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使報告書い)について

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使報告書い)について
埼 玉大 学紀 要
教 育学 部 ,5
6(
1
) 2
7-37 (
2
007)
田中不 二麿 の地方巡察使報告書 (目 につ いて
森川
キ ー ワー ド :田中不 二麿
は じめ に
参事 院
輝紀 *
巡 察使
めている。その間の1
883年 4月か ら 7月にかけ
て、東北 ・北海道 に巡察便 として派遣 され、地
1
873
-1
8
80
)の研究が
田中不二麿、田中文政 (
方民情の調査 にあたっている。 この報告書中、
手薄であること。 またそ こで捕 出 される田中像
教育 にかかわる報告書 をここでは検討す ること
は、 アメリカ教育の模倣者 に して、いわゆる自
にす る。 その意味は、第一 に不本意 にも文部省
由教育令の立案者、国民教育普及 を停滞 させた
か ら教育令失政の責任 を取 る形で司法卿 に転 じ、
失政者 としてであること。それ等は、主には行
再 び文部行政 に復す ることのなかった田中の、
政文書によらざるをえない田中関係 史料の制約
その後の教育的識見 を知 りうる史料である点で
に も理由があろうと指摘 した(2)
。その際列挙 し
ある。第二には、教育令-の地方官の批判- 改
た田中関連史料には、① 田中不二麿宛書簡(
参明
正教育令の施行 とい う、 田中にとって不本意な
治1
6
年地方巡察便報告書が欠落 していた。 田中
政策展開について、彼がいかなる評価 をもって
宛書簡は鈴木栄樹等 による整理解題作業が進行
いたかを知 り得 る報告書 である点である。
してお り、 まず は福沢諭吉か らの 田中宛書簡の
教育令 の 自由主義 を文部省首脳 は失政 とは考
分析 によって田中一福沢 (
慶鷹義塾) ラインの
えていなかったのではないか と、倉沢剛は次の
存在が明 らか にされている (
3
)
。従来 の 『
理事
ように的確 に推測 してい る。
功程』-新島ライ ンの存在 とともに福沢のライ
九鬼や西村や辻等は学校の全国的な衰微情
ンが、欧米近代教育の理解、 日本 の近代教育の
勢 をはた して どう見たのであろうか。察す
展開にどのようにかかわったのか、田中像が一
るにこれ らの首脳 に とって、学校 の衰微 は
段 と深め られる可能性 を提示 している。
この国の′
ト学校が民度 ・民力に適応 しよう
8
83 (
明治
本稿 で は、参事 院副 議 長 時代 の1
とす るため、やむを得 ない一時の退歩現象
1
6)年地方巡察便報告書 を取 り上 げることにす
であ る。やがて人民 日管の気象が育て られ、
る。 圧伸 の先行研究 において、 この報告書が取
各地民情 に適実 な学校が もりあが るだろう
り上 げ られることはなかった。 田中は1
88
0年 3
と考 えた ものであろ う(4)0
月、文部大輔か ら司法卿 に転 出、1
8
83年 1
0月21
日参事院副議長 に就 き、1
8
8
4年 9月21日特命全
権公使 としてイタリアに赴 くまでその職 をつ と
人民 自馨 に基づ く匡日東教育の普及 とい う教育
令政策 を、1
883年段 階、干渉統制主義の再帰下
の地方教育の実情 を踏 まえて圧伸 はどの ように
評価 していたのだろ うか。 「
やむ を得 ない一時
'
埼=
l
三大学教 育 学 部総 合 教 育 科 学 誹座
の退歩現象」 にす ぎなか った と、 自らの政策の
-2
7-
正 当性 を確認 しているのであろうか。あるいは、
院の儀 に付す ること、今の貴族の如 し(6)
。
改正教育令の干渉統制策の有効性 を認めること
になったのであろうか。
法律の立案 ・審査 に絶対的権限を持つ機関で
あった といえる。何故 に、田中が副議長 なのか。
1
882(
明治15) 年の議官 (
議長 ・副議長 を含 む)
(
-) 参事院 と田中不二麿
1
3名中、岩倉使節団メンバーが 4名 を占めてい
立憲政体への移行 をめ ぐる政権内の対立は、
ることは、その理 由を説明 しうるのか もしれな
1
881
年 10月11日の 3大臣と大隈重信参議 を除 く
い。岩倉使節団で田中は理事官 (
文部大丞)、山
7参議の奏議 と翌 1
0月1
2日の国会開設の詔書 に
口尚芳は副使 (
外務少輔)、安場保和 は随行 (
租
よって決着がはか られることになる。いわゆる
税椎頭)、田中光顕は理事官 (
戸籍喪)をつ とめ
明治1
4年の政変であった。英国型の憲法構想の
ている。気鋭の人材 として彼 らが議官に任命 さ
大隈は政権か ら排除され、伊藤 博文 を中心にプ
れている。
明治23) 年の
ロシャ型の欽定憲法路線 と1890 (
参事院は 自らの発案 と政府の命 によって法律
国会開設が確定す る。 この明治1
4年の政変は、
規則 を起草 し、 また審査す ることになる (
参事
自由民権運動への対決を明確 に し、政権機構 を
院職制車種 第 7条)。 また、行政官 と司法官 の
それに応 じて再整備することになる。その中核
権限、地方議会 と地方官の権限に関する審理 を
機関 として新たに10月21日に、参事 院が設け ら
行 うことになる (
同上第 8条)。そのため に、
れ伊藤が 自ら議長 に就 くことになる。副議長に
外務部 (
外 交 ノ事)、内務部 (
内地勧業教育 ノ
は田中が司法卿か ら転 じて くる。参事院は、伊
歳出歳入
辛)、軍事部 (
陸海軍 ノ事 )、財務部 (
藤が立憲制への移行 ・準備機 関 として設けた も
及国債貨幣租税 ノ事)、司法部 (
恩赦特典及裁
の で、旧来 の太 政 官 の六 郎 (
外 務 ・内務 ・軍
判 ノ章程権 限並行政裁判 ノ事)、法制郡 (
民法
事 ・財政 ・司法 ・法制) は参事 院に移 されるこ
訴訟法商法刑法治罪法 ノ事)の 6部 を設けてい
とになる。法律規則の企画立案 ・審査 ・各省庁
る (
第11
条)。 田中はそのキ ャ リアか ら、内務
間の連絡調整、地方官 と地方議会の対立の調整
部 ・法制部、 と りわけ 「
教育ノ事」 に関係 した
を担 うことになる(5)0
といえよう。
伊藤 は少壮気鋭の人材 をここに集めるが、田
(
