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顔之推伝研究

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顔之推伝研究
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Issue Date
顔之推伝研究
佐藤, 一郎
北海道大學文學部紀要 = The annual reports on cultural
science, 18(2): 1-23
1970-03-30
DOI
Doc URL
http://hdl.handle.net/2115/33345
Right
Type
bulletin
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Information
18(2)_PR1-23.pdf
Instructions for use
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
顔之推伝研究
佐
藤
良
日
推
伝
研
.m
jし
藤
長5
に、つ顔氏家訓小論一としてその思想を紹介し
佐
介、梁の
の蛇足とも思いつつ記述することにし
の研究もすすんだが、この論文は
﹀に旗揚丸子凶弘子和の
の人物をしらべたと
北大文学部紀要
ているから、西晋の名門と言うことは顕らかである。
ずの本籍は竣邪の臨訴で、
際して右光禄大夫を加えられ、年九一一一で卒し、靖挟一と議された。尚、合の租矢の欽は侍中、文の黙は汝陰太守になっ
に封ぜられ、侍市?を拝した。躍進に
して生れた。彼の一
のとりえがあるかとも思うので、額之推伝研
そののち折りにふれて之披の↑紘一記に間同様ある人物なしらベた。その後、男法高の﹁顔民家語数注﹂が出版され依
﹁顔民家間﹂については、 かつて東京支那学報第一
之
の名門であった。九世の租・含は先帝の南渡に従い、東警に仕え、
顛之推、
ろ
3-
顔
の
4
顔之誰伝研究
て世人か
しい。額之推の
の士大夫の
の末期に
められ、草隷の
には﹁梁の
武帝に控え、ず、武帝
その当時よ
NM
て知られていた。
は博学で
にして死んだ。
からんや、町るに
われるのであ
はそのため
この年
一一六) に王
協の書する
に之推が生れ
に工みにして、制慈の碑題、
の愛野を
三二、一ニ盟才の
しかし文学を好
た例制綬が潟東五
で没し
の記録はないが、 顔民家訓文章
るが、 やがて大同五年(五
らす︿士の首領と云
の政治に漸く費類の
正記室に転じている。中大通
て鴻濯したこと
の位置について、
流俗に詫はず、
こ 主ゴa
1ギ
仇
ダ4AUB
みであった。設について南史七十
の協、之推の父︿悶九八年生││!五
のこの気節は、
の受禅に憤激して絶食し、
に出ることはできず、経済力も乏しかっ
った
t
れ自ら天に臨じ人に笑ふ、
いて、一 我
て治書待簿史兼中混となったが、
顔氏は
武帝はこ
、 南斉の和策
h
り
(
五O
の此れに至るとは、﹂
いれで顔氏は暫らく出設の機会を失う。
若年の顎か
t
こ
て
るが、
の
に渉り、草隷に主みなり、協は家貧繁之蟻も辺⋮轄を修飾し、
の文士に
つまり、
して有名な昭朗太子蹴絞が卒し、梁の
くして孤児になった
出遊せず、﹂
ところ
諮議参軍となっ
が荊州
は文選の
のもとに多くの
っている。顔協が
った。
としての活塞、あるい
みよ、
t
4
て
て
し
t
主
における顔協
家の世々の
間
な
し
、
子
普
で
も
し
湘東王
第九
の
よ
の
i
Jミ
時、西府新文紀を撰するも、
一篇だに録せられしもの無し、亦世に偶はず、鄭衛の音無きの故を以てなり、:・:::﹂
0
更に雑芸第十九に書道の修業について、﹁真草の書迩には、微しく留意すベし、江南の諺に云ふ、﹃尺臆書疏は千患の
