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ニーチェ の著作類をめぐる論争と疑義につ いて
浩 二ーチェの著作類をめぐる論争と疑義について カール・シュレヒタの︹ニーチェ選集︺に対する批判 野 ☆ である。 十年代の遺稿から﹂という謙そんな標題のもとで、雑然とアフォリズムが並んでいるだけでは、キツネにつままれたよう は、ドイッでも日本でも多いのだから、﹁権力意志﹂がスフィンクスのように控えているはずの全集の最後に、たんに﹁八 何といつて権力意志という看板は長年売りこんだものであり、ニーチェといえぽ﹁権力意志の哲学﹂と心得るしたり顔 くつかのプラソがあり、疑問の余地があること このくらいのことはニーチェ研究者がみんなかぎつけていることだが、 とめたものであること、この編集はニーチェの残したプラソにより、その意図に副つたものとされているが、ほかにもい これは昨年来ドイッでセンセーションを起している。 ﹁権力意志﹂が二ーチェの遺稿であつて、妹のエリーザベトがま ﹁﹃権力意志﹄の著者は、ニーチェではない﹂と、カール・シュレタがはつきりいつた。 1 小 この新しい全集︵カール・ハンゼル書店刊︶を編んだシュレヒタ教授はしかし同時に、勝手な﹁主著﹂をこしら、兄あげ 80一 1 たエリーザベトに関して、あきれるばかりの文献偽造を暴露したのである。いろんなことが明白になつたが、たとえば、 ﹁愛する﹂ ︵実はそうでなかつた︶妹に与えた手紙として公刊されている三十通ほどのものが、実は母親やマイゼンブー クあたりにあてたものを改ざんして横取りしたものだということ、そうした奇怪な事実が、その発見にいたるほとんど推 理小説的なプロセスを経て、もはや反証の余地のないようなものとなつた。 ずいぶん思いきつたやり方で、この妹は自分にバクをつけ、死んだ兄貴の思想を利用したものだ。 ﹁権力意志﹂が彼女 の欲求であつたと同様、あの﹁二iチェ伝﹂もこの角度で読む必要がある。 ニーチェの中には権力意志的な発想もたしかにあるが、なによりもかれは反時代的人物であつて、軍国主義者でも国粋 主義者でもない。かれに時代の脚光をあびせ、ナチス・イデオロギーの電源に仕立てたのは、この妹を中心にしたワイマ ルの二ーチェ文庫の努力であり、ゲオルゲ一派の陶酔者も協力して能動的ニヒリズムを歴史の舞台にのせ、ブーヘンワル ドの悪夢に通ずる線を強化したのである。 ☆ ニーチェの思想は、かれが生前自身で刊行した著作に尽きている、とシュレヒタはいう。しかもニーチェは自分の哲学 を﹁人間的なあまりに人間的な﹂から始まると考えたから、それ以前の﹁悲劇の誕生﹂や﹁反時代的考察﹂は別のもので ある。かれは時代の自然科学と歴史学のゆきつくはてを見通した。すなわちニヒリズムである。iこれらの考察の詳細 はシュレヒタの近著﹁二iチェ事件﹂に述べられている。しかしかれの文献吟味の仕事と二ーチェ観は別個のものと考え ていいだろう。 ともあれニーチェの周辺はずいぶんはつきりした。雑音が消えて、これからはこーチェの基調が聞きとりやすくなつ た。二iチェ研究は一歩前進である。 一81 偉大な思想家の固有の思想とその歴史的影響のギャップの、これはそのグロテスクな一例でもある。 以上は本年七月二日東京新聞︵夕刊︶の読書欄に掲載された﹁反時代的な思想家﹂と題する氷上氏の文章の全体であ る。要するにその主旨は、カール・ハンゼル版のニーチェ選集−全集ではない∼1ほ、最もすつきりとニーチェの姿を 伝へるに足る原典であり、その編者カール・シュレヒタ︵︸︵餌吐一 ωOげ一ΦOげけm︶こそこのやうな真のニーチェ像の発見者であ るといふことにつきるやうに思はれる。ところで氷上氏の文を一読して恐らく何人にも感ぜられることはニーチェの妹エ リーザベトの不徳義がクローズアップされて前面に押し出された結果、これを始めてあばいて見せたシュレヒタその人が 一種の神格化を受け、そのために、旧全集、書簡集その他の資料から綿密に綜合さるべき二iチェの姿は悉く無価値なも のとして一蹴さるべきものとされてゐることにある。然しここには、泓たちの理解し難い一種の抽象化が行はれてゐるや うに思はれる。もとより威力への意志ーζ8艮を権力と訳すことの不適当については阿部次郎先生から戒められるとこ うがあり、爾来先生の試訳を踏襲して筆者も亦、威力の訳を充当してゐるがー、この威力への意志のニーチェ的発想をナ ヘ へ ッィ・イデォロギーの方向に抽象化することも狂信の強化に役立つが、シュレヒタによつて押しつけられた﹁二iチェ﹂ を盲信することもまた抽象作用に基く狂信の一変態である。盲信すれば害悪を生ずるのは何もナッィ・イデオロギーの場 合にのみ限らないであらう。氷上氏の言説はシュレヒタをニーチェに君臨する神とでも考へない以上は不可能であるやう に思はれる。 ところでシュレタは果して二iチェの神であつたか。 私は氷上氏があげて居られるシェレヒタの﹁二ーチェ事件﹂なる書を知らない。シュレタのもゆのうち、私が目を通し 得たのはハソゼル版第三巻の構成と、年表、経歴表、交献学的追記、後記を含むその附録、及びヴィット ツアイト。ウソト・レーベソスタ,フエル・フイロ”ーギツシヤー・ナツハベリヒト・ナツハヴオルト アソバソグ リオ・クローステルマソ書店刊行の﹁ニーチェの大いなる真昼憲、舘暮跨恥§聴、ミ匙禽矯H霧恥﹂ である。然し彼の所 一 82一 アンハソグ 謂文献学的操作の実体を知るためにはハンゼル版第三巻のかの附録を一読すれば足りるであらう。いまこの附録の読後感 を収約すれば、要するにニーチェの妹の不徳義の曝露といふことがシュレヒタのあげ得た唯一の鬼の首であつて、これを ヘ ヘ へ つきつけられただけでも底の浅い外国の研究者などは二の句もつげず参つてしまふであらうといふこと、またその由来は 詳かにし兼るが、シュレヒタにはニーチェに対する一種の怨恨感情のやうなものがあつて、何とかして二iチェを、特に 後期のニーチェを過少評価してやらうといふ一種の毒気のやうなものが節々に感ぜられるといふことである。ところで最 近測らずもメルクール第一一七号︵︸<︻①芽仁びZo<°H㊤宅︶に十四頁余︵ψ一〇蕊1ω・一〇c。刈︶に亘つて発表されたルードルフ・パ ンヴィッツ︵国仁αO一h勺O昌昌芝一けN︶のシュレヒタ評を一読した際、以上の私の所感がほぼ適切に敷彷されてゐるやうに思は れたので、次に多少の私見を交へつつ大体を紹介して見度いと思ふ。これによつてシュレヒタがニーチェに君臨し得る神 格的存在に非ざることも明かになるであらうと考へるからである。 2 ところで、パンヴィッツによつて遂行されたシュレヒタ批判の眼目は、シュレヒタの目標が、その標題によウて示され てゐるところにはなく、二iチェその人に対する攻撃を主とするものであつたのを明かにしようとしたところにあつた。 シュレヒタは先づ、そのやうなものであることを繰返へし確認されてはゐるが完成はされなかつたニーチェの主著、即 ち完成された後期の諸著をも含めて多くの破片や裂片から、或は築き上げられ或は演繹さるべき主著﹁威力への意志﹂を 現行の姿に於ては、妹を中心とする刊行者たちの陰謀として悉く捨て去り、とりわけそこから獲得さるべきニーチェ像を 原本批判の立場からは許容し得ないもの、人を証かすものとして粉砕しなければならぬものと考へ且つこれを試みてゐる のである。然し従来の﹁威力への意志﹂に表明された二ーチェは、妹の小手先細工によつてつくり出されたものと考へら れるには余りにも雄大な姿を示してゐる。もし、シュレヒタの主張ずるやうにこれが妹の陰謀によつてつくり出されたも 83 のなら、妹はニーチェその人を数倍した天才でなければならなかつたであらう。 ところでシュレヒタの仕事に全面的な口実を与へた妹の歪曲の実状はどのやうなものであつたか。ヴァイマルなる二i チェアルヒーブはニーチェの死後妹の独裁下にあり、そこへ出入を許されたものは妹の腹心の人々に限られ、而もこれら の人々にさへ出入を許されない場所があつた。その間にあつて、ルー・ザローメやパウル・レーやオーフェルベック一家 の人々と反目し、一時は母親とさへ疏隔関係に立つたエリーザベトは、彼女に対するニーチェの批判や忌避を揉み消し、 且つ二ーチェとその作品に対する実はそれ程でもない測近性をニーチェその人によつて実証してもらふために、他人あて の二iチェの手紙を自分あてに改窺した、即ち手紙の草案類を利用して削除したり火にあぶつたりしてこれをやつてのけ たのである。実状はまさにこの通りであり、弁護の余地は存しない。ところで、 エリーザベトに対する二iチェの関係 は、諸々の書簡から判明するやうに、緊張、破綻、和解の問を往来するものであり、マルヴィーダ.フォソ.マイゼンブー クに対する長文の手紙︵シュレヒタ版第三巻、1以下皿と略ーω・鼠・。olω・置器︶はこれに対する重要な証拠を提供する。然しこ れらの改窟によつて何がなされたといふのか。書簡原本類はその根本的内容から見れば始んど改窟されてゐないと言つて よい。