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植民地台湾における戦時下の 玉川国民学校と平和国民学校

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植民地台湾における戦時下の 玉川国民学校と平和国民学校
埼玉大学紀要 教育学乱 56(
2):21
-36(
2
007)
植民地台湾における戦時下の
玉川国民学校 と平和 国民学校の
教員の意識 と実態
新井
淑子*
キーワー ド :植民地教育、植民地 台湾 の教 員、玉川 国民学校 、平和 国民 学校
の意識や実態 を聞き書 きも交え丹念に資料を収
は じめ に
集 した実証的な歴史研究を瀞鑑明は 『日拠時期
培養台籍女教 師的揺藍一 台北第三高等女学校
8
9
5年か ら5
0年に及ぶ統治政策
植民地台湾の1
の実施上、重要な役割を担 った教員は学校教育、
(
1
8
97-1
94
7)- 』(
『日拠時期公学校女教 師的
社会教育に日夜遭進 し、特に風俗習慣の 「
同化」
、
揺藍
皇民化 に遭進 していた。1
9
3
8年前後か ら1
9
4
5年
さらに 「
受益者か、それとも被害者か-第二次
台北第三高等女学校 』
) を発表 している。
前後の大東亜共栄圏構想による皇民化政策 を強
世界大戦時期の台湾人女性 (
1
9
3
7
1
94
5)
」(
『
戦
力 に推進 し、改姓名や台湾人への徴兵令実施や
争 ・暴力 と女性』吉川弘文館)の研究がある。
初等教育の義務化等が実施 された。
また中央研究院近代史研究所発行の 「口述歴史
台湾 も戦争で街や民家が焼失 し学童疎 開が実
叢書」の 「
人間訪問記録4
9」には許雪姫 らが公
施 された。植民地下の男教員が兵役 に就 き教員
学校女教師唐楊鴛鴛に言及 している。済 らもま
不足 は深刻であ り、従来の 日台の中等学校卒前
た 「同5
2
」で、公学校教師を経て議員や婦女会
後か ら臨時教員養成講習や資格向上の夏の講習
で活躍 した林察素女 ・
陳愛殊女の聞 き書 きを出
を受け、教員検定試験 を受け 「
助教」か ら正規
版 している。 日本では、山本鎧子 『
植民地台湾
の教員 となっていた。 また高等小学校卒で独学
の高等女学校研究』で女教員張瑞軒の意識や生
で教員検定試験 に合格 した教員 (
高雄市張 自流)
活等 に言及 している。同様に広谷多喜夫の 「日
もいたが、半年間の講習を受けて教壇 に立って
本統治下の台湾における公学校教育一 日本人教
いた (
嘉義市の林連山)。 この ような状況の中
師か らの証言による構成-」 (
F
釧路短期大学紀
で嘉義市玉川国民学校 と高雄市平和国民学校の
要』第1
3号 1
9
8
6年)や前田均 「
資料
実態や若い教員の実践や植民地教育をどの よう
下台湾の藩童教育所女性補助教員か らの聞 き取
に認識 し、実践 し推進 したのか否かについて聞
り」 (
『
天理大学学報』第1
83輯 1
9
96年)があ り、
き書 きを基に明 らかにするのが、本論の 目的で
それ らは貴重である。
ある。
教員に関する先行研究のうち台湾の第三高等
女学校卒の女教員養成 ・長期勤務の傑出女教員
日本統治
拙論 「
植民地台湾の女教員史」が (
『
埼玉大
学教育学部紀要 』2
001-06年 まで に 6回)や
「
植民地台湾の戦時下の女教 員の意識 と実態」
(
国立台湾大学東亜文明研究中心 国立台湾師範
♯ 埼玉大学名誉教授
大学教育学系他略 『
東亜伝統等家庭教育輿家内
2
1-
秩序 』2
0
0
5年)がある。本論 は、上記の紀要に
と、教員を位置づ け、植民地の教員の任務 を明
連載 した拙論 「
植民地台湾 における女教員史」
確 に した。その推進者は小公実業補習学校教員
同
(
2)∼ (
6)に継続す るものである。
が対象である。4
玉川国民学校 と平和 国民学校の母体 は、共 に
同年 の 8月の橋 田文相 は文教 に関す る談話
国語伝習所であるが、1
8
87年の公学校令によ り
(
「国体 の本義 を明 らかに し、国体の精華発揚 を
それぞれ嘉義公学校 (
3
2年度 より玉川公学校、
期」 し 「自我功利 の思想」排 除、「国家奉仕 を
41
年度 よ り玉川国民学校)、打猫公学校 (
高雄
第一義 とす る国民道徳の確立 を期す・
・
・
科学の真
第一公学校、平和国民学校) と名称 を変更 して、
諦 を普及発展」、「国家奉仕実現の実践的基礎 を
嘉義市 と高雄市の中心校 として位置付 き、その
確立」) を発表 した。その体得 には 「
研 究 と工
役割 を果た した学校である。玉川公学校 に北海
夫」した教育実践が今後の 「
台湾教育」の 「中心
道か ら出向 した五十嵐千代次は、校 長か ら 「台
問題」であると、台湾教育で述べている。 5
湾で 2番 目」 に古い学校 と聞 く。1
同年1
0月31日には台湾教育界主催 の 「
教育勅
なお両校では、共 に戦後 日台の教 師 と日台在
語換発五十年記念紀元二千六百年奉祝
全島教
住の卒業生 との交流があ り、玉川公学校 と玉川
育者大会」 (
5
00余名参加)では、「
宮城、橿 原
国民学校 は 「玉川会」、平和 国民学校 は 「-公
神宮 に対 し奉 る造拝、戦没将兵の英霊 に対す る
会」 を組織 している (
いた)。Z
感謝投 に皇軍の武運長久祈願の黙祷 の後、君が
研究対象である嘉義市や高雄市等 は台南州の
代の斉唱・
・
・
教育勅語鼓 に紀元節 に換発せ られた
主催 の助教講習会で資格の取得 に励 んでいた。
る詔書 を奉読」等があった。次に文政局の 「国
高等科卒の教員 も共 に働いていた。
防国家建設 を目標 とす る国策に対応す る為め本
島教育上努力強調すべ き事項如何」の諮問の答
Ⅰ 台湾教育界の動向
申が各学校種別に発表 された。 さらに大会宣言
と時局の認識 と戦意昂揚 を決議 した。 6
教員にとって1
9
4
0年 は、歴史的な年であった。
初等教育の 「
馬公第一公学校」の答 申では、
「
教育勅語換発五十年記念式典」や それに 「
記
「
教 員不足 」「
教職員の質の低下」「師範入学者
念紀元二千六百年奉祝
希望者の激減」対策は 「
教育」の増大 と 「
給与 」
全 島教育者大会その盛
大 な記念行事 (
台湾総督府や台湾教育会主催)
の 「
優 遇」 にあ り、 それが諮 問の国策 に添 う
があった。その上台湾総督府国民精神総動員本
「
本 島教育上努力強調すべ き事項」である とし
部か ら「国民精神稔動員実践項 目投 に徹底方策」
ていた。 7
が発表 され 「皇国精神 の透徹 」「
戦時意誠 の徹
同年11月には41
年度実施の国民学校制度講習
興亜生活の推進」 を挙 げ、教 員は 「
指導
底 」「
会 8が あ り、その本質 は 「皇国の道の実践行 に
者の教化」やその 「
錬 成」の徹底 3で国民精神
まで高 まることが皇国の道 に則 ること-・
。教師
等の講習会が延長 (
69日) され、受講者 を拡大
自身が先つ学 と行 との一体 (し、それが) 自己
してい く。
確立の根本問題」であ り 「師弟同行」である、
総督府は、 さらに同講習会 を 「各州庁主催」
とした。
9 翌1
941
年1
2月には太平洋戦争が開始
として 「
州は各 2回、庁 は各 1回」の開催 を計
したが、国民学校 の教員は学内や講習会等で多
画 させ 「講師 1名 を派遣」 した。 その 目的 は
忙 な 日々を送 る。
「日本精神 の真義鼓 に其の教育上 の実現 に就 き
1
9
40年度には1
94
3年度の公学校の義務制 に備
十分 なる把握 をなさしめると同時 に、現下非常
え、新竹 と犀東に師範学校が設置 され台湾内に
時局 と本島の特殊事情 に対応 して必要 なる識見
師範学校 は 6校 に増加 した。10 また、同年 5月
と実力 とを得 しめ、以て地方教育教化の推進力」
には台南 師範学校 に急速女子講習科 が設置 さ
-2
2-
れ1
1
、教月養成数が 2千名 を越 えた。翌4
1
年度
戦時下の教員不足 は 「
時勢 に気の利いた もの
には国民学校令が施行 されたが、それに伴い台
が教員なんかになるものか」 という、「
教育者
湾の師範学校は 「
師範学校公学師範部、小学師
の世論」は 「
教育者 たるの 自覚 を忘れた妄言」
範部の別がな く」なった。12
と、いわれた。17
1
9
4
3
年には師範学校が専門学校 に昇格 し修業