面白﹄と。晋宋の飴俗を承け相興に之を事とす。故に頓に狼狽するものなし。吾れ幼くより門業を承け、加えて性れ
ながら愛重し、見るところの法書も亦多し、 しかるに翫習の功夫すこぶる至るに、遂に佳なること能はざるはまこと
に分無きに由るが故なり、然れども此の芸はすべらかく精に過ぐるべからず、夫れ巧者は労して智者は憂ふと。常に
人の役使するところとなり、更に累たるを覚えんにと述べている。これにつづけて能書家の掌仲将、王義之、甫子雲、
王褒の例をあげて、﹁此れを以て之を観るに、慎みて書を以て自らに命ずること勿れ、﹂と云う。先にあげた続世説
5ー
(巻六)とあわせ考えるに拡には顔協は文学を以てはあまり重んぜられず、能書を以て役使されていたと思はれる。
顔協の伝は梁書巻五十文学(下)にある。彼が死するや、元帝は哀惜して懐旧詩を作り、 その一章に﹁孔都多雅度、
信乃含賓賀、鴻漸殊未昇、上才流下秩、﹂とあった。その撰に晋仙伝五篇、 日 災 異 国 両 巻 が あ っ た が 、 火 災 で な く な
ったと云う。
北大文学部紀要
己善;
顔之推伝研究
つねに二人の兄から指導を受
既に述べたように、之推が九才になった時に、父は四十二才の若さで没した。その後、彼は二人の兄の教育を受け
ることになる o ﹁わが家の教育は昔からよくととのっていた。七、 八才だった頃から、
けた。朝夕の挨拶、行儀作法、言葉づかい顔つきなど、父上に対するごとく、 つ つ し ん だ 。 や さ し い 言 葉 を か け 、 何
をしたいかをたずね、短所はなおし長所はのばすように、心をくばってくださった o 九才にやっとなると、父上はな
)0
之推より八才の年長である。之
この一一人の兄とは、之儀と之善とで
くなられ、家はめちゃくちゃになり、人々はいなくなった。やさしい兄は、大変な苦労で養育してくださったが、や
さしいがきびしいところがなく、指導も身につかなかった。﹂(家訓序致第一
あろう。
顔之儀、字は升は、﹁開皇十一年冬卒、年六十九。﹂(周書顔之儀伝﹀とあるから、
善は慮文招の顔氏家訓補注で、﹁顔民家廟碑有名之善者、 云之推弟、陪葉腕令、操此則之善亦是之推兄 o﹂とあること
によって推定される o この之善は、 お そ ら く 元 帝 が 江 陵 に お い て 西 貌 の た め に 殺 さ れ 、 有 能 の 人 才 が 運 行 さ れ た と
き、之推ととも移住し、之推が北斉に脱走した後も、北周にそのままとどまったのであろう。只、之儀や之推に比し
て才能功績に劣り、正史に名をとどめえなかったと考えてよかろう。そこで之儀のみを紹介することにしたい。
之儀の伝は周書巻四十にある。幼いころより頴悟で=一才で孝経を讃め、成長すると博く群書をまなび、好んで詞賦
を為った。嘗って神州頭を献上し、元帝より賞辞をうけている o江陵陥落までの経歴はわからないが、弟達とともに
元帝に仕えていたと思はれる。陥落後長安に連行され、北周と陪に仕えた。周警の記録によるならば、彼は北周の君
に忠誠を誓ったと見てよい。長安において明帝(世宗)は彼を麟祉学士となし司書上士に昇進させた。明帝紀(回同書
-6-
巻四)に﹁(帝は)幼にして学を好み、群書を博覧し、善く文を属す、詞彩温麗、即位に及び、公卿巳下、文学ある
者八十余人を麟祉殿に集め、経史を刊校し、 又衆書を括採し、議農以来、説末に詑り、殺して世譜と為す、凡そ五百
巻、﹂とある o これに従事したのであろう。 つづいて武帝(高祖)が太子を立て、 その師停を選んだとき、侍讃にな
った。太子が吐谷揮を征伐したとき過失があった。鄭諜などは匡正できなかったため処罰されたが、彼はよく諌言を
していたので小宮予を拝し、平陽嬬男に封ぜられた。この太子が宣帝として即位すると上儀同大将軍御正中大夫に遷
り腕胴公に進んだ。
宣帝は父の武帝の不肖の子であった。之儀は屡々諌めたがきかれなかった。 しかしやめなかった。帝もいやがった