身近かな人々に対する内面関係がずらされてはゐるが、これは個人的な且つ伝記的な意味のものにすぎず、ニーチ ェの意向に対する根本的な迷誤は予め存在してゐなかつたのだから、さして重大なものと考へるには当らないであらう。 要するにニーチェその人の発言自身を問題とする場合、ニーチェの根本性格を見失はぬ人にとつて妹の多少の小手先細工 に迷はされることはないと言つてよい。シュレヒタの発見は決して過小評価さるべきではないとしても、それがニーチェ 像の根本的改訂を要求する程の鬼の首でないことは、この辺からでもその一端が窺はれるのである。 3 次に﹁威力への意志﹂と称せられるニーチェの箴言集をシュレヒタは何故に疑はしきものとするのであるか。 84一 現行クレーナー版第十五、第十六両巻に収められた﹁威力への意志﹂に先立つて、一九〇六年には、ペーテル・ガスト、 ヱルソスト並びにアウグスト。ホルネッフェルによつて四八三の篤言を含むものが、一九一一年にはぺーテル・ガストと 妹との手によつて一〇六七の箴言を含むものが刊行された。シュレヒタはこれらを底意ある寄せ集めものと見、ニーチェ 神話の根源がここにあると考へる。これらは、シュレヒタによれば、使はれずにしまつた屑であり、投げすてられたも の、数年間に亘つてものされた重複や同一主題の変形の累積だといふのであり、従つて名声高き二:チェの後期高峯時代 は実は空しいもので、何らの新しき思想も生まなかつたといふのである。この見地に立つてシュレヒタは﹁八〇年代の遺 稿から﹂と題して後期十ケ年に亘る手稿類から、全く年代順も不確かに、五百余ペーヂに亘る抜葦をでつち上げた。 ヱルンスト・ホルネッフェルはかつて、 ﹁威力への意志﹂の初版は軽卒で不十分なものであると公然と表明したことが ュ レ ヒ タ の 場 合 と は 全 く 異 る 事 情 か ら か つ た 草 稿 の 幾 東 が [ あ る が 、 こ れ はシ で あ つ た 。 即 ち 彼 に よ る と 、 判 読 さ れ て ゐな 85 存在してゐたのであり、刊行者たちは差し当りこれを写しておかうとしたのであるが、妹は先づ速かに書物として世に出 一 通りであり、永久に判読され得ないやうに思はれるものも少くないのである。何となれば、兎に角ニーチェと同じ気圏内 す こ と を 主 張 し、 読 さ れ て ゐ な い 膨 大 な 幾 束 が 存 在 す る と いふ そ の 通 り に 運 ば れ た の で あ る 。 こ の 判 こ と は 、 今 な ほ そ の ・ に呼吸し、真の弟子としてニーチェに侍座する資格ありと考へられる唯一の人、ぺーテル・ガストはもうこの世にゐない からである。 もとよりガストはニーチェの忠実な弟子ではあつたが、力強い弁護者ではなかつた。だからと言つて、事情に通じた妹 の共犯者として彼を告発することは正当ではない。彼はエリーザベトの専断的意志の下に立ちながらも、オーフェルベッ クとの友情も持続し、その意志もまた立派であつた。然し、自分の後に誰が続くかを考へたとき、彼はフェルステルと手を 切つて著作刊行の仕事から身を引くことはなし得なかつたであらう。凡そ責任をもたぬ人物に肩代りしてもらふよりも、 本来なら責任を負へないものに責任を背負はされる政治家の役目を彼は選んだと考へらるべき理由がある。私たちは実 に、ガストこそニーチェと一緒に仕事をし、ニーチェの意図を知悉して遺稿の素材にも接触したところの、且つまたニー チェの筆蹟をも判読し得た唯一の人物であつたことを忘れてはならない。彼がエリーザベトと仲違せずにやつて行つたか らこそ、彼女に対してどれほどのものを禁止し、どれほどの暗示を与へることができたか、また彼がゐなかつたらどのや うなことが行はれたかをよくよく考へて見るべきあらう。 一九〇六年版の倍以上に増補された﹁威力への意志﹂第二版に於て、重心はこの版の原理に置かるべきであらう。これ は後期数年間の手稿類をその諸分野と諸動機に従つて集めたものである。どの程度までこのやうな並べ方や諸々の指図が 二iチェ自身から出てゐるものか、またさうでないか、どの標題をニーチェ自身が見つけたかー︵そのほかに彼がガスト に見つけさせた標題もあるし、またそれらには特別のしるしがつけられてゐた︶!、そして結局、何が採用され何が省略 されたか、これらすべては、 ﹁ツァラトゥストラ﹂からその生涯の終局に到るまでの二ーチェの全像が彫塑的に一目瞭然 と且つ手にとり得るほどに現示されてゐたといふ事実に対比すれば、とるに足らないことなのである。この際行はれた選 択はテクストの次のやう傾向を除けば、何ら底意のあるものではなかつた、即ちその傾向は、認識批判、生物学、価値批 判、西欧ニヒリズム、政治、永劫回帰、超人、ディオーニュゾス、視影、訓練等々の綱目に分けられてゐるものが相互に 対照しあふやうにさせられてゐる点に示されてゐたのである。 4 後期の高峯を形成するニーチェの主著の存在に対するシュレヒタの物凄い異論は、あらゆる事実と実績とに甚だしく矛 盾してゐる。先づニーチェ自身の言葉をあげよう。 ﹁もしこの夏、僕がズィルス・マリーアにゆけば、僕は僕のメタフユ ズィカと認識論的な諸見解の修正を企てようと思ふ。僕は今や一歩一歩一系の訓練を通過しつくさなくてはならぬ。蓋し _86一 僕は次の五年間を僕の哲学の仕上げにあてることに決心したからであるが、このために僕はツァラトゥストラによつてそ こへの玄関を築いておいたのだ﹂︵一八八四・四・七・ニッツァよりオーフェルベック宛︶。 またぺ1テル・ガスト宛で一八八 四・九・二附ズィルス・マリーアからの手紙には次のやうに言はれてゐる、﹁その上僕は、自分に課したこの夏の主要主題 については全体に亙つて仕上げを済ませた、 次の六年間は、それで以て僕が僕の哲学の輪郭を描いておいた一計画の仕 上げにあてられる、それは調子がよく且つその見透しは有望だ﹂と。またブランデスにあてた手紙1︵一八八八。五.四 附トゥーリソより︶−には、﹁これから六月五日まで滞在の予定にしてゐるトリーノに於けるこの数週間は、この数年来 のどの数週よりも私には工合よく思はれます、とりわけ哲学的に稔り多きものです。私は殆んど毎日、一時間か二時間私 の全構想を上から下へ眺め渡し得るほどのエネルギーを持つことが出来ます。そのやうなときには途方もなく多様な姿を した諸問題が、恰も浮彫のやうに明確な線を画いて僕の足下にひろがつてゐたのでした。このためには力の極量が必要な のですが、そのやうなものを私はもはや自分に期待してはゐなかつたのです。一切が脈絡をなしてゐます、既に数年来一 切が正しい行程にあつたのです。丁度海狸のやうに哲学が建設される、必然な歩みをつづけながら私はそれを知らない。 それを信じようとすれば、泓が今この目で眺めたやうに、人はこれら一切を実見しなければならならないのです﹂と。 ヴイレリツムコレロヘソ かくて﹁ツァラトゥストラ﹂を玄関とする壮大な哲学的鴛薩の構築を眼前に眺めながら、二iチェが遮進してゐたこと は疑ひを容れない。﹁威力への意志﹂はショーペンハウエルの﹁生への意志﹂に対してニーチェによつて対抗的に提示さ ダ ザイソ れたものであり、 ニーチェ哲学の指導的にして組織力ある核心として、それを以て存在のあらゆる領域は通徹され得る ロフ マロス レ ベソ し、またそれがあらゆる変態に於て見出され得るものと彼は考へたのである。ショーペソハウエルはその意志説を以て早 ネガテイ くもロゴスからビオスへの転回を開始したのであるが、彼の生命敵視的な意志は、謂はばニーチェの威力への意志の陰画 とも見られ得るものである。ニーチェは、根源並びに標的として、央心でもあれば尺度でもあるものとして生を把へ、且 一87一 つそれを威力への建設的な意志としてデュナーミッシュに理解した。彼の価値批判と価値転換とはその根抵と動因とを次 の点に有してゐる、即ち諸価値は生の諸々の威力状況の結果として解さるべきであり、積極的な価値の階序は消極的な価 レ ベン 値の階序を包越しこれに従属的位置を指示すべきものである、といふことである。これを体系と呼ぶか呼ばないかは個別 科学としての哲学の仕事師の定めるべきことで、私たちの関心するところではない。とまれニーチェ晩年の遺稿群はこの アルバイテル 意味ではそれ自体統一された一世界である。一巻のまとまりある著書とはならなかつたが、一巻にまとまるべき筈のもの であり、而も主著となるべき運命のものであつた。ディ・フレーリッヒェ・ヴィッセンシャフト以後のニーチェの思索も 計画も修学もこれを目ざしてなされたものであり、そして後期に到つてそれは内面的完成の寸前のところまで成長しっづ けたのである。﹁威力への意志﹂のための序言は現存して居り、また種々の年代の標題や草案も見出されるし、更にこの フオロルレロデ 著作のための手稿類の指示書の類も存在してゐる。もしシュレヒタが、﹁善悪の彼岸﹂以来の完成された諸著の見地から して、仕上げの施されなかつた手稿類を新しきものを産む力なき残津と見なすならぽ、それはまさに本末顛倒と評さるべ きであらう。