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カボチャ頭のランタン - タテ書き小説ネット

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カボチャ頭のランタン - タテ書き小説ネット
カボチャ頭のランタン
mm
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
カボチャ頭のランタン
︻Nコード︼
N0187BQ
︻作者名︼
mm
︻あらすじ︼
迷宮がポコポコ湧く都市で、探索者として暮らすランタン。血生
臭く平和に一人で気ままに暮らしていたが、なんやかんやあって一
人じゃなくなるような話。あとなんやかんやあって集英社ダッシュ
エックス文庫様から書籍化しました。
1
001
001
三日ぶりに見る空は、燃えるようなオレンジに染まっていた。夕
と夜のちょうど中間ぐらいの時間帯なので、わずかに墨を混ぜたよ
うな暗さもある。後二時間もすると、空は藍色に変わるだろう。う
んざりするような、安心するようないつもの空だ。
サルベージャー
﹁ランタンさん、相変わらず時間ピッタリっすね﹂
引き上げ屋が慣れた手つきでランタンの腰からフックを外し、鋼
鉄のロープを丸めながら回収していく。ランタンは日光とも呼べな
い薄暮れの光に目を細めながら、老人のように呻いた。
今回潜った迷宮は、地表から一層までそれほど深くはないのだが、
それでも引き上げられるときに感じる内臓の圧迫感はいつまで経っ
はいのう
ても好きになれない。儲けがあるのはいいことだが、行きよりも随
分と重たくなった背嚢の背負い紐が身体に食い込んで鈍く痛む。
﹁五分前行動が業界の常識なんでしょ?﹂
パキパキと首を鳴らしながら言うと、引き上げ屋は声を上げて笑
った。
﹁それはうちの業界の話であって、探索者業界で時間厳守の人間な
んていないっすよ﹂
もう何度も行ったやり取りだが、引き上げ屋の笑い声に作り物臭
さはない。ランタンもつられて口角を上げた。
﹁現物払いでいい?﹂
﹁大丈夫っす﹂
引き上げ料金は半額を前金として払っている。残りの支払い金は
持ち合わせているが、それは帰る道すがらの夕飯代にしたくなった。
本来なら探索者ギルドに寄って、背嚢に収められた魔精結晶を換金
2
する予定だったのだが、迷宮探索で予想外に気力を消耗してしまっ
た。
ランタンは背嚢を下ろし、中から戦利品である迷宮兎から刈り取
った無色の魔精結晶を取り出した。
笹形の結晶を一枚、引き上げ屋に渡す。引き上げ屋は懐から小さ
な結晶製のハンマーを取り出すと、様々な角度から何度もそれを叩
いた。結晶はか細く鳴くように、キンキンと音を立てた。
﹁三級品っすね。結晶八枚ってところっす﹂
悪びれることもなく三級品と言ってのけた引き上げ屋に、ランタ
ンは文句なく従った。やろうと思えば一枚程度は値切れただろうが、
ランタンの鑑定予想と変わらなかったからだ。それに迷宮探索に欠
かせない引き上げ屋と揉めて得をすることはない。
﹁はい、確かにいただいたっす。またご贔屓にお願いします﹂
引き上げ屋は金属製の集金箱に結晶を収めると、商売用の満点の
笑顔を作って頭を下げた。
﹁いやしかし、三級品とはいえ大量っすね。一財産じゃないですか﹂
八枚失われても背嚢の中にはジャラリと音を立てるほどの魔精結
晶が収められている。ランタンは面倒そうに頷いて、背嚢の口をき
つく閉じた。
うろつ
背嚢の中に入っているのは全て迷宮兎から刈り取った魔精結晶で
ある。
斥候兎とも呼ばれるこの魔物は四、五匹で迷宮内を彷徨き、探索
者を見つけると牙を剥いて襲い掛かってくる。そして同時に仲間を
呼ぶのである。迷宮兎の耐久力はそれほどでもないので、さっさと
ソロ
全滅させてしまえればよいのだが、一匹でも逃がしてしまうと後に
訪れるのは地獄の消耗戦である。
その地獄たるやげっそりとしたランタンの姿に見て取れる。単独
探索者にとってはこれが死に繋がることは珍しくない、らしい。
ランタンが生きて再び地表を踏めたことは、実力と幾ばくかの幸
運の賜である。
3
レイダー
ランタンが背を向けようとすると、引き上げ屋が声を潜めてつぶ
やいた。
﹁ランタンさんなら大丈夫でしょうが、襲撃者崩れが下街に入った
らしいっす。気をつけてください﹂
﹁ありがとう。まぁ探索者なんか、みんな襲撃者崩れみたいなもの
だけど﹂
しあさって
﹁ランタンさんはそんな風に見えないっすよ。ああ、そうだ。次回
の探索予定は明々後日の一四〇〇時でよかったっすね?﹂
﹁︱︱うん、そうだね。またお願い﹂
引き上げ屋の確認に、記憶は朧気だったがランタンは頷いた。引
き上げ屋がここで嘘を吐く理由はない。
﹁はい、畏まりました﹂
﹁じゃあね﹂
顔だけ向けて、引き上げ屋に声をかけるとランタンは重い足取り
でその場から立ち去った。
迷宮特区と呼ばれる都市の中心は、治外法権の下街とはまた別の
意味でトラブルの種が多く転がっている。気をつけていれば危険を
避けられるが、それでもあまり長居したいとは思わない。
背中が重たいこんな日は特に。
大きなものから小さなものまで、そこら中に迷宮口の開いた特区
には今から出発する気力満タンの探索者と、ランタンのような精根
尽き果てた探索者、そして雇われの引き上げ屋が行き交っている。
スカベンジャー
そしてその影に、疲労困憊、怪我満載で帰還した探索者相手に商
売をする商人や攻略済み迷宮に入り御溢れを浚う死体漁りが。そし
て更に深い闇の中に弱った探索者に襲いかかり、その生命ごと探索
品を根こそぎ奪い去ろうと舌舐めずりする襲撃者がいるのだ。
商人や死体漁りはやり過ぎない限り黙認されるが、襲撃者は相対
した瞬間に殺しても罪に問われない。それどころか探索者仲間から
一杯奢ってもらえるほどだ。
ランタンは先ほど引き上げ屋から聞いた話を、半分どころか四分
4
の一程度に聞いていた。下街には多くの探索者が住んでいる。襲撃
者の噂がたったら、嬉々として襲撃者刈りに繰り出すような荒くれ
者が大量にいるのだ。話が真実だったとしたら、今ごろ大通りに襲
撃者の首が飾られていることだろう。
襲撃者は探索者にとって唾棄すべき存在であるが、しかし探索者
もまた油断はならない。
気は優しくて力持ちを地で行く者もいるが、暴力を生業としてい
カツアゲ
るだけあって、多くのことを腕力で片付けようとする者は多い。襲
撃者のように殺しこそしないが、同業者相手に小遣い稼ぎをするこ
とも珍しい話ではない。
ランタンは特区と下街を隔てる南門が近くになると、背嚢を改め
て背負いなおし、重い体に鞭打ってびしりと背筋を伸ばす。地面を
蹴る足取りをしっかりしたものに変えると、それだけで多くの面倒
事は遠ざかっていく。
南門を抜けると、廃墟のような町並みが広がっている。全体的に
くすんだ灰色をしていて、南門から続く下街で最大の大通りですら
舗装がされていない。
だがそこの住人たちは活き活きとしている。
通りの左右には露天が立ち並んでいる。武器防具の類から生活用
品。食料品から酒に始まる嗜好品。靴磨きに武器防具磨き、換金屋
から娼婦まで。
ちょうど夕飯時なので飯屋台が多く出ていて、人族も亜人族もご
った煮になっている。なんだかよくわからない料理や違法密造酒を
売っている屋台を避けて、肉の焼ける匂いに引き寄せられた。
下街でよく見かける大鼠の肉ではない、牛の丸焼きだ。首を落と
して皮を剥ぎ、膝から下を切り落とし内臓を綺麗に洗ってある。尻
から太い鉄串が貫通させてあり、炭火で回し焼かれている。牛の頭
と足は膝から下が切り取られ、そちらは隣の屋台でスープにして売
っている。
この屋台は上街から出張してきているようだ。
5
上街に比べて下街は貧民街といっても間違いはない。
しかし日銭を稼ぎどうにか今日を生きる貧者が多く住む一方で、
メンテナンス
ランタンと同じような探索者も多く住んでいる。そして探索者の多
ポーション
くは高給取りであり、浪費家だ。武器防具の点検整備に始まり、引
き上げ屋や回復薬に代表される各種薬品。命を繋ぐための必要経費
むさぼ
を惜しむ者はない。そして明日終わるかもしれない人生を謳歌する
ために、酒や飯もまた心の赴くままに貪るのだ。
ランタンは探索者にしては珍しく節約家の気があるが、それでも
この肉の焼ける匂いには抗い難かった。背中にある重みもまた、財
布の紐を緩める要因となった。
トカゲ
回し焼かれている牛は、もう随分と痩せてしまっていた。注文が
入る度に店主の蜥蜴人族が迷宮にでも活躍しそうな大振りの包丁で
肉を削いでいるのだ。
ゴクリと喉を鳴らしたランタンに、店主がギザギザの歯を剥いて
笑いかけた。
﹁坊ちゃんどうだい? うまいぞー!﹂
﹁尻の肉、一人分おねがい、持って帰るから包んで﹂
﹁お、通だね。あいよっ!﹂
店主はニヤリと笑ってランタンが望んだ通り、尻の肉を薄く削ぎ
落した。油紙の上にこんもりと盛られている肉はほくほくと湯気が
立っている。店主は器用にそれを包むと、冷めない内にな、とラン
タンにそれを寄越した。金を払い、隣のスープ屋で全く同じ蜥蜴顔
の店主に持参の金属カップにスープを注いでもらった。
歩き食いしてもよかったが、家までそれほど距離があるわけでは
ない。懐にしまった肉の暖かさが今は逆に辛いが、どうせなら一人
で静かに座って食事をしたい気分だった。
アパートメント
路地に入り、奥へ奥へと進んでいくと次第に喧騒が消えていく。
いくつかの迷路のような辻を曲がると、朽ちた集合住宅が現れる。
二階建ての建物で一階部分は完全に廃墟となっていて人の住むこと
が出来る状態ではない。今にも崩れ落ちそうな外階段を上り、四つ
6
立ち並んだ部屋の最も奥の部屋がランタンの棲家だった。
この集合住宅で唯一ランタンの眼鏡に適った部屋である。
金属製の扉がついており、おもちゃ程度の性能しか無いが鍵も備
わっている。窓ガラスは全て割れてしまっていたが窓自体が石壁で
塞がれて、隙間風も雨漏りの心配もいらない。
ウォーハンマー
閉塞感こそあるが、奥まった場所に建っていることもあり静かで、
寝起きするには十分な物件だった。
ランタンは扉の前に立つと、腰にぶらさげた戦鎚に手を伸ばした。
静寂で満たされているはずの室内から、声が聞こえるのだ。
ここはランタンの部屋だ。だが物件を買い取ったわけでも借り上
げているわけでもない。勝手に住み着いているだけだ。数日部屋を
空けているだけで、他人が住み着いたというのは珍しいことではな
い。人が住んでいた部屋は、要は管理されていた部屋なので住むに
あたって都合がいいのだ。
こういった場合の対処法は三つある。
諦めるか、話し合いをするか、暴力によって決着を付けるかだ。
そして最も多くとられる方法は暴力であり、ランタンもそれを行使
することに、好ましい手法であるとは思っていないが、躊躇いはな
い。特に疲れていて、さっさと食事を済ませて眠りにつきたいこん
な日は、話し合いは面倒だった。
ランタンは夕飯を扉から離れた場所に置いて、ひんやりと冷たい
扉に耳をつけた。ぼわぼわと反響して会話を聞き取ることは出来な
いが、複数の声を確認することができる。破裂するような怒声があ
ることから何か揉め事をしているようだった。
室内に居るのはおそらく多くても五人程度だろう。ランタンは擦
過音が鳴らないようにドアノブを捻り、じりじりと扉を押し開けた。
幸運にもチェーンロックはされていない。僅かな隙間から中を伺う
ことは出来ないが、声はよく聞こえる。侵入者は扉が開いたことに
パーティ
リンチ
も気が付かないほど白熱している。
おそらく探索者集団が私刑のような会議をしているのだろう。暴
7
力に酔う声が三つと傷めつけられている声が一つ。議題は探索で失
敗を犯した者の吊るしあげだろうか。単独探索者のランタンには馴
染みのないものだが、あるいはだからこそ感じたのかもしれないが、
どうにも一方的すぎる。
他集団の揉め事に首を突っ込むのは野暮だが、ランタンにはちょ
うどよく大義名分がある。腹は減ったし、眠たいし、自分の部屋で
揉め事を起こされている。
それに室内での振る舞いを聞くに、侵入者の脅威度はそれほど高
くは無さそうだ。
少し脅せば、追い出せるかもしれない。そう考えてランタンは戦
鎚の振りを確かめて、扉を開け放った。
部屋の中は天井に吊るされた光源に照らされて仄明るい。その明
るさはいつものものだが、三日前とは明らかに別の他人の臭いが充
満している。床にはいくつものゴミが散乱していて、見慣れた保存
食の食い散らかしもある。
そしてボロボロに使用されたベッドが目に入った瞬間、ランタン
は急な乱入者に色めき立つ室内に歩を進めた。
私刑を受けてボロ雑巾のようにうつ伏せに倒れて動かぬ者が一人。
それを囲む暴力を執行していたものが二人。土足でベッドの上に胡
座をかき指示を出す者が一人。これがリーダー格だろう。
ボロ雑巾はボロボロ過ぎてよくわからないが、三人の男はその誰
もが暴力的な容姿をしている。探索者のようでもあり襲撃者のよう
でもある。もしかしたら引き上げ屋が言っていた襲撃者崩れ本人た
ちかもしれない。
なるほど、崩れ、と呼ばれるだけのことはある。なにもかもが落
第点だ。
﹁なんだテメェ!﹂
ランタンの姿を上から下まで眺めたリーダー格の目には侮りがあ
った。彼らに比べてランタンはあまりに小さく細い身体つきをして
いる。探索帰りの薄汚れた姿や疲れている青白い顔。手に持った戦
8
鎚が重たそうで、戦士ごっこをする子供のように見えたのだろう。
﹁ここの家主さ。さっさと出て行くのなら、見逃してやる﹂
さも面倒くさそうに言い放ったランタンに、男たちは顔を歪めた。
苛立ちと怒りとニヤつきの混ざったなんとも言えない顔だ。
﹁どおりで綺麗な部屋だと思ったぜ。そいつは悪かったなぁ、汚し
ちまって﹂
判っていたことだがこれはダメだな、とランタンは思った。どう
にも言葉で威圧をするのは苦手だ。
きっさき
ランタンはぐるりと男たちを見渡した。二人の男は腰から剣を抜
いてランタンに鋒を向けて構えている。一目で鈍らと判る曇った輝
きを恥ずかしげもなく晒しているのにも拘らず、リーダー格の男は
未だベッドに腰を下ろしたままで余裕を見せていた。
﹁だがまぁ安心しな。これからは綺麗に使ってやるよ﹂
下品な笑い声にランタンの視線は冷たくなった。軽蔑侮蔑と言う
よりは呆れの視線だ。うんざりがそのまま溜息となって吐き出され
ると、男たちはいきり立った。
﹁こ︱︱﹂
のやろう馬鹿にしてんのか、などと続くであろう罵声は言葉には
ならなかった。
ランタンは一足飛びに剣の隙間をすり抜けると、反応できない二
人を無視してリーダー格に向かって戦鎚を振るった。
ランタンの使う戦鎚は片側が丸頭になり、もう片方が鶴嘴になっ
ている。ランタンは鶴嘴で男の頬を貫くと、そのまま力任せにベッ
ドから引きずり落とした。びきりと傷口が広がって男は呻いた。
﹁出て行けと言ったんだが、理解できないか?﹂
ランタンは汚れたベッドを悲しそうに見つめて、床で転げる男の
顔を踏みつけ動きを止めると、ぐりと捻って頬から鶴嘴を引き抜い
た。男はさらに絶叫とも呼べる悲鳴を上げたが、頬から空気が抜け
ていまいち緊迫感に欠ける音色になった。
﹁うるさいよ﹂
9
ランタンは男を二人の方に蹴り飛ばして、これ以上ベッドが汚さ
けしか
れないように身体を入れ替えた。泥や食べ滓の汚れは洗えば落ちる
が、血汚れを落とすのはなかなか難しい。
ランタンは三人に戦鎚を向けると、威圧感を込めて睨む。
﹁これ以上やるなら、殺す﹂ 彼我の差は明白だろう。だが彼らは愚かにも向かってきた。
﹁ひめぇえら、ひゃれっ!﹂
床で呻いていたリーダー格が頬から空気の漏れる声で二人を嗾け
たのだ。情けない姿を見せても手下二人を動かす力があるのは、予
想外だった。
剣を、一人は腰溜めに構えて、もう一人は上段に振りあげて突っ
込んでくる。
﹁おおおぉぉぉ!﹂
威勢だけは一人前だ。気合の声がビリビリと鼓膜を震わせた。
ランタンは腹に向かって突き出される鋒を戦鎚で軽く払った。そ
れだけで剣の先は飴細工のように欠け、そのまま突き出した鎚頭に、
慣性に従って男が突っ込んでくる。
﹁ぐえぇ﹂
ランタンは鳩尾にめり込んだ鎚頭を軽く捻り込み服を絡めとると、
一度手前に引いて男の体勢を崩し、そして放り投げるように剣を振
り下ろす男の方へと押し出した。
室内で嘔吐でもされたらたまらない、と随分と手加減をしたがそ
れでも男は二人は仲良く入口の近くまで吹き飛んだ。からんと剣が
床に転がる音だけが虚しく響いている。
﹁⋮⋮なんなんだよ、てめぇは。くそ、くそったれが!﹂
傷口を埋めるように、いつの間にか口元に布切れを巻きつけたリ
ーダー格がまともな言葉で怨嗟の声を上げた。痛みと怒りと、出血
によって顔を真っ赤に染め上げている。ランタンに指し向けるナイ
フが鋭い輝きを放つ。業物とまではいかないだろうが、悪くない品
質である。奪えれば多少の補償にはなりそうだ。
10
男は怒っているものの不用意に斬り掛かってはこなかった。
腕自体のリーチは男のほうが断然に長いが、武器を含めればラン
タンと同じ程度だろう。それに男はただ情けなく地面に転がってい
ただけではなく、ランタンが先の戦闘であっさりと鋒を払ったのを
見ていたのだ。ランタンの間合いのギリギリまで近づくと、それ以
上は寄って来なかった。
男の、さらに後ろでは吹き飛ばした男たちが起き上がろうとして
いる。鳩尾を潰した男はともかくもう一人のダメージはあまりない。
戦意が失われていなければ、すぐに向かってくるだろう。
ランタンが戦鎚の握りを確かめた。狙いはナイフを握る手だ。
︱︱砕く。
ランタンが一歩踏み出そうとほんの僅か前傾した瞬間、男が叫ん
だ。
﹁捕らえろ!﹂
声とほとんど同時に今まで倒れていたボロ雑巾が恐るべき速度で
ランタンの身体に手を伸ばす。腕がランタンの片足に絡みついた。
まるで蛇のように服の上から細い指先が噛み付いてくる。
ランタンの意識がボロ雑巾に向けられる。その一瞬を見逃さずリ
ーダー格がランタンの喉を目掛けてナイフを走らせた。必殺の一撃
と言っていい速さと重さが備わっている。
喉を裂くその瞬間、男の口元に牙を剥くような笑みが浮び、そし
て凍りついた。
ごう、と鈍い音を立てて旋風が吹いた。ランタンが戦鎚を振るっ
たのだ。鎚頭が足元から、僅かな腰の回転と腕の力だけで、男が知
覚する間もなく振りあげられていた。
風切り音が聞こえた時には、男はナイフを振るった腕の肘から先
を失っていた。戦鎚が関節を砕き、勢いそのままに引きちぎったの
だ。手首をぶらさげたナイフが冗談のように天井に突き刺さった。
﹁︱︱足止めをしろォォォォ!﹂
リーダー格は悲鳴混じりの叫び声を上げて、腕から溢れる赤い痛
11
みも無いように反転して一目散に走りだした。先に吹き飛ばしてい
た男たちもどうにか身を起こしていて、すでに玄関の扉を開け放っ
て逃走を開始している。なんとも潔いよい逃げ足だ。最初からこの
潔さを見せていれば腕を失うこともなかっただろう。
見逃しても良かった。ボロ雑巾さえ居なければ。
命令に忠実に従い、ランタンの前に立ちはだかったボロ雑巾はさ
ながら亡者のようだ。ゆらりとしたその雰囲気だけがそう思わせた
のではない。ボロ雑巾の容姿は異形じみている。
身長はランタンとほとんど変わらないが、酷い猫背なので背筋を
チュニック
伸ばせば頭一つ分は高くなりそうだ。浮浪児よりもよっぽど汚れた
貫頭衣とまるで蓑虫のようにボサボサと伸びたほとんど白い髪に身
体が覆われているが、それでも酷く痩せているのが判る。白髪の隙
リビングデッド
間から覗く、落ち窪んだ瞳がぎょろりと大きい。恐怖に震えている。
その瞳さえなければ動く死体と区別がつかない容貌だ。
恐怖がある。今にも失神しそうなほどの悲壮な恐怖がボロ雑巾の
顔には充満していた。だというのにも関わらすボロ雑巾は槍のよう
に細い手足を広げて、ランタンの行く手を遮っている。
行動と意志が釣り合っていない。足止めをする、というのはリー
ダー格の意志でボロ雑巾の意志ではない。だがリーダー格の命令に
従っているのはボロ雑巾の意思の筈だ。筈なのだが、どうも変だ。
恐怖によって縛り付けられているのかもしれないが、今ランタンに
立ち向かう恐怖も並大抵のものではない。
殺すのは簡単だが、ランタンは殺したくなかった。
経緯は知らないが探索者仲間から私刑を受け、更に捨て駒にされ、
真意はどうであれそれを実行し、あっけなく殺される。それはあん
まりにも切なすぎる。ボロ雑巾がランタンを殺そうと向かってくる
ならともかく、ボロ雑巾はランタンの行く手をただ遮っているだけ
だ。殺意は一欠片も感じない。
適当に打ち倒すにも、少し小突いただけで砕けて死んでしまいそ
うな痩躯がランタンに戦鎚を振るのを躊躇わせた。
12
だが躊躇は一瞬。ランタンはボロ雑巾の足元に狙いを定めて、身
体を沈めた。砂像のように、打てば全てが砕ける訳ではない。関節
から狙いを外せば、慈悲にもなる。そう自分を納得させた。
放った戦鎚は気合の乗った一撃ではないが、それでも手を抜いた
わけではない。ランタンの意識はすでに玄関の外へ逃げた男たちに
向かっている。
戦鎚は空を砕いた。
﹁は﹂
不測の事態と鎚頭の重みに身体が泳ぎそうになる。しかしランタ
ブーツ
ンは即座に意識を切り替えた。
戦闘靴の底が摩擦で焦げる。ランタンは足を踏ん張ると、切り裂
くような鋭さで戦鎚を切り返した。風切り音が後からついてくるほ
どの速度で、鶴嘴がボロ雑巾の顔を狙った。
しかし鶴嘴が刈り取ったのは、白髪の一筋だけだった。顎を砕く
ように繰り出した追撃は皮膚に掠りもしなかった。一筋の銀線でし
かない戦鎚の軌跡が、驚くべきことにこのボロ雑巾には見えている
のだ。
これほどの実力があるのに、何故あの男たちに従っているのか。
戦鎚の軌跡に遅れて巻き起こった衝撃がボロ雑巾の髪を翻らせた。
頭蓋骨に皮を貼り付けただけの痩せた顔だ。肉のない顔だが、どこ
かしら柔らかさがある。
ランタンは憂鬱そうに眉根に皺を寄せて、追撃の手を緩めた。ラ
ンタンの顔から表情が消えた。
ボロ雑巾は、女だ。
スカルフェイス
その事実だけがランタンを冷静にさせたのではない。
スレイブチョーカー
オーダー リング
骸骨顔を乗せた細首を装う首輪に見覚えがあった。銀に脈動する
その首輪は奴隷首輪と呼ばれる魔道式の装備品だ。命令指輪と対に
なる装備品で、指輪の持ち主の命令を首輪を着けた者に強制服従さ
せる効果を持っている。
あまり複雑な命令や、強烈な忌避のある命令は上手く服従させる
13
ことが出来ないこともあるが、ボロ雑巾に下されたような単純な命
令はその品質によっては死ぬまで失われないだろう。
首輪を壊す事が出来れば、命令は止まる。だがボロ雑巾の反応速
度をかい潜って、首輪だけは破壊するのはなかなか難しい。ならば
方法は一つだ。
ランタンの足元が、爆ぜる。
文字通りの爆発にランタンの身体が瞬間的に加速して押し出され
た。床から壁へ、壁から玄関へ弾け飛んだランタンの超加速に、魔
道的な命令が追いつかない。それでも素晴らしい反応速度でボロ雑
巾がランタンを追って反転した時には、ランタンの身体はすでに二
階から飛び降りていた。
血の道標のその先に逃げる男達の小さな背中が見えて、ランタン
はニヤリと唇を歪めた。ひとっ飛びの距離だ。ランタンは着地と同
時に、地面を抉る爆発加速を駆使して、男たちの背を抜き去りその
眼前に立ちふさがった。
﹁ひぃっ﹂
ランタンは抜き去る瞬間に、手下の一人の後頭部を砕いた。顔の
穴のすべてから血液を溢れさせ人形のように崩れ落ちた男と、命令
を遂行しようと激走してくる女の姿を見比べてランタンは呟いた。
﹁はずれか﹂
女の呪縛を解くには、首輪か指輪のどちらかをどうにかすればい
い。指輪の使用者が命令の中止を告げるか、指輪を外すか、装着者
が死ねばそれで終いだ。
装着者は命令を下したリーダー格だろう。そう判っていて手下を
殺したのは、ランタンの意識に怒りが混ざったからだ。とても残酷
な気分だった。
﹁ぁ、わ、悪かった。あいつは止める、だから見逃してくれ!!﹂
失血と恐怖で顔を青くした男たちが、地に頭を擦り付け這いつく
ばって必死な姿で命乞いを始めた。だが見下ろすランタンはそれを
間髪入れず一蹴した。
14
﹁いやだ﹂
﹁金も出すっ! だから!!﹂
﹁殺したあと、全てを貰う。宿泊費だ、安いものさ﹂
男たちは項垂れた顔を上げて、淡々と言葉を返すランタンを睨み
つけた。行き場のない絶望や怒りや恐怖、様々なものが綯い交ぜと
なった視線。それがランタンの瞳と絡まった瞬間に、驚愕に変わっ
た。
焦茶色だったランタンの瞳に、炎が灯っている。口元も裂けるよ
うな三日月が浮かび、瞳がケラケラと笑った。
﹁は、は、はは﹂
男たちの表情が今度は驚愕から、諦めに変わった。口元から漏れ
る笑い声は乾いている。
茶から橙に、橙から赤に揺らめく光芒の瞳には、静かに燃える石
炭のような幽明さがある。その揺らめきに見つめられた者は、誰も
生きてはいない。
パンプキンヘッド
燃える瞳のランタンを見て誰かが呼んだ。
﹁カボチャ頭⋮⋮﹂
呟くような、祈るような。それが男の最後の言葉となった。
肺腑を揺らす破裂音が炸裂すると、死体が二つ増えた。爆炎を纏
う戦鎚が男たちの頭を砕いて消し炭に変えたのだ。雪のような灰が
辺りを漂って、黒く炭化した首からじくじくと血が染み出す死体が
礼拝するような姿勢で突っ伏した。地面に染みた血が失われた顔の
影のように広がっている。
この世界の人生の終着点としては、痛みがないだけましな部類だ。
ランタンは熱を持った戦鎚を一度素振りして冷ますと腰に戻した。
幕引きの奥に唯一の生き残りがいる。一瞬で沸騰した大気に立ち
上る陽炎の向こう側で、膝から崩れるように女の転ぶ姿が目に入っ
た。呪縛から逃れたというのにもかかわらず、その姿は糸が切れた
人形そのものだ。
﹁あーあ、痛そう﹂
15
すっかりと焦茶色に戻った瞳でランタンは他人ごとのように呟い
た。
16
002
002
下街でよくある揉め事を、よくある形で解決したランタンは、そ
の後の始末を淡々とこなした。
男たちの死体から剥ぎ取った戦利品の多くは小遣いにもならない。
その中でも唯一価値のあるものはリーダー格の男が指に装着してい
た命令指輪と女の首に装備されている奴隷首輪の一式だろう。魔道
式の道具の価値はピンキリだが、この絶大な効果を持つ装飾品の価
アップグレード
値は高い。上手く売りさばくことができれば荒らされた部屋の補償
をし、戦鎚を除くランタンの装備品を全て上位更新しても尚、釣り
がくるだろう。
ランタンは男から剥ぎ取った指輪を唯一フィットする親指に装備
し、女の首輪を外した。女の首に巻き付く奴隷首輪は指輪を近づけ
ると共振するように短く震えて、はらりと緩む。外してしまえばな
んという事はない銀糸の首輪である。
ランタンはそれを含めた金目の物を背嚢にしまい込み、死体と女
を見下ろしてしばらく逡巡した。死体はこのまま捨て置いておけば
大鼠のような害獣が処理し、明日の朝には骨も残らないだろう。
問題は女である。
保護をしても良いが、積極的にそれをする理由はない。襤褸一枚
たの
を着た見窄らしい姿には、恩を売ったとしても見返りを期待する事
は出来ない。女の身体能力は素晴らしいものだったが、仲間を嘱む
つもりのない単独探索者のランタンには関係のないものだ。
しかし見捨てる事が出来ないのがランタンだった。
一年前、迷宮の底から這い出し、この下街で過ごした探索者とし
ての生活はランタンの身体に随分と馴染んだ。だがそれ以前の世界
17
で染み付いた甘やかな一般常識を全て失ったわけではなかった。こ
の世界でランタンの持つ常識は美点ではなく欠点とも言えたが、そ
れを忘れようと努めた事はなかった。
ランタンはぐったりとした女を肩に担ぎあげた。
女は痩せている割には軽くはなかった。皮膚のすぐ下にある骨が
硬く軋む。骨格がランタンよりもよっぽどしっかりとしているのだ。
部屋に戻ろうと一歩一歩足を進めると、女の白い髪がランタンに
絡みついてくる。乾燥して瑞々しさの一欠片もない髪だ。ランタン
が鬱陶しげにそれを払うと蜘蛛の糸のようにはらはらと引き千切れ
た。
女の鳩尾に肩がめり込む度に蛙の潰れるような呻き声が聞こえた
がそれを無視し、集合住宅の外階段を上がる。そして扉の傍らにあ
る夕飯を見た瞬間、ランタンの腹が訴えるように鳴いた。女の体が
一気に重さを増したように感じた。
ランタンは女を扉の横に座らせて、夕飯を手にとった。肉は冷た
ハンティングナイフ
く、黒パンはさらに固く、スープは浮いた油が固まっている。ラン
タンは諦めのため息を一つ吐き出して、腰から細身の狩猟刀を抜き
取った。
ランタンは刃でスープを撹拌すると、濡れた刃を拭うように黒パ
ンを横に切り裂いた。そして肉を黒パンに挟み込むと、冷えた肉と
ドアストッパー
パンはあっという間にローストビーフサンドイッチへと変貌を遂げ
た。
玄関扉を開け放つとランタンは煽り止めのように扉を背に座り込
む。室内は窓がないので臭いが篭っている。他人の臭いと戦闘の残
り香は飯のおかずには成り得なかった。
﹁いただきます﹂
ランタンはぽそりと呟いてサンドイッチに食らいついた。
肉は上街のものだけあってとても美味い。かすかに香る香辛料と
塩の加減がうまく肉に馴染んでいる。だが黒パンは乾燥してざらつ
いて、噛み締める度に口内の水分が失われる。ランタンはサンドイ
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ッチを飲み込む前にスープに口に含んだ。すると口の中でホロホロ
とパンが崩れていく。上品な食べ方ではないが、正しい食べ方であ
る。
つい昼まで迷宮内での保存性と携帯性のみを突き詰めた素っ気な
い食事をしていたランタンは、さらに空腹も相まってあっという間
に食事を終えた。冷めているとはいえ探索食とは比べるべくもない
ご馳走であった。
食事を終えると、次にはすぐ睡魔が襲ってくる。探索者というだ
けあってランタンは迷宮内で何日か不眠不休で動く事も出来る。だ
がそれは緊急時に無理を押してという前提の話であるし、一歩外に
出てしまうとその緊張感を保つ事は難しい。
ランタンは大きな欠伸を吐き出すと、眠気を置き去りにするよう
に勢い良く立ち上がった。
女の首根っこを掴んで部屋の中に引きずり込み、扉を締める。そ
して鍵を掛け、ドアノブに女の両手首を革紐できつく縛り付けた。
ランタンは女を助けたが、女はランタンに助けられたと思うとは
限らない。そのまま逃げ出す程度ならば構わないのだが、助けられ
た事はそれとして寝首を掻こうとする可能性もある。
ポテンシャル
たとえ疲労にまみれて眠っていてもランタンは近づくものを感知
でき、また襲われても対処をする自信があったが、女の身体能力は
ゲスト
未知数だ。負けるつもりはないが、助けた者を殺すのも馬鹿らしい。
枷を嵌められた囚人のような姿は窮屈だろうが、女は客ではなく、
今はまだ侵入者の生き残りでしかない。死体となった男たちとの違
いは、ランタンが女を哀れに思ったという、ただそれだけの気紛れ
である。
女が目覚めるまで女の処置を決める事は出来ない、と言うよりは
ランタンはもう考える事が面倒くさくなるほど眠気に支配されてい
た。部屋を、ただ瞼が落ちているだけなのか、睥睨して床に散らば
ったゴミ屑を蹴り飛ばすように足で部屋の隅に纏めた。
ベッドまで辿り着くとそのまま身投げするように身体を横たえた
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かったが、ベッド上の惨状はゴミ溜めといって差し支えなかった。
ランタンはまず、たった三日の間に加齢臭の染み付いた枕を苛立ち
の赴くままに壁に投げつけて、ベッドマットからシーツを剥ぎとっ
た。食べ滓や乾いた泥土がざらりと床に散らばるが、ランタンから
はもう溜め息さえも出ない。
背嚢を下ろし武器をベッド脇に立てかけると、ランタンは靴だけ
を脱いで剥き出しのマットレスに、ようやく身体を放り投げた。迷
マント
宮内の硬い地面でとった仮眠に比べれば天上の寝心地だ。自分の匂
いを確かめるようにぐるりと外套に包まると、ランタンは一瞬にし
て穏やかな寝息を立て始めた。
だが、どうやら今日はランタンにとっての厄日であったらしい。
寝息だけが響く部屋に、無粋な金属音が響いたのだ。
ドアノブを壊さんばかりにガチャガチャと揺する音が、ランタン
の意識を急速に覚醒させた。女が目覚めたのだ。
ランタンは外套に包まったまま、しばらくその無遠慮な音をじっ
と聞いていた。どうやら女は革紐の拘束から逃れられないようであ
る。あの恐ろしい反射速度ほどの腕力は持ち合わせていないようだ。
それならばこのまま放っておいてもよいかもしれない。五月蝿い事
には五月蝿いが、そこに危険が伴わなければただの雑音だ、と無視
を決め込んで再び眠りに就く事もできる。
ランタンは薄く開いた瞼を静かに下ろした。
女はしばらく拘束を外そうと努力を続けていたが、次第に金属音
が弱々しくなっていった。革紐が手首に食い込んで痛いのか、音に
小さな呻き声が混ざり始めた。
﹁だ、れかぁ⋮⋮たすけ、⋮⋮ぁ﹂
掠れた声だった。夕飯の黒パンのような、水気のないパサパサと
した女の髪のような。ぶちぶちと千切れた声が、女の喉から零れ落
たどたど
ちるように発せられていた。
女は何度も何度も、辿々しい助けを求めている。時折咳き込み、
引きつった荒い呼吸。声が震え、次第に言葉に湿り気が混ざり始め
20
た。
女は外套に包まり微動だにしないランタンを、ベッドに置かれた
荷物か何かと勘違いしているのか、その存在に気がついていないよ
うだった。女が発する助けは、ランタンに向けられたものではない。
迷子の泣き声のように、腹から広がる不安が無指向に発露したもの
だ。
ランタンは断熱性の高い外套に包まれながらも、鳩尾の辺りから
身体が冷たく、嫌な気持ちが浮かび上がるのを感じた。過去に見覚
えのある身に沁みた孤独の不安が、再びランタンを溺れさせようと
している。
目を瞑れば瞼の裏に過去の孤独が鮮明に映る。それは悪夢そのも
のだ。
ランタンはもう眠るのを諦めた。金属音はただの雑音だが、女の
泣き声は精神攻撃そのものだ。耳の奥底で反響し、脳を掻き回す。
こんな状況で眠る事は出来ない。
このままでは女と同じように、泣きだして動き出せなくなってし
まう。ランタンはそうならないように、もぞりと身体を起こしてま
だ少し眠たげな眼をそのままに女に視線を向けた。
女は一度ビクリと体を震わせて、身体を氷のように硬くした。光
源の落ちた室内は真っ暗で、その表情を窺い知る事は出来ない。
ランタンは小さく喉を鳴らして苦笑した。
暗闇の中に浮かぶランタンのシルエットに、どんな想像を膨らま
せているのだろうか。ランタンは屈強な人相体格の多い探索者の中
に在って珍しく大人しい容姿をしている。その姿を侮られる事は多
くとも、恐れられる事は皆無だ。
ランプ
カタカタと小さくドアノブが震える音が鳴り出して、ランタンは
ベッドから降りると天井にぶら下がった魔道光源を指で弾いた。衝
撃を受けた光源が柔らかいオレンジ色の光を室内に広げた。
﹁ひゃっ﹂
不意の光に瞳を焼かれた女が小さく鳴いた。女は腕で顔を隠すよ
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うに身体を縮こませている。ランタンがそちらへ歩いてゆくと、甲
羅の中から辺りをうかがう亀のようにそっと顔をもたげた。
恐れと不安に引き攣っていた顔が、ランタンの顔を見た途端にほ
のかに和らいだ。赤く充血した瞳がまっすぐランタンを捉えている。
さてどうしたものか、とランタンは一瞬思案し、口を開いた。
﹁おはよう﹂
女は零れ落ちそうな瞳を大きくパチリと瞬かせた。瞬く音が聞こ
えそうなほどの沈黙が広がり始めた瞬間、目を覚ましてまず言うべ
き言葉はこれだろうと、ランタンは再び、おはよう、とゆっくり繰
り返した。
繰り返したランタンの首が仄かに赤い。もしかしたらランタンな
りの精一杯のユーモアであったのかもしれない。
﹁⋮⋮お、おはよう、ござい、ます﹂
じっと見つめるランタンに根負けしたのか、それともランタンの
ユーモアに気がついたのか女はついに目覚めの挨拶を口に出した。
ランタンは満足気に小さく頷き、腰を屈めて女と視線を合わせた。
﹁さて、いくつか聞きたい事があるんだけど、まず最初に一つ﹂
ランタンはぴんと人差し指を立てた。
﹁嘘偽りなく答えるのならば、それは外してあげる﹂
立てた指で手首を拘束する革紐を指すと、女は縋るような瞳で必
死に頷いた。
﹁うそ、は⋮⋮言わない、わ。ほ、んとよ⋮⋮﹂
絞り出した声が痛々しくひび割れている。ランタンは指さした指
を今度は唇に当てて黙るように促した。女はすぐに察して口を噤ん
だ。
﹁ま、簡単な質問さ。その拘束を外したら、きみは暴れる? 頷く
か、首を振るだけでいいよ﹂
女は噛み締めるように唇を真一文字に結んだまま、首を横に振っ
た。ばさりと白い髪が女の顔を覆い隠した。女はその髪に目隠しさ
れ、ランタンを伺う事が出来ないのを嫌がったのか何度も頭を動か
22
した。
﹁動かないで﹂
女はびたりと動きを止めた。その様は外した筈の奴隷首輪が未だ
に効力を発揮しているかのようだった。ランタンにはこの女が嘘を
つけるとは思えなかった。
ランタンは手を伸ばし、リボンでも解くかのように女の手首を革
紐から解放した。女は自由になった手でそっと自分の首に触れて、
確かめるように何度も撫でた。手首の赤く擦り切れた痕がちらりと
覗いた。
﹁あ、あ、ありが、とう、ございま、す﹂
だが女はその傷を気に掛けず、ランタンに頭を下げて感謝を述べ
た。一体何に対しての感謝なのか、ランタンは胸がざわつくのを感
じた。ランタンは差し出された女の後頭部を耐えるように見つめて
いたが、すぐに目を逸らした。
﹁別に、そういうのは要らない﹂
差し出された感謝を押し返したランタンは、女の眼の前に手を差
し伸べる。
﹁立ち上がれる?﹂
女は目の前にあるランタンの手に困惑しているようだった。女は
ランタンの手には掴まらず、生まれたての動物のように何度も立ち
上がろうと蠢いたが、結局立ち上がる事は出来ずにいる。そして再
びランタンの手を見つめて、震えながら手を伸ばした。まるで自ら
の汚れを恐れるように。
﹁誰が、ここまで運んできたと思ってるの?﹂
﹁あっ︱︱﹂
我慢しきれなかったランタンは強引に女の手を掴むと、胸に収め
るようにあっという間に女を引き寄せた。この調子では肩を貸して
部屋の奥に連れて行くだけで夜が明けてしまう。そう考えたランタ
ンは有無を言わせず女を胸に抱きかかえた。
骨ばった体が腕に食い込み、毛虫のように女を包む髪がランタン
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の口を塞ぎ、鼻を擽る。女の体からは、様々な臭いがする。蝋のよ
うな甘い臭いから、獣のような獣臭まで。この世界の人間はランタ
ンの常識からするとほぼ全員不潔だったが、この女も大概だ。
ランタンは放り出したい気持ちを堪えて、女をそっと床に下ろし
た。
女は一人で立てはしているものの、ランタンの支えが外れると風
に吹かれるカカシのようにふらついている。ランタンは部屋の隅に
ある一人掛けのソファを引きずってきて、押さえつけるように女を
座らせた。女は慌てたように極浅く腰掛る尻の位置をずらして、自
らの接地部分を出来るだけ減らそうと努力している。
ランタンが呆れた視線でその姿を見ていると、それに気がついた
女がそっと目を伏せた。艶のない髪や張りのない肌、貧相な痩躯は
女を老いているように見せるが、振る舞いや恥じらう姿はどこか幼
さを感じさせる。
﹁ちゃんと座って、変に気を使わなくていいから﹂
﹁⋮⋮はい﹂
ランタンは女が必死に背筋を伸ばして背もたれを使わないように
しながら深く腰掛けるのを確認すると、探索に使った水筒にまだ水
が入っているのを確認してそれを女に手渡した。
﹁水飲んでいい⋮⋮いや、飲め。ゆっくりね﹂
女は両手で掴んだ水筒に口をつけて、それを傾ける。ランタンが
言った通りにゆっくりと水を口に含み、染み込ませるようにそれを
飲み込む。余程に喉が渇いていたのだろう、初めはチラチラとラン
タンを気にしていたが、すぐに乳を吸う赤子のように必死になって
いる。
ランタンはベッドに腰を下ろした。
﹁んっ﹂
女が空気を飲み込んで小さく呻いた。水筒の中の水を全て飲み干
したのだ。女は悲しそうに何度か水筒を振ってみせて、そして怯え
た瞳をランタンに向けた。水を全て飲み干した事を咎められるとで
24
も思っているのだろう。
﹁水は足りた? 足らないのなら絞りだすけど﹂
女に渡した水筒の底には人工水精結晶が嵌めこまれている。天井
にぶら下がる魔道光源と同じく特定の衝撃を加える事により、その
力を発揮する。光源は光を、水精結晶は水を放つ。水筒に嵌めこま
れているのは安物水精結晶で、結晶は暗く濁っていてその力をほと
んど失っていたが、あと一度程度の水を吐き出す事は出来るだろう。
﹁大丈夫、です﹂
女が遠慮をしているのが判ったが、ランタンは何も言わなかった。
ひび割れていた女の声に瑞々しさが戻ってきている。枯れていた
時は金属を削り取るような不快な音だったのだが、今では鈴を転が
すような響きがあった。可憐、と形容して違和感のない声である。
﹁あ、あのっ﹂
﹁なに?﹂
女が視線をランタンに向けた。思いがけない力強い視線が目に痛
い。
﹁助けてくれて、ありがとう、ございます﹂
﹁⋮⋮いらないって、言ったよね、そういうのは。別に、助けたつ
もりはないし﹂
ランタンはそっぽを向こうとしたが、絡みついた視線がそれを許
さない。女の目は真剣だ。
﹁わたし、覚えてるわ。あなたを足止めした時の事。⋮⋮すっごく
怖かった。あいつの腕が吹っ飛んだ時、わたしもおんなじみたいに
なるんだって、そう思って、⋮⋮イヤだイヤだって思っても、あの、
⋮⋮あの首輪がわたしを﹂
女の爪が神経質そうに水筒を掻いている。言葉遣いも、下手な敬
語から、地が滲み出してきていた。怒りか、苛立ちか、あるいは恐
れか、女の精神が揺れている。
﹁でもあなたは、わたしを殺さなかった。殺されてもおかしくない
のに⋮⋮!﹂
25
チーム
﹁⋮⋮殺されてもおかしくないって事は、きみは男たちの仲間の一
員でいいんだね﹂
奴隷首輪により無理矢理従わされてはいたものの、女の意識はき
ちんと自分を侵入者の一員だと認識している。
﹁うん、わたしは⋮⋮﹂
女は泣きそうに眉を歪めて、言葉を詰まらせた。ランタンは女が
言葉を探しだす前に、口を開いた。見定めるように、すっと目が細
まる。
﹁︱︱おまえらは襲撃者か?﹂
﹁ちがっ、う、ます﹂
女は間髪入れずに否定をした。
みうち
襲撃者は探索者にとっては魔物よりも優先順位の高い殺害対象で
ある。ランタンは単独探索者であったがそれでも、同業者に手を掛
けたものを生かしておく訳にはいかない。
﹁わたしは最近、あいつらの仲間、になったの。それより前の事は
ポーター
知らないけど⋮⋮、あいつらは探索者よ﹂
﹁きみは?﹂
﹁⋮⋮わたしは探索者見習い⋮⋮の運び屋、見習い、です﹂
運び屋とは、探索者の代わりに荷物を運ぶ者である。迷宮探索に
は様々な物資が必要であり、その物資は命綱と言い換える事も出来
るほど重要な品々だ。しかしその物資を増やせばそれはそのまま探
索での枷となり、探索に付き物の戦闘行為では命取りとなる。また
持ち込み物資が増えれば増えるほど、持ち帰る事の出来る戦利品が
目減りしていく。その問題の解決として雇われるのが運び屋だ。
運び屋の多くは女が言ったような探索者見習いである事が多い。
探索者見習いは運び屋をする事によって、探索者との繋がりを結び、
迷宮内でのいろはを先達から盗み出し、経験を積んでいくものだ。
だが運び屋は荷を運ぶ代わりに最小限の自衛手段しか持ち合わせて
いない。運び屋を失った探索は撤退するしかなくなり、戦利品を得
たとしてもその多くを放棄せざるをえない。運び屋は雑用であると
26
同時に護衛対象でもある。
﹁運び屋見習いね⋮⋮﹂
﹁うん、あいつらが、お前は使えもしないから。運び屋の、見習い
から始めろって。わたし、探索者になりたくて、どうしても⋮⋮﹂
﹁⋮⋮見習いってのは何をやるの? 運び屋とはまた別?﹂
探索者見習いは運び屋と同義である。だが、ランタンもそれほど
知識のある方ではないが、運び屋見習いというのは初めて耳にする
言葉であった。
﹁わたしたちは、街の外にある小さい迷宮を探して、潜っていたん、
です。わたしのためだって、浅い階層を行ったり来たりでしたけど。
あいつらの荷物を持って、一緒に探索をしました﹂
﹁それは普通の運び屋だね﹂
﹁⋮⋮他にも、ご飯の準備をしたり、あの、弱い魔物でしたけど、
引き付けたり誘き寄せたりも、しました﹂
﹁⋮⋮それは、普通の運び屋の仕事ではないね﹂
﹁はい、わたしを鍛えて一人前にするためだって、言ってました﹂
緊急事態でもないのにも拘らず戦闘を行う運び屋や、それをけし
かける探索者の話は、酒場で吹けば物笑いの種だ。命綱に自ら切れ
目を入れる馬鹿は居ない。
そもそも魔物の注意を自らに引き寄せるのは、前衛職の、一人前
の探索者の仕事だ。
いや、とランタンは小さく頭を振った。
難易度の低い迷宮の浅い階層と女の反応速度を鑑みれば、その荒
業も可能だろう。だが荷物を背負ったままでその仕事を行うとなれ
ば、並の事ではない。まっとうな探索者に雇われていれば、相応の
給金を得ることが出来ただろうが、女はおそらく、見習い、という
言葉に騙されて安く扱き使われていたのだろう。
﹁お金は持ってる?﹂
ランタンが聞くと、女はいよいよ顔を暗くして、予想通りに首を
振った。
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﹁見習いだから、もらえるのは食事だけで、お金はないです。わた
しは、お荷物でした﹂
女の顔にあるのは悔しさと、納得だった。男たちとの探索生活で、
ここ
女は否定され続けたのだろう。女の自己評価はあまりにも低い。自
らの力に気がついていないのだ。
﹁僕にはきみを裁く権利がある。始末は自分でつける。それが下街
の仕来りだ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
女がまるで死刑囚のように覚悟を決めた目つきでランタンを見つ
めたので、ランタンは肩の力を抜くように首を鳴らして、場を掻き
混ぜるように手を振った。
﹁落とし前はもうつけたよ、あの男たちの命でね。きみは好きにし
たらいい﹂
ランタンの瞳を見つめる女の目がはっと見開いて、潤んだ。ぽろ
ぽろと玉のような雫が頬を伝う。
最初から罰するつもりのなかったランタンは、予想以上の女の反
応にあたふたする内心を抑えこむのに必死だった。泣いている女の
対処法など知らない。ランタンはじっと静かに涙が収まるのを待つ
ばかりだった。
女は鼻をグズグズ鳴らして、何度も手の甲で顔を拭った。まだ湿
り気の残る瞳をランタンに向けて、口を開こうとして躊躇った。女
は口を、あ、の発音系に半開いた所で慌てて口を抑えた。
ランタンが要らないと切り捨てた、ありがとう、を口の中で何度
も転がしているようだった。女はただそっと眼差しを伏せた。思い
がけず長い睫毛が、ランタンを扇いだ。
﹁それで、きみはこれからどうするの?﹂
﹁わたしは︱︱探索者になりたい﹂
やつ
だろうね、と口の中で小さく呟く。女の答えはランタンの予想し
ていたものだ。
女が運び屋見習いという怪しげなものに身を窶したのは探索者に
28
成りたいが故のことだろう。
国の管理する迷宮区や稀に野外に生まれる迷宮は、魔精結晶を生
ハイ
む宝箱のようなものだ。低難易度の迷宮を専門にして日銭を稼ぐ探
レベル
索者もいるが、高難易度の迷宮の奥深くに潜り、これを攻略する高
位探索者ともなれば莫大な財産だけでなく地位も栄誉も手に入れる
ことができる。
探索者になること自体は簡単だ。探索者ギルドに赴き幾ばくかの
ひな
金を払えば探索者として登録され、特区の迷宮に挑戦する許可を得
ることが出来る。また在野にはギルド登録せず管理外の鄙迷宮を専
門にする自称探索者というのもいる。自らを探索者と名乗り、迷宮
に挑むものは全て探索者となる。
だがそうやって毎年蜘蛛の子のように生まれる探索者が飽和し、
迷宮が枯渇することはない。運び屋の多くは探索者見習いであるが、
探索者初心者が全て運び屋をやるというわけではない。己の力を過
信し、迷宮を侮り、あるいはただ不幸にも、迷宮から帰還できない
探索者は数知れない。それは初心者に限った話ではない。どんな熟
練探索者であっても未帰還の危険は常に付き纏うものだ。
だがそれでも命を対価に一攫千金を狙い、探索者になる者は多い。
女も、理由はなんであれ、またその大勢の一人に過ぎない。
﹁探索者ね、危険な仕事だよ﹂
ランタンは真剣な声で女に忠告をした。探索経験が一年未満のラ
ンタンであったが、それでも迷宮に潜る度に大小様々な怪我をし、
死を覚悟したことも少なくはない。同業者との繋がりもそれほど多
くないにもかかわらず、顔見知りから未帰還者も出ている。
﹁それでも、わたしは探索者になりたいです﹂
女の瞳に宿る意志は固い。
ランタンの忠告は、純粋な善意から出た言葉だった。だがランタ
ンは、女の瞳を見て少しホッとしていた。ランタンがどんな甘言を
弄しようと、女の意思を変えることは出来ないだろう。
もし女が捨て猫のように無力ならば、ランタンはある程度までの
29
援助をするつもりだったが、女には明確な目標があり見た目からは
想像もできない反応速度もある。体が万全の状態ならば、きっとそ
の身体能力はさらに冴え渡るだろう。それは体が資本の探索者にと
っては大きな武器となる。多少短慮ではありそうだったが、今回の
件を教訓にすればまた騙されることもないだろう。
﹁⋮⋮お金も、なにもないのに?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
女は襤褸を一枚纏っているだけだ。いくら性能のいい体を持って
いたとしても、それだけでは探索者をすることは出来ない。先立つ
モノがなければギルド登録すら叶わないし、女の容貌では運び屋と
して自分を売りだしても、それを買う探索者は居ないだろう。
ランタンは床に下ろした背嚢を引き寄せると、侵入者たちから回
収した品々を取り出した。屑鉄の剣や革の外套や手袋。価値の無い
装飾品と小金の詰まった巾着。
﹁さすがにあの首輪と指輪は渡せないけど、これらはきみが持って
いけばいい。そこのお金があればギルドに登録できるだろうし、登
録すればギルドでそっちの道具を買い取って貰えばいい﹂
探索者としての装備を一式揃えることは出来ないだろうが、襤褸
をまともな服装に変えることはできる。下街で暮らす分には、多く
の浮浪児が住み着いていることからも判るが、最低の生活ならばほ
とんど金はかからない。住みやすさはさておいて雨風を凌げる廃屋
はそこら中に存在しているし、食料は大鼠を捕らえて食べてもいい
し、教会が時折開く配食会に並んでもいい。
﹁ひっ﹂
冗談のようなタイミングで天井から、ランタンが吹き飛ばした男
の腕がボトリと落ちて、女が小さく悲鳴を上げた。天井に突き刺さ
っていた刃がようやく抜けたのだ。落ちた衝撃で握っていた手から
高品質のナイフが零れる。ランタンはベッドから降りてそれを拾う
と、刃を摘んで女に柄を差し出した。
﹁これもあげる。これを売れば鼠の肉を食わなくてもすみそうだね﹂
30
女は引きつった顔でランタンの顔とナイフを見比べ、恐る恐るそ
れを受け取った。ランタンには握りが太く感じたが、女の手には少
し細いようだ。だが筋張った指には重たげである。
﹁⋮⋮あなたは探索者なの?﹂
女はナイフをお守りのように胸に握りしめ、そっとした声でラン
タンに尋ねた。
﹁まぁそうだね。それが何?﹂
嫌な予感がする、とランタンは思った。
﹁このナイフも、お金もいらない﹂
ランタンは難しい顔をして黙っている。
女は気にせずに言葉を続けた。
﹁わたしを運び屋として雇って、ううん。わたしを⋮⋮わたしを使
ってください!﹂
﹁いやだ﹂
間髪入れないランタンの拒否に、女はぽかんと顔を歪めた。
31
003
003
﹁なんでよ!﹂
女は今までのしおらしさをどこにやったのか、カッと頬を赤く染
めて火山のように声を張り上げた。握り締めたナイフの柄に罅が入
りそうなほど手に力が入っている。
水筒の水だけでこれほど回復をするとは、探索者向きであるとも
言えた。
﹁あ、いや、⋮⋮なんでですか﹂
﹁もう敬語はいらないから、普通に話せばいいよ﹂
はっと我に返り慌てて畏まる女に、ナイフが危なそうだな、とラ
ンタンは鞘を渡した。木製の簡素な鞘はナイフの格とは吊り合わな
い。後から別で用意したものなのだろう。
女は気を落ち着けるようにそっとナイフを鞘にしまった。
ランタンは女の膝の上に置かれた水筒を掴むと、水精結晶に衝撃
を与えてその中を水で満たした。声を張り上げたせいで女の喉はま
た枯れかけている。ランタンは女に飲むように促した。だが女はそ
れを受け取っただけで、口を付けはしなかった。じっとランタンの
瞳を見つめて、ランタンが口を開くのを待っている
﹁僕は単独探索者だから⋮⋮運び屋は必要ない。理由はそれだけ﹂
ランタンが簡潔に理由を告げると、女はキッとランタンを睨んだ。
﹁あなたはわたしのことを馬鹿にしているの!? いくら単独だか
らって、たった一人で迷宮入りする馬鹿はいないことぐらい、わた
しだって知ってるわ!﹂
ランタンは嘘を言ってはいないが、女の言うこともまた真実であ
った。
32
本来、探索者は集団を組み迷宮を探索するものだ。何が起こるか
判らない迷宮での様々な事態に柔軟に対処をするためには個人の技
量を高めるよりもまず、数を揃えることが重要だった。各々の得意
な役割を以って、他者の不足を補う。これが探索者集団の基本であ
る。もっとも集団の人数が増えれば、その分だけ頭割りに収入は目
減りしていくので多くても集団が十人を超えることは稀であるが。
そんな探索者の中にあって単独と冠する者の人数は少ないが存在
する。だが真に孤独を伴って迷宮に探索する者を、ランタンは自分
の他に出会ったことがなかった。
集団での探索とは違い、単独で迷宮を探索する為にはまず己を高
めることが重要であった。急な魔物の襲撃や迷宮道の天然罠に対処
するためには荷物は枷でしかない。だが探索道具を持たずに、着の
身着のままで迷宮に入るのはただの自殺でしかない。
故に単独探索者であっても、運び屋は連れて行くのが常のことだ
った。ならば何故単独と言うのかと言えば、運び屋は探索者ではな
いので、これを伴っても探索者集団ではないという言葉遊びのよう
なものだった。
ランタンはどうしたものかと肩を竦めた。勢いで馬鹿と言われた
が、真実なので気にはならない。たった一人で迷宮に潜るランタン
は、馬鹿以外の何者でもない。
だが馬鹿なりに言葉を弄しなければ女は納得しないだろう。
﹁まぁ仮に、僕が運び屋を連れ立つとしよう﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁君を選ぶ利点は何がある?﹂
﹁わたし、お給料はいらないし、料理は結構得意よ! がんばりま
す!﹂
ランタンは上から下まで女の姿を見回した。
痩躯に襤褸。靴だけは比較的まともだが、探索を行うには頼りな
い。女を迷宮探索に連れて行くには、時間と少なからずの金銭投資
が必要だ。頭の天辺から爪先までの装備品一式を揃えて、探索に耐
33
えうる体を作るために何日か食事を用意してやらなければならない
だろう。
ランタンは探索から帰ってきたばかりで休養が必要なので時間的
なことは問題はないが、女をまともにするために必要な金銭を使う
のならば、その金でギルドで自らを運び屋として売り出している探
索者見習いを買ったほうが手っ取り早い。
それに迷宮で手の込んだ料理を作る余裕はないし、ランタンが持
ち込む食料の殆どは探索者ギルドが販売している未調理で食べるこ
とができる探索食である。
ひな
﹁⋮⋮外の迷宮に何度かもぐったことがあるわ。あなたには迷惑を
かけないから!﹂
女は言葉を絞り出すように言う。
都市が管理する区域以外に生まれる迷宮のことを鄙迷宮と言い、
その攻略難易度は管理迷宮よりも比較的低いことがほとんどだ。ラ
ンタンは侵入者の男たちの装備を、金目の物を回収する際に改めた
が、その装備から推測するに女が潜ったことのある鄙迷宮は、引き
うろつ
上げ屋を使用しなくても第一階層に降りられるような緩やかな入り
口を持つ、ごく低難易度の迷宮だろうと予想された。
それを迷宮ではないとは言わないが、その迷宮の浅い階を彷徨い
ガイド
たぐらいで迷宮に潜ったと吹聴するのは詐欺のようなものだ。
﹁僕に案内役をさせるつもりなの?﹂
金銭によって探索者を雇い、迷宮を案内させるというのは珍しい
話ではない。
未熟な探索者集団が熟練の探索者を雇い迷宮内での実践指導を受
ける新人養成に始まり、金持ちの道楽として探索者を護衛として雇
い、日常にはない危険や探索者と魔物との戦闘を間近で楽しむとい
う迷宮探訪まで、案内役の需要は様々にある。
女はさしずめ新人養成といったところだろう。だが複数の探索者
が金を出しあって、ようやく一人の熟練探索者を雇う新人養成は無
一文の女には縁遠いものだ。
34
﹁そんなっ、つもりじゃない!﹂
女は駄々を捏ねるように頭を振って、必死にランタンの言葉を否
定した。
﹁でも事実、君は素人みたいなものだよ。装備も、金もない。下街
にわんさかいる孤児たちと変わらない﹂
﹁でも⋮⋮!﹂
﹁探索者になりたい?﹂ ランタンが言葉を続けると、女は頷く。どういう理由かは知らな
いが、女は探索者になることに固執している。
﹁探索者になりたいんなら、そこの巾着を握りしめてギルドに行け
ばいい﹂
そうすればすぐにギルドが、あなたは今日から探索者です、と探
索者証を発行してくれる。それはまさに最も判りやすい探索者の証
だ。
﹁わたしが、なりたいのは⋮⋮﹂
名前だけの探索者ではないのだろう。ランタンは言葉が少し突き
放し過ぎだった、と唇を舐めた。そういえばこんなに長く人と会話
をするのは久しぶりだ。ランタンは少し喉に痛みを感じ始めていた。
﹁探索者証を買ってそれで終わりにするかどうかはきみ次第だよ。
⋮⋮きみは、今はちょっと痩せすぎだけど、体格だって悪くないし、
身体能力だって、多分優れてる。探索者としての適性がどうかは知
らないけど、きちんと肉をつけて、それなりに身奇麗にすれば運び
屋として雇ってもらうこともできるはずだ﹂
ランタンは女の手から水筒をすり取ると、一口水を呷った。女の
視線が顕になったランタンの白い喉を追った。
スカウト
﹁そこで、さっききみが言ったみたいに頑張れば、そのままその集
団に勧誘される事もあるだろうし。そうではなくとも、まともな経
験を積むことができる。そうすれば少なくとも素人からは抜け出せ
る﹂
ランタンは女が受け取らなかった収奪品を指さした。
35
﹁なんなら少しぐらいならそれに加えて、何日か分の生活費を与え
てもいい。僕の運び屋に、こだわる必要はないさ﹂
ランタンは女の身体能力のその片鱗を垣間見ただけだが、その力
を十全に発揮することさえ出来れば多くの探索者集団からの勧誘が
あるだろう。運び屋としてではなく探索者としての勧誘が、だ。
女は静かにランタンの説明を聞いていた。先程までの怒りや戸惑
いを全て腹の中に収めています、といったように顔を澄ましていた
が、眉や瞳に抑えきれない感情が見え隠れしていた。だがそれは腹
に収まった感情ではない。また別の感情が浮かび上がっているのだ。
女の眉間には浅い皺が寄り、眉尻がわずかに下がっている。そし
て女は柔らかく口を開いた。
﹁あなたはとても優しいわ。わたしのこと、すごく気をつかってく
れてる﹂
ランタンは黙っていた。女が言うほど自分を優しいなどとは思っ
ていなかったが、肯定も否定も口に出すほどのことではない。
﹁ねぇ、わたし、探索者になれると思う? ギルドで証をもらうん
じゃなくて、探索者としてやっていけるって思う?﹂
﹁僕は他人に評価を下せるほど、偉くはないよ﹂
﹁⋮⋮なんとなくでいいの、教えて﹂
女はランタンが探索者に向いていない、と告げたとしても探索者
を目指すだろう。今までのやり取りでランタンはそう感じていた。
﹁きみのこと、何も知らない﹂
それでもランタンは重たげに口を開いた。真摯な女の瞳が痛い。
﹁だけど⋮⋮ぼくの前に立ちはだかった時、あの時の動きは素晴ら
しかった。ぼくの戦鎚を避けられる奴は、そんなにいない。⋮⋮同
業者の中にもね﹂
探索者になれるかどうかの判断を、女の問にどれほど真剣さがあ
ったとしても、ランタンは軽々しく明言はできなかった。世の中に
は探索者の仕事を迷宮遊山などと揶揄する者もいるが、探索者の仕
事は命がけだ。女に太鼓判を押すまではいかなくとも前向きな評価
36
を下すというだけで、ランタンには断崖の先端で女の背を押すよう
な気分になる。
ランタンは女の能力を買っていたが、これがランタンに言える最
大限の言葉だった。
﹁やっぱり、わたし、あなたの運び屋になりたい。⋮⋮わたしそん
な風に、すばらしいなんて、初めて言ってもらったわ﹂
ソロ
女はランタンの言葉を包み込むように胸の前でそっと指を絡めた。
﹁⋮⋮堂々巡りだね。ぼくは単独だ。⋮⋮運び屋を連れて行かない
馬鹿な単独探索者だよ﹂
ランタンが唇に薄い冷笑を浮かべた。童顔なので酷薄さも迫力も
ないが、女は小さく震えた。女の色の薄い唇が一文字に横に引き伸
ばされ、唾を飲み込みこんだ喉が音を立てる。女が旋毛を押される
ように、頭を下げた。
﹁ごめんなさい。⋮⋮そんな人を聞いたことがなかったから、その
⋮⋮でも今はあなたが嘘を言っていないって、信じられるわ﹂
髪がざらりと滝のように流れて、床に折り積もった。そのまま言
葉を探しているのか女はしばらく頭を下げたままでいた。頭のその
奥に頚椎が皮膚を押し上げて浮きだして見えるのをランタンはぼん
やりと、女が頭をもたげるまで眺めていた。
﹁ねぇ﹂
口を開いた女の白い頬が響くように震えた。
﹁ねぇ、どうして? どうして運び屋をやとわないの?﹂
﹁それは﹂
﹁なにか一人にこだわる理由があるの?﹂
﹁それは︱︱⋮⋮﹂
ランタンは言葉を詰まらせた。
ランタンは一年程前にこの世界に這い出てから、常に一人であっ
た。
ここに来る前にいた生まれ育った国やその国がある世界から、ラ
ンタンは自分の意志とは関係なく落とし穴に落ちるように、急にこ
37
の世界の迷宮に放り出されたのだ。気がつけばそこは攻略された迷
宮の中で、今まさに崩落している最中だったのを覚えている。
この世界に落とされたことは不幸だったが、ランタンは幸運にも
生きて迷宮から這い出し今日まで命を繋いできた。
一人で生きてきた。
世界も常識も、何もかもがランタンの知らないことばかりで、頼
る事のできる人間は一人もいなかった。ランタンは金も知識も行動
力も、何も持ち合わせていなかった。
一時的に奴隷身分に置かれたこともある。清潔で、大人しく、常
識知らずで、悪くはない顔をしていたランタンは気がついたらそん
な状況に陥っていた。恐怖のあまり従順だったのが功を奏したのか
それほど手酷い扱いは受けなかった。それどころか白痴のように物
を知らなかったランタンはこの世界の常識を教えられた。
危険な世界で天涯孤独。それがランタンの認識した当時の状況だ
った。
奴隷を抜け出し探索者をやっているのは、力を得たからだ。努力
して身につけたものではない。この世界に放り出されたその時、頭
の中から名前を失い、その隙間に寄生虫のように入り込んできたそ
の力は、暴力的で探索者向きだった。
探索者ギルドに登録をすると、徒党を組んだり、運び屋としての
契約を求めたりする同じ探索者見習いたちを横目に、ランタンはそ
の日から一人で迷宮に潜り続けた。
﹁なんでだ⋮⋮?﹂
ランタンは小さく呟いた。両手で頭を抱えて、ガリガリと爪を立
て、髪の毛をグシャリと掻き回した。
一人で居ることは当たり前の事だったので、今まで考えてみたこ
ともなかった。この世界の常識や秩序は野蛮だが、そこに生きる人
々が信用のならない人間の屑ばかりではないことをランタンはもう
知っている。思い返せば探索者集団に勧誘されたこともあるし、女
のように運び屋をやると言った者もいた。その時も考えもせず誘い
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を断っていた。
頼る人間を知らなかった最初とは違う。 奪われるだけで力の無かった奴隷時代とは違う。
何が真実かを知らなかったあの頃とは違う。
ランタンは顔から表情を消して、床に落ちる自分の影と顔を突き
合わせていた。口の中で言葉にならない言葉を小さく呟き、頬を引
き攣らせ、苦笑し、まるで自分自身と相談事をしているようだった。
﹁わからない﹂
ランタンはグシャグシャになった髪をかきあげるのと同時に顔を
上げた。その瞳の中には苛立ちと困惑があった。
﹁一人で居ることに理由なんかない﹂
拗ねるように唇をつき出すと、童顔のランタンがさらに幼く見え
る。
女はそんなランタンを見てパチリと目を瞬かせるとニコニコと表
情を崩した。それを見てランタンはさらに嫌な顔つきを作ってみせ
た。
﹁ね、それならいいじゃない。一人の理由がないのなら、二人だっ
ていいはずだわ﹂
﹁だけど⋮⋮﹂
女の言葉にランタンは口を開いたが、その先が続かなかった。ラ
ンタンはわざわざ頭を悩ませて否定の理由を探している自分に気が
ついたのだ。
﹁逆に聞くけど、ぼくに拘る理由って何があるんだ。探索をするな
ら、もっと大勢が所属してるところに行ったほうが安全だよ﹂
ランタンはどうにか言葉を吐き出して、その薄ら寒さに自分でも
嫌気が差していた。謝る機会を逸して意固地になる子供のような気
分になった。いや、まさに今のランタンは歳相応の少年だった。
﹁わたしを恩知らずにさせないで⋮⋮わたし、がんばるから!﹂
女の真っ直ぐでひたむきな言葉もさらに、ランタンを切り裂くの
だ。ランタンはもう、女の瞳をまともに見られなくなっていた。視
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線が枷を嵌められたように重たく沈む。
皮を剥いだ木材のように白く硬い、女の首が目に入った。わずか
に膨らむ胸が、鼓動を刻み上下に動いている。膝の上に固く握り締
めた指が、色を失って震えていた。
女はランタンの言葉を待っている。緊張ではなく、恐怖を握りし
めながら。
その固くこわばる拳に見覚えがあった。行くあてがなくて座り込
んだ下街の薄暗い路地で、軟禁された奴隷小屋の狭苦しい一室で、
初めて潜った迷宮の安全地帯で、ランタンも同じように拳を固めた。
孤独に耐えるように、恐怖に叫ばないように。
﹁ああ、くそ﹂
ランタンは拳を固めて、二度三度、自分の額を打ち付けた。
急なランタンの行動に女が慌てて椅子から立ち上がり、縺れ転が
るようしてランタンの手をとって、包み込んだ。温かい手だ。
女がすぐ目の前にある。
白く線を引くような傷跡が見えた。紫に染まる痣や、赤く腫れる
痕が露出した皮膚に浮き上がっている。相対したり、引きずったり、
抱きかかえたり。ランタンは何度も女の傍らにあったが、それらの
傷を今はじめてそれを見たような気がした。ずっと見えていたのに、
気にもしていなかった。
探索で付いた過去の傷、私刑でついた新しい傷。
女が探索者崩れの輩と行動を共にしていた理由は。奴隷首輪を嵌
められた経緯は。家族は。これまでの日常は。
女の境遇は、この世界では、ありふれているとは言わないが珍し
い話ではない。笑い話にするか、同情するか。でもそれで終わりだ。
困っている誰彼に手を差し伸べていたら体が引き裂かれてしまう。
そんなことは聖人か、狂人か、馬鹿のすることだ。
ランタンは女の姿に自分を見た。
ランタンだって求めていた筈だ。自分を救ってくれる何かを、強
く願っていた。誰も彼もが恐ろしく感じて、元にいた世界に帰りた
40
いと何度泣いたか。自分を通り過ぎた人間を、何度心の中で呪い罵
倒したか。
ランタンは女を眩しく感じた。
ランタンは恐ろしくて、助けを言葉に出すことはできなかった。
それでいて誰かに助けられたかった。女は不器用だが、ランタンに
手を伸ばしている。求めるものをランタンはよく知っている。
元の世界で人に優しくするのは当たり前のことだった。ランタン
にとってそれは当たり前の事のはずだったのだ。出来る事、出来無
い事は様々あったがそれでも、一度拾った捨て猫を無理だったから
と何の感情もなく放り出すような真似は恥じるべきものだと知って
いた、筈だ。
出来ないことの多かった過去とは違い、今のランタンには力があ
った。
女を暴力の渦から引き上げた力が。魔道の拘束をとき解いた力が。
助けを求めた女の手を取る、その力が。
﹁ねぇ、急にどうしたの? だいじょうぶ?﹂
女の声にランタンは、前を向いた。
﹁ああ、大丈夫。⋮⋮ちょっと死にたくなっただけだ﹂
﹁えっ! ね、ほんとにだいじょうぶなの!?﹂
女の声がランタンの顔面にぶつかって弾けた。まるで頬を張られ
たようだ。気持ちがピリッと引き締まる。
女の顔が、睫毛が絡まりそうなほど近い。ランタンは女を押しの
けて、大きく一つ深呼吸をした。
﹁⋮⋮大丈夫だよ。きみと迷宮に潜らないといけないしね﹂
ランタンが頬を緩めながらそう言うと、女は惚けた。一切の表情
が消えた顔は赤子のように無垢だ。その無垢さは一瞬で喜色に染ま
った。花が咲くような笑みを浮かべて、そして押しのけたランタン
の腕をかい潜り、ランタンの頭をその胸にかき抱いた。迷宮に潜っ
た時が楽しみになるような、素晴らしい動きにランタンは反応でき
なかった。
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﹁ほんと?﹂
﹁本当だよ﹂
﹁うそじゃない?﹂
﹁うそじゃないよ﹂
﹁なんで急に?﹂
﹁なんとなくね﹂
﹁わたしがんばるから!!﹂
﹁がんばってね﹂
このままだと女はランタンを持ち上げてぐるぐると振り回し踊り
出しそうだったので、ランタンは体を捻って蛇のようにするりと女
の腕から抜けだした。
手品のように腕から消えたランタンに女が目を丸くする。
﹁⋮⋮! すごい!﹂
声を上げた女に、ランタンは照れるように笑った。
興奮した女は、新品の靴を買ってもらった子供のように、今すぐ
にでもランタンの腕を引いて迷宮特区へと飛び出しそうな勢いだっ
ペット
た。だがランタンは袖を掴む女の手を、羽虫でも払うかのように軽
く叩いて、どさりとベッドに腰を下ろした。
女はきょとんとして、首を傾げてみせた。
﹁その格好で、何処行くつもり?﹂
ランタンが言うと、女は自分の姿を見下ろした。まるで愛玩動物
の毛並みを整えるように自分の髪を手櫛でガシガシと掻き回し、部
屋中の掃除をした雑巾を仕立てたような一張羅の皺を伸ばした。
﹁どう⋮⋮かな?﹂
リビングデッド
女ははにかんでランタンに問いかけた。
﹁動く死体って感じ﹂
﹁ひどい!﹂
詰め寄ろうとした女をランタンは追い払い、椅子に座るように示
した。
動く死体は見た目だけの話ではない。
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女に限った話ではないが、この国では庶民はほとんど風呂にはい
スパ
るという習慣がない。七日に一度、濡らした手拭いで体を拭くか、
よっぽど酷ければ水浴びをするかと言う程度だ。上街には公衆浴場
も存在したが、それは高級な娯楽施設で一般的なものではなかった。
女の鼻は馬鹿になっていて自分では気づいていないだろうが、控
えめに言っても濡れた犬以下の臭いがした。だが動く死体と言われ
て既に傷ついている女に、更に追い打ちを掛ける必要はないので黙
っていた。
ランタンは大きく欠伸をした。
﹁まずは身奇麗にしないといけないけど、まだ店は何処も開いてな
い﹂
腰のベルトにぶら下げた時計を外して文字盤を女に向けた。月が
沈み始めて、地平が薄ぼんやりするような時間だ。
ランタンの欠伸に釣られたのか、女も同じように欠伸をして目を
擦った。
﹁だからまずはやれることをやろう﹂
﹁うん、わかった﹂
﹁じゃあ︱︱﹂
﹁自己紹介ね!﹂
寝よう。
目をトロンとさせていたランタンは、一瞬で目を覚まし、頬を引
き攣らせた。女の提案にではなく、自己紹介という行いすら思い浮
かばなかった自分の孤独加減にだ。ね、の形で開いた唇の形が頬に
引っ張られて歪な笑みを作った。
一緒に迷宮に潜ろう、などと言ったくせに女の名前すら知ろうと
しなかった。
﹁わたしの名前はリリオン。もう、きみ、なんて呼ばないでね﹂
女︱︱リリオンは胸に手を当てて自分の名前を名乗った。家名を
言わないのはそれをもともと持っていないのか、あるいは何か理由
があるのか判らないが、リリオンのことを、きみ、と呼ぶ度に少し
43
だけ気取っているような恥ずかしさを感じていたランタンには名前
だけで十分だった。
﹁りりおん、リリオン﹂
ランタンが確かめるように何度か名前を口に出すと、リリオンは
名前を呼ばれた犬のように喜んだ。
﹁ぼくはランタン、です。これからよろしく﹂
差し出した手を女が握った。
女の細く痩せた指は力強く、ランタンもまた自らの握り締めたも
のを確かめるように、二人の手は固く結びついた。
44
004
004
自己紹介も終わり、ついに眠気が最高潮に達したランタンが仮眠
を取り、ようやく目覚めるとリリオンの顔が目の前にあった。ラン
タンはリリオンにも眠るように言い聞かせたのだが、どうやら彼女
は眠れずにいたらしい。リリオンも決して疲労していない訳ではな
ヘーゼル
いのだろうが、いろいろなことがあってまだ興奮状態にあるのだろ
う。リリオンの淡褐色の瞳が興奮と不眠によって血走っている。
スケルトン
悲鳴を上げなかった自分を褒めてやりたい。ランタンはリリオン
の骸骨兵じみた容貌をまじまじと眺めながらそう思った。迷宮内だ
ったならば確実に臨戦態勢に入っているところだ。
ランタンは大きな欠伸を吐き出した。体を跳ね起こし、体の筋を
引きちぎるような勢いで伸ばす。
﹁おはよう、リリオン﹂
﹁おはようランタン!﹂
ランタンは平静を装ってリリオンに挨拶をし、リリオンはランタ
ンの内心などには全く気づかず元気良く挨拶を返した。
ランタンがぐるりと部屋を見渡し、ソファの上に転がる水筒を手
にとるとリリオンは声を上げた。
﹁あっ﹂
水筒が軽い。振ってみても水の揺れる音は聞こえない。水精結晶
ねばつ
から絞り出した最後の水は、寝ている間にすべてリリオンが飲み干
してしまったようだ。寝起きの粘着く口が気持ち悪い。
﹁あ、あぅ、ごめんなさい⋮⋮﹂
リリオンは身体を小さくして俯いていた。たかが水の一杯や二杯
で、酷い怯え様である。ランタンは少し背伸びをして、リリオンの
45
頭にあやすように手を置いた。
﹁これぐらいのことで、いちいち謝らなくてもいいよ。⋮⋮探索者
たるもの水精結晶の予備ぐらいはいくつも持ち歩いているしね﹂
ランタンは水筒の底に埋まった灰色の結晶を抜き取ると、背嚢か
ら水精の名にふさわしい透けるような青色の結晶を取り出して、そ
れをはめ込んだ。背嚢に精を失った結晶をしまいこみ、新しい結晶
に衝撃を与えた。結晶は水筒一杯の水を放出し、ほんの僅かに曇っ
た。
ランタンはリリオンに見せ付けるように、水筒から水を呷ってみ
せる。きんと冷えた水が口腔の不快を押し流していく。空の腹に染
み込んで、刺激された腹の虫が小さく鳴いた。
﹁あはっ﹂
その音を聞いてリリオンは小さく笑い声を零したが、またリリオ
ンの腹もランタンよりも大きな音で空腹であることを告げるように
鳴いた。リリオンはすぐに腹を押さえて頬を赤く染めた。
ランタンはリリオンに水筒を押し付けて、時間を確認した。ラン
タンは思ったより眠り続けていたらしい。朝食をとるにはだいぶ遅
い時間帯だった。下街の朝市を覗いてみても、良心的な商品は殆ど
なくなっているだろう。
もともと上街まで足を伸ばして、ギルドでもろもろの換金も済ま
せてしまおうと思っていたのでちょうどいい。だがどうしても時間
がかかる。ランタンはちらりとリリオンを盗み見た。上街から帰っ
てきたら餓死しているかもしれない。
﹁リリオンこれ、まぁ美味くないけど﹂
ランタンは背嚢から迷宮食であるビスケットを取り出して、リリ
オンに渡した。味はともかくとして栄養価は高く、腹持ちがいい一
品だ。水がなければパサついて喉を塞いでしまう罠のような一面も
あるが、探索者には馴染みの深い食べ物である。
﹁食べていいの? ありがとう!﹂
﹁僕は上街まで行ってお金作ってくるから、それで我慢してね﹂
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ビスケットを早速齧り、口の中の水分を一気に持っていかれて目
を白黒させていたリリオンは、ランタンの言葉にもさらに驚いたよ
うに咳き込んだ。急いで水を飲んで口の中を空にしたリリオンは、
疑問いっぱいに首を傾け、口を開いた。
﹁わたしも行く﹂
﹁だめ﹂
﹁行きたい!﹂
﹁だめです﹂
駄々っ子のように奥歯を噛んで呻き声漏らすリリオンの恨めしそ
うな視線を軽く受け流して、ランタンは背嚢を背負いマントを羽織
った。そして腰に戦鎚をぶら下げれば、もう後は玄関を出るだけで
ある。
﹁そんな格好で、女の子が、外を出歩くものじゃあないよ﹂
ランタンはぴっと指を差した。
ぼさぼさの頭も、汚れた顔も、汚れた服も。一歩外に出れば似た
ような格好の人間は掃いて捨てるほどいたが、ランタンの常識から
すれば褒められたものではない。裾の短い服から太股も大胆に剥き
出しとなった足も簡単に見せびらかすようなものではない。
﹁ちゃんと留守番してれば、ご飯も、服も買ってくるから﹂
ランタンがそう言うと、リリオンは嬉しそうな悲しそうな顔を作
って納得してみせた。おみやげは嬉しいのだろうが、自由に出歩き
もしたいのだろう。リリオンはつい昨日まで一切の自由を奪われて
いたのだから解らない話でもない。
﹁帰ってきて食事を済ませたら、いろんな装備を揃えるからまた上
街に行くよ。その時はリリオンも一緒にね﹂
﹁わかった。はやく帰ってきてね!﹂
﹁すぐ帰ってくるよ﹂
ようやくちゃんと納得したリリオンに、部屋の隅に寄せていたゴ
スラム
ミを捨てるように頼んで部屋を出た。
下街のような貧民街に所定のゴミ捨て場などなく、街自体が大き
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なゴミ処理施設と言えた。家の外へ適当にゴミを放り投げておけば、
それに価値を見い出した住人たちが何処かへ持ち去っていき、その
価値すらないものは風雨に任せて消え去るのを待つのみだった。
現にランタンが殺害した男たちの死体は何処にも見当たらなかっ
た。わずかに黒ずむ血痕だけが、そこに何があったのかを示してい
る。地面に伸びる引きずった跡を追っていけば大鼠の巣にたどり着
くことだろうが、そんなものに用があるのは悪徳肉屋か食い詰めた
探索者ぐらいのものだ。
ドーナツ
ランタンはリリオンの顔を思い出し、気持ち早足で上街を目指し
た。
街は、その中央に迷宮特区を封じるような形で円環状に広がって
フルプレートアーマー
いる。そして東西に上街と下街を絶ち分ける門塔が屹立している。
全身板金鎧に身を包んだ衛兵が常に門に詰めていて、下街から上街
に行く者に目を光らせている。ランタンはやましい事がなくとも、
ブーツ
この門を通り過ぎる瞬間が好きではなかった。
門に差し掛かる少し前から、戦闘靴の踵が硬い音を立てた。剥き
出しの地面から、まるで脱皮でもするかのように石畳へと移り変わ
っている。
だが変わったのはそれだけではない。門を抜けるとまるで下街と
は別世界のような町並みが通りに続いていた。ランタンが潜った門
は東側に位置するもので、商業区へと続いている。大通りではない
ので行き交う人の姿はまばらだが、気持ちのよい空気がある。すぐ
カフェ
レストラン
傍に中流の住宅区があるので雑貨や食料品店が多く、落ち着いた雰
囲気の喫茶店や飲食店からは昼の仕込みをしているのか誘惑の匂い
が立ち上っている。
ランタンはまるで抱きついてくるようなその香りを振り払って、
早足で街の中心へと足を進めた。誰も彼もがランタンの向かう方へ、
足を進めている。それは小さな水の流れがやがて大河へと変わる様
に似ていた。
目抜き通りに出るとその活気にランタンはいつも当てられてしま
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う。ランタンの元いた世界はこの街よりも随分と発展していて、人
も物も目が回るほど溢れていたが、この目抜き通りはそれに比肩す
る。
行き交う人の姿は様々だ。
インパクト
人族はやはり多いが、亜人族達の様々な獣頭人身は視界に入った
時の衝撃が強く、彼らの姿はこの世界では当たり前なのだがランタ
ンは思わず目を引かれてしまう。
野暮ったい探索装備で身を包む同業者や、輝く磨かれた鎧を身に
まとった騎士たち。揃いの制服に身を包む学生や、店の使いで走り
回る丁稚。呼び込みをする店主や、仲良く買い物をする彼ら彼女ら。
人族と亜人族の間に差別がないわけではないが、まるで渾然一体
となった目抜き通りの雰囲気は活気に溢れて明るいものだ。ランタ
ンは喧騒の隙間を縫うように、通りを南下していく。
南には迷宮特区へと通じる南門があり、そちらへ近づくほどに立
ち並ぶ店の内容がどんどんと探索者向けのものへと変化していく。
ある店には様々な武器防具が陳列されており、また他に目を向けれ
ば一種類の武器しか置いていない専門武器店もある。別の店では持
ち込まれた剣の繕いをしている鍛冶職人が車輪状の砥石に刃を当て
て甲高い音を奏でていた。昼間から酒を出してへべれけを生み出し
ている酒場もあれば、独特の薬品臭さを撒き散らす薬屋もある。宿
屋に飲み込まれる、ちょうど迷宮から帰還したのであろう集団とす
れ違うと、ランタンは目的地でもあるこの街でも有数の巨大施設に
たどり着いた。
迷宮から吸い上げられる財を積み上げたような、鋼を思わせる色
合いの威容の施設こそがランタンの所属する探索者ギルドである。
金属製の分厚い扉は立ち入ることを躊躇わせるような雰囲気がある
が、それに手を掛けると信じられないほど軽く滑らかに、音もなく
押し開かれる。
室内は図書館や病院にも似た不思議な静けさがある。人が少ない
のではなく、また誰もが声を潜めているわけでもない。多くの探索
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者がロビーには行き交っており、探索者たちは持ち前の豪放さも相
まって歩くだけでもガサガサドカドカと音を立てている。だがその
音は床や壁に吸い込まれていくのだ。雑音はまるで遠くから微かに
鳴っているように聞こえる。
扉の一枚、床の一角に至るまでが魔道的な処理を施されているの
だ。それは歩く度に金貨の山を踏みつけているようなものだ。ラン
カウンター
タンは静かな足取りで、ロビーを抜けて買取施設へと足を進めた。
バングル
複数ある受付台は運よく一つが開いていた。ランタンは手首に嵌
めた腕輪を外すとそれを受付台に差し出して、声を掛けた。
﹁買取をお願いしたいのだけど﹂
﹁いらっしゃいませ。はい、ではギルド証の確認を致します﹂
牛の亜人であるギルド職員はこめかみからちらりと角の生えた頭
を下げてランタンを迎えた。彼女は比較的獣要素の薄い亜人族だっ
た。角と瞳孔の大きい真っ黒い瞳、少しボテッとした鼻頭ぐらいだ
ろうか。もしかしたら受付台に隠れた足は蹄で尻尾もあるかもしれ
ギルド証
ないが、ランタンにはそれを見ることは出来ない。
彼女はランタンの腕輪を受け取ると、その表面を白手袋でつるり
ほど
と撫でた。すると表面にぼんやりと白い光で何か文字が浮かび上が
る。感情を読み取るのが難しい黒い瞳が、その文字を解くように読
おつしゅ
んでいく。
﹁⋮⋮乙種探索者ランタン様ですね、確認がとれました。ギルド証
をお返しします﹂
ランタンは返された腕輪を装着しなおす。その表面に浮かんだ文
字はすでに溶けるように消えて見ることが出来ない。
﹁買取の品は何になりますか?﹂
﹁結晶と、あとはまぁ探索道具と⋮⋮魔道の品も一対﹂
魔道の、と言うと彼女は一瞬だけぴくりと反応をした。だがそれ
だけで澄ました顔をしたまま手元でペンを動かして、書き上げた書
類を三つ折にしてランタンに差し出した。
﹁一−六の部屋にお通りください。鑑定士を待たせておりますので、
50
そちらの書類をお渡しください﹂
いつもと変わりのないやり取りにランタンは頷いた。
一−六の部屋というのは一番通路の六番目にある部屋だ。買取は
施設の中で最も多くの金銭が取引をされる場所である。持ち込んだ
物の品質や物量によっては莫大な取引を行う場合もあるので、その
取引はすべて個室によって行われる。
﹁双方にとって良い取引であることをお祈りしております﹂
﹁ありがとう﹂
小さく目礼をした彼女にランタンも言葉を返して、一番通路に足
を向けた。まっすぐに伸びた一番通路は左右に六つの計十二の取引
部屋への扉が並んでいる。その一番奥の部屋を目指すランタンの足
取りは重い。
探索者ギルドの取引は明瞭会計の単純な換金であったが、ランタ
ンはそれでも取引があまり好きではなかった。探索者の中にはギル
ド専属の鑑定士が出した見積もりよりも、さらに上乗せさせるよう
な駆け引きを行う者もいるのだが、ランタンはそのような技術を持
ち合わせていない。
覚悟を決めるように一つ鋭く息を吐き、六の番号が振ってある扉
を開くと清潔だがやや狭く圧迫感のある部屋が広がっている。三人
がけのソファが向かい合わせに二つと、その中央に重量感のあるテ
ーブルが備えられており、壁には備え付けの棚が床から天井まで伸
びている。
棚には天秤のような判りやすいものから、今まで一度も使用する
所を見たことがない使用方法もわからない不思議な物まで様々な鑑
定道具が収まっている。
ソファの脇に鑑定士が立ってランタンを待っていた。鑑定士は人
族の男だった。背はランタンと同じ程だが、横幅が三倍以上有り、
しかし太っているわけではなく服の上からでも軋む筋肉の盛り上が
りが見て取れた。頭は毛が一本もなく禿げているが、もみあげから
伸びる髭は口を覆い隠すほど豊かで、それを顎の下で太い一つの三
51
つ編みにしている。右眉から頭頂、そして後頭部まで切り裂く一条
の傷跡が生々しい。元探索者であろう男は、渋いバリトンでランタ
ンを迎えた。
﹁ようこそ、おかけください﹂
ランタンはその言葉に従って、背嚢を下ろしソファに腰を下ろし
た。それをきちんと見届けてようやく男もソファに腰を下ろす。洗
練された動作であるとは言いがたいが、それでも一つ一つを丁寧に
こなしている。この謹厳な態度もまた、ランタンを緊張させるのだ。
ランタンは受付より預かった書類を男に差し出した。男は恭しく
それを受け取ると、太い指で開き目を通してゆく。ランタンはその
間に、テーブルの上へ背嚢の中身を並べ始めた。真っ白な光沢のあ
るテーブルクロスはいかにも高級そうなのだが、外に置くべき場所
がないので仕方がない。
侵入者より剥ぎ取った革製の探索道具と侵入者のリーダー格が使
用していたナイフ。どうせ溶かしてしまうので持ち運びやすいよう
に砕いた剣の残骸とそれに似たりよったりの装飾品。これらはほと
んど捨て値だろう。テーブルの隅に重ねてゆく。次に取り出したの
は探索より持ち帰った魔精結晶である。迷宮兎一羽から二枚は採取
できるので二枚綴りに丁寧に並べていく。品質はそれほど高くはな
いが、数があるので壮観だ。そして最後に、ランタンは奴隷首輪と
命令指輪を並べた。
男はすでに書類に目を通し終えていた。
﹁ありがとうございます。それでは鑑定を始めたいと思います﹂
男は後ろの棚からいくつかの道具を下ろすと岩を掘り出したよう
な無骨な手に手袋を嵌めた。受付の女が嵌めていたものと似ている
が、あちらは染み一つ無い白色だったのに対し、男の手袋は白地に
銀の刺繍が施されている。甲側にギルドの紋章と、掌側にはランタ
ンには読み取ることの出来ない複雑な意匠が指先まで一面に刻み込
まれている。
予想通りに探索道具は一度広げてみただけでテーブルに戻され、
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剣や装飾品はまとめて秤にかけられた。道具は中古品としても使い
古されていたし、装飾品は金属片に穴を開けただけの金属であるこ
としか価値の無いものだった。唯一ナイフだけは武器としての価値
を認められたが、大した値段はつかない。
魔精結晶は男が手に取ると小さく音を立てた。硝子が震えるよう
な澄んだ高音である。男の手袋の意匠がほのかに光って、結晶と反
応している。こうして結晶内に秘められた魔精の品質や量を調べて
いるのだ。男は数ばかりある結晶を、しかし面倒臭がることなく一
枚一枚丁寧に調べている。
エンチャント
ポーション
魔精は金属に混ぜあわせれば品質を向上させ、特殊な加工によっ
て道具に魔道的な力を付加し、薬品と煎ずれば魔道薬を生み出す。
他にも様々な用途があるらしいのだがランタンはあまり興味がなか
った。探索者をする分には強力な武具と命をつなぐ魔道薬さえあれ
ば十分だった。
﹁⋮⋮ふむ﹂
男は小さく息を漏らした。
最後に手に取った奴隷首輪は心臓のように脈動している。そして
指輪もまたテーブルの上でのたうつように震えた。もしかしたらラ
ンタンが考えていたよりもずっと品質の高い魔道装飾品であったの
かもしれない。男は首輪から発せられる力を、その指先でなぞるよ
うに読み取っていった。
﹁この品はどちらで﹂
ランタンは男の問に、片眉だけをぴくりと動かした。
ランタンは侵入者の男たちからこれを得たが、その侵入者はこれ
をどのように入手したのだろうか。おそらく正規ルートで購入はし
ていないだろう。ならばランタンと同じように他者から奪ったのか。
あるいはリリオンの持ち物であったのかもしれない。
黙り込んだランタンの様子を勘違いしたのか男は、失礼しました、
と小さく頭を下げた。
﹁素晴らしい品だったので思わず﹂
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顔を上げた男の瞳がぎらりと笑っていた。鑑定士の澄ました顔で
はなく、探索者が酒場で与太話をするような荒々しさと奇妙な愛嬌
が交じり合った顔だ。男は首輪をテーブルの上に置くと、手袋で自
分の頭をつるりと撫で上げた。貴重な手袋を手拭い代わりに使った
男にランタンは思わず目を丸くした。
﹁こちらは余所に持っていったほうが、よろしいでしょう﹂
男はランタンに首輪と指輪の一式を返却した。探索者ギルドでは
なく、他の例えば商業ギルドや魔道ギルドへ持ち込めということだ
ろう。だがこの商品が探索者ギルドでは買い取れないというわけで
はない。
﹁いいんですか? ぼくは別に安くても構わないけど﹂
﹁⋮⋮あまり不用意なことは言わんほうがいいでしょうな﹂
つい思わずランタンが口を滑らせると、男は少しだけ視線を険し
くした。ランタンが口に出したことは本心だったが、先達の心遣い
を無駄にすることはない。男はわざわざ探検者ギルド鑑定士の立場
から外れて、ランタンにそれを伝えたのだ。高品質な魔道具はきち
んと需要のある場所へ持ち込めば、探索者ギルドに売り渡すよりも
更に大きな利を得ることができる。この魔道装飾品は、それだけの
品だったということなのだろう。
ランタンがそれらを背嚢の底にしまいこみ、目線を伏せて感謝を
伝えると男は目元を緩めた。不意に目尻に皺が寄ると男の強面の顔
に老いが滲んだ。それだけで随分とやわらかな雰囲気になった。
だがそれは一瞬のことで、男はすぐさま表情に鑑定士の仮面を嵌
めた。ランタンはソファに沈み込んでいた尻の居住まいを正して、
それと対峙した。
﹁それでは︱︱﹂
男は品を一つ一つ手に取ると、それに値段を付け、その理由を説
明し、ランタンに異議があるかを問うた。ランタンはこれの時間が
プロ
特に好きではなかった。理由を聞いてもそれを理解するだけの知識
を持ちあわせておらず、異議があったとしても本職相手にそれを口
54
にする勇気はなかった。そもそも第一にランタンは探索者ギルドの
仕事を信用しており、それどころか生活費と探索経費さえ賄えれば
あとはカモにされても文句はなかった。
いや、とランタンは男に聞こえないように声もなく呟いた。リリ
オンをまともに仕立てあげるには、今回ばかりはカモにされては困
る。
とは言え男が告げた鑑定結果はランタンを大いに満足させるもの
だった。持ち込んだ結晶の数が物を言ったのだろう、ランタンは男
の告げた買取金額に深く頷き感謝を述べた。
﹁ではすぐにお持ちします。︱︱失礼﹂
男はテーブルクロスの四角を器用に抓み、あっという間にその上
に広げられた品を包み込んだ。男はそれを抱えると一礼して、部屋
の隅にある扉から出て行く。ランタンはその厚い背中が扉の奥へと
消えるのを見送ると、太く溜め息を吐き出した。男が鑑定している
間ずっと座っているだけだったが、全身が固く強張っていた。立ち
おしき
上がって大きく伸びをしたいところだが、ランタンは経験則からそ
れを行わない。男はすぐに戻ってきた。
男はテーブルクロス包みの代わりに、折敷を持っていた。テーブ
ルの中央にそれを置き、男もまたソファに座ると、折敷の中央に座
す真紅の包みを開いた。
﹁ご確認をお願いします﹂
﹁はい﹂
現れた金貨の山をランタンは一つ崩した。
この世界の貨幣は四角形をしている事に初めて見たときは驚いた
ハーフ
クォーター
が、今ではもうすっかり慣れてしまった。最も価値の高い長方形の
大金貨と、それを半分に切った半金貨、さらに半分にした四半金貨。
それがさらに銀、銅と計九種類が流通している。
山になっているのは大金貨だ。一山十枚で、さらに列をなしてい
る。ランタンは一山に十枚の金貨があるのを確認し、あとは端数だ
けを数えた。得体のしれない個人換金屋ならともかく、探索者ギル
55
こすから
サイン
ドが狡辛い誤魔化しをするとは思えない。
﹁大丈夫です﹂
﹁⋮⋮はい、ではこちらに署名を﹂
差し出された書類は最初にランタンが男に渡したものである。言
葉は通じてもランタンは文字を読むことが出来ない。生活する上で
必要ないくつかの単語を形として記憶してはいるが文章となるとさ
っぱりだった。だが数字だけはなぜだかアラビア数字を使用されて
いるので、この書類の内容はどうにか理解できる。要は買取品とそ
の合計金額の確認だ。ランタンは指し示された場所にカタカナで、
ランタン、とペンを走らせた。
﹁はい、ありがとうございます﹂
男はランタンの署名を確認すると、書類を折って胸元へとしまっ
た。
﹁またのお取引をお待ちしております﹂
ランタンは金貨をしまうと男の禿頭に見送られて部屋を後にした。
扉が閉まるとランタンはまるで釈放された囚人のように、自由を
喜ぶように目一杯に体を伸ばして、肺の空気を全て入れ替えた。だ
が気を抜いてばかりではいられない。
腰に固定したポーチは来た時に比べて随分と重くなった。いつも
ならば安全のためにギルド銀行へ金貨を預けてから、建物を後にす
るのだが、午後にはリリオンの装備を買い揃えなければならない。
探索者装備は安くあげようと思えばそれも可能だが、金を失うだけ
ならまだ幸運で、安物買いの命失いになってしまっては元も子もな
い。
とりあえずは昼食と、リリオンの衣服、それとリリオンを洗うた
めの水や手拭いを買って帰らなければならない。ランタンは金貨一
枚を使いやすい銀貨と銅貨に換金して探索者ギルドを後にした。
時計を確認すると、予想していた以上に時間が経過していた。結
晶の量があったので鑑定に時間がかかったのだ。仕方がないことだ
がリリオンはむくれているかもしれない。
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ランタンは、よし、と呟いて大きく体を伸ばすとまずは通りにあ
る雑貨屋に足早に向かった。
その道すがらランタンももう随分と空腹だったので多めに昼飯を
買って帰ろうと誓った。それは決してご機嫌取りのためではない。
出かけにリリオンに言った、すぐ、はもう既に遥か過去のことで
ある。
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005 ☆
005
﹁おそいっ!﹂
ランタンが棲家の前に立ち止まるとリリオンが待ち構えていたの
かのように棲家の玄関を開け広げた。肌を刺すような怒気がその扉
の向こうからランタンに放出されているが、それは一瞬のことだっ
た。両手いっぱいに抱えるように昼飯を持ち帰ったランタンに、リ
リオンはわぁきゃあと嬌声を上げた。ランタンは視線を荷物に遮ら
れてその表情を見ることは出来なかったが、リリオンの表情は忙し
く変化していることだろう。
﹁よいしょっと﹂
部屋の奥まで進んでテーブルの上に荷物を置いてランタンは振り
返った。
﹁ただいま﹂
﹁おかえり!﹂
リリオンは返事をランタンに返したが、その視線の先はランタン
の頭を通り越してテーブル上の食料に向かっている。なんとも現金
なことだが、その気持はランタンにも理解できる。食欲をそそる香
りが、あっという間に部屋中を満たしたのだ。リリオンはランタン
の脇を走り抜けテーブルに齧り付いて、ふんふんと鼻を鳴らした。
リリオンはまだ暖かい柔らかなパンから立ち上る小麦の甘い香り
を嗅いでは頬を緩め、串焼き肉の滴る脂の香りに唾を飲み込み、内
陸部では珍しい魚介を煮込んだスープの潮の香りに待ちきれないと
ばかりにランタンを振り返った。
きらきらきらとしたリリオンの瞳に、ランタンは思わず食事の許
可を出したくなったがまだ我慢をさせなければならない。リリオン
58
の風体は食事をするには汚すぎる。
﹁ほかにもお土産があるよ﹂
チュニック
ムレータ
ランタンはそう言って雑貨屋で購入した貫頭衣を取り出して、広
げてみせた。するとリリオンはまるで揺らめく赤い布に突進する闘
牛のようにランタンに飛びかかった。
止まれ、と口に出す暇もない。ランタンは滑るように半身を引い
てリリオンを避けた。
放っておいたら勢いのまま玄関に激突しそうなので、とっさに手
を伸ばしてリリオンの後ろ襟をぐっと掴んで引き寄せると、彼女の
襤褸はその力に耐え切れず紙のように引き裂かれた。白く肩甲骨の
浮き出た背中が顕になった。
﹁うわ、あぁ、ごめん!﹂
ランタンが目を丸くしてペロンと垂れた襤褸の布を咄嗟に支え、
背を隠した。掌に背骨の棘が刺さる。リリオンは背中に手を伸ばし
破れた襤褸を確認しているようだった。
﹁いいわ、だって新しい服があるもの!﹂
リリオンはニコニコしながらするりとランタンの腕から貫頭衣を
受け取った。リリオンは自分の身体に合わせてみせて、踊るような
足取りでランタンにその姿を見せびらかした。
﹁どうかしら?﹂
﹁⋮⋮とっても似合うよ﹂
背筋をぴんと伸ばしたリリオンはランタンの見立てよりもさらに
背が高かった。大きめに買ったはずの貫頭衣が少し小さく、袖は七
分で、裾は膝頭がちらりと見えている。だが白い生地を胸に当てる
だけで、汚れの中に見えるリリオンの肌の白さがいっそう眩しく見
えた。
﹁ランタンっ! ありがとう、大切にするね﹂
その肌よりも更に眩しくリリオンは笑った。ランタンもその笑み
に当てられも頬を緩めかけたが、次の瞬間に凍りついた。なんとリ
リオンが恥ずかしげもなく襤褸を脱ぎだそうとしたのだ。
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﹁ちょい待てっ!﹂
ランタンが焦って声を掛けなければ、リリオンは裾から、一気に
脱皮するように服をまくり上げていたことだろう。だが当のリリオ
ンは、大きな声を出したランタンに対してきょとんとした視線を向
けた。
﹁なんで?﹂
﹁なんでじゃないよ、急に﹂
リリオンは肌を晒すことに羞恥を覚えていないようだった。ラン
タンはリリオンを見た目よりも子供とは思っていたが、その想像よ
りもさらに幼いのかもしれない。この世界の人間の年齢はどうにも、
見た目から判断し辛い。例えば迷宮に潜り魔精を躰に浴び続ける探
索者は実年齢よりもずっと若々しく強靭な肉体を手に入れていたし、
亜人種にいたっては外貌から年齢を判別する事は、動物の年齢を推
いくつ
し量るほどに困難だった。
﹁ねぇリリオンって何歳?﹂
﹁今年で十一になるわ﹂
今年でと言うことは、今はまだ十歳。ランタンはぐらりと頭が痛
くなるのを感じた。自分よりも五つも下で、頭の位置が二つ分ほど
上にある。ランタンは面白くなさそうな唇の形を作って、いやそう
じゃない、と意識を切り替えた。
年齢を聞いたからといって外見が変わるわけでも、年齢に興奮や
罪悪感を覚えているわけでもないが、ランタンは年齢を聞いてリリ
オンの肌を見て慌てた自分を馬鹿らしく感じた。
﹁ならまぁいいか、いやよくない。リリオン、服を着替えるにはま
ず身体を綺麗にしなきゃダメだ﹂
﹁えー、ごはんが冷めちゃうわ﹂
﹁その格好で食卓に着くことは許さないよ﹂
ランタンは腰に手を当てて、駄々を捏ねるリリオンを睨み上げた。
それでも不満気な顔にランタンは腰から狩猟刀を抜き取ると、外套
でその刃を磨き、鏡のようにとはいかないがリリオンの顔を映しだ
60
した。
リリオンは白刃に映った自分の顔を見て、猫が顔を洗うように手
でゴシゴシと擦った。擦られた皮膚がほんのり赤く染まったが、汚
れは薄く引き伸ばされただけだ。
﹁ほら女の子は、ちゃんとしなきゃね﹂
﹁でもごはん冷めちゃう⋮⋮﹂
﹁ごねるともっと冷たくなるよ﹂
リリオンは色気よりも食い気が優っているようだったが、ランタ
ンは断固としてそれを認めなかった。ランタンも空腹だった。空腹
こそが最高のスパイスだとは思うが、リリオンと対面して食事を摂
る気にはならない。ランタンの常識からすればリリオンは病気にな
りそうなほど不潔で、野生動物の臭いがした。
﹁水も布も用意したから、隣の部屋行くよ﹂
﹁⋮⋮ごはん﹂
ランタンだって温かい食事を食べたい。未練がましい目を昼飯に
向けるリリオンの腕を引いて、ランタンは引きずるように玄関を出
て隣の部屋へと向かった。
その部屋は住むには少し荒れている。扉はやや歪んでいて開くと
悲鳴のような耳障りな擦過音が立ち上り、窓には蜘蛛の巣が張った
ように白く罅割れた硝子が嵌められていて、その罅は窓枠をはみ出
して壁まで侵食していた。天井の隅には大きな穴が開いており、ま
るで隕石でも落ちたかのようにその真下の床までをも貫いている。
穴の縁まで行けば危ないが、今のところ床が崩れる気配はない。
﹁ここはまぁ、浴室だと思って﹂
バスタブ
ランタンは部屋の中央まで進んでリリオンを振り返った。ランタ
ンの立ち止まったすぐ奥に、唐突に浴槽が鎮座している。がらんど
うの部屋に浴槽が横たわっている風景は中々奇妙なものだが、ラン
タンはこれを気に入っていた。
﹁わたしこれに入れないわ﹂
浴槽はランタンですら足を伸ばし切ることが出来ない程度の大き
61
さで、もしリリオンが入るなら膝を抱えて座り込まなければならな
いだろう。
﹁行水するなら十分だよ﹂
ランタンは雑貨屋で購入した最も安い水精結晶を取り出すとそれ
を握り砕いた。すると途端に手の中からバケツをひっくり返したか
のように水が溢れだした。生温く飲料にするにはどうにも不味い、
飲むと腹を下すという噂もあるほどに、だが洗体や掃除に使うには
問題のない水だ。
二つ、三つとそれを砕くと浴槽の半分程度の水が溜まった。それ
を確かめてランタンはリリオンを振り返る。リリオンはまだ少しむ
くれていたが、ランタンはそれを無視した。
﹁じゃあリリオン。手桶はこれを使って、手拭いはこっち。最後に
体を拭く乾いた布はこれだから濡らしたらダメだよ。あ、あと靴も。
着てる服はもう捨てていいけど、靴はまだ使うから濡らすんじゃな
いよ﹂
あれこれとランタンは指で指し示した。だがその指の先をリリオ
ンの視線は追わない。
﹁聞いてる?﹂
﹁きいてるわ﹂
﹁それは良かったよ。じゃあちゃんと洗うんだよ。基本は上から下
に。髪を洗う時は乱暴にしちゃだめだよ。爪を立てず指の腹で頭皮
を揉むように、顔を洗う時はちゃんと耳の後ろも洗って︱︱﹂
﹁もうっ!﹂
リリオンは急に叫んでランタンの突き出した指をぎゅっと掴んだ。
いらだち
ランタンは一瞬そのまま指の関節を増やされるのかと思ったが、リ
リオンはやりどころのない空腹を発散させるようにそのまま上下に、
ぶんぶんと振った。
﹁そんなに言うならランタンが洗ってくれればいいでしょっ!﹂
﹁は?﹂
﹁だってランタンの言うことよくわからないわっ! きれいにしな
62
いと、なんでごはん食べられないのよっ?﹂
デリカシー
ランタンは喉の奥で小さく呻いた。咄嗟に吐き出しそうになった、
何の繊細さのない言葉をどうにか飲み込んだ。リリオンが苛つくよ
うに、ランタンもまた空腹で少し気が立っていて、また脳への栄養
ブーツ
が足らず頭も回らなかった。
ランタンは戦闘靴を蹴り飛ばすように脱いで、靴下も引剥がし、
膝までズボンの裾を捲り、袖を捲り、その手を浴槽にためた水の中
に埋めた。
ぼこん、とランタンの手の周囲の水が気化し、水面で爆ぜた。一
瞬で水から湯へと変わったそこから手を引いて、指先から水気を払
う。
﹁いまのなに!?﹂
﹁秘密﹂
目を丸くしたリリオンに、ランタンは冷たい目で吐き捨てた。そ
して死刑宣告するようにリリオンを指さした。
﹁自分で脱ぐか、それとも脱がせて欲しいか、どっち?﹂
ランタンが言うが早いかリリオンはあっという間に裸になって、
襤褸布同然の服を丸めて部屋の穴へと投げ捨てた。一糸纏わぬ姿で
あっても、リリオンは何一つ隠そうとはしなかった。
完全に顕になったリリオンの肉体は華奢で、肉付きは薄い。胸は
少しだけ膨らんでいたが、肋骨や骨盤が浮き出ていている。手足は
ひょろりと長く、棒のように真っ直ぐだ。女らしさが皆無というわ
けではない。だが十歳というフィルターを通して映るランタンの瞳
には、ただ縦に引き伸ばされた子供の身体でしかなかった。
﹁じゃあ座って、お湯掛けるよ﹂
木製の腰掛けはランタンにはちょうどいいが、リリオンには小さ
すぎた。薄い尻を乗せる分には問題なかったが、長い足は折り畳む
と窮屈なので放り出している。
ランタンはリリオンの背後に立って、まず手櫛で髪を梳いた。リ
リオンの髪はぼわぼわと乾燥して、所々が綿埃のように絡まってい
63
ほぐ
る。ランタンはそれらを丁寧に梳かし解していく。こんなことなら
ば櫛でも買ってくるんだった。そんな風に考えるランタンを余所に、
リリオンは床に接地する踵を支点にリズムを刻むように揺らしてい
た。
﹁リリオン、上向いて﹂
﹁んー﹂
ランタンは手桶にたっぷりとお湯を汲み取って、言われるがまま
に上を向いたリリオンの頭に遠慮無く湯を浴びせた。リリオンの長
い髪がまるでスポンジのように湯を吸い込んで、頭が重たそうだ。
だがランタンが頭皮を揉みほぐし、その毛先までをゆるゆると濯ぐ
と幸せそうに目を細めた。あれほど昼飯に執着していたのに、今は
汚れを落とされる心地よさに浸っている。なんとも現金なものだ。
洗い終わった髪をぎゅっと絞りぐるりと丸めて、乾いた布で頭ご
と包み込む。細く切れやすいリリオンの髪は、髪は女の命ともいう
格言を思い出して丁寧に扱ったが、それもここまでだ。ランタンは
リリオンに手拭いを一枚渡した。
﹁前は自分でやるんだよ﹂
ランタンはそう言い放つと、リリオンが口を開く前に手桶に汲ん
だ湯を浴びせかけた。そして石像でも磨くかのように濡らした手拭
いでリリオンの体を擦りに擦った。白い手拭いがあっという間に黒
く染まり、肌から垂れる雫もまたタールのように黒ずんでいた。擦
ペット
れば擦るほど、まるで肉が剥がれるように垢が落ちて、リリオンは
擽ったそうに身を捩った。大型の愛玩動物を洗っている気分だ。
ぬる
﹁ちゃんと足の指の間まで洗った?﹂
﹁あらったよ﹂
﹁爪の隙間は?﹂
﹁んー、あらった﹂
﹁よし、じゃあ流すよ﹂
浴槽に溜めた湯はもうほとんど微温くなっていて、ぐらりと浴槽
を傾けることでどうにか手桶をいっぱいにする分しか残ってはいな
64
そそ
い。ランタンはその最後の湯で、満遍なくそっとリリオンの身体を
濯いだ。。
暖められて血の巡りが良くなった、リリオン身体は薄紅に上気し
ている。ランタンが大きな布をリリオンに渡すと、彼女はそれに身
を隠すように身体の水気を拭った。
はだ
﹁ランタン、どう?﹂
リリオンが布を開け、その裸体をランタンに見せつけた。雪のよ
うに白くなった輝く裸体に、ランタンは一瞬目を奪われる。子供だ
ろうが、美しいものは美しいのだ。もう少し肉付きが良かったら、
ランタンは自分を軽蔑する羽目になっていたかもしれない。
﹁⋮⋮綺麗だよ﹂
﹁やったぁ!﹂
飛び跳ねんばかりに喜ぶリリオンからそっと目をそらし、ランタ
ンは一度大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。一度高く
鳴った心臓がまた緩やかに響き始める。ランタンは、ぱちんと手を
鳴らした。
﹁ほらこれ着て、食事にするよ﹂
貫頭衣を投げ渡すとリリオンはその場にぱっと布を手放して、大
事そうにそれを受け取った。するりと頭から貫頭衣を被り、髪を包
んでいた布を外して頭を振った。まだ少し濡れた髪が淡く波打って
いる。
新しい服に身を包んで嬉しいのかリリオンはくるくると回った。
裾がふわりと膨らみ、白い太股が顕になるのも気にしていない。こ
んなにも喜ぶのならばもう少し上等な服を買ってやればよかったか
もしれない。
二人は棲家に戻り、まだ暖かい昼飯を前にランタンは雑貨屋から
すか
サービスしてもらった飾り紐を思い出した。今にも食事に飛びかか
ろうとするリリオンを宥め賺して、そっとその髪に触れた。
よ
柔らかい髪だった。洗う前にはほつれた糸屑を寄せ集めたようだ
った髪が、まだ細すぎではあったが、それを縒るとまるで絹の生糸
65
を思わせた。ランタンはそれを首のあたりから緩く太い三つ編みに
して紐で縛った。
﹁わぁ﹂
髪を解いたままではリリオンはきっと頬にかかる髪を食べてしま
うだろう。そんなふうに思ってランタンは髪を結んだが、リリオン
は編んだ髪を揉んで、飾り紐を撫でて喜んでいた。
﹁よし食べよう。︱︱いただきます﹂
ジュース
ランタンは手を合わせ、リリオンは何者かに祈りを捧げて、少し
遅目の昼餉が始まった。
ランタンもリリオンもまずは果実水で口を潤した。果実水はわず
かに醗酵していて、舌先でぴりりと泡が弾ける。林檎の香りが鼻に
ロー
抜けて、アルコールの甘さが喉を炙ったが、酔うほどの度数ではな
い。
ストナッツ
串焼きの肉は羊の肉だ。臭みを取るための香辛料が、どこか煎っ
た木の実の香りをさせて、肉を噛むともったりとした肉汁が溢れた。
濃い目に味付けられた塩と肉汁が混ざり、これがまた甘いパンとよ
く合う。ランタンはぺろりと拳大のパンを飲み込んで、再び果実水
を呷った。
リリオンを見ると彼女もまた串焼きを片手に、こちらは薄焼きの
パンを持っていた。ランタンはそれだけを食べようとしている彼女
を制し、そのパンの上に挽き肉と豆を辛く味付けた物を載せて巻い
てやった。リリオンは一口食べると驚いたように目を丸くしたが、
果実水でそれを飲み込むと再び口に運んだ。さっと赤くなった頬や
唇がその辛さを物語っていたが、同時に食べるのを止めないリリオ
ンの様子がその旨さを物語っている。
ランタンもその挽き肉炒めを一匙口に放り込んだ。舌の上に触っ
た瞬間、辛味が口腔を灼いたが、肉の旨味と豆の甘みが広がって、
鼻から抜ける香辛料の複雑な香りが食欲を更に掻き立てた。ランタ
ンもリリオンに渡したように、結局薄焼きパンにそれを乗せて、さ
らに蒸した芋を砕いて混ぜあわせた。ばくりと丸めた薄焼きパンを
66
かじると辛味が和らぎ、芋のホロホロとした甘みが際立つ。それを
見たリリオンが早速真似をしていた。
幸せそうな顔だ、とリリオンの顔を眺めながらランタンは海鮮ス
ープをもそっと啜った。魚介の出汁がしっかり利いていて、生臭さ
は一切ない。生姜汁を絞ってあって、締めにはちょうどいい爽やか
な味だ。
ランタンはもう満腹になったが、リリオンはまさに育ちざかりの
子供そのものの食欲を見せていた。ランタンが余らせた串焼き肉に
がぶりと噛み付き、頬を膨らませるほどに咀嚼をしている。脂に光
る唇が、ぷっくりと盛り上がっている。
﹁⋮⋮ん?﹂
リリオンの、頬がそのまま裂けたように薄かった唇が、今は少し
厚みを持っていた。肉を飲み込んだのにもかかわらず、頬もまた丸
みを帯びている。果実酒を一気に呷って満足気に漏らした吐息が甘
く、唇を舐める舌の赤さが覗いた。
食べた側からエネルギーに変わっている。食らった肉がそのまま
肉に、飲んだ果実水がそのまま血になったかのように、リリオンの
身体が一回り大きくなった。火を入れた炉にどんどんと石炭を放り
込むように、リリオンはテーブルの上に残った食事を喰らい尽くし
ていく。ランタンと同じように海鮮スープを、魚の骨も海老の殻も
気にせずにバリバリと、締めに飲み干して、リリオンはそのまま眠
りに落ちそうなほど幸せそうに目を細める。そしてそこに命でも宿
ったかのように腹を撫でている。
ランタンはその様を引き攣りながら見ていた。この世界はランタ
ンにとって不条理で意味不明なものが多かったが、リリオンもまた
スケルトン
似たようなものだ。年下なのに自分よりも背が随分と高いことは、
面白くはないが理解できる。だがたった一時間程で骸骨兵が受肉す
るのならば、いくつかの迷宮の難易度が大幅に上方修正されること
だろう。今ランタンの眼の前に居るのはやせ細った少女ではなく、
すらりとした少女だった。
67
ランタンは混乱していたが、少なくとも食事前にリリオンを風呂
に入れた自分を褒める事だけは忘れなかった。
果実水はもうない、ランタンは水筒を取ると冷えた水を飲んで心
を落ちつけて、再びリリオンに視線をやった。リリオンが手を伸ば
している。
﹁わたしにも水ちょうだい?﹂
そう呟いた唇は脂でぬらぬらと濡れて、頬には唇の端から頬へと
赤い汁が半ばまで伸びている。ランタンはリリオンに水筒を渡した
が、それに口をつける前に濡らした手拭いで顔を拭った。頬が柔ら
かいが、顎のあたりはまだ細く骨ばっていた。顔をこねくり回され
るのを、目を瞑ってされるがままに我慢している表情はやはり子供
のそれだ。
﹁よし、いいよ﹂
ヘーゼル
リリオンが目を開くと、落ち窪んでいた瞳は生気を取り戻し膨ら
んで、視線が交わると笑みが弾けた。淡褐色の瞳に映る自分の顔を、
ランタンは無表情だなと思い、少しだけ頬を釣り上げた。
﹁さて買い物だけど、どうする?﹂
ランタンが聞くとリリオンは大きく手を上げて、いく、と声を張
り上げた。だがそれだけで立ち上がる気配はない。
﹁お腹いっぱいで動けないんでしょ?﹂
﹁だいじょうぶ!﹂
リリオンはそう言ったものの、どう考えても食べ過ぎだった。ラ
ンタンが買ってきた食料は昼飯という名目だったが、余った分を夕
飯にしようという目論見を込めて買い漁ってきたものだ。だがその
さす
目論見はリリオンによって阻止され、それを阻止したリリオンは腹
を擦っている。
﹁まだ日も高いから、少し休んでから出よう﹂
﹁⋮⋮うん﹂
食堂や酒場は日が落ちても営業しているが、多くの店は日の入り
とともに店を閉めてしまう。今はまだ太陽が中天から傾きはじめた
68
ばかりなので、それほど時間は差し迫ってはいない。
﹁ランタン⋮⋮﹂
ランタンが甲斐甲斐しくテーブルを片付けていると、深くソファ
に沈み込んだままのリリオンが重たげに口を開いた。
﹁なに?﹂
﹁買い物ってどこ行くの?﹂
﹁上街だよ。入ったことはある?﹂
リリオンは眠たげに首を振った。
下街へ入る手段は腐るほどに存在するが、上街に入るには街をぐ
るりと取り囲む城壁に、たった三つだけ開放された門を抜けなけれ
ばならない。当然そこには衛兵による検問が敷かれている。あの侵
入者共では確かに検閲を抜けれそうな気配はなかった。良くてその
場から追い出されるか、運が悪ければ捕縛されるかもしれない。彼
らに連れられていたリリオンもまた下街のどこからか、ここへ入り
込んだのだろう。
ブラックマーケット
﹁⋮⋮でも、ここの市は、ちょっとだけ見たわ﹂
﹁ああ闇市ね。あれも中々だけど、上街の商店街はもっと凄いよ﹂
﹁ほんとぅ? ⋮⋮たのしみね﹂
リリオンの瞼はもうほとんど閉じており、言葉尻は溶け伸びてい
る。
昨夜ランタンが仮眠をとっている時もリリオンは起きていたよう
だし、風呂に入って満腹になったことで気が緩んだのだろう。ラン
タンはリリオンの手から零れ落ちそうになった水筒をそっと抜き取
った。
リリオンは一つ瞬きをする間に、もう穏やかな寝息を立てている。
夢の中ではまだ会話を続けているのか、それとも更に食事をしてい
るのか、口元が小さく動いた。髪と同じ色の白い色の睫毛が淡く震
える。
その寝顔は、ランタンに彼女を叩き起こすことを躊躇わせた。少
しだけ意地悪をして頬の肉を摘んでみたが、全く起きる気配はない。
69
このまま永遠の眠りに就かせることも容易だろう。ランタンはそっ
と首に触れてから、ベッドに腰を下ろした。
十歳とはいえよく解らないな、と頭を掻いてそのまま横になった。
天井の灰色が目に重い。
いくら子供だからといっても、この無防備さをランタンは心配に
なった。ランタンがリリオンを開放するまで、リリオンが身を置い
ていた境遇は最低に近いものだろう。暴力や、男や、人間そのもの
を軽蔑し恐怖を覚えてもおかしくないほどに。
だというのにリリオンは留守番をしていろといえば逃げ出すわけ
でもなくきっちり家にいたし、ランタンの目の前で恥じらいもなく
裸になり身体を任せるし、ご飯を食べて腹一杯になったら無防備に
も眠りこける。
この無垢で明け透けな性格が幼いゆえか、あるいは生来のものだ
としてもそれも良し悪しだが、もしランタンを白馬の王子か何かと
勘違いしていたらとても面倒だ。どんなふうに対応していいかわか
らない。
こ
そんなふうに考えて、ランタンはベッドマットに顔を押し付けて
籠もった声で呻いた。自意識過剰だ。ただ野生動物の餌付けに成功
しただけの、それだけのことだ。ランタンは暫く虚無感に身を委ね
た。
ランタンはもそりと再び体を起こし、リリオンを見やった。唇の
端から透明な涎が垂れそうになっている。
常識のない子供なんて動物と同じだ。だが面倒くさくなったから
といって、一度手助けしたものを無責任に放り出すのは、それこそ
自分の手で殺すようなものだ。
ランタンはベッドから降りると、こぼれ落ちる前の涎をそっと拭
ってやり、穏やかな、阿呆面とも言いかえることが出来そうなほど
に緩みきった寝顔の頬を軽く張った。
﹁ほら行くよ﹂
70
71
006
006
リリオンは跳ねるように歩く。
ぴょんぴょんと踊る三つ編みが楽しいのか、ふわりとひるがえる
裾が嬉しいのか、リリオンは道の先でくるりと回ってみせた。
何だかんだとずっと部屋の中に閉じ込めていたので、リリオンか
らしてみれば二日ぶりの外出らしい。跳ねる三つ編みは尻尾のよう
で、自分の尻尾を追いかける犬のようにリリオンはくるくるとはし
ゃいでいる。
一眠りして、そして太陽の光を浴びて、狭い部屋の中から開放さ
れてリリオンはさらに一回り大きくなったような雰囲気があった。
植木鉢から地面に植えなおした植物のようだ。
﹁ねぇランタンはやくはやく﹂
すらりとした腕を振って、リリオンはランタンを呼んだ。
リリオンの足は長く、その分だけランタンとの歩幅に差がある。
そんなリリオンが早足になると、ランタンは駆け足にならないとい
けない。今にも走り出しそうなリリオンを宥めるのは中々に大変だ
った。
ランタンはリリオンの隣に並ぶと、彼女が足早になりそうになる
度にその服を引っ張って初動を制した。一度、ちょうどいい位置に
ア
垂れたリリオンの三つ編みを思わず引っ張ってしまい、リリオンは
目尻に涙をためてランタンを睨んだ。
イボリー
太陽の下に出ると真っ白かと思っていたリリオンの髪は、深い象
牙色でほんの僅かに桃色が混ざっている。それは夕日によってさら
に色を濃く見せていた。
リリオンの背中には安物の貫頭衣とは不釣り合いの、身長に見合
72
ツ
ブー
った大型の背嚢が背負われている。その中には下着に始まり、戦闘
靴や探索服といったランタンとお揃いの品々が詰め込まれている。
リリオンの細い肩には重たそうだったが、ランタンが大盤振る舞い
したおかげでその背嚢の背負い紐は十分な荷重分散が考慮されてお
り、肩に食い込むことはない。
﹁ランタン、次はどこに行くのっ?﹂
リリオンの笑顔が眩しくて、ランタンは思わず目を細めた。だが
さまよ
それは微笑ましいものを見たという笑みではなく、疲労からくる苦
笑だった。人混みをあっちにこっちにと彷徨い歩くリリオンを連れ
ての買い物は、一人で目抜き通りを歩く三倍は大変だった。
﹁買い物はほとんどすんだからね、あとは武器のたぐいと、寝具か
な﹂
ランタンの棲家にはベッドは一つしかない。リリオンには今のと
ころソファで座り寝させていたが、ずっとそれではさすがに可哀想
だ。一回り大きくなったリリオンは既に一人用のソファでは窮屈だ
ろうし、身体が資本の探索者をやるにあたってしっかりと体を休め
る場がないというのは死活問題だった。だが上街の寝具店ではベッ
ドを購入したところで下街までは運んでもらうことが出来ない。ラ
ンタンの住む地域は住所も何も指定されていない廃墟だからだ。
ランタンが眉根を寄せて悩んでいたが、リリオンはそんなランタ
ンを尻目にぽっと頬を赤くしていた。
﹁武器、いいの!?﹂
﹁んぁ?﹂
リリオンが抱きつくようにランタンの腕を取り耳元で叫んだ。ラ
ンタンは痺れる鼓膜に目をぱちくりとさせて、驚いた声を上げた。
ポーター
﹁急に何?﹂
﹁だって、運び屋は武器持たないよ﹂
正確には軽めの武器しか持たないが正解だったが、ランタンはあ
えてそれを否定しなかった。運び屋の持つ武器は完全に必要最低限
の物だからだ。運び屋がそれを振るうのは、玉砕覚悟か、魔物によ
73
って残酷な結末を迎えないための自決の時だけだ。
﹁探索者になるんでしょ?﹂
リリオンはあの夜、探索者になりたいと、そう言っていた。そし
てランタンは。
﹁僕は単独探索者だから運び屋はいらないって。だからリリオンは
︱︱っ﹂
言葉の途中でリリオンは、ランタンを引き寄せてその胸にぎゅう
っと抱きしめた。
ランタンの顔を、薄く、けれど柔らかな胸の感触の奥からリリオ
ンの興奮がそのまま音になったかのような心臓の音色が叩いた。そ
れはまるで歓喜の歌のように高らかに鳴り響いて、リリオンはラン
タンの髪に顔をうずめて犬のように頬を擦りつけた。
﹁ええい、離れろ﹂
ランタンは驚いたが、微笑ましく思い頭などを撫でてやったが、
その内に本物の犬のように顔面を舐め始めるのではないかと思わせ
るほどリリオンは興奮していて、ランタンは髪に埋まるその顔を引
き剥がした。ランタンの髪がぼさぼさに逆立っていて、リリオンは
まるで気分を害したら武器を買ってもらえなくなるとでも言うかの
ように、慌ててその髪を撫でつけた。
﹁いいから、ほら行くよ﹂
ランタンは頭を撫でる手を邪魔くさそうにどけて、そのまま手を
つないでリリオンを引っ張った。この様子では寝具は諦めないとい
けない。いまから寝具店に行こうなどと言ってもリリオンは聞かな
いだろう。探索にも使う毛布だけは購入してあるので、今夜はこれ
に包まって眠ってもらう羽目になりそうだった。
﹁リリオンは、なにか経験はある?﹂
尋ねるとリリオンは少し考える仕草をして、剣、とポツリと呟い
てその後に、少しだけど、と声も小さく続けた。それの声には少し
だけ恥じているような色を含んでいた。
踏み込んでいいものだろうか、とランタンは心臓が早くなるのを
74
感じた。自分が他人に過去を語ることを好まないせいか、ランタン
は人に踏み込むのが苦手だった。軽く振ったつもりの話題が、なに
か急に重たい話に変わったり、あるいは嫌な記憶を呼び起こすので
はないか、不快な思いをさせるのではないかと不安になるのだ。
だがそれを聞かないことには、店を選ぶことさえ出来ない。
﹁剣、か。どんなのを使ってたの?﹂
﹁もっと小さい頃だから、すごく重たい剣だったわ。こう、片手剣
だったんだけど両手で持ってね。どうにか振るような﹂
﹁じゃあ両手剣を探したほうがいいかな﹂
ランタンが尋ねると、リリオンは少し考えて首を振った。
﹁でも旅に出る頃にはちゃんと片手で扱えるようになったのよ。そ
れは持ち出せなくておいてきちゃったけど﹂
ワンハンド ロングソード
これぐらいの大きさだったかしら、とリリオンはランタンの手を
つないだまま腕を広げてみせた。通常の片手用長剣よりも随分と長
い。刀身は一メートル前後だろうか。これを八歳だか九歳の少女が
片手で振るっていたとはにわかに信じがたい。
だがこの世界では、それがまかり通るのも事実だった。
元の世界では同年代の平均を下回る運動神経しか持ち合わせてい
なかったランタンが、今では先頭に重心の寄った重量にして五キロ
ショウウィンドウ
ドラゴンキラー
を超える戦鎚を片手でハエ叩きのように振るうことができる。武器
屋の陳列窓には、竜殺しと呼ばれる超大型大剣が飾られ、それを使
ハンマー
しな
用する探索者も存在している。リリオンもそんな世界の住人の一人
なのだ。
﹁ねぇ、ランタンのその鎚はどこで買ったの?﹂
﹁これ? これは工房に作らせた特注品だよ﹂
ランタンは腰に下げた愛用の戦鎚を柔らかく撫でた。
え
装飾も何もないシンプルな戦鎚だが、折れず曲がらずの靭やかな
柄とどんな強固な魔物の外皮をも貫く鶴嘴と、すべてを砕く半球形
の鎚頭、ランタンの能力行使にも耐えることのできる堅牢な作りを
実現するために随分と出費を重ねたものだ。だがそれは命の値段と
75
つか
言い換えても良かった。単独で迷宮を探索する際、この戦鎚の柄を
握りしめて、どれほど死地を踏み越えただろうか。
﹁⋮⋮まぁこれはちょっとお高いよ﹂
いくらリリオンの命を預ける相棒を探しに行くとはいえランタン
の戦鎚と同程度のものとなると、はいどうぞ、と差し出すことの出
来る金額では購入することが出来ない。ランタンはリリオンにある
程度のものを見繕うとは思っていたが、そもそも駆け出し探索者の
多くは家にしまい込まれていた剣を研ぎ直したり、武具店に十把一
絡げに売られている大量生産品で済ませるものだ。
あまり甘やかすのも成長を妨げる要因になる。ランタンは自分を
納得させるように頷いた。
﹁だけど、話を聞くにはいいかもしれないね﹂
﹁え?﹂
メンテナンス
﹁これを仕上げた職人にさ。向こうは何だかんだで武具の専門家だ
し、こいつの整備のついでに、助言をもらいにね。どう?﹂
﹁うん⋮⋮ちょっと見てみたい﹂
﹁よし、じゃあ通りを抜けるよ﹂
ランタンが言うと、リリオンは迷子になるまいと絡めた指先に力
を込めた。
目抜き通りを行き交う往来は、そこを抜けようと思うと濁流のよ
うな無秩序さを顕にした。自らもその濁流の一員である時はただ流
されるばかりで気にもならないが、いざ抜けようとするとその人の
流れは歩みに絡みつき、雑踏に引きずり込もうとする。
﹁おいで、遠回りになりそうだけど、こっちのほうが早い﹂
ランタンが人混みから一歩外れて細い裏通りへと足を向けると、
リリオンは繋いでいた手を放し、ランタンの腕にぎゅっとしがみつ
いた。建物と建物の間隔が狭く、本来は縦一列に並んで通るような
道だ。だが薄暗く、目抜き通りの喧騒が幻のように静けさが広がる
細道をリリオンは怖がったのかランタンから離れようとはしなかっ
た。
76
腕にしがみつき身を寄せて、二人の足が絡まり縺れそうになる。
だがランタンは、少し開けた道になってもリリオンに離れるように
ほだ
とは言わなかった。それは腕を圧迫する柔らかな感触や、リリオン
の身体の暖かさに絆されたからではない。
下街よりは随分と治安の良い上街とはいえ薄暗い裏通りには、目
抜き通りの人混みに嫌気が差して道を逸れたり、道に迷ったりした
人間を獲物にしている者たちがいる。
スリーマンセル
三人の男たちが通路を塞いでいて、ランタンは喉の奥で小さく笑
った。先日の男たちも三人組だった、もしかしたら三人一組が最近
のチンピラの流行なのかもしれない。
呑気なランタンとは違いリリオンは少しだけ震えていた。その震
えを隠すようにランタンにしがみつく力をいっそう強めたが、それ
は余計にランタンへ怯えの感情を伝えた。リリオンはこの三人の男
たちに、先日の侵入者たちを重ね合わせているようだった。
﹁⋮⋮迷宮の魔物たちはもっと怖いよ﹂
﹁⋮⋮﹂
視線は男たちに合わせたままランタンはこそりと呟いて、抱きつ
く腕を離すように促した。リリオンはおずおずと離れると、ランタ
ンの小さい背に隠れた。
ランタンが男たちを見ているように、男たちもランタンたちを見
ていた。値踏みをするその視線もまた先日のことを思い出させる、
いいカモを見つけたというものだった。ランタンは小さく嘆息した。
﹁魔物は急に襲ってくるから、ねっ!﹂
男たちのように獲物を前に舌舐めずりをするような魔物は居ない。
ランタンは一足飛びに間合いを詰めると、真ん中にいた男の腹に有
ブーツ
無を言わさずに前蹴りを叩き込んだ。爪先を立てていれば鳩尾を、
文字通り、ぶち抜いたであろうその蹴りは、手加減をして戦闘靴の
底で男の体を押し飛ばした。男はくの字に折れ曲がって吹き飛び、
地面を三度転がってようやく動きを止めた。蹴り飛ばされた男はピ
クリとも動かない。
77
残された二人の男たちはニヤついた顔はそのままに、動かない男
を見て固まっていた。ランタンが蹴り足を音を立てて地面に戻すと、
男たちは弾かれたようにランタンを振り返った。その目には焦りと
恐怖が色濃く滲んでいる。
﹁選択肢は二つ。向かってくるか、道を開けるかだ。五秒以内に選
べ﹂
ランタンが数えるように人差し指、中指と順に立てると、その指
での目潰しを恐れるように二人の男たちはべたりと壁に張り付いた。
まるでヤモリだ。
﹁行くよ﹂
ランタンは残りの三本の指も広げた手をリリオンに向けて、そこ
に指先が絡まるのを確かめるとその手を引いて二人の男の間を進ん
だ。
﹁さっきの見てた?﹂
﹁うん。ランタンって、やっぱりすごいわ。それに優しい。あんな
ふうに優しく蹴って﹂
その優しく蹴った対象を二人はぴょんと跨いで、その先に歩みを
進めた。
﹁⋮⋮普通は見えないんだよ﹂
ランタンが言うとリリオンは小さく首を傾げた。ランタンが転が
った男に目を向けると、リリオンは首を傾げたままその視線の先を
追いかけた。
﹁だからあんな事になってる﹂
蹴り飛ばされた男は、二人の男たちによって介抱されていた。乱
暴にバチバチと頬を叩かれ耳元で大声で呼びかけられて、肩に背負
われて運ばれていく。暫くは呼吸をするだけで腹が引きつるように
痛むだろう。だが息の根が止まるよりはずっとましだ。
幸運なことに裏通りではこれ以外の面倒事には出会わなかった。
道幅も広がり裏通りから生活道路に出て、目抜き通りの喧騒がまた
近づいてくる。それに合流することなく川沿いを行くように職人街
78
へと足を進めた。
職人街へ近づくにつれて人々の喧騒は、様々な物を作る音に変わ
ってゆく。低く断続的に響く機械の音や、一定のリズムを刻む機織
オーケストラ
りの音。金属を加工する高らかなハンマーの音色。荷物を運ぶ荷馬
車の足音。怒鳴り声。それらがまるで楽団演奏のように奏でられて
いる。
職人街の通りも目抜き通りほど広く、そこには商品を積んだ荷馬
車が行き交っていて、他にも買い付けの商人や、ランタンのような
探索者の姿がチラホラと散見する、目抜き通りのような多様な個人
客の姿は見られなかった。通りの左右に連なる工房は、この街で売
られている何もかもを作っている。
武具工房の集まる一角では、むわりとする炎の熱気が立ち込めて
いる。頭の中で鳴り響くような金属音がそこかしこで叩き鳴らされ
ていて、まるで原始の音楽のように奇妙な高揚感が熱に煽られて周
囲に溶けだしている。呼吸をする度に喉が灼けるようだ。
リリオンはぶら下げている三つ編みを首から鎖骨を通して胸の前
に垂らした。目抜き通りの商店街では気になるものがあれば右へ左
へとふらふらしていたが、職人街の熱気には若干引いているようだ
った。職人たちは誰も彼もが油で汚れ、炉の熱であぶられた皮膚が
赤く、金槌を振り下ろす背中の筋肉が見事に盛り上がっている。ま
るで赤鬼のようだ。
﹁リリオン、ここだよ﹂
金属音がうるさいのでランタンは少し背伸びをしてリリオンの耳
シャッター
もとに口を近づけた。リリオンは大きく頷いてその建物を眺めた。
石造りの建物で鎧戸を開け放った室内は煤や熱によって鈍い灰銀に
染まって、炉の口から漏れる炎の赤さに照らされていた。
一人の男がいる。短く切りそろえた赤い髪をした三十過ぎの男だ。
無精髭を生やしていて、首に掛けた手拭いで額に珠のように浮いた
汗を拭っている。
﹁今、大丈夫ですか?﹂
79
﹁ん? おぉランタンくんじゃないか、今日はどうした?﹂
酒やけにも似た枯れた声はどこか温かみがある。野性味あふれる
風貌とは裏腹に、口を開けば牧歌的な雰囲気を男は漂わせている。
﹁こいつの整備と、あとこの子の装備のことでご相談が﹂
ランタンは腰に下げた戦鎚を撫でて、繋がれたままのリリオンの
手を振ってみせた。そうすると今ようやくリリオンに気がついたか
のように男は目を丸くして、すぐに目尻に三本の笑い皺を作った。
﹁ようこそグラン武具工房へ。俺はリヒトと言う、ご贔屓にどうぞ
よろしく﹂
リヒトは油で汚れた手をズボンで拭って、それでも汚れが落ちな
いのを確かめるとその手を胸に当てて慇懃な礼をわざとらしく作っ
てみせた。するとその後ろから太くしわがれた声が響いた。
﹁おうリヒト、ずいぶん偉くなったぁな、顔役気取りか﹂
そう言って奥から現れたのはリヒトよりも頭一つ背の低い老人だ
った。
﹁そんなんじゃないすよ。親方、どうしたんすか﹂
﹁どうしたもあるかよ、ガキの声ってのはどうしてこう響くんだろ
うなぁ、坊主﹂
親方、とそう呼ばれたのはこの工房の主であるグラン・グランだ
った。背が小さく見えるのはひどい蟹股のせいで、脇が閉まらない
はんぱつ
ほど盛り上がった上半身の筋肉が重たそうだった。顔にはもじゃり
と髭が生えていて、癖のある斑髪を首の後でくるんと縛っている。
﹁お久しぶりです﹂
﹁おう﹂
ランタンが小さな声で頭を下げると、グランはのそりと片手を上
げた。そして掌をランタンに差し出した。皮の分厚いゴツゴツとし
た掌だ。グランは再会の握手を求めている訳ではない。ランタンは
腰から戦鎚を外すとグランに渡した。
戦鎚を受け取ると灰色の濃く太い眉の下で、黒目がちの丸い瞳が
鋭く細められた。その瞳が柄の歪みを確かめて、太い指先が鎚頭を
80
メンテ
撫でてその欠けを調べていた。
﹁まだ整備はいらんだろ﹂
そう言ってグランは戦鎚を返し、その瞳をリリオンの方へと向け
た。ボテッとした瞼の下で瞳がぎょろりと動いて、品定めでもする
かのように上から下までリリオンを見回した。
﹁⋮⋮また珍しいもん連れてるな﹂
その声には少し疲れたような響きがあった。
ランタンは背中に隠れるリリオンを前に引っ張りだして、勢いを
込めるように軽く腰を叩いた。
﹁り、リリオン、です。はじめまして﹂
﹁ワシぁ、グランだ﹂
リリオンは喉に詰まった飴を吐き出すようなたどたどしさで、ほ
とんど囁くような声で名乗った。グランのくだらない冗談を真に受
けているのだ。そんなリリオンの様子にグランは軽く口髭を動かし
てみせた。髭の下では口角を釣り上げているのだろう。
﹁その嬢ちゃんの、武器についてだっけか? まぁ入れや︱︱リヒ
トは仕事だ。砥ぎに打ち直しにとまだ仕事はあるんだ﹂
﹁うぃっす、︱︱じゃあまた後でな﹂
リヒトは仕事に戻り、ランタンたちは歩き出すグランの背を仔鴨
のように追いかけた。工房の仕事場から居住区へ抜けるといかにも
男やもめといったゴミゴミとした木のテーブルが置かれた部屋に通
された。すぐ脇には飯場がある。
﹁まぁ適当に座れ﹂
ランタンはテーブルの上に散らばる食器を手早くまとめて流しへ、
食べこぼしはここの流儀に習って床へ払い下ろすと、呆れた視線を
向けるグランの向かいに座り、リリオンに隣へ座るようにと椅子を
引いた。
﹁そいでよ坊主。その嬢ちゃんはどうしたんだよ?﹂
グランは机の上でどかりと腕を組んで、ぎしりと椅子の背を軋ま
せた。太く吐き出した息が髭を揺らしている。
81
ランタンはふと考えてみた。どうしたんだと言われてみると、リ
パーティ
リオンとの関係を表すこれといった言葉が思い浮かばなかった。探
索者仲間というわけではないし友人でもない。保護した子供という
ジャイアント
のが最も適当だろうか、だがいまいちしっくりはこなかった。
﹁嬢ちゃん⋮⋮あんたぁ巨人族だろ﹂
頭の中で言葉をこねくり回していたランタンは、グランの言葉に
片眉を上げた。隣でリリオンが罅の入った氷のような音を立てた。
それは強く握られた拳が軋む音だった。白い顔を青くして、グラン
の言葉を肯定も否定もせず、小さく顎を引いて固まっていた。
ランタンはそんなリリオンの顔を見て、視線をグランへと移した。
﹁坊主、知ってるか?﹂
ランタンは首を横に振った。リリオンが何族かも知らなければ、
巨人族が何かも知らなかった。だがリリオンは子供にしては大きい
が、巨人というには小さすぎる気がした。それもただリリオンが子
供だからだろうか。あるいはこの世界の巨人は、それなりの大きさ
なのかもしれない。
﹁だろうな⋮⋮、だからこうして連れてきたんだろう﹂
﹁⋮⋮どういうことですか。なにか巨人に問題でも?﹂
グランは顎髭を親指と人差指で揉むように撫でた。黒い瞳がチラ
リとリリオンを見たが、そこに潜む感情をランタンは読み取ること
が出来なかった。珍しい瞳をしている。
﹁古い種族だ。人も、亜人も、何もかもと争い、自分たち以外の全
てと戦争をして、その全てに打ち勝った。その力によって全てを支
配していた、迷宮が生まれるよりも前の、神話の話だ。⋮⋮だが今
はその数を減らして北の最果てにある巨人族の国からほとんど出て
こない﹂
﹁ふぅん﹂
ランタンは小さく鼻を鳴らした。グランの言葉はまだ続きそうだ
ったが、その先の言葉は想像がついた。
被支配側の種族は、自分たちを支配していた巨人族に対して決し
82
て好ましい感情は持っていないだろう。そしてその、かつて世界を
支配していた巨人族が衰退すれば、その先に待っているのは数に物
を言わせた差別だけだ。
だが起源をこの世界に持たないランタンにとって言えば、人族と
巨人族との確執は何の関係もない話だった。だがそんな話をわざわ
ざグランが言う理由はなんだろうか、とランタンは考えた。
グランが巨人族を差別的に捉えていてリリオンを糾弾するために、
というわけでは無さそうだった。もしそうならばグランはこんな風
にテーブルを囲むようなことを許さないだろうし、面倒な手段をと
るような鬱陶しい性格をしていないことぐらいは知っていた。
﹁ランタン﹂
ゆっくりと紙を裂くような掠れた声でリリオンが名前を呼んだ。
﹁︱︱黙ってて、ごめんなさい。わたしには巨人の血が、流れてい
ます﹂
どう言葉を返していいか判らなかった。ランタンはそんな事を聞
ピュアジャイアント
かなかったし、わざわざ言う義務もないのだ。
﹁ん、純血統巨人族じゃないのか?﹂
クウォータージャイアント
グランの言葉にリリオンは小さく首を振った。
﹁小半巨人族、です。純血種はもっと大きいです﹂
リリオンはその姿を思い浮かべたのか、天井を見上げた。それが
巨人族の大きさなのだろう。
ランタンはイライラと頭を掻いた。四分の一。それはもう巨人族
ではなく人族だろう、とそう思った。だがこの世界ではどうやらそ
うでは無いようだ。ランタンがどれほど無関心であろうとも、それ
こそこの世界の差別問題とは何の関係もない話だった。
﹁ランタン⋮⋮︱︱﹂
再び名前を呼ばれてはっとした。なんと切ない声を出すのだろう、
とそう思った。
﹁どうでもいい話だよ﹂
リリオンの口を塞ぐように、ランタンは珍しく声を張って言葉を
83
吐き出した。この次に吐き出される言葉はリリオンの口からは絶対
に言わせてはいけない気がしたのだ。口に出した瞬間に、それはど
んな凶器よりも残酷にリリオンの心に消えない傷をつけるだろうと、
そんな予感がした。
リリオンはまだ顔を青くしていて、表情はぎこちなかった。テー
ブルの下で指先が落ち着きなく動いていたので、ランタンが手を伸
ばしてそれに触れると、やはり氷のように冷たい。ランタンは抱き
しめるように強くその手を握った。
グランが言いたいのは、つまり被差別者を連れて歩くことの意味
だった。リリオンは、自分の存在がかける迷惑を、先回りしてラン
タンに謝ろうとした。
ランタンから見ればリリオンは身長の高い少女でしかないが、グ
ランは一目見て彼女が巨人族であることを見抜いていた。リヒトは
あの雰囲気から見るとおそらくそうとは気がついてはいないが、人
族と巨人族はその身長差以外で、見る人が見ればなにか明確な差が
あるのだろう。そしてそれに気がつく者が、グランと同じだとは限
らないのだ。
グランは優しかった。ランタンが無知だと知っているからこそ、
わざわざ忠告をしてくれたのだ。そしてリリオンにその機会を与え
た。
ランタンがグランに視線を向けて瞼を淡く伏せると、グランは空
咳を吐き出した。
﹁あぁどうでもいい、つまんねぇ話だな﹂
﹁えぇ、それよりも武器の話をしましょう﹂
ね、とランタンはリリオンに顔を向けるとリリオンはランタンの
手を握り返して、小さく頷いた。
84
007
007
きっさき
口笛でも吹いたような風切り音が、振り下ろした鋒に纏わりつい
ている。
グランがリリオンに渡した片手用直剣は、単純な作りのものだっ
つか
た。刃渡りは一メートルに少し足りず、片刃で背に厚みがあり、鍔
はなく、柄には革が巻きつけてある。リリオンは中々に様になった
上段の構えから剣を振り下ろし、また振り上げて、横に薙いだ。そ
の度にひゅうひゅうと音を奏でている。
﹁どう?﹂
ランタンが尋ねると、リリオンは少し迷うような素振りを見せて、
ゆっくりと申し訳なさそうに首を横に振った。
﹁少し、軽いわ﹂
リリオンがそう言うと、グランがランタンに喉の奥で低く笑いか
けた。
﹁軽いってよ﹂
その言葉にランタンは小さく鼻を鳴らした。
リリオンが手に持っている直剣はかつてランタンがこの工房を訪
れた時に同じように振らされたものだった。その当時のランタンに
は随分と重たく、振り下ろした鋒が地面を打ってしまった。その時
の痺れが手の中に思い出されるようだ。
だがそんな直剣をリリオンは言葉の通りに随分と軽く扱ってみせ
た。まるで小枝のようで、リリオンには軽すぎるせいか振るった自
らの腕に身体を引っ張られるように、身をよじっていた。
﹁いちいち言わなくていいですよ﹂
ランタンは唇をつまらなそうに曲げて、リリオンから剣を受け取
85
った。装備している戦鎚よりも若干重たいだけだ。ランタンは過去
を切り裂くように腕だけでブンブンと剣を振ってみせた。
﹁じゃあ次はこいつだな﹂
グランはランタンを一瞥もせず、リリオンに別の剣を渡していた。
その奥でリヒトが肩を揺らして笑っている。ランタンは唇を曲げた
まま手に持った剣を壁に立てかけた。
マチェーテ
リリオンは渡された剣の握りを確かめて、再び振ってみせた。今
度の剣も片刃で、鋒に向かって幅広い形状をしている。山刀に似て
いるが、刀身が先ほどの剣と同じ程度の長さだ。
風切り音は先程よりもやや重たげだ。だがそれでも、リリオンは
片手で軽々と扱っている。グランもランタンも、それを見て小さく
唸った。
﹁どうだ、嬢ちゃん。⋮⋮今度は遠慮するなよ﹂
グランが腕を組みながら言うと、リリオンは迷うような素振りで
ランタンの顔を伺った。ランタンはその視線をさらに壁際に立てか
けられた無数の剣たちの方へと促した。わざわざグランが用意して
くれた、試し振りをするための剣だ。形状も刃渡りも重さも、様々
な剣を用意している。ありがたい事だが、これを全て振るとなると
かなりの時間を要するだろう。
ランタンは遠慮をするな、とリリオンに頷いてみせた。
﹁あの⋮⋮だいぶ、軽いです﹂
﹁だろうな﹂
グランは呆れた様子で呟いた。誰が見てもリリオンの剣は振れ過
ぎている。グランは軽く頭を掻いて、また別の剣をリリオンに持た
せた。
ロングソード
刃渡りだけで一メートルを超えている。刀身は真っ直ぐで野暮っ
たく肉厚な幅広の両刃だった。柄が短く、片手用長剣だと判るが、
いまいち不恰好な形状だと思えるのは、片手で扱うに刀身が重たそ
うだからだろう。重心を取るためか、鍔と柄頭に球形の飾りが付い
ている。
86
ふとリヒトと目が合うと彼は少しだけ恥ずかしげな表情を作って
みせた。どうやらこの長剣はリヒトが打った剣のようだ。今では工
房でエース級の働きを見せるリヒトだから、不恰好なこの剣は随分
と初期に作った剣なのかもしれない。ずらりと並ぶ剣は、もしかし
たらグラン工房の弟子たちの、そういった過去が並んでいるのだろ
うか。
﹁ふっ﹂
リリオンは短く息を吐きだして、剣を振るった。
今までとは風切り音が違う。鋭く、大気を断ち切る音がなった。
剣先に十分な速度が乗り、斬撃には重さもあった。
たむろ
このまま迷宮に放り込んでも、そこそこの活躍をしそうだな、と
思った。探索者ギルドで時折見かける揃いの装備に身を包んで屯す
る駆け出しの探索者集団よりも、ただ安物の白い貫頭衣を着て不恰
好な剣を振るその姿の方が、期待を感じさせる。
リリオンの身体の状態はまだ完全ではない。身体は食事の後から
すぐに肉が付きはじめたもののまだ痩せすぎだったし、その身体は
鍛えられてもいない。
そう言った状況下を加味すると見事に剣を振っている。だがリリ
オンの顔は晴れなかった。ランタンよりも細い腕をしているという
ダイヤモンド
のにもかかわらず、その剣もどうやらまだ軽いらしい。
リリオンの身体に流れる巨人族の血に依るものか、金剛石のよう
な身体能力だ。その金剛石は迷宮を彷徨えば、そこに漂う魔精によ
って更に磨き上げられることだろう。
﹁︱︱いや、すごいな﹂
傍観者だったリヒトがゆっくりと拍手をしながら口を開いた。リ
リオンに近づいてその手から剣を受け取り、自分でも確かめるよう
に一度振った。鍛造で鍛えられた腕の筋肉が盛り上がって、鋒が地
面を叩く寸前で静止した。
﹁これは俺が昔に打った剣なんだが﹂
リヒトは恥ずかしそうに頭を掻いて笑った。
87
﹁重心が前に寄り過ぎているんだ。だから、こう身体が泳いでしま
う︱︱はずなんだがなぁ﹂
リヒトは今度は剣を横に薙いだ。するとリヒトが言った通りに、
鋒に引きずられるように上半身がぐらりと揺らいで、靴底が地面を
滑った。鍔と柄頭の飾りは、苦肉の策なのだろう。
﹁坊主の戦鎚も似たようなもんだ。ったく探索者ってのはどいつも
こいつも﹂
苦笑するリヒトにグランが苦い声で呟いた。リリオンはリヒトの
言葉に照れていたが、グランの言葉に急におろおろとランタンに縋
るような視線を寄越した。
重さにして五キロを超えるランタンの戦鎚だが、それはランタン
にとって、探索者にとっては随分と軽い部類の武器に入る。だがそ
れは魔精によって身体能力を上昇させた探索者故のことであって、
普通の人間では五キロというのは容易に振るうことが出来ない重さ
である。そんな武具を扱う職人たちの苦労は計り知れない。
﹁グランさん、一番重たいのってどれですか?﹂
﹁重いっつってもなぁ、ウチは武器屋じゃなくて武具工房だぞ。何
でもかんでも揃ってるわけじゃぁねぇよ。注文してくれりゃ別だが
な﹂
﹁親方、まぁいいじゃないすか。リリオンちゃん次はこれを﹂
リヒトがリリオンに剣を渡し、ランタンの横に並んだ。
﹁⋮⋮だがまぁリリオンちゃんには軽いだろうな﹂
リヒトは自分が両手でヨイショと持ち上げた剣を、片手でひょい
と持ち上げたリリオンを見て小さく呟いた。リリオンに渡されたの
は両手剣だ。鎬の部分が盛り上がって厚くて、どこか鉈のような雰
囲気もある無骨な両刃の剣である。刃渡りは一メートルを超えて、
鋒だけが柔らかく反っている。
﹁しッ︱︱!﹂
リリオンの放ったその斬撃は今までで最も鋭い。横に薙いで切り
返し、切り落とす。踏み込んで鋒を突き上げるように跳ね上げて、
88
そのまま頭から一刀両断するように振り下ろした。危なげなく地面
フラストレーション
すれすれで急停止した鋒で旋毛風が巻き起こり、地面を払った。
それは行き場のない欲求不満を発散しているようにも見えた。
﹁グランさん、ちょっといいですか?﹂
ランタンが腰から戦鎚を外しながら尋ねると、グランは何かを察
したのか小さく頷いた。ランタンは、ご迷惑をお掛けします、と頭
を下げて、手の中で戦鎚をくるりと回した。
﹁靴替えな、リリオン。軽く手合わせしようか。相手がいたほうが
やりやすいでしょ?﹂
﹁え、でも。ランタン⋮⋮﹂
リリオンは視線をランタンとグランの顔を交互に移動させて、困
ブー
っているようだったがランタンはただ頷いてみせて有無を言わせな
ツ
かった。リリオンは買ったばかりの背嚢から、買ったばかりの戦闘
靴を取り出して古びた靴からそれに履き替えた。
脛の半ばまでを覆う黒革の戦闘靴は、その爪先を艶のない黒色の
金属で補強してある。ランタンが履いているものと同じ工房の品だ
たすき
った。リリオンはそれに加えて、リヒトが気を利かせて用意してく
れた襷でひらひらと腕にまとわりつく裾と、腰の余った布を絞った。
そこまで用意したくせにリリオンはいざ剣を構えると迷っている
ようだ。鋒がまるで風に煽られる羽根のようにフラフラゆらゆらと
揺らいでいる。もしランタンを傷つけてしまったら、などと考えて
いるのだろう。その躊躇が透けて見えた。
その心配は当たり前のものだ。だがあえてランタンは意地悪く口
元を歪めた。
﹁僕のことちょろいとか思ってる?﹂
﹁︱︱ちがっ﹂
﹁斬れると思ってるから、ヤルのが怖いんだろう﹂
﹁ちがう!﹂
﹁じゃあ本気で来なっ﹂
ランタンはそう言うと、音を置き去りにするように地面を蹴った。
89
地を這うように体勢は低く、リリオンの構えた剣の鍔元に突き上げ
るような蹴りを放った。戦鎚を振るったら武器を砕くことは出来た
だろうが、目的はリリオンの戦闘能力の測定だ。武器を破壊しては
元も子もない。
ランタンの見え透いた挑発に、リリオンは気がついたわけではな
さそうだったが、本気になっていた。ビリリと痺れる手を押さえつ
けて、鋒を油断なくランタンに向けた。だがまだ甘い。リリオンは
本気で守ろうとしているだけだ。
ランタンは振りぬいた蹴り足の勢いのまま腰を切って、風車のよ
うに回った。跳ね上がった逆足の踵が剣の鎬を捉えてリリオンの身
体が大きく後ろに仰け反った。
当てはしない。だが殺意を込めて。
リリオンの鼻先を風が舐めるように振るった戦鎚は、しかしその
旋風をリリオンの顔に浴びせることすらなかった。本能がそうさせ
たのかリリオンははじけ飛ぶように後退して、少しだけ泣きそうな
表情で、奥歯を噛み締めながら剣を突き出した。
ぼっ、と大気に穴が穿たれた。鋒が霞むほどの鋭さで繰り出され
たリリオンの突きは、しかし戦鎚の柄を滑るようにランタンよって
逸らされた。だがリリオンは力の逃げる先を、力ずくで無理矢理に
変えた。そのまま吹き飛ばすような勢いで横に薙いだ。
﹁っ﹂
ランタンは自ら後ろに跳んで余裕を持って後退し、さらに追撃さ
れる振り下ろしを避けた。一呼吸置く間もなく、バネ仕掛けのよう
に跳ね上がろうとする鋒を戦鎚で押さえつけると、動き出しを制さ
れたリリオンは前のめりに体勢を崩した。
﹁よっと!﹂
ランタンは空いた手に拳を作ると、斜め下から突き上げるような
ボディフックを繰り出し、リリオンはどうにか腕を出して拳を防い
だ。まるで撫でるような、ただ当てただけの衝撃にリリオンはもう
ほとんど泣いていた目を驚いたように丸くして、ランタンはその隙
90
にリリオンから距離をとった。
へ
本気を出せばリリオンの腕ごと肋骨を押し砕き、内臓を破裂させ
て、背骨を圧し折ることも出来る。だが当たり前だがそんなことは
しない。リリオンに本気を出させるためとはいえ、戦鎚の一撃はや
り過ぎだったようだ。
ランタンがバトンのようにくるりと戦鎚を回してみせると、リリ
オンは照れたような怒ったような顔をして濡れた瞳を拭った。
﹁さて気楽に行こう、本気の遊びさ﹂
ランタンは気取ってリリオンを指先でちょいと手招いた。
リリオンは随分とリラックスしている。頬を膨らませまた押さえ
つけるような大きい深呼吸を繰り返して、息を吐ききった瞬間に地
面を蹴った。瞳がまっすぐランタンを捉えている。
振るわれた剣は先程より鋭く、そして滑らかだ。斬り落とし、袈
裟斬り、薙ぎ、逆袈裟斬り、斬り上げ、突き。剣筋はそのどれもが
必殺と言っても過言ではない勢いが込められている。だというのに
もかかわらず、避けられても止まることなく連続して繋がっていく。
恐ろしいほどの膂力に物を言わせた戦い方だ。慣性の法則を力任
せに引きちぎっている。
い
ランタンはその剣撃の暴風を観察するかのようにギリギリまで引
きつけて躱し、躱しきれないものは戦鎚で往なした。戦鎚でまとも
に受けようとすると、リリオンの勢いに剣の鋼が負けて砕けてしま
う。
遊びに変わってからのリリオンの動きは、先程までとは段違いだ
った。ランタンの実力を信じ込んだ為、遠慮が一つもない。ランタ
ン自身が仕向けた結果だが、思っていた以上の集中力を要する。
ランタンはゆっくりと神経が削れていくのを感じた。だがその甲
斐もあったというものだ。リリオンの戦い方は、少なくともがむし
ゃらに剣を振り回しているだけのものではない。
ランタンは大振りな横薙ぎをするりと躱すと、切り返しが来る前
に剣の腹に掌底を浴びせた。振り抜いた剣がランタンの打撃によっ
91
てさらに加速してリリオンの身体を引っ張った。リリオンの胴体は
まるごと無防備だ。
﹁よい、しょっ!﹂
ランタンは潜りこむようにリリオンに接近して、無防備な腹に膝
蹴りを放った。だが当たる瞬間にリリオンは隙間に左手を差し込ん
でこれを防御する。リリオンはそのまま左手を振り払ってランタン
から距離をとる。
予想通りだ。ランタンはちろりと乾いた唇を舐めて、一転して攻
め始めた。リリオンが体勢を立て直す前に間合いを詰める。構えた
剣のその先端を払った。
くじ
戦鎚での攻撃はあくまでも牽制にすぎない。リリオンがどうにか
攻守を交代しようとするところを挫くように剣を叩き、隙を見つけ
出してはそこに格闘攻撃を滑りこませる。
﹁ひ、はぅ、やっ﹂
完全に後手に回ったリリオンはランタンの攻撃をどうにかスレス
レで躱し、防御している。
リリオンは剣を構えた右側ではなく、体の左側をランタンに差し
出している。今もまたランタンの中段蹴りを左腕で払った。それは
刃でランタンを傷つけまいとする配慮ではなく、リリオンの癖だっ
た。
ワンハンドソード
工房に歩いてくる際にリリオンは言っていた。剣をどうにか片手
で扱えるようになった、と。それは使用していた武器が片手剣だっ
たから、片手で扱おうと思ったのではないだろう。左手を開ける理
由があったのだ。例えば盾を装備するために。
﹁そぅれっ!﹂
ランタンは鋭く、けれど軽く戦鎚を突き出した。リリオンはそれ
を左手の掌で受け止めて、脇へ逸らした。ランタンの右半身が開い
て、そこに活路を見出したリリオンが剣を振り下ろした。
﹁はい、終了﹂
﹁⋮⋮え?﹂
92
ランタンはまるで握手でもするかのような気軽さでリリオンの右
手を剣の柄ごと握って、振りを止めていた。初動を制されたリリオ
ンはまるで理解が追いついておらず、目をまん丸にしてぽかんとし
ていた。ランタンはそんなリリオンの掌からするりと剣を抜き取っ
た。柄にリリオンの熱気が残っている。
ランタンは剣を手放すと背嚢から水筒を取り出し一口それを呷る
とリリオンへと放り投げた。
﹁ありがとぅ⋮⋮﹂
リリオンは疲れた様子で水を飲み、襷を外して、濡れた唇を拭っ
た。そのままばさりと裾をはためかせて扇ぎ、服の中に空気を取り
込んでいた。ランタンが、はしたない、と注意をしようとすると、
リリオンはそれを察したのか裾から手を離して、手を閉じたりに開
いたりを繰り返した。
最後の戦鎚を受け止めた左手が痺れているようだ。
﹁あたりまえだよ﹂
ランタンは呆れを込めて呟いた。手加減をしていたとはいえ戦鎚
は質量の塊だ。速度がそれほど乗っていなくとも、下手をすれば手
の甲に罅ぐらいは入っている。ランタンはリリオンの手を取って、
表情を伺いながら掌を揉んだ。
﹁痛い?﹂
﹁︱︱ううん、だいじょうぶ﹂
手の真ん中から花が咲くように赤さが広がっている。痣になるほ
どではない、ただ少し熱を持っているだけだ。掌だけではない、前
腕にもいくつか赤斑が浮かび上がっている。肌の色が白いので桃色
が赤に見える。ランタンの手足を受け止めた証だ。
その手段はどうであれ、実際リリオンはよくやった。
﹁いやー、すごいな二人共!﹂
壁際で傍観していたリヒトが今にも口笛を吹きそうな声で騒いだ。
その隣のグランは鉄を品定めするような真剣な目つきになっている。
﹁すいません、迷惑をお掛けしました﹂
93
﹁いやいや、探索者同士がちゃんと戦ってるところなんて中々見れ
ないから、いいもん見せてもらったよ。酒場でなら酔っぱらいが腐
るほど騒いでるんだけどなぁ﹂
リヒトは無精髭を指の腹でゾリゾリと鳴らしながら大きく笑った。
千鳥足の酔いどれ共が暴れている様子は街の酒場ではたまに見かけ
ることがある。その多くは酒の席での余興に過ぎなく、度が過ぎる
前に酒に飲まれていない探索者たちに止められることとなるのだ。
先のランタンとリリオンのそれも余興程度でしかないが、探索者の
秩序有る戦闘を見る機会など殆ど無い。
﹁⋮⋮ったく、用意すんのはむしろ盾のほうだったな﹂
グランもリヒトのように髭を撫でながら呟いた。血は繋がってい
ないが長年の師匠と弟子の関係がそうさせるのかその仕草は驚くほ
ど似ている。
﹁えぇそうですね。リリオン、あれがリリオンの戦い方?﹂
リリオンはおずおずと頷いた。
左手に盾を持って、右手に剣を持つ。左半身を前に出して、足は
地面に対してベタ付けで、それでいて重心はやや前に置く。相手の
攻撃は受け止めると言うよりは受け流し、あるいは盾を打ち付ける
ように押し返す。そうして相手の身体を崩したところに、必殺の一
撃を叩き込み、外したとしてもその馬鹿げた身体能力によって体勢
は崩れない。
ランタンはリリオンを速度重視の軽戦士かと思っていたが、リリ
オンの類稀な反応速度は相手の攻撃を見極めて捌くためのものであ
るらしい。
﹁あぁ⋮⋮まったく﹂
不意にランタンは溜め息のような言葉を吐き出して、まだ荒く息
を吐き、頬を上気させたリリオンの横顔を眺めた。そんなランタン
に、グランがにぃと歯を剥いて笑いかけた。
﹁どうした坊主、惚れたか?﹂
ランタンは自分がどんな表情でリリオンを眺めていたのかはわか
94
らない。だがそんな間抜けな顔をしていたつもりはない。ランタン
は憮然としてグランを一瞥した。
﹁そんなんじゃあ、ないですよ﹂
﹁あぁそうかい﹂
﹁︱︱それで盾のことですが﹂
﹁だからうちは武器屋じゃねぇっつってんだろ。そうぽんぽんとは
出てこねぇよ。しかも嬢ちゃんのスタイルだと大型の盾がいいだろ
う? 一から仕立ててもいいが︱︱﹂
正直な所、ランタンはそれでもいいかもしれないと思い始めてい
た。出費は予定よりも大幅に超えてしまうだろうがリリオンの能力
にはそれだけの価値があると思った。だがそれでは装備が作り上が
るまでにかなりの時間を要するだろう。
それは本意ではない。
リリオンは迷宮に潜りたがっていたし、ランタンもまた迷宮を求
めていた。ランタンは最低限の休息だけを取るだけで、他の探索者
よりもかなりのハイペースで探索を続けていた。こんな風にゆっく
りと買い物をするのも久しぶりだ。
﹁親方、あれはどうすか? テオが投げ出したあの大盾﹂
﹁あぁ? リヒトてめぇ、不完全なもんを客につかませる気かよ﹂
テオとは確かリヒトの弟弟子だったはずだ。まだ若くなんとなく
ヤンチャな雰囲気をしていたのを覚えている。
﹁俺が仕上げをやりますよ、あのまま放って置いても鋼がもったい
ない﹂
リヒトはリリオンに向かってニカっと笑いかけた。
﹁リリオンちゃんが気に入ったらね。とりあえず持ってきます﹂
笑いかけられたリリオンはどうしていいか分からないようで困っ
た笑顔をどうにか返すのが精一杯のようだった。リヒトは駆け足で
その盾とやらを取りに向かい、グランは大きくため息を吐き出した。
﹁物が良ければ買いますよ?﹂
﹁うむ⋮⋮あぁすまんな。だが最初からいいもん持たせるのもどう
95
よ、嬢ちゃんはまだ成長期だろう? 靴みたいに入らなくなるって
こたぁねぇが、すぐに物足りなくはなるぜ﹂
﹁いい物なんですか?﹂
ランタンがグランの言葉から一節を抜き出すと、グランは少しだ
け難しい顔をした。
﹁悪くはねぇが、人を選ぶ﹂
グランは言葉を切ってリリオンを見据えた。リリオンは変わらず
に困った顔をしている。
﹁⋮⋮いや、むしろ嬢ちゃんならいけるのか?﹂
カムフラージュ
リリオンはランタンの目から見ても色々と規格外なので、グラン
が言い淀んだのも理解が出来た。あの細腕が擬態となって、その本
質を見抜くのが難しい。
﹁まぁ見たほうが早いな﹂
しばらくしてリヒトは抱えるようにしてそれを運んできた。奥歯
を噛んだその表情と、盛り上がって微細に震えるその筋肉が、それ
の重さを物語っていた。
それは大きな方盾だった。
﹁お待たせっ、と﹂
リヒトは足の上に落とさないように気をつけながら盾を下ろした。
それは一枚の厚い鋼を棺型に形成した盾だった。盾の内側には持
ち手が二つ付いていて、握りこむことも腕にはめ込むことも出来る。
またそれは盾でもあり、鞘でもあった。盾の上部から白染めの革
が巻きつけられた柄が覗いている。
﹁リリオンちゃん、どうだい?﹂
﹁遠慮せずに持たせてもらいな﹂
﹁うん⋮⋮じゃあ﹂
リリオンはリヒトから盾を受け取ると、片手でそれを持ち上げて
みせた。それを見て三人が唸った。盾はランタンの身長に近いほど
の大きさが有り、構えるとリリオンの身体はすっぽりと覆い隠され
てしまう。
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﹁少しだけ、⋮⋮重い、かな?﹂
リリオンはそう言ってはいたが、盾を押し出し、振り回してみせ
る様にはまだ余裕がある。ランタンが指示をして剣を抜くと、また
圧巻だった。鞘から顕になった剣は両刃の大剣だ。刃渡りだけで一・
五メートルほどは有るだろうか、身幅はやや幅広で鋒は扇状に丸み
を帯びた特徴的な形状をしている。リリオンは剣を抜き取った分だ
け軽くなった盾を軽やかに操り、組み合わせて繰り出される剣撃は
断頭台の一撃を思わせた。
不意にリリオンが動きを止めて、ちらりとランタンを伺った。視
線が合うとリリオンはその視線を下へと逸らした。
﹁どうしたの、リリオン?﹂
﹁⋮⋮そんなに見られると、恥ずかしいわ﹂
そう言われてランタンはかっと頬が熱を持つのを感じた。ランタ
ンは確かに瞬きするのも忘れてリリオンを眺めていた。リリオンに
は荒削りな部分がまだ沢山あったが、しかし動きを一つ確かめる度
にそれが少しずつ改善されていくのだ。まるで職人が原石を磨きあ
げて一つの宝石を創り出すように。
﹁あー、ごめん⋮⋮﹂
ランタンは一つ咳払いを吐き出して、なんとも生ぬるくなった場
の空気をかき混ぜた。グランに続いてリヒトまでもがランタンをか
らかうような目つきで眺めていたが、それはもう無視するしかない。
下手に突っかかっていっても得をすることはない。
﹁リリオン、それで、そいつはどうだい?﹂
リリオンは剣を盾にしまって、満足するように一つ頷いた。
﹁とてもいいわ。少し重たいけど、すぐに慣れると思う﹂
﹁よし、じゃあ決まりだ﹂
ランタンも頷き返し、工房の二人へと視線を送った。
﹁⋮⋮でもこんなにいい物だと﹂
方盾はランタンには判別がつかないが未完成であるらしい。それ
をリヒトがリリオン用に仕立て上げ完成させるのだという。半特別
97
注文品と言うような半端な品だが、武器屋に並ぶような大量生産品
と比べれば値段ははるかに高くつく。
﹁それだけの価値が有るよ﹂
ランタンはリリオンの瞳をまっすぐに捉えた。もう既にこれを買
うことはランタンの中で決定していた。リリオンの盾と剣を持って
構える姿は実に馴染んで様になっており、また華があった。
それはポーチに収められた金貨の輝きよりも、ランタンにとって
は魅力的なものだった。
98
008
008
金銭的な交渉をどうにか終えて工房を後にすると街はもう日が落
ちていた。橙色の光を灯す街灯が通りの脇に等間隔で並んで、道行
く人々の影を地面に淡く焦がしている。
財布の中身は随分と軽くはなったが、だがあの方盾を購入する、
と決めた瞬間に予想した軽さよりは幾分も余裕のあるものになった。
結局のところあの方盾はグラン工房にとっては不良在庫のような
ルーキー
ものであったし、それを即金で買い取ったランタンは工房にとって
上客でもあった。リリオンが探索者として期待の新人であることを
ガチョウ
存分に見せつけたのもまた、その商談を有利に運ぶことに役立った。
稼ぎのいい探索者は金の卵を生む鵞鳥に似ている。囲い込むことが
できればこれほどの幸運はない。方盾は明日の夕方までにはリヒト
が責任をもって仕上げるとの事だった。
そんな事もあってランタンからグランへと渡された金貨の枚数は
パニック
想定よりもだいぶ枚数が少なかった。だが、それを見たリリオンは
混乱を引き起こした。それまでの買い物はリリオンが遠慮しないよ
うにと支払いを見せてこなかったのも問題だった。盾の支払いに使
われた大金貨は、額面が大きすぎるので普通の生活を営んでいると
よっぽどの事がなければ使用する機会はないものだ。
とは言え探索者をするにはこんなことで混乱してもらっては困る。
ミドルクラス
リリオンに買い与えた盾は駆け出しの探索者が使用するには確かに
申し分の無いものだが、せいぜい中位の探索者が使用する程度のも
のだし、飲んでお終いの魔道薬などでもより高額のものも存在する。
節制は美徳であるとランタンも思っていたし、無駄遣いは改めるべ
きだが、必要な物に必要な金額を支払うこととは別の話だ。
99
別の世界で生まれ育ったランタンも常識の有る方ではなかったが、
リリオンもまた似たようなものだった。
クォーター
ジャイアント
この少女はどのような生活を送ってきたのだろう、とふと思った。
小半巨人族の少女。グランが言っていたような北の果てに在るとい
ハーフ
う巨人族の国からやってきたのか、それともまた別の国で育ったの
か。両親のどちらが半巨人族なのか。二人によって育てられたのか、
あるいは片方に引き取られたのか、養子に出されたのか。なぜ旅に
出たのか。
疑問は多くあったが、ランタンはそれを尋ねなかった。半生を根
掘り葉掘り聞くにはまだ出会ってからの時間が足りていなかったし、
聞いてもあまり愉快な事にはならないだろうという予感はあった。
レストラン
ランタンとリリオンは夜市を歩いていた。昼の明るい喧騒とはま
た別の猥雑な賑わいがそこにはある。
ランタンはその喧騒から抜け出し落ち着いた雰囲気の飲食店にで
も入ろうかと誘ったが、リリオンがその店構えに物怖じした。方盾
を買うことはどうにか納得させたが、リリオンはランタンに金銭を
使わせることに敏感になっていた。高級店ではなかったが、古くか
ら存在し良く手入れされた店構えはそれなりの雰囲気がある。
空腹も疲労も多少はあったが、嫌がる少女を無理やり引きずり込
む程ではないし、夜市の屋台飯も悪いものではない。支払いが銅貨
ならば、リリオンの気兼ねも少なくてすむようだ。それでも健啖家
ジュース
の少女にしては遠慮がちだった。
リリオンは 果実水を片手に鳥のもも肉に齧り付いている。焦げ
た皮がパリパリと音を立ててその下から脂と肉汁が溢れ、唇から顎
に向かって汁が顔を汚した。
﹁服汚れるよ﹂
ランタンはリリオンの横顔に手を伸ばし乱暴な手つきでそれを拭
い、汚れた親指をちろりと舐めた。塩の効いた油の味だ。リリオン
はまるで自分の頬を舐められたかのように羞恥している。世話を焼
かれるのは恥ずかしいのに、頬をリスのようにして食事をする様を
100
見られるのは平気なのか、とランタンは思った。
リリオンは、ありがとう、とでも言っているのだろうが、口に肉
が詰まったままなのでモハモハと言葉にならない声で喘いでいる。
ランタンはそれを聞き流しながら、刻んだ干し肉と香味野菜が入っ
た粥をスプーンに掬って少し冷ましてから口に運んだ。出汁がよく
効いていて旨い。
﹁ねぇランタン⋮⋮﹂
﹁ぅふ?﹂
口の中で粥が熱を放っている。ランタンは鯉のように口を半開き
にしてリリオンを見上げた。大振りのもも肉はもうほとんどが骨に
変わっていた。リリオンは口の中で軟骨を飴のように舐めている。
﹁ランタンは、どうしてわたしに優しくしてくれるの?﹂
﹁やさしい? 僕が?﹂
ランタンが聞き返すと、リリオンは頷いた。そしてランタンは眉
根を寄せて唸った。
自分がリリオンにしたことはなんだろう、とそう思い返した。保
護して、洗って、衣服を用意して、飯を食わせた。確かに見ず知ら
ずの人間にするようなことではなく、同情にしては金額が高く付い
ポーター
ている。だがそれを、甘い、とは思うが、優しさかは分からない。
﹁わたし、ランタンの運び屋になりたいって、そう思ったとき⋮⋮
こんな風に色々用意してもらえるなんて、考えもしなかった﹂
リリオンは重たげな背嚢を揺らした。
﹁今までみたいに、あの格好のままで迷宮に潜ることに疑問なんて
なかったわ﹂
あの格好に愛着があったとか、満足をしていた、と言う話ではな
い。リリオンにとってはあの境遇が普通のことだったのだ。リリオ
ンは変化に戸惑っているようだった。
﹁あんな格好でついてこられても、足手まといになるだけだよ﹂
それがリリオンの求めている返答ではないことはランタンも判っ
ていたが、適当な答えは見つからなかった。ランタンは器に口をつ
101
けて粥を犬食いすると、ゆっくりと熱っぽい息を吐きだした。
正答ではないが、誤答でもない。リリオンを装備で固めたそれは、
理由の一つだった。
ランタンは単独探索者だったが、二人以上で迷宮に潜るのなら、
そこから這い出るのもまた二人で行うべきだと考えていた。ランタ
ンが探索中の迷宮は攻略においてある程度の余裕を取ってはいるが、
低難易度のものではない。
リリオンの身体能力だけを評価するのならば迷宮探索にも足りう
るだろうが、不測の事態というものは往々にして存在する。ランタ
ンも気を付けるつもりではあったが、装備によって生存率が上がる
のならばそれに越したことはない。
﹁探索には明後日行くよ﹂
﹁ほんとう!?﹂
サベージャー
ランタンが告げるとリリオンは手を叩いて喜んだ。
明後日というのは引き上げ屋との契約だった。それをずらすには
アタック
違約金を払わなければならなかったし、タイミングが合わなければ
迷宮への挑戦がズルズルと先延ばしになってしまう。明日の内に探
索者ギルドへ行ってリリオンを登録し、仕上がった武具の具合を確
かめなければならない。
﹁あっ︱︱﹂
﹁どうしたの?﹂
引き上げ屋に、迷宮へ降ろす人間が一人増えたことも告げなくて
はならない。追加料金は幾らになるだろうか。ランタンにはそれを
支払った経験がなかったが、ポーチに有る残高にはまだ余裕がある。
ランタンはちらりと時計を確認して、恐らくはまだ引き上げ屋が
営業していることを確かめた。引き上げ屋は迷宮特区の外周沿いに
店を構えていて、目抜き通りからは距離がある。急いだほうがいい
かもしれない。
﹁引き上げ屋?﹂
﹁うん、通りから外れるから、まだ食べたいものがあったら買って
102
おいで﹂
リリオンはすっかり骨だけになったもも肉の残骸に目を落とし、
ランタンから与えられた銅貨を握り締めて頷いた。ランタンは空に
なった粥の器をリリオンに捨ててくるように頼んで、視界外にまで
行かせるような真似はしないが、リリオンを一人で買い物に行かせ
た。
通りの屋台を左右にキョロキョロしている様子はいかにもなお上
スリ
りさんだ。ランタンはリリオンがちゃんと出来るかどうかも見てい
たが、それ以上に掏摸や何かに目をつけられないかを気をつけてい
た。下街ならば掏摸を見つけたら物理的にぶっ飛ばしてお終いだが、
上街のこんな人目のある場所でそんなことをしたら衛兵がすっ飛ん
でくる。
とは言えリリオンから盗めるものなどたかが知れている。背嚢の
中に収められた探索用の装備は掏り取るには大きすぎたし、彼女の
全財産は掌の中に握りしめられた数枚の銅貨しかない。その銅貨も
たった今、クレープと引き換えられた。
﹁おまたせ、ランタン。ちゃんと買えたわ! ほら!﹂
小走りに戻ってきたリリオンは両手に一つずつ持ったクレープを
ランタンに見せ付けた。円形の薄焼きパンの中に小間切れにした豚
肉とじゃが芋、そしてチーズを乗せて三角錐状に丸めてある。胡椒
の刺激的な香りが、つんと鼻を擽った。
﹁はい、一つはランタンの分よ﹂
そう言ってリリオンはランタンにクレープを一つ押し付けた。う
まそうだな、と思った心の内を見透かされたようで、ランタンは思
わず受け取ってしまった。暖かくてパンの生地自体はしっとりとし
ている。
﹁ありがとう、リリオン﹂
﹁どういたしまして﹂
ランタンから渡した小遣いで買ったクレープということも有り、
リリオンは冗談めかして気取って言った。それからクスクスと笑っ
103
て、クレープに齧りついた。溶けたチーズが糸を引いた。
ランタンもクレープを齧りながらリリオンの手を引いて通りから
抜けだした。リリオンもだいぶ人混みには慣れたようだったが、食
べる、と、雑踏を歩く、の二つのことはまだ同時進行は出来ないよ
うだった。
リード
ランタンが一歩前に、リリオンは後ろを歩いた。リリオンはクレ
ープに集中していて歩調が遅く、首に繋いだ引き紐のように手を引
くと小走りになってランタンの横に並ぶ。
何度かそんなことを繰り返しながら人混みを抜けるとランタンは
一息吐いた。道行く人の数が減っていくと、通りの脇の街灯の間隔
が広くなり、道の幅が狭くなった。薄暗闇の中を進んでいく。
なんとなく手を離すタイミングを逸してしまった。道幅は狭くな
ったが、それ以上に人気がなくなり人にぶつかるような事はないし、
暗闇も足元が見えないほどではない。通り道が入り組んでいて道に
迷うこともなく、ただ真っ直ぐに迷宮特区の外壁を目指せばいいだ
けだ。
もうリリオンの手を引く理由はない。だがまた離す理由もない。
ランタンがリリオンの顔を見上げると、リリオンは無邪気に笑い
かけた。
﹁これ食べる?﹂
リリオンはすっかりクレープを食べ終えており、ランタンは半分
ほどを残していた。クレープは美味しいのだが、たっぷり油の乗っ
た豚やホロホロしているジャガイモはランタンの胃に重たい。
﹁いいの?﹂
﹁いいよ、もうお腹いっぱいだし。はい﹂
﹁わぁ、ありがと﹂
リリオンはまだ熱の残るクレープを嬉しそうに受け取ると、それ
に齧りついた。クレープの生地は中身の油と水分を吸ってずいぶん
と萎れ、包みが崩れそうになっていたがリリオンは器用に首を傾け
て齧ることによって、崩壊を防ぎ止めた。
104
ほど
両手を使えばもっと簡単にすむ話なのだが、リリオンは手を繋い
だままにしていたので、ランタンも敢えてそれを解かなかった。
程なく迷宮特区の外周壁の威容が顕になった。
見上げると押し潰されそうな圧迫感を有する白亜の壁。迷宮特区
の外周壁は恐ろしく分厚く、背が高く、継ぎ目なくぐるりと正円を
描いて、その内に迷宮を内包している。
外周壁に開けられた穴は四つ。東西南北に一つずつ備えられた巨
大な門で、その内の東西は緊急時にのみ開放されるらしく、ここ何
十年も閉ざされたままだ。通行できる門は南北の二点しか存在しな
い。上街と下街に一つずつだ。
そして外周壁と向かい合うように左右にずらりと引き上げ屋が軒
を列ねている。
﹁これ全部、引き上げ屋?﹂
リリオンが左右を見渡して、軒先にぶら下がった看板を指差した。
ランタンも数えたことはないがおそらくは百軒近くはあるだろう。
特区の中には数多くの迷宮が内包されて、またそれに挑む探索者の
数を思えばまだ少ないほどだ。事実、外周壁の向かいに店を構えて
いる引き上げ屋は一等地に店を構えることが出来た幸運な店であっ
て、この近隣にはまだ多くの引き上げ屋がひしめき合っている。
ランタンはリリオンの手を引きながら外壁に沿って歩きはじめた。
多くの引き上げ屋はまだ営業をしており扉の覗き窓からは灯りが
溢れていたが、ちらほらと営業を終了している店もあり光の筋が歯
抜けになっていた。ランタンが懇意にしている引き上げ屋はどうだ
ろうか。営業の開始時刻は決まっているが、終業の時間はまちまち
だ。さすがに日の出ている内に閉まるということはないが、客の入
りが悪い日は驚くほど早くに営業を終了していることもある。
﹁あぁよかった、やってるやってる﹂
﹁あそこ?﹂
﹁そうだよ﹂
ランタンの視線の先をリリオンが指差した。その指の先には蜘蛛
105
の輪郭を繰り抜いた看板がぶら下がっていて、その下にある扉から
クレーン
は灯りが漏れていて営業していることを告げている。
引き上げ屋の店舗は営業詰所とその脇に起重機をしまう倉庫が並
ぶと言う形態をとっている。引き上げ屋にとって起重機は最重要の
仕事道具であり、これを失うことは店じまいと同意だ。なので倉庫
は大きく立派で、その脇の詰所は必要最低限の大きさしかなくこぢ
んまりとしている。
ランタンはようやくリリオンの手を離して、詰所の扉を開いた。
カウンター
﹁いらっしゃい﹂
受付台には女店主である蜘蛛人族が座っていた。名前をアーニェ
と言う。
濃い光沢のある緑の髪を片目を覆うように物憂げに垂らして、六
本三対となっている腕の一番下の腕を机の上に組んでいかにも暇そ
うに顎を乗せていた。眉間に縦二列で並んだ小さな六つの眼と、眉
の下で二個一対の大きな瞳がそろりとランタンに向いた。
﹁こんばんは、ランタンくん。こんな時間に珍しいわね︱︱﹂
﹁どうも﹂
なら
小さく頭を下げたランタンの、その奥にアーニェの瞳が向いた。
アーニェに見つめられたリリオンはおどおどとランタンに倣って頭
を下げた。
﹁︱︱あら、本当に珍しい﹂
それを見たアーニェが組んでいた腕から顎を浮かせて、体を起こ
し、全ての腕を広げてわざとらしく驚きを表してみせた。アーニェ
は柔らかく瞳を細めて一つ笑った。
﹁こんばんは、お嬢さん。それで今日はどんな御用かしら?﹂
﹁明後日の探索に、一人追加で﹂
ランタンはリリオンを指さして手招きをした。相変わらずランタ
ンの背に隠れるようにしているリリオンをアーニェの前に導いた。
﹁あぅ、よろしく、おねがいします!﹂
リリオンはアーニェの視線から逃げるように、腰を直角に折り曲
106
げて頭を下げると、三つ編みが勢い良く跳ね上がって鞭のように弧
を描いた。
﹁お客様なんだから、そんなに畏まらなくても構わないわよ。お嬢
さん、⋮⋮お名前は?﹂
﹁リリオンです﹂
﹁リリオンちゃんって言うの、可愛い名前ね。私はアーニェよ、こ
れからもよろしくね﹂
こ
アーニェは椅子から立ち上がると、臍のあたりで落ち着かなげに
指を捏ねているリリオンの手を優しく掴んで、真ん中の右手で柔ら
かく握手をした。頬の肉がうっすらと持ち上がり唇に優雅な微笑を
浮かべている。
数多ある引き上げ屋の中で外周壁沿いに店を構える女の笑みだ。
母性的でもあり、どこか魔性も香る。皺のない目元から滑るように
視線がランタンを捉えた。
﹁ランタンくんの予約は明後日の一四〇〇時ね。場所は二六二番、
リスト
担当はミシャ。間違いはないわね﹂
アーニェは束になった予約者表をざっと捲り、一瞬で次へと送ら
れる書類の一枚一枚を八つの瞳が次々と捉えてゆき、書類の中から
手品のようにランタンの予約者表を見つけ出した。
﹁はい、間違いないです﹂
アーニェは書類に何事か書き加えながらも、顔をそちらに向ける
ことはない。蜘蛛人族の八つの瞳は伊達ではなく、その視野は例え
ランタンの顔を見つめながらでも書類仕事をなんなくこなす。完全
な背面以外は殆どを視野内に収めているだろう。
﹁リリオンちゃんのギルド証はある?﹂
﹁あっ、あの﹂
﹁⋮⋮この子のギルド証はまだありません。明後日までには登録を
すませておきます﹂
口を開こうとしたリリオンを軽く制してランタンが口を挟んだ。
特区の迷宮に潜るには探索者ギルドの許可証が必要になる。これを
107
保持せずに迷宮に潜ったことが見つかれば法的に罰せられ、また引
き上げ屋を使用して迷宮へ潜る場合は確認を怠った引き上げ屋にも
同様に罰が下される。
﹁ランタンくんなら、まぁ大丈夫よね﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁いーえ、はいじゃあ確認をお願い﹂
ランタンは何が書いてあるのかわからない書類にざっと目を通し
て、リリオンもそれを確認するように促した。ランタンとは違いリ
リオンは文字を読めるようで真剣な顔で、時折頷き、鼻息をふんふ
ん言わせている。
その脇でランタンは一人分の追加金をアーニェに支払った。
﹁ふふ、ありがと。そういえばミシャはまだいるけど会っていく?﹂
﹁うーん、仕事中なら悪いですし、いいですよ﹂
﹁あら、つれないのね。顔合わせも大切な仕事よ、遠慮することは
ないわ﹂
アーニェは、すぐに戻るわ、と席を立つと詰所の奥へと引っ込ん
でいった。
受付に取り残されるとどうにも居心地が悪い。信用されていると
いうのは悪い気はしないが、大切な書類も今日の売上を収めた金庫
もすぐそこにあることを知っていると、それに何かをするわけでは
ないが肩身が狭かった。
リリオンはずっと書類を読んでいて、ランタンはなんとなしに少
女の三つ編みの房を揉んだ。書類を読むのを邪魔するわけではない。
気づかれないようにそっと掌の上に乗せると、人差し指と親指でそ
れを挟んで弄んだ。
リリオンの髪は随分とふっくらと健康的になっていたが、やはり
毛先には荒れが目立った。束になった毛先には幾つもの枝毛が散見
して、気が付いたからにはどんどんと気になってくる。リリオンへ
の投資に理容代を加えてもいいかもしれない。
そんなことを考えて時間を潰していると、アーニェが出て行った
108
扉ががちゃりと開いて小柄な人影が飛び込んできた。その奥からゆ
っくりとアーニェも続いた。
おかっぱ
小柄な人影はランタンよりも少し背が低く、顎を上げるとそのラ
インで切り揃えられた御河童髪が小さく揺れた。前髪を眉の上でま
っすぐに切り揃えた髪型や丸系の黒目がちなつぶらな瞳は子供っぽ
いが、一文字に斬られたような薄い唇にはどこか酷薄な印象がちら
つく。
﹁おまたせしたっす。こんばんは、ランタンさん﹂
﹁こんばんは、ミシャ﹂
入ってきた勢いそのままに頭を下げたミシャが、その顔を持ち上
げる。アーニェに急かされたのだろうか、ミシャの肩がゆっくりと
大きく上下していて、荒い呼吸をどうにか抑えつけようとしている。
オリーブ
ミシャは倉庫で起重機の点検整備でもしていたのか、身に着けてい
る暗黄色のつなぎに黒い油汚れが転々としていて、右の頬にも、汚
れた手で擦ったのだろうか、薄っすらと墨色の汚れが浮かんでいた。
﹁今日はどんな︱︱? そちらはどなたっすか?﹂
ミシャの登場でいつの間にか書類から顔を上げたリリオンが、そ
トーン
っとランタンの裾を掴んで引き、ミシャはミシャでようやくリリオ
ンに気がついたようで、声の音調が一つ下がった。
﹁ん、アーニェさんから聞いてないの?﹂
ランタンがアーニェへ視線をやると彼女はいたずらっぽく微笑む
だけだった。ミシャは一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに少しだけだ
オーナー
が面白くなさそうな表情を作って口を開いた。
﹁店主からは、残念ながら何も聞いていないっす。紹介してもらっ
てもいいっすか﹂
﹁うん、そうだね。ほらリリオンおいで﹂
特区での探索業をするにあたって引き上げ屋との関係は切り離せ
ないものだ。引き上げ屋がいなければ迷宮に安全に潜ることも、脱
出することも出来ない。優良な引き上げ屋との友好的な関係は是非
にとも結んでおくべきだった。そのためには挨拶は大切なことだ。
109
ランタンは袖を掴んだままのリリオンの腕をそのまま引いて、ミ
シャと向かい合わせた。対面させると身長差がかなり目立ち、ミシ
ャのほうが年上のはずだが逆転してみえた。
だがそれも口を開くまでの事だった。
﹁はじめまして、引き上げ屋のミシャっす。よろしく﹂
﹁⋮⋮あの、リリオンです。⋮⋮よろしく、おねがいします﹂
見上げる立場のミシャは顎を持ち上げて、いっそ胸を張るように
しているので堂々と意思の強さを感じさせた。その反面リリオンは
俯いて、視線を合わせようとせず声も小さい。グラン工房でも思っ
たが、リリオンはずいぶんと人見知りのようだ。
ランタンは同じ人見知り仲間として、リリオンを安心させるよう
に背中を叩いた。だがリリオンはそれが合図かのようにランタンの
袖を掴んで一歩後ろに引いてしまった。
﹁次の、明後日の探索にこの子も連れて行くことになったんだ﹂
﹁えっ!? え、あ、いや。そうなん、すか。急にまた、どうして
?﹂
﹁ほんと急でね、自分でもよく判らないよ﹂
もう何度もランタンを単独で迷宮に送り出してきた経験もあって
かミシャはひどく驚いていた。ほんの先日、彼女に引き上げてもら
レイダー
った時にはそんな気配すらなかったのだから当然の反応なのかもし
れない。
﹁⋮⋮あぁそうだ。あの襲撃者崩れの話﹂
﹁ん、ああアレっすか﹂
﹁うん、聞かせてもらって役に立ったよ。ありがとう﹂
﹁それは幸いっす﹂
リリオンは自分に関係した話をしているとは気がついていないよ
うで、ミシャもまたリリオンがその関係者だとは気がついていなか
った。役に立った襲撃者の話、その結末には基本的に死体しか残ら
ないのだからミシャが気づかないのも無理はない。
だがリリオンとの縁は、もしかしたらミシャとのあの会話から始
110
まっているのかもしれない。ランタンは少しおかしくなって唇に拳
を当てて笑いを噛み殺した。
﹁どうかしたっすか?﹂
﹁どうかしたの?﹂
そんなランタンに二人が同時に尋ねて声が混ざり合い、また視線
も絡まりあった。声をかけるタイミングが重なりあっただけだとい
うのに、まるで肩がぶつかったかのような妙な空気が流れている。
﹁どうもしないよ。それじゃああんまり長居しても良くないし、今
日はもう帰りますね﹂
ランタンは二人の視線の間で絡まっている糸をばちんと切って、
アーニェに声を掛けた。
﹁あらそう? じゃあまたねランタンくん、リリオンちゃん﹂
アーニェは右半身の三つの腕を小さく振った。
﹁ミシャ﹂
﹁はい、何っすか﹂
﹁明後日はよろしく。リリオンは起重機初めてだから、たぶん。⋮
⋮乗ったこと、ないよね?﹂
お節介を焼こうとしたが、なんだか失敗してしまった。
ランタンはそろりとリリオンの顔を覗きこむとリリオンは、うん初
めて、と小さく唇に笑みを作った。慣れないお節介はいまいち締ま
らなかったが、けれどリリオンの答えになんとか面目を保つことは
出来た。
﹁そうなんっすか。じゃあ腕によりをかけないといけないっすね﹂
ミシャは力こぶを作るように腕を折り曲げて笑った。女の細腕だ
がランタンはミシャの起重機の操作に信頼を寄せていた。
﹁リリオンも期待してていいよ。ミシャの腕は確かだから﹂
ランタンが褒めるとミシャは嬉しそうに笑い、リリオンも興味深
く感嘆を漏らした。ランタンはその感嘆の終わり際に、軽くリリオ
ンの尻を叩いた。するとリリオンは鞭を入れられた馬のように前に
出て、ぎこちなく深く頭を下げた。
111
﹁あ、明後日は、よろしくお願いします!﹂
ミシャはリリオンの後頭部を見て、驚いた表情でランタンの顔を
伺い、また後頭部を見た。そして、はい、と一つ返事を返した。
﹁こちらこそ、よろしくお願いします。無事に迷宮へ送り届けるの
で、安心してくださいっす﹂
顔を上げたリリオンにミシャは優しく笑いかけた。ランタンから
はリリオンの表情は見えないが、リリオンはすぐにランタンの後ろ
さす
の定位置に戻ってきた。ランタンはそんなリリオンを褒めるように
腕を擦った。
﹁じゃあもう行くね。また明後日に﹂
﹁はい、また明後日っす﹂
二人に見送られなら扉を潜ると、その扉が閉まるほんの隙間にリ
リオンは恥ずかしそうに小さく手を振っていた。
112
009
009
せっかくおろしたてのぱりっとした探索服に身を包んでいるとい
うのにも拘らず、リリオンの表情は晴れない。
肩で大きく息を吸い込むと、少し震えた様子で絞り出すようにそ
れを全て吐き出した。握りしめられた手から緊張が冷たさとともに
ランタンへと伝わってくる。万力で締め付けられるように手が傷ん
だが、握りつぶされる程ではないので、リリオンを安心させるため
にランタンはそのままにした。
探索者ギルドの建物を前にして足を止めて、それを見上げるリリ
オンの表情はいっそ泣き出しそうでもある。ランタンが手を引っ張
っても足の裏に根っこが生えたように微動だにしない。
﹁ほら、しっかりする。登録なんてすぐ済むんだから﹂
﹁で、でも、もしダメだったら﹂
﹁そんな話聞いたことないよ﹂
ランタンは呆れた表情を作って、尻込みするリリオンの手をさら
にぐいと引っ張った。
金さえ払えば犯罪者だって探索者になれる、などと探索者ギルド
に対する陰口が叩かれるほどギルド証の発行は簡単なものだ。常識
もなければ、文字も読めないランタンが探索者に成れたのだからリ
リオンが成れない理由は思い当たらなかった。
リリオンは引っ張られた手を力強く引き寄せて、そのままランタ
ンに縋り付いた。ランタンの耳元にそっと唇を寄せて、哀れな声で
呟いた。
﹁だって私、⋮⋮巨人族だし⋮⋮﹂
﹁巨人族は探索者になれないの?﹂
113
﹁⋮⋮わからない﹂
視線をすぐ横に動かせばリリオンの表情を伺うことができる。だ
がランタンはそのままどこにも視線を向けず、柔らかくリリオンの
ルール
髪に指を通して、頭蓋の丸みをなぞった。
﹁僕も聞いたことがないよ、そんな規則。他のどの亜人だって探索
者には成れるんだから、だからきっと大丈夫だよ﹂
探索者ギルドはそういった身分、階級、人種、民族、文化、性別
ファンタジック
等々に囚われはしない、とランタンは考えていた。この組織に属す
ビジネスライク
ることになって一年近く、探索者ギルドはその幻想的な名称とは裏
腹に、とても事務的な組織という印象をランタンに与えた。そこに
センチメント
属する個人を見れば例外も存在するが、組織全体をまとめて見ると
感情を挟むことのない、一定の規則によって動いている機械のよう
なものだった。
﹁なるんでしょ? 探索者に﹂
﹁⋮⋮うん﹂
ランタンは頭を撫でていた手をそのまま頬にまで滑らせて、頬を
撫で上げた。涙は流していない。頬は乾いていて、瞳は少し潤んで
いるだけだった。リリオンはその手に持ち上げられるように顔を上
げて、ランタンと顔を見合わせると力強く一つ頷いてみせた。
﹁よし、行くよ﹂
ランタンはリリオンの手を引いて探索者ギルドの扉の前に立つと、
従者のようにその扉を押し開けて、リリオンを先に通した。
エントランスホール
﹁わぁ⋮⋮!﹂
玄関広間に入るとリリオンは天井を見上げて声を漏らした。空間
を贅沢に使った吹き抜けが広がる。空を見上げるように高い位置に
ある天井には芸術的に意匠された星を象った極大の魔道光源が浮い
ている。それはごくゆっくりと自転しながら、熱のない白金の光で
辺り一面を満遍なく照らしている。
﹁入り口で止まるんじゃないよ、邪魔だから﹂
後ろから入ってくる探索者に叱られる前に先んじてランタンが叱
114
り、ため息を一つ吐いてリリオンを引っ張っていく。だがそれもこ
の辺りまでだ。ランタンは繋いだ手を明確な拒絶の意志とともに離
して、隣に、とリリオンを並ばせた。
はた
リリオンは不安そうな顔をしてランタンの袖を摘んだが、ランタ
ンはその手を叩いた。
﹁ここからはもっと堂々と。⋮⋮ほら顔上げて、背筋伸ばして﹂
ランタンが人差し指で挑発するようにリリオンの顎を持ち上げて、
背中を叩いて背筋を伸ばし、真剣な目つきでリリオンの顔を凝視す
るとリリオンの下がった口角はようやく水平な位置まで戻ってきた。
不安な表情はなくなったが、かわりに顔の真ん中に疑問符が張り付
いているようだった。
﹁登録はあっちだよ﹂
ランタンはリリオンを横に連れて、ギルド証発行受付に向かった。
広間を抜けて廊下を進んでいくと様々な人種性別の探索者志望者が
受付を目指している。年齢は中年以上の者も見受けられるが、探索
者は肉体労働なのでやはり二〇歳前後から三〇歳辺りまでの年齢が
多く、リリオンは最年少の部類になるだろう。
探索者になるのは簡単だ。家柄も、学も、あるいは健康な肉体さ
え要らない。必要な物はギルド証発行に必要な金銭だけだ。探索者
としての体裁を整えるにはその他にも諸々の経費がかかるが、とり
あえず探索者になるには幾ばくかの銀貨さえあればそれで事足りる。
そういった理由もあってギルド証発行受付には一般社会に馴染む
ごろつき
ことの出来なかった落伍者たちが再起や、一攫千金を狙って集まっ
てくる。それらは腕に覚えありの破落戸同然の輩も多く含まれてお
いか
り、彼らはそういった輩の例に漏れず頼まれもしないのに己の腕っ
節を見せびらかそうとするのだ。
例えば肩を怒らせて闊歩し、例えば厳つい表情を貼り付けて周囲
を睨みつけて、例えば揃いの服で集団を作り辺りを恫喝し、例えば
気の弱そうな者にちょっかいを掛けて粋がり。
﹁⋮⋮だからね、面倒事を避けるにはある程度、堂々としてたほう
115
がいいんだよ。やり過ぎれば目をつけられるけど﹂
ランタンは観葉植物の脇に失神した男を座らせて、リリオンに向
・ ・ ・ ・ ・
き直った。リリオンは、とても自然な形で受付に並び疲れた様子を
醸し出す、ランタンに因縁を吹っ掛けて失神させられた男をなんと
も言えない目つきで眺めて、困ったようにランタンと見比べた。
﹁さ、こっから先は一人だから、頑張ってね﹂
﹁⋮⋮ランタン﹂
リリオンを受付に並ばせようとするがリリオンは怖がって、癖に
なってしまったのかランタンの裾を掴もうとした。だがランタンが
冷たい瞳を向けると、掴む寸前でグッと堪えた。
﹁何も怖いことはないよ。わからないことがあっても訊けば教えて
くれるし、それさえ渡せばあとは向こうの指示に従えばいいだけだ
から﹂
﹁うん﹂
リリオンはランタンが渡した銀貨の詰まった小袋をお守りのよう
に握りしめて、ようやく受付の列に並んだ。ランタンはそれを見届
けると壁際に背中を預けて、リリオンがきちんと並んでいられるか
を眺めて、不安そうに何度も振り返るリリオンにちゃんと前を向い
て並ぶように音のない声で叱った。きょろきょろしていて横入りさ
れてしまっては、せっかく送り出したのに駆け寄りたくなってしま
う。
せわ
結局ランタンは不安がるリリオンと同じぐらいに落ち着きなく、
組んだ腕の上で忙しなく指を動かしていて、それはリリオンが扉の
向こう側へ吸い込まれるまで収まることはなかった。
﹁はぁ⋮⋮﹂
まさに肩の荷が下りたとでも言いたげにランタンは大きく息を吐
いて、組んでいた腕を解き、ぐるりと肩を回した。受付に並んでい
るわけでもないのに疲労したその様子に、辺りの人々から胡散臭そ
うな邪魔そうな視線を向けられるが気にはならない。中にはカモを
見つけたとでも言いたげな剣呑な視線も含まれていたが、一瞥もせ
116
ずにそれを無視した。
先ほど絡まれた時はリリオンへの見栄もあって少しだけ乱暴なこ
とをしてしまったが、ギルド内で揉め事を起こしても得をすること
はない。もし揉め事を起こすとしても自分からは動いてはいけない。
あくまでも後手に回って正当防衛を行う口実を得ることが大切だっ
た。リリオンが戻ってきたら、こういったこともしっかりと教えな
ければならない。
ギルド証はものの十五分もしない内に発行されて、リリオンが拍
子抜けしたような顔つきで戻ってきた。ランタンも一年前は同じ表
情をしていた。金を渡して、名前を聞かれ、書類に署名をして、腕
輪型のギルド証を手首に嵌められ、魔道によって腕輪に個人情報を
刻めばそれでお終いだ。
諸々の説明は新人説明会という形で毎月二回ほど行われているが、
それを受けるためには別料金を支払って許可を貰わなければならな
い。新人説明会への出席は強制ではなく任意で選ぶことができるが、
出席する新人はだいたい全体の七割ぐらいだ。探索者ギルドで受け
ることの出来るサービスは様々あり、それを使用するだけでも説明
がなければ何のことかわからないことは多く、そもそも無知という
のは不安なものだ。その状態を解除するためには別料金も惜しくな
いという訳である。
出席しない残りの三割はというと金銭的に貧窮していて別料金が
払えなかったり、独自に下調べを済ませてあり説明を不要と考える
者であったり、根拠のない自信家であったり、実戦経験のある探索
者の後ろ盾を持つものである。
﹁ちゃんと出来たみたいだね﹂
ランタンはリリオンの手首に嵌められたギルド証に視線を落とし
て、するりと腕輪を嵌めた方の手を取った。まだ新品のピカピカの
にびいろ
ルーキー
銀色の腕輪だが、何度も迷宮に潜ればすぐにランタンの物と同じよ
うにくすんで鈍色に変色するだろう。その頃には新人探索者の冠も
取れる頃だろうが、今はまさに探索者としての出発点に立ったばか
117
りだ。
ランタンは柔らかく握手をして、今日からよろしく、と両手でリ
リオンの手を包んだ。掌の中でまるで殻を破ったばかりの雛鳥のよ
うにリリオンの指が奮え、ぎゅうと握り返してくる。リリオンの顔
にようやく、自分が何者になったのかという確信が浮かび上がって
きていた。
だがこんな所で劇的な立ち振る舞いをしていては見世物以外の何
す
ものでもない。今にも感情を爆発させて抱きつきそうなっているリ
リオンの意を空かして、ランタンはあっけなくその手を放した。
﹁もうっ、けち﹂
公衆の面前で雛鳥に口移しで餌を与えられるほどランタンは優し
くも、豪胆でもなかった。意識的につれない表情を顔に貼り付けて、
顎でしゃくってリリオンを先導するのが精一杯だ。
﹁ここが迷宮探索受付だよ﹂
そう言ってランタンが連れてきたのはギルドの施設でも最も広大
な面積を占める迷宮探索受付だった。玄関広間から真っすぐ進んだ
先にあるこの部屋は一種の混沌とも呼べた。舞台広間にも似た円形
の空間には、魔道に依って静謐を保たれているにも拘らず、探索者
たちのざわめきに満ちている。
ギルド証発行受付に溢れていた雛鳥たちとは明らかに雰囲気の違
う本物の探索者たちである。ランタンにとっては見慣れた景色だが、
リリオンには刺激が強すぎたようだ。様々な人種の中から特別むさ
苦しい野郎どもを選別して収監してある監獄に今から自分も投獄さ
れる、とでも言うようなおぞましい表情をしているリリオンを見て、
ランタンもなんだか懐かしい気持ちになった。
﹁ぼうっとしない﹂
多少の刺激では戻ってこないだろう、とランタンは強めにリリオ
ンの尻を引っ叩いた。尻で弾けた破裂音は床材に吸収されて、ひゃ
っ、と漏らした悲鳴だけがランタンの鼓膜を揺さぶった。
まだ少し強張った表情のまま尻をさするリリオンに、ランタンは
118
素知らぬ顔で指を差した。円形の広間の中央に、円形の巨大な地図
が鎮座していて、多くの探索者がそれを取り囲んでいる。ランタン
はそこに隙間を見つけると、リリオンと一緒に体をねじ込んだ。
それは縮尺された迷宮特区の地図であり、その地図の中で迷宮特
区はジグソーパズルのように八〇〇ピース近くに分割されていて、
端から順に番号が振られていて、またピースの一つ一つには様々な
記号が貼り付けられている。
﹁明日行くのはあそこ﹂
ランタンが指差したピースには二六二の番号が記してあり、中央
よりやや左寄りに一つの黒点が浮かび上がっている。それはまさに
地上に空いた迷宮の入り口を表していた。その黒点は本当に深い穴
が空いたような黒色である。
リリオンはその黒点を身を乗り出すように覗きこんでいた。ただ
地図上に穿たれたその小さな穴に、まるで今すぐに身を踊らせるよ
うに。ランタンは前のめりになったリリオンの背中を引っ張った。
新人丸出しのリリオンのその振る舞いは辺りの探索者たちの眼に
付いていた。視線は、無邪気な子供を見るような優しいものから、
目の前に集る羽虫を見るような邪険にしたものまで様々だ。そして
リリオンを見て、その隣にいるランタンに気がつくとそのほとんど
が、おや、と興味深げに目を開いた。
割と名前の売れている世にも珍しい単独探索者が、見知らぬ新人
探索者を連れているのだからそれも当然のことだ。ここに来るまで
もチラチラと視線は感じていたが、今では視線の矢衾に全身を貫か
れている気分だった。どうせいつかは広まることだとは思っていた
が好奇の視線は羽虫よりも鬱陶しい。
﹁行くよ﹂
仲間内でどの迷宮を攻略するかを相談する探索者たちとは違い、
今はただリリオンにここがどのような場所かを見せただけだ。もう
ここに用はない。
ランタンは地図上から視線を上げて、それを取り囲む探索者たち
119
を一瞬でぐるりと見渡し、リリオンの返事も聞かずにその場から離
れた。慌てて自分を追うリリオンの気配と、更にその後ろから視線
が蛇のように付いて来た。
﹁ねぇ、ランタン⋮⋮﹂
﹁なに?﹂
玄関広間まで戻ってようやくランタンはリリオンを振り返った。
﹁私たち、何か、見られてた⋮⋮?﹂
﹁まぁ、そうだね﹂
リリオンは不安そうな顔をしていた。ランタンの袖を摘もうとし
て咄嗟に引っ込めて、視線が交わる寸前に不意に逸らし、困惑して
いるようにも泣き出しそうにも見えた。ランタンは引っ込む寸前の
リリオンの手を捕まえて、ゆっくりとした足取りで柱の影に連れ込
んだ。
﹁リリオンの所為じゃないから﹂
意を決したように口を開こうとした、リリオンに先んじてランタ
ンが告げた。
リリオンは自分の中に流れている巨人族の血をひどく気にしてい
る様子で、身に降りかかる面倒事の多くをその血による負債だと思
っている節があったが、少なくとも今は関係がなかった。
﹁あいつらが見てたのは僕だよ﹂
﹁ラン、タンのこと? なんで?﹂
リリオンはランタンが気を使って、自分の所為だ、と言ったと思
っているようだ。眉を八の字にして瞳をしょぼしょぼと瞬かせて唇
を噛んでいた。
﹁なんでって、︱︱そりゃあ僕があまりに可愛いからでしょ﹂
﹁ふぇ⋮⋮!?﹂
ランタンの台詞に、リリオンは小さくなっていた瞳をはっと見開
き、笑い声にも聞こえるような奇妙な呻きを漏らした。目の前のラ
ンタンが急に別の生き物に変身したかのような、まじまじとした視
線をリリオンは注いだが、ランタンは平気な顔で答えた。
120
﹁何か?﹂
マッチ
声はうそ臭いほどに平坦だが、薄っすらと赤くなったランタンの
耳を目ざとく見つけたリリオンはその耳を、火の着いた燐寸に触れ
ウォートロル
るようにちょんと触った。
﹁ふふっ﹂
探索予約受付にいた戦大緑鬼だって可愛く見えるような探索者た
ちの群れを思い出したのか、ランタンの渾身の冗談に気がついたの
か、それともその耳の熱さが可笑しいのか、リリオンは小さく声を
漏らして笑ってみせた。
耳を赤くした甲斐もあったというものだ。せっかくの門出だとい
うのに不安な顔していては縁起が悪い。ランタンは照れたのを隠す
ように足早に扉を開けて、口元に笑みがくっついたままのリリオン
を建物を出るようにと促した。
外に出るとリリオンはもう我慢する必要ないとでも言うように、
抱きつくようにランタンと手を繋いだ。探索者ギルドを出たからと
いって探索者の視線がなくなるわけではないが、指を絡められた手
を引き剥がすのは困難だ。
それならばとランタンは、また市場での食べ歩きをしたがったリ
リオンを小料理屋へと引きずり込んだ。そこは通りの中にある一つ
の店で、この世界の飲食店としては非常に珍しく酒を出さない店だ
った。値段帯は少し割高なところもあるが、客層は落ち着いている
し、料理の味も悪くない。昼飯時だというのに席は七割程度しか埋
まっていないのもいい。
ランタンたちはすんなりと衝立に区切られた奥のテーブルを得るこ
とが出来た。
﹁好きなもの頼んでいいよ﹂
メニューはずらりと壁に貼り付けてあるが、ランタンには読むこ
とが出来ない。なんとかのスープであるとか、豚肉のどうやら、な
どという曖昧な注文を口にすることは躊躇われた。
﹁オススメのスープと肉料理をお願いします﹂
121
ランタンはいつも通りに多少に気恥ずかしさとともに注文を店員
に告げた。そしてリリオンがあれやこれやと、ほんの僅かの遠慮の
視線をランタンに寄越しながら、注文を重ねていく。積み重なって
いく値段は別に気にはならないが、思わず視線に呆れが混じってし
まう。まるで大型の肉食獣のようにリリオンはよく食べる。
ランタンが野菜のサワースープと仔牛肉のローストを食べる間に
リリオンは油のたっぷり乗った分厚いポークソテーをオカズに皮を
パリッと揚げた鶏の詰め物を食らっていた。リリオンは唇を油で濡
らしており、手羽を素手で引きちぎり齧り付いている。骨ごと食べ
るような勢いだ。
﹁リリオン⋮⋮あぁ、そのままでいいから聞いて﹂
﹁んっ⋮⋮なぁに?﹂
リリオンは油のついた指を舐めて、その指をテーブルクロスで拭
いた。野蛮な行動だがマナー違反ではない。飲食店に行けば誰もが
していて、誰もが咎めることのない行為だった。ランタンはちらり
とリリオンの指から目を逸らした。
﹁ギルドでの事だよ﹂
﹁ランタンが、可愛いっていう話?﹂
リリオンが唇の油をぺろりと舌で舐めとって、意地悪に笑ってみ
せた。
﹁それはもう忘れていいよ⋮⋮﹂
ランタンはありありと後悔を表情に表して、うんざりした声を漏
らした。慣れないことをするんじゃなかった、と後悔してももう遅
い。ランタンは腹立たしいリリオンのにやけ顔を冷たく見つめた。
﹁⋮⋮とは言え、僕が見られてたのは本当﹂
チーム
やはり単独探索者はどうしても目立つし、探索者ギルドという集
団の中に在ってランタンの存在は浮いていた。探索班を組むとまで
はいかなくとも探索者同士の横の繋がりは往々にしてあるものだ。
例えば迷宮の攻略情報であったり、儲け話やら、死亡情報、探索班
間の金銭を含む戦力の貸し借りなど、探索者同士では様々な繋がり
122
があるものだがランタンはそれに加わったことがなかった。
探索者になったばかりのランタンは左右を見渡す余裕もなくひた
すらに迷宮に潜り続けていたし、探索者たちはその不可解な新人探
索者の扱いを戸惑っているようだった。そうこうしている内にラン
タンは孤独にも慣れ、探索者たちは踏み込む隙を見失ってしまった。
それでも時折関り合いを持とうと接触してくる探索者もいたが、ラ
ンタンは人見知りで、そういった接触を有無を言わさず拒否するこ
との出来る無遠慮さも日々の生活の中で会得してしまっていた。
﹁別に僕が重要な情報を握ってるって事はないんだけどね。色々と
人の事情を知りたがる人は多いから﹂
ランタンのことを知りたくてリリオンに近づいてくる人間が出る
かもしれない。それは探索者ばかりではなく、この世のすべての情
報を金銭に依って取引する情報屋や、あるいはランタンに恨みを持
つ者という可能性もある。杞憂かもしれないが、気をつけるにこし
たことはない。
﹁なにかやったの⋮⋮?﹂
ソロ
﹁問題が起こった時に、暴力で片を付けることも多いしね。それに
単独は迷宮のお宝を独り占めにする強欲な奴だっていう見方もある﹂
﹁何それ、ひどいわ!﹂
リリオンは憤ったが、ランタンは納得もしていた。
探索者は本来、迷宮に潜った際に様々な物を持って帰る。それは
魔精結晶であったり、迷宮内部にしか存在しない鉱石であったり、
かさ
魔物の素材であったりだ。だがランタンが迷宮に潜り持ち帰るのは
主に魔精結晶のみである。魔精結晶は換金率が高いし、それほど嵩
のあるものではないので、積載量の乏しいランタンにとっては、そ
れ以外の物を最初から諦めている。その結果、一つの迷宮を攻略す
るまでにランタンが持ち出せる財の量は、他の探索者と比べて大き
く劣る。
ランタンは自分の探索法が、迷宮の最も美味しい部分だけを掠め
取りその他を廃棄するような傲慢な振る舞いに見えることを自覚し
123
ていた。例えばある魔物から魔性結晶を剥ぎとってその見事な牙や
爪を放置するときに、もったいないな、と自分でも思う。だが、だ
からと言って迷宮から持ち出せる一から十までを背負ったら、それ
が墓石になることは目に見えている。
﹁私は、どうしたらいいの?﹂
﹁どうしたらいい?﹂
リリオンの疑問をランタンは腑抜けたような声で鸚鵡返しにして、
口の中で飴でも舐めるようにさらに繰り返した。
﹁どうしたらいいって、すきにしたらいいよ﹂
僕から離れるのなら今のうちだよ、と続けようとしたが止めた。
リリオンは唇を付き出して不満気な顔を作っている。ランタンはそ
の表情を探るように見つめて、小さく呻いてから口を開いた。
﹁僕はそんな世間話をしたことがないから、どうしたらいいかなん
て、わからないよ﹂
悪い男に囲まれることはあっても、暴力をちらつかせて情報を得
ようとする現場に出くわしたことはない。いや、もしかしたらあっ
たのかもしれないが、そんな雰囲気になる前に片を付けてしまって
いる。
だがリリオンにそんな解決方法を推奨する気にはならない。
リリオンはきゅっと唇を結んで、重たげな視線をじっとランタン
に注いでいる。ランタンはその視線の擬似重力に押し潰されて、気
怠げな感じでテーブルの上に肘をついて、拳の上に頬を載せた。頬
が拳によって柔らかく潰されて、皮肉げに唇が歪む。
﹁それとも僕が、ああしろ、って言えばそれをするの?﹂
ランタンは悪戯っぽい視線で、手持ち無沙汰に湖面に小石でも投
げ込むかのような気軽さで言った。
﹁するわ﹂
小石は一輪の波紋を広げただけで、水面は恐ろしく静かだった。
リリオンはまっすぐにランタンの視線を受け止めて、真面目な視
線を返した。自分の口にした言葉が一分の隙もない完全理論である
124
かのように、もうそれ以上言うことがないとテーブルの上に残った
鳥を解体し始めた。リリオンはスコップで土でも掘るようにフォー
クを扱い、腹の中から香味野菜と米が掘り起こされて皿の上にぶち
まけられた。
﹁⋮⋮﹂
ランタンは暫く肘をついたそのままの形で固まっていた。するわ、
と間髪入れずに返って来たリリオンの言葉が頭の中で反響している。
何故だか耳が熱い。くだらない冗談を吐き出した時よりもずっと。
リリオンは探索者になったのだから、食事以外でも、ある程度の
自主性を発揮できるようになった方がいいと思った。そのきっかけ
程度にはなるかと、突発的で不慣れで杜撰な遣り口だったが、考え
ての言動だったのだがそういった打算は全て吹き飛んでしまった。
迷宮内で何か問題が起こった際には、ねぇどうしたらいい、など
と悠長に他人に助言を求めている暇はない。助けを求める視線を送
った瞬間に、致命的な状況は更に悪化への速度を早めるだろう。
そんなことはランタンも承知しているのに。
赤く染まった耳の奥で心臓の鼓動が聞こえる。それは差し出され
たリリオンの心臓の鼓動のように思えた。べったりと一人分の重た
さがランタンの背中に張り付いたような気がする。その精神的な重
たさは、何故か不快なものではなく、妙な心地よさがあった。
﹁ランタンも食べたい?﹂
それを見ていたわけではないがランタンの視線は皿の上を捉えて
いたようでリリオンが小首を傾げた。ランタンはその皿の上の惨状
をしっかりと把握して、じとりとリリオンを見つめた。皿の上には
まるで内側から鳥が爆発したような有様だ。
﹁いらない⋮⋮けど、︱︱リリオンは僕が言えばそれをするんだよ
ね?﹂
﹁する﹂
﹁わかった、じゃあ﹂
ランタンは一呼吸置いて立ち上がると、椅子を引きずってリリオ
125
ンの隣に座り直した。
フォークを握る手は拳で、空の手はテーブルの下でぶらついてい
る。皿の上の惨状は目に見える通り、椅子の周りや膝の上には食べ
テーブルマナー
こぼし、テーブルクロスにべたりと指の形の油汚れが付着している。
﹁まずはフォークの持ち方からだ﹂
ランタンはリリオンが癇癪を起こすまで最低限の食事作法を叩き
込んだ。
126
010 ☆
010
ソファに座って眠っていたランタンの瞼が薄く持ち上がる。朝が
来て自然と目が覚めた。中途半端に開いたその瞼の下で、眼球が蜥
蜴のように辺りを見渡した。
リリオンがベッドの上で眠っている。ベッドが小さいのか、リリ
オンが大きいのか。リリオンは膝を抱えて丸まり、解いた髪の中に
埋まるようにして寝息を立てていた。
ランタンはソファから身体を起こすと、四肢の末端に残る擽った
い痺れにも似た眠気を振り払い、ぐっと身体の筋を伸ばした。欠伸
が零れて、眼尻に一粒の涙が溜まり、それを指先で払い落とす。
水筒から水を煽り、ベッドに近づいてリリオンの顔を覗き込んだ。
リリオンはぐっすりと眠っていた。昨晩にグラン武具工房から受
け取った盾と剣を身体に馴染ませるために前々日に工房で行ったよ
うな組手をしたのだが、少し張り切りすぎてしまった。本日の探索
に支障が出ないようにと軽く流す程度にしておこうと思っていたの
だが、興奮したリリオンにランタンも当てられてしまった。
ランタンはちらりと壁に立てかけられた方盾を眺めた。
盾はリヒトによって見事に仕立て上げられていた。棺に似た形の
一枚の厚い鋼に左右に反る柔らかな丸みが付けられていて、その丸
みは盾が攻撃を受け止めた際に衝撃を分散するように計算されてい
た。
食後の軽い運動のつもりだったんだけどな、とランタンはムキに
なってしまった自分を反省した。
盾はよく見ると一部分が歪んでいるのが判る。それは組手の際に
攻撃があまりに綺麗に受け流されたものだから、ランタンが少しだ
127
け本気で盾を叩いてしまったその爪痕だった。
ランタンを本気にさせたのは盾の性能だけではなく、リリオンの
技術もあっての事だった。リリオンは重量級の盾を巧みに操り、そ
の技は手を叩いて褒めていいほどに冴えていた。技術がなければ盾
の傷は、あのわずかな窪みだけでは済まなかっただろう。
それにそれほどの衝撃を受け止めて、なお向かってくる気概もい
い。命に届きそうな攻撃を受けてもリリオンは怯えなかった。それ
どころかぐっと足を踏ん張って、剣での一撃を返してきた。それも
またランタンが熱さを加速させた。
その時のことを思い出したのかランタンはにやりと口元を歪めて、
その歪みを確かめるようにはっと口を手で押さえて、唇を拭った掌
を首に当てた。肌が熱く、汗でベタついている。
だからと言う訳ではないがランタンはリリオンを起こさないよう
にそっと部屋を出て、隣の浴室に向かった。迷宮を探索している間
は落ち着いて身を清めるような暇はないので、探索当日の朝に風呂
に入るのがランタンの決まり事だった。
水精結晶を割り浴槽に水を満たして、湯気が出るまでそれを熱し
てランタンは裸になった。かけ湯をすると肌にすっと赤みがさす。
皮膚の表面の汚れを軽く流して、ランタンは年寄りじみた呻き声を
漏らしながら湯船に肩まで沈んだ。
この世界でもこの気持ちよさだけは変わらない。
肉から皮膚が剥がれ、骨から肉が離れ、その骨さえも硬さを失っ
て溶け出し、やがて一粒の丸い剥き出しになった魂だけが、暖かな
湯の中に浮かんでいるような気分だった。
開放されている、と思う。
ランタンは膝を折り曲げて、浴槽にもたれ掛かった。まるで沈ん
でいくようにぐらりと顎が持ち上がって、天井を見つめる。その顔
からは表情が失せていた。
外を歩く時はいつも緊張している。どんなことがあっても身を守
れるように。暴力を振るうときに嫌悪感を押し殺している。それを
128
行使することに躊躇がなくなったことに。この世界に馴染むほどに、
郷愁を忘れつつある。寂しさも薄れてきた。
水面がなだらかに盛り上がったかと思うと、ぬっと腕が浮き、持
ち上がった。肌の上を湯の珠が幾筋もの線を引いて水面へと吸い込
まれていく。ランタンは掌を透かすかのように、二の腕から肘、前
腕を通り甲から指先までをぼんやりとした瞳で眺めた。
二の腕は脂肪が仄かに垂れていて、色が白くいかにも柔らかそう
まめ
だ。前腕は淡く浮き出た筋肉の筋に緑色の血管が絡まっている。手
首は女のように細い。掌は肉刺もなく、指は産毛もなく先端を飾る
爪はつやつやしている。暴力とはまったく無縁そうだ。
ランタンは外気に冷えた腕を再び湯に沈めた。暖められて広がっ
た毛細血管に血が流れ込み肌が痺れる。その痺れたままの手で身体
を撫でた。
脂肪が削ぎ落とされた身体は細く、わずかに発達した胸板とぽっ
こりと盛り上がる六つの腹筋は、筋繊維が剥き出しになっているよ
いくつ
うだった。リリオンのことを笑うことができない貧相な身体だ。そ
れは実年齢よりも何歳か下の子供の体だった。
ストレス
この世界に来てからランタンはほとんど成長していない。
アンチエイジング
それは精神的負荷によって成長が阻害されているのか、それとも
魔精を体内に取り込むことによる抗老化効果の所為なのかは判らな
い。もともとの身体的成長が遅い方だったので、ただそういう身体
だっただけなのかもしれない。
ランタンは首の座っていない赤ん坊のように頭をぐらぐらと左右
に揺らしてそのまま湯船にずるずるとすべるように沈んだ。息を止
めて、ゆっくりと瞼を閉じて、胎児のように膝を抱えて、頭の先ま
ですっぽりと湯に浸かった。
浮力に持ち上がる身体を湯の中で自然とバランスを取り、水中で
漂う髪が頬や首を撫でるくすぐったさに唇の端から細かな気泡が零
れる。耳の穴の中に入り込んできた湯がざばざばと音を立てて、耳
内の全てを満たすと自分の血液の音が低く響いた。
129
血液が心臓から押し流されて、全身を巡り、また心臓へと戻って
くる。まるで塗り絵でもするように瞼の裏側に自らの全身像が思い
浮かんだ。元の世界にいた時と、少し痩せて筋肉質になっただけで、
殆ど変わらない自分の姿。洋服を着せて隠してしまえば、何も変わ
らない、はずだ。
もし元の世界へと帰還できたとしても、きっとだいじょうぶだ。
ぼこぼこぼこ、と口から大きな気泡が零れて水面で弾けた。
その泡を追うようにランタンは溺れたみたいに顔を上げた。濡れ
た髪が頭蓋にベったりと張り付き、毛先から表情を消し去るように
湯が流れた。ランタンは涙でも拭うように手のひらで顔を覆い、ゆ
っくりと大きく息を吐きだした。
指の隙間から、視線が零れる。水面に映る自分の瞳は、遠くを見
ているような、何も見ていないような。意志のない瞳が重たそうな
瞬きをしている。睫毛から水滴が弾けた。
肌は薄紅色に染まっている。
そろそろ上がるか、とランタンが浴槽の縁に手を掛けた瞬間に扉
が悲鳴を上げた。蝶番が軋み、扉の下部が無遠慮に床を削った。そ
ちらに目を向けると解いた髪に寝ぐせをつけたリリオンが逆光の中
で仁王立ちをしていた。
﹁見つけたわっ!﹂
ぐっすりと眠っていたのでまだ暫くは起きないだろうと思ってい
たのだが、リリオンの瞳がカッと見開き、声は腹からしっかりと発
声されている。声は部屋の中で跳ねまわるように鳴り響くと、微か
な残響を残して天井の穴から空へと抜けていった。うるさい。
﹁⋮⋮おはよう﹂
ランタンはまるで先程までとは別人のように柔らかな表情を顔に
貼り付けて、肌を隠すようにそろりと湯の中に肩まで浸かった。
﹁おはよう。探したわ、ランタン!﹂
﹁どうかしたの?﹂
﹁いなかったから!﹂
130
﹁うん?﹂
﹁いなかったから探したわ、ここにいたのね﹂
ランタンはちゃぷちゃぷと音を立てて湯船の中ををかき混ぜた。
何かランタンを必要とする用事でもあったのかと思ったが、どう
やらランタンを見つけること自体が目的だったようだ。それならば
リリオンの用事はもう済んだのだから、部屋から出て行くだろう。
再び蝶番が軋みを上げて、扉が閉まる。
しかしリリオンは部屋の内側に居た。
﹁⋮⋮どうかした?﹂
両手の掌で湯を掬い、卵でも割るように、再び湯を浴槽の中に落
とす。ランタンがその流れを追って視線を浴槽に沈め、そして再び
持ち上げるとすぐ脇でリリオンがランタンを覗き込んでいた。
リリオンは湯気を顔に浴びるようにして大きく息を吸い込むと熱
っぽい吐息を漏らした。そして遠慮なく手を伸ばして湯船の中に指
を沈めると温度を測り、渦を作るようにかき回した。
﹁わたしも入っていい?﹂
ダメ、と言いたかったが、リリオンの身体から立ち上る甘酸っぱ
い汗の匂いに開きかけた口が言い淀んでしまった。ベタつく肌の気
持ち悪さを、一刻も早く落としたいという心情をランタンは十二分
に理解している。
その逡巡の隙を突いてランタンが返答するより先に、リリオンは
あっと言う間もないほどの素早さで全裸になっていた。
﹁は、⋮⋮! せまいから、むりだから! せめてかけ湯を!﹂
﹁ランタン、そっちに寄って﹂
リリオンはランタンの言葉による防波堤を軽々と跨いで湯船に片
ふくらはぎ
足を沈めた。
爪先から脹脛そして太股が白い大蛇のような艶めかしさをもって
水面を割って沈んでいく。あの鶏ガラのような足からは想像も付か
なかった女性的な肉付きにランタンは息を呑んだ。ランタンの目の
前を真っ白な尻がシャボン玉のように落ちてゆき、それが沈みきる
131
と浴槽の縁から滝のように湯が溢れた。
﹁なっ⋮⋮!﹂
柔らかさを感じ取った瞬間にはリリオンの尻がランタンの腹を滑
るようにして股の間にすっぽりと収まった。視界一面がリリオンの
白い髪で埋まり、それを掻き分けるとなお白い背中が顕になって、
ゆっくりとランタンの胸にもたれ掛かってきた。
﹁あったかぁい﹂
リラックスしているリリオンとは裏腹に、全身が一塊の岩にでも
リクライニングチェア
なったかのようにランタンは息すらも止めて固まった。
リリオンはまるでランタンが安楽椅子であるかのように、べった
りと背中を預け、股の間に尻を納めて、割った足の間に自らの足を
折りたたんで収まっていた。水面からちょこんと膝頭が顔を出して
いる。
リリオンはランタンの鎖骨辺りで首を支え、後頭部をこてんと肩
に転がした。
﹁⋮⋮痛い﹂
ランタンは小さな声で呟いて、それはリリオンには届いていない
ようだった。
肉付きが良くなったとはいえそれでも、剥き出しになった肩甲骨
が胸に、体重をかけると肉を押し分けて尻の骨がランタンの太股に
食い込んだ。柔らかくはあるのだが、だがやはりまだ未成熟な果実
にも似た硬質さがある。
へそ
リリオンはランタンの手を取って、抱きしめられるように、両手
うなじ
を臍のあたりで握り締めた。胸に張り付いた背中が熱く、リリオン
の項には玉の汗が鈴生りに連なっている。もさりとした髪や頭皮が
湯気に炙られて蒸れた甘い匂いを放っていた。
﹁なぁにランタンくすぐったいわ﹂
項の汗が滑り落ちるとリリオンはその擽ったさをランタンの仕業
だと勘違いをして、ぐるりと身体の向きを替えた。未発達の柔らか
な胸がランタンの胸の上で乱暴に押しつぶされる。リリオンの顔は
132
目の前にあって頬が上気している。
﹁ねぇランタン、今日行く迷宮のことを聞かせて﹂
リリオンは昨日の夜も寝付くまで迷宮の話をねだった。まるで幼
児が母親に絵本の朗読をねだるように。リリオンは組手の疲れもあ
ってすぐに寝てしまったが、そのことを未練に思っているのかしれ
ない。
迷宮特区へ向かうまでにまだ時間は十分に残っていたが、風呂に
浸かりながら語るような話ではない。こんな頭に血が上るような場
所では、何も覚えられないだろう。だがランタンはリリオンを押し
のけることが出来なかった。すべすべした皮膚刺激には、ランタン
には理解の及ばない抗い難さがあった。
ランタンは滑るようにリリオンの背中から項までを撫で上げて、
海藻のように漂う髪を後頭部で一掴みにして絞り上げた。浴槽の縁
にかけていた手ぬぐいを使って、器用にそれを纏めた。
﹁今日行く迷宮はね﹂
﹁うん﹂
その迷宮は一ヶ月ほど前に迷宮特区に迷宮口を開けた。迷宮口は
やや小さめでそこから小規模の迷宮と判断され、探索ギルド直属の
こうおつへい
先見偵察隊により中難易度獣系小迷宮との指定を受けた。
探索者は大きく甲乙丙の三つの階級に分けられる。ギルド証を受
け取ったその瞬間から探索者は丙種探索者として登録され、探索者
ミッション
ギルドを通し迷宮を探索しこれを攻略、またはギルドから提示され
る依頼の遂行やギルドでの一定額以上の売買取引など、ギルドから
評価を得ることにより乙種、甲種と階級が上がっていく。まだ何も
なしていないリリオンは丙種探索者、ランタンは乙種探索者だ。
中難易度の獣系小迷宮というのは、その迷宮構造と出現する魔物
の強さにより複合的に判断されるがおおよそは、乙種探索者の探索
班による攻略を推奨される獣系魔物が主として出現する小規模の迷
宮、と言う訳だ。
ランタンは既にこの迷宮へ三度潜っている。一度目は偵察のため
133
だ。
先見偵察隊の仕事ぶりは迷宮のさわりを確かめるという程度のも
のでしかないので、いざ探索者が迷宮に潜ってみると中難易度と指
定されていても実際は子供のお使いのような簡単なものから、未帰
還率が七割を超えるような地獄の可能性も存在する。
先見偵察隊を、ギルドの探索難易度指定を信じて未帰還になる新
人探索者というものは意外と多く、それを乗り越えた先の探索者た
はばか
ちはギルドの攻略難易度を、偵察難易度と呼び変えて皮肉ることを
憚りなく、自分の目で、肌で感じたものしか信用しない。偵察にか
かる一手間は余計な出費ではなく必要経費だ。
偵察の結果から言うとギルドの難易度指定は間違ってはいなかっ
た。迷宮の構造自体はなだらかな地形の続く単純なもので、魔物の
強さもランタンなら問題ない程度のものだった。幾つもある先見偵
察隊のうちの辛口な評価を下す部隊ならば低難易度と指定したかも
しれない。
﹁らんたんはすごいね﹂
﹁なにがさ?﹂
リリオンは甘い口調で呟いた。浮力に身体を固定しバランスを取
ることが難しいのか、それとも浴槽に浸かる習慣がないせいかリリ
オンは落ち着きなくもぞもぞと体勢を変えた。その度に触れ合った
肉体がぐにぐにと押し合い、ランタンはその柔らかさを敏感に知覚
していた。柔らかさが離れていく。
リリオンはランタンの胸元にうつ伏せになっていた身体を起こし
て、向かい合うようにランタンの逆側に背もたれた。長い足が窮屈
そうに身悶えて、ランタンの足に絡まるとそここそが置き場所であ
るかのように落ち着いた。
﹁だって一人で探索してるんでしょ? じゃあランタンは強さは探
索者五人分だわ!﹂
五人分という数字がどこから湧いて出てきたのかは謎だが、ラン
タンは極めて平静な顔付きで肩を竦めた。ちらりと水面に視線を落
134
とし、変な表情をしていないか確かめる。向い合い互いに表情を差
し出し合っている状況下では、皮膚の接触面積が低下しようとも気
が抜けなかった。
﹁⋮⋮探索者の強さ、︱︱質ってのはそんなものじゃあないよ。ど
んな迷宮だって時間をかければ少人数でも攻略できる﹂
小迷宮を三度も探索すれば、乙種に相応しい一定の能力を有する
探索者を複数揃えた探索班ならば余程の問題が起こらないかぎり攻
略を終えているだろう。反面ランタンはと言うとまだ下層の踏破す
ら済んではいない。
初回の偵察探索では一日かけて上層の行ける所までをゆっくりと
進み、十分な余裕を持って一日かけて帰還した。二度目の探索では
フラグ
二日かけて中層を踏破して、予定通りに一日かけて帰還。そして三
度目は下層を攻略して、あわよくば最下層を守護する最終目標の撃
リポップ
破を、と思っていたのだが不運な事に殲滅したはずの中層の魔物が
再出現しており、苛々しながら下層を進んでいると本来なら上層を
主として出現する迷宮兎に出くわし、更に不運は重なることにそれ
ほうほう
てい
を一匹取り逃がしてしまい仲間を次々に呼ばれて戦力を消耗し、結
局は最終目標を確認することすら出来ずに這々の体で帰還を果たし
たのだ。
大量の迷宮兎は中々の儲けとなったが、その時の苦労を思い出し
てランタンは小さく舌打ちをした。儲けの大部分はリリオンの諸経
費に消えて、身体を休めるはずだった三日間の休日は嵐のように過
ぎ去った。疲労が完全に抜けているとは言いがたい。
リリオンが再びランタンに覆いかぶさるように身体を傾けて、し
かし手を伸ばした。ランタンは腕を掴まれると、軽くのぼせている
こともあって、無抵抗に身体を引き寄せられてすっぽりとリリオン
の股の間に座らされ、背中から抱きすくめられた。
僕は石だ僕は石だ僕は石だ、とランタンは鼻の下までを水面に沈
めてぶくぶくと呟いた。
リリオンは石を抱いて身投げでもするように、ランタンをぎゅう
135
っと抱きしめて重石代わりにしている。浮力によって落ち着かなか
った尻がようやく落ち着き、浮かれた鼻歌を一小節だけ歌い、無意
は
識なのだろうかランタンの腹をさすっている。割れた腹筋の亀裂を
迷路で遊ぶように指でなぞった。
﹁ちょっと、くすぐったいよ﹂
﹁じゃあ最終目標まで行くの?﹂
リリオンはランタンの抗議を完全に無視して耳を食むようにして
尋ねた。
ランタンは腹の上を這いまわる掃除魚のような指を排除しようと
格闘しつつ、煮え切らない呻き声を漏らした。
単独での探索ならば最下層に突入して最終目標に敗北しようとも
自業自得というものだが、そこに戦力の見極めが確定していないリ
リオンを伴うとなると話は別だ。二人以上で迷宮を探索するとなる
とそれはもう探索班であり、班というものは選出されたリーダーに
よって率いられるものだ。探索を行うに当たって班内では様々な意
見や作戦の交換が行われるが、探索続行や撤退などそれを行うかど
うかの最終決定はリーダーの一声によって決められる。