が 、 こ れ ま で の 縁 故 で み の が し た と 云 う 。 宣 帝 が 崩 ず る と 、 後 の 陪 の 文 帝 は 天 下 を ね ら い 、 まず丞相になろうとして
偽の遺詔を作くったが、彼はそれを知って連署に最後まで応じなかったし、帝王の符璽を文帝が要求したときも、拒
否して危く殺されかかり、 ようやく命はたすかり西彊郡守に左遷された。文帝が即位すると都に呼びもどされ新野郡
公に昇進した。開皇五年集州刺史になり、翌年交代し、 その後仕えず優遊自適した o 十年正月に参賀すると帝は之儀
を認めて御座によびょせ、 その前朝での忠節をめで、銭十万米百石を与えた。翌十一年冬卒した。年六十九才であっ
た
。
以上の列伝から推定することになるが、之儀は自己を認めてくれた王朝、特に武帝にであったろうと思うが、北周
に節義を以て奉仕した、そういう型の人物であり、租父の顔見遠に似た人物であったと言える。尚、この兄とは北周
で再会した筈であるが、家訓には何もふれていない。兄弟篇などから憶測するに、何か疏遠なものを感ずる。
北大文学部紀要
一 7-
顔之推伝研究
一家困窮の裡に、両兄の被護の下に教育されたが、 やさしい兄できびしくしこまなかったので、家
0
これはその前年に侯景が反乱を起し、都に迫り、太清
侍に任命し、 やがて軍功によって鎮西墨曹参箪とした。その翌年九月に緯の世子の方諸が中撫軍部州刺史となって部
三年三月に侯景軍が都を完全に占領したことの、彼れ自身への影響の一つであろう。この危機下に揮は被れを国左常
なり、卒に洗湯し難し、﹂(観我生賦自注、以下自注とする﹀
太清三年(五四九)十九才の時、彼も若干の自省をしだした。﹁年十八九、少しく砥嘱を知るも、習ひ自然の若く
と言っている。
すなわち以て白釈を講ず、吾れ時にあるいは末廷に預り、観しく音旨を承るも、性既に頑愚、亦好まざるところ:::﹂
愛習するところ、学士を召置し、親しく教授をなす、寝を廃し食を忘れ、夜を以て朝を継ぐ、倦劇愁憤するに至れば
向が彼に十二才の頃から存在したことがわかる o 家訓にも﹁(荘老周易は)元帝の江剤の聞に在りしとき、 おなじく
交の縁故で被護されていたことがわかるとともに、老年になって書きしるした家訓に一貫して流れる賢証主義的な傾
にあらず、﹂(北斉書顔之推伝)とあることによると、後の元帝、当時は江東刺史となっていた鐸の幕府に、 おそらく
致篇)と言っているが、﹁(之推)年十二、揮の自ら老荘を講ずるに値り、便ち門徒に預るも、虚談は其の好むところ
も、微しく文を属するを愛し、頗る九人の陶染するところとなり、ほしいままに軽一言し、辺幅を修めず、﹂(家訓、序
彼は幼少年時代を反省して、﹁慈見鞠養し、苦辛備さに至るも、仁にありて威なく、導示切ならず、礼伝を読むと雄
学の周礼と春秋左氏伝を学んだものの、当時流行の美文を作ることに興味をもち、酒にふける青年に育っていった。
彼は父の死後、
2
QU
であり、そ
ことになると、
の鰻泉、
つ
一
﹁
﹂
、
そ
っかさどった。
主将の
は十五才
あった上に、部州は戦線後方であったため、軍政や防州制掛か︺治断し、その漣
ある。
の行台郎中五郊の厚意によっ
んじなかったと
主だっ
よって一たまりもなく罫州は綴蓄し、方諮飽泉
における第一回毘
面識もなかっ
の部蒋宋子仙と缶約の寧の
は捕虜となった。その時、
これが載の
そうになったが、
して連行設れ
三刻の名は、終橡滋五十六侯景伝中に、﹁︿中 A後一万年)十二月︿倹﹀幾多智中間出議家;;¥又巡其行合左丞主体友民郎中五封、話機
をはじめ
命され、
ζ
卸
は侯景を完全に数り、
へ、口問︺
﹁既に侯景を斬り、
義太子起す
て認連すい
誌を建業の
に鯨く、﹂︿観我生賦自在)。建業の間後後兵士
ふ決
獄策、﹂と協でいる王測であろう。沈北対談巻一一十にある五剣山似の乏則は、庶民奈の泌⋮?ではないし、北斉の年(五砲丸﹀にか?