また、例年の如 く渡台教員を対象に台北、台
年限が 1年延長 されるため、卒業生が出ないの
中、台南で 1週間の 「
新渡台教員講習会」、小
で女教員を養成 して、その穴埋めを実施する。
公学校教員 を対象 と した 5日間の体操講習会
同校の女子は 2年か ら 3年制 となったが、非常
(
男子 1
05
、女子5
6
名参加)、上席教員を対象 と
時で 「当分 2年間に短縮」 された。台湾では台
した 「
国民精神の高揚 と教育者 としての信念 を
北第一 と台北第二師範学校が統合 し、台北第-
確立」 し 「
非常時局下」の 「
初等教育者の志気
師範学校 となり、同女子部本科生は1
9
4
4年度か
を」高める講習が 7日間あ り、校長等 1
0
0名が
ら定員は急速 3倍の 「
1
2
0名」に急増 したのは
参加 している。18
しか し1
9
4
4
年になると米軍機が台湾の主要な
「
学徒 出陣、徴兵検査」が男子 にあ り 「1年引
戦時関連ある郡や市 を爆撃 し疎開が開始 された。
き下げ」 られたのであろうか。13
この間の教員補充 を見 ると1
9
42年 は教 員が
同年1
0月以後か ら高雄 には 「
米軍艦載機の空襲
が毎 日のようにあ り、授業は半 どん状態で、4
5
「
1
8
0 名」増である。その補充は1
4
0
2
名 (
「
師範」
年 3月には旗後 (
半島)の住民は強制疎開とな
卒 「
8
0 名」「
各州委託の臨時教員が3
0
0
名」「
内
寿 山下)
地か ら3
0
2
名」) を決定 したが、不足分は高女卒、 った。平和国民学校 は、寿国民学校 (
中学校 と高等科卒で補充する1
4
、 とい う。それ
に疎開は したが、先生方 もば らば ら、子 どもも
で も不足 した前 (
1
9
41)年10月には、「国民学
来ないので授業 どころではない状態」が続 き、
校高等科修了以上の学力を有する者 (
男女 を問
町や学校 は一部を残 して焼失 した。19
嘉義郡民雄では、4
5
年 3月1
3日は 「B2
4 2
はず)」の30
0名を対象に 6か月間の 「
臨時教員
講習会」を開催 し、その最終 日に 「
臨時教員検
機」、 5月11日は 「
焼夷弾」で被害 を受けた。
定試験」をして、合格す ると 「
匡L
民学校初等科
嘉義市では4
4
年末か ら11
時になると空襲警報で
準訓導免許状」が取得出来る。合格者は 「
昭和
「
部分疎 開」 とな り、それが 「
全面的疎開」 を
1
7
年 3月3
1[
】
付で助教 に採用」 という条件であ
る。 それは 5市 (
「
台北、新竹、台中、台 南 2
開始 したのは、「
4
5
年 4月 3日」である。当 日
「
焼夷爆弾が 2」個投下 され市内の半分を焼失
教室、犀東」
)で 「台湾総督府委託臨時教 員養
し、生徒 も学校に来な くなって、教員 も疎開者
成講習会」 として開催 された。15 同年の夏休み
がでた。嘉義郡市では家族で教員 も多 く生徒 も
には各種講習会が開催 されたが、3
0日間の 「
小
疎開 し殆 どいなかった。 また、4
5
年 3月初旬に
公学校教員資格向上講習会」は、現職の教員対
は 「
基隆」にも敵機襲来」 し 「5月3
1日には台
象 (
小公学校専科訓導、準訓導、教員心得) と
北大空襲」 とな り 「
警報」や 「
解除」がその後
して実施 され 「
小本正」「乙本正」の資格 は講
も繰 り返 された。
2
0
教員の兵隊 もポツダム宣言を受託 し玉音放送
習 で試験 に合格 す る と取得 で きたので あ る。
1
0
0名弱 (
台北、台中、台南は各2
0、新竹、高
以後、学校 にもどったが、 日本の教員たちは自
雄が各 1
5
、花蓮港庁 4、台東 1、瀞湖 島 2名)
然退職や僅かの教員が学校に残 り2
1
年の引 き上
資格 をとったようである。中学校や高女卒青年
げを待っていた。その間の生活、生 きるための
学校 、高等小学校卒の教員心得や助教 (
4
3
年度
日々の苦悩 と生徒 との別れがあった。
この ような状況で 「
忙 しい先生達」は、「
時
か ら)たちは、例年 この講習を受けて訓導にな
った例が多い。16
局時局 という叱噂に追われて-大切であるべ き
2
3
児童の教育を忘れて、次第に児童の魂 に食い入
来」 していた。
2
6 日本か ら来た教員が中心 に教
るような迫力のない、機械的な即頭式な事務や
授法の研究に情熱 をかけていた教員がいて、研
に自らな り下」がった2
1
、 という。
究熱心 な平良や山下二人等は国語教育 (日本語)
本論の対象校である両校の1
9
44年度の教員は
玉川国民学校 は、嘉義市玉川町231
0にあ り、初
を研究 していた。同校の台湾教育刷新同盟は、
岩本文治 も小倉、山下 も知 らなかった。㌘
等科3
9学級、高等科 2学級があ り、学校長は児
玉乙三郎 と教員は42名 (
訓導は3
0名-男21・女
2 日本人同士の違和感 と女教具
9-、助教1
2名一全員女-)である.同年の平
和国民学校 は、高雄市平和町2
81
9にあ り、校長
日本か ら来た教員や 日本の中学校卒で台湾の
は横 山農夫志である。同校の教員は3
7名 (
訓導
師範卒は、台湾生 まれの 「
湾生」 と台湾人に対
2
7名一男2
4、女 3一、準訓導女 1名、助教 9名
する見方や 日本人同士で も 「
湾生」を一段 と下
一男 1、女 8)である。22
に視ていた教員が多かったようである。同校の
中畑文子 (
現熊谷) も同様に感 じた.
2
8 玉川で
Ⅰ 玉川 公学校 か ら玉川 国民学校 へ
は、台湾生 まれの男教員は岩本一人であった。
「同 じ日本人で も」「
君は湾生かって、ち ょっと
1 玉川国民学校の概観
軽蔑する。特 に内地の中学校出て台湾の師範に
来た人なんかですね。湾生が どこが悪か とか思
台湾では三大節 と 「
始制記念 日」には、判任
って。内地か ら来た先生は自尊心 を持っとるか
官の教員は、勲章 をつけ文官服 を着て 「
肩章つ
なんか知 りませんが。 『なんや、君 は湾生か。
け」た 「
正式の服装」をした。 しか し教育行政
って馬鹿 に しますの。』某教員は 「
剣道が強か
官か ら校長に就任 した某校長を生徒たちは 「あ、
った し軍隊は海軍で鍛えられた-・
短期兵役 も-・
今度の校長先生勲章下げてない」 と 「びっ くり
海軍には少ないですけど」
、 と。
2
9
岩本は、台湾人 と対等に関わっていた。戦後
し」ていたことがあった。2
3 この校長は1
93
8年
に校長室に神棚 を設置 し、 日本人の女教 員には
日本に来た 「
同級生が、飲む会」の時岩本の耳
その当番があった (
後述)
。
元で、 「
台湾語で、がんぷん (
岩本の台湾語読
児玉校長は会議で 自ら発言中に読書中の教員
の ところに来て 「
パ ン、パ ン顔を叩いた」
。
2
4
み)だけな、俺たちを差別せなったのは」 と、
言った。
玉川の特色は、駅員がホームで連絡 しあうの
若い女教員の中には低学年担任で嘉義高女出
をヒン トに 「
午後 3時に立会」 を設置 し 「
全員
身の 日台の 6人組 と自称 して映画 もデパー トも
招集」 した。立会は 「
本 日の注意」や 「
校長先
食事 も一緒、仲良 しグループがあった。何かあ
生か らと学年 間の話」がある。何 もない時 は
ると集 まって話 し合い校長室にも 「
全員 じゃな
「その まま解散」 したが、普段 は
「5分位 」か
くて」「
二人で行った り、抗議 をLに」いった。
か った。立会 は 「
課外授業」 中で も中断 して
「
一視同仁」 といった某校長が朝礼で 「
チャ
「
職員室」 に行 ったが、戦争が激 しくなるまで
ンコロ」 と言った。その場で台湾人の女教員が
続けた。
す ごく怒った。すると校長室に呼ばれた。戦首
玉川では、隣接 した嘉義高女補習科生の教育
されると覚悟 して校長室に行 くと校長は 「
僕が
実習生を 「
家弓武千代 と樋口先生」が例年 「
担
悪かった」 と謝 った。 6人組の 1人である女教
当」 した。
2
5
員は、それ以来 この校長を尊敬 している、 と。
若い先生同士での交流は 「
ほとん ど、なかっ
玉川には1
93
6年 4月の高野校長以来校長室に
た」が 「
内地か ら来た先生方同士は互いに行 き
神棚があ り、 日本人の女教員が当番で毎朝掃除
-2
4-
を した。転入 して きた高学年担任 の中畑澄江が
す る」 もの と考え 「
始めか ら日本語で教 え台湾