かの完成された諸著はむしろ同じ創造期の産物なのである。これらは独立の形成に向つて押し進んだ諸部分 の先駆的労作であつた。といふのは、全体のためのあの予備作業にはなほ数年の歳月を要したからである。そして﹁道徳 系譜学﹂はその理念と形式とに於て、この書のテーマを扱ふ雄大な学問にニーチェがどの程度まで近づいてゐたかを示す ものといふべきであらう。 とまれそこには二種類の著作の分岐と協進とが見られる。否それ以上である、或る数の雑多な大見出しがあると共に、 大見出しと小見出しとの混揉がある。 ﹁永劫回帰の説﹂、コ切価値の転換﹂、 ﹁威力への意志﹂の三主題が互に競争し 合ひ、技を比べあふ。だがそれらは内容的に見れば不可分のものなのである。それらは、その一つ或は他の一つがド、ミナ ・ソテの役をつとめつつ相侯つて結晶をとげる同じ一世界である。初版の基礎に置かれた﹁威力への意志﹂ ﹁一切価値の転 一88 換の試み﹂といふあの標題は、ニーチェが﹁善悪の彼岸﹂の表紙裏に早くも同じ標題で来るべき著作を告知してゐるとこ ろの当のものなのである。彼はこの中心的イデーに価値批判を下属せしめる。永劫回帰の思想が前景にあらはれてゐる ﹁ツァラトゥストラ﹂の数年を除けば、ニーチェがもつぱら価値批判と価値転換の問題に従事してゐたことは疑ひを容れ ない。然しその後数年間彼は、自然科学の研究の継続と、彼の著作へのその成果の浸透を主要課題として眼前に眺めてゐ たのである。私たちがこの聯関に於て論理学、物理学、生物学に関する手稿類を読むなら、整序原理として威力への オルドヌソグスコプリソソイユプ ヘ へ 意志といふ統率的主題を選ぶことが出来るだけであらう︵凡そ私たちが整序せんと欲する限りは︶。何となればそのやう にしてはじめて私たちは、彼の生物学的物理学的基礎からして潜在的な所謂体系を浮び上らせることが出来るのであるか ら。これ対してシュレヒタは何をしてゐるのであるか。彼は諸々の計画や表題や腹案の類を凡そ醗刻して居らず、手稿類 から五〇〇頁余に亘つてなされた彼の選択は、私たちの推測する限りでは書卸しの順序に従ふものである。それは例へば フナルグ ゲーテの詩をその成立の順序に従つて編輯するのと同じである、即ち実状に即した聯関を引き裂きながら、意識に於ける 継列のではなく、鉛筆とインクとを以てする紙面への置きうつしの写真版をこしらへ上げるのと同じゆき方なのである。 然し思想家、とりわけニーチェのやうな第一級の思想家にあつては、同時に而も殆ど独立的に、他に依存することなく、 或はこの或はかの領域から諸々のイデーが素晴しい勢で噴出してくるとともに、これらがまた互に手を取りあひ、あちこ ちで個々の系列となつて前進をつゴけるが、それらが書卸し当時の聯関を示すことなど凡そ不似合なほど僅少であるこ と、これに反し諸々の対象や主要主題類に対するその都度その都度の関係に於ては非常に重要な脈絡を示すといふこと、 これらのことについて僅かでも勘を働かせることの出来る人なら、シュレヒタの全く勝手気儘な選択や親しみを感じさせ ないあの馬鹿げた配列の仕方を捨てて、﹁威力への意志﹂の旧版を無条件で選ぶであらう。ノート類に従ふといふやり方 そのものが、第一にこれらのノート類そのものが相当不規則なものであり、第二にニーチェ自身必ずしも規則通りにノー 一89 ヘ ヘ トを扱つてゐなかつたといふ理由によつても不確実なものなのである。かくてシュレヒタの第三巻後半は、全くぬえの如 き得体の知れぬものとなつてゐる。読者にとつてはヂャングルの如く見透しのきかぬものであり、 一個の混沌とも称す べく、ニーチェ研究老にとつては欠陥だらけの勝手気儘な且つ手に負へない代物なのである。 契菅 柴柴 於苦 次にシュレヒタが二iチェの積極的ニヒリスムスを頽覆的な消極的ニヒリスムスと曲解し、ペルペクティヴィスムスの 本質を全く誤解してゐることは、彼自身がその後記に於て曝露してゐるが、これは煩雑に亘るのでここには省略する。 5 ところでシュレヒタは箴言といふ形式の真の意味を全く見損つてゐるやうに見える。とりわけニーチェの箴言風の発言 はその扱ひに神経のゆきわたつた慎重さを要求するものなのである。即ち彼にあつては箴言風の簡潔な諸命題やそれら命 題のつらなり、鋭く磨かれ或は閃発する想念などと共に、何頁にも亘る論説が展開されるからである。更に彼の諸著やこ れらに含まれた諸部は十分に連絡と団結を像つてゐる、而もこれはたど主題から主題へといふ意味に於てではなく、全体 の観点からさうなのであり、この全体は相互間では往々にして結合関係をもたない主題を論じた文章によつても生じてく るのである。初期の諸著作のあらはれた後では、少くとも﹁善悪の彼岸﹂ ﹁道徳系譜学﹂ ﹁反基督者﹂﹁エクツェ・ホー モォ﹂などは整置を了して前進の勢を含んだところの、それ自体まとまりある著作なのである。箴言形式の手稿類からの 外面的成立、このやうな諸箴言の使用と構成︵1これらは個々の著作に必然的に関係させられるものとは限らないが︶、 更に主観的な契機が優勢なのでニーチェがその思想を自分自身とその内面的過程から遊離させるやうなことはしてゐな い、といふやうな諸事情が一緒になつて、そもそもの始めから人を迷はし、彼の作品を全く箴言風のものの上に据えて眺 めさせたり、またそれとともに体系能力を欠くと言はれる精神の自然発生的性質にもとづけて眺めさせたりすることにな 90 つたのである。 ア ルト ところで、哲学なるものは体系である必要はない。体系の上にも下にも、種質も程度も様々に異る哲学がある。凡そ体 レロベソ 系なるものはあらゆる点から見て一個の聖堂に比せらるべきものである、即ち諸々の想念といふ石塊から建立された一神 話であつて、コスモスのために存立するものなのである。生の側からして判定するならそれは意識批判的に基礎づけられ た、従つてまたあくまで超越的な姿勢を保つところの、よつてドグマアティッシュにではなく、象徴的にのみ妥当する宇 宙論なのである。ところで二iチェはこのやうなものとは絶縁したのであつた。ニーチェ哲学は哲学者のアレクサソデル 遠征であり、そこには半世界の領略と新しき半世界の建設の萌芽がある。ところでこれはこの遠征を共にする人のみが自 明的に認識し得るところである。認識といふものは、型通りに製作された検定済みの道具として万人がいついかなるとこ ろでも利用できる一方法ではない。とりわけ偉大なものや極限的事象を扱ふ場合、認識は畏敬の念を、また抑制された態 度を前提とするものなのである。 ところでシュレヒタは、予め自己流の箴言観を固執してゐて、一切の差別を消却する硝酸としてそれを使用してゐる。 ﹁然しこの関係に於ても私たちはニーチェに対し私たちの期待を余りに高くつり上げるやうなことをしてはならない。フ ランスのモラリストたちの自由な箴言の世界から出発して、ドイツのこの道徳哲学者に近づく人はこの尺度を以て測るな らー真に直接な、ぴつたりと金的を射抜いたアペルシュに匹敵するものは極く僅かしか見出さないであらう﹂︵目゜ω・嵐ωα1 一島①︶とシュレヒタは言ふが、これが結局、﹁既に公表された遺稿を私は省略する、何となればそこには新しい中心的な 思想は見出されないから﹂︵目H.ω゜H幽ωω︶といふ全く不遜な独断の根拠なのである。シュレヒタは、﹁彼︵ニーチェ︶の発言 の総体に亘つて著しい単調﹂ ︵日口.ω。一心ω㎝︶が見られるといふとき、実はこのことこそあらゆる真実の予言者や思想家にと つて性格的な事柄であることを予感してゐないらしく見える。彼の言ふやうにもし新しい中心的な思想のみが価直あるも _91 のとすれば、私たちは世界の全哲学者をたつた一束にたばね上げることも出るであらそう。遺稿はシュレヒタの言ふやう に、微妙な内容を粗雑にあらはしたものではなく、直接の要素を脱白に提示したものである。また遺稿は断じて、 ﹁ニー チェの主要関心事の様々な変調にすぎないもの﹂ではなく、以前のものとは別の角度から把握された、従つてまた別様に 考へられた思想なのである。 ニーチェに於ては反復の箇所が特に心して扱はれなければならぬことはヤスペルスも指摘してゐる、 ﹁際涯なき反復が 示されてゐる。ニーチェがいつか記載したものはすべて印刷されなければならぬものであるから、彼の思惟への通路を開 くためにこれらの反復は自明である。然しこれらの反復にあつては、それらの変容といふものが追求されなければならな い、これによつて根本思想はそれが個々の命題に亘る場合におち入る平板な固定化をまぬかれるのである。とりわけ示さ るべきことは、無数の引用を一個の主題として可能にするものはどのやうな種類のものであるかといふこと、これとは逆 にひよつとしたらたつた一回だけの箇所によつて重要さを獲得するものはどのやうなものであるかといふことである。反 復についての意識的な知識が、このやうな一回的諸命題の認知を準備する﹂︵臼掌。・。OΦ畦の−蜜①けN。・9①噂国躍①冒け§σq”ω・り︶と。 