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『動物園物語』―ジェリーについての考察 逢 見 明 久

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『動物園物語』―ジェリーについての考察 逢 見 明 久
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『動物園物語』―ジェリーについての考察
逢 見 明 久
序.筋書き
JERRY: I took the subway down to the Village so I could walk all the way up
Fifth Avenue to the zoo.
It’s one of those things a person has to do;
sometimes a person has to go a very long distance out of his way to come
back a short distance correctly. (21)
ジェリーは死を決意して長い散歩に出た。ナイフを所持していることがそ
の意図を暗示している。ジェリーはピーターの構えるナイフに身を投げ出す
とき、覚悟を決めるかのように深く息をつき “So be it!”と叫ぶ。しかしこの
言葉から分かるように、ジェリーは死を確定的な未来として捉えていない。
生存の可能性もあるからだ。ナイフに身を投げるという行為は計画されたこ
とかもしれないが、その後の展開で自身が生きるか死ぬかは運に任せるほか
ない。ジェリーがナイフに身を投じる場面を、ト書きでは以下のように描写
している。
With a rush he charges PETER and impales himself on the knife. Tableau:
For just a moment, complete silence, JERRY impaled on the knife at the end
of PETER’s still firm arm.
Then PETER screams, pulls away, leaving the
knife in JERRY. JERRY is motionless, on point.
Then he, too, screams,
and it must be the sound of an infuriated and fatally wounded animal. (47)
78
ナイフに身を投じるとき、舞台上の時間はしばらく静止し、完全なる静寂
が訪れる。ジェリーにとっては生死を分かつ運命の瞬間である。やがて静か
に時が動き出し、ジェリーは激しい苦痛に見舞われ、致命傷を負った怒れる
動物の如く叫ぶと、次第に迫りつつある死を実感する。
JERRY (JERRY is dying; but now his expression seems to change.
His
features relax, and while his voice varies, sometimes wrenched with pain,
for the most part he seems removed from his dying.
you, Peter.
He smiles): Thank
I mean that, now; thank you very much. (47-48)
死を確信したとき、ジェリーの表情は穏やかになり、安らかな微笑みすら浮
かんでいる。ジェリーは畜生の如き苦悩の人生から解放される安堵に満たさ
れて、それを可能ならしめたピーターに感謝するのだ。
JERRY: Oh, Peter, I was so afraid I’d drive you away.
he can)
(He laughs as best as
You don’t know how afraid I was you’d go away and leave me.
(48)
ジェリーは愛し方も愛され方も知らないまま、ひとり闇の中を手探りで歩
んできた。その道のりはあまりに遠く、その孤独は計り知れない。ジェリー
は自身の存在意義を人生に求めたが、ついに答えを見出せないまま自殺を決
意し、それを実行する。死に瀕したジェリーは、現在の結果から逆算して自
殺決行日の行動を見つめ、そこに筋書きがあったと考えている。
JERRY: I think that while I was at the zoo I decided that I would walk north
… northerly, rather … until I found you … or somebody … and I decided
that I would talk to you … I would tell you things … and things that I
would tell you would … Well, here we are.
You see?
Here we are.
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But … I don’t know … could I have planned all this?
No … no, I
couldn’t have. But I think I did. (48)
その日、ジェリーは自身の描いた筋書きを再現しようとする、いわば自伝
劇を演じる役者になろうとした。それだけではない、ジェリーは演出家とし
て、自身を主人公とする作品世界を支配しようとした。それまでの人生はジ
ェリーにとって、生きている手応えのないもので、希薄で不確かな自身の存
在感を思い知らせるものでしかなかった。それだけに、流され続けた人生に
意志の力によって方向性を与えることを、自殺決行日に実現しようと試みた
のだ。それは自身の生きた証しを遺そうとする意図からであろう。ジェリー
はその作品を完結させる要素として、共演者を求めていた。それがピーター
である。ピーターはジェリーの筋書き上の登場人物であり、観客でもある。
ジェリーは人生最後の日に、少なくともある種の共感に結ばれた人間関係を
結ぶことができたであろう。これはジェリーが生涯追い求めた関係であり、
その願いが叶ったことを意味する。だからこそピーターに感謝するのだ。
ジェリーの最期の言葉は “Oh … my … God.”(49)である。オールビーはこ
の台詞に対するト書きとして‘His eyes still closed, he shakes his head and
speaks; a combination of scornful mimicry and supplication.’ と記している。こう
してジェリーはまぶたを閉じ、自己の意識へと深く入り込んで死に至る。ジ
ェリーは最期にどのような心境に到達したのか。
ジェリーの告白は、ときに断片的であり、ときに散漫だが、それぞれの糸
を一本に縒り集めたとき、整合性が認められるかもしれない。もしそれが可
能なら、それは混沌としたジェリーの人生に一貫性があることを示している。
A man in his late thirties, not poorly dressed, but carelessly. What was once a
trim and lightly muscled body has begun to go to fat; and while he is no longer
handsome, it is evident that he once was. His fall from physical grace should
not suggest debauchery; he has, to come closest to it, a great weariness. (11)
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これは作者が創造したジェリーの容姿と印象である。ジェリーの顔に刻み込
まれた苦悩はいつから始まったのか。ジェリーの苦悩の根源に迫り、ジェリ
ーが死の選択を行動に移すまでを検証し、作者オールビーの意図を考察して
みたい。
Ⅰ.写真立てと両親
JERRY: What I do have, I have toilet articles, a few clothes, a hot plate that I’m
not supposed to have, a can opener, one that works with a key, you know;
a knife, two forks, and two spoons, one small, one large; three plates, a
cup, a saucer, a drinking glass, two picture frames, both empty, eight or
nine books, a pack of pornographic playing cards, regular deck, an old
Western Union typewriter that prints nothing but capital letters, and a
small strong box without a lock which has in it … what?
Rocks!
Some rocks… sea-rounded rocks I picked up on the beach when I was a
kid.
