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罪と救い

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罪と救い
罪と救い
日本バプデスト連盟名古屋キリスト教会牧師 森 淳 一
創世記 3章11~13節
神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じ
た木から食べたのか。」アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにし
てくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向
かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、
食べてしまいました。」
おはようございます。
今朝は皆さんとご一緒に、礼拝をもって1日をはじめることができます恵み
を感謝いたします。さて、スウェーデンで生まれた絵本のシリーズの一冊です
が、『わたしのせいじゃない』というタイトルの本があります。副題に「せき
にんについて」と書いてあります。ご存知の方がいらっしゃるかもしれませ
ん。その絵本は、学校での「いじめ」が問題に取り上げられています。クラス
に15人の子どもたちがいて、その中の一人が泣いています。どうも休み時間に
いじめられたようです。「どうしたの?」と問いかけられた残り14人の子ども
たち…、一人ひとりが順番に答えていきます。ある子どもは、「始まった時の
こと見ていないから、どうしてそうなったのか僕は知らない」と言いました。
別な子は、「本当は私見てたの、だから知っているの。でも、とにかく私のせ
いじゃない」と言いました。こうして14人の、それぞれの言い分が出てくるの
ですが、最後にみんなで次のように言うのです。「たたいても、私は平気だっ
た。みんなたたいたんだもの、私のせいじゃない…」。ここで絵本は終わるの
ですが、その次のページに、大きな字で「わたしのせいじゃない?」と、今度
はクエッションマークをつけて、読む人に問いかけるように書いています。
その次のページから、少し唐突な感じも受けますが、実際に世界で起こった
深刻な社会の問題や戦争の写真が載せられています。詳しい解説はありません
が、戦争で捕虜となった一人を多くの兵士がみんなで囲み、笑いながらリンチ
している写真や、もくもくと煙突から煙を出し、公害を撒き散らす工場の写
真。あるいは、原爆の写真。食べるものが無いのでしょうか。やせ細って、た
だ泣くしかないといった子どもの写真など…。そのような写真が、いくつか載
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せられて、この本は終わります。読んでいて、たとえば、14人の子どもたちが
言っていることも、よく分かる気がします。「いじめ」があると聞いても、私
には関係ない。「いじめ」を見ても、止めるわけにもいかない。下手なことを
すれば、今度は自分が標的にされてしまう。そうした現実を前に「わたしのせ
いじゃない」と言って、自分を守るということは、誰にだってあることではな
いでしょうか。「わたしのせいじゃない」という、この14人は、つまり、私た
ち自身のことでしょう。みんながやっているから、「いじめ」は仕方がない。
「公害」も、そして「戦争」も…。自分の痛みや悲しみは分かってもらいたい
くせに、人の痛みや悲しみには鈍感な心。それは、私たちの心でもあります。
「わたしのせいじゃない」…、先ほど読んでいただきました旧約聖書・『創
世記』にも、人類・最初の人と言われたアダムとエバの時から、こう主張する
人間の罪な姿を聖書は私たちに伝えています。「罪」とは、聖書によれば、関
係の崩れのことでもあります。互いに「わたしのせいじゃない」と言って、責
任を転嫁し、ついには神さまにも責任があるかのような発言をして、神と人、
人と人との信頼関係を壊してしまう人間の姿です。この絵本を読んでいて、私
は少し悲しく、また少し辛く感じました。それは、一人のいじめられた子ども
にも、またいじめた14人の子どもにも、どこか自分が重なるからです。私たち
の社会で「いじめ」はいつも深刻な社会問題です。子どものことだけでなく、
大人の社会で「いじめ」は深刻です。そして、その問題の根は広く深く社会の
様々な問題に関係していると感じます。みんなやっているじゃないか、自分よ
り悪い奴がいるじゃないか、わたしのせいじゃない。そう言って生きている。
そう言って、生きていかざるを得ない。それが、私たち人間の罪な現実です。
実際、私たちも、自分の「罪」ということにどれほど気づいているでしょう
か。戦争を繰り返し、「いじめ」を見ても見ない振りで世界の・社会の様々な
問題にも関心は薄い。仕方ないよ、わたしのせいじゃない、自分ひとりが生き
ていくことだけで精一杯なのだから…。そうなのです。これが、私たちの現実
でしょう。しかし、毎日を忙しく生きて、心が擦り切れて、温かい心も持て
ず、けれど仕方ないよ、人生なんてこんなものだよ、と、言い切るとき、やは
り見るべき「罪」を、「罪」な社会の現実を、見てみない振りをしているので
はないかと思います。「罪の報酬は死である」という聖書の言葉もありますが、
いつか自分は死んでいく、ただ働いて、ただ働いて、そして死んでいく…。こ
の「罪」な現実、神なき世界の現実、そうした現実から目を背き続ける人間の
問題を、聖書はそのはじめの書物である『創世記』から、大切なこととして私
たちに伝えているのではないでしょうか。
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教会の暦では、今は、イエスさまの十字架への歩みを心に留める「受難週」
という時の中を過ごしています。私たちが,この「受難週」に心に留めるべき
一つのことは、この人間の、私の「罪」という問題なのです。イエス・キリス
トが十字架に掛けられたのは、人間の「罪」の「贖い」のために、ということ
があるからです。「あがない」という言葉は、今、普通には使われない言葉か
もしれません。「贖い」とは、代価を払って買い取るという意味です。「罪」に
沈む私たち人間を、「罪」な現実を生きざるを得ない私たちを、神さまがその
ひとり子イエスを代価として払い、私たちを「罪」から買い取ってくださっ
た。罪の子ではなく、神の子としてくださった。これが十字架の一つの意味で
す。聖書は「わたしのせいじゃない」と言うことなく、隣り人の傍らに、その
人の痛みや悲しみに、そっと寄り添い、共に痛み、共に涙してくださった方の
存在を語ります。イエス・キリストの十字架に至る生涯と言葉が、そのことを
語るのです。「罪」とは、何か。また、その「罪」からの救いとは、何か。キ
リストの十字架を覚える「受難週」…、少しだけでも、そうしたことに心を留
める、そのようなひとときが与えられればと願います。
2011年4月20日 朝の礼拝
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