二) 地方巡察倭 と報告書
中はその副議長に就任す ることになる。伊藤は
① 明治1
4年の政変の背景には、つ まりは伊藤
1
882年 3月憲法調査のためプロシャに出発 し、
その後 は山県有朋が議長 を務めることになる。
と大隈の対立の背景には、藩閥専制 に対す る批
884年 9月イタリア公使 として赴任す る
田中は1
判、北海道官有物払い下げ問題への批判、それ
まで副議長 を務めている。参事院の職務 につい
等 を含包す る自由民椎運動の全 匡柑勺展開があっ
て一議官であった尾崎三郎 は次の ように記 して
たことはい うまで もない。民権派が活躍す る地
方議会 と地方官の対立は各地に頻発 し、地方民
いる。
情の動向に中央集権 的 システムの確立 をめ ざす
予此頃は参事院議官に して、
其職務 は、日々
参事院は多大 な関心 を払 うことになる。伊藤の
各省 よ り太政大臣へ菓議 し来る事件 にて法
後 を継 ぐ議長の山県有朋 は 「
今回各地ノ形成 ヲ
律 の創立又改正 に関す るものは之 を審査 し、
察スルニ一般 ノ気風 ヲ漸 ク政治上 ノ思想二傾向
其採用すべ きもの又は採用すべか らざるも
シ到 ル処政談演説 ヲ為 シ或ハ団結 シテ党 ヲ為ス
のは其省へ差 し戻 し、採用すべ きものにて
ア リ利害 ノ影響スル所甚 夕軽 シ トセス又府県会
も修正加除すべ きものは之を修正加除 して
とと
の
案 を僻へ、太政大臣の認可 を経 て之を元老
ノ状況地方税 ノ収支等 ノ如キモ亦大二世治二関
繋 ア リ凡ソ此等 ノ事殊二詳二視察 ヲ加へサ ルへ
- 2
8-
カラス依テハ元老 院参事院議官 ヲシテ本務 ノ余
品行基準 を明確 に した こと。第五 には、修身を
ヲ以テ時々各地方 二巡回セ シメ-」(
7
)と、1
882
筆頭教科 として、知識才芸か ら徳育重視-の転
年に地方巡察億の派遣 を提案 している。 この山
換 をはか ったことであった。総 じていえば、文
県の建議 によって全 国を 5部 に分けて、1
882
年
部省-府知事県令-町村一住民 とい う教育行政
に河瀬其孝、安場保和、中村弘毅、河田景輿、
システ ムの上下 関係 と権 限 を明確 に した点で
渡辺昇の 5名が、翌 1
8
83年 には田中不二麿、関
あった といえる。教育令が住民の 自治、住民共
口隆吉、渡辺活、槙村正直、 L
U尾庸三の 5名が
同による学校の設立運営 を基軸に した点を逆転
巡察億の命 を受け各地方の視察 を行 っている。
させ るものであった。 この 自治主義か ら干渉主
各巡察使 は、任地視察後直 ちに太政大臣宛に
義-の施策転換後の地方教育の実情 と課題 を各
概況に関す る申報 を提 出 してい る。その報告 は
巡察使 は報告す ることになる。
各巡察任 は、先の ように共通の視察項 目を与
各参議 にも回覧 され、明治 1
4年政変後の地方実
情 についての最新情報 として活用 されている。
えられた ものの、その報告はそれぞれの視点か
巡察終了後、各巡察便 は改めて指示 された項 目
ら記述 された個性的な もの となっている。 まず
について報告書 を作成 して提 出 している。 山県
882
年 と1
883
年の視察報告 (
但 し、田中不
は、1
の建議では 「
一、県治一般 ノ状況、-、府県会
二麿報告 は除 く) を見てみ ることにす る。
ノ状況、一、警察 ノ事、-、教育 ノ事、一、新
聞著作 ノ事、-、演説集会結社 ノ事、一、政党
(
参1
8
82
年の報告書
団結 ノ事、一、士族 ノ状況」(
R
)について視察す
ることとしていた。 しか し、 この報告書 は豊富
1
882年 6月の安場保和 の東海東 山道巡察の申
r
一
山
報は 「
地方百般 ノ形況大二時態 ヲ一変 シ其面 目
な内容 を持つが、 さほ ど政策資料 として重要視
ヲ改 ムルモ ノ少ナカラス然 リ ト排 トモ教育 ノ事
されなかった と考 えられている(
9
)
.ここでの視
若 クハ県会 ノ現状士族授産 ノ方法山林 ノ保護民
点は、 この巡察使及びその報告書が政策展開に
業 ノ如何等要スルニ利害 ノ間に跨立 シ今幾層 ノ
いかなる関係 を有 したのか を問 うことではない。
更改 ヲ経サルへ カラサ ルモノア リ」 り0) と、まず
文部官僚 としてのキ ャリアを横 み、 しか し、教
教育令の問題点 を指摘 す る。「明治十二年教育
育令失政の責任 を問われた田中が、改正教育令
令 ノ発布 セ ラル 、ヤ頓 二官府 ノ干渉 ヲ脱セシニ
施行後の地方の教育状況、問題点、課題 をいか
依 り民度末 夕明ケサル ノ市村 二有 テハ教育 ノ道
に認識 していたのかを問 うことである。それを
ヲ故郷 シ或ハ把二教則 ヲ変更 シ学校 ヲ廃敷 シ其
他の巡察便報告書 と比較す るこ とによって、田
形状実二収拾 スヘ カラサルモノア リテ遂こ一般
中の教育令施策に込めた教育論、学校論の内実
ノ学歩二向テ衰退 ノ徴 ヲ里スル二重 レリ ト之 レ
を問 うことである。
民度未 夕 l
ヨ[
[
]
教育二放任 スルノ域二速セサルモ
まず は、この 「
教育 ノ事」 につ いての報告の
ノアルニ依テ然 ルナラ ン」(
l
t
)と、まず は教育令
前提 となる1
8
8
0年 1
2月の改正教育令の 「
改正」
の 自由主義が 「
民度」 に適 さざるが故 に後退 し
された要点を整理 しておこう.節- には、′
」
、
学
8
80年の改正教育令
た と認識 している。ついで1
校の学区、設置、廃止、就学督i
引こ関 して府知
によって干渉統制の基準が明示 された ことにと
事県令の権限を明確 に したこと。第二 には、学
もない回復の傾向を示 していると評価 している。
務委員には戸長 を加 え、公選制 を府知事県令の
しか し、「
各地 自力ラ人情風俗及習慣 ヲ異 ニセ
任命制 に したこと。第三には教則 は文部省の定
シノアルニ ヨリ其土地二応 シ亦 夕掛酌 ヲ加へ便
める小学校教則綱領 に基づ き府知事県令が編成
宜 ヲ選マサルへ カラサルモノア リ」(
1
2
)と 「
方法
するとしたこと。第四には小学校教員心得、小
方規」の機械的適用ではな く地方の実態 に即 し
学校教員免許状授与心得 を定め、教員の資格、
た運用が必要であると指摘 している。
-2
9-
ついで 「
各地教員二乏キ ト費用不足二苦ムノ
)と記
トモ就学増加ハ進歩 ノ傾向 卜云 フヘ シ」 (2.
