけが要求されるなら、そのことは、夫が妻に対する直接的な愛情と配慮の気 持ち――それこそ妻が望み期待しているものである――を持っていないことを端的に示して 16 これについては 2006/03a を参照頂きたい。 これは日本の近年の議論でも参照されることの多いものだが、 「報告」では、スミスの議論は 結構あいまいな部分が多いので注意するべきである、それを“使う”としても、直截にそこから 学ぶというのではなく、極論するなら自説に都合よく論点を拾い上げればいい、といった趣旨の 発言をもした。日本では――そもそも倫理学史的研究スタイルが優勢であるということもあって ――いわゆる「メタ倫理学」の諸文献に当たる場合であっても「倫理学史」的スタンスで臨み、 それらとの対決で自ら「メタ倫理学」を展開するというスタンスが弱いように思える。この“苦 言”は、もう少し詳しく 2010/11 でも行ったところである。なお、本稿は(も) 「メタ倫理学」的 スタンスに立ったものであるが、 「報告」タイトルで「メタ倫理学(≠メタ倫理学史)の立場で」 という異例の副題を付したのはこうした理由からである。 18 邦訳書ではここは「偏愛」であるが、それ自身には「愛」という含意がないと見て、ここだけ 訳語を変えさせて頂く。 17 - 124 - いる。その場合、夫は妻に対して距離を置き、妻をある意味では赤の他人――もちろん、夫が とりわけ利益を与えることのできる赤の他人ではあるが――のように扱っていることになる だろう (Williams,1976:18)。(99) スミスは引き続いて、 「多くの道徳哲学者」に対するこのウイリアムズの批判の線上で、しかし、 「もう少し強力」な外在主義批判として次のように語る。 外在主義に対する[私の]批判の場合、善良な人とは自分が正しいと信じること――この場合 の「自分が正しいと信じること」とは、言表的[de dicto]であって、事象的[de re]ではない ――をするよう動機づけられている人だと主張することによって、外在主義者たちもまた、道 徳的に善良な人に「一つの余分な思考」をさせているということにすぎない……。彼らは、道 徳が本来目指している目的から道徳的に善良な人を引き離しているのである。愛する人に対し て直接的な配慮を持つことがよい恋人であることの条件であるのと同様に、自分が正しいと考 えること――この場合の「自分が正しいと考えること」とは、事象的であって、言表的ではな い――に対して直接的な配慮を持つことが道徳的に善良な人であることの条件である。このこ とは、正しい行為とは公平な行為だけであると考える道徳哲学者によってさえ認められなけれ ばならないことである。すなわち、公平さに対する善良な人の配慮それ自体は、言表的に正し いことをするということに対する、より基本的な非派生的配慮から派生したものであってはな らないのである。/……すなわち、強い外在主義者の説明では、道徳上の偏執が唯一無二の道 徳的美徳へとまつりあげられてしまうのである。(100) つまりスミスは「外在主義」を、 「正しさ」そのものを志向して、特定の「正しさ」 、たとえば「公 平であること」をそこから「派生」するものとしてしか配慮していない、その意味で「偏執的に」 「正」に固執するものとしてしか「善良な人」を描きえないとして批判するのである。 スミスは同時に、 「派生的欲求」云々(cf.98)とも語って、――であるから、上述のように、ここ でロスの議論と重なってくるのだが――この「偏執」をさらに、そういう「正しさ」への「欲求」 の状態であると見る。 スミスのこの議論で前提となっているのは、「正しさ」そのものなるもの(そういう特性= “rightness”そのもの)はいわばノミナルなものでしかない、という見方であろう。しかしそう するなら、 「公平さ」も(実は)ノミナルであるのではなかろうか。さらには、 「妻であること」 もそうなのではなかろうか。 (科学論では、 「自然種」の身分をめぐって、それは実在か単なる概 念かという議論が在ることをここで想起してみて欲しい。 ) ウイリアムズからの援用では、スミスはどうもそう見ていないとも了解できる。すなわち、 「公 平さ」 「妻であること」はノミナルではないと見ていると了解できる。しかしこれは、ウイリアム ズ自身からは不満が呈せられるであろう。ウイリアムズ(自身)からすれば、当の(特定の)妻 - 125 - は、 「自分が妻である」という理由ではなく、 「他ならぬ私である」という理由で自分が選ばれた のでなければ納得しないであろう。 (ここで、その「男」に「妻」が複数居て、その男が「妻であ る」という特性をもつ故に(その特性が当てはまる一人として)その(特定の) 「妻」を選んだと 「妻」 (性をもつ者) いう場合でも想定して欲しい。 )そうでなければ、その「妻」の救済において、 を救いたいという「非派生的欲求」から「派生」したものとして、その(特定の) 「妻」を救いた いという「欲求」が出てきていることになる。 「偏執」を言うのなら、ここで「妻(性)偏執」と でもいったものを措定することもできる。 (しかしここで、ウイリアムズ自身に対しても批判したくなる。このように見てくるなら、究 極的には「救われる」者は一切の特性を非有意化されていわば“裸の”他者として遇されるので なければならないことになる。いわゆる「隣人愛」は、たまたまいま眼前に居るものへの愛とし て、そうした“裸の他者”への愛である。ウイリアムズは明らかにこうした「隣人愛」を説いて はいない。そこでは、愛する者と愛される者との関係が有意化されて、すなわち、そこでその関 係から措定されてくる多くの特性が有意化され、いわば(一種「性質(特性)の束」として、 “服 を着た” ) 「具体的な他者」への愛が説かれている。しかし、そうすると(逆に) 、いま我々がスミ スを批判したところがウイリアムズにも当てはまってくることになる。ちなみに、上で述べた「功 利主義」は、こうした“裸の他者”の「総計」 (多数)への(一種「隣人愛」的な)愛を動機とす るものだと見ることもできる。19 20 ) 議論を次に進めるが、ロスが言う“one’s duty”は、 (それぞれ特定の) 「状況」から――いわ ゆる「一応の義務」として措定されてくる――あくまで特定の「義務」である。しかしそれでも、 ――「偏執」と言おうと思えば言えるかたちで――意識は(すなわち「欲求(desire)」の対象は) その「義務」遂行が関わってくる他者(の善)ではなく「義務」遂行自身に在る。それは、たと えば「借りた本の返済の義務」であるとき、その本を返すことが相手の為にならない(たとえば、 いま相手に自殺願望が在るとして、その本が入手のむずかしい“自殺教則本”であるような)場 合であっても「本を返却したい」という欲求である。 カントで言うならこれは、端的にはシラーが「厳粛主義」としてカントを批判したところと重 なってくる。改めて確認することでもないであろうが、シラーは、 「困っている人を助ける」とい う義務遂行におけるカントの在り方を、 「困っている人への同情」からではなく、 (たとえば、一 旦その困っている人を憎み、その憎しみを克服するかたちを採る、 ) 「援助」義務を「義務」とし て遂行するものだと批判している。 19 「愛」におけるこの「特性」の有意化・非有意化については、アリストテレス的愛に即して問 題としたものであるが拙稿 2009/03b をも参照頂きたい。 20 これは、多数という数(そのもの)を――たとえば「奇数」性をそうするのとも同じかたちで ――有意化するものではない。唐突であるが、サド侯爵のことでも想起して欲しい。彼は、誘惑 そのものではなく、誘惑した女性の数に拘った。これと同様のものとして、たとえば土屋恵一郎 は(多)数(そのもの)の有意化としてベンサム「功利主義」を理解しているが(1997/11 参照) 、 我々はその解釈を採らない。 - 126 - ネガティヴにはこのように記述できるとして、そこに在る(欲求の)動機性は――ポジティヴ に見て――どのようなものであろうか。 『実践理性批判』で「自己満足」 ( 「自足」 「自己充足」 )と いう概念が提示されている。こう語られている。 我々の心的状態に対する消極的適意――換言すれば〔自分自身だけで足れりとする〕満 足[Zufriedenheit]……。なおこの満足は、その起源を尋ねると、けっきょく我々の人格に対 する満足にほかならない。自由そのものは、このような仕方で(すなわち間接的に)一種の享 受を可能にする、しかしこの享受は、或る感情〔例えば、快適の感情〕の積極的加担を当てに するものではないから、うちつけに幸福と呼ぶことはできない。さりとてまた――厳密に言え ば――浄福(Seligkeit)でもない、かかる享受は、我々の傾向性や〔何か不足なものに対する〕 必要に必ずしもまったく無関係とは言えないからである。とはいえ少なくともその意志規定が、 傾向性や必要などの影響から免れている限りでは、浄福に似たことがある。それだから、この ような浄福の起源を尋ねると、我々が最高存在者〔神〕にのみ認めるところの〔まったく他に 依存しない完全な〕自足性に類似しているのである。 