だが残念なことにランタンにはそういった班を率いた経験も、あ
るいは率いられた経験も存在しない。危険と命を天秤にかけたとき、
その命が自分のものならば多少命を軽く見積もったとしても何の問
題もないが、それが他人のものとなると話は別だ。
﹁一応そのつもりだよ﹂
ランタンはとりあえず口先だけでそう言った。
最終目標は迷宮の守護者だ。普通の魔物のように迷宮を徘徊する
ことなく、最下層に在って迷宮という空間を創造し、それの保持を
する迷宮核と呼ばれる高純度の魔精結晶を守っている。魔物の力の
源である魔精の傍らにあることによって、最終目標の戦力は通常の
魔物とは比較することはできない。
ランタンは今まで幾つもの最終目標を撃破してきていたが、その
どれもが死闘といってよかった。結局は勝利を収めているのだが、
136
もし一度戦闘が始まってしまえばリリオンに気を使っている暇はな
いだろう。
﹁わたしだってがんばるわっ!﹂
リリオンはそう言ったが、頑張られても困ることもある。
例えば複数の魔物と戦闘行為を行う場合に、ランタンは左、リリ
オンは右と対処する魔物を分担できるのならまだならいいのだが、
最終目標という一つの魔物をランタンと二人で攻めるとなると、ど
ちらとは言わず足手まといになる可能性が高い。もしリリオンが最
終目標との戦闘に耐えうる戦力を保有していようとも、拙い連携と
いうものはかえって窮地を呼び込むものだ。
リリオンには安全な場所で盾を構えて亀のように守りを固めても
らうのが一番の安全策だが、それでもリリオンから完全に意識を外
すことはできないだろう。ランタンが上手くフォロー出来ればまた
話は別なのだが、複数名との連携を持った戦闘行動はランタンにと
っては未知のものだ。
﹁とはいえ最終目標もまだ確認してないからね﹂
迷宮の道行が平坦道のように楽なものでも、最終目標が予想をは
るかに上回る虎穴という可能性も捨てきれない。最終目標と戦闘を
行うかどうかの最終的な決定は、その時の戦力の消耗度合いと最終
目標の戦力を天秤にかけて決めなければならない。
いざ色々と考えてみると他人と迷宮に潜るのって大変だな、と重
い溜息を吐き出す。
リリオンに対してさんざんご高説を垂れ流してはみたものの、結
局は初心者講習で聞きかじったことを空覚えのままに、ある程度の
体裁を取り繕って吐き出しているだけだ。
いざ迷宮に潜ったならば、自分はリリオンを導けるだろうか。
﹁ちょ︱︱リリ︱︱っ﹂
不意にリリオンに抱きすくめられた。自信を喪失しかけたランタ
ンを慰める、などという類の抱擁ではない。
触れ合っていない部分がないというほどに身体を密着させて、首
137
筋に、そこに浮いた汗の粒に吸い付くように粘性の柔らかい唇が這
った。ランタンが艶かしいその感触に言葉を失っていると、さらに
追い打ちを掛けるように腹筋で遊んでいた指がそろそろと下腹部へ
伸びていった。
すべすべして柔らかくて気持ちがいいから自由にさせていたけれ
ど、これ以上はまずい。理性と欲望の狭間にあって、のぼせるほど
に温まった身体に、その均衡が崩れるひやりとした気配が背筋を駆
け巡った。
﹁ばっ︱︱か!﹂
まるで滝が逆流したかのような瀑布を立ち上らせランタンは死地
から脱するような全力の跳躍をもって浴槽から飛び出した。辺りに
飛沫が白い霧となって立ち込めて、その霧の奥でランタンを失った
リリオンががくりと揺らいだ。
﹁⋮⋮﹂
ランタンは一瞬だけ逡巡して、そろりと浴槽に近づいた。
リリオンは肌を真っ赤にしてどこを見ているわけでもない虚ろな
目をしていた。完全にのぼせている。
先に浸かっていたランタンも多少頭はぼんやりとしているが、こ
の世界の人間は風呂に浸かる習慣がないので、風呂熱に対する耐性
が低いのかもしれない。
ランタンは濡れた掌でリリオンの顔に浮き出た汗を拭ってやり、
リリオンの脇に手を差し込んで引き上げた。
もうもう
﹁まったくもう﹂
身体から濛々と湯気が立つリリオンを浴槽の縁に座らせようとし
たが、リリオンは自分で自分の身体を支えることができないほどふ
らふらしている。ランタンは仕方なく床にタオルを敷いて寝かせて
やった。おとなしくしている様はまるで精巧な人形のようだが、軽
く頬をなで叩くと締りのない顔で笑いを零す。意識はあるようだが、
肉体の制御は失われている。
﹁すぐ戻るよ﹂
138
リリオンは笑顔を不安そうに曇らせて、ランタンを掴もうと手を
伸ばそうとしたが、腕は重たげに小さく反応しただけだ。
ランタンはざっと身体を拭うと下着だけを身につけて水筒を取り
に部屋へ戻った。扉の外へ出ると外気が肌に気持ちいい。だが不安
そうなリリオンを思うと、廊下でのんびりとしている訳にはいかな
い。
﹁ほら飲みな、ゆっくりね﹂
部屋から水筒を取って戻り、ランタンはリリオンの傍らに膝をつ
いて水筒を口にあてがった。リリオンは頷くようにして中身を呷っ
た。唇の端から溢れる水すらもが気持ちよさそうだ。探索前に英気
を養うために風呂に入ったのだが、それで疲れてしまっては元も子
もない。
まったく世話の焼けることだ、とランタンはリリオンの唇を拭っ
た。
リリオンはランタンが身体に触れると安心してふにゃりと笑みを
こぼす。
それは子供が親に大して抱く接触欲求のようなものなのかもしれ
ない。肉付きは良くなったが、何も変わっていない。たった二、三
日でいきなり十歳の子供が十八歳に変わるわけはないのだ。あたり
まえのことにランタンは溜め息のように苦笑した。
﹁お風呂ってきもちいいのね﹂
﹁のぼせてるのに何言ってるの﹂
あるいはのぼせているからこその妄言なのかもしれない。リリオ
ンは唇を拭ったランタンの手に頬を擦りつけていて、ランタンはそ
の頬の柔らかさを指で押し返していた。
﹁お湯はあたたかいし、ランタンはすべすべし気持ちいいんだもの。
ねぇまたいっしょに入ってくれる?﹂
実に無垢な誘惑に、ランタンは即座に頷いた。
十歳の子どもと一緒に風呂に入ったからといって疚しいところな
ど一つもないし、むしろそれを拒否するほうが、自分の中にあるよ
139
うな気がしなくもない名状しがたい気持ちを肯定するような気がし
た。
何はともあれ探索当日に、それ以外のことで頭を悩ませるのは馬
鹿らしい。
ランタンは探索者らしい切り替えの速さで自己の葛藤を棚上げし
て、リリオンの身体を怪我の手当でもするかのような事務的な手付
きで拭き、下着や寝間着となった貫頭衣を着せてやり、自分も着替
えを済ませるとリリオンを胸に抱きかかえて部屋に戻った。
140
011 迷宮
011
湯疲れからすっかりリリオンを回復させて、朝食とも昼食ともつ
かない大量の食事を済ませて腹ごなしの一休みを挟み、服を探索用
の戦闘服に着替えるとランタンは気合を入れるように自らの頬を叩
いた。
﹁行こうか﹂
﹁⋮⋮うん!﹂
ウォーハンマー
ランタンが用意を始めるのを見て、リリオンもまた自分の身支度
を終えていた。ランタンが腰に戦鎚を下げれば、リリオンは盾を背
負った。
部屋を出て扉の鍵をかけると、鍵をかけるランタンの背中からリ
リオンが手元を覗きこんで呟いた。
﹁その鍵、意味あるの?﹂
ランタンもこの行為が、他者の侵入を防ぐ、という本来の役割を
果たしてはいないということを十分に承知している。そもそも施錠
を破って室内に侵入した張本人の内の一人がすぐ背後にいるのだか
ら、いやでも実感させられる。
﹁開けっ放しにするとなんか気持ち悪いんだよ﹂
一度、部屋の鍵をかけずに迷宮を探索したことがある。その時は
特区へ行く道すがらですらなんだか妙に落ち着くことができずに、
スクワッター
迷宮へ潜り魔物と戦っている時ですら頭の片隅に靴の中の小石のよ
うな煩わしさがあり続けたものだ。
空き巣に入られようとも貴重品は置いていないし、無断居住者に
居座られようとも暴力に物言わせればいいだけなので、多少の面倒
ではあるが大した問題ではない。
141
だが鍵のかけ忘れというのはランタンの精神状態に多大な影響を
与えるのだ。家を空けるときに鍵をかける、と言うのはランタンの
身体に染み付いた習慣だった。
リリオンは判ったような判らないような気のない相槌を打って、
はや
ランタンの両肩に手を置いて押し出すようにして廊下を進んだ。
まるで遠足にでも行くかのように気が逸っているが、その軽い足
取りのせいで階段を突き落とされてはかなわない。ランタンは肩に
置かれる手を取って、妙に慣れた仕草でエスコートするように階段
を下った。
手が温かく、柔らかい。
こうやって手を繋いで先導できるのも地上にいる時だけだ。いざ
迷宮に潜ってしまえば、手を繋いでいるような余裕はないだろう。
ランタンはなんとなしにそんなことを呟くとリリオンは今さら気が
ついたというように足を止めた。
﹁もうここから一人で歩く?﹂
﹁いじわる!﹂
手を引っ張って無理に歩かせても良かったが、自主性というもの
は大切だ。ランタンは意地悪に、繋がった手を離した。
するとリリオンはランタンの腕を絡めとるとその勢いのままラン
タンを引きずるように歩き出した。だが勢いがあったのは歩き始め
だけで、リリオンはランタンの温もりを惜しむようにゆっくりとし
た、脚の長さに差があるのでランタンとしては丁度いい、歩調にな
った。
だがどれだけゆっくりと歩こうともいずれは迷宮特区へと辿り着
いてしまう。特区を取り囲む堅牢な外周壁がその色を濃くし、大口
を開けた門が大勢の探索者を飲み込んでいく。
これから迷宮に潜る探索者たちは気が立っており、いかにもな荒
々しい気配を振りまいている。男女の二人連れで、それも買い物で
うろん
もするかのような手繋ぎ姿のランタンたちにすれ違う探索者たちの
一瞥が痛い。胡乱げなものから、軽蔑、敵意もある。
142
探索前に無駄な体力の消耗を招くような真似をする者は居ないの
で絡まれるようなことはさすがにないが、その気配に当てられてリ
リオンはランタンにしがみつく力を強めた。ランタンはリリオンを
安心させるようにしがみつく腕を撫でてやり、少し歩みを早めた。
精神的な消耗も回避できるならばした方がいい。
二六二番地というのも別段目印があるわけでもなく、ギルドで確
認した地図に見たような分割線が引かれているわけでもない。
迷宮特区は、下街の廃墟じみた景観も大概だが、それに輪をかけ
て混沌とした景観が広がっている。元は上街のような上品な町並み
ファイアドラゴン
が広がっていたという名残が消し炭ほど残っているだけで、あとは
あぎと
火竜の群れに蹂躙されたかのような有様だ。背の高い建物は一つも
ない。そしてそこかしこに迷宮口が顎門を開き、またそれを閉ざし
た後にはぽっかりと円形の更地が広がっている。
﹁もしかして迷子?﹂
﹁ちゃんと着いたよ、ほら﹂
辻を曲がり、左右を見渡し、立ち止まって振り返り、また歩き出
クレーン
すランタンにリリオンは不躾に尋ねたが、ランタンは指さしてそれ
オリーブ
を否定した。指の先には小型の起重機に寄りかかるミシャの姿があ
った。
前と同じ暗黄色のつなぎに身を包んでいて、顔の油汚れはなかっ
たが、ランタンに気がつくと大きく手を振って迎えた。
﹁いつもながらお早いお着きで、今日はよろしくっす﹂
﹁うん、よろしく﹂
﹁よ、よろしくお願いします!﹂
ランタンとミシャが軽く挨拶を交わし、リリオンが大きく頭を下
げた。
﹁⋮⋮なんかお二人似てるっすね、服が﹂
﹁やっぱりそう思うよね、ったくだから言ったのに﹂
ランタンとリリオンを見比べたミシャが呟いて、ランタンはそれ
に同意するようにぶつぶつと文句を垂れてリリオンの脇をつついた。
143
﹁ひゃん!﹂
マント
リリオンは一つ悲鳴をあげて後ずさり拗ねたように唇を付き出し
て、外套をはためかせた。そして外套ごと自分の身体を抱きしめる。
ブーツ
﹁もうっ、だって、いいじゃない! 真似しても!﹂
防具と呼べるようなものは足を包む黒革の戦闘靴ぐらいなものだ。
収納の多い石色のズボンを頑丈そうなベルトで留めて、フードの着
いた暗色の外套に覆われた上半身も似たような装いで纏めている。
無論、探索者用の装備なのでただの布で裁縫されたものではない。
戦闘服は上下ともに靭やかで動きやすく、尚且つある程度の魔物に
噛まれたとしても貫通しない強靭さもかね合わせていて、外套にい
たっては耐火、撥水、防刃、退魔というちょっとした一品だった。
カジノ
だが金属鎧どころか、皮の小手や肘当てすら着けていない軽装で
迷宮へ下るのは賭博場で身ぐるみを剥がされた間抜けか自殺志願者
ぐらいのものだ。
ならば何故、そのどちらでもないランタンがこのような格好をし
ているかというと、単純にそういった防具が肌に合わないというだ
けのことであった。金属アレルギーなどという話ではなく、身体を
守るための防具の硬さが逆にランタンの身体に食い込み、擦れて傷
にまいば
くるぶしふくらはぎ
を残すのだ。現在、装備しているこの戦闘靴でさえ、その中には厚
こけ
手の靴下を二枚履きにして、さらに踝と脹脛に布を当てている有様
だった。
ランタンはそんな自らを虚仮にしてまでリリオンに防具の大切さ
を切々と説き、また露骨に真似されるのを嫌がったのだが、リリオ
ペアルック
ンはそれに反抗した。性別も体格も違うのだから同製品で揃えるこ
とは無理だったが様々な店を彷徨い歩き、結局はお揃い風装備が完
チーム
成してしまった。
探索班を同じ装備で固めている探索者も居ることには居るのだが、
それは騎士団や戦士団に憧れを持っている夢見がちな連中や、仲間
の結束は血よりも濃いなどと恥ずかしげもなく吹聴する小僧どもぐ
らいのもので、ランタンはそういった連中を何とも言えない微妙な
144
気持ちで眺めていたのだが、まさか自分がそれらの仲間入りをする
ことになるとは思いもよらなかった。
満足気なリリオンと沈鬱なランタンを見比べたミシャはそこに渦
とど
巻く感情の波を読み取ろうとしていたが、結局はランタンの肩を軽
く叩いて慰めの視線を送るに止めた。自身の不用意な一言が今の表
情を引き出したのだ、と言うことだけが理解できたからだ。
迷宮に入ってしまえば誰の視線もない。ランタンがそう自分を慰
め、立ち直る頃には迷宮への降下まであと十五分というところだっ
た。
その十五分はただ過ぎ去るのを待つ待機時間ではなく、最終確認
の時間だった。
探索者の中には降下時間ギリギリに来て、引き上げ屋との最終打
ち合わせも早々に切り上げ、会話もそこそこに迷宮へ降りる者も居
れば、毎回毎回に神への祈りを捧げる者、瞑想や仲間同士で手合わ
せを行う者、この場で最後の食事を摂る者も娼婦を買う者など、様
々な習慣を持つ探索者がいる。
ストレッチ
ランタンはと言うと食料や薬の類がきちんと揃っているかを確認
して、早まる鼓動を抑えるように軽い柔軟体操を繰り返した。その
脇でリリオンは池の鯉でも眺めるように迷宮口に身を乗り出してそ
の暗闇をのぞき込んでいる。今にもそのまま転げ落ちそうな雰囲気
だ。
﹁リリオン、落ちたら死ぬよ﹂
迷宮への転落というものは有りがちな死亡要因だ。初探索で浮か
れた新人探索者がリリオンと同じような状況から転落したり、ある
いは疲労困憊に帰還した所で気を抜いて身体をふらつかせて転落し
たり、不運としか言いようがないが急に足元に迷宮口が開いてその
まま、ということもある。迷宮口の深さによるが、無事であること
はまず無い。
リリオンは慌てた様子で迷宮口から後退り、ミシャに笑われてい
た。
145
﹁ミシャ、リリオンにロープ着けてあげて﹂
﹁はいっす!﹂
降下用意の準備をするにはいい時間だったし、ロープを着けてい
ればとりあえずは転落の心配はなくなる。
ソロ
タンデム
﹁でもリリオンちゃんって起重機は初めてっすよね﹂
﹁ああそっか、単独じゃなくて二人用のロープって⋮⋮﹂
﹁そんなこともあろうかと! ちゃんと用意してあるっすよ﹂
ミシャは親指を立てると二人を連結する分厚いベルトに、バラ鞭
のように複数の先端を持つロープを取り出した。そうなると用意を
するのはリリオンだけではなくランタンも、となる。ランタンはべ
たりと開脚していた足を閉じると、跳ねるように立ち上がりミシャ
へと近づいた。
ベルトで固定される前にすべき事があった。ランタンがベルトに
固定された時計を外すとミシャも意を得たりと首に掛けた時計を取
り出した。
ランタンはミシャとおでこをくっ付けるようにして互いの時計の
針を、秒針まで正確に、合わせている。今回の引き上げはおよそ二
日後である。互いの時計の時間がずれていて、待ち惚けを食らうぶ
んにはまだいいが、超過料金やあるいは引き上げ屋の延長待機時間
すら過ぎて置き去りを食らう羽目に陥らないようにするための作業
だった。
﹁うん、これでいいね﹂
﹁はいっす﹂
時計を合わせ終えるとランタンはリリオンに腕を引っ張られた。
どうかした、と尋ねても何も応えずに腕をとったままじっとミシャ
を見つめた。ミシャはミシャでその視線を受け止めて平然とした仕
草さで時計をしまった。
ミシャはベルトを片手にランタンとリリオンを見比べて、眉間に
皺を寄せて考えるような仕草を見せた。
﹁なにか問題?﹂
146
﹁いえ、経験者が補助する場合は、︱︱ランタンさんが後ろから支
えるようにするのが普通なんすけど⋮⋮﹂
ミシャが言葉をそこで切ったので、ランタンはリリオンを見上げ、
そして想像した。リリオンの背中にベルトで固定される自分の姿を。
それは母猿の背中にしがみ付く小猿の姿に他ならなかった。傍から
見る分には愛らしく癒されるが、いざ自らがするとなると情けない
姿である。
﹁嫌だな﹂
﹁なんでよ!﹂
ランタンが呟くとリリオンが怒鳴った。
﹁一緒がいいわ!﹂
リリオンがしがみ付くようにランタンを抱きかかえた。初めての
起重機や、そこから垂れる親指ほどの太さのロープを見るとその不
安も判らなくはないが、リリオンはともすればこのまま身投げしそ
うな勢いでありミシャが慌ててその間に割って入った。手刀をラン
タンとリリオンの間に突き入れて、まぁまぁまぁ、と言葉の柔らか
さとは裏腹な力強さで二人を引き剥がした。
﹁で、結局はこうか⋮⋮﹂
ランタンは息苦しそうに首を伸ばした。それは小猿ではなく真緑
の池に藻掻く鯉の姿に似ている。ランタンとリリオンは向かい合う
ようにしてベルトで固定されていた。風呂場でそうしたようにべっ
たりと身体を密着させて、リリオンはランタンの背中に腕を回して
いる。顔面のすぐ前にあるリリオンの小ぶりな胸からは早鐘にも似
た心臓の鼓動が響いていた。
アブミ
起重機によって中空に釣られている。身体を支えるものはベルト
の左右に引っ掛けられた金属ロープと補助用の鐙だけだ。一度、体
勢を崩すとロープはそれ自体が振動するように震えて、身体が一回
転してしまう。
ランタンはリリオンの背中をあやすように叩いて、起重機を操縦
するミシャに合図を送った。
147
﹁降下開始するっす! リリオンちゃん、安全に送るので身体の力
を抜くといいっすよ! ︱︱降下開始!﹂
リリオンの肩から力が抜けて柔らかくなった瞬間に、ロープが軋
みを上げてゆっくりと起重機から吐き出され、降下が始まった。ラ
ンタンはミシャに軽く手を振って、縦方向に流れる景色を眺めた。
リリオンの身体からは良い感じに力が抜けているように見えたが、
ランタンの外套を握り締める手にはかなりの力が入っているのが伝
わってくる。戦闘をこなす前に外套がしわくちゃになりそうだ。
﹁リリオン大丈夫だから。下を見ずに、視線はまっすぐ壁を眺めて﹂
視線を下げるとどうしても重心が前に寄ってしまう。それでなく
ともリリオンは重量のある盾を左肩に背負っているのだから、ラン
たまもの
タン一人でバランスを取るのは難しい。だがそれでもそれ程の揺れ
がなく降下出来ているのは、ミシャの起重機の優れた操縦技術の賜
である。ロープを通して起重機に伝わる探索者の揺らぎを、さも目
の前で吊られる探索者を観察しているかのように感じ取り、それに
合わせて起重機を巧みに操っているのだ。
﹁いいよリリオン、上手いよ。その調子、その調子﹂
﹁う、うん!﹂
揺れなければ、それだけでリリオンにとっては自信になる。自信
が付けば降下を怖がることもなくなり、怖がらなければ身体から力
が抜け、結果バランスは安定する。
降下を開始して六十秒がゆっくりと時間をかけて流れていった。
すると静かに降下が停止した。上を見上げると小さな穴に、青空が
広がって見える。だが足元には。
﹁リリオン、目線だけで下を向いて﹂
足元には乳白色の濃い霧が広がっている。ランタンは雲海に立っ
ているような不思議な気分になるが、リリオンはごくりと唾を飲ん
だ。この先がいよいよ迷宮になることを、鄙迷宮にもこの霧はある
のだから当然と言えば当然だが、知っているのだ。
﹁魔精酔いに気をつけてね﹂
148
﹁⋮⋮﹂
気をつけたからといって避けられるようなものではないが、気持
ち悪くなることを知っていれば、それに対して身構えることは出来
る。リリオンは何も言わず再び強くランタンにしがみついた。ロー
プが揺れるが、無理に引き剥がせば揺れるどころではないので仕方
がない。
そして冷たい水に足をつけるように、ロープが再びゆっくりと動
き出し、そろりと爪先から霧の中へと飲み込まれてゆく。
この霧は境界線だ。
迷宮口は地上にその穴を穿つが、迷宮はこの地下に広がっている
ベッドロックイーター
わけではない。もし迷宮が都市の地下いっぱいに広がっているのな
ら、今頃この都市は削岩龍に地盤沈下を起こされて滅んだどこぞの
国と同じような有様になっているだろう。
迷宮は異界だ、と誰かが言ったらしいが誰が言ったのかをランタ
ンは知らない。曰く魔界だと言う者も居れば、精神世界だと言うも
のも居るし、異世界だと言うものも居るのだからいちいち覚えてな
ぞいられない。酒場で管を巻く探索者それぞれが好き勝手なことを
言っているのが迷宮だ。
そもそも迷宮が何であるのかを知っている人間はいないとされて
いる。国も都市も探索者ギルドも、真実はどうであれ、迷宮につい
ロマン
ロ
ての正式な見解を発表していないのだ。むしろ未知のものだからこ
マン
そ、阿呆な男たちがこぞって迷宮へ夢を求めて旅立ち、そして魔精
結晶を見つけてしまったものだから探索者などという職業が成り立
っているわけだ。
中には迷宮の真相を探ることを命題とする探索者も居たが、ラン
タンとしては迷宮が何であるかなど知らなくても、そこを探索し財
を持ち帰ることは出来るのだから、未知のものが未知のままでもな
にも問題はないと思っている。
だが、この霧を越えれば現世ではないということは、ランタンで
すら肌で感じ取ることが出来る。
149
魔精を含んだ霧の中に頭まですっぽりと飲み込まれた。霧は肌に
まとわりつくが、冷たくも暖かくも、湿っても乾燥してもいない。
ただ少し酒精を嗅いだ時のような酩酊感はある。目の前のリリオン
を目視することすらできない濃い霧の中では自分が今、降下してい
るのか静止しているのか上昇しているのかさえ定かではない。時間
の間隔さえも曖昧だ。
ただ顔面に押し付けられる柔らかさだけは目の前にリリオンが居
ることを告げている。
不思議な感覚だな、とランタンは思った。
迷宮に降りる際はいつでも一人だったので、他者が近くにあるの
は妙な気分だった。魔精の霧の中では自己というものが曖昧になる
ものだと思っていたのだが、リリオンが居るだけで随分と自分の輪
郭がはっきりしている。背中を撫でると背骨のオウトツや薄い肉の
強張った感覚が、胸に顔を押し付けると柔らかさや甘い匂い、体温
や心臓の鼓動が聞こえた。
ランタンはふと安心している自分に気がついて、これじゃあ本当
に小猿だな、と皮肉げに唇を歪ませた。
﹁リリオン、抜けるよ﹂
足元から蛇のように冷やりとした気配が這い登ってくるのを感じ
ると、程なく霧の中を抜けた。乳白色に覆われていた視界が開かれ
ると、仄かな明るささえもが眩しい。そこにはまるで白磁器の壺の
中のような、丸みを帯びた空間があった。
﹁うぅ⋮⋮﹂
地面に足を着くと硝子質の硬い音が響いた。リリオンが青い顔を
してランタンにしがみついて自分の身体を支えている。ランタンが
手早くベルトを外してリリオンを連結から開放すると、リリオンは
口を抑えてぺたりとへたり込んだ。
﹁きもちわるい﹂
霧の中に含まれる魔精が急激に体に吸収された事による魔精酔い
と呼ばれる症状だった。魔精は探索者、ひいては魔物の並外れた身
150
体能力の源のようなものだ。それを急激に取り込むことによって起
こる感覚の鋭敏化に、脳の処理が追いついていないのだ。今のリリ
オンには小鳥のさえずりさえ煩わしく、平地さえもが荒波に晒され
る甲板のように感じるだろう。
ランタンはポーチから掌に収まる大きさの円形の金属缶を取り出
して、その中から小さな丸薬を手の中に転がした。丸薬は麻の実ほ
どの大きさで、鮮やかな緑色をしている。ランタンは丸薬を指先に
摘むと、にやにやとしながらリリオンの唇の間にそれを押し込んだ。
﹁奥歯で噛んで﹂
囁くように告げると、リリオンの奥歯から丸薬が砕ける音が響い
た。瞬間、虚ろとしていた表情が、正しく苦虫を噛み潰したような
険しいものへと変じた。
﹁う゛!?﹂
限界まで目が見開かれ、眉根に深い皺が刻まれた。
リリオンの口に押し込んだ丸薬は、探索者の必需品である気付け
薬だ。薄荷を煮詰めたような鼻に抜ける冷酷な清涼感と舌を灼く残
酷な辛味が一気に意識を覚醒させる代物で非常に高い効果を誇るが、
難点としてとびきりの不感症だとしても確実に落涙するという刺激
物でもある。
リリオンは見開いた瞳からぽろりぽろりと涙を流し、頬と鼻とお
でこを赤くさせてランタンを睨みつけた。そこに魔精酔いによる鬱
屈とした表情はみられない。酔いを覚まさせてやったというのに、
ずいぶんと失礼な反応をするものだ。
﹁ひとこと言ってくれてもいいじゃない!﹂
リリオンはやや緑に染まった舌を出したままに、ひぃひぃと息を
吐きながら喚いた。だがランタンはどこ吹く風といった様子で、そ
れどころか悪戯小僧のように楽しげですらあった。
﹁これの味を知ってこそ、真の探索者だよ﹂
悪びれる様子もなく、そんなことを吹聴する始末である。
リリオンも結果としては悪夢のような気持ち悪さから開放された
151
わだかま
ので、これ以上の抗議はできないといったように渋々と立ち上がり、
多少の蟠りを残したまま盾を背負い直して辺りを見回した。
迷宮内部の構成物質は、その迷宮によって様々である。人工的な
石組みの迷宮もあれば、原始的な岩を刳り貫いただけの迷宮もある。
中には燃え盛っていたり凍り付いていたりということもあるらしい。
もっともランタンはまだそのような迷宮を探索したことはないが。
この迷宮は硬質な物質で作られており、戦闘靴が踏む地面が磨り
硝子のように固くざらついて、しかしやや滑りやすい。壁一面は灰
白色で、蛍のようにほのかに光を放っている。リリオンがその壁に
近づいて、そっと手を触れた。
﹁⋮⋮冷たい﹂
発光しているが壁に熱はない。迷宮内にはわずかに肌寒ささえも
が立ち込めている。
﹁リリオン、集合!﹂
﹁はい!﹂
声が壁に反響している。リリオンは駆け足でランタンの傍らまで
来ると、ビタリと急停止した。まるで命令を待つ訓練された犬のよ
うだ。ランタンが事前に迷宮内では絶対服従と言い含めていたのだ
が、ここまで従順だと逆に気後れしてしまう。
﹁後ろ向いて﹂
﹁はい! ⋮⋮あ﹂
二人を吊り下げた金属ロープが姿を消していた。無事に二人を下
ろしたことを確認したミシャがロープを回収したのだ。
フラグ
﹁これでもう帰還するすべはないよ。︱︱明日の夜までね﹂
今回の探索の予定は一日目に下層を攻略し、二日目に最終目標の
撃破そして夜までに帰還という言葉にすれば単純なものだった。
﹁︱︱はい!﹂
だがリリオンは震える声を気合で押さえつけるように凛と返事を
した。言うは易く行うは難し、と言う慣用句を知っているのかは判
らないが、少なくとも言葉ほど単純な探索ではないことは想像でき
152
たようだ。
リポッップ
﹁上層中層の魔物はたぶん再出現してない予定だし、下層だってわ
ルート
りと撃破してあるから、そんなに張り切らなくてもいいよ、今はね。
経路も険しいところはないし、まぁ滑って転ばないように気をつけ
るだけで十分だよ﹂
迷宮核が健在な限り迷宮内に魔物は無限に湧き続ける。だがそれ
は断続的に生まれているというわけではない。魔物は迷宮自身が迷
宮を守るために配置した兵隊であり、一定の上限数をもって、その
上限自体は迷宮毎によってまちまちなのだが、迷宮内を徘徊してい
る。一度魔物を撃破すれば、再び魔物が湧出するまでに幾ばくかの
猶予時間が存在し、目安としては撃破時より数えて一〇日前後と言
われている。
再出現にはまだ十分余裕がある。だが張り切らなくていい、と言
うのは気を抜いていいと同意ではない。最初から最後まで十の力を
発揮しようとしていては、道の半ばで気力が尽きてしまうことは明
白だった。
ランタンが落ち着かせるように軽くリリオンの肩を叩いた。
﹁あ、⋮⋮ランタン﹂
するとリリオンは反射的にその手を取って、自らの行動に戸惑う
ように視線を泳がせた。
リリオンの手は冷たく、ランタンの手を握ったまま離さなかった。
﹁あの、ランタン﹂
﹁なぁに?﹂
ランタンは言いながら、頬に苦笑が滲みでるのを抑えられなかっ
た。それは自分に向けてのものだ。リリオンの瞳を真正面から見る
ことができない。だが視界には、その視線が飛び込んでくるのだ。
縋るような、震える子犬にも似た瞳をしたリリオンが呟いた。
﹁手、少しだけでいいの。⋮⋮つないだら、だめ?﹂
﹁︱︱⋮⋮上層だけね﹂
魔物は出ない予定だし、と誰にともなく吐き出した言い訳が虚し
153
く壁に響いた。
154
012 迷宮
012
深度計と呼ばれる探索道具がある。その形態は様々だが大抵は装
ネックレス
飾品の形をとっており、ランタンが使用しているものは革の紐に涙
型の深度計を垂らした首飾り状だ。深度計は計りなどとは名ばかり
に目盛りの一つもなく、それは安物の宝石に見えなくもない。
ランタンは服の中にしまっていた深度計を手繰り寄せるとリリオ
ンに見せるようにつまみ上げた。
迷宮を探索する際に、その構造は上層、中層、下層の三つに分け
て考えられるが、実際に迷宮が三分割されているわけではない。そ
こに漂う魔精の濃さを深度計で測り、出現する魔物の変化を見極め、
あとはこれまで経験則から、ここからは中層だな、と頭の中の地図
に線を引くのだ。
深度計は水色を薄めたような微かな光を放っている。青が薄けれ
ば大気中の魔精は薄く、青が濃ければ大気中の魔精が濃い証拠だ。
﹁うーん、⋮⋮まだ、上層⋮⋮?﹂
リリオンは深度計をじっとりと見つめて、おそるおそる呟いた。
さながら授業中に余所見をしていた少女のようだ。となると僕は先
生か、とランタンは一つ咳払いをした。
﹁残念ながら、もう中層です﹂
深度計の色の変化は非常に曖昧で淡いものだ。例えば深度計を黒
いほどの青に染めようと考えるのならば最高難易度の最下層にでも
いかない限りそれを叶えることはできない。この迷宮の最下層に到
達したとしても深度計は青になるかどうかといった所だろう。
﹁もうぜっんぜんわからない。さっきと色変わってないわよ!﹂
﹁さっきはもっと薄かったよ。⋮⋮といってもまぁ判んないよね﹂
155
ランタンが色の変化に気が付けるのも、何度もこの迷宮に潜った
経験があり、どの程度の変化が起こるのかを知っているからだ。迷
宮深度を推し計る、また別の目安となる魔物も出現していないので、
初探索であるリリオンが迷宮深度を推測するのは難しいだろう。
﹁と言うわけで、もう手は離すよ﹂
ランタンがぱっと指を開いた。リリオンは未練がましさを隠そう
ともせずにゆっくりとランタンの手から指を離した。まるで皮膚の
癒着を無理矢理に引き剥がすような苦痛に顔を歪めている。
大げさなことだ、と思考の浅い所で思い、しかしランタンもまた
その表情から視線を外すことに、必要以上の精神力を要していた。
じょう
駄目だ駄目だ、と頭を振って雑念を振り払い、しかしこびり付いた
情がランタンにリリオンの腕を掴ませた。
ランタンは深度計を首から外すと、片手で器用にリリオンの腕に
巻きつけた。
﹁これ預けるから、我慢してね﹂
﹁︱︱うん、我慢する﹂
ランタンはリリオンの手首を飾る水色の光を指で弾き、リリオン
つつ
ほころ
はその幽光に眩しそうに目を細めた。その光の熱を確かめるように
アクセサリーショップ
ちょいと指で突く。ランタンはその様子に顔を綻ばせた。
﹁熱くはないのね﹂
﹁熱かったら火傷しちゃうよ﹂
﹁そうね、そうよね﹂
リリオンはここが迷宮ではなく装飾品店か何かと錯覚しているよ
うに、腕を前に付き出して見せびらかしてみせた。ぬっと眼前に現
れた手をランタンは思わず捕まえて、それが毒虫でもあるかのよう
に、慌ててぽいっと放り出した。
ランタンはリリオンに悟られないように、自分とリリオンの汗で
湿った掌をズボンで拭った。汗はズボンにあっという間に吸い取ら
れたが、掌には暖かさも柔らかさも生々しく残っている。
これではまるでリリオンが手を繋ぎたがっているのか、それとも
156
自分がそれを望んでいるのか判らない有様だ。
だがもし、万が一、何かの気の迷いで、まぁそんな事はないのだ
けど、自らが手を繋ぐことを望んでいたとしても、それを実行に移
すことは耐えなければならない。
﹁ぜんぜん魔物って出ないのね﹂
つまらなそうにリリオンが言った。
﹁まぁ処理済みだしね。 ︱︱でも、そんなこと言ってると出るん
だよねぇ、ひひひ﹂
﹁わたし、こわくないわ!﹂
ランタンが脅かすように囁くと、リリオンは虚勢を張った。
リリオンは魔物と相対したことがあるが、これと剣を交えたこと
はないらしい。着の身着のままで魔物の眼前に放り出され囮役をや
らされてはいたが、実際の戦闘行為はあの男たちの役割だったよう
だ。それでもリリオンは、動物なら殺した事があるわ、と喚いたが
それは向かってくる猛獣を相手にした戦いではなく、食事のために
小動物を狩猟したという程度のものらしい。
﹁僕にしたら武器も持たずに魔物の前に行くほうが怖いけどね﹂
それは、僕にしたら、ではなく大多数の探索者、いや、ほぼ全て
の人類が何の守りもなく魔物の前に立つことのほうが恐ろしいと感
じるだろうに、リリオンの感覚はどこかずれている。いや、ずらさ
なければやっていけない境遇に身を置いていた、と言うことか。
ランタンは表情を変えずに口の中で舌打ちを転がした。
この意識のずれは早いうちに直しておいたほうが良いだろう。と
は言っても口頭で伝えるだけで直るようなものではないだろうし、
失敗して戦闘行為だけではなく、魔物そのものに恐怖を覚えるよう
になってしまったら目も当てられない。
ランタンにも、上層に出現する魔物程度ならば片手間でどうにで
も出来るという自負がある。
だが中層以下となると、片手間では済まない。リリオンを戦場に
引きずり出し、戦果を挙げさせる。そんなお膳立てが出来るだろう
157
か。
﹁やらなきゃ、だよね﹂
リポップ
中層の魔物は前回探索時に殲滅済みで、再出現までには猶予があ
る。となるとリリオンの初戦闘が下層になり、そうなると更に舞台
を整えることは難しい。だが運が良ければ、あるいは悪ければだが、
魔物が出現している場合もある。
﹁でもでも、前の探索の時には再出現してたんでしょ?﹂
﹁まぁそうだね。だいたい十日前後って言われてるけど、それも絶
対じゃないし、はぐれって呼ばれるんだけど、一匹だけが出現して
る場合はまぁまぁあるんだよね﹂
﹁一匹だけなの?﹂
﹁うん。魔物は群れを作る奴もいるけど、そいつは絶対一匹だけ。
迷宮兎だったとしても一匹だけしか出ないんだ。もし出たらリリオ
ンにやってもらおうかな﹂
﹁一匹⋮⋮、わたしがんばるわ!﹂
リリオンはぐっと拳を握って、その拳を天井に突き上げて吠えた。
はぐれ、と呼ばれる変則的に出現する魔物は、通常の魔物の平均
値から大きく外れた強さを持っている。迷宮が魔物を生み出すとき
に分け与えられる魔精を独り占めにしているのか通常時よりも強い
種の場合もあるし、逆に魔精が足りずに、未熟児であるかのように
弱い種の場合もある。
﹁うん、がんばってね﹂
ランタンは極めて気軽にそう口に出した。プレッシャーを与えす
ぎて、本人のやる気や勢いを削いでは元も子もない。強い種が出れ
ウォーハンマー
ばランタンが処理し、そうでなければリリオンに差し向ければよい。
ランタンは腰に下げた戦鎚の柄を握り締めた。柔らかくもなけれ
ば、温かくもない。硬い金属の棒だ。だがそれもまた掌には馴染ん
で、ランタンに安心感を与えるものである。
例えば最終目標が何らかの理由で最下層から抜け出し突然目の前
に現れたとしても、リリオンを逃がすか、あるいは盾を構えさせる
158
程度の時間ならば余裕で稼げる。前衛としてのランタンの力量は、
控えめに言っても並の探索者に引けを取らない。
だがそれだけが探索者に求められる能力ではない。
探索者ギルドよりの情報を元に探索計画の立案やそれについての
ソロ
最終決定を下す指揮者としての仕事は、その仕事の質はさて置いて、
単独探索者として避けて通れないのでなんとかこなしてはいるが、
いざ迷宮に入ってしまえば足りない能力というのは浮き彫りになる。
その最も顕著なものが、索敵能力だった。
魔物に発見される前に魔物を感知し、奇襲からの先制攻撃を与え
ることが出来るというのは、戦闘行動において重要な要素となる。
上手く事が運べば相手に攻撃の機会を与えることなく魔物を殲滅す
クリティカル
ることも可能であるし、仕留めきれなかったとしても不意の一撃と
いうものは致命的な損害を相手に与える確率が大きく上昇する。そ
うなれば続く戦闘を非常に有利に事を運ぶことが可能となり、結果
的に味方側の消耗を抑えることに繋がる。
フラグ
一度の探索につき戦闘が一度だけならば消耗を度外視してもいい
チーム
が、そんなことが可能なのは最終目標までの魔物の殲滅のみを行う
探索班と最終目標との戦闘だけに特化した探索班といった複数の班
を組むことが出来る人員を抱える大規模探索団ぐらいのもので、ラ
ンタンどころか普通の探索班には縁遠い話だった。
通常の探索では魔物との複数回の遭遇、戦闘は避けられないもの
だ。戦力の消耗を恐れるがあまり、身を隠し、またその魔物を避け
て進むということも過去には考えられたらしいが、撤退時ならまだ
しも、現在では挟撃の危険性を増やすだけの愚かな行為だと言われ
ている。
つまりランタンが魔物に遭遇した瞬間には、幸運が重なるか魔物
がよほどの間抜けでもない限り、もう既に戦いの火蓋が切って落と
されているというわけだ。
﹁︱︱リリオン! 戦闘用意!﹂
﹁え︱︱はいっ!!﹂
159
ランタンが叫ぶ。
背後で盾を構え抜刀する金属の音色が聞こえ、それが聞こえた瞬
間にはランタンはすでに地面を蹴っていた。流れる景色の中で鋭く
目を細める。
灰色の景色の中に、濃い茶色の塊が一つ。それはランタンを目掛
けて一直線に突っ込んでくる。ずんぐりとした丸い体をいかにも硬
そうな毛皮で覆い、口から溢れる牙は短く、ラッパ状の鼻が特徴的
だ。どこかコミカルな印象を受けるのは、毛に埋もれた黒い瞳がつ
ぶらなせいだろうか。
はぐれ魔物。それは巨大な猪だった。
なんという名前だったかな、と思考の隅で考えながらランタンは
戦鎚を握りこみ、身体を捻るように振りかぶった。名前は思い出せ
ないが、前に戦ったことがある。大きさはその時とさほど変わらな
いように思えるが、外見から強弱を推し計ることは出来ない。
毛は針金を編んだように硬質で、その下の肉はゴムのように弾力
があり打撃に対して高い耐性を持っていたはずだ。突進速度はなか
なかのもので、牙が短い代わりに鼻が黒鉄のように硬化しており、
速度の乗った巨体と合わせた突進を真正面から受け止めることは難
しい。
だが所詮は猪だ。巨体に埋まるように生えた短い足は、ただひた
すらに体を前に推し進めるだけに付いており、急停止どころか方向
転換もままならない。避けることは容易い。
だがしかし背後には初陣のリリオンが居る。イノシシはどこから
走ってきたのか充分に加速しており最高速度と言ってもいい。視界
の先で拳大ほどの大きさだった姿が、もう目前にいる。こうなると
もうコミカルどころではない。岩の塊が突っ込んでくるような圧力
がある。猪はランタンの腰ほどの体高があり、これをこの速度のま
こけん
ま、無傷でリリオンへ通してしまっては先輩風を吹かせていたラン
タンの沽券に関わる。
﹁どっ、せぃっ!﹂
160
ランタンはすれ違いざまに猪の横っ面を戦鎚で引っ叩いた。醜い
悲鳴が上がり、硬い毛皮を潰し、弾力のある肉を押し分け、硬い頭
蓋の感触が掌に伝わってくる。
一瞬、猪の前足が二つとも地面から離れ、巨体がわずかに横にず
れた。だが猪の突撃は止まらない。ランタンは叩いた衝撃で自らも
横に跳んで猪の攻撃を避けた。
﹁重い﹂
だがそれだけで、強くはなさそうだ。ランタンは、カモだな、と
ハンマーヘッド
下品に上唇を舐めた。
ランタンは槌頭に付着した魔物特有の青い血を振り払い、即座に
振り返って視線で猪を追い、それを追い越してリリオンを見た。
﹁リリオン!﹂
リリオンはランタンの言いつけ通りに盾を左前に構えて、最初の
位置から動かずにじっと魔物を伺っている。盾の影に隠れて表情は
見えないが、どうやら落ち着いているようだ。まずそのことに安堵
し、さらにきちんと猪を視界に捉えて、ほっと一つ息を吐いた。
猪はリリオンに到達する前に足を縺れさせて、後ろ足が前足を追
い抜くような形ですっ転んだ。丸い体も相まって二つ三つと転がっ
て、起き上がり小法師のように立ち上がると再び走りだした。その
先は、壁だ。
猪はランタンの打撃によって一時的に脳震盪を起こし錯乱してい
るのだ。
戦鎚の鶴嘴を使えばいかに猪の強固な頭蓋であろうとも孔を開け
ることもできただろうがランタンが片付けてしまっては意味がない。
タフ
それに虫の息にまで追い込んで、はいどうぞ、でもリリオンの自信
には繋がらない。
猪は硬い鼻で何度かガリガリと壁を削り、しかし持ち前の頑丈さ
ですぐに正気を取りもどした。こめかみから流れる青い血を振り払
うように頭を振って、耳障りな音で鼻を鳴らし、攻撃的に鳴いた。
﹁リリオン! 二分の一だ! そっちに行ったら任せる!﹂
161
猪の突進は脅威だが、それは十分に加速していればの話だ。猪は
ちょうどランタンとリリオンの中間地点で、どちらに狙いを定める
か迷うように落ち着きなく円を描いた。
﹁落ち着けば大丈夫だから!﹂
ランタンはリリオンに向かって叫ぶと、こちらを向いた猪に向か
って走りだした。憎悪に濡れたつぶらな瞳を覗きこむように睨みつ
け、殺意を注いだ。ランタンの焦茶色の瞳が、明るくなった。
その瞬間。
ひときわ甲高い鳴き声を発すると猪は踵を返し、猛然とリリオン
に向かって走り出しだした。ランタンはそれを追い立てるようにそ
の後ろに続く。
ランタンから逃げるように猪の蹄が硬質な地面の上で空回る。そ
れでなくとも満足な助走に必要な距離は存在しないので、猪は中途
半端な速度でリリオンに向かわざるをえない。落ち着いたリリオン
ならば盾で受け止めることは容易いだろう。
なのに。
﹁リリ︱︱﹂
リリオンが空を払うように盾を横に薙いだ。目測を誤った、いや、
視界が狭いのを恐れたのか。何にせよリリオンは全くの無防備だ。
ランタンの叫び声は間に合わない。リリオンは盾に身体を引き摺
さら
られるその勢いのままに、剣をおおきく振りかぶっている。まだ、
猪まで遠い。
盾から体を曝け出したリリオンをランタンは引きつった表情で見
つめた。リリオンは全然、まったく落ち着いてなんかいなかったの
だ。
顔は真っ白で、一文字に結ばれた唇は青く、瞳には全く余裕がな
く猪だけを見つめている。リリオンは言いつけ通りに盾に隠れて冷
静に猪を伺っていたわけではない。緊張と混乱で一時的に凍り付い
ていたのだ。それが向かってくる恐怖の対象を見て、急速に解凍さ
れた脳髄が、本能的に身体を動かしている。
162
﹁踏み込めっ!!﹂
ランタンはほとんど悲鳴のような怒鳴り声を上げた。
﹁はいっ、ぃいやぁぁああっ!!﹂
ランタンの命令がリリオンの本能行動の隙間にねじ込まれて、リ
しな
リオンは猪に向かって大きく一歩を踏み込んだ。リリオンの左足の
下で地面が砕け、右腕が撓ったかと思うと、剣がまるで投擲される
ように振り下ろされた。
きっさき
壁に反響するリリオンの気合を、爆音が吹き消した。
力任せに叩きつけた鋒が地面に埋まっている。外したのではない。
顔面をまるごと失った猪が弾けるように転がって、数回大きく痙攣
すると青い血の海の中で静かに横たわった。
﹁わぉ﹂
猪の頭蓋骨の中に仕掛けた爆弾が爆発したような有様にランタン
は小さく声を漏らした。
無残な猪の死骸を飛び越えてリリオンに駆け寄った。
リリオンは地面に埋まった剣を抜こうとしているのか、それとも
柄に張り付いて剥がれない掌をどうにかしようと、肩で息をしなが
ら必死に腕を動かしている。猪の有様も、近寄るランタンにも気が
付いていない。
﹁リリオン﹂
﹁︱︱ひっ﹂
﹁その反応はちょっと傷付くなぁ﹂
﹁えっ︱︱きゃあっ!﹂
声を掛けたランタンにリリオンは怯えた表情を見せて、それがラ
ンタンだと気がつくと柄から手が滑って盛大に尻餅をついた。手の
中から盾が零れ落ちて銅鑼のような音が響く。ランタンはその音に
顔をしかめながら手を差し伸ばした。
﹁よくがんばったね﹂
ランタンは手を掴んだリリオンを抱き起こして、そのまま胸の中
に収めた。剣を握っていた右の掌には剣撃の熱がこびり付いていた
163
が、指先は氷のように冷たく震えていた。優しく背中を撫でてやる
と、そこからゆっくりと溶け出すようにリリオンの体から力が抜け
る。
﹁どうだった?﹂
﹁⋮⋮わかんない﹂
﹁ふふふ、初体験なんてそんなものだよ﹂
胸の中でポツリと呟くリリオンにランタンは意味深に笑いかけた
が、リリオンはぽかんとした表情になっただけだった。ランタンは
口元の笑みだけはそのままに抱きしめていたリリオンを開放して、
さてと、などと呟きながら地面に刺さった剣を抜いた。
がむしゃらな一撃だったので、覚えていないのも無理はない。
剣はあれほどの勢いで叩きつけられたのにも拘らず壊れてはいな
ひしゃ
かった。地面に埋まった部分の刃は若干潰れてはいるが、生半可な
品質では折れるか拉げるかしているような一撃だったことを考えれ
ば、さすがはグラン工房と言わざるを得ない。いい仕事をしている。
﹁盾拾って︱︱はい﹂ リリオンに盾を拾わせて差し出されたそれに剣を収める。ランタ
ンでは腕の長さが足りずに一人では剣を抜き差しすることができな
いのだ。
ランタンは羨ましそうな表情を隠して、すらりと手足の長いリリ
オンを眺めた。あの脚の、あの腕の、あの剣の長さのどれか一つで
も欠けていたら、今ごろリリオンの膝から下は猪によって破壊され
ていたかもしれない。
それを思うと胃が痛い。
きちんと防御を固めろだとか、盾があるのだから有効活用しろ、
と本来ならばリリオンに説教をかますのが厳しい先輩探索者として
は正しい振舞いなのだろう。だが、せっかくの初陣を、ともかくと
して傷一つなく無事に終えたのだから、水を差すような真似もした
くはなかった。説教か称賛か、悩ましい。
﹁これ、リリオンがやったんだよ﹂
164
二人は猪の死骸を取り囲み、青い血を踏まないようにそれを覗き
こんだ。
猪は首から大量の血を流し、巌のようだったその巨躯は一回りも
二回りも小さく萎びている。だがそれでも十分に巨大だ。頭部を失
っているのにもかかわらず二メートルはある。
﹁これを、わたしが﹂
つつ
リリオンは感慨深げにその死骸を眺めて、盾の角で死骸が再び起
き上がるのを恐れるように軽く突いた。触れた毛並みの硬さに驚い
ている。この剛毛と厚い脂肪をまとった肉体は天然の鎧と言って差
し支えないし、強固な頭蓋骨は兜さながらだ。
﹁これを一撃で仕留められれば、探索者として上等だよ﹂
﹁ほんと?﹂
猪の有様を見ればその一撃の凄まじさは語るまでもない。その一
撃に至るまでの過程には、上等、などという形容詞は付けることが
出来ないがランタンはそれを口に出さなかった。何しろ自信を付け
させることが目的なのだ。
﹁ほんとほんと﹂
ランタンは、はっきりとした手付きで力を込めてリリオンの腕を
叩いた。ばちん、といい音がなってリリオンは驚いた様子で目をま
ん丸にしてランタンの横顔を見た。
﹁頼りにしてるよ﹂
とろ
リリオンは叩かれた腕の痺れを撫でると、まるでその痺れが愛撫
によってもたらされたものかのように頬を蕩けさせて、猪さながら
の押し倒すような勢いでランタンに抱きついた。
﹁︱︱ランらんっ!﹂
﹁誰だよ⋮⋮むぐぅっ﹂
胸の中に掻き抱かれると生々しく冷たい汗の匂いがした。
そういえば自分の初陣でも、こんな風に冷や汗を掻いたような気
がしなくもない。リリオンのことを兎や角言う事の出来ないような
狂乱を晒していたというのははっきりと覚えているが、その印象が
165
強すぎて相対した魔物もどのような種類かは定かではない。
﹁ちょっと、っ。倒れる! 死体と添い寝なんてやだよ﹂
だが今は思い出を引きずり出して感傷に浸っている場合ではない。
盾を持ったリリオンの体重を支えるには体勢が厳しすぎる。押し
かた
倒そうとする加重の向こう側には青い血の海と猪の死骸がある。皮
を剥いで敷物にしたとしても最低の使い心地であることは想像に難
くない。
﹁えいっ﹂
必死にバランスを取ろうとするランタンを、リリオンはいとも容
易く持ち上げてダンスでも踊るかのように身体を入れ替えた。そし
て微妙な顔をするランタンに笑いかけると、仕切り直しとばかりに
再び胸に抱いた。
﹁ねぇランタン、これはどうするの?﹂
﹁そうだねぇ﹂
リリオンは死骸を指さし、ランタンは片手で人形のように抱えら
れたまま頭を揺らした。
普通の探索者ならばまず最も価値の高い、大抵の場合は、魔精結
晶を第一に収集し、そして順次積載量の余裕を鑑みながら、例えば
牙や爪、毛皮などの値段がつきやすい素材の剥ぎ取りを行う。
﹁猪の結晶ってどれなの?﹂
ストロングポイント
魔精結晶はその魔物によってそれを備える部位が異なる。基本的
にはその魔物の最も特徴的な、長所と呼ばれる部位に魔精は込めら
れており、絶命と同時に長所が結晶化するのだ。
﹁ええっと、それって﹂
ランタンが顎をしゃくって剣が叩きつけられた地面を指し示すと、
そこには薄ぼんやりと光る砕けた魔精結晶が散らばっている。リリ
オンは、きゃあ、と一つ叫んでランタンを抱えたままそちらに走っ
た。
地に足が付いていないのは落ち着かない。ランタンが身体を捻っ
て拘束から抜けだすとリリオンはその場にしゃがみこんだ。ランタ
166
ンは地面に跪いてせっせと欠片を拾い集めるリリオンの肩を優しく
叩いた。
﹁気にしなくていいよ。珍しいことじゃないから﹂
リリオンは掌に魔精結晶の欠片を乗せて、悲しむような瞳でラン
タンを見上げた。ランタンは薄く苦笑するとポーチから特殊な布で
編んだ小袋を取り出して、リリオンの掌から欠片を小袋へ払い落と
した。
﹁あ⋮⋮﹂
再び拾い始めようとするリリオンの目の前で魔精結晶の欠片が次
々と地面に溶けるように消えていく。魔精が迷宮に還っていったの
だ。そしてそれはまたいつか生まれる魔物の源となる。
﹁⋮⋮きえちゃった﹂
﹁そんなもんだよ﹂
魔物の長所をすみやかに潰すことが出来れば戦闘を有利に進める
ことが出来るが、だがそれは同時に魔精結晶の価値を大きく減ずる
ことを意味する。安全を考慮して長所ばかりを狙うような戦闘を繰
り返せばいずれは探索で消耗した装備を賄うことが叶わなくなり、
また欲に目がくらめば寿命が縮む。
﹁どうしたらいいの?﹂
ランタンはリリオンの疑問に肩を竦めた。金銭を取るか、それと
も安全をとるか、と言うのは全探索者にとっての永遠の課題でもあ
る。正解が存在するのならば大枚を払ってでも教えを請いたいもの
だ。
﹁ランタンはどうしてるの?﹂
﹁僕はあんまり気にしてない、かな。余裕があれば避けるけど、怪
我したくないし﹂
肩を貸してくれる仲間もいない単独探索者じゃあ小さな怪我も命
取りだからね、とランタンは笑った。だがその実、思いの外ランタ
ンが無茶をすることを察しているのかリリオンはランタンの手を握
り締めて、ぬっと顔を近づけた。
167
﹁わたし、がんばるから﹂
﹁︱︱えぇと、うん﹂
﹁わたしがんばるから、たよりにしてね!﹂
うん、と頷くと唇が触れそうな程の距離に、ランタンはただ曖昧
に笑みを浮かべた。
少しだけ煽りすぎたかもしれない、とそう思いながら。
168
013 迷宮
013
迷宮の道は平坦にも見えるがその実ややなだらかに傾斜していて
進めば進むほどに下っていく。深度計なる物を使用し尚且つ迷宮を
探索することを、潜る、と形容するにもかかわらず坂道であること
を失念する者は後を絶たない。慣れない者は気づかない間に膝を痛
めたり、疲労によって足を縺れさせて転んだりする。
いつ背後から悲鳴が聞こえるかヒヤヒヤしていた。
だが意外なことにリリオンは足取りも軽く疲れた様子も見せては
いない。先の戦闘から軽い興奮状態をずっと維持しているのだ。い
や、自らが興奮していることにも気がついていないのかもしれない。
﹁ねぇ、ランタン! これ見て!﹂
﹁んーどうしたの?﹂
リリオンの手首にぶら下がる深度計が色を濃くしている。秋空に
似た淡い色だが、中層に入ったばかりの頃と比べれば一目瞭然に色
が濃くなっている。この色が意味するのはここが中層を抜けた先、
つまり下層であるということだ。
﹁もう下層に入ってたのか⋮⋮よく気づけたね﹂
ランタンはリリオンに向かって微笑み、思考を巡らせた。
ランタンも何だかんだとリリオンの足取りに急かされるように進
行のペースを早めていたようだ。ランタンは時計を取り出して時間
を確かめると、予定よりも随分と余裕を持って下層へと入ることが
出来た。
猪を屠った後に一度の小休憩を挟んだが、ここらへんでもう一度
休憩してもいいかもしれない。下層はまだ半分以上が未踏破で、魔
物の掃討も済んでいない。ここから先は複数の魔物との連戦になる
169
だろうし、もしそうなればリリオンの体力は本人が気がついた時に
は底を突いている可能性が高い。
そうなればリリオンはただの護衛対象でしかなく、動く事もでき
なければそこに、足手まといの、と言う形容詞を付けなければいけ
なくなる。そうなればせっかく芽生えたリリオンの自信は猪の頭の
ように粉々になるだろう。
一度、完全に、とはいかなくとも冷却時間を取ったほうがいい。
とは思うのだがいつ魔物が襲ってくるかわからない下層でいきなり
腰を下ろすわけにはいかなかった。まずは安全を確保しなければな
らない。
﹁ランタンどうしたの?﹂
あからさまに歩調が遅くなったランタンにリリオンが並んで顔を
覗きこんだ。血色の良いその顔をランタンはじっと見つめた。
リリオンをここで待機させて、自分が斥候を、だがしかし浮かれ
ているリリオンから目を離すのは正直な所恐ろしい。地上ならば持
ち前の素直さで言うことを聞いてくれるだろうが、迷宮という異界
では普通では考えられないような思考に陥ることは侭ある。それな
らばやはり目の届くところに置いておくのが良いだろう。共に戦う
としても、守るとしても。駆け抜けた思考を、継ぎ接ぎしてゆく。
﹁ここからは、ふつうに魔物が出るよ。少し進んで、魔物を見なけ
れば、またここまで戻って、もう一度、休憩を取ろう﹂
ランタンは一つ一つ区切るように考えを口に出した。
﹁わたし、まだぜんぜん疲れてないわ!﹂
﹁⋮⋮僕は疲れたよ﹂
今まで一人で好き勝手に探索をしていたツケが一気に肩に伸し掛
かざ
かかっているような気がして、ランタンはうんざりした顔で呟いた。
その顔にリリオンが手を翳した。熱を計るように掌をおでこに当て
る。
﹁大変! だいじょうぶなの!?﹂
﹁そんな大げさなことじゃないよ﹂
170
肩を竦めて手を退かす。リリオンの掌のほうがよっぽど熱い。遠
足熱だな、ランタンは小さく笑った。
﹁休める内に休んどかないと、魔物は疲れてても待ってはくれない
からね。喉も乾いたし﹂
だが喉を潤している暇は無さそうだ。
ランタンとリリオン、二人はほぼ同時に通路の奥に目を凝らした。
複数の足音が壁に反響して近づいてくる。魔物の群れだ。軽快な足
音は猪のような大物では無さそうだったが、もっと接近するまで数
が判別できない。
ランタンは舌打ちを一つ吐き出して、身振りでリリオンに下がる
ように伝えた。大盾持ちを後ろに下がらせる愚行を他者が見たら笑
うだろうが、ランタンは至って真面目だ。盾を持っていようとも危
なっかしい奴を前には出さないし、大剣を振るうリリオンと並んで
戦闘を行えば魔物もろとも両断されてしまいそうだ。
後ろから斬られやしないだろうな、と嫌な想像をしてすぐにそれ
を振り払った。
魔物が見える。
ラスティウルフ
狼の魔物だ。地面を這うように駆けてくる。数は四。くすんだ赤
い毛並みと前足に備わったやすり状の爪から赤錆狼と呼ばれている
魔物だった。菱型の陣形を保ちながら駆けていて、最後尾に周りの
狼よりも一回り身体の大きな個体がいる。これがリーダーだろう。
狼は群れで動き群れで狩りをする狩猟者だ。数が揃っていれば厄
介だが、単品での脅威度は比較的低い。特にリーダーから切り離し
てしまえば。
こいつらの内の一匹にリリオンの自信を育む生贄になってもらお
う。
﹁一匹任せた!﹂
ランタンはニヤリと唇を歪めて叫ぶと向かってくる狼に向かって
駆けた。と同時に先頭を走る狼が撃ち出されたようにランタンに飛
びかかった。
171
大きく開いた口には鋭い牙が立ち並んでいる。だが最も恐ろしい
のは前足に備わった爪だ。三本の爪が癒着し、一つの大きな鉤爪と
かえ
なっている。やすり状のそれは人間の肉を削るように切り裂き、肉
かわ
体に深く埋まるとまるで反しのように作用する。
ウォーハンマー
ランタンは狼の前足を沈みこんで躱して、飛びかかった狼の腹下
に潜りこむといつの間にやら抜いた戦鎚を肩を回すように振り回し
た。背中の影から飛び出した鶴嘴が、鋭い弧を描いて狼の首元に埋
まった。ランタンはさらに戦鎚を押し込み、鶴嘴を肋骨の内側を引
っ掛けると槌頭と化した狼を力任せに振り回した。
﹁ちっ!﹂
外向きに折れた肋骨が肉を突き破り、狼の身体が引きちぎれる。
金属を乱暴に擦り合わせたような悲鳴と一緒に青い血が宙に零れた。
後続を巻き込もうと思っていたのだが、狼の身体は中空を舞い後続
二匹を飛び越えてしまった。そして運良くリーダー格に当たるかと
思われた瞬間に、巨躯の狼は軽やかにそれを避けた。そう上手くは
いかない。中空を舞った狼は叩きつけられるように地面に落ちると、
しばらく藻掻いてやがて動かなくなった。
残り三匹、だが巨躯の狼を後ろに通すわけにはいかない。
狼は仲間の一匹を失っても怖気づくことなく、更に向かってくる。
今度は二匹がいっぺんに襲い掛かってきた。左の狼は滑るように足
元を狙い、右の狼が一瞬遅れてランタンの腕を狙った。
ランタンは跳んで左の狼を躱し、戦鎚を突き出して右の狼を牽制
した。ばきん、と音を立てて右の狼の顎が閉じられ、その口腔に槌
頭が咥え込まれる。その更に奥から巨躯の狼がランタンに目掛けて
飛びかかってくる。
﹁ランタンっ!﹂
武器を封じられて空中で身動きの取れないランタンに、リリオン
が悲鳴を上げた。がちゃんがちゃんと金属の音が迫ってくる。ラン
タンは唾液が格子のように糸引いた狼の大口よりも、背後から迫る
その音に顔を歪ませた。
172
たやす
狼は自分を狙っている、動きを読むことは容易い。リリオンは自
分を助けようとしている、どのような方法でかは皆目検討もつかな
い。リリオンもどのようにランタンがこの窮地を脱しようとするか、
いやそんな面倒なことはいちいち考えもしないだろう。
﹁ぐぅっ!﹂
戦鎚を咥えた狼が首を捻ってランタンの手から武器を奪いとろう
とした。掌の皮膚が引っ張られて痺れる。痛みと思考が絡まり合っ
てランタンの頭の中は混乱している。前門の狼、後門のリリオン。
とりあえずは狼のほうが楽そうだ。ランタンは判断を下すと同時に、
痛みごと狼ごと戦鎚を身体に引き寄せて、足元に這う狼の頭を踏み
台にして巨躯の狼に向かって跳躍した。
戦鎚を咥える狼は前足を振り回したが、懐に入ることでその残忍
な爪の脅威は届かない。ランタンと巨躯の狼が空中でぶつかり合う
が、巨躯の狼の爪や牙は、その間に引き寄せられた哀れな狼の盾に
よって遮られた。
もつ
しかし踏ん張れもしない空中では、質量の差は如何ともし難い。
巨躯の狼によってランタンはそのまま縺れ絡まり合うように戦鎚を
咥えたままの狼ごと地面に押し倒された。だがただで倒されたわけ
ではない。ランタンはいつの間にか戦鎚から手を外しており、心臓
へ
マッサージのように両手を重ねて、巨躯の狼がぶつかった衝撃を利
用して盾にした狼の肋骨を圧し折っていた。痛みに暴れようとする
狼を、さらに巨躯の狼に押し付けた。好都合だ。
﹁ふっ!﹂
ランタンは地面に押し倒されたまま、圧力を掛ける巨躯の狼の体
重を利用して折れた肋骨を内臓深くに突き刺した。狼は悲鳴を上げ
て藻掻き、肺腑から這い上がる青い血とともに戦鎚を吐き出した。
だがすぐには拾えない。巨躯の狼は相変わらずランタンを押さえつ
け、身体のすぐ上で痛みに暴れる狼は駄々を捏ねる幼児のように全
身を振り乱している。すぐ耳の横で鋭い爪が地面を削った。かと思
えば巨躯の狼が首を伸ばして噛み付こうとしてくる。ランタンは巧
173
よじ
みに身を捩り暴れる狼の影に隠れた。
頭を踏み台にしたもう一匹は、リリオンはどうしているだろう。
ランタンは頭を振って爪や牙を避けながら、視線を伸し掛かる狼
どもから一瞬だけ外した。その瞬間に青い憎悪に濡れた牙がランタ
ンの視界を覆う。今まで闇雲に空を噛んでいた牙が偶然にもランタ
ンの顔を捉えようとしたのだ。鉄の臭いの混じった生臭く生暖かい
息が顔面に吹きかけられて、青い血の混じった涎が頬を濡らした。
﹁汚いっ﹂
ランタンは怒りのこもった声で鋭く呟くと、狼と自分の腹の間で
潰されていた手を無理矢理に引き抜いて眼前に迫り来る狼の顔を挟
み、そのまま親指を狼の眼球に突き刺して力任せに頚椎を捩じ切っ
た。断末魔の悲鳴も上がらない。
﹁リ︱︱﹂
﹁らんたんっ!!﹂
リリオンの名前を呼ぼうとした瞬間にそれに覆い被せるように自
らの名が叫ばれる。影が差し、硬質な地面を踏みつける戦闘靴の音
が耳の側で響く。ぼっ、と空気が逆巻く音が聞こえる。かと思うと
死んだ狼が逃げ出そうとするように、顔を掴んだままの腕が引っ張
られた。ランタンは咄嗟に爪を立てるように遠ざかろうとする顔を
締め付けた。同時に太い紐が千切れるような音が聞こえ、不意に伸
し掛かる圧力が消えた。手の中にある顔だけとなった狼が妙に重た
く感じた。
ランタンは首から下を失った狼の顔を眺めて、振り抜いた蹴り足
を踏みつけるように下ろしたリリオンに視線を移した。リリオンは
ランタンを守るように立ちふさがっている。どうやらリリオンが伸
し掛かる狼を二匹まとめて蹴り飛ばしたようだ。それも身体を引き
ちぎるほどの勢いで。
ランタンは狼の首をポイっと投げ捨てると、まるで温かい布団か
ら出るかのようにゆっくりと体を起こして、袖で顔を拭うと戦鎚を
拾った。
174
﹁ランタンっ! 大丈夫!?﹂
リリオンは蹴り飛ばした先に向けた視線をついとランタンに向け
た。
﹁大丈夫だよ、リリオン。ありがと﹂
ランタンにダメージは殆ど無い。怪我らしい怪我は一つもなく、
倒れた時に打ち付けた背中が多少痛む程度だが、その衝撃も外套と
背嚢に依って軽減されている。
巨躯の狼は通路の先で身を起こしていたが、不利を悟っているの
か闇雲に襲い掛かってくるような真似はせずにこちらを伺っている。
リリオンもその挙動に目を光らせているので、ランタンは踏み台に
した狼の姿を探して振り向き、すぐにまた前を向いた。
背後には狼の屍が在った。
先程と同様に蹴り飛ばしたのか、それとも盾で引っ叩いのたのか
は分からないが、壁には狼が激突して弾けた血痕が青い薔薇のよう
に広がっており、地面には全身の骨が砕けて敷物のように薄っぺら
になった屍が横たわっていた。一瞥しただけでそれが死んでいると
理解できる凄惨さだ。
もっとリリオンを信用してもいいのかもしれない。
ランタンは狼と自らを隔てるリリオンの大きな背中を眺めた。今
更だが、探索者として迷宮へ連れてきたのだから、本来ならばそれ
相応の扱いをするべきなのだ。それをまるで一つの怪我もさせない
ようにと立ち振る舞うことは、自分の意志でここに立っているリリ
オンへの侮辱であるのかもしれない。
だがそう頭で考えても、いざそのように立ち振る舞えるかという
と難しい。ままならないものだ。ランタンはゆっくりと息を整えな
がら、ぐるりと手の中で戦鎚を回転させた。
臭い。深呼吸をするとランタンは眉根を寄せた。顔を濡らした唾
液と血の臭いだけではなく、身体を擦り付けられたせいで戦闘服か
ら獣の臭いもする。そういえばリリオンと出会ったばかりの時に同
じようなことを考えたな、とランタンは思い出した。こうして比べ
175
てみればリリオンのほうが幾分マシだ。さっさとこの汚れを拭き取
りたい。
だが巨躯の狼を殺せばすぐに休憩できるわけではない。近隣に奴
らの仲間がいないとも限らないからだ。臭い身体のまま斥候に出な
ければならないのは勘弁願いたい。
﹁ランタン!﹂
その時リリオンが叫んだかと思うと、巨躯の狼が遠吠えを放った。
喉を震わせて壁に何度も反響して迷宮の奥へと響いてゆく。ランタ
ンはリリオンの切迫叫びとは裏腹に、唇にいやらしく笑みを浮かべ
た。狼は仲間を呼んでいるのだ。
﹁好きに吠えさせな。リリオン、一網打尽だ。︱︱近くにいる狼は
全部来る、皆殺しだ﹂
ランタンは背後からリリオンの腰に垂れる三つ編みを優しく撫で
た。
﹁危なくなったら守ってあげる。自由に戦っているところを僕に見
せて﹂
﹁⋮⋮︱︱うん! まかせて!!﹂
色々と難しく考えすぎていたのかもしれない。
先の猪との戦闘でも、たった今もリリオンは十二分に迷宮の魔物
と戦える戦闘能力を示しているのだ。余裕を持たせた安全な戦闘ば
かりを任せるのではなく、多少の危険があってもそれを切り抜ける
ことはきっと出来る。そうでなければリリオンは何時まで経っても
殻のついた雛鳥のままで、もし本当に危なそうならば、その時こそ
ランタンが手を出してやればいいのだ。
決して身体にこびり付いた臭いをさっさと拭い去りたいから、な
どという理由で狼に仲間を呼ばせたわけはないし、リリオンを戦わ
せるわけでもない。ランタンは手の中で回していた戦鎚をしっかり
と握り締めると、リリオンの斜め右後ろに位置を構えた。この位置
ならばリリオンの盾に視界を遮られることもない。
﹁よっし、来たよ﹂
176
迷宮の奥深くから同種の狼が這い出てくる。やはり巨躯の狼がリ
ーダー格のようで集まってきた狼はどれも一回り小さい。だが思っ
たよりも数がいる。這い出てきた数は七匹。巨躯の狼を護衛するよ
うに、一塊になっている。くすぶる巨大な火の玉のようだ。
﹁全部で八匹か、こわい?﹂
﹁ううん、ランタンがいるから平気﹂
リリオンの後ろにいてよかった。思わず赤面したランタンは、ふ
っ、と熱の篭った息を吐いて目を伏せる。それと同時に巨躯の狼が
叩きつけるように吠えると、群狼が一斉に駈け出した。
まず七匹が、そしてその奥から追うように巨躯の狼が、八匹全て
がこちらへ向かって来る様はなかなかに壮観で恐ろしげだ。だがリ
リオンはどっしりとその場から動かず盾を左前に構えて、脇に構え
た剣の握りを落ち着いた様子で直している。
﹁はァっ!﹂
裂帛の、しかし甘やかな声とともにリリオンは盾を突きだしたま
ま狼の群れに向かい、だん、と強く踏み込むと同時に盾を薙ぎ払っ
た。その動きが妙に緩慢に感じられたのは盾の大きさによるものだ
ろう。避け損ねた二匹が、耳障りな衝突音を奏でながら吹き飛んだ。
きっさき
だが残りの六匹が左右に分かれて回りこもうとしている。左に一、
右に五だ。
﹁あぁァっ!!﹂
リリオンは踏み込んだ左足を軸に身体を捻り、鋒が迷宮の壁を切
り裂きそうなほどに腕を目いっぱいに伸ばして剣を振るった。鋒か
ら鍔に向かってまるで刀身が溶けたように銀の尾を引いた斬撃は、
避けた内の一匹の頭部を裂いて地面に埋まった。
迷宮探索前の組手ではリリオンはもっと剣撃を連続して繰り出し
ていた。あんな風に地面を斬りつけるような真似は珍しいのだが、
猪戦から続いている。リリオンは無防備だ。
﹁力み過ぎかな⋮⋮?﹂
ランタンはぽつりと呟いて、ゆっくりと走り出した。その面倒を
177
見るのがランタンの仕事だ。
狼たちはリリオンの盾を避けるために散開し、追撃の剣撃によっ
て牽制されている。だが巨躯の狼と、もう一匹が地面に弾けた土埃
の奥から飛びかかってきていた。
﹁せい、やっ!﹂
ランタンが戦鎚をまるでバットでも振るかのように、両手で柄を
握り振り抜いた。轟音とともに槌頭に白い衝撃波が纏わり付き、そ
の瞬間に狼の頭蓋骨は弾け飛んでいた。頭部を失った身体がきりも
み回転しながら吹き飛び、バラバラに砕けた骨や牙の欠片が散弾銃
のように巨躯の狼を襲った。
散弾は柔らかそうな脇腹に当たったが、さすがに致命傷を与える
ことは出来ない。骨は幾つか突き刺さってはいるものの皮膚の表面
までだ。巨躯の狼の突撃は止まらない。
ランタンはつまらなそうに顔を歪めながらリリオンの様子を確か
めた。
﹁ええいっ!!﹂
リリオンは半ばまで地面に埋まった刀身を力任せに斬り上げると、
同時に岩の塊を掘り起こし、それらを纏わり付かせながらの一撃を
よ
巨躯の狼に叩きつけた。だが刃の角度が悪い。切り上げた一撃は狼
ろ
を斬り裂くに至らず、吹き飛ばしただけだ。さすがのリリオンも蹌
踉めくように後退した。
巨躯の狼はリリオンの剣撃を叩きつけられたにも拘らず外見上は
ほぼ無傷のように見える。骨に罅ぐらいは入っているのかもしれな
いが、吹き飛ばされた後、空中で見事に体制を立て直し着地した。
巨躯以外の狼たちはランタンが巻き起こした衝撃波と、降り注ぐ
岩の塊に怯んでいる。
﹁ふっ!﹂
ランタンはその岩を避けるように壁を蹴って飛び出した。
狼の群れの脇を抜けて一瞬で背後を取ると、リリオンの盾に吹き
飛ばされてよろりと立ち上がろうとしていた二匹の首を砕いてとど
178
めを刺した。狼の向こう側でリリオンが盾を構え直しながら目をぱ
ちりと瞬かせている。巨躯の狼が唸るように吠えた。
巨躯の狼の一声に無事であった狼達がひと纏まりに集まった。す
でに半分を殺したので残りは四匹だ。振り出しに戻ったな、とラン
うろつ
タンは目を細める。背後を抑えたので狼達は警戒しながら渦を巻く
ように彷徨いている。その瞳を染める憎悪にランタンはとろんと笑
う。
﹁︱︱リリオン﹂
ランタンのほんの呟きはしかし奇妙なほどはっきりと響いた。呟
きと同時に地面を蹴る。ランタンの瞳が仄かな燐光を引いて狼の塊
に最短距離で跳んでゆき、戦鎚を叩きつけた。狼は避けて地面が割
れる。急な攻撃に狼は後ろに跳躍したが、そちらにはリリオンが構
えている。
﹁はいっ!﹂
リリオンは空中で身動きの取れない狼を一撃で両断し、また別の
狼に盾を叩きつけた。ランタンは吹き飛ばされ向かってきた狼を戦
鎚ではたき落とし、リリオンの視界の外から襲いかかる巨躯の狼の
爪を戦鎚で受け止めた。
﹁そっちはまかせた!﹂
﹁うん!﹂
え
これで残りは二匹。巨躯の狼をランタンが受け持てば、もうリリ
オンは大丈夫だろう。
え
巨躯の狼は太く凶悪な爪を柄に押し付けた。体重を乗せた鉤爪が
い
つか
じりじりと柄を削ぐように滑る。狼との押し合いはバランスを上手
く往なさなければ、爪が一気に滑って柄を握る手を切り裂くだろう。
ふくらはぎ
ざりと靴底が音を立てて、ランタンは牙を剥く狼を睨みつけた。
﹁重いんだよっ!﹂
ランタンは一度小さく沈み込むと、脹脛が爆発したかのように膝
を伸ばし狼を押し返した。そしてそのまま追撃の一撃を繰り出した。
だが振り下ろしの一撃を狼は身体を捻って避けて、身体を沈めると
179
足を刈るように飛びかかってくる。
跳んで避ければ、飛びかかられそうだ。これ以上、服が臭くなる
のは嫌だ。
ランタンは敢えて一歩前に踏み出し、戦鎚を地面に突き刺すよう
にして横薙ぎの一撃を受け止めた。ギザギザの爪が火花を散らし、
熱の臭いが鼻を刺した。しかし狼は止まらず噛み付き攻撃が更に向
かってくる。
がぎん、と狼の牙が空を厳しく噛み、欠けた歯が零れた。ランタ
ンが下顎を蹴りあげたのだ。蹴りの衝撃で足首が痛い。
だがチャンスだ。狼は怯んでいる。
ランタンは蹴り足を踏み込んで、足元から戦鎚を振り上げた。し
かし狼はそれを避ける。鶴嘴が右耳を裂いただけだ。舌打ちが零れ、
戦鎚を切り返すが牽制にしかならない。
﹁ふぅー﹂
狼が大きく後退し、ランタンは太く息を吐いて呼吸を落ちつけた。
狼は、あの巨躯のくせに素早く、思いの外小回りが利く。一撃一
撃は外見に偽りなく重たいし、防御力もなかなかだ。ランタンはま
だじんじんと痺れる足首を回した。
背中越しにリリオンの戦闘音が聞こえる。数が揃っていたときは
盾や剣を振るえばそれが当たったが、なかなかどうして苦戦してい
るようだ。
ランタンは乾いた唇を舌で潤し、戦鎚を担いた。
まずは爪を狙おう。爪は攻撃の要だし、爪を地面に突き立てるこ
とによって体の制動を操っている。言うなればスパイクシューズの
ようなものだ。爪は左右のどちらか一つが魔精結晶になるので今ま
では狙うのを避けていたが、いい加減服に染み付いた獣臭も我慢の
限界だった。二分の一の賭けに勝つことが出来れば魔精結晶も得ら
れることだし、さっさと終わらせて、リリオンの加勢でもしよう。
ランタンは酷薄に唇を歪めた。その瞬間にはランタンは狼の目の
前に存在していた。元いた地面が足跡の形に陥没しておりその周囲
180
に陽炎が揺らいでいる。狼は魔物の反射神経を以ってランタンの脇
を抜けようとしたが、あまりにも遅すぎた。鶴嘴が狼の左足を地面
に縫い止めている。
狼の悲鳴がランタンの耳を打った。
魔物の鋭すぎる反射神経が仇になったのだ。縫い止められた瞬間
とほとんど同時にその場から遠ざかろうとしたため、自らの力に依
って自らの足を引き裂いたのだ。肉の付着した鋭く大きな爪だけが
鶴嘴の傍らに転がって、狼は青い血で地面を汚しながら激しく暴れ
た。
ランタンは闇雲に振るわれる牙を、爪を、踊るよう避け戦鎚で受
け流す。痛みと自慢の爪を奪われて発狂した狼の攻撃は激しいが、
ただそれだけだ。噛み付くにしろ右の爪を振るうにしろ、傷ついた
足で健気にも踏みしめなければならないのだ。どうしたって力は逃
げる。攻撃に鋭さが足りない。
ランタンは視界の外から首を狙って飛んできた右の爪を予知した
かのように掻い潜り、そのまま更に踏み込んで戦鎚を振り上げた。
頚椎を狙った一撃は、しかし狼の口腔に囚われてしまった。
﹁よい、しょっ!﹂
だがランタンは両手で柄を握り囚われたままの戦鎚をそのまま地
面に叩きつけた。背骨が逆に折れて、叩きつけられた衝撃で口腔側
から脳を破壊された狼は鼻から眼から涙のように青い血を溢れさせ
て、動かなくなった。残念ながら爪は結晶化しなかったが、まぁい
い。
ランタンは狼の喉を踏みつけて力の抜けた口から戦鎚を抜き取り、
槌頭を汚す唾液と血液を狼の毛皮で拭う。
﹁さて、リリオンはどうかな﹂
ランタンは呟くと未だ鳴り止まない戦闘音に振り向いた。
181
014 迷宮
014
ラスティウルフ
ランタンは手の中で戦鎚を弄びながら、リリオンと赤錆狼の戦闘
を眺めていた。
リリオンは剣を袈裟懸けに斬り落とし、殴りつけるように盾を振
り回し、更に止まることなく剣を横に薙ぐ。一つでも当たればその
瞬間に生命の灯火をあっけなく吹き消す暴風のような攻撃をリリオ
ンは休むことなく繰り出している。
頬が赤く上気して、後退のギアが壊れたようにひたすらに攻め続
けて、剣撃は更に激しさを増してゆく。
リリオンの体のキレはなかなかいい。が、ランタンの目には自ら
の力に振り回されているように見えた。反面、狼は攻撃を避ける事
だけに専念していて、それは最後まで残った実力か、あるいは幸運
によるものか、リリオンを翻弄しているようにも見える。
弄ばれていることにリリオンは気がついていないだろう。
頑張って戦ってはいるが、決め手にかける。
狼がリリオンの一撃を避けて飛びかかった。だがそれは攻撃では
ない。叩きつける盾を柔らかく蹴ると大きく後ろに跳躍したのだ。
ゆっくりとリリオンを観察するために。
リリオンからしてみれば身体の調子が良く、盾も剣も手の延長の
ように扱えて、尚且つ一方的に攻めているのだから自らの疲労の蓄
積に気が付かないのも無理はない。リリオンは後退した狼に盾を構
えて突っ込んだ。走るつま先が何度か地面に擦るが、勢いに任せて
前進している。今にも転びそうだ。
敵の眼前ですっ転ぶリリオンと颯爽とそれを助ける自分の姿をラ
ンタンは幻視して、ゲンナリとした表情を作った。加勢しようと思
182
っていたやる気がみるみると減衰していく。足を踏み出したが最後、
青臭い英雄願望が心の内に芽吹きそうな気がしたのだ。
だがそんなものは加勢をしない理由にはならない。やりたくはな
くても、やらなければいけないのだ。
﹁はぁ⋮⋮﹂
溜め息を一つ。
リリオンには経験と自信を積ませたいが、そろそろタイムリミッ
トが近づいている。これ以上の体力の消耗は以後の探索に支障を来
す可能性が高かったし、飛び出すタイミングによっては幻視した陳
腐な英雄譚に出てくるダサい勇者の登場場面が現実のものとなる羽
目になりそうだった。リリオンの一撃の剣先が泳ぎ始めて、狼は少
しずつ回避から攻撃へ転じようとしている。
ランタンはきょろりと地面を見渡して、リリオンが砕いた地面の
一欠片を持ち上げた。拳大ほどの大きさで硝子質なそれは砕けやす
そうだが、それなりに硬度はある。ランタンは地面に戦鎚を突き立
てると、それを手の中で転がしながらタイミングを見計らった。
狼はリリオンに集中しているが、リーダー格の死やランタンの存
在に気がついていないわけではない。ただ闇雲に石片を投げつけて
も躱されるのがオチだろうし、そもそも動きまわる標的に直撃させ
る自信がなかった。狙うのならばリリオンの攻撃を避けた直後の硬
直だ。
﹁よっ︱︱﹂
ランタンは大きく振りかぶり、リリオンの上段斬りを躱した狼に
向かって石片を投げつけた。石片は目にも見えない速さで着地点に
目掛けて真っ直ぐに向かっていく。そして狙った位置にぶつかって
爆ぜた。
﹁︱︱し、⋮⋮じゃない﹂
ランタンはグッと握り締めた拳を緩めて戦鎚を地面から抜いた。
ランタンの投擲した石片は、狙った位置はちょうどよかったのだ
が、その速度が早すぎて狼が着地するより先に地面にぶつかってし
183
まった。弾けた時の爆発音にリリオンが少しびっくりしただけだ。
ランタンはむくれた顔付きで、爆発音に一瞬止まったリリオンの
剣の脇を軽やかにすり抜けて、狼に接近した。その狼は巨躯の狼よ
りも一回り以上小さく細い。いかにも俊敏そうで、急に近づいたラ
ンタンに反応して爪を振り回した。
ランタンはタイミングをずらして左右から襲いかかる爪を一つは
躱し、もう一つは戦鎚で受け止める。そのまま狼は体重をかけて噛
み付こうとするが、巨躯の狼に比べれば半分ほどの体重しか無い細
身ではランタンの動きを封じることはできない。
ランタンは狼が伸し掛かる戦鎚を片手で保持しながら、狼の鼻頭
に無造作に左のフックを叩き込み、前蹴りで狼を吹き飛ばした。
﹁リリオン、止めを!﹂
﹁はいっ!﹂
元気の良い返事をして爆発音の驚きから立ち直ったリリオンがラ
ンタンを抜き去ってもんどり打つ狼に駆け寄った。大剣を肩に担い
で、狼が間合いに入ると勢いよく大剣を振り下ろした。
狼は吹き飛んだ勢いを利用するようにその一撃を避けようとした
が、ランタンの前蹴りによって腰椎を砕かれていた。身を捩ろうと
する上半身とは裏腹に、狼の下半身はピクリとも動かない。
そしてリリオンの一撃は狼の身体を両断して止まらず、地面をも
切り裂いた。
﹁うん、上出来﹂
ランタンは痙攣するように藻掻く上半身だけの狼に歩み寄ってそ
の首を踏み折り、リリオンに労いの言葉を掛けた。ぽん、と叩いた
肩が熱い。まるで肩甲骨が放熱板であるかのように熱気が立ち上っ
ている。
リリオンは大きくゆっくりと息を吐いて、地面に刀身の半ばまで
埋まった大剣を重たそうに引き抜き、それを盾にしまうとその重さ
に耐え切れなくなったようにがくりと膝から崩れ落ちた。
﹁あ、あれ、⋮⋮ランタン。わたし⋮⋮おかしいな⋮⋮﹂
184
膝を突いたリリオンは戸惑ったように笑い、だが立ち上がれない
ことに気がつくと不安そうな瞳をランタンに寄越した。さっきまで
イケイケで立ち回っていたのだから、まだ脳が自らの疲労に気がつ
いていないのだ。しばらく経てば自らの身体が泥になったかのよう
に感じるだろう。
﹁ほら、盾寄越して︱︱掴まって、よっ、と﹂
ランタンは戦鎚を腰に差すとリリオンから盾を奪い、手を差し出
した。その手に縋りつくように握り締めたリリオンを引き上げた。
そのまま肩を貸しても良かったが、ランタンは自分の身体から臭う
狼の体臭を嗅がれることを嫌って、リリオンの手を引くだけにした。
ランタンは辺りに散乱する狼の死体と青い血溜まりを避けて、通
路の脇にリリオンを座らせた。背負わせていた背嚢を胸に抱かせる
ようにして、そこから水筒を取り出して差し出してやる。
﹁ごめんなさい⋮⋮ランタン﹂
﹁怪我もなく勝ったんだから、謝ることはないよ。この辺りの魔物
の排除もできたし、先に休んでいて。⋮⋮でもあまり沢山水は飲ま
ないように、お腹ちゃぷちゃぷだといざという時に動けないからね﹂
﹁⋮⋮うん﹂
申し訳なそうな表情をしたリリオンの頭をぽんと撫でて、ランタ
ンは腰から狩猟刀を抜いた。
とりあえずは魔精結晶が迷宮に還る前に、これを採取しなければ
ならない。狼の死体は十一個もありなかなかの手間だが、第一陣の
三匹の狼の魔精結晶はもう色を薄くしつつある。残念ながら魔精が
抜け出し品質が下がっているようだ。巨躯の狼の爪はランタンが砕
いてしまったのでこれは端から勘定に入れていない。
魔精結晶は鮮魚のようなものだ。処理をせずにいたらあっという
間に無価値になってしまう。ランタンは狩猟刀を巧みに操り次々と
狼の爪を刈り取って、死体を脇に寄せてゆく。
ハイクラス
ある探索班には倒した魔物の迷宮結晶の品質を高めるために戦闘
中に結晶を刈り取る役がいたり、あるいは高位探索者には特殊な手
185
法により魔物を生かしたまま動きを封じ、絶命させると同時に魔精
結晶を刈り取るというようなことをするらしいがランタンには縁の
ない話だ。
ランタンは袖口で額を拭い、パキパキと首の骨を鳴らした。
状態の良い魔精結晶は四つで、残りの三つは少し魔精が失われて
いたり結晶自体に欠けがあったりといった様子だった。収穫状況と
しては良くもなければ悪くもない、と言ったところだろう。少なく
とも今の内に迷宮を引き返せば、収支が赤字にはならないだろう。
ランタンは青い血でべったり汚れた狩猟刀と手を狼の毛皮で拭っ
た。
﹁リリオン、︱︱そうそれ、その袋に入れるから﹂
ランタンが魔精結晶を抱えてリリオンの前に立つと、リリオンは
ランタンが指示するより早くに背嚢から一枚の布袋を取り出してい
た。金属を薄く伸ばしたような特殊な布の内側に耐衝撃性のある柔
らかな素材を縫いつけた魔精結晶用の収納袋だ。いくら魔精結晶を
高品質の様態で刈り取ったとしても、これにしまわなければ魔精が
結晶から溶け出し迷宮に還ってしまうのだ。
﹁結構乱暴に扱ってもそれに入れとけば壊れないからね。︱︱それ
と﹂
ランタンは言葉を区切るとリリオンにお尻を向けて、それをちょ
こんと突き出した。
﹁ポーチに布切れ入ってるから取って﹂
﹁ぬの?﹂
﹁うん、それそれ。ん、ありがと、で。しめらせてー、しぼってー﹂
歌うように指示するランタンにリリオンがおっかなびっくりポー
チから布を取り出して、野生動物に餌付けするようにおずおずと湿
らせた布を差し出した。ランタンは布を受け取るとそれを広げて勢
い良く顔面を押し付け、そのまま気持ちよさそうな呻き声を上げな
がら皮膚を削ぎ落とす勢いで汚れを拭った。
顔面から首筋を拭い、指先から手首までを清める。それだけで濡
186
らした布はぼんやりとした紫に染まった。ランタンはそれを折りた
たむと戦鎚と狩猟刀を汚す血脂を丁寧に拭いとり、もう使うところ
がなくなった布を四つ折りにすると迷宮の脇にぽいっと捨てた。
そして自分の手や首筋の匂いを嗅いで、少し不満気だが納得する
とリリオンの隣に腰を下ろした。
﹁まだいっぱい布あるけど、リリオンも使う?﹂
﹁⋮⋮だいじょうぶ﹂
リリオンがふるふると首を横に振ると、それに合わせて首から鎖
骨を流れるように垂らした三つ編みが揺れた。リリオンは隣に盾を
立てかけていて、足を投げ出すように座っている。かと思ったら、
ランタンがわざわざ一人分開けた隙間に尻を滑らせて、肩が触れる
ほどの傍に寄った。
﹁熱いんだから寄るんじゃないよ﹂
﹁わたしは平気よ!﹂
ランタンは嫌そうな顔をしながらリリオンから離れようとしたが、
リリオンは気にした様子もせずにランタンを追いかけた。戦闘のせ
いで身体が熱くはなっていたが、ランタンはそれ以上に戦闘服に擦
り付けられた狼の獣臭が気になっていた。
﹁⋮⋮僕、今くさいから。においが移るよ﹂
ランタンが犬でも追い払うように手を振ったが、リリオンはその
手をくぐり抜けてランタンの首筋に鼻を寄せた。そしてくんくんと
鼻を鳴らし匂いを嗅ぎはじめた。首筋に当たる鼻息が擽ったく、ま
た服に染み付いた獣臭ではなく、正真正銘の自分の体臭を嗅がれて
いるかと思うと恥ずかしい。
﹁すぅー、はぁー、すぅー、はぁー﹂
﹁やめて﹂
﹁すぅ︱︱はぁ⋮⋮ランタンって全然においないのね﹂
ランタンがリリオンの顔を押しのけると、リリオンは不満気にそ
う呟いた。それは体臭を嗅ぐことを止めさせられたせいか、あるい
はランタンの体臭が薄いせいなのかもしれない。だがその真意を尋
187
つぐ
ねて、変な返答が返って来たら恐ろしいので口を噤む。
ランタンはリリオンの息の生暖かさが残る首筋を手で拭い、襟元
を摘んで服をはためかせた。リリオンは臭いがないと言ったが、ラ
ンタンの鼻にはやはり獣臭を感じた。
ランタンはリリオンの手から水筒を奪うと、鼻呼吸を止めて、水
を呷った。味もへったくれもないが冷たさだけが心地よい。
だがせっかくの小休止も水分補給も、獣臭とともにでは満足でき
ない。不潔への耐性も探索者にとっては必要な能力だが、ランタン
にはどうにもそこが欠けていて、またそれを克服しようとする意志
も積極的ではなかった。
ランタンがぽいっとリリオンに水筒を返すと、それを受け取った
リリオンは勢いよく水を喉の奥に流し込んだ。
﹁あんまり飲んじゃダメだって、動けなくなるよ﹂
ランタンがそう叱るとようやく水筒から口を離して、濡れた唇を
袖で拭った。
﹁やっぱり、疲れちゃった?﹂
﹁うー⋮⋮わかんない。けど足が重いわ﹂
﹁それを疲れてるって言うんだよ﹂
ほぐ
ランタンが小さく笑うと、リリオンは納得いかないというような
顔付きで自分の太腿をとんとんと叩き解していた。運動による疲労
だけではなく、むしろ多くは無意識下の緊張のせいだろう。
﹁ま、考えてみれば猪は一撃で終わったし、まともな戦闘は今回が
初めてだしね﹂
リリオンが浮き足立っていたと言うことを差し引いても、消耗し
ているのはしかたのないことだ。
﹁うぅ、ごめんなさい﹂
ランタンも一応の探索計画を立ててはいるものの、例え単独で探
索していたとしてもその予定通りに探索を進められたとこは一度と
してない。この程度の足止めは、いちいち謝るほどのことではない
のだ。もっともこのまま疲れただの、歩きたくないだのと泣き言を
188
漏らすようではその限りではなかったが、幸いなことにリリオンに
は根性が備わっている。
﹁それで猪の時は、わからない内に終わったけど、⋮⋮今回はどう
? まだ、やれそう?﹂
﹁だいじょうぶ!﹂
﹁そら良かったよ﹂
万歳するように両手を上げて声高く宣言をしたリリオンに、ラン
タンは煩そうに眉をしかめてそう言い放った。そして、よいしょ、
と一声上げながら立ち上がりリリオンに手を差し伸べた。
﹁大丈夫ならもう行こうか。魔物と戦う度にダラダラしてたらミシ
ャに超過料金取られちゃう﹂
ランタンに掴まって立ち上がったリリオンはその手を離すと何度
か屈伸をして、そして盾を担ぎ今度はその場で兎のように跳ねた。
垂直跳びのその高さに目を丸くするランタンに、リリオンはにっと
笑った。これだけ動くことが出来るのなら、探索を再開しても支障
はない。回復の速さは熟練の探索者のようだ。
行くよ、とランタンが手招きをすると、リリオンは頷いたものの
ぐるりと周囲を見渡した。
﹁狼の毛皮いっぱいあるのに、ぜんぶ置いていっちゃうの?﹂
﹁置いていっちゃうよ﹂
探索前にランタンは迷宮結晶以外を採取しないことを伝えていた
がこうして現物を目の当たりにすると、もったいなさが沸き立つの
だろう。狼の赤茶けた毛皮は女性好みしそうな美しさはないが、い
かにも丈夫でいい防具になりそうだった。
ランタンは狼の死骸を惜しそうに眺めるリリオンを急かして先に
進んだ。
﹁素材採取はねぇ、いろいろ大変らしいよ﹂
﹁そうなの?﹂
﹁そうだよ﹂
ランタンはもっともらしく宣言して、大変なことなんだよ、とで
189
も言いたげに肩を竦めたが、その実ランタン自身は魔物の素材採取
をしたことはほとんどない。
﹁例えばさ、さっきの狼の毛皮を剥ぎ取るとするでしょ?﹂
﹁うん﹂
﹁それをどうやって持って帰る?﹂
﹁え? えっとねぇ⋮⋮⋮⋮﹂
ランタンは隣を歩くリリオンの沈黙を聞きながら、考えこんで疎
かになった足元を躓かないようにと目線を下げた。リリオンの足取
りはしっかりしていて、疲れは見えない。大きな戦闘が一段落し、
また他愛もない軽口の方に思考を裂いているということもあり、冷
静になってきているのだ。
﹁えーと、ね。こう折りたたんで、ぎゅうってして、背嚢に⋮⋮﹂
﹁血とか体液とかいっぱい付いてるのに? 僕はヤだよ、そんなの﹂
背嚢の中には探索での食料や、各種薬も詰め込まれている。口に
入るものや、傷口に使う物とそれらを一緒くたに纏める真似をする
者は粗忽な探索者といえども少ない。
﹁それに迷宮の空気に触れさせていると、魔精結晶ほど早くはない
けど、せっかく剥ぎ取った素材も何時の間にか無くなってる、なん
てことになるよ﹂
ランタンが通路の脇に放置した狼の死体も、おそらく明日には姿
形もなくなっているだろう。迷宮と言う臓腑の中で溶かされ消化吸
収されるのだ。
﹁魔物だけじゃないよ。迷宮で落し物したら急いで取りに帰らない
とまず見つからない。人の手から放れたら、迷宮はなんだって飲み
込じゃう﹂
ランタンがそうやって脅かすと、リリオンがぎゅっとランタンの
袖口を引いた。我ながら甘い、とランタンは思ったがこの程度なら
ば、何かあってもすぐに振り払えるのでそのままにさせた。
﹁だから専用の道具がいるんだよ。リリオンに持たせたあの布袋の
素材版だね﹂
190
﹁へぇー﹂
ランタンが持ち合わせていない物は保存する容器ばかりではなく、
魔物の肉と皮を綺麗に剥ぐための技術であったりもしたのだが、そ
れは素知らぬ顔で黙っておく。とりあえずはリリオンの感嘆の声に
ポーター
満足したのか、ランタンは訳知り顔で言葉を続けた。
﹁本職の運び屋には、すっごい大きい保存箱を持ち歩く人もいるん
だよ。そういった人は大抵大手の探索班お抱えだけど﹂
ランタンが所持している魔精結晶の保存袋は安物とまではいかな
いが比較的手頃な品である。収納量も少なく、そこそこの耐衝撃性
しか持ち合わせていないが、個人携帯用とするのならば問題はない。
折り畳めば荷物にもならないのでランタンも三袋ほど常備している。
そういった探索者の荷物の一つとしての収納容器に対して、大保存
箱などはと言えばまるで大型冷蔵庫を背負うような様子であるので、
それを探索者が背負うということはまずない。
﹁じゃあ、じゃあ! にく、お肉は?﹂
リリオンが摘んだ袖口を破るような勢いで引っ張った。ランタン
はそんな乱暴なことをするならば、と無言で摘んだ指を払うとリリ
オンはしゅんとして、しかしまたおずおずと袖口に指を伸ばして摘
む。
ランタンは悪戯をする子供を見るような呆れと微笑ましさの混じ
った視線をリリオンに向けて、肉ねぇ、と呟いた。
魔物の皮だろうが爪だろうが、それこそ肉であっても保存容器が
いることには変わりない。魔物の肉は精がつくとかで、味の方はさ
ておき一般庶子にもそれなりに需要はあるし、それこそ心臓を始め
とする五臓六腑や眼球に舌、脳などは魔道薬を含むさまざまな薬の
原料となる物も多いのでそういった物は魔精結晶よりも高値が付く
こともある。
だがそのかわり保存容器も特別製でべらぼうに高価であるし、魔
物の仕留め方や臓腑を切り取る際の刃の入れ方一つに高度な技術を
要するらしい。ランタンにはまったくもって縁のない話だ。器用な
191
らば戦鎚など使っていない。
﹁そうじゃなくて、⋮⋮ここで食べるの!﹂
﹁ここって、迷宮で?﹂
﹁そう!﹂
﹁魔物の肉を?﹂
﹁うん!﹂
かし
﹁うーん、まぁ、ない話じゃないけど﹂
どうだろう、とランタンは視線を傾げた。そんなランタンにリリ
オンは、私食べたことあるよ、と自慢げに胸を張った。
﹁前の、⋮⋮探索の時、とか⋮⋮﹂
すぼ
リリオンは勢いで胸を張ったが、その思い出が良いものではない
ことを思い出したのか声をしょぼしょぼと窄ませて、背中を丸めた。
リリオンの言う前の探索は、つまるところの奴隷のように扱われて
いた時のことである。ランタンは食べたことがある、という言葉に
納得をすると同時になんとも言えない気持ちになった。
﹁そもそも火の用意がね⋮⋮、上層ならまぁ炭を担いで来てもいい
かもしれないけど、はっきり言って荷物になって邪魔だしね﹂
﹁火精結晶は?﹂
水精結晶はその名の通り水を生み出すが、火精結晶は火ではなく
熱を生み出す。火精結晶の放つ熱に可燃物を近づければそれに依っ
て火を起こすことが出来るし、火精結晶自体に肉を触れさせればそ
の部位に火を通すことは出来るだろう。
だが水精結晶に比べて、火精結晶は大きさに対しての熱量がどう
にも不安定だ。ランタンの背嚢にも湯を沸かすための、決して安物
はない携帯用火精結晶コンロとでも言うような品を持っていたが、
それにしたって嵌めこまれている火精結晶は拳大でありながら、コ
ップ一杯の水をきちんと沸騰させることも出来れば、極希にだが温
める内から冷めてゆくなどということもある代物である。
﹁阿呆みたいに高価な料理用火精結晶もあるけど、ほんとうに阿呆
みたいに高価だよ。でかいし﹂
192
それを買おうとして値段を見て諦めたような、実感の篭った面白
くなさそうな顔でランタンは更に続けた。
﹁最初の猪ならまだマシかもだけど、狼の肉ってあんまり美味しそ
うじゃないなぁ﹂
﹁食べてみないとわからないわよ!﹂
好き嫌いの無さそうなリリオンはそう言ったが、肉ならば鳥豚牛
という先入観があるランタンはその言葉に頷くことは出来なかった。
ただでさえこの世界の食用肉の品質や食肉の調理技術はランタンの
知る平均よりも随分と下なので、一般的な料理屋で出てくる家畜肉
でさえ香辛料塗れである。肉食獣の肉ともなるとその臭みは想像に
難くなかった。
﹁わたし、料理得意だから! 帰ったら美味しい料理作ってあげる
わ!﹂
そう言えば、そんなアピールを前に聞いたような気がしなくもな
スキル
い。ランタンは、すごいね、と口に出したもののあまり期待は抱か
なかった。
﹁料理か⋮⋮﹂
﹁ランタンは料理しないの?﹂
﹁まぁ⋮⋮しないね﹂
ランタンも誇れるほどではないが料理技術を備えてはいた。だが
捻るだけで衛生的な水を吐き出す蛇口と火力管理の容易な三口コン
ロ、それにテフロン加工のフライパンやあれこれの道具がなければ
ランタンの料理技術は振るうことはできない。
結果として屋台飯や料理屋などの外食ばかりになってしまった。
はじめの頃は肉の獣の臭さに食べる度にうんざりしていたが今では
それも許容範囲であるし、探索業が肉体労働のせいか塩味の強い濃
い味付けにもだいぶ慣れ、また旨いと思える料理を出す店にも出会
えたので食事に困ることはほとんどない。
だがたまに故郷の味も恋しくなる。
﹁でも料理もいいかもしれないね﹂
193
﹁ね、ね、ね! わたし教えてあげる!﹂
﹁僕はしないだけで、料理できないわけじゃあないよ﹂
ランタンが望む水準の調理用具を揃えることは無理かもしれない
が、ランタンが料理を行うに可能な最低水準の調理用具程度ならば
揃えるだけの貯金はある。だがそうなるとそれを持ち歩くことは不
可能なので、きちんとした家がいる。今まではなんとなく踏ん切り
せっかい
がつかなかったが、文字を読めるリリオンもいることだし、上街で
家を賃貸するということもいいかもしれない。
そんなことを上の空で考えていたら、どこからか風を切って石塊
が飛んできた。歪な形の石塊はシュート回転しながら、ランタンの
顔面に向かってきている。当たれば痛いでは済まなさそうだ。
ランタンの手が反射的に戦鎚の柄に伸び、それを掴んだ。だがラ
ンタンが戦鎚を抜くよりも早く視界が影に覆われた。
リリオンが盾を、その内側にランタンを抱き込むようにして構え
たのだ。
花火が鳴るように痺れる音を弾けさせて、石塊は盾によって防が
れた。
ランタンはリリオンに色々と先輩風を吹かせていた手前、魔物の
襲撃に気が付かず恥ずかしい気持ちもあるが、そう言った余計な感
情は後回しにして意識を戦闘に向かわせた。が、その前に人として
伝えておかなければいけない言葉だけは発声した。
﹁ありがと、リリオン。助かったよ﹂
﹁えへへ﹂
ランタンは盾の脇から顔を出して、投石攻撃を行った魔物の姿を
確かめた。
その魔物は大きな猿だ。歯茎を剥き出しに牙を見せつけ、赤い瞳
を煌々とさせ笑うように吠えた。太く短い足が地面を掴むように発
達しており、だがそれ以上に太く長い逞しい腕が目を引く。凶悪な
指が投石用の石塊を補充するために、豆腐のように地面を抉った。
﹁料理もいいけど、あーゆーゲテモノ系は嫌だよ﹂
194
﹁⋮⋮わたしもあれはちょっと﹂
ランタンの軽口にリリオンも顔を顰めた。
﹁それは良かった。︱︱じゃあ遠慮無く行こうか﹂
呟いた声は底冷えしている。
ランタンは腰から戦鎚をもったいぶるようにゆっくりと抜くと、
猿の投石と同時に盾の内側から飛び出した。
リリオンには申し訳ないが、この戦闘でリリオンの出番はもうな
い。この猿はランタンが殺さなければならなかった。
恥をかかせてくれた礼に死を与えなくてはならないのだから。
195
015 迷宮
015
つつがなく探索は進む。
ランタンが苛立ちのままに大猿を挽肉へと変えたり、その強烈な
マント
一撃にリリオンが再び興奮したり、リリオンが転んだり、その際に
ランタンの外套を引っ掴み転倒に巻き込まれたり、散発的に現れる
魔物とも何度か戦ったり、それに勝利したりもしたが怪我らしい怪
我もなく迷宮の最奥へと近づいていた。
﹁よーしよし! いいよ、リリオン!﹂
ランタンは戦鎚を腰にぶら下げたまま、リリオンを鼓舞するよう
に手を叩いて声援を送った。
リリオンはしっかりと盾を前に押し出し、大剣は鋒を地面につけ
るような脇構えにして、その声援を背中に受け止めている。リリオ
せっかい
ンの視線の先には大きな猿の魔物がいる。ランタンが挽肉にしたも
ヒュージエイプ
のと同種の魔物だ。
大猿はその巨大な手に迷宮の地面や壁を抉り取って作り出す石塊
を握り締めて、リリオンと一定の距離を保ちながら機を伺っている。
リリオンがじりじりと前進すると、石塊を投げ牽制しリリオンに攻
めいる隙を探っているのだ。
ぱあん、と盾に防がれた石塊が爆ぜる。石塊はきらきらとした粉
塵と無数の礫となってリリオンの視界を邪魔した。それはもう何度
も繰り返されるやりとりだったが、リリオンの集中は途切れること
なく続いていた。
リリオンは冷静だ。ランタンは小さく頷く。
これまでのリリオンの働きぶりは初探索ということを鑑みれば十
分に及第点だとは思えたが、だが同時にリリオンの身体に備わって
196
いる身体能力というところだけを見れば、少し物足りない、と言う
気がしなくもなかった。少なくとも装備一式を整えて探索に同伴を
することを許す程に、ランタンはリリオンの能力を買っていること
もあって少しばかり欲が出てきた。
だが幾つかの戦闘を経験したことで、リリオンの潜在能力は開花
し始めていた。
リリオンは高速で飛来する人頭大の石塊を、まるでそれが水風船
であるかのように軽く受け止めた。最初の投石攻撃はただ盾に身を
隠していただけだったのが、今では当たる瞬間に盾を押し出し迎撃
すらしている。向かってくる攻撃を恐れず、攻めの姿勢も忘れない。
ランタンはその姿を、少しハラハラもするが好ましく思った。
また石塊が爆ぜた。足元が砂利道になりかけている。
﹁気をつけるんだよ!﹂
そこそこの知能がある大猿のことだ。いい加減リリオンの隙を見
つけようとも投石攻撃だけでは埒が明かないことに気が付くだろう。
魔物は基本的にはいくら不利になっても逃走行動を起こさない死兵
である。そろそろ行動に変化が出る頃だ。その変化はより積極的で
攻撃的なことだろう。
大猿が再び石塊を投げ、そして強靭な指先で地面を掻き込むよう
に走りだした。投げつけた石塊を追いかけるようにリリオンに向か
って突撃してきている。
リリオンはどうするだろうか。ランタンはそっと戦鎚の柄に手を
掛けた。
﹁はぁぁッ!﹂
リリオンは向かってくる石塊に、大猿に、盾を前に構えたまま突
っ込んでいった。足元に散らばった礫が踏みつけられて癇癪玉のよ
うに破裂した。限界まで引き絞られた弓から放たれたかのような素
晴らしい加速だ。
石塊など何の牽制にもならなかった。盾の表面で爆ぜた石塊はま
るで柔らかく握った雪球のようで、リリオンの突撃に何の影響も与
197
えていない。しかしそのまま大猿に激突するかと思われたが、大猿
は四足をバネのようにして真横に跳んだ。
剣を構えた側に跳んでくれればその刃が大猿を二分割にしただろ
うが、残念ながらそんなに上手くはいかない。ランタンが小さく舌
打ちをした。
大猿が着地と同時に地面を掴んだ。抉って石塊を補充したのでは
ない。大猿は地面を砕き取り、手の中に散弾を作ったのだ。そして
叩きつけるようにリリオンの横姿へ投げ付けた。
﹁︱︱らぁ!﹂
リリオンが裏拳を放つように盾を振り回すと突風が巻き起こる。
その突風を受けて散弾が力を失い、また盾によって散弾が打ち壊さ
れると、粉塵となったそれが風に煽られて大猿の瞳を襲った。
﹁⋮⋮よし﹂
ランタンが小さく呟くのと、リリオンが大剣を振るうのはほとん
ど同時だった。
大猿は一瞬怯み大剣を避けるために大きくバックステップし、迷
宮の壁に指を突き立てて張り付いた。
だがそこは、まだ大剣の刃圏内だ。
リリオンの身体の影に隠されていた大剣が、鋒が地面を撫でるよ
うに滑り出し、そして鋭く浮かび上がった。掬うように斬り上げら
れた逆袈裟は大猿の両足を切断した。大猿の顔がまるで人間のもの
のように驚愕を表し、そして苦痛を浮かび上がらせた。
耳をつんざく悲鳴を上げて大猿が壁から剥がれ落ち、仰向けに転
がって痛みに藻掻いている。リリオンは大猿に素早く近づいた。
﹁えい!﹂
リリオンは盾をギロチンのように大猿の喉に叩きつけてその息の
根を止めた。頚椎を砕かれた大猿は一度大きく跳ねて動かなくなっ
た。ランタンは、リリオンが最後まで気を抜かずにきちんととどめ
を刺したその光景に満足気に大きく頷き、まるで自らが戦闘を終え
たように大きく息を吐いた。そしてリリオンもまた大きな安堵を漏
198
らしている。
﹁はぁぁぁあ⋮⋮︱︱やったぁ!﹂
リリオンが振り向いて大剣を掲げて喜びを露わにした。
リリオンが満面の笑みをランタンに向けると、ランタンもそれに
応えて頬を緩めた。リリオンが最初から最後まで一人で戦闘を終え
たのだ。それも完勝といってよい内容だった。手塩にかけて、など
とは決して言えない短い付き合いだが、ランタンはなんだか親鳥の
気分だった。
大剣を盾に収めるリリオンにランタンは駆け寄りたい衝動を堪え
て、余裕ぶりながら歩み寄った。
﹁やったね﹂
ランタンが掌を差し出すと、リリオンはその手に自らの手をぱち
んと叩き合わせた。
その拍子にリリオンの手首に巻き付けられた深度計が跳ねる。そ
の色は青と呼べなくもないような青色だ。気の抜けた色だが、もう
ずいぶん深い所まで来た証拠だった。
ランタンは一瞬だけその深度計に視線をやり、すぐにリリオンへ
戻した。そして腰から狩猟刀を抜くと、くるりとリリオンへ柄を差
し向けて渡した。
﹁魔精結晶の剥ぎ取りもやってみようか﹂
﹁う、うん﹂
﹁盾はちょっと邪魔だね、僕が持ってるよ﹂
﹁ありがとう﹂
狩猟刀と引き替えにするようにひょいと渡された盾を、ランタン
はずしりと受け取った。よくもまぁこんな重たい物を振り回せるも
のだ、とランタンは呆れ半分称賛半分に思ったが、そんなことを思
うランタンも片手でその盾を支えて、逆の手では戦鎚を引き抜き鶴
嘴を大猿に引っ掛けて、その死体を血溜まりから引きずり出してい
たりもする。
大猿の身体に現れた魔精結晶は、右手の指だった。小指の退化し
199
た大猿の手をむんずと掴んでその指を伸ばした。四本指の内の一つ、
人間で言うところの人差し指の先端が青い結晶と化している。毛む
くじゃらのゴツい指が、第一関節から急に宝石のようになっている
様子は悪趣味な義指を嵌めているようだ。
﹁ここ? ここでいいの?﹂
﹁もうちょっと上だね。結晶の下側を削るように刃を当てて﹂
﹁うん﹂
﹁で、一気に、叩きつけるように﹂
﹁えいっ﹂
刃の根元を大猿の指にあてがって位置を確かめると、リリオンは
鉈で薪を割るように狩猟刀を振り下ろした。きん、と硬質な音を立
てて魔精結晶が切り落とされる。リリオンは太く息を吐くと額を拭
った。
﹁完璧だね﹂
まむし
ランタンが転がった魔精結晶を拾い上げて、リリオンに手渡した。
その魔精結晶は蝮のように太く、第一関節だけだというのにラン
タンの中指の全長以上もある。
﹁はぇー、うふ﹂
シアン
魔物がその身に貯めこむ魔精が多いほど結晶は高純度となり、そ
の色を深める。
大猿の魔精結晶は透き通る水青色である。純度は高くもないが低
くもないという所だろうが、そこに金銭的価値以外を見出したのか
さが
リリオンは魔精結晶に見惚れて口をぽかんと開けてにへらと頬を緩
めた。
﹁見惚れるものいいけどね﹂
美しい宝石に憧れるのは女の性なのだろうが、残念ながら切り落
としただけの魔精結晶は外気に触れさせていればやがて氷のように
溶けてしまう。魔精が溶け出さないように結晶を加工して装飾品と
して販売するような店もあるが、装飾品としての魔精結晶は同重量
の金よりも高価だ。
200
﹁早くしまわないと台無しだよ﹂
ランタンが言葉で尻を叩くと、リリオンはあたふたと背嚢を下ろ
そうとして混乱していた。まるで自らの尻尾を追いかける犬のよう
だ。
﹁慌てなくていいから。ほら、狩猟刀を返して、袋も取ってあげる
し、︱︱それを落とさないようにね﹂
手を切り落としそうな狩猟刀を奪い取り、お手玉するようになっ
ている魔精結晶をしっかり握らせて、リリオンを中腰にさせると背
嚢に手を突っ込んで保存袋を引きずり出した。
﹁はい、しまって﹂
﹁あぁ、私の結晶⋮⋮﹂
ランタンが袋の口を広げて無慈悲に告げると、リリオンはまるで
指先の皮膚が結晶に張り付いたかのように、名残惜しげに結晶を袋
に入れた。ランタンは未練たっぷりに袋口を覗き込むリリオンの視
線を締め出すように保存袋の口を三つ折にした。
換金する時もこの調子だと面倒くさいな、などとランタンは思い
ながら保存袋を縛ってリリオンの背嚢へと放り込み、代わりに水筒
を取り出した。リリオンは気にしていないようだったが指先が少し
青く汚れている。
﹁あっ。ありがとう、ちょうど喉乾いてたの﹂
戦闘を終えたのだから喉も乾いているだろう。だが差し出された
手に水筒は渡さない。
﹁手、洗ってからね﹂
﹁これぐらいへーきよ?﹂
リリオンは自分の手を確かめてそう言い、再び手を差し出したが、
ランタンはその指先に無言で水を垂らした。リリオンが平気でも、
ランタンは平気ではないのだ。リリオンは急に注がれた水に驚いて
頬を膨らませたが、思いがけず強いランタンの視線に負けていそい
そと指先を擦り合わせた。
﹁きれいになったわ﹂
201
﹁うん、じゃあ⋮⋮﹂
ランタンはポーチから布切れを取り出そうとしたが、リリオンは
ぱぱっと濡れた手を服で拭いて、ランタンの手から水筒を抜き取っ
た。
﹁⋮⋮まぁ、別にいいけどね﹂
はぎれ
美味しそうに喉を潤すリリオンを横目に、ランタンはぼそっと呟
いた。迷宮内で気取ったように、実際使用しているのは端布だが、
ハンカチーフで使用するランタンの方が変なのだ。
﹁リリオン、深度計見てみて﹂
﹁ん?﹂
水筒から口を離して、ぺろりと唇を舐めた。リリオンは水筒ごと
手首を持ち上げて、深度計を眼前に揺らした。リリオンはその淡青
色をようやく気がついたようにはっとした瞳で見つめた。
﹁これって⋮⋮?﹂
﹁そろそろ底が近いね﹂
﹁底?﹂
﹁最下層さ。ま、見ればすぐに判るし、そんなに身構えなくてもい
いよ。⋮⋮それとその色よく覚えておいて﹂
﹁色? うん、わかった﹂
﹁じゃ、行こっか﹂
神妙な面持ちで深度計の色を目に焼き付け、ぶるっと身体を震わ
フラ
せたリリオンを安心させるようにランタンは軽く言った。荷物をし
まうと寄り添うようにして探索を再開する。
グ
最下層に到達したからといって、そのままそこに踏み入り最終目
標との戦闘を開始するわけではない。とりあえず今日の目標は最下
層の確認までであってそれ以上は、挑むにしろ逃げ帰るにしろ明日
の仕事だ。
ランタンは時計に目をやった。迷宮へ入ったのは一四時丁度で、
今の時刻は二十一時を回ろうとしている所だった。これまで何度か
小休憩を挟んだが、そろそろ空腹を感じ始めていたし疲労もあった。
202
あくび
肉体的な疲労よりもリリオンの前で気取っていたこともあり精神的
な疲労のほうが大きい。ランタンは欠伸を噛み殺して、眼をこすっ
た。
﹁ふぁ⋮⋮﹂
噛み殺したはずの欠伸がリリオンに伝染したようで、リリオンは
声もなく吠えるように大きく口を開いて欠伸をして、顔を洗うよう
に目をこすり、ついでにその手で腹を押さえた。リリオンも空腹な
のだろう。
﹁たぶん、もうすぐだよ。ほら、深度計見て﹂
魔物も現れず三十分ほどをひたすらに歩いた所でランタンがリリ
オンに言った。
﹁あ、色が⋮⋮薄い﹂
﹁うん、それが最下層が近い証拠﹂
周囲に漂う魔精の濃さに反応してその青の濃淡を変える深度計が
色を薄くしている。
基本的に最下層へと近づくということは、迷宮内の魔精の供給源
である迷宮核に近づくことと同意であるので、本来ならば魔精は濃
くなって深度計も色を濃くするはずなのである。
ならば何故、深度計がその色を薄くしたかというと、その原因は
最終目標にある。
最下層にその身を構える最終目標が周囲の魔精を貪っているのだ。
リリオンは今のところ深度計を見ることでしか魔精の濃さを判別
できないが、ある程度探索をこなせば一般的な探索者であればその
身一つで魔精の減少を感じ取ることが出来るようになる。それほど
最下層付近の魔精の減少は急激なのだ。
﹁魔精の減り方も、最終目標の強さの基準になるんだよ﹂
﹁へりかたが早いほうが、つよい?﹂
﹁うん、正解﹂
ランタンは周囲に漂う魔精が薄くなっているのを肌で感じ取って
いた。その感覚は冬の風が身体から体温を奪ってゆく寒々しさに似
203
ている。どうせまた阿呆みたいに強いんだろうな、と嫌な気分にな
った。
﹁ランタン、ランタン﹂
﹁ん?﹂
うんざりとしていたランタンの腕をリリオンが引っ張って、迷宮
の奥を指さした。
﹁行き止まりだわ!﹂
指の先には灰白色の地面、横壁、天井がずるりと筒状に伸びてい
て、突き当りが白い壁によって閉ざされているように見えた。それ
は突き当りで直角に曲がっているわけでも、どこかに抜け道がある
わけでもない。
ランタンは足を止めて、胸に手を当てて息を整えた。
﹁︱︱もう少し近づこうか﹂
ランタンは袖を引いたリリオンの手を掴んで、ゆっくりと行き止
まりに近づいた。
﹁あっ⋮⋮﹂
リリオンはそれが何であるのかに気がついたようで、小さく声を
上げた。そこで足を止めると、リリオンがぎゅっとランタンの手を
握り締めた。
白い壁の正体は、濃い霧である。
たぐい
アラバスター
迷宮口からミシャの手によって迷宮に降下する際に通過したもの
と同じ類の魔精の霧だ。雪花石膏のように白く、あまりに濃密で滑
らかなので通路を埋める霧が壁のように見えるのだ。
近づくことによって霧がほんの僅かだが、巻くように流れている
のがわかる。
迷宮口の霧が地上と迷宮を隔てる門であったように、この霧も今
までの迷宮と最下層が別のものである証明だった。
﹁これって、どうやって、最終目標を確かめるの⋮⋮?﹂
リリオンは目を凝らして霧を眺めていたが、当たり前だがそんな
ことをしても霧の奥を覗きこむことはできない。視線は濃く厚い霧
204
の幕によって遮られた。ランタンは、目の上に手を翳して背伸びま
でしているリリオンを見てくすりと笑った。
﹁これを使います﹂
ランタンは背嚢を下ろし、その中から円筒を取り出した。筒の中
には魔道的な処理を施された特殊なレンズが嵌めこまれており、こ
れを通して見ると薄ぼんやりとした青い紗がかかったようにものが
見える。その青さは魔精の濃さだ。魔精鏡と言う道具である。
﹁へぇー、ふぁー﹂
手渡された魔精鏡をリリオンは早速覗きこんで、キョロキョロと
あたりを見渡たした。そしてランタンの姿を捉えると残念そうに魔
精鏡を目元から外す。
﹁⋮⋮ランタンはあんまり青くないのね﹂
﹁そらそうだよ﹂
ランタンは見栄を張る様子もなく肩を竦めて笑った。
魔精鏡には様々な種類があるが迷宮内で使用する物に限っては、
そのどれもが感度の低く設定された言うなれば意図的な粗悪品であ
った。そうしなければ地上よりもずっと魔精の濃い迷宮内では、視
界の全てが青く染まり何の役にも立たないのだ。
ジャンク
そして霧の奥に、最下層に存在する最終目標を確認するための魔
精鏡は、廃品と言っても良いほどに魔精を捉える感度が低くなって
いる。そうでなくては霧に含まれた魔精を透かすことができず、ま
たあるいは、そうであったとしても青く見えるほど最終目標がその
身にまとう魔精は濃いとも言えた。
﹁ま、そのおかげでこいつは安いんだけどね﹂
ランタンは魔精鏡をリリオンの手から奪い、霧の奥を覗きこんだ。
どんな貧乏な探索者であっても粗悪品であるがゆえに廉価である
魔精鏡は所持している。魔精鏡を通す事によって得られる最終目標
の情報は決して多いとはいえないが、それでも無情報で最終目標に
挑むよりはずっとずっとマシだ。
場合によっては挑むことをせず、逃げ帰る理由を得られるのだか
205
ら。
﹁⋮⋮︱︱ふぅん、⋮⋮でかいなぁ﹂
ランタンが舌打ちを漏らして魔精鏡から目を外すと、今度はリリ
オンがその手から魔精鏡を奪い返して霧の奥を覗きこんだ。その瞳
には薄水色に染まった霧の奥に潜む、鮮明な青が映っていることだ
ろう。
リリオンは騒ぎもせずに、魔精鏡を構えたまま微動だにしない。
恐怖に固まっていると言うよりは、鼻筋に皺の寄ったその顔は拗ね
ているように見えた。どうしたんだろう、とランタンがぼんやり顔
を眺めていると、急に飽きたように魔精鏡をランタンへ返した。
﹁⋮⋮よくわかんないわ、ぜんぜん動かないし﹂
魔精鏡を通して得られる最終目標の情報は基本的に四つだ。それ
は大きさ、形、動作、魔精の濃さであるが、その四つですら確実に
得られる情報ではない。この霧の奥にいる最終目標は少なくとも三
メートルを超える体躯を持っていて、見る限りでは丸い。けれど丸
い形をした獣と言うわけではなく、ただ丸まって身を横たえている
だけだろう。それは青い小山のようであった。
﹁ふふふ﹂
リリオンが飽きるのも無理はない。子供にとって動かない青い塊
なんて見ていても何も面白くはないだろう。魔精の霧によって遠距
離攻撃は届かないので、ここからではちょっかいを掛けることもで
きない。
﹁これ以上は無駄だね。引き返して野営の準備をしようか﹂
﹁戻るの?﹂
﹁戻るよ﹂
得られた情報は、丸まった状態で三メートル以上の大きさと、魔
精の濃さ、それと恐らくは羽が無い、無ければいいな、と言う程度
のものである。充分とは言えないが、珍しいことではない。ランタ
ンはさっさと魔精鏡をしまうと、来た通路を引き返した。
﹁︱︱別にあれが起きたからって最下層から出てくるわけじゃない
206
けどね。気分的に落ち着かないでしょ?﹂
十分と少し歩いて開けた場所まで戻るとランタンは立ち止まり、
背嚢を下ろして大きく呻きながら背伸びをした。
﹁今日はここで休むよー﹂
﹁わたし、お腹ぺこぺこ!﹂
ブランケット
﹁僕もだよ。さー、さっさと食べて、さっさと寝よう﹂
背嚢の中から折りたたんだ毛布を取り出して、そのまま座布団代
わりに尻に敷いた。リリオンもそれに倣って同じようにランタンの
隣にぺたんと座る。リリオンはランタンが背嚢から携帯用調理器具
を取り出すのを、最終目標を眺めるよりもずっと楽しそうに眺めて
いた。
﹁これに、こぼれない程度に水入れて﹂
はんごう
眺めているだけより、自分でもやったほうがもっと楽しい。ラン
タンは円形の飯盒をリリオンに手渡した。
﹁これなぁに?﹂
飯盒の中には炊いた米を乾燥させたものと、刻んだ乾燥野菜と干
し肉が入っている。米はアルファ化米などと呼べるような上等な代
物ではないが、これを再び炊いて粥にするとなかなか旨い。
﹁水入れたら、軽く混ぜて蓋するんだよ﹂
ランタンはランタンで火精結晶コンロを弄っていた。折りたたま
れた四つの足を立てて円形の五徳の下に嵌められている橙色の火精
結晶に衝撃を与える。そうすると火精結晶は衝撃を与えられた部分
から光と熱を発するのだ。それはすぐに火精結晶全体に広がった。
﹁あっつい!﹂
ランタンは慌ててコンロを地面に置き、熱を持つ指先をちろりと
舐め、コンロの足に反射板を立てかけて火精結晶を覆った。これに
よって辺りに撒き散らされる熱が、効率よく上に立ち上るのだ。リ
リオンが陽炎揺らめく五徳の上に飯盒を乗せた。
﹁すぐ出来る?﹂
﹁うーん、これなら十五分ぐらいかなぁ﹂
207
ランタンが出来上がり予想時間を告げると、リリオンは十五分が
永遠と同意であるかのようなげんなりした表情を見せた。ランタン
は聞かないふりをしたが、リリオンの腹がぐるるると鳴っている。
﹁出来あがるまでこれ食べようか。どうせ粥だけじゃ足りないし﹂
プレーン
取り出したのはビスケットと塊のチーズだ。いつもならば探索者
ナッツ
ギルドで安価で販売している簡素なビスケットを買うのだが、これ
は中に砕いた木の実が練りこまれている。
﹁おいしいねぇ﹂
薄く切ったチーズを乗せて食べるとリリオンは頬を緩ませた。ビ
スケットは相変わらず口腔の水分を奪っていったが、値段帯が上が
っただけあって味の方は悪くない。ランタンもビスケットをもそも
そと齧っては水筒から水を呷った。
ランタンが二枚食べる間に、リリオンは四枚を腹に収め、さらに
チーズを気持ち厚めに切り取りそれだけでも齧っている。遠慮が無
いようにも思えるが、身体の大きなリリオンが両手でチーズを持っ
て少しずつ齧っている様は妙にいじらしい。
﹁ねぇ、ランタン﹂
﹁んー?﹂
﹁ランタンさ、お風呂の時に、こう⋮⋮ボンって、ほら、ボンって
やってたでしょ?﹂
﹁まぁ、やったね﹂
要領の得ない言葉だったが、言わんとする所はわかる。ランタン
はこくりと頷く。
﹁ランタンって、⋮⋮魔道使いなの?﹂
﹁ちがうよ﹂
魔道使いとは体内の魔精を、体外へ様々な現象として放出する技
術を持った人間のことだ。
ランタンがリリオンを洗うために湯船に溜めた水を熱した時、水
に漬けたランタンの手の周囲では高熱を伴った小爆発が起きていた。
普通に考えて水を温めるためには何かしらの道具が必要になるはず
208
で、無手のランタンが一瞬で水を湯へと変えた様子は確かに魔道を
行使したように見えるだろう。
﹁ちがうの?﹂
﹁うん、あれはねぇ、⋮⋮うーん﹂
ランタンは指先についたビスケット屑を払い落とした。やや俯き
がちになり眉根に深く皺を刻むと、むっつりと黙り込んだ。組んだ
指の上に顎を乗せてしばらく言葉を探していると、リリオンがじっ
と見つめていることに気がついた。視線が質量を持つように肌を触
った。
視線を上げてそちらを向くと、リリオンは言葉を待っているとは
到底言えない顔をしていた。罪を犯してそれを悔いるような、ある
いは罰を恐れるようなそんな顔だ。
﹁どうかした?﹂
そう聞いてから、なんとなく気がついた。
聞かれたくない事を聞かれた時の、言いたくないことを言う時の
心の機微をリリオンはよく知っているのだろう。要はランタンの爆
発を、リリオンにとっての巨人族の血のようなものだと、沈黙を深
読みして勘違いしたのだ。
﹁上手く説明できないだけだよ。まぁ、例えばさ⋮⋮あぁえぇっと、
蜥蜴人族とか蛇人族の中には毒を吐く人達もいるでしょ? あんな
感じですよ﹂
あんな感じ、をランタンは知らなかったが、そう早口で捲し立て
た。
リリオンの不安を晴らすために嘘をでっち上げたわけでも、説明
が面倒くさくなって誤魔化したわけでもない。ランタン自身も自分
の力を正確に理解はしていないのだ。便利なので日常生活にも戦闘
にも利用しているが、生まれ付き身に備わっていた力ではなくこの
世界に来てから発現したものだった。
﹁でも急にどうしたの? 気になっちゃった?﹂
僕のこと、とランタンはいたずらっぽく片目を閉じて微笑んだ。
209
するとリリオンは頬を赤くして、わたわたと手を振りその表情を隠
そうとした。
﹁ちがうわ! あの、ちがないけど⋮⋮ちがうの! あのね、えっ
とね。ランタンがボンってやれば、そのすぐに、ごはんできるかな
って、⋮⋮思って﹂
﹁⋮⋮︱︱ぷ。あっはっは。あー、そうだね。そうかもしれないね﹂
ランタンは珍しく大きく口を開けて笑って、ひとしきり笑い終え
ると飯盒を指さした。
﹁でも、もうほとんど出来てるよ﹂
﹁えっ、ほんと!?﹂
飯盒がコトコトと鳴って蓋の隙間から汁が吹き零れはじめている。
ランタンが袖の中に手をしまって熱対策をし、その蓋を外すと米の
甘い香りが湯気とともに立ち上った。
﹁いい匂い! もう食べれるの?﹂
﹁んー、もうちょっと水分飛ばそうか﹂
ランタンはスプーンで粥をぐるりと掻き回し、その先端に乗せる
ように粥を一掬いしてリリオンに突き出した。
﹁ふぅふぅ、⋮⋮はい、味見して﹂
﹁あむっ、んっ。︱︱んぅー、うすい﹂
出汁は干し肉によって充分に賄われているが、塩分もとはいかな
かったようだ。ランタンは岩塩の欠片を指先で潰して粥の中に入れ
た。乾燥している状態の見た目は微妙だったが、出来上がりはまた
別だ。薄黄色の柔らかく溶けた米と、水を吸って膨らんだ乾燥野菜
の緑黄色が目に美味しい。
ごくり、とリリオンが喉を鳴らした。
﹁さ、できたよ。お椀貸して﹂
新品の木製の椀にたっぷりと粥をよそってやるとリリオンは目を
輝かせた。片手に椀を、片手にスプーンを構えて準備は万端だが、
それでもランタンが自分の分をよそうまでは手を付けることはなか
った。
210
﹁はい、いただきます﹂
﹁ます!﹂
ふぅ、と一つ息を吹きかけただけでリリオンはスプーンで粥を口
に運んだ。スプーンを口に咥えたままリリオンは目尻を蕩けさせる。
﹁︱︱んー、おいしい!﹂
﹁うん、よく出来てるね﹂
肉の出汁が米によく染み込んでいるし、乾燥野菜もほっとするよ
うな甘さがある。
﹁チーズ入れても美味しいかも﹂
熱さなど感じていないようにリリオンは一心不乱に粥を掻き込ん
でいたが、ランタンの一言によりぴたりと停止した。そして少なく
なった椀の中とランタンの顔を何度も見比べている。
﹁おかわりはあるから、大丈夫だからね。あとゆっくり食べな﹂
﹁うん﹂
明日は最下層に入り最終目標と戦闘を行う。
目覚めた時に熱でも出ていればまた別だが、口腔の火傷程度では
探索を中止する理由にはならない。リリオンの存在も、やはりまだ
不安は残るが、それも引き返すための理由としては不十分だ。
﹁⋮⋮﹂
いや、ここまで来たのだ。
リリオンは最下層に踏み入るだけの資質も、資格もある。
﹁どうしたのランタン? おかわり、よそってあげようか?﹂
﹁︱︱うん、ありがと﹂
いのち
空になった椀に粥が山盛りに盛られて帰ってきた。手の中でずし
りと重たく、暖かい。まるで心臓のようだ。
﹁リリオン﹂
﹁なに?﹂
﹁明日は、がんばろうね﹂
﹁︱︱うん!!﹂
明日は、もうすぐそこに近づいてきている。
211
015 迷宮︵後書き︶
戦闘シーンばかりがもう少し続きます。
ごめんなさい。
212
016 迷宮
016
フラグ
最下層へ踏み入る前に最終確認を行ったのだが、最終目標は丸ま
ったまま微動だにしなかった。リリオンはその姿を見て、寝ている
のかな病気なのかな、などと言っていたが睡眠はさておき病気とい
うことはないだろう。
なにしろ相手は辺り一面の魔精をその身に宿す最終目標である。
魔精は身体能力を強化し、その効果は免疫機能にも作用する。もし
最終目標が病気ならばそのことに幸運を覚えるよりも、それが感染
性の病気でないことを神に祈るばかりだ。
魔精鏡を背嚢にしまいながら、溜め息を一つ。
﹁それに寝ていてもね⋮⋮﹂
ランタンは巨大な一枚の壁のようになっている魔精の霧を見上げ
た。
この魔精の霧は鳴子のようなものだ。もし睡眠状態であったとし
ても、この霧を通り抜けようとするものは、これを通じて最終目標
に感知される。この魔精の霧が最終目標に吸収されない理由は、こ
れ自体が最終目標の感覚器官である、と言うような考察もあるが真
実のほどは定かではない。
ハイ
なんにせよ霧を通ると言うのは視線を横切るどころか、体内を這
クラス
いまわるに等しい。この警戒網を掻い潜ることのできる探索者は高
位探索者でも一握りであり、その技術はランタンには到底真似の出
来ないものである。
﹁ええっと、それって⋮⋮﹂
﹁ま、入ったら即戦闘ってことだね﹂
にっこりと笑い朗らかに言ってのけたのはリリオンを安心させる
213
ためである。病気なのかな、などという台詞は本心からそう思って
いると言うよりは、そうあって欲しいという願望なのだろう。要は
リリオンはこの先に居るものを恐れているのだ。
ランタンは背中を丸めて俯いたリリオンの頬を両手でそっと挟み
込んだ。
瞳に力はないが、頬が柔らかく、血色も良い。
ひと
昨晩はリリオンがせがんだので二人で一つの毛布に包まり夜を過
ごしたのだが、なんとなく他人の体温やら柔らかさやらを意識して
しまったランタンをよそにリリオンは充分に熟睡していた。寝起き
も悪くなく、朝食も帰りの荷物になるとばかりに山ほど食べていた
し、体調は良さそうだった。
掌の間に頬を挟んだままランタンは背伸びをした。俯こうともリ
リオンの顔は高いところにある。一晩寝て、また少し身体が大きく
なったような気がした。
﹁⋮⋮﹂
さて、どうしたものか。
ランタンは思わず掴まえてしまった頬を持て余していた。濃い睫
毛に縁取られた瞳がランタンの瞳と向き合い、また逸らされる。ラ
ンタンはじっとリリオンの瞳を覗きこんだまま黙っていたが、この
ままでは埒が明かない。
﹁⋮⋮﹂
キス
もしもリリオンとの関係が恋人やそれに類するものであるのなら
ば、そのまま顔を引き寄せて接吻の一つでも与え、君は僕が守る、
などと言うような台詞を大まじめな顔で伝えれば、この後の戦闘も
含めた探索全般が何だかんだで万事解決しそうなものだが、今この
場でそんなことを行なうのならば脳の異常があることが間違いない
ので、いそいそと帰還の準備をはじめなければならない。
無論、ランタンは正常であったのでそんなことは行わないし、行
わないのだから帰還もしない。
つまりリリオンが怖じけついていようとも、ランタンは最下層に
214
入り、最終目標と戦う。これは決定事項だった。
﹁⋮⋮このまま、ここで待っててもいいよ﹂
この場所ならば魔物の出現はなく、この迷宮が現れてからの日数
的にも最終目標が最下層から出てくるということは考えられないの
でおそらくは安全だろう。ランタンが最終目標に勝利できれば最善
だが、負けて帰らなければ一人で出口を目指せばよい。ミシャに払
う後払いの引き上げ代を今の内に持たせておけば揉めることもない
だろうし、超過料金が必要になったとしてもリリオンの背嚢には魔
精結晶がしまわれているのでそれで賄えば何の問題も起こらない。
﹁︱︱いたいっ!?﹂
返答は頭突きだった。
﹁どうしてそういうこというの!﹂
怒鳴りつけるリリオンを、ランタンはじんじんと痛む額を押さえ
ながら見上げた。
﹁あんまり、行きたそうじゃ、なかったからね﹂
額から手を外すとそこが赤くなっているがランタンには見るすべ
さす
がない。それでもまるでその赤みを消すかのように親指の腹でそこ
を擦った。その際にランタンが掌によってリリオンからの攻撃的な
視線を遮ったのは偶然のことで、意図したものではない。
だがリリオンはランタンのその手を掴んで外した。指先がやや冷
たいが、覗きこむ瞳には涙のように湛えられていた弱気の代わりに
決意が満たされている。
﹁わたしも行くから!﹂
啖呵を切ったリリオンに、ランタンは意地悪に唇をにぃと歪めて
さす
掴まれた手をそのまま掴み返し、赤子でもあやすかのような手つき
でリリオンの手の甲を撫で擦った。
﹁怖いのなら、無理しなくてもいいんだよ﹂
その言葉にリリオンは噴火寸前の火山のように顔を赤くして瞳が
零れんばかりに瞼を見開き、胸を反らすように鼻から息を吸い込ん
で、きっちり一秒間、吸い込んだその息に感情を練り込むように黙
215
ったかと思うと叩きつけるように吠えた。
﹁わたし、怖くないわ! ランタンの出番がないぐらい、わたしだ
ってがんばるんだからっ!!﹂
じぃんと響く鼓膜の痺れが心地よかった。
ランタンは優しく撫でていたリリオンの手を両手でぎゅうっと力
を込めて握りしめた。
﹁うん、がんばって、期待してるよ。︱︱さて、僕もリリオンの出
番がないぐらい頑張らないといけないね﹂
﹁⋮⋮っ︱︱うんっ、がんばるっ!﹂
ウォーハンマー
ランタンはリリオンの手を離し、そのままぐっと身体を伸ばした。
ランタンの戦鎚も、リリオンの方盾や大剣も戦闘に支障が出るよ
うな傷や歪みはない。リリオンには昨晩の内に幾つかの魔道薬を渡
しているし、作戦と呼べるほどではないが戦闘方針も伝えてある。
リリオンはまだ赤みの残る頬もそのままにランタンが握りしめて
いた手を胸に当てて、もう片方の手でそれを上から押さえつけてい
た。それは昂った精神を静めているようにも、手の中にあるランタ
ンの体温を胸の中にしまっているようにも見える。表情は穏やかで
あり、力強い。
突入準備はもうほとんど済んだ。が、まだ一つ残っている事があ
る。
﹁リリオン、これ﹂
ランタンが円形缶を取り出しそれをリリオンに見せると、リリオ
ンは気丈な表情を台無しにした。あからさまに嫌そうな、うんざり
した表情である。ランタンが見せつけたそれは気付け薬の携行缶で
あり、その中に収められた物の味をリリオンはよく覚えていた。
﹁わたし、飲まなくても、だいじょうぶだと思う﹂
迷宮を探索することでリリオンの身体も幾ばくかの魔精を取り込
み、身体能力の上昇にも馴染んでいる。もしかしたら本当に大丈夫
なのかもしれないが、その泳いだ視線はただ気付け薬を服用したく
ないと声高に宣言しているようなものだった。
216
﹁必要なかったらぺって吐けばいいよ。噛んだり舐めたりしなきゃ、
そうそう溶けないし﹂
そう言ってランタンは手本を示すように口の中に丸薬を二つ放り
込み、舌先でそれを奥歯の隅に追いやった。
﹁うー、⋮⋮んっ﹂
リリオンも渋々それに従い、嫌そうな表情丸出しで丸薬を口の中
に入れた。
ランタンは携行缶をポーチへしまい、戦鎚を腰から抜き取るとく
るんと手首を回す。リリオンも盾を肩から下ろした。だが剣は抜か
ない。
﹁さて、行こうか﹂
﹁︱︱うん﹂
手を繋いで、霧の中を行く。
霧は一気に走り抜けてもいいし、ゆっくりと歩いて行ってもいい。
霧に入った瞬間に最終目標はこちらに気がつくが、それは臨戦態勢
ではない。もぐら叩きのように霧を抜けた瞬間に襲われることは、
少なくともランタンは経験をしたことがない。大抵は霧からある程
度の距離を保ち、何が出てくるかを伺っている。
手を引きながらゆっくりと歩く。
視界は白一色で、何も見えない。ただ肌にぴりりとした痺れがあ
る。それは最終目標の視線なのかもしれないし、ただそれが発する
気配なのかもしれない。どちらにせよ友好的なものではない。リリ
オンもそれを感じているのか、繋いだ手の力が強められた。
握り返してやりたいところだが、そろそろ手を離さなければなら
ない。
﹁抜けるよ﹂
リリオンもそれを理解している。ランタンが指先から力を抜くよ
りも早く、リリオンの手が自らの意志によって剥がれ落ちていった。
霧の中で抜刀音が響く。
そして視界は白一色から、光の下へ。
217
最下層は広く開けている。壁は迷宮のような灰白色ではなく、も
う少し暗い色をしていて、しかしやはり発光しているので視界を取
ふ
るには充分な光量があった。
中央に臥す巨大な最終目標の威容が照らされている。光に浮かび
上がるそれは盛り上がった影のようでもあり、積み上がる泥の山の
ようでもあった。顔をこちらに向けて、視線がランタンたちを捉え
るとひどく緩慢な動作で身を起こした。微睡みを邪魔されて苛立っ
ているのか、低く地鳴りのように喉を震わせた。
それは熊だ。
黒青色の毛皮に身を包み二本の足で立ち上がったその姿は、暴力
的なまでに巨大だった。体長はおそらく五メートルを超えている。
ショーテル
左右に開いた腕が短く見えるのは、それが太いための錯覚でしかな
い。その先端には湾曲刀を思わせる長く鋭い鉤爪が五つ剥き出しに
なっていて、人の肉など容易に斬り裂くであろうことを想像させた。
口を開くと杭のような牙に囲まれた赤い口腔が覗いた。
その瞬間に、ランタンは意識を失いかけた。
﹁︱︱っ!?﹂
マント
それは熊の咆哮だった。音の振動が叩きつけられて、まるで全身
の骨が背中から弾け出たかのような衝撃があった。煽られた外套が
音を立てて翻る。
ランタンは揺さぶられた脳で素早く状況を確認していた。
手足に力は入る。熊は向かってくる。リリオンは大丈夫だろうか。
振り向くと同時に、ランタンの足が跳ね上がった。視界に入った
リリオンは放心状態でどうにか盾を持ち上げているだけだ。自力で
熊を避ける事はかなわないだろう、と判断した瞬間にはランタンは
リリオンを蹴り飛ばしていた。
﹁しぃっ!﹂
全力の回し蹴りが盾の中心を捉えて、リリオンが真横に吹き飛ぶ。
ランタンはそのままリリオンから視線を切り、蹴りの勢いに任せて
回転して戦鎚を横に薙いだ。熊はもう目の前にいる。
218
衝撃。
﹁ひぅ!﹂
つか
ランタンの頭がもげそうな程後ろに反った。それでもランタンは
柄と槌頭の根本に手を添えて突進を受け止めた。足を踏ん張ること
ができたのは、奥歯に挟んだ気付け薬が衝撃により砕けたからだ。
涙がでる。
﹁ぎぃぃっ!!﹂
体重差は楽観的に見積もっても二十倍以上になるだろう。それで
もランタンはどうにか持ち堪えていた。奥歯が砕けそうで、涙を拭
く暇どころか口腔を焼く気付け薬を飲み込む暇もない。足元の地面
え
がじりじりと陥没してゆき、ゆっくりと身体が押し込まれる。
柄を噛む口がでかい。このまま飲み込まれそうだ。
だが飲み込むより先に、切り裂かれる恐れがあった。熊が身体を
前に推し進めるように踏ん張っている脚の、前肢の一つを持ち上げ
たのだ。鉤爪が横から回りこむようにして背中を引っ掻こうとして
いる。
触れた瞬間に外套も戦闘服も紙のように破られ、肉も骨も関係な
くバターのように切り裂かれるだろう。熊を押し返すには、突進を
受け止めた時の衝撃が邪魔をしている。
気付け薬のせいで口の中に唾液が溢れている。
﹁︱︱ぷッ﹂
ランタンがそれを噴き、鮮やかな緑の霧が舞う。唾液で溶いた気
付け薬は柄に噛み付く熊の鼻先に噴き付けられて、熊の鼻腔粘膜を
劇物とも称される刺激が焼いた。熊は、ぎゃう、と存外可愛く鳴い
たがランタンの耳はまだ最初の咆哮によって馬鹿になっているので
聞こえない。
﹁︱︱ぁぁあ!﹂
その声は遠くから聞こえるようだったが、実際はすぐ傍にあった。
怯んだ熊の隙を見逃さずリリオンが盾を構えて突進してきたのだ。
直撃の瞬間に身体が沈んだかと思うと、リリオンは盾で熊の身体を
219
かち上げた。ランタンに伸し掛かる圧力が軽くなった。
手が痺れている。ランタンは熊の腹部へと潜り込み強烈な蹴りを
放った。爪先が爆発によって押し出され、加速した踵が熊の脇腹に
めり込む。手応えは分厚いゴムを蹴ったようだ。
ランタンは一瞬で追撃を諦めて素早く熊の元から離れる。リリオ
ンの襟首を引っ掴むと射出されるように跳躍した。
﹁ぐぅ︱︱﹂
リリオンが呻いているが、気にしている余裕はない。先程まで居
た場所に熊の爪痕が深く刻みつけられていた。気付け薬からの復帰
が早い。蹴りは全く問題にもなっていないようだ。
ランタンはリリオンを一瞥して放り出した。涙目になっているの
は恐怖か、気付け薬を噛んだからか。きっと後者だろう、とランタ
ンは笑い、自身の涙を拭いた。口の中にこびり付く刺激を舌でこそ
げ取るとぺっと吐き捨てて、熊に向かって駆けた。
イメージ
熊は立ち上がり、ランタンを待ち構えた。
腕が長い。ランタンは予想よりもだいぶ遠くで身体を沈めて振り
回されたその爪の一撃を避けて、鋭角に曲がり熊の横を取ろうとし
た。だが熊はその場で独楽のように回ってみせ、大鎌のように再び
腕が振るわれた。
ぎいんっ、と硬質な音が響く。聴覚も回復している。
リロード
ランタンは戦鎚で鉤爪を受け止め、衝撃に逆らわず鍔迫り合いを
避けるために自ら後ろに跳んだ。再装填するように鋭く息を吐いて、
再び駆けた。距離をとってまた突進されても面倒だ。首の後ろはま
だじんじんと痛む。
股下まで潜ってしまえば、今よりはマシになるだろう。だがそこ
まで到達することが難しい。振り回される左右の腕が、もしかした
ら熊としては羽虫を追い払うような牽制なのかもしれないが、ラン
タンからしてみれば必殺の一撃に等しい。躱した際に巻き起こる風
さえもが厄介だった。
ランタンは瞳を叩いた風に目を細める。そして足元から振り上げ
220
られた鉤爪を飛び越えて、跳ね上がるその掌に足を掛けて、跳躍し
た。
﹁げっ﹂
熊の振り上げられた腕の勢いを利用した跳躍は背後を取るには滞
空時間が長すぎる。勢い余って飛びすぎた。ランタンは人形のよう
に跳ね上がり、頂点に達して一瞬静止すると重力に任せて落下を始
ふかん
めた。内臓が浮くような感覚が気持ち悪い。
妙に冷静になったのは俯瞰して戦場を見ているからだろうか。獲
物が落下するのを待ち構えている熊さえもが他人ごとのようだ。そ
こから視線を外す余裕もある。
たなび
熊の背後からリリオンが駆けていた。風の様に速い。白い三つ編
みが龍の尾のようにうねり棚引いている。足音に熊が反応したが、
リリオンの腕と大剣を合わせた間合いは熊に匹敵する。
﹁やぁっ!﹂
高く甘い声が響き、剣風に乗ってランタンの鼓膜を揺らす。
爪が扇のように開き、熊も迎撃に腕を振り回した。
きっさき
大気を断ち切る金属音を鳴らし、リリオンの放った横薙ぎが鋭く
弧を描く。だが踏み込みが浅く、やや遠いか。鋒が鉤爪の先端を舐
めてすり抜けた。リリオンが熊に背中を晒した。熊が笑ったように
も見えたが、それはランタンが見た錯覚でしかない。熊は牙を剥い
てリリオンに躍り掛った。
﹁おぉ﹂
ランタンは落下しながら目を見開いた。
リリオンは向かってくる熊に対し、その場所から迎撃の意志を見
せた。どん、と杭を打つようにリリオンの足が地面を踏みつけて固
定された。腰が回る。背筋が服の上からでも一回りも厚みを増した
のが判った。大剣が引き戻される。
﹁はぁぁっ!!﹂
ゆっくりと流れる時間の中で、リリオンだけが加速しているよう
だった。
221
高速の切り返しが熊の脇腹を捉えた。足を固定したリリオンがず
るりと後退するほどの衝撃がその場で弾ける。斬撃は刀身の根元近
くで行われたせいもあって、熊の身体を斬り裂くには至らず、毛皮
に浅く埋まりそこで止まった。だが驚くべきことにリリオンはその
まま刃を押し付け、熊のその巨体が浮き上がった。それは拳一つが
入るような僅かな浮身であったが、ランタンはぞわぞわと鳥肌が立
つのを感じた。
こんな遠くで見るには勿体無いとばかりに、落下速度を加速させ
た。
背中が爆ぜる。爆発的加速に血液が頭部に押し上げられランタン
の視界が赤く染まった。しかし一直線に、引き寄せられるように熊
へと向かうその顔には攻撃的な笑みが浮かんでいる。身体を捻り、
戦鎚を引き絞るように振りかぶった。
よ
熊の腕をすり抜け、脇腹を押し上げる大剣を横目に通り過ぎる。
地面が近づき、ランタンは腹筋を固めた。
顔を見上げる。
地面に触れる寸前で、ランタンは身体の捻りを解き放った。撚っ
た絹束が解けるように、なめらかに動き出した戦鎚が熊と地面の僅
かな隙間に吸い込まれる。槌頭が上を向き、花火のように跳ね上が
った。
﹁ふっ!﹂
握りしめた柄が両の掌に食い込み、槌頭が熊の身体を捉えた瞬間、
みしりと手の甲が軋んだ。空に浮いた無防備状態を打ったというの
ブーツ
に嫌になるほどに重たい。軋みが甲から前腕、二の腕から背中を這
い上がる。
リリオンの戦闘靴が視界に入った。ここからでは膝頭までしか見
えない。
ランタンは歯を食いしばってそのまま戦鎚を振り抜いた。勢い余
のぼ
って身体が回る。視線が膝頭から滑り、ベルトに囲まれた腰を、少
し膨らむ胸を上ってゆく。首が細く、一筋の汗が流れている。
222
﹁はっはー﹂
リリオンは呆けたように口を開き瞳をまん丸にして、錐揉み回転
して吹き飛ぶ熊の姿を眺めていた。ランタンはその表情を見てどこ
か誇るような笑い声を漏らし、猫のように身体を丸めて着地した。
しかし、それでも殺せなかった落下の勢いにランタンは地面に鶴嘴
を突き立てた。ぎゃりぃ、と大きく弧を描き引っ掻き痕を地面に残
してようやく止まった。
手応えは上々だった。
吹き飛んだ熊は地面に激突すると一度大きく跳ねて、山肌高くか
ら崩れた岩石のように地響きを鳴らしながら硬質な地盤を削り砂煙
を立ち上らせながら転がり滑った。ランタンはそれを視界の端に捉
えながら、リリオンに向かって歩いた。
戦鎚で、ごん、と盾を叩く。
リリオンは白日夢でも見ていたかのようにはっとして、ランタン
の小躯をまじまじと見つめた。その視線が熱く、ランタンはそれを
追い払うように手を振った。指先に痺れが残っているが、直に消え
るだろう。
﹁ランタン⋮⋮、やっつけた、の?﹂
リリオンがまさに、恐る恐るといった様子でこっそりと尋ねた。
そこにある感情はあの巨躯を吹き飛ばしたランタンへと向けられた
ものでもあり、またあれほどの勢いで吹き飛んだにも拘らず死への
確証を抱かせない熊への恐れでもある。
﹁まさか﹂
リリオンの恐れは正しい感情だ。上々の手応えも致命傷には程遠
いだろうという予感があった。手に伝わったのは押し返されるよう
な鈍い反動だった。
硬質な毛皮。分厚い皮下脂肪。高密度の筋肉と、それを支える堅
牢な骨格。
巨大で、硬く、速い。
﹁まったく、嫌になるね﹂
223
﹁⋮⋮ランタン﹂
不安そうに名を呼んだリリオンにランタンは微笑みをくれてやり、
腕の感覚を確かめるように戦鎚を回した。
﹁さーこっからが本番だ。気合入れてくよ!﹂
途端に男らしい顔つきになったランタンに、リリオンは生唾を飲
み込んだ。いつかランタンの手を握りしめたように盾と剣を強く握
りしめて、走り出すその背中を追った。
朦々と立ち込める砂煙の奥から熊が爪も牙も顕わにして飛び出し
た。熊の右の脇腹からは血が染み出している。リリオンの斬撃は皮
下脂肪によって命へとは届かなかったが、剛毛によって覆われた皮
膚だけはどうにか裂いたようだ。それがランタンの打撃の衝撃によ
って内部から押し広げられている。黒青色の毛が青い血に濡れて、
てらりと光った。
怒りに染まった視線はリリオンではなく、ランタンに向けられて
いる。その瞳に見つめられたランタンは小馬鹿にするように口角を
歪める。
熊にとって脇腹の傷は取るに足らない物のようだ。それよりも自
プライド
らよりも何倍も小さい生き物に吹き飛ばされた事実が、よほど癇に
障ったのだろう。巨大な図体をしてなんともみみっちい矜持である
ことだ。
青く濡れる唾液が糸を引いて熊が口を開き、再び咆哮が吐き出さ
れた。
﹁うっさ﹂
咆哮も来ると分かっていれば耐えられる。鼓膜が痺れ、一時的な
無音状態となるが意識ははっきりしている。熊の挙動一つ一つがよ
く見えた。
熊が上体を僅かに捻る。身体を前に押し勧めるのは慣性による力
であり、低空を飛んでいるかのようだ。左の腕が持ち上がり、怒り
しな
がそこに溜まっているかのように肩が盛り上がった。そう思った瞬
間、大木のような腕がまるで細竹のように撓る。肩に溜まった力が、
224
鉤爪のその先端に収束した。
ランタンは減速せずに、それどころか体勢を低くして爪に向かっ
て加速した。間近で見る鉤爪は黒耀に似た輝きを放っている。五連
装の死神の鎌だ。だがそれがランタンの命を刈り取ることはなかっ
た。
ランタンはその渾身の怒りから一目見ただけで呆気無く視線を外
し、するりと爪の下をくぐり抜けると熊の股下に滑りこんで背後に
飛び出た。まるで水面を掻き分けるように、熊の鉤爪が地面に沈ん
だ。
予備動作が丸見えの大振りな一撃など、初速がどれほど早かろう
と避けれないことはない。靴底が地面を削り、ランタンは即座に反
転して戦鎚を担いだ。
熊の巨大な背中が、全力攻撃を躱されたことによって体勢を崩し
た。その奥からリリオンが走りこんでくる。巻き上がった石礫から
身体を守るように盾を構えて、そのまま熊に激突した。
﹁やっ!﹂
裂帛の気合とともにリリオンが一歩二歩と熊を押し返して進んだ。
だがさすが巨躯もあってそこからは先へは進めない。しかし均衡し
た力の押し合いによって、熊の動きは押さえ込まれている。
ランタンは戦鎚を担いだまま飛び上がった。狙いは延髄。首のや
や斜め後ろに浮かび上がると、ランタンは戦鎚の柄を両手で握りこ
み、これを振り下ろした。
筆で払ったように鶴嘴が黒銀の尾を引いた。直撃より先に破裂音
がしたのは初速が音よりも速いせいだった。槌頭が白い傘を突き抜
けると、そこには陽炎が揺らめいている。それは大気との摩擦のせ
いではない。
熊の剛毛が焼けて縮れた。酷い臭いに顔を歪める。爆炎を纏った
戦鎚が熊の剥き出しの延髄に吸い込まれ、無防備なそこへ直撃した。
ぶ
だが聞こえたのは熊の悲鳴ではない。
それは極硬く高重量の金属同士が打つかるような鈍い音だった。
225
手首に鋭い痛みがあって、肉に衝撃を吸収されるような反動も骨を
砕く感覚もなかった。ランタンの頬が引きつった。
﹁ズリぃ⋮⋮﹂
毛を失い剥き出しになった皮膚が小さく細かな黒鋼の鱗を張付け
たように硬質化していた。おそらく後頭部から首、背骨まで連なっ
ているのかもしれないが、そちらはまだ毛に覆われている。
﹁︱︱な﹂
んだ、と口にする暇はなかった。寒いと感じたのは風に撫でられ
たからだ。それは熊の方へと引き寄せられる、そよ風程度の空気の
流れだった。全身の肌が一気に粟立つ。そよ風なんて、生易しいも
クロス
のじゃあない。魔精が渦巻いている。
ランタンは咄嗟に腕を交差させて身体を小さくした。その瞬間に、
熊から激風が放出され、ランタンの身体を吹き飛ばした。上下左右
にめまぐるしく回転する視界に一瞬だけリリオンが映った。
リリオンは地に足がついていただけあって、ただ後ろに押し返さ
れただけで済んだようだ。だが壁の近くまで後退を余儀なくされて
いる。高重量の盾、熊を押さえ付けるための前傾姿勢、踏ん張った
足。それらを以ってしても、壁際まで。
ランタンは壁に叩きつけられる瞬間にその身に爆発を纏った。
﹁︱︱ひぎっ! ︱︱おふっ、ごほっ﹂
急制動による反動で内臓が掻き回され肋骨に罅が入ったが、生き
つむじ
ているだけマシだ。ランタンは血の滲む咳を漏らし鉄味の唾を吐き
捨てる。
遠くで風を身に纏う熊を見た。足元から旋風のようなものが立ち
上っている。
熊が天を向くようにして、一つ吠えた。叩きつけるような咆哮で
はなく、歌うように高く長く吠える。すると風の勢いが増した。ま
さか空でも飛ぶんじゃないだろうな、とランタンは身を固くしたが、
熊は重心低く地面を踏みしめている。
熊の鉤爪が鈴のように鳴った。そして今まさに目の前の獲物を切
226
りさかんとするように筋肉が膨らむ。
ランタンが息を呑んだ。
その瞬間、熊が回転するように鋭く大気を薙いだ。
227
017 迷宮
017
その瞬間、空間がずれる。
と
太く長い腕のその先には巨大な手があり、そこから鋭い鉤爪が五
つ伸びている。それが綴じ、重ねられた。その先端はまるで剃刀の
ように鋭い。
遠く、距離があった。熊がどれだけ腕を伸ばそうとも絶対的に埋
めることのできない距離だ。だがそれは決して安全な距離ではない、
と産毛が総毛立った。
天井に高く響く遠吠えがまだ反響している。
極限まで反らされた熊の腕が、まるで自らを抱きしめるかのよう
はし
に振るわれた。巨大な三日月を描いた爪の軌跡から、空気の刃が波
紋のように広がり大気を断ち切りながら疾走った。
﹁リリオンっ!﹂
空気の刃は声よりも速く疾走ったが、叫ばずにはいられなかった。
マ
ランタンは地面に飛び込むように刃を躱し、前転して立ち上がると
ント
フード
加速しながら走り出した。首の後が涼しい。幾ばくかの後ろ髪と外
套の頭巾が切り裂かれた。
舌打ちを漏らす暇もなければ、安堵に胸を撫で下ろす暇もない。
それはそこそこ高価な外套を台無しにされた苛立ちでも、首が繋
がっていることへの安心でもない。視界の奥でリリオンがどうにか
空気の刃を防いだのだ。それは偶然といってもいい、盾を前に突き
出すリリオンの基本の構えに斬撃が散らされたのだ。
だが衝撃をモロに食らってしまっている。リリオンは盾を跳ね上
げられて、体勢を崩した。リリオンまでの距離が遠い。再び熊が空
気の刃を巻き起こしたらリリオンの身体が切断されてしまう。ここ
228
からではランタンが守ることもできない。
熊の身体に巻きついた腕が、時間が遡るように解かれた。
﹁らァっ!﹂
かと思われた瞬間、ランタンが尋常ならざる加速で飛びかかると
熊の腕に戦鎚を叩きつけた。ランタンの瞳孔が揺らめく橙の光を灯
し、それを取り囲む白目は毛細血管が破れて薄紅に染まっている。
熊の腕に纏わり付く風が霧散して、形を成さずに消えた。ランタ
ンは打撃の反動で飛び、リリオンへの射線を遮るように立ちはだか
った。足元で地面が焦げ付き、ランタンは深く腰を沈めて戦鎚を構
える。
風の一筋も通しはしない。ランタンは戦鎚で地面を砕くと、それ
がまるで挑発行為と受け取ったのか熊が吠え腕を振るった。空気の
刃が飛ぶ。
見える。
砂埃を裂いて、空気の刃はその姿がありありと浮かび上がらせた。
まず一つ。ランタンは戦鎚を振り上げて刃を砕く。初撃ほどの圧
力は感じない。爆ぜた刃がまるで割れた硝子のように外套を撫でた
が、ほぼ無傷だ。外套は直撃には耐えられなかったが、ようやく価
格分の防刃退魔の性能を発揮してくれた。
ついで二つ。右の腕によって作り出された空気の刃は、ほんの僅
か一つ目よりも更に弱い。脇腹の怪我のせいだろうか。ランタンは
かんげき
振り下ろした戦鎚に触れた衝撃の手応えに、一瞬だけ気を緩めた。
その気の緩みの間隙を縫って三つ目の刃が飛んできた。予想以上
に回転率が速い。ランタンは手首を返して戦鎚を引き寄せるように
立て、刃を受け止めた。割れた刃が戦闘服を浅く裂き、左の二の腕
の皮膚が切れた。服に血が滲む。
探索者にとっては怪我のうちにも入らないような怪我だ。痛みは
軽く無視できる。だがランタンは舌打ちを一つ吐き出して、四つ目
の刃をどうにか潰し同時に駆けた。
固定砲台と化している熊相手にこのまま迎撃だけをしていても、
229
いずれ破綻が来る。熊は左右の腕を振り回し、次々と空気の刃を飛
ばしていた。遠距離攻撃能力のないランタンでは、この場所にいて
もそれを打破するすべがない。
五つ目の刃をランタンは避けた。縦に放たれたそれは狙いが自分
に向いていて、外れた刃の行き先はリリオンでは無く地面である。
ばちん、と大地の裂ける音が響く。そしてもう一つ、熊が右腕を振
った。砂埃の盾を抜けてしまった。ランタンは立ち止まり、爪の角
度から予測をつけて戦鎚を振った。
﹁︱︱なっ?﹂
しかし予想していた手応えがない。いや、それどころか、ならば
何故、身体に叩きつけられる斬撃も無いのか。騙された。ランタン
が戸惑い、槌頭の重みに泳いだ身体を切り返そうと身を固めたその
瞬間、熊が本命の一撃を放っていた。
見えはしない。だが確かにそこにある。それは圧縮された空気か、
それとも大気圧によって生まれた真空か。なんにせよランタンの肉
を裂かんとする見えざる刃がそこにあるのだ。防御も回避も間に合
わない。
腕一本で、止まるだろうか。残った腕で、殺せるだろうか。
ランタンが刹那の間に思考した結果を、行動として吐き出そうと
した。
﹁︱︱ランタンっ!!﹂
ランタンの頭上を通して、どがん、と地面に打ち込むようにして
固定された盾の表面で空気の刃が弾けて砕けた。びりりと痺れる音
が大気を揺らす。リリオンによってランタンは盾の内側に抱かれた。
空気が抜けるように、息を吐きだす。
再び巻き起こった砂煙を裂いて空気の刃が続けて飛来したが、そ
の全てが盾によって遮られた。ランタンが振り返るとリリオンは表
情も硬く瞳を震わせた。
﹁ランタン、血が⋮⋮!﹂
﹁へーき。リリオン助かったよ﹂
230
血が袖に染みとなって黒く変色しているが、その下の皮膚はもう
すでに傷口の再生が始まっている。この程度の傷ならば問題ないが、
さすがに腕を切断されたら厄介だった。この場では腕を繋げるすべ
はないし、魔道ギルドに依頼すれば切断された腕を繋げることや、
あるいは失った腕を再生させることも可能らしいが、どれほどの金
がかかるかは想像もできない。ただこの熊を倒し、血の一滴も残さ
ストームベア
ず全てを売りさばいたとしても赤字になることだけは確かだった。
だが治療代にもならないからと言ってこの熊、︱︱嵐熊の脅威が
減じるわけではない。
恐るべき巨体とそれに見合った膂力と重さを感じさせない速度。
急所を守る硬質な皮膚と、肉の鎧。それだけでも厄介であるのに、
この風だ。
ランタンはそっと盾の脇から顔を出した。
﹁危ないわ、ランタン!﹂
﹁リリオンが守ってくれるんなら安心だよ﹂
空気の刃が盾に弾けて、ランタンの髪を揺らした。直撃しても骨
までいかなそうだ。散った風の威力は無いに等しく、とりあえずの
フェイント
牽制というところだろうか。防がれると判っている攻撃に力を注ぐ
ような低能ではないようだ。つい先程、嵐熊の騙しに引っかかった
ランタンは皮肉げに唇を歪めた。
空気の刃は爪の先から線を引くようにして放たれている。振り回
した腕の速度だけで引き起こされた現象ではない。延髄を狙ったラ
ンタンを吹き飛ばしたあの激風も、首に風を排出する機構が備わっ
ていたということはなかった。
﹁魔道だね⋮⋮﹂
嵐熊は身体に宿る魔精を以って、空気を操っているのだ。
フラグ
魔道を行使する魔物というものは珍しくなく、またそれを行使す
る最終目標ともランタンは今までに二度ほど戦ったことがある。だ
がその二度のどちらもが魔道を通常攻撃の手段とする魔物だった。
このように出し惜しみを、いや策を弄する魔物は初めてだ。
231
ふん、とランタンは鼻を鳴らした。
ジョーカー
空気の刃。それと全身から放出する激風。嵐熊の切った手札はこ
の二つ。鬼札をまだ見せていないかもしれないが、余計な想像をし
て攻め手を緩めるのはランタンの趣味ではない。
﹁リリオンはとりあえず防御優先。いいね﹂
﹁︱︱ランタンは?﹂
連続して放たれた空気の刃が止んだ。疲労しているわけではなく、
ただ盾の内側に隠れている限りは無意味だと気がついただけだろう。
一歩盾の外に出れば、また攻撃が再開されるだろう。だがランタン
は盾の外側へ飛び出した。
﹁攻めに決まってる!﹂
獣如きに騙される自分が嫌になる。だが騙される奴よりも、騙し
たほうが絶対に悪い。
ランタンの瞳が苛立ちを表すように焦茶から橙に、またその逆へ
波に反射する光のように色を変えた。
爆発的加速によって熊との距離を一瞬で半分以上消し去る。向か
ってくるランタンに嵐熊の爪が空を薙ぎ、ランタンはその射線を沈
むように躱した。騙しかもしれないし、そうでないかもしれない。
だが無いものを受け止めようとするから戸惑うのであって、全てを
避けてしまえば問題はない。続く二つ目を飛び越えれば、もうすぐ
そこだ。
ランタンは振り下ろされた鉤爪を戦鎚に滑らせるように受け流し、
返す刀で傷になっている脇腹を打った。しかし嵐熊は怯むこともせ
ず、ラリアットのように腕を薙いだ。
﹁ちっ﹂
傷口はもう治癒していた。だがこの距離ならば空気の刃は関係な
い。髪を揺らしたのはただの風圧で、魔道の風ではない。ランタン
はそう自分に言い聞かせ、振り下ろされる斧のような一撃を紙一重
で避け嵐熊の肘に槌頭を叩きつけた。硬い。肉の薄い肘ならばと思
ったが、骨がまるで鉄骨のようだ。関節を砕くどころか挫くことも
232
かなわない。
嵐熊が再び腕を薙ぎ、しかしそれはランタンの頭上を越した。狙
いはリリオンだ。
見えざる力によってランタンは自分の首が後ろにねじ曲げられる
錯覚をした。だがそれを意志の力でねじ伏せ、がら空きになった胴
へと狙いを定めた。リリオンならば、たぶん大丈夫だ。せっかくで
きた隙を逃す手はない。
踏み込み、地面が砕ける。足先から腿を這い上がる運動エネルギ
ーが腰を回転させ、ランタンの腕を鞭のように撓らせた。槌頭が切
あとずさ
ねばつ
り取られるように姿を消し、胴に激突した瞬間に嵐熊がくの字に折
れ曲がり後退った。青い血に唾液が混ざり、粘着きながら口腔から
滴り落ちる。
﹁はぁぁ!﹂
甲高いリリオンの気合が背後から響き、かと思うとランタンの頭
上を大剣が風切り音を立てて横切った。どいつもこいつも人の頭上
で、とランタンは鼻頭に皺を寄せた。防御優先と言ったのに攻めた
がりめ。ランタンは牙を剥くように笑った。
どう、と大木の如き左の二の腕にリリオンの大剣が食い込む。皮
を裂き、脂肪を貫き、筋肉を切断し、骨の半ばまでに埋まる。そこ
で止まった。ぎりり、と鋒が震えた。
﹁押せっ!﹂
それは声ではなく、ただの思念だったのかもしれない。だがリリ
オンはランタンの言う通りにした。
ランタンは滑りこむように位置を変えると、大剣に戦鎚を叩きつ
けた。リリオンの大剣は両刃なので歪に刃が潰れる。あとでグラン
やぶさ
に物凄く叱られるだろうが、嵐熊の腕と引き換えなのだからそれぐ
らいの面倒を対価として払うことは吝かではない。
生木の割れるような音を立てて、嵐熊の左腕が押し切られた。濃
く青い血が溢れる。
﹁︱︱︱︱﹂
233
ランタンの瞳が見開かれ、血の流れを追った。
嵐熊の肩から連なる半ばまでの二の腕。そこから溢れ出した血の
流れがまっすぐ地面に落ちずに、歪んでいる。
﹁︱︱リリィっ!﹂
かっとランタンの瞳に火が入ると同時に、嵐熊は全身から激風を
放射した。
どうやらこの激風は緊急避難的な物のようだ。肉体にダメージが
入り危機的状況に陥ってからではないと発動しないのだ。技ではな
くて本能。放射の直前に、一度周囲の空気を引き寄せる予備動作が
クリティカル
ある。背後でリリオンがずるずると後退して、靴底が地面を削る音
が聞こえた。予備動作といっても一瞬のこと。リリオンは致命的な
一撃を放つために攻撃に力を注いでいた。踏ん張れなくとも仕方な
い。
ランタンは前後に足を大きく開き、鶴嘴を地面に突き刺してその
風に耐えていた。しかし薄く開いて周囲を確かめる瞳に、嫌なもの
が映った。黒青く、太く、きっとまだ生暖かい。
狙ってやったわけではないだろうが、切断された嵐熊の腕が吹き
飛んで向かってきていた。戦鎚は地面に縫い付けてある。引き抜け
ば風に煽られて吹き飛び、すでに加速している腕に追いつかれない
保証もない。この風では横に避ける事も難しい。
タイミングは一瞬。
ランタンは砂埃が目に入るのも厭わず瞼を広げ、左腕を前に突き
出した。指先に嵐熊の腕が触れるその刹那、ランタンは硬く目を閉
じた。瞼を透かして閃光が瞳を灼き、嵐熊の腕を一瞬で灰に変えた。
切断され魔精の抜けた腕など爆発を持ってすれば枯木も同然だ。熱
風に乗って硫黄に似た臭いが顔に触れ、灰となって髪に付着する。
吐きそうだ。
嵐熊の腕は、それだけで百キロ以上はあった。魔精が抜けようと
も軽くなるわけではない。重さというのはそれだけで暴力だ。ラン
タンは折れた中指と薬指の痛みに顔をしかめた。骨接ぎをしている
234
余裕は無い。
嵐熊の全身は怒気と呼応するような激しい風に覆われて、腕の切
り口からの血も止まっている。
激風が止み、一瞬の空白がある。激風は強力だがその分だけ燃費
が悪そうだ。しかしあの巨躯には、まだどれほどの燃料が残ってい
るだろうか。
嵐熊が三肢で地面を蹴った。速い。風の鎧によって空気抵抗を減
らしているのか。ランタンが無理やり手を握りこんで戦鎚を構え、
突進を受け止めた。はずだった。
﹁なっ!?﹂
踏ん張っていた足が浮いた。嵐熊の身体に纏わり付く荒れ狂う風
がランタンを持ち上げたのだ。浮いた所に右の腕が叩きこまれる。
鉤爪は近すぎて当たらない。前腕が胴を吹き飛ばすように薙ぎ払わ
れた。
防御も回避も間に合わない。
なかみ
その瞬間、ランタンの腹筋が反応装甲のように爆発した。直撃し
た衝撃を緩和し、ランタンの胴を繋いだ。だが内臓は圧迫され、肋
骨が幾つか割れた。迫り上がった横隔膜が肺腑の空気入を残らず押
し出し、血も吐き出された。
﹁ひぎぃっ︱︱ぐ︱︱う゛ぇっ﹂
吹き飛びながら、呼吸を引き攣らせる。手から戦鎚が零れ落ちた。
追い打ちに空気の刃が放たれ迫ってくる。単発なのがせめてもの救
いか。震える手がそちらに伸び、受け止めようとした。
﹁ランタンっ!﹂
一瞬の意識の空白は、地面に叩きつけられた衝撃でも、空気の刃
に切断された痛みのせいでもなく、リリオンに抱きかかえられた安
堵によるものだ。ランタンは空中で受け止められ、そのまま赤ん坊
のようにリリオンの胸に抱かれている。
みっともない、とそう思ったが今放り出されたらそれこそ赤ん坊
のように無力だ。ランタンは涎の垂れる口を母乳を求める赤ん坊の
235
ようにぎこちなく動かして息を整えた。
汗の臭い。リリオンの甘酸っぱく湿った汗の匂いがする。直前に
硫黄臭を嗅いでいたせいか、それをいい匂いだと思った。ランタン
はその甘美な匂いを胸にいっぱいに詰め込むと、ついでに酸素が肺
に取り込まれて、暗転しかけていた視界が開けた。
﹁リィ⋮⋮﹂
リリオンはランタンを抱きかかえたまま逃げ回っていた。左の腕
に盾を嵌めて、右手でランタンを抱いている。大剣が盾に収納され
ておらず、ランタンを抱くためにどこかに放り出されていた。
﹁あぁ、よかった﹂
﹁リリオン⋮⋮?﹂
呟いた言葉がリリオンの胸に押し付けられた。リリオンが急反転
する際に強くランタンを抱いたのだ。ランタンは頬でふにふに小振
りな胸を押し分けて、リリオンの顔を仰ぎ見た。
解けた白い髪が舞い散る。光に透けて紫銀に光った。
リリオンの髪が、ランタンが結い三つ編みにして腰まで垂らして
いた髪が背中の中ほどで断ち切られている。
﹁リリオン﹂
﹁わたしなら平気よ、怪我一つないわ﹂
﹁リリオン﹂
リリオンは応えず、その場で立ち止まるとランタンを下ろして両
手で盾を支えた。嵐熊が突っ込んでくる。強烈な衝撃が盾に弾け、
腕を伝い、リリオンの髪が逆立った。両足の下で地面に放射状の罅
が入る。だがそれだけで、ランタンは少し鼓膜が痺れただけで完全
に守られていた。
﹁︱︱さっさと終わらせる。少し頼むよ﹂
﹁まかせて、︱︱でもムチャはやぁよ﹂
それは無理な相談だった。ランタンは折れた指を無理やり引き伸
ばして繋ぎ直し、喉の奥に張り付いた血液を吐き捨てた。
ランタンは火の付いた石炭のように煌々と燃える瞳を彷徨わせて
236
戦鎚を探した。それを見つけるとリリオンの髪を愛おしそうに一つ
撫で、盾の内側から飛び出した。嵐熊の視線がランタンの尻を追い
かけたが、リリオンは乱気流をものともせずに嵐熊を押さえ込んで
いる。
ランタンは戦鎚の柄を引っ掴むと、頬の裂けるような凄みのある
笑みを浮かべて疾走った。
パンプキンヘッド
燃える瞳が流星のように尾を引いて最短距離を駆けた。
ランタンのことをカボチャ頭と誰かが呼んだ。それは橙色に燃え
る瞳のせいなのかもしれないし、炎のような赤い舌が覗く笑みのせ
いなのかもしれない。あるいは頭が空っぽのように後先考え無いそ
の振る舞いのせいなのかもしれないが、どう呼ばれていようとラン
タンには関係のないことだった。
ランタンはぞっとするような速度で嵐熊に近づくと、鶴嘴を盾に
しがみ付く腕に叩きつけた。乱気流にねじ込んだランタンの腕に無
数の切り傷が生まれたが、しかし骨までには届かない。筋繊維が繋
がっていれば充分だと言わんばかりに一瞬で赤く染まった袖を無視
して、ランタンは浅く刺さった先端を力任せに押し込み、そして押
し込んだ鶴嘴が爆ぜて肉を抉った。風が止む。
その好機を見逃さずリリオンが盾をかち上げて嵐熊の身体を開い
た。激風は来ない。魔精が尽きたとは思えないが、来ないのならば
攻めればよい。ランタンは自身の爆発で後ろに押し飛ばされる自分
の身体を、無理やり前傾姿勢に持ち直した。無理な挙動に罅ですん
でいた肋骨は完全に折れたが、仕方がない。
戦鎚が地面を舐める。
リリオンの髪を切り取った礼に顔面に一撃をぶち込みたいが、腕
を伸ばしても背伸びしても届かない。
﹁そぅらっ!!﹂
ランタンの掬いあげるようにした鶴嘴の一撃は爆発により加速し
て、伸び上がった嵐熊の胴、脇のすぐ下に突き刺さった。皮と脂肪
をまとめて貫き、分厚い筋肉を押し分け、しかし肋骨によって肺に
237
は届かなかった。
嵐熊が激痛に身体を振り回した。鶴嘴が筋肉によって絡め取られ
ていて抜けない。振り回されるランタンの、柄にしがみついた掌の
皮膚が丸ごと剥けそうだった。再び風が吹く。
すんで
放出されたそれは激風ではなく、強風程度だっただがランタンの
握力を引き剥がすには充分だった。ランタンは皮膚のズレる既の所
で自ら手を開いて、風に乗るようにして距離を取った。胴からズル
リと抜けた戦鎚が嵐熊の足元に転がる。
プレッシャー
嵐熊は弱っていたが、さすがに迷宮の主というだけあって気を抜
ミンチ
けば膝が折れそうな重圧を放っている。迂闊に飛び込めば踏み潰さ
れて挽き肉にされそうだ。
﹁わたしがっ!﹂
リリオンが盾を構えて走ったが、嵐熊が居合い抜きのように鋭く
腕を振り上げた。空気の刃だ。地面を紙のように裂きながら、猛烈
な速さでリリオンに向かって疾走る。衝突まで一秒もかからなかっ
た。だがリリオンが垂直に立てていた盾をほんの僅か、柔らかく寝
かせた。刃がその上を滑り、脇に反れた。
素晴らしい集中力だ。ランタンは一瞬だけ怒りを忘れて、その技
に見惚れた。
だが腕を振り抜き、そのまま腕が振り上がった嵐熊の、その間合
クレーター
いにリリオンは踏み込んでいた。ランタンが地面を蹴った。地面に
隕石が落ちたような深い窪みが生まれるほどの踏み込みによる飛び
蹴りが熊の腕に突き刺さり、足の裏が小さく爆ぜた。
﹁くっ﹂
しかしランタンはあまりに軽い。魔精によって身体能力を強化さ
れようとも体重ばかりはどうにもならない。ランタンの爆発は魔道
ではないので魔精を必要とはしないが、対価を必要としないわけで
はなかった。その対価をランタンはよく理解していないが、少なく
とも肝心なときに思うような爆発が起きないのは初めてだ。
嵐熊は意にも介さないようにランタンごと、そのまま腕を薙ぎ払
238
しゅゆ
った。鉤爪が盾に激しく打ち付けられる。その音を聞いてランタン
の心臓は高なった。ランタンの稼いだ須臾にも満たない間隙に、リ
リオンは体勢を立て直していたのだ。しかし大きく後退した盾から
覗いた表情が強張っている。ランタンも同じような顔をしているだ
ろう。それほどギリギリだった。
ランタンはくるりと身体を切って着地すると、その表情を悟られ
まいと熊に向き直り、また立ち向かった。
﹁剣をっ!﹂
ランタンが叫び、リリオンが答えた。とりあえず必要な物は武器
だ。無手ではどうしようもない。ランタンは艶かしく自分の身体を
撫で、使えそうなものを探った。視線を嵐熊の足元に走らせる。
﹁僕の︱︱﹂
戦鎚を踏みつけにしている。
歩き、早足になり、走った。爆発も先程はきちんと巻き起こせな
かったが、きっと連発しすぎたせいだ。ランタンは自分に言い聞か
せる。爆発による加速は必要ない。嵐熊の攻撃手段は突進、鉤爪、
空気の刃ぐらいのものだ。身体は十全ではないが、避けられなくは
ないはずだ。ランタンは怒っていたが、頭の中は空洞のように冷え
ていた。
ランタンは嵐熊の横薙ぎを跨ぐように避けて、そして何かに引き
寄せられた。空気の刃ではなく、爪の軌跡には真空が生まれていた。
空間に空いた穴を埋めるように空気が流れ込み、その流れにランタ
ンは吸い込まれたのだ。
﹁はっ﹂
パージ
ランタンは自らの首を裂くかのような動作で外套の結びを解いた。
そして切り離された外套によって真空が塞がれ、呆気無く自由にな
ったランタンは吐き捨てるように笑った。鬼札にしてはお粗末だ。
ただの悪あがきでしかない。
そして巨躯に飛びかかった。もし激風がきても耐えられるように
嵐熊の毛を指に巻きつけるように握りしめ、腰から狩猟刀を抜き放
239
ち逆手に構えた。
嵐熊は己に張り付いた針虫の如きランタンを振り払おうと暴れた
がランタンは吸い付くように離れなかった。毛を掴む右の腕では振
り払われまいと力を入れた瞬間に傷口が開き血が溢れた。狩猟刀を
握る手は折れた骨が痺れるように痛く、熱い。
すべてこいつのせいだ。
ランタンは硬く握りこんだ狩猟刀を、鶴嘴によって穿たれた傷口
に叩き込んだ。一気に刀身の半ばまで埋まり、肋骨に当たったので
角度を変えてその根本までねじ入れる。
嵐熊はさらに三肢をばたつかせたが、ランタンは祈るような澄ん
だ瞳をして平然としていた。
この狩猟刀は大振りな割に使い勝手がよく気に入っていた。魔物
の解体も、塩漬け肉を薄切りにするのにも、パンにバターを塗るの
にも使用したものだ。戦鎚と同じく相棒であった。
さようなら、と供養を一つ捧げてランタンはその刃を爆発させた。
砕けて無数の破片と化した狩猟刀が、嵐熊の肺腑を撹拌した。ラ
ンタンは嵐熊から飛び降り狩猟刀の柄をベルトに押し込み、足元か
ら戦鎚を拾うと吐き出された血を被らないように跳ねるように後退
した。
嵐熊はもうランタンもリリオンも認識していなかった。大量の血
を口から溢れさせながら狂乱している。振り回した腕から、辺り構
わず空気の刃を放っていた。
さっさと死ねば苦痛から開放されるというのに、嫌になるほどに
しぶとい。
ランタンは焦茶色の冷めた視線で嵐熊を眺めた。痛みによって無
秩序に暴れまわる嵐熊は、まさしくその身で嵐を体現しているよう
なものだった。
どうしたものか。
あの狂乱に飛び込むほどの激情はすでにランタンの中から失われ
ていた。
240
そんなランタンの意中を察したわけではないだろうが、リリオン
が剣を構えて走った。大剣を弓を引くように構え、引き絞られた背
筋から繰り出される平突きは大気に穴を穿ち空気の刃を霧散させ、
歪むこと無く一直線に嵐熊の胸に突き刺ささった。
ランタンによって一つの肺を潰されて、そして残った肺をリリオ
ンに穿たれた嵐熊が声なき声で高く吠え、しかし重たげに腕を振り
しのぎ
かぶった。リリオンの表情が驚愕に歪み、深く刺し込んだ大剣は抜
けず、焦ったがゆえに柄から手を剥がせなかった。
﹁ランタンっ!﹂
﹁はいよっと﹂
助けを求める切迫したリリオンに叫びに、ランタンは大剣の鎬に
ふわりと飛び乗ると朗らかに答えた。
﹁そのまま支えてね﹂
同じ目線に嵐熊の顔がある。腕を伸ばしても、背伸びをしても届
かない顔が。
﹁おらぁー!﹂
ランタンはその眉間に目掛けて、骨が軋むのも楽しげに戦鎚を振
り抜いたのだった。
241
018 迷宮
018
ストームベア
胸から生える大剣をずるりと引き抜きながら嵐熊がゆっくりと後
ろに傾いてゆく。
ランタンは爪先で跳ねるように大剣から飛び降りてリリオンの横
に着地した。膝が柔らかく曲がり着地の衝撃を吸収して和らげたよ
うに思えたが、その瞬間に全身に痛みが走った。表情が歪む。
折れた骨から発せられる疼痛が強く自己主張をし、乳酸の溜まっ
た筋肉がふて腐れるように痙攣した。バネが割れるようにランタン
の身体が沈んだ。
﹁わ﹂
驚いた声にさえ張りがない。
﹁ランタンっ!﹂
リリオンが大剣を投げ捨てて、慌てて駆け寄りランタンの身体を
支えた。ランタンの代わりに地面に落ちた大剣が鈍く響き、そして
更にその音色をかき消すような地響きを鳴らして嵐熊が仰向けに倒
れた。
最下層の空間が外側から締め付けられたように軋み、天井からに
わか雨のようにパラパラとした粒が降った。
リリオンに支えられてなお地面が揺れる。それは疲労によりふら
ついているのではなく嵐熊があまりにも重たいせいだ。どうと倒れ
いしくれ
こんだ際に巻き起こった風が、まるで嵐熊の最後の抵抗であるかの
ように砕かれた石塊を巻き上げて吹き荒んだ。
リリオンがランタンを抱きしめてその風から身を守った。こうし
て盾の内側に抱かれるのはこれで何度目だろうか、とランタンは安
心感を覚えている己にふと気がついた。
242
だがいつまでも身体を預けていてはいけない。暖かさや柔らかさ
は名残惜しいが、十歳の子供に甘えているというのは人目がなかろ
うと体裁が悪い。
﹁ありがと、もう大丈夫だよ﹂
ランタンは痛み、力の入らない身体に鞭打って平然とした表情を
作ってみせた。
﹁ほんとう?﹂
心配するリリオンに頷きを返し、いよいよ震えそうになる足に力
あざむ
を込めた。それは見栄だとか矜持だとか、あるいは心配するリリオ
ンを欺くためではない。
迷宮核が顕現するのだ。
穏やかな引き潮がやがてその勢いを増し、大きな波を連れてくる
ように。
自らの身体に宿る魔精が漏れ出すように失われたかと思われたそ
の時、吐き気を催すような痛みがランタンを襲い、また傍らのリリ
オンが顔を青くして膝から崩れ落ちた。
﹁くっ!﹂
ランタンはきつく奥歯を強く噛み締めて、咄嗟にリリオンの腰を
抱き支えた。痛みは全身の骨に鋭い刺が生えて内側から肉を刺すよ
うだった。
凝縮して形を成した迷宮核。それから零れ、溢れだした魔精が最
下層を満たし、二人の身体に吸収されたのである。
強く感じる痛みは魔精酔いによる急激な感覚の鋭敏化によっても
たらされたものだ。本来は魔精により感覚が鋭敏化しようとも痛み
を強く感じることはない。正確には痛みに対する耐性も同時に向上
し、その上昇量がほんの僅かだが痛覚の鋭敏化よりも大きいので結
果として鋭敏化されていないように感じるのだ。だが急性中毒症状
である魔精酔いの場合は全ての感覚がめちゃくちゃに跳ね上がるの
でこのような事が起こる。
ずるりとリリオンの手から盾が零れ落ちて音が耳を打った。まる
243
で鳴り響く大鐘の中に閉じ込められているようだ。視界も揺れてい
る。嵐熊による地揺れはとうに収まっているが、心臓の鼓動、その
振動ですら拡大されていた。臭いもある。生臭い鉄の臭いに獣の臭
い。汗の臭いは自分とリリオンの二つのものだ。
ランタンは深くゆっくりとした呼吸を何度も繰り返して、どうに
か動くことを可能とするとポーチから気付け薬を取り出してそれを
奥歯で噛み砕いた。味を感じないのは強化された味覚に対し与えら
れた刺激がその知覚の限界を大幅に超えたからだろう。ただぼろぼ
ろと涙だけは流れている。
ランタンはそっと戦鎚を手放し涙を拭いて、リリオンを地面に寝
かせた。
フラグ
魔精の吸収による能力強化に対する成長率はだんだんと鈍化して
いく。初の最終目標達成したリリオンの感覚の跳ね上がり方は酷い
ものだろう。ランタンの初体験では内臓をひっくり返したような嘔
吐の記憶だけが残ったほどだ。
この様子では気付け薬を口に含ませては、その刺激にショック死
してしまうかもしれない。可哀想だが、時間経過によって慣れても
らうしかない。最大の脅威である最終目標はすでに排除されている
のだから時間はたっぷりとある。
戦っている時には何時間も戦っているような気もしたが、時計を
見てみれば実際に過ぎ去ったのは一時間弱だ。
ランタンは無言で、しかし安心させるように柔らかく微笑んだ。
それが認識されていないと判っていても微笑んだまま罅の入った硝
子に触れるように可能な限り優しく、短くなってしまった髪を、そ
して冷たい汗の這う頬を撫でた。ただの病気ならば手でも握って安
心させてやれば良いが魔精酔いの場合は放置に限る。下手に手を握
れば、それは万力で手を潰すようなものだ。
きっさき
ランタンは戦鎚を、そしてさらにリリオンの大剣を拾い上げると
鋒を引きずりながらゆっくりと嵐熊に近づいた。
ランタンの魔精酔いはほとんど収まったとはいえ身体は痛む。だ
244
が治療よりも先に迷宮核を得なければならない。迷宮核は最終目標
から得られる魔精結晶であり、他の魔物とは違い結晶化する部分は
決まっている。
心臓というべきか、あるいはその魂である。
解体のための狩猟刀は失われてしまった。ランタンは未練たっぷ
りにため息を吐いて、背嚢から保存袋や水筒を取り出して戦鎚とと
もに死骸の脇に並べた。
血を流し萎み、しかし伏しながらも丘のようである嵐熊の死骸に
登る。大剣の鋒を嵐熊の腹部に押し当て、死してなお身を守る強靭
な毛皮に力任せに突き刺した。鍔を肩で押すようにして刃を肉に沈
め、鋒が胸骨に触れるとなぞるように喉元までを裂いた。真白く分
厚い皮下脂肪と弛緩した筋肉。ランタンは身体の向きを変えて鋒で
肋骨から肉を削いだ。
白い肋骨がまるで檻のようにして迷宮核を閉じ込めている。青い
血溜まりの中に在ってなお青い迷宮核は、嵐熊の巨躯の動力源に相
応しい巨大さだ。ランタンの頭ほどもある円錐形をしている。ブリ
リアントカットされたダイヤのようだった。
ランタンは嵐熊から薫る強烈な死の臭いも気にならないように唾
を飲んで、唇に垂れた汗をぺろりと舐めた。一度死骸から降りて、
大剣を戦鎚を持ち替えて袖を肘までまくると再び登り、不安定な足
場で戦鎚を構えた。
﹁よっ!﹂
頑強な肋骨を砕き折り、その度に自身の折れた肋骨も傷む。だが
ランタンは気にした様子もなく、その折れた骨を鶴嘴に引っ掛けて
どかした。戦鎚を振って付着した血を飛ばして腰に差す。ランタン
は膝を付くと血溜まりに沈む魔精結晶を引き上げた。
生暖かく粘性のある血液は、しかし蓮の葉を打つ雨水のように魔
精結晶の表面を玉になって滑り落ちた。重さとしては一キロないだ
ろう。しかし軽いからといって魔精の密度が薄いわけではない。光
を反射して色の表情を変える様は、凝縮された魔精が乱舞している
245
ようだ。
﹁らんたん﹂
おぼつか
ランタンが死骸から降りもせずうっとりとそれを眺めていると、
まだ滑舌の覚束ないリリオンが下から声を掛けた。長く陶酔してい
たのか、それともリリオンの復帰が早いのか。ランタンははっとす
ると慌てて死骸から飛び降りた。
﹁︱︱いっ、︱︱たくないよ﹂ 着地の衝撃が傷に響く。学習しな
い己を内心で罵倒しながら、ランタンは強がってみせた。
﹁⋮⋮ほんとだよ﹂
その表情は完全に嘘を吐いていたがランタンはもう一度、本当だ
よ、と繰り返し誤魔化すように取り出したばかりの迷宮核をリリオ
ンの眼前に突き出した。だがせっかくの迷宮核を目の前にしたのに
リリオンの表情は晴れない。魔精酔いの影響も残っているのだろう
し、ランタンの嘘もバレているのだろう。
もっと気合を入れて見栄を張ればよかった。ランタンは遅まきな
がら表情から一切の苦痛を消して、その迷宮核の輝きを魅せつける
ような挑発的な笑みを頬に添えた。
﹁ほらリリオン、すごいでしょ?﹂
まだ青白さの残るリリオンの頬に薄紅が浮かび上がった。
﹁うん、すごいおおきい! すごい、きれい﹂
リリオンは瞳をキラキラとさせて、人差し指で結晶の表面に擽る
ように撫でた。放っておけばいつまでも撫で回していそうなとろん
とした目つきである。自分が見つめられているわけでもないのに、
ランタンはなんだか少しだけ恥ずかしい気持ちになった。
﹁撫でるのもいいけど、しまわないとね。そこに袋があるから持っ
てきて﹂
﹁︱︱うん﹂
返事をしてからたっぷり五秒ほど結晶を撫でてリリオンは袋を持
ってきた。開いた袋に手に付着した血がつかないように気をつけな
がら結晶をしまう。
246
﹁この結晶も、リリオンが持っていてくれる?﹂
﹁わたしが持ってていいの!?﹂
﹁うん、︱︱でも責任重大だよ? ちゃんとできる?﹂
﹁まかせて!﹂
口を縛った袋をリリオンは強く胸に抱きしめた。
ランタンはその様子を穏やかに眺めて、水筒の水でジャブジャブ
と手を洗った。青い血ばかりではなく自分の血もある。右の前腕は
ミキサーに突っ込んだような有様で水をかけると染みて痛んだ。左
手の折れた二指は太く腫れていて冷やすと気持ちいい。
﹁リリオンは痛い所ない?﹂
﹁ふぇ!?﹂
保存袋の上から結晶をポンポン叩いていたリリオンは悪戯が見つ
まさぐ
かったように変な声を漏らした。そして地面に保存袋を下ろして自
分の身体を弄った。
﹁わたし︱︱、へいきよ!﹂
﹁左腕、痛いの?﹂
左腕を揉んだ際の一瞬の違和感をランタンは目ざとく見ていた。
﹁隠さなくてもいいのに﹂
リリオンは強烈な突進を何度も受け止めたのだから、腕の一つや
二つが折れていても不思議なことではない。ランタンもリリオンに
よって幾つかの窮地を救われたことを自覚している。
魔精による強化も大してされてはいないだろうに。これがきっと
持って生まれた身体能力の差なのだろう、さすがは︱︱
そこまで考えて、ランタンは意識的に思考を停止させた。
﹁腕、出して﹂
カツアゲ
﹁へいきだってば! ほら!﹂
ランタンが恐喝でもするかのように腕を出すことを要求すると、
リリオンはリリオンでファイティングポーズを取りしゅっしゅっと
左ジャブを繰り返してそれを拒否した。打ち出した拳は霞むような
速さであり、確かに大事には至っていないようだ。
247
﹁それに︱︱﹂
空を打っていた拳が不意に軌道を変化させてランタンの腕を掴ん
で引き寄せた。
﹁大変なのはランタンでしょう?﹂
言い訳の一つもできない、もっともな言い分だった。すでに血は
すか
止まっているが、だからこそ剥き出しになった傷口は凄惨なものだ。
その傷口をまじまじと見たリリオンの手が震える。
﹁大丈夫なの⋮⋮?﹂
﹁へいきですけど﹂
﹁嘘だわ! かくさないでよ!﹂
冗談だよ、と半ば本気で怒っているリリオンを宥め賺した。
少し切れている程度ならば自然治癒任せでもあっという間に回復
たぐい
する身体だがこの傷は、少し、の範疇を超えているし治療しなけれ
ばならない部位は他にもある。痛みに快楽を覚える類の嗜好をラン
タンは持ち合わせていないし はっきり言ってのた打ち回りたいほ
ど痛かった。のた打ち回らないのはリリオンが居るからだ。そんな
恥ずかしい真似をするぐらいなら死んだほうが良い。
﹁これ使って!﹂
シリンダー
リリオンは戦闘前にランタンが持たせた魔道薬の一つを献上する
ように差し出した。銀製円筒容器に収められた水薬は魔道薬の治癒
促進剤である。代謝を促進させることで傷の治りを大幅に早める効
能があり、この腕の傷ならばパテで塞ぐようにあっという間に治る
だろう。だが骨折した部位は歪に繋がる可能性もあり、飲むと睡魔
に襲われる。また値段をリリオンに伝えたら取り落とすかもしれな
いほど高価なので今回は使用はしない。
﹁こっちで充分だよ﹂
ランタンはポーチから長方形の容器を取り出した。それは黒塗り
の木製で四段に分割できるようになっており四種類の軟膏薬を収め
ている。それをリリオンにぽいっと放り、軟膏薬の臭いをすんすん
嗅いでいる姿を横目にランタンは戦闘服を脱いだ。
248
﹁貸して﹂
﹁わたしがぬったげる!﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁なんでよ!﹂
ランタンは何も言ってはいないが、服を脱いでから軟膏薬を取り
出せばよかった、とは思った。そうすればリリオンに軟膏薬を持た
せなくて済んだからだ。だがもう軟膏薬はリリオンの手の中にあり、
後悔は先に立たない。
﹁じゃあ、お願い⋮⋮﹂
﹁まかせて!﹂
腕の裂傷に触れさせるつもりはないが骨折した肋骨や指ならば多
少乱暴にいじられても我慢は出来る。ランタンはリリオンに悟られ
ないように悲壮な決意を固めて、傷ついたその身体を差し出した。
﹁いくわよ﹂
痛み止めの軟膏を指の先に掬い取り、真珠色の軟膏よりなお白い
指が忍び寄る蛇のようにランタンの身体に触れて這いまわった。氷
を押し当てたように冷たく感じたのは患部が熱を持っているせいだ
ろう。リリオンの指は肋骨の下端、淡く浮き出たその陰影を丁寧に
なぞり、軟膏を摺りこんでゆく。
なんというか。
﹁⋮⋮ん﹂
予想された痛みはないが、その代わりに物凄く擽ったい。鼻にか
かった甘い声を漏らしたランタンにリリオンは薬を塗る手を止めて
その顔を伺った。奇妙な緊張をはらんだ視線が絡みあい、ランタン
は小さく首を傾げた。
﹁なに?﹂
﹁⋮⋮え、や。⋮⋮なんでもない、わ﹂
つづけるね、と言い罰が悪そうに視線を逸らすリリオンは、けれ
ど指先へ更に軟膏を取りそれを自らの両手に広げると執拗にランタ
ンの身体を触った。形を確かめるように這う指先はなぜか患部だけ
249
ではなく、その周辺までにも及んでいる。
ランタンは香辛料を塗りこまれる生肉の気分になった。擽ったさ
の代わりに薄ら寒さを感じたのは、リリオンが料理を前にしたよう
に唾を飲んだからだろう。
へそ
﹁ありがとう、もういいよ﹂
リリオンの指が臍にまで伸びようとしたのでランタンは堪らずこ
れを制止した。捌いた腹の中にまで香辛料を塗りこむのは料理の味
を向上させる秘訣だが、今はこれっぽっちも関係ない。
﹁あとは自分でやるから、大丈夫。貸して、っていうか返して﹂
伸ばした手が掴まれる。
﹁わたしがやるから! 痛くなかったでしょ?﹂
痛いかどうかを聞かれれば痛くはなかった。それどころか擽った
さには、そこはかとない艶めかしさすらある。つまりは気持ちがい
いということだ。それも痛みが引くことによる気持ちよさではなく、
指の柔らかさだとか手つきだとかそう言った理由によるもので。
折れた指は熱を持って倍ほどに腫れている。その指にベタつきが
無くなるまでせっせと軟膏を塗りこむリリオンの指をランタンは無
表情に眺めていた。諦めの表情と言うよりは、悟りを開いた僧侶の
ようだ。リリオンがその視線に気が付き顔を上げると、ランタンの
黒目が逃げるように横にずれた。
﹁痛くない?﹂
﹁うん﹂
﹁きもちいい?﹂
﹁うん﹂
﹁よかった!﹂
﹁⋮⋮うん﹂
ただの治療を受けているだけなのに、込み上がる罪悪感がランタ
ンを襲った。リリオンの心底嬉しそうな笑顔がとても痛い。この痛
みばかりは魔精で強化していようともどうすることもできそうにな
かった。
250
﹁でも、さすがにこっちの傷は自分でやるから。ありがとうね﹂
開いた傷口に触れる勇気はないのか、それとも有無を言わせない
口調にたじろいたのかランタンはリリオンの手から軟膏薬を抵抗も
なく奪い取った。代わりに背嚢から包帯を出すように指示をして、
ランタンはその間に傷薬をべたべたと裂傷に伸ばした。この軟膏は
痛み止めであり、血止めであり、化膿止めでもある。
染みて痛く、擽ったくも気持ちよくもない。リリオンにやって貰
えばこの傷でも気持ちいいのかな、などと思考が暴走しているがラ
ンタンは表情を変えず差し出された包帯をグルグルと巻いて縛った。
﹁指は?﹂
﹁指はこのままだね。添え木すると動かせなくなるし﹂
リポップ
迷宮核を失ったとはいえ未だに迷宮内にはその残滓である魔精が
漂っている。魔物は再出現していないだろうし、ランタンが最下層
まで踏破した迷宮からの帰還時に魔物と出会ったことはただの一度
もなかったが、絶対はない。
ランタンは戦闘服を着直すと左手を何度か握っては開いた。痛み
止めがよく効いているので痺れはあっても痛みは微かだ。だが腫れ
のせいもあって握力は二割減といった感じである。右手は強く握る
と皮膚が引っ張られて傷口がやや痛む。無視できる痛みなので使用
には問題ない。
ランタンはその手をそっとリリオンの背中に伸ばし、ぎこちなく
髪を撫でた。結いが解けた髪はゆるく波打って背中の半ばに広がっ
ている。
﹁⋮⋮短くなっちゃったね﹂
﹁うん、短くなっちゃった﹂
申し訳無さそうな表情になったランタンにリリオンはゆっくりと
首を振った。
リリオンは髪を一纏めにすると、それを花束を差し出すかのよう
に胸の前に持ち上げた。そしてその切り口をいっそ愛おしげに撫で
る。男が身体に刻まれた傷跡を勲章として誇るように、それはまさ
251
にランタンを守った証そのものだった。
リリオンは自分の髪から手を離すと、その手をランタンへと伸ば
した。掌がうなじを覆い髪の柔らかさを確かめるようにそっと後頭
部を撫で上げた。
﹁ランタンとおそろいよ﹂
そう言って微笑むリリオンに、ランタンは一瞬たじろぎ、そして
声を出して笑った。
﹁は⋮⋮あはは! そーだね、確かにお揃いだ﹂
ランタンは頭を撫で続けるリリオンの手から逃れて、また自分で
も短くなったその襟足に触れた。露出した首は涼しく、火照った身
体にはちょうどいいのかもしれない。
﹁なんにせよ首がつながっていてよかったよ﹂
ランタンは冗談めかしてそんなことを言ったが、リリオンは唇を
尖らせて笑わなかった。
﹁本当だわ。もう、⋮⋮ランタン﹂
﹁ムチャしないで、って?﹂
戦闘時に盾の中で言われた言葉をランタンは口に出した。
﹁ムチャはするよ。だって見てみなよ﹂
さ
嵐熊の死骸を指さして肩を竦める。
腹を割かれ、魂を取り出されたその姿であるのにも拘らず、そこ
にはまだ重圧のようなものが燻っている。抜き取った迷宮核をぽい
っと腹の中に放り込み腹部を縫い合わせれば再び動き出しそうなほ
どだ。
無茶をしないで済むのならばそれに越したことはないが、無茶を
せずに打倒できる相手ではない。リリオンだってそれは身を持って
体感したはずだ。
﹁もっと︱︱﹂
﹁ん?﹂
﹁もっとわたしを頼って! わたしがんばるから!﹂
包帯を巻いた右の腕を、そして指の腫れた左の手をリリオンは白
252
く滑らかな手でそっと掬いあげた。
﹁リリオンには充分助けられたよ﹂
それは本心だった。だがリリオンはそれを否定するように弱々し
く首を振った。
﹁わたしがいなかったら、ランタンはこんなに⋮⋮﹂
ここ
独りで戦う時と勝手が違うのは事実だった。だがそんなことは最
下層に来るまでに理解していたことで、傷ついた身体の言い訳をリ
リオンに求めるのは屑のすることだった。
リリオンが居なければまた別の戦い方もあっただろう。そしてそ
れはもっと楽な安全な戦いだったのかもしれないし、あるいは負け
て屍を晒していたかもしれない。だがそれはもしもの話でしかなく、
実際にリリオンはランタンと一緒に戦い、そしてランタンは窮地を
救われた。
それで充分なのではないか、とそう思った。だがそれを口には出
せなかった。
﹁ねぇ、わたし、もっと強くなるから⋮⋮!﹂
﹁ちょっとリリオン、どうしたの? 急に変だよ﹂
傷を見て不安な表情になった。迷宮核を見て目を煌めかせた。身
体に触れて頬を赤らめた。髪を掲げて誇らしくなった。それよりも
前、嵐熊との戦闘の時はどうだったかな、とランタンはリリオンの
表情を思い出そうとしたが思い出せなかった。
だがこんな表情はしていなかった、と思う。
﹁わたし、だって、あれ、わたし⋮⋮おかしい?﹂
頭上にあるはずのリリオンの顔を、まるで遥か深く暗い井戸の底
を覗き込むようにランタンはじっと見つめた。
混乱している。小刻みに揺れる瞳孔が小さい。様々な色を見せて
いた表情がすっぽりと抜けて落ちている。戦闘により昂った精神が、
一度落ち着きを取り戻し、そのゆり戻しが唐突にやってきたのか。
それとも。
﹁⋮⋮魔精酔いの影響がまだ残っているんだよ﹂
253
﹁ちがっ︱︱﹂
﹁ちがいません﹂
強い口調にリリオンの身体が硬直した。
うなじ
ランタンは掴まれた手を振り払ってリリオンの項に手を掛けた。
そして流れるように脛を刈る足払いで体勢を崩すと、そのまま首を
引きこんですっぽりと胸に抱きかかえた。
その重さに肋骨の痛みが内側から小さくノックをするように響い
たがランタンは表情を変えなかった。何事もなかったように平然と、
リリオンの身体が羽毛であるかのようにすべるように歩いた。
借りてきた猫のようにおとなしくなったリリオンをそっと降ろす。
人形を飾るように壁を背にして倒れないように。リリオンはされる
がままだ。その姿を立ったまま見下ろし、またしゃがむと視線が紐
で繋がれているように追いかけてきた。
手を伸ばし頭を撫でると、最初はそれが何か分からないようにぱ
ちりと大きく瞬き、それからようやく気持ちよさそうに目を細めた。
﹁ちょっと荷物持ってくるから、大人しくしててね﹂
撫でていた手でぐいと頭を押さえつけて無理やり頷かせるとラン
マント
タンは返事を待たず立ち上がって踵を返した。
フード
戦鎚を腰に差し戻し、丸めて圧縮された外套を拾い上げ、切り離
された頭巾と一緒に折りたたんだ。
横たわる嵐熊を回りこむ際に投げ出された腕をまたいで、足を止
めた。ランタンは少し逡巡して、嵐熊の指を一つずつ砕いてその指
先から爪を引き抜き、たたんだ外套を広げるとその内側に包み込ん
だ。
爪を包んだ外套を残りの保存袋の中に押しこみ、出しっぱなしの
あれこれと一緒に背嚢へしまい、リリオンの盾と剣を持ち上げた。
それはひどく傷ついている。大剣は大きく刃毀れし、盾は歪み無
数の抉れた跡が刻まれていた。一生懸命戦った、その証。
﹁よくわらかないな⋮⋮﹂
茫洋と呟いたランタンは、困ったように頬をかいた。
254
ランタンは歪んだ大剣を盾に力任せに押し込んで、ずるずるとそ
れを引きずった。
﹁よ、っと﹂
わだち
戻る途中に横たわる三つ編みから、そっと飾り紐を解いてポケッ
トにねじ込んだ。
引きずった盾の轍が深く、足跡を削り取っている。ランタンはさ
うがい
も重たそうに盾を立てかけ、リリオンの隣に腰を下ろした。
リリオンの視線を感じながら水筒から水を口に含み、嗽をしてそ
れを脇に吐き出す。それから一息ついてランタンは勢いよく水を呷
った。
﹁︱︱いっぱいのんだら動けなくなるわ﹂
﹁ん、そうだね。はい、あげる﹂
唇の端からこぼれた水を手の甲で拭い、ランタンは水筒を投げた。
受け取ったリリオンは天井を見上げるように、がぶがぶと水を飲
んだ。それはまるで言いかけた言葉を飲み込むように、不安を押し
流すように水筒を空にしてしまった。リリオンは空の水筒に口を付
けたまま淡く光る天井を眺めていた。
やがてその淡い光に耐えかねるように、眩しそうに目元を伏せて
俯いた。
﹁︱︱いっぱい飲んで動けないから、少し休もう﹂
﹁うん﹂
戦って、戦って、戦いの果てに訪れた休息。
リリオンはこてんとランタンの肩に頭を載せて何かを呟いた。け
れどそれはランタンには聞き取ることが出来ず、ただ温かな息が耳
を撫でるだけだった。やがて肩から胸へと、リリオンの頭は重みに
耐えかねたように滑りランタンの腿の上に収まった。
白い寝顔をそっと撫でる。
﹁⋮⋮よくわからないなぁ、女の子は﹂
細い髪をつまみ上げてその髪を手櫛で柔らかく梳くと、ランタン
は黙々と髪を編み始めた。
255
256
019
019
クレーン
腕を回した腰が細い。
ランタンは片手で起重機のロープを握り、もう片方をリリオンの
腰に回していた。身体を固定する安全ベルトは着けておらず、ロー
あぶみ
プの半ばのフックが自前のベルトに引っ掛けられて、そこから更に
垂れた先端の鐙に足を乗せている。
タンデム
降下の際があまりにみっともなくて同情したのか、それとも呪う
ような心中を察してくれたのか二人用ベルトを寄越さなかったこと
に対してランタンは地上で起重機を操作するミシャに感謝を捧げて
いた。
しかし朗らかなランタンに比べてリリオンは不満そうである。
リリオンはゴテっとしたベルトを身体に巻き付けそれに備わった
四本のロープで身体を釣られている。背負った盾も相まって甲羅を
掴まれて持ち上げられた亀のような姿だ。
もっともリリオンが不満そうにしているのはその愛らしくも無様
な姿を晒していることではなく、骨盤から身体の前を通して二本、
そして肩甲骨の辺から二本生えたロープに腕の可動を制限されてい
るためだ。つまりは降下のようにランタンを抱え込めないと言うこ
とである。
最下層で目覚めてから遅めの昼休憩を経てここに至るまで、リリ
オンはひっつき虫と化していた。魔物が出ないことを言い訳にラン
タンはそれを許したのだ。
腕を回した腰が降下時よりも、一回りも細い。
甘やかしたのは多分そのせいだ。
﹁リリオン、大丈夫? 気持ち悪くない?﹂
257
﹁大丈夫だけど、なにが?﹂
はいのう
引き上げられる時に感じる内臓の浮遊感はミシャの操縦技術と言
うよりは疲労と重たくなった背嚢の影響だと、今までは思っていた
のだがもしかしたら体質によるものなのかもしれない。リリオンは
最下層の出来事が嘘のようにけろりとしている。
﹁いや、大丈夫ならいいんだよ﹂
月の光を透かすほどに色を薄くした魔精の霧をゆるゆると上って
ゆく。ランタンはその薄い霧で表情を見られないことをいい事に大
きく口を開いて欠伸をした。
涙の浮いた目に星を散りばめた夜空が映る。ランタンはリリオン
の腹で涙を拭いた。
﹁わぁ、まぶしい!﹂
ウインチ
﹁あぁ、疲れた﹂
巻き上げ機械の低く響く音が止まり、起重機が二人を揺らさずに
たる
優しく横を向いた。そして地面に下ろされて身体を吊るしたロープ
が弛むとリリオンはランタンに抱きつくようにして深く息を吐いた。
体重をかけるのは肋骨が痛むからやめてほしい。
﹁お疲れ様っす︱︱、お帰りなさいランタンさん、リリオンちゃん﹂
﹁ただいまっ、と﹂
停止させた起重機から降りて駆け寄ってくるミシャに応え、ラン
ひざまず
タンは纏わりつくリリオンを押しのけた。ミシャと視線が交わると
すっと目を細めて彼女は笑い、ランタンの傍らに跪いて手早く腰の
ベルトからフックを外した。
﹁ありがと﹂
ランタンはリリオンの尻をぱちんと叩き、驚いたその隙にその側
から離れた。その際にミシャの袖を軽く引っ張り、リリオンのベル
トを外そうとした彼女を制した。
まだロープに繋がったままのリリオンは鎖に繋がれた犬に等しく、
その行動半径の外には出ることができない。袖を引こうと伸ばした
手をするりと避けて円の外側に立つと、慌てた視線だけがランタン
258
を追いかけた。
﹁ほら、ちゃんとする﹂
﹁⋮⋮︱︱ただいま﹂
リリオンは一度、空気を噛むように息継ぎをすると言い慣れない
言葉を口にするようにミシャに声を掛けた。
﹁はい、おかえりなさい﹂
それにミシャは大人びた表情で柔らかく微笑んだ。
﹁じゃあベルト外すっすよ﹂
リリオンを縛り付けているベルトは迷宮口から垂らされたものを
サベージャー
シングルアクション
迷宮内でランタンが手ずから装備させたものだが、これを外すのは
引き上げ屋の仕事である。かちんと一動作で取り外しできるフック
でさえも、地上でのその取り外しは探索者の自由にしていいもので
はない。
それは伝統であり、矜持である。それを外すというのは引き上げ
屋の手で無事に探索者を帰還させたという証だ。
凛々しさすら漂うミシャの横顔を眺めているうちに、リリオンの
拘束具の如き安全ベルトがリボンを解くようにあっという間に外さ
れていた。リリオンが内腿に通したベルトからするりと足を抜くと、
その足が硬く地面を踏んだ。
左右のどちらにでも避けられるようにランタンがそれを見て軽く
マント
足を開いた。リリオンの身体が力を蓄えるように小さく沈む。
﹁︱︱ストップっす!﹂
リリオンが放たれた矢と化す瞬間に、ひらめいた外套をミシャが
ぐいと引っ張ってリリオンを制した。襟に首を絞められたリリオン
が呻き、恨めしそうにミシャを睨んだがミシャは平然とその視線を
受け止めている。
リリオンの挙動を制した引き上げ屋の腕力はなかなか侮れないも
ので、そもそも荒くれの探索者を相手にした商売に身を置くミシャ
の、その小躯に内包する精神力は並大抵ではない。何しろミシャは、
引き上げ屋は探索者の命綱をまさに握っている。ミシャにとってリ
259
リオンの睨みつけなどぴぃぴぃ喚く雛鳥同然だった。
﹁帰還したばかりなのに元気いっぱいっすね、リリオンちゃんは﹂
ミシャが外套を手放し皺になったそこを伸ばすように軽く叩いた。
その姿は妹の世話を焼く小柄な姉のようにも見える。が、その姿に
鞭を以って猛獣を調教する幻想を重ねたランタンは、その妄想を見
透かすように視線を寄越したミシャに曖昧に微笑んだ。
﹁︱︱それに比べてランタンさんは、またボロボロっすね。大物だ
ったんっすか?﹂
﹁まぁね、もうしばらくは働かなくてもいいぐらいだよ﹂
﹁そんなこと言って、治ったらいつもすぐに迷宮へ潜るじゃないっ
すか﹂
﹁ミシャが食いっぱぐれたら困るからね﹂
肩を竦めて軽口を叩いたランタンは腰のポーチから後払い分の引
き上げ料を取り出し、そこに幾ばくかの色をつけてミシャに渡した。
ミシャはそれを両手で丁寧に受け取ると、ありがとうございます、
と頭を下げて集金箱にそれをしまった。
﹁あの、ミシャさん﹂
﹁ん、リリオンちゃんどうかしたっすか?﹂
﹁ランタンが、また、って﹂
﹁︱︱あぁボロボロって話っすか﹂
こくんと頷くリリオンにミシャが困りと諦めの混ざる疲れた表情
フラグ
を作ってみせた。
﹁最終目標を取ってくるって言った帰りはいつでもこうっすよ﹂
﹁⋮⋮別に僕に限った話じゃないよ﹂
﹁まぁそうなんすけどね。でもどうかしたっすか?﹂
リリオンは疑るような視線をミシャとランタンに彷徨わせて、手
繰り寄せた三つ編みの房を指先で弄っている。
﹁だってランタンはすごく強いのに⋮⋮﹂
ぽつりと呟いたリリオンの言葉に、ミシャは薄い唇ににやぁとい
やらしい笑みを浮かべてからかうような目でランタンを見た。その
260
視線をランタンは鬱陶しげに追い払った。
﹁はぁ、⋮⋮過大評価だよ﹂
﹁ふふふ、ランタンさんは超強いっすけどね﹂
ミシャは誇るようなわざとらしい声で言い、そして少しだけ声量
を落としてリリオンの俯いた顔を覗いた。
﹁でも、もっともっと強い探索者さんだって帰ってくるときはみん
なボロボロっすよ﹂
﹁ほんとう?﹂
﹁本当だよ、って何度も言ったよ﹂
リリオンはランタンに対して負い目があるのだ。自分と比較して
ひどく傷ついているランタンに申し訳なさを感じている。だが、そ
んなものはお門違いだ。
リリオンはランタンと同じ程に傷つけば満足するのかといえばそ
うではないだろうし、またランタンを完璧に守りきれなかったこと
を悔いているのならばそれは自信過剰というものだ。そもそもリリ
オンの存在やその戦闘能力に関係なく最終目標と戦えばランタンは
傷つくだろう。ランタンの戦い方はいつでもそういうものだ。
だがそれをどれほどランタンが口で伝えようとも、傷ついている
張本人の口から出る言葉はそのどれもが慰めにしか聞こえず、リリ
オンはますます気にしてしまう。だからミシャの口から語られる事
ノイローゼ
実はありがたかった。この程度の怪我でウジウジとされては、遠か
らず神経症になりかねない。
ミシャの援護射撃もあってランタンは畳み掛けるようにリリオン
に伝えた。
﹁最終目標戦に怪我なんか当たり前なんだし、それどころか未帰還
だって多いんだから﹂
﹁まぁそうなんっすよねぇ。だから︱︱、ランタンさんも本当にち
ゃんと休まないとダメっすよ。もし待ち惚けなんか食らわされたら、
最下層まで取り立てに行きますからね!﹂
﹁はいはい、気をつけるよ﹂
261
その時には超過料金と危険手当で尻の毛まで毟られそうだ。
軽く受け流したランタンにミシャは大きくため息を吐いて、リリ
オンに肩を竦めながら笑いかけた。その諦念の表情にリリオンは救
われたように微笑んだ。
﹁リリオンちゃん、ランタンさんはこんなんだから、ちゃんと休む
ように見張ってるっすよ﹂
﹁うん、わたし見張るわ!﹂
﹁⋮⋮余計なこと言わないでよ。ほら、もう行くよ﹂
援護射撃だと思っていたものが、いつの間にか背中を掠めていた
のでランタンは大慌てでリリオンを側に呼び寄せた。
おもむ
くたび
迷宮で得た魔精結晶を換金するために、そして迷宮の攻略を報告
するために探索者ギルドへと赴かなければならない。身体は草臥れ
つい
ていたが探索者ギルドには終日営業の医療施設が併設されているの
で、はっきり言ってしまえば換金や報告はそこに寄る序でだ。どう
せ迷宮攻略の報告は探索者の義務なのだから、面倒事を後回しにし
て得をすることはない。
﹁じゃあよろしく頼むっすよ、リリオンちゃん。︱︱ランタンさん
もまたのご利用をお待ちしております﹂
﹁まかせて!﹂
﹁うん、またお願いね。それじゃあ﹂
ミシャと別れて二人は歩き出した。
リリオンは何時も通りに手を繋ぎたそうにしたが、ランタンの言
いつけのとおりにそれを我慢していた。
迷宮特区の帰り道は見栄を張らなければならない。どれだけ疲れ
レイダー
ていようともできるだけ背筋を伸ばして胸を張って堂々と、もし膨
らんだ背嚢が重たげに見えるようでは襲撃者の目に留まる。それこ
そ、お手々繋いで仲良く帰る、なんてことをしていては襲撃者にと
ってはどうぞ襲ってくださいと言わんばかりの呑気さであるし、一
部の探索者から要らない嫉妬を買いそうだった。
ランタンはまだ少し鋭利な雰囲気の残る顎の輪郭をなぞるように
262
視線を上げた。
宵闇に白く浮かび上がるリリオンの顔はまた痩せて尖って見える
が、まぁ悪くない。この甘い顔がいつかは数多の女性探索者がそう
であるように、凛々しく険しくなってゆくのだろうか。
リリオンは視線を左右に鋭く動かしあたりを注意している。ミシ
ャに焚き付けられたことで面倒くさくなっているな、とランタンは
小さく笑った。リリオンは番犬のようで、守っているものは迷宮核
ではなくランタンなのだろう。
もっともこの距離のランタンの視線に気がついていないようでは
その番犬ぶりがどれ程のものかは言葉にするまでもない。だが襲撃
者もそう頻繁に現れるものではないし、こうも判りやすく警戒して
いる相手に襲いかかるような真似もしないだろう。迷宮特区を抜け
たリリオンは胸をなでおろした。
﹁ごくろうさま、さぁギルド行くよ﹂
﹁うん、あの⋮⋮ランタン﹂
そんな約束をしていたわけではないが、おずおずとご褒美をねだ
るように差し出された手をランタンは握った。日が落ちて街灯の光
が幻想的な通りには手を繋いだり腕を組んだりして行き交う男女は
珍しくない。
握った手をぎゅっと握り返したリリオンの花咲くような笑顔が目
に眩しい。
だがその時にはランタンは溺れるように思考の海へと身を投げて
いた。立場が逆に、あるいは身長差から与えられる印象そのままに
ランタンはリリオンの腕を引かれるようにして歩いている。
やるべきことが幾つかある。傷の治療はもとより魔精結晶の換金
と攻略の報告。それに加えてリリオンに銀行口座を開設させようか
とランタンは考えていた。
魔精結晶は高額で取引されるが、迷宮核はそれを更に上回る。迷
宮核を換金して金貨になれば持ち運びもしやすくはなるが、常に大
金を持ち歩くわけにもいかない。金貨をジャラジャラ言わせて持ち
263
歩くというのは成金か阿呆のすることだ。金貨の音色は厄介事を呼
び込む鳴子でしかない。
とは言えランタンのような根無し草の如き探索者ばかりではなく、
宿暮らしの探索者や家を持っている探索者であっても財産の保管は
なかなか難しい。それは探索者の職業上、頻繁に家を空にするから
だ。一度迷宮に潜りその日の内に帰ってくるというようなことはま
ずない。厳重な金庫を用意し鍵を掛けその輝きを隠そうとも、それ
うそぶ
を暴く時間は充分にあり、また良心の希薄な人間はこの世界に多す
ぎた。
ばっこ
故に探索者の金遣いは荒く、宵越しの銭は持たないなどと嘯くよ
うな輩が跋扈し、生きて探索業を引退することができたとしても傷
つき衰えた身体ばかりが残るというような悲惨な話もある。
もしもの時、動けなくなった時のために備える事はランタンの中
にある常識だ。生きていくに充分な金銭があればよい、と考えてい
ても自然と常識に動かされる。
買取施設から銀行施設へと金を運ぶランタンに対する陰口もある。
いくら貯めこんでも彼の世には持っていけねぇのによ、と。
ランタンはあからさまに自分へと差し向けられたその陰口に怒る
でもなく、まったくもってそうだと思った。この世界で成したもの
は、この世界にしか作用しない。それを貯金などと、まるでこの世
界で年老い、死んでいくかのような。
傷口が忠告するように傷んだ。
﹁くふっ﹂
不意にランタンの喉奥から湧き上がった笑い声にリリオンがぎょ
とも
っとした視線を寄越して立ち止まった。ランタンの瞳は一瞬だけ灯
ヘーゼル
りを燈し、しかしリリオンの気遣わしげな視線に重なるとその瞳の
淡褐色に混ざるようにして焦茶色へと色を戻した。
そのことに気がついていないランタンは変な声で笑ったことを誤
魔化すように柔らかな笑みを浮かべて、今までもそうであったかの
ようにリリオンの手を引いた。リリオンのジロジロとした視線が確
264
かめるように後頭部を撫でたが、ランタンが素知らぬ顔でそれを、
そしてわずかに熱を持ち始めた傷口を無視しているとやがてリリオ
ンは大股で一歩踏み出して隣に並び歩き出した。
﹁とりあえずさ﹂
﹁うん﹂
﹁今日はもう遅いから結晶を金貨に換えたら、それは一度僕の銀行
口座に入れるけどそれでいい?﹂
﹁⋮⋮うん?﹂
リリオンが小首を傾げて返答の言葉尻を上ずらせた。ランタンが
ちらりと横目を向けると目の丸いきょとんとした表情がランタンを
伺っていた。
﹁えーと、リリオンって銀行口座持ってるの?﹂
リリオンはきょとんとした表情のままに首を横に振った。そして
それどころか、ぎんこうってなに、と丸い目を何度か瞬かせた。そ
の問にしばらく黙り、ランタンは人差し指で自分の頬を押しながら
ほろ苦い呻き声を上げた。
﹁貯金箱、みたいなものかな﹂
﹁ちょきん?﹂
ランタンはゆっくりと頷いて肩越しに背嚢を指さした。
﹁これ換金したら、沢山の金貨になるでしょ? それを持ち歩くの
は邪魔だし、︱︱おっと﹂
一瞬だけランタンが自分の指した指を追うようにして背後を振り
返ったその時に、わざわざ繋がれた手を引き剥がすように男が二人
の間を走り抜けた。
﹁なにあれ!﹂
リリオンが噛み付くような顔をして声を荒げたがランタンは穏や
かにそれを止めた。ただ恐ろしく冷めた眼差しが、一瞬だけ浮かび
上がった。
﹁僕らが仲良しだから嫉妬したんだよ、ほら﹂
ランタンは掌をズボンで拭って再びリリオンに差し出した。それ
265
を握り直すことでリリオンは唇を突き出し不満そうながらも怒りを
スリ
収め、しかし二度と同じ事がないようにと固くの指を絡めた。
﹁で、話の続きだけど、邪魔だし掏摸とかに狙われたら困るでしょ
?﹂
﹁う︱︱ん?﹂
わめ
頷こうしたリリオンが再び振り返った。その視線に先にはつい先
程、二人の間を抜けていった男らしきものが喚いているのが見える。
﹁ひめいが聞こえたわ。どうしたのかしら?﹂
﹁さぁ? ︱︱どうせ馬鹿な掏摸が指でも折られたんだろう﹂
ランタンの耳にも悲鳴は聞こえていたが、ランタンは振り返りも
せずに淡々と呟いて先を促すようにリリオンの手を引いた。
さ
急いでいるわけでもないがランタンは毛ほども関係のない掏摸に
時間を割くのがもったいないと思っただけで、下手に騒ぎが大きく
なって衛兵が来たら面倒だからこの場を離れたいな、などとはこれ
っぽっちも思っていない。
﹁まぁとにかく、多額の現金を持ち歩くのは不用心で現実的じゃあ
ないってこと。で、そこで出てくるのが探索者ギルド銀行です﹂
﹁ギルド銀行﹂
﹁そっ、探索者ギルドがお金を預かって守ってくれるんだよ。なん
と無料で﹂
﹁ただ!﹂
無料で、と言うところでリリオンは声高く感嘆を漏らした。そし
て、ギルドって優しいのね、などと探索者ギルドを褒めそやしてい
るのでランタンそれを生暖かく見つめた。
ギルド銀行に口座を開設するにはギルド証を所持していること、
つまり探索者であることと口座に預けるための金貨十枚、そしてや
クォーター
や小難しい書類を埋めることだけを必要とし、ギルド証の発行のよ
うに支払金を必要としなかった。預けることができるのは四半銀貨
からであり、預けていても金利が発生しないが振込にも引出しにも
手数料を取られることもない。もっとも両替には手数料が取られる
266
が。
あの探索者ギルドの威容の建造物がそのまま金庫に、そしてそこ
に働く引退した探索者を多数含む猛者たちがそのまま番兵となって
くれるというのに、まるで教会のように探索者ギルド銀行は探索者
たちに門戸を開け放っている。
だがそれが慈善事業だということは決してない。
口座から金を引き出すにはギルド証とその本人が必要となる。例
カウンター
えばランタンが自分のギルド証をリリオンに渡して、僕の代わりに
幾らか引き出してきて、と頼んだとしても銀行の受け付けでけんも
ほろろに追い返されてしまうか、場合によってはその場で取り押さ
えられて有無を言わさぬ尋問に晒されることもある。
それは盗み、あるいは殺して奪い取ったギルド証を使用し、本人
になりすまして貯金を奪おうとする輩が生まれないようにするため
の処置なのだろうし、口座を開設する際にもそのようなことを伝え
られる。
たしかにそういう一面もあるのだろう。
だがその弊害として探索者という命を失いやすいこの職業柄、引
き出すことのできなくなった口座の数は星の数ほどあるらしい。探
索者は身元不詳の者が多いし、また親族がいる場合であったとして
も迷宮から帰還しなかった探索者は未帰還と称され、いずれ帰って
くるかもしれないという名目で口座を自由にはさせないのだ。明確
な死亡の判定は死体が引き上げられた場合か、あるいは死者のギル
ド証を持ち帰りそれをギルドが精査して、死亡を認めたときだけだ。
つまりは休眠口座を自由にできるのは口座を管理しているギルド
だけというわけだ。なんとも言えない気持ちになる話だが、リリオ
ンをなんとも言えない気持ちにさせても意味は無いのでその考えは
ランタンの心の内にしまったまま、それでどうかな、と声を掛けた。
﹁でも⋮⋮わたし、お金ないよ﹂
﹁いやいやいや﹂
返って来た答えにランタンは繋いだ手をブンブンと振り回した。
267
そして、何を言っているんだ、という視線を送ったのだが、まった
くもって同種類の視線をリリオンもまた瞳に湛えていた。
﹁え︱︱⋮⋮ぅえ?﹂
ランタンは思わず瞳を逸らして、視線を足元へと放り投げた。そ
して石のように固まった思考を爪先で蹴り転がすようにもたくさと
足を進める。
ねぶ
どこから、間違えたのだろうか。
頬を舐るように降り注ぐリリオンの視線を感じながら、ランタン
は思考の石を蹴り続ける。それはやがて角が取れて丸くなり、卵の
ようになったかと思うとぱかりと割れた。
はっと仰ぎ見たリリオンがニコリと笑んだ。それはあまりにも純
粋で、まるで光を見るようにランタンは反射的に視線を逸らしそう
はな
になった。だが引きつるように固まった首の肉がそれを許さなかっ
た。
リリオンは探索のその結果である利益を、最初っから求めてはい
ない。それは今回の探索で自らの働きぶりを過小評価しているから
ではなく、大前提としてリリオンは自らの働きへの対価を放棄して
いるようだった。
今までがそうであったからか、それとも別の理由か。ランタンは
唇が引きつるのを感じたが、無理やり口を動かした。声が上擦って
いる。
﹁迷宮で得た利益は、山分けだよ﹂
﹁わたし、いらない﹂
﹁いや、いるいらないじゃなくて︱︱﹂
﹁わたしはもうもらったから﹂
水を、食事を、服を、大剣を、盾を。
リリオンは握った拳のその指を一つ一つ解きながら与えられたも
のを数えていった。そして指の数が足りなくなると遡るように一つ
一つ指を折り、丸い拳をつくり上げる。
リリオンはその拳に唇を当てた。まるで神の御下に跪き、その爪
268
先に口付けるように。
息が詰まるようだ。ランタンは掠れる喉を動かして粘度の高い唾
を飲み込み、意識的に眉間に皺を刻んだ。
間違っている、とそう強く感じる一方で名状しがたい感情が心臓
の裏側に疼いているような気がした。それは小さな虫のように心臓
に潜り込み、血管を泳いで全身へと広がろうとしていた。
﹁︱︱っ﹂
ランタンは折れた指を気にする余裕もなく反射的に頭を掻いた。
頭皮に引っかかる指先が骨を引き攣らせて怪我が痛む。その痛みが
深く沈み込みそうになったランタンの思考を引き留めた。
﹁ランタン、⋮⋮だいじょうぶ?﹂
ランタンはリリオンの声を無視して足を止めた。目を瞑って一秒
数え、鼻からゆっくりと息を吸う。ぞわぞわぞわと血管を這いまわ
ったその感情を肺腑に集めると、呼気に混ぜ込むようにして肩が沈
むほどに深くそれを吐き出した。
瞼を重たげに持ち上げると、睫毛が絡みそうなほどの近くにリリ
オンの顔があった。心配気な顔が安堵の息を漏らすと、その空気の
流れがリリオンの唇を舐めた。
﹁リリオン、手を離して﹂
﹁え⋮⋮ランタン⋮⋮?﹂
﹁いいから﹂
ランタンが少し強くそう言うと、リリオンはこわごわと手を離し
た。ランタンは開放された手をぷらぷらと揺らし、髪を掻き上げる
ついでにそのままぐっと夜空を掴むように背伸びをした。
みしみしと肋骨がなっている。
探索者はただの職業だ。探索者を目指し、また探索をこなす理由
は人それぞれにあるのだろうが、多くの人々は金銭を求めている。
大金持ちになりたいという者もいれば、日々を過ごす日銭を稼ぐ者
もいる。ランタンだってそうだ。生活するために探索者をしている。
ランタンは星の散らばった夜空から視線を下ろした。おろおろと
269
かぶり
した不安げな表情のリリオンがいる。彼女が探索者を目指した理由
はどこにあるのだろう。いや、とランタンは頭を振った。どんな理
由であろうとも金はなくてはならないもので、そこにリリオンの意
志が介在する余地はない。
ないったら、ない。
﹁ラ︱︱﹂
今にも泣き出しそうな震える声を遮るように、ランタンは傷口に
響くほどに強引にリリオンの手を取り再び歩き出した。それは乱暴
で、手を振り払われても文句を言えないような振る舞いだったが、
しかし頬を緩めたリリオンにランタンは苦笑して舌で唇を湿らせた。
﹁家に帰るまでが探索だって言ったよね﹂
﹁うん!﹂
不意に放たれた言葉に、リリオンは間髪入れずに頷いた。
名前を呼ばれた犬のように嬉しそうなリリオンの様子にランタン
おうよう
は多少の自己嫌悪も覚えながらも、それを声に滲ませずに更に続け
た。
﹁じゃあ探索中は?﹂
﹁ぜったい、ふくじゅう!﹂
・ ・ ・
言葉を繋いだリリオンに、ランタンは鷹揚に頷く。
正確には、迷宮内では絶対服従、だっただがそんな些細な間違い
をリリオンは気にも止めておらず、ランタンは気づきながらも敢え
て無視した。
﹁と、言うわけで命令です。利益は山分け︱︱まぁ配分は考えるけ
どね﹂
有無を言わせないランタンにリリオンは服従の、う、の形をした
ままの唇を更に突き出して拗ねるように頷くのだった。
騙し討ちのようなものだったが、口も回らなければ頭も回らない
ので仕方がない。それに視線の先には魔道光源に照らされる探索者
ギルドが浮かび上がっている。お話の時間は終わりだ。
ランタンは気持ちを切り替えようとして、しかし憂鬱そうにため
270
息を吐いた。
﹁⋮⋮どうかしたの?﹂
﹁んー、こっからが面倒なんだよ﹂
迷宮を一つ攻略したのだから勇者のように迎え入れてくれても良
いだろうに、この先にあるのは美貌の姫君ではなく諸々の事務手続
きだ。
ランタンは魔道によって重さを感じさせない巨大な扉をまるで内
側から押さえつけられているかのようにゆっくりと押し開き、その
隙間から溢れる眩いばかりの光の中へと足を踏み入れた。
271
020
020
﹁雑だな、まったく﹂
折れた指を見るなり医者の男は舌打ちを一つ漏らしてそう呟いた。
﹁で、傷は他にもあるんだろ。どこだ?﹂
そう続けたギルド医はゴツゴツとした人相をしていた。怪我を見
せてみろ、と差し出された手に金銭をせびるような獰猛な雰囲気が
漂っている。探索者ギルドには引退した探索者も多く務めているの
で男もその内の一人なのだろう。治すよりも傷つける方が似合いそ
うだ。
ランタンがのそのそと上着のボタンを外し、それを脱ごうとし手
間取っていると背後でその様子を窺っていたリリオンがそっと袖を
引き抜くのを手伝った。そして甲斐甲斐しく肌着にも手をかけそれ
も脱がせる。
清潔感のある白々とした魔道光源の光にランタンの裸の上半身が
晒された。
ランタンが右手を差し出すと医者は前腕に巻かれた包帯を解いた。
体液が染み出した包帯が傷口に張り付いていたが、ギルド医の太い
指はまるで痛みも感じさせずに傷口からそっと剥がした。
あらためて見ると傷口の酷さが目に付いた。背後でリリオンが息
を呑んだ。
皮膚を削ぐように斜めに切られた傷口が手首から肘にまで無数に
フルーツカービング
刻まれている。出血は止まっているが、それ故に剥き出しになった
傷口は出来損ないの果物彫刻のような有様だった。繋がったままの
皮膚がふやけて捲れ上がり、その下にはピンク色の肉が覗いている。
背後から注視していたリリオンの視線が外れるのを感じた。また
272
ランタンも平気なふりをしてはいたが、実は焦点を合わせないよう
にしていた。見るだけで痛みが増すような気がしたのだ。
﹁傷薬をつけ過ぎだ。まったく、傷口が塞がるのを邪魔してる。パ
テじゃないんだぞ。︱︱少し染みるからな﹂
ギルド医は濡らして絞った布で皮膚を引き千切らないように患部
を拭いた。ランタンはきつく瞼を閉じて呼吸を止め、奥歯を噛み締
めた。傷薬を塗ったのは自分なので自業自得だが、少し染みるとい
う言葉は完全に嘘で、詐欺で訴えれば勝てそうなほどの痛みだった。
ギルド医は指に巻き付けた布で傷口を埋める軟膏を掘り返したの
だ。ランタンの額にじわりと油っぽい汗が浮かんだ。
ランタンが拷問のようなその時間を耐え切り疲れきった様子で瞼
を持ち上げると、ギルド医は太く笑った。それは内心はどうであれ
悲鳴一つ漏らさなかったランタンへの称賛だった。だが正直な所そ
んなものよりも痛み止めがほしい、と思った。
﹁傷口は深くはないから縫わなくてもいいだろう﹂
ギルド医はそう言うとアルコールの染みこんだガーゼで腕をあら
ためて拭いた。剥がれた皮膚を傷口に貼り付けて、その上から薄い
膜を被せるように薬を塗る。淡い桃色の軟膏ですべての皮膚を傷口
に固定すると、その上にガーゼを置いて新しい包帯で腕を包んだ。
﹁まぁ若いからこれぐらいなら寝て起きれば治るだろう⋮⋮完治じ
ゃあないからな。二、三日は皮膚が引っ張られるように感じるだろ
うが生活には支障がないはずだ。あと今夜は痒くなるが掻いたら皮
膚が剥がれるから我慢しろ。いいな?﹂
﹁はい﹂
﹁探索は絶対するなよ﹂
頷いたランタンをギルド医は半眼で睨んだ。
疑惑の視線に晒されて、素直に頷いたというのにも拘らず一体ど
ういうことなのだろう、とランタンは腑に落ちない顔をしていた。
が、その実ランタンには同じようなことを言われたがそれを無視し
て探索をした過去がある。その時にはもう少し酷い怪我をして医務
273
室で大騒ぎをしたものだ。その時の担当医は目の前の男ではなかっ
たが、そのことを知られているようだ。面倒なことだ。
﹁ふんっ﹂
﹁いっ︱︱﹂
ランタンは白々しく内心でそんなことを考えているとギルド医は
無言で左の手首を掴んだかと思うと、折れた二指を握りしめて一気
にそれを伸ばした。骨伝導で骨が擦れる嫌な音が全身を駆け巡り、
次いでなんとも気持ちのいい、まさにパズルのピースが嵌ったとで
も言うべき音が響いた。
伸ばされた指が開放されて、ランタンは内心物凄くドキドキとし
ていたがそれを隠して軽く拳を握った。まだ腫れがあるので上手く
握り込むことはできないが痛みは全くない。乱暴なように見えて完
璧な骨接ぎだった。
﹁あたり前だがくっついてる訳じゃねぇからな﹂
﹁はい、わかってます﹂
素直に頷くランタンに先ほどと同じ視線を寄越したギルド医は、
骨接ぎした指を一本ずつ非伸縮性のテープで固めた。
﹁⋮⋮ったく。で、肋骨もだな。くそっ、痛み止めを塗りすぎだ。
その内効かなくなるぞ﹂
肋骨に触れると悪態をついた。その悪態に背後のリリオンがビク
リと震えたのでランタンは小さく笑った。これを塗ったのはリリオ
ンだ。
﹁ゆっくり息を吐いて腹をへこませろ。︱︱まったく、まぁよくも
これだけ折ったもんだな。内臓に刺さってないのは幸運だが、もう
ちっと気をつけろ。そのままへこませて、︱︱息を止めろ﹂
言われるがままに呼吸を止めて、痛みに備えた。
当直の医者により腕の善し悪しや処置の方法は変わるが、その多く
で痛みを伴うことをランタンはよく知っていたし、腕や指の治療を
体験し目の前のギルド医が充分に荒っぽいことはすでに実感してい
た。
274
ギルド医は指を滑らせてランタンの肋骨の状態を確かめると、太
いその指をいきなり肋骨の内側に刺し込んだ。
﹁︱︱っ﹂
来るべき痛みに覚悟を決めていたのに。
この世界でも医術はある程度体系化していたが、これはそこから
逸脱している。迷宮内での素人なりの応急処置から、あるいは魔物
を破壊する技術からその枝葉を伸ばし形作られたのかもしれない。
ランタンは声のない悲鳴を上げて大きく跳ねた。だがリリオンに
よって肩を押さえつけられ、その場から逃げることはかなわない。
一体いつの間に医者の手先になったんだ、と叫びたいが声は出なか
った。痛みの強弱で言えば戦闘での痛みのほうが余程強烈だ。だが
医務室での痛みは、質が違う。
胴に張り付く皮膚がまるで柔らかいゴムにでもなったように、ギ
ルド医は人差し指から小指までをずぶりと鳩尾に押し込んだ。ずれ
た骨を内側から引き出して、それを親指でそっと押し付けるように
して鳩尾から背骨までをぐるりと形を整えていった。
まるで花器でも練り上げるような繊細かつ大胆な指使いは洗練さ
れていて芸術的でさえあったが、ランタンはその技に感心している
アシスト
余裕はなかった。身体の内部を弄られる気持ちの悪さとえづくよう
な痛みが過ぎ去るのをただ耐えるばかりだ。
﹁︱︱よしっ、と。嬢ちゃん、もう放していいぞ。いい仕事だ﹂
治療に耐えた自分ではなくリリオンを褒めるギルド医をランタン
は軽く睨んで、胸を張るようにゆっくりと身体を伸ばした。悔しい
ことに痛みの残滓は治療によるもので、骨折自体の不快さは消えて
いる。なまじ腕がいいだけに、もっと優しくできるのではと思って
しまう。
﹁肋骨は固定できないから︱︱わかってるな。骨は寝て起きてもく
っつかないからな!﹂
怖い表情のギルド医に、もう三度目だよ、と内心で零しランタン
は拗ねた顔付きで頷いた。
275
迷宮を一つ攻略し終えて区切りがついたのだから、わざわざリス
クを背負ったまま無茶なことをするつもりはなかった。もし独りで
あったのならば分からないが、少なくともリリオンを連れている間
は。
ターンチェア
﹁⋮⋮大丈夫ですよ。わかっています。無理はしません﹂
ランタンはそう言うと床を蹴って回転椅子を回してリリオンを振
り返った。手を差し出して、服と一言呟いた。そして手渡された肌
着に袖を通そうとした。だが背後から、おい、とギルド医に声を掛
けられたのでその手を止めた。
﹁何だぁその頭は﹂
ギルド医は振り返ろうとしたランタンの頭をむんずと掴かみ、ざ
んばらな襟足を指で弾いた。外側の髪だけが多く残ったランタンの
襟足はまるで鋏みの短いクワガタのようでみっともなかった。
うそぶ
﹁なんだと言われましても﹂
名誉の負傷だと嘯きたいところだが、涼しげになった首筋のそれ
は結局のところはただの油断の現れだった。
最終目標による魔道の行使を早々に、ないと決めてつけてかかっ
たのはランタンの見通しの甘さに他ならない。ランタンがリリオン
に対して先輩面をできるのはリリオンが何も知らないからであって、
ランタンの探索者としての能力は、戦闘力に多少は秀でているかも
しれないがまだ青い未熟さに溢れていた。
﹁切ってやるから動くなよ﹂
ギルド医に後頭部を晒している、と言うことはリリオンと向かい
合うことと同じである。
リリオンはランタンの上着を大事そうに抱えたまま、じっとラン
タンを見下ろしている。その瞳の気遣わしげな雰囲気がランタンの
羞恥心を掻き立てた。
逃げ出したくなるほどに恥ずかしい。だがもし逃げ出したら襟足
が今よりもっと恥ずかしいことになってしまう。袖を通しかけた中
途半端な肌着がまるで手枷のようにランタンを縛っている。
276
ランタンは大胆に入れられる鋏に無駄な襟足が切り取られ、する
りと形が整っていくのを感じていた。こんな風に簡単に、体裁を整
えられたらどれほど楽だろうか。
﹁よっし。まぁこんなもんだろう﹂
ギルド医が首筋に散った毛を払いながら言った。ランタンは襟足
を一撫でして、椅子ごとくるりと回転した。
﹁どう? リリオン﹂
﹁︱︱さっぱりして、わたしそのほうが好き﹂
そう言ったリリオンはランタンの首に顔を近づけてまだ残ってい
る毛をふうと吹いて、背に零れた小さな毛筋を一つ一つ指先に摘ん
だ。
﹁⋮⋮それはよかった。︱︱リリオンも毛先だけでも揃えてもらっ
たら?﹂