二事ハ一般 ノ通患ナ リ」 (】3) と、教員不足 と教育
している。 また広島県 については 「
教育 ノ不振
費不足が最大の地方的課題であると述べている。
ハ広島 ヨリ甚キハ アラサルへ シ-・
-広 島区内二
その教員間題について 「
善良 ノ教員 ヲ養成スル
在 リテハ委廓不整 ヲ極 ム ト云 フヘ シ」 と述べ、
ト生徒 ノ風俗 ヲシテ淳良二趣 カシムルノ二事ハ
その理由 として 「
学制」以来校舎 な ど外面の虚
と自由民権 の風 に染
飾につ とめ、教員月俸 を10円以下 と教員を冷遇
実 二得易 カ ラサル事 」
(
1
4)
まった教員 ・生徒 を善良な らしむる事が一番の
している点にあるとしている。 ここで も、教育
課題であるとす る。その点にかかわって 「
現行
令改正の意味は認識 されていない。
数育注 (
改正教育令一筆者注)ニ於テモ専 ラ徳
河田は1
882年 9月に 「
巡回視察一般状況二付
性 ヲ滴養スヘキ旨趣 ヲ以テ学科 中修身ノ学科 ヲ
意見書秘密」 を別途提 出 している。そこでは中
重 ンスルノ美挙 ア リ」 (15) と、徳育重視-の政策
国地方巡察の総括的意見 (
教育問題 について)
転換 を評価 している。 しか し、適切 な修身教科
として まず 「人民向学 ノ気象ハ各地其趣 ヲ異 ニ
書が乏 しく実績 を上げえていない点 を指摘 して
ス ト錐 トモ概 シテ教育 ノ欠如スヘ カラサル ヲ稔
いる。 しか も、徒 に儒学 (
漢学) を強制す ると
知 シ就学 ノ子女一年ハ一年 ヨリ増加スルノ状況
それへの反発 を招 く恐れがあるが故 に 「
教育法
ヲ顕 シ」
改良ノ今 日二於テ注意セサル- カラス」 (.6) と指
ノ気象」の向上 によるものであると述べている。
摘 している点に留意 してお きたい。教育費不足
教育令か ら改正教育令への 自治主義か ら干渉主
の点については、府県会、町村会が 「
減額主義
義の転換 に意味 を見出 してはいないのであった。
ノ一辺 二傾 向 シ学事 ノ盛衰如何 ヲ想 ハサ ルモ
河田が評価す るのは修 身教育重視の点であった
7
)と、教育事業が もた らす地域住民
ノ 、如 ク」 (】
が、それ も 「表 面学課 ヲ授 クルニ止 マ リ道徳
への利害 を長期的な視点で認識 していないが故
二関スル裏面 ノ訓育 二重 テハ満足 セサル者 ト
(
22)
と、就学状況の改善は、「
人民向学
ス」 (23) といまだ効果 をあげていない と指摘 して
であると指摘 している。
1
882年 4月23日、中国地方巡察の河田景輿 は、
いる。その結果 「
村老長者二礼 アルヲシラス而
まず京都府 について 「
府山一般之状況ハ五年前
シテ行旅 ノ黒帽洋服 ヲ着スルヲ ミレハ慕 シク敬
則明治 10年二比ス レハ先 ツ依然 トシテ百事進歩
礼 ヲ行 ヒ其容チ姻 ヲ呈スルモノ 、如 シ」
(
24)
と、
ヲ見認 メ不 中共内申小学校ハ退歩之状況 ヲ顕 シ
質朴の風 を失い悼辞の空気が拡がっていると実
タリ」(
1
8
)と、改正教育令後の変化が認め られな
情 を報告 している。
1
882年奥羽地方巡察の河瀬真孝 は、 4月21日
い と報告 してい る。後 の 「
二府 六県 一般状 況
番」では、「
小学 ノ景況ハ昔 日二比 ス レハ緩慢
の申報 (
茨城県)で 「
前教育令 ノ放任二基 因シ
放任 ノ態 ヲ顕 シ就学モ減少 ヲ未 タセ シカ教育令
生徒就学上二於 テ検束 ノカニ乏 シキカ為 メ人員
改正以来私立学校モ盛二興 り大二面 目ヲ改ムル
と、私立学校の興隆があった と指摘
次第に減少 シ習学 ノ務 メ亦著 シク退歩スル二重
ママ
レリ昨十四年来制令 ノ改正ニヨリ少 シク吏員 ノ
している。河田の報告の特徴 は、総 じて改正教
カ ヲ復セ ン ト靴 トモ前 日放任 ノ余幣今 日二至 リ
育令 による干渉主義の効果 を認めず、「人民向
テ十分 ノ地歩 ヲ占メタル故容易 二其功 ヲ実現 シ
学 ノ気象」の昂 りが小学校教育の普及 を拡大 し
粍 シ ト云 フ」
ていると認識 している点であった。島根県につ
指摘 している。福島県か らの申報 (5月 3日)
いては 「
学事 ノ景況ハ教育令改正以来未 夕確 タ
でも 「
教育上二就テハ前年 ノ学制放任二失 シ且
ル改良 ヲ見サルモ進歩上達二赴ケ リ」(
Z
O
)と、岡
小学校生徒二欧米ノ歴史頻 ヲ教授セ シカ為 メ大
山県については 「
県下一般学事 ノ景況 タル教育
二軽騒浮薄二移 り従来 ノ好慣習 ヲ損害セ シ事甚
令改正前後 ヲ比較スルニ甚 シキ異同ヲ見ス ト難
タシ」 (26)と、教育令 を厳 しく批判 している。 し
ニ至 ル」
(
1
9)
-3
0-
(
25)
と、教育令の 自由主義の弊害 を
たがって、教育令か ら改正教育令への政策変更
貴法 による就学の増大 は、それに見合 った協議
を高 く評価す ることになる。
費の徴収 を必要 とす るが、土木費の強制徴収 に
岩手県か らの申報 (6月1
6日)で 「学事ハ次
対 して教育費の徴収 は強制力 を持たないが故 に、
第二進歩 ノ勢 アリ」(
2
7
)
、秋田 ・青森か らの申報
不納者が存在 し校舎 ・教員の確保 を困難に して
(6月2
8日)で は 「学事 ハ稔 シテ進歩 ノ状 ア
リ」 (28)、新潟か らの申報 (7月1
3日)では 「教
いると指摘 している。督責法 による就学者の増
大、それに対応す る学費の不足、 この矛盾が民
育 ノ児童二緊要ナル事ハ大 二民心こ感覚スル所
衆の学校教育への反発 を呼ぶのではないか、こ
ア リテ学制改正後ハ一層 ノ進歩 ヲナ シ」(