当番時に校長室に花 を活けた。それを 6人組の
語 は、全然交 えなか った」。担任が台湾語 を し
日本人の女教員が 「あんたは生意気 だ-校長先
ゃべれないか ら子 どもの方が学校生活上 日々身
生の ご機嫌ばっか とって- (
花 を活ける等)何
近な言葉 を日本語で発す る必要性 を体得す る。
であんたに変わっちゃったの よ」 と怒 られた。
子 どもが言葉 を発 して伝達で きる、意志 の疎通
姉の中畑文子 (
師範卒)の嘉義高女の同級生達
が可能 となることを体得 させ るまで 「
待つ」教
(
高女 卒) で あ る。花代 は 自腹 なので校 長 の
授法 を岩田は実践 した。 なお、 この教授法は師
「
機嫌取 ったと思われで も仕方が無い」。
範学校で習 った教育方法ではなかった、 と。
その実践の結果、22歳の岩 田は生理現象の後
中畑 は、学年が違 ったので台湾の先生 と話す
機会 はなかったが、 6人組 を 「うらや ましい と
始末 を厭 わず にやっていた。岩本の 日本語の取
思 う余裕が無かったね。呼びつけ られて恐 いな
得法 を長いが岩本の言葉で聞こう。なお 1年生
あと思 った」が。
は、台湾語の名前 を 日本語読みに教 えて もらっ
しか し玉川の教員たちは 「
台湾の人 もみんな
て入学 していた。
授業中 1年生は 「
せんひいや、ぽん じょ、ぽ
一緒で一番年上の先生 も温和 な人だったか ら、
。「ぽん じょ。 ぽんは話す。
そんなに仲たがいするような人はいない」 と、
ん じょ !」 って くる
3
0
中畑 は言 う。
じょはお しっこ。小便 て言 うまでは私は知 らん
岩本 は、 6人租の存在 を全然知 らなかった。
顔 して もんずけ、幼稚 園出の子が 「
先生、お し
しか し一度写真 を見せ られたが、 「日浅芳一 さ
っこ。お しっこ」 って教 えるのは、岩本は 「
止
ん」が写っていた、 と。31
め」 ないで 「お しっこじゃない小便」 と教 える。
その子 は 「
先生、小便」 って言 うと 「
行 って来
3 教育実践一岩本文治-
い。行 って来いって」。
教科書 を使 っての 日本語の教育 を岩 田は、 1
1)必要観から発する日本語を待つ
年生には 日本語は 「
単語」 と掛図を使 って教 え
岩本 は、 2年生男子組 を 3年に持 ち上 った途
た。「
掛 図 を見せて-た とえば先生がお って生
中で 「
短期兵役」 で、「台南の台湾歩兵 第二連
徒が頭下げてる図があると、その画面か ら想像
隊 5ケ月間」訓練 を受け 「
伍長」で帰校 した。
させ る。生徒が先生 に挨拶 しとるところとか言
玉川では、兵役 を終わると教員が 「
バ リバ リし
うて、「
おはようございます。」 と言葉 をだんだ
た とこで、上学年持たせ る」が、岩本 も 5、 6
ん教 えてです ね。」教科書 を読 むのは教員が範
午 (
以前は 2、 3年) と担任 した。その後 1年
読 して、「
復唱 させ る」。
生 を担任 している。
日本語 を教 えるのに一番 困ったのは、山下二
1
940年度は 1年生男子組の担任 とな り日本語
のみで教育をしたのである。
人同様 「ダ行の発音が全然 ダメ」で、 「
泥棒 が
田んぼで転んで泥んこになったなんていう言葉
嘉義市内の公学校 は就学増で生徒数が増 えた。
玉川公学校では1
940年 は、 1年生が 8学級 もあ
が、ろろほうが田んぼで、 こんな して "ど'が
みんな "ろ"。 ラ行 にな ります な。泥だ らけに
り 「1学級78名」であった。その うち 「4- 5
なったって、 ろろららけになった。何回 も反復
名 は幼稚園で、 日本語」 を習っていたが、他 は
練習ですね。
」
日本語 は全然通 じない。 「台湾人の先生 は台湾
岩本 は、文体 に も注 目し日本語 と台湾語 を意
語で言って 日本語に直 して」教える。岩本 は師
識 して教 えた。 「私 は
範で習 った台湾語は 「
全然通用」 しなっかった。
これ を台湾語で は 「
私は
岩本は言語の修得は 「
必要観 を覚 えて、習得
となる。
ー 25-
山家 に
行 きま した」
行 きました
山家」
1年生には 「
学年主任」はいたが、子 どもへ
の教授方法や内容等についての話 し合いは 「
め
ったに無かった」ので 「
学級王国みたい」で 自
由に担任が教育で きた。
であった。
3
2
3) オルガンの交代授業不許可
玉川では、高学年 (
「
上学年」
)の教師は、音
楽の授業はオルガンが弾けないと交代 していた。
岩本は、低学年で も学習の遅れている子 ども
岩本はそれを希望 したが 「
普段 は優 しい小野校
に 「
課外授業 をしていた」が立会 には、それを
長」が、上学年 は難 しいが 「
君は 2年生やない
打ちきって参加 した。
か。君は若い し、低学年だか ら君の交代授業は
認めん」、 と言われた。そこで好 きな 「乙女の
2)遊びを基軸
岩本の教員 としての信念 は師範卒業の時に教
育学の先生か 「
服の汚れない先生にはなるな。
祈 り」 をバイエルやソナチネもや らないで独習
した。
服の汚れる先生になれ !」 と 「
結局子 どもがす
同校 には、体育館 にピアノがあ り、金城 と二
がって くる」教員になれ、 といわれ、それを取
人で 「ピアノを奪い合い」練習に励んだ。同校
り入れた教育実践であった。子 どもが学校 は楽
の伊藤ヤヨヒ (
現後藤)はピアノを目がけて走
しい とこだ と思えるように子 どもたちを教育 し
っている 2人が印象 に残 っている。岩本は、宿
たい と、考えていた。そのために学校生活で遊
直を頼 まれ宿直室が 「
常直の ように」な り、用
びやスポーツ (
相撲)を取 り入れ、放課後の生
務員が 「
寝静 まってか ら」練習に励んだ。
徒 と共に過 ごしたいが、「なかなかね遊 びた く
て も時間が取れな くて」、そ こで 日曜 日に子 ど
もを順番に郊外へ連れ出 して、遊 びなが ら子 ど
その後岩本は、子たち達に自らピアノを弾 き
音楽を教えていた。
戦後岩本は熊本で模範的な合唱指導で一 目お
もと日本語で語 り、 自然に触れ自然に 日本語 を
かれる存在 となった。
3
3
取得 し語桑が豊富になり自然に親 しみ、人間的
4)施設 ・設備等を担当
な共感がで きる、異民族 を越えた師弟の杵が深
玉川公学校の正面の車回 しの真正面に立つ時
化 されたのであろう。 「日曜 日には私は必ず生
計台 (
上に照明燈がった)は、道路か ら真正面
徒 5、 6人ずつ連れて郊外 に遊 び」「
みんなを
に見えて 「
玉川の一つの顔」であった。その管
平等に連れ」出 し、岩本には休養 日はなかった
理を岩本は採用直後か ら敗戦 まで毎週月曜か ら
のである。
土曜 日まで、毎朝登校直後時計台に乗 って時計
他の郡で 「
万引 き」 した子 どもが警察に捕 ま
を合 わせ、「
正時に音」 を調べ るのが 日課であ
った。親の名前を言わないで岩本の名前を言い、
った。その上に照明がついて国語講習所の夜学
岩本の家族は子 どもを 「ひもじか 目に合わせた
で学ぶ人たちの安全 を見 まもっていた。
らいかんか らって-握 り飯いっぱい作って-・
、
家弓が設計 したラジオ塔 は、グラウンドに面
警察で引 き受け-ひもじかったろうって飯食わ
した運動場にあった放送装置で何千人 と生徒が
した後、子 どもが喜んで、喜んで」いた。
いる朝礼は、マイクを使用 して拡声 しないと通
岩本は戦後 「
時々台湾帰って も先生は勉強教
えんかった もんね え。僕たちと遊んでぽっか り」
と言われる位、師範学校の教育を忠実に実現 し
じなかった。 ラジオ燈は他校か らも見学に来て
いた。
岩本はガラス器具を持参で各組に出かけガラ
ス修繕を担当 した。大 きな板 ガラスを切 るには
ていた教員である。
なお、同校 には有夫玉枝 (
現佐藤、演習科卒)
技術 を要すため岩本は、彼以外 「
器具は絶対に
も 「
管理法」の 「
匡l
府先生が繰 り返 し言われた
使 わせ ない」で、板 ガラス を切 ってはめる。
ように、休み時間返上で」子 どもと 「
縄跳び、
「いわゆる雑務 も私」 と岩本 は言 うが、大規模
ドッチボール」等で遊ぶ ことを大切に した教員
校で一番若い男教員だか ら 「
文句言わずはいは
-2
6
1
9
4
3
年の給与 は日本人は6
0円 (
加俸込み)であ
い」 と職務 を全 うした。
後 にさらに 「
金魚漕作 った ら」「フナ とか金
ったが、台湾人は3
8円であった。