Under which … weighed down … are some letters … please letters
… please why don’t you do this, and please when will you do that letters.
And when letters, too.
When?
When will you write?
When will you come?
These letters are from more recent years. (23)
こうしたジェリーの所有物のリストから、なにが分かるだろうか。必要最
低限の日用品は来客がほとんどないことを暗示し、孤独な生活が覗える。だ
が、その一方で実用面のみを重視して完全に無駄を省いているとは言い切れ
ない矛盾もある。ジェリーの所有物には日用品とはいえない不要品も含まれ
ている。例えば、二つの空の写真立て、トランプ、鍵のかかっていない貴重
品箱、その中に保管された石ころなどである。ジェリーは短期滞在者を自称
し、アパー・ウエストサイド界隈の安アパートを移り住んでいる。度重なる
引っ越しに無駄な持ち物は淘汰されるだろう。手元に残す以上、ジェリーに
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とっては必要な品のはずである。
ジェリーの数少ない所有物のなかでピーターが関心を示すものに、空の写
真立てがある。ピーターはこの写真立てに入っていた写真を、“Your parents …
perhaps … a girl friend …”(23) と憶測を巡らせる。恋人の写真という説につい
て、ジェリーとピーターは次のような言葉を交わす。
JERRY: And let’s see now; what’s the point of having a girl’s picture, especially
in two frames?
I have two picture frames, you remember.
I never see
the pretty little ladies more than once, and most of them wouldn’t be
caught in the same room with a camera. It’s odd, and I wonder if it’s
sad.
PETER: The girls?
JERRY: No. I wonder if it’s sad that I never see that little ladies more than once.
I’ve never been able to have sex with, or, how is it put? … make love to
anybody more than once.
Once; that’s it. (25)
ピーターは明らかに若い娘を想定しているが、ジェリーはそれを手短に否
定する。ジェリーの語る“the pretty little ladies”は一度きりの情交を結ぶ相手で
あり、まさしく行きずりの関係にすぎない。その相手は小柄な美人だが、“a
girl”と言えるほど若くはない年齢なのだ。30 代後半のジェリーの相手として
は、同じ 30 代の女性との交際の機会が多くても不思議ではない。ジェリーは
なぜ女性との関係が持続しないのか。アパートの女家主に対する態度にも露
骨な嫌悪感が入り交じっている。このようなジェリーの女性に対する態度は
どこから来るのだろうか。その謎を解く鍵は、ジェリーの生い立ちにあるか
もしれない。
JERRY: [G]ood old Mom walked out on good old Pop when I was ten and a
half years old; she embarked on an adulterous turn of our southern states
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… a journey of a year’s duration … and her most constant companion …
among others, among many others … was a Mr. Barleycorn. At least,
that’s what good old Pop told me after he went down … came back …
brought her body north.
We’d received the news between Christmas and
New Year’s, you see, that good old Mom had parted with the ghost in
some dump in Alabama. (23-24)
毎年クリスマス・シーズンはジェリーにとって苦痛の時であったに違いな
い。ジェリーの年齢は現在 30 代後半の設定だが、彼の人格形成に多大な影響
を与えた出来事は、10 代の多感な時期に訪れたと思われる。ジェリーが 10
歳の頃、母親が家庭を出てゆき、その1年後南部で野垂れ死に、幼いジェリ
ーは哀れな骸となった母親と再会する。父親もほどなくして母親のあとを追
うかのように、バスに飛び込んで死ぬ。11 歳のジェリーにとってそれは自己
の存在を無視されたに等しい悪夢である。以来この不幸な過去を、ジェリー
は背負ってきた。しかし、ジェリーは母親の骸を“a northern stiff”(24)と述べて
おり、いかにも冷淡である。こうしたジェリーの態度には疑問が残る。写真
立ては本当に空なのか。その中には数少ない家族写真が収められていても不
自然ではない。あるいは外出の際には持ち出していることも考えられる。作
者オールビーはジェリーの話について次のように述べている。
[D]uring the course of the play he tells Peter a number of stories about his past,
about his life, some of which are true, some of which are not.
It’s always fun
for the actors who are doing the play to figure out which ones are true and
which are not. (Gussow 132)
作者の言葉により、写真立てが空だとするジェリーの話が嘘である可能性は
残された。両親の死が過去にすぎず、現在の自分と無関係といわんばかりの
ジェリーの態度は信憑性を欠いている。ならばジェリーの言葉のどこかに、
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親への思慕の痕跡が見いだせるはずである。
ここで作品と史実との整合性を確かめてみたい。ジェリーの家族が離散し
た時代背景を確認するためである。母親が家族のもとを離れた時期は、おそ
らくクリスマス・シーズンで、当時ジェリーは 10 歳 6 ヶ月だった。その1年
後に母親が遺体となって戻ってきたのがクリスマス・シーズンとされている
ので、ジェリーの誕生日は 6 月末と推定される。ちなみに作者はこの作品を
30 歳の誕生日(1958 年 3 月 12 日)の 10 日前に書き上げている。作者が意図
的に区切りのよい数字を好み、ジェリーの 40 歳の誕生日が間近な時期を現在
として設定していることもあり得る。6 月末といえば、ニューヨークはすで