は蒲条として以
していた。賊の
ている状畿であった。ここでようやく機会をえて彼は、 お そ ら く 捲 虜
でほとん
に侯景のために破壊略奪されて、
している。同名異人と湾、えてよい。
建業の部
のあ一りさまで、部に住む名門は
に賊の妾となっ
るが、視先代々の議長一族の艶住地毅家巷のあ
王僧静など
かむに一会る、首会梨州に訟へ、
舎一
助
を
らが、 た
のもとであった
え推二十二才の
ずねている。全く破壊された故郷における§分を、その賦は﹁長干を経て以て掩抑し、
っている。
翌五五
る、百数之を食ひ、
の
州
顔之推伝研究
の失火により建業の宮殿が焼失したことを、同じ自注でかれはふれているから、当時ようやく自由をえて建業にい
たことがわかる o 十 一 月 、 江 陵 に お い て 元 帝 は 即 位 し 、 之 推 は 散 騎 侍 郎 奏 舎 人 事 と な っ た 。 こ の 官 は 当 時 あ ま り 重
じられなかったものであったから、微職であったと言える o ともかく彼はここで再び元帝の下で文学や思想上の教え
をうけ、 おそらく兄とも相見ええたのである。この時、司徒王僧離は建業にあった秘閣旧事八万巻を江陵に奏上した
北周書顔之儀伝。かれが神州煩(或は刑州頒)を献上した
ところ梁の一冗帝より手勅をたまわっている。
(2)
ので、経部史部子部集部の四部のうち、史部の校訂に参加した。この記録(前出・自注﹀ には、﹁員外郎顔之推﹂とあ
るから、前記の散騎侍郎にはそのあとでなったであろう。
自宋以来、用人雑、放其官漸替、梁天岡、雄華選比侍中、
而人終不見重。(唐六典巻八、左散騎常侍注)。
(1)
平和の回復とともに、江州で客死した両親の墓をたてることが計画された。元帝より勅許と銀百両の下賜があり、
既に揚州の郊北の小地で瓦を焼いて準備をすすめていた。しかしこの平和は短かく、再び戦乱のためにさまたげら
れ、之推兄弟はこの地に一生の問、もどることもかなわず、費用の工面もかなわず、希望ははたされなかった o 家訓
終制篇ではその不孝を欲き、 せめてもの償いに親よりもあまり手厚い葬り方をしないように息子達に切にさとし望ん
でいる。
この時の戦乱は、 西規(後に五五七年、北周となる) に よ る 江 陵 の 陥 落 と 破 壊 略 奪 、 元 帝 の 殺 害 、 之 推 兄 弟 と そ
の家族の西説への強制移住をもたらした。すなわち元帝の承聖三年(五五回)之推二十四才のときである o 先年の侯
景の乱において、数的に圧倒的な梁寧がみすみす武帝のこもる都城の陥落を見すごしたのは、救援にきた諸王子聞の
反日対立によったのであるが、このときも岳陽王替はかねがね不和である元帝に対し、 西貌に降って、 その兵を導入
-1
0-
した。西説の大兵はこの機会をとらえて和親をゃぶり、 不意に理由なく江陵を攻撃した。西規軍が江陵に到達したと
き、武帝は龍光殿で老子義を講じていたが、敵襲の判断が内応者によって誤またれ、大丈夫だがともかく念のために
と言うので、 百官は武装のまま講義を聴聞したと云う。その夜、都は包囲されたが帝は詩を作るなどして悠々たる文
この戦争について自注では﹁孝元与字文丞相断金講和、無何見滅、是師出無名。﹂と述べ、周童日干謹伝は﹁梁元帝密与斉氏通使、
人ぶりであった。だが内応者によって規軍は侵入し、あっけなく都は落ちた。
丸
山
VVAV
。
将謀侵秩。其兄子岳陽玉答、以元帝殺其兄誉、披岳陽来付、例請王師。乃令謹率衆出討、旬有六日、城陥、梁主降、尋殺之。﹂と
元帝は既にふれたが、侯景を破ったのち、建業に集積されていた図書をその好学癖から江陵に移していた。青年時
(
注
﹀
代からの収集書とあわせてその数は十余万(一八万巻とも一五う)にのぼった。﹁北朝の墳籍、江東のコ一分の一より少
なし、﹂(自注)と之推は言っているが、その全てがここにあったのである o しかるに一克帝は落城にあたってその書籍
を外城で焼きすて、宝剣を柱にうちあてて折り、﹁文武の道、今夜窮せり、﹂と歓じ、或は焚書について、﹁書を読む
こと万巻にしてなお今日のことあり、故にこれを焚く、﹂と好学の末路を自瑚したとも伝えられる o この焚書中から
助かった本は十中の一、二と云う(陪書牛宏伝)ことであり、全中国にこのため図書館はなくなり、南朝で典籍に遺
闘するものが多いことになった。
(注)元帝撰、金樫子理訳書篇によれば、四十年間で凡そ八万巻をあつめたと一云う。