魚 とか、大 きな水槽が 3つ並んで-鑑賞魚」の
それが翌 1
9
4
4
年 3月 8日に嘉義高女 を卒業 し
管理等が任 された。玉川では余人を以て代 え難
て教員になった倉雪貞達は、同月1
0日か ら 3週
い、 1
0年間であろう。
3
4
間の教員の講習を受けて、その最終 日の3
1日に
は教員検定試験 を受けた。合格者は 1年間の師
範学校講習科 を修了 した者 と同等の乙種本科正
4 女教具の質の向上 と使命感-中畑澄江-
教員の資格が取得で きた、 という。 しか し就職
時 には、教 員検定試験 の合否前であるために
1
)教具の資格取得一最短距離中畑澄江 (
現岩崎)は 「
最短距離」をとった
「
助教」の辞令で母校 の田之頭清校長の願い通
教員 となった。嘉義高女 を卒業 した1
9
41
年 4月
り唐雪貞は白川に採用 となったのである。同年
か らは、1
5日間師範学校で講習を受け 「
準訓導」
の夏休みには 「
台南州主催の助教講習会」に参
の資格 をもらい公学校 に務めた。講習が一緒だ
加 (
「
各校か ら 4-5名」) した。盾雪貞の給与
ったのは、「
1
0
0人」か 「
7
0人位か」
3
5
定かでない。
は 「
助教の時は28円」であったが、4
3
年度 より
事故が嘉義高女卒の教員養成の聞 き書 きの調
台湾人の教 員 に も訓導 には加俸がついたので
9
41
-1
9
4
3
年は、卒業後台南師範で
査 によると1
講習を受けたのち教貞心得で就職 し
「
9か月後
「
訓導 になって 『
一足飛びに』月報96円 となっ
た」のである。37
中畑澄江 は教員 になった 2年後の4
3
年 に、
に準訓導」 とな り、その 「
半年後に正教員」 と
なる。1
9
4
4年 までは、教員免許取得に関 しては、
「
優秀 な教員 を 3ケ月師範学校で講習」 を給与
上記 と同様であった。それが 1
9
4
4
年度の高女卒
を貰いなが ら受 け 「
訓導」 になった。「
嘉義市
は、戦争激化に伴 う措置かと思われるが、出身
内か ら 3人位」推薦 され受講 した。
中畑は受講中も 5年女組の担任であったが、
国民学校 (
在学中は公学校)で講習を受けた。
4
5
年卒は高女の 4年の 3学期 を全て教員養成の
講習の時間とした。1
9
4
4-4
5
年卒は、全て母校
に就職 した。4
4年度に倉雪貞は白川、4
5
年度に
2) 進学指導
は鄭春葉は疎開先の竹崎、同年の母校の玉川に
「
70名近 くいた半分」 は受験希望者でその 「内
は欧識、林水連が採用 された。
申書善 くのに困った」。
6年に持 ち上が り高女入試に取 り組む。
玉川の学 区は 「
裕福」 な家庭が多 く生徒数
嘉義中卒で郵便局勤務 を経て教員なら 「
兵役
例年玉川では、 1つの組か ら 2名位ずづ合格
免除」の噂を聞 き頼彰能は、東門国民学校 (
以
していた。中畑は子 ども達の進学希望 を叶える
下東門と略記)に助教 として就職 した。同校 に
ために、毎 日放課後 と休みの 日や空襲警報等で
は嘉義中の同級生が 3名いた。 ところが台湾人
授業がないときには、昼間 も自宅の隣の空 き家
徴兵令第 1号で招集 され戦地で訓練 を受け敗戦
の教員宿舎で学習指導をした。それを知ってい
直後解除され、同校 に戻 った。36
たのは宿舎の隣の五十嵐教頭位であった。その
1
9
41
-4
5
年 までの高等科卒は 「
都市」の役所
結果、1
9
4
4年度の嘉義高女に 6年女子組で 7名
の所在地で開催 した。嘉義邦は 「
朴子国民学校」、
が合格 (
24回生)、台南第二高女に 3名が合格
嘉義市は 「白川国民学校」で講習会を受けた。
した。中畑は玉川始 まって以来の快挙であろう。
嘉義高女の卒業 と同時に 3月か ら 2ケ月間講
家政女学校 には日本人がいないため台湾の子
習を受けて、各国民学校の教員になった。嘉義
どもが何十人 も入れた。 しか し戦後になって生
市内の東門には林淑慧、白川には洪清蘭、嘉義
徒か ら 「
他の組か ら誰 も」高女に合格 しなかっ
郡の民雄の母校 には李教が配属 されたのである。
た、 と中畑は聞いた。その要因は、低学年か ら
-2
7-
日本人の担任であ り 「
優秀だった、良い子 はい
指 してか初任者に校 内や夏の講習会で研究発表
っぱいいた」 と言う。中畑の取 り組み と母親の
をさせている。東門国民学校の林淑慧が体挽の
応援や協力であろう。
研究授業をした。書写 を発表 したのは倉雪貞で
中畑 を女教員 として成長 させ る基礎 を身に付
ある。夏の講習会で も理科の研究授業や各教科
けた公学校の指導を見 よう。他の女教員や長瀬
の研究授業で、生徒 は他校の生徒 を借 りて発表
百合子 (
後述)にも見 られる指導である。
した。その時は、校長が発表者を決めたところ
もあ り、所属学校の先生方が協力 して教材 を集
3) 学内外での女教員の質の向上の取 り組み
六寮公学校の清水豊校長は、1
9
41
年度か ら中
めたと、盾雪貞 らは言 う。
畑 を採用 したが、念願叶っての 日本人の女教員
であった。中畑の教員宿舎は門構 えの校長 と教
5 決戦下の学校
頭の間にあ り、食事や風呂も校長宅や教頭宅で
とるので、一緒に採用 された男教員 (
長屋住 ま
戦争で非常事態 とな り 「
満州か ら来た兵隊が
い)が羨 ましがるほど優遇 された。六寮には代
嘉義市内の学校 を宿舎に南方行 きを待機中」で
用の女教員が多 く国語講習所で教 えていた台湾
あった。学校で夜 間に戦意昂揚の映画会がある
の女教員が 3- 4名いた。 また青年学校 出の国
と兵隊は 「
お しろい」や 「
お鰻頭」等 を女教員
語講習所の教 員 もいたが、中には 「台南師範」
に振 る舞う。教室に も 「ピアノ弾かせて」 と入
出の男教員 もいた。生徒は 1学年 2学級あ り生
って くる。そこで兵隊 と結婚 した女教員 も何人
徒 は各8
0名位いた。
かいた。
担任 は男親 は女教員、女組 は男教員が担任 し
他校の兵士達 も 「
警戒警報が鳴ると玉川 (
学
た。国語講習所の専任が休むと中畑が代わ りに
校)の前 (
を)みんな車に乗って逃げて行 く。
夜 自転車で出かけたが、校長が送 り迎 をして く
兵隊 も疎開」 した。
れた。
このような状況の玉川では、校長室内には神
中畑 には校長が模範授業 を して くれた。「
40
棚の他 に金庫 には教育勅語を保管 していた。校
分の授業の流れ、授業の展開の仕方、 オルガン
長が教育勅語 を持 って防空壕に入った。防空壕
の弾 き方、清水豊校長は嘉義郡部では、一番上
は畳一畳半位で学校の周 りの塀の際にあった。
手 な音楽の先生で ピアノよりもビオラが上手」
防空壕 には生徒 は疎 開 していて、「ほ とん ど入
であった。
らなかった」 と、中畑はいう。
それが4
5
年 4月以降には、欧識 (
母校玉川に
男教員は兵隊に行 くが女教員はそれがないた
めに学校運営上貴重であったのであろう。 また、
就職)によると、玉川では生徒 「
全員 (
が)郊
同校では、 日本人の女教員に対す る期待 も大で
外に疎開」 していて 「
生徒が一人」 もいない。
あろう。中畑の教員生活の基礎 を清水豊校長が
教員は 「
2
0人余」いた、 という。
培 って くれた。同校 は中畑にとっては 「
師範学
教員の数 も半数 となったが、教員 も 「
体護る」
校」的な存在であった、 という。現在 「
考えた
ために自主的に疎開 したためである。 日本人で
ら一番良い校長」であった。 また 「
一番思い出
玉川に残った教員は児玉校長 と五十嵐教頭 (
級
の深い学校で」約束の 1年の離任時には 「
全校
述、兵隊に行 く) と、大部、本部、岩本 と中畑
生徒 を道路に並べて、見送って くれた」
。
で 「
校長先生の周 りにいた」教員であった。台
中畑 は学務課の手違いで 1年間に 2校 (
北港
湾の 「
年配の先生」 や寮順 (
敗戦後校長) は
の宮前 と新高国民学校) を経て、1
9
4
3年度か ら
「
疎開 しない」が、嘉義市内が半分焼失後 に就
引 き揚げまで玉川国民学校に勤務 した。
職 した欧識達は疎 開先か ら玉川に出勤 していた。
43年度の嘉義市内では、助教の質の向上 を目
- 28-
中畑 も校長 と五十嵐教頭の三家族が、学校か
ら徒歩3
0分位の郷里の市会議員の別荘 を借用 し
2)敗戦後
て玉川に通勤 した。
3
8 玉川では、毎 日空襲警報
除隊後の教員や渡台後 日が浅い教員達は特に