に夏であり、作者が示す時の設定とも合致する。そこで起点となる日を 1958
年 6 月末とすると、創作の時点よりも未来を扱うことになる。さらにジェリ
ーが 40 歳の誕生日を間近に控えているという設定を最優先して、仮に 1957
年 6 月末を現在とすると、ジェリーの母親が家を出たのは 1927 年 12 月末と
なる。この場合、創作の時点より過去を扱うことになる。オールビーは創作
の時点において、未来を想定したのか、それとも過去を想定したのか。
オールビーはこの作品について、“It was sort of a thirtieth-birthday present to
myself.” (Wager 32) と述べている。オールビーにとって 1928 年という年号は
忌むべき年であった。彼は 1928 年 3 月 12 日に首都ワシントンで生を受けた
が、父親に認知されず、母親のルイーズ・ハーヴェイも親権を放棄し、マン
ハッタンの養子斡旋養護院に保護された(Gussow 22)。無力な乳飲み子のう
ちに棄てられたオールビーは、当然のことながら母親の顔も愛情も知らない。
父親に至っては名前すら不明である。不幸な境遇を背負ったオールビーが、
ジェリーに自身の姿を重ねているとも解せる。そこで 1928 年という年号を優
先して、ジェリーの母親が家を出る年に重ねてジェリーの年齢を計算すると、
1957 年 6 月末を現在とする設定では 38 歳、1958 年 6 月末を現在とする設定
では 39 歳となる。1958 年 6 月末を現在とする案は、創作期よりも未来を扱
うことにはなるが、1928 年という年号と 40 歳間近という条件を満たす唯一
の選択肢である。劇作家としての道を踏み出したオールビーが過去と向き合
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うべくこの作品を自身への贈り物として書いたとすれば、1928 年へのこだわ
りを作品に反映させた可能性は十分あるだろう。
しかしジェリーの母親が家を出た時期を 1928 年に限定する前に、そのほか
の選択肢を考えてみたい。もしジェリーの母親の家出が 1929 年の 12 月末で
あったなら、ジェリーの母親の人物造形の解釈は異なる展開を見せるからだ。
1929 年 10 月 24 日、ウォール街の株式市場の株価が大暴落し、アメリカ経済
は大恐慌に見舞われ、その影響で多く労働者が職を失い路頭に迷った。歴史
学者 D.A.シャノンはその著書で大恐慌による失業労働者数を労働省労働統
計局の統計に基づき、“In 1929, according to the Bureau of Labor Statistics (BLS)
of the Department of Labor, there were 1,499,000 unemployed workers, 3.1 percent
of the total labor force.
For 1930 the BLS reported 4,248,000 unemployed, or 8.8
percent; for 1931, 7,911,000 and 16.1 percent; for 1932, 11,901,000 and 24 percent;
for 1933, 12,634,000 unemployed, over one-fourth the labor force.”(Shannon 143)
と述べている。
しかしながら 1928 年 12 月末のニューヨークは未だ好景気に沸いており、
ジャズエイジの真盛りである。夫との結婚生活に問題がなければ、ジェリー
の母親は正当な理由なく家族を捨てたと言われても仕方ないだろう。これは
母親としても、人間としても非道の誹りを免れない行為で、ジェリーにとっ
ては母親が野垂れ死んでも同情できないのは無理もない。
ジェリーの年齢設定が 30 代後半と曖昧なことから、母親が家を出た時期を
1929 年 12 月末と解釈することもできよう。大恐慌の煽りを受けてジェリー
の父親が失業し、家を失い、家族が路頭に迷った過去を、作者が暗示してい
るとも解せる。その場合疑問が生じる。誰が稼ぎ手を担ったかである。父親
の再就職が、日雇いという不確かな選択肢しかなかった時代である。生活費
欲しさから、母親が七番街で娼婦まがいのことに手を染めることも考えられ
る。しかしそれでも街頭には同じ境遇の女たちが溢れており、思うに任せな
かっただろう。まさに地獄絵である。ジェリーの父親の言葉が正しければ、
母親は駆け落ちして南部諸州を渡ったあげく酒におぼれ、アラバマで亡くな
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ったとされている。ジェリーの父親が自分の妻に愛情がなければ、離婚を求
めたであろうし、遺体の引き取りも拒んだだろう。しかし、離婚はせず、妻
の遺体を引き取りに遙々南部まで出向いたことから、ジェリーの母親が家を
出た理由は、家族を支えるためであった可能性もある。夫と息子のいる街か
らできるだけ離れ、遠い南部の地で孤独に耐えながら、酒で精神的苦痛を誤
魔化しながら体を売り続けたという設定もあり得るのである。その場合、ジ
ェリーの母親に対する思慕は篤く、母の死はジェリーにとって深い喪失感に
なっていたはずである。もしこのような過去が背景にあるなら、ジェリーは
自身の存在意義を信じることができたであろうから、ジェリーが自殺する動
機についての信憑性が乏しいことになる。
母親の家出を 1928 年に設定するか、1929 年にするかで、ジェリーの人物
造形も大きく左右される。いずれにしてもジェリーの過去で変わらない部分
がある。それはジェズエイジに生まれ育ったという点である。ニューヨーク
では 1925 年までに 8000 人以上の婦人がホステスまがいの“taxi dancer”という
怪しげな仕事をしており、週に 30 ドルも稼いでいた。これは当時のサラリー
マンの2倍の賃金に相当する。1931 年にはマンハッタンだけで 100 箇所以上
の“taxi dance hall”が営業していたという(Currell 146)。ジェリーの母親が“taxi
dancer”だった可能性は十分ある。そして、それはまさにアメリカ国民が物質
主義に傾斜した時代、富めるものと、貧しいものとの格差が深刻化した時代
を物語る現象であろう。この貧富の格差はジェリーとピーターのいる現在で
も変わらずに存在している。親子愛すら顧みない精神の頽廃は、共感や想像
力の枯渇した即物的人間の存在を示唆している。ジェリーは諸悪の根源を物
質主義に見いだしているようだが、自身もまた即物的人間の域を出られずに
苦闘した経緯がある。
Ⅱ.トランプと小柄な美人
JERRY: [W]hat I wanted to get at is the value difference between pornographic
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playing cards when you’re a kid, and pornographic playing cards when
you’re older.
It’s that when you’re a kid you use the cards as a substitute
for a real experience, and when you’re older you use real experience as a
substitute for the fantasy.