2
9
)
、千
の点-の懸念 を表明 している。そのためには、
9日)では 「学事ハ他県
葉県か らの申報 (7月2
さらなる干渉主義一教育費の強制徴収が必要で
卜同 シク進歩 ノ状況 ア リ」
(
3
0)
と報告 してお り、
あると述べている。
改正教育令の干渉主義の成果 を評価 している。
1
8
8
2
年南海地方 を巡察 した中村 弘毅 は、1
0月
後の 「陸羽地方十県概況」では 「
修 身斉家ハ経
の復命書で 「
今 日ノ教育ハ其知識 ヲ進ムルノミ
国ノ大本 タルヲ懇示セハ敗壌 ノ民心尚能 ク補綴
ニシテ道徳二乏 シク善良 ノ風俗 ヲ維持スルナク
ノ功 ヲ奏セ ン現今 ノ情 タル政令改正 ノ功二依 テ
又 日用二迂ニ シテ却 テ軽薄二陥ルア リ」 (35)と徳
頗ル学事振作 二傾 向セ ン ト錐訓戒 尚末周到ナラ
育軽視、実学軽視の学校教育 を批判 し、特 に貧
ス其幣多 クハ ・
」 (
31
)と就学状況の改善 を認めつ
民には 2- 3年の 「簡易 ナル普通学則」 を設け
つ、徳育面での不振 を問題点 と して指摘 してい
て、修身 と日常の実学 を教 えることが必要だと
る。
提言 している。
1
8
8
2
年九州地方 巡察 の渡辺昇 は、「
九州各県
事情 」 (7月3
1日) で、「客歳教育令 ヲ改正 シー
(
釘1
8
8
3
年の報告書
層之 ヲ督励セラ)
しこ因 り一般人民ハ益教育 ノ忽
畿内中国地方 を巡察 した槙村正直は、広島県
諸スヘ カラサルヲ知 り其進歩上二於 テハ各県 甲
に関す る申報 (7月)で、興味深い指摘 を して
乙ナキこアラス」 (32) と、改正教育令の干渉主義
いる。
ヲ評価 している。 問題点 としては 「
官大二修身
広島県管内二人テハ一層学事 ノ振ハサルヲ
ノ課 ヲ設ケ徳育 ヲ旨 トスルモ多 クハ共著二乏 シ
党工校舎 ノ建骨蓋不都合器械モ調ハス生徒
ク偏 二知育二馳セテ忠孝節義 ノ如何 タル ヲ知 ラ
枚数 二坐 シ方尺程 ノ板 こ字 ヲ習 フ教員ハ立
サルニ似 タリ」 (
33) (
奏議案) と、徳育教育の不
ナカラ鞭 ヲ持テ教ユ何 ノ故 カ ト間へハ区長
振 と中学校での実学教育の不振 をあげている。
答テ云 ク近頃民心学事 二向 ヒ生徒俄二増ス
9月の 「
民情 ノ概況」の 「
教育 ノ概況」 は干渉
故ナ リ ト-・
・
・
民心学事 二向 ヒ民心学費 ヲ好
主義 の問題点 を指摘 してい る。 「
客歳教育令 ノ
マス書籍 ナクシテ教 へ器械ナクシテ学へ ヨ
改正其他諸規則 ノ発行ニ ヨリ現今各県専 ラ方二
トハ今世行ハ レ難キ説ナルへ シ
(
36)
之 力実施二着手ス其督責法 ノ如キハ尤厳密ナル
「
民心学事 二向 ヒ民心学費 ヲ好マス」が もた
ヲ以テ何等 ノ感覚 を来スヘキカ県官吏或ハ之 ヲ
らす、就学者の増大 と諸設備の不足が、民心の
憂慮 スルモノア リ ト靴モ就学ハ年 々多キヲ加へ
離反 を生みだす可能性 について指摘 している。
先キ ノ退歩 ヲ挽 回スルハ」 (
a
l
l
)と、干渉主義の成
その解決策 として枝村 は学費の徴収への干渉 を
果 を認めなが らも、その督責法に象徴 される規
求めず、徳育重視の私立′
ト学校 には学費負担 を
制の強化が民意に どの ように受け とめ られるの
ともなうに もかかわ らず多数が就学 している事
か懸念 を表明 している。それは就学督責法 によ
実 を踏 まえて、教育内容 ・方法の改善が学費負
る就学干渉が、それに対応す る校 舎 ・教員 を準
担 を好 まない民心 を是正す ることにつ なが るだ
備で きていない点 にかかわっていた。つ ま り督
ろうと述べ ている。
- 31-
我教則厳 ナ リ父兄 ノ教誠ハ更二厳 ナ ラサ ル
可 ラス其児 ヲ誠 メテ云 ク子弟 タル者父兄 二
と改正教育令 の干渉主義 による効果 を認 め評
価す る報告 を行 ってい る。
背 ク可 ラス父兄モ天皇陛T ノ臣民 タリ謹テ
北陸地方 を巡察 した渡辺晴 は、福井県 につ い
朝廷 ノ法令 ヲ守 り天皇陛下 ノ聖 旨二背 ク勿
ての報告 (
11月) で 「
県庁 に於 テ殊 二奨励 督促
レ ト -(
3
7
)
スルノ祉 ヲ見サ ル ヲ悟覚 シタルカ如 シ聞 ク所 二
忠孝主義の徳育 を徹底す る私立小学校 は 「一
依 レハ小学就学生 ノ貞数年一年 ヨリ増加 ス ト云
人一ケ月十銭 ヲ以テ最下等」 とす る授業料負担
是 レ教育令改正 ヨリ得 タルノ結果ナ リ トスルモ
に もかか わ らず 隆盛 してい る事 に着 目 し、「
民
人民其理 ヲ悟覚 スルニア ラス ンハ葛 ソ如此 ヲ得
心学費 ヲ出ス ヲ好マサルノ区長説ハ何等 ノ事 タ
ンヤ」(
叫 と、就学率の上昇 は改正教育令 の結果
ル ヲ知 ラス」
とい うよ りも人 々が教育の価値 を認識 したため
(
3
8)
と記 している。
次 に東 山東海 地方 を巡 察 した関 口隆吉 の復
であった と報告 してい る。そ こでの問題 は 「
民
命 杏 を見 てみ よ う。 関口の報 告 は膨 大 な もの
心学事 二向 ヒ民心学費 ヲ好マス」(
槙村正直)で
で他 の報告 に比 して特 に注 目すべ き もの とい
あ るこ とを指摘 してい る。 「
人民教 育 ノ貴重 ス
える(39)。教育 に関す る項 目につ いて も実地調査
可 キ ヲ解 スルモ未 夕有志金 ヲ募集 シテ以 テ学校
した諸学校 についての報告 を含 め改正教育令実
ヲ建設且維持 スルノ地位 こハ達セサルモ ノカ」
施後の地方教育の動向について詳細 に記 してい
猶未就学 ノ児
(