がなると防空壕 に避難 して解除されると、教員
生活 に困窮 し 「
米にも困るような状態」になっ
は 「
やることもないのでお喋 り」 をして帰宅 し
た。教員たちは 「
着物やあるもの」 を売ってい
た、 と欧講はいう。
3
9
た。台湾での生活基盤が確立 していた高女出の
教育 どころではない市内の教員は疎開地に派
教員免許を取得 していた中畑の母親は、良妻賢
遣 した。4
5
年度の途中か ら敗戦後招集 された斗
母で 「
恩給」生活 も堅実 さが功 を奏 した。 また
六小学校 (
1
2学級)の 3名の男教員が帰校する
台湾人の 「
ねいや」が農家で米や卵等 「
随分貰
間の補充を、生徒のいない嘉義市内の学校の女
っていた。それ らを教員宿舎の家族に分けてい
教員 3名が派遣 された。その 1人が中畑で 1年
たら F
おばさん助けて、おばさん助けて』 と教
生 を担任 した。
4
0
員の奥 さんが きた」。見かねて 「たいや きみた
いの作 って売 る」 ことを提案 し、実際に自宅で
作 ってみせた。それを 「
売ればその 日のお金に
6 玉音放送 と敗戦後
なる し、みんなでやれば恥ずか しいこと無いの
よ。先生 してたって もう食べないわけいかない」
1)玉音放送
4
5
年 8月1
5日の玉音放送は「直立不動の姿勢」
厳 しい生活であった。
で聞いた。玉川では、欧識連教員は児玉 「
校長
その様 な教員を台湾人は 「
1
9
4
5
年1
0月頃には
の宿舎の前庭でラジオ」で玉音放送 を聞いた。
家財道具を売る日本人教員が帰 る」ので 「
生活
欧は 「
みんなの気持ちはさまざまで した。台湾
のため」に 「
今 まで命令を下 したのは昔のこと」
人は (
台湾光復)だ と歓呼の人は沢 山で した」
と思った。 また、学校の教職員会議 も台湾語に
と。 また、台湾人が 「
嬉 しかった。伸び伸 び台
なって、台湾語で教 える。それが北京語に変わ
湾語がつかえるようになった」人 もいるが 「日
り、台湾の教員はそれ らを前夜 に習い、翌 日子
本が負けたことを聞いてびっ くりした」
。「残念
どもに教 えるという大変 さはあったが、民族 自
だった」 という教員 もいた。「日本人の先生 は
立の希望を持って、大変 さにも喜んで望めた。42
涙 を流 した」
。「学校で急にお互い同士で台湾語
担任の子 ども達 との分かれや引 き上げの惨め
をはなせる」。41
な姿 を子 どもに見せた くない。 日本人教員の苦
中畑 も疎開先 (
斗六)で 日本人の 1年生にも、
悩 と子 どもの純な情感が痛 ましい。
中畑が敗戦で 日本に帰国することを子 どもに
「
負 けたのが分かるらし」 く 「日本が どっか行
かな くちゃいけないの」 と聞かれた。
話す と、「
私 も連れて帰 って くれ、 つて泣いて
斗六の男教員は招集解除により敗戦後学校 に
泣いて」。引 き上げの集結地に 「む しろ引いて」、
戻 ったが、 1名が 「
軍刀」を 「
提げて」出勤 し
持参 した 「
布団引いて寝た」が、その姿を子 ど
た。 日本人女教員たちは 「
戦争に負けたんだか
もには見せた くないので話 さなかった。そこま
らそんな軍刀 もうおか しいか ら、
外 しなさい よ」
で子 どもが探 してきて 「
連れてって。連れてっ
って言う一幕 もあった。
て」 って。「
3日位泣いていた」 と。43
そこで中畑 も斗六か ら玉川に戻 ると児玉校長
は 「ご苦労 さんだったね」 と言った。中畑は、
3
) 台湾人の寛大 さ
教頭の五十嵐は、「
1
9
4
5
年 3月に軍隊に召集」
玉川 を最後 まで護るのは男教員たちと思い、疎
され敗戦 とな り、「9月1
5日除隊」後玉川に 「
挨
開をしなかった岩本たちの方が酷かった、 と。
拶 に行 く」と 「
黍順」が校長になっていて、五十
そこで疎開地には、女教員である中畑は 「
私が
嵐と 「
大部先生の二人は引続 き当校で勤務」 と
行 くよりはかない」 と斗六に行ったのである。
いわれ、 2人の教員宿舎の居住が認め られた。44
-2
9
Ⅰ 平和国民学校
また、中畑 も同校 に勤務 している。
東門で も日本人教員が 1-2名新体制の学校
に残 ったが、「
慎 ましく遠慮 していた」。 白川で
1 戦時下の師弟の鮮
は、「いつの間にか 日本 人の先生 はいなかった」。
玉川の 日本人岩本は敗戦で学校 には行かないで
平和国民学校 (
以下平和 と略記)では、師弟
肉体労働 をしたが、いつの間にか条件の悪い と
関係が濃密で校長 は生徒 の学習は勿論、中等学
ころが 日本人になったので止めて、親族の仕事
校等の入学の奨励やその指導、生活や就職の世
を した。45
話、「
結婚 問題 の配慮」等 を した。就職の一つ
玉川には1
9
4
5
年 「
十月半頃、玉川校 に中国軍
- ケ師団が進駐」 したので、 「
職 員で将校連 の
には高等科卒の優秀 な卒業生 を教員に採用 して、
検定試験 に合格 させて正教員 としていたが、後
慰労会」 をした。 日本人教 員は 「
末席で肩身狭
に校長 となった林守盤 (
改正名後松林成守)や
い思いで座って居た処、師団長が私達 を自分 の
その教 え子張 自流がいた。斉藤牧次郎は1
8
年間
近 くに呼 んだ。「
今 回の戦争で 日本 は負 け ま し
8
0
余名の 日台の教 師が不満 を一切言わないで よ
たが、 日本人は非常 に優秀で、近い将来亜細亜
くやった、 といっている。
3代校長斉藤牧次郎 (
1
9
06年 8月∼1
9
2
3
年1
0
の先進国 として必ず繁栄す るだろう、 この二人
の先生 を決 して侮蔑 してはいけない」 と。五十
月まで1
8
年 間) は卒業生や親たちにも絶大 な信
嵐は 「師団長の人柄 に頭が下が り、 日本人の狭
頼があった。斉藤の教育信念等 は下記の通 りで
量 さが反省 された」、 と。46
ある。
台湾の1
9
4
5
年 8月1
5日、 日本の敗戦が知 らさ
「
只お勅語の御精神 をその ま ゝいただ き、そ
れた 日の夕食 中、「
抗 日運動で投獄 された」 父
れに台湾高雄 とい う郷土の特殊性 を考慮 して、
恩
親が、 中学校 2年生 の戴囲帰 に向か って、 「
敏捷、忠実、進歩 の 3項 目を校 訓 として挙げ、
義 は 1年、怨恨 は一生、 と人 々は言 う。悠久 な
1
9
0
8
年 ∼1
9
2
3
年 「
作業科」 を
指導原理 とした (
歴 史を持つ中華民族の一員 として、 われわれは
設置)。 また、「同化の根本精神 は至情主義の教
その道 を行 くべ きだろう。 日本 人-の恩義 は一
育 を原則 とせねば ならぬ。至情 的実践 には必ず
生感謝 して行 くべ きだ。特 に素晴 らしい教 師へ
至情 的反応が現 はれ此の事実が反復転廻せ られ
の恩義 は忘れてはな らない」、 とい う。 それ を
る間に内台-如の紐帯が結 んで解かない様にな
聞いた息子 は 「
抗 日運動で投獄 されたことのあ
る。-即ち情 に始 っで情に終 る間に其の効果 を
る父の言葉 を聞いて、中学 2年生の私は、全 く
表はす事になると思 い ます。唯私共の遺憾 とす
複雑 な気持 ちだった」、 と述懐 している。47
るのは下級官吏が不謹慎 な行動です。本島人中
この ことは、玉川の五十嵐が聞いた前述 の将
校 の寛大 な中華民族の懐の寛 さと深 さであろう。
嘉義や高雄で 日本人教 員に対す る敗戦後の暴
言 は聞いていない。
に反発 を抱 きいる者 は皆此の不謹慎 に発芽 して
いるのです。故 に官 に於て此の矛盾 を避け教 に
此情 を重ん じ相侯 って遂ひには同化 は口にす る
には及ばない時機 に達す る事 と思はる ゝ」、と。49
台湾 の校 長先生 は 日本 人 の 中畑 か ら見 て も
それ らを卒業生の王天質 らは 「
一視同仁の聖
「
立派 な人で した」 とい うが、 その選定 は言 う
旨を奉体 して誠心誠意母校 々運の発展や教育の
まで もな く台湾人の手によって実施 された。東
為」につ くし同校 を 「
州下有数の模範校」 に し
0
代 の若い頼彰能に も参加が要請 され、参
門の2
た。大山正義 は斉藤 を 「
統治上の功労者」 と述
加者が真剣 に話 し合 い48 筆者 か ら見る と、公
べている。同校 は下記の ことか らも大正新教育
平 に民主的に台湾の校長選定 を行 った と思 われ
が実施 されていたので ある。「
全 島に冠 たる校
る。
風の確立に、校友会の 自治的菅生に、児童 自営