(27)
そもそも来客のないジェリーにとって、トランプは不要品のはずである。
そのトランプを手放さないのは、それが今も必要だからであり、ジェリーの
トランプの卑猥な図柄へのこだわりはジェリーの心の秘密を解く鍵のひとつ
に違いない。ジェリーは齢を重ねることにより、トランプの卑猥な図柄の用
途が変化するという持論をピーターに語るが、トランプは幼少期から今に至
るまでのジェリーの体験とその記憶を反映したものであろう。作者はトラン
プの挿話を通じて、ジェリーの人格形成に多大な影響を及ぼした経験を示唆
している。
.
幼少期のジェリーは、トランプの卑猥な図柄を通じて、心に追い求めたな
..
にかを疑似体験する試みを繰り返した。幼い無力なジェリーが求めたものは
母性愛であろう。ジェリーは 10 歳の頃の母親の失踪、11 歳の頃の父親の自
殺と幼少期に不幸が重なった。父の他界により母への思慕をより深めたとも
解せる。両親との早すぎる死別に加え、大恐慌による貧しさで日々の生活に
追われる人々のなかで生きてゆくことは、愛の定義をより曖昧にさせたこと
であろう。十代の多感な時期には、なんらかの精神的な支えがなお必要であ
る。親の愛情が最も必要な時に、ジェリーは見放されていたのである。
卑猥な図柄により愛を疑似的に体験するというジェリーの着想はどこから
生まれたのだろうか。ピーターとの対話において、ジェリーは女性に対する
失望を吐露する傾向がある。アパートの女家主の描写に至っては、“I don’t like
to use words that are too harsh in describing people.
I don’t like to.
But the
landlady is a fat, ugly, mean, stupid, unwashed, misanthropic, cheap, drunken bag of
garbage.”(27) と嫌悪感を帯びた否定的な侮蔑の言葉を連ねている。容姿の醜
さ、性格の悪さ、愚鈍さ、不潔さ、人間嫌い、吝嗇、酒浸り、などの形容の
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ほとんどは、他者を外見から判断する先入観から成り立っているだろう。こ
うした先入観は、ジェリーの主観の偏りを暗示している。その偏りを引き起
こしているのは、不倫し、失踪して亡くなった母親の母性に対する疑念では
ないか。ジェリーは、アパートの女家主を本能的欲求のみで動く思考能力に
欠けた動物のように描いており、平面的なとらえ方に終始している。 “The
smell of her body and her breath … you can’t imagine it … and somewhere,
somewhere in the back of that pea-sized brain of hers, an organ developed just
enough to let her eat, drink, and emit, she has some foul parody of sexual desire.
And I, Peter, I am the object of her sweaty lust.”(28)
ジェリーは母との関係が希薄だった。母親を想うとき、乏しい記憶を頼り
に、多くを想像で補うしかない。しかしその想像はときに憧れに、ときに憎
しみにより対照的な二つの平面的虚像をつくり出す。ジェリーが母親への憎
しみを重ねる対象としてアパートの女家主を選んだとしたら、女性について
外見的な判断に終始し、人間性すら否定するジェリーの態度は、母親への思
慕の裏返しといえるだろう。
齢を重ね中年に達した現在のジェリーが抱く平面的な女性観は、トランプ
の卑猥な図柄のとらえ方にも反映している。幼少期のジェリーはトランプの
卑猥な図柄によって愛を疑似体験した。これは愛には卑猥さが伴うという確
信に基づいている。大人になったジェリーにとって、幻想に浸るための実体
験は、卑猥な性愛に母性愛を発見することを目的としている。トランプの卑
猥な図柄は母性愛を暗示するものとして理想化されており、愛は卑猥なもの
という前提は揺るがず、疑似体験の手段がトランプから実体験へと移行した
にすぎない。
ジェリーの性体験には、多くの場合小柄な美人が絡んでいるが、これはジ
ェリーの理想とする愛の原型と密接に関連する条件と考えられる。卑猥な図
柄のトランプを所有している事実は、ジェリーが未だ人間を平面的にしか捉
えられず、唯物的思考から解放されていないことの証しである。しかし物を
思い出の証しとして保管すること自体は、唯物的思考と全く異なる。記念品
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は過去の経験が前提になるからである。記念品は実体験を呼び起こす媒体と
なる。思い出は時空を越えて永遠である。ジェリーにとって、鍵のかかって
いない貴重品箱は、思い出の玉手箱といえるだろうか。
Ⅲ.貴重品箱の中身
JERRY: What I do have, I have … a small strong box without a lock which has
in it … what?
Rocks!
Some rocks… sea-rounded rocks I picked up on
the beach when I was a kid.
Under which … weighed down … are some
letters … please letters … please why don’t you do this, and please when
will you do that letters.
When will you come?
And when letters, too. When will you write?
When?
These letters are from more recent
years. (23)
貴重品箱に鍵がかかっていないのは、中身が金銭的に無価値なものであり
盗まれる心配がないからである。しかしそれらは大切なものだからこそ貴重
品箱に保管されているだろう。ジェリーの場合はどのような意味を持った品
なのか。
貴重品箱のなかの保管品は二種類、小石と手紙である。小石は幼少期に海
辺で拾ったもの。手紙は何通かあるが、より最近のものとのみ言及されてい
る。それがひと月前のことか、ひと夏前のことか、手紙の書かれた時期を特
定するには情報があまりに乏しい。時の観念は記憶などと結びつく場合、時
計で計った時間とは異なる広がりと奥行きを有する。時の長短の感覚は人の
精神状態にも左右されるので、ジェリーの言う「より最近」の意味を正確に
把握することは容易ではない。作者は“These letters are from more recent years.”