ランタンは首を切り落とされることもなかったので、再び身体の
向きを変えてリリオンに提案してみた。
ストームベア
それはリリオンの手から上着を受け取る代わりに、ただなんとな
しに手渡した言葉だった。リリオンも嵐熊によって髪を切断されて
いる。見栄えとしてはランタンほどひどくはないが、短くなった三
つ編みを解けばやや右上がりに斜めになっている。
﹁いい﹂
だがリリオンの答えは明確な拒絶だった。
﹁わたしは、いいわ﹂
リリオンは空になった手を硬く握りこんでいる。ランタンは浅い
角度で首を傾け、ほんの少し訝しげな視線をリリオンに向けた。
そして再び襟足に触れ、小さく安堵の息を吐く。ランタンが気が
つかなかっただけで実は散髪が失敗していたのかもしれない、と思
ったのだが特にそんな事はないようだ。
﹁ま、時間もないしね﹂
ランタンは爪が掌に食い込むその拳を優しく叩いて、ギルド医に
向き直った。
277
人相が悪いのでリリオンは怖がったのかもしれない。ランタンは
フレーム
鋏をしゃきしゃきと鳴らしたギルド医の顔を見みつめた。髪を梳き、
切り取るその指先自体はとても繊細だったが、顔が同じ視界に入る
と途端に耳でも削ぎ落とされるんじゃないかという気がしてくる。
思考を読まれたのかじろりと睨まれたランタンはわざとらしく視
線を逸らし、膝の上に丸めていた上着をきれいに折りたたんだ。上
着は右袖がズタボロの血まみれで、迷宮内ならまだしも一度脱いだ
からには再び袖を通す気にはなれなかった。
ギルド医が鋏を手放し、書類にサラサラと文字を走らせてそれを
ランタンに渡した。ランタンは相も変わらず文字は読めなかったが、
それが癖字だということだけは判った。この世界でも医者の書く字
は絡まった糸のように崩れている。
﹁治癒促進剤出しとくから寝る前に飲めよ。患部が傷んだ場合は薬
に頼らず冷やせ﹂
﹁はい、ありがとうございます﹂
きちんと感謝の念を込めてランタンは頭を下げた。しかし顔を上
げるとやはり半眼のギルド医の表情がある。
﹁あと栄養剤もください、二つ﹂
つつ
ため息を吐いたギルド医はそろりと指を伸ばしてランタンの左胸
を強く突いた。
﹁髪も切ってやるし、怪我も治してやれるが、死んじまったらどう
にもできねぇからな﹂
怪我の痛みはなくなったというのに、なんとも耳の痛い話だ。ギ
ルド医はランタンから書類を奪い取ると書き込みを加えて、出て行
けとでも言うようにそれを乱暴に押し付けた。
﹁嬢ちゃんも、髪切りたくなったらいつでも来な。べっぴんさんに
してやるぜ﹂
ギルド医は精一杯の笑みなのであろう、にっと笑ったがどうにも
牙を剥いて唸る肉食獣にしか見えない。リリオンはその笑みに震え
るように頷いた。
278
ランタンはそのちぐはぐなやり取りを面白く思いながらも、場の
空気はリリオンにも医者にも決して良いものではなかったのでリリ
オンの腕を取って医務室を後にした。丁寧に医務室の扉を閉めて、
ランタンは笑いを堪えて溜まった肺の空気を入れ替えるように大き
く息を吐いた。
﹁あー、顔の怖いお医者だったね﹂
﹁うん﹂
﹁でも腕は確かだったよ﹂
こっちの方も、と付け加えて髪を指すとリリオンは手を伸ばして
襟足を撫でた。犬を撫でるような擽ったげな感触をリリオンは楽し
んでいるようだったが、やられているランタンからすると鬱陶しい。
摩擦熱で燃えそうだ。
うなだ
﹁︱︱リリオンも切ってもらえばよかったのに﹂
ランタンがそう言うとリリオンは項垂れるように手をおろした。
﹁だって、︱︱怖かったんだもの﹂
ふんべつ
それではしかたがない、とランタンは肩を竦めた。怖がるリリオ
ンをからかうよりも、医務室内でそれを口に出さない分別を褒めた
マント
い気分だった。
外套の裾をこねていたリリオンはその指先を甘えるように伸ばし
たが、しかし何時もならば摘むことのできる上着や外套をランタン
は装備しておらず、結局リリオンは弛みのない肌着の表面を悔しげ
に撫でるだけだった。
ランタンはその手を軽く叩き落として、支払い済ませてくる、と
ギルド医から渡された書類をヒラヒラとさせた。
﹁わたしも行く﹂
リリオンは振り返ったランタンのスボンのベルトをはしと掴んで
引き止めた。
﹁お金払うだけだよ﹂
﹁行くから﹂
見ていても楽しいものではないだろうが、ついてこられて困るも
279
カウンター
のでもない。ひっつき虫状態はまだ収まっていないようだ。ランタ
ンは後ろを離れずついてくるリリオンの気配を感じながら受付台に
書類を提出し、提示された診療報酬と薬代を支払った。そして小さ
な紙袋と二本の小瓶を渡される。
﹁どうも﹂
紙袋の中身は医者の言っていた治癒促進剤だ。透明なカプセルに透
明な液剤が詰められている。
ランタンは紙袋をポーチにねじ込み栄養剤の一つをリリオンに渡
した。
﹁やたら甘いから後で水割りにして飲もう。飲めば明日の筋肉痛が
幾らかマシになるから﹂
ランタンは栄養剤を受け取るのを躊躇うリリオンにそれを押し付
けた。
﹁うん、⋮⋮薬って高いのね﹂
﹁これでも探索者値段だよ、それに治療代も一緒だからね﹂
ここで購入できる薬は購入数を制限されているし、取り揃えてい
る種類も多くはなかったが、普通に買うよりはわずかに割引がされ
ていた。さすがに魔道薬などは処方箋なしに購入することはできず、
治療に使われた場合には稼ぎの少ない探索者などは破産するほどの
・ ・
金額を請求されることもあるがそんな例は稀だ。魔道薬と言っても
ピンキリであり、今回処方された治癒促進剤も魔道薬だがキリなの
で破産しない。
診療報酬もおそらく高くはない、と思う。ランタンは他の治療施
設を教会の経営する救護院しか知らなかったが、あそこは治療代が
お布施などという有耶無耶したものだったので明瞭会計を好むラン
タンはどうにも馴染めなかった。
﹁命の値段だからね。安いぐらいさ﹂
ランタンは言ってギルド内を進んだ。
今からその命をかけて得た物を金に換えるのだ。各種手続きは面
倒くさくもあるが、自分の働きが明確な数字になるのは判りやすく
280
て好ましい。いや、そういった些細なことに楽しみを見出さなけれ
ばやっていられないのだ。
ランタンの足取りは知らず重たくなっている。
今は時刻が遅い時間帯なので買取施設は半分眠っているような状
態だった。複数ある受付台は半数以下しか稼働しておらず、それで
も余るほどしか探索者はいない。時間を持て余している受付嬢にラ
ンタンはギルド証である腕輪を渡した。
﹁ほらリリオンも﹂
その様子を後ろから見ていたリリオンを促して、同じようギルド
証を提出させる。
クラス
へい
どの探索者が何を持込みどれほどの金額を取引したかはギルドに
記録され、探索者の等級を定める際の指標の一つとされる。丙種か
サービス
グレード
ら乙種へ、乙種から甲種へと位が上がればギルドから受けることも
チーム
できる恩恵の品質も上がるのだ。
そのため探索班で得た物を抜け駆けして個人で持ち込むというよ
うなこともあるらしく、それを引き金に探索班が解散するとことも
あるようだ。あるいは解散寸前だからこそなのかもしれないが。
またシビアな値段付けをするギルドの買取施設に獲物を持ち込む
か、それとも他の買取施設に持ち込むかも探索者にとっては悩みの
種らしい。もっともランタンにはあまり関係のない話だった。複雑
な人間関係や、知らない店などには可能な限り近づきたくもない。
医務室に行く前にここにはすでに一度立ち寄って要件は伝えてあ
る。迷宮核の持ち込みはこの買取施設で取引される物の中で最も特
別な物の一つだった。これを持ち込む探索者は夜遅くだろうが朝早
くだろうが歓迎される。
受付嬢はギルド証を白い手袋で一撫でして、深く一礼した。
﹁はい、乙種探索者ランタン様、丙種探索者リリオン様ですね。ご
用意はできておりますので奥のお部屋へとお進み下さい﹂
頷いたランタンはさも当然そうに受付嬢に腕を差し出し、受付嬢
もその差し出された腕にまるで下女のようにギルド証を嵌めた。
281
リリオンも真似をするように腕を差し出したが、炎に触れるかの
ルーキー
ようにおっかなびっくりしている。そんなリリオンに受付嬢は安心
させるように微笑んだ。ギルド証の情報からリリオンが新人で、さ
らには買取施設も初めてだとバレているのだろう。
﹁あ、⋮⋮ありがとう、ございます﹂
﹁︱︱良いお取引であることをお祈りしております﹂
書類を受け取り、受付嬢に見送られて買取施設のその奥へと足を
進めた。
﹁あっちじゃないの?﹂
物珍しげに視線を彷徨わせるリリオンは、他の探索者が足を向け
る個室が連なる通路を指さした。
﹁普通の買取はね。迷宮核の持ち込みは別﹂
やや紫がかった褐色で木目も美しい重厚な扉が買取施設の奥にあ
る。扉の脇にはギルド職員が一人待ち構えている。ランタンたちが
近づくと職員自体が扉の一つの部品であるかのように、滑らかな動
作で扉を開いた。
リリオンがお化け屋敷にでも入るかのようにランタンの腕に縋り
つき、頭を下げるその職員の脇を抜けて扉を潜った。
まず感じるのは足の裏に伝わる柔らかさと、視界を白く染める眩
シャンデリア
しさだ。扉の奥の通路には生い茂る芝生のような赤い絨毯が敷き詰
められていて、天井には葡萄の房に似たきらびやかな装飾照明が光
を放っている。広々とした廊下にはきっと高価なのであろう彫刻や
絵画が飾られていて、リリオンは誘蛾灯に引き寄せられる虫のよう
にそっと手を伸ばそうとした。
﹁壊したら破産だから気をつけてね﹂
﹁ひっ﹂
何気なくそう言うと強力な磁石で引き寄せられたようにリリオン
はひっしとランタンにくっついて、美しいその美術品がまるで醜悪
な汚物であるかのように怯えた様子を見せた。
﹁傷つけなきゃいいだけの話だよ﹂
282
そんなふうにランタンは言ったが、ランタン自身もこの品々に触
れる気にはなれない。ランタンは芸術に対する教養などこれっぽっ
ちも持ち合わせてはいなかったが、この場の雰囲気だけでもこれら
がただ事ではない品々だということだけは肌で感じることができる。
扉の外側の実務的な買取施設に比べて、ここはまるで貴族の館の
ようだった。
一定の温度に保たれた清潔な空気。称えるように降り注ぐ魔道の
メイド
光。踏みつけることで己が偉くなったかのように錯覚させる柔らか
な敷物。物言わぬ美術品が、まるで洗練された召使いのように頭を
垂れて出迎えている。
﹁あぁ、あそこだ。リリオン離れて﹂
通路には充分な距離を置いてぽつりぽつりと扉が備えられている。
それはこの通路に通じていた扉によく似ていたが、より一層重々し
い雰囲気がある。それは暗い金色のドアノブのせいなのかもしれな
ためら
いし、その扉の奥に待ちかまえている面倒をランタンが知っている
せいかもしれない。
ランタンは扉のノックしようとして躊躇った。扉を開くことには、
妙な緊張感がある。
﹁どうしたの?﹂
そんなランタンにリリオンが声を掛けた。
﹁どうもしないよ。⋮⋮さぁ行くか﹂
肚を決めたランタンは二度小さく扉を叩き、できるだけ堂々とゆ
っくり扉を開いた。
ため息が出るような部屋だ。
落ち着いた真珠色の壁に囲まれた広々とした部屋は洗練されてい
る。
窓がないのに圧迫感がないのは天井が高く、壁にかけられた風景
画がまるで窓を開け放ったかのように真に迫っているからだろう。
調度品は格調高く、そこに収められる鑑定道具も通常の個室に置い
てある物よりも光り輝いて見える。絨毯は更に柔らかく脛まで沈み
283
込むかのようだ。
ランタンは靴の泥でも落とすかのように足元の感触を確かめてい
たが、それは逃避行動だった。部屋の中央には水晶を削り出した見
事な机があり、その奥にはギルド職員が三人も座っている。
一人は初老の鑑定士だ。灰銀の髪を綺麗に撫で付け、穏やかで理
知的な細い顔には年齢の分だけ皺が刻まれている。雰囲気から察す
るに探索者上がりの鑑定士ではないのだろう。魔精結晶を鑑定して
もらうことには何も問題はないが、この老人に使えなくなった戦闘
アイボリー
ローブ
服の鑑定させることには多大な羞恥を伴いそうだ。
一人は女の魔道職員だ。象牙色の魔道衣に身を包んでおり、その
ゆったりした衣の上からでも分かるほど痩せていた。神経質そうな
氷色の瞳でランタンたちを眺めている。魔精を読むことに特化した
瞳に見つめられると衣服どころか、皮膚を透過して魂を見られてい
る気分になる。気分のいいものではない。リリオンもそれに感づい
たのかランタンの背に隠れた。
彼女の役割は鑑定士と協力して迷宮核を鑑定することと、ギルド
証の情報を読み取り探索の記録を露わにすることにある。どれほど
の情報をどれほどの精度で読み取られるかを探索者は教えられなか
ったが、少なくとも攻略の成否を隠し通すことは不可能であった。
最後の一人は迷宮管理部の職員だ。この三人の中でも最も癖のな
い顔をしている。やや仕事疲れをした隈のある目に、パラパラと撒
いたように生える顎の無精髭がみっともない。これといって特筆す
るべきところのない男だが、だからこその進行役であり、質問者で
もある。
リリオンの背後で扉が閉まるとほとんど同時に男は立ち上がり、
二人を出迎えた。
﹁ようこそおいでくだいました。お疲れでしょう、どうぞお掛けに
なってください﹂
お疲れなのでそのまま回れ右して帰宅したかった。腰を下ろした
が最後、疲労は更に積み重なるだろう。笑うような声に促されラン
284
タンはゆっくりと椅子に腰を下ろし、書類を机に滑らせた。
﹁リリオン、背嚢下ろしな﹂
﹁どうぞお座りください。自分の家のように楽にしてくださって構
いませんよ﹂
椅子に座っていいものかとどぎまぎしているリリオンからランタ
ンが脱がせるように背嚢を奪うと、すかさず進行役が定型句を飛ば
した。
リリオンはランタンを見て、ランタンが頷くと恐る恐る椅子に座
った。椅子には通路にあった美術品に加えてもいいような見事な刺
繍が背もたれから座面にかけて施されている。象嵌細工の肘掛けを
避けて固めた拳を太腿においたリリオンはどこまでも沈むようなク
ッションに怯えていた。
その様子はとても楽にしているとは言いがたいが進行役は次の段
階へと進んだ。
﹁本日は二六二迷宮の迷宮核をお持ちいただいたということで︱︱﹂
進行役の男は台本を読むようにランタンたちを褒め称え、迷宮に
散った過去の探索者たちを悲しみ、これを攻略したことを喜んだ。
舞台の幕を開けるための前口上だったとしても、ひどくお粗末な
茶番である。リリオンなどは怯えながらも何のことか判らない顔を
しているし、ランタンもつまらない表情を隠さなかった。
ランタンは長々としたその口上を最後まで聞き終えて、それから
ようやく背嚢の中身を机の上に広げた。
戦鎚を振り回すだけで済む最終目標と戦う方が気が楽だ。ランタ
ンは魔精結晶を机の上に並べながら憂鬱なため息を吐き出した。
鑑定士と魔道職員がゆっくりと身を乗り出して、二人はランタン
が魔物と対峙するときと同種の笑みを口元に浮かべるのだった。
285
021
021
リリオンは一文字に切り揃えられた髪を飽きもせず触っている。
身体を清める際にランタンがどうしようかと尋ねたら、切って、と
リリオンがせがんだのだ。技巧も何もなくただ真っ直ぐに鋏を入れ
ただけだが、満足しているのならそれでいい。
ランタンは背もたれに重たげに預けた身体を起こして、リリオン
ランプ
の名前を囁くように呼んだ。リリオンは髪から手を離すと、背筋を
ぴんと伸ばした。
テーブルの脇に置かれた小型の魔道光源がまるで蝋燭の炎のよう
に不安定な光を放っている。安物なのではなくわざわざそういった
風情を楽しむために作られた嗜好品だ。
ランタンはわざとらしい咳払いを一つ吐き出した。揺れる光に照
らされる顔には精神的疲労が色濃く浮かんでいたが、グラスを手に
取ると柔らかく綻んだ。
シードル
ママゴトをするような気恥ずかしさがあったが、こういう物はや
っておくべきなのだろう。ランタンは黄金の林檎酒が満たされたグ
ラスを、対面に座るリリオンに捧げるように掲げた。
ステム
﹁リリオンの初探索と、迷宮の攻略を祝して﹂
グラスの細い脚をリリオンは今にも握り砕きそうにしながら、ず
いとランタンに差し出している。初舞台にアガっている主役そのも
のだ。とは言え自分も人のことは言えないな、とランタンは緊張し
たそのグラスに小鳥の口づけのように軽く自分のグラスを合わせた。
澄んだ硝子の音色に林檎酒の泡が弾ける。
﹁︱︱さ、かっこつけるのはこれぐらいにして食べようか﹂
﹁うん!﹂
286
ボウル
ランタンが恥ずかしさを誤魔化すように早口で捲し立て、林檎酒
に口をつけた。リリオンは握っていた脚から手を放し、器を温める
ように両手で持つと一気飲みにした。
﹁すごぉい⋮⋮おいしい﹂
呆然としたように呟くリリオンにランタンは満足感を覚えながら、
自らもまたグラスを空にした。
幾百もの繊細な泡が立ち上り、それらの一つが弾けるだけで芳醇
な林檎の香りは口腔から肺腑を満たした。舌を擽るような炭酸が林
なかみ
檎の酸味をはっきりと感じさせる。それは酸っぱさではなく爽やか
さだ。
戦いに傷ついた内臓が、そして尋問にも似た取引による神経の摩
耗が慰撫されるのを感じてランタンはうっとりとした息を漏らした。
かまど
探索者ギルドは探索者に様々な恩恵を与えてくれる。例えば予約
必須の宿に無理矢理に部屋を用意させたり、竈の火を落としたのに
も拘らず名物料理を作らせたりとかそういった事だ。無料ではなか
フラグ
ホテル
ったが、本来ならば金を払ってもどうにもならないことだ。
最終目標を撃破し迷宮を攻略した日には、こうして高級宿に泊ま
るのがランタンのささやかな楽しみだった。怪我に障らなければ広
い浴室のある高級宿に泊まっていただろうが、この宿もランタンは
気に入っている。
上街には数多くの宿泊施設が存在し、その内の多くは探索者ギル
ドと契約を結んでいる。この異様に美味い林檎酒を提供することで
有名な黄金の林檎亭はそんな宿泊施設の中でも、人気だの有名だの
と冠がつく高級宿だ。
アップルステーキ
美味いのは林檎酒だけではない。黄金の林檎亭の名に恥じぬ林檎
料理がこの宿の売りだった。
ランタンは白い皿に鎮座する林檎焼きにナイフを入れた。
アップルブランデー
皮を外し厚めに輪切りにされ芯を繰り抜いた林檎はバターでソテ
かぐわ
ーされ黄水晶のように透きとおっている。仕上げに林檎蒸留酒でフ
ランベされており立ち上る香りが芳しい。
287
とろ
一口大に切り取りフォークに刺して持ち上げると金のように重く、
舌に乗せるとねっとりと蕩けた。果肉のその全てが林檎の蜜そのも
のであるかのような、喉が渇くほどの濃厚な甘さは、けれどしつこ
くはない。粘性を持っていた果肉が口内の熱で柔らかく溶けて、喉
を通る時にはもいだばかりの林檎を齧ったような瑞々しさを感じさ
せるのだ。
﹁おいしい?﹂
﹁んっ︱︱すっごく!﹂
リリオンはランタンの教えよりややぎこちなく、けれど指を骨折
した現状のランタンでは文句を言えない程度にナイフとフォークを
操り林檎焼きを口に運んでいた。一口目はランタンの真似をして一
口大に切り取ったが、二口目には残った全てを一刺しにして顔を寄
せるように食らいついている。頬に蜜が付着してぬらりと光った。
食事前、宿に水桶を用意させて身体を拭いたというのにまた汚し
てしまった。ランタンは尻の浮きかけた身体を弛緩させるように椅
子へ戻し、どうせまだ汚れるのだからと自らの食事を再開した。
宿の竈の火を入れさせたとは言え、フルコースを作らせるという
ようなことはさすがにない。林檎酒と林檎焼きと白パンだけだ。ラ
ンタンは空のグラスに林檎酒を注ぎ、千切ったパンに林檎焼きをバ
ターのように伸ばした。
﹁わたしもやる!﹂
﹁⋮⋮すきにしたらいいよ﹂
そんなものは必要ないのに、パンを口に放り込んだランタンの許
可を得てリリオンはパンを半分に割いた。リリオンは半分のパンで
皿に付着した林檎の蜜を丁寧に拭い取り、残りの半分に林檎焼きを
乗せるとサンドイッチにして齧り付いた。
﹁んーおいしー﹂
探索者ギルドの個室に居たときは死んだ魚のような目をして、借
りてきた猫のように沈黙していたというのになんとも現金なことで
ある。もっともあの個室ではリリオンは完全な傍観者であったのだ
288
から、目の前で繰り広げられるやり取りがつまらないと感じるのは
仕方がないといえば仕方がない。やり取りを行う当事者の一人であ
るランタンさえもが、かったるく思っていたのだから。
探索者は攻略した迷宮の情報を探索者ギルドに提出しなければな
らない。迷宮の地形情報や最下層までの所要時間、出現する魔物に
最終目標、また先見偵察隊の見立てと実際の難易度の差異に至るま
ダイヤモンド
で、探索者の持つ全ての情報を探索者ギルドは望んでいた。
探索者ギルト曰く、あなた方が持ち帰った金剛石のように貴重な
情報はこちらで充分に精査、考察し、探索者全ての方へと還元され
ます、との事で、つまるところ情報が正確であればあるほどギルド
が探索者に提供するサービスの質が上がるのだから四の五の言わず
すべて吐き出せと言うわけだった。
ランタンは個室のやり取りを思い出して、喉に這い上がる無粋な
気分を林檎酒で飲み下した。
実感できるほどサービスの質が向上するのならもう少し積極的な
ギブアンドテイク
情報提供が出来るのだが、あるいはそうでなくとも幾らかの金銭的
な見返りでもあればいいのだが持ちつ持たれつなのだから情報に値
段はつかないと言うのがギルドの言い分だった。積極的に金銭を要
求するわけではないが、命がけで持ち帰ったものをさも当然のよう
に要求されるのは面白い話ではない。魔道職員の冴えた瞳を思い出
してぶるりと震えた。
﹁︱︱ランタンどうしたの? おなか痛いの?﹂
切り分けた林檎にフォークを刺して動きを止めたランタンにリリ
オンそっと声を掛けた。その顔には心配気な雰囲気もあるが、視線
がチラチラと林檎焼きへと向かっている。
﹁わたしが食べてあげようか?﹂
﹁大丈夫、ちょっと疲れただけだから﹂
そう言ってフォークを口に運ぶとリリオンはあからさまに残念な
表情を作ってみせた。
まったくもって薄情なことだが、非常に燃費の悪いリリオンはこ
289
れっぽっちの食事では到底満たされないのだろう。すっかり空にな
った皿に落ちる視線がなんとも哀れであり、ランタンは一口分の林
檎を突き刺したフォークをリリオンに向けた。
﹁わ︱︱んっ、おいひぃ、ねぇらんふぁん﹂
フォークをぱくりと口に咥えて唇を窄ませてちゅっと音を立てて
引き抜いたリリオンは飲み込むのが勿体無いとばかりに林檎を飴玉
のように舌で転がしている。林檎の甘みにより分泌された唾液に溺
れるような喋り方だ。
﹁口にものを入れて話をすんじゃない﹂
ランタンがグラスに林檎酒を注ぐとリリオンはそれで口腔を濯ぎ、
言いかけた言葉と一緒に喉の奥へと流し込んで頬を緩ませた。リリ
オンは自分が何か言いかけたことを忘れているのか、次のもう一口
を貰おうと雛鳥のように口を開けて阿呆面を晒している。ランタン
はその口に余ったパンを捩じ込んだ。
﹁まったく、食欲があるのはいいことだけどね﹂
﹁えへへー﹂
﹁今日の換金の時、ちゃんと聞いてた?﹂
ランタンが尋ねるとリリオンはあからさまに視線を逸らした。
﹁⋮⋮こうりゃくした迷宮のこととか。⋮⋮でももう終わった迷宮
なんてどうするのかしら?﹂
リリオンは視線どころか話題も逸らそうとしている。小生意気な、
と思いながらもランタンはその話題に乗ってやった。
﹁攻略済迷宮は新人養成だとか、騎士団や衛兵の実地訓練に使われ
るらしいよ﹂
探索者は探索者ギルドから月単位で迷宮を借受け、これを探索す
る。迷宮は攻略報告をした日に探索権利がギルドへと返納され、そ
れが一ヶ月に満たない場合は日割り計算した賃料の七割が返却され
る。過去には問答無用で探索権利を取り返されたらしいが、その時
代には攻略報告が月末に集中しそれはもう酷い有様だったらしい。
ともあれギルドは手元に返って来た攻略済の迷宮を今度は格安で
290
貸し出すのだ。
迷宮を創りだして維持管理をする源の迷宮核だが、それを失った
からといって迷宮は直ぐに崩壊するわけではない。迷宮内に満ちる
リポップ
魔精は迷宮核から補給されることがなくなるのでやがては底を突く
サルベージ
が、それまでは少数だが魔物が再出現するのだ。それも大幅な弱体
化を伴って。
﹁雑魚魔物を刈っても引き上げ料ととんとんか、下手すれば赤字だ
からね。僕らは賃料が返ってくる、ギルドは商売ができる、新人と
か騎士とかは本番さながらの安全な訓練ができるってわけ﹂
﹁へぇー﹂
﹁へーじゃなくて。もう、やっぱり聞いてない。この辺のことはあ
のおじさんが説明してたでしょ﹂
﹁うぅ⋮⋮ごめんなさい﹂
感嘆の声を上げたリリオンは、ランタンに叱られて一転してしょ
んぼりと肩を落とした。ランタンが一つ溜息を吐いて林檎を突き刺
したフォークを差し出すと、いじけたような表情のままリリオンが
ぱくりと食らいついた。
﹁リリオンもいずれはやる時が来るかもしれないんだから﹂
いぶか
ランタンが言うとリリオンはフォークを口に咥えたまま、もごも
ごと口を動かした。
ランタンは口からフォークを引き抜いて訝しむようにリリオンを
見つめた。白い喉が脈動して林檎を嚥下したのが見て取れる。だが
リリオンはまだ口をもごもごと動かしていた。それはランタンの言
つか
葉をうまく噛み砕けていないようでもあり、また自らの言葉が喉に
閊えているようでもあった。
﹁僕がいなかったら、リリオンは自分でやらなきゃいけないんだよ﹂
ごくり、と飲み込む音が聞こえた。
﹁ランタンはいるよ!﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ランタンは⋮⋮ずっといるのよ﹂
291
かくかく
飲み込んだ何かはリリオンの腹の中で練られ、赫々と燃えるよう
溶岩のようになって吐き出された。その言葉は焦げ付くほどに熱く、
薄ぼんやりとランタンの足元を照らした。
ずっと、ね。ランタンは口の中で言葉を転がして浅く唇を舐めた。
リリオンの言い分は子供の駄々のように身勝手に聞こえたが、ラン
タンの心の内に苛立ちはなく、かと言って喜びもなかった。ただ何
か、持て余しそうな感情の奔流があった。
﹁食べていいよ、これ﹂
﹁︱︱ふぇ?﹂
﹁はい口開けて﹂
ランタンは残っていた林檎焼きをフォークに突き刺しリリオンに
献上した。戸惑うリリオンにランタンはその唇に紅を塗るように林
檎を押し付けた。半開きの唇をそっと抉じ開け、歯茎をなぞると溢
れでた唾液を飲み込むようにリリオンは齧りついた。
リリオンが半ば呆然と林檎を口にしそれを咀嚼しているのを横目
に、ランタンは林檎酒をグラスになみなみと注ぐ。そしてそれを一
気に呷った。
﹁リリオン﹂
ランタンはナプキンで乱暴に唇を拭った。
﹁︱︱そんなこと言って僕に面倒事丸投げにする気?﹂
﹁えぇっ!? ちがうわ、そうじゃなくて﹂
﹁さーどうかな、本当かな?﹂
そうじゃない、のはわかっている。ランタンはそれでもニヤニヤ
と意地の悪い笑みを口元にはりつけてリリオンを言葉で突っついた。
リリオンは怒ったように頬を膨らませてドンとテーブルを叩いて立
ち上がり、身を乗り出して声を張り上げた。
﹁本当よ!﹂
﹁うん、わかってるよ﹂
ぬぐ
ランタンはずいと寄せられたリリオンの顔に手を伸ばし、汚れた
頬や唇を拭った。膨らんだ頬を押すと悪態を付くようにぶぶぶと音
292
を立てて唇から空気が漏れる。リリオンは唇を突き出したままラン
タンを睨んだ。
﹁他の客に迷惑だから静かにね﹂
﹁むー﹂
ランタンは人差し指を立てて唇に当てた。
日付ももう変わろうかという時刻であり、無理やり用意させた部
屋は個室だがそれほど上等な部屋ではなく壁に防音処理は施されて
いない。よその部屋からの苦情でもきたら申し訳ないし、面倒だ。
ランタンは食べ終わった食器にナプキンを被せるとリリオンから
逃げるように椅子を離れ、尻の置き場所をベッドの上に変えた。ラ
スリッパ
ンタンもリリオンも戦闘服を脱いでおり、すでに寝衣に着替えてい
る。ランタンは室内履きを蹴飛ばすように脱いで、足を揺らした。
﹁リリオンはさ、探索者になりたいって言ってたよね﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁どうだった今回の探索は?﹂
リリオンは林檎酒のボトルを掲げてランタンに飲んでもいいかと
尋ねた。ランタンが目を伏せるように頷くとリリオンは林檎酒をグ
ラスに注ぐと唇を湿らせるように口を付けた。
﹁はじめはちょっと怖かったの、⋮⋮魔精酔いはきもちわるいし、
魔物はどれも大きいし。でもランタンがいっぱい助けて︱︱﹂
﹁あっ、そのへん飛ばして﹂
﹁なんでよっ!? ランタンのこといっぱいほめたいわ!﹂
﹁ありがとう、でもいいから﹂
ガイド
インストラクター
褒められたら照れてしまうし、どれほどリリオンに褒められよう
リーダー
とも案内役としても指導教官としても二流だったことは自覚してい
る。あるいは探索班の指揮者としては生還できたのだから最低では
ないが、それに近い部類だともじわじわと実感し始めている。落ち
着いて今回の探索を振り返ると、染み出すように反省点が思い出さ
れる。
褒められると照れてしまう。だがそれ以上に情けなさで、自分の
293
ことだけでいっぱいになってしまうだろう。非常に不満げな顔のリ
きし
リオンを見ていると余計にそう思う。リリオンが満足するまで言葉
を吐き出せば、その過大評価にランタンは耐えられず愧死するだろ
う。恥ずかしくて死ぬなんて、せっかく迷宮から生きて帰って来ら
れたのにそんな死に方は嫌だ。
ランタンは先を急かすように手を仰いだ。リリオンはちびちびと
飲んでいた林檎酒を一口呷り、ランタンが作ってくれた迷宮料理は
美味しかったわ、とジャブのように素早く褒めて、してやったりと
笑った。
﹁わたし、怖くなかったの。あのクマにも、大きくてびっくりした
けど、本当よ。わたし怖くなかったわ﹂
リリオンはグラスを空にしてテーブルの上に置いた。
ストームベア
ランタンはすっと目を細めた。強がりなのかもしれないが、あの
嵐熊を怖くないと言い切れるのはいい事だ。ランタンは身体に打ち
付けられた嵐熊の攻撃を思い出して首筋が寒くなった。戦闘中は脳
内麻薬のせいか高揚してどうにも自制が効かなくなっていけない。
だからこんなにも怪我を︱︱
あぁまた自分のことだ、とランタンは舌打ちをしかけて、けれど
それは音にはならなかった。
﹁ランタンはわたしの前にいつもいてくれたもの。迷宮を歩くとき
も、クマと戦う時も、ランタンの背中が目の前にあって、︱︱ラン
タン﹂
﹁なんだい?﹂
﹁守ってくれて、ありがとう﹂
不意打ちだ。
だから飛ばせと言ったのに。
﹁あぁ、︱︱どういたしまして﹂
ランタンはどさりとベッドに倒れこみ、真っ赤に羞恥した顔を隠
した。林檎酒のアルコール度数はそれほど高くないので酒に酔った
などという言い訳はできない。つまりは、羞恥に混ざるこの少し嬉
294
しらふ
しく思ってしまった感情は素面のそれと変わらないわけだ。そのこ
ふひょう
とがさらなる羞恥を呼び寄せ、だというのに喜びの感情は押し流さ
れることもなく浮標のように変わらずそこにあった。
﹁うぅ⋮⋮﹂
ランタンはぼんやりと天井を眺めながら、笑っているような泣い
ているような震える声を出した。
﹁リリオンは探索者、続ける?﹂
﹁どういうこと? ⋮⋮わたし、足でまといだった?﹂
﹁リリオンはよくやってくれたよ﹂
ランタンは自らの首に触れて熱が下がったことを確認すると、足
を振って身体を起こした。リリオンが直ぐ側に来ていて、勢い余っ
て前のめりになったランタンを支えた。さすがに急制動は折れた肋
骨に負担がかかる。
フラグ
ランタンはリリオンの手を掴み、そっと隣りに座らせた。ベッド
のバネが沈む。
ルーキー
﹁リリオンは怖くないって言うけど、やっぱり最終目標はどうした
って壁なんだよ﹂
﹁かべ?﹂
﹁うん、最下層まで到達してもそこから戻ってこれない新人は多い
んだ。それを打倒して生還しても、廃業しちゃう人もね﹂
最終目標との戦闘で刻まれる傷は肉体にばかりではなく心まで達
することもある。金さえ積み上げれば肉体的な損傷を癒すことはで
きるかもしれないが、心の傷は万能のように思える魔道であっても
なかなかに難しいらしい。
﹁リリオンは、どうする?﹂
﹁わたしはやめないわ﹂
握り締められる拳の軋みがランタンにまで聞こえるようだった。
ベッドが再び軋む、まるで一回リリオンが重たくなったように。
﹁やっと探索者になれたんだもの﹂
リリオンは即答し、その声はいつもと変わらず甘やかなはずなの
295
に、鋼のような硬質さを持っている。
ヘーゼル
﹁そっか、そう言えば僕と出会ったときは探索者になるのが目標だ
ったね﹂
懐かしむように呟いて、ランタンは淡褐色の瞳に問いかけた。
﹁じゃあ、今は?﹂
ゆっくりとした瞬きを一つ。瞼の下から現れるリリオンの瞳は色
を変えない。
﹁わたしは強くなりたい﹂
探索者になりたい、もそうだった。強くなりたい、は結果ではな
く過程だろう。
迷宮を鍛錬の場と捉える探索者もいる。だがそのそれは強くなる
ことで武名を高め、貴族に召し抱えられたり、騎士叙勲や、あるい
はそこから更に戦果を上げて爵位を賜われることを夢見るなど、上
昇志向の現れである。強くなることはそこに至るまでの通過点にす
ぎない。
強くなる事自体を目標にする修行僧のような探索者も居ることに
は居るらしいが純粋にそれのみを求めている探索者をランタンは知
らない。もっともランタンが知っていると言える探索者の数などた
かが知れていたが。
前者にしろ後者にしろ、あるいはまた別の理由にしろ目標がある
のはいいことだ、とランタンは思った。
﹁ランタンは、どうして探索者をしているの?﹂
﹁︱︱お金のためだよ﹂
ランタンは言ってから、これも過程だな、と喉の奥で呟いた。
生きるためには金がいる。いやこの世界、無一文で生きていく者
いる。鼠の肉を喰らい泥水を啜る生活を営む者はここからちょっと
壁を越えて下街に行けば見かけることができる。
だが生きるためには金がいるのだ。少なくともランタンが耐えら
れる程度の生活水準を維持するためには、満足できる生活水準まで
引き上げるためには。
296
最初の志はどうであれ、何度か迷宮に潜った探索者なんてそんな
ものだ。探索業には様々な可能性が秘められているが、結局は生活
のための仕事に成り下がってしまった。探索者ギルドで石を投げれ
ば高確率でそういった者に当たるだろう。
生きるために、あのような死地に赴くなど馬鹿げている。だが探
フェロモン
索者が馬鹿なのは己で実感済みだ。迷宮は食虫植物に例えられるこ
とがあり、もしかしたら探索者を惹きつける妙な誘引物質でも放っ
ているのかもしれない。馬鹿なのでそういった誘惑に弱いのだろう。
くくく、と頬が引きつった。
﹁ランタン、ランタン﹂
﹁ん?﹂
﹁その顔ヤだ﹂
肩を揺すったリリオンは手を肩からランタンの頬に伸ばして、唇
の形を変えるように指で頬を押したり捏ねたりした。どんな顔をし
ていたかわからないがランタンは鬱陶しげな表情を作ってから、ラ
ンタンはその頬の手をよいしょとどかして、ベッドの上に放した。
放たれた手は蜘蛛のように動いてランタンの太腿に乗ると、五本
の脚を動かしてそれを撫でた。
たしな
﹁くすぐったいよ﹂
ぱちんと叩いて窘める。
﹁リリオン﹂
窘めるついでにランタンは言った。
﹁お金は大切だよ﹂
いらない、とリリオンは迷宮特区からギルドに向かう道すがらに
言った。
エネルギー
それはあまりに唐突だったし場所が場所だけに腰を据えて話をす
るわけにも、それどころか脳に糖分も足りていなかったので、あん
な不本意な方法をとるしかなったが、命令だからもらうのではなく
その理由をきちんと知るべきだった。例え十歳の子供であろうとも。
﹁あの発言はよくない﹂
297
﹁⋮⋮だって﹂
﹁探索をするにはお金がかかるんだよ﹂
口答えしようとしたリリオンを遮ってランタンはわざとらしく深
あぐら
刻そうな声を出した。ベッドに腰掛けていたランタンはリリオンに
向き直り胡座をかいた。それを受けてリリオンもベッドに上がって
ぺたんと座った。
﹁例えばね﹂
例えば今この状態からリリオンが次の探索を行おうとする場合、
金銭を必要とすることは多くある。
ランタンは壁に立てかけてある方盾を指さした。
それは嵐熊の突進を何度も受け止めたのでへこみ歪んでいる。そ
こに収められた剣は刃が潰れ脂で曇り、こう言っては何だが鉄板で
しかない。ただの魔物相手ならば鈍器として使用すれば良いが、最
終目標に叩きつけるには不安が残る。
﹁で、探索食や、水筒用の水精結晶も買うでしょ。あと傷薬も。そ
れで終わりじゃないよ。用意が済んだらギルドで迷宮も借りなきゃ
ならないし、迷宮を借りたら引き上げ屋に降ろしてもらわなきゃな
らない﹂
﹁うー⋮⋮﹂
﹁うー、じゃないよ﹂
ランタンは膝立ちになっていまいちピンときていない顔をしたリ
リオンの頬を優しく撫でた。肉の下の平らな頬骨が指先に触れる。
少し肥えたかと思ったが、一度の探索でまた痩せてしまった。
頬ばかりではない。水桶で身体を清めた際に晒され、そしてラン
タンが洗ってやったその身体はせっかく隠れた骨がまた浮き出そう
としていた。
﹁リリオンは強くなりたいんでしょ?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁その為にはご飯もいっぱい食べなきゃだめだよ﹂
﹁ごはん?﹂
298
﹁そうだよ﹂
ぱくりと食いつくような反応見せたリリオンにランタンは未だか
つて使用した記憶のない知識を脳の奥からひきずり出し、けれど三
大栄養素がどうのと言っても理解はされないだろうと思い直して、
また奥底へしまった。
﹁⋮⋮︱︱えーっと、米とかパンとかの主食、それと肉と野菜を好
き嫌いなくバランスよくいっぱい食べるんだよ。そうすると強くな
れるんだよ。たしか、︱︱たぶん、ね﹂
﹁わたし好き嫌いないよ!﹂
﹁うん、それはいいね。でもお金がないと、何も食べられないよ﹂
ランタンが囁くように言うとリリオンは雷に打たれたような顔を
した。リリオンは首を支える力を失ったかのように頬に触れるラン
タンの掌にもたれて、そのまま健気な瞳をランタンに寄越した。
﹁お腹が空くと力がでないでしょ?﹂
﹁うん﹂
﹁リリオン、⋮⋮お金どうする?﹂
﹁ほしい﹂
食事は強くなるために必要な要素だ。ランタンはゆっくりと深く
頷いて、するりとリリオンの頭を支える手を引きぬいた。リリオン
は頭の重みに引きずられてごろんとベッドに寝転がった。
﹁明日の朝ごはんは期待してていいよ﹂
ランタンはそろりとリリオンの頭を撫ででてベッドを降りた。リ
リオンの手が伸びてランタンの寝衣を掴もうとしたが振り向きもせ
ずそれを躱した。
つつ
ランタンはテーブルの上のボトルを揺らして林檎酒の残りを確か
めるとそれで処方された治癒促進剤を飲み込んだ。魔道光源を突い
て灯りを消すと、部屋に一つしかないベッドに身体を横たえる。
さすがにツインルームもダブルルームも用意させることはできな
かった。エキストラベッドなんて気の利いたものも存在しない。だ
が小躯のランタンと痩躯のリリオンならば充分だった。ランタンは
299
もぞもぞと身体を寄せてくるリリオンを押し返した。
﹁⋮⋮そっち行っても良い?﹂
暗闇の中で声が響く。
﹁やだ﹂
﹁なんで!﹂
﹁リリオンおねしょするもん﹂
﹁い︱︱いじるわる言わないで!﹂
治癒促進剤に誘発された眠気がそろそろと這い上がってきている。
ランタンは薄目を開いて部屋の隅に干した三角形の布切れを眺め
た。あれが汚れたのはたぶん嵐熊に吠えられた時だ。リリオン曰く、
ちょっとだけ、らしいので忙しくしている間に乾いたようだが、痒
くなる前に綺麗にできてよかった。怖くなかった、と言ったリリオ
ンを思い出してランタンは小さく笑った。
﹁無視しないでよ!﹂
﹁あー⋮⋮はい。リリオンはさぁ﹂
眠く、声が間延びしている。身体が傷を癒やそうとランタンの意
識を落とそうとしている。ランタンは自分の声が他人の物のように
思えた。
﹁なんで、強くなりたいの?﹂
林檎によって補充された糖質さえも傷を癒すためのエネルギーと
なって消費されてゆく。自分で何を言っているのか、ランタンはあ
まり認識していなかった。それはもう寝言のようなものだった。
﹁⋮⋮﹂
リリオンは答えなかった。
布団の下でランタンに絡み付こうとする手が力を失い、訪れた静
寂に眠気が深まってランタンの肉体が赤子のように暖かくなった。
防御していたランタンの手もすっかりと弛緩しベッドに横たわった。
その隙を見てリリオンがランタンに遠慮がちに近づいて、爪先で
みじろ
ちょっかいを掛けるようにそっとランタンの脛を突っついた。ラン
タンは無抵抗で、少し身動ぎしただけだった。
300
リリオンは更に、閉じられたランタンの膝を割るように足を絡め
ると大胆にもベッドの隅に小さい身体を自らの方へと抱き寄せた。
そして髪を食むかのように、ランタンの顔を胸に導くと唇を動かし
た。
﹁⋮⋮わたしは、強くなって︱︱﹂
リリオンの呟きは引きずり込まれるように意識を失いつつあるラ
ンタンには届かなかった。抱きつかれた骨の痛みさえも眠気を吹き
飛ばすには物足りず、ランタンにはその呟きの、声の硬ささえ聞こ
えていない。
ただ次第に大きくなるような心臓の鼓動がうるさくて、ランタン
は無意識に痩せた背中を撫で、そのまま眠りに落ちた。
301
022
022
まどろ
微睡みはなく、ただ眩しさに瞬きをしたかのように目を覚ました。
指の先まで感覚が行き渡っている。ランタンが寝起きに感じたの
は自分のものではない体温と濡れた冷たさだった。
シーツがぐっしょりと湿っている。
ランタンは獲物を捕らえた蜘蛛のように絡みつくリリオンの手足
を引き剥がして、念のため掛け布団をめくりリリオンの下半身の辺
りに世界地図が描かれていないことを確認してベッドから降りた。
リリオンが粗相をした、と言うわけではないようだ。
治癒促進剤の影響で炎天下の中を走り回ったように寝汗を掻いて
いた。額に張り付く前髪を掻き上げて、濡れた掌を夜着で拭う。そ
の夜着さえも酷く湿って、重たくすらある。
ランタンは部屋の扉を開けて従業員の小僧を見つけると沐浴用の
水桶を持ってくるように頼んだ。小僧が水桶を持ってくると、あら
れもない姿のリリオンを布団の下に隠して、部屋に通して昨晩の食
器類を片付けさせた。
ランタンはベッドにどさりと座り、小僧の仕事ぶりを眺めた。
小僧の顔付きは大人びて見えるがランタンよりも年下だろう。お
そらく十二、三歳くらいで、ランタンの視線が気になるのか緊張し
ている。これぐらいの年齢ならば、こうして仕事の見習いをするの
が普通なのだろう。
ランタンはベッドの膨らみを振り返った。ぎしりと軋んだベッド
の振動に、それこそ糸に絡まった獲物の振動を感知する蜘蛛のよう
に、掛け布団の下から白い腕が腰に絡みついてきた。
﹁うー⋮⋮うぅ⋮⋮﹂
302
リリオンがまだ目蓋の開き切らない眠たげな顔を布団から覗かせ
た。そして這うように近づき、ランタンの腰に顔を押し付けて呻い
うかが
ている。ランタンは小さく頬を緩め、汗と皮脂でベタベタの髪に指
を通した。
小僧がこちらをチラチラと窺っている。小僧の対応は接客業とし
ては落第点だが、怒るほどのことでもない。大人びた顔が一転して
純情な少年のもののようになっていて、その心理はランタンにも理
解できる。
小僧の位置からでは腰に絡みつく艶かしい色白の腕だけが見えて、
その腕の持ち主が涎を垂らしていたり睫毛に目ヤニをつけている様
などは窺い知ることができないのだ。大方、小僧の頭の中ではこの
白い腕の持ち主が、それに相応しい大人の女性の姿で補完されてい
るのだろう。
ランタンは口元に憐れむような笑みを浮かべながらリリオンの後
頭部から項に手を滑らせた。
小僧の幻想を壊すのも可哀想だ。ランタンは腰を掴む手を擽るよ
うに剥がし、リリオンの寝ぼけ顔を掛け布団の下に沈めてベッドか
ら降りた。
沐浴をして着替えてリリオンを起こして用意をさせて、とランタ
チップ
ンは時間を計算し、一時間後に朝食を運ぶように伝えて小僧に多め
の心付けを握らせた。
扉の鍵を掛けてランタンは全裸になった。汗を吸って重たく張り
付く夜着は床に落とすとびしゃりと音を立て、顕になった身体には
部屋に籠った空気でさえ涼やかに感じる。指を固定していたテープ
を剥がし、傷口に巻いた包帯さえも取り外すとそこに血液が流れこ
む痺れがあった。
ランタンはそっと腕を撫でた。
腕の裂傷は白い傷跡を残してはいたが、軟膏で張付けた皮膚は収
まり良く癒着して傷自体は塞がっている。だが肘や手首を曲げると
ギルド医の言っていたように皮膚が引っ張られる感じがした。瞬間
303
的に力が加わると癒着した皮膚が千切れそうだ。
骨折の方も同じような感じだろう。指の腫れは引いて開くのも握
るのも不便はない。だが骨は完全に修復されているわけではなく、
言うなれば接着剤がまだ半乾きの状態なのだろう。
だが身体を洗うことに不便はない。じゃぶじゃぶと顔を洗って、
薄皮のように肌に張り付く汗を濡らしたタオルで拭い、身体を隅々
まで清めた。随分とスッキリしたがやはり風呂には入りたい。ラン
ピーピングトム
タンは汚れたタオルを脇に捨てて下着だけを身につけると、リリオ
ンを起こそうと振り返った。
﹁⋮⋮﹂
ひそ
盛り上がった布団の下から不埒な視線が覗いている。覗き見野郎
ひっぺ
は小僧ばかりではなかったらしい。ランタンは眉を顰めて掛け布団
を引剥がした。
﹁おはよう﹂
﹁⋮⋮はよう﹂
爽やかさのない朝の挨拶を吐き出してランタンはリリオンの顔を
冷淡に見つめた。意識的にそうしなければランタンは顔を赤くして
いただろう。裸などもう何度も見られているが慣れるものではない。
﹁見てた?﹂
﹁⋮⋮みてた﹂
ランタンは大きくため息を吐いて表情を崩すとリリオンの頭を撫
でるように叩いた。
﹁じゃあどうすればいいか判るね﹂
﹁ランタン︱︱﹂
﹁手伝わないよ。︱︱おねしょしたなら別だけど﹂
昨晩あまりにも手際が悪すぎてランタンが手伝ってやったが、そ
れを踏まえて時間は充分にとってある。ランタンはリリオンの甘え
た声を一蹴して、意識的に背を向ける。
﹁おねしょしてないよっ﹂
リリオンがぺたぺたとランタンの背中を叩いて文句を言いった。
304
﹁はいはい、わかったから。さっさと済ませて﹂
背後から一拍置いて、衣擦れの音が聞こえ、それを背景音にラン
タンは着替え始めた。
ブーツ
しかし上着も外套も失っている。ズボンに足を通し、靴下を履き、
肌着を身につけ、戦闘靴に足を突っ込めばそれでお終いだ。
わざとらしく靴紐も解いたり結び直したりする作業は酷く虚しい。
そんなランタンの気も知らず背後からはちゃぷちゃぷと水桶をかき
混ぜる音が響いている。
覗き見野郎の仲間入りは御免だが、すっかり着替えも終えたとい
うのに壁に向かっているというのは馬鹿みたいだ。リリオンの裸体
を見たからと言って、何かあるわけではないのだから。
﹁︱︱ねぇランタン﹂
﹁なに?﹂
つまり振り向いたのはリリオンに呼ばれたからであって、そこに
ランタンの意志は介在していない。
垂れた髪の隙間から肩甲骨の浮き出る白い背中が眩しく、ランタ
ンは目を細めた。背骨を滑るように視線を下げると尾骨の尖った痩
せた尻が顕になった。それは平べったい子供の尻だ。昨晩はもう少
し丸かったような気もする。
﹁背中ふいて﹂
﹁他は?﹂
﹁ちゃんと洗ったわ。指の間も﹂
ならば良いか、とランタンは尻から視線を外してタオルを受け取
った。リリオンは背に垂れる髪を項から一気に胸の前に引き寄せた。
その顕になった背中にタオルを押し当てた。
リリオンはやはり痩せてしまっている。背中を洗っているのか、
それとも肋骨を洗濯板代わりにタオルを洗っているのか分からない
ような有様だった。
戦闘どころか睡眠をとっても痩せるとは。
昨晩はもう少しマシだったのだが、やはり肉を食わせなければダ
305
メだな、とランタンはすっかり綺麗になった背中に指を這わせた。
肉の厚みを測るように指を押し付けると、骨の硬さに触れた。
﹁︱︱やん、ランタン、⋮⋮くすぐったいわ﹂
思いがけず聞こえた甘い声に、品定めでもするような目つきにな
っていたランタンは慌てて指を離してそっぽを向いて目蓋を閉じた。
リリオンが何一つ隠さず振り向いて、横目に小首を傾げる姿が映っ
たのだ。
﹁ふけた?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
ランタンは小さく頷き、聞き耳をたててリリオンが服を身につけ
る気配を探った。下着を履き、肌着に袖を通し、ズボンに足を通す。
リリオンは立ったまま靴下を履けないので座り、そのベッドの軋み
を合図にランタンは目蓋を開けた。
﹁なんか、くるしい﹂
﹁服が前後逆だよ﹂
ノックの音が響き、ランタンはリリオンを扉から見えない所に追
いやった。
扉を開くと今朝の小僧が朝食を載せた台車を押してやってきた。
チップ
小僧は部屋の中が気になっているようだったが、ランタンは食事の
セッティングを断って心付けを握らせて部屋の中には入れなかった。
へそ
涎も拭きとってあるし目ヤニも付いていないが、服の前後を変える
ために臍が丸出しだった。
小僧を追い払い、テーブルの上に料理を並べる。
朝食は多めに頼んだのだが、もう少し増やしてもらえばよかった
エネルギー
のかもしれない。リリオンは失った肉を取り戻そうとするかのよう
な健啖家ぶりを発揮して、ランタンも傷を癒すために消費した熱量
を欲していた。
卵を五つ使ったオムレツには賽の目に切った炒めた鳥肉と彩りも
美しい野菜が混ぜ込まれていた。卵はやや甘く生クリームが混ぜら
れていてふっくらとして、野菜はシャキシャキと歯ごたえ良く、鳥
306
シードル
肉の旨味は卵のまろやかさをよく引き立てた。
パンは林檎酒の酵母で醗酵させた物で生地に林檎の果肉が混ぜら
れている。酸味があり生地自体はやや固めで素朴な味わいだ。林檎
を絞ったジュースにはよく合って、リリオンはこれを気に入ったよ
うだった。だがランタンには少しジュースが甘すぎたので水で割っ
た。
他にも豆を磨り潰したスープや、キノコとほうれん草のパイ包み、
分厚いハムステーキや山盛りのチーズサラダなどでテーブルの上は
いっぱいになっていたが、それらを全て胃袋に収めても腹八分目と
いうところだった。上背のあるリリオンはきっと八分目にも達して
いないのかもしれない。
﹁足りないね﹂
ランタンが言うとリリオンは小さく頷いて、ジュースを飲み干し
たコップに水を注いでそれを飲んだ。料理を追加してもよかったが、
それよりも部屋を引き払って目抜き通りで買い食いでもしたほうが
よさそうだった。
す
そう決めたら欠食児童二人の行動は早かった。ランタンはリリオ
ンの髪を爪を研ぐように手櫛で大雑把に梳いて、首の後で一纏めに
縛った。あとはもう背嚢を背負い、外套を羽織り、武器を持てばお
しまいだ。五分も掛からなかった。
目抜き通りに出るまでの繋ぎとして丸ごとの林檎を齧りながら二
な
ま
人は朝の街を歩く。街はもうすっかりと目覚めていて爽やかさと喧
騒が綯い交ぜになっていた。
ランタンは肌着から剥き出しになった腕を心許なそうに擦りなが
ら良さそうな戦闘服がないかと視線を彷徨わせていた。
ランタンは防御性能は求めていない。必要な要素は着心地の良さ
だ。そういう意味では今まで着ていた上着は良かった。古着として
売り払わずに袖を仕立て直してもらっても良かったかもしれない。
﹁ねぇランタン、これはどう?﹂
ぺろりと林檎を平らげて今は串焼き肉を手に持ったリリオンがそ
307
ショーウィンドウ
の串で陳列窓を指した。陳列窓に飾られたそれは上下一揃いだった
ペアルック
し、どう見ても女物だった。リリオンの着ている戦闘服に酷似して
いる。着れないことはないが着たくはなかった。せっかくお揃いか
ら脱却できるのだから、その機会を逃す手はない。
﹁うん、まぁ、いいけど。もうちょっと見てからね﹂
ランタンは同意する振りをして言葉を濁し、リリオンの手を引い
て陳列窓の前から離れた。あまり露骨に拒否をすると面倒くさいこ
いたいけ
とになりそうな気配がしたのだ。あれにすればいいのに、と呟く拗
ねるような声は幼気で少し心が動かされはしたが、今はまだ買うつ
もりはない。
ポーチには金貨が詰められていたが、そもそもこの金を戦闘服に
当てるつもりはないのだ。まずはグラン武具工房に出向いて武器の
ウォーハンマー
整備をしてもらわなければならない。
素材から厳選して特注した戦鎚とあり物を仕立て直した方盾を比
べるのは可哀想だが、戦鎚は素人目には問題無さそうで盾は素人目
にも整備行きだった。剣などは鞘にしまえば人目から隠せるが盾は
せわ
そういう訳にはいかず、見窄らしい物を衆目に晒しても得られるも
のは同情と侮りだけだった。
職人街に入ると爽やかさを吹き飛ばす忙しない音が響いている。
曰く日の出から日の入りまでこの調子だというのだから頭が下がる。
ランタンなら三日ともたず難聴になりそうだ。
シャッター
ランタンは道中に買った揚げ芋をほくほくと食らいながらグラン
武具工房の鎧戸を開け放った作業場に足を踏み入れた。
﹁おはようございまーす!﹂
工房には多くの職人が鍛冶に勤しんでいた。揃いも揃ってむさ苦
しい男たちが焼けた鉄が跳ねるのも気にせずに上半身も剥き出しに
して金槌を振り下ろしている。金属を叩き鍛える音色の隙間を子供
特有の硬質な声が通り抜けた。
幾人もの職人の視線が向けられてリリオンがランタンの手を握り
しめた。前に来たときは職人たちに休暇を与えていたのかグランと
308
リヒトしかいなかったので驚いているようだ。
いや、とランタンはリリオンの表情を見上げた。これは怖がって
いるようだ。武具職人たちは探索者顔負けの獰猛な雰囲気を持って
いる。
﹁おはよう﹂
カップ
リヒトが工房の奥から出てきて笑みを浮かべた。二人揃ってペコ
リと頭を下げるとリヒトはひょいと手を伸ばして紙器に入った揚げ
芋を口に運んだ。
﹁んまい。んで今日は何のようだい︱︱って、あぁ、これはひどい
な﹂
﹁それもですが、こっちもお願いしたいんです﹂
盾を一目見て苦く笑ったリヒトにランタンは腰の戦鎚を叩いてみ
フラグ
せた。
﹁最終目標かい?﹂
ランタンが頷くとリヒトは頭を掻いた。一度の探索で武具をここ
まで消耗させるに相手はそうはいない。
﹁親方呼んでくるよ。戦鎚の方は俺じゃどうにもならん。おーい、
これ預かってやってくれ!﹂
﹁ういっす!!﹂
リヒトが振り返って誰にともなく声を張り上げると職人が二人、
威勢の良い返事をしながら寄ってきた。突進するようなその威圧感
にリリオンは固まっていて、職人たちは怖がられることに慣れてい
るのか固まったリリオンに一言断りを入れると張り付いた氷でも剥
がすように背負った盾を受け取り、紙器から揚げ芋を奪っていった。
﹁うまい!﹂
汗を流す仕事なので塩分に飢えているのかもしれない。職人たち
は知らない顔ではないし揚げ芋も高価なものではないので別に怒る
ようなことではない。まだまだ満腹ではなかったが。
職人たちが離れていってリリオンは肩を撫で下ろした。工房内は
炉の熱が充満しており繋いだ手の中に汗が浮き出ていた。ランタン
309
はいのう
は工房の奥からグランが出てきたのを見てその手を離し背嚢を下ろ
した。
や
﹁おはようございます﹂
﹁おう、最終目標と戦ったんだって?﹂
ランタンの挨拶にグランは手を上げて応えると、よく帰って来た
と言わんばかりに勢いよくランタンの背を叩いた。もう少し下だっ
たらせっかく繋がった骨がずれてしまいそうな一撃にランタンは咳
き込んでグランを睨んだ。
だがグランはそれを無視してリリオンの肩もバンバンと叩いて大
きく笑い、ひと通り笑い終えるといつもの様にずいと手を伸ばした。
ランタンは諦めたように睨むのを止めて、その手に戦鎚を差し出
した。
﹁⋮⋮ふむ、︱︱象でもふっ飛ばしたか?﹂
﹁熊です﹂
﹁︱︱熊、か。そらぁ難儀なことだ﹂
グランはじっと柄を眺め、槌頭を愛撫するように撫でた。ぼてっ
え
ヘッド
とした目蓋の下で黒い瞳が瞬きもせずに戦鎚を調べている。
﹁柄がちょい反ってるな。頭も熱で少し歪んだか。⋮⋮三日預かり
だな﹂
﹁三日ですか﹂
﹁あぁ、当日仕上げなら別料金だ﹂
良くしてもらっている、という実感はあるが贔屓はされない。そ
れは当たり前のことだし速く仕上げてもらいたければ金を積むのが
常識だった。愛用の武器を三日間も手放すのは恐ろしいが、急ぎの
探索もないので仕方のない事だ。
﹁リヒトぉ! そっちはどうだ!﹂
ひしゃ
﹁盾はまぁいいんですが、剣の方は研ぎだけじゃ無理ですね。打ち
直しますよ﹂
盾から引き抜かれた剣は半ば辺りで刃が拉げ潰れている。その様
子を見たグランの眉がぐわりと震えて、ゴツゴツとした手がランタ
310
ンの頭を鷲掴みにした。
﹁おい、あれ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁どうみてもお前の仕業だよな﹂
のみ
﹁⋮⋮熊の腕を落とすのに必要だったんです﹂
﹁ちっ⋮⋮だからってなぁ鑿じゃないんだぞ。いっそ片刃の剣でも
拵えるか?﹂
なぁ、とグランはランタンの頭を揺すりながらリリオンに問いか
けた。
リリオンはぐらぐらと揺れるランタンの視線と目が合わないので
眉を八の字にして、困ったようにグランとランタンの顔を何度も見
比べた。
クライアント
﹁えっ、あの、あの。わたし、今のままで、いいです﹂
﹁嬢ちゃんも顧客なんだから好き勝手言ってくれていんだぞ。盾が
重いだの剣が軽いだのとな。︱︱小僧なんかそりゃもう﹂
金も常識も持ち合わせていなかった過去を晒されそうになったラ
メンテ
ンタンは、グランの手の中から逃げ出して慌てて話題を変えた。
﹁︱︱実は整備以外にもお願いがありまして﹂
﹁なんだ?﹂
ランタンは背嚢をがさごそと漁り丸めた外套を取り出すと、その
中に包んだ嵐熊の爪を露わにした。グランはその爪を見て、ふんと
鼻を鳴らした。
﹁どうせなら熊の手、丸ごと持ってこい。ありゃあ珍味だぞ﹂
﹁それは気が利かなくて申し訳ないです﹂
﹁冗談だよ、でこれどうするんだ?﹂ 嵐熊の鉤爪は鋭く湾曲して二十センチ強ほどの長さでランタンの
ナイフ
戦鎚と打ち合っても欠けぬ程硬く、そして軽金属のように軽かった。
狩猟刀の代わりにならないかな、と思ったので持って帰って来たの
だ。
グランは爪を一本手に取るとがじりと口に咥えた。そして干し肉
311
でも噛むように何度か咀嚼すると少し難しい顔をして吐き出した。
﹁硬度は充分に有りそうだな、靱性も悪くない。素材の特性を見る
ために一本潰しちまってもいいか?﹂
﹁構いません、と言うかナイフ二本出来ればいいので。余るんなら
好きにしていいです﹂
オーダーメイド
﹁そらなんとも太っ腹だな。太っ腹ついでに言うが、素材持ち込み
とはいえ特別注文だからな結構高く付くぞ?﹂
﹁全額前払いでもいいですよ﹂
試すようなグランの言葉にランタンは余裕綽々で答えた。
何だかんだと言ってランタンは高給取りで、懐は温かい。
どのようなナイフが出来上がるかは判らないがグランの腕ならば
下手なものは出来上がらないだろうと思っていた。ランタンはグラ
ンの仕事に信頼を寄せているし、粗悪品に値段を吹っかけるような
真似をしないことを知っていた。グランは一つの工房を取り仕切る
つか
商人でもあったが、それ以上に誇りある職人だ。
﹁柄はこれ使えませんか?﹂
ランタンの握りの形にすり減った柄をグランに差し出した。グラ
ンはそれを受け取り一撫ですると呟いた。
﹁︱︱使えないな。ここに罅がある。補強してもいいが新しく拵え
たものよりはどうしても強度は落ちる、ママゴトに使うんじゃねぇ
からな。まぁ握りの参考にはするさ﹂
爆発させた衝撃も手伝ったのだろうが、嵐熊の身体に無理やり捩
じ込んだ際に割れてしまったのだ。愛着はあるが、それに引きずら
れてはいけない。ランタンは、お願いします、とだけ言って頭を下
げた。
﹁あぁ、うちで処理しとくよ。でだ、二本ってことはお前のと嬢ち
ゃんのだよな﹂
﹁ええ﹂
﹁えっ?﹂
ランタンはグランの言葉を肯定すると、蚊帳の外だったリリオン
312
が驚いたように声を上げた。
﹁あれ? 言ってなかったけ?﹂
﹁きいてない﹂
狩猟刀はあって困るものではないし、リリオンも持っていればラ
ンタンの狩猟刀が壊れてしまった時の予備にもなる。魔精結晶の採
取も二人で同時に行えれば効率は上がる。だがそれらとは別の理由
も合った。
﹁じゃあ言うね。リリオンの初探索のお祝いにプレゼントしてあげ
る﹂
リリオンは目を大きく瞬かせ喜ぶよりも、貰ってばかりで恐縮し
ているようだった。しかしお祝いと言えば受け取らざるをえない。
ランタンは困り顔のリリオンを見てほくそ笑んだ。
﹁︱︱ありがとう﹂
結局は嬉しそうな顔をしたリリオンは頬を緩めた。
﹁ランタンとおそろいね﹂
﹁あ︱︱!﹂
﹁なぁに嫌なの!?﹂
﹁いやべつに﹂
﹁うう゛ん︱︱いいとこで悪いが、嬢ちゃんの手のサイズ測らせて
くれ﹂
グランは判りやすく咳払いをすると、リリオンに手を差し出すよ
うに伝えた。ランタンたちと駄弁ることばかりがグランの仕事では
ないのだ。背後ではグランの弟子たちが働き蟻のように働いている。
﹁ほらリリオン﹂
﹁う、うん⋮⋮﹂
何かマゴマゴとしているリリオンの腕をランタンは引っ掴んでグ
ランに差し出した。リリオンは指が反るほどに手を開いている。腕
さしがね
をつかむランタンの掌に筋の強張りが伝わってくる。
別に指を切り落としたりするわけではなく、指矩で手に関する様
々な長さを計るだけだ。戦鎚を作る際にランタンもデータを取られ
313
まぶ
ている。何も怖がることはないが、それなのに随分と緊張している。
﹁おう、もういいぞ﹂
リリオンの掌が砂金を塗したようにキラキラとしていた。それは
汗だ。リリオンは浮いた汗を隠すようにズボンで拭い、そっとラン
タンの背に隠れるように足を動かした。
ランタンはリリオンの脇腹を擽るように一揉みした。
﹁もうっ︱︱﹂
﹁もう、終わるから﹂
こそりと小さく呟いてランタンは尻を叩いた。リリオンは尻を擦
りながら小さく頷いた。
﹁ナイフの方は七日後だな。どうする? ナイフの出来上がりに武
器の整備も合わせるか?﹂
﹁いえ、三日後に武器だけ頂きに来ます﹂
﹁わかった。じゃあ整備間の代替品だけもってけ﹂
ウォーメイス
ロングソード
整備している間の代替品となる武器をリヒトが持ってきた。
ランタンには戦棍をリリオンには長剣だ。戦棍は八角柱の柄頭に
肉叩きのようなぎざぎざの突起が刻まれていて、長剣は一メートル
つか
強の諸刃の刀身をしたシンプルな作りのものだ。
振り回しただけで戦棍の柄が折れそうな気がしてしまうのは戦鎚
と比較しているからだろうが、それを差し引いても装備の質として
は随分と下がる。低品質の品だということでは、グラン武具工房の
名誉にかけて、決してないがランタンは少し心許な気な表情になっ
た。
ランタンは腰に戦棍を吊るして、リリオンはベルトに鞘を縛り付
けた。
整備代自体は全額前払いできたが、狩猟刀の制作費は手付金と言
ハンドメイド
うこととなった。
一流職人の手製なのだから高額になることは予想済みだったが、
さすがに少し驚いた。少し前に、全額前払いでもいいですよ、と口
ずさんだ喉を引き裂いて余裕の表情を叩き潰してなかったことにし
314
てやりたい。
ランタンはすっからかんになったポーチの軽さに小さく嘆息した。
支払いの詳細は三日後に武器を引き取る際に詰めるようだから、
その時にはちゃんと食事を取り頭を働くようにしておこう。
毎度あり、と歌うように告げられた挨拶を背中に受けて武具工房
を後にした。
支払った金貨の分だけ軽くなったが、足取りはどこか重たげだ。
探索者ギルドまでの道すがら何も買うことができない。手元に残
ったすっかり冷めた揚げ芋だけが口寂しさを紛らわせるための最後
の砦だった。
その揚げ芋を二人でもそもそと分け合って探索者ギルドへと向か
った。
﹁⋮⋮パサパサしてるね﹂
﹁リリオン﹂
﹁なに?﹂
﹁これが︱︱﹂
ランタンは紙器をぐしゃりと握りつぶして搾り出すように呟いた。
﹁お金がないってことだよ﹂
315
023
023
ランタンは自分の銀行口座から金貨を引き出して、そのうちの一
部をリリオンに手渡した。空になったポーチはすっかり補填されて
いる。やはり貯金は大事だ。
リリオンは両手を揃えて掌を上に向け、緊張した面持ちでランタ
ンの顔だけを見つめている。ランタンは袋詰にされた金貨を差し出
された掌にどさりと乗せた。だがリリオンはじぃっとランタンの顔
だけを見つめ続けた。
﹁︱︱ふぇ﹂
リリオンがその重さにどういうわけか赤い色の舌を出した。それ
は笑うのを堪えているようにも見える。とりあえずランタンはその
ペロリと垂れた舌を人差し指と親指でちょいと摘んでみた。なんと
ぬめ
なく小生意気な感じがしたのだ。
﹁へひゃ!?﹂
ぬる
舌は温かくて絖っている。それに加えてはぁはぁと漏れる吐息が
じめっと微温い。リリオンはランタンにされるがままに涙目になっ
そそ
ている。そこには生意気さとは無縁な従順さが溢れており嗜虐心を
唆られる表情と言うものは、これを指すのかもしれないとランタン
は自分勝手に頷いた。
リリオンは掌の上に金貨袋を乗せたまま動かず、袋の中の金貨は
その掌の上で小さく震え、音を響かせている。
笑うのを堪えているのではなく、震えるのを堪えているのか。
ランタンはそう気がつくと舌を摘んでいた指を離し、そこに引い
た糸を切ってリリオンの掌から金貨袋をひょいと取り上げた。
緊張から解放された途端にがくがくと腰から崩れ落ちそうになる
316
リリオンを支えて、大げさなことだ、と吐き出しかけたため息を飲
み込んだ。
はしだがね
袋に詰まっている金貨ははっきり言って今回の迷宮探索で得た利
益から見れば端金である。普通の探索班であれば暴動が起きるよう
な分配率であるが、仕方のないことだった。
リリオンはまず金貨に慣れなければならない。それを得ることに
いっぱし
も、消費することにも。まずはそこからだ。
ランタンはリリオンを一端の探索者として扱おうと考えたが、よ
くよく考えればリリオンはまだ十歳の子供でしかない。子供であろ
うともその存在を尊重し一個の人間として扱うことは大切だが、だ
せんりょ
からといって尊重したその瞬間から大人のように振る舞うことを望
むのは浅慮である。
迷宮の賃貸料や引き上げ代は探索班持ちであっても、武器の整備
代や装備に関しては個人の懐で賄われる。だが、そのことを伝えた
時のリリオンの表情は今まさに崖から落ちるような絶望的なものだ
った。
それを思い出して、急いではいけない、と自分に言い聞かせる。
リリオンはどれほどの期間か分からないが、おそらく少なからず
の間、自由意思を奪われていたのだ。急に自分で考えて、行動を起
こすことは難しい。
結局は財布を共有化し、リリオンに欲しい物ものがある場合はそ
れを管理しているランタンにお伺いを立て、そこから支払われると
いうところに落ち着いた。またそれとは別に小遣いも与える予定だ
が、それはまさに子供のお小遣い程度の少額から始まることとなる
だろう。
しかしやはり貯金も必要である。親が子のことを思いこっそりと
口座に貯金を積み立てるというような真似をできればそうしていた
かもしれないが、残念ながら探索者ギルド銀行では入金でさえ当人
に制限される。
﹁⋮⋮ランタン﹂
317
デコルテ
﹁いいよ、ほら落着いて﹂
ランタンはリリオンの胸元辺りを擦るように撫でた。
リリオンに渡した金は端金だが、それは探索者にとってはと言う
ことで、質素な生活をするのならば上街であっても数ヶ月は過ごす
ことができる金額である。リリオンは探索者だが、そこに根付いて
いる金銭感覚はまだ一般市民以下のものでしかない。端金が、大金
なのだ。
﹁例えばね、リリオン。僕が迷宮でひどい怪我をしてどうにか帰還
をしたとするよ、︱︱仮定なんだからそんな顔しない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁でポーチに持ち合わせもない。お金がないからギルドの治療施設
を使えない。そんな時にこのお金が銀行に預けてあったらどう?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁このお金はもうリリオンのものだよ﹂
ランタンは胸元から首筋へ、そして頬に手を伸ばした。
﹁そしてそれをどう使うかは自由なんだ﹂
﹁うん、⋮⋮わたし行ってくる﹂
リリオンは頬に添えられた手に自分の掌を重ねて頷いた。ランタ
ンが金貨袋を差し出すとリリオンはそれを胸に抱いて、一歩二歩三
歩とゆっくり受付に進んで振り返った。眉毛がハの字になっている。
﹁ちゃんと見ててね﹂
﹁いってらっしゃい﹂
小さく手を振るとリリオンはしっかりと頷いて今度こそ確かに受
付へと足を勧めた。ランタンはリリオンを視界に収めながらゆっく
りとロビーの壁に背もたれた。
人に何かを伝えるということはひどく精神を消耗する。ここ一年
近くどころか、それ以前の生活でも自らの意思を言葉として口から
吐き出すことは得意ではなかったのだ。ましてや子供でもわかるよ
うに、言葉を噛み砕くともなると未知の領域といっても良い。
﹁ふぁーあ﹂
318
欠伸のようなため息のような倦怠を吐いて、しかしランタンはす
っと目を細めた。リリオンの姿が見えなくなったのだ。それはラン
タンが視線を外したからではなく、またリリオンが視界の外に出た
のでもない。リリオンの姿を隠すように人影が目の前に現れたのだ。
ランタンは反射的に吐き出しかけた舌打ちを飲み込んで、壁から
背を離して場所を変えようとした。
﹁おいおいランタンそりゃないぜ!﹂
名前を呼ばれて、しかしランタンはそれを無視した。引き止める
ように伸ばされた手を避けるようにして、数歩離れた先で再び壁に
背を預けた。
取り付く島もないランタンの対応に対話を諦める人間はこれだけ
で諦めるだろうし、そうでない人間はどれほど逃げても追いかけて
くる。ランタンは表情を凍りつかせたまま、再び視線をリリオンに
向けた。受付で背中を丸めて何かを書いている。もう少し時間はか
かりそうだ。
﹁無視しなくたっていいじゃねぇか?﹂
ランタンの名を呼んだ男は諦めない人間だったらしい。
ランタンは渋々そちらに視線を向けた。男はランタンを知ってい
るようだったがランタンは男の姿に見覚えがなかったが、ランタン
にとっては慣れた事だった。
男はくすんだ金髪を刈り上げていて、広い額を隠すように緑色の
バンダナを巻いていた。バンダナが浅く膨らんでいるのは中に金属
板を仕込んでいるからだろう。顎の下に髪と同じ色の短い髭を蓄え
ている。
バンダナ男は心臓や脇腹などを金属で補強した革の軽鎧を身につ
けており、腰に幅広の曲刀を下げていた。三十歳前後だろうか、探
索者と言うよりは山賊のような風体だった。
バンダナ男は視線を向けたランタンに牙を剥くように笑いかけた。
黄色い歯にランタンは渋い表情をいっそう渋くし、一歩近づかれた
ので一歩離れた。
319
﹁何かご用ですか?﹂
声は顔ほど渋くはない。ただ明確な壁を感じさせるような素っ気
無さを多分に含んでいる。バンダナ男はランタンに伸ばした手を引
っ込めて、やれやれといったように肩を竦めた。しかしその浮薄な
仕草とは裏腹にランタンを見つめる視線は粘つき、泥のような質量
を感じさせた。
﹁ご用ですか、ってことはねぇだろう?﹂
バンダナ男は唇に笑みを張り付かせたまま言った。
ここが下街ならば喧嘩を売ってきたということにして臨戦態勢を
取ればいいので楽なのだが、ギルドの建物内でただ話しかけてきた
相手にそんなことをして騒ぎを起こせば罰則が課せられてしまう。
残念ながらランタンに取れる手段は無視か、対話しかない。
﹁何か、ご用ですか?﹂
ランタンは冷淡に先ほどと同じ言葉を繰り返した。
いわ
バンダナ男の用事は察しがついていたが、わざわざランタンの方
から話題を振ってやらなければならない謂れはないのだ。それにバ
ンダナ男が気分を害して去ってくれるのならば御の字だ、とも思っ
ていた。
アシッ
しかしバンダナ男はランタンの挑発的な態度を面白がるように頬
を歪めただけだった。
﹁うあっはっは﹂
ドブレス
バンダナ男が大きく口を開けて笑い唾が飛んだ。ランタンは酸の
パーティ
息吹でも躱すように大げさにそれを避けたがバンダナ男は気にした
様子もない。
﹁なぁランタン、どうだウチの探索班に入らねぇか?﹂
続けて提示された用事はランタンの予想した通りのものだった。
ここ何ヶ月かは遠巻きにされていたが、それ以前のランタンはよ
く勧誘されたものだ。言葉の差異はあれど予測された台詞に、かつ
てはそれを吐き出す機械のようになっていたランタンは何ヶ月かの
ブランクを感じさせず言葉を吐いた。
320
﹁ごめんなさい。お断りさせていただきます﹂
一考する素振りも見せず、ランタンはにべもなく断ったがバンダ
ナ男は引き下がらなかった。
壁にどんと片手を伸ばしてランタンが逃げ出せないように退路を
塞いで、女を口説くように詰め寄ってきた。軽鎧はきちんと整備さ
れていたが、半袖の袖口の隙間から縮れた腋毛が覗いている。二の
腕は筋肉が張ってよく鍛えられていたが、筋肉に刻まれた深い彫り
や肘関節に垢が浮いていた。
﹁嫌です﹂
ランタンは壁に預けていた背を、いっそ壁に同化するほどに貼り
付けておぞましく頬を震わせていた。黄色い歯の間から舌苔の密集
する白い舌が見え隠れしている。ランタンの言葉が喉に張り付くよ
アイアンメイデン
うに引きつったのは、鼻呼吸を止めたからだ。
﹁無理です﹂
ヴァージン
ランタンの素振りは鋼鉄の処女のように頑なだったが、バンダナ
男の目にはそれがただの初心な乙女のように映ったらしく、バンダ
ナ男は更に勧誘の強引さを増した。
必死であるバンダナ男の心理も理解できなくはない。
多くの探索班は常に前衛戦力を求めている。
メン
深く険しい迷宮の探索は万全の状態を期して行われるが、それで
もやはり万事が上手く行くわけではない。
バー
迷宮の経路に仕込まれた天然罠や、魔物との戦闘などによって班
員が怪我を負うことは往々にしてあり、熟練の探索者であっても避
けられないものは避けられない。
即死以外の怪我は魔道薬やあるいは治癒魔道によって治療可能で
あるが、全ての探索班が瀕死の怪我を癒すほどの恐ろしく高価な高
品質の魔道薬を購入できるわけではなく、また死の淵にある生命を
引き寄せることを可能とする治癒魔道士は希少であり、そんな人員
を抱え込むことのできる探索班は滅多に存在しない。
はっきり言ってしまえば前衛戦力は消耗品である。
321
迷宮内で命を落とすこともあれば、命はあろうとも四肢の欠損な
どの不可逆的な傷を身体に負えば探索者としての仕事を行うことは
ほぼ不可能と言ってもよく、また廃業の要因となる傷は肉体的なも
のばかりではなく精神的なものに由来することも多々ある。
それは一人前に程遠い新人探索者ばかりの話ではなく、多くの探
索を繰り返し心身ともに強靭になった探索者であっても逃れられな
い呪いのようなものだった。
ポーター
前衛戦力は常に不足しているというわけではないが、常にそれを
失う可能性を有している。
その備えが探索者見習いの運び屋である。
探索班に所属する探索者が増えれば増えるほど利益は頭割りに少
なくなってゆくので、余剰戦力を抱え込むということは少ない。故
にいずれ失われるであろう前衛戦力の予備として探索者見習いを一
定の給金で雇い、育てるのである。
そうして雇われた探索者見習いは予備らしくその探索班で失われ
た探索者の代わりになることもあれば、あるいは衰えた探索者に取
って代わることもある。また別の探索班に欠員が出た場合に金銭を
以って取引される。
探索班に欠員が出ずに、見習いと言う名の尻尾が取れたのならば
独り立ちをすることもあるだろうし、そういった探索者が集ってま
た新たな探索班は生まれる。
とは言え、そのように悠長に探索者見習いを育てている暇などな
い場合の方が多い。戦力が失われる場合は不意であり、一瞬である。
そして迷宮から引き返す、︱︱逃げ帰るような不測の事態が起こっ
たとき失われた探索者が一人で済めばそれは幸運と言ってよかった。
探索に足る戦力がなければ、探索者見習いを育てることもできな
い。
多くの探索班は即戦力となる戦力を求めている。
それもできることならば若く、実力が確かで、金に卑しくなく、
人間性も良い、完全なる探索者を。
322
だが、そんな探索者は伝説の中にさえ存在しない。
ちしつ
若ければ経験が足りず、経験は実力に直結する。実力が確かなら
ば金銭の大切さを知悉している。そして人間性が良ければ既にどこ
かの探索班に所属しているか、そもそも探索者などという職業に所
属していない。
そんな中でランタンは珍しくも若く、いくつもの迷宮を単独攻略
した実績を引っさげていた。人間性は外面から察することしかでき
なかったが、ランタンは少なくとも卑しい顔つきなどはしておらず、
ソロ
探索帰りであったとしてもなんとなく清潔感があってお上品な感じ
がした。
それに単独探索者というのもランタンの価値を釣り上げる要因だ
った。
即戦力の補充を求める場合、その多くは他の探索班からの引き抜
きである場合がほとんどだった。迷宮の林立するこの都市では使え
る探索者を遊ばせるような余裕はないのだから、戦力として数える
メンバー
ことのできる探索者はすでに探索班に所属している。
トラブル
例えばそこに班員間での人間関係の軋轢や、あるいは金銭関係な
どの問題で揉め事が起こっている場合は厄介払いの体でスムーズに
移籍が決まるが、大抵は現所属よりも好条件であること、大抵は利
益の分配率つまりは稼ぎがいいことを餌に引き抜くのだ。
金貨の輝きに目が眩むのは仕方のないことだ。それだけ自分の価
値を認めてくれているということなのだから。
だが引き抜かれた探索班からしてみればたまったものではない。
引き抜きは戦力の低下を意味し、戦力の低下はそのまま稼ぎの減
少へと通じる一本道である。利益が減少すれば生活の質を落とすこ
ととなり、生活の質の低下は苛立ちへとつながる。苛立ちはそのま
ま人間関係に悪影響を及ぼし、仲良しこよしの探索班であっても散
り散りになって各個、別の探索班に吸収されるということなりかね
ない。
なので引き抜かれる側の探索班は、可能な限りそれを阻止しよう
323
とする。相手方から提示された条件と同等かそれ以上の条件の提示
し、あるいは今まで苦楽を共にした経験から発生する人情に働きか
けて引き止めを行う。
あつれき
だが無事に引き止められたからといって、一件落着というわけで
はない。最低でも引き抜かれる側と引き抜く側の探索班間には軋轢
が生まれ、血の気の多い探索者同士の軋轢は火の着いた導火線と言
い換えても差し支えなかった。なまじ戦闘力があるものだから、小
競り合いが殺し合いに発展しかねない。
人間関係とは無縁な傭兵探索者もいるが奴らはその多くが守銭奴
で、それを恒常的に雇うことはまずない。
ランタン
探索者の移籍には様々な問題が付随するのだ。
その点、単独探索者にはそう言った問題とは無縁だった。
﹁なぁ、いいじゃねぇか! 探索も今よりもずっと楽になるぜ!﹂
男の大きな声にランタンは顔を顰めた。大げさな身振りで振り回
した手が鬱陶しい。腕の先にくっついている手がゴツゴツとして、
爪は白い部分が長く伸びていて間に黒い汚れが挟まっている。ラン
タンはそこから目を逸らすように視線を下げた。
この男と一緒にいることで何か楽になるようなことは確実に無い
とランタンには断言できた。現に、文字通り息が詰まる思いだった。
ランタンは完全に横を向いて視界から男を外し、肺の中で淀んで
いる空気を入れ替えるように大きく深呼吸をした。
その視線を外した一瞬に、バンダナ男の手が肩を抱こうとするよ
うにランタンへと伸びた。首元へと向かってくる手をランタンは避
けるよりも先に、反射的に身体が動いていた。バンダナ男の手首を
取って、肘を、肩を捩じ切ってやる。ランタンの手が鎌首をもたげ
る蛇のように静かに狙いを定めた。
﹁︱︱やめたまえ﹂
だが、ランタンがバンダナ男の腕を破壊することはなかった。
ランタンの物ではない手がバンダナ男の腕を掴んで止めたのだ。
ランタンは一歩分バンダナ男の間合いから離れた。
324
さかのぼ
バンダナ男の腕を掴む、その手には磨かれた銀の篭手が嵌められ
ている。ランタンはその手から腕を伝って顔まで視線を遡った。
﹁嫌がっているじゃないか、まったく︱︱﹂
銀の篭手から伸びる指は白く、けれど剣を扱うに相応しく節立っ
ていた。だが爪が綺麗に切り揃えられているせいかスラリとして見
レリーフ
える。篭手と揃いの銀の腕鎧は鏡のように磨かれており、顔までを
防御するように立ち上がった左の肩鎧には精緻な浮き彫りが施され
ていた。
﹁︱︱大丈夫かい?﹂
バンダナ男の腕を掴みながらもランタンを気遣う声は甘く、その
顔もまた甘い。
後ろに流した濃い栗色の長髪が波打っていて、額に一房いやらし
く垂れている。パッチリと二重で髪と同じ色の瞳が、上下ともに長
い睫毛の間で微笑んでいた。鼻梁が細高く、顎も細いが軟弱な雰囲
気がないのは口が大きくて唇に野性味のある表情を携えているから
だろう。
﹁ええ、どうも、ありがとうございます﹂
そこらへんの町娘ならば目を奪われるようなハンサムな男だが、
そのほほ笑みもランタンには無価値である。だが助けてくれたこと
には感謝していた。ハンサム男が来なければ、今頃は屈強な武装職
員にバンダナ男共々地面に組み伏せられていたかもしれない。
ランタンは頭を下げてハンサム男に礼を言い、ついでに磨かれた
銀の鎧に自分の表情を映した。
バンダナ男とのやり取りは十分に満たない程度でだったか、まる
で三日間飲まず食わずであったかのように目が落ち窪んでいる。唇
の端が乾いて、少し罅割れているのは口呼吸をしていたせいだろう。
﹁んだっ、テメェ! 関係ないやつはスっこんでろよ!﹂
﹁いいや、関係なくなんかはないさ。私は前からランタンくんに声
を掛けていたんだ﹂
﹁なんだと! 俺だってそうだ!﹂
325
頭上で飛び交う応酬にランタンは小首を傾げ、ちらりと瞳だけを
動かして二人を見上げた。どちらにもランタンを勧誘した過去があ
るらしいのだが、ランタンにはさっぱり二人の記憶はなかった。
いや二人どころか、とランタンは過去を思い出そうとしてそれを
諦めた。
過去、ランタンを自らの主催する探索班に勧誘した探索者は多く
いたが、ランタンはその殆どを覚えてはいなかった。もともとそれ
ほど記憶力の良い方ではないし、探索者を一人一人抜き出して見れ
なら
ば強烈な個性が目に付くのだが、その数が増えてゆけばゆくほどに
個性は均されてゆき、ランタンは個人を区別しうる差異を見失った
のだ。
当時はひっきりなしの勧誘にうんざりしていたり、そもそも他人
の顔を覚えるほどの余裕をランタンは持ち合わせていなかった。そ
してそれは今もそうである。
久々の勧誘にはうんざりしていて、余裕もなかった。
ランタンは視線を巡らせてリリオンの姿を探した。リリオンは受
付台の上で空になった金貨袋を畳んでいる。振込が済んだのではな
く、職員が金貨の枚数やそれが偽造金貨ではないことを調べていて
リリオンは暇なのだろう。羨ましいことだ、とランタンは拗ねなが
ら視線を戻した。
男たちは未だに言い争っており、ランタンから意識が逸れていた。
この機を逃す手はない。ランタンは二人を注視しながら、静かにす
り足で場を離れようとした。
だが悲しいかな、その試みは何かに阻まれてしまった。
﹁ぶ﹂
猫が透明なガラスに気づかずに悠然と歩み寄りそのまま頭をぶつ
プレート
けるように、ランタンは自らの頬を何かに押し付けてしまった。そ
メイル
れは固く冷たく、やや丸みを帯びていて脂と血の臭いがした。板金
鎧だ。
﹁ごめんなさい﹂
326
こぼ
たくま
ぶつかった相手にランタンはまず謝って、それから顔を見た。
それは突き出た鼻と、口から溢れる二本牙の逞しい猪人族の男だ
った。濃い茶色の髪から三角系の耳がピンと頭上に立っていて、ラ
ンタンが見上げると意識するようにぴくぴくと震えた。
﹁いや、こちらも申し訳ない﹂
謝ったランタンに猪男はゆっくりと首を振った。
﹁だがこれも何かの縁だ、よかったら向こうで話さないか?﹂
牙も剥き出しの荒々しい顔だが猪男の声は艶のあるテノールだっ
た。猪男は女をエスコートするようにそっとランタンの背中に手を
添え、ごく自然にロビーの奥にあるラウンジへ導こうとした。服越
しにも猪男の岩のように硬い掌の感触が伝わってくる。猪男の腰に
は両刃の手斧が二振り抜身でぶら下がっていて、がちゃがちゃと音
を立てていた。
﹁おいおい、テメェ自分からぶつかっておいて白々しい!﹂
手斧の擦過音を払いのけて、ハスキーな声が飛び込んできた。ラ
ンタンの背に添えられていた手が払われ、別の手がそこに収まった。
ランタンは古いブリキの玩具のように重たげに首を回した。
猪男の岩のような手に変わってランタンの背を支えた手は、指先
まで白く短い毛に覆われていた。形良く尖った爪にピンク色のマニ
キュアを塗っている。
猫人族の女だ。ランタンは猫という愛らしいものではない虎や獅
子を思わせる野性的な雰囲気の漂う猫女の顔を見上げた。
短毛種の白猫をそのまま人の金型にはめ込んだような猫女は瞳孔
の縦に割れた目をランタンに向けて柔らかく微笑んだ。だがどうし
てもその直前に猪男を睨みつけた苛烈な視線がちらついてしまい、
ランタンはただ愛想笑いを浮かべた。微笑んだ猫女の口からは太い
針のような犬歯が覗いている。隙を見せれば喰われそうだ。
﹁ねぇランタン﹂
猫女は少し掠れた甘い声で名前を呼んだ。
﹁あそこに班員がいるんだ。一緒にお茶でもしないかい?﹂
327
顎をしゃくってみせた猫女の視線の先には、三人の女探索者がい
た。ランタンが視線を向けると優雅に手を振って見せる。人族が二
人と、猫人族が一人。目の前の猫女からは年齢を推し量ることはで
きなかったが人族と同年代だとすると二十半ばぐらいだろうか。
大人の女性からのお誘いは男どもの誘いよりは魅力的だったが、
その誘いを受けるつもりは毛頭なかった。猪男のお話も、猫女のお
茶も、その先に待っているのは悪徳商法のような勧誘であることは
明白だった。
勧誘をしてきた人間の顔は覚えていないが、見えない縄に拘束さ
れるような苦痛の時間はよく覚えている。ランタンはこっそりと手
首をさすった。
﹁ねぇどうだい? あの女にいったい幾らで雇われたのかは知らな
いけど、うちに来ればもっといい思いをさせてあげるよ﹂
曖昧な表情を浮かべるばかりで煮え切らないランタンに、猫女の
そぶ
尻尾が大胆にランタンの太腿に絡みつき内腿を挑発的に擽った。
﹁やめてください﹂
ランタンはそっけない素振りで尻尾を払ったが、正確に言うなら
おおむかで
ば引き剥がしたと言うのが正しい。猫女の白い尻尾は靭やかに見え
たが、まるで大百足のようにランタンの太腿にしがみついていた。
猫女が言ったあの女とはリリオンのことだろう。
リリオンは身長だけは一人前にあるので少女ではなく女性だと思
ガイ
われているようだった。勧誘者たちはランタンとリリオンの関係を
ド
インストラクター
雇用者と被雇用者だと勘違いしている。リリオンがランタンを案内
役や指導教官として雇ったのだ、と。
そして今まで頑なだったランタンが何処ぞの誰かに雇われたとい
う、その変化に勧誘の可能性を見出したのだろう。
予想はしていたことだが、予想よりも動き出しが早い。ランタン
は眉間に皺を刻んだ。
︱︱僕はあの子と探索班を組んだので、あなた方とは組めません。
リリオンをちょっと指さしてそう言えば場を切り抜ける理由にな
328
る。ランタンはそう思っていたし、この勧誘を予想した時に言い訳
のセリフを頭の中で何度か繰り返した。だがいざその場面になった
ら、それを口にすることができなかった。
それはまるでリリオンを言い訳に、生贄にするかのような行いに
思えたのだ。
フ
﹁おいっ! 後からしゃしゃり出て好き勝手言ってんじゃねぇぞ!﹂
﹁きみはもう振られたんだ諦めるんだな。そしてきみたちも﹂
ガキ
﹁ふんっ貴様のような惰弱な男が随分と偉そうにものを言う﹂
﹁はっ、このホモ野郎どもが。男娼が欲しいんなら色町にでも行き
なっ!﹂
ランタンが口篭っていると勧誘者たちは次第に声を荒げ、表情を
歪めて言い争いを過熱させはじめた。相手を出し抜くよりも、蹴落
とす方を選んだのだろう。そして罵声はギルド建物内に敷かれた防
音魔道から漏れるほどに大きく響いた。
ロビーにある視線が集まるのを感じた。
そして地面に落ちた硬貨の音色に貧者が集うように、わらわらと
探索者たちが集まってきた。なんだなんだとニヤつくような野次馬
もいたが、ランタンの姿を見つけると乗り遅れたとばかりに口論に
身を躍らせる者もいた。
きか
ランタンを求める者は多かった。探索者としての実力を買ってい
る者も、単独探索者を麾下に加えることに価値を見出している者も
いた。ランタンはすっかり探索者に取り囲まれてしまった。
その人の壁の隙間からリリオンの姿が見えた。
リリオンは探索者の集団から離れて立ち竦んでいた。縋り付くよ
うに空の金貨袋を握りしめて、囲まれるランタンを見つめていた。
唇を噛んで黙っていて、瞳が重たくなったようにゆっくりと俯いて
いる。
ちゃんとできたんだね。よくやったね、と撫でることはできなか
った。
ランタンは押し寄せ、渦を巻くような探索者の波に飲み込まれて
329
しまった。
330
024
24
何時の間にかやってきた武装職員が大声を張り上げて探索者たち
を一喝すると、ランタンを取り囲んでいた探索者たちは迷宮探索で
培った類まれなる身体能力とその技術を活用して、あっという間に
姿を眩ました。
本来はこんなところで探索者の勧誘をするのはマナー違反であっ
たし、また勧誘とは関係なくとも騒ぎは大きくなりすぎていた。職
員に捕まれば厳重注意だけですまないだろう。
蜘蛛の子を散らすとでも言うようなその光景を、ランタンは強い
既視感とともに眺めていた。数ヶ月前と変わらず大勢に囲まれたラ
ンタンはどうすることもできなかった。その成長のなさが、この既
視感に繋がっていると思うと少し鬱屈とした気持ちになる。
親を見失った子供のように一人ぽつんと佇むランタンに武装職員
へいげい
は黒い鎧を鳴らしながら近づいて、ぎしりと腕組みをしたかと思う
とぐるりと辺りを睥睨した。まるでこびり付いた染みのように残る
探索者の気配を払うかのように。
﹁やはり君か。最近は落ち着いていたと思ったが、⋮⋮ふむ﹂
そして呟くと顔をすっぽりと覆う犬頭の兜がランタンを見下ろし
た。兜に隠された表情を窺うことは出来ないが、くぐもる声は落ち
着いた女性のものだ。それは騒ぎの中心にいた事を叱責するような
声ではなく、慰めるような音色を孕んでいる。それもまた耳に懐か
しさをもたらした。
ランタンはじっとその兜を見上げていたが、その奥から瞳が見返
していることに気がついて慌てて頭を下げた。
331
﹁ありがとうございます、助かりました﹂
﹁いや、いい。君が被害者だということは、こちらも理解している。
気にする事はない﹂
武装職員はランタンの後頭部に柔らかく触れると、災難だったな、
と言って踵を返して去っていった。去りぎわに鋼の指先が擽るよう
に旋毛に触れた。数多の不良探索者から鬼のように恐れられ、武力
を持ってギルドの平和を維持する武装職員の手は優しさを感じさせ
る。
ランタンは遠ざかるその背中を視線で追った。
過熱した勧誘から武装職員に救い出されたことは、叱責を受けた
こともあるが、過去にも何度かあった。掃いて捨てるほどいる探索
者の顔は覚えていなかったが、あの珍しい犬頭の兜には見覚えがあ
る。彼女に助けられるのは、これで二度目だ。
いつか改めて礼を言おう、と考えながらランタンはその頼もしい
背中から視線を外した。
そしてぐるりと視線を巡らせてリリオンを探した。
リリオンはまだランタンが取り囲まれているかのように距離を空
けて佇んでいる。視線が合うと何か言いかけるように口を開いて、
駆け寄ろうとしたものの足の裏が床に張り付いたように身体を震わ
せるだけだった。
﹁リリオン、ごめん﹂
何について謝っているのかランタンは明確にできなかったが、そ
れが口から溢れた。
ランタンはリリオンに駆け寄ると、足らない言葉を補うかのよう
に手を掴んだ。それは雪の塊のように冷たく、ランタンは溶かすよ
うに手の甲をさすった。
大勢の探索者の集団を見て驚いてしまったのだろうか。ランタン
が探索者の集団の中に飲み込まれていく様子は、一つの獲物に群れ
をなして襲いかかる肉食獣の狩りに似ていた。群れが離れたあとに
は骨も残らないような凄惨な狩りに。
332
﹁ランタン⋮⋮﹂
リリオンが言葉を発すると、乾いてくっついた唇が割れるような
音を立てた。
﹁ランタンは⋮⋮﹂
撫でさすられる手をそっと引き抜くと、白く痩せた指を伸ばして
リリオンはランタンの頬に触れた。爪の先端にまだ冷たさが残って
いる。薄く削り出した氷のようで、その冷たさは頬に染みこみ、棘
が突き刺さるように痺れを感じさせた。
﹁⋮⋮大丈夫だった?﹂
白くなめらかな頬の感触や体温を、盲人が物の形を見るような手
つきで、リリオンは目の前にいるランタンの肉体がそこにあること
を確かめているようだった。唇の端をなぞり、頬に触れ、耳の付け
根を擽った。
ランタンはこそばゆそうに目を細め、その手に自分の手を重ねた。
﹁大丈夫だよ﹂
慣れたものさ、と続けることのできない自分にランタンは舌打ち
をしかけた。経験ばかりが増えてもそれが身にならなければ意味が
ない。相手が小悪党ならばぶっ飛ばして終わりだが同業者相手では
そういうわけにもいかない。
問題の解決を腕力に頼ってきたツケがこのざまだ。それに腕力的
にも勝てそうにない相手もいる。やっかいなことだ。
ランタンは頬を揉むリリオンの手をゆっくり剥がして誤魔化すよ
うな笑みを浮かべた。
銀行のロビーは静謐さを取り戻しており先ほどの騒乱が嘘のよう
に落ち着いている。不自然なほどにランタンたちを窺う視線が消え
ていて、むしろあえて視線を外しているような有様だった。
見られてはいないが意識はされている。ジロジロと見られるのは
好きではないが、意識的に遠巻きにされるのも気分のいいものでは
ない。どちらがマシかといえば今のほうがマシではあるが、けして
気にならないわけではない。
333
銀行での用も済んだのでさっさと逃げ出そう。
﹁そう言えば、ちゃんとできたんだね﹂
﹁⋮⋮うん﹂
ランタンはそう言って、頷くリリオンの手から空の金貨袋を抜き
取った。
袋は丁寧に三つ折にされていたが、雑布のように絞った皺が寄っ
ている。ランタンはその皺を伸ばして細い長方形に折ると、筒状に
小さく丸めた。それをポーチの隙間に後ろ手に押し込んだ。
ロビーを出て廊下を歩きながらリリオンの顔を見上げる。
﹁どうだった?﹂
﹁簡単だったわ!﹂
よにゅう
行く前はあれほどグズっていたのにリリオンはそんな自分を忘れ
たように薄い胸を張ってみせた。預入など受付台に硬貨を乗せて受
付嬢にお願いしますと言えばそれで終いだと言うのに、一仕事終え
たような誇らしげな表情はなんとも愛おしい。
だがその表情が少し曇った。下唇を突き出してしょぼしょぼと眼
差しを伏せる。リリオンは少しだけ迷うような素振りを見せて、お
ずおずと口を開いた。
﹁あれは、何だったの?﹂
﹁あれ?﹂
﹁ランタンが囲まれてた︱︱﹂
﹁あれは、まぁ⋮⋮勧誘だよ﹂
ランタンは勿体ぶるように頷いて、できるだけつまらなそうに素
っ気なく言う。
勧誘されるということは探索者として一定の評価を得ているとい
パーティ
うことだったが、ランタンはそれを誇るような気持ちにはなれなか
った。
﹁うちの探索班に入りませんかって﹂
ランタンは言い終えると舌打ち代わりに鼻を鳴らして、むっつり
と唇を結んだ。
334
集団に取り囲まれて、ランタンは揉みくちゃにされた。鍛えあげ
られた探索者の集団の内部は汗臭くむさ苦しかったし、人混みに紛
しご
れてランタンの二の腕や腹や尻を撫でるような不埒な輩もいたのだ。
おぞけ
その手を折ってやろうと握った指を、扱くように撫でられたとき
は怖気が走った。次があったら手首から先を消し炭に変えてやる。
ランタンがその狼藉を思いだしてふんふんと怒っていると、どろ
りとした声でリリオンが呟いた。
﹁⋮⋮やっぱり﹂
﹁やっぱり?﹂
ランタンは怒りに歪めていた表情を少しだけ緩めて、けれど睨む
ような雰囲気でリリオンを見上げた。リリオンが眉間に寄ったむす
りとした皺にびくりと肩を震わせたので、ランタンはどうにか怒気
を飲み込んで眉間を指で擦った。
﹁ランタンは、︱︱その誘いを、受ける、の?﹂
﹁は︱︱﹂
リリオンが絞りだすように呟いたぎこちない言葉に、ランタンは
肚の中に納めた怒気や思考が一瞬にして白い灰となって消えてゆく
のを感じだ。灰はけれども鉛のように重たく消化不良の食べ物のよ
うに臓腑に重くもたれて、ランタンは思わず足を止めた。
リリオンが何を言っているか理解ができず、それを理解した時に
は怒鳴りたいような気持ちもあった。だが、それよりも脱力感が上
しな
回った。ランタンは眉間を擦っていた手をごく自然に、弧を描くよ
うに撓らせてリリオンの尻を引っ叩いた。
脱力から生み出された鞭のような平手打ちは、ぱぁんと高く響い
てリリオンを飛び上がらせた。信じられないというような顔をして
リリオンが尻を押さえた。
﹁なになに、なんで!?﹂
抗議の声を上げたリリオンをランタンは一睨みして黙らせた。
﹁なんで、じゃないよ、︱︱まったく﹂
むぅと睨み上げるランタンの雰囲気は脱力の影響もあって軽く、
335
怒るというよりは呆れていた。何処かの誰かの探索班に加入すると
いうのならば、今頃ランタンの隣にいるのはリリオンではなく他の
誰かだ。
﹁だって、だって﹂
ぐずるように呟くリリオンは、ランタンの腕をとって甘えるよう
にそれを揺らした。一見すると媚びを感じさせるようなその仕草は、
けれどひどく切迫している。それは暗闇の中でほんの小さな光を探
すように目を細めているせいだろうか。
マント
リリオンはよくランタンの服を掴む。ランタンが少しでもリリオ
ンから離れようとすると、外套の端であったり、服の裾であったり
をはっしと掴むのだ。あるいは手を繋いだり、腕を組んだりするの
も好んだ。大抵はランタンが手を引くことが多く、時折甘えるよう
に身を寄せて隣を歩いた。
もしかしたらそれは、置いて行かれるのを恐れているのかもしれな
い。
ランタンがリリオンを置いて、何処かの誰かの元へ行くのを。
ランタンは睨み、細く潰れていた目から力を抜いて、そのまま緩
めた。
﹁ほら、ご飯食べに行くよ﹂
﹁⋮⋮うん﹂
ランタンは腕を掴むリリオンの手を取るとそれを握った。だがリ
リオンは手を握り返してはこなかった。指が湖面に揺れる浮草のよ
うに力なく漂っているのでランタンは指を絡めて、勢いをつけるよ
うに腕を引っ張って歩き出した。
獣のように空腹だった。朝食はまるで足りず、昼食を取るには出
遅れたような時間になっている。ランタンはリリオンを引きずるよ
うにギルドの建物を出ると、手を取ったまま向日葵のように太陽を
ランプ
向いて大きく背伸びをした。太陽は中天から少し傾いている。
高級な魔導光源の熱のない白い光とは違う、匂いさえありそうな
陽の光は暖かい。
336
植物のようにそれで腹が膨れるわけではないが、気持ちは良かっ
おもざ
た。リリオンもつられるように太陽を仰ぎ見て、眩しげに目を細め
る。白い面差しを照らした陽光はリリオンの顔に薄く張り付いた影
を払い、白い髪を銀に輝かせた。
﹁お腹すいたぁ﹂
リリオンが呟いたのでランタンは笑って頷いた。
武具工房ですっからかんになったポーチの中には今はざらざらと
唸るほどの金銀銅貨が補充されている。向こう一週間分の生活費と
外套や戦闘服の購入費だが、同時に腹腔で唸りをあげる獣の餌代で
もある。
﹁通りまで出て買い食いしようか﹂
﹁うん﹂
探索者ギルドの目の前を通る太い道には探索者ばかりがうぞうぞ
と行き交っている。
武装職員が去り際に触れた手が悪霊を退ける祝福であったかのよ
うに、今まで不思議と探索者に絡まれることはなかったが、通り過
ぎざまに向けられる舐めるような視線がその粘度を増し、祝福が残
念ながら失われつつあるのを感じさせた。
リリオンもその視線を感じていたのか、ランタンが手を引いて歩
き出すと、リリオンは繋いだ手が解けるのを恐れるように大きく一
歩足を踏み出して隣に並んだ。そして羽織った外套の中にランタン
を引き込むように身を寄せた。
リリオンの大股に歩調を合わせると、ランタンは逃げるような雰
囲気での小走りになってしまう。
﹁ちょっと、速いよ﹂
身体を寄せているせいで足が引っかかりそうだ。ランタンは手綱
を引くようにリリオンを制したが、それでもリリオンは少し歩幅を
小さくするだけだった。小走りではなくなったが早足だ。
﹁ランタンは﹂
﹁んっ?﹂
337
リリオンは何気なく呟いたが、ランタンは早足のせいで少し声が
上ずった。ちらりとリリオンを見上げて、呼吸を落ち着けるように
咳に似た息を吐いた。
﹁ランタンは人気者なのね︱︱﹂
﹁はっ、嬉しくないね﹂
ランタンは鼻頭に皺を寄せて吐き捨てるように低い声で言った。
﹁でも⋮⋮﹂
リリオンが疑い混じりに視線を寄越した。だがランタンの中にあ
る、嬉しくない、を言葉にしたら喉が腐る程の罵詈雑言となりそう
だった。ランタンは下品な罵り言葉を飲み込んで、いぃと唇を真横
に引き伸ばして牙を剥いた。その疑いを晴らすように。
その表情はあまりに子供じみていて、リリオンが目を丸くして驚
き、言いかけた言葉を忘れたようだった。ランタンははっと我に返
チーム
って仏頂面になり、今度こそ本当に言葉を地面に吐き捨てた。
﹁どこかの探索班に入る気はないよ。面倒なだけだ﹂
﹁ほんとう?﹂
﹁本当だよ。 ︱︱それともどこかの探索班に入って欲しい?﹂
しつこく聞いてくるリリオンにランタンは思わず意地悪なことを
言い、どうする、と挑発的なランタンの眼差しで問いかけた。リリ
かぶり
オンの答えなど決まっているというのに。
リリオンは慌てて頭を振って、そして痛いほど手を握ると立ち止
まった。
﹁やだ!﹂
﹁うん、︱︱僕も嫌だね。今更知らない人間の勧誘に乗るなんて﹂
口付ける程に顔を寄せたリリオンをさっと躱し、ランタンは再び
手を引いた。顔を覗き込むリリオンの瞳に浮かぶ不安の色に、ラン
タンは罪悪感を覚えて目を逸らしたのだ。
そじょう
空腹は人を不安にさせ、また苛立たせる。なんでも良いから腹を
満たそう。
探索者の多い道を遡上して行くと次第にその比率は下がっていき、
338
探索者の中にあるとランタンの小さい容姿は目に付いたが、目抜き
通りまで出るとランタンは雑踏に紛れるただの子供のようになって
ジュース
しまう。もう鬱陶しい視線に晒されることもない。
ランタンは屋台で売っている果実水を二つ買い、一つをリリオン
に渡した。底に砂糖漬けのミントを敷き詰め、カップに水滴が浮く
ほどの冷たい水を注ぎ柑橘系の果物を絞ったものだ。ランタンは唇
を湿らせるようにコップを傾けた。
﹁リリオン﹂
﹁なに?﹂
﹁これからはリリオンにも迷惑をかけると思う﹂
勧誘者はランタンの事をまだ単独探索者だと思っていた。どんな
心の変化があったのかは知らないがあのランタンが見知らぬ女に雇
ポーター
われたぞ、と。それは二人という人数が探索班を連想させるのには
人数が少なすぎるということもあるだろうし、リリオンを運び屋と
リリオン
ランタン
して見るにはランタンがリリオンのことを大事に扱い過ぎていた。
ゆえに勧誘者の目に映る二人の立場は雇用主と被雇用者というも
のだったのだろう。
ランタンに向かっていっても埒が明かないと思った勧誘者はきっ
とリリオンに近づく。どれほどの金を積んでランタンを雇ったのか、
どのような手管を使ってランタンを籠絡したのか、あるいはもっと
直接的にランタンとの仲介を望むのかもしれない。
ランタンがそう言うとリリオンは、大丈夫よ、と短く呟いて果実
水を飲んだ。
﹁わたし、そんなことしてない、って言うわ。ちゃんとできるよ﹂
﹁うん、︱︱ありがとう﹂
気を使われたのだ、とランタンは思った。
ランタンは勧誘を上手くあしらうことはできない。今日のように
誰かに助けられるか、それとも逃げ出すか、耳をふさいで無視する
か。そういったことしか出来なかった。その過去がきっと表情に出
てしまった。
339
それに情報屋だって動き出すだろう。奴らはそれを望む人間が一
人でもいれば、こそこそと影を這いまわるのだ。後をつけ、耳をそ
ウィークポイント
ばだて、ゴミだって漁る。探索者のようにあからさまではないだけ
に、いっそうたちが悪い。
ランタンには探られて痛む腹はないが、リリオンには巨人族の血
がある。ランタンはきつく奥歯を噛んだ。それは悪意をもって狙え
ば容易くリリオンを斬り裂くだろう。ランタンはその刃からリリオ
ンを守る術を知らない。
リリオンが、大丈夫だからね、と再び呟いた。
ランタンは何かを言いかけ、しかし言い淀んだ。何かを言うべき
だと思ったのに、何を言っていいか分からなかった。ランタンが口
をつぐんでいると、リリオンが立ち止まって指を差した。
﹁ランタン、わたしあれが食べたいわ﹂
気がつけば食べ物屋台が立ち並ぶ一角に足を踏み入れていた。そ
こかしこから良い香りが漂ってくる。
ハーフ
﹁︱︱僕の分もお願い﹂
指差したリリオンに半銀貨を握らせて、指差した屋台が何を売っ
ているのかも確かめずに背中を押して買いに行かせた。思考がマイ
ナス方向へずるずると引きずられるのは空腹のせいだ。気にしすぎ
だ、とランタンはリリオンの背中を見送った。
その薄い背中を眺めながら、リリオンを傍らに置いて自らが得た
ものはなんだろう、とふと思った。
例えば手を繋いだ時の体温。自分のものではない体温は、たまに
鬱陶しいが、思いのほか悪くはない。迷宮の奥底で眠る時の、なん
とも落ち着かない不思議な気持ちを思い出した。
例えばどうしようかとリリオンを見上げる視線。一人で好き勝手
おもんばか
に過ごしてきた日々には無縁だったものだ。まだ自己主張の少ない
リリオンだが、だからこそランタンは彼女を慮ってしまう。自分の
ためではない選択というものに、不便さや煩わしさを感じることは
確かにある。
340
まだ一週間ほどしか経っていない。だと言うのに生活は随分と様
変わりしてしまった。だがそれをいい拾い物をしたと喜ぶことも、
まるで悪夢のようだと嘆くこともしたくはなかった。まだ戸惑って
いるのだ、自分は。
ランタンの唇が歪んだ。
つまり戸惑いを得た、のか。
歪みは糸を解くように緩み、ランタンは小さく笑った。妙な答え
だ。自分は確かに戸惑っている。
﹁おまたせっ、︱︱どうしたの?﹂
﹁お使いできてえらいね、って思ってたんだよ﹂
﹁⋮⋮わたし、それぐらいできるよ!﹂
リリオンが買ってきた料理は、鳥肉を骨ごと、内臓ごとぶつ切り
にして油で素揚げにした物だ。塩胡椒で味付けしてあり、レモンを
絞ってある。油紙の器にどんと一羽分が山盛りにされて、脂に濡れ
たフライドエッグが脇に転がされて、木串が二本突き刺さっている。
卵はリリオンに譲り、ランタンは肉をもりもり食べた。皮はパリ
っとしていて噛み締めると脂があふれた。肉は弾力があり肉汁があ
ふれる、だが内臓は少し苦い。下処理の甘さを大量の胡椒で誤魔化
している。ランタンは口の中で骨から肉をはずし、骨をぺっと地面
に吐いた。
﹁ちょっと辛いね﹂
胡椒辛さで舌がぴりぴりと痺れた。リリオンが脂で濡れた唇を舐
めて頷いたので、ランタンは目に付いた屋台でヌードルを買った。
木の器には米から練った細い麺が野菜で出汁をとった黄金色のスー
プに浸っている。屋台では使い捨ての油紙の器が普及していたが、
さすがに汁物をそれによそうわけにはいかなかった。
ランタンはリリオンに果実水を預けると、舌を濯ぐように麺をち
ゅるちゅると啜って、こくこくとスープを飲んだ。スープは癖がな
くてさっぱりしていて、もちっとした甘い麺によく絡んだ。
﹁ぷはぁ﹂
341
ランタンは満足気に息を漏らし、名残惜しむようにもう一度スー
プを飲んだ。
﹁わたしも、わたしも!﹂
リリオンは空になった油紙の器を握りつぶして捨てて、ランタン
の腕を引いた。ランタンがヌードルの器を差し出すと、リリオンは
受け取ることはせずにそのまま少し屈んで器に口をつけてスープを
啜った。ランタンは、しかたないなぁ、とフォークに麺を巻きつけ
て食べさせてやった。
ランタンはヌードルをその場で食べ終えると屋台の脇に置いてあ
る水の張った桶に器を沈めた。屋台の親父がそれを見て、ちらりと
ランタンの姿を捉えると、すぐに視線を外した。
返還される器は銅貨と交換されるが、それは貧しい子供たちがポ
イ捨てされた器を集めた時だけだ。ここでランタンが銅貨を要求す
るのはマナー違反だし、そもそも器一つ程度では四半銅貨にもなり
はしない。貧者のことを思えば、目の前にゴミ箱があったとしても
脇に投げ捨てた方が良いのかもしれない。
﹁つぎはなに食べる?﹂
﹁歩きながら食べれるものにしよう﹂
せっかく目抜き通りに来たのだから、ついでに服も見たい。ラン
タンは果実水を一気に呷ると、空のカップを道の脇に飾るように捨
てた。
少し歩くと空になった手にはいつの間にか埋まっている。ランタ
ンはバゲットを齧り、リリオンは串焼き肉に食らいついていた。バ
ゲットには新鮮な野菜が敷かれその上に炒り卵を伸ばしステーキの
ように分厚いベーコンがでんと乗っかっていて、串焼き肉は若い羊
の肉を厚く切ったものだ。
﹁前もそれ食べてたよね﹂
﹁うん、これすごく美味しい﹂
リリオンはニコニコと笑い脂の滴る肉を噛みちぎった。まだ芯に
赤みの残る焼き方はランタンの好みではなかったが、少し悔しくな
342
るぐらい美味しそうだ。ランタンは負け惜しみのように大口を開け
てバゲットに食らいついた。
食品屋台の多く並ぶ通りから少し離れると、通りは雑多な商店街
のような雰囲気を醸しだした。お土産物から、生活必需品、それに
マント
武器や防具、魔道の品さえも売っている。
ずらりと外套を吊るした店先にランタンが足を止めると、リリオ
たしな
ンが手を引っ張って店の中に連れ込んだ。新品の布と、染料の匂い
が満ちている。
﹁リリオン、汚さないでよ﹂
脂に濡れた手で商品を触ろうとしたリリオンをランタンは窘めた。
リリオンが見ているのは安物の外套で、ランタンの収入からして
みれば雑巾代わりにしても問題ない程度の値段でしかなかったが要
らないものに金を払いたくはない。
ランタンが残りのバゲットを口の中に放り込むのを見て、リリオ
ンも同じように羊の肉を口の中に収めた。肉はまだ随分と残ってい
そしゃく
たのでリリオンはほっぺたを丸く膨らませ、顎を軋ませながらそれ
を咀嚼している。そしてもごもごと言いながらランタンに手を差し
出した。
﹁まったく⋮⋮﹂
ランタンは呆れながらもポーチから端布を引きぬいて汚れた指先
を清め、ついでに脂でてらつく唇も拭いてやった。
﹁よし、綺麗になった﹂
ランタンが満足げに頷くと、リリオンは石を飲み込むようにごく
りと喉を震わせて肉を飲み込んだ。ランタンの指の跡を追うように
舌なめずりすると、その場でちょこんとしゃがみこんでランタンの
足元から何かを拾った。
﹁これ落ちたよ﹂
﹁僕の?﹂
﹁うん、ポーチから﹂
リリオンが拾い上げたのは折りたたんだがメモ書きのようなもの
343
だった。開いて中に目を通すがランタンには読めない。どうにか日
付や時間が書いてあるということだけは理解できたので、ランタン
は嘆息するとビリビリに破いてそれを捨てた。
﹁なんだったの?﹂
﹁ラブレターだね﹂
ランタンは嘲るように唇を歪めて肩を竦めた。文章の内容を正確
には読み取れないが、おそらく勧誘者の一人があの騒乱に紛れてポ
ーチに押し込んだ誘いの手紙だ。
﹁⋮⋮破っていいの?﹂
﹁いいの﹂
﹁なら、いいけど﹂
リリオンはホッとしたようにポツリと呟くと、仕切り直すように
先ほど目をつけていた外套をあらためて手に取るとランタンの胸元
に合わせた。
﹁これはどう?﹂
﹁安物のカーテンって感じ﹂
生地が薄いくせに、肌触りがぼてっとしている。首に巻きつけた
らざらざらとして痒くなってしまいそうだった。
﹁むー、じゃあこれは?﹂
フード
ストームベア
ランタンの装備の選ぶ基準は防御力ではなく着心地の良さだ。ラ
ンタンは背嚢から頭巾が切られた外套を取り出した。嵐熊の爪を包
むための風呂敷代わりにしてしまったので、探索者ギルドで換金し
そこねたのだ。使用されている生地自体はいいので下取りに出して
もいいし、頭巾をくっつけられるのならば仕立て直してもいい。
﹁とりあえず最低限、これと同等のものがほしい﹂
リリオンは懐かしむようにランタンが広げた外套を撫で回した。
犬が臭いを嗅いで獲物を追いかけるように、リリオンはその肌触り
を手に馴染ませると店の奥へとランタンを引っ張っていった。商品
を探すのは店員に聞くのが速いのだろうが、リリオンは商品を探す
のを楽しんでいるようだった。
344
まるで旅先でのお土産を探すように。
家に帰るまでが探索か、とランタンは小さく呟いた。
まだもう少し、探索は終わりそうになかった。
345
025
025
上街から下街へと下り、住処に帰る道は夕焼けに赤く染まってい
る。下街の目抜き通りを外れ、人目を避けるようにランタンとリリ
オンは道とも言えない道を進んでゆく。
廃墟同然の街並みを通り抜けた風はどこか埃っぽく、奥まった方
へと進むにつれて石のような寒々しさを感じさせる。それは崩れた
マント
街並みの影に溜まった冷気が染み出してきているようだった。
風が吹いてランタンの外套が巻き上がった。その端をリリオンが
指の先でちょんと捕まえた。
よ
リリオンは神妙な顔つきで、恐れるように呆れるように外套の端
を縒っている。外套のその一撮みが金貨何枚分に相当するのだろう
と考えているのかもしれない。
フード
ランタンはそんなリリオンの様子を気にもせずに新調した衣服に
ストームベア
身を包んで満足げに頬を緩めていた。
嵐熊の爪を包んでいた為に換金する事のできなかった頭巾を失っ
た外套を下取りに出して、新しい外套を購入したのだ。それは予定
プレッシャー
していた予算を大幅に超えてしまったが、それだけの価値のある品
に出会えたのでランタンは納得して即決した。
戦闘服は期待に目を輝かせるリリオンのきらきらした重圧に負け
て結局またお揃いになってしまったので、それを覆い隠す外套は素
知らぬ風を装ってはいたが吟味に吟味を重ねたのだ。
藍を煮詰めたような夜色の生地は昆虫系魔物の繭を製糸した特殊
コート
な糸で織り、本来は純白であるそれを物質系魔物の外皮から取った
ファイアドラゴン
ブレス
シーサーペント ウォーターレーザー
鉱物染料で染め、さらに魔精加工した一品である。
火竜の息吹にだって海大蛇の高圧水砲にだって耐えますよ、と店
346
員は言った。火竜も海大蛇ももしかしたら幼生体のことを言ってい
るのかもしれないが、ランタンにとってはその売り文句が詐欺まが
いであっても問題なかった。
ランタンが魅了されたのは防御力なんかではなかった。
なま
ランタンはリリオンの頭を撫でるよりも殊更に優しく外套の表面
すべ
を撫でた。その手つきは妙に艶めかしく、指先がさわさわと蠢いて
いる。外套は絹よりも柔らかで滑らかだった。
とろ
雨の日も安心の超撥水完全防水。暑い日は涼しく寒い日は暖かい
と言う防熱防寒性。そしてこの蕩けるような柔らかさ。ランタンは
今にも外套に頬ずりしそうなほどだった。
ランタンの目尻がとろんと下がった。着心地の良さというものは
何よりも代えがたいものだ。魔精によってどれほど身体が強化され
ようとも、服を着た時に感じる首筋の毛羽立ちは我慢ならない。骨
が折れようとも肉が裂けようとも歩く事ができるが、ランタンは靴
擦れになっただけで歩けなくなる。不思議なものだ。
﹁⋮⋮うー﹂
ランタンが薄ら笑いを浮かべて外套を撫でているとリリオンが小
さく唸った。
ランタンはリリオンの事などすっかり眼中になく、その肌触りに
夢中になっている。以前身につけていた外套も着心地的になかなか
いい品だったので、それよりも優れるものを見つける事ができるな
どとは思ってもいなかったのだ。ランタンは思いもよらない掘り出
し物に心を奪われていた。
リリオンが指先から弾くように外套を放してランタンの手を取っ
た。まるで外套からランタンを奪い返すように。
﹁わっ、なになに?﹂
リリオンが自らの胸にランタンの手を当てて、逃げ出さないよう
に押さえつけた。少女らしい慎ましやかな胸は、それだけに心臓に
近い。ランタンは足を止めて、そこから響く心臓の鼓動を掌で聞く
ばかりだった。
347
ほとんど平らなのに柔らかいものだな、と思わず本能的に動かし
た指先にリリオンが小さく表情を変えた。恥ずかしがっているので
はなく、ちょっとだけ女っぽい顔つきになった。
ランタンはその表情を見た瞬間に石のように固まり、その手を更
に押しつける事も引く事もできずにいた。眼球だけを動かして、反
射的に目を背けた。
﹁あの、︱︱リリオン?﹂
ランタンは何も言わぬリリオンを、睫毛の隙間から透かし見るよ
うに上目遣いでおっかなびっくり窺った。
咎めるように突き出された唇が柔らかそうだ。
先ほど食べた料理が既に血肉へとなっているかのようだった。閉
じられたその唇がゆっくりと解かれる。
濡れた淡い音が唇の隙間に浮かび、その奥から白い歯と赤い舌が
見えた。それが小さく震えて何かを告げようとしたが、ランタンが
それを聞く事はなかった。
首筋にちりちりと痺れがあった。
ランタンは胸を鷲掴みにするようにリリオンの胸ぐらを掴んで、
自らの胸の中にリリオンの頭を掻き抱いた。心臓に口付けるように
リリオンの吐息が服を貫いて胸を濡らした。ばさりと外套がはため
いて二人の身体を隠す。
どこからか複数の矢が飛来したのだ。
ほとんどが外れたが、二本だけがランタンの身体を射線に捉えて
いる。しかし矢は巻き上がった外套の表面を舐めるようにして地面
ほつ
へと逸らされた。服屋の店員の売り文句は嘘ではなかったのかもし
れない。矢を逸らした外套の表面はつるりとしていて解れ一つない。
矢は鉄製だった。錆びて汚れている。安物だ。
ランタンはリリオンの耳に唇を寄せた。
﹁敵だ﹂
さらに向かってくる二射目の矢は、そのまま外れて地面に刺さっ
た。リリオンはランタンから解放されると鞘から剣を抜き放った。
348
地面に刺さった矢の数は六本。つまり相手は六人以上だ。
それはランタンを狙っていたようにも思えるし、ただ射手の技量
ウォーメイス
が低く狙いが定まっていないだけのようにも思えた。
ごろつき
ランタンは戦棍を構えながら、拗ねるように眉根を寄せた。
レイダー
運悪く下街の破落戸に目を付けられただけか、それとも探索帰り
だと言う事を知って襲撃者に待ち構えられていたのか
ランタンは乱暴に舌打ちを吐き出して、それから少し苦笑を漏ら
した。
久しぶりだな、と。
襲ってきたのが何者かは分からないが、幼げで身なりの良いラン
タンはそんな輩の目には鴨が葱を背負っているように見えるらしい。
そのなよやかな肢体に秘められた恐るべき戦闘能力にも気が付かず
に。
アパートメ
ランタンは猛禽の如き目付きで、矢の飛んできた方に視線を向け
た。相手が何者だとしてもやる事は変わらない。
ント
荒れた太い道がまっすぐと伸びており、その左右に崩れた集合住
宅が連なっている。相手は廃墟の影に潜んでいる。
飛んでくる矢はやや山なりでその速度も遅い。左右の建物に分散
して、壁に身体を寄せて隠れているが、ちらりと腕や肩が覗いてい
る者が三名確認できる。本気で隠れているのかふざけているのか理
解しかねるお粗末さである。
ランタンは視線を集合住宅の下から上と走らせた。おそらく高所
は取られていない。馬鹿と煙は何とやらと言うが、高所を陣取らな
ウォーメイス
い弓兵など馬鹿以下の何ものでもない。ランタンは相手が何を考え
ているのかさっぱり分からなかった。
﹁取り敢えず僕は攻めるよ。リリオンはどうする?﹂
﹁ついて行くわ、もちろん﹂
勇ましく応えたリリオンにランタンは小さく頷く。
ヘッド
ランタンは戦棍の重さを確かめるようにくるんと回した。戦槌に
比べて戦棍の柄頭はやや重たいような気がする。そして同時に水袋
349
を振り回しているような不安定さも手の中にあった。おそらく柄頭
の重心がほんの僅かにずれているのだろう。
﹁贅沢に慣れたのかな⋮⋮?﹂
ランタンはくつくつと笑いを漏らした。
様々な探索者に貸し出される代替え品でしかない戦棍と、世界で
つか
ただ一つランタンの為だけに作られた戦槌を比べるのはあまりにも
酷と言うものだ。ランタンは柄をぐっと握りしめた。この戦棍だっ
て悪い武器ではない。人の頭を砕くには充分すぎるほど硬く、重い。
﹁さてと、どこに居るかな﹂
ランタンは自らの身体を囮にするようにゆっくりと歩き出した。
その後ろを少し離れて付いてくるようにとリリオンに伝える。どう
せならば盾も借りてこればよかったな、とランタンがぼんやりと考
えていると相手が姿を現した。
射手が右の建物の影に三人、左の建物に三人。そしてさらに近接
武器を持った相手が影の中から這い出るように五人。思ったよりは
数が多いが、相手の姿は見窄らしい。
レイダー
大した相手ではないな、とランタンは唇を歪めて走り出した。
相手は襲撃者ではなさそうだ。
襲撃者は探索者を専門に狙う強盗の事だ。
ととの
高給取りである探索者を狙えば見返りは大きい。だがその分だけ
ハイリスクなので、やり手の襲撃者は探索者さながらの装備を調え
ブラフ
ている。探索者にとっての魔物が、襲撃者にとっての探索者なのだ。
もしかしたら敵の姿はランタンを油断させる為の偽装である可能
性もあったが、それにしたって装備は貧弱で足運びから見る練度は
低い。おそらくただの破落戸であろうし、破落戸の中でも下の下で
ある。
射手が連続して弓を鳴らした。矢が放たれると同時に近接武器の
男たちも走り出した。
矢の雨が降る、と言う表現は少し大げさか、六人の射手が放った
矢は二十程度で、その内ランタンの身体を捉えているのはほんの四
350
本だけだった。一射目の一の矢を戦棍で払う。二射目の二の矢、三
の矢はほとんど重なっていた。戦棍を切り返して二本の矢を同時に
叩き落とした。
三射目の四の矢は、もう目の前にあった。偶然か、それとも狙っ
てか二射目の矢を目隠しにするようにして最も鋭く、最も速い。真
っ直ぐ一直線にランタンの右目を貫こうとしていた。
避ければリリオンに当たる可能性もある。ランタンの右目の位置
は、ほとんどリリオンの心臓の高さだ。
﹁︱︱よっと﹂
お気楽な声とは裏腹にランタンの左手が閃いたかと思うと、飛来
する矢はまさに眼前で掴み取られた。掌の皮が一枚だけ、ほんの薄
く摩擦で焼けた。それは鉄の矢ではなく、暗闇に紛れるような焦げ
茶をしていた。
一人だけ手練れが居る。一応要注意かな、とランタンは僅かに小
首を傾げた。
矢に紛れてて接近した男の一人にランタンは握りしめた矢を突き
立てた。まるで短鎗を扱うように力任せに脇腹に押し込み、体勢を
崩した相手に戦棍を振るった。戦棍は相手の腕を押し潰して、その
まま肋骨を砕いた。
テンション
脇腹に刺した矢が逆側からの圧力で抜け落ちて、傷口から血が吹
き出た。男は口からも血を吐き出して崩れ落ちた。
ランタンは舌打ちを一つ。
戦棍が相手を捉えた瞬間に、張り付いたばかりの皮膚に張力が掛
かり傷口が再び開きそうだった。あまり無茶をするとギルド医に怒
られそうだ。
ランタンは崩れ落ちた男を、更に向かってくる二人の男に向けて
蹴り飛ばした。ちょっとした牽制でしかなかったのだが、二人は死
体に巻き込まれで盛大に転んだ。男たちの反応は鈍い。雑魚だ。
だと言うのに。
﹁ああぁぁぁあっ!﹂
351
それは鼓膜を裂くような、悲痛な叫び声だった。
ランタンが反射的にそちらに目を向けた。その甲高い声はリリオ
ンのものだ。
そこには肩から脇腹に向かって斜めに両断された男が居た。身体
がずるりと滑る。二分割にされた男は確実に絶命している。しかし
リリオンはさらに真一文字に男の腰を切り裂いた。上半身と下半身
が分かれた。三分割。
闇雲に腕を薙ぎ払った技巧もへったくれもないただの横薙ぎにリ
リオンの身体が泳ぐ。だがリリオンは身体を力任せに斬り返し、ず
れ落ちる男の上半身を斬った。刃の角度が悪く、男の上半身がぶっ
飛んでいった。
誰が見てもやり過ぎたった。
上半身を失って立ち竦む男の姿にランタンは苦い表情を作った。
風が吹いてそれが倒れる。
リリオンは目を剥いて血だまりに沈む肉の塊を睨んでいる。大き
く肩で息をして、次の獲物を探すように視線を上げた。その様子は
おかしい。目が血走っていた。
リリオンの様子は気になるが、ただ転んだ男たちも起き上がって
向かってくる。リリオンに声をかけている暇はない。乱戦になって
誤射を恐れたのか射手も弓を近接武器に持ち替えて向かってきてい
た。数は六、全員だ。距離の利を自ら捨てるとは、突撃思考の馬鹿
ばかりだ。
さっさと終わらせてやる。
﹁下がってろ!﹂
それはリリオンに向けた言葉でもあったし、剣を振り下ろそうと
する男に向けた言葉でもあった。
ランタンは振り下ろされた剣を踏み込んで避けて、左腕を折り畳
むとそのまま肘を振り抜いた。肘打ちは男の胸骨を砕いて胸を陥没
させた。折れた肋骨が皮膚を突き破り、また心臓に突き刺さった。
男の服が一瞬で赤く染まった。
352
視界の脇をリリオンが駆けていった。
﹁待てっ!﹂
ランタンが叫び、男も手を伸ばしていた。捕まえようとする男の
伸びた腕を肘から切断し、リリオンは脇目を振らずに射手であった
六人へ向かっていった。あの中にはおそらく、要注意と定めた一人
が居る。
それの近接戦闘の実力がどれほどのかは分からないが、戦闘能力
だけを見ればリリオンをこのまま向かわせる事に心配はない。だが
リリオンの精神状況は、本来持っている戦闘能力を阻害するほどに
悪いように見えた。
腕を切られた男は痛みに喚くでもなく無表情を晒していて、血の
滴る腕を覗き込んでいた。ランタンは硝子の小枝を折るように男の
首を砕き、リリオンを追走した。先鋒の最後の一人もリリオンを追
っていた。
ぼっ、とランタンの足の裏で爆発が起こり一瞬で高速に加速する。
あっという間に男の背中に肉薄した。ランタンは追い抜かし際に男
に飛びかかり、後頭部を鷲掴みにすると男の顔面を地面に叩きつけ
て鮮血の花を咲かせた。
先鋒の五人はこれで終いだ。
だが仲間を半数失ったというのに破落戸は逃げだそうとはしなか
った。
リリオンが向かっていったので仕方がなく迎え撃っているのか、
仲間を殺されて怒っているのか、それとも自らの保全よりも優先す
べき別の理由があるのか。破落戸の思考を想像する事はできない。
一人ぐらいは生かして捕らえた方がいいのかもしれない、がそれ
も難しそうだ。
視線の先で血風が舞った。生臭さがここまで漂ってくる。
きっさき
背中まで振りかぶった長剣をリリオンが振り回した。反りのない
はずの長剣が三日月のような円弧を描き、それを縁取るように鋒が
空に血を迸らせた。まるで墨をたっぷり吸った筆を振り回したよう
353
だ。
リリオンが剣を振るうと男たちが一気に二人両断された。耳から
パーツ
顎に抜けた剣が、隣の男の二の腕から胸部を通り抜けた。まるで熱
した刃物でバターでも切るように、あっさりと。
斬られた男たちの身体は突っ立ったままで、傷口に身体の部品を
乗せたままでいた。じわりと染み出して滴る血が、そこを刃が通っ
ていった事を教えてくれる。
﹁やあぁぁあっ!﹂
リリオンが更に剣を振り回すと、取り囲もうとしていた破落戸た
ちもさすがに二の足を踏み、大きく後退した。剣圧に気圧されたの
かもしれないし、あるいはリリオンの叫び声に驚いたのかもしれな
い。少なくともランタンは驚いた。
恐慌、だろうか。
リリオンの叫びは人を不安に指せる声だ。そんな声を出す魔物が
いたなと、ふと思った。女の泣き声を出して、恐怖を伝播させる魔
物。だがあれは地上では確認されていない。迷宮の、ランタンの与
り知らぬ所で攻撃を食らったと言うような事もないはずだ。
だがリリオンは何かに恐怖している。
リリオンは剣を振り回している。
その場から動く事ができない死体だけが更に切り刻まれ、両断さ
れた上半身が臓腑を撒き散らしながら吹き飛んだ。赤錆のような血
と、零れ出た黄土色の臓腑が風に乗って生臭く臭う。
ランタンはリリオンに駆け寄りながら、その背中を見つめた。痩
せて、小さく、細い。身長的はずっと大きいはずのリリオンの背中
が、ランタンには自分の物よりも小さく見えた。
横顔が強張っている。ランタンの頭が考え込むように小さく傾い
た。リリオンは何を怖がっているのだろう。
下街に住んでいると暴力沙汰は日常茶飯事なのでいまいち気が回
らなかったが、もしかしたら対人戦闘は初めてなのかもしれない。
そう言えばリリオンはランタンと対峙した時も、攻撃する事なくた
354
だ足止めばかりに専念していたことを思い出した。
ランタンも暴力が好きだというわけではない。だがだからこそ暴
力を振るう事に、一つ覚悟を決めている。やるからには徹底的に、
人間だろうと魔物だろうと区別はしない。
ランタンは淡く乾いた唇を湿らせる。
暴風のような剣風がそこにあった。リリオンが闇雲に振り回す剣
の軌跡をランタンは目で追った。無秩序に見える剣風に飛び込んで
みいだ
いくのはなかなかに恐ろしいが、いつまでも二の足を踏んでいては
破落戸共と変わらない。
﹁ふっ﹂
ランタンは閃いた剣線に僅かな間隙を見出すと、そこに滑り込む
ように飛び込んだ。一瞬で剣を握ったその手首を捕らえ、リリオン
の動きを力尽くで止めた。抵抗は一瞬だけ、すぐに大人しくなった。
細い手首から震えが伝わってくる。それはやはり戦闘に興奮して
いるのではない。手首には金属を掴んだような冷たさがあった。掌
に感じる脈拍が異様に速い。リリオンは掌に食い込むほどにきつく
柄を握りしめている。
﹁リリオン、あとは任せて﹂
﹁わたし、だいじょうぶ、だから!﹂
リリオンは瞬きを忘れたように大きく目を見開いて、過呼吸にも
似た掠れて震える声で叫んだ。視線がまるで蛇のようにランタンの
瞳に飛び込んできた。リリオンの中にある恐れが眼球を食らい、脳
へと這いずったような気がした。
気がしただけだ。視線を交えただけでは、リリオンの頭の中の事
など分からない。
﹁ダメ﹂
ランタンは一言だけ、強くリリオンに言った。
リリオンはランタンを振り払おうとしたが、ランタンはそれを許
さなかった。手首を潰すかの如く強く握りしめて剣を手放させると、
リリオンのベルトを引っ掴んで後ろに放り投げた。
355
﹁わたしは︱︱﹂
リリオンは何かを喚いていたが、ランタンは一瞬、視線を向ける
だけでそれを無視した。
恐れを成して逃げ出してくれればよかったのだが、リリオンの剣
を逃れた男たちが向かってきたのだ。リリオンの話し相手をしてい
る暇はなかった。
残った人数は四人。全員が手に剣を持って、今までの相手と同じ
ように貧相だと言う事だけが類同している防具を装備している。ラ
ンタンは右から舐めるように四人を一瞥して、ふんと鼻を鳴らした。
どれも似たり寄ったりの装備品に格を付けるならば、剣は右端、
いっぺん
防具は左端の男がマシな部類だ。要注意人物は、このどちらかだろ
う。
男たちは四人一遍に連携もなにもなく突っ込んでくる。
男たちの顔は一様に痩せていて、目が落ち窪んでいた。影の差す
暗い目が血走っており、猿のように吠える大きく開いた口の中に、
痩せた歯茎に生える疎らの歯が見えた。
その容姿は食い詰めの破落戸のものだと思える。だがはっきりと
はしない違和感もある。
こいつらもどこかおかしい。
男たちは叫ぶばかりで獣のようだ。破落戸共にありがちな恫喝の
台詞の一つも吐きはしない。空腹過ぎて気が狂ったのか、それとも
薬物中毒の末期症状か、とそこでランタンは思考を切った。
ごちゃごちゃと考えすぎた。優先順位の一番はリリオンだ。男た
ちの都合など知った事ではない。
ランタンは足元に転がる剣を男たちに向かって蹴り飛ばした。回
転する剣はさながら刈り取り機械のようだったが男たちは止まらな
かった。牽制でしかない事を見抜いている、と言うよりはそもそも
それが眼中に無いようだった。
男の一人に剣が当たったが、そのまま転げるように突っ込んでく
る。
356
ランタンは中二人から振り下ろされた二つの剣を左に避けて、避
けながら防具男の刺突を戦棍で優しく逸らした。逸らされた鋒が隣
の男を刺した。ランタンは右足を振り抜いて防具男の胴に爪先を蹴
ブーツ
り込んだ。防具男は金属鎧を身につけていたが、探索者の脚力で蹴
り込まれる鋼鉄補強の戦闘靴の前では紙同然だった。
砕けた鎧がそのまま防具男の胴を切り裂き、また衝撃は肋骨ごと
内臓を破裂させた。防具男が悲鳴と血の混じった物を吐き出しなが
ら、中二人を巻き込んで吹き飛んだ。
弱い。消去法で要注意人物を右端の剣男だと断定した。だが右端
にいない。
男はどこだ、とランタンの瞳が上下左右に鋭く振れた。すぐに夕
日を反射する銀を見つけた。
吹き飛ぶ防具男の下に潜り込んでいる。その影から浮かび上がる
ように、剣を突き上げた。
ほとんど地を這うような低い体勢から、身体ごと伸びて放たれた
突きが空を裂いて首を狙ってきている。剣男の口元に牙を剥くよう
な表情が張り付いていた。涎が溢れている。獲物を前にした飢えた
獣の笑みだ。
ランタンはその笑みを鼻で笑って一蹴した。
弓の技術と剣の技術は別物か。薄皮一枚、その表面を切れぬ程度
だけ舐めさせるように首を傾けてそれを避ける。ランタンは一直線
に伸びた剣男の腕を掴みドアノブのように捻った。
その瞬間、男の手首と肘と肩が皮膚の下で同時に捩じ切れた。
剣男は叫び声を上げたが、しかし剣を手を手放さなかった。剣を
握る男の拳は石膏で固めたかのようだ。ランタンが男の手首を放す
と、男の腕は剣の重みに耐えかねるようにだらりと垂れた。だがや
はり男の手が開かれる事も、剣が滑り落ちる事もなかった。異常な
握力で握りしめ続けている。
ランタンも怪訝な顔つきになると、考える暇も無く殺したと思っ
ていた防具男がいつの何か這い寄り足に組み付いてきた。
357
力の無い指先が、まるで自らの身体を砕いた戦闘靴を愛撫してい
ゾンビ
るようだった。血泡を吐き出す血で戦闘靴に噛み付いてくる。それ
は動死体を思わせる不気味な様相だった。
そして剣男も無事な腕でランタンに組み付き、垂れ下がる腕を身
体ごと振り回してロープのように巻き付けようとした。
怖気が走った。
それは動死体の如き防具男の様相に恐れたわけでも、剣男の執念
を恐ろしく思ったわけでもない。
ただそこにある不浄さが肉体に絡みつく事を嫌がったのだ。
ランタンの爪先が熱を発した。どん、とその周囲の大気が猛烈な
勢いで沸騰して爆ぜた。戦闘靴を汚した血が焼け焦げて、防具男の
噛み付いた口元と一緒に燃え落ちた。
それと同時にランタンは巻き付かんとする剣男の腕を戦棍で払い、
高速の斬り返しで剣男の胴体を薙ぎ払った。掛かった張力に耐えき
れなくなったランタンの皮膚がぱちんと一枚剥がれた。
﹁ちっ﹂
・
剣男は打撃によって大きく退けられたが、それによってランタン
の身体もまた引きずられた。
剣男の身体は骨の可動域を超えて深くくの字に折れ曲がった。だ
が服を掴んだ指が外れる事はなかった。剣男の意識は既に無く、た
だ指の先が引っ掛かっているだけだが、外れない。
そうなるとランタンは自身の力に引っ張られているも同然だった。
体勢を崩したランタンに、転倒から起き上がった二人の男が腰だ
めに剣を構えて突っ込んできた。
一人は防具男の剣に身体を刺されていたが、その口元に涎を垂ら
したヘラヘラとした笑みがあった。勝利を確信したような不敵な笑
みではなく、ただ筋肉が弛緩しているだけの無責任な表情だとラン
タンは思った。
その男たちはランタンを見ているのか、その更に後ろにいる少女
を見ているのか分からなかった。
358
ランタンは地面に突き立てるように足を踏ん張って、剣男の身体
を引き寄せると男の首を鷲掴みにした。
剣男は既に絶命していた。首が頭部を支えきれずにぐらぐらと揺
れていた。男の皮膚には水分がなくカサついており、軽く力を入れ
ただけで骨は砕けた。剣男の身体は軽い。まるで内部を昆虫に食い
荒らされた朽ち木のようだった。
ランタンは剣男の身体を盾として、突き出される剣へとぐいと差
し出した。ようやく剣男の指先がランタンの服から外れた。枯れ枝
のような指先からぶちぶちと爪が剥がれた。
突き出された二本の剣は剣男の身体に突き刺さった。
肋骨でも残っていれば多少は盾としての役目も果たしたのかもし
れないが、それはランタンが全て砕いてしまった。突き出されたの
はいかにもナマクラな剣だったが、それは薄い脂肪と筋肉をあっさ
り押し貫いた。
たが
この男たちは、痩せているくせに妙に力がある。
箍の外れたような馬鹿力が剣男の背中から抜けた鋒を更に加速さ
せた。血と脂に濡れた鋒がランタンへと肉薄し、けれどランタンは
それを冷静に見据えていた。
﹁よっと!﹂
風車でも回すかのように、ランタンは剣男の首を弾いた。剣男は
腹部に突き立った剣を支点にしてぐるりと空転して、二本の支点を
なび
一纏めにするように胴の中に捕らえた刀身を絡げ取った。その勢い
に男たちは剣を失った。
﹁あ︱︱﹂
その時、リリオンが白い髪を靡かせて男たちに飛びかかった。し
なやかな獣の如き跳躍がランタンの頭上を飛び越えた。白い髪が夕
日を乱反射させて、それは燃えさかる炎のように赤く染まる。
引き止めるように伸ばしたランタンの指を、靡いた髪が触れてす
り抜けていった。炎のような色合いとは裏腹に、冷たく。
﹁あああっ!﹂
359
リリオンが跳躍したまま打ち落とすような跳び蹴りを、宙に浮い
て回転途中の剣男に放った。剣男は身体から剣を生やしたままに吹
き飛んで。その裏側にいた男たちが露わになった。
男たちの手から血が零れていた。剣を失う際に、柄ごと皮膚と肉
を引き千切られたのだ。
﹁止まれっ!﹂
ランタンがリリオンに向かって叫んだが、その時にはリリオンの
細い足が空を踏むように振り上げられて、一気に男の頭部へと叩き
込まれた。男の首が引き千切れて、頭部と胴体が点でばらばらの方
向へとすっ飛んでいった。リリオンの足が血で汚れた。
ランタンの言葉は、まるで届いていない。
リリオンは血に濡れた足を地面に下ろすと、茫洋とした視線を己
に向ける男に手を伸ばした。五本の指が強張っていて、それはまる
で短剣のように男の顔を抉り取ろうとしていた。
声をかけるだけ無駄だ。
ランタンは爆風を巻き上げて疾走し、リリオンの伸ばした腕の下
を潜り込んで、男の腹部を靴底で遠くに押しのけるように蹴り飛ば
した。
目標を失い手を彷徨わせるリリオンにランタンは向き直った。そ
の顔は今にも泣き出しそうだった。
﹁わたし、できるから。こわくない、から﹂
リリオンは何度も繰り返した。ランタンと、そして自分に言い聞
かせるように。
震える声で、何度も。
ランタンは空を掻くリリオンの手を取った。
360
026
026
空を掻く、細い指。
わなな
それを突き立てるべき敵を取り上げられて、リリオンの指先が身
悶えるように戦慄いた。飛びかかる直前の歯を食いしばる表情をし
たままリリオンがぽつりと言葉にならない声を漏らした。
霜が降りたように冷たい手を取るとランタンは自らの頬に導いた。
赤子をあやすようにぽんぽんと撫でて、温めるために頬を寄せた。
その手は逃げようとしたがランタンは離さなかった。
﹁だいじょうぶ、だいじょうぶだからね﹂
そこの言葉には何の根拠もない。それどころかリリオンの恐慌の
原因もランタンには定かではなかった。だが取りあえずはまず、こ
かくはん
の子猫のように震える少女を安心させなければならない。
周囲には攪拌されたような有り様の死体が転がっている。足元に
血だまりがあった。その奥でランタンが蹴り飛ばした男が芋虫のよ
うに這い寄ってこようとしていた。ここには死の臭気が渦巻いてい
る。
それはちょっとした地獄の光景だったが、ランタンもリリオンも
まるで気にした様子がなかった。ただランタンはリリオンを気遣い、
リリオンはそれによって平静を取り戻しつつあった。
ランタンがリリオンの手に唇を寄せてもう何度目かの、大丈夫、
を口にした。まるで花畑で蜂に刺された少女の指先から、毒を吸い
出すように。
﹁ランタン⋮⋮﹂
できる、だいじょうぶ、こわくない、とうわ言のように呟いて、
そして言葉を失ったリリオンがようやくランタンの名前を呼び、そ
361
して頬をむにむにと揉んだ。
ランタンが手を離しても、リリオンはランタンの頬を触ったまま
でいた。
ランタンは小さく嘆息し、爪を立てられるわけでも肉を千切られ
るわけでもないので、暫くされるがままにしていた。リリオンはそ
こにあるランタンの優しさを摘み上げているようだった。
﹁どう、満足した?﹂
﹁⋮⋮もうちょっと、︱︱うん、やわらかかった﹂
リリオンは名残惜しみながらも、こくりと頷いて手を離した。そ
してキョロキョロと辺りを見渡して、手からこぼれ落ちた剣を探し
た。男たちの装備品である剣に紛れても、その一振りだけ品が良い
のでそれはすぐに見つかった。
リリオンは小走りでそれに駆け寄り拾い上げると、そしてそのま
ま走って戻ってくる。そしてすぐ足元に這い寄ってきた男の頭にそ
れを振り下ろした。
﹁うわっ!﹂
ウォーメイス
ランタンは顔を引き攣らせながらも反射的に、その振り下ろされ
た剣を戦棍で防いだ。
叩きつけるような斬り下ろしは戦棍をびりびりと痺れさせ、長袖
の下でまた一つ皮膚が弾けた。乱暴だが、硬さが抜けて綺麗に振れ
すいか
ている。それは恐慌状態から抜けたためだろうか、体重の乗った一
撃だ。
ね
ランタンが防がなければ、男の頭は熟れた西瓜のように切り裂か
れたことだろう。
﹁なんで!﹂
﹁なんでじゃないよ﹂
﹁わたし、できるのに!﹂
また、できる、だ。
ランタンは唇を突き出してリリオンを睨めつけた。
できる、はきっと自分への呪いだ。行動に自信がないから自分自
362
身へと言い聞かせているのだ。できる、という鎖を以って自分を縛
り付け従わせている。
﹁リリオンは、あー⋮⋮その、︱︱暴力は嫌い?﹂
そう尋ねてから、馬鹿みたいな質問だなと後悔した。リリオンも
戸惑うように眉根を寄せている。
ブーツ
ランタンはがりがりと頭を掻いて、いつの間にかすぐそこに這い
・ ・
寄って戦闘靴に指を掛けている男の顔面に蹴りを叩き込んだ。
﹁とりあえずは、まだ殺しちゃダメだよ﹂
ランタンはそう言って倒れ伏した男に爪先を引っ掛けて仰向けに
した。
リリオンが不満そうに小さく頷いた。目の前の餌を取り上げられ
た犬みたいな顔だ。殺したくてウズウズしていと言うわけではなさ
ここ
コ
そうだが、リリオンは暴力や殺人にあまり忌避感を持っていないよ
うに見えた。
ロニー
下街で生活するにはいい傾向だ。下街は塵から悪党を生み出す生
産拠点があるのじゃないかと思えるほど人間の屑が多く生息してい
る。そんな悪党相手にいちいち慈悲を抱くようでは長生きできない。
﹁リリオンはさ、何が怖いの?﹂
できる、だいじょうぶ、が自信の無さの現れならば、こわくない、
はそのまま恐怖の現れだろう。暴力でも、殺人でもなく、リリオン
が恐れることはなんだろうか。
ランタンは爪先で男を小突きながらリリオンに聞いた。
﹁わたし、こわくないったら!﹂
﹁あーはいはい﹂
こわくないを証明するようにリリオンが剣を鳴らしたので、ラン
タンは呆れ半分にそれを制した。恐いからといって尻込みせずに克
服しようと行動に移す様子は健気でもある。だが、ランタンも人の
・ ・ ・ ・
ことを言えないが、いくらなんでも直情的すぎる。
﹁それで、リリオンは何が恐くないの?﹂
﹁わたし、︱︱⋮⋮男の人なんか怖くないんだから!﹂
363
そう叫んで剣を振り上げたリリオンの手をランタンは掴み損ねた。
だが振り下ろされた剣をどうにか払い、男の頭から逸らすことだけ
はできた。鋒が地面にはじけて硬い音をたてる。
ランタンがリリオンに出会ったとき、リリオンは男たちから一方
的な暴力を受けていた。身体の自由を奪う魔道装飾品によって抵抗
の意志を剥ぎ取られ、受け入れるように嬲られていた。それはラン
タンが見たその瞬間ばかりの出来事ではなく、きっとそれより以前
からリリオンは恒常的な暴力の嵐に身を晒していたはずだ。
なんでそんな当たり前のことを考えもしなかったのか、とランタ
ンは無自覚な酷薄さに嫌気が差した。
多感なこの少女が、それの暴力を平気な顔で受け流していたなど
ということはないはずだ。ただひたすらに耐えていたのだ。
暴力の痛みは痣が消えたあとでも、恐怖の爪痕としてリリオンの
精神に刻みつけられたままなのだろう。ランタンの優しさに触れ、
また状況の変化に戸惑っている間は一時だけリリオンの精神に平静
をもたらしたのかもしれないが、恐怖の傷は容易にその痛みを思い
出させたのだ。
恐慌の原因はここか、とランタンはぺろりと唇を舐めた。そう言
えば武具工房でも怖がっていたような、と思い出し首を傾げた。
﹁なんでじゃまするの!﹂
﹁殺しちゃダメだって、さっき言ったよ﹂
がうと噛み付くリリオンの腕を優しく撫でると、リリオンは鼻を
鳴らしてようやく剣を鞘にしまった。その様子に目を細めながらも、
僕も男なんだけどな、とランタンは拗ねるようにして助けた男に視
線を投げた。
リリオンの恐慌の原因が判ったからといっても、その対処法など
ランタンは知らない。男を寸刻みにしてリリオンの恐怖が昇華され
るのならランタンは喜んでそれを実行させるが、積み重ねるように
して肥大化した恐怖は、そう簡単に拭い去ることは出来ないのだろ
う。
364
時間が解決してくれると言うのは希望的観測にすぎないが、一先
ずは平静を取り戻したので下手に刺激を与えないようにしよう。ラ
ンタンはいい子だからね、とリリオンを宥めて這いつくばる男に視
線をやった。
貧相な男だ。
薄くなった髪が脂っぽく頭皮に張り付いている。落ち窪んだ眼は
チラつくように震え、折れて曲がった鼻から垂れる血がどす黒い。
ランタンは男の顔を覗きこみ、その頬を戦棍で張った。乾いてひび
割れる唇に笑みが浮かんでいる。
﹁おい、おーい?﹂
ランタンの声に表情は反応しない。だが、だらりと弛緩していた
右手が突如、別の生き物になったように足に絡み付こうとした。ひ
ょいとその手を躱し、面倒くさそうに肩を踏み砕いた。男はヘラヘ
ジャンキー
ラ笑っている。
﹁んー、やっぱり薬物中毒者だよね﹂
下街では違法薬物を入手することは難しいことではない。さすが
に大っぴらに看板などは掲げていないが目抜き通りにさえ幾つも露
天が立ち並んでいるし、廃墟の影をひょいと覗き込めば石の下の昆
虫のように蠢く薬物中毒者を見つけることもできる。違法薬物の中
には銅貨一枚で購入できるものもあるらしく貧者の娯楽として流通
している。
この男も、死んだ男たちもそういったよくいる薬物中毒者の一部
だろうか。ランタンが戦棍で頬を強めに頬を押すと顎が砕けた。し
かしヘラヘラ笑うのをやめない。
男はどう見てもラリっている。
痛みに対する感覚が麻痺しているようだったし、ヘラヘラと笑う
口元は薬物に依ってもたらされた多幸感のせいだろう。薄汚れて痩
せているのは、そういった身だしなみに使う金を薬物に使用してい
るからだ。下街にはよく転がっている手合と同様に。
薬物中毒者が錯乱して襲い掛かってくるなんて掃いて捨てるほど
365
ある話だ。
だからこれは、もしかしたら中毒者集団が薬物パーティでもして
いる所にランタンが運悪く通りかかってしまった、と言うだけの話
なのかもしれない。それならばここでこの男の息の根を止めれば、
それでお終いだ。
だが腑に落ちない。
薬物中毒者の攻撃性は無指向に発露されるはずだ。だがこいつら
の行動には一貫性があった。
薬物によって完全に廃人になっているなら目的を持つ動的な行動
は取れない。襲ってきたからにはある程度人格を残しているはずだ。
﹁ふむ﹂
ランタンは男の胴を跨ぎ、男の喉元に戦棍を置いて、その顔をゆ
っくりと覗きこんだ。
重力に引かれて髪が垂れ、ランタンの表情を影の中に覆い隠した。
﹁ねぇ﹂
言葉は柔らかでも、男の目を覗きこんだランタンの視線はぞっと
するほど冷ややかだ。細い針を瞳孔の中心に突き入れるようにラン
タンが視線を合わせると笑う男の口元が、次第に引きつり始めた。
ランタンがゆっくりと戦棍に体重を掛けていた。
﹁ねぇ、聞こえてる?﹂
戦棍を通して男の震えが伝わってくる。痛みは感じないようだが、
息苦しさはあるみたいだった。それとも身体の内側から聞こえる、
喉仏の悲鳴でも聞いたのだろうか。薬物に依って鈍化していた恐怖
心が、目の中に現れるのをランタンは確かに見た。
﹁聞きたいことがあるんだけど﹂
薬物によって混沌としていた頭蓋骨の中身が覚醒していく様子が
手に取るように分かった。男の荒い息遣いや心臓の鼓動が戦棍を通
して聞こえてくる。恐怖に追い立てられる男の精神が、まさに手の
中あった。
﹁ふっ︱︱﹂
366
ランタンが男の喉元から鋭く戦棍を振った。まるで喉を切り裂く
ように。そして後ろに跳んだ。
﹁ランタンっ!﹂
﹁はいよ﹂
戦棍では喉など裂けないし、血も吹き上がっていない。
ただ矢が飛んできてそれを撃ち落としただけだ。男が何か口を開
きかけた瞬間に、見計らったように矢が三本飛んできた。
一つはランタンを狙い、一つは男を貫き、一つは後ろに跳んだラ
ンタンを追った。男を貫いた矢はこめかみから脳髄を的確に射抜い
て絶命させている。
ランタンは頬を大きく歪めて嫌らしく笑った。
やっぱりいた。
薬物中毒者を統一された目的の元に動かした司令塔。
薬物中毒者から得られる情報などたかがしれているというのに、
大急ぎで口封じをしてその存在を晒すとはなんとも小胆なことだ。
ポイント
シャフト
ランタンは再び撃ち込まれた三つの矢を戦棍の一振りで撃ち落と
した。
ヴェイン
飛来した矢は安物の錆びた金属製ではない。矢尻は黒い金属で箆
は炙ったような色の木製で矢羽は矢尻と同じ色をしていた。洒落た
デザインの高価そうな矢だ。
射られた矢は三本だが、射手は三人ではなく、おそらく一人の射
手による早撃ちだ。なかなかの強弓であり、それでいて正確に急所
を狙ってくる。つまり要注意人物は剣男ではなく、この弓男だった
と言うわけだ。
ランタンは無防備に身体を晒しながら鋭く目を細めた。廃墟の影
から移動したのか、それとももともとそこに居なかったのか。強く
殺意を感じるが、弓男の姿を見つけられない。
慎重なのか、臆病なのか。面倒くさい相手だ。
﹁見えない、︱︱な!?﹂
ランタンが諦めきれず矢の飛来する先に目を凝らしていたら、そ
367
の姿にリリオンが悲鳴を上げてランタンを抱きしめた。
射手の腕は優れていると言ってよかったが、ランタンの命を脅か
すほどではない。射線に身を晒してその射手の位置を特定しようと
したのだが、リリオンには自殺するかのように見えたのかもしれな
い。
戦闘開始時にも同じことをしていたのに、とランタンはリリオン
を鬱陶しげに見つめたが、それだけリリオンの視野が広がったのだ
と思うことで文句の言葉を飲み下した。
リリオンは自らの身体を盾にするようにランタンを抱え上げると、
引きずり込むように廃墟の影に身を隠した。
﹁あんまり危ない真似はしないでよ﹂
﹁ランタンのバカっ!﹂
ランタンがリリオンに抱きかかえられまま言うと、リリオンはこ
っちの台詞だとでも言うように声を張った。
噛み付かれそうなほど顔が近いな、と思っていたら実際に首元に
噛みつかれた。逃げ出そうにもリリオンは両手でがっちりランタン
を抱きしめている。リリオンは抗議するように何度もがぶがぶと口
を動かし、その怒りの分だけ涎塗れになった。
﹁ごめん、ごめんって﹂
ランタンはリリオンの髪をクシャクシャに撫でてあやした。
いくら強弓といえども石材は貫けないようで矢が打ち込まれるこ
とはなかった。そして身を隠す直前、リリオンがランタンに覆いか
ぶさったその時から射撃が止まっていた。矢が尽きた、という事で
はないだろう。
狙いはこの子か。
ランタンはことさら優しくリリオンの頭を掻き抱き、そして鋭く
視線を空に向けた。廃墟に切り取られた長方形の空に黒い影があっ
た。
廃墟の影に隠れてそこから一向に出てこないランタンに痺れを切
らしたのか、廃墟の屋上から二人を分かつように手刀が降ってきた。
368
伏兵は弓男だけではなかったのだ。
フード
ランタンは咄嗟にリリオンを突き放し、自らも小さく後退した。
ローブ
それは頭巾を目深に被り、さらに布を巻いて顔を覆い、体型を隠
す、ゆったりとした貫衣を着ていた。男か女かも定かではない。
だが強い。
手刀を振り下ろしたその体勢から、次の瞬間に貫衣の裾がはため
いたかと思うと鉄靴に覆われた足がランタンに突出されていた。戦
棍で受けると柄がしなり、それを手放してしまった。巨大な鉄球が
ぶつかったような衝撃にランタンは吹き飛ばれ、廃墟の影から弾き
出された。
その瞬間に矢が打ち込まれる。ランタンはそれを転がりながら避
けて、ポーチから一つ球を引っこ抜いた。それは手の中に握り込め
るほどの大きさで、中には薬物が満たされている。それを地面に叩
きつけて割ると、空気に触れた薬物が一瞬で気化しその体積を膨張
させた。
あたりに広がった煙幕がランタンを覆い隠した。濃く重たい白い
煙幕は完全にランランの姿を弓男から遮ったようで、打ち込まれた
矢がランタンの影を貫くだけで当たりはしなかった。
﹁あぁ、くさい﹂
生温い熱を持った煙幕の酸い臭いに顔をしかめながら、その煙の
中をランタンは体勢を低くして移動して、廃墟の影に再び滑り込ん
だ。弓男に構っている暇などなかった。
そこではリリオンと貫衣が戦闘している。
リリオンの振り下ろした剣を貫衣が半身になって避けて、返すよ
うにリリオンの首筋へ手刀を走らせた。
左右が壁に囲まれていて、リリオンは剣を振り辛そうだ。貫衣の
手刀も速度はあるが、やはり、殺意がない。
二人の戦いは微妙な均衡を保っている。
リリオンは踏み込んで肩で手刀を受けて、そのまま膝を突き上げ
た。貫衣は膝蹴りを掌で受け止めると、ふわりと後ろに跳んだ。そ
369
こにランタンが貫衣の着地際を狙って足元から振り上げる強烈なア
ッパーを放った。
貫衣に殺意がなかろうとランタンには関係のない話だ。固めた拳
は鋼のように硬い殺意を纏っており、戦棍さながらの凶器と化して
貫衣の腰椎を狙った。
﹁なっ!?﹂
まず避けられないと思った一撃を、貫衣は避けた。ランタンの表
情が驚愕に歪む。
この貫衣、ほんとうに強い。
貫衣が着地する寸前に身体を捻りランタンの拳をあしらうと、捻
った腰の勢いに足が振り抜かれていた。斧のような回し蹴りが爪先
クロス
で壁を削りながら、しかしその勢いを衰えさせずランタンを襲った。
﹁くっ﹂
ワイヤー
ランタンは咄嗟に腕を交差させてその一撃を受け止めた。
ばちばちばち、と鋼条が千切れるような音を立てて張り付いた皮
膚が一気に弾けた。皮膚だけではない、衝撃でくっつき始めていた
肋骨も嫌な音を立てた。
一撃が馬鹿みたいに重たい。鉄靴だけではなく、骨も肉も血も皮
膚も、その全てが鋼であるかのようだ。
貫衣の背足が腕に張り付くようにそこにあった。粘つく嫌な蹴り
だ、とそう思っていたら貫衣の逆足が振れるのに気がつくのが遅れ
た。まるで鋏のようにもう一つの足がランタンの側頭部に叩き込ま
れようとしていた。
﹁ランタン!﹂
﹁ちぃ!﹂
リリオンの悲鳴を聞きながらランタンは交差していた腕を振り解
くと、手を閃かせて貫衣の足首を掴んだ。思いの外、その足首は細
い。余程太らない限り肉の付かない手首や足首は骨の形がそのまま
浮き出る。
なんとも華奢な骨だ。
370
燃やせば灰も残らないような。
ランタンがその手の中で爆発を起こそうとした瞬間に、貫衣の蹴
りが回りこむような蹴りから突き飛ばすものへと変化していた。一
直線に最短距離を走った突き蹴りがランタンの肩に刺さって、ラン
タンの手の中から貫衣の足が引っこ抜かれた。
泣きそうなほど痛い。折れてはいないが骨の芯に響いた。
悪態をつく暇もなく、そこにリリオンが剣を構えて突っ込んでき
た。
﹁やぁっ!﹂
高速の直突きが貫衣目掛けて疾走る。リリオンの身体には男たち
と戦った時のような恐慌がなかった。男か女か確定していないのな
らば、たとえその頭巾の中身がどうであろうとも関係無いのか、そ
れとも恐慌に陥るだけの余裕が無いのか。
貫衣はランタンとリリオンに挟まれている。左右は壁で逃げ場は
ない。だと言うのに声の一つも漏らさないこの落ち着き様はなんと
も不気味だ。男たちと同じように薬物に依って精神的な揺らぎを麻
痺させているのかもしれない。
だがリリオンの相手をしながら、ランタンへの警戒も充分にある。
貫衣はリリオンの突きを腕で軽く弾いた。手首を滑らせるように
鋒を逸らして、袖が浅く裂けた。
ランタンは苦々しく表情を歪めた。
裂けた袖から腕輪が覗いている。薄汚れた銀のそれはランタンに
も馴染み深い。
探索者ギルド証だ。
犯罪の片棒をかつぐ探索者は珍しくはない。
元々の性質として歪んだ人間の多い探索者は、魔精によって一般
レイダー
人よりも強力な腕力を得ることによって自制を失うのだろう。探索
者の怨敵、襲撃者にさえ探索者崩れが紛れ込んでいるのだからたま
ガード
ったものではない。
衛士隊や探索者ギルドはそう言った探索者崩れに苦慮しているら
371
しい、と言うのを聞いたことがある。
貫衣はリリオンの剣を逸らすと、その腕を振り回してリリオンの
首に巻きつけた。リリオンの首を絞め、もう一方の手でリリオンの
手首を掴んで剣を手放させた。
リリオンは抵抗し必死に暴れたが貫衣はその身体をあっという間
に押さえ込んだ。暴れ牛を御するカウボーイのようだ。リリオンの
筋力を技術によって押さえ込んでいる。
ぐっと喉を絞められてリリオンの顔から表情が失せた。血流が止
められ失神寸前だった。
貫衣がそのままリリオンを盾にするように身体を入れ替えた。人
質を取ったことで貫衣の気が緩んだのだろうか、その間隙にランタ
ンが飛び込んだ。
貫衣はリリオンを殺しはしない。怪我も可能な限りはさせないだ
ろう、と今までの戦いを見てそう思った。そう思うことによって、
ランタンは躊躇うことをしなかった。
それならばリリオンは人質ではなく、ただの枷だ。
ランタンの目が凶悪に光った。橙を通り越して赤く、燃える鉄の
ように。ランタンの身体が爆ぜ跳んだ。
固めた拳が流星にように燃えている。リリオンの耳をちょっとだ
け炙って、赤熱の尾を引く拳が貫衣の顔で弾けた。
手応えはない。貫衣の顔を消し炭に変えたわけではなかった。
貫衣がリリオンから手を放し、爆風に煽られて後ろに吹き飛んだ。
それは重量を感じさせず風に煽られる枯れ葉のようにひらめいてい
た。大きく距離を取り貫衣はふわりと着地して、熱に炙られた顔を
隠すように片手で覆っている。なかなか良い頭巾だ。爆発の熱に炙
られても少し焦げただけだ。
ランタンは追撃せずリリオンを抱きしめて、貫衣に捉えられてい
た喉に優しく触れた。そこについた穢れを払うように。
﹁大丈夫?﹂
﹁げっ、⋮⋮こほっ、へいき﹂
372
﹁︱︱良かった﹂
ランタンは少し赤くなってしまったリリオンの耳の先を食むよう
に小さく呟き、リリオンが頷くと、次の瞬間には貫衣に肉薄してい
た。赤い瞳の残影が尾を引いて、獣じみた跳躍の軌跡を描いた。
ごうと音を立てて振り抜いた拳を貫衣は這いつくばるようにして
躱し、間を置かず振り上がった爪先を仰け反り後ろに転がるように
避けた。
﹁うらぁ!﹂
振り下ろされた踵が転がった貫衣を追い、けれど地面にめり込ん
でランタンの怒りそのままに爆発した。
閃光が周囲を白く染め、そして濃い橙色の爆炎が二人の間に巻き
起こった。
ランタンはさっと身体に外套を巻くとその爆炎の中に飛び込んだ。
自分の起こした炎だが熱いものは熱い。浅く開いた唇に熱波が滑り
こんで喉を焼いた。
炎の壁を突破すると、爆発に煽られて身を強張らせる貫衣がいた。
ランタンが笑みを浮かべる。乾いた唇に一筋罅が入り、血が零れた。
ランタンはその血を噛みしめるようにきつく唇を結んで、無防備
にさらされる貫衣の顔面に手加減なく蹴りを叩き込んだ。
まただ。
蹴り足に伝わる衝撃が思ったよりも軽い。鼻骨を折った手応えは
ある。だがそれだけだ。
首から上を消し飛ばすつもりで蹴ったのだが、貫衣の頭は形を保
っている。貫衣が後ろに跳んで衝撃を逃したのではない、と思う。
感覚としては人頭大の石を蹴ったと思ったらそれが紙風船であっ
たかのような、気持ちの悪い手応えの無さだった。
ランタンの目が訝しげに貫衣を追った。
貫衣は錐揉みしながら高く吹き飛び、そして着地した。廃墟の壁
にべたりと張り付いたのだ。そこが地面であるかのように。
亜人の中にはそう言った種族的特性を持つ者もいる。特殊な指先
373
を持つ爬虫類系亜人や昆虫系亜人がそうだ。あの貫衣の下にはそう
いった姿が隠れているのだろうか。
ランタンはきつく拳を握り締めると、まるで観察するかのように
見下ろしてくる貫衣を睨んだ。頭巾の奥にある視線が皮膚を舐める
ようだった。
﹁︱︱あーもう、くそ。鬱陶しい﹂
ランタンは小さく吐き捨てると握った拳を壁に叩きつけた。
貫衣が張り付く、その壁がまるで硝子材であるかのように罅が入
った。叩きつけられた拳を起点に壁に広がった罅は、大輪が咲いた
ように放射状に走った。
するとさすがの貫衣も慌てた様子で逃げていった。
﹁あー、⋮⋮やっちゃった﹂
それは貫衣を逃したことへの呟きではない。
罅が一つ音を立て、壁が一欠片だけ剥がれ落ちた。罅は壁一面に
広がっている。崩壊のカウントダウンはどう見ても始まっている。
それも早送りで。
ランタンはリリオンを振り返り誤魔化すように笑ったが、リリオ
ンは顔を引き攣らせていた。
ランタンはリリオンに駆け寄り、戦棍を拾うと何時もみたいに尻
を引っ叩いた。
﹁リリオン﹂
﹁な、なにっ!?﹂
﹁逃げよう﹂
ひひひ、と悪びれることなく笑い開き直ったランタンはリリオン
の手を引いて駆け出した。
背後では小降りの雨が、次第にその勢いを増すように罅割れから
ばらばらと壁の欠片が吐き出され、そして轟音を上げながら廃墟は
崩れ落ちた。
374
027
027
アパート
叩きつけられた衝撃は壁の一枚だけではなく、集合住宅の内部構
造にまで浸透したようだった。手入れのされていない建物はすでに
寿命が近かったのかもしれない。
罅割れた壁から欠片が一つ、二つ、四つ、八つと落ちると加速度
的に連鎖崩壊は進み、ある一点を超えた瞬間に集合住宅のその全て
が崩れ落ちる。
コンクリートに似た灰色の石材は、けれども鉄筋などの補強など
入っておらず、まるで砂の城であったかのようにあっさりと、そし
て大量の瓦礫と粉塵を撒き散らしながら轟音と共に崩壊した。
瓦礫がまるで飢えた肉食魚のように地面を跳ね泳いで向かってく
なみしぶき
る。巻き上がった粉塵はさながら波濤のようだ。ランタンはその獰
猛な瓦礫の波に追い立てられるように、それでいてその波飛沫に姿
を隠すようにリリオンの手を引いて素早く戦場から逃げ出した。
逃げるのはあまり好きではない。憂いはすぐに断つべきだ、と思
う。だが仕方がない。
ローブ
粉塵はランタンの姿を覆い隠し、足音は轟音にかき消され、その
気配は崩落に飲み込まれた。貫衣はランタンの姿を見失い、そして
同時にランタンも貫衣の姿を見失った。そして姿を最後まで現さな
かった弓男はもとより、屋上へと逃げた貫衣を再び探し出すことも
難しい。
集合住宅が一つ無くなったとは言えまだ建物は乱立しているのだ。
うろ
貫衣の壁に張り付く能力がどれほどのものかはっきりしていないま
ま、貫衣の足場になる壁に囲まれた場所を彷徨くのはリスクが高い。
尾行はされていないと思う。だが注意をすることに越したことは
375
ない。ランタンは時折後ろを振り返り、左右を確認し、建物の影に
忍ぶよう歩いた。そして充分に戦場から離れると、天井と壁の半分
がない廃墟の中に浮浪者が居ないことを確認して、するりと立ち入
る。それからようやく安心したように一つ息を吐きだして、リリオ
ンの手を放した。
﹁ランタン真っ白よ﹂
リリオンはそう言って笑うとランタンの頭に手を伸ばした。ラン
マント
タンの黒髪はまるで粉砂糖を振ったように白くまだらに染まってお
り、買ったばかりの外套も灰白に汚れていた。
リリオンがランタンの髪をがさがさと揺らすと粉が舞い上がり、
そしてそれに擽られたのか鼻をぴくぴくと震わせた。
﹁︱︱っくしゅん!﹂
﹁きっ︱︱﹂
つぐ
たない、と言ったらリリオンは傷つくかもしれない。くしゃみを
浴びせられたランタンは一瞬の判断で口を噤み無表情になって袖で
顔を拭った。
のぼ
リリオンがもう一度くしゃみをして大きく身体を震わせると白い
塵が立ち上った。もともとの髪色が白いのでそれに紛れていたが、
リリオンの長い髪にはその長さの分だけ粉塵が付着していたようだ。
ランタンはくしゃみが止まらなくなったリリオンから一歩離れて、
乱暴な手つきで自分の髪を掻き回して粉を落とし、外套を脱いでバ
サバサとそれを振り回した。
﹁うぅ、ランタン⋮⋮くしゅっ﹂
﹁はいはい、ちょっと待って。︱︱ほら、鼻かんで﹂
ランタンは外套を羽織り直すとポーチから端布を抜き取る。それ
をずるずるとグズっているリリオンの鼻に当てた。リリオンはラン
タンの手ごと端布に顔に押し付けるようにして勢いよく鼻をかんだ。
﹁ん、⋮⋮ありがと﹂
鼻を赤くして目尻に涙を浮かべているが、リリオンはすっきりと
した顔つきで笑った。ランタンは洟を包んだ端布をぽいっと捨てた。
376
まだリリオンの身体には粉が大量に付着している。
ランタンはリリオンを座らせた。そうしないときちんと頭に触れ
ることができない。
﹁いっぱい息吸って、口と鼻を押さえて、目も閉じて﹂
リリオンは口と鼻どころか洗髪を怖がる子供のように顔を全部、
掌で覆い隠した。ランタンは後頭部で縛ったリリオンの髪を解くと、
たっぷりと垂れた髪に指を通して大きく揺らすようにしてそれを梳
いた。まるで脱皮だ。ごく小さな幾万もの鱗が剥がれ落ちるように
髪から白い塵が零れた。
﹁よっし、もういいよ﹂
ランタンは言いながらリリオンの外套を剥ぎ取り、付着した粉塵
を叩いた。塵の一粒も残さずに、と言うことはどうしたって無理だ
が恐らくもうくしゃみは出ないだろう。リリオンは恐る恐る顔から
手を外して、濡れた犬がそうするように頭を揺らした。
﹁どう?﹂
﹁うん、もうだいじょうぶ﹂
座ったままのリリオンがランタンの顔を見上げた。ランタンは塵
に水分を持っていかれてぼさっとした髪を一撫でしてリリオンに外
套を渡すと、首の後ろで緩く髪を縛ってやった。
﹁あーあ、酷い目にあったよ﹂
バラック
集合住宅をぶち壊したのはランタンの拳だったが、ランタンは恨
めしげに呟いた。
身体に付着した粉塵を一つにまとめたら簡易住居の一つでも建て
ジャンキー
あらた
られそうだ。ランタンは唇を皮肉げに引きつらせて笑った。
あの様子では薬物中毒者の死体を検めに戻ったとしても、まずは
瓦礫の撤去をしなければならない。そして苦労して瓦礫を撤去した
としても、きっと死体は瓦礫に磨り潰されているか、大鼠などに食
い荒らされ、その巣へと運び込まれているだろう。
ころころと太った大鼠だが、奴らはそのくせ小さな隙間にでも平
気で滑り込んでゆく。腐食して柔らかくなっていれば金属だって齧
377
る悪食相手に、たかだか痩せて薬物汚染されているだけの新鮮な肉
たか
を食うなと言うのは無理な話だ。
ツテ
せめてあの弓男が射った高価そうな矢だけでも拾ってこれればよ
かった。ランタンに情報屋の伝手はないが、それでも何かしらの情
報を得ることができたかもしれない。もし無駄骨だったらそれを売
り払ってもいいのだから。
襲ってきた相手を返り討ちにすればその所持品は勝者のものだ。
小遣い程度にしかならないが、それでも無いよりマシだ。今回は完
全にタダ働きだった。
いまさら思っても無駄なことだな、とランタンは掌をズボンで拭
いリリオンに手を差し出した。手を繋いで再び歩き出す。
﹁ランタン、これからどうするの?﹂
﹁んー、帰るよ。⋮⋮少し遠回りしてね﹂
ランタンがつまらなそうに言うとリリオンは一つ間を置いてから、
やっつけないの、と尋ねた。目を何度か瞬かせるその表情が、ラン
タンの答えが意外だったと雄弁に語っている。その顔をチラリと見
てランタンは苦笑を漏らした。
この一週間でリリオンはランタンの優しげな佇まいの下にある、
苛烈な性格を充分に理解したようだ。ランタンは苦く笑いながら、
もう少し我慢強くなろう、と守れもしない決意を固めた。
暴力に即応することはこの世界で生き抜くには悪いことではない
はずだが、それが少女の情操教育に悪影響を与えないとも限らない。
﹁やっつけられるならそうしたいけどね。相手がどこ誰かもわから
ないし、どこに居るのかもわからないし﹂
﹁そっかー﹂
弓男は結局最後まで姿を表さなかった。遠く離れた建物に身を潜
めながら、おそらくはあの薬物中毒者集団の指揮を執っていたのだ
ろう。一度に三本の矢を放つ早打ちの技術、それでいてわかり易い
ほど精密な射撃。ランタンは最初、薬物中毒者に比べて弓男の危険
度を一つ高く置いた。だが今ではそれ程、弓男を重要視していない。
378
弓男は薬物中毒者から情報を引き出されることを恐れてか、それ
に矢を打ち込んでその存在をランタンに知らしめた。薬物中毒者か
ら、それこそ暴力以外の尋問術の一つも知らないランタンが引き出
すことの出来る情報などたかが知れているというのに、弓男は恐れ
たのだ。
自らに繋がる情報の漏出を恐れるがあまり、自らの存在を晒すな
ど小胆という他ない。それともランタンを仕留められるとでも思っ
たのか、どちらにしろ彼我の実力差を把握できない指揮官など恐れ
るに足らない。
さ
弓術も優れてはいるがそれだけだ。致命的な恐怖は感じない。そ
れに弓男に割いていた注意は、それを大きく上回る脅威によって上
書きされている。
一言も言葉を発しなかった正体不明の、あの貫衣。
ランタンは思い出して奥歯を軋ませた。
蹴りを受け止めた腕にまだ衝撃が残っている。躱すことが出来な
いほど鋭かった。重く粘つくような痺れが骨にこびり付いていて、
引き千切れた皮膚のその下から色のない体液が染みだして肌着を僅
かに湿らせていた。反応が間に合わなければ顔を砕かれていたかも
しれない。
昨日の今日でギルド医に世話になったら、きっと怒鳴り散らされ
ぎょうこう
るどころではすまないだろう。そうならなかったのはあらゆる意味
で僥倖だった。
ランタンの身体は完璧ではなかった。骨折した骨は仮止めであっ
たし、探索の疲労は抜けきってはいない。装備だって代替え品だっ
た。リリオンも似たようなものだ。細い体の中にある精神は恐慌か
ら立ち直ったばかりの不安定なものだった。
だがそれでもランタンのリリオンの二人を相手取って致命傷どこ
ろか直撃を避けるあの体術と鼻を砕かれても呻きの一つも漏らさな
い落ち着き様は不気味だった。
薬物によって精神を安定させていたのかもしれないが、それでい
379
て一つ一つの動作は機敏だった。最後に鼻を潰した蹴りも、本来な
らば頭蓋が砕けるか、首が引っこ抜けるような一撃だ。
ランタンは不機嫌そうに唇を歪めた。
貫衣がリリオンを捕らえた時、ランタンの頭は氷を入れたように
冷たくなっていた。それは冷静だったというわけではない。頭の中
にあったのは怒りだった。貫衣に対する、そして自分に対する。
もし貫衣がその気だったのならばリリオンの首はぽきりと折られて
いただろう。
﹁ランタン⋮⋮ちょっと、いたい﹂
﹁あ、︱︱ああ、ごめん﹂
リリオンは立ち止まると、小さく、申し訳なさそうに呟いた。は
っと深く沈みかけた意識の底から浮かび上がったランタンは、それ
でようやくリリオンの手を強く握りしめている自分に気がついた。
まるで失うことを恐れるかのように。
ランタンは慌てて強ばる指先を引き剥がし、リリオンの手を放し
た。手の甲にランタンの指の跡が白く浮かんでいる。
﹁ううん、いいの﹂
リリオンは小さく首を振り、指跡を逆の手で包み込んだ。塞き止
められていた血が流れ出すと、それは直ぐに薄赤く押し流されて消
えた。リリオンは手の甲を一撫ですると、改めてランタンに差し出
した。
再び痛みを求めるように、そこにあった痛みが名残惜しいとでも
言いたげな物欲しそうな表情で。
ランタンは恐る恐るその手を握った。リリオンはその手をゆらゆ
ら揺らしている。
ランタンは深淵を覗きこむようなおっかなびっくりとした顔つき
でそっとリリオンの顔を盗み見た。手を繋いだことで満足したのか
物欲しげな表情はすっかりと失せ、口角の端がごく僅かに持ち上げ
て満たされた顔をしていた。
ランタンはしばらくその横顔を見つめて、やがて諦めたように視
380
線を下ろした。
喉が白い。貫衣に捕らえられた首は痣一つ無く、綺麗なものだ。
もた
肩が痩せているせいか、少し首が長く見える。それは小さな顔でさ
え重たげで、花を擡げる百合の茎に似ている。
ぼんやり眺めていると、それがさっと隠された。
﹁⋮⋮あんまり見ないで﹂
リリオンが浅く下唇を噛むようにして恥ずかしげに呟いた。こち
らに顔を向けずに睫毛を伏せた眼差しだけが、ひっそりと気配を探
るように眼窩の中でちらちらと動いた。
ランタンはバツが悪そうに慌てて視線を逸らした。繋がれた手の
中で汗が浮き出たような気がしたが、手を振りほどくことは出来な
かった。
裸を見られても平気なくせに妙な所に羞恥を感じる繊細さに、ラ
ンタンはその羞恥が伝染したかのように耳を赤くし、また混乱して
いた。
少女の精神構造は男なんかには解き明かすことのできない混沌だ。
もしかしたら弓男はその深淵の謎に挑むべくリリオンを求めたの
かもしれない。ランタンは羞恥を誤魔化すようにくだらないことを
考えて、そのくだらなさに幾許かの冷静さを取り戻した。繋いでな
い手でガリガリと頭をかいた。
ランタンは胸の中に残るモヤモヤとした熱を太く吐き出した。
リリオンが狙われた理由はなんだろうか。それを考えるとまた胸
のあたりに熱が篭る。モヤモヤとした中途半端な熱ではなく、心臓
に火を入れたような身を焦がすような熱さ。ランタンは息を吐きだ
したついでに、大きく息を吸い込んだ。
空気が冷えていた。夕焼けの赤はいつの間にか紫に色を落とし、
吹いた風は夜の到来を告げるような静謐な冷たさを孕んでいた。そ
れは心地よい。外套が巻き上がり、その内側で風が折り返して身体
を抱きしめるようだった。
﹁リリオンってさー﹂
381
﹁なぁに?﹂
欠伸をするような気だるげな声にリリオンが首を傾げた。
﹁実はどこぞの国のお姫様だったりしない?﹂
﹁なにそれ?﹂
﹁なにか重要な秘密を握ってたり︱︱﹂
﹁しないけど⋮⋮﹂
﹁財宝の在処を︱︱﹂
﹁しらない﹂
﹁まぁ、そうだよね﹂
ランタンはさも知っていましたとでも言うように肩を竦めると、
今度こそ本当に欠伸を漏らした。弓男がリリオンを狙う理由など、
どれほど頭の中で思考をこねくり回そうとも真実に辿り着けるわけ
ではない。
例えば狙われたのが自分自身だったら、幾つか当たりをつけるこ
とはできる。
暴力が好きではないので自分から喧嘩を売りに行ったことはない
が、実のところ売られた喧嘩のその殆どを一括購入している。恨み
が残らないようにきっちりと殺したとしても敵討に何処からか湧き
レイダー
だした仲間がやってくることもあるし、慈悲を掛けて半殺しにした
ソロ
らお礼参りをされたこともある。
それに単独探索者としてそこそこ顔が売れているので襲撃者も稀
カモ
に襲ってくるし、ランタンの顔を知らない悪党には小さなその姿は
下街をぶらつく世間知らずの子供にしか見えない。
ヒト
だがリリオンは、どうなのだろう。
他人の頭の中なんてわからない。
ランタンは小さく唇を付き出した。理解不能の数式を前にした学
生のように、そのまま眉根を寄せて思考を諦めた。
ウォーハンマー
ナイフ
次に絡まれた時に直接、聞けばいいだけの話だ。
その頃には戦鎚も仕上がっているし、きっと狩猟刀も出来上がっ
ている。それらがあれば頭の中を覗きこむのにも、腹を割って話を
382
するのにも苦労はないだろう。
﹁リリオン﹂
リリオンに呼びかけ、ランタンは一つ勿体ぶるように間を置いた。
﹁多分、暫くはないだろうけど、あいつらはまた襲ってくるよ﹂
﹁そうなの?﹂
﹁そうなの﹂
予想はしていたがリリオンは自ら狙われたことに気がついてはい
ないようだった。薬物中毒者たちはまともに言葉も喋ることのでき
ない廃人だったし、貫衣は石のように無口だった。リリオンもその
精神に状況を見る余裕は持ちあわせてはいないので、それは仕方の
ない事だ。
ランタンは口を開いて、一瞬言葉を探した。
﹁あれだけの規模の兵隊を集めるのは大変だからね﹂
本当はリリオンに、狙われているから気をつけてね、と言おうと
した。だがその瞬間に恐慌に剣を振り回した硬い横顔や、それを止
める時に掴んだ手の冷たさを思い出した。今はせっかく落ち着いて
いるのだから、無遠慮に心に触れるような真似をするべきではない
のではないかと思った。
襲われる時はランタンもまとめて襲われるのだ、その事だけに気
をつけておけば良い。リリオンが狙われている、と言うのはある意
味、戦場では生命の安全を約束されているようなものだし、そもそ
も狙われていると言うのはランタンの予測にすぎないのだから。
ただの予測で、この繊細な少女にいらぬ気を揉ませる必要はない。
ランタンは自分への言い訳を表情も変えずに飲み込んだ。そして
気を揉ませない程度の予測をリリオンに伝えた。
弓男たちは帰り道を狙ったのだ。探索を終えて、その疲れも癒し
きらないその帰りに、準備万端で待ち伏せをしていた。だと言うの
いたず
に弓男は、そこでランタンを仕留められなかったばかりか目に見え
る傷の一つも負わせることできずに、ただ徒らに戦力を失った。そ
こで弓男は引けばよかったのにその存在を知らしめたことで、ラン
383
あがな
タンに再襲撃への心構えさえも植え付けてしまったのだ。
この襲撃の失敗を贖うためには、今回よりも多くのあるいは強力
な戦力を用意しなければならない。時間をかければかけるほどラン
タンから探索の疲労は抜け、傷も癒え、その力を増すのだから。
だが使い捨ての薬物中毒者とは言え、一度に十一人も失えばその
補充は手間だろう。先ほど失って、今晩再び襲撃をかけるというこ
とはない筈だ。
﹁じゃあ、じゃあ! 次はいつ来るの?﹂
﹁さすがにそれは判んないよ。どうせなら宣戦布告の矢文でも射っ
てくれればいいのに﹂
﹁ねー﹂
﹁ほんとに気の回らないことだよ﹂
いつ来るか判らない襲撃にびくびくと怯える日々を過ごすような
繊細な神経を持ち合わせてはいないが、それでも鬱陶しいものは鬱
陶しい。
下街の東南には下街の中でも更に貧しい物の住まう貧民窟があり、
その更に奥には罪人窟とでも言うような掃き溜めがある。例えばそ
この住人を一人残らず皆殺しにして罪人窟を更地に変えてしまえば、
おそらく襲ってきた相手もやっつけることはできるだろうが、鬱陶
ガード
しいからという理由でそんな大規模作戦を一人で成功させるような
ことができれば治安維持に四苦八苦する衛士隊の苦労はない。
﹁基本は待ちの一手かな。だから次来たら殺しちゃダメだよ、︱︱
ちゃんと色々聞いてからならいいけどね﹂
﹁うん、わかった﹂
わかったのか、なんとも怖いことだ。情操教育を施すには、少し
時機を逸してしまっているのかもしれない。素直に頷くリリオンに
ランタンは苦笑した。この残酷なまでに理解のいい少女を狙うのは
なかなか骨の折れる仕事だろうに、とランタンは苦笑を皮肉げに歪
めた。だからと言って襲ってきた相手に同情の一欠片も抱きはしな
い。
384
だがこの理解の良さは、もしかしたらただの強がりなのかもしれ
ない。男への恐怖は一時的に治まっているだけで、小さな火種がま
だ残っているだろう。再び悪意ある男たちと対峙したときリリオン
は大丈夫だろうか。
﹁わたし、できるからね﹂
ランタンの心配を敏く感じ取ったのかリリオンがつんと鼻を上向
きにして呟いた。男たちを切り刻んだことで自信をつけたのだろう
か、どこか誇らしげに胸を張ってみせた。なんにせよ強がれること
は良いことだ。
ランタンは小さな胸の奥にしまい込まれた魂を見たように、眩し
げに目を細めた。
空に月が出て、星が散らばっている。もうすっかり夜になった。
星月は足元に影を落とすほど明るい。
﹁ランタン、こっちで合ってる?﹂
リリオンが不安そうに呟いた。念のために遠回りして、全く人の
姿ない道を選んで歩いたせいだろう。ランタンが首を左右に振ると、
リリオンも真似をして辺りを見回した。それからやはり不安そうな
顔のままランタンの手を強く握り直した。
﹁合ってるよ、もうすぐだから﹂ 廃墟と影の間の道のない道を進む。そしてようやく開けた場所に
出るとリリオンが急かすように尋ねてきた。
﹁ねぇ、まだ?﹂
﹁リリオンって、あんまり場所を覚えるの得意じゃないね﹂
もう目の前に住処にしている集合住宅があった。ランタン以外の
住人はいないのでしんと静まり返って、探索に出た時と変わらずに
そこにある。リリオンが場所を覚えられない程度には分かりづらい
ところ建っていることもあり、住処の場所は割れてはいないようだ。
だからこそあんな中途半端な場所で弓男は待ち伏せしていたのだろ
うが。
﹁ちょっと暗いからわからなかったの。朝ならわかるわ、本当よ﹂
385
﹁そうだね、月も星もこんなに出ていて暗いからね﹂
﹁もうっ﹂
ランタンが意地悪く言うとリリオンは拗ねたような声を上げて強
く腕を引っ張った。
﹁階段は危ないから、引っ張らないで、狭いし﹂
リリオンは縦一列になろうと手を離したランタンの肩を抱いて、
一人分の横幅になるようにしっかりとしがみついた。無理に引き剥
がすと外套が破れそうだ。リリオンはまるでこの集合住宅が、ただ
似通った別の建物であるかのように、少し怖がっているようにも思
えた。
明かりのない建物は確かに少し不気味ではある。だがだからと言
って外に光源を置けば、集まってくるのは蛾ばかりではない。そう
したらランタンの楽園は一瞬で浮浪者に蹂躙されてしまう。
ランタンは扉の前で立ち止まりそれが施錠されていることを確か
めると、それからようやくポーチから鍵を抜き取って開錠した。が
ちゃんと響く金属音は、まるでそれこそがランタンの身体を縛って
いた鎖の鍵だとでも言うように、それを聴いたランタンの小さな身
体が安堵から弛緩した。
扉を開くと出かける前と全く同じ部屋の景色が見える。床を這う
ように落ち着いた空気の中に自分の匂いを見つけ出してランタンは
ゆっくり息を吸った。
﹁ただいまー、おかえりー﹂
ランタンは誰にともなく言いながら部屋に足を踏み入れた。歩き
ながら外套を脱いで、背嚢を降ろして、戦棍を壁に立てかけた。狩
猟刀を外そうとして空を掴み、その手で腰に巻いたポーチを外すと
どかりとベッドに腰掛けた。このまま倒れこんでしまいたい、と思
ったがリリオンが扉の外に佇んでいた。
﹁どうしたの?﹂
家に帰るまでが探索だ。それは最後の最後まで気を抜くなという
ただの戒めに過ぎないが、リリオンにとってこの瞬間こそが初探索
386
の達成なのかもしれない。
ランタンはベッドのバネを軋ませて立ち上がると、一度萎えてし
まった気力を奮い立たせた。ランタンは部屋の真ん中で仁王立ちに
なると、腕を伸ばして両手をリリオンに差し出した。
﹁ほら、おいで﹂
それから優しく微笑みながら呼びかけた。
﹁おかえり、リリオン﹂
﹁⋮⋮︱︱ただいまっ!﹂
リリオンは大きく一歩踏み出して敷居を跨ぐと、そのまま走って
ぎゅうとランタンに抱きついた。ランタンの再起動させた気力では
リリオンの喜びに耐えきることができずに、吹き飛ぶように押し倒
された。
﹁うぉぉ︱︱うぐ﹂
部屋の中央から一気に壁際のベッドまで。
リリオンはランタンの柔らかな髪に顔を埋めるようにしてずっと
ランタンに抱きついたままだった。リリオンはランタンを胸の中に
抱き込み、背中と腰に腕を回して、足さえも絡めた。
﹁ああ! 靴脱いで。ほら、外套も、背嚢も、ポーチも、剣も。︱
︱リリオン、聞いてる?﹂
されるがままどうにか動く左手で宙を掻きむしりながらランタン
はリリオンの心臓に語りかけるように顔を胸に埋めながら言った。
だがリリオンは全く反応しなかった。
一瞬で眠ってしまった。
﹁まったく、しょうがない。︱︱がんばったもん、しょうがないね﹂
ランタンは静かに身体を捻り蛇のようにリリオンの腕の中から抜
けだすと、少女の身体から探索道具を剥ぎ取った。靴も靴下も脱が
せて、髪も解く。そしてその長身をベッドの中に押し込むとランタ
ンもまた身軽になった身体を少女の隣に横たえる。
ベッドの柔らかさに触れると、途端に身体は鉛のように重たくな
った。
387
色々あったが無事に探索は終わったと言っていい。リリオンが初
めての探索を無事終えたように、ランタンも初めての一人ではない
探索を無事終えたのだ。
ランタンは無垢な少女の寝顔に祝福のようにそっと呟いた。
﹁おやすみ、リリオン﹂
二人は自然と互いを抱きしめ合いながら、そのまま夜の安息に沈
んでいった。
388
028︵前書き︶
ないようがないよう
389
028
028
住処の部屋はいわゆるワンルームだった。
長方形で玄関から真っ直ぐ進んだ先にベッドがある。その脇に丸
いテーブルを置いて、少し離れて一人掛けのソファがポツンと鎮座
ランプ
している。家具はそれだけで棚の一つもない。そして窓もない。
魔道光源を消すとほとんど真っ暗で、玄関扉のほんの薄い小さな
隙間から入る光だけが唯一の光だった。
床を這う光がそろそろとベッドに忍び寄り、やがてそこにある膨
らみを照らした。
ランタンとリリオンが一塊になって眠っている。リリオンはラン
タンの身体を包み込むようにして、そしてランタンは胎児のように
身体を丸めていた。
三日の間、そうやって過ごした。
誰に咎められることなく、邪魔を入れられることもなくひたすら
に眠り、昼夜関係なく目を覚ませば背嚢いっぱいに買い込んだ食料
を貪った。そして空腹を満たしたならば再び眠りにつく。それを何
度も繰り返した。
この上なく無為な生活を続けているのに、けれどその姿に怠惰さ
を感じさせないのは、それが傷を癒す獣の姿に似ているからだろう。
﹁ん、うぅ⋮⋮﹂
ランタンが目を覚ます。そこがリリオンの懐の中だということを
理解すると、緩慢ながらも精密な動作で服を掴む指を一本一本やさ
しく引き剥がす。そしてその温かい抱擁の中からするりと抜けだす
と、そのままベッドの上にべたりと座り込んだ。
﹁うぅ、うがぁ﹂
390
ボサボサと寝癖をつけたランタンは乱暴な仕草で髪をかき回し、
牙を剥いて吠えるように欠伸を吐き出した。自然と背筋が伸びる。
するとびきびきと背骨が軋み、酸素を多く取り込んだ血液が筋肉
に流れ込んで、童女のように細く小さいランタンの身体を一回り大
きく膨らませた。
﹁ふむ⋮⋮﹂
何か確認するように小さく呟き、爪先で床を探すようにそっとベ
ッドから降りる。隣で眠っていたリリオンが言葉にならない寝言を
呻いて、遠ざかる体温を求めるように手を動かした。
﹁ふふ﹂
ランタンは口元を緩めて、そこにそっと枕を近づける。するとリ
リオンはそれを奪うように胸に抱いて、二度と奪われまいとするよ
うに身体を丸めた。枕に口付けを降らせているようにも見える。
一体どんな夢を見ていることやら。
ランタンが顔に掛かった髪をそっと掻きあげてやるとそこには穏
やかな寝顔がある。
襲撃のことなどすっかりと忘れたような、もしかしたら本当に忘
れているのかもしれない。
この三日間、この部屋を訪ねてくるものは誰もいなかった。
やはり住処の場所は弓男には知られていないようだ。
それともずっとランタンが引きこもっていたせいで襲撃の機会を
逸したのか、戦力の補充が全く間に合っていないのか。
つつ
なんにせよランタンは身体を癒すことに専念できた。一先ずはそ
れで充分だった。
ランタンはリリオンの頬を突いてから、玄関を開け放った。
視界を白く染める眩しさに垢のように肌に張り付いた眠気がはら
はらと剥がれ落ちるようだった。
ひとけ
ランタンはハッキリとした瞳で左右を見渡し、遠くまでを一通り
眺めた。人気も違和感もないことを確認して扉を開けっ放しにする
と、部屋に淀んだ空気が入れ替わっていく。
391
ランタンは清涼な外気と暖かい陽光を浴びながら大きく背伸びを
した。筋の伸びるその痛みを味わうように、ゆっくりと、大きく。
袖から覗いた白い二の腕に少し脂肪がついた。その先には怪我一
つ無い。
再び弾けた皮膚が癒着することはなく、古い皮膚は枯れた花びら
にように気がつけば剥がれ落ちていた。しかしその下には薄い皮膚
が再生していて、腕にはその薄い皮膚を透ける肉の色が小さな花を
ローブ
咲かせるようにいくつも浮かび上がっている。
昨晩まであった貫衣の蹴りによる薄紫の痣に比べれば綺麗なもの
だ。腐肉に似た色のその痣はすっかりと消えた。ランタンは一度腕
を擦って、それから拳を握った。
骨が軋むほどに拳を握りこみ、肩甲骨を寄せるように腕を開いた。
肋骨を大きく広げて深呼吸をすると膨らんだ肺が内側から骨を押し
上げる。何度も深呼吸を繰り返し、反動を付けて何度も身体を捻っ
た。
まさぐ
ぎ、ぎ、ぎと骨が軋む。だが痛みはない。ランタンは疑うように
自分の身体を弄って、それでもやはり痛みがないので満足気に頷い
た。
怪我は全て完治している。探索の疲労もすっかりと抜けており、
しいて言えば日々の生活を殆どをベッドの上で過ごしたせいで身体
が鈍っているのが気になるぐらいだろう。たかだかストレッチで、
ほんの少し息が上がった。
ランタンは搾り滓のようになった水精結晶から水を引き出して水
筒を満たし、それを一口分だけ呷った。
水精結晶は魔精を失い、水を吐き出すことのないただの石と化し
た。水筒の中だけがランタンの所持する唯一の水であり、これをリ
リオンと分かち合い食事を済ませなければならない。貴重な水であ
る。
﹁買い出し、か。⋮⋮うーん﹂
ランタンはちらりとベッドの上のリリオンを見て困ったように唸
392
った。
リリオンを外に連れて行くのは少し不安だった。恐慌を起こして
からまだ一度もリリオンはランタン以外の男と接触していない。良
くなっている可能性もあるが、同じだけ悪くなっている可能性もあ
る。
だがリリオンを一人部屋に残しておくこともできない。住処の場
所はおそらく割れてはいないが、万が一ということもある。だが買
い出しに出なければ飢えてしまうし、整備に出した武器も取りに行
かなければならない。
ランタンはベッドの傍まで寄ると光から目を背けるように寝返り
を打つリリオンの寝顔を覗きこんだ。リリオンはいつの間にか胸に
抱いていた枕を顔に押し付けていた。押しつぶされた顔はよく言え
ば愛嬌がある。悪く言えば、まぁ阿呆面だ。
﹁へっ﹂
ランタンは一通り悩んでみたものの、急に馬鹿らしくなってやさ
ぐれたように笑った。
留守番をしていろと言ってもきっとリリオンはついて来たがるだ
ろう。そしてそんなリリオンを宥めすかして言い聞かせることは、
恐慌に追い立てられ剣を振り回すリリオンを取り押さえるよりも難
しい。
ランタンは猛烈な徒労感に襲われて尻餅をつくようにベッドに腰
を下ろした。寝こけるリリオンの頭がその振動に大きく跳ね、けれ
ど起きず、不機嫌そうに喉を鳴らして唸った。
そっぽを向くように枕にいっそう顔を押し付ける。
﹁ほら、起きて﹂
リリオンの肩を優しく揺らして、枕を奪おうと手を掛けた。リリ
オンは眠っているとは思えないほどに枕を握りしめていて、強く引
っ張るとむずがるように首を振った。
寝汚いのか、それとも怠惰が癖になったのか。ランタンは呆れた
視線でリリオンを見下ろした。少し乱暴にしても規律を正したほう
393
がいいかもしれない、とランタンは力ずくで枕を奪い取った。
﹁うー⋮⋮!﹂
ベッドに突っ伏して不機嫌そうに呻いたリリオンを無視してラン
タンは潰れた枕を叩いて膨らませる。枕にはリリオンの涎がシミに
なっていて、ランタンはじっとそれを見つめると一つ嘆息して、枕
を使ってリリオンを文字通り叩き起こした。
﹁うぐ﹂
﹁ほら、起きろー﹂
﹁うぅ、もう、⋮⋮なによぅ⋮⋮﹂
﹁起きろ朝、︱︱じゃない。もう昼だよ﹂
ランタンがそう言うと、リリオンは不満気な声を上げて瞼をよう
やく持ち上げた。眠りを妨げられたことではなく、一食分を逃した
ことを後悔するように重たげな欠伸を吐き出す。そして甘えるよう
に手を伸ばした。
﹁自分で起きな、よっと﹂
言いながらもランタンはリリオンの手を取って、その弛緩した身
体を起こしてやった。もしかしたらリリオンが怠惰に浸ったのはラ
ンタンのせいなのかもしれない。
﹁ありがと、おはよふぁぁ﹂
欠伸混じりに言うリリオンはベッドの上に足を投げ出すように座
り、まだ頭も重たそうにうつらとして俯いている。顔に垂れる髪を
掻き上げる仕草が物憂げで、ほんの少し女らしさを感じさせる。
めやに
だが露わになった面差しは口は半開きで、ほとんど閉じた目には
琥珀粒のように色の濃い目脂が付着していて全てを台無しにしてい
る。
ランタンがあまりにもみっともないその顔を不憫に思い手を伸ば
・
して目脂を取ってやるとリリオンは擽ったそうにさらに目を細めて、
猫のように欠伸しながら胸を反らして背伸びをした。
・
ランタンは慎ましやかながらも服をなだらかに隆起させ確かにあ
る胸に視線をやって、直ぐに逸らした。探索で失った体重はもう戻
394
ったようだ。あるいは少し増えたか。まだ細いが、以前に比べれば
確実に曲線が増えた。
﹁ご飯なぁに?﹂
ランタンは聞かれてようやく視線を外して、なんとなしに咳払い
をしてから、背嚢の中身をテーブルの上に広げた。
ジャーキー
五枚包のプレーンなビスケットが二つ。チーズが一塊。七面鳥の
干し肉が一掴み。丸のままの林檎が二つ。
ランタンがそれを取り出して背嚢を脇に置くと、リリオンはきょ
とんとした眼でランタンとテーブルの上を見比べた。
ランタンはその視線を気づかないふりをして、ごとりと水筒を乗
せてリリオンの隣に腰を下ろした。
﹁これで全部だよ﹂
﹁⋮⋮ぜんぶ﹂
﹁ちなみに水はこれで最後だから一気に飲まないように﹂
リリオンは水筒をとって耳元でちゃぷちゃぷと中身を鳴らした。
舐めるように一口だけ飲んでテーブルの上に戻すと、夢遊病のよう
にふらりと干し肉に手を伸ばした。
﹁こら、ちゃんと半分こにするんだよ﹂
﹁はぁい﹂
野菜は足りないものの、必要量の熱量を摂取するには充分な食事
だった。この三日の飽食の、そして暴食の日々を思えば確かにおや
つ程度の量ではあったが、不満を漏らしても飯が増えるわけではな
い。
一口林檎を齧り口を潤して、それからビスケットの包装を開いた。
それは食事を取るというよりも、まるで炉に石炭を放り込んでい
るようだった。リリオンは無心で食べ物を口に運んでいる。そのた
めにビスケット屑がボロボロとこぼれていて、ランタンは自分の食
事の合間にかいがいしく胸元を汚す食べこぼしを払ってやった。
リリオンはまずビスケットを平らげて、それからチーズを齧った。
三角食べをするように何度も言い聞かせたのに、とランタンが不満
395
気にしているとリリオンは案の定、食べながらも眉の間に皺が浮か
べ始めた。
ビスケットに口中の水分を奪われ、それに加えて素朴なビスケッ
トに合わせて食べるように塩味が強くくどいチーズの味に口が飽き
たのだろう。
﹁ほら、水﹂
カロリー
ランタンはリリオンに水を飲ませて、自分の分のビスケットを二
枚分けてやった。
ランタンも日々の生活に大量の熱量を必要とする探索者の例に漏
れず何だかんだで大食であったが、どちらかと言えば量よりも質を
好んだ。
・
だが、だからと言ってビスケットがもそもそしていたのでこれ幸
・
いとリリオンに押し付けたわけでも、多めに食べさせたらもっとあ
ることになるんじゃないかと思ったわけでもない。
二人はあっという間に食事を終えて、けれどリリオンは最後の一
ほぐ
つの干し肉を、まるで木の根を齧って飢えを紛らわせるように未練
たらしく齧り続けている。だがそれもやがて繊維が解れて齧ること
もできなくなる。
﹁ご飯もうないのよね⋮⋮﹂
﹁ないよ。買い出し行かなきゃね﹂
ベッドに横たわりながらだらだらと呟く。
食べて眠る生活を繰り返していたせいで、食事の後に睡魔が来る
ように条件づけされているようだった。このままでは背中に根が生
えてベッドと一体化してしまう、そんな気がするほどに身体は重た
くベッドに沈んだ。
ランタンはわざとらしく大げさに上体を起こし、水筒に残った僅
かな水を布に垂らしてそれで顔に張り付く眠気を拭いとった。
﹁リリオン、買い出し行くよ﹂
﹁でも、⋮⋮ねむい﹂
リリオンは呟いて芋虫のように這い寄ってランタンの太腿の上に
396
頭を乗せた。後頭部が熱い。髪は少し脂っぽくて緩やかに波打って
いる。ランタンが指の腹で頭皮を掻くようにして髪を撫でるとリリ
オンは気持よさそうに身体を震わせた。
犬のように従順で、猫のように気ままである。
﹁寝たいの?﹂
問い掛けると半ば眠ったまま船をこぐように頷いた。
買い出しに出るのは今日中であればいいので別段急いでいるわけ
ではない。だが食事のあとに眠気が来るこの身体は、つまり眠った
あとには食事を取りたくなるのだ。寝るには身体が一つあればそれ
で充分だが、けれど食事のためには食料がいる。
﹁じゃあ留守番する?﹂
﹁⋮⋮やぁだ﹂
リリオンはいやいやと太腿に頬を擦りつけて、腹に顔を押し付け
るように腰に手を回してしがみついた。服を貫いた吐息が臍に当た
って生暖かい。
﹁うー、ランタン、お腹ぐるぐる言っている﹂
腸の蠕動運動の何が面白いのかランタンにはわからないが、リリ
オンはけたけたと笑った。先ほど食べた林檎が傷んでいて醗酵して
いたのかもしれない。そんなことを思わせるような笑い方だった。
﹁離れろ﹂
﹁んふふふ﹂
﹁ええい、嗅ぐな!﹂
鼻を鳴らしたリリオンの頭を押し返そうとすると、腰に回った手
がいっそう頑なになった。
﹁やだ、ランタンも寝よ?﹂
リリオンは腹に押し付けた顔からちらりと視線だけを上げた。
とろんとした眼にランタンが気を取られていると、腰に回ってい
た手が蛇のようにそろりと背中を這い上がった。その指先が牙を立
てるように肩にかかると、一気にランタンの身体を後ろに引き倒し、
ダメ押しするようにリリオンは顔と肩でランタンの腹を押した。
397
﹁うわ﹂
それはベッドの上で研鑽された技だった。
ベッドの上でリリオンはランタンにくっつきたがり、ランタンは
それを拒んだ。気恥ずかしかったということもあるが、実のところ
ランタンは本気で嫌がっているわけではなく、ただ必死になるリリ
オンをからかっていただけだった。
なので結局はランタンが程々のところで折れてくっついて眠るの
だが、そんな遊びのようなやりとりの中でリリオンは何かを掴んだ
ようだ。
実戦の中で技を磨く。リリオンの持つ探索者としての資質は中々
のものだ。
リリオンはランタンの身体の上を滑るように馬乗りになった。
ランタンは脚を抜こうとしたがリリオンの長い足が絡みついてそ
れを許さない。身体を捻り藻掻き、弓なりに反らしても、リリオン
は冷静に腰を浮かせて暴れるランタンを乗りこなした。
ランタンの身体から力が抜けてべしゃりと潰れるとリリオンは勝
ち誇ったようにふふんと笑う。
寝技の技術が異様に向上している。いや、ただ自分の身体が訛っ
ているだけだ、リリオンも同じような生活をしていたけどきっとそ
うだ、とランタンは自分を慰めた。
﹁くっ、⋮⋮眠いんじゃないの?﹂ ランタンは負け惜しみをするようにリリオンを睨みつける。しか
しリリオンはどこ吹く風といった様子でとろんとした眠たげな瞳の
まま笑って顔を覗きこんだ。
﹁うん、ねむたい。ね、いっしょに寝ようよ?﹂
たっぷりと流れる髪が頬を擽る。なんとも蠱惑的な誘惑だ。
ランタンがため息を吐くとリリオンが身体を重ねるようにゆっく
りと上半身を傾けた。ランタンは近づいてくるリリオンの顔を諦め
たかのように眺めていたが、ため息を吐ききった瞬間に手を伸ばし
て襟首を掴んだ。
398
﹁え、わぁ!?﹂
軽く引っ張るだけでリリオンの尻が浮く。それは僅かな隙間だっ
たがそれだけで充分だ。ランタンはその隙間から片足をするりと引
き抜くと、その足で腰を刈り取ってリリオンを転がした。
あっという間に上下を逆転させると、ランタンはリリオンの腹に
腰を下ろしてにやぁと口元を歪めた。
﹁うふふふふ、さぁてどうしてくれようか、⋮⋮あぁ! 暴れるな
ベッドが壊れる!﹂
ランタンを振り落とそうとリリオンがベッドが嫌な音を立てるほ
ど暴れたのでランタンはどうにかそれを宥めた。
身長差のせいで馬乗りになってもうまく抑えこむことができない。
脚を押さえ込めば腕が自由になり、腕を抑えこむと脚が自由になる。
股関節が柔らかいのか気を抜くと蟹挟みされて引っこ抜かれそうだ
った。
悪党相手ならば顔面に鉄槌を叩き込めば済む話なのだが、リリオ
ン相手ではそんなことをするわけにもいかない。
﹁うー、ずるい⋮⋮﹂
﹁ずるくないよ﹂
﹁いっしょに寝てくれるって、言ったのに﹂
﹁言ってません﹂
リリオンは、ずるいずるい、と喚きながらランタンの身体を捕ま
えようと腕を闇雲に振り回していた。それを避けるようにランタン
はわずかに体を後ろに反らすと、リリオンはその瞬間を見計らった
かのように予動作さもなく腹筋だけで上半身を起こした。
頭突きをするような勢いで向かってくるリリオンをランタンはど
うにか片手で押し留めた。
﹁⋮⋮!﹂
・ ・
掌に胸の柔らかい感触が生々しく伝わってきたが、わざとではな
い。
やっぱりある、とランタンが一瞬だけ、だがそう思ってしまった
399
瞬間にリリオンは胸を鷲掴む手を取った。その一瞬は百秒よりも長
い一瞬だった。呆けたランタンはまるっきり無防備で、手首を極め
るのも肘を折るも好き放題に出来た。
だがもちろんリリオンはそんなことはしない。リリオンの目的は
ただランタンをベッドの中に引き込むことだけなのだから。
手首から肘へ、そして二の腕を舐めるように撫でて袖を掴むとリ
リオンは力任せにランタンを引き倒して、その身体を抱きすくめた。
﹁やった﹂
リリオンは言うが早いか足を絡めて、脇の下から腕を差し込んで
その身体を抱え直した。ランタンは胸に顔を押し潰されて文句の一
つも言えずに、文字通りお手上げ状態でリリオンの抱き枕と化した。
リリオンはランタンの髪に鼻を寄せると大きく息を吸い込んでう
っとりとした吐息を漏らした。あやすように背中を撫でる手付きが
少しいやらしい。ランタンが胸の中でもがもがもと文句を垂れたが
まるで聞いてはいない。
リリオンの胸の中は少女特有の甘ったるい匂いと汗や皮脂の酸化
した独特の臭いが綯い交ぜとなって濃く香った。その香りを胸に吸
い込むと、まるで強烈な酒精を一息に呷ったように頭がくらくらと
した。
﹁わたしの勝ちだから、ランタンはわたしといっしょに寝るのよ?﹂
そんな取決めはしていない。
だがこのままでは窒息してしまうのでランタンは胸に顔を押し付
けるようにして頷いた。
リリオンは疑うようにそのまま抱きしめていたが、ランタンが脱
力して胸の中で大人しくなっているのを確かめると、ようやく抱擁
を緩めた。
ランタンは小さく息を吐いて、首を伸ばして大きく息を吸った。
﹁はぁ、苦しかった。⋮⋮まったく﹂
首を伸ばして、顎を持ち上げるとまるで口づけをせがんでいるよ
うだった。見下ろすリリオンの顔が直ぐ目の前にあって、ぷっくり
400
とした唇が鼻頭に触れそうだった。
﹁⋮⋮逃げないから、足も放して﹂
﹁ほんとう?﹂
﹁ほんと、ほんと。逃げないから﹂
リリオンの太腿が緩められて、ランタンはそこから足を引き抜い
た。肌の密着していた部分が熱を持って薄紅になっている。ランタ
ンはベッドに沈み込むように身体から力を抜いて、リリオンに背を
向けた。
﹁なんでそっち向くの﹂
熱は太腿ばかりではなかった。リリオンとの攻防のせいで首や背
中にも熱があった。それに密着した肌の生々しさが、余計にランタ
ンの体温を上げだ。背を向けたのはただ単に恥ずかしいからだが、
それを告げることはもっと恥ずかしいので何も言わなかった。
﹁いじわる﹂
無視されたリリオンが耳の先を噛むように鋭く、小さな声で呟い
た。
ふくらはぎ
そのままランタンの背中にくっつくと、リリオンは爪先でランタ
ンの脹脛を擽った。そして爪先が重なった脹脛の間にねじ込まれる。
剥き出しの足が絡まり合う様子は白い蛇が身を寄せ合っているよう
だった。
は
﹁うー⋮⋮なんで何も言わないの﹂
リリオンはランタンの肩を唇で食んで、首筋に鼻を擦りつけた。
そしてランタンが反応をしないことを良いことに、ふんふんと鼻息
を荒くした。
﹁ランタン、汗の臭いがする﹂
急に何だ、とランタンの肩が震えるとリリオンはより一層、顔を
押し付けるようにして胸いっぱいに臭気を吸い込んだ。その臭気に
満足したように、艶めかしく吐息を吐き出した。
首筋が擽る鼻息と臭いを嗅がれる羞恥に耐え切れなくなったラン
タンは、ああもう、と吐き出して振り返った。そうして視線が重な
401
るとリリオンはニッコリと笑った。
もしかしたらこうなることを見越しての行動だったのかもしれな
い。いや考え過ぎか、リリオンはランタンを引き寄せると再び顔を
寄せて髪に鼻を押し付けた。
﹁寝るんじゃないの?﹂
﹁ランタン汗の臭いがするよ?﹂
聞いちゃいない。
リリオンは髪から耳へ、耳から首へと鼻を動かした。
﹁嗅ぐな! もう、なんなの?﹂
﹁だってランタンの匂いするのよ﹂
ちゃんと風呂に入ったのは探索に行く前のことだ。こまめに濡ら
した布で身体を抜いてはいるが、それでも熱を持った体温で体臭が
炙られたようだった。もともとの体臭が薄いので臭いのあるランタ
ンをリリオンは珍しがっている。
﹁風呂に入れないからね。買い出しにも行けないし﹂
執拗に臭いを嗅ぐリリオンの顔面を鷲掴みにして押しとどめ、ラ
ンタンは負け惜しみのように言った。
﹁お風呂入るの?﹂
﹁入るよ、怪我も治ったし﹂
﹁わたしも入っていい?﹂
臭いを嗅いでいた強引さはどこへ行ったのか、一転してリリオン
は不安そうな眼になってランタンに尋ねた。好きにすれば、と言い
かけてランタンは口を噤んだ。リリオンの好きにさせるということ
は、つまりはそういうことなのだろう。今、リリオンの好きなよう
にランタンと寝るような。
﹁ねぇねぇ﹂
﹁⋮⋮買い出しから帰ったらね﹂
身体を揺らしたリリオンにランタンはどうにかそれだけ返した。
結局はなるようにしかならないし、すでに一度一緒に風呂には入っ
ているので別に二度目だからといって何があるわけでもない。
402
こうして同衾することに、慣れたように。
﹁もう寝るんでしょ?﹂
﹁うん﹂
﹁早く寝て、早く起きて買い出し行くよ﹂
ランタンはそう言って言葉を切るとリリオンの口を塞ぐようにそ
の頭を掻き抱いた。優しく背中を撫でてやると次第にリリオンの身
体から力は抜けてゆき、ぽかぽかと暖かくなった。
そういえば玄関閉めてないや。
とランタンはぼんやりと考えたが、なんだかんだでランタンも眠
たかったのでそのまま睡魔に抗わなかった。リリオンの寝息を子守
唄にするように一つ欠伸を漏らしてから重たげな瞼を下ろした。
403
028︵後書き︶
冗談になってないですね⋮⋮てへぺろ︵・ω<︶
404
029
029
イフ
ナ
市場で食事を取り、武具工房で整備に出した武器を引き取り、狩
猟刀についての諸々の打ち合わせを済ませると、その足で探索者ギ
ルドに向かった。
リリオンに恐怖は多少あるようだ。だがそれはランタンの手が少
し痛くなるぐらいの恐怖であって、目に付いた男を切り刻むほどの
恐怖ではない。
ランタンは強く握られる手を意識しながらも、それを無視するよ
うに平気な顔をしていた。いや、痛みに気付かないふりをしようと
するあまり表情は硬くなっていたのかもしれない。
話しかけてきた探索者にランタンが一瞥をくれると、氷のように
冴えた瞳に見つめられた男は日が悪かったと言うように肩を竦めて
去っていった。
迷宮探索を終えて四日目。いつもならギルドに寄れば、よさそう
な迷宮でもないものかと迷宮情報に目を通しに行くのだが、今日は
ローブ
別の用事である。
貫衣は探索者だった。ならばギルドにその情報があるのではない
かと調べに来たのだ。
ギルドの一画に黒い部屋がある。
ランタンはそこを訪れたことがなかったので職員に場所を聞いて、
少し迷いながら向かった。一階の右の奥。あまりアクセスの良くな
い場所にその部屋はあった。
鉄格子のような扉を開けると図書館に似た、だがそれもよりもず
っと濃いむせ返りそうなほどのインクの匂いが鼻腔に飛び込んでき
た。
405
匂いは少しきついが、嫌いな匂いではない。
おびただ
その部屋は奥に受付台が一つあるだけで、あとは真っ黒な四方の
壁に夥しい枚数の張り紙がしてある。
その張り紙は、手配書だ。
手配書に記される罪状は様々だが、共通していることが一つある。
それはその手配書に描かれる人物が全て探索者であるということだ。
何らかの罪を犯し、そして裁かれていない犯罪探索者。
アンノウン
手配書には精緻な似顔絵とともに犯罪者を丸裸にするような情報
が描かれたものもあれば、氏名だけで残りは不明と判を押されただ
けものもある。
捕らえられた探索者の手配書は上から黒く塗り潰されるため黒い
部屋と呼ばれたり、その塗り潰した上にすぐさま新しい手配書が貼
られるので恥の部屋と呼ばれている。
今までランタンには縁のない部屋だった。
襲ってきた貫衣のことでも調べられないかと思い寄ってみたが、
何分初めて訪れる施設なので勝手が判らない。ランタンは眉根を寄
せて辺りを見渡した。
部屋にはポロポロと人がいる。現役の探索者もいるし、仇討ちを
思う犯罪被害者もいるがそれらは少数だ。
スローガン
そのほとんどは逃亡中の犯罪者を捕らえることで生計を立てる賞
金稼ぎである。
身内の恥は身内で濯ぐという標語が掲げられ、探索者が自己の仕
事に燃えるような矜持を抱えていたのはもう過去の話だ。部屋への
立ち入り制限は撤廃され、賞金稼ぎなる職業が確固たるものになっ
てもう何十年にもなるらしい。
それだけ探索者から犯罪者が出やすいのだろう。
ランタンとしてはギルド証の発行をもう少し厳格化するだけで随
分と状況が変わるのではないかと思うのだが、そんなことを言って
いられないほど迷宮は増え、探索者の数は足りないのかもしれない。
ランタンは適当に壁に貼られた手配書を眺めながら、ふうむ、と
406
もっともらしく呟いてみせた。隣でリリオンがランタンに視線を寄
越して、そのすかした横顔を見つめた。
なんにもわからないなぁ、と思ってもおくびにも出さない。
貫衣は顔を布でぐるぐる巻きにしていたし、悲鳴の一つを聞けば
男と女のどちらかぐらいは判るのだが残念ながらその声すら聞いて
はない。調べるにしても手がかりが少なすぎるし、そもそも手配書
に書いてある情報の内、身長体重はどうにか読み取れるが、それ以
外はほとんどランタンの知らない単語だ。
聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥とは言ったもののランタンの見
栄がリリオンに文字が読めないことを伝えるのを躊躇わせた。
まさしく恥の部屋だ。ランタンは情けなさを誤魔化すようにして
手配書を睨みつけた。
﹁どうしたの? ランタン﹂
﹁んー⋮⋮いくらなんでも情報が少なすぎた。リリオンはあの貫衣
に捕まった時なにか気づいたこととかない?﹂
ランタンが尋ねるとリリオンは眉根を寄せて目を瞑り、ううんと
唸りながら首を傾げた。
記憶の糸を辿り、もしかしたら恐怖がフラッシュバックでもする
んじゃないかとランタンは少しヒヤヒヤしていたがリリオンは何も
なかったようにゆっくりと瞼を持ち上げる。
﹁⋮⋮たぶん、男だと思う﹂
﹁男?﹂
﹁うん﹂
なんでそう思ったの、とランタンが聞くとリリオンは急に自分の
胸を揉んだ。ちょっと触ってみる、程度ではなく完全に鷲掴みにし
ている。
﹁なっ、︱︱こら。やめなさい!﹂
突然の奇行にランタンは声を荒らげてリリオンの手を叩き落とし
た。
何をしてるんだこの子は、とランタンがその顔を見るときょとん
407
としている。
﹁あのね、捕まった時におっぱいが無かったの﹂
﹁おっぱい?﹂
﹁うん、背中にね。服がもごもごしてたけど、おっぱいの感じがな
かったわ﹂
じゃあリリオンは男の子なんだ、と言ってやろうかと思ったがラ
ンタンはつい何時間か前に触れたその柔らかさを思い出して口を噤
んだ。リリオンは女の子だ、間違いなく。
﹁おっぱいかぁ⋮⋮﹂
それだけでは男と断定することはできない。だが手配書の全てか
ら、男性かあるいは貧乳の女性と絞り込むことができたのは、まぁ
いい事なのだろう。ランタンはもう一度、おっぱい、と感慨深げに
呟いてみた。
色んな意味で周りに人が居なくて良かった、と呟いてから思った。
胸元の慎ましやかな女性が聞いたらリリオンの発言は喧嘩を売って
いるとしか思えないし、眉間に皺を寄せておっぱいと呟くランタン
はシュールを通り越して異様だった。
調べる手配書がほんの幾ばくか減ったが、それでもまだ手配書は
膨大な枚数が残っている。これを調べるのか、と思うと索引のない
図鑑を前にしているようなげっそりとした気分になった。
﹁ちょっと受付の人に聞いてみようか﹂
﹁うん﹂
受付はまるで壁に開いた大鼠の通り道のようだった。壁の奥には
司書が座っている。穴からは司書の手元から口元までしか見えない
ように設計されていて、さらに司書は長袖を着て手袋を嵌め、口元
には前掛けのようなマスクを着けている。
ランタンはその姿に貫衣の姿を重ねた。
﹁すみません、お尋ねしたいことがあるのですが﹂
﹁ご用件は?﹂
尋ねたランタンは返って来た不思議な声に目を丸くした。
408
こわね
男の声と女の声が重なって聞こえてくる。マスクによって声音を
変えているようだった。職場が職場だけに逆恨みをされることでも
恐れているのだろうか。
﹁人探しです。探索者の、犯罪者の﹂
ランタンが声に驚き、少しあたふたしながら伝えても司書は至っ
て冷静だ。冷ややかと言ってもいい。
﹁掲示されている手配書はご覧になりましたか?﹂
﹁見ました。見つけられませんでした﹂
壁のほんの一画だけだが見たことには間違いない。ランタンは多
少の後ろめたさがあるものの、はっきりと司書に伝えた。
マスクが揺れる。司書が小さく頷いた。
司書は椅子に背を預けるように身体を後ろに引くと、受付台の下
から分厚い紙の束を取り出してどんと受付の上に置いた。壁に貼ら
れている手配書を剥がしてまとめ直してもこれほど厚くはならない
だろうというほど厚い。
﹁え、と﹂
﹁部屋から持ち出しはしないでください﹂
戸惑うランタンのことなどお構いなしに司書は更に受付の上に紙
の束を追加した。
﹁破損汚損等ありましたら返却の際に申告してください﹂
どうぞ、と差し出されたそれは一冊五百頁はくだらないだろう。
それが三冊。ランタンは呆然としながらその手配書の束を見つめた。
犯罪探索者のあまりの多さに驚いたということもあるし、こうも突
き放されるとも思っていなかったと言うのもある。
検索サービスのような気の利いたものはないらしい。
﹁どうするの?﹂
手配書に手を伸ばそうともしないランタンをリリオンが揺らした。
司書はもう自分の仕事は終わったとでも言うようにゆったりと背を
椅子に預けている。
﹁どうするって⋮⋮﹂
409
せっかく出してもらったからにはこれを調べない訳にはいかない
だろう、とは思う。
だがこれを、とランタンは再び手配書に視線を落とした。はっき
り言って面倒くさい。索引のない図鑑を調べるどころか、砂漠に零
した塩の粒を探しだせと言われたような気分だった。
﹁とりあえず目は通すよ﹂
ランタンが腹を括って手配書に手を伸ばした。
﹁︱︱それを調べるのはなかなか骨だぞ﹂
その手に、脇から伸びてきた別の手が重なった。
爪の鋭い、短い黒毛に覆われた指。亜人種の指だ。ランタンは弾
かれるように振り返った。また不躾な勧誘だろうか、と眉間に刻ん
だ皺が深い。
それは犬、いや狼だった。
紫にも見える黒い体毛と、それよりも濃い黒髪が長い。頭の上に
生えた尖った耳。突き出した鼻面。微笑の浮かぶ口元から鋭い牙が
溢れている。獣の顔がそこにあった。
野性味溢れる容貌だが、だからこそ眼差しにある知性的な輝きが
目立つ。
狼人族の女性だと認識した時に、ランタンは強い既視感に襲われ
た。
﹁︱︱あまり意地悪をしてやるなよ﹂
﹁⋮⋮頼まれた資料を出しただけだ﹂
現れた狼女はさっと手を放すとランタン越しに司書と話しはじめ
た。司書の声は相変わらずマスクによって歪められていたが、そこ
には親しげな雰囲気があった。
ランタンは既視感の元を探るように狼女の凛々しい横顔を見つめ
て、あ、と声を漏らした。
勧誘で囲まれた時、探索者を追い払った武装職員の犬面の兜。そ
の凛々しさに狼女の横顔が重なった。
ランタンが見つめていることに気がつくと司書との軽妙なやりと
410
りを切り上げて、狼女はランタンに向き直った。その眼差しは兜の
隙間から覗いた眼差しそのままだ。灰青の落ち着いた色の瞳に見つ
められて、ランタンは深々と頭を下げた。
﹁その節はありがとうございました﹂
﹁いや、君は本当に、くふふ、探索者らしからぬ礼儀正しさだな。
あの時も言ったが、あれが私の仕事だ。気にすることはない﹂
狼女はあの時と同じようにランタンの頭を撫でた。あの時との違
いは堪えきれぬような笑い声があることだけだ。
狼女は兜を着けておらず、同様に鎧も身に付けてはいない。鋼に
覆われた指に撫でられた時もそうだったが、その掌には肉球などは
なかったがやはり柔らかかった。
﹁それで、君はこんな所になんの用だ?﹂
﹁⋮⋮人の職場をこんな所とは随分な言い草だな﹂
ひと
﹁自分で何時も言っているだろう﹂
﹁自分で言うのと他人に言われるのは別だ﹂
﹁ああもう、少し黙ってろ﹂
狼女はふんと鼻を鳴らしてランタンに向き直った。凛々しかった
雰囲気が一気に柔らかくなって、ぴんと尖っていた耳がぴくぴくと
照れたように動いている。
ランタンがその耳を興味深げに眺めていたら、それで何かあった
のか、と狼女に問われた。ランタンはバツの悪そうにはっと視線を
逸らしてしどろもどろに答えた。
﹁あの⋮⋮少し襲われたので、探索者と思わしき奴に、それでちょ
レイダー
っと調べに﹂
﹁ふむ、襲撃者か?﹂
﹁いえ、それが全然情報がなくてですね﹂
襲われて、とランタンが言うと狼女の目がすっと細まる。その冷
厳さに当てられたようにランタンも自然と背筋が伸びた。狼女は顎
に手を当てて、ほんの僅か思案した。
﹁⋮⋮よかったら相談に乗ろう。どうだ?﹂
411
﹁ありがたいお話ですけど、ご迷惑では︱︱﹂
﹁迷惑に思ったらわざわざこんな提案などしないさ。決まりだ、︱
︱おい﹂
狼女が司書に視線を投げかけた。
ランタンはそれでようやく蚊帳の外に置いてしまったリリオンに
視線を向けた。
﹁ごめん、勝手に決めちゃって﹂
﹁ううん、いいの。だってランタンのこと助けてくれた人なんでし
ょう?﹂
﹁うん、ほんと助かったよ﹂
なんとなく狼女は大人の女性という感じがする。立ち振る舞いに
余裕を感じるためか、あるいは助けられたことによる刷り込みだろ
うか。凛と背筋の伸びた背中が頼もしい。
﹁なんで黙ってるんだ、︱︱あぁくそ、わかったよ。黙ってろなん
てなんて言って悪かったよ﹂
﹁︱︱それで?﹂
﹁ちょっと部屋貸してくれ﹂
﹁部外者は立入禁止だ﹂
﹁探索者は全てギルドに所属している。だから部外者ではない。ど
うだ?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁部屋を貸してください﹂
ぽいっと受付台に放られた鍵を狼女は引っ手繰るように奪いとっ
た。まるで待てをされた犬が許しを得て餌に飛びつくような素早さ
で。ランタンは何となく目を瞑ってその姿を見なかったことにした。
﹁どうかしたか?﹂
﹁いえ﹂
﹁ならいい。じゃあ着いてこい﹂
そう言って部屋を出た狼女の後ろを追う。
狼女の引き締まった尻からは尾が生えている。皮のズボンに開い
412
た穴から外に出た尻尾は毛並みが長く、毛先に近づくにつれてわず
かに銀色を帯びているようだった。尻尾は膝の辺りまで垂れている。
黒い部屋を出て、もう少し奥へと進むと扉がある。扉に掛かった
プレートには関係者以外立入禁止とでも言うようなことが書かれて
いるのだろう。
狼女は解錠して扉を開けると、ランタンたちを先に部屋へと通し
た。
﹁おじゃまします﹂
﹁︱︱します﹂
背後で再び鍵を閉める音が響いた。その音に振り返ったランタン
の視線を横切り、狼女は薄暗い部屋の奥へと足を進めた。
黒い部屋、そこに開いた受付口の先にある空間。
﹁棚ばっかり⋮⋮﹂
通された部屋は黒い部屋よりも広いが、沢山の棚のせいで圧迫感
がある。様々な書類を詰め込んだ棚がずらりと立ち並んでいる。そ
れは湖底に堆積する泥のような探索者ギルドの恥の歴史なのかもし
れない。
古い紙特有の黴っぽいの乾いた臭いにランタンはすんすんと鼻を
鳴らした。
﹁あまりいい臭いじゃないだろう﹂
﹁いえ、結構好きですよ。なんとなく落ち着きます﹂
﹁へぇ﹂
ランタンが言うと狼女は物珍しがるような、気のないような曖昧
な相槌を打った。鍵をちゃりちゃりと手の中で弄んでいたかと思う
と、不意にそれを放り投げた。その先にはマスクの司書が居た。
椅子に座ったまま振り返りもせずに鍵を捕った。狼女はその背に
声を掛けた。
﹁悪いな﹂
﹁⋮⋮あまりうるさくしたら追い出すぞ﹂
﹁解ってるよ。︱︱奥のソファに﹂
413
ランタンは促されて、先にリリオンを座らせる。そして自らもソ
ファに腰を下ろしながら、そっとリリオンの耳元に口を寄せた。
﹁︱︱という訳で、大きい声は出しちゃダメだよ﹂
﹁ん﹂
リリオンは唇を結んで硬い表情でこくりと頷いた。リリオンは司
書の独特の雰囲気にか、それとも紙の束に音を吸われているのか静
謐な部屋の雰囲気に戸惑っているようだった。
﹁改めて自己紹介をしようか。テス・マーカムだ。探索者ギルドの
職員をやってる。まぁギルド内の治安維持の仕事だね、︱︱おい、
なんだ文句あるか﹂
狼女、武装職員テスがランタンの頭の上を通り越して椅子に座る
司書に声を飛ばした。
ランタンとリリオンが揃って振り向いて見ても、司書は背を向け
たままだった。見ていないところで何かちょっかいをかけたようだ。
あのマスクの下にはもしかしたら子供がいるのかもしれない。
ごほん、と咳払いに慌てて振り返った。
﹁あ、すみません。自己紹介ですよね、えっと︱︱﹂
﹁くふふ、その必要はないよ。乙種探索者ランタン。私と違って君
は有名人だ﹂
その言葉にランタンは苦い表情を作りそうになったが、どうにか
曖昧に微笑んで誤魔化した。テスはその表情を面白がるように笑い、
そしてその隣に視線を移した。
﹁それと丙種探索者リリオンだろう。あの数多の勧誘を袖にしたラ
ンタンを落としたっていう﹂
だがその言葉にランタンの微笑ははっきりと凍りついた。瞳だけ
がするりと動いてテスの表情を窺う。それは睨みつけているように
も見える。だがテスはその視線に気を悪くした様子もなく、柔らか
く肩を竦めるだけだった。
﹁ランタンは有名人、なんですか?﹂
﹁え?﹂
414
むっとしたランタンを余所にリリオンは興味津々といった様子で
テスに尋ねた。ランタンに睨まれても平気でいたテスがその言葉に
驚いたような表情を作った。
﹁知らないのか。へぇ、だからこそ、なのかな?﹂
テスはランタンに視線を寄越したがランタンは表情も変えず、さ
ぁどうでしょう、と素っ気なく返した。
﹁ふふふ⋮⋮それはもう有名だよ。単独探索者なんて天然記念物ど
ころの話じゃないからな。彗星の如く現れ、次から次に迷宮を踏破
うた
し、ただ一人、孤高をゆく。探索者ギルドのポープ!﹂
﹁すごいすごい!﹂
テスが煽り立てるように謳うとリリオンはキャッキャと喜んだ。
尾鰭背鰭どころか魚がまるまる一匹生まれそうなほど誇張されたテ
スの煽り文句と、それを無邪気に喜ぶリリオンにランタンの表情は
みるみると羞恥に染まり、暴走する二人を止めるタイミングも逸し
むしろ
てしまった。
針の筵だ。
﹁︱︱うるさいぞ。無駄話するなら出て行け﹂
騒ぐ二人を背後から投げかけられた静かな声が諌めた。
毅然とした態度だ。きっとあのマスクの下には立派な大人の姿が
あるのだろう。ランタンはしゅんとした二人を見ながら、振り向き
もしない司書に心の中で感謝を捧げた。つい先ほど思った失礼な想
像など忘れたように。
テスはバツが悪そうに頬を掻いて、今までのやりとりをなかった
こととして場を仕切りなおした。
﹁あー、で、襲撃されたんだったな。話してもらっていいか?﹂
ローブ
テスが尻の下に潰していた尾を引っ張りだして、膝の上で撫でな
がらそう促した。
﹁そうですね、えっと﹂
何をどう話したらいいか、と。ランタンはたどたどしく貫衣のこ
とをテスに伝えた。
415
テスは鋭い顔つきになって真剣にその内容を聞いている。そこに
は妙な圧迫感があった。
まるで取り調べを受けているようだ。武装職員の主な仕事は不良
探索者を武力によって制圧するだけかと思っていたが、その後の調
書なども取るのかもしれない。
ランタンは緊張していた。その自分に気がついたら、言葉に詰ま
ってしまった。
﹁あ、の︱︱﹂
﹁おっぱい!﹂
沈黙が訪れるその寸前に、ランタンの言葉の先をリリオンが繋い
だ。ランタンが言おうと思ったこととは全く別の言葉であったが、
恥ずかしげもなく言い切ったリリオンにランタンは心が軽くなるの
を感じた。
﹁おっぱいがなかったから、男の人です!﹂
﹁おい、そんだけの情報で調べさせようとしたのか⋮⋮﹂
﹁あぅ、⋮⋮ごめんなさい﹂
背後から飛び込んできた呆れ声に、リリオンは立ち上がりそうだ
ったほどの勢いを一気に萎えさせて肩を落として小さくなった。ラ
ンタンはそんなリリオンの手を握って慰め、そしてそれ以上に感謝
を込めた。
﹁すみません、要領を得なくて﹂
ランタンはテスに頭を下げた。テスは気にするな、と軽い口調で
答えた。
﹁あんまり難しく考えなくていい。ギルドに迷宮の情報を伝える時
と同じように考えてくれればいいさ。それは慣れたものだろう?﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
﹁何時、どこで、誰が、どのようにってね。できれば時系列順に﹂
﹁はい﹂
ランタンは返事をしてゆっくりと息を整えた。それを見るテスの
目は優しい。迷宮探索を終えて、その情報を聞き取る職員のそれと
416
は違う。
﹁襲われたのは四日前、下街でです。探索を終えて、上街で一晩泊
ったその帰りですね﹂
﹁探索帰り、ね﹂
テスの相槌に促されてランタンは更に続けた。
薬物中毒者らしき集団。最後まで姿を現さなかった弓男。ギルド
証を身に付けていた貫衣。ランタンは脳中にある襲撃の記録を全て
吐き出した。
リリオンが狙われたのかもしれないという、その憶測さえも。
リリオンは何も言わなかった。ただ重ねた手が強く握りしめられ
た。ランタンはリリオンの横顔を盗み見た。リリオンはむすっとし
て下唇を突き出していた。小憎らしい顔をしている。
予想していた表情と違う、とランタンは新鮮な気持ちになった。
驚くか、申し訳なさそうな顔をするかと思っていたがリリオンは
少し怒っているようだ。握られた手に痛みがある。それは無自覚に
縋りついたあの痛みではなく、明確な抗議の意志があるような気が
した。
﹁んー、そうだな﹂
ランタンの話を聞いて沈黙していたテスが格好良く足を組んで、
ソファにどかりと背を預けた。それに合わせてリリオンが手を離し、
レイダー
ランタンもリリオンの横顔から視線を外した。
ジャンキー
﹁探索帰りを襲ったっていうのは襲撃者っぽいな。でもわざわざ待
ち伏せた割にやってることがお粗末だ。薬中なんて百人集めたって
物の数じゃないだろう?﹂
﹁まぁ、そうですね﹂
薬物中毒者の群れは気味が悪いとは思うかもしれないが、それを
手強いとは思わない。
ぜげん
﹁けど薬中の意志を統率するのは、そこらの悪党には難しいだろう。
薬物の売人か、でも狙いがリリオンなら奴隷商や女衒の線もある﹂
テスはそこで一度言葉を切って、にたりとランタンに微笑んだ。
417
﹁ま、ランタンもだいぶ可愛らしくは、ふふっ、あるけど、生け捕
りは無理だと判断したのかもしれないね。くふふ︱︱まぁランタン
に恨みを持ってる粘着野郎ってこともあるだろうし、リリオンに一
目惚れしたストーカー野郎って可能性もある﹂
﹁それって﹂
﹁ま、この街には悪が多すぎるってことだな﹂
テスは片頬を歪めるように笑った。テスは先の見えない状況を楽
しんでいるようにも見える。不謹慎な、とランタンは眉を顰めてい
ると、ちょこんとリリオンが袖を引いた。
﹁ねぇ、ぜげんってなに?﹂
﹁︱︱⋮⋮あー、女の人専門の奴隷商みたいな?﹂
﹁そうなの、ですか?﹂
﹁⋮⋮そう! うん、それであってるよ﹂
リリオンの無垢な眼に見つめられて二人はしどろもどろになった。
そんな二人を余所にリリオンは新しく知った言葉を繰り返す。
リリオンが余計な言葉を覚えてしまったじゃないですか、とラン
タンが抗議するように睨みつけると、テスは頬を引き攣らせて視線
を逸らした。立派な大人だと思った最初の印象がどんどんと崩れて
しまう。だがまぁ悪い人ではないし、親しみのある人物だと言い換
えることも出来る。
ランタンがむぅと睨み続けているとテスは開き直ったように、で、
ローブ
と一つ声を張って強引に話を続けた。
﹁探るべきは、その探索者の貫衣と弓男だろう。弓使いは男かどう
かも判らんがね。︱︱なぁ貫衣っぽい手配書に心当たりはないか?﹂
テスはランタンから視線を外して、その奥に声を掛けた。
﹁︱︱ないね。情報が少なすぎる。徒手格闘なんて探索者なら誰で
もある程度は使えるし、そもそも手配されてる奴は大抵ギルド証を
外してるだろ。ギルド証をつけてるならまだ現役なんじゃないか?