-3
0-
2 母娘が一緒に教員一徳永百合子-
運動会其他凡有画的施設薫化を通 じまして自治
精神 を鼓吹 され夙に自治制度の礎地を固め」た、
1
)教員になって
人格者であった、 と。50 1
9
23
年 3月の新聞記事
母親の徳永チキは、単身で 1
93
8年頃に訪台 し、
で は同校 の一端 を 「
何事 も生徒 の 自治 に任 し
っ ゝある点 も亦他 に余 り類がな く卒業式-答辞
高雄州鳳 山都林子辺林園公学校の教員であった
の如 きも生徒間の答辞作成係の手に成った」 と
が、1
9
43
年 4月か ら平和に転勤 した。娘百合子
報道 している。
が42年 3月に熊本家政女学校 を卒業後熊本市商
工会館主催の 「
実務員養成所」の高等科 を修了
それか ら2
0年後の 1
941
年1
0月22日に、「
斉藤
恩師記念事業会」は、平和国民学校 に斉藤校長
して、1
94
3年 3月に訪台 した。母娘は一時期宿
夫妻 を招 き胸像 (
「
毒像」
)の除幕式を挙行 した。
舎がな く平和国民学校の校長横 山農夫志宅で校
さらに同会か ら平和に 「
斉藤恩師記念文庫」の
長家族 と寝食を共にした。娘百合子は横山が台
設置代 として 1千円の寄付があ り、それに斉藤、
湾銀行高雄支店に推薦 し渡台 3日日か ら働いた
王天賞、於林成守が各五百円、横 山農夫志校長
が、先輩 を差 し置 き重視 されたことが申し訳な
と高瀬重雄は4
3、4
4年に書籍を寄贈 していた。
い し敬語使用の日々で辞職 した。その後海軍軍
これ ら一連の行為 を 「
高雄州教育課」では1
9
4
2
事部の事務が決定 した。それを聞いた平和の 卜
年 1月号の r
台湾教育』に 「
高雄 に結ぶ師弟の
部教頭や教員たちが心配 して 「
男の場所 に女が
情誼」 として掲載 している。なお、斉藤恩師記
行 くのは遺憾
念事業会では、「
1
94
4年 4月 恩師斉藤先生記
を契機 に平和の教員 となった。
」「軍事部 なんか遺憾」 と。それ
百合子は 2年生の担任 にはなったが、教師と
念誌 」 (
73頁) を発行 (
44年 7月) しているが、
して戸惑 う。まず、母キチ (
姉範出) に聞 く。
同誌 は 「
警報下」に執筆 したと記 している。51
百合子は母の指導 を担任の子 ども達 と接 してみ
この時期の同校の実態を管見 したい。
ては じめて納得 し教員 として成長 してい く。
1
)戦時下の平和国民学校の概観
1
943
年か ら44
年半ば頃の平和国民学校 は、徳
「
生徒 に接する時には、学級経営案 ちゅて、
永百合子 (
現長瀬)によると、毎朝の朝礼で毎
ちゃんと予定表を作 ってね。その 日にどういう
日五箇条の御誓文を週番の教員が読んだ。校長
勉強をするか予定を立てて、そ して 1時間をは
室やその横の奉安殿 に拝礼 をして、職員室の教
じめんと如何。-例えば国語な ら、 まずは文章
頭がいる入 り口で出勤簿に捺印 した。
を読み切 る準備をせんといかん。いろんな新 し
同年の平和は、高等科 もあ り教員は 「
4
2名位」
い字が出た りするか らね。-そ して最初にどう
いたが、男教員が招集 されていた。担任 は毎朝、
いう文になっているか意味を知って、そ して区
校長に学級の人数を届けたが、横山校長は 「
頑
分け して、今 日はここまでの文のなかに新 しい
張って ください」 と声 をかけていた。52 「
校長
字はどういう字か- どういう文章が書いてある
は空襲警報があると奉安殿か ら教育勅語を一番
かを覚えさせんと如何」 と言われた。百合子は
に抱 いて防空壕に入 った」。それが ない 日の毎
母キチに言われたことは、「
生徒 に当たってみ
週木曜 日は、 4時か 4時半になると教員全員4
0
て、少 しずつ納得 していった」。
余名でバ レーボールを楽 しんだ。1
9
44
年頃にな
台湾の子 どもは、「
家庭では全部台湾語 を使
ると軍隊が学校 を借用 した。海軍があるため敵
って」いて 「
学校 にきた ら日本語を話す」ので
の飛行機の往来が激 しかった。53
「1年生は台湾語 を使 って も決 して喧 しゅうわ
け。なぜかちゅと、台湾語で育って きているの
に、小学校 1年にきていきな り日本語が使えっ
て言 うたっちゃ、そ りゃ絶対 に出来ないと。 1
31-
年生のうちに学校で 日本語を習いなが らうちに
に連れて行 き体 を洗い下履 きを 「
買って」 もら
帰った ら台湾語、そ して 日本語を少 しずつ覚え
えると 「
翌 日 3- 4人」 と増えた。その後 「
お
て、 2年生になった頃か らもう絶対に学校では
しっこした人は、海 まで洗いにやって乾 くまで
台湾語を使わない、絶対に日本語で話す」 とな
そのま ゝスカー ト」だけ履いて乾 くのを待たせ
っていた。54
た。
同校 に1
9
43年 4月∼4
5年 8月まで勤務 し、4
5
2) 日本語の国語指導
年に学童疎開で新道の 日本人小学校へ行 き、 3
新任教員の授業参観 に来た視学は、高雄高女
名の生徒 に音楽 は、軍歌を教 えた坂梨文美 (
旧
出の森の 1年生の入学時の授業を見て安心 した、
姓森)は、1年生か ら日本語のみで教育 し台湾
というがその指導 を見 よう。
担任 1日目は、黒板 に大 きく 「
森先生 」「1
語は使わなかった、 という同校の 1年生の実践
等についてみたい。55
年 6組」 と書いた。机、椅子、挨拶 を教 える。
森が教室に入ると生徒たちは 「
机に腰掛けて、
3 1年生の授業一坂梨文美一
椅子に足あげてわいわいがやがや言っていた、
ので暫 し呆然 とした」。そこで 「
机 の横 に立た
943
年度の 1年生は 6組 あっ
平和国民学校の1
せて、これが机、 これが椅子。お勉強す るとこ
たが、担任 は前述の福岡女子師範学校卒の徳永
ろには、お尻をつけては駄 目」 と教える。挨拶
キチ、ベテランの 「
木村先生、台南師範卒の又
の 「
おはよう」は山と山の問か ら日の出の絵 を
吉盛- (
元沖縄県浦添市長)、高雄高女卒 の森
黒板に描いて 「
おはよう」 と復唱させた。昼は
文美、中井文子、李世武たちが 1年生の担任で
太陽を丸 く描いて 「こんにちは」
。 2日目は、
あった。
5
6
「ち ょうだいね」「ください-お母 さんや偉い人
木村先生 とは李藩が改姓名 していた。李藩は、
に-」「あげる」「日の丸の旗の F
赤い、赤い』
」
旗後の生 まれで彰化高女卒 (
第 2回生)であっ
は、子 どもはす ぐに覚えた。挨拶は 「
おひさま
た。彰化高女に入学が珍 しく近隣の人々が祝福
(
黒板に絵) を描 いて 「こんにちは」
。「三 日月
して送 り出だ し、卒業後は公学校 の教員 とな り
様の絵 を措いて 『こんばんは』
」は、「ば」がい
「
本 島人」の信頼が厚 く、妹 も同校幼稚 園の教
えない。 3 日目は、「あ りが とう (
ね)
」「ごめ
員であった。長男俊夫は、港小学校 に通 ってい
んなさい (
ね)
」
。「子 どもが興味をもって 『手、
た。57
足、指』を覚えると、子 どもは目を指す (
教員
森は自宅か ら 5分の平和の辞令が家族の反対
が)『目』 というと、子 ども遠が 『目』
」 という
にあう。 しか し公医の父親が同校勤務 に賛成 し
ように教 えてい く。教員は自分の 「
鼻」 さして
教員になれたのである。 日本語の分か らない 1
「
鼻」 と発音 し子 どもが 「
鼻」 と復唱す る。海
年生の生理現象 を若い教員は対処 し指導 しなが
の砂浜で 「
砂」 を拾 って 「
砂」 と。子 どもはど
ら日本語を教 えた。
ん どん覚 える。 「
飲 む、 噛 む」や舌 を出 して
1
)「お しっこ」の対処 と指導
『
舌』を教える、 とい う指導法であった。
又吉は、 1年生の男の子が授業 中に 「
お しっ
こ」 を失敗す ると海に連れて行って、体 を洗 っ
4 軍の勤労奉仕
てや り汚れたズボ ンを洗濯 して乾か して履かせ
て家に帰 した。その行為 を親達は 「
若い男の先
1
)勤労奉仕
5年生女子組の担任 となった森は 「1学期の
生が洗 って洗濯 まで して くれた」 と言って喜ん
で くれた、 という。
5
8
半分」 と
森の学級で も教室で 「
お しっこ」 をす ると海
「
2学期後半」に軍部の指令で学校宛
に 「
公用」 (
勤労奉仕)で 1週間に 2回位作業
-3
2-
担任の子 どもに 「
毎 日弁当がない子がいたの
をす る割 り当てが来た。
44年の 1・2学期は学校で 1時間位勉強 して