とまれシュレヒタの妄想とはかかはりなく、一方、箴言といふものはそれを駆使する人々によつて意義を異にするもの アベルシユ であり、箴言としての価値を殆んどもたぬ場合にのみ、所謂妙想であつたりポツンとした落想であつたりする。例へばラ. ブルユイェールに於ては箴言は、彼の生活圏の人間や社会の、成程学問的には体系化されなかつたが組織化された現象学 の構造統一であり、ゲーテにあつては不可測な諸経験の精神的総果であり、またジャン。パウルにあつては無限の世界組 織の収約点であり結節部であつた。ところで二iチェは箴言の特徴が、直覚の閃光を引捉へ得るどころにあるのを屡々明 かにした。彼は﹁道徳系譜学﹂の序で彼の箴言を安易に考へることを戒めてゐる、.即ち﹁その他の場合にあつては箴言形 式が事を困難にさせてゐる、その困難な点は、この形式が今日十分に重要なものとして受けとられてゐないといふところ 92一 にある、一個の箴言は、誠実に刻銘され流露されたものであれば、それが読みとられたといふことだけではなほまだ解読 されてゐないのである。寧ろそのときはじめてさういふ解釈が始められなければならないが、そのためには解釈の一技術 が必要である﹂︵クレーナー版田、二九七頁︶と言はれてゐる。而もこの同じニーチェは一八八一年八月末ガストへ次のやう に書き送つてゐる、 ﹁私の諸作品にはいつもいつも私の差恥感を侮辱する何ものかがつきまとつてゐる、それらは極度に 必要な器官を支配し得ない苦悩せる不完全な生きものの写しである、ー一全体としての私自身は、ある知られざるが洲 新しいペンを試みるために紙一面へ塗抹したなぐり書きのやうに私には思はれる。ねえ君、君はこんな箴言人となるべき ではないよ、君はその目標をもつと高いところへ置き給へ、君は僕みたいに単に脈絡のみを、また脈絡の必要を予感させ るだけであつてはならない﹂︵リ角一①けNωO討Φω MW同一①h① β⊃同戸 用ワ①什Φ吐 ︵甲9ω叶℃ ω゜①①!①刈︶ これはまた、独自の岡鋤印宅曽σq口o増を公表してニーチェを完全にヴァーグネリアーナアの塒内に閑ちこめたヴィルヘ ルム・フルトヴェングラーなら直ぐにも飛びつきさうな二iチェの正直な自己告白ではある。然しあの独特のルサンチマ ン・ゲフユールのうちにぶちまけられたニーチェの﹁ファル・ヴァーグナー﹂が、実は更にそれを超えて自己自身をも含 めた+九世紀の頽疲性に対する容赦なき批判を提示するものであつたやうに、それ自身として見れば、時に激しく自己に 捉はれながら、一方全く自己を突放した高所から自己自身を眺めることの出来たニーチェの公心の屈折した表現でもあつ たのである。ニーチェの対ヴァーグナー態度を論ずる場合にも、フルトヴェングレルがしたやうに、単に﹁パイロイトに 於けるリヒアルト・ヴァーグネル﹂と﹁ファル・ヴァーグナー﹂その他そくばくの発言を手がかりにニーチェの暗い皆念 を曝露して見せるだけでは真相は開顕されない。さういふ私的な情念にからみつかれながら、而もそれを超えてどのやう な高みから二iチェが生と世界とを眺めてゐたかの洞察に達することが大切である。彼の私的弱点にも目を蔽はず、而も その弱点に捉はれた一面的批判に堕することなく、それが止揚されてゐた公的次元の高みから、その私的弱点の座標を決 93 定すること、これこそ真の精神史家のまさにとるべき態度であるだらう。フルトヴェソグレルがヴァーグナーに対しは美 事にこの態度を生かしながら、ニーチェに対しては全くその弱点のみを突く一方的批評に終始したのは、さすがの名指揮 老も二ーチェ研究にまで手がまわり兼ねたことを示すにすぎないであらう。︵芝゜閏q巨ミ9σqδび..日05β昌α堵o目け゜..参照︶。 少し話が岐路に亘つたが、ガストに対するこの手紙の書かれたのがツァラトゥストラの最初の計画の樹立された頃に当 るはつであるとすれぽ、まさに独特の表現を求めてもがいてゐる力強い諸想に真に妥当なものとして、従来の箴言形式と は全く趣を異にするまとまりある一形式がニーチェの眼前に揺曳してゐたに違ひないと思はれる。而も彼が、これを鋳造 するに足る膨大なエネルギーをなほ駆使し得るに到らず、それを致命的欠陥と感じてゐたであらうことも亦略々想察し得 るところである。ガストあての上掲の言葉は、まさにこの連関のうちに眺められなければならないであらう。実に精神的 崩壊に先立つこと二、三年にして彼は漸く再びまとまりある形式への転換を遂げ得たのであり、そして自己の力の頂点に 達したと感じたときに、彼はその主著をはじめたのである。然し彼の病気は単にその継続を妨げただけではない。その主 観的昂奮をも極度に昂進させた結果、彼の著作の天頂と天底とは極端な緊張の旋渦のうに互に交雑するに到るのである。 エドガi・ザーリソは、狂疾発端期の二、iチェの諸々の宣言類に魅せられ、そして意識錯乱の背後に、そのやうな場合 にのみ達成され得る最高度の意識性を畏敬の情に充ちて認識したのであるが、これは彼の著、 ﹁ヤーコップ.ブゥルクハ ルトとニーチェ﹂に見られる大ぎな功績の一つである、彼の病はその勃発直前に、またその発端とともに、二iチェ最奥 のものと、阻止的作用を及ぼす最後の因襲との間のダムを、また無意識的なものを意識的なものから分つてゐるダムを引 裂き、その結果極度に秘密なもの、即ち超人的な或るものが最後になほ一箇の表現を、ディオーニュゾス的に赤裸々な表 現を見出すことになつたのである。そこからしてこの創造者の、またその創造過程と創造物の多くの仮面のうちに包みこ まれてゐた、或は仮面を取9去られた現実の上に新しい光が落ちるといふことは重大なことなのである。ここにニーチェ 94一 が再三彼の根源的健全性を強調してゐることが如何に正しいかが明かになるであらう。狂疾を以て生涯を閉じたが故に、 彼の生涯を病理学的見地からのみ眺めんとするのはニーチェに於けるロゴスの根源的健全性に無知なるところから来る浅 薄な態度にすぎない。 シュレヒタの二ーチェ選集三巻に対して更に補巻が約束されてゐる。書店の知らせるところでは、既利三巻に対する概 念、人︵地︶名の索引と、旧版﹁威力への意志﹂の配列に比べた﹁八十年代の遺稿︵シュレヒタ︶﹂の対照表とのことで ある。そしてその時期は一九五八−一九五九頃と見られる。ここに期待されるものは恐らくありふれた補助手段だけであ るだらう。 現によつて、偽の著作がまさに偽の著作として白日の下にその正体をさらさんがためである﹂︵H口゜ω.一幽O幽︶と言ふ。然し シュレヒタも史的に批判的な全集が刊行されて欲しいことは認めて居り、而もこれは、 ﹁文献学的に非難の余地なき再 このシュレヒタの要請が相当永い将来に一日ぢて実現されさうもないことはシェレヒタ自身も承知の筈である。何となれば 二!チェの遺稿は東ドイツにあつて近づき難いからである。而もこの遺稿は全く見渡しもつき難いぼどのもので、たとへ そこへの道が開かれてもシュレヒタ自身の言ふ通り、﹁そのやうな解決はなほ遙かな地平線に浮んでゐる程度にすぎない﹂ ︵日゜ω.置8︶であらう。これらの遺稿のうちにはなほ全く解読されてゐないものもあり、解読されてゐてもなほ非難の余 ロ 地なきものとのみ言ひ得ないものも多いのである。シュレヒタはこれらの事情を知悉してゐながら、一種の先入観と功を 急ぐ浅墓な野心からまことに得体の知れぬものを人々の眼前に放り出すことになつたのである。これによつて見てもシュ レヒタの第三巻後半が決して専門的に厳正なものではなく旧全集版を押しのけ得る実質的根拠をもつものではないことが 明かになるであらう。一文一文を厳密に比較して見れば、シュレヒタが彼の抜葦によつて、所謂ニーチェ神話を破壊しよ 一95一 6 うと誠みたその手口が始めて明かになされ得るであらう。然しシュレヒタの混沌たる排列順を一見しただけでも凡そのこ とは判明する筈である。 ﹁威力への意志﹂の全計画と構成1︵旧全集版第+六巻、四=責;四四七頁︶は彼によつて押しつ ぶされてしまつた、 ﹁一八八七年三月十七日の計画を私はとり除いた。ーといふのはそれは既に述べたやうに、多数の 実例の一個であり同じ草案に属する似たりよつたりのものの一つにすぎないからである﹂︵日゜ω・置8︶とシュレヒタは言 ふ。よつて何らかの仕方で互に似通つたものは一般に脱落してゐるのであり、この決定を行つたものはシュレヒタであ る。然しこれらの計画や構成草案は、数年に亘つて準備された二iチェ主著の、シュレヒタによつて否認された現実性に ヘ へ 対する最も有力な反証の一つにすぎない。 ﹁ツァラトゥストラ﹂に対しても事は決してましではない。この作品に対する シュレヒタの反感は極めて深いもので、ツァラトゥストラの構想そのもののための、また敷術され或は敷街されなかつた 諸部分のためのあらゆる計画、標題、断片の類が押しつぶされてゐる始末である。ところでそれらの諸頁はニーチェが書 いたもののうちでも極めて重要なものや合鍵となるものではち切れんばかりに充たされてゐるのである。而もそれらから して始めてツァラトウストラの筋の運びに示された志向や構成が明かになる。あらゆる詩集版にーイソゼル版にさへもー 見出されるディオーニュゾス頒歌のための断片類も脱落してゐる。