を、“These letters are from more recent years than those sea-round rocks.” とも、
“These when letters are from more recent years than those please letters.”とも解釈
できる不完全な表現を用いて、内面的な時間の曖昧さを暗示している。しか
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も手紙については、詳しい文面は省略され、依頼の手紙と時期を問う手紙の
二種類に大別されているのみで、その上、誰が誰に宛てて書いたかさえも曖
昧になっている。
ジェリーは現在、他者との関係を築けずにいる。女性との関係は数え切れ
ないが、どの女性とも行きずりの関係にすぎず、文通するほど親密な関係で
はない。仮にも女性からの手紙を保管するほどの愛着も覗えないし、それを
示す根拠は薄い。ピーターへの告白が真実なら、ジェリーが親密な関係を持
った人々は両親と伯母以外にない。ただし伯母とは同居していたことから、
手紙のやり取りがあるのは不自然である。可能性としては、ジェリーが母親
に書いた手紙、もしくは父と母の文通に絞られる。仮に手紙が父と母の愛し
合っていた証しとなるものなら、それはジェリーにとって救いになり得るだ
ろう。そして海辺で拾った丸石と手紙はジェリーにとって自身のアイデンテ
ィティを証明するものとして貴重品の意味を持つだろう。しかしこの場合、
ジェリーは両親の写真を写真立てに収めて飾っていただろうし、自殺する理
由がないという矛盾に突き当たる。
ジェリーが母親に宛てた自分の手紙を保管するとしたら、それはどのよう
な意味があるだろうか。それは日記としての役割だろうか。ジェリーが母親
と離れていた期間はおよそ1年間。しかも、父親からは母親がほかの男と駆
け落ちしたと聞かされている。それに加えジェリーの母親は南部諸州を転々
としていたことも言及されているので、手紙を書いたとしても宛先が分から
ない以上送りようがなかったであろう。手紙の書き手がジェリーなら、母親
に語りかけることにこそ意味があっただろう。手紙を書くことは、母親との
繋がりを信じるための手段であったのかもしれない。“please why don’t you do
this, and please when will you do that letters.”というジェリーの表現から覗える
ように、依頼の手紙は懇願の意味合いを帯びており、母親からの愛情を求め
る手紙とも解釈できよう。
貴重品箱に保管された手紙がジェリーの手によってごく最近書かれたなら、
ジェリーの脳裏に母親への思慕と記憶が、10 歳の頃のまま保存されているこ
90
とを示唆している。ジェリーの内面的な時間は、10 歳の頃より停止しており、
すでに亡くなっている母親に手紙を書いていることになる。子供の頃、ジェ
リーが海辺で拾ったとされている小石が、もし両親との団欒を示すものなら、
ジェリーは貧しくとも自分の家庭を築くことができたであろうし、死ぬ必要
も無いのではないか。貴重品箱の中身は全て、小石も手紙も同様に虚構の産
物と考えられる。小石は、あたかも側に両親がいるように空想して、独り海
辺で拾ったものではないだろうか。このことは写真立てが空のままであると
いうことの説明にもなる。ジェリーは写真立てに入れるべき、虚構の写真を
想像していたとも考えられる。貴重品箱はジェリーが虚構の過去を詰め込ん
だパンドラの箱だったかもしれない。貴重品箱に鍵が外れていることは、現
実を虚構で満たそうとしたジェリーの意図を暗示している。鍵のかからない
貴重品箱に中身には、死者に語りかけ、自身の生の意味を見いだそうと虚し
い試みを続けるジェリーの姿が反映している。
Ⅳ.断片的連想に見るナルシズム
JERRY: A person has to have some way of dealing with SOMETHING.
with people … if not with people … SOMETHING.
If not
With a bed, with a
cockroach, with a mirror … no, that’s too hard, that’s one of the last steps.
With a cockroach, with a … with a …with a carpet, a roll of toilet paper
… no, not that, either … that’s a mirror, too; always check bleeding.
You see how hard it is to find things?
With a street corner, and too many
lights, all colors reflecting on the oily-wet streets … with a wisp of smoke,
a wisp … of smoke … With …with pornographic playing cards, with a
strongbox … WITHOUT A LOCK …with love, with vomiting, with
crying, with fury because the pretty little ladies aren’t pretty ladies, with
making money with your body which is an act of love and I could prove it,
with howling because you’re alive; with God. How about that?
WITH
91
GOD WHO IS A COLORED QUEEN WHO WEARS A KIMONO AND
PLUCKS HIS EYEBROWS, WHO IS A WOMAN WHO CRIES WITH
DETERMINATION BEHIND HER CLOSED DOOR… with God who,
I’m told, turned his back on the whole thing some time ago … with …
some day with people. (JERRY sighs the next word heavily)
With an idea; a concept.
People.