しない。参考論文として﹁顔之推の生活と文学観﹂村田慎之助(日本中国学会報第十四集)をあげたい。
(追記)之推に影響を与えた人物として、この元帝とその周囲の文人達が問題となるが、文学の問題でもあるので、ここでは特に考察
北大文学部紀要
4A
唱
'4
・
顔之推伝研究
先に侯景の乱における武帝の死、今回の元帝の死という都の陥落を伴う事件によって、二度目の国家の崩壊にかれ
はぶつかったのである。これによって支配者の老荘思想愛好についての批判が、かれの家訓にでるのも当然である
が、さらにこれらの戦乱で目撃した無能にして遊情な貴公子達の末路は、きびしい教訓を与えた。家訓勉学篇に﹁学
芸のある者は、どこにいても安泰である。戦乱からこのかた多くの倖虜を見ているが、代々の庶民であっても、論垣間
孝経を読むことを知っている者は、ともかく先生になれるが、先祖代々の貴族であっても、読み書きをできない者は、
すべて田を耕すか馬を飼うかをさせられている。﹂とある o
一般人民男
L (観我生賦 ) o こ の 非 惨 な 倖 虜 群 中 に と も か
伴虜になった梁の貴族たちは、奴隷身分にされ、その能力によって酷使された。北史巻八十九庚季才伝によれば、
-評価されていたのであろう。
族にあるまじきことであった。おそらく病気の彼を連行する必要からのことでありその意味で彼の能力がある程度は
ると厚遇ということになろうが、 しかし周以後六朝にいたるまで従僕をのぞいて官吏の乗馬は風儀を失すること、貴
中を脚気に悩みつつ、険しい西貌への山路をよぼよぼの馬に策っていたのである。馬を与えられたのは、今日から見
くも生命をたすかつて、之推はその家族と共に入っていた。江陵の陥落は十一月であったから、きびしい冬の寒気の
む。これをこれを懐より奪ひて草に棄て、塗につまづきてむちを受く。
女数万を奴牌として三軍に分賞し、小弱者はすべて殺したと云う。﹁あかごに何の事ありやと憐み、老疾の無状を斡れ
この征服によって西視は南朝累代にわたって蓄積された一切の財宝文物を収奪し、 王公以下を停にし、
3
1
唱
っ'u
初め、正設が陥落した
は自分
にあった。
へん、﹂
の前半のみ
した。田川の
誠に衰
のことであ
に室2
A
つづいてい民陽侯藷淵明会︺
ぜ敬帝とし
五五
西麓にとって 一陣鼎立の状
之捻
五五留年十一月に元帝、が捕えられ、
一月に建康で
淵現を鮪け、数出wを譲位させ
ったのである。
﹂の庚
あるいは武
いなければ、
ありません。皆が叙裁に
は傍られ
るされたと云うことそ
れている。北周の
の文帝に認められ太史の
の伴虜で奴僻になウた数千人を
どぎいますと答え
は君主の
は多く奴隷むされた。
挙才は、
ので、身代金合はらっている
て、命令を出し
の激動は、
の
ら
にそうするか
る。しかる
北大文学部和実
守
会
れはその才
の惨状を知ることができよう。
たのと誕れて、弘農(麗谷間﹀に行くことになっ
かるとともに、
っくし孤に事ふベし、まさに富貴会以
であった。
際覇先は替安王方知日を泰じ、
の噂が、弘繭践にいる彼のもとにとどい
の謝挺、
に重んぜられ、そのえの陽平都公李遠の書記を当るようにさせられたためである。認められた
ちが長安
t
主
れと患い
季才
帝など
龍
今
一
として送りこん
西親にとど変ること一年、北総パが抑留されてい
しての
フ
じ
なおくりこんだのである。若干のゴタゴタの後、 王僧議は期間切な迎えいれ帝とし敬慌を太子とし
れるや、
せ
﹂
1
3-
帝
態において、築と斉の連合がもっとも重大事でるったためと思はふれる。
にあ?たこのよ
し
の
0)
の
顔之推伝研究
之推のいた宏農は黄河に泊い、長安を敵国から守る前線根拠地であったから、舟に乗って河をくだり、難所の砥柱
を突破すれば易々として北斉勢力下の洛陽あたりに到達できた。斉を経て梁に帰ることは可能になったと思はれたの
である。かくて丙子の歳(五五六)の元旦に箆にうらなうと、﹁泰の放に之く﹂に遇った。これに力をえて機会をま
)o
黄河の水は通例陽暦では六月から十月にかけ増水するから、そ
つうちに、﹁河水のにわかにましたのにより、船を準備して妻子をたずさえて斉にむかい、砥柱の難所を通過したの
で、時人はその勇決をほめたたえた。し(顔之推伝
一夜市至。﹂(自注)によって彼の勇敢な壮挙が事実とわかる。彼はこのとき妻子合つれていたが、