」 (波多野精一他訳、岩波文庫、1979,240) また、同書の別の箇所でこうも語られている。 ……自分自身だけで満足できるという意識……。そこにまたこのように他をまつことなく自分 だけで満足できるということは、一般にほかの点でも私にとっても有益なのである。そこで義 務の法則は、この法則の尊奉が我々に感得させるところの積極的価値によって、我々の自由の 意識に含まれている我々自身に対する尊敬の念を介して、いっそうたやすく受け入れられるこ とになるのである。(316)21 この箇所(等) 、全般的に見て「尊敬の感情」とも呼ばれている事態について、カントの主張の解 釈そのものについては専門家の手に委ねるとして、我々としてはここに、 「義務感」において存在 する一種の「快」 、義務遂行への動機性をもった一種の「快」 (厳密には「快の表象」 )の存在を指 摘したい。人は、一種の「快」=「道徳的快」 (の享受)の実現を動機として義務を遂行しえるの である。ロスの言う「義務を遂行することへの欲求」もこうしたものであると了解したい。 これはより一般的に言うなら、 「良心の満足(の快) 」の一形態であると言えるかもしれない。 そしてまたそれは、 「名誉」 (あるいは非難)といった対他的なもの――林のヒューム解釈はこれ に焦点を合わせたものだと位置づけうるが――が内面化されたものだと言いうる。 そう見るのは、 21 「情念的快」との区別において「道徳的快」の後行性――先行するのでなければ「動機」とは ならないとも言いうる――を説くカントの主張が在ることは筆者も承知している。しかしここで 我々は、とりあえず、この常識的線での理解を超えるたとえば Packer, M.の議論が在ることを述 べておきたい。なお、2009/03b も参照願いたい。 - 127 - 一般に、 「名誉心」 (あるいは“非難を回避する心” )が動機として容易に理解できるところである からである。これを内面化したものとして、 「義務感」も一つの動機性として容易に了解できると ころである。 ただし、カント解釈(そのもの)としては次の点に留意すべきだとも述べておくべきだろう。 「道徳的快」ないしは「良心の満足」を取り出すとして、カントの場合、そこには限定化的要素 として「自由」 (の意識)が在る。カントの基本的主張そのものとしてもそうであるのだが、この 「道徳的快」は、事態としては、言ってみれば「自然的因果性の事柄である傾向性の作動という 鎖から自らを引き離しえたという(その意味での自足) 」の感情と一つのものである。そして第二 に、カントの義務論は必ずしもこれに尽きるものではないということが在る。 「定言的命令」の一 定式化として「人格における人間性を同時に目的として尊敬せよ」というのが在る。ここでは、 ――そうした命令を義務事項として尊敬せよということではなく――(自分も対象であるが)他 者(の「人間性」 )を尊敬せよという、一つの「他者考慮的」道徳性が示されていると了解できる。 たとえばB・ハーマンなどは、同時に「道徳法則への尊敬」から区別しつつ、この側面を優位化 している。これは、ロス的な「義務論」の枠からは(むしろ)外れるものと理解すべきであろう。 カント(解釈)の問題として言うなら、カントもいわば生身の=日常的一市民であって、そう いうものとして保持されている道徳観には様々な要素が在るのであって、それが「哲学」的記述 にも反映されている、それを「解釈」としてそのまま整合化を試みることは実は無理であるであ 「学」としてここで求められるのは――場合によっては「解釈」 ろうと述べておきたい22。そして、 としての妥当性を軽視して――( 「道徳性」事態に対する我々自身の考察から)その核心をいわば 「理念化」的(M・ウェーバー)に取り出すことであろうとも述べておきたい。 しかしながら、 「他者(の人間性)の尊敬」とは何であろうか。これは、研究会の高田、品川の 口頭報告でも問題となったところであるが、そこからも明瞭な(単一)像は得られなかった。お そらくはカント自身が揺れているのであろう。したがって、ここで(も)我々自身が概念措定せ ざるをえない。 (これはカント解釈自身としては問題性をもつであろうが)英語圏では、人間を「合 理的存在者」として、つまり自ら「目的」を設定し、その実現を図っていく者として、それに配 慮するという見方が有力である。 (当日、 「そうであるなら、その「目的」実現のための「素質」 (の自然的差異)が有意化されてくることになる」というかたちで品川に(というかハーバマス に)質問をぶつけてみたが、たとえばロールズにもそういう観点が強く在る。