石川県 ・富 山県)(45) と、また 「
る。
童少ナカラス ト錐 トモ校狭 隆二 シテ入ルへ キノ
教育 ノ現状 ヲ視察スルニ明治十三年改正教
室 ナ ク教 員不 足 ニ シテ授 クへ キ ノ暇 ナ ク其他
育令頒布以来追 々諸学校 ノ教則 ヲ改定 シ専
諸般 ノ整備 セサ ル カ為 メこ厳 二督責 ス ル ヲ得
ラ孝梯忠信仁義礼譲 ノ道 ヲ教へ徳性 ヲ滴養
46) (
群馬県) と報告 している。民心 の向学
ス」 (
スル ヲ以テ本 トス各郡人民モ柵 々教育 ノ人
心 と干渉主義の関係 につ いて山梨県 の報告 で は
世 二必要ナル ヲ覚 り競 フテ資金 を学校こ寄
「
大二学事振起 ノ勢 アルカ如 シ ト靴 トモ敢 テ人
付 スルノ風 ア リ従 テ就学児 ノ数ハ 月二増加
智進 ミ教育 ノ必要 ナル ヲ覚知セ シニ由ルニ非 ラ
10) (
千
シ学校 ノ数年 々多キ ヲ加 フルに至 ル (
ス一二就学督賓規則発布 ノ結果ナ リ」(
4
7
)と、民
葉県)
心の向学心 の ともなわない干渉主義 の結果であ
る点 に懸念 を示 してい る。
十 三 年教 育令 改 正 以来 ハ教 育 二 関 ス ル諸
長野県の報告では 「同十二年 二至 テ教育令 ノ
規 則 ヲ改正 シ生徒 ノ進 歩 著 シ ク効 果 を見
頒布 ア リシヨリ其趣 旨ヲ誤解スルモ ノ多 クシテ
ル (
▲
t
.
)(
栃木県)
一時 ノ退歩 ノ姿 ヲ顕ハ シ教育 ノ秩序殆 ン ト素 レ
ン トスルノ勢 二重 レリ然 ルこ同十三年 同令改正
教科書ハ専 ラ修 身ヲ本 トナ シ大 二改良スル
ノ後教則 ヲ一定 シ校則及 ヒ維持法等 ヲ整理 シタ
ル ヨリ大こ其頚勢 ヲ挽 回 シ」(
4
8
)と、教育令 か ら
42) (
栃木県)
所アリ (
改正教育令へ の政策転換 による退勢挽 回である
私立小学校 ノ減セシハ従来設置セルモノ読
書習字算術 ノ二三学科 ヲ教授 スルモ猶小学
卜称セ リ ト靴 トモ教育令改正以来教則 ノ改
と指摘 して い る。た だ し、渡 辺 清 が教 育 令 の
「
趣 旨ヲ誤解 スルモ ノ多 ク」 と述べ てい る点 に
注 目してお きたい。
正学校設置廃止規則 ノ変更等二依 り之二準
四国 ・九州地方巡察の 山尾庸三は、総括 的報
拠スル能ハサルモノ多 キニ居 ル ト云 フ又近
告書である 「
一般 ノ景況 」 (9月)で、地方教 育
時公立学校 ノ増加セ シハ地方官 ノ誘導全 ク
問題 について次の ように指摘 している。
教育令 ノ改正ハ実二教育上 ノー大改革 タル
宜 キ ヲ得 タルニ依 )
I
,ト信 ス (
^
3
)(
東京府)
-3
2-
中村 弘毅
ヲ以テ当局者ハ文部省 ノ意 ヲ承ケ学事二関
槙柑正直
新セル然ルニ其費途こ至 リテハ近来益困維
ノ状 アリ何 トナ レハ協議費中教育費ハ不納
関口隆吉
処分法ナキニ ヨリ不納者 アル トキハ戸長ハ
渡辺活
普通民事 ノ訴訟 ヲナス ヨリ外 手段 ナク-
山尾庸三
○
○
各地方官ハ頻 リニ其困難 ノ事情 ヲ述へ土木
C教育費不足の問題
費 ノ如 ク十年 第七拾 九号布 告 ヲ以 テ処分
1
8
82年
就学者増 に対応 しない教育費
セ ラ レンコ トヲ企 望 ス ル コ トー轍 二 出ル
カ如 シ
一〇 一〇
1
8
83
年
スル諸規則 ノ改正二従事 シ大 二其面 目ヲ一
(
協議費)不納の問題
安場保和
(1̀
9)
改正教育令 によって諸規則が整備 され、就学
河旧景典
者の増加 を見 るものの、教育費 を協議費によっ
河瀬真孝
て調達で きず、教育費未納者が増大 し教育普及
渡辺昇
の障害になってお り、強制徴収法が必要である
中村 弘毅
○
1
8
83年
と述べている。
横付正直
○
関口隆吉
④各報告書の比較
8
8
2年 の巡察使の報告 と1
883
年のそ
ここでは1
れを (
ただ し田中不二麿報告 は除 く)比膜 しな
○
山尾庸三
〇
(
- は特 に記述 な し。 ×は批判 的記述)
が ら、巡察傍の地方教育事情 につ いての認識 を、
各巡察便 の報告 にはそj
lぞれの個性が反映 し
改正教育令 との関係か ら整理 してみることにす
る。
渡辺清
8
82年 と1
8
83
年 を比較す る と 3点で
ているが 、1
A徳育重視の問題
1
8
82年
河瀬真孝
渡辺昇
中村弘毅
1
8
8
3年
枝村正直
問題点の指摘
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
〇〇 一
河田景典
評価す る記述
○○
安場保和
異 なる傾 向を示 しているといえよう。第-には
関口隆吉
渡辺晴
についてである。1
882
年の報告では知識才芸主
義か ら徳育重視への変更 を全 ての巡察使が評価
し、その上で不十分 さや問題点 を指摘 している。
漢学の強制 によって反発 を招かぬ事、適切 な修
身教科書が必要である事 な どを述べている。 し
8
83年の報告 は槙村正直、関口隆吉が徳育
か し1
路線重視 を評価 しているのみで、他の巡察使は
その点に言及 していない。 この背景には、おそ
らく明治 1
4年の政変直後 で、明治2
3
年 の国会開
一
山尾庸
設 にむけての地方 における自由民権派の動向に、
B就学率上昇の要因につ いて
1
8
82年
人民向学の気象
安場保和
河田景典
河瀬真孝
i
度辺昇
○
改正教育令 による修身教育、徳育重視への変更
敏感な らざるをえなかった1
8
82年 と一定の落 ち
改正教育令の干渉主義
着 きをみせ る1
883
年の違 いがあった といえよう。
○
第二 には、就学率上昇 の要因についての評価
×