ま、探索者であることを売りにする馬鹿も居るが、そんな馬鹿は
さっさと捕まるし、捕まってない奴は顔を隠すような三下みたいな
418
真似はせんだろ﹂
マスクによって歪められた声だが、そこには確かに憎々しげな響
きがあった。そして舌打ちが響く。
﹁︱︱咄嗟にギルド証で防御するような奴は中堅以上の探索者だ。
爬虫類系亜人、かどうかは情報が少なすぎて不明だが、まだまっと
うに探索者やってて、中堅以上。それで最近変になってる奴が狙い
どころだろう。個人的には弓使いのほうが探りやすそうな気がする
けどな﹂
﹁なんでですか?﹂
いつの間にか振り返ったリリオンがソファの上に膝立ちになって
いた。推理劇を眺めるように尊敬の瞳を司書に向けていた。その視
線の先を追うと振り向いていた司書がリリオンの視線を受けてたじ
ろいていた。
﹁⋮⋮なんとなくだよ。ほら、一応の手配書だ。主要武器が弓の探
索者だけまとめたから、暇なときに目を通しとけ﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁ありがとうございます!﹂
﹁お優しいことだね司書様は﹂
﹁うるさいよ。ちっ、︱︱仕事だからな、これが﹂
抜き出されまとめられた手配書を受け取ったランタンとリリオン
が揃って礼を言い、テスが司書を茶化した。
司書は受付口に向き直ると、もう黙って何も言わず、その背中に
は棘のような拒絶の意思がはっきりとあった。ランタンはその背に
目を伏せて、リリオンをちゃんと座るように促した。
テスはまだ口元にくつくつと微笑を残している。けれどその笑み
を吹き飛ばすように大きく息を吐くと、途端に真剣な顔つきになっ
た。何だかんだとテスの印象は変わったが、彼女はやっぱり凛々し
い。
﹁襲撃はまだあるかもしれないから気をつけるんだよ﹂
﹁はい﹂
419
﹁無理に情報を得ようとはせずに。まず第一に自分たちの安全、余
裕があれば情報。優先順位は間違えないように﹂
次に襲撃されたらひっ捕まえてやると思っていたランタンは、そ
の子供っぽい意気込みを見ぬかれたようで恥ずかしげに微笑んだ。
それを見てテスが目尻を下げた。
﹁情報は私も調べておくよ。もし敵のアジトが判ったとしても二人
だけで行かず、私に相談してくれ﹂
﹁ありがとうございます。⋮⋮でも、どうしてそこまでしてくれる
んですか?﹂
これは、それこそ賞金稼ぎや衛士の仕事であって武装職員の仕事
ではない。武装職員が守るのは探索者ギルドの、もっと言えばこの
建物内の秩序であって、探索者そのものではないのだ。
ご迷惑ではありませんか、とランタンが尋ねるとテスは鷹揚に首
を振った
﹁くふふ、気にすることはないさ。いわゆる趣味と実益ってやつだ
からね﹂
﹁趣味ですか﹂
どんな趣味なのだろう、とランタンが思っているとそのランタン
の思考をそのままリリオンが口に出した。
﹁どんな趣味なんですか?﹂
テスは不敵に笑い、ただ一言答えた。
﹁正義だ﹂
420
030 ☆
030
くゆ
帰り際に薬物中毒者の姿が目についた。
煙草のようにぷかぷかと煙を燻らせながら嗜んでいる者もいれば、
死体のように大人しくトリップしている者も、けたたましく笑い転
げている者もいる。
誰も彼もが怪しく見えたが、彼らはきっと前からもそこにいたの
だ。ただ今まで気にも止めなかっただけで、おそらく。
下街に転がっている薬物中毒者をいちいち気にしていたら、住処
に帰るまでにノイローゼになってしまう。ランタンはすれ違う薬物
中毒者から視線を外して溜め息を吐き出した。
自分に比べてリリオンのなんと余裕のあることか。
リリオンは繋いだ手を大きく振ってとろけたように頬を緩めてい
る。
﹁ねねね、ランタン﹂
﹁なんだい?﹂
﹁わたしに聞いて﹂
﹁何を?﹂
﹁趣味は何って、わたしに聞いて﹂
そう言ったリリオンは、なんとなく言い渋ったランタンの手を引
いてもう一度、ねぇ聞いてよ、と甘えるような声を出した。
﹁⋮⋮趣味は何ですか?﹂
ランタンが嫌そうに聞くとリリオンはわざわざ立ち止まって、繋
いだ手を離すとそれを胸に当てて、鼻をつんと上に向けた。そして
勿体ぶるように一つ呼吸を置いて口を開く。
﹁︱︱正義よ!﹂
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どうだと言わんばかりに言い放ったリリオンにランタンは生温い
視線を送った。だがリリオンはその視線に気づきもせずに満足げな
表情をしている。きっとその瞳にはテスの姿を幻視しているのだろ
う。
﹁どうだった? かっこ良かった?﹂
﹁んー普通﹂
﹁なんでよ!﹂
ランタンが言うとリリオンは憤って声を荒らげるが、ランタンは
それを無視して歩き出した。リリオンは慌ててランタンを追ってそ
の手を掴んだ。そして抗議するようにその手をぶんぶんと振る。
﹁テスさんはあんなにかっこよかったのに⋮⋮﹂
趣味を正義と言い放ったテスは確かに格好良かった。ランタンも
その台詞を聞いた時には、少しばかり胸が高まったものだ。おかし
いな、と唇を突き出すリリオンには残念ながら格好良さは微塵も感
じられない。
だが年相応の微笑ましさはある、とランタンはその横顔を優しげ
に見つめた。
﹁ねぇ、ランタンもやって!﹂
﹁嫌だよ﹂
﹁大丈夫、ランタンは格好いいから﹂
﹁いやです。そもそも僕の趣味は正義じゃないし﹂
少しだけ真似したいなと思わなかったわけではないが、実際にそ
れをするかどうかはまた別の話だ。ランタンは恥ずかしさを隠すよ
うにわざとらしくふんとそっぽを向いて歩調を速めた。
﹁ねぇねぇ﹂
歩調を速めたというのにリリオンは平然とついてくる。身長差だ
けではなく、そもそもの腰の高さが違う。ランタンはふて腐れて結
局歩みを緩めた。
﹁ランタンの趣味ってなに?﹂
﹁趣味? 僕の﹂
422
ランタンは鸚鵡返しに聞き返して、そのまま沈黙した。リリオン
はその沈黙を気まずそうに聞きながらランタンが口を開くのをしば
らく待っていた。けれどランタンは口の中で音にならないほど小さ
な声で、趣味か、と繰り返すばかりなので、リリオンは困ったよう
に腕を引いた。
﹁︱︱ランタンって探索してない時って何してるの?﹂
﹁探索してない時は、︱︱食べて、寝て、疲れを癒やす﹂
﹁他には?﹂
﹁探索の用意をしてる﹂
﹁えっと、他には⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮何も﹂
そう言ったランタンにリリオンは若干引いているようだったが、
ランタンも自分で言ってあまりにも酷い生活を送っていた自分に気
がついて落ち込んでいた。そこら辺の薬物中毒者だってもう少し人
間味のある人生を謳歌しているだろう。
今まで自分の生活を顧みるような真似をしたことはなかったが、
まるで探索する機械のようである。
﹁ランタンは迷宮が、趣味?﹂
恐る恐る尋ねるリリオンの言葉に頷くことは出来ない。
迷宮に潜る際の緊張感や集中する事での高揚感は嫌いなものでは
ないが、楽しんでいるわけではない。他にすることがないからひた
すらに迷宮を目指しているのか、それとも迷宮に何か惹かれるよう
なことでもあるのか。
探索はあくまでも仕事であって趣味ではない、と思う。
﹁あっ、風呂は好きだよ。毎日、入れるわけじゃないけど﹂
背嚢の中には今日、買ったばかりの風呂用品が納められている。
この世界にあって個人での風呂は高級な嗜好品であり、これを嗜む
ことは趣味と呼んで差し支えないはずだ。
ランタンは自分に趣味があることを大げさにもそれが人間である
ことの証明であるかのように大いに安堵して、けれどすぐに失敗し
423
たと表情を歪めた。
﹁ランタンお風呂好きよね﹂
﹁うん﹂
﹁わたしも一緒にはいるからね﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁約束だものね﹂
﹁そんなに言わなくてもわかってるよ﹂
生きていれば身体は汚れる。眠っていようとも汗は掻くし、垢も
出る。汗の臭いは酸っぱく眉を顰めたくなるし、皮膚の上に薄く糊
を伸ばしたようなべた付きは不快と言う他ない。汚れた身体は気持
ち悪い。
汚れた身体を清めたいと思う気持ちは避けがたい欲求である。
その強烈な欲求は、濡れた布で身体を拭くだけでは満足させるこ
とはできない。そしてその欲求は、風呂を知ってしまったリリオン
にも少なからずある。
それならば二人一緒に入れば風呂水の節約になるので、二人で一
ただ
緒に入ってもなんらおかしいことはない。安物な水精結晶と言って
も無料な訳ではないのだから。
一緒に風呂に入るのはそういう理由である。
決してテスとの会話を終えた後に、狙われているかもしれないと
言う推測を黙っていたことに憤るリリオンを宥めるために、少女の
言い分をそのまま飲み込んだわけではない。五つも年下の少女に言
い負かされたわけでは決してない。ただ、少し譲歩しただけで、ラ
ンタンの方が年上らしく身を引いただけで。
﹁ねぇねぇ、ランタンの趣味は何?﹂
﹁風呂︱︱、ってもうやらせないでよ恥ずかしい﹂
リリオンは帰宅後の風呂を待ちかねるように鼻歌を歌いながら、
はやくはやくとランタンの手を引っ張った。まだ住処までの帰り道
も覚束ないリリオンに手を引かれるのは不安だ。ランタンは前を行
くリリオンを、その繋いだ手を手綱のように操って住処まで誘導し
424
た。
住処までに厄介事に巻き込まれることはなかったが、それでも夕
食を始めても良いほどの時間になっていた。
ランタンは部屋に戻ると、どさどさと背嚢を下ろしその中身を取
り出して整理するように並べる。その背中にリリオンがべたりと身
体を預けて、整理するランタンの邪魔をしてくる。
﹁重いんだけど﹂
﹁先にご飯にする? それともお風呂にする?﹂
﹁それとも︱︱わ、た、し?﹂
﹁⋮⋮なに言ってるの?﹂
﹁何も言ってないけど、風呂にしよう﹂
ぽつりと呟いたランタンに、リリオンは怪訝そうな声を上げた。
ランタンは首をかしげるリリオンを無視して風呂用品を取り出した。
﹁食べてすぐ風呂に入ると消化に悪いんだよ﹂
﹁なんで?﹂
﹁たしか内臓を動かすための血が、皮膚の方に集まっちゃうんだっ
たかな﹂
﹁ふぅん、よくわからないわ﹂
ランタンは言いながら用意を終えると、背中に張り付くリリオン
を引っぺがして立ち上がった。
﹁ほら、リリオンも用意して。それとも後で一人で入る?﹂
﹁待って、わたしもすぐ用意するから﹂
リリオンと風呂に入ることが嫌なわけではない。ただ少し恥ずか
しいだけだ。
リリオンは座り込んで背嚢の中をがさごそと漁っている。ランタ
ンは、人の気も知らないで、とその楽しげな背中を眺め、なんとな
く後頭部で縛ってあった髪をするりと解いてみた。脂で濡れた髪は
重たそうにもたりと広がった。
それを見てランタンも自分の頭を掻いた。指先にべたりと油が纏
わり付いて、爪の間に皮脂が入り込んだ。不潔なのはリリオンばか
425
りではなく、同じように生活をしていたランタンもまた同様に薄汚
れている。
﹁なにするの。もう、いじわるなんだから﹂
視界に掛かる髪をリリオンは掻き上げて、胸に風呂の用意を抱き
しめて立ち上がった。
浴室として使っている隣の部屋はこの時間帯になるとさすがに薄
暗い。天井に開いた穴からは仄暗い夕日が、まるで傷口から零れる
血液のように染み出している。
ランプ
﹁リリオン、これ。壁のフックにかけて﹂
﹁うん﹂
リリオンに魔道光源を手渡して、その間にランタンは浴槽に小さ
なテーブルを引き寄せて水筒やタオルを置き、ばきんと水精結晶を
砕いた。あふれ出た水が浴槽を満たしてゆく。浴槽半ば程度に水が
溜まると、ランタンは爆発でそれを熱した。
湯の中からするりと手を取り出して、ランタンは指先から水を払
った。湯気には何か甘い匂いがあるような気がする。ランタンは水
面を覗き込んで、その湯気を顔に浴びた。何時もより湯量が少ない
せいもあり、少し熱くなりすぎたかもしれない。
爆発能力はどうにも匙加減が難しい。
ランタンは熱めの湯が好きだが、リリオンはどうだろうか。
ランタンが振り返ると白い裸体があった。何一つ恥ずべき事がな
いとでも言うように、何一つ隠していないリリオンが仁王立ちをし
ている。驚くよりも何よりも先に呆れてしまった。
﹁なんでもう脱いでるの?﹂
﹁ランタンも、ほら、わたし脱がせてあげるわ﹂
﹁いや、いいから﹂
﹁ねぇ、もう入って良い?﹂
﹁だめ。まずは身体洗ってからね。自分で洗える?﹂
﹁洗えるわ!﹂
前に風呂に入ったときは自分では出来なかったくせに、とランタ
426
ンは肩を竦めた。そんなランタンにリリオンは頬を膨らませながら
手を伸ばした。
﹁でもランタンはわたしが洗ってあげるからね、だからランタンは
わたしを洗って﹂
ランタンはぐいぐいと服を脱がせようとするリリオンを押し止め、
自分で服を脱いだ。
露わになった引き締まった腹筋から、つつつと擽るようにリリオ
ンの視線が上がっていくのを感じる。肌着から頭を抜くと自然と目
が合った。リリオンが微笑み、ランタンがズボンを脱ごうとすると
つむ
その視線は下に動いた。
﹁リリオン﹂
﹁なに?﹂
﹁ちょっと目瞑って﹂
﹁どうして?﹂
﹁ちょっとでいいから﹂
瞼を下ろした隙にランタンは全裸になって、買ったばかりの櫛を
手にして腰を下ろすリリオンの背後に立った。
全裸で少女の背後に佇む。
これはこれで変態的だな、と奇妙な背徳感に襲われながらランタ
ンはリリオンの髪を一房手に取った。
それを合図にするようにリリオンは瞼を持ち上げてランタンを振
くしけず
り返ろうとしたが、ランタンがその頭を掴んでそれをさせなかった。
﹁大人しくしててね﹂
ほど
ふけ
そう言い聞かせるとランタンはリリオンの髪を梳った。絡まった
と
髪を解き、雲脂や汚れを落としてやるとリリオンは気持ちよさそう
に甘い声を漏らす。
﹁髪を洗うのに、どうして髪を梳かすの?﹂
﹁こうしてから洗った方が綺麗になるんだよ。よし、お湯かけるよ﹂
湯船を一度かき回し桶にたっぷりと掬ってリリオンに浴びせると、
それだけで白い髪は色を深くした。不思議な色の髪だ。雪のように
427
白くも見えるし、薄桃にも薄紫にも、時には銀にも見える。
﹁今日は石鹸もあります﹂
﹁ランタンすっごい真剣にえらんでたもんね﹂
アイボリー
﹁まぁね﹂
それは象牙色の綺麗な石鹸だ。花の精油から作ったのか、それと
も香料を使っているのかさわやかな香りがする。この石鹸は高級品
だ。一度安い石鹸を試しに買ってみたら、えぐみのある臭いがして
ランタンにはとても使えるものではなかった。リリオンに石鹸を泡
立てたタオルを渡すとわぁと嬌声を上げた。
﹁良い匂い﹂
﹁髪洗ってる間に身体洗っちゃいな﹂
ランタンは桶に湯を少量掬うととその中に石鹸を溶かし、その石
鹸湯をリリオンの髪に馴染ませた。揉むように頭皮を洗い、そこか
らゆっくりと毛先に向かって手を動かしてゆく。少しだけ髪が軋む
ような感じがするが、その為の髪油もきちんと用意してある。
﹁痒いとこない?﹂
﹁んー? おへそ﹂
﹁それは自分でどうにかしろ﹂
なんだか毛足の長い獣でも洗っているかのようだ。リリオンの長
い髪を洗うのは手間でもあり、なかなか楽しくもある。手間に楽し
みを見つけるなんて、もしかしたらこれは趣味と呼べるのかもしれ
ない、とふと思った。
﹁リリオン洗えた?﹂
﹁うん﹂
﹁じゃあ流すからね﹂
趣味リリオンの世話、なんて洒落にならないな。ランタンはくつ
くつと笑いながらくだらない思考を泡と一緒に洗い流した。
﹁ん、綺麗になったね﹂
﹁ありがとう。じゃあ次はランタンね。わたし洗ってあげる﹂
﹁自分で出来るから良いよ。先に入ってて﹂
428
ランタンはそう言って、ほらどいて、と追い払うように手を振る。
するとリリオンは拗ねるでも怒るでもなく、はっきりと傷ついた顔
をした。せっかく綺麗になった顔を暗く歪めて、わたしできるのに、
と小さな声で呟いた。
﹁︱︱あー、じゃあお願いしようかな。髪を洗ってもらおうかな﹂
ランタンは慌てて頭からざばりと湯を浴びた。
何なんだ一体、と背後の気配を探っていると、そろりと石鹸湯が
頭に垂らされて、リリオンの指が髪を掻き分けて頭皮に触れた。爪
を立てることなく、指の腹で柔らかく頭皮を揉んでいる。
思わず声が漏れた。
﹁あぁ⋮⋮これは、︱︱気持ちいい﹂
﹁ほんとう?﹂
﹁うん、すごい上手かも﹂
﹁えへへ、ランタンもすごい気持ちいいのよ﹂
リリオンは髪の付け根から頭頂に向かうように頭皮を揉み、耳の
後ろまでしっかりと指を這わせた。それはランタンの髪の洗い方そ
のものだった。ランタンは眠たくなりそうなほどの気持ち良さを堪
えながらどうにか身体を洗った。指先で皮膚をこするとぽろぽろと
垢が剥がれた。
﹁かゆいところはない?﹂
﹁⋮⋮へそ﹂
﹁わかった!﹂
へそ
﹁冗談だよ! ばっ、やめ、ひぃ﹂
背後から伸ばされた手が臍に向かってくる。リリオンは脚ばかり
ではなく腕も長い。おまけに石鹸を纏いつるつると滑るので捕まえ
ることが出来ない。だがこのままでは臍を貫いて内臓を掻き回され
そうだったので、ランタンはすんでの所でそれを押しとどめた。
冗談を言うのにも命がけだ。
﹁じゃあランタン目つむって﹂
﹁はぁ、お願い﹂
429
たっぷりの湯で身体を洗い流すと、その肌は黄金に輝いている。
薄皮を一枚剥いだように皮膚は柔らかくすべすべとしている。その
身体を後ろからリリオンが抱きすくめた。
﹁ね、わたしできるでしょ?﹂
﹁うん、そうだね。ありがとう。放して、すぐに、今すぐ﹂
﹁だいじょうぶ、わたしが入れてあげるからね﹂
まるで幼子が人形を相手に世話を焼くようにリリオンは有無を言
わさずにランタンを抱え上げた。ちょこんと浴槽に爪先を入れて、
あつい、と小さく声を漏らす。
﹁水でうめるかい?﹂
﹁⋮⋮だいじょうぶ﹂
リリオンは意地を張るようにそのまま浴槽に身体を沈めた。浴槽
には湯が半ば程まで張ってあるだけだが、二人一緒に入るとそれは
肩まで迫り上がった。
﹁う゛あ゛ー﹂
確かに湯の温度は熱い。皮膚がぴりぴりと痺れるような感覚があ
る。ランタンは低く喉を震わせて呻き、リリオンは熱に痛みでも感
じているのかランタンの身体にしがみついた。
熱いなら熱いと言えばいいのに。
ランタンは呻くような笑うような声を漏らしながら手を伸ばして
テーブルの上から小さめの水精結晶を取ると、それを湯の中に沈め
で砕いた。結晶は音もなく砕けて、溢れ出た水が湯の中に混ざった。
結晶の破片が水中で数秒間きらきらと光っていたが、それはやがて
氷のように溶けてなくなった。
ぐるりと一度湯をかき混ぜると、表面張力が働くほどになった水
面が浴槽の縁からこぼれ落ちる。
リリオンはそれでようやく気持ちよさそうな声を漏らして、強張
らせていた身体から力を抜いた。それだけでびっくりするぐらいリ
リオンの身体は柔らかくなった。
ランタンはもう開き直り、それが高級な背もたれであると自己暗
430
示をかけてリリオンに身体を預けた。ランタンがもたれ掛かるのと
まどろ
同じように、リリオンもまたランタンの肩に顎を乗せて力を抜いた。
互いに互いの身体を支え合ってしばらく微睡むように大人しくし
ていると、湯の中に在って、その湯に浸かった身体にさえもなおじ
っとりと汗が噴き出すような感覚があった。
リリオンの顎からから垂れた滴が、ランタンの鎖骨の窪みを満た
す。リリオンの吐き出す息が熱っぽく耳朶を舐めた。
﹁リリオン水飲んどきな。湯あたりする前に﹂
リリオンがもぞりと動いてテーブルから水筒を取った。唇の零れ
る水がランタンの背中を濡らした。その冷たさもまた心地よい。少
しのぼせかけているのかもしれない。ランタンはリリオンから水筒
を受け取り、自らも喉を潤した。
リリオンの膝に手をかけてランタンは立ち上がった。肌を滝のよ
うに水が流れ濛々と湯気が立っている。惰眠暴食の三日間に少し脂
肪を蓄えたランタンの身体は引き締まっていながらも少し柔らかそ
うで、熱されて仄かに桃色になったその身体にリリオンが小さく唾
を飲んだ。
ランタンは排熱するように太く息を吐いてテーブルに水筒を戻す
と乾いたタオルで手を拭いた。そしてそこに重ねられた紙の束を手
にとって再び湯の中に身体を沈めた。
そうすることが当然であるかのように、リリオンの股の間に尻を
納めて、そのちょっと膨らんだ胸に背を預けた。
﹁ランタン、それって﹂
紙の束は司書から貰った手配書だ。持ち出し厳禁の製本されたも
のではなく複写らしく紙の質はあまり良くない。暇つぶしに持って
きたが、もしかしたら湯気にでさえ溶け出してしまうかもしれない。
﹁リリオン、読める?﹂
﹁わたし読めるよ! 読んであげようか﹂
﹁じゃあお願いしようかな﹂
ランタンはそう言って白々しく手配書を広げた。
431
弓使いを抜粋した手配書だが、黒い部屋で最初に見せられた手配
書の束を思えば驚くほどその枚数は少ない。それは弓使いに善人が
多いと言うわけではなく、ただ単に探索者に弓使いが少ないだけだ。
探索者の馬鹿げた膂力と、その膂力を以てしか引くことの出来な
い強弓は千メートル以上の長距離射撃をも可能にするが、迷宮の構
造はたいていは閉所であり、そもそも千メートル以上の直線をとれ
るような迷宮は滅多に見ない。
あるいはその半分の五〇〇メートルであっても、魔物によっては
ものの数秒、下手をすれば一瞬で詰められる距離であり、一射外せ
ば、どころか複数の魔物が現れた時点で、その戦闘はほぼ詰みだ。
それに探索者の膂力で振り回せば打撃武器としても十分な威力を
発揮する剣などの近接武器とは違い、弓はどうしても相応の技術の
習熟が必要である。即物的である探索者にはそんなまどろっこしい
時間を耐えられる者は少ない。
無論、弓が全く役に立たないわけではない。魔物から見つかって
いない場合には一方的に戦闘を進めることも出来るし、ランタンの
大嫌いな飛行能力を持った相手にも大いに役に立つ。高位探索者に
も弓使いはいる。が、やはりそれは突然変異のような稀である。 結局は副武装として取り回しの良い短弓を持つ者がせいぜいだ。
ランタンがぺらりと手配書を捲ると、リリオンがその内容を読み
始める。
﹁ばいろん・おーるてぃす。人族。身長およそ一七〇センチ、体重
八十キロ。三七歳。へいしゅ探索者。髪色が金。目の色が茶。みぎ
きき。背中にくさり模様の入れ墨あり。ざいじょう、傷害、強盗、
殺人︱︱﹂
少しもたつきながら手配書を読み上げるリリオンの甘い声を聞き
ながら、ランタンはその声に導かれるように文字を追った。知って
いる単語の数が絶対的に足りていないな、とランタンは自嘲するよ
うに目を細めた。
はっきり言って、これを見たところで弓男の正体が判明するなど
432
とはこれっぽっちも思っていない。行動を起こさないことへのもど
かしさを少しだけ和らげ、弓男の雰囲気をある程度想像するのに役
に立つくらいだろうか。
﹁さぎ、殺人。︱︱迷宮侵入。︱︱きょうはく、放火、殺人。︱︱
ギルドへのぶじょく行為。︱︱殺人。︱︱通貨ぎぞう、殺人。︱︱
人身売買﹂
﹁しっかし、人殺しばっかりだね﹂
探索者ギルドが手配書を書く基準がどこにあるのかは知らないが、
少なくとも殺人が禁忌であることは間違いないようだ。探索者ギル
ドが人道的な組織なだけなのか、それとも。
ランタンは水面から手を出したまま鼻先まで湯の中に沈んでぶく
ぶくと泡を吐いた。人の命が軽いとはいえ、やはりそれが罪である
ことに変わりはないのだろう。
﹁まだ読む?﹂
ふて腐れたようなランタンの姿にリリオンがそっと囁いた。どう
さす
やら気を遣わせてしまったようだ。リリオンはランタンの腹を撫で
擦っている。
﹁ありがと、もう良いよ。弓使いには碌な奴がいないね﹂
手配書に善人が載っていたらそれもまた驚きだ。ランタンはひひ
ひと笑いながらふやけて波打ち始めた手配書をテーブルに戻し、そ
んなランタンを見上げるリリオンの頭を撫でた。リリオンが大きく
瞬きすると睫毛に乗った汗が涙のように垂れた。
今度は向かい合うようにランタンが湯船に身体を沈めると、リリ
オンは身を乗り出して、その頭をランタンの胸に寄せた。まるで心
臓の音を聞くように。
﹁どうしたの?﹂
甘える仕草に、ランタンは湯ごとリリオンの髪を掻き上げる。リ
リオンが唇を動かすと、唇の端が皮膚に触れていることが感じられ
た。
﹁どうして、わたしなのかしら﹂
433
なんで狙われているの、と重ねられた言葉にランタンは一瞬口を
噤んだ。出会った時とは比べものにならないほど肉のついた身体が、
胸の中で再び小さく細くなったかのように感じた。
﹁さぁなんでだろうね﹂
髪を撫でた手をゆっくりと首に、そして肩に回した。沈みそうな
ほどのリリオンの身体を抱えなおして、ランタンはもう一方の手で
額に張り付いた髪を剥がしてやった。
﹁お金だとか、弱そうだからだとか、気に入らないだとか。もしか
したら理由なんて無いのかもしれないね。テスさんも言ってたけど、
どうにも悪い奴は多いみたいだし。ただ何となくってことも無いわ
けじゃない﹂
何せ相手は薬中の阿呆共とそれを取り纏める弓使いなのだから。
ランタンは胸の内から顔を見上げるリリオンの形の良い丸い額を
ヘーゼル
指で擽る。リリオンは、なにするの、ランタンを見上げて眉尻を下
げた。
さら
ランタンはふと真面目な表情を作って、リリオンの淡褐色の瞳を
覗き込んだ。
﹁リリオンが可愛いから掠いたくなったのかも﹂
﹁へ? わぁ、なに急に!?﹂
さらりと言ったランタンにリリオンは慌てて視線を逸らした。そ
して顔を隠すようにランタンの胸に額をぐりぐりと押しつけた。そ
んなリリオンにランタンは真面目だった表情を一変させて、してや
ったりと笑ってみせた。
﹁うー⋮⋮でも、それなら、ランタンの方が狙われちゃうわ﹂
﹁なんで?﹂
﹁だってランタンはかわいいし、小さくて持って帰りやすそうだも
の﹂
そう言ってリリオンは胸の中でころころと笑い声を上げた。
﹁小っちゃくないよ﹂
﹁ランタンが捕まったときはわたしが助けてあげるね﹂
434
﹁捕まらないって、小さくないから﹂
﹁あら、どうかしら?﹂
リリオンは意味深に微笑むと、不意にランタンの背に腕を回して
その身体を抱きかかえて立ち上がろうとした。
﹁ほら︱︱、あ、あれ?﹂
﹁ほら、大丈夫でしょ?﹂
立ち上がろうとしたリリオンはびくともしないランタンに目を丸
くした。ランタンは片手で浴槽の縁を掴んでおり、その指先がまる
でめり込んだようにランタンの身体を浴槽内に固定していた。
リリオンが片手をランタンの背に添えたまま、もう一方の手で腕
を撫でて縁を掴んだ手に忍び寄った。そしてその掴んだ手を剥がそ
うとしてかりかりと爪立てて引っ掻いた。
﹁取れない⋮⋮﹂
伊達に来る日も来る日も迷宮に潜り続けて、戦槌を振り続けて、
魔物を殺し続けて、その青い血に染まったわけではない。リリオン
は良い匂いがすると言ってくれるが、ランタンはたまに生臭い鉄が
香る気がする。
﹁リリオン﹂
﹁ううう、なあに?﹂
リリオンはいよいよ両手を使い縁を握った手を外しにかかり、ラ
ンタンの呼びかけになおざりに答える。その必死な姿にランタンは
頬を緩め、その指先も緩めた。
そしてその手でリリオンの手を掴んだ。
﹁わ、なに、ランタン?﹂
﹁大丈夫﹂
ランタンは掌を合わせるようにして指を絡めた。
﹁こうしてれば離れることはないよ﹂
迷宮探索は趣味ではないし、志があってのものではない。
だがこうして役立てることがあるのなら、今までの行いは無駄で
はなかったのだろうと、そう思った。
435
031
031
﹁あぁ、良い、匂い︱︱﹂
下街の目抜き通りで、それは起こった。
人目の多い目抜き通りでまさか襲われることもないだろう、と気
を抜いていたこともあり、その接近にランタンは気づくことが出来
なかった。
うなじ
そこには殺意も、悪意もない。花にひらりと羽を休める蝶のよう
に忍び寄った。
後ろから抱きすくめて項のあたりに鼻を寄せるその行動は、ラン
タンがもう追い払うのも面倒くさくなったリリオンのじゃれつく仕
草に似ている。
後ろから抱きついてきたのがリリオンならば何だかんだで微笑ま
しくあるが、見知らぬ人物に急にされたらそれはただの痴漢だ。
リリオンは隣でランタンの手を握ってびっくりとしている。
それは突如ランタンに覆い被さった人物の登場にであり、そして
次の瞬間にはその人物が宙を舞っていたからである。
ランタンは繋いでいない方の手で乱暴に変質者の衣服を掴むと、
お辞儀をするように変質者を投げ飛ばした。やや変則的な背負い投
げで変質者を地面に叩きつけ、ランタンはそのまま流れるように変
質者の顔に膝を落とそうとして、止めた。
変質者は女だった。
だからといって膝を落とすのを止めたわけではない。相手が誰で
あろうとも、少し躊躇う気持ちがあったとしても、ランタンは必要
ならば暴力の行使に躊躇しない。
ランタンは女に抵抗の意思を感じなかった。
436
女は地面に叩きつけたというのに苦しむ様子もなく、ぼんやりと
虚ろな表情をしていた。だがそれは麻薬によってトリップしている
ようではない。
ぼさりと広がって波打つ緑色の髪から覗く瞳がランタンの顔をぼ
またた
んやりと捉えており、いっそ眠たげなほどの垂れ目が、何度も大き
まばた
く瞬いた。まるで今、眠りから目覚めたとでも言うように。
一度二度と瞬きをすると、女の瞳に焦点が戻ってくる。覗き込む
ランタンと視線が合うと、夢から覚めたかのようにきょとんとして、
すぐに唇に微笑みを湛えた。
頬まで裂けるような大きな口だが不思議と愛嬌がある。血の気の
薄い青みがかった頬が痩せていたけれど丸系の顔は温和そうな柔ら
かさがあった。年齢はランタンよりも幾つも上のようだったが微笑
わたくし
むと少女のように無邪気だ。
﹁あらぁ、私ったら何を⋮⋮﹂
おっとりとした口調で女はぽつりと呟いた。道端で仰向けに転が
されているのに、そんなことなど気にもしていないように、あるい
は気づいてもいないように。
これは変質者というか、変な人だ、とランタンは曖昧に微笑んだ。
その笑みに何をどう思ったのか、女もランタンに微笑みかけた。
視線が絡まり合ってランタンは目を逸らすに逸らせなくなっていよ
いよ困ったように眉尻を下げる。
﹁⋮⋮ランタン﹂
女とランタンの間にある謎の雰囲気にリリオンが助け船を出すよ
うに手を引いた。ランタンははっとして辺りを見渡した。
ランタン達を中心にして、目抜き通りを行き交っていた通行人達
がぐるりと取り囲んで野次馬と化している。その視線はただの好奇
の視線であって、悪意の込められたものではなかったがリリオンが
怯えていた。
﹁︱︱大丈夫ですか?﹂
﹁あら、おそれいります﹂
437
とりあえず場を離れるべきだが、だからといって女を転がしたま
まにしてはいけない。と言うよりもそんなことを考えるまもなく、
気がついたら手を差し出していた。
女は少しだけ驚いたように目を大きくしてランタンの手を掴んだ。
体温が低く、やや乾燥肌気味だが不思議と吸い付くような柔らか
さがある手だ。
ランタンはすっと目を細めた。ずり下がった袖から覗く女の手首
が細く、そこに銀の腕輪が嵌まっていた。探索者だ。そのギルド証
は傷ついているが、その傷がリリオン由来の物か、貫衣かどうかは
定かではない。ギルド証はランタンの物と同じように大小様々な傷
が遍在している。
ランタンが少しだけ、けれど判りやすく警戒を強めたが女に変わ
った様子はない。ランタンはいつでもその握った手を爆破できるよ
うに意識しながら、女を引き上げる。
痩せた頬や、痩せた手首の印象とは裏腹に女は重量がある。装備
は軽装のようなので見かけよりも筋肉質だと言うことだろう。握り
返してきた力は強くやはり探索者のそれだ。
女を引き上げると、重心が下半身にあることが解った。尻が大き
めなのだろうか。立ち上がるとランタンよりも少し背が高い。女は
名残惜しげにランタンの手を放して、頭を下げた。
﹁とんだご無礼をいたしました、︱︱ランタン様﹂
女はランタンの名前を悪戯っぽく呼んだ。
探索者ならば名前を知られていてもおかしいことではないか、と
一方で感じながらもランタンはその下げられた頭を警戒したままの
視線で見つめた。足を肩幅に開き、戦闘に備えた。そして女が面を
上げると、その警戒を瞳の奥に隠して、顔を振った。
﹁いえ、何事もないようで何よりです﹂
それでは、とランタンは話を切り上げてその場から立ち去ろうと
した。だが女がそんなランタンを引き留めた。
﹁何かお詫びが出来ればよろしいのですが、⋮⋮恥ずかしながら今
438
は持ち合わせがありませんの﹂
﹁結構ですので、本当に。気にしないでください﹂
ランタンはそう言ったが女はマイペースに、どうしましょう、な
どと小首を傾げている。まるで泥沼に嵌まったように、そのペース
から抜け出すのが難しい。ランタンがもう無視して逃げだそうかと
考えていると、女はぽんと胸の前で手を叩いた。
﹁実は私、傭兵探索者をやっておりますのよ﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
﹁探索でお手が必要ならば、不肖の身ですがお安くお手伝いさせて
いただきますわ﹂
安くね、とランタンは口の中で言葉を転がした。
チーム
傭兵探索者を雇うための平均的な相場を知らないが、傭兵探索者
は人材不足に悩む探索班の弱みに付け込んで法外な賃金を請求する
ショーケース
守銭奴だと風の噂で聞いている。
ラウンジ
﹁ご用の際はぜひ飾り棚にいらっしゃってくださいな﹂
飾り棚とは、ギルドの二階にある第三休憩室の俗称だ。
本来は探索者のみならず一般に開放されている休憩室だがその第
三休憩室は、過去の傭兵探索者が余程上手い仕事にありついたのか、
たむろ
傭兵優位に交渉を進めることが出来る、交渉を行うと好条件で雇わ
れるなどという迷信が広まって以来、傭兵探索者が好んで屯し、気
がつけば傭兵探索者とそれを求める探索者しか寄りつかなくなくな
ったという、憩いを求める者は誰一人として寄りつかない曰く付き
の休憩所だ。
ランタンはその休憩室を覗き込んだことすらないが、きっと鬼の
住処なのだろうと勝手に思っている。
この女もふわふわした雰囲気があるが、そこに住む鬼の一人なの
か。
ランタンは引きつった頬を無理矢理に笑って誤魔化した。そんな
ランタンの笑みを好意的に受け取ったのか女は、一緒に戦える日を
お待ちしておりますわ、とランタンの手をさっと掴んで握手をする
439
と、それではごきげんよう、と微笑んで去って行った。
取り囲む野次馬を、まるでそれらが不出来な案山子であるかのよ
うに、完全に無視して。
﹁なん、だったの、かしら⋮⋮?﹂
リリオンの呟きは、ここに居る全員の代弁だった。
リリオンは名状しがたい不可解な現象に襲われたかのように小難
しい顔をして女を見送っていた。八の字になった眉がそのままくる
りと一回転しそうなほどに。
リリオンばかりではなく取り囲んでいる野次馬達も似通った顔を
している。彼らはおそらく刃傷沙汰でも見物しようと集まったのだ
ろうが、そのようなことは一つも起こらなかった。狸に化かされた
ようにぽかんと拍子抜けしている。
﹁は﹂
そんな中でいち早く正気に戻ったランタンはリリオンの手を引っ
張って野次馬の群れを抜けた。野次馬たちの意識は女の背中を追っ
ていたので、そこから抜け出すことは容易かった。
﹁ちゃんと前見ないと転ぶよ﹂
もう女の背中どころか野次馬さえも見えないのだが、リリオンは
何度も後ろを振り返った。ランタンが叱ると慌てて前を向いて、大
きく一歩踏み出してランタンの隣に並んだ。
﹁ねぇ、あれなに?﹂
﹁なんだったんだろうね、⋮⋮新手の営業かな﹂
あの場にあった不可解な雰囲気を取り払い、そこに残ったものだ
けを思い出せば女のやったことは傭兵としての営業である。無警戒
で襲撃されるよりましだが、空回りは少し恥ずかしい。ランタンは
一人で盛り上がっていた自分を思い出し、表情に出さずに照れてい
た。
﹁でも名前も言わなかったしなぁ﹂
むしろそれこそが狙いだったのか。不可解な行動のその全てが、
ランタンに自分を意識させるための計算の元によって行われたもの
440
だったのかもしれない。もしそうだったとしたらランタンは完全に
術中に嵌まっている。
﹁ランタンが良い匂いだから、がまんできなかったのかも﹂
﹁絶対無いね︱︱って言うかリリオンも同じ石鹸使ってんだから、
同じ匂いがするでしょ﹂
同じ石鹸どころか同じベッドで寝起きし、ほとんど同じ物を食べ
て、同じように生活している。
リリオンは服の胸元を引っ張って、くんくんと自分の体臭を確か
めていた。
﹁やめなさい、人前でそんなこと﹂
﹁⋮⋮おんなじ匂いしないよ﹂
顔を上げたリリオンは唇を突き出してそう言って、繋いだ手を引
っ張るとその甲に鼻を擦りつけた。
﹁ランタンは良い匂いがするわ。どうして?﹂
﹁︱︱リリオン、途中で肉串買い食いしてたからじゃない?﹂
食事の様子を思い出せば、今のところリリオンに嫌いな食べ物は
なさそうだが、好みよりも食事バランスを重視するランタンとは違
い欲望に走りがちだ。ランタンもある程度気にして野菜や果物も食
べるように仕向けているが、リリオンは肉食の傾向が強くある。そ
の所為か、少しだけ体臭が濃い。さっきも香辛料を利かせた串焼き
肉を買うためにランタンにおこづかいを求めた。
﹁うー、そうなのかな⋮⋮じゃあ、もう食べない﹂
﹁ふぅん、僕は食べるけどね﹂
﹁⋮⋮ずるい﹂
膨らませてイジイジとしながらリリオンは、やっぱり食べる、と
あっさりと前言を撤回した。それからこそっとランタンを窺い、ラ
ンタンが意地悪そうに笑っているのを見つけると唇を突き出してぶ
ぅと鳴いた。
﹁これ旨い﹂
﹁ねー﹂
441
それを聞いた所為かランタンは屋台で豚肉の串焼きを購入した。
塩胡椒の利いたばら肉は柔らかく脂が舌の上でとろりと溶けた。付
け合わせに突き刺さった玉葱も甘い。リリオンも不満げな顔など無
かったようにニコニコしながら肉を咀嚼している。
それを食べ歩きながら職人街へまでやって来た。
グラン武具工房の何時も訪れる作業場ではなく、看板の掲げてあ
る正面だ。
むさ苦しい職人が汗水流して働いてる様をランタンは嫌いではな
かったが、今のリリオンにとってみればそれは悪夢そのものだろう。
先日いつものように裏口を訪れたときに、リリオンは職人達をあか
らさまに恐れて、工房の職人達も少女に恐れられて心を少し傷つけ
るという誰もが不幸になる出来事があった。
その不幸を繰り返してはいけない。
交差する剣と鎚の意匠の看板が、通りに響く金属音に揺れている。
煉瓦の赤とその繋ぎの白い店構えはグランの容貌には不釣り合いな
可愛らしさがあり、だが黒ずんだ分厚い木製の扉には老舗らしい重
みがあった。
ランタンは豚串を食べ終えるとその木串をばきばきと折りたたん
で手の中に納め、掌に付着した油汚れごと爆発によって灰に変えた。
﹁あっちっち﹂
ランタンはその灰を吹く風に任せるようにぽいっと捨てて、掌を
ズボンで払った。
﹁おじゃまします﹂
﹁いらっしゃい、あ。ランタンか﹂
そこに居たのはランタンとそう年の変わらないまだ年若い職人だ。
つまらなそうに片肘を突いていたのが、扉を開けるとびくんと反応
して、それがランタンだと判ると驚いて損をしたというように胸を
ナイフ
なで下ろした。
﹁さぼり? 狩猟刀取りに来たんだけど﹂
﹁さぼってねーよ、店番してんじゃんよ﹂
442
そうと言った若い職人は、見りゃ判んだろ、と顎を突き出した。
﹁⋮⋮そうだね。さぼってなくてよかったよ。じゃあさぼってない
ついでに狩猟刀持ってきてもらおうかな﹂
﹁いっちいち面倒くせー言い方するなよ。⋮⋮まぁ、親方呼んでく
るわ。ちょっと待ってろ﹂
商品の引き渡しにグラン自らが出向くとは何とも豪勢なことだ。
若い職人はがたんと椅子を蹴って店の奥へと引っ込んでいった。
そばかすの散る頬の片方に、見れば片肘突いていたことが一発で判
る拳の痕をくっきりとつけながら。
﹁⋮⋮おともだち?﹂
﹁いや、顔見知り。名前も知らないし﹂
ランタンの背中に隠れていたリリオンが、職人が扉の奥に消えて
ようやくちょこんと横に並んだ。作業場で働く職人達に比べれば、
若い職人はまだ少年っぽい身体の細さをしていたがそれでもダメの
ようだ。
若い職人に少しやんちゃっぽい雰囲気があるせいかもしれない。
ランタンも昔ならば軽口を叩くどころか、目を合わせようと思わな
かっただろう。
﹁おう、待たせたな。ランタンに嬢ちゃん﹂
ほどなく扉から現れたのは若い職人ではなくグラン本人だった。
その分厚い身体の奥に若い職人は控えているようだ。グランがのそ
りと前に出ると、ヒヨコのように若い職人も出てきた。心なしかし
ゅんとしているのは叱られたからだろう。
﹁︱︱店番ってのは店の顔だからな﹂
﹁はい!﹂
グランは職人の尻を叩いて受付に行くように促すと、髭の奥の唇
を歪めて笑い。ランタン達を応接室に通した。
グランがソファに腰掛けると、まるで潰れたようになる。ランタ
ンは少し笑いながら腕を組んで着いてきたリリオンをソファに座ら
せて、その隣に腰掛けた。真ん中のテーブルに二振りの狩猟刀が置
443
いてある。
特注の狩猟刀だ。
内反りで大振りの狩猟刀は黒革の鞘に納められてなお凶悪な雰囲
気があった。グランの太い指がそれを掴むとそれぞれをランタンと
リリオンの前に差し出した。
﹁それぞれ握りを調整してあるから、間違えないようにな﹂
鞘も柄も注文をつければ望み通りに出来るので、本来ならば各々
の好みに合わせればよいのだが、案の定リリオンはランタンとお揃
いを希望したのでこのようになった。鞘は黒、柄は臙脂に染めた革
の柄糸を巻いている。握ると掌に吸い付くようだ。
﹁どうだ?﹂
﹁いいです、すごく﹂
﹁嬢ちゃんも手に取って良いんだぞ。そいつは嬢ちゃんの物なんだ
からな﹂
﹁は、はい﹂
﹁まだ支払いが済んでないですよ﹂
﹁坊主の金払いの良さは知ってるよ﹂
そう言ってグランは喉を揺さぶるように笑った。狩猟刀の握りを
確かめていたリリオンがその笑い声に驚いたように震えた。それで
も取り落とさなかったのはやはり握りが確かだからだろうか。
﹁気をつけてね﹂
﹁うん﹂
狩猟刀を鞘から抜き放つと刀身は黒曜石のような輝きを持ってい
た。元が熊の鉤爪であるので大きく内に反っていてくの字型をして
いる。
﹁前の狩猟刀よりは重めだな﹂
峰が厚く、くの字の刀身の上側が葉っぱのように丸みを帯びて少
し幅広になっている。
﹁熊の爪は硬度は一級品だが、すこし靱性に欠けたからな﹂
刀身を指で弾くと硝子をのように澄んだ音がした。
444
﹁鉤爪を魔道処理で金属質に転成させてある﹂
﹁へぇ﹂
むねがね
﹁ああ、そいつをこう重ね合わせてな、間に粘りけのある軟鉄を挟
み込むんだ。それで峰となる部分にもうちっと硬めの棟鉄ってのを
被せて鍛えるんだ﹂
﹁そうなんですか、すごいですね﹂
よくわからないけど、とランタンは心の中で思いながらそれを少
しもおくびに出さずに相づちを打った。よくわからないけれど、グ
ランが言うのだから何か必要なことだったのだろう。
むかしかたぎ
グランはそんなランタンの内心に気づかないようで、狩猟刀の性
質についてあれやこれやと語り始めた。無口で昔気質な職人の一面
と同時に、研究者と言うべきかオタク的な気質も持っている。
ランタンはグランの言っていることの半分も理解は出来なかった
が、とりあえずすごい狩猟刀だと言うことは理解できた。
刀身が肉厚なのは爪を二つ、金属を二種類重ねているせいなのだ
ろうか。けれど峰の厚さとは裏腹に、その刃は二本の鉤爪を重ね合
わせたとは思えないほどに薄い。それこそ薄墨の如く透けるほどに。
﹁ま、いわゆる鉈の重さに剃刀の切れ味ってやつだな﹂
そう言ったグランは少し誇らしげだ。何時もよりも口数が多く、
口調が柔らかなのはこの仕事がそれだけ満足のゆく物だったと言う
ことだろう。
﹁下手に触ると骨まで引いちまうぞ﹂
その言葉に吸い込まれるようにして刃に指を這わせようとしてい
たリリオンが慌てて指を引っ込めた。ランタンは顔に苦笑を表しな
がら、実のところ心の中で冷や汗を掻いていた。リリオンの手前我
慢していたが、少しその刃に触れたい欲求は確かにあった。
﹁そう言うのは先に言ってください﹂
﹁刃物を触りゃ切れるってのは子供だって知ってるぞ﹂
﹁う⋮⋮まぁ、そうですが﹂
それを忘れるほど綺麗な刀身だった。リリオンは狩猟刀を恐れる
445
ようにしながらも、眼前にそれを掲げてうっとりと眺めている。そ
の内にまた忘れた頃に刃を触りそうだ。少し気を付けておこう。
い
もん
﹁まぁ、怪我してく内に馴染むだろう。探索者は怪我して成長して
いく生き物だからな﹂
﹁そんなものですかね?﹂
フラグ
ランタンはぽつりと呟きながら狩猟刀を鞘に戻した。
探索の度に、最終目標を始めとする強敵と戦う度に怪我をしてい
るように思うが、成長しているという実感は無い。それどころか毎
度毎度怪我をしているのに懲りもせず力任せに突っ込んでしまうも
のだ。犬猫だって痛みによって躾けられるというのに。
首を傾げるランタンにグランは呆れたように、まぁ人それぞれだ
よな、と年相応の老いた声を漏らした。
﹁何か気になるところはあるか?﹂
﹁いいえ、とても気に入りました﹂
リリオンに視線を向けると飽きもせずに刀身を眺めていて、ぽけ
っと半開きになった口元が少し間抜けだ。ランタンとグランが見つ
めているのにも気づいていないので、ランタンはその無防備な脇腹
を指で突いた。
﹁ひゃっ! ︱︱もう、なによう﹂
﹁くくく、気に入って貰えたようで何よりだ﹂
狩猟刀を奪われまいとするように身体を捩ったリリオンをグラン
が穏やかな瞳で見つめている。ランタンが呆れながら鞘を差し出し
てやると、リリオンはまるで硝子の剣でも納めるようにそっとした
手つきでそこに納めた。
﹁⋮⋮大切にしてくれるのはありがたいがな、やっぱりそれの本質
は見て楽しむためのもんじゃなくて、物をぶった切るためにある。
欠けたりなまくらになったりしたら研ぎ直してやるから、がんがん
使ってくれ﹂
﹁︱︱はい﹂
リリオンは鞘に収まった狩猟刀を胸に抱いてグランの瞳をまっす
446
ぐ見つめて素直に頷いた。
﹁整備代はしっかりと取られますけどね﹂
﹁ぐあっはっは、そりゃあそうよ。そうじゃなきゃうちの奴ら食わ
せてやれねぇからな﹂
﹁食べ過ぎで臨時休業になってもしらないですよ﹂
グランは、うちの奴らは大食いだからな、と腹をぽんぽんと叩い
て大笑いしている。その奴らと言うのは職人のことでもあるだろう
し、また工房に幾つも並んでいる炉のことでもあるのだろう。
ランタンがごとりごとりと金貨を机の上に積み上げていく。一山
二山と増えていくと、リリオンが黙って見つめている。
グランが言っていた鉤爪を金属質へと転成させた魔道処理は、そ
れがどのような物であるか説明されてもこれっぽちも理解できなか
ったが、中々の金食い虫らしい。
﹁おう、確かに﹂
グランは重なった金貨を十枚組にしてざらっと数えた。数えなが
らグランが言った。
﹁坊主は支払いがよくて良いな﹂
﹁そうですか?﹂
﹁金属転成しても良いか、なんて客に聞いても頷く奴は少ねぇんだ
よ﹂
せいぜい硬化処理だな、とグランはうんざりしたように呟く。
﹁⋮⋮もしかして僕カモにされてます?﹂
﹁まさか。さっき言ったみたいに金属を重ねることで強度を上げる
ことも容易いし、整備だってしやすくなる。その分長く使うことが
出来るぜ。⋮⋮費用が掛かるからあんまさせて貰えねぇのは確かだ
が、悪ぃこっちゃねぇよ。硬化処理は靱性が低くなりがちだしな。
まぁ色々出来てこっちも楽しく仕事できるからな﹂
楽しんで作った物はそれだけ良いものが出来るんだ、とグランは
ランタン
もっともらしく結んだ。己の職人的欲求を満たしている部分もない
わけではないのだろうが、ただ他人の金で色々と試している訳では
447
なさそうだ。
﹁ま、いいですけど。リリオンも気に入ったみたいだし﹂
﹁またなんか入り用になったら言ってくれ。最近よう、超硬合金っ
てのがあってな、それをちょっと使ってみたいんだよ。まぁ坊主の
稼ぎならそんな高いもんじゃないから︱︱﹂
﹁じゃあリリオン行こうか﹂
﹁え、え?﹂
﹁それではありがとうございました﹂
グランの話をぶつ切りにしてソファを立ち、リリオンに呼びかけ
た。リリオンは困ったようにランタンとグランを見比べて、ランタ
ウォーハンマー
ンが手を差し伸べるとそれを掴んでようやく立ち上がった。
﹁ちょっとした冗談だよ、まったく。おう、毎度あり。戦槌がぶっ
壊れたら、また考えといてくれ﹂
﹁グラン印の武器はなかなか壊れないですよ﹂
﹁よく解ってるじゃねぇか﹂
グランは気分を良くしたようにどんとランタンの肩を叩いて、そ
のまま肩を抱くようにして応接室を出た。さぼらずに前を向いて店
番をしている若い職人が席を立って振り返った。
﹁おい、坊主のお帰りだ。じゃあなまた贔屓に頼むぜ﹂
﹁えぇ何かあったら頼らせて貰います﹂
﹁嬢ちゃんもな狩猟刀、気に入って貰えて何よりだ。取り回しには
気をつけるんだぞ﹂
﹁はい、大切にします﹂
﹁ああ、そうしてくれるとありがたい﹂
グランがそう言ってランタン達を送り出し若い職人が、ありがと
うございましたぁ、と声を張って頭を下げた。ランタンが扉を潜る
までそうやって頭を下げ続けているので、ランタンは追い立てられ
るような足取りで工房を出た。
﹁どんだけ怒ったんだよ⋮⋮﹂
﹁機嫌良さそうだっけど﹂
448
ぽつりと呟いたランタンにリリオンが小首を傾げた。ランタンは
それに肩を竦め、新しい狩猟刀を腰の後ろに差した。だが独特の形
状が邪魔をしてかいまいちしっくりこない。ただ前の狩猟刀の感覚
が残っているせいかもしれない。
﹁ほらリリオン貸して、やってあげる﹂
﹁うん、お願い﹂
ランタンはリリオンから狩猟刀を受け取った。こうやって持ち比
べてみると、ほんの僅かだがリリオンの狩猟刀の方が大振りに作っ
マント
てあり事が判る。
リリオンは外套をめくり上げて、小振りな尻をランタンに晒した。
ランタンは何となく黙ってそれを見て、それから中腰になるとリリ
オンのベルトを引っ張って狩猟刀を差し込んだ。
﹁どう?﹂
﹁ちょっと痛い、かも﹂
腰骨に鞘が当たって痛いようだ。そう言えば自分も昔はそうだっ
たな、とランタンは少し考え込んで腰のポーチから端布を取り出す
と、それを四角く折りたたみ何枚か重ねて腰と狩猟刀の間に挟み込
んだ。
﹁これでどうよ﹂
﹁うん、痛くないわ。ありがとう﹂
ランタンは一つ頷いて仕上げとばかりにぱちんとリリオンの尻を
叩いた。リリオンが外套を放して、カーテンが引かれるようにさっ
と尻が隠された。リリオンが振り返って微笑む。
﹁ランタンとお揃いね﹂
﹁んー、そうだね﹂
ランタンは伸びをするように立ち上がった。
風が駆け抜けると外套が巻き上がって同じように腰に差された狩
猟刀がちらりと覗く。臙脂色の柄はまるで木陰に咲く赤い花のよう
に見えた。
449
032
032
そろりと黒い部屋を覗き込んで受付口に視線を向ける。そこに見
えるのは白い衣服の胸元と手袋に覆われた手だけで、その中身が先
日のあの司書なのかは判別できない。
どうしようかな、とランタンは立ち止まって逡巡した。だがそん
なランタンをよそにリリオンは扉をくぐり抜けて足を止めず、ラン
タンの手を引っ張って受付口まで一目散に向かった。
﹁こんにちは!﹂
リリオンが長身を折り曲げて、受付口の中を覗き込んで元気よく
挨拶をしている。
ごとり、と音がしたのでランタンもこっそりと受付口を覗き込む
と、中に居る司書が椅子ごと身体を引いている。リリオンの勢いに
気圧されたようだ。
﹁⋮⋮おい、どうにかしろランタン﹂
﹁あ、はい﹂
どうやらこの司書はこの前と同じ人物のようだ。ランタンはほっ
としながらも、すぐに慌てたようにリリオンに手を伸ばした。鼻先
を餌皿に突っ込む犬のようになっているリリオンの首根っこを掴ん
で、前のめりのその身体を引っ張る。
それでようやく司書は元の位置に戻り、ごほん、と咳払いをした。
その咳払いさえも二つの声音が重なっている。
﹁それで何か用か? テスなら居ないぞ﹂
﹁あ、そうなんですか? それは残念ですが、その︱︱今日は司書
さまにご用がありまして﹂
﹁⋮⋮何の用だ。これでも仕事中なんで手短にな、業務に関わるこ
450
となら別だが﹂
司書はそう言って、人差し指で一度机を叩いた。苛ついているわ
けでも、急かしているわけでもなく、ただ少し落ち着かないという
ように。
ランタンは一つ間を置いて、ゆっくりと口を開いた。
﹁先日はお部屋をお貸しいただいて、ありがとうございました。ご
相談にも乗っていただけて大変助かりました﹂
﹁お、おう﹂
ぺこりと頭を下げたランタンに司書は戸惑ったように少しどもり
ながら頷いた。
﹁それでですね﹂
ランタンがリリオンに目配せをするとリリオンは手に持った箱を
受付の上にそっと置いて、どうぞ、と言いながら恭しく差し出した。
いぶか
それは綺麗な包装紙に包まれた両手の上に載るほどの小箱だ。
視線を遮っているはずなのに、訝しむような司書の視線を感じだ
った。
﹁少しばかりですがお礼をと思いまして、チョコレートケーキです
ので良かったら召し上がってください﹂
グラン工房を後にして休憩に立ち寄った喫茶店で頼んだケーキが
美味しかったので包んで貰った。少しほろ苦さのあるビターチョコ
が、オレンジピールの練り込まれた生地を包んでいて大人びた味が
した。
﹁すっごいおいしいです!﹂
ランタンが言うとその脇からリリオンが続けた。リリオンは喫茶
店でアップルタルトを頼んだので、ランタンの食べるそれを一口摘
まんだだけだったが何故だか妙に自慢げだ。今すぐにでも食べて欲
しいとでも言うように受付に手を突いて身体を揺すっている。
﹁こら、大人しくしなさい﹂
ぺちんとリリオンの尻を叩いて大人しくさせると、ランタンは少
し申し訳なさそうな顔になって沈黙している司書に声をかけた。
451
﹁もしかして、甘い物はお好きではありませんでしたか? 司書さ
まは﹂
﹁⋮⋮そうなんですか、ししょさま﹂
さすがのリリオンも、じゃあわたしが食べてあげましょうか、と
は言わなかった。
﹁⋮⋮いや、嫌いじゃないよ。ただ、ああ、なんだ﹂
司書は小さく首を横に振るとケーキの箱を受け取った。それから
何か奥歯に物が引っかかったような物の言い方をした。
﹁その呼び方、どうにかならんか﹂
﹁ししょさま?﹂
﹁それだ。なんなんだよ司書さまって、初めて言われたぞ﹂
﹁⋮⋮僕も初めて言いました﹂
なんと呼ぼうかと迷ってつい口に出た呼び方だった。来るときに
出会った緑髪の女がランタンのことをランタン様と囁いた、あの甘
い響きが耳の奥に残っていたのかもしれない。
﹁ししょさまは、ししょさまじゃないんですか? ししょさま﹂
﹁おい、わざととか? わざとだろ。少し黙れ﹂
ししょさまししょさまと舌足らずに連呼するリリオンを、司書が
面倒くさそうに手を振って追い払う。そしてその手を薄ら寒いとで
も言いたげに、これ見よがしにこすり合わせて暖めた。
その様子にランタンは苦笑を漏らした。心なししゅんとしたリリ
オンの背中を慰めるように撫でる。
・ ・
リリオンはなんだかテスとこの司書の二人に憧憬のような物を抱
いているようだった。ランタンは先日から何度もリリオンに趣味を
尋ねることを強要されている。
﹁それではどのようにお呼びすれば?﹂
﹁あ? 呼ばなくていいよ、必要ないだろ﹂
ランタンが尋ねると司書は素っ気なくそう吐き捨てた。確かに呼
び名がなくとも会話をすることは、多少の不便さはあるが、出来る
だろう。本人が呼ばれることを望んでいないのなら、それで良いか
452
とランタンが思っているとリリオンがぽつりと呟いた。
﹁⋮⋮おねえさま﹂
その響きに司書は自分の身体を抱きしめて震えた。
﹁︱︱これでも性別不明で売っているんだがな﹂
甘ったるく呼んだリリオンに司書は皮肉気に言い放つ。テスが女
性だったので何となく同じように考えていたが、声音を変え、肌を
覆い、身体の輪郭を隠すゆったりとした衣服に身を包む司書は確か
に男か女か定かでない。
そう言えば一人称さえも聞いていないな、とランタンがそのプロ
フェッショナルな徹底ぶりに感心して、これ以上は迷惑になるとリ
リオンを説得しようと司書から視線を外した。
その矢先。
﹁まぁ女なんだけどな﹂
﹁うえ!?﹂
あっさりと司書は性別を明かした。ランタンは思わず変な声を漏
らして、その口を遅まきながら隠した。
﹁ギルド職員の半分は女だぞ。別に知られたからと言っても問題で
はない﹂
驚いたランタンの様子に満足したように司書は言い放った。
そんなものなのか、とランタンが驚愕に歪んだ顔をさらに引きつ
らせている横でリリオンはまるで、おねえさま、と呼ぶ許しを得た
かのように顔に花を咲かせた。
﹁無論、誰彼構わず吹聴もしないがな﹂
司書はそう言うと人差し指を招いてリリオンを呼んだ。リリオン
はその妙な雰囲気に急にしおらしくなって、おずおずと受付口に顔
を寄せた。司書はその花も恥じらう少女にそっと囁く。その二音が
重なるその声が奇妙なものから、不思議と魅惑的なものであるかの
ように響いた。
﹁つまり私が女だと言うことは、リリオンと私の秘密と言うわけだ。
不用意に私を、おねえさま、などと呼ばないように。約束できるか
453
?﹂
﹁はいっ﹂
﹁よろしい﹂
何という見事な手口だ。素直に返事をしてうっとりとした様子で
口を噤んだリリオンを見ながらランタンは感嘆のため息を漏らした。
司書は自分のことを女だと言ったが、もしかしたらそれすらもそ
の身を欺くための嘘なのかもしれない。あのマスクの下に女たらし
の男の顔があっても不思議ではない、とランタンは思った。
目尻を下げるリリオンを見てランタンは何となく、自然と手を伸
ばしてリリオンの手を掴んだ。リリオンは、どうしたの、とでも言
うような感じでランタンを見て小首を傾げ、その手をいつものよう
に握り返す。
そしてそこが居場所であるかのようにランタンの隣にちょこんと
収まった。
﹁ふふふ、⋮⋮さて、これで用事は済んだかな﹂
お礼も伝えてケーキも渡した。ランタンは小さく頷いた。
﹁はい。なんだかお仕事の邪魔をしてしまったようで申し訳ありま
せんでした﹂
﹁いや、いいさ。⋮⋮しかし本当に、テスも言っていたがお前は探
索者とは思えないな。この部屋にチョコレートケーキが持ち込まれ
たのはきっと初めてのことだろうよ。まったく、どうせなら全部が
終わってから来い﹂
司書はそう言うとケーキの箱を指で軽く弾いて、含み笑いを漏ら
した。
﹁ああそうだ、テスに用があるならあいつは今頃ギルド内を巡回し
ているよ。広い建物だから会えるかは知らんがな﹂
司書はそう言うと、早く行けと言うように手を振って追い払う仕
草をみせた。
﹁それでは、お邪魔しました﹂
﹁さようなら︱︱おねえさま﹂
454
リリオンは囁くように最後に付け加えた。それは司書の耳に届い
たかは判らないが、司書は黙ってもう何も言わなかった。少しだけ
寂しげに司書を振り返るリリオンの手を引いて黒い部屋を出る。
リリオンはちょっと頬を膨らませた。
﹁どうしてししょさまはダメなのかしら﹂
そんなリリオンにランタンは肩を竦める。
﹁さぁ? なんでだろうねリリオンさん﹂
﹁急になあに?﹂
﹁何がだいリリオンさん﹂
﹁なんでそんな風に言うの﹂
﹁なにかおかしいのかな? リリオンさん﹂
﹁そんな風に言わないで﹂
﹁何故だい? リリオンさん﹂
ランタンがくくくと意地悪な笑いを押し殺しながらしつこく続け
ると、リリオンはランタンの腕をさっと胸の中に抱いて立ち止まっ
た。その顔には拗ねているような苛立っているような混沌とした表
情が張り付いている。
少しからかいすぎた、とランタンは小さく舌を出した。
﹁わからないけど、なにかむずむずして嫌なの﹂
﹁そうだねリリオン、たぶん司書さまも同じような気持ちだったん
だよ﹂
リリオンさんと口にする度にランタンも何だか喉の所がむず痒か
った。リリオンはランタンが呼び捨てにするとほっとしたように胸
をなで下ろして、ランタンの腕を解放した。
﹁⋮⋮僕のことをランタンさまって呼んでも良いよ﹂
﹁えー呼ばないよ。ランタンはランタンよ﹂
﹁ああそう﹂
冗談で言ってみただけだが拒否されるとそれはそれで微妙な感じ
だ。ランタンは気のない感じで相づちを打った。
﹁ねぇランタン、これからどうするの? テスさん探すの?﹂
455
﹁んー、そうだなぁ﹂
テスを探しても良かったが、ランタンの経験上こういった場合に
は探しに行くと出会えないことが多いような気がした。それにラン
タンの知る限り、探索者の立ち入り可能区域だけでも地下二階地上
四階まであるギルド内を歩き回ることはとても面倒くさかった。
迷宮で魔物に出くわしても叩きつぶせば済む話だが、ギルド内で
勧誘者に出会ったらランタンになす術はない。そうなればテスがま
た助けに来てくれるかもしれないな、とふと思い浮かべた。
なんとも情けない考え方だ、とランタンは自嘲気味に唇を歪めて、
その考えを溜め息と一緒に吐き出して気持ちを入れ替えた。
﹁よし、迷宮の情報を見に行こうか﹂
﹁迷宮の?﹂
﹁うん。リリオンはまだ迷宮選びってしたことないでしょ?﹂
前回の探索終えて七日になる。
多くの探索者にとってはまだ七日だが、ハイペースで探索をし続
けるランタンからするともう七日だ。好みの迷宮との巡り合わせも
あるので探索を開始するかはまた別だが、七日も経ってまだ迷宮の
情報に目を通していないのはランタンにとって珍しいことだった。
襲撃のこともあるが、稼がなければ食べていけない。
と言うのは充分な蓄えがあるので完全な建前で、探索をしなけれ
ば落ち着かないと言うのが本音だった。探索中毒なのか、それとも
ルーティンワークが崩れることに苛立ちを感じているのか。まさか
リリオンが言ったように知らず知らずのうちに迷宮が趣味になって
いるのか。
前者だったら病的だし、後者だったら神経質が過ぎる。趣味だっ
たらマニアックと言うほかない。
ランタンはリリオンに視線を向けた。リリオンの表情は少し硬い。
迷宮予約受付は常に探索者が溢れている。
ここに来る探索者の多くは探索班の主宰者や参謀担当者だ。皆そ
れなりの雰囲気を持っていて、誰も彼もが強面で、それはリリオン
456
の恐怖心を煽るには充分すぎる効果を発揮しているようだった。ラ
ンタンですらこれらの探索者に不意に出会ったら驚いて叫んでしま
うかもしれない。
﹁みんな迷宮に夢中だから、こっちなんか見てないから気にしなく
て良いよ﹂
﹁⋮⋮うん﹂
うつむ
本当はランタンに気がついた探索者がちらちらと視線を向けてい
たが、不幸中の幸いと言うべきか俯いたリリオンはその視線には気
づいていないようだった。ランタンは手を引いたまま部屋の中央に
ある迷宮特区の地図へと向かった。
大地図と呼ばれるそれを取り囲む探索者たちの隙間に少しばかり
お邪魔して地図盤を覗き込んだ。まだ俯いているリリオンの脇腹を
ちょんと突くと、リリオンはひゃんと悲鳴を漏らす。慌てたように
口を塞いで顔を上げた。
﹁ふふふ、ほらリリオン、前に探索したのはどの迷宮か覚えてる?﹂
﹁えっと、⋮⋮にぃ、ろく⋮⋮あ、あれよ! 二六二﹂
﹁お、正解。良く覚えてたね﹂
指さした区域にはまだ迷宮口を表す点が存在していたが、それは
攻略中を表す黒色から攻略済を表す灰色に変えていた。ランタンが
そう教えるとリリオンは、クマやっつけたものね、とようやく微笑
んでみせた。
﹁見るべきは基本的に白点だね。色が付いているのもあるけど、そ
れまぁちょっと難易度が高かったり、特殊な迷宮だったりだから﹂
﹁へぇ﹂
地図には迷宮を表す点と、ランタンのように字の読めない探索者
に対する配慮なのだろうが、それに付随する迷宮の情報を表す記号
がいくつか存在している。表示されている情報はいつ迷宮が生まれ
たか、そしてギルドの推定するその迷宮の難易度と、そこに生息す
る魔物の種類である。
﹁ここで適当にいくつか当たりを付けて、あっちの受付に番号を言
457
うとその迷宮について詳しく教えてくれる。それで職員と相談しな
がらどの迷宮を借りるか決めるんだよ。リリオンも気になる迷宮が
あったら教えてね﹂
﹁わたしも選んでいいの? わぁどれにしようかしら!﹂
ランタンが告げるとリリオンは小さく両手を叩いて喜んだ。そし
て目を輝かせながら地図を覗き込むリリオンを横目に、ランタンも
顎に手を当てて地図を見つめた。
地図上には一〇〇〇個以上の迷宮が点在しており、現在賃貸可能
の迷宮はだいたい三割強、三〇〇から四〇〇個程だろうか。多から
ず少なからずと言ったところで、ようはいつも通りと言うことだ。
戦力としてリリオンが加入したとはいえさすがに高難易度迷宮や、
迷宮構造の長大な大迷宮は攻略対象として見るには荷が重い。また
色付きと言われる白点以外の迷宮も、リリオンの探索二度目の迷宮
とするには少しばかり不安があるし、ランタンにとってもそれほど
それを攻略するメリットを見いだせないので今回は攻略対象にはし
ない。
そうして幾つもの迷宮を選別するが、けれど攻略対象となる迷宮
は少なく見積もっても二〇〇を下ることはない。大迷宮はその道行
きの険しさから高難易度に設定されることが多く、それでなくとも
高難易度迷宮の発生率は低い。
﹁ねぇあのマークはなに?﹂
リリオンが指さした記号は少し可愛らしい感じの花の記号だ。
﹁あれは植物系魔物が出るって事、他にも例えば隣の爪の記号は獣
系、あとえっと︱︱あの魚のは水棲系、他にも色々だね。⋮⋮まぁ
おおよそだけど﹂
﹁おおよそ?﹂
﹁うん、例えば植物系の迷宮に潜っても、別系統の魔物が出ること
があるよって話。偵察隊の仕事なんてそんなもんだよ﹂
ランタンは口ではそう皮肉ったものの、仕方が無いギルドの現状
もある程度は理解している。
458
地図上に一〇〇〇以上の迷宮があることからも判るように迷宮は
次から次へと無尽蔵に湧き続けるが、ギルドの人的資源は当たり前
のことだが有限だ。それに前情報なしで迷宮に潜る危険性は、本来
ならば探索者は誰もが知っていることなのだが、ついつい忘れがち
だ。こうやって当たりを付けて貰うだけでも本来ならば随分とあり
がたいことなのである。
﹁リリオン選んだ?﹂
﹁うん、まずね、あれでしょ﹂
﹁まず⋮⋮?﹂
﹁それから、あれも。あと、あっちのやつ﹂
リリオンが指さした迷宮はどれも中難易度の中迷宮だ。獣系が二
つと植物系が一つ。前回に探索した迷宮が中難易度の獣系小迷宮だ
ったので、それを踏まえての中難易度、獣系には自信がついたので
中迷宮、少し色気をだして植物系も足してみましたと言ったところ
だろうか。
﹁ねねねランタンはどれにしたの?﹂
いや、これはそんなことは考えてもいない顔だな。リリオンはせ
とんぼ
っつくようにランタンの肩を揺すり、ランタンが人差し指を立てる
と蜻蛉のようにその指を見た。指さしたその先を視線が追いかける。
﹁あの二つのどっちかかな﹂
ランタンが指さしたのは特区の門からほど近い区域の低難易度の
ひよこ
小迷宮だった。その記号を見つけるとリリオンは拍子抜けしたよう
な顔をした。低難易度小迷宮ではご不満のようだ。まだまだ新米の
くせに生意気なことである。
そんなリリオンにランタンは呆れたようにため息を漏らして手を
引いて地図盤から外れた。ランタンの雰囲気がほんの少しだけ硬く
なったのを敏感に感じ取ったのか、その手をリリオンが少し強く握
りしめた。
﹁⋮⋮ランタン、怒ってるの?﹂
﹁怒ってないよ﹂
459
﹁わたし、ランタンが選んだ迷宮で良いよ﹂
そう言うことじゃないんだけどな、とランタンは苦笑を漏らした。
前回の迷宮はリリオンは途中参加だったこともあり、割ととんと
ん拍子に攻略を済ませてしまった。自信を付けるのは良いことだが、
・ ・ ・
自信を持つことと迷宮を侮ることは同意ではない。
最初の迷宮であたりを引いた新人探索者が、己の力を過信して破
滅するというのはもうすでに様式美のようなものだ。それを防ぐた
めにわざわざ職員が迷宮選びに助言をくれるわけだが、天狗になっ
た探索者は聞く耳持たない者も多い。
﹁取り敢えず迷宮の情報だけでも貰ってこようか。リリオン番号覚
えてる?﹂
ランタンが聞くとリリオンはぎこちなく首を振った。番号を覚え
ていないことを怒られるとでも思っているのだろう。
﹁ほら、怒ってないってば。じゃあ一緒に行くよ﹂
受付に迷宮の番号を伝えれば、その子細を教えてくれる。そのま
まその場で職員と相談しても良いし、しなくてもいい。中堅以上の
探索者の多くはその場で迷宮情報の記載された用紙だけを受け取り、
仲間内で相談して決める。
ランタンも今では用紙だけを受け取るタイプの探索者となった。
文字を読むことが出来ないランタンだが、その用紙を読み取る必要
最低限の語彙だけは習得している。
ランタンは受付に行くとギルド証を見せ、名を名乗り、用紙だけ
を受け取る旨と共に迷宮の番号を伝えた。
受付の職員は少し席を外して、すぐに用紙を持って戻ってくる、
ランタンは用紙の番号に間違いが無いことを確認すると、用紙代な
ラウンジ
のか情報代なのか判らない金を払い、そのまま迷宮探索受付を後に
した。
怒ってはいないが説教をしよう、とランタンは社交室を目指した。
幾つかあるうちの第一社交室はここから距離は近く座席数も多いが
空間が開け放たれているので、少し離れた第二社交室に向かった。
460
パーティション
そもそもランタンは社交室を利用したことがないが、第二社交室は
確か間仕切りで区切られていたはずだ。
﹁あっ!﹂
その道すがらリリオンが声を上げた。少し落ち込んでいた顔をぱ
っと綻ばせた。
﹁ランタンランタン、テスさんよ!﹂
指さしたその先には背筋の伸びた背中があった。後ろ姿だがあの
特徴的な兜はテスのものだろう。かっちりと鎧に身を包み、その中
で優雅に揺れる尻尾に妙な色気がある。ランタンがその尻尾に気を
取られていると、リリオンがランタンを引っ張るように走り出した。
﹁うわ、ちょっと、ま︱︱﹂
ランタンが驚きの声を上げると、それを不穏な気配として感じ取
ったのかテスが振り返った。立ち止まり、駆け寄るリリオンを軽く
手を上げて制した。
﹁こんにちは!﹂
﹁ああ、こんにちは、︱︱ランタンも。リリオン、廊下は走らない
ように﹂
﹁はい!﹂
良い返事だな、と引きずられたランタンが疲れた笑みを浮かべて
いると、そんなランタンにテスが兜の中で苦笑したのが判った。
﹁こんにちは、テスさん。先日はありがとうございました﹂
﹁ああ、あれから何かあったか?﹂
﹁いえ、特に変わったことは﹂
テスはランタンの言葉に、がちゃりと鎧を鳴らして肩を竦めた。
﹁︱︱ふむ、ランタンはこれから何か用事は?﹂
テスの視線が一瞬だけランタンの持つ用紙に向けられた。ランタ
ンは筒状に丸めていたそれを、さらに絞って細くした。
﹁ありませんが﹂
﹁そうか、ふふ、︱︱あれから私も色々調べてな﹂
その言葉にランタンが頭を下げようとしたがテスはそれをさせな
461
かった。ちょうど撫でやすい位置にあるのかランタンの頭に手を置
いて言葉を続けた。
﹁情報の共有をしたいところだが、まだ仕事中なんだ。少し時間が
空いてしまうが、六時には仕事が終わるから、どこかで話さないか
?﹂
願ってもない話だった。テスは共有と言ってくれてはいるが、そ
れが完全に一方的なテスからの情報提供でしかないことは明白だっ
た。
是非お願いします、と頭に手を置かれたままのランタンがテスの
顔を見上げていると、そんなランタンの代わりをするかのようにリ
リオンが、ありがとうございます、と頭を下げた。
リリオンの頭をテスが一つ撫でた。テスはそんなリリオンを、で
はなく何故だかランタンに微笑むような視線を向けた。ランタンは
ラウンジ
取り敢えず曖昧な笑みを口元に浮かべた。
﹁この先の社交室なら混み合った話をするのにもちょうど良いし、
そこで待っていてもらっても良いかな﹂
﹁︱︱わたしたちも今からそこに行くんですよ。わぁすごい偶然で
すね。ね、ランタン﹂
喜ぶリリオンを横目にランタンは小さくテスに目を伏せた。
﹁そうだね。でも、ほら、お仕事の邪魔したらダメだよ﹂
そしてじゃれつくようにするリリオンを宥める。
畏怖されるべき存在である職務中の武装職員にあまり馴れ馴れし
くするもの良くないだろう。恐怖や威圧感は武装職員の仕事道具な
のだから。
﹁それじゃあ、また後でな﹂
﹁さようならテスさん﹂
﹁はい、ではまた後で。︱︱あ、そうだ﹂
別れの挨拶をして、そしてランタンは思い出したかのように声を
上げた。踵を返そうとするテスが立ち止まって、ランタンを見つめ
た。
462
ランタンはその灰青の瞳に問いかける。
﹁︱︱甘いものはお好きですか?﹂
463
033
033
﹁そんなに見られると食べづらいんだが⋮⋮﹂
パウンドケーキを片手にテスがリリオンの視線にたじろいている。
リリオンはそう言われてはっと恥じるように視線を下ろし、それ
でもやはり気になるのか上目遣いでちらりとテスを盗み見ている。
それはその手に持ったケーキをねだっているようにも見えるが、た
だ早くテスに食べてもらいたがっているだけである。
微笑ましさと、鬱陶しさが半分半分と言ったところだが、テスは
寛容に口元を緩めた。
テスは甘いものを積極的に好むと言うわけではないようだったが、
まさかお礼として骨付き肉でも渡すのもあまりに失礼な話なので結
局ケーキを買ってしまった。司書に渡した物とは違い味見が出来て
ないので、好みに合うか少し不安である。お礼やお返しと言えば甘
い物しか思い浮かばない自らの選択肢の少なさをランタンは恥じて
いた。
ランタンも内心テスの反応が気になりながらもそれを面に出さず、
そんなリリオンを見て苦笑する。テスも釣られたように笑いその鋭
い口を開いた。
﹁む、美味い﹂
リリオンに見つめられながらテスがケーキを囓り、思わず呟いて
しまったと言うようにそう漏らした。リリオンは嬉しそうに胸の前
で手を叩いた。
﹁それ、リリオンが選んだんですよ﹂
﹁はいっ!﹂
﹁へぇ、そうか。ありがとう。うん、おいしいよ﹂
464
テスはそう言ってリリオンを褒めると、残ったケーキをテーブル
の真ん中に差し出した。
﹁二人もお食べ。私ばかりでは、どうにも落ち着かん﹂
リリオンはその言葉にぱっと表情を輝かせて、けれどケーキには
手を伸ばさずにランタンの顔を窺った。食べたいと言う欲求と、渡
した物を貰っても良いのかと言う遠慮がせめぎ合ってなかなか面白
い顔になっている。
﹁では遠慮なくいただきます﹂
﹁わたしもっ、いただきます﹂
ランタンがケーキに手を伸ばすと、リリオンもそれに続いた。
一口囓る。生地は濡れたようにしっとりとしていて、芳醇なブラ
ンデーの香りが鼻に抜ける。生地に練り込まれた乾燥イチジクはそ
れほど甘くないけれど優しい酸味がしてなんだか大人の味という感
じだった。ちょっと酔っ払いそうだな、とランタンは酒気の香る吐
息を漏らした。濃いめに入れた紅茶が欲しい。
そんなランタンの横で、リリオンははぐはぐと一切れをあっとい
う間に食べてしまった。
ナイフ
テスは二人を横目に微笑みながらも、ケーキよりもそれを切り分
けた狩猟刀を興味深げに弄っていた。
﹁いいナイフだな、ケーキを切るのはちょっともったいないぐらい
の﹂
切り分けたケーキの断面は滑らかで少しも生地の潰れたところが
ない。グランが指を切ったら骨まで引いてしまうと言ったように、
マスター
ケーキを通り過ぎて机を両断しそうなほどの切れ味だった。
﹁うお、グラン工房の親方の作か。さすがはランタン⋮⋮﹂
鍔元に刻まれた刻印を見てテスが驚いたように声を上げた。グラ
ン工房の名声についてランタンはよく知らなかったが、だがその製
品の質の良さならば身に染みている。なかなか老舗のようであるし
名が知られていても不思議なことではない。
﹁次に剣を新調するときは、グラン工房に頼もうかな﹂
465
テスはそんな風に言ったが彼女の持つ二振りの剣も相当な品であ
らでん
ると思われた。鞘に収められていてその剣の輝きを見ることは叶わ
ないが、螺鈿細工の施された細身の黒鞘は、それに納められた剣が
なまくらであるはずがない、と確信を抱かせるような気品があった。
﹁その時はご紹介しますよ﹂
﹁ああ、ぜひ頼むよ。くふふ、斬るべき奴が多くてな。剣は幾つあ
っても足らんのだ﹂
テスは肩を竦めて笑うと、手の中でくるりと狩猟刀を回転させラ
ンタンに柄を差し出した。
ランタンは深く頷きながら狩猟刀を受け取り、それを腰の鞘に戻
した。
テスがテーブルを指先で叩いた。かちんと中指の爪が硬質な音を
立てる。その音にリリオンがびくりと反応したのを見て、テスはテ
ーブルを叩いた指を押さえつけるように腕を組んだ。リリオンはど
うやら残っているケーキに気を取られていたようだ。
﹁まったく、ほら僕の食べて良いよ﹂
﹁わぁありがとう﹂
ランタンが摘まんでいたケーキを差し出すと、リリオンはまるで
魚のようにぱくりと食いついた。指の先っぽを食べられたランタン
がじろりとリリオンを睨むと、リリオンは口内の指先を舌先でちろ
りと擽って、ちゅと音を立てて引き抜いた。
﹁あんまり下品なことをするんじゃないよ﹂
﹁お塩の味がする﹂
ランタンが涎の付いた指を向けて注意すると、リリオンは頷いた
マント
もののその視線は涎でてかる指先に向けられていた。反省しちゃい
ない、とランタンが目を細めると、それでようやくリリオンは外套
の端を掴んでランタンの指を拭いた。
﹁なるほどランタンは塩味か。私も一口囓って良いか?﹂
﹁︱︱ちょっとだけですよ﹂
﹁テスさんだめっ﹂
466
ぎらりと牙を剥いて冗談を言ったテスにランタンが乗っかって軽
口を叩くと、リリオンは慌ててそれを阻止した。腕を引いて、ラン
タンを自らの胸の中に抱え込んだ。ブランデーの匂いがするのは、
おそらくケーキくずが胸元に零れているからだろう。
﹁あっはっは、それは残念だ。ランタンを囓ることはまた今度にし
よう﹂
﹁ええ、次に会う日には胡椒をご用意しておきます﹂
ランタンはリリオンの胸の中から抜け出して、ランタンの食べか
けの、さらにリリオンの食べかけとなった一欠片のケーキを口に放
り込んだ。
﹁さてと、では少し真面目な話をしようか﹂
ランタンがケーキを飲み込んだのを見計らって、テスがテーブル
の上で指を組んだ。少しだけ空気がぴりりと引き締まって、リリオ
ンがもぞもぞと座り直し、拳一つ程度だがランタンの側に寄った。
ランタンが落ち着かせるようにリリオンの太ももに手を置いてやる
と、リリオンはすぐに手を重ねた。指の先が少し冷たくなっている。
﹁君らを襲った奴らについてだ﹂
テスは至極簡単にそう言った。まるで夕飯の献立でも告げるよう
や
に。ランタンは驚いて目を見開き、リリオンに至ってはきょとんと
している。
﹁え、じゃあ、え? 今から殺りに行きますか?﹂
﹁くふふ、それはなかなか魅力的な提案だが、まぁ聞け。探索者た
る者、事前情報はちゃんと得ておくべきだ。そうだろう?﹂
驚いたランタンがまるで破落戸の下っ端のような物騒なことを呟
いたが、テスは笑いながらそれを諫める。ランタンは驚きの余韻と
恥ずかしさでコクコクと頷いた。
テスは一枚の手配書をランタンに差し出した。
そこに描かれているのは牛人族の男だ。
顎の四角いごつい赤ら顔に、黒く横広の牛鼻が付いている。赤褐
色の短い髪に覆われた頭には黒い角が二本迫り出していた。四十が
467
らみの老けた顔をしているが、手配書に書かれた年齢を見れば三十
一歳となっていた。名前はなんと読むのだろうか。ランタンがほん
の少しだけ小首を傾げると、横から手配書を覗き込んでいたリリオ
ンがそれを読み上げた。
﹁フィデル・カルレオ?﹂
﹁おしい、カルレロだ。フィデル・カルレロ。元乙種探索者﹂
乙種と言うことはランタンと同格である。ランタンはふむと一つ
鼻息を鳴らした。
フィデル・カルレロと言う男は手配書で見る限りではいかにも武
闘派と言った感じの男だった。
身長は角を含めずとも二メートルを超えて、体重もそれに見合っ
た一二〇キロ。全身図には巨大な筋肉の鎧を纏った巨躯の姿が描か
れている。太股の半ば辺りから毛深く、その足は蹄になっていた。
罪状の欄はただ一つ、殺人、と書かれていた。
﹁貫衣でも、弓男でもないですよね﹂
貫衣は相対したときランタンよりも少し背が高い程度だった。背
の低い人間が高く見せることは可能だが、背の高い人間が低く偽装
することは難しい。特にこのカルレロは縦にも横にも大きいので外
科的に肉を削ぎ骨を詰めなければあの貫衣の姿には成ることは不可
能だ。それとも超高額の魔道具でも使ったか。
弓男はその一切が不明だが、人相書きの中ですら武闘派然とした
リーダー
男があの小胆な弓男とであるとは思えなかった。
﹁うむ、違う。まぁ順を追っていこう﹂
カルレロは探索者であった頃、探索班の主宰者を務めていた。指
揮自体は別の人間に託し、自らは先陣を切って魔物に突っ込んでい
パーティメンバー
く見たままの印象そのものの探索者だったらしい。勇猛果敢なその
姿は中々の男振りだったようで、探索仲間には慕われていたそうだ。
カルレロは手配が掛けられて裏社会へ追いやられてもその持ち前
の剛毅さと、探索で培った腕っ節を以て破落戸共をまとめ上げ、カ
ルレロ・ファミリーなるものを組織し、護衛業のような物をしのぎ
468
としていた。
﹁護衛ですか?﹂
﹁言わんとすることは判る。実態は傭兵のような物だからな。カル
なばか
レロ・ファミリーは構成員は五十名を超えて、確認が取れている限
り七名ほどが探索者。もっともそいつらは殆どが名許りだが、置物
にするにはそれで充分に効果があると言うことだろう﹂
破落戸が箔を付けるために探索者登録をすると言うことは珍しい
話ではない。ギルド証を嵌めたからと言って探索者の強さを得られ
るわけではないが、それは外見からでは判別できない。これ見よが
しに手首にギルド証が嵌まっていれば、それだけで抑止力となるの
だろう。高をくくって手を出してそれが本物の探索者だったら、と
言うのはランタンはうんざりするほど実証済みだ。
﹁えっと、弓男が、カルレロらを雇って僕らに差し向けた、と言う
ことですか?﹂
﹁残念ながらハズレだ。仕事はどうやら鞍替えしたらしい。いや事
業拡大かな﹂
ぶべつ
テスは言って、それはカルレロに向けられた物であろう、呆れと
ぜげん
侮蔑を含んだ大きな溜め息を吐き出した。
﹁薬物?﹂
﹁︱︱それと女衒だ﹂
それを聞いてランタンが眉間に皺を寄せると、リリオンがランタ
ンの肩を揺らした、
﹁わたしそれ覚えてるよ﹂
﹁︱︱それは偉いね、でも忘れても良いよ﹂
ランタンが褒めるとリリオンは喜んで、けれど次の言葉に首を傾
ガー
げる。さらさらと髪が頬を流れたので、ランタンは頬を撫でるよう
ドラッグディーラー
に髪を払ってやった。
﹁護衛業から薬物売人ですか。急転換ですね﹂
ド
﹁うむ、急転換過ぎてやり口が雑らしい。捌いている品もな。衛士
隊に友人がいるが愚痴っていた。ゴミをばらまく馬鹿が増えた、と﹂
469
薬物売買のノウハウがないせいかカルレロ・ファミリーの手口は
古典的な物らしい。
まず最初に安価で薬物をばらまいて中毒者を生み出し、抜け出せ
なくなってから値段を上げる。金が稼げるうちはカモとして、そし
ていよいよとなったら男は使い捨ての兵隊として、女は娼館へ、と
言う具合に全てを搾り取るのだという。
ランタンは少し俯いて眉間に皺を寄せた。
みすぼ
襲撃してきた薬物中毒者達は、絞り滓を体現したような痩せて汚
らわしく見窄らしい風体で、まさしく使い捨ての兵隊だった。
薬物中毒者など物の数ではないが、それらが今こうしている間に
も生み出され続けているのかと思うとうんざりする。ランタンは脳
や
内に蜘蛛の子のように無数に蠢く薬物中毒者を想像して、げっそり
と表情を歪めた。
﹁やっぱり今から殺りに行きましょう﹂
﹁ランタン⋮⋮私をそんなに誘惑するんじゃない。こう見えて欲望
には割と素直なタイプなんだ﹂
テスはちろりと唇を舐めて色っぽく目を細めた。
﹁それに本命はカルレロではない。狙うべきは弓男だ﹂
﹁ああ、やはりそれですか﹂
カルレロファミリーの仕事の転換はまるで脳みそが入れ替わった
かのような急激な物だ。ファミリー内で突然変異のような意識の転
換があったと考えるよりは、外部から別の意思が流れ込んできたと
考えるのが妥当だろう。
ショートソード
﹁弓男は現役の探索者だ。名はエイン・バラクロフ。乙種探索者、
使用武器は弓と小剣。二年ほど前から迷宮には降りていない。一年
半ほど前からギルドの施設の使用履歴もない。理由は不明、⋮⋮ん、
どうした?﹂
捜していた弓男の名が明かされたと言うのに、ランタンもリリオ
ンも二人揃って戸惑うような反応を見せた。なんとなくランタンは
リリオンを見ると、リリオンも同じようにして顔を見合わせて小首
470
を傾げた。
ヘーゼル
ランタンはリリオンの淡褐色の瞳に映る自分と目が合ったので、
どぎまぎと視線を逸らしてテスへと向けた。テスはニヤリと笑って
いる。
﹁え、それって、あの疑うようでごめんなさい、ええっと、確実な
情報なんですか?﹂
弓男についての情報は貫衣よりも少なく、はっきり言って本人へ
辿り着けるなどとは微塵も思っていなかった。それをこの短期間で
となると、驚きよりも疑いの方が強く表に出てしまう。
﹁ああ、確実だ。まず間違いはない。捜査法は秘密、︱︱と言って
も私が調べたんじゃないんだけどな﹂
﹁どういう⋮⋮?﹂
﹁実は今日の私は伝書鳩なんだ、︱︱あいつ、司書からキミらへね﹂
司書さまの、とランタンは口の中で呟いた。司書は先ほど会った
時は全くそんな素振りも見せなかった。ランタンは驚きから疑いへ、
そしてまた疑いから驚きへと表情を変えた。リリオンが胸の前で祈
るように手を組んで、うっとりと呟いた。
﹁おねえさま、⋮⋮すごい!﹂
﹁︱︱お姉さま!? え、あれのことそう呼んでるのか?﹂
ランタンが驚いたのと同じ程にテスが目を見開いて声を上げた。
﹁嫌がっていましたけどね﹂
﹁へぇ、なるほど。それは良いことを聞いた。今度会ったらお姉さ
まって呼んでやろう、くふふふ﹂
﹁⋮⋮何か僕が怒られそうな気がするのでやめてください﹂
悪戯っぽく笑うテスにランタンが言ったが、テスはすでにそれを
言うことを楽しみとしていて、司書におねえさまと呼びかけること
を予定に組み込んだようだった。司書にはまた礼を言わねばならな
いが、少し気が重たい、とランタンは諦めの溜め息を吐いた。
﹁しかし、お姉さまか。リリオン、私のこともそうだな。お姉ちゃ
んって呼んでも良いぞ﹂
471
﹁︱︱わぁ、えへへ。お姉ちゃんが二人も!﹂
ランタンは何を戯れ言をとテスを見つめたが、当のリリオンは嬉
しそうに頬を染めてはにかんだ。そしてちょっと遠慮するように、
テスお姉ちゃん、とテスを呼んだ。
﹁リリオンは素直で可愛いな。ちょっと持って帰っても良いか?﹂
﹁ダメです﹂
﹁⋮⋮弟も昔は可愛かったんだけどなぁ、私の後ろをちょこまかく
っついてきて﹂
テスはリリオンに呼ばれて感慨深げに頬を緩め、それから昔を懐
かしむようにぽつりと呟いた。
﹁弟さんいらっしゃるんですか?﹂
﹁ああ、探索者やってる弟がいる。もうずいぶんと生意気になった
奴がね。今度機会があったら紹介するよ﹂
ランタンはぎこちなく頷いた。テスの弟と会ったら、リリオンは
彼のことをお兄ちゃんと呼ぶのだろうか。それを想像したら少しも
やっとした気分になって、ランタンはその感情を持て余して表情を
歪めた。
﹁僕のことお兄ちゃんって呼んでも良いよ﹂
﹁もう、なあにランタン。そう呼んで欲しいの?﹂
リリオンはランタンの目をまっすぐと見つめて問いかけた。
﹁いや、別に。呼ばなくて良いです﹂
ランタンは思わず目を逸らしてそう返した。それは偽らざる本心
で、お兄ちゃんと呼ばれることには欠片ほどの未練も無かった。た
だ何か妙な罪悪感のような物があって、まともにリリオンの顔を見
ることが出来なかった。
﹁呼ばないよ。ランタンは、ランタンなの。ね、ランタン﹂
ちょっと拗ねたような顔になったランタンの頬をリリオンが面白
がるように突いた。そんな二人のやりとりを見たテスが笑いを噛み
きょうだい
殺し、砕けた笑い声が口元からわずかに零れた。
﹁くくく、兄妹になったら、ま、色んな問題があるからな。︱︱き
472
っとね﹂
意味深に呟いたテスにランタンが尋ねるような視線を向けたが、
テスはただ笑うだけで答えなかった。
けいがん
﹁でだ、可愛いリリオンが狙われた理由は残念ながら不明だ。お姉
さまの、くふふ、慧眼に掛かってもな﹂
﹁⋮⋮それはリリオンが可愛いからじゃないですか?﹂
﹁うむ、その可能性は大いにあるな﹂
ランタンが至極真面目そうに言うとテスも同じようにして頷いた。
リリオンは急に大人しくなって照れてもじもじとしている。ランタ
ンは先ほど頬を突かれたお返しとばかりに、リリオンの脇腹をちょ
こんと突いた。
﹁ま、カルレロとバラクロフが繋がっているのは確実だ。バラクロ
フが糸を引いている、と言うのは予想でしかないが﹂
﹁では弓男を潰せばお終いですか?﹂
バラクロフが言い辛そうだったので、ランタンは相変わらずそれ
を弓男と呼んだ。テスは頷く。
﹁さらに黒幕がいなければ、ね。だがバラクロフは手配はされてい
ないんだ。それ自体の犯罪行為も確認が取れていない。貫衣の情報
もないしな。カルレロ・ファミリーの誰か、それとも別の助っ人か﹂
元探索者の伝でもあるのかカルレロ・ファミリーの顧客には探索
者も居るらしい。
﹁それは、面倒ですね﹂
探索者同士の私闘はギルド規定により禁止されていたはずだ。そ
バラクロフ
れが殆ど形骸化しているとはいえ職員であるテスが、ランタンと共
に手配されていない探索者を殺害すると言うのはさすがに問題があ
る。そもそもギルド職員が特定の探索者を贔屓することも本来はあ
まり褒められたものではない、と言うのをランタンは今更ながら思
い出した。
﹁そんな顔をするんじゃないよ、これは私が好きでやっていること
だ。服務規程に趣味を制限するような文言はないしな﹂
473
それに、とテスは獰猛に笑みを作る。
﹁現行犯の場合、私は私の裁量で自由に動けるんだ。これでも結構
偉いんだよ、私﹂
﹁テスさんすごい!﹂
﹁くふふ、そうだろう。︱︱お姉ちゃん、とは呼んでくれないのか
い?﹂
両手を叩いたリリオンにテスが誇らしげに笑い、誘惑するように
そっとリリオンに囁きかけた。リリオンはただ照れたように微笑み、
ちらりとランタンを窺った。
﹁⋮⋮﹂
﹁呼ばないからね﹂
﹁何にも言ってないよ﹂
まるで釘を刺すようにリリオンが言うので、ランタンは憮然とし
ながら冷たく返した。
﹁さてランタン﹂
﹁はい﹂
﹁そんなすごい私に、その隠している物があるだろう? 見せてご
らん、ソファの脇に置いてあるそれを﹂
凄味のある表情のままテスが指先で二度テーブルを叩いた。ラン
タンはぎくりとして、けれど観念したようにその用紙をテーブルの
上に差し出した。それはまるで世話焼きの姉に赤点のテストを見せ
る弟のように。
テスはその用紙、迷宮情報の記載されたそれを引き寄せて目を通
した。
探索者が探索をすることは当然のことだ。だがテスと司書が骨を
折ってくれている間に、心の赴くままに探索の用意をすることはや
はり少しばつが悪い。ランタンは用紙に目を通しているテスに言い
訳をするように口を開いた。
﹁⋮⋮実は、それで弓男を誘い出せるかと思いまして﹂
前回の襲撃は探索後の疲労状態を狙われた。それならば探索を行
474
えば、また再び襲撃があるのではないかとそう考えたのだ。今。
﹁私は自分の安全を最優先するように、と言ったはずなんだがな﹂
﹁いずれ襲撃はまたあるでしょう。それならば後手に回るよりは自
ごの
分から仕掛けた方が気が楽です。︱︱あまり後手に回るのは好きで
はないですし﹂
﹁やられる前にやる。私好みだよ。ランタンとは気があっていかん
な﹂
テスは用紙を脇にやって片肘を突いて拳に頬を乗せた。どうぞ、
と促すようにランタンの申し開きを聞いている。ランタンは適当に
言い訳をでっち上げそれを吐き出しながら、急速に唇が乾いてゆく
のを感じた。嘘を吐いているわけではないが、状況としては似たも
ので、しかもそれはおそらく全てばれているという有様だ。
上唇の右端がぱきりと音を立てて割れた。ランタンは滲んだ血を
ちろりと舐める。
﹁︱︱それに探索者は、迷宮に降りてこそですし﹂
﹁ふむ、確かにそうだな。探索者に迷宮に行くなと言う方が野暮か、
だが︱︱この中難易度迷宮はさすがにどうかな﹂
﹁あ、それはリリオンが選んだ奴です﹂
﹁しー、ランタン。言っちゃダメよ﹂
リリオンが目を付けた中難易度迷宮の用紙をテスはひらりと揺ら
した。それについてはランタンが既にリリオンに苦言を呈している。
中難易度迷宮は攻略可能だが時と場合を選べ、と自分のことをすっ
かり棚に上げて。
リリオンはテスからさらに説教されるのではないかと怯えて、抱
きつくようにランタンの口を塞いだ。
﹁くふふ、その様子じゃ随分と叱られたみたいだな﹂
ランタンの口を塞いだままリリオンはこくりと頷く。叱ったのは
随分とではなく、少し、だったがリリオンはしっかりと反省してい
た。
ランタンはいい加減苦しくなってリリオンの抱擁から抜け出した。
475
とうとう
今度は生命活動に酸素が必要であることを滔々と教えてやらなけれ
ばならない。
﹁しかし、そうか。迷宮なら、いい物件があるぞ﹂
﹁ふぅ、探索していいんですか?﹂
﹁それが探索者なんだろ? それを私に止める権利はないよ。ただ、
その後の戦闘に参加する権利は貰いたいがね﹂
ここまで来たら遠慮する方が失礼だろう。ランタンは、ぜひよろ
しくお願いします、と頭を下げた。
﹁それで、その迷宮って﹂
﹁ああ、某探索班が探索に失敗してな。探索権が返された﹂
返された、と言うことは自主返納であり、つまり探索に失敗して
サベージャー
も未帰還にはならなかったと言うことだ。探索者が全員未帰還の場
合には引き上げ屋からギルドに報告が行き、そののち探索権が強制
フラグ
返納となる。探索権の返納された探索途中の迷宮は、大地図に再掲
載される。
﹁最下層まで探索済み、最終目標も確認済みだ﹂
フラグ
探索権が自主返納されて再掲載された迷宮はある程度魔物が排除
してあり、迷宮の地図もある。こうやって最終目標の情報まである
ことは稀ではあるが、けれど迷宮の情報が充実していることは探索
者にとっては非常にありがたいことである。
ストームベア
﹁最下層から撤退ですか、それはそれですごいですね﹂
それは最終目標、あの嵐熊に尻を向けると言うことに他ならない。
ランタンにはなかなか恐ろしくてそんなことは出来ない。
﹁ああ、全員帰還だよ。六名中死亡二、重傷一だがね﹂
﹁それは、立派ですね﹂
ランタンは一瞬言葉に詰まって、吐き出すように呟いた。
死亡した探索者を荷物になる、とそのまま迷宮に置いていくのは
珍しい話ではない。場合によってはそうしなければ残った探索者を
危険にさらすことになる可能性もあるからだ。
だがやはり苦楽をともにした戦友を、たとえ骸となっていたとし
476
ても連れて帰りたいと思うのは人として当然のことで、その決断は
どちらを取ったとしても間違いではないとランタンは思う。
ランタンは今までその決断とは無縁だった。だが今はそれが無関
係ではないのだと再認識させられて、思わずリリオンの手を握って
しまった。リリオンがまるで安心させるかのように手を握り返して
くれる。
﹁でも、そんな迷宮ならもう借りられているんじゃないんですか?﹂
再掲載された迷宮は、縁起が悪いと見向きもしない探索者もいる
が、大抵はすぐに予約が入るほど探索者には好まれる。それは前述
のように迷宮に対する情報が充実していると言うこともあるし、そ
の失敗した探索者よりも実力が上だと喧伝するためだとか、または
それを亡くなった探索者への弔いだという考えもある。
﹁まだ再掲載されてないからな﹂
﹁⋮⋮それって教えちゃダメなやつですよね﹂
﹁事情が事情だからな、これぐらいは平気だろう﹂
二人が黙っていればな、とテスは肩を竦めた。
﹁それでやるのか、やらないのか。どうする?﹂
ランタンはリリオンに視線を向けた。リリオンはランタンに任せ
る、とでも言うように深く頷いた。ランタンは少し呻きながら、ソ
ファの背もたれに背中を預けて伸びをするように天井を見つめた。
天井に点在する埋め込まれた魔道光源に目を細めて、太く息を吐い
た。
﹁やります、その迷宮を教えてください﹂
﹁くふふ、ああ、その迷宮はな︱︱﹂
477
034 迷宮
034
未踏破の迷宮に潜り、最初に行うことはその迷宮について自らの
評価を下すことだ。なにも知らない新人と極々一部の幸運な探索者
を除く、ほぼ全ての探索者はギルドの評価を毛ほども信用していな
い。
なので探索者の初回探索はいっそ臆病なほどに周囲を警戒し、充
分な余裕を持ってそれを行い、少しでも危険があればそれを打開す
るよりは、それがなんであるかを確認して地上へと戻る。
生きて帰る。初回探索に限らずではあるが、引き上げ料等々の採
算が取れずとも、無理をせず無事に帰る。それが最も重要な事なの
である。
初回探索はとても疲れる。だがそれは精神的な疲労であって、肉
体的な物ではない。
それは探索者である弓男も承知していることだろう。
初回探索から戻った程度の疲労状態では、襲撃を誘い出す餌にす
るには少しばかり弱い。
なのでテスの手助けは、規則破りに多少の罪悪感はあるものの、
ありがたい話だった。ランタンが再掲載迷宮に潜るぞ、と言うよう
な噂も撒き餌のようにギルド内に流してもらった。
再掲載された迷宮は、帰還者が持ち帰った詳細な情報が付加され
ている。帰還者自らが語る生々しい証言とギルド証から読み取った
フラグ
様々な情報は、己の目で見た物よりも客観性があり正確な情報であ
る。特にこの迷宮は最下層にまで踏み込まれている。最終目標の情
報が事前に得られることなど稀どころの話ではない。
丙種探索者六名から成る探索班を死者二名、重傷者一名を出し撤
478
退に追い込んだ迷宮は迷宮特区の〇二六番地にある。
若草色の苔がビッシリと迷宮内を覆い、むわりとした湿気の籠も
る迷宮である。苔を踏むとなんだかふかふかして少し不安定だ。爪
先で蹴り飛ばすように掘ると苔の下に黒い土の地面が露出する。
低難易度昆虫系小迷宮。それがこの迷宮に当初与えられた評価で
リポップ
あり、再掲載されても変わらない評価であった。
道中の魔物は既に殲滅されていて再出現もしてはいない。出現を
確認された魔物の危険度はそれほど高いものではない。丙種という
最低等級の探索者であっても、気をつけていれば充分に余裕を以て
相手を出来る程度の魔物ばかりだ。
迷宮口直下、出発点から最下層までの距離もそれほどではない。
ふかふかした苔の足元は歩くのに少しだけ気を遣ったが、魔物とも
戦わずひたすら歩きっぱなしで三時間と少しで最下層直前の魔精の
霧まで到達できる。だいたい二〇キロ程度の道のりだろう。
最下層直前の魔精の白い霧の前でランタンとリリオンは腰を下ろ
・ ・ ・
して休憩していた。
あたりの迷宮だな、とランタンは首を回した。首を右に倒すと骨
が鳴った。戦槌の重みで少し骨格が歪んでいるのかもしれない。ラ
ンタンは座ったまま肩甲骨を寄せるように肩を回した。
魔物も弱く、道中に険しさがない。その距離も短く、おそらく失
敗した探索者は気が緩んだのだろう。まるっきり舐めてかかったわ
けではなく、ただほんの少しだけ、気づかないほどの慢心が残念な
結果に繋がった。
骸を持ち帰ろうとも、失った命は還らない。
ランタンは気合いを入るように自らの頬を叩いて、よし、と一言
吐き出した。
リリオンは腹ばいに寝転んでやたら真剣に魔精鏡を覗き込んでい
た。魔精鏡に何が映っているのかは知らないが、それを覗きながら
時折身体を震わせたりしている。それはまるで最終目標から姿を隠
しているようで、ランタンの声にビクリと肩を竦め、それをゆっく
479
りと下ろしながら振り返った。
﹁どうだった?﹂
﹁⋮⋮んー、うぞうぞしてた﹂
﹁それは、⋮⋮なんとも気味が悪いね﹂
ランタンは立ち上がり、大きく伸びをした。
リリオンから魔精鏡を奪い、それを覗き込んで最終目標を確認す
ると、手を差し伸べてリリオンを起き上がらせてやった。リリオン
の腹には薄ぼんやりと光る苔の胞子が付着している。ランタンがそ
れを払ってやると、リリオンは真似をするようにランタンの尻を払
った。
﹁︱︱揉むんじゃないよ﹂
﹁えへへ﹂
ぺちんとリリオンの手を叩くと、リリオンはその手をぷらぷらと
揺らした。
﹁リリオン用意はいいかい?﹂
﹁うん﹂
﹁前もって教えた情報が全てじゃないから、まずは様子見ね﹂
﹁だいじょうぶよ﹂
そう言ってリリオンは目を瞑って口に気付け薬を含み、舌先で丸
薬を奥歯の隅に押しやっている。嫌いな野菜を皿の端に寄せるよう
に。
大丈夫な表情ではないなと笑いながら、ランタンもまたそれを口
に含んだ。戦槌を抜き、くるりとそれを手の中で回す。
リリオンも方盾から大剣を抜き、一度大きく振り下ろした。剣風
が苔の胞子を乱暴に撫でて、光が蝋燭の炎のように揺らめいた。
﹁さあ行こう﹂
ランタンはリリオンの肩を優しく叩いて霧へと足を進めた。
最終目標の情報は判っているから多少気は楽であり、そして同時
に重くもある。ランタンは腹の中にある軽視と重圧を吐き出すよう
に、短く息を吐いた。
480
こけむ
霧を抜けたその先も、隙間なく苔生した緑も鮮やかな広間だった。
そして美しい緑の中央にそれが居る。ランタンは口をへの字に曲げ
た。
濡れたような暗赤色。液体が詰まったようなぶよぶよと柔らかそ
うな円筒形の巨躯。歯の隙間から息を吐いたような耳障りな擦過音
ブラッドキャタピラー
はもしかしたら威嚇しているのかもしれない。
いぼあし
それは血色芋虫と呼称される魔物だ。ランタンは鎌首を持ち上げ
たそれの姿に、疣足の生えた薄いピンク色の腹部を目の当たりにし
てひっそりと苦い顔を作った。
なんとも生理的嫌悪感のある造形をしている。掌サイズのそれで
もあまり好ましくないのに、この芋虫ときたら体高は一メートル程
であり、体長で言えば五メートルは下らない。大きくなるとその気
持ちの悪さは比例的に増大してゆく。ソーセージが食べられなくな
りそうだ。丸ごとのボンレスハムも。
ランタンは強敵と対峙する時とはまた別の寒気を覚えていた。ギ
ルドの情報で赤くぶよぶよで巨大だとは聞いていたが、聞くと見る
とでは別である。
ランタンの嫌悪から来る怖気に感づいたのか芋虫はランタンへと
顔を向けた。
芋虫の頭部、その中央には巨大な血豆のような出っ張りがあり、
柔らかそうな身体の中でそこだけは目に見えて硬質化している。ギ
ルドから得た情報ではそれは嘴であるらしい。放射状に六つに裂け
るように開閉し、内側に牙はないものの、それ自体が刃物のように
鋭く肉を抉り取るのだという。
情報ではそのすぐ上に六つの瞳があるらしいが、皮膚と同色なの
だろう、ランタンには確認できない。
﹁ランタンっ!﹂
﹁はいよ﹂
芋虫が頭部を突き出すように身体を倒しランタンへと一直線に駆
ける。
481
ぜんどう
十二の節が連なるような胴体を蠕動させて、そして疣足をわさわ
さと動かして苔の上を滑るように突っ込んくる。だが速度はそれほ
どではない。
ランタンは大きく距離を取りたい衝動に襲われながらも芋虫の突
はさみ
進を軽く横に避ける。ランタンの影を芋虫が咬んで、嘴がじゃきん
と鋏のような音を立てる。骨ごと抉り食われそうだ。
ランタンは胴体に戦槌を叩きつけた。
﹁うぇ﹂
奇妙な手応えだ。強いて言えばゴム製の水袋を叩いた感触だろう
か。ランタンは小さく舌打ちを吐いた。
芋虫の胴体が波打ち波紋が広がった。皮膚の下には半液体状の肉
があり、それが打撃の衝撃を吸収して散らしている。芋虫はランタ
ンの戦槌を意に介した様子もなく、くの字に折れ曲がるようにして
胴の後端でランタンを薙いだ。鈍重そうな見た目に反して反応もい
い。この反撃の半分ほども痛みへの反応も良ければいいのだが芋虫
の表情を変えることも悲鳴を上げることもない。
ランタンは後ろに跳んでそれを躱す。芋虫の打撃への耐性は二重
丸だ。これも情報通り。ランタンは一瞬だけ視線を横に投げた。リ
リオンが反対側から駆け寄ってくる。芋虫がうねり、身を縮めた。
﹁たぁっ!﹂
踏み込みは充分。振り下ろされた剣の鋒が芋虫の肌を舐めた。斬
れたが浅い、とランタンは冷静にそれを観察していた。それは間合
いの所為ではなく、皮膚が直撃の瞬間に縮んで厚みを増したのだ。
内側まで届いていない。斬撃耐性も充分、と。
確認は出来ないがやはり報告の通り六つの瞳も健在のようだ。驚
くほど視野が広い。
﹁どうよ?﹂
﹁ふさがっちゃったわ﹂
そして浅い傷は染み出した体液によって修復される。大剣の鋒は
身体の色とは違い、やはり青い血が付着している。となると傷跡は
482
色が混ざって紫色になるのだろうか、ギルドの情報にそれは記載さ
れていなかった。ランタンは自分の目で確かめるか、と戦槌を握り
直した。
突進と噛み付き、そして胴での薙ぎ払い。シンプルな造りの身体
をしているので近接攻撃の手段は他にないだろう。死者二名を出し
た攻撃は、むしろ距離を取ってからの。
﹁きたっ!﹂
芋虫が糸を吐いた。口からではなく、嘴を取り囲むようにある四
から十二ほどと推測される射出口からだ。
白い糸がまるで空を切るような鋭さで向かってくる。死亡した探
索者の一人はこの糸に絡め取られたらしい。ランタンもリリオンも
事前に知識があるので避けるのは容易だが、予測していなければ少
し危険な速度だ。予覚動作も見当たらない。左右に分かれるように
距離を取った。
吐き出された糸は強い粘着力があり、また恐ろしく弾性が高いら
しい。死亡した探索者はこの糸に絡め取られ、芋虫の嘴まで一気に
引き寄せられ胴に穴が開いた。粘り気のある糸は生半可な斬撃では
その剣が絡まってしまう。リリオンの居た場所へ糸がべたりと張り
付いた。
リリオンが盾を地面に突き立てるように構える。
芋虫が、跳んだ。
きりきりと引っ張られた糸が緩むと、高速で引き戻される糸によ
って自らの巨躯をスリングショットの如く発射したのだ。突進の速
度は先ほどの地を這う突進とは比べものにならない。芋虫は自らの
身体を限界まで縮めて、ほぼ球形の塊となってリリオンへと突進し
た。
激突。苔の胞子が吹き飛び辺りに煌めいた。
﹁ぐっ!﹂
リリオンが押し負けた。突き刺した盾と両足が苔を削り取りなが
らリリオンが大きく吹き飛ばされて後退する。芋虫はすでに糸を切
483
り離して追撃するべくその顔をリリオンに向けている。
﹁っ!﹂
芋虫が鬱陶しげに胴を振るわせる。ランタンはそれを飛び越えて、
鎌首を持ち上げた芋虫の懐に入り込んだ。色の薄い腹部は多少防御
よじ
力が落ちる。鋭く息を吐いて逆袈裟に振り上げた戦槌が陽炎を纏っ
た。芋虫が身体を捩る。爆発。
﹁ちっ﹂
芋虫は打撃を腹ではなく背で受け止めた。打撃の衝撃はほぼ無効、
だが爆発の熱は殺せなかったようだ。芋虫が痛みに暴れると、焦げ
た皮膚がひび割れてぼろぼろと零れた。追撃は出来ない。芋虫がそ
の場で大きく回転して、血が噴き出すのも厭わず辺りを薙いだ。
細長く、胴が伸びる。ランタンは跳んで躱す。
﹁きゃあ!﹂
体長がほぼ倍、瞬間的にだが十メートルほどに伸びた。胴の後端
がリリオンを打って、少女を吹き飛ばした。防御は間に合っている
が、踏ん張ることが出来なかったようだ。ランタンは思わずそちら
に目を向ける。
リリオンは苔の上をぐるりと転がって受け身を取ると立ち上がっ
た。ダメージらしいダメージはない。だが目が回ったのか芋虫を見
失っている。気付け薬を噛んでいない。それに気が回らないのか、
ただあの味が嫌なだけか。たぶん後者だ。
ランタンは芋虫とリリオンの間に立ちはだかった。
糸が吐き出される。ランタンはそれを掬い上げるように戦槌に絡
めた。糸は濡れたように白く、引っ張ると響くように震えた。高強
度、高弾性。力任せに引き千切ることは難しそうで、引き寄せる力
も強く苔の足場も相まって厄介だ。ランタンは戦槌を爆発させた。
﹁⋮⋮熱には弱い、と﹂
白い糸は一瞬で灰となってはらはらと零れた。
灰が巻き上がる。復活したリリオンがランタンの脇を駆け抜けて
いった。元気なことでなによりだ、とランタンは水面蹴りを放った。
484
リリオンに。
﹁ふぇあ?﹂
ランタンはすっ転んだリリオンを抱いて後ろに大きく跳んだ。
﹁なにするのよぅ⋮⋮?﹂
﹁落ち着け﹂
この探索の戦いの目的はいかにダメージを少なく、最終目標を撃
破するかにある。一発ぶちかまされて頭に血が上る気持ちはわから
ないではないが、無策で突っ込むことは許可できない。ランタンは
芋虫に目を向けながら、リリオンの背中をわしわしと撫でた。
リリオンは擽ったそうに身体を震わせて、素直に頷いた。
﹁うん﹂
青い血が、赤い身体を汚す。色が混ざって紫色にはならないのか、
と既に薄く皮膜の張った芋虫の傷口を見つめる。赤と青のコントラ
ストが気持ちの悪さを倍増させている。ダメージがゼロというわけ
や
ではないだろうが、なかなか厄介な防御力だ。
﹁もう一種類の糸も見てみたいな、殺るのはそれから﹂
﹁︱︱わかった﹂
﹁適当に距離を取って様子見。攻撃してもいいけど単発のみ。糸は
落ち着けば躱せるから、その後の突進だけ注意﹂
行くぞ、とランタンはリリオンの尻を引っ叩いて左右に挟み込む
ように駆けた。
芋虫の糸には二種類ある。粘性がありしなやかで、敵を絡め取る
ための捕縛糸ともう一つ。撤退する探索者を絶命させ、また重傷を
負わせた攻撃性の糸。
距離を取って芋虫を翻弄する。
芋虫はランタンとリリオンの二人を相手にして頭部を左右に揺ら
している。胴体を伸ばしての薙ぎ払いは攻撃範囲が広いが、きちん
と距離を取っていれば薙ぎ払いの直前に身体を丸める予覚動作が丸
見えだ。突進も旋回性が低く直線的なので、それほど脅威ではない。
失敗した探索者とランタンとの違いは事前情報と爆発能力、文字
485
通り火力の有無だ。
うろつ
きっさき
ランタンは芋虫の眼前をふらふらと彷徨いてその注意を引いてい
る。リリオンはそんなランタンの作り出した隙に遠い間合いから鋒
で芋虫を突いている。いい嫌がらせだ。
芋虫が糸を吐いた。粘着糸だ。ランタンはそれを躱す。着弾は遠
い。突進は、けれど攻撃ではなくリリオンから距離を取るためのも
のだ。遠目から芋虫が鋭く振り向いた。
﹁うわおっ﹂
白点が一つ、二つ、四つ。攻撃性の糸だ。
ランタンは数えるのをやめて、自らを射線に捉えた三つだけを見
つめた。
つらら
ランタンは半身になり二つを躱して、一つに戦槌を振るった。糸
と呼んでいいのだろうか、吐き出され硬質化したそれは氷柱のよう
だ。空気抵抗に成型されるように鋭く引き延ばされて、白い尾を引
いて向かってくる。先端が尖って、表面は岩肌のようで、歪な円錐
形をしている。戦槌で叩き落とすと石のように割れた。粘性はない。
背後でリリオンが盾によってそれを受け止めていた。破裂音は重
なっていたが、おそらく三つ。リリオンはびくともしない。地面に
刺さっている氷柱糸は避けた物を合わせて四つあった。氷柱糸は地
面に半ば程まで埋まっている。貫通力は中々のようだ。
吐き出された氷柱糸の数は全部で十、つまりそれが射出口の数だ。
撤退した探索者はこれをばらまかれて一人は肺腑を貫かれ死亡し、
もう一人は脇腹を内臓ごと抉られた。一人が重傷で済んだのは、こ
こから迷宮口までが近かったからだろう。
二射目の射出まで二秒弱。先ほどは振り向きざまに吐き出したの
で集弾性は悪かったが、十の氷柱糸が一纏めに向かってくるとなか
なか威圧感がある。叩き落とすには少しばかり分が悪い。ランタン
は斜めに踏み出してそれをやり過ごし、そのまま芋虫に向かった。
ギルドから得た情報はこれで全て確認が取れた。まだ隠し球がな
いとも限らないが、敵戦力の確認は終いだ。さっさとこの不快害虫
486
を駆除してしまおう。
ランタンが凶悪に笑みを浮かべた。焦茶色の瞳が橙色の光を灯し
た。
瞬間ランタンの身体が爆発によって押し出される。一瞬で芋虫に
肉薄したランタンは地を這うほどに身をかがめて、戦槌が地面を舐
めるようして振り上げられた。鶴嘴の鋭い先端が芋虫と地面の間に
滑り込んで、疣足の付け根に突き刺さった。肉が収縮して戦槌に絡
みつく。抜けないが好都合だ。
いなな
爆発。疣足の一つがびちゃりと引き千切れる。芋虫が声無き声で
嘶いた。ランタンをその身で抱き潰そうとするように身体を捩る。
マッチ
だがランタンは芋虫の巨躯を跨ぐように飛び越えた。その背中を戦
槌で擦る。まるで燐寸の火を付けるように。
赤い皮膚が火膨れを起こし、そして炭化した。青い血がじゅくり
と染み出した。ランタンは唇を舐めて、リリオンの傍らに着地した。
陽炎を纏う戦槌を冷ますようにそれをくるりと回転させる。
﹁リリオン、攻めるよ﹂
﹁うん!﹂
﹁僕があれを剥き身にするから、折を見て刻んでやれ。刺突は禁止﹂
﹁まかせて!﹂
リリオンは待ってましたとばかりに大剣を握り直した。いい返事
だ。ランタンは再び芋虫へと駆けた。芋虫は怒り狂っている。だが
戦槌の届く距離は、糸攻撃には近すぎる。捕縛糸で距離を取ろうと
しても、爆炎がそれを焼き払った。ランタンは縦横無尽に戦槌を振
るう。それはまるで燃えさかる炎の塊が、気まぐれに火の粉を吐き
出す様に似ていた。すれ違いざまに芋虫の皮膚を炭化させて、その
ゴム質の皮膚を剥がしていった。
﹁中々つぶらな瞳じゃないか﹂
ランタンが芋虫の薙ぎ払いを躱し、ぽつりと呟いた。
芋虫の顔を青い血が濡らすと、赤い皮膚に隠れていた紅い瞳が六
つ浮かび上がった。嘴の上に一対、頭部の側面に二対。ランタンの
487
姿を常に捕らえて、そして反撃を試みようとする。傷ついても反応
は変わらず良いが、それに芋虫の肉体は追いついていない。
ランタンと入れ替わるようにリリオンが突っ込む。無防備な側面
に剣を振るった。
ランタンが皮膚を剥ぎ、露わになった肉に鋒が突き刺さる。リリ
オンは力任せにぞるりと切り裂く。
﹁くぅっ﹂
振り抜くことが出来ず、途中で止まった。残った皮膚に引っかか
ったのだろう。芋虫が自ら身体を捻ってそれを引き抜き、その勢い
で振り回された胴薙ぎがリリオンを襲った。
びちゃり、と嫌な音が響いた。リリオンは盾でそれを受け止めた。
青い血がペンキをぶちまけたように盾に散った。リリオンが盾を振
り回し、張り付くようにそこにあった胴を振り払った。踏み込んで
切り落とし。ちょうど節の継ぎ目を裂いた。
今度は出来すぎだ。芋虫の肉体を抵抗なく裂いた鋒が地面に突き
刺さった。踏ん張ろうとしたリリオンは血に濡れた苔に足を取られ
ている。芋虫がリリオンに顔を向けた。
﹁どっらぁ!﹂
糸を吐き出す直前にランタンがその横っ面を、その嘴を引っぱた
いた。澄んだ金属音が響く。芋虫は点であらぬ方向に捕縛糸を吐き
・ ・
出した。体液を撒き散らしながら、その場から逃げ出した。ランタ
ブラッドキャタピラー
ンは追わずに、一つ息を吐いた。
血色芋虫はその不吉な名前とは裏腹に、今はもうまさに青虫と言
う様な有様だ。今や赤色よりも青色の方が身体の大部分を占めてい
る。
ランタンの付けた傷口から青い血が湧くように染み出て、リリオ
ンの斬撃により切り裂かれた傷口からは血よりももっと粘性のある
体液がどぼどぼと溢れ出していた。身体の修復が追いついていない。
青息吐息だ。
﹁さあて最後まで気を抜かずに行こうか﹂
488
﹁うん!﹂
リリオンが靴底を苔で拭い、大剣を払って付着した血を吹き飛ば
して気合いを入れた。
だというのに。芋虫は遠吠えをするように大きく上を向いたかと
思うと天井に向かって糸を吐き出した。まるで釣り上げられるよう
にシュルシュルと天井へ上り、そこにぺたりと張り付いた。
﹁⋮⋮芋虫だもんね﹂
﹁おりてこないね﹂
芋虫は休憩でもしているのか天井に張り付いたまま、もぞもぞと
蠕動するものの降りてくる気配も、氷柱糸で攻撃してくる気配もな
かさぶた
かった。天井までの高さは二〇メートルはあり、ちょっとばかり手
が届かない。
﹁どうするの?﹂
﹁どうしようか﹂
芋虫の傷口が少しずつ癒えている。芋虫が震えると瘡蓋のように
なった青い血がはらはらと剥がれ落ちて、その下に薄い皮膜が浮か
さなぎ
び上がっている。さすがにリリオンが付けた切り傷は塞がることは
ないが血は既に止まっていた。
昆虫系の魔物は変態する。芋虫が蛹へ、そして蝶になるように。
それは基本的には充分な時間を掛けて行われるが、中には手品のよ
うにあっという間に姿を変えるものもいる。血色芋虫がそうでない
という確証はない。
ランタンはその場で一回屈伸をして、ちょっと行ってくる、とリ
リオンに一言伝えて猛然と走り出した。壁に向かって加速し、冗談
のように七歩ほど壁を駆け上った。その姿にリリオンが驚いたよう
に口を開いた。
﹁うぐっ﹂
そして失速する寸前に足場に爆発を巻き起こして、勢いよく芋虫
に向かって突っ込んだ。あまりの急加速にランタンは小さく嗚咽を
漏らした。内臓が圧迫される。それでも芋虫に届くかギリギリだ。
489
ランタンは目一杯腕を伸ばせるように戦槌を構える。爆発能力は爆
発を巻き起こすのであって、空を飛ぶ事は出来ない。
﹁ひ﹂
そんなランタンに芋虫が顔を向けた。ランタンの頬が盛大に引き
つり、目一杯腕を伸ばしても届かない距離で戦槌を振り抜いた。芋
虫が盛大に氷柱糸をばらまいたのだ。氷柱糸の先端が戦槌に到達し
た瞬間にランタンはそこに瞳を焼くような爆発を巻き起こした。熱
波がランタンの頬を打ち、地上のリリオンの髪を撫でた。
その爆風に煽られて、ランタンは錐もみするように失速して、地
面に叩きつけられる瞬間に猫のように四肢を立てて着地した。全身
かざ
の骨が痺れて、むち打ちになりそうな衝撃が首を襲った。慌ててリ
リオンが駆け寄り方盾を翳す。追撃の氷柱糸がその表面で爆発する
ように弾けた。
﹁ありがとう、助かったよ﹂
氷柱糸が止んで、ランタンはうんざりしたような顔つきでリリオ
ンに言った。
﹁おしかった、ね?﹂
リリオンの慰めにランタンは乾いた笑いを漏らした。そして盾の
ナイフ
傘から出て再び芋虫を忌々しげに睨み上げた。幸いな事に蛹になる
様子はない。だが降りてくる様子もない。
ランタンはリリオンに向き直って、その腰に刺さった狩猟刀に目
を留めた。攻撃力があり、投げられる物と言ったらこれぐらいか。
ブーメランのような形状をしているし投げやすそうだ。
﹁嫌よ!﹂
無言の視線に何か不吉な物を感じ取ったのかリリオンは狩猟刀を
隠すようにして身体を引いた。宝物を守る番犬のようにランタンを
睨んでいる。
﹁⋮⋮さすがにそんな勿体ないことはしないよ﹂
ランタンは肩を竦めてそれから目を逸らし、辺りを見回した。
﹁あれ使おうか﹂
490
指を差したその先は地面に突き刺さった氷柱糸だ。リリオンは指
差した先に駆け寄って、次々に四本全てを回収して戻ってきた。そ
してその内の一本を生け贄を捧げるようにランタンに献上した。
﹁軽いよ、これ﹂
﹁そうだね﹂
氷柱糸は五〇センチほどで、強度は充分だが少しばかり軽く、割
って投石として使うことは難しそうだ。この形のまま投げるのか、
とランタンは眉根を寄せた。槍投げなんてしたことがない。
﹁取り敢えずやってみようか﹂
ランタンは戦槌を地面に突き立てて、氷柱糸の中程をしっかり掴
しな
む。小走りから次第に大股に助走をつける。身体を捻り、肩を内に
入れるように、手首の撓りを利かせて芋虫目がけて投擲した。指の
掛かりはいい感じだ。
﹁あらま﹂
だが氷柱糸は後端が先端を追い越すように途中でぐるりと回転し
て体勢を崩す。芋虫よりだいぶ右側にぶち当たって割れて砕けた。
芋虫は驚いたようにもぞもぞと場所を変えたが、降りてはこない。
ただ氷柱糸の欠片がばらばらと降ってくるだけで。
﹁次わたしね!﹂
リリオンがぴょんと飛び跳ねて手を上げた。まるでランタンの敵
を取ると言わんばかりに目を輝かせている。リリオンは盾と大剣を
手放して、ランタンに二本の氷柱糸を渡すと、ぐるりと肩を回した。
やる気充分で、芋虫を見据える瞳には集中力が宿っている。
﹁いくよ﹂
背を反らすほどに伸びをしたリリオンはすらりとしてしなやかだ。
大きく深呼吸して胸が膨らむ。助走をつける歩幅がランタンの倍近
たなび
い。踏み込みに苔が沈み込む。その力が淀みなく上半身へと駆け、
鞭のように腕が撓り、白い三つ編みが腕の振りに棚引いた。
﹁えぇいっ!﹂
甲高い叫び声。ランタンは目を見開いた。その瞳に氷柱糸が白い
491
傘を生み出して、それを突き破ってゆく様が映った。大気を裂くそ
うが
の音が耳鳴りのよう響いている。そして破裂音がその耳鳴りを打ち
消した。
リリオンの投擲した氷柱糸は惜しくも芋虫を掠めて天井を穿った。
再び欠片が降ってくる。
﹁惜しかったね﹂
﹁ね﹂
リリオンがちょっと頬を膨らませて拗ねるように呟く。二人揃っ
て天井を見つめていると、またばらばらと欠片が降ってくる。天井
の、欠片が。
﹁あ︱︱﹂
芋虫ごと、天井が落ちる。
ランタンとリリオンは表情を一瞬で凍り付かせて、その手に持っ
た残った氷柱糸を慌てて放り投げると、武器を引っ掴んで全力で後
退した。
リリオンの穿った穴からひび割れが広がり、それが芋虫の重みに
耐えかねたのだ。一抱え、それも巨大な血色芋虫の一抱えほどもあ
る巨大な岩の塊が地面で弾けた。
つぶて
リリオンが盾を構えランタンはその内側に抱え込まれた。地面の
苔を一斉に裏返し、胞子の煌めきと破砕された細かな礫の混じる土
煙が吹き荒れた。まるで豪雨に見舞われたように盾の表面でばちば
ちと礫が弾けた。
﹁死んだのかな﹂
ランタンとリリオンが二人して盾の脇から顔を出して芋虫がいる
辺りを覗き込んでいる。
﹁︱︱死んでないみたいだね﹂
リリオンが後ろで呟いた声に、ランタンが応えた。盾のすぐ脇を
土埃を切り裂いて捕縛糸が走った。土埃の奥に迫り来る巨大な影が
見える。
﹁来るよっ!﹂
492
リリオンが答えるより先に衝撃があった。なるほどこれはきつい、
とランタンもまた盾を支えてその衝撃を二人して受け止めた。苔の
上で足が滑る。だがリリオンは滑りながらも、何度も地面を掻くよ
うにして足を前に進めた。
芋虫を押し返す。ランタンは盾の外に出た。
無残な姿だ。
分厚いゴムのような皮膚は大半が失われ、今は頼りない薄皮に包
まれている。血を大量に流したのにもかかわらず身体が一回り大き
くなったのは、皮膚によって押さえつけていた半液状の肉を薄皮が
支えきれないのだ。今にも爆発しそうに丸く、薄皮の下で流動する
肉体が透けて見えて、気持ちの悪さが倍増している。
ランタンは戦槌を掌で回し、鶴嘴を芋虫に向けた。振り下ろすと
ぱんぱんに膨らんだ水袋に針を刺したように薄皮が裂けて、鶴嘴が
芋虫の肉の中に埋まった。吹き出した青い血がランタンに降りかか
ろうとして、次の瞬間に巻き起こった爆炎によって吹き散らされて
蒸発した。辺りに異臭が漂う。
芋虫の肉がごっそっりと炭化して、ぐずぐずと潜れ落ちた。
芋虫が嘴を限界まで開き音の無い絶叫を吐き出した。苦しむよう
にその顔を振り回した。射出口が細かく痙攣して、白い、まるで魂
けんき
のような白い糸を吐き出した。遠心力で無理矢理に絞り出すように
吐き出された氷柱糸は、それは引き延ばされ、まるで剣牙のよう鋭
く射出口から生えていた。奥の手か。いや氷柱糸を切り離し、射出
するほどの内圧を高められないのだ。
ランタンは振り回された糸の牙を戦槌で受け止めた。
衝撃。
氷柱糸は砕けて氷の破片のように降り注いだ。ランタンは咄嗟に
顔を覆い、後退を余儀なくされた。その腕の隙間から覗くランタン
の瞳に芋虫がさらにもう一度、勢いを付けるように振り返るのが見
える。
また別の射出口から先ほどよりも太い氷柱糸が歪な棍棒のように
493
伸びて、リリオンを打ち払う。リリオンはそれを盾で受け止める。
だがリリオンもひたひたと足を濡らす青い血に滑るように後退した。
牙は根元から折れた。
﹁リリオン!﹂
﹁平気︱︱﹂
離れたリリオンへ芋虫が捕縛糸を吐いた。鋭さはなくやや山なり
に、だがそれはリリオンの剣に巻き付くには充分だった。声を上げ
たランタンにリリオンが大きな声で応えた。
リリオンが足を地面に突き立てるように腰を下ろして踏ん張った。
まさか、とランタンが思ったら、それはまさにそうだった。
﹁︱︱ぃいいいあああっ!﹂
まるで一本釣りのようにリリオンが芋虫を引っこ抜いた。巨躯の
芋虫が中空を舞う様子にランタンは頬を引きつらせる。空中でぐね
ぐねと身悶える様は異様としか言いようがなく、それは精神的な攻
撃そのものだった。夢に出そうだ、とランタンの身体が震えた。
それを釣り上げたリリオンのその姿は今まさに大剣を振り下ろそ
うとする上段の構えに酷似している。身体を弓なりに反らし地面を
始発点とした鋒が、大きく正円を描く。
﹁せあぁっ!!﹂
リリオンは芋虫に大剣を叩きつけた。
絶命の叫びは無く、ただ水音を迸らせて芋虫は両断されて地に落
ちた。まるで悪夢を切り払ったように、辺りにぶちまけられた芋虫
の内容物がまるで青い波のように辺りに広がった。どれほどの液状
肉を押さえ込んでいたのか。リリオンが大慌てでそれを避けてラン
タンに駆け寄った。
すぐに訪れる魔精の奔流に巻き込まれれば、魔精酔いによって青
い血の海に沈むことは目に見えていた。ランタンは奥歯で気付け薬
を噛み砕いて、とどめを刺したリリオンを労うように駆け寄ってく
る少女の手を掴まえた。
そして背後から氷柱糸が飛んでくる危険性はもうないので、一目
494
散に血の波から逃げだすのだった。
495
035
035
ブラッドキャタピラー
一寸の虫にも五分の魂などと言うが、五メートルの血色芋虫から
採れる迷宮核が二・五メートルもあるわけではなかった。残念なこ
とに。
芋虫の心臓はまるで背骨のように芋虫の背中に沿っており、いく
つかの節に分かれていた。その節の一つが迷宮核として結晶化して
いた。リリオンが腹開きに両断してくれたので取り出すのは容易だ
ストームベア
った。そこに手を突っ込む精神的な苦痛を無視すれば。
嵐熊と比べれば一回り以上小さめの結晶だが金銭的な不満は無い。
諸事情のあるこの迷宮の賃貸料は安かったために大幅なとは行かな
いが充分に黒字となりそうだった。
採取した迷宮核はリリオンに持たせてある。芋虫から取り出した
物が気持ち悪いから押しつけたわけではなく、嵐熊の時に続いてた
だ何となくだ。
迷宮から引き上げられればもう夕方である。
ランタンはベルトをミシャに外してもらいながら大きくあくびを
漏らした。目をしょぼしょぼとさせて、それから遅れて大口を開い
た口を手で隠した。
﹁今日は怪我、されなかったですね。ずいぶんとお疲れのようです
けど﹂
﹁そりゃあ、まあね。ん、ありがと﹂
喜びから心配へと声音を変えながらミシャが言った。
今回の探索は言うなれば往復十時間の弾丸探索ツアーだ。最終目
まなじり
標戦の前後に休息を挟んでいるとは言え、さすがに強行軍が過ぎた。
ランタンは涙の滲む眦を指で擦りながら、リリオンのベルトを外
496
すミシャの横顔に声を掛けた。
﹁ミシャも無理聞いてもらって悪かったね﹂
﹁ほんとっす、よっと﹂
ベルトを外すとミシャは皺が寄ったリリオンの服を伸ばした。
﹁久しぶりに長く休まれているかと思えば、日帰りで迷宮攻略って
なんなんっすか﹂
マ
リリオンは解放されるとぱたぱたと小走りでランタンに並んだ。
ント
どうやら一緒にミシャの説教を受けてくれるらしい。ランタンと外
套の端を掴んで神妙な顔をしている。
﹁それも急に来て、まったくもう﹂
クレーン
ミシャは腰に手を当ててランタンを一睨みして溜め息を吐くと、
一纏めにしたベルトを起重機にガシャンと積み込んだ。ランタンが
迷宮に降りるためにミシャには随分と無理をさせてしまった。テス
の仕事の都合に探索日を合わせるために、引き上げ依頼は急になっ
てしまった。この引き上げは他の探索者の予約の間にねじ込んでも
らったのだから、開き直る事も出来ずにランタンは大人しくしてい
た。
ミシャには本当に無理をさせてしまったのだ。ランタンは引き上
げ屋の仕事内容を熟知しているわけではないが、探索者が引き上げ
屋に依頼を入れればすぐに迷宮へ下ろして貰えるわけではないこと
ぐらい知っている。探索者を迷宮に下ろすためにはギルドへの諸々
の手続きがある。
予約しに行ったとき店主のアーニェにも、しかたないわね、と苦
笑された。あまり無理をしたらダメよ、とも。
それに今日の降下は早朝だった。ランタンは起きて食事の一つも
すればそれで済む話したが、ミシャはランタンたちを安全に迷宮に
下ろすために安全確認等の前作業を山ほどこなさなければならない。
目を覚ましたのは日が出るよりもずっと前だ。
﹁ごめんね﹂
それを思うと自然と頭が下がった。
497
しゅんとした様子のランタンにミシャが驚き慌てた。
あだ
さらさらと耳に掛かる髪が流れて、夕日に顔の陰影を深めるラン
タンが妙に儚げで婀娜めいた雰囲気があった。髪を揺らした風に匂
い立つような。
少女二人がその顔を暫し見つめ、粘っぽい唾を音を立てて飲み込
んだ。大きく響いたその音にランタンが視線を上げると、少女は気
まずそうに視線を逸らして、ミシャが咳払いをして空気をかき混ぜ
た。
﹁︱︱大丈夫っすよ、全然! 毎度ありがとうございます!﹂
﹁ありがとう、そう言ってもらえると助かるよ﹂
ランタンは微笑んで、思い出したようにポーチから代金を取り出
してミシャに手渡した。そっと両手で包み込むようにして。ミシャ
の手は小さく、肌が陶器のようにつるつるしていた。
ミシャは受け取った代金を集金箱にしまうと、機械油で汚れた手
を恥じるように後ろ手に、そっと指先を服で拭った。それを見てリ
リオンも爪の隙間に入り込んだ青い血を気にするように指先を見つ
める。青い血は酸化すると濃い藍色や濃い紫色になる。
ブーツ
指などは洗えば綺麗になるが服に跳ねた血は中々難しい。黒革の
かさぶた
戦闘靴は目立たないがズボンの裾は青い水玉模様が跳ねていた。ラ
ンタンが爪先で地面を蹴ると乾いた血が瘡蓋のように剥がれ落ちた。
﹁ああ、もう時間っすね﹂
ミシャが時計を見て呟いた。次の引き上げの予約時間が近づいて
いるようだ。
﹁何か手伝うことはある?﹂
﹁大丈夫っすよ﹂
ミシャはそう言うと起重機に乗り込んだ。
起重機は空気を振動させる低い音を吐き出して、その長い首を三
つに折り畳み、腹下から生えて地面に突き刺さる支柱をその体内に
引っ込めた。ミシャが機上から身体を乗り出した。
﹁高いところから申し訳ないっす。ではまたよろしくお願いします
498
!﹂
﹁うん、今度はちゃんと余裕を持って予約入れるから﹂
﹁ありがとうございますミシャさん!﹂
起重機はその重みを地面に刻みつけながらゆっくりと遠ざかって
ゆく。リリオンが大きく手を振ってその後ろ姿を見送った。辺りに
マント
は起重機が吐き出した喉に張り付くような粘りけのある暖かな空気
が漂っている。ランタンは外套で扇ぐように振り返った。
﹁じゃあ行こうか、︱︱出来るだけ疲れているふりをして﹂
﹁つかれた、つかれた﹂
﹁⋮⋮普通にしてた方がいいかも﹂
いかにも言わされている風にリリオンが呟いたのでランタンは肩
を竦めて歩き出した。大根役者にも程がある。リリオンが、待って
よう、と小走りで駆け寄ってランタンの肩に手を伸ばした。身体が
重たいと言うように外套を掴んで引っ張った。
﹁歩きづらいんだけど﹂
﹁つかれてるんだもの、しかたないわ﹂
探索者としてはあまり褒められたものではないが、今回の探索は
攻略が本題ではない。
探索はあくまでも弓男の襲撃を誘い出すための囮行動だ。何時も
ならば背筋を伸ばして歩く迷宮特区の帰り道も、少しだけ俯くよう
にしてのろのろと足を進める。それには何だか妙な気恥ずかしさが
あった。
ランタンは外套を引っ張ってリリオンの手を外すと、その手を握
ってやりギルドまで歩いた。
フラグ
のろのろ歩くのは演技だが、疲労は本物だった。迷宮攻略、それ
も最終目標を打倒したというのにほぼ無傷であるというのは初めて
のことで、戦闘自体もそれほど困難なものではなく肉体的な疲れは
あまり感じてはいない。あるのはやはり精神的な疲労だ。
ランタンはギルドで迷宮攻略の報告をしながらも、そこにある豪
奢な椅子に気怠に背を預けて、三人のギルド職員とのやり取りもど
499
ことなく無意識的に行っていた。
そんな様子のおかしいランタンの顔をリリオンが覗き込んだ。ラ
ンタンは目の前ににょきりと出てきた顔に微笑みをくれてやると、
その頭を職員の目の前でくしゃくしゃに撫でた。職員はその様を見
て、仲がよろしいことで、と頬を引きつらせながら言い放ったがラ
ンタンはただ少し瞳を動かしてその職員を冷たく一瞥しただけだっ
た。
ホテル
迷宮核を換金して、金をギルド銀行に預ける。そして医務局に寄
り栄養剤を呷ると、そそくさと予約を入れていた高級宿に向かった。
ギルドでは司書にもテスにも会いに行かなかった。いつどこで監
視をしているかもしれない弓男に余計な警戒心を植え付けるかもし
れないという懸念からだ。
そのため襲撃を呼び寄せるための計画も腰を落ち着けてじっくり
と相談し合うことは出来ず、弓男へばらまく餌の量は、全て司書と
テスが考え実行してくれた。そして当日は、ランタンたちはほとん
ど自由裁量の元に動く事になっている。
事前に細かく計画を立てたとしてもその通りに物事が進むとは限
らないし、その通りに物事を進めるだけの能力が自分にあるともラ
・ ・
ンタンは思っていなかった。ランタンも荒事に慣れていないわけで
はないが、あくまでも本職は迷宮の相手である。襲撃に対して幾つ
かの想定はしているものの、出たとこ勝負で好きに動くと言うのが、
それを作戦と呼んでいいのかは疑問だが基本的な作戦方針である。
﹁⋮⋮ランタン、調子悪いの?﹂
﹁んー、そんなことはないと思うけど﹂
高級宿の一室に入り、もう演技をする必要もないにも関わらず精
彩を欠いたままのランタンにリリオンが心配そうに声を掛けた。ラ
ンタンはベッドに腰掛けて、どこを見るでもなくゆらゆらと足を揺
らしている。
リリオンは今にも落としそうになっているランタンの手の中にあ
るコップをそっと抜き取りテーブルに戻した。そしてランタンの隣
500
に腰掛け、太ももに手を置いた。それでようやくランタンは視線を
動かして、リリオンの手を見つめた。掌が太ももにあり、爪の間に
入った青い汚れを落とした指先が膝に掛かっている。揺れに合わせ
て爪が膝を引っ掻いた。
﹁くすぐったいよ﹂
﹁でも、ランタン笑ってないわ﹂
﹁⋮⋮これでどう?﹂
﹁だめ﹂
ランタンは指で口角を釣り上げて見せたがリリオンはそれをばっ
さりと切り捨てた。
﹁あっそ﹂
ヘーゼル
自らの頬を弾くように指を外し、ランタンは肩を竦めた。リリオ
ンはじっとランタンを見つめる。ランタンは淡褐色の瞳に自分の表
情を映し、それが酷く仏頂面をしていることに気がついた。そして
ようやく笑った。自嘲するような皮肉気な笑みだ。
その昏い笑みに太ももを撫でていたリリオンが、そこにある肉を
掴んだ。
﹁痛いよ﹂
ランタンが言ってその手をゆっくりと剥がすと、リリオンは指を
絡めるようにランタンの手を握る。
﹁わたし、何かした?﹂
﹁え﹂
﹁わたし何か失敗した? 迷宮で、わたし⋮⋮﹂
リリオンはそう呟くと握ったランタンの手を胸の前まで引き寄せ
て、もう片方の手を縋るように添えた。リリオンの不安を感じ取る
と、その指先はすぐに冷たくなる。ランタンは慌ててその手を掴ん
だ。
﹁違うよ﹂
はっきりとした口調でリリオンに告げた。
﹁違う。探索は完璧だったよ。ほら、怪我一つない。僕もリリオン
501
も﹂
﹁⋮⋮うん﹂
ランタンはそう言って心配げな表情のリリオンにしっかりと微笑
みかけた。その笑みにリリオンは少しだけだが安堵したように頷く。
しかし依然として不安そうな眼差しは残っており、それがランタン
を窺っていた。
ランタンは舌先で唇を濡らした。
﹁僕、疲れているみたいに見えた?﹂
﹁うん﹂
﹁本当に?﹂
ランタンがリリオンに訊くと、リリオンは少し迷うような素振り
を見せておずおずと口を開いた。
﹁本当はね、不機嫌そうに見えた﹂
それを聞いて、ああやっぱり、とランタンは思った。リリオンの
手を放し、爪を立てて頭を掻いた。
大根役者はリリオンではなく自分だった。疲れた演技をしている
と思い込み、ただ自らの中にある不満をありありと表情に浮かべて
いたようだ。それもリリオンにに心配させるほどにはっきりと。ラ
ンタンは自分に向けて呆れた溜め息を吐いた。
﹁リリオンはさ、今日の探索どうだった? まぁ探索って言うか戦
闘なんだけど﹂
そう尋ねるとリリオンが途端に不安そうな表情を浮かべる。それ
はありもしない自分の失態を絞りだそうとしているようで、ランタ
ンは再び慌てた。
﹁言い方が悪かったよ、ごめん。ええっと前の熊と戦ったときと比
べてどうだった? っていう話。強かったとか弱かったとか、怖か
ったとか普通だったとか﹂
﹁前と⋮⋮﹂
ランプ
リリオンは片手を頬に当てて、上目遣いになった。天井に光る魔
道光源の明かりの中に過去を見るように。ランタンは首筋に薄く浮
502
き出る緑の血管をなんとなしに見つめる。血管の這う首が唾を飲み
込んで一度上下に動いた。
﹁弱かった、のかしら?﹂
リリオンは自信なさげに、ランタンの顔色を窺いながら呟いた。
ランタンが微笑んで同意すると、自らの呟いたそれがただ唯一の正
解であったように安堵した。
﹁熊より強かった、でも良いんだよ﹂
血色芋虫の純粋な戦闘能力は嵐熊よりも格下であることは間違い
ないなかったが、どうしたって相性という物がある。
優れた物理攻撃耐性を持つ芋虫を翻弄することが出来たのはラン
ナイフ
タンが爆発能力を持っていたからに他ならず、もしリリオンも居ら
ず爆発能力も無かったらランタンは鶴嘴と狩猟刀を駆使して地道に
戦うことしか出来なかっただろう。そうなるともしかしたら嵐熊よ
りも苦戦したかもしれない。あるいは天井に張り付いた芋虫を落と
すことが出来なかったら、それが繭になり羽を有し空を飛んだら、
と思うとげんなりする。
﹁ううん、やっはり熊の方が強かったわ。⋮⋮でも芋虫の方が、気
持ち悪かったかな﹂
﹁リリオンも虫嫌い?﹂
﹁も?﹂
リリオンは口を丸く開いてランタンの鼻先まで顔を近づけた。開
いた口と同じほど目をまん丸にして驚いている。
﹁ランタンは虫嫌いなの?﹂ ﹁⋮⋮まぁね。リリオンは?﹂
﹁わたしは別に大丈夫よ。今回のは少し大きかったし、色がちょっ
と⋮⋮﹂
大丈夫と聞いてランタンは、すごい、と思わず漏らした。虫に出
くわしたからと言って悲鳴を上げたり泣き出したりはしないが、ラ
ンタンはどうしてもそれを、大丈夫、とは言えない。強がってみせ
ても言う気にすらなれない。
503
﹁ランタンって虫嫌いなの!?﹂
﹁嫌いって言うか、苦手って言うか、嫌いって言うか、何と言うか
アレだよ﹂
﹁どれなの?﹂
﹁⋮⋮まぁ、少しだけ、あー、怖いよね。ああ、ほら見てよ肌ぶつ
ぶつになっちゃった﹂
あわ
ランタンは血色芋虫の醜悪異様な姿を思い返して顔をしかめた。
腕捲りをすると、肌が粟立っていた。リリオンははっきりと怖いと
断言したランタンに驚きながらも、その粟立った腕を覗き込んだ。
さす
目に見えぬほど薄い産毛が一斉に逆立っている。
リリオンがマッサージをするようにその腕を擦り、そのまま指を
捲った袖の中まで撫で上げ二の腕を揉みしだいた。肌の粟立ちを消
してくれようとしているのか、それともその柔らかさを堪能してい
るだけか。リリオンは目尻を下げて、息を漏らすように笑った。
﹁ぷよぷよしてる﹂
﹁⋮⋮じゃあリリオンはどうか、な!﹂
ランタンはえいやとリリオンの脇腹を指先でがっしりと掴んだ。
リリオンは悲鳴を上げて飛び退こうとしたが、掴まえるランタンの
指先から逃れることが出来ずにベッドの上に倒れ込んだ。
﹁やっ、あはは、あん、やあだぁ﹂
良い反応だな、とランタンは仰向けに倒れたリリオンに馬乗りに
なって、肉の付いていない薄い脇腹を揉みしだいた。それは先ほど、
怖い、と吐き出してしまった言葉を恥じて誤魔化すように。
リリオンが身体を捩ると肋骨の軋みが聞こえ、笑うと筋肉が痙攣
するように収縮した。
﹁リリオンは、もうちょっと肉を付けなきゃね﹂
これ以上やると呼吸困難になりそうだな、とランタンは擽る指先
を脇腹から引き剥がした。裾が捲れ上がって露わになった白い腹が、
悶えるように震えている。ランタンはそっと裾を戻してその腹を隠
した。
504
﹁はぁっ、ふぅ、ふぅ、もうっ、ランタンいじわる。やめてって言
ったのに﹂
リリオンは荒くなった息を整えると、薄紅の頬を膨らませてラン
タンを睨み付けた。そして、でもいいわ、と頬の空気を抜きながら
呟いて寝転んだまま両腕を広げた。まるで今し方の意地悪を全て許
すとでも言うように、慈しむような表情を浮かべて。
ランタンは戸惑いリリオンを見つめた。
﹁ランタン、天井に芋虫がいるわ﹂
リリオンはランタンを見つめ返し、全く視線を逸らさずにそう呟
いた。リリオンの瞳には天井の芋虫など映っておらず、仏頂面から
少しはマシになった表情のランタンだけが映っていた。
﹁それは怖いね﹂
﹁わたし、守ってあげる﹂
抗いがたい誘惑だった。だがどうにかランタンは、その慎ましや
かな胸に身体を預けるのを堪えた。ランタンはリリオンの手を掴ん
で隣に並ぶように身体を横たえた。
﹁ありがとう﹂
﹁⋮⋮どういたしまして﹂
リリオンは拗ねたようにそう呟いた。ランタンがリリオンの方へ
身体を向けると、リリオンも同じように身体を転がした。向かい合
うとリリオンが頬を膨らませているのが判った。ランタンを迎え入
れようとしていた胸が、いかにも寒いというようにわざとらしく襟
首を整えて見せた。
そして空いている手を伸ばしランタンを抱き寄せる。まるで甘え
下手の子供でもあやすように強引に。ランタンはそれが免罪符であ
るかのように、抵抗せずにリリオンに引き寄せられた。リリオンが
ランタンの背中を撫でた。
﹁ランタンもお肉付けないとね﹂
リリオンはそう言ってランタンの背中を撫でていた手を下に伸ば
して尻をさわった。甘やかされていると言うことがランタンの抵抗
505
力を奪い、ランタンは肉付きを確かめられる家畜のようにされるが
ままにしていた。
ランタンが大人しくしているとリリオンは不意にランタンを抱き
しめる力を強め、耳元で囁いた。
﹁ランタンは本当に虫が嫌いなのね﹂
﹁⋮⋮嫌いって言うか、苦手って言うか﹂
ランタンは強がらない代わりに、リリオンの腕の中でぐちぐちと
言葉を濁した。リリオンが面白がるように笑う。
﹁意外だわ﹂
﹁何がよ?﹂
﹁ランタンにも怖いものがあるのね﹂
﹁そらそうだよ﹂
ランタンは尻を触り続けているリリオンの手を、いい加減鬱陶し
いと持ち上げて、ぽいっと背中の方に投げ飛ばした。ランタンがさ
れるがままにしていたように、リリオンもそれに抵抗する事はなく、
ただぽんぽんと背中を撫でた。
﹁嫌いな物も、苦手な物も、怖い物も何でもあるよ﹂
たくさんね、とリリオンへ告げると、リリオンは信じられないと
でも言うようにランタンを見つめた。ずいぶんと買いかぶって貰っ
ている。今まで見栄を張ってきた甲斐があったな、とランタンはほ
くそ笑んだ。
﹁虫だけじゃないの?﹂
﹁情けないでしょ﹂
ランタンが言うとリリオンは首を横に振った。そしてそっとラン
タンを窺う。言葉は無くとも、虫以外に何が嫌いなの、とその瞳が
雄弁に問いかけていた。
ランタンはさてどうしたものか、と一つ思案した。古びた塗装の
ように剥がれ落ちつつある見栄を、今更塗り直すのも何だか馬鹿ら
しく、恥の上塗りであるように思った。だが同時にこのままリリオ
ンに甘えて、我が儘な子供のようにあれも嫌いこれも嫌いと喚くこ
506
きょうじ
とはランタンの混沌とした矜恃が許さなかった。嘘を吐いて煙に巻
くと言うのは、守ってくれると言ったリリオンへの侮辱だろう。
﹁そうだね、例えば︱︱男の人もあんまり好きじゃないかな﹂
ランタンの言葉に翻弄されるように、リリオンは一度ランタンか
ら視線を逸らしてきょろきょろと辺りを見渡して再びランタンを見
つめた。もしかしたらリリオンはまだ自分が男性に対して恐怖を抱
いていると言うことを隠し通せていると思っているのかもしれない。
ランタンはテスのように、くふ、と笑った。
﹁だってさ︱︱﹂
背が高くて、と言うとリリオンを傷つけてしまうかもしれないの
で言葉は言葉は選んだが、筋骨隆々で強面の探索者はランタンでも
恐ろしく、それどころか探索者に限らず、体格の良さに関わらず男
性に対して少しばかり抵抗感はあった。
リリオンがランタンの身体を撫で回すのは子供じみた接触欲求な
のかもしれないが、例えばテスが自然とランタンの頭を撫でたよう
ひと
に、勧誘者に取り囲まれたときに色々触られたように、ランタンは
妙に他人に身体を触られる傾向があった。
いつでも身綺麗にしているためか、身体の大きさがちょうどいい
フェロモン
のか、それとも隙が多いのか、侮られているのか。考えたくもない
が、或いは何かそういった変態を集める誘引物質も発しているのか。
まさぐ
すれ違いざまに、そして人混みに紛れて、場所を問わず尻と言わ
ず身体を弄られた経験は枚挙に暇が無い。骨に肉を巻き付け、肉を
皮膚で覆い、先端に爪の生えた指は、その構成物質に男女の区別な
どない。だが女の指なら許されるわけではないが、どうしたって男
の指に触れられた方が不快指数は高い。
と言うようなことを一部誇張したりぼやかしたりしながらランタ
ンはリリオンに語った。それは恐怖と言うよりは苦手意識だったが、
似たようなものなので嘘ではない。
﹁ひどい! ランタンにそんなことするなんて﹂
﹁リリオン、背中撫でるのやめて。くすぐったいから﹂
507
リリオンはランタンの話を聞きながら憤るように服を掴み、次第
に捲れ上がった裾から手を忍び込ませて生の背中に手を這わせてい
た。リリオンは本当に気がついていなかったのか驚いた様子で背中
を撫でるのをやめた。相変わらず服の中に手を入れたままであった
が、ランタンもリリオンに寄りかかったままなので、あまり強くは
言えずにそのままにさせた。
﹁ランタンは、そんな時⋮⋮どうしたの?﹂
リリオンは真面目な顔になって聞いた。まるで自分の恐怖と向か
うように。
か弱かった頃のランタンはただ恐怖に震えて耐えるしかなかった。
抗うようになったのは一体いつだっただろうか。今ではその不届き
者の指や腕を逆方向へ折り曲げたりしているが、最初からそれを出
来たわけではない。
リリオンはたとえそれが錯乱であっても、本能は逃げることを選
ばず、立ち向かうことを選んだ。ランタンはその魂を眩しく思う。
﹁怖いのはさ、まぁ怖いで良いんだよ。大丈夫、出来るって言い聞
かせてもそれは何の足しにもならないし﹂
ランタンはふと身体を起こして、柔らかな表情でリリオンを見下
ろした。
﹁必要な物は自信かな。恐怖を打ち倒した経験。出来ない事が出来
るようになった経験。そういった物を積み重ねれば、怖くたって立
ち向かう事ができるし、出来ない事も少しずつ上手くなれる、はず﹂
静かに語るランタンに、リリオンは不安そうな瞳を向けている。
﹁そこに至るまではさダメでいいんだよ。怖いのが嫌なら逃げれば
良い、それも嫌なら立ち向かえば良い。どうしようもなくなったら
助けてあげる。︱︱リリオンが僕のことを守ってくれるみたいにね﹂
ランタンがリリオンの頭を撫でる。リリオンは目を細めた。
﹁もう芋虫はいなくなった?﹂
悪戯っぽく尋ねるとリリオンは小さく頷いた。ランタンはくしゃ
りと撫で回した髪を一度手櫛で梳いた。
508
﹁ほら、おいで﹂
ランタンがベッドの上に座った足の、その太股を叩くとリリオン
は腰に抱きつくようにして頭を乗せた。リリオンはベッドの上でぱ
たぱたとバタ足をして、ランタンが頭を撫でるのに合わせて船を漕
ぐように揺れた。
僕の立ち位置はこっち側、とランタンは大人びた表情でリリオン
の後頭部を見つめていた。
このまま寝てしまうかな、と思っていたらリリオンは、あ、と声
を上げた。ランタンは大人びた表情を仮面のように固めて、そのま
ま顔に貼り付けた。
﹁あれ、ランタンは⋮⋮﹂
リリオンは一度そこで言葉を切って、顔をランタンの腹に押しつ
けて、何かを思い出そうとするように呻き声を漏らした。ランタン
は頭を撫で続ける。まるで浮上しつつある記憶を、渦の中に沈めて
しまおうとするように。
﹁︱︱ランタンは、虫が嫌いだから、機嫌が悪かったの?﹂
﹁⋮⋮そう言えば、そんな話だったね﹂
ランタンは白々しく呟いて、ことさら優しくリリオンを寝かしつ
へそ
けるように頭や背中を撫でた。だがリリオンは眠らずに、ねぇねぇ、
とランタンの腹を探るように鼻頭を臍に押しつけて抱きついた。
ランタンは諦めたように溜め息を一つ吐き出した。仮面にひびが
入った。
﹁戦い方が不満だったんだよ、リリオンじゃなくて僕自身の﹂
リリオンはきょとんと瞬きした。
無傷で最終目標に勝つという作戦目標は完遂した。それについて
はケチを付けるべき所はない。
だがランタンは不満だった。リリオンに映る仏頂面の己を見るま
へき
で気がつくことが出来なかったが、ランタンは酷く欲求不満だった。
﹁これはきっと癖だね﹂
﹁へき?﹂
509
自分自身で今まで気づくことの出来なかった。それどころか、自
分がそうであるなどとは思っていなかった。意思と本能が、まるで
別の方向を向いているような奇妙な燻りが腹の中にあった。
﹁物足りなかったんだ﹂
眼差しを伏せて呟いたランタンにリリオンが困惑したように固ま
り、強くランタンの腰にしがみついた。まるでランタンがふらりと
どこかに行ってしまうのを恐れるように。
伏せた眼差しの中に妖しげな光があり、リリオンは目を逸らせな
くなった。
﹁まったく嫌になるね。自分がそんな人間だとは思ってもみなかっ
たよ﹂
﹁⋮⋮あの、ランタン?﹂
肩を落としたランタンに、けれどどう声を掛けて良いか判らない
リリオンが探るように名前を呼んだ。ランタンは頷いて、自らの腹
に顔を隠すリリオンの目を覗き込んだ。
﹁︱︱ランタン﹂
リリオンはその瞳の奥にある、燻る火種に気がついた。幽玄に揺
らめく、心臓の鼓動を思わせるように明滅する昏い光。リリオンは
思わず目を細めてランタンの顔を仰ぎ見た。
﹁僕はね、きっと﹂
ランタンはそして穏やかに呟いた。
﹁暴れ足りなかったんだ﹂
恥じらうような微笑みの、その瞳の中で火種が荒れ狂う業火とな
る様をリリオンは確かに見た。
510
035︵後書き︶
栄養剤を呷り少女をホテルに連れ込む欲求不満のランタン
511
036
036
ブラッドキャタピラー
前夜はあまり食欲がなかった。それは血色芋虫の異様がちらつい
たせいということもあるし、臓腑に重くのしかかる欲求不満が胃の
腑を圧迫していたというのもある。空腹に目を覚まし、朝食はたら
おうのう
ふく食べた。空腹に勝る欲求はないのかもしれない、とそう思った。
不満は今は懊悩とも言うべき物になっていたが、まだある事には
あるのだ。
暴れたりない、と言うそれは、運動したりない、を物騒に言い換
えただけなのか、それとも暴力に飢えているという事なのか。戦闘
の余韻から抜け出し、たっぷりと脳に栄養を捧げた今ランタンはど
ちらなのだろうかと思案していたが、その答えが見つかる事はなか
った。
﹁ふうむ﹂
ランタンは気の抜けた声を漏らした。混沌たる感情は、けれど全
・ ・
て腹に納めている。昨晩のように感情を持て余し、それを表情に漏
らすという事はない。もやもやしたものは、運動によって昇華する
か、と酷く冷静に考えている己が妙に笑えた。
﹁どうしたの?﹂
小さく息を漏らしたランタンに、髪を梳かされているリリオンが
振り返る事も出来ずに、頭を上下にくるりとひっくり返そうとする
ように顎を上げた。
﹁なんでもないよ、ほら前向いて﹂
寝るときに緩く三つ編みにしていたため、リリオンの髪はふんわ
くしけず
りと波打っている。髪油を使うようになってから櫛通りが良くなっ
た。頭頂から毛先まで、絡まることなく梳ることが出来る。さてど
512
うしようか、とランタンはリリオンの髪を一つ掬い取って考え込ん
だ。
リリオンの髪を纏める。いつもは三つ編みにしたり、簡単に一つ
結びにしたりする。長く背中に垂らして歩く度に先端の跳ねるそれ
は快活な印象が愛らしく、また駆けるとふわりと棚引き、それは龍
ストームベア
の尾のようで優美だった。だがその反面、戦闘時に跳ねた血で汚れ
たり、攻撃が掠めたりと心配になることも多い。事実嵐熊にはそれ
を切断されたことは記憶に新しい。
これからの帰り道に襲撃があるという確証はないが、だがもしあ
るのならば乱戦になるだろうと予想される。あまり長く垂らしてお
くのは危ないかもしれない。魔物がそれをすることは滅多にないが、
人間相手では髪を捕まれることがある。それは思いがけず致命傷を
招くことがある。
﹁よし、決めた﹂
幸い時間はまだたっぷりとあったのでランタンはまずリリオンの
前髪を丁寧に編んでいった。
﹁痛くない?﹂
﹁うん、だいじょうぶ﹂
ランタンが聞くとリリオンは弾むような声で返した。形が崩れな
いように少しきつめに編んでいたが、そのことよりもリリオンは形
を変える自らの髪を楽しんでいるようだった。ランタンはベッドか
ら飛び降りると、リリオンの前に立ちその顔を真正面から見つめた。
﹁ランタン?﹂
﹁うん﹂
﹁ねぇ、ランタン?﹂
﹁うん﹂
リリオンの問いかけにランタンは全く上の空で、編み込んだ髪の
様子を確かめ、返事でなくただ自分が納得したように頷いて再びベ
ッドへと上ると、いそいそと編み込みを再開した。そんなランタン
の様子にリリオンが大人ぶった微笑みを浮かべる。
513
ランタンはリリオンの笑みに気づきもせずに黙々と髪を編んだ。
編んでいるときは、思考がそれだけに集中して心が落ちいた。
戦闘時に前髪が目に掛からないように、サイドの髪からきっちり
と編み込んでカチューシャを作り、余った髪をこめかみの辺りでさ
らに複雑に編み込んで短く垂らした。それは幸運のお守りのように
揺らめいた。後ろ髪はくるりと纏めて低い位置でシニヨンにした。
ヘアピンも髪紐も足らないのでシニヨンが少し緩い。だが言い方を
変えればそのシニヨンは花弁の柔らかい白薔薇のようにも見える。
ランタンはリリオンの頭を撫でて、作業が終わったことを伝えた。
﹁できた?﹂
﹁まぁね﹂
﹁見てくるね!﹂
リリオンは叫ぶように言うとベッドから立ち上がって宿の備え付
けの鏡に向かって走って行った。ランタンはリリオンと入れ替わる
ようにベッドに腰を下ろしてばきぼきと指を鳴らす。
視線の先でリリオンが鏡に向かって笑いかけていた。左のこめか
うなじ
みから右のこめかみにアーチを掛けるカチューシャ状の編み込みに
指を這わせて、そっと項辺りのシニヨンの形を確かめている。喜ん
で貰えたようで何よりだ。
じっくりと自分の姿を堪能したリリオンが戻ってくる。ランタン
の目の前に立ち止まると、くるりと回って見せた。今は戦闘服に身
を包んでいるが、ひらひらしたスカートでも履かせたらお嬢様に見
えるかもしれない。
さら
﹁どう?﹂
﹁攫いたくなっちゃうね﹂
ランタンは笑いながらそう言った。リリオンはもっと直接的に褒
めてもらいたかったのか少しばかり不満気に、それでも口角を緩め
た。だがそれが笑みを形作る事はなく、リリオンは浅く開いた唇か
ら舌を覗かせて、少し濡らした。
﹁⋮⋮ランタン﹂
514
リリオンがそわそわと落ち着かないように指先を擦り合わせて、
そっと囁くように名を呼んだ。そして、ごめんなさい、と頭を下げ
た。纏めた髪は流れる事無く、きちんと纏まったままになっている。
ランタンは一瞬戸惑って、それから静かに訊いた。
﹁何のごめんなさい?﹂
ランタンは座ったまま、目の前の位置まで下げられたリリオンの
頭に触れて、剥き出しになったおでこを撫でるように顔を上げさせ
ヘーゼル
た。ランタンの目は冷たい厳しさを湛えてリリオンを見上げている。
ゴールド
ダークグリーン
リリオンの淡褐色の瞳はまるで感情に移ろうように色を変えた。
時に金色にも見える瞳が、今は濃緑色に沈んでいた。
﹁⋮⋮わたしが、狙われてるから、それで、ランタンに迷惑が︱︱﹂
碌でもない理由だと思ってはいたが、やはり碌でもなかった。
ランタンは手を振ってリリオンの話を打ち切ると、蹴り飛ばすよ
うに靴を脱いでベッドの上に仁王立ちになった。リリオンと目を合
わせる。目を伏せたリリオンの頬をぱちんと両手で挟み込んで、目
を逸らす事を許さなかった。額をくっつけて、その瞳の奥に潜るよ
うに。
﹁それってリリオンに何か非がある事なの?﹂
リリオンは答えない。ランタンは構わず続けた。
﹁違うでしょ? 悪いのはリリオンを狙ってる奴だよ。そんな奴の
ために頭を下げる必要は無い﹂
ランタンはリリオンの頬から手を離して、苦笑するように鼻を鳴
らした。
﹁︱︱って言うか謝るんなら、寝返りで僕を蹴っ飛ばした事とか、
涎垂らして枕を濡らした事を謝って欲しいね﹂
﹁わたし、⋮⋮蹴ったの?﹂
﹁膝が脇腹にめり込んだよ。晩ご飯食べてなくてよかったよ﹂
﹁⋮⋮わたし、よだれ︱︱﹂
﹁出てた。僕のご飯も食べたのに、夢でもご飯食べていたのかしら
ないけど、冷たかった﹂
515
﹁︱︱ごめんなさい﹂
﹁よろしい。じゃあ靴拾って﹂
ブーツ
偉そうに頷いたランタンはベッドに尻餅をつくように座って、リ
リオンが揃えてベッドの足元に置いた戦闘靴に足を通した。リラッ
クスするためにゆるゆるだった靴紐をきつく締め直し、爪先で地面
を二度ノックした。
﹁さ、行くよ﹂
﹁うん﹂
リリオンの尻を叩いて、忘れ物がないことを確認して宿を出た。
かどわ
まだ不審な人影は見当たらない。
さて拐かされようじゃないか、とランタンは表情に出さずに冷た
く笑った。
通りで少しだけ買い食いしながらぶらぶらと散策し、適当に入っ
た魔道薬局で所持重量を減らすように買い物をする。金貨と魔道薬
の交換。魔道薬はグラム当たり金より高価で、物によっては腐るよ
うなこともないので今回使う機会がなくても問題はない。もっとも
金貨は純金ではなかったが、それでも。
購入する時に店内で服用する事を伝えると店主は頼んだ品を銀の
ぬる
ぬめ
杯に注いでくれる。液剤の満たされた杯をかちんと鳴らして、二人
揃って一気に呷った。温く、喉越しが滑っているが口当たりは気体
を飲んだように軽い。レモンフレーバーのおかげでいくらか飲みや
すいが、味が美味いというわけではない。喉に苦みがへばり付いて
いた。唇からは杯を外すと二人揃って眉を顰める。顔を見合わせて
苦笑した。
それは毒物への耐性を向上させる薬だ。カルレロ・ファミリーの
扱う薬物は大抵は陶酔感や多幸感をもたらす麻薬であったが、それ
以外の毒劇物の売買も確認されているとテスが教えてくれた。
ランタンの探索者として強化された身体機能は毒物への耐性へも
及んでいるが過信は出来ない。リリオンに至ってはどれほどのもの
か判らない。耐毒薬は一杯で二四時間から四八時間程度、服用者の
516
有害物質に対する免疫機能を向上させる効果がある。これから襲撃
が起こるのならば充分すぎる効果時間だった。
ランタンは店主に杯を返却した。リリオンは隣で後味を洗い流す
ように水筒から水を飲んでいる。ランタンは時計に目を落とした。
時刻は一四時。物珍しげに薬品を眺めるリリオンと店内を冷やかし
ていたせいもあってテスとの約束の時間が迫っていた。
ランタンはリリオンの手を引いて薬局を後にすると、時間を調整
するように道を選びながら上街と下街を分かつ門までやって来た。
いさ
辺りを見回そうとするリリオンの手を強く握りしめて、その行動を
諫める。
薬局からきっちり三〇分歩いた。リリオンはおろかランタンさえ
も感知することが出来ないが、どこからかテスが二人を見守って、
二人に危険が迫ったら合流する手筈になっている。
本当に見守っているのか不安になるほど完璧な隠行だが、ランタ
ンは足を止めずに門を潜り抜けた。
﹁テスさん、どこにいるんだろうね﹂
﹁どっかにいるでしょ? 全っ然、気配探れないけど﹂
﹁ねぇ、うしろ振り返ってみてもいい?﹂
適当に雑談をしながら下街の廃墟じみた街並みを歩く。リリオン
がランタンの手をちょんちょんと引っ張って、そっとランタンの表
情を窺った。
﹁なにリリオン、怖いの?﹂
﹁こわくないわ﹂
ランタンが意地悪そうな顔つきで言うと、リリオンは間髪入れず
に言い返した。小声でしか話せないので、その分ランタンの手を強
く握った。手の甲がぎしぎし軋む。
﹁怖がってもいいんだよ?﹂
﹁こわくないわよ。⋮⋮だってランタンが守ってくれるんでしょう
?﹂
頬を膨らませ、唇を尖らせたリリオンが拗ねるように呟いて、そ
517
れから疑いの一つもない澄んだ瞳でランタンをじっと見つめながら
続けた。
﹁そうだよ﹂
ランタンは一呼吸も置かずに頷いて、その吸い込まれそうな瞳に
映った己から目を逸らした。
なるほどこれはなかなか大変なことだ、とランタンは今更ながら
にこれから行うべき事を再確認してゆっくりと深呼吸をした。
有象無象の薬物中毒者とそれを統率する悪党を撃滅するのではな
く、傷つきやすく繊細なこの少女の不安を払わなければならないの
だ。例えばこうやって手を繋いで歩かなくても済むように。
﹁ランタンのことは、わたしが守ってあげるからね﹂
﹁どうもありがとう﹂
ランタンが呟くと、リリオンはしてやったりと微笑んで、それか
いっとき
ら手を離し、腕を組んで肩を寄せた。守るとか守られるとかは別の
問題として、ただ一時だけ、甘えるように。
目抜き通りをふらふら歩いて、左右に立ち並ぶ露天を覗き込むよ
うに足を止めると、気のせいか複数人が少し離れた露天で同じよう
に足を止めた、ような気がした。
ランタンは繋いだ手の指先を少し動かしてリリオンの手の甲を擽
る。
﹁んっ﹂
妙に色っぽい声を出したリリオンに不意打ちを食らわされて再び
歩き出すと、その立ち止まった中でさらに数人だけが同じように歩
き出した。ただの偶然かもしれないし、そうでないのかもしれない。
﹁どっちかな?﹂
・ ・ ・
﹁んー、釣れたっぽいような気もする﹂
ふるいに掛けるように、人混みから次第に人気の少ない方へと足
を進める。ついてくる者もいるし、こない者もいる。そしてこない
者に入れ替わるように、どこからか姿を現した者もいた。
さほど索敵能力の高くないランタンにさえ明確に、その存在感を
518
露わにして。
﹁これはあたりだね﹂
﹁どうするの?﹂
﹁予定通りに進めるよ﹂
後をつけている者は、隠行技能が低くその存在を現したと言うよ
りは、あえてランタンたちに自らの存在を見せつけているようだっ
た。獲物を追い立てるように、いかにも恐ろしげな雰囲気で。
ランタンは喉を震わせて、低く笑った。
猟犬が獲物を追い立てることが出来るのは、獲物にとって猟犬が
脅威であるからだ。臭いであれ、足音であれ、吠え声であれそれに
みなぎ
恐怖を感じて、自らの意思に関係なく本能的に逃げ出す。
だがランタンはその敵意漲る追い立て役たちを半ば無視して自ら
の意思を以て人気のない方へとどんどんと足を進めた。
辿り着いたのは開けた場所だ。左右には殆ど建物がなく、あった
としてもどうして崩壊していないのか不思議なほどの廃屋が幾つか
あるだけで、弓男が姿を隠すとするのならば正面にある四階建ての
見張り塔しかないとうい有様の。
﹁なんとも好都合な﹂
思わず呟いたランタンにリリオンがきょとんと首を傾げた。テス
から指定された場所は相手が身を潜める影が限定されていて、あつ
らえたようにさっぱりしている。
遮る物のない灰色の風景が、日の光を反射して落ち着いた白色に
輝いている。吹く風がほんわか暖かくて穏やかだ。天気も良いしお
弁当でも持ってくればよかったな、とランタンは思った。
﹁さあて﹂
ランタンが呟くと、リリオンがその意図をくみ取ったように、け
れども名残惜しげに組んでいた腕を外して、真っ青な空に手を伸ば
すように大きく背伸びをした。それに倣ってランタンも大きくあく
びをしてみせた。
待ち伏せはあの廃屋の影に潜んでいるだろうか。追い立て役は、
519
自らの思い通りに追い立てられたと考えているだろうか。弓男はき
ちんと先回りしてあの塔に籠もっているだろうか。
︱︱いるな。
見張り塔から真っ直ぐに、矢のような殺意が撃ち込まれている。
身に覚えはないが、随分と嫌われたものだ。ランタンは呆れたよう
に苦笑した。どうとも思っていない相手に嫌われようともランタン
にはこれっぽっちも関係のない話である。居ることが判れば充分だ。
﹁リリオン﹂
﹁⋮⋮もうっ、わたしなら大丈夫よ。こわくないの﹂
リリオンが人差し指でランタンの唇にちょんと触った。心配性の
しばたた
小うるさい少年を黙らせるにはそれで充分だった。押し黙ったラン
タンにリリオンが笑いかけて、ランタンは驚いたように目を瞬かせ
た。
人の気配が増える。まるで小さな石を持ち上げたら、思いの外大
量の虫が蠢くように。
誘い込みは充分と思っているのだろう。この辺りからが弓男の射
程内なのだ。ぴりっと殺意が濃くなった。
背後から追い立て役が合流して一塊の集団を形成し、そして左右
の廃屋の影から、追加の集団が二つ。あっという間に三方向から囲
まれてしまった。包囲網を狭められれば、いかにも絶体絶命である。
ざっと見ただけで五〇人は超えているようだが、その全てが薬物
中毒者というわけではないようだ。中毒者を管理する人間、おそら
くカルレロ・ファミリーの構成員が何名か紛れ込んでいる。集団は
まるで優等生のようにきちんと徒党を組んでいる。
ローブ
それは身体を大きく見せるために寄り集まった魚群のようにも見
えた。その中に貫衣のものと思わしき気配はない。牛頭の姿も見え
ない。
最大戦力が用いられていないのは侮られているからか、それとも
別の理由か。
じゃらりと抜剣する音が響いた。これは明確な攻撃意思の表示だ。
520
これで反撃したからと言ってランタンたちが罪に問われることはな
い。それを目撃する人間がいなくとも、建前は大切にしなくてはな
らない。
﹁囲まれるのは面倒くさいな﹂
笑顔を消したランタンがそっとリリオンに囁いた。
﹁どっちに行く?﹂
﹁後ろかな﹂
ランタンがそう言うと、リリオンは一度胸を膨らませて、息を全
て吐ききった。身体の中にある余分なものを排出して、再び吸い込
まないように少し息を止めて、それから口を開いた。
﹁わたしが行くわ﹂
﹁うん、任せた。真っ直ぐ突っ切れ、まずは蹴散らすだけでいい。
背中は︱︱僕に任せて﹂
﹁うん﹂
リリオンは立ち止まった瞬間に振り向いて、走り出すと同時に盾
を構えた。それに一つ遅れて斜め前から接近していた集団が色めき
だって一斉に駆けだしてきたが、あまりにも遅すぎた。気をつける
べきは弓男だけだが、そちらからも矢が射られることはない。
せっかく格好良く決めたのに役に立たない弓男だ、とランタンは
一人ぶつぶつと口の中で不満を呟く。その不満を呼び水にするよう
に、腹の中で大人しくしていた欲求が足並みを揃えて迫り上がって
きた。そしてリリオンが真っ直ぐ突き進むのを羨ましげに眺めてい
る。
がいしゅういっしょく
﹁はあぁっ!﹂
シャチ
鎧袖一触に十数名からなる男たちが蹴散らされた。小魚の群れに
鯱が突っ込んで蹂躙するように。リリオンは速度を落とすことなく、
男に臆することなく真っ直ぐと突き進み、そして突き抜けて足を止
めると振り返った。
その目に映るランタンは死に神のように悠然と戦槌を振り回して
いる。群れは左右に分割されて、真っ直ぐ一本道ができあがってい
521
るというのに、わざわざ片方により道をして混乱してる男たちの頭
を砕いて回っていた。戦槌を濡らす血を振り払って、ようやくリリ
オンに追いつく艶然と笑った。
﹁沢山、引く、七人。残りは幾つ?﹂
ランタンは歌うように尋ねた。リリオンは盾から剣を引き抜く。
﹁⋮⋮いっぱい﹂
﹁うん、気を抜かずに行こう﹂
こな
ランタンは高揚感を感じていたが、実のところ少しだけ恐怖も感
じていることを自覚していた。今までも荒事をそこそこ熟している
がこれだけの人間を相手をするのは初めてだ。そして奔流のように
思考を塗り替えようとする陶酔感。暴力へと言うべきか、力を振る
うことと言うべきか。
何にせよこれに身を任せるには危険だと七名の命を代償に悟った。
あるいはそれは気持ちの悪さだったのかもしれない。
﹁さて﹂
自己の葛藤を解決するのは後回しだ、とランタンはさっさと思考
を切り替えて戦槌を構えた。どんな答えであれやるべき事はそう変
わらない。リリオンを守ること、それが最も重要なことだ。
男たちが向かってくる。
囲むことを諦めたのか群れが集まり一つになって、より巨大な群
しらふ
れとなって二人を食い散らそうと向かってきた。
群れの中に何名か素面の者も居るが、やはり殆どが薬物中毒者の
ようだ。だが前回とは違い、身なりがかなりマシである。極端に痩
せている者はおらず、そこいらにいる健康な破落戸とたいした違い
はなかった。
ただ酷く興奮しているようで目が血走っており、やたら滅多らに
叫び声を上げて剣を振り回している様は共通している。興奮剤か覚
醒剤のたぐいをキメているのだろう。七名の死体を見ても恐怖を感
じず、むしろより興奮したように暴力への喜びに身を委ねている。
自らの欲求に逆らわない勝手気ままなその様子を見て、だがラン
522
タンは羨ましいとは思わなかった。ああはなりたくないな、とラン
タンは自省を込めてその姿を見つめた。
彼らの敵意はリリオンへも向いている。リリオンを無傷で捕らえ
ることを不可能だと、そう理解したのだろうか。あるいは教育を施
す時間が足りないのか。
そのぎらついた瞳にランタンは舌打ちを一つ吐き出して、血の臭
いに酔う肉食魚の群れへと飛び込んでいった。
男たちは密集して、互いが互いを傷つけ合うことも気にせずに剣
を振り回している。
﹁ふっ﹂
ランタンが戦槌を閃かせると、男たちの腕が砕け、胴が陥没し、
フレッシュ
ゾンビ
頭蓋が割れた。痛みさえも快楽か。腕が砕けただけでは男は止まら
ない。
ランタンは新鮮な動死体のような男の噛み付きに蹴りを食らわせ
て、吹き飛んだその男に入れ替わるように向かってきた男の刺突を
仰け反るように躱した。だが予想以上に鋭い突き込みに、ふわりと
浮いた前髪が数本切り取られた。動きがいい。ランタンは前回の戦
闘の記憶を脇にどかして意識を改めた。
ランタンは仰け反った勢いのまま地面を蹴って宙返りするように
距離を取った。天地が逆さまになったその瞬間、腹筋をねじ切るよ
うに身体を捻り戦槌を振るった。そして飛来した矢を叩き折った。
前にも見た高級そうな黒い矢だ。
﹁茶色だったかな﹂
着地したランタンはぽつりと呟いた。手がじいんと痺れている。
連射性よりも、一射の強さを取ったのだろうか。着地の瞬間に追撃
があるかと気をつけていたが、そこに二射目はなく弓男は再び沈黙
した。相変わらず刺し貫くような殺意をランタンに向けながら。
それを鬱陶しく思いながらもランタンは視線を動かした。
先ほどランタンが居た敵の群れ、その中にリリオンが居た。
﹁うわぁ⋮⋮﹂
523
そしてそれを見てランタンが思わず声を漏らした。既視感があっ
たが、それよりも酷い。
右から左へと薙ぎ払われた大剣が一度に五人の男を両断したのだ。
残された下半身が地面に棒立ちになっており、投げ出された上半身
が大量の落とし物をしながら錐もみ回転している。青空を汚すかの
ように。
頬を引きつらせたランタンは靴底に爆発を起こして一瞬でリリオ
ンに接近すると、その捻られた細腰に抱きつき、再び爆発を巻き起
こして吹っ飛ぶように後退した。
﹁きゃあ!﹂
急に後ろに引きずられたリリオンが悲鳴を上げたがランタンは無
視した。緊急事態だった。
﹁ぎりぎりせーふ!﹂
ランタンは命の危機を脱したように大げさな安堵の溜め息を吐き
出した。
先ほどリリオンが立っていた場所に血と内臓と、そして汚物の雨
が降っているのだ。血の臭いだけでも相当なのだが、それ以上の異
臭が漂ってリリオンがよやく何が起こったのか気がついて乾いた笑
いを漏らした。あと一歩遅ければ別の物を漏らしたような悲惨な有
様になっていただろう。笑い事ではない。
﹁戦線を上げるよ。あれの風上に﹂
﹁爆発でどうにか出来ないの?﹂
﹁できないし、しない、したくない﹂
一瞬で焼却してしまえば臭いも何もかもなくなるかもしれなかっ
たが、その為にはあの汚物の中に戦槌を叩きつけなければならない。
そんなことは何が何でもしたくはなかった。少し怒ったように宣言
したランタンに、リリオンが虎の尾を踏んだような顔つきでコクコ
クと頷いた。
リリオンの剣撃に仰け反った男たちが、鼓舞するような声を上げ
て動き出した。場所を変えたいが弓男に背を向けたくはないし、可
524
能ならば真正面に見据えていたい。だがそれは難しそうだ。
薬物中毒者たちは逃げれば追ってくるので誘導することは容易い
が、素面の者たちはさすがにそうはいかなかった。それに薬物中毒
者たちを誘導することに掛けては、相手の方が数段上だろう。辺り
に転がる死体は薬物中毒者の死体ばかりで、素面の者たちは彼らを
盾にして隙を窺っている。
仕方がない。臭気を防ぐことは出来ないが、矢はどうとでも出来
る。弓男の正面は諦めてランタンは円を描くように相手の左側面に
回り込んだ。リリオンへの射線は構えた盾によって大部分が遮られ
ている。弓男の精密射撃を思えば嫌がらせ程度だろうがないよりマ
シだ。
残っている敵戦力は三十名強。素面は十名に満たないだろう。だ
んだんと薬物中毒者の盾は剥がれ落ちていっている。だが、まず積
極的に向かってくる薬物中毒者を排除しなければならない。
ランタンは突っ込んでくる一人を打ち払い、その男を目隠しに使
うようにその動脈を切断しながら突き込まれた剣を躱した。素面も
前に出てきてはいるようだ。ランタンは手首を返して打ち払った男
を鶴嘴に引っかけると、それを振り回して素面に巻き込んだ。
﹁くそがっ!﹂
下品な声に野次られたが、ランタンはそれを無視して死体に巻き
込まれた素面の頭を砕こうとした。だが別の薬物中毒者が素面を守
った。まるで犬がじゃれつくように。ランタンの戦槌は素面の頭蓋
骨の代わりに、薬物中毒者の背骨を砕いた。素面は既に攻撃圏外に
いる。ランタンは嫌がらせに背骨の折れた男をその素面の方へと蹴
り飛ばした。
﹁くそがあぁぁっ!!﹂
こっちの台詞だ。ランタンは鼻で笑いながら側に居る男を次々に
屠った。この場でランタンの戦槌よりも硬質な物は何一つとして存
在しなかった。
戦槌を一つ振るえば剣が割れて、骨が折れた。胴を薙げば内臓が
525
破裂し、砕けた骨が中身を掻き回した。首から上はどこに当たって
も衝撃で何もかもが弾け飛んで、それに怯えた素面、後ずさった男
をランタンは鶴嘴に引っかけて引き寄せると、その勢いで膝の関節
を逆方向に踏み折った。
絶叫を上げ崩れ落ちる男に向かって矢が射られたが、ランタンは
それを打ち落とした。五十余名中でまともに口がきけそうな人間は
貴重なのだ。
﹁化け物めっ!﹂
どこかで誰かが叫んだ。誰も彼もが叫んでいた。
薬物中毒者たちは恐れを知らぬ獣のように苛烈であり、素面たち
の動きは破落戸のような喧嘩殺法ではなく、暴力を仕事にしている
者らしく獰猛に洗練された戦士のそれだった。だがランタンはそれ
以上だった。
まるで生者を冥府に誘うカボチャ頭の幽鬼のように、軽やかに戦
槌を振るい、無慈悲に命を砕いて舞い踊った。瞳に宿る橙の光が、
日差しの中でなお鮮烈に煌めいた。
リリオンはランタンへの信頼を胸に抱いて、恐れることなく男た
ちと対峙している。
先ほどのあれで少しだけ剣筋が大人しく、腹腔を切りつける事を
避けていたが、突っ込んでくるしか能のない薬物中毒者を切断する
には充分な威力を秘めていた。振り回される大剣と、巨大な鉄板に
リーチ
等しい方盾は暴風そのものだった。すらりとしたリリオンの細腕と、
冗談のように片腕で振るわれる大剣の射程は男たちの倍はあった。
接近してしまえば、と考える者もいたがランタンが絶妙にそれをさ
せなかった。
それは偶然だったのだろうがリリオンが振り回した方盾が巻き起
こした風に、飛来した矢が煽られ、勢いを失い無残にも落下する様
にランタンは思わず笑ってしまう。馬鹿げた膂力だ。
そんなランタンに次々に矢が撃ち込まれた。まるでランタンの笑
みに苛立ったように、とびきりの憎悪を込めて。ランタンは咄嗟に
526
マント
薬物中毒者を引き寄せて、それを盾にした。だが軟らかな肉の盾を
ほつ
矢はあっさりと貫通して、ランタンは外套を翻らせてその矢を逸ら
した。外套が少し解れたことに、ランタンは嫌な顔をした。瞳の炎
がふつ消えて、茶色の瞳が拗ねた子供のような眼差しを作った。
﹁なんだよ、くそっ!﹂
﹁こっちの台詞だよ、まったく﹂
あっという間にぴったり十名に数を減らした男たちが叫んだ。膝
はた
を砕いて、あえいでいる素面を入れれば十一名か。ランタンは外套
を叩きながら、冷たく呟いた。
﹁話が違ぇっ! くそがっ、あの野郎っ、話がっ︱︱﹂
そうやって駄々をこねれば許されるとでも思っているのだろうか、
まるで示しを合わせたように男たちが戦うことをやめた。薬物中毒
者までもが罵倒を始めた。ランタンに、リリオンに、そしてバラク
ロフに。
ごちゃ
ランタンはそんな中でぴょんとリリオンに近づいた。死体や血だ
まぜ
まりを避けるのが大変だ。辺りは地獄の様相だった。人間族亜人族
混合の四十余名からなる死体が散らばって、灰色の地面を赤黒く汚
している。血の臭い、死の臭いが渦巻いている。
ランタンはノックするようにリリオンの盾を叩いた。その瞬間に
再び矢が射られた。ランタンは自分に向けられた一つを叩き落とし、
叫んでいた男のこめかみに一つが突き刺さるのを見た。
﹁あーらら﹂
ランタンが言うと同時に男たちが脱兎の如く逃げ出し、そこへさ
らに矢が射られた。ランタンは取り敢えず膝を砕いた一人だけでも
生かして捕らえておこうと、面倒くさそうにその男の前に立ちはだ
かってやった。
﹁あ﹂
﹁あっ!﹂
矢を打ち込まれた男たちは七名死んで、三名生き残っていた。視
線の先にいつの間にか人影があり、それが矢を切り払ったようだ。
527
フード
人影は頭巾付きの外套を羽織っており、顔を隠している。
﹁なんだてめぇはっ!﹂
生き残った男が、自らを助けたその人影に向かって叫んだ。人影
は朗々と言った。
・ ・ ・ ・
﹁いたいけな少年少女に、これほどの大人数を以て襲いかかるとは
不届き千万。たまたま通りかかった善良たる大人としてこれを見過
ごすわけにはいかない、決して﹂
ランタンとリリオン
﹁てめぇ、この状況を見て何を⋮⋮!!﹂
大人数の屍の中に立ち竦むいたいけな少年少女がぽかんとして人
影を見つめていた。助けられた男たちは声を震わせるほどに怒って
いる。人影はくふふと笑った。
﹁私がなんだと聞いたな﹂
あとずさ
人影は男たちに一歩にじり寄って続けた。
﹁なんなんだよ⋮⋮﹂
男たちが気圧されたように一歩後退り、あえぐように口を開いた。
人影が満足そうに頷く。
﹁︱︱正義さ﹂
正義の使者はそれだけ言うと問答無用に男たちをぶちのめした。
少年少女はあっけにとられて、正義の鉄槌が下される様を見てい
るしかなかった。そして悪い事はしないようにしよう、と深く心に
刻み込むのだった。
528
037
037
血なまぐさい場の空気を一気に掻っ攫っていった正義の使者は男
たちへボディブロウを叩き込み、その屈強な身体を折り畳んだかの
ようにくの字にぶち折った。そして汚いものでも払うようにその拳
を開いてさっと揺らした。するとそれが合図であったかのように、
呻き声も漏らす事も出来ずにどうにか立っていた男たちがぐしゃり
と崩れ落ちた。
弓男からの射撃は正義の使者が現れた時点で止んでいる。それど
ころかあれほど熱烈に放射されていた殺意がすっかり形を潜めて、
ただ肌に不快な残滓があるだけだった。
その不快さが呆気にとられていたランタンの意識を覚醒させた。
正義の使者がランタンを見つめ、顎をしゃくったかと思うと何かを
放り投げた。受け取るとそれは革の手錠だった。ランタンは頷き、
つ
振り向むいて膝を砕いた男を見た。
男は何か悪態を吐こうとしたが、歯がかちかちと鳴っただけだっ
ウォーハンマー
た。ランタンが無慈悲に男を蹴ると、男は奇妙な声で呻いて意識を
失った。仰向けに倒れた男を鶴嘴に引っかけて転がす。戦槌を振っ
て血糊を払い、それを腰に差し戻す。ランタンは後ろ手に男の腕を
拘束した。
それからリリオンに近づき、尻を引っぱたいて屍の地を抜けるよ
うに促した。ランタンは水たまりを避けるようにぴょんぴょんと跳
んで、リリオンは大股に歩きするりとそこを抜けた。
殺しも殺して四十余名。ランタンは自らの所行に薄ら寒くなった
が、リリオンは存外平気な顔をしている。ただ少しだけ正義の使者
が誰なのか本当に判っていないような、疑わしげな顔をしただけで。
529
フード
ざあざあと鳴いた風が、鉄臭い死臭を吹き流していった。正義の
かぶり
使者の頭巾がはたはたと揺らめいた。そこから犬鼻が突きだして覗
いている。
﹁ありがとうございます、助かりました﹂
ランタンは白々しく正義の使者に伝えた。正義の使者は頭を振り、
頭巾を脱ぐと牙を剥いて笑った。紛う事なき武装職員テスである。
前髪はいつものように垂らしていて、後ろ髪を髷のように結ってい
た。テスはいつも凜々しいが、それに加えて今日は男性的な雰囲気
の精悍さもあった。
﹁いや何、目に入った悪行狼藉を見過ごせなかっただけだ。人とし
て当然の事をしたまでさ。この行いにケチを付けるような人間がい
たら、それはきっと人の心を持たない冷酷な人でなしだろう﹂
テスも同じように台詞でも読むようにランタンに答えた。
襲われている子供たちをたまたま偶然に通りかかったテスが持ち
前の正義心に突き動かされてそれを助けた、とでも証明するように。
﹁テスさん!﹂
下手くそな芝居がかった二人のやり取りに疑問符を顔中に貼り付
けていたリリオンが、取り敢えずその疑問を驚きに変えて名を叫ん
だ。テスはリリオンに顔を向けると微笑んで、よくがんばったね、
と優しげな声音で伝えた。
﹁やぁリリオン、今日は随分とおめかししているね。よく似合って
いるよ﹂
褒められたリリオンは大いに喜び、そのおめかしを施したランタ
ンはなぜだか妙に気恥ずかしかった。ちらりと寄越されたリリオン
の視線をランタンは思わず気がつかない振りをした。テスがそんな
ランタンの顔を妙に真っ直ぐ見つめて、それから鷹揚に肩を竦めた。
﹁まったく、私の出る幕がなくなるところだったぞ﹂
危なくなったら合流する、とテスは言っていたが確かに危機感を
覚えるような場面は、あの腸内容物の雨に降られそうになったこと
は抜きにして、終ぞ無かった。
530
戦闘行動に忙しかったランタンにテスの事を考える余裕はなく、
どこかで乱入のタイミングを計っていたテスの事を想像して誤魔化
すような乾いた笑いを漏らした。あの場面で出てこなかったら、す
っかりテスを忘れ去って弓男を追いかけていたかもしれない。
現れたテスは探索者ギルドで見る事のある鎧姿ではない。腰に佩
いた二振りの剣だけは変わらずにそこにあったが、革系の暗色の軽
鎧に身を包んで外套を羽織っている。いつもの全身鎧を思うと随分
と身軽な格好だった。ランタンがそのことを尋ねるとテスは軽く肩
を竦めた。
﹁あれは支給品だからな。私用厳禁というわけではないが、如何せ
ん目立ちすぎる﹂
ああなるほど、とランタンは頷いた。確かにあの鎧、と言うべき
かあの犬面兜は自らが何者であるかを吹聴して回っているようなも
のだ。ギルド内ではまさにそれこそが目的なのだろうが、たしかに
この現場では悪目立ちするだけだった。
﹁さてこんな開けた場所で立ち話も何だ。取り敢えず屋根のあると
ころへ行こうか﹂
テスはそう言って親指を立てるようにして、弓男が潜んでいた見
張り塔を指さした。
ランタンは少しだけ困ったように辺りを見渡す。
﹁これらは、どうしますか?﹂
そこに散らばる屍は、それらを漁って戦利品を獲る事を躊躇わせ
るような酷い有様のものから、まるで眠っているかのように綺麗な
ものまで様々ある。屍から収奪できる金銭が惜しいというわけでは
なく、もしかしたら屍の懐の中に弓男の狙いを教えるような何かが
あるのではないかと思えた。
﹁ああ、そうだな。大丈夫だ、放っておけば良い﹂
ガード
・ ・ ・ ・
テスは屍を一瞥するそう呟き、その群れの中に足を進めた。
ドラッグ
﹁衛士隊がたまたま偶然ここを巡回する予定だからな。都市内に蔓
延る違法薬物を憂う衛士隊がね﹂
531
テスは後ろ手に拘束された男の首根っこを掴むと、面倒くさげに
ずるずるとそれを引っ張り出しながら言った。ランタンはぴくりと
片目を大きく開いて、リリオンが衛士隊と小さく繰り返した。
﹁ご友人ですか?﹂
ネズミ
ランタンが聞くと、テスはただ渋く笑うだけで肯定も否定もしな
かった。
﹁ま、それまでに大鼠共の餌になるかもしれんがね﹂
﹁これだけあれば、食べ残しも出そうですが﹂
﹁ふむ、そうかもしれん。だがせっかくこんな所まで来て残飯処理
ではかわいそうだな。一人残しておくか?﹂
﹁生きたまま食われるとも限りませんよ﹂
﹁まあ、その時はその時だ。せっかくランタンが生かしといてくれ
たのだが﹂
﹁あそこまで運ぶのは手間ですからね。別にかまいませんよ﹂
テスがぽいっとゴミを捨てるように男の首を手放した。膝の砕け
た男はランタンが弓男の矢から守り、テスが屍の中から引っ張り出
したが結局はここに捨て置く事となった。歩けないものを運ぶのは
面倒だから、と言うわけではなく、たまたま現れて後処理をしてく
れる衛士隊へのせめてものお礼である。
気絶した男が四人並ぶ様は屍が並ぶよりも妙な異様さがあった。
弛緩した表情が微笑むような穏やかさを醸し出しているからだろう
か。その表情が気持ち悪いとでも言うように、テスは次々に男をひ
っくり返して俯せにした。リリオンが一人それを手伝って、乱暴に
転がしたので男が呻いた。まるで汚い物を触るように触れたのは一
瞬だった。
﹁手伝え、ランタン﹂
そう言ってテスはランタンに手錠を渡した。リリオンに渡さなか
ったのはそれがテスの配慮だったのだろうが、リリオンは少しだけ
つまらなそうな表情を作って見せた。ランタンが男を拘束している
様を覗き込むように身体を屈めて眺めている。
532
﹁きつくない?﹂
﹁緩かったら手錠の意味ないよ﹂
ランタンが拘束した男の指が僅かに鬱血しているのを見てリリオ
ンが口を挟んだ。リリオンはその後も、痛そうだね、とか、外れな
いの、とかそんな事を聞いた。男を哀れんでいるのではなく、当た
り前の事だが緊縛に興味があるというわけでもない。ただ仲間はず
れにされるのを嫌がって、手が出せないならせめて口だけでもと言
うことなのだろう。
男たちを拘束し終えると彼らの武装を外した。高級品ではないが
粗悪品というわけでもない革や軽金属の鎧を剥ぎ取ると、いつ洗濯
したのか判らない衣服に包まれた鍛えられた身体があった。一人だ
け手首や肘の内側に注射痕があった。ぼやっとした紫色の痣。テス
はそれを睨んだ。
サイコロ
パイプ
さらに所持品を漁ると幾ばくかの銀貨と、よく判らない装飾品や
シリンダ
賽子、注射器や煙管などに混じってあからさまにうさんくさい薬物
があった。粉末と円筒容器に納められた液剤だ。液剤は薄く透ける
ような青色をしている。
テスはクンクンと鼻を振るわせて臭いを嗅ぎ、小指の先にちょん
と付着させるとそれを舐めた。
﹁粉末の方はよく解らんが、液剤は魔精薬だな。純度は低いが﹂
テスはそう言って地面に唾を吐いた。人によっては下品なと形容
される行動が妙に様になっている。
﹁リリオン、ダメだよ﹂
目を細めてちろりと小指を舐めたテスの仕草に何か感銘を受けた
のか、リリオンが真似をしようとしたのでそれを止めた。ちょっと
舐めるぐらいで身体に影響があるわけではないが、だからといって
それが薬物摂取を許可する理由にはならない。リリオンはむくれて
ランタンから視線を逸らすとテスに聞いた。
﹁どんな味ですか?﹂
﹁んー、そうだな。舌がちょっとぴりぴりするような味だ。美味く
533
はない﹂
﹁⋮⋮カルレロ・ファミリーの商品でしょうか?﹂
﹁魔精薬を製造できるほどの技術も施設も無いと思うが、どうだろ
うな﹂
魔精薬は広義の意味で言えば魔道薬と同じ物であると言えたが、
今では魔精精製薬の事のみを指す言葉となっている。魔道薬が様々
な薬原料に魔精を混ぜ込んで効果を上昇、変化させるのに対して、
魔精薬は魔精をそのまま薬に加工した物である。服用する事で意図
的に魔精酔いを起こしてトリップするというような使い方もあるが、
本来の使い方は魔道を行使することで失われる魔精の補充だ。だが
魔道使いよりも、魔精薬の使用率が高い者たちもいる。
魔物との戦闘や迷宮探索というような荒事をせずに身体能力を向
上させるためのドーピングに使うのだ。貴族が修練する事無く力を
入れるため、あるいは美貌を保つために。
魔精薬の取り扱いは難しく、高価な魔道薬と比べてもさらに高価
で流通量も少ない。純度が低いと言ってもただの破落戸が使用する
には過ぎた品である。
﹁これから聞けばいいさ﹂
テスは銀貨と薬物をしまい込むと、男たちに一撃ぶち込んで目覚
めさせた。ランタンには一瞬それがとどめを刺すように見えた。男
たちは苦痛に呻いて瞼を持ち上げると寝転がったまま辺りを見渡た
し、拘束されている事に気がつくとそれを外そうと暴れ、屍とラン
タンたちの姿を見つけてぎくりと身体を強張らせた。
何か叫ぼうとした瞬間にテスがその顎を蹴り飛ばし、ぞっとする
ほど冷たく言った。
﹁発言の許可はしていない﹂
それだけで男たちは揃いも揃って黙りこくった。テスは灰青色の
瞳に一人一人の姿を映して、見張り塔を指差した。
﹁立て、歩け﹂
男たちは後ろ手に拘束されたまま、芋虫のように身体を捩ってど
534
うにか起き上がると死刑囚が階段を上るような重い足取りで黙って
歩き出した。
﹁さて行こうか﹂
テスに促されて男たちの背中を眺めながらその後ろを着いて歩い
た。ランタンはあまり気にならなかったが、リリオンはのろのろと
した男たちの歩みに合わようとして変な歩き方になっていた。壊れ
かけたおもちゃのように左右の歩幅がちぐはぐだった。
﹁身体が重いようなら、余分な物を切り落としてやろうか﹂
テスが前を歩く男たちにそう告げると、男たちは今度は背中を鋒
で突かれたように慌てて速度を上げた。テスの言葉はただの脅しで
はなく、本当にそれをすることを確信させる獰猛な雰囲気があった。
速度を上げた男たちと一定の距離を保つためにテスとリリオンが
少しだけ歩調を速めて、ランタンだけが小走りになった。リリオン
が微笑みランタンの背中を押すように肩を抱いて、それを見たテス
が噛み殺すように笑った。ランタンはそっぽを向いた。
﹁止まれ﹂
見張り塔の前でテスが命令し、それからそっと内部を窺ってから
男たちを先に入れた。男たちはおっかなびっくり塔の中に入ったが、
彼らが恐れるような口封じの矢が撃ち込まれることはなかった。
弓男が潜んでいたと思われる見張り塔は堅牢な造りをしている。
壁が厚く、外から見る印象よりも内部は一回り狭い。内壁に沿うよ
うな螺旋階段があり、吹き抜けの天井までは二十メートルほどあり、
天井にロープも鎖も這わせていない空の滑車があった。ランタンは
何となくその天井に巨大な芋虫の姿を幻視して表情を濁した。
小さな窓が全方向を眺められるように一定間隔でぽつぽつと開い
ており、そこから入り込む陽光で薄い光が内部に漂っていたが、空
気は冷えていた。床には折れた矢が転がっている。埃っぽい床に足
跡もあったが、そこから情報を得られるような技能は持ち合わせて
いなかった。
塔内には静寂が満ちており立ち止まって天井に響いた足音がかき
535
消えると、息遣いが聞こえるようだった。
テスは男たちを壁際に並ばせると彼らを睥睨した。
右の人族は三〇歳ほどで、眉が太く、目が小さかった。唇を噛む
ようにして頑ななほどに口を結んでいる。真ん中の男は何かしらの
獣系亜人のようだったがランタンには何の動物かは判らなかった。
いたち
褐色の短い毛に覆われた皮膚を持ち、耳は丸形で、目が大きく顔は
小さく、少し鼬に似ていた。左は人族だったが、すでにだらだらと
汗を掻いて、瞳の焦点が合っていなかった。薬物の影響か、それと
もただの緊張かは判らない。荒い息遣いは耳に不快だった。
耐えきれぬ、とでも言うように左の男が喚きだした。
﹁俺は何も知らなかったんだ! あんたらがこんなに強いなんて!
! あいつに騙されたんだ! なぁいいだろう! あんたらは怪我
一つしてないじゃないか! 俺が何をしたって言うんだ! なあ見
逃してくれよ!! それを知っていたらあんたらを襲わなかった!
たのむ信じてくれ!﹂
支離滅裂なその言葉のそこに何を信じるべき物があるのか、テス
が冷笑しランタンは軽蔑の眼差しを向けた。男はさらに喚き、命乞
いのような物を吐き出して、そして唯一戸惑うような表情を作った
リリオンに卑屈な視線で縋った。
その瞬間にテスが動き、だがそれよりも早くランタンがその横を
駆けていった。
テスの横顔、その視線が刹那の瞬間交わった。驚きから、呆れた
ような笑み、そして頷き。リリオンに向けられた視線のあまりの下
劣さに、衝動的に動いたランタンはその全てを見透かしたような視
線に冷静さを取り戻し、テスへ感謝を捧げた。
その瞳は、やるんならきっちりと最後までやれ、と告げていた。
ランタンは腹を括って奥歯を噛みしめた。
ランタンの爪先が跳ね上がって、男の顔面に突き刺さった。
﹁ぐええぇっ⋮⋮!﹂
リリオンに向けられた瞳がぱちんと潰れた。男は絞り出したよう
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な悲鳴を上げて仰け反った。跳ね上がった爪先が下を向いて、蹴り
下ろされると男の左の鎖骨を割り折った。血の涙で男の顔が染まっ
た。ランタンは男の髪の毛を掴んで、血で汚れるのも厭わずに顔面
に膝蹴りをぶち込んだ。男の顔はのっぺらぼうのように平らになっ
て、髪がぶちぶちと千切れて崩れ落ちた。男は倒れ呻きながら身体
を痙攣させ手首が砕けそうなほどに手錠を軋ませ、ランタンから逃
げだそうと這いつくばった。
だがランタンは無情にその男を痛めつけ拳に血が跳ねて汚れたの
を、まるでお前の所為だと言うかのように男の脇腹に爪先を蹴り込
んだ。
見張り塔の天井高くまで喉を掻き破るような悲鳴が響いた。足の
裏を悲鳴を上げた男の喉にそっと乗せると、男はその意味を察しひ
っと一声漏らして砕けるほどに歯を噛んだ。
ひゅうひゅうと男の荒い息遣いだけが唇の隙間から漏れている。
ランタンはゆっくりと立ち竦む二人の男を見つめた。
男たちは恐怖と言うよりは、得体の知れない何かを目撃したよう
に表情を強張らせている。全身の筋肉を硬直させて、背中を預ける
壁と一体になろうとしていた。妙な動きをすればこの奇妙な生き物
の不興を買うとでも言うように。冷たく見つめるランタンの視線が
少しでも不満に染まれば、男たちはこの上ない友好の笑みを浮かべ
て、ランタンのために芸の一つでも披露したことだろう。
ランタンはそっとテスを見た。その時だけ瞳から冷たさが消えて、
うた
申し訳なさが湛えられていた。テスがそれを見てランタンにだけ判
るように頬を緩めた。そして後は任せろと瞳が謳った。目を伏せた
ランタンは芝居かかった仕草でポーチから端布を取り出すと、見せ
つけるように手を拭って、それをさも冷淡そうにぽいっと棄てた。
テスが踵を鳴らして一歩前に出る。
﹁なあ私は発言を許可したか?﹂
その一部始終を注視していた男たちにテスが低い声で語りかけた。
男たちは電撃を食らわされたように身体を震わせて、それから黙っ
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たまま大急ぎで首を横に振った。
﹁記憶力が良い、と言うことはとても、とても重要なことだな。く
ふふ、それが生死を分かつと言うこともある﹂
テスは静かに語っていた。ランタンはそれに耳を傾けながら、再
びテスの背後に控えた。リリオンがランタンの顔を見たので、ラン
タンは悪戯っぽく片目を閉じて答える。リリオンはほっとしたよう
に頬を緩めた。少しだけ怖がらせてしまったようだ。
﹁さて、では私の質問に答えてもらおうか。嘘偽り無く、正直に。
︱︱答えられなかったり、忘れたりするとあれの仲間入りだ﹂
脅し文句としてはこれ以上無い言葉だった。ランタンに壊された
男の姿は剣を突きつけるよりも確実に、男たちに恐怖をもたらした。
悪党たちはまるで教師の前で張り切る真面目な優等生のように、テ
スの質問に哀れなほど頑張って答えた。
男たちはカルレロ・ファミリーの構成員ではなく雇われた傭兵だ
バラクロフ
った。雇った者の名前は知らないと言っていたが、伝えられた容姿
から雇い主は弓男であると推測された。だが雇い主はカルレロ・フ
ァミリーの一員だと告げたようだ。
司書から与えられた情報ではバラクロフはまだただの探索者で、
ぎまん
犯罪組織と繋がりはあれどその一員ではなかった筈だ。傭兵たちに
伝えた言葉は欺瞞だったのかもしれないし、本当に一員になったか
もしれない。あるいは雇い主はバラクロフではないのかもしれない
が、その可能性は低いだろうと思えた。
雇われた傭兵は総勢で八名。カルレロ・ファミリー自体が傭兵集
団のような物のはずだが、どうやら自前の戦力を出し惜しみをした
ようだった。侮られたものだ、と思ったがランタンは表情を変えず
にいた。
・ ・ ・
襲撃に参加した者の多く、あの薬物中毒者たちはカルレロ・ファ
ミリーの上顧客であり、彼らへの報酬は薬物だった。その中に顧客
ウォーハンマー
たちの指示役である構成員が三名ほど紛れていたらしいがランタン
の戦槌によって骸となった。ランタンには全く覚えがなかったが、
538
ケダモノ
どうやら彼らは襲撃直前に服薬した魔精薬によって薬物中毒者と何
ら変わらない獣となったそうだ。
男たちが所持していた魔精薬は雇い主から、景気付けだ、と渡さ
れた物だった。服用しなかったのは転売を目論んだからだと言った
が、服薬した指示役の様子を見て怖じ気づいたのだとも付け加えた。
まるで自分たちが被害者でもあるかのように苦々しく。
彼らに与えられた依頼は、ガキと女の二人連れを襲え、女は多少
傷つけても良いが生け捕りにガキは何が何でも殺せ、とのことだっ
た。探索者のガキではなく、ただガキとだけ。傭兵たちにランタン
の情報を与えなかったのは、それにより傭兵が仕事を拒否する可能
性があったからだろうか。探索者を襲うのはハイリスクだ。
﹁がき?﹂
・ ・ ・
ランタンが小首を傾げて小さな声で繰り返すと男たちは慌てて、
しかし迷った挙げ句に絞り出すようにお子様と言い換えた。冷たく
見つめていたランタンの瞳に不愉快さがちらついて男たちが震えた。
﹁くふふ、言葉遣いには気をつけた方が良さそうだな﹂
﹁いえ、そうではなくて﹂
子供扱いに、実際子供ではあったが、神経を逆撫でされはしたが、
ランタンが言葉を繰り返した理由は別だった。
﹁何が何でも殺せ、ね?﹂
ランタンが尋ねると男たちは必死に首を縦に振った。
さら
そんなに憎悪を買うようなことをしただろうか、とランタンは眉
根を寄せた。雇い主と接点はリリオンを攫うことの邪魔をした、そ
の一つしか思い浮かばない。例えばその目的にランタンが邪魔なの
で排除しろと言うのは判るが、どうにも男たちの言い様を聞くと殺
害命令には私怨が混じっている気がしてならない。戦闘中にこの塔
から放射された殺意には執念のようなものすら感じさせた。
一体何故、と男たちに尋ねても無駄なのは判りきっている。なの
でランタンは自分の話はお終いにするようにテスに目線を送った。
余計な口を挟んでしまった、とランタンがこっそり恥じているとリ
539
リオンがこっそりと慰めてくれた。もしかしたら手持ちぶさたなの
で構って欲しいのかもしれない。
﹁︱︱それでこの子を狙った理由は﹂
と言っても女性を生け捕りにする理由などそれほど多くはなかっ
た。大方の予想通りに奴隷として売るのだと、男たちはそう聞かさ
れていた。
﹁それだけか? 他に何か言ってはいなかったか? 忘れてしまっ
たんじゃないだろうな﹂
テスが男たちから情報を絞りだそうとするように低い声で尋ねる。
男たちは喘ぐように口を開閉させ、左右に視線をきょろきょろと動
かして、まるで自らの脳を中を隅々まで探しているかのようだった。
﹁︱︱貴族だっ!﹂
獣亜人の方が叫ぶように言った。
﹁貴族に売ると言っていた! だがそれだけしか知らん! 本当な
んだ!﹂
テスは人族に視線を向けた。人族は絞り出すように呟いた。
﹁⋮⋮俺は、知らない。そんな話は聞いていない⋮⋮、ただ奴隷と
して売るとしか﹂
﹁︱︱嘘じゃないっ! 本当だ! オレはこいつより耳が良いんだ
っ!﹂
﹁へえ。他には何か、そのご自慢の耳で聞いてはいないのか?﹂
獣亜人の表情が歪んだ。
﹁本当なんだ⋮⋮! もうあいつは雇い主じゃない! オレたちを
殺そうとした! 庇う必要がどこにある!﹂
それもそうだな、とランタンは僅かばかりの哀れみを感じながら
男たちを見つめていた。口封じに殺されそうになって尚、その依頼
を守るような気概があるのならば悪党に使い捨てにされる傭兵にな
どなってはいないだろう。男たちはもう何も、本当に情報を持って
アジト
はいないのだ。
﹁あいつらの拠点にも案内する! だから頼む!﹂
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﹁ああそれならば必要ない。ここに籠もっていた雇い主とやらには
もう鈴を付けてある﹂
提案を一蹴したテスに男たちは驚いたが、ランタンはそれ以上に
驚いていた。驚嘆の声すら漏らすことなくただ静かに目を見開いた。
リリオンがそんなランタンと涼しげなテスを戸惑うように見比べて
いた。
﹁ふむ、もう言うべきことはないようだな。では死ぬといい﹂
テスはあっさりとそう言って剣を一振り抜いた。反りの無い細身
の刀身が濡れるような輝きを放っている。ランタンには美しく見え
るその剣も、男たちにはこの世の何よりも不吉でおぞましく感じた
がんしょく
のかもしれない。毛皮に覆われた獣亜人は零れそうな程に瞼を見開
いて、人族は顔色を失った。
﹁そんな! 正直に話したじゃないか、なんで⋮⋮!﹂
﹁何故、か。ふ、ふ、ふ。私の方が聞きたいね。︱︱悪を生かして
おく理由が、何かあるのか?﹂
男たちは答えられなかった。
一閃。
それは銀線ですらなく、ただ一瞬テスの手が揺らめいただけのよ
うに思えた。男たちは吊っていた糸が切られたかのように崩れ落ち
沈黙し、ランタンが壊した男さえも痛みに身悶えることもなくなっ
た。恐るべき早業だった。
ランタンはそれでようやく驚きから正気に引き戻された。テスが
剣を鞘に収めた。血を払うような仕草も見せずに、涼やかな鍔鳴り
を響かせて。
﹁殺してない⋮⋮?﹂
﹁まあな、殺したいところだが、⋮⋮残念ながらこれも衛士隊行き
だ﹂
テスがふんと鼻を鳴らした。残念ながら、と言った声音には心底
悔しがるような拗ねた響きがあった。
﹁ふぁぁ、すごい⋮⋮﹂
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リリオンがテスの妙技の感嘆に声を漏らした。他事に意識を取ら
れていたランタンには見えなかったテスの手捌きをリリオンは捉え
たのかもしれない。少女は瞼の裏にそれを繰り返すように、そっと
目を閉じて頬を押さえた。
おっしゃ
そんなリリオンはよそにランタンは聞いた。
﹁先ほど仰っていた鈴とは⋮⋮?﹂
﹁ああ、追わせてるんだバラクロフらしき弓の男を。そう言えば言
っていなかったな。攻め込むにしろ、そうでないにしろ拠点を割る
に越したことはないからな﹂
何でも無いようにそう答えたテスに、ランタンはリリオンのよう
な感嘆の声を漏らした。その間抜けな響きと、テスの用意周到さの
対比として強く自覚した己の無策さにランタンは恥じるように頬ご
と口を押さえた。
その様子を見てテスは腹を抱えて大笑いしたのでランタンは真っ
赤になって目を伏せた。
﹁あっ顔赤い! なになに、なにがあったの?﹂
陶酔から帰還したリリオンが赤くなったランタンを見て興味津々
に顔を近づけた。ランタンは顔の赤いままにそっぽを向いた。リリ
オンはその頬を指で突いた。まるで爆ぜる寸前の熟れたトマトに触
れるように、そっと。
﹁ねぇねぇ!﹂
﹁⋮⋮なんでもないよ﹂
ランタンは呻くように、どうにかそれだけを呟いた。
542
038
038
リリオンの顔を押し返して、胸一杯に息を吸い込み、ゆっくりと
身体に籠もった空気を吐き出した。ぽっと赤くなった頬が冷めて、
ただ耳の先っぽに熱の残滓があるばかりになったランタンは澄まし
た顔を作って見せた。
けれどテスがニヤニヤと笑って、リリオンがねぇねぇとしつこい。
どなた
ランタンはリリオンの鼻っ柱を摘まんでそれらを知らんぷりした。
空咳を一つ。
﹁︱︱それで、そのお手伝いをしてくださる方は何方なのでしょう。
もしかして司書さまでしょうか?﹂
ランタンがテスに尋ねると、テスよりも早くリリオンが鼻声で反
応した。
﹁お姉さまが来てるんですか?﹂
鼻を摘ままれたまま左右を見渡して司書の姿を探すリリオンは、
その反動で指の間から鼻が抜き取られて小さく悲鳴を漏らした。た
だ摘まんでいただけのランタンは、証拠を隠滅するようにこっそり
と指先をズボンで拭った。
﹁いやいや、残念ながらあいつは来ないよ。呼べばきっと来ただろ
うし、来たがっていたがね﹂
来たがっていたのか、とランタンはぼんやり思った。司書の姿、
と言っても全てがベールに包まれてはいたが、からは完全にインド
ア派の事務方の印象しかない。もしかしたら類は友を呼ぶと言うや
つなのだろうか。司書の職場も何だかんだと言っても物騒な職場で
はある。
﹁あれを荒事に誘って何かあったら私はすごく怒られてしまうから
543
な。まあバレなければ良いのかもしれんが、なかなか難しくてね﹂
やるせなさそうにテスは肩を竦めて、言い聞かせるようにリリオ
ンに微笑んだ。リリオンは鼻を手で押さえつけながら、少しばかり
寂しそうな顔つきでゆっくりと頷き納得してみせた。そしてランタ
ンに向き直り鼻を押さえた手を退かした。鼻が赤い。
﹁鼻が痛いわ﹂
﹁知らないよ、自分でぴってやったんでしょ?﹂
ランタンが素っ気なくリリオンを一蹴する。リリオンは寂しさを
誤魔化しているのか照れているような顔つきでランタンを睨んだ。
ランタンも負けじとそれを睨み返し、けれど結局は折れて、その赤
くなった鼻を甘やかな指使いで擽ってやった。リリオンが目を細め
てふにゃふにゃとよく判らない声を漏らして、くしゃみを一つ零し
た。
﹁くふふ、ランタンは悪い男だな﹂
﹁テスさんに斬られないように気をつけないといけませんね﹂
﹁︱︱くふ、ランタンを斬るのは中々骨だろうね。そんな面倒なこ
とをさせないでくれよ﹂
﹁ご期待に添えるようにがんばりますよ﹂
ランタンは端布でリリオンの鼻をかんでやりながら、テスに友好
的な微笑みを送った。
先の戦闘で手の内を全て晒したわけではないが、それでも恐るべ
き働きをしたランタンをどこからかテスは見ていたはずだ。だがそ
れでもテスにかかってしまえばランタンの相手は面倒の一言で済む
ほどなのだ。そうでなければ武装職員などやっていられないか、と
納得しつつもその底の知れ無さはなかなかに恐ろしかった。
﹁︱︱それでそのお手伝いさんは結局どなたなんですか?﹂
アジト
﹁ああ、くふふ、そうだな︱︱、困ったことがあるとりんりん泣い
て、私の所に飛んでくる可愛い鈴さ。住処を見つけたら戻ってくる
予定だから、紹介はその時にな﹂
ランタンとリリオンが揃って首を傾げると、テスは喉を震わせて
544
笑った。
﹁ま、勿体ぶることもないのだがね﹂
見張り塔の中は窓からの採光があったがそれでもやはり薄暗く、
床には三体の芋虫のごときものが転がっていて居心地が悪かったの
で外に出た。
三人は向日葵のように太陽に顔を向けて見張り塔に背を預け、リ
リオンを真ん中に置いて地面に座りその鈴が鳴り響くのを待ってい
た。
手持ちぶさたなので携帯食料のビスケットを囓る。その上にスラ
イスしたチーズや干し肉を乗せてやると、リリオンとテスがそれを
貪った。どうせなら火精結晶コンロも出して紅茶でも湧かしてやろ
うかな、とランタンは妙なのどかさに少しだけ呆れもしていた。ラ
ンタンは水筒から一口水を飲んだ。
﹁しかしバラクロフは何を考えているんだろうな﹂
呟いたテスの顔をリリオンが見つめた。
﹁数を揃えただけでは探索者をやれないことぐらい判りきった話だ
ろう。曲がりなりにもバラクロフも探索者なのだから。しかも二度
目だぞ﹂
﹁もう廃業してるんじゃないですか?﹂
・
ランタンが皮肉気に言うと、テスは大きく削ぎ落とした干し肉を
引き千切るように噛みきった。
・ ・ ・
﹁そうなのかもしれん。だがな、丙種のヒヨコ共ならまだしも、ラ
ンタンだぞ。傭兵に払った金はどぶに棄てたようなものだ﹂
﹁⋮⋮僕をただの、︱︱ガキ、だと思ったとか﹂
ランタンは謙遜することなく、しかし言いたくなさそうに言った。
テスは小さく笑ったが、リリオンは今度はランタンの方に振り向い
てその顔を覗き込んだ。なぜランタンが苦い顔をしているのか判ら
ないというような心配そうな顔つきで。
言うんじゃなかった、とランタンは唇を突き出した。
﹁それならば楽で良いのだがね。まあ狙いはリリオンだけではなく、
545
ランタンも、と言うことだ。気をつけることに越したことはない﹂
﹁たしかにそうですね。ふふふ、お揃いだったみたいね、リリオン﹂
ランタンは眉間に寄った皺を消して、心配そうな表情のリリオン
に向かって片目を閉じた。それから悪戯っぽく、いや、それは完全
に意地悪く頬を歪め、目を伏せて囁いた。それは悪魔の囁きだった。
﹁ごめんねリリオン、僕が狙われてるから迷惑掛けて﹂
﹁︱︱ランタンって、本当にいじわるっ! もう知らないっ!﹂
今朝のことを蒸し返したランタンにリリオンは叫ぶようにそう言
うと、少女は頬をぱっと赤くして両手で顔を覆った。事情を知らな
いテスは大声を上げたリリオンに驚いたように目を丸くして、ラン
タンはただ肩を揺らして笑った。
﹁あんまり苛めるんじゃない。まったく、これではランタンを斬る
日も近そうだな﹂
﹁おっといけない、そうでした。忘れたら、酷いことになっちゃい
ますね﹂
他人事のように言い放ったランタンにテスが呆れたような視線を
向けた。ランタンはそれを涼しい顔で受け止めて、指の隙間から睨
み付けてくるリリオンに悪魔のように優しい微笑みを送る。その睨
み付けてくる視線の延長線上にランタンはビスケットを差し出し、
厚くスライスしたチーズを乗せて、ポーチから秘蔵の小瓶を取り出
して琥珀色の甘いシロップをたっぷり垂らし、ビスケットでそれを
ねぶ
挟み込んだ。ランタンはそれ差し出したまま、指に垂れたシロップ
を見せつけるように舐った。
リリオンが飛び出してそれに齧り付いた。途端に頬が蕩けた。ち
ょろいな、とランタンはリリオンの口元から垂れるシロップを指で
掬い取って舐め取った。
﹁まったく、⋮⋮お、来たぞ﹂
テスが立ち上がり、尻尾と尻に拭いた汚れを払った。逆光で影に
塗りつぶされた輪郭があった。近づいてくると次第に色彩がはっき
りと浮かび上がる。
546
それはりんりんとは鳴らなかった。
﹁人を顎で使って自分らはピクニックかよ⋮⋮﹂
﹁お弁当と言うには素っ気ないですが、よかったらお一つどうぞ﹂
﹁ふん、いらねぇよ﹂
﹁それは残念﹂
テスと同じ狼人族の男である。全体的な容姿はテスによく似てい
たが、何もかもが一回り大きくて男性らしくがっしりとしていた。
マール
全身が真っ黒なテスとは違い、その男は黒い身体に幾筋かの青色や
灰色の混ざった大理石模様の毛並みをしている。
テスが可愛い鈴と称した人物がこれなのだろうが、現れて早々に
舌打ちをした自分の声は低く、唸るような響きがあった。リリオン
はランタンの背中に隠れてしまった。
ランタンは男に断られたビスケットをリリオンに渡してやり、ぺ
こりと男に向かってお辞儀をした。
﹁こんにちわ、はじめまして﹂
ランタンは余所行きの表情を作り友好的な微笑みを添えて男に挨
拶をした。男の灰青色の瞳は気味悪がるような色を湛えた。テスが、
挨拶、とぼそっと男に呟き尻を叩くと男は絞り出すように、よろし
く、と口に出した。テスがやれやれと溜め息を吐き出した。
﹁あー、ぶっきらぼうで悪いな。弟のジャックだ。道案内を頼んで
ある、まあ仲良くしてやってくれ﹂
テスがジャックの肩に手を掛けると、ジャックはつっけんどんに
それを振り払って背中を向けた。テスはその背中に軽く拳をぶつけ
て、ランタンたちに向かって肩を竦めてみせた。ランタンの位置か
ら微かに窺うことの出来るジャックの横顔が苦々しげに歪められた。
ランタンたちを嫌っていたり、道案内をするのが死ぬほど嫌なの
ではなく、姉であるテスに世話を焼かれるのが恥ずかしいのだ。亜
人種の年齢を推し量ることは難しいが、がっしりとした体つきと低
く響く声の印象よりも、本当は随分と若いのかもしれない。
﹁案内する、ついてこい。犯罪街の方だ﹂
547
マント
いちべつ
ジャックはちらりとランタンを一瞥して告げると、途端に走り出
フード
した。外套が風に吹かれるように棚引いた。走る姿が様になってい
て格好良い。
ランタンは頭巾を被り、リリオンにも顔を隠すように伝えてその
背中を追いかけた。
﹁まったく道案内だというのに、ちょっと行ってくる﹂
﹁別に構いませんよ﹂
﹁行っちゃった﹂
猛然とジャックを追走したテスをランタンたちも追いかけ、程な
く追いついた。
ジャックは後ろのことなど気にする様子もなく一定の速度で駆け
ている。外套に覆われた背中が大きく逆三角形だ。腰の辺りに二振
りの大型ナイフが交差させてあり、そのやや下のズボン穴から尻尾
が飛び出している。太股がズボンを引っ張るほど太く、テスとは違
い素足で、細くも見える足首から繋がるそれは獣の足だ。
テスが並んで走っていて、二人揃って同じように尻尾が揺れてい
る。テスの尻尾は毛足が長いがほっそりとした印象で、ジャックの
尻尾は中頃が膨らんで狐の尻尾に似ていた。
﹁上を通るぞ﹂
貧民街を目前とするとジャックの声が通り過ぎる風景のようにラ
ンタンの耳を掠めた。その瞬間ジャックはやや前傾姿勢になって加
速した。建物の壁を駆け上って屋根に登り、さらに速度を上げて走
った。テスも慣れたようにその背中を追って、ランタンとリリオン
が地面に取り残された。
﹁リリオン、おいで!﹂
ランタンは咄嗟に壁に背を預けて中腰になると、手を組んで差し
出した。リリオンがそこに足を掛けるとバネのようにリリオンを跳
ね上げた。武器や背嚢のせいもあって中々重いが、リリオン自体の
体重はまだ六〇キロあるかないかだろう。まだ細いなとランタンは
関係の無いことを考えながら、リリオンの差し出した手に捕まって
548
屋根へと上った。
﹁リリオンはまだ軽いね﹂
﹁あらランタンほどじゃないわ﹂
ジャックは屋根の上を走って随分と先に行っていた。テスがちら
りと振り返って早く来るようにと手を振った。屋根に上ると貧民街
の混沌とした街並みが靴底で伸ばされた汚れのように広がってみえ
る。ランタンたちは再び走り出した。
貧民街の路地は走るには狭くごちゃごちゃとしすぎている。ある
いはそれに加えて狼人族の鋭敏な嗅覚には些かキツい有機物の腐敗
した据えた臭いをジャックは嫌ったのかもしれない。ランタンもそ
バラック
れを好んで嗅ぎたいとは思わない。
背の低い掘っ建て小屋に素人大工が増改築を繰り返した多層建築
物は、要所要所を抜き出してみると無秩序で統一感のない悪趣味建
築のように思えたが、それ全体を眺めると貧民街全体が一戸の建物
であるかのような奇妙な一体感があった。
﹁わぁっ!﹂
﹁気をつけて。卵の殻よりも脆いよ﹂
屋根を踏み抜きそうになったリリオンが悲鳴を上げた。その穴か
ら何か声が聞こえたが罵声ではなかった。ここの住人にとって屋根
に穴が空くことぐらい別に驚くようなことではないのだろう。屋根
は場所によっては鳥の糞が落ちただけで穴が空きそうなほどだった。
速度を上げると屋根が片っ端からズタボロになってしまうのでラ
ンタンたちは中々ジャックに追いつけない。ランタンは貧民街から
急に反り立つように広がる犯罪街をキャンバスにして、先ほどより
も小さくなったジャックの背中を見つめた。更に離されてしまった。
﹁どうして待ってくれないのかしら?﹂
﹁⋮⋮おしっこを我慢してるんじゃないの﹂
﹁テスさんも?﹂
きょうだい
﹁︱︱あー、ジャックさんが一人でおしっこに行けないから、つい
て行ってあげるてるとか。姉弟だし﹂
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ランタンが適当なことを呟くとリリオンは、なるほど、と息の上
がった声で呟いた。実のところジャックがどういう意図でランタン
を置き去りにしているのかは判らないでもなかった。
久しぶりの感覚ではある。
ジャックは試しているのだ。同業者の少しばかり目立つ存在がど
れほどのものなのかを。このままでは拍子抜けさせてしまうかもし
れないな、とランタンは鼻を鳴らした。
﹁リリオン、僕の後ろを付いておいで。足跡を踏むように﹂
そう言ってランタンは速度を上げた。
時折、迷宮はその道程で牙を剥くことがある。落とし穴であった
り、高熱の蒸気を噴き出したり、壁が崩れたり、と天然の罠が潜ん
でいるのだ。それを見つけるのに比べたら、屋根の強度に当たりを
付けることぐらいは訳がない。加速して屋根はぎしぎしと軋んだが、
穴が空くことはない。
ランタンは少しずつジャックに近づいていった。もう少し速度を
上げても平気そうか、とランタンは背後のリリオンを窺った。リリ
オンはランタンの足元ばかりを見ている。
視線を前に戻すとジャックがちょうど屋根から飛び降りるのが見
えた。ゴールのようだ。
同じように飛び降りたテスの髪が吸い込まれるように屋根の下に
消えた瞬間にランタンは急に立ち止まり、突っ込んできたリリオン
を抱きとめると爆発を巻き起こして一気に加速した。屋根が爆風に
よりばらばらに吹き飛び、リリオンは悲鳴を上げることもできずに
・ ・ ・
ランタンにしがみついた。一足飛びに屋根から飛び降りると、そこ
で二秒弱ランタンたちを待っていた二人が目を見開いて驚いた。
ランタンはリリオンをそっと下ろして、柔らかく二人に微笑んだ。
﹁ずいぶんとお待たせしてしまったようで、お暇ではありませんで
したか?﹂
﹁⋮⋮いや、大丈夫だ﹂
頬を引きつらせるようにジャックが言って、テスが面白がるよう
550
に弟の顔をニヤニヤと見つめている。通り道にした建物から、何か
怒号のような声が響いている。テスは笑ったままランタンに視線を
移した。
ドラゴン
﹁随分と大きな音がしたな﹂
﹁本当ですね、竜種が糞でも落っことしたんじゃないですか? 大
変ですね﹂
ジャックはランタンから視線を逸らして、リリオンに目を向けた。
﹁そっちのは平気か?﹂
﹁はい、⋮⋮大丈夫です﹂
急加速に目を回していたリリオンが一度自分の頬を叩いてしっか
りとした口調で答えた。ジャックは小さく頷いて、身振りでついて
くるように示して歩き出した。
﹁ここからは歩きだ﹂
﹁それは良かった。僕は足が遅いので助かります﹂
ジャックは何も答えずに先頭を歩いた。
ちょうど犯罪街と貧民街の境辺りの道は、散歩をするには不向き
な不潔さと剣呑さが漂っている。道幅は二人並んで歩くのがギリギ
リで、左右の建物は泥を固めたような、廃材を集めたような、布を
吊ったようなと言う有様でその中にはうぞうぞとした人気の気配が
感じられた。じっとりと湿った品定めの視線が向けられている。
ランタンとリリオンの二人だけで歩いていたら、もしかしなくと
も襲われていたかもしれないが、先頭を歩くジャックの堂々たる佇
まいはそういった者たちにつけいる隙を与えなかった。なるほどこ
れは確かに鈴だ、とランタンは思った。危険を遠ざける魔除けの鈴。
肩で風を切って歩くジャックにランタンはそっと近づいた。
そしてそこに揺れる尻尾を不意に掴んだ。ジャックの膨らんだ尻
尾がランタンの手の中できゅうと圧縮される。空気をたっぷり含ん
でふかふかしている。掌がくすぐったい。
﹁うわぁっ! なんだよっ!?﹂
その途端ジャックは大声を上げて振り向き、自らの尻尾を取り上
551
げてランタンから守るように自分の手の中に抱きしめ、撫でた。握
り潰された尻尾はあっという間に元の大きさに戻った。
ぐるぐると喉を鳴らして睨むジャックにランタンは事も無げに伝
える。
﹁失礼﹂
まるですれ違いざまにたまたま肩がぶつかったように。
その堂々たる開き直りにテスが大笑いして、ジャックが言葉を失
った。気味悪がるようにランタンから視線を逸らすと少しだけ早足
になって再び歩き始めた。テスがどうにか笑いを納めてランタンに
振り返った
﹁くふふ、ランタンの好みはうちの弟みたいな奴なのか?﹂
﹁何を言っているのか判りませんが、触り心地の良さそうな尻尾だ
ラッキーチャーム
なとは思いました。実際ふかふかでとても良かったです﹂
そう言えば何らかの動物だか魔物だかの尻尾を幸運のお守りとし
て装飾品にしている探索者もいたな、とランタンはぼんやり考えた。
だがジャックの尻尾は持ち歩くには少し大きすぎる。
﹁私の尻尾は触らないのか?﹂
テスが自分の尻尾を持ち上げてランタンに向けて揺らして見せた。
﹁綺麗な尻尾だと思います。でも女性を急に触ったら変態じゃない
ですか、そんなことはしませんよ﹂
何を当たり前のことを、とランタンが最もらしく言うとジャック
の耳が痙攣するように震えた。鋼の忍耐力で振り向きたい衝動を抑
えていることが、強張った肩から見て取れる。
ランタンはテスにその漆黒の尻尾を触らせてもらいながら、比べ
るようにジャックの尻尾を眺めた。ジャックの尻尾は毛が細く綿毛
を思わせるようにふわふわしていたが、テスの尻尾はその濡れ羽色
の印象そのものに毛の一本一本がしっとりと瑞々しく、指の間を滑
るような艶やかな触り心地だった。
ランタンはうっとりと息を漏らした。
﹁これは、⋮⋮すごいです。すべすべだ﹂
552
﹁くふっ、そうだろう。ランタンもなかなか撫でるのが上手いな、
んふっ﹂
テスは満足気に頷く。ランタンが撫でるのをやめると、その指先
の後をなぞるように自らの手で一撫でした。それを見ていたリリオ
ンが小さく声を上げた。
﹁私もっ﹂
﹁ん、リリオンも触りたいのかい? ほうら触っても良いぞ﹂
﹁私も触っても良いのよっ、ランタンっ﹂
リリオンが二歩前に出てランタンの前に回り込み、尻尾を持ち上
げたテスを半ば無視するような形で、後ろ向きに歩きながらランタ
ンの顔を覗き込んだ。
テスは思わず自慢の尻尾を取り落として、リリオンの背後でジャ
ックがつまずき転び掛けた。ランタンは何とも言えないよう表情を
作って、リリオンはきらきらした視線をランタンに送っている。
ランタンはどうにか微笑みに見えなくもない曖昧な表情を取り繕
った。
﹁⋮⋮リリオンって尻尾ありましたっけ?﹂
﹁ないわよ、知ってるでしょ﹂
﹁⋮⋮じゃあ何を触ればいいの?﹂
﹁どこでも触っていいのよ﹂
﹁えーほんとにーまよっちゃうなー、⋮⋮バカっ!﹂
ランタンは照れたように小さく吐き出して、いつもならば尻を引
っ叩くところだがそれもせずに俯いてリリオンから視線を逸らした。
リリオンは身体を折り曲げてランタンの顔を覗き込んでいたが、く
るりとステップを踏んで半回転し隣に並んだ。ランタンの袖を小さ
く引っ張った。
﹁触らないの?﹂
﹁触りません﹂
﹁なんで?﹂
﹁⋮⋮尻尾がないから﹂
553
﹁お尻でもいいのよ?﹂
﹁ダメです﹂
﹁尻尾があったら触ってくれる?﹂
﹁尻尾は無い﹂
﹁︱︱尻尾ってどうやったら生えるのかしら?﹂
﹁さあ知らない。テスさんなら知ってるんじゃない?﹂
﹁ええっ、おいランタン、お前︱︱!?﹂
いい加減面倒くさくなったランタンは、教えてくれるってさ、と
ホラを吹いてテスにリリオンを丸投げにすると逃げ出すように小走
りでジャックの隣に並んだ。背後からテスが何か言っていたが、ラ
ンタンは無視して空を見上げた。左右の建物に削られた狭い青空だ。
いい天気である。
そんなランタンをジャックは姉と同じ色の灰青色の瞳で探るよう
に見つめた。その瞳に気づいてランタンは視線をゆっくりと下ろし
た。にっこりと笑う。
﹁⋮⋮なんだよ﹂
﹁はい、お詫びとお礼をしなければ、と思いまして。巻き込んでし
まって申し訳ありません。道案内ありがとうございます﹂
睫毛を伏せて目礼したランタンにジャックは一瞬だけ沈黙して、
太く息を吐き出した。溜め息と言うよりは、緊張から解放されたと
言うように。
﹁お前には関係ないから、別にいいよ。ねーちゃんに頼まれたから
やってるだけだし﹂
﹁それでも、ですよ。テスさんにもいつもお世話になってますし。
優しいお姉さんをお持ちで羨ましいです﹂
﹁優しい⋮⋮? ねーちゃんが?﹂
﹁ええ、とても。困っているところを助けて頂くばかりではなく、
こんな風にお力も貸して頂いて﹂
﹁ふん、ねーちゃんはただ単に自分が楽しみたいだけだろ。︱︱無
理矢理付き合わされる方にはいい迷惑だよ﹂
554
ジャックは口の中で小さく舌打ちを転がして、背後でリリオンに
翻弄されているテスを振り向きこそしなかったが気にしているよう
だった。ぎりぎりと牙を剥いて歯を軋ませたのは、何らかの苦々し
い過去を思い出したからだろうか。
たしかにテスの趣味に付き合う、あるいは付き合わされるのは酷
く骨の折れることだろう。テスは随分とジャックのことを可愛がっ
ているようだし、その愛情の分だけ苦労しているのかもしれない。
ランタンにしてみればテスは優しく格好のいいお姉さんという感
じだが、それはきっと他人事だからだろう。ランタンが一人納得し
ていると、その首根っこをテスが爪を立てて鷲掴みにした。
﹁⋮⋮何かありましたか、テスお姉さま﹂
﹁ほーう、そういう態度を取るのかランタン﹂
尖った爪がランタンの頸動脈に食い込んでいる。それでも涼しい
顔でしらばっくれるランタンをテスが不敵に笑いながら睨み付けて、
リリオンがおろおろとした。
ジャックが大きく溜め息を吐いて、姉の手首を握りしめてランタ
ンの首をその凶爪から救い出した。
﹁もう着いたぞ。ねーちゃんも落ち着けよ﹂
ジャックは呆れたようにそう言うと渋々ランタンを解放したテス
の手首を放した。
足音を殺してそっと進む。そこは貧民街から抜け出して、犯罪街
に一歩足を踏み入れただけの街の外れだった。うらぶれたと言うべ
きだろうか、外壁のくすんだ大きな倉庫が幾つか並んでいたが、い
くつかの倉庫はそのくすんだ壁さえもなかった。
そこに荷物を預けたくはないな、とランタンは思った。人の姿も
ないので犯罪街の連中も同じように思っているのかもしれない。あ
るいは完全にカルレロ・ファミリーの支配下にあるのか。
倉庫の影で手を振っている人の姿があった。
﹁やあ、おかえりジャック。早かったね、テスさんもお久しぶりで
す﹂
555
囁くように言った男が拳を差し出すとジャックが、おう、と親し
げに答えその拳に自らの拳をぶつけた。テスが、ああ久しぶり、と
手を上げて応える。
それは一見すると人族に見えたが、どうやら亜人族であるらしか
った。ランタンたちと同じように顔の横から生えた耳が髪の毛と同
じ赤褐色の短毛に覆われている。微笑むとぎざぎざの歯が並んでい
るのが見えた。ジャックとテスの二人への挨拶が済むと、ランタン
にさっと駆け寄って手を差し出した。その目は好奇心に満ちあふれ
て、無遠慮にランタンを眺め回している。
ランタンは気にした様子もなく握手をした。男の手の甲には耳と
同じように毛がびっしりと生えている。掌には毛がないが皮膚がや
や硬く、甲の毛並みはぴんと立っていてしっかりした手触りだった。
チームメイト
﹁わっ、本当にランタンだ。おー、はじめましてフリオ・カノだよ。
ジャックの探索仲間。よろしく﹂
﹁はじめまして。ランタンです、でこっちがリリオン。今日はあり
がとうございます﹂
﹁⋮⋮はじめまして﹂
リリオンが恥ずかしがるようにランタンの背中に隠れて小さく会
釈した。フリオは気にした様子もなく人懐っこそうににっこりと目
を細める。そしてじっとランタンを見つめる瞳の色は濃い茶色をし
ている。そこには不躾と言うよりは明け透けと言うべき清々しさが
あった。野生動物が未知の物体を突っついたり臭いを嗅いだりする
時の目付きだ。
﹁本当は色々と話したいところ何だけど︱︱﹂
﹁探索者同士親交を深めるのもいいが、それはまたの機会に頼む。
目標はあの倉庫か?﹂
テスがフリオに尋ねると、フリオは握手を解いて頷いた。
こっそりと影から顔を出して覗き込むと、その倉庫の前には二人
の男が突っ立っていた。腰に剣を差して、倉庫の扉に背を預けいる。
何ともだらけた様子だが見張りなのだろう。さぼっていると言うよ
556
りは、それは取り残されてふて腐れているようにも見えた。倉庫の
中でパーティでもしているのかもしれない、と思わせるような。
﹁ええ隠れてついてく必要も無いぐらい、一目散に逃げ込んで音沙
汰無しです。すっげーキレまくってましたけどね﹂
そう言ってフリオは軽く肩を竦めた。その時の様子を思い出した
のだろうか、わざとらしく肩を押さえて震えて見せた。怖がってい
るのか、馬鹿にしているのか。
﹁とは言え、他に抜け道もなさそうだし、入り口はあの正面だけっ
ぽいですからね。呼びかけても出てきてくれるかどうか、あはは。
機嫌が悪い時ってあんまり人に会いたくないですからね、ねジャッ
ク?﹂
﹁︱︱知らん﹂
ジャックは腕を組んで、ふん、と鼻を鳴らした。
﹁それで、ええっと今更なのですけど、お尋ねしても?﹂
﹁うん、何かな?﹂
フェイスチェンジ
﹁目標はエイン・バラクロフで間違いなさそうでしたか?﹂
﹁うん、そうだよ。容貌擬態してなければね。っていうか︱︱あれ、
ジャック伝えてなかったの?﹂
﹁⋮⋮あー、言ってない﹂
﹁せっかく調べたことも?﹂
呆れたようにフリオがジャックに視線を向けると、ジャックはむ
っつりと目を瞑って何も言わなかった。フリオが肩を揺らしてほく
そ笑んで、ジャックの代わりに照れたように髪を掻いた。
﹁何の話だ?﹂
テスはジャックとフリオのどちらともなく、有無を言わせないよ
うに尋ねる。フリオは一瞬だけジャックを盗み見たがジャックは目
を瞑って沈黙を保ったままだった。しかたないな、とフリオが代わ
りに答えた。
それはバラクロフについてだった。どうやら同業者に色々と尋ね
てくれたらしい。
557
﹁バラクロフは珍しい完全な後衛タイプの探索者だったみたいです
ね。探索班の主宰者ではなかったようですが、指揮を任されていた
ようです。多少独善的ではあったらしいですが、そこそこの指揮能
力と的確な援護射撃で割と優秀だったそうですよ。安全重視の慎重
な指揮をしていたようです﹂
慎重ね、とランタンはそれを聞きながら口の中で言葉を転がした。
仲間を捨て駒にすることや、口封じに撃つことは慎重さとは別問題
だ。
﹁ですが一度探索に失敗して、魔物に詰め寄られて、ばきんっと弓
チーム
をやられちゃってから変わったそうです。愛用の弓だったようで、
新しい弓に持ち替えてからはどうにも精彩を欠いて、探索班から負
傷者を出し、死者を出し、それがどうにも仲間を盾にしたとかで、
︱︱結果探索班から追い出されて、その探索班も解散して、⋮⋮そ
れからはもう迷宮に潜らなくなった、と。まあこんな所です﹂
慎重さが行きすぎて小胆になり、それが独善性ともに歪んだ自己
保身、自己愛へと変貌したのか。それとも追い詰められて化けの皮
が剥がれたのか。弓の技術に対する矜恃があったのか、その壊れた
弓自体に信仰にも似た思いを描いていたのか。
エイン・バラクロフ、乙種探索者、弓使い、とランタンは棒人間
のように薄っぺらい自らの知るバラクロフの輪郭に粘土を巻き付け
るように、新しく得た情報を纏わせてその姿を想像した。
﹁なるほど、わざわざありがとうなジャック﹂
テスがジャックの腕を力強く叩き、そして優しく撫でた。ジャッ
クはゆっくりと瞼を持ち上げて、ほんの小さく首を横に振った。
﹁ああ、いや、うん。あまり意味の無い情報だろ。どうせバラクロ
フじゃねーちゃんの相手にはならないし﹂
﹁いいや、助かるよ。これから斬る相手だ。どんな情報だってあり
がたいものさ﹂
にっと笑いかけるテスにジャックは眩しそうに目を細めた。
﹁あはは、テスさん。やっぱり今日、そのまま攻め込むんですか?﹂
558
フリオがそんなジャックにちょっかいをかけながら、ふと尋ねた。
テスは今更思い出したようにランタンへと視線を寄越した。
﹁ん、ああ、それもそうか。どうするよ、ランタン?﹂
﹁どうしましょうね。でもこのまま帰ったら本当にただのピクニッ
クになっちゃいますからね﹂
﹁うむ、そうだな。それも風光明媚な景色どころか、サンドイッチ
の一つも無いピクニックでは、あまりにもつまらない﹂
﹁⋮⋮あの中にはサンドイッチの代わりになる物はあるでしょうか
?﹂
﹁腹一杯にはなりそうだが、味の方の保証はできないな﹂
﹁リリオンは成長期のようですし、あまり変な物を食べさせたくな
いのでけどね﹂
ねえ、とランタンが背中に隠れるリリオンを引っ張り出すと、リ
リオンは小さく小首を傾げた。
﹁わたし嫌いな食べ物ないよ、⋮⋮少しお腹すいてるし﹂
﹁なるほど、それは素晴らしい。では決まりだな﹂
くくくく、と喉を震わせて笑い合うランタンとテスにリリオンが
きょとんとした視線を向けて、ジャックが、決まりも何も、と語尾
を小さく呟いた。テスがこきこきと首の骨を鳴らして、まるで宥め
るように剣の鞘を一つ撫でた。ランタンは蛇のように唇を舐める。
﹁︱︱ねーちゃん、俺も手伝おうか?﹂
﹁ん、別にいらんよ。ランタンもいることだし、お前らも来たら私
の取り分がなくなってしまうだろう﹂
﹁そーそー、ジャックもテスさんに褒められたいのは判るけどさ。
あはははは、俺ら探索者の相手は迷宮だよ。降りかかる火の粉は払
うべきだけど、わざわざ火の中に飛び込む必要はないね﹂
フリオは軽い口調で、けれどはっきりとジャックに伝えて、ラン
タンに同意を求めるように視線を送った。フリオの意見は尤もだ。
見ず知らずのランタンのために追跡役をやってくれて、これ以上を
望むことは申し訳が立たない。ランタンが頷くとフリオは愛嬌たっ
559
ぷりにウィンクして見せた。ランタンはそれを無視してジャックと
向かい合った。
﹁少しだけお姉さまをお借りしますね。傷一つ無く、すぐにお返し
しますので﹂
﹁おや、なんだ。つれないじゃないかランタン﹂
ジャックに向かっていったランタンに、テスが頭に手を置いてそ
の頭皮を揉むように撫でた。テスはそのままジャックに話しかけた。
﹁今日はありがとうな、おかげで随分と楽ができたよ﹂
ランタンの頭から手が離れ、そのままジャックの頭をくしゃくし
ゃと撫でる。ジャックはむっつりとしたままされるがままにしてい
る。それはフリオのウィンクよりもよっぽど可愛げがあってランタ
ンは笑うのを、下唇を噛んでどうにか堪えた。
﹁礼はまた今度にな﹂
﹁⋮⋮別に、いらねーよ﹂
﹁ははは、俺は欲しいな。期待してるんでよろしくお願いしますね。
きびす
では俺らはこれで。お三方ご武運をって、このメンツには余計なお
世話ですよね﹂
﹁お気持ちはありがたく頂きますよ。ほら、リリオン﹂
﹁⋮⋮ありがとうございました﹂
ランタンが促してリリオンがぺこりと頭を下げると、二人は踵を
返して足音も立てずに去って行った。
﹁優しい弟さんですね﹂
﹁くふふ、可愛いだろう。ま、二人にはちょっと負けるがな﹂
テスは照れたように微笑んで、二人の頭をぽんぽんと撫でた。そ
してすっと目を細めて真剣な表情を作った。
ローブ
﹁敵はあの中にいる。エイン・バラクロフ、フィデル・カルレロ、
カルレロ・ファミリー構成員五、六〇名等々、正体不明の貫衣やも
しかしたら他にも隠し球があるかもしれない﹂
﹁どう攻めましょうね。建物ごと潰しちゃいますか?﹂
あっさりそう言ったランタンにテスは呆れたような表情を作って
560
見せた。倉庫は中々の大きさで老朽化しているとは言え、それを崩
すのはなかなか骨の折れる仕事である。提案してはみたもののラン
タンの爆発だけでは火力不足だ。
﹁それはまた派手なことだが、あまり私好みではない﹂
﹁じゃあどうするんですか?﹂
﹁うむ、いい質問だなリリオン﹂
褒められたリリオンが喜び、けれどその言葉に聞こえる奇妙なほ
どに真っ直ぐ耳朶を打った響きにランタンは静かに覚悟を決めた。
﹁もちろん正面から入るに決まっている﹂
﹁ああ、やっぱり﹂
小さく呟いたランタンを無視して、テスは腰から剣を抜き放った。
﹁なぜ正義である我々がこそこそしなければらならないのだ﹂
なるほど完璧な理論だ、とランタンが己を納得させてリリオンが
まじめに深く頷いた。
その瞬間にはテスが倉庫の影から飛び出して、瞬きする暇も無く
一瞬で見張りとの距離をゼロにした。
うなじ
日差しに煌めいた二振りの白銀が、男たちの喉を抵抗なく刺し貫
き、そのまま脊椎を両断して項から鋒が飛び出した。男たちは自ら
の死を認識する暇も無く絶命した。
男たちがゆっくりと崩れ落ちると刀身がずるりと喉から抜き取ら
れて、けれどそこから血が溢れることがなく、ただ肺に溜まった空
気が抜けるような音がほんの僅かに風音に紛れただけだった。
その絶技にランタンは理論が完璧であるその理由を知って、リリ
オンがたっぷりの憧憬を含んだ視線をテスに送った。
﹁これ僕ら必要ないんじゃないの?﹂
ランタンの呟きは誰にも聞こえなかった。
﹁さあ行くぞ。︱︱皆殺しだ﹂
テスは両開きの金属製扉の隙間に鋒を滑り込ませ、抵抗もなく鍵
を断ち切った。
561
039
039
ランプ
ゆっくりと金属製の扉が開かれると蝶番が悲鳴を上げた。踏み込
むと安物の魔道光源特有の濃い橙色の光と放熱が三人の身体を撫で
る。それに混じって埃っぽい据えた臭いがして、ランタンとテスが
揃って顔をしかめた。一人は種族的鋭敏な嗅覚故に、もう一人は性
格的潔癖により。
倉庫の天井は高く、採光窓が並んでいるものの汚れで曇っている。
奥の壁にもう一つ扉がある。入り口は今し方通り抜けたもの一つだ
けなので、もう一つ部屋あると言うことなのだろう。正方形の空間
アジト
が二つ並んだ造りになっているようだ。
住処は構成員の居住区も兼ねていたようで雑然と家具が置かれて、
パイプを組み合わせただけの粗末な三段ベッドなどが隅に並んでい
る。酒瓶や何やらが床に散らばり、破落戸を煮詰めたような物騒な
カルレロ・ファミリーの構成員たちがそこかしこに蠢いていた。リ
ラックスしていたという風ではないが、準備万端とも言えぬ半端な
空気があった。
﹁遅いぞっ︱︱!?﹂
入った途端に向けられた声は酷く苛立ちを感じさせて、金属を擦
り合わせたような神経質さが耳に障った。それは扉から入って来る
はずだった他の誰かへと向けられた怒声であり、決してランタンた
ちに向けられた物ではなかった。その証拠にその声を発した男は三
人の姿を捉えるその表情を驚愕に歪めた。
先頭に立つテスから背の高いリリオンへ、そして小さなランタン
へと視線が動き、その存在をようやく脳がしっかりと認識したのか、
男は驚愕の表情から更に目を剥いた。目玉がこぼれ落ちそうだな、
562
とランタンは思った。
ダークアッシュ
気のせいかと思える程の一瞬だけ浮かんだ色は恐怖だろうか。だ
プラチナブロンド
がすぐに憎悪へと塗り替えられた。
後ろに撫でつけた白金色の髪、狭い額、濃い眉毛、暗灰色の瞳、
鼻筋の高い鷲鼻、厚い唇。右頬に凄味のある傷跡があり、無精髭が
散っている。左右のもみあげが顎の下で繋がって、顎の輪郭に男ら
しさを添えている。見開いた目がはっきりとした二重だ。
想像よりも色男だな、とランタンは男を見つめる。もっと神経質
そうな優男かと思っていたら、彫りの深い野性味溢れる二枚目だ。
細かい鱗を重ねた胸当て、右手は肘まで覆う手甲をして、弓が傍ら
にある。
倉庫内にあったざわめきが、注がれる視線が増えるにつれて波の
ように引いた。人数が多い。先の襲撃よりは一割増し。ランタンは
平然とその視線を受け止めながら、リリオンが息を飲んだ音を聞い
た。
テスがゆったり肩を揺らしてくつくつと堪えきれぬように笑った。
男の眼球がぐりんと動いてランタンからテスへと移動した。
﹁おや、飛び入り参加を咎められるかと思ったが、どうやら知らぬ
間に待たせてしまっていたようだな。くふふ、それは悪いことをし
た。これでもそれなりに急いでは来たのだ﹂
場の空気がテス一人に飲まれていた。安い光源がまるで職人技に
よって操られる照明のようにテス一人を照らしているようだった。
その凜と背筋の伸びた背中から、揺らめく覇気のようなものをラ
ンタンは幻視した。有象無象の構成員たちが初めて死体を見た少女
のように息を飲む。テスが鋭く目を細めた。
睨まれた男、︱︱エイン・バラクロフの唇が痙攣する。テスはハ
スキーな声で冷厳に告げた。
﹁乙種探索者エイン・バラクロフ、貴様は遵守すべき探索者ギルド
法を犯した。探索者ギルドの一員でありながら反社会勢力に身を置
き、あまつさえ迷宮を攻略するための力を共に高め合うべき僚友へ
563
と向けた。その罪、知らぬとは言わせんぞ﹂
テスはその手に構えた剣の一振りを真っ直ぐにバラクロフへと向
けた。断罪の刃は清廉さを湛えるように白く、だが艶めかしさがあ
るほど薄い刀身を光らせた。
﹁探索者ギルド、治安維持局、第三部隊隊長テス・マーカムの名に
於いて貴様の罪を裁く。抵抗は無駄と知れ﹂
バラクロフの唇の震えが大きくなり、頬の傷が引きつった。唇が
捲れ上がり牙を剥くように口を開いた。
﹁︱︱こっのっ、ギルドの犬めっ!!﹂
﹁口の利き方には気をつけた方がいい。私への侮辱はギルドへの侮
辱と同じだ。これで貴様を斬るべき理由が一つ増えたな﹂
﹁何をぼさっとしてる、殺せぇっ!﹂
雑な指示だ。こちらにはリリオンも居るというのに。それだけ頭
に血が上っているのか。バラクロフは懐から何かを取り出すとそれ
を投げつけた。それは構成員たちの足元で割れて、薄い煙幕のよう
に辺りに靄が広がり舞い上がった。構成員たちが一斉に深呼吸をし
て、それを吸い込む。異様な光景だ。
﹁興奮剤だ﹂
テスが鼻をひくつかせて小さく呟いた。ランタンは、平気です、
と冷静に答えたが、鼻の奥がピリピリしてくしゃみが出そうだった。
指示を飛ばされた構成員たちは思い思いの武器を手にとって、一
瞬でその様相を一変させた。テスの宣告を恐れながら聴いていた表
情から、牙を剥いた獣の顔へ。それは蹴散らした薬物中毒者共の顔
とダブって見えた。
くつろ
戦闘に移行するまでが早い。男たちはきっちりと武装しているし、
その姿は住処で寛いでいたと言うには物々しすぎる。バラクロフは
失った戦力を補充して反撃をしようとしていたのか、あるいはもと
もとここに誘い込むつもりでいたのか、と言うような所だろう。
﹁フリオへの礼は無しにすべきかな﹂
﹁さあ、どうでしょうね﹂
564
ローブ
だがどちらにしろ中途半端だったのは間違いないだろう。辺りに
はフィデル・カルレロの牛頭は見当たらないし、貫衣らしい姿も見
当たらない。貫衣はその衣を脱いでしまっているだけかもしれない
が。
ランタンは戦槌を手の中でくるりと回して、リリオンの構えた盾
をごんと叩いた。リリオンはビクリと身体を震わせる。ランタンの
顔を真っ直ぐ見つめて大きく瞬きをした。それからランタンに聞こ
えるほどはっきりと深呼吸して、身体の強張りをゆっくりと吐き出
した。世話の焼ける子だ、とランタンは微笑んで見せた。
﹁格好いいテスさんにも見とれるのもいいけど、僕もちゃんと居る
んだからね﹂
﹁⋮⋮うん!﹂
つる
男たちはじりじりと包囲網を狭めていて、遠目からバラクロフが
弓を構えていた。複合材の屈曲型短弓は漆黒の本体に赤い弦が張ら
れていて、まるで毒蛇のようだった。
きん、と金属的な響きの弦鳴りは、ランタンが目の前に飛び込ん
できた矢を払った後に聞こえた。砕けた矢の破片に目を細めて、ラ
ンタンは低空を飛ぶように駆けた。一瞬遅れてテスとリリオンが、
そして男たちが動き出した。
ランタンは取り敢えず手近な男に戦槌を叩きつけた。男が剣で受
けて、それが砕ける。止まらず胴に叩きつけられようとする戦槌を
男は身体を仰け反って躱した。男は砕けた剣で殴りつけるように斬
りつけてきた。
ランタンは斬りつけを潜り込んで避けて、男の首を鷲掴みすると
同時に気道を握り潰し、その身体を振り回した。射られた矢を男の
身体で払いのけたが、遠心力で男の喉がぶちりと千切れた。ランタ
ンは手の中にある肉片を投げて、リリオンを狙った男の目潰しとし
た。血の色が濃い。
薬物中毒者よりも動きの良かった素面、それよりも男たちはさら
に動きがいい。傭兵稼業は伊達ではないと言うことか。
565
ランタンは片目の端でバラクロフを確認しつつ、もう片方の目で
リリオンの心配もしていた。テスさんは、と一瞬だけ見てすぐに目
を逸らした。テスへの心配など、身の程知らずのすることだった。
漆黒の狼は獲物を確実に屠っている。
その手に持った二振りの剣は男たちの防具の隙間へ水のように滑
り込み、そこにある命を刺し貫いた。襲いかかる剣戟はまるで彼女
を捉えことができない。恐るべき業物の剣であり腕前だった。そし
て戦いながらテスもリリオンを気にしてくれているようだ。
テスは番犬のように少女の死角を補い、その周囲から離れなかっ
た。
ありがたいことだ、と思いながらランタンは袈裟斬りをしゃがむ
ように避けて、また撃ち込まれた矢を飛び退いて躱した。すると目
の前で別の男が斧を振りかぶっている。振り下ろされた斧をランタ
ンは戦槌で受け止める。柄が掌に食い込むほどに重たい一撃。また
別の男が動きの止まったランタンの背中へと薙ぎ払いを放った。
﹁くっ﹂
ランタンは両手で支えていた戦槌から左手を離し、斧の柄を取っ
て引きずり回すように位置を交換した。斧男の背中に剣が半ばまで
斬り込まれ、ランタンは胴に蹴りをたたき込み脊椎を砕きつつ、後
ろの男を巻き込んで吹き飛ばした。手の中に斧だけが残った。
伸びた蹴り足に剣が振り下ろされる。足だけを引くことはできな
い。ランタンは腰を捻ることで伸ばしたままの足を引っこ抜き、斬
り下ろしを辛うじて避けるとそのまま男の顎に後ろ回し蹴りをたた
ゾンビ
き込んだ。顎が砕け、首が折れた。仰け反って崩れ落ちる。その寸
前。
その身体が動死体のようにぞわりと飛びかかってきた。
﹁なっ︱︱!?﹂
突然のことにランタンの身体が一瞬止まった。なんと言うことは
ない、男の後頭部に幾つか矢が突き刺さっているのだ。倒れる途中
に撃ち込まれたそれが、死体を前のめりに押し出したのだ。それを
566
あとずさ
理解した瞬間には、まるでばらまいたかように幾つもの矢が射られ
ていた。
ランタンは後退りながらそれを払い、だがさらに次々と矢が飛来
し、さらに後退を余儀なくされた。そして大柄な男に退路を断たれ
た。獲物を待つ蠅取り草のように、諸手を開いている。だがそれが
閉じられることはなかった。
ランタンは目線だけで振り返ったかと思うと一気に身体ごと反転
し、握ったままにしていた斧を顔面に叩き込む。そして崩れ落ちる
男の股下を前転して掻い潜り、身を屈めて男たちの間を駆けた。だ
がバラクロフの目から逃れることは出来ず、やはり矢が撃ち込まれ
る。バラクロフはテスやリリオンはまるっきり無視して、ランタン
ばかりを狙っている。
﹁くそう、何なんだよ﹂
ランタンは悪態を吐きながらフリオの語った情報を思い出してい
た。
独善的。そこそこの指揮。そして的確な射撃。まさしくその通り
だ。
味方の攻撃への援護。ランタンの反撃への牽制。嫌なタイミング
でランタンを狙う射撃は正確無比と言っていい。男たちの隙間を通
して、ランタンに向かって一直線だ。指揮に関しては乱戦となって
いるので適宜修正できるわけではないが、数を揃えてそれで押すの
は正攻法と言ってもいい。構成員の質もそこそこいいために厄介で
あることに違いはない。ただそれに固執していると言うべきか、融
通の利かない辺りが、そこそこ、の所以なのだろう。正攻法といえ
ども三度目である。
そしてただ一人、乱戦から遠ざかり弓を射る。時に仲間の死体を
道具のように使い、いやここに居る全ての構成員はバラクロフにと
っては自律する囮であり、己を守る盾であるのだ。忠誠心故か、そ
れとも薬物によって操っているのか、男たちはバラクロフに従順で
ある。探索班からは追い出されたが、ここではそんな心配がないよ
567
うだ。
フリオ、いやジャックはよく調べてくれた。だがそれならばこの
敵意の理由も教えて欲しかった。
ランタンは自分に向けられる敵意の理由に心当たりがなかった。
物覚えが良い方ではないので自信はないが、バラクロフとは初対面
の筈である。バラクロフは探索者ギルドに寄りついていなかったよ
うなので、勧誘を手ひどく振ったと言うようなこともない。
ランタンは乱戦の中を遊撃していたが、気が付けば壁が背中にあ
った。視界の端にいるバラクロフを真っ正面に捕らえて睨み付ける
とバラクロフは笑った。勝ち誇ったようにも見えるし、安堵したよ
うにも見える。ずいぶんとせっかちなことだ。
バラクロフが矢を放った。後ろは壁で斜め前方から二人、左右か
ら二人男たちが突っ込んでくる。まるでバラクロフの矢であるかの
ように。
﹁はっ︱︱﹂
ランタンは攻撃的に笑った。ランタンの小躯に陽炎のごとき揺ら
めきが立ち上り、何もかもが突き刺さるその直前に大気が爆ぜた。
爆音は、鼓膜を揺らす澄んだ耳鳴りに掻き消された。その真白い閃
光の中で、ランタンの瞳が鮮やかな赤を湛えてに浮かびあがった。
まるで地震のように倉庫が震えて、吊された魔道光源が大きく揺
れた。ランタンの周囲の壁や床が焦げ付き、また硝子化してひび割
れた。急速な燃焼により膨張した大気が巻き起こす爆圧に矢が明後
日の方向へと吹き飛び、男たちの身体は体表面は焼け千切れ、骨が
砕け、内臓が破裂した。
﹁出し惜しみは、するものじゃあないね﹂
ランタンは自らの発した熱によりひび割れた唇に舌を這わせた。
爆発能力は強力で、それ故に高揚感の呼び水でもある。ランタン
は頬を引きつらせたバラクロフに牙を剥いて笑いかけた。
興奮と喜びは別である。その証明は暇になった時に考えるとして、
取り敢えず今はそうだ、とランタンは決めつけた。もしかしたらバ
568
ラクロフのばらまいた興奮剤の影響も少しあるのかもしれない、と
言い訳するように考える。
興奮しているのは奴らもか。
爆発の衝撃が収まり、その破壊力を見たのにも関わらず男たちが
吠えながら走ってきた。だがそこにバラクロフの矢がなく、人数は
二人。片手落ちどころの話ではない。
衝撃は失せ、だがランタンを守る鎧のようにそこにある熱波に肌
を焼きながら男たちが向かってくる。ランタンが横一文字に戦槌を
薙ぐと男たちの胴体が丸ごと弾け飛び、その頭部だけが慣性と重力
によって落下しながら前進して、すれ違うランタンと一瞬目が合っ
た。その瞳に恐怖はない。ランタンは、ふん、と鼻をならした。い
い根性をしている。
逃げも隠れもしないと宣言するようにランタンは跳び、テーブル
の上を駆けて、バラクロフに向かった。迫り来るランタンにバラク
ロフが険しい顔つきで、慌てたように矢を番え、けれども正確に射
った。何度も、何度も。ランタンは尽くを戦槌で叩き落として進み、
また鶴嘴を掬い上げ足元の男を引っかけて投げ飛ばして盾とした。
風切り音が耳を撫でる。一つの矢が肉の盾を通り抜けて耳たぶを
僅かに掠めた。だがランタンは止まらない。
皮肉気に頬を歪める。ランタンはまるで矢のように真っ直ぐ、バ
ラクロフに肉薄すると戦槌を横に薙いだ。
﹁っ!﹂
バラクロフが咄嗟に矢を手放し、短く息を漏らしながら腰に佩い
た小剣を抜き放ちその一撃を止めた。思わずランタンは目を開いた。
頑丈な小剣だと言うこともあったが、腐っても探索者と呼ぶべき体
捌きだった。バラクロフはただ剣を弾かれただけかもしれないが、
するりと戦槌をいなす。弾かれるように地面を向いた鋒が、力任せ
に斜めに振り上げられた。
速い。身体の泳いだランタンはがら空きの胴を庇うように、反射
的に左の掌でそれを受け止めた。
569
一瞬をさらに薄く切り取った刹那、掌の上で剣が完全に停止した。
それで充分だった。ランタンは体勢を立て直すと同時に爪先を跳ね
上げ小剣の鎬を蹴り飛ばした。
必殺の一撃を止められたバラクロフが苦々しげに距離を取り、け
れどランタンの掌から血が滴るのを見て歪に笑みを作った。ランタ
ンの掌に浅く一文字の切り傷が出来ていた。
﹁毒⋮⋮?﹂
小さく呟いたランタンは転がっていた剣の欠片を蹴り上げて拾い、
手の中に握り込むとそれを爆発で熱した。加減が難しい。ランタン
は熱した金属片を一秒手の中に握り、ぽいっと捨てた。傷口を熱し
て塞ぎ、毒を焼いたのだ。毒の種類によっては無意味だがしないよ
りはマシだろう。
ランタンは火傷で引きつる皮膚を無理矢理伸ばすように何度か手
を握っては開いた。乾いた血がひび割れて剥がれた。痺れるように
痛いが、それだけだ。バラクロフの笑みが凍った。
﹁︱︱なん、なんなんだよっ。お前はっ、お前がっ! お前のせい
で!﹂
﹁僕が、何かしたか?﹂
ランタンが一歩前へ進むとバラクロフは鋒を向けたものの気圧さ
れたように後退った。じとりと額に脂汗が浮いて、目の焦点が定ま
っていない。カルレロ・ファミリーの中にあってバラクロフはおそ
はし
らく唯一とも言える中毒者ではないようだが、その眼球運動は薬物
中毒者のそれに似ていた。落ち着きがない。
言葉だけでは答えてはもらえないようだ、とランタンは疾走った。
﹁あああああああああっ!!﹂
接近するとバラクロフが絶叫を放ち、それに引き寄せられるよう
に男たちがランタンに群がった。ランタンとバラクロフの間に割り
込んだ男は、戦槌の一撃に胴をくの字に折られたのにも関わらず肩
が外れるほどに手を伸ばしてランタンの袖を掴んで組み付いた。ま
た別の男が腰だめに剣を構えて突っ込んでくる。
570
﹁ええいっ鬱陶しいっ!﹂
ランタンは組み付いた男を盾にするようにして剣に突き飛ばして、
バラクロフの方へ視線を戻す。だがそこには横薙ぎにされる槍の穂
先があった。ランタンは仰け反り、そのまま後転して振り下ろされ
る追撃の槍を立ち上がり様に避けた。ばちん、と床に叩きつけられ
た槍が音を立てる。ランタンはそれを踏み折り、跳ねた穂先を掴む。
﹁ふっ!﹂
大きく一歩踏み込んで、戦槌を振り上げた。力任せに振り下ろさ
れるそれが辺りにいた男を纏めて吹き飛ばした。ランタンは手の中
にある穂先を逃げたバラクロフに向かって投げつける。
それはバラクロフを掠め、その背後にある扉にぶち当たって硝子
のように砕けた。投擲攻撃はどうにも苦手である。
振り向いたバラクロフの唇が震える。何か呟き、それが音となる
ことはなかったが呪詛であることは間違いなさそうだった。
﹁︱︱なかなか派手じゃないか、ランタン﹂
追おうと思ったランタンの背に声が掛けられて、思わず足を止め
て振り返った。
﹁僕に触ると火傷しますよ﹂
﹁それはなかなか魅力的な誘惑だな﹂
﹁でもそれをするとジャックさんに怒られそうなので、お触り禁止
です﹂
ランタンは身体に纏う熱を払うように外套をはためかせ一つ息を
吐いた。
死屍累々。
軽い口調で話しかけてきたテスの背後には、夥しい数の骸が眠る
ように伏していた。その全てが一刀のもとに絶命させられている。
例えば首を切られた骸は、一人は頸動脈、一人は脊椎、一人は気道
と言った具合に、そこに一筋の切創が見えるだけだ。殆ど無傷のま
まに見える骸は、鎧の隙間、そしてさらに肋骨の隙間を通して生命
維持に必要不可欠な臓器を的確に潰してあるのだろう。
571
芸術とも呼べるほどの技術だった。
ランタンはテスの背後を見ていた。その眠るような骸ではなく、
戦う少女を。その周りにはテスの手にかかった物とは違う、獣が食
い散らかしたような肉の塊が散乱していた。
﹁︱︱どうやら子守は必要ないらしい。この程度ならね﹂
いつの間にか視界の端から転げ落としてしまったその姿を見つめ
るランタンに、それを察したテスが諭すように語りかけた。
今、番犬はランタンの傍らにある。リリオンはただ一人、三人の
男と戦っていた。
後退すると同時に斜めに大剣を斬り上げ、男の踏み込みを牽制し
た。その斬り上げを掻い潜った別の男は、近づくことを許さない高
速の斬り返しをどうにか盾で受け止め吹き飛ばされた。回り込もう
とした男は、ステップを踏むように後退したリリオンの眼前にその
姿を晒すこととなった。
悪態をつく暇すら与えずにリリオンが方盾を薙ぎ払った。巻き起
ひしゃげ
こった風は床に散る埃を舞い上げただけだったが、その分厚い鋼板
を叩きつけられた男はその身体が拉げ潰れた。残り二人。リリオン
は肩で大きく息をして、盾を前に構えた。
危なげない戦い振りだが、ランタンは落ち着かなかった。リリオ
ンと同じタイミングで息を吐くほどに。
﹁過保護だな﹂
テスが呟き、ランタンの頭上に剣を走らせた。それはランタンが
気を取られている隙に接近した男の眉間を刺し貫き、脳幹を切断し
た。引き抜き、剣を払う。またランタンも思い出したように別の男
を打ち払った。辺りの男たちはすでに疎らである。
・ ・
・ ・
﹁出来ないことを手助けすることは優しさだが、出来ることをやら
せないのは傲慢でしかないよ﹂
﹁⋮⋮わかってますよ﹂
﹁うん、︱︱見てればわかるよ。よく我慢している、色々なことを
ね﹂
572
リリオンに剣を突き出し待ち構える二人の男は、まるで嵐の中に
取り残されたかのようにも見えた。いやあの二人、数秒前に潰され
や
た男を入れれば三人、はまさに逃げる機会を失ったのだ。
﹁先ほどあの爆発能力ならば、バラクロフもろとも殺れただろう﹂
﹁⋮⋮殺してしまっては、色々と聞けませんので﹂
リリオンが盾を突き出したまま、ランタンの爆発にも似た加速を
以て突っ込んだ。槍衾と呼ぶには少なすぎる二本の剣が蹴散らされ
る。男たちが吹っ飛ぶように後退を余儀なくされた。さらにリリオ
ンが一歩踏み込み、大剣が右から左へ。男たちの胸板が浅く裂ける。
リーチ
だが致命傷ではない。剣が引き戻され、腕が一本斬り落とされる。
そしてまた斬り返し。何度も、何度も。命に届くまで。
スピード
パワー
﹁リリオンはなかなかやるなぁ。力任せのぶん回しだが、あの射程、
速度、威力。内側に潜り込むのも、安全圏に逃げ出すのもなかなか
できるものではないな﹂
剣ごと、盾ごと、リリオンは男たちの身体を押し斬った。ランタ
ンが作ってやったシニヨンが、少し解れてしまっていた。だが、た
まばゆ
ひたむ
だそれだけで怪我はない。リリオンはまた別の男に向かっていった。
こちらに目も向けず、眩いほどに直向きに。
﹁僕はあまり、いらなかったかもしれませんね﹂
テスはランタンの頭をくしゃりと掻き回した。
﹁すっかり冷めて、冷たくなってしまったようだな。ランタンがバ
ラクロフを引きつけてくれたおかげで、私もあの子もずいぶんと好
きにやらせてもらえたよ﹂
﹁⋮⋮引きつけたと言いますか、勝手に引っついてきただけですよ﹂
﹁おや、モテる男はさすがだな﹂
﹁ほんと困っちゃいますよ。︱︱悩みが多くて﹂
ランタンが表情を緩めて肩を竦めるとテスは喉を震わせて笑い、
頭を撫でていた手をそっと滑らせて肩を抱き、耳に口を寄せた。
﹁バラクロフが逃げたぞ。とは言っても奥の部屋へ引っ込んだだけ
だが﹂
573
﹁逃がした、ではなくて?﹂
囁いたテスにランタンがじとりと視線を向けると、気づいていた
なら同罪だな、と笑みを浮かべた。バラクロフは奥の扉をこじ開け
るようにして、その奥へと逃げていった。奥の部屋に抜け道でもあ
ったらどうするんだ、と思ったが何か考えがあるのかもしれない。
﹁くふふ、リリオンに随分と食われてしまったからな、実はまだ少
し物足りないのだ﹂
そう言ってテスは自らの腹をぽんと叩いた。細く引き締まった腹
は硬そうだ。何か考えがあるのではなく、欲望に素直なだけなのか
もしれない。ランタンは、ふむ、勿体ぶって呟いた。
﹁メインディッシュは何でしょうか?﹂
﹁もちろん牛だろうよ。料理は私たちがしなければらならんがね。
︱︱お、終わったようだな﹂
﹁そうですね﹂
視線の先でリリオンが最後の一人を両断した。ぽん、と首がすっ
飛んで男は踊るようにして崩れ落ちた。水溜まりに伏すように、び
しゃりと水音が響いた。斬り裂いたその形のまま、リリオンは大き
く肩を上下させて息をしている。
﹁呼んであげな﹂
﹁︱︱リリオン!﹂
ランタンが名前を呼ぶと、リリオンが大げさにびくんと反応して
振り向いた。頬に一筋の血が飛んでいてランタンは一瞬斬られたの
かと驚いたが、ただの返り血だった。リリオンは大剣を一振りして
血汚れを振り払いランタンに駆け寄った。足元の血だまりや、死体
をスキップするように飛び越えて。
滑って転んだら悲惨だな、とランタンもまたリリオンに歩み寄り、
少女の腰に手を回して抱きとめた。身体を離し、手を伸ばして頬の
血を拭う。リリオンは身体を折り畳んでランタンの髪に頬を寄せた。
﹁よく頑張ったね﹂
﹁んー﹂
574
背中を撫でてやるとリリオンは甘えるように声を漏らした。暖か
い身体だ。
﹁まったく、これからメインディッシュだというのに﹂
テスが呆れたように言った。
﹁デザートにはまだ早いぞ﹂
575
040
040
扉の向こうから低く響く獣の雄叫びが聞こえた。金属製の扉がび
りびりと震えて、扉に触れたランタンの指先に痺れるような振動が
伝わる。雄叫びに混ざり何かしらの破砕音が三人の耳朶を打ち、扉
プレッシャー
を押し開くことを躊躇わせた。
扉一枚を隔ててそこにある重圧は、迷宮最奥の白い霧の前に立っ
た時を連想させた。果たして鬼が出るか蛇が出るか。いや決まって
いる。扉の向こうにいるのは牛である。
﹁おや、これは︱︱﹂
﹁下がった方が良さそうですね。︱︱リリオンっ!﹂
﹁はいっ!﹂
雄叫びとは真逆の華奢な返事をリリオンが返すと同時に、三人が
大きく後ろに跳躍した。その瞬間。
金属製の重い扉が内側から爆破されたかのように拉げ、弾け飛ん
だ。扉は大きく距離を取って着地した三人の頭上をさらに飛び越え
て背後に落ちる。そしてその大跳躍に飽き足らず重低音を撒き散ら
しながら床を何度も跳ね、壁にぶち当たってようやく沈黙した。
﹁なんとも乱暴な﹂
﹁リリオンはあんな真似しちゃダメだよ﹂
﹁もうっ、わたしそんな事しないわ﹂
三人は扉などには目もくれずに、勢いよく扉を開け放ったその男
を睨み付けた。
賞金首探索者、現カルレロ・ファミリー頭首フィデル・カルレロ、
その威容を。
﹁でかいな﹂
576
テスが思わずという風にぽつりと呟き、リリオンが視線だけを少
し上に、ランタンは喉が露わになるほどに顔を上げた。黒目がちの
眼球がぎょろりと当たりを睥睨する。
二メートルを超えるカルレロの身体は、蛮族の英雄を赤銅から削
り出したかの如き見事な巨躯である。リリオンよりも頭は二つは大
きく、身体の厚みは三人分どころの話ではなかった。全身の、特に
首や肩の筋肉が尋常でなく発達しており、真っ赤になった剥き出し
の上半身にはひとつまみの脂肪も存在していない。筋肉のうねりが
皮膚を透かして見えるようだった。
バルディッシュ
そしてこめかみから迫り出す野太い牛角がいかにも威圧的である
が、それよりも目を引いたものはその手に握った長柄の半月斧であ
る。カルレロの巨躯の所為でそれは普通の斧に錯覚させられるが、
その斧頭はランタンの胴体ほどもある。普通の人間には持ち上げる
ことも出来ない、巨大な力の塊である。
カルレロはそれを軽々と振り回し、顔面の中央に存在する大きな
牛鼻から荒々しく鼻息を吹き出した。それは怒りに熱されて白い蒸
気となった。
﹁おおおおっ! 俺のっ、息子をおぉっ!!﹂
部屋中に散乱した死体を、そしてその中に立つ三人を睨み付けて
カルレロが叫んだ。そこにあるのは怒りと、これは悲しみだろうか。
ランタンは雄叫びの中に響く、掠れて震えるような枯れた音色に眉
根を寄せた。
今まで散々ここで戦っていた。そこに響いた戦闘音楽はあの扉が
どれだけ分厚かろうとも、届かないわけはないだろう。だと言うの
にカルレロからはまるで、今し方戦いがあったことを知ったような
そんな印象を受ける。
﹁寝起きが悪い、と言うことかな﹂
テスが小さく呟いた。
ランタンはそれを聞きながら怪訝そうに眉を顰めたが、ただじっ
とカルレロの背後に潜むバラクロフを睨んだ。視線が交錯する。呪
577
うような視線には、カルレロが傍らにある所為が浮薄な愉悦が滲ん
でいるような気がする。
﹁エインっ! あれが、あのチビどもがっ、俺の息子たちを殺した
んだなっ!﹂
叫ぶようなカルレロの声に掻き消されたが、バラクロフがそれに
何事か呟きながら同意をした。何を伝えているのか分からないがバ
ラクロフが何か言う度にカルレロの顔色が赤く、濃く、憤怒に染ま
ってゆく。
バラクロフの意のままに。
﹁︱︱いきます﹂
何をどう足掻こうとも、カルレロとの戦闘を避けることは出来な
い。ランタンは囁くようにテスに伝えると先手必勝の法則に従って、
足元に転がる手斧を蹴り上げてそれを掴み、間を空けず流れるよう
にバラクロフに向かって投げつけた。同時に疾走し、跳躍する。
真っ直ぐにバラクロフを狙う手斧をカルレロは素手で払い落とし
た。手斧はまるで重さのない羽虫のように払われた。だがカルレロ
の視線が一瞬バラクロフに向いた。
その瞬間にランタンは壁を蹴りカルレロに真横から飛びかかって
いた。
﹁ぬぅんっ!!﹂
横っ面を吹っ飛ばすように振るった戦鎚が、跳ね上がった半月斧
に阻まれる。火花が散り、巻き上がった風は突風のようで、打ち合
いの衝撃は隕石を殴りつけたような重みだった。これは尋常のこと
た
ではない。爆発を巻き起こせば、自らの起こした爆炎が斬風に煽ら
れて己をの身体を襲うだろうというような確信があった。
たら
ランタンは打ち負けて吹き飛ばされ、どうにか着地したものの踏
鞴を踏んだ。首に汗が滲む。
相手が迷宮から遠ざかる賞金首探索者だということもあり、多少
の侮りがあったのかもしれない。けれど体重差が覆されることは無
く、純粋な力比べては完全にカルレロに分があった。戦鎚も並の物
578
だったら殴りつけていたこちら側が砕かれていただろう。
﹁軽いっ、軽いぞっ! この豆粒がっ!﹂
そう怒鳴ったカルレロの横合いから、いつの間にか弓を構えたバ
ラクロフが矢を射った。ランタンはそれを余裕綽々に躱したが、テ
スが怒鳴った。
﹁上だっ!﹂
視線を上げると何か黒い影が落下していた。後ろに転げるように
ランタンはそれを避けて、立ち上がり様に感じた殺意に、反射的に
首を守るように戦鎚を立てた。打ち付けられた何かを止め、ランタ
ンはその衝撃を逃がすままに後ろに下がった。
﹁くふふ、︱︱おかえり﹂
﹁⋮⋮ただいま﹂
﹁お前の背中を見てる子がいるんだから、もう少し慎重にな﹂
リリオンの腕を掴んだテスがニヤリと笑いながら呟いた。ランタ
ンは拗ねるように答えて、テスに捕まえられているリリオンを見や
った。リリオンは今すぐにでもランタンに飛びかかりそうなほどに
なっている。
﹁ランタンっ、大丈夫っ?﹂
﹁へーき﹂
感覚が鈍るほど手が痺れていたがそんな素振りも見せずにリリオ
ンへ軽く微笑み、すぐに視線を黒い影共に向けた。
敵が二人増えた。面倒くさい。
一人は蜥蜴人族だ。
蜥蜴の顔が裂けたように口を開き、青い舌を覗かせて唇を舐めた。
りんばん
胸から腹を防御する鞣し革の軽鎧を身につけて、剥き出しの腕や背
中は鰐にも似た濃緑の鱗板に覆われている。それは天然の鎧だ。ラ
ンタンの頭上に落ちてきて、その勢いで叩きつけた大鉈が床を砕い
ている。ゆらりと立ち上がって、硬そうな尻尾がばちんと床を叩い
た。興奮による衝動と、同時に威嚇か。
そしてもう一人。人族だと思われる。
579
レイピア
ひょろりと背が高く、その手に握られた極細い刺突剣が重たそう
に見えるほどの酷い猫背で、頭髪のないのっぺりとした顔は色が悪
く黄みがかった砂色をしている。変拍子で左右に揺れて、ランタン
たちをどこか茫洋とした瞳で見つめていた。蜥蜴とは正反対の冷淡
ローブ
さがむしろ不気味だ。
どちらかが貫衣であろうか、と瞳を細めたがその腕にギルド証は
嵌められていない。猫背の方はゆったりとした貫頭衣を身につけて
いるので雰囲気は似ているが、確信は持てない。なんとなく違う気
はする。
だがしかし、前哨戦の雑魚共とは雰囲気が違った。貫衣でなくと
も、いわゆる側近や幹部と呼ばれる者だろう。蜥蜴の方は恐ろしげ
なその顔つきそのものの剣呑な、猫背の方は陰気で不気味な雰囲気
があったが、それ以上の独特の存在感があった。カルレロほどでは
ないが相応の使い手だろう。
﹁二人とも﹂
﹁はい?﹂
﹁カルレロを貰っていいか?﹂
テスが好戦的に喉を鳴らして牙を剥いて笑う。そこには隠しきれ
ぬ獰猛さがあって、ランタンは反射的に頷いた。テスの項の毛がぶ
わりと膨らんで立ち上がっている。それは喜びであるのかもしれな
い。 怖い人だ。おそらく、この場の中で最も。
﹁テスさんのお気に召すままに、どうぞ﹂
﹁すまんな﹂
それはこちらの台詞だ、と思う。相手方ではどう見てもカルレロ
が一番の難敵である。
﹁だが、危なくなったら呼べ。どうにかしてやる﹂
頼もしく、けれど投げ遣りにそう言った瞬間、ランタンの視界か
らテスの姿が消えた。ランタンの足で十歩以上ある距離を一瞬で詰
め、カルレロに肉薄していた。だがカルレロも反応している。
浅い角度で切り上げられ、薙ぎ払われた半月斧がテスを両断しよ
580
うと襲いかかった。しかしテスは速度を落とさずそのまま半月斧に
突っ込んで、まるで跳び箱のように斧頭に手を添えて飛び越えると
カルレロの顔面に目がけて鋭い刺突を放つ。
高速の平突きは、しかしカルレロの顔面を滑った。カルレロは驚
くべき反応速度で首を傾け、血も滲まぬ薄皮一枚を斬らせるだけで
それを避けた。かと思われた時、二振りの内のもう一つ、テスの剣
が左の角を目がけて振り下ろされ、また避けられた剣が振り上げら
・ ・
やわ
れていた。まるで狼の顎門だ。角の根元を捉え、噛み付いた。
﹁くふ、面の皮は厚いようだが、貴様のモノはずいぶんと柔いな。
いくら大きくとも、それでは私を満足させることは出来ないぞ﹂
わら
角を切り落とした澄んだ音に負けず劣らず、冷たく冴えた声でテ
スが嘲笑った。
﹁ぶるるあああぁっ!!﹂
途端にカルレロは激発し、背後に着地したテスへ振り向きざまに
半月斧を薙ぎ払った。角を失ったことと、それ以上の傷に触れられ
たかのように怒り狂っている。半月斧は壁を破砕し、巻き込まれ掛
けたバラクロフが転ぶようにそれを避けて、テスはさっさと奥の部
屋へと引っ込んでいった。カルレロは蹄で床を砕きながら、暴れ牛
同然にそれを追いかける。
﹁くっそ単細胞の馬鹿がっ!!﹂
馬でも鹿でもなく牛だろうとランタンは取り留めも無いことを考
えながら、テスがカルレロを引きつけてくれたので気兼ねなくバラ
クロフへと走った。だが同時に猫背共がその行く手を阻んだ。
しな
床を滑るように猫背がランタンに肉薄すると刺突剣を突き出す。
耳元で大気に穴が空いた音が鳴り、その鋒がぐにゃりと撓り側頭部
を削ぎ落とさんと迫った。ざらりと髪が散る。ランタンは避けなが
ら靴底を猫背に叩き込んだ。極度の猫背のせいで、見た目よりも腹
部が遠い。ほとんど爪先で押しただけだ。
視線の端で蜥蜴が大鉈を振りかぶっているのが見えた。だがそれ
が振り抜かれることはない。
581
盾を構えたリリオンが蜥蜴に突っ込んで、その巨体を吹き飛ばし
た。浮かび上がった緑の巨体、その下をランタンは身体を低くして
潜り抜ける。立ち上がったバラクロフは奥の部屋へとカルレロを追
いかけようとしている。
この期に及んで、とランタンは舌打ち一つを吐き出して転がる死
体をバラクロフの進行を妨げるように蹴りつけた。
それを追うように走り、戦鎚を振りかぶる。だが行く手を遮られ
たバラクロフが驚くべき早さで矢を番え、振り返り様に弓を引いた。
振るった戦鎚が爆炎を纏い矢を払い、ランタンはその炎を潜り抜け
る。炎を切り裂くような銀線。鼻先をバラクロフの小剣が掠める。
もう少し鼻が高ければ、鼻の形を変えられていた。
バラクロフの表情が歪む。目測を誤ったことが射手の矜恃に障っ
たのか、それとも。
ランタンが戦鎚を薙ぐと小剣でそれを防ぐが、あまりに軽い。戦
鎚の勢いそのままに小剣が弾かれてバラクロフは後退った。ランタ
ンの頬が笑みに歪む。バラクロフが唸った。
﹁ベルムドっ!!﹂
だが振り下ろした戦鎚は、視界の外から飛び込んできた刺突剣に
逸らされた。
ベルムドという名の猫背がランタンの前に立ちはだかりバラクロ
フを守った。荒い息を漏らすバラクロフが猫背の背後で脂汗を袖で
拭う。そして性懲りもなく背を向けようとした。
﹁ふ﹂
その背中目がけて吹くように笑い、それほどカルレロが恋しいの
ですか、とランタンはその背に残酷なほど優しげに声を掛けた。胸
焼けしそうなほどたっぷりの憐憫。
思わず振り返ったバラクロフにさらに告げる。
﹁噂通りの方ですね﹂
蜥蜴はリリオンが相手をしてくれている。猫背が技巧派ならば蜥
蜴は力押しだ。リリオンの戦闘方法とは良く噛み合って、白熱した
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打ち合いを演じている。背後を振り向く余裕はないが、激しい剣戟
の音色が聞こえた。リリオンは頑張ってくれているようだ。
ランタンは猫背の刺突連撃を躱し、逸らし、打ち払いながらバラ
クロフに笑いかける。ただその瞳の奥はただ冷たさだけを湛えてい
る。
﹁何を⋮⋮!﹂
・ ・ ・
﹁お聞きしましたよ。お仲間を犠牲にして、迷宮からご帰還なさっ
たと。ご高名はかねがね、お話しできて光栄です﹂
﹁ぐ、貴様あっ!﹂
バラクロフの表情が一瞬で赤く、燃えるような憎悪に染まった。
表情に羞恥と負い目が一瞬だけ浮かび上がり、すぐに溶けて消え
た。上書きされた表情は激昂である。額に浮き出た血管が皮下寄生
虫のように蠢き、頭に上った血の熱で髪油が溶けたのか後ろに撫で
つけた髪がはらりと解けた。
ちょろいな、とランタンは性悪く三日月のように唇を歪める。そ
けしか
の表情にバラクロフが自らの唇をかみ切るほどに激怒し、血の混じ
った唾を撒き散らしながらランタンを口汚く罵り、猫背を嗾けた。
充分に煽れた。
だがバラクロフ自らが打って出ることはない。猫背を嗾けたのは
僅かに残った冷静さからだろうか。
挑発は完璧とは言えないが、上出来だろう。バラクロフの足を止
めることは成功した。逃げ出せばランタンの言葉を認めたことにな
る。バラクロフはランタンの言葉に縛られたように、この場から逃
げ出すという選択肢を失ったのだ。
強者に守られることは厭わないが、侮られることは我慢ならない。
矜恃とは不思議な物だ。
強敵を引きつけてくれているテスに、あれ以上の面倒事を負わす
わけにはいかない。これで少しはテスに面目が立つ。扉を失ったそ
こから覗く奥の部屋は、寝物語に聞く英雄譚の一幕にも似ている。
ただそれよりだいぶ荒々しく残酷ではあるが。バラクロフが立ち入
583
ってはテスも興ざめだろう。
とは言えこちらも、なかなか。
嗾けられて勢いを増した猫背は恐るべき使い手である。
女の手でも折れそうな程に細い刺突剣がランタンの戦鎚を受け止
めるのだ。
戦槌を受けた剣がびぃんと撓り、円を描くように手首を回して衝
撃を受け流し、同時に攻撃へと転じる。一秒を半分に割った時間の
リーチ
中で、目を狙い、喉を狙い、心臓を狙う高速の突きがランタンを襲
った。
猫背であるが故の前傾姿勢と、長い腕が相まってその射程は大剣
を構えたリリオンに匹敵しそうなほどだ。細く見える腕は痩せてい
るのではなく驚くほど引き締まっている。盛り上がった筋肉が荒縄
のようであり、その真価は鍛えられた腕から繰り出される突きの鋭
さよりも、突き出した剣を引く早さにある。隙が少ない。
鋒の内側に潜り込むことは至難の業である。
ランタンは首から上を狙った二連撃を上体を傾けて避けて、心臓
に撃ち込まれる一撃を戦鎚で払いのけた。軽い。だがそこにある軽
さはバラクロフの小剣を払った時とは物が違う。逃げるような軽さ
はすなわち猫背の意思による物である。
手首の返しだけで放たれた斬り返しを、ランタンは脇腹を舐めさ
せるように前進しつつ身体を捻ってやり過ごす。服が裂けたが皮膚
までは届いていない。そして跳ね上げた戦鎚が猫背の首を狙った。
猫背が猫背ではなくなった。首を差し出すような前傾姿勢を正し
て背を伸ばすと、顔面すれすれを戦鎚が撫でた。ぎりと奥歯を噛ん
だランタンを、猫背が頭上から見下ろした。これは貫衣の身長では
ない。
その瞳には相変わらず茫洋たる光が湛えられている。戦いの興奮
も、ランタンへの敵意も何もない。意思を感じない瞳は泥の塊を詰
め込んだようで視線を交えることが苦痛でさえあった。
猫背が頭が重いとでも言うように再び猫背に戻った。その頭の影
584
から矢が射られる。怖い物見たさか猫背から視線をそらせずにいて
反応が一瞬遅れた。戦鎚を振り上げるには間に合わない。
やじり
﹁く﹂
鏃の先端が睫毛に触れた。眼球を貫くすんでの所で掴み取り、折
り捨てた。視界が一瞬自らの拳で埋まり、開けた時には猫背の姿が
消えていた。猫背を失ったバラクロフが無防備である。が、ランタ
ンは反射的に反転して跳んだ。
バラクロフの頬に浮かんだ笑みは不吉を孕んでいた。背後で弓鳴
りがした。無視。
リリオンと蜥蜴が戦っている。
蜥蜴の大鉈が振り下ろされたリリオンの大剣を受け止める。蜥蜴
はじりりとリリオンを押し返して、野太い尻尾がざらりと円を描く
ように床を薙いでリリオンの足を払った。体勢を崩したリリオンは、
だが咄嗟に盾を突き立てて転ぶのを堪えた。しかし鍔迫り合いを押