これは電光と波濤とをそれらが持続し且つ脈うつてゐ るその現場に於て引捉えてゐる限り、一個の高頂を現示してゐるものなのである。書簡も同じ傾向によつて抜葦されてゐ る﹁⋮⋮あれこれの箇所で量的に強化したり弱めたりすることは、やつばり必要であると私には思はれた⋮⋮八十年代の 書簡類は比較的に益々単調になつてゆく、ここでは従つてこの抜葦に於ても手を抜いてもよかつたであらう。⋮⋮これに 反し私たちのこの版に収められた諸作品や遺稿に於てほんの僅か姿を現はすにすぎないあの諸頁をもつと強く顧慮するこ とは必要であると私には思はれた、即ち文献学と音楽とである﹂︵目曜ω・にo。。︶。実際重要な青年期の手紙や文献学や音楽に 関する諸々の箇所の価値のこの十分な評価にも拘らず、それらが八十年代のニーチェ創造期の諸々の証拠文書i選択の必 96一 要な場合にはこれらにこそ優越した位置が与へらるべきであるがーに対して僅かに優つてゐる点と言えば、それがシュ レヒタ先生の神経にさわらなかつたといふ位のものなのである。 7 本来なら感謝さるべき年表や経歴表も、シェレヒタ一流の批判的な註や判断による勝手な取捨が施されてゐるところか ら考へれぽ、十分客観的なものとは言い難い。これを一読するとニーチェの生涯が間断なき病的発作の連続であつたかの やうな感じを抱かされる。然るに事実は、決して単なを病的爽快にあらざる好調と、再び獲得されたる健康に対する勝利 オイフオリ 感についての報告の文書にも決して乏しくはないのである。 8 ニーチェの読書については屡々言及されるのであるが、とりわけ重要な場合が欠けてゐる。即ち一八七六ー七七年の冬、 ソレント滞在のときのこと、ヴォルテールを読んだのはあげられてゐるが、福音書を読んだことはあげられてゐない。こ れは偶然であらうか。マルヴィーダ.フォン.マイゼンブ!クも加つたあの修道院生活を思はせる半年の生活に参加した アルベルト.ブレンネルの書簡が醗刻されたとき、これを読んでベルヌーリも詳しく報告してゐるが、ブレソネルは一八 七七年三月四日づけで次のやうに書いてゐる、 ﹁新約を読みながら、私たちはもうやがてマタイ伝をあげるところです。 私たちはいつも新たに感動を覚、兄るのです、新約は思ふに稀には不信の徒にもかくも多くの喜びと敬度の心を与へてくれ たのでした﹂と。私たちはここに更に﹁ッァラトゥストラ﹂に於けるキリストに関する言説と、 ﹁アンティ・クリスト﹂ に於けるそれと、あの精神的崩壊の日に於ける﹁十字架にかけられたもの﹂といふ署名などを併せ考へて見よう。この聯 関に於て眺めれぽオーフェルベックの判断と追想もまた重要なことが判明するであらう。ところでこのオーフェルベック 夫人に対し二!チェがこの休暇の終りに﹁一種独特な表情を以て﹂次のやうに言つたとベルヌーリは報じてゐる、 ﹁ソレ ソトで私たちが何をしたか御存じですか、私たちは新約を研究したのです﹂と。そしてこれこそは彼が﹁人間的なもの﹂ を書いた時代のことであり、彼の重要な転回期のことなのである。﹁或る事物が丁度偶然に彼の方を眺めたその面からその 事物を判断するのではなく、ぐるつと周囲をめぐつてそれを眺め、そしてあらゆる反対面をも同時に眼底に収めてしまふ までは休息しないといふこと、ーこれこそ二iチェ本来の認識方法であつた。彼にとつてあらゆる事物は二つの面を有 してゐたのではなく、三つ、四つ、五つの面を有してゐたのである﹂とベルヌーリも言つてゐる。狭隆な頭脳にとつては うまく行つてもそれは相対主義の域を脱しないであらう。然しニーチェにあつてはそれは錯綜せる現象の謂はば星位を決 定しようとする場合、この目標に達する途上に於ける遠近法的視点を意味するものであつた。私たちもニーチェを研究す る場合には、二ーチェ自身のこの流儀に従つて彼の思想の測定を誤らぬようにしなければならず、そのためには彼の生涯 に於けるあらゆるエポッへの言葉を必要とするのである。ヤスペルスによつて提示されたニーチェ像に私は必ずしも推服 し得ないのであるが、彼の次のやうな考察はここでもまた実に正鵠を得たものと言はれなければならない、 ﹁二ーチェの 作品の姿は次のやうな警喩で表明され得る、即ちある山の絶壁が砕破されたかのやうなものである。既に多かれ少なかれ 切り整へられた諸々の石は一全体を指示してゐる。それらはある建築物のために砕破されたやうに見えるが、この建築物 そのものは建てられてはゐない。作品が、破片の堆積のやうに眼前にあるからと言つて、一度び建築可能性の道へ達した 人にとつてはこの作品の精神はやはりありありと眼前に眺められるやうに思はれる。即ちこの作品に対して多くの断片が 接合されるのである。と言つても決して一義的にではない、即ち多くの作品の部分が極くたやすく姿を変へられた無数の 繰返へしとして存在してゐる一方で、またある種の部分は、恰もそれらが礎石の役を演じたり、丸天井を閑ぢるやうに定 められてゐるかのやうに、一回的な貴重な形式としてその本姿を示してゐるのである。それらはその建築物全体の理念に 照して慎重に比較が遂げられる場合にのみ識別されるのである。然し⋮⋮数個の建築可能性が互いに交叉しあつてゐるや 一98一 うに見える。たとへこの建築物が、誰に対しても完結した一全体の姿をとつて唯一の且つ一義的なものとして示されるこ とはないであらうとしても、これらの破片を通じてこの建築物を探求すべしといふことこそ、課題であるやうに思はれる。 この隠されたものの探求は、ニーチェがそれを建てようとしたときに、二iチェにとつては崩壊してしまつたその建築物 を、私たちが自分の手で建てなければならぬかのやうに行動するときにのみ成就される。肝心なことは、破片が無数であ ることにょつて放心状態に陥らぬこと、殆んど見渡しがたい個々のものの輝きに眩惑されぬこと、嗜好や偶然に従つてあ れこれを選りこのみしないこと、むしろあらゆる言葉を厳格に受けとるが、その言葉だけを切りはなしてそのために眼界 を制限されることのないようにすることによって、ニーチェをニーチェ自身を通して全体として理解することである﹂。 ︵図゜智9①量寒①討ω9ρω゜一ート。国註Φぎ農゜︶。 シュレヒタはこれとは全く反対の態度を取つたのである。ニーチェが優秀な関与者として対抗してゐる現在及び将来の 時代に於て彼の真姿が朦朧化されることのないために、また人間の姿をその極限の域にまで昂揚せずにはゐられなかつた 程に人間を重大なものに考へた人を軽くあしらふといふいつも繰返へし見られる誘惑に今後の人々が屈しないようにする ためにも、かういふ態度を以てムーチェに臨むことは必要であるだらう。 9 ニーチェがどこかの片隅で、多分の反語をまじへながら自分の本格的な著作は﹁人間的なもの﹂から始まると言ひ、初 期を軽く見てゐるやうな態度をとつたとしても、これを真正面から受けて、 ﹁悲劇の誕生﹂を中心としたギリシャの本格 的探究の時代を切りすてるなどといふことは余程素朴な二iチェ研究者でもようすまい。フィロロギカ三巻とクレーナー 版全集第九、第十の両巻を精読した人は、全ニーチェが繭芽の形で悉く既にそこに存在することに驚くであらう。例へぼ 一八六六年から六八年の頃に亙つて書かれたと考へられる∪Φ巳ooほ言9︵クレーナi版全集十九巻三二五−三八二頁︶を 99_ 読む人は、 ﹁人間的なもの﹂に於て登場するニーチェが早くもそこに発言してゐる.﹂とを見るであらう。ニーチェの初期 をあつさり無視して差支へなしと考へるのは、 ﹁ディオーニュゾス的なもの﹂が、彼の生涯を一貫して追及さるべき重大 な問題であることを想起するだけでも、驚くべき乱暴と言ふほかはない。而もニーチェの初期を重視するとき私たちは、 どうしてもギリシャの殆んど半専門家的研究を課されることになるとともに、ドイッ精神史に於けるギリシャ対決の諸相 への顧慮をも要求される、といふのはこれによつて同時にドイッ精神史に於けるニーチェの位置も一層明瞭になるからで ある。二ーチェの初期をあつさり割愛し得ると考へるのは、全くダイヂェスト的な二iチェ解説者の立場に立つてのみ可 能なことであり、マスコミの時代に於てはそのやうなニーチェ像で+分だといふなら問題は残らないであらう。 曇栄 菅箭 晶於 附 記 ルードルフ・パンヴイッツ︵カ. ℃鋤昌昌零一けN噂 HQQc◎H噂 Uゆ ト⊃刈︶はゲオルゲクライスに属するデソカーの一入である。私は二十二.三年前 に彼の一著を入手して一見したが、当時は余り共感し得ぬままに忘れ去つてゐたのであつた。然るに今回はからずもメルクール誌上に 再び彼にめぐりあひ、この老書生の筆端なほ賊気を失はざるを喜び、多少の私見をさしはさみ、且つは二三の省略も敢てしつつ略々そ の大要を紹介し得たと信ずる。 られた人々の真ちに諒解されるところであらうと信ずる。 の光彩を失ふことはないであらう。また、パソヴイッツのシュレヒタ評が所謂ゲオルゲ陶酔者の筆になるものでないことは本文を一読せ であり、U一。罧曾ロロ臨国o一αΦ昌やω8h9昌OΦo同σqΦに散見されるグンドルフのニーチェ閲説箇所も卓抜なものであつて、ともに永くそ りト。