でパ ンを食べ させ ていた」が、その子 に森 は
か ら、旗後の灯台 まで徒歩で1
5分位、そこか ら
軍 まで くね りくねった階段 を登 って煉瓦 2枚 を
「
分か らないように週 2回弁当を忘れた」 と言
マ
マ
って自宅に取 りにやると 「まだ弁当忘れたか、
運ぶ仕事である。生徒は階段の途中に立って リ
森先生忘れんぼ」 といって、 2個の弁当をもっ
レー式に煉瓦 を 「よいっしょ」 と次に 「よい し
て嬉 しそうに帰 って きた。
「
手渡す」仕事を 「
何時間 も立って」作
森の指導は戦時期であ りなが ら、子 ども達の
業 を した。煉瓦は上 まで運んで機関銃の銃座 を
実態に配慮 して興味 ・関心 を持たせ、子 どもが
作 ったのである。その作業は大変であ り1台は
伸び伸び意欲的になる配慮が されている。その
畳半畳位の銃座 を 4- 5台作った。
実践は師範学校で学んでいないために、型には
ゃ」 と
それが4
5
年の 3学期には、アメリカの偵察機
や B2
9が学校の上空を行 き来 しだ し、旗後の巡
行船 「
黒潮丸
まらない柔軟性に富んだ独創的な指導の一つの
典型であろう。
」「鼓山九」「つばめ丸」に乗 って
学校 に来る子 ども達がいな くなって生徒数が減
5 疎開 と引き揚げ
少 して作業はで きな くなった。
(
森文美 (
現森)は、戦後3
0数年後 に高雄で
9
4
5
年 8月1
5日の半年位前か ら荊
しか し森は1
教 え子2
0
名位に会ったが、全員が膝が痛い、 と
道の 日本人の小学校 に勤務 したが、同校 は生徒
い うのでサロンパスを生徒に送 り、彼女たちは
が 8名、教員が 3名の疎開地であった。 3名の
「
戦争の犠牲者だ」 という。
)
生徒には、音楽は 「
勝って くるぞ と勇 ましく-・
」
2) 国民学校令での授業
と教えた。
5年生には時間割はあったが国民学校の教科
日本に引 き揚げる前に平和国民学校 を 「
渡部
であ り、森 も 「
国語 ・歴史 というように分けな
と 2人で見に行ったが、そこには焼け残った校
いで教 え」ていた。「
教育勅語」や 「
菊の御紋
舎はあったが、呆然 として泣いていた」 と。59
章」 は 「
天皇陛下のお家の御紋
」「仁徳天皇が
民の豊かさ」 を話す と 「
御飯 を炊 く煙が出た ら
おわりに
何 で金持 ちか」 という質問を して くる。「
義経
の八鹿飛び」や 「
養老の滝」で も 「とんで もな
学校では、 日本人の中学校卒で台湾で師範教
い質問がでる」なぜ 「
滝の水が酒になった」の、
育を受けた教員や 「
内地」か ら出向 した教員達
と。 「
生徒たちは」先生に 「どれを聞いてやろ
は、台湾生 まれの 「
湾生」 を低 くみている。 ま
うか と 「
先生、ちょっと待って くれ』 という。
た 「
湾生」が、台湾人に対する差別感情がなか
森は 「
人に教わるのには 『
ち ょっとまって くだ
った岩本は、施設設備等の管理補修 を彼は 「
雑
さい』 と教 えていいなお させ る」。森 は子 ども
用」 というが、それを一手に引 き受け毎 日1
0年
が 「とんで もないことを考える」 と、いいなが
間勤勉 に継続 した。 また、岩本は子 どもとの遊
らそれに応えた学習は、現在 も印象に残 ってい
る。
びを基底 に据えて、子 どもが学校 に興味や関心
生徒の 「ダジズデ ド」の濁音が発音で きるよ
民族の 日本人の教員が身近な存在 とな り、学校
うにするために森は、 自ら作詞作曲 した歌 を作
生活の中で、 日本語の必要性 を体得す るまで
って教 えた。「
工場だ 機関だ
「
待つ」 ことによって、 日本語の習得 と言語を
よ
どどどん
どどどん
鉄だよ 音だ
どス トン 腕 だ よ
をもち、学習を意欲的になれるように して、異
発することを促す教育法である。
中畑は、学校 を護るのは、 日本人の男教員で
-」 と。子 ども達は喜んで うったていた。
-3
3
あるか ら、女性の中畑が疎 開地 に派遣 されるの
ついて 「日本人を育てるのだ という心構 えで-
は当然、 と思い出向いている。
厳 しく朕 けた」。三浦 は戦後 「台湾の人た ちに
玉川の女教員は、 日本人 と台湾人 をこえた低
す まないことだった と思い・
-。 しか し自分の全
学年 としてのグループがで きていた。私生活の
力 をつ くして教育 に当 りま した。そのためか、
交流 まであった。 しか し低学年の 日本人女教員
今 も温かい師弟の交流は続いています し、教 え
が転任 して きた高学年の 日本人女教員に対 し、
子達 は立派に台湾の発展 に尽 しています。当時
学内の秩序 を護るよう抗議す る。そのグループ
の教育がなかった ら、現在 の台湾の発展が築 け
をうらやむ時間 もな く、高学年 の担任で進学希
たか疑 問に思います。 この基礎 に立 って、今後
望 を叶 えるために空襲警報解除後や夜 間に帰宅
の台湾の人たちの力で立派に築いてい くことで
した子 ども達 を集め指導 していた。その成果 は
しょう」、 という。62
玉川始 まって以来の快挙 となった。
空襲警報のなか執筆 した斉藤牧次郎 を讃える
教員の家族の協力 と援助 も大 きい。中畑の進
記念誌が発行 されたが、 日台の師弟愛の象徴で
学指導や岩本の警察に貰い下げ時、徳永の母の
あ り、同地域 には台湾の土 になった教員達の墓
娘への教授法の指導、坂梨の欠食児童への配慮
を建て、台湾人が今 も護 り管理 をしている。
等である。
註
教員が 自主的に疎 開 して しまった学校 を護 っ
た教員達 は、玉川では引 き上げ後、各県で教員
となった。 しか し玉川の女教員 は中畑のみであ
本論 は、「
平成 1
8年度埼玉大学総合研究機構
った。平和では徳永キチは教員 を辞 め、娘百合
研究 プロジェク ト (
研究経費)の補助 を受 けた。
子 は一時期教員になったが辞めた。高梨 は辞め
この論文作成では、特 に頼彰能先生、佐藤玉
たままである。
枝先生 と玉川会、故新 田利夫先生 と-公会 にご
日本人の教員 は 「
芝山巌精神 の もと一視同仁
の方針で内 ・台の別 な く教育 に専念」 した教員
教示戴 きました。 また下記の方に もお世話 にな
りました。
が引 き揚 げ時に 「
教 え子が基隆」等 まで送 って
山本頑子、呉文星、翁麗芳、岩本文治、岩崎
くれ再会 を約 し、実現 した事例 は枚挙 に暇がな
澄江、高梨文美、長瀬百合子、王天賞、津南徳、
い。
6
0 中畑は 日本 に 「
連れて行 って」 を振 り切
故張 自流、張瑞軒、黄金山、李教、林淑慧、洪
っての別れが、戦後再会 して進学者やその数 も
清蘭、鄭春葉、盾雪貞、欧講、林水蓮
分かったのである。岩本、坂梨、長瀬達 も日台
」
1 :五十嵐千代次 「
祝辞 『
嘉義市崇文国民小学慶
の交流 を重ねていた (
いる)。
祝 創校九十年周年』1
9
8
8(
民国77) 年
台湾での教員が他の教員 をどう見ていたのか
平和 の教 員の声 を聞こう。 「台湾の師範 出の先
生方 は、真面 目で責任感が強 く、何 をや らせて
4
頁
2 :玉川公学校 ・国民学校では嘉義高女の教育実
もまかせ られ ました。女教員 も同 じ、女学校で
の代用教員は師範出 と比べ る とおちるところが
あ りました。内地の師範出の先生方 には、出稼
ぎとい う感 じのす る者 も少 しはあった ようです。
不愉快だった」、 と。61
高雄第-学校か ら平和に 6年半 (
1
9
3
8-4
4
年
9
7
9
年に親
習生 も含め台湾の教師や卒業生 と1
睦旅行 (
谷河原)か ら毎年継続 し1
9
9
5
年 (
奈
良 ・京都)まで、参加者の手記を発行 してい
1
9
8
3
年 と9
2
年) し玉川
る。その間2度訪台 (
会を作 り文集等は国会図書館 に寄贈 している
現在、佐藤玉枝が玉川公学校の枠を越 え嘉義
。
9月)勤務 した勝 呂秀雄 と1
9
41
年 3月 まで 5年
市在住の嘉義高女や嘉義中学校の卒業生たち
とも手紙や電話等で書物や情報交換中である。
間勤務 した三浦定雄 は、台湾での植民地教育に
-公会は日本 と高雄にある。日本の-公会の
ー3
4-
開催 は1
9
76
年の第一回開催 (
三重県長島温泉)
昂揚 を図 らん ことを期す
1、我等 は大 い に
998年 (
福 岡海の中道 ホテル) を最後 に
か ら1
教学 を刷新 し、特 に大 国民 としての雄洋 なる
23年 間継続 したが高齢化で組織 は解散 し個 々