し込まれたリリオンは確実に不利であり、また蜥蜴は怪力であった。
ぼこぼこと蜥蜴の背筋が盛り上がる。リリオンの膝がじりじりと
折れ沈んでいく。
そして猫背が這うようにリリオンへ向かっていた。足音の無いそ
の接近にリリオンは気が付いていおらず、歯を食いしばって蜥蜴を
睨み付けている。猫背の刺突剣、その鋒がリリオンに狙いを定めた。
やや下向きで、狙いは脹ら脛。行動能力を穿とうとしている。
リリオンを拘束する蜥蜴か、それともリリオンを狙う猫背か。ど
ちらを、とランタンが背後に迫った矢を爆発の加速を以て置き去り
に、そして迷いさえも。
﹁リリッ!﹂
たかが四文字を口に出すことも出来ぬその一瞬。だが少女はラン
タンの声を聞き身構えた。ランタンは盾に蹴りを叩き込み、その靴
底に爆発が巻き起こりリリオンを吹き飛ばした。
鍔競りをしていた蜥蜴が横合いから獲物を押しのけられたことで
大鉈を床に叩き込み、標的を失った猫背がランタンへと剣を跳ね上
585
ナイフ
げた。脇腹に払われたその剣を、ランタンは狩猟刀を抜き打って防
いだ。乱暴に差し出しただけの狩猟刀は、しかし刃こぼれ一つ無い。
そしてようやく追いついた、あるいは別の矢なのかもしれない、
を前につんのめるように躱し、距離を取って振り返る。吹き飛んだ
リリオンの前に立ちはだかり、大きく息を吐いて狩猟刀を鞘に戻し
た。
バラクロフが弓に矢を番えたまま油断無くランタンを睨み付けて、
蜥蜴と猫背がじりじりと距離を狭める。猫背の感情の読み取れない
視線とは違い、蜥蜴の視線は刃物のようにぎらついている。気分よ
く戦っていたところを横入りされた所為だろうか。だが飛びかかっ
ては来ず、バラクロフの前に並んで立ちはだかった。
二人ともやはりバラクロフの支配下にある。
猫背の戦闘技術、蜥蜴の怪力はバラクロフを上回っている。
面子を大切にする悪党の中にあって武闘派集団であるカルレロ・
ファミリーの最も分かりやすい面子は武力だろう。無論それだけで
上下関係が決まるわけではないが、少なくともランタンから見たバ
ラクロフには他の他者を従わせる要素、例えば人間性であったりカ
リスマ性であったりを見つけることは難しい。
だとするとこの二人も薬物によって操られており、そして非常に
よく仕込まれている。どれほどの量の薬と時間を使ったのか。この
二人だけではなく、構成員全員に、また傭兵に渡した薬物も。果た
してそれだけ売り物を浪費して、商売として成り立つのだろうか。
﹁ふぅ、それは衛士隊の仕事だな﹂
余計なことを考えている暇はない。立ち上がったリリオンがラン
タンの隣に並び立った。
﹁平気?﹂
﹁ランタンのが一番きついわ﹂
見上げた横顔は唇を突き出していて拗ねている。床を転がったせ
いで外套が血に汚れていた。粘性の高い血液は表面にべっとりと付
着している。
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﹁そりゃ失礼﹂
﹁ううん、助けてくれてありがとう﹂
何とも素直なリリオンにランタンが喉を震わせて一つ笑い、ちろ
りと唇を舐める。手の中で戦鎚をくるりと回し、慎重にすり寄る猫
背たちを嘲笑うように無遠慮に突っ込んだ。
けれど意表は突けない。表情を変えぬ二人の反応は早く、ランタ
ンは舌打ちを零した。
蜥蜴の尻尾による足払いを大きく跨ぎ、大鉈を避けて胴を打つ。
衝撃に蜥蜴が呻いたが、そのまま口を歪めて楽しげに笑う。鎧もさ
ることながら、そもそもの肉体的な耐久力が高いのだ。鱗板のない
腹部ですらこれほどか、と掌に鈍く伝わった感触に柄を握り直した。
そしてランタンを狙った猫背による突きを、リリオンが割り込ん
で盾で捌いた。技術が高かろうがさすがに分厚く丸みを帯びた鋼板
を貫くことは出来ない。鋒が盾の表面を火花散らしながら滑り金切
り声を上げた。血よりも濃い鉄の臭いが香る。
蜥蜴が笑ったまま大鉈を切り返した。足元では再び尻尾が蠢く。
ランタンは跳び、大鉈を戦鎚で受けたその衝撃に逆らわず反転して、
す
鶴嘴を猫背に向けて振るった。猫背はぐにゃりと身体を傾けてそれ
ブーツ
を空かし、手首が捻られて刺突剣がリリオンの足を薙いだ。
リリオンが鋼鉄に覆われた戦闘靴の爪先でそれを受けて、力任せ
に蹴り返す。猫背の腕が剣ごと跳ね上げられて、胴ががら空きにな
った。だがそこに戦鎚を叩き込もうとしたランタンを、上段からの
切り落としによって猫背が牽制した。
無理矢理腕の振りを止めたランタンの動きが一瞬止まり、蜥蜴が
大鉈を構えて踏み込んだ。その行く手をリリオンが大剣を差し出し
て阻む。
目まぐるしく対戦相手が交錯して息を吐く暇も無かった。
大鉈を躱し、刺突剣を受ける。戦鎚がいなされて、大剣が逸らさ
れた。そして時折バラクロフから矢も撃ち込まれる。四人が一塊に
なって、次々と体勢を変え、位置を交換しているためバラクロフか
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ら矢を撃ち込まれる頻度は少ない。だがそれでも貴重なタイミング
をバラクロフは逃すことなく、またそれは絶妙に鬱陶しかった。
・ ・ ・ ・ ・
その矢によって攻撃の出を妨げられて、避ける方向を限定された。
ランタンは薙ぎ払われたリリオンの大剣を身を低く避けて、猫背
に足払いを放った。猫背はその足を踏み付け、けれどランタンの足
は地雷のように爆発する。
﹁ちっ﹂
焦がしただけだ。猫背は吹き飛びも、転びもせずに少し踏鞴を踏
んで体勢を崩しただけだった。靴底が炭化して、片足が剥き出しに
なる。追撃は矢と蜥蜴の尻尾によって阻まれた。猫背は刺突剣で靴
を削いで完全に裸足となった。
露わになったそれは人の足ではない。関節部分にはっきりとした
節がある。昆虫系の亜人だろうか。だが深く観察している余裕はな
つたな
い。忙しくて嫌になる。だが不満を垂らしている暇ものないのだ。
残念ながらランタンとリリオンの連携は拙く、蜥蜴と猫背は巧み
だった。
そしてバラクロフの援護も優れていた。時折見える苦々しい表情
から察するに蜥蜴共を御し切れているとは言いがたいが、それでも。
バラクロフをまず潰したいところだが、それをさせないのがこの
二人なのである。まったくもって面倒だ。相手は探索者ではないと
いう驕りはカルレロで懲りたはずであるのに。
二人はおそらく魔精によって強化されている。違法に迷宮へと潜
ったのか、それとも魔精薬を服用しているのか。その両方か。
ランタンは突っ込もうとしたリリオンの首根っこを掴み猫背の刺
突から遠ざけて、足元から浮かび上がった蜥蜴の尻尾を戦鎚に受け
止めた。撓った先端が脇腹を掠め、僅かに熱を感じる。ミミズ腫れ
程度だ。
これだけの泥沼ではあったが、誰一人として致命傷はない。
﹁混沌だな﹂
ぽつりと呟くだけの余裕はあったが、それだけだった。五人がぐ
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るぐると混ざり、そして反発し合う混合色の戦場は、針の上に乗っ
た盆のように左右に揺れながらも結局は持ちこたえて微妙な均衡を
保っていた。
﹁︱︱ああ﹂
そこに声が聞こえた。ランタンの背後、入り口の方から。どこか
で聞いたような、そんな気がする。 バラクロフの表情が変わった。
喜色から戸惑いへ。これもまた混沌である。ランタンは小さくリリ
オンの外套を引き後ろに下がらせると、同時に床に戦鎚を叩きつけ
て爆発を巻き起こした。
﹁︱︱ああ、いい匂い﹂
素早く振り向いたそこに居るのは、どこかで会った緑髪の変な女
であった。黄色の強い金色の垂れ目が情欲にも似た蠱惑的な笑みを
浮かべてランタンを見つめた。頬に掛かった髪を後ろに撫でた手に
はギルド証が嵌まっている。確か、傭兵探索者だっただろうか。
その存在は混沌を加速させるだけか、それとも均衡を傾けるに足
るか。
ランタンは靴底にこびりついた血の塊を落とすように、戦槌でか
ちんと戦闘靴を叩いた。
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041
041
すん、とリリオンが鼻を鳴らした音を聞いた。
そうするとランタンは気にも止めていなかった様々な臭いを不意
に知覚した。
最も濃く香る生臭さと鉄の混じり合った血の臭いに始まり、腐敗
した食べ物、アルコール、香水、油、黴や埃、人自体の有機的な臭
い、爆発に焦げた大気の臭い、死の冷たい臭い。
最も近くにある自分の汗の臭いは、ほんの少し。意識しなければ
気づけないほどだ。
突如現れた緑髪の女は獲物を見つけた空腹の肉食獣のように、今
まさに襲いかからんと身体を前傾させた。女は声にならず唇を動か
し、再び呟く。ランタンを見つめながら、次第に胸で息をするよう
に呼吸を荒く。
それは薬物の禁断症状にも似ている。溺れた者が空気を求めるよ
うな必死さが見え隠れした。
背後でランタンが作り出した爆炎の壁が失われる。
まだほんの僅かに残った炎の残滓を吹き散らして、蜥蜴が突っ込
んできた。リリオンが迎え撃つ。
猫背が回り込んでランタンを狙った。避ければリリオンを貫くよ
うないやらしい位置取りにランタンは舌打ちをする。
﹁遅いぞっ!!﹂
刺突は高速である。
刺突をどうにか捌くランタンをよそにバラクロフが女に怒鳴った
のだ。
そう言えば踏み込んだ時に同じ台詞を聞いたな、と思いつつもバ
590
ラクロフの援護射撃がないことは幸運だった。戦槌の柄を滑る刺突
剣が火花を散らした。そして矢の代わりに女が向かってきている。
バラクロフの台詞から察するに、緑髪のこの女はバラクロフが戦
闘に備えて呼んだ女である。
探索者の中には迷宮に潜る前に娼婦を抱く者もいるために、バラ
クロフの戦闘への興奮を鎮める為この女が呼ばれたという可能性も
ないわけではない。
だがそんなことに傭兵探索者を雇うような者はいないし、雇われ
る者の話も聞いたことはない。それに同衾するには女は少し薄汚れ
ている。もしかしたらそう言った行為をするに多少の汚れは気にな
らないものなのかもしれないが、ランタンにはよく判らない。
判ることと言えば傭兵の使い道は戦闘にあり、つまり緑髪の女は
敵であるだろうと言うことだけだ。
だが女はランタンと猫背の間に割って入るように、獣じみた跳躍
を以て飛びかかってきた。
あまりに直線的なその動きはランタンが戸惑うほどに無防備だっ
た。伸ばされた手が抱きつくかのように広げられているし、猫背が
ランタンに突き出した攻撃の身代わりになってくれたのかと勘違い
するほどに身を躍らせているし、猫背が女の事などお構いなしに打
ち込んだ回避不可能と思われたその攻撃を素手で逸らしている。手
の甲が僅かに裂けて、赤い血が滲んだ。
女の意図が何一つ読めなかった。その所為で、ランタンは女を打
ち落とそうとしたが、攻撃の出が僅かに遅れた。
﹁やあっ!﹂
そんな中で最も早く反応したのはリリオンだった。蜥蜴の攻撃を
盾で受けたかと思うと、そのまま盾で蜥蜴を殴りつけ更に蹴り飛ば
した。吹き飛んだ蜥蜴から視線を切って、反転と同時に大剣を薙ぎ
払い女に斬りかかった。
・ ・
女が腕を鞭のように振るいその大剣をギルド証で受け止め、弾き
飛ばされた。そして回転しながら体勢を立て直して、ふわりと壁に
591
着地した。あの時と同じ、何も不思議はないというように平然と。
やはり、とランタンは出遅れた攻撃を咄嗟に方向転換して猫背を
強襲した。猫背を退かせると、混乱を吐き出すように肺の空気を入
ローブ
れ換えた。
﹁貫衣か⋮⋮﹂
小さく呟いた声はバラクロフの怒声に掻き消された。
﹁おいっ、何をやっているっ! お︱︱﹂
だが脳を掻き回すようなヒステリックな怒声は女の耳には入って
はいないようだった。それどころから今し方、大剣で斬りかかった
リリオンのことすら目に入っていない。まるで気にも止めていない
と言うよりは、女の世界にはランタンしか存在しないのではないか
と思わせる視線を寄越した。
その妄執にも似た熱烈な視線にランタンは少しばかりぞっとして
頬を引きつらせる。あまり好ましい視線ではない。単純な敵意や憎
しみの方がまだマシだ。
女が壁を蹴って再び跳躍した。再び目一杯腕を伸ばして、攫われ
たお姫様が助けに来た勇者の胸に飛び込むように。
﹁ランタンにっ︱︱﹂
リリオンが吠えた。ぶん回した大剣を女が避ける。だがリリオン
は裏拳を放つように盾を嵌めた腕を大きく薙いだ。しかしそれさえ
も、まるで巻き上がった風に身体を預けたように女は避けた。だが
すり抜けようとした女の足首を、ついにリリオンは掴まえた。骨の
軋む音が聞こえそうなほど強く握りしめる。
﹁︱︱さわらないでっ!!﹂
女の伸ばした腕の、反るほど張った指の、最も長い中指の、その
爪の先っぽがランタンの頬に一瞬触れて離れていった。女の垂れ目
が触れたその瞬間に本当に溶けたように緩むのを、あっという間に
遠ざかるまでの一瞬にランタンは見た。目が合った。
リリオンは女の足首を引っ掴んで人形のように振り回し、その場
でぐりんと一回転して加速を付けると壁に叩きつけるようにぶん投
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げた。女は錐もみに回転して、しかし驚くべき身のこなしで空中で
体勢を立て直した。空中で顔を上げる、その瞳にランタンは映らな
い。女の目の前には銀の壁が、高速で迫る鋼鉄の盾があった。
女を投げ飛ばして同時にそれを追ったリリオンが体当たりをかま
した。直撃を知らせる鈍い音が響く。更に女が吹っ飛び、また追っ
た。だが直撃を食らったはずの女が、今度は音も無く着地して両手
で盾を受け止めた。
疾走したリリオンの勢いを完全に殺して、互いに押し合いせめぎ
合った。
体格はリリオンが圧倒的に勝る。だが女の足は根を張ったように
微動だにしない。体格差により斜め上から押え込むようになってい
るリリオンの身体が沈んだ。根を引き抜く為に。
いっせい
﹁負けっ、ないんっ、だからあっ!!﹂
気合い一声。
か
ばきんとリリオンの足元の床が砕けて膝が伸びると、鈍い音を立
てて女を搗ち上げた。そして女の腹に肩から突っ込んで、まるで躓
いて転げたように一塊となって倉庫の外側へ飛び出していった。
﹁くそっ、いかれ女めっ!!﹂
罵倒したバラクロフの言葉が耳を通りすぎ、ランタンの耳にはテ
スの言葉が思い出された。
︱︱過保護だな。
わかってるよ、言われなくても。
ランタンは視界の中に見失った少女を取り戻したい衝動に駆られ
たが、その衝動に抗うようにべた足でどっしりと戦槌を構え、三人
の男の猛攻を捌ききって誰一人としてリリオンを追わせるような真
似をさせなかった。
﹁いい年して女の子のお尻を追っかけるなんて﹂
笑う。
﹁恥というものを知らないのですか?﹂
嘲笑う。
593
﹁あ、知ってたらこんな状況にはなりませんよね﹂
哀れみを込めて。
﹁同情しますよ。あなたにも、彼らにも、心底﹂
バラクロフの血管が爆ぜる音が聞こえた。
﹁ああああああああっ!﹂
叫びながらバラクロフが立て続けに弓を三度引いた。
どこでもいいから当たれとでも言うような乱雑な射撃は、それで
もきちんとランタンの頭部を正確に捉えている。さすがだな、と思
いつつもそれを顔には出さず何でもないように三つの矢を払った。
狙いが正確すぎるのも考え物だ。
﹁殺せっ、さっさとそのガキをっ、殺せぇっ!﹂
頭の中からすこんとリリオンの存在を抜き取られたかのように、
バラクロフが噛み殺さんとばかりにランタンを睨み付け、口角に泡
を滲ませて声が割れるほどに叫んだ。その怒りに共振するように猫
背と蜥蜴がさらなる苛烈さを以て襲いかかった。
ランタンがバラクロフに怒鳴る。
﹁お前が来いっ!﹂
﹁黙れえっ!!﹂
狙いは完全にランタン一人に絞られた。
戦場に一人増え、二人減った。
取り敢えず戦場の均衡は傾いた。はたしてどちらに、と考えなが
ら攻撃を同時に捌く。
蜥蜴の大鉈は射程こそ短いが一撃は重く、また筋肉の塊である尻
尾は第三の手足であった。硬い鱗に覆われているが柔軟に動き、お
ろし金を鞭にしたかのような物騒さがある。また身体的頑強さも兼
ね備えて、生半可な攻撃では受け止め、あるいは弾き返されてしま
う。
猫背の刺突剣は大鉈とは打って変わり、蜥蜴の背中越しにランタ
ンを狙うほどに射程が長く、また紙一重で躱すと途端に先端が撓っ
て襲いかかる変幻自在さがあった。まるで蝶の羽ばたきのように、
594
コントロール
手首の微細な動きが先端で予想もつかない動きを生み出した。そし
て猫背はその動きを完全に操作している。
リリオンが失われた事で、二人に定められた役割が明確に浮かび
上がった。
ランタンと打ち合いその足を止める役の蜥蜴と、ランタンの死角
へと縦横無尽に動きとどめを刺す役の猫背。だが猫背の攻撃ばかり
に気を取られていると、不意に蜥蜴がその牙を剥く。そしてバラク
ロフへと向かえば、二人揃って盾となる。
探索者に比肩しうる膂力と、それによって操られる技術。ランタ
ンは肩で息をして、直撃を避けながら考える。
どうするのが最良であろうか、と。
それはランタンに急に慈悲の心が芽生えて、この哀れな操られた
戦闘兵二人を殺さずに無効化し、バラクロフの操り糸から救い出し、
その力と技術を生かして探索者として再出発させよう、などと考え
ているわけではない。どのような事情があろうとも殺しにきている
相手を殺すことに躊躇いはない。それに狙って殺さないというのは
面倒である。相手が強ければ強いほどに。
悩みはやはりそこにある。
バラクロフがリリオンを狙う理由は貴族に奴隷として売る為だが、
それ以外は何一つ判明していない。その貴族がどこの何奴なのか、
いつ目を付けたのか、リリオンである理由はどこにあるのか。
また今は煽り挑発してしまったのでそう言った視線を向けられる
理由も分かるが、それ以前にランタンに向けた憎悪の由来は。
死んだ者は生き返らない。殺してしまってはもう口を利くことは
出来ない。
情報は日々の買い出しから迷宮探索に至るまで少ないよりは多い
方が良いことは誰だって知っている。その為には一人より二人、二
人より三人。木っ端の構成員共ではなく、幹部級だと思われる蜥蜴
と猫背ならなおさらだ。もっとも口をきけるかどうか、と言う問題
もあるが。
595
﹁あー、もうっ﹂
思考は纏まらず雑念となり、うんざりとして吐き出された。そこ
に混ざった弱音のような音を耳敏く聞いたバラクロフが怒りに剥い
た瞳を嘲りに歪めて笑った。防戦一方であるランタンを指差して唾
を飛ばす。
﹁はっはっはあっ! 生意気な口を利いてその様か! 手も足も出
ないじゃないか!﹂
バラクロフは三人がかりで未だに仕留めきれていないという事実
を完全に無視して、演説するかのように手を振り回した。ランタン
はそれを苛つきながら見つめ、溜め息を吐いた。
何だかんだで少し疲れた。阿呆を相手にするのも、悪党を百人近
くぶち殺した後に、いちいち殺さないように戦うのも。
爆発は生け捕りに向かない。ならば切るべき手札は。
ランタンが戦槌を跳ね上げて刺突剣を弾いた。
刺突剣と大鉈の二つを捌かなければいけないので、細かく払うか
逸らすかにとどめていた戦槌を大きく跳ね上げたことで、ランタン
の右の脇腹が露わになった。あからさまな隙に、だが蜥蜴はランタ
ンの望み通りきちんと反応して大鉈をそこに目がけて切り上げた。
ランタンは一歩前に出て、刃を避けて蜥蜴の前腕を脇腹に受けた。
筋肉を固めたが肋骨が割れたような気がする。吐き出される息を喉
の奥で止める。ランタンはそれを飲み込んで、自らの額を蜥蜴の鼻
頭に叩き付けた。目の中で星が散った。
﹁頭は出るけど、ねっ﹂
鼻血を吹いて後退った蜥蜴を蹴っ飛ばし、猫背の刺突を左の掌に
受け止めた。
ちくりとした痛みがあり、その後にあったのは冷たさだった。刺
突剣が人差し指と中指の中手骨の隙間を通して掌を貫通して、甲か
ら鋒が突きでた。氷の細い針を突き入れられたような幻想は、血に
濡れた銀の鋒を見ることで現実に上書きされた。冷たさが火箸を突
き入れたような熱に変わった。なぜか耳鳴りがする。うるさい。
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ランタンはぐっと目を開いて、痛みに歪んだ唇を無理矢理笑むよ
うに奥歯を噛んだ。視線の交ざった猫背の瞳が僅かに揺らいだ。
肩は捻るだけで位置を変えず、肘と手首を折り曲げることで高速
に引き戻されるべき刺突剣を猫背は肩を大きく引っ込めるようにし
て引き抜こうとした。釣り人が水面に浮かんだ魚影に不吉さを感じ
糸を切るように、慌てて。
﹁いっ︱︱﹂
だがランタンは刺突剣が引き抜かれるのに合わせて、そしてそれ
よりも素早く猫背に近づき、剣の根元まで掌を押し込んだ。猫背は
柄を放そうとしたが、ランタンは小さな手を目一杯広げて噛み付く
ように刺突剣の鍔ごと握りしめた。
﹁どっらぁっ!﹂
そして力任せにぶん回した。ランタンの手の中で爆発が起こり、
振り回された猫背の手首が爆風により引き千切れて、切り離された
猫背は遠心力に従って吹き飛んで蜥蜴を巻き込んだ。
﹁はっ︱︱、ふう。⋮⋮まったく、そんな嬉しそうな顔するなよ﹂
バラクロフは笑ったまま言葉を失い凍り付いた。その笑顔はラン
タンの掌が突き刺された瞬間を映した化石である。バラクロフの思
考が現在に追いついていないのだ。あるいはランタンの狂気を理解
する事ができないのか。
ランタンが掌を下に向けて指を広げると、まるで見えない腕でも
あるかのように、猫背の手に握りしめられたままの刺突剣が重力に
引っ張られて掌から抜け落ちた。抜ける時の方が倍痛いな、と思い
ながらランタンは強がって表情を変えなかった。ただゆっくりと、
長く息を吐いた。
﹁知ってるよ、毒付きなんだろ﹂
ランタンが拳を握りしめると傷口から血を噴いた。
毒付きではあるが致死性の猛毒ではない。
猫背はリリオンを狙うときに致命傷を与えることを避けた。ラン
タンの頭や喉や、心臓を無遠慮に狙うその突きが、リリオンへ向け
597
られる場合には四肢へと向いた。それはバラクロフはまだリリオン
を生きたまま捕らえようとしていると言う事の証明だ。それならば
使用する毒は行動を阻害する麻痺毒あたりだろう。
だからこそ肉を切らせて骨を断った。
ブラフ
﹁僕には効かないけどね﹂
これは完全に嘘だが、はったりは大事だ。例えばこんな小胆な男
の相手をするのには。
耐毒薬のおかげで全く動けなくなるよう事はないが、時間が経て
ば手足に痺れや拘束感が出てくるかもしれない。時間を掛けるのは
得策ではない。例えばテスがカルレロに勝利して助けにくるのを待
つような、情けない行いはランタンの矜恃が許さない。三人全てを
生け捕りにするのは、少し欲張りすぎだった。
﹁身の程は弁えるべきだな﹂
誰に向けるでもなく、小さく囁いた。
バラクロフの表情が溶けることなくひび割れた。ランタンに向け
られる瞳は完全に恐怖に染まっている。唇が震えて、猫背や蜥蜴に
指示を出すことすら出来ない。だが二人は何も言われずともランタ
ンの前に立ちはだかった。
パープルブラッド
蜥蜴は鼻から、猫背は手首から、紫の血を流しながら。
﹁⋮⋮紫の血﹂
ランタンは蜥蜴に叩きつけた自分の額を擦って、掌を見た。そこ
には蜥蜴の血が付着している。酸化して色を濃くした紫の血が、自
ら流した赤い血と混じって掌を汚した。
魔精中毒には二種類ある。一つは急性魔精中毒。例えば迷宮に降
りた時に感じる魔精酔いは短期間で大量の魔精を得ることで発症す
る急性魔精中毒の自覚症状の一つである。
もう一つは慢性魔精中毒。長期間に渡り一定量以上の魔精を摂取
することで起こる魔精への依存症状であり、紫の血は慢性魔精中毒
の者に現れる特徴の一つである。
仙人が霞だけを食らうように、魔精のみを食らい生きる迷宮の魔
598
物はその血が青い。血液は魔精を溶かす溶媒として最も優秀な物の
一つであるために、人間であっても長期間に渡り一定以上の魔精を
摂取し続けると血の色が変わるのだ。血の赤と、魔精の青が交ざり
紫色に。
とは言えそうなるには相当量の時間と魔精を必要とする。ハイペ
ースで迷宮攻略するランタンでもギルド医に注意を促されたことは
あるが血の色が変わる予兆すらない。カルレロ・ファミリーが魔精
薬を取り扱っているからと言って、そうそう出る症状ではない。
﹁へぇ⋮⋮そーなんだ﹂
慢性魔精中毒の患者にはいくつかの傾向が見られる、とランタン
に注意を促したギルド医は語った。
例えば凶暴性や攻撃性の増加であったり思考の単純化であったり
だが、その時のありがたいお言葉の殆どは、迷宮から帰還したばか
りのランタンは疲れていたので聞き流してしまった。そのため子細
を覚えているわけではないが、そんなランタンにギルド医は少しば
かり怖い顔で言った言葉は覚えている。
︱︱魔精を取り過ぎるといつか君自身が魔物になるわよ、と。
それはただの脅し文句だ。だが慢性魔精中毒者が魔物じみている
と言うのは聞いたことがある。
魔物じみて生命力が強く、生半可なことでは死にはしないと。
無駄な時間と手間を掛けさせやがって、とランタンは乱暴に吐き
捨てた。目の前の、探索者の相手にふさわしい魔物共に向かって。
ランタンは手に持った戦槌をまるで死に神の鎌のように優雅に翻
し、瞳をらんらんと輝かせて躍りかかった。
振り下ろされた戦槌を蜥蜴が受け止めるが、その衝撃に蜥蜴の足
元が砕けた。正面からでも見ることが出来るほど盛り上がった背筋
がぶるぶると震えて、けれどランタンの小躯によってその巨躯が押
さえ込まれた。戦槌の先に爆発を巻き起こすと爆炎が蜥蜴の顔面を
焼き、蜥蜴は切り裂くような絶叫を上げた。闇雲に大鉈を振ってよ
ろめく。顔面は焦げ、眼球が白く濁った。
599
猫背は失った右手もそのままに、床に転がっていた適当な剣を左
くう
に構えて斬りかかってきた。水中に漂うように、手首から零れた紫
の血が空に流れる。
ランタンは軽く剣を払った。適当な剣はそれでぽっきりと折れる。
折れた剣で猫背は身体ごと突っ込んでくる。感情の無い瞳が今は目
一杯押し広げられている。
ランタンは戦槌を切り返して猫背の左腕さえもへし折り、そのま
ま止めることなく胴体へと鶴嘴をねじ込んだ。肋骨の間を通したが、
衝撃で骨が砕け、鶴嘴の先端が肺に穴を空ける。普通の人間なら死
んでいるが、魔精によって強化された生命力ならおそらく平気だろ
う。もっともこのまま爆発させてしまえば、たとえ魔物じみた生命
力を持っていても死んでしまうが。
残りは二人︱︱
首筋がぞわりとした。
視界の端に影が見えた。猫背が手を失った左手で殴りつけてきた
のか、と思ったがそうではなかった。
それは勾玉に似ている。だが色はくすんで、顔ほどの大きさもあ
る。
鶴嘴が筋肉に締め付けられて抜くことが出来ない。ランタンは咄
嗟に手を離して、襲いかかるそれを受け止めた。
猫背の曲がった背に沿うように隠されていたのか、現れたそれは
硬く節だった蠍の尻尾だ。尾の先端には鉤爪状の濡れた毒針があっ
た。ランタンは咄嗟にそれを爆破して切り取ったが、切り取られて
尚その尻尾はぐにゃりと動きランタンの右肩を突き刺した。
﹁くっ︱︱!﹂
何かが注入される感覚があった。判っている。毒だ。
﹁はっ︱︱ははははははっ﹂
バラクロフが快哉を叫んだ。
﹁よくやった、ベルムドっ! これで貴様も終わりだっ!﹂
ランタンは肩に刺さったそれを抜き取ってバラクロフに向かって
600
投げつけた。ランタンの瞳は警戒色の如き赤に染まった。
﹁︱︱ひっ﹂
尻尾はバラクロフの肩に当たり、男をよろめかせた。
猫背、︱︱ベルムドはついに白目を剥いて崩れ落ちた。ランタン
は弛緩したその身体から戦槌を抜き取り、刺された右の肩をぐるり
と回した。骨には到達していない。
だが中心に激痛と高熱、周囲は凍ったように冷たく、筋肉が重く
なった錯覚がある。バラクロフの声音から察するに、麻痺毒などと
言う生やさしいものではないだろう。
﹁怯えていただけの屑がやかましい﹂
蜥蜴が走って向かってくる。ランタンは戦槌でそれを打ち、爆発
を巻き起こした。蜥蜴の皮鎧が燃え崩れ、腹部を焼き、内臓を沸騰
させ、灰に変えた。蜥蜴は背骨と背側の鱗板だけで上半身と下半身
を繋ぐばかりになり、魔物のごとき生命力は一瞬で燃やされ尽くし
た。
ランタンは死を恐れない魔物に舌打ちを吐いた。あるいはバラク
ロフへの侮蔑として。
﹁効かないって言っただろ。根性だけじゃなくて、記憶力も悪いの
か﹂
ランタンは一音一音はっきりと口に出して、背筋に鉄柱を入れよ
うに身を伸ばして、バラクロフへとゆっくりと歩いて向かった。視
界が少し揺れる。
身体の中で耐毒薬により強化された免疫機能が解毒しようと働き、
体中のエネルギーを貪っているような気がした。
一歩一歩くごとに身体が重くなった。
一歩一歩近づくごとにバラクロフの腰が引けた。
六十幾つあった男を守る盾は全てが屍と化して、次いで用意した
牛頭の盾は剥ぎ取られ、乱入してきた緑髪は盾の体裁すら成さず、
最後まで残った二つの盾は一つ隠していた棘を失い、最後の一つさ
えも燃え落ちた。
601
バラクロフを守るものがなくなった。そこには剥き出しの恐怖が
あった。
憎悪は、恐怖を隠す為の盾だったのかもしれない。
思えばこの男はずっとそうであった。ランタンの見ることの出来
ない遠くから、前後不覚の薬物中毒者の背後から、紫の血をした魔
物の影から。近づけば遠ざかり、どうしようもなくなれば野犬でも
追い払うように剣を振り回して逃げ出した。
ランタンを恐れて。
﹁お前が⋮⋮﹂
何かを言いかけて、ふとリリオンの事を思った。
あの子は無事だろうか。頑張っているだろうか。
リリオンはきっと頑張っている。ランタンの見ていないところで
も、あの子は頑張れる子だ。痛みにだって、魔物にだって、男にだ
って、怖い物は沢山あるがリリオンにはそれに立ち向かう精神力が
ある。
少しばかり危なっかしいのでランタンは自分のことを棚に上げて
心配しなければならないこともあるが。
あの子は、いい子だ。
バラクロフの手が震えて、弓に矢を番えることを失敗した。中途
半端に弾かれた矢がぽろんとランタンの足元に転がって踏み折られ
た。バラクロフは顔面蒼白になって、折られた矢とランタンの顔を
見比べた。
ランタンの額にはうっすらと汗が滲んでいる。強がっています、
と顔に書いてあったがバラクロフはそれでも後ずさり、自分の足に
つまずいて尻餅をついた。
ランタンは床に置かれた弓を握ったままの左の手を踏み潰して、
消し炭に変えた。そして傍らに落っこちている蠍の尻尾を拾い上げ
てバラクロフの右の手の甲に突き立てて床に縫い付けた。そこに毒
が残っているのかどうかは判らないが、バラクロフの顔は引きつっ
た。そして叫んだバラクロフの顔面に靴底を叩き込んで黙らせる。
602
赤い鼻血を吹いた男の顔をランタンは覗き込んだ。
﹁さて、両手が使えないようだが、︱︱どうする?﹂
ふっと蝋燭を吹き消したようにランタンの瞳の色が焦茶に戻った。
今すぐにでも八つ裂きにしてやりたい衝動は、今までの行いを無
駄にする悪魔の誘惑である。ランタンは自分を誤魔化すように衝動
を押し殺し、それ故の無表情でバラクロフに尋ねた。
バラクロフは大きく喉を上下させて口の中に入り込んだ鼻血を飲
み下し、何かを言おうとして喉を振るわせた。だがひゅうひゅうと
掠れた音が漏れるだけで、言葉にはならない。ランタンは戦槌をバ
ラクロフの顎に当て、重たげに項垂れる顔を持ち上げてやった。
﹁しゃべる事ができない口なんて、必要ないよね﹂
小胆なこの男が持っていないはずはないのだ。自らの使う道具が、
万が一己に牙を剥いた時の備え、ベルムドの毒の解毒薬を。
ランタンはふぅふぅと喉で息をして汗を拭った。バラクロフは冷
や汗を拭うことが出来ない。まるで秒針が時を刻むようにカチカチ
と音を立ててバラクロフの歯が鳴った。
これは我慢比べで、毒を食らったのはランタンの方が先だったが、
ランタンは当然のようにその勝負に勝った。
603
042
042
解毒薬をバラクロフの目の前でこれ見よがしに揺らしてみたり、
床に叩きつける振りをしてみたり、注射をするか迷う素振りをして
見たりと子供っぽい嫌がらせをしたのは、きっと頭が朦朧としてい
たからだと思う。ふと正気に戻ったのは、これ以上の時間経過を咎
める、物言わぬ肉体の諌言だったのだろう。
ランタンは取り敢えず先にバラクロフへ投薬して様子を確かめ、
それから自身の手首の血管に注射を打った。そして一息吐いて、お
もむろにバラクロフを殴って気絶させた。気絶させるにしては酷く
乱暴だったのは毒の所為で力の制御が上手くいかなかったからであ
り、バラクロフの前歯が残らず砕け折れてしまったのは偶然の産物
である。苛立ちを闇雲にぶつけたせいでは、決してはない。
﹁ふぅ﹂
解毒薬が速やかに身体の中の毒素を無毒化した、などと言う事は
ないだろうがランタンは意識が冴えたような気がした。ひとまずの
脅威が去ったので安心したのかもしれない。あるいは何か己のあず
かり知らぬ所で苛立ちが発散されたのかもしれない。ランタンには
まったく身に覚えがなかったが。
ランタンは腰に戦槌を戻して、汗に濡れた顔や首を、血に汚れた
額や掌を外套で乱暴に拭った。右肩の怪我は腫れているような感じ
があり、それでいてじくじくと血が染み出していたが、どうする事
もできないので放っておいた。
ランタンは視線を左右に動かす。
さらなる黒幕が隠れているなどと言う端面倒くさい事はなさそう
だ。
604
隣の部屋からは相も変わらず戦闘音が聞こえていたが、たまにテ
スの笑い声も交ざっているようなので加勢をする必要はなさそうだ
った。それに今のランタンが突入しても足手まといにしかならない
だろうという程度の判断能力は戻ってきていた。
もう一度ゆっくりと部屋の中を見回す。
微かな生命の気配は、バラクロフの物でもベルムドの物でもない。
腹部を丸ごと失った蜥蜴が僅かに呻いたのだ。ランタンは仰向けに
倒れる蜥蜴へと近づいた。蜥蜴は白く濁った目をして、虚空を見つ
めている。半開きの口からは今なお凶悪な牙と、青い舌が覗いてい
た。呼吸をしているようには見えなかった。
それはただ肺に溜まった空気が抜け出した音だったのかもしれな
いし、死後硬直により何かしらに筋肉が強張る音だったのかもしれ
ない。あるいは本当に蜥蜴は魔物と成り果てて、今もまだ死んでい
ないのかもしれない。
ランタンは大きく溜め息を吐いた。床に転がった剣を手にとって、
皮鎧の失われた蜥蜴の胸にその鋒を当てる。なだらかに隆起した胸
が、蜥蜴の性別を告げていた。何とも言えない気持ちになる。
﹁⋮⋮さようなら、おやすみなさい﹂
ランタンは胸を避けるように剣に角度を付けて、横隔膜の辺りか
ら肋骨の隙間を通し蜥蜴の心臓を一突きにした。それでついに蜥蜴
は死んだ。魔物のように身体の一部が魔精結晶化するという事はな
かった。
剣をそっと引き抜く。ランタンの手の中には剣の侵入を拒む肉体
の抵抗があった。それは魔精薬のみで作られた肉体ではなく鍛錬の
結晶であるとそう思った。ランタンは鋒を紫に汚した剣を放り投げ
て、蜥蜴から視線を逸らした。
ランタンはバラクロフを一瞥して、ふん、と鼻を鳴らして倉庫を
出た。
身体はやはり重たい。太陽も重たげで空からもう傾いていた。夕
焼けが眩しく、汗ばんだ身体に風が少し肌寒いような気がした。ラ
605
ンタンはまぶしさに目を細め、そのままぎゅっと瞼を閉じて、ゆっ
くりと再び持ち上げた。
視界は良好である。
倉庫の外には足跡があった。それを足跡と呼んでいいのかは判ら
ないが、リリオンと女が押し合い圧し合いしての物であろう、地面
に刻まれた大蛇がのたくったような跡を辿った。足跡は途中で途切
れて、戦闘痕に変わっている。まるで大型の魔物同士が暴れたよう
な有様だった。地面の舗装が放射状に陥没し、また剥がれて捲れ上
がり、あるいは倉庫の壁に罅が入り、大きく崩れていた。
隣の倉庫の角を曲がるとリリオンの方盾が落ちており、更に先に
は大剣が落ちている。女の手によって払い落とされたのか、それと
もリリオンが自ら投げ捨てたのか。その更に先には緑髪の女とリリ
オンが互いに無手で対峙していた。
女がランタンの姿に気が付いた。それは一瞬の隙だった。
リリオンがラリアットするように女に飛びかかり、その首に左腕
をフックした。薙ぎ倒さんとする勢いを、女は首だけで支えて持ち
こたえた。だがリリオンはその勢いのまま女の細首を支点にして女
の背後を取った。次の瞬間にリリオンは跳び、両足を女の腰に絡み
つけて組み付く。そして女の身体を一気に後ろへと引き倒した。
リリオンはもろに背中から地面に落ちたが、腕も脚も外す事はな
バックチョーク
かった。
裸締めだ。女が瞬時に顎を引いたせいで、首のフックがやや緩い。
だが。
技は力の中にある。リリオンを見ていると本当にそう思う。ラン
タンはかっと胸が熱くなるような気がした。
リリオンは背を三日月の如く弓形に反らして、背筋を使って女の
首を絞めた。緩かった首のフックをきつく締め直されて、リリオン
の腕が女の顎を押しのけて首にめり込んだ。首どころか、そのまま
上半身を引っこ抜きそうなほど綺麗に極まっている。
女の手がリリオンの腕を引き剥がそうと爪を立てて引っ掻いてい
606
たが、防刃素材の戦闘服をただの爪が切り裂けるわけもなく、虚し
く服の上を滑っただけだった。そして今度はリリオンの腕を掴んだ
が、あるいは全力ならばその腕を握り砕く事もできたのかもしれな
いが、女のそれはただ縋り付く程度の力しか残されていなかった。
完全に極まった。
リリオンの腕は女の気道と頸動脈を同時に締めて、脳と肺への酸
素供給が断たれた女はほんの三秒もかからずにあっけなく失神した。
掴んでいた指がはらりと剥がれ落ちて、腕が重力に引かれてだらり
と垂れ下がった。
だが、それでもリリオンは女を締め続けた。リリオンは必死で、
まだ戦っているままなのだ。
﹁リ︱︱﹂
口を開いたが、舌が縺れるのが判った。しかしランタンは喉をが
ならせて、無理矢理に声を出した。声が少し掠れたが、そのままは
っきりとその名前を叫んだ。
﹁リリオンっ!﹂
走ると絶対に転ぶ。ランタンは大股の早歩きでリリオンに近づい
た。リリオンはランタンの姿を確認して、それから女へと視線を往
・ ・ ・ ・
復させた。リリオンはまだ締め続けている。
﹁大丈夫、もう落ちてるよ﹂
リリオンは目をぱちぱちさせてランタンの顔を窺った。奥歯を食
いしばっていて、薄く開いた唇から歯の隙間を通って鳴る荒く掠れ
た呼吸が聞こえた。リリオンの鼻からはだらだらと鼻血が出ている。
﹁もう意識がないから腕を︱︱、リリオンの勝ちだよ﹂
ランタンが言い直すと、それでようやくリリオンは身体を弛緩さ
せて女の首から腕をのっそりと引き抜いた。ランタンが緑髪の首根
っこを掴んでリリオンの上から退かしてやると、リリオンは左手を
地面に突いてゆっくりと立ち上がった。
胸を膨らませて呼吸を落ち着かせ、ゆっくりと萎ませる。その呼
吸には泥のように重たげな疲労の音色が滲んでいた。だが、それは
607
すぐに掻き消された。
﹁やったよ! ランタンっ!﹂
リリオンは花が咲いたようにぱっと表情を輝かせた。
リリオンの顔、その頬は赤く腫れていて唇が切れており、また血
を流し続ける鼻は少し歪んでいるようにも見えた。おそらく折れて
いるのだろう。まだ幼さのある顔への怪我は痛々しかったが、それ
故に笑顔は鮮烈だった。
リリオンには負けず嫌いの気が存分に備わっている。初襲撃時に
貫衣によって締め落とされた事を、少女は酷く落ち込み、そして根
に持っていたのだ。
﹁ちゃんとランタンに教えてもらったようにできたよっ!﹂
それでランタンが、慰めと遊びが半分半分であったが、多少の寝
技や関節技を仕込んだのである。もっともそれはランタンの自己流
の技術であり、いわゆる探索者の数だけ流派が存在すると言われる
迷宮の中で産み落とされ成長する探索者流格闘術であったが。
﹁うん、がんばったね﹂
ランタンは手を伸ばして赤く腫れた頬を撫でた。リリオンはラン
タンの手の冷たさに驚いて目を開いた。ランタンは心配させないよ
うに微笑んで、端布を取り出すとリリオンの鼻血を拭ってやった。
リリオンが、ふん、と鼻を鳴らすと血の塊が飛び出した。
一瞬、折れた鼻の欠片でも出てきたのかと思ったランタンは吃驚
してしまった。その驚いたランタンに、リリオンも驚いて目を丸く
した。二人は目を見合わせて一瞬黙ると、どちらともなく肩を揺ら
して笑った。
﹁他に怪我してるところはない?﹂
﹁これ︱︱﹂
ランタンが尋ねるとリリオンは右の腕を持ち上げた。
手首と肘の間に、もう一つ関節が増えている。
﹁︱︱折られちゃった﹂
でろんと垂れ下がる腕を見せてリリオンはあっけらかんと言い放
608
った。痛くないの、とランタンが聞くと、痛いわ、とまったく痛そ
うな素振りもみせずに返してきた。
﹁我慢してるの﹂
﹁そっか。⋮⋮ね、我慢ついでに、もうちょっとだけ、少しだけだ
から痛くしてもいい?﹂
﹁うん﹂
言葉足らずなランタンに、リリオンはあっさりと頷いた。ランタ
ンはそっと袖を捲ってリリオンの白い腕を露わにした。おそらく蹴
られたのだろう、骨折箇所にはどす黒い打撃の痕跡が見られた。ラ
ンタンは殆ど触れぬ程度に、優しく患部を撫でた。
﹁ちょっと待ってて﹂
ランタンは倉庫の壁に空いた穴を覗き込み、その穴に手を突っ込
ナイフ
んだ。その先には木箱があった。指先に触れた木箱の枠を力任せに
毟り取って、狩猟刀でその形を整える。乾燥した材木がまるでチー
ズのように抵抗なく削ぎ取られ、できあがったものは添え木である。
ランタンはついでに女の纏っていた外套をも切り裂いた。
﹁よし、腕貸して﹂
ランタンはリリオンの手首と肘の少し手前を掴んだ。手首を掴ん
だ掌にリリオンの脈拍と戦闘の残滓とも呼ぶべき熱が伝わってくる。
﹁ランタンの手、冷たいわ。怪我もしてる﹂
つ
﹁うん、穴空けられちゃった﹂
﹁⋮⋮大丈夫っ︱︱痛っ、なの?﹂
﹁ま、ふふふ、リリオンよりはね﹂
宣言もなくいきなり骨接ぎをした事で、リリオンの表情が一瞬だ
うそぶ
け硬く強張った。眦に涙が浮かんだが、それは睫毛に引き寄せられ
て流れ落ちる事はなかった。
ランタンは、よく我慢したね、と嘯きながら真っ直ぐに繋げたリ
リオンの腕に添え木を当てて、女の外套から畳んで作った三角巾で
腕を吊ってやった。首の後ろで三角巾を結ぶ時、背に垂れた髪を払
う。それで今更ながら気が付いた。
609
せっかく作ったシニヨンが崩れ、解けてしまっている。砂に汚れ
てぼさぼさになって、ぐるぐるに纏めていたので髪に癖がついてし
まった。髪の中頃に髪紐が芋虫のようにくっついている。ランタン
はそれをそっと外して、髪の汚れを払ってやると、項で簡単な一つ
結びにしてやった。
﹁じゃあテスさんところに行こうか﹂
ランタンが女を運ぼうと手を伸ばした。
よくよく見ると女もリリオンに負けず劣らず酷い有様である。こ
めかみの辺りにどす黒い内出血を伴う腫れがあり、額が割れていて
赤い血が一筋流れている。眉間を通り、右の目を汚し、鼻に沿って
流れ落ち、唇の所で乱暴に拭われている。リリオンの左腕に目をや
ると、そこに血を拭ったらしき血汚れがあった。首を絞める際に触
れたのだろう。
血に汚れた腕が持ち上がり、ランタンの肩を掴んだ。
﹁わたしが運ぶわ﹂
﹁腕折れてるのに?﹂
﹁わたしが、運ぶから﹂
リリオンは有無を言わせぬ雰囲気でそう言うと、戸惑うランタン
を半ば強引に退かして、女をひょいと肩に担ぎ上げた。突き出すよ
うな形となった女の尻がリリオンの肩の上で妙な存在感を放ってい
る。尻ばかりではなく太股にも確りと肉がついていて重たそうだが、
リリオンは平然としたものだ。
ランタンは肩を竦めて歩き出し、リリオンの代わりに方盾と大剣
を拾い上げるとそれを一纏めにして背負った。その重みにランタン
の身体が少しだけ揺らいだが、歩けない程ではない。
﹁テスさんは大丈夫かな?﹂
﹁まあ大丈夫でしょ、たぶん。負けてても二勝一敗だし。あれ五勝
一敗、か?﹂
﹁⋮⋮ランタン大丈夫?﹂
テスへではなく、変な事を呟いたランタンに向けた心配に、ラン
610
タンは何も問題はないという風に素知らぬ顔で頷いた。頭に上って
いた血が肩から抜け出た事で、思考が妙にふわふわしている。
ランタンは半開きになっている倉庫の扉を乱暴に蹴っ飛ばして開
け広げて中に入ると、ちょうど奥の部屋からテスが出てくるところ
だった。
﹁おや、私が最後か︱︱﹂
少しだけ悔しそうな雰囲気を滲ませて言ったテスは、しかし清々
しい笑顔を作って右手で捕まえて引きずっていた物体を放るように
転がした。それはフィデル・カルレロの巨躯である。見るも無惨な
有様だった。
カルレロからは、角が二つとも、右の眼球が、左腕の肘から先が
失われていた。そして両足の健が断ち斬られているようだった。鋼
のような肉体は他にも大小無数の切り傷が刻まれていて、失った血
の分だけ身体が小さくなっているような気がした。
カルレロもまた紫色の血で全身を汚している。
辛うじて上下する胸がカルレロが生きている事を伝えているが、
それだけだった。痛みに呻くでもなく、憎悪に唸るでもなく、怒り
に震えるでもなく死体のように意識を失っている。
﹁︱︱二人ともやるなぁ﹂
テスの身体からは戦いの残滓か、迸る闘気のように熱気が漂って
いた。掻き上げた髪が汗で濡れていて、テスの漆黒の毛皮をいっそ
う色濃く艶やかにみせていた。テスの鎧は少しだけ血で汚れていた
が、それは全てカルレロからの返り血でテス自身には一筋の怪我も
ないようだった。
これでどうやらジャックに怒られるというような事はないようで、
ランタンは小さく胸を撫で下ろした。そんなランタンにテスが笑い
かけた。
﹁くふふ、カルレロ程度では私に触れる事すらできんよ。ま、ジャ
ックもあれで約束事にはうるさいしな﹂
テスはそう言うと二人の怪我の様子を尋ねて、よくやったな、と
611
優しく頭を撫でた。ランタンにはそれに加えて頬を撫で、そこから
滑り落ちるように首筋にまで触った。そこにある体温と汗に触れて、
テスはにやっと笑った。ランタンはぞくりと震える。
﹁冷たいな﹂
言いながらテスはリリオンの肩から女を受け取って、それと引き
替えるようにリリオンに囁いた。
﹁暖めてあげるといい。男を暖めるのは女の特権だからな﹂
﹁なにを︱︱わ!﹂
ランタンが呆れた様子でテスを見たら、リリオンがランタンの身
体を抱き寄せた。左腕だけで器用に、ランタンの後頭部を自らの胸
に押しつけるようにぎゅっと抱きすくめた。まるで緑髪の女を締め
落とした事で、何かしらの技術を会得したのかしれない。ランタン
は微動だにする事ができなかった。
そんなランタンを余所にテスは女を地面に下ろしながら、肩を震
わせて声もなく笑っている。テスは大きく深呼吸をして息を整える
と面を上げた。睨み付けるランタンの視線を真っ正面から受けて、
それでもテスの瞳の奥には悪戯な笑みが残っている。
﹁さて、と﹂
テスはリリオンにウィンクしてみせると、ふいに表情を改めて女
の髪を鷲掴みにした。そのままぐいと顔を上げさせて人相を検めて
いる。
﹁知らん顔だな﹂
小さく呟くとテスは髪から顎へと掴む位置を変え、瞼を開いて瞳
孔運動を確かめ、首の据わらない女の顔を様々な角度から眺め回し
た。
﹁⋮⋮いや、探索者か?﹂
﹁手首にギルド証が﹂
ランタンがテスに伝えると、テスは女の顔から手首へと視線を移
した。ぱっと顎を放すと女の顔ががくりと垂れる。袖をまくり上げ
ると隠されていたギルド証が露わになった。それを抜き取って、ふ
612
ローブ
む、と一つ息を漏らしてその表面に指を這わせる。
﹁なるほどな。これは貫衣か﹂
﹁ええ、おそらく﹂
呟いたテスにランタンが同意する。後頭部でリリオンの心臓がぽ
んと跳ねた。もしかしたらリリオンは自らが戦っている相手がなん
ひとしき
であるかは気が付いていなかったのかもしれない。
テスがギルド証を一頻りこねくり回し、それをポーチへとしまっ
た。
テスは女を俯せにして手錠を掛けた。カルレロ、バラクロフ、ベ
ルムドも一緒に拘束する。奇しくもその三人は左右の違いもあれど
片手を失っていて手首に手錠を掛ける事ができないので、肘の上の
辺りできつく手錠を締めて対処をした。
拘束する事こそが、まるで生者の証であるかのようだった。
﹁これって、どうすればいいんですか?﹂
散乱する死体。捕縛した四人。他にも辺りには様々なものが転が
っている。
今更ながらランタンはテスに尋ねた。
ランタンは探索者であって賞金稼ぎではない。その為、何も知ら
なかった。
例えば賞金首であるカルレロは衛士に突き出すのか、それとも探
索者ギルドへと突き出すのかと言う初歩的な手続きに始まり、また
大量にある死体や戦利品の数々、あるいは違法薬物などの証拠品を
どうするべきなのかと言った事さえも。
ただ捨て置くには様々な意味でもったいないとは思う。迷宮で魔
精結晶以外を諦める時の後ろ髪を引かれる感じに似ている。
﹁必要なのは大抵は首だけだよ。人相が判る事が好ましいがね。ほ
ら、カルレロなんて見てみろ。あんなでかい奴を運ぶなんてしたく
はないだろう﹂
指を差してテスは笑い、そして続ける。
手配内容にもよるが大抵の賞金首は生死を問わずに懸賞金が与え
613
られる。大抵の賞金首は衛士隊が、つまりは国によって手配が掛け
られているが、探索者ギルドが独自に手配しているだけの賞金首も
いる。共同で手配をしている場合だってある。それによって突き出
す先は変わるのだ。
例えばカルレロは衛士隊からも、探索者ギルドからも手配を掛け
られている。
衛士隊からは違法薬物の売買によって、探索者ギルドからは探索
者の殺害と衛士隊と同じく違法薬物の売買によってだ。もっとも衛
士隊は法律破りを手配の理由にして、探索者ギルドはギルドの名を
汚した事を理由にしていたが。
﹁ギルド証にそいつの死亡情報が刻まれている場合はギルド証だけ
でもいいな。私は手っ取り早いからその方が好きなんだが︱︱﹂
﹁じゃあ首切っちゃうんですか?﹂
リリオンがテスに尋ねると、テスはゆっくりと首を振った。
賞金首を生きて捕らえた場合には、懸賞金の他に特別手当が支払
われる事もある。例えば捕まえた賞金首が何かしらの重要な、例え
ば未解決事件や他の重大犯罪の手がかり、あるいは計画などを証言
を自白した場合には特に多額の特別手当が。
﹁なかなかいい案だが、折角生け捕りにしたんだ。奴らには聞かな
ければならない事が多くある﹂
紫の血を引き起こすほどの魔精薬。それは真っ当な流通網から得
たものではないだろう。テスの職務上、あるいは趣味の為にも、殺
す事は得策ではない。テスはそっとランタンに視線を寄越した。
﹁︱︱ランタンもそうだろう?﹂
﹁はい﹂
ランタンはただ深く頷いた。
リリオンに影を落とす様々な事を、バラクロフには全て吐き出し
て貰わなければならない。それまで死んでもらっては困るのだ。そ
うでなければランタンが力を出し惜しみしてこれほど傷ついてまで、
バラクロフを生かして捕らえはしない。
614
ポーター
﹁失敗したなぁ。こんなことならジャックを残しておくんだった﹂
一人前の探索者を運び屋扱いするのはさすがに可哀想だろう、と
半ば本気で呟いたテスの言葉にランタンはジャックに同情した。
﹁この量だと私らだけではどうにもならんからな、応援でも呼ぶか﹂
怪我人もいるし、とテスは言った。カルレロたちの事を言ってい
るのか、それともランタンたちのことを言っているのか。
﹁応援?﹂
﹁ああ、ひとっ走りして︱︱﹂
テスが言いかけて、扉の方へと顔を向けた。
﹁さすが、いいタイミングだ﹂
三角形の耳がぴくぴくと動いて、喉の奥でくつくつと笑った。
﹁呼びに行く必要はなくなったようだ。ランタン、リリオン、適当
に口裏を合わせろ﹂
よく判らないままに二人とも頷いてテスの視線の先を追いかけた。
たっぷり五秒後にランタンもようやく人の、それも大勢の人の気配
を感じ取った。
そこから更に五秒。足音が聞こえる。破落戸共のおかわりが来た
わけではないようだ。倉庫の外に響く足音は整然として規律を奏で
ており、倉庫のすぐ傍まで来ると一斉に停止した。
開け放たれた扉の中には逆光が満たされており、そこに人影が浮
かび上がった。
テスが一歩前に出て、一纏めになっているランタンたちの姿を隠
した。
﹁テスっ! テス・マーカム隊長!﹂
怒鳴り声が静寂を切り裂いた。
黒い鎧に身を包むその男は探索者ギルドの武装職員である。鎧を
がしゃがしゃ鳴らしながら倉庫の中に立ち入り、倉庫内の惨状を一
目見てこめかみを大きく痙攣させた。それは苛立ちだろう。ランタ
ンでさえその苛立ちが判ったのだから、テスに判らないはずがない。
だがテスは平然として男に近づいた。
615
パトロール
﹁おや、ケイヒル隊長ではないですか。これは奇遇ですね。六番隊
の持ち回りは下街の警邏ですか。おつとめご苦労様です﹂
ケイヒル隊長と呼ばれた男はランタンの目からは四〇歳前後に見
えた。額が広く、いかにも苦労してそうな薄い頭髪に、消える事の
ない眉間の皺に男の哀愁と渋みを感じさせた。
隊長と呼ばれた事からテスと同格の同僚である事が解ったが、テ
スはケイヒルよりも一回り以上若く見える。だがテスからはケイヒ
ルへの親しみが感じられた。もっともケイヒルは今にもこめかみの
血管が破裂しそうなほど苛立っていたが。
ケイヒルの鼻梁の細い鼻が大きく膨らんで、荒々しく鼻息を吹き
出した。もしかしたらそれは深呼吸の代わりだったのかもしれない。
ケイヒルは口を開いた。そこから漏れたのは罵声でも怒声でもなく、
疲労を感じさせる低く落ち着いた声だった。
﹁⋮⋮状況を説明してもらいたいのだが?﹂
この場に最も適した疑問だった。
倉庫内の様相はそれはもう酷いもので、邪教が邪神でも呼び出そ
うと生け贄を捧げまくったようにも見えるし、あるいは犯罪組織が
血で血を洗う抗争を終えた後のようにも見えるし、頭のおかしい探
索者が頭のおかしい武装職員と結託して悪党を血祭りに上げたよう
にも見える。
ここで碌でもない酷い事が起こった事は一目瞭然だったが、そこ
からは酷い事が起こった、と言う事実しか読み取る事ができない。
﹁ふむ、どこから話していいのか、なかなか難しいのですが﹂
正解であるケイヒルの質問を、テスがそっと脇に逸らした。
﹁まずケイヒル隊長がこちらへ来られた理由を教えていただきたい。
六番隊の真面目さは知っていますが、こんな所まで警邏に来る事は
ないでしょう? きっとその方が状況を摺り合わせやすいはずです﹂
ケイヒルは口の中で悪態を噛み潰し、眉間の皺を深くして渋々口
を開いた。言い負かされたのではなく、おそらくテスの性格を知っ
ていて様々な事を諦めているのだろう。
616
﹁下街の外れを警邏していた衛士隊から応援の要請があったのだ。
大量の武装した死体を見つけた、と。その痕跡から大規模戦闘が行
われた事は確実であり、その戦闘に探索者が関わっている可能性が
ある為に我々が派遣された。何か身に覚えは?﹂
テスは答えずにケイヒルに続きを促した。ケイヒルの唇が大きく
震える。
﹁その後、その付近にある建物の内部で更に三名を発見。一人は拷
問をされた形跡があった。命に別状はないが、三人とも未だに昏睡
状態だ。お前が、やったんじゃ、ないのか?﹂
﹁ふうむ、続きをよろしくお願いします。どうにも記憶が混濁して
そらとぼ
いて、うーむ、これは歳ですかね。困ったものです。ケイヒル隊長、
どうすれば頭が冴えるでしょうか?﹂
テスはケイヒルの頭に視線を合わせて空惚けた。ケイヒルは鋼の
如き忍耐力を持ち合わせていたが、こめかみに浮き出した血管はも
うはち切れんばかりに脈動し、眉間の皺は脳に届くのではないかと
思わせるほどに深く刻まれた。まるでテスの剣で斬られたようだ。
﹁その後っ! 付近に居合わせた乙種探索者二名の証言によりっ、
どうせお前がなんか面倒事を起こしてっ、ここに来た事は判ってん
だよっ!﹂
ケイヒルは一言一言を強く区切りながらも、けれど深く言い聞か
せるような響きで怒鳴った。ぜいぜいと肩で息をして、その顔は夕
日の所為ではなく赤く染まっている。
﹁まったく。何をそんなに苛ついているのですか? ハゲますよ﹂
﹁⋮⋮俺の髪の事は言うな。殺すぞ﹂
低い声で言ったケイヒルに、テスは余裕の表情で肩を竦めた。
﹁それでは、頭からいきましょうか﹂
この日テスは仕事が休みで、ものすごく天気が良かったので下街
に散歩に出かけた。そうしたら偶然にも破落戸に襲われている少年
少女を発見して、これを助ける為に手を貸した。おそらくこの破落
戸が衛士隊の発見した死体である。だがそれは多勢に無勢だった為
617
に少年少女を救うにはやむを得ない結末だった。ごく普通の倫理観
と正義心を持つ全ての人間がごく当たり前のように行う行為である。
﹁きっとケイヒル隊長も、同じ場面出くわせば、私と同じ行動をと
ると思います。いえケイヒル隊長ならば、もっと上手くやれるでし
ょうが﹂
﹁ああ、⋮⋮そうだろうよ。大抵の人間はお前よりも上手くやれる
だろうよ﹂
﹁それに襲われていたのは探索者でした。探索者はギルドの宝です
ので、これを守るのもまたギルド職員として当然の行動です﹂
﹁探索者?﹂
たまもの
ケイヒルが怪訝そうに眉を顰めた。それは恐るべきテスの技術の
賜だ。自らの気配の中にランタンとリリオンを覆い隠したのだ。挑
発的な話術も、もしかしたらそれを確実にする為の手管だったのか
もしれない。
﹁ええ、ここに居ますでしょう?﹂
そう言ってテスは一歩横にずれた。テスの背中に息を殺して隠れ
ていたリリオンと、その少女の腕の中に守られるように抱かれてい
るランタンにケイヒルはようやく気が付いて目を丸くした。
﹁おいっ!﹂
﹁なんでしょう?﹂
﹁あれは︱︱ランタンじゃないか!? アレが襲われていた!? 逆じゃなくてか? なんで襲ったんだ? やつらは自殺志願者かな
んかだったのか?﹂
詰め寄るケイヒルに、さすがのテスも苦笑いをしている。ランタ
ンの姿を確認してケイヒルはテスに感じていた様々な感情を吹き飛
ばしてしまったようだ。
酷い言われようだ。まるで人を厄災みたいに、とランタンは内心
むくれながらも口元に友好的な、それでいて意図的に恐怖を滲ませ
た微笑みを作り上げた。
﹁はじめまして、ケイヒル隊長様。テスさんには危ないところ助け
618
ていただいて、もしテスさんが居なかったらと思うと︱︱﹂
声を震わせたのはわざとらしすぎた。ケイヒルが得体の知れない
ものを見る表情でランタンを見ている。だがそんな表情をされるの
も慣れたものなので、ランタンは構わず続けた。
﹁だから、そんな風にテスさんを怒らないでください﹂
﹁おねがいします﹂
ランタンの言葉に続けてリリオンが頭を下げた。ランタンの言葉
とは違い、本心から。
ランタンとリリオンが揃って罪悪感に表情を硬くした。
だがその頭を下げられた本人であるケイヒルの抱いた罪悪感は、
二人と比べるべくもなく膝から崩れ落ちるほどに重たかった。ケイ
ヒルの身体が揺らいで、だがどうにか持ちこたえた。
﹁ああ、いや、そうか。わかった、頭を上げてくれ。マーカム隊長、
ご苦労だった﹂
ケイヒルが声を掛けてようやく、それでもゆっくりとリリオンは
面を上げた。リリオンは混じりっけなく純粋に感謝の気持ちを瞳に
湛えてケイヒルを見つめた。ケイヒルが戸惑うように咳払いを一つ
零した。
﹁いい子たちだろう﹂
リリオンに関しては同意だが自分は、とランタンはこの上なく申
し訳ない気持ちになった。
﹁お前の正当性は判ったよ﹂
ケイヒルとはとても良い人のようだ。テスは満足気に頷いている。
悪い人だ。
﹁︱︱その後、破落戸の所持品から違法な魔精薬を発見。裏に大が
かりな犯罪組織の存在が疑われた為に尋問をして、賞金首探索者フ
ィデル・カルレロ一派の犯行である事を突き止めました﹂
テスはそう言って床に転がしたカルレロを指差した。
アジト
﹁私一人では戦力が不十分でしたので探索者である彼らに応援を頼
み、住処を強襲しました。それで今に至ります。彼らのおかげで無
619
事に犯罪組織を壊滅することができました﹂
テスは誇らしげにリリオンの肩を抱いてみせた。リリオンが照れ
はしょ
たように頬を染めて、ケイヒルは呆れた視線をテスへと向けた。
﹁お前ずいぶんと端折っただろ。ったく、まあいい﹂
﹁探索者として確認が取れたものはそこの三名です。賞金首である
フィデル・カルレロ。乙種探索者エイン・バラクロフ。女の方も乙
種探索者です。名前はルー・ルゥ。もう一人のは︱︱﹂
﹁ベルムド、と言うようです。探索者かどうかは判りませんが、探
索者級の戦闘能力を有してます、⋮⋮僕の主観ですけど﹂
﹁だ、そうです﹂
テスはポーチにしまった緑髪の女、ルー・ルゥのギルド証をケイ
ヒルに渡した。
﹁死体の中にはもっと居るかもしれませんが、確認はしていません﹂
ケイヒルは捉えた四名に近づいて、ぐったりとしたその肉体の首
筋に触れ、瞼を持ち上げて瞳を覗き込んだ。
﹁ふん、とりあえず生かして捕らえたようだな﹂
﹁それぐらいの分別はつきますよ﹂
﹁それなら応援を呼ぶ分別が欲しかったね。⋮⋮ま、お前に言うだ
け無駄か﹂
﹁⋮⋮私をなんだと思っているのですか﹂
﹁狂戦士、処刑人、死神﹂
﹁黙れハゲ﹂
﹁うるせぇ、ぶち殺すぞ﹂
﹁︱︱ケンカしたらダメっ!﹂
剣呑な気配を察したリリオンが二人の間に割って入った。
ランタンがそんなリリオンを褒めてやり、大人なのにね、と二人
を見つめると泣く子も黙る武装職員が気まずそうに顔を見合わせた。
ケイヒルは言葉に詰まって押し黙り、けれどテスはリリオンの横
に並んで肩を組んだ。さもこちら側の人間であるかのように。
﹁まったく大人気ないですよケイヒル隊長。私に何か言うよりも、
620
私たちの仕事を手伝ってくれた彼らに一言あってしかるべきなんじ
ゃないですか? そんなだから武装職員はやれ横暴だの何だのと言
われてしまうんですよ﹂
﹁ぐ︱︱﹂
信じられないものを見るような驚愕の表情でケイヒルが横暴な武
装職員を睨み付けて、喉から引きつった呻き声を荒らした。だがリ
リオンの真摯な視線に晒されているケイヒルは、テスへの罵声をど
うにか飲み込んでぴんと背筋を伸ばした。
完全にテスを視界の外に置いたのがせめてもの抵抗だろうか、ケ
イヒルはランタンたちに向き直り、折り目正しく頭を下げた。
﹁探索者による犯罪を打ち砕いてくれた事に感謝を。君たちの働き
によって探索者ギルドの治安はより向上し、探索者の質も上がる事
だろう﹂
﹁いえ、そんな﹂
顔を上げたケイヒルの瞳にあるのは、テスへの不満ではなく、た
だ真面目さだった。
﹁ここの後始末は俺たちに任せて、君たちは怪我の治療を。外にギ
ルド医を用意してある﹂
﹁うむ、そうだな。かかった費用はこちら持ちだから、二人とも手
当を受けてくるといい。後始末はプロがいるから気にせずにお行き﹂
﹁⋮⋮お前もその内の一人だからな﹂
腕を組んで偉そうなテスを睨み付けてケイヒルは低い声で指摘し
た。
﹁しまった、こんな事なら一発ぐらい食らっておけばよかったな﹂
テスは悪戯っぽく笑って、有無を言わさずに二人を倉庫から追い
出すのだった。
621
043
043
倉庫の外にはケイヒルの部下である三十名近い武装職員が整列し
ていた。
ケイヒルの鎧とよく似た黒い鎧を揃って身につけているが、ケイ
ヒルとは違い頭をすっぽりと覆う兜も装備していて、鎧の形状もケ
イヒルの鎧よりも簡素である。隊長と一兵卒の差であろうか。
倉庫の前に整列している様子は何だか検品を待つ大量生産品のよ
うにも見える。
しかし、それらがずらりと並んでいる様子は壮観でもある。休め
の姿勢を取っていて物言わず、それでいてぴりぴりとした張り詰め
た気配を鎧の内部から漂わせていた。
ランタンたちが倉庫から姿を現すと兜の隙間で一斉に眼球が動く
気配がした。ランタンでさえも僅かに気圧されて嫌な顔をしたその
視線の槍衾に、リリオンに至っては完全に怖じ気づいていた。リリ
オンはランタンの外套をぎゅっと握った。
﹁マリアーノ、先生の所に案内してやってくれ! 丁重に頼むぞ、
先生にもそう伝えてくれ﹂
倉庫の奥からケイヒルが怒鳴ると、三十数名の内の一人が一歩前
に出た。
﹁はい、了解しました!﹂
鎧の雰囲気に似つかわしくない清々しい青年の声が兜から発声さ
れ、ランタンの頭上を通ってケイヒルへと飛んでいった。
マリアーノと呼ばれた鎧がランタンへと近づいてくるので、ラン
タンは兜の隙間から中身を覗き見るように軽く会釈をした。けれど
中身は見えない。
622
鎧はランタンの前で立ち止まった。その立ち姿は堂々としている。
肩と胸を張って、背筋を伸ばして、腕を後ろで組んで休めの姿勢を
再び取った。兜の中から視線が注がれて、じっと見つめられている
のが分かる。ランタンはその視線に気づかない振りをしながら、よ
ろしくお願いします、と先手を打って告げた。
﹁いえ、はい︱︱﹂
ケイヒルもランタンを見た時に驚いていたのだから、その部下で
ある彼もまた同じような反応をしていたのだろう。立ち姿とは裏腹
に、返された声に僅かな動揺がある。だがそれでもマリアーノは平
然を装って、ついてきてください、とランタンたちを先導した。
整列する武装職員の前を横切ると沈黙を保っていた彼らの中に小
さくざわめきが起こった。鎧の中身が血の通っている人間である事
を確認したリリオンはすっかり安心して、そのざわめきを聞くとか
らかうようにランタンの背中を人差し指で突っついた。ランタンは
それを、ざわめきも含めて、無視する。
ざわめきが足音に変わった。ケイヒルに呼ばれて、ランタンたち
と入れ替わりになるように武装職員たちが倉庫の中へと入っていっ
た。
マリアーノは倉庫区画の外れまでランタンたちを連れてきた。そ
こには二台の馬車が用意されている。一台は一頭引きの荷馬車で、
もう一台は二頭引きの大型の箱馬車である。軍用のものらしく大振
ばんば
いなな
りで頑丈な造りをしていた。
ぶるぶると巨大な輓馬が嘶き、その脇には馬車の守りである武装
職員がいた。少しばかり暇そうにしているように見えた。
﹁⋮⋮馬でかい﹂
この馬を盗むような奴はいないだろう、とランタンは思った。武
装職員が暇そうにしているのも頷ける。
輓馬の大きさにランタンが少し怖じ気づいている横で、リリオン
が無造作に手を伸ばして馬の首をがしがしと撫でている。馬はその
威圧的な巨体とは裏腹に大人しくリリオンに撫でられるがままにさ
623
れている。
﹁ランタンも触る?﹂
﹁触らない﹂
﹁大人しいよ﹂
﹁触らないから﹂
マリアーノが同僚に声を掛けて、箱馬車の後部に備えられた扉を
開けて中を覗き込んだ。
﹁先生、怪我人二名です。お願いします﹂
﹁んあ、戦闘か? それにしちゃ静かだな﹂
﹁戦闘はありませんでした。終わった後だったのです﹂
﹁ああ、そういう事ね。んで、その怪我人は?﹂
﹁こちらに。ケイヒル隊長から、丁重に頼む、と﹂
﹁⋮⋮あいよ。お前はもう戻っていいぞ﹂
﹁はい、失礼します﹂
マリアーノは馬車に突っ込んでいた上半身を戻して、ランタンた
ちに入るように促した。リリオンがランタンの手を取って馬を触ら
せようとしていたので、ランタンはこれ幸いとリリオンの手を振り
ほどいてマリアーノに向き直った。
﹁ありがとうございました﹂
﹁いえ、それでは﹂
マリアーノはかっちりとした回れ右をすると駆け足であっという
間に去って行った。テスが言っていたようにケイヒルが率いる探索
者ギルド治安維持局六番隊は真面目な人間で構成されているようだ。
テスの率いる三番隊はどのような隊なのだろうか、と考えて少し
だけ薄ら寒くなった。探索者ギルドとは敵対しないようにしたいも
のだ。
﹁さ、リリオン行くよ﹂
その想像をなかった事としてランタンはステップに足を掛けて馬
車に乗り込み、中にいるギルド医に一言挨拶をしてリリオンへと手
を伸ばした。リリオンがその手を掴んで、ランタンはそっと少女を
624
引き上げた。リリオンが重たく感じた。
﹁おう来たなって、⋮⋮あーあー酷ぇなこりゃ﹂
ランタンを見て、リリオンを見て、ギルド医は面倒くさそうな顔
をして頭を掻いた。
・
箱馬車はリリオンが立ち上がれるほどに天井が高く、簡素ながら
三台ベッドがコの字に並べられる程の広さがあったが、このギルド
医がいなければもう一つベッドが置けただろうと言う程にギルド医
は立派な体格をしていた。
筋肉質の身体に白衣を羽織った中年のギルド医は、ランタンから
盾や戦槌を毟り取るとそれを馬車の隅に放り投げた。そして二人揃
って押し倒すかの如くベッドへと座らされる。
リリオンは完全に引いていた。ランタンはどうにか抵抗を試みる。
﹁あ、あの⋮⋮﹂
ランタンが何か言おうとしたがギルド医は無視してランタンの首
を掴んだ。手が大きく、指が太く、皮が厚い。そのまま首を絞めら
れるのかと思ったが、ただ脈拍を測っているようだった。
﹁目ぇ見せて、︱︱はい、口開けて。これ何本に見える?﹂
﹁⋮⋮三本です﹂
﹁うん、正解。意識はちゃんとしてるな﹂
﹁あの、すみませんが、僕よりも先にこの子の手当をお願いしてい
いですか?﹂
ランタンがギルド医の三つ立てた指を握って、無理矢理に言葉を
遮った。ギルド医は気にした様子もなくランタンの表情を窺って、
ランタンの手の中で指を動かした。
﹁うーん、優先順位を決めるのは俺の判断なんだがな。どう見ても
お前の方が重傷だ。そっちの子が例えば服の下で内臓が零れてもな
い限りはな﹂
ギルド医が指を抜き取って、三本指のままリリオンを指差した。
そして理解を促すようにランタンへと視線を戻す。リリオンの内臓
はきちんと身体の中に収まっているので、ギルド医の言う事はもっ
625
ともである。
だがランタンは首を横に振った。
﹁それでもです﹂
﹁⋮⋮その理由は?﹂
﹁意地です﹂
ランタンが澄ました顔で一言だけ、だがはっきりと言うと、ギル
ド医は驚いた表情になってそれからすぐに厚い唇をにっと歪めて笑
みを作った。そして大きく頷いて、なるほどなぁ、とランタンに負
けじとはっきり言った。
﹁怪我人に男も女もない。が、お前の言い分はもっともだ。怪我し
た女を差し置いて、先に治療を受けるなんざ男のするこっちゃねえ
よな。そりゃそーだ﹂
ギルド医は何度もうんうんと頷いて、リリオンを手招いて呼び寄
せた。リリオンはランタンの顔を、文字通りの顔色を窺って遠慮し
ようとしたが、ランタンは頑として譲らなかった。ここで渋れば渋
るほどランタンの治療が遠のく事を悟ったリリオンは諦めてギルド
医の前に座った。
﹁安心しな、︱︱お前ランタンだろ?﹂
﹁はい﹂
うち
﹁じゃあ心配する必要はないぜ。この男は殺しても死なないって医
務局でも評判なんだから﹂
そんな評判は初耳であるがランタンは何も言わなかった。
リリオンを安心させる方便なのだろうが、もしかしたら本当にそ
う呼ばれている可能性もなくはない。ギルド医務局にはよく世話に
なっているが、たまに実験動物を見るような目で見られていること
にランタンは気づいている。それを確認する事は、少し恐ろしかっ
ゆす
た。もし本当に変な噂が立っていたらギルド医務局を利用しづらく
なる。
ギルド医はリリオンの顔を拭いて、口を濯がせた。
﹁はい、口開けて。あー、って﹂
626
口内を覗き込んだ。
﹁歯は折れてないけど、内頬が切れてるな。うん、唇の傷は血も止
まってるし、先に鼻だな﹂
ギルド医はそう言ったかと思うと、次の瞬間にはリリオンの鼻を
人差し指と中指でそっと摘まんでいた。そして呆気にとられるリリ
オンをよそに、それを一気に捻った。リリオンの身体が電気ショッ
クを受けたように座ったままの状態で飛び上がった。
﹁い゛ったーいっ!﹂
リリオンが悲鳴を上げて、止まっていた鼻血が再び吹き出した。
洪水のような鼻血は鼻からだけではなく、口腔にまで溢れて少し
ばかり猟奇的だ。出血を止めようと上を向こうとするリリオンだが、
窒息するぞ、とギルド医がそれを許さなかった。リリオンはコップ
一杯分ほどにも見えるの鼻血をバケツに吐き出し、再び口を濯いだ。
かんし
﹁先っぽの軟骨を元の位置に戻すぞ﹂
ギルド医はペンチのような鉗子を取り出すと、何故だかランタン
の方を向いた。そして野良犬でも追い払うように手を振った。
﹁見ててやるなよ﹂
﹁何故ですか?﹂
﹁今からこいつを鼻に突っ込むからだよ﹂
尋ねたランタンにギルド医は鉗子をカチカチと鳴らした。それを
見てリリオンが絶望的な顔でランタンの事を見つめた。
つむ
﹁見たらやだ﹂
﹁⋮⋮目瞑ってるよ﹂
﹁見たらダメだからね﹂
﹁はいはい﹂
ランタンが同じ治療をされるにしても、リリオンと同じように見
られるのは嫌だろう。怪我の治療とは言え鼻に物を突っ込まれた姿
が情けないものであるのは想像に難くなかった。
ランタンはそっと瞼を下ろした。暗闇の中でリリオンの悲鳴が響
く。
627
治療は鉗子を鼻に突っ込み内側から軟骨を挟んで、それを引っ張
って治すのだろうと思う。鼻の内側は粘膜になっている。そこを捏
ねくり回すのだから治療風景は想像できても、その痛みたるや想像
を絶するものである。
﹁うっし、綺麗に真っ直ぐだ。骨がくっつけば元通りのべっぴんさ
んだよ﹂
ランタンがうっすらと目を開けると鉗子はすっかりと片づけられ
ていて、リリオンの鼻や口周りを汚していた鼻血の跡もすっかりと
拭われていた。リリオンの目が赤いのは泣いたからなのかもしれな
いが、ランタンには分からない事だ。
ギルド医は固定用のテープを切っており、それはフラスコに似た
形をしていた。ぺたりとリリオンの顔に貼ると、テープは眉間から
鼻筋を通りすっぽりと鼻全体を覆い、骨折箇所を固定していた。
リリオンが視線だけでちらちらとランタンの表情を窺っている。
﹁わたし、⋮⋮変じゃない?﹂
﹁変じゃないよ﹂
﹁ほんとう?﹂
﹁うん、そのテープ格好いいね。僕もしてもらおうかな﹂
半ば本気で言ったランタンにリリオンはようやくほっとしたよう
に表情を緩めた。
ギルド医はその後、唇の裂傷と内頬にも綿棒で軟膏を塗りつけた。
そしてリリオンの右腕の様子を見て、ランタンの骨接ぎに一つ文句
を付けてから僅かなずれを直し、腕を非伸縮性のテープで固定して
薬を飲ませた。錠剤の消炎剤と治癒促進剤だ。
﹁骨は綺麗に折れてるから、すぐにくっつくよ。︱︱さてと、次は
お前だ。じゃあ脱いで﹂
ランタンは言われてすぐに上半身裸になった。出血により服が傷
口に張り付いていた。ランタンは無表情にべりべりと服を剥がして、
ギルド医が足の先に引っかけて寄せた籠の中にそれを落とした。
リリオンはランタンの右の肩に空いた穴を見て息を飲んだ。
628
患部は濃紫に染まって大きく腫れて炎症を起こしている。穴から
はまだじくじくとした出血が見られて、貫通こそしていないが覗き
込めば骨が見えるのではないかと思わせた。
しか
﹁なるほど、こりゃあ確かに意地だわな﹂
ギルド医は顔を顰めてザブザブと患部を洗った。血を落とした患
部に直径二センチ弱のぽっかりとした穴が露わになった。
ランタンが今更ながら自分の怪我の様子を確かめて、嫌そうに表
情を歪める。患部を確認すると痛みが増すような気がするから不思
議だった。
﹁肩の怪我は蠍人族に刺されましたが、解毒薬は打ってあります﹂
ランタンはそう言って更に掌をギルド医に向けた。
﹁これにも毒がついていたようですけど、事前に耐毒薬を服用して
います。なので平気です﹂
﹁⋮⋮平気じゃねえよ、馬鹿なのかよ。あーもう、これだから探索
者って奴は嫌になるぜ﹂
ギルド医は改めてランタンの脈拍や体温を測り、握手をして握力
を確かめて、さらに様々な質問をして思考能力を確認した。ランタ
ンはちゃんと答えられていると思ったが、呂律が少しだけ甘えるよ
うに柔らかかった。ポケットにしまっていた解毒薬を思い出したよ
うにギルド医に渡すと、遅い、とものすごく怒られた。
﹁後回しにした俺も同罪だけどよ⋮⋮、だから大丈夫だって、死に
ゃしないよ﹂
ギルド医はばつの悪そうに不安な顔をするリリオンに告げる。
リリオンはランタンがギルド医に好き勝手にやられている間、ず
っとランタンの手を握っていた。リリオンの手の温かさに、ランタ
ンは自分の身体がこの上なく冷たくなっている事を自覚させられる。
リリオンは折れた方の手でランタンの手を握りしめて、もう一方の
手で暖めるように甲を撫でていた。
ランタンはベッドに寝転がされた。シーツから消毒薬の匂いが濃
く香り、条件反射のような安心感にぼんやりとしていると視界の端
629
に恐ろしい物が見えた。注射を構えたギルド医である。注射針が妙
に長く、太い。
﹁あの何ですか、それ﹂
﹁なにって注射だよ﹂
ギルド医は言いながらランタンの胸を消毒し始めた。ランタンは
それに疑問と嫌な予感を覚えた。痛み止めや麻酔ならば患部にする
べきであり、患部は右の肩か左の掌である。決して胸ではない。
注射針は長くて、心臓に届くほどだ。ランタンの顔が強張った。
﹁男の意地を見せろよ。おら、いくぞ﹂
待って、と言う暇もなくランタンの胸に注射針は突き立てられた。
本当に心臓に刺された。痛みは殆どなかったがランタンは思わずリ
リオンの手を強く握り返した。リリオンも注射から目を背けている。
ランタンは目を逸らす事もできず、胸に突き立った針を眺めていた。
液体が注入される。それは妙な感覚だった。擽ったくすらもあるが、
心臓に注射をされた衝撃でそれどころではなかった。
﹁これ、なに?﹂
﹁心臓を動かす薬﹂
ランタンがこわごわ尋ねると、ギルド医は楽しげに笑いながら答
える。
﹁とまってたの?﹂
﹁まあ、ちょっとだけな﹂
針を抜いて注射の跡に小さなガーゼを貼り付けた。
﹁神経毒だな。筋肉が弛緩するタイプの。あんまり無茶するなよ、
まったく本当に探索者って奴は﹂
ギルド医は先程も言った言葉を再び繰り返した。無茶をする探索
者を咎めていて、それでいて同時に探索者の生命力に呆れを感じて
いるようだった。その後改めて左の肩に麻酔を打たれて、もうそこ
を見つめる事はしなかったが、傷の中をほじくり回されて治療をさ
れた。
﹁神経切れてなくてよかったなぁ﹂
630
ギルド医の太い指がランタンの傷をあっという間に縫って閉じて
ゆく。最後に糊付けするように軟膏を塗りガーゼで覆って処置は終
わった。ランタンが身体を起こそうとすると、ぶ厚い手が薄いラン
タンの身体をベッドに押し留めた。
﹁寝てろ、点滴も打つから﹂
ベッドに寝転がって馬車の天井を今更ながら眺めていると、針を
腕に固定された。ギルド医はそのままランタンの脇腹にも触れた。
肩の怪我ばかりに気を取られていたが、そう言えばこちらにも一
撃食らったのを思い出した。患部はうっすらと打撃の痕跡があるだ
けだが、ギルド医の目はそれを見逃さなかった。一度触れてすぐに
罅程度の骨折であることを確認するとあっという間に湿布とテープ
で固定された。
﹁リリオンも点滴してもらえば? ベッドまだ二つあるし﹂
﹁ううん、ここに座ってる﹂
リリオンは座る位置をずらしてランタンの顔の横に腰を下ろすと、
ゆっくりと顔を覗き込んだ。何となく二人とも無言で互いの瞳をじ
っと見つめていた。リリオンがぱちぱちと瞬きをして、ランタンの
頬を撫でて、ほっぺたを抓った。痛みを感じないのは麻酔の影響だ
ろうか。
﹁これ貼ってやりな﹂
ギルド医がリリオンに渡したのはリリオンの鼻に貼られている物
と同じテープだった。リリオンが嬉しそうにそれを受け取り、ラン
タンの鼻にそれをそっと乗せた。それから指でなぞるように押さえ
て貼り付けてゆく。
テープはやや硬く、反発力があり鼻腔を広げる働きもあった。炎
症を抑える為か冷たさと、その冷たさによって鼻の通りがよくなっ
たのを感じた。ただリリオンとお揃いにする為だけでなく、これを
ランタンに貼ったのはそれなりの理由があったのかもしれない。
ランタンはテープを貼ってもらった鼻をこしょこしょと触った。
﹁どう、変じゃない?﹂
631
﹁かっこいいよ、ランタンは何でも似合うね﹂
﹁まあね﹂
ランタンは言ってから照れたように目を瞑った。
リリオンがくすくす笑って、少しだけ身体が熱くなるような感覚
をランタンは自覚した。それはきっと心臓に打ち込まれた薬の所為
だろうと思う事にする。心臓の音がうるさいほどに聞こえた。
﹁⋮⋮ね、ランタン、寒くない? わたし温めてあげようか﹂
リリオンがそう言うか早いかランタンの身体を撫でた。
ランタンは熱くなった己の身体を知られるのではないかと思った
が、まだリリオンの手の方が体温が高かった。ランタンは、ただひ
たすらに真面目な表情で己の身体を擦るリリオンに言葉を失ってい
た。
﹁なかなか温かくならないわ﹂
﹁︱︱男を温めるにゃいい方法があるぜ。まず服を﹂
﹁言わなくていいです!﹂
ギルド医のにやついた表情に碌でもない予感を抱いたランタンは、
起き上がりこそしなかったが大きな声でその先を遮った。
﹁ランタンは知ってるの?﹂
﹁え、いや﹂
﹁ねえ教えて、わたし温めてあげるから﹂
リリオンは身を乗り出してランタンの顔を覗き込み、なおもラン
タンの身体を揺すった。
それを見てギルド医は腹を抱えて大笑いしている。テスといいこ
のギルド医といい、探索者ギルドの職員はランタンを辱めて楽しむ
傾向があるようだった。ランタンが困り果てていると、ギルド医は
呼吸もできないほどになっている。
ランタンが困っていると、急に馬車の扉が開かれた。だがそれは
救いの手ではなかった。
﹁︱︱やあ先生、楽しそうですね﹂
﹁おう、テスか。テメェのせいで仕事が増えたから文句言ってやろ
632
うと思ってたけどよ、まあおもしれーもんが見れたから許してやる
ぜ﹂
﹁おや、それはありがたい﹂
テスは軽く笑って、そしてランタンたちへと目を向けるとにやり
と笑った。
﹁くふふ、これは何とも色っぽい状態じゃあないか﹂
ランタンとしては全く色っぽくはなく今日の出来事で最も緊迫し
た事態であったが、テスの目にはリリオンに襲われるランタンの図
が完成しているようだった。
たしかにランタンは上半身裸で血の気の失った青白い身体を晒し
ていたし、リリオンはそんなランタンの身体を撫でさすっているの
だから、もしテスが本当にそう見えてしまったとしても仕方がない
状況ではあった。
だがだからと言って、私も交ざっていいか、とリリオンに聞くの
はどうかしていると思う。
﹁⋮⋮テスさん、それはさすがに﹂
﹁ふむ、たしかに怪我に障っても馬鹿らしいしな﹂
ランタンが呆れた視線を向けると、テスはランタンが思いもよら
ぬ方向で納得をして頷いた。ランタンにはテスが本気で言っている
のか冗談で言っているのかの区別がつかなかった。リリオンに至っ
ては今までの全てが何の事やら分からずにきょとんとしている。
﹁だがその姿は、少し目に毒だな﹂
テスはそう言うと箱馬車の中を横切り、勝手知ったるとばかりに
薄い綿の毛布をリリオンに放り投げた。リリオンはランタンの身体
からさっと手を離して、それを胸に受け止めた。リリオンはテスに
言われずともその毛布をランタンの身体に掛けた。
﹁ありがとリリオン。⋮⋮テスさんも﹂
何だかんだでリリオンの興味を逸らす事ができたようだった。納
得いかぬような表情でランタンが呟いたのを見てテスが苦笑してい
る。
633
﹁後始末は終わったんですか?﹂
﹁ん、いいやまさか。死体も物も中々の量だからな、一日じゃ終わ
らんよ﹂
テスはどっかと向かいのベッドに腰を下ろして、欠伸を漏らして
口を押さえた。
﹁失礼。で、一日怪我人を待たせておく訳にもいかんし、私たちは
先に帰るんだよ。捕らえた奴らも含めてね﹂
カルレロらの犯人を運ぶ為に本来はケイヒルが付き添う予定だっ
たのだが、ケイヒルと同格であるテスがそれを代わりに行うのだと
いう。テスは休暇中なのでそんな事をしなくてもいいらしいが、現
場にケイヒルが残っていた方が事がスムーズに運ぶから仕方なく代
わってやったのだ、などと嘯いている。おそらく後始末が面倒であ
り、ケイヒルに借りを返すというのが本当の理由だろうと思われた。
程なく馬車が動き出した。
貧民街の中を大型の馬車が走る事はできないので、貧民街をぐる
スリット
りと大回りにするようにして移動しているようだった。箱馬車に窓
はなかったが、換気と光を取り込むだけの細隙が幾つかあるだけで
そこから夕日が馬車内に入り込んでいた。
車輪が硬く地面が荒い所為で、馬車にはサスペンションも仕込ま
えづ
れてはいたがかなり揺れた。備え付けのベッドも硬く、ランタンは
脳が揺れるのを感じた。
﹁うえぅ﹂
その揺れにランタンが小さく嘔吐いた。三人が一斉にランタンの
顔を覗き込み、一人は物珍しそうに、一人は笑い、一人は心配そう
な表情をしていた。ランタンは恥ずかしげに毛布を引き上げて顔を
隠した。
﹁今日はよく頑張ったな。すこし寝ると良いよ﹂
ちくりとした痛み。
注射を打たれた、とそう思ったのを最後にランタンの意識は途切
れて、再び目覚めた時は上等なベッドの上だった。
634
ぶつりと断裂した記憶の空白にそれほど驚かなかったのは、冷た
い消毒の匂いが同じだったからなのかもしれない。身体は動かなか
ったので、ランタンは視線だけを動かして辺りを見渡した。
見覚えのない知らない部屋だったが、どこであるかは予想ができ
た。
身体を横たえているベッドは馬車に備え付けられていた物より、
ランタンの部屋にある物よりも上等で清潔だった。おそらく探索者
ギルド医務棟の一室なのだろう。こじんまりとした部屋だが、けれ
ど個室待遇である。
部屋の片隅に荷物が纏められており、カーテンを透ける月の光に
照らされていた。壁に立てかけられた戦槌と盾は、まるでそれぞれ
の持ち主が二人並んで寄り添っているような雰囲気が在った。
ランタンは病衣に着替えさせられていた。前で閉じるだけのひら
ひらした病衣は少しだけ心許ない。体中に湿布やガーゼが貼ってあ
り、右肩は包帯でぐるぐる巻きに固定されていた。多少の疼痛があ
ったが目覚めた時に痛みがある事は慣れているし、それは身体の感
覚が戻ってきているという証拠だった。
隣にもう一台ベッドがあった。部屋の広さから考えて、後から足
した物だと推測できたが、折角足したそのベッドを使う者はいなか
った。そこで眠っている筈の少女は、そこが当たり前であるように
ランタンの隣にいた。
しょうがない子だ、と思ったがランタンも人の事は言えないので
ただ苦笑する。
リリオンもランタンと同じように病衣を着ていた。ギルド医とテ
スの駄目な大人二人に、男の身体を温める方法、はどうやら教え込
まれなかったようでランタンはほっとした。それでもリリオンはラ
ンタンを温めるように身体全体をくっつけている。
その所為でランタンは身体を動かす事ができなかった。辛うじて
首から上だけが自由だったので、頬をすりつけるように少女を撫で
てやった。少女は眠りながらも眉の間に皺があって、心配そうな表
635
情をしていた。
少女からは、これは風呂に入っていないな、と言うような匂いが
する。頑張った匂いだ。
リリオンが擽ったそうな呻き声を漏らして、ほっとしたように寝
顔を緩めた。寝顔から不安の影が払われて、その口元には笑みすら
も浮かんだ。
しばらくその寝顔を見つめ寝息を聞いていたら、やがてランタン
も眼をとろんとさせて小さく欠伸を漏らした。何もかもが終わった、
と言うわけではなかったが、それでも一段落は着いのだ。
穏やかな少女の寝顔にランタンは迷宮を攻略した時とは違う満足
感を覚えた。なんか変な感じがするな、とランタンはひっそりと恥
ずかしがって誰に見られるわけでもないのに顔を隠すように俯くと、
リリオンの薄い胸を枕にして眠りについた。
636
044
044
それからしばらくの日々を上街で過ごした。
毒の治療の為に入院をして、退院を許可されてからは事の顛末を
探索者ギルドへと報告する為に連日ギルドへと通い詰める事となっ
たからだ。
それは休日に騒ぎを起こしたテスの正当性を確固たるものにする
為でもあるし、またバラクロフへと魔精薬を流していた組織がちょ
っとした一大麻薬カルテルだった為でもある。ランタンの知る情報
などたかが知れていたが、情報は多い方が良いと言うのは本当にど
この現場であれ不変の法則であるらしい。
ともあれ麻薬カルテルの撲滅ともなると、それはもう探索者が首
を突っ込む範疇からは大幅に外れる。
後はもう衛士隊やら騎士団やら探索者ギルド治安維持局やらの仕
事である。ランタンに出来ることは嘘偽りなく、テスと口裏を合わ
せたりもしたが、見聞きした事実を報告することだけであった。バ
ラクロフの証言と食い違いが出るかもしれないが、立ち位置によっ
てものの見方は変わるものなのでそんなものはランタンの知ったこ
とではない。リリオンからの報告は強権を発動したテスが聞き取り
を行ったので何も問題も起こらなかった。
﹁でも、ずいぶんと良くしてくださるんですね﹂
探索者ギルドの個室でランタンは司書と二人っきりになっていた。
司書は相変わらず全身を隠していて、不思議な声音でランタンの疑
問に答える。
﹁テスがお前らを捜査協力者として申請したからな。今回が特別で、
普通は怪我をしようと治療費は自分持ちだ。おそらく探索者として
637
の査定にも多少点数が加算されているはずだし、甲種探索者になる
日も近そうだな﹂
ランタンやリリオンの怪我の治療費は四半銅貨の一枚すら請求さ
れる事はなかった。高価な解毒薬や治癒促進剤など魔道薬でさえ無
料であるし、それどころか調書を取る為の上街での滞在費用さえも、
ホテル
驚くべき事に宿泊手当と言う形で支給された。
さすがに高級宿に泊まれるほどの金額ではなかったが、ランタン
は手当に自分の金を足して高級宿で過ごした。
ベルムドに注入された毒はなかなか厄介なものだったらしく倦怠
感が三日ほど抜けなかった。その事について薬物の専門家であるギ
ルド医に物凄く怒られるし、そのせいでリリオンが過剰に心配して
しまって大変だった。しばらく風呂には入れず食事制限もあったの
だから、それぐらいの贅沢は許されてもいいはずである。
それに臨時収入もあったのだから。
それはカルレロに掛けられていた懸賞金であり、あの現場に残っ
た大量の装備品や薬品などの価値のある物品である。装備品などは
バルディッシュ
レイピア
ざらりと検品して幾つかを手元に残したが、大半はギルドに買い取
ってもらった。
特にカルレロの三日月斧やベルムドの刺突剣、蜥蜴の大鉈は特に
高値がついた。バラクロフの弓を踏み折ってしまった事が、今では
少し悔やまれる。
また罪を犯した探索者を捕まえたことによっての特別報奨金が支
払われることなり、全てを合わせると中々の金額となった。迷宮探
索で得ることの出来る収入には、さすがに届きはしなかったが。
ランタンはそれらを以てテスへの礼としようと思ったが、彼女は
それを三等分にすることを望んだ。結局話し合いの末にランタンと
リリオンで四割、残りをテスが受け取ることとなって落ち着いた。
テスの取り分には、目の前にいる司書や道案内をしてくれたジャッ
クやフリオへの謝礼も含まれている、と言うことでランタンはテス
を言いくるめたのだ。
638
たか
﹁なるほど、それならばテスに集ってやらねば。ふふふ﹂
たお
司書が口元に手をやって喉を震わせて笑った。その姿は不思議と
嫋やかさを感じさせる。ひらひらとした服の揺らめきがそう思わせ
たのかもしれない。
﹁僕に集ってくださっても構いませんよ。なんだかたくさん探索者
が紛れていたようですし﹂
賞金首探索者であるカルレロを除いても、それでもあの場には探
索者が六名存在した。弓男ことエイン・バラクロフ、猫背ことベル
ローブ
ムド・ドマ、蜥蜴ことスヴェア・アウロフ、そして有象無象の中に
二人と、貫衣、あるいは緑髪の女ことルー・ルゥである。
だがルー・ルゥに関しては報奨金の対象とはならなかった。
ルー・ルゥはあの中にあって、最も場違いな人間であったのかも
しれない。
彼女はカルレロ・ファミリーの一員ではなかったし、またバラク
ロフの顧客の一人ではあったが雇われた傭兵ではなかった。彼女は
ある症状により前後不覚となることがあり、それによってバラクロ
フにいいように使われていた。
その症状とは魔精欠乏症と呼ばれるものである。体質にもよるが
魔道使いに多く見られる症状で、それは体内にある魔精を大きく失
うことによって引き起こされる。身体機能の低下、意識や記憶の混
濁、場合によっては衰弱して死に至ることもあるが、欠乏症の全て
の人間に共通することは魔精への狂おしいほどの飢餓感と、それに
よる抗いきれぬ衝動的な執着心である。
ルー・ルゥは己の身体が魔精を失いやすい体質であることを自覚
していた。
彼女が傭兵探索者である理由は、特定の探索班に所属する事では
実現できない、ランタンに匹敵するとも劣らないハイペースの探索
を行う為であった。複数の探索班を掛け持ちし多く迷宮に潜ること
で魔精を取り込み、彼女は自らの欠乏症を押さえ込んでいた。
傭兵探索者としては格安の賃金と、それに見合わぬ働きぶりで彼
639
女は売れっ子傭兵探索者だったようだ。
にもかかわらずバラクロフの顧客となったのは、時間と共に体内
から失われる魔精の量に探索で吸収できる魔精の量が追いつかなく
なってしまったからだ。彼女は奈落へ落ちるように迷宮へと潜り、
それだけでは足りない魔精をバラクロフから薬の形で購入すること
となった。
ルー・ルゥがランタンたちを襲った理由が、例えば魔精薬を販売
するにあたりバラクロフにランタンの首を所望された、と言うのな
らば同情することは出来ない。
だが彼女には初襲撃時の記憶が無かった。また先の戦闘の記憶も。
初襲撃時、バラクロフは魔精薬と偽って偽薬をルー・ルゥに投与
フラグ
し、意図的に欠乏症を発症させてランタンたちを襲わせたのである。
最終目標を攻略したばかりのランタンたちは欠乏症を発症させたル
ー・ルゥにとって魔精を詰めた肉の袋同然であった。
そして先の戦闘ではバラクロフから倉庫に呼び出されたことは事
実であったが、バラクロフに図られるより先にただ普通に欠乏症を
起こしたのだそうだ。
それを聞いた時にランタンとテスは顔を見合わせて笑い、リリオ
ンはよく分かっていないようだったがやはり笑った。あの場には現
役の探索者二名と慢性魔精中毒者三名、また魔精薬の在庫もあった
為にルー・ルゥは自然と引き寄せられたのかもしれない。
慢性魔精中毒者もいたのに、なぜランタンを狙ったかは依然不明
ではあったが。
﹁それはいい匂いがしたからだろう、ふふふ。テスが言ってたぞ、
なかなか美味そうだ、と。せいぜい食われんように気をつけること
だな。あいつ何でもいける口だから﹂
﹁それは怖いような、楽しみであるような話ですね﹂
ルー・ルゥも被害者である、とは多少の実害を被っているのでさ
すがに言わぬが、けれどそれに近い立場であることは間違いないと
ランタンは思った。
640
戦闘から四日後にランタンはルー・ルゥと対面して謝罪を受けた。
欠乏症というどうにも出来ぬ病に責任を転嫁することなど一切無
く、ただ己を強く恥じ深く頭を下げた彼女は、変な女だ、と思った
出会った当初の印象を忘れさせるような真摯さがある。肩の辺りで
揺れていた緑の髪が少年のように短く刈り込まれていたのが印象的
だった。
同情を覚えなかったと言えば嘘になる。腕を折られ鼻を折られた
リリオンも、なんだか大人びた表情でその謝罪を受け入れていた。
無論ランタンも。
ルー・ルゥには情状酌量の余地があったが、それでも探索者ギル
ド法を破ったことにより処罰が与えられることとなった。
それは当初、乙種探索者から丙種探索者への降格処分と七日間の
禁固刑及び一四〇日間のギルドへの奉仕活動であった。だが彼女と
探索を行ったことのある幾つかの探索班が連名で減刑嘆願書を提出
したのだ。ルー・ルゥは低賃金だからと言うだけで求められた傭兵
探索者ではなかったのだ。
ランタンとリリオンも減刑嘆願に同意した為に、降格処分と七日
間の禁固刑こそは変わらなかったが、奉仕活動が九〇日間へと減刑
された。働きぶりによっては更に短縮されることもあるのだと言う
が、それについてランタンは一切不満はない。また被験者と言う立
場であったが、魔精欠乏症の治療も受けられるのだと言う。
ルー・ルゥとの確執はもう既に過去のことである。
・ ・ ・
﹁人間的には悪い奴ではないのだろう。他の探索者からの評判も良
いようだし、探索実績も充分ある。ギルドとしても有用で、真面目
な探索者は貴重だからな﹂
だが残りの三人は、やはりと言うべきか死刑相当刑が宣告された。
バラクロフにより内部から蚕食されたかと思われたカルレロ・フ
ァミリーだったが、ファミリーを掌握していたのはバラクロフでは
ごうほうらいらく
なくカルレロ本人であった。
カルレロの性格は豪放磊落であり、また情に厚く、身内とした者
641
に甘い。部下たちはカルレロを親父と慕い、カルレロは部下を息子
と呼んだ。
そんな中でカルレロにとってバラクロフはどうしようもなく我が
儘な末の息子だったのだ。バラクロフはカルレロを薬物によって支
配していると思っていたようが、カルレロにとってはその内にある
感情さえも見え透いた子供の駄々でしかなかったようである。
もっとも薬物に犯されたカルレロの思考が、どれほど理性的であ
るのかは疑問ではあったが。
ランタンは呆れてしまった。そんなものただの親バカであり、子
供の我が儘を聞くことを度量と勘違いしたダメ親父ではないかとし
か思えない。
だが立場が変われば見方が変わり、ベルムド・ドマにとって探索
者として落後した己を拾い上げてくれたカルレロは、生みの親以上
の真に尊敬すべき父親であった。魔精薬のみならず多くの薬物群を
摂取しベルムドの意識は狂気により混濁していたが、カルレロへの
尊敬だけは変わらずに彼の中にあった。
だが最後までベルムドの証言の中にバラクロフへ言及はなかった。
彼の中で彼が最後まで守ったものが何だったのかは不明である。
フィデル・カルレロ、ベルムド・ドマは探索者ギルド医務局と魔
道ギルドの連名で運営される研究機関へと、慢性魔精中毒者の検体
として運ばれていった。
生きたまま、あるいは生かされたままと言うべきか。
特にカルレロは慢性魔精中毒であるのにも関わらず比較的意識が
明瞭である為に研究員が貴重な検体として嬉々として受け取りに来
たのだという。その研究機関がどのような働きをするのかはランタ
ンはこれっぽっちも知らないし、知りたいと思わなかった。
よ
ただ戦いの中で死んだスヴェア・アウロフは最も幸運であるよう
な、そんな想像が頭を過ぎった。
人の人生など分からないものだな、とランタンは老人のように茶
を啜った。特に達観しているわけではなくただの格好つけである。
642
それを見抜いたのか司書がベールの奥で目を細めたような気がした。
主犯格であり、重要参考人であるバラクロフに課せられた処罰は
無期限の強制労働刑であった。取引相手である顧客や麻薬カルテル
の情報を全て搾り取った後に、その刑は執行される。
カナリア
ちょうりょうばっこ
カルレロらに比べれば軽い刑のように思えるが、その内実は炭鉱
の金糸雀と同じ事をさせられる。魔物の跳梁跋扈する危険地帯であ
ったり、それこそがバラクロフの本職であるとも言えるが、迷宮探
索への尖兵として派遣されるのだ。バラクロフが薬物中毒者にした
のと同じように幾らでも代えの効く使い捨ての兵士として、時には
薬物によって恐怖を誤魔化され、死ぬまで。
黙秘に黙秘を重ねたバラクロフはまるで処罰の予行演習を済ませ
るかのように自白剤を投与された。彼の自白した内容全てがランタ
ンたちに伝えられたわけではないが、規則破り上等の正義の使者で
あるテスにより概要を横流しにしてもらった。
そのテスは今はここに居らずリリオンを誘って修練場に汗を流し
に行っている。おそらくランタンからリリオンを引き離す為に。
司書がばさりと裾を翻して足を組み替え、溜め息にもならぬ微か
な吐息を漏らした。ランタンはことりと茶をテーブルにおいて座り
姿をあらためた。
﹁テスから話は聞いているな﹂
﹁はい﹂
﹁それについていくつかの補足をしようと思う。互いにな﹂
リリオンを巡るあれこれについて、その始まりはランタンが少女
と出会ったその時、あるいはそれ以前から既に始まっていた。
リリオンがこの街に来た、あの三人の襲撃者崩れによって連れて
こられた理由はそもそもリリオンを奴隷として取引をする為であっ
た。リリオン自体はその事を知らず、少女はこの街でついに探索者
としての第一歩を踏み出せるのだとそう思わされていたようである。
取引先は貴族であり仲介役がバラクロフであった。
ならばなぜ大切な商品であるリリオンに男たちは暴力を振るって
643
いたのかという話になるが、それは単純にリリオンが商品ではなく
なったからだった。貴族が土壇場で購入の意思を翻したわけでも、
バラクロフが急に値段を値切ったわけでもなく、男たちの方から一
方的にその取引の意思を翻したのである。
もっとも男たちはランタンの手にかかってしまっている為、その
真意は不明であったが。
司書がランタンに問うた。
﹁なぜ男たちはあの子を手放さなかったのだと思う? バラクロフ
の話によればリリオンの取引はなかなか悪い話ではないようだが﹂
﹁⋮⋮それだけ、リリオンが魅力的だったのだと思いますよ﹂
ランタンの想像でしかないが男たちはリリオンの身体に黄金を見
たのだと、そう思った。
リリオンの身体能力はずば抜けている。はっきり言って丙種探索
者を戦闘能力順に並べれば、最上位と言わずともリリオンの順番は
ガチ
上から数えた方が早い位置にいる。まだたった二度しか本格的な探
索をしたことがない少女が、である。それは恐ろしいことだ。
﹁リリオンはそれほどか﹂
﹁僕なんかあっという間に追い抜かれそうですよ﹂
ョウ
﹁⋮⋮なるほど。お前よりも稼げるとなれば、それは黄金を産む鵞
鳥どころの話ではないな﹂
メッカ
襲撃者崩れが取引をすっぽかして別の街へと逃亡しなかったのは、
この都市が迷宮探索の発祥地であるためだろう。探索者として一旗
揚げるには、これ以上の都市はそうそうない。皮肉な事だがもしか
したら男たちにもリリオンと同じように、ちゃんとした探索者にな
りたい、と言うような願望があったのかも知れない。
だが取引が破棄されて怒り狂ったのが貴族であり、困ったのがバ
ラクロフだった。
なにせ相手が探索者崩れの破落戸から、いつの間にやら飛ぶ鳥を
落とす勢いの新鋭の単独探索者ランタンへと様変わりしていたので
ある。はっきり言って詐欺どころの話ではない。だがそんなことは
644
ランタンの知った事ではないので向かってきた男たちは全員ぶちの
めす運びとなった。
だがリリオンを欲した貴族を裁くことはできなかった。
曲がりなりも権力者である貴族をたかがバラクロフ一人の自白だ
けで追い詰めることは到底できず、用意周到と言うべきか物的証拠
スレイブチョーカー オーダーリング
は何一つとして現れなかった。もしかしたらと思って背嚢の底にし
まっていた、奴隷首輪と命令指輪のセットを提出してみたものの、
それらの入手経路を辿る事ができずに証拠とはならなかった。だが
万が一の事もあるので、その二点は探索者ギルドに捜査資料として
無償で提供した。
結局バラクロフの自白内容は探索者ギルドによって政治の場で、
貴族派への牽制材料として使われることとなった。政治の場にとっ
て黒い噂は証拠はなくとも武器になるのだ、とテスと司書は悪い笑
い声を漏らしていたが、ランタンは曖昧に笑う事しかできなかった。
けれど何かと目立つ存在であるランタンの傍らにあることと、探
索者ギルドの後ろ盾を得たことによって貴族が再びリリオンへ食指
を伸ばすことが難しくなったのは間違いはないだろう。それで一先
ずは手打ちとなったのである。
﹁リリオンは、あの子は良い子だな﹂
司書はぼそっと呟いた。顔はランタンの方を向いていたが、視線
はどこか別を見つめているようだった。そうと分かっていてもラン
タンは頷いた。そして破顔する。そこには呆れと、羨望が綯い交ぜ
となっている。
﹁あの子は何にも考えていないだけですよ﹂
言い換えれば脇目も振らず真っ直ぐ前を見ている、とも言えたが
ランタンは黙っておいた。
テスの口から顛末が語られた際にリリオンは貴族の名前を問うこ
うそぶ
とも、自らが貴族に目を付けられた理由を聞くこともなかった。ラ
ンタンが嘯いたように本当に何も考えていないのかもしれないが、
テスが意図的に口を噤んだことに気が付いていたのかもしれない。
645
﹁その分お前が悩めばいいさ、私は知らん﹂
司書が意地悪く笑いランタンに告げた。ランタンが唇を突き出し
て司書を睨むが、司書は余裕を見せつけるように片肘をついてラン
タンの視線を受け止めた。司書は苦笑して、しかしそれは物憂げな
溜め息へと変わった
﹁さて悩ましいお前に頭の中に、悩みの種を一つ埋めねばならん﹂
司書は勿体ぶった前置きをして一つ名前を呟いた。その名前をラ
ンタンは知っていた。
ロベール・ベルトラン・サラス。
それは上街の最北、貴族の館が軒を連ねるきらびやかな区画に館
を構える有力な貴族の名前であり、そしてリリオンを欲した貴族の
名前でもある。
名前を聞いてランタンは表情を変えることはなかったが、それは
表情を意識的に凍り付かせているだけであった。
司書がのそりと身体を起こし、男性的に股を開いて座り、やや視
線を下げたランタンの視界へと手を伸ばした。意識を確かめるよう
に目の前で揺れる手袋に包まれた指先に、ランタンは小さく息を飲
んでゆっくりと表情を溶かした。
﹁知っているのか?﹂
﹁ええ、とても、よく﹂
それでもランタンの声は底冷えしていた。
サラスはいわゆる友愛派と呼ばれる貴族である。
人族と亜人族の間にある差別問題の解決に積極的に取り組み、自
らの屋敷の使用人や騎士団へ大勢の亜人族を雇用している。そして
亜人族のみならずサラスは弱者に手を差し伸べるのだ。例えば教会
への多額の寄付であったり、孤児院や傷痍軍人の療養所の運営、ま
た先天的に身体的、精神的に不虞のある者を手厚く保護するという
ような活動に私財を投じている。
まるで手を差し伸べて、そのまま掌に包み込むかのように。
﹁サラスはリリオンを欲している︱︱﹂
646
﹁︱︱そこに流れる血を、ですか?﹂
司書の言葉をランタンが繋いだ。
司書は一瞬間をおいて、ゆっくりと頷いた。ギルド内でリリオン
の事がどれほど広まっているのだろうかと不安になったが、そのラ
ンタンの不安を感じ取ったのか司書は、心配しなくていい、と柔ら
かく呟いた。
﹁隠し通せる物ではないが、知っているのは一部の上級職員だけだ﹂
ロベール・ベルトラン・サラスは友愛派として名高く、彼のこと
を聖人だと褒め称える者も多いが、同時に異常なほど毛嫌いしてい
る者も多い。
コレクション
サラスが慈愛を以て弱者を助けているのではなく、ただ物珍しい
生き物を収集しているだけなのだと、そう気が付いている者も大勢
いる。
ランタンがそれを知ったのはこの世界に来て一ヶ月と少し、よう
やく言葉を解するようになった明くる日だった。ランタンの目の前
でそれを語った男は、おそらくランタンがその言葉をしっかりと理
解できるとは思っていなかったのだろう。
だがランタンは理解できた。たどたどしく聞き取ったその内容の
醜悪さを。
ランタンが一ヶ月ちょっとで知ったことを、この世界には知らぬ
人間も多いのだと思うと、誰にともなく不満がこみ上げてきた。だ
がそれを吐き出すことはせず、知らぬ事が多いのは誰も彼も変わら
もた
ない、とランタンは粘つく口内を茶で濯ぎ、飲み干した。のそりと
鎌首を擡げた激情と共に。
﹁うん、いい子だ﹂
優しい声音がランタンの時を一瞬止めた。
その言葉が己に向けられたものだとランタンが気づくと、表情を
ぽかんとさせて次第に顔を赤くした。
﹁今からサラスの館へと殴り込みに行く、と言い出したらどうしよ
うかと思った。さすがにお前でも貴族の館を一人で落とすのは無茶
647
だよ﹂
﹁⋮⋮それほど向こう見ずではありません﹂
﹁くっくっく、さて、それはどうかな﹂
司書は手を伸ばしてランタンの顎に指を掛けて面を持ち上げさせ
た。奴隷の買い付けに来た悪趣味な貴族が品定めをするように、赤
くなったランタンの顔をじろじろと眺め回した。そこにある羞恥が
面白くてたまらないとでも言いたげに、顎の下を指先で撫でさえも
した。
手袋越しに触れる指が細く、その腹は痩せている。中身はやはり
女か。
顔の赤みは取れずとも、頭の熱を冷ましたランタンがされるがま
まにしていると司書は不意に指を噛まれたかの如く手を引いた。鋭
いな、とランタンがはにかんで微笑むと、司書は手袋の皺を伸ばし
ながら乱暴に舌打ちをした。
﹁油断ならんな。ふん、まあいい。取り敢えず貴族のことは伝えた。
それをリリオンに言うかどうかはお前に任せる﹂
﹁任されました﹂
﹁︱︱おや、ずいぶんとあっさり請け負ったな﹂
﹁あの子も薄々は気が付いていますよ﹂
﹁⋮⋮そうかもしれない、と。そうである、は別物だよ﹂
﹁大丈夫ですよ﹂
すっかり顔を白くしたランタンが涼しげに言うと、司書はもうそ
れ以上何も言わなかった。
﹁あ﹂
不意に降りた沈黙を紛らわせる為かランタンが再び茶に手を伸ば
しかけて、一つ声を漏らし、けれど何もなかったように茶を手に取
り啜った。声など漏らしていませんよ、と素知らぬ素振りで茶を啜
ってみせていたが、その一音は司書の鼓膜を揺らした。
﹁あ、の続きを言え﹂
﹁いえ、バラクロフに聞きたいことがあったのを今、思い出したの
648
です﹂
喉元過ぎれば何とやらですっかり忘れていたが、結局バラクロフ
が自分へと向けていた憎悪は何だったのだろうか、とランタンは司
書に尋ねた。答えを司書に求めていたわけではなく、ただ聞かれた
ので、あ、の続きを口に出しただけだ。
だが司書は断言するように答えた。
﹁嫉妬だな﹂
﹁嫉妬?﹂
思わずランタンが鸚鵡返しにした。司書が笑った。
﹁迷宮探索に際して麻薬を摂取する者は少なくない。うちの医務局
でも取り扱いがあるしな。なぜだと思う?﹂
﹁⋮⋮景気付けのためですか﹂
﹁ああそうだ。勢いを付けなければ、︱︱恐怖を紛らわせなければ
迷宮に潜れない者は多い﹂
バラクロフはどこに行ったのだろう、と不安げな顔をしたランタ
ソロ
ンに構わず司書は言葉を続けた。
﹁迷宮は怖いものだ。お前は単独探索者だったわけだが、例えばテ
スが探索者になったとしよう。アレの戦闘能力は、自分と比べてど
うだ?﹂
﹁上だと思います、かなり﹂
治安維持局第三部隊隊長の名は伊達ではなく、それが何番隊まで
あるのかは知らないが、テスと同格の人間が複数名いるとなるとギ
ルド内で悪さをする気も起きない。それぐらいテスの底は知れない。
﹁かなり、と言うのは自己評価が低すぎる気もするが、⋮⋮まあい
い。さて、そんなお前よりも強いテスだが、だがそれでもテスは単
独探索者にはならない。なぜか?﹂
サルベージ
﹁色々リスクが多いですからね。怪我のこととか、所持重量とか。
引き上げ代も割高ですし⋮⋮﹂
ランタンが自らの経験を元に言葉を重ねると、司書は肩を竦めて、
いっそ小馬鹿にしたかのように笑った。ランタンがむっと睨むと、
649
悪いな、と悪びれず言った。そして続ける。
﹁そんなに細かいことではない。理由は一つ、恐怖だ。テスに限ら
ず、誰も彼もが一人で迷宮に潜る、そこに一人で居ることが、どう
しようもなく怖いんだ﹂
それは、とランタンは何か言おうとしたが、結局沈黙した。司書
の言葉には不思議と真剣さが含まれていた。
﹁迷宮は異界だ。あそこは本来、人の居るべき場所ではないのだと、
私は思う﹂
ランタンは少し眉を下げる。真剣な響きのある言葉だがランタン
にはよく分からなかった。ランタンも迷宮を怖いと思う。だが司書
の言う怖いと、自分の感じる怖いは別の物のような気がした。
司書は構わず続ける。
・ ・ ・
﹁だからこそ単独探索者であったお前は、多くの探索者から注目を
集めた。それが勇気であるのか、それともただのいかれか、とね﹂
﹁⋮⋮それでは失望させてしまったかもしれませんね。今はもう、
ただの探索者ですし﹂
たぶん後者ですし、と言わなかったのはそれが冗談にならないよ
うな気がしたからだ。
﹁お前が単独で迷宮に潜り、幾つもそれを攻略した事実は消えんよ。
多くの探索者はお前の中に勇気を見て、それに憧れたのさ。︱︱そ
して同時に嫉妬も﹂
それは静かな言葉だった。だが不意に意地悪く、大人気ない稚気
を込めて司書は呟く。
﹁知ってるか? 嫉妬﹂
﹁知ってますよ、それぐらい﹂
ランタンがその稚気に対抗するように子供っぽく唇を震わせた。
そして寝物語の続きをせがむように司書を急かした。
﹁それがどのようにバラクロフへ関係するのですか?﹂
﹁くっくっく、やはり知らないんじゃないか。︱︱バラクロフはお
前に嫉妬していた。バラクロフが迷宮に潜らなくなったのは迷宮が
650
怖くなったからだ。愛用した弓を失ったことも、仲間との確執も、
恐怖に付随した出来事に過ぎない。だからこそ恐れを知らぬお前を
妬んだのだろう﹂
司書はそう言って言葉を結んでしまった。ランタンはその言葉を
かみ砕いて飲み込み、胃もたれを起こしたようなうんざりした表情
を作った。
﹁⋮⋮僕、関係なくない? 八つ当たりですよね?﹂
﹁ああ、そうだ。特にバラクロフは扱う武器の性質上、他者が居て
こそと言うところもあるからな。そう言ったことも関係していたの
かもしれない﹂
﹁そんなん知らんよ⋮⋮﹂
ランタンはどっと疲れを感じて、投げやりな溜め息を吐き出すと
がっくりと俯いた。司書がそんなランタンの頭に手を伸ばしてぐし
ゃりと撫る。
﹁碌でもないが、人間なんてそんなものさ﹂
頭上に降った言葉は慰めにしてはひどく素っ気なく冷淡である。
ランタンが視線だけで上げて上目遣いに司書を見つめると、司書は
肩を竦めた。ランタンの頭をぽんと叩いて手を引っ込める。
司書が手を引いたのと、ほとんど同時に扉が爆発したよう開いた。
ランタンが驚いて顔を上げ、そちらに目を向ける。
﹁ランタンっ、ただいま!﹂
そこにはリリオンが、そしてその後ろにはテスが居る。リリオン
は鼻や腕の骨折もすっかり治って、元気が有り余っているように頬
に少し赤みがあった。後頭部の高いところで髪を一つに結んで、テ
スと同じ髪型にしている。ずいぶんとご機嫌な様子で笑っている。
﹁おかえり。テスさんもお世話をお掛けしました﹂
﹁いやいや、私もなかなか楽しかったよ﹂
リリオンが子犬のようにランタンに駆け寄って、ソファの隣に尻
を押し込んでくっついて座る。その身体からは熱気と汗の匂いがし
た。
651
﹁どうだった?﹂
﹁十二回負けたわ!﹂
﹁勝ちは?﹂
﹁ゼロよ!﹂
リリオンはテスに誘われて修練場へと行っていた。
テスは報告書の作成等々の事務仕事で、リリオンは怪我の療養で
鈍った身体を鍛え直すという名目である。零勝十二敗というさんざ
んな結果だったようだが、リリオンは悔しさなど微塵も感じさせず
満足気である。勝負と言うよりはただ遊ばれただけのようだ。それ
だけ彼我の実力差が隔絶していたと言うことなのだろう。
リリオンは興奮した様子でいかにテスが凄かったかをランタンに
伝えようとしているが、その説明は擬音まみれで何も伝わらなかっ
た。それでもリリオンが楽しそうなので水を差すのも可哀想だと、
取り敢えず微笑みながら聞き流していた。早口で捲し立てていたリ
リオンが、不意に言葉を途切れさせる。
ただでさえ近い顔を、ぐっと近づけてランタンに尋ねた。
﹁そう言えば、ランタンはお姉さまと何を話していたの?﹂
﹁うーん、そうだね︱︱﹂
ランタンはリリオンの頭をがしがしと撫で回す。
﹁︱︱世の無情さについて、かな﹂
とは言え世の全てがそうと言うわけではない。
きょとん、と小首を傾げるリリオンを見ているとランタンはそう
思うのだった。
652
045 L
045
ランタンに迷宮に連れて行ってもらい、初めて本格的な迷宮に潜
り、攻略して、とっても美味しいご飯を食べて、ふかふかのベッド
ゾンビ
で眠って起きた、その帰り道。
なんだか動死体のような男の人たちに襲われた。
最初はこれっぽっちも怖くはなかった。
道を歩いていて襲われるなんてよくある出来事だし、治安の良し
悪しなんて凄く悪いか少し悪いかの二つしかない事ぐらい誰だって
知っている。
男の人たちは皆がりがりに痩せていて、迷宮で戦った大きな熊に
比べれば枯れ木のようだったのだけれども、リリオンはそれを不意
に恐ろしいと思ってしまった。平気だ、と頭では考えていても恐怖
は全身の細胞から染み出したみたいに止める事ができず、遂には身
体が言う事を聞かなくなった。
途端に指先が冷たくなった。
うろ
死者のようなその姿。それでいて獣のような血走った目。刃こぼ
れをおこしてぎざぎざした剣。洞を吹くような奇妙な叫び。
その全てが。
いや、ちがう。ただ男という存在が怖かった。それを思い出した
のだ。痛みを。
リリオンはランタンと出会う前に恒常的な暴力の嵐に晒されてい
た。
何かをしても、何もしなくても、行動を共にしていた男たちはリ
リオンを殴った。殴られる事の理由をリリオンは知らなかったが、
それでも。
653
リリオンは平手で頬を張られ、拳を落とされ、足蹴にされた。そ
れらはまだ良い方だった。空の酒瓶や、鞘に収められたままだった
が剣で打たれた時は、とても痛かったのを覚えている。
痛くて、怖くて、だけど声を出すともっと酷い目に遭うから、た
だ口を噤んで我慢していた。
暴力を振るっていた男たちは死んでしまって、目の前の男たちは
別の存在なのだけれども、それでも痛みと恐怖を思い出してしまっ
た。魔物に殴られるのも、男に殴られるのも同じ痛みであるはずな
のに、血管を流れる血が次第に凍り付くように、身体が冷たく重た
くなった。
動けない、とそう思ったのだけれども、そんな事にはならなかっ
た。
目の前には背中があった。
ランタンの背中はちょっと女の子みたいに小さいのに、太陽みた
いに大きな暖かさがあった。手を伸ばせば触れる事も、ぎゅっと抱
きしめる事もできる小さな太陽。
凍った血が途端に溶けて、かっと全身が熱くなった。
勇気だとか意気地だとかそういったものが腹の底で煮えたぎり、
そしてこのままではランタンに呆れられてしまうのではないかと思
うと、目の前の痩せっぽちな男たちなんて恐怖でも何でもなかった。
うそ。やっぱりちょっと怖い。隠していたつもりだけど、たぶん
バレてた。
自分がどんな風に戦ったのかをリリオンは覚えていない。
ただがむしゃらに身体を動かした。荒い息遣いや、筋肉と骨の軋
み、大剣が切り裂いた恐怖の妙にあっけない手応えだけは朧気に思
い出せる。
戦いが終わって、二人並んで歩く。一緒に帰る。
繋いだ手の温かさは、宝物のように胸の中にしまってある。
654
宝物がいっぱい増えた。
探索者になろう、と家を出た時に持ち出した大切なものは気が付
けば掌から零れ落ちて何も無くなってしまった。それはとても悲し
い出来事で、一つ失うごとに途方に暮れてしまったが、ただ一つ探
索者になりたいという気持ちだけはちゃんと握りしめていた。
探索者にしてやる、と言われてこの街に連れて来られた。それは
藁にも縋る思いだったし、もしかしたら騙されているのかもしれな
い、とも思っていた。
でもその疑いには目を瞑っていた。きっとそうやって疑いだして
しまったら、今度こそ本当に胸の一番奥にしまった大切な気持ちを
失ってしまうような、そんな予感がしていたから。
そうやって自分を騙してよかった、と今となっては思う。
リリオンをこの都市に連れてきた男たちの真意は既に失われて知
る術はない。
だけれどもリリオンは探索者となる事ができた。探索者ランタン
の庇護によって。
リリオンが男たちの言葉の通りに探索者になれた理由は、偏にラ
ンタンの優しさ故に他ならない。
ランタンは優しい。
この都市へと辿り着くまでの道中に男たちの残飯を食いつないで
過ごしてきたリリオンに、革の水筒に入った生温い水なんかとは比
べものにならない口当たりの優しい、変な匂いや味もしない水を飲
ませてくれて、温かくて柔らかくてとても美味しい料理を食べさせ
てくれた。
それもお腹いっぱいに。時には自分の分も分けてくれて。
その前には汚れた身体を風呂に入れて洗ってくれさえもした。
旅の道中で死ぬほど汚れたリリオンには、男たちだって暴力を振
るう時ぐらいしか近寄らなかったのに、ランタンは頭の先から爪の
先までぴかぴかに磨いてくれた。
まるで自力で生まれる事のできない雛鳥の、卵の殻をそっと剥が
655
すように。こびりついた悲しみや痛みを洗い流すように。
チェニック
爪の隙間の黒い汚れまでを綺麗に洗われて、投げて寄越された寝
衣代わりの簡素な貫頭衣はちょっとだけ丈が短かったけれど、とて
も気に入っている。露わになったリリオンの足をランタンが見つめ
てくれて、リリオンはそれがとても嬉しい。
どうしたの、って聞くとなんでか分からないけど、耳の先っぽを
ちょっと赤くして目を逸らしちゃうから、見られても気づかないふ
りをしている。
ブーツ
マント
寝衣だけではない。ランタンがくれた物はみんな大切にしている。
お揃いの戦闘服に戦闘靴。ひらひらの外套。沢山の物を詰め込む
事ができる背嚢。大きな盾に大きな剣。とても見事な狩猟刀。髪を
あかし
纏める飾り紐。手首に巻き付けてもらった薄青い深度計。
そして探索者の証であるギルド証。
ランタンのギルド証は細かな傷がついていて銀色が黒ずんでいて
何だか格好良いが、リリオンの手首に嵌まるそれはまだキラキラの
銀色で、大切にしたいと思う反面、ランタンみたいにしたいとも思
うのだ。
こんな風に些細な事で悩める事、この時間もきっと。
それはもしかしたら探索者になれた事よりも、望外の喜びである
のかもしれない。
狙われているのはリリオンかもしれません、とランタンは言った。
リリオンにではなく知り合ったばかりのテス・マーカムに向かっ
て。
テスは困っている自分たちに手を差し伸べてくれて、そこで隠し
事をするなんて思いやりを踏み付けにするようなものだから、きっ
とランタンは口に出したのだと思う。
それにリリオンだって薄々は自分の中に流れている血のせいじゃ
ないかって思っていたので、それを口に出す勇気はなかったから黙
656
っていたけど、ランタンが急にそんな事を言い出してもあまり驚く
ような事はなかった。
ただ少し怖かった。
ランタンがそれを口に出す事によって、もしかしたら、が本当の
事になってしまうのではないかと思った。ランタンに迷惑がられて
いたのかもしれない、と寒気は一瞬。
おもんばか
ランタンがその自らの考えをリリオンに伝えなかったのは、リリ
オンの不安を慮っての事だとすぐに分かった。テスに向けたしれっ
とした顔が、ちょっとだけ小憎らしい。
嬉しいと思う反面、悔しいと思う。もしかしたら寂しさだったの
かもしれないが、それを明確に表す言葉をリリオンは知らない。
後ろには司書がいて、目の前にはテスが向かい合わせに座ってい
たので頬を膨らませて拗ねるなんて事はたぶんしなかったと思うけ
ど、その代わりにぎゅっとランタンの手を握りしめた。
わたしは大丈夫だよって。口には出さなかったけど、そう伝えた
くて。
ランタンは少しばかり困ったような表情をしていて、リリオンに
向けた視線はきょとんしていて、結局二人になった時に直接言葉に
してしまった。
どうして私に隠してたの、って始まり、それから堰を切ったみた
いに色々な事を。
そうしたら、ごめんね、だって。
その時のリリオンの言葉は、自分でも思い返せないぐらいに不明
瞭だった。まだ言葉を話せない幼児が駄々をこねて噛み付くみたい
に気持ちを伝えて、ただそれは本当に我が儘だったのにランタンは
ちゃんと聞いてくれた。
そんなランタンの大人みたいな態度にリリオンはだんだんと冷静
になって、そして恥ずかしくなってしまった。でも口に出した言葉
を引っ込める事はできないので、そのままランタンの優しさにちょ
っと甘えてしまった。
657
大人みたいな態度のランタンが途端に苦手な食べ物を前にした子
供みたいに嫌そうな顔をして、けれど結局リリオンを甘えさせてく
れた。
いっしょにお風呂に入って、お湯の中で溶け合うみたいに身体を
くっつけて、ランタンは恥ずかしがっていたけれど、身体の芯まで
暖かくなるまでちゃんと一緒にいてくれた。
その暖かさをベッドの中まで持って行って、その日は抱きついて
眠った。
もしかしたら、その日も、だったのかもしれない。
緑の髪に黄金の瞳。ランタンを見つめるその瞳に何だかむかむか
とした。
その時はその気持ちで頭がいっぱいだった。
それが一度負けた相手だと言う事は後で知った。
初めて戦った時、女の腕が首に絡みつき、痛みなんかなくって、
ただ眠りに落ちるみたいに気持ち良くなった事を覚えている。ラン
タンに助けてもらって、息を吸う事によって自分が苦しかったのだ
と言う事をようやく知った。
自分が負けた事も。
負けた事は悔しかった。できるよ、なんてランタンに言ったばか
りだったのに口先だけだったのだ。ランタンにその悔しさを伝えた
事はなかったけれど、ランタンにはお見通しだったのだと思う。
いずれ再戦する事も、もしかしたら。
組み付かれた時の腕の外し方や、後ろから首を絞められた時の対
処法をランタンが教えてくれた。
リリオンがランタンに抱きつこうとすると、ランタンはたまに嫌
がって抵抗する。
暑いとか、重いとか、苦しいとかそんな不満を呟いたかと思うと、
あっと言う間にリリオンの腕の中からすり抜けてしまう。どうやっ
658
たのか分からない時もあるし、ちゃんと分かるように抜けてくれる
事もある。
分かる時は、腕の中からすり抜けていったランタンが今度はリリ
オンを押さえ込むのだ。さあ抜け出してみろと言うように不敵にリ
リオンを見下ろして、リリオンの中にある負けん気を凄く上手に擽
ってくる。
ランタンはリリオンに色んな手段を教えてくれた。
絡みつく瞬間に首の隙間に腕を入れる。肘を使って相手の脇を持
ち上げる。腕が首に差し込まれるのに合わせて首を回す、そうして
拘束の間に隙間を作る。
頭を抜いてもいいし、そこに腕を差し込んで力任せにこじ開けて
もいい。
むし
それからランタンは怖い顔を作って笑った。
後頭部を相手に叩きつける。相手の太股を毟る。髪を引っ張る。
耳を千切る。目に指を突き入れる。
僕にはしないでね、なんてそんな事言わなくてもいいのに。ラン
タンに抱きしめられてリリオンはとても嬉しい。それじゃあ練習に
ならないと怒られるから、抜け出してこちらから抱きしめてやるの
だ。
ランタンを胸の中に抱きしめていると、何でもできるような万能
感がある。
でも現実はなかなか厳しい。
胸の中にランタンはいない。緑髪の視線を遠ざける為に倉庫を飛
び出してしまったので、視界の中にすらランタンはいない。一人で
戦わなければいけない。だけど不安を自覚する暇はなかった。
緑髪の女はリリオンの事など見ていなくて、ランタンに向かって
一直線だった。女のランタンへの執着は別に不思議だと思わなかっ
た。ランタンは暖かくて、いい匂いがして、優しいからリリオンだ
って回れ右してランタンの下へと行きたいと思っていた。
だがそれはさせないし、しない。
659
女はようやくリリオンを見た。まるで道端に転がっていた大きな
石ころのように。
ちょっとだけ苛々。思わず大振りになってしまった。
大剣の一撃を避けられて殴りつけられ、でもリリオンは即座に反
撃した。内側に入られてしまった以上、方楯も大剣も邪魔だった。
それらは関節の曲がらない腕同然だ。なので女に向かって投げつけ
るように手放して、拳を固めて振り抜いた。
殴られて殴り返し、頭突きを食らわせて、蹴っ飛ばされて。組み
合う事はランタンの教えに身体が動いてどうにか避ける事はできた
けど、女はとても強かった。女の意識はランタンに向いていたけれ
ど、それでもどうにかこうにか捌くのがやっとだった。
鼻から息を吸って、ゆっくりと吐き出す。それから牙を剥くよう
に笑う。ランタンの真似。
女の蹴りはとても重たい。軸足が地面に根を張ったようにびくと
もせず、脚の付け根から爪先まで骨がなくなったみたいに撓る。受
けた右の手から嫌な音がしたけど、痛みなんて感じなかった。
女に一瞬の隙ができた。
左腕を伸ばし女の首にフックする。そこを支点にして一気に位置
を変えるように背後を取ると、飛びついて脚を絡めて引き倒す。受
け身を取れず背中から落ちたけど、そのまま締める。
やるからには徹底的に、これもランタンの真似。
やがてランタンがやって来て、勝利を告げてくれた。
折れた腕がじんじん痛んできたけどそれでも平気な顔をする。
痛くないのって聞かれたから、平気って答えようと思ったけれど、
思わず我慢しているって言ってしまった。だって凄く痛い。
ランタンの真似は難しい。
ランタンは肩と掌に穴が空いているのに笑っている。リリオンに
はまだちょっと無理だ。
後で聞いたら毒も食らっているんだって。
頭がおかしいんじゃないか、とほんの少しだけ思ったのはリリオ
660
ンだけの秘密。
十二戦零勝十二敗。その七敗目の後に修練場の隅で休憩した。
一度さえ掠る事のなかった練習用の木剣をテーブルに立てかける。
修練場に誘ってくれたテス・マーカムがタオルも貸してくれた。顔
を拭いて、椅子に座ると汗に濡れた下着がお尻に張り付いて変な感
覚だった。
気が付かない振りをして、水筒から水を飲み、テスにどうぞと差
し出す。テスは一口飲んで、やっぱり良い水精結晶を使ってるな、
と中身を揺らした。ランタンの持たせてくれる水はとても美味しい。
テスは色々な事を教えてくれた。
踏み込みが大きすぎて体重が後ろに残っているとか、がちがちに
柄を握らずもっと手首を柔らかく使った方がいいとか、目線でどこ
を狙っているか丸見えだとか、人を殺すには鋒でちょっと斬ればそ
れで済むとか、魔物相手ではそうはいかないとか、そう言う事を。
それから気が付けばランタンの話になっていた。
どちらから話を振ったのではないと思う。自然とそうなったのだ。
テスがリリオンの知るランタンの話を聞いて、リリオンはテスの
知るランタンの話を聞いた。
結果としてはよく分からない人だ、と言う事が分かった。
出身地や人種は不明。口にする共通言語には少し辿々しさがある
けれど、どこの国の訛りというわけではなくまるで幼子のような甘
ったるい響きがある。ギルドに提出する際の署名に使われる文字は、
まるで見た事がないと言う。名乗りでランタンと言っているからそ
う登録してあるが、それが本当にランタンと書かれているかは分か
らない。
金属の棒を一本持って、迷宮に降りた記録が残っている。
ギルドの認識はそこで一度変わる。多くいる新人探索者の内の一
人から、多くいる頭のおかしい奴の内の一人へと認識が変わった。
661
それが次第に、とテスの語るランタンの変遷は、そんじょそこらの
英雄譚よりもよっぽど胸が躍った。
そう感じたのはリリオンばかりではなく、ランタンが多くの探索
者の口に上るのにそれほど時間はかからなかった。
曰く伝説的探索者の秘蔵っ子だとか、貴族と女探索者の間に生ま
れた私生児だとか、探索者ギルドが密かに作り上げた人造人間だと
か、迷宮から遣わされた地上侵略の尖兵だとか、性別を偽ったどこ
かの姫君だとか、俺の運命の人だとか、いいえ私の王子様よとか、
探索者の間で好き勝手に噂には上っているらしいけど、ただの一つ
も真実はなく、どれもちょっとした娯楽に過ぎない。
情報屋もこれは金になるかもしれないと探りを入れているけれど、
確信に至る情報は未だに掴めていないらしい。ギルドでもちょっと
ね、とテスはぽつりと言ってそれで口を濁した。
よくわからないけど、ランタンが優しい人だって事は知っている。
だからテスにランタンの優しいところを教えてあげた。
テスは微笑みながらその話を聞いてくれて、それから後半戦に突
入した。
結局木剣は一度でさえテスの身体を打つ事はなかった。
寝る直前にランタンはベッドの上にちょこんと座り、お話があり
ます、と勿体ぶって言った。なのでリリオンもベッドの上にぺたり
と座って、ランタンの話を聞いた。
それはリリオンが襲われた理由についてだった。
薄々分かっていた事だったので驚きはしなかった、と思う。だけ
れども、うん、と一つ頷いたら何だか急に身体が震えた。リリオン
の中に流れる巨人族の血は、どんな事をしても失われる事はない。
それは影のように足元に付きまとって、これからも面倒な出来事を
引き起こし続けるのかもしれない、と漠然と思った。
ランタンは優しい。
662
リリオンに事実を告げた時の声は、とても穏やかだった。この事
については別に何とも思っていないよ、ってそう言ってくれていた。
ランタンはとても優しい。
だけれどもそれが永遠に続くかはリリオンには分からない。リリ
オンがこれからもこの血のせいでランタンに迷惑をかけ続けたら、
いずれランタンの優しさの限界を超えてしまったら、と思うと身体
が震えた。
おど
指の冷たくなった手をランタンは握ってくれる。
それから一つ名前を言った。
ランタンは、なんていったかな、なんて戯けるように前置きした。
それから、僕はね、と続く。
ランタンは自分の事を語らない。リリオンも聞かれたくない過去
があるので、ランタンにも聞いた事はない。だけど少し気になって
いたのは、もしかしたらテスとの会話で好奇心が擽られたからかも
しれない。それを見透かされたようで心苦しかったけど、リリオン
は黙って聞いた。
ランタンのちょっとだけ昔の話を。
ランタンは昔、奴隷だった。誰かに買われたわけではなかったけ
ど、奴隷として教育されて売り物になっていた時期があった。嘘か
本当か分からなかった。ランタンが大人しく売り物にされている姿
なんて想像できない。それにランタンが売りに出されていたら、き
っとリリオンは一も二もなくランタンを買い取るだろう。売れ残っ
ている姿も想像できない。
買い手がついた事もある、と言った。その買い手が件の貴族であ
る。色々あって本当に買われる事はなかったけど、とランタンは言
葉を濁したが、その表情は悪戯を成功させた子供の顔だ。きっとラ
ンタンお得意の意地悪な事を色々したのだろう。
あやすようなその表情に泣きたくなった。
ランタンは握った手を引いて、リリオンを胸の中に抱きしめてく
れる。頭を撫でてくれて、耳を食むようにしてそっと呟いた。
663
もし僕がそのまま売られちゃって、その貴族の元で奴隷をやって
いても、リリオンとは出会えてたんだね。
胸の中からはっと顔を上げる。ランタンの指先が視界に掛かった
前髪をそっと後ろに流した。そのくすぐったさ。こつんと合わせた
おでこの暖かさ。真っ直ぐ見つめた薄茶の瞳の透明さ。
笑みを作った唇のその隙間から漏れた息が、まるで口付けるよう
に唇に触れた。
囁きは甘い。とても。
もしかしたら運命だったのかもね、僕とリリオンが出会ったのは。
そんなのずるい。
ランタンはとってもずるい。
リリオンの中にある不安な気持ちなんてまるっきり無視して、そ
んな事を言うなんて。
ありがとうも、ごめんなさいも言わせてくれない。
泣きたかったのに、思わず頬がにやけてしまった。
いつもはリリオンが一方的に抱きしめるのだけど、その日はぎゅ
っと抱きしめてくれた。
そのまま眠りについて、夢の中でもランタンは優しかった。
結局目覚めるまで、ランタンはリリオンの事を抱きしめてくれた。
目覚めたと言ってもまだ意識は夢と現の狭間にあり、口から漏れ
る息は寝息と変わらず、瞼は目やにによって糊を付けたように中途
半端に持ち上がらなかった。
夢の中でもランタンはリリオンの事を抱きしめてくれていたので、
目覚めた当初はそれがまだ夢の続きなんだと思った。
鼻から息を吸うと、濃厚なランタンの匂いがした。それそもの筈、
リリオンはランタンの胸に顔を押しつけていた。いい匂いがするの
で何度も何度も鼻を鳴らすと、ランタンが小さく呻いた。匂いを嗅
ぐとランタンは恥ずかしがって怒るので慌てて息を潜める。
664
ランタンは眠ったままだった。そしてリリオンは起きている。目
覚めをようやく自覚した。
ほっと胸を撫でおろしランタンをもう一嗅ぎして、リリオンはそ
ろそろと顔を上げた。瞼を擦って目やにを取って、大きな欠伸を一
つ零す。視界を滲ませる涙を指で払うと、そこにはランタンの寝顔
があった。
ランタン。
眠る少年の名前を口の中で小さく転がす。口の中で舌が跳ねるよ
うに動き、舌先が前歯を擽る。だからだろうかリリオンは小さく笑
みを零した。
リリオンよりもずっと早起きのランタンの寝顔を見られるのは珍
しい。起こさないように気をつけて、リリオンはゆっくり、ゆっく
りとランタンの前髪に指を這わせた。
濡れたように艶のある黒い髪がさらさらしている。それを額から
耳の方へと流して、その寝顔を覗き込む。
そっと閉じられた瞼を縁取る睫毛が長く、なだらか鼻梁から膨ら
む鼻は小さい。横たわった頬が柔らかそうに潰れて、ほんの僅かに
開いた小さい唇から漏れる寝息が子守歌みたいに穏やかだ。
真白い寝顔には、男とも女ともつかぬ幼子にも似た無垢さがあっ
た。
ランタンは起きている時は妙に大人びた顔をしているし年相応に
見せる顔はいつも意地悪な感じなので、ただ純粋に表情をぬぐい去
られた剥き出しの顔はとても珍しい。それは決して無表情ではなく、
それこそが少年の本質であるかのように優しさを湛えている。
自分よりも年下にも見えるその寝顔をリリオンは飽く事なく見つ
めた。
見つめ、見つめ、穴の空くほど見つめて、堪えきれなくなって抱
きついた。
足を絡げて、腕を回し、顔を押しつけ匂いを嗅いだ。体臭がやっ
ぱり甘い。暖かい。
665
だがそれも一瞬の事。
﹁あつい、おもい、どけ﹂
ひとひら
覚醒に時間は要せず、声には一片の眠気もない。
あっという間に絡げた足を蹴飛ばされ、回した腕を外されて、首
筋に押しつけた顔は小さな掌に覆われて押し返された。抵抗する暇
もなく、ただすごいと思う。蛇の如き身のこなしは、筋肉と関節の
柔らかさのなせる技だろうか。
爪は立てず、柔らかな指の腹が頭蓋を掴み、けれどもランタンが
本気になればリリオンの顔面は文字通り剥ぎ取られてしまう。ラン
タンにはそれだけの力があり、時と場合によりそれは容赦なく行使
される事をリリオンは知っている。
優しさも。
でも、それに甘えてばかりはいられない。リリオンは頷いて、ま
だ抱きつきたかったけど、どうにか堪えた。ランタンが頭を撫でて
うなじ
くれる。寝癖を押さえつけるように、絡まった髪を解くように。
﹁おはよう﹂
﹁おはようっ﹂
挨拶を交わすと、ランタンが髪を撫でていた手を項まで滑らせて、
ひょいと首根っこを掴まえた。そして、邪魔、の一言共に退かされ
てしまった。
それからようやくランタンが起き上がって、口を押さえて欠伸を
して、目を擦って背伸びをした。まるで寝起き直後の微睡みが遅れ
て尋ねてきたとでもいうように。
リリオンは退かされて、ベッドの脇にぺたんと座ってその姿を眺
める。
眠る姿も珍しければ、寝起き直後の姿も珍しい。
肉付きが薄く、背伸びをすると弓なりに反る身体はいっそ少女め
いているが、乱暴に髪を掻くその姿はやはり男の子だなと思わせる
乱暴さがあった。
にやにやして見ていたら嫌な顔をされた。にやける顔を指を差し
666
て、目やに、と一言。
ランタンは優しいけど、意地悪だ。
ベッドの脇に転がる小さな時計を手にとって時間を確かめる。そ
してランタンはリリオンに視線を向けた。
﹁今日はずいぶん早起きだね﹂
﹁うん、目が覚めちゃったの﹂
﹁ふうん﹂
気のない返事をして水筒から水を飲むランタンの横顔を見つめる。
ランタンが喉を潤すと、水筒を寄越してくれた。物欲しそうな顔を
していたのかもしれない。今日も水は美味しい。
﹁⋮⋮特に予定はないんだよねぇ。どうしよっか?﹂
ランタンは困ったように笑った。
何でもない幸せな日を、ランタンはくれる。
わたしは何をランタンに返せるだろうか、とリリオンは思った。
667
046
046
部屋には窓も換気扇もない。水道もガスコンロもない。あるのは
ただ雨風をしのぐための屋根と壁、そして身体を横たえるためのベ
ッドがあるばかりだ。不便に思う事もあるが、ランタンはこの部屋
をなかなか気に入っている。どうせ料理など滅多にしないのだから。
しかしどうしても家で温かい料理が食べたい場合には市場で購入
した料理が冷めないうちに急いで帰宅するか、部屋に臭いがつかな
いように扉を開けて、玄関と廊下の境目に探索用の携帯火精結晶コ
ンロを用意してそれで料理をする。残念ながらランタンの住む部屋
にはベランダやバルコニーと呼ばれる小洒落たスペースもないのだ。
ふと指の冷たさが気になったのは、昨日の昼過ぎの事。
太陽の暖かさがいやに身に染みて、すっかり良くなったと思って
いた己の身体がまだ少し本調子から外れている事に気が付いた。
身体を温める物が食べたい。だが朝っぱらから市場に買い出しに
はんごう
にんにく
行くのは面倒である、と言うわけで久々に料理をすることとなった。
飯盒に水と酒、玉葱は半玉、大蒜は一欠片、そして生姜を大量に
刻んで入れる。塩は一つまみ。さらに内臓と皮を除いた鳥肉を入れ
たらば、火精結晶コンロで熱する。鳥肉の表面が次第に白み、灰汁
が出たらそれを神経質に取り除き、沸騰したら蓋をしてコンロから
外す。その鳥肉が入った飯盒を毛布でぐるぐるに巻き包みにした、
次の日の朝。飯盒はまだ熱を残している。
やはり身体が冷えているな、と起き抜けのランタンは改めて思う。
﹁これを食べるの?﹂
ぬる
飯盒の蓋を開けたリリオンが中身を覗き込みながら呟いた。それ
は薄く油膜の張った温い鳥のスープというなんとも微妙な出来であ
668
る。スープの中に浮かぶ白んだ鳥肉が心無し水死体のようにも見え
る。
あった
あまり大蒜の香りがしないが、問題は無い。
﹁温め直すよ。お米入れてお粥にするから﹂
ランタンはスープの中から鳥肉を取り出して皿の上に除けた。廊
下に広げたコンロに火を入れて飯盒を設置する。
﹁リリオンは肉を骨から外してほぐしといて。手、洗ってからね﹂
何かとパサつきがちな鳥肉も余熱で火を入れる事でその肉はふっ
くらと炊きあがる。
過去に調理途中に火精結晶の魔精を切らして、少しでも熱を逃す
まいと苦し紛れに毛布にくるんだ事で偶然発見した調理法である。
時間が掛かるのが難点だが、睡眠中に朝食の仕込みができると思え
ば悪くはない。
苦し紛れに鳥肉に爆発を食らわさなくて良かったな、とランタン
は飯盒の中にざらざらと乾燥米を注ぎながら昔を懐かしんだ。
その当時、外食を改めて自炊しようと考えていたようも気がする
がどんな理由でそう思ったのか、今では思い出せない。結局自炊し
ないのは、面倒くさかったからだろうが。
半透明状の痩せた乾燥米がしだいにスープを吸っておおらかな楕
円に太り、熱しながら底が焦げないようにかき混ぜていると次第に
とろみが出てくる。出来上がりの直前にリリオンがほぐした鳥肉を
戻して、肉が温まればそれで出来上がりである。
スプーンの先に少しだけ掬い取って味見をする。薄味だがちょう
ど良い。満足気に頷くランタンの横でリリオンも味見をせがんだ。
雛鳥のように口を開けて阿呆面を晒している。
鳥肉を骨から外す際に少しつまみ食いをしていたようだが、意地
悪をするのも可哀想なので食べさせてやった。
﹁うすい﹂
たしな
リリオンには少しばかり薄味過ぎたのか、塩の小瓶に手を伸ばそ
うとしたのでそれを窘め、自分の椀の中で味を調節するように伝え
669
た。ランタンにはちょうど良いのだ。
探索者家業は肉体労働なので濃い味が好きなのも仕方がないと言
えば仕方がない。
﹁あんまり濃い味に慣れると舌が馬鹿になるよ﹂
﹁バカになったらどうなるの?﹂
﹁その頃にはそうだね︱︱、例えば身体が浮腫んだり、高血圧、動
脈硬化、心筋梗塞、あと腎臓の機能が﹂
﹁じんぞう! ランタンのじんぞうは大丈夫?﹂
自分が尋ねたくせにつまらなそうな顔でランタンの垂れる適当な
講釈を聞いていたリリオンが、腎臓の一言に反応してランタンの脇
腹を掴んで擽った。
リリオンはランタンの内臓でも透視しようかと言うように、じっ
とりと細めた瞳でランタンの胴体を睨み付けて唸っている。残念な
がら腎臓の位置はリリオンの視線よりももう少し上で、更に言えば
背中側でもあったがどこを見ようとも内臓を透視できるわけでもな
いので黙っておいた。
先頃ランタンは毒に犯されて、その治療過程において内臓、特に
腎臓肝臓の大切さをギルド医から耳にタコができるほどに聞かされ
た。
しっか
ランタンはこの上なく不真面目な聴講生だったが、その時にラン
タンからくっついて離れようとしなかったオマケのリリオンは確り
と腎臓肝臓の大切さを覚えて帰ってきたようだ。もっともそれらが
どのように働くかは理解せず、ただ大切であるという一点のみにお
いて心に刻んだようだったが。
﹁大丈夫だよ、腎臓って二個あるし。っていうか火傷するから触る
な、擽るな。朝ご飯が無くなるよ﹂
コンロから飯盒を外し、裾の中に手を引っ込めてそれを持ち上げ
たランタンは擽ったいのを耐えながらリリオンから逃げ出して、部
屋の中に戻った。せっかく作った料理を危うく床に落とすところだ
った。
670
﹁コンロ回収、ドア閉めて。熱いから火傷するんじゃないよ﹂
﹁あつい!﹂
﹁⋮⋮﹂
コンロ回収の際に火傷したらしき人差し指を口に含みながらリリ
オンがすっかり意気消沈して戻ってきた。それでも、もう一方の手
に言いつけ通りにコンロを回収している辺りは律儀である。リリオ
ンはコンロをテーブルの脇に置いて、それからようやくランタンの
傍に寄ると唇から指を抜き取って、唾液に濡れた患部を見せつけた。
細く白い指の腹はコンロの縁を触った事で、蚯蚓腫れにも似た赤
い火膨れをおこしている。だが大した怪我ではなく、まさに唾を付
けておけば治る程度の火傷である。
リリオンはしょんぼりとした顔で小さく、痛い、と呟いた。
もっと酷い怪我でも平気な顔をできるのに、とランタンは柔らか
く笑った。
﹁もうちょっと口の中に入れときな﹂
﹁うん﹂
リリオンが言われたとおりに指を咥えながら、ランタンができあ
がった料理を椀に取るのを眺めている。その姿は妙に愛らしく、そ
して同時に早くしろと急かされているような感じもした。リリオン
の口の中で、舌が動いて指先を舐めているのが頬の動きで分かった。
じゅる、と唾液を飲んだ。
生姜の香りが食欲をそそる。
家で料理をするなど久しぶりだが、なかなか上手くできたと思う。
とろとろに炊きあがった粥を椀に取りテーブルに並べる。大盛りの
粥だけの朝食は、まるで修行中の僧侶の食事を思わせる質素さであ
る。
﹁いい匂い﹂
だがそんな事が気にならないほどに香り高く、料理から立ち上る
湯気には料理の見た目を二倍にも三倍にも見せる奇妙な魔力が込め
られていた。米と鳥肉の白の中で、生姜の黄がまるで砂金のように
671
光っている。
リリオンが唇から指を抜いて服の裾で拭うより先に、ランタンが
布で拭ってやった。視線が絡むとリリオンは照れたように笑い、ス
プーンを手に取った。
﹁いただきます﹂
﹁きます!﹂
スプーンに掬った粥は本当に黄金ほども重い。ふぅふぅと冷まし
たが、口の中に入れると飲み込めないほどに熱く、だがその熱さえ
もが旨味であるような気がした。ランタンは口の中で転がしながら
粥を冷まして、はふはふと白い息を吐いた。その吐息の中に生姜の
香りが混じる。
﹁うん﹂
溶けて無くなってしまった玉葱の素朴な甘さに、少しだけぴりっ
とした生姜の優しい辛みが味を引き締めている。鳥出汁で炊いた米
にも確りと旨味が染みこんでいて、鳥肉自体も柔らかく噛みしめる
と肉の味がはっきりと感じられる。大蒜は香りこそは出ていないが
鳥独特の臭みを完全に消しているので、入れたのは正解だった。
﹁ランタンって、お料理もできるのね﹂
リリオンの言葉に、ランタンは少しばかり首を傾げた。
﹁これを料理と言っていいかは迷いどころだけどね。米は戻すだけ
の乾燥米だし、野菜を切ってくれたのはリリオンだしね﹂
市場で購入した鳥肉は首も落としてあり、内臓も抜いてある。羽
根も毟られており、産毛も焼いて処理してあるちょっと割高な商品
だ。
魔精結晶を得る為に魔物の解体もするのでランタンに動物を捌く
技術が無いわけではないが、肉を邪魔な物として見る解体と、肉自
体を必要とする解体ではやはり勝手が違う。
﹁あとはぶち込んで炊くだけなんだから、誰だって出来るよ﹂
﹁⋮⋮わたしも料理できるよ﹂
リリオンは粥を口に運びながら、まるでランタンに尋ねるかのよ
672
うに呟いた。
﹁うん、前に聞いたよ﹂
・
実際、玉葱を刻むリリオンの手つきは心配するランタンを拍子抜
けさせるほど順調だった。包丁として使用した刃物が刀身がくの字
に折れ曲がった狩猟刀だと言う事を加味すると、もしかしたら普通
の包丁を持たせればそれなりの料理を作るのかもしれない。
だが、そもそもとしてこの部屋には台所もなければ調理器具もな
い。ランタンの持つ調理器具はこの携帯用火精結晶コンロと飯盒だ
けだ。
ランタンは冷まさなくても食べられる程度の熱さになった粥を、
匙ごとがぶりと口の中に放り込み、少しだけ考えた。リリオンも増
えた事だし、もう一つ火精結晶コンロを買っても良いかもしれない。
ついでに携帯用の調理器具ももう一種類。飯盒は煮る、蒸すを可能
にするので、やはりフライパン辺りが狙い目だろうか。
にじ
﹁あーあったかくなってきた﹂
食後の満足感が滲み出る、とろんとした声でランタンが呟く。
すっかりと椀を空にする頃には生姜の辛みも相まって身体がぽか
ぽかとしてきた。指の先まで熱で満たされて、リリオンに至っては
額に汗の粒さえもが浮き出ている。ランタンがそれをそっと拭って
やると、リリオンが目を細める。おっとりと吐き出した息が僅かに
白んだ。ぱたぱたと襟元を扇ぐ。
その表情を見ているとランタンもつられて眠たくなるが、眠って
いる暇はないのである。
﹁家でご飯作ると、これがめんどうなんだよね。ふあ⋮⋮﹂
大きな欠伸を一つ。口を押さえられなかったのは両手を使ってい
るからだ。
飯盒に椀、コップにスプーン。食事を終えたならば、速やかに洗
い物をしなくてはならない。時間が経てば経つほどに面倒くささは
増加してゆくし、米は食器に根を張るが如くこびり付く。
洗濯物ならまだしも、食器を洗うのに風呂の残り湯を使う事はで
673
きない。コックを捻るだけで湯の出る蛇口はないので、洗い桶の中
に水精結晶の水を張った。たとえ探索者であったとしても呆れるほ
どに高価な洗い水である。
爆発で洗い桶の中の水を熱すると高確率で洗い桶自体が弾け、熱
湯が飛散し、水の大半が水蒸気と化してしまうので、水の冷たさに
は我慢しなければならない。
ランタンが洗い物をして、リリオンが綺麗になった食器を乾拭き
する。
洗ったスプーンをフォーク、ナイフと共に布に包み、それを飯盒
の中に納めてから背嚢に詰め込む。その近くにはビスケットや乾燥
米、干し肉などの探索食が数日分納められている。
﹁忘れ物は?﹂
﹁ないよ!﹂
使った食器類はすべて背嚢に戻した。水筒も水精結晶を新しくし
た。
服を着替えて、リリオンの髪をお下げに結った。布団は畳んだ。
貴金属も、盗まれてはいけない物も置いてはいない。部屋の中に腐
るような物も残してはない。
先頃、一週間以上も部屋を空けた時は、前もって準備ができなか
ったので買い置きしていた果物が駄目になってしまっていた。そう
すると部屋をきちんと施錠していたとしても虫が湧く。まったく奴
らと来たら黴の中から生まれたのではないかと思うほどに神出鬼没
で嫌になる。虫も、腐敗臭も全て消し去るのに一日以上掛かった。
再びその愚を犯すような事はしない。
部屋を出る最後に指差し確認を一つ。リリオンがそれを真似した
が、一体何を指差しているのかランタンにはよく分からない。だが
本人が楽しそうなので見なかった事にする。
﹁早く出てこないと閉じ込めるよ﹂
﹁やだ、もうっ、まって!﹂
慌てて廊下に出てきたリリオンが最後に一つ指を差した。リリオ
674
・
ンは火傷の事などすっかり忘れたように、火傷した人差し指でラン
タンの肩を突いてのの字を描いた。
﹁肩は大丈夫?﹂
﹁大丈夫だよ﹂
施錠して階段を降りる。今日の背嚢はずいぶんと軽い。肩を怪我
したランタンを気遣ってリリオンが多くを持ってくれているのだ。
肩はすっかりと治って傷跡さえも残っていないが、心遣いはありが
たく受け取っておく。
下街の通りを通り過ぎながら横目に露天を眺める。何もかもが手
に入ると噂の下街の目抜き通りの闇市だが、混沌としたそこでさえ
需要と供給の市場法則からは逃れる事はできない。
料理道具でも置いていないかと視線を彷徨わせるが、目につく金
物と言えば刀剣類に始まる武器、そして防具の類いであり、並びで
包丁こそ置いてあれどそれの需要は決して料理の為ばかりではない
事は一目瞭然だった。
目についた包丁は血に錆びていたり、まともな物は妙に禍々しい
雰囲気があったりでとても手を伸ばす気にはなれない。鍋やフライ
パンも全くないわけではないが、それはどこかの店の払い下げかあ
るいは盗品なのか、個人で扱うには無駄に大きくて、迷宮へと持ち
込むともなると盾や兜になるかもしれないと思わせるような品々な
のである。
ランタンは鍋の兜とフライパンの盾を装備したリリオンを想像し
てこっそりとほくそ笑んだ。
そんな事とは露知らず、リリオンは相変わらずちょくちょくと買
い食いをしている。ランタンに、買いに行くからちょっと待ってて
ね、と心配そうに言うのも相変わらずだが、男の店主とのやり取り
は前よりも堂々としていて、ランタンは何だか嬉しい気持ちになっ
た。
リリオンがお気に入りの羊肉串を手に持って喜色満面に戻ってき
た。
675
﹁一番大きいの貰ってきたわ﹂
それはまさしく戦利品と言えた。
﹁よかったね﹂
クレーン
目抜き通りを突っ切って下街からそのまま迷宮特区に入り、予約
した迷宮のある区画まで行くと既に起重機がそこに駐まっていた。
なじみの引き上げ屋であるミシャが起重機の座席に腰を下ろして、
なにやら書類に目を落としている。今日、迷宮へ下ろす、あるいは
迷宮から引き上げる探索者のリストだろうか。
足音を殺したわけでもないが、駆け寄ったわけでもない。だがミ
シャはランタンたちが近づくと声を掛けるよりも先に、その気配を
察したのか書類から顔を上げた。ランタンの姿を認めると、書類を
しまって起重機から軽やかに飛び降りる。おかっぱの髪が、海面に
姿を現す海月のようにふわりと広がった。
引き上げの予約を頼みに行った時にはミシャは仕事で出払ってい
たので会うのは久しぶりである。ランタンよりも少し小さい身体に
おかっぱ頭は久しぶりに会っても変わらない。変わらないその姿に
ランタンは不思議とほっとして、それから少しぎょっとした。
﹁あー、⋮⋮おはよう﹂
﹁おはようございます﹂
挨拶と共にミシャは頭を下げて、その面を上げると少しばかり目
が怖かった。リリオンには微笑みかけたその視線が、じろりとラン
タンの上から下までを舐め回す。ランタンは居心地が悪そうに、下
唇を噛んだ。
﹁ランタンさん、ずいぶんとお痩せになられたようで﹂
﹁えっと、そう、かな?﹂
もともと肉付きのいい方ではないので、痩せるほどの肉はなく、
多少痩せたからと言ってもそれほど目立つものではないと思ってい
た。だが久しぶりに会ったミシャは、だからこそかもそしれないが、
一目見て溜め息を吐き出した。
肉を極薄く削いだように僅かにほっそりした頬を撫でさすって、
676
ランタンは頬をミシャの視線から遮った。痩せた自覚が無かったわ
けではないが、いざ指摘されると少しばかり後ろめたい気持ちにな
る。
それはミシャがランタンの事を心配してくれているのを知ってい
るからだ。ミシャ以外の引き上げ屋の世話に掛かった事はないが、
他の引き上げ屋がこうも親身なってはくれない事ぐらいは知ってい
る。
リリオンが大食漢なので、その影響でランタンも昔よりは食べる
量が増えているとは思うのだが、なかなか体重は増えない。身長も
伸びない。
はぎれ
ぼろぼろになった服を買い換える際に、袖を詰めたり裾を上げた
りする際に出る端布は、様々な用途で役に立っている事には役に立
っているのだが、やるせない気持ちにならないわけではない。
四六時中、行動を共にしているリリオンはランタンの変化には気
づいていなかったようでミシャの言葉にきょとんと小首を傾げて、
ランタンの頬を突いてみせた。
﹁ランタン、んぐ、やせちゃったの?﹂
﹁口に物があるまま喋らない﹂
﹁うん﹂
リリオンは頷きながらもランタンの頬から指を放さなかった。
﹁ねえ、ミシャさん。ランタン、やせたかな?﹂
リリオンはようやく指を離したかと思うと、よく分からなかった
ようでミシャに意見を求めた。それはまるでミシャに、どうぞ触っ
て確かめてみてください、と場所を譲ったかのようで、ミシャは一
瞬戸惑って固まり、ぎこちなくランタンへ視線を寄越した。
触られたからといって減るものでもない。ランタンが小さく頷く
と、ミシャも頷いた。
﹁じゃあ失礼しまっす﹂
変な敬語にランタンが身体を震わせて吹き出すの堪えると、ミシ
ャは触れる寸前でもう一度ランタンに確認の視線を寄越した。ラン
677
タンはまるっきり無防備に目を伏せる。ミシャの指先がランタンの
頬に触れた。今日はミシャの指に油汚れはない。
ミシャの指も冷たいな、と思う。
こわごわ
すべすべと言うよりはつるつるした感じの指の腹がランタンの頬
を怖々と擽った。頬骨の辺りから奥歯の方へと指先を動かして、頬
の中心を触ったところでランタンはミシャの指先を頬の内側から舌
で押し返してみた。
﹁⋮⋮!﹂
﹁ふふっ﹂
ミシャは大げさに自分の指を胸の前に抱きしめて、笑い声を漏ら
したランタンをきっと睨んだ。ランタンはとっさに視線を外して空
惚けてみたが、視線は千の針を押しつけられたように痛かった。大
きな溜め息が聞こえてきて、ようやく痛みがなくなる。
﹁ランタンさんは、痩せたっすよ。あと性格も悪くなったっす﹂
﹁性格は変わらないよ﹂
﹁じゃあ前から性格が悪かったんっすね﹂
それに関しては言い返す事ができないのでランタンは黙っておく。
﹁わたし、わからなかったわ⋮⋮﹂
リリオンがぽつりと呟く。それはどっちの意味で、とは聞かなか
った。
療養中は多少の食事制限はあったが絶食したわけでもないし、量
的には普段通りに食べていたのでリリオンが気づけないのも無理は
ないだろう。カロリーの概念を解する人間は、おそらくこの世界に
どれほどもいない。
﹁まあ、ちょっと色々忙しかったし、そうかもね﹂
﹁⋮⋮やっぱりお休みになってたんじゃなかったっすね﹂
まったくもう、と嘆息するミシャにランタンは困った顔になった。
﹁一体何をされてたんですか?﹂
ミシャに聞かれて、ランタンは言葉に詰まった。毒に犯されてい
ました、などと馬鹿正直に言うと迷宮に下ろしてもらえない可能性
678
もある。ミシャにはその権利があった。
引き上げ屋は契約した探索者を迷宮に下ろさない権利を有してい
る。それは探索者ギルドから引き上げ屋業の承認を得ている正規の
引き上げ屋と契約する時には、契約書に必ず記されている権利であ
り、同時に課せられた義務でもある。
それは探索者を救う為の権利と義務だ。
この権利は、例えば予約を受けた探索者が探索当日に、様々な理
由で探索能力を減じている事を引き上げ屋が確認し、探索実行の可
否に対する正常は判断を探索者本人が下せない場合に、その判断を
引き上げ屋が代わりに下す事ができる言うものである。それにより
自殺とも呼べる無謀な探索を水際で食い止める事ができ、探索者の
生存率を向上させる事を期待されている。
しかし期待は往々にして裏切られるものでもある。
この権利は定められてまだ歴史が浅く、しばしば揉め事を引き起
こす事がある。
いざ探索をしようと意気込んでいるところに水を差されるのだか
ら探索者としてはたまったものではないし、その水を差された探索
者の判断能力は酷い有様なのだから、酔っ払いに道理を説くよりも
ひとえ
高確率で暴力沙汰が起こる。今までの歴史の中で人死にが出ていな
いのは、ただ偏に幸運と、その権利が真っ当な理由で行使された回
数が少ないからである。
つまるところ探索者が死のうとも、自己責任、の一言で権利は容
易く放棄されるのだ。
き
そしてまた真っ当な建前を振りかざし、この権利を悪用する引き
上げ屋の存在もある。
ひ
探索に送り出した探索者の帰還率の低い引き上げ屋は探索者に忌
避される傾向がある。
未帰還者を多く出した引き上げ屋を縁起が悪いと感じてしまうの
は、例えその未帰還が探索者の実力不足による物だったとしても、
探索者にとっては自らの命が掛かっているのだからどうする事もで
679
きない感情だ。帰還率が七割を超えれば縁起が良く、五割を下回れ
ば二の足を踏む。
また引き上げ屋にとって自らが送り出した探索者が未帰還になる
事はやはり不名誉な事であり、商売を行うにあたっての汚名そのも
のである。帰還率の低さを前面に出し、子供から老人まで、観光か
ら自殺まで誰だって大歓迎、などと自虐的な広告を打つ引き上げ屋
は極々稀な存在だ。
帰還率の低い新人探索者などは引き上げ代が露骨に割高であり、
そもそも新人の降下予約を受け付けていない引き上げ屋だって存在
する。
いざ予約を受けたものの迷宮口を目の前にして怖じ気づいた新人
探索者に、己の店の帰還率が下がる可能性を嫌って権利を振りかざ
す引き上げ屋や、前金だけ受け取ってその権利によって降下作業を
拒否する引き上げ屋の話だって聞かないわけではない。
幾ら金を積もうとも探索者を迷宮へ下ろすか否かの判断は引き上
げ屋に委ねられる。
探索者に、特に新人の探索者にとって引き上げ屋は探索者人生の
生殺与奪の権利を握る絶対的な存在とも言えた。
無論ミシャは真っ当な引き上げ屋であるし、その店主であるアー
ニェも真っ当な経営者である。権利を悪用する事も、それを横暴に
行使する事もない。だからこそミシャに、ダメ、と一言言われたら
ランタンはそれに抗う術を知らない。
ミシャの言葉以上の正当性をランタンは己の中に持たない。
ランタンは困った顔のまま笑って、ミシャの鋭い舌鋒をどうにか
逸らして話題を変えようとした。だが逸らした先には脳天気な少女
がいて、槍の穂先の如き舌鋒に突き刺された少女は苦い顔をするラ
ンタンなどお構いなしに馬鹿正直に口を割った。
﹁︱︱へぇそうなんっすか、リリオンちゃん。へぇ、ふうん、大変
だったみたいっすね﹂
ミシャはリリオンとにこやかな会話を繰り広げながら、笑みに細
680
めた瞳の奥でランタンを睨み付けた。
ランタンの掌に穴が空いたという話を聞くとミシャは頬を浅く吊
かたど
り上げて微笑み、肩にも穴が空いたと聞くと薄い唇が引き延ばされ
てより薄くなる。それは酷薄な笑みを象り、視線はいよいよ絶対零
度となった。朝食で温かくなった指先が冷たくなった。
そして毒に犯された、とリリオンの口から語られた時にはもう、
ランタンはミシャの顔をまともに見る事ができなかった。足元でた
またま列を成す蟻の集団を見つけて、現実逃避を試みる。
この蟻はどこへ行くのだろうか。例えば迷宮の中まで降りていく
ような事はあるのだろうか。
﹁︱︱私、結構ランタンさんの事心配してるんだけどな。あーあ、
私の言葉なんて何にも聞いてもらえないんだ﹂
仕事用に取り繕っている語尾の跳ねる独特の敬語ではなく、あり
のままの少女らしい年相応の軽い口調と、やるせなさそうな投げや
りな声はランタンの良心を深く抉った。蟻の行列から視線を上げた
ランタンは眉毛を八の字にして情けない顔になった。
リリオンがその顔をさも珍しそうに覗き込み、ランタンの痩せた
二の腕を抓って引っ張った。ランタンはリリオンから顔を背けて、
その抓った指先を払い落とした。
﹁⋮⋮痛いよ﹂
﹁わたしも前に無茶しちゃダメって言ったのに、嫌だ、って言われ
たわ。わたしも心配したのに﹂
﹁⋮⋮そんな言い方してない﹂
﹁でも言った事は事実なんっすね﹂
リリオンへと向けたちょっとした反論は完全なる藪蛇だった。ラ
ンタンは抓られた二の腕を擦りながら、ミシャへの言い訳を重ねる。
﹁だって、ほら。無茶しないと探索者やっていけない、ですし、⋮
⋮ね﹂
迷宮探索において無茶をしなければ打開できない場面は往々にし
てある。だが、だからこそいかに無茶をせずに済むか、と考えるの
681
が普通の探索者であり、この業界に身を置いているミシャは当然の
ようにそのことを知っているだろう。
つまりランタンの言葉が完全なる開き直りである事は、口に出す
傍からミシャにバレているという事だ。
ますますもって目が怖い。
ランタンは沈黙は金の教えに従って押し黙った。殊勝な態度でミ
シャに相対する。
﹁迷宮に降りて傷ついて、地上でも無茶をして。︱︱本当に、いつ
か取り返しのつかない事になるっすよ、ランタンさん﹂
その瞳の怖さは、それだけミシャが真剣である事の証明だ。ミシ
ャはただ純粋にランタンの事を心配している。ミシャの見るランタ
かしこ
ンの姿の半分は、迷宮から帰還した姿であり、迷宮から帰還したラ
ンタンはいつだって傷ついている。
ミシャの言葉をリリオンがいつの間にか畏まって聞いていた。
ランタンがこれまでいかに傷ついて地上に戻ってきたか、そして
傷が癒えるより先に迷宮へと再び戻ったか。それがようやく迷宮探
索を長く休んで、ようやく自分の身体を大切にするようになったか
と思えば、と言うような事を。
リリオンは時に深く驚き、悲しみ、憤り、ミシャに心を重ねてい
るようだった。
﹁︱︱ランタン! これ、食べて!﹂
リリオンがふいにランタンへと向き直り、食べかけの肉串を差し
出した。まるで自分もランタンの心配している事を言外にアピール
するように、大好物である羊肉串を差し出す様は健気であった。
ランタンはミシャから自然と視線を外してリリオンの微笑みかけ
て、ありがとう、と一言伝えた。
痩せた頬に浮かんだ微笑みには、うさんくさい自己犠牲の影がち
らついている。
﹁僕はいいよ。リリオンが自分のお小遣いで買ったんだから、自分
でお食べなさい﹂
682
油でぎらぎら光っている羊の肉は、外側には確りと火が通ってい
るが中心部はまだ生のようだった。塩の粒や香辛料がまぶされてい
て食欲をそそるいい香りもしているのだが、差し出されて感じたの
は胃もたれしそうだなと言う拒否感だった。
だがそんな雰囲気は微塵も感じさせず、いかにも大人ぶった優し
い表情でランタンは告げ、リリオンがうっとりと頷いた。ミシャが
そんな二人を呆れた視線で見つめていて、特にランタンへと向けた
視線はその心の内を見透かしたように冷たい。
﹁ミシャさんも、食べる?﹂
﹁いいの、リリオンちゃん?﹂
瞳の冷たさを一瞬で消してミシャが微笑む。リリオンはぜひにと
言うように頷いた。
﹁ではお言葉に甘えて﹂
そしてミシャは薄い唇に縁取られた小さな口を開いて肉に噛み付
いた。鶏卵ほどもある羊肉一塊に噛み付いて串から一気に引き抜い
たミシャは、まるで丸呑みにするように肉を塊のまま口腔にすっぽ
りと納めた。頬を膨らませたミシャは二度三度とそれを咀嚼しただ
けでゴクンと飲み込む。
そして油に濡れた唇をちろりと舐めると、吃驚しているリリオン
に笑いかけた。
﹁ごちそうさま。美味しいっすね﹂
﹁はー⋮⋮﹂
﹁ぼうっとしてると、全部食べられちゃうよ﹂
ミシャの豪快な食べっぷりに呆気にとられているリリオンに、ラ
ンタンが意地悪く呟いた。リリオンがはっとしてミシャを見つめる
と、ミシャはランタンを睨み付ける。
﹁そんな事しないから、ゆっくり食べるといいっすよ。よく噛んで
ね﹂
リリオンはミシャとランタンと肉串に何度か視線を往復させて、
それからようやく頷いて言いつけ通りに良く噛んで肉串を食べ始め
683
た。肉の繊維が断ち切られる、ぎしぎしと軋む音が聞こえてくる。
よく噛んではいるが、同時に取られないようにと早食いだ。
﹁ミシャ﹂
﹁なんっすか?﹂
﹁ありがとう、心配してくれて﹂
﹁そう思うなら︱︱﹂
ミシャは言いかけて、やめた。言葉の続きを言わなくともその先
をランタンは知っているからで、言ったところでランタンが振る舞
いを改めない事をミシャは知っているからだった。それでも懲りず
ね
に途中までを言いかけてしまった己を恥じるような、照れるような、
悔しがるような。
ミシャは恨めしそうにランタンを睨めつけて、口を噤んだ。
﹁無茶も怪我もするけどね。死なずに帰ってくるから安心しててよ﹂
ランタンの言葉にミシャが固く結んだ唇を緩めたかと思うと、大
きく大きく溜め息を吐き出した。頓珍漢な事を言い出した幼子に、
どう世の真実を伝えていいかと困る母親にも似た生温い慈しみの視
線をランタンに寄越し、その視線を受けてランタンがきょとんとし
たのを見て、とうとう堪えきれずに笑い出した。
﹁あの、⋮⋮結構真面目に言ったんだけど⋮⋮﹂
﹁ふ、ええ、分かってるっすよ。ふふっ、お気持ちは、確かに、あ
はは﹂
ミシャはなおも笑って、ランタンはほとほと困り果てた。なぜ笑
われているのかさっぱり分からないので視線を彷徨わせるとリリオ
ンと目が合った。リリオンさえもランタンの何も分かっていない表
情を見ると、呆れたように溜め息を吐き出した。
﹁あー、おっかしいんだ。ランタンさんって、ほんとランタンさん
っすよね﹂
﹁ねー、ミシャさん。ランタンって、優しいのに、どうしてそうな
っちゃったの?﹂
少女二人は互いに分かり合ったように頷き合って、一人蚊帳の外
684
のランタンは唇を突き出して拗ねたように蟻の行列を蹴り飛ばした。
完全なる八つ当たりであった。
﹁僕、何か変なこと言った?﹂
ランタンが情けない声で呟くと、ミシャが生温くランタンは見な
がら優しく声を掛けた。
﹁真面目にあんなこと言っちゃう人には教えてあげない﹂
ミシャは人差し指を立てて薄い唇に封をすると、ぱちりと片目を
閉じて声なく笑った。
685
047 迷宮
047
結局何故笑われたのか理解できなかった。ミシャに聞くのもリリ
オンに聞くのも何となく気にくわないので、理解できないままに迷
宮に降り立った。
ランタンは意識を地上から迷宮内でのものにさっと切り替えた。
別に悔しくなんかない。
一度目の迷宮探索は、ランタン一人で最後の一歩手前まで攻略済
フラグ
だった。二度目の迷宮探索は、名も知らぬ探索者たちが最下層に座
する最終目標までもを視認済みだった。
リリオンにとってこの迷宮探索は、もしかしたら真の意味で、初
クレーン
めての探索であると言えるのかも知れない。
起重機の金属ロープを見送りながらランタンは背伸びをして、早
速魔精酔いを起こしているリリオンの背中を撫でさすった。リリオ
ンは青白い顔をしてうんうんと唸っている。
迷宮降下に伴う魔精酔いは何度も探索を繰り返す事で、現れる症
ひよこ
状は次第に軽い物になっていく。リリオンはこれで三つ目の迷宮、
まだまだお尻に卵の殻を付けた新人である。重めの魔精酔いを起こ
すのも仕方のない事だ。
ランタンでさえ多少の気持ちの悪さがある。だが魔精酔いによる
気持ちの悪さは極少し、気持ちの悪さの根源は腹部にある浮遊感の
残滓である。それは降下の際に掛かる重力によるものだろうと思わ
れた。
ミシャの起重機を操作をする技量が如何に優れていようとも、ラ
ンタンの体質を改善する事はできない。
﹁薬使う?﹂
686
﹁⋮⋮やだ﹂
ランタンがじゃらじゃらと気付け薬の缶を振ってみせたが、リリ
オンは小さく首を振り、弱々しくもはっきりとそれを拒んだ。積極
あぐら
的に服用したい味ではないし、それも仕方のない事だろうとランタ
ンは苦笑した。
取り敢えずランタンはその場で腰を下ろして胡座をかいた。ラン
タンが何も言わずとも、リリオンはランタンの胡座を枕にして横に
・ ・
なった。甘やかしすぎたな、と思うのだが悪い気がしないのも事実
である。
初回探索では迷宮口直下のここで、その迷宮の魔精に身体を慣れ
させるという習わしがあり探索者ギルドでも、迷宮口直下で十二時
間程度身体を休めるように、と言うような事を推奨している。気付
け薬を服用すれば魔精酔いの気持ちの悪さは解消されるが、それと
自らの身体が魔精に慣れる事とは別問題だからだ。
魔精による身体能力の強化は、時として自らの身体に振り回され
るという事態を引き起こす。魔精酔いならば尚更で、使いこなせな
い大きな力は往々にして自らの身体を傷つける諸刃の剣と化す。
進んだ先から魔物を引き連れでもしない限り、迷宮口直下には何
故だか魔物は近寄らない。そのため安全な迷宮口直下で充分に身体
を魔精に慣れさせる事が推奨されている。命は何よりも代えがたい
ものである。
だがそれを行う探索者がどれほどいるのか、ともランタンは思う。
他の探索者事情を知らないランタンであるが、少なくともランタ
ンは魔精酔いがある程度抜けたらさっさと探索を開始してしまう。
単独で迷宮を攻略する際に、迷宮口直下で魔精に身体を慣れさせる
為とは言え半日も一人ぼんやりとしているのは暇で暇でしょうがな
たち
く、はっきり言ってしまえば苦痛である。ランタンは一人でいる事
にそれほど苦痛に感じない質ではあるが、それでもさすがにやる事
がなさ過ぎるのだ。
初回探索は何が起こる分からないので万全の状態で気を抜かずに、
687
と言う戒めは重々に承知しているが、少しばかり窮屈で、少しばか
りかったるいのも事実である。
無論、迷宮を侮っているわけでも、己の力を過信しているわけで
もない。古い習慣を馬鹿にしているわけでもない。習慣を遵守して
迷宮口直下で膝を抱えていた時期もあったし、そのおかげでド新人
頃にのたれ死なずにすんだとも思っている。
だが、ただ少し自分に合ったやり方が分かってきただけの事なの
だ。
しかし新人のリリオンに、自分は大丈夫だから、とランタンのや
り方を押しつけるのもあまりよくはない。さすがに十二時間もじっ
とはしていないが、少なくともリリオンの魔精酔いが自然と覚める
程度の時間ぐらいは惜しくはない。
やがてリリオンの頬に赤みが薄く浮かび上がり、ランタンは仰向
けになっているリリオンの顔を撫でた。頬に触れると、閉じられて
いた瞼が気怠げに瞬く。ランタンは手を滑らせてリリオンの額を撫
でて、瞳をそっと掌で覆った。
﹁手、冷たいわ﹂
﹁気持ちいいでしょ?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
掌の下にあるリリオンの瞳は熱を持っている。リリオンの口元が
柔らかく緩んだ。
少女は次第に魔精酔いから醒めつつあったが、だがリリオンは目
元を隠すランタンの手を掴んで放さなかった。
﹁ランタンはまだ毒が残ってるの?﹂
リリオンは未だに、ランタンにそう尋ねる。
手を繋いだり、ランタンに頭を撫でられたりすると、ふとその手
の冷たさを気にするのだ。もともとリリオンの方が体温が高いのだ
から冷たく感じてしまうのはどうしようもないのだが、何度大丈夫
だと言ってもリリオンはしつこく尋ねてくる。
﹁もう大丈夫だって。毒どころか、抜糸だってしたんだから﹂
688
それだけ毒に犯された直後のランタンの冷たさが印象的だったの
だろう。
﹁探索しても大丈夫って、お医者のお墨付きだってもらったんだか
ら﹂
﹁うん﹂
﹁それよりもリリオン、魔精酔いはどう?﹂
﹁⋮⋮もう平気よ﹂
ランタンはリリオンを目隠ししているのを良い事に、その顔を覗
き込んで大きく苦笑を漏らした。強がれる程度に回復したのならば、
身体を動かせばすぐに完全に酔いが醒めるだろう。胡座枕で甘やか
した分の帳尻を合わせてやろう。
﹁よっし、じゃあちゃっちゃと辺りを調べるよ﹂
ランタンはそう言って半ば強引にリリオンの手を振り解くと、露
わになった瞳を覗き込んで言った。
魔精酔いを起こしていた時はふらふらして焦点の合わなかった視
線とランタンの視線が交差した。リリオンは少しばかり眩しそうに
していたが、ばっちりと視線を合わせてふらつかせる事がなかった。
ランタンの方がなんとなく照れてしまって先に視線を逸らした。
ランタンはリリオンの頭の下からずるりと足を引き抜いてさっさ
と立ち上がり、地面に後頭部を打ち付けた少女に素知らぬ顔で手を
差し伸べた。
探索する前から怪我をしていては世話がないね、とランタンはリ
リオンを一息に引っ張り上げて、リリオンの後頭部を撫でてやった。
切れているわけでも瘤になっているわけでもない。丸く形のいい後
頭部がそこにあるだけだ。
冷たい手も打ち身を冷やすにはちょうどいい。
うそぶ
﹁結構便利でしょ?﹂
ランタンが嘯くと、リリオンは拗ねたように横を向いた。
﹁ミシャさんに言いつける⋮⋮﹂
﹁あっ、ずるいよ﹂
689
ランタンが縋るような上目遣いで苦々しく呟いた事で、リリオン
は溜飲を下げだように小さく笑った。ランタンは悔しがるようにリ
リオンのお下げ髪を引っ張って嫌がらせをすると、ほら行くよ、と
歩きだした。
﹁待って、もう﹂
リリオンは手首にぶら下げた深度計の色味を確認して、ランタン
の隣に並んだ。だが手を繋ぐ事はなかった。
探索者ギルド先遣偵察隊からは三時間ほど歩いたところで魔物の
存在を複数確認したという報告が上がっている。先見偵察隊はこれ
との戦闘を回避し観察のみに努めて、その後帰還している。先遣偵
察隊の戦闘能力が低いわけではなく、積極的な戦闘行動は彼らの仕
事内容ではないからだ。彼らの仕事は生きて情報を持ち帰る事だ。
いや迷宮に潜る者たち全てにおいて、生きて帰る事が至上命題だ
ろう。
ランタンは既に戦槌を抜いており、リリオンもリリオンで武器を
構える事はなかったが真剣に辺りに注意を払っていた。
三時間ほど歩いたところで、と言う報告であっても徒歩三時間圏
内が安全圏だというわけではない。
迷宮の魔物の第一行動原理は人間への敵対心だと言われているが、
だからと言って人が居なければ動かないのかというとそうではない。
迷宮内で縄張りが決まっているのか、出現した場所を中心にした一
定の範囲、つまりは縄張り内を不規則に徘徊しているのだという。
時にはじっとしている事もあるし、人間を感知するまで動かない魔
物もいたが。
三十分ほど歩いては、立ち止まり耳を澄ます。魔物を確認した場
所へ、近付くにつれてその間隔を二十分、十分と狭めていく。
﹁基本的には、このまま立ち聞きで充分だと思う。迷宮にもよるけ
ど、基本的に足音は響くし﹂
﹁うん﹂
﹁でも、もっと遠くの足音まで聞きたい時は地面に耳をくっつける
690
といいんだって﹂
﹁ほんとう?﹂
リリオンはさっそく座り込んで、地面に耳を押し当てた。蟻の足
音さえ逃すまいとするように難しい表情になって目を瞑った。視覚
を遮断して、聴覚に集中しているのだろう。
何事も実践するのはいい事である。
ランタンも昔は匍匐前進するように地面に耳を当てながら少しず
つ進んだものである。今ではすっかりそんな事をしなくなって、聞
こえるだけを聞き、見えたものを蹴散らして進む日々である。
果たしてそれは成長なのか、退化なのか。ランタンはリリオンの
真剣な様子を懐かしく思い、同時に少しばかり己の振る舞いを改め
ようかとも考えた。慣れというものは、良い方向にも悪い方向にも
作用するものである。
﹁何か聞こえる?﹂
﹁うん。カチカチ聞こえるわ。たくさん﹂
﹁ふうん、情報より少し近いのかな﹂
ここまでで二時間弱。遅くとも三十分以内には魔物を視認できそ
うだ。
ランタンが手を差し出して、リリオンを立ち上がらせる。リリオ
ンは立ち上がってもランタンの手を握ったままで、その手を自分の
頬に押し当てた。石の地面に押しつけていたリリオンの頬は少しば
かり冷えていたが、それでもランタンの手よりは温かい。
﹁まだ冷たいわ﹂
﹁動けばすぐに温かくなるよ﹂
魔物との戦闘はもうすぐである。
﹁ねえランタン、わたしご飯作ってあげようか。ご飯食べると温か
くなるし、魔物のお肉はじ、じよ⋮⋮﹂
﹁滋養強壮﹂
﹁⋮⋮それがあるし﹂
﹁うん、ありがとう、それも良いかもしれないね。でもね、リリオ
691
ン︱︱﹂
ランタンはリリオンの心遣いをありがたく受け取って優しく微笑
むと、だが少女の頬をむにっと抓った。
﹁︱︱人の話聞いてなかったでしょ﹂
﹁いひゃい﹂
ランタンはリリオンの頬をぽいっと放して、腕を組んで少女の顔
を睨み付けた。リリオンは自分の頬を押さえながら、何のことか分
からないとも言うように不安げにランタンを見つめている。
﹁この迷宮の、魔物の傾向は覚えている?﹂
﹁︱︱物質系﹂
﹁よろしい。僕に石を食べる趣味はないよ﹂
﹁うー﹂
そう言ってランタンはゆっくりと歩き出した。
魔物の分類は多岐に渡り、いわゆる学術的な分類などは頭が痛く
なるような複雑さを持っているが、探索者は魔物を大別して二種類
に分ける。
それは生物系と非生物系の二種類である。
探索者の中でも少しずつ区別がずれるような所もあるが、基本的
な区別の付け方はこうだ。
すなわち食べられる魔物は生物系、食べられない魔物は非生物系、
と。
物質系の魔物は一匹残らず非生物系の魔物である。
三六六地区、中難易度物質系中迷宮。血肉のない、無機物身体を
持つ魔物が跋扈する迷宮である。だからこそランタンはこの迷宮を
選んだのだ。
先日に犯罪組織と戦って、いくら何でも人を殺しすぎたとランタ
ンは思った。
少人数ならば問題ないのかと言えばそう言うわけではないが、だ
が一日で百三十名弱と言う数字はどうしたって多すぎる。その数字
はランタン、リリオン、テスの三名での戦果であるが、単純に三で
692
割ればランタンの戦果が出るわけではない。正確な数字は分からな
いが、おそらく半分の六十名程度が自分の手によって積み重ねられ
た数字であるとランタンは思っている。
人に限らず、魔物に限らず、しばらく血の臭いは嗅ぎたくはない。
殺したくない、ではないのかとランタンはこの世界に毒されつつ
ある己が少しばかり面白かった。昔はもっと嫌悪感があったはずな
のだが、不思議な物だ。これも慣れの一つなのだろうか。
﹁止まれ、五歩後退﹂
ランタンがふいに一言呟いて、大股で五歩下がると通路の奥を指
差した。リリオンが目を凝らして指の差す方を見つめると、灰色の
地面と同化していて見えづらかったが何かが蠢いていた。
﹁ちゃんと聞いてたからね。覚えてるから、言っちゃダメよ﹂
灰色のうぞうぞした集団は探索者ギルドから報告された魔物であ
る。この迷宮を予約する際にランタンがその名前を教えているので、
リリオンは先の失態を取り戻そうと必死である。焦らなくてもいい
のに一人で焦って、リリオンは口をぱくぱくさせて喉の奥から名前
を引っ張り出そうとしているが、なかなか出てこなかった。
﹁す﹂
﹁すとーんあにまる!﹂
﹁うん、ちゃんと覚えてたね﹂
ストーンアニマル
﹁当たり前よ!﹂
それらは石獣と呼ばれる魔物だ。迷宮の上層から下層、稀に最下
層にまで現れる事のある物質系魔物の中で最も有名な魔物の一種で
ある。
その名の通り石の身体を持つが、獣の形をしているかと問われれ
ば素直に頷く事を躊躇わせる微妙な形状をしている。大きめの石の
塊に四肢となる突起を付けたその姿は、ほ乳類とも昆虫類とも爬虫
類ともつかない歪なものだ。
身体が石である為に歩くと地面とぶつかってカチカチと音が鳴る。
リリオンの聞いた足音がまさにそれである。
693
石獣に限った話ではないが、物質系魔物の多くには目も無ければ
耳も無い。精核と呼ばれる感覚器官で魔精を感知して人の接近を知
るのである。
ランタンから石獣までの距離は約百メートルであるが、まだ石獣
の知覚範囲に引っ掛かってはいない。報告が間違っていなければあ
と二十メートルも近付けば石獣は一斉に襲いかかってくるはずであ
る。
報告された石獣の数は二十四匹だったはずだが、目に見える範囲
には十と少ししかいない。それは知覚範囲外からの範囲攻撃で一網
打尽にされないようにと、石獣たちが蟻の行列のように縦に並んで
いる為だろう。
﹁小さいのね﹂
﹁まあ上層の魔物だしね﹂
リリオンの大剣は文字通りの大物向けの武器であり、少女にはま
だそれを繊細に扱う技術は身についていない。それでなくとも物質
系魔物の多くはその身体を構成する物質のせいもあって斬撃に対し
ての耐性が高い。
﹁リリオンは見ててもいいよ﹂
その反面、戦槌を操るランタンにとってこのサイズの石獣は完全
にカモである。石獣の身体が如何に硬くともランタンの戦槌が当た
れば容易に砕ける相手であり、またその単純な身体構造の為に石獣
の攻撃方法は体当たり程度の、つまりは当たりに来る相手でもある。
﹁やだ﹂
だがランタンの提案をリリオンは拗ねたように唇を突き出して一
蹴した。
ランタンはその様子に小さく笑い声を漏らした。負けん気が強く
て何よりだ。笑ったランタンにむっとリリオンが睨んだ。
探索者にとって様々な特性や能力を持った魔物に柔軟に対応する
ことは、どのような魔物が出るか分からない、何が起こるか分から
ない迷宮にあって大切な能力の一つである。探索者一人一人に得意
694
な相手苦手な相手、向き不向きがあったとしても、苦手なり不向き
なりにどうにかしなければいけない場面は必ずやってくるのだ。そ
してそこから逃げ出す事ができるとは限らない。
﹁⋮⋮剣は抜かない方がいいかもしれない﹂
石の身体を斬ればどうしたって刃は潰れるし、足元に蠢く相手に
剣を振り下ろしてもし外してしまえば地面を叩いてしまう。これは
小回りの利く石獣にとって大きな隙となるだろう。
﹁盾で潰す、でしょ? あと蹴る﹂
心配いらないとばかりにリリオンはランタンに笑いかけた。ラン
タンは返事をする代わりにての中で戦槌をくるりと回して握り直す
と、突撃を命じるように戦槌を石獣に差し向けた。リリオンが剣を
納めたままの方盾を構えて、僅かに前傾姿勢となった。
﹁さあ行くよ﹂
﹁うんっ!﹂
ランタンが先陣を切り、後ろからリリオンが追ってくる。
二十メートルなんてあっという間の事で二秒弱で石獣の知覚範囲
内に二人は踏み込んだ。石獣は前後の区別のほとんどない石の身体
をランタンたちに向けて、一斉に走り出した。カチカチと鳴ってい
た足音が、強く石を打ち鳴らす激しい音へと変化し、石獣の中には
足元に火花を迸らせる個体も存在した。
この場にいる石獣は多少の差はあれどおおよそ五十センチ四方の
石の塊である。一見すれば両手に抱えられそうな大きさだが、小さ
めの個体でさえその重量は三百キロを下回る事はないだろう。三百
キロの個体に速度を乗った体当たりをされれば、骨は容易に砕けて、
酷い場合には膝から下が千切れ飛ぶ。
ランタンにとって得意とする相手ではあるが、それでも侮ってい
い相手ではないのだ。
石獣を相手にする際に重要なのは速度を付けさせない事だ。
ランタンがぐんと加速して壁を走り、先頭を走る石獣をすれ違い
様に鶴嘴の先で引っかけて転ばせる。関節部位が未熟な、ただの突
695
起でしかない石獣の四肢は転倒から起き上がる事ぐらいはできても、
転ばないよう踏ん張ったり、衝撃を吸収するというような事は難し
い。
転んだ先頭に追突した後続が玉突き状にすっ転び、その惨状を横
目にランタンは縦に並んだ石獣の最後尾まで到達した。
数は二十三か四。偵察隊の勘定通りだ。
石獣の列、その後ろ半分ほどは転倒集団にまで到達せずに無事で
あったが、最後尾に現れたランタンの魔精に反応した。石獣たちは
最も近くにいる人間であるランタンへと襲いかかる為に、折角の助
走で付けた加速を殺してつんのめるように立ち止まる。そしてもた
もたと反転してようやく再び走り出した。
だがそれはあまりに遅い。
ランタンの振り下ろした戦槌がまず一匹を捉える。質量と硬さの
両方を兼ね備えた石獣の身体を打つと、さすがに手首にずっしりと
した衝撃か掛かる。だが単純な石程度の硬度であればランタンの戦
槌を弾くにはあまりも脆くもある。
石獣は打たれた部位からばきんと割れて、全身に罅が入ったかと
思うとばらばらに砕けて散った。
そのまま戦槌を跳ね上げるように斜めに薙ぐと、別の石獣の胴に
鶴嘴が突き刺さった。突き刺したまま手首を軽く捻ると、鶴嘴に穿
たれた穴から亀裂が広がり石獣が真っ二つに割れた。その断面に魔
精結晶と化したビー玉大の精核が露わになった。回収は後回しだ。
ランタンは接近してきた別の石獣を蹴り飛ばした。びくんと脹ら
脛と太股が同時に強張る。
ブーツ
さすがに三百キロ超の石の塊を蹴りつけたのは失敗だったかも知
れない。戦闘靴の爪先は金属に覆われているので指を骨折するよう
な事はないが、足に掛かった衝撃は戦槌で叩いた時とは比べものに
ならない。
それは石獣を蹴り砕いたのではなく、蹴り飛ばしたためだろう。
緩慢に吹き飛んだ石獣は、別の石獣にぶつかって二匹が互いに砕
696
けて割れた。
ランタンはそのまま蹴り足を前に下ろして適当に歩を進める。石
獣たちを軽く小突きながら体当たりを防ぎつつその身体に罅を入れ
て、自らの周りに石獣たちを集める。数は七匹。これぐらいで充分
か、とランタンは頬を歪めた。
一網打尽だ。
一切の予動作なくランタンの足元で爆発が巻き起こり、その衝撃
波によって石獣たちは互いにぶつかり合い、ランタンの入れた罅が
広がると切り裂かれたように割れた。灰色の石獣、その身体が黒く
焼けて、その内部に抱いた魔精結晶を熱している。
魔精結晶の質が少し落ちてしまったかも知れないが、この石獣程
度の結晶では端金にしか、ランタンにとってはだが、ならないので
特に問題はない。
視線の先ではリリオンがわたわたと戦っている。
遠目から見ると犬猫が足元にじゃれついてきて持て余しているよ
うにも見えたが、なかなか大変なようである。速度が乗っていなく
とも、それでも何だかんだで三百キロ超の質量であるし、犬猫とは
違ってその身体は硬質である。
リリオンは盾の下端を叩きつける事でどうにか石獣を砕いてはい
るが、足元にまで近寄られてしまうとすらりと長い手足が少しばか
り窮屈そうである。
転んだら悲惨なのでランタンはリリオンに近付いた。
石獣は獲物を転倒させると、その身体をよじ登りその上で足踏み
をする。石獣の重量を支える四肢は突起であり、三百キロ超の重量
によって押し込まれる突起は容易に人の肉を突き破り、骨を砕いて、
内臓を押し潰すのだ。
﹁後ろに跳べっ!﹂
ランタンが声を掛けると、リリオンは盾を強く地面に叩きつけて
その反動を使って跳躍した。リリオンの魔精に引き寄せられて二匹
ほどが群れの中から飛び出してリリオンを追ったが、残りの四匹は
697
ランタンとリリオンのどちらを狙おうかと迷うようにその場で一瞬
だけ動きを止めた。
﹁せいっ!﹂
四匹の中心に叩きつけた戦槌が爆発を巻き起こして、巻き起こっ
た衝撃波が石獣をばらばらに引き裂いた。
残りの二匹はリリオンに任せても問題はないだろう。離れすぎず、
かと言って近寄りすぎない。一定の距離を開けて、一匹一匹を落ち
着いて処理をする事ができればリリオンにとっても石獣はそれほど
の脅威にはならない。落ち着けるかどうか、と言うのが最も難しい
ところなのだろうが。
盾の叩きつけによって、二匹の石獣は程なくただの石の塊へと姿
を変えた。リリオンは大きく肩で息をしてランタンに駆け寄ってく
る。
﹁うー、ランタン⋮⋮﹂
勝利の喜びよりも少しばかり情けない声を出したリリオンに、ラ
ンタンは少女の尻を引っぱたく事で答えた。
﹁先に結晶の回収。石が熱くなってる奴もあるから火傷に注意ね﹂
﹁⋮⋮うん﹂
石獣の死体を戦槌で掻き分けて魔精結晶を探す。砕けた死体はも
とより、二つに割れた死体でもことごとく魔精結晶は露わになって
いる。もしかしたら石獣は精核を二つの石で左右から挟み込むよう
にして生み出されているのかも知れない。そう思わせる割れ方をし
ている。
こうやってじっくりと石獣の死体を観察していると、歪な塊でし
かなかった石獣の形状に獣らしさを見つける事ができる。この突起
は猫の耳に似ているとか、あの突起は未発達な尻尾だろうか、と言
うように。
石獣から回収した魔精結晶はビー玉大からピンポン玉大の二十二
個だった。ランタンが石獣の数を数え間違えたのではなく、残りの
一、二個の結晶は石獣を倒す際に一緒に砕いてしまったのだろう。
698
大きさも魔精の純度も大したものではないので、それほど惜しくは
ない。
ランタンは魔精を納めた回収袋の口をきつく閉じて、リリオンの
背嚢の中に放り込んだ。
﹁あんまり、やっつけられなかった﹂
その言葉にランタンは僅かに苦笑して肩を竦めた。
﹁僕よりリリオンの方が多くやっつけてたら、僕の立つ瀬がないか
らね﹂
ランタンの体調が万全ではないと思い込んでいるリリオンには、
自分が頑張らなければいけないというような気負いがあるのかもし
れない。それはやる気として良い方向に作用する事もあるが、空回
りしては目も当てられない。
一からの探索と言うのも気負いの一因だろうか。
﹁ま、役割分担は大切だよ。僕は割とちょこまか動く遊撃タイプだ
から小物の相手は結構得意で、リリオンはどっしり構えて大物相手
に正面戦闘かますタイプでしょ?﹂
フラグ
﹁でも、⋮⋮ランタンはおっきい魔物とだって戦えるわ﹂
オー
﹁まあそれはね、最終目標は基本的に大物だし、必要だったからね﹂
ルラウンダー
何もかもを一人でこさなければならない単独探索者としては、万
能戦士であることが好ましかった。ランタンは己がそのような存在
になれたとは思っていなかったが、それでもいくつかの小手先の技
術が身についたとは思っている。
﹁もし最初っからリリオンと探索者をやってたら、もうちょっと不
器用な探索者だったかもね﹂
そう言ってランタンはふいにリリオンの顔を見上げた。
﹁リリオンって単独攻略する予定でもあるの?﹂
﹁︱︱ないよっ!﹂
何気なくはなった言葉に、リリオンはランタンの鼻先に噛み付く
ほど顔を寄せて吠えるように言い返した。ランタンはその迫力に少
しばかり驚いたが、平然としてリリオンの顔を押しのける。リリオ
699
ンの頬がかっと赤くなって、熱を発していた。
やはり冷たい手は便利だと思う。
ランタンは熱くなったリリオンの頬を撫でながら小さく笑った。
ランタンの掌がリリオンの熱を奪い取り、冷ますにつれて次第に少
女は恥ずかしがるように下唇を噛んだ。
﹁そんなに焦らなくてもいいんだよ。たぶん僕の三回目の迷宮攻略
って、もっと何にもできなかったし﹂
思い出すと、よく生きているな、と我ながらぞっとする。それに
比べればリリオンの探索振りは三回目とは思えないほどに堂々とし
たものである。
﹁さ、まだまだ迷宮の先は長いし、魔物もいっぱいいるんだから。
一回一回の戦闘で喜んだり落ち込んだりしている暇はないよ﹂
﹁うん﹂
そう言ってランタンは頬に触れていた手で、リリオンの手を引い
て歩き出した。
﹁ちょっと手が温かくなったね﹂
﹁んー、リリオンのほっぺが温かかったからね﹂
いひひ、とランタンが笑うとリリオンの頬がまた色づいた。それ
でもランタンの手が温かくなった事が嬉しいのか、リリオンは少し
強くランタンの手を握り返した。
一つの魔物の群の近くに、別の群がいる事は滅多にない。迷宮の
大きさにもよるが中迷宮ならばここから徒歩一時間圏内での警戒レ
ベルは大きく下がる。なので少しの間手を繋いで歩くぐらいはして
もいい。
そう思っていたのだが。
﹁討ち漏らし⋮⋮か?﹂
二十分ほど歩くと石獣のものと思われる足音が聞こえた。おそ
らく一匹なのだが、余程興奮しているのか断続的で不規則な激しい
足音である。
ランタンは咄嗟にリリオンの手を離して、腰から戦槌を抜き放っ
700
た。リリオンにも警戒させる。
たかが一匹の石獣だが、これは不測の事態である。もしかしたら
何かしらの突然変異が起こって恐ろしく強い石獣が現れないとも限
らない。ランタンは大きく息を吐いて冷静である事に努めながら、
ゆっくりと先に進んだ。
迷宮の通路は緩やかに、だが大きく弧を描いていた。石獣の足音
は近付くにつれて次第に大きく響いているが、それは石獣の方から
近寄ってきているという雰囲気ではない。どうやら同じ場所で足踏
みをしているようだった。だが曲がった出会い頭に鉢合わせる可能
性も零ではない。
﹁ねえ、これって足音なのかしら?﹂
リリオンがランタンにそっと尋ねた。
足音だと思っていたが、それはカチカチと鳴るような足音ではな
く、気が付けばガチンガチンと乱暴に打ち鳴らされている。巨大な
石獣が足踏みをしているのだろうか。もしそうだったら厄介だ。
五十センチ四方の石獣の重量は三百から四百キロほどだが、その
倍の一メートル四方の石獣である場合にはその重量は優に二トンを
超える。質量の増加は、そのまま石獣の脅威度の増加に他ならない。
﹁振動がないから、そんな事はないと思うけど⋮⋮﹂
ランタンがリリオンを安心させるように呟いて、すっと目を細め
るとついにその石獣の姿を視界に捉えた。その途端にランタンは訝
しむように眉根を寄せて、リリオンも同じようにきょとんとした。
石獣の数は一匹。大きさはやや小さめだ。
﹁あれ、なに?﹂
﹁石獣、⋮⋮だと思うけど﹂
自信なさげにランタンは言いながら、そろそろと石獣に近づいた。
石獣の知覚範囲内に入っても、石獣はランタンたちへと襲いかかっ
てはこなかった。ただその場でいっそう激しく、ガチンガチンと音
を鳴らした。
﹁なんだこれ⋮⋮﹂
701
その石獣には四肢となる突起が無かった。
その姿は四肢をもがれた獣でも、あるいは芋虫でもなく、陸上に
打ち上げられた魚に似ていた。ぼてっとした流線型の身体がびちび
ちと身悶えている。
石獣を戦槌の先でつんと突くと、石獣はびくんと大きく飛び跳ね
た。
﹁なんだこれ﹂
ランタンが再び呟く。当たり前だがリリオンが答えるような事は
なかった。
702
ストーンフィッシュ
048 迷宮
048
ストーンアニマル
石獣、いや石魚と呼ぶべきか、その魔物は地面の上をびちびちと
跳ね回っている。もしかしたらランタンたちに襲いかかろうとして
いるのかもしれないが、海に帰りたいと身悶えているようにしか見
えない。
哀れである。
﹁魔物って不思議ね﹂
石魚を鋒で突きながらリリオンがぽつりと呟いた。
迷宮は魔物を生み出すが、生み出した魔物の形状がその母体であ
てい
る迷宮の環境と適合しないというのは何とも奇妙な事である。魔物
は迷宮の守護者であるはずなのだが、この石魚はその体を成してい
ない。一体何の為に生み出されたのか。
﹁ねえランタン、これどうするの?﹂
﹁え、そりゃあ倒すよ﹂
放っておいても無害のように思える石魚だが、もし万が一に四肢
が生えて走り出すとも限らないし、あるいはこれは幼虫で、今まさ
に繭を破らんとしているところだという可能性だってある。もしか
したら放っておいても本当に無害かもしれないが、倒してしまえば
その無害さは確実なものとなり、魔精結晶だって一つ手に入る。
﹁持って帰らないの?﹂
﹁持って帰ってどうすんの﹂
石魚を持って帰ったとしても食べられるわけでもないし、非生物
系の魔物は魔精の濃い迷宮内でしか存在できないのでペットにもな
らない。それに何より重たくて荷物になる。石魚は先ほどの石獣よ
りも一回り以上小振りだが、それも百キロぐらいはありそうだ。
703
﹁だって珍しいんでしょ﹂
﹁⋮⋮僕が知らないだけで、ありがちな事なのかもしれないよ﹂
ランタンだってまだ探索者としては一年ほどしか実動期間がない。
知らない魔物だって多いし、迷宮で新たな発見をする事だって少な
からずある。この石魚だって、そう言ったものの内の一つである可
能性は高い。
﹁ふうん、ランタンにも知らない事ってあるのね﹂
﹁知らない事の方が多いよ、⋮⋮よし、砕くよ﹂
前にも同じようなことを言ったような気もする。
リリオンが鋒を引いて、ランタンへと石魚を譲った。ランタンは
石魚の腹に戦槌を押し当てて、そのまま押しつけた。石魚はその拘
束から抜け出そうと、大きく身体をくねらせて震える。
こうやって動いている魔物を至近距離でまじまじと観察できるの
も珍しい事だ。がちがちに硬い石魚の身体は、けれど不思議としな
やかである。蛇腹状になっているわけでもなく、戦槌から伝わる感
触は石のそれなのだがぐねぐねと動いている。
﹁ランタン?﹂
思わず見入ってしまい、リリオンに呼びかけられてようやくラン
タンは戦槌を押しつけた状態から更に力を込めた。戦槌を押しつけ
た部位に圧力が掛かり、石魚はやがて軋んだかと思うとばきんと割
れた。石魚の身体はぐねりとうねった形のまま固まっている。
ランタンは魔精結晶よりも、その身体の不思議さに気を取られて
いた。
﹁そんなに気になるなら、持って帰ればいいのに﹂
﹁いや、だからいらないって﹂
呆れたように言うリリオンの言葉に急かされるようにランタンは
魔精結晶を拾い上げた。魔精結晶は特に変わったところはない。ビ
ー玉大で色は薄い青色だ。強いて言えば三級品だろうと思われる魔
精の薄さが気になるぐらいだろうか。だが他の魔精結晶も似たり寄
ったりである。
704
ランタンはそれを指でぴんと弾いて乱暴に扱い、結局収納袋に放
り込んだ。こうしてしまうともう他の石獣の魔精結晶と区別はつか
ない。その程度の差に過ぎない。
﹁さ、意識を切り替えて探索しようか﹂
﹁ええ、そうね﹂
ランタンが両手を叩いて呟くと、どの口がそんな事を、とでも言
いたげにリリオンが同意した。ランタンは誤魔化すような笑みを頬
に湛えながら、迷宮の先へと進んだ。
迷宮を壁は灰色の石で構成されている。石獣の構成物質とほぼ同
じ物だろう。
風雨に削られたようなごつごつとした造りで、きらきらとした細
かな銀の粒が練り込まれたように発光し迷宮内を明るく照らしてい
る。
横幅は五メートル近く、膨らんだ場所だと十メートル以上はあっ
た。だがその割りには天井が低い。リリオンが大剣を上段から振り
下ろすと鋒が天井に引っかかると思われた。
リリオンの大剣は強力だが、少しばかり地形を選ぶ。迷宮が一回
ショートソード
り狭かったら、もしかしたらリリオンは手も足も出なくなってしま
うかもしれない。小剣とは言わずとも、もう一つ小回りの利く副武
装を用意することを考える必要がありそうだ。
つい先日に犯罪組織カルレロ・ファミリーの所有する大量の武器
を値踏みし、実際にそれを所有する機会があったのだが、その中に
ランタンの目に止まったものは少なかった。首領であるカルレロや、
幹部である者たちが所有していた武器は中々の業物であったがあま
りにも癖が強く、またちょっとばかり縁起が悪そうなので売り払っ
てしまった。
ハチェット
リリオンも幾つか武器を手に取ってみていたようだが気に入った
ものはなかったようだ。
結局ランタンは小さめの手斧を三つばかり手元に残しただけであ
る。使い捨ての投擲武器として使う為だ。あるいは投擲武器の練習
705
用として。その手斧は二振りがランタンの腰にぶら下がって揺れて
いて、もう一振りはリリオンの盾の内側に固定してある。
この初回探索から帰ったら、また武具職人であるグランと相談で
もしようか。そんな事をリリオンと話しながら、更に二時間ほど歩
いた。魔物も出ずに順調であるが、迷宮に出る魔物の個体数が少な
ければ少ないほどに、魔物一個体の強さが上昇する傾向があるので
これも良し悪しである。
﹁あ、リリオン。あれ見て﹂
﹁魔物?﹂
ランタンが立ち止まって壁を指差した。リリオンが目を凝らして
尋ねるが、ランタンは首を横に振った。ランタンの指差した壁に魔
ほの
物が隠れていると言うわけではない。壁に、うっすらと亀裂が入っ
ているのだ。
壁の発する銀の光に紛れているが、亀裂からは仄青い燐光が薄ぼ
んやりと漏れている。
﹁知らずにあの傍を通ると、壁とか天井が崩れるようになってる﹂
落とし穴と並んで迷宮で最も良く見る種類の崩落壁と呼ばれる罠
である。ずいぶんと分かりやすく設置されているのは何よりだ。稀
に全く察知できない物もある。
罠の作動条件は様々だ。衝撃や動体に反応する物もあれば、魔精
に反応する物もある。その二つの種類ならば場合によっては魔物を
罠に嵌めるというような使い方ができるのだが、人間にしか反応し
ない種類の罠であるとその解除には命をかけなければならない。
つまり罠の作動する範囲内に近付くのだ。もっとも遠距離から罠
を破壊できる手段がある場合にはその限りではなかったが。
﹁どうするの?﹂
﹁取り敢えずもっと近付く﹂
亀裂は右手の壁側、足元から天井にまでを縦断している。木の根
を逆さまにしたように地表に近付くにつれて一纏めに収束して、上
に伸びてゆくにつれて亀裂は広範囲に扇状に広がっていた。作動す
706
れば周囲五、六メートルほど巻き込んで崩壊しそうだ。
左側の壁に背中を押しつけるように進めば、もしかしたら罠を回
避できるかもしれないが、それを試すには少しばかりリスクが高い。
まずは作動条件を確かめるべきだろう。ランタンは早速、手斧を一
本取り外して取り扱いを確かめるように手の中で弄んだ。造りが雑
だ。
﹁ランタン大丈夫?﹂
﹁まあ大丈夫でしょ、この距離なら﹂
ランタンが手斧を手元に残した理由は遠距離攻撃能力が欲しかっ
たと言う事もあるが、己の投擲技術がもしかしたらリリオンよりも
低いかもしれないと思ったからでもある。接近戦闘ばかりにかまけ
ていたせいで、ここ最近の投擲攻撃の命中率は目を覆わんばかりの
数字をたたき出している。
左手で投げてもせめて牽制になるぐらいの精度が欲しい。
万が一を考えて罠までは十メートルほど距離を取っている。充分
な衝撃力を出す為にランタンは更に三歩後ろに下がり、三歩分の助
走を付けて手斧を投擲した。
ごう、と空気を巻いて手斧はぐるぐると縦に回転して罠にへと突
き刺さった。罠自体が当たって当然の大きさをしているのだから、
驚くべきでも喜ぶべき事でもない。それに投げたのは利き腕の右だ。
手斧は斧頭を壁にめり込ませて、壁から柄がにょきりと生えてい
る様は新種の茸に見えた。
﹁崩れないね﹂
﹁衝撃でも動体でもない。じゃあ次はなんでしょう?﹂
ランタンが尋ねると、リリオンはちょっとだけ思案顔になってす
ぐにはっとして目を見開いた。
﹁魔物を投げ込む!﹂
やっぱり石魚を持ってこればよかったね、とリリオンはそう言っ
て笑った。ランタンは笑うべきか呆れるべきか迷った挙げ句に、取
り敢えず表情は作らずに、そうだね、と同意しておいた。リリオン
707
の言っている事は正解しているとは言いがたいが、間違っていると
も言えない。
﹁正しくは魔精結晶を投げ込む、だね﹂
﹁もったいない﹂
魔精結晶を一個投げるのも、魔物を一匹投げ込むのも失われる魔
精結晶の数は変わらないのにリリオンはそう呟いた。リリオンの気
持ちも判らない話ではないので、ランタンは軽く肩を竦めた。
探索道具の中には罠を動作させるための屑魔精結晶も販売されて
いる。折角入手した魔精結晶を使うよりは安上がりだが、あまり費
用対効果が高いとも思えないのでランタンはそれを購入した事はな
かった。もっとも需要があるから販売されているのだろうが。
またもっと確実に罠を作動させる為に囚人を使う事もあるが、個
人主宰の探索班でそれを導入している探索班は皆無なのでランタン
には縁遠い手段だ。
﹁魔精結晶出すのもめんどいし、ちょっと作動させてくるよ﹂
ランタンが軽い感じでそう言うが、けれどリリオンははっしとラ
ンタンの腕を取った。
ちい
﹁⋮⋮わたし、やろうか?﹂
﹁いやいや。こういうのは小、⋮⋮あー、ちょこまか動く奴の仕事
だって相場が決まってるんだから﹂
人が罠を作動させる方法も様々だが、探索班の中で最も敏捷性の
高い人物がその任を負う事が多い。全力疾走で罠の向こう側まで駆
ける事もあるし、罠が作動した瞬間に全力で後退する事もある。
前者は充分な速度を付ける事で安全に罠を避ける事ができるが、
下手をしたら罠の向こう側とこちら側で分断される可能性もある。
罠に連動して魔物が襲いかかってきたら一人で対処をしなければな
らない。後者の場合は分断の危険性はなくなるが、反転が遅れた場
合にはそもそも作動した罠に巻き込まれてしまう。
稀に探索班の中で最も頑強な人物が罠を作動させる事もあるが、
それは余程防御力に自信があるのか、あるいはただの被虐趣味でし
708
かないのでランタンには関係のない話である。ランタンは良く怪我
をするが、望んでそうしているわけではない。
﹁腰に紐を巻いて、罠が作動した瞬間に他の仲間が全力で引っ張る、
なんて事もあるらしいよ﹂
﹁紐あるの?﹂
﹁あるわけないじゃん﹂
今まで単独で探索していたランタンにはその紐は無縁の物である。
そもそもそんな事をしたらきっとむち打ちになってしまうのでこれ
からも購入するつもりはなかった。
ランタンは、じゃあ行ってくる、と気軽に言って何の気負いも無
く罠に向かって歩き出した。亀裂の端が頭上に掛かったが、まだ壁
が崩れる気配はない。罠の成功率を上げる為に中心部まで行かない
と作動しないようになっているのだろうか。
その中心。
﹁あれ?﹂
作動しなかった。となるともう一歩、二歩。
三歩目が地面を踏む事はなかった。
かっと青白い閃光がランタンの視界を灼いた。薄青い燐光を漏ら
していた亀裂から発せられたその光は、まるで質量を持っているか
のように亀裂を大きく深く切り裂いた。罠が作動し、天井と壁が同
時に崩壊する。
それは外側から巨大な手に握りつぶされたような崩れ方だった。
天井の亀裂が鮫の口内を思わせる無数の鋭利さを作りだし、ぎざ
ぎざの天井が丸ごと落下する。破裂した横壁はさながら散弾のよう
だった。
暢気に歩いて立ち入った愚かな探索者などぐずぐずの挽肉にされ
てしまうような威力だ。
だがランタンは暢気に歩いていたわけではない。地面を踏む事が
なかった三歩目の靴底で空気が急速に膨張して破裂し、ランタンの
小躯を一瞬で罠の範囲外へと押し出した。急激な加速に内臓が押し
709
潰されてランタンの口から、げ、と呻き声が零れた。
紐で引っ張って貰った方がマシかもしれない、とランタンは濛々
と立ち上る粉塵を睨みながら思った。あるいは後ろに戻るのではな
マント
く、前に進むべきだったか。
ランタンが立ち上がり外套の汚れをぱんぱんと払っていると、後
ろから猪のようにリリオンが突っ込んできた。ランタンは外套を翻
してひらりとそれを躱した。罠の作動を見極めようと使っていた神
経がまだ高ぶっていて、リリオンの接近など容易に察知できるのだ。
振り返ったリリオンは不満顔である。
﹁これぐらい何でもないんだから、いちいち大げさだよ﹂
ランタンの生還を喜ぼうとしていたのを軽くあしらわれたリリオ
ンは不満を隠そうともせずにランタンの外套を叩いた。汚れを払っ
ているように見せかけて腕や背中を叩くのはやめて欲しい。
﹁あんな風に崩れるなら、先に言って﹂
リリオンとしてはゆっくりと亀裂が広がって、天井からぱらぱら
と欠片が零れて、がらがらと壁が崩れるのだと思っていたのだとい
う。確かに罠の崩れ方は崩落と言うよりは爆発と言った方が近い。
外套がすっかり綺麗になって、リリオンが少し満足げになった。
ランタンが歩き出すとリリオンは外套の端を摘まんだままついて
くる。崩落した岩盤で塞き止められて進めない、と言うようなこと
にはなっていない。大きく抉られた右側の壁に人の通れる余裕が出
来ていてランタンはほっとした。
崩落壁は時折、完全に通路を塞いでしまう事がある。
幾ら力自慢の探索者だと言っても、戦闘で発揮される力と瓦礫の
除去作業で発揮される力は別物のようで、戦闘中にはぶっ飛ばす事
のできる重量が不思議と持ち上げられない事もある。道を作るのは
思いの外一苦労なのである。
﹁探索って大変ね﹂
﹁リリオンもその探索中なんだからね﹂
他人事のように言ったリリオンにランタンが呆れてながら釘を刺
710
した。
リリオンは、わかってるわ、とランタンの外套を引っ張った。右
側の壁に出来た通路はそれほど広くはなく、並んで歩く事は出来な
い。罠の残骸も下手に触ると二次崩壊をおこしそうなので、そろそ
ろと歩く。投擲した手斧の回収は諦めなければならない。
もし罠が二段構えだったら一網打尽だな、と思いながらもそんな
事はなく罠の脇を通り抜けた。罠の残骸は予想通りに五メートル程
の範囲に及んでいた。本当に通路が塞き止められなくて良かった、
と思う。この範囲の瓦礫を除去するとなるとリリオンと二人でも一
日仕事は避けられない。
﹁もし退かせなかったらどうするの?﹂
﹁んー、いったん探索から帰って、瓦礫が迷宮に還るのを待つ﹂
魔物の死体がいつの間にか消え去るように、探索者の落とし物が
リポップ
掻き消えるように、崩壊した迷宮の一部もいつの間にか除去される。
魔物とは違い罠が再出現する事はない。
だが除去には早くても三日ほど、遅ければ一週間以上掛かる事が
あり、それはそのまま探索計画の遅延を意味する。遅延は探索費用
の増加と同意である。引き上げ屋との探索計画の見直しや、迷宮の
賃貸期間の継続は以外と懐に響く物である。
﹁時間が惜しいなら爆薬を買ってきて発破してもいいしね﹂
僕にはそんなもの必要はないけど、と言いたいところだがランタ
ンは口を噤んだ。
ランタンの爆発をもってしてもあの量の瓦礫を破壊することは難
しい。瓦礫の表面を爆発させたところで発生する破壊は大した物で
はないし、瓦礫が細かくはなっても失われはしない。かといって瓦
礫の隙間に手を突っ込んで爆発を起こせば飛び散った破片が自らの
身体を襲う事となる。
何度もランタンの死地を救ってくれた爆発能力だが、しかし万能
というわけではない。出力を上げるのは簡単だが手加減をするのは
難しいし、爆発を起こせるのは肉体と、その延長だけだ。
711
例えば手の延長のように扱える戦槌の先に爆発を起こす事は可能
だが、これを別の武器に持ち替えるとそのような爆発は不可能にな
るのだ。
ナイフ
過去に爆発を起こして服が弾け飛び全裸を晒したことは誰にも言
えないランタンの秘密だ。
新たに手にした手斧は勿論、狩猟刀に爆発を起こす事もまだでき
ないだろう。とは言えこの迷宮で狩猟刀を使う機会もないだろうし、
扱いを習熟するにはまだ時間が掛かりそうである。
罠を抜けて、その後もう一度石獣の群れと遭遇し、それを容易に
撃破した。リリオンは後ろに退きながら戦う事を覚えて、戦闘が終
了した時にはランタンからずいぶんと遠く離れてしまっていた。
お菓子の屑を道標に置いたように転々と転がる魔精結晶を一個一
個拾いながら戻ってくる。その様子に妙な健気さがあった。一個一
個、屈伸するようにしゃがんで拾ったせいだろう。体力を無駄に消
耗していたが、ランタンは何も言えなかった。
その戦闘からは罠も魔物もなくひたすらに歩きづめ、しばらくす
ると通路の先が塞がっているように見えた。
﹁行き止まりだわ﹂
魔精の霧が現れたのではなく、そこには巨大な石の塊があった。
駆け寄ろうとするリリオンの腕をランタンが掴んで止める。
ランタンは嫌そうに顔を歪めて立ち止まった。
﹁あれも罠?﹂
﹁⋮⋮あれは魔物﹂
それは最も原始的な魔物の一種である。
見た目は丸く巨大な石の塊であり、実際にもただの丸く巨大な石
の塊である。だが問題はこの石の塊が自転するという所にある。石
の塊は直径三メートルはあり、石獣よりも比べるべくもなく重い。
近付くと探索者に向かって転がってきて、それを押し潰す性質を持
っている。
名をそのままに石球と言う。
712
ストンビート
発見した探索者の名前を取ってインディアナの石球と呼ばれたり、
一度転がり出すと止まらない事から暴走石球と呼ばれたりもする。
これの亜種には表面に棘が生えていたり、溶岩状に燃えている種も
いるのだが幸運な事にランタンはそれらに出会った事がない。
石球に遭遇したはこれで二度目だ。
前回は不用意に近付いて全力逃走を余儀なくされたので、そんな
事態はなんとしてでも避けたい。全速力での長距離走など地獄以外
の何ものでもなかったし、石球は転がれば転がるほどに速度を増し
た。結局は迷宮口直下まで押し返されてしまったのだ。
迫り上がってくる胃液の酸っぱさを思い出させるような、苦い思
い出である。
ランタンは無意識に自らの脇腹をさすった。
単純な故に、なかなかどうして止める手立ての無い厄介な魔物な
のである。
﹁手段は二つ。動き出す前にどうにかするか、逃げ帰って対石球用
の兵器を持ってくるか﹂
転がり出したらほぼ無敵に近い石球は、探索者に石球を打倒する
為の一つの兵器を生み出させた。
それは杭状をした地雷である。
転がる石球に突き刺さるよう角度を研究し、石球に押し負けぬよ
うに素材や形状を研究し、そしてきちんと突き刺さって内部から爆
発を巻き起こすように仕組みを研究し、確実に殺せるように火薬量
を調節し、と多くの探索者の屍の上に生み出されたその杭状地雷は
石球に絶大な威力を発揮する。
だが巨大で、重たく、そして高価である。
出るかもしれない、でしかない石球相手にあらかじめ用意してお
く兵器ではない。
﹁初回探索的には帰ってもいい相手なんだよね﹂
ランタンはリリオンの手を取ってそこにぶら下がる深度計を見つ
めた。色は極僅かに濃くなっているだけだが、石球の撃破は次回に
713
持ち越しても特に問題はない。
﹁リリオンはどうしたい?﹂
﹁え、わたしは⋮⋮わたしは、うーん﹂
リリオンは腕を組んで首を傾げた。考えていると言うよりは困っ
ていると言った感じだ。
少し意地悪だったかな、とそんなリリオンを見ながらランタンは
思った。リリオンにはランタンの問いかけに答えるだけの知識も経
験も無い。勢いに任せて答えないのは、少しばかりの成長だろうか。
ランタンは小さく笑った。
﹁逃げ帰る事のメリットは、安全に石球を打倒できると言うところ
にある。デメリットは探索がここでお終いになる事と、杭状地雷の
値段が高い事﹂
﹁うん﹂
﹁ここで打倒する事のメリットは迷宮の更に奥に進める事と、余計
な出費がない事。デメリットは少し危険ってとこかな﹂
これ
ランタンが一つ指を立てて説明するのをリリオンがふんふんと聞
いている。そして最後の言葉に再び首を傾げた。
﹁少し、なの?﹂
﹁たぶんね。石球も一転がりで最高速になるわけじゃないし、戦槌
を突き刺す余裕は充分にある。それにさ、下がれば罠の残骸がある
でしょ? ミスったとしてもあそこまで下がっちゃえば、たぶん石
球はあそこで止まると思う﹂
上手くいけば残骸との衝突の衝撃で自壊する可能性もある。とは
言え徒歩三時間以上掛かった道のりを全力で後退する事は出来る事
ならば回避したい。
﹁じゃあ、わたしはやっつけたい。わたしには何ができる?﹂
斬撃では下手をしたら剣が負けるだろうし、盾の叩きつけも効果
は薄いだろう。リリオンにできる事と言えば転がり出す前に石球を
支えて、少しでも転がり始まりを遅らせる事ぐらいだろうか。
だが如何に体格に優れるリリオンと言えども石球の質量を押しと
714
どめる事は不可能で、少しでもランタンが遅れればリリオンはぺち
ゃんこにされてしまうだろう。
だが、それをさせないのがランタンだった。
リリオンが盾を構えて石球に突っ込む。転がり始めた石球の勢い
が減じたのは極一瞬、リリオンの靴底が地面を滑って押し返される。
しかしその一瞬の減速を逃さず、ランタンはリリオンの頭上を飛び
越えて石球に戦槌を叩きつけた。鶴嘴が石球に触れた瞬間に鎚頭に
爆発が起こり、鶴嘴を石球の内部にめり込ませた。
ぞっとするような密度だ。量は十数トンか、それとも数十トンか。
ゆっくりと動き出す石球に戦槌を持って行かれるような、引きず
り込まれるような感触があったが、ランタンは柄から手を離さなか
った。
轟音。
鶴嘴の先、石球の内部で起こった爆発により高まった圧力は引き
千切るように石球を割り開いた。それはまるで巨大な卵から炎の精
霊が生まれるようで、石球に入った大きな亀裂から炎を伴う爆風が
吹き上がりランタンの表情を焼いた。
爆発の反動で戦槌が押し返されて、ランタンはその反動を利用し
て石球から飛び退いた。そしてリリオンの盾の後ろに滑り込む。爆
発の衝撃で弾け飛んだ石球の破片が盾を打ちすえた。破片の一欠片
がランタンの頭ほどもあるのだ。盾が鈍い音を発する度に、リリオ
ンの肩が衝撃を受けて震えた。
その音が止まった。
﹁そのまま﹂
だがランタンが気を抜きそうになったリリオンの腰を叩いた。こ
こからが本番だとでも言うように、そのままリリオンの腰を掴んで
押し支えた。
真ん中から二つに割れた石球がぐらりと倒れた。酷く緩慢に見え
る転倒も、だがいざ倒れると辺りの壁は破砕され、地面は陥没して
捲れ上がるほどの衝撃力を有している。
715
第二波の破片は先ほどよりも小振りだが、鋭利な破片となったそ
れは人の肉など容易に切り裂く威力を秘めている。ばらまかれた銃
弾のようにそれらは盾の表面を叩き、弾け、滑る。ちょっとでも顔
を出そう物ならば顔面を削ぎ取られてしまう。
盾の後ろでどうにかそれをやり過ごし、ようやく静寂が訪れる。
マント
轟音の後の静寂は耳に痛い。辺りを白く霞ませる砂煙を吸わぬよう
にランタンは外套で口を覆った。
﹁よし、良くやった﹂
盾があるとやはり楽だ。ランタン一人では砕いた後、即座に離脱
しなければならない。
ランタンがくぐもる声で労うと、リリオンは大きく肩で息を吐い
て盾に身体を預けるようにふらついたのだった。
まるで石球の重さを、ようやく実感したかのように。
ランタンは砂埃の中で深呼吸しようとするリリオンを、そっとマ
ントの内側に招き入れた。
716
049 迷宮
049
迷宮は奥に向かうにつれて緩やかに傾斜しているので、探索者に
向かってくる石球は坂を転がり上がってくることになる。あの質量
を重力に逆らって持ち上げる原動力は、精核に集められる魔精であ
る。
ある者は石球の表面には微細な穴が空いており風の魔道によって
そこから空気を噴出させてを回転しているのだと唱え、またある者
は石獣の関節部と同じく活動中の石球の内部は半液状であり、それ
をかき混ぜることで重心を流転させ進んでいるのだと言った。ある
いは重力を操っているのかもしれないし、他の原理なのかもしれな
い。
だがどれほど複雑怪奇な現象を引き起こそうと、それによって表
に現れる結果は石球の回転である。石球は自転することしか出来な
い為に、最も原始的な魔物と呼ばれる。石球は物質系魔物の中にあ
って中々の脅威であることは事実だが、ただ回転するのみの石球か
ら収穫できる魔精結晶はそれほど高品質ではない。
原始的、にはそれを揶揄するような意味合いもある。
石球のような例外もあるが、行動や思考の複雑性は魔物の脅威度
に大きく関わり、脅威度は魔精結晶の品質にも関わってくる。その
力が強ければ高品質で、弱ければ低品質と言うように。
脅威度が高く、魔精結晶は普通なみ。石球はあまり旨味のある相
手ではない。
石球は爆発によって大きく抉れ、そして真っ二つに割れて倒れた。
断面がランタンの目線ほどの高さにある。直径三メートルの見立て
は間違っていなかったようだ。
717
けしか
・
ランタンは盾にもたれ掛かるリリオンの尻を叩いて嗾けて、石半
球をよじ登らせた。背嚢が重たいのか、それとも自分自身の身体を
重たく感じているのかリリオンがよたよたと石球にしがみついてい
るので、ベルトを引っ掴んで持ち上げてやった。
﹁ひゃ、ランタンっ!﹂
﹁え、なに?﹂
﹁⋮⋮なんでもない﹂
リリオンはずり上がったズボンの位置を元に戻しながらランタン
を睨み付け、さっと背を向けた。取り残されたランタンは首を傾げ
た。
﹁結晶外してきて。中心にあるでしょ?﹂
﹁でも埋まってるわ﹂
﹁じゃあ掘り返してこい﹂
魔精結晶は半分に割った果実の種子のように、石球の中心部に埋
まっている。果物ならば種が小さく果肉が多いことは喜ばしいが、
残念ながら石球相手では喜ぶことは出来ない。リリオンはランタン
に自らの握り拳を見せつけて、これぐらいよ、とその大きさを示し
た。
﹁小振りだねえ、ハズレだ﹂
だがハズレでもただ働きは御免なので回収する。
拳を解いたリリオンにランタンは大剣を握らせてやった。活動を
停止した石球の中心部は外側とは違い、内部液体説の根拠を示すよ
うにやや柔らかい。リリオンは大剣の鋒を結晶の傍に突き立てると
周囲の石ごと結晶を掘り返した。結晶に張り付いた石はリリオンが
手で払うと崩れてぼろぼろと剥がれ落ちる。
結晶はリリオンが示した通りの大きさで、色合いも薄い。ハズレ
ふはん
のハズレだ。換金するのも面倒なのでミシャに渡して引き上げ代に
してしまおうか、とこっそりと考えたランタンは自らの浮泛な考え
を軽蔑して、石球に小さく頭突きをかました。
﹁あー﹂
718
﹁どうかしたの?﹂
リリオンが石球の縁までやって来て、額を石球に押しつけるラン
タンを覗き込んだ。ちょこんと座ってつむじを人差し指で弄ってき
たので、ランタンはそれを振り払って顔を上げた。リリオンは魔精
結晶を掌に置いてランタンに差し出した。
﹁小さくて残念だったの?﹂
﹁⋮⋮そんなことはないよ。一人でやるんなら面倒な相手だけど、
リリオンが止めてくれたから完勝だったしね﹂
魔精結晶は小さくとも、ランタンの疲労に見合う対価ではある。
だがリリオンの疲労はどれほどだろうか。
ランタンは石球の縁に手を掛けて一息に身体を持ち上げるとそこ
に腰掛けて、同じように隣で足を投げ出すように座ったリリオンの
背嚢から保存袋を引っ張り出した。
ランタンはリリオンの掌で転がる結晶を取り上げた。リリオンの
拳、小振りな林檎ほどの大きさの魔精結晶は石球を圧縮したように
若干デコボコとしている。ランタンはそれをぴんと弾いて、人差し
指の上でスピンさせた。壁から放たれる光が乱反射してミラーボー
ルのようだ。
﹁あ、すごい!﹂
﹁指出して﹂
起立したリリオンの人差し指に回転する結晶をそっと乗せる。
﹁落としたら売り物にならなくなるからね﹂
ランタンが意地悪くにっこりと告げると、途端にリリオンはカチ
コチに固まった。売り物にならなくなるというのは勿論嘘だが、売
価は下がるだろう。傷がつくとその傷から魔精が染み出し失われ、
また一定以上の衝撃によっても封ぜられた魔精は解放される。
﹁そういう場合は硬くならない方がいいんだよ。関節はもっと柔ら
かく︱︱﹂
﹁︱︱あっ!﹂
ランタンの垂れる適当な講釈に集中を妨害されたのかリリオンの
719
指先からころりと結晶が落ちた。リリオンが大きく口を開いて表情
を歪め、視線は落下する結晶を追い、そして保存袋の中の青白い光
を見た。
ランタンが手に持った保存袋の口を広げて結晶をその中に納めた
のだ。
﹁とまあこのように緊張はあまり良い結果を生まない﹂
﹁⋮⋮緊張させたのはランタンでしょう?﹂
ランタンは軽く笑っただけでその問いには答えず、保存袋を丸め
るとまた背嚢へと放り込んだ。
﹁身体、痛いところはない?﹂
﹁大丈夫よ﹂
﹁本当に?﹂
リリオンは黙って頷いた。真実かもしれないし、嘘かもしれない。
あるいは無自覚なだけかもしれない。
リリオンが石球を止めたのは極々一瞬のことだ。だがその一瞬だ
ろうともリリオンの身体に数トン、あるいは十数トンの負荷が掛か
った事実は変わらない。嗾けたランタンには、リリオンがもし受け
止めきれなくても少女が圧殺されるより先に石球を砕く自信があっ
た。だがもしランタンが失敗していたらリリオンは紙切れのように
薄っぺらくなっていたことだろう。
しかし一瞬だけでも石球を完全停止させた膂力は恐ろしいものだ。
意図的に全力を出す術をリリオンは技術として習得しておらず、も
う一度同じ事をしろと言っても出来るかどうかは分からない。先ほ
どの瞬間的な出力はもしかしたらランタンを上回る、かもしれない。
人が全力を出せないのは、自らの力で自らの肉体を傷つけないた
めだ。
そんな大出力を放出したのだからリリオンには相応の疲労があり、
また身体を痛めている可能性もあった。ランタンは水筒を取り出し
て水を呷った。そしてその水筒をリリオンの膝を上に置いた。
﹁休憩するの? わたし、大丈夫だけど﹂
720
﹁僕は大丈夫じゃないよ。足痛い﹂
何だかんだで探索を始めてから七時間が経過している。
ストーンアニマル
だが戦闘と小休憩を挟み、慎重さに重きを置いた進行速度は決し
て速いものではなく、踏破距離もそれほどでもない。石獣を蹴っ飛
ばして挫きかけた足首の痛みは既になく、無論少々歩いた程度で足
ブーツ
を痛めるような柔な鍛え方もしていないが休憩するのは良い切っ掛
けだろう。
それでもランタンは戦闘靴と靴下を脱いだ。蒸れた足に石の冷た
さが気持ちいい。ランタンは足をゆらゆらさせながら、手拍子なら
ぬ足拍子をゆったりと叩いた。リリオンの視線がその白く小さい足
に吸い込まれていった。
革の戦闘靴から解放された足首が自由を謳歌するようにぐるりと
回り、それに合わせて脹ら脛の脂肪が震えた。ランタンは、よいし
ょ、と足を持ち上げて自らの足裏を揉み始めた。さも気持ちよさそ
うに柔らかく表情を緩めて。
﹁わたしも、靴脱ごうかな﹂
リリオンは言い訳するように誰にともなくそう呟くといそいそと
素足になった。そしてランタンの真似をして足裏を揉み、そのまま
右のアキレス腱に怖々と指を這わせた。
痛めたのはそこか、とランタンは一瞬眼を細めた。
石球を支える際に一番後ろで踏ん張った右足に負荷の多くが集中
したのだろう。隠すようなことでも、恥じるようなことでもなく、
それはむしろ名誉の負傷と呼べたが、どう感じるかはリリオンの心
一つだ。
リリオンは探索で怪我をすることに、良くも悪くもまだ慣れては
いないのだ。あるいはミシャのお心遣いが強く効き過ぎてしまって
いるのかもしれない。
弱音を吐くことを悪いことだと思っているのか。そういう風に生
きてきたのだろう。
ランタンはポーチから消炎剤の軟膏を取り出した。そして座り位
721
置をそろりとリリオンに近づけると、問答無用にリリオンのアキレ
ス腱にそれを塗り込んだ。驚いたリリオンが目を白黒させている。
触っても痛そうな素振りを見せないので、それほどの怪我でもない
のだろう。
﹁やだランタン、くすぐったいわ﹂
言いながらもリリオンはそれを受け入れている。
﹁何塗ったの?﹂
﹁疲れを取る薬﹂
﹁わたしも塗ってあげるね﹂
﹁⋮⋮脹ら脛にお願い。薄くね﹂
﹁まかせて﹂
ランタンはリリオンに消炎剤を渡してごろんと腹ばいに寝っ転が
った。リリオンに心配されるほど身体の冷たいランタンだが、さす
がに石の上に寝転がるとそこにある冷ややかさを感じ取った。そし
てすぐにズボンの裾を捲られる。脹ら脛にリリオンの指が触れた。
﹁ランタンって柔らかいね﹂
つね
﹁骨が無いからね﹂
﹁ほんとう?﹂
﹁嘘だよ、︱︱抓るな﹂
リリオンはランタンの言いつけ通りに消炎剤を指先に少量掬い取
り、温かいリリオンの指先に軟膏が溶けてそれを薄く延ばした。充
分に延ばしてべた付きもなく消炎剤がすり込まれても、リリオンは
ランタンの脹ら脛を触った。マッサージするように揉みほぐしてい
る。
﹁ねえランタン?﹂
﹁んー、どうしかした?﹂
少しだけ眠気を孕むような声音でランタンが反応した。探索中の
探索者にあるまじきだらけきった己の声にランタンは驚いて、芋虫
のように身を捩った。
﹁ここはこの迷宮のどれぐらいなのかしら?﹂
722
﹁深度計見せて﹂
ランタンは仰向けになって一気に身体を起こした。リリオンの差
し出した深度計がごく僅かに色を変えた。
﹁下手すりゃ六分の一、良くて四分の一﹂
中迷宮なのだからそれぐらいだろう。決して悪い進行度ではない
が、リリオンは驚いたような表情を見せた。
﹁急がなくて良いの?﹂
﹁急いだところで、今日攻略終わらせるわけじゃないんだから﹂
探索の進行度を上げれば上げるだけ次回の探索は有利に進めるこ
とが出来るが、あくまでも今回は様子見の初回探索である。進行度
を上げることはとても重要なことだが、制限時間の短い今回の探索
ではそれほど重要視する問題ではない。もっとも距離を稼げるに越
したことはないのだが。
しかし先を進むことばかりに囚われると撤退の機を逸し、下手を
打てば未帰還を招く。進むか退くか選択は、容易に生死を分かつ二
者択一と成り得た。
今回の探索の制限時間は三十六時間。朝十時に迷宮に潜り、魔精
酔いから醒めて探索を開始したのはそれから三十分後だ。歩き始め
て七時間と少し、合計はおおよそ八時間と考えて差し支えないだろ
う。
﹁残りは?﹂
﹁⋮⋮二十、な、八時間﹂
﹁うん。そこからキャンプの準備二時間、睡眠六時間。復路は余裕
を持って十二時間。二十八時間からさっ引くと?﹂
﹁えーっと⋮⋮じゅう、にじゅう﹂
リリオンは両の指を伸ばしたり折り曲げたりしながら苦悩してい
るが、その苦悩が報われるのを待っていると引き上げの時間になっ
てしまうので、ランタンはそれとなくヒントを出した。
﹁じゃあ二と六を足すと?﹂
﹁八﹂
723
﹁二十八から八を引く﹂
﹁二十、︱︱あ、八時間!﹂
﹁そう、残りは八時間です﹂
﹁やった﹂
残り八時間が探索に使用できる時間の限界値である。だがこれを
限界まで使うわけではない。
七時間進んだ先で魔物が異常出現しており、戦闘が長時間に及ぶ
可能性もあるし、何かしらの怪我を負って後退速度を著しく減じる
可能性だってある。実際に探索をする時間は半分の四時間で、残り
の四時間を予備に回すのが常道だろう。
﹁⋮⋮探索って大変なのね﹂
﹁ね﹂
ランタンは短く溜め息を吐いて、その大変な探索を再開した。
石球を後にして二時間ほど歩く。魔物の姿は見えず、石獣のよう
な足音もしない。
その魔物には足がなかった。
ごく僅かな煌めきと、風切り音に反応できたのは行幸だった。
﹁飛刀!﹂
その名の通り飛行する剣である。射出されたような強烈な刺突と
なって突っ込んでくる剣が三振り。戦槌を構えたランタンの肘から
先が、蛇のようにうねってその三振りを全て叩き落とした。それに
遅れて、リリオンが方盾から大剣を抜き放った。
飛刀はゆらゆらと揺れながら浮かび上がり、僅かにその鋒を上下
させている。見えざる騎士に操られるように妙に人間くさい動きで
あったが、それはあくまでも擬態に過ぎない。飛刀の恐るべきは人
体という枷から外れた縦横無尽変幻自在の斬撃にある。
紙一重に躱すと慣性力を無視した追撃が迫り、鍔競りは空気を押
すようなものである。
押し込んだからと言ってその先に剣を操る人体はなく、また鍔競
りで押し合い圧し合いしていると不意に接触面を支点に鋒が振り下
724
ろされることも、あるいは柄が振り上がり身体を打つようなことも
ある。
﹁躱す時は大きく、打ち合う時は弾け!﹂
ランタンは怒鳴って二振りの飛刀を受け持った。
風の魔道を纏い空に浮く飛刀だが、真空刃を巻き起こす程の魔精
を秘めた個体は稀で、そう言った個体は一目見れば分かるほどの魔
精を纏っている。
この三振りには遠距離攻撃を行うほどの力は感じられない。
正面に浮遊する飛刀は、空に入った薄い切れ目でしかない。壁の
灰色と刀身の銀が混ざり合い、それが視認を困難にしている。ラン
タンは眼を細め鋭く息を吐き、戦槌を振り上げた。
しかし飛刀は羽毛の一片のようにふわりと浮き上がってそれを躱
した。そして戦槌の柄をなぞるように飛び込んでくる。狙いは戦槌
を握る右の手だろうか、と考えていると不意に鋒が向きを変えて顔
面へと突き込まれる。
その瞬間にランタンは戦槌を手放して突き込まれた飛刀の柄を握
った。戦槌は振り上げたままの勢いで吹き飛び天井に当たり、深く
突き刺さった。
飛刀はランタンの手の中で暴れる。まるで巨大な魚の尻尾を掴ん
で持ち上げているようだ。非生物系のくせに生き物のような抵抗が
あった。柄は細い楕円をしていて、しっかりと握り込めるようにな
っている。材質は象牙に似て白く滑らかだ。
ランタンは飛刀の抵抗を無理矢理に押し込めて刀を振るった。低
空を滑るように飛行し、急浮上して腰を狙った飛刀を打ち払った。
火花が散る。だが斬撃に重さはない。肉で受ければ骨で止まりそう
だが、それをするとミシャに物凄く叱られるのでやらない。
握った飛刀の抵抗は鬱陶しいが、軽くいい刀だ。だが鈍器として
は落第点。それはあまりにも軽すぎる。振り回すと、腕が振れすぎ
た。戦槌の半分以下の重さしかない。
打ち払われた飛刀は、だが衝突した場所を支点にその場で回転す
725
ると体勢を立て直して、低空から再び突っ込んでくる。
これもまた飛刀のいやらしさだ。
子供が、いやそれよりももっと小さな赤子が振るうかのような低
空での斬撃。膝から下を執拗に狙うそれに対応することは難しい。
ランタンは飛び跳ねて踊るようにどうにか斬撃を躱しながらも、戦
闘靴に幾つも傷を付けられた。
踏み付けてやりたい、と思うが余程上手くやらなければ飛刀の刃
が上を向く。そうすると靴底を削ぎ落とされて、足の裏が血に染ま
る。躱されてしまえば飛刀は股ぐらを斬り上がり、ランタンは女の
子になってしまう。
ランタンは小さく震えた。
飛刀は退きに合わせて追ってくる。リリオンとの距離を空けられ
てしまった。
リリオンは飛刀に良いように弄ばれている。今まで戦った魔物の
中で最小の部類に入る飛刀を捉えきれないのだ。人体が如何に大き
な的であるか、人体の可動域が如何に狭いかと言うのを感じさせら
れる魔物である。
だが同時に飛刀もまたリリオンの方盾を突破する事は出来ないで
いた。
飛刀の持つ刃は武器でもあり己の存在そのものだ。強く盾を斬り
つけて、己の身体を自己崩壊を起こすようなことはない。飛刀の斬
撃ではリリオンの体勢を崩すことはほぼ不可能で、回り込むには盾
を大きく迂回しなければならない。足元を狙えば盾が降ってくる。
一対一ならそうそう負けることもないか。
と視線を外した瞬間にリリオンを狙っていた飛刀がランタンに向
かって飛び込んできた。
血肉はなく、脳も無い。ただの金属の塊だが、飛刀に仕込まれた
インビジブルナイト
思考ルーチンは複雑怪奇だ。物質系の魔物ではなく、不死系魔物に
属する見えざる騎士の亜種であると噂されただけのことはある。
敵わないと判断すると即座に狙いを変化する見切りの良さは賞賛
726
に値する。不意を突かれたリリオンは置き去りにされ、駆けだした
時には既に飛刀はランタンに肉薄していた。
二振りの飛刀は揃いも揃って足を狙った。片足を浮かせばもう一
つが地に着いた足を狙い、両の足が浮けば容赦なく身動きのできな
い胴を狙う。
リリオンが猛然と走り込んでくるが、それよりも鋒が胴を貫くの
が早いだろう。
ランタンは左腕を伸ばし天井に突き刺さった戦槌の柄を握りしめ
た。そして天井に張り付くほどに身体を引き上げる。戦槌は深く突
き刺さりランタンの重量を支えるに足り、それ故に抜けることもな
かった。
爆発を引き起こせば天井が崩れ、崩れた天井は飛刀を押し潰すが
同時にランタンも巻き込むだろう。
ランタンはゆらりと身体を振って戦槌から手を離し、向かってく
るリリオンの背後へと降り立った。リリオンの巻き起こした風の道
が涼やかで、しかし次の瞬間にはその涼やかさには似つかわしくな
い破裂音が辺りに響いた。盾と衝突した飛刀が砕け、その破片が辺
りに飛び散っていた。
﹁駆け抜けろ!﹂
その破片は一振り分だ。
衝突の直前でリリオンを避けた飛刀がその背後に回り込もうとし
ていたが、止まることなく駆け抜けたリリオンに今度は飛刀が追い
つくことが出来なかった。
ランタンは思わず笑った。
振り返った飛刀がリリオンの姿を見失い、まるで人間が立ち止ま
って辺りを見渡すようにその場で回ったのだ。リリオンに行こうか、
それともランタンに行こうかと逡巡するように。その一瞬の逡巡は
擬態ではなく、本物の迷いだろう。
ランタンは一瞬で飛刀に接近し、目にも止まらぬ早さで再びその
柄を掴まえた。
727
よじ
二振りの飛刀はランタンの腕を捩り、ランタンを切り裂こうと試
みるが無駄な足掻きだった。ランタンの手首はびくりとも動かず、
むしろ飛刀の鍔元がぎしぎしと軋みを上げていた。
﹁ランタン。それ、どうするの?﹂
﹁こうする﹂
ランタンは肩甲骨を寄せて腕を引くと、迷宮の壁に向かって一気
に刺突を放った。ぎゃん、と悲鳴に似た音を立てて飛刀は根元まで
壁に突き刺さった。手を離しても飛刀が抜けることはなく、震えて
カタカタと音を立てるばかりだった。
飛刀の柄頭に嵌められた宝石のような精核を力任せに毟り取ると、
飛刀は震えるのをやめ、ただの剣と化した。技術のある探索者は飛
刀と宝石を分離させぬまま無力化させることが出来るのだが、ラン
タンは魔精の経路をのみを断つような術を持っていない。
宝石と柄の継ぎ目に刃を入れるとか何とか言う話なのだが、その
継ぎ目に刃が入るような隙間はない。もしかしたらその話は技術を
秘匿する為にバラまかれた嘘なのかもしれない。ランタンはもう一
振りの宝石も毟り取った。
宝石は魔精結晶になり、その色は深く、石球のものと比べれば明
らかに色濃い。大きさは石球の方が断然に大きいが、価値はこちら
の方が遙かに高い。
﹁剣の形してた。石ころばかりじゃないのね﹂
リリオンが突き刺さった飛刀の一振りを抜き取って、その造りを
なかご
鍔元から鋒にまで視線を滑らせた。片刃で反りはない。鎬は薄い。
リリオンが一度剣を振るうと、ひゅんと軽い音がした。
﹁誰が作ったの?﹂
﹁さあ、迷宮じゃない?﹂
少なくともこの飛刀は迷宮作の剣だろう。柄を外して中子を確認
しなければ絶対とは言えないが、何となくこの剣にはそんな雰囲気
・
がある。魔剣妖刀、その出来損ないとでも言うべきか。あるいはま
だ幼刀であるのか。
728
ランタンがもう一振りも抜き取って、リリオンに押しつけた。
﹁軽いし、これは持って帰ろう﹂
﹁良いものなの?﹂
﹁わかんないけど、邪魔になるほどじゃないし。何となくね﹂
そして自らの戦槌を拾うべく、天井に突き刺さった戦槌に距離を
測るように手を伸ばす。だがランタンが跳ぶよりも先に、カルガモ
の子供のように後ろを付いてきたリリオンが小さく跳んで戦槌にぶ
ら下がり、反動で身体を揺らしてそれを抜き取った。同時にぱらぱ
らと天井の欠片が零れた。
穴とその周囲に罅がある。壁もそうだったが割合脆い。ここでキ
ャンプを張るのは精神的に宜しくない。ランタンはリリオンの倒し
た飛刀の魔精結晶を拾い上げて、それらと戦槌を交換した。さすが
に飛刀の破片を拾い集める気にはならない。
いくらか後退して、そこでキャンプを張ろう。
﹁もう休むの?﹂
﹁元気だねぇ、リリオンは﹂
﹁なあに、その言い方﹂
魔物を倒したところで探索を一区切りを付ける事はよくよくある
ことなのだが、戦闘で昂ぶった気持ちを静めることもまた難しい。
魔物を倒して、じゃあもう少し、もう少しとずるずると探索を続け
てしまうのはよくあることだ。先に進めば魔物を見つけ、魔物を見
つけてしまったら挑みたくなるのが探索者という生き物だ。
そしてランタンはそのような探索者であって、そのような探索を
行ってしまう悪癖を自覚していた。
﹁そうなの?﹂
﹁そうなの。その結果がミシャのあれだ﹂
ランタンはリリオンの鼻先に戦槌を差し向けて堂々と言い放った。
﹁あー⋮⋮﹂
﹁それに子供はもう寝る時間だしね﹂
ランタンはそう言って戦槌を腰に戻した。
729
夜更かしがバレて、もしかしたらミシャに怒られるかもしれない、
なんて事はこれっぽっちも考えてはいない。
﹁ほんとうに?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
ランタンは目を合わせずに頷いて答えた。
730
050
050
﹁いやあ順調な探索だったね、リリオン﹂
﹁そうね﹂
﹁怪我もなかったし﹂
﹁ええ﹂
﹁夜にはぐっすり眠ったし﹂
﹁うん﹂
﹁引き返すのが早くて昼寝までしちゃったね﹂
﹁ね﹂
がちゃん、と金属音が夜空に響いた。ベルトからフックが外され
てミシャが滑らかな手つきで金属ロープを丸めていった。
白々しくも聞こえるように会話をしてみたのだが、ミシャは全く
の無反応である。
月から降り注ぐ光が俯いて作業するミシャの表情に影を落として
いる。影に覆い隠された表情は窺い知ることができない。ランタン
くたび
は少しパサついた雰囲気のあるおかっぱ髪を見下ろした。美しい天
使の輪っかが浮かぶ事もあるミシャの髪は、けれど今は僅かに草臥
れている。
ミシャから少しばかりの不穏さを感じ取って、ロープの拘束から
解放されつつあるというのにランタンは身動き一つ取ることができ
なかった。
ミシャはゆらりとランタンの前から立ち去るとリリオンのロープ
を外し始めた。いつもはきびきびと動くミシャだが、まるでフック
の一つも重たげな様子であった。
顔に落ちる影と月の白い光のせいで顔色が悪く見えた。
731
いや、ミシャはいつもより確かに血色が悪い。少し目蓋が腫れぼ
ったくて、目の下にある暗さは影ではなく隈のようだった。
﹁ミシャさん?﹂
﹁ん? どうかしたっすかリリオンちゃん。今外すからちょっと待
っててね﹂
顔を上げたミシャはそう言って、リリオンに取り付けた初心者用
のフックを次々に外していった。動きにきびきびとした様子は戻ら
なかったが、それでも少しばかりメリハリがでている。それはまる
で寝ぼけた人間が声を掛けられて、僅かに覚醒した様子に似ていた。
クレーン
ミシャは四点のフックと、そこから伸びるロープを一纏めにして
起重機に放り込んだ。そして腰に手を当てて、月の光を顔に浴びる
ように大きく背中を反らした。弓形になった背筋から、ぱきぱきと
氷が割れるような音が鳴った。
﹁なに見てるの?﹂
﹁なにも﹂
ランタンはつなぎを押し上げた膨らみから視線を逸らした。
ランタンは前髪で顔を隠そうとしているのか、額に爪を立てるよ
うに手櫛で髪を梳く。リリオンの顔をこっそりと盗み見て、そこに
無垢な表情があることに胸を撫で下ろして視線をミシャへと向けた。
そして目が合った。
﹁どうかしたっすか?﹂
﹁⋮⋮おでこが痒い﹂
ランタンは痒くもない額を掻いた。そんなランタンの様子ににミ
シャが小さく微笑んで、それに気を取られていたら背後からリリオ
ンに腕を取られた。
﹁掻いたら傷になるわよ﹂
身動きを封じられたランタンの前髪をミシャはそっと払って、形
の良い額が露わになった。
﹁ふふふ、ちょっと赤くなってるっすね﹂
なんだこの複合技は。
732
ランタンは文字通りお手上げになったが、それでも拗ねるように
ふてぶてしい表情を作った。ランタンの細い手首を握るリリオンの
指が少し余っている。ランタンは五指を重ねて、鳥の細い嘴のよう
な形を作った。手首を捩る。
﹁せっかく怪我もなく帰還されたんですから、自分で傷を作ったら
ダメっすよ﹂
﹁聞こえてないのかと思ってたよ﹂
ランタンはリリオンの拘束からするりと抜け出して、掴まれてい
た手首を軽く回した。手首からぱきぽきと乾いた破裂音が鳴る。ミ
シャとお揃いだ。
いつの間にか空を掴まされたリリオンが、自らの掌を見つめて難
しそうな顔つきになっていた。
﹁ランタンさんのお話はちゃんと聞いてるっすよ、︱︱私は﹂
﹁まるで僕がミシャの話を聞いていないみたいな言い方だね﹂
ランタンは両腕を広げて、さあご覧なさい、と言うようにほぼ無
傷の身体をミシャに晒した。ミシャはそんなランタンの姿を上から
下まで、下から上まで眺め回す。そしてランタンのどうだと言わん
ばかりの小憎らしい表情に、まったくもう、と満足げな悪態を吐い
た。
﹁睡眠も充分取られたようで、羨ましい限りっす﹂
ミシャはそう言って、喉の奥から迫り上がった欠伸を噛み殺した。
そんなミシャをリリオンがランタンの頭を飛び越えて覗き込んだ。
﹁ミシャさん、ちょっと疲れてるね﹂
﹁まあこれが今日最後の仕事っすからね﹂
引き上げ屋の仕事は朝から晩まで続く。迷宮へ挑む者、迷宮から
帰還する者。時折前者でもあるが、後者が予定時間通りに現れるこ
とは稀である。怪我や、あるいは戦利品が重たすぎて引き上げの予
定時間までに迷宮口直下まで戻れないことは多々ある。
最初の仕事から最後の仕事を終えるまで引き上げ屋は迷宮特区を
出ない。
733
暑さも寒さも、雨も風も、隣の区画で迷宮が崩壊し穴から魔物が
溢れ出そうとも余程の大崩壊でもない限り引き上げ屋はそこにいる。
起重機の上で待ち時間を過ごし、食事を取る。用を足す暇が惜しい
のでほとんど水分は取らないらしい。
そして相手をするのは自分勝手で傲岸不遜、乱暴者の探索者だ。
それは疲れもするだろう。
それに。
﹁ちょっと寝不足もあるね﹂
ランタンは慈しむような手つきでミシャの頬に触れた。
少し乾燥した肌が夜風に冷えてひんやりとして、親指の腹で目の
下を撫でると震えるような瞬きをした。驚いたのかミシャは固まり、
しかしすぐに眼を細めて擽ったそうにした。かと思うと持ち上げた
瞼が重たそうで、涼やかな目元がとろんとして眠たげになった。
﹁大丈夫っすよ、ありがとうございます﹂
ミシャが穏やかに微笑んだ。そして頬に触れた手にミシャは手を
重ねて、ゆっくりと剥がした。
﹁ランタンさんは、何だかんだ言っても時間通り帰ってきてくれる
から﹂
寝不足なのは今日の朝早い時間から予約が入っていた為であり、
そして昨晩の最後の仕事が遅れかたからなのだという。
ミシャの所属する引き上げ屋では最終の予約時刻は深夜零時から
三時までだったはずだ。
深夜は料金が加算される。そんな深夜に望んで引き上げ屋を予約
する探索班は少ないが、昨晩の探索者はその少ない探索班の内の一
つだったようだ。あるいはその時間にしか予約が取れなかったのか。
﹁久々っすよ。三時まで待ち惚けなんて﹂
﹁⋮⋮その探索者さんたちはどうなったんですか?﹂
リリオンが不安そうな顔でミシャに尋ねる。
﹁ちゃんと全員帰還したっすよ﹂
そう聞いてリリオンはほっと胸を撫で下ろしたが、おそらく無事
734
に帰還したわけではないだろうという雰囲気をミシャの様子からラ
ンタンは察した。
多少の怪我をした探索者は珍しいものではない。おそらくその探
索者たちは生命そのものを脅かす、あるいは探索者という職業の生
命に届くような怪我だったのだろう。
引き上げ屋の大変なところは、そのような修羅場であっても代金
を頂戴しなければならないところだろう。場合によっては探索者ギ
ルドにまで取り立てに行かないといけないこともあるのだと言う。
もしかしたらそういった作業もあったのかもしれない。
﹁お疲れ様、ミシャ。今日は現物払いで良いかい?﹂
﹁え? ええ構わないっすけど﹂
﹁悪いね﹂
ランタンはリリオンに背を向けさせて背嚢を漁った。
漁りながら、三時間待ち惚けか、ランタンはと考えた。その三時
間、ミシャは何を考えていたのだろうか。起重機に腰を掛け、ただ
一人。その時間ならば迷宮特区も人は疎らだろう。
ただ休憩するように身体を休めていたのか、それとも祈るような
気持ちだったのか。垂らしたロープに反応が返ってきた時は、どん
な気持ちだったのだろう。
それに深夜三時に仕事が終わったわけではない。深夜三時からよ
うやく引き上げ作業が始まったのだ。その後諸々全てを終わらせた
のは、眠りについたのは何時だったのだろうか。
それでも今日の引き上げは、いつもと変わらず滑らかだった。横
壁に身体をぶつけることも、勢い余って内臓が浮くようなこともな
かった。
﹁じゃあこれで﹂
ランタンは飛刀と石獣から採取した魔精結晶を混ぜ合わせてミシ
ャに握らせた。
ミシャはその結晶を調べて、気まずそうに顔を引きつらせた。
﹁いや、ランタンさん︱︱﹂
735
﹁足りなかった?﹂
﹁︱︱こんなには貰えないっすよ﹂
﹁でも、減らしたら足りないでしょ?﹂
ミシャが言葉に詰まった。一個減らせば見逃せぬ程度僅かに足り
ず、だがそのままでは色を付けたにしても過分である。己の見立て
が間違っていないことを確信して、ランタンはほくそ笑んだ。
ランタンがにこやかながらも有無を言わせない凄味を醸し出して、
そっとミシャに押しつけた。リリオンよりもランタンの手は冷たく、
そのランタンの手よりもミシャの手は冷たい。ランタンは小さなミ
シャの掌に魔精結晶を持たせる。
﹁余分は、まあ延滞金の先払いと言うことで﹂
﹁⋮⋮分かりました。その時は迷宮の中までお迎えにあがらせてい
ただきます﹂
﹁よろしく﹂
いつも通りのやり取りに、余剰金の分だけ重みがあった。
ランタンは余裕を見せて頷いた。ランタンは今まで多くの無茶な
探索を繰り返していたが、引き上げの時間に遅れたことはただの一
度もないのだ。ふふん、と鼻を鳴らして笑ったランタンに、ミシャ
は少しばかり悔しそうにしながら集金箱に魔精結晶をしまった。
﹁ミシャさん。わたしたちこれからご飯なんですけど一緒に食べま
せんか?﹂
﹁んーありがたいお誘いっすけど、まだ仕事が﹂
探索者を帰還させれば、はいお終い、とはいかないのが引き上げ
屋の仕事である。
リリオンはリリオンなりに気を遣ってみたようだが、それが空振
りに終わってしまって残念そうにしている。ランタンはそんなリリ
オンを撫でて慰めてやって、ミシャには、また今度暇な時にね、と
声を掛けた。
ランタンは昔ミシャに食事を奢ってもらったことがある。その借
りはまだ返せていない、と思う。
736
﹁ミシャはこのまま店に戻るの?﹂
﹁ええ、さっきも言ったっすけど。ランタンさんたちが今日最後の
お客さんなので﹂
﹁よかったら送っていこうか?﹂
﹁どうしたっすか急に﹂
サベージャー
ミシャが半眼になってランタンに疑惑の眼差しを向けた。
﹁いやいや、いつもお世話になっている引き上げ屋さまにせめても
の感謝をと思いまして﹂
ランタンは本音ながらも、照れ隠しをするように勿体ぶった言い
回しでそう言った。少しばかり嫌みったらしい言い方になってしま
ったが、ミシャはその言葉の中にある気持ちだけを素直に受け取っ
たようだ。
﹁じゃあお言葉に甘えて﹂
ミシャははにかんで、くるりと背を向けた。
﹁暫しお待ちを﹂
背中越しに言葉を残して起重機に飛び乗ると、レバーやスイッチ
の類いを操って起重機の首を引っ込め、弛んだロープを巻き直す。
ぞるりと地面から車両を固定する杭が引き抜かれた。
﹁勝手に決めちゃって悪かったね﹂
﹁ううん、いい﹂
リリオンはランタンの肩に手を置いて、遠くを見上げるような尊
敬の視線でミシャの起重機捌きに見とれていた。ミシャの小さな手
が巧みに起重機を操り、起重機は生きているかのように滑らかな軌
道を描いた。
﹁そう言えば、あれを逆さまにしたような奴だよ。石球用の地雷っ
て﹂
﹁へえ﹂
ランタンが指差した杭を物珍しげにリリオンが見つめ、近付こう
としたので咄嗟に腕を引っ張って止めた。
動いている起重機に近寄るべからず、と言うのは起重機をそこい
737
らの物質系魔物の一種のようだと侮って、ぶつかったり轢かれたり
して酷い目に遭う探索者が後を絶たないので生まれた戒めだ。
死んでも次から次へと代わりが現れる探索者と違い、起重機は恐
ろしく貴重で高価である。事故があった場合には余程のことが無い
限り起重機優先で、探索者はどれほどの怪我を負おうと哀れまれる
ことすらない。
エンジン
起重機が低い唸り声を上げて動き出した。車輌そのものを動かす
原動機に火が入ったのだ。ミシャが小さく手を振った。
﹁お待たせしたっす。上がってください﹂
﹁いいの?﹂
思わずランタンが聞くとミシャは、ええ勿論、と微笑んだ。
﹁本当に護衛さんみたいに、歩いて付いてくる気だったんですか﹂
これでは送るのだか送られるのだか分からないな、とランタンが
迷っているとリリオンが歓声を上げながら起重機に突撃してよじ登
ろうとしていた。
﹁あ、そこ触ると熱いっすよ﹂
﹁あつい!﹂
﹁⋮⋮成長ゼロだな﹂
ランタンは呆れながら、リリオンに見せつけるようにタラップを
踏みしめて起重機に乗った。座席は一人用だがそこそこ広く、詰め
ればランタンも座れそうだったがさすがにそんな無遠慮な真似はし
なかった。
いつまでもタラップの傍にいるとリリオンが上がれないので、座
席の後ろ側にぐるりと回って背後からの奇襲に備えるように進行方
向に背を向けて座り込んだ。廃熱口を避けるようにして足を投げ出
す。
﹁リリオンは前を注意ね﹂
﹁まかせて!﹂
リリオンはタラップの半ばまで上がったところで立ち止まり、座
席を囲む枠を握りしめていた。
738
﹁落ちないように気をつけるっすよ。じゃあ出発します﹂
ランタンの尻に伝わってくる小刻みな振動が一度大きくなり、す
ぐに緩やかに安定すると起重機はのんびりと走り出した。再び尻を
揺らす振動は起重機が生み出すものではなく、迷宮特区の荒れた地
面のオウトツそのものだ。
﹁わあ結構早いのね﹂
人が走るのと同じぐらいの速度で起重機は進む。騒音はそれほど
なく、サスペンションがしっかりしているのか振動も苦痛なほどで
はない。思っていたよりもずいぶんと乗り心地の良い乗り物だ。
引き上げ屋は長時間これに乗りっぱなしになるのだから、その為
の快適さなのだろう。
迷宮特区の中には同じように店へと戻っていく起重機の姿がちら
ほらと見られた。
そうという決まりがあるわけではないが探索者は朝に迷宮に降り
て、夜に迷宮から帰還するという探索パターンを取る者が多い。
ランタンもその内の一人だ。朝から昼の太陽が出ている時間帯に
降下して、夕から夜に掛けて戻ってくる。迷宮には太陽も月もなく
時間の感覚が曖昧になりがちなため、そうやって時間の感覚を調整
している。
他の帰っていく起重機にも、ランタンたちのように座席外にも人
を乗せている車輌があった。それは複数人で仕事を行っている引き
上げ屋かもしれないし、引き上げ屋の雇っている護衛なのかもしれ
ない。
迷宮から帰還した探索者が襲われるのはその懐が温かいからで、
同じように懐温かく店に帰る引き上げ屋が襲われない道理はない。
迷宮特区の中では衛士隊と騎士団、探索者ギルドの武装職員が入
り乱れて目を光らせ警備をしているが、あまり仲が良くないのか連
携が取れておらず、目の行き届いていない場所は過分にある。特に
夜も深くなると凶行を覆い隠す影は増え、そして同時に警備の数は
減るのである。
739
探索者よりも単純な戦闘能力ではずいぶんと劣る引き上げ屋だが、
探索者と同じほどにそれを狙うことにはリスクがある。それは起重
機の存在だ。
起重機は目立つし、それを意図的に傷つけることは重罪だ。運が
悪くなくても大抵は極刑に処される。起重機自体は引き上げ屋の持
ち物だが、その心臓部、原動機は一つ残らず貸し出し品なのである。
原動機に手を出すと関係各所から凄腕の刺客を放たれるともっぱら
の噂であり、その噂が真実であることは誰もが知ることだった。
金銭目的ならば正直なところ探索者を襲った方が旨味がある。新
人を狙えば割合リスクは低く済み、成功した場合の利益は引き上げ
屋の売り上げを根こそぎにするよりも大きい。それに探索者はただ
の個人であり、殺傷したからと言って刺客を放たれることもない。
だがそれでも引き上げ屋が襲われることもあるのだから、たまっ
たものではない。明日ではなく今を生きる無法者はうんざりするほ
ど生息している。
とは言えこの広い道の途中で襲われる心配はないだろう。
リリオンが車上からの眺めを暢気に楽しんでいた。
起重機の上に座ってるランタンですら、その高くなった視点は新
鮮だ。迷宮特区のずいぶん遠くまでを眺めることができる。今まさ
に迷宮から引き上げられる探索者、辺りを彷徨く流しの医者や、空
の荷車を牽く者もいる。迷宮から大物を引き上げた場合や、あるい
は歩けないほどの怪我人が出た場合にそれらを運んでくれるのだ。
人力の荷車もあるし、荷馬車もある。
通り過ぎ様に、探索者六名で重たげに押している荷車を見つけた。
布で覆って紐で縛り付けて固定してあるので何を運んでいるのかは
分からないが、おそらく魔物の死骸を引き上げたのだろうと思われ
た。
荷車からはしとしとと血が溢れており、車輪が滑って空転してい
る。欲張りすぎても大変だな、とランタンは呆れと、僅かな羨望を
込めて見つめた。そしてそっと腰に下げた飛刀に触れた。
740
﹁あ、ケンカよ。大丈夫かしら﹂
リリオンが声を上げたので、ランタンはそちらに視線を向けた。
そこにあるのケンカではなく捕り物のようだった。
あれは衛士隊だろうか。月明かりを銀色の全身鎧が反射していて、
ガチャガチャと鎧の鳴る音が遠ざかってもなお聞こえてくる。断末
魔を思わせる悲鳴が聞こえてくるが、衛士隊がおこなっているのだ
から死んではいないだろう。
犯罪者を捕らえることを主としている衛士隊は、犯罪者にとって
もっとも慈悲のある相手である。探索者を襲い、返り討ちにあった
犯罪者が衛士隊に逮捕してくれと泣きついたという笑い話まである
ほどだ。
武装職員や騎士団から聞こえてくる噂は血に濡れている。テスを
見ていれば容易に分かるが、それらは殺人を厭わない。
﹁あ﹂
後続に別の引き上げ屋の起重機が付いた。そこに乗っている男の
引き上げ屋と目が合ったので、取り敢えずランタンは微笑んでおい
た。目が合ってしまったからには無視するのも失礼のような気がし
たし、下手をしたらミシャの評判が下がってしまうのではないかと
思ったのだ。
男の引き上げ屋は胡乱げな様子で小さく会釈を返した。
微妙な対応だが、それもそうだろう。起重機に後ろ向きで腰掛け
る探索者など意味不明以外の何ものでもないし、だがだからと言っ
て客になり得る探索者を無視することもできないと言うような所だ。
おまけに手でも振って愛想を振りまいておこうか、とランタンは
小さく笑った。
ミシャの操る起重機の速度が下がり、男との距離も短くなった。
男はランタンの姿をはっきりと視認してアワアワとしだした。ラン
タンは小さく手を振って、男から視線を切った。
﹁どうかしたー?﹂
﹁ん。ああ、ここはいつも混むんっすよ﹂
741
進行方向に身体を向けると上街に通ずる門まで来ていた。そこに
は起重機が連なっている。
衝突しないように速度を落とすことで渋滞が起きているのだ。数
十台も連なってと言うことはなく、その数は両手で足りるほどだ。
だが起重機同士が事故を起こせばその損害は計り知れないので引き
上げ屋たちは酷く慎重になっている。
ミシャもまた、座席の背もたれに一度背を預けて大きく溜め息を
吐いた。
﹁そうだ。これ食う?﹂
ランタンは探索食であるスナックバーをミシャに放り投げた。
ナッツ類とドライフルーツを混ぜ込んだ物凄く甘いビスケットに
甘塩っぱいバターキャラメルを挟み込んだそれはコンパクトかつ高
カロリーで腹持ちが良い。忙しい時にも疲れた時にもぴったりの一
品だ。
﹁あ、ありがとうございます。探索食の中ではこれ結構美味しいで
すよね﹂
ミシャはそう言って包装をバナナのように向いて一口囓った。ビ
スケットを咀嚼するざくざくという音が耳に心地よく、唇から糸を
引いたキャラメルが何だか妙に美味しそうだった。
﹁ランタン。わたしにもちょうだい﹂
それを見たリリオンが騒ぎ出したが、残念ながら最後の一つだ。
﹁すぐに晩ご飯になるんだから我慢しなさい﹂
﹁うー⋮⋮﹂
﹁ほらリリオンちゃん、一口どうぞ﹂
ぐずるリリオンを見かねたのかミシャがスナックバーを差し出し
た。リリオンは一瞬だけランタンを窺い、けれどすぐに餌付けされ
た。一口囓っただけだが満足したのか、頬を押さえて眼を細めてい
る。
﹁んーあまい。おいしい﹂
﹁こう言うのって大概甘いばっかりっすから、キャラメルの塩味が
742
良い感じっすよね﹂
そんな二人の会話を聞いているとランタンも空腹を思い出してし
まう。だがリリオンの手前、我慢しなければならない。
﹁ランタンさんも一口どうっすか?﹂
﹁大丈夫。ミシャが食べて﹂
ミシャは包装を全部剥いてスナックバーを口に咥えた。そしてそ
のまま両手でまた起重機を動かし始めた。行儀が悪いと言うべきか、
器用だと言うべきか。ミシャは蛇が獲物を飲み込むように、少しず
つスナックバーを咀嚼している。
﹁乗ってるだけだと気楽で良いけど、これの操縦って難しいの?﹂
ようか
ランタンが聞くとミシャはスナックバーを煙草のように口から外
した。
﹁走らせるだけならそれほどでもないっすよ。揚貨機の扱いは、ま
あ自慢になりますが物凄く難しいっすけどね﹂
ミシャは冗談のようにそう言ったが、冗談ではなくその扱いは難
しい。
時折、遠心力のままに振り回される探索者の悲鳴が迷宮特区に響
いているなんてこともある。荒事に慣れている探索者だから悲鳴で
メカニカル
済んでいるものの、一般人ならば過重に耐えられず失神していると
ころだ。
リリオンが操縦席を覗き込んでその機械的な雰囲気に眼をぱちく
りさせている。レバーやボタンを指差して、あれこれと尋ねている。
﹁ミシャの邪魔するんじゃないよ﹂
﹁⋮⋮はあい﹂
﹁大丈夫っすよ、ランタンさん﹂
生意気な感じで返事をしたリリオンにランタンが叱るような顔で
睨み、まあまあとミシャが宥める。ミシャはリリオンの疑問に答え
ながら、そのまま起重機を動かして危なげなく門を潜った。
そのまま引き上げ屋の店舗がずらりと並ぶ道を行く。
普段歩いている時は気にならないが、この道は起重機が進み安い
743
ように整備されている。二台が余裕を持ってすれ違える道幅に、道
は煉瓦舗装だが走行に際して振動はほとんどなく、起重機の重量と
走行に耐える強度を備えていて割れるようなこともなかった。
蜘蛛の意匠の看板はすぐに見えてくる。店舗は既に閉店していて、
起重機の車庫にだけ小さく灯りが点っていた。
﹁はい到着っすよ﹂
緩やかな減速の後、起重機が立ち止まりリリオンとミシャがタラ
ップを使って、ランタンはそのままそこから飛び降りた。起重機の
仄温かい廃熱をランタンはもろに浴びて嫌な顔をしたが、二人に見
られる前にすぐに表情を改めた。
﹁今日はわざわざありがとうございます﹂
﹁送っていくって言ったのに、何だか乗っけてもらって悪かったね﹂
﹁ミシャさん、ありがとうございます。楽しかったです﹂
ミシャとリリオンは両手を繋いできゃっきゃと笑った。女の子同
士のやりとりは微笑ましくもあるのだが、ちょっとランタンには入
り込めない世界である。蚊帳の外のランタンをよそに二人は一通り
しあさって
別れを惜しみ、そしてさらに名残惜しそうに小さく手を振った。
﹁じゃあランタンさん、次回の探索は明明後日っす﹂
﹁うん、よろしく。ちゃんと寝るんだよ、ミシャ﹂
﹁⋮⋮ええ、もちろん。ランタンさんも、リリオンちゃんもね﹂
﹁今日は昼寝しちゃったからな︱︱﹂
﹁ランタン!﹂
無駄口を叩いたランタンにリリオンが強い口調で迫った。
まなじり
﹁分かってるって寝るから、ちょっとした冗談だよ。︱︱おやすみ、
ミシャ﹂
﹁はい、おやすみなさい﹂
ミシャは次第に迫り上がって隠しきれなくなった眠気に眦を下げ
ていた。垂れ目になると途端に幼く見える。
いつまでもうだうだとしていたらミシャの睡眠時間が減ってしま
うので、ランタンたちはそこから立ち去った。
744
シャッター
背後に鎧戸を空ける音が響いて、車庫の中からは光が溢れ出した。
思わず振り返ると整備士らしき壮年の男の誘導で、再び動き出した
起重機がその中へと進んでいった。ここからではもうミシャの表情
を見ることはできない。
﹁さ、じゃあ僕らも帰るか﹂
﹁うん﹂
﹁軽くご飯食べて、さっさと寝よう﹂
ランタンは大きく伸び上がって、本当に眠たそうな欠伸を吐き出
した。
﹁怒られないうちに?﹂
リリオンの呟きには小さく肩を竦めて答えた。
何を当たり前のことを、とでも言うように。
745
051
051
大鼠という害獣がいる。
頭部は鼻先が突き出すような流線型をしていいるが、胴は洋梨型
でややだらしない印象を見たものに与える。毛革はくすんだ灰色や
茶色をしており油っぽく臭いがあったが、水を弾きそこそこ丈夫な
ので、最低位の探索者の装備に使われたり汚物処理に従事する人間
が身に付けたりする。
だが肉はどれほど下処理をしようとも臭いが抜けないので食用に
は向かない。けれど下街ではそこかしこで繁殖して姿を見られるの
で貧者に常食されているのも事実だ。ランタンは一口囓ってそれを
吐き出して以来口にはしていない。
齧歯類らしい上下の顎に生える門歯はそれほど巨大ではないが、
それは永遠に伸び続け恐ろしく強固である。門歯がそのまま伸び続
けるとやがて顎が閉じられなくなり、遂には歯が顎を突き破り、下
の歯などは鼻を削いで、その先には頭蓋を貫通して脳を破壊し自ら
を死に至らしめることもある。
物を囓ることで門歯は適切な長さに保たれるのだが、強固な歯を
削る為に石や金属などの硬い物を囓る習性がある。それはつまり家
具や調理道具、あるいは家そのもの、時には武具に至るまでに及び、
その為多くの人々から嫌われている。
成体では一メートル近く、鼻先から尻尾の先までを計れば二メー
トル半に及ぶ大きな個体も存在する。多産であり四季を問わぬ繁殖
力は旺盛で、時折衛士隊が大規模な駆除作戦を決行しているほどだ。
その際に探索者ギルド経由で駆除の手伝い依頼が暇な探索者に舞い
込んだりもする。
746
大鼠は有機物無機物、それに汚物まで食べる超雑食で、食べる物
に困らないので生きている人間自体を襲うことは稀であったが、文
字通り牙を剥けばそれなりに獰猛だからだ。大鼠を追い払おうとし
どぶねずみ
て手痛いしっぺ返しを喰らう人々は後を絶たない。
一説では溝鼠と鼠の魔物との交雑種だと言われているが既に一つ
の種として確立してしまっているので真実は定かではない。
ハチェット
その大鼠が一匹歩いていた。三十センチほどの個体は的としては
手頃である。
しゅるしゅると空気をかき混ぜながら手斧が飛んでいく。利き腕
とは逆の左手でそれを投げたのは、戦槌を右手で持っている時に使
用することを前提としているからだ。手斧はやや左上がりに傾いて、
刃も少し寝ているので空気の抵抗を受けていた。回転は乱気流を生
み出すように揺れている。刃は鈍く曇り、陽光を微かに反射させる
ばかりだった。
﹁あっ﹂
リリオンがその軌跡を目で追い、小さく声を上げた。
回転の影響か手斧が途中でシュートして狙いを逸れた。ぎゃんと
地面を削り、その音で狙われていることに気づきもしていなかった
大鼠が飛び跳ねた。一度ランタンを睨み付けるように振り返ったが、
野生の勘が冴え渡ったのかでっぷりとした身体の大鼠が思いがけな
い速度で逃げ出した。
壁に空いた小さな穴に頭から突っ込んで、尻をふりふりとしなが
ら胴をねじ込んで隠れてしまった。
﹁あったんないなぁ﹂
ランタンが情けない声を出して空を仰いだ。この精度では奇襲に
も使えない。
大雑把に一定の範囲内に当てることはできるのだが一点を狙うこ
とが難しい。利き腕ではない為だ、と思いたいところだが戦闘に関
する不得手を誤魔化すと生死を分けることになりかねないので現実
を直視する。
747
投擲攻撃の経験も技術もなければ、それを補う才能もない。そう
言うことだろう。
横たわる手斧が妙に哀愁を誘った。リリオンが犬のように駆け出
して手斧を拾い、走って戻ってくる。それを受け取ってランタンは
少女の頭、身長差のせいでほとんど額だったが、を撫でる。
﹁何がいけないと思う?﹂
﹁⋮⋮動きがぎこちない、ような気がする﹂
聞いたランタンにリリオンは少しばかり躊躇っておずおずと口を
開く。そしてランタンの真似をしているのか手斧を振りかぶって投
げる振りをしてみせた。
中途半端に上がった右足。弓引くようにと思っていたが、実際は
重たげに下がる肩。肘から手首に掛けての捻れは、それはつまり先
ほどのシュート回転を生み出した元凶だろう。なるほど、とランタ
ンは唸った。
﹁ちょっと格好悪いなあ﹂
﹁ランタンは、かっこ悪くないよ!﹂
﹁⋮⋮どうもありがとう﹂
慰めがむしろ虚しい。ランタンは受け取った手斧を適当にくるく
ると回した。手元で扱う分にはランタンは両利きと言っていいほど
なのだが、投擲となると手元の僅かな狂いが距離が伸びるにつれて
拡大していく。それを補おうとして余計姿勢を崩しているのだろう。
﹁きっとアレだね﹂
﹁どれ?﹂
﹁これの重心が狂ってるせいだ﹂
ランタンはぶぶぶと唇を震わせた。
手斧は鋳造なのか握りから斧頭までが一体化している。刃は研い
で作ってあるが、刃物と言うよりは鈍器である。
﹁うん、きっとそうよ﹂
冗談で言ったのだが、返事を返してくれるリリオンの表情が眩し
かった。
748
﹁こっちで試してみる?﹂
リリオンは真面目な様子で予備として持たせた別の手斧をランタ
ンに差し出した。こちらの握りは木製で、斧頭はおそらく鍛造であ
る。だが粗雑な造りであることは変わらない。
め
﹁あれなんてどう?﹂
視力が良い。地面とほとんど同化しているが、リリオンが指差し
た先には蛙が一匹。
牙大蛙というこれまた害獣である。大きな口に糸鋸を嵌めたよう
な細かな牙が生えていて、顎の力は強く人の指ぐらいなら容易に切
断する。
﹁こんな場所で珍しい﹂
雨期になると活性化し、その時期にはぐえぐえと絞め殺されるよ
うな鳴き声で大合唱し近隣一帯に不眠症患者を量産するのでその時
期には大鼠と害獣の覇権を争っている。
だが完全害獣の鼠とは違い、肉食性だが大人しく、大鼠などの小
型生物を襲うこともあるがとりわけ昆虫食を好んでいるので病気を
媒介するような様々な害虫を捕食してくれる益獣の一面も持ち合わ
せる。
そのため虫をあまり好まないランタンはそれほどこの蛙を嫌って
はいない。
それに大牙蛙の肉は安い割りに中々の美味で、見た目のグロテス
クさにさえ目を瞑れば鳥肉とほとんど味は変わらず、肉質に至って
は鳥よりもしっとりしている程だ。ランタンもひもじかった時期に
はよくこの肉で飢えを凌いだ物である。
﹁んー、やめとく。たぶん当たらないし﹂
牙大蛙は建物の影で鳴きもせずにじっとしている。その横を通り
過ぎても身じろぎ一つせずに、ただ喉を膨らませたりヘコませたり
していた。ふてぶてしい顔をしている。
それを通り過ぎて以後、手頃な獲物もおらず次第に人通りも増え
てくる。さすがそこいらに屯する破落戸を狙うような真似はせず、
749
ひとけ
また人気のあるこんな所で投擲の練習をするほどランタンは常識知
らずではない。
ランタンは手斧を二振りとも腰にぶら下げて、そのまま上街に入
った。煮込み料理の旨いと噂の店でたらふくの昼食を済ませると、
目的の一つである魔精結晶の換金を行う為に足を進めた。
魔精結晶は高価であるが故に売買ができる店が限られている。取
り扱ってくれるのは探索者ギルド、魔道ギルド、職人、商人ギルド
を筆頭に大店の換金屋とそして魔道関係の店ぐらいのものだ。それ
は法によって取り決められている制限ではなく、ただ単に需要と資
金的な問題である。
例えば今日ランタンが持ち込もうとしている程度の魔精結晶なら
ばさしたる問題はないが、高品質の魔精結晶を換金できるような資
金力のある店はそうそうないし、そもそも無加工の魔精結晶を取り
扱える技術を持つ者も限られている。
ランタンはいつも探索者ギルドで換金をしていたが、何となく別
メインストリート
の店を試そうと考えていた。リリオンの手を引きながら商店街を行
く。目抜き通りは毎日がお祭りのように賑やかで猥雑だ。
けれどリリオンのように巨大な武器を背負っていると、一目で探
索者だと分かる為か一般人がちょっとだけ避けるようにしてくれる
のでありがたかった。ランタン一人では人々の視線に入らないのか
よくぶつかったり、押されたりする。掏摸にも遭うし、尻を撫でら
れることもある。そう言った場合は容赦なく手を砕いたが、煩わし
いことに変わりはない。
やから
ランタンはそう言った雑事を嫌って枝道に入ることがある。枝道
では枝道で輩に絡まれることもあったが、彼らは真正面から来るの
で痴漢よりはまだマシだ。痴漢には尻を触られてからでないと対処
できない。
そんなこんなで逃げ出した枝道を当てもなく歩いている時に、一
クリスタルケイブ
つの店に行き当たったのはずいぶんと昔の事だ。
水晶洞と言う大層な店名の魔道用品店だ。
750
とても美しい店名とは裏腹に、看板の一つも出ていないし、言葉
を選ばずに率直な感想を言えば店構えはしみったれている。風雨に
さらされて罅の入った壁はクリーム色がくすんでやや茶色がかって、
朽ちた木枠の窓は日焼けしたレースのカーテンに閉ざされている。
ふとした違和感を感じたのは、それなりにここへ通っている為だ
ろう。窓に一枚のメモが外向きに貼り付けられていた。右肩下がり
の文字は途中で二重線を引き訂正され、そのまま文字が続けられて
いる。
看板の代わりだろうか、とランタンはそれを一瞥した。看板なら
ばもうちょっと綺麗に書き直せば良いだろうに。
﹁ほら、リリオン入るよ﹂
﹁⋮⋮ぼう、⋮⋮探索者、ごようた、し?﹂
メモを睨み付けているリリオンを呼んで、ランタンは押すんだか
引くんだか分からない扉を開いた。蝶番が耳障りに軋む。
ランタンは自分が何故この扉を開こうと思ったのか、今では初来
ケイブ
店時の精神状態を思い出すことはできない。きっと何か焦っていた
のだろう。
﹁こんにちはー﹂
クリスタル
店内はやや薄暗くまさしく洞窟であり、そして壁一面に収納され
た様々な結晶は店名に偽り無しのまさしく水晶である。店構えと店
内の落差はいい意味で大きく、扉に人体を転送させるような魔道が
きら
仕掛けられているのかと思わせる幻想的な風景が広がっている。
﹁ふああ﹂
リリオンが色とりどりに乱反射する結晶の燦めきにぽかんと口を
開けて、魂が抜けたみたいな溜め息を吐いた。人工物も天然物も。
三級品から特級品まで。様々な元素の魔精結晶が棚の上からランタ
ンたちを照らし覗き込んでいる。
なんとなしに入ってみたらば驚いて然るべき品揃えだった。あの
時の感動をリリオンも感じているのかと思うと感慨深い。
リリオンは小走りに壁際へ近付いて、棚を埋め尽くす結晶に鼻を
751
擦りつけるようにしてそれらを覗き込んでいた。
﹁いらっしゃい。水晶洞へようこそ﹂
店主の声が虚しく響いた。リリオンはまるっきり気づいていない。
店主はしみったれた店構えにふさわしい、もさっと中年の男であ
る。
・
僅かに白髪の混じる細かくうねる髪がカリフラワーのように膨ら
んでいて、それでいて後退した額が脂でテカっている。鼻の下にハ
の字を描いた髭がこの上なく胡散臭い。だが目尻に消えない笑い皺
があり、丸眼鏡の下にある目が柔和で優しそうな雰囲気が胡散臭さ
を辛うじて中和しているとも言えなくはない。いや、やはりまだ少
し胡散臭さが勝っている。
ソロ
ランタンは店主の名を知らないが、店主はランタンの名を知って
いる。
﹁いやあランタン君、ようこそようこそ。聞いたよお、単独やめた
んだってねえ。そっちの子がそうかい?﹂
﹁⋮⋮ええ、まあ﹂
いつも訪れる時よりも何だか酷く馴れ馴れしかった。
たまに世間話をする程度にはこの店を利用しているのだが、何だ
か知らない間に距離が縮まったような雰囲気がある。ランタンはそ
の雰囲気に戸惑い、いつもは気丈に振る舞っていたが反射的に人見
知りが顔を出した。
完全に引いているランタンの気配を敏く感じ取ったのか店主は不