ω︶、ザーリソQ9犀oび切¢暑犀げ胃簿仁ロΩ室ΦけNω。ゲo一豫。。︶のものなど、何れも二!チェ研究史上一個の古典の位置を確保し得たもの ]≦団梓げ9pσqδ讐HO目oQl一⑩卜⊃O︶、ヒルデブラソト︵ZδけNωoげΦ.ω芝Φ暮犀讐Bりh︼β搾ωo閃械鋤け①ω¢昌α℃冨けo層H⑩boN−芝曽σq昌Φ厭億ロq冥δ什NωoげΦH ゲオルゲ派の二:チェ像は困ぼσqに収められたゲオルゲ自身のZ冨9ωoげΦを中核としてベルトラム︵Zδ訂ωoげρ<霞ω¢oゲΦぼ⑦鴨 100一 ﹁ビスマルク時代の沈滞の後に、ドイツ文学を甦えらせた二人の詩人のうち、そのひとりのシュテファン・ゲオルゲは不当な忘却の淵 に沈み⋮⋮﹂とフランスの優れたゲルマニスト、アソヂェルスが述べてゐる︵富士川、菅野訳、リルケ序文︶ところを見ると、近年リ ルケ研究の世界的盛行に伴ひ、ゲオルゲの影はドイツ本国に於てもうすれてゐるやうに考へられる。これはその深みと高みとに於ては 相譲らざる両詩人の風格の差に由来するもので、今次大戦以後の人心がより多くリルケに吸引されるといふ現象は精密なる分析に於て も も へ ぬ ゲに対して軽蔑的態度を示すのを目撃したとき、恐らくはリルケその人にとつても迷惑であるに違いないこの不要の忠義だてを、笑止 究明さるべき要素を含むものである。私は、詩入と自称する某氏が、リルケとゲオルゲの作詩技巧の優劣を一言齢して独断し、ゲオル なことに感じたことがある。リルケが好きでゲオルゲが嫌ひならそれで宜しい。然しこの両詩人の偉大さは、日本の文学青年その他の ニーチェ未発表の遺稿と称せられる﹁妹と私﹂︵a罎団玖ωけ興弩αH、、℃H縮H° q9昌匹鉾①鳥律ぎけNOα二〇①αび団U村゜○ω8﹃ピΦ︿︽°︶について。 せられる﹁妹と私﹂なる未発表の遺稿なるものが、オスカー・レヴィによつて英訳され且序を付せられて一九五一年アメ リカで刊行された。ニーチェ全集の英訳者で、兎に角英語圏に於ける二ーチェ研究の権威として一応認められてゐるー とは言つてもドイッでは全く問題にされてはゐないがーオスカー・レヴィの裏書といふものがものを言つて、恰もこれ がニーチェその人の手に成るものであるかのやうにアメリカ辺では認められてゐるらしく、日本でも︸昨年十菱麟氏によ つて翻訳されて出版された。その前年、この訳稿を最初に持ちこまれたK書店では一応これについて各方面に問合を発し 一101 一 一片の好悪によつて何らかの変改を蒙るやうな性質のものでないことだけはお互に銘記しておく必要があるであらう。 H ニーチェがイェーナァの精神病院に入院中、秘かに書き記し、その出版を、快癒して同病院を出てゆく某に托したと称 1 たのであるが、その返事を集めてゐるところへ偶然私も行き合せた。そのとき寄せられた回答は真作と見る側と真偽不明 と考へる側との二通りに分れ、積極的に偽作と考へる旨の答をされた人は一人もなかつたのである。かの名著、 ﹁ニーチ ェ﹂の著者として令名高きエルソスト・ベルトラム教授に師事したと称し、いつもその訳書などをベルトラム教授に捧げ ることを忘れない某氏などは真作といふ意見であり、東大のK教授などは真偽不明の立場であつたと記憶する。真偽不明 といふのは煮えきらぬやうであり、その含蓄にも種々のニュアンスが考へられるが、研究者としては実はこれが一応公正 な立場なのである。これを真作と断定する人々に私は、それが何を根拠としてゐるかを御教示願ひ度いと思ふ。もしレヴ ィの序文を根拠とされるなら、これは必ずしも最後の拠りどころたるに足るものではない。どれほど彼が英語圏に於ける ニーチェ研究の権威者でも、それだけで絶対信頼出来ると考へるのは早計である。学者に絶対嘘はないと考へられるのは 学者としてまことに光栄の至りであらうし、また本来さうあるべき筋のものではあるが、身近かな体験から考へても、堂 々たる学者として日本精神なるものを振りかざしてゐた人らが、終戦後にどのやうな変質を遂げたかは、今なほ苦き後味 を以て私たちの記憶に新たなるものがある。然しこれは何もそのやうな場合にのみ限つたことではない。思ひつくままに 既に時効にかかつた一実例を挙げて見よう。明治年間に砂糖の精製並びに醤油の醸造に於て劃期的な発明をなし遂げた天 才鈴木藤三郎が、その晩年全国一万五千の旧醤油製造業者に対抗し新事業を軌道に乗せたとき、存亡の岐路に追ひこまれ た旧業者たちは死力をつくして藤三郎の仕事を妨害し、著名な学者まで買収してこれに動員した。そのうちには栄養学の 方面で令名ある鈴木梅太郎博士も入つて居り、新醤油のサッカリソ含有に関し、専門的には是認せられざる偽証を行つて 藤三郎を窮地に追ひごんだことについては、最近村松梢風氏の近世名勝負師物語︵読売連載︶にも明記されてゐる。当時の 鈴木博士には、第三者の窺ひ得ぬのつぴきならぬ事情もあつたであらうし、またこの一事によつて博士の学問的業績が悉 くその光輝を失ふわけのものでもなく、残るべき仕事は永久に残るであらう。然しこれは、学老が必ずしも神的心境だけ 102 一 を持続するものでもないことの一実例としては役立つであらう。相当の期間親しく交はり、霊犀相通ずるに到つた場合は また格別であるが、唯、著作だけを通じて著者を鵜呑みに信用するには、余程の熟慮を要するのである。特に相手がオス カー.レヴィ程度の、単に二iチェの翻訳者といふ範囲を余り出ないやうな、思想家と称するにも足りないやうなもので ある場A口、それの序文ぐらゐを盾にとつて真作であると考へたりするとすれば、単に早計であるばかりではなく、また幼 稚であると言はれても仕方がないであらう。かういふものの真偽は、他日、東西のドイツが真にドイッ入の国たるに相応 はしく統一されたとき、ニーチェ・アルヒーブに一流の研究老を動員し永い時澗をかけ、手分けをして精密に調査した結 果を持ちよつて厳密に検討しつくした上で決定さるべきものであり、根源的資料に直接する機会を持ち得ない外国の研究 者はその決定に服すべきものであらう。このやうな手続きを経たものでない以上、私たち外国の研究者にとつては、最終 的にこれが真偽を決定すべき客観的に絶対的根拠は与へられてゐないのである。 るを得ないのである。もとより私自身としてもこれを偽作と決定するに足る資料を持ちあはせてゐるわけではない。然し 然し一個のニーチェ研究者として兎も角お前の見解はどうであるかと問はれれば、私は偽尋ど参∼かか∼傾↑と答へざ それが+中八九までは偽書ではないかと考へさせるものをこの書物そのものが示してゐるやうに私には思はれる。全体の 通読から得られた印象を卒直に言へば、全く非ニーチェ的に陰惨にして不潔であるの一語につきるのであり、このことこ そ、この書を偽書であると私に考へさせる最も内面的な根拠なのである。ニーチェを相当の年月に亘つて精究した人は アヒルト ニーチェの真のエートスがかかるものとは全面的に種質を異にするものであることを直下に覚るであらう。これは私たち のニーチェといふ陽画に対応する陰画としての二iチェではない。むしろ最近の物理学に於て陽子に対して反宇宙が ポズイテイロフ ネガテイロフ 想定されてゐるやうな意味に於てなら、反ニーチェと考へられてもよいかも知れない。これはヤスペルスの言ふやうな意 味に於ての誹誘文書︵ωOげ目似げωOず同一胤曾ΦP︶の一つに数へらるべきものであらう。この種の誹講文書に関してヤスペルスの注 一103 一一一 意してゐることを引用するのは目下の関聯に於て決して無益ではないと考へられる、即ち﹁偉大な精神はいつれもきまつ て誹誘されるものである。これらの誹講に精通することは、偏見なき読者にとつて必要である、第一に、彼がこれを徹底 的に論駁し或は雲散霧消させることが出来るかどうかといふ試練をうけつつ研究者の真価を立証するために、第二に往々 にして憎悪のみが目謄する事態を注視するために、第三に、誹諺を蒙つたもの自身にあつて、何が誹誘のかかる手口の可 能性の根源であるかを問ふために﹂︵閑﹁冨呂輿ω噂罫Φ訂ω魯①H㊤ω0ω゜豊゜。°︶。 然しこれが反ニーチェもしくはニーチェの虚像であるといふ私たちの視点は、この書のうちに、前後の脈絡を無視して 個々に受取れば、往々にして、二iチェ的と見える言辞や、ニーチェにして初めて可能なる種類の箴言の存在を否定する ものではない。然しそれらでさへも、この書に立ちこめてゐる汚轍なる放射線の汚染を蒙る場合、まつたくその本質を喪 失してしまふことも亦確実である。中途半端な二ーチェの読者はこの書中に出没する二iチェ風の言辞に眩惑されて、こ れはひよつとすると真作かも知れないと考へるに到るのであり、この点こそまさに今ゆ臥であつたのではないであらう か。然したとへ単に作為とのみは受取れぬ箴言が幾つかあつたとしても、このことは全俸が偽作であるかも知れぬ可能性 を最終的に否定する根拠とはなり得ないのである。何分ニーチェ・アルヒープには、およそ解読の見当のついたものや、 全くその見当のつき得ないものをも含めてなほ未発表の彪大な遺稿群があり、何かの関係でその]部でも嗅ぎつけたある 種の徒輩が、世間の不知に乗じてその中から手頃なものを選び出し、この狽雑な書の中へ]種の薬味として、随所にこれ を挿入するといふことは実に可能だからである。 