の違いである。1
8
82
年の報告 は 「
民心 向学 ノ気
O
○
象」 よ りは改正教育令 に よる干渉主義の復活に
よる と分析 して い る。他 方 1
8
83年 の報 告 で は
-3
3-
「
民心 向学 ノ気象」 を強調す る傾 向 を示 してい
当書記及び学務委員の数 ・選出方法 につ いて記
る。第三 には、就学率の上昇 に伴 う問題点の捉
述す る。特 に学務委員 の状況 については戸長兼
え方 につ いてである。1
882年 の報告 に比 して、
務、有給無給、選 出方法 な ど詳細 に記述 してい
1883年 の報 告 は、「
民心 向学 ノ気象、民 心学 費
る。 それは、小学校教育 の普及 は学務委員の役
ヲ好マス」 とい う地方の実情 を指摘 しているこ
割 に追 うところが大 きい と考えていたため と考
とであ る。教員 ・施設面の不十分 さが民心の向
え られ よう。
学心 を離 反 させ ることを懸念 し、教育費 (
協議
学務委員数
費)強制徴収 を求めてい る。
(
9田中不二麿報告書の検討
1700
山形 県
一
専
宮城県
730
無
一
次 にこうした特長 を持つ1
882年 と1
883年の 9
岩手県
秋 田県
685
較 的に検討す ることに したい。1
883年 4月12日
青森県
61
7
に奥羽地方 と北海道巡察の命 を受け、参事院議
函館県
1
70
官補大森鐘- を随行 に して、 4月23日東京 を立
札 幌県
ち福 島、 山県、宮城、岩手、秋 臥
根室県
札 幌、根室 を巡察 し、 7月28日に帰京 してい る。
ナシ
福 島県
名の巡察便報告 (
教育状況) と田中の報告 を比
青森、函館 、
内訳
任
給
30
9、 戸長
兼
務 541
16 7
選挙 275、他 は戸長兼務
-郡、 あるいは数郡 に 1、 2名
ヶ
第二 には、小学校 の校 数、就学者数、教育財
各視察地か らの復命書 は きわめて簡潔 に 「
異状
政の状況 について記述 している。 ここでの留意
無之候段 及上 申候也」(
5
0
)で済 ませている。 これ
点 は、就学状況の評価 に際 して地域 の産業構造
も他の巡察促の巡察地か らの復命書 と比較す る
と児童 の社会 的 ・生活的実態 をふ まえている点
巡
と異例 な もの といえる。帰京後、 7月30日 「
であ る。
察具 状」 と して詳細 な報 告 を提 出 して い る。
福 島県
「
各所 ヲ巡行スル能ハス ト靴 トモ凡 ソ県庁所在
信夫安達等 ノ諸郡ハ農桑 ノ業盛 ニ シテ児童
ノ地二設 クル官街ハ勿論官街 ノ監督 二属スル者
六七歳 以上 二重 レハ稼業 ヲ助 クルノ習慣 ア
ハ学校 ノ如 キ病院ノ如キ概 ネ之 ヲ臨視 シ郡街警
ル ヲ以 テ夏秋 ノ季 二至 レハ 自然登校 スル者
察署 ノ如 キハ亦随処之 ヲ臨視 セ リ各地方 ノ治蹟
少 シ是亦不得止者 こ シテ必 シモ子女 ノ教 育
ハ別冊 ヲ以 テ之 ヲ具 申ス」 (51) と各県毎 の巡察報
ヲ忽諸 ス ト云 フ可 カラス又子女 ニシテ就学
告 書 を作 成 して い る。 こ こで は田 中が 実際 に
スル者ハ大抵男子 ノ三分 ノー---学齢以上
ノ女子ハ家事 ノ為 メニ就学 ヲ妨 ケラルルニ
「臨視」 した学校教育 にかかわ る 「
教 育 ノ事務
ノ状況」 の記述 を検討す るこ とにす る。
由ル
(
5
2
)
宮城県
他 の報告書 は少 な くとも教育 問題 に関 しては、
巡察者の限 られた実地調査 を踏 まえた感想的意
比例 ス レハ百 人二付 四十六余 ノ割合 ニ シテ
見 によって構成 されてお り、 したが って同一の
末以テ普及 卜称ス ル二足 ラス ト雄 トモ其然
巡察億 の報告 も府県毎 に視 点 を異 に した内容 と
ル所以 ノモ ノハ細民 ノ状態子女 尚幼 ナルモ
なっている。対 して、田中の報告 は、一定の視
父母 ノ業 ヲ助 クル カ為 メ入学 ノ余暇 ナキ者
察 の視 点 に もとづ いた体 系 性 を もった構 成 を
多 キニ在 り故 二之 力為 メニ特別 ノ学校 ヲ設
とっている。そ こには文部官僚 としての経験 に
立 スルモ ノ現今比 々之 レア リ ト云 フ
(
5
3
)
第三 には、小学校教員の不足対策 と師範学校
基づ く専 門的力量 と識見 の確 か さが見 て とれる
での教員養成 につ いて記述 してい る。 これ は、
といえよう。
まず第一 に、県の学務課 の機構、郡 の学務担
授業法 の改善、教 員の確保が小学校教育普及 と
-3
4-
シ漸次校舎 ヲ起 シ子 弟 ヲシテ学 二就 カシム
「
民心 ノ向上心」 に不可欠 と考 えていたためで
ルノ状 ア リ本県教育 ノ進歩期 シテ待 ツヘキ
あった。
ナリ
福 島県
(
57
)
青森県
小学卒業生 ヲ挙 ケテ仮 二授業生 二充 ルヲ以
テ往 々十五六歳 ノ少年 ニ シテ授業 二任 スル
現今施設ス ル所 ノ方 向ハ教育普及 ヲ後 ニシ
ヲ見ル今県立 師範学校安達初 等師範学校 二
専 ラ其改 良 ヲ先 キニス其成績 二就 テ見 ルニ
於 テ専教員 ヲ養成ス ト雛 トモ其生徒百余人
-・
師範学校ハ青森 二在 り弘前 二分校 ヲ設
ク高等 中等初等 ノ三科 二分 ツ ト (
5
8
)
二過 キス末以 テ多数 ノ需要二応 スル コ ト能
ハス (
5
4
)
こう見 て くる と、 田中の小学校教育普及 に対
す る視 点 は、改正教育令 の干渉主義で はな く自
山形県
明治十年 ヨリ師範学校 ヲ県庁 下二設立 シテ
か らが主 導 した、 しか し、伊 藤博 文 の修 正 に