(34-35)
ジェリーは他者との関係を築くことを希求し、そのために身の周りの世界
との交流の切っ掛け(SOMETHING)を探している。ジェリーが述べる
“SOMETHING”の具体例はいくつかに分類できる。まず、室内の事物、次に
街頭の風景、所持品、自身の感情。次いで孤独の客観的把握へと続く。それ
はまるで希薄で不明瞭な自身の存在感に、より鮮やかで明確な形を与えるこ
とを願っているかのようである。
まず、室内の事物について考えてみたい。ジェリーが挙げている用例は、
寝台、ゴキブリ、鏡、絨毯、トイレットペーパーである。しかしこのなかで、
鏡とトイレットペーパーについては「末期段階」として取り消している。ジ
ェリーのその発言はたして嘘偽りのない言葉だろうか。紛れもない本心だか
らこそ、ジェリーは誤魔化しているのではないか。不意に口をついて出た言
葉にこそ真実があるのではないか。ジェリーは「末期段階」ゆえに、死を覚
悟しナイフを所持していたはずである。それでは「末期段階」とはなにか。
それは「鏡」が暗示するナルシズムと関係があるだろう。ジェリーは他者を
表面的にとらえることに終始している。それはジェリーが他者との交流を試
みるときに障害となっている。問題は他者にあるのではなく、他者への無関
心にあるのではないか。ジェリーの思考は行動の以前にすでに自己完結して
いるとすれば、ジェリーの関心事は自分自身ということになろう。
街頭の風景への言及については、雨に濡れて色とりどりのネオンに照り輝
く路面を見つめるジェリーの姿、煙草を燻らしながら夜の歓楽街に立ちつく
すジェリーの姿が見えてくる。ジェリーはなぜその場にいたのか。続く思念
92
は、ジェリーの所有物に移り、卑猥な図柄のトランプと鍵のかかっていない
貴重品箱を言及する。トランプはジェリーの即物的思考と結びつき、貴重品
箱はジェリーの空虚な心を暗示している。ジェリーは次第に内省の度合いを
深め、諸々の事象に対する自身の感情的反応に目を向けてゆく。それは現実
世界に理想の愛を求めて期待を裏切られては、幻滅し、嘆き、憤り、そのあ
げく自己主張に終始する孤独なジェリーの内面の反映とも解釈できる。さら
に孤独に喘ぐ同じアパートの住人を神と同一視する思念には、彼らに自らの
孤独な境遇を重ねる共感心理が働いている。それはまさしくジェリーが自ら
禁じた鏡を覗くのと同じ行為である。加えて、雨に濡れた歓楽街の路面は、
まさに「鏡」の隠喩として機能している。ジェリーが見つめる世界は歓楽街
のけばけばしいネオンの明かりではなく、路面に映るその虚像である。それ
はジェリーの主観によって歪められた幻影である。ここまでの思念を縒り集
めると、室内の描写は安ホテルを思わせ、夜な夜な街の女を求めるジェリー
の虚ろな内面を垣間見ることができる。お金で愛を得ようとする行為は、所
詮誤魔化しにすぎない。
小柄な美人は虚しい心を埋めてくれるはずであったが、1時間程度の行き
ずりの関係から学ぶことは女の娼婦性であり、ジェリーの期待はいつも裏切
られた。毎回の同じ幻滅と後悔の繰り返しであったにもかかわらず、ジェリ
ーは小柄な美人をひたすら追い求めた。それは自分を捨てて男と駆け落ちし
て野垂れ死んだ母親への憧れと憎しみが綯い交ぜになった行為だっただろう。
ジェリーがお金を出して求めた小柄な美人は、一様に亡くなった母親と同じ
年頃と考えられる。それは同じトランプの図柄を眺める行為に似ている。ジ
ェリーの時間は 10 歳のまま止まっているのだ。作品の背景には、物質主義で
空洞化した心を幻想で満たそうとするアメリカ社会の負の現状がある。
Ⅴ.動物と人間
「ジェリーと犬の物語」において、ジェリーはアパー・ウエストサイドで
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の一連の愛の試みの挫折を告白しているが、なかでもアパートの番犬との交
流に失敗したことへの失意の深さは計り知れない。沈黙が最も雄弁にそのこ
とを語り、ジェリーが自殺を決意する切っ掛けを示唆している。
JERRY: [W]here better to communicate one single, simpleminded idea than in
an entrance hall?
Where?
It would be A START!
Where better to
make a beginning … to understand and just possibly be understood … a
beginning of an understanding, than with … (Here JERRY seems to fall
into almost grotesque fatigue.)… than with A DOG.
Just that; a dog.
(Here there is a silence that might be prolonged for a moment or so; then
JERRY wearily finishes his story) (35)
ジェリーはアパートの犬に噛みつかれたことから、その犬が自分になんらか
の関心を抱いているものと信じようとする。それまでいかなる動物にも見向
きもされなかったジェリーにとって、それは新鮮な驚きであった。この女家
主の飼い犬はジェリーがアパートに入ろうとする度に吠えかかるが、ジェリ
ーが出て行くときには平然と見送る。ジェリーは犬が吠えかかることにのみ
自分に都合のよい意味を見いだし、出て行くときに無反応であることが理解
できない。しかし犬の反応はアパートの番犬としては至極当然の反応である。
それが女家主から命じられた役割だからである。番犬のジェリーに対する態
度には感情は介在していない。ところがジェリーは犬との間に無関心を装う
という同意が成されたと解釈しようとする。ジェリーは番犬と自分との間に
なんらかの関係を構築したものと仮定し、あたかも共同見解でもあるかのよ
うに度々一人称複数形で述懐する。
JERRY: Whenever the dog and I see each other we both stop where we are. We
regard each other with a mixture of sadness and suspicion, and then we
feign indifference.
We walk past each other safely; we have an
94
understanding. It’s very sad, but you’ll have to admit that it is an
understanding. We had made many attempts at contact, and we had
failed.
passage.
The dog has returned to garbage, and I to solitary but free
I haven’t returned.
I mean to say, I have gained solitary free
passage, if that much further loss can be said to be gain.[…] And what is
gained is loss. And what has been the result: the dog and I have attained
a compromise; more of a bargain, really.
We neither love nor hurt
because we do not try to reach each other. (35-36)
ジェリーが他者との交流を相互理解の出発点と位置づけた試みはこうして失
敗に終わる。しかしこの結果は、ジェリーが自ら作り上げた幻想に捕らわれ
ていることが招いている。ジェリーはそのことに気づいているだろうか。結
果に満足できないジェリーは動物園で最後の確認を試みる。それは意思疎通
の実態を観察するためであった。
Ⅵ.動物園で察知したこと
動物園に歩き着いたジェリーは在るがままの姿を歪める障壁の存在を知る。
JERRY: Now I’ll let you in on what happened at the zoo; but first, I should tell
you why I went to the zoo.
I went to the zoo to find out more about the
way people exist with animals, and the way animals exist with each other,
and with people too.
It probably wasn’t a fair test, what with everyone
separated by bars from everyone else, the animals for the most part from
each other, and always the people from the animals.
that’s the way it is.