器用に咳払いをして、それで今日の用は何かな、とうだつの上がら
ない気弱げで不器用な笑みを取り繕った。
﹁ここって魔精結晶の買い取りもしてますよね?﹂
﹁魔精結晶? うん、ああ、まあしてなくもないよ﹂
店主は中途半端に返事を濁した。ランタンが怪訝そうな顔つきに
なると慌てて、すまんね、と言葉を付け足した。
﹁少量なら買い取れるけど、あまり数が多いとちょっと。物々交換
もできるから、それでもいいなら構わないけど。どうする?﹂
752
ラシャ
カウンター
店主はそう言って羅紗張りの盆を受付台の上に用意した。ランタ
ンは背嚢をがさごそと漁り、盆の上に結晶を転がした。数ばかりあ
るが質はそれほどでもない魔精結晶である。
﹁ずいぶん多いね、ちょっと現金買い取りは無理だよ。ちゃんと見
ないと分からないけど、現金なら十個かそこらだね﹂
﹁水精結晶も欲しいので、鑑定お願いします﹂
﹁わかった。数は、ああ、ええっと十⋮⋮二十、⋮⋮三十と一個で
間違いないね﹂
﹁はい、そうですね。鑑定している間、ちょっと店内を見てていい
ですか?﹂
﹁ん、ああ、︱︱別に構わないよ﹂
店主は驚きを隠せない表情でランタンの顔を見つめた。口の中で
言葉を噛んでいるのか髭が上下に動いて面白い。ランタンはそれを
見て小さく微笑み。お願いしますね、と受付台を離れた。
鑑定中に鑑定品から目を離すと言うことはつまり、どうぞ詐欺行
為を働いてください、と言っているに他ならない。
鑑定品を偽物や下級品にすり替えたり、それ自体に傷を付けて価
値を下げ買いたたこうとすることは珍しい手段ではない。生き馬の
目を抜く商売人の世界には、持ち込んだ人間の目の前で平然としか
し見つからずにそれを遂行する職人がいるという。なんとも恐ろし
い話だ。
しかし目を離すと言うことは、同時に信用の証明でもある。信用
していますよ、と言外であろうとそう告げられると、それを裏切る
事はなかなか難しいとランタンは思うのだ。
もっともランタンはそのようなまどろっこしい駆け引きを行って
いるわけではなかったが。
今日の目的は魔精結晶を探索者ギルド以外で換金、交換すること
にある。欲している物は経験で、例え店主がしみったれた店構えと
同様のしみったれた性根の持ち主で、魔精結晶を二束三文で買い叩
かれたとしてもそれはそれでいい経験なのだ。それに損益も優良な
753
店を見極める為の必要経費だと思えば安い物だ。
もっとも店主が水晶の如き美しい性根の持ち主であることに越し
たことはないが。
﹁きれい⋮⋮﹂
ランプ
リリオンがうっとりと呟き、近付いたランタンの存在に気が付い
て振り返った。
﹁ランタン。すごい綺麗よ﹂
リリオンが眺めていたのは様々な形の魔道光源だった。
一般に多く普及している裸電球にも似た安物ではなく、複雑なカ
ットや繊細な彫刻、精巧な細工を施された美術品の一面を持つ魔道
光源の放つ色取り取りの光は幻想的だった。
どれも美しく見事な出来映えだったが、リリオンが特に好んだの
は女の子らしい花のモチーフの魔道光源だった。
薄紫の柔らかな光を放つ薔薇の花束、冷たく白い光りを灯す一輪
の鈴蘭、白から薄桃にグラデーションを作る蓮の花、燃えるような
色合いに咲く大輪の牡丹。花々から放たれる光を受けてリリオンの
頬が色づいた。
買えない額ではないが、持て余すことはリリオンも分かっている
ようだった。もしこの魔道光源を購入するならちゃんとした住処を
探すところから始めなければならない。
そしてランタンはリリオンが通り過ぎた獣のモチーフをこっそり
と気に入っていた。獰猛そうな獣や魔物の姿形に心を引かれるのは、
少しばかり子供っぽいような気がして気のない振りをしていたが。
﹁気に入った物はあったかい?﹂
こっそりと虎の頭を突いていたランタンはびっくりして店主を振
り返った。それを追いかけるようにリリオンも振り向く。魔道光源
に気を取られていたリリオンは、今更ながら店主に気が付いたよう
で咄嗟にランタンの背中に隠れた。
店主は密かに傷ついていたようだが、慣れた物なのか僅かに苦笑
して溜め息を吐いただけだった。
754
﹁それは炎虎と言う魔物を象っているんだよ。戦ったことはあるか
い?﹂
背後でリリオンの髪がさらさらと鳴った。隠れているくせに律儀
に首を横に振ったのだろう。ランタンもそのような魔物と戦ったこ
とはない。そう伝えると店主は、出会わないに越したことはないよ、
と深く頷いた。
それは燃える毛皮を纏った獰猛な虎で、戦おうにも熱くて近寄る
ことができないのだという。
やはり投擲技術を高めるべきだな、とランタンは改めて思った。
﹁鑑定は終わりましたか﹂
﹁ああ、うん、お待たせ。やっぱりねえ十二、三個が限界だね。そ
れも相場よりもいくらか低いよ﹂
そう言って店主が伝えた額は割と渋い値段を付けると評判の探索
者ギルドの換金率よりも二割減と言ったところだった。店舗規模か
らしてみれば理解できなくもない額である。もっとも理解と納得は
別で、普通ならばここから店主が客を納得させる為にご託を並べる
はずなのだが。
ここの店主はそんなことは全くしなかった。
﹁やっぱり嫌だよね⋮⋮折角命をかけて持ち帰った獲物に安値が付
くのはいい気分じゃないよね﹂
いかにも人の良さそうな情けなさすらある乾いた笑みは、思わず
ほだ
この値段で頷いてしまいそうな哀れっぽさがあった。
リリオンはさっそく絆されて、ねえどうするの、とランタンの腕
を引いたりもした。
この顔も駆け引きの一つなのか、とランタンは店主を観察したが
本気なのか演技なのかは判断がつかない。取り敢えずリリオンは無
視する。この少女に取引を任せたら、あまり金額に頓着しないラン
タンよりも酷いことになりそうだからだ。
﹁そうですね、その値段ではちょっと。なので物と交換で﹂
﹁そうだよね。ああ、うん、水精結晶だったね。いつものをいつも
755
通り︱︱﹂
いつもの、とはランタンが好んで常飲している人工水精結晶のこ
とだ。時折、行きがけの店舗で購入することもあるが、ランタンは
基本的にはこの店で水精結晶をまとめて半ダースずつ定期的に購入
するようにしている。
ランタンは店主の言葉を遮って首を横に振った。そして自分を指
差して、リリオンも指差す。水精結晶の消費量はリリオンと共に過
ごすようになってから倍以上になっている。
﹁十八個ほど用意していただきたいのですが﹂
﹁そうか、ああっと、どうだったかな。在庫は幾つあったかな﹂
ランタンの言葉に店主は困った顔になって、いそいそと席を外す
と水精結晶の在庫を持ってすぐに帰ってきた。
﹁マルリー・ハローヴァの水精結晶は今は十個しか在庫がないんだ。
残りの八個は、どうしようか?﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
困った店主と顔を見合わせて、ランタンは残念そうに呟く。そん
なランタンの袖をリリオンを引っ張った。
﹁どういうこと?﹂
魔精結晶に等級があるように水精結晶にも等級がある。
等級が上がるごとに基本的には水量が増加し、また温度や風味に
も違いがあることは知られているが、同等級の水精結晶でも味に差
があることはあまり知られていない。と言うかそもそもあまり水の
味に頓着する探索者はいない。
ランタンは等級により味に変化があるのではない、と考えていて
この店主も同じような考えの持ち主だ。人工の水精結晶は特殊加工
した空の魔精結晶に水の魔道を封じた物だ。おそらく水の味は魔道
を込めた人物の魔精の味とも呼べるモノなのだろう、と思う。
﹁幾つか新しい人の物も入れたから、試飲してみるかい?﹂
店主はそう言ってどこから取り出したのか手品のように試飲用の
小さなコップを受付台に並べた。
756
本来は衝撃を与えてどばっと水を放出する水精結晶。そして水筒
用のものは更に加工されて、水筒に装着し、底に衝撃を加えること
で一定量の水を放出するように作られている。筈なのだが店主がそ
れを傾けると結晶の先端からそよそよとコップに水が注がれた。妙
技である。
よくよく見ていると店主の指が綺麗だ。指毛の一本もなく、節の
穏やかですらっとした指をしている。ピアノの一つでも奏でれば、
胡散臭さも味に見えてくるかもしれない。
小さい試飲コップに溢れぬように水が満たされた。結晶からの水
切れも見事だ。
ランタンにとって基準点になるのは、ハローヴァの水である。
﹁うん、おいしい﹂
ハローヴァの水は一言で表現するのならば雪解け水だ。
きんきんに冷たくて喉越しも柔らかく癖がない。後にこめかみに
痛みを伴うと分かっていても、ごくごくと飲みたくなる。風呂上が
りなんかにはちょっと飲み過ぎてしまうぐらいに。
それから幾つか試飲をさせてもらった。硬水も軟水もあるが、硬
水の方が多かった。口当たりが硬い硬水をランタンはあまり好まな
いのだが、リリオンは平気なようだった。
﹁変な味⋮⋮﹂
水の中には塩素臭のような風味があるものもあった。洗濯にでも
使えば汚れが落ちるかもしれないが、飲料用として売られているの
で洗濯に使うにはさすがに躊躇われる金額である。これは見送りだ
な、とランタンは不快な後味に評価を口に出すことを避けた。
﹁水ってこんなに味が違うのね﹂
不思議だわ、とリリオンは水精結晶を指で突いた。
﹁どうして味が違うの?﹂
﹁水は透明だけど、実は目に見えないぐらい小さい色々な物質が溶
けてるんだよ。それの量が違うから味もそれぞれ違う、んだと思う
⋮⋮﹂
757
﹁ふうん、何が溶けてるの?﹂
﹁さあ、知らない。見えないし﹂
水の硬軟を決めるものがミネラルだとかそういった物質の多寡に
よる事は知っていても、その次に来るだろう、ミネラルって何、と
言う質問には答えられないのでランタンは早々に質問攻撃に白旗を
揚げておいた。
﹁それもそうね﹂
リリオンは水の入ったコップを目の前までつまみ上げて目を凝ら
し、何も見えないことに納得したように頷いた。
﹁なかなか興味深い話だねえ、ふうむ⋮⋮それで気に入った水はあ
ったかい?﹂
数少ない軟水の水精結晶の中に気に入ったものはない。ハローヴ
ァの水に比べると、どうしても片手落ちであるというのが正直な印
ぬる
象だ。柔らかさやまろやかさは充分でも、圧倒的に冷たさが足りな
いのだ。
ランタンは冷たい水を温める術は知っているが、温い水をきんき
んに冷やすことはできない。
ランタンはリリオンにも意見を求めたが、少女は慌てて首を横に
振った。ランタンの背中をちょこんと押して、選んで、と囁く。魔
精結晶は二人での戦果なのでリリオンにも選択権があるのだが、少
女はその権利をあっさりと手放した。
﹁⋮⋮実はもう一種、変わり種があるんだけど飲んでみるかい?﹂
店主は迷っているランタンを見かねて、けれどどこか躊躇うよう
な素振りを見せながら水精結晶を一つ取りだした。ほとんど透明に
見える淡い色をした水精結晶だ。水を注がれたコップに鼻を近づけ
てなんとなしに臭いを嗅いだ。無臭である。
ピュアウォーター
﹁フレデリカ・コールラウシュと言う魔道使いの水だよ。⋮⋮曰く
純水って言っていたけど、そう言うことなのかねえ?﹂
﹁純水、ね﹂
ミネラルの含有量が少ない軟水の口当たりが柔らかいのならば、
758
魔道使いの言を信じ不純物の含まれていないこの純水の喉越しはと
てもとても柔らかいはずである。手から伝わる冷たさは残念ながら
常温だったが、ランタンは期待に胸を膨らませて純水を一気に呷っ
た。
﹁⋮⋮、何これ﹂
しゅうれん
ランタンは辛うじて呟いて、リリオンが顔をくしゃりと歪めた。
苦いのか、渋いのか。舌の表面が一気に収斂して厚みを増したよ
うな感覚があった。はっきり言って美味しくない。
﹁そうなんだよねえ。全然美味しくないの、これ。まったく何が純
水なんだか、あははは、はは、は、は⋮⋮﹂
じろりと睨んだランタンに店主の笑い声が引きつり、掠れて消え
た。
﹁⋮⋮ごめんなさい﹂
店主は極小さな声で呟くとしゅんと肩を小さくして居心地が悪そ
うにする。他に何かあったかな、と態とらしく呟きながら棚を漁っ
たりもした。
・
結局ランタンはハローヴァの水精結晶を十個と、適当な軟水の水
精結晶を二個、そして純水精結晶を一個もらうことにして、余った
魔精結晶は換金せずに持ち帰ることにした。
これもまた経験である。何時ものランタンならばわざわざ不味い
水精結晶を選んで購入はしない。これが意味のある行動かはランタ
ンにも分からなかったが、取り敢えずそんな気分なのである。
店主にも、リリオンにも変な目で見られたが。
﹁来月までにはハローヴァの水精結晶、また入れておくから﹂
﹁はい、お願いします﹂
﹁⋮⋮ランタン君!﹂
﹁はい?﹂
﹁あ⋮⋮ああ、いや、うん。また、来店をお待ちしてます⋮⋮﹂
店主はランタンを呼び止めて何故だか壁際の棚や窓に視線を彷徨
わせて、引きつるような顔でそう言った。ランタンは気味悪がりな
759
がらも、ええ、と頷いて水晶洞を出た。
﹁ねえランタン。あれ飲むの?﹂
﹁んー、飲みたいの?﹂
ランタンが意地悪く聞き返すとリリオンは慌てて首を横に振った。
しかし顔にはっきりとした決意を浮かべて続ける。
﹁でもランタンが飲めって言うんなら、飲む﹂
﹁⋮⋮これはお守り用だよ﹂
ランタンは物凄い罪悪感に襲われながら慌てて取り繕った。リリ
オンの決意には悲壮感すら感じさせた。
﹁これほら、不味いから。これを飲むような機会はありませんよう
にって﹂
﹁なるほど!﹂
あっさりとリリオンが納得してくれて、ランタンはこっそりと胸
を撫で下ろした。
純水精結晶はランタンの親指より一回り程度大きい。水筒のソケ
ットに収まるようになっている。極淡い青の結晶はなかなか綺麗な
のでペンダントにでもしてリリオンにくれてやろう。
武具工房はそういった細工もしているだろうか、とランタンは職
人街へと足を進めるのだった。
760
052
052
陳列窓の中に大型の杭状地雷があったので、ランタンはリリオン
の手を引いてふらりと寄り道をした。
その杭状地雷の全長はランタンの身長ほどもあり、この中に炸薬
を詰めるとなるとその威力たるや迷宮そのものを震わせるだろうと
思われた。これはおそらく客寄せ用の飾りで炸薬は抜いてある。と
は言え外観からではその事は分からないが。
ぼけっと口を開けてそれを見つめるリリオンに通常サイズのもの
を見せたら、少女はあからさまにほっとしていた。大型杭状地雷を
必要とする石球にはランタンもできることならば出会いたくはない。
通常使用の杭状地雷は全長四十センチほどだ。それでも中身に炸
薬を詰めれば十数キロにもなる。正直なところそれを迷宮に持ち込
み、えっちらおっちらと石球のある場所まで持って行くのはなかな
か大変なことらしい。重量もそうだが、取り扱いを間違えると誤爆
の可能性だってある。
しかしそんな大変な思いをして石球を倒したとしても、杭状地雷
の費用を回収できるかというとそんなことはない。火薬はそれなり
に普及しているらしいのだが一般市民にはほとんど需要がない。そ
のために何だかんだと高価なのである。
それに杭状地雷を使用すると下手をすれば石球の精核自体さえも
が破壊される。地雷はただ爆発するだけで手加減などと言う機能は
付いていない。
だが石球を止める術を持たない探索者にとっては必要不可欠な兵
器である。
足止め用に火薬入りの撒菱というものもある。痛覚を持たない物
761
質系の魔物などには普通の撒菱では足止めができないからで、それ
は飛行や浮遊、透過などの特殊な特性を持った魔物以外ならば非常
に効果的だ。だがそれは小金をばらまくに等しい。魔道仕込みの撒
菱よりは安いが、気軽に使えないことには変わりないのだから本末
転倒である。
もっともランタンには誘爆の危険性があるので無用の長物であっ
たが。
リリオンは大きな金平糖のようなその撒き菱を物珍しそうに見つ
めていた。
買ってあげようか、とランタンはリリオンの横顔に声を掛けた。
リリオンは、いらない、と素っ気なく返し横目にランタンを捉える。
﹁わたしは逃げないわ﹂
﹁それは何とも勇ましいことで﹂
胸を張ったリリオンにランタンは恐れるように、大げさに驚いて
見せた。
探索者は二種類いる。
逃げる奴と逃げない奴だ、と言うのは探索者全般に広く知られる
事実である。けれどその意味合いは様々だ。勇敢さと臆病さを指す
こともあれば、利口さと愚かさを指すこともある。どちらが正しい
と言うものではなく、立ち位置によって見方は変わる。
ランタンは自分のことを逃げる奴だと思っている。今のところ逃
げ出したことはほとんどなかったが、それは運良くそう言った場面
に出くわさなかっただけで、もし敗色濃い難敵に出会ったら逃げ出
してしまうのではないかと、そう思っていた。
だが今はどうだろうか。己はリリオンを置いて逃げ出すだろうか。
そんなことは無いようにしたいところだが、土壇場になってみなけ
れば人間の本性は分からない。
土壇場に追い詰められないように精進しなければ、とランタンは
殊勝な思いを抱いたりもする。
﹁あ、そうだ。リリオンに水筒買ってあげるよ。今まで共用だった
762
し﹂
﹁⋮⋮わたし、ランタンと一緒のでいいよ﹂
探索用品店に折角立ち寄ったのだからとランタンが提案してみた
が、リリオンは意外なことにそれを喜ばなかった。少し驚いたラン
タンが思わずリリオンの顔を見上げると、少女は下唇を巻き込むよ
うに噛んで上唇を嘴のように尖らせていた。
ちょっとだけ恨めしそうな視線がランタンの顔を突き刺した。
﹁ランタンはわたしと一緒に使うのは嫌なの?﹂
﹁そんなことはないよ﹂
﹁じゃあ、⋮⋮なんで急に。今までそんなこと言わなかったのに﹂
面倒くさい子だな、と思わなくもない。あるいは繊細さと呼び変
えてもいいのかもしれないが。何だかんだでリリオンは年頃の女の
子なのだ。なかなか難しいものである。
ランタンは大人びた表情で、ふうむ、と顎を撫でた。髭がないの
で全く様にはならず指が上滑りしている。
﹁水飲む時、いちいち受け渡しするの面倒でしょ?﹂
﹁そんなことないよ。面倒くさくないよ﹂
﹁自分用の水筒欲しくないの?﹂
﹁欲しくない﹂
﹁ああそう。でも水筒が二個あるに越したことはないでしょ? も
し一個が壊れても予備があるって事だもん﹂
﹁もん?﹂
﹁⋮⋮うるさいよ。どっちにしろ水筒はもう一個買うから。これは
決定事項です﹂
最初は優しく言い含めていたのだが結局ランタンは強権を発動さ
せた。リリオンは文句こそを言わなかったがまだ少しだけ不満気だ。
少女からしてみれば自分用の水筒を得られると言うよりも、今まで
許可されていたものを取り上げられるような感覚なのかもしれない。
﹁一個は飲料用。もう一個は料理用。これでどう?﹂
﹁それなら、いい﹂
763
ランタンの譲歩にリリオンはようやく頷いた。
今までは飲料水も料理も、それどころかちょっと手を洗ったり口
を濯いだりするのも同じ水を使っていた。使い分けをすることで、
金銭的にも美味しい水的にもずいぶんと節約できることになる。
﹁じゃあなんで今までそうしなかったの?﹂
﹁一人で二つも水筒持つなんて変だから﹂
﹁⋮⋮それもそうね﹂
その後、ちょっと店内を見て回った。大型の探索用品店は近代的
な造りだ。商品の全てが店主の目に見える位置にあって店主と客が
受付台越しにあれやこれやと会話をしながら買い物をするような店
ではなく、大量に並べられた陳列棚に商品が並べられて客は自由に
それを手に取ることができる。
それなりに客層が良いからこそできる芸当だろう。落ち着いて品
定めができる代わりに、価格設定が客を選んでいる。
﹁荷車か﹂
戦利品を持って帰る為の荷車の前でランタンが少しばかり考えて
いた。それは折りたたみ式で車輪が小径の最小サイズの荷車だ。そ
れでも最大積載量は二百キロにもなる。背嚢に詰め込んだり、両手
で抱えたりするよりもずっと多い。
探索用品だが、探索者が使うものではなく運び屋が使うものだ。
迷宮からの戦利品として魔精結晶以外にも手を出そうかと思ってい
たが、最小サイズでもかなり邪魔になりそうだ。二百キロの積載量
は余裕というよりは過剰であった。
﹁わたしが運ぼうか?﹂
﹁ご冗談を探索者さま﹂
﹁もう、ランタンったら﹂
結局見切りを付けて探索用品店を後にした。武具工房への行くま
でのちょっとした寄り道をしただけであって、まだ必要に迫られて
いるというわけではないのだ。
グラン武具工房からは今日も今日とて気持ちの良い金属音が鳴り
764
響いている。
こっそりと扉を開ければ足音が掻き消されてしまいそうなほどだ
ったが、受付にいる見習い小僧はだらけることなく真面目に受付を
していて入店と同時に声を掛けられた。
グランは別の客を接客中で、リヒトも当たり前だが仕事中らしか
った。
ランタンが取り敢えず受付の見習い小僧に腰の飛刀を見せてみる
と、見習い小僧は偉そうな感じでふんと鼻を鳴らして眉根を寄せた。
なかご
飛刀は柄を取り払ってあって刀身のみにしてある。剥き出しにな
った中子に銘は刻まれていない。迷宮が創り出したのか、それとも
文字通りの無名の鍛冶屋の作なのか。
見習い小僧は飛刀を検品している。それなりに様になっているよ
うにも見えたが、ごっこ遊びをしているようにもランタンには見え
ドロップ
た。信用度の問題か、それとも本人の経験の問題か。
﹁迷宮由来品なんだけど﹂
﹁⋮⋮うちは武具工房であって武器屋じゃねーぞ﹂
どういう意味か分からずにランタンとリリオンが二人揃って小首
こにく
を傾げると、見習い小僧はやれやれと溜め息を吐き出した。何とも
小憎たらしい。ランタンはちょっとだけの苛立ちを指先に乗せて、
かちんと爪で受付台を叩いた。
曰くグラン武具工房は、余所様の武器の研ぎや修理などは請け負
っているが、余所様で造られた武器に柄や鞘を拵えて転売などはし
ない、と言うことらしい。見習い小僧は、よりにも寄って迷宮由来
品なんか持ってきやがって、と苛立ちを露わにした。
見習いのくせに職人意識だけは一人前だ。ランタンは薄く笑う。
リリオンがその表情を咎めるようにランタンの脇腹を突いた。
﹁別に溶かしてくれても構わないんだけど﹂
﹁あ、そうなん? でも、これ⋮⋮たぶん地金代にもなんねーぞ﹂
﹁そうなの?﹂
﹁ああ、これ何の金属か分かんねーけど多分な。うちにも炉はある
765
けど、少量だとコストがな。ほら、通りの一番端にある製鉄所、あ
っこ持ってった方がたぶん高いぞ﹂
﹁ふうん、そんなものか。でもそんなこと言ってもいいの?﹂
クリスタルケイブ
正直なことは美徳だが、商売人としては甘いと言わざるを得ない。
水晶洞のように店主がそれを言うのならば何の問題もないが、見習
い小僧はグラン工房において完全なる下っ端で何の権限も有してい
ない。
﹁あー、大丈夫なはず。⋮⋮たぶん﹂
その言葉には何の根拠もないらしく、見習い小僧はちょっと扉が
鳴っただけで大げさに椅子から飛び退いた。その無様をランタンは
笑うことはせず反応の良さにむしろ感心していた。そして同時に注
意深く扉へ視線を走らせた。
扉の奥から現れたのはグランと背の高い男だった。二人は和やか
な様子で何か話しながら扉をくぐった。けれど男の視線が油断無く、
小僧を素通りして一直線にランタンに注がれた。
鋭い眼だ。
雰囲気、足運び、体格、目付き。そう言ったものの全てが男が探
索者、それも上等な探索者であることを告げていた。
まだ年若く二十代前半ぐらいだろうか。顔つきは栗毛の髪がよく
似合う優男っぽい感じの二枚目だったが、首が顔よりも太かった。
また筋肉の隆起によって作られた撫で肩が、そのなだらかさとは裏
腹に物騒な気配を湛えている。
男は白い布に包まれた棒状のものを肩で支えていた。武器の新調
でもしたのだろう。リリオンの大剣よりも射程のある武器だ。男の
白布を握りしめる手つきは優しげだったが、その中身は優しさとは
無縁のものだ。槍、いやあの太さは棍か、とランタンは白布の中身
を想像した。
﹁グランさん。彼もここの?﹂
男はグランに尋ねるや否や滑らかな足取りでランタンに歩み寄っ
てきた。上背があり、身体の厚みも相当だ。だが重さを感じさせな
766
い歩き方だった。
男の間合いに入る瞬間に強張りそうになる身体をランタンはどう
にか押さえつける。近付くと男の鎧に不思議な柄があることに気が
付いた。木目にも似たその縞模様は特徴的だ。これもグラン工房作
だろうか。
男はさも親しげに手を上げてランタンに話しかけようとしてきた
が、ランタンは男のことを知らない。
よくあることだ。
﹁こんにちは、初めまして﹂
機を制し、口を開き掛けた男よりも先にランタンが声を掛けた。
すると男は少しだけ驚いたような素振りを見せる。ランタンはその
まま畳み込むように、男のぼんやりと上げた掌に向かって自分の掌
をパチンと叩きつけた。まるで旧来の友人に会ったかのように。
たこ
やり過ぎかもしれないが、初撃は肝心だ。たとえそれがはったり
だとしても。
男の掌は皮が厚く胼胝のように硬くなっていて、冷や汗が出てい
た。ランタンはごく自然に掌をズボンで拭った。
友好的な笑みを浮かべて声音さえもが余所行きになったランタン
に店内にいる全ての人間が、リリオンさえも、気味悪がるような視
線を向けていた。
﹁お、おう、初めまして。俺はゼイン・クーパーだ。君の活躍はよ
く聞いているよ、ランタン﹂
対面にして視線を交えているクーパーだけはどうにかその違和感
を笑みの中に隠しているようだったが唇の端が引き攣り、声が僅か
にうわずった。
多くの探索者たちは友好的なランタンというものを見たことがな
かった。勧誘でなくとも話しかけても取り付く島もなく頑なで、ハ
リネズミのようにつんつんしているのがランタンだった。それが急
に友好的になったものだからクーパーはひどく混乱している。
ランタンは迷宮で出会うどんな魔物よりも奇妙な生き物だったの
767
かもしれない。
その奇妙な生き物であるランタンは、迷宮の魔物と同じく探索者
の隙に付けいった。そして会話の主導権を握ったのである。
だが相手も手練れの探索者ですぐに体勢を立て直して、会話の主
導権を奪い返そうとする。先制を取ったランタンが有利であったが、
しかしクーパーは余裕を見せてにっと笑った。口が大きく、歯並び
が良い。
一進一退の攻防は、けれどある一撃でクーパーの側に大きく傾い
た。
﹁いやあ、そんな謙遜することはないさ。噂になっているよ。君が
ギルドに助力を請われて麻薬密売組織を壊滅させたって﹂
﹁そっ、⋮⋮それはどこで?﹂
クーパーの一言に頬を殴られたように表情を歪めたランタンは、
だがどうにか奥歯を食いしばった。知らぬ素振りをしていた方がよ
かったかもしれない、と思っても後の祭りだ。
パブ
ランタンの動揺はそのまま言葉になって吐き出されてしまった。
われわれ
﹁どこでって俺が聞いたのは、すぐそこの酒場さ。はっはっは、照
れることはないさ。︱︱俺は感動したんだ。探索者に付け入る密売
人に憤り、そして迷宮病に掛かった探索者を助ける為に戦ったんだ
ってな。俺は君のことを誤解していたのかもしれない︱︱﹂
ランタンは混乱でクーパーの話を半分ほど理解できなかったが、
それでもずいぶんと話が脚色されていると言うことだけは分かった。
男の口から語られた事件の顛末は、背中がぞわぞわとするような
美談である。その怖気が僅かにランタンの頭を冷やした。
男の話は尾びれ背びれが付いてその上に話が捻じ曲がって伝わっ
・ ・
ているが、ずいぶんと仔細は詳しく、その元になったものがランタ
ンとテスが共同で作り上げた真実であることが窺える。
情報が漏洩していると言うことだろうか。すでに把握しているか
もしれないが今度会うことがあったらテスか司書に伝えておこう。
混乱の中に残る冷静さがランタンに思考をさせる。
768
ランタンは衝撃を受けてまだ混乱していたが、探索者らしくその
一定以上の混乱はむしろ平静を取り戻すための呼び水となった。
ランタンは表情に微笑みを貼り付けて、当然のことをしたまでで
すよ、と強制的に混乱の元である話題を終了させた。
謙遜し、多くを語らぬランタンにクーパーはなにやら感銘を受け
バード
たように深く頷いた。
﹁さすが吟遊詩人に歌われるだけのことはある。俺も斯くありたい
ものだ﹂
﹁ぶ︱︱﹂
噂話じゃなかったのか、と怒鳴り散らしたいのをどうにか飲み込
む。こめかみが震える。
吟遊詩人と言っても、壮大な叙事詩に仕立て上げられているわけ
ではないのがせめてもの救いだった。吟遊詩人はただちょっとおも
しろおかしく、噂話に節を付けて話を伝聞しているだけのようだ。
その言葉に思わず吹き出したランタンは軋むほどに奥歯を噛み、
自らの太股を抓った。ランタンは喉の奥底で極小さく、スピーカー
野郎が、と悪態を吐いて気持ちを静める。
今はこの男をあしらうことが先決だ。男を問い詰めたところで、
どうにもなるものではない。
﹁どうか君と一緒に探索させて貰えないだろうか﹂
﹁ありがたいお誘いですけど、今は探索途中の迷宮がありますので。
探索者たる者、探索を途中で投げ出すなんて事はしませんよ﹂
﹁うむ、それもそうだな。ならその探索が︱︱﹂
﹁それに探索中に他の迷宮の事なんて考えてたら未帰還になってし
まいますよ。まず目の前にあることを一つ一つちゃんと仕留めない
といけませんからね﹂
﹁ああ、そうだな。うん、それもそうだ﹂
﹁でも、こんな風に会ったのも何かの縁かもしれないですね﹂
﹁そうだろう! そうだろう!﹂
﹁ええ、またその縁によってご一緒することもあるでしょう。その
769
時が楽しみですね。はい、じゃあ、いずれ。はい、はあい。機会が
あれば、また。はい、さようならあ﹂
完璧な笑みを浮かべランタンは手を振ってクーパーを送り出した。
クーパーは満足気に笑みを浮かべて、それでいてそわそわとした浮
かれた様子で店を出て行った。ランタンはクーパーが軒先で一度振
り返り、そして完全に背中を向けたのを確かめて表情を洗い流した。
微笑みからの落差たるやランタンの表情は冷たさを通り過ぎて、
冷酷と言ってもいいほどになっていた。
﹁⋮⋮どういうことだ?﹂
ランタンは辺りに漂う何とも言えない空気を敏感に感じ取ってい
たが、知ったことではないので無視をした。腕を組んで、眉間に深
く皺を寄せて嘆息する。しばらく店内の中にある沈黙に身を委ねて、
それを切り裂くようにがりがりと髪を掻いた。
解凍されたリリオンがランタンの外套を引っ張る。
何か色々聞きたいことがあるようなこんがらがった表情をしてい
る。
﹁ランタン、⋮⋮あの人と探索するの?﹂
﹁しないよ﹂
﹁でも、さっき⋮⋮﹂
﹁一言も探索するなんて約束してないし。勘違いするのは向こうの
理解力の問題で僕の知ったこっちゃ無いし﹂
ランタンは冷たい口ぶりでそう言った。リリオンは煙に巻かれた
ように小首を傾げていたが、ランタンがクーパーと探索をしないと
言うことに安心したように頬を緩めた。それを合図にするように工
房で硬く強張っていた空気も緩み、グランがどっと疲れを滲ませな
がら呟く。
﹁おう、ランタン。お前何しに来たんだよ。客を勝手に帰すんじゃ
ねえよ﹂
﹁︱︱グランさんとお話をしに来たんですよ。それに僕がいたら他
のお客はいらないでしょう?﹂
770
ランタンが再びにっこりと花咲くような笑顔を浮かべるとグラン
はさも嫌そうな顔をして、やめろやめろ、と髭に埋もれた唇を歪ま
せた。見習いの小僧もしきりに同意している。
笑顔を安売りしすぎたな、とランタンは二人の反応をつまらなく
思った。
ランタンは無理をして引きつった顔の筋肉を揉みほぐす。
﹁ったく与太飛ばしてんじゃねえよ。で、本題は何だよ﹂
グランはそう言って受付台の奥の、先ほどまで見習いの小僧が座
っていた椅子にどかりと腰を下ろした。見習いの小僧は立っている
ことが当たり前であるようにグランの脇に控えている。
﹁取り敢えずは、まずこれを引き取って頂きたくて﹂
受付台の上に転がる二振りの飛刀をグランは一瞥した。見た目は
ただの片刃の剣であったがグランは一瞥しただけで、それが飛刀で
あることを見抜いた。
﹁物質系の迷宮に行ってんのか。ふうん、だがこれじゃあ地金代に
も︱︱﹂
見習い小僧と同じ事を言っている。ランタンが思わず笑い、その
事実を告げるとおやと眉を上げて小僧の頭をむんずと掴んだ。見習
い小僧は一瞬握り潰されるのではないかと言うような、怯えた表情
を見せたが、グランは意にも介せずにぐしゃりと頭を撫でた。
﹁ちゃんと勉強してるな﹂
﹁う、うす!﹂
﹁製鉄所に持って行った方が高値だって、アドバイスも貰いました
よ﹂
﹁ば︱︱おま︱︱﹂
素知らぬ顔で告げ口をしたランタンを見習い小僧は信じられない
ものを見るような物凄い形相で睨み付けた。目と鼻と口が全部丸く
開かれている。グランは頭を撫でていた手を持ち上げると、そのま
ま見習い小僧の背中をばんと叩いた。見習い小僧はその勢いにつん
のめって大げさに受付台に手をついた。まだ鍛冶仕事をあまりして
771
いないのだろう、小僧の身体付きは職人たちに比べてずいぶんと細
身なのだ。
﹁まったく勿体ねえ事すんなよ。小僧はカモなんだからぼったくっ
てやれよ﹂
﹁丸聞えですが﹂
﹁おっといけねえ﹂
グランはわざとらしく、ぐはは、と髭を振るわせて笑った。そし
て不意に真剣な顔つきになって飛刀の一振りを手に取った。眼を細
めて、視線が刀身を滑る。見習い小僧と同じように、だがそこにあ
る雰囲気は隔絶している。
﹁アルミニウムの合金だな。軽い割りに強度も撓りもまあまあだ。
造りもそんなに悪くない。まあ軽すぎるっちゃ軽すぎるか﹂
グランはいっそ楽しげである。
鍛冶職人としての矜恃か迷宮によって生み出された武器防具を快
く思わない鍛冶職人は多く、見習い小僧のように持ち込んだ傍から
嫌な顔をされることもある。だがグランにはそれが全く見られない。
熟練の職人として、その世界の頂きに至るような経験や知識、技
術を持っているのにもかかわらず、この老人の好奇心というものは
赤子のように無邪気で貪欲だ。何とも頼もしいことである。
グランは飛刀を片手に指差して、見習いの小僧に銅の比率がうん
たら、鋒の造りがなんたらと講釈を垂れている。
職場のどころか、鍛冶職人としての最下層に位置する小僧からし
て見ればグランの存在は神に等しいのだろう。その知識の一端に触
れると言うことは、小僧にとって震えるほどの喜びなのだ。が、ラ
ンタンには関係のない話なのでするりと水を差した。
﹁ちょっと待っててあげればいいのに﹂
リリオンに小言をもらったが気にしない。小僧は噛み付きそうな
顔をしているが、魔物の唸り顔に比べれば可愛いものだ。生温い視
線をランタンが送ると、見習い小僧はさも嫌そうに、そして悔しそ
うに顔を背けた。
772
﹁おう悪いな。こいつの買い取りなら製鉄所より、武器屋に持って
行った方がいいぜ。柄も鞘も作り直さなきゃなんねえから足元見ら
れるかもしれんが、迷宮由来品を有り難がる奴は多いからな﹂
この師匠にしてこの弟子ありだな、とランタンは目を伏せて笑い
を堪えた。
﹁これは手土産みたいなものなので、買い叩いてくださっても構い
ませんよ﹂
﹁やだよ、坊主に借りを作ったら後が怖え。ちゃんと然るべき所で
売れよ。安売りしたって良いこたあねえ﹂
グランはそう言って小僧に飛刀を纏めさせた。どうせ剥き出しで
持ち歩いているのだろうと、二振りを一纏めにして布で包み紐で固
定する。そしてさらに受付の奥から丸椅子を二脚寄越してきた。至
れり尽くせりだ。椅子の脚が多少ぐらつき、尻をおいた座面が硬か
ったが。
﹁申し訳ありません。ありがとうございます﹂
﹁気にすんな。どうせ商売っ気のある話もあるんだろ﹂
﹁商売っ気があるかは分かりませんが、少しばかりご相談が﹂
それは投擲武器についての相談である。積極的に欲しいとは言わ
ずちょっと気になっているんですけどと言う程度だが、グランは腕
を組んで深く唸った。
﹁それでそんな不細工なもんぶら下げてるのか﹂
腕組みを解いたグランはまるで喝上げでもするかのように分厚い
手を突き出して、ランタンの腰に下げた手斧を差し出すように言っ
た。ランタンは何か妙な気恥ずかしさを感じながら、おずおずとそ
れを差し出す。
﹁坊主の手にはちょっとでかいな﹂
感想はそれだけで、グランはすぐに興味を失ったように受付台の
上に置いた。
﹁あんまりみっともねえもん腰に下げてるなよ。ランタンの名が泣
くぜ。さっきの男ずいぶんと感動してたじゃねえか﹂
773
ドラッグ
﹁⋮⋮薬物でもキメてラリってたんじゃないですか﹂
﹁酷えこと言ってやるなよ。褒めてくれたんだからよ﹂
身に覚えのないことを褒められたくなんかない。ランタンは唇を
への字に曲げた。
﹁いやあ、まあしかしなんだ。坊主も成長したなあ﹂
﹁何ですか? 藪から棒に﹂
不意にグランは遠くを見つめるように、腫れぼったい瞼の下に穏
やかさを湛えた。
﹁さっきの探索者とのやり取りを見てよ。あのべそべそしたガキが
一丁前に探索者を手玉に取れるようになったんだなあってよ﹂
﹁べそべそって何ですか﹂
ランタンが嫌そうな顔つきになると、途端にリリオンは目をきら
きらと輝かせた。
そんなリリオンの期待の視線に気を良くしたグランは、ああそれ
はな、と髭を捩りながらしたり顔で語り出した。見習いの小僧さえ
も興味津々にしている。
﹁昔な、店先でさっきの男みたいに坊主にしつこく絡んでる探索者
がいたんだよ。そん時の坊主はこんなに生意気じゃなくて、そりゃ
あまあ大人しくってなあ。泣きそうな顔して黙っちまっててよ﹂
﹁泣きそうになっていません。ただ無視していただけです﹂
﹁間に入ってやったら、ありがとうございますう、つって震えてた
のはどこの小僧だったかなあ?﹂
そんな甘ったれた言い方はしなかったし、震えてもいないはずだ。
グランはどうやら年寄る波に勝てずに耄碌しているようだった。そ
うに決まっている。ランタンは不機嫌そうに唇を結んだ。
﹁信じられない! へえーランタンもそんな風だったのね! ねえ
ランタンランタン! 耳赤いよ、なんで?﹂
﹁知らん﹂
グランは目尻に深い笑い皺を寄せて、困っている少年とじゃれつ
く少女をのやり取りを眺めていた。しかしランタンがきっと睨むと、
774
途端にその笑みを髭の中に引っ込めてしまう。そしてにやりと太く
笑った。
﹁成長を実感できるってのは良いもんだと思うがなあ。誰だって最
初っから達人って訳にはいかんのだから、そんなに恥ずかしがるこ
ともねえだろう。俺にだって見習いの時分はあったんだからよ﹂
グランだって最初から老人だったわけではない。だが何となくこ
の場にいる年若い三人は驚いたようにグランを見つめた。グランな
らば生まれたその時から髭が生えていて、鍛冶金槌を携えていても
不思議な気はしなかった。
﹁まあ俺はべそべそなんてしなかったけどな。しかしなあ、そんな
べそべそしてた坊主が︱︱﹂
﹁しつこいですよ﹂
﹁︱︱叙事詩になるなんてなあ﹂
﹁なってません! ただの噂話です!﹂
ランタンが珍しくも思わず怒鳴った。
クーパーと話していた時はどうにか持ち堪えていたのだが、気持
うた
ちを隠す必要も無くなったランタンは苦虫を噛み潰したような表情
を作った。
﹁いいじゃねえか。滅多にあることじゃないぜ。それに詩の出来が
良かったみたいじゃねえか?﹂
無責任なことを言うグランに文句の一つでも言ってやろうとした
ランタンは、けれど背後からの嬌声に背中を強く叩かれた。
﹁ランタン、わたし︱︱!﹂
リリオンが思い出したとでも言うように椅子を蹴っ飛ばして立ち
上がり、ランタンにしがみつくように抱きついた。ランタンは椅子
から転げ落ちそうになりながらもどうにか持ちこたえて、リリオン
を押し返した。少女は餌を目の前にした犬のように興奮している。
﹁︱︱わたしも聞きに行きたいですけど!﹂
何かほざいている。
ランタンはその言葉を冷たく無視して、無言で少女を椅子に座ら
775
せた。
人形にそうするように肩を押さえ、襟元を正してやり、頬に触れ、
髪を一撫でした。その間ランタンはじっとリリオンの目を見続けた。
撫で、押さえつけた前髪と同じように、リリオンを大人しくさせる。
無言の圧力にリリオンはすっかり沈静化して黙りこくった。
ランタンは無駄に優美に振り返り、演説でもするように受付台に
手を突いた。そして恐ろしく真顔になって平坦な声で告げる。
﹁グランさん、取り敢えず吟遊詩人にぶち込むのに一番適した奴を
見繕って欲しいのですけど、どれがいいですかね? 街中の吟遊詩
人の数と同じ数だけ欲しいんですけど﹂
金に糸目は付けませんと告げたランタンに、グランはいよいよ呆
れたように溜め息を吐き出した。
その背後で見習い小僧が、だらだらと冷や汗を掻いていた。
ランタンの眼はこの上なく本気だった。
776
053
053
バード
イーター
吟遊詩人喰らいと言う名前の蜘蛛の魔物がいる。
そうグランが教えてくれた。熟練の武具職人である老人はまるで
怪談話の語り部のように、深く、重く、冷たい語り口でランタンの
背筋に触れた。
ランタンはその自らの意思に合致する存在にわくわくとしながら、
そしてごくりと唾を飲んで話の続きを急かした。そんなランタンを
じらすように、グランはたっぷりと間を開けて髭の下から蜘蛛の生
態をランタンに語る。
蜘蛛は瓢箪型の胴体部が二十センチほどもあり、そこから生える
四対八本の脚は男の指のように太く先端にびっしりと産毛のような
糸針が生えている。その針は無痛であり即効性の麻痺毒を有してい
る。大型のその蜘蛛が身体を這い回っていても、獲物は麻痺毒によ
りそれを感知できないと言うのだ。
何とも恐ろしく、期待の持てる話である。
吟遊詩人喰らいは気づかれぬうちに獲物の肉を喰らう。
細く鋭い一対の牙は管状になっており、タンパク質溶解毒を獲物
に注入することができる。夜行性のこの蜘蛛はぐっすり寝入った獲
物の喉にこの牙を突き刺して、液状になった肉を夜な夜な啜るので
ある。
獲物となった生き物は気が付いた時には身体が動かず、叫び声を
バード
イーター
上げることもできない。そして生き延びたとしても永続的に声を失
うこととなる。故に吟遊詩人喰らいと言う。
げに恐ろしき魔物である。残酷である。
そして吟遊詩人喰らいに着眼点を得て、それを元にして作られた
777
武器が。
﹁ないぞ﹂
﹁ないですか﹂
﹁ああ、ない﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
冷や水を掛けられたように冷静になったランタンは、ぽかんとし
てがりがりと頭を掻いた。グランはそんなランタンを見つめている。
してやられた。
長々とした蜘蛛の説明も、その背筋が冷えるような語り口調も全
てはランタンを冷静にさせるための時間稼ぎに過ぎなかったのだ。
そう気が付いたランタンは不承不承、吟遊詩人根絶計画を諦めるこ
ととして、件の噂が早期に風化することを祈った。
吟遊詩人をぶち殺したところでもう広まってしまった噂を止める
ことはできないだろう。
人の噂も七十五日と言う格言を信じるか、別の話題によって掻き
消されることを願って大人しくすることしか、今はできない。そう
言うことだ。
﹁大人しくねえ、坊主が﹂
﹁なんですか﹂
﹁いいや、なにも﹂
グランが皮肉気に呟いて、それに噛み付いたランタンを面倒くさ
そうに一蹴した。
残念ながら吟遊詩人殺しに特化した武器は投擲武器に限らず存在
しない。
そもそも探索者が投げつければ生卵だって脳しんとう程度なら引
き起こせる凶器に成り得る、とグランは言った。
だから吟遊詩人などと言う一般人と何ら変わらない肉体しか持た
ない生き物を死に至らしめるのには特殊な武器を求める必要など無
い。道端で小石の一つでも拾い、それを投げつければ充分に殺傷で
きる。
778
必要なのは殺意と、それを実行する行動力だけだ。
﹁しませんよ。計画は中止になりました。再開日時は未定です﹂
グランは大いに呆れた。髭が揺れるほどにため息を漏らす。
﹁するとは思ってねえよ。第一お前らの相手は人じゃなくて魔物だ
ろうが﹂
﹁⋮⋮そう言えばそうですね﹂
ランタンは冗談ともつかない呟きを零すとついに完全な冷静さを
取り戻したのか、身体を投げ出すように椅子に腰を下ろした。肉の
薄い尻が座面にこすれて尾てい骨が痛んだ。ランタンは自分の尻を
撫でるついでに、外套を尻の下に織り込んで座り直した。
﹁冗談はさておいてよ。なんだってまた投擲武器なんか欲しがるん
だ?﹂
グランは受付台に肘を付いてランタンに尋ねた。
﹁坊主は今あれだろ。物質系の迷宮に潜ってんだろ﹂
グランは飛刀を指差す。
﹁やつら相手じゃ、投擲武器はほとんど使い物にならんだろ﹂
物質系魔物の多くは硬質な外皮を持ち、またそれを貫いたとして
も出血も、臓器や神経へのダメージも、あるいは衝突による衝撃で
の昏倒も期待することはない。それらが全くの無意味とは言わない
が、余程武器の扱いに習熟していない限りは活用できる場面は少な
いだろう。
﹁まあそうなんですが、強いて言えば何となくでしょうか﹂
ちょっと小技を増やそうか、と思ったりもしたがそれが積極的な
理由ではない。リリオンよりも投げるのが下手だったのが癪に障っ
ハチェット
たというのも少しはあるが、それも口に出すに足る理由にはならな
い。手斧を手に取ったのも気まぐれでしかない。
決定的な理由は薄暗闇の中にぼんやりとして、ランタン自身でさ
え定かではない。
﹁そうか、なんとなくか。ま、そんなこともあるよな﹂
それでもグランは納得したように一つ頷いた。そして顎をしゃく
779
って飛刀を示し、あれを持ってきたのもなんとなくか、と続けた。
﹁今まであんなもん滅多に持ってこなかったじゃねえか﹂
ランタンは迷宮から魔精結晶以外を持ち帰るような事はほとんど
フラグ
ない。
最終目標や余程の強敵と相まみえた時に持ち帰りやすそうであり、
なおかつ価値のありそうな部位をほんのちょっと試しに持って帰る
ぐらいのものだった。
そう言えばなんでだろうか、とランタンが黙っているとグランは
なめ
小さく笑った。ランタンの自らでさえ意識できない心境の変化を眺
めて楽しむように。
﹁俺らにしたらありがたい事なんだけどよ﹂
グラン武具工房は仕事をする際に必要とあらば木を削り、革を鞣
し、布を織る事だってあるが、やはり主立って使用する素材は金属
である。武具の素材の少なからずは迷宮から運ばれる。
物質系の迷宮からは未知の鉱物が思いの外よく採れる。
それは未知の比率で作られた既知の合金である場合もあるが、本
当に名前すらない謎の物質である事もある。その全てが素晴らしい
特性を持っているとは限らないが、だがそれでもグランとしては、
あるいは職人全ては、そのような未知の素材は職人魂をかき鳴らす
のだという。
﹁で、どうよ。今回の迷宮は、何か面白そうなもんは出そうか?﹂
﹁んーいつも通り︱︱、でもないですね。そう言えば﹂
ずいしょう
未知の鉱物はなかったが、未知の石獣はいた。見た事もない魚形
の石獣。
﹁ほう魚形の石獣か。そりゃあ瑞祥かもな﹂
﹁⋮⋮ずいしょう?﹂
﹁良い事が起こる前触れってことだ﹂
﹁前触れって、そんな﹂
魚形の石獣は幸運をもたらすにしてはずいぶんと不格好で、むし
ろ不運に押し潰されているようにすら見えた。
780
﹁僕はそんな形の石獣を初めて見たんですけど、よくある事なんで
すか?﹂
﹁よくって事はないだろうが、まあ話は聞くな﹂
グランは髭を揉んだ。
奇形の石獣はそれなりに出現する事があるらしい。
魚形に限らず、やれ鳥形の石獣が自らの重みに羽根を折って藻掻
いていただとか、虫型の石獣が細い脚で自重を支えられず足掻いて
いただとか、蛇型の石獣がとぐろを巻こうとしてばらばらに折れ砕
けただとか目撃証言は様々だ。
﹁坊主はあれ知ってるか? キリンって動物﹂
﹁知ってますよ。脚と首の長い馬ですよね﹂
﹁ああ、そうだ。そのキリン形の石獣ってのが出た事もあるんだよ﹂
なんでもその石獣は天井の高さが足りずに、足を折り曲げ、首を
折り曲げ、迷宮にぎっちりと詰まっていたらしい。その奇妙なオブ
ジェクトに出会った探索者の心情を想像してランタンは思わず小さ
く吹き出した。
﹁笑っていられるのも今のうちだぜ﹂
﹁何がですか﹂
﹁坊主が出会った魚形の石獣ってのは、どんな大きさだった?﹂
試すように渋く笑ったグランにランタンは、これくらいです、と
手を広げて答えた。抱え上げられそうな程の大きさは、五十センチ
かそれぐらいだろう。本物の魚ならばそれなりに食いでがありそう
フラグ
だが、その石獣はランタンの腹を満たすには足りなかった。
﹁昔出たんだよ。最下層に。最終目標として魚形の石獣が。︱︱鯨
の石獣がな﹂
それはグランが生まれるよりももっともっと昔の、いわゆる伝説
という奴である。
正確な記録は残されていないが全長三十メートル以上、体重はち
ょっと想像もしたくないほどの鯨の石獣は水も無い最下層にあって
ただただ横たわっていたらしい。
781
魔精の霧越しに観察するとその巨大さ故に輪郭を捉えることがで
きずに、魔精鏡はただぼんやりとした青を全面に映しただけだった。
そして恐る恐る踏み行った探索者たち待っていたのは、この世の
地獄の阿鼻叫喚だった。
人の魔精を察知した鯨の石獣は、数百トンでは到底足りもしない
その巨体を地面の上で跳ねさせたのだ。
飛び跳ね、転がり、身悶え、戦慄き、震え、のたうっただけでそ
こに発生した衝撃は屈強な探索者を吹き飛ばした。そこにある、戦
意そのものも。
轟音と地揺れは迷宮内を駆け抜けて地上まで到達して、最下層の
地面は一瞬にして全てが砕け、捲れ上がり、陥没し、天井からはつ
きる事なく瓦礫が降り注いだ。探索者は一瞬にして討伐を諦めて追
われるようにして地上へと帰還した。
﹁僕でもそうする⋮⋮、それでどうしたんですか﹂
はっきり言ってどうする事もできない。
迷宮核の魔精によってその石獣は自重で潰れず、暴力的な自重を
飛び上がらせるほどの力を得ていた。これはもう迷宮が自壊するま
で待って、最終目標が迷宮に再吸収されるのを願うか、あるいは地
上に押し出された場合には最終目標が魔精不足でくたばるのを待つ
しかない。
﹁それも考えたらしい。だが物質系とは言え地上に出たからと言っ
てすぐにくたばるわけでもなし、それまでに街が破壊、⋮⋮壊滅す
る可能性の方が大いにあった。その石獣は最下層の檻の中で仕留め
にゃらならなかった﹂
これはもう契約した探索者や、探索者ギルドだけの問題ではなか
った。二分の一の賭けなどしている場合ではなかった。
﹁どうやってやっつけたんですか?﹂
尋ねるランタンに、グランは胸を張った。
﹁︱︱焼いたのよ。探索者ギルドと、魔道ギルドと、職人ギルドが
総出で﹂
782
だが最下層を炉や窯と見立てたのはよかったが、如何せん火力が
足らなかった。
ありったけの火系の魔道使いを投入したが温度を高温に保つ事が
できなかったのだ。なので職人たちで迷宮内に線路を張り、コーク
スや石炭等を最下層まで運んでぶち込み、さらに最下層からの熱力
で動く送風機までもを組み立てたのだという。風の魔道使いを使わ
なかったのは、魔道使用による魔精の減少を補う魔精薬の量が足り
なかったからだ。
三日三晩、炎を放ち、石炭を放り込み、風を送った。そしてつい
に鯨は氷のように溶けたのだ。
それでも跳ねる度に溶け出した表面が飛び散り、幾人かの魔道使
いを道連れにした。だが次第、小さくなった鯨はついに活動を停止
した。溶け出してから更に三日後の事だ。
討伐された鯨から抉り取った迷宮核はぐずぐずに焼け焦げていた
らしい。
かくして街に平和が訪れた。
のだが、それをめでたしめでたしで終わらせることはランタンに
はできなかった。
﹁⋮⋮いっこもいいところ無いじゃないですか。超強敵に、魔精薬
の大量使用、迷宮核もダメじゃ赤字どころか破産ですよ﹂
魚形の石獣は瑞祥どころか凶兆ではないか。
﹁ところがどっこい、各ギルドは大いに潤った。何せその石獣は黄
金でできていたらからな﹂
﹁⋮⋮黄金?﹂
凄い、と言う前に大暴落しそうと思ってしまい黙ったランタンに、
グランは肩透かしを食らったような顔つきになった。その顔を見る
と申し訳なくなるが、今更驚く振りをするのも間抜けっぽいのでや
らなかった。
この世界でもやはり黄金の価値は貴金属の中で頂点に位置し、今
でもそれは変わらないのでそれなりに上手くやったのだろう。三ギ
783
ルドの話しか聞かなかったが、もしかしたら商人ギルドも関わって
いるのかもしれない。
﹁なかなか興味深い話でした。面白かったです﹂
﹁⋮⋮まあ、いいけどよ﹂
ポーター
グランは不意に真顔になって喉の詰まりを取るように髭から喉ま
でを一揉みした。
﹁あー坊主は、まだ運び屋を使ってないんだよな﹂
話の転換が急だった。ランタンはその言葉の意味を噛み砕くよう
に呟いて、それが迷宮での荷物持ちのことだと理解すると素直に頷
いた。
﹁⋮⋮本気で結晶以外に手を出すんなら、そろそろ運び屋も試して
みたらどうだ? 特に物質系なんざ価値のある奴は大抵重いぞ﹂
物質系の身体は一部例外もあるが大抵は鉱物である。今回持って
きて飛刀の重量は一キロないほど軽い部類だったが、例えばもしこ
れが黄金の刀であった場合には重量は七倍近くになるとグランは言
った。
﹁そんなに違うもんなんですか?﹂
﹁ああ、違う。お前の戦槌の先っぽが、まあ金と同じぐらいの重さ
だな﹂
ランタンの小さな握り拳ほどの鎚頭はそれでも三キロは下るまい。
だがそれでも、これで三キロならば、とも思うランタンにグランは
見透かしたように畳みかけた。
﹁それを一回り大きくしたらな、それでもう十キロぐらいになる。
お前の小っちゃな頭をそれで作ったら百キロを超えるぞ﹂
ゴーレム
人頭大で百キロ超と聞くとうんざりしてくる。黄金の身体を持つ
魔物の噂も聞かないわけではないのだ。石獣や石人形などの構成物
質が黄金だったと言うような話は虚実入り交じえさらに期待も混ぜ
込まれているが、それなりに聞く。
﹁もし金を目の前にした時、重いからって諦められるか?﹂
抱えきれぬほどの黄金を目の前にしたことは無いし、ランタンは
784
惜しいと思っても今の今までそれを割とあっさりと諦めて探索を続
けていた。だがそれでもグランの問いかけに答えることができなか
ったのは、少し欲が出たからだろうか。
いや。
﹁⋮⋮何か企んでますか﹂
グランから妙な気配がするからだ。子供が拗ねて口を噤むように、
ランタンは無意識的に回答を避けたのだ。グランは苦々しく舌打ち
をして、まあな、と開き直った。
﹁商工ギルドでも運び屋の派遣をしてるんだが知ってるか?﹂
﹁⋮⋮知りません﹂
そもそも商工ギルドというものを知らない。そう言うと、グラン
は頭を掻いた。
商工ギルドは職人ギルドと商人ギルドの両ギルドからの代表で運
営される組合であり、ゆくゆくは職人ギルドと商人ギルドを統合す
るために用意された器のようなものらしいのだが、ギルド内で様々
な思惑が入り乱れているせいか今はまだ両ギルドの調整役でしかな
い。
グランはどうやら職人ギルドだけではなく、商工ギルドにも関わ
っているらしかった。
説明する口調がだんだんと愚痴っぽくなっているあたり望んでの
ことではないようだ。グランは舌打ち一つ吐き出して商工ギルドに
ついての説明を切り上げた。
﹁そうか、知らんか。探索者ギルド内にも掲示物とかしてあるんだ
が⋮⋮見たことないか?﹂
やや落ち込んでいるグランには申し訳なかったが、ランタンは黙
って頷いた。掲示物を見たところでランタンはその内容を知る術は
ないのだから、そもそも掲示板にも伝言板にも立ち寄ることはない。
そういう意味での頷きだが、口には出さないのでグランは勘違いし
たままだ。
﹁⋮⋮まあ、あるんだそういうのが﹂
785
迷宮からしか得ることのできない、あるいは希少な素材の多くは
探索者ギルドが押さえているのだとグランは続けた。
探索者からの持ち込みもあることにはあるが、それは少数かつ不
安定な供給に過ぎない。商工ギルドは探索者ギルドからの素材の購
入を余儀なくされており、それはそのままギルド間の力関係に影響
を及ぼす。商工ギルドは現状があまり面白くないようだ。
ばんじゅう
それを打開する為に運び屋を商工ギルドで育成している。
運び屋の多くは見習いの探索者で、見習いの探索者は輓獣と大差
ない。ただ荷を牽くだけの存在である。
その為商工ギルドは差別化を図る為に運び屋でありながら目利き
もする、そういった運び屋を育成し、用意している。
・
・
探索者が持ち帰る魔物の部位を選定する場合、無論知識や経験を
元にしてはいるが、そこに勘や運の要素が介在する事は多くある。
探索者と言う職業は複合的な要素を持っているが、こと戦闘がその
割合の多くを占めていることは疑いの余地がない。
目利きが重要でないわけではないが、命に関わらぬ部分がないが
しろにされるのは無理からぬことだった。そしてそう言った運試し
を楽しんでいる節さえある。
確かに目利きができる運び屋がいれば、効率的に利益を上げるこ
とができる。そしてその対価として探索者は換金を商工ギルドない
し、その関係店で行わなければならないというわけだ。
探索者にも商工ギルドにも利がある。
なかなか良さそうな試みだが、グランの反応を見ているとあまり
上手くいっていないらしい。
﹁探索者ギルドでの査定に響くんじゃないかって思ってる奴らも多
いみたいだが、⋮⋮まあそもそも周知が徹底できてないみたいだか
らなあ﹂
商工ギルドと仲良くしたらマイナスの査定が付く。
さすがの探索者ギルドもそこまで阿漕ではないだろうと思うのだ
が、もしかしたらと思うと二の足を踏んでしまうのかもしれない。
786
あるいは今まで探索者ギルドで換金することで得られていた査定が
加算されないことを、減算されたと勘違いしている可能性もある。
それについて探索者ギルドは、査定には響かない、と宣言をして
いるらしいがそもそもその宣言を聞いたことのある探索者の絶対数
が少なく、聞いた探索者でさえそれをはいそうですかと信じること
はしなかったようだ。
﹁いくつかの有名な探索班に使ってくれるように頼んでるんだがな。
そういう奴らはもうお抱えの運び屋がいるからよ﹂
﹁⋮⋮お手頃なところにちょっかいをかけてみよう、と。そう言う
ことですか?﹂
﹁お手頃なら俺がこんなに苦労はしねえよ﹂
ランタンの軽口にグランは重々しく返した。
すでにお抱えの運び屋がいる探索者を懐柔するのも、頑なに運び
屋を頼らない天邪鬼な探索者を懐柔するのも手間に大した違いはな
いのだろう。
﹁ご苦労お掛けして申し訳ありません﹂
﹁︱︱おう、まったくだ﹂
﹁気が向いたら商工ギルドを訪ねてみますよ﹂
﹁ああ、すまんな。紹介状書くから持ってってくれ。まあ嫌なら行
かなくても良いからな﹂
グランはこれでようやく肩の荷が下りたとでも言うように溜め息
を吐いて、既に用意されていた紹介状をランタンに渡した。
ランタンは商工ギルドを訪ねると確約したわけではなかったが、
グランはそれでも良かったようだ。ランタンにそれを伝えることは
商工ギルドと人間としての責任であって、グラン本人としてはあま
り言いたくないことだったのかもしれない。
いと
何だかんだと義理堅く、それでいて人見知りをする少年が追い詰
められるように商工ギルドの扉を叩くことを厭ったのかもしれない。
そんな生温いことを考えてランタンがニコニコしていると、グラ
ンは胡散臭そうにランタンを一瞥して、背後に控えている小僧に幾
787
つか投擲武器を見繕ってくるように命令した。小僧はまるで逃げ出
すように大急ぎで店の裏に引っ込んでいった。
﹁なぜ⋮⋮?﹂
ランタンの呟きは誰にも聞こえなかった。
グラン武具工房はほとんど武具の在庫を持ってはいない。グラン
武具工房に限らず多くの工房は基本的には提携している小売店への
納入分と、探索者個人からの注文、そしていくつかの補修が主な業
務であり、店頭販売はほとんどしていないのだ。
そんな中で工房に在庫としてあるものは、例えばリリオンの大剣
と方盾もそうであるが、職人の試作品がほとんどだ。しかし試作品
と侮るなかれ、グラン武具工房などの老舗の工房においては試作品
と言ってもそれなりの品質を保っている。それが試作品と言う冠が
付くことで割合安く手に入るのだから金の無い新人のみならず、多
くの探索者がそれを活用している。
小僧が持ってきた何種類かの投擲武器の良し悪しをランタンは判
別できない。ただグランにダメ出しされた手斧よりは上等であると
言うことは確かだった。ランタンはものの試しに投げナイフに打剣、
礫を購入した。
運動量を攻撃力として見るのならば、それは速度と質量から求め
ることができる。
手斧はそう言った意味では質量があるので良い物と言えたが、投
擲武器はあくまでも牽制である。それを必殺の手段とするには、相
応の技術かあるいは魔道による補助が必要となる。
投擲術を修める探索者の中には風の魔道を行使する者が多くいる
らしい。それは風除けや、あるいは追い風の加護というような魔道
が使用できるためだ。魔道を使えぬ者がそれをするために武器に魔
道を刻むと、ちょっと使い捨てにできないほどの金が掛かる。
﹁色々試してみりゃいいさ。そんな気分なんだろ?﹂
﹁はい。まあ、運び屋は今のところいらないですけど﹂
﹁さて坊主はもう良いとして、嬢ちゃんはどうだ。なんか持ってく
788
か?﹂
ランタンを無視して、すっかりと大人しくしているリリオンにグ
ランが視線を向けたが、リリオンは何も言わなかった。
ランタンが不思議に思って振り返ると、リリオンは息を止めるよ
うに口を結んで、どうしていいか分からないとでも言うように眼を
ぱちぱちと瞬かせた。
少女はランタンが頭を撫で、押さえつけた時と同じ様子のままそ
こにあった。
顔も動かさず、ただ眼だけがランタンの顔色を窺う。リリオンは
従順に沈黙を保っている。ランタンは少女を押さえつける自らの手
の残影を払うように、少女の頭を一撫でした。
﹁もういいよ﹂
リリオンは鼻で大きく息を吸って、喉に詰まった沈黙を吐き出す
ようにゆるゆると息を吐いた。ランタンに対して何か言いたげな視
線を向けたが、結局何も言わなかった。
﹁グランさん。どうしたら石とか鉄とか斬れるようになりますか?﹂
﹁腕を磨く﹂
沈黙から解放されたリリオンは意を決したようにグランに尋ねた
が、身も蓋もない言葉に一刀両断された。職人のグランでさえも結
局の所そのような結論に至ったのは何となく不思議な感じがした。
﹁そりゃ良い武器を持つことに越したことはないさ。未熟な腕もそ
れでいくらか底上げはできるからな。だがどんなに良い剣を持って
たって、腕が悪けりゃそこいらの石ころを斬りつけただけで欠けた
り折れたりしちまうよ﹂
しょんぼりとしたリリオンにグランは慰めるように伝えた。
﹁日々精進あるのみだ。なあにそんなに苦のあることじゃない。成
長するってのは楽しいもんさ﹂
顔の下半分を髭が覆い、気がつけはそれが白むほどに。
ランタンはそんなものなのだろうかとありがたさ半分、疑い半分
に言葉を飲み込んだ。リリオンはまだ納得しかねるのか唇を突き出
789
して難しい顔をしていた。言葉の重みを実感するには、まだまだ人
生経験が足りていない。
﹁若えうちはひたすらにやるだけだ。嬢ちゃんの場合は斬って斬っ
て斬りまくる。ありとあらゆるものをな﹂
グランは髭を撫でながら若者の苦悩を楽しむように眼を細めた。
年輪にも似た目元の笑い皺が楽しさを物語るように深かった。
﹁まあ俺が剣を打って、相応の魔道を刻めば鉄だろうが何だろうが
すぱすぱ切れるもんも造れるけど﹂
例えば熱を発する魔道剣であれば鉄を融断するようなものもある。
カートリッジ
が、そもそも鉄を溶かすほどの熱量を発する魔道ともなると消費さ
れる魔精の量も計り知れず、使い捨て、補充式問わず魔精交換式の
ものであれば運用費用は膨大となり、自前の魔精を消費する吸精式
アンプ
であるならば下手を打つと一度の使用で魔精欠乏症を引き起こし昏
倒しかねない。
一番現実的なものは増幅式と呼ばれるものなのだろうが、それを
マスター
使用できるのは魔道使いだけだ。リリオンに魔道使いの素養はまだ
見られない。
そしてその熱に耐えうる剣を親方職人グランが打つとなると、そ
の価格はちょっと考えたくもない。
リリオンはそれは良いことを知ったと言わんばかりに、お小遣い
で買えるかしら、とランタンの袖を引いたがランタンは何も言うこ
とができなかった。リリオンに渡している小遣いでは、頭金にもな
りはしない。リリオンの口座の貯金を下ろしても足りない。
﹁さて俺は工房でも見てこようかね。坊主、迷宮で良いもん拾った
ら持ってきてくれや﹂
グランはそう言って悩める若者を置き去りにしてさっさと姿を消
してしまった。
小僧を含む若者たちは何となく居住まいの悪さを感じて、ランタ
ンは取り敢えず投擲武器の代金を小僧に支払い飛刀を掴むとそのま
まグラン武具工房を後にした。
790
﹁商工ギルドか⋮⋮﹂
﹁行くの?﹂
﹁行かない﹂
グランへの義理を果たそうと思わないわけではないが、取り敢え
ず今のところ運び屋を必要とはしていない。それに運び屋を探索に
加えるとなると探索計画を見直さなければならなくなる。それはつ
まりミシャへのさらなる負担となる。
ランタンの探索の予定の立て方は、未踏破の道を魔物を倒しなが
ら進む速度と、怪我や疲労を持って来た道を引き返す速度を同じと
して考えている。他の探索者に比べてそれはあまりにも単純かつ軽
薄であったがアーニェやミシャは、計算しやすくて良い、と言って
くれる。何だかんだと破綻を起こさないランタンだからこその評価
である。
しかしここに運び屋を加えると言うことは、考慮すべき点が怪我
と疲労に加えて、文字通り荷物の重量も加わることとなる。進むに
つれてその重量は次第に増加していくのだ。
そしてもう一つ、運び屋自身の肉体能力の低さも考えなければな
らない。
リリオンと探索することとなって探索の進行度は、その実やや低
下している。だがそれは気にするほどのことでもなく、探索計画に
支障が出るほどの低下ではない。慎重に進むようになった、と言い
換えることもできる。
だが運び屋が加わると、もし運び屋がその存在意義である荷物を
捨てたとしても、進行速度の大幅な低下は避けられないだろうと思
う。運び屋は探索者見習いがする、と言う刷り込みからくる色眼鏡
かもしれなかったが。
もし連れて行くならば最終目標討伐の最終探索ぐらいだろうか。
それならば道中の魔物のことは考えずに済む。
﹁リリオンは運び屋にいて欲しい?﹂
﹁んー⋮⋮いらない、かな﹂
791
リリオンは急にランタンの手を掴んで、くっついて隣に並んだ。
フード
腰にぶら下げた飛刀がリリオンの脚にがしがし当たって邪魔そうだ。
﹁まずこれを売りに行こうか﹂
﹁終わったらランタンの噂を聞きに行きましょう﹂
﹁⋮⋮その前にどっかで石を拾ってからね﹂
ランタンは冷たい口調で言って、思い出したように頭巾を被った。
自意識過剰かもしれないが用心に越したことはない。そう思ったの
だが、あっという間に頭巾をリリオンに捲られてしまった。
﹁そんな風にしなくてもいいじゃない。凄いことなんだから。そん
なに嫌がらなくったって﹂
ゼイン・クーパーをどうにかあしらえたのは様々な要素がランタ
ンに味方したからに過ぎない。
馴染みのグラン武具工房で、周りは知り合いばかりで、敵は一人。
それでもあの有様だった。
﹁⋮⋮他人事だと思って﹂
ランタンは顔を歪めて苦々しく呟いた。
それはまさしく内弁慶な子供のそれで、ランタンはその顔をリリ
オンに見られないようにもう一度深く頭巾を被り直した。
792
054
54
フード
頭巾に切り取られ狭められた視界と、そっと覆われた耳に聞こえ
るぼわぼわ濁った外音、そして頭巾の内側に篭もった熱を無視でき
れば、それなりに快適だとランタンは思った。
頭巾のことを雨避け程度にしか考えていなかったが、認識を改め
るべきだろうか。
頭巾の中に隠れた顔を覗き込もうとするような無粋な輩は隣を歩
く無邪気な少女しかおらず、人目を気にする必要は全くなかった。
目深に頭巾を被っていようともそれは珍しいことでは無い。道を歩
く人々は帽子を被っている者も、巻き布をしている者も、中には兜
を身につけたままの者も居る。
狭い視界を補うように、真っ直ぐ前を向いて歩く。
﹁気にしすぎだったのかも﹂
﹁なにが?﹂
僅かばかりに照れて呟いたランタンの小さな囁きを、リリオンが
耳敏く捉える。
﹁んー、⋮⋮まあ、噂話﹂
クーパーが、みんな話している、などと法螺を吹くものだから道
を歩くだけでもうんざりとした気分だったのに、そこにはいつもと
変わらない猥雑な日常があるばかりだった。
そもそも行きに話しかけられなかったことを思い出せば、こんな
にびくびくする必要などはなかったのだが、ランタンはそんなこと
を思い出すことすらできなかった。
リリオンは耳を澄ませるように黙り込んだ。猥雑さの中に、ラン
793
タン、の四文字が口に出されていないかと探っているのだ。音を聞
く事ばかりに意識が集中していて、足元がおろそかになっている。
パブ
ランタンはしかたなく強めに手を引いた。
﹁残念⋮⋮ねえ酒場に行く?﹂
﹁行きません﹂
酩酊の享楽にふけることは多くの労働者の日常的な娯楽であり、
そこに探索者が含まれない理由はなかった。魔精の影響か探索者の
多くはアルコールへの耐性が強く大うわばみであり、大なり小なり
下品で乱暴なところもあったが彼らは酒場の上客だった。
そんな中にランタンが行くと言うことは、兎が虎穴に飛び込むに
等しい。そんなことをするぐらいならばキツめの迷宮に放り込まれ
る方が気が楽だ。
・ ・ ・
﹁せっかく褒められてるのに。じゃあ頭巾とる?﹂
﹁何がじゃあなのか﹂
リリオンは何故だかランタンが頭巾をしたまま歩くことを好まず
に、隙を見てはそれを脱がそうとしてくる。ランタンはそれを面倒
くさそうに振り払った。
リリオンはランタンが噂話で褒められていることを嬉しく思って
いるようだったが、ランタンはむしろうんざりしていた。ちやほや
されることに気分を良くしたことがないと言えば嘘になる。だがち
やほやされている時、同時に陰口を叩かれることをランタンは実体
験として知っていた。
だがらあまり褒められることが好きではない。
陰口に傷つくような繊細な精神をしてはいない、と思っている。
だが苛々しないわけではない。
ランタンはふらふらするリリオンの手を引きながらも、ふと思考
が沈んで、知らず己の爪先を見てしまった。昔、苛々して物にあた
ったことを思い出した。爪先が黒鉄に被われていなかったら指先を
骨折していたかもしれない。
俯くと頭巾の影がいよいよ濃くなる。視界は狭く、視線は足元。
794
だがそれでも周囲への警戒を怠らないのは、それが癖になってしま
っているからだった。
このまま歩くと集団にぶつかる。進行方向から三名が歩いてくる。
三角形を作るようなその陣形は、人混みを押し分けて、また自らに
避ける意思がないことを如実に顕している。
ランタンは爪先の向きを変えて、リリオンを脇に押しのけるよう
にゆるりと右へと逸れた。だがその三名がランタンたちに向かって
きた。同じタイミングで避けたのではなく、見てから向きを変えた。
﹁ふむ﹂
頭巾の効果が切れたと言うことだろうか。いや、顔を隠そうとも
背丈は誤魔化せない。リリオンとの対比で余計目立っているのかも
しれない。
よくいる手合いだ。ランタンに用があるのではなく、背の小さい
小綺麗な少年に用があるようだった。面倒くさいな、とランタンは
思った。
立ち止まってやり過ごすことはできない。立ち止まったら囲まれ
ガード
る。大きく避けてもきっと何かしらのいちゃもんを付けてくるだろ
う。あれらはそう言った理不尽なものだ。
顔を上げて視線を左右に振った。近くに衛士はいない。背後から
もガチャガチャとした全身鎧の鉄擦れの音は聞こえない。
﹁ランタン?﹂
﹁手、放すよ。ちょっとの間、他人の振りね﹂
﹁え、ランタン? なに? ねえ︱︱﹂
答えず、ランタンは大きく一歩踏み出してリリオンを置き去りに
した。鼻から息を吸って、ゆるりと丹田に力を蓄えた。歩く速度は
そのままに、地面を蹴り身体を前に押し進めると、力が血液に乗っ
たように全身を循環した。足の裏から膝へ、腰を回して背筋を駆け
て、肩に伝わる。
接触。
﹁痛ってえ︱︱!?﹂
795
なお前この野郎、と男は尻餅をつきランタンを見上げながら言っ
た。それが用意してあった言葉なのだろう。はじき倒されてなお男
の放った言葉は明確に聞き取ることができた。
一対一ならばこのまま無視して歩き去ってしまえばよかったが、
残念ながら彼らは三人連れだった。残りの二人は無様に転んだ男を
指差して大笑いしている。脇を抜けようとしたら、笑いながら遮ら
れた。
﹁ぎゃはは、お前何してんだよ﹂
彼らは転んだことを大げさな演技だとでも思ったようで下品な笑
い声で男を囃し立て、転んだ男は照れ隠しか憤慨の表情を貼り付け
て立ち上がった。転んだ男もまたランタンに転ばされたとは思って
いないようだった。
探索者だ。
男たちは全員これ見よがしに手首にギルド証を嵌めていた。ラン
タンはそれを嘆かわしく思うと同時に諦めのような虚しい気持ちも
抱いた。人目のある往来であっても、このような恥知らずな行為を
行う探索者は残念ながら珍しくはないのだ。
探索者の死傷率は高いが、それで失われる数よりも新規参入者の
方が多い。多大なる侮蔑を含んだ揶揄として、探索者は掃き溜めか
ら生まれるなどと言われることもある。
男たちの笑い声や怒鳴り声に人混みがざっと割れる。我関せずと
無関心に通り過ぎる者も、辺りを囲みランタンに同情する者もそこ
にあるのは、ああまたか、と言うような慣れた雰囲気だった。
ランタンは頭巾の下から男たちを見上げた。
本当に掃き溜めから生まれたのかもしれない、とそう思わせるよ
うな顔つきだった。表情には侮りと優越感のようなものが感じられ
る。体格は良いが、探索者にしては弛んでいると言わざるを得ない。
何をするにも鈍そうな印象がある。
男たちの間合いは近い。最も近くにいる転んだ男に至っては、既
にランタンの間合いの中だ。一歩踏み出して手を伸ばせば文字通り
796
に命に届く。
分かりきったことだが、まともに探索などはしていないのだろう。
探索者の中でも下の下どころか、評価を与えるにすら値しない連中
だった。男たちは探索者ではなく、ただの破落戸だ。
﹁ふ﹂
人のことは言えないか、とランタンは自嘲するように唇を歪める。
どこに目を付けて歩いてんだとか、服が汚れたからなんだとか男
たちが口々に定型文を喚いている。ぶつかってきたのは男たちで、
男たちの身なりはもう一ヶ月は服を洗っていなさそうに汚れている。
それは金銭をせびるための建前に過ぎない。
だがランタンが男たちにぶつかったのも、また苛立ちを発散させ
るための建前のようなものだった。ちょっと近場の店にでも入れば、
男たちをやり過ごすことはできたのだから。
どれもこれもゼイン・クーパーのせいだ。彼が変な話などしなけ
れば、ランタンは未だ何も知らず気分よくいられたというのに。
はた
思わず漏れたランタンの笑みに、男の一人が苛ついたように手を
伸ばした。
そして頭巾を叩き上げるように剥ぎ取ろうとした。指が短く、爪
す
が長く、先っぽが少し欠けている。それに汚れてもいる。触りたく
も、触られたくもない。
ランタンは僅かに顎を傾けるだけで、その指先を空かした。
さてどうしたものか、とぶつかった肩を今更ながら払いながら思
案を一つ。
男たちが酷く騒がしくしているために野次馬が増えてしまった。
慣れた出来事であっても、あるいは慣れているからこそ、それを娯
楽の一つとして楽しんでいる節があった。
野次馬たちを楽しませるために血湧き肉躍る戦場を作り出すのも
悪くはなかったし、ランタンも当初は暴力によってこれを解決しよ
うと考えていたのだが、今ではすっかり気分が萎えてしまった。
衝動的に動くものではないな、といつもいつも思っているのだが、
797
いつもいつも衝動的に動いた後にだけ後悔が訪れるのだからたまっ
たものではない。
しかしそんな反省をしているランタンとは裏腹に、男たちは引っ
込みが付かなくなってしまったようだ。いい大人が三人がかりで子
供にいちゃもんを付けて、なおかつそれを半ば無視するような形で
あしらわれていることが男たちには我慢ならないようだった。
口々に吐き出される罵詈雑言はそろそろ耳が腐りそうなほどだっ
た。
そもそも子供相手に喝上げをかますような精神を恥じれば、この
ようなことにはならなかったのに。ランタンは大きく大きく溜め息
を吐き出した。
血管の切れる音が聞こえた。
ランタンの態度に男の身体が僅かに沈み、彼の手が腰に差した剣
の柄に触れた。そして一気にそれを引き抜こうとして、失敗した。
﹁んだらぁてめぇ!﹂
ランタンには聞き取れない罵声だけが虚しく響く。
柄頭をランタンが封じていた。いつの間にか引き抜いた戦槌が、
柄頭をそっと押さえているのだ。軽く押し当てているだけのように
も見える戦槌だが、男が腕をぶるぶると震わせても鍔鳴りすら鳴ら
すことができないでいた。
そして三人が顔を青くした。ランタンに、ではない。
﹁⋮⋮何をするの﹂
痺れを切らしたリリオンが、ランタンの後から大剣を突き出して
男の首にびたりと当てていた。その声が僅かに低く、唸るような響
きを伴っていた。
突然の闖入者に野次馬は無責任に盛り上がって、拍手をしたり口
笛を吹いたりしてリリオンを囃し立てた。だが少女はそれらを完全
に無視して、ただ男たちを冷たく見据えている。
喉元に突きつけられた鋒が薄く皮膚を貫いて、浮き出た血が小さ
な玉となっていた。剣は男の顎を持ち上げて、少しでも震えたら喉
798
を切り裂かんばかりに押し当てられていた。剣を向けた男はもとよ
り、残りの二人も気圧されたようだった。
やっぱり身長があるといいな、とランタンは思った。ランタンも
似たようなことをしたことはあったが、その時は鼻で笑われたので
実力行使に出るしかなかった。見上げるよりも、見下ろすほうが威
圧感が出るのだろう。
ランタンは戦槌を強く押し込んで男を後ろに転ばせて剣から解放
してやった。そして顔の横を通る剣の腹を軽く叩いて、それを引っ
込ませた。何気ないその仕草に何故だか野次馬が沸いた。そして男
たちはランタンとリリオンの姿を見比べた。
男たちを見下ろしたリリオンの、その上にランタンがいることを
悟ったようだった。
ランタンは男のギルド証を指差した。
﹁迷宮で稼ぐ気が無いのなら、さっさと返納すること。次は無いよ、
⋮⋮もう行け﹂
ランタンは男たちに冷たく言い放って、犬でも追い払うように手
を振った。そして男たちが去って行く背中を見つめ、まだ残る野次
馬に向かって一礼した。リリオンは何だか分からないようで、慌て
て小さく顎を引いた。
﹁おさがわせしました。︱︱ほら行くよ﹂
見世物としては上々だったようだ。送り出すような拍手や、野次
馬を掻き分ける際に叩かれた肩の痛みは一つも嬉しくなかったが。
ランタンはそれらの感覚を振り払うように、リリオンの手を乱暴に
引っ張って、足早にその場から離れた。
素早く現場から遠ざかることは面倒事を回避する秘訣である。た
だでさえ絡まれているというのに、この期に及んで衛士隊に絡まれ
たくはないのである。野次馬たちもまたその事を知っているので、
振り返ればそこに騒乱の残滓は残っていない。
後を引いているのはリリオンだけだ。
﹁どうして言われっぱなしにするの﹂
799
リリオンがランタンに向けてぷりぷりと怒っていた。
少女はランタンが男たちから好き勝手に罵倒されたことが我慢な
らなかったようだ。そして同時にランタンがそれに対して何の反応
を見せなかったことも。
﹁言い返したところで何があるのさ﹂
そう言ったものの。
﹁でも!﹂
でも、言い返さなかったせいで、リリオンに尻ぬぐいをさせてし
まった。
暴力以外の解決方法を持っていないのならば、そもそも男たちを
是が非でも回避するべきであったし、それを行えなかったからには
初志を貫徹するべきであった。今回はランタンの優柔不断さが招い
た結果でもある。
﹁悪い﹂
吐き出すような謝罪は自己嫌悪が混じり、むしろふてぶてしく響
いた。そんなランタンをリリオンは小さく頷いて許した。
それ
格好悪いな、とランタンは顔を歪める。大きく息を吐いて表情を
作り直し、リリオンを見上げた。
﹁でもね、リリオン﹂
﹁うん?﹂
﹁上街ではあんまり剣を抜いちゃ駄目だよ﹂
﹁なんで?﹂
﹁⋮⋮逮捕されるから﹂
ガード
﹁わたし、悪いことしてないよ﹂
﹁衛士からすれば剣を抜くことが悪いことなんだよ。特に大剣は目
立つしね﹂
正当防衛だとしても、とランタンの呟きが苦々しかった。そこに
ある響きに口答えするように反応を返してきたリリオンが押し黙っ
た。しばらく沈黙があって、リリオンは盗み見るようにランタンを
見下ろして、聞き辛そうにしながらも小さな声で尋ねた。
800
﹁⋮⋮逮捕、されたの?﹂
ナイフ
﹁ぎりぎりされなかった﹂
その時は狩猟刀で、ちょっと耳を削いだだけだった。
死ぬような怪我ではない。片方の耳なのだ。二個ある内の一個だ
けだったので、もしかしたら当時駆け寄ってきた衛士はただ単に、
それでお終いにしなさい、鼻は勘弁してあげなさい、などと注意を
促そうとしただけだったのかもしれない。
だが当時のランタンにしてみれば、あの衛士は己を組み伏せて後
ろ手に縛り上げるために駆け寄ってきたのだと信じて疑わなかった。
なので全速力で逃走した。そう言えばその時も頭巾を被っていたこ
とを思い出す。顔を隠すために必死だったのは今も昔も変わらない。
﹁だから気をつけてね﹂
﹁︱︱分かった。次からは素手でやる。だからまた教えてね﹂
﹁何言ってるのさ、暴力に訴えたらダメだよ。︱︱まったく、どこ
で覚えたんだか﹂
﹁ランタンはいつもそうしてるじゃない﹂
﹁ははは、そんなまさか﹂
そうこうしている内に探索者ギルドに辿り着いた。
グランからは武器屋に持って行った方がいいと助言を貰った飛刀
だが、換金しなくてはならない魔精結晶も残っているので結局いつ
も通りに探索者ギルドで換金をすることにした。これもまた商工ギ
ルドが後塵を拝している理由の一つなのだろう。ありとあらゆるも
のを一纏めに換金できることは、多少の低利を許せる利便性である。
飛刀の換金額は魔精結晶換金の誤差程度でしかなかった。迷宮由
来の武器としてではなくただ単に金属としての価値しか付かなかっ
たのだ。相変わらず渋い値付けなことだが、そもそもそこに文句を
付けるのならばここには持ってこない。
ランタンたちはきょろきょろとして犬頭の兜でもないかと辺りを
窺いながら、換金で得た金貨を銀行に預けた。犬頭の兜の姿は見当
たらないが、武装職員とよくすれ違っているおかげで探索者に絡ま
801
れることはなかった。
﹁ねえ、ランタン。あれ﹂
リリオンが指差して一枚の張り紙の前にランタンを引きずった。
それは文字ばかり書いてある地味な張り紙でランタンは素知らぬ顔
で、これがどうかした、とリリオンに尋ねる。
﹁これグランさんが言ってたやつじゃないかしら?﹂
﹁⋮⋮うん、そうみたいだね﹂
周知されていないのも無理はない。その張り紙はランタンが文字
を読めないことを抜きにしても、全く人目を引くようには出来てい
なかった。それは広告とはとても呼べない、ただの事務的な掲示物
でしかなかった。
百戦錬磨の職人と、商人の代表の仕事としてはお粗末極まりない
出来だった。
﹁⋮⋮やる気ないのかね、実は﹂
﹁運び屋、はけん、サービス。探索ちゅうと、けいやく、可。難易
度、せきさい量におうじ、価格へんどう有。要相談。知識ほうふ、
女性、元探索者、いる﹂
隣でリリオンが片言で文章を読み上げてくれる。片言なのはリリ
オンの読解力の問題ではなく、文章が硬く、また箇条書きであるた
めだと思われた。ランタンはそれを涼しい顔をしながらも、一言一
句逃さぬように、必死で音と字面を結びつけて頭の中に叩き込んで
いた。一言一聴では二割ぐらいしか覚えられない。
﹁へえ元探索者ね、それは良いかも﹂
現場を退きいくらか衰えたとしても、その肉体に宿る力はただの
運び屋よりかは優れるだろう。ランタンが不安視する肉体的な能力
差から来る探索計画の遅延をいくらかマシなものにしてくれるかも
しれない。
張り紙は見つめていても一つも楽しくはなかったので、一通りリ
リオンが音読し終わるとすぐにそこから離れた。そしてテスが見つ
からないのならと、司書のいる黒い部屋へと向かった。
802
﹁お姉さまいるかな﹂
﹁んーどうだろうね。年中無休ってわけでもないだろうし﹂
黒い部屋は前に訪れた時よりも賑わっていた。濃いインクの臭い
と、それに混じって鉄や革の装備の臭い、つまるところの戦う人間
の臭いがした。風呂に入れ、とランタンは小さく毒づく。
部屋の中では三々五々の賞金稼ぎたちが品定めでもするかのよう
に手配書を眺めながら話し合いをしている。それは壁の品書きを見
て昼食を決める様にどこか似ていた。気楽でありながらも、真剣み
もある。
受付では司書が賞金稼ぎから書類を受け取ったり、書類を渡した
ベール
りしていた。司書は事務的にそれらの人々を捌いていく。
﹁お姉さま忙しそうね﹂
・ ・ ・ ・
ここからでは受付口から覗く一部、それもあの司書服に包まれた、
しか見ることができなかったがリリオンはそれがお姉さまであるこ
とを確信しているようだった。姉妹の絆だろうか。ランタンには同
一人物か全く分からない。
とりあえず司書は忙しそうで、無駄話に付き合わせる暇はなさそ
うだった。
だが司書の手際は見事で黒い部屋に入っては受付口に向かってい
く賞金稼ぎたちを、水の流れのように止めどなく捌いている。手隙
になるのにそれほど時間は掛からないだろうと思われた。
ランタンたちは取り敢えず賞金稼ぎたちに倣って壁に貼られた手
配書を眺めて時間を潰すこととした。手配書に記される顔は様々だ。
それ
見るからに凶悪そうな者もいれば、真面目そうな者もいる。
﹁いい加減、頭巾脱いだらどう?﹂
﹁⋮⋮それもそうだね﹂
手配書を見るために顎を持ち上げ、そのたびに頭巾を押さえるラ
ンタンにリリオンが言った。
辺りにいる賞金稼ぎの中には兼業探索者もいたが、彼らは罪人た
ちに夢中でランタンたちのことは気にも止めていないようだった。
803
あるいはやはりランタンの気にしすぎなだけだったのかもしれない。
ランタンはずるりと頭巾を剥いだ。頭を覆っていた熱が脱げるよ
うになくなって、視界が開け音もはっきりと聞こえるようになった。
くしけず
不思議とインクの臭いさえももっとはっきりとかぎ取れるような気
がするほど、気持ちのよい解放感があった。
ランタンが髪を揺らすと、リリオンが手櫛でランタンの髪を梳っ
た。爪が少し伸びていて、頭皮を僅かに引っかかれるような感覚が
あった。住処に戻ったらヤスリで削ってやろう。
そんなことを思いながら手配書を眺めていたら、小さく耳障りな
音で口笛を吹かれた。その音に部屋の中にいる賞金稼ぎたちの視線
が注がれて、口笛の主はランタンが横目に視線を寄越すとニヤニヤ
とした笑みを浮かべていた。
﹁ヘイ、ランタン! こんな所でデートか?﹂
思春期かよ、と思っても口には出さない。今日はずいぶんとよく
絡まれる。全く以て嫌になった。
﹁ええ、そうです。なので邪魔をしないでください。馬に蹴られま
すよ﹂
ランタンはリリオンをそっと背中に隠し、賞金稼ぎ兼探索者であ
るらしい男の無粋な視線を遮ろうとした。が、如何せん身長差があ
る。ランタンの頭上を通り越して男の視線がリリオンへと向いた。
リリオンがランタンの外套を掴み、けれどその視線に怯みながらも
睨み返した。
リリオンに下卑た視線を寄越す男にランタンが淡々と告げる。
﹁あれ聞こえませんでしたか? 邪魔、ですと言ったのですけど﹂
﹁ああ!? 邪魔なのはてめぇだろうが! ちょっと目立つからっ
ていい気になってんじゃねーぞ!﹂
声を荒げ視線を下げた男をランタンは冷たく見据えた。初志貫徹。
分かっている、と自分に言い聞かせる。あとはタイミングを図るだ
けだ。探索者同士に私闘は禁じられているが、後出しならばきっと
情状酌量があるはずだ。
804
﹁まあ、僕が目立っていることは否定しませんよ﹂
さっきの去り際に似たようなことをしたし、クーパー相手に愛想
を振りまいた。探索者に囲まれてても大丈夫だ。彼らの視線にラン
タンは、刷り込まれたように怯えそうになるが、それをどうにか押
さえ込む。
ランタンは辺りから向けられた視線に向かって余裕のある笑みを
浮かべて、手を振ってさえみせた。いつもならばこんな事はしない。
三度も面倒事にあったせいで、ランタンは多少壊れていたのかもし
れない。
そんなランタンに周囲はやんやと喜ぶ者も居れば、男と同様に罵
声も浴びせる者も居た。怯える者も、心配する者も。だがどちらか
と言えば喜んでいる人間の方が多かった。
﹁そんな大きな声を出すからみんな見てますよ。目立ってますね。
貴方も手を振ったらどうですか?﹂
﹁てめーこのやろうっ! 馬鹿にしてんのか!!﹂
﹁何か馬鹿にされるようなことをしたんですか?﹂
外套を掴むリリオンはいつの間にか不安から、ランタンを諫める
ような形になっていた。
目の前の男は今にもランタンに飛びかからんとするほどに苛々と
しているが、その感情に呼応するようにランタンも苛つきが高まっ
ていた。
リリオンがいなければ相手の顔面に拳をめり込ませていたかもし
れない。ついに男が剣に手を掛けた。その時。
﹁そこ! 五月蠅いぞ!﹂
特徴的な二重声は、鼓膜を突き破り背骨を引っ掴むような怖さを
響かせていた。カッカとしていたランタンは一瞬で大人しくなり、
だが男は鈍感なのか噛み付くように振り返って、すっこんでろ、と
声の主に怒鳴り散らした。
ビックリするような怒声にも司書は全く動じなかった。司書服の
上からでも冷徹な表情をしていることが感じられた。
805
﹁誰に向かってものを言っている。丙種探索者ダリウス・バエサ。
忠告は一度だ二度目はないぞ﹂
﹁なんで名前を⋮⋮!﹂
氏素性を押さえられているバエサが喉を絞るようにして呟いた。
これ以上の問題を起こすと探索者ギルド直々に処罰があることを悟
ったのだろう。
﹁怒られてやんの﹂
﹁お前もだランタン。いちいち煽るな。次やったら、分かってるな﹂
﹁⋮⋮はい、気をつけます﹂
すっかり意気消沈したランタンを後ろからリリオンが抱きとめた。
それを見て苦々しく顔を歪めたバエサが、小さく、司書に聞こえ
ないほどので舌打ちをして足をどかどかと踏み鳴らしながら部屋か
ら出て行った。数名、それを追った。
﹁おさがわせして申し訳ありませんでした﹂
﹁いや、ありゃ向こうが悪いよ。気にしなさんな﹂
﹁もうちょっと穏便にできるだろ。あいつが怒るのも無理はないぞ﹂
﹁そもそもなんでお前ここにいんだよ﹂
﹁賞金稼ぎもやんのか。良かったらノウハウ教えても良いぜ﹂
﹁マジこんなとこでデートすんの? マジで?﹂
﹁⋮⋮そんなわけねーだろ。だから女できねーんだよ﹂
頭を下げたランタンを慰める者、文句を言う者、無駄話をする者
が近づき囲み、次々に好き勝手に口を開いた。半分以上が聞き取れ
なくて目を回しているランタンに、小さく冷たい声がやけにはっき
りと聞こえた。
﹁貴様ら、ここは談話室ではない。五月蠅くするのならば出て行け﹂
怖い、と感じたのはランタンだけではなかったようだ。部屋の中
は水を打ったように静かになり賞金稼ぎたちの多くは部屋を出て行
き、本当に用があったものもびくびくしながら司書に手続きを頼み
それを済ませると足早に部屋から逃げ出していった。
ランタンたちだけが取り残されるのに時間は掛からなかった。
806
﹁リリオン、空いたから、ほら司書さま﹂
リリオンを嗾けて受付口に突撃させ、ランタンはその後ろをつい
て行った。だがリリオンはランタンの予想に反して受付口に上体を
突っ込んで司書をあたふたさせるようなことはなく、司書と二、三
言葉を交わすとランタンに受付口を譲るように脇に避けた。
ランタンはその前に足を進める。先手必勝。
﹁こんにちは。お久しぶりです。ごめんなさい﹂
﹁ああ久しぶり。元気そうだな。謝ることをするぐらいには﹂
﹁はい、おかげさまで。その、ご迷惑お掛けしました﹂
﹁⋮⋮売られたケンカを買うことも悪いことだとは言わない。なん
だかんだでお前も男だしな﹂
﹁はい﹂
﹁できることなら時と場所を選ぶべきだが、さっきのはまあしかた
がない﹂
﹁ですよね﹂
﹁調子に乗るなよ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁問題はやり口だ。わざわざ相手の敵意を煽るような真似をするな﹂
﹁ですがギルド法が﹂
﹁真面目なんだか陰険なんだか分からん奴だな。しかしあれでは聞
いてる方も良い気分ではない。無駄に敵を増やすだけだぞ﹂
﹁はい。ご心配をお掛けして申し訳ないです﹂
一通りの説教が済んだところでランタンは受付口に手を突いて頭
を下げた。
司書は溜め息を吐いて、差し出されたたランタンの旋毛を手袋を
した手でさらさらと撫でて許した。そして何故だかリリオンもラン
タンの髪を掻き回した。司書が止めても、リリオンが止めなかった。
﹁そういうのも無駄に敵を作る一因だな﹂
﹁そういうのってなんですか?﹂
リリオンがきょとんとして、ようやく手を止めて司書に尋ねた。
807
だが司書は溜め息を漏らすばかりで答えるような気はないようだっ
た。
﹁で、お前らは何しにきたんだよ。私の仕事の邪魔か?﹂
ある意味そうだったが頷いたら叩き出されそうだったのでランタ
ンは、実はですね、と噂話をされていることを邪魔にならないよう
に気を遣って話し出した。
﹁︱︱回りくどい。簡潔に﹂
﹁⋮⋮はい﹂
808
055 迷宮
055
押し出されるように跳躍する。視界の外側が溶け出したように後
ろに流れ、その加速に骨は軋み内臓は背中に張り付くように圧迫さ
れた。ごう、と吹きすさんだ風音が耳を引き千切りそうなほどだっ
た。
目標に向かって真っ直ぐに突き進み、目標がまるで巨大化したみ
たいに目の前を覆う。狙いを付ける必要さえない。振り回した戦槌
の先の先にまで重さの全てが乗り移った。慣性力で、腰がねじ切れ
そうだ。
戦槌の柄が竹のように撓り、先端は音の壁を突破して破裂音を響
アイア
ゴン
ーレム
かせた。空気との摩擦で熱の匂いが鼻腔を擽った。
良い匂いだ、と思う暇もなかった。
乱暴に振り抜いた戦槌が目標である鉄人形の頭を打ち据えた。抵
抗はほとんど感じず、鉄人形のつるりとした無貌がまるで油粘土に
爪を立てて引っ掻くように、鉄の顔面がごっそりと抉れた。
ここには無い。だが舌打ちをする暇もなく。
頭部を失った鉄人形の、その腕がランタンを打とうと跳ね上がっ
た。
直立してなお指先が地面を擦りそうな長い腕は、三つも存在する
肘関節のために至近距離であっても気を抜く事ができなかった。柔
軟な腕は滑らかに折り畳まれ、その腕の内側にいたランタンに襲い
かかった。
視界の外、後頭部に四本指を折り畳んだ金属塊が迫り来る。
鈍重。だが鼻で笑うには時間が足りない。
ランタンがさっと首を畳みそれを躱す。鉄人形は自らの拳で自ら
809
の胸を強く打った。鈍く揺れるように音が響く。
中はがらんどうか。
自らの打撃に踏鞴を踏んだ鉄人形にランタンは左の掌打を放った。
水月の辺りに押し当てた掌から放たれる轟爆に、鉄人形の脇腹が丸
くくり抜かれ押し出された。吹っ飛んだ腹部の装甲が絞るように形
を変えて背面を貫き穴を広げた。
ぽっかりした空洞には当たり前だが内臓などは無く、ただ影があ
るばかりだった。
ここにもない。
上半身が千切れて落ちて、残った下半身は起立したままだった。
活動を停止していないのだ。
鶴嘴で足首を刈った。左の足を掬い上げるとバランスを取ること
ができない鉄人形がごろんと後ろ倒しになって、蹴り上がったその
足首をランタンは掴んで振り回した。中身が詰まっている。百キロ
以上あるかもしれない。
遠心力に肘や肩の筋が伸びるのを感じた。
ゴーレム
握力が足りないが、まあ良い。
背後から迫り来るもう一体の人形にその脚を、握力の消失に任せ
て投げつけた。脚はぶつかって砕けた。左の内股から魔精結晶が露
出する。
また面倒なところにあるものだ。悪態は、二体目への疑問に押し
潰される。
二体目の人形。これは一体何の金属だろうか。鉄は衝突の衝撃で
砕けたが、その人形はぐにゃりと形を変えただけだった。粘土質と
言うほどではなくとも、ずいぶんと柔らかい。鉛か何かだろうか。
素人目には判別できない。変形した部位が内側から押し返すように
元に戻った。
鶴嘴の先端が人形の胴に突き刺さる。こいつは中までぎっしりだ。
密度が高く、比較的軟らかいが掌で水を漕ぐような重い抵抗がある。
ずぶずぶと鎚頭が胴に沈み絡み取られた。押すと軟らかく、引くと
810
固まるのだろうか。
人形はその場で脚を踏ん張って腰の位置を下げた。それに合わせ
て柄を引っ張られてランタンが引き寄せられる。
両の指が揃って伸ばされる。五本指が、一つに纏まって槍の穂先
のようになった。いやこの大きさは園芸スコップか。ともあれそれ
が、脇を締め肩甲骨を寄せるように背中にまで引き絞られた。
一端の武道家のようだ。次の瞬間に突き出されたそれは渾身の諸
手突きだ。呼吸器官があれば、鋭く息を吐く音が聞こえただろう。
掌を上に向けて、肋骨の隙間を通すように。
本能として知っているのか、それとも学習したのかは定かではな
い。
だがやや体重を後ろに残しすぎだ。
ランタンは胴に捕まったままの戦槌をぐいと押し込み、そして引
っ張った。人形が体勢を崩して諸手突きが傾ぐ。突き下ろすように
繰り出されることとなった指先が僅かに脇腹を掠めた。その腕を辿
るように、いつの間にか戦槌の柄を手放していたランタンの腕が滑
る。
爆発させてしまえば楽なのに、と我ながら思った。思った時には
ランタンの前腕が人形の首にめり込んで、先ほどの鉄人形よりも遙
かに重い抵抗を感じながらもそれを振り抜いていた。
渾身の諸手突きへのカウンターとなった渾身のラリアットは人形
の首が引っこ抜けそうな程の衝撃を生み出し、人形は首を支点にし
てその場で三回転半も縦に空転した。爪先が地面を削り、地面に引
き寄せられるように頭から落ちて首がもげた。
だが勝利の雄叫びにはまだ早い。
叩きつけられた肩口がびちゃりと地面に広がり、左の肩が摺り下
ろされて腕が千切れ飛んだ。その左手。閉じられていた指がまるで
蜘蛛の脚のように広がって蠢く。胴体以下は完全に沈黙している。
左腕は、腕を長い尾のように引きずり五指が地面を引っ掻きなが
ら這いずった。
811
気持ち悪い。足のいっぱいある昆虫じみた動きにランタンは強い
不快感を覚えた。
ブーツ
左腕がランタンの爪先に掛かりよじ登ると足首を握り締めた。万
力の如き圧力が戦闘靴の上から足首を握り潰さんとしている。ぎし
ぎしと軋む。だが厚手の靴下と、更に当て布までしているランタン
には無意味だった。
﹁リリオン!﹂
ランタンは名を叫んで、掴まれた左脚で空を強烈に蹴り込んだ。
太股の付け根から大きく弧を描き、膝から下が急激な加速に伴い
逆に折れ曲がるほどに過伸展した。人形の左腕が振り回されて、そ
の指先が黒革を引っ掻きながら滑って抜けた。そのふっとんだ速度
とは裏腹にゆっくりと二回転、腕がぐるりぐるりと中空を回りリリ
オンが慌てて構えた盾に衝突した。
リリオンが短く悲鳴を漏らした。
まるで泥の塊をぶつけたように、盾の表面に腕が放射状に広がっ
た。肘に隠されていた精核は関節遊離体のように小さく、さらに衝
突の衝撃でひび割れてしまった。
﹁⋮⋮やりすぎた﹂
解放された魔精が酒精に似て微かに香ったような気がするが、気
のせいでしかない。ただ戦闘で昂揚しているだけだ。ランタンは匂
いを嗅ぐように長く鼻で息を吸って、溜め息みたいな呼気を吐き出
した。
ランタンは胴に埋まったままの戦槌に手を掛けて、胴を踏み付け
にしてゆっくりと力を込めた。その二体目の人形を構成する金属は
半固体状というか、一定以上の衝撃か速度に対して凝固する作用が
あるようだった。比重は鉄よりも重たく、持って帰るのには少しば
かり向かなさそうだ。
戦槌は粘つくようにして胴から引き抜かれて、ランタンはそれを
地面に向けて一度小さく爆発させた。付着していた金属が溶け落ち
た。それは水滴のような小さな玉になって固まった。
812
﹁鉛の匂いかな?﹂
呟いてみたものの、既にランタンは興味を失っていた。
それの胴を跨いで、鉄人形の内股から魔精結晶を抜き取った。持
ち上げた右の脚が重たく、自分でも良く振り回せたものだと思う。
戦闘中は魔精が活性化して身体能力が上昇しているのだろう。
鉄の相場は幾らだろうかと考えて先日の飛刀の価格を思い出す。
これを持って帰る労力に見合いはしないだろうと、ランタンは結局
のその場でぽいと捨てた。振り回すこともできた脚も、今では気合
いを入れなければ浮かせることもできない。
﹁ランタン⋮⋮﹂
とぼとぼと歩いて寄ってきたリリオンに戦槌を上げて応える。方
盾には金属が蛸のようにへばり付いていた。ランタンがそれを鶴嘴
で引っ掻く。思いの外きつく噛み付いていた。ランタンはちょっと
だけ強く盾を叩いて、僅かに浮いた隙間に鶴嘴を引っかけるように
それを引き剥がした。
﹁うん、綺麗に剥がれた﹂
ごそっと剥がれた金属片にランタンは満足気に呟いた。それはも
うすっかり固まっていた。衝撃、速度に加えて魔精が通じているこ
とも液化の条件なのかもしれない。
剥がれたそれを突き回すランタンを見ながら、リリオンが不満そ
うにしている。
唇を結んで、頬を膨らませて半眼になっていた。盾を肩に担ぎ直
して、腰に手を当てて仁王立ちになった。じろりと睨んでいるのに、
ほんのりと寂しそうにも見えた。
﹁わたし、何もやることがなかった﹂
﹁へえ、楽できて良かったね﹂
ベアハッグ
軽口を叩くとリリオンが言葉もなく襲いかかってきた。
両手を広げ熊式鯖折りを試みたようだが、ランタンを捉えるには
あまりにも緩慢で、あまりにも隙が多すぎた。
威力はさておき実践で使えるほどではない。特に物質系魔物は圧
813
迫すべき対象がないのだから。
阿呆なことを考えているな、と足元から視線を滑らせながら思う。
取り敢えずランタンは軽く足払いをかまして、顔面から突っ込むよ
うに転びそうになったリリオンを受け止めた。装備を含めて六十キ
ロ強。受け止めるのは容易だった。
﹁うー、ランタン⋮⋮﹂
リリオンがランタンの肩に顎を乗せて、耳たぶを唇で舐めるよう
に恨めしく囁いた。転ばされたのが余程悔しかったのか耳たぶに噛
付く。甘噛みではなく、犬歯が穴を開けそうなほどに。そしてその
まま呟く。
﹁ランタンは、⋮⋮まだ苛々してる?﹂
﹁んー、ちょっと気分は晴れたよ﹂
二度目の探索、その二日目。探索自体はいつも通りに滞りなく進
んだ。万事順調である。
ここまで尾を引いている苛立ちは、地上から持ち込んだものだ。
地上と迷宮の切り替えが上手くいっていないのはランタンとしても
珍しいことだった。ランタンは鼻の穴を膨らませてむすりと鼻息を
鳴らした。それがリリオンの首筋を擽り、少女が敏感に反応した。
﹁うそ、まだ苛々してるわ﹂
あやすように撫でられた背中を少し腹立たしく思ってしまったの
がその証拠だろう。ランタンは何も言い返すことができずに、身体
の中にある熱を肺をぺちゃんこに潰すように吐き出した。
苛立ちの元は結局、噂話に帰結する。やはりあれが碌でもない、
全ての元凶だった。
司書への告げ口は残念ながら軽くあしらわれてしまった。
探索者ギルドは情報の漏洩を把握しているようだったが、その事
についてそれほど重要視しているわけではなかった。事件に関係す
る貴族のことは皮肉にもランタンとテスの作り出した真実の中には
登場していないので、あの事件は特別に秘匿されるようなものでは
なかったのだ。
814
そもそもランタンと、この世界には認識に大きな差があった。守
秘義務という物が存在しないわけではなかったが、それはランタン
が考えるよりもずいぶんと緩いものでしかなかった。
情報を意図的に広めたり、それを情報屋に売りさばくことは禁止
されていたが、それだけでしかなかったのだ。
情報の流出経路は探索者ギルドにスパイが入り込んだわけではな
く、ただそれを知った職員がそこら辺の酒場で酒の肴にでもするよ
うに語ったか、それとも噂話が好きな女性職員が炉端で会話に花を
咲かせたか、それともあるいは、と言ったように悪意なく拡散され
たものだろうと司書は言った。
それを知った時にランタンは己の自意識過剰さに恥ずかしくなっ
てしまった。その時までは無自覚であったが、あの有名な元単独探
索者ランタンが関わっているのだからそれを盗み出したのだ、とそ
こまで明確ではないにしても少なからずそう思っていた自分がいる
ことに気が付いた。
恥ずかしくて恥ずかしくて死にそうだった。
名前が売れて良かったじゃないか、と半ば本気で言った司書を恨
めしく思った。それもまた苛立ちの一因だろう。それを八つ当たり
だと分かっていることも。
そして赤くなった顔を隠すように司書と別れてからの帰り道、羞
恥に身悶えることを我慢していたランタンは酷く目立ったのだろう。
バイヤー
勧誘や、噂話の詳細をせがまれたり、再び喝上げに遭ったり、下
街では麻薬密売人を失った薬物中毒者等々に文句を言われ、強盗に
遭い、絡まれること計七回。それ以前を足すと実に二桁回数絡まれ
ることとなったランタンは、ここまで尾を引くほどに苛々していた。
リリオンを無視して自分勝手に振る舞うほどに。
ランタンはそっとリリオンを押し返した。リリオンは己の外套を
引っ張って、涎塗れになったランタンの耳を拭った。濡れてないこ
とを確かめるように指先で耳軟骨をコリコリ鳴らして、耳たぶを何
度も揉んだ。
815
﹁気分は晴れた?﹂
今度はランタンが訊くと、リリオンは不承不承に頷いた。
﹁⋮⋮ちょっとだけね﹂
その答えにランタンは小さく笑った。
リリオンを完全に晴れ模様とするためには、耳を噛み千切らせな
ければならなさそうだった。二個ある内の一個だが失うのは惜しい。
次の戦闘はランタンばかりが暴れずに、リリオンにも参加させてや
らなければならない。
住処に帰ってからは、人間との触れ合いを厭いほとんど引きこも
って過ごした。まるで世捨て人のように。
苛立ちを解消するには身体を動かすことが大切だ。
むずむずする痒みにも似た苛立ちは、人形を心の赴くままにぶち
倒すことで少しだけ紛れた。ぷくりと腫れた炎症に爪で印を付ける
が如く、それは一時凌ぎに過ぎないだろう。最も下に棲む物を相手
にすれば、苛立ちを感じる暇もない。そこを目指す。
やはり迷宮に潜り続けることが、ランタンの正道なのかもしれな
い。
リリオンは転がっている人形の残骸を爪先で突いた。人形そのも
のに興味があると言うよりは、ランタンの作り出した破壊の痕が気
になっているようだった。金属塊である人形をズタボロに引き千切
ったそれは、少しばかり現実味を喪失している。
リリオンでも鉄人形の空洞の胴ならば斬ることはできると思う。
それはほとんど中身の入っていない鎧と同じである。胴の厚さは一
センチもないので、少なくとも前面装甲だけを裂くなら容易いだろ
う。
﹁ランタン、斬ってみても良い?﹂
ここに降りてくるまでいくつかの魔物に剣を向けた。やってみな
ければ成長しないからだ。魔物の耐性を見て適切に攻撃手段を選択
できることも大切だが、相手を選ばずに自らの方法を押し通せるこ
ともまた探索者にとっては重要だ。
816
リリオンはここまで剣をほとんど鈍器としてしか使用できていな
い。動く相手では入射角が悪く弾かれることが多く、また直撃でも
刃が魔物の表面を滑ることも多かった。剣が折れていないのはグラ
ン工房の仕事の良さの表れでしかない。
自分の方法を押し通すためには、相手をよく見なければならない。
壁に立てかけた鉄人形。
顔面から首、鎖骨辺りまでに掛けては金属がみっしりと詰まって
いる。とは言え抉り取った顔面には大なり小なりの罅も散見するの
で、そこを通せるのならばそこを狙っても良いだろう。また肩や肘
の関節も狙い目である。
だがリリオンの視線は鎖骨辺りに固定されている。自信家なのか、
何も考えていないのか。
剣を引き抜いて上段に構えた。そして袈裟懸け。
剣が折れるかも、などとは全く考えていない。速度は充分、だが。
火花が散った。直撃の音は耳障りだ。金属を引き裂く擦過音がこ
だまし、溜め息に変わる。
﹁あー⋮⋮﹂
鎖骨から入った剣は勢いは充分だったようにも思うが、それに斬
り込みを入れたものの胸の半ばで止まってしまった。対人相手なら
ば致命傷なので充分な出来映えだったが、リリオンは不満そうだ。
ひそ
リリオンが乱暴に鉄人形に足を掛けて、蹴り飛ばすように剣を引
き抜いた。再びの金切り音にランタンが眉を顰める。
抜いた剣に血糊などはないが少女は一度振り払い、刃の歪みを確
かめるように外套で拭ってから盾に納めた。
﹁⋮⋮ダメだったわ﹂
﹁そんなことはないと思うけど﹂
﹁何がダメだったのかしら﹂
ランタンの慰めは少しも聞こえていないようだった。ランタンは
肩を竦めて、戦槌を指し棒のように使い鉄人形の罅を指し示した。
﹁上段ならこことか、ここにある亀裂に繋げるように角度を付けれ
817
ばいいよ。そもそも両断にこだわらなくてもいいじゃん。それなら
こっちの罅を狙って打突するとかも選択肢が増えるし、一撃で戦い
が決まる事なんてそうないよ﹂
リリオンは言われてようやく人形に入った罅に気が付いた。それ
は毛筋ほどの細い罅で、角度によっては表面はつるりとしているよ
うにも見えた。実際に戦闘している時に気づけるかは微妙だが、止
まっている時に気が付けないようでは見込みがなかった。
剣などほとんど使ったこともないくせに物知り顔で語るランタン
に少女は尊敬の眼差しを送った。それに気分を良くしたランタンは
人形の繋がった腕を取って、実体験以上の根拠を持たない講釈を垂
れ始めた。
﹁関節部分を狙うのも有効だよね﹂
鉄人形だろうとあるいは石獣だろうと、可動部である関節を狙う
ことは有効だった。鉄人形の関節は人間のものとよく似ていて内側
には深く折り曲がるが、逆には浅い角度にしか折り曲がらない。ラ
ンタンは鉄人形を、その腕を取ったまま転がして肩を極め折り、ば
きりとねじ切った。これもまた一種の切断である。
腕一本でだいたい二十キロほどだろうか。リリオンがそれを捏ね
くり回しながら迷宮の先へと進んだ。進行速度が多少落ちたが、二
人ともあまり気にせずに話し込んでいた。
﹁あんまりごちゃごちゃ考えないよ﹂
どの口がそんなことを、とランタンは言いながら思う。
﹁そもそも狙うのが難しいから﹂
﹁うん﹂
﹁物質系じゃあんまりだけど、普通はどこかしら怪我をさせれば動
きは鈍るでしょ? 痛みとか、出血とかで。⋮⋮でもやっぱり脚だ
よね。どんな形状でも脚を潰せば動きは凄く鈍るから﹂
肉のある相手ならば鋒でちょんと切ってやるだけで移動能力は半
減する。それはそのまま攻守共の戦闘能力の半減を意味する。攻撃
が関節や腱に至ればほとんど勝ったも同然である。
818
もっとも侮りが死を呼び寄せることも忘れてはならないが。
﹁⋮⋮うん、気をつけるわ。でも物質系はどうすれば良いの?﹂
﹁まあ、そうなんだよね﹂
精核と呼ばれる物質系魔物の原動力をランタンはまだ上手く理解
することができていない。それが心臓のようでもあり、脳のような
ものであると言うことは朧気ながら感覚的に理解している。そして
往々にして精核が魔精結晶となることから、それが心臓や脳と同じ
く重要なものであると言うことも分かる。
だがそれの活動停止条件というものが不明なのである。精核は魔
物の体内に埋まっている事もあれば、露出している事もある。体内
に埋まった精核は露出することで魔精結晶と化す事もあるが、そう
ならないこともあるのだ。露出した面積比率の問題なのかもしれな
いが、そうと考えると最初から露出している魔物がいる意味が分か
らない。
﹁⋮⋮核が二種類あるんじゃないの?﹂
﹁そうかもしれないけど﹂
ランタンが納得しかねるように呟くとリリオンは極小さく、神経
質なんだから、と囁いた。聞こえていたが自覚もあるので無視をし
た。そもそも存在自体が理不尽な迷宮、そこに住まう生き物に理屈
を付けようというのが間違っているのかもしれない。
﹁核が無事でも、動いたり攻撃できなくすれば取り敢えずは良い。
さっきの人形どもなら膝から下を断ち斬るとか、手首を落とすとか
ね﹂
精核の位置は不定である。手足の先のような末端にあることは滅
マッドゴーレム スワンプマン
多になかったが、それでも全身の全てが精核の隠し場所と成り得た
し、泥人形や沼人などの流動体をもつ魔物はその体内を精核が絶え
ず移動している。
戦闘経験を積み重ねればその内に自然と精核の位置を把握できる
らしいのだが、ランタンはまだその域に達していない。
﹁えいっ!﹂
819
蟹の脚でも折るようにリリオンがわざわざ持ってきた鉄人形の関
節を逆に折り曲げた。三つある関節を一つ一つかけ声を上げながら
へし折る様は、その腕が生々しく作られているせいもあってなかな
か猟奇的だった。
﹁関節ね。うん、分かったわ﹂
関節三つと指の四本をことごとく逆関節にしてリリオンは大きく
頷いた。もう充分に遊び倒した玩具から興味を失ったみたいに、リ
リオンはそれをランタンに手渡した。胴体からそれを毟り取ったの
はランタンだが、返却はこれっぽっちも望んではいない。
﹁もういらないなら捨てるよ﹂
ランタンはそう言って腕を迷宮の先へと放り投げた。ぐらぐらの
関節が空中で蛇のようにのたうって、それは落下して跳ねるとじゃ
らりじゃらりと妙な音を響かせた。迷宮の壁に反響して、けれど次
第に音が大きくなった。
それは魔物の這い寄る音だった。
腕も、脚も。
リリオンが戸惑いと共に呟く。
﹁関節ないけど⋮⋮﹂
それは蛇だった。鎖蛇。鎖模様などではなく、鎖そのものが地面
を這い寄っている。
連環の胴体は女の脹ら脛ほどもあり、赤錆が浮いてヤスリのよう
になっていた。その両端には顔があり、それらは奥歯どころか顎を
掴んで引っこ抜けそうなほど大きいペンチに似た形をしている。牙
こそないが、溝の深い洗濯板みたいな口内は噛まれたら物凄く痛そ
うだ。
﹁ランタンっ関節ないよっ。どうしよう⋮⋮﹂
﹁どうするって、色々試すしかないでしょ﹂
ランタンはそう言ってニヤリと笑い、購入したばかりの投げナイ
フを構えた。胴体を構成する鉄輪の一つ、その穴を見事に通して固
定できれば儲けものだ。十メートルほどの距離で果物相手なら百発
820
百中になった。右手ならばであるが。鎖蛇はまだ三十メートル以上
先で、うねうねと動いていたが。
親指と人差し指で柄をそっと挟み勢いよく投げつけた。ナイフは
くるくると回転して鎖蛇に迫った。刺さるかどうかは分からないが、
直撃は間違いないだろう。直撃するまでの一瞬で抱いた確信は現実
のものとなった、がランタンは頬を引きつらせた。
尾にある顔が、頭部を追い抜くように飛びかかってナイフを弾い
た。虚しく音が響く。
鎖蛇に物体の認識能力があるか確かめただけだ、と自分自身に言
い訳をする。
ちくしょう、と吐き捨てランタンは鎖蛇に向かって走った。また
少し苛々してしまった。
鎖蛇との距離はもう十メートルを切っている。脚もないのにいや
に速い。まるで氷上を滑るように、赤錆びた身体とは裏腹ななめら
かな横這いをみせた。
鎖を構成する鉄輪は、やや捻れるような楕円を描いている。それ
が幾つも連なって、全長は一メートルよりもいくらか長い。
本物の蛇のように伸びはしないが、凶暴性は毒蛇と同じほどだ。
気性が荒い。鎖蛇の半径一メートルの入った瞬間に蛇は頭部を支点
に胴体を薙ぎ払った。強烈な足払いは、地面を擦って火花を伴った。
風切り音が重く鋭い。戦闘靴の上からでも当たれば骨が折れるかも
しれない。
それを戦槌で受け止めると胴が柄にぐるぐると巻き付く。這い上
ろうとしたのか、奪い取ろうとしたのか強烈な抵抗があった。威嚇
するように開いた口に気を取られていると、尾の顔が密かに臑を噛
み付こう忍び寄る。ランタンは戦槌を振り回し、蛇を壁に叩きつけ
て爆発を巻き起こした。
﹁ちっ﹂
無傷ではない。だが爆風が環状の胴を抜けた。錆を落とし、多少
怯ませただけだ。
821
ランタンは手首を回して蛇を解いた。だが鎚頭の付け根に鎖蛇が
がっちりと噛み付いている。ペンチそのものの咬筋力がそこにあっ
た。
蛇を鞭のように頭上で大きく振り回した。そうでもして遠心力で
吹き飛ばさなければ、尾の顔が近付くのを止める事ができそうにも
なかった。戦槌の先で、ぎぎぎ、と金属を引っ掻く音がする。だが
それでも顎が外れることはない。
﹁わたしが!﹂
声を上げたリリオンにランタンは一瞬視線を飛ばして一気に戦槌
を振り下ろした。リリオンがそれに合わせて剣を振う。振り回され
て、一直線に引き延ばされた鎖蛇の胴体にリリオンの斬撃が合わさ
った。
リリオンの剣に、戸惑いは既にない。リリオンは胴体のちょうど
真ん中の鉄輪をばちんと断ち斬った。今のは良い角度だった。リリ
オンは切断時の抵抗の無さに一瞬だけ呆気にとられたような顔つき
・ ・ ・
になった。
蛇の下半身がじゃらりと落ちてとぐろを巻いた。
顔はまだ戦槌に噛み付いたままだ。まさしく蛇の如きしつこさだ
った。短くなった胴体がじゃらじゃらと柄に巻き付いてランタンの
腕に触れた。手首に巻き付くのは一瞬の事だった。
﹁そっちは任せる﹂
ランタンはとぐろの中から飛び出した下半身の顔を飛び退いて避
けて、その位置に滑り込んだリリオンが蛇の横っ面を剣の側面で引
っ叩いた。何とも乱暴な事で大変よろしい。ランタンは小さくほく
そ笑んだ。
一匹の鎖蛇が、両断する事で二匹になった。まあ仕方がない。尾
の顔は飾りではないし、迷宮は鎖と蛇と蚯蚓とハリガネムシとプラ
ナリアの区別が付いていないのだ。斬れば斬るほど増えるかもしれ
ない。
それもまた良し。増えた分だけ壊せばよい。精核はその都度生成
822
されるのだろうか。それとも胴体に残った魔精を消費しているだけ
で、放っておけばいつしか停止するのか。
やってみれば分かる事だ。
締め付けと同時に錆びてざらついた表面が皮膚を摺り下ろす。手
首に嵌められたギルド証がなければ手首の骨に罅ぐらいは入れられ
ていたかもしれない。
ひりひりとした痛みに眉を顰めながら、ランタンは左の手で鎖蛇
の首根っこを掴まえた。折るにも捩るにも、接合がぐらぐらで効果
はない。その間にも手首に胴体が何重にも絡みついて、ついに骨が
ぎしぎしと軋んだ。
そして右の手の中では蛇頭がランタンの指を開こうと藻掻いてい
る。
一つが二つ、二つが四つ。
視線の先でリリオンが飛びかかった鎖蛇を両断していた。
ランタンはそれを見ながら手首が締まるのも厭わずに鎖蛇を力任
せに引っ張った。
戦闘服の下でランタンの細身の身体が鋼の如く引き締まり、皮下
脂肪を押しのけて筋肉が浮かび上がった。頸動脈が太く浮き出し、
息を詰めて顔が赤くなる。そして鉄輪がぶちりと引き千切れた。
手首への締め付けが一瞬強まり、そしてすぐに弱くなった。だが
鎖蛇はまだ動いている。顔を失った方は瀕死と形容できるほどに。
だが頭部はまだまだ元気で、掴まえておくのが困難なほどだった。
ランタンは手首の拘束を解いてそれを壁に向かって放り投げた。手
首を回すと軽い音で骨が鳴り、擦りむけた皮膚の下から血が滲んで
袖を汚した。
まだ続く探索に支障はないが、洗濯の面倒を増やされた。
振り下ろした戦槌が紅蓮の光を轟音と共に放った。
鎖蛇の精核がもしかしたら、ランタンの苛立ちの発露として襤褸
屑のようになってしまうかもしれないが、ランタンはその衝動を止
めようとも思わなかった。
823
056
56
リリオンが俯せになって呻き声を漏らしている。耐えるように握
った拳が頭の横で震えて、足をじたばたとして藻掻いている。
魔物相手に不覚を取ったのだ。
不覚を取った理由は幾つかある。
一つは一戦前に相対した鎖蛇にいくつかの傷を負わされたこと。
ランタンは利き腕である右の手首から肘に掛けて、雑巾絞りをし
たように擦過傷が。
リリオンは脹ら脛に咬傷。いつの間にやら鎖蛇に噛まれていたの
だ。防刃繊維のおかげで肉を食いちぎられると言うことはなかった
が、捲り上げたそこには大きな血豆にも似た内出血で真っ赤な水膨
れができていて痛々しかった。
もう一つは鎖蛇の死骸を持ち帰るために背嚢にしまったと言うこ
と。
鎖蛇を構成する金属物質が、おそらく魔精に対して高親和性を持
っているだろう、つまり高値で売れるだろうという推測からの判断
ゴーレム
だったが、今にして思えば欲が過ぎたと言わざるを得ない。
いや、それ以上に行動の全てに迷いがあったのだ。人形を重いか
らと捨て、鎖蛇を持ち帰ろうとする。その一貫性の無さは完全にラ
ンタンのミスである。
鎖蛇はリリオンと分担したが、それでも背嚢の背負い紐が肩に食
い込むような感じがした。それは枷だった。脳が肉体へ命令を送り、
肉体がそれを実行する際に僅かに遅延をもたらした。
もう一つは鎖蛇で発散させたかと思われた苛立ちが、まだほんの
824
少し燻っていたと言うこと。
それはランタンの視野を薄く削ぐように狭めて、姿勢を前傾させ
た。ランタンのその前のめりの姿勢に置いて行かれないようにとリ
リオンもまた気負ってしまった。噛まれた脹ら脛をランタンに気づ
かせないほどに。
ゴーレム
最後の一つは現れた魔物が中々の強敵だったと言うこと。
がいけい
その姿は鉄人形にも似た二足二腕の人間形。だがそれはどことな
く甲殻類を思わせる外形を持っている。それは鎧だ。
頭の先から爪先まで、全てを覆い隠す異形の鎧。角度によって黒
ムービングメイル
や紫に色を変える不気味な色合いをしていた。酷く悪趣味である。
もう少しで最下層だと思われるそこに現れたのは、自律駆動鎧で
あった。
・
幾つか種類のいる自律駆動鎧の内の、中身のがらんどうの種類だ
った。
樽型兜には視界と呼吸のためを思わせる丁字の切れ込みがあるが、
だがその下には暗澹が湛えられている。そこには闇に押し潰される
ように薄ぼんやりとした青い燐光が一つ浮かんでいる。それは巨大
な単眼のようでもあった。
金属の擦れ合う音と言うよりは、硝子を擦り合わせたような冷た
く引きつるような音が動く度に鼓膜を揺らし神経を無遠慮に触った。
レイピア
駆動鎧は剣を持っていた。その異形とは裏腹な何とも普遍的な両
刃の長剣を、鋒を引きずるようにして構えている。
そしてもう一つ、それは短剣だった。
ソードブレイカーと呼ばれる櫛状の峰を持つ短剣は肉厚で刺突剣
や薄いサーベルなどは噛み折れそうだったが、ランタンたちの持つ
武器にはただの珍しい短剣以上の存在ではなかった。
それを察したのか、ランタンたちが武器を構えるやいなや駆動鎧
は短剣を投げつけてきた。見事な投擲だった。駆動鎧の口が聞ける
ならば、是非ともどう投げたのか教えて欲しいとランタンに思わせ
るほどに。
825
はし
肩、肘、手首の捻れは全く短剣に伝わっておらず短剣は僅かにも
傾かない。まるで見えないレールの上を滑るように一直線に奔った。
駆動鎧はそれを追う。
・
そうして戦いが始まり、︱︱現状に至るのだ。
リリオンは枕に顔を埋めて、まるでベッドの上を泳ぐようにじた
ばたとしている。それは悔しがっているのだ。最下層を目前として、
迷宮を引き返す直接的な原因となったことが。
迷宮から帰還した昨日もそうしていたし、迷宮口直下でミシャを
待っている時もランタンの太股に顔面を押しつけていた。今もリリ
オンは枕に顔面を沈めて叫び声を枕にぶつけている。泣き言ではな
かった。自らに対する叱咤罵倒である。そうして自らを鼓舞してい
るようだった。
﹁さっさと切り替えなよ。そんなことしてると疲れが抜けないよ﹂
そんなことを言うランタンもまた、切り替えられているとは言い
難かった。
ランタンは椅子に腰掛け、テーブルの上を占領する夥しい種類の
付け合わせの中からクリームチーズを選び、それをクラッカーの上
に乗せて口の中に放り込んだ。そして蜂蜜入りの甘ったるい紅茶の
上に薄切りにした生姜を浮かべてそれを啜る。わざわざ火精結晶コ
ンロを引っ張り出して、飯盒まで使って紅茶を湧かしたのだ。部屋
やけ
の中にはそれなりにかぐわしい芳香が漂っている。
ようするにストレス発散の自棄食いである。
少女の苦悩を鑑賞しながらのティータイムはこの上なく悪趣味か
もた
つ、ある意味優雅であった。
足を組んで、背を凭れ、肘を突いたままコップを傾ける。小さな
クラッカーや、薄くスライスしたパンにこれでもかと付け合わせを
盛って、口に押し込む。そしてちろちと指を舐めたりもする。
貴族のどら息子もかくやといったその仕草が妙に様になっていた
が、ランタンには悪趣味な見世物を楽しむような嗜好は持ち合わせ
ていない。折角の飯が不味くなる。火傷しそうなほど湯気の立つ紅
826
茶に一つ息を吹きかけて、乱暴にコップを傾ける。
生姜の香りに混じり、微かに林檎のような香りもする。せっかく
なかなか上手く淹れられたのに、と小さく嘆息した。
持って帰ってきた短剣で塊のチーズを薄く削ぐ。峰が櫛状になっ
ているおかげで穴あき包丁のように身離れが良い。峰に手を当てて
硬い物を押し切ると言うような使い方はできないが、包丁代わりと
してもなかなかに便利だ。
チーズには癖の強い独特の臭気があったが、甘みも強かった。水
分が少なく、口の中でぽそぽそと崩れる。ランタンはそれをパンの
上に乗せて、その上にトマトソースで味付けた挽肉を山盛りにした。
﹁あー美味し、全部食べちゃうかもなー﹂
リリオンの気を食べ物で釣ろうとしているのだが、少女はなかな
か頑なだった。腹の中は、今は空っぽの筈であったが、そこに悔し
さが満たされているのかもしれない。
リリオンは駆動鎧の強烈な一撃を腹部に喰らったのだ。
﹁しかし⋮⋮﹂
腕が飛ぶとは、とランタンは駆動鎧の姿を思い出した。
一進一退の戦闘は、駆動鎧の長剣をランタンが砕いた瞬間に傾い
た。
その瞬間、駆動鎧はごく短くなって根元のみとなった剣を放すま
いと握り込んだ。短剣を一目散に投げつけた見きりの良い駆動鎧な
らば、それを捨てて徒手空拳に切り替えそうなのだが、と思ったの
は極一瞬。
その拳を前に突き出した駆動鎧の不可解な仕草にランタンは気を
取られてしまった。
殴りつけるのでもなく、ただ前に突き出す。そして次の瞬間には、
駆動鎧の肘から先が発射された。
そこにあったのは爆発だったと思う。前髪を吹いた熱風と、焼け
た金属の匂いはランタンのよく知ったものと同じだった。折れて極
々短くなった剣が空を切り裂いて白線を描いた。それを追う視線の
827
先にはリリオンがいた。
それは真っ直ぐにリリオンに向かった。
見てから躱せない速度ではなかった。だがリリオンが盾で防ごう
としたのも間違いではない。
鎖蛇の枷が邪魔だったというのもあるし、それは事実盾を突き破
るほどの貫通力を有していなかった。だが盾に当たっても、その推
力が失われることもなかった。腕は推進力としての風を生み出して
いた。
硬く握られた拳は盾の上を擦るように滑り、盾の縁に短くなった
刀身が噛み付いた。拳はそこを支点に、盾を回り込むようにしてリ
リオンの脇腹を捉えた。
それはリリオンの身体をくの字の折り曲げ、嘔吐と、ギルド医か
らの絶食命令をもたらした。
盾を経由したことにより拳の速度は減じていたのが幸いだった。
もし直撃だったらば内臓破裂の可能性もあり、回り込んだ際に拳が
抜き手に変形していたら腸をずたずたに引き裂かれたかもしれない。
生きていて良かった。
吹き飛び、苦しみ悶えたリリオンを見てまず思ったことがそれだ
った。そしてその安堵を塗りつぶす程の怒りが湧くのに時間は不要
だった。それは元々あった苛立ちと混ざり合い、相乗し、その発露
である爆発は駆動鎧の精核を兜ごと消し炭に変えた。
そして様々な苦悩と、怪我だけを持ち帰ることになったのである。
魔精結晶も兜も失ったとは言え、鎧の大部分は残っている。鎧を
一纏めにして帰路につくことも考えなかったわけではないが、肉体
的ではなく精神的な余裕の無さからそれを見送り、またそうなると
鎖蛇の死骸も何だか急に重りのように感じてしまった。結局ランタ
ンは短剣だけを拾い上げて、リリオンの装備を代わりに持って帰っ
てきたのだ。リリオンは自力で歩いた。
色々と性急すぎたのだ、とランタンは自省する。
魔精結晶以外を持ち帰ることが、これほど大変なことだとは思っ
828
ていなかった。その大変さを聞いて知っているつもりでいただけだ
った。もっと軽い物から、己がどれほどの重量を所持できるか、そ
してそれが戦闘にどれほどの影響をもたらすのか。そう言ったこと
ポーター
を順を追って確かめるべきだったのだ。
あるいはグランの話に乗って運び屋を試すことだって。
ランタンは短剣を弄んだ。宙に放り投げて、指の間に挟むように
受け止める。 峰が中抜きしてあるせいで重心が異様に偏っている。
抜いた分の強度を補うために肉厚で、存外重いのがそれに拍車を掛
ける。宙でくるくると回る。回転の軸が歪む。
ランタンはそれを親指と人差し指で挟み、掴まえた。
駆動鎧の投擲を思い出す。そして飛翔した拳も。それは魔道だっ
た。爆発を起こしたのではなく、おそらく風の魔道。酸素だか空気
だかの可燃物を手甲の中に溜めて、摩擦の火花か何かでそれを爆発
させた。そして風を除け、風を生んだ。
投げるのではなく、押し出すような印象。紙飛行機を放つように、
そしてその尻を爆風で押してやるように。ランタンは手首のスナッ
プを使い短剣を投げた。親指と人差し指の股に爆発が起こる。
きん、と鼓膜を震わせる爆音にリリオンが駆動鎧をフラッシュバ
ックしたのか驚いて身を起こし、爆風を追い風とした短剣はぐちゃ
ぐちゃの錐もみ回転をして壁に当たって弾かれた。壁に刺さりもし
ないどころか、柄が壊れた。零点である。
ランタンは短剣を一瞥して、視線をリリオンへと向けた。
﹁おはよう、リリオン﹂
﹁⋮⋮おはよう﹂
﹁あれ取ってきて﹂
ランタンは壁際で虚しく転がる短剣を指差した。
怯える小動物のように身を起こしたリリオンは、再びベッドに突
っ伏す理由を探し、しばらくベッドの上に乗っかったままだったが、
結局はベッドを降りてゆったりとした足取りで壁際に転がる短剣を
拾い上げた。そしてそれをランタンに手渡した。
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短剣は柄が砕けて欠けて、鍔の向こう側まで爆発の熱波に炙られ
ていた。
見様見真似、一朝一夕でどうにかなるとは思っていない。ランタ
ンは短剣を見つめる。熱波の痕は刀身の半ばまでに至っていて、そ
の部分だけ金属的な艶を失ってぼんやりとした虹色の靄が掛かって
いる。
短剣を一直線に飛翔させるためには爆風爆圧を収束させなければ
ならない。ただ爆発させるだけでも微調整が効かないのに、果たし
てそんなことはできるだろうか。実践で使えるようになるには、ま
だまだ時間が掛かりそうだ。
ランタンは自分自身に言い聞かせる。様々な事象の綯い交ぜとな
った苛立ちは、焦燥感となってランタンを追い立てる。だがその苛
立ちの中核を成すものをランタンは明確にできないでいる。
それもまた苛立ちの一つ。
ランタンは使い物にならなくなった短剣をテーブルの隅に置いて、
眼前に立つリリオンに目をやった。顔面を枕に押しつけていたせい
で、顔に布皺の跡が浮かんでいて、圧迫された鼻が赤く染まってい
た。眼は赤くはない。泣いてはいなかったようだ。
﹁お腹の調子はどう?﹂
﹁⋮⋮空いた﹂
リリオンは餓死寸前みたいな声でぼそりと呟くと、テーブルの上
に手を伸ばしてパンにバターを、ハムを、チーズを、潰した芋を、
もう一度チーズとベーコンを二枚、そしてトマトソースをべっとり
と延ばしたパンで蓋をして大口を開けてそれに噛み付いた。
一口が大きい。獣の食事のようだ。頬を膨らませながら咀嚼し、
唇の端から零れたトマトソースを舌でぺろりと舐め、舌が届かない
のを指で掬い、その指を第二関節まで口に含んだ。たった三口でカ
ロリーの塊は消え失せてしまった。
ゆす
そしてランタンの飲みかけの紅茶をさも当然のように奪い、口内
を濯ぐように全てを飲み干した。最後に浮かべていた生姜を囓り、
830
赤ん坊のような小さいげっぷをした。
食欲のあることはいいことだが、ランタンの意図とはまるで違う。
ランタンがげっぷを注意して、それから腹部の痛みの調子を尋ねる。
するとリリオンはスカートの裾を握り、そのまま胸元近くまでそれ
を捲り上げた。
﹁⋮⋮﹂
もともとほとんど露わになっていた脚が剥き出しに晒され、下着
も臍も丸見えで、ほっそりとした腹がランタンの目の前に投げ出さ
れた。膝頭から舐めるように上へと登ったランタンの視線が、縦に
切れ目を入れたような臍を経由して脇腹へと向かった。
捲り上げる瞬間にどきりとしたランタンは、けれど明け透けに晒
された下着にはむしろ無反応だった。もう何度も目にしているとい
うのもあるし、色気とはつまり恥じらいなのだろう、というような
ことも考えるようになってしまった。
こんなに堂々とされては色気もへったくれもあったものではない。
恥じらわれると、それはそれで困ってしまうのだが。
ランタンはリリオンの脇腹に指で触れた。
白い腹の中にあって、そこは紫に染まっている。くっきりと浮か
び上がった四本の指の痕が、衝撃の収束を物語っている。嘔吐で済
んで本当に良かった。
﹁⋮⋮湿布は?﹂
﹁なくなっちゃった﹂
﹁そんなわけないでしょ﹂
無意識の内に剥がしてしまったのか、それとも汗で粘着力がなく
なったのかのどちららかだろう。いつ剥がれてしまったのかは知ら
ないが、良く効く湿布だったようだ。
患部はまだ痛々しかったが、これでもずいぶんとよくなっていた。
昨晩は黒いほどの濃紫の痣がそこに広がっていたのだから。
﹁まあ、ないものはしかたない。見つけてもどうせ使えないし。痛
みはまだある?﹂
831
﹁もう平気よ﹂
痣を強めに押してやるとリリオンはびくんと震えた。痣同様に、
痛みもまだしっかり残っているようだった。裾を握る手がぎゅっと
強まってリリオンが表情を歪める。けれどリリオンは声を漏らさず、
ゆっくりと太く息を吐いた。
﹁指がくすぐったいわ﹂
強がりを言えるようなら上等だ。リリオンはただ無為に、ぐずぐ
ずと寝転んでいたわけではなかったようだ。少女は自分の中の苛立
ちや後悔にどうやら折り合いを付けたらしい。ランタンは少しばら
りリリオンを羨ましく思った。
痣に消炎鎮痛の軟膏を塗り込む。
触るたびにリリオンの腹筋が擽ったそうに収縮した。皮下脂肪が
まだずいぶんと薄く、淡く腹筋の陰影が見て取れた。筋肉もそうで
あるが、脂肪もまた天然の鎧である。先ほどのサンドイッチなどま
だまだ序の口で、もっともっと食べなければならない。
どんちょう
ベタつきなくなるまでしっかりと軟膏をすり込み、最後におまじ
ないでも掛けるように優しく脇腹を撫でて手を離す。
﹁おしまい?﹂
﹁うん﹂
小首を傾げたリリオンがぱっと裾から手を離すと、緞帳が下りる
ようにリリオンの腹が隠された。そうなるとランタンは半ばまで隠
された太股を、満足気に見つめてから視線を逸らした。
リリオンが向かい合うようにテーブルについて、ランタンは飯盒
で淹れた紅茶をざぶざぶとコップに注いだ。ランタンは再び蜂蜜を、
リリオンはジャムを入れてかき混ぜる。
テーブルの上には中央に火精結晶、そしてクラッカーとパン、さ
らにそれを囲むように大量の付け合わせが乗っかっている。付け合
ラルド
わせの塩漬け、砂糖漬けの保存食がほとんどだったが、幾つか屋台
で買ってきた総菜もあった。
リリオンはパンを火精結晶で炙り、背脂の塩漬けを薄く切ってそ
832
れを乗せていた。
一日半絶食をしていきなり脂の塊を喰らっていもよいのだろうか、
という疑問を少女に投げかけるはすでに遅きに失している。
リリオンの胃腸はランタンよりも余程強健であり、その健啖振り
はよく知っている。それに美味しそうに、幸せそうに食べている顔
を見ているととても止める気にはなれなかった。
ランタンは何も言わず、リリオンが再び薄く削いだ背脂の塩漬け
を掠め取って口の中に放り込んだ。
脂の融点が低く、繊細な砂糖菓子のように口の中でさっと溶けた。
香辛料の複雑な香りは獣臭を消すためのものか鼻に抜けて強く香り、
ただ塩の味はそれほど濃くはなくむしろ脂の甘みが際だって感じら
れた。
﹁ふむ、美味い﹂
脂の塊なんてと思っていたが、なかなかどうして美味である。
先ほど紅茶を奪われた貸しを返して貰っただけだ、と言わんばか
りの尊大な態度にリリオンは文句を言うこともできずに再び脂身に
狩猟刀を走らせバターのようにパンに塗りたくっている。
﹁どうせなら鎧を持って帰ればよかったね﹂
﹁どうして?﹂
﹁リリオンに着せるために﹂
脂肪の鎧もいいが、それを身に付けるには時間が掛かる。駆動鎧
の全てとは言わず、胸甲だけでも持って帰ればよかった。そうでも
なくとも鎧を新調したって良い。
リリオンは負傷した負い目があるのかむっつりと黙って、パンを
折り畳んで口の中に詰め込んだ。
リリオンが大剣と大盾という重戦士のような武器を扱っているの
に、自殺志願者の如き軽装なのはランタンの真似をしているためだ。
ランタンが軽装なのは若干の頭のおかしさもあったが、爆発を使用
した急加速、急転換を多用する足運びのためだったり、鎧自体が体
調を悪化させると言った大義名分があるからだったがリリオンには
833
それがなかった。
いや、真似をすることも理由の一つとしては悪いものではない。
探索者の装備は当人の好みによって決定されるものだ。効率実利
を追い求めるのも、きらびやかな装飾意匠を好むのも、探索者当人
の思考であり、また嗜好の結果である。
ランタンほどの軽装は流石に珍しかったが、それでもないよりは
マシと言った程度の軽鎧しか身につけない探索者もいたし、ランタ
ンよりももっと酷い露出狂や痴女を思わせる姿の探索者もいないわ
けではない。逆に司書を思わせるような全身を覆い隠す者も、進行
に支障をきたすのではないかと言うほどの重装備の者も。
探索者の装備に正しさなどはない。だからこそ探索者は十人十色
の様々な装備を身に付けている。
ランタンは好きにさせるべきだと認識している反面、だがどこか
心の奥底に命令しても装備を調えさせるべきだという意識がある。
後者の意識はいわゆる探索班の指揮者としての意識なのだろう。あ
の無責任な単独探索者にそのようなものが、とランタンは己を酷く
奇妙に思った。少しばかり気持ち悪くもある。
﹁わたし鎧着た方がいいのかな﹂
﹁まあ、あれは不運だったっていうのもあるからね﹂
ランタンは結局日和ってしまった。まだ指揮者としての責任感よ
りも、単独探索者としての独立性がランタンには深く根っこを張っ
ている。
フラグ
昨日の今日で装備を調えることができないわけではないが、それ
でもやはり慣らしが必要だ。次回の探索はほぼ確実に最終目標との
戦闘となり、着慣れぬ鎧に身を固めることが正方向に働くとは限ら
ない。
ランタンは背もたれから身体を起こして残った紅茶を一気に飲み
干した。まるで溶岩でも飲み下して、様々な葛藤を焼くように。
駆動鎧の拳が盾を越えたのは不運だった。鎧を着ていればそれは
防げたかもしれない。もう少し太っていれば腹筋があれば耐えられ
834
たかもしれない。もっと戦闘能力が高ければ、あのような攻撃をさ
れる前に打倒できたかもしれない。二人の間に連携が取れていたら、
危険を伝えられたかもしれない。
あわら
だがそれらもまた一朝一夕にどうにかなるものではない。
迷宮に沸く魔物の強さが、そのまま最終目標の戦力を顕すわけで
はないが無関係というわけではない。リリオンは負傷したことによ
り気を引き締めなおしてはいるが、それにより地力が上がったわけ
ではない。
﹁ならばどうするか。鎧を着ないならば、もっと軽量化すべきだと
僕は思う﹂
勿体ぶった言い回しにリリオンが小首を傾げた。そしてクラッカ
ーに乗せようとしていた山盛りのクリームチーズを小盛りに減らし
た。
ランタンは頷いた。ある意味、そう言うことだ。戦闘時の所持品
を減らすのだ。
﹁わたしが、荷車を牽く⋮⋮?﹂
﹁いやいや、まさか﹂
ポーター
真剣な顔つきで尋ねるリリオンに答えて、ランタンは一つ溜を作
った。
﹁︱︱本職に任せる﹂
グランの紹介状を商工ギルドに持って行き、運び屋を雇用するの
だ。
そう言ったらリリオンはビスケットをばりばりと食べて、飲み込
むと同時にゆっくりと深く頷いた。自らを納得させるように。
運び屋の本質を戦利品の増加だとランタンは思っていたのだが、
そうではないのかもしれないと鎖蛇の残骸を捨てる時に思った。
運び屋たちは探索者を枷から解き放ち、肩代わりしてくれる存在
なのではないかと。
迷宮から持ち帰るものばかりではなく、迷宮に持ち込むものも。
ランタンの背嚢には野営用品が詰め込まれて、常にそれを背負い
835
ながらの戦闘を余儀なくされている。背嚢は背中のクッションとな
ることもあったが、やはり荷物はただの荷物であることの方が多い。
運び屋がいればそれらの荷物を全て渡し、身軽で万全の状態で戦
闘に臨むことができるのだ。
ランタンは空になったコップに飯盒に残った紅茶を全て注いだ。
飯盒の中に出がらしになった茶葉が積み重なって、紅茶は少しばか
り渋そうだった。バターを一欠片、そして再び蜂蜜。脳に直接栄養
をぶち込むように、渋みを塗りつぶすように特別に甘く。
﹁うん、甘い﹂
口を付けるほどに喉が渇く。それでもランタンは三分の一ほどを
一気に飲んだ。
﹁ま、ものの試しだよ。長期雇用って訳じゃなく、次の一回を試し
てみるだけだから﹂
それは自分への言い訳だった。リリオンがどうにか頷いたように、
ランタンもまた自らのその提案に乗り気というわけではないのだ。
グランへの義理を果たすのが嫌なわけではない。それにより戦闘
に利があるというもの半ば確信している。運び屋に支払う賃金が惜
しいわけではない。その未知の試みにある不安は僅かである。
問題はただ一つ。
﹁ランタン?﹂
この子は平気だったのにな、とランタンは思う。
結局の所ランタンは、何だかんだで人見知りだと言うことだ。
ゼイン・クーパーという探索者とのやり取りをグランは褒めてく
れたが、あれはただ一対一で、ある種の庇護者のようなグランが居
り、リリオンも見ていて、衝撃的事実に恐れを抱くより先に混乱し
たからだ。
成長なんて、これっぽっちも実感できない。
﹁嫌だったら良いんだけど⋮⋮どうする?﹂
この問いかけさえも、少女を対等と見なしてのものか、それとも
自らの意思による決定をうやむやなものにするためのものか。
836
﹁⋮⋮ランタンが決めて。わたしはそれが一番良い﹂
だが少女はその甘えを許してはくれない。無責任さではなく、信
頼の元に。
ランタンは残った紅茶を一気に呷った。口腔から喉の奥に落ちて
いく甘みさえもちょうど良いほどに、リリオンの存在は辛くてちょ
うど良いのかもしれない。
﹁よし、まずはテーブルの上を全部胃にぶち込む﹂
ランタンは心を決めた。
﹁それで商工ギルドに行く﹂
まずはそこまで。
商工ギルドで契約内容を確かめてから、実際にどうするかは決め
る。
紹介状があるのだからおそらく不利な契約にはならないだろうが、
それでも実際雇う運び屋がどんな人材であるかを知らないことには
一緒に迷宮に行きたくはない。
﹁うん、わかった!﹂
葛藤の末に訪れたランタンの妙な冷静さに、リリオンが嬉しそう
に笑って頷いた。
837
057
057
リリオンに行くと宣言した割に、思いがけずランタンの腰は重た
かった。
それは自分自身の決定をまだどこかで受け入れきれぬ己がいるせ
いなのだろうとランタンはぼんやりと考える。あるいはただ眠気の
せいなのかもしれない、と優柔不断さから目を背けもした。
食後の微睡みに片足を踏み込みながらもどうにか踏み止まったの
は、夢の園へと逃げるように落っこちてしまえば明くる日まで戻っ
てこられないだろうという確信があったからだ。さすがにそれはラ
ンタンの矜恃が許さなかった。
ランタンは久しぶりに苦しいほどの満腹だった。過剰に詰め込ま
れた食べ物を消化しようと血液が内臓群に流れ込み、また消化吸収
によって新たに生み出された熱量さえも、蓄えるよりも先に片っ端
から消費しているような感覚があった。
行かねば、とランタンは自分自身に言い聞かせる。このままでは
埒があかない。
ランタンはうつらうつらとしながらも、満腹で半分眠っているリ
リオンの目を覚まさせて、二人揃って冷たい水で顔を洗い、ぼんや
りとした足取りで商工ギルドを目指した。
目指したのだが、外に出て歩き始めてもまだうつらうつらとして
いたのだろう。ランタンが商工ギルドの場所を知らないことに思い
至ったのは、下街で絡んできた阿呆を腹ごなしと眠気払いも兼ねて
蹴っ飛ばした後のことだった。
ランタンは取り敢えず失神している阿呆に物理的に活を入れて目
覚めさせると、全く期待すらせずに商工ギルドの場所を冷淡な声音
838
で尋ねた。阿呆は期待通りに、その場所を知らなかったので再び失
神させられて道端に捨て置かれることとなった。
あまりに酷い扱いであるが、眠れる獅子よりも質の悪いものにち
ょっかいをかけたのだからしかたのないことである。
﹁どこだよ商工ギルド﹂
苛々しながらランタンが乱暴に呟いた。何もかもが上手く回って
いないような気がした。
運気が悪いのだろうか。不意にグランが魚形の石獣のことを瑞祥
だと言っていたことを思い出した。何にも良いことないじゃないか、
とランタンは一人むくれる。場所を尋ねがてら工房に文句を言いに
行こうかと、完全に八つ当たりな考えがふつふつと沸き上がるよう
だった。
悪い流れはゼイン・クーパーとの会話から始まったのか。それと
も、それ以前からなのか。
気まぐれで美味しくない水精結晶を購入しお守りにしようと思い
尚且つそれを忘れたとか、あるいは望んだ水精結晶が必要数手に入
らなかったこととか、むしろあの魚形の石獣は凶兆だったのではな
いだろうか、などと。
それとも殺した人数の膨らみが、ランタンの影に魔を染みこませ
たか。
﹁へっ﹂
ランタンはやさぐれた失笑を漏らした。
それらに因果関係がないことは分かっている。だが続く不運を結
びつけて考えてしまうのが人の常であり、ランタンもなかなかそこ
から逃れることが出来なかった。関係ない関係ない、と心の中で唱
えても、なんとなく気持ちの悪さが拭えずにいる。
﹁ねえランタン。紹介状は?﹂
﹁ん?﹂
﹁紹介状に書いてないの?﹂
﹁⋮⋮﹂
839
ランタンは思い至らぬ自分に呆れるように、それと半ば本気で拗
ねた様子でリリオンに紹介状を押しつけるようにして渡した。リリ
オンはそんなランタンに苦笑を向けて紹介状を広げる。
﹁ほらここ﹂
紹介状には住所が記されているらしく、リリオンは頬をくっつけ
るようにしてランタンと一緒にそれを覗き込んだ。
﹁読んで﹂
ランタンはリリオンの頬からそっぽを向いて、そう言って命令し
た。リリオンはいよいよ笑ってその住所を読み上げた。
ランタンは上街の区画の分け方を正確に知っているわけではない
ので明確な位置を思い浮かべることは出来なかったが、おおよその
見当を付けることは出来た。その付近で視線を巡らせれば、おそら
くそれらしい建物が目に付くだろう。
﹁⋮⋮ありがとう﹂
﹁ふふっ、どういたしまして﹂
ランタンが受け取らなかったのでリリオンは懐に紹介状をしまっ
た。そして少女はランタンの背を押すようにして再び歩き出した。
先ほどまで眠たそうにしていたのにリリオンは少しませた様子で
ランタンの肩を抱き寄せた。拗ねる弟をあやす姉にでもなったつも
りなのかもしれない。
ギルドとはつまり職業組合のことで、ギルドの建物は寄り合い所
のようなものである。
各ギルドの建物は、探索者ギルドと魔道ギルドだけが異質であっ
て、その実それほどの規模ではない。前述二つのギルドは言わば複
合施設であった。
建物はギルド運営のための箱物ではなく、探索者ギルドならば医
療、金融、買取等の探索者サポートのための施設、魔道ギルドなら
ば研究施設等が、むしろ本体以上に肥大している。
それに対して職人ギルドは巨大工場施設ではなかったし、商工ギ
ルドも巨大商業施設ではなかった。それらは相応に仰々しい建物だ
840
ったが、そこで行われるのは各種事務仕事と様々な会議ぐらいのも
ので、職人や商人と言った職業を象徴するような業務が行われるこ
とはほとんどない。
商工ギルドの建物は、そう言ったものから仰々しさを抜いた建築
クリスタルケイブ
物だった。外観は地上四階建てのよく言えば質実剛健、悪く言えば
地味な印象を受ける建物である。
外観から中を推し量ることが出来ないのは水晶洞の前例を踏まえ
て承知していたが、それでもランタンは少しばかり拍子抜けした。
リリオンもその建物を見上げて、ぼんやりとここが商工ギルドであ
ることを示す看板を眺めていた。
﹁⋮⋮ん?﹂
その看板がいやに綺麗だ。漆か何かだろうか、艶のある黒地に金
細工で作られた天秤と金槌の意匠が浮かび上がっている。主張が強
すぎるわけでもないのに、目に入ると意識を引き寄せられる。
上品な看板だった。
その看板一つでランタンは拍子抜けしたことなど忘れてしまった
かのように少し気後れした。看板は店の顔だ。綺麗で、上品で、何
となくランタンの苦手な顔である。
精神的に弱気になっているせいだろう。ひょっこりとランタンの
中にある人見知りが顔を持ち上げていて、その雰囲気を察したのか
リリオンがランタンの背中を撫でた。ランタンは看板から視線を切
った。
まるで天秤だな、と思う。
ランタンの足が重くなった分、リリオンは軽くあろうとしてくれ
ている。ランタンはなんとなしにそんな気がした。
だがただでさえ身長の割に体重のないリリオンを軽くさせてしま
っては、その内にリリオン自体がすり減ってなくなってしまいかね
ない。
人見知りを腹の底に引っ込めて、ランタンは重たい足を力任せに
前に進ませ商工ギルドに入った。つまらない意地である。
841
商工ギルドの玄関広間は広く清潔感があった。その清潔感は人の
出入りの少なさから来るものだろうと思われる。
入ってそうそうギルド組員の男がランタンたちを出迎えた。いや
出迎えたというのは正確ではない。
男はたまたま通りかかっただけのようだったが、それを感じさせ
なかった。まるでここでずっと待っていたかのように、いやいやよ
くぞおいでくださいました、と四十絡みの脂っぽい笑みを浮かべる。
脂肪の厚い目蓋の下で小さな黒目が頭の先から爪先までをさっと
走ったのをランタンは感じ取った。その一瞬で己が男に値踏みされ
たことを悟った。そしてそれなりの高評価を下されたことも。
男はランタンを、探索者ランタン、だとはその時点でまだ認識し
ていなかった。そして多くの悪党たちが何となく感じる、小金を持
っていそうな身綺麗な子供、と言う認識でもなかった。
たまたまそこに居合わせただけの男が一瞬にしてランタンの身に
付けている装備の品質から、ランタンをそれ相応の探索者だと見抜
いたようである。外面だけではわりと侮られがちなランタンを、だ。
武人が身体付きや雰囲気から実力を察するように、男は何にどれ
ほどの金を使うかによってランタンの実力、あるいはそれ以上に深
いものを見抜いた。
迷宮に入る時とは別種の重圧を感じ取った。ランタンがちろりと
唇を舐めて、無意識に腰の戦槌に触れて撫でた。そこにランタンの
心が宿っているかのように、落ち着け、と心の中で小さく呟いた。
﹁これはこれはランタンさまに、︱︱リリオンさま。今日はどのよ
へりくだ
うなご用件で当ギルドのにいらっしゃったのでしょうか?﹂
背の小さなランタンの更に下手に出るような謙りを見せた男に、
だがランタンは更に警戒心を高めた。気づかれた、と言うのはどう
でもいい。ランタンは見知らぬ人間が自分の名前を知っていること
に慣れていた。
だがまさかリリオンの名前さえも知られているとは思わなかった。
同職業の探索者ならまだしも、何ら関係のない人間に。
842
ランタンは動揺を悟られぬようにリリオンに紹介状を寄越すよう
したた
に手を差し出し、受け取ったそれを男に渡した。男は紹介状にさっ
と目を通した。
これでもう帰ることは出来ない。これで帰っては紹介状を認めた
グランの面子を潰すことになる。ランタンは覚悟を決めた。
﹁はい、運び屋派遣サービスのご利用ですね。すぐにご用意したし
ますよ。何なら今すぐに迷宮に連れて行って頂いても構いませんよ。
はっはっは﹂
そう言って男は笑った。それは彼なりの冗談であり、また実際に
それが可能だと言うことをひけらかしているようでもあった。ラン
タンは全く笑いもせず、リリオンに至っては言葉の意味をそのまま
受け取り、ふうん、と息を漏らしただけだった。男はその反応につ
いて何にも感じていないようだった。
﹁⋮⋮まだ利用すると決めたわけではないので。どのようなサービ
スなのかも知りませんし。それを今日は教えて貰いたくて来ました﹂
まずは牽制、とランタンは努めて冷静に自分に契約の意思が薄い
ことを伝える。
男は、はい畏まりました、とランタンたちを応接室に案内した。
そしてそれはそれは美味しいお茶とお茶請けを出し、三分に満た
ないほども待ち惚けを二人に食らわせた。お茶を一口啜り、茶菓子
を一口囓って休憩時間はお終いだった。気を緩ませはしたが、締め
直す暇は与えられなかった。
その隙に付けいるように現れたのは妙齢の女性だった。色の薄い
金の豊かな髪をバレッタで一纏めにした落ち着いた雰囲気は年の頃
を三十前後を思わせたが、ふっくらと丸い頬が幼さを女に与えてい
る。真面目で優しげ。商人と言うよりは修道女のような雰囲気があ
る。
外見上の年齢は下でも女は男よりも立場が上であるらしかった。
女は目線一つで早々に男を下がらせると、安心感のある微笑みを二
人に送る。軽く会釈を返し、ランタンはネジを締めるように気持ち
843
を引き締めた。
そして女は挨拶もそこそこに、では早速、と聞き取りやすく落ち
着いた口調で運び屋派遣サービスについての説明を始めた。
本当に修道女なのかもしれない。セールストークと言うよりは聖
書の朗読を思わせた。謳うように朗々として、その声は揺るぎない
確信を持って明瞭である。商売気の一切ない微笑みは慈愛に満ちて
おり、絶対的な高見からではなく、同じ位置に立ち迷える二人の手
を取り導くようだった。
たの
隣でリリオンが引き込まれるようにしてその話を聞いていた。説
明はとても分かりやすく、運び屋を恃むことが探索者にとってどれ
ほどの利をもたらすのかを懇切丁寧に二人に伝える。
リリオンの反応が、ランタンの警戒心を高めた。
ランタンも人のことは言えないが、人見知りをする少女がこれほ
ど容易く、またあまり運び屋を雇うことを望んでいないよう思えた
少女がこれほどまでに容易く籠絡されるというのは普通のことでは
なかった。
警戒し、冷静さを保っているつもりだった。女の話す説明が、良
いことしか言っていないことにも気が付いてた。
曰く、商工ギルドに所属する運び屋は全員がギルドから課せられ
た高度な訓練を受けており、また認定試験を合格した者しか所属を
許されていない。彼らは選りすぐりの精鋭である。
曰く、彼らは身の丈を超える荷すら軽々と持ち運び、また厳しい
探索の中で探索者の足を引っ張るようなことはなく、またどれほど
くろこ
の苦難でも文句の一つも漏らさず、いざ戦闘となれば悲鳴を零すこ
ともなく戦闘の邪魔をしない。彼らは完璧な黒子である。
曰く、そして確かな知識に裏打ちされた鑑定眼は探索者の悩みの
種である戦闘後の迷いの一切を打ち払い、探索者に確実な利益もた
ラッキーチャーム
らす。それは普段の探索の利益を倍にすることもある。彼らは効果
のある幸運のお守りである。
曰く、彼らは見習いの探索者が自分磨きのために行う運び屋業と
844
は訳が違う。滅私奉公、商工ギルドが派遣する運び屋は全てが探索
者のためにある。彼らはまさしく運び屋の専門家なのである、と。
顔には出さなかったがこの上なく胡散臭いと思ったランタンは、
しかし気が付けば契約を済ませていた。
指先の冷たくなった手で契約書に署名をする時、狐に化かされた
ような気分だった。自分は誘導されたのだとは理解している。だが
会話の中でどのようにしてそれが行われたのか、全く分からなかっ
た。心のどこかで、では検討してみます、と言う逃げ口上が使われ
ることなく転がっていた。
契約は澱むことのない川の流れにも似た、会話の自然な流れのま
まに行われてしまった。
長期雇用ではなく、ただ一度だけのお試し契約であるのがランタ
ンが最後まで守った唯一の砦であったが、それが誘導の元に行われ
ていないとは言い切れなかった。
ここは鬼の住処だ。
商工ギルドは、商人ギルドと職人ギルドの調整機構でしかない。
グランから聞かされて抱いた侮りは大いに間違っていた。重要なの
は商工ギルドが、二大ギルドの代表が運営していると言うことだっ
た。
少数精鋭。
代表の集まりが無能であるはずがないのだ。グランの愚痴を面倒
くさがって聞き流していたのが仇になった。グランはこの恐ろしい
相手たちと仕事をする気苦労を嘆いていたのだ。
商売の鬼が住んでいる。この都市に於いてある種、最も油断のな
らぬ存在の選りすぐりたちが。
ランタンは爽やかに送り出された建物をうっそりと振り返って見
上げた。
この建物は質実剛健どころではなく、もしかしたら全ての無駄を
削り取った結果なのかもしれない。そしてランタンがただ一つの契
約だけで、生きてこの建物を出られたのはランタンにまだ価値があ
845
るからだった。
最初に出会った男が、あるいは説明女が、他の誰かがその気にな
ればランタンもリリオンも丸裸にされて髪の一筋から血の一滴に至
るまで、全てを奪われ売り払われていた。そんな恐ろしいことを思
わせるような奇妙な体験だった。
何も気が付かずとても満足のいく契約が結べてほくほくしている
リリオンの横で、ランタンはほんのりと薄ら寒くなった。リリオン
は運び屋と契約したことできっと次の探索が上手くいくだろう確信
を抱いているようだった。ランタンもそうあって欲しいな、と精神
的疲労の分だけ強く思う。
﹁⋮⋮帰ろう﹂
妙な敗北感を抱きながらランタンが呟くとリリオンが、ダメよ、
とその腕を抱いた。
﹁ギルドの人が言ってたでしょ? ミシャさんの所で契約をしなお
さないと﹂
そうなのである。
契約を改めずに降下当日を迎えたら、困るのはランタンではなく
ミシャなのである。ただでさえ運び屋を追加降下させること自体が
探索計画の見直しというミシャへの負担となっているのに、それを
当日まで黙っているというのはミシャへの明確な裏切りと言えた。
この前も疲れてたな、とミシャの顔を思い出す。
分かっていたことの筈だった。運び屋を急遽雇うことが引き上げ
屋の負担になることを。
それでも何故自分は追われるようにしてこんな事をしているのだ
ろう。ランタンは急に自らの意思が脳や心から乖離していくような
感覚を覚えた。
先ほど説明女に誘導された時も曖昧だったが、それよりももっと
ぼんやりした何かに操られているような気分になった。
﹁頭痛い⋮⋮﹂
ランタンは猫のように目を擦って、まだ痛みが少し残っていたが
846
リリオンに気取られぬように素知らぬ顔をしながら歩きだした。
もういい加減絡まれる可能性を嫌って、かなりの遠回りになった
が裏に裏にと人気のない道を選んだ。今誰かに絡まれたら自分でも
吃驚するぐらい酷いことをしそうな気がした。
蜘蛛の意匠の看板を前にしてランタンは自らの頬を挟み込むよう
にして引っ叩き気合いを入れた。ばちん、と気持ちのいい音が響く。
﹁どうしたの?﹂
﹁どうもしないよ﹂
そんなランタンに驚いたリリオンを置き去りに、ランタンは扉を
開いた。
﹁いらっしゃい。あら、どうしたの? ほっぺが赤いわよ﹂
アーニェがほっとするような笑みを寄越して二人を迎え入れた。
頬を指差されたランタンは曖昧な苦笑を漏らした。
﹁また何かあったのかしら?﹂
アーニェの言葉は、そのままの意味以上の他意はなかったが、ラ
ンタンは言われて少しバツが悪くなった。契約期間中に店舗を訪ね
ると言うことは、つまりそういうことなのだ。
中途での契約変更は探索者の権利ではない。引き上げ屋はただ事
情を酌んでそれに対応してくれるが、それは引き上げ屋の温情であ
る。契約とは本来そう簡単にころころと変更できるものではない。
その契約変更をランタンはここ三回の契約の内で二回も行い、唯
一変更のない一回の契約はどうにか頼み込んで受け入れてもらった
契約であることを考えると、ただただ頭が上がらなかった。ランタ
ンは申し訳なさでいっぱいになりながらも、商工ギルドから渡され
た契約書をアーニェに渡した。
﹁ふうん、︱︱あらそうなの、うん事情は分かったわ。ランタン君
が運び屋をねえ﹂
アーニェは契約書に目を通すとすぐに事情を察して、ランタンの
負い目を吹き飛ばすように軽やかに声を上げて笑った。
﹁なるほど。商工ギルド相手じゃ如何にランタン君でも分が悪いわ
847
ね。商工ギルドはこんな仕事を始めてたのね、知らなかったわ﹂
アーニェは契約書を上から下までじっくりと読み込んで、納得し
たようにうんうんと頷いた。
﹁浮かない顔してるけど、それほど悪い契約じゃないわよ。これは
むしろかなり良い方ね。商工ギルドが仲良くしましょうって言って
るのよ﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁ええそうよ。あそこは容赦ないもの。貧乏人は探索者だろうと貴
族だろうと蹴っ飛ばして追い出されるし、あそこの人たちが本気に
なればランタン君は運び屋の一個師団と契約しているところだわ﹂
ランタンは自嘲するような笑みを浮かべて肩を竦める。そのよう
な無茶をしてくれれば断る事も出来たかもしれない。アーニェの言
ったとおりに契約している可能性も大いにあったが。
﹁あら慰めじゃないのよ。確かに普通の運び屋を雇うのに比べたら、
まあちょっとは割高だけれど、商工ギルドが用意した人材なら間違
いはないわよ。見習い探索者連れて行っても役に立たない事なんて
ごまんとあるんだから﹂
実際に探索を終えて迷宮から引き上げられた時、探索者見習い兼
運び屋が全く使い物にならなくて険悪状態になっていることも少な
くないらしい。アーニェも現場に出ていた時分には、その得も言わ
れぬ雰囲気に苦労したそうだ。
﹁現物払いを予定していていざ潜ってみたら運び屋が使い物になら
なくて大赤字なんて事もあるのよ。険悪なだけならまだ良いけど、
私刑に掛けられてぼろぼろになってたり、運び屋だけ戻ってこない
なんて事もあるからね。迷宮内は治外法権みたいなものだから﹂
苦労と言うには苦すぎる感情が一瞬だけ浮かび上がったような気
がした。だがアーニェはすぐに余裕のある大人の顔を作った。
﹁だからお墨付きがあるのはいい事よ。問題があったら商工ギルド
に文句も言えるしね﹂
﹁文句を言ったら倍返しにされそうなんですが﹂
848
商工ギルドにすっかり苦手意識を持ってしまったランタンは拗ね
るような口調でそう呟いた。アーニェはそんなランタンを悪戯っぽ
く見つめて、リリオンに視線を寄越した。すっかり商工ギルドに籠
絡されていたリリオンは、それでようやくランタンが商工ギルドに
対して思うことがあるのを悟ったようだった。
﹁ねえ、ランタンは運び屋嫌だったの?﹂
﹁⋮⋮運び屋が嫌なわけじゃないよ﹂
説明女がつらつらと上げた運び屋の利点は胡散臭くとも、そこに
否定するべきようなところはなかった。その存在が探索者にとって
得がたいものであるというのは、アーニェが言ったような問題があ
っても運び屋という職業が失われずにあることからも窺い知ること
ができる。
﹁ただ、⋮⋮うーん。なんだろう、なんて言うのかな﹂
自らの意思で決定した、と言う感覚がないのが酷く気持ち悪かっ
た。
それを聞いてアーニェが堪えきれずに笑い声を上げた。
﹁なるほどね。うふふふ、ランタン君も男なのね﹂
﹁どういうことですか?﹂
ランタンが尋ねるよりも早く、リリオンがアーニェに迫った。ア
ーニェは契約書をひらひらとさせてリリオンに微笑みかけた。
﹁ランタン君はね、きっとやり込められたことが気に入らないのよ﹂
﹁⋮⋮そんなことは﹂
﹁だってランタン君は今の今まで、自分のことは全部自分自身で決
めてきたでしょう? うちのミシャが探索ペースを落としてって心
配してお願いしても、絶対自分を譲らなかったじゃない﹂
ねえ、と同意を求められてもどうして良いのか分からない。
﹁やりたいことも、やりたくないことも全てが意のままだった。⋮
⋮とまでは言わないけど﹂
アーニェは黙りこくってしまったランタンを楽しげに見ている。
849
﹁気に入らない、と言うのは少し違うわね。ランタン君は慣れてい
ないのよね。人に物事を決めてもらうことに。︱︱ほら、眉間に皺
を寄せないの。そんなに難しく考えなくったって良いのよ。ランタ
ひと
ン君は本当に嫌なことは嫌って言える子だもの、受け入れたって事
はまんざらじゃないのよ。決定、︱︱面倒事を他人が勝手にやって
くれたって思えば良いんだから﹂
ランタンはそういった自分に自覚がないせいか納得しかねるよう
に唇を突き出して、眉間の皺を親指で擦り消そうとしていた。眉間
を指で擦り、そのまま髪を掻き上げて、後頭部から項を撫でつけ頬
を擦った。自分がどんな人間なのか分からなかった。せめてもその
輪郭だけでも確かめるように。
いつもと変わらぬほっそりと軟らかい頬があった。
﹁リリオンちゃんいい? ここが女の見せ所よ。男の人はねこうや
ってすぐに黙り込んじゃうの。本当はあれこれ小難しいこと考えて
るのに。何でも自分一人で解決しようとするのよ。こっちは心配し
てるのにやんなっちゃうわね﹂
﹁︱︱ランタンも、そうなの?﹂
﹁そんなことないよ﹂
ふるふると無自覚に首を横に振ったランタンを見てアーニェはほ
ら見たことかと大げさに溜め息を吐いて、リリオンを招き入れるよ
うに顔を寄せた。
﹁リリオンちゃん、聞いたって無駄なの。何だってすぐに大丈夫っ
て言うのよ。これはもう察しなきゃダメなのよ。ね、ランタン君﹂
﹁振らないでください⋮⋮なに? リリオン﹂
﹁わたし、ランタンのこと察してあげる﹂
リリオンがじっとランタンのことを見つめた。顔色を窺うのでは
なく、顔自身を、その目の奥底までを見通そうとするように。冗談
でやっているのなら笑えたが、その目付きが真剣だったので思わず
ランタンも睨み返してしまった。
それはまるで野生動物が争いを始める直前にも似た、視線を逸ら
850
すことの出来ない妙な緊張感が漂っていた。曲がりなりにも探索者
同士の睨み合いは、そこに無駄な威圧感を撒き散らかすばかりだっ
た。
﹁あー、うん。⋮⋮二人にはまだ早かったのかしら。ランタン君は
まだ男じゃなくて、男の子なのね﹂
アーニェはせっかくの盛り上がりを見せた女談義が突如妙な方向
に流れたことを悟り、つまらなそうに三対六つの手を叩いて二人の
睨み合いを中断させた。ランタンがはっと視線をアーニェに向ける
と、その隙を突いてリリオンがランタンを抱きしめた。
﹁やめろ﹂
﹁やめない。ランタンはわたしに抱きしめて欲しいって思ったのよ﹂
﹁思ってないから﹂
﹁隠さなくても良いのよ。わたしはランタンに何だってしてあげた
いの、ランタンの望むことは何だってしてあげる﹂ 正面切ってそう言い放ったリリオンにランタンは絶句して、アー
ニェは青々とした清々しさに当てられて少女のように頬に手を当て
た。太陽を直視するように眩しそうに目を細める。
﹁あらまあ物凄い殺し文句ね。︱︱でも店内でこれ以上は止めてね。
公序良俗違反で営業停止にされちゃうから﹂
﹁はいっ!﹂
ランタンを心ゆくまで抱きしめて堪能したリリオンは、それでも
名残惜しむようにそっとランタンを解放した。そしてリリオンの柔
らかさとか温かさに、何だかんだでまんざらでも無かったランタン
は悔しげにしている。
﹁元気出たみたいで良かったわね。契約の変更は了解したわ。一人
追加に、探索期間の一日延長。料金体系は重量制になるから気をつ
けてね﹂
運び屋を入れることで行きと帰りで重量に大幅な変動が出るため
に料金体系が変更された。重ければ重くなるほどに引き上げ時に必
要となる起重機操作の技量と、そして燃料が増加するための措置で
851
ある。
﹁ミシャにもちゃんと伝えておくから﹂
﹁ミシャは今日もお仕事ですか?﹂
﹁ええミシャだけじゃなくてうちの起重機は全部なんだけど、朝か
らずっと特区に詰めているわよ。ランタン君のおかげで忙しくさせ
てもらっているわ。︱︱あら、嫌味じゃないのよ﹂
アーニェの表情にランタンは、まさか、と頬を引きつらせた。
﹁聞いてるわよ。大活躍だったみたいじゃない﹂
﹁⋮⋮誰からですか?﹂
﹁お客さんが話してくれるのよ。うふふ、ランタン君に憧れている
のかしらね? おかげさまで新規のお客さんが増えたわ。広告料を
払ってあげても良いぐらい﹂
ランタンと同じ引き上げ屋を、と言うことで新規にやって来た探
索者が複数いて、それらが語った噂の内容は複数あった。
作られた真実に最も忠実な、ランタンが成り行きで探索者ギルド
を手伝ったというものから始まり、そこから発展してランタンが探
索者ギルドに積極的に働きかけて探索者に堕落せしめる犯罪者を裁
いたというもの。
中にはランタンの存在に恐れを成した犯罪組織がランタンを襲い
これを撃退したというものや、突如ランタンと組むこととなった少
女はやんごとなき血を引いておりランタンがその少女を救い出した
のが組むこととなった切っ掛けなのだとか、もうランタンの理解力
を超えて話がおかしな事になっているらしい。
ウィルス
噂が広まるにつれてその内容が変質していくのはよくある話だが、
その変質する速度が尋常ではなかった。まるで病原菌のようだ。
ランタンは顔を青くして鳥肌の立った二の腕をさすった。
その瞬間にリリオンがはっとして冷たくなったランタンを見つめ
た。腕を広げて口を開く。
﹁ランタン、抱きしめてあげる。温めてあげる﹂
﹁いらないって、だから﹂
852
しかし強がりは察せられてしまって、ランタンは結局抱きしめら
れた。
853
ポーター
058 迷宮
058
探索当日。
今日初めて運び屋と顔を合わせる。
もうどうにもならないので腹を括ったランタンが平気な顔をして
朝食を喰らっているのに対して、リリオンはまるで自らに掛かって
いた魔法が解けたかとでも言うように憂鬱な顔をしていた。
﹁喜んでたじゃん、昨日まで﹂
﹁⋮⋮昨日までね﹂
・ ・ ・
昨晩ベッドの中で、どんな人なのかしらね、と微笑んでいた少女
は起床と共に消え去ってしまった。昨晩はどんな良い人なのだろう
と想像していたリリオンは今では悪い方悪い方へと想像の羽を広げ
ている。
﹁意地悪な人だったらどうしよう。怖い人だったらどうしよう﹂
不安の大きさはそれまで抱いていた希望の大きさに比例した。
雇った運び屋の情報が全くないと言うわけではない。商工ギルド
から勧められるがままに契約したことは確かだったが、それでも全
てうやむやのままに契約をしたわけではない。
名前、性別、年齢、身長体重、最大積載量、未舗装平坦道での平
均牽引速度。そのどれだけが真実であるのかは分からないが、少な
くとも契約したことを納得させるに足る能力を有している。
どうせなら性格も聞いておくべきだったな、とランタンは今更に
いきどお
なって思った。そのような質問を投げかけるように誘導してくれれ
ば良いものを、とも。
ランタンは誘導されたことに憤りや恥ずかしさを覚えたりもした
が、もう既に、これも経験である、と過去のものにしていた。何も
854
命までを取られたわけではない。過ぎてしまったことはしかたなく、
次に活かせればそれでよいのである。
運び屋が使い物にならなかったとしたら、いつも通りの探索を行
えば良い。契約金は惜しくとも勉強代だと思えば諦めも付く。売り
文句通りに働いてくれれば、何も文句を付けることはない。
どうせこの一度の探索限りのことだとランタンは考えていて、も
しそれが覆されて長期雇用したいと思わせられるとしたら、それは
ある意味とても幸運な出会いだったということになる。
﹁まあどうにもならないよ。ほら、口、零してる﹂
﹁え、わぁ!﹂
リリオンは口を小さくもごもごとしている。上の空で食事を続け
るものだからトーストの上に盛られたクリームチーズが唇の端に触
れて、トースト上から押し出された。それは唇の端から顎の方へと
べっとりと垂れた。
リリオンは慌てて舌を伸ばしたが、蛇でもあるまいしそこまで舌
先が届くことはなかった。指を使うことを忘れているリリオンの醜
態を眺め、結局ランタンがさっと手を伸ばしてそれを拭ってやると、
その指を自らの口に運んだ。
﹁意地悪な人だったらぶっとばしてやればいいよ。アーニェさんも
言ってたでしょ? 迷宮は治外法権だって﹂
都市法が適用されないわけではないが、迷宮はほとんど密室と変
わらない。そこでどのようなおぞましい事情が行われようとも、そ
れを知ることが出来るのはその迷宮内にいるそれを行った者と行わ
れた者たちだけだ。迷宮内は人間性を試される場である。
﹁⋮⋮商工ギルドのなら大丈夫って言ってたわ﹂
クリームチーズはレモンに似た酸味があった。滑らかでさっぱり
していてぼそぼそとした素朴な黒パンに良く合った。玉葱と干し肉
だけで作ったスープもそれなりに美味しい。胡椒があればもっと美
味しくなりそうだ。
﹁聞いてるの?﹂
855
﹁聞いてるよ。大丈夫だって言う話でしょ﹂
朝食をばくばくと食べているランタンを、リリオンが納得いきか
ねるような顔つきで見つめた。
﹁アーニェさんの言った通りだったわ。昨日まで嫌そうだったのに﹂
﹁知らない話だね。クリームチーズ全部もらっていい?﹂
チェックメイト
﹁︱︱じゃあそのジャム頂戴﹂
ランタンはまるで王手でもするような手つきでリリオンの前にジ
ャムの小瓶を進めた。そして活路を見いだせないリリオンが悔しそ
うにしてそれを受け入れる。せめてもの意趣返しかリリオンはジャ
ムを全部パンの上に落としてべっとりとそれを延ばした。
﹁零すんじゃないよ。意地悪な人だったら嫌味言われちゃうからね﹂
﹁こぼさないわよ﹂
・ ・
ペースト
ふん、と鼻を鳴らしリリオンは大口を開けてパンに噛み付いた。
そのまま齧りつくともぐもぐと不安を丁寧に、尽く、形を失い液状
になるまで咀嚼して、ごっくんと音を立てて腹の底に放り込んだ。
はたしてそれがきちんと消化されるか、それとも再び迫り上がって
くるかは見物である。
そんな風に見つめながらランタンもペースを落とさず食べ続けて
いると、二口目を口にしたリリオンがはっとランタンを見返した。
じっと見つめながら咀嚼物を嚥下し、ぺろりと唇を舐めた。
﹁もしかして、︱︱強がってるの? またぎゅってする?﹂
﹁いらない心配をどうもありがとう。馬鹿なこと言ってないで、さ
っさとご飯食べな。あとで髪結ってあげるから﹂
一瞬だが食事をする手を止めた。
ぬる
察しようとしてくれているリリオンにいらぬ確信を抱かせぬよう
に、ランタンは大げさに溜め息を吐いてリリオンを温く見つめる。
そんな余裕のあるランタンを見て、リリオンは安心して食事を再開
した。
デザートに握り拳ほどもある柑橘類を食し、べたつく手を洗って
からリリオンの髪を纏める。
856
﹁手がオレンジの香りがする﹂
﹁髪の毛もその香りにしてあげようか?﹂
﹁やぁん﹂
ランタンがわしわしと頭皮を揉むとリリオンが身を捩った。そし
て髪も捩る。右耳の上辺りから左へと髪を太めに編み込み、それを
そのまま毛先まで三つ編みを作った。
﹁ランタンは編むの好き?﹂
﹁んー⋮⋮どうだろ? 細かい作業は好きだよ﹂
そしてその三つ編みをくるりと左耳のそばで団子状に纏める。
﹁ふうん。ね、ランタンは髪伸ばさないの?﹂
﹁伸ばさないよ。男の長髪なんて暑苦しくて鬱陶しいだけだもん。
リリオンの髪だけで満足だよ﹂
顔回りの余った髪を再び編み込み、団子に巻き付けてピンで留め
る。そして団子を少し緩めるようにしてやると、それは蕾の解ける
花のようにも見える。
﹁髪長くても似合いそうなのに﹂
﹁ふふふ、何を言ってるのさ。僕は何でも似合うよ﹂
﹁それもそうね﹂
軽口を叩き合い、それで準備は万端になった。ご飯は食べた。忘
れ物はない。人見知りの尻を蹴っ飛ばして心の片隅に押し込めたの
で、精神も安定している。リリオンもほとんど持ち直している。
ぴりりとした雰囲気を身に纏ったせいか、迷宮特区に辿り着くま
でに人に絡まれることもなかった。
﹁残念。準備運動でもしようかと思ったのに﹂
精神は安定ではなく、やや前傾か。
ランタンは息を吸い、ゆるりと吐く。前回はこの精神的前傾姿勢
の為に中途帰還することとなったのだ。同じ轍は踏まないためにも
自らの思考を中立に戻さなければならない。最終目標戦ではそんな
ことも言ってはいられないだろうと、諦めのような確信はしていた
が。
857
﹁さて、どんな人なのかね﹂
とは言え最終目標以前に、そもそも迷宮に入るよりも先に終わら
せなければならない問題がある。それはいわゆる自己紹介というや
つで、ランタンはこれがあまり好きではなかった。
友好な人間関係を築くために必要な行いであることは分かるのだ
が、あなたのお名前なんですか、と言うのはどうにも気恥ずかしさ
が付きまとう。
こちらも向こうも互いの情報は交換してあるのだから、それほど
気にしなくても良いと分かってはいるのだが性分なのだからしかた
がない。
クレーン
﹁あれ?﹂
起重機の姿がない。ミシャよりも早く現場に着いてしまった。運
び屋に会うためにずいぶんと早く来たのだから、当たり前と言えば
当たり前だが起重機が脇に待機していない迷宮口というのはなかな
か新鮮で、どこか物寂しげな雰囲気がある。
そして起重機の代わりに荷車があって、そのすぐ脇に運び屋が待
機していた。
近付きながら情報を思い出す。
商工ギルド所属の運び屋。パティ・ケイス。人族。女性。三十一
歳。身長百七十三センチ。体重六十五キロ。荷車での最大牽引重量
千二百キロ。その十分の一、百二十キロ積載時の未舗装平坦道平均
牽引速度時速五キロ。それを三時間以上持続可能。
その牽引力たるや一馬力を超えている。かなりの高性能だ。
そして、元探索者。
はたしてどんな人物なのだろう、とリリオンほどではないがラン
タンも密かに想像を膨らませていた運び屋とついに対面した。まず
は先んじて声を掛ける。
ぼくとつ
﹁おはようございます。パティ・ケイスさんですか?﹂
その女性は何となく田舎っぽい、木訥とした雰囲気があった。日
に焼けた栗毛に、日に焼けた小麦の肌。眉が太くて、頬と鼻にそば
858
かすが散っている。ぎょろっとした感じの目に緊張があった。
少し目付きがキツいが悪い人ではなさそうだ、と思ったランタン
と同様にリリオンもゆるっと安堵の息を吐いた。
﹁おはようございます。ランタンさま、リリオンさまですでしょう
か?﹂
ケイスは敬語が使い慣れていないらしい。
商工ギルドではその辺りの運び屋業務とは関係のない一般教養は
教育はしていないのか、それとも染みついた田舎臭さが抜けていな
いだけか。だがそれも何だか素朴な雰囲気があって好感が持てる。
﹁はい、初めましてランタンです。こっちはリリオン﹂
﹁︱︱よろしくお願いします﹂
﹁商工ギルドより派遣されましたパティ・ケイスです。本日から四
日間、どうぞよろしくお願いします﹂
﹁こちらこそ、よろしくお願いします。そんなに畏まっていただか
なくて大丈夫ですよ。今からそれでは疲れてしまいますから﹂
思わず猫をかぶってしまった。それは無意識のうちに行われてい
て、ランタンが意識した時にはもう脱ぐことができなくなっている。
笑みを浮かべながら握手を交わすとケイスの掌の皮が厚く固くな
っているのが分かった。
ケイスは革の鎧にも似た輓具を装備しており、今は外されていた
が肩上と腰横の計四点で荷車とロープで結びつけられるようになっ
ている。そうやって牽引の負荷を分散しているのだろうが、掌を真
一文字に横切るように胼胝ができているのだ。
奇妙な手だ。探索者のものとは違う、運び屋の掌だった。
指も太い。ケイスは全体的な部位の一つ一つが大きく作られてい
る。顎の形がやや男性的で、肩幅が広かった。骨太なのだろうか良
く鍛えられて筋肉が引き締まっていたが、しゅっとしているのでは
なくがっしりとしている。太股なんかはランタンやリリオンよりも
一回りも二回りも太くて何とも頼もしい限りである。
﹁⋮⋮ミ、︱︱引き上げ屋はまだ来てないみたいですね﹂
859
﹁ええ、そのようですね﹂
まだ緊張があるためか言葉数は少なかった。低く落ち着いた声と
言えば聞こえはよかったが、どちらかと言えば敬語であってもぶっ
きらぼうにぼそりと喋る。べらべらと口数が多いよりはだいぶマシ
だが、ランタンは少しだけ気まずさを感じていた。
﹁ミシャさん、どうしたんだろうね?﹂
おそらく仕事をしているのだろう。
ランタンとしては不本意な理由で、喜ばしいことにアーニェの店
は繁盛しているようであるからミシャも忙しいのだろう。
﹁や、まあ普通に早く来すぎただけだよ。そういえばケイスさんは
僕らより早く来てましたね﹂
降下時間にまでまたあと一時間近くもある。様々な雑事のある引
き上げ屋が早く来ることは分かるが、運び屋も何かあるのだろうか。
荷車は人力で、起重機のように調整整備が必要だとは思えないが。
﹁遅れてはいけませんので﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
﹁どれぐらい前に来てたんですか?﹂
﹁お二人が来られる四十分ぐらい前ですかね﹂
時間に余裕を持ってと考えてもそれはずいぶんと暇を持て余した
ことだろう。
そして、今もまた場の空気を持て余している。ランタンが。
このままだと何の中身のない会話を繰り広げてミシャが来るまで
の時間を潰さなければならない。それは探索への勢いを削ぐことに
なる。
﹁あー、取り敢えず探索計画を見直ししときましょうか? 僕らと
ギルドで勝手に決めたことですし、確認も兼ねて﹂
ランタンはそう言うと有無を言わせぬようにその場に腰を下ろし
た。その隣に引っ付くようにリリオンが座り、それを見てからよう
やくケイスが二人の向いに腰を下ろし鋭角二等辺三角形の車座を作
る。
860
当初ランタンとリリオンの二人での探索期間は三日を予定してい
た。
魔物をほとんど倒しており、道の状況もそれほど悪くない。
迷宮の総延長をランタンは経験則からおそらく百キロはないだろ
うと予想していた。前回の探索時の帰還地点がおおよそ五十キロを
超えたところなので、総延長は約八十キロと仮定して計画を立てた。
行きで一日、戦闘は状況によりけりだが三時間も四時間も戦い続
けると言うことはまずないし、戦闘後はだらだらとせずさっさと帰
路につく。それでも帰り道は余裕持って一日と半分。そのような探
索計画だ。大した計画ではなかったが、運び屋を入れることでそれ
を一から組み直すこととなった。
要は戦利品で重たくなった分だけ、帰り道を一日多く時間を取っ
たのである。
﹁行きは休憩を二度ほど入れます。一つは昼過ぎ。だいたい三時ぐ
リポップ
らいに食事休憩です。二度目は五十キロを超えたところでもう一つ。
そこまでは踏破済みです。魔物の再出現はない予定で組んでいます。
その後は最下層まで休憩無しですが、戦闘状況によりけりです。帰
りはそれこそ最終目標次第ですね﹂
﹁ええ、問題ありません。私たちは探索者について行けるように鍛
えてますので。行きは荷物もありませんから﹂
そう言ったが荷車の上にはいくつかの持ち込み荷が積まれている。
商工ギルドとの流れでしてしまった契約に基づき食料や薬などの消
せんようこうり
耗品を積み込んでいるのだ。
先用後利と言うのですが、と説明女は前置きしたのを覚えている。
ようは探索者は運び屋の持ち込んだ消耗品を好きに使ってもよい
が利用した分は探索後に代金を精算する仕組みである。全く使用し
なくともオプション料を取られるが、探索者にとっては必要な物を
必要な時に必要な分だけ購入できる仕組みは悪いものではない。
またケイスにはランタンたちの背嚢も預ける事になっている。こ
れが一つ、だいたい五キロもある。丈夫な背嚢はそれだけで重量が
861
あり、圧縮した毛布も存外重い。そこに水筒や調理器具を含む食料
品に薬品等々をしまうと何だかんだとそんな重さになる。
それを告げてもケイスは表情を変えなかった。
﹁大丈夫です﹂
ぴしゃりとした断言にランタンは思わず黙った。ランタンはケイ
スへの印象に、頑なさ、と言う評価を付け加えておいた。
その言葉が自惚れか真実かは迷宮内での働きぶりを見るしかない。
﹁ま、行きは何も拾うものはありませんしね。あ、もっとも拾う価
値のありそうな魔物だった場合は忠告をお願いします。そっちは全
然なので﹂
﹁はい、お任せください﹂
問題は帰り道だ。
魔物の死骸、例えば物質系ならばその鉱石鉱物に魔精が宿ってい
る。身体の一部が魔精結晶と化す際にそちらに魔精を奪われたり、
失われたりもするが宿ったままであることもある。
何の問題にならない程度の少量の魔精を含む死骸は良くも悪くも
ただの鉱石鉱物と変わらないが、多くの魔精を宿す鉱石鉱物は加工
の難しさはあるものの、人が魔精を宿すのと同じくその潜在能力が
高まっているために職人たちに珍重され、そして作られた武具は探
索者のみならず戦う者に重宝がられる。
最終目標の死骸ともなれば、魔精の浸透率の高さは言うまでもな
シャフト
い。せっかく運び屋を雇ったのだから、可能ならば限界まで持って
帰りたい。
﹁あれの最大積載量はどれぐらいですか?﹂
﹁載せるだけなら二千キロほどですね。それ以上になると車輪軸が
持ちません﹂
二トンか、とランタンは口の中で呟いた。ケイスの最大牽引重量
が一・二トンなのでランタンやリリオンが手を貸せば二トンまで目
一杯持ち帰ることは可能かもしれない。
﹁それを牽けたとしてもそれだけ持って帰るのは勧められません。
862
それだけの重量ですとおそらく毎時一キロも出ませんでしょうし、
早く牽けばそれだけ車体に負荷が掛かります。牽いてる最中に不備
がでると下手をすれば全てを置いて帰ることにもなりませんですか
ら﹂
﹁︱︱そうですか﹂
口には出してない。内心を見透かされたようでランタンはどきり
とした。
意外と人の顔をよく見ているのだろうか。何となくランタンは横
目にリリオンを見ると、ばっちりと目が合った。これだけ分かりや
すければ楽なのだが。
ケイスの目はぎょろりと大きいが、まだ緊張の色が強く他の感情
を隠している。
元探索者だからだろうか。最低位、丙種探索者の内に廃業してし
まったようだが、それなりに索敵や隠行の能力は高いのかもしれな
い。
それともこれも商工ギルドの教育の成果か。
運び屋にも隠行能力は重要である。戦闘には参加しないが、何か
の切っ掛けで魔物に狙われないとも限らない。魔物は戦闘意欲の有
無とは無関係に襲いかかってくるのだから。
ランタンたちも戦闘中に後ろを抜かれないように気をつけないと
いけない。運び屋の護衛は探索者の仕事だ。ケイスは腰の後ろに短
剣を差しているが、武装らしい武装と言えばそれぐらいだった。輓
具は鎧のように見えても、荷車を牽くためのものでしかない。
﹁︱︱と言うわけだから気をつけてねリリオン。この前の石獣みた
く、後ろ後ろに下がったらダメだよ﹂
﹁ランタンだってぴょーんって一番前まで跳んでったじゃない﹂
﹁その時はケイスさんいなかったからね﹂
﹁わたしだってそうよ﹂
﹁あの、︱︱お二人とも、引き上げ屋が来ました﹂
低次元の言い合いに戸惑いを見せたケイスがほっとした目付きに
863
なって、こちらへ近付いてくる起重機に目を向けた。それにつられ
てランタンも首を振り、リリオンは立ち上がって手を振った。ラン
タンは目の前にあるリリオンの尻を叩いて汚れを払ってやり、それ
から自らもまた立ち上がる。
なんだかんだと四十分ほども話し込んでしまった。当初はどうな
るかと思ったが何とかなるものである。ほとんど事務的な会話しか
していなかったが、ランタンは妙にやり遂げたような気分になった。
ミシャは迷宮口の横、いつもの場所に起重機を待機させるとそこ
から身軽に飛び降りて駆け寄ってきた。
﹁おはようございます。すいませんお待たせしてしまって﹂
﹁おはよ。別に待ってないよ、僕らが早く来ただけだし﹂
﹁ありがとうございます。では早速、降下の準備をさせていただく
っす。えっと、ケイスさん?﹂
起重機での降下の方法は二種類ある。
一つはランタンが行う吊り下げ式。
探索者自体にロープを結びつけるので準備が少なく済み、直立し
た人間大の大きさしかなく、人間と装備の重みしかないために起重
機での操作も比較的容易で安いのが魅力である。だが引き上げ屋が
起重機の操作を間違えると横壁に身体を叩きつけられるという危険
ケイジ
性もあるし、その降下姿は少しばかり格好悪い。
もう一つが檻式と呼ばれる。
その名はまだ起重機の操作性が悪く、またその技術未熟であった
ころ降下時に横壁に擦ったりぶつかったりすることが多かったため
に、その名の通り檻に探索者を詰め込んで迷宮に下ろしたことから
きている。
今では操作性も技術も向上したために、鉄板の四角に支柱を立て
ただけの物を使用しているのでとても檻とは呼べなくなっているし、
また檻の代わりに荷車を使用することもあった。なぜなら檻の重量
も値段の内に加算されるのである。
ケイスが、商工ギルドが用意した荷車もそのように使用できる種
864
ハンドル
類の車輌だ。降下時に邪魔になる引き手が折りたためて、四点方式
にフックを引っ掛けられるようにもなっている。ミシャがそれらに
手際よくフックを掛けて、外れないことを確かめる。
﹁荷車自体の重量は約五十キロで間違いないっすね﹂
なにやらケイスと確認を取り合っていて、ランタンとリリオンは
蚊帳の外だった。
﹁あれで五十キロか。だいぶ軽いね﹂
フレーム
つい最近に見覚えのある明るい銀色の枠組みはアルミニウム合金
だろうか。荷車の枠には目の細かい網状になった板が張られている。
横板も床板も網状で、それが軽量化のためなのかそれとも別の理由
があるのかランタンには分からなかった。
だが取り敢えず座り心地が最悪なのは実体験として理解できた。
程なくしてミシャに呼ばれ、リリオン共々荷車に積み込まれたの
だ。
大人しく座っていても網目が尻に食い込んで地味な痛みを与え続
けてくる。だが、立ち上がると降下時に危険が増すので耐えるしか
ない。そしてベルトと枠をロープで結ばれた。まるで聞き分けのな
い犬でもつなぎ止めるように。
﹁一本だけなんだね﹂
﹁もう一本欲しいっすか?﹂
﹁いらないよ。むしろ無くったって大丈夫でしょ?﹂
﹁︱︱ええ勿論。私。檻式の方が経験多いっすよ﹂
そう言ってミシャは薄い唇でにっと笑った。白く、小さく、そし
て鋭い犬歯が零れた。ランタンは檻式による降下は初めてだったが
不安はほとんどなかった。
﹁じゃあまず重量測定します。動くと重くなりますし、重くなると
料金が高くなるので出来るだけ動かないでいてくださいっす。まあ
一の位は切り上げて計算なんっすけどね﹂
﹁︱︱だってさ、リリオン﹂
尻が痛くてもぞもぞと動いていたリリオンが、ぴたりと動きを止
865
めた。
荷車が浮き上がる瞬間にごく僅か、小さな妖精が肩に舞い降りた
程度の押さえつけられる感覚がった。横移動すると尻が磨り下ろさ
れてしまうかもしれない。こんな事なら背嚢から毛布を引っ張り出
しておけば良かったが、今はもう後の祭りである。
﹁総重量二百八十キロっす。では迷宮内でお太りになられて戻って
こられますようお祈りを﹂
ミシャが冗談めかして目を閉じて祈りを捧げ、ゆるりと荷車が横
に移動して迷宮口上に晒された。尻は全く磨り下ろされることはな
かった。拍手の一つでも上げたいぐらいだが、リリオンに手を握ら
れているのでそれは出来なかった。
﹁それでは、ご武運を﹂
拍手の代わりに微笑みを。
そして魔精の霧を抜ける直前に、ケイスがぽつりと呟いた。
﹁彼女、ミシャさんでしたか。とても上手いですね﹂
﹁ええ、横に振れた時、尻がずたずたになるんじゃないかと実は心
配してたんですけど必要なかったですね﹂
﹁いや、⋮⋮まあそれもそうなんですが。こうも綺麗に水平が保て
る引き上げ屋はなかなかいませんので﹂
そんなものなのだろうか、と疑問を口にしようとしたら視界が白
く、霧に包まれたのでランタンは黙った。リリオンが強く指を絡め
てきたので、霧を抜けるまでしっかりと結んでおく。
霧を抜ける途中でカリッと馴染みのある音が聞こえた。気付け薬
の糖衣を噛み割る音だ。
それは傍にいるリリオンではなく、ケイスの方から聞こえる。服
用のタイミングは人それぞれだ。ランタンは気持ち悪くなってから
それを散らすように使うが、ケイスは予防的に使っているようだっ
た。
﹁なるほど、そういうやり方もあるのか﹂
﹁⋮⋮うう、なにが﹂
866
ぽつりと呟いたランタンにリリオンが苦しそうに反応した。反応
できる程度には魔精への適応力が高まったとみるべきか、それとも
まだまだ苦しそうだとみるべきか。霧を抜けてなお、霧の白さを頬
に乗せたリリオンがややぐったりとしていた。
﹁大丈夫ですか、気付け薬は︱︱﹂
﹁嫌いなんですよ、あれ﹂
﹁︱︱ああ、なるほど。確かに、あれを好きな人間は少ないでしょ
うね﹂
リリオンを見て僅かに口元をほころばせた。口が大きいので僅か
な変化でも表情が大きく変わる。リリオンを心配するような、懐か
しむような、穏やかな表情をしている。
﹁ケイスさんはもう服用されているみたいですが﹂
﹁ええ、魔精酔いの悪心が強く出るものでして、味の方は短い間我
慢すれば済みますから。ランタンさまは?﹂
﹁⋮⋮さま、は付けなくていいですよ。年下ですし﹂
﹁では、ランタンさんで﹂
ランタンは満足気に頷いて、先の問いに答えた。
﹁あまり魔精酔いはしないんですよね。多少気持ち悪さはあります
けど、無視できる程度なので﹂
﹁そう、ですか。魔精との相性が良いんでしょうね﹂
そうしている内に荷車が迷宮内へと降り立った。だが吊り下げ式
の時のようにロープが弛むことなく、ピンと張ったままだ。荷車は
二輪なので、そうして張っていないと重心の偏った前後のどちらか
にシーソーのように跳ねてしまう。魔精酔いの身でその衝撃を喰ら
っては探索どころではなくなってしまう。
まずフックを外しケイスが降り、ついでランタンがリリオンをケ
イスに渡すように降ろしてやり、最後にランタンが降りる。重量の
移動で乗降を察しているのか、荷車から人が離れると一息吐くよう
にロープが弛んだ。それでも荷車はそっと傾く。
﹁やはり上手いですね﹂
867
ランタンとケイスは手早く身体に装着したロープを本体のロープ
に括り付ける。ケイスは更に荷車からもフックを外した。
ケイスは上昇していくロープを見送りながら再び呟いた。
﹁私たちが荷車に繋がれるのは転落防止もありますが、一番は動け
なくするためです﹂
檻、今回の場合は荷車の重心は真ん中にはない。荷物を載せて人
を乗せいているため、ただ真っ直ぐ吊っただけでは重心の偏りに向
かって大きく傾いてしまう。ただでさえ不安定なのに更に人が動き
回りでもしたら、下手をすれば大惨事になりかねないというわけだ。
﹁繋いであっても普通はもっと揺れるものですから。それに乗降時
にあれほど安定しているのは初めてですよ﹂
ケイスは言いながらしきりに感心して、少し口数が多くなった。
他を知らないランタンにはピンとこない所もあったが、ミシャを褒
められて何だか嬉しい。
ケイスはてきぱきと荷車の引き手を元に戻したりと探索の準備を
始めた。その間ランタンはリリオンの背中を撫でてやっていた。背
嚢は既に荷車の上に転がしてある。
﹁補強が入るのか﹂
折りたためるようになっているために強度が不足しているのだろ
う。引き手に添え木のようなものを当てている。そして起重機のも
のより二回りほど細身のロープで身に付けている輓具と荷車を繋い
だ。そろそろ出発の準備が整いそうだ。
後はこの寝ている少女だけだ。
﹁調子は?﹂
﹁︱︱もう、平気よ﹂
リリオンは薄青い顔ではっきりと呟いた。
868
059 迷宮
059
ケイスは探索が始まるといよいよ無口さを増したが、そもそも場
の賑やかしは彼女の仕事ではないし、運び屋としての働きぶりは堅
実だった。
彼女は商工ギルドの売り文句の通り不平不満の一つも漏らさずに、
それどころか息を上げることもなくランタンの探索速度に付いてき
た。背嚢の重みから解き放たれたランタンの歩みは何時もよりも何
割増しも速かったが、ケイスはそれを苦にするような素振りは見せ
ない。
ケイスはランタンとリリオンが並んで歩く、その七歩ほど後ろを
付いてきた。
行きの、何も拾い上げていないことを加味してもランタンの歩く
速度はややオーバーペース気味であったのだが。
ランタンたちの背嚢と先用後利の持ち込み分を含めて二十キロ超
の荷物を載せた荷車は、迷宮の悪路であっても載せた荷物の重みに
軋みを上げるようなことはない。
荷車は組み立て式で容易に分解できるようになっている。
それは迷宮路が例えば崩落や石球の残骸により狭まった時に、あ
るいは落とし穴などでそのままでは対岸に渡れない時に分解して運
ぶためだ。
それ故に探索用の荷車の造りはいまいち甘く、ものによっては空
の荷車を牽いたとて耳障りに軋むこともあるのだが、さすがは商工
ギルドと言うべきかこの荷車は堅牢な造りをしているようだった。
そしてその荷車を牽くケイスも堅牢な身体のつくりをしている。
ケイスはロープによって荷車と結びつけられていて、そのロープ
869
ハンドル
はぴいんと張っている。ケイスは身体をやや前傾に、肩を突き出す
ようにして、そして更に分厚い手袋を嵌めた手で引き手を胸の前で
握って車体を操作している。
迷宮は奥に傾くように傾斜しているので、進むことと止めること
を同時にこなさなければならない。
荷車の重量により革鎧に似た輓具がケイスの身体に押しつけられ
ていて、締め付けは苦しそうにも見えるがケイスの足取りはしっか
りとして淀みない。ケイスの視線はじっとランタンに注がれていて、
ほんの僅かな進行速度の変化にも対応してきっちり七歩の距離を保
ち続けた。
﹁⋮⋮うーん﹂
﹁どうかしたの?﹂
歩きながらランタンが唸ると、リリオンがそっと顔を覗き込んだ。
リリオンの足の長さにはこの進行速度はちょうどよかったようだ。
﹁うん、⋮⋮ちょっとね﹂
﹁ケイスさんのこと?﹂
声を潜めたランタンにリリオンが察しを利かせて声を落とした。
ランタンは探索始めには後ろを振り返りケイスを気にしていたの
だが、今ではすっかりそのようなこともなくなっていた。
遅れてはいないだろうか、進行速度は速すぎないだろうか、など
と言う指揮者としてのランタンの気遣いはむしろケイスには余計な
ものだったようで、お気になさらず、と思いかけず強い口調で言わ
れてしまった。
探索に集中してください、と。
それからランタンは真っ直ぐ前を向いて歩いているのだが、神経
のいくらかを後ろに割くことは止められなかった。それはつまりケ
イスを信用してないと言うことなのかもしれない。
ケイスはそれ以来何も言わぬが、後ろを気にしていることをリリ
オンにも気づかれたと言うことは、ケイスも気が付いているのだろ
う。それがまた彼女を職務に没頭させる一因になっている。
870
探索者の邪魔にならないことは商工ギルドの売り文句の一つなの
だから。
﹁初めてのことだからさ。よくわからないんだ。運び屋ってこんな
感じなのかなって﹂
探索者と運び屋の間には、七歩という距離とはまた別に明確な壁
があるようだった。それはまるでランタンとリリオン、それとケイ
ス、二つの独立した班が探索しているようである。
﹁こんな感じで良いと思うけど。⋮⋮わたしがしてた時は、うるさ
くするな、ってよく言われたもの﹂
﹁あー、⋮⋮そっか。うん﹂
やつ
リリオンはほんの少し前まで、運び屋見習い、というよくわから
ない職業に身を窶していた。
リリオンは平気な口調だったが、思わず重たい経験談を持ち出さ
れたランタンは中途半端な返事を返すことしかできなかった。リリ
オンの言うその経験はもっと正確に言えば、囮兼前衛兼の運び屋見
習い、という混沌とした経験なのであまり参考にはならないような
気もする。
それはつまり奴隷だった。
﹁ん?﹂
それは今のケイスの状況もそう言えるのではないか、と不意に気
づいた。
雇い主の不興を買わぬように奴隷は己を殺し職務に励んでいる。
探索者にとって運び屋は探索を助ける重要な存在であるが、しか
し雇用者と被雇用者の関係性から抜け出せることはあまりない。同
じ迷宮を探索する仲間ではなく、あくまでも一時的な荷物持ちでし
かないのだろう。
それに運び屋の多くは新人探索者であり、つまり雇用関係以外に
も、探索者としての先輩後輩、教える側と教えら得る側という絶対
的な上下関係さえも付随してくる。
そして探索者の人間性が反吐が出るようなものであると言うこと
871
を加味すると、運び屋の境遇たるや涙を禁じ得ない。今になってア
ーニェの苦々とした顔がはっきりと思い出された。
﹁結構リスキーな仕事だね﹂
﹁だからみんなランタンと探索したいのよ、きっと。ランタンは優
しいもの、きっとそうだわ﹂
﹁みんな僕のどれほども知らないよ﹂
見知らぬ探索者の中に一人雇われる。それは恐ろしく心細いこと
だろう。
複数の中で孤立することは、ただ一人真に孤独であることよりも
身に染みる。
ケイスがじっとランタンに視線を注いでいるのは進行速度の変化
を観察しているのではなく、もしかしたらランタンそのものが変貌
を遂げ牙を剥くことを警戒しているのかもしれない。
だが何となくではあるのだが、ケイスの視線は全身やあるいはそ
の足取りにではなく、ランタンの尻に集中しているような気がしな
くもないのである。
かおかたち
ケイスが前を気にするように、ランタンが後ろを気にするのはそ
のためでもある。
最近ではめっきりと少なくなったが、ランタンはじろじろと顔貌
や、ほっそりとした腰や尻を舐めるように見られ、時に触られた経
験には枚挙に暇が無いほどだった。その汚らわしい経験に由来する
被害者意識もあって、ランタンは背後からの視線に敏感だった。
リポップ
ランタンの小さな尻は外套に覆い隠されて、その形も見えないの
でおそらくは気のせいなのだろが。
ムービングメイル
そんな微妙な雰囲気のまま魔物の再出現もなく、程なくして第二
休憩地点である機動鎧との戦闘跡地に到達した。時計を確認する。
探索を始めて六時間と少しほど経過している。平均速度は時速八キ
ロ前後。なかなか順調である。
戦闘跡地に捨て置いた鎧や蛇の残骸は既に失われて久しいようだ
ったが、戦いの痕跡ははっきりと残っていた。
872
特に目に付くのは右の壁から天井に掛けての焦げ付きだった。ラ
ンタンの爆発によって刻み込まれた黒々とした跡は収束という言葉
とは無縁な、無駄になった破壊の放射だった。その焦げ付きの直下
には、鎧が腕を飛ばした際の反動を受け止めた跡が地面に押しつけ
られている。
その反動の強さを表すように、深く、くっきりと。
﹁ここまでが探索済みです﹂
立ち止まったランタンが振り返ると、ケイスはその戦いの跡に目
を向けていた。元探索者の血が騒ぎでもしたのだろうか、天井一杯
に広がる宗教画を眺めるように真剣な目付きでじっと見つめ、重く、
熱っぽい息を吐きだした。
﹁︱︱ここでは何と戦われたんですか?﹂
﹁え、ああ。機動鎧ですよ。ケイスさんは元探索者でしたね。戦っ
たことはありますか?﹂
ケイスは自分から尋ねたのにもかかわらず、ランタンの返答には
っとして、それからぎこちなく頷いた。
﹁昔、一度だけ。物質系迷宮はどうにも苦手でして。私たちの探索
班は全員が丙種止まりでしたから﹂
﹁ああ、まあ向き不向きはありますよね。鈍器がないと物質系は︱
︱﹂
﹁いえ﹂
ランタンの言葉を、その途中でケイスが遮った。
木訥な声音の中に暗い響きが混じり、表情はあまり変わらないが、
それでもランタンが気がつける程度に眉を歪めた。泣き笑いに少し
似ている。
﹁単純に攻撃力が足らなかったんです。道中の魔物でさえ、物質系
は私たちには硬くて﹂
ランタンは返す言葉が見つけられなくて、小さく頷くだけだった。
その言葉に同意を示すにはランタンは強すぎたし、軽く受け流す
にはケイスの表情は重たいように思えた。そして言葉を選んで会話
873
コミュニケーション
を続けるにはランタンの語彙は、そして対人能力は絶対的に不足し
ていた。
ランタンは無言で曖昧に微笑む。
﹁ちょっと硬すぎるのよ。物質系って﹂
言葉に詰まったランタンとケイスの間に生まれた沈黙の産声は、
リリオンの声によって掻き消された。
脇腹に食らったダメージを思い出したのかリリオンは歯を軋ませ
るように苦く呟いた。殴られた脇腹を撫でさすりながら、頬を膨ら
ませて無邪気に憤るリリオンの姿を見てランタンもケイスも表情を
緩めた。
﹁やられましたか?﹂
﹁急にびゅんって腕が飛んだんです。ずるいと思いませんか?﹂
リリオンの表情に、懐かしむような雰囲気を湛えながらケイスが
尋ねる。リリオンが答えるとケイスは過去の自分を思い出したのか
納得したように頷いた。
﹁なまじ人と同じ形をしていますから、つい忘れてしまうんですよ
ね﹂
人間形の魔物は外見がそうなだけであって、人間と同じように動
くなどと考えてはいけない。その事を承知してはいてもいざ戦いの
中に身を投じると、外見に意識が引き摺られがちである。
まさに戦士然とした鎧そのものが剣を構えていようとも、純戦士
のように近接戦闘に特化していると決まっているわけではない。
ありがちだが、なかなか克服できないミスである。ランタンやリ
リオンばかりの問題だけではなく古今東西、多くの探索者がそうな
のだという。
思いがけず共通の話題を交えながら栄養補給と休憩を済ませ、戦
闘跡地を後にする。
最下層まで一気に降りてしまおうと気合いを入れなおし歩き始め
ると、その出鼻を挫くようにすぐさま魔物と遭遇した。
﹁これは﹂
874
その気配を感じ取りハンドサインでケイスを停止させると、武器
・ ・
を構えて二人だけゆるりと足を進める。
そしてそれを見た瞬間にリリオンは牙を剥くように好戦的な笑み
を作った。臨戦態勢の猫のように肩をいからせて、歯の隙間から鋭
い呼気を漏らした。
﹁落ち着け﹂
﹁うん⋮⋮!﹂
ランタンが声をかけて宥めるが、どうにも効果の程は薄いようだ。
ムービングメイル
現れたそれは甲殻類じみた印象を与える異形の鎧。
つが
機動鎧である。
﹁番いだったのか﹂
機動鎧に生物学的な雌雄の区別は無論ないが、鎧という形状故に
男性用女性用の区別が存在することがあった。
くちばし
現れた機動鎧は以前戦ったものによく似ていたが、僅かに細身で
曲線的。兜も無骨な樽型ではなく嘴の短い鳥のような形をしている。
そして全身がうっすらと赤みを帯びている。
茹で海老、とランタンが小さく呟く。
それは女性用鎧、あるいは雌個体と称していいのかもしれない。
身体は細身でも、雌個体は雄個体よりも上等な武器を所有してい
た。それは大きな剣で、リリオンのものよりかは僅かに短かったが
幅広で三角帆に似ている。
剣の構え方は雄個体のものと瓜二つで、鋒を地面に擦るようにし
ながら無造作な足運びでじりじりと間合いを狭めてくる。剣の印象
そのものの重圧があり、一度距離を離して仕切り直しをしたくなっ
た。
だがそれはできない。
後ろには運び屋がいて、距離は七歩どころではなく五十メートル
程も離れていたが、万に一つのことを考えると下がるべきではなか
った。また再び腕が飛ばないとも限らないのだ。
それに意気込むリリオンを下がらせるのは酷く手間であることは
875
疑いようがなかった。
ランタンはちろりと唇を舐める。
リリオンの意識は先の戦いと同様に前傾であるが、自らは冷静で
あるという自覚があった。それならばこの機会はちょうどよい。
苦汁をなめさせられた魔物と同種の魔物がこんなにも速く現れる
となると、それはもうリリオンの苦手意識や後悔を綺麗さっぱり洗
い流すチャンスであると言うほかない。リリオンもやる気十分で、
鼻息を荒くしている。
﹁サポートする。後ろは気にしなくて良いから、好きにおやり﹂
﹁うん!﹂
﹁でもこいつの腕も飛ぶかもしれないし、他の隠し球があるかもし
れない。気を抜かないように︱︱﹂
などと暢気にアドバイスをしていることこそが、気を抜いている
ということに他ならなかった。
不意に機動鎧の周囲に砂埃が舞い上がって、低音の風鳴りが響い
た。鎧の関節の隙間から勢いよく風が吹いて、鎧が浮揚したのであ
る。鎧は地面より一センチほど浮かび上がり安定し、まさに空に立
っているようだった。
なるほど飛ぶのは腕ばかりではない。
足首より吹く風が勢いを増したかと思うと、鎧はまるで飛燕のよ
うに高速で接近した。地面を踏んで走るのとはまるで違う異様な軌
道を描く。そしてなにより速い。
﹁しっ!﹂
だがリリオンの対応も早かった。
リリオンにしてみれば歩いてこようが走ってこようが、それとも
空を飛ぼうが接近という帰結に違いはないようである。鎧の接近に
合わせて大剣を鋭く横に薙いだ。
しかし機動鎧は膝をほぼ九十度に折り曲げて、仰向けにその横薙
ぎをかいくぐる。そして勢いそのままに跳ね起きてランタンに斬り
かかってきた。どうにも魔物に好かれていけない。
876
﹁くっ﹂
リリオンのサポートどころではない。ランタンはそれを受け止め
たが、剣は風を纏ってランタンの前髪を巻き上げた。その風に人を
殺傷せしめる威力は含まれていなかったが、幾筋もの風の触手がラ
ンタンの眼球を無遠慮に触れた。
非常に鬱陶しくて涙が出る。
鎧は浮いたままでランタンを鍔迫りに押し込んだ。足首から吹く
風は鎧の身体を前に押し進め、肩口から吹く風はランタンを地面に
押し潰そうとしている。風は鎧を中心に乱気流を生じさせているか
のようで、しかし肌に感じる風の流れを読み取ると、それが循環し
ていることがわかる。
例えば膝から吸気して、足首から排気する。肩から排気して、肘
から吸気するというように。風を生み出しているのではなく、既に
ある風を操作しているようだ。
ごっ、と鈍い音を立てて足首から吹き抜ける風の勢いが強くなっ
おこ
た。じりじりとランタンは押し込まれる。ランタンの腕が微細に震
しぼ
えて、細腕が細腕なりに筋肉の興りを見せた。かと思うと、ふっと
萎んだ。
鎧の後ろでリリオンが独楽のように旋転した。
躱された横薙ぎの勢いにそのまま身を委ねて、遠心力によって更
に勢いを増した大剣が鎧の背中を叩きつけるように薙いだ。斬るに
は至らず刃で叩いただけだったが、その衝撃は受け流そうと身体を
軟らかくしたランタンの腕を伝い手の中にまで痺れをもたらした。
鎧が押されて、ランタンの膝が折れる。その重心移動に逆らわず、
ランタンは身体を沈める。鍔迫りを潜り込むようにいなして、風を
吹くその足首を目がけて水面蹴りを放った。硬いが、軽い。風によ
る踏ん張りには摩擦力が生まれない。
足元を崩された鎧は不安定にぐらついたが、全身から爆風のよう
な風を放出して、天井に身体を打ち付けるようにその場から脱出す
ると、波に立つ海月のようにゆらりと体勢を立て直した。
877
仕切り直しだ。
﹁嵐熊みたいに風を飛ばすかもしれない。気を付けて﹂
この期に及んでそう口走ったランタンを置き去りにして、リリオ
ンが盾を前に構えて走り出した。鎧は剣を突撃槍のように腰だめに
構えて突っ込んでくる。剣は中々の品のようだが、流石に力任せに
盾を貫くことができない。
平に構えられた剣が盾の表面を滑る。だが鎧はそのまま盾に体当
たりをかまし、リリオンを背後から切り裂くように剣を振るった。
反応良し。
リリオンは体当たりをされても踏み留まると、盾を払ってその衝
撃を受け流し、さらに大剣で横薙ぎを受け止めた。剣を巻く風が爆
ぜてリリオンの外套を巻き上げる。
二合、三合とその場で何度も打ち合い、懐に入り込んだリリオン
の前蹴りが鎧を吹き飛ばした。
風を吹かして体勢を立て直す鎧を追うようにランタンが三本の打
剣を次々に放った。爆発を用いた投擲はまだまだ実用に耐えない。
打剣は回転して飛ぶ。狙いは関節。
肩。肘。膝。
膝を狙った一本は狙いを僅かに逸れて太股に弾かれたが、だが肩
かんぬき
肘を狙った二本は剣を持った右の関節にするりと飛び込んで、まる
で閂をかけたようにその動きを阻害した。
機動鎧に利き手はない、筈である。リリオンは機動鎧に剣を持ち
変えさせる暇も与えずに踏み込んだ。間に合わぬと悟った機動鎧は
曲がらぬ右腕を剣を持ったままに突き出して再び走った。
先ほどの突撃よりに三割速い。まるで捨て身だ。
剣が盾の表面を薄く削り、悲鳴のような音を立てた。そして再び
滑った鋒がずるりとランタンに向いた。鎧の左手で盾にしがみつい
てリリオンの動きを止めた。
その攻撃は知っている。
似たもの夫婦め、と回避の姿勢を取ったランタンの首筋側だった。
878
空気の流れが目に見えた。その流れがおかしかった。
鎧の肩や肘関節から空気が抜けていた。そしてどこからも吸い込
まれていなかった。鎧は体内の空気を抜いているようだ。
内圧が上昇し、ぱきぱきと鎧の軋みが聞こえ、そして排気は終わ
り、ついに真空となった。
その瞬間。
右手首以外の全ての隙間から空気が流れ込み、鉄砲水のように唯
一の出口である右手首を目指し腕内を駆け巡った。その突風は刺さ
った打剣を粉砕して勢いよく溢れ出した。
それは握り込んだ右手ごと巨大な剣を射出した。
真空砲。
あの時の腕と同じように剣が飛ぶ。だが速度は桁違いだった。
避ける準備をしていても、背嚢を降ろして身軽になっても、それ
を上回る速度だった。
鋒がランタンに向き、真空を作り出すまでの約一秒が今では永遠
のように長く思える。一秒を寸刻みにしてようやく目視できるほど
の速度。そしてその運動エネルギーを抱えて飛来する剣。
爆発で吹き飛ばすことはできない。その爆風が切り裂かれること
は目に見えている。
ランタンは咄嗟に身体を沈めて顔を傾げた。それでも胸骨から喉
を貫くのが、喉から顔面を貫くのに変わっただけだ。
足らない。
ランタンは手首を回し戦槌を剣の進行方向に合わせて立てた。ど
うにか剣を防ぎ、逸らした。舞った火花が頬に落ち、左の耳を鍔元
の刃がぺろりと舐めて切り裂いた。腕がびりびりと痺れる。
すぐ傍を通った風切り音が鼓膜を破りかけて、その剣は壁深くに
突き刺さった。音が一秒空けてようやく聞こえるようになり、左の
耳に届いたのは血の溢れる音だった。
だらだらと流れ出た血が耳の中を満たした。
危うく顔面を真っ二つにされるところだった。それを思えば左の
879
耳が上下の二つに切り裂かれることなど大した問題ではない。
機動鎧はランタンを仕留め損なったことにはなんの感情も抱かず
に、戦闘思考を徒手格闘に切り替えて、地に足を付けてリリオンの
大剣と打ち合っている。
鎧の、金属の身体を生かした強引な格闘攻撃と、風を撃ち出すの
みとなったがそれでも無視できぬほどの大威力の真空砲。真空砲を
使用する際にだけ鎧は浮揚し、発射の反動で距離を取った。
必殺の真空砲を移動手段とする辺り、なかなかに賢しげな戦闘思
考を持っているようだ。
だが戦闘を有利に進めているのはリリオンだった。
剣で打ち、盾で殴り、真空砲を放つ瞬間には盾を前に踏み込んだ。
風を強引に押し散らすこともあれば、角度を付けて流すこともある。
そして引き足を追って、その脚を蹴り払った。
集中している。
ランタンのことなどこれっぽっちも心配していないのはそもそも
後ろを振り向いていないからで、後ろを振り向かないのはランタン
がどうにかなるとは思っていないからだった。
﹁かっこわるー⋮⋮﹂
どうにかなっているランタンは耳の中の血を掻き出して、摘まみ
取るように指先で乱暴に拭った。流石にこの長さの傷だと血は止ま
らず、耳ほども薄いと爆発で焼き固めることは難しい。
短く息を吐いてランタンは走った。
リリオンが真空砲を躱し、その射線上にいたランタンに空気の塊
が迫る。それをするりとやり過ごし、ランタンは壁を蹴って機動鎧
の頭上を飛び越えた。そして真空砲の反動で後ろに下がり、尚且つ
リリオンに蹴っ飛ばされて体勢を崩した鎧の後頭部を靴底で思いっ
きり蹴りとばした。
鎧は断頭台に首を差し出すように。
半秒遅れてリリオンの一撃が真上から降り注ぎ、兜の首を切断し
た。関節をつなぎ止める不可視の力が切断されて、兜がぽんと跳ね
880
てランタンがそれを受け止める。
兜の中には精核があり、そこに集められる魔精は未だ染み出すよ
うに鎧の方へと流れていた。
機動鎧はまだ動いている。首を刎ねて一瞬気を抜いたリリオンを
殴りつけて距離を取り、兜を取り戻そうとランタンに向かっている。
兜。それは少し雀に似ているような気もするが、雀のように可愛
くはない。それに重たい。
ランタンはその中身に手を伸ばした。兜の中には重く粘つく気配
が篭もっていて、精核はその暗黒羊水に浮かぶ胎児のようだった。
それを取り出す時に、臍の緒を引き千切るような感覚がある。
それは物凄く不愉快な感覚で、暗黒羊水が手に絡みつき、それが
霧散すると手の中に青く光る魔精結晶が生まれる。
暗黒羊水は霧のように晴れ、力を失った機動鎧が糸のように崩れ
落ち、間接の接続は断ち切られてばらばらと地面に転がった。空洞
に音が響きぐわんぐわんと酷くやかましい。
その音を掻き分けてケイスが荷車を走らせて近付く音が聞こえた。
﹁ランタンさん、リリオンさん大丈夫ですか!?﹂
﹁ええ、耳がちょっと千切れかけただけなので。それよりも回収と
鑑定お願いして良いですか?﹂
日焼けした顔を上気させて何やら興奮気味に、それでいて心配そ
うにしたケイスにランタンは軽く答える。耳の出血は未だに治まら
なかったが、痛そうな素振りは欠片も見せなかった。そんなランタ
ンにケイスは目を丸くした。
﹁は、︱︱はい。すぐに。あの、薬が必要なら言ってください。用
意がありますので﹂
ケイスは輓具からロープを外して鎧を回収しに向かった。
探索者にとってこの程度の傷は日常茶飯事だ。生死に関わらない
傷はいちいち大げさに心配するようなことではないのに、ケイスは
なんとも大げさなものである。元探索者ならばこれぐらいで取り乱
してもらっては困る。
881
そして現役探索者が取り乱してはもっと困る。
出血が派手なのでリリオンが驚いている。
ランタンは驚いたままのリリオンに命令して水筒を傾けさせると、
流れ出た水で患部を洗い流し、ギルド医に怒られそうな程にべたべ
たと血止めの軟膏を塗りつけた。そしてその軟膏を糊に見立てて患
部を貼り合わせると、その上からテープを巻いて固定する。
﹁⋮⋮それでくっつくの?﹂
﹁くっつくよ、たぶんね﹂
テープが剥がれないように、糊付けが剥がれないようにランタン
は縦横斜めにテープを貼り付ける。
耳なんて無くなっても戦闘に大した支障はないが、戦闘中にぶら
ぶらしては気になってしょうがない。ランタンはしっかりとくっつ
いている耳に納得したように頷いた。
しっかりくっつかなかったら引き千切っているところだ。ランタ
ンが冗談めかして言うと、リリオンがぎょっとして目を剥いた。
﹁⋮⋮ランタンって変﹂
﹁変じゃないよ、普通だよ。次はたぶん最終目標なんだし、万全の
状態にしなきゃね﹂
﹁じゃあ、じゃあ。指が千切れかけたらどうするの?﹂
﹁指はなくなったら困るから繋げるよ。何言ってんの﹂
﹁うー⋮⋮﹂
納得いきかねるように唸るリリオンだが、少女は健気にも濡らし
た布でランタンの身体を清めている。
血は髪に染みこみ、頬から顎にまで垂れ、首から鎖骨に滴ってい
た。リリオンはランタンの襟元からそっと手を差し込んで、その身
体を汚す血を布で吸った。そしてまだ綺麗な布の端を指に巻くとラ
ンタンの耳の穴にその指を這わせもする。
﹁うん綺麗になったわよ﹂
﹁ありがと。じゃあ、あれ手伝ってあげて﹂
鎧を一纏めにしたケイスだが、壁深くに突き刺さった剣を抜くの
882
に苦労しているようだった。ランタンが指差すとリリオンは頷いて
小走りにケイスに駆け寄る。ケイスはリリオンの手伝いを遠慮して
いるようだったが、リリオンがランタンを指差して何やら言うとそ
れを受け入れた。
雇い主の意向は絶対のようだ。
﹁僕も手伝いましょうか?﹂
﹁いえ、大丈夫です。ありがとうございます﹂
ケイスは剣をそのままにランタンの方へ、ではなく荷車に駆け寄
るとロープを一本取り出して剣の方へと戻っていった。ケイスはそ
のロープを鍔から柄にかけてしっかりと巻き付け、リリオンに手袋
を貸すと二人息を合わせてロープを引いた。
剣は根元まで壁に埋まり、伝説の剣もかくやと言うほどしっかり
と食い込んでいる。ロープを引くケイスの目がぎんぎんに怖くなり、
リリオンの口元がへの字に曲がり鼻の穴が膨らんだ。
ランタンは彼女たちの名誉のために目を逸らした。
なかなか手間取ったようだが程なくして剣は抜き取られて戦利品
一式がランタンの前に並べられた。鎧には切り合いの傷が幾つも刻
まれていて、背中に横一文字に入ったものはなかなか深くリリオン
の膂力を思い知らされた。
剣はあれほどに手ひどい扱いを受けたことを思えば美品と言えた
が、流石に先端が僅かに欠けていた。とは言え壁に当たって拉げ、
砕けていないだけでもなかなかの一品と言える。
ふうん、と素人目に覗き込んでいるとケイスは、鎧は半分置いて
いきましょう、と提案した。
﹁何故ですか? 全部揃っていた方が値は上がりませんか?﹂
﹁ええそうですね。完品ならば付加価値は付きます。ですがこの鎧
の場合は持ち帰ることのメリットの方が少ないです。鎧ですが全身
で六十キロほどもあります。細く見える分、内側が厚いのです。女
性でも相当細身の方しか装備は無理でしょうし、そもそも重すぎま
す。これは買い手が付きづらいです。それに︱︱﹂
883
ケイスは今一度、その鎧をランタンたちに見るように促した。右
から兜、胴、腕、腰 脚と几帳面に並べられている。
﹁デザインが悪いです。女性用でこれは大きなマイナス査定になり
ます﹂
﹁あー、たしかに﹂
﹁さすがにランタンでも似合わないわね﹂
﹁女性用だっての﹂
﹁︱︱ですがこれの腕部、下肢部には風の魔道が刻まれていますの
でそこだけ持ち帰るのがよろしいかと。魔道の内容はきちんと鑑定
しませんといけませんので明言はできかねますが、これだけで相当
な値段になるでしょう。他の部分は下手をするとその査定の足を引
っ張りかねません﹂
確かに機動鎧は完全装備をするには悪趣味が過ぎたが、例えば腕
だけ、脚だけならば装備のアクセントとしてよいかもしれない。ラ
ンタンの趣味ではないが。
全てが揃っていることも良し悪しなのか、とランタンは唸った、
戦利品の取捨選択は様々な要因を加味しなければならないが、デザ
イン性などと言うものはランタンの思考の埒外である。
視点が一つ増えるだけでも、知ることは多くある。
﹁それと剣は良品ですね。こちらも風の魔道が刻まれています。お
そらく太刀筋を安定させる類いのものですね。そのためサイズも重
量もありますが、こちらはそれがマイナスには働きません。先端が
欠けていますが、魔道部分を残したまま少しサイズダウンすれば良
いだけですし、サイズは下げた方が買い手も付きやすいでしょうし、
これも問題は無しですね。︱︱以上のことから私は鎧の腕部、下肢
部、それと剣のみを持ち帰ることを提案させていただきます﹂
どうでしょうか、とケイスの目が尋ねてきてランタンは一も二も
なく頷いた。
﹁それで構いません、積み込んでください﹂
ほっと胸を撫で下ろしたケイスがてきぱきと荷車に鎧を積み込み
884
始めた。
その脇で剣に魔道が刻まれていることを知ったリリオンが、興味
深げに剣を持ち上げて振り回している。三角帆の剣はその横腹に蛇
がのたうったようなうねうねとした文様が刻み込まれていた。
太刀筋は安定している。だがそれは魔道とは関係なく、ただリリ
オンの膂力によるもののようだった。それは機動鎧の剣撃と遜色な
いように思える。
魔道の補助無しでこれか、とランタンは半ば呆れた。
﹁⋮⋮魔道ってどうしたら発動させられるの?﹂
﹁さあ?﹂
ランタンは肩を竦めて、さっさと荷車に剣を放り込むように伝え
た。
知らないのはランタンも同じだった。
885
060 迷宮
60
荷車には様々な物が詰め込まれている。
先ほど取得したばかりの鎧、これは腕部と脚部だけであるが二十
キロ弱にも及んだ。それとランタンたちの背嚢に、ランタンが納得
して決めたと言うことになっている野営具と先用後利の薬箱に食料
と各種探索道具。
野営具に関しては使用の有無にかかわらずすでに借り料を支払っ
ているのでこれを使わない手はないし、帰路に少しでも積載量を減
らす為にも食料に手を付けることにも躊躇いはない。
場合によってはこれからの食事が最後の晩餐になるとも限らない
のだから。
もっともそんな不吉なことは口には出さず、ただ野営道具につい
てだけはこれを使わないと金をどぶに捨てたようなものだ、とその
ようなことを呟いた。少しばかり嫌味っぽかったかもしれない。
最下層目前まで荷車を牽いてきたケイスはけろりとしたもので疲
労をも見せず、その呟きを聞くと、それでは私が、と言って率先し
て野営の準備を始めてくれた。これは彼女の職務外のことだったが、
ランタンに野営技能はないのでお任せした。
廃業したとは言えケイスの探索者歴は十年近くにも及び、その経
験や知識はランタンを遙かに上回った。それであってもケイスの最
かまど
終位が丙種探索者止まりであると言うのだからやるせないものであ
る。
ケイスはせっせと竈を組み始め、リリオンがそれを手伝った。ラ
ンタンは竈の組み方などこれっぽっちも知らない役立たずなので、
886
女二人の作業を眺めることしかできなっかった。
リリオンはそんなランタンから戦槌を、借りるね、と有無を言わ
さず奪っていったかと思うと地面を砕いた。
当初は狩猟刀で穴を掘ろうと試みていたようだが、地面は掘るに
は硬く、狩猟刀ではにっちもさっちも行かなかったのだ。リリオン
は砕き割った地面を脇にどけて浅い穴を作るとそれを囲むようにコ
の字形に耐熱材を並べはじめた。
何をしているのかランタンには意味不明で、何をどう手伝って良
いかもわからない。
その耐熱材は傍目に見ると煉瓦のようにも見えるのだが、まるで
軽石のように軽量で、表面がヤスリのようにざらついていてる。重
ねることでそのざらつきが互いに噛み合うような性質を持っていた。
まだ市販のされていない商工ギルド制作の試作品なのだという。
ひとの探索で耐用試験か、とランタンは思いながらも、もしかし
たらそれも契約の内だったかもしれないと少しばかり弱気になった
りもする。ともあれその耐熱材は数度の使用には耐えられる程度の
実用性は確証されているらしい。
取り敢えずその耐熱材を二人の傍に並べる。それは目的もなく積
み木遊びをする幼子のようだった。
﹁⋮⋮﹂
元探索者のケイスは言うに及ばず、思いがけずリリオンの手際も
良かった。
ランタンと出会う以前のリリオンはこのような雑事の一切合切を
押しつけられていたのだろう。リリオンからして見ればそれは思い
出したくない過去なのだろうが、どのような経験も役に立つことが
あるものだ。
ケイスの邪魔になることなく、てきぱきと働くリリオンを見てラ
ンタンは感心した。
リリオンを見ていると商工ギルドにやり込められたことも良い経
験だったのかもしれない、と己を納得させることができる。自分と
887
の対比で多少やさぐれもしたのだが。
手伝うこともできず手持ちぶさたなランタンは二人から離れて一
人ぽつんと魔精鏡を覗き込んだ。それはなんだか仲間内から疎外さ
れた子供がいじけて、それでも弱みを見せぬようにと一人遊びに興
じているような得も言われぬいじらしさがあった。
小さな背中がいっそう小さく見える。
﹁あ、けっこう強そう⋮⋮﹂
フラグ
魔精鏡を通し、白い霧の中に浮かぶ青の濃さを見てランタンは一
人呟く。
最下層に座する最終目標はそれほどの大きさを有してはいない。
体高は現状では一メートルと半分、ランタンと同等か、少し大きい。
そして何とも形容しがたいのだが、段々になった歪な三角形のよう
な姿が魔精鏡に映った。体高は同程度でも、全体的な大きさはラン
ひとがた
タンに遥かに勝る。
人形ではない。
ゴーレム
歪な形にうずくまっているという可能性もなくはないが、どうに
もランタンの勘はその青い塊を機動鎧や動人形だとは認識しなかっ
た。
くび
しかしかといって獣のようでもない。座り込んでいるにしても四
肢の形ははっきりせず、どうも頸がなく 頭部と胴体が一繋がりに
なっているような印象を受けた。
そもそも生物形ではないのかもしれない。
石球などのように生き物の形を成していないのか。ランタンは目
元から魔精鏡を外し、顎に手を当てて一つ思案のため息を漏らした。
そしてもう一度魔精鏡を目元に。
ランタンは咄嗟に半身を引いて、音も無く飛びかかってきたリリ
オンを避けた。気にしない風をよそおいながらも、こそりと二人を
気にしていたランタンには造作もないことである。
ランタンに避けられたリリオンは尻を突き出すようにつんのめっ
たが、さっと腰を沈めて重心を下げて踏みとどまると、くるりと左
888
右の足を入れ替えて振り返った。無駄に洗練された足運びだ。
﹁なんで避けるのよ﹂
﹁⋮⋮竈は組めたの?﹂
﹁あっ、そうだ。じゃじゃーん!﹂
あっさりとランタンに話を逸らされたリリオンは不満そうな顔つ
きもどこへやら、楽しげにランタンの視線を竈の方へと案内した。
﹁おー、すごい。本物みたい﹂
胸の前で拍手をしたランタンにリリオンは気分を良くしたように
口角を吊り上げて、ふふん、と誇らしげに笑った。
﹁こっちはわたしが全部やったのよ﹂
﹁すごい、ちゃんとできてる。へえー、グラグラしないし﹂
そこには横並びに二つ竈が組み上げられている。簡単な造りなの
だがランタンはそれをさも珍しげに覗き込み、耐震性を確かめるよ
うに乱暴に撫で、穴の中に並んだ炭を爪先で均したりした。
無邪気と言ってもいいその振る舞いにケイスは不思議そうな視線
をランタンに向ける。
﹁ランタンさんは、探索でこのようなことはされないのですか?﹂
﹁ええまあ、流石に個人でこれだけの野営道具を持ち込まないです
からね﹂
﹁ああ⋮⋮それは﹂
ケイスは合点がいったという風に大きく頷いた。ランタンが単独
探索者であったと言うことは元探索者のケイスも、あるいは商工ギ
ルドも承知だったのだろうが、それがどういうことかまではなかな
か理解できるものではない。探索者にとっての当たり前は、ランタ
ンにとっては当たり前ではなかった。
﹁食事はだいたい探索食ですからね。料理も小さい火精結晶コンロ
でちょっと煮炊きするぐらいですし﹂
﹁火精結晶コンロですか、はあ﹂
携帯用火精結晶コンロは探索道具の中でもあまり人気がない。
利点と言えば携帯の利便性と着火の手間が少ないと言うことぐら
889
いで、炭なり薪なりの代用品としては絶望的に高価であったし、そ
もそも探索は通常複数人で行うものなので一人二人分の調理しかで
きない火種などは、どれほど携帯に便利であってもそもそもが無用
の長物なのである。
﹁ちょっとお茶を沸かしたりには便利なんですけどね﹂
﹁お茶ですか。ああ、そう言えば茶葉も積んでおりますよ﹂
﹁では食後にでもいただきましょうかね﹂
荷車に積まれている食料は無駄に種類が豊富だった。
塩漬けされた豚の片足が丸ごと転がっていたり、丸鶏が壺の中で
油漬けになっていたり、腸詰め肉や干し肉もどっさりと折り重なっ
ている。
ランタンはその干し肉を一切れつまみ食いした。
﹁あ、これ羊だ﹂
独特の脂の濃さと獣の臭いに顔を顰める。嫌いだというわけでは
ないが牛肉だと思っていたせいで驚いたのだ。思わず口から離して
唾液に濡れた肉を睨むと、横合いからリリオンがそれをひょいと取
り上げた。
﹁わたしが食べたげる﹂
﹁どうぞ﹂
ランタンはリリオンが食べかけの干し肉を口に運ぼうとも平然と
したものであり、またリリオンも全く抵抗なくそれを口に含んだ。
硬い干し肉をほぐすようにリリオンがもごもごと肉を噛みしめてい
ぎゅう
る。美味しいのに、と誰にとも無く呟く。
﹁普通の牛肉もある。⋮⋮牛だよな、これ﹂
食料は他にも、野菜などは見るからに保存の利きそうな根菜類は
言うに及ばず葉菜類も積み込まれていた。余程気温が高くなければ
そう簡単にしおれることもないらしく、またしおれたとしてもそれ
は外葉ばかりのことであるらしい。
果物も数種類、焼き固めたパンや乾麺、生米も。
香辛料に油、それに酒さえ。
890
﹁何食べようかな﹂
そう呟いたもののランタンの料理技術はそれほど高いものではな
く、また料理のレパートリーもたかが知れている。これほど多種雑
多な素材を前にして途方に暮れるばかりだった。
﹁わたし作ろうか﹂
﹁︱︱リリオンが?﹂
顎に手を当てて考え込むランタンに、リリオンが口から干し肉を
離したかと思うとそんなことを言った。ランタンが驚いた様子でリ
リオンの顔を見つめると、リリオンはむっとしたような顔つきにな
って唇を突き出した。
﹁わたし料理できるよ、でしょ?﹂
そら
突き出した唇が開き言葉を紡ぎ出すのに先んじて、ランタンはリ
リオンの口から何度か聞かされた言葉を諳んじて見せた。
当然覚えていますよ、とはにかんでいるのだがそれは当然ごまか
しの笑みである。
﹁じゃあお願いしようかな﹂
﹁⋮⋮ランタンは何が食べたいの?﹂
たぶら
﹁ん、リリオンが作ってくれるものなら僕は何だってお腹いっぱい
いたいけ
食べたいよ﹂
幼気な少女を誑かす魔性の笑みをたっぷり湛えてそう言ったラン
タンに、リリオンは悔しげにしながらも頬を染めて、がんばる、と
拳を握って意気込んだ。
﹁ケイスさんは何か食べられないものとかありますか?﹂
﹁私ですか⋮⋮? え、いえ、あの、そんな﹂
何を言われたのかわからないとでも言うように表情に疑問を浮か
べたケイスは、しかしそれが食事の誘いであると理解すると大いに
驚いた。
どうやら探索者と運び屋は食事を共にしないようである。と言う
のもそれは契約内容に含まれていないからだ。
運び屋が探索者の荷物の世話をする対価として、探索者は運び屋
891
に賃金を支払う。それは雇い賃とは別に降下引き上げの代金も肩代
わりをするのだが、それ以外の食事なり怪我の治療費なりは運び屋
の自己負担である。
故に運び屋は自前で食料を持ち込むのだが、それが重荷になって
はいけないので運び屋はランタンもかくやと言うように携帯探索食
ばかりを食べることとなる。
﹁遠慮はいりませんよ。ケイスさんには明日からもっと頑張って貰
ほう
うことになりますから、ちゃんと食べないと。︱︱味の保証はいた
しませんが﹂
﹁もうっ、ランタンったらひどいわ﹂
そう言って悪戯っぽく笑ったランタンに、ケイスは惚けたように
頷くことしかできなかった。そして頷いた自分に気が付くと驚いて、
ではリリオンさんのお手伝いを、とどぎまぎと口に出す。
﹁じゃあ僕は出来上がりまで最終目標の観察を続けるよ﹂
﹁あ、そうだ! ランタン、どんな相手だったの?﹂
﹁⋮⋮それがわかんないからもう一度観察するんだよ。じゃあよろ
しくね。お二人とも﹂
﹁まかせて!﹂
﹁はい、ランタンさん。双眼の魔精鏡が用意してありますので、ど
うぞそちらをお使いください﹂
二人がいそいそと料理に取りかかったのでランタンは借り受けた
魔精鏡を使って最終目標を観察し続けた。まるで石像である。最終
目標は歩き回るどころか、身じろぎの一つもすることがない。
相手が動きもしないものだからランタンはしょうがなく自らが動
き回った。白い霧の前を右から左に横断してみたり、地面に伏せた
り、あるいは握力にものを言わせて壁から天井を登ってみたりとし
て観察をする角度を変えた。
そうこうしている内に炭の燃える臭いに混じって、何とも香ばし
い匂いが漂ってきてランタンの腹が小さく鳴った。実のところラン
タンはリリオンの料理にそれほどの期待を抱いていなかったのだが、
892
これはなんとも、と口内に沸いた唾液を飲み込んだ。
そして天井を鷲掴みにしていた指先から力を抜いて、ふわりと地
面に降り立った。
﹁できたよー!﹂
良い香りが立ってから、それは三十分も後のことだった。
その時間をランタンは一時間にも二時間にも感じていた。試行錯
誤を繰り返したものの観察が不調に終わったランタンはけれど清々
とした面持ちで、大きく手を振って自分を呼ぶリリオンに小走りに
駆け寄った。
竈の中で炭が赤く燃えている。その炭の上に寸胴鍋が熱せられて
いる。
﹁美味しそう! おー、すごいじゃん﹂
炭火に炙って焦げ目が付いたパンに、同じく炭火で炙って柔らか
く蕩けたチーズ。カリカリに焼いたベーコンが混ぜ込まれたマッシ
ュポテト。そのベーコンから出た油で焼いた目玉焼きと食いでがあ
りそうな分厚いハムステーキ。
鍋の中にはたっぷりと濃い褐色のシチューが作られていて、まさ
にランタンの鼻腔を擽り腹を鳴らせた香りが立ち上っていた。
﹁リリオンはどれを作ったの?﹂
﹁そのシチューは私が作ったのよ。牛のお肉を赤ワインで煮込むの
よ﹂
なんと洒落たものを、とランタンが驚くとリリオンは得意満面な
顔つきになって笑みを浮かべた。そして急かすようにランタンを座
らせると、リリオンは手ずから給仕をしてくれる。椀にたっぷりと
よそわれたシチューはずっしりと重たい。目に見える具材は人参に
ジャガイモ、それに大きく切った牛肉。
﹁ケイスさんもありがとうございました﹂
﹁いえいえ、私もご相伴にはあずかれるとは思っていませんで。そ
れにリリオンさんの指示に従っただけですので﹂
そのような会話もせっかくの食事を冷ますだけなので会話を早々
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に切り上げたランタンは、いただきます、と手を合わせるとまず一
口シチューを掬って口に運んだ。
これを食べないことにはどうにもリリオンが食事を始められぬよ
うで、少女はきつくスプーンを握りしめながらランタンの全てを見
逃さぬようにとじっと見つめていた。
﹁あ⋮⋮﹂
口いっぱいに広がった濃くのある芳醇な香りにランタンはうっと
りと思わず呟きを零した。
それはほっとするような味だった。仄かに甘みがあって味が濃く、
人参やジャガイモはほくほくとして、流石にとろとろになるまで肉
を煮込むことはできなかったようだが、むしろしっかりと肉を噛み
しめている感じがなおのこと良かった。
・
﹁美味い﹂
これは家の味だ、とランタンは思った。
﹁リリオン﹂
﹁なあに?﹂
﹁美味しい﹂
﹁んふー、言ったでしょ? わたし料理できるのよ﹂
二口三口とスプーンを口に運ぶランタンにリリオンはほっと胸を
撫で下ろした。そしてランタンにおかわりをよそってやって、それ
から自らの食事を始めた。
ランタンはパンを千切ってシチューに浸したりもする。これがま
た堪らない。
﹁いやあ確かに美味いですね﹂
﹁マッシュポテトも美味しいですよ﹂
しっとりとしたジャガイモの舌触りにカリカリとしたベーコンの
食感が良いアクセントになっている。少し塩味が強いが、半熟の目
玉焼き、そのとろりとした黄身を一緒に口に運ぶとまた美味いので
ある。
﹁いえいえ私はただ芋を蒸かしただけですので﹂
894
リリオンはメインディッシュを作り、ケイスはその手伝いをした。
しかしランタンは。
﹁それでランタン、最終目標はどうだったの?﹂
煮込まれた牛肉を口いっぱいに頬張っていたランタンは、リリオ
ンのその言葉にぴたりと固まった。
ランタンは身体能力を存分に生かしてありとあらゆる角度から最
終目標を確認したのだが、結局それがなんであるか当たりを付ける
ことはできなかった。途中から夕食が何であるかの当たりを付ける
ことに囚われてしまったせいでもある。
﹁よくわからなかった。原生形の魔物っぽいのかな?﹂
結局はあの歪な三角形であるという以上の情報を得ることはでき
なかったのだ。もしかしたら本当に動物や植物などの形を成してな
みずかね
いのかもしれない。
﹁原生形ですか。水鉄や砂鉄の集合体だったりすると厄介ですね﹂
それらは物理攻撃をほぼ完全に無効化する。
﹁砂金の集まりだったら嬉しいですけどね。そういえば実は魚形の
︱︱﹂
ランタンが言うと、ケイスも黄金鯨伝説を知っていたようで懐か
しげに頬を緩めた。
﹁有名な話ですね。それで物質系の迷宮ばかりに潜っている探索者
も少なくありませんし﹂
スプーンを口に咥えたままリリオンが魔精鏡を構えた。そしてし
ばらく見つめはしたものの結局は小首を傾げて魔精鏡をケイスに渡
した。そしてごく自然にケイスも白い霧の奥へと目を向けた。それ
は身に染みついた動作である。
そして厚い唇が、あ、と間の抜けた声を漏らした。
﹁これは蛙ですね﹂
魔精鏡を外したケイスがさらりとそう言った。
﹁蛙、ですか﹂
﹁ええ、こう半身になって上を向いているのでしょう。ふうむ、目
895
がでかいですね﹂
そう言われてリリオンがもう一度霧の奥に目を向けた。ランタン
はその青い影を思い返すがどうにも蛙の姿と重なることはなかった。
いき
﹁いやあ田舎によく出ましたからね。子供の頃はよく遊んだもので
すよ。釣り餌にしたり、空気を入れて膨らませたり︱︱﹂
﹁膨ら⋮⋮﹂
﹁おやランタンさんはされませんでしたか﹂
﹁あまり蛙は出なかったので⋮⋮﹂
食事を終え、それからしばらくその蛙を観察し続けたのだが、結
局それが動くことは一度たりともなかった。ランタンが無駄と思い
つつも蛙を観察している間に、リリオンが食器を洗ったり、翌朝ま
で火を残すために炭を灰の中に埋めたり、また寝るための準備をし
てくれた。
迷宮内で眠る時、いつもは毛布を身体に巻き付けて地面の固さを
感じながら眠るのだが、今回は敷物がある。
当たり前だがそれは二人分しか用意していないので、ケイスは二
人から離れて荷車に背を預けるようにして腰を下ろしている。
流石にランタンも、肩を並べて眠りましょう、などと提案をする
気にはならなかった。
リリオンと並んで毛布にくるまりながら、しばらく最終目標につ
いての考察を少女に言い聞かせていたが、それは寝物語のように少
女を眠りに誘った。リリオンの穏やかな寝息は、いつもならばラン
タンを眠りに誘うのだが、ランタンは目蓋を閉じてその音に耳を澄
ませても眠りにつくことはできなかった。
神経が昂ぶっていると言うほどではないが、緊張が少しあった。
さわ
最終目標戦についてではない。おそらくケイスがいるためだろう。
他人がいるという違和感が神経に障っているのだ。
ケイスの運び屋としての働きぶりはしっかりしたもので文句の付
けようはなかったし、探索当初は少なかった口数も次第に増えて、
ぎょろりとした瞳に湛えられていた緊張も食事の際には見つけるこ
896
とができなくなっていた。
ケイスは悪い人間ではない、と思う。
だがランタンはケイスを同空間に置いて、眠りにつく、無防備を
晒すことができなかった。
それはもしかしたら探索の行きがけに尻の辺りに感じた視線を不
意に思い出したためかもしれない。あれは果たして気のせいだった
のだろうか、なんて。
目蓋の裏の暗闇を見つめていると音が聞こえた。荷車の方から、
今まで物音一つ立てなかったケイスが身じろぎしたのだろう。ケイ
スが眠っていない事をランタンは何となく察知していた。そしてケ
イスが身を起こし、毛布から抜け出す様子をはっきりと知覚できた。
ランタンはまだ暗闇を見つめたまま、耳を澄ませている。
ケイスはゆっくりと立ち上がり、何秒間かそのまま立ち尽くして
いる。そして歩き出し、その先にはランタンがいる。気を遣った歩
き方だ。足音を殺し、起こさぬようにと。
ランタンは静かに目蓋を持ち上げた。眠っているところに近寄ら
れるのは気分の良いものではない。だが、どうにもケイスから悪意
のようなものを感じることができなかった。接近を許しても無害で
ありそうな気はする。
とは言えそのまま寝顔を見られることを良しとするランタンでは
ない。
両の太股にランタンの足を挟み込むリリオンからするりと抜け出
おのの
すと、ランタンはゆったりと、見せつけるように身体を起こした。
﹁眠れませんか、ケイスさん﹂
身体を震わせて立ち止まったケイスは言葉を失っていた。恐れ戦
くように目を見開いてランタンを見下ろすばかりだった。
ランタンはそんなケイスから視線を外して、さてどうしたものか
と髪を掻き上げる。
リリオンが隣で身じろぎをしたのであやすようにそっとその頬を
撫でてやり、ランタンは毛布から抜け出した。大人しく寝ている少
897
女を目覚めさせるような無粋をランタンは好まなかった。ケイスに
向かって唇に人差し指を立てて静かにするように伝える。
﹁あ、⋮⋮あの、申し訳ありません﹂
﹁⋮⋮︱︱まあ、元々寝付けませんでしたからね。構いませんよ。
それと声は小さくお願いします。せっかくよく眠っているんだ。起
こしてしまっては可哀想なので﹂
そう言ってランタンはケイスに近寄った。それからふと苦笑を漏
らす。
こういうときは竈ではなく焚き火でもあった方が雰囲気が出るな、
と。
ほの明るく発光する迷宮の壁もまた少しばかり野暮である。硬く
なったケイスの表情が辺り構わず降り注ぐ壁光に白々と晒されてた。
この硬さは羞恥だろうか。まさか夜這いでもしようとしたのか。
そうだとするとランタンは困る。ただただ困る。
﹁それで何かご用ですか?﹂
﹁いえ、その︱︱、⋮⋮ランタンさんのお顔を﹂
﹁⋮⋮僕の顔なんて見ても面白いものではないでしょうに﹂
﹁そんなことはありませんっ!﹂
苦し紛れの言い訳を呟くようにそう言ったケイスは、しかしラン
タンの言葉を強く否定した。それは言い訳ではなく本心からランタ
ンの顔を見ようとしたのかもしれない。
この目に見られていたのか、とランタンはぎょろりとしたケイス
の目を真正面から見つめた。三十一歳の女の顔は元探索者と言うこ
ともあってまだまだ若々しかったが、それでも目尻に消えぬ苦労の
皺が見えた。
だがその皺に縁取られた瞳には、ランタンが探索者ギルドを訪れ
るたびに寄ってきては蹴散らされる若い見習探索者の瞳によく似た
光が湛えられている。
ランタンがあまり好きではない、気恥ずかしく、重たい、憧憬の
光である。
898
メイル
﹁私はランタンさんの姿に感動したんです。鎧と戦うあの勇ましさ
に。噂は本当だったんだって﹂
言われてランタンは舌打ちを堪えながら左の耳に触れた。無様な
ざま
左耳の怪我は血はすっかり止まったものの、今では少しの熱と痒み
を帯びていた。
﹁あれで頑張ったのはリリオンですよ。僕はこの様だ﹂
﹁そんなことはありません。あの一撃を避けられる探索者は他には
いません!﹂
﹁⋮⋮いないって事はないでしょうよ﹂
﹁いないのです。ランタンさんは他の探索者を知らないだけです。
あんな恐ろしい攻撃を、⋮⋮私はあの姿を見て︱︱﹂
ケイスの言葉は次第に熱を帯びて、ランタンはうんざりとその言
葉を聞いた。
ああ何とも陳腐な、と皮肉気に歪ませた頬が欠伸を噛み殺した。
その陳腐さはランタンの眠気を誘うのにちょうどよかった。眠れぬ
夜に羊を数えるよりも余程に効果がある。
﹁僕の姿を見て、また探索者に戻りたくなりましたか?﹂
ランタンが水を差すように尋ねる。
しかし返ってくるのは沈黙ばかりだった。
899
061 迷宮
061
寝付きはおそらく良かったように思う。
フラグ
睡眠時間は三時間と少しであったがランタンは気持ちよく目を覚
ました。
何だかんだと言っても最終目標戦の朝である。
身に染みついた体調調整機能は余程の悪環境でない限り、ランタ
ンの体調を万全に引き上げる。
昨晩は満腹になるまで食事をしたのに不思議と空腹だった。
寝起きであったが食欲があった。なので余ったシチューにトマト
を加えてトマトソースに作りかえることにした。無論リリオンと相
談してのことである。
沸かした熱湯にトマトをさっと潜らせて冷水に取り皮を剥き、適
当に切ったそれを潰して、医療用ガーゼで裏ごしをする。皮や種の
入ったトマトソースなんて食べたくない、と探索中、それも最終目
標との戦闘を間近に控えているのにもかかわらず言い放ったランタ
ンには、さすがにリリオンもケイスも呆れるばかりだった。
ケイスは、少しばかり熱に浮かされたようにも見えた。もしかし
たら優しくされるよりも冷たくされる方が好きなのかもしれない、
なんて思いながらランタンはその視線を冷たく見返した。昨晩を思
い出したのか、ケイスは少しだけ恥じらいを浮かべる。
そうこうしてリリオン特製のシチューにトマトピューレを混ぜ、
大蒜と唐辛子、塩胡椒で味を調える。そうしたらリリオンが、トマ
トソースは砂糖をちょっと入れた方がいいのよ、なんて言うものだ
から砂糖も足して、味見をすると少女のしてやったりとした顔にも
納得がいった。
900
トマトを潜らせた熱湯を再利用して、乾燥した筒状のショートパ
スタを茹で戻し、貴重な水分を惜しげもなく捨てて軽く水気を切る
と、シチューからトマトソースへと変貌を遂げたそれと和える。
そして仕上げにチーズを薄く削り、乾燥したバジルを振りかけて、
朝っぱらからそれを食べるのだった。唐辛子が身体に残る眠気を完
全に蹴り出して、身体がかっと熱くなった。
熱はそのままやる気に繋がった。リリオンの額に浮いた汗を拭い
てやる。そして最下層に踏み込んだ。
美味しかったな、と思考の上でそれを反芻することはあっても。
︱︱朝食が胃から迫り上がってくるようだった。
ランタンには牛のように食事を反芻する趣味はない。ランタンは
迫り上がったトマトソースを飲み込んで、喉奥に残るトマトの酸味
とは別物の不快な酸っぱさを地面に吐き捨てた。
魔精の霧を抜けて最下層に一歩踏み込んだその瞬間に、痛みは全
身を駆け巡った。
引っ叩かれたような痛みと熱。
ふく
はぎ
何をされたのか、と考えるよりも先にランタンは転がるように横
っ跳ぶ。脹ら脛が痙攣している。
霧を抜けたというのに白む視界の中で敵影が浮かぶ。それは霧を
透かして観察した時よりも遥かに巨大に思えた。肌に感じる質量が、
そう錯覚させるのだろう。
かなくさ
大質量が横を高速で通り抜ける。体積の分だけ大気が押しのけら
れて、吹いた風は身体を打った。風音が鼓膜に重い。金臭い。
爆発で起こった熱の臭いとはまた違う独特の臭気だ。嫌な臭いを
辿るように戦槌を振り回す。
最終目標の後端部を避け際にぶっ叩いた。おまけのように爆発さ
せたが、手応えはあまりない。握力は七割。反動で柄が手の中で暴
れ、打った衝撃で戦槌が零れそうになった。最終目標は僅かに勢い
を減じた。
背後には霧を抜けたばかりのリリオンがいるが、下手に動かなけ
901
れば腕を掠めるだけで済むだろう。
がリリオンは動いた。
﹁わあっ!?﹂
驚きの声は、つまりそれを認識したと言うこと。獣の如き防衛本
能はリリオンの身体に防御の姿勢を取らせ、そればかりか直撃と同
時に衝撃を強引に逸らした。逃しきれぬ力の奔流にリリオンの足が
ずるりと地面を削った。
勢い余って最終目標が壁に突っ込む。鼓膜を押し込むような酷い
破砕音が響き、最終目標は濛々と立つ砂煙の中にその姿を隠した。
謎の攻撃を直撃されたのはランタンだけで、リリオンはまったく
の無事だった。それはランタンの身体そのものがリリオンを守る盾
となったというのもあり、またランタンが攻撃されたその時にはリ
リオンはまだ霧の中に居たというのもある、
直撃した攻撃は質量を持つ物理攻撃ではなく、魔道による遠距離
攻撃だった。魔精をどのように変容させたのかはわからないが、ラ
ンタンに直撃し、皮膚表面を通り背へと抜けた魔道は霧全体に吸収
されるように散ったのだろう。
白い霧は多くの攻撃を減衰、無力化する。
痛みの質は衝撃と熱。それと筋肉への僅かな痺れ。多少の気持ち
の悪さもあるか。
貰ったダメージの一つ一つを拾い上げてランタンはそれを認識し
ていく。命に届くダメージではない。足止めや牽制用の攻撃手段だ
ろうか。まだ確信は持てない。
リリオンから見たランタンは全くの無傷に見えることだろう。
﹁ダメージ貰った! 遠距離、魔道攻撃注意!﹂
﹁はい!﹂
砂埃が晴れる。
魔精鏡で見た時は一つも動かなかったその姿がいよいよ露わにな
った。
鬼が出るか蛇が出るか、それともケイスの言った通りに蛙の姿が
902
そこにあるのか。
﹁⋮⋮マジか﹂
思わずランタンが呟いた。信じられないものを見るように、まん
丸く目が見開かれた。その斜め後ろでリリオンも同じように目を開
いて、さらには口もまん丸に開いていた。
ケイスの言葉通りに、それは蛙だった。
冬眠から醒め穴蔵からようやく這い出たような、のそりとした動
き。壁を砕いた瓦礫を押しのけて振り返る。
飛び出した左右の瞳が大玉西瓜ほどもある。それは中心から外側
に向かって色を薄くする鮮やかな黄緑色をしていた。その目元まで
大きく裂ける口を開くと、そこに蛙の象徴たるべろんとした舌はな
く、胴体のその奥まで空洞になっている。
その空洞は漆黒だった。蛙の外側の輝きがそう思わせるのかもし
れない。
ランタンはグランの言葉を思い出した。瑞祥。まさしくそうだ。
フラグ
ケイスを雇ったことは間違いではなかった。
最終目標。
それは眩いばかりの黄金の蛙だった。
﹁⋮⋮マジか﹂
﹁ランタン!﹂
再び繰り返したランタンに被せるようにリリオンが興奮して叫ん
だ。
﹁わわわ、どうするのランタン!﹂
﹁どうもこうもないよ。やっつけるんだよ!﹂
﹁でもでもでも黄金だよ。やっつけて良いの!?﹂
﹁ぶった切ったって値段は変わんないよ!﹂
﹁あ、そうよね! そうだわ!!﹂
何だかんだとランタンも大質量の黄金を目の前にして、驚きが興
奮に変わったように声も大きくリリオンに答えた。そして再び更に
舌先で押し出すようにもう一度、マジか、と呟く。
903
﹁マジよ!﹂
黄金の輝きはそこにある。未知の魔道攻撃はランタンの視界を捏
造するものでも、認識を誤らせるものでもないらしい。ついでに言
えば寝ぼけて見ている夢幻の類いでもないらしい。
金蛙をぶっ叩いた重い感触が手の中に蘇った。大きく息を吸って
深呼吸をすると、リリオンも全く同じタイミングで胸を膨らませ、
萎ませた。つい笑ってしまう。
だが気を引き締める。黄金に興奮する心を押さえつけ、戦意を安
定させる。
最終目標である金蛙は脚が一本足りなかった。後肢が一本しかな
いのだ。切り落とされたという風ではなく、元々そのように作られ
ているだけのようだ。そして無い右足を補うように、その左足は凶
悪に発達していた。
ランタンが叩いてもびくともしないはずである。
数トンはありそうなその巨体を高速で跳躍させる力を秘めている。
その脚は決して見た目ばかりの飾りではない。
黄金の後肢が引き絞られた。
弾丸、いや砲弾のような跳躍。
﹁はあっ!﹂
銅鑼を力任せに叩いたような酷く乱暴な金音が響き渡り、びりび
りとした振動となって身体を打った。リリオンは身体を仰け反らせ、
二歩三歩と後退ったもののまるで盾の内側に頭突きでもかますよう
に身体を戻した。
そしてそのまま勢いを付けて金蛙を押し返そうと更に力を込めた。
ランタンは攻防直後を狙うために足を進める。
その時、ぱん、と破裂音が響いた。そのあまりに軽い音は、しか
しリリオンが身体を一瞬硬直させ、ぐらりと崩れた、
﹁なっ!?﹂
膝が折れて押し潰さんと金蛙がリリオンにのし掛かる。なまじ金
蛙の造形が生々しく生物的で、少女にのし掛かる両生類の図は嫌悪
904
感をかき立てて止まなかった。
リリオンはぐったりとしている。意識が飛んでいるのかもしれな
い。
つか
盾の影になって金蛙が何をしたのかわからなかった。盾を透かし
てリリオンにダメージが与えられている。まさか浸透勁でも遣うの
か、と意識をさらに引き締めながら戦槌の柄を握る力を強めた。
握力充分。
リリオンと金蛙の隙間に戦槌を滑り込ませると、ランタンは力の
限り逆袈裟に振り上げた。硬い。いわゆる黄金の硬さではない。物
質に魔精が隅々まで流れ込んでいるのだろう。
そして金蛙の中身は空洞なのだが、そんなものはなんの慰めにも
ならないほどに重たい。
掌に伝わる黄金の重さに歯を食いしばり、軋む骨もそのままに、
脚を踏ん張り腰を回す。途方もない重量に肩の付け根から腕は千切
れそうだった。
﹁うがっ!﹂
鋭く肺の中の空気を全部吐き出しながら無理矢理に金蛙を持ち上
げると、リリオンの襟首を引っ掴んで引きずり出し、その細腰に腕
を回して拾い上げる。そして金蛙から視線を切らぬまま、大きく跳
んで距離を取った。
リリオンが蛙のように呻いた。
﹁平気か?﹂
﹁うん、︱︱わたしは何を﹂
リリオンは瞬きをすると、縋るような視線をランタンに向けた。
理解できない攻撃は恐ろしいものだ。
﹁わからん。でも魔道だろう﹂
﹁痛い、叩かれたみたい。ひりひりする﹂
症状はランタンと同じ。同種類の攻撃を遠距離近距離関わらず使
用したということか。
リリオンは身体の動きを確かめるように、盾を握る方の手を何度
905
も動かした。ひりひりする、と言ったのはその手のことのようだっ
た。
﹁見せて﹂
その掌に赤い炎症があった。ランタンはその炎症の跡をさっと指
で撫でた。リリオンが一瞬眉を顰める。
﹁ランタン⋮⋮?﹂
﹁雷精魔道だ。あいつ雷を操る﹂
リリオンの掌に一筋入った炎症はケイスの手にある胼胝を思い出
させたが、それは軽度の火傷のようだった。盾を通電した雷が取っ
手を伝ってリリオンを感電させたのだろう。火傷は手汗のせいだろ
うか。
﹁雷を吐く。もしかしたら雷を纏う、帯電もする可能性もある。前
面には立つな。帯電の方はどうにもならないけど、常にビリビリし
てるわけじゃない﹂
流石に雷撃は見てから避けることはできない。
遠距離攻撃は少なくとも前面に立たなければ回避できると思う。
だが帯電状態はなかなかに難しい。雷を操る予動作を見極めるまで
は、攻撃の際に幾ばくかの雷を引き替えに貰うことを覚悟しなけれ
ばならないだろう。
ランタンはリリオンへ手短に作戦を伝えると、のそりのそりと動
く蛙を最下層の真ん中へと誘導するように動いた。
金蛙の動き自体は速くはなく、どちらかと言えば鈍重と言って間
違いなかった。発達した後肢は通常移動にはむしろ重荷のようで金
蛙は前肢で這うように、後肢を尾のように引き摺って歩いた。
ランタンは絶えず金蛙の周囲を円を描くようにして動き、決して
前面に立つことなく波状攻撃を繰り返した。
しかしさすがは物質系迷宮の最終目標。その防御力は並大抵のも
のではなく相当な力を込めて戦槌を打ち付けても黄金の身体はびく
ともしなかった。リリオンの大剣は表面を滑り、ランタンの戦槌は
表面を浅くヘコませもするがそれだけだった。
906
帯電状態が恐ろしくて腰が引けているのかもしれない。
そして大きな瞳が絶えず二人の姿を平然として追い続けているの
がまた不気味だ。
ランタンは小さく悪態を吐くと、腹を括って戦槌を返した。鶴嘴
が金蛙に向いた。そしてランタンは金蛙の左側面から近付くとぐり
んと振り向いた蛙の頭上を飛び越えて、黄金の左腕、その付け根に
鶴嘴を叩きつけた。鋭く尖った先端が黄金に穴を穿つ。いや、貫通
はしていないか。金蛙の厚みは五センチ以上もある。
舌打ちも、爆発もさせる間もなく金蛙は跳躍した。鶴嘴を身体に
捕らえたまま。
﹁ら︱︱﹂
名を呼ぶ声が聞こえる。
リリオンの細く可憐な素声は、無様にも引き延ばされたように耳
に届く。それは金蛙に引き摺られるランタンの身体が音にほど近い
速度で移動しているためだろう。声ばかりではなく、ランタンの意
識もまた引き延ばされた。
速度は暴力そのもので、どうにか柄を握ったままのランタンを空
気に叩きつけ、乱暴な方向転換はその小躯を襤褸雑巾のように振り
回した。目が回るどころではなく、頭蓋の中で脳みそが錐もみ回転
しているようだった。
リリオンも金蛙を止める手立てがない。剣で斬るにも盾で受ける
にも下手をするとランタンを挟み込みそうだったのだ。金蛙は地面
から壁へ、壁から天井へ、天地無用とばかりに縦横無尽に跳ね回っ
た。
﹁うぐっ﹂
ランタンは喉の奥で呻き、柄を引っ張って金蛙に身を寄せた。幸
運にも帯電はこない。おそらく移動と発電は同時にできないのだろ
う。ランタンは金蛙の胴に左の掌に当てる。冷たくすべすべとした
肌触り。それをずたずたにするように、ランタンは爆発を押し当て
た。
907
爆風はランタンの身体を押し出して、ぴん、と鶴嘴の引っかかり
が抜けた。
金蛙はほとんど無傷だった。爆発は金蛙の表面を滑り、その熱は
黄金を炙り金色を濃く、虹色の焼け付きを広げただけだった。
破壊力。それを収束させることばかりに意識が行って威力が弱く
なっている。上手くやろうという意識が破壊を阻害しているのか。
舌打ち。
金蛙の目がぐるりと回った。ランタンから興味を失ったようにリ
リオンへとその瞳が向いた。リリオンは左から金蛙に接近するとラ
ンタンの穿ったヘコみへと向けて平突きを放った。
蛙は避けようともしない。大きな目は飾り、では無論ない。
その大きな瞳が色を変えた。元の黄緑色は内から放射するように
黄色が広がり、緑を塗りつぶしていく。身体と同じ。
それは黄金の色。
雷の色。
金蛙の身体が痙攣するように震えた。細かく。音を広げる楽器の
ように。
開いた口から音が聞こえた。どろどろと雷鳴が響いた。気が付い
たリリオンはしかし止まることができない。黄金の身体に纏わり付
いた雷が、へこみをついに突き破り奥深くに差し込まれた大剣を通
してリリオンの身体を感電させた。
﹁きゃあ!﹂
逃げ出すことができない。
筋肉の収縮でリリオンは大剣を強く握り込み、つま先立ちになる
ように身体を緊張させた。 金蛙の瞳から次第に雷色が抜けていく。
作り出した雷を瞳に溜め込み、そこから次第に吐き出していくのか。
観察は続けながらも、ランタンは破裂するように駆けると靴底でリ
リオンを蹴りつけた。そして腰から抜いた打剣を金蛙の瞳に投げつ
けながら離脱する。
ばくん、と。
908
大きく開いた口に打剣が飲み込まれた。
金蛙の腹中を跳ねた打剣がきんこんと間の抜けた音を奏でる。そ
れを聞きながらランタンは転がるリリオンに駆け寄って、止まらず
に少女を抱き上げると狙いを付けた金蛙の口から逃れるように走り
続けた。
金蛙が裂けるように口を開き、その瞳が一際輝いたかと思うと漆
マント
黒を湛える口内から闇を切り裂いて光が迸った。放電。それはまる
で黄金の舌だ。
鋭角に波打つ一条の燦めきは背を向けたランタンの外套を撃ち、
その表面を紫電が走った。さすがは高級品。縫い付けられた耐魔性
能は遺憾なく発揮された。がランタンは細い針で突かれたような鋭
い痛みを感じだ。
あくまでも耐性。無効化することはできない。だが無視できるほ
どには軽減できる。
﹁ふぅ﹂
発電は停止状態でのみ行われる。ほぼ一瞬、隙と呼べるほど発電
に時間は掛からない。瞳が雷色に染まる。それは発電量を表す。
帯電と放電。瞳外に雷を放出すると瞳の色が元に戻る。
最大電力での雷撃の攻撃力は不明。だが小出しにした場合、ラン
タンは耐えられる。リリオンは少しばかり致命的だ。
ランタンはリリオンをそっと転がし、金蛙に駆け寄りながら外套
をはためかせた。その端を左手に掴まえて、ぐるりと手首に回して
拳に巻き付ける。そして小帯電状態の金蛙を殴りつけた。
痛みは金属を殴ったが故のもので、それだけだ。金蛙の瞳が元の
色に戻った。
だがほっとしている暇はない。戦槌で殴ってもびくともしないの
だから、拳で殴ってどうにかなるわけではない。
ずるりと尻を向けた金蛙が、後肢で強烈に蹴り込んでいた。
戦槌で辛うじて受け止めるがあっけなくランタンは吹き飛ばされ
る。
909
数百キロの身体を跳躍させる脚力は、背嚢の存在に関係なくラン
タンの小躯を吹き飛ばすことなど造作もなかった。蹴り脚が異様に
長い。折り畳んだ際の見た目からは、少し想像もできないほどに。
胴体の倍以上。三メートル以上も伸びた後肢、その爪先は水掻き
のある扇状の三つ叉槍のようだった。ランタンは受けた戦槌を回し、
どうにかその爪を絡め折ろうと試みるが失敗に終わった。
吹っ飛ぶランタンの下を回復したリリオンが地面を舐めるように
低く駆け抜けた。
蹴りの引き足に合わせるように金蛙に飛び込むと、脚の付け根を
鋭く切り上げた。一撃に刃が浅く噛み付いた。リリオンはまるで鋸
を大きく引くように、力任せにそのまま切り上げる。
空洞は胴体ばかりで丸太のような脚は生木のように中までみしり
と黄金が詰まっていた。
そして間を置かずに再び放たれた二撃目の突き蹴りを盾に受けて
リリオンが吹き飛ばされる。金蛙の脚に大剣を残したまま。
持ち主を失った大剣がずり落ちて、金蛙は蹴りつけた盾を足場に
高く跳躍した。
その背にランタンは不吉を感じた。
金蛙は空中で蜻蛉を切り、ランタンを向いた瞳が再び雷を湛えて
いる。自由落下。
﹁げ﹂
制空権を押さえられた。逃げ場はない。
ランタンは礫の入った革袋を丸ごと手の中に握ると、口紐を解く
のももどかしいとばかりに爆発を用いて袋を焼き払った。熱を帯び
た礫が掌を焼いて、ランタンはそれを広範囲に散布するように天へ
と投げ払った。
口腔の漆黒は、まるで雷雲のように。
落雷。その光の道筋が目に焼き付いた。
礫の一つを直撃した雷撃はその間近の礫に次ぎ次ぎと再放電を生
じて、まるで蜘蛛の巣のように広がり脇へと駆けていった。大気に
910
散った雷精に産毛がぞわっと逆立って、どうにか危機を脱したが安
堵する暇はない。
天井を蹴った金蛙がランタンに向かって突っ込んでくる。帯電状
態は解消されているが、受け止めるには重すぎる。ランタンは靴底
に爆発を起こして慌ててその場を飛び退いた。
大口を開いて地面に突っ込む金蛙は、ランタンの足場にできた爆
炎諸共地面をごっそりと食らっていた。そしてそれを飲み込みなが
ら鋭くランタンを振り返り再び地面を蹴った。
こいつ。
﹁速くなってる!﹂
見たままを口に出し、ランタンは躱せぬと悟るやいなやその場に
踏ん張った。天井から地面では逃げ場はないが、前から後ろならば
背後が壁でない限りはどうとでもなる。もし逸らせたならば御の字
だ。
か
戦槌を振り上げた瞬間に、風を切ってランタンの身体が地面に沈
む。閉じてろ、とランタンはその平べったい顎を搗ち上げた。直撃
に合わせて爆炎が走る。ただ威力を求めて放出した爆発は、金蛙の
大きな顔を炎が包み込み、剥離した金箔の燦めきを蒸発させる。
べっこりと顎がヘコんで金蛙はランタンを飛び越えるように軌道
を変え、無様にも背中から地面に落ちて酷い音を立てた。腹の中に
溜め込んだ瓦礫ががらがらと耳障りな音を立てて、その中にある一
つ高く鳴る金属音は食われた打剣の音だろうか。
音の鳴る方に視線を向けると、そこには既に金蛙の姿はない。
まるで雷速の如し、と言うのは多少大げさか。金の尾を引く残像
を追いかけると目が回りそうだった。しこたま背中を打ち付けても
生物ではないのだから行動不能にはならない。どれだけ顎を揺らそ
・ ・ ・ ・
うと、攪拌される脳は無い。その身体に綻びはできても、それはい
わゆるダメージではない。
狙いは。
立ち上がったばかりのリリオンは方盾を杖のようにして子鹿のよ
911
うに脚が震えている。雷撃のダメージもさることながら、まともに
受けた蹴りの衝撃が残っているのだろう。方盾の中心に深い傷が見
える。
どうにか立ち上がったというような有様だった。回避行動も、防
御態勢を取ることも間に合わない。寝てた方がマシだった。
﹁させん!﹂
自らの身体を爆風によって押し出し、リリオンを抱きかかえてそ
のまま横倒しにした。十センチ上を金蛙がぞっとするような速度で
通り過ぎ、ランタンはリリオンの胸の中から顔を起こすと、目を回
す少女の頬を平手で軽く叩いた。
そして素早く立ち上がる。リリオンに意思を伝える暇もない。
ランタンは戻ってきた金蛙を迎え撃った。爪先でリリオンの取り
落とした大盾を蹴り上げて拾い、ランタンの手には大振りな取っ手
を握りしめるとその内側に肩を当てて身構えた。
衝撃。逸らすにはランタンは体重が少し足りない。
リリオンは良くこれを持ち堪えたな、と吹き飛びながら思う。だ
がどうにか突撃は停止させた。金蛙はぼんやりと立ち上がったリリ
オンと向かい合い、まるでお見合いのようだ。
リリオンが大剣を横に薙ぎ払った。
余計な力の抜けた綺麗な太刀筋だ。大剣の柄にそっと手を添える
ように軽く握り、羽虫でも追い払うように軽く腕が振れた。ずるり、
と金蛙の鼻頭を斬って通った。
そう見えたのはランタンの錯覚だった。
鋒は少女の指の如く金蛙の鼻頭を甘く撫でただけで通り過ぎた。
・
しかし次の瞬間に舞い戻った、目の覚めるような斬り返しは少女
ではなく女の平手のように強烈だった。金蛙の顔面がねじ切れたか
と思うほどに横を向いた。
いや、身体全体、金蛙は後ろを向いたのだ。
蹴り。
柳のようにリリオンは半身になってそれを躱し、伸びきった膝に
912
両手持ちの袈裟懸けを振り下ろした。
﹁斬れないっ!﹂
駄々をこねるようなリリオンの叫びの横をランタンが投げつけた
大盾が通り過ぎる。丸鋸のように回転する大盾が金蛙の背を打ち付
けて、引き足の反動に加算し衝撃は金蛙を前転させ仰向けに転がし
た。
その腹上にいつの間にかランタンが足を掛けている。
戦槌を肩に担ぎ、両の手に握りしめている。
﹁死ねっ!﹂
剥き出しの殺意を金蛙は意にも介さない。
金蛙に感情などと言う高尚なものはなく、あるのは最下層に踏み
込んだ人間への攻撃性だけだ。それは敵愾心ですらないのかしれな
い。
爆発を伴う打ち下ろしは、しかし突如纏った帯電雷撃によって相
打ちに持ち込まれた。
目の前が瞬間的に白く染まる。リリオンの意識を吹き飛ばした雷
撃はランタンの意識を奪うには至らない。それはランタンのその身
に纏う魔精の濃さが、ランタンの体内深くに雷撃を通すことを許さ
ないからだ。
雷撃はランタンの皮膚表面を走り抜け、内部をそっと触りこそす
れ突き刺さるようなことはない。ぱちっ、と左耳のテープが焼け焦
げ、血と血止めの軟膏の混じった体液を沸騰させて火傷を作った。
傷口が焼き固まった。吐き捨てた唾に混じった赤さは、トマトの色
素に過ぎない。
痺れを嫌ってランタンは金蛙の腹から飛び退き、わざと乱暴に着
地することで筋肉の痙攣を踏み潰した。水分の蒸発した唇を潤すよ
うに舌舐めずりをする。
黄金も焼ければ黒ずむのか、金蛙の腹部が黒く煤けていた。蛙は
それを隠すようにごろんと転がり体勢を立て直したが、喉元にまで
掛かる黒ずみは隠せない。
913
目は雷色だった。
ばちん、と破裂音はなんだったのか。攻撃ではない。
金蛙の身体がぶるぶると震えると、はらりと黒ずみが剥離した。
気が付けばいつだか鶴嘴を打ちリリオンが貫いた穴は塞がれ、もし
かしたら後肢付け根の斬り込みも消えているのかもしれない。
帯電することで生まれる熱によって身体を溶かして塞いだのか。
きいろ
それとも再生能力でもあるのか。ランタンの片頬が痙攣するように
引きつって、獣のような笑みを浮かべた。
リリオンには少しばかり荷が重い。
ランタンは外套を外してリリオンに放り投げる。
﹁巻いとけ。いくらか雷は防げる。あと目の色に注意、︱︱雷色は
注意だ﹂
﹁ランタンはっ!?﹂
﹁いらん﹂
息を吐く。身が軽い。
﹁霧を背に下がれ、防御に徹しろ。あとは僕がやる﹂
戦槌を手の中でくるりと回す。
頬が獰猛な笑みに引きつるのは、その昔恐怖に笑ってからの癖だ
った。
はし
今ではそれは自然に、感情のままに零れる。
溢れる。
ランタンは疾走る。
リリオンへと放った言葉の酷薄さにも気づかずに。
914
062 迷宮
062
金蛙と向かい合うとランタンの小躯は尚のこと小さく見える。
ランタンの身長は自己申告で百六十センチであり、遙か彼方の記
憶で行った計測ではそれに僅かに足らず悔しく思ったことを覚えて
ブーツ
いるが、それはもう過去のことでありきっと身長も伸びているはず
だし、戦闘靴を履いているランタンの身長は確かに百六十センチに
届いているので、言いようによってはそれは嘘ではない。爆発は身
体と、その延長に発生させることができその靴は幾度となく爆炎を
纏っているのだから。
そして座する金蛙の体高も似たようなもので、扁平の頭部に載っ
た宝石の如き目玉が飛び出している分だけ高いぐらいだった。
だがそれでもランタンは小さく小さくみえた。
それは扁平の頭部から首もなく繋がる金蛙の胴体がランタンを五、
六人纏めて丸呑みにしても有り余るほどにでっぷりとしていて丸々
とふくよかなせいだろう。
女性的と言うべきか、いっそ母性を思わせる曲線で作られた瓢箪
じじゅう
型の胴体からにょきりと生えた前肢の、その指先は獣じみて鋭く、
ただ引っ掛けるだけでも金蛙の自重を壁にも天井にも固定すること
を可能にした。凶悪なそれは三つ指を突く女の細腕を想像させたが、
その実ランタンの脚よりも太い。
前肢が細く見えるのは胴体の存在感のせいばかりではなく、左し
とぐろ
かない後肢が異様に太く、みちみちに金属が満ちて練り上げられた
それがいっそ男根的ですらあるからだった。
折り畳まれた左脚は金蛙の尻に食らいついた大蛇が蜷局を巻いて
いるかのようで、蹴り伸びた脚は伸張し引き延ばされているにもか
915
かわらず、不思議と怒張するかのようだった。足撃に纏わり付く圧
力と、あまりの太さに遠近感が狂うせいだろう。
それに比べてランタンはあまりにも小さく、細い。
幼さのある顔に張り付いた獣の笑みはまだ牙も柔らかな幼獣の唸
りであり、華奢な身体から生えるほっそりとした腕は若枝で、その
手に握る戦鎚は若枝には不釣り合いに黒いほどに熟した果実のよう
に重たげであった。
背嚢を降ろして無防備になった背中は薄く、外套を脱いで露わに
なった身体の線は少女めいて細く、戦闘服が裂けて血に濡れる肌が
いやに白い。
喉の奥から溢れ出た声はほろ苦く、荒くなった吐息はどこか官能
的で、その姿は哀れにも大蛙と対峙することとなった無力な小動物
のようであった。
けれどその戦い振りは窮鼠猫を噛むと言う格言の霞むほどに、獰
猛で命をかなぐり捨てるが如く狂的であった。
そこに外貌に浮かぶ儚さや頼りなさは一切ない。
小細工無用の正面戦闘。
小躯でありながら金蛙と対峙するランタンは一歩も退くことなく、
堂々と命の取り合いをしていた。
その姿を遠くでリリオンが見つめている。寂しさと、興奮と、呆
気にとられたような恍惚と。表情には様々な感情が混沌として熱に
浮かされるようだった。
金蛙の前肢がランタンの身体を引き裂こうと爪を立てて襲いかか
り、ランタンはそれを紙一重で避け、戦鎚で打ち払い、多少の被弾
と引き替えに前進すると金蛙の顔面に重い一撃を叩き込んだ。
狙いはその目玉なのだが、少しばかり遠い。
座すると首を差し出すような形となる金蛙なのだが、鼻先口先が
突き出した顔のせいで顔上の飛び出した目玉はむしろ顔の後方へと
引っ込んでいて狙い難い。だがかといって前腕をかいくぐりその懐
に飛び込んで距離を詰めると、見上げた頭上には金蛙の喉元があり、
916
狙いの目玉を視界の内に入れておくことすらままならなくなる。
視界外になるのは目玉ばかりではない。金蛙の懐に抱かれると跳
躍による突進を回避することがほとほと困難になった。後肢に危険
な気配を察知すると、跳躍突進を馬跳びのように躱す。
金蛙の頭上を飛び越える瞬間に鶴嘴を目玉に引っ掛けてやろうか
と思うのだが、如何せんタイミングがシビアすぎる。一秒後には既
に金蛙は遥か遠くに着地し、よしんば引っ掛けられたとしても大質
量の移動に戦鎚ごと身体を引き摺られることはもう二度と御免だっ
た。思い出すだけでトマトソースが迫り上がってくる。
蹴り。
壁に張り付いた金蛙がそこから強烈な突き蹴りを放ってきた。そ
れは躍りかかる大蛇に似ている。斜め上から突き下ろされる蹴りを
ランタンは潜り込むように躱し、引き足も半ばで再び蹴り込まれた
すね
二撃目を跳び上がって躱した。バネと同じか。二撃目の威力速度は
三割減。
ランタンは猫のように金蛙の臑に着地した。丸みを帯びてつるり
ぬめ
とした黄金の臑は仄かに熱を帯びていて生物的ですらあった。本物
の蛙がその身を覆う粘液を思わせる滑りがあった。
引き足に合わせて二歩駆け、三歩目で落っこちそうになったので
爆発を使って金蛙に肉薄する。壁に張り付いた金蛙の背中は無防備
のように思える。
よじ
その丸く大きな背中が重力に任せてずるりと落下した。息絶えた
蝉のように。
金蛙が身体を捩る。
金蛙は肉薄するランタンに向き、目の色は黄色。口腔は漆黒で、
その舌は雷撃だった。
振りかぶる余裕もなく、逆袈裟に振り上げた戦鎚が空間を爆破し
消し飛ばした。そこに生み出された虚無は指向性をもった雷撃の侵
うなじ
入を阻み、雷撃は戦鎚の軌跡を避けるようにランタンの脇を迂回し
て彼方へと過ぎ去った。項の毛が逆立った。
917
そして戦鎚は時間を巻き戻したように。
担いだ肩から右袈裟に振り下ろされた鶴嘴が金蛙の目玉を狙った。
はくぼ
直撃は、しかし閉ざされた目蓋によって阻まれた。根本から現れた
瞬膜のような目蓋が薄暮の花のように閉じて目玉を包み隠した。
黄金の目蓋は目玉自体を一回り大きく見せるほど分厚く、削れこ
そすれど内部への打突を許さなかった。そして落下しながら金蛙は
悠然と壁を蹴りランタンを押しのけて距離を取る。目蓋を閉じてい
るせいか金蛙は顔面から着地した。
また地面を食ってやがる、と胸焼けしたように振り返ったランタ
ンが鼻頭に皺を寄せる。
地面の摂食の目的は何だろうか。自重の増加による突進の威力の
底上げか、それとも傷ついた外皮を修復するための物資の搬入だろ
うか。またがらごろと音が鳴った。
それは岩の転がる重い音。打剣は既に消化されたのか金属音は響
かない。
金蛙が帯電して口を開く。その隙間から光が漏れた。雷光のよう
む
な眩しさではない。暗い口腔を照らすのは血潮にも似たぼんやりと
した赤。ランタンはその光をグラン武具工房で見たことがある。噎
せるような高温。
雷撃ならば耐えられる自信があったが、それはランタンに咄嗟に
回避行動を取らせた。
金蛙が吐き出したのは今まで食らった鉱石鉱物の混合消化物だっ
た。それはまさしく溶岩の如く燃え溶けて、幾つもの溶岩弾となっ
てランタンに吐きかけられた。
ひゅっ、と飲んだ息が熱い。