ちなみに、この「目 的」を他者自身の善(さらには幸福)と見る場合、これは、ロールズの批判にも拘わらず、案外 「功利主義」と近いものともなる。 )我々は、これが一つの概念(化)的準拠点になると考える。 そしてその場合、動機性は明瞭であって、そこに在るのは他者配慮的な「共感」である。 ( 「共感」 22 林論稿から(も)学んだところであるが、ヒューム解釈も実に多様である。 (おそらく)ヒュ ーム道徳論(自身)に多様な要素が在るのであって、その全てを整合的に理解するのはおそらく 不可能であろう。我々が自ら(解釈)観点=問題意識をもってするのでないと、そこから単一の ヒューム道徳論を取り出すことはできないであろう。 - 128 - とは相手の善・悪(快・苦)事態への共感である。 ) しかしながらまた、 「尊敬」はこれからも異なるとも解しえる。カントでは人間の「尊厳(Würde)」 が語られている。これが根拠となって、であるから「尊敬」の対象となると見る場合、上のもの とは異なってくる。 (上のものは、 「尊厳」を言うとしても、 (無根拠な) 「尊敬」において「尊厳」 )そして一般に「義務感」も、それが「価値感」を伴って、 「価 在りとする、というかたちを採る。 値」にいわば誘引されて、それが(それを尊敬するという) 「義務感」を引き起こしている場合も 考えられる。前期のヘアが「理想主義的道徳」を析出して、自らの「功利主義的道徳」からそれ を峻別したときも、あるいはそのような“価値誘引的”なものを想定していたかもしれない。 彼はその際、 (自分の選好をも犠牲にして)価値(理想)実現を第一にする在り方として「狂 信(fanatism)」というカテゴリーを措定している。 (ちなみに、――これは佐藤の(安彦)批判に 対する反論ともなるのであるが――後期ヘアは「選好」概念を拡大して、そこに「理想」への選 好をも包摂するかたちで、 いわば理想主義的道徳を包摂するような功利主義の論を提示していて、 そこでは「功利主義」として当然に、その種の選好をも一要素として自他の選好全体を計量する とされているが、 (これに対して)前期における「理想主義的道徳」では、――それは、 「普遍化 可能性」 「指図性」をもつものとして「道徳」ではあるが、およそ他者の「選好」を考慮外に置く ものとして「功利主義」へは包摂不可能なものであって――(さらに)自分のも含めてあらゆる 選好を上回るものとして自らの「理想」が措定されている。 (この場合「理想」は自らが「理想」 とする「理想」である。それを他者が「理想」とすることは容認、というか推奨されているが、 他者の別の「理想」と比較考量するということは認められていない。自らの「理想」が場合によ っては他者の「理想」と比較考量されるということでは、 「理想主義」ということとそもそも相容 ) れないでもあろう。23) 動機性を問う我々の観点からは、この「理想」性に感情性(快)が伴うか否かが重要な論点と 「反選好的選択」という概 なる。センは「コミットメント」ということを語っている24。その際、 念と一つにして、 「コミットメント」という事態――言うまでもなく「理想」はその対象の、少な くとも一部である――は( 「選択」ではあるが「選好」ではないとして) 「選好」事態とは別事態 であるとしている。センはたとえば投票行動にそうした在り方が具体的に表れているとしている 23 他者の「理想」をも比較考量するということは、或る面から言うなら、他者(の「理想」 )に 対して寛容であるということである。したがって、ここにヘアの「自由主義」も関わってきてい るのであるが、 「報告」レジュメでは( 「道徳的信念」に関わる) “conviction vs. opinion”とい う論争軸(および前者の別面である“moral arrogance”の問題性)をも挙げた。つまり、寛容と は、自らの理想を絶対視しないということを伴うのである。ちなみにロールズで言うなら、これ は彼の“reasonable” (を「理に適った」ではなく、あるいはそれだけでなく(さらに) “穏当” と訳出すること)と関わるところである。これについては、2005/03(科研報告書)を参照頂きた い。 24 昨秋の関西倫理学会大会報告で山本圭一郎は、ミル解釈において、この「コミットメント」を 語った。言葉としてはセンのものを援用したとのことであったが、ミル自身において似たような 発想がどのように説かれているのか知りたいところである。 - 129 - が、そうすると、それは極めて日常的な現象でもある。 「 (大)義に殉じる」といったことも、そ うしたもののヴァージョン・アップしたものであろう。 後者の場合は、人目に触れることによって「名誉」が与えられうるが、 「投票」の場合は、そも そも秘密投票であって、そうした事態が伴うことはない。同時に、この場合も、投票所へ行くコ スト支出という犠牲を払っている。人はなぜ、コスト支出を回避したいという「欲求」 ( 「選好」 ) を抑えて( 「一文の得にもならない」 )投票行為をするのであろうか。そこには、どのような動機 性が在るのであろうか。 (センと異なって)およそ選択行為にも「選好」が伴われると見る場合、 そこに何らかの快――それは良心の満足(感)と同種のものであろう――が伴われているとも見 なしうる。しかし、一切の快が不在であるとも見ることができる。 この二つの見方の別は、主要には環境経済学で言われる「存在価値(existence value)」概念を めぐる議論と重なるものである。 「存在価値」は、 「非-使用価値」として、たとえばそれが或る原 生自然に付されているとき、自分としては、さらに(将来世代の者も含めて)誰もそこを訪れ(て 「自然の美」を享受す)ることがないとしても、その保全(保存)のためになにがしか支払う用 意が在るという(表明)行為によって、それが当人にとって「価値」であることが証示されるも のである。これについて環境経済学では、そこに「効用」がないとするものと、なんらかの「効 用」が在るとするものとの二つの見方が在る。25 同様に主要には環境経済学で言われるところの 「道徳的満足(moral satisfaction)」は、この後者の見方と軌を一にしているとも了解可能であ る。 他方、 「効用」が伴わない場合、何が「支払」の動機となっているのであろうか。これは、 「尊 敬」そのものに話を戻して考える場合、およそあらゆる種類の「報酬(reward)」が不在でも「尊 敬」が成立するということである。やはり、なんらかの「報酬」なしには動機づけは成立しない のではなかろうか。研究会では前記の品川報告に対して質問を行ったが、氏が解釈する最近の(カ トリック的?)ハーバマスの主張と重ねて見て、今、それは――神が造った、そういうかたちで 「価値」 ( 「尊厳」 )をもつものへの態度として――キリスト教(文化)に規定されたものでもある のではなかろうかとも、 ふと思った。 (そうすると、 それは一つの他律的事態ともなるのであるが、 ひょっとしてカント( 「尊敬」論)にも基底的次元で他律性が在るのではなかろうか。 )すなわち、 「文化」的「価値観」というところでなんらかの「報酬」性が――「文化」とは定義的に共同「文 化」であって、それは人々(世間)が共通に「価値」としているものであるが、それを自分も「価 値」であるとするところに成立してくる仲間感情(の快)とでもいったものとして、あるいはま た逆に、それを「価値」としない場合、そこから帰結する世間からの“非難”というかたちで― ―存在しているのではなかろうか。 「価値」を言うなら、カントはあるいはまた、 「道徳的」であるその自分(の状態)に価値を見 ているのかもしれない。義務行為を支えるのは、むしろ、こうした自己価値性の実現である場合 25 以上 2008/03 参照。 - 130 - が多いとも言いうる。これは、一般に自分(の人生)の意味性・統一性を求める場合の――上述 のウイリアムズには、この在り方そのものに一つの「倫理性」を見ているところが在るが、カン トの場合は、それをいわば道徳主義的に限定しての――道徳版であるとも言いうる。そして、こ こにも一つの「報酬」性を想定することができる。 議論が次第に「口頭報告」の内容を超えるものとなってきた。さらなる議論展開を約束しつつ、 この辺りで(一旦)擱筆すべきであろう。しかし最後に、この「価値意識」 、あるいは「義務意識」 をめぐって、そして「功利主義」的道徳意識をめぐって、摘出すべき動機性の未解明点がなお多 く在るということだけは明確に主張しておきたい。26 26 全般に、なにぶん短期間での執筆であり、また、その冬休み明けの時期が校務多忙期であった ということもあって、引用・参照文献について十分な文献註を付せなかった。代わるものとして、 研究会口頭報告レジュメでも挙げた筆者の書誌情報「公開データベース」 ( http://www.edu.shiga-u.ac.jp/~abiko/data.html )中の「 「 (倫理学的)道徳心理学」関連文献」 のページを参照頂きたい。 - 131 -