But, if it’s a zoo,
(39-40)
ジェリーは、動物園という人工的環境で、人間と動物の関係、動物同士の
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関係、動物と人間の関係において、本来あるべき自然界の摂理が歪められて
いることを確認する。人間は動物を檻に閉じこめ、動物が人間よりも劣る下
等な生き物と決めつける。人間は鉄格子によって、猛獣の牙から保護されて
いる。鉄格子がなければ、人間はライオンの獲物となる。鉄格子に閉じこめ
られた猛獣は、本来の姿を潜め、観客はその姿を本来のライオンと誤解する。
野生動物の気高さは微塵もないので、観客はやはりライオンより人間が優れ
ていると信じるのである。檻は根拠のない野生動物に対する思い込みを観客
に抱かせる。動物園の檻のように、人間社会には根拠のない思い込みが氾濫
している。いかにも越えられない秩序が存在していることを、あたかも普遍
的真理であるかのように、皆信じ込んでいる。世界は強者による支配構造の
中で成り立っているかもしれない。しかし誰が強者で、誰が弱者なのかを決
める基準は曖昧である。ジェリーは動物園での観察の結果、他者との間に境
界線を生じさせる幻想を打ち破る必要性にたどり着く。他者になんらかの影
響を与えることに、自身の人生の意味、アイデンティティの確立を模索しよ
うとしているのではないか。
Ⅶ.ピーターとの遭遇
仮にも社会階層なる構造が存在するとして、それぞれの階層の厳密なる境
界線はどこにあるのかという疑問を、ジェリーはピーターに問いかけ、ピー
ターは答えに窮する。
JERRY: Say, what’s the dividing line between upper-middle-middle-class and
lower-upper-middle-class?
PETER: My dear fellow, I …
JERRY: Don’t my dear fellow me.
PETER (Unhappily): Was I patronizing?
I believe I was; I’m sorry.
see, your question about the classes bewildered me.
But, you
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JERRY: And when you’re bewildered you became patronizing?
PETER: I … I don’t express myself too well, sometimes. (He attempts a joke on
himself) I’m in publishing, not writing.
JERRY (Amused, but not at the humor): So be it. The truth is: I was being
patronizing.
PETER: Oh now; you needn’t say that.
(20)
ジェリーはねらい通り、社会階層の概念を生み出しているものの正体をピ
ーターの口から引き出している。そのねらいは、人間を階層別に差別する発
想が根拠のない思い込みから生じていることに気づかせることにある。それ
は偏見、もしくは優越感にすぎない。その事実にピーターが気づいてすらい
ないことに、ジェリーはほくそ笑むのだ。そしてこのとき自身の半生を語り
聞かせ、影響を与える対象者としてピーターを確定する。ジェリーの“So be
it.”はピーターを最後の話し相手として選択する覚悟を決めた瞬間とも解釈
できよう。それは奇しくもナイフに身を投げ自殺を図るときにも発せられる
言葉だからだ。
「ジェリーと犬の物語」を語るうち、ジェリーの表情は落胆の色を深め、
話の終盤に差し掛かるところで初めてピーターの隣に座るが、しばらくして
不意に心を奮い立たせるかのように陽気に振る舞う。そのうちにピーターが
立ち去ろうとする気配を見せると、ジェリーは「くすぐり」によりピーター
の緊張を和らげ、両者の間に一時和やかな雰囲気が生まれる。だがその直後
には、動物園の話が聞きたいかと訊ねながら、ピーターをベンチから強引に
追い出そうとする。「くすぐり」の目的が帰宅しようとするピーターを引き留
めることなら、その目的に反する行為である。しかし「くすぐり」とベンチ
を奪う行為はある根本的な目的を達成するための過程にすぎない。
「くすぐり」という第一段階のスキンシップにより、ピーターは警戒心を
解き、まるで子供のような無邪気な態度でジェリーに接している。ジェリー
に対する遠慮がちな態度は影を潜めている。こうして本音で語り合える状況
97
を引き出すことに成功したジェリーは、すぐさま第二段階の手荒なスキンシ
ップに移行する。強引で理不尽なベンチ争奪戦を挑まれたピーターは、恥も
外聞も顧みずジェリーとの対決姿勢を崩さず、一歩も譲らない。ピーターは
ジェリーによって、いわば動物園の観客のように守られた立場から放り出さ
れている。両者は自然界の動物たちのように、まさに力と力でぶつかり合う。
このとき二人の関係は対等である。スキンシップの目的は、ピーターが信じ
る社会秩序がいかに偏見に基づいた根拠のない思い込みであるかを思い知ら
せるためであった。こうしてジェリーはピーターと対等の関係を築き、ピー
ターの人生に影響を与えたことを確信して死を迎えるのだ。ジェリーはベン
チ争奪戦の小競り合いの最中、ピーターの受け身の生き方を批判している。
JERRY (Contemptuously): You don’t even know what you’re saying, do you?
This is probably the first time in your life you’ve had anything more
trying to face than changing your cat’s toilet box. Stupid!