掠めた一撃が皮膚を炙った。地面に跳ねた溶岩弾は幾つもの飛沫
を撒き散らしてズボンを焦がし穴を空けた。流星群のような溶岩弾
の微かな隙間をランタンは進む。
だが行き止まりに突き当たった。
ランタンを誘導し、狙い澄ました躱せぬ一撃を辛うじて戦鎚で絡
918
め取った。溶岩弾はよく練った水飴のように戦鎚の先端に付着し、
急速に熱を失い黒く固まった。しかし硬質な外殻とは裏腹に、その
内部には液状の溶岩が満ちていた。
ランタンは流動し変化する重心に戸惑いながらも力任せに戦鎚を
金蛙に叩きつけた。
溶岩弾は行動を阻害する重しであり、同時に戦鎚を優しく包み込
む真綿のようなものだった。叩きつけることで溶岩弾の外殻は砕け
散り、同時に衝撃も砕け散って力が飛散していった。
ランタンの叩きつけを屁とも思わなかった金蛙が溶岩を吐いた。
吐瀉物のようにどろりと頭上に注がれた溶岩流をランタンは前転す
るように金蛙の後方へと避けて、同時に振り返ると眼前に突き出さ
れた金蛙の足指があった。
戦鎚で防ぐ、とその指の間に張られた水掻きの薄さに気が付いた。
それは薄紙を貼ったかのようで受け止めた柄によって呆気なく引き
裂かれた。思いがけず二指の間に囚われたランタンの細首に切れ端
が触れて薄く切り裂かれた。出血は少ない。頸動脈には達していな
い。
円錐形だった金蛙の足指が気づけば鉈のような形状に潰れている。
それは鉈でできた鋏だった。首を左右から刎ねんとして閉じられた
こす
足指がランタンの頭上でガチンと音を立て、身代わりとなった戦鎚
の首を挟み込んだ。
捉えられた戦鎚が引き足によってもぎ取られ、擦りあげられた掌
のひりつきが次第に喪失感に変わっていく。ぎりり、とランタンの
奥歯が軋んで音を立てた。
﹁返せっ!﹂
足指から解放された戦鎚が慣性によってぐるんと弧を描き、いつ
の間にか振り返り大口を開けた金蛙の口腔へと、まるで自ら身を投
げたかのように落ちていこうとしていた。
がるる、と吠えたランタンが最後の投擲武器である投げナイフを
四指に挟み、爆風を以てそれを投擲した。それは拳を覆った爆炎を
919
切り裂いて、轟爆の衝撃を纏った投げナイフは音を置き去りにして
飛翔した。
成功した、とも思わない。ランタンは幾度となく試みて失敗に終
わった爆発射出の結実を当然の結果として行動に織り込んでおり、
その身体は次の一手へと動いていた。
衝撃と、高音の破砕音。
三振りの投げナイフは戦鎚に衝突して粉と砕け、奈落にも似た口
腔へ落ちる戦鎚を弾き飛ばした。ばくん、と金蛙は虚空を食らう。
獲物を横取りされたことを苛立つかのように雷色に輝いた瞳がラン
タンを睨み付けた。
その瞳に手を触れるほど傍にランタンの姿があった。
握力にものを言わせて左の手で大きい大きい金蛙の鼻面を握りし
め、ランタンは捩じ切れるかと言うほどに細腰を捻り、ぴんと伸ば
した右の手が弾き飛んだ戦鎚をたぐり寄せるように握りしめた。
帯電。
感電。
戦闘。ただその事のみに特化した思考の片隅に残る雑念が焼け落
ちていく。
え
目の前に火花が散った。血が沸騰したような熱が体内を駆け巡る。
全身を隙間なく針で突き刺したかのような痛み。柄の先端ぎりぎり
を握りしめた戦鎚をそれでも放さなかったのは感電による筋肉の収
縮によるもので、痙攣の鎖をねじ伏せて腕を振り下ろしたのはただ
の根性だった。
痛みとその他諸々のせいで、狙いが逸れた。
目蓋ごとぶち抜いてやろうと振り下ろした戦鎚はそれを僅かに掠
めて金蛙の額を殴打する。鎚頭の形に丸く陥没した額に、ならばせ
めてもと爆発をぶちかまして型抜きをすると、それは帯電させえも
吹き飛ばした。
がランタンの身体も痛みを許容できなくなった。
ふっと意識が途切れたのは一瞬のことで、ランタンは四足獣の如
920
くその頭上から飛び降りた。意識をはっきりさせる間もなく連続し
て放たれた溶岩弾を本能のみで避けることができたのは身体に染み
ついた戦闘経験と幸運によるものだ。
距離の仕切り直しをさせられたランタンは金蛙の額に開けた丸い
ほくろ
穴が、赤い溶岩によって内側から塞がれるのを見た。それは冷え固
まって大きな黒子のように目と目の間にぽんつんと浮かんだが、そ
の周囲の黄金がまるで勢力を広げる黴のように黒子を隠していくさ
まをランタンは確かに見た。
再生でも、再構築でもない。ありもので応急的に塞いだだけだ。
﹁つぎはぎか﹂
ランタンは傷口の上から首を掻いて、瘡蓋にもなりきらぬ乾いた
血を掻き剥がした。爪の間に入り込んだ赤黒さをふっと息を吹きか
けて払い落とす。
﹁つぎはぎだらけにしてやる﹂
低く呟いた言葉を踏み付けるようにランタンは低空を駆けた。
威嚇の一撃に金蛙が反応した。真下から逆風に振り上げた鶴嘴の
一撃を金蛙は上を向くようにしてやり過ごした。ランタンは懐に潜
り込むと戦鎚を引き寄せて盛大にその胴体を打ち鳴らす。そして抱
きしめるように閉じられた金蛙の前腕をつれなくあしらってすり抜
けると、腕の付け根に戦鎚を叩き込んだ。
それはランタンが穿ち、リリオンが貫いた一撃。なかったことに
わ
されたその連撃の爪痕を完全に消し去ることはできなかった。修復
の痕は呆気なく剥がれ落ちて、そこには環に抱かれる土星に似た模
様の穴が空いた。
じっくり観察する暇もなく突っ込まれた金蛙の抜き手を、それが
首を挟み込まない位置を保ちながら戦鎚の柄で受け止める。雷色の
瞳を視界の端で捉えるとランタンはバトントワリングのように戦鎚
を回転させて手放した。
爆発によって回転力を得た戦鎚は金蛙の指を絡め取り、その造り
は電流を流されてもびくともしない。ばきばきと折れる指と虚しく
921
帯電する金蛙をランタンは冷たく見つめた。
そして開いた口の、その顎下に潜り込む。
金蛙は帯電と放電を同時に行うことはできない。発電時は身動き
を取ることができない。
雷撃が空気を切り裂く音を頭上から聞きながら、ランタンは再び
手中に収めた戦鎚を半月を描くように振り抜いた。金蛙の視界の外
から振り回された戦鎚が、その頬を強打して鈍い音を立てた。
右から左に頬を張ったその一撃はこじ開けた金蛙の口唇を削ぐよ
うにして通り過ぎ、脇構えとなった戦鎚の斬り返しが土星の穴、右
腕の付け根にねじ込まれる。
右手に掴んだ柄に左手を添えて、ランタンは金蛙の胴に足を掛け
ると巨木を引き抜くように力の限り柄を引いた。
黄金を引き裂くその音はまるで金蛙の悲鳴のようだった。
爪を失った手の、その先に伸びる腕が付け根から引き千切れた。
ランタンは切断と同時に靴底に起こした爆発でその場から離脱し、
ランタンの残影を千切れた腕ごと金蛙が喰らった。
瞬間、雷光を迸らせた金蛙は付け根を失うことで開いた穴を塞い
だ。が、そこに腕が再生することはなかった。
残るは左腕左脚。
おたまじゃくしからやり直せ。
嗤うようにそう呟いたランタンが左腕を捩じ切るのにそう時間は
掛からなかった。
放電雷撃は懐に入ることでやり過ごし、左腕に取り付くことで左
脚の予動作を絶えず観察して跳躍突進を回避した。
左腕の根元に何度も戦鎚を叩きつけ、鶴嘴で引っ掻き、爪を砕く。
柄を差し込んで肘を極めると、ランタンは舵を切るように金蛙の左
腕を根元から旋転させた。
そして握手でもするように千切った手を持ったままランタンが距
離を取ると、金蛙は腕を返せと言わんばかりに大口を開けて跳躍し
た。それは突進ですらない。
922
まるで闇雲に叩きつけたゴム鞠のようだった。腕を失った金蛙は
方向転換の大部分を胴を振ることで行っていた。微調整が効かずに
暴れ狂ったように跳び回り、蹴り損なった地面の反力にさえ身を委
ねて混沌と身体を振り回した。 これはこれで厄介だ。
自らの腕に対する金蛙の執着は空恐ろしいものがあり、それを取
り戻すまで決して止まることのないだろうと確信を抱かせる。
腕を取り戻すことのみに全機能を傾けた金蛙は発電を行うことも
なかったが、それに攻め込むことは雷雲に身を投げるよりも危険だ
った。
金蛙の執着心の動機をランタンは知ることはできず、金蛙の行動
に動機などと言う高尚な感情か備わっているとも思えないが、ただ
傍目に見れば必死という言葉の似合う有様であった。
必死に行動しているものを止めることの難しさは語るに及ばず、
それが立ち止まる時はいつだって望みを叶えた時だとランタンは知
っていた。
ランタンは金蛙に餌でも与えるかのようにぽいっと腕を投げ捨て
て、金蛙は身体が軋むような方向転換を行う。跳躍はランタンを無
視して腕を追いかけ、中空を舞う腕を丸呑みにした時、ランタンは
金蛙の後ろに回り込み後肢に備わった爪を一つ残らず叩き折った。
爪は跳躍の要であった。
跳躍は爪で地面を掴むところから始まり、突き蹴りは前腕の支え
によって成り立っていた。 前肢の支えを失った金蛙は眼球の重さ
に耐えかねるように地に伏し、それはまるで盆に載せた宝玉を御前
に献上して叩頭する、太りに太っただらしのない体躯を金の衣装に
へつら
よって包み隠した悪趣味な商人の姿のようであった。
だが伏した面に諂いや屈辱を隠す商人と違い、金蛙の瞳には敵意
に似た雷色がありありと浮かび上がっている。腕を失い、足を傷つ
けられ地に伏してなお金蛙はランタンの殺傷を望んでいる。それは
首を落としても止まりそうになかった。
923
無いはずの感情をランタンは感じ取った。
だが金蛙のできることは限られている。その身に纏った雷の鎧は
近寄るランタンへの牽制であったが、ランタンが少し歩みを緩めて
やれば近付く頃には雲散霧消している。帯電の持続時間は三秒程か。
そして使い切った雷を再発電するまでにはいくらかの猶予があり、
だがその猶予がランタンに慢心を生むことはなかった。
ただ金蛙の攻撃機能がランタンの想像の上回った。
金蛙は泥田を泳ぐおたまじゃくしのように、爪を失った後肢を尾
びれのように揺らす。その反動で金蛙は身体を回転させた。身体を
漕いだのは一度だけで、あとは遠心力に身を委ねていた。
雷撃を吐き出す。狙いなどはなく、それは三百六十度全てに撒き
散らされた。
跳ぶことで避ける。そこだけが雷撃を避ける唯一の場所で、しか
しそのランタンの背後。雷撃は冷え固まった溶岩弾に着弾すると、
そこから反射するかのようにランタンを追った。
側撃雷。狙ったものではないが故にランタンは察知することがで
きず、雷撃に込められた執念がそれを実現した。
意識の外からねじ込まれた紫電にランタンの喉奥から悲鳴が溢れ、
身体は金縛りにあったように硬直し、雷撃を経由した溶岩弾はその
内部の水分を一瞬にして蒸発させた。内圧の上昇により弾けた外殻
が散弾となってランタンの身体を切り裂いた。
溶岩弾の内部破裂は最下層の至る所で発生し、重なり合う破裂音
はランタンの知覚神経を掻き乱した。硬直する筋肉を引き千切るよ
うに腕を交差し、その隙間から視線を覗かせる。白み、霞む視界の
中で外殻破片が小さな甲虫に見えて、それは黒い尾を引くように飛
び回っていた。
痛みと音と衝撃で、それが何であるかをランタンは理解すること
ができず、破片はランタンの身体を掠めて血を溢れさせ、またその
身に幾つもの穴を穿って飛び込んだ。
破片は硬直した筋肉によって内部深くに食い込むことこそなかっ
924
たが、それは小さな身じろぎにでさえ呻くような苦痛をランタンに
もたらした。まるで体内に産み付けられた卵がふ化して、その幼虫
が内側から身を喰らうようだった。
迫り上がる吐き気を飲み込んで、ランタンは我が身を通り過ぎた
破片を無意識的に目で追った。未知のものへの恐怖とそれを脅威と
して認識したその本能は、ランタンの視線を左右の互い違いの方へ
と引き裂いた。そして真正面こそが死角となった。
充分な威力の乗った突き蹴りが迫り来るのを察知するのが遅れた。
どうにか身体を捻ったものの蹴りは肋骨を滑り、服と皮膚と脇腹
の肉が削り落とされた。背に刺さった破片が衝撃で抜け落ちて血を
吹き、着地の衝撃も殺せぬままに速射砲のような蹴りが次々と迫っ
た。
かす
金蛙は地面を喰らっていた。いやそれはまさに石に齧り付いた渾
身の蹴りだった。
弾く、逸らす、受ける、擦る、くらう。
戦鎚を伝う蹴りの衝撃は一撃一撃が全身を駆け抜け、身体に食い
込んだ破片は押し出されるように零れ、また深く食い込んでは体内
で暴れた。零れ出す血がランタンの身体を赤く染め、腕を伝って掌
を濡らし柄がぬるりと滑るようだった。
そして身体に弾ける衝撃は身体を濡らす血液を血霞に変え、ラン
タンの足を地面に釘付けにして放さなかった。足の片方でも浮かせ
たら押し込まれるだけでは済まず、蹂躙されることは目に見えてい
た。
裸にされる。
蹴撃に服が切り裂かれ、絡みついては引き千切れ、痛みはランタ
ンの意識を削り取った。
戦意、敵意、殺意。
剥き出しになった攻撃性だけがランタンを屹立させ、その小躯を
前進させた。すり足が地面に引きずる血の跡は決して後退すること
がない。
925
脚に打ち付ける戦鎚がその形を叩き造ってゆく。爪を失い、叩か
れて丸みを帯び、それはまるで膨らんだ蛇の頭部のようで、ランタ
ンを掠めるたびにその血が付着し赤黒くそまった。
濡れる。屹立し怒張するそれに貫かれるランタンは初々しいほど
頑なで、血に濡れて苦しみに喘いだ。
それでも気の強さを失わず、きっと金蛙を睨み付けた。
ぬらぬらに血に濡れるそれを戦鎚で弾く、素手で逸らす。
ランタンは失った血に身体が軽くなったとばかりに、弾けた肉に
的が小さくなったとばかりに、次第にその歩速を上げていく。
致命傷以外を無視したその前進は、誰一人として理解されること
のない、誰一人にして見せたことのないランタンの内に潜む狂気の
発露であった。
ただ一人。
誰に頼ることもできずに、己の力のみを持って死地を抜けること。
それはランタンに染みついた習性であり、魂を雁字搦めにする呪鎖
であった。
それこそが誰一人として寄せ付けることのなかった真に孤高な探
索者の姿。
痛みを噛み、血を啜り、死に抗う。
その戦闘に足を踏み入れるものは一人もいない、その筈だった。
雑念、と言うわけではない。集中も切れてはいない。痛みが和ら
ぐわけでもなく、思考に余裕ができたわけでもない。
見てろって言ったのに、と攻撃色に染まった思考が小言を漏らす。
蹴り足が完全に伸びたその瞬間、ランタンが爪先を戦鎚に受けた
その瞬間、横合いから振り下ろされた大剣は金蛙の超硬の膝頭を半
ばまで切り裂いた。
その亀裂の分だけ蹴り足が伸び、深く押し込まれた戦鎚がランタ
ンの掌からこぼれ落ちた。
その亀裂の分だけ引き足が遅くなり、ランタンはその足を掴むと
脇に抱えた。伸縮を繰り返し金属は原子同士の摩擦によって熱を帯
926
びていた。失った血の量をその温かさに実感する。掌を濡らす血が
熱によって粘性を帯び摩擦力をもたらした。
しっか
言いつけを破った少女は振り下ろした大剣で地面を叩くとその反
動で膝窩を切り上げる。だがそれでも僅かに切断には至らなかった。
そんな悔しそうな顔してるな、と血に染まった視界に少女が映る。
その姿が一回転した。
ふく
はぎ
僅かに残った繋がりを、ランタンは小脇に足を抱えたまま身体を
脹ら脛の下を潜り込ませるように回転して捩じ切った。それは龍が
逆巻く如く。
膝から下を失ってなお金蛙は蹴りを放ち、その衝撃をリリオンが
大盾で受け止め弾く。弾かれた勢いを利用して金蛙が振り向いた。
ランタンは金蛙に向かって千切った脚を放り投げ、転がった戦鎚を
爪先で蹴り上げて拾う。
﹁ランタンっ!﹂
ランタンはそう叫んだリリオンの脇を通り抜け、金蛙が足を喰ら
うのに合わせて漆黒の口腔にそっと柄頭を差し出した。がちん、と
完全に拘束された戦鎚と密閉された口唇。帯電によって口唇が溶接
された。
既に地に伏せ、恨めしげにその目玉がランタンを睨む。その色は
凝縮したように色の濃い黄色で、帯電は金蛙の傷を塞ぎランタンを
責め苛む。
あか
黄色は注意。
赤色は危険。
血に濡れたランタンの顔の中で、その瞳がいっそう赤く色を変え
た。紅蓮に燃えるその瞳に見つめられ、雷色の瞳は白むほどに輝き
を増した。
恐怖。
感情のないはずの金蛙が怯えるように出力を上げた。威嚇をする
ように身体が膨らむ。
それは。
927
漆黒の口腔を焼き払い、その口内で弾けた爆発は金蛙の平たくす
らあったその顔面を内側から破壊せしめる。威嚇などではなく、瞬
間的に膨張した内圧を封じ込めようと金蛙は顔と言わず胴と言わず
破裂寸前の風船のように膨らませ、だがそれも虚しく眼球が押し出
されてぽろんと外れた。
瞳を失った漆黒の眼窩から涙のように紅蓮が溢れて、抜けた圧力
により金蛙が萎えしぼむ。
膨張と収縮。加熱と冷却。
黄金の巨躯を誇った蛙の化け物は、まるで硝子細工のようにぱり
んと砕けた。
その燦めきは小さな雷光にも似て、ランタンは眩しさに目を細め
る。
928
063 迷宮
063
迷宮核の顕現による魔精の嵐に身を委ね、全身を駆け抜ける魔精
の荒々しさは失われた血肉の隙間に塩の塊を塗り込むようなものだ
ち
ぢ
った。やがて訪れるはずだった悪心と昏倒は、それを上回る激痛の
前に呆気なく散り散りとなった。
その耐えがたい痛みすら、ランタンは余裕の表情の下に押し込め
る。
視界の中でリリオンが魔精酔いに屈しながらも、どうにかしてラ
ンタンに近寄ろうと腕を伸ばしていた。当初魔精酔いの影響に身動
きの一つもできなかった少女の成長にも、ランタンは僅かに口角を
緩めただけだった。
ランタンにその手を掴む余裕はなかった。膝を折らないだけで精
一杯で、激痛を覆い隠す表情の余裕さは、ただその痛みに慣れよう
と努めているだけだった。
苦痛に歪む顔を見せたくはない。
任せろ、とそう言って一人で戦った手前、見栄は張らなければな
らない。最後に少し、手出しをされてしまったが。
ランタンは弱々しい吐息を漏らして、ゆっくりと肩を下げると強
張った指先を解いた。血と皮膚が焼けて焦げ付き、戦鎚の柄が掌か
ら落ちると痛みがあった。
ランタンは自由になった右手の二指を口腔に突っ込み、そのまま
喉の奥深くへと押し込んだ。そうして血の塊を掻き出し、粘性の唾
液を吐き捨てて、それから大きく大きく息を吐いた。
自らの吐息が金臭く、顔を顰める。血の臭いを嗅ぎたくないと物
質系迷宮を選んだはずのに意味がなかったな、と思う。
929
水筒を取り出そうとしたのだが背嚢が手元にないことをふと思い
出す。
ないものはしかたがないので、まずはできることを行う。
ランタンはぼろぼろになり血に濡れて身体に張り付いた戦闘服を
よくそう
破り捨てるように脱ぎ捨てる。露わになった身体はいつものように
酷い有様だった。
べろんと皮膚の剥がれた右肋骨の挫創。外殻破片の貫いた杙創に、
全身に広がる雷撃傷。外傷が多いが、骨は無事だ。肋骨が少し折れ
ているくらいで。
やはり雷撃が厄介だったな、とランタンは思う。
雷精魔道の威力は金蛙以前にも身を以て知っている。その備えを
していないのは、過信やら面倒くささやら、いちいち全ての危険に
備えていたらキリがないという諦めのせいだ。
雷撃傷は皮膚表面への熱傷ばかりではなく、神経や臓器、体内深
部へも届くことがある。喰らえば筋肉の硬直は免れず、それだけで
もそれなりの隙にはなるし、頭部を通電すればその場で意識を失い
かねず、心臓を通電すれば心室細動で即死もありえる。
もっとも即死級の雷撃などそうそうお目にかかれるものではない
が。
ランタンは体内に埋まった破片を指を突っ込んでほじくり出し、
取り出したそれをじろじろと眺め回した。そしてそれが想像した昆
虫ではなく、ただの破片であることに安堵して、次々と体内から取
り出してはその場に投げ捨てた。
傷の手当は乱暴だが手慣れている。雷撃を喰らうのも、体内に異
物が忍び込むのもランタンは初めてではない。
そうこうしている内に引きつった顔をしたケイスが荷車ごとやっ
て来た。血濡れのランタンを見て声を失うほど驚いている。ランタ
ンはその場から動くのも大きな声を出すのも億劫だったので、立ち
止まったケイスを指先だけで招き寄せる。
﹁その辺に転がっている迷宮核とか、蛙の残骸とか拾い集めておい
930
てください。あと僕の背嚢降ろしてもらっていいですか?﹂
フ
よろよろやって来たケイスの首に掛かった魔精鏡が揺れている。
ラグ
大方、霧越しにランタンたちの戦闘を観察していたのだろう。最終
目標撃破後にすぐ最下層にやって来るために。そしていくらかの好
奇心から。
しかし霧越しに見えるのは青いシルエットだけで、特に探索者の
姿はほとんど魔精鏡に写ることはない。金蛙の派手な立ち回りは見
えても、血を流すランタンの姿は想像できなかったようである。
﹁⋮⋮聞いてます?﹂
ため息を漏らしたランタンがもう一度聞くと、ケイスは飛び上が
るようにして戦利品を集めに走った。ランタンは足元に差し出され
た背嚢の中から水筒を取り出して、傷口を洗うよりも先にまず口を
濯いだ。一度、二度と吐き出した水がまだ赤い。
﹁ランタンっ﹂
魔精酔いから復活したリリオンが近付いてきたので、ランタンは
ちょうど良いとばかりに少女に水筒を押しつけて、それを傾けさせ
た。少女はランタンの言われるがままだ。どぽどぽと流れ落ちる水
流に頭を差し出して髪を洗い顔を洗う。
しみ
身体を汚す血をすっかり洗い流して、傷口も丁寧に清めていく。
冷たく沁る痛みは、怪我からくる痛みとは違ってむしろ心地良い。
﹁ねえ、変なあとがあるよ﹂
﹁んー? ああ電紋だね。雷の通った跡だよ。リリオンにもできて
るかもしれないから、後で確認するね﹂
樹形図に似た熱傷が身体に刻まれていた。
それはランタンの白い背に描いた陰鬱な風景画のようだった。そ
の付近に開いた杙創がまるで枯れ木から腐り落ちた果実のようで、
一際深い傷からは、果実が地面に弾けたように血が止まらない。
﹁こういう傷はね、取り敢えずガーゼを突っ込んどくんだよ。そう
すれば血が止まるでしょ? でも入れっぱなしにするとガーゼが吸
った血が腐るから注意ね﹂
931
ランタンはそう言って実際に傷口を塞いでみせる。それを見るリ
リオンの顔がみるみる青くなっていくのは、直径一センチにも満た
ない小さな傷口に、ガーゼが二枚も三枚も押し込まれるからだった。
ランタンは青い顔のリリオンなどお構いなしに、自分の身体を実
験台にしながら次々と傷の手当ての仕方を教えた。これを知ってい
るのと知っていないのでは生存確率に大きな差が出るし、知らない
と帰路が死ぬほど辛いと言うことをランタンは嫌になるほど知って
いる。
ランタンは自らの折れた肋骨を内側から引っ張り出して繋いだり
もする。ギルド医にしてもらう三倍痛いのは純然たる技術の差だろ
う。何事も初めはこんなものだ。
﹁言っとくけど応急手当だからね。地上出たらまず医者に行くよ﹂
﹁うん、ランタンが行きたくないっていっても連れてくからね﹂
ランタンは上着ばかりではなく、ズボンも下着も脱いで新しい服
に着替える。
痛みと出血からくる意識の酩酊がランタンの羞恥心と常識を剥ぎ
取っているのだった。逡巡もなく全裸になったかと思うと血濡れの
・ ・ ・ ・
下半身も露わに、平然として丁寧にしっかりと清める。その洗い水
は相も変わらずリリオンに注がせたもので、水の冷たさにランタン
が反応して小っちゃくなった。
そのさまをリリオンが物珍しそうにじっと見つめ、のんびりと丁
寧に身体を拭いて傷のために身体の動きもぎこちなくのろのろと着
替え終わるまでの一部始終を、ケイスが作業の手を止めて目を凝ら
すのも全く気にしなかった。
それから勝手知ったると言うように荷車から薬箱を取り寄せて、
その中身をがさごそと漁った。幾つか戦闘前に飲むような薬も散見
するが時既に遅し。だがさすがは商工ギルド、死の淵からでも蘇る
ことのできそうな品々が揃っている。その代わり探索の稼ぎが吹っ
飛びそうでもあるが、と考えて黄金の燦めきににやりと笑った。。
取り合えずギルド医務局まで持てばよいので、ランタンはことあ
932
るごとに愛飲している薬を引っ張り出した。
﹁痛み止め、造血剤、栄養剤、治癒促進剤。促進剤はリリオンも飲
んどきな、雷撃喰らってるし﹂
粒状の造血剤をざらっと口の中に放り込み、ランタンはそれを栄
養剤と治癒促進剤のちゃんぽんで飲み下した。そして痛み止めを整
脈に注射した。それでようやく本当に一息吐いた。他のものはさて
おき、痛み止めの効果が発揮されるのは早い。
﹁リリオンは痛いところはない?﹂
ランタンが聞いてもリリオンは答えづらそうにしている。質問者
が自分よりも目に見えて重傷なのだから、それもしかたのないこと
だろう。だがランタンはそんなことには露とも気が付いていない。
﹁どこ? どこが痛いの? 隠さないで言いなさい、怒らないから﹂
﹁⋮⋮こころが痛い﹂
﹁心臓が痛いの?﹂
﹁︱︱もう痛くない。平気だから﹂
リリオンはじっとランタンの目を見つめてそう言った。その瞳は
燃えるような、睨むような。
ランタンはそんなリリオンのボタンを外して服の前を割ると、そ
の隙間に手を差し込んだ。そして肋骨を撫で上げるように少女の小
振りな胸を持ち上げ、掌に強く押しつけた。
未発達でも柔らかい少女の膨らみは、その下に芽吹きを待つ種が
埋まっていた。その更に下から掌を叩く心臓の力強い鼓動は、種の
持つ生命力の強さを表しているかのようだった。
﹁不整脈はないね。うん、よかった。電紋もたぶん出てないっぽい
し﹂
そんなことを言ったランタンの声はただ純粋に優しくて、鼓動に
握る掌の冷たさはただ少女を立ち竦ませるだけだった。その冷たさ
は、まるで己の無力さの証明のようで。
﹁そう言えば最後なんできたの? 守ってろって言ったのに﹂
リリオンは答えず、そっと目蓋を閉じ、つんと鼻を上に向けて込
933
み上げるものを飲み込むように息を飲んだ。そしてランタンの手を
握って胸を弄らせるのが少女にできる唯一の抵抗だった。それはせ
めて自らの体温をだけでも渡すように。
﹁ランタン﹂
呼んだ名の言葉頭がぽんと高く跳ねた。
﹁わたし、ケイスさんのお手伝いしてくるね﹂
﹁うん、︱︱わかった。僕は﹂
﹁何もしなくていいからね! ちゃんと大人しくしてるのよ。寝て
てもいいからね﹂
リリオンは借りていた外套をランタンの肩にそっとかけて、少年
の肩を抱いて荷台に座らせた。荷車は固定されていなかったが、そ
の端にランタンが腰掛けてもびくともしなかった。
リリオンが戦鎚を拾い上げて付着した血液を洗い流し、ランタン
の膝元に返した。
﹁じゃあ行ってくるね。ちゃんと拾ってくるから!﹂
離れていくリリオンを見送って、ランタンはふわふわと欠伸を吐
き出した。脚をぷらぷら揺らしながら眦に浮かんだ涙を拭う。一度
振り返ったリリオンに大人しくしていることをアピールして、大げ
さなことだな、と笑う。
任せろと大言を吐いた割にみっともない有様で、ランタンは笑み
を自嘲へと緩やかに変化させた。
戦場からリリオンを遠ざけたのは、少女が雷撃に対する耐性や手
段を所持していなかったからだ。戦闘中に雷撃への対応策に開眼す
・ ・ ・ ・ ・
る可能性がないわけではないが、それよりも最悪の可能性の方が大
きいとランタンは判断した。
リリオンを成長させるためには安全な危険と本当の危険を判別で
きるようにならないといけない。
早期の判断で一度目の機動鎧戦のような失敗は避けることができ
たように思える。金蛙と少女の戦闘能力の差を推し量り、きちんと
危険から遠ざけることができた。
934
だがこれではまだ駄目なのだ。
結局リリオンはランタンの言いつけを破って参戦した。それはき
っと自分が不甲斐ないからだとランタンは思う。まだ幼い、雛鳥の
探索者をランタンは先達として導いてやらなければならない。そん
な責任感がランタンを掻き立てる。
︱︱僕はもっともっとしっかりしなければならない。
ランタンは僅かに俯いて戦鎚を見下ろした。声にはならず、がん
ばろう、と喉が震える。
そんなランタンの下にリリオンが戻ってきた。雛鳥に餌を持ち帰
る母鳥のように。
﹁ランタンランタン、まずこれね。絶対に持って帰るもの﹂
そんなことを言ったリリオンは胸に丸い物を二つ抱えていた。そ
れは何だか大人の女性の真似をする童女の戯れのようでもあり、す
らりとした長身のせいでその丸みがしっくりきていて何となくリリ
オンの未来を想像させるようでもあった。
掌に柔らかさが蘇る。
﹁ええっとどっちがどっちだったかしら﹂
その丸みは個別に袋詰めされており、その内の一つをランタンは
受け取った。袋の口を開けて覗き込むと、それは見事な青色を発色
する迷宮核であった。左右のどちらの瞳かわからないが、大きさも
魔精の濃さも申し分ない。
これほどの大物はランタンとしても久々である。苦労の報われる
瞬間だった。
そしてもう一つ。
リリオンが袋を剥いて露わになったそれは黄緑色ではなく、そし
て黄色でもなかった。その瞳に封ぜられた雷は、最後の最後、金蛙
の全力が込められた白雷であった。
瞳の中心は眩しさに目を細めたくなるほどの純白であり、百億の
針を突き刺したように放射状に力が荒れ狂い、その周囲に雷雲を跳
ぶ龍のような紫電が迸った。目にしただけでその力の奔流に圧倒さ
935
れそうになる。
天然の雷精結晶である。それも極高品質の。
リリオンがランタンの眼前に恭しくそれを差し出すと、ランタン
はうっとりと指先で撫でた。つるりとした表面は滑らかで、水に濡
れたような冷たさがある。
﹁︱︱ああっ、痺れるっ﹂
﹁ランタン!﹂
﹁︱︱嘘﹂
﹁どうして、そういうことっ﹂
痛み止めでいい感じに酩酊状態のランタンは口元も緩やかに、ひ
ひひ、と笑った。そんなランタンにリリオンはむくれながらも雷精
結晶を律儀に袋詰めにしてから押しつけて寄越した。ランタンは袋
の上からそれを一撫でして、荷台の隅へと転がした。致命的な亀裂
でも入っていれば本当に痺れるようなこともあるが、この雷精結晶
は傷一つない美品である。
戦闘中は鬱陶しく思った黄金の目蓋も、今になってみればなかな
かいい仕事をするものである。そんな風に小さくほくそ笑んだラン
タンに、リリオンが回収作業に戻る間際に言った。
﹁ケイスさんが言ってたんだけどね﹂
﹁うん﹂
﹁純金じゃないんだって、金蛙﹂
﹁⋮⋮マジか﹂
﹁マジよ。じゃあわたし回収に戻るね﹂
嘘、とは言わずにリリオンは背を向けて去っていた。間抜け面を
晒しているランタンをその場に残して。
﹁金じゃないなら何なんだよ⋮⋮﹂
そう呟くと疲労がどっと押し寄せてくるようだった。
しっかりしなければ、と固めたばかりの決意が砂像のように崩れ
てランタンは呻き声を吐き出しながら荷台に寝転んだ。不貞寝でも
しようかと思ったが、肩甲骨や腰骨が網目に擦れてそれどころでは
936
ない。
結局起き上がって、その視線の先ではリリオンとケイスが金蛙の
脚にロープを巻き付けてそれを引っ張っているところだった。黄金
じゃないものを持って帰ってどうするんだよ、と半ば投げやりにな
ったランタンは取り敢えず邪魔にならないように、荷台から降りて
場所を空けた。
﹁あ、ランタン降りちゃダメよ﹂
﹁降りなきゃ載せらんないでしょ﹂
ケイスはランタンと視線を合わせず、避けるように荷台へと回り
込んだ。
荷車を地面に固定すると、力任せに荷台へとその脚を引っ張り上
げた。
ランタンにはそれがどう見ても黄金にしか見えない。付け根から
膝まででおよそ一メートルと半分ほどのそれはきらきらぴかぴかし
ている。
﹁これでだいたい四、五百キロぐらいですね。膝から爪先のほうは
それよりもいくらか軽そうなんですけど、幾つか荷物を捨てないと
いけませんがよろしいですか?﹂
最後、金蛙に食わせた方の脚部はその体内で中途半端に溶かされ
ていた。ケイスはいくらか軽そうと言ったがそれでも四百キロ近く
はありそうで、ランタンは良くそれを投げられたなと我ながら呆れ
た。戦闘中は身体の機能が限界を超えるようで、思い出したように
腰が痛む。
﹁こんだけでもういいんじゃないですか。金じゃないんでしょ?﹂
作業を眺めながら言い放ったらランタンにケイスが怪訝そうな顔
をして眉を顰めた。リリオンも小首を傾げている。
﹁ええっと何か勘違いをされていますか⋮⋮?﹂
﹁黄金じゃないって聞いたんですけど、この子から﹂
指した指をリリオンがはっしと掴まえた。
﹁ランタン、わたしは純金じゃないって言ったのよ﹂
937
ぽかんとした顔のランタンに、ケイスを差し置いてリリオンが説
明をしてくれた。どうやらランタンに先んじてケイスから色々聞い
たらしく、その知識を披露したいようだった。
あのね、と呟く。
﹁金蛙の身体はね、溶鉱炉みたいになってたのよ﹂
口腔をを覗き込んだ際に目にした黒色は、黒鉛だとリリオンは言
う。そして黒鉛の内壁を外側から覆ったのは黄鉄鉱と呼ばれる鉄で、
その表面、ランタンが目にする外側は正真正銘の黄金であったが、
それは厚さ一ミリにも満たないメッキであった。
﹁メッキ⋮⋮﹂
リリオンが砕けた胴体の一部を拾ったようで、まるでランタンに
とどめを刺すかのようにそれを見せてくれた。その破片は地層のよ
うにはっきりと黒鉛と黄鉄鉱の二層構造になっている。よくよく目
を凝らしても金メッキは薄すぎて、その境目を確認することはでき
ない。
ランタンはその破片に噛み付いた。
﹁食べちゃダメ!﹂
﹁⋮⋮歯形つかないし﹂
﹁そちらはメッキですが、この脚は合金ですよ﹂
﹁お腹空いてるなら何か作ってあげるわよ﹂
﹁そうじゃなくて﹂
﹁あ、あのう⋮⋮﹂
破片をリリオンに突き返して、二人の頭の悪いやり取りに戸惑っ
ているケイスにランタンは視線を向けた。ケイスが少したじろぐ。
リリオンはきんきんとうるさいのでランタンは少女の唇を指で封じ
た。
﹁ええっと、すみません。何ですか?﹂
﹁ですから、こちらの脚は合金です﹂
空洞ではない、中身のみっしり詰まった脚をケイスは一撫でした。
﹁こちらも表面は金メッキされていますけど、この切断面をご覧く
938
ださい。仄かに緑がかって見えませんか?﹂
﹁言われればそんな気がしなくもない、ような気がする。じゃあこ
れは緑鉄鉱とかそんな感じのですか?﹂
黄色の鉄が黄鉄鉱なら緑色の鉄は緑鉄鉱だろうという安直な考え
は、即座に否定された。
﹁いえ、これは鉄の酸化した色でしょう。先ほども言ったようにこ
れは合金です。鉄と金の合金ですよ。配合比率は流石にわかりませ
んが、︱︱まあ二本合わせれば五十キロぐらいの純金が精製できる
でしょうね﹂
﹁ふうん﹂
ランタンは素っ気なく頷いて、そんなランタンに唇の戒めを破っ
たリリオンが噛み付いた。人差し指を一度甘噛みして素っ気ないラ
ンタンに、どうして喜ばないの、と言った。
﹁五十キロっていうと、僕の体重ぐらいでしょ﹂
貧相な自分の体重程度だと思うと何だか有り難みがなかった。何
せ数トンはありそうな金蛙の、その全身が黄金でできていると勘違
・ ・
いしていたのだ。そんなランタンからして見れば五十キロ程度では
文字通り端金に過ぎない。
﹁金の相場って幾らぐらいですか?﹂
﹁グラム辺りがたしか︱︱﹂
聞いたランタンは失禁するかと思った。
ランタンは驚きを通り越して無表情になり涼しげな声で、じゃあ
もう一本の方もよろしく、とケイスに告げた。
そんなランタンにケイスが感嘆の吐息を漏らした。莫大な利益に
も傍目から見れば平然としたものであるランタンに、さすがですね、
と呟いたりもする。ランタンはますます驚くことも喜ぶこともでき
なくなった。
﹁ですがその前に、食料品を廃棄してもよろしいですか。積載量に
余裕を持たせたいので﹂
﹁ああ構いませんよ、帰還までの必要分を残して全廃棄でもいいで
939
すよ﹂
先用後利の食料品は食べようが捨てようがきちんと代金は請求さ
れるが知ったことではなかった。野菜どもが金の重量単価を上回る
ことは、食べるごとに寿命が延びたり、若返ったりしない限りはま
ずないのである。
﹁と言うかお弁当でも作っておきましょうか。サンドイッチぐらい
しかできないけど、そうしましょう﹂
ランタンは回収作業をを二人に任せて最下層を出て、取り敢えず
驚愕驚喜を一つ叫んでから心を落ち着けるように無心でサンドイッ
チを作った。
ハム、ベーコン、ソーセージ、炒り卵、茹で卵、チーズ、野菜、
果物。
それらのありものの他にも、廃棄するならばと油も使って揚げ物
も作る。最も大量の廃棄物となったジャガイモを使用して挽肉の代
わりにベーコンを混ぜて肉コロッケを作った。ついでにハムカツも。
油の温度がよくわからないので最初の数個は黒焦げになってしま
ったが、パン粉だろうと溶き卵だろうとジャガイモだろうと文字通
り捨てるほど用意できるので何も問題はない。
﹁油の臭いって素敵﹂
そんなことを呟きながら油の中に種を放り込むさまは異様なほど
不健康だった。だが積み込み作業という単純肉体労働を終えた二人
を引き寄せる魅力を有していた。霧の中から荷車を牽きながらぬっ
と現れた二人は、飢えた犬のようにランタンに駆け寄った。
﹁これ何?﹂
﹁コロッケ。ほらお食べ。熱いから火傷しないようにね﹂
こんがりきつね色に揚がった小判形のコロッケにソースを垂らし
てやると、リリオンはランタンの手ずからそれを一口。
﹁はふい、おいひい﹂
油に濡れた唇が熱で赤くなった。はふはふと咀嚼すると、衣の割
れる小気味いい音が響く。その音と油の匂いにケイスがゴクリと唾
940
を飲み、そんなケイスにもランタンが食べさせてやった。
﹁⋮⋮では失礼します﹂
ケイスは髪を押さえて、首を伸ばすようにしてコロッケを食べた。
がぶりと噛み付いたリリオンとは違い、コロッケのその先端を甘噛
みするように。それは大きな口に不釣り合いな小さな一口で妙な色
気がある。
﹁うん、おいしいです﹂
大量のサンドイッチを作り終えて、尚余ったコロッケを二人はぺ
ろりと平らげた。ランタンは内臓系のダメージが抜けていないので、
水を飲んで飢えを凌いだ。
﹁ではランタンさんは荷台へどうぞ﹂
﹁⋮⋮では、の意味がわからないのですが﹂
﹁ランタンは怪我してるし、ご飯も食べらんないから運んであげる
のよ﹂
﹁いや、いい。歩くよ﹂
﹁じゃあわたしが抱っこしてあげようか?﹂
﹁じゃあ、の意味もわからない﹂
金蛙の脚は荷台の端に二本並べられていて、座面の網目にロープ
を通して固定されていた。膝から爪先までの脚部は中途半端に溶解
し、それに砕けて割れた胴体部の破片が付着して固まっていた。
その横には野営で使用したマットが敷いてあり、すでにランタン
ヘーゼル
を寝かせる用意が万端に整っている。それでも渋るランタンにリリ
オンは頭突きをするように額を合わせた。淡褐色の瞳が近い。油に
濡れた唇も近い。
﹁わたしは何もできなかったから、これぐらいはさせて。お願い﹂
ランタンは圧倒され、押し倒されるように脚と川の字となったも
のの何となく気まずくてすぐに身体を起こした。そんなランタンに
ケイスが振り返って呟く。
﹁お休みなってくださって構いませんよ。その⋮⋮、寝顔は見ませ
んので﹂
941
﹁それは別に構いませんが、まあ眠るのは追々﹂
﹁︱︱わかりました。では、多少揺れますがご容赦を﹂
出発の前にケイスが魔道薬を服用した。それは肉体を活性化させ
る類いのもので、出発の一歩目は約一トンもある荷車を抵抗もなく
動かした。それは後ろから押す役目だったリリオンを置いてきぼり
にするような滑らかさだった。慌ててリリオンが荷車を押した。
速度がすぐに上がった。
ケイスのカタログスペックは百二十キロ積載時に時速五キロだっ
たはずだが、約一トンを牽引しながらそれ以上の速度を維持してい
た。リリオンの助力もあってのことだが、それにしたって異常であ
る。
余程に質のいい魔道薬だったのだろうか。自前で用意するには高
級なので、おそらく商工ギルドの支給品だろう。先用後利の薬箱の
品揃えを思い出いかえすとそれも不思議なことではない。
ケイスの全身に力が満ちていて、髪をアップに纏めて露わになっ
た項が上気してかっと赤く、それは日焼けと相まって赤銅に燃える
ようだった。血が全身を巡り、筋肉が盛り上がってただでさえ大柄
なその身体をよりいっそう大きく見せた。
後ろから見るその背中は、何とも頼もしい限りである。
ボンデージ
そして膨張する身体を押さえ込むように、輓具が荷車に引っ張ら
れて身体に食い込んでいる。輓具が身体に食い込むことで拘束具の
ように身体の線を強調し、そこにはくっきりと女の形が浮かんでい
た。背中からでも確認できる胸の膨らみと、少しだけのくびれと、
肉のついた腰。
それに比べてリリオンのなんと慎ましやかで清楚なことか。上体
を前に倒すように荷車を押しているリリオンの膨らみは、重力の力
を得ても尚なだらかなものである。
﹁がんばって﹂
﹁うん、がんばるよ!﹂
リリオンは一生懸命荷車を押している。次第に丸い額に汗が浮い
942
て、ふうふうと吐く息が熱っぽい。それを見ているとランタンはど
うしても手伝いたくなってしまうので、目を瞑ってついに横になっ
た。
振動は眠気を誘う揺り籠に似ていたが、女性陣の荒々しい息遣い
は子守歌には成り得なかった。ランタンは何だかもやもやとして毛
布を顔まで引き上げた。
戦闘で昂ぶった熱がきっとまだ燻っているのだろう、とランタン
は思った。
943
064 迷宮
064
リリオンとケイスの頑張りにより早々に迷宮口直下に戻ってくる
ことができた。
帰路道中、魔道薬の影響で精神が高揚しているのかケイスはラン
タンが休憩を提言するまで休むことを知らず、先にへばったのはリ
リオンだった。
リリオンは歯を食いしばり、息が上がろうとも弱音の一つも零さ
なかった。だが体力が空になる前にランタンが休むように言い聞か
せた。体力零で休憩するのと、多少なりとも余っている状態で休憩
するのでは回復の度合いが大きく変わってくる。
迷宮の総延長八十キロ超。
何度かの小休憩を挟み、リリオンの助力もあったもののケイスは
それを十二時間と少しで踏破した。約一トンの荷を牽引しながら。
それは下手な探索者よりも余程に上等な身体能力であり、こと持
久力だけを抜き出せば魔道薬による底上げがあるとしてもランタン
に比肩するか、あるいは上回っているようにすら思えた。
鬼神じみた戦闘能力を保有するランタンの最大瞬間出力は他の追
随を許さなかったがその実、基礎的な筋持久力や心肺機能は平均的
な探索者に毛の生えた程度の能力でしかない。もしかしたらそのよ
うな不安を本能的に感じ取っているからこそ、戦闘において短期決
戦を好むのかも知れない。
何で探索者を辞めたのだろう、と滝のように汗を流すケイスをラ
ンタンは見つめた。
迷宮内部の気温は暖かくもなければ寒くもない。だがケイスの身
体からはほかほかと湯気が立ち上っていた。汗で濡れた髪をケイス
944
が掻き上げると、毛先から絞ったように汗の粒が散った。
最後まで投げ出すことなく荷車を押し続けていたリリオンも相当
に疲労しているようで、肩を大きく上下させ荒い息を整えようとし
て、それに失敗していた。
犬のように舌が出ていて、乾燥した唇に一筋の赤い亀裂がある。
頬から首がぽっと赤く、汗の粒が浮いている。襟元を広げて空気を
送り込むと、鎖骨に溜まった汗が溢れて身体を流れた。
﹁お疲れ様﹂
一人涼しい顔のランタンは口中で痛み止めを飴のように舐め溶か
しながら荷台を降りた。
自分で歩くよ、と言ってもそれを許可されなかったランタンはず
っと荷台に押し込まれたままだった。半日ぶりの地面の感触に足元
がふらつく。そんなランタンをリリオンが顎から滴る汗もそのまま
にさっと肩を抱いて支えた。
体温がはっきりと感じられる。雨に降られたように服がぐっしょ
りと湿っており、体臭が強く匂う。風呂に入れていないせいでちょ
っと臭い。
﹁平気だよ。脚は怪我してないんだから﹂
ぽんとリリオンの背中を叩いて、その腕の中から抜け出す。リリ
オンは声も出ないようで無言のままに頷いた。ランタンを支えてい
るのか、それともランタンに寄りかかっているのかわからないよう
な状態だった。
そんなリリオンに水を飲ませてやりタオルを渡してやった。そし
てケイスにも。
﹁お疲れ様です。おかげさまでたっぷり時間がありますから充分に
休んでおいてください﹂
﹁あ、ありがとうございます﹂
ケイスも輓具を外して汗を拭いた。
顔から首へ、そして服の裾から手を入れる。ランタンの存在や視
線などには無頓着な、それは何とも男っぽい粗野な仕草だった。重
945
たげな胸を持ち上げてその下を拭くのは女性にしかみられない仕草
であったが。
ランタンは一瞬それが何をしているのかわからず、それに輓具か
ら解放されたケイスの胸が金蛙の目玉よりも大きくて、幽霊を見た
かのように吃驚してしまった。
そしてランタンはどぎまぎと目を逸らした。
視界の端に、引き上げられた裾から覗く引き締まったケイスの腹
筋が映った。無駄のない鍛え上げられた肉体がそこにある。日焼け
した肌との対比で色が幾らも白く見えた。
運び屋業が見習い探索者の下積みとされる理由のよく理解できる
筋肉だった。基礎体力の向上にこれほど効果的な訓練もないだろう。
探索の雰囲気を知ることができ、探索者と顔を結べて、身体も根性
も鍛えられ、その上に給料も得られる。
至れり尽くせりだな、とランタンは行きとは全く正反対のことを
思った。
行きには悪い面ばかりを考えてしまったが、良い面があるからこ
そその風習が根強く残っているのだろう。そしてその良し悪しは雇
い主の匙加減一つで決まる。
﹁それでランタンさん、どうしますか?﹂
目を逸らすランタンにケイスが尋ねた。
ランタンの逸らした視線の先には服を脱いだリリオンがいた。身
体を丁寧にタオルで拭いており、上半身は何も身に付けていなかっ
た。
濡れた服を着ていると風邪を引く。そう教えたのはランタンだっ
た。
白く細い裸身はオウトツがなだらかで目に優しい。何となくラン
タンはほっとしてそれを見つめる。ドキドキしていた心臓が落ち着
いてくる。
﹁このまま待ちますよ﹂
どうする、と言われても引き上げ屋が来るまで探索者は待機する
946
ことしかできない。と言うわけでもなかった。
ひん
予約時間まで待機してはいられない切羽詰まった状況はままある。
生命の危機に瀕し、のんびりと引き上げ屋を待っていられない時
に探索者は救援の信号弾を迷宮口に向かって打ち上げる。それは火
薬仕込みの発射薬の場合もあるし、手榴弾のように投擲する場合も
ある。どちらにしろ運が悪いと魔精の霧に阻まれ、飲み込まれて地
上に届かないこともあった。
ともあれ信号弾が打ち上げられると助けが来るのである。
それは近隣で手隙になっている引き上げ屋であったり、救援信号
を観測した迷宮特区を巡回しているギルド職員から契約している引
き上げ屋に連絡が行ってそれから出動準備、と言うようなこともあ
る。
前者ならば五分もかからないが、後者であると早くても救助が来
るのは三十分後で、最悪の場合は無視されて永遠に助けが来ないこ
ともある。その程度のものである。
そうして助けられた探索者は問答無用でギルド医務局に連れて行
かれる。
それにかかった費用は治療を受けた当人ではなく、信号弾を打ち
上げた探索班に請求される。緊急引き上げの費用から医務局までの
運搬、そして治療費に至るまでを全てひっくるめて探索者ギルドへ
と支払うことになり、それは基本的に探索者ギルド銀行口座から問
答無用で強制徴収される。
そのため貧乏探索班には助けが来ないと噂されたり、そもそも口
のたま
座を持っていない探索者は信号弾を打ち上げる権利が無いと職員が
宣っていただとか、まことしやかに囁かれている。
そのため救援を呼ぶ際に探索班内で人命と金銭が秤にかけられた
り、その強制徴収の精算をどうするかで軋轢や葛藤等々も生まれた
りする。命あっての物種と言うが、その種が不和を芽吹かせること
も珍しくない。
ランタンにはあまり関係ないが。
947
﹁しかしそのお怪我は⋮⋮﹂
﹁こんなもの何でもないですよ﹂
ランタンは信号弾を所持していなかった。単独探索者であった頃、
それを打ち上げる必要があるほど酷い場合にはそもそも迷宮口直下
に辿り着けないからだ。
今はリリオンも居ることだし用意しなければ、と脳内の買い物の
リストに一つ付け加える。
荷車には信号弾が積み込まれているようだったが、やはりランタ
ンはそれを使う気が無かった。戦闘の被害はリリオンやケイスがど
れほど心配しようともランタンにしてみれば何時もの怪我に過ぎな
い。
﹁この程度で助けを求めたら他の探索者に笑われますよ﹂
笑われるぐらいならばよいが、ミシャに余計な心配をかけること
は嫌だった。小言を聞くのは面倒だし、それを言わせるのはとても
申し訳ない。
平気平気、と言い放ったランタンにケイスは微妙な表情となった
が、結局は黙って納得したように頷いた。怪我をしている本人が言
うなら、といった感じだった。
﹁ランターンっ、わたしの着替えがないよう!﹂
﹁そんなわけないでしょー、︱︱失礼﹂
リリオンに呼ばれてランタンは少女に歩み寄り、素っ裸の上半身
をマジマジと眺めた。
雷撃による熱傷、電紋は浮かび上がってない。白くて綺麗だ。ラ
ンタンは安心して視線を外し、背嚢の底から着替えを取り出してリ
リオンに着せてやった。
そのついでに髪を解いてやりきつく絞ったタオルでしっかりと拭
き洗いをし、更に梳いてやった。汗に濡れたまま長いこと縛ってい
たせいで髪には強く癖が浮かんでいる。髪が炎のように波打ってい
きょうだい
て少しだけ高飛車な印象をリリオンに付け加えた。
﹁お二人はまるでご兄妹のようですね﹂
948
﹁僕がお兄さん?﹂
﹁ええ、勿論﹂
ランタンが少し笑う。
それから食事をして、その時にふとランタンは気が付いた。
リリオンとケイスが何やら仲良くなっていることに。
二人は協力し合いランタンを運んだことで打ち解けたのか、それ
ともランタンが寝こけている間に何か他の切っ掛けがあったのかは
わからないが、リリオンはよくケイスに話しかけてケイスも快くそ
れに応えた。
世間話ではなく、それは運び屋についてのことであったり、探索
者の、あるいは探索そのものについての質問だった。ランタンはほ
とんど二人の会話に口は挟まず、ただ聞いているだけだった。それ
らは思いかけず興味い話である。
基本的な探索のイロハから、灰色の裏技まで。どちらもランタン
は知らなかった。
﹁︱︱迷宮に入ってすぐに大物を仕留めた時なんかはですね﹂
運び屋を雇っていようとも何でもかんでも荷台に積み込めるわけ
ではないし、荷物が増えると言うことは探索速度が遅くなると言う
ことで、出鼻を挫かれるのは誰だって面白くない。
例えばその仕留めた魔物が是が非でも持ち帰りたい貴種であった
場合には即座に帰還を選べるが、帰還するほどではないが捨て置く
のは惜しい、だがそれを牽引して迷宮を進むには重すぎるというよ
うなことの方が圧倒的に多い。
運び屋を鞭打ったってその重さが軽くなるわけではないことは、
流石の探索者も承知している。それを知った上で横暴に振る舞う者
も多いらしいのだが。
迷宮内にそれを放置して先に進むと、余程の幸運に恵まれない限
りそれは迷宮に取り込まれてしまう。それは物質系魔物の残骸も探
索者の手を離れた装備も、討ち果たした魔物の死体も討ち果てた探
索者の死体も、分け隔て無く。
949
それを防ぐには人間を側に置いておくしかないとされている。そ
れを所有している状態にしておくのだ。
だがそのために探索者を一人残していくのは探索資源の戦力的な
喪失となり、運び屋を残していくとなると探索資源の物質的な喪失
となる。それは探索計画の破綻を意味する。
進むか戻るかの二者択一は、その実抜け道があるのだとケイスは
言った。
﹁迷宮は生き物を取り込まないんです。ですから大抵は︱︱﹂
鼠ですね、とケイスは続ける。
ランタンとリリオンが揃って首を傾げて、側頭部がこつんと衝突
した。痛くはなかったがリリオンが甘えるように側頭部を擦りつけ
てくるので、ランタンは頭を撫でてやった。
そして話の続きを促した。
﹁ふふ、袋詰めした生きた鼠をそれに縛り付けたり、上に乗せたり
しておくんです。どうやら迷宮は生命に反応しているらしくて。⋮
⋮まあ探索者たちが勝手に言っていることなのですが﹂
・ ・
過去様々な探索者が昆虫爬虫類両生類等々、種類を問わず小さな
生き物を迷宮に持ち込み試みたようだが、哺乳類の保ちが一番良い
と言う結論に達したらしい。
口を挟まなかったランタンだが、そこだけは思わず口を挟んだ。
それは灰色の裏技ではなく、明確な黒色だからだ。
迷宮内には基本的に人間だけしか侵入を許されてはいない。運び
屋の仕事を輓獣が取って代わらないのは迷宮内の空気や魔物を輓獣
が恐れるからで、それを克服させるためには膨大な時間と費用と労
力が必要で、更に言えば恐怖を克服した獣は輓獣にしておくには勿
体ないからだったが、そればかりが理由でもなかった。
迷宮は様々なものを取り込み、再利用する。
迷宮に捨てた剣が飛刀となることもあれば、魔剣となって機動鎧
の装備となっていることもある。在野の迷宮に迷い込んだ獣が魔物
化し新種となることもあれば、最下層を鎮護する最終目標となるこ
950
ともある。
・ ・
未帰還者が探索者の前に立ち塞がることも。
魔物の全てがそういった素材を再利用したものではなかったが、
それでも人間以外の生物を迷宮内に持ち込むことを探索者ギルドは
許可していなかった。不用意に魔物を増やすべからず、というもっ
ともらしい理由は迷宮内に限った話ではない。
生き物のを迷宮に持ち込み、それを地上に戻した時、魔精に汚染
された獣が魔物化していた。そこまでいかずとも凶暴化していた例
がある。血が紫に染まった魔精中毒者のように。
﹁怒られないですか?﹂
﹁まあ、それは⋮⋮﹂
聞いたランタンにケイスは言葉を濁した。見つからなければ怒ら
ない、とそう言うことなのだろう。ランタンは少しばかり呆れたよ
うに肩を竦めた。
たかだか小鼠の数匹を恐れる探索者はいないし、そもそも規則は
破るために存在した。そして迷宮に持ち込んだ鼠は帰還の際に殺傷
して持ち帰るという暗黙の規則も存在するようであったが、それも
どれほど守られているのかは怪しいものである。
﹁ねえランタン?﹂
﹁なに?﹂
﹁大鼠ってもしかして﹂
﹁あー⋮⋮﹂
﹁ケイスさん?﹂
﹁あー⋮⋮ごほん、ええっとまあそれの成功率は七、八割ぐらいで
すかね﹂
﹁ケイスさんもやったことがあるんですか?﹂
﹁やったことのない探索者の方が少ないですよ。⋮⋮私も初めてや
った時はドキドキしたものです。その、捕まえやすかったので蛙を
ですね。まあげこげこ鳴かれて失敗したのですが﹂
話を逸らされたことも忘れてリリオンが遠慮なく笑い、ランタン
951
も少し微笑んだ。
そしてリリオンはまた別の話をせがんだ。
ケイスはずいぶんとよく喋った。相変わらず話し方は木訥として
いたが、ぼそぼそとはしていなかった。
だが何となくランタンはケイスの言葉やその雰囲気に、己を気に
しているような素振りを感じ取り、程なく中座して毛布に包まった。
怪我を理由にすればそれを引き止めるものはなく、付いてこよう
としたリリオンをその場に押しとどめる。
探索者歴の長いケイスの言葉はリリオンの為になると考えたから
で、無邪気なリリオンはランタンとは違って質問が上手だった。ラ
ンタンが偽の寝息を立てると、ケイスの言葉尻が柔らかくなったよ
うな気がする。
ランタンは二人の会話を盗み聞きするような形になった。
リリオンの声はよく通る。幼く高く響くからだろう。少し眠そう
な感じもある。
﹁ケイスさんはどうして探索者を辞めたんですか?﹂
何とも遠慮のない質問だな、とランタンは思った。
探索者という職業を終える時はそれが生命の終わりであるとこが
多い。あるいは死ななかったとしても不可逆的な肉体の欠損により、
探索を行うことが肉体的に不可能になった時だ。五体満足のケイス
のような元探索者はそれなりに珍しい。
五体満足で、再び迷宮に戻ってくる元探索者は特に。
﹁⋮⋮どうして、ですか﹂
一瞬の沈黙。
﹁理由は︱︱色々です。ちょっとずつ色んな問題が重なって、怪我
とか、仲間内でもめ事があったり、先がわからなくなったり。九年
間探索者をして私も仲間の誰一人として乙種探索者にすらなれなく
て⋮⋮﹂
その言葉はぽんと目の前に投げ出すようで、ケイスは眼前に転が
る言葉を覗き込み、再確認しているように長く間を空けた。
952
﹁いや、⋮⋮私は九年間探索者をやって、それなりに怪我もしまし
たが幸運にも大きな怪我とは無縁でした。今思えば、臆病で防御を
うえ
固めていたからだったんでしょうね。それが少し大きな怪我をして、
上位を目指したい仲間達が攻略難易度の高い迷宮へ潜ろうと意気込
んでいる時、私は﹂
そしてそんな己が耐えられなかったのかも知れない。
成長を拒み、停滞することを望んでいる自分が許せなくなって、
しかし恐怖には打ち勝つことができなかった。探索者としての矜恃
と恐怖の狭間に取り残されたケイスは探索者であることを辞めて、
その二つを手放し身軽になった。
ケイスは迷宮から逃げ出したのだ。
﹁なのに、また迷宮へ?﹂
はっきりとケイスの苦笑が聞こえた。
明け透けな質問は嫌みったらしさがなく清々しさすらあったが、
いくら何でもデリカシーに欠ける。ランタンは盗み聞きをしている
自分のことを棚に上げて、リリオンの頭を引っ叩いてやりたくなっ
た。
﹁ははは、探索者の再就職はなかなか難しいんですよ。探索者ギル
ドに雇用してもらえる人間は少数ですし、力ばかりあっても不作法
なので騎士団や衛士隊には入れません。運良く入団できても馴染め
ないことも多いですしね。まあ私は引っかかりすらしなかったんで
すが﹂
﹁じゃあ、どうやって﹂
﹁大抵はどこかで用心棒だとか、まあ傭兵の真似事ですとか、日雇
いの力仕事をしたり、その⋮⋮悪さをしたり、︱︱貯金を食いつぶ
して朝っぱらから酒に溺れたり﹂
世知辛い話だな、と思う。
迷宮という無限の広がりを見せる空間は、けれど狭い狭い、閉ざ
された世界でしかない。
数名の気の知れた仲間と、対峙するのは言を介さぬ魔物であり、
953
駆け引きは鉄と血を以て行われる。社交性を養うには血生臭すぎる
のだろう。身体は資本と言えども、なかなかどうしてつぶしの利か
ない職業である。
自己の探索者適性に早々に見切りをつけるか挫折でもすればまだ
救いはあれど、そこにどっぷりとはまり込んだ探索者が別の職に就
くには相応の苦労がある。元の人間性に問題があるのか、それとも
武力を持って切り開いてきた生き様がそうさせるのか。再就職の苦
労を厭い犯罪に走るものが多いことは身に染みていた。
商工ギルドの派遣業はそういった者たちへの受け皿となるかもし
れない。
﹁まあようは金が無かったんですよ。他に選べる仕事もなかったの
で、結局は戻ってくるしかなかったんです。ちょうど商工ギルドが
募集してましたし、運び屋は戦わなくてもいいですから﹂
未練もあったのだろう、と何となく想像できる。ケイスはそれを
口には出さなかったが。
﹁ふへえー⋮⋮﹂
聞いておいてリリオンは気のない返事を返す。
まだ幼いリリオンも何だかんだと社会の厳しさを知っていたが、
これはそれとは別の話だった。ランタンでさえも、なるほど、とは
思ってもそれを実感することはできないのだから、ぴんとこないの
も無理はない。
でも欠伸混じりなのは駄目だ、とランタンは毛布の下で拳を握っ
た。
﹁もう探索者には戻らないんですか?﹂
沈黙。
あの夜と同じように。
ランタンは視線が自分に向けられているような気がして、自然な
素振りで寝返りを打って二人に背を向けた。そして閉じていた目蓋
をそっと持ち上げた。
沈黙は蜘蛛の巣のようだった。細くぴんと張られていて、暢気な
954
リリオンがそれにぺたりと引っ掛かった。
リリオンが欠伸をして気の抜けた息を吐く。ケイスが声を発する。
﹁戻らないですよ。私にはとても無理だというのがよくわかりまし
た﹂
その独白はむしろ清々としている。
リリオンが眠たげにしていているので、だからこそケイスは本音
を口にしたのかも知れない。それは口に出すことで自分の気持ちを
整理しているのかのようだった。
聞くべきではない、と思った。だが今更耳を塞ぐこともできなか
った。
﹁⋮⋮実はですね。私はこのお仕事の話を貰った時、恥ずかしなが
ら少し期待したんですよ。もしかしたらあのランタンに認められて、
一緒に探索をしましょう、なんて誘われるんじゃないかって。もし
そうなったらどうしようって﹂
ケイスは少し笑っている。それは自分に向けた苦笑だったが卑屈
さはなかった。
﹁彼は不思議な人ですね。地上ではかわいらしいのに、迷宮に降り
るとあの小さな背中が途端に頼もしく見えると言いますか﹂
耳は張り直したガーゼで隠されている。急な賞賛に恥ずかしく、
耳が赤くなったとしてもそれに気づかれることはないだろう。だが
ランタンは身じろぎ一つできなくなった。ただ呼吸が不自然になら
ないように、それだけ気を付けるのに精一杯だった。
ランタンは眠れないことを悟り、開き直って聞き耳を立てていた。
バレなければいいのだ。どうやらそれが探索者の流儀なのだと、先
ほど得たばかりの情報を盾にする。
﹁迷宮も魔物も怖くなかった。ただ︱︱﹂
﹁でも、なんで⋮⋮﹂
﹁ただ、私は少しランタンさんが恐ろしい﹂
メイル
声は明るい。はっきりとそう言った。
﹁あの機動鎧との戦闘を見た時は心が躍りました。噂に聞いたラン
955
タンの逸話は本当だったんだって。状況判断、身の熟し、立ち振る
舞い。いくつかの探索者の戦いを見てきましたが、やはり彼は群を
抜いています。上に行く探索者はこういう人間なんだって、彼とな
ら私もそうなれるような気がした⋮⋮﹂
フラグ
﹁ランタンが、怖い⋮⋮?﹂
﹁ええ、あの金蛙との戦闘を見て私はふるえました。⋮⋮ランタン
さんが恐ろしくて﹂
眠気も混ざりぽかんとしたリリオンの声が、調子に乗っていたラ
ンタンの心を代弁した。
普通に戦っていただけで何も怖いところはないだろう、と自分で
は思う。格好良いならまだしも、と自惚れたりもする。ランタンも
少し眠たくなっているのかも知れない。
﹁どうしてあんな風に戦えるのか私には理解できない。私はあんな
風に戦えない。︱︱どっちが魔物なんだか⋮⋮﹂
ケイスははっとして言葉を切った。
ひらて
﹁リリオンさんは︱︱﹂
﹁ない﹂
ぱんと一つ開手を打ったように、ケイスの言葉をリリオンが掻き
消した。残響もなくはっきりと一つの否定を吐き出したリリオンに
ケイスが黙った。
﹁ランタンは怖くないです。戦っているランタンは格好良いもの﹂
﹁格好⋮⋮、まあ確かに、それは﹂
﹁でも怪我はして欲しくないから、⋮⋮わたしはもっと強くなりた
いな。わたしがランタンぐらい強くなれれば、きっと怪我も半分に
減るもの。もっともっと強くなれば、ランタンは傷つかずにすむも
の﹂
同意するようなしないような曖昧に呟いたケイスが、リリオンの
言葉に何かを思い出したように少しばかりの苦笑を漏らした。
﹁でもそれが良いって言う探索者もちらほらいるんですよ。⋮⋮そ
の怪我をしているランタンさんが良いって﹂
956
﹁どういうことですか?﹂
少しだけ怒気のような気配があり、ケイスが慌てて取り繕った。
﹁いやいや害意があるわけじゃないんですよ。ただその、彼は堂々
としているじゃないですか、怪我をしてても。今も、迷宮から帰る
道も。その姿が、その⋮⋮なんともいじらくて評判が良いんです。
リリオンさんみたいに庇護欲そそられるという人も、⋮⋮まあ、え
えっと、⋮⋮その、ちょっかいをかけたくなると言う人も﹂
悪趣味なことだ。変態しかいないのか、探索者の中には。
﹁ランタンの怪我を喜ぶなんてひどい﹂
﹁たしかにその過程を見てしまうとちょっと⋮⋮﹂
﹁やっぱりわたしは強くならなきゃ﹂
﹁︱︱リリオンさんは、⋮⋮どうして﹂
ケイスは言葉を切って言葉を飲み込んだ。ケイスの喉を落ちてい
った言葉は、吐き出されることはなかった。
﹁頑張ってください、ランタンさんの背中はかなり遠そうですけど﹂
眩しさを感じるような声は、嫉妬の音色が微かに響いていている。
そして自分の夢を託すような、寂しげな期待も。
それから程なくリリオンの欠伸が止まらなくなり、少女はもぞも
ぞとランタンの毛布の中に入り込んできてその背中にひっしとしが
みついた。
リリオンはランタンが眠っているのを良いことに、すんすんと鼻
うなじ
を鳴らしてランタンの体臭を嗅いで、無意識なのか裾から手を入れ
て腹を撫でたり、腰骨を触ったりする。蛇のように脚も絡める。項
に息が当たってくすぐったい。
探索者には変態しかない。
そしてリリオンは探索者である。
ランタンは内股に忍び寄った手を太股に挟んで捕らえ、それ以上
悪さをしないように握りしめたまま眠ることにした。
957
065
065
切れるんじゃないか、と一瞬だけ不安になったが迷宮口から垂ら
されたワイヤーロープは荷車を持ち上げる瞬間にこそ高音で軋んだ
が、それから後はそれが幻聴なのかと思うほど静かなものだった。
戦利品と荷車、人間三名とその他諸々を加えた一トンを超える重
量が軽々と引き上げられていく。それは蜘蛛が自ら垂らした糸を登
るように滑らかで、重量がある分だけ安定していた。だがそれが一
うで
度でもバランスを崩せばその重量の分だけ荒れることも目に見えて
はいるので大人しくしている。
もっともそれを荒れさせないのがミシャの技術であるのだが。
ケイスが言うには技術に自信のない引き上げ屋は作業を二度三度
と分けることがあるようだ。まず人を引き上げて、それらから戦利
品が何かを教えてもらってから、運び屋と戦利品を纏めてというよ
うに。
安全だが手間も時間も、費用も余分に掛かる。それに引き上げ屋
からしてみればそれを行うことは自らの技術の未熟さを認めること
となる。
ロープから伝わる重力の受け方や、重心の変化やその在り方、た
ったそれだけの情報で戦利品が何かを把握するにはそれ相応の経験
や才能を必要とする。見栄を張らずともよいと思うのだが、何だか
んだと自己の技術を過信しして戦利品を横壁に擦ったりする引き上
げ屋もいるようでケイスが笑っていた。引き上げ屋当人や探索者か
らしたら笑い事ではないが。
エンジン
己の分を知ることも大切なことである。
霧を抜けると原動機の嘶きが聞こえた。
958
クレーン
耳鳴りのような高音と、心音にも似た低音が同時に響いている。
起重機の心臓部には相当な負荷が掛かっているようだった。
安全迅速丁寧な仕事によって帰ってきた地上は明るい夕焼けに染
まっていた。薄く空を覆う雲に光が反射して、見上げた空全体が燃
えているようだった。
まるで塞いだ傷口が開いて再び血を零したような、青白い顔に血
色の戻ったような。顎を持ち上げ空を見上げる。猫のように目を細
めたランタンにそろりとリリオンが近付いてその身体に触れた。
そのごく僅かな重心の変化に荷車が揺れ、しかしミシャは慣れた
手つきで素早く反応した。手元の繊細な動きが起重機の首へと拡大
されて伝わり、その揺れが打ち消される。ランタンとケイスが同時
に唸った。
吊り下げ式ではなく檻式で引き上げられるとミシャの顔がよく見
えた。荷車の上から見下ろすミシャの表情はやや硬い。吸い込まれ
るような集中した表情をしていて、大きな起重機の操縦席にある小
さな姿はまるで竜に騎乗しているかのような凜々しさがあった。
そして竜の傍らに、見慣れぬ大型の荷馬車がある。
がっしりとした巨体の輓馬、それが四頭も繋がれて大人しくして
いる。荷馬車はケイスの運ぶ荷車を積み込んで余るほどの大きさで、
総金属の無骨な造りはまるで戦車のような印象をランタンに与える。
起重機の勇ましさと相まってまるでこれから戦争にでも行くかのよ
うだった。
そうなると燃える空が不吉に思える。ランタンは思わず街の方に
目をやって、外壁の高さに視線を遮られた。変わらない日常が壁の
奥にはある。
﹁あれは⋮⋮﹂
呟いたのはケイスで、その呟きに再び視線を戻したランタンは荷
馬車に立てられた旗を目にした。夕日に翻った旗は黒地に金糸によ
って天秤と金槌が描かれていた。それは商工ギルドの紋章である。
商工ギルドが何故、と思ったのはランタンばかりではなくケイス
959
も同じようで、しかしその荷馬車の存在が疑問の回答であった。荷
馬車の存在意義は荷物の運搬にある。
﹁契約に含まれてましたっけ?﹂
﹁いえ、聞いておりませんが⋮⋮何かあったのでしょうか﹂
荷馬車の御者は全く知らない男だったが、輓馬の首を撫でながら
こちらを見ている女には見覚えがあった。
豊かな金の髪とここからでもわかる柔和な表情。女はランタンか
ら契約をもぎ取った説明女その人である。わざわざ現場まで来ると
は仕事熱心なことだな、と皮肉気に思ったのはランタンが説明女に
抱いている苦手意識のためだった。
輓馬の傍に立つと女は小さく見えるが、妙な威圧感があるような
気がする。
﹁まあこの量ですから、気を利かせて荷馬車を回してくれたのでし
ょう﹂
﹁少量しか持ち帰らなかったらとんだ赤っ恥ですけどね﹂
起重機は一度停止して首を振った。そのままに馬車の荷台に積み
込まれるのかと身構えたが、そんなこともなく普通に迷宮口の脇に
降ろされた。歩み寄ってくる説明女を何となく手で制して、駆け寄
ってきたミシャにロープを外してもらった。
まずはケイスから、そしてランタン、リリオンの順で。
ロープを外されたケイスは説明女の元に駆け寄り足止めをして、
その間にミシャはランタンに取りかかる。
ランタンは怪我をすっかり服の下にしまい込んで、顔の青白さも
夕日の赤で隠していたが、その身体から香る血の臭いをミシャは嗅
いだ。だが何も言わなかった。ただ帰還の無事に胸を撫で下ろすだ
けで。
﹁あれ何?﹂
声を小さくミシャに尋ねる。
﹁⋮⋮ランタンさんがご用意したのではないっすか?﹂
﹁いや知らない。そう言ってたの?﹂
960
契約した迷宮の区画に、契約した探索者と引き上げ屋以外が立ち
入ることはあまり褒められたことではない。特に帰還時には探索者
は弱っているし、気が緩んでいる。そこを狙う者どもへの対処とし
て、法律として明文化されているわけではないが無断で立ち入った
ものを強襲しても許される風潮がある。
﹁まあ、そのような感じのこと、っすかね。申し訳ありません、押
し切られました﹂
そう言って頭を下げたミシャをランタンは思わず撫でた。
説明女にやり込められたことのあるランタンはその悔しさがよく
わかる。
説明女がどのような言を弄したのかはわからないが、言葉尻の曖
昧な柔らかい言葉にミシャは煙に巻かれたのだろう。ミシャはしっ
かりしているが、それでも年齢の分だけ説明女が上をいったようだ。
﹁別にいいよ、実害はなさそうだし。それなりに量もあるし丁度い
いさ﹂
﹁︱︱そのようっすね。総重量千二百キロ﹂
﹁元は幾つだっけ?﹂
﹁二百八十キロなので、九百二十キロの増っす。大猟っすね﹂
食料を捨てまくったし、ランタンもリリオンもケイスも痩せた。
持ち帰った物の中には機動鎧の一部と剣もあるので金蛙の重量は正
確な重量は導き出せないが、おそらくケイスの見立て通り八百キロ
半ばほどが正解なのだろう。素晴らしい測定技術だ。
﹁これって多いの?﹂
﹁ええ、かなり多い方っすね。運び屋一人ではまずない重量ですよ、
女性だと特に。ケイスさんはなかなかやり手っすね。︱︱はい、じ
ゃあ次はリリオンちゃん。あんまり引き上げ時には動かないでね﹂
﹁はーい。ケイスさんもミシャさんのことを褒めてましたよ。起重
機の操作が凄い上手だって!﹂
﹁あらそれは、照れるっすね﹂
あはは、と笑ったのは本当に照れているのだろう。
961
ミシャしか知らないランタンはミシャの技術を信頼していても、
それが当たり前であるが故に面と向かって賞賛したことはない。感
謝の言葉は口にしても、賞賛は言った方も言われた方も照れてしま
うものである。
﹁ミシャさん凄い!﹂
大まじめにそう言ったリリオンにミシャはタジタジとなっている。
﹁まあ、あはは。いやあ、リリオンちゃんもランタンさんも凄いっ
すよ﹂
﹁何だよ急に﹂
﹁ケイスさんを雇ったご慧眼には感服するばかりっすよ。戦利品の
この輝きは金! メッキっすね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁え、あれ? あの﹂
冗談を言ったつもりが、冗談になっていないのだから質が悪い。
不意に訪れた沈黙にあたふたするミシャを、ランタンはじとっと見
つめてやれやれと肩を竦める。そしておもむろにミシャの脇腹を突
いた。
﹁うひゃあ!? え、ちょ︱︱﹂
そしてリリオンもそれを真似する。
ミシャの脇腹は柔らかかった。服の上からでは見ても分からない
が、腰の辺りの肉付きが思いがけずに良く、それがはっきりと女の
身体なのだと意識してしまった。この肉の柔らかさはリリオンには
ないもので、ランタンは一度突いただけで二度と触れなかった。
﹁わあー﹂
ただリリオンはその柔らかさを指先に抓んだりもした。ランタン
にはとてもとてもそんな恐ろしく、残酷なことはできない。ランタ
ンはその凶行から思わず目を逸らした。
ミシャは上げた悲鳴の間抜けさに赤面して、怖い顔でリリオンを
睨んだ。その頃には既にランタンは素知らぬ顔でその場から離脱し
ていて、リリオンは全ての責任を負うことになったのである。
962
リリオンは隣を振り返ってそこに居ないランタンに気が付いたが、
ランタンを追いかける暇もなくミシャにベルトを掴まれて捕らえら
れていた。デリカシーを学ぶにはいい機会である。
そして離脱したランタンは少女二人の元から、大人の女性二人の
元へと歩み寄った。
﹁お久しぶりです﹂
声を掛けるとケイスがすぐに脇に退き、対峙した説明女は頬に笑
みを浮かべた。この笑みが厄介なのだ。柔らかな笑みはその口腔に
犇めく牙の一切を隠している。口を開くと吐き出される聞き心地の
良い言葉には、その牙に秘められた甘い毒が注入されている。
ランタンが負けじとにっこり微笑むと、何故だか輓馬が暴れ出し
た。嘶きは悲鳴に似て、鬣を揺らして首を振った。それでも駆け出
さずそこにいるのは、きちんと調教されているためだった。
﹁落ち着け﹂
御者が巧みな手綱捌きで馬を落ち着け、ケイスもその首元を撫で
であやしていた。ケイスのその手つきは妙に手慣れていた。蛙の多
く出るケイスの故郷は、農耕牧畜の盛んな地なのかも知れない。
﹁どうしたのかしら、ありがとうパティ﹂
﹁うん﹂
説明女の呼びかけた声が親しげで、ケイスの返答もランタンたち
に向けるものと違う気楽さがあった。二人は仕事だけの関係ではな
く、友人なのかもしれない。
﹁︱︱ランタンさま、お帰りなさいませ。まずは探索の無事と成功
にお喜び申し上げます。素晴らしい戦果ですね﹂
説明女はランタンの奥にある荷車を見つめて艶然と微笑んだ。
﹁魔道の装備に、迷宮核、雷精結晶と、金合金が八百キロ超も。さ
すがはランタンさまです﹂
戦利品の内容はケイスから聞いたのだろうか。
﹁いえ、ケイスさんがいなかったら結晶程度しか持ち帰れませんで
したから﹂
963
え
﹁あら、彼女一人では何一つ獲ることはできませんわよ。そうご謙
遜なさらずに﹂
﹁その言い方はどうかと﹂
﹁パティを軽視しているわけではありませんのよ。探索者さまが居
られなかったら運び屋は︱︱﹂
ケイスは特に何も思っていないのか、輓馬の首を優しく撫でてい
る。馬はそんなケイスの耳を甘噛みしている。それを見ているとラ
ンタンは何だか説明女とのやり取りが虚しくなった。
﹁︱︱なのでランタンさまが居なかったら﹂
﹁それはどうも。で、⋮⋮契約にはお迎えなんてなかったように思
いますけど、これは一体どういうことでしょうか?﹂
﹁きっと探索でお疲れでしょうから、僭越ながらご用意させていた
だきました。もちろん私どもが勝手にやったことですので、ランタ
ンさまにご負担を求めたしませんのでご安心を﹂
﹁お金の心配なんかしちゃいませんよ﹂
﹁あらさすがはランタンさま、頼もしいことです﹂
言葉の端々に生えた棘を自覚ししつつも、説明女がそれを許すも
のだからランタンはつい甘えてしまった。いけないな、と思いなが
らも警戒心を押さえられない。積極的な敵意があるわけではないの
だが、苦手意識がどうにも先立って警戒心からつんけんしてしまう。
これでは先日から何の成長がないではないか、とランタンは反省
する。
探索も成功して、戦果は上々。もっと心に余裕があって然るべき
だ。
説明女、商工ギルドの意図がどこにあるのかは見えないが、先入
観を取り払ってあるがままを見たならば善意から荷馬車を用意して
くれたように思える。
説明女はただ商売をしているだけであって、悪意があるわけでは
ない。羽振りのいい顧客を逃がさぬ為に、色々とおまけをつけるこ
とは良くあることだ。
964
﹁あ︱︱﹂
﹁どうかされましたか?﹂
﹁︱︱りがとうございます。わざわざ気を遣っていただいて﹂
ほっと肩から力を抜いて礼を告げたランタンに、説明女が初めて
たじろいた。
自然と頬に浮かんだランタンの笑みはとても甘く柔らかい。そこ
には気の強さからくる羞恥と、探索の疲れからか哀れっぽい幼さが
あった。一瞬にして説明女は罪悪感に囚われ、戸惑い慌てた。
それは子供相手に理詰めで対応する大人気ない人の図を夕焼けに
作り出していた。それを外側から見ているケイスが世の不条理を馬
に語りかけるように遠い目付きをしている。
ランタンはそんな説明女に小さく小首を傾げる。
﹁でも換金もいいんですけど、その前にちょっと探索者ギルドに寄
っていただいても?﹂
﹁それは構いませんが﹂
﹁よかった、医務局に寄りたかったんですよね﹂
﹁⋮⋮ランタンさま、お怪我を?﹂
﹁ええ、ちょっと電気責めを食らった挙げ句に身体を穴だらけにさ
れまして、血が止まんないんですよね﹂
ランタンが軽い口調で放った言葉を説明女は上手く飲み込めずに、
ただ曖昧に微笑んで曖昧に頷いた。電気責めも穴も探索者特有の比
喩的な表現なのかと、説明女はケイスに助けを求めたが、それは言
葉のままの意味である。
説明女は顔を強張らせる。
物騒な世界であったが普通に生活を営んでいる分には身体に電気
を流されることはないし、穴だらけになることもない。それらは説
明女の生活とは無縁だったようだ。
﹁ご覧になりますか?﹂
﹁いえいえいえ、いいです﹂
無邪気をよそおったランタンの一言に説明女は慌てて首を振った。
965
豊かな金の髪がばさりと左右に振れて、そして自分の醜態に気づく
と咳払いを一つ零した。ちょっと頬が赤くなって、説明女は跳ねた
髪をゆっくりと手で撫でつけた。
﹁冗談ですよ。外で脱ぐ趣味はありませんし﹂
商談では百戦錬磨でも、ここは商工ギルドの一室ではなく混沌渦
巻く迷宮特区。現場に出てきたのは良いものの、なかなかどうして
初心なようである。
くゆ
ランタンは慣れ親しんだ迷宮特区の外気を胸一杯に吸い込んで、
まるで紫煙でも薫らすように太く吐き出した。
﹁こほん。では運搬時には探索者ギルドに寄らせていただきます。
鑑定にお時間をいただきたいので、治療はご存分に受けてください﹂
﹁ええ、そうですね。あれらは商工ギルドに運びますか?﹂
﹁うちが所有している倉庫にですね。鑑定作業をご覧になりたいの
でしたら︱︱﹂
﹁いや、それはいいです。見てもよくわかんないし﹂
﹁そうですか。では、そうですね。鑑定は今日中に済ませてしまい
ます﹂
﹁︱︱迷宮核は探索者ギルドに持っていきますよ﹂
﹁承知しております、残念ですが。その他の品は全てうちで鑑定し
ていただいてよろしいですか﹂
﹁はい﹂
﹁では明日以降でしたらいつでも構いませんので、お手隙な時に商
工ギルドへお越しいただくか、よろしければ場所を指定していただ
ければ迎えを寄越しますが﹂
﹁いや、それには及びません﹂
それらのやり取りはほとんど契約条項の再確認のようなものであ
った。ランタンも決まったものをひっくり返すような無粋は働かな
いし、説明女も契約の拡大解釈でランタンから富を奪い取ろうとは
しなかった。
﹁まあよっぽど何かなければ明日お伺いしますよ﹂
966
﹁はい、お待ち申し上げます。パティ、積み込みをお願い﹂
﹁はいよ﹂
起重機でひょいと積み込んでしまえば良いのにと思わなくはない
のだが、それはランタンの口を挟むところではないので黙っていた。
ランタンとミシャの間には契約があるが、ミシャと商工ギルドの間
にはそれがない、とそう言うことだ。
ハンドル
リリオンがミシャから解放されたように、荷車も起重機から解放
されていた。ケイスは荷車の引き手を強く握り込むと輓具を使用せ
ず、ただ己の力のみでそれを牽いた。既に身体活性の魔道薬の効力
は失われており、それはケイスの地力だった。
奥歯を砕けそうなほどに噛んでいる。夕焼けに負けぬほどに顔が
赤くなり、二頭筋も大腿筋もぶるぶると痙攣している。だがそれで
も一歩一歩確実に前進して、次第に勢いが増した。そして荷馬車の
急な角度のスロープを一気に駆け上った。
﹁すっごい足腰してるな﹂
あらためて離れた位置から見るケイスの牽引姿はほれぼれするよ
うな力強さに溢れていた。開放された胸ばかりではなく、太股も尻
も素晴らしく張っている。思わずその場で拍手をしたランタンにミ
シャがするりと近寄って、抓む肉のない脇腹をほんのりと優しく触
った。
﹁何?﹂
﹁何でもないっす﹂
へとへとになってランタンの隣に隠れるように寄り添うリリオン
を見ると何でもなくはないのだが、藪を突いて蛇を出すのも馬鹿ら
しいので軽く頷き、リリオンを優しく撫であやしてやった。
ケイスたちが戦利品の固定作業をしている間にランタンはミシャ
へと代金を支払った。
単純な重量だけで言えば、帰還時の重量はランタンとリリオンの
二人分の約十倍ほどであったが、その支払金額は十倍程度では済ま
なかった。ミシャに金額を聞いた際にランタンは吃驚して聞き返し
967
てしまったほどだ。
重ければ重くなるほどに引き上げの金額は高額になっていく。
例えば普通の探索班だと、体格はランタンよりもいいし装備だっ
てしっかりしている。一般的な五名ほどの探索班だとそれだけで重
量は五百キロ近いのではないかと思う。その重量に見合った代金を
毎回毎回支払うとなると、魔精結晶だけを狙っていては一人頭の収
入は雀の涙となる。下手に重量単価の安い戦利品を持ち帰ろうもの
ならば、赤字もあり得る。最終目標を討ち取れば充分な利益は出る
のだろうが。
それは運び屋を雇うもっとも切実な理由なのかも知れない。
重量を増すごとに使用する燃料も、起重機の消耗も、必要となる
技術も雪だるま式に増加していくのだからしかたがないが、運び屋
業を経てこなかった相場を知らぬ新人探索者の中には憤る者も、相
場を知っていて尚文句を垂れる探索者もいるようだ。
﹁じゃあさ、むしろ回数分けた方が安くつくんじゃない?﹂
﹁んー、初動に最も燃料も負荷も掛かりますからね。やっぱり纏め
て上げた方が安いっすよ、時間も短くて済みますし﹂
﹁ふうん、探索って金かかんだね⋮⋮﹂
﹁何言ってるんですか探索者さま﹂
すっからかんになってしまった腰のポーチを一撫でして、ランタ
ンは金策について考えを巡らせた。医務局に行く前に銀行に立ち寄
るか、それとも迷宮核を換金したほうが早いか。このままでは身体
に開いた穴の一つも塞ぐことはできない。
﹁︱︱ランタンさんならつけでもいいっすよ。お店まで持ってきて
くれれば﹂
﹁いや、お金のことはちゃんとしないとダメだよ﹂
﹁そうっすか。ではこれはありがたく頂戴いたします。毎度ありっ
す﹂
そう言ったミシャは集金箱に金貨をしまった。
世の探索者はなかなか苦労しているようで、世間知らずなランタ
968
ンは一年以上も探索者をやってきてようやくその一端に触れた。多
くの探索者はもしかしたら迷宮に降りるために迷宮を攻略している
あれ
のかもしれない。冗談にもならないな、とランタンはひっそりと苦
笑した。
﹁じゃあ私は荷馬車が道を塞ぐ前に、次の現場に行かせていただき
ますね﹂
﹁うん、あ、そうだサンドイッチあげるよ。昨日作った奴だけど﹂
﹁⋮⋮はあ、サンドイッチっすか? ありがとうございます﹂
急にサンドイッチを押しつけられて戸惑いながら、もしかしたら
体重を気にしたのかもしれない、ミシャが去って行った。そんな起
重機の背中にリリオンが手を振って見送り、ほっと胸を撫で下ろし
た。
﹁女の人のお腹はつまんじゃダメなんだって﹂
﹁へえ、何でだろうね﹂
﹁わかんない⋮⋮﹂
﹁じゃあ肉をつけてみようか﹂
まだサンドイッチは余っている。ランタンは調子乗って作りすぎ
たのである。リリオンはコロッケサンドを美味しそうに頬張った。
油の回ったコロッケは既にしっとりとしていたが、それにはそれな
りの美味しさがあるものである。
﹁そう言えばリリオンってベシャメルソースって作れる?﹂
﹁できるよ﹂
今度はクリームコロッケだな、と一口もサンドイッチを食べてい
ないランタンは無駄に決意を固める。
﹁お部屋の近くにかまど組む? 部屋あまってるし﹂ ﹁んー、できなくはないかもだけど﹂
﹁そうしたらわたし毎日、料理作ってあげるよ。わたし料理できる
からね﹂
ミシャの姿がなくなり、リリオンが二つ目のサンドイッチをぺろ
りと平らげるころにようやく固定作業が終わった。
969
﹁お待たせしました。ではランタンさまは︱︱﹂
﹁荷台でいいですよ、ねえリリオン﹂
﹁よくわからないけど。うん、いいよ﹂
﹁あら、そうですか?﹂
説明女は御者の横に座り、ランタンとリリオンそしてケイスが荷
台に上がった。固定されている荷車に腰掛けてほっと一息を吐くと、
ゆっくりと荷馬車が動き出した。大型の荷馬車の存在は流石に目立
つようで、なんだなんだと視線が注がれる。
金蛙の脚は剥き出しになっており外側だけを見ればそれはまさし
く黄金なので、わっと口を丸くするものもいる。
﹁ちょっと物騒ですよね﹂
﹁でも流石にこれだけ目立つものを襲う者はおりませんよ。売りさ
ばく場所もありませんし﹂
地上を見下ろすランタンの、その手を急にケイスが握った。大き
な手の中にランタンの小さな手はすっぽりと覆い隠された。
﹁少し早いですが、︱︱お疲れ様でした。久々に探索をしている気
分になれました﹂
﹁え、ああ。いえ、こちらこそ助かりました﹂
ケイスとの契約はこれで終わる。運び屋の仕事は迷宮から戦利品
を引き上げ、換金者へと渡したところで終了する。運び屋派遣サー
ビスの使用料は商工ギルドへ支払い、ケイスへの賃金は商工ギルド
から支払われる。
ケイスとの繋がりはその程度のものだ。
﹁帰りなんかは特に楽しちゃって﹂
ケイスは見習いの探索者ではなく、またランタンと専属契約をし
ているわけでもなく、ただ商工ギルドに登録され仕事があればどん
な探索班にも派遣される運び屋なのだから。再度指名するかしない
限り、これでお終いだ。
だがケイスはランタンの手を両手に包み込んで放さなかった。小
っちゃい手ですね、とケイスは呟いた。
970
﹁何ですか﹂
﹁︱︱あの夜のお答えを﹂
そう言われると恥ずべき盗み聞き男であるランタンは無言になる
しかない。手を握らせることぐらいは許さなければならない。ラン
タンは気恥ずかしさを噛み殺すように下唇を巻き込んでケイスを見
つめた。
﹁私は探索者に戻りたいです﹂
おや、と思ったが表情は変えなかった。
﹁あなたを見ているとそう思う。私のような運び屋風情にも優しく
て、鬼のように強くて、あなたは私が昔憧れた探索者そのものだっ
た﹂
ケイスはランタンの手を撫でる。指の一つ一つの細さを確かめる
ように。
﹁この三日間、私は夢の中に居るようだった﹂
﹁そう、ですか﹂
﹁ですが私ももう、三十なので夢を見てられるような年齢ではあり
ません。そうありたい私にはどうにも成れないようです﹂
夢は覚めて、遠い過去に見た憧れの現実を目の当たりにしたケイ
スは哀愁のある笑みを唇に浮かべた。
﹁運び屋もなかなかやりがいのある仕事ですしね。探索者だった頃
はただの雑用としか思っていませんでしたが﹂
単純な諦めの表情とは違った。甘くもなければ苦くもない。まる
でその苦笑こそが素顔のような、そんな印象があってランタンは目
が離せなかった。
﹁いつまで手を握ってるんですか?﹂
そんな風に見つめ合う二人にリリオンが言った。ケイスとは逆隣
でランタンの外套を引っ張った。わたしも触りたい、と頓珍漢なこ
とを言っている。
リリオンをケイスがランタンの頭を越して見つめる。二人とも背
が高いのでランタンの存在はないも同然だった。二人の視線が、ち
971
ょうど旋毛の上辺りで絡まる。
ケイスの視線には見守るような慈愛と、僅かな憐憫があった。旅
に出る巡礼者を見つめるように、その先が茨の道であると確信する
かのように。
﹁リリオンさん、すぐお返ししますので。ちょっとだけ借ります﹂
﹁は﹂
ケイスは急にランタンを抱きしめた。
﹁ああちっちゃい、いい匂いがするなあ。うん、人の温かさだ﹂
柔からかい、が汗臭い。
ランタンは吃驚してケイスの胸を押しのけて、その胸に手が埋ま
ることに更に驚いて、慌てて身体を離した。すると今度はリリオン
がランタンを後ろから引っ張り寄せる。何故だかリリオンも驚いて
いた。
﹁なにを﹂
脂肪を押し分けて掌を叩いた心臓の鼓動が、まだ手の中にあるよ
うだった。早鐘を打つようなそれは興奮ではなく、恐怖の音だった。
﹁失礼、少し確かめたくて﹂
ケイスは魔物を抱きしめたのだ。そこにある恐怖を克服するかの
ように。
ケイスはこの上なく清々しい表情で夕焼けを見上げ、一仕事終え
たように両手を上に突き上げた。そんなケイスをまだ吃驚している
ランタンとリリオンが見つめ、そんな三人や四頭引きの荷馬車や、
そこにある黄金の燦めきを往来の人々が見つめる。
空にある一番明るい星を指差すように、通り過ぎ様に子供が燦め
きを指差して歓声を上げた。
972
066
066
ランタンに傷として刻まれた戦いの痕跡は、そのまま最終目標の
強さを表し、強さはほとんど迷宮核に宿った魔精の濃さに直結した。
そして内包する魔精の濃さはその器が人だろうと物だろうとその価
値を吊り上げる。
黄金にばかり気をとられていたが金蛙の迷宮核はランタンが今ま
で持ち帰った迷宮核の中でも最も高額な物の一つとなった。それで
も、こんなものか、と思ってしまったのは大まかに予想できる黄金
の換金額がそれを上回ったからだ。
ギルド職員からは何時ものようにあれやこれやと迷宮について尋
ねられ、その話は当然最終目標にも及び、それが金合金であること
が探索者ギルドに知れた。運び屋を雇い入れたことは探索計画の書
類に記してあるので、それを持ち帰ったことも。
そして売却先を尋ねられた。ランタンが探索者ギルドにそれを持
ち込まなかったことを、信じられないとでも言うように。
売却先を報告する義務などはこれっぽっちも存在しなかったが、
特段隠すようなことでもないしいちいち誤魔化せば会話が長引きそ
うな気配があったので商工ギルドのことを告げた。職員たちにも売
却先の予想は付いていたようで、それは確認作業のような物であっ
た。
だがギルド職員は難しい顔になり、その表情のままランタンを窺
うものだからランタンは思わず睨み返した。職員は慌てて笑顔を取
り繕った。
まず探索者ギルドに何か不満でもあるのかという話になり、次に
商工ギルドとはどのような契約をしているのかという話になった。
973
探索者ギルドに不満はない。この報告作業で色々聞かれることが
多少面倒くさいぐらいで。
そう言うと苦笑された。彼らにもこの聞き取り調査が探索者にす
こぶる評判が悪いことを自覚しているらしい。それであってもこの
やり取りがなくならないのは、それだけこれで得られる情報が有益
だからなのかもしれない。
だが流石に商工ギルドとの契約は私事に踏み込みすぎていたので、
ランタンはばっさりとそれを拒否した。やり取りがそろそろ面倒に
なっていたというのもある。
探索の疲労と怪我を理由にして報告作業を切り上げる。そして火
傷しそうな程に懐を温かくした。
金貨の大半を銀行に預けて幾つかを使いやすい少額硬貨に両替し、
いつも通りにギルド医から大量の小言をいただくために医務局へと
足を向けた。
よくそう
病室ではあっという間に裸に剥かれる。全身を駆け抜けた雷撃の
熱傷は広範囲に及び、杙創にも取り切れなかった破片が残っていた。
ピンセットでそれを穿りだしてもらう。当たり前のように痛い。
怪我は体中にあったが、その中には既に治癒が始まっているもの
もあってギルド医は呆れる。人の治癒力ではないな、と揶揄される。
リリオンがその言葉に反応すると、ただの比喩表現だよ、とギルド
医はあしらった。
ランタンは怪我にも痛みにも慣れっこで、それは成長ではなく退
化だった。
鈍化しているのかも知れない、とギルド医は言っていた。痛くな
いんなら都合がいいですね、と嘯けば、痛みを感じる頃には死んで
るなと脅される。薬の効きも悪くなるし云々と、それは小言ではな
く完全なる説教だった。
またかよ、と思いながらふんふんと聞いている振りをして、帰ろ
うとすると入院させられた。
治癒が始まっているとは言え身体を癒すためには体力が必要で、
974
ランタンはそれが無自覚に尽きかけている。眠るランタンの腕には
ギルド医曰く、元気の出る液体、の点滴が突き刺さっている。月光
を浴びて薄い青に透ける液体が血に溶けていく。
翌日ランタンの身体は熱傷により皮膚が剥けてピンクと白のまだ
ら模様となった。死んだ皮膚が剥がれ落ちて、新しい皮膚が薄く作
られている。
無視できる程度のピリピリした痛みと無視できない程度の痒みが
あったが、新しい皮膚は爪を立てると容易に破れてしまうので、血
だるまになりたくなかったら絶対に掻くな、ときつく言い含められ
た。
ランタンは消炎と痒み止めの軟膏を身体に塗ってもらって包帯で
ぐるぐる巻きにされて病室から追い出された。去り際に、もっと自
分を大事にしろよ、と一言。優しいのだか厳しいのだかよくわから
ない。
﹁ランタンちょっと臭い﹂
痒み止めの軟膏は独特の臭いがする。ランタンは自分から立ち上
る臭いを恥ずかしく思うが、どうすることもできないので苦笑いす
るしかなかった。
探索者ギルドを出ると表の道に馬車がいた。誰かを待っているよ
うで、ランタンたちが珍しげな視線を向けると御者が二人に向かっ
て恭しく頭を下げた。
ランタンが入院したことをどこで知ったのか、それは商工ギルド
が寄越した馬車だった。不要と告げたはずなのだが、どういうわけ
かランタンが出てくるのを待ち構えていた。
二頭立ての四輪馬車はどう見ても探索者風情が乗るには分不相応
な高級な存在感を見せびらかしている。車体は艶やかな黒塗りで、
ただ継ぎ目継ぎ目に黄金のラインが入っているだけなのだが、それ
には上品な色気があった。
その姿は目を引き、周囲の探索者たちが遠巻きに見つめてひそひ
そと囁き合っている。誰を待っているのか、などと賭け事にまで発
975
展していてランタンの姿を認めると、嘆く者と喜ぶ者が生まれた。
痒みと朝っぱらからご機嫌な探索者に鬱陶しさを感じてランタン
は拗ねるようにむくれたが、ただ派遣されただけの御者に当たるの
は筋違いであったし、公衆の面前で存在を問い質す気にもなれなか
ったのでしかたなく、逃げ込むように馬車に乗り込んだ。
先にリリオンを、そしてランタンが続いた。
﹁お姫様みたい⋮⋮﹂
タラップに足を掛けて立ち止まったリリオンがぽつりと呟いた。
﹁お姫様、奥に進んでくださいませ﹂
布張りにされた天井が高く、複雑な造形の魔道光源が白々と光を
放っている。車内は不思議と花の香りがするし、リリオンの長身で
も窮屈でないほどに広々としていて、座席は沈み込むほどに柔らか
い。お姫様かどうかはランタンにはわからなかったが、お姫様が乗
っていても不思議ではなかった。
﹁前も同じようなことしたよね﹂
座るのを躊躇って中腰になったリリオンをランタンは無理矢理座
らせて、その膝の上にふかふかのクッションを重し代わり乗せてや
った。石抱き刑のようになったリリオンは緊張している。
座ってしまった、とでも言うようなリリオンの顔が面白い。
御者がドアを閉める間際にランタンは言った。
﹁朝食がまだなので適当に飯屋に寄って下さい。よろしくお願いし
ますね。お腹ぺこぺこなので﹂
は、と間の抜けた声を漏らして戸惑う御者に微笑みかけて、半開
きのドアをランタンは内側から閉めた。商工ギルドから御者がどの
ような指示を受けているのかは知らないが、そんなものはランタン
の知ったことではない。
それに何よりまず空腹だった。ランタンは点滴により静脈からし
か栄養を補給しておらず、胃の中は空っぽだった。
まともな食事は二日と数時間ぶりである。傷を治すためにも沢山
食べなければならない。
976
ランタンはどっかりと腰を下ろして、下品にも対面の座席に脚を
伸ばした。まだ少し硬いリリオンに見せつけるように、くつろぐと
言うよりは意識的にそうしていた。
﹁⋮⋮堂々としてるね﹂
﹁だってわざわざ用意してくれたんだし、いらんって言ったのに。
これはもう壊そうが何をしようが好きにしてくださいってことでし
ょ?﹂
傍若無人な物言いに、しかしリリオンはなるほどと納得した様子
だった。緊張している自分が馬鹿らしいとでもいうように、リリオ
ンもだらしなく背もたれに身体を預け、頭はランタンの肩に乗る。
が、やっぱり止めたとばかりに戻っていく。
﹁くさい⋮⋮﹂
ランタンは少しだけ傷ついた。今度はもう少し怪我をしないよう
に頑張ろうと心に決める。
﹁でもこの馬車何なんだろうね。いらないって言ったと思うけど﹂
﹁聞き間違えちゃったんじゃないの?﹂
﹁それならいいけどね﹂
商工ギルドは何を考えているのやらと、答えの知れぬ問題を考え
て欠伸を一つ漏らす。その頃に馬車が減速し、やがて立ち止まった。
窓の外を覗くと精肉屋があった。路面に向かうようにカウンター
があり、その奥にはこれ見よがしに巨大な肉の塊が吊られている。
牛や豚、謎の生き物まで。もしかしたら魔物の肉かもしれない。
これを飯屋と呼んでいいものだろうか、と思いながらも馬車を降
りたのは食欲をそそる香りが鼻腔を擽ったからだった。
ミンチ
その肉屋では売れ残りやそもそも売り物にならないような屑肉を
挽肉にして作った肉団子を煮込んだものを販売していた。働きに出
る労働者たちが出勤途中にそれを購入していくようであり、そんな
労働者たちの中で馬車から降りたランタンは死ぬほど目立っていた。
探索者のように話しかけてはこずに遠巻きにされたが、そのおか
げで人波が途絶えて並ばずに購入することができた。
977
自前の飯盒を店主に渡すとその中に大鍋からよそってもらえる。
安価で量が多い。労働者の味方のような店だ。
肉団子は一口で食べきれないほど大きく、それにありとあらゆる
動物の骨で取った濃厚なスープが掛けられている。スープはどろど
ろとした褐色で、見た目の不気味さとは裏腹にいい香りがした。リ
リオンが唾を飲んだ。
そして肉屋のすぐ脇には移動式のパン屋がちゃっかりと商売をし
ており、ランタンたちは蜘蛛の糸に絡め取られるようにパンを購入
した。
移動式の壺窯型オーブンを使用してその場で焼くパンは、つきた
てのお餅のようなパン種を平たく伸ばしてオーブンの中に貼り付け
ると五分もかからずに焼き上がった。ランタンが興味深げにオーブ
ンの中を覗き込むと、リリオンも真似をしてランタンに顔を寄せる
ようにしてその中を覗き込んだ。
危うく垂れた髪が焦げそうになって、ランタンは慌ててリリオン
の髪を押さえる。リリオンはオーブンの中から視線を逸らせないで
いた。オーブンから立ち上る橙色の光は頬を照らして、じんじんと
した痺れにも似た熱をもたらす。それは骨の心まで暖かくなるよう
で、心地よかった。
焼き上がったパンはランタンの顔ほどの大きさがある。それは巨
大な耳のような形をしている。デコボコと膨らんでいて、その膨ら
みの先が少し焦げていたりするのがそれが何とも香ばしく、練り込
まれているバターの香りと相まって食欲をそそった。
それを五枚も購入して馬車の中で食べることにした。
﹁では︱︱﹂
﹁じゃあ次はグラン武具工房に、武器の整備があるので。ゆっくり
でいいですよ、ご飯食べないといけないので﹂
﹁︱︱はい﹂
﹁一枚食べます?﹂
ランタンは哀れな御者にパンを一枚奢ってやった。
978
かっぽかっぽと馬車に揺られていく道は次第にガタゴトと荒れて
いった。職人街は材料の搬入や商品の搬出などの必要性があって道
幅が広く取られているが、高重量の荷物が行き交うが故に路面が消
耗している。
牽いている輓馬には少しばかり申し訳ないことしたな、と思う。
﹁美味しいね、これ﹂
パンを折って肉団子を掬い上げて一緒に食べる。
てめえこの野郎と言わんばかりの大量の肉団子が飯盒の中でごろ
ごろとしていて食いでがあった。味付けは朝っぱらから食べるには
いくらかも濃かったが、それに負けず劣らず肉そのものの味も濃い。
仕事前に食べれば気合いも入るだろう、とそう思わせるがつんとく
る味だ。
それを二日ぶりの食事としてがつがつ食べるランタンの隣で、リ
リオンは慎重に溢さぬようにと食事をしていた。もっと食べたいと
いう欲求と、溢してはいけないという緊張がせめぎ合っている。
ランタンは少女のぴったりと閉じられた太股の上にハンカチを置
いてやった。ランタンはランタンで忙しいので手ずから食べさせて
やる余裕は存在しない。ちょっと景色を見る余裕があるぐらいで。
車窓から眺める街並みはなかなか面白い。視点が高くなっている
せいか、見慣れている道の筈が新鮮な気分になった。次々と風景が
過ぎ去っていき、道行く人々が職人たちの姿になり、職人たちの姿
も移り変わってゆく。
洗練された姿からどんどんと無骨になっていくような、そんな気
がした。露出する肌の色が増え、筋肉の量が増え、辺りには金属の
音が響き出す。
馬は怯えていないだろうか、と小窓から御者の背中を見つめ、そ
の先で揺れる馬の尻尾を見つめた。馬は尻をふりふりとしていて、
・
なかなか可愛いものである。
・
﹁でも触れないんでしょ?﹂
﹁触らないだけです﹂
979
ランタンは自分が動物に好かれないことを認識している。触ろう
と近付けば牙を剥き唸り声を上げ敵愾心も露わに警戒される、と言
うわけではない。
ただ目に見えて怯えられるだけである。
小動物程度ならばランタンから逃げ出すのも身体を丸めて小さく
なるのも自由であったが、大型動物がそれを市街地で行うと事故に
繋がる。馬車を牽く馬が急に走り出しでもしたら大惨事であるし、
暴れずとも怯える動物を愛玩しても何も面白くはない。
撫でるからには喜びを与えたい。
テスさんの尻尾は良かったな、と口には出さず思い出す。飢えた
野良犬でさえランタンの前には姿を現しもしない。ランタンにちょ
っかいをかけてくるのは怖いもの知らずで低脳の大鼠ぐらいのもの
で、だがランタンには害獣を愛玩する趣味はない。
﹁怖いかなあ﹂
﹁怖くないよ。代わりに私を撫でてもいいのよ﹂
リリオンはいいことを思いついたとでも言うようににぱっと笑顔
になって、ランタンに頭を差し出した。ランタンは少女の膝の上か
らハンカチを取ると乱暴に汚れた口元を撫でてやった。リリオンは
綺麗になった唇を突き出してむくれる。
そんな少女を撫でる。リリオンは後頭部で髪を結っており、髪色
そうごう
と相まってそれは白馬の尻尾のようである。ランタンが尻尾の付け
根を揉むようにしてやると、途端に相好を崩した。
﹁んーふふ﹂
こうば
朝もわりと早いのでグラン武具工房の表玄関は施錠されていた。
しかし人の気配を感じることはできるので、工場の方では何事か
作業をしているのだろうと思われた。流石にここから更に裏手に回
ってくださいと命じるのも申し訳ないので、ランタンは御者に一つ
丁寧に断りを入れてから裏手に回った。
工場には職人たちが集まっていて、その中にはグランの姿もあっ
た。
980
グランは職人たちにあれこれと今日の作業を申し伝えているよう
で、ちらりと一瞬ランタンを見たがそのまま無視して朝礼を続けた。
やがて一人二人とグランの側から職人たちが離れていき、最後の一
人の尻を一発叩いて作業に向かわせるとようやくランタンたちを手
招いた。
﹁おはようございます﹂
﹁おう、おはようさん。運び屋雇ってくれたみたいだな。ありがと
うよ﹂
﹁いえ、そんな。面白い経験でした﹂
﹁ギルドから話は聞いてるぞ。大物だったみてえじゃねえか﹂
やったなあ、とランタンたちの成功をグランは喜ぶ。
﹁ええまあ、鯨にはほど遠かったですけどね。でも、グランさんに
このお話をいただかなかったら、ぜーんぶ迷宮に捨ててこなきゃな
らないところでしたよ﹂
そのことについて礼を述べるとグランは少し照れたようだった。
﹁まあ何にせよ、役に立ったんなら良かったよ。嬢ちゃんもお疲れ
さん。これで鉄でも何でも切れる魔剣が買えるな﹂
﹁はい⋮⋮、でもこれはランタンが買ってくれたものだから、もう
ちょっと使っていたいな﹂
えら
﹁そうかそうか。ああ、腕を磨くのも悪かないな。金に余裕ができ
りゃ時間にも余裕できるこったろうし。良工は材を択ばずって言う
しな﹂
﹁それグランさんのこと?﹂
﹁よくわかってるじゃねえか﹂
グランは嬉しげにリリオンの肩を叩いた。
火の入り始めたばかりの工場は何時ものような熱気はまだなく、
これから加工を待つ金属の冷たい匂いがした。
その金属の中に戦鎚と方盾、大剣が並んだ。
大電流を通電させた戦鎚はグランが眉を顰めるほどの歪みがあり、
まともに金蛙の蹴りを受け止めた剣と盾もなかなかに酷い有様だっ
981
た。
戦鎚の柄巻は焼け落ちていて、それはグランがひっそりと良いも
のを巻いてくれていたらしく雷撃の威力を物語っていた。その柄巻
の耐電性のおかげでランタンは知らず命を救われていたのかもしれ
ない。
今度はもっと良い素材を使用してもらうことに決め、リリオンの
武器にも同じ素材で処理を頼んだ。無論代金は一括で支払った。
﹁大剣はちょっと寸を詰めることになるな﹂
大剣は刃こぼれが酷く、研ぎ直すと刃渡りだけではなく身幅も狭
くなるようだった。リリオンは少し戸惑ったような表情を浮かべた
いとま
が、他に方法もないのでランタンが代わりに頷いてそれらをグラン
に預けた。
そしてお暇しようとしたら、グランはランタンの肩を抱いて引き
ずり込むようにして二人を応接室へと連れ込み、ぽいっとソファに
座せた。テーブルの上にお茶も用意してくれる。
﹁何ですか? 表に馬車を待たせてるんですけど﹂
﹁ギルドが用意したやつか﹂
﹁ええ、そうですが⋮⋮、太っ腹ですよね﹂
ランタンが戸惑いながらも頷くとグランは髭を揉みしだいて眉根
を寄せた。
﹁てことはまだ商工ギルドには行ってないんだよな﹂
﹁はあ、まあ、これからですけれど﹂
きょとんとしている二人を余所にグランは安堵するかのように、
豪快な老人にしては珍しく細い溜め息を吐き出した。
﹁馬車は待たしとけ。文句を言われたら俺が話をつける。それでま
あ、ちょいと聞きたいことがあるんだよ﹂
﹁聞きたいことですか﹂
﹁あーなんだ。今回の、運び屋派遣サービス使ってみてどうだった
よ﹂
それが馬車を待たせてまで聞きたいことか、と思わなくはない。
982
商工ギルド所属の人間として、あるいは利用する切っ掛けとなっ
た人間として、その仕事ぶりや評価が気になるのだろうか。グラン
はごしごしと髭をしごいている。
﹁率直な意見を頼む﹂
﹁うーん、良かったですよ。すごく。ねえ﹂
﹁うん、とっても。ケイスさんは優しかったし、色んなことを教え
てくれたもの﹂
それは運び屋ではなくケイス個人への感想で、ランタンは同意す
るものの少し苦笑しグランは困ったように髭を捩る。
﹁僕は他の運び屋を知らないので比較するようなことはできないで
すけど、運び屋としての能力に文句をつけるところはありませんで
したよ。まだ換金が済んでないのですけど、目利きには説得力があ
ったし、運搬能力もちょっとびっくりするぐらいですし﹂
最後に抱きすくめられたことを思い出しランタンは一瞬言葉に詰
まって、その事については飲み込んでおいた。あれはケイス個人の
行動で運び屋の能力とは無関係である。
﹁運び屋の他にもオプションがあったろ? そっちはどうよ﹂
﹁⋮⋮良し悪し、ですかね﹂
例えば野営具などの探索用品の貸し出しはランタンはとても評価
している。野営具をしっかり揃えるとどうしたって嵩張るし、探索
中は仕方がないものの探索をしていない時に保管しておくことが面
倒だ。それらはそれなりに値の張る物なので盗まれ出もしたら厄介
で、そういった保管の手間暇を考えると貸し出し代は安いと言える。
しかし先用後利の食料は少しばかり問題があるように感じた。
食事は荒んだ探索中の中で栄養補給以外にも娯楽の側面を持ち、
探索中の食事の豊かさは探索班の士気に直結する。直結するのだが、
いくら何でもあの積み込み量は多すぎる。
ランタンはそれに納得して契約した、と言うことになっている。
だがあれは邪推すると最初から食材を破棄させるための罠であるよ
うな気がした。
983
どうしたって食材より魔物の素材の方が高価なのである。それを
見越し、わざと過剰に食料を積み込み廃棄させることが狙いだった
と穿った見方をすることもできる。
良かれと思ってやったのだったら空回ったと言うことになる。
﹁僕の不注意でもありますけどね。⋮⋮まあ、契約時に一言声を掛
けてくれれば印象は良くなりますよね﹂
﹁もっともな意見だな﹂
﹁っていうか仕出し弁当でも作ってくれるともっと良いかもですね。
料理の手間が省けるし、そうすれば炭や耐熱材を持ち込まなくて済
むし。日持ちの関係もありますけど。⋮⋮完全密封容器とか作れな
いですかね。金属で﹂
﹁⋮⋮変なことを思いつくな、お前。ちょいと本部の方にその意見
を送っても良いか?﹂
﹁どうぞご随意に﹂
完全密封容器。それが缶詰となるかレトルトパウチになるかは知
らないが実用化されるのならばぱさぱさのビスケット地獄やらかっ
ちかちの黒パン地獄からは解放される。もっともランタンはその地
獄がそれほど嫌いではないのだが、何にせよ食事に多様性が出るの
ならば大歓迎だ。
﹁金属製なら作れば食べる前に湯煎するなりして火に掛ければ殺菌
もできるし、それぐらいなら火精結晶コンロで充分ですしね﹂
﹁でもちょっと味気なさそう﹂
リリオンが拗ねたみたいに呟いた。わたしが作ってあげるのに、
とランタンの袖を引っ張る。
グランはその様子に僅かに目を細めた。
﹁なるほど。運び屋は合格点、オプションはぎりぎり及第点ぐらい
か?﹂
﹁一考の余地あり、ぐらいでダメってわけじゃないですよ﹂
﹁そうかい。それで、︱︱また利用しようとは思うか?﹂
そう尋ねられるとランタンは黙ってしまった。だが沈黙は雄弁に
984
語り、グランが落ち込んだように髪を掻いた。ランタンは慌てて言
い訳を始めた。
﹁いや別に、あのですね。難しいところですよね。いて損になるわ
けではないし、利点の方が多いのですけれども⋮⋮﹂
ランタンとしてはそれを積極的に利用する理由を見いだせなくな
った。
莫大な利益を上げることで満足する人間と更に貪欲さを増す人間
がいるが、ランタンは前者であった。それどころか大きな利益は、
運び屋を雇わない理由にすらなった。
黄金を換金すれば取り敢えずしばらくは、あるいは質素倹約に過
ごすこととなったら一生働かなくても生きてはいけるぐらいの金額
にはなる。そんなつもりはさらさらないが、探索者を辞めたってい
い。
今まで通りに魔精結晶だけを持ち帰るだけの探索に戻しても何も
問題はなくなってしまった。
おもり
そして当初、ランタンが運び屋を雇った目的は利益の拡大ではな
く、背嚢を下ろすことでの戦力の強化であった。そちらの方は期待
するほどの成果は得られなかった。
﹁リリオンはどう?﹂
﹁ケイスさんは好きよ。でもちょっと変な感じがした、かな。ラン
タンと二人じゃないんだって﹂
その違和感はランタンも感じていた。
ランタンはケイスを探索班の一員として認識しようと努めてはい
たのだが、その努力こそがケイスとの壁の存在を明確に証明してい
た。違和感は容易にストレスとなり得たし、特に迷宮は平時に比べ
て精神的な疲労はたまりやすいものである。違和感に慣れるほど長
期間迷宮にいるわけにもいかない。
時間の壁を誰もがリリオンのように飛び越えられるわけではなか
った。
﹁⋮⋮人見知りも大概にしろよ。ったく﹂
985
二人揃って、と言われると自覚があるだけに返す言葉がなかった。
それもそうだな、と思う。
ケイスから話を聞いたり、盗み聞きをしたりしてランタンは己の
見識の狭さを知った。それは探索者は横の繋がりをもって日々様々
な知識を交換しているのだが、ランタンにはそれがないからだった。
ランタンは己が知ったことしか知らない。いくら多くの迷宮を潜
ろうとも個人の知識の集積などたかが知れている。
﹁ちょっと契約書を見せてもらえるか?﹂
﹁構いませんけど﹂
ランタンは丁寧に畳まれた契約書をグランに差し出した。すでに
一度アーニェにも見せているし、別に隠すようなものではない。商
工ギルドにはもう一枚の控えもあることだし、拒否しようともグラ
ンは控えを閲覧する権利を有している。探索者ギルドとは違って。
グランは契約条項を一つ一つ口の中で転がすように呟いて、とっ
ぷりと溜め息を吐いた。
﹁問題は坊主の性格と、契約に付随するサービスか﹂
﹁サービスというかオプション過剰?﹂
﹁過剰な、⋮⋮たしかにそうだな﹂
はっきりと言い放ったランタンにグランは困ったような苦笑を溢
した。
﹁でもそれを改めても次は無いか?﹂
﹁⋮⋮どうでしょうね﹂
ランタンは言葉を濁した。その問い掛けに対する肯定も否定もま
だ持ち合わせてはいなかった。グランは少しばかり性急だ。ランタ
ンが唇を結んで言葉を探すようにグランを見つめると、老人はバツ
が悪そうに首を揉んだ。
リリオンがそろそろ飽き始めている。きょろきょろと辺りを見渡
したり、身体を揺らしたり、ランタンをこっそり触ったりする。そ
れを察してか、それともランタンが次の契約をしないことを確信し
たからか、グランは気合いを入れるように膝を叩くと立ち上がった。
986
﹁じゃあ商工ギルド行くか﹂
﹁へ?﹂
﹁俺も付いてくから﹂
間抜けな声をと共に見上げたグランがどうにも苦い顔をしている。
ランタンはよたりと立ち上がり、リリオンがその背中を掴んだ。グ
ランの雰囲気の変化に驚き戸惑うように。
﹁えっと、グランさん? どうして︱︱﹂
扉を開けたグランが振り返った。
髭の中の口が言いたくなさそうに呟いた。
﹁娘の顔を見に行く﹂
今度は間の抜けた声すら出ることはなかった。
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067
067
花の香りに、鉄の臭いが混ざった。
グランが馬車に乗り込むと車体に仕込まれたサスペンションが不
満を漏らすように重く軋んだ。
広々としていた車内がたった一人増えただけで狭く感じる。還暦
を超えてなお鍛冶仕事で鍛え上げられたグランの肉体は、彼が鍛え
続けてきた巨大な鉄の塊そのもののようであった。
﹁結婚されてたんですね﹂
混乱からどうにか一歩抜け出し、反射的に尋ねてからランタンは
しまったと唇を噛んだ。混乱の中に浸かった片足が文字通りに足を
引っ張る。
グラン武具工房は居住区を備えており、工房からだと扉一つ分の
差でしかないが応接室よりも居住区の方が近い。グランの気分一つ
で商談用の応接室ではなく、居住区に通され茶をもてなされる事が
ある。
ランタンはそこに通されたことが何回もあっが、そこに女性的な
気遣いの気配を感じたことは一度もない。男やもめ丸出しの机に積
み重なった食器をランタンが流しに運んだり、見るに見かねて洗い
物をしたこともあるほどに。
離婚したのかな、それとも。
結婚し子をもうけた夫婦が離れ離れに暮らす理由は深く聞いても
面白いものではないだろう。離婚したならまだしも、もし死別して
いるとしたら車内の空気はこの上なく辛気臭くなる。それならばま
だこの金臭さの方がマシだ。痒み止めの臭いと相まって、多少車酔
いしそうな感じもあったが。
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﹁⋮⋮何を考えてるか知らねえが、別にあいつは死んじゃいねえぞ。
ただ別居してるだけでぴんぴんしてるからな﹂
﹁ああ、そうなんですか﹂
ほっとしたものの、よかった、とは口に出さない。別居はいいこ
とではないと思う。
﹁それで、その娘さんって﹂
﹁︱︱坊主が契約した奴だよ﹂
契約書、そこにある署名をグランは確かめたのか。
﹁⋮⋮でも、あれ? 名前は﹂
﹁エーリカだ。エーリカ・グラン・ヤニシュカ。気づかなかったか
?﹂
それがランタンが口に出すこともない説明女の本名のようだ。
グラン武具工房親方職人グラン・グランとは似ても似つかないが
正真正銘血の繋がった実子だそうで、初対面で自己紹介をされた時
は第一姓であるはずの父姓を外しエーリカ・ヤニシュカと名乗った
とランタンは記憶している。
あんまり仲良くないのかな、と思いながらも顔には出さない。
﹁だって似てないし、ねえ?﹂
﹁うん、にてない﹂
﹁⋮⋮あれにとっちゃ良いことだな﹂
苦手意識が先行してランタンはあまりエーリカ自体を注目して見
ていなかったが、なかなか美人だったような気がする。グランに似
なかったことは女である以上確かに幸運なことだったのだろう。グ
ランに似たとしたらたとえ女であっても髭が生えそうだ。
﹁あれの仕事ぶりはどうだったよ﹂
﹁え、あー⋮⋮真面目でしたよ﹂
ランタンは言葉少なげに明言を避けて曖昧な評価に終始した。印
象を語るとなるとどうにも苦手意識による負のバイアスが掛かるこ
とは目に見えていたし、さすがに親の前で娘の悪口は言えなかった。
だがグランはランタンのお為ごかしのような言葉から、本音を掬
989
い取ったようで苦笑した。
﹁それで、その真面目な娘さんに会いに行くって、何かあるんです
か?﹂
﹁なけりゃ良いんだがな。︱︱たぶんあれはなあ、坊主をどうにか
しようとすると思うんだ﹂
﹁ど﹂
﹁どういうことですかっ?﹂
グランの言葉にリリオンが噛み付くように前のめりになった。今
にもグランの胸ぐらを掴まんばかりに問い質すその剣幕は眉がキッ
とつり上がって凄味がある。だがランタンも、それを向けられるグ
ランも平然としたものだ。
二人揃って、まあ座れ、と落ち着いた様子でリリオンを宥める。
だがリリオンはまだ腰を下ろそうとはしない。
﹁だって⋮⋮!﹂
﹁おすわり﹂
﹁⋮⋮はあい﹂
リリオンが渋々腰掛けるのを見てグランが笑いを堪えながら口を
開いた。
﹁別に嬢ちゃんから坊主を取り上げるような真似はしねえよ。ただ
あいつは、坊主に騙し討ちを食らわせるぐらいの事はするだろうな
あ﹂
グランは事も無げに言ったが、その事に苛立ったのかリリオンは
座ったもののむっと眉根を寄せてグランを睨んでいる。ランタンが
宥めるように少女の背中をさすって首を揉んでやった。
首の筋肉が強張っていた。ぎりりと歯を食いしばっている。その
歯の間にエーリカの首を思うように。
﹁あれは昔っから追い詰められると物の分別をなくしていかんから
な﹂
﹁追い詰め⋮⋮て、ないよ?﹂
エーリカに追い詰められたことのあるランタンは胡乱げな表情を
990
浮かべてグランを見返す。
あの柔和な笑みを浮かべるエーリカに追い詰められるという言葉
は不似合いだったし、そもそもエーリカを追い詰めた覚えはなかっ
た。
﹁お、なんだ。結構高く買ってもらてるんだな、あいつ﹂
﹁だって契約書をご覧になったでしょう? あのオプションの数!
一方的にやられましたよ﹂
﹁ああ悪いな。だが悪気があってのことじゃねえんだよ。いやまあ
サービスを押しつけるってのはうまかねえんだが。⋮⋮あれは坊主
に最高のサービスをくれてやろうしただけだよ﹂
心の底から、それらを最高のものだと思っていたからこそ。
﹁でも、なんで僕なんかにそこまで﹂
﹁ランタンと仲良くなりたかったんだよ。商工ギルドは、エーリカ
は﹂
当たり前のように言ったグランに、ランタンははっとしてアーニ
ェの言葉を思い出した。
アーニェは契約書を見せた時になんと言っていただろうか。
商工ギルドはあなたと仲良くしたいのよ、とそう言ってはいなか
っただろうか。ランタンはそれを慰めの言葉だと受け取ったのだが、
もしかしたらそれは真実だったのかもしれない。
説明女は真面目すぎる性格だからこそ馬鹿正直に、用意できる最
高の商品を出し惜しみすることなくランタンに提示したのではない
だろうか。それを誘導と感じたが、そしてそれを選んだのはたしか
にランタンなのである。
商談を思い出す。
一方的にやり込められたとそう感じるのは緊張し空回っていたか
らではないか。商談を纏めることではなく、ただどうにか場を切り
抜けよう、逃げだそうとしていたせいではないか。
ふて腐れる子供のように選択を放棄したランタンに、エーリカは
ランタンの望むとおりを叶えたのではないか。言葉の通じぬ獣の意
991
思を汲み取ろうと努力して。
もしかしたらランタンの説明女に抱く感情は思い違いや、ある種
の責任転嫁でもあるのかもしれない。
疑いを持って見れば、警戒を持って望めば、全てが黒く見える。
好意は時に裏もあるけれど、誰も彼もが悪意を忍ばせているわけ
ではない。ランタンは少しばかり人の裏を見ようとしすぎるきらい
がある。他人のことなど何もわからないくせに。
﹁な、なあに?﹂
ランタンは表裏のなさそうなリリオンを見つめて、はっとして驚
いた表情のまま衝動的に少女の頭を撫でた。急に撫でられたリリオ
ンは今までむくれていたのだが、すぐに顎を引いて頭を差し出す。
さらさらと前髪が揺れて額を擽り、リリオンは糸のように目を細
めた。甘い息が漏れる。
この世は悪意に満ちているわけではない。
だが。
﹁僕をどうにかするって、なんで?﹂
﹁そう! そこよ!﹂
﹁リリオンうるさい﹂
撫でた手でぽんと叩く。
﹁うー⋮⋮﹂
﹁前も言ったが商工ギルドは︱︱﹂
迷宮を独占することによってほぼ一人勝ちの様相を呈する探索者
ギルドの牙城を崩すべく、商人ギルドと職人ギルドの二大ギルドが
一纏まりになるために設立されたという経緯を持つ。だがその内実
は二大ギルドの調整機構でしかない。
商工ギルドの設立するにあたって二大ギルドから資金と人材が提
供されているからだ。
結局商工ギルドは一纏まりではなく、ただ少人数の商人と職人を
建物の中に生み出しただけとなった。水と油のように混ざらなかっ
たのである。
992
そしてそれを打開するための人間がエーリカを含む十数名である。
﹁大抵は俺みたいに二つのギルドに所属してるんだが、あれは数少
ない純粋な商工ギルドの人間なんだよ﹂
それ故にエーリカは調整機構などと称される商工ギルドの現状を、
派閥争いを打開できない現実を憂いているらしい。大変ですね、と
ランタンはまるっきり他人事のように呟いた。
﹁まあ、あれが一人で頑張ったところでどうにもなるわけじゃねえ
んだが⋮⋮﹂
﹁グランさんは手伝ってあげないの? ランタンを騙すのはダメだ
けど﹂
難しい顔をして髭を揉むグランにリリオンがそっと尋ねる。
﹁⋮⋮職人ギルドにゃ職人ギルドでまあ色々あんだよ。俺らみたい
な武器職人に探索者は上得意だしな﹂
人が三人集まれば三つ派閥はできると言う格言の例に漏れず、職
けしか
人ギルドの中にもやはり派閥とやらがあるらしく、職人ギルドの中
でも武器職人は商工ギルド否定派が多いようだった。
だがそれでもグランが商工ギルドに入っている理由は。
﹁でも実は娘さんが心配なので商工ギルドに加入したり、僕を嗾け
たりしたわけですね﹂
ランタンは悪戯っぽくグランの逞しい二の腕を突っついた。
物凄く嫌そうな顔をされるがグランはむっつり黙り込んでいる。
ランタンはにやにやと笑みを浮かべ、物凄く恐ろしい顔で睨まれた
ので咄嗟に口元を隠した。
こうして馬車に乗り込んだのはランタンに助言を施すためではな
く、娘が一時の感情で過ちを犯すことを未然に防ぐためなのかもし
れない。
親子なのに、と不満げな顔を隠そうともしないリリオンがランタ
マスター
ンの言葉に表情を変えた。
しがらみ
グランにはグランの親方職人としての責任があり、責任は往々に
して親子の縁よりも強い柵となる。感情的にはどうであれ、感情剥
993
き出しに動くことのできないのが責任ある者の悲哀である。
﹁⋮⋮なに笑ってんだよ﹂
﹁笑ってないですよ、ね?﹂
﹁ね﹂
むずむずする口元を隠して頷き合う二人に、グランは髭の中で呻
き声のような悪態を吐き出した。
﹁でだ! あれは商工ギルドをどうにかしようとしている。そのた
めには骨子となるような企画が必要で、その内の一つが運び屋派遣
業なんだよ。あれはこの企画を成功させようと躍起になっている。
それで坊主の知名度に目をつけた﹂
グランはランタンを見つめる。太陽に目を焼かれぬように細めな
がら。
﹁いや、目が眩んだんだな、一目見て。坊主が商工ギルドに行った
のは偶然みたいなもんだし﹂
めえ
﹁仕向けたんじゃないんですか?﹂
﹁人聞きの悪いことを言うな。お前を操作できるやつなんざいねえ
だろうが﹂
そろそろ商工ギルドに近付いて、グランが指を二本立てた。
ろ
﹁考えられる企みは二つ。一つは無理矢理契約を続行させること。
坊主が運び屋を使うだけでそれなりに宣伝効果があるからな﹂
﹁宣伝ねえ﹂
は
﹁もう一つは商工ギルドそのものに引き込んじまう。そうすりゃ無
料で扱き使える﹂
﹁さすがにそんなのに引っ掛かるほど︱︱﹂
ランタンが拍子抜けしたように呟くと同時に商工ギルドに辿り着
き馬車が停車した。僅かに起こる揺れに言葉が途切れ、馬車の扉が
開かれてしまったので言いかけた言葉を飲み込んだ。
﹁︱︱せいぜい気を付けますよ﹂
そう言って降りようとしたランタンをグランが制し、何故だかリ
リオンを先に下ろした。リリオンはなにも疑問に思うことなく、ラ
994
ンタンの膝の上に向かい合うように跨がって、それから跨ぎきると
ぴょんと馬車を降りた。
その軽やかな背中を見つめているとグランが耳元に顔を寄せた。
﹁簡単に契約書にはサインをするなよ。まだちゃんと字読めねえだ
ろ﹂
﹁え︱︱?﹂
﹁文字の上を目が上滑りしてることなんざ、一目見りゃすぐわかん
だよ。︱︱おら行け、降りろ﹂
驚き呆気にとられているランタンは無意識的に立ち上がったが脚
は動かず、気合いを入れるようにグランに背中を叩かれ押し出され
た。オマケのように添えられた、迷惑掛けるな、の一言が虚しく響
く。
背中の傷が痛みを全身に広げ、ランタンは踏鞴を踏む間もなく馬
車から飛び出す羽目になった。
外には商工ギルドの建物があり、説明女ことエーリカの金髪があ
り、ランタンを待つリリオンの胸があった。近い、体勢を立て直す
隙間がない。
﹁ぶ﹂
ランタンが鼻から突っ込んだリリオンの胸は残念ながら緩衝材の
役割は果たさずに、さらなる痛みをもたらしただけだった。胸骨に
打った鼻がむずむずする。ランタンは赤くなった鼻を啜った。
そんなランタンを見て笑みを浮かべたエーリカの表情が目に見え
て凍り付いた。馬車からのそりと降りる親の姿を見つけて、まるで
毛むくじゃらの魔物でも降りてきたかのように驚いていた。あるの
は純粋な驚き。歓喜でも嫌悪でもない。
﹁なんで⋮⋮!﹂
﹁何でって事はないだろう。俺も商工ギルドの人間なんだからよ﹂
﹁どういうこと!?﹂
キッと視線を滑らせてエーリカが御者を問い詰めるが元の顔形が
優しげなのであまり迫力はないし、哀れな御者はそれよりも恐ろし
995
いグランに言いくるめられているので困ったように笑っただけだっ
た。混沌とした状況に笑うしかなかったのかもしれない。
ランタンは笑うどころではなかったが。グランの言葉が耳の奥で
響いている。
ランタンは文盲であることを恥ずかしく思っている。
全く知らぬ地に放り出されるようにしてやって来て、文字が読め
ないことは当然のことで恥ずべきことではない。だがそれでも文明
人としての余計な矜恃をランタンは捨てきれずにいた。
読めないことの当然を知っている人は己ばかりで、ランタンを評
価する他者は、ランタンが文盲であると知ればそれをただの無学と
して見るだろう。他人なんて関係ない、とは己を守るための建前で
しかない。
恥じながらも、どのようにして学習して良いかわからずに、目を
逸らすようにして避けてきた現実を突きつけられた。
文盲であることを今の今まで隠し通せていると信じ切って振る舞
ってきた己の過去を思い返して、沸き上がった猛烈な恥ずかしさと
情けなさで消えてなくなってしまいたかった。
いつから︱︱、と親子喧嘩をするグランを問い詰めたかった。そ
れが八つ当たりであるとわかっていても。
だがそれをしない。ランタンを抱きとめたリリオンの存在がある
から。
リリオンにはまだバレてはいない。それだけがランタンを支えた。
せめてこの少女の前ではしっかりしていたい。
グランがリリオンを先に馬車から降ろしたのは、ランタンの子供
じみて肥大化した自尊心を守るためだ。今だけではなく、今までも
ずっと。文字を読む振りをするランタンを笑った事なんて一度もな
い。
グランはランタンのオママゴトにずっと付き合ってきてくれてい
た。
ぶつけて赤くなった鼻を撫でて、大きく息を吸って心を落ち着け
996
る。
落ち着け、開き直れ、と自己暗示を掛ける。反省と対策は後回し。
戦闘時に痛みを無視するように。ランタンは奥歯を強く噛む。そう
すると自然に口角が上がり笑みを作る。
グランは強い味方だし、その娘もたぶん悪人ではない。
グランに突っかかっているエーリカは説明女という呼び名の商売
の鬼ではなく、ただのグランの娘であった。顔貌は似ていないが、
いか
こうして並んでいるところを見ると何故だか親子に見えた。
柔和な童顔を怒らせている様子は少しばかり子供っぽくも見え、
それを腕組みしてあしらっているグランはちゃんと父親をしていた。
苦手意識がなくなったわけではないが、エーリカに対するその意
識が少しだけ薄れた。
親子喧嘩に、とは言ってもエーリカが一方的に戸惑い驚いている
だけであるが、口を挟むのも野暮だとは思ったのだがランタンは埒
があかないので二人の間に割って入った。
﹁まあまあ、落ち着いてください﹂
それは自分に向けた言葉でもある。
エーリカは照れたように咳払いをして居住まいを正した。
﹁おはようございます、エーリカさん。お待たせしてしまったよう
で申し訳ありません﹂
エーリカは商工ギルドの前にいた。建物の中ではなく、外側でラ
ンタンたちを待っていた。ランタンが寄り道をしたせいで一向に現
れる気配がなく不安になったのか、それとも生真面目にお出迎えを
してくれたのか。
﹁グランさんに同席をお願いしたいのですけれど﹂
よろしいですか、と繋げようとした言葉が横合いから殴りつけら
れたように吹き飛ばされた。リリオンがランタンとエーリカの間に
割って入った。
﹁ランタンをどうする気!﹂
がるるるる、と涎っぽい唸り声を上げたリリオンがエーリカを睨
997
み付ける。武器は工房に置いてきたが、指を貫手に揃えたリリオン
の手は一般人を殺傷するに足る凶器である。探索者リリオンの闘気
を真っ正面から浴びた商人エーリカがぶるっと震えて後退った。
ランタンにとってみれば子猫の唸りにも等しいリリオンの威嚇も、
荒事に無縁な人間からすると虎のそれに匹敵するようであった。恐
怖で混乱している。いい気味だ、とはグランの話を聞くともう思え
なかった。
﹁こら、やめなさい。︱︱ごめんなさい、大丈夫ですか?﹂
固まっているエーリカに安心させるような微笑みを向けて、ラン
タンはリリオンの襟首を掴むとぐいっと後ろに引っ張り足払いをし
た。体勢を崩したリリオンが後頭部からランタンの胸に吸い込まれ、
優しく抱きとめられる。
ヘーゼル
その驚いた顔をランタンは覗き込んだ。上下逆さまの顔の中で、
なんで、と淡褐色目が語りかけてくる。
﹁どうもされないから、落ち着きなって﹂
﹁⋮⋮うん﹂
どうにもされないのは、グランの存在があってこそだ。今更なが
ら己の迂闊さにぞっとする。
これまで迷宮を攻略する度に、幾つもの書類に署名をしてきた。
その数の分だけランタンは望まない契約を強制される可能性があっ
たと言うことになる。署名を求めてきた相手がほぼ探索者ギルドと
引き上げ屋の二つであったことが、ランタンを救ってきた。
一つは規則化された組織であるが故に、もう一つはその誠実な人
間性によって。
人の裏を見ようとするくせに、用意された契約書には注意も払わ
なかった。詰めの詰めで人間の性善を信用しているのか、ただ暢気
なだけか、はたまた浅慮なだけか。
きっと、これまでの巡り会いが恵まれていたからだろう。
﹁ん、ありがとうね﹂
ランタンは己のために怒る少女を優しく立ち上がらせた。
998
エーリカは恐ろしいリリオンが途端にふにゃりと顔を緩めたため
に、その落差についていけないようだった。目をぱちくりさせてい
て、リリオンが身体を直角に曲げて頭を下げるといよいよ狼狽した。
﹁ごめんなさい﹂
﹁え、いや、あの⋮⋮﹂
﹁でもランタンのことをどうにかするって聞いたから﹂
心理戦も会話の応酬も、それどころか本当に企みが在るのかとい
う真偽を確かめることもなく、まどろっこしい駆け引きを丸ごとす
っ飛ばしてリリオンはエーリカの目をじっと見つめた。
直情的で単純な思考は往々にしてカモにされやすいものであった
が、この場ではひどく効果的だった。
エーリカの頬がさっと血の気を失い、目が泳いで思わずグランに
縋った。グランはエーリカをただ見守っている。己の娘がどのよう
な行動に出るのかを。
﹁どうしてそういうことをするの?﹂
戦闘時、奇襲に優る先制攻撃はなく、第一にグラン、第二にリリ
オンの威圧を受けて混乱しているエーリカは第三波であるリリオン
の純真無垢な視線に晒されて態勢を立て直す暇もなく呆気なく陥落
したのであった。
それはエーリカが性善であることの証明のようでもあった。商工
ギルド職員としての責任感や義務感が剥離した彼女は、ただ自らの
在り方に身を任せる。
様々なものへの苛立ちがあり、情けなさがあり、疲労と安堵も。
そういった複雑な感情がぽろぽろとした涙に混ざって頬を濡らし
た。グランがエーリカの金の髪を揺らした。
大人の女の人が泣くのを初めて見たからもしれない。
エーリカの話を聞いても働くのって大変なんだな、と思うだけの
ランタンはその涙に言葉を失うばかりだった。エーリカの苦労は想
像することもできなくて、ただ追い詰められるという言葉の意味だ
けを感じとるのが精一杯だった。
999
その衝撃も抜けきらぬままにランタンたちは商工ギルドの応接室
に通された。契約時と同じようにお茶と茶菓子が出される。
前回は落ち着いて味わうことができなかったので、ランタンは唇
を湿らせるようにちびちびとそれを味わっている。リリオンはラン
タンの皿からも茶菓子を掻っ攫い、それを口の中に放り込んでいた。
﹁食べても良いって言ったけどさ、一個は残しといてよ﹂
﹁これおいしい﹂
﹁それは良かったね。人の話聞いてないよね﹂
エーリカはさっぱりした様子で二人を見つめている。
一度泣いてすっきりしたのだろうか、ただでさえ柔和だと思って
いた笑みがいっそう柔らかく優しげである。グランは、もう大丈夫
だな、と言うと工房へ帰っていった。それはランタンに向けた言葉
であり、娘に向けたものでもあった。
馬車使っていいかと娘に尋ねて拒否されたが、歩いて帰るグラン
の背中は大きく格好良かった。
﹁まだ沢山ありますので、どんどん召し上がってくださいな。毒な
んか仕込んでありませんので﹂
ランタンはその冗談にぎこちなく笑った。
いい性格してやがる、と遠慮なく追加された茶菓子を口に含んだ。
塩味の強いクッキーはさくさくしているが、あまり油っ気が強くな
く口当たりが軽い。甘めの紅茶と合わせると無尽蔵に食べられそう
だ。
だがいつまでも飲み食いをしているわけにはいかない。
目の前には、真っ当な契約書と小切手が用意されている。
戦利品は昨日のうちに全て鑑定が終了して、今は商工ギルド所有
の倉庫に保管されていてこの場にはない。エーリカは現物と照らし
合わせますかと言ってくれたが、ランタンはそれを辞退した。騙さ
れかけたばかりであったが、エーリカを信用したのである。
と言うか鑑定額に文句がなかったのだ。
目の前の小切手に記入された金額は運び屋派遣サービスの利用料
1000
とその他諸々のオプション料、それと鑑定手数料をさっ引いたもの
であるのにもかかわらず、ちょっとばかり現実味がなかった。
ランタンもリリオンも思わず桁数を数えて、それから顔を見合わ
せて、取り敢えず再び茶を飲んだりしたのである。
﹁迷惑料とか入ってますか?﹂
﹁⋮⋮お望みでしたら、私費から出します﹂
ランタンは慌てて首を横に振った。すると今度はエーリカが問う。
﹁鑑定額はご不満ですか?﹂
﹁いえ、それはまったく﹂
不満のない契約書に署名を躊躇う理由はない。
ランタンは契約書を読む振りもせずに署名をした。少し力が入り
すぎて字が太く汚くなってしまった。エーリカはほっと胸を撫で下
ろすと、ランタンに小切手を渡した。換金額が膨大であるために現
金手渡しにはならない。
大ギルドなら可能ではあるだろうが、記入額の金貨を用意するの
がまず大変だったし、渡されたそれを銀行に運搬するのもまた同様
に大変である。小切手を銀行に持って行けば、そこに記入された金
額を口座に入金してもらうことができる。望めば現金にもなる。
﹁ランタンさま、リリオンさま。当ギルドのサービスをご利用して
いただきありがとうございました。︱︱今後、当サービスの継続利
用などは﹂
﹁申し訳ありませんが、今のところは﹂
﹁そう、ですか。それは私の⋮⋮﹂
﹁いや関係ないですよ。サービスも悪くはありませんでしたし。今
回の利益もこれを上回ることはそうないでしょうし﹂
﹁後学のために理由をお聞かせいただいても?﹂
﹁それはまあ、僕の性格によるものなので。参考にはなりませんよ﹂
人見知りだ、なんて言えるわけがない。色々な恥を晒しているが、
更に重ねることは躊躇われる。
その代わり今回の探索の雑感をエーリカには伝えた。良いところ
1001
と悪いところ、ランタンの感じたのその全てを。
運び屋派遣業は悪いものではない。良いものだったと断言できる。
まだ修正すべき点は多くあるが、それでも今回の探索の印象は良い
ものだった。
元探索者の受け皿としても機能するかもしれない、と言うような
ことも。
﹁ちゃんと知ってもらえれば、充分に広まると思いますけど﹂
そう言って締めるとエーリカは困ったような顔つきになった。
周知不足。
それこそがランタンを企みに嵌めようとした理由だった。
悲しいかな商工ギルドの運営資金は火の車らしい。二大ギルドか
らの出資で運営費の殆どを賄ってはいるが、商工ギルドの現状にそ
の出資も減額され、それ故に運営も粗雑になり、と負の連鎖に陥り
つつあるようだ。
それでいて成果を求められるのだからたまったものではない。こ
っそりと教えてもらったが先日の荷馬車も、今回の馬車もエーリカ
の私費で賄われたようだ。
経営難から脱却するための運び屋派遣業だが、一人前の運び屋を
育てるのには相応の時間と金銭を必要とし、探索者ギルドに張られ
た掲示物程度の広告費用を捻出するのに精一杯で、この企画自体も
負の連鎖に巻き込まれつつあった。
その打開策がランタンそのものなのであった。
﹁ランタンさま﹂
エーリカが机に手を突いて頭を下げた。
﹁私どもと広告契約を結んではくださいませんか﹂
﹁嫌ですけど﹂
一刀両断。ランタンは逡巡もなく答えた。
上げた顔が諦めと悔しさを噛み殺して歪む。
﹁契約とかは嫌ですけど﹂
ランタンはその顔に何気なく言う。
1002
﹁ちょっとお手伝いするぐらいなら良いですよ﹂
﹁本当ですか!?﹂
﹁ええ﹂
﹁でも、なんで﹂
信じられないとでも言うように丸い頬を押さえるエーリカにラン
タンは続けた。
﹁女性の涙に弱いので﹂
エーリカは頬を挟んだまま、まあ、と呟いて赤くなった。
1003
068
068
夕日が窓から差し込んで馬車の内側を赤く染めた。
ランタンがエーリカに向かって格好を付けてから十時間近くが経
過している。思い立ったが吉日とばかりに、ランタンは今まさにエ
ーリカのお手伝いをするべく移送されている。
お人好しと言うべきか、騙し討ちを食らわせようとした相手のた
めに。そしてグランへの礼としても。
車内に立ちこめる濃密な金属の臭い。加工されることで、金属は
かね
より一層生々しく香る。車内にあるグランの残り香よりも濃く、ま
さに金の臭いとしてそれは充満している。
金貨が夕日を反射して輝いている。ちかちかして目に痛いほどに。
夥しい枚数の金貨を納めた箱が座席に幾つも重ねられている。小
切手に記された金額そのものの枚数がここにあった。
それはエーリカが数時間の内に掻き集めたものだ。必死になって
駆けずり回り、時に頭を下げて、怒鳴りつけて、鬼となって言を弄
げんきん
し、ランタンの武威さえも借りて分捕り、集めに集めたそれは商工
ギルドが保有する虎の子の金貨である。
ランタンは硬貨特有の濃い臭いに胸焼けしそうで辟易していた。
嵌め殺しの窓を叩き割って換気をしたくなったりもするが、そんな
ことをすると計画が台無しになってしまうので我慢する。
それは大急ぎで組み立てた計画とも呼べない代物ではあるが、な
いよりはマシなのである。
割れ窓の馬車では充分な示威を望めない
人目を引く馬車はこの金貨を更に輝かせるための小道具である。
金貨で満たした箱をリリオンが崩れぬようにと押さえている。そ
1004
して箱を挟んで逆隣には探索直後の休暇を満喫していたパティ・ケ
イスが同じようにそれを押さえていた。
ケイスはランタンたちのように怪我こそしていないが、牽引によ
って酷使した肉体は疲労を痛みとして宿している。普通ならば死ん
だように眠っていても誰にも文句を言われない身分であったが、無
遠慮なエーリカの呼び出しにケイスは一も二もなく応えてやって駆
けつけた。
顔つきに疲労はあったが、それよりも緊張が目立っている。膨大
な金貨を目の前にしたからではない。これから古巣へと戻るからだ。
﹁ギルドには久しぶりですか?﹂
﹁ええ、まあ。⋮⋮探索者を辞める時、ギルド証を返しに行ってそ
れ以来ですね﹂
探索を辞めることと、探索者を辞めることは似ているようで少し
異なる。
ギルド証を所持している限り探索者は永遠に探索者だ。迷宮から
足が遠のいて久しくとも、酷い犯罪でも犯さぬ限りはギルドからギ
ルド証の返却を求められることはない。
それを自主的に返すと言うことは、完全に迷宮と決別することに
等しい。等しいとランタンは思っていたのだが、ケイスは結局迷宮
に戻ることを決意した。
﹁⋮⋮本来は私たちがやるべきだったんですけどね﹂
ケイスの言う、私たち、は商工ギルド所属の運び屋を指している。
運び屋の総数は実動に耐えうる者は十名、研修中の者が十八名いる。
少数精鋭と言えば聞こえがいいが育成費の不足と、ここでも足を引
っ張るのは周知不足の結果である。
そして実動に耐えうる者の内、その半数の五名が元探索者である
のは、それだけ元探索者が迷宮に戻るために足掻いたが故であった。
迷宮はなかなかに業の深いものである。
元探索者が昔の伝手を使って営業をかけることができれば、もう
少し商工ギルドの状況も変わっていたのかもしれない。だが彼らは
1005
再び迷宮に戻ることはできても、昔の仲間に合わせる顔を持たない
ようだった。負い目から、探索者ギルドには足を向け難いのだろう。
﹁そのせいでランタンさんにも迷惑を掛けてしまって申し訳ないで
す﹂
﹁特に迷惑というわけでは⋮⋮﹂
﹁エーリカに、私は気づくことができませんでした﹂
ケイスはエーリカから何も聞かされていなかった。
エーリカに連れて来られたケイスはそれを知った時に、驚き慌て
てランタンたちに謝った。まるで知らぬ事が罪であるとでも言うよ
うに。
結局エーリカの企みは実行されることなく破棄されたのだから、
ランタンは謝られても戸惑うだけだった。気にしないでください、
と本心から言ったのだが、気にしていないのはランタンばかりだっ
た。
グラン
ケイスは気づけなかったことを強く悔いていた。そしてそれを見
抜いた親に対して少しばかりの嫉妬心を持っているようでもあった。
女性特有の、友人に対する独占欲は幾つになっても失われないのか
もしれない。
あるいは企みがランタンの契約拒否を引き金にしていたことが、
ケイスに負い目を感じさせる一因なのかもしれない。自分がもっと
上手くやれていればランタンは契約を更新した可能性が僅かでもあ
る、とそのような思いを強く持っているようだった。
人見知りという己の子供じみた性質が申し訳なくすらあった。
けれども、とランタンは思う。
グランが間に入らなかったとして、エーリカは偽りの契約書をラ
ンタンの前に出しただろうか。
今となってはそれを確かめる術はないのだが、エーリカは結局用
意したそれを使わなかったのではないか。ケイスが気づかなかった
のは、その所為なのではないかと思った。
それはエーリカとケイスの間にある信頼関係が目に見えたからだ。
1006
﹁エーリカさんと仲良いんですか? 昨日も思ったんですけど﹂
少なくともエーリカはケイスに大きな信頼を抱いていると言うの
はわかる。だからこそエーリカはケイスをランタンの随行に選んだ
んだろうし、だからこそ極度の疲労状態であるとわかっているのに
もかかわらずケイスを頼ったのだろう。
そしてそれに嫌な顔一つ為ず応えたケイスもまた同様にエーリカ
を。
二人の立場だけを抜き出せば上司と部下だが、その関係は対等で
ある。友人か、それとも親友か。あるいはその遠慮の無さは家族と
言ってもいいぐらいに思えた。
﹁そうですね。友人か、⋮⋮んー、なかなか難しい関係ですね。エ
ーリカには拾って貰った恩もありますので﹂
ケイスはそう言って懐かしむように笑った。その笑みがケイスの
顔の中にあった緊張を打ち消した。
探索者を辞めたはいいものの、何をするでもなく飲んだくれてい
たところに現れたのがエーリカだとケイスは言った。
探索者を辞めても、すぐに身体が鈍るわけではない。魔精による
身体強化の影響で悪い酒でも殆ど酔うことのないケイスは、その事
への苛立ちもありエーリカに絡んでいったらしい。
﹁今思うと質悪いですね。酒に酔えればよかったんですが、その時
は苛立ちにこそ酔っていたんでしょう﹂
そして絡まれたエーリカは怯えるでもなく、ケイスを睨み付けた。
その時のエーリカは絡んでいったケイスがどん引きするほどにすで
に泥酔していたらしい。その頃既に商工ギルドの運営に困っていて
エーリカは酒に逃げていたようだ。
目が据わって、声が低く、呼気が酒精に濡れていた。
﹁私が酔っ払いそうなほど酒臭かったですよ。そのくせ口調がはっ
きりしていて。いやあ、あれは怖かったな﹂
そこからは始まったのは理路整然とした愚痴であったらしい。商
工ギルドの現状であったり、商人ギルドの守銭奴さにであったり、
1007
職人ギルドの頑固さにであったり。己の無力さであったり。心の底
の底までをエーリカは初対面のケイスに吐き出し、ケイスはケイス
で愚痴を聞くだけだと割に合わないとばかりに同じように心を晒し
た。
不幸自慢にならなかったのは、互いが喧嘩腰だからだった。酒を
煽る速度はどんどんと加速した。
﹁話してみないとわからないものですね。一人グラスを傾けるエー
リカはちょっとお高くとまってる感じがして私の嫌いなタイプに見
えたんですけどね。今よりだいぶ痩せてましたし。あ、これはナイ
ショでお願いしますね﹂
ケイスはしまったという顔を作り、結局は笑った。ランタンも釣
られるようにして微笑みながら頷く。
笑っていないのはリリオンばかりだった。しょうのない子、とラ
ンタンは手を伸ばす。
なおざりに箱を押さえるリリオンは夕焼けに目元を赤く染めなが
ら窓の外を眺めてふて腐れている。口角が不満を隠そうともせずに
下がって、結んだ唇がたまに震えように息を吐いた。
リリオンはランタンがエーリカを手伝ってやることを上手に消化
できずにいるようだった。ランタンのことを騙そうとしたのに、と
いじける頬をランタンは両手で挟んで持ち上げた。視線を合わせる
とリリオンはさっと眼差しを伏せた。
﹁ねえ、僕変な臭いしない?﹂
﹁⋮⋮ランタンは良い匂いよ﹂
痒み止めの軟膏はその異臭の殆どを揮発させたのか、ほぼ無臭と
言ってもいいほどに臭気を薄れさせている。だがそれでもランタン
の神経質な嗅覚は僅かに残る雑草を磨り潰したような青臭さを知覚
している。
だがそれでもランタンはそんな素振りは少しも見せずに、リリオ
ンの言葉を受け取って嬉しそうに頷く。それを見て閉ざされたリリ
オンの口元が僅かに緩む。
1008
﹁これから格好付けなきゃいけないからね。臭かったら台無しだよ。
せっかく身綺麗にしたのに﹂
身体を包む戦闘服は商工ギルドが用意したものだ。
既製品を仕立て直したものだが、それでも互いの身体に合わせて
ちゃんとした職人が手がけているために、小さいランタンの身体で
さえスタイルを良く見せる。もともと手足の長いリリオンに至って
は、どのような技術を使ったのかまるでわからないが胸が三割増し
で大きく見えた。子供同然の細っこい体付きではなく、まるっきり
女のようだ。
整備に出した装備は残念ながら間に合わなかったので、取り敢え
ず見栄えの良い装備を借りた。
戦鎚は竜革を巻いた束に、柄は白鉄。柄頭は獅子の頭部を模して
たてがみ スパイク
あった。鎚頭は獅子の口に加えられた黒曜石で、反対は鶴嘴ではな
く放射状に逆立った鬣が棘星となっている。性能面ではさておき、
価格だけで言うとランタンの愛用する戦鎚よりもデザインの分だけ
高価である。
そしてリリオンは白鞘の美しい大刀を借りている。それを肩に立
てかけている様子は、まるで三日月を担いでいるようだった。夕焼
けに燃える。それは日が落ちる前に輝き出すせっかちな月である。
ランタンは片手をリリオンの頬に残したまま、夕日に濡れる己の
黒髪をくるくると人差し指に巻いた。濡れタオルで拭くだけだった
髪も洗った。流石に怪我もあって風呂にはまだ入れなかったが、露
出する皮膚は徹底的に清めてある。
だが青白い頬はそのままだった。
化粧でもして誤魔化そうかという案もあった。だが盗み聞きした
ケイスの言葉が真実ならば、この青白い顔の方が受けが良いのであ
る。ランタンはこれから変態どもと対峙しなければならないのだ。
ランタンはやけくそ気味に喉を震わせて笑う。せいぜい弄んでや
るさ、と強がる。
その艶然とした笑みに、容易くリリオンが弄ばれて赤面した。ラ
1009
つつ
ンタンは調子に乗って少女の頬を撫で、唇を突き擽る。
﹁ほら、笑って﹂
じっと見つめるランタンにリリオンは恥ずかしそうに微笑んだ。
可愛いよ、とランタンが甘ったるい声で言う。ケイスが寒気を堪え
るように腕を擦った。
﹁ランタンさんは、いつも通りでも充分でしたでしょうに⋮⋮﹂
ケイスは少し引いていた。呆れるようにランタンを見つめて、リ
リオンに同情的な視線を寄越した。
﹁やるのなら徹底的にやらないと勿体ないですからね。せっかく下
準備もしてあるようですし、最大戦力をつぎ込まないと。それにケ
イスさんの凱旋でもありますからね、せいぜい派手に行きましょう﹂
お手伝いの内容は単純で、それはひたすらにランタンが目立つこ
とにある。ランタンは己にどれほどの広告的価値があるかは半信半
疑であったが、取り敢えずエーリカの言葉を信じてみたのだ。徹底
的にやらないと、半信半疑が二信八疑ぐらいになってしまう。
それにエーリカは、ランタンを引きずり込むための布石を既に幾
つか打っているようだった。
一つは金蛙の脚を積み込み街中を闊歩した大きな荷馬車であり、
もう一つが朝に迎えに来た、そして今現在乗車しているこの馬車で
ある。
荷馬車はこれほどの獲物が揚がったぞと辺りに喧伝することを目
的としていた。
ケイスに支給された肉体活性の魔道薬はそのためのものだ。普段
ならば諦めるほどの重量を、ケイスの肉体の限界ぎりぎりの超重量、
大容積を持って帰らなければ探索者たちに見せびらかすことはでき
ない。
そしてその目論見は成功した。最終目標が何であるかは完全に運
任せであったのだが、それがランタンの運なのか、それともエーリ
カの苔の一念が実を結んだのかはわからない。
見栄えの良い魔物。例えば竜種に代表される討伐難易度の高い魔
1010
ゴーレム
物。物質系ならば一目で逸品とわかる高機動鎧。呆れるほど巨大な
人形。
そうでなくともどこからともなく良い匂いがするとか、七色に発
光しているとか、大音量で鳴り響いているとか。
何でも良いから目立つ物をと願った末に現れたのは黄金、の偽物
だった。
偽物でもエーリカの目には本物以上の輝きに見えたようだ。ラン
タンが勘違いしたように多くの探索者はそれを黄金だと認識し、疑
いの眼差しを持つような目の良い探索者もなおのことその重さを持
ち帰った手練に関心を抱く。
そして第二の布石は、誰がその獲物を捕らえたのかを知らしめ、
パレード
同時にランタンと商工ギルドの関係を広めるような意図があった。
ランタンを荷馬車に乗せての凱旋、翻る旗、探索者ギルドに横付
けされる馬車。
ランタンがその探索手法から魔精結晶ばかりを持ち帰ることは多
くの探索者に知られていることである。そのランタンが黄金を持ち
帰ったとなれば噂は一気に広まる。一体どこの運び屋を雇ったのだ、
とエーリカの目論見通りに。とは残念ながらいかなかった。
ランタンと黄金と商工ギルドをキーワードとして広まるかと思わ
れた噂は、残念ながら最も重要な商工ギルドという言葉が抜け落ち
てしまっていた。ただランタンが黄金を揚げたぞと、そればかりで
あったらしい。
昨日の今日なら仕方がないだろうと思うのだが、どうにも周知が
足りないのは派遣業のことばかりではないようだ。
﹁⋮⋮まあ商工ギルドのギルド旗を見てもぴんと来る探索者は、⋮
⋮少ないでしょうね﹂
少ないではなく、いないのだろう。
ケイスは苦笑いをしている。知られていないものを語る者はおら
ず、よしんば少数知っている者がいたとしても、その言葉はより大
きく輝く二つの言葉に掻き消されてしまう。
1011
たか
それだと困るのが私費で馬車を用意したエーリカで、ランタンだ
った。
噂が広まれば破落戸同然の探索者に絡まれ、集られる未来が目に
見えていた。それらを無視することは簡単だがあしらうことは難し
い。
奴らときたら意地汚い乞食どもより質が悪いのだ。施しをくれて
やる理由などどこを探しても一つも見つからないのにもかかわらず、
恵んでもらえることを当然と思っていて、それが貰えないとわかる
と口汚く罵ってきたりもする。正直殺してやりたいし、人目のない
下街辺りで絡んできたら殺している。が奴らは狡猾で、人目のある
ところでしかそれをしない。
己がひもじくて、金が無くて、哀れな生き物であることを周囲に
見せつけることに抵抗がないのだ。彼らに同情を抱くものは多くは
いないが、けれど少数はいてランタンを責めることもある。
そして絡まれていると正義漢ぶった探索者がやって来てそいつら
を追い払ってくれるのだが、代わりとばかりに正義漢がランタンに
絡んでくる。困っているところを追い払ってもらった恩もあるので
ランタンは彼らをあまり無碍にできないが、そうなると彼らは彼ら
で調子に乗り出す。やはり鬱陶しくて、殺してやりたくなったりも
する。
そういった予想される困難の矛先を逸らすためにも、ランタンは
エーリカを手伝うのである。
黄金が衆目に晒された昨日の今日、噂は広まりかけていると言っ
たところだ。導火線に火がついたこの状況で、爆発を操作すること
ができるのは今しかなかった。
面倒事は纏めて吹き飛ばすに限る。輪唱のように次から次へと絡
んでくる者の相手をするぐらいならば、探索者どもを一網打尽にし
てまとめて商工ギルドに押しつけてしまおうと言うのがランタン望
みであり、それこそがエーリカの望みでもある。
それにランタンはちょっと見知らぬ人間と話をしたい気分でもあ
1012
った。もしかしたら、と思うことを確かめるためにも。
甘噛みされる指先をランタンは唇からそっと引き抜いた。リリオ
ンに笑いかけ、ケイスに頷きを送る。馬車が停車して、一秒、二秒。
時間がゆっくりと流れるようだった。二人が腹を括るようにランタ
ンに頷き返した。
馬車の扉はまだ開かない。圧力を高めるように閉ざされた扉の外
側に、不躾な視線が幾つも突き立っているのがわかった。
探索者ギルドの目の前で、暇を持て余す探索者たちを引き寄せる
ためにたっぷりと馬車は停車し、沈黙する。好奇心を煽るように勿
体ぶって。
そしてついに最後まで付き合うこととなった哀れな御者が、やけ
っぱちも同然に一流の舞台役者もかくやとした堂々とした立ち振る
舞いをみせた。王どころか神を出迎えるように恭しく扉を開く。
ランタンは馬車の中で堪えきれぬように笑い声を漏らした。
﹁︱︱さあ行くか﹂
その声を合図にまずケイスが馬車から降りた。どさりと地面に下
ろされた折り畳みの台車が、バネ仕掛けによって自動的に組み上が
った。ケイスが台車に足を掛けて、引き手を強く引っ張るとパキン
と音を立てて各部が固定される。
それは台座だ。光り輝く宝石を抱かせるための。
馬車の周囲には充分な数の探索者がいた。朝に見た馬車のことを
知っている者も何人もいるようでざわざわとしている。
ケイスが馬車の外から手を伸ばし、金貨で満たされた箱を手に取
った。ご丁寧にも蓋は取り外してある。せっかくきらきらしている
物を隠すのは無粋だとでも言うように、恥知らずの女のように開け
っぴろげにしている。
男どもの視線は釘付けだ。
まず一つ、箱が台車に積まれる。じゃらん、と乱暴に積まれて箱
の中で金貨が身じろぎをするように音を立てた。衣擦れならぬ金擦
れの音色に誰かがゴクリと唾を飲んだ。そしてどよめきが広がる。
1013
﹁あれ全部そうか⋮⋮?﹂
もう少し勿体ぶった方が良かったかな、とてきぱきと働くケイス
をランタンは見下ろした。
ケイスはやはり緊張しているようだった。馬車を取り囲む探索者
の方を一度も振り向かず、ただひたすらに積み出し作業をしている。
作業に没頭すれば、たとえそれが振りであったとしても平静を装う
ことぐらいはできる。
﹁おお⋮⋮!﹂
ただのどよめきが感嘆に変わった。金貨の詰まった箱が一つでは
終わらず、二つ、三つと重ねられていくのだ。そのどれもが底が抜
けそうなほどに重たく、表面張力でも発生させそうな程に満たされ
ている。
高額鑑定は週に一つ二つと出ている。だがその場合は小切手を渡
されるだけで、現実に目にする金貨は引き出して持ち歩ける分だけ
だ。祝い酒を飲むために酒場を貸し切ったとしても、革の袋に詰め
込んで片手に掲げて重たげにする程度の枚数でしかない。
それに高額換金は週に一つ二つ出ていても、超高額換金ともなる
と年にそう何回もない。その何回もない内の一つが、まさに探索者
の目の前にあった。
ふふふ強欲な豚どもめせいぜい集まって目を眩ませるがいいさ、
とケイスが緊張するようにランタンもこっそりと混乱しているのだ
った。
辺りには黒山の人だかりができている。予想よりも人の集まりが
早かった。迷宮に行けよ、と元も子もないことを思う。
ケイスばかりに視線を集中させてしまっては可哀想であり、どう
せ衆目に晒されるならばさっさと飛び出して腹を括りたかった。
だがそれでも最後の一箱が頂きに積まれるまでランタンは堪えて
いた。いよいよ、と思って顔を上げたらリリオンの顔面が蒼白にな
っている。
いっぱいいる、とまるで不快害虫の大群でも見つけてしまったよ
1014
うな怖気のある声で少女は呟いた。その瞬間ランタンは背筋が伸び
た。
﹁留守番でも良いよ﹂
混乱を隠し、不敵に笑う。それは本心だった。けれどリリオンは
首を横に振った。
﹁⋮⋮行く﹂
﹁よし上等。蹴散らしてやろう﹂
﹁うん、みなごろしね﹂
発破を掛けるとリリオンの気合いは空回りをして、だが恐怖も何
もかも混乱の中でどろどろに溶けた。ランタンもリリオンも何故だ
か競い合うように馬車から飛び出した。リリオンは戦意満々と言っ
た様子でさっと周囲を一瞥し、ランタンは跳び出した勢いとは裏腹
に堂々とゆったりとした佇まいでいた。
この程度の光景は当たり前だとでも言うように。
どよめきが急に凪いで、しんと静まったかと思うと喧しいほどの
視線がランタンに突き刺さった。ふ、と息を吐く。頬に貯めた淀み
を吐き出すと、丸い頬が顎先にまでほっそりとした線を描いた。
戦闘時ほど完全に意識を切り替えることはできていない。
だが意識を集中させて一心不乱になれば、たとえそれが振りであ
っても平静を装うことはできる。
リリオンの前で格好を付けること。
ランタンは金貨の燦めきに手を伸ばした。
碁石でも摘まむように人差し指と中指に金貨を一枚拾い上げる。
ねっとりとした視線がその燦めきを追った。事も無げな動作でそれ
が置かれる。打ち合わせのない行動だったが、それでも知っていた
かのように仰向けにして差し出された御者の、白い手袋に包まれた
掌に。
﹁ありがとうございます﹂
﹁︱︱帰りもよろしく﹂
掌が拳になり、それが握りしめられると悲鳴が上がった。
1015
箱一杯の金貨の内、たった一枚。
けれどもそれで買えるものは様々で、一般市民であったら一家族
が一月の間、全く飢えることなく過ごすことができる。探索者的に
表現すれば、それなりに効果のある魔道薬が一服購入できる。その
一服を用意していたおかげで生き延びる探索者がいたり、その一服
を惜しんで死んでしまう探索者がいたりする。
金貨は一般市民にはあまり縁のない高額貨幣だが、探索者とそれ
らを相手に商売をする者たちには見慣れた物だ、だが、たった一枚
とは言え気軽に渡すような物ではないということに変わりはない。
ギャラリー
不公平がないように後でケイスにも渡さなければ。いや、今渡し
た方が効果的かな、などとランタンは混乱渦巻く群衆の事などお構
いなしに、それらを更に混乱の渦に叩き落とすようなことを考えて
いた。でもちょっと下品だったかな、とも。
しかし探索者たちにはこれぐらいわかりやすく下品な方が受けが
良いようだった。悲鳴がやんやと喝采に変わる。俺にもくれ、とか
なんとかそんな下品なヤジが飛び交って、けれどもランタンたちは
遠巻きにされている。
金貨の山に目が眩んで突っ込んでくる者はいない。それを奪った
ところで逃げ出すことはできないし、みなごろし、の言葉の通りに
周囲へと殺気を撒き散らすリリオンの左手は大刀の柄にそっと添え
られている。間合いに入った者を斬る、と無言で叫んでいるような
ものだった。
ランタンは前に出されたリリオンの右の太股を叩いた。落ち着か
せるというのもあり、そのままでは抜刀時に自分の足を切りかねな
いからだ。そして叩いた手を大刀の柄に掛けて、腰に差した刀を寝
かせた。
花が萎むようにリリオンの殺気が霧散していく。
﹁さ、行くよ。ケイスさんもね﹂
ランタンが探索者ギルドを真正面に見据えると、不可視の力が働
いたように探索者が道を空けた。引いてくれる彼らに小さな会釈と
1016
笑みを。
予定では先頭はケイスの筈だったが、ランタンが先を歩いた。ケ
イスとリリオンが並んでその後ろを付いてくる。
注目を集めて歩く。規模の大小はあれどランタンはそれが初めて
のことではなかった。相変わらず気分の良いものではない。いつも
と違い今回は自らが望んでそうなっているのだが、まるっきり見世
物も同然だった。
それでもランタンは顔色一つ変えなかった。
金の匂い、儲け話の匂いを嗅ぎつけた探索者たちがランタンたち
の後ろを付いて、同じようにギルドへと足を踏み入れる。開け放た
れた扉から夕日が逆行となって群れを照らす。
エントランスホール
先頭に立つランタンは炎の中から生まれたかのようである。
ぞろぞろと群れを成すそれはなんとも奇妙な光景で、玄関口広間
にいた探索者たちが何事かと騒ぎ出した。事情を知っているお節介
な探索者が、話を伝播していく。
顔色一つ変えないランタンはけれど内心に混乱の萌芽を感じ取っ
ていた。視線が痛い。
収拾つかなくなりそうだな、と半ば諦め気味に、そして残りの半
分は真面目さからくる責任感に駆られながら思う。
エーリカの気持ちが少しわかった。
追い詰められるというのはこういうことだ。真面目さが混乱によ
って暴走し、馬鹿みたいな思考に走る。いざとなったら本当に全員
を蹴散らしてやろう、とランタンは心に決めた。みなごろし、にす
るかどうかはまだ決めていない。
けれど。
やるんなら徹底的に。ランタンは口の中で言葉を呟く。
お手伝いは始まったばかりだ。
1017
069
069
手強そうなのは三分の一以下で、群衆の大半を占めるのはまだ経
験の浅い若い探索者だった。とは言ってもその誰もがランタンより
も探索者歴は長いのだが、彼らは厳つい見た目とは裏腹に未だに子
供のような純真さを抱えていた。あるいはそれを捨てきれずにいる。
探索者になろう、とそれを目指した時に思い描いた夢。ケイスが
諦めたもの。
仲間と共に迷宮を跳梁跋扈する魔物を切り伏せ、その腹をかっさ
ばいたら何故だか溢れる金銀財宝をしこたま持ち帰って凱旋する。
すり切れるほど読んだ絵本の中でしか見たことのない、夢のような
姿を目の当たりにして子供のように興奮している。
そして残りの中堅以上と、早々に夢から覚めた若い探索者たちの
視線は彼らと比べるとやや冷ややかだった。ランタンの姿をまるで
魔物でも見るように見つめている。
その牙は脅威になるのか、その爪はどれほど鋭いのか、その外皮
はどれほど硬いのか、魔道は使うのか、それとも火炎器官等を所持
しているか。そんな風に相手のことを探るのは探索者としては常道
である。
だがそれでも、ほんの僅か、金貨の輝きに目を奪われているのも
事実だった。
冷ややかなのはむしろそんな己に気づいていて、冷静であるよう
に努めているためだ。どうやってやっつけてやろうか、どうやって
儲け話を聞き出そうかとその計画を練っている。
食いつきは充分。あとは針を口唇に深く突き刺すタイミングを待
たなければならない。これで自分から話しかけに行ってしまっては、
1018
ただの教えたがりどころの話ではなく完全なる商工ギルドの手先で
ある。
本人は全くそう認識していなかったが紛う事なき商工ギルドの手
先であるランタンは群衆を引き連れて歩く。左右に割れてその様を
見つめる探索者たちがランタンが通り過ぎると、雪崩れるようにし
て群衆に加わる。それはファスナーを引き上げて左右をかみ合わせ
るように、幅広いギルドの廊下を塗りつぶした。
結構多いから皆殺しは少し難しいな、とランタンはぼんやり考え
ていた。
ケイスとリリオンを逃がすためにはどのような行動が正解だろか、
と続ける。群衆の真ん中に飛び込んで全力全開で爆発を巻き起こせ
ば、どれぐらいを巻き込めるだろう。建物を同時に崩せば半分ぐら
いは、しかしそれだと二人を巻き込むか。撤退戦はなかなか難しい
な、なんて。
﹁いっぱい見られてるよう⋮⋮﹂
背中越しにリリオンの不安げな呟きが聞こえる。ランタンがごく
自然に歩調を緩めると、ケイスもそれに合わせて歩調を緩める。リ
リオンだけがまるで目の錯覚のようにランタンの隣に並んだ。
﹁見てるのは金貨で、僕らじゃないよ。せっかくお洒落したのにね﹂
残念だよ、と冗談めかして囁くランタンだったがリリオンは目を
きょろきょろさせて辺りを見ている。大きな目には警戒心が露わに
なっていて、不安げな口調とは対照的に好戦的な光を帯びていた。
ランタンはその様子に肩を竦める。尻の一つでも叩いてたきつけ
たら、リリオンは今にも鯉口を切りそうだ。その大刀は鞘こそ美し
いが中身はナマクラの飾りである。リリオンの膂力でぶん回せば雑
魚探索者の二、三人を撲殺できるかもしれないが、四人目を打つ頃
には半ばからぽっきりと折れているだろう。
﹁こんな人目のあるところで手出ししてくる奴なんかいないよ。ね
え、ケイスさん?﹂
軽い口調で背後に声を掛けたが、ケイスは生返事を返しただけだ
1019
った。こっちもか、とランタンは僅かに首を回して振り返り、足り
ない角度を眼球運動で補った。
﹁膝、硬いですよ。転ばないように気を付けてくださいね﹂
﹁︱︱面目ない﹂
ランタンは注目好奇の視線が大嫌いだったが、それに慣れている。
苛々を馬鹿な想像で発散させるのも視線を無視するためにランタ
ンが生み出した一つの防御法である。話しかけられたり肉体的接触
があるとランタンは途端に思考が停止してしまい、慣れる暇もなく
逃げ出してきたのだが、逃げ出すことができる会話と違って視線か
ら逃れることが難しかった。
視線は雨のようにランタンの身体を遠慮なく打ち据えて体温を奪
う。ランタンは打ち続けられることで自然と耐性を身に付けたので
ある。そうしなければ大げさな話ではなく死んでいたかもしれない。
何もかも嫌になっていたかもしれない。
そして今、会話からも逃げてばかりではいられない、とランタン
は思うのだ。
運び屋派遣業の契約をした時、エーリカはランタンから全てを毟
り取ろうとしたわけではない。それはランタンの怯えが作り出した
大げさな被害妄想に過ぎない。
群衆が探索者を飲み込みながら肥大化し、ちょうど百人目をその
一部とすると同時にランタンたちは銀行施設へと足を踏み入れた。
その瞬間に警備担当の武装職員が反射的に腰の獲物に手を伸ばし、
臨戦態勢となる。いつでも跳びかかれるように膝を曲げ、腰を僅か
に落とす。
欲望に目をぎらつかせる集団が押し寄せたのだから無理もない。
ケイスを振り返った時に視界に入った群集はまるっきり野盗の集団
のようであった。それもかなり質の悪い。一網打尽にしたらいくら
か世界が平和になりそうだ。
探索者を見たら犯罪者だと思え、と言うのは流石に言い過ぎであ
ったがそれでもやはり探索者の犯罪率は高い。元探索者も、現探索
1020
者も、あるいはまだ探索者ではないがいずれ探索者になる者も。
武装職員の戦意にリリオンとケイスがたじろぎ一瞬だけ、足が止
まりそうになる。だがその瞬間にランタンの頭が小さく頷く。それ
は会釈だった。
戦意がまるで微風のようにランタンを巻いて、そのまま後ろに流
れた。
ランタンはそのまま武装職員を素通りした。
野盗の集団を扇動しているのは紛れもないランタンだったが、そ
の何気ない仕草に武装職員はランタンとリリオンとケイスをするり
と通してから思い出したように、なんだテメエらやんのかコラ、な
どと怒鳴り抜刀して群衆を通せんぼした。
﹁どどどどうしますか?﹂
ケイスが慌てたが、ランタンは平然としたものである。
﹁悪さをしてるわけじゃないから大丈夫でしょう。解散させられた
としても、きっと待っていてくれますよ﹂
人は欲望をなかなか諦められない生き物だ。
探索者が群れを成し、そこには熱気がある。基礎代謝もさること
ながら、探索者の欲望は大きい。
冷静になる時間はあった方がいいだろう、と思う。制御しきれな
い群衆ほど恐ろしいものはない。群集心理は人を容易く獣に変える。
人間とも上手に話すことはできないのに、獣と会話をするなんてい
うことはランタンには不可能なのである。
背後では怒鳴り声が聞こえた。ほうらね、とランタンはしたり顔
だ。その怒声は獣の咆哮である。
もともと銀行施設内にいた探索者たちが武装職員と群衆の押し問
答に目を向ける。
群衆の中にもさすがに武装職員に、物理的に喧嘩を売るような阿
呆はいないようだった。銀行施設内で職員以外が武器を抜けば刹那
の猶予もなく斬って捨てられる。運が良ければ警告を与えられてか
ら斬られることもあったが、結局斬られることには変わりはない。
1021
群衆を見つめる視線が、燦めきに誘われて金貨に焦点を当てた。
同時にリリオンが指を指し、ランタンが呟いた。
﹁あ、窓口空いてる﹂
﹁わたし行くね!﹂
﹁⋮⋮ここも変わりませんね。相変わらず武装職員はおっかないし、
窓口の数は少ないし﹂
群衆と切り離されることで、辺りを見る余裕ができたのかケイス
が感慨深げに呟く。
利用者の数に比べて窓口の数はたしかに少ない。武装職員が目を
光らせて列を作ることを徹底しており、割り込み等の揉め事はそう
そう起きないし、職員の手際は効率化されて流れ作業のようであっ
たが毎度毎度混雑している。
空き窓口があることは珍しい。もしかしたら何らかの理由で一旦
閉鎖されていた窓口が再開したのかもしれない。何にせよ幸運であ
る。
その空き窓口目がけてリリオンが身軽にびゅっと駆けていく。そ
して窓口を押さえると踵を視点にくるんと振り返って、ぶんぶんと
手を振った。
﹁ランターン!﹂
その声に金貨に集まった視線が全てランタンに注がれる。流石に
悪目立ちと言わざるをえないが、ここまでくるといよいよ本格的に
腹が据わって開き直ることもできる。エーリカを手伝うことを不満
げに思っているくせになかなか良い仕事をするじゃないか、とラン
タンは笑う。
少し前に撤退戦のことなどを考えていたことなどすっかりと忘却
の彼方に追いやった。
﹁ありがとうね﹂
リリオンを撫でて褒めてやり、ランタンは窓口に向かい合った。
窓口の向こう側にいる職員が怪訝そうな顔した。その位置からでは
ケイスの運ぶものが何なのか、きちんと認識することができないの
1022
だろう。
﹁入金お願いしますね﹂
受付台に箱が積まれた。職員がそれを覗き込み頬を引きつらせる。
もう一つ箱が隣に並べられる。職員は引きつらせた頬を強張らせた。
その上にもう一つ。職員は後ろを振り返って助けを求める。追加。
受付台の向こうに起こったざわつきは悲鳴に似ている。
金貨なら見慣れているだろうに、とランタンがきょとんとしてい
ると受付女性の背後から上司であろう男がすっ飛んできて三人に取
り繕った微笑みを浮かべた。額に皺がある。笑顔が硬い。
少々お時間を頂きたいので別室でお待ちください、とか何とか。
わき起こった悲鳴はつまり、受付台に並べられ、まだ床に三箱残
っている金貨を数える事への悲鳴だった。この糞忙しい時になんて
事しやがるんだ、とか、どうして小切手じゃないんだよ、とか、め
んどくせえ、とか。きちんと教育された彼らは一言も文句を漏らさ
ないが、何ともうんざりした顔つきを見ると心の内側が透けるよう
である。
枚数を自己申告しようとも、それを認められるわけではない。当
たり前のことだ。偽証も勘違いも容易に起こりうることなのだから。
ランタンは金貨を踏み付けにするように、その上にギルド証を置
いた。
火を付けたように慌ただしくなる職員たちを横目に見て、ランタ
ンは申し訳なく思いながらも通された別室で茶を啜ることしかでき
なかった。
﹁はあ、お茶美味しい﹂
﹁⋮⋮何か、すごい数集まってしまいましたね﹂
﹁みんな暇なんですかねえ﹂
﹁ランタンさん﹂
﹁冗談ですよ、冗談。しかし、どうしましょうかね﹂
﹁みなごろしにする?﹂
﹁いやあ、あの数はキツいよ、さすがに﹂
1023
﹁そっかあ﹂
﹁商工ギルド送りにできればいいんですけど、でも全員商工ギルド
送りにしてもあの人数じゃ、運び屋の数足らないですよねえ。ま、
エーリカさんなら大丈夫だと思うけど、人手がないからって素人を
運び屋として随行させたらダメですよ﹂
﹁え、ああ、はい。伝えておきます﹂
﹁人が少ないなら少ないなりに、その事を売りにするとかすれば良
いですし﹂
﹁はあ⋮⋮?﹂
﹁ほら珍しい物ほど人は語りたがる物ですし、それだけでなんかあ
りがたいじゃないですか。ケイスさんたちの運用もここぞと言う時
に絞れば人手が足りなくてもそれなりに回るでしょうし﹂
ケイスの運び屋としてのスペックは通常探索では少しばかり過剰
のように感じた。迷宮上層に出現する魔物程度を運ばせるのは勿体
ない。中層以下、あるいは下層や最終目標攻略に絞って運び屋を運
用するのが効果的だろう。
﹁そうやって、どんどん評判を上げていって、それでもなかなか予
約が取れなくて飢餓感がいっぱいになったぐらいで運び屋が育てば
良いですけどね。んー、ここで運び屋候補の募集もしますか、いっ
そ。探索者なら元探索者の知り合いもいるだろうし︱︱﹂
﹁ランタンさんっ﹂
﹁はい?﹂
捲し立てるランタンに、ケイスが鋭く息を吐くように名を呼んだ。
ランタンは夢から覚めたように瞬きをしてその顔を見返す。
﹁どうして、そこまでしてくださるんですか? エーリカのした事
を思えば︱︱﹂
﹁それは結局されていませんもの﹂
ケイスが謝罪するように目を伏せた。
﹁お手伝いの理由は色々ですよ。ただの奉仕活動ってわけじゃない
し、見返りだってある、と思う﹂
1024
リリオンもそうだった。エーリカは頑張っている。
ランタンは無自覚であったし、面と向かって指摘されればそれを
否定しただろうが、ランタンはどうにもそういった人間に弱いよう
なのである。
﹁ランタンは泣いてる女の人に甘いんでしょっ﹂
﹁あはは、そういやそんなこと言ったね﹂
涙に絆された、と言うのもまた事実。ランタンは空惚けてみせた。
探索者の群れから隔離されてリリオンもだいぶ落ち着いたのか、
ふて腐れる余裕ができたようだった。頬を膨らませて鼻をつんと上
さえず
に向けた。それは涙を堪える様子にも似ていた。尖った唇が小言を
囀る。
﹁でもこれだけ数えるのに時間がかかったら、みんなあきて居なく
ならないのかな?﹂
それは少し意地悪な口調でランタンは思わず笑った。
紅茶を飲みきったカップの底が乾いて赤錆のような茶渋を浮かん
でいる。
﹁居なくなったら仕方がない。僕の仕事はそこでお終い﹂
そんな風に言ったランタンは、それを望んでいる己を腹の中にし
まい込む。霧の奥に居る巨大な熊や蛙よりも、ランタンは会話が怖
いのだ。どれだけ視線を巡らせても予動作などはわからないし、言
葉を交わせば傷つけられると信じて疑わない自分がいる。
そろそろ暗闇に枯れる尾花を幽霊と勘違いすることを止めたくな
った。あるがままを見ることはきっと大切なことなのである。これ
から探索者をするためにも。しっかりするためにも。
﹁勘定が終わりましたので、ご確認を﹂
一枚足りない。ランタンは小首を傾げる。
﹁あれ? なんでだろう﹂
﹁︱︱御者さんに、ほら﹂
﹁ああ、そっか。忘れてた。はい、大丈夫ですよ﹂
ランタンが頷くと責任者の男はほっと胸を撫で下ろして、ランタ
1025
ンの記憶を蘇らせたリリオンを女神のように仰ぎ見た。ランタンが
納得しなければ再び数え直す必要性が生まれるからだった。部屋の
片隅で確認を行っていた職員たちは虚脱したように項垂れている。
﹁お世話かけまして、ほんとにもう⋮⋮﹂
﹁いえ、これも仕事ですので。けれど次回からは事前に使いを回し
てくだされば、ありがたいです﹂
﹁その時は、はい。こんなに稼げることはなかなかないですけど﹂
ランタンもリリオンも金銭に執着のある人間ではなかったが、残
高を確認すると二人で頬を緩めた。ちらりとそれが目に入ってしま
ったケイスはあんぐりと驚きに口を開いている。残高から今回の入
金分を引いたのだ。ランタンの貯金癖は悪癖としてそれなりに知ら
れているが、それにしたってと、恐れるようにランタンを見た。
一つの迷宮で得られる利益と必要経費。生活費。その数字を積み
上げるには、かなりの数の迷宮に潜らねばならない。
ランタンは視線を気にも止めず、気合いを入れると別室から送り
出された。
さて人はどれぐらい残っているだろうか。本当に武装職員に蹴散
らされたりしていたらどうしようか。
そんな風に思いながら扉を潜ると、記憶よりも倍近い探索者がい
た。肥大化した群れが同じように数を増やした武装職員により押さ
え込まれている。
ここで宣伝をしたら確実に武装職員の鋒がこちらに向く。ランタ
ンはハンドサインでリリオンとケイスに離脱の合図を送った。銀行
施設からの撤退かつ、探索者の誘引を指示する。
ランタンは武装職員を労いながら、群衆に向かって微笑みと淑女
のような小さな会釈を残してその脇を抜けようとした。
﹁ラ︱︱﹂
呼び止める声。
その一音を押し止めるのは唇に押し当てた人差し指だけで充分だ
った。
1026
﹁ここで騒ぐと斬られちゃいますよ﹂
喉が乾燥している。唇も硬い。緊張しているな、とランタンは思
う。リリオンやケイスに偉そうなことを言ったくせに。ランタンは
こっそりと唾を飲んだ。そして視線を探索者から外し前を向いた。
振り向きは、少し顎が上向きになり、砂丘のゆるやかな稜線をな
ぞるような弧を描く。それは傲慢でありながらも、有無を言わせぬ
華があった。髪がさらさらと揺れて青白い頬を擽る。目を細め、口
元の微笑みが深く挑発的に。
ランタンが歩き出すと誰も彼もがランタンの後ろを付いてきた。
金貨の輝きを見ていない者も等しく。
リリオンは緊張と緩和、そして再びの緊張にぐったりしていた。
怯えは恐慌に近く、暴れ出さないのはランタンの存在が在るが故だ
エントランスホール
った。流石にケイスも堪えている。流石にこの人数は予想外だ。数
それ
も多ければ、一人一人の体格も立派で広々とした玄関広間が狭苦し
く感じる。
﹁ケイスさん、台車しまってきてください﹂
ランタンはケイスに目配せする。次いでリリオンに。この人数で
は戦意も萎えるか、リリオンの瞳は不安げに辺りを見回している。
ランタンを見る目が縋るような色を帯びていた。
けれど。
﹁いっしょに馬車に戻りな﹂
﹁や﹂
リリオンは一も二もなくぎゅっとランタンの外套を握りしめた。
背中には隠れず、ランタンと隣り合って胸を張って背筋を伸ばした。
それは精一杯の強がりで、ランタンが不敵に笑うとリリオンも真似
をして笑った。
﹁では私も残りましょう﹂
ケイスも負けていられないとばかりに呟いた。ランタンは頷く。
そして扉の前まで辿り着くとそれを背にするように振り返った。逃
走経路は確保した。さて僕も格好付けよう、と笑う。
1027
そこにあるのは月に咲く花のような可憐な微笑みであった。ラン
タンとしては余裕を見せつけるように頬を上げたつもりだったのだ
が、それを見て年甲斐もなく頬を赤らめる者はいても、恐れる者は
一人もいない。
﹁僕の後を付いてきたって金貨は落ちていませんよ﹂
ランタンがそんな冗談を飛ばすと群衆がざわっと笑った。
ランタンたちを十重二十重に囲む群衆の最前列にいるのは、喜び
勇んで付いてきた若い探索者ではなく、装備を見れば一目でそれと
くたび
わかる中堅以上の探索者だった。それなりに良い装備を身に付けて
いて、それなりに草臥れている。
迷宮が夢を追う場所ではなく、ただの職場になった者たちだ。
﹁そんなこすっからい真似はしねえよ。おめでとうさん、すんげえ
儲けだったみたいじゃねえか﹂
山賊のような風貌の男がにっと太い笑みを浮かべてラタンに話し
あやか
かけてきた。迫力のある胴間声に顔を叩かれるような感じがしてラ
ンタンはぱちくりと大きく瞬きをして男を見上げる。
﹁どうも、ありがとうございます﹂
﹁おめでとおめでと。それでな、ちょっとその幸運に肖らせてもら
いてえんだよ。なあみんな!﹂
男が群衆を煽ると同意の声がわっと沸いた。
﹁儲けばかりの話じゃねえよ。お前さんはいつだって無事に帰って
くるし、そっちのほうでも御利益がありそうだろ?﹂
なんて男は戯けるようにしてランタンを拝んで探索の安全を祈願
する。いかにも粗暴な風体の男が真面目くさって拝む様子はなかな
かに愛嬌があって、巫山戯てそれを真似る者もちらほらいた。
ランタンが目に見えて嫌な顔をすると、辺りがどっと笑う。ラン
タンはますます不機嫌な顔を作った。
﹁⋮⋮そんなことする人には、肖らせてあげない﹂
へそ
ランタンが拗ねるように呟くと、男はいよいよ大げさに謝ってみ
せて笑い声が更に響いた。男は、臍を曲げないでくれよ、とか何と
1028
か言いながら困ったなと頭を掻く。
その間隙と縫って女が前屈みになってランタンに目を合わせた。
香水の香りと、語尾に揺れるような甘さがある。
﹁あたしは笑ってないよ。ね、だからあたしはいいでしょ﹂
前屈みになって胸を寄せて谷間を作る。
あんまりにも露骨な色仕掛けにランタンは戸惑いながらも視線を
上げてそれを視界から外した。背後に控えるケイスの質量とは天と
地の差があり、寄せて作った程度の膨らみではランタンを籠絡する
ことはできないのである。
﹁あ、抜け駆けしてんじゃねえよ! 笑ってたし拝んでたじゃねー
か﹂
﹁はあ、証拠でもあんの? 変な言いがかりつけないでよね。ねー
ランタンくん﹂
﹁ランタン困ってるじゃねーか偽乳!﹂
﹁偽物ならもっとでかいわよ!﹂
﹁後ろのがランタンの仲間? どっちよ? どっちも?﹂
﹁ちょ、ちょっと通して、前に⋮⋮﹂
﹁あれがランタン? なんかちっちゃくね﹂
﹁つーか後ろの二人誰よ﹂
﹁白髪の方でしょ? もう一人は何か見たことある気が﹂
﹁細っせ、あれマジ強いの? うそくせー﹂
﹁見た見た、金貨どっさりでさ﹂
﹁へあ? ランタンの奢りで飲みに行くんじゃないの?﹂
﹁運び屋って、あの胸で新人? うっは﹂
﹁何の集まりだよ? はあ知らん﹂
風が吹いて稲穂を揺らすように、辺りにざわめきが広がった。皆
口々に何か文句を言ったり、お喋りをしたり、歓声を上げたり、奇
声を発したりする。今はまだざわめきが大きくなるだけだったが、
その内に押し合い圧し合いから殴り合いに発展しそうな気配もあっ
た。
1029
まったく何という纏まりのない集団なのだろうか。
ランタンは呆れながらも収拾が付かなくなる前に黙らせようと胸
に息を吸ったその瞬間、ランタンが大声を出すのに先んじて悲鳴の
ような大声で名前が呼ばれた。
パティ、と。
﹁え、︱︱あ、久しぶり。ミヤ、二年ぶりぐらい?﹂
名を呼ばれたケイスは驚きはあったものの落ち着いていた。そん
なこともあるだろう、と心構えはしていたようだ。口元にほろ苦い
笑みを浮かべて、それでも何気なく手を上げて女、ミヤを迎える。
それはまさしく偶然にで再会した旧友に対する反応そのものであり、
どうやらミヤはケイスの元仲間らしかった。
﹁久しぶりじゃないよ! あんた何やってんのよ!﹂
ミヤは驚きの表情を浮かべたままランタンを通り過ぎてケイスに
詰め寄った。ケイスのかかげた掌に拳をぶつける。その遠慮の無さ
は二年の年月を飛び越えた。
突然の乱入者に群衆が一纏まりになる。なんだなんだとミヤを見
つめた。ミヤにはその視線が全く目に入ってないようだった。
﹁何って私、運び屋やってるんだ﹂
きっとミヤはそんなことを聞いたんじゃないだろう。だけれども
ミヤは驚き混乱しているようでケイスの言葉を繰り返した。群衆も、
チーム
運び屋、と呟く。群衆のそれはケイスが運び屋をやっていることの
驚きではない。ランタンが、と言葉が続いた。
ミヤはぎょっとしてランタンを見た。
﹁運び屋? あんた復帰したの? ランタンの探索班に?﹂
﹁まさかそんな! 商工ギルドって言うところで専業運び屋をして
いるの。それで今回はランタンさんのお手伝いをさせてもらっただ
けで﹂
﹁手伝い?﹂
矢継ぎ早の質問にケイスは大慌てにそれに答えて、それでもミヤ
の表情から疑問が抜けることはなかった。そんなミヤに、戸惑うケ
1030
イスにランタンは笑いかける。
久々の再会に口を挟むのも野暮かもしれないが、まさに語りたい
ことを尋ねてくれるミヤの存在はランタンにとっての渡り船だった。
これを利用しない手はない。
﹁お手伝いなんてそんな謙遜しないでください。今回の探索もケイ
スさんがいなかったら何一つ持って帰ってこられなかったですよ。
商工ギルドさんもすっごく良くしてくれたし﹂
声を張り、ミヤに向けて放った言葉は彼女ばかりではなく群衆の
中をさっと走り抜ける。
商工ギルド。運び屋。派遣。
﹁へえ、そんなのあるんだ。知らんかった﹂
反応の内の、一番答えやすいものをランタンは選ぶ。
﹁僕も知らなかったですよ、教えてもらうまで。でもすごーく良か
ったですよ。普通の運び屋のことは知らないけど﹂
ランタンはあからさまにならないようにケイスを、商工ギルド所
属の運び屋を褒めそやし、情報を探索者たちに広めていく。あくま
でもそれとなく。
エーリカが出張ってこれを行えばあまりにも露骨で反感を買うだ
ろうし、ケイスが行えば自画自賛になって不興を買う。あくまでも
ランタンが、利用者がそれを語ることに意味があった。ランタンを
嫌う者がいても、儲け話が嫌いな者はあまりいない。
反応は上々。
ランタンやケイスに質問を飛ばす者もいて、リリオンにもそれは
あったが少女はあわあわとしていて答えられない。ランタンがフォ
ローを入れた。さっそく仲間内で検討を始める者もいた。
だが反応は良好なものばかりはなく、嫌なことを言う人だってや
はりいる。
﹁でも元探索者なんだろ? 逃げ出した奴のことなんかを信用でき
るのかよ﹂
誰かが吐き捨てるようにそんなことを言って、ケイスの表情が強
1031
張った。その隣でミヤがきっと声の方を睨み付ける。リリオンがラ
ンタンの外套を深く握り、誰が言ったの、と低い声で呟く。
﹁一度逃げたらもう駄目なの?﹂
ランタンも視線を向けて、小首を傾げる。声の主はわからない。
だが視界に入った多くが黙った。不機嫌な顔は作ったものではなく、
自然とそうなったのである。
﹁なんでそういうこと言うの? 逃げ出した人がまた頑張ることの
何が悪いの?﹂
﹁でも一度逃げた奴はまた逃げるかもしれないだろう!﹂
﹁かもしれないね。でも一度も逃げたことがない人が逃げ出さない
保証は誰がするの? まだ一度目が来ていないだけじゃないの?﹂
どちらが正しいという話ではない。
ランタンは反論するように言葉を発したが、逃げ出したことのな
い人間はやっぱり勇敢だと思うし、逃げた人間のことを臆病だと侮
蔑することもある。実際に逃げ癖の付いた探索者は糞の役にも立た
ないどころか、戦線を崩壊させる可能性があるので背中を預けるに
値しないので害悪である。
だが、だけれども全ての逃げた者が根性無しというわけではない。
身体能力もさることながら、気合いや根性がなければ一トン超の重
量を黙々と引くことはできない。恐怖と向き合い、再び迷宮に足を
向けようとは思わない。
逃げ出した先でどうなるかは人それぞれだが、救われる人間が多
い方がやっぱりいいと、そう思う。
﹁パティ、あんた頑張ってるのね﹂
﹁は、ああ、まあ、ね﹂
﹁あのランタンにこんなこと言わせるなんて、︱︱ね、私たちとま
た探索してくれる?﹂
﹁それは、うん。商工ギルドを通してならね、結構高いけど﹂
﹁あら、パティは知らないでしょうけど、私はこれでも乙種探索者
よ﹂
1032
﹁ええ本当? おめでと︱︱﹂
﹁⋮⋮何やら感動的な場面で申し訳ないのですが﹂
ミヤとケイスは感極まったように抱き合っていた。口を挟んだラ
ンタンを二人揃って見下ろす。
﹁あのランタンとはどのランタンのことでしょうか?﹂
てめえのことだよ、と誰も彼もから突っ込まれてランタンは思わ
じょうぜつ
ずたじろいた。不本意そうな表情で群衆を睨み付ける。
﹁うげ、自覚ないのかよ。お前がこんな饒舌なのって初めて見るぜ。
どんな風の吹き回しだよ﹂
山賊でも寄せ女でも文句男でもなく、また別の男がランタンの鼻
先に指を突きつける。爪の隙間に垢がある。
﹁そんなにその運び屋が良かったのか? たしかにおっぱいはデケ
えけどよ。それとも商工ギルドってとこから金でも貰ってんのか?﹂
意外と鋭い。ランタンは突きつけられた指先を払い、男を見上げ
た。軽薄そうな探索者だ。薄い金の前髪がうざったらしく額に垂れ
ている。前髪の前に爪に気を使えよ、と思う。
﹁お金貰うぐらいじゃお喋りにならないですよ﹂
﹁ああ、そう。じゃあ何でだよ。金持ちになって頭が花畑になって
んのか?﹂
﹁そんなにくるくるぱーに見えますか﹂
﹁あーうそうそ、見えないよ。ただお前と普通に話せてることに吃
驚してんの。ちゃんと口利けるんだな﹂
普通に話せている。男がそう言ってランタンは思わず笑った。軽
薄男が訝しげに眉を寄せる。
例えばエーリカと話をした時、ランタンは身構えていた。疑って
気を張っていた。疑いを持って相手を見つめれば、何もかもが怪し
く見える。今まで探索者たちと話をする時、ランタンはいつだって
怯えていた。身体が大きく、声が大きく、強引で、不潔で、顔が怖
い。
怯えを持って相手を見つめればただの探索者が鬼に見える。
1033
それは木目が人の顔に見えたり、夜風が怨嗟の声に聞こえたりす
るのに似ている。夜眠れなくなるのはいつだって臆病な自分のせい
だ。
普通にしていれば、普通に話せるのだ。知らない人と話すのは気
を遣うし、緊張するけれど、相手は鬼ではなく血の通った人間で言
葉の通じる相手である。
身体が大きく、声が大きく、強引で、不潔で、顔が怖くても人間
だ。悪意も敵意も、善意も友好もそれは人間の中に詰まっている。
﹁だってみんなはそう言うことを聞きたかったんでしょ? 幸運の
お裾分けはできないけど、情報のお裾分けはできるから。いらない
なら別に良いけど﹂
拗ねるように呟いた言葉が甘く溶ける。
﹁それにさ、まだこの運び屋はそんなに人数がいないんだけど、こ
ういうのが広まれば元探索者の働き口ができるでしょ? また頑張
りたいって思っても、なんか再就職が大変だって聞いたし⋮⋮、そ
れで人数が増えれば恩恵にあずかれる探索者も増えるし⋮⋮﹂
溶けて、揺らめく。語彙がもごもごと萎む。
﹁ランタン⋮⋮お前、そんなことまで﹂
軽薄男は驚きを持ってランタンを見つめて、その視線にランタン
は身を竦めた。
軽薄男はその身に纏う軽薄な雰囲気とは裏腹に黙りこくって厳し
い目付きになっていた。軽薄男ばかりではなく、群衆の中にも同じ
も
ような目をした探索者が何人もいた。懐かしさと後悔。もどかしさ
と救い。恐れと感謝。
複雑な感情が視線を通してランタンに注がれた。
﹁元探索者を雇ってくれるんか﹂
ランタンは答えない。代わりにケイスが答える。
んこ
﹁本人にやる気と根性が備わっていれば、商工ギルドはいつでも門
戸を開いています﹂
視線が温い。
1034
何か言いたいことがあったような気がするけど、忘れてしまった。
ランタンは頑張って押さえ込んでいた、緊張や捨てきれず抱えてい
た恐怖を思い出してしまった。
探索者が鬼に見えた。人語を解する鬼だ。優しいところもあるけ
ど、鬼だ。
それが辺りに二百人以上もいて、ランタンは頭が真っ白になった。
﹁べ﹂
﹁べ?﹂
﹁別に! 僕は逃げ出した奴のことなんかどうでもいいし! ただ
ダメになってる人が多いみたいだから、そういうのが減れば僕に絡
けだもの
んでくる奴が減ると思っただけだし! 更生しようとそのまま野垂
れ死んじまおうと知ったことじゃないね!﹂
適当な言葉に騙されやがって単細胞の阿呆どもめ。鬼。獣。へぼ
探索者。ばーか。
ランタンは誰に向けたんだかわからない言葉を口の中で転がす。
そうやって悪態を吐き出さなければ、恥ずかしさに死んでしまうよ
がんしゅう
うな気がした。
ランタンは含羞に頬を色づかせて周囲を睨み付けた。それだけで
人を殺せそうな鋭い視線は、けれど辺りの探索者はただ妙な目付き
でランタンを見つめ返すだけだった。
ランタンは大きく息を吸い込んで怒鳴ろうとする。が、吐き出し
た声は囁きほどでしかない。
﹁もう帰る﹂
行くよ、と外套を翻してそれを握るリリオンの手を引き剥がすと、
呆気にとられる少女の手を改めて握りしめて二歩歩く。開けて、と
誰に共なく命令するとケイスとミヤが大きな扉を左右から押し開い
た。
ケイスがミヤに、また、と大慌てで声をかける。ミヤもやけくそ
みたいに何度も頷く。
ランタンは扉を一歩跨ぐと、最後に振り返ってぽかんとする群衆
1035
に告げた。一つ立てた指を突きつける。それは爪の中まで濃い桃色
をしている。
﹁詳しくは商工ギルドに行くといいよ! じゃあ、その⋮⋮探索頑
張ってね﹂
吐き捨てるように放った台詞は、その素っ気なさとは裏腹にまる
で祝福のように響いた。
ランタンはそれからもう振り返ることもなくその場を後にして、
背後で扉が閉ざされると、その背中を叩くように声が扉を貫いた。
それは怒号のような悲鳴のような歓声のような、感情の爆発であっ
た。
リリオンもケイスも吃驚して振り返っている。
ランタンだけは振り返らずに夕闇と向かい合った。すっかりと日
が落ちて暗闇の満たされた路地には影があるだけで幽鬼はいない。
ランタンは疲れた表情で一つ溜め息を吐き出す。
探索よりも疲れたかもしれない、そんなことを考えながら馬車に
乗り込んだ。
1036
069︵後書き︶
今日で投稿開始から一年になりました。
皆様方には読んでいただく喜びを教えていただきました。
ありがとうございます。
また一年経ったことだし、と言うわけではありませんが
次話投稿から、少し小説の書き方を変えようかなと思っています。
今までは一話あたり一万文字前後を使用して一場面しか書いてこな
かったのですが
これからは空行を三つぐらい挟んで場面転換をしたり、
描写視点をランタン以外にも持っていこうかな、と画策してます。
side:○○は使わないですけれど⋮⋮
あんまり上手く書けなかったりしたらまた元に戻しますけれど、
少しばかり私の我が儘におつきあいをよろしくお願いします。
次話はちょっと練習です><
1037
070 ☆
070
湯船にたっぷりと沸かした熱い湯を桶に掬い取り、ランタンはざ
ぶりと頭からそれをかぶった。じんと痺れる熱は寝不足で顔にこび
りついた眠気を洗い流す。
糸のように細められた目。縁取る睫毛に丸い湯の粒があり、それ
は水流に抗いしがみつく眠気のように乗っかっていた。目蓋を持ち
上げるとその水滴がぽろりと零れて頬を流れた。いとも呆気なく。
だがまだ眠気は残ったままで欠伸は零れる。
溺れないようにしないと、とランタンは欠伸を噛み殺した。
エーリカの手伝いを、最後は少し不本意な形ではあったがランタ
ンなりにやりきって、それなりに日が経った。
金蛙に刻み込まれた傷は時間の経過と、金にものを言わせて購入
した治癒促進剤の効果によってすっかりと完治している。恥ずかし
さはまだ少し覚えている。
ランタンの働きにより、あれから商工ギルドには何組もの探索者
が訪れたようだ。契約を結んだ探索班もいるし、予約が一杯で結べ
なかった探索班もいる。
運び屋としての研修を受けに来たも者も、何名も。
エーリカの苦悩もランタンの暗躍も知らぬ、縄張り争いにばかり
かまけているギルド職員などは探索者がぞろぞろと商工ギルドに入
り込んでくるのを見て、押し込み強盗でもやって来たのかと驚いた
らしい。あるいは探索者ギルドが嫌がらせに手駒の探索者でも送り
込んできたのかと青くなったりもしたのだとか。
ランタンは思いだして小さく口元を緩めた。その事を教えてくれ
たエーリカは清々しい顔をしていた。
1038
あれからランタンは何度か商工ギルドを訪ねた。
その時に数名の探索者とギルド前でばったり出くわしてしまって、
彼らはちょうどギルドから出てきたところで、何とも満足げな表情
をしていた。それは押し込み強盗を成功させてほくほくしているよ
うにも見えた。ランタンを見つけた時の顔と言ったらさらなる獲物
を見つけたとでも言うほどだった。
よう、と軽く声をかけられて恐怖がなかったと言えば嘘になる。
それでも普通に世間話をすることができた。二、三言葉を交わし
て入れ替わりにギルドへと入るだけだったが、その気軽さは今まで
のランタンではあり得ないことだった。多くの視線に晒されて馬鹿
みたいな事を口走ったことにより、ランタンは一時的なものである
のかもしれないが対人耐性を習得したようだ。
そしてエーリカから良い物を貰った。そのおかげで寝不足なので
ある。
ランタンは湯船に浸かる前に身体を洗った。
身体を擦ると古い皮膚が垢となって剥がれ落ちる。治癒促進剤は
良く効いたが、その影響で皮膚が代謝異常を引き起こしもした。何
層かの表皮の下から、まだ薄桃色の柔らかい皮膚が顔を覗かせた。
再び湯を浴びると、文字通りに肌に滲みた。痺れるほどの熱はい
っそ痛いほどであったが、同時に心地よくもあった。汚れが落ちた
のだ、という感じがする。炎によって清められる幽鬼の気分だ。
ランタンは震える息を吐いた。桶で掻き回した湯面に浮かんだ波
紋が収まる。
鏡のように平らの湯面に、ランタンは爪先を差し込む。それは波
紋の一つも起こらない。ゆっくりと、そっと。片足が湯船の底を踏
むと、もう片足が縁を跨ぐ。そのままゆるりと肩まで浸かるとラン
タンは表情を溶かした。
﹁うはえぁ⋮⋮﹂
変な声が出る。たまらない。ランタンはうっとりとにやけて、肌
を磨いた。
1039
リリオンがいないのでどれほど気を緩めたとしても気兼ねがない。
リリオンと入る風呂も嫌いなわけではない。恥ずかしさと緊張が
伴うが、肌を触れあわせることに安心感を覚えるのは人の常であり、
女の柔らかい肉に悪い気がしないのは男の性である。
ランタンは風呂に浸かったばかりだというのにのぼせたように肌
を色づかせて鼻の下まで沈み込んだ。
凝り固まった筋肉や、緊張している神経が慰撫されていく。眼精
しがらみ
疲労とそれからくる肩の筋肉の凝りは探索のせいではない。
ランタンの内にある全ての柵が湯中に溶け出したように、縁から
つつと湯が溢れた。それを目で追う。湯の流れが収まり、それを合
図にしてランタンは億劫そうに立ち上がる。
身体からは湯気が立ち上っている。
湯船の脇に置かれた机から水筒を手に取り水を飲み、頭からも浴
びた。冷たさが丁度良い。今度こそはっきりと眠気が失われたこと
を実感する。
そしてランタンはエーリカから貰った良い物の、その両角をそっ
と摘まむと再び湯船に浸かった。それは一枚の紙である。体裁を整
えた文章が書かれている。
それは契約書だ。
契約書を眼前に摘まみ上げて見つめるランタンの瞳は、先ほどま
での気の抜けた目付きではなかった。まるで水面に目だけを覗かせ
て獲物を狙う鰐のような冷めた視線である。
エーリカはいよいよ商工ギルドが正しい意味で忙しくなるその合
間を縫って、ランタンに読み書きを覚えさせるための虎の巻とでも
言う物を用意してくれた。癖のない綺麗な書き文字はまるで定規を
当てて書いたように歪みがなかった。エーリカ手製のものである。
話すことはできて、読めないランタンのために母音と子音と発声
記号からなる全ての文字の組み合わせを記した虎の巻に、ケイスが
リリオンを引きつけてくれている隙を突いて、エーリカの発声を元
にランタンが読み仮名を振ったのである。
1040
エーリカは、ランタン様が別のお方に騙されては私どもにとって
も損失ですので、などと言ったが、それは罪滅ぼしのつもりなのか
もしれない。別にいらないのに、と思えどランタンにとってもそれ
はありがたかったので遠慮なく頂戴して、さらにはエーリカにあれ
これ尋ねて虎の巻は真っ黒になるほどの書き込みが加えられている。
座学は久しぶりだった。
ランタンは奴隷見習い時代に会話を仕込まれはしたが、読み書き
はそもそも文字に興味を持つことさえ許されなかった。それはラン
タンの売買目的が愛玩用、奉仕用で、主人との意思疎通やそれらを
悦ばせる為の感情の言語化は必要でも、それ以外の知識は不必要だ
からだった。
読み書きができれば余計な知恵をつけかねない。無知であること
も奴隷にとっては一つの価値である。それでも言葉を覚えられたこ
とは幸運だった。
いや幸運だけではなく、あの時の教師役は厳しかったが有能だっ
たのだろう。ランタンは回顧して、暗い負の感情が浮かび上がるの
を我慢できなかった。だが同時に、たかだか数十文字の組み合わせ
を暗記することに寝不足になっている今となっては、感謝もあった。
物を覚えると言うことは大変なことだ。
会話ができるから寝不足で済んでいるが、零から始めることにな
っていたらと思うとうんざりする。
教師役はそのうんざりの結果、ランタンを罰したのだろう。物覚
えはいい方ではあったが、それでも。
教師役から与えられた質問に、正しい返答をできないと容赦なく
殴られた。傷にならないように加工した綿と布で巻いた木の棒の痛
みは、臓腑にめり込んでなかなか失われることはなかった。それで
も他の使い潰しの労働奴隷に比べたら天国のような扱いではあった
し、痛みがあったからこそこれほど流暢に話せてもいるのだが。
感謝はあるが、もし再会することがあったら殺してやろう。
だが喋ることができなかったら、ランタンは今頃うんざりする暇
1041
もなく野垂れ死んでいるか、良くても泥を啜る日々を過ごす羽目に
なったかもしれない。風呂に入る事なんて夢に見ることもできなか
ったかもしれない。
やっぱり半殺しで勘弁してやろうかな、とランタンはほくそ笑み、
己が勉強中であることを思いだして反省した。娯楽の少なさは誘惑
の少なさと言い換えても良かったが、それでもちゃんと勉強に集中
しないとすぐに気が散ってしまう。
やっぱり痛みは必要かもしれない。五分の二殺しすべきか。
しかし例えば隣でリリオンが眠りこけていて、少女を起こさない
ようにと物音一つ立てずにいる時、ランタンは抜群の集中力を発揮
する。
その成果が眼前に掲げる契約書である。
契約書の例文である。
ランタンは文字を発声し、音をつなぎ合わせ単語とする。単語の
意味を理解して文法に組み込んでいく。それはこの上なく効率の悪
い方法であったが、それも確実にランタンは文章を理解していった。
掴んでいた両角の右側から指を外し、ランタンは指先で宙に単語
を書いた。音楽に合わせて指揮をするように、発声に合わせて単語
を記す。それは宙にであり、己の脳にだった。
上手く行かない所を繰り返す。何度も読んで何度も書いて、それ
がやがて淀みなく歌うように読み上げられるころにランタンの顔は
真っ赤になっていた。
﹁⋮⋮よし、完璧﹂
ランタンはその例文をぐしゃぐしゃに丸めて湯船に沈めた。頬が
皮肉気に笑う。
例文の契約書にもしもサインをしてしまったら、黄金を捨て値で
換金し、毎月商工ギルド所属の運び屋を伴い物質系迷宮を探索して、
そこで獲られた全ての所有権は商工ギルドに帰属する云々というよ
うな有様になるものだった。下の方に小さく、ランタンとリリオン
は商工ギルドに所有される、と言うような一文さえある。
1042
本当に良い性格している。
ランタンはそう呟いて、契約書を絞って固めると浴室の隅に空い
た穴に投げ捨てた。
﹁先は長いな⋮⋮﹂
今の例文は全てが明言されていた。だがもしも本当にランタンを
騙そうとするのならば、文法を少し弄るだけで充分だった。それだ
けで文章の意図を誤認させることは簡単だ。虎の巻と共にベッドの
下に隠している例文集はまだ何枚もある。
けれど再びランタンは脱力した。
先は長いが詰め込みすぎても効率が下がる。一歩一歩確実に、そ
して一段落付いたらしっかりと休む。それが勉強も探索も変わらな
い。知識が脳に馴染むように、探索で取得した魔精が肉に馴染むよ
うに。
水分補給の後、ランタンは胸一杯に息を吸い込むと湯船に潜った。
朝だ。
窓のない部屋でも、朝になると扉の隙間から忍び込む朝日で部屋
の中が明るくなる。ほの明るさに目蓋を撫でられてリリオンは小さ
く呻き声を漏らした。
もた
リリオンは目を覚ますとまず目蓋を持ち上げるより先に腕を伸ば
す。それは陽光に顔を擡げるで花はなく、地中深くの水源に絡みつ
こうと伸びる根のようであった。
そこにあると決め打ちで延ばした腕は、しかし虚空を掻き抱いた。
ブランケット
リリオンは胸に抱きしめたそれがランタンの影であることを知ると、
はっと目蓋を持ち上げ綿毛布を弾き飛ばして起き上がる。
長い白銀の髪が視界を遮るようにざらりと流れて、リリオンは鬱
陶しげにそれを払った。髪が少し脂っぽくて指に絡みついた。
﹁いない⋮⋮﹂
1043
そこにいるはずの少年の小柄な姿がまるでなかった。
心細く小さな呟きを零して、リリオンはベッドマットを撫でる。
綿毛布に覆われていたそこにはランタンの温もりがまだ残っている。
それはランタンが起床してベッドから抜け出してからまだそれほど
時間が経っていないことを示している。
その事に気が付いたリリオンは化石でも掘り起こすように温もり
の残滓を撫でて、もっとはっきりと情報を得るためにそこに顔を押
しつけた。変なことをしているわけではない。迷宮の地面に耳を押
し当てて、魔物の位置を探ることと同じである。
寝汗で少しだけ湿っている。その奥、繊維の奥に匂いと熱が篭も
っている。一時間は経っていない。四十分か、もう少し短い。
マットの奥に染みつた匂いは昨晩のものばかりではない。そこに
はランタンの夜がいくつも横たわり、永遠の眠りについているよう
だった。
血の臭い。消毒の匂い。獣の臭い。皮脂の匂い。汗の臭い。花の
匂い。
ランタンの香り。
過去が決して失われぬように、そこにランタンの匂いがある。そ
れを嗅ぐだけで少年がどのように過ごしてきたのかを知ることがで
きるような、そんな気がした。
いつかわたしにも、とリリオンは匂いを嗅ぎながら頬を緩ませた。
口元も緩み、唇の端から涎が落ちてマットに小さな染みを作った。
慌てて掌で拭う。ばれたらランタンに怒られてしまう。
この前、枕に涎を垂らして凄く嫌な顔をされた。眠っている時に
ランタンの夢を見ていたら溢れてしまったのだ。寝ている時のこと
だし、ランタンが夢に出てくるからしかたがないでしょ、と言った
らほっぺを抓られた。いつもは痛くないようにしてくれるけど、そ
の時は痛かった。
ランタンはどこに行ったのかな、とリリオンは犬のように鼻をひ
くつかせる。そんな風にしてもランタンの匂いを追えるわけではな
1044
かったが、リリオンはベッドから降りて一目散に扉を開いた。
朝起きてランタンが居ないことは度々ある。
起こしてくれればいいのに、と思う。実際にランタンに言ったこ
ともある。けれど起こして貰うと、何故だか起きられないのだ。起
きろ、と言って身体を揺すられるとむしろ眠たくなってしまう。お
そらくランタンの声のせいだ。
なのにランタンは起きないリリオンをほったらかして部屋から出
ていく。
そういった時、一階の一番端にあるトイレに行っていることが一
番多い。
そのトイレは少し怖い。扉を開けると住み着いた大鼠の瞳孔が赤
く光る。そして大鼠が向かってきたり逃げ出したりする。大鼠は何
でも食べる。それはつまりそう言うことで、使用して半日も経てば
確実にそれは処理されている。どうせなら豚を飼えばいいのに、と
リリオンが提言するとランタンはやっぱり嫌な顔をした。
豚を育ててどうするの、とは聞かれなかったので、食べる、と答
えることもなかった。答えなくて良かった、とあの時の冷たい目を
思い出すと思う。
トイレは少し怖いけれど、あまり変な臭いはしない。鼠さまさま
だ。食べる気も起こらないのでランタンの嫌なことを言わなくてす
む。
そして二番目の可能性はすぐ隣の浴室だ。ランタンは風呂が大好
きで、朝昼晩に関わらず風呂に入る。寝る前が一番多いけれど、ラ
ンタンは朝風呂も好きなようである。
リリオンは廊下を出てもなお鼻をひくつかせる。朝の匂い。ラン
タンの匂いはしないけれど、すぐ隣からむわっとした湿気の匂いが
漂ってくる。リリオンはにんまり笑った。
ランタンとお風呂。
リリオンは弾き飛ばすように扉を開いた。
﹁ラーンータンっ!﹂
1045
声が跳ねる。
﹁あれ、いない⋮⋮?﹂
湯中に没するランタンの耳にリリオンの声がぼわぼわと膨らんで
聞こえた。
ランタンは湯船の中で目を開いていて、片手で鼻を塞いでぼんや
りと天井を見上げていた。隠れているのではない、ただ潜っている
だけで。
声に続いて足音も聞こえる。ぺたぺたとした足音はリリオンが裸
足であることを告げている。ぺたぺた、ぺたぺたと浴室内に踏み込
んできた。
﹁ねー、どこー?﹂
言いながらも探すと言うよりは確信を抱くように、リリオンは一
直線に湯船に近づいていくる。
そして目が合った。リリオンが湯船の中を覗き込んできた。湯に
髪が触れぬようにと押さえている少女は目が合うと驚いたように固
まって、ランタンはまだ息が持ったので沈んだまま見つめ返した。
それから一分もの間見つめ合い、根負けしたのか少女が湯船の中
に手を突っ込んできたのでランタンはぶくぶくと泡を吐き出して肺
の中を空っぽにしてから、ぬっと水面から顔を出した。
大きく息を吸い込む。
﹁なに?﹂
﹁⋮⋮それわたしのセリフだと思う。なにしてたの?﹂
﹁風呂を堪能してた。全身で﹂
﹁ふうん、変なの。もうお風呂入っても大丈夫なの?﹂
﹁おかげさまでね﹂
ランタンは湯船の縁に、リリオンに背を向けるようにして腰掛け
た。そのまま身体を捻ってリリオンを見上げる。背中を水滴が擽る。
1046
項に髪が張り付く。
﹁背中見らんないんだけど、もう怪我ないよね﹂
よくそう
火傷も酷かったが、最も治癒が遅かったのは背中に幾つも穴を開
けた杙創である。皮膚を貫いて身体に刺さった外殻弾は表面がデコ
ボコとして、傷跡はずたずたになっていた。そして、埋まった外殻
弾は体内に電流を引き寄せもした。杙創はその内側に火傷を宿して
いたのだ。
﹁うん、ないよ。すべすべ、ももいろ﹂
リリオンが背中を撫でる。その背中に傷跡はない。通常は歪な肉
はんこん
の盛り上がりとなってもおかしくない、あるいは黒ずみなどの変色
びていこつ
を起こして然るべき瘢痕がその背には一切なかった。
肩甲骨の輪郭を指先でなぞり、背骨を下って尾骶骨に触れるかと
いう所で折り返して再び上と登っていく。折り返すと指先ではなく
掌全部を使うようになった。
﹁⋮⋮あつい﹂
まるで汗を拭うように。執拗に。
ランタンは無言で、再び湯船の中に座り込んだ。じっとリリオン
を見上げる。少女の笑顔が眩しい。
﹁ねえ、わたしもたんのうしていい?﹂
何を、とは訊かない。
リリオンは断られるとは少しも思っていないようで、それでもラ
ンタンの返事を待っている。ぺたぺたと足音が鳴る。リリオンは湯
船の縁に手をかけて、爪先立ちになったり踵に体重を移したりして
身体を揺らしていた。
そんなリリオンを見ていると、ランタンは思わず言ってしまう。
﹁⋮⋮どうしようかなあ﹂
笑顔が一転、リリオンの顔が歪んだ。
ランタンは意地悪そうに笑う。逡巡は偽物だったが、それでもも
う少し一人で、足を伸ばして風呂に入っていたい欲求は確かにある。
孤独を楽しむこと。それはリリオンと出会ってから失われたランタ
1047
ンの喜びの一つである。
けれど失って、代わりに得た喜びもある。
﹁ねえねえ、いいでしょ? いじわるしないで﹂
リリオンはランタンの額に一筋張り付く濡れ髪を遠慮がちに摘ま
み上げて引っ張った。そしてそれを指に絡めるようにして溜まった
水気を絞る。
﹁いいよ、おいで﹂
ランタンは言うと、再び湯の中に潜った。目を瞑って水底に耳を
チュニック
押し当てると、リリオンの脱いだ服が床に重なる衣擦れさえもが聞
こえるようだった。寝衣にしている貫頭衣。そして下着。たったそ
れだけ。
リリオンはランタンが言い聞かせなくてもちゃんと掛け湯をする。
桶が湯を掬う度に水面に波が立ち、湯船の中でランタンの髪が海
藻のように揺れた。揺れる毛先が肌を擽り、閉ざした目蓋の隙間か
ら目を突こうとしてきた。前髪が邪魔だな、とぼんやり思う。
思っていると湯の中に異物の侵入を感じた。水底に響く音からリ
リオンの両足がまだ床を踏んでいることは伝わっている。湯の中で
目蓋を持ち上げると、そこには白い腕があった。水面から水中に生
えるように、ランタンに向かってくる。
脇の下に腕が差し込まれて、ランタンは引き上げられた。
﹁ぷはっ﹂
大きく息を吸って、前髪を全て後ろに撫でつける。顔を傾けて耳
の中に入った湯を切った。
﹁⋮⋮なにしてるの?﹂
﹁心肺機能の強化﹂
﹁ふうん、わたしもしようかな﹂
﹁もっと大きな湯船を手に入れたらね﹂
ランタンが湯船の隅に身体を寄せると、リリオンの爪先が水面を
割って滑り込んでくる。
﹁あう⋮⋮﹂
1048
妙な呻き声は熱のせいだろうか。ゆっくりと身体を下ろして、リ
リオンは水面に座るような体勢になると一旦停止する。そして息を
吐きながら身体を沈めた。湯船の縁からなみなみと湯が溢れる。
向かい合い、ランタンもリリオンも膝を立てるように座っている
のだが、ランタンの膝頭は完全に湯船の中に収まりリリオンの膝頭
は水面から飛び出している。
リリオンの膝。まだ骨っぽい。
けれど、それに繋がれる太股と脹ら脛が少しだけふっくらとして
いた。まだ痩せていることに変わりはないが、次第に肉付きが良く
なってきた。
ランタンはそれを冷静に見ている己と、恥ずかしがっている己を
自覚して少し笑った。
﹁お風呂ひさしぶりね﹂
﹁二週間ぶりぐらいかな﹂
風呂に入れない間は濡れたタオルで身体を拭くことしかできなか
った。怪我も早々に治ったリリオンも、ランタンに遠慮をしてか風
呂に入ろうとはしなかった。
口に出すだけで身体のベタつきを思い出す。ランタンは汗の浮い
た首筋を撫でる。
﹁⋮⋮迷宮にお風呂持って行けたらいいのにね﹂
﹁湯船型の荷車でも特注する?﹂
﹁それいいかも!﹂
﹁あはは、よかないよ。迷宮で風呂って。流石に探索中に気が抜け
すぎるのはね﹂
﹁でもでも、ランタンが入ってる時はわたしが見ていてあげるわよ﹂
﹁で、リリオンが入ってる時は僕が?﹂
﹁あ、それだといっしょにお風呂には入れないね。どうしようか﹂
﹁どうもしないでよろしい﹂
ランタンが素っ気なくしているとリリオンは頬を膨らませて哀れ
っぽい目付きで睨んでくる。下唇を突き出す顔は小憎たらしい。ラ
1049
ンタンは水鉄砲をしてその顔に湯を浴びせかけた。
ぎゃあ、とリリオンが怪獣のような声を上げる。
﹁ひどいっ﹂
リリオンがむきになって透かさずやり返してくるが、ランタンは
それを躱した。子供の遊びには付き合わないというように素っ気な
く。呆気なく。
距離は五十センチほどしか空いてはおらず、リリオンの手から放
たれる水塊は一秒の間もなく飛来するもランタンは余裕の様子であ
る。探索者としての身体能力の無駄遣いと言うほかない。
リリオンが一つ唸り声を上げて、ちゃぶ台でも返すように湯をラ
ンタンに浴びせかけた。
それは逆立つ瀑布のようだった。が狙いは湯を浴びせることでは
ない。
ランタンは飛沫を避けるように目を細めた。半分閉じた目蓋の下
で目が笑った。
いじわるなランタンに目にもの見せてやる。
白く細かな泡を内包する大波がランタンに向かう。
リリオンは白波がランタンの顔を、視線を遮ったその瞬間に湯船
にもたれていた背を離した。腰を浮かせて、波の中に指を立てた諸
手を突っ込む。狙いはランタンの頬。その軟らかい肉を抓ってやる、
とリリオンは意気込んだ。
柔らかさを想像して唇が笑う。
波から先走る飛沫と泡沫。白波の目隠しに稚気を隠して放った柔
らかほっぺへの貫手は波を貫通した。絶対不可避を確信したその瞬
間に、待ち構えていたランタンの両の腕に呆気なく逸らされた。
愕然としてリリオンの表情が固まる。ランタンは頬が裂けるよう
に笑う。
1050
湯に磨かれたランタンの手の甲をリリオンの腕が滑り、左右に開
かれる。
波が上下に断ち割れて、上半分はランタンの頭上を飛び越えて下
半分はランタンの掌にぺたんと押さえつけられた。
リリオンは両手を広げていて、それはランタンを迎え入れようと
しているようである。だが動けなかった。ランタンの視線が身体の
上を滑るのを感じた。
こめかみ。眉間。目から鼻梁を通って鼻の下へ。顎先と喉。鎖骨。
胸を迂回して脇の下。心臓。鳩尾。
どこにくる、どこにくる、と必死に状況を立て直そうとリリオン
は意識を巡らせたが、気が付いた時にはランタンの掌に胸骨が押さ
えつけられていた。中指の先っぽで、突き放すようにして浮いた腰
を沈められた。
﹁あ⋮⋮﹂
ランタンが柔らかいのは頬ばかりではない。
﹁健闘賞って感じかな。四十五点﹂
ランタンがリリオンの身体に体重を預けた。立てた膝の間にすっ
ぽりと身体を収めて、リリオンはあっという間に背もたれにされて
しまった。ランタンは優雅に足を組んで、リリオンのことなどお構
いなしに背中を反らし、両腕を突き上げながら身体を伸ばしている。
触れる肉体の全てが柔らかい。
降って湧いたような幸運にリリオンは珍しく身体を強張らせた。
頬だけでも満足できたのに、こんなことってあるのだろうか。
リリオンは恐る恐る、気まぐれな少年の不興を買わぬように両の
と
腕をそっと閉じてランタンの小躯を抱きすくめた。怒られない。も
っと深く。
左の腕は少年の左脇から胸を通って右肩に。
右の腕は右の脇腹から左の腰に。
そうやって少年の身体を引き寄せて密着し、リリオンは花弁を綴
じる花のように、両足を交差させて自らに引き寄せる。
1051
少女の檻の中に少年を閉じ込める。ランタンは何も言わない。
うなじ
もう少し、平気だろうか。
リリオンは項に顔を寄せて、浮いた汗の粒を唇に。塩の味がする。
そのまま唇を滑らせるとリリオンはランタンの肩に顎を乗せた。汗
に濡れた頭をランタンががしがしと撫でてくれた。
﹁そんなにくっついたらのぼせちゃうよ。あと顎が刺さって痛い﹂
﹁⋮⋮それならわたしが看病してあげる﹂
乱暴さの中にある甘やかな指先の感触にリリオンは、抱きしめさ
せてもらっているのだと、ふと気が付いた。
リリオンは急に不安になって、いやいやするようにランタンの身
体に顔を擦りつけた。擦りつけているとちょっとだけ楽しくなった。
芽吹こうとする不安の新芽をぺちんと叩き潰す。
根っこが残ってしまった。
肩が細い。ランタンは確かに小さいけのだけれども、同じほどの
背丈の人と比べてもやはり小さく見える。それはきっと骨格が華奢
なせいなのだろうと思う。
﹁なんで看病する側だと思ってんの?﹂
﹁だって、怪我するのはいつもランタンでしょ﹂
﹁湯中りは怪我じゃないし、⋮⋮まだ頭ぼうっとしてない? 大丈
夫?﹂
﹁うん、平気﹂
ランタンは強いけど、こんなに小さい。
リリオンは不安を腹の底に押し込めて、がぶりとランタンの耳に
噛み付いた。
視界の端、ランタンの肩越しの湯面が見えて、そこには波紋が浮
かんでいる。波紋の真下で獰猛な怪魚が顎門を開くように、ランタ
ンの二指が鉤型を作った。
それは目を潰す時の形だ。
慌てて口を離す。すると怪魚は水底へと身を翻して帰っていった。
リリオンはほっと一息吐いて、今度は歯を立てずに恐る恐る唇で
1052
は
耳を食んだ。やっぱり塩の味がする。怪魚は水底で大人しくしてい
る。
ランタンが呆れているけど、いいのだ。食んだまま呟く。
﹁ねえ、今度はどんな迷宮に行くの?﹂
﹁お、急にやる気になったね。どうしたよ。この前はちょっと休も
うとか言ってたのに﹂
それはランタンの怪我がなかなか治らなかったからだ。
リリオンはミシャにランタンが無茶をしないようにと言われてい
るし、リリオンも怪我をして欲しくないと思っている。まだ弱くて
足を引っ張ることの方が多いから、いったいどの口で、と自分でも
思うことがあるのでなかなか強くは言えないけれど。
﹁わたしがんばるよ。もっと強くなるんだから!﹂
耳を食んでも怒られなかったけど、大きな声を出したら怒られた。
そして湯中りを起こして、また怒られる。
冷水で絞ったタオルで目隠しをされぐるぐる回る暗闇の中で、気
持ち悪くなる前に言いなさい、と天使みたいな声が降り注いだ。口
元が緩む。
気持ち悪くないよ。気持ち良くなり過ぎちゃったのよ、と言いた
かったけれど、口元はヘラヘラするだけで言葉にならない。
﹁ねえ、ちょっと、⋮⋮本当に大丈夫なの?﹂
天使は薄気味悪そうに言ったけれど、リリオンの意識はふわふわ
とした闇の中にたゆたって全く聞いていなかった。
1053
070 ☆︵後書き︶
ランタン・リリオン・ランタン・リリオン
1054
071 迷宮
071
装備の幾つかを新しく買い直したのだが、その内の一つである手
袋は微妙の一言に尽きた。
手袋は金蛙の雷撃に苦戦を強いられたために購入した装備で、絶
縁体であり耐熱使用のそれは雷雲を鷲掴みにできるという触れ込み
である高級品だったが装着して二時間で襤褸屑のように脱ぎ捨てら
れることとなった。
手袋は薄手のゴム質で肌にぴったりと張り付く装着感は悪いもの
ではなかったのだが、それも装備して三十分ほどで、それほど、と
形容詞が付いた。手袋をして探索を開始すると、内部が物凄く蒸れ
たのである。電気を通さない、熱を通さないというのはつまり空気
を通さないことと同意だった。
それほどの形容詞を得て、その二十分後にはもう脱ぎたくなって
いた。だがその頃には戦闘に突入してそんな暇はなかった。そこで
ランタンの苛立ちは頂点に達してしまった。
魔精結晶へと変質する部位ごと魔物の群れを焼き払うことでどう
にか落ち着きを取り戻す。
手袋の中で汗を掻くと死ぬほど気持ちが悪かった。
汗で濡れれば濡れるほどに素材は皮膚に張り付き、その癖に皮膚
と一体となるわけでもなく内側で滑るのだ。握力は十全でも、ラン
タンは戦鎚を振り回すたびに違和感を覚えたのも焼き払うに至った
一つの理由である。
違和感は不安である。戦力の出し惜しみをせずに早急に戦闘を終
わらせる必要があった。
手袋のせいで戦鎚は今にもすっぽ抜けてしまいそうで、必要以上
1055
に強く柄を握ることになり、筋肉の余計な緊張は全身の動きを阻害
した。
ランタンの戦鎚捌きは繊細さとは無縁であったが、だからといっ
てすべてが闇雲に力任せというわけでもない。
そもそも手袋の存在意義は感電だけに留まらぬ手の保護であった
まめ
が、ランタンには全く逆の効果を発生させてしまう結果となった。
汗でふやけた皮膚が殴打の衝撃で肉刺となることもなく捲れてし
まったのだ。
たこ
高重量の戦鎚を振り回すランタンの手は柔らかい。皮膚が肉刺や
胼胝にならないほど薄いのだ。風呂好き、と言うのもその一因であ
ったが生まれつきのことでもあった。
﹁最悪⋮⋮、あーあ、もう﹂
苛立ちの篭もった呟きは痛みのせいだけではない。
購入した手袋が役立たずだったからでもない。
手袋を外すと指の付け根の皮膚がべろんと捲れている。捲れた皮
膚は中途半端に繋がっていて、剥き出しになった真皮の色との対比
で青白くすら見えた。死体の色だ。ランタンはその死んだ皮膚を引
き千切って、そして指の股を見つめる。
唇が完全にへの字になっていて、眉間にも深く皺が寄っている。
リリオンがおっかなびっくり不機嫌そうなランタンを見つめた。
﹁どうしたの?﹂
﹁⋮⋮かぶれた﹂
ランタンの視線の先、それはまるで虫に産み付けられた卵のよう
にも見える。それはもしかしたらここが虫系迷宮だからかもしれな
あせも
い。
汗疹が一ミリほどの小水疱となって人差し指と中指、中指と薬指
しご
の側面にぽつぽつと発疹していた。痒いよう、とランタンは指の腹
を使って扱くように汗疹を掻いた。
﹁水ぶくれって、つぶしたくならない?﹂
﹁なる。けど、潰すと広がりそうだからしない﹂
1056
だからそんな目で見るな、とランタンはリリオンから視線を逸ら
す。少女は自分のお小遣いで購入した裁縫用具を腰のポーチから取
り出そうとしていた。ランタンが冷たい目をすると、冗談よ、と手
を広げる。針は隠し持っていない。
ランタンはうんざりしながら苛立ちの赴くままに叩きつけた手袋
を拾い上げ、適当に丸めて背嚢の中に放り込んだ。使用二時間で売
却が決定する装備というのも珍しい。纏まった金が手に入ったせい
で、品定めが雑になっているのかもしれない。
しっかりしなきゃ、とランタンは反省しながら痒み止めを汗疹に
塗り込む。
不幸中の幸いと言うべきか汗疹は戦鎚を握る右手にしかできてい
ない。触るたびに痒みが増すようで、爪を立てて掻き毟りたくなる
欲求を抑えつけるのは大変だった。ランタンは潰すわけじゃないし
と自分に言い訳をして水疱に爪で十字の印を付けた。
リリオンがじっと覗き込んで不思議そうな顔をしている。
﹁それなに?﹂
﹁おまじない。痒くなくなるようにって﹂
﹁ふうん、かゆい時は冷やすといいのよ﹂
﹁ああ、聞いたことあるかも。でもどうやって冷やすよ﹂
ランタンは肩を竦めてリリオンに尋ねた。当たり前だが氷は所持
していない。水筒の水は冷たいが、痒みを取るためだけに使うのは
かざ
流石にどうかと思う。せっかく塗り込んだ痒み止めも流れてしまう。
﹁じゃあわたしが⋮⋮﹂
リリオンは言っておもむろに両手を胸の前に翳した。
まるで透明な球体を掴むように。魔道を使おうと念じているのだ。
リリオンは目を瞑り眉根を寄せてうんうん唸っているが、そこに
は何の変化も現れない。
ランタンがエーリカと話をしている間に、リリオンはケイスから
魔道の使い方を教えてもらったようである。
ケイス自身は魔道を扱えないが、ケイスの所属していた探索班に
1057
は火の魔道を行使する探索者がいたそうだ。その魔道使い曰く、己
の内に流れる魔精を認識すること、それが魔道使いのための第一歩
であるらしい。
ケイスはその一歩を結局踏み出せず、リリオンはこれから先はど
うか判らないが、少なくとも今は全く認識することができていない
ようである。
そもそも魔精の流れというものを理解できるのはそれを認識した
人間だけで、又聞きのケイスの言葉によって魔道使いになれるのな
ら誰もが魔道使いになっている。
リリオンは砂漠に落とした塩の一粒を探すように、当てもなく己
の内部に意識を向けている。かっと目蓋が持ち上がり、淡褐色の瞳
がきらきらな笑みを浮かべる。
﹁あ、冷たい空気出た!﹂
気のせいでしかない。
そんなものは出ておらず、むしろ少女の熱意に炙られて少し暖か
さを増していたかもしれない。
ランタンはリリオンの掴む空気を掻き混ぜて、意地悪っぽくそし
て優しげに笑った。馬鹿な真似、あるいは無駄な努力と人は言うか
もしれないけれどリリオンはそれだけ真剣なのである。
﹁もうっ、もうちょっとでランタンを冷やしてあげられたのに﹂
﹁それはまた今度ね。︱︱第二波来るよ、戦闘準備!﹂
無数の羽音が迷宮の奥から壁を反響し、鼓膜を揺らした。
つんざ
三十匹はいないだろうが反響して幾重にも重なる羽音によって、
正確な数を把握することができない。鼓膜を劈くような高音が十重
二十重に重なり、その中に一つ重低音がある。
ランタンは打剣を引き抜くと流れるように振りかぶった。
爆発による射出は使用しない。それはまだ完全に習得した技術で
はないからだ。成功率は一割を超えたり割ったりしてる。土壇場で
の成功は、その状況下に追い込まれたが故の集中力の賜である。道
中の雑魚魔物相手に最終目標戦のような集中力を発揮していては精
1058
神があっという間に擦り切れてしまう。
爆発射出に失敗すると、そもそも加速力が付かなかったり、目標
をてんで捉えられなかったりする。それだけならまだしも爆発によ
って武器の破壊もあり得た。塵も積もれば何とやらで、安い打剣で
あったが失敗のおかげでグラン武具工房は儲かってしかたがないら
しい。
いつか在庫過多にしてやる、と余計な恨みを込めてランタンは打
剣を投げ打った。
リリオンがひらりと差し出した端布に向かって。
打剣が端布を貫き、その端っこを摘まんでいたリリオンの指先か
ら奪い取る。端布は打剣の膨らんだ鍔元に引っ掛かり、はたはたと
はためいている。それは白いポンチョを着た妖精が高速で飛翔して
いくようだった。
妖精は真っ直ぐ飛んで天井深くに突き刺さった。
﹁妖精って言うか、てるてる坊主だな﹂
ランタンは戦鎚を引き抜いて握りしめた。
﹁ああもう痒いなあ﹂
﹁ふふふ、さっさと終わらせましょう﹂
苛立つランタンをリリオンが宥めた。
苛々を一瞬で表情の奥に引っ込めてランタンは走る。一瞬で過ぎ
立った真剣な横顔にリリオンは見惚れて、はっとして意識を切り替
える。
リリオンはその背中を見送って、大きく息を吐いた。魔道はまだ
使えないけど、使えるようになるか判らないけど、剣は使える。研
いで少しだけ短く細くなった大剣はそれでもリリオンの手に良く馴
染んだ。柄を何度も握り直し、飛び出すタイミングを計った。
痩せた大剣は力任せに振り回すには少しだけ軽いけれど、その分
1059
取り回しが良くなったと思う。リリオンに課せられた命令は、ラン
タンの打ち漏らした魔物の排除だ。
﹁がんばるよ﹂
視線の先にある背中に告げる。
迷宮の奥からそれが現れた。第一波を撃滅し、これは第二波。な
ので驚きはないけれど、第一波では吃驚してしまった。リリオンは
スイートビー
その魔物を知っていたけど、それは知っている姿でなかったからだ。
魔物は名を香蜂と言う。地上でも見ることのある虫系の魔物であ
る。
それは子鼠ほどの大きさの蜂で、淡い赤の体色が美しく警戒色が
示すとおりに凶暴だ。
地上で見る香蜂は木々の生い茂る森林に住む。雑食だが特に肉を
好む傾向があり、木の幹を食い破りその内側に巣を作るのだが巣に
近寄った動物を襲うばかりではなく、日に何十キロも飛行し餌を探
すこともある。そして時折農園の家畜や従業員を襲うことも。
それがリリオンの知る香蜂だ。
だが迷宮に現れた香蜂は、小型犬ほどの大きさがあった。地上生
の香蜂は群れの長でももっと小さい。通常個体でこの大きさともな
ると驚いただけですんだことは幸運だった。ランタンが傍に居なか
ったら、恐怖で動けなくなっていたかもしれない。
香蜂は一際大きな個体を群れの長として集団で狩りをする。斥候
役の香蜂が少数いて、それは群れから先行して飛び獲物を探す。そ
れらは針が退化している代わりに尻の先から毒液を噴射する。
その毒液は苺に似た甘い匂いがして、故に香蜂と呼ばれる。
毒液は浴びると付着した箇所に痛痒い炎症を引き起こし、吸い込
むと呼吸器に麻痺をきたす。老人や子供が吸うと呼吸不全を引き起
こし死に至ることもある。そして毒液を浴びた者は後続の香蜂に集
中的に攻撃される。
天井に突き刺さる打剣が身に纏う端布はその毒液を染みこませて
ある。第一波を先導していた斥候蜂が盾に吹きかけた毒液をあの端
1060
布で拭い取ったのだ。盾の付着箇所はランタンが爆発で焼いてくれ
た。そのため匂いの発生源は打剣一つに限定されている。
地上の香蜂ならば霧状に噴出する毒液も、迷宮香蜂は大きさが大
きさなだけにコップ一杯の毒を浴びせられるようだった。ランタン
は汗疹が痒いと呻いていたが、あの毒液を浴びることを考えたら汗
疹なんてなんて事はない。
ぞわりと迷宮の奥から香蜂が湧き出す。
いかにも甘い香りを吐き出しそうな淡い赤色。縁の波打った独特
の翅は二対四枚。それを高速をで羽ばたかせることで高音を発生さ
せている。それは香蜂が既に興奮し攻撃体勢に入っていることを示
している。
香蜂は羽音を響かせ、互いに追い越し追い越されながら匂いに釣
られて打剣に誘引された。だが騙せるのは数秒、とランタンは言っ
た。尾の針が五寸釘のようで、端布が一瞬でズタボロにされた。そ
してそれが無生物であると判ると、群れは渦巻くようにしてランタ
ンに狙いを定める。
ざっと尾針がランタンに向いた時、そこにはすでに残影があるば
かりだ。
リリオンの類い希なる動体視力を持ってしても、それは幽かな揺
らめきのように見える。初動が恐ろしく速い。世界で一人だけ時間
の進みが違う。それは孤独さなのかもしれない。
ランタンは一息の間もなく打剣の真下へと到達していた。
そして戦鎚を天井に差し向ける。戦鎚から大輪の花が咲くように
紅蓮が広がる。
迷宮を震動させる衝撃。羽音を乱暴に掻き消す轟音がリリオンの
耳に心地よかった。 香蜂の群れは衝撃と熱波に炙られて次々と吹
き飛び地面に落ちた。翅が焼け落ち、表皮が焦げ、狙いを定めた針
が虚しく地面を刺した。
そしてまだ燻る余波を引き裂くように戦鎚を振り下ろす。衝撃か
ら体勢を立て直した数匹の香蜂。その一匹を叩き落としランタンは
1061
その奥から現れた大型個体、長香蜂と対峙する。
通常個体よりも二回りほど大きく、翅が三対六枚。針は二回りど
ころではなく太く、群れの死を嘆くように毒液を滴らせていた。
そしてリリオンの役目は、ランタンを長香蜂に集中させること。
ランタンの背を追いかけるように生き残りの数匹が高速で羽ばたく。
リリオンは既に駆け出しており、ゆったりと回り込むように大剣を
振り回した。
ランタンの邪魔はさせない。
大剣はあえて刃を立てる。鎬に空気抵抗があり、扇ぐように振る
ったそれは香蜂の意識をこちらに向けるための牽制である。巻き起
こった剣風に香蜂が煽られて体勢を崩し、しかしすぐに立て直すと
風の発生源であるリリオンに振り向く。
もしかしたらリリオンには嗅ぎ取れない程度、まだ盾に匂いが付
着しているのかもしれない。
香蜂は一瞬だけ迷うように空中で静止したが、揃いも揃ってリリ
オンに狙いを定めた。腹部が蠕動して針が前後に動いている。
香蜂の攻撃方法は単純だ。体当たり。ただその一つに尽きる。
大きさは小型犬ほどでも、体重は一キロに満たない。外殻はそれ
なりに硬いが、石ほどではないので直撃しても問題はない。翅はぶ
つかりざまに皮膚を切り裂く程度の鋭さを備えているが、戦闘服は
切り裂けない。問題は針である。
体当たりは尻から飛び込むようにして行われる。そして針は革製
の装備程度ならば容易に貫き、リリオンは未だにランタンとお揃い
の薄っぺらな装備しかしていない。針には毒があり、それは斥候が
けいせい
吹き付けるものと同じ物だ。
甘い毒は強い痛みと痙性麻痺を引き起こす。
リリオンは大剣を振りかぶるのに邪魔にならない程度に距離を空
け、壁に背を向けた。第一波との戦闘により、集団戦闘で回り込ま
れることの鬱陶しさを理解した。助けてくれるランタンは背後にい
ない。
1062
斬ることよりも、まずは針を受けないこと。盾は香蜂の攻撃を完
全に遮断するが、同時に死角も多く生み出すので上手く使わないと
いけない。
大剣を引き戻す。同じように刃を立てて斬り返した大剣が再び空
気を掻き回し乱気流を生み出す。渦に飲み込まれるように香蜂が気
流に囚われて、それを狙ってリリオンは方盾を足元から振り上げた。
ばちんばちん、と衝撃は二つ。二匹逃がした、と悟った瞬間にリ
リオンは盾から指を外した。慣性の赴くままに方盾が吹き飛んで天
井にぶつかる。その影の中から香蜂が湧き出すように向かってくる。
引き打ち。
先端で斬るように横薙ぎした大剣が躱される。脇を締めて、大剣
を身元に引き寄せる。後退から一気に踏み出し、二匹の香蜂が重な
った瞬間を狙った。一匹を突き刺し、もう一匹は鋒を舐め、刀身を
なぞるように飛ぶ。
斥候蜂だったら顔に毒を浴びせられるところだった。
リリオンは突き出した勢いで身体を引き摺る大剣を手放した。剣
がすっ飛んでいく。それが生み出す気流に香蜂が乗っかった。その
気流の道は死への一本道だとも気づかずに。
リリオンは腰の狩猟刀を逆手に引き抜くと、それを気流の道へと
差し出した。香蜂が吸い込まれるようにして狩猟刀に身をぶつける。
眼前に迫った最後の一匹である香蜂をリリオンは抜き打ちに切り
払った。
蜂の一刺しは、勝負を決するに至らない。ただ悪あがきとして、
服の余り布を掠めただけに終わった。リリオンが大きく息を吐いた。
もうちょっと太っていたら刺されていたかもしれない。
そんな風に思いながら、視線を迷宮の奥に向けた。
目を焼くような赤い光。耳鳴りを引き寄せる轟音。派手だ。
群れを統率する大型個体は芋虫に成り果てていた。虹色に透ける
三対六枚の翅は尽くが焼け落ちていて、頭部の半分を占める複眼は
青い体液で汚れ濁っていた。細い脚はぱきぽきに折れていたり失わ
1063
れたりしている。
ランタンは戦鎚を肩に担いでいて、何気ない動作でそれにとどめ
を刺した。突き刺さった鶴嘴に香蜂は大きく痙攣し、ランタンが手
首を捻るともう動かなくなった。ランタンは鶴嘴を引き抜くことな
く、そのままずるずると香蜂を引き摺って歩いてくる。
おいでおいで、と手招きする仕草がちょっと嬉しくてリリオンは
子犬のように駆け寄った。
途中にある大剣を拾い、方盾を拾う。
﹁いっぱい落とし物したね﹂
﹁ちゃんと拾ったよっ﹂
﹁それなら、あの死体も拾ってきて欲しかったな﹂
﹁⋮⋮いってきます﹂
﹁いってらっしゃい﹂
香蜂の魔精結晶は翅である。翅であるのだが、あまりそれは高価
ではない。
波打っているので嵩張るし、薄いので割れやすいし、何より飛ん
でると香蜂は鬱陶しいから気にせずにぶった切れとランタンは言っ
た。リリオンはぶった切ったし、ランタンは焼き払った。
それでもいくつかの香蜂は偶然にも翅を残しているので、リリオ
ンはそれを切り取って保存袋に放り込んだ。
そして香蜂を解体する。必要とする部位は針と毒袋である。
針は管状になっており毒腺と繋がっている。無理に引き抜くと毒
腺が破れてしまい、何もかもが台無しになる。ランタンは狩猟刀の
先端で慎重に腹を掻っ捌いた。
針は先端から腹部に埋まる五センチほどが硬質で、それより先は
柔らかくいかにも内臓といった様子だ。毒腺は腸のようにうねって
腹部に収まっており、その中ほどが腫瘍のように膨らんでいる。そ
こに毒の原液が溜まっている。原液は体液と混ぜ合わせ、薄めて針
へと流し込まれる。
香蜂の毒はきちんと処理をして適量を用いれば止血や強壮効果を
1064
もたらす。そして何より香りがいいので毒液を乾燥させ粉末状にし
たものを樹液や蜂蜜で練固めて香としたり、煙草に混ぜ込んで使用
される。
だが焚きすぎればやはり毒となって麻痺を引き起こすし、煙草は
成分の摂取量が飛躍的に上昇するので注意が必要となる。
原液は毒腺に包まれたまま取り出さなければならない。外気に触
れさせると匂い成分が揮発してしまうのだとか成分が劣化するとか
理由は色々だが、原液に触れると皮膚がただれてしまうのでそもそ
も望んでそれを破る人間もいない。
ランタンはまず毒腺と針を切り離す。そして切り口を塞ぐように
先端をくるくると結ぶ。そして逆側、根元側もさっと切り落とすと
同じように結ぶ。そして針と毒腺を地面に並べると次の個体に取り
掛かった。
パイプ
まぶ
針は鋭いが武器にはならない。武器として加工するには脆すぎる
それは煙管の材料となる。粉末香を塗した刻み煙草と抱き合わせで
販売されていて、娼婦が寝台に寝そべりながら客と一つの煙管を交
代交代に咥えたりするのだが、当然リリオンはそんなことを知らな
いしランタンも知らないことだった。
毒腺は五つ揃うと、一纏めにして保存管の中にべちゃりと放り込
まれる。
リリオンは毒腺を縒り合わせるランタンの指先に釘付けだった。
青い体液に汚れる、細い指先は何だか背徳的な感じがある。
器用な指先はリリオンの髪を結ってくれる指先だ。リリオンは自
分の髪を結ってくれている様子を想像した。髪を結ってもらう時、
リリオンはその指先を見ることができない。
﹁あ、今すごい探索者っぽい﹂
﹁ふえ?﹂
見惚れているリリオンを余所に、ランタンはそんなことを言った。
リリオンには正直なところよく判らない。戦っている姿を探索者っ
ぽいと思えど、地面にぺたりと座った内臓を縒っている姿は漬け物
1065
でも作っているみたいだからだ。
リリオンはきょとんとして小首を傾げた。それから少し考えてか
ら言う。
﹁わたしもやってもいい?﹂
﹁いいけど絶対これは破らないように。あと針と切り離すとちょっ
と毒液漏れるから注意ね。薄まってても肌に悪いから。触っちゃっ
ても怒らないから、ちゃんと言うこと。むしろ隠してると怒るよ﹂
﹁わかった﹂
﹁じゃあ小さい、いや、でかい方が楽か﹂
言われるがままにリリオンは指差された大きめの個体を鷲掴みに
した。そしてくびれた胴体を捻切って、腹を割った。外皮は硬いが
どことなく油紙を思わせる柔軟さがある。中身は冷えた豚脂に似た
半固体状で、それは毒腺を守る緩衝材のようだ。甘い匂いは毒が漏
れているわけではなく、そもそもの体液がそのような香りなのかも
しれない。
リリオンは体液で指を汚しながら毒腺を浮かせた。原液を溜める
袋を突くとぷよぷよとしていた。
原液自体も粘性があって、袋も見た目よりも頑丈そうだ。
リリオンは思いがけず手際よく香蜂を捌く。それは魚を捌くのと
似ていた。
その横でランタンは長香蜂を解体し始める。長香蜂の毒液は一際
香り高く売価も高いが、その代わりに針はほぼ無価値である。管の
内径が広すぎて煙管にした時に不格好なのだ。希少価値と言い換え
られなくもないけれど、それはただ不人気であるだけだった。
長香蜂の原液はそれだけで縛って、保存缶に入れた。最終的に原
液は二十一個も手に入った。針は体内で割れてしまったものもあっ
たので十八個。
リリオンは青く染まった指先を見つめて呟く。
﹁かゆい⋮⋮﹂
ランタンが水筒を傾ける。キンキン冷えた水が流れて、リリオン
1066
エン
はごしごしと手を擦った。上手くいったことに気分を良くして、作
業がいつの間にか雑になってしまったのだ。
﹁おそろいだね﹂
﹁⋮⋮うれしくない﹂
﹁だろうね﹂
怒られなかったけれど、ランタンの呆れた声が耳に痛い。
﹁すぐ済みますから! 大丈夫です、遅れないです!﹂
ジン
渋い顔をする探索者ギルド職員を蹴散らすように、ミシャは原動
機を空ぶかしした。ぶおん、と唸る排気音に職員が困ったように眉
根を寄せる。
吹かしたミシャも吃驚した表情を作った。
わざとではないのだ。焦っているのか、思わずフットペダルを踏
み込んでしまった。
﹁死んでも文句言わないです!﹂
ミシャがそこまで言うと職員は渋々といった様子だったが道を空
けた。
ありがとうございます、とミシャは大声で叫ぶがその頃には既に
職員を背後に置き去りにしている。十分近くも押し問答に時間を取
られてしまった。
さっさと通してくれればいいものを、と奥歯を噛んでミシャは起
重機の速度を上げた。
いや、恨むのならば区画封鎖という状況を生み出す元凶となった
どこかの探索者をだ。探索者ギルドに迷宮攻略の失敗を知られるの
を恐れて、どうやら攻略進捗率を改竄していたらしい。
迷宮は生まれ、そして崩壊する。
攻略された迷宮は迷宮を維持する魔精の源、迷宮核を奪われるこ
1067
とで一月と持たずに崩壊する。その瞬間はなかなかの見物で、迷宮
口の奥からどどどっと地面が迫り上がって口を塞ぐ様子は迫力があ
る。
攻略された迷宮は迫力があるだけで済むのだが、未攻略迷宮が崩
壊すると中に蠢くものどもが地上に湧出することがあった。
特区が整備される遥か以前、例えば下街の未だに整備もされてい
ない惨憺たる有様は迷宮崩壊によって生み出されたと言われている。
迷宮特区は地脈の流れを人工的に収束させて、迷宮の誕生を意図的
に集めて封じているのだ。
それでも封印は完全ではなく都市の外にも迷宮は生まれ、定期的
に騎士団が迷宮攻略隊や魔物討伐隊を組んで出撃していたりする。
フラグ
湧出するものは迷宮路を跋扈する魔物であったり、その最奥で迷
宮を鎮護する最終目標と呼ばれる化け物であったり、その両方であ
ったり。未攻略迷宮でも何事もなく崩壊する場合もあるがそんなこ
とは稀だった。
そのため未攻略迷宮が崩壊する場合には安全のためにもその周囲
数区画が封鎖されるのだ。
迷宮崩壊に伴う区画封鎖は珍しいものではなく月に何度も封鎖の
通達は受け取っている。
それにより引き上げ屋と探索者は探索計画の延期や前倒しをする
のだが、今回は探索者ギルドが改竄に気が付いたのが昨日の今日ど
ころの話ではなく、今日の今日であるらしく多くの人間が迷惑を被
っている。
ミシャもまさしく迷惑を被った内の一人だった。
担当する探索者の引き上げ日だというのに、いざその場に向かお
うとしたらギルド職員に足止めを食らったのだ。安全を期すためだ
、その探索者がランタンであるからかもしれな
とは言え、探索者を迷宮で待ち惚けさせることはミシャには耐えが
たいことだった。
耐えがたいのは
い。
1068
遅れないです、と職員に啖呵をきれたのは迎えに行くのがランタ
ンであるからだ。勿体ないと言わんばかりに時間いっぱい探索を継
続して予約時間に遅れる探索者が多い中で、ランタンが予約時間を
破ったことはただの一度もない。
それはランタンが臆病だからではないかとミシャは思う。
遅れでもしたら不安になって泣いているかもしれない。そんなあ
り得ないことを想像してミシャはほくそ笑む。そしてその隣にある
リリオンのことを思い出し、いやきっと格好付けるな、と更に笑み
を深めた。
少年の孤独が癒されるのなら、それに越したことはない。
ランタンの探索者としての始まりを知っているが故にミシャは祈
らずにはいられない。
でもリリオンちゃんも結構怖がりだからな、とミシャは速度を落
とさないままに角を曲がった。
遠心力に内臓が偏る。危うく探索者ギルド武装職員を轢きそうに
なって、ごめんなさい、と、大丈夫ですか、と慌てて繰り返した。
武装職員は轢かれそうになったことよりも、封鎖区域に起重機があ
ることを訝しむようだった。それも逃げ出すのではなく、内に進ん
でいくのだから尚更である。
すれ違う武装職員の数が多くなってきた。
探索者は攻略の進捗率によって、迷宮の賃貸契約を強制的に打ち
切られることがある。それはつまり探索者ギルドが攻略不可能だと、
その探索班を見限ったと言うことに他ならない。
改竄が許されることではないが、それは探索者にとってはひどい
屈辱であり、恥であった。
そして未契約となった迷宮は崩壊までの猶予がある場合には、ま
た別の探索者に貸し出されたり、あるいは猶予がない場合は探索者
ギルドから高位探索者へ攻略依頼が出されたり、武装職員が直々に
迷宮を攻略することがある。
更に時間が足りない場合には攻略依頼ではなく、討伐依頼が掲示
1069
板に張り出される。
崩壊した迷宮から地上に溢れた魔物を速やかに全滅させることが
依頼内容である。
魔物だけが現れるのか、それとも最終目標が現れるか、それとも
両方か。
あるいは出現しないか。
だが魔物が出なくても一定の出撃報酬は支払われるし、討伐した
魔物は探索者の好きにすることを許され、またそれを探索者ギルド
で換金すると換金額に色が付く。むろん討伐数に応じた報奨金も出
る。
そのため討伐依頼は探索者に好まれるのだが、今回は依頼を出す
暇もなかったのだろう。崩壊に対応するのは武装職員ばかりだ。
封鎖していた職員はまだ新米だったのかミシャを通してくれたが、
封鎖区画の内側にいる武装職員はピリピリしていて下手に口答えを
すると叩き斬られそうな雰囲気があった。
ミシャは武装職員に愛想笑いを向け、目的の迷宮口に辿り着くと
大急ぎでロープを垂らした。
予約時間の十五分前。
先端のフックが地面に触れる感触。停止と殆ど同時、すぐに反応
が返ってくる。
﹁さすが﹂
ミシャは呟く。
﹁引き上げ開始!﹂
起重機が唸りを上げた。
1070
071 迷宮︵後書き︶
ランタン、リリオン、ミシャ!
1071
072
072
甘い、甘い匂いがする。
探索帰りの探索者は通常酷く臭うものだ。探索前が清潔かと問わ
れれば口を噤まざるをえないが、酷くなって帰ってくると断言する
のに躊躇う必要はない。
探索中は良くて湿らせた布で身体を拭くぐらいで、そもそも汚れ
て当たり前なので肌を清潔にしようとすら思わない探索者が多い。
鎧はもとより下着の代えすら持たず、戻ってきた時は浮浪者同然の
こともある。探索班内に女性探索者が居たり、女性そのものである
場合はその限りではなかったが。
だがそれに比べてこの人は何なのだろう。
薄い体臭は生来のものと、潔癖さの賜だろう。探索者ランタンは、
探索直後であってもどこか清潔な雰囲気がある。
魔物の血を浴びたとてそれは変わらず、濃く生臭い鉄の臭いでさ
え少年を汚すことは不可能であるように思う。背嚢の中に包帯やガ
ーゼよりも着替えを多く持っている探索者はきっとランタンぐらい
のものだが、あるいはそういったものがなくてとも思わせる雰囲気
がある。
それにしたって、とミシャは思う。
ランタンからはいつにもましてひどく甘ったるい匂いがする。
まるで娼館から出てきたような鼻につくほどの匂い。鼻の付け根
の辺りに匂いが篭もって頭がくらくらする。ミシャは篭もる匂いを
抜くように、ふっと息を吐いた。その直前に、大きく息を吸った自
分には気付かなかった。
﹁お帰りなさい﹂
1072
﹁うん、ただいま﹂
﹁ま﹂
甘い匂いはランタンからばかり香るものではない。
リリオンからも甘い匂いがした。むしろリリオンの方からこそ、
子供特有のミルクにも似た甘ったるい匂いとの相乗効果かはっきり
と濃く香っていた。何故だかランタンからの匂いに先に気が付いた
己を自覚して、ミシャはこっそりと照れる。
リリオンからの香りは、苺のような匂いだ。
それは今回潜っている迷宮に出現した魔物の匂いなのだろう。
例えば植物系の迷宮では香りの良し悪しはあれど芳香を放つ魔物
は多く、匂いからそれを同定することは出来ない。けれど虫系の迷
宮ということは、これは恐らく香蜂と相対したのだ、とミシャは確
信した。
香蜂は数こそ多く出るが、それほどの脅威度を持たない。
引き上げた二人には大きな怪我がないようでミシャはほっと胸を
撫で下ろす。戦闘服も汚れてはいるが、そこに赤い血の汚れはない。
リリオンは探索の絶対数がまだ少なく、それにどうにもランタン
・ ・ ・ ・ ・
が過保護にしているようなので判断が付きかねるが、ランタンの方
は紛うことなく死にたがりの性質を有しているのをミシャは知って
いた。
探索者の中には多くこの性質を持つ者がいるが、その中でもとり
わけランタンはその色が濃い。死にたがりと言っても本当に迷宮に
死ににいくわけではない。もしそうならばランタンは既にこの世に
おもむ
こしら
いない。帰ってくるのは生きる意思があるからだが、それでもミシ
ャは不安になる。
実力はあるのに探索に赴く度に、大小問わず多くの傷を拵えて帰
還する探索者は死にたがりと呼ばれる。
ミシャには彼らの戦う姿を目にする機会はほとんどないが、時折
目にしたり、あるいは噂として聞いた話では彼らは身を投げ出すよ
うに戦うのだという。
1073
自らの身体を囮として、勝利を呼び寄せるのだと。
最近、ランタンは怪我が減りつつあった。それはリリオンと行動
を共にする事によって戦い方に変化があったのか、それともリリオ
ンが戦力として活躍しているからか。何にせよそれは良いことだと
フラグ
と
思うのだが、喜びと同時に不安も感じている。
最終目標を獲ってくる、と宣言をして探索に向かうとランタンは
大きく怪我をする。それはまるで道中で負うことのなかった怪我の
帳尻合わせをするかのようで、分割していたものを一纏めにするこ
とで、それがいつか肉体の限界を超えるのではないかと冷や冷やし
ている。
とは言え引き上げ屋であるミシャに出来ることは、探索者を迷宮
に送り出し、ただ探索の無事を祈り、安全迅速に迎えあげて無事を
喜ぶことだけだ。
﹁無事を喜びたいところなんっすけど︱︱﹂
﹁何かあった?﹂
﹁近くで迷宮崩壊があるようで、今、ここは封鎖区画内っす﹂
ミシャはそう告げながら二人のフックを手早く外す。
ランタンが舌打ちを噛み殺すように唇を歪めた。何とも急だね、
と呟く。その声はつまらなそうだ。急な区画封鎖から何があったの
かを悟ったのだろう。存外に真面目なこの少年は、他者の不真面目
が余り好みではないようだ。
﹁ミシャさんは入ってきても大丈夫なの?﹂
ミシャはフックを纏め、ロープをぐるぐると丸める。
﹁大丈夫じゃないっすよ。ほら、あそこ。怖ーい顔している人が見
てるんで、お疲れの所悪いっすけど、さっさと帰るっすよ﹂
怖い顔の武装職員はそれを隠すように兜を下げた。彼は侵入者で
あるミシャを追い払おうとしているのではなく、その身を案じてい
るだけであった。ミシャもそれを理解しているので彼に向かって小
さく会釈をして、二人の背を叩いて起重機へ走るように促した。
迷宮特区には様々な思惑が入り交じり、その思惑を示すようにギ
1074
ルドの武装職員、衛士隊、騎士団が警邏している。その中でミシャ
は最も武装職員を好んでいる。騎士団は横暴で、衛士隊は誠実だが
探索者相手ではやや武力に欠ける。
リリオンがよじ登るように起重機に乗り込み、ミシャは纏めたロ
ープを積み込んだ。そして少女の後を追い、もっと詰めて、とその
背中を押した。大きな背中だ。薄く見えるのは背が高いからか、き
ちんと筋肉が付いていてミシャは驚いた。
ミシャが何となくその背中を撫でると、リリオンは擽ったそうに
する。反応が素直なリリオンをミシャは可愛く思う。背は少女の方
がずいぶんと高いが、まるで妹のように感じる時がある。
ランタンが甘やかすのも判らないではない。
そしてランタンを振り返ると、少年は怪鳥の如く跳び上がってい
た。黒い外套がまるで両翼を広げているように翻った。ランタンは
起重機の後部に音も無く着地した。
ミシャは起重機を動かす。
起重機をゆっくりと後退させて、迷宮口から離れる。
加速は鈍重だが、それでもぐっと身体を押さえつけられた。
リリオンが座席のフレームにしがみついた。大剣方盾の重量だけ
加速が少女に牙を剥く。後部を振り返ると平気な様子のランタンが
憎たらしい。
ランタンは足を投げ出すように腰掛けていて、膝から先が暢気に
揺れている。
﹁ランタンさん。そう言えば手袋どうされたんっすか?﹂
揺れた足が止まった。
﹁あれはダメだ﹂
行きに見せびらかしていた黒い手袋がなく、ランタンは白い手を
晒している。ミシャが目敏くそれに気が付いて指摘をすると、ラン
タンは手を洗うような仕草で己を撫でる。
﹁⋮⋮かぶれたから脱いだ。欲しけりゃあげようか?﹂
﹁いらないっすけど、⋮⋮ふふふ、相変わらずっすね﹂
1075
少し惜しいかなという気もしなくはなかったが、ミシャの手には
ランタンの手袋さえ大きいと思う。ランタンはミシャの笑い声にふ
て腐れたように、視線を後方へと戻した。への字に曲がった口元を
ミシャは見ることができなかったが、雰囲気から容易にその表情は
想像が出来る。
﹁ランタンは、相変わらずなの?﹂
﹁ええ、前にもあったっすよね﹂
﹁知らない﹂
ランタンの軽装。それは最初の最初は本当に装備を調える金が無
かったからで、更に言えば金属はもとより革の装備ですら少年の身
体には重たかったからだ。故に探索を行い金を稼ぎ、体力が増え、
革も金属も軽々と持てるようになったランタンが装備を調えた時の
ことをミシャは知っている。
装備に着られている感じはあったが、それでもこれで怪我が減る
のだと安心したことを覚えている。その装備自体がランタンを傷つ
けると言うことなど、ミシャもランタンも思いもしなかった。
襟が擦れて首から出血し、篭手が擦れてべろんと甲の皮が剥け、
靴の中で爪が剥がれ。それを全部迷宮に捨てて戻ってきた、迷宮口
から顔を出した時のふて腐れた表情は何とも愛おしかった。
あ
よう
魔精による強化の追いつかない繊細さは、それこそがランタンの
有り様そのものなのかもしれない。
手袋、やっぱり記念に貰っておこうかな。
そんな事を思いながらミシャが企むように笑うと、背中がぞくり
とした。リリオンが背後を振り返る。ランタンが低い声で呟いた。
﹁なにかやばそうだ﹂
﹁速度あげます。リリオンちゃん、ちゃんと掴まってるっすよ﹂
﹁⋮⋮僕の心配は?﹂
﹁いつでもしてます!﹂
周囲の空気が明確に重たくなった。
崩壊間近の迷宮から魔精が溢れ出して、周囲に漂っているのだろ
1076
う。違いのわかる探索者に言わせるとその魔精は臭いのだそうだ。
迷宮は腐り落ちるのかもしれない。腐肉が骨から外れ、ぐずぐずの
汚物となって形を保てなくなるように。
崩壊は近い。すでにカウントダウンが始まっている。ミシャはフ
ットペダルをベタ踏みした。原動機が唸り声を発し出力を上げる。
起重機が加速して地面を削る。ミシャは一度背後を振り返った。
ランタンがいつの間にか手の中に打剣を用意していた。手首を回
してじゃらじゃらと鳴らしている。
辺りが俄に慌ただしくなった。武装職員たちが崩壊する迷宮口の
方を睨み付け、各々の持ち場へと向かって走って行く。探索者の姿
もちらほらと見られ始めた。
封鎖区画から抜け出そうとする者も、逆に迷宮口へ近付こうとす
る者も。
緊急依頼が出されたのか、それとも現場にいる探索者を強制徴集
したのか。
風がミシャの後ろ髪を引く。
それは迷宮崩壊の極直前に現れる兆しだ。引き波が大きな波を連
れてくるように、迷宮口に大気が吸い込まれているのだ。迷宮口か
ら離れても感じるこの吸い込み。これのせいで崩壊する迷宮口のす
ぐ傍で魔物を待ち構えることは難しく、蓋をしようにもそれはただ
迷宮に餌を与えるだけの無意味な行為だ。
迷宮に吸い込まれてしまうと、待っているのは死ばかりである。
崩壊する迷宮は粉砕機に等しい。一説には崩壊する迷宮から魔物
は逃げ出しているのだと言われることもある。
﹁きた﹂
震動と轟音。獣臭。腐臭。瘴気が香る。
引き上げ屋をやっていると迷宮の崩壊は珍しいものではない。今
回のように封鎖区画に入り込むこともあるし、逃げ出すのが遅れて
起重機で魔物を轢いたこともある。武装職員や探索者に助けられた
こともあれば、魔物に襲われて死んだ引き上げ屋の話も聞く。
1077
覚悟はしている。けれどやはりこの雰囲気は好きではない。ペダ
ルが足を押し返してくるような気がする。ミシャは憂鬱げな溜め息
とは裏腹な、乱暴さでペダルの反抗を踏み潰す。
魔物が溢れる。茜空に向かって、劈くような叫び声が響く。美し
い夕焼けが、その瞬間血に染まったように思えた。不吉な声だ。
隣でリリオンが目を細めた。その目元がいやに涼やかで、体格の
割に立ち振る舞いが幼く、口を開いてもやはり幼く、実際に幼いこ
の少女がこれでもやっぱり探索者なんだな、と今更ながらに感じる。
後方を見つめるランタンの表情はどうだろうか。
ミシャはそれを振り返ることが出来ない。
けれど平気な顔をしているんだろうな、とそう思った。
﹁よう﹂
周囲の雰囲気は緊迫感を増していたが、崩壊の近い迷宮口から最
も遠い防衛線の傍にあるとその雰囲気は少しだけ薄れる。それでも
この軽さは何だろうか、と思わないわけではない。
話しかけてきたのは年の頃二十ぐらいの武装職員で馴れ馴れしく
肩を叩いて、災難だな、と笑っている。装備している鎧の種類から
下級の職員であることが見て取れる。
乙種探索者ジャック・マーカスは不機嫌そうな表情で、別に、と
低い声で応えてそれっきり黙り込んだ。向こうはジャックのことを
知っているのかもしれないが、ジャックはこの男のことを知らなか
った。
ジャックの表情はつれない。そんなジャックに武装職員はやれや
マール
れと肩を竦めて、やはり笑うのだった。
大理石模様の毛色を持つ犬頭は、黒一色である姉ほどの威圧感を
生まない。けれど唇を曲げると大きな牙が零れる。それを見て武装
職員はぎょっとしたようだった。
1078
自然と喉がぐるると鳴った。それは怒れるように響いたが、ジャ
ックは特に腹を立てているわけではない。勘違いを解く強い理由も
ないので黙っていたが。
・ ・ ・
どこかの誰かと違って、見ず知らずの他人に話しかけられても平
気だし、そんなことはいちいち意識することではない。あいつはい
ちいち大げさなんだよな、と思う。もしかしたら演技かもしれない、
とも思うのは何故だか感じる苦手意識のせいだろう。
ジャックが不機嫌そうに見えるのは獣の血が濃くて元々の表情が
判り辛いからであり、休暇中に探索者ギルド治安維持局部隊長であ
る姉のテス・マーカスに呼び出され、のこのことそれに従っている
己の状況が照れくさいだけなのである。
災難だな、と言う言葉がもしかしたら皮肉であるのかもしれない
と感じる己がいる。
姉にいいように使われている自覚はあったが、それでも姉の呼び
出しをどこかで嬉しがる己の存在がくすぐったくて、情けないのだ。
幼い頃のように感情の赴くままにニコニコして尻尾の一つでも揺
らせれば複雑な感情を気持ち良く昇華できるのかもしれないが、そ
れをするにはジャックは大人になりすぎていたし、同時に子供でも
あった。
それに姉の悪評は目の前の武装職員がそうであるようにギルド内
でよく知れていたし、その悪評の一つに弟を扱き使っていると言う
ものがあるのをジャックは知っている。
見せかけの不機嫌顔を本当の顔だと思って同情してくる職員は、
ありがたいようなそうでないような半々なのだが多く居て、今更笑
顔を振りまくことはできない。
テスが腰に二振りの剣を差すように、ジャックも腰に二振りの大
型ナイフを差している。
姉の剣は細身でしなやか。対してジャックのナイフは大振りで無
骨だった。見た目の凶悪さでいえば遥かにジャックのものに分があ
ったが、姉には遠く及ばないことは自覚している。
1079
姉のそれは大きな戦果とそれに伴う人魔を問わない数多の死体と
恐れを含む悪評を生み出し、ジャックのそれは仲間からの信頼と魔
物の死体を幾つか生み出すだけだった。
ナイフを鞘からずるりと抜き払った。
右手に構えるナイフは刃渡りが三十五センチ。背に厚みがあり鉈
のようだが、刺突のために先端の五センチだけが両刃になっている。
重量は一キロの少し足らないが、ナイフとしては割合重めに造って
ある。
左手に構えるものは右のナイフよりも三センチ短く、細く造って
ある。
刀身に火の魔道が刻んであり、柄に仕込んだ結晶から魔精を流し
込むと高熱を発生させることが出来る。魔物にとっての第一の鎧で
ある毛皮を焼き切ることが可能で、また第二の鎧というべき脂肪層
をバターのように溶かし斬ることも出来る。
一発で結晶を空にするほどの魔精を流し込めば強固な外皮も鱗も
外骨格も、それを支える厚い脂肪も高密度の筋肉も堅牢な骨も一緒
くたに炭化切断する事も不可能ではない。確実に武具工房送りには
なるが刀身の負担を無視すれば、ある程度の金属を融断する事も。
﹁お、そろそろか?﹂
﹁⋮⋮ああ、そうみたいだな﹂
犬人族特有の発達した嗅覚が、迷宮口から溢れて辺りに流れ出す
獣臭を嗅いでいた。迷宮口直下に魔物が殺到しているのだろう。場
合によってはそこで蟲毒のように魔物同士で殺し合いが発生するこ
ともある。その場合、生き残るのは最終目標であることが多かった。
押し合い、圧し合い。崩壊を、迷宮からの開放を待ち望んでいる
声が聞こえるような気がした。封鎖線の傍では迷宮口の縁を見るこ
とすら適わなかったが。
姉ちゃんは大丈夫かな、とその心配は無駄極まりない思考だと判
っていてもジャックは抱くことを止められない。テスはジャックよ
りも遥かに強者である。弱者が強者へ心配を抱くなど片腹痛いこと
1080
は百も承知だが、ただ一人の肉親への祈りを欠かしたことは一度も
なかった。
テスは迷宮口に最も近い位置で待機している。
そこにいるのは武装職員の精鋭たちだ。
姉を含む治安維持局の部隊長二人。それだけでも半径百メートル
以内には近付きたくはないほどの戦力だというのに、そこにさらに
部隊の猛者が随伴をしている。
副長は隊長の代わりに周囲で指揮を執っているので、各部隊から
戦闘能力上位者四名が選抜されていた。実務、調整能力頭の実力も
加味されて選出される副長と違って戦闘能力上位者というのは完全
なる戦闘狂である。姉の部隊の方は特に。
それだけで探索者五十名を十秒以内に血祭りに上げる鬼の集団だ
というのに、それに加えて上級魔道職員二名が随行しているらしい。
鬼に金棒どころではない。もういっそ魔物に同情したくなってくる。
この精鋭たちの相手は最終目標である。何せ今回の迷宮崩壊は急
すぎて、どのような最終目標が湧出するか不明なのである。崩壊す
るのは中難易度獣系中迷宮。急拵えの戦力だったが、これだけの戦
力を一点に集めれば最終目標の撃破は確実だろう。
そしてそれらから距離をとって一重二重に囲っているのが残った
武装職員で、足りない分を補うのがジャックであり他の探索者だっ
た。テスたちが如何に強かろうとも中迷宮内に潜む魔物を一度に相
手をして、最終目標を処理しつつそれらを逃がさないというのは無
理な話だ。
しんがり
そうやって散らばった魔物を処理するのがジャックに与えられた
使命だった。防衛網の一番外側、それは殿を任されたのだと思った
が、もしかしたらこの頼りのない武装職員のお守りを任されたのか
も知れない。
ジャックが抜かれると封鎖区画外に魔物が出てしまう。後者だっ
たら気分は乗らないが、何にせよ責任は重大だ。姉の期待に応える
のだと、そう思えば乗らない気分も少しは盛り上がる。
1081
﹁きたっ、崩壊だ!﹂
言わなくてもわかっている。
足元には余震を思わせる小さな揺れ、吸い込みによる風。轟音。
迷宮口の方で薄茶色の土埃が立ち上った。夕日が僅かに色を暗く
するのは、大気に魔精が混ざったからか。ねっとりと肌に張り付く
その感覚は、身体の動きを鈍らせるような気がして好ましくない。
﹁は︱︱﹂
夕日が爆ぜたのかと思った。
﹁︱︱ひゅう、すげーな﹂
土埃を、瘴気を太い火柱が焼き払った。目を凝らすとそれが渦巻
いている事が判る。
上級魔道職員の火の魔道だ。迷宮内では仲間どころか己も巻き込
せきしょく
みかねない気兼ねない威力はなんとも清々しい。
夕焼け空の中にあってなお濃い。赤色の竜巻が夕空を貫く。輻射
熱がここまでやって来そうなほどの大威力。その絶技を見て武装職
員が呆れたように構えた剣を肩に担いだ。肩叩きをするように、肩
当てを剣でこんこんと叩いている。火炎竜巻の威力に魔物の殲滅を
確信するように。
武装職員の質も落ちたな、とジャックは思えど口にはしない。武
装職員は押し並べて優秀であると知られているが何事にも例外はあ
るのだろう。
竜巻が狙ったのはあくまでも最終目標。猛烈な輻射熱は無論雑魚
魔物も巻き込みはしただろうが、流石に全滅させられたとは思えな
い。その証明に火炎竜巻に纏わり付くように、鳥形の魔物が空に散
り、もう一人の魔道職員が放つ雷撃に撃墜されていく。
えんきょう
鼓膜を打つ遠吠えが聞こえた。怒りと憎悪、そして苦痛。複雑な
感情がそこにはある。猿叫。この重圧は恐らく最終目標だろう。
ひとしお
猿系の魔物は高い知能を有するが故に、火に焼かれたその怒りの
おぞましさも一入だろう。
﹁ふふっ﹂
1082
対峙する姉の笑顔が目に浮かぶようだった。ジャックは苦笑した
が、すぐに表情を引き締める。
迷宮口から四方へと魔物の気配が移動していくのがわかった。あ
ちらこちらで戦闘が始まった。武装職員たちは優秀で、探索者たち
の働きも悪いものではない。だが如何せん人数が足らないようで、
いくつかの防衛線が突破されたようである。
﹁来るぞ﹂
﹁おわっと、マジかよ﹂
ジャックの言葉に武装職員は肩から剣を下ろしてだらりと構えた。
そして二人の前に現れたのは豚と羊だった。ぶひぶひめえめえ鳴
いている。
それは何とも牧歌的で、囲いから逃げ出した家畜と出くわしたか
のようだった。武装職員が気を緩めるのがわかったが、それが近付
いてくるとそうも言っていられない。
豚は赤銅の肌をしていた。脂肪層が薄いのか筋肉量が多いのか、
岩石を削り出したようなごつごつした身体付きをしている。鼻水と
涎に汚れる鼻が黒いほど艶やかで、それは鼻梁を通って頭部まで、
そして背骨を沿って尾まで続いている。皮膚が硬質化している。尾
がまるで鰐のようだった。
そして羊は金だわしを思わせる灰色の体毛で肉体の大部分を被っ
ている。巻角の先端はあからさまにこちら側を向いて突き出してい
る。厚く潰れるそれは剣鉈のようで、その先端はおっかないほどに
鋭い。
これは羊の相手をした方がいいか、と腰を沈めた瞬間に武装職員
が一歩前に出た。
﹁羊は任せろ!﹂
﹁⋮⋮好きにしろ﹂
任せろ、と頼もしいことを言ってはくれたが、その内心は楽そう
な方を選んだだけであるような気がした。筋肉質の豚と、もこもこ
した羊は外見だけ見れば後者の方が弱そうに見える。攻撃力という
1083
一点では、似たり寄ったりか重量の分だけ確かに豚の方が高いだろ
う。
けれど倒しやすさで言えば。
ジャックは武装職員の脇を駆け、豚の意識を牽くことに集中した。
硬度はどれほどだろうか、と牽制の一撃を豚の鼻先に当てて、その
まま背後に抜けた。力任せに押し切るのは多少きついが熱式ナイフ
を使用するのは勿体ない。武装職員が完全に羊を引きつけてくれれ
ば無理なことではなかったが、そこまでこの男は信用できない。
頭部の位置が低いのもやりにくい。ジャックは手の中でナイフを
回転させて順手から逆手に持ち替え、腰を落とした。豚が弾丸のよ
うに駆ける。初速はなかなか。だが小回りは利かず、反撃を狙って
紙一重で避ける。と、すれ違いざまに尾がうねった。
ナイフで受けると火花が散った。下ろし金のような尻尾だ。
﹁がう!﹂
尾を受けながらジャックは右後肢に蹴りを一発。
ジャックは姉よりも色濃く獣血を発現させており、その足はまる
っきり犬のそれである。故に靴は履いておらず、爪の付け根まで覆
う脛当てを着けているだけだ。
足の裏はふかふかの肉球が存在している。だがそんな肉球のある
足裏でも、伸びきった膝を押し蹴ってやれば関節を砕くことなど容
いなな
易い。豚の加速が逆に命取りになった。
痛みに豚が嘶いた。その口にジャックはナイフを突っ込んだ。両
の口角にずるりと刃が滑り込んだかと思うと、ジャックは一瞬で舌
ごと下顎を削ぎ落とした。そして逆の手では豚の右前肢を切り裂い
ている。
前後の右足を殺された豚が体重を支えきれずにどうっと倒れた。
頸動脈から吹き出した血溜まりに沈み、いつの間にやら豚の首を掻
あぐ
っ捌いていたジャックはいつの間にやらそこから離れていた。
ジャックの視界には攻め倦ねる武装職員の姿があった。
巻角を一つ斬り落としたのは流石武装職員。だがそれならば目を
1084
通して脳を突き刺せば良いのに、と思わなくはない。もっともそれ
をするには羊の眼前に身をさらす胆力が必要となり、それをこの武
装職員に求めることは無駄であるように思えた。
羊の毛は天然の鎧そのものだ。硬質かつ柔軟。支給品の剣では余
程に力か技術がなければそれを切断することは難しいだろう。事実、
武装職員はまるで木の枝で綿の塊を殴りつけるように攻撃を弾かれ
ている。
あと二歩踏み込んで体重を乗せて刺突すれば活路はあるかもしれ
ないが、あの腰の引けようではそれも難しい。勢い余って毛の中に
腕を突っ込めば、その金属質の体毛に腕に絡め取られるだろう。そ
のまま身体を引き摺られるならばまだ良し、下手をすれば関節の脱
臼、無理に引き抜こうとすると腕の肉が削ぎ落ちかねない。その事
を理解している。
﹁早く手伝︱︱あ﹂
角を一つ落とされて羊は怒り狂っている。よくもまあそんな相手
から視線を切れるものであり、ジャックの大方の予想通りに武装職
員は隙を突かれて羊に突き上げられていた。支給品とは言え、さす
がに良い鎧だ。太股の辺りに直撃した角は鎧をヘコませたものの貫
通はせずに表面を滑り、内股へと入り込んだ。
羊はそのまま顔面を股ぐらへと押し込み、鼻面を突き上げた。ジ
ャックは錐もみして宙を浮く武装職員に男として同情した。そこの
よこしま
保護を蒸れるからという理由で外している男は多い。あるいは早く
脱げるように、と邪な理由もある。
潰れていたら自業自得だが、それでも追い打ちをかけられては哀
れである。ジャックはナイフの一つを口に咥え、足元から石つぶて
を一つ拾い上げると羊に目がけて投げつけた。露出している顔面に
直撃するが、殆どダメージはない。だが怒りの矛先を変えることに
は成功した。
武装職員の不出来はあとで姉に言いつけてやろう。そうしたら自
分は褒めてもらえるかもしれない。ジャックは頬を緩めて笑った。
1085
その顔は獣の唸り顔そのものであり、その内心が稚気に溢れている
とは思えないほど獰猛だった。
羊が猛然と突っ込んでくる。
その身体を切り裂かれることなど、爪の先ほども思ってはいない
堂々とした突進である。その毛皮は武装職員の剣撃の尽くを無効化
した。ご自慢の毛皮である。
ジャックはナイフ柄に仕込んだ結晶を活性化する。魔精が血に溶
けて全身を巡るように、刀身に刻まれた火の魔道に魔精が流れ込む。
炎こそは巻き起こらないが、刀身はぱきぱきと音を立てるほどの熱
を発生させた。刃先が赤く、そして幽かに白む。
刺突。
刃に絡みつく抵抗はない。タンパク質の焼ける臭い。剛毛を焼き
切って熱式ナイフが羊の肝臓を一突きにした。羊の口から血が溢れ
た。悲鳴の代わりのように。
ジャックは暴れる羊に更に深くナイフを押し込み手首を捻った。
瞬間的に魔精の出力を上げて、沸騰した血液が羊の中身を蒸し焼き
にしていく。なかなか美味そうな匂いじゃないか、とジャックは引
き切るようにして素早くナイフを抜き取った。
ぼどぼどと内臓がこぼれ、それは自らの剛毛によって絡め取られ
てずたずたに切り裂かれる。
そして毛に覆われていない顔面に顎髭でもそり落とすようにジャ
ックはナイフを滑らせ、羊の頸動脈を切り裂いた。止まりかけの心
臓が血を押しだして滝のように血が滴る。命が抜けていく。
﹁ちょっと切れたか﹂
肝臓に突き刺したナイフ、それを持つ左手が少し切れていた。ジ
ャックはナイフから汚れを拭き取って鞘に収めると、血の滲む指を
しゃぶった。
厄介な毛皮だ。
けれどこれは装備には加工できるだろうか。だが出来たとして毛
皮を既に所持している自分には不要なものとなりそうか。加工も難
1086
しそうだし、売ってもそんなに値段にはならないかな。角の方が価
値があるか、それとも蹄か。あるいは豚の硬質化した皮膚はどうだ
ろうか。上顎から背を通して尾の付け根までを削いでおこうか。
ジャックは探索者として仕留めた獲物に思いを巡らせる。ギルド
を通さない姉からの頼みであったが、討伐依頼で倒した魔物の所有
権は討伐した探索者に帰属する。もっとも少し目を離したら他の誰
かに持って行かれることも良くあることだったが。
その前にこの武装職員の無事を確かめた方がいいか。けれどあま
り気乗りがしない。
﹁おい、無事か。まだ男のままか?﹂
﹁⋮⋮う、あ﹂
﹁それとも女になったか?﹂
﹁︱︱ざっけんな、俺が女になったら世界中の女が悲しむっつーの﹂
それだけ減らず口が叩ければ充分だろう。ジャックは武装職員の
兜を外してやり、取り敢えず身体を引き起こしてやった。武装職員
の羊への罵詈雑言は止まらなかったが、同時に脂汗も止まっていな
い。外した兜の内側が脂汗と涎で酷い有様になっている。相当な衝
撃が下半身を襲ったようだ。
そんな武装職員が座り込みながら虚ろな目で、何かを見た。
ジャックが反射的にそちらに振り向く。魔物と思えないほどの薄
い気配。
そこには赤い眼があった。二つ、四つ、六つ。
三匹の兎。
まだ大人しくしている。ジャックは息を殺す。
﹁兎⋮⋮?﹂
武装職員が呟くと三匹の兎はまさしく脱兎の如く駆けだした。そ
れは小さく、素早く。
ジャックが如何に素早かろうと、同時に三方に駆ける相手を防ぐ
ことは出来ない。
防衛線が抜かれ、ジャックは悲鳴を上げた。
1087
ジャックは豚と羊と武装職員をほっぽり出して全力で兎の後を追
った。
姉ちゃんに怒られる、と。
1088
072︵後書き︶
ミシャ、まさかのジャック!