師範生徒 ヲ養成 シ爾来十五年 二重 テ百十六
よって よ り自由主義 に傾斜 した もの になった と
人ノ卒業生 ヲ得従前 ノ教 員 ヲ合 シテ四百 四
はいえ教育令 の 自由主義 ・自治主義 にあった事
十余人 ノ多 キニ及 フモ未全 ク給足 セス昨十
8
82年の報告書が改
が確認で きよう。つ ま り、1
五年県会二於 テ地方税 ヨリ金八千三百余 円
正教育令 の干渉主義 と修 身教育重視 を評価 し、
ヲ出 シテ各郡 二初等科教 員養 成所 ヲ設 クル
1
8
83
年 の報告書 (
田中以外 の)は、「
民心 向学 ノ
ノ議 ヲ決 シ本年一月 ヨリ実施 セ リ之 ヲ小学
気象」を認 めつつ、「
民心学費 ヲ好マス」とい う
教員講究会 卜云 フ此会ヤ一般 人民 ノ賛成 ヲ
民度 にあ る点 を問題点 として指摘 している。 そ
得地方税 ノ外 -郡一千 円乃至五千 円 ヲ出 シ
の解決法 として協議費 (
教育費) の強制徴収 と
テ之 ヲ開設ス ル二重 ル是 ヲ以 テ人民 ノ思想
い う干渉強制 を求めていた。 ところが 田中の報
教育二傾向スルノー端 ヲ見ル二足 ルヘ シ
告 は、干 渉主義、徳育教育重視、教育 費不足 問
(
55)
題 については一切言及 していない。それは、あ
岩手県
十三年 四月別 ニ (
師範学校卒業生以外一 筆
たか も改正教育令が存在 していないかの ごとき
者注)小学校教員証 明試験規則 ヲ設 ケ之二
感す ら与 える もの となってい る。
依 テ及第スル者五百余名 ア リ客歳五 月小学
学務委員の実態の把握 につ とめ、就学問題 に
校教員免許状授与規則 ヲ定 メ其他卒業生 ノ
際 しては児童 の社会的 ・生活的実態 に着 目し多
外 ニ シテ能 ク子女 ノ教授 二堪ユ ル者 ヲ採用
様 な就学形態があ ることを、 た とえば 「
特別 ノ
スルノ変例 ヲ設ケ (
5
6
)
学校 ヲ設立 ス ルモ ノ現今 比 々之 レア リ」 (
宮城
第四には、小学校教育 の普及の方法 につ いて
県) と認 めている。 また、小学校教育 の普及、
各府県毎の特色 を認め、その多様性 を記述 して
つ ま りは 「
民心 向学 ノ気象」 は、教育費不足 問
いることである。
題 としてではな く、小学校教 育 の内容 ・方法 の
秋 田県
改良に比例す る ものであ り、そのため には何 よ
其就学 ノ数多 シ トセス蓋本県 ノ旨 トスル所
りも教員の質 と量 の確保が重要 であ る と指摘 し
先 ツ高等学科 ヲ興隆 シ後普通小学 二及ホサ
ている。 そのために師範学校 を重視 し、その設
ン トスルニ在 り之 ヲ以テ入学 ノ設之 ヲ他 ノ
立運営 にかかわって 「
民心 向学 ノ気象」 を評価
地方二比ス レハ一歩 ヲ譲 ルヘ キ カ如 シ然 レ
してい るこ とである。唯一、改正教育令後の規
トモ高等学校 (
師範学校 ・女子 師範学校 ・
則 の有効性 が報告 されて いるのが、岩手県の教
中学校等 の こ と一筆者注) ニ至 テハ規模広
員確保対 策 にかかわっての ことであった。そ し
大授業ハ亦具 レリ---現今人民一般 ノ気風
て、府県 はその実情 に即 して、小学校教育普及
ヲ視 ルニ普通教育 ノ忽諸 ス可 ラサ ル ヲ覚知
の 「
方法」 に多様性 を有 していることを的確 に
- 3
5-
認 識 し報 告 して い る こ とで あ る。
にお い て、 その効果 あ るい は問題 点 を田 中 は問
うて はい ない。 教 育令 に よる小 学校 教 育 の停 滞
お わ りに
はや む をえ な い一 時 の退 歩 現 象 で あ り、 「民 心
向学 の気象 」 の 向上 と と もに国民教 育 の量 と質
田 中報 告 書 の核 をなす の は、小 学校 教育 の普
は漸進 す る と した上 記 理念 の 、1
8
83
年段 階 で の
及 は 自由主 義 か干 渉主義 か の 選択 にあ るので は
確 認 と方 向性 につ いて の報 告 と して 田中の巡 察
な く、 まず 第- に授 業法改 良 に よって小 学校 教
便 報 告書 を読 む こ とが で きるので あ る。
育 の意 義 を社 会 的 に認 め させ るにあ りと した こ
とであ った。 そ讃
1にかか わ って各 地 の 師範学 校 、
註
教 員養 成 のあ り方 、 それ に対 す る教 育 費支 出の
状 況 を詳細 に報告 してい る。 徳育 重視 、教則 綱
領 な どの 国家 的基準 か ら師範 学校 の教 育 を見 て
(1
)F
公文別録』(
国立公文書館)中の地方巡察使 報
告番は、我部政男編 『
明治1
5
年明治1
6
年地方巡
い ない。 この教 員養成 に対 す る熱 意 を 「
民心 向
察使復命書』上 ・下 に収録 されている.本稿で
学 ノ気象 」 を測 る メル クマ ー ル と して い る点 に
田中の特 徴 をみ る こ とが で きる。 かつ て 田中 は
の引用 は我郭本による,
(2)「田中不二麿の統制主義 と自由主義」『
埼玉大学
「学制 」 の統制 主義 を方 向転 換 した地 方 官会 議
(
1
8
75年 6月) で教 則 の 自由化 、私 立 学校 の 自
由化 にか か わ って次 の よ うに述 べ て い た。
欧米 各 国 ノ経験 二出 ルモ其 良法 ヲ発 明ス ル
ハ多 ク之 ヲ実 際従事 ス ル者 ヨ リ得 テ、其 理
ヲ机 案 上 二論 ス ル者 二得 ル所極 メテ砂 キ ヲ
ヤ、 然而 シテ御 二学 制 ヲ頒布 ス ルニ 当テ戎
教育学部紀要 』5
4
1
、2
0
0
5
年.