Don’t you
have any idea, not even the slightest, what other people need? (45)
ジェリーはピーターの思考の停止、あるいは選択権の放棄を見抜いている。
ネコのトイレの手入れとは、妻の言いなりになって主体性を欠き、マンネリ
化した人生に甘んじるピーターの家庭生活の実情を言い当てている。ピータ
ーは見失った本来の自分を取り戻しに公園に来たであろう。少なくとも初め
のうちはそのはずである。しかし時が経つにつれ、それは形骸化し、自己に
対する誤魔化しにすぎなくなった。セントラルパークでの読書習慣は、ピー
ターの無意識的な条件反射に等しい。もし本当に読書に没頭したいなら、ジ
ェリーの誘いに応じることはないだろう。見ず知らずのジェリーの話に耳を
傾けるのは、ピーターにとって読書がポーズにすぎないからである。読書は
ピーターにとって目的ではなく、口実にすぎず、善き家庭人としての演技か
ら離れることこそ、ピーターの目的であったのではないか。ジェリーの言う
ように、ピーターは一種の「植物」であることに甘んじている。ピーターの
98
目的はなにも考えないことであり、なにも為さないことなのだ。
ジェリーは、ペットを巡るピーターの発言から、そうした家族におけるピ
ーターの孤立感を引き出す。それはピーターすら気づいていなかった事実か
もしれない。ピーターは善き家庭人として演技することに慣れ、無意識のう
ちに他者との関わり合いを放棄して、自己完結するようになっていた。ピー
ターは善き家庭人としての、あるいは成功者としての幻想に捕らわれ、ジェ
リーは母親の幻想に呪縛され、共に自己完結していた点で共通している。幻
想を棄てきれずに自己完結することが孤立を招く要因になっているのだ。ジ
ェリーは母親の幻想から解放される術を生に見いだすことを断念せざるを得
ない。それは自身のアイデンティティと深く結びついているからである。ジ
ェリーには母を信じることしかできないのだ。しかしピーターは勇気さえ出
せば可能である。
Ⅷ.中立地帯としてのセントラルパーク
舞台にはベンチが二つある。ひとつはピーターが使用し、もう一方は空い
ている。作者は二つのベンチを提示して、人間には選択する権利が与えられ
ていることを暗示する。この作品は自由意志の問題を扱っているのである。
意志決定をする際には、未知の領域を想定しなければならないときがある。
人生を左右するような選択に不安を伴うのは、将来が確実性に欠けているか
らである。ジェリーの行動範囲は非常に限られていた。彼はおそらくなんの
疑いもなくウエストエンドの住人として生きてきた。ジェリーにとってウエ
ストエンドから飛び出すことは、未知の冒険である。ジェリーはマンハッタ
ンを西地区と東地区に分ける五番街沿いに歩きながら北上する。はたしてジ
ェリーは東地区に足を踏み入れただろうか。おそらく説明のつかない威圧感
に圧倒され、自身の行動を制約するものの正体を究明する欲求に駆られたの
ではないか。
やがてジェリーはセントラルパークの中へと入り、そのまま歩を進め、公
99
園内の動物園にたどり着くと、家族連れと動物の様子を観察する。そののち
セントラルパークの北上を再開し、ピーターにめぐり合う。ジェリーはここ
までの道程を、右手に五番街という境界線を意識している。その状況は檻の
中を右往左往するライオンに似ている。ジェリーにとってピーターは未知の
東地区の手掛かりである。未知の領域に対して、人間は今までの経験を統合
して推理するほかに術はない。ジェリーはピーターとの共通点を探るべく、
ありのままの自身をさらけ出すが、ピーターに受け入れられるかは未知数で
ある。
ジェリーがピーターとの会話を支配しよとする理由は、未知の東地区と自
分の領域との接点を探し、自身の世界に取り込むためである。いわば西地区
と東地区の接点であり、中立地帯だからこそ、ジェリーはセントラルパーク
を選んだのだろう。ジェリーとピーター、二人の接点は思考の閉鎖性であっ
た。しかし、この思考の閉鎖性は誰もが陥りやすい問題である。
オールビーは『動物園物語』の創作過程を訊ねられたとき次のように答え
ている。
I think almost any character in any play that’s half-way decent is a combination
of three things: one’s self, people that one has seen or known, sometimes put
together, certainly distorted, and a certain creative imagination.
I don’t
imagine that you can create a character that you can understand or relate to
yourself unless it contains all three of these elements.
It certainly has to have
part of yourself in it and, I suppose, models from other people, and then, again,
the creative imagination.
It must be all three. (Funke 142)
オールビーは登場人物が三つの要素から成り立っていると述べている。一
つ目は自分自身、二つ目は他人、三つ目は想像である。オールビーの人物創
造の秘訣は、人間は自身の論理に従い他者に関してきわめて覚束ない推測を
巡らすしかないことを教えてくれる。日常生活においては、他者の内面を理
100
解することはやはり至難の業である。
オールビーが『動物園物語』を創作するにあたり、脳髄の中で創り上げて
いったジェリーという人物の一部は、それでもやはり作者の分身といえるだ
ろう。それは未だ見ぬ母に対する無意識の感情の吐露であるかもしれない。
それは作者すら自覚していない未知の領域である。オールビーはジェリーを
通じて自身の未踏の領域に分け入ろうとしたのではないか。その危険性をジ
ェリーの死という形で暗示したのではないか。ジェリーは東地区へ行かずに
セントラルパークで人生を終える。ピーターが、ジェリーの筋書き通り、主
体的に人生を生きるかは未確定である。その答えは神のみぞ知る。死せるジ
ェリーにできることは、ピーターを通じて人間の可能性を信じることである。
他者への影響力を達成するとき、混沌とした自身の人生に意味を与えること
になるからだ。あとはピーターという頼りない人間に運命を託し、神に祈る
ほかない。
オールビーはこの作品において、社会的問題を提起しているが、出発点は
おそらく個人的な理由から始まっている。『動物園物語』において、オールビ
ーは、ジェリーと同様に、自身の領域から抜け出ることを模索している。ジ
ェリーが中立地帯のセントラルパークでの自殺を選択することは、結果とし
てジェリーがついに東地区に足を踏み入れる必要性がなくなったことを示唆
しているのかもしれない。それはジェリー自身が作り出した偏見という平面
的幻影から解放されたことを意味する。しかし『動物園物語』を著したとし
ても、オールビー自身が生みの親に棄てられた不幸な過去から解放されるこ
とはないだろう。だからこそ作者は虚構の中でジェリーを死なせるのだろう。
それは自己憐憫に近い感情から派生した結末のように思えるが、たとえ厳し
い現実であろうと、目を背けず向き合うことこそ、オールビーが選んだ道で
あり、『動物園物語』はそれを証明する第一歩となった。その意味で、この作
品は作者自身への誕生日の贈り物として相応しい。オールビーは芝居という
表現形式を得たとき、自己と他者に訴える声を獲得した。
101
JERRY (Pointing past the audience): Is that Fifth Avenue?
(12)
オールビーはジェリーに現在位置を確認させることにより、ピーターと観客
を東地区に属する人々とみなしている。そのねらいは観客の意識にある東地
区優位の論理を問いただすことにあっただろう。ジェリーがピーターに託し
た同じメッセージを、オールビーは観客に送ったのだ。その声は偏見を棄て
て、人間を在るがままの姿でとらえることを呼びかけている。
Text:
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