1089
073
073
ジャックが表情を歪めたのは姉に怒られるのが恐ろしかったから
でも、失望されるのが嫌だったからでもない。
迷宮兎という魔物の厄介さがジャックの顔を強張らせる。
迷宮兎は獣系迷宮の上層に良く現れる魔物だ。これが地上に出て
いない時点でこの未攻略迷宮が全く攻略されていないことが判る。
ジャックがこれを防ごうとも、魔物のいくつかは封鎖区画を抜け出
したかもしれない。
ジャックは走る迷宮兎の一匹にナイフを投げつけて串刺しにする
と、それを引き抜いて次の兎へと身体を踊らせた。迷宮兎は小さく
ジャックの臑ほどの体高しか持たない。ナイフではやや狙いを付け
づらい。ジャックは地を舐めるように低く腰を落とし、追いつくと
同時に迷宮兎の頭部を縦に裂いた。
断末魔すらなく、小さな脳を二分割されたことにも気づかぬよう
に迷宮兎は二、三歩駆けてようやく倒れた。小さな身体が痙攣する
様が哀れだった。
事情を知らぬ一般人が見たら、探索者の評判が下がるような所行
である。
迷宮兎はその見分けが普通の兎と変わらない。耳が長く、毛がふ
わふわしていて、両手に抱えられるほどの大きさしかなく単体では
無力な存在である。
迷宮兎は出現する迷宮によって毛色を変えて、それは壁色に溶け
込む擬態である。その擬態はつまり迷宮兎の弱さと臆病さの証明だ
った。
探索者どころか、ただの子供ですら迷宮兎を殺すことができる。
1090
それなりの強度がある木の棒を子供特有の無慈悲さで叩きつけれ
ばそれでお終いだ。
大型のナイフも、魔精によって鍛えられた肉体も必要はなかった。
だがそれでも迷宮内でこの兎の出現は、すなわち探索班の最大戦力
の投入を意味した。物理攻撃ばかりではなく、広範囲の殲滅魔道す
ら用いられることもある。
ジャックは三匹目を追うと、それはついに逃げることを止めて愛
らしい姿とは裏腹なまさに魔物といった身のこなしで振り返る。赤
い眼を狂乱に輝かせて襲いかかってきた。
ジャックの優れた聴覚が冷たい叫びを聞いた。犬人族の可聴域ぎ
りぎりの高音は人族には聞こえぬものだ。蜘蛛の糸ほど細い弦を弾
いたようなか細い絶叫。
それを吐き出した口は蛇の如き角度で大きく開き、内には鋭い門
歯が立ち並んでいる。地上に住み着いた迷宮兎から知られるように
なったこの生き物の食性は草食であるが、追い詰められて狂乱に達
すると牙を剥いて襲いかかってくる。
のみ
こうごう
柔らかい草花だけでなく、堅果や節立って硬い樹皮を容易に抉る
鑿のような門歯。愛らしく膨らんだ頬は異常な咬合力をもたらす筋
肉が収まっている。
それは人の骨さえも切断する。
ジャックは大きく開いた口にナイフを突っ込んだ。
﹁三つ!﹂
迷宮兎の顎の強健さ。そんなものは何でもない。
普通の兎だって必死になれば人の指ぐらいは噛み千切る。
・ ・ ・
ジャックは三匹目の迷宮兎の脳幹を破壊すると、突き刺さった兎
を乱暴に振り解く。そしてすぐに四匹目へと取り掛かった。
増えやがった、とジャックは歯噛みする。
迷宮兎は仲間を喚ぶ。それがこの脆弱な魔物の最も恐ろしいとこ
ろである。
なぜならば迷宮兎の増援は限りがないと、まことしやかに囁かれ
1091
ることがある。
迷宮兎の増援は迷宮の奥からやってくる。
それは既に迷宮に発生している迷宮兎が仲間の悲鳴を聞きつけて
助けにやってくるのだとか、助けに来ているのではなく臆病さ故に
仲間の悲鳴に集団ヒステリーを引き起こしているのだとか言われる。
だが無限と噂される増援のために、これを召喚と呼ぶ探索者もい
る。
迷宮が自らの守護として魔物を生み出すように、迷宮兎は迷宮内
に充満する魔精から増援を生成しているのだと。
増援を逆手にとってわざと迷宮兎を泳がせて、集まった迷宮兎を
狩ることで金策をする探索者も存在した。一度二度は上手くいって
も、それらに執着する探索班は結果的に命を落とすことになる。
逃げ出す場所のない閉鎖され限定された空間。員数、体力、装備、
道具等の限られた戦闘資源。迷宮内にあって迷宮兎の増援は地獄を
生み出すことがある。
一匹が二匹に、二匹が四匹にと増えるのならばまだ優しい。一匹
が三匹に、三匹が九匹に、九匹が八十一匹にと増えることもある。
そうなると広範囲を纏めて薙ぎ払うような長尺武器や、大規模な魔
道を持ち出さなければ数の暴力に蹂躙されて鏖殺される。
それを止めるには数が少ない内に殲滅するしかない。
増援が無限かもしれない。それが噂であり続けるのは、無限の増
援に出会った探索者の尽くが未帰還になったからである。
ジャックは四匹、五匹と迷宮兎の首を落とす。幸運なことに迷宮
兎の増援は大人しい。辺りには迷宮崩壊と共に放出された魔精が漂
っている。迷宮兎はその魔精によって仲間を生成しているのか、そ
れとも崩壊と共に散らばった仲間を呼び寄せているのか判断は付か
ない。
だが最後の一匹に狙いを定めると、どこからか二、三匹の増援が
現れるのである。一進一退の一方的とも呼べる殲滅戦は、しかし幸
運の上に成り立つ危うさの中にあった。
1092
殲滅にはあと一歩足りず、増援を加速度的に増やすには元の数が
足らない。
ジャックは姉の誘いを調子よく躱した仲間のことを思いだして舌
打ちをした。あんな薄情な奴でも今はいて欲しいと切に思う。こう
いう時に仲間の頼もしさを思い知る。
最悪、女になりかけたあの武装職員でも良い。
武装職員は恐らく未だあの場所で座り込んでいるのだろう。それ
とも迷宮兎の脆弱なその姿へ、新人探索者のようなに侮りを抱いて
ジャックに丸投げしたのかもしれない。そんな使えない男でも、も
し居たら迷宮兎の逃げ道を塞ぐぐらいのことはできるだろう。
戦闘の均衡を崩すには増援が必要だった。
ジャックにも、あるいは迷宮兎にも。
最後の一匹を殺すための、あと一歩が僅かに遠いのだ。
また迷宮兎がか細く鳴いた。遠い。先にこの目の前の。そして鳴
いた兎を狩る。
影から湧いたように、廃屋の影に兎が増えた。影の中で赤い眼が
ジャックを見つめる。辺りに点在する仲間の死を責めるようにまた
鳴いた。
いよいよジャックの首筋が寒くなった。
赤い眼が再び増えた。ジャックの毛並みがぶわりと広がる。
殺意がジャックの首筋を撫でる。
その意思は封鎖区画の外からだ。気が付けばずいぶんと封鎖線の
近くまで来ていた。
殺意が具現化して質量を持った。それは黒い棒状の金属。先端が
尖り、迷宮兎の肉をあっさりと食い破った。次々と兎の肉体を地面
に縫い付けて串刺しにしていく。
ありがたい。
ジャックは振り返りもせずに感謝を胸に、どこの誰ともしれぬ援
護を無駄にしないように次から次へと迷宮兎の首を落として回った。
目の良い人だな、と思いながら二匹纏めて切り払う。
1093
飛来する金串はジャックの攻撃範囲外にいる迷宮兎を次々と串刺
しにしていく。命中率はお世辞にも良いとは言えずに六割弱。けれ
ど外れたあとの挽回が異様に速い。串が指先を離れた瞬間に命中の
成否を出しているのだろうか。
外れた串がまるで意図した誘導であったように、兎を囲い込み、
二の串が三の串が兎を絶命に至らせる。
どちらに傾いてもおかしくなかった危うい均衡があっけなくジャ
ックへと傾き、周囲から兎が殲滅されるのに時間は掛からなかった。
ジャックはほっとして胸を撫で下ろす。
これで姉ちゃんに合わせる顔ができた。
ジャックは礼を言うために援護が来た方へとようやく振り向いた。
その表情が固まる。
突き放したように景色が遠ざかっていく。
ランタンは手の中で起重機の揺れに合わせながら打剣を弄んでい
ると、突如視線の先で巨大な火柱が立ち上がった。茜空を突き刺し
た火柱は煌々として、一瞬で沸騰した大気が破裂するように膨らん
で周囲に熱波を撒き散らした。
迷宮がついに崩壊した。
熱に煽られて魔精が周囲に散らばり、鳥獣の魔物が火柱を巻くよ
うに空を飛んでいた。それは熱波に煽られているようにも、そこに
生まれた上昇気流に乗っているようにも見える。
ランタンは打剣の一つを構えて、結局下ろした。この距離では届
かない。
爆発の衝撃を打剣の尻に収束させることができればあるいは届く
かもしれないが、残念ながらそのような技術は持ち合わせていなか
った。普通の投擲ですらまだ大雑把に狙いを付けているにすぎない。
ランタンの心配を余所に、飛行能力を有する魔物がばたばたと墜
1094
落していった。
火柱とはまた別の魔道が空を裂いた。地上から天空に迸る紫電の
一筋が三つ四つの魔物を一纏めに貫いた。魔物どもは空中に縫い付
けられたように一瞬停止し、重力に身を引かれて落下していく。
燃費の悪さもピカイチらしいのだが、大魔道の殲滅能力は流石の
ランタンも舌を巻かざるを得ない。ランタンは舌を巻くほどですん
だが、魔道に興味を持ち始めているリリオンは顎が落ちそうなほど
に口を開いている。
﹁すごおいっ! ランタンっ、あれなに?﹂
﹁魔道﹂
﹁わたしにもできるようになるかしら?﹂
﹁んー、どうだろうね。向き不向きがあるらしいけど、頑張れば何
とかなるんじゃ︱︱﹂
興奮して叫ぶ声の一切を掻き消すような絶叫が聞こえた。ランタ
ンは咄嗟に立ち上がった。危ないっすよ、とミシャが怒鳴るがまる
で靴底に吸盤でもあるようにランタンは微動だにしない。
響き渡ったのは人の本能に訴えかけて不安にさせるような絶叫だ
った。全開で走る起重機をあっと言う間に追い越した。声は迷宮特
区を囲う壁に反射して再び鼓膜を揺すった。
ランタンが思わず眉を顰める。あれだけはしゃいでいたリリオン
も大人しくなった。
フラグ
﹁酷い声。何の声だろう﹂
﹁最終目標が出たみたいっすね﹂
﹁大丈夫かしら⋮⋮?﹂
崩壊に伴う魔物の湧出。その討伐には優先度が存在する。
最も優先度が高いのが最終目標であり、その次が飛行能力を有す
る魔物だ。魔物を封じ込めるための壁を悠々と飛び越えていくそれ
らを逃がすと、あっという間に民間人に死者が出る。それ故に地を
進む魔物はないがしろにされがちだ。
最終防衛線を抜けたとしても、その外側には多くの探索者がいる。
1095
最悪、彼らがどうにかしてくれる。溢れ出した魔精と共に、絶叫を
鬨の声として魔物が雄叫びを上げて四方へと散っていくのが感じら
れた。
迷宮の中身をそっくりそのままひっくり返したように地上に魔物
が溢れ出した。
迷宮特区の中にはミシャのような引き上げ屋はもとより流しの商
売人等の非戦闘職もいる。彼らは迷宮に関わる仕事をする上で危険
は覚悟していることである。
ランタンの方こそ覚悟が出来ていないほどに。
ミシャは落ち着いているようだった。立ち上がったランタンの心
配をする余裕がある。最終目標の声に顔色も変えない。
けれどランタンは思う。
ミシャは守る。己のためにギルド職員を押しのけてやって来たこ
の少女には幾つもの恩があるのだ。だが起重機の側まで魔物が来た
ら、ミシャを側に置いておくべきか、それとも逃がすべきかの判断
はなかなかに付きかねる。
﹁リリオン﹂
﹁なに?﹂
﹁一応周囲に注意して。何かあったら教えて﹂
﹁わかった﹂
封鎖区画の中はいくつかの道が通行止めになっている。真っ直ぐ
に区画を抜けることができれば楽なのだが、それをするには大急ぎ
で組み上げたと思われるバリケードをなぎ倒さなければならない。
逃げ出すためにこれを破壊し、そこから魔物が抜けてしまっては元
も子もない。
﹁ランタン。何か、声が﹂
リリオンが何かを聞いたようで小さく呟く。ランタンには何も聞
こえず、リリオンも確証は抱けていないようだった。少女は自信な
さげに、たぶん、と付け加えた。
ランタンはそれでもいざという時のために打剣を構える。
1096
ミシャが速度を落として排気音が小さくなる。音を聞くために気
を遣ったのではなく、ただ単に道を曲がっただけだ。
だがその曲がった先に戦闘があった。
いやそれは一方的な駆除とも呼べるものであった。うずくまるよ
うな小さい生き物。耳が長く毛がふわふわとしている。その愛らし
さにランタンは表情を歪めた。迷宮兎。
迷宮兎の首が切り落とされて、赤石じみた目がランタンを見つめ
る。
地面に染みを広げる青い血の、そこに溶けた魔精が揮発する。そ
の生臭さに誘われるようにどこからか新たな迷宮兎の姿が現れた。
周囲に点在する迷宮兎のその屍の数は、二十を超えてなお増え続け
る。
駆除をしている探索者は大振りのナイフを両手に構えていた。そ
れは犬人族の男だ。大理石模様の体毛に覆われた身体付きは、その
首の上に乗っかっている犬頭と同様にいかにも獰猛そうだ。小さな
迷宮兎の相手は少々やり辛そうに腰を落として、掬い上げるように
ナイフを振るった。
一つ殺し、即座に次の迷宮兎へと距離を詰める身のこなしがしな
やかだ。跳ね揺れる尾が柔らかそうだった。その手触りをランタン
は知っているのかもしれない。
あれは、とランタンは目を凝らした。
犬頭の探索者はランタンの知る男の姿と重なった。だが獣頭を持
つ亜人族を見分けることはランタンにとっては困難なことだった。
遠目から、それも高速で動く相手を見極めることはなおのこと難し
い。こちらを向いて二、三秒停止してくれれば良いのに、と思うが
犬頭の探索者は戦闘中にそんな隙を作るような男ではなかった。
その真面目さは好ましい。
﹁一瞬止まって!﹂
﹁はいっ?﹂
﹁一秒で良いから!﹂
1097
犬頭の探索者の実力は高かったが射程の短い二本のナイフでは、
や
閉鎖された迷宮内と違って広々とした地上では散在する迷宮兎を全
滅させることはなかなか難しい。一匹を殺る間に、増援が現れる。
じり貧だ。
﹁うげ﹂
ミシャが乱暴にブレーキを踏んで、起重機の重心が進行方向にす
っ飛んでいくようだった。起重機の首がぎしりと揺れて、車体全体
が前のめりになるような錯覚をランタンは覚える。リリオンは身に
付けた装備の重さに内臓を潰されて呻く。
﹁せいっ!﹂
ランタンは足を踏ん張り、腰から上は慣性に身体を預けるように
大きく背を反らした。両手の四指がその股に打剣を挟み込んでいる。
右の手が死ぬほど痒い。ランタンはその苛立ちを殺意に変えて打剣
に乗せた。世を恨んだように盛大に打剣を投げ打った。
半分当たれば儲けもの。外れることは織り込み済みでランタンは
更に追加の打剣を大雑把にばらまいた。点による攻撃は未だできな
い。それならば面で制圧するに限る。探索者の攻撃範囲外にいる迷
宮兎をランタンは次々に地面に縫い付けていった。その周囲の地面
に打剣が雑草のように生えている。
﹁リリオン、予備の打剣よこして﹂
打剣は一本が十センチほどで、ランタンの指よりも一回り細かっ
たり、二回り細かったりする。
これらはグラン武具工房の若手職人達が成形の練習として作った
ものだ。そのため形が不揃いで、重心もずれている。それは職人た
ちの癖が出ているのではなく、ただ技術不足ゆえの安定性の無さだ
ケース
った。そのためいちいち回収するほどの愛着はない。あっという間
に投げ尽くしてしまった。
リリオンから追加で二十四本を受け取り、腰に吊した革袋の中に
ざらりと突っ込んだ。それを使う必要は今のところなくなった。周
囲には迷宮兎の死体があるだけで、生体の気配の一切が消え去って
1098
いた。
ランタンがほっとしたように、犬頭の探索者もほっとしたようだ
った。
男がゆっくりと振り返って、その犬顔の中にある青灰色の瞳がラ
ンタンを映す。
ああ、やっぱり、とランタンは頬を緩めた。
﹁ジャックさんだ﹂
﹁⋮⋮えーっと、テスさんの弟の人?﹂
﹁うん、そう﹂
﹁お知り合いっすか?﹂
﹁うん、前にちょっとお世話になった﹂
﹁なら、しかたないっすね﹂
ミシャは起重機を撫でる。
ランタンが挨拶するように手を上げるとジャックの顔が驚愕に歪
んだ。
ランタンも。リリオンも、ミシャも。はっと息を飲む。
地面から生える打剣がはたはたと倒れた。風はない。地面が小さ
く振動し、そして引き裂くような音と共にそれは大きく。
﹁ミシャ、起重機出せっ!﹂
﹁あんな急停止したら、急発進はできないっすよ﹂
・
大きく叫んだランタンに、ミシャはむしろ冷静に諭すように答え
た。ランタンはぐと喉をつまらせるように唸って起重機から飛び降
りた。リリオンが慌ててそれに続き、方盾から大剣を引き抜いた。
﹁わたしも!﹂
﹁うん、︱︱いや、リリオン﹂
ランタンは振り返り、方盾の内側に入り込むと手を伸ばしてリリ
オンの頬を挟んだ。はっきりとその顔を見上げて祈るように言った。
﹁ミシャを頼む﹂
リリオンはその言葉に表情を引き締めて大きく頷いた。
﹁任せていいか﹂
1099
﹁うん。︱︱ミシャさん、わたしがんばるよ﹂
振り返ったリリオンの頼もしさにミシャは笑顔を作った。
エンジン
﹁ありがとうリリオンちゃん。ランタンさんは︱︱﹂
﹁ちょっと行ってくる。すぐ戻ってくるから原動機を温め直してお
いて﹂
﹁了解っす。ご武運を﹂
二人に送り出されてランタンはジャックに向かって走り、急停止
した。ジャックが押し止めるようにランタンに掌を向けた。その足
元が、ジャックの立つ地面がまるで迷宮崩壊そのもののように爆ぜ
飛んだ。
瓦礫と土埃が空に舞い、その中にジャックの姿がある。ジャック
は空中で身を捩り体勢を立て直していた。傍らにある大きな瓦礫を
蹴っ飛ばして、己を飲み込もうとする土埃から離脱した。
それを追うように土埃の中に影が揺らいだ。それは澱んだ水面に
移る怪魚の影のような不気味さがあった。
何か居る、とランタンは反射的に打剣を一掴みにして影の中に投
げつける。手の中で巻き起こった爆発が打剣を加速させる。それは
ちぐはぐな回転を打剣に与えたが、速度は充分だった。迷宮兎なら
ば直撃の衝撃で血霞になる。
打剣は土埃の中に吸い込まれ中の影に直撃した。
しかし打剣の砕ける金属音が返ってくるだけだった
影は土埃を身に纏っているかのようだった。ランタンの打剣など
ものともせず、土埃の中にある瓦礫すらもまるで身体の一部のよう
にして影が大きく口を開いた。
土埃が逆巻き、その中からそれは現れた。
﹁あれは︱︱﹂
ジャックを喰らおうと大きく開いた口には牙が立ち並んでいる。
1100
濃い紫の舌がジャックを迎え入れるように伸びる。開いた口はジャ
ックを縦に飲み込むかのように開いている。
﹁地竜っ!?﹂
ランタンは思わず叫んだ。
打剣を阻んだ硬質な鱗は金属質で、全体的につるりとした印象を
その魔物に与えていた。口の中にある牙はやや飛び出るように前傾
しており、それで地中を掘り崩すように突き進んできたのだろう。
﹁いや、︱︱蜥蜴か﹂
ジャックはナイフを振るい蜥蜴の舌先を裂き、反射的に閉ざされ
た顎門に飛び込んでその鼻面を踏み付ける。ジャックはランタンの
傍らにどかんと着地した。はっはっ、と短く速い呼吸がランタンの
耳朶を打つ。
ジャックの着地を百倍にしたような震動が蜥蜴によって巻き起こ
された。槌埃が風圧に払われて、地中から飛び出した蜥蜴がその巨
体の全てを地上に晒した。
﹁逃がしてんじゃないよ、こんなんの﹂
体型は山椒魚に似ている。円錐形の頭部に、べたっと押し潰され
たようでありながら太い円筒形の胴体。大きく開閉する口は目元ま
で裂けるようであり、地響きのような唸り声を漏らすと歯を剥き出
しに笑うようだった。ずいぶんと酷い凶相だ。
短い四肢の先端には、土中を泳ぐためのスコップのような爪があ
スケイルメイル
り、全身は細かい鱗で覆われている。喰らった鉱石を原料とした金
属の鱗は天然の鱗板鎧である。
全長は尾があれば十メートルを超えただろうが、それは既に切り
落とされていて濃い色の肉が覗いていた。尾を切り離して逃げ出し
てきたのか。それとも尾を斬られて逃げ出してきたのか。
﹁手負いですね﹂
﹁⋮⋮見りゃ分かる﹂
﹁お久しぶりです﹂
﹁︱︱尻尾に触るなっ! くるぞ!﹂
1101
ロックリザード
岩蜥蜴は二人を纏めて丸呑みにするように大口を開けて突っ込ん
できた。 ばたばたと慌ただしく地面を掻く四肢がどこか滑稽で、
けれどその度に切り裂かれる地面を見るとそうも言っていられない。
ランタンが尻尾に触り、ジャックはその手を引っぱたいて怒鳴る
と岩蜥蜴の脇に回り込むように大きくその場から飛び退いた。そし
て熱式ナイフをいつでも発動させられるように構える。その指がナ
イフの柄をきつく握った。
﹁な、馬鹿っ!﹂
置いてけぼりにされたように、ランタンがその場に立ち尽くして
いるのをジャックは見て表情を歪める。
ランタンはその場で大きく足を開いた。肩幅を半歩はみ出す。戦
鎚をきつく握りしめて腰を落とす。そして岩蜥蜴に背を向けるほど
に、きつく腰を捻った。
抜かせない。背後にはミシャやリリオンがいる。
岩蜥蜴の一歩は大きい。あと二歩でランタンをその口の中に飲み
込むだろう。一歩。風圧がすぐそこにあった。二歩目はランタンを
叩き潰そうする爪の一撃である。ランタンは叩き潰すようなその一
撃を弾いた。
左下から切り上げた戦鎚が岩蜥蜴の爪を根元から砕く。衝撃でラ
ンタンの足元が放射状に陥没し、ランタンの足をその場に捕らえた。
岩蜥蜴は慣性のままに突っ込んで、かち上げられた腕の内側にラン
タンを抱いた。
この小さな生き物が、切り上げたままに振りかぶっている戦鎚を
その横っ面に叩き込もうと捻切れるほどに身体を絞っているとも露
知らず。
音の壁を貫いて岩蜥蜴の顔面に叩きつけられた戦鎚が、直撃の瞬
間に爆発した。
﹁はっはー!﹂
笑ったランタンの喉を自らが発生させた高熱が焼き、笑われた岩
蜥蜴は顔面を守る鱗をきらきらと撒き散らしながら直角の方向転換
1102
を余儀なくされた。ランタンは地面に埋まった足を引き抜いて、振
れる蜥蜴の胴体を飛び越えて躱し、自らの方に蜥蜴を誘導されたジ
ャックがランタンを罵りながらあえて突っ込む。
その鼻先をナイフで斬りつけ、その反動を使って飛び越えた。再
びランタンの隣に着地すると苦々しく、笑顔を浮かべる少年を見下
ろす。
﹁あれ? また会いましたね。奇遇ですね﹂
﹁お前、何なんだよ⋮⋮﹂
じんじんと痺れる手を揺らしながらしれっと言うランタンに、ジ
ャックはうんざりして答え、諦めたように視線を切った。岩蜥蜴が
ずるずると胴体を引き摺りながら、こちらを向こうとしていた。
﹁あっち側に回り込みましょうか。後ろに抜かれるのが嫌なので﹂
﹁後ろのあれ知り合いか? ならさっさと逃げるように言え﹂
﹁僕もいっしょに離脱していいなら﹂
﹁ふん、好きにしろよ﹂
﹁じゃあ好きに戦わせもらいますね﹂
﹁おま︱︱ああ、もうっ﹂
再びこちらを振り向いた岩蜥蜴の横っ面、先ほどと全く同じ場所
にランタンは力任せに鶴嘴を叩きつけた。砕いたはずの鱗がそこに
ある。再生ではなく複層になっているようだ。ランタンは鱗の隙間
をこじ開けるように、鶴嘴を根元まで押し通した。
肉の収縮に先端が絡め取られる。痛みに顔を振った岩蜥蜴にラン
タンの身体は人形のように振り回される。鶴嘴を掴む肉が、その内
・ ・ ・ ・
部で炸裂した爆発によりごっそりと失われた。それでも致命傷には
至らない。
錐もみ回転しながらあっち側に飛び越えるランタンは天地を確認
して飛び越えざまに岩蜥蜴の延髄を殴打した。空中で二度回転し遠
心力と重力を利用して叩きつける。
複層の鱗が破裂し衝撃が殺される。だが岩蜥蜴は痙攣するように
一瞬動きを止めた。
1103
﹁ジャックさん!﹂
言われずともジャックは動いていた。
ランタンが抉った頬肉深くに熱式ナイフを発動させて突き立てて
いた。顎の上下を繋げる腱と筋肉を焼き切り、その奥にある骨を炭
化切断した。そして即座に離脱する。
ナイフにこびり付いた血脂が沸騰蒸発し、焦げ付きとなって剥が
れ落ちた。
岩蜥蜴の顔面、右半分が切り離された顎の重みに引き摺られて地
滑りを起こしたように崩れた。それをみてランタンは唇を湿らす。
﹁次はどこの鱗を剥がしますか?﹂
﹁関節。首。背骨沿い。あと消化液を吐くことがある。もう二度と
顔面の前に立つな﹂
﹁了解﹂
ランタンは手の中で戦鎚を回すと怒り狂う岩蜥蜴を冷たく見据え
る。
ころころ変わる表情にジャックは嘆息してナイフを構えた。
1104
074
74
目を奪われる。
せきよう
雲間より覗いた夕陽の赤が視界の全てを染め上げるように、ミシ
ャの視界の全ては鮮烈な戦闘風景にその一切を埋め尽くされていた。
リリオンの背中越しに馬鹿みたいに口を開けて息をすることも忘れ
ていた。
ランタンがその華奢な小躯とは裏腹に、異様に戦えることは知っ
ていた。
単独探索者をやるような人間が弱いはずがないと当たり前に知っ
ているはずだったのだが、それでも実際問題ランタンの戦いぶりを
目の当たりにすると、己の知っている森羅万象の法則全てが崩れて
いくような気がした。
ランタンとミシャの身長はそれほど変わりはしない。女としての
矜恃がそれを認めることを拒むが、顎や首、たまに触れる肩の辺り
の輪郭線を確認すると体重はいくらか少年の方が軽いように思える。
色々あって最近は少しその差が大きくなったような気もする。ラン
タンの体重は一定であるのに。
とは言えその差も目の前の巨大な蜥蜴と比べるのならば大した問
題ではない。引き上げ屋をやっていると重量には敏感で、ミシャは
彼我の体重差がおよそ六十倍ほどだろうと目算する。それが突っ込
んでくる。
赤ん坊を想像させるむちっとした腕が地面を掻いて振り回されて、
その度に地面が抉れて後方に吹き飛んでいく。鈍重そうな巨躯が思
いもよらぬ速度で接近してくる。地面が揺れてミシャは知らずリリ
オンの背を掴む。
1105
驚きであって恐怖ではない。
蜥蜴は餌にもならぬ小さな虫を潰すように、肉の詰まった重量級
の腕を地面を揺らすそ勢いのままにランタンへと叩きつけた。その
腕が強力なバネ仕掛けを踏んだように、己が背を飛び越えるように
弾かれる。
それでも蜥蜴は止まらない。今まで蓄えた速度が蜥蜴の巨躯を慣
性の法則に則って前へと進め、ミシャはやはり世の原理法則が崩壊
したのだと思った。
突っ込んでくる巨大な蜥蜴が、直角に方向転換をした。扁平の頭
部が拉げ、全身の鱗が衝撃を伝えて波打ったのをミシャは目撃した。
目撃したのにもかかわらず、ミシャはそれがランタンの戦鎚によ
って引き起こされた現象だとは信じられなかった。
﹁すっごい⋮⋮﹂
呼吸の代わりに呟いたそれは、感嘆と言うよりは呆れに近く。
レイダー
ミシャは戦うランタンを初めて見た。
ある時は探索者に絡まれ、ある時は襲撃者に絡まれ、ある時は破
落戸に絡まれ。よくもまあこんなに声をかけられるものだとミシャ
が心配するより先に呆れるほどに、ランタンは気弱そうな小躯のた
めかよく喧嘩を吹っ掛けられる。
それらとランタンは戦うことはない。
そこにあるのは一方的な仕置きであり、近くは関節を外すに留め
ることが多くなったが、ミシャが目撃して悲鳴を上げた時には、ミ
シャを安心させるかのように笑いながら頭部を砕いた。あんなもの
は戦いではなかったし、この少年を薄気味悪く思ったのも今にして
みれば懐かしい。
小躯が蜥蜴を飛び越える。黒い外套の揺れは、悠然と羽ばたく黒
鳥の翼に似ている。
かさ
外套の下ですっと伸びた腕が戦鎚を振り回す。黒色の鎚頭が風を
切ると白い暈が掛かる。蜥蜴を打ち付けると、直撃と同時に紅蓮が
迸りミシャの目を焼いた。遅れて破裂音が睫毛を震わせる。それで
1106
もミシャは目蓋を動かすこともない。
意識して目で追い続けていても、視界の中から一時消えてしまう。
ランタンの速度に眼球運動が追いつかない。小さな身体を意のまま
に操っている。身体が小さいからこそ、その隅々まで意識を浸透さ
せることができるのか。
﹁はあ⋮⋮﹂
それにしてもランタンの戦う姿は。
格好良いかもしれない。
ミシャはびくっと身体を震わせた。焦点をランタンに合わせて狭
まっていた視界がばっと開けて、ミシャは思い出して喘ぐような呼
吸を繰り返した。リリオンを掴んだ掌が湿っていた。慌てて服で掌
を拭う。
戦っているのはランタンばかりではない。ランタンの知り合いだ
という犬人族の探索者もいる。
﹁ねえ、リリオンちゃん﹂
自らを守ってくれている少女の背から抜け出して、ミシャはその
・
横に並んだ。声をかけて顔を見上げるとリリオンは唇を結んでいる。
噛みしめるような唇はへの字を書いている。
盾は前で、時折跳ね飛んでくる石塊が起重機にぶつかるのを防い
で微動だにしない。剣は鋒を地面に突き立てるようにゆったりと下
げて、肩幅ほどに開いた足は左前。
少女はやや半身となって構えている。視線はずっと戦闘から逸ら
されることなく、ミシャが呼びかけたことにも気が付いてはいない。
﹁リリオンちゃん﹂
ミシャは剣を握る手に触れた。骨張ったが手が震え、その瞬間に
獰猛な気配が膨らんだ。リリオンが反射的に剣を振り上げようとす
るのが感じられ、ミシャはそれを強く押さえ込んだ。
例えば起重機で高重量の荷を引き上げる時、手の中で操るレバー
には強烈な反発力が存在している。ミシャはそれを技術ではなく力
で押さえ込む。そんなミシャにでさえ、リリオンの手はまるで暴れ
1107
る虎を抱きとめるような印象を抱かせた。
あと一秒、リリオンが力を抜くのが遅れたら弾き飛ばされていた。
それでもミシャの引き上げ業で鍛えた細腕は、リリオンが理性を取
り戻す一瞬を稼ぎだした。
額を拭って大きく息を吐きたいところだが、ミシャはそのままに
こりと笑った。
﹁そんな風にしてると息詰まっちゃうよ。はい、深呼吸﹂
語尾の跳ねる独特の敬語は噛み殺し、同年代の友人に語りかける
ように気兼ねなく声を発する。
鼻から息を吸って、口から吐き出す。吐く時に唇から赤い舌が零
れた。リリオンは犬のように素直に何度も深呼吸を繰り返した。
ランタンから与えられた命令に気負いがあるのだろうか。まだ少
し表情が硬い。開いた口から出る声が少し低いのは、深呼吸をして
なお止めていた呼吸が戻らぬためか。
﹁ミシャさん、なに? わたしがちゃんと守ってるから、心配しな
くても平気よ﹂
﹁うん、ありがとう。頼りにしてる。ちょっと、あの犬の人の名前
は何だったかなって﹂
﹁⋮⋮ジャックさんのこと?﹂
﹁ああ、そうだ。ジャックさんね﹂
口の中で名前を転がしながらミシャは戦いに目を向ける、引き摺
られそうになる視線を意思の力は引き千切り、それでも景色全てを
見ようと視界を広く取ったのはランタンに焦点を合わせぬ代わりに、
マール
その姿を視界に含めるための姑息であった。
大理石模様の長毛種。尖った耳の先から、犬足に尖る爪の付け根
までしっかりと体毛に覆われている。血の濃い亜人探索者に良く見
られる深い前傾姿勢の構え。
それを四つ足で歩いていた時の名残だと差別的に揶揄する者もい
るが、多くの亜人はそんな揶揄を無視して己の血によってのみ体現
する戦闘姿勢をむしろ誇っている。人族の身では転倒しかねない前
1108
傾姿勢を実現するのは、人族を圧倒的に上回る身体能力によるもの
である。魔精によってその力差が埋まっても、生来備わっている特
殊な肉の付き方を再現することはできない。
けれどランタンの戦い方を奔放とするのならば、ジャックの戦い
方は堅実である。基礎身体能力の高さに驕ることなく、超攻撃的に
見えるその前傾姿勢とは裏腹にジャックの戦い方は危なげがない。
常に余裕を持って、危険を冒さず、だが弱気なわけでもない。
ジャックのナイフは確実に蜥蜴の命を削ぎ落としている。
﹁ジャックさんとランタンさんは仲良いの?﹂
﹁まだ一回しか話したことない、と思う。たぶん﹂
﹁へえ、そうなんだ﹂
その割には連携が繋がっている。役割分担がはっきりしているか
らそう感じるのだろうか。
ランタンが蜥蜴を殴打し、そのまま駆け抜けていく。鱗が砕けて
きらきらと舞い散り、それがまるでランタン自身が輝いているよう
な妙な雰囲気を感じたのはミシャの贔屓目か。
ランタンと入れ替わるように、鱗を失った肉体にジャックがナイ
フを突き立てて切り裂く。
青い血が溢れて、蜥蜴は己が血溜まりに泳ぐようだ。
四肢が無残に刻まれている。特に後肢は損傷が酷く、膝から下は
骨だけで繋がるだけで力を失って萎んでいる。蜥蜴は獲物を丸呑み
にして消化不良を起こしている蛇のように蠢いていた。
﹁わたしなら⋮⋮﹂
ぼそっとリリオンが呟く。リリオンは自分が呟いたことにも気が
付かぬように、ミシャと会話を交わしながらも戦いから目を逸らす
ことはなかった。ランタンを目で追っているわけではない。ミシャ
と同じように戦闘の全体像を見てるようだった。
﹁ふふ﹂
ヘーゼル
ミシャはそれに気が付いて、自然と黙り込んだ。
リリオンの淡褐色の瞳にむらむらとした感情が見え隠れしている。
1109
嫉妬。
リリオンは守りを任されたことに嬉しさと責任感を抱くと同時に、
ランタンと並び立てない事へのもどかしさも感じていた。共に戦っ
ているジャックを羨ましそうに、そして恨めしげに視界に収める取
り繕うともしない素顔が幼い。
だがそれだけではない。
ミシャはリリオンに愛おしさを感じた。抱きしめて髪をくしゃく
しゃに撫で回してやりたい。ランタンが甘やかす理由がよく判る。
あとで起重機の座席に隠してあるチョコバーを食べさせてあげよう
と思う。
リリオンはジャックの戦い方を見ている。ランタンと上手く戦え
ているその動きを目に焼き付けている。自らを高めるために、いつ
戦いの中に名を呼ばれてもいいように。
リリオンは瞬きもせず、構えも解かず、ずっとそれを見つめ続け
ている。
老人が一人。男が一人。女が一人。
三人の手首で枷のようにギルド証が揺れる。老人のものは黒いほ
どに年季が入り、男の者はまだ輝きがあり、女のものは薄汚れてい
る。
うずたか
そこは迷宮特区を一望できる特等席だった。
迷宮特区を囲む外殻は東西南北に堆い連塔を設け、その南と北の
連塔には巨人も通れる門を抱いている。
外殻は内部を迷宮特区を守護する各所属の兵士たちの待機所とし
て、塔はその司令部としてそこにある。また外殻自体は物理的に魔
物を塞き止める防波堤であり、魔道的に迷宮を封じる円陣でもある。
ゆえにおいそれと無関係な人間が入り込むことはできず、侵入が
見つかれば問答無用で叩き斬られるか、それならばまだマシな部類
1110
で生け捕りにされたが最後、侵入の理由はおろか脳の中身を一言一
句言語化して吐き出すまで苦痛から解放されることはないとまで噂
される。
それは事実でもあったが、無断侵入を未然に防ぐための脅し文句
でもある。
老人はその昔、幼い頃に塔の一番上から迷宮特区を見下ろしたこ
とがある。
こそりと塔に忍び込んだら、三秒後には見つかって、泣きに泣い
たら首根っこを引っ掴まれて塔の一番上まで連れて行かれた。その
時は確実に塔の一番上からぶん投げられるのだと思ったものだが、
その時に首根っこを掴んだ守護兵士は、もう泣き止め、と迷宮特区
の景色を肩車さえして見せてくれた。
その迷宮特区はこの都市のものではなかったが、そこにある営み
はあの頃と変わらない。もう六十余年も昔のことだ。
あの頃は幼さ故の無害から侵入を許され、今はその武名によって
塔の最も高いところへと案内された。西日による赤い逆光を嫌って
西の塔を所望すれば一も二もなく頷かれ、共として若い二人を指差
せばどうぞお好きにと掌を見せられる。
二人が競い合うように迷宮特区を見下ろして、女が嫌がらせに男
の背をど突く。落っこちそうになった男は女の手を乱暴にはね除け
た。若々しい騒々しさは微笑ましくも鬱陶しくもある。
特区では迷宮の崩壊に伴い各所で幾つもの戦闘が発生していたが、
崩壊した迷宮から一定以上の距離をあけるとそこには穏やかな日常
がある。迷宮崩壊の封じ込めはほぼ完全に成されている。それはこ
の都市の探索者ギルドの練度の高さを現していた。
この場へと案内をしてくれた守護兵士の話を聞くに、殆ど手つか
ずの迷宮が崩壊し、そっくりそのままが特区に溢れ出したのだとい
う。湧出した魔物の総数は百ではきかないだろう。
治安維持局はその名に恥じぬように魔物の移動経路を少数戦力で
塞いでいる。幾つかの防衛線を抜かれてもいたが、致命的な後逸は
1111
殆どない。結局は袋小路に追い込んでいる。
﹁うわあ、すげえすげえっ﹂
女が身を乗り出して歓声を上げた。男はうるさそうにしてそれを
睨んだが、歓声を上げた女は全く気にも留めない。その視線に気が
付いているのにもかかわらず、男が居ないものとして振る舞ってい
る。
﹁あの犬の人すげえな。怖えー﹂
男の苛立ち混じりの溜め息が老人の耳に響く。
岩蜥蜴と戦っている犬人族の働きぶりは確かに良い。個人的な好
みを言えばやや積極性に欠けるようにも思えるが、それがあの探索
者の性格なのだろうし、探索者としての振る舞いで言えば二重丸で
ある。
探索者の戦いは魔物を殺してそれでお終いではない。その屍を踏
み越えて、あるいはそれを背負いながら更に迷宮の奥へと進まなけ
ればならない。戦いを急いで体力の消耗を少なくすることは重要だ
が、体力の消耗を嫌った挙げ句に怪我をしていては世話がない。
怪我を治すような魔道薬は若い探索者にはむしろそれが致命傷に
・ ・
なりかねない金額で、疲労を取る魔道薬ならば多少懐が痛む程度で
済む。
女が一際高く歓声を上げた。
﹁いい加減にしろ。そんな騒ぐほどじゃないだろう。結構やるのは
認めるが﹂
男がいい加減我慢できないというように、女に向かって怒鳴った。
女は気の強い瞳で男を見上げる。
﹁はあ? マジで言ってんの。力の差もわかんねーのかよ。お前よ
り圧倒的に強いだろあの犬の人﹂
ずけずけとした遠慮の無い物言いに、男が流石に表情を歪めた。
女はへっと唇を曲げて挑発的に笑い捨て、調子外れの口笛を吹いて
囃し立てた。
﹁何のためにここに来たと思ってるんだ。闘技会を見に来たわけじ
1112
ゃないんだぞ﹂
フラグ
﹁うっわ囲んでるとは言え、最終目標相手にマジかよ﹂
その言葉に男は一瞬言葉を失った。
﹁︱︱ばかっ! 何を見てるんだよっ﹂
﹁なにって普通あっち見るだろ、派手だし﹂
男の生真面目さを老人はよく知っていたし、女が口の悪さほど性
格が悪くないことも知っている。だが今日に限っては、更に言えば
迷宮特区を見下ろしてからは、二人ともまるで酔っ払ったようにそ
・ ・ ・
の性質を強めている。
犬の人を男は蜥蜴と戦う犬人族だと思い、女は最終目標と戦って
いる犬頭の兜を装備した武装職員のことを指した。それだけのこと
だ。
観察対象は別でも最終目標戦は嫌でも目に入る。
崩壊した迷宮から現れた最終目標は大猿の魔物である。
二面六腕二尾二足。毛は全て焼き落とされていて、それを成した
魔道は塔を登り際にちらりと目にしただけだった。それでもその魔
道の大威力を思い知ることはでき、それに耐えた猿の頑丈さと言っ
たらさすがは最終目標である。
全身に火傷を負っても戦意は萎えておらず、むしろ痛みを憎悪に
変えて殺意を高めているようだった。二面から放った猿叫はうるさ
い二人を一瞬黙らせた。
大猿は毛を失ったことでいよいよおぞましい姿を晒した。剥き出
しになった肉体は人間の身体に似ていたが、人間には到達不可能な
発達を遂げた筋肉を身に纏った異躯である。
マ
対峙するのは犬頭を模した兜を被った武装職員。黒い全身鎧に身
ッチ
を包み一回り大きくなった身体が、猿と比べると燃え滓となった燐
寸のように頼りない。
歓喜にも似た戦意が渦巻いているようだった。
猿の頑強さ、生命力の高さは先の大魔道で証明されている。それ
が今や顔の一つは目が潰され、鼻が削ぎ落とされ、口腔からは血を
1113
吐き続けるばかりだった。もう一つの顔は既に無い。
六つの腕は内三つは一刀で根元から斬り落とされて、残りの三本
も折れていたり指が無かったりと無事な腕は存在しない。
左脚は膝上から斬り落とされて、これはもう一人の武装職員の剣
によって叩き斬られたものだ。
大猿は野太い二尾を捩るように縒り合わせて、どうにか失われた
足の代わりとして直立していた。だが血溜まりに立つ猿は、それで
もなお立ち向かおうとする勇壮さではなく悲壮感があるばかりだ。
最終目標は犬兜の欲求不満に生かされているに過ぎない。その身
は既に試斬用の巻藁に等しい。
ヒュージエイプ
迷宮での最終目標戦とは違い地上で行う場合には最終目標に取り
巻きが付き添う。二面六腕の猿を取り巻いたのは単面二腕の大猿の
群れであったが、それらは既に肉の塊でしかない。
周囲は魔道職員を含めて十一のギルド職員が取り囲んでいる。そ
のどれもが恐るべき手練れで、けれど彼らが行ったのは雑魚の駆逐
でしかなかった。そんな勿体ない命令がギルドから下されたとは思
えず、おそらくは現場の指揮者なのであろう犬兜が我が儘を言った
のだと思う。
犬兜にはそれを許されるだけの実力がある。
それにしたって単騎で最終目標とやり合おうとは正気の沙汰では
ないし、圧倒するとなると狂気の沙汰であったが。
まともな神経では辿り着けぬ高みにある。
﹁お前だって見てるじゃんよ﹂
﹁視界の端にちらっと映っただけだ。お前みたいに齧り付きじゃな
い﹂
﹁はっ、どーだかな﹂
﹁なにおうっ!﹂
二人が鼻頭に皺を寄せて睨み合い、老人はいよいよ溜め息を溢し
た。
溜め息は若々しい二人の喧噪とは全く逆の、老い枯れた小さな吐
1114
息でしかない。だがその音色に二人は途端に背筋を伸ばした。老人
は笑う。
﹁お前らはあの死神を見ている方が為になるだろう。あれほどの戦
い振りはなかなか見られるものじゃない﹂
老人はそう言って、好きな方を見ればいい、と突き放すようにし
て言葉を結んだ。
二人は岩蜥蜴の戦いに目を向けた。
犬頭と、本来の目的である小さな探索者の戦いに。
その目には隠しきれない不満が現れている。喧しさも若さならば、
これもまた若さの表れだ。
﹁まあ、あの貧相な身体付きで岩蜥蜴を吹っ飛ばすのはなかなかの
もんですけど、そんなに騒ぐほどの探索者ですかね﹂
﹁自分もそう思います。あんな無鉄砲な戦い方をするなんて、探索
者の風上にも置けない。なぜあんな奴を⋮⋮﹂
小探索者が探索から帰還すると知ったのは今日のことで、一目見
ようと慌ただしい探索者ギルドに無理を言って塔に登った。ただ姿
ラッキーチャーム
形を確認するだけの腹づもりだったが、思いがけぬ幸運によりその
戦いぶりを見ることができた。
老人としては迷宮に持ち込む幸運のお守りがどんなものかと下見
をする程度の軽い気持ちだったのだが。
なんだあれは、とその姿を見つめる。
性別の区別も曖昧な年端もいかぬ子供の顔。線の細さや肌の色は
蝶よ花よと甘やかされる女のそれで、とても戦う男のものとは思え
ない。しかし戦場を縦横無尽に駆け回り、岩蜥蜴の鱗を砕いて回る
その手口は鬼に似て強引だ。
ちぐはぐな印象。
男は危険を顧みないその戦い振りを探索者の風上にも置けないと
称したが、それはわりと老人好みである。身体の動きは淀みなく、
危険を顧みずとも直撃を受けぬ身のこなしは目が良いからだろうか。
二人はその戦い振りに口々にダメ出しをして、それは確かに納得
1115
するところもある指摘であった。だがそれにしても言葉の多くは自
分たちに言い聞かせているようでもあり、二人はその事に気が付い
ていない。
悪く言って扱き下ろし、派手な戦いに目を向けて無視しなければ、
視線が吸い寄せられてしまうことを本能的に悟ったのだろう。若い
気の強さが、それを認めたくないのだろう。
﹁どう思われますか﹂
二人揃ってへばり付くような視線を引き剥がして、男が人に意見
を求めた。
﹁若いな﹂
誰がとは言わず一言呟く。添えた苦笑に二人が声を詰まらせた。
最終目標の頸が落とされるのと、岩蜥蜴が沈むのは殆ど同時だっ
た。犬兜の二刀は血脂を拭われるとさっと鞘に収められたが、青に
染まった戦鎚は小探索者の手の中でぐるりと回った。血を払って、
おどけて
勿体ぶって大仰な動作で腰に収めた。
芝居がかった仕草は戯けているようだが華がある。
﹁ふん、格好付けめ﹂
﹁付く格好があるだけテメーよりはましだな﹂
戦鎚を振って跳ねた血に犬頭が小探索者に詰め寄っている。小探
索者の笑顔が零れる。花のような笑み。
よくわからん。
老人はこの歳になるまでに多くのものを見てきたのでそれになり
眼力はきくと自負している。
だがそれでも、あれは人か、と思う。
夕日の赤が血に見える。
老人と二人が塔に登るより前、情報収集に勤しんでいる頃に女は
三人と別れて、二人の従者を連れて挨拶に向かった。扉の前に従者
1116
を待たせて、招き入れる声を頂戴してから扉を押し開く。
懐かしい尊顔に深く頭を下げると女の赤毛が首を巻くように垂れ
る。
よい、と一声は冷たい。
﹁ご無沙汰しております﹂
﹁ああ、久しいな。ヴィクトルのことは聞いた。残念だったな﹂
積もる話はあったが、掘り返されるのは一年と半分以上も昔の訃
報である。女は胸に小さな痛みを抱き眼差しを伏せる。
﹁いえ、兄の修練が足りなかっただけのことです﹂
﹁そうか、⋮⋮それで宝剣はまだ戻らないか﹂
﹁はい、恥ずかしながら﹂
伏せた眼差しを持ち上げると女の緑瞳は思いがけず力強い。それ
を見て相手は生来のものである怜悧な表情を甘く緩めた。
﹁それでこの地に?﹂
﹁はい、⋮⋮誠に恥ずかしながら占術師に頼ったところ、彼の地に
て光あり、と﹂
﹁占術? ほう、お前が占い頼みとはまた珍しい﹂
占術師と魔道使いは、その呼び名において胡散臭さはどちらの違
いもないが、技の果てが可視化される魔道と違い、占術はいわゆる
当たるも八卦当たらぬも八卦の気休めに過ぎない。
過去に多くの王侯貴族は占術師を召し抱え、場合によっては死命
の掛かった戦闘においてさえも占いの結果を戦術、戦略に組み込む
ことがあたりまえだった。だがそれも既に遥か過去のことで、今で
は慶事の日取りを決める験担ぎ程度にしか使用されない。
命を預けるに足らずと占術師の尻を蹴っ飛ばしたのは実際に血を
流す兵士ではなく、彼らを現場で預かる指揮者であった。
武門の誉れ高い家柄に生まれた女が占術師に頼ったのが余程面白
いらしく、相手は薄い唇を横に引き延ばして笑っている。女が恥ず
かしそうに唇を結ぶと、ようやく笑いを収めてくれた。
﹁おっと、すまんな。しかし占術か。お前が頼るほどなのだから余
1117
程に高名な占術師なのだろうな﹂
あれら
﹁⋮⋮侍女共の噂話を小耳に挟んだのです。なんでも探し物が得意
だとか﹂
﹁ほう、探し物。うってつけじゃないか。侍女共の囀りはなかなか
はしげた
馬鹿にできないからな。その占術師の名はなんと言うんだ? 私も
知っているかもしれん﹂
﹁名は、さて知りませぬが橋桁の魔女と呼ばれる老婆にございます﹂
その名の通り橋の下で橋桁に背を預けて違法に店を開いている、
噂では齢百を超えるという老婆であった。都市に幾つも架かる橋の
どの橋桁に姿を現すか決まってはいなかったが、女は幸運にも一度
家を抜け出しただけで出会うことができた。
老婆は嗄れた声で女に言った。
﹁魔女曰く、いと小さき彷徨う者の導きにて失ったものと相見える
だろう、と﹂
﹁橋桁﹂
﹁小さき彷徨う者とはおそらく探索者のことだと思うのですが、ご
存じありませんか﹂
女が問い掛けると、橋桁の魔女と聞いてから何とも曖昧な表情を
していた相手が形の良い細眉を困ったような八の字に曲げた。
﹁︱︱ご存じあるが、お前は知っててやってるのか﹂
﹁は、何をですか?﹂
﹁橋桁の魔女は恋占い専門じゃなかったか﹂
﹁ははは、たしかに恋人も伴侶も探し物には違いありませんが、ま
たご冗談を。大丈夫ですよ、兄を喪ったことは哀しいですが、私は
この通り元気なのでお心遣いは不要です。ありがとうございます﹂
﹁ああ、そうか。︱︱それなら良いんだ﹂
相手は片肘を突き拳に頬を乗せて女を見やる。
﹁あ、あの、⋮⋮なにか?﹂
﹁いーや、なにも﹂
向けられた笑みに女は困惑する。
1118
さてどうしたものか、と囁く相手は充分な思考の間を空けてから
一人の探索者の名を告げた。
︱︱ランタン。
女は名を繰り返した。
1119
074︵後書き︶
ミシャ、謎の人たち、謎の人たちその2。
1120
075
075
あの、その、と呼び止める声。
それが自分たちに向けられたものだと認識していたが、ランタン
は無視して歩みを止めなかった。だがリリオンはびたりと立ち止ま
って、手を繋いでいたランタンは鎖に繋がれた犬のように引き止め
られた。肉串を食べるのに集中していればいいものを、と不満げな
顔を隠さない。
もうなんだよ、と口に出さずに振り返ると、ふと酸っぱい臭いが
した。
やだな、と思うけれど立ち止まってしまったものはしかたがない
し、振り返ってしまってはどうしようもない。
臭いの元は呼び止めた男だった。
浅黒い肌の顔つきは中年のようだが、視線の合わないおどおどと
した目は若さを感じさせる。背はリリオンより僅かに低いように思
うが、それは気の弱そうな猫背のためだろう。うっすら脂肪の付い
た身体は鍛えられて分厚く、重心が全体的に下の方にある。
足が太い。手が大きい。顎の張った顔つきは歯を食いしばること
が多いためか。
その身体付きは探索者に似ているが、探索者のものではない。ラ
フード
ンタンが思い出したのはケイスの身体だったが、元探索者であるケ
ポーター
イスよりも特化している。
運び屋かな。ランタンは頭巾の下で探るように目を細めた。
何の用だろうか。商工ギルドに職の口利きでも求めているのだろ
うか。それともランタン自身に己を売り込むつもりだろうか。
ランタンは過去幾人かの運び屋志願者を袖にしてきたことがあり、
1121
またあの一件以来ランタンからの紹介文を求める者もちらほらと出
始めた。対応の面倒くささを思い出して溜め息を吐く。
﹁何かご用ですか﹂
男が怯えるように震える。ランタンの声は自分自身でも顔を顰め
・
・
るほどに冷淡だ。リリオンも驚いたようにランタンの顔を窺った。
・
﹁あの、⋮⋮ラ、ランタンさん、ですか?﹂
ンにアクセントを置いた問い掛けにランタンは思わず首を横に振
った。
それが己の名であると気が付いた頃にはもう遅い。
男はまさかそんなはずないと言うように大げさに顔を歪めて、猫
背がぴんと真っ直ぐに伸びる。それから誰かに助けを求めるように
視線を彷徨わせた。
だが男を助けに来る者はいない。ランタンも横に振った首を、縦
には振り直さない。
男は大きな身体を再び丸めて、太い指を臍の前でこねている。老
け顔がそれをしても可愛げは皆無であるが、ランタンに罪悪感を抱
かせるような何とも言えない哀愁がある。大柄な身体に見合わず気
の弱そうな雰囲気があった。
可哀想よ、とリリオンがランタンの手を強く握って揺らす。ラン
タンは渋々口を開く。
﹁あー、実は︱︱﹂
﹁あ、あの、ほ、本当に違うんですか。あの、小さい探索者だと聞
いたのですが﹂
﹁︱︱違う人です。僕じゃあない﹂
言うべき言葉を飲み込んで、ランタンははっきりと否定した。そ
して更に続ける。
﹁しかしランタンが小さいなんて、そんな変な話を一体誰に聞いた
んです?﹂
﹁え、あの、お嬢様から﹂
﹁そうですか。ではそのお嬢様なる人にお伝えください。ランタン
1122
は小さくない、と﹂
﹁え?﹂
ランタンの言葉に反応したのは男ではなくリリオンで、じろりと
睨むと少女は咄嗟に視線を逸らした。
﹁あの、あの小さい探索者ではないのですか﹂
﹁違います。ランタンが小さいのではなく、周りが大きいのです﹂
男の視線がランタンから、説明を求めてリリオンへと移動して、
けれど視線を逸らし続けるリリオンはその視線に気が付かない。そ
れどころかその横顔には感情を押し殺す無表情が貼り付けられてい
る。男は再びランタンへと視線を戻した。
はっきりと言い切ったランタンは、理解の悪い男に向かって大き
く溜め息を吐き出した。
﹁いいですか。周りが大きいのです﹂
﹁周り、あの、さっきも聞きました⋮⋮﹂
﹁リリオン﹂
呼んだ声に感情はない。
﹁︱︱はいっ﹂
応える声は高く跳ねる。そこにある緊張に当てられて男の身体が
強張った。
﹁串を前に﹂
﹁はいっ﹂
リリオンは命令の不可解さに疑問を挟まず、言われるがままに食
べかけの肉串を目の前に持ち上げた。男の目が二つの羊肉が突き刺
さる肉串をに注がれる。そしてランタンは指を差す。
﹁このお肉、どうですか。一口では食べられないほど大きいでしょ
う﹂
﹁は、はあ。大きいお肉ですね﹂
﹁そうでしょう。大きいお肉です。ですがその下の肉はどうですか﹂
﹁あ、あの﹂
﹁どうですか?﹂
1123
﹁あ、あの、⋮⋮美味しそう、です﹂
﹁違います。もっと大きい、が正解です。繰り返してください。も
っと大きい﹂
﹁あ、は、はい。もっと大きい、です﹂
ランタンは勿体ぶって頷く。
﹁そう言うことです﹂
﹁あの、あの、どういうことですか?﹂
﹁⋮⋮大きいお肉があって、その下にはもっと大きいお肉がある。
だからといってこの最初に指したお肉が小さいと言うことにはなら
ないでしょう。あるのは大きいお肉ともっと大きいお肉です﹂
男が何か口を開こうとしたが、ランタンは口を挟ませない。探索
者の肺活量を無駄に使い、一息に言葉を紡ぐ。
つまり、と細い喉を目一杯震わせて艶のある声を発する。
﹁ランタンが小さいのではなく周囲がランタンよりも大きいだけな
のです。ご理解いただけたでしょうか。ご理解いただけたようで何
よりです。ではご理解なさっとことをお嬢様とやらにお伝えくださ
い。それではさようならごきげんよう﹂
金魚のようにぱくぱくと口を開閉し、二の句が告げられない男を
その場に置き去りにしてランタンはリリオンの手を引いて立ち去っ
た。
去り際に汗の酸っぱさだけではなく、少しだけ柑橘系の匂いを感
じる。
大きな身体に隠れていたが、男は大きな背嚢を背負っている。そ
の膨らみは果実の膨らみか。多く買い込んだために、底の方で潰れ
ジュース
ているのかもしれない。
果実水飲みたいな、とランタンは思う。
リリオンは足が杭になったようにランタンに引きずられている。
﹁ちゃんと歩きな﹂
﹁うん、ランタン﹂
リリオンはようやく自分の足で歩き出し、大きいお肉を一口で口
1124
の中に詰め込んで咀嚼する。意味不明な理論を噛み砕いて理解する
ように。ごくんと音を立てて喉が動く。
﹁ランタン﹂
﹁なに﹂
﹁ランタンはなにを言っているの?﹂
﹁もう一度、一から説明が必要?﹂
﹁⋮⋮いらない﹂
リリオンはもっと大きい肉を入れられるだけ口の中に入れて、串
に取り残された残りの小さな一口をランタンが口にした。
﹁でも、どうしてあんなこと言ったの? お肉の話じゃなくて﹂
脂に濡れた唇を舐めて、ランタンに視線を落とす。役割を失った
木串をその場に折り捨てる。
﹁ランタンはランタンなのに⋮⋮﹂
﹁まあ癖だよね﹂
ランタンは多少人付き合いが良くなったとは言え元が悪すぎるの
で、差し引きで言えばまだ人見知りであることに変わりはない。ま
ず声をかけられた時に聞こえなかった振りをすることや、拒否から
入る癖はなかなか抜けない。特にランタンを、ランタンだと認識し
きれていない人間に対しては嘘をついてあしらう傾向がみられた。
﹁でも何の用だったのかしら﹂
﹁さあね、何でもいいよ﹂
﹁⋮⋮お嬢様って誰なの?﹂
ランタンは苦笑して肩を竦める。
気になるところはそこであり、そんな大げさな呼び方をされる人
間にランタンは心当たりが無い。
あの男が運び屋であるのならばその雇い主が探索者であることは
間違いないように思うが、お嬢様と呼ばれる身分は貴族かどこぞの
大店の箱入り娘であり、それを探索者とイコールで、結びつけるの
は困難だ。
貴族が探索をしないわけではないし、探索者から貴族に成り上が
1125
ったものもいれば、探索によって生計を立てている探索貴族も居る。
だが人捜しに使うほど近しい従者が運び屋を兼ねると言うことはま
ずないように思う。
貴族のボンがお供を従えて迷宮特区をぞろぞろと行くのをランタ
まぐそ
ンは見たことがあるが、貴族にとって行列の最後尾にある運び屋は
おもらい
探索を共にする仲間ではなく、馬車の後ろに付いてくる馬糞拾いの
乞食と大差ないように思えた。
もっともその貴族がそうであっただけかもしれないが。
﹁僕に聞かれてもね﹂
口の中が羊の脂に犯されて、吐く息が獣臭くてランタンは口中を
舐めて唾液を飲んだ。
そこらの屋台で果実水を買おうと、柑橘の匂いを感じてから沸き
立った欲求に視線を動かすがなかなか良い店には巡り会わない。飲
むならば冷たいものが良いが、これ見よがしに氷を前面に押し出し
ているような屋台はそうない。
まあいいか、とランタンは屋台に寄った。涼を取りたいわけでも
ないし、中天にある太陽は薄雲の中にあり陽射しは穏やか。雲は空
の端まで広がって薄く、気温の上がる心配は不要だ。
ランタンはリリオンにも奢ってやろうとポーチの中から半銅貨を
引っ張り出した。
その背に声が掛けられた。頭巾の効果は極薄いようである。
またか、と思えど先ほどの男の声ではない。ランタンは親しげな
雰囲気でかけられた声に首だけで振り返るとそこには犬人族の姿が
あった。
名前は何だっただろうか、とランタンは友好的な笑みを作りなが
ら記憶を掘り返す。
それは天上から降り注ぐ救いの声だったのかもしれない。
1126
あ、とリリオンが小さく呟き、ジャックさんのええっと、ともじ
もじした声が続く。リリオンは握ったランタンの手を恥ずかしそう
に揉みしだき、当のランタンはというと素知らぬ顔で犬人族の男に
微笑んだ。
この子に名前を教えてやってはくれませんか、と口にはせずとも
男に伝わる。男はわざとらしく髪を掻いてがっくりと項垂れた。そ
してゆっくりと面を上げて、申し訳なさそうな表情のリリオンに笑
いかける。
﹁フリオだよ。フリオ・カノ。もう忘れないでね。ランタンにリリ
オン﹂
﹁お久しぶりです、カノさん﹂
ランタンは名を口に出して、それを忘却していた事実を埋葬する。
チームメイト
﹁うん、久しぶり。カノじゃなくてフリオでいいよ﹂
声をかけてきた犬人族はジャックの探索仲間のフリオ・カノだっ
た。フリオは名を忘れられたことなど一つも気にしていないような
人懐っい笑みを浮かべて、よかったら奢るよ、と二人に言った。
﹁ここじゃなくて冷たいのを出すところに行こうよ。ジャックがず
ロックリザード
いぶん世話になったみたいだからね﹂
﹁いえ、そんな﹂
﹁そんな謙遜すんなって。単独で岩蜥蜴とやり合うのは結構めんど
いよ。倒せないわけじゃないけどなかなか無傷でとはいかないから
ね。ジャックはあれでうちの筆頭戦士だから怪我されると探索が大
変でさ﹂
ランタンもリリオンも奢られることに頷いたわけではなかったが、
話しかけながら自然と歩き始めたフリオを思わず追ってしまう。
フリオはぺちゃくちゃと一方的によく喋って、ランタンたちに口
を挟ませる暇を与えなかった。
﹁へえ、そうなんですか﹂
沈黙の間を埋める必要がなく頷くだけで良いのはランタンとして
も楽だったが、正直なところその強引さを苦手に感じていた。微笑
1127
みは既に友好的なものではなく、他の表情が特に思いつかないので
貼り付けた曖昧な笑みになっている。
﹁でも僕は足を引っ張っただけですよ﹂
﹁︱︱ランタンはがんばってたよ!﹂
会話の途中にねじ込んだ謙遜にリリオンが噛み付いた。思わぬ所
からの声にランタンは頭上にあるリリオンの顔を見上げる。ランタ
ンの謙遜が面白くないようで、リリオンは小さく頬を膨らませてつ
んと鼻を上に向けた。
﹁ランタンなら一人でだって︱︱﹂
フリオに張り合うようにして放った言葉を、リリオンははっとし
て飲み込んだ。ランタンが不思議そうに見上げ、フリオはにっと口
角を吊り上げた。
﹁そうそう、リリオンの言う通りだよ。探索者が謙遜したって得は
ないんだから﹂
﹁ないですか?﹂
めんつ
﹁ああ、ないね。ランタンの価値が下がったら、それに助けられた
ジャックの面子が潰れる﹂
フリオはさらりと言ってその声音は雑談と大差なかったが、瞳だ
けが本気だった。
探索者の面子は単純明快に腕力にあり、弱い探索者は下に見られ
る。ランタンとしては下に見られたからと言って探索業に差し障り
がないことを知っていたが、侮られると苛々することも知っている。
けれど探索者のその腕力は基本的に迷宮内のみで振るわれて、そ
れを目撃するのは仲間ばかりである。先日の迷宮崩壊の場は己の腕
力を周囲に誇示するための舞台であるのかもしれない。
チーム
と
﹁それは失礼。こほん、︱︱岩蜥蜴は物凄く強かったですよ。並の
ロックドラゴン
探索班なら二、三人は殺られてましたね。まあ僕とジャックさんの
敵ではないですけど﹂
﹁そうそうそんな感じ﹂
﹁岩蜥蜴だと思ったら実は岩竜でしたしね﹂
1128
﹁あはは、それは言いすぎだな﹂
﹁⋮⋮でもランタンなら竜種だってイチコロよね﹂
﹁竜種とは戦ったことないんだよね。でもリリオンが助けてくれた
ら余裕だよ﹂
﹁ええ、きっとそうよ。ランタンとわたしの二人なら﹂
大言壮語も甚だしい二人の会話にフリオは大笑いして楽しそうに
頷いた。
﹁そんぐらいジャックも切り替えが速いとありがたいんだけどな﹂
﹁何かあったんですか?﹂ ﹁ああ、あの馬鹿つまんないことで落ち込んでんだよ﹂
なんでも迷宮が崩壊したあの日、ジャックはランタンたちに合流
する前にもう一戦こなしていたらしい。その時に戦場を共にした名
も知らぬ武装職員が死んだそうだ。ジャックと別れた後に。
ランタンは、ふうん、と呟く。リリオンは、あら、と声を溢した。
その声はどちらも素っ気ない。
武装職員、つまるところの戦士の死は特段に心動かされるような
関心事ではない。近しい人間ならばさすがに別だが、フリオの話を
聞く分にそう言うわけでもないようだった。
戦士は死ぬものだし、場合によってはそれすらも仕事のうちであ
る。例えば目の前で死んでしまった、死なせてしまったのならば落
ち込みもするだろう。けれど別れてからではどうしようもない。
﹁お優しいんですね、ジャックさん﹂
﹁良くも悪くもね。だからさ、ま、慰めてやってほしいのさ﹂
フリオが案内したのは一つの酒場であった。大通りから二つ道を
外れたところにひっとり佇むようにある。
重苦しい両開きの扉を半分ほど開くとフリオはするりと中に滑り
込む。それが作法なのだろうかと、ランタンはフリオが手を放して
閉じようとする扉を慌てて押さえた。そして半開きを保ちリリオン
を先に入れた。ランタンは扉の隙間から溢れる喧噪を肩でこじ開け
1129
るようにして続く。
ごちゃごちゃした臭いがする。アルコールと料理と、独特な人の
臭い。
店には窓はなく、唯一ある窓と言えば入り口の扉に嵌められた曇
りに曇った色硝子だけだった。天井も低くて、換気が悪いのか臭い
が篭もっている。店の味と言えばそれまでだが、好き嫌いが分かれ
そうな店である。ランタンはあまり好きではない。
店内は隠れ家のような独特の雰囲気があって、店の隅でジャック
は隠れるようにして酒を飲んでいた。店内は繁盛しているが、ジャ
ックの落ち込む丸テーブルにはその陰気な雰囲気を避けるようにジ
さかな
ャックともう一人しかいない。
二人は豆料理を肴にちびちびと酒を舐めている。
﹁な、重傷だろ? でも慰める前に注文な﹂
エール
﹁柑橘系の果実水で﹂
﹁わたし麦酒がいい﹂
飲酒に関する法律はなく、ランタンが好んで飲まないのであまり
二人の食事に酒が出ることはなかったがリリオンはいける口である。
店主に大きな陶器製のジョッキで果実水と酒をもらい、ランタンも
リリオンもその冷たさに驚いた。
﹁店の裏の井戸が異様に冷えるんだよ。たぶん冷気的な呪いだな﹂
﹁テメエなあ、何度言やわかんだよ。冬の精霊の祝福だっつうの﹂
店主はむちっと太った亜人の男で、それが豚なのか猪なのかラン
タンには判断が付かない。禿頭でもちもちしたピンクの肌は豚のよ
キメラ
うだったが、頬肉に埋もれる牙は小さくとも猪のそれである。半分
半分で血が流れているのかもしれないが、混合獣人族なんてものを
ランタンは見たことがない。
﹁あと今週のお勧め持ってきて。あっこにいるから、美味いの頼む
よ﹂
フリオは全くこちらに気が付かないジャックを指差した。店主は
肩を竦めるが、首が肉にめり込んでいて何だか窮屈そうだった。
1130
今週のお勧めって何だろうね、と会話を交わしながらジャックに
忍び寄る。
ジャックと相席するのは犬耳の女で、女は酒を片手に呆れるよう
な視線でジャックを眺めており、ジャックと言えば豆料理を手づか
みで食べている。一粒一粒指先に抓んで口に運ぶ様子に落ち込み具
合が見て取れた。
﹁あ、フリオ。と︱︱﹂
女とジャックの視線がフリオからリリオンへ、そしてジャックは
リリオンを見て隣にいる頭巾の中身を察したようで、げえ、と声を
発した。そんな酷い反応もないだろう、とランタンは頭巾を外した。
﹁こんにちは﹂
﹁なんでいんだよ﹂
﹁落ち込んでいると聞いたので、お慰めに。ね﹂
﹁うん、元気出してください﹂
リリオンが無責任に胸の前で拳を握った。ジャックは、ああおう、
としどろもどろだ。
む
ランタンは視線を犬耳女に向けて、ご一緒してよろしいですか、
と微笑んだ。女は口に運んだ酒をぶっと吹き出して、げほげほと噎
せている。たぶん頷いているのだろう、と勝手な解釈をしたランタ
ンは椅子を引いてリリオンを座らせる。そしてその隣に腰を下ろす
と、フリオはわざわざランタンの隣から椅子を引きずってジャック
の逆隣に座った。
﹁フリオ! なんでランタン!?﹂
気管に入った酒を排出してようやく落ち着いた犬耳女がフリオの
襟首を引っ掴んで怒鳴るような剣幕で叫ぶ。指差されたランタンは、
ご迷惑でしたか、と殊勝な様子で弱気な表情を作った。
犬耳女は慌てて首を振る。
﹁ぜんぜん大丈夫! こいつが陰気くさかったからちょっとビック
リしただけ。私はウェンダよ、よろしくね。二人とも。ランタンと、
リリオンよね?﹂
1131
﹁はい﹂
犬耳女のウェンダはもう殆ど中身のないジョッキで二人と乾杯す
るとやけくそのようにジョッキの中を空にした。そしてカウンター
を振り返って叫ぶ。
﹁おかわりちょうだー⋮⋮い?﹂
その尻すぼみに何かあったのだろうかとランタンも振り返ると、
そこには獣の瞳があった。
頭巾も取って開けた視界。よくよく店内を見回してみれば、店主
が亜人ならば給仕も亜人で、酒を飲み料理を喰らう客も亜人ばかり
であった。それも獣系の亜人族が大半を占めていて、犬猫兎に牛豚
コミュニティ
羊と多様性に富んでいたが人族はランタンしかいない。
亜人族共同体である。
被差別者だった歴史のある亜人族は、公式な種族的和解をした現
在でも人族と距離を取ることがあり、また人族にも人族だけで集団
を作る傾向がある。
積み重なった歴史はそうそう無しにできるものではなく、数多あ
る探索班の中で種族混合の探索班は少ないわけではないが、人族と
亜人族の比率がほぼ五分であることを思うと決して多いとは言えな
い現状があった。
フリオに案内されてやって来たとはいえ二人は侵入者であること
は間違いなかった。それともランタンの姿に驚いているのか。視線
の中にある感情は驚愕も興味も、友好も敵意もある。
妙な緊張感のある沈黙が、一人の酔っぱらいによって破られる。
﹁ああ? なんで毛無しのガキどもがいるんだよ! おいフリオ!﹂
毛無とは獣系の亜人族が口にする侮蔑だった。
例えばジャックのように獣の血が濃い獣系亜人がウェンダのよう
に頭部の耳でしかそうとわからないような血の薄い同族に向ける場
合もあるが、基本的には人族に向けられる言葉である。
毛皮どころか、牙も爪も持たない脆弱種族への侮りだ。
男は ども、と言ったが酔いの回った瞳はランタンばかりに向け
1132
られていて、その視線に反応したのはリリオンだった。ランタンを
視線から守ろうとするように音を立て椅子を蹴った。そんなリリオ
ンの外套を引いて、ランタンは今にも飛びかかりそうな少女を引き
止める。
ランタンのちろりと唇を湿らせたその仕草に酔っ払いが、なんだ
・ ・ ・
よ、と声を荒げた。
﹁ふふふ、毛無しって、おじさまに僕のをお見せしたことありまし
たっけ? お盛んなのはご自由ですけど、他の子と間違えちゃいま
せんか?﹂
そう言っていやらしく笑ったランタンに酔っ払いはいよいよもっ
て酔いが回ったように顔を真っ赤に染めた。怒りと羞恥。
頭上にある兎の耳がぺたんと倒れる。
最初に笑ったのはフリオで、すぐにウェンダがそれに続く。カラ
ッとして明るい笑い声は場を征するためのものだ。
誰かが口笛を吹いて囃し立て、それを合図にするようにして次々
に笑いが溢れる。
酔っ払いの性的嗜好を揶揄するような言葉が投げかけられて、中
には稚児趣味野郎とランタンとしても聞き捨てならない言葉も飛び
交った。リリオンの耳を塞ぎたかったが至近距離からの音速攻撃に
はさしものランタンも対処できない。
緊迫感が雲散霧消して妙な気配はうやむやになった。気が付いた
ら店の隅の丸テーブルこそが店の中心であるかのように人の輪がで
きている。
シモ
ジャックがむすっとしながら酒を呷ると、いい加減に機嫌を直せ
よ、と同族の男が親しげに肩を組んだ。場の流れを下から変えるた
めに、ランタンがジャックの事情を暴露したのだ。
ランタンは申し訳なく思いながら今週のお勧めである迷宮兎のソ
1133
テーを口に運んだ。この兎は先日にランタンが仕留めたものだ。ラ
ンタンが所有権を放棄したその死体をジャックが持ち込んだらしい。
結構日が経っているけれど腐ってはいなかった。
内臓を抜き、骨ごとぶつ切りにして火を通しただけの兎肉は淡泊
だが、肉質はやや粘り気があってしっとりしている。ジャックが摘
まんでいた豆料理もそうだがこの店の料理は酷く塩胡椒が利いてい
て、リリオンはもう二杯目の麦酒を煽っている。
﹁そうですよ。戦士が死ぬのは日常茶飯事なんですし、お友達って
わけでもないんでしょう? 別に知らん人の死を悲しむなとは言い
ませんし、みんなだって死んだその人のことをざまあみろって言っ
てるわけじゃないんですから。一通り悲しんで死者の魂を悼んだら、
チーム
あとはさっさと日常に戻った方がいいですよ﹂
﹁そうそう探索班の一人が死者に絡め取られると、探索班ごと未帰
還になりかねえからな。切り替えろよ﹂
年長の探索者がジャックの頭を小突くと犬頭は、うす、と頷いて
骨ごと兎を噛み砕いてジョッキ一杯の麦酒を一息に煽った。それこ
そが死者への手向けであるように。
唇の端から溢れて体毛を濡らす滴を拳で拭う。
﹁けど職員殺しか、最近出てなかったけどよ。やっぱアンタンドウ
かね﹂
アンタンドウって何だろう、とランタンは果実水を舐めながら会
話に聞き耳を立てる。変な名前の魔物だろうか。固有名詞を理解す
ることは難しい。
﹁いやあ、でも迷宮崩壊に合わせて動くってのは解放戦線の手口で
しょ?﹂
﹁死体が晒されてたんだろ。解放戦線はそんなまどろっこしいこと
はしねえよ﹂
レイダー
また新しい単語だ、とランタンが素知らぬ顔をしているとふとジ
ャックと目が合った。
﹁何か勘違いしてるみたいだけど、職員を殺したのは襲撃者だぞ﹂
1134
﹁あ、そうなんですか? ふうん﹂
ざわ、と大人しい顔をしていたランタンに視線が注がれる。なん
ですか、とランタンは表情を硬くする。
﹁ランタンってアンタンドウ知らないの? お前さん何人もメンバ
ー殺してなかったっけ?﹂
﹁襲撃者の区別なんか付きません。獣の顔と同じぐらいに﹂
﹁おーう、誰かこのクソ生意気な毛無のガキに教えてやってくれま
せんかね﹂
一人の亜人がやれやれとランタンを指差し、お前も知らないだけ
だろ、と突っ込まれて一笑いが巻き起こる。ジャックが鬱陶しげに
アンチ
そちらを見つめて、溜め息とともにランタンとその隣のリリオンに
も説明をくれる。
﹁襲撃者って一纏めにしても色々派閥があるんだよ。その一つに反
マト
探索者ギルド同盟ってのがあんだよ。略してアンタンドウ、名前の
通り探索者ギルドを毛嫌いしている﹂
﹁その辺はテス姉が詳しいわよ。テス姉は高額賞金付きで的かけら
れてるし﹂
﹁ねーちゃんは殺しすぎなんだよ⋮⋮﹂
ウェンダがテスの名を口にすると、ジャックは項垂れて口を噤ん
だ。
﹁アンタンドウが襲撃者派閥の中じゃ一番でかいね。テスさんが殺
しまくっても無くなんないぐらいに。貴族からも資金が回ってるっ
て噂というか、誰もが知る秘密があるんだけど。誰もが、じゃなか
ったね﹂
や
何で知らないんだよ、と誰かが言う。
﹁襲撃者の顔を見て殺るかどうするかなんて決めませんし、そもそ
も興味が﹂
あっさりと言い放ったランタンに周囲はやんやと盛り上がる。俺
もそんなこと言ってみてえと茶化す者もいれば、迷宮に引きこもり
すぎなんだよと小言をくれる者もいる。
1135
﹁もう一個でかいのが迷宮解放戦線だな。これは外殻の破壊が目的
れいだー
で、迷宮の開放をお題目にしてる。はっきり言って頭おかしいから
関わらない方がいい﹂
﹁ねえねえ、かかわった方がいい襲撃者っているの?﹂
酒精に頬を薄赤くしたリリオンが、甘えるようにランタンの裾を
引っ張った。
そのもっともな疑問に酔っぱらいたちが、そうりゃそうだ、と騒
ぎ出して混沌はいよいよと加速していく。ジョッキを傾ければ半分
以上を溢してしまうへべれけが、酒臭いげっぷを吐いてランタンに
顔を顰められて女性陣にはしらっとした視線を向けられる。
探索者がこれほど酔うとは余程の量を飲んだのか、それとも度数
が高いのか。
・
気付けば三杯目に口を付けるリリオンは、少し頬が赤いだけで平
然としたものである。
・
﹁いやでも、居んだよ。ほら、ランタンが前にぶっ殺したカルレリ・
ロ れつ
ファミリーっていただる?﹂
文字通りに呂律の回らぬ口調が鬱陶しい。
へべれけはランタンの肩に手を回そうとしたが、ランタンはそれ
を物凄く素っ気なく払った。指先で男を突くと、男はふらついて二、
三歩下がった。ランタンが、困ったな、というような表情を作ると
獣耳の女性たちが甘やかしも良いところで守ってくれた。その先鋒
ブラック・エッグ
であり大将であるのは獣の耳を持たない少女であるが。
・
﹁あれの親玉が黒卵つーんだけど、そこの所属の襲撃者はぶっ殺す
と高確率で麻薬が手に入る。コレは積極的に狩るべきだら?﹂
﹁⋮⋮同意を求められてもね。僕は麻薬使わないし、っていうか癖
になるからあんまり頼っちゃ駄目ですよ﹂
﹁わあってるよ、ひひ﹂
心配するランタンの視線をへべれけは煩わしそうに追い払う。へ
べれけは絶対にわかってはいないが、それによって身を滅ぼすのは
個人の自由なのでランタンはそれ以上は言わなかった。へべれけは
1136
ぼんやりと天井を見て、急に口を押さえるので慌てた仲間に店の外
へと連れ出された。
﹁あーあ、リリオンはあんまり飲み過ぎたらいかんよ﹂
﹁平気よ。これ薄いもの﹂
﹁フリオさんを破産させないようにね﹂
﹁うん﹂
﹁やっべ奢りだった﹂
フリオがジャックに幾ら持っているか聞いているが素気なく突き
放されている。ウェンダも完全に無視をしていて、リリオンは変わ
らぬ速度でジョッキを空けた。おかわりくださあい、と甘い声が店
内に響く。
﹁あんまり飲むとおしっこしたくなるよ﹂
﹁がまんできるから平気﹂
ランタンはリリオンに生えた泡の髭を指で拭った。
一人がランタンに尋ねる。
﹁なあ二人って探索でもそんな感じなん?﹂
﹁なんですか藪から棒に﹂
﹁いや、ランタンってどんな風に探索してんのかなって。攻略ペー
スも速いし、何か秘密でもあるのかなって﹂
それを聞きたい探索者は多いらしく、酔っ払っていた者たちも、
そしてジャックさえもじっとランタンを見つめた。ランタンはジョ
ッキを傾ける。中身が酒ではないので、酔った振りをして適当には
ぐらかすこともできない。
﹁別に秘密もありませんし、普通だと思いますけど﹂
﹁⋮⋮普通はあんなに攻略ペースは速くないの。例えばさ、さっき
フラグ
麻薬には頼らんって言ってたけど、完全に素面で行くわけじゃない
だろ?﹂
﹁薬に頼るのは最終目標戦後ですよ。治癒系の魔︱︱﹂
﹁は?﹂
聞いた探索者が変な顔をして言葉を失い、恐る恐るジャックが代
1137
弁した。
﹁最終目標戦の前に活性薬とかは﹂
﹁飲まないですけど⋮⋮﹂
妙な雰囲気になってランタンが戸惑って答える。
ジャックはリリオンに運ばれた満タンのジョッキを奪い取って一
気飲みした。ああ、とリリオンが悲鳴を漏らす。ジャックは心を落
ち着けるように一つ息を吐く。酒臭さにランタンは眉根を寄せた。
﹁お前、︱︱何で生きてるんだよ﹂
﹁生物学的な話ですか?﹂
ランタンはわざとらしく小首を傾げた。リリオンがおかわりを頼
む。周囲はざわざわしている。
ジャックはと言うと落ち込んでいた残滓も既に失って、ただただ
ランタンの微笑みに引きつった表情を返すばかりだ。
1138
076
76
﹁だ、か、ら、お前はあんな怪我ばっかりするんだよ!﹂
灰色の短い毛の密集する、長い指の先に黒く鋭い爪がある。ジャ
ックがランタンの鼻先に指を突きつけて、一つ一つ区切るようにし
て言い放った。ぐるぐると喉を鳴らして、ランタンから視線を逸ら
さぬままに肉を口に放り込み咀嚼もそれなりに酒で喉奥に流し込む。
フラグ
﹁でも、ああいう薬はいざって時の︱︱﹂
﹁最終目標戦以上のいざって何時だよ。おい、目ぇ逸らすな。言っ
てみろ﹂
もっともな話である。ランタンは口元が苦笑に歪みそうになるが、
ジャックの目が怖いのでどうにか唇を噛んで誤魔化した。ええっと、
と唸るように呟く。
﹁⋮⋮いざって時はそりゃあ、ね。︱︱僕の口から何を言わせたい
んですか。えっちですね﹂
うふふ、と場を茶化そうとランタンは胡散臭く恥じらってみせた。
ジャックの耳がぴくりと。
砕かんばかりの勢いでジョッキがテーブルに叩きつけられて、半
分ほど残る麦酒が跳ねて泡立ち炭酸が抜ける。鼻先に突きつけられ
た指が獲物に飛びかかる蛸の如く開かれ、目隠しをされたのかと思
った瞬間には頭蓋が軋んでいた。
ジャックがランタンの顔面を鷲掴みにしてこめかみを締め上げる。
尖った爪が皮膚に食い込む。
﹁俺は、真面目な話をしている﹂
ジャックの手の平に目隠しをされたランタンは、ジャックの顔を
見ることはできない。だがそこには怒気があって、ランタンは戸惑
1139
っていた。怒りの質が違う。ランタンに向けられる怒気の多くは敵
意と一体であり、ジャックのものはむしろそれとは真逆の暖かみが
ある。
名も知らぬ武装職員の死がジャックにもたらした落ち込みは昇華
されて、今では死にに行くかのような探索を行うランタンへの手荒
い心配へと変容を遂げた。
ジャックはランタンを締め上げたままに酒を飲み説教を始める。
面倒くさい酔い方をしている。いや、そうランタンがさせているの
か。
迷宮へと、迷宮最下層へと、最終目標へと戦いを挑む探索者は事
前準備を欠かさない。
無理にでも食事を取り、警戒しつつ睡眠を取り、道中に溜まった
疲労を少しでも減らそうと、己の体調を少しでも最高に持っていこ
うと努力を怠ってはならない。
平行して使用して鈍った武器の手入れをして、最終目標を観察し
て戦略を練る。最終目標戦中に暢気に背嚢を漁る暇などないので、
必要な薬を何時でも使えるように用意する。
余分な荷物は運び屋に押しつけ、瞑想し、準備運動をし、戦意を
高める。
そして戦いの最中、追い詰められてからの使用では遅きに失する
エアヘ
こと受け合いの肉体活性を服用することは当たり前の常識である。
ッド
﹁それをお前は、まったく馬鹿なのか。カボチャみたいに頭の中が
空洞なのか?﹂
﹁⋮⋮もう悪口じゃん﹂
口答えは許されなかった。鷲掴まれたままジャックに頭を揺らさ
れた。
ジャックは、種の音はしないなやっぱり空だ、とか馬鹿みたいな
ことを言って、フリオが横から、乾燥させればいいじゃん、と阿呆
みたいなことを言っている。
ランタンが呻きながら怨嗟を漏らすといよいよ我慢できなくなっ
1140
たリリオンがジャックの手をばちんと叩いた。そして開放されたラ
ンタンを抱き寄せて、はっきりとした瞳でジャックを睨む。
﹁いじめないで﹂
﹁苛めてねえよ。って言うかお前にも関係あるんだからな。こいつ
が主導して探索してるのかもしれんけど、ちゃんと駄目なところは
駄目って言えよ﹂
リリオンを睨み返しジャックが言うと、少女は勝ち誇ったかのよ
うに笑った。
﹁ふふん、ジャックさんは知らないかもしれないけど︱︱﹂
自尊心たっぷりなリリオンの含み笑いにジャックは、なんだよ、
と身構える。ランタンは何か嫌な予感を感じたが、振り回された三
半規管と圧迫されたこめかみの鈍痛によりリリオンを制することが
できなかった。
﹁︱︱ランタンは言っても聞いてくれないのよ! わたしだって心
配してるのに!﹂
どうだ、と言わんばかりに放たれた台詞に誰も彼もが呆気にとら
れた。
ランタンをちやほやしてくれた獣耳の女たちも苦笑いを堪えきれ
ずに、それどころか呆れも失望もある。居心地の悪い生温い視線が
ランタンを射竦める。
そして一転、その視線がリリオンに注がれると、それは憐憫や同
情などの理解へと色を変えた。
あなたも苦労してるのね、なんて言って少女の肩に手を置くと、
うちの男衆も、とグチグチ始まり男性陣は恐怖に顔を歪めて慌てて
距離を取った。
ただ一人、リリオンに捕らわれるランタンを残して。
女たちの議題は、いかに男が単細胞で無計画な向こう見ずの死に
たがりの夢想家の助平でそれによって女がどれほどの苦労を被って
いるか、である。ランタンならまだ間に合うからあいつらみたいに
なったらダメよ、とランタンは取り囲まれて言い聞かされる。
1141
口答えが死を招くことを悟ったランタンは曖昧な微笑みと頷きに
終始することに努めた。女たちの言葉に耳を傾けながらも、よく判
っていない感じのリリオンが唯一の救いであった。
ランタンは男たちによって女たちへの供物とされた。誰一人とし
て、ジャックすらもランタンを遠巻き見ているだけで助けようなど
と無謀なことはしない。
それどころか男たちは、いやあ危ないところだった、と危険を脱
したことに安堵して乾杯している。ランタンがいなけりゃ即死だっ
たな、とか意味不明な冗談を飛ばしご機嫌で酒を呷っているので本
当に即死させてやろうかとランタンは思う。
女たちの隙を突いてちらりと視線を向けるが誰とも目が合わなか
った。男たちは薄情だ。
﹁そんなに酷いんですか?﹂
ランタンは誤魔化しの微笑みを止めて、無垢な顔つきで女たちに
問い掛けた。
﹁酷いってもんじゃないわよ﹂
﹁へえ大変だったんですね。例えば、誰がどんなことをしたんです
か? 本当に反省してるんですかね? 反省してたらあんな風にお
酒を飲めないですよね﹂
なだ
すか
それはあからさまな嫌がらせである。男たちが過去にどうにかし
て宥め賺した失態を蒸し返して、場を荒らしてやろうという魂胆で
ある。ランタンは男たちに悪意ある笑みを向けて、男たちは絶望的
な表情になった。
きっとその男は過去に物凄く酷いことをして、物凄く苦労をして
挽回したのだと思う。
﹁︱︱ランタン!﹂
胡散臭いほどのはっきりした声で男はランタンに呼びかける。大
きな声で、明るい声で、ランタンの無垢をよそおった邪悪な質問を
打ち消すかのように。
﹁よかったら一緒に探索しねえ?﹂
1142
精一杯の質問は、どうにか場の雰囲気を一変させた。
だがランタンは、しません、と告げて二の句はない。手段はさて
おき助けを求めたのはランタンであったはずなのに、あまりにもあ
・ ・
んまりな反応に男は引き攣り乾いた笑いを漏らす。悲壮感たっぷり
に健気にも続ける。
﹁いやさあ、俺らと一緒に探索すればもうちっと普通がわかると思
うんだよね。自己流も良いけど、やっぱり基本を知ってこそだと思
うんだ⋮⋮け、ど﹂
﹁しないです﹂
﹁拗ねてんじゃねえよ﹂
溜め息と共に言ったのはジャックだった。一歩だけランタンに近
付き、それに合わせてこそこそと男たちも前進した。
﹁拗ねてないです。今迷宮の攻略中なので﹂
﹁そうなのか?﹂
ジャックは何故だかランタンの頭を飛び越えてリリオンに言葉の
真偽を確かめる。リリオンはこくりと頷き、少女の顎がランタンの
旋毛に刺さった。
﹁きのう戻ってきたばっかりです﹂
そしてそのまま喋るものだから、ランタンの表情がみるみる歪ん
でいく。
﹁ふうん、それにしちゃ元気だな﹂
﹁殆ど攻略は終わってますから、ねっ﹂
くっついてくるリリオンの顔面を力尽くで引き剥がす。リリオン
はランタンの頭から顔を退かしたものの、未練がましくその背中に
引っ付いていた。吐息に酒精が混じる。
リリオンは薄い麦酒から、今は度数の高い蒸留酒へと飲料を変え
ていた。果実水で加水しているものの、ランタンが一舐めするだけ
で顔を顰めるほどの度数を誇る。リリオンはそれを水のように飲ん
でいる。
﹁あとは最終目標だけなんですけど、面倒で帰ってきちゃったんで
1143
す﹂
はね
﹁めんどくせえってお前な⋮⋮﹂
﹁だって翅があったから﹂
その一言でランタンへの呆れが納得へと転じ、女たちの愚痴もい
つの間にか有耶無耶になった。その事に気が付いた人間は少ない。
翼を持たない人間にとって飛行能力は憧れの対象であり、それ故
に敵がそれを有している場合の鬱陶しさは著しい。探索者ならばそ
の面倒くささを誰も彼もが知っている。
かまきり
﹁ランタンは今どの迷宮に行ってんの? 最終目標はどんなんだっ
た?﹂
虫系迷宮の最奥にある影は、蟷螂だった。
体高は二メートル半。先端に鎌を有する腕は二対四本。魔精の濃
さはそれなりだったが、観察時間の内の六割ほどは羽ばたいて、二
ヘルマンティス
割は壁や天井を歩行し、地面を歩くことは少なかった。
﹁死神蟷螂か﹂
たったそれだけの情報で探索者たちは魔物の種類に当たりを付け
て、ああだこうだと議論が始まった。ランタンは吃驚して目を瞬か
せて、リリオンも呆気にとられている。誰もが当たり前のように魔
物について一家言を持っていて、気が付けば遠巻きにしているもの
は誰もいない。
それを可能にするのは知識の共有。
例えばランタンの迷宮攻略数は一年少しの探索歴を思えば異常に
多く、同年数の探索者では倍にしても敵わない。あるいは二、三年
目の探索者でも肩を並べることは難しいかもしれない。
けれどこの酒場にいる探索者の有する知識はランタンを寄せ付け
ることすらなかった。知見の集積と共有を目の当たりにしてランタ
ンは圧倒された。
﹁三メートル以下ならまず間違いなく雄だな﹂
﹁オスメスで何か違うんですか?﹂
リリオンは無邪気に尋ねる。
1144
﹁雌は基本的に三メートル以上ある。古い個体ほどデカくて、体色
の黒がどんどん濃く、外皮が硬く鉄みたいになる。鎌も二対四本か
ら六対十二本まで確認されてるな﹂
﹁書物の中なら体高十メートル、鎌が二十四で竜種を捕食するって
奴がいるね。絶対会いたくないわ﹂
﹁そりゃおとぎ話だろ。んで雌は体重が重いから飛びもしないし、
基本的に物理攻撃一辺倒。なんだけど、まあ、あれだ。繁殖期が秋
頃なんだけど、その頃には凶暴性が増して雄を引き寄せるための臭
いを発するんだが﹂
﹁屁の臭いがすんだよ﹂
げっへっへと下品に笑いながら一人が言ってランタンもリリオン
も顔を顰めた。硫黄臭か、とランタンは独り言のように小さく呟く。
﹁臭えだけならいいんだけど﹂
よくねえよ、と犬人族が大合唱した。うるせえうるせえ、と男は
取り合わない。
﹁長時間臭いに曝されると意識を害するし、最悪中毒死だ。ま、こ
れは雌だけだし、攻撃的になる分防御が疎かになるから短期決戦を
狙うなら良いかもな﹂
﹁雄は基本色は緑なんだけど、虫系は変異種が多いから色々ある。
色だけにあっはっは﹂
﹁体色は宿してる魔道に連動してることが多いね。たぶんランタン
が見たのは白、飛んでるんならまず間違いなく風の魔道を使うね﹂
﹁虫系は翅があってもそんなに飛行能力は高くないんだけど、風の
魔道だとねえ。ご愁傷様、がんばって﹂
﹁降ろす手段がないなら待ち一辺倒でいいんじゃね? 遠距離攻撃
は真空刃ぐらいだろ。躱し続けて消耗させようぜ!﹂
﹁そんな消極的なのはいかんよ。降りてこなかったらどうすんだよ。
それなら捕縛系の武器持ってけばいいじゃん。鎖分銅とか﹂
﹁一朝一夕じゃ扱うのは無理だべ。天井に刺激性の煙幕張って行動
制限すりゃいいよ﹂
1145
﹁ばっかでー、風魔道相手にそれはどうよ。それよりも金持ってん
けんけんごうごう
だから使い捨ての魔道具持っていこうぜ!﹂
酒を飲みながら喧々囂々と好き勝手に自分の意見を言い合ってい
る。肩を組んで同盟を組む者もいれば口論をしている者もいる。け
れど口元から牙を溢れさせるほどに笑いあっていて、みんな仲よさ
そうだな、とランタンは思う。
それはランタンの知らぬ探索者の日常だった。
リリオンは人見知りを酒の力でねじ伏せて、持ち前の無邪気さで
疑問を振りまき女たちに可愛がられている。ランタンは一人素面で
上手く会話に混ざれずにいた。借りてきた猫のように大人しくして、
ただ集積された知識を一つでも多く持ち帰ろうと聞き役に徹してい
た。
それぐらいしかできなかった。
そんな静かなランタンにふとジャックが目を向ける。灰青の瞳が
妙に怖くてランタンは目を伏せる。
イドイーター
﹁そういやさ、虫系ならあれの可能性もあるな。あんまないけど、
喰脳蟲って知ってるか?﹂
議論をしている探索者の中にはその名前を聞いて露骨に顔を歪め
る者がいる。ランタンは首を横に振って、勿体ぶるように間を空け
るジャックに話の先を促した。おずおずとした視線を睫毛の隙間か
ら覗かせる。
﹁寄生虫の魔物で、稀に最終目標にも寄生している。倒したと思っ
て死体に近付くと死体を食い破って飛びかかってくる。体内に侵入
を許すと酷いことになる。気を付けろよ﹂
﹁⋮⋮どうやって?﹂
ランタンが聞くとリリオンも無言で頷く。ジャックは喉奥で笑っ
た。それは姉であるテスの含み笑いを思い起こさせる。
﹁気合い﹂
﹁⋮⋮ふうん、勉強になります﹂
﹁ちっ、冗談だよ。侵入を許したのが鳩尾から下なら水を大量に一
1146
気飲みすれば排出できる。それより上なら喉に指を突っ込んで上が
ってきたとこを掻き出せ。首から上なら速やかに自害しろ。蟲は脳
を喰って身体を操る。仲間に身内殺しはさせるなよ﹂
ランタンはジャックの顔をじっと見つめる。その表情はどちらも
真剣で、背後からリリオンがランタンにしがみつき、ジャックがウ
ェンダに引っぱたかれた。リリオンはそれに驚いて強くランタンを
い
締め付けた。
﹁痛ったい!﹂
と言ったのはどちらだったか。
ウェンダはジャックを叩き、そのまま耳を捻り上げた。ジャック
は首つりに抵抗するように椅子から腰を浮かせて中腰になった。ウ
ェンダはそのまま二人を安心させるように笑いかけた。
﹁魔物が寄生されてるかどうかは見ればわかるわよ。寄生された魔
物は挙動がぎこちなくなるし、こっちの攻撃に対して無防備になる
の。蟲は新しい宿主を欲していて、移行するためには今の宿主の死
が必要なのよ。だから怪しいと思ったら蟲の寄生する脳を破壊する
事ね。寄生されていなかった場合は反撃が怖いけど。ま、倒した後
に結晶化が起こらなければ寄生されてると思っていいわ。︱︱それ
に蟲が身体に頭を突っ込んでも、尻が入るまでに引き抜けばいいの
よ。死ぬほど痛いらしいけど、本当に死ぬよりはマシでしょ?﹂
しょ、の言葉と共にウェンダはジャックの耳を引き抜くようにし
て開放した。ジャックは耳を押さえてテーブルに顔を伏せていて、
その痛みをもたらしたウェンダが両耳の間を指先で掻いてやってい
る。その指先が少し色っぽくて、ランタンはぼんやりと女の顔を見
上げた。
﹁わあ、よかった! ありがとうございます。よかったね、ランタ
ン!﹂
リリオンは心底ほっとしたようで、ランタンを抱きしめる力を緩
めるとべったりと背中にもたれ掛かった。顔を耳元に寄せたのは無
意識で、酒と安堵のせいで声が大きい。ランタンはキンキンと震え
1147
る鼓膜に顔を歪めるが、少女は気が付かずジョッキに残った水割り
を喉奥に放り込む。
﹁蟷螂はどうすんだよ﹂
議論は結局の所、案を出すだけであって答えなどはなく、何でも
かんでも大鍋で煮たような混沌と化したそれは既に手の付けようが
ない。
議論は酒の席での娯楽であって、明日の天気の話や最近あった面
白い話よりは多少の実りがあるがそれ以上の意味を持たない。探索
者たちは他人の探索に口出しをするが、他人であるが故に責任の伴
ランタン
わない議論などはこの程度のものである。
それをどう役立てるかは探索者次第であった。
﹁なんなら俺がついて行ってやろうか? うっぷ﹂
﹁いらないです﹂
牛人族の男が酒に飲まれながらそんなことを言ってきて、ランタ
ンは素っ気なくあしらう。リリオンはいよいよ酔いが回ったのかラ
ンタンの背中に頭をぐりぐりと擦りつけて笑った。
﹁だってわたしがいるもんね﹂
それがあんまりにもないちゃもんなので、ランタンは思わず言葉
を失ってしまった。
ああなんだと俺より強えってか、と牛人族の酔っ払いが言って、
リリオンはそれを否定したけれど酔っ払いの耳には届かなかった。
周囲は酔っ払いを静止しようと試みたが、酔っ払いは羽交い締めに
されながらもリリオンのことを面罵にした。
ランタンの目が据わった瞬間にジャックが軽く肩を叩いて短慮を
諫める。
男が罵倒したのはリリオンの装備だった。
探索者に重装戦士は少ない。探索において重いと言うことはそれ
1148
だけで悪であり、全身鎧は一部の探索者以外には不人気だったし、
身の丈に迫るほどの大盾はそれを更に上回った。重い盾を持つぐら
いならば、その分だけ武器の厚みを増してそれ一本で攻守を賄うと
言うのが現在の主流であるようだ。
小型、中型の魔物、ある程度のまでの大型の魔物の物理攻撃なら
ば探索者の体格にもよるが盾による対処が可能である。だが大型魔
物の物理攻撃は正面切って受けきれる探索者は、魔物の大きさと重
量が増大するにつれて加速度的に減少していく。
酒を潤滑油としてのねちっこい言い回しをランタンは生理的に受
け付けなかったが、どうにか理解したところそれはつまり大盾を強
大な魔物を忌避する臆病さや、卑怯さの象徴として揶揄したのであ
る。
酔っ払いなんか相手にしなくていい、とランタンは言ったがリリ
オンはその言いがかりを許さなかった。
﹁何だよそのちぐはぐな装備は! みっともねえったらありゃしね
え!﹂
﹁︱︱みっともなくなんかないわ! これはランタンがわたしに買
ってくれたのよ!﹂
﹁はっ、そりゃよかったな! お前が頼りないからそのガキも心配
になったんだろうよ。そんなやせっぽちがそいつを使えるかだって
怪しいもだけどな!﹂
﹁⋮⋮ママがわたしに教えてくれたのよ。あなたにそんなことを言
われる筋合いはないわっ!﹂
ランタンはリリオンの顔を見ることはできなかった。自分に言い
聞かせるような小さな囁きから、炸裂するような大声に。少女のそ
の声に混ざる湿っぽさを聞いた瞬間にランタンはリリオンを背後に
置き去りにした。
ランタンの小さな手が酔っぱらいの口を塞ぎ、少女を汚す言葉を
喉の奥へと送り返した。黙れ、と底冷えした声に酔っ払いの目が酔
いから醒める 。
1149
酔っ払い、︱︱牛人族が震え、取り押さえる男たちが振り解かれ
た。
牛人族が左手でランタンの手首を圧迫し、行く先を塞がれた血の
流れにより指先がじんじんと痺れた。骨が軋むがランタンの腕は力
を完全に伝えるには細すぎる。それを察してランタンの腕を砕こう
と牛人族は右肘を振り下ろし、左膝が跳ね上がる。
ランタンとしては手荒だが忠告のつもりだった。しかし返答は明
確な害意で、ランタンの身体は自動的に動く。
瞬間、ランタンは牛人族の軸足を払った。体格に比べて軽い。牛
人族は脚を払われるままに跳んだ。
掴まれた腕が引かれ、地面から離れた軸足がランタンの腰に絡み
つく。牛人族はランタンを地面に引き込もうとしていた。その意識
にランタンは相乗りした。
重力に傾く男の勢いにランタンは自重を預ける。指は目に。掌は
顎に。肘を胸骨。膝は金的。空いた片手が蹴り上がる膝を止め、内
に捻る。牛人族の右手が挙動を変えて目を狙い、ランタンは額で受
けようと顎を引いた。
﹁︱︱そこまでにしておけ﹂
ランタンに連動するように動き出していたリリオンを止めたのは
ウェンダを筆頭にした女性陣であり、牛人族を止めたのは振り解か
れて苛立った男性陣だ。牛人族はきつめに捕縛されている。
そしてランタンを止めたのはジャックとフリオ。
ランタンは鼻から吸った息を咳き込むように吐き出した。反応早
いな、と喉に回されたジャックの腕を叩いて、戦意を落ち着けたこ
とを伝える。
ジャックは先に動き出したランタンに追いついて、その首に腕を
巻き付けて引き倒した。フリオは牛人族を掴むランタンの腕を、そ
してランタンを掴む牛人族の腕を解いて、今はランタンの足を椅子
に絡めるようにして捕らえている。背もたれを前にして椅子に座り、
じっとランタンを見つめる。
1150
﹁こんな事になって悪かったね﹂
﹁いいえ﹂
﹁酔っ払いの戯れ言だ。気にするな﹂
﹁それは、内容によります﹂
﹁︱︱ああ、⋮⋮そうだな﹂
ジャックは巻き付けていた腕を首から解いてランタンを立ち上が
らせると、悪かった、と一言言った。ジャックはランタンを止めに
入っただけであったが、亜人族共同体の一員としてかリリオンにも
謝罪の言葉を渡している。
その姿を見ていたら、戦意がみるみる萎んだ。ランタンは男の口
を塞いだ掌をテーブルに拭い付けて、ジョッキの底に残った蒸留酒
で殺菌消毒をする。
その姿を見たリリオンが怒りに染めた頬の色づきもそのままに小
さく微笑んだ。
女たちに慰められたり、力の強さを褒められたりしながら、こっ
そりと唇が感謝を呟いてランタンは何も言えない。
牛人族は年長の探索者にどやされていて、事の発端が何であった
かなどは既に忘れランタンに凄まじい視線を向けていた。ランタン
が舌を出して挑発すると、額に血管を浮かせてこめかみから生える
牛角が震える。そして吠えるように罵倒を繰り返した。
﹁だってあのガキが俺を侮辱しやがったから︱︱﹂
投げかけられる罵声をランタンは屁とも思わないが、宥められて
なお怒りの燻っていたリリオンが言い返した。
そこからは売り言葉に買い言葉だったのだと思う。話が蒸し返さ
れて、けれど既に身柄を押さえられているので取っ組み合いにはな
らない。ランタンの横にはジャックが控えて、一挙手一投足に目を
光らせている。そんな心配性のジャックにランタンは肩を竦めてみ
せた。
﹁酔っ払いの相手をするだけ無駄だよ。お騒がせしました、お料理
美味しかったです。ほら帰るよリリオン﹂
1151
ランタンはぺこりと頭を下げて、リリオンの手を掴む。その背中
に、逃げるのかよ、と声が浴びせられランタンとは違ってリリオン
はやはりそれを無視できない。
溜め息を吐いたのは誰だったのか。
それは言い争う二人以外の全てである。
探索者の面子は腕力であり、文字通りの腕の力を競い合うにもっ
てこいの方法が一つある。
それは争いだが命の危険はなく、勝ち負けは一目瞭然であり勝敗
に文句の付けようはない。勝っても負けても恨みっこ無しの一発勝
負。
その名を腕相撲という。
店内のテーブルが一つを残して退かされて、周りがそれを取り囲
む様はどう見ても違法賭博場のそれであり、酒場の店主から胴元へ
と早変わりした豚猪男が、さらには兼任して審判を務めることにな
った。
﹁わけわかんない﹂
目まぐるしく変化する状況に目を回すランタンを余所に店内はい
よいよ白熱度合いを増していく。
おらああんな毛無の小娘なんて敵じゃねえんだよおらあ、と牛人
族側が挑発を繰り返せば、あいつの酒癖の悪さには前からむかつい
てたんだよくそが、とリリオン側が罵声を交換する。
まるで亜人族共同体を真っ二つに割った内紛のような有様だった。
メス
だったのだがどうにもそれを楽しんでいる雰囲気がある。
﹁ぶっ殺してやんかんな! 女だからって容赦しねえぞテメエおら
あテメエ! 何でランタンじゃねーんだだよ! ああん、逃げてん
じゃねえぞ!﹂
﹁そんなこと言ってランタンの手にまた触ろうとしてるんだわ! 1152
ブラッドホーン
そんなことわたしが許さない! ランタンの手はわたしのものよ!﹂
﹁⋮⋮僕の手は僕のもんだよ﹂
﹁さあ張った張った! 若きアル中にして牛人族の乙種探索者赤角
ラバー
タズ対突如ランタンの隣に収まった謎の女! 丙種探索者ランタン
大好きリリオン!﹂
指を差して唾を飛ばすタズに、リリオンはべえと舌を出した。ラ
ンタンと同じように挑発されたことでタズは顔を憤怒に赤く染め上
げて、服を引き千切って上半身を裸になった。まるで蒸気を噴くよ
うに身体も赤い。
発達した僧帽筋。絡み合う上肢帯筋が荒縄のようにうねっている。
豊かな胸毛が臍どころかズボンの中まで繋がっていて、それらを見
せつけるようなポージングにリリオンが苛立った。リリオンは対抗
するように外套を脱ぎ捨てて肩の近くまで袖を捲った。
﹁おおお⋮⋮おぉ?﹂
舞い上がった外套に歓声が上がり、晒された白腕にそれが萎んだ。
タズの腕毛に飾られた腕を苔生した丸太と表現するならば、リリオ
ンの腕は百合の茎である。
リリオンは萎んだ歓声など全く眼中に無く、タズに向かって殴り
つけるような仕草を見せつける。タズの方はと言うとあからさまに
馬鹿にしたように鼻で笑った。
﹁薄情者め⋮⋮﹂
﹁金勘定と人情は両立しないからね﹂
身体付きを見比べることで、賭ける対象を変更する探索者が続出
した。口でリリオンを応援しても、掛け金の行く先はタズの側であ
る。胴元兼審判の店主が悲鳴を上げた。
﹁おいおいおーい、これじゃあ賭けが成立しねえぜ! そんな! 貧相な! 身体で! 一緒に探索する奴はさぞ迷惑しているんだろ
うなあ!?﹂
リリオンが歯噛みするように悔しげに唸っている。ランタンはそ
んなリリオンの尻を引っぱたく。自信を持てと口には出さないが、
1153
少女の身体付きが決して貧相では無いことをランタンは知っている。
ランタンはポーチから金貨袋を取り出すと袋の口も開けぬままに
店主へと放り投げた。その重さと、袋口から僅かに覗く色に店主が
奇声を発した。
﹁足りない分は僕が持つ。リリオン、あいつの腕を捻切ってやれ﹂
爆発するような歓声。震えるほどの少女の歓喜。
﹁︱︱まかせて!﹂
拳を握ると、百合の茎に血が流入して色味を増した。
これはただの百合ではない。輝く黄金の百合である。
﹁勝負よ!﹂
リリオンは牙を剥くように笑う。
1154
077
077
タズが当たり前のように右手を出したので、リリオンも右手で応
えた。あれ、とランタンは思ったが口を挟む暇もなく興奮が最高潮
に達して、両者はテーブルに肘を突き、手を合わせて睨み合ってい
る。
ふうふうとタズの荒い呼吸が歓声を押しのけて響く。
﹁⋮⋮口がくさいわ、ランタンを見習ったらどう?﹂
ランタンはリリオンの背後にいて少女の顔を見ることはできない
ブラッドホーン
が、その分だけタズの表情ははっきりと見えた。
赤角の通り名を表す角よりも、今では顔の方が真っ赤に染まって
いる。ぎりぎりと歯が軋み、唇が結ばれて鼻の穴が膨らんで蒸気を
幻視させるほどの荒い鼻息を吹き出した。
リリオンの手の甲に掛かるタズの爪が赤から白に。店主が組んだ
手を解すように揺する。
﹁タズ、力を︱︱﹂
﹁平気よ。はやく始めましょう。負かしてあげるわ﹂
おらあ行けえリリオン。生意気な小娘を泣かしたれや。女の子に
手を上げるなんて最低よ。ここは毛無が来るような場所じゃねえん
だよ。腕を捻切って二度とジョッキを持てねえようにしてやれ。ラ
ンタン逃げんなこらあ。黙れ吠えるな。
﹁いざ尋常に︱︱﹂
と、暴風のような歓声が二人に襲いかかり、ふと一瞬の沈黙が。
リリオンが大きく息を吸い込んで、タズが鋭く吐き出す。呼吸を
止める。
﹁︱︱勝負!﹂
1155
火ぶたを切って落とした店主は力の奔流に弾き飛ばされたかのよ
うだった。慌ただしくテーブルから離れて、第一声から早速声を嗄
らしてしまった。だみ声が聞き取りづらい実況を吐き出す。
始まった腕相撲は、タズの圧倒的優勢という当初の予想を裏切っ
て拮抗している。組んだ手はぶるぶると震えてどちらにも傾かず、
互いに左手で掴んだテーブルはこういったことが日常茶飯事なのだ
ろう鋼鉄の補強が入っていたが、それでも今にも破裂しそうな不穏
な音を響かせている。
﹁行け行け行け行けっ!﹂
﹁気い抜くなよっ!﹂
獣を追い立てるような拍手と足踏み。無責任な応援と罵声。
両者は喉の奥から染み出すような唸り声を上げて、タズの目は毛
細血管が切れて赤く充血している。リリオンはどんな顔をしている
んだろう、とランタンはその背中を見つめる。拳に力が入って、ま
るでランタンこそが勝負をしているように息が詰まった。
リリオンは勝てる、とそう思っていた。だがタズが予想以上に強
い。贔屓目が過ぎたことを反省する。情によって実際の戦力差が変
動するわけではない。
勝負は拮抗しているように見えてリリオンの分が悪かった。
身体付き、筋肉の量だけが力の出力量を決めるわけではない。
魔精による身体能力の強化によって探索者の能力には性差が殆ど
ない。例えば男らしく強引な、例えば女らしく細やかな、と言うよ
うな性格的な性差はあれど、肉体的な性差はまずないと考えていい。
男よりも力の強い女など掃いて捨てるほどいる。
だがそれでも筋肉量が出力量の全てではないと言うだけで、筋肉
量の多寡は力強さに関係することは疑いようのない事実である。そ
して探索者としての経歴もタズの方が圧倒的に長く、故に不確定要
素であるはずの魔精の量もリリオンは負けていた。
四分の一。
亜人族の肉の付き方は人族のそれよりも遥かに効率が良いらしい。
1156
だがリリオンに流れる四分の一の血統はそれを上回る。
どうにか拮抗できているのはそのお陰で、けれど最後にものを言
うのはやはり地力の差である。
ほんの僅かリリオンが押し込まれた。
﹁ん︱︱ぐ︱︱ぎ︱︱ぃ!﹂
食いしばった歯の隙間から、結んだ唇を内側から押し広げるよう
にして苦悶の呻きが溢れた。
﹁踏ん張れっ、負けんなっ!﹂
﹁タズッ押し込めっ!﹂
リリオンが足のスタンスを僅かに広げて、ねじ込むように肩を内
に入れる。悪い判断ではないが、苦し紛れの小細工でもある。
﹁⋮⋮はっ、あの状態で動けるか。なかなかやるじゃん﹂
熱狂渦巻く歓声の中で、その声は醒めていたように思う。ランタ
ンは喉の奥で知らず止めていた息を吐き出して、僅かに目を動かし
て声の主を視界に入れた。いつ横に並んだのか、それは兎人族の女
だった。
兎人族の特徴的な耳がぺたりと後ろに撫でつけられているため、
身長はランタンと変わらない。男っぽく短い髪は脱色したような薄
い茶色で、目の色はそれに赤を足した錆色だ。ランタンの視線に気
が付いたのか女が首を回して顔を向けると、意味深に笑った。
唇は左の口角が上がっていて、内斜視の右目が挑発的で蓮っ葉な
リーディング
雰囲気を醸し出している。兎らしさのある小さく形の良い鼻に薄く
そばかすが散っている。
﹁応援しねーのか?﹂
﹁⋮⋮してますが﹂
﹁口利けるんなら声に出せよ。あれが読心術でも使えんなら別だけ
どな﹂
女はそう言ってリリオンを顎で指した。リリオンに有り金全部突
っ込んだのだろうか、女はランタンを煽った。だが煽るにしても賭
け勝負に熱狂しているわけでもなく、ランタンを嗾けるその声音は
1157
嗾けるという行為を楽しんでいるような感じだった。
いけない、とランタンは思う。ランタンは女に促されるままに視
線を戻す。リリオンの手首がタズの圧力に負けて甲側に反っていた。
辛うじて、気合いで持ち堪えているだけで負けはすぐそこにある。
﹁がんばれ! 手首戻せ!﹂
ランタンが叫ぶとリリオンが力で応えた。おおおおお、と観衆が
どよめき、タズの表情が険しくなった。リリオンはタズを押し返し
て、甲と腕を一直線へと盛り返した。未だにタズの方が有利である
すなお
ことには間違いはないが、すぐそこにあった負けからリリオンは遠
ざかる。
﹁あっはっはすげーバカ素直だ。いいぞいいぞ、もっと応援しろよ。
ほらほらほら、どうした﹂
﹁あなた、なんなんですか?﹂
﹁応援したれよ。お前のために頑張ってんだろ? それともあたし
の方が気になんのか? ずいぶんと気が多いこったな﹂
ランタンは肺の中の淀みを全て吐ききって、改めてリリオンを応
援した。女の言葉によってランタンは応援しているわけではない。
そんなことははっきりと判っているのにもかかわらず、ランタンは
自らの口から出る応援が女によって汚されたような気がした。
もう無視しよう。
﹁無視すんなよ﹂
﹁⋮⋮うるさいです﹂
﹁あたしの言ったとおり応援したら盛り返したろ? 地力じゃ八割
り負けのところを応援で五分五分に戻したんだ。じゃあ次はどうす
んよ?﹂
ヤク
﹁手首を自分に向けるんだよ! 肩から体重掛けて!﹂
﹁技術だけじゃ差は埋まんねーよ。あの牛野郎、薬で箍外してやが
んぜ。魔道薬じゃないのがせめてもの救いだな、これっぽちの救い
だけどな﹂
﹁︱︱ほんと?﹂
1158
﹁探索者なら戦いに挑む前に一発キメるのは常道だろ? 甘えなあ、
まったくよう。それを加味すりゃドすっぴんでよう堪えてる方だな、
あーあー顔真っ赤だ。あれで負けたら血涙だぜ﹂
﹁拳から視線を外すな! ああっ!﹂
ランタンが叫ぶとリリオンはその度に腕を戻す。だが五分まで戻
していたのが次第に四分、三分と不利になっていく。露わになった
腕がぱんぱんに膨らんで、細腕に絡みつく血管がはち切れんばかり
だった。口元から漏れる苦悶の呻きに、僅かに高い音が混じるよう
になったのは無酸素運動の限界が近づいたからだ。
少女の限界が。
﹁応援で五分まで戻したんだ、ならこっちもがつんと一発キメてや
ろうぜ!﹂
女が不敵に笑う。
﹁なあに人間ご褒美がありゃもっとがんばれるもんさ。あんだけバ
カ素直なら、その効果も覿面だろうよ。なあ、てめえの面子のため
に女が気合い入れてんだ。出し惜しみするんじゃねえぞ﹂
ランタンは、薄い唇を引き延ばし目を覗き込むようにして笑う女
の、その言葉に息を吸い込んだ。
声が歓声を切り裂いて響く。
﹁勝ったら︱︱﹂
リリオンが負けるまで時間の問題だった。テーブルと手の甲の隙
間はもう三センチほどしかない。リオンは身体ごと傾いている。タ
ズは勝利を確信するように溢れんばかりに目を剥いて、口元はもう
既に笑みを浮かべている。
あの子に上げるご褒美は、とランタンの一瞬の沈黙。女がランタ
ンの背中を力強く引っぱたいた。
﹁︱︱なんでも言うこときいてあげる! リリオンっ!﹂
女は声を上げて笑った、のかもしれない。
1159
それはあまりにも暴力的な、破壊の音色。
その音は女の笑い声も、ランタンの応援も、店内に渦巻いて響き
渡る歓声の全てを吹き飛ばして耳に痛いほどの沈黙をもたらした。
欲望が炸裂した。
その結果、鋼板補強のテーブルは天板が大槌を振り下ろしたよう
に放射状にひび割れ、木製部分は内側から破裂したように消し飛ん
ブラッドホーン
でいる。四本中片側二本の足が遥か上空から縦に落下した氷柱のよ
うに砕けた。
ひし
牛人族の乙種探索者赤角タズの鍛え上げられた右腕はあらぬ方へ
と拉がれ、天板の破壊を招いた手甲の激突は、その内部で中手骨の
粉砕骨折を起こしていた。指の付け根からじくじくと血が溢れてい
る。
﹁はあ?﹂
水を打ったような沈黙の中でそう呟いたのはタズで、タズは叩き
つけられたままリリオンに繋がれた己の手を不思議そうに眺めてい
る。
腕が変な方向に曲がっている。手首と肘の中間ほどに関節が追加
さていた。
折れたのは肘ではなく橈骨と尺骨の二本で、それは纏めて半ばか
ら寸断されているようだった。骨の断面が内部から皮膚を突き破ら
んばかりに引き延ばしている。
リリオンがぽいっと捨てるようにタズの手を放り出すと、タズの
右手は重力に引かれるままに甲で己の右肘に触れた。なかなか綺麗
に折れているようで、それはすなわち折れる瞬間に掛かった負荷の
巨大さを物語っていた。
店主が慌ててリリオンの手を取って高々と掲げる。
﹁決まったあああああ! 勝者リリオン! 大逆転だ−!﹂
歓声はこれこそ正に耳に痛い。店内は地震でも起きたのかと言う
ほどに震動して、拍手も足踏みも笑い声も罵声も何もかもがリリオ
1160
ンを祝福しているようだった。
﹁はあああっ!? 折られた!? 俺の腕が?﹂
はたしてそれは悲鳴だったのだろうか。戦いの名残と驚愕による
意識の圧迫、そして薬の影響によってタズは痛みを感じていないよ
うだ。肩から腕を持ち上げて、己を応援していたギャラリーに向か
ってそれが現実であるかを確認させている。
テメ︱負けたんだよボケが。賭け金返せやアル中。左も折ってや
ろうか負け牛が、とタズは散々に言われながらも夢現を確かめるよ
うに頬を抓られたり蹴られたり叩かれたりしている。ずいぶんと手
荒いが本気の罵倒ではなくそれは野蛮な労いであるようだった。折
れた腕を力任せに繋げ直されて、ついに本当に悲鳴を上げてもいた
が。
そして大逆転を引き起こしたリリオンには惜しみない賞賛が降り
注いでいた。
リリオンへ賭けた女が二人抱き合って天井を突き抜けて空に吠え
るように喜んでいるし、賭けを止めて応援のみに留めた消極的な味
方は悲しみ半分喜び半分で、リリオンを応援しながらもタズに賭け
た不届き者はもうやけくそに勝利を褒め称えている。リリオンを妹
分のように可愛がっていた女探索者たちは今にも抱きしめんばかり
であった。
だが当のリリオンはそんな混沌極まりない惨状などは目にも耳に
ヘーゼル
も入っていない。取り囲む女たちの頬を髪で叩くほど勢いで振り返
り、丸く見開かれた淡褐色の瞳に映るのはランタンばかりである。
﹁ランタン! 今の本当っ!?﹂
﹁嘘です﹂
ぎらつくリリオンの瞳にランタンは思わず気圧されて後退り、そ
して後退った分だけ大きな歩幅で跳ねるようにして近寄って手を伸
ばした。大きく開かれた少女の口は何を叫ぼうとしたのか、ランタ
ンはその口を塞ぎ、指で鼻の下を拭う。
﹁鼻血出てる。啜っちゃダメ﹂
1161
左の鼻から粘度の高い鼻血が垂れて口に入りそうになっていた。
ランタンが指摘するとリリオンは触ろうとして、それを止めると見
られるのが恥ずかしいのか鼻を啜ろうとした。ランタンは片手でハ
ンカチを取り出すと素早く少女の鼻口を隠してやった。
﹁全部出しちゃいな。︱︱椅子くださーい。あと濡らしたタオル﹂
リリオンがランタンの手ごとハンカチを掴んで勢いよく鼻をかん
だ。ランタンは鼻血と鼻水を誰の目に触れさせることもなく折り畳
んでしまうと、用意した椅子にリリオンを座らせてまた新しいハン
カチで汚れた少女の汚れを隠してやった。鼻の付け根をそっと押さ
えてやるとリリオンはもごもごと鼻声で呟く。
﹁わたし勝ったよ﹂
﹁うん、おめでとう。よくがんばったね﹂
椅子に座らせているのでリリオンの顔の位置が珍しくランタンよ
りも下にあって、少女の見上げる眼差しは喜びではなく純粋な戸惑
いに染まっている。ランタンは空いた手でリリオンの頭を撫でてや
った。いつもならば大喜びするその触れ合いも、細めた瞳の中にあ
る戸惑いを消すに至らない。
なんでなんで、と問い掛ける視線からランタンは目を逸らした。
その先に赤錆の瞳があった。
兎女が恥じらいもなく膝を割ってしゃがんでいた。ともすれば下
品に映るその姿が妙に様になっている。丈の短いショートパンツか
ら伸びる太股。その半ば程までが極細かな鱗革ストッキングに覆わ
グリーブ
れている。僅かに露わになった太股の白さにランタンは目を逸らし
た。
女の太股は脹ら脛を守る金属製の脛当てに押し返されてなお丸い。
程よく脂肪が乗った足はよく鍛えられている。
兎女はガンを飛ばすようにしてランタンを見上げ、吊り上がった
左の口角が頬の裂けるような角度で嫌な笑みを浮かべる。笑みを浮
かべたままのっそりと立ち上がって、リリオンへと顔を向けた。そ
の顔つきにリリオンが少しだけ怖じ気づいた。
1162
ゆ
﹁あたしはちゃあんと聞いたぜ。こいつ、何でも言うこと聞いてや
るって言ってたよ。男なら約束は守らなきゃいけねえぜ。それとも
実は付いちゃいねえのか?﹂
ランタンの下半身に伸びた兎女の手がリリオンによって遮られた。
べちん、と大きな音がして女の身体が吹っ飛び、リリオンは鼻をも
ぎ取るようにして汚れを拭い、鼻血が止まったことを確かめながら
立ち上がった。兎女は空中で腰を切り、踵を接地させると軽やかに
体勢を立て直す。
ゆらりと立ち上った闘気が。
﹁てめえ︱︱﹂
﹁触っちゃダメ!﹂
﹁ああ?﹂
﹁手が無くなっちゃう!﹂
どよ、と。リリオンの言葉は意味不明であったが、それ故にいっ
そうの恐ろしさが周囲に伝播される。
﹁んなわけが、︱︱⋮⋮まじか?﹂
リリオンの深刻な頷きによって、兎女はランタンを物凄い目付き
で見つめた。視線が顔から正中線を通って下半身へと注がれて、ご
くりと唾を飲んだのは兎女だけではない。重なった音にランタンが
はっと視線を巡らせると幾人もが気まずそうに目を伏せる。ランタ
ンは羞恥と怒りとも呼べぬもどかしさに顔を赤らめた。
﹁あの成りでそんな凶悪なもんを、⋮⋮あっぶねーとこだよ﹂
﹁⋮⋮手が無くなるとのは、こういうことです﹂
ランタンは床板を踏み折って一足飛びに距離を詰め、音も無く狩
猟刀を抜剣すると女の右手首に刃を押し当てていた。少し刃を引け
ば、兎女は手首から先を失うこととなる。その早業に先ほどとはま
た別のどよめきが上がるが、殺意も敵意もないそれに脅威はないと
ばかりに兎女は平然としたものだ。
﹁次は無いですよ﹂
﹁耳赤いぜ﹂
1163
﹁生まれつきです。あなたの長いお耳と同じように﹂
ランタンは狩猟刀を鞘に戻した。女は手首が繋がっていることを
確認するようにぐるぐると拳を回していた。離れるランタンの耳に、
ふうん、と意味深な頷きが聞こえるがランタンはそれを無視した。
﹁てめえランタンおらあ! 俺とはやんねえのにその女とはやるっ
てどういうことだあ!﹂
﹁うるさい負け牛。そう言うことはリリオンに勝ってから言ってく
ださい。いい勝負でしたよ﹂
﹁え、あ、おおう﹂
ランタンと兎女のいざこざを嗅ぎつけたタズが、折れた腕を折れ
た椅子の脚の添え木で固めただけで喧嘩を売ってきた。ランタンは
面倒くさそうにタズを煙に巻く。
リリオンが不満げな、いやそれは切なげな表情も隠さずにじっと
ランタンの動きを目で追っている。
これが勝者と敗者の違いか、とランタンは心が痛む。少女を煙に
巻くことはできていなかった。
ぶ
﹁あ、そうだ。配当金ってどうなってます?﹂
胴元の取り分は五分であり、店内は五十人近くいてその内賭けを
した者は四十名に若干足りない。リリオンに賭けたのはランタンを
含めて僅か三名であり、ランタンが金貨袋を投げ入れたことでただ
でさえ多かったタズに賭けられていき金額が激増した。ランタンの
掛け金を狙って。
﹁ほらよランタン!﹂
それ故に配当金を足した金貨袋は倍以上ほども重たく、ポーチに
収まりそうもない。ランタンは受け取った袋の中から一枚の金貨を
取り出して店主に投げ返した。
﹁テーブルと床の修理代です﹂
ランタンはそれでもやはり重たい金貨袋をじゃかじゃかとならす。
﹁それとこれが重くて持って帰るのが辛いから、騒いで疲れた皆さ
んに美味い酒と料理をお願いします。ふふふ、あの辺の人たちのお
1164
かげでお金の心配はいらないから、じゃんじゃん持ってきてくださ
いね﹂
その歓声は今日一番だったかもしれない。元はと言えば自分の金
なのに何とも気のいい人たちである。
﹁あ、でも負けた牛の人とリリオンはもう酒は駄目だよ。喧嘩する
から﹂
リリオンにそう言って笑いかけたが、少女は犬人族なんかよりも
余程に雨に濡れた子犬のような哀れな視線をただランタンに向ける
ばかりだった。
﹁はいはい言いましたよ。何でもするって﹂
結局、いつだって根負けするのはランタンだった。そしてそれが
渋々ではないと言う自覚もあった。
だが、ほらな、としたり顔で奢り酒を飲む兎女が鬱陶しくてラン
タンの表情は冴えない。腕相撲をするリリオンを応援したのは己の
意思で、根負けしたのだって己の意思で兎女は無関係である。関係
あるのはリリオンだけだ。
少女は眦の下がった嬉しそうな顔をしていて、先ほどまでの哀れ
っぽい視線との対比で表情が溶けるかのようだった。ランタンは思
わず頬に苦笑を浮かべてリリオンに問い掛ける。
﹁僕に何をして欲しいの?﹂
ハッカ
リリオンは唇の緩みを締め直そうとして失敗し、浮かんだだらし
のない笑みを隠すように酔い覚ましの薄荷水を口に運んだ。
﹁んー、んふふふ﹂
それでも隠しきれない笑い声が薄荷水をぶくぶくと泡立ててコッ
プから溢れた。
﹁なんでも︱︱﹂
﹁可能な範囲内でならね﹂
1165
ケチケチすんなよ、と兎女が茶々を入れてきたのでランタンは極
力女を視界から外した。
﹁空中浮遊しろとか、石を食えとか、不老不死にしてとか無理なも
のは無理だし、全裸で街中を歩けとかここに居る全員をぶち殺せと
かの公序良俗に反するものも嫌だよ﹂
﹁そんな変なお願いしないわ﹂
﹁全裸徘徊と殺人が同レベルかよ⋮⋮、ってか﹂
兎女が口元の泡を肩口で拭いながらランタンを睨んだ。それは兎
女ばかりではなく囲んで酒を飲む探索者たちも兎女ほどあからさま
ではなかったが、探るような視線を向けていた。
﹁嫌だけど無理じゃないってことか? ここの全員相手にして﹂
たしか探索者は面子が大切なんだったか、とランタンは頬に笑み
を浮かべる。
﹁やってみないと何とも言えないですね﹂
挑発的な言葉に辺りがざわつく、タダ酒ほど美味いものはないと
飲みまくって理性の薄れた探索者たちは持ち前の負けん気も相まっ
て今にも飛びかからんとばかりに互いに目配せをしあっていた。あ
の辺は楽勝だな、とランタンは気のない振りをして確認する。
マスター
﹁わたしはランタンの味方だからね﹂
﹁店主! この子に店で一番良い肉を食べさせてやって! とって
おきのやつ!﹂
ランタンがカウンターの奥へと叫ぶと間髪入れずに了承の声が飛
んできた。厨房の中で何が行われているかを見ることはできないが、
脂が弾け肉が焼ける音と匂いが漂ってきて、亜人族の鋭敏な感覚器
官はランタンよりもいっそう強くそれを感じ取っていた。
席を同じくするジャックが唾を飲んで、運ばれてきたのは厚さが
十センチもあるほどのステーキだった。
﹁すてき!﹂
テーブルにどんと置かれたそれをランタンが一口大に切ってやる
と、レアな焼き加減の断面から肉汁が滴った。ランタンが手ずから
1166
リリオンに食べさせてやると、少女は頬が落ちないようにと手を当
チーム
てる。目が糸のように細められた笑みは幸せいっぱいだ。
﹁ジャック、フリオ。探索班の意思は統一するべきだと思う。私は
ランタンの味方をしたい﹂
﹁異議無し。ジャックは?﹂
﹁⋮⋮異議無し﹂
﹁三皿追加で、後一番良いお酒も持ってきてください﹂
ウェンダはリリオンと肩を組んで同盟を結んだことを周囲に存分
にアピールし、ショットグラスに注がれた薄青く発光する酒を口の
中に放り込んで遠吠えを放った。それは迷宮熟成させた古酒であり、
酒中に魔精が溶け込んでいる。なかなかに珍しい逸品であった。
ウェンダは高らかな遠吠えの残滓が響く中で、リリオンごとラン
タンを抱きしめる。美味すぎる、とその言葉は嗚咽に濡れて、そこ
から先はもう亜人族や探索者の意地に掛けて敵対を貫く者と欲望の
赴くままにランタンに返った者の争いである。
エール
火種であるランタンは顔を引きつらせるばかりだった。
グラップリング
ランタンの奢りを良いことに麦酒の飲み勝負が行われていたり、
野良腕相撲はまだマシな方で店の片隅では上半身裸の男たちが寝技
のみでの試合をしていたり、空の酒瓶がすっ飛んで酔っ払いの脳天
から血が噴き出してなぜか笑い声が上がったりもしている。
﹁いくらなんでも喧嘩っ早すぎない?﹂
﹁これぐらいは日常茶飯事だよ。喧嘩するほど仲が良いって言うし
ね。死ぬ前には止めるし﹂
常識人であると思われるジャックもその混沌を止めには入らない
し、フリオは笑いながら言って、ウェンダはリリオンにいかに酒が
美味いかを語って困らせている。
圧倒的身体能力を誇る亜人族だが、人族に比べるとやや理性の箍
が緩い傾向があるようだった。生得的なその性質を自覚するが故に
己を厳しく律する亜人族もいるようだが、彼らは基本的には享楽的
な刹那主義者が多いようである。
1167
ジャックやフリオはどちらかと言えば前者で、ウェンダやタズは
後者であるとランタンは思う。
この女はどうだ、とランタンは兎女に目を向ける。赤錆の目は何
かを企んでいるようだが、錆に包まれてその真意を知ることはでき
ない。けれど奔放な口調や振る舞いは刹那主義者のそれだが、そこ
かしこにこちらを誘導しようとする細やかな意図が見られる。
だがその誘導は商工ギルド職員エーリカほど絶対的なものではな
い。この場には不確定要素となるものが多すぎて、理性の箍が酒に
よってゆるゆるになった探索者たちのともすればランタンにとって
も鬱陶しいノリは度々兎女の誘導に横やりを入れた。
それは兎女に苛立ちをもたらし、苛立ちは行動を綻ばせる。兎女
は我が物顔で肉を食らい、麦酒を飲んでいた。
油の付いた指を舐って、その指を濡れ布巾に拭い付ける。手首に
あるギルド証は薄汚れ、それ故に指の白さが目に付いた。人差し指
の付けに銀の指輪が。
女がテーブル上に身を乗り出してリリオンの薄荷水を横取りした。
リリオンはきょとんとして、かえして、と手を伸ばす。兎女はその
や
手を軽く叩いた。拒否の意思表示にリリオンは眉を顰める。
﹁何するの?﹂
﹁⋮⋮なああたしとも戦ってくれよ。あの牛野郎みたいに賭け勝負
しようぜ﹂
ランタンは口を挟まず、その成り行きを見つめる。リリオンは、
かえして、と先ほどより強く言って女の手から薄荷水を奪い返した。
そしてまた取られないようにと急いでジョッキを空にする。溢れた
滴をランタンが指で払った。
﹁負けんのが怖えのか?﹂
それはあからさまな挑発で、酔いの治まったリリオンと言えども
むっとさせるような嘲りを含んでいる。ランタンは何かを言い返そ
うとするリリオンの口を人差し指一本で封じた。
何となく当たりも付いているし、兎女を泳がせるのもこれぐらい
1168
にしようかと思う。兎女はそんなランタンを睨み、言葉を続けた。
﹁こいつへの命令権を賭けて勝負しようぜ﹂
放たれた言葉にリリオンがランタンの指を取っ払った。そして兎
女の目を覗き込むように身を乗り出す。
﹁いやよ﹂
﹁ビビってんのか?﹂
﹁うん﹂
今度の挑発をリリオンはあっさり認める。あっけらかんとしたリ
リオンに兎女は言葉を失って、怪訝そうな目付きで少女を見る。そ
れはきっと素の表情なのだろう。目元の険が薄れると、なかなか愛
嬌のある顔だと思う。三つ四つ年齢が上かと思っていたが、もしか
したらランタンと変わらないのかもしれない。
﹁せっかくランタンにお願いを聞いてもらえるんだもの。それがな
くなるのは嫌よ﹂
何を当たり前なことを言っているの、と無垢な瞳に見つめられて
兎女の目が泳ぐ。ランタンは笑いを吹き出すのを堪えられなかった。
兎女の目に再び険が。だが睨み付けられても先程の威圧感を感じな
かった。
・ ・ ・
﹁僕に何か用があるならまどろっこしいのは抜きにして、ちゃんと
自分の口から言ってね。ねえ、お嬢様?﹂
ランタンが目を細めると、兎女は顔を歪めた。
1169
078
078
﹁あたしをどう見ればお嬢様に見えんだよ﹂
兎女はあからさまに苛立ったように視線をきつくしてランタンに
向かって吐き捨てた。
・ ・ ・
ランタンは刺し殺さんばかりの視線もどこ吹く風で、もちろん兎
女がお嬢様ではないことを判っていたが、驚きを誤魔化すような曖
昧な笑みを口元に浮かべる。
兎女はお嬢様ではないのだろうが、意識せぬ動きが洗練されてい
るように思えた。
垂れ耳とはまた違う、後ろに倒れる兎の耳が苛立ちを反映して小
さく震える。色の薄い茶色の短髪。眉間の皺と擦れたような目尻の
鋭さ。鼻のそばかすや、左の口角の釣り上がるひねた唇。言葉遣い
は路地裏でたむろする不良少女のようにわかりやすく荒く、舌打ち
は堂に入っている。
それは演技かもしれないし、そうでないかもしれない。
兎女はどこをどう見てもお嬢様と呼ばれる類いの人間ではなかっ
たが、やろうと思えばお嬢様にもなれるだろうと思う。
ランタンは視線を兎女の背後へと向けた。ランタンの瞳に映る巨
大な影に、兎女がはっとして振り返った。
彼が扉をくぐったのはいつだったのだろうか。
腕相撲が終わり、飲み会が暴走し、兎女が喧嘩を売ってきて。
ダメだな、とランタンは思う。ジャックたちの馴染みの店とは言
え、慣れぬ場所で意識を弛ませた。
意図的に意識の間隙を狙ったのか、それとも偶然か。どちらにし
ろ良いことではない。それがいつから店内にあったのかランタンは
1170
判らない。
﹁ベリレ、てめえ何しに﹂
﹁何、だと?﹂
兎女が振り返った先。現れた影は、一歩踏み出すだけで床が軋む
ような巨漢であった。兎女にベリレと呼ばれたその男は大きな口を
はっきりと歪めた。
﹁お前なんかがお嬢様なんかに見えるわけがないだろ。つまらん言
葉遊びに付き合うんじゃない﹂
低い声。それは意識せぬ若々しい張りがありつつも、やや堅苦し
い低音だった。
輪郭のがっしりした顔立ちは無骨ではなく凜々しさを感じさせる。
濃い土色の髪はさっぱりと短く、眉も濃くて、彫りが深い。大人び
た顔立ちをしているが、声の雰囲気を思い出し二十にも満たないの
ではないかと当たりを付ける。
﹁そんな言い方は酷いと思うな﹂
ランタンが言うとベリレはじろりと視線を向けた。ただの眼球運
動に全身の筋肉が連動した。
ベリレの二メートルを超える長身は平均身長の高い探索者業界の
中にあっても大柄である。がっちりした骨格を兼ね備えたその長身
に、積み込めるだけ筋肉を積み込みましたというような立派な体躯
はランタンとの対比でより巨大に見える。成り行きを見守る探索者
がその対比に酒と笑い声を吹き出した。
﹁女の子に対して﹂
ランタンがそう言うとベリレだけではなく、兎女にも睨まれた。
お嬢様に見えますよ、とランタンが真顔で言うとベリレが、どこが
だ、と呟く。兎女はランタンを睨んだり、ベリレを睨んだりと忙し
く視線を動かした。
ベリレの背中から肩の筋肉の盛り上がりは著しく、肩は丸く撫で
肩である。それはまるで熊のような、とランタンはベリレの頭上へ
と視線を移した。
1171
﹁それともあなたがお嬢様でしたか?﹂
﹁︱︱自分のどこを見ればそう思えるんだ﹂
﹁丸くて可愛いお耳ですね。触らせてもらってもいいですか?﹂
伏せることもなく兎女が大きく笑って、ベリレは隠すようにして
己の耳に触れた。
ベリレの頭上には半円状の、髪と同色の短い毛に覆われた耳があ
る。それはまさしく熊の耳で、ベリレは紛うことなく熊人族であっ
た。耳でしかそうと判断付かぬ血の薄い亜人であるが、彼は毛皮に
身を包まれていなくともまさしく熊である。
ランタンの言葉にベリレはさっと顔を赤くして、言葉も出ないよ
うで喘ぐように口を動かす。深い彫りの奥にある目は黒目がちで怒
りに歪めていてもランタンが感じたのは愛嬌であった。
﹁いいじゃねえか触らせてやれよ。そんで似合ってねえそいつを千
切ってもらえ。そんならてめえのクソみてえな男っぷりが少しは上
がるぜ。やったな!﹂
﹁う、うるさい!﹂
苛立ち一転、兎女は完全にランタンに背を向けて生き生きとベリ
レをからかい始めた。
兎女の後頭部。短髪なので兎女の頭部が形の良い卵形をしている
のがよく判った。
こんな綺麗な頭から、よくもまあこれほど口汚い言葉を吐き出せ
るものだとランタンは呆れながらも感心した。兎女の操る言葉には、
ランタンの語彙にはない言葉も言い回しも多数含まれていたが、だ
が周囲の反応を見る限り相当に碌でもない言葉なのだろうというの
は理解できた。
﹁ねえねえ、ランタン。今の、どういう⋮⋮?﹂
﹁リリオンは知らなくてよろしい。ああいった言葉遣いは真似した
らダメだよ﹂
﹁︱︱わかった。あとランタンはわたしの耳にさわればいいのよ﹂
リリオンは自分の耳の先をぴんぴんと引っ張った。耳たぶが小さ
1172
く、先の細い耳は綺麗だがそれほど触り心地が良さそうには思えな
い。
﹁それが僕へのお願い?﹂
ランタンが手を伸ばすと、少女は慌てて塞ぐようにして耳を隠し
た。
﹁ランタンがさわりたかったらいつでもさわってね、っていうだけ
よ。せっかくのお願いはもっと考えるの﹂
﹁ああそう、ほどほどのを頼むよ﹂
﹁うん﹂
兎女とベリレの言い争いが見世物となって人を呼び、けれどジャ
ックたちも他の探索者も事の成り行きを尋ねようとはしなかった。
探索者の人間関係はなかなか難しいもので、不躾にあっさりと深い
ところに踏み込んできたかと思うと、何でもないような所で配慮を
見せることもあった。
おそらくそこにある面倒くささを感じ取ったのだろう。ジャック
たちはランタンに声を掛けはしないが、三人で酒を飲みながら推測
を立てていた。混ぜて欲しいな、とランタンは思うが、視線を床に
落とすだけで口には出さない。
ベリレの影は大きく広がっている。その影が布に墨を落としたよ
うにじわりと広がった。
﹁喧嘩するほど仲が良いのはよく判りましたので、︱︱﹂
ベリレの巨躯、その背後に人が居る。ベリレが縦にも横にも大き
いものだから、人一人がすっぽりと覆い隠されていた。それはベリ
レと同じタイミングで入ってきて、言い争いが始まってしまったも
のだから出てくるタイミングを逸してしまった。
ベリレの背から姿を現そうかどうかと、前後に揺れる人影が何と
も哀愁を誘った。ランタンはいい加減に言い争いを聞くのも飽きて
きたところだし、リリオンの情操教育にも悪いので口を挟む。
﹁︱︱言葉遊びはそれぐらいにしてくれません?﹂
周囲は無責任に状況を煽って、ベリレは今にも背の長尺棍に手を
1173
伸ばさんばかりになっている。どの口がそんなことを言うのかとい
う視線も無視してランタンは冷淡な声で諫めた。
言い争う二人が、言い返したくとも言い返せずに喉を詰まらせる。
ひと
そして影から一人の女が。
ああまさにこの女が、と思う。
﹁私の仲間が失礼をした。ベリレもリリララも下がっていろ﹂
美しい女だった。
ベリレの影にあっては稀薄だった存在感が、今では目が奪われる
ほどにはっきりと感じられた。それはまるで影に咲くかのように。
黒曜石を思わせる艶やかな黒い肌。虹彩の緑は宝石のように鮮や
かである。凜とした声。頷くような小さな謝罪に、女の髪が柔らか
そうに揺れる。枯れていっそうに色を濃くした薔薇色の髪。
﹁リリララ、ありがとう。ご苦労だった。彼の言うとおり、頼みは
わり
自分の口で言うべきなのだろう﹂
﹁でもこいつ性格悪いすよ﹂
﹁⋮⋮少し黙っていろ﹂
﹁あいさ﹂
伏せられた睫毛。髪と同じ色だが、虹彩の緑と相まって赤が鮮や
かだ。
女が一歩前に出た。背筋がすっと伸びていて、顔が小さい。実際
よりも身長を高く見せるすらりとした体型は、けれどリリオンで見
慣れているランタンには多少の面白くなさを感じさせるだけだった。
身長は百七十後半ぐらいだろうか。
﹁私はレティシア・オリーリー・ネイリング。きみが探索者ランタ
ンで間違いはないだろうか?﹂
椅子に座ったままのランタンへと視線を合わせるために、レティ
シアは幼子に視線を合わせるように腰を屈めた。
﹁どうして僕がランタンだと?﹂
ふ、と笑ったと息が触れた。蜜柑の匂い。
﹁一目見ればわかるさ﹂
1174
﹁なぜ?﹂
レティシアは白い歯を零す。
﹁人伝に聞いた特徴と合致している。さらさらの黒髪。焦茶の瞳。
黒の外套と鎧を纏わぬ石色の戦闘服。丸頭の戦鎚。それに聞いたと
おりに良い匂いがするし︱︱﹂
レティシアは更に顔を寄せて、すん、と鼻を鳴らした。そして視
・ ・ ・ ・ ・ ・
線をランタンの背後へ。少女がランタンの外套を握る。
﹁その傍に、もっと大きな少女を共にしている﹂
レティシアははっきりと美しい顔を、悪戯っぽく笑わせた。
崩した表情であってもそれは、お嬢様と呼ばれるにふさわしい気
品のある笑みであった。ランタンは女の言葉を肯定するように頷い
た。我ながらなかなか馬鹿なことを言ったものだ、と喉奥で苦笑を
鳴らす。
﹁どなたから聞いたのかは判りませんけど、僕で間違いないようで
すね。それで僕に何かご用ですか?﹂
とは言っても予想は付く。
レティシアは一度真っ直ぐに屹立し、改めてランタンに視線を落
とす。いやそれはただ目を伏せただけなのかもしれない。
そして。
﹁お嬢!﹂
﹁レティシア様、おやめください⋮⋮!﹂
止める二人を意にも介さず、レティシアは膝を折った。視線は平
行よりも更に下へ。
床は食べかすや飲み零しで衛生的ではなかったが、レティシアは
さいう
片膝を突いてランタンの足元へと身を落とした。
腰に巻いた赤布は細雨の如く銀糸金糸が縫い込まれた見事な逸品
であったが、レティシアはそれが汚れるのにも頓着しない。
それは血溜まりか、あるいは大輪の薔薇が咲くかのように。
美しい顔がゆっくりと持ち上げられた。
女はその中心でランタンを見つめる。
1175
エメラルド
見上げる翠玉の瞳は、もしかしたら縋り付くようなと周囲は表現
するかもしれない。だがその瞳に真正面から見つめられたランタン
は、そのような惰弱な意思を微かにも感じなかった。
上位者が下位の者へと命令するような確信か。いや、これは断固
たる意思であるのか。
物理的な圧力を錯覚させる強い視線に、ランタンは瞳を絡め取ら
れて逸らすことができなかった。
緑瞳に己が映り、ランタンは映った己と視線が合って、あれ、と
思う。
不意に感じた既視感は、しかしそれを思い出す暇もない。レティ
シアは胸に手を当てて、唇を開く。
口腔は赤く、歯は白く、声は強い。
﹁︱︱私に、力を貸してくれないか。ランタン、リリオン﹂
頼む、と言った声には痛みがあったのかもしれない。
レティシア・オリーリー・ネイリングは貴族である。
ランタンはその事を知らなかったが、本能的にそうであることを
悟っていた。腐れ貴族しか目にする機会の無かったランタンであっ
たし、レティシアからはそういった者たちの持つ臭うような傲慢さ
を感じなかったが、それでもやはり貴族だと思った。
レティシアが発するのは斯くあるべしと言うような気高さであっ
た。
﹁あのネイリングが﹂
周囲からのそのような驚愕がランタンの鼓膜を揺らす。
探索者ギルドと貴族があまり仲が宜しくないこともあって、探索
者と貴族には接点がそれほどない。一部の高位探索者などは騎士団
に勧誘されることもあったし、迷宮探索に限ったことではなく多大
なる功績を残せば貴族位を賜るようなこともあったが、普通の探索
1176
者にとっては無関係な人々である。稀に喧嘩を売ったり売られたり
して、揉め事を起こすぐらいで。
そのように身分の違う立場であったが、ネイリング家に限って言
えば多くの探索者がその名前を知っていた。
ネイリング家はその起源に探索者を持つ貴族である。
そして彼らは幾つも代を変えた現在でさえ迷宮探索を行う生粋の
探索者であり続けた。ネイリング家の所有する騎士団は、その最小
単位を平均的な探索班の五人一組として行動し、実地鍛錬として迷
宮に降りることも多い。
ネイリング家は貴族らしからぬ実力主義であり、血統に関係なく
多くの探索者を取り立てていることで有名であった。騎士団には多
くの探索者上がりが所属している。
ネイリング家は異端の貴族であったが、それでいて王都の守護を
任ぜられる大貴族であり、過去幾人もの大将軍を輩出し、王家への
忠心を認められて王家直系の姫君を娶ったこともあった。
貴族位を金で買うことはできても、連綿と繋がる歴史はそうはい
かない。積み重なった歴史に血が澱むこともあったが、レティシア
に流れる血は何も知らぬランタンにでさえ気品を感じさせた、
そしてそれを跪かせたランタンは何とも居心地が悪い。
宝石を踏み付けにするような背徳感を快楽とするような嗜好をラ
ンタンは有してはいなかった。ランタンは慌てて椅子を蹴って立ち
上がり、レティシアに手を差し出した。
﹁立って、︱︱こちらに座ってください﹂
レティシアは差し出した手を握った。掌はすべやかで、少し汗が
滲み、少し冷たい。立ち上がらせるとき、体重は殆ど感じなかった。
礼を言ってレティシアは手を離し、汚れた膝を払うこともなく、ラ
ンタンの引き寄せた椅子に腰掛ける。
それを見届けて、ランタンは尻餅をつくようにして椅子に座った。
レティシアの背後にベリレとリリララが素早く控えて、隙のない
視線をランタンとリリオンにも向けた。その視線に怯えてリリオン
1177
が背中に隠れるような、あるいは二人と同じように背後に控えて牽
制するかのような、複雑な視線を飛ばした。
レティシアが背後を振り返って、やめろ、と低い声で言う。
﹁度重なる失礼申し訳ない﹂
﹁いいえ、ずいぶんと愛されているのですね﹂
﹁ふ︱︱ふふ、きみもな﹂
ランタンは肩を竦めて、ちらりと背後を振り返るとリリオンに向
かって微笑んだ。それを受けてリリオンは怯えを消して瞳から複雑
さがなくなった。むふん、と荒い鼻息がランタンの首筋を擽り、視
線はいよいよ鋭いばかりである。
ベリレは撫で肩を怒らせるように腕を組み、リリララは足を肩幅
をはみ出すほどに広げて腰に手を当てた。
お互い様だな、とランタンは少女を諫めることもなく視線をレテ
ィシアに戻した。
﹁さて、ええっと。力を貸してくれ、と言われましても、はいどう
ぞ、と頷くことはできません﹂
レティシアの視線は相も変わらず強烈な力を有しており、気を抜
けば頷きかねない圧力は放っていた。それは命令することになれて
いる貴族特有の傲慢さから来る力と言うよりは、貴族らしからぬ必
死さのためであるように思える。
背後の二人は当然その必死さの理由を知っているのだろう、首を
縦に振らないランタンへ注がれる二人の視線がきつくなる。
﹁僕らに何をさせたいんですか?﹂
﹁︱︱共に、迷宮を探索してもらいたい﹂
でしょうね、とランタンは言葉をすんでの所で飲み込んだ。
探索者への頼みなどはたかが知れている。
共に探索をする。攻略して欲しい迷宮がある。ある魔物の素材が
欲しい。ある魔物を討伐して欲しい。よくある依頼はそんなところ
で、探索者の素行の悪さと武力に目を付けて、ある人物を脅して欲
しい、殺して欲しいというような碌でもないものが、それらに続く
1178
かもしかしたら上回る。
﹁なぜ?﹂
ランタンの質問には答えない。
レティシアは一瞬だけランタンから視線を外し、事の成り行きを
見守る野次馬たちを見回した。そこにある苦々しさにランタンは気
が付いて、思わず溜め息を吐いた。
どこの馬の骨とも知らない探索者を頼るほどなのだから、レティ
シアは余程に切羽詰まっているのだろう。それを口に出せないのは、
彼女自身かあるいはその家の面子に関わる問題なのだろう。探索者
であり、貴族でもある。守るべき誇りの重さは、単純に二倍どころ
ではないはずだ。
﹁僕がそういったお誘いを全てお断りしているのを知っていますか
?﹂
﹁⋮⋮話は聞いている﹂
﹁僕を頷かせる理由をお持ちですか?﹂
その必死な気持ちだけで充分だ、とは言えはしない。
例えば危険に晒されるのがランタンだけであるのならば、ランタ
ンはもしかしたら頷いていたかもしれない。けれど今は、自分の命
にだけ責任がある単独探索者ではない。ランタンの頷き一つで、場
合によってはリリオンも一緒に地獄の底へ真っ逆さまに落っこちる
可能性があった。
レティシアが、なぜ、に答えられない以上、ランタンは安易に首
を縦に振ることはできない。
ランタンの目にはレティシアも、そして後ろに控える二人も相当
な手練れであるように思える。それらがランタンを頼るのならば、
攻略対象の迷宮は確実に高難易度であり、もしそうでなかったら余
程に厄介な状況であるのだろうと予想された。
﹁攻略対象は竜系迷宮だ﹂
竜系迷宮は滅多に現れない迷宮である。そしてその総てはもれな
く高難易度であり、最低位の丙種探索者のみの探索班では問答無用
1179
に門前払い、甲乙種混合探索班でも一定以上の実績がなければ要相
談、甲種のみであっても場合によっては攻略許可が下りないことも
あるという。
そもそもとして、竜系迷宮の殆どは探索者ギルドから高位探索班
へと攻略依頼として斡旋されて、予約受付に現れることすら極稀で
あった。
故に竜系迷宮に憧れる探索者は多いが、ランタンを頷かせるには
至らない。
﹁竜系、⋮⋮例えばそこに行くとして、探索班は僕ら含めた五人と
運び屋さんですか?﹂
﹁いや、もう一人、帯同してくださる﹂
くださる、とランタンはその言い回しに違和感を覚えた。まさか、
まさか、と見守っていた野次馬たちが騒ぎ出したので、その違和感
は更に強まる。ベリレが、まだ何も言っていないのに顎を持ち上げ
て誇らしげなのが鬱陶しい。
嫌がらせに会話を打ち切ってやろうかとランタンは思う。けれど、
そんな時はいつだって少女の無垢さが会話が澱むのを許さなかった。
﹁もう一人って、だれですか?﹂
﹁エドガー・アクトゥス・バックホルツ﹂
名前を言われてもね、とランタンが振り返ると、リリオンが目を
まん丸にしていた。
リリオンばかりではない。ジャックたちも、野次馬の探索者たち
も、あるいは店主さえもが目も口も丸くして、言葉を失うほどに驚
いていた。ぐでんぐでんに泥酔していた者ですら、その瞳の中に酔
いはない。
﹁来ているのか、あの竜殺しがっ⋮⋮!?﹂
そう叫んだのは誰であったか。爆発するように広がりかけたざわ
めきが、レティシアが唇を割ると一気に静まる。それは情報収集を
する探索者の表情だ。
﹁ああ、来ている。竜系迷宮を攻略するために、この街に﹂
1180
﹁どこに!﹂
﹁今は探索者ギルドに、所用があると言っていたから︱︱﹂
そう言った瞬間に、一瞬の沈黙がただの溜めであったことをラン
タンは知る。
腕相撲でリリオンが勝った時よりも更にうるさい。思わず耳を塞
いで、それを抜けるほどの大音量。
英雄が。あの大探索者が。あの黒竜殺しのエドガー・アクトゥス・
バックホルツが来ているなんて、と亜人族たちが怒号のような吠え
声を上げながら扉に殺到した。
それはまさしく獣の如き身のこなしで、犬人族が持ち前の俊敏さ
で、猫人族が持ち前のしなやかさで、兎人族が持ち前の跳躍力で、
有蹄種族の牛、猪、羊その他諸々の彼らは持ち前の突進力で、店の
扉が一瞬で吹っ飛んで爆散し、彼らは暴徒のように走り去っていっ
た。
ランタンは驚きのあまり声も出ない。もしかしたらエドガー・ア
まじな
クトゥス・バックホルツとは探索者の名前ではなく、人払いの何か
特殊な呪いなのかもしれないと思わず考え込んでしまった。
店内に残されたのはレティシアたちと、ランタンとリリオン。そ
してジャックたちだけであった。
﹁あんたらは行かなくていいのか? 英雄を目にする機会なんて滅
多にねえぜ﹂
リリララがジャックに向かって言い放ち、テーブルに残された誰
かの飲みかけの酒に手を付けた。
﹁店主も行ってしまったからな。店を空にするわけにはいかんだろ
う﹂
リリオンは亜人族の雪崩れに怯えてランタンにしがみつき、ラン
タンが二人の会話に店内を見渡すと、確かに店主どころか給仕もい
なかった。一気に閑散とした店内に、けれど人が居なくなった状況
に驚くのはランタンばかりである。
リリオンの怯えは亜人族の振る舞いによるもので、しかし少女は
1181
その振る舞いを理解できているようであった。
竜殺し、とはそれほどの名前であるのか。
﹁はあ、ふう﹂
一人状況の飲み込めないランタンは深呼吸をし、驚きを引っ込め
て素知らぬ顔を作った。けれどそれはあまりにもな澄まし顔である、
いかにも隠し事をしている顔つきはむしろ怪しさに満ちていた。
リリララが眉根を寄せ、レティシアが訝しげに、ウェンダが無言
で頬を引きつらせ、リリオンさえもランタンを呼ぶ声が遠慮がちだ
った。女たちは勘が良いようであり、その雰囲気にはっとしてジャ
ックがランタンを見つめる。
ランタンは逃げるようにして目を逸らした。
お前まさか、とジャックは今度こそはっきりと顔を歪める。
﹁知らないのか。竜殺しのエドガーを﹂
ベリレがそんな質問をするジャックを小馬鹿にするような目を向
ける。まさかそんなわけはないだろう、とそんなわけであったラン
タンの澄まし顔に騙されている。
﹁そういうジャックさんは知っているんですか?﹂
苦し紛れの問いかけは呆然とするような驚きを皆々にもたらした。
リリオンが、本当に知らないの、と聞いてはいけないことを聞くよ
うにして尋ねてくるものだから、ランタンはひっそりと傷心する。
唇を尖らせて取り敢えず拗ねることにして、リリオンの質問にはふ
て腐れて答えない。
﹁お前、なんで探索者やってるんだよ﹂
﹁⋮⋮哲学的な話ですか?﹂
﹁ああ、そうだよ﹂
ジャックは呆れて言葉も出ない。レティシアとリリララは困った
ように無言で、ベリレは怒りに言葉を失っていた。フリオとウェン
ダは何事かを囁きあっている。ランタンはリリオンに向き直った。
﹁そのエドガーさんって﹂
﹁エドガー様、⋮⋮ いやバックホルツ様と呼べ!﹂
1182
怒鳴るベリレは無視して、ランタンはレティシアにベリレをどう
にかするようにと視線を寄越し、リリオンに続けた。
﹁その竜殺しさんってどんな人?﹂
﹁おとぎ話の中の人よ。むかーしむかしに、悪いドラゴンがいたの。
大きくて、真っ黒で、ものすごく強くて、どうしようもないやつが﹂
﹁どんな風にどうしようもないの?﹂
﹁カミナリ雲といっしょに現れて、火を吹いて街を燃やして、人を
病気にして、見ただけで死んじゃうの﹂
﹁⋮⋮それはまあどうしようもないな﹂
﹁でしょ? それをやっつけたのがエドガーよ。探索者で、剣の達
人なの。すごく強いのよ。ママがむかし教えてくれたの﹂
﹁へえ、そうなんだ。すごいお話だね﹂
﹁うん! わたし他にもいっぱい覚えてるのよ﹂
﹁じゃあまた今度、色んなお話を聞かせてね﹂
﹁まかせて!﹂
薄い胸を叩いたリリオンの頭を撫でてやって、ランタンは得意満
面に振り返った。
﹁よく判りました。すごいお人なのですね﹂
﹁⋮⋮あの話でか﹂
﹁幼い日に寝物語で聞かされるような英雄。男の子はそれに憧れて
探索者を目指すのでしょう?﹂
まさしくその通りであった。多くの男は英雄譚を子守歌として幼
少期を過ごすのである。多くの女は英雄を取り巻く悲喜こもごもの
恋物語を子守歌として幼少期を過ごすのである。
そしてリリオンはそれをおとぎ話と言ったが、その男は実在する
人物であった。おとぎ話の英雄に、あるいは王子様に、実際に会え
るのならばあの騒ぎも頷ける。
﹁ああ、その通りだ。エドガー様は全探索者の憧れ。それを貴様は
なぜ知らないんだ!﹂
﹁と言われましてもね。探索に忙しくて、よそ事に目を向ける暇が
1183
なかったもので﹂
それは言い訳でもあるが、事実でもあった。
ランタンの気負わぬその言葉に不意を突かれたベリレが、そして
レティシアたちも、ジャックたちもが表情を強張らせた。
﹁見事﹂
割って入ったのは老いた声。寒気。
﹁ラ︱︱﹂
どのようにして跳躍したのか。
ランタンは座った状態からリリオンの手を掴むと、一瞬にしてカ
ウンターの奥へと身を潜めた。同時に打剣を投げ打ち、ランタンは
そんな己に気が付いていない。カウンターから半分覗かせた瞳には
最大限の警戒を色として浮かびあがらせていた。
声の主、白髪の老人はランタンを孫を見るような穏やかな目付き
で見つめた。
﹁それこそまさしく探索者のあるべき姿﹂
伝説がそこにいた。
それはこの上なくおっかない。
1184
079
079
老人は今から五十年以上も昔に初めて迷宮に降りた。
十六歳の老人は老人ではなく少年で、熱意はあったが戦闘技術も
へったくれもなかったので、取り敢えずは厚みと重みのある頑丈な
短刀一つを帯びるだけで運び屋となった。運び屋の刃は自刃用のも
のであったが、その短刀は技術はなくとも厚みと重みで魔物に一矢
報いるだけの力を秘めていた。
隠すようにして持ち込んだその短刀が、その実、多くの運び屋が
同じような短刀を選ぶことを知ったのはそれから数ヶ月も後のこと
だ。誰だって死にたくはないし、追い詰められる前から諦めるよう
なことはしない。その抵抗が、壮絶なる死に様を引き寄せることも
多いようであったが。
運び屋として荷牽き奴隷のように雇い主である探索班の後ろを歩
く。優しかった探索者もいたし、そうでない探索者もいた。
ただ優しくとも優しくなくとも荷車は死ぬほど重たいことには変
わりはなかった。
四点方式に結びつけられたロープは迷宮口直下に己を引き止めよ
うとする亡者の手のようである。行ったら死ぬぞ、進んだら帰れな
いぞ、と爪を立てて身体を後ろに引っ張られた。だが老人はそれを
無視して進んだ。
一歩進むごとに骨が軋み、少なくとも予算の大半をつぎ込んだ上
等な靴の中で足裏の皮膚はあっという間に肉刺を作りそして潰れた。
一度目の休憩が訪れる前に体内の水分が全て汗になって流れ出たか
と思うほどに汗を拭き、痛みに呻き声を上げると容赦なく怒鳴られ
た。
1185
その呻き声が魔物を呼ぶとも限らない。
疲労が重なるほどに呻き声を上げる余裕もなくなったが、やはり
怒鳴られる。先へ進むほどに荷車は重たくなって探索班の歩調につ
いて行かれなくなった。
疲れたから重たく感じるのではなく、実際にそれは重量を増した。
殺した魔物から得た魔精結晶はそれほどの重量ではないが、毛や鱗
ごと剥いだ皮は見た目以上の重量で、もっと幼い日に遠目に見た貴
族が首に巻いていた毛皮の襟巻きはもしかしたらお洒落ではなく鍛
錬のためのものなのではないかと、その重みに現実逃避したことも
覚えている。
怒鳴られ殴られ慰められて、その探索班に一人欠員が出たのは半
年後。
その時の補充は他の探索班からの引き抜きで、失ったのが頑強な
前衛剣士だったのが災いした。老人は荷牽きによって鍛えられたが
まだ体付きは細く、熱意と真面目さを持っていても人員補充の決定
権を持つ指揮者の眼鏡には適わなかった。
結局老人が探索者になったのはそれからさらに一年後のことであ
った。その時は最終目標戦で二人死んで、二人の首を地上まで運ん
だのが老人だった。教会に祈りを捧げてもらい埋葬し、酒を飲んで、
厄落としとばかりに娼館へと連れて行かれたその帰りに死んだ探索
者の剣を渡された。
刃渡りは一メートルと二十センチ。片刃で、身幅は細く、鍔はな
い。柄は握り一つ分の鮫革巻。柄頭に魔物の血で染めた青黒い飾り
紐が揺れていた。それは魔物の敵意を引くための、前衛職御用達の
呪いのお守りである。
振ってみろ、と言われたので剣を振った。
べろべろに酔っ払った指先は冷たく、娼婦の手管に幾度も果てた
身体は重たかった。
だが剣は空を斬った。音も無く。
上段から左に切り落とし、角度を変えて右に切り上げる。右から
1186
左に真横に切って、左から右下に。そして右下から左に切り上げて
止まったその鋒は、最初に構えた上段に収まっている。
描いたのは五芒星で、それは意識してのことではなかった。
剣に、あるいは死んだ探索者に振らされたと思った。
一つ足らんがまあいいか、と言ったのは誰か。指揮者以外はその
場にいないのに、記憶は曖昧である。
次の探索から前衛を任された。欠員補充は二人で、一人は己、も
う一人は己の代わりの運び屋だった。
つまりは二人分の働きを要求されて、それをこなした。形見と呼
ぶべきその剣を失ったのはいつのことだったか。忙殺と呼ぶにふさ
わしい迷宮攻略の記憶はあれど、その仔細を思い出すことは難しい。
覚えているのは二十の時に自らの探索班を興したということと、
その時には既に剣を失っていたという事実である。
十八からの二年間、老人は少しだけ有名になった。二人分働けと
言外に命令した指揮者を忙しすぎてぶっ殺してやろうと思ったこと
は何度もあり、その度に忙しすぎて思うだけで未遂に終わった。け
れどどれだけ忙しくても売られた喧嘩は全て買ったし、迷宮に降り
て最終目標に止めを刺すのは己の役割で、歓楽街では羽目を外して
出入り禁止になった娼館が幾つもあった。
老人は新鋭の探索者としてそれなりに有名になり、だから所属し
ていた探索班を抜けた。探索班への勧誘も断って自らの探索班を作
った。
老人は指揮者を最後までぶっ殺さなかったし、指揮者は一緒に酒
を飲みに行けば奢ってくれたし、娼館の代金だって気が付けば支払
いが済んでいたし、老人を引き止めなかったどころか餞別をくれた。
指揮者は老人が探索班を抜けて三年と立たずに未帰還となったが、
老人は結局その指揮者を超えることはできなかったのではないかと
未だに考えることがある。
十八才で探索者となった。そして五十と一年の年月が過ぎ去った。
老人は今、英雄と呼ばれることもあったがそれでもあの指揮者の
1187
背中を追っているような気がする。
二十七才の探索者は名をエドガー・バックホルツといった。
竜を殺したことにより王陛下から貴族位と名を賜り、今はエドガ
ー・アクトゥス・バックホルツという。
探索者ギルド総長とは旧知の仲で、よろしく頼む、と言われた。
エドガーはよろしく頼むと言われてもなあと思ったのだが、この
総長は一介の探索者であった頃から何かにつけて鬱陶しい男であり、
思ったことを口に出せばなぜそう思ったのか自分が納得するまで相
手に語らせるようなところがあるので適当に頷いておいた。
老人同士の会話などは何も面白くはない。やれ身体が痛いだの、
どこそこが悪いなど、あいつが死んだだのという会話になる。全く
以て建設的ではない。それに比べて若者の会話はどうだ。下らぬ事
を大事のように語り、関心事は自己のことで、百の言葉を交えてそ
れに意味を持たないことすらある。己にもそんな時期があったのだ
ろうが、若者の会話を見聞きするのをエドガーは年老いて好むよう
になった。
引き止めようする総長との会話を切り上げて念を押された、よろ
しく頼む、に無責任に頷く。
探索者ギルドの裏口から出されて、用意された馬車を断った。ど
の都市でも探索者はやはり荒れているものだなと通り過ぎざる後輩
たちを観察し、その途中で狂乱して駆け抜ける亜人族の群れを見て
眉を顰めた。この都市は特に酷いのかもしれない。
そして彼らがやって来た方から仲間の気配を感じて苦笑を漏らす。
狂乱の道標を辿って、蹴破られて打ち捨てられた扉が一つ。
開放された入り口からは子猫の髭が覗いていた。
それはまさしく子猫のような警戒心だ。風音一つに反応して身を
翻す臆病さが店の外まで髭を伸ばして周囲を探っている。安易に近
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付けば驚かしてしまうかもしれない、と思うと、こっそり近付いて
脅かしてやろうという稚気がむくむくと湧いてきた。
取り敢えず気配を消して、微かに残る狂乱の残滓に身を溶かす。
影と日向の間を進み、ぴくぴく動く髭の隙間をすり抜ける。
失われた扉の向こう側から怒鳴り声が聞こえてきて、それはエド
ガーの従騎士であるベリレの声である。貴族位を所持しているもの
の領地を持たぬエドガーはネイリグ家の食客であり、そんな己を尋
ねてベリレがやって来たのはまだ彼が小さく子熊であった頃だ。
ちょうど良い。大熊もかくやという彼の体躯はエドガーを三人隠
せるほどであり、声に乗って放射される怒気は隠れ蓑にするには充
分な迫力を伴っている。それにしても誰にも気が付かれていないと
ころを見ると己の隠行もなかなか捨てたものではないと、エドガー
は笑う。
﹁見事﹂
店内に踏み込み、声を発すると同時に子猫の髭をぴんと弾いた。
その瞬間、子猫の髭だと思っていたものが、虎の尾だと思わされ
た。
レティシア、ベリレ、リリララがエドガーを振り返る。犬人族の
探索者三名が大きく目を見開いた。
探索者ランタンはその瞬間、探索者リリオンを抱き寄せるとカウ
ンターの奥へと身を翻らせた。エドガーへ打剣を投げつけながら。
己に向かって来る高速の飛翔体をエドガーは一纏めに掴み取り、
その威力に感心をした。
細く軽い打剣に充分な重さが乗っている。虎は小さかったが牙は
鋭い。放たれた打剣は牽制ではない。魔物相手では小型のものしか
相手にできないような打剣であったが、人相手には殺傷するに充分
だ。
多少狙いは荒かったが、常人相手ならばどこに当たっても致命傷
だろう。結構短気だな、とエドガーは己の仕打ちを棚に上げて思う。
投擲を目撃した者はいない。全ての視線がエドガーに引き寄せら
1189
れているためにランタンの手からそれが放たれた瞬間は誰にも見つ
からなかったし、打剣を掴んだエドガーの手際は神速と言って差し
支えなかった。とは言え手中の打剣を消失させることは流石にでき
ない。
これを見たらばベリレがまた鬱陶しいでの、エドガーは打剣をそ
っと袖の内に隠した。
表情はあくまでも穏やかで、ランタン以外はランタンの跳躍に驚
いているばかりであった。
﹁それこそまさしく探索者のあるべき姿﹂
カウンターの奥に隠れるランタンに向ける言葉としては、それは
この上ない皮肉のようであったが、その言葉は偽らざる本音であっ
た。迷宮に潜り、魔物を打倒してこそ探索者である。
若い内は様々なものに目を向けろと言われることもあるが、現在
の高位探索者、その中の更に上位層は脇目も振らずに探索に明け暮
れた果てにのみ辿り着ける高みであった。
ランタンはカウンターから顔を半分出して、こちらを覗いている。
近くで見ると本当に子供であると思う。肌の質感は幼い張りを持っ
ていて柔らかそうで、エドガーは思わず瞬きを零した。
虎であると思ったのだが、やはり子猫なのかもしれない。
ランタン当人の慌ただしい心情は目に透けていたが、子猫が一丁
前に大猫を守っているのが微笑ましくエドガーは頬を緩める。ラン
タンはリリオンをカウンターの下に抱き隠していて、差し違えんば
かりの心構えであった。甘い顔立ちとは裏腹に、男であることに相
異ない。
ならこれでは、とランタンに圧を掛けてみたが少年は逃げ出さな
かったし、向かってもこない。力でもって戦闘を進めるタイプかと
思っていたが、なかなかどうして冷静であった。怯えて足が動かな
いわけではないのだろう。
ランタンは手首から先を動かして、肉の動きも最小限に戦鎚に指
を掛けている。睨む顔つきの奥に、きっちりと怯えを隠していた。
1190
集中した顔つきが仮面のように張り付いていた。
しかし赤く色を変えた虹彩はランタンの制御の埒外であるようだ。
虹彩の色が変わる。焦げ茶色の落ち着いた色から、燃えるような
真紅。聞いた話では橙色だと聞いたが、ただそれは緩やかに変遷す
る色の移り変わりの一つなのだろう。
虹彩色の変化は、通常の人族には見られない特性である。
極一部の亜人族と極々一部の魔道使いは感情や魔精が昂ぶった時
に虹彩色を変化させるが、ランタンはその一部には当てはまらない。
あとは魔物ぐらいのものだが、このランタンという少年は探索者
ギルド医務局の常連であり、治療のついでに頭の先から爪先までの
全ての情報を秘密裏に調べられている。魔精の親和性はすこぶる高
いようだが人であると判断されている。流石に医務局の目は誤魔化
すことは出来ないだろう。出生がギルドの情報網を持ってしても不
明なので、もしかしたら我々の知らぬ未開の地から来たのかもしれ
ない。
﹁エドガー様、御用事は﹂
﹁つまらんから切り上げてきた。︱︱さて、ランタンだったか。驚
かして悪かったな﹂
瞳の色が薄れていく。赤。橙。赤茶。そして焦げ茶色へと、色を
薄めた。それは炎の温度がゆっくりと下がり、消えていくのに似て
いる。それに合わせて警戒心が薄れていくのが判った。けれどラン
タンは目蓋を大きく持ち上げたまま、じっとエドガーを見つめ、そ
の視線が足元へと。
ランタンの足元、カウンターの影からひょっこりと顔を出したの
は少女である。銀糸の髪に白い肌。形の良い目が大きくて、そこに
はいっぱいの好奇心が詰め込まれていた。視線が合うと、唇を開く。
﹁竜殺しの英雄さま?﹂
﹁そう呼ばれることも、まあ、あるな﹂
濃く長い睫毛に縁取られた淡褐色の瞳がぱっと輝いて、容姿だけ
で言えば少女はランタンよりもずっと大人びて見えたが、その瞳に
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宿る無垢さは幼生特有のものであった。カウンターに手を突いてば
っと立ち上がると、よく隠れていたなと思わせるほどのすらりとし
た長身が露わになった。
なるほどこれは、と思う。たまたま身体的な成長が早熟だった人
族ではない。半分か、四分の一、あるいはもっと薄くか。だが確か
に血が混じっている。身に纏う幼さは長命種ゆえの精神的な成長の
緩やかさが関わっているのかもしれない。
﹁︱︱わ、おじいちゃんだわ﹂
少女の唇から、ぽろりと溢れた言葉にエドガーは久しぶりに虚を
突かれた。こんな風に純粋な驚きに支配されたことは少し思い出せ
ない。それはランタンがその気になったのなら、命を取られていた
かもしれないほどの隙であるが、ランタンも驚愕の目付きで少女を
見つめていた。
﹁なっ、お前! 無礼な!﹂
反射的に激発するベリレを軽く小突いて制し、エドガーは声に出
して笑った。ベリレはこめかみを押さえながらぎょっとしてエドガ
ーを見つめる。ベリレばかりではない。レティシアもリリララも、
呵々と笑ったエドガーを驚きを持って見つめている。
英雄、大探索者、竜殺し、などとエドガーへの呼称は数あれど、
おじいちゃん、という甘い響きは初めてであった。若い日の行いを
顧みれば落胤の一人や二人はいるかもしれないが、正式には妻子を
持たぬエドガーにとっておじいちゃんという響きはこの上なく新鮮
であった。
どこに感動があるかはわからないものだ。
﹁だってお話の中の英雄さまは︱︱﹂
﹁おじいちゃんでかまわんよ﹂
竜殺しの御伽噺、そこで活躍する英雄さまは二十七才で、今から
は四十二年も昔の話である。当時は赤金だった髪色も今では色が抜
けて氷を削ったような白であるし、全身に漲っていた生気が抜ける
に任せて身体は萎んだ。魔精による保若も永遠の若さを保つことは
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出来ず、老いは身体を蝕む病魔の如く皮膚に皺を刻む。
目を細めると眦の皮膚が重なるのが知覚できる。
あやか
ランタンがようやくカウンターの奥から姿を現した。リリオンの
身体を一撫でして、まるでその物怖じのしなさに肖るように、そし
てこつこつと靴音を鳴らして歩いてきた。その後ろをリリオンがち
ょこちょこと付いてくる。少年に歩幅を合わせていて、少しばかり
窮屈そうだ。
ランタンはエドガーに近づくと顔を持ち上げた。彫りの浅い顔立
ち。男臭さは全くないが、さりとて女のようでもない。ただ幼い、
童顔である。だがその目だけがはっきりとした知性を感じさせて、
そこだけが大人びている。
声の固さは、それがつまりリリオンとの年齢差である。
とは言えエドガーからしてみればそんなものは誤差でしかない。
ランタンもリリオンも子供で、ただ純粋な無垢さも可愛らしいが、
身の丈に合わぬ背伸びも同様に愛でるべきものだった。
﹁初めまして、エドガーさま﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁おじいさま﹂
﹁くくく、ああ、初めましてランタン﹂
返事を返さなかったのはそう呼ばれたかったわけではなかったが、
やはり子供は面白い。考え無しの行動も、色々と考えすぎての行動
も、それは何とも突拍子がなくて実に良い。
﹁おじいさまは、ご高名な方なのですね﹂
﹁気が付けばそうだな﹂
ランタン小さく頷いた。そしてレティシアに面を向ける。横顔。
髪から覗く耳が青白い。
﹁ネイリングさま。貴女はおじいさまのお名前によって、僕が首を
縦に振るだろうと思われた。間違いはありませんか?﹂
﹁ああ﹂
﹁︱︱申し訳ありませんが、僕はおじいさまのことを存じ上げませ
1193
ん﹂
ランタンがベリレを振り返る。知らぬ事を侮辱と捉えたベリレが
口を開き掛けたが、見つめられて反射的に言葉を飲み込む。その顔
にランタンは眼差しを伏せた。
﹁無知でごめんなさい。でも侮辱をしているわけではなく。知る機
会が本当になかったんです﹂
知らぬ事を恥じているのが、見ていて理解できた。そしてそれを
口に出すことに恐れを抱いていることも。末端の青白さはそのせい
で、この少年にとって物を知らぬと言うことは悪であるらしい。
﹁ですがおじいさまの武勇の一端を身を以て実感させて頂きました﹂
そう言ってランタンはエドガーにぐいっと手を差し出した。手は
小さいが、指がすっと長いのでそう感じさせない。爪が丸く整えら
れていて、掌を上に向けるとそれを見ることは出来ない。掌は白く、
肉刺がない。皮膚も厚くなっていない。およそ探索者の手ではない。
その仕草はまるで小遣いをせびる子供のようで、エドガーは苦笑
マール
を零しながらその掌に打剣を返してやった。
いつの間に、と呟いたのは大理石模様の犬頭で、それ以外の者た
ちには全く以て意味不明のやり取りだった。ランタンはそんな視線
も何処吹く風で、ご無礼を働きました、と打剣を外套の内側にしま
った。
眉がハの字になっている。言いたくない言葉があり、けれどそれ
を言わなければならないというような。少年にはそれを言う権利が
あり、それに申し訳の無さを覚える必要はない。
臆病さ。思慮深さ。優しさ。そして同時に容赦なく打剣を投げ打
つ苛烈さや、無鉄砲さを併せ持っている。
レティシアが苦しそうに息を飲んで、ランタンへと手を伸ばした。
﹁一緒に来ては、くれないか?﹂
ランタンは困ったように口を結んで、表情を俯かせた。
1194
英雄、エドガーなんとかかんとか。ランタンは驚きに支配されて、
ついさっき聞いた名前が思い出せない。
老人は外套の下には曇銀の軽鎧を身に纏い、それに身を包んだ身
体付きは鍛え上げられていたが老いによる痩せ方が始まっているよ
うだった。腰の左右に二振ずつ、白鞘に収められた刀を差し、それ
はまるで長い尾羽のようだ。
白髪の痩躯。脂の抜けた真白い髪を真ん中で分けて、頭部をぐる
りと囲む細い銀輪で押さえている。露わな額から顔面を走る切傷が
あり、右耳が失われていて精巧な造りの義耳へと置き換わっている。
顔の傷は相当古いらしく、肉の陥没や皮膚の褪色は浅く薄れている。
怖い、と思ったのはその傷跡のためではない。
警戒はしていたが、その存在がいつ入店したのか全く気が付かな
かった。英雄とは思えぬ気配の稀薄さは、けれどそれを現した瞬間
に店内を覆い尽くすかのようだった。殺意ですらない。敵意ですら
ない。老人はただ隠していた気配を現しただけであった。
たったそれだけで、濃密な存在感に息が詰まった。酒場が一瞬に
て海の底へと変質したようで、それは溺れた者が空気を求めて暴れ
るのに似ている。
瞬間跳躍したのは本能であり、打剣を投げ打ったのは自覚すらで
きない反射行動だった。そのため老人の手に見覚えのある打剣を見
つけた瞬間に、懐から抜き取られたのだと思った。
そのことが少しだけ冷静さをランタンに与えた。英雄のくせに手
癖悪いな、と呆れ、そして指先にこびり付く投擲の残滓に気が付い
て反省する。自分が投げていたとようやく気が付いた。
痙攣する横隔膜の痛みに、浅く長く呼吸する。
息苦しさすらある重圧の根源。それはレティシアの持つ貴族の血
筋だとかそういった類いのものではない。おそらく戦歴。流した血
の量、積み上げた死体の数、身に纏った怨嗟と呪いのような死の気
配。
1195
圧倒的強者を目の前にして、ランタンは怯えたのである。思考の
一切が戦闘のためのものへと置き換わっていく。
そんなランタンを余所に、床に引き倒したリリオンがもぞもぞと
身体を起こした。止める間もなくカウンターから顔を覗かせてリリ
オンはこの鬼よりも恐ろしい老人を、おじいちゃん、と呼んだ。そ
の瞬間に、重圧が霧散した。
鬼かと思った老人は本当に老人になった。
顔の傷さえもが笑い皺へと形を変えて、すごいなこの子、とラン
タンは思わずリリオンを仰ぎ見る。恐怖はあっという間にリリオン
への賞賛に塗りつぶされた。
ランタンは行くか逃げるかという中途半端な中腰をすくっと伸ば
して、戦鎚に掛けた手は結局それを握らず、掌に浮いた汗をズボン
で拭った。カウンターから姿を晒して、取り敢えず打剣を返しても
らう。そして改めてお誘いにお断りを告げた。
その結果、レティシアの顔が近い。
黒やいっそ紫とも思えるほどの濃い色の肌は、触れるほどの距離
で見ても破綻なくきめ細かい。濡れるようなる艶がある。鼻筋や唇
もすっとしていて形良く、切れ上がって凜々しい目が大きく見開か
れている。
なぜだ、と肩を掴む女の指先、その爪を指の腹で撫でる。
﹁ちょっと痛い、かな?﹂
ランタンが小さく伝えると、レティシアは今更ながら掴みかかっ
た肩の細さに驚いたように慌てて放した。
﹁すまない、だが⋮⋮﹂
レティシアが謝罪を呟き、言葉を続けようとするとそれまで黙っ
ていたジャックが言葉を挟んだ。
﹁まあ待て。たぶんこのままだと堂々巡りだ。そっちの二人も、あ
んまりこいつを睨むな。そういう態度はこれの思うつぼだ﹂
﹁⋮⋮思うつぼって、ひどいな﹂
ジャックはランタンの言葉を無視して、取り敢えず全員を座らせ
1196
ると店の奥から酒を持ってきた。皆には麦酒で、ランタンには度の
薄い果実酒を更に加水したものだった。じゃあ乾杯、と有無を言わ
さずそれに口を付けると、何だか笑ってしまいたくなるような間抜
けな沈黙が。
﹁第三者として、色々疑問がある﹂
レティシアは訝しげにジャックを見つめる。
﹁ネイリングとは、王都の守護者であるあのネイリング家か﹂
﹁そうだ﹂
﹁ならば探索の戦力が足りないと言うことはないだろう。ネイリン
グ家の所有する騎士団の精強さは有名だし、エドガーさまが声を掛
ければ、こいつみたいな変態以外はどんな高位探索者だって選り取
り見取りだろう﹂
﹁変態ではないですけど﹂
ランタンは手を伸ばしてジャックの尾の先を指で撫でようとして、
結局その指先でリリオンの髪を巻いた。
ジャックが間に立ってくれたのは、おそらくランタンのためであ
った。くるくると毛先を巻くランタンと、それをくすぐったがるリ
リオンにレティシアの目が穏やかになった。
﹁これでなければならない理由があるのか﹂
﹁ある。そういう、⋮⋮託宣がなされたのだ﹂
その言葉に髪を巻く指の動きが止まった。ゆるりとレティシアに
目を向ける。
﹁託宣って、要はお告げだとかそういうのですか?﹂
頷くレティシアに、ランタンは少しばかりカチンときた。
﹁それはつまり僕らは戦力として必要されていないってことですか
? 幸運のお守りが欲しいのなら教会で祝福された阿呆みたいに高
価なお札や首飾りをお求めになったらどうですか。お金がないんな
ら買ってさし上げましょうか?﹂
ぺしんとジャックに頭を叩かれた。
﹁言葉が過ぎる。人には人の事情がある。言い過ぎだ﹂
1197
自覚があるので拗ねてジャックを見上げるランタンに、エドガー
が語りかけた。
﹁二人のことは評価しているよ。戦力に値するから頼んでいる。使
い物にならなそうなら、荷台にふん縛って迷宮に連れて行くさ。そ
の方が手間がなくて楽だからな。邪魔にもならんし﹂
﹁つまり拒否を続ければそうなると﹂
﹁くくく、そんなことはせんよ。縛ったくらいじゃ止まらないだろ
う﹂
意味深に目を細めるエドガーに、ランタンは睨み返した。背中に
はどっと冷や汗を掻いていたが。
﹁英雄を睨むな。貴族を睨むな。︱︱それでランタンはなぜ供をす
るのが嫌なんだ。攻略途中というのもあるだろうが、終わってから
でも嫌なのか﹂
﹁嫌って言うか、理由は色々﹂
﹁それでは伝わらん。ちゃんと言葉にしろ﹂
ジャックが呆れたようにランタンの頭をぐりぐりと押さえつけて
掻き回してきた。こんがらがる思考を、まるで不器用ながらにも解
してくれているようだった。
﹁一つ、危険度が判らない。僕一人ならまだしも、この子も連れて
行くのに軽々しくは頷けない。二つ、人となりが判らない。知らな
い人と迷宮に行くのは嫌。三つ、知らない人と戦うのもあんまり好
きじゃない﹂
人見知りかよ、とリリララが呆れたように呟く。
﹁俺とはやっただろ﹂
﹁知ってる人ですもの﹂
﹁じゃあ姉ちゃんとはどうなんだよ﹂
ランタンは一瞬言葉を詰まらせて、口の中で言葉を組み上げる。
﹁あれは僕が困っていたところを助けて頂いたので、今回の場合と
は事情が⋮⋮﹂
言葉尻が完全に言語化される前に、レティシアが口を挟んだ。
1198
﹁私たちがランタンに何をしてあげられるか、と言うことか?﹂
﹁別にそう言うわけでは﹂
﹁いや、頼み事をするのだ。相応の対価は支払わなければならない。
しかし、君は︱︱﹂
少なくとも金では動かない。情に訴えて心を動かされても、最後
の最後は頑なだ。
かつん、とエドガーの指先がテーブルを叩いた。
﹁利はある﹂
そしてランタンを招いて、耳元に口を寄せた。
リリオンの血のことだ、と老人は囁く。
﹁がここでは言わない方がいいだろう。何処に耳があるかわからん
からな。我々の目的にしても。そこでだ。二つ目と三つ目を我慢し
てもらいたい﹂
冷たい顔でランタンは老人を見つめる。老人はそんなランタンに
対して穏やかな視線で答えた。
﹁まずその探索途中の迷宮攻略に参加させてもらいたい。迷宮なら
人目を気にする必要はないからな﹂
にっと笑った老人に、ランタンは頷くしかなかった。
1199
080 迷宮
080
両手を重ねて膝頭を押さえる。そしてランタンは折り目正しく腰
を折って頭を下げた。髪が墨を垂らしたように重力に引かれ、露わ
になった項はまるで断頭を待つかのごとく晒された。
﹁先日は大変無礼を働きまして申し訳ありませんでした﹂
早朝の色の淡い陽光にランタンの項は青白く血管の透けるほどで
あり、少年の後頭部には困惑の視線が落ちる。
朝の挨拶もそこそこで急な謝罪を受けたエドガーとレティシアは
ただただ困惑するばかりであり、ベリレはランタンから謝罪以外の
他意を読み取ろうとするようにじっと少年を見つめている。
先日の酒場での一幕の後、レティシアたちは他の探索者と鉢合わ
せになると面倒になるので早々に立ち去った。そして取り残された
ランタンがエドガーの言葉を考えていると、湧きつつある知恵熱を
払うかのようにジャックに頭を叩かれ、そして叱られたのである。
曰く、あの大探索者と一緒に探索を行うことが探索者にとってど
れほど名誉であるか、と。そして得られるものは名誉だけではない
とも。英雄の探索はもとより、ネイリング家の探索も間近に見られ
るということは、積み重なり洗練された膨大な探索法や攻略歴を学
ぶということに他ならない。
攻略した迷宮の数はランタンも多いが、探索方法が未だに手探り
であることは自覚している。そしてあるいはジャックはそれを見抜
いていたのかもしれない。
1200
危険を伴うことは重々承知しているが、見返りは大きい。きっと
お前のこれからにとって大きな財産になるぞ、とジャックは言った。
それは命令ではなく、その事に想像の及ばなかったランタンに対す
る提案であり、ランタンは少しばかり飲酒したこともあって色々と
相談をしてしまった。
ウェンダがそんなジャックとランタンを指差して、兄弟のようね、
と言うものだからランタンはなんとなしに、お兄様、とジャックを
呼んでみたらジャックは犬人族なのに全身に鳥肌を立てていた。身
体を覆う長毛がぶわりと膨らんで引き締まった身体のジャックが丸
くなり、ウェンダとフリオにからかわれていた。
その後も情報収集を兼ねて数少ない知人たちにエドガーやネイリ
ング家のことをそれとなく聞いたのだが、その誰もが英雄を知らぬ
ランタンに困惑して、それとなく、ではなくなってしまった。
例えば引き上げ屋であるミシャとアーニェは、英雄が贔屓にして
いた引き上げ屋がいかにして大店へとなったかを熱く語ってくれた。
話が終わってランタンがその熱意に呆気にとられているとアーニェ
は三対六腕でランタンの肩や腕をひっしと掴み、もちろんうちを使
ってくれるのよね、と複眼の全てを使ってランタンを見つめた。他
の選択肢を知らないランタンが頷くとアーニェは狭い店内でランタ
ンを抱きしめて持ち上げて振り回した。
例えば商工ギルドのエーリカであれば、絵本となったエドガーの
英雄譚をランタンにくれたかと思うと、ネイリング家の方とどうに
かして会わせてもらえないかしらもちろんエドガー様とも、とにこ
やかな目付きの奥で瞳が冷徹な光を放っていた。首を横に振れば押
しつけられた絵本が途方もない値段となって支払いを請求されそう
なほどに。
そしてそんなエーリカの父親であるグランはエドガーの名を聞く
と、俺らの世代の大英雄じゃねえか、と珍しく目を見開いて驚きを
示し、エドガーの所有する竜骨剣を触らせて貰えねえかな、と言外
に英雄を連れて来いとランタンに言っていた。首を横に振れば今後
1201
の整備代が値上がりしそうな目付きは娘に似ていて、ランタンは善
処しますとしか答えられない。
例えばテスが、御仁を一目見ようと探索者が大挙して大変だった、
と嘆いていた。その熱狂たるや凄まじく、第一波となった探索者集
団の中には顔見知りが多く含まれていたことに憤慨していた。顔見
知りであろうともテスは容赦なく痛めつけて捕縛したり追い返した
りしたそうだ。
そう言えばジャックは冷静だったな、と思い出しそれを伝えると、
あの子の憧れは私だけだ、と恥ずかしげもなく言うものだからラン
タンが照れてしまった。エドガーについては一度斬ってみたいな、
と軽く言い放ちランタンは恐怖に震えた。
そして司書からはそれらが本物の英雄と貴族であることにお墨付
きをもらった。
探索者ギルドにもその来訪は事前に知らされていなかったようで
あり、突然の来訪にずいぶんと慌てたようであった。攻略予定の竜
系迷宮も、すでに別の高位探索班への賃貸が決まっていたのだが、
レティシアが強引な横やりぶち込んだのだそうだ。エドガーの求心
力も関係しているのだろうが、横やりを押し通したその必死さが目
に見えるようであった。
あれはなかなかしつこい女だぞ、と司書は笑っていた。
そしてエドガーやレティシアについての様々な情報を土産に聞か
せてくれもした。司書は余程深くギルドの情報群に接触できるよう
で内緒の話もいくつかあった。
そして二人を信頼に値する人物であると、そこの部分で迷ってい
るのなら心配はいらないとランタンの背を押してくれた。
ランタンは己の言動を顧みて、生意気が過ぎたことを恥じた。
リリオンとミシャは手を握り合ってランタンを固唾をのんで見守
1202
っている。
エドガーは困惑からどこか面白がるような視線をランタンの後頭
部に向けて、けれど全てはレティシアに一任していた。対処を任さ
れたレティシアは野生の獣に触れるように恐る恐るランタンの頭に
手を伸ばした。
指先が髪を掻き分ける。獣が襲いかかってこないことを確かめる
ように慎重に探りを入れる指先がさわさわと頭皮を撫でて、その指
先は這うようにして項へと。そして項から頸動脈を一撫ですると、
遂にはランタンの顎を持ち上げた。
視線が交差して、レティシアは尊大な表情を唇に。けれど瞳には
やはりまだ困惑も。
﹁許す、︱︱で、いいのか?﹂
﹁こほん。レティシア様よりお許しを賜りましたこと誠にありがた
く︱︱﹂
至極真面目な表情のランタンにレティシアはようやくほっとして
口元を緩めた。
﹁ふ、ふふ。なかなか上手だが、いかにも例文という感じだな﹂
﹁厳しいですね。謝罪に独自性はいらないでしょうに﹂
不安そうに見ていた二人は、ふわりと柔らかくなった雰囲気に胸
を撫で下ろした。リリオンは顎からは指を外したもののランタンに
触れたままのレティシアから少年を奪い返した。レティシアは微笑
みを湛えたままにリリオンに視線を移す。
﹁今回はよろしく頼む。ランタン、リリオン﹂
リリオンはこそこそとランタンの外套を摘まんだまま、小さく会
釈を返すだけだった。
した
﹁はい、こちらこそよろしくお願いします。レティシア様、エドガ
ー様﹂
﹁そんなに堅苦しい呼び方じゃなくて構わんぞ。迷宮じゃ爵位もへ
ったくれもないからな﹂
﹁では、おじいさま、と。んー︱、お姉さまにでもしますか?﹂
1203
﹁え、いや、それは﹂
鳥肌こそは立っていないが戸惑っている。
﹁ではレティシアさん、と﹂
戸惑いの尾を引いたままの頷きに。面白くなさそうなのはベリレ
である。
今回の探索はただ最終目標を討伐するだけではなく、むしろ本題
はいくつかの話し合いのためである。そのため降下するのはランタ
ン、リリオン、レティシア、エドガーの四名で運び屋の随行すらな
い。そして更に言えばエドガーが探索者に見つかると面倒なので、
やや眠いほどの早朝である。
﹁今日はどうされたんですか?﹂
留守番のはずのベリレがなぜいるのか、とランタンは微笑む。
﹁見送りだ﹂
﹁それはまあ、こんな朝早くから。わざわざありがとございます﹂
﹁お前の見送りじゃない﹂
ベリレはむすりと眉を顰めて不満もたっぷりに言い放った。そこ
には羨むような響きも伴っていて、視線はランタンではなくその頭
上を飛び越えてエドガーに向かっている。何とも判りやすくて、そ
れはむしろ微笑ましくもあった。ベリレは留守番を言いつけられた
ことにふて腐れているのだ。それでいて見送りに来るあたりが何と
も健気である。
﹁それは残念。ねえリリオン﹂
﹁え、⋮⋮うん﹂
リリオンはベリレをちらりと一瞥するとすぐに目を逸らして、ラ
ンタンを盾にするように背中に隠れる。
腕相撲での昂揚も酒精による発揚も失われた今、身体が大きくて
何かにつけて睨むような視線を向けてくるベリレをリリオンは苦手
に思っているようだった。
ベリレはそんなリリオンからふいと視線を外して、平静をよそお
っているようだったが、不自然に硬い横顔には傷心があり、丸い耳
1204
は正直なものでしょんぼりとへこたれていた。自業自得とは言え、
年ごろの男があからさまに異性に避けられるのは堪えるのだろう。
そんなベリレを見ながらランタンは、ふうん、と一言。
﹁何だ﹂
﹁いいえ、何も。︱︱じゃあお二方、少し早いけど行きましょうか﹂
サベージャー
﹁ああ、そうだな﹂
﹁よろしく頼む。引き上げ屋﹂
﹁はいっ、おまかせくださいエドガー様﹂
貴族と英雄を降下させることに、ミシャは少しばかりの緊張を抱
いているようだった。アーニェから、くれぐれも粗相のないように、
とプレッシャーを掛けられているのだ。だがそれでもミシャの腕は
いつも通りに抜群で、揺れのない降下を成功させた。
いつも通り。魔精の霧の中で一度止まる。視界は白一色で、貴族
も英雄もことごとく霧の白さに染められている。
乳白色の霧を手探り、ランタンはリリオンの手を掴む。
握り返してくれる指の細さに緩む口元を、ランタンはきつく結ん
だ。
迷宮口直下。
魔精酔いを起こさなかったのはランタンとエドガーで、女二人は
気持ち悪そうにしている。
黒肌のレティシアは顔色から体調を読み取ることは難しかったが、
意志の強い緑瞳も今はふらついていて中心が定まらない。リリオン
はいつもはいない二人の存在を少しばかり気にしていて、ランタン
の足を枕にすることはなく、ぬいぐるみのように足を投げ出して座
り込んでいた。
レティシアは己の意思で、そしてリリオンの口にランタンは気付
け薬を押し込んで、顎を掴んで無理矢理にそれを噛み砕かせた。青
1205
白い顔に途端に生気が戻る。苦しみとはまさしく生きている証であ
る。
﹁ううう、まずい⋮⋮ひどい⋮⋮﹂
﹁これの味は昔から変わらんのだよな﹂
癖になっているのか昔を懐かしんでいるのか、エドガーもなぜか
気付け薬を口中で舐め溶かしている。
﹁不味くなかったら気付けにならないでしょう﹂
﹁美味くて驚くこともあろうよ﹂
﹁美味しかったら無駄に食べちゃうじゃないですか。あ、こら、水
を一気に飲むな﹂
水精結晶一本を空にしそうな勢いで口をゆすぐリリオンから水筒
を奪い取る。中身は半分ほども飲まれてしまっていて、ランタンは
苦い顔を作った。この虫系小迷宮の攻略は最終目標を残すばかりで
あったが、それでも行軍中に尿意を催しかねないほどの水分補給は
控えるべきだ。
今回の探索はランタンとリリオンの二人のものではないのだから。
ランタンは奪い返した水筒をレティシアへと回した。ありがとう、
とレティシアは控えめに口をゆすぎ、その水の冷たさに目を丸くし
た。
﹁美味しい、いい水だな﹂
返された水筒からランタンも一口水を飲んで気持ちを落ち着ける。
リリオンは投げ出していた足を折り畳んでぺたりと座り直して、レ
ティシアも背筋を伸ばした。車座になった四人が、互いに確認し合
うように視線を動かす。
あらかじめどのような話になるかはリリオンに告げてある。それ
を告げた時の少女の顔を思い出して、ランタンは地面に爪を立てる
少女の手に己の手を重ねた。レテシィアの視線がそれを捉える。
まず口を開いたのはランタンだった。
﹁この子のことを、どこまで調べましたか﹂
﹁調べてはおらんよ。見ればわかる。ああ、そんな顔をするな、見
1206
てわかる奴はそんなにいない﹂
﹁リリオンに流れている血について、エドガー様から聞かされてい
るのは私だけだ。だがリリララやベリレも、差別をするような性根
はしていないことは判ってほしい。ただ多くに伝えるべきではない
と︱︱﹂
その配慮にランタンは目を伏せる。
﹁俺も見てわかるのは、混血であることぐらいだ。今のところは大
きさも人族の範疇だしな、年の割にはちっと大きいがまあこれぐら
いの大きさなら人族にもいないわけではないし﹂
﹁後学のためにお聞かせ頂けるとありがたいのですが、どう見れば
そうとわかるのですか?﹂
ランタンが尋ねると、エドガーは困ったように髪を掻く。
﹁︱︱言葉にするのは難しい。違和感、としか言えないな。巨人族
には独特の雰囲気があるんだが、リリオンからは僅かにそれを感じ
る。まあ純巨人族を見たことある奴にしかわからんだろうし、そも
そもそれを見たことある奴も少ないからな。奴らは北の果てに封じ
られているし、北の都市では交易もあるがそれも限られた人間しか
関わってないからな﹂
そう聞いてもリリオンの顔は晴れなかった。それはきっとこの都
市に来て初期に出会った人物が一目見て己の血統に気が付いたこと
に起因しているのだろう。そんなこと言うとエドガーが膝を叩いて
笑った。
﹁グラン・グランか。そういえばここで店を構えているんだったな。
あれも特殊な男だ。気にするな﹂
﹁ご存じなのですか?﹂
﹁最も優れたる名工は誰か、という問いに名が上がるほどの男を知
らんほうがおかしかろうよ。実用的な武具をつくることで有名な職
人だな。飾りを嫌うから貴族たちには好かれなかったが、それでも
あんまりにも斬れる剣を造るものだから、先王より直々に請われて
剣を打ったこともあるほどだぞ﹂
1207
もっともそれで貴族よりの依頼が増え、嫌気が差して王都から離
れてしまったらしい。
﹁全然知らなかった。凄い人だったんだ﹂
﹁職人として鍛えられたモノを見る目で、あれと同等の奴はそうは
いないな。しかしそうか、この探索が終わったら一度整備を頼むか
⋮⋮﹂
・ ・
﹁あ、お会いしたいって言ってましたよ。グランさん﹂
﹁ふ、あれが興味があるのはこれだろうよ﹂
﹁そんなことないですよ﹂
そう言ってエドガーは腰の長刀を撫でる。見透かされるほど有名
なのか、とランタンはグランのフォローをしつつ曖昧に微笑んだ。
﹁だから安心しろ、リリオン﹂
﹁︱︱うん、わかりました。おじいちゃん﹂
船を漕ぐみたいにこくんと頷いてリリオンはエドガーに頭を下げ
る。髪が頬に掛かってランタンはそれを払う。横顔にあるのは完全
な安心ではないが、それでもしゃんとした顔つきになっていた。
﹁︱︱だが、既にそれを知っている者もいる﹂
レティシアの声は硬い。リリオンに斬り込むことに罪悪感を覚え
ているようで、しかし躊躇はない。
﹁二人がある貴族に目を付けられていることは調べさせてもらった。
すまない﹂
﹁いえ﹂
リリオンばかりではなく、ランタンの顔も硬くなる。
﹁今はまだ様子見を決め込んでいるようだが、あれは執念深い﹂
レティシアは一度大きく深呼吸を挟む。
﹁簡潔に言おう。手を貸してくれるのならば、我が名に掛けて二人
に手出しはさせない﹂
﹁⋮⋮それはネイリング家の庇護下に入れてくださると言うことで
しょうか?﹂
﹁そうだ﹂
1208
頷いたレティシアをランタンはじっと見つめる。
貴族による手出しを防ぐために、より格の高い貴族の庇護を得る。
それは願ってもない申し出であった。そしてこの貴族の令嬢が信頼
できる人物であることを、司書から言い聞かされている。
だが。
﹁貴女にその権限がありますか﹂
レティシアが信頼できても、ネイリング家がそうであるとは限ら
ない。
ネイリング家の現当主からしてみればランタンのことなどはどこ
かの馬の骨ですらないし、彼女の上には兄が二人いると聞いている。
ネイリング家は実力主義であるようだが、それでも生まれの早さに
よる順列は無視できるものではないだろう。
迷宮攻略はその人数が増えるにつれて一人あたりの利益が頭割り
に少なくなっていくので、大規模探索団は滅多に組まれることはな
い。そして今回のレティシアの探索が金銭目当てでないことは明白
である。
もしレティシアがネイリング家において大きな権限を有している
のならば、きっと今回の探索は少数精鋭ではなくネイリング家自慢
の騎士団を引き連れてきているのではないかと思う。
司書からの情報が確かならばレティシアの示した探索班で、ネイ
リング家の人間はレティシア本人とリリララの二名だけであった。
エドガーはネイリング家の食客で、ベリレはそのエドガーの従騎士
である。
今回の探索はレティシアの意思であっても、それはネイリング家
の意思と同意ではない、と思う。
﹁違いますか?﹂
﹁⋮⋮よく調べたな﹂
﹁あなた方には負けます﹂
ランタンはリリオンの手をあやすように撫でる。リリオンの指が
擽ったそうに反応して弛緩した。
1209
﹁正直に言えば、今の私にそんな権限はない﹂
後出しとは言え隠し事をしない正直さは美点であるが、ランタン
の視線は冷たくなった。だがそれでもレティシアは動揺しなかった。
それは己の言葉の不誠実さを理解してなおの言葉であったからなの
だろう。
﹁今はまだ私は無力だが、今回の探索、その成功によって私は力を
得ることができる﹂
レティシアはただでさえ真っ直ぐに伸びた背をいっそう伸ばした。
ランタンの視線を受け止めて飲み込んだ緑瞳の深さは、まるで澄ん
だ湖を覗き込むかのようでランタンは思わず気勢が削がれてしまっ
た。
﹁今回の探索、その目的は一振りの剣だ﹂
初代ネイリングは謎の多い人物であったが、家譜には初代ネイリ
ングがひたすらに強さを求める求道者であるような記述が幾つも散
見される。そしてそんな彼を知るに最も際したものとして、強き子
孫を求めるがあまりに竜種を娶った、という一文にその異常さは集
約される。
ネイリング家には竜の血が流れている。
それは本当のことなのかもしれないし、あるいは強さに箔を付け
るための嘘であるのかもしれない。けれどネイリング家の血には貴
族とは思えないほどの数多くの血が混じっていることは紛れもない
事実であった。
多くの貴族が純血を保ち、血を濃くすることに執着して近親婚を
繰り返して衰退していく中で、ネイリング家は強者であれば奴隷で
あろうと嫁に取り、亜人族であったとしても愛娘の婿として迎え入
れた。ネイリング家の複雑に色の混じり合った艶やかな黒肌はそう
いった混血の結晶であり、それでいて人族であり続けるのは初代ネ
1210
イリングの血の強さの証そのものであった。
そしてその血と共に、初代ネイリングの性質も失われずに受け継
がれている。
ネイリング家の当主となる者は力を示す必要があった。
それは竜系迷宮攻略すること、竜種の最終目標を討伐することに
よって示され、それにはまた幾つかの規定が存在する。それは攻略
に対する員数の制限であり、最終目標の魔精量であり、また使用す
る武器がネイリング家に伝わる宝剣であることだった。
レティシアには兄が二人居り、家督を継ぐのは長兄であると父も
次兄も末弟も、レティシアも、家の誰もがそう思って疑わなかった。
長兄はベリレにも引けを取らない堂々たる体躯と、幼い頃からエ
ドガーに師事した剣の腕前と、家中の誰からも好かれる剛毅な性格
を有していた。長兄付きの侍女であるリリララも、長兄の前では幾
分も言葉遣いが柔らかくなるほどだった。
そんな長兄が満を持して宝剣を携えて迷宮に潜ったのはもう一年
以上も昔のことで、試練が失敗に終わったことをもう家中の誰もが
受け入れていた。
帰らなかったのは長兄ばかりではなく、長兄を慕い同行した騎士
たちも運び屋さえもである。兄が未帰還になった際にその情報を持
ち返るようにと言い聞かされていた彼らは、おそらく兄の敵討ちを
するために命を投げ打ったのだとレティシアは思う。
長兄と三名の騎士と運び屋を飲み込んで迷宮は崩壊した。
長兄の死は哀しく、しばらくは泣いて過ごした。けれど死は覚悟
していたことでもある。どれほどの強者であろうとも死ぬ時は死ぬ。
ネイリング家ではそれを日頃から教え込まれている。諦めではなく。
それでなお足掻くために。
しかし長兄の死がもたらした動揺が収まる頃に、それは起こった。
宝剣が戻らない。それはネイリング家を揺るがす大事であった。
迷宮で失われた武具の多くは永遠に日の目を見ることがなかった
が、稀に魔剣妖刀の類いとなって人の手に戻ることがあった。それ
1211
ひとがた
は時に魔物の腹の中に、あるいは人形の魔物装備として、またただ
打ち捨てられたように迷宮路に転がっていることも。
ネイリング家の歴史の中で試練が失敗に終わり、宝剣が失われた
記録は少なくない数が残されている。けれど宝剣が失われようとも
試練は失われず、また強くあろうとする性質も失われない。家譜の
中にある最初の失敗、その次に挑戦した試練で宝剣は竜の腹から見
つかった。
迷宮で失われた武具が人の手に戻ることは、その失われる武具の
総数を考えれば稀であると言えたが、けれど珍しいことではなかっ
た。だが失われた武具が縁故親類の元に戻ってくることは、長い歴
史の中でも数えるほどしか記録されていない。
その一例がネイリング家の宝剣であり、それは史上唯一に複数回
の帰還を果たした剣であった。
宝剣は幾度失われようとも、時に姿を変えて、時に主に牙を剥く
ほどの強大な魔を宿してネイリングの手元へと帰ってきた。
剣に認められることこそが、いつしかネイリング家の強さの証と
なった。
形を変えようとも不変である剣の本質、そして隷属にも似た帰還。
その剣は名を万物流転という。
その宝剣が失われて未だに戻らない。
ネイリング家の直系も傍系も、方々の迷宮へと探索に赴いたのだ
が、手がかりすら見つからない。
レティシアは拳を握る。指先が掌を突き破らんとばかりに爪が食
い込んで、じんじんとした痛みが走っても指を解くことができなか
った。そっと肩に触れるエドガーの心遣いさえも、有り難さと煩わ
しさが同時にあるようでレティシアは情けなさに唇を噛んだ。
胸につかえた息を吐こうとしても、喉奥に引っ掛かって止まって
しまう。唇を解いて、無理矢理吐き出すとそれは惨めなほどに震え
た。どうにか息を吸うとしゃくり上げるような響きを伴って、レテ
ィシアは泣きそうになっている己に気が付いた。
1212
泣き虫なやつめ、と兄の言葉が蘇る。
﹁私は取り返したい﹂
ただ一つ闇の中にともされた灯り。
それに縋るしかない己の無力さが恥ずかしく、だがどれほどの恥
知らずとなっても再び、この手に。
レティシアはランタンを見つめる。幼いこの少年たちを死地とな
りうる迷宮へと誘う己を殺してやりたい。レティシアは背筋を伸ば
し、固めた拳をいっそう硬く、そして地面に押しつけた。
﹁お願いします。力を、貸してください﹂
地に擦りつけんばかりに頭を下げると、滴が二つ染みを作る。
だが涙を拭ってくれた兄はどこにも居ない。
薔薇色の髪を結い上げて露わになった項は粟立ち、後れ毛が震え
ている。
ヘ
重ねたリリオンの手が引き抜かれて、ランタンの手に覆い被さっ
ーゼル
た。細い指がランタンの指に絡められて、視線を向けると少女の淡
褐色の瞳には昏い色があった。それに見つめられてランタンの心臓
が、痛みを伴って一つ跳ねる。
﹁ランタン、わたし手伝ってあげたい﹂
少女の声は甘く高い。
だがそこには聞き慣れぬ大人びた苦い響きがあり、ランタンはリ
リオンの瞳から目を逸らすことができない。そこにある意思は硬く、
絡む指先に伝わる体温は低い。黙って見つめ合い、視線を逸らした
のはリリオンだった。
ふいと逸らされた視線を追ってランタンはレティシアへと視線を
戻す。レティシアはまだ頭を下げていた。
﹁レティシアさんは、お兄さまのこと大切だったのね﹂
レティシアははっと顔を上げて、そこには濡れた睫毛と瞳があっ
1213
た。声はなく、頷きもしない。しかしその問いかけは愚問であると
緑瞳が語る。
リリオンは目を細めて頷いた。微笑みのようにも、しかし泣きそ
うな表情にも見える。
﹁わたしも、ママからもらったもの、みんななくしちゃったから。
レティシアさんの気持ち、わかるよ﹂
声は震える。高く掠れる。
けれどリリオンは泣かない。
ランタンは少女の頭を優しく撫でて、それは少女のママほど上手
くはないのかもしれないけれど、小さな頭をそっと胸にたぐる。白
銀の髪を巻き込んで首筋を抱き寄せ、背中をあやす。
ランタンはリリオンのことを知らない。どれほど少女に踏み込ん
でいいかわからないからだ。大切なのは今で、それでいいのだと思
っていた。だが自分がそうであるように、少女も過去に追い立てら
れることがきっとあるのだと、今更ながらに強く気付かされた。
ランタンはレティシアに力強く頷いて、力を貸すことを約束する。
リリオンのことをランタンは知らない。
けれどこの子を守るための力を得る。
そのためにできることは何でもしようと、そう思う。
1214
081 迷宮
81
二泊三日を予定している最終目標討伐作戦は、暢気な遠足のよう
な響きとは裏腹に女の涙によって幕を開けることになった。
リリオンはランタンにいっぱい撫でてもらえて満足で、抱き寄せ
られた胸の中で悲しみを癒すと、すんすんと鼻を啜り上げる振りを
して少年の体臭を嗅いだ。凜とした面ながらもぐずぐずと鼻を鳴ら
すレティシアを、泣かなかったリリオンは胸からちょっとだけ顔を
離して大人ぶった視線で見つめる。
﹁ランタンに、なでてもらう?﹂
﹁⋮⋮大丈夫だ﹂
ランタンは女二人の謎のやり取りを呆れるよう聞き、エドガーは
もうお手上げという感じだった。どれほど時を重ねようとも男にと
って女は永遠の謎であるらしい。視線が混じるとどちらともなく苦
笑を漏らした。ランタンは目を擦ろうとするレティシアにハンカチ
を取り出して渡す。
﹁ありがとう﹂
目と鼻を拭ったハンカチはそのままはレティシアにくれてやり、
しつこく顔を押しつけるリリオンを突き放してランタンは立ち上が
った。エドガーもそれに続き、痩せた身体がいかにも重たげと言う
・ ・ ・
ようにどっこいしょと漏らす様に英雄らしさはなく、日向の揺り椅
子から立ち上がる老人そのものだ。
﹁さてじゃあ行くか。道中の魔物は︱︱﹂
﹁殲滅済みです。たぶん再出現もないと思いますけど﹂
とは言えのんびりとした再出現を待てないせっかちなはぐれ魔物
1215
がでないとも限らない。
四人は迷宮を行くにあたって隊列を組むことにした。
たった二人の探索ではどうすることもできないものだが、四人居
ればそれなりに格好が付くのがランタンにとっては新鮮で何だか面
白いことだった。
じゃあどうしましょうか、とランタンが言えばエドガーが、俺は
最近耳が遠くてな、とぼやく。レティシアが、では私が、と言えば
リリオンが張り合って、わたしやりたい、と挙手をしたので結局は
ランタンが先頭を行くことになった。
理由は一度通った道であるというのと、余程魔物は出ないだろう
という楽観からである。
先頭をランタン、その後ろがリリオンとレティシアが横並びで、
殿を務めるがエドガーと陣形は菱形であった。
本来先頭を行くのは最も索敵能力に優れた探索者であって、ラン
タンの索敵能力は低くもないが高くもない。経験によっていくらか
補えている部分はあったが、素の索敵能力、詰まるところの視力聴
力はリリオンの方が優れているかもしれず、レティシアは未知数で
あったがエドガーは耳が本当に衰えていたとしても、この中で最も
広い知覚範囲を誇るのは疑うべきもないように思う。
﹁そう言えばお耳のそれは︱︱﹂
﹁これか?﹂
軽く振り返ると、エドガーは右耳の義耳を指で弾いた。
﹁集音の魔道装具だ。とは言っても、もう力は失っているがな。た
だの飾りさ﹂
鳴った音は金属ではない。だが肉や骨を打った音とも違って軽か
った。本物の耳と見まがうほどの精巧な造りだが老人の肌の色より
少し濃い色をしているのは、エドガーの皮膚が過ぎ去る年月により
色褪せたからなのだろう。
歩きながらたわいもない雑談を語った。そう言えば人となりを知
るための探索でもあったな、とランタンは今更ながらに思い、レテ
1216
ィシアはまるで台本でも読むかのように己を語るのが、何とも生真
面目で好感が持てる。
レティシア・オリーリー・ネイリング。
ネイリング家の長女として生を受けたのは十八年前で、兄が二人
に弟が一人。二人いる兄のうち、長兄を宝剣と共に失っている。そ
のことは司書は教えてくれなかった。好きな食べ物は柑橘類で、ラ
ンタンは運び屋の大荷物を思い出して納得がいった。ちなみに嫌い
な食べ物は加工していないトマトだとか。青臭いですもんね、とい
うと、いや中のドロドロが、と返ってきた。
﹁わたしはきらいな食べ物ないよ﹂
﹁気付け薬は?﹂
﹁あれはくすりだもの﹂
﹁今のはランタンが悪いな﹂
﹁ええ私もそう思います﹂
レティシアの剣の師は父でありエドガーであり長兄であった。レ
ティシアは左腰に長剣を佩いている。鞘は瞳と同じ深い緑で、銀の
装飾が施されている。彫金された竜種の彫り物は、初代ネイリング
の妻を模したものであるらしい。
鍔を親指で持ち上げて、鍔元に宝石が埋め込まれているのを見せ
てくれた。黄金の台座に埋め込まれた宝石は四角の角を切り落とし
た八角形で、そこには思わず手を伸ばしたくなるような力が封ぜら
れていた。
﹁わあきれい。これって︱︱?﹂
コンバーター
リリオンが聞くと、レティシアは頷く。
アンプ
それは魔道剣だ。
﹁増幅器だ。こっちのは吸精式だな﹂
左手首、そして人差し指と中指に揃いで黄金の装飾品を装備して
いる。
カートリッジ
﹁増幅器ってことは、魔道剣士ですか﹂
例えば吸精式や交換式、あるいはそれ自体に強い魔精が込められ
1217
た魔道具は魔道使いでなくても幾ばくかの練習により使用すること
は可能になる。だが増幅器はその名の通り魔道を増幅する装置であ
り、増幅するための魔道を所持しない者にはただの武器や装飾品で
しかなかった。
﹁ああ、うちの家系は代々魔道が発現しやすくてな。ふふふ、何の
魔道だと思う?﹂
﹁なんだろうね。ねえ、リリオン﹂
﹁うーんとね、えーっとね﹂
魔道には発現しやすい現象とそうでないものが混在する。例えば
破壊と治癒ならば、圧倒的に破壊の魔道が発現しやすい。そしてそ
の中でも火、水、風が最も多く、少し数を減らして氷、雷、地と続
く。他にも治癒を筆頭として多種多様な魔道は存在するし、前述六
種であってもその発現の仕方は千差万別である。
﹁剣が増幅器なら、その用途は攻撃ですよね﹂
﹁ああ、そうだな﹂
斬って治す、という乱暴な治癒魔道もあるとかないとか風の噂に
聞くこともあるが、これはもう除外して良いだろう。剣に埋め込ま
れた宝石は光の反射か、緑と赤が互いが互いの色に染め上げようと
するように、溶け合いつつも二色がそこに揺らいでいる。
﹁腕輪と指輪も、お持ちの魔道の発動を補助するため物ですか?﹂
﹁ああ、そうだ。こっちはまあ足止め用だな﹂
足止め、つまりは牽制。放たれる魔道は指一つ分の威力、と言う
ことだろうか。それでももって足止めとなると、限られるわけでは
ないが当たりは付けやすくなる。
﹁そういやリリオン、前の最終目標は大変だったね。魔道くらって
身動き取れなくなっちゃって﹂
なんだろうなあ、と頭を揺らしているリリオンにランタンは声を
掛ける。リリオンは思索から呼び戻されてびくりとし、首の据わら
ぬ赤子のようにこくんと頷いて、はっと顔を上げた。
﹁かみなり! の魔道!﹂
1218
キラキラの視線にレティシアは堪えきれぬように微笑み、大きく
頷いた。そして左の人差し指をぴんと立てて、迷宮路の先を指差し
た。
闇を裂いて走ったのは、糸の如き閃光であった。ばち、と鳴った
音は小さく、威力は低い。だがそれは文字通りの雷速で避けること
は困難だし、威力は低くとも感電によって起こる追加効果は金蛙に
よって嫌と言うほどに思い知らされている。
﹁すごおい。わたしもできるかなあ﹂
リリオンはレティシアに魔道の使い方を聞いて困らせていた。
﹁魔道ならランタンも使えるだろ?﹂
エドガーが最後尾から問い掛ける。
その問い掛けに、どうしようかな、とランタンは答えに窮する。
爆発能力は魔道ではない、と思う。これはこの世界に来て名前や幾
つかの記憶に取って代わるようにして発現した能力だ、とそう思っ
ていた。便利だから好き放題に使っていたけれど、今更ながらにこ
れは何だろうと思う。
もしかしたら魔道なのかもしれない。だが魔道を行使する際に訪
れるという、倦怠感というものを感じたことはない。説明するのも
煩わしいしまあいいか、とランタンは話を合わせることにした。
﹁でも使い方は教えらんないですよ。気が付いたらできるようにな
っていたので﹂
﹁自然発生か。たしかにそれは教えられるものではないな﹂
魔道の発現には幾つも方法があるようだ。例えば鳥が飛んだり魚
が泳いだりするように、生まれながら呼吸をするように魔道を発現
させる者。あるいはレティシアのように血統や環境によって素質を
持ち、大系としてある魔道技術を学び発現させる者。
そしてもしかしたらランタンのように、ある日突然に自然発生さ
せる者。これは何のきっかけもなく発現する者も稀にいたが、多く
は追い詰められ命の危機に瀕した時に発現する場合が殆どだった。
危機を退ける力であるからこそ、魔道は破壊によることが多いらし
1219
い。
ならばあるいはもしかして、いやしかし初めての爆発はいつだろ
うか、と記憶は定かではない。当時のランタンは過ごす時間の全て
が命の危機であったような気がする。
﹁まあ魔道は感覚によるところが多いから、私も人に教えるのは苦
手だな。魔道のことを知りたいならリリララに聞くといいぞ。リリ
ララは凄腕の地の魔道使いだからな﹂
﹁⋮⋮ランタンも、いっしょに聞いてくれる?﹂
リリララに喧嘩を吹っ掛けられたことが尾を引いているのかリリ
オンが尻込みをしていた。口は悪いが面倒見の良い奴なんだが、と
レティシアの苦笑。口ばかりじゃなくて態度も、とランタンはもち
ろん口に出さない。
リリオンはランタンの答えを待ち惚けして、子犬のような視線に
気付くのはそれから少し後のことだった。
ランタンがそれに気が付いたのは、エドガーの違和感だった。リ
リオンとレティシアは気が付いていないが、ぴりりとした警戒心が
薄く先の方まで伸びていった。
やっぱりこの人凄い、とランタンは思う。その違和感はもしかし
たらランタンに、敵の存在を気付かせるための警告であるのかもし
れない。
雑談を交わしながらも、ランタンも警戒を怠ってはいなかったの
だが。振り返ってもエドガーは知らん顔をしていて、ただ少しラン
タンに向かって意味深な視線を向ける。ランタンの視線が一瞬おも
しろくなさそうにふて腐れて、その微妙な雰囲気に女二人が怪訝そ
うに顔を覗き込む。
﹁どうかしたか?﹂
レティシアもリリオンも暢気なものであった。名家ネイリング家
1220
の令嬢の、実戦経験はもしかしたらそれほど多くはないのかもしれ
ない。あるいは斥候索敵はお嬢様のお仕事ではない、と言うことな
のだろう。ランタンがちらりとリリオンに視線を向けると、少女は
慌てて背負った盾を降ろした。
﹁そう急がなくてもいいぞ。まだ遠い﹂
エドガーの呟きに遅れてレティシアも抜剣する。ランタンは手中
に打剣を握り、エドガーは柄に手を掛けようともしない。
﹁移動はしていないな。この速度ならあと十分ぐらいか﹂
警戒して進みながらエドガーは知覚することを報告してくれた。
魔物は接近はしていないがじっとしているわけではない。忙しな
く動き回っているが、しかし足音は微か。しかし老い遠くなった耳
に聞こえる微かな音色をランタンは聞くことができない。足音の感
覚から八脚であることが判るらしく、その消音具合から柔毛で覆わ
れていることも感じ取れるらしい。
﹁蜘蛛ですか?﹂
﹁おそらくな。巣を張って待ち構えてるんだろう﹂
いといぼ
蜘蛛型の魔物において気を付けるべきは、天地無用に足場とし、
見かけ以上に高速で移動すること。そして腹部後端にある糸疣は当
然のこと、種類によっては口部脚部から射出される粘性の糸と、そ
れによって制作される巣や罠の存在だ。そして牙や、あるいは身体
を覆う毛針が毒を有している場合も考慮しなくてはならない。特に
毛針は空気中に散布されている場合があり、吸い込めば呼吸器系に
害がある。
﹁止まれ﹂
まだ蜘蛛の姿は見えず、足音もない。蜘蛛は既にこちらを知覚し
ていて、動きを止めて待ち伏せをしている。そして待ち伏せ型の魔
物は死角に罠を構えることが多く、この場合では迷宮路が大きく弧
を描く先に巣があるのだろうと予想された。
と言うかこの距離ならば寝ぼけていたとしても気がつける。
﹁ちょっと顔出して、引き寄せましょうか?﹂
1221
﹁いい、いい。こんなもんは燻し出したほうが楽だ﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
そう言ってエドガーが取り出したのは可燃性の液体を満たした瓶
である。それに何となく拍子抜けしたランタンは間抜けな声を上げ
た。
﹁もっと英雄っぽく振る舞った方がいいか?﹂
﹁いえ、そういうわけでは﹂
うえ
エドガーは小さな苦笑を漏らして、瓶をちゃぷちゃぷと揺らした。
﹁レティシア、着火を頼む﹂
﹁はい、お任せください﹂
﹁二人は尻に火が付いて慌てて出てきたところを叩け。天井に出た
ら俺がやろう。二秒経って出てこなかったら奥に逃げたと言うこと
だ。そしたら、まあ取り合いだな。止め刺した奴は飯の用意をサボ
ってよし﹂
戯けるような台詞にレティシアが、負けませんよ、と剣を鳴らし
た。
﹁開始の合図はランタンに任せる﹂
﹁え、あ、はい﹂
戦鎚を手の中で回す。何か変な感覚だった。
﹁では、︱︱どうぞ﹂
道を譲るかのようなその気の抜けた合図にリリオン以外が吹き出
して、しかしエドガーの放り投げた瓶は浅い弧を描いて確実に道の
先へと。そして曲がり角に到達した瞬間、レティシアの指から放た
れた雷光が瓶を捉えて壁のような炎が広範囲を焼き包んだ。
そして炎に巻かれて大蜘蛛が先から飛び出してくる。四肢を覆う
柔毛に火が付いていて、それはとても壁や天井を歩ける状態ではな
かった。英雄の指示はこれを見越してのことだったのだろうか。ラ
ンタンは戦鎚を肩に担ぐ。
英雄ってずるい、と役目は終わったとばかりに腕を組むエドガー
を、ランタンは背後に置き去りにしてリリオンと競い合うようにし
1222
て駆けた。
﹁蜘蛛って海老とか蟹の味がするらしいですね﹂
﹁食べたことあるの?﹂
﹁ない﹂
食事を用意するのはランタンとリリオンの二人だった。レティシ
アは戦闘はさておき食事では役立たずであるようで、エドガーは大
蜘蛛に止めを刺したからだ。
リリオンに先んじて大蜘蛛の頭を潰したのはランタンで、リリオ
ンはリリオンで振り回された火の付いた足を切り落としもしたが、
それを絶命させたのは腕組み棒立ち状態からいつの間にか抜刀して
いたエドガーの一刀であった。
左腰に佩いた長刀からの抜き打ちは、浅い角度に斬り上がる左回
りの横薙ぎ。蜘蛛の外皮を切り裂いた一撃はともすれば凡庸である
かのようにも見えたが、けれど頭部を潰されてなお襲いかかる大蜘
蛛の生命力をあっさりと断って戦闘を終わらせた。
もっとしっかり見ておくんだった、と思っても時間は返らない。
おそるべきは竜骨刀の切れ味か、はたまたエドガーの技量か。
﹁食ったことあるぞ。普通の蜘蛛はフライにすると結構いける。ま
あ殻の柔い蟹みたいなもんだ。手足は殆ど肉がないが、胴部は濃厚
なチーズみたいな味がするな﹂
いや恐ろしいのはその食欲か。
話を振った張本人にもかかわらず、食事の用意をしながらランタ
ンは次第にげんなりとしてきた。
﹁さすがにさっきの大きさはよう食わないけどな。これぐらいのサ
イズのも大味で美味くはなかったな﹂
とそう言って示したのは両手で抱えるほどの大きさだった。それ
を見てランタンは露骨に顔を顰めて、いっそ哀れむようにしてエド
1223
ガーを見つめる。
﹁なんでそんなものを食べたんですか﹂
﹁若い頃に食料の分配を失敗してなあ、他にも色々食ったぞ。基本
的には成虫より幼虫の方が美味い。蝶とか甲虫とかな。まあ揚げて
香辛料をかければ大抵のものはイケるんだが、百足は最悪だった。
虫系の大迷宮なんて行くもんじゃないな。物質系よりはましか。流
石に鉄やら石ころやらを食う気にはならん﹂
﹁じゃあカマキリは? カマキリは食べたことありますか?﹂
背後に最下層への霧を背負ったリリオンの問いかけには肩を竦め
るだけだった。けれど少女はそれだけで納得したようで、棒みたい
だものね、と最終目標の姿を思い出しながら鍋に牛乳を加える。も
し、美味かった、とエドガーが言えばこの少女は最終目標を食そう
としたのだろうか。色々なことに興味があるのはいいけれど、ラン
タンはこの子を飢えさせないようにしようと心に刻む。
﹁お、いい匂い﹂
﹁もうすぐできるわよ﹂
みるみるできあがるホワイトシチューを覗き込んでレティシアが
唸っている。お嬢様の仕事は雷による着火と、シチューにぶち込む
ためにベーコンをざくざくと大雑把に切ることだけだった。リリオ
ンはシチューと同時に厚切りのハムを焼いて、その脇で目玉焼きを
作っていたりもする。ランタンはランタンで今日の主食である黒パ
ンを少しでもマシなものにしようとガーリックトーストにしたりピ
ザトーストにしたりするものだから、それは大した手間ではないの
だがレティシアは衝撃を受けたようだ。
﹁ランタンも、できるんだな﹂
﹁ずっと一人でしてましたし。携行食でもいいけど、あんまり続く
と味気ないですし。あっちち、ああ直火って火力が判らないな﹂
チーズが溶けてふつふつと膨らみを見せたが、同時にパンの端が
黒く焦げた。ランタンは火からパンを取り上げて、パンに付いた小
さな火を吹き消す。リリオンが器にシチューをよそった。レティシ
1224
アはせめてこれぐらいは、と自分で持ち込んだオレンジをこっそり
と差し出している。
﹁シチューはいっぱいあるからね﹂
﹁おお、これは美味そうだ﹂
﹁そう、じゃないのよ。おじいちゃん﹂
﹁ははは、それは悪かった﹂
食事が配られるとエドガーは破顔して、レティシアは眉根に皺が
寄っている。
﹁難しい顔して食べると消化に悪いですよ。それともトマト以外に
食べられない物でも?﹂
﹁む、すまない。ちなみにトマトは嫌いなだけで食べられないわけ
ではないからな﹂
レティシアはそう言ってトマトソースのピザトースト齧りついた。
いかにも食べ慣れていないようでとろんと伸びたチーズに戸惑って
いる。ランタンがその伸びたチーズをスプーンで断ち切ってやると、
ようやく安心して口を動かす。
﹁美味いな。シチューも、甘くて美味しい⋮⋮﹂
そう言ってレティシアは令嬢らしからぬ大口を開けて食事を始め
た。それは肉食動物が獲物の首筋を食い破るのに似て、仕草は粗野
なように見えるがやはり気品がある。流石に口内に咀嚼物がある状
態で口を開けることはなく、ごくんと飲み込んでようやくレティシ
アは口を開いた。
﹁ランタンは、どれほどの迷宮を攻略したんだ?﹂
﹁さあ、数えてないので。それは調べなかったんですか?﹂
む
なんとなしに言った言葉をレティシアは当てつけとして捉えたの
か、食事に噎せるようにして黙った。そんな様子をランタンはもぐ
もぐと口を動かしながら見つめる。
竜の血を引いている、と言うのは真偽不明の伝説であるらしいの
だが、何となくそれを真実だと思わせる迫力のある美人である。だ
が先の濡れた瞳といい、このしょぼくれた横顔といい、どうにも竜
1225
の血という印象から想起させる豪快さとのギャップに戸惑いがある。
﹁お互い様ですから気になさらなくていいですよ。僕も皆さんのこ
と調べましたもん。大英雄エドガー様のことは尋ねずともみんな教
えてくれましたけどね﹂
エドガーの苦笑にランタンは肩を竦める。
﹁僕のこともっと調べといてくれたら思い出す手間が省けて楽だっ
たんですけどね。たぶん、︱︱四十には届かないぐらいだと思いま
すけど﹂
﹁一年足らずで、それか﹂
﹁小、中迷宮しかやってないですからね﹂
﹁それにしたって迷宮中毒と言う他ないな﹂
そう呟くエドガーの目には呆れと、無茶を許される若さへの羨望
がある。
ギルドの査定としては、一週間以内に攻略できると試算できるも
のを小迷宮、一ヶ月以内に攻略できるものを中迷宮、それ以上を全
てひっくるめて大迷宮としている。だが運び屋を伴わず、無意識的
に強行軍を組んでしまう癖のあるランタンはその試算よりもいくら
かも攻略速度は速い。
だがそれにしてもその数は異常である。
迷宮の規模や、あるいはそこで得た利益にもよるが普通の探索者
が一月に攻略する迷宮の数は平均して二以下であった。小、中迷宮
を一つ攻略したら、余程に体力に余裕があるかあるいは金銭的に困
窮していない限りは来月までは休暇である。暇を持て余してちょっ
とした小遣い稼ぎをするにしたって、迷宮へ行くのではなく各ギル
ドからの魔物討伐依頼や下街でチンピラを小突いたりして稼ぐので
ある。
そんなことを露知らぬランタンは無邪気にレティシアを困らせて
いた。
﹁レティシアさんはどれくらい?﹂
﹁え、私か、私は⋮⋮八つ、⋮⋮これで九つ目だな﹂
1226
それは少しばかり言い難そうでもある。
レティシアが探索者ギルド証を取得したのは司書からの情報が確
かならば十四才で、今から四年前だ。年間二つか、と思いもしたが、
そう言えばこの人の本業は貴族の令嬢であったとランタンは侮りを
反省する。
貴族の日常がどのようなものかは全く知らないが、時間を好き勝
手自由に使えるランタンとは違うのである。
色々なお勉強や人付き合いがあるのだろうなと思うと、ランタン
は想像しただけでその煩わしさに苦笑を零し、想像の中で膨らませ
た貴族の息苦しさにレティシアに尊敬と憐憫の混ざった何とも言え
ない視線を向けた。
﹁な、なんだ﹂
﹁凄いなあって思いまして。貴族と探索者の両立って、きっと大変
なんでしょうね﹂
リリオンに負けず劣らず無垢な眼差しとなったランタンに見つめ
られて、レティシアはしどろもどろになっている。貴族令嬢ならば
褒めそやされることに慣れていそうなものなのだが、それはもしか
したら照れているのかもしれない。竜と言うよりは蜥蜴かな。
蜥蜴が照れるかは知らないけれど、とそう思うとランタンの瞳は
邪悪さを帯びていっそう煌めく。
﹁ねえ凄いね。リリオン﹂
﹁うん、すごい。おいしい﹂
リリオンはもぐもぐと口を動かしながら、きらきらの瞳でランタ
ンに追従して頷く。少女は何が凄いのかはいまいち理解していない
ようだったが、ランタンの言葉を一つも疑わない少女の無垢さにレ
ティシアはいよいよ追い詰められていった。
﹁な、何を言っているんだ。まったくもう﹂
レティシアは勢いよくシチューを掻き込んで、恥ずかしがりなが
らもまんざらではない様子である。空元気なのかもしれないけれど、
取り敢えず眉間の皺が完全に消えたことにランタンは淡く口元を緩
1227
める。
食事を終えて一息吐けば最終目標戦である。当初ランタンとリリ
オンの二人での討伐を想定しての所に、大戦力であるエドガーとレ
ティシアが加わることとなって戦力的には余裕があったが、それで
もレティシアの調子が良くなることに越したことはない。精神状態
の良し悪しは、肉体の良し悪しにも往々にして結びつくものである。
ランタンはデザートであるオレンジを切り分けて最も大きいもの
をレティシアに、そしてリリオン、エドガーの順に渡してやった。
そして自分の物を半分食べると、残りをリリオンの口に放り込んだ。
﹁ちょっと酸っぱいですね。美味しいけど﹂
﹁あまり熟れている物より、これぐらいが好みなんだ。迷宮に長く
いるとどんどん追熟も進むからな﹂
﹁そんなに長く、⋮⋮って大迷宮を攻略したことがおありで?﹂
﹁ああ、今までに三つほど。内一つは完全に付いて行くだけだった
がな﹂
エドガーは様々な迷宮を攻略しているのだろうが、まさかレティ
シアが三つも大迷宮を攻略しているとは思わなかった。だからこそ
の九つか、とランタンは思わず本物の感嘆のため息を漏らした。
﹁大迷宮かあ、僕は行く気すら起きないなあ﹂
その言葉にレティシアとエドガーがぎょっとしてランタンを見つ
めた。レティシアが手の中で揉んでいたオレンジの皮が二つに折り
畳まれて、あたりに柑橘系の香りが広がる。リリオンはすんすんと
鼻を鳴らして、同じ匂いを自分の指にも見つけて喜んでいる。
﹁行く気すら起きないとは⋮⋮?﹂
﹁だって運び屋使わないですもの。流石に一人二人で持ち込める食
料なんてたかが知れていますし、蜘蛛を食べる気なんて起きないで
すし﹂
﹁ああ、そうか。そういうことなら︱︱﹂
﹁それに最短でも一ヶ月でしょ? そんなに長い間、お風呂入らな
かったら皮膚病になっちゃいますよ。ねえ?﹂
1228
ランタンはリリオンの汚れた唇を拭ってやりながら、流すような
視線を二人に向けた。レティシアはせっかく失った眉間の皺を再び
取り戻し、エドガーは困惑の表情を浮かべてランタンを見やった。
エドガーは一瞬レティシアに視線を向けたが、レティシアが固まっ
ているので再び視線はランタンに。
﹁ランタン﹂
﹁なんでしょうか?﹂
﹁竜系迷宮はことごとく大迷宮だ﹂
ランタンはリリオンの唇に指を触れさせたまま言葉の意味を理解
しかねるようにぴたりと動きを止めて、少女はその指をぱくりと口
腔に含んで指先を舌で突く。オレンジの味がする、とむにゃむにゃ
呟く。ランタンはその舌先を反射的に摘まんだ。すると口腔に唾液
が溢れる。少女はそれに溺れるように名を呼んだ。
﹁りゃんたん!﹂
﹁なに?﹂
摘まんだ舌を開放してやると、少女は溜まった涎をごくんと飲み
込んだ。
﹁ほら、前に言ってた、あれよ。おふろの形の荷車を持っていきま
しょ!﹂
リリオンはさも名案であるようにそれを告げて、ランタンは思わ
ず、まさしくその通りだ、と頷いた。
そして暴走する二人に対して、止める術を持たない二人は互いに
目配せをし合い代案を探すのだった。
1229
082 迷宮
082
レティシアは少し泣き虫で、リリオンは甘えん坊で、ランタンは
綺麗好き。じゃあエドガーは、と言うとこれはもう鬼なのではない
だろうかとランタンは思うのである。
フラグ
ぴりぴりと肌が痺れる。
最終目標。
ヘルマンティス
それは亜人探索者たちが語ったとおりに象牙に似た白色の外皮を
持ち、風精魔道を操る雄の死神蟷螂であった。びびび、と忙しなく
翅を震動させて飛翔し、逆三角形の小さな頭部に熟れた木苺のよう
な複眼が飛び出している。
蟷螂は横壁を切り裂くようにぐるんと飛翔し距離を取ったかと思
うと、天井に降り立って逆さまに張り付つく。無機質な複眼がじっ
と見下ろすのは四人か、それともたった一人の老人か。
二対四本。円に近く深い弧を描く鎌は薄く鋭い。だがそこに脆さ
はなく、反射する光が鈍いせいか金属的な重量を感じさせる。
染みついた人脂に曇るような物騒な光が、鎌が振るわれる度に宙
に浮き上がった。
四人は戦闘準備万端に蟷螂を見上げている。本来ならば鎌から真
空刃をばらけさせるために散開するべきなのだろうが、エドガーを
先頭に四人は一纏まりになっていた。
まあ見ていろ、と言ったエドガーに逆らえる者は一人もいない。
そこには例えばランタンがリリオンに向けて言う気負いのような
気配は当たり前になく、ランタンは何だか少し恥ずかしい気持ちに
なった。レティシアもリリオンも、素直にその背中に入るものだか
ら恥ずかしさは更に増す。
1230
けれど一度エドガーが動けば、そんな恥ずかしさなどあっという
間に忘れてしまった。
英雄の背はしゃんと伸びていて、だがリリオンほども痩せている。
腰の左右に佩いた四刀の一振りをすらりと抜いて、ゆったりとした
脇構えに。
右下から左に切り上がる一刀は風を受ける白鷺の羽ばたきに似て
悠然としている。
それは大蜘蛛を斬った抜き打ちよりも、もっと、もっと。
﹁遅い⋮⋮?﹂
その呟きが空気に溶けるほどに。
だがエドガーの斬撃は、十重二十重に降り注ぐ真空刃を一太刀の
もとに切り払い、微風の一撫でも後ろに通すことはない。ランタン
はその不可解さに蟷螂から視線を外し、英雄の剣線、そしてその背
中に視線を囚われた。
エドガーが身に付けている外套が邪魔だ、と少し苛立つ。
長身痩躯はリリオンと同じ。長い腕と長剣の射程も殆ど同じ。細
身の竜骨刀は大剣よりも倍は軽く、剣線の荒々しさは更に倍も少な
い。
ひとところ
静かな剣だ、と思う。
真空刃が迫る。一所に集まっているために、真空刃も一カ所だけ
を狙っている。だが真空刃は連続して放たれるのであって、僅かな
がらに時間差がある。
おおむかで
先頭に無色透明の獰猛な刃が一つ。そしてその奥に連なる大気の
断層は、まるで色のない大百足が牙も百の足も目一杯に広げて襲い
かかってくるようだった。
瞬きを忘れる。きっとリリオンも。見慣れているのかも知れない
レティシアも、また。
竜骨刀の白刃は光を返さぬ深い白。鋒が滑り出す。大百足はもう
目の前に。
踏み込みは軽く、竜骨刀の出だしの遅さは真空刃を引きつけるた
1231
めで、剣線が遅く見えるは一閃して全てを切り裂く最短を通るが故
の余裕そのもの。斬られて霧散する大百足は悲鳴を上げることもな
く、ランタンは感嘆のため息を漏らすことすらできない。
爆発を用いれば一動作で真空刃を霧散させるという結果を真似す
ることはできるかも知れないが、その過程に至ることは果たしてど
うか。なるほど今ではジャックの説教の意味がよくわかる。ランタ
ンは唇がむずむずするのを感じた。それは笑みか、それとも。
これは探索者の頂の一つである。
﹁ふむ、最終目標にあるまじき臆病さよな﹂
天井から駄々子のように鎌を振るい、降りてくる気配を見せない
蟷螂にエドガーが呟いた。
臆病にもなるだろう。蟷螂が降りてこないのはエドガーが怖いか
らに他ならない。虫に脳があるのかは知らないが、小さな頭部の真
ん中に収められた本能がはっきりと隔絶した力の差を感じ取ってい
るのだろう。エドガーはそんな蟷螂に、そして背後の三人に向かっ
て呟く。
﹁落とすぞ﹂
一刀。
ただ風を受けて浮力を保つような穏やかな羽ばたきが、その瞬間
に地から飛び立つ竜の羽ばたきへと変じた。
無音の一刀が音を纏う。
ざん、と真空刃を叩き斬った一閃は鋒を地面に触れるすれすれに
止めるも力の余波が亀裂を生み出した。しかし恐るべき一刀は、た
だ一歩の踏み込みに付随する要素に過ぎない。
足を踏み鳴らすついでに真空刃を斬った。ランタンの頬が子供の
ように笑み、三日月に開いた唇から白い歯が零れる。すごい、と無
邪気な一言にリリオンが思わずランタンに視線を向けた。
右足の踏み込み。震脚ですらないただの一歩に、体重を倍にして
足らない重みが乗った。剃刀で切ったような亀裂が、踏み込みによ
って砕けて生まれた罅に飲み込まれ、それは放射状に広がってまる
1232
で獲物を待ち構える蜘蛛の巣のように蟷螂を追い詰める。
どん、と最下層が縦に揺れた。
それは錯覚だ。英雄から放たれ重圧が見せる幻である。だがそれ
でもリリオンは小さく悲鳴を漏らして咄嗟に腰を低く構え、レティ
シアさえも身体を硬くした。ランタンも反射的にリリオンを庇うよ
うに動き、驚いたのは英雄以外の誰も彼もだった。
蟷螂は真空刃を放った姿で、それはまるで恐怖で己を抱きしめて
いるようだった。蟷螂は空間を満たした英雄の戦意から逃れるよう
に翅を広げる。素早く後ろに飛んで、全ては英雄の意の中にある。
左の手。その四指三股の間に挟まれた六つの打剣は、最下層突入
前にランタンが頼まれて貸した物だ。この重さでは牽制にしかなら
んな、などとどの口がそんなことを言ったのか。
ああもうやっぱり外套が邪魔だ、とランタンは英雄の投擲に目を
凝らす。ランタンのように大げさに身体を捻らない。それはまるで
野良猫でも追い払うような軽い手首の反し。
それが生み出したのは天に昇る流星である。
これも錯覚なのだろうか。それとも本当に大気の摩擦で赤熱して
いるのか。赤尾を引き昇っていく六つの打剣は、あっという間もな
く蟷螂へと到達し、その広げた翅を食い破るだけでは物足りず物凄
い轟音を残して天井深くに埋まって消えた。
打剣が地上まで到達していても驚きはしない。
翅に絡みつく毛細血管にも似た燐光が、そこから水銀が溢れるか
のような残光を引いて、やがて光を失った。光に透ける銀板彫刻の
ようだった蟷螂の翅が、たった六つの打剣で見るも無惨な有様に。
ひゅるりひゅるりと音を巻いて蟷螂が落ちる。痙攣するような翅
の動きは流石最終目標か。普通の魔物ならば打剣の抜ける衝撃に絶
命は必至であるが、死神蟷螂は歪ながらも体勢を立て直す。翅で浮
力を生み出すことは不可能と察するや、それを畳み、纏った風精魔
道が落下の衝撃を和らげた。
﹁さて、相手は手負いとはいえ最終目標。俺はもう疲れたから、三
1233
じじい
人とも手伝え。老人をあまり働かせるな﹂
﹁だっておじいちゃんが⋮⋮﹂
﹁見ていろと言ったのは貴方でしょうに﹂
二人揃って不満を口に出すと、エドガーは空惚けるようにして皮
肉気な笑みを口元に浮かべた。そしてそういったエドガーの気性を
把握しているレティシアだけが、英雄の言に素早く身体を動かす。
左の手、揃えた二指が身を翻そうとする蟷螂に狙いを定めた。
紫電一砲。鎖状の雷光が迸り、貫かれた蟷螂は感電し、まさしく
鎖に絡め取られたかのように身悶える。そしてその雷光を追うよう
に英雄がランタンたちから視線を蟷螂へと流す。その動作はまるで、
行け、とただ一言に唆すようでランタンは子供っぽい反骨心を抱い
たものの、気が付けば既に駆けだしていた。
ああもう悔しいな、と思うのは喜びなのかもしれない。
リリオンは既に先。それは二人の素直さの差であり、遊びに駆け
出すかのような足取りのリリオンをランタンは追いかける。少女を
追い越すよりも先に、援護に放たれる雷光に追い越された。
蟷螂は感電の鎖を引き千切り、纏った風の鎧が雷光を減衰させる。
ランタンは爆発を用いて加速して、抜かされたリリオンがあっと声
を上げた。追いてかないで、と引かれる後ろ髪を意識的に無視し、
思考を埋めるのは英雄の一歩である。
エドガーの重心移動はどうだっただろうか。
経験則として身についた己の身体の使い方が一瞬にして崩壊し、
英雄の動きの再構築を試みるも何だかよくわからなくてランタンは
獣のように唸るやいなや、そもそも重心移動って何だっけ、ああも
うよくわかんないや、と一秒もかからずに真似事を諦める。
くすぶる苛立ちを先端に乗せるようにして、肩からぐるんと回し
た縦振りの一撃は純然たる力任せに他ならない。風の鎧をぶち抜い
た一撃を蟷螂は鎌を交差させて受け止める。巡る衝撃に蟷螂の足元
が陥没し、下段の鎌の胴薙ぎをランタンは危機感とは無縁そうな目
付きで見つめた。
1234
追いついたリリオンがランタンの足元の隙間に滑り込ませるよう
に大剣を切り上げ、鎌を受け止めた。バチッと散った火花に炙られ
る。
ランタンは鍔競る戦鎚を更に押し込み支点として一回転するよう
に爪先を蹴り上げる。蹴りが棒状の胸部を直撃し、吹き飛んだ蟷螂
を雷光が追い、一撃目が直撃すると立て続けに二条の光がそれを貫
く。
声もなく痙攣した蟷螂にリリオンが獣のように駆ける。風除けに
盾を前に突きだして、右の肩に大剣を担ぐ。重心はその鋒か。少女
の体重移動は何とも危なっかしく、それはエドガーの残影が目の前
にちらついているからなのだろう。まるで顔面からすっ転ぶかのよ
うに見えた。
泳ぐように盾を脇に流し、力任せの切り落としはまさしくランタ
ンの縦振りと同種の物だ。無防備な蟷螂の身体に刃先が埋まる。硬
質な外皮を切り裂く一撃は、しかし両断には至らない。骨もないだ
ろうに肉の半ばで大剣は止まり、青い血が溢れるとそれに押し流さ
れるようにリリオンの身体が前に滑る。
﹁ええいっ!﹂
甘い裂帛。
背後にまで流れた盾を引き戻し、つんのめるに任せてリリオンは
真横に振り抜いて蟷螂を殴りつけた。銅鑼を打ち鳴らしたような強
烈な音が響き、腕を振り回して暴れる子供そのもののリリオンは蟷
螂の懐にいた。
位置が深すぎる。打点をずらされた感覚など無いだろうが、蟷螂
は腕を畳んで盾の一撃を防ぎ、傷口から噴いた血も何のその、根を
張ったように微動だにしなかった。飛び出た複眼は何の感情も表さ
ず、ただ命を刈り取る死神そのものの無表情さでリリオンを見下ろ
す。
襤褸翅は差し詰め死神の衣か。
翅が広がり、それはリリオンを包み隠し退路を塞ぐ。覆い隠され
1235
る瞬間にちらりと覗いた蟷螂の相貌は、裂けるように醜悪な顎門を
開いた。ランタンは駆け、追い越していった雷光はリリオンへの飛
び火を恐れたのか翅の表面を滑るだけだった。
爆発はリリオンを巻き込むだろう。
ランタンは蟷螂に肉薄すると跳躍し、飛び越えざまに翅の隙間に
戦鎚をねじ込んだ。鶴嘴が大型海生哺乳類を吊り上げる釣り針のよ
うに蟷螂の口腔に突っ込まれて上顎を貫通する。そのまま首を引っ
こ抜くようにランタンは蟷螂の背後へと降り立ちたかったが、持ち
前の身の軽さがそれを妨げる。
蟷螂は鶴嘴が深く突き刺さることも厭わず顎を引いた。
小さい頭部と棒状の胴体。その繋ぎ目の丸い首節は左右には三百
六十度以上旋回したが、上下角はその半分以下。
だが遠い。
流れる視界の中。翅の隙間から俯くリリオンが、そして竜骨刀を
構えるエドガーが。
扇ぐような一撃。斬った。蟷螂の左半身。翅腕脚の一切が上から
下に音もなく断ち切られて、抵抗すら感じさせないその一刀はけれ
ど戦鎚を通して重い衝撃をランタンにもたらした。
引き戻される。蟷螂の身体を杭として、大木槌でそれを打ち付け
たかのような衝撃がランタンの腕に弾けた。
﹁ぎ﹂
戦鎚から指に。指から手首に。そして肘、肩と。関節の全てを挫
くかのような重み。掌に柄が食い込んだ。ランタンが取り落とさな
いように必死にそれを握り込み、視界の端では再びエドガーが上段
に構えている。
なんで、と思わず思う。
首を両断しろとは言わない。ただちょっと切れ目を入れてくれる
だけで良い。そうすれば後はランタンの体重でも蟷螂の首を引き千
切ることが可能である。なのになぜ。その一刀は残った翅も切り落
とし、ランタンはただ必死に柄を握り込むことしかできなかった。
1236
音もなく、翅は薄布のようにはらりと地へと、そして遅れてやっ
て来た衝撃は腕を引き千切るかのようである。
ランタンはもう怒れてきてしまって、ふつと湧いた感情に身を任
せて腕を引いた。自由落下は既に失われ、押し合い圧し合う力の反
発でランタンは中空に縫い止められているも同然である。もう知ら
ない。腕が痛かろうと知ったことではない。
リリオンもそんなランタンの感情に呼応したのか、翅の檻から開
放されると俯いていた面を持ち上げてそこにはぎらりとした瞳があ
った。
懐に入ると大剣やそもそもの腕の長さが不利になる。無理に腕を
伸ばそうとはせず、肘を畳み脇を締める。大剣は逆手に持って、使
うべきは刃ではなく柄の先だ。肘打ちの要領で小さな弧を描き、柄
頭が跳ね上がった。ランタンに対抗して首を引く蟷螂の顎をかち上
げた。どうだと言わんばかりの微笑みが見えた気がした。
ランタンにとって望ましい方向に衝撃が抜けて、少年はいよいよ
感情を燃やした。
だと言うのに。
全力で首を引き抜いてやると思ったのは、八つ当たりも同然であ
る。
だと言うのに。
これではまるで格好が付かない。
﹁放すなよ﹂
エドガーがランタンの首根っこを引っ掴んだ。
木の枝から降りられない子猫にするように。ひょいっと、軽々と。
ランタンの心の内などまるっきり無視して。
骨張ってかさついた指。掌に鱗のように固くなった胼胝がある。
それは老人の手。だと言うのに何という力の強さか、ランタンは一
瞬前まで感じていた苛立ちが萎え萎んでしまったかのような感覚に
囚われた。触れることで目に映した時よりもいっそうに力の差が思
い知らされた。
1237
この戦場は、徹頭徹尾エドガーの思い浮かべたものだったのかも
知れない。
ランタンは身体の主導をエドガーに奪われたことを自覚する。抗
う気力が零だったわけではないが、おそらく身を任せた方が正しい
のだと感覚的に悟っていた。だが悟っていてもやはり少しだけ恐ろ
しい。ランタンはきつくきつく戦鎚を握る。
﹁な﹂
にを、と二音が声にならない。
ランタンは力の奔流に振り回された。視界が一気に地面へと接近
して、顔面がそのまま叩きつけられるのかと思ったがやはり抗うこ
とは許されない。精神は中空に縫い止められたままで、ランタンは
子猫のごとき無力さの己を俯瞰している。
子猫ではない。意思は既に無く、それは水袋に等しい。
激流である。
小さな身体の中で激流が荒れ狂っていた。皮膚の下で肉と言わず
骨と言わず全てが液体となって、それら全てが身体の端に寄ってい
る。あれこれはもしかして、とランタンは妙に冷静で、よもやこれ
は英雄の一閃そのものなのではなかろうかと思うのである。
力の流れは荒れ狂っているようで、そうではない。力の大きさに
驚いてそう思ってしまっているだけで、力は単純に一方向へと突き
進んでいる。
僅かな力の淀みはランタンが生きているからで、これが竜骨刀な
らば無駄の一つもない一撃が完成する。
強く握った手の中で戦鎚が存在を示す。蟷螂の首が限界角度に近
くなり、力の行方を遮ろうと抵抗を増した。だがそれが無駄となっ
た瞬間に抵抗が失われて、力の抜けるその感覚にランタンの精神は
肉体へと戻る。
生木を折ったような、生々しい音を聞いたような気がする。
白日夢を見ていたようだった。夢から覚めた。
一秒どころではない。その半分の、半分の、半分にも満たない時
1238
間の中で知覚した情報にランタンは溺れた。皮膚を突き破らんばか
りだった力の流れは、身体の内側に当たると百億の飛沫を迸らせな
がら、渦のような引き波を生んでランタンは本当に溺れたように呼
吸を思い出す。
顔面が地面にめり込むこともなく、首を掴まれて浮いた足が揺れ
ている。爪先がようやく地面に触れて、ランタンはぽいっと放され
るとそのままぺたんと座り込んで瞬きを一つ。
戦鎚の先には蟷螂の頭が一つ。背後には首のない蟷螂の死骸が一
つ。寄生虫も出てこない。レティシアは剣を収め。リリオンが駆け
寄ってくる。エドガーは楽しげにランタンを見下ろし、戦いが終わ
り、迷宮核が顕現し、あるべくしてやはりある魔精酔いなどランタ
ンはまったく感じなかった。
じとりと湿る掌と、ドキドキしている己があるばかりだ。
最下層で一休みして迷宮口直下まで戻った。あとはミシャを待つ
だけである。
一休みしても昂揚は失われずに帰路の足取りは軽かった。だがミ
シャを待つ二休み目には流石にランタンも冷静になるのである。
﹁むう﹂
昂揚が去ると疲労が訪れて、そうなると冷静になったランタンは
子猫のように振り回されたことに不満を思いだして、子供同然にむ
くれる。形の良い唇を歪めてエドガーを見上げるさまはまるっきり
爺と孫の図であった。
掻き回された精神はランタンを年相応の子供へと戻したのかも知
れない。あと一瞬、珍しいものを見たとでも言うようなリリオンの
視線がなければランタンは頬を膨らませる愚行に至っただろう。ラ
ンタンは鼻から吸った息を吐き出すために唇を解く。
吐き出されるのは息ばかりではない。
1239
﹁どうしてあんなことをするんですか?﹂
﹁いや、勢いが足りなかったろう、あれでは。ちゃんと飯食ってい
るか?﹂
﹁食べてますよ。蜘蛛よりもマシな物を﹂
﹁じゃあ量が足らんのか﹂
﹁⋮⋮食べ物の話ではありません。おじいさまならもっと上手くや
れたでしょう。何もあんな乱暴にしなくたって良いじゃないですか﹂
﹁英雄の戦い方が見たいと言ったじゃないか﹂
﹁言っておりませんが﹂
﹁そうだったか?﹂
エドガーは髭のない顎を揉んで、レティシアに視線を送って確認
を取っている。釣られてランタンも視線を向けると、レティシアは
事実を伝えるよりはどちらに味方をしようかと迷っているようにも
見えた。凜々しい眉の後端が下がっていて、これでは味方になって
もな、とランタンはリリオンに視線を向けた。微笑みは甘く、少女
の眉も垂れ下がる。
﹁言ってないよね、リリオン﹂
﹁うん、ランタンは言ってないよ﹂
味方にするならば勢いのあるものが良い。
﹁⋮⋮碌な大人にならんぞ、お前﹂
エドガーは言葉を言った言ってないはさておいて、ランタンに苦
言を呈する。それはもしかしたら己の過去を振り返っての言葉であ
り、そこには何ともほろ苦い響きがあった。だがランタンはよくわ
からないので小首を傾げ、リリオンがそれを真似るのでエドガーは
呆れて笑うしかない。
﹁まあ言葉があったかどうかはさておいて、エドガーさまも何かお
考えがあったのだろう﹂
見かねてレティシアが間に入り、ランタンとリリオンの二人の頭
の傾きを正した。相も変わらず二人に見つめられるとレティシアは
少しばかり怯えるような気配を見せる。それを見てランタンの頭は
1240
再び傾こうとするが、いい加減にどうしようもないのでレティシア
は怯えながらも頭をそっと支える。
﹁んふふ﹂
ランタンが小さく笑う。からかわれたことに気が付いたレティシ
アが生首を放り投げるようにしてランタンを手放して、良い物を拾
ったとばかりにリリオンが胸に受け取った。
﹁ではおじいさま、レティシアさんのありがたい案を採用するとし
て。その、何か、と教えて頂けますか﹂
﹁ううむ、そうだな。しいて言えば予想が外れた。お前はもう少し
我が儘かと思っていたのだが﹂
﹁⋮⋮我が儘に見えますか、僕?﹂
さも不服そうな顔をするランタンは、頭をリリオンに抱えられて
されるがままにしている。
﹁ああ見えたな。あの犬人族、︱︱名前を聞くのを忘れたが﹂
﹁⋮⋮ジャックさん、ですか?﹂
﹁たぶんそれだが、あれと一緒に岩蜥蜴と戦ってたろ。あの時はも
っと我が儘だった。見ていろ、と言って大人しくしているようなタ
マではないと思ったのだが﹂
﹁︱︱だっておじいさまが凄いから﹂
そう言ったランタンはそれ以外に告げる言葉を持たないので、エ
ドガーからの返答をじっと待った。当のエドガーは憧憬の視線も言
葉も飽きるほどに受け止めたことがあるというのに、少年の視線に
射貫かれて思わず表情を困らせた。
エドガーは若々しい仕草で腰に手を当て、顔を項垂れると溜め息
を吐いて、それから早く地上に戻りたいとばかりに迷宮口を仰ぐ。
そこには濃く白い霧が立ちこめているばかりだった。視線がランタ
ンに戻される。言葉を待つ少年は確かに我が儘さとは無縁な従順な
雰囲気があった。
﹁借りて良いか?﹂
エドガーが尋ねたのはリリオンで、少女は少し迷ったあとにこく
1241
りと頷いた。開放されたランタンはエドガーに首根っこを引っ掴ま
れる。昨日の戦闘を思い出してランタンは少しばかり震えたが、結
局の所は振り回されるだけで何か危害を加えられたわけでもないの
で肩の力をゆっくりと抜いた。
必要なものは脱力である。
﹁振り回したのは悪かった﹂
エドガーが言うと、ランタンは掴まえられながらも首を横に振っ
た。
﹁いいえ、おかげで身体の使い方のなんたるかを知りました。ほん
の少しですけれど﹂
﹁え、ずるい! わたしも知りたい!﹂
﹁ふふふ、あとで教えてあげるね。上手く教えてあげられるかわか
ふかつ
らないけど、もう少し優しくはするから。それとも振り回されたい
?﹂
﹁ええー、どうしようかな﹂
二人のやり取りの継ぎ目に、エドガーが口を挟む。
﹁身体の使い方を知るだけじゃあ、まだ足りない。ランタンは賦活
薬、いわゆる肉体活性薬なんかはあまり使わないんだよな﹂
﹁はい﹂
﹁持続型も即効型も色々あるが、あれは体内にある魔精を強制的に
活性化している﹂
﹁らしいですね﹂
﹁強制的というのはつまり己の意識で制御できないと言うことで、
戦闘中にそれはあまりうまくない。薬が切れると揺り戻しもあるか
らな﹂
けれどそれでも肉体活性薬が探索者の必需品であるのは、それだ
けの効果を有しているからに他ならない。
﹁ランタン。お前には身体の中にある魔精を意識してもらう﹂
﹁制御しろ、と?﹂
﹁できるものならな。まずは意識できるようになるだけでいい﹂
1242
首根っこを掴まれたままのランタンは強い反骨心を背中に向ける。
前に立つリリオンの瞳に映ったエドガーが唇を歪めた。リリオンが、
わたしも、と手を伸ばしランタンは少女に腰を屈めるように促して、
目の前に降りてくる唇を指で塞いだ。
﹁ぶう﹂
リリオンが唇をへの字に曲げたので、ランタンは手招きをしてエ
ドガーを真似てその首根っこを掴まえた。筋肉の凝りを解すように
揉んでやると途端にふにゃりと力が抜ける。
﹁お、リリオン上手いぞ。ランタンもあれぐらい力を抜け﹂
﹁