(3)「
福沢諭吉 と田中不二麿」F
福沢手帖』8
2
号、
1
9
9
4
年.「
福沢諭吉 と田中不二麿再論 (
1
)
」『
福
沢手帖』1
2
5
号 、2
0
0
5
年.「
福沢諭吉 と田中不二
麿再論 (
2
)
」『福沢手帖』126号、2005年.
(4)倉沢剛 『
教育令の研究』講談社、1
9
9
5
年、2
2
頁.
(5)
参事 院に関 しては山中永之佑 『日本近代 国家
の形成 と官僚制』弘文堂、1
9
7
0
年.我郡前掲竜
ハ 各小 学校 ヲ シテ一 定 ノ教 則 ヲ遵 守 セ シム
ル ヲ要 ス ル者 ア リ文 部省 二於 テモ之 ヲ非 ト
r
1
血
セサ ル者 ア ルニ似 タ リ ト靴 下モ 、今 尚私 立
上の解題 を参照.
(6)我部前掲書上 、8
7頁.
(7)「
元老院及参事院議官の地方政情視察方建議」
7
頁.
同上苦、9
小 学校 ヲ廃 止 シ又ハ其 設 立 ヲ拒 ム カ如 キハ
(
5
9)
(8)同上書、9
7
頁.
授業 法 の改 良 は 「実際従事 ス ル者 」(
教 員)の
(9)同上書、9
9
頁.
其 宜 ヲ得 サ ルへ シ
「
発 明」 に よる ものであ り、教 員 の 自治 的 な活
動 が尊重 されね ば な らない と述べ て い た。 圧伸
は、 国民教 育 の普 及 は、 まず授 業法 の改 良 に よ
る学校 教 育 の有効性 の地域 住 民 に よる認知が前
(
10)同上音、11
4頁.
(
ll
)同上番、1
2
5
1
2
6
頁.
(
1
2
)同上音、1
2
6
頁.
(
13
)同上.
(
1
4)同上.
提 にな る と考 えてい たので あ った。 それ に とも
(
1
5
)同上.
民心 向学 ノ気 象」 は向上 し、 財
な って就学 - 「
(
16)同上.
政支出 (
学 費負担 ) も可 能 に なる と考 えてい た
(
1
7)同上.
といえ る。
(
1
8
)同上書、1
7
3
頁.
(
1
9
)同上書、1
8
9
頁.
(
2
0
)同上宙、1
9
6
頁.
(
2
1
)同上杏 、2
0
1
頁.
(
2
2
)同上番、2
2
4頁.
この延長線上 にあ る教 育令 は人民 自為 、民衆
自密、漸 進 主義 に もとづ く国民教 育 普 及 にかか
わ る施 策 で あ った。 干渉 ・統 制 主義 を とる改正
教 育令 下 の地方 の教 育事 情 の認 識 と課題 の指摘
-3
6-
(
2
3)
同上書 、2
2
4
頁
(
2
4
)
l
叶上告 、2
2
5
頁.
(
2
5
)
同上番 、2
3
0頁 .
(
2
6
)
同上宰芋
、2
3
12
3
2
頁.
(
2
7
)
同上怨 、2
4
5
頁
(
2
8)
同上書 、2
4
8
頁
(
2
9
)同上港 、2
5
3
頁
(
3
0)同上昔 、2
5
5
頁
(
3
1
)同上古 、2
5
9
頁
(
3
2
)
同上杏 、2
8
2
頁.
(
3
3
)
I
T
T
J
上意、2
8
2
頁
(
3
4)同上古 、2
8
8
頁.
(
3
5
)同上怒 、3
0
7
頁.
(
3
6
)同上憲 、4
21
頁.
(
37
)同上.
(
4
4
)
我 部前 糊.
1
き
:
上 、5
0
5
頁.
(
4
5
)同上渚 、5
2
3
頁.
(
4
6
)同 Li
貨、5
6
2
5
6
3
頁.
(
4
7
)同上潜 、6
0
0頁
(
4
8
)
同 ヒ'
l
u
t
、6
1
7
頁
(
4
9
)
同上 番 、7
3
0
頁
(
5
0
)同上 背 、3
6
7
3
6
8頁.
(
5
1)同上 告 、6
3
1
頁.
(
5
2
)同上 哲 、6
3
6
頁.
(
5
3
)同上 音 、6
5
5
頁.
(
5
4
)同 ヒ習 、6
3
5
6
3
6
頁.
(
5
5
)同上 音 、6
4
5
頁.
(
5
6
)同上古 、6
6
5
頁.
(
5
7
)同上苦 、6
7
5
頁.
(
5
8
)同 ヒ辞 、6
8
5
頁.
(
38)同上.
(
5
9
)「地 ノア官会議御 下 問条 ノ内′
ト学校 設立 保護方法
(
39
)
同上古、解題 3
5
頁.
(
4
0
)
北部前掲書下 、7
9
4頁 .
(
41
)同上告 、9
3
頁.
(
42
)
我 吾F
;
前掲書上 、4
3
7
頁.
(
4
3
)
我 部前掲書下 、1
4
3
4頁
ノ儀 上 申」、倉沢前掲 書 、 9頁 に よる.
(
2
0
0
6年 9月 2
8円提 出)
(
2
0
0
6
年1
0月 1
3日受F
J
!
)
-3
7-
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