そこへ更にライプツィヒ時代にうけた梅毒がニーチェ晩年の狂疾に関係があるといふ医学的所見が加つてニーチェの状 況を一層不利にする。私たちは二ーチェが学生時代に常習的遊蕩によつてこの病気を背負こんだとは考へない。恐らくこ れは当時の学生間に見られた風潮にのせられ、ニーチェもまたふとした出来心から誘はれて犯した一回的な過誤であつた 104 と見る方が遙かに恒算は大きいであらう。このことは医師もさのみ重視せず、ニーチェも亦意に介せずその治療を放置し て過したといふ事情からも察せられるやうに思ふ。然し何と言つてもこれが二iチェにとつて不利な材料であることは争 はれず、ここを手がかりとすれば、ニーチェの真髄に対して無知な人々を誤魔化し去るくらゐの作為は簡単にやつてのけ られるのである。 一方また妹のエリーザベトが鼻柱の強い独裁的性格の人間で各方面から反感を持たれてゐた上、反セム主義運動に従事 したこともあり、この書で屡々槍玉にあげられ、ニーチェとの関係まであつたかのやうに伝へられるコジマを夫人とする ヴァーグナーが、やはり言島Φコヰ①ωω興と言はれたほどの反セム主義の大立物であつたことを考へると共に、とりわけニ ーチェその人が何と言つてもまことに手剛い人物であり、漸く世界精神史に本格的な威力を及ぼし始めた秋に当つて、将 来に発揮される不測な影響を予め封じこめておかうとする様々な気線の錯綜なども計算に入れて見れぽ、二iチェ自身の 手によつてニーチェその人を残害し、同時に妹やヴァーグナー一家にも硝酸を浴びせかけておかうといふ暗い試みが、痒 気こめる薄明のなかで営まれたとしても余り不思議でもないやうにも思はれる。とまれこの書を通読七て怪語に堪、兄ない ことは、ここに登場する二!チェは余程ユダヤ人が気になるらしく、イスラエル、ヘブライ主義並びに聖書関係を除いて も、ユダヤ及びユダヤ人に関説した箇所が不釣合に多いのである。全篇の暗いトリープフェーダーを暗示するものと思は れる第一章第四節と第三十節のニケ所を除けば、最初のうちはそれは極く散発的にしか見られないが、章を重ねるにつれ て適当に頻度を増し、読者を完全にこの書のペースに捲きこんだと考へられる終末近くの第+一章に到つては実に十八ケ 所の多きに達するのである。 章1、第九章4、第十章1、第十一章18、第十二章6、計四十六ケ所に達してゐる。ところでこの数はそれだけとして見 試みにその頻度数を章毎に示せば、第一章1、第二章2、第三章3、第四章1、第五章7、第六章1、第七章1、第八 105 れば、別に問題とするにも当らないが、これをクレーナー版全集の索引に当つて見ると、第二巻1、第四巻3、第五巻4、 第七巻9、第八巻7、第九第十巻各々1、第十一巻7、第十三巻6、第十四巻4、第十五巻12、第十六巻5となつて居り、 通計60あり、従つて全集全体の頻度数に対し、この書のみでこの三分の二以上に達して居るところを以て見れば、異常な ものであることが判明する。更にそこヘハイネの出現する頻度︵第五章3、第八章4、第+一章3、通計10︶とカール・マル クスの頻度︵第八章、6、第九章、−、第十一章1計8︶を検出し、これを全集の頻度数に対比すれば、ハイネは、第七巻2、 第八巻3、第九巻1、第十巻4、第十一巻、第十三巻各々1、第十四巻4、第十五巻2、第十六巻1計19で、この書のみ で全集全体の二分の一弱に達し、マルクスは全集のみか書簡にもその片影をもあらはさず、従つて完全に零であるに対し、 この書の8はまことに不可解な数であることが知られる。更にこれらの内容を一つ一つ分析して総観すれば相当に興味あ る結果が得られると思ふが、煩はしいから省略する。どうもこんな数字を眺めただけでも、立ちこめたほの暗い潭気の中 で影絵のやうに踊つてゐる連中の姿が朦朧と眼底に映じてくるやうにも思はれるのである。 然しこの書が偽書であるとしても、これを作為するための基礎条件は一応完備してゐたのであつた。ニーチェがライプ ツィヒ時代に梅毒に感染した経歴をもつこと、妹と疏隔しつつ和解しつつ兎に角生涯を共にしたこと、妹の主人が事情不 明の自殺を遂げてゐること、正体の掴み難いルi・ザローメ事件、対ヴァーグナi夫妻関係、これらのことはその錆綜に 於て一篇の卑狼な構想を思想的無頼漢たち︵1私は複数と推定するー︶に提供するには略々十分であるだらう。随所に挿入さ れた二ーチェ的な言説の片影にも拘らず、ここに登場させられるニーチェは、野卑にして拙劣なる表現主義的言辞を吐き 散らす愚連隊の一人であり、歴然たる思想的無頼漢にすぎない。然しイムモラリスト・ニーチェは断じて思想的な無頼漢 ではなかつた。要するにいかにもニーチェらしい箴言類は、清澄な洞察力の欠けた人々にこの無頼漢を本ものであると思 はせるためのおとりにすぎなかつたのではないか。 ヘ ヘ へ 106 2 文学の領域に於ける偽書なものは古来その例に乏しくないと言はれる。ニーチェなども最も偽書を作為され易い微妙な 人物である。多少腕に覚えのある思想的無頼漢たちが結束し手分けして事に当れば、底の浅い外国のニーチェ研究者を読 かすぐらゐのことはさのみ難事には属しないであらう。一昨年白木屋で催された真作偽作展覧会に出陳された春峯庵の売 立品の如き、その方面の猛者連が、古紙古材の原料から古色蒼然たる化学的技法の研究を積んで作戦したものと言はれ、 通り一篇の規格的知識を以てしては容易にその真贋を見破し得ないものだつたらしい。その証拠にはこの売立に先立つ て、読売新聞主催で名宝展が上野に開かれたとき、そこに堂々と陳列された国宝一点、重要美術品二点の浮世絵はこの猛 者連の仕事であつたと伝へられるからである。方面を異にしても、このやうなヶースを腹中におけば、私たちの場合にも 多少の参考にはなるであらう。 真贋の識別はもとより容易ではない。小林秀雄氏のやうな鋭利な鑑識家でさへ、あの﹁真贋﹂といふ文章を読むと、そ の識別の原理的な線は少しも挙示されてゐない。所謂、本格的な修練を経ない﹁勘﹂に頼つたら大抵は贋物を掴ませられ るのが落ちであらう。然し真作と深く道交して清涼なる眼晴を以て原作者の真髄に参じてゐる人にとつては贋物はその正 体を隠くすわけにはゆかないと思はれる。私は白木屋の﹁真贋展﹂を眺めながら、真贋を分つ原理的な線は略々次のやう なものではないかと考へた、即ち贋作者が原作者の運筆や賦彩やその他の技法、癖などを精密に研究してかかつてゐる ことは論を侯たない。而も彼は贋作の作成に当つては、これらの特質を常に意識しつづけてゐる。換言すれば、原作者が ヘ ヘ へ 半意識的或は超意識的になすことを贋作者は意識の緊張のうちになすのである。従つて原作者の特質が、原作者以上に強 の 調されて謂はば抽象的に浮出してくる。而も運筆の暢びは巨匠になればなるほどその天賦と相侯つて、修練の極みに達せ られる絶妙な、必ずしも意識的ならざる綜合的統覚のうちに自らにじて円現せしめられるものであると思はれるが、この 一107 一 やうな奥深い統覚を欠く贋作者には、このやうな運筆の暢びにまで追随してゆく力備は勿論なく、仕すましたりと自惚れ ても必ずどこかに妙ないぢけは残るものであり、更にこのいぢけは分を忘れて調子に乗りすぎた贋物者が、原作の特質の ヘ ヘ へ 過度の強調をふと気付いて我にかへる瞬間、慌てて手加減をしたり、反動的に後退したりすることによつて一層著しくな ヘ へ る。ここに具眼者にとつて、原作には全く存在しない内面的なアソバランスが、よくも真似たその表皮の下から、浅間し く露呈されてくるのである。更にそこへ贋作によつて人目をかすめんとする賎しさが加つて贋作としての資格を完備する ことになる。 ニーチェの所謂﹁未発表﹂のこの遺稿も、私の一見した限りでは、贋作のこれらの条件を悉く備へてゐたやうに思はれ た。而も一層悪いことにはあくまでニーチェとその妹に致命傷を与へてやらうとする悪意が隠くされてゐるらしく、それ がこの書を極度に非二ーチェ的なものにしてゐるのである。何しろ既述のやうに、ニーチェの偽書を作為するには、未発 表の遺稿群といふ膨大な材料が存在するのであるから極めて便利でもある。一定の意図の下にそれらを適当に塩梅しただ けでもいかにもニーチェらしいものが出来るであらう。読みすすむにつれてニーチェの持味に近いものに出遭つたら、こ のやうな操作のもとに収載されたものと考へてもよかりさうである。然し決定的な場面に於ては私は飽くまで作為ではな いかといふ視点を固執する。如何に二iチェ独特の道具立てが精究され、大道具、小道具の布置がどのやうに巧みになさ れてゐようとも、上述のやうな賎しいアソバラソスは到底蔽ふべくもないからである。これは翻訳の拙劣にのみ基くもの ではないであらう。たとへ翻訳であつても原作特有のバランスといふものは或る程度まで伝へ得るものである。然しニー チェのやうな天才の著作が具有する微妙なバランスは偽作によつては断じて模倣され得ない。二ーチェの生涯が狂気によ つてとちられたことのゆえに、彼の文章にバランスが欠けてゐると想像するなら、これは大変な誤りである。ここで人は ﹁エクツェ・ホーモ﹂に見られるあの天衣無縫の透徹した構成を髪髭して見るべきであらう。あれは一八八八年十月十五 108一 日に起稿され二+日を終ずして十一月四日には脱稿したのであり、而もニーチェはそれから略々一ケ月、一八八九年一月 三日には狂疾を発するのである。ここに眺められる内面的風景は、異常に磨き上げられた澄明極軌なき精神的レソズによ つて無気味に照破された視影であり、そこには鍛へ上げられて寸分の隙もない均衡が、謂はば劔刃上の均衡とでも称すべ きものが感ぜられる。 この﹁妹と私﹂が万が一にも二iチェ自身の手になつたと仮定すれば、それは彼がイェーナァの精神病院にゐた一八八, 九年一月十八日から一八九〇年三月二四日までの間に書かれたことになり、既に発狂後であつて、 ﹁エクッェ・ホーモ﹂ に見られるやうな微妙なバランスをそこに期待することは無理であるとしても、これだけの筆力をなほ保持してゐる限 り、二ーチェ特有なリヅミカルなバランスはその面影を伝へなければならない。然るに目につくものは前述のやうにまこ とにゴッゴッした不細工極まるアソバラソスのみである。挿入されたと覚しい二ーチェ風箴言もこのアンバラソスを一層 乱調子にするにすぎないやうに思はれる。それに不可解と思はれる箇所も相当にあるが、これは必ずしも翻訳の拙劣のせ いばかりではなく、ニーチェの狂疾に基くものと考へさせるための作為とも思はれ、正気と狂気とを使ひわける気苦労な ども一通りではなかつたらうとお察してゐる次第である。考へて見ればこれは実は失笑にも値ひしないものであり、この やうなものを相手に目くぢら立てて真偽を論ずることなども大人気なく馬鹿馬鹿しくさえ思はれてくる次第である。 日本訳の台本になつたものがレヴィの手に成る英訳であることは既述の通りであるが、種々の事情によるものと見せか けながらドイツ文の原書の正体が全くぼかされてゐるといふこと、レヴィの序文によれば争エリーザベトがなほ容易に訴 訟を起せる立場にあるうちに刊行されると称されながら、実はエリーザベトが没してから二十年以上も経た一九五一年に 刊行されたことなどを併せ考へると疑ひは益々深まるばかりである。 然らばこの書に表明されたやうなニーチェの近親姦的な体験が如実に存在したであらうか。これを実証するにはニーチ 一109 エ自身の動かすべからざる告白がどうしても不可欠であるが、そしてそこに本書のやうなものが、 一部の人々の好奇心を そそる理由もあるが、この書を偽書と見る私から言へば、かかる関係を積極的に実証する積極的根拠は一つもないのであ る。さういふ関係をいかにもあり得ることと考へ、これを推定してゐた人々もあるであらう。脱白に云へば私はこので ﹁妹と私﹂の存在を知るまでは、そのやうな関係の可能性を思つても見なかつた。これは精神史研究者として迂潤な態度 であつたとのみは言へないと思ふ。二ーチェの著作類との永年に亘る接触が私にその可能性を考へる隙を与へなかつたの である。そして所謂現実主義者諸氏から眺めればまことに頼りなく見えるこの内容的真実を拠点として、二iチェの、妹 との近親姦的関係を否定する方へ私は傾くのである。もしそのやうな関係を、而もニーチェがここで表明してゐるやうな 仕方で結んでゐたとすれぽ、あれだけの思想的峻瞼を誠実に一歩一歩よぢ登り、あれだけ純潔で高貴で而も気魂のこもつ た雄大な視野を鰍制することは不可能であると考へられるからである。これは同時にこの﹁妹と私﹂に見出されるニーチ ェ的箴言i然しそこにもニーチェ的高貴の輝きを放つてゐるものは一つもないが が、脈絡を失つて妙に浮立つて見 える理由でもあらう。あらゆる点からして私はこの書を偽書であるとする見方に傾かざるを得ないのである。 3 二iチヱは夙に司諾巷αωoげ駄け貯什興b鋤需ωを標榜し、志を同じくする友人たちとの緊密な共同体のうちに、将来の 文化を生み出す母胎をもつことを念願とした。この傾向は既にプフォルタ時代に繭しそめてゐて、幾度もその実現のため の努力が重ねられたのであるが、彼の世界観が独自の展開を遂げるにつれ、親友ヴァーグナーにも挟別し、ローデとも疏 隔するに到つて次第に破り難き孤独のうちに落ちこんで行つたのである。而も飽くまで﹁ひとりその思想とともに孤影を 守るものは愚者たるに値ひする、⋮⋮⋮二人とともに然し叡知は始まる﹂︵じuユΦ団①p口勺①叶霞O霧けーHりb。野冒ω①野ω.鵯︶と考 へ、孤身を以てしては真の文化的生産は行はれ得ないことを自覚してゐたニーチェは、その孤身たることを自ら欺き、孤身 110一 からその分身を生むことによつて文化の母胎としてのN毛①諺勢ヨ蓉騨を幻成させずにはゐられなかつたのであり、ッァラ トゥストラの出現もかかる経緯のうちに行はれたとさへ見られるふしがある。例へばU冨マo、ぼ8げゆ妻帥ωω①⇒ωoげ昧↓の プロイソデイソ 巻末に付された躍亀興αoω勺瓜言。旨くoσq巴貯鉱中の一詩Gり房・ζ母冨の一節に、﹁そのとき、おお女友よー、突如 一が二になつたーそしてツァラトゥストラが私の傍を行きすぎた﹂と唱はれてゐる如き、この間の消息を窺がはしめるも のと考えられる。即ちツァラトゥストラは、一種の]≦oロoαq窪①ω①の、謂はば思想的イソツェストの所産であつたのであ ヘ ヘ へ る。二iチェがここまで追いつめられたのは、彼が洞察したことを、そしてやがては否応なしに西欧全体が直面しなけれ ぽならないことを、当時ニーチェと共に看取した人が、看取するに足るだけの勇気を具へた人がゐなかつたことを意味す るものであり、このことが二iチェの没落の一因ともなつてゐるのである。これは喜劇的な十九世紀の真唯中にあつて、 二ーチェによつて具現された深い悲劇として真に痛まるべきものでこそあれ、荷も賎劣な空想のうちに﹁二ーチェも亦⋮ ⋮﹂などと考へら,れる事柄とは全く無縁な次元に属する。もしニーチェにこの﹁妹と私﹂に表明されたやうな事実が万が 一にもあつたとすれぽ、それは、思想的悪戦苦闘の持続的緊張が、一時的弛緩に達した瞬間に、彼のうちに深くひそんだ 思想的にインツェストハフトなこのやうな要素が、制動を失つて、現実的な余りに現実的な姿に於て外在化されたにすぎ ないと考へらるべきであり、逆にこのやうな推定から彼の思想のインツェストハフトな性格を推及すべきでないことは、 ニーチェ研究者の特に戒心して銘記しておくべきところであらう。然し私一個としては飽くまでかかる事実の存在を認め ない立場をとるものである。 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 4 私は日本語訳の台本となつたレヴィの英訳と称せられるものは実見してゐないが、日本訳は決して成功してゐるとは思 へないし、訳者がニーチェについて気の毒なほど無知であるらしいといふことは節々からして言ひ得ることと考へる。に 一111一 も拘らず、このやうなものを翻訳しようと思ひ立つたのは何に基くのであらうか。戦後の日本がこのやうな書物を喜び迎 へる風潮にあることは常識であり、とりわけ事がニーチェのやうな天才のスキャンダルに関する場合には、その反響も大 きく、訳者も亦それにつれてクローズアップされる機会を掴み得るとでも考へたからであらうか。それともこれを訳出し た人とこれを作為した人との間には、そこに作為と訳出との差はあつてもその意図に於ては何か通ふところでもあつたの でもあらうか。それは分らない。何れにしてもニーチェの真髄に無知でなければ、このやうな書物はつくれもしないし、 また訳出する気になれる筈もないといふことだけは共通であるやうに思はれる。恐らくわが国にもこの書の存在を知つて 居り、それを所持してさへゐた人もあつたらうと思はれるが、十菱氏を除いてはこれが訳出を志した人はゐなかつた。今 は全く二ーチェから逃避し、この書を真作とさへ称してゐる某氏と難も、これが翻訳を依頼されれば、二ーチェに対する 一種の畏敬の念からそれを拒むであらう。荷もニーチェを多少とも研究したことのある人なら、程度の差こそあれ必ず抱 かざるを得ないニーチェに対するこのやうな畏敬の念に私は信頼するものである。ここにこそこの書の偽書性を立証する 普遍的な根拠はあるであらう。二iチェが高名なわりにはポピュラーな存在たり得ないといふ事情があるにせよ、この書 の翻訳がわが国に於ては、訳者が意図されてゐたかも知れないほどの効果をあらはさずにしまつたといふことも亦、ニー チヱに対するかかる畏敬の念なしには考へられないのである。 ところで+菱氏のこの日本訳に践文を付してゐる朔風楼主人なる御仁は、この書の刊行が﹁精神の低く、心の賎しき二 iチェ学者又び評論家のために果し得ざること久しかつた﹂と述べてゐるが、﹁精神の低く、心の賎しき﹂人間が誰であつた かは、以上の縷説によつて略々判明したことと考へる。凡そ故人の書に賊する以上、朔風楼主人などといふ妙に気負つた 大時代的な筆名などはよしにして堂々と本名を記すべきであつたらう。 ︵網璽甚魑 一112 一