のうちの好機をねらい一夜のうちに決行したのである。﹁昏に胎を分陳に揚し、曙に績を河陰に結ぶ o﹂(観我生賦)、
又﹁水路七百皇、
0)
の反映
長男の思魯はその命名より見ると、この抑留中に生れていたのであろうか。次男の悲楚は、単に江陵の事件をふんま
えるというよりも、梁から陳への王朝交代(陳覇先が即位したのは、この翌年五五七年十月のことである
ではなかろうか。三男の瀧秦の名はどうしても斉の滅亡後における周への移住の反映と考えられ、その証拠は、北斉
書顔之推伝の﹁之推在斉二子、長日思魯、次回、悲楚、蓋不忘本也 o﹂である。
之推には妻子のほか、同行者がいた。家訓帰心篇に、﹁江陵の高偉、吾れに随いて斉に入る、凡そ数年、幽州の淀
中に魚を捕ふ。後に病む。病むごとに、 つねに群魚の醤るを見て、死す o﹂ と 因 果 話 の 例 に さ れ て い る 高 偉 は 、 漁 師
であって、江陵から連れてこられ、故郷を恋うて之推に同行し、 おそらく脱出行の船を操ったのであろうか。
夜間、 たとえ高偉以外にも水路や船のことにくわしい人がいるにしても、河をくだることはきわめて危険である。
顔之推、高偉などの望郷の念のつよさを知りうるのであるが、それとともに宏農での生活のきびしさと看視の厳重さ
を指摘したい。それは彼の主人の李遠について、周書巻二十五において宏農でのことを、﹁遠は普く経撫し幹略あり。
噌EA
4 斗晶
守殺の
に之を知る。事の
とあるからである。
しばらく
て奉制執務に険し、
の天下をゆずりうけて陳が輿つ
はか︿戦状態になっていて、文宣帝高洋は
﹂と此の都
精鋭ならざるなし。 つねに厚く外人を撫して間諜たらしめ、敵やの動静、
のの、この年には援
られし者あるに議るも、亦以
して斉
に伴したとき、
ると、
んでやりたい。
にこの失態を
のときのことであるが、壌の
の大夫というところ、主客汁の
とになる。
れに大勝し、 やがてその翌五五
彼は亡国の冒とし
したものの、輝頭先は
つうちに梁は亡
総連池に遊猟し、
にはべらしたと
五八)六月、
なかった彼の
は之推二十
営外で飲瀬していたので、 このこ
、
tu
れて、これ叫にこのことはそのま家になった。この
して之推に一本めさせたが、この
中止
でも飲ま
は結対にかるがる
して誌ならぬ
の風
ず
こ
ぷ
〉
てしまったことがある。今で
すぐにでも改める。。しか
が披の⋮廷をひっぱったことも考えられる。家訓女章篇に、
の漢人文土への題意合見るのである。
いがるり、
してもらい、欠点があるとわかれ
の文化人としての
ると人か
している。お支えた
北大文学部紀楽
-1
5
の
では批評はしないのだ。わたしがはじめて野に来たころ、このことで人の
﹁江南では
上秦し
欽揺が悪い結果 b,
y もたらした併であり、
よ
るえりのの、
になっている。
りようやく北照と北奔の攻守が、 そ の と こ ろ を 代 え │ ! 五 五
顔之捻伝
この
に対しよ
w
では、
の議芽が勺でき
に大な
とりまく部近の
とか 泌としていた。
に士人を任用する
人、が同州令になる
六六)
つづくとともに、法額約にととのってき
四﹀律令を頒布し悶賦を制し、
Jh
に、その
や仙斉輩出巻コ一ナ八、党文議同協。作品掛錦及び北斉では
の後主高偉が即位するとと
の自力はいよい
し子議
らみると太露の主
のこし
ごいる。
により、
る。この
空交際が注閲
の全盛期が来るのであるが、それまでの閣の之推についてはあまりくわしい
において家訓
の
とはわから
の 対 立 抗 争ila初 号 } の 分 類
らみれば、自己の能力(特に
の
のかた数十尽に猟鵠村があ
-1
6-
︿
後
﹀
五六
の対立抗争、或は崩の
勲再出身おるいは銭卒の
の権力闘争の際初的多彩性を認識し、その考察か
に か ざ な り 合 う も の ℃ あ っ たl!ーが激化し、
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で出世をのがした
り上支県に入つ
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の接療をさぐっていくことにしたい。
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之括会合む漢人官僚と征服務級出身の
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対立抗争
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って、そこで百官は馬糧をうけた。晋陽の東、 百余里の充仇亭の側にあるが、この二個所がもとの何処かはぜんぜん
わからない。 いろいろしらべたが全くわからない。字林韻集をしらべてやっと猟聞はもと繍飴緊、尤仇はもと航暫亭
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家訓勉学篇)。更に北奔書本伝に﹁河清末(五六四頃)、趨州功曹参軍に任用された、﹂
で
、 いずれも上交県にあることがわかった。時に太原の王勧が郷邑記注を書こうとしていたので、この二つの地名を
教えたら大いに喜んだ
あるが、家訓書証篇に﹁わしが嘗って趨州の佐となったとき、太原の王劫とともに柏人城西門の内側の碑を読んだ。﹂
北大文学部紀要
(注) 北斉書巻=一十五、王松年伝。陪書巻六十九、主的伝。北斉書巻三十七、貌収伝。
代を考詮的な研究に従事していたと思はれる。その成果は家訓の童日詮・音辞などの篇にやがてあらわれることになる。
を採摘して読書記三十巻を撰した。時人はその精博に服したと云う o之推はおそらくこの主劫などと、この不遇の時
修めることに従事し、帝の意をたえずむかえることに努め、場帝のとき官は秘書小監にすすんで没した。経史の謬誤
の識者から認められたことがあり、斉より周になると不遇であったが惰では女帝に認められ、著作郎となり起居注を
なっているから、 王劫は二十才前後に之推と交際していたことがわかる o彼は待詔文林館時代に﹁博物﹂について世
れ、参開府軍事からやがて太子舎人待詔文林館に累遷した o 貌収は大寧元年に開府、河清二年(五六三)に右僕射に
非難をしたので帝から処罰されたことがある o劫 は 少 年 時 代 よ り 寡 黙 で 読 書 を 好 み 、 弱 冠 で 尚 書 僕 射 説 収 に み と め ら
王酌は太原晋陽の人で、 父の松年は斉の通直散騎侍郎である。五五四年に貌収が説書を文宣帝にたてまったとき、
した o﹂ という話がのっている。
ということと、碑文中の山名を諸々の字書から校証しその結果を﹁郭にいって貌収に説明したら、収は大いに嘉敷
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毅之推伝研究
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処罰をうけても、 その文才台以て免るされてい
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之推が議州功曹参軍よ
は大過は稀れになった
一才のとき、
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の部長頴によって
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に成功したのである。
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しても悔悟の
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ついて家訓はふりかえって、一
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文林鍍は斉において護かに
執政の
設立年代について家制料品果注の訟によった。
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芳香巻四十二、際持作品乙公。
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いていったか。後に武成帝ハ五六
るはなく、
のエネルギーのはけ口に悶まっての仕業に思われる。
選擦律を無視しうるこのような入閣は如仰なる方法で政権に
かえること
の駿令萱(陵蝋、
ったので、その本姓結合}棲に変更したiiiが親幸されていたので、
後主の
やがて武成
して、迭をして
れたことから、
容ハ郡太守とい恥じ、再び報廷にもどり太常小郷散議常侍となり、認識を掌るこ
であった時に、 やがて設が帝伎をうることを預言し
った。
接近し、その
て秘書監となり、武成帝と後主主とか
り、そこで侍中尚率ムヲ議彦深、
州制約史にし
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その外或の
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る左丞相餅律党合]叛乱罪で談殺し、
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て、壁掘ととも
るや、武平二年
めて謀去としようとして
和土問問
した。この
切の大権を掌撞し、和士聞が執政となって以来、乱れてい
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かった。これがもれて光州に徒され、地下牢で失明するにいたっ
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これより文武
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する警戒を説いた。和士聞も撲の
いたので、
方に出し、自らは侍中となり、
勢伎は朝廷をおおった。八月その
ので、 つづいて
北大文学部紀要
七
く
顔之推伝研究
家を漸次に滅亡に導き、 四十七才の冬に北周は斉に攻撃を加え、晋陽は陥落し、内応はあいつづいた。この危機に際
して之推は諦都での一戦に敗れたら陳に逃れることをすすめた o後 主 は 彼 を 平 原 太 守 に 任 じ 退 路 の 確 保 に あ た ら せ た
が、遂に後主は北周にとらわれ北斉はほろんだ。五七七年である。かくて之推ば周の武帝のお伴として長安におもむ
く斉の文官十八人の中に加えられ、周に仕えることになった。大象末(五八O 年頃)御史上士となった。隔になると
開皇二年(五八二)に、官中の雅楽に胡楽がつかわれていたが、梁国の楽をもとにして古典から研究し作ることを上
(注)
秦 し た が 、 文 帝 は 拒 否 し て 、 ﹁ 梁 楽 は 亡 国 の 音 楽 、 な ん ぞ 我 が 用 に 立 た ん や o﹂と言った(陪書音楽志中)。この頃
かれは命令により秦時代の鉄の称権の銘の文字の解読をしたり、南北や古今の音韻についての討論をしている。政治
的に失意の状態において、何がかれをささえたか。それはかつて斉において三十代のかれの悩みをま、ぎらせたものが
五十代で再び役に立ったのである。
(注) 家訓書誼篇。陸法言、切韻序。
かれを慰めたものに開皇元年に之推の長男思魯に子が生れたことである o後 に 漢 書 の 注 釈 者 と し て 有 名 な 唐 の 大 学
者顔師古である o 三人の男の子と、 その孫にかれは希望を託したのである。家訓勉学篇に、関中にうつされたのちの
話として次の記事がある。
﹁軒が征服されて関に徒された o 思魯があるときわしに言った o朝廷に禄位もなく、家に積財もない、労働して孝養
すべきです、 つねづね課業が多く経史に苦労して、子供の本分もつくせない、 おちつけませんと。わしは言いきかせ
た。子供は孝養を心とし、父は学問させるものだ、汝が学を棄て財産をえて、わが衣食をゆたかにしてくれても、め
しもうまくないし、着物もあたたかくない、もし先王の道に努力し、家の学問をつぐなら、粗衣粗食でも、わしは満
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足だぞと o﹂ 0
その末年、之推は太子に召され学士(露門学士?)となり、六十才すぎまで生きていた。彼の子供思魯・静秦・孫
の師古、その子の揚庭は唐書、新唐書にそれぞれ伝がある。次男の懲楚の一家は陪末の乱で賊に眼われた(旧唐書巻
五十六・朱柴伝。﹀と伝えられることはいたましい。
一言ふれておく。但し彼等の時代の制約も強いことは当然である。
(追記) 北 斉 末 年 の 漢 人 官 僚 、 特 に 諒 殺 事 件 に か ら む 人 々 に つ い て 述 べ た か っ た が 、 本 論 文 の 性 質 上 、 割 愛 し た 。 彼 等 の 立 身 の 経 粋 に
は唐宋の官僚の活動のめぼえを一示めすものがあることを、
北大文学部紀要
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