気塊、強敵 なる身体、精赦 なる科学精神 を養
の 日台交流 となっていた。1
980年 には 「母校
成 し、以 て高度国防国家建設の趣 旨に副 はん
訪問」 を契機 に 日台合 同-公会 を1
4回開催 し
ている。新 田利夫談-1
9
9
6年1
0月2
8日一 「-
こ とを期 す
愈 々覚悟 を固 くして職分奉公 の実 を挙 げ以 て
公会」1
9
9
8年 11月 6日 N
Q
2
3 裏表敵 。
臣道の実践 に遺憾 なか らんことを期す
。
右決議す
平和公学校 では、台湾の同校 卒業生たちが
昭和十五年十月三十一 日
「台湾教育会主催の教育勅語換発五十年記念
同窓会 を組織 し冊子 を発行 している。平和 国
民学校 は、実質的 な推進者 であった 日本 の新
田利夫や台湾の張 自流 らが2
005年 に故人 とな
」『台湾
紀元二千六百年奉祝
全 島教育者大会
教育』1
9
40
年1
2月号
第4
61
号
7- 9頁
7 :「
全 島教育者大会における文政局の諮問事項 に
った。
5回玉川会親睦の旅
玉川会では、「第1
」
対す る答 申書 (
続) F台湾教 育』1
9
41
年 1月
京都
9
9
5
年 4月1
7日よ り1
9日
奈良 と花の吉野-」1
3 :「皇国精神 の透徹 」 には、 「尊皇 の大義浸透 」
「
敬神の本義徹底
」「滅私奉公の精神振起」「国
の徹底」 には 「
時局認識の徹底
第4
6
2
号
8
7-9
0頁
8 :「昭和 1
5年度
」『台湾教
国民学校制度講習会
育』1
9
4
0
年 9月号
第4
5
8号 91
頁
9:佐藤源治 「国民学校教育の根本原理」
『
台湾教
語愛護常用 の徹底」 である。 2の 「戦時意誠
徹底
1、我等 は現下の時局 に対応 し、
」「国民防空の
育 』1
9
4
2年 1月
」「国民 防諜 の徹底」「軍事援護 の強化 」
第4
7
4号
8- 9頁
1
0:佐藤源治 『台湾教 育の進展』台湾出版文化株
1
9
43年
である。 3の 「
興亜生活の推 進」 では 「
重要
式会社
物資の増産
1
9
9
8年 1
3
4頁
アジア学叢書
5
8 大空社
」「戦時道徳の確立」「無駄の排 除」
」「貯 蓄 の励 行 」「国債 の消 化 」
ll: 「第 8尊 く座談 会 > 「台南 師範」 を語 る」
「生活規律 の粛正 「明朗 剛健 なる風潮 の作興」
台南 師範学校 同窓全校 史編集委員会 『ああわ
「物 資 の活用
「国民体位の向上
」「集団勤労奉仕 の拡充」が
台湾総督府台南師範学校 史』
が母校台南師範
挙 げ られてい る。台湾総督府 国民精神総動員
台南師範学校 同窓会
1
9
8
0年 3
6
6
頁
本部 「国民精神総動員実践項 目並 に徹底方策」
1
2:1
0に同 じ
r
台湾教育』1
9
4
0年 8月4
5
7号 95-9
9頁
1
3:島田初恵 「私たちの 2年 間」台湾総督府 台北
4 :会期 は第 1、第 2共 6
9日間 :(7月2
2日∼ 9月
第 - 師範学 校 同窓会 『芝 山会 会 報 』 第 1
0号
2
8日、 7月2
9日∼1
0月 5日 於台北帝国大学)
である。「昭和 1
5年度
1
4:「国民学校教員補充案成 る 本年度千八百名 を
国民精神文化講習会」
F
台湾教育』1
9
4
0年 8月号
第4
5
7
号
1
9
9
9年 92
-9
3頁
91
頁
増加
8
5頁
」
5 :「新体制 と教 育 F台湾教 育 』1
940年 9月号
第4
5
8号 1- 2頁
」『台湾教 育 』1942年 4月号
第477号
1
5:「台湾給督府委託臨時教 員養 成講習会」『台湾
6 :宣言 教 育に関す る勅語換発五十年 を記念 し
教育』1
9
41
年11月号
第4
72号 9
2
頁
1
6:『台湾教 育』1
939年 7月号
紀元二千六百年 を奉祝 す るに当 り、我等 は高
第4
44号
1
02-
度国防国家 を建設 し八紘一宇の大理想 を現す
1
0
4頁、「
小公学校教員資格講習会」
『
台湾教育』
るため益 々国体 を明瞭 に し国民精神 の振作昂
1
9
4
0年 8月号 第45
7
号 91
頁
揚 を図 り、以て教 育報 国の実 を挙 げん こ とを
17:「
事 変 と教 育者
期す右宣言す
第4
44号
」『台湾教 育 』1939年 7月号
2頁
昭和十五年十月三十一 日 台湾全 島教 育者
大会
1
8:『台湾教育 』1
939年 7月号
決 議
1
9:坂梨文美 (
旧姓
第44
4号
1
02-
1
04頁
1、我等 は浮 身の力 を濁 して教 育 に関す る
森) に2
006年 1
2月 1
0日聞 き
書き
2
0:黄金 山よ り20
07年 1月22日付筆者宛私信 、倉
勅語の御趣 旨を徹底せ しめ、 国民精神 の振作
3
5
雪貞より2
0
0
7年 2月2
3日付筆者宛私信
21:南進 「
暑 中雑感
45
7号
」F台湾教育』1940年 8月
第
9
3頁
22:F1
944年 1月 1日現在 台湾総督府及所属官署
職員録』 中玉川国民学校 は6
47頁、平和 国民学
校 は71
7頁
2
3:岩本文治 よ り2
0
06
年1
2月11日聞 き書 き
2
4:岩崎澄江 より2
00
6年 1
2月 5日聞 き書 き
2
5:2
3に同 じ
2
6:2
3に同 じ
2
7:拙論 「植民地台湾の女教員史 (6)
」埼 玉大学
教 育学 部紀 要
2006年 9月
第 55巻 第 2号
6
2頁
2
8:1
943年 3月 まで玉川の教員であった中畑澄江
の姉
2
9:2
3に同 じ
4
4:1に同 じ
4
5:2
3に同 じ
46:1に同 じ
4
7:戴囲輝 「あの 日、私 は、、、② 」
『三省 堂 ぶっ
くれっと』1
9
91
年No
.
9
0
4
8:3
6に同 じ
4
9:「
斉藤高雄第一公学校長談 る同化の根本精神 は
F
至情 に在 る』 と教壇 を退いた 」 (
1
92
3年 1
0月
1
0日台湾 日々新報掲載)斉藤恩師記念事業会
F
昭和 1
9年 4月 恩師斉藤先生記念誌 』1
9
44年
7月 5
5頁
5
0:大山正義 「感謝の辞 」4
9に同 じ 3
9頁
51:「人情美の流露 来賓 をして泣か しめた 高雄
公学枚卒業式」(
1
92
3年 3月1
8日台湾 日々新報)
4
9に同 じ 5
2頁 3- 4頁 1
8-1
9頁
52:長瀬百合子 (
旧姓 徳永) よ り2
00
6年 1
2月 1
0
3
0:2
4に同 じ
日 聞 き書 き
31:2
3に同 じ
32:佐藤玉枝
5
3:1
9に同 じ
「
『
女演』バ ンザ イ」1
3に同 じ
1
22
5
4:52に同 じ。母親の徳永 キチは福 岡県女子 師範
頁
学校卒業後大津 国民学校 (
熊本県) で1
0年 間
33:岩本 は、戦後熊本県で教 員 にな ったが、音楽
勤務 し肺浸潤 にな り、姪 の勧 め (
食べ物 や気
候 のよさ)で渡台 した。
の指導 に定評が あ り、県の指導室や音楽研究
会か らも、合唱隊が出来 る と音 楽指導 を讃 え
5
5:1
9に同 じ
5
6:1
9に同 じ
られた。
3
4:2
3に同 じ
5
7:李藩 は、 日本の大学 出 と結婚 した。長男 の俊
3
5:2
4に同 じ
夫か ら1
996年 8月
36:頼彰能 よ り新井宛 2
00
7年 3月 7日付私信 は じ
メリカ在住)
高雄 にて聞 き書 き (
現ア
5
8:又吉盛- より1
996年 1
0月28日、横浜 (
ホ リデ
め聞 き書 き多数
37:李教、林淑慧、洪活蘭 らに2
0
06年 1
2月2
9日聞
き書 きと 3名の書簡
3
8:2
4に同 じ
イン。横浜)にて聞 き書 き
5
9:1
9に同 じ
3
9:欧識 より筆者宛 2
0
0
7年 1月 3日付私信
60:台湾稔統府 台北 第一師範学校 同窓会 『芝 山』
第1
0
号 1
9
9
9年
4
0:2
4に同 じ
61:新井淑子 「植民地台湾 における高等女学校 出
41:3
9に同 じ
身の女教 師の実態 と意識- ア ンケー トとイ ン
42:嘉義市皇爵大飯 店 にて2
0
06年 1
2月2
9日聞 き書
き
タビュ-調査資料-」1
9
9
8年
2
0
9頁
6
2:61に同 じ 2
0
6頁
4
3:2
4に同 じ
(
2
007年 3月3
0日提出)
(
2007年 4月2
0日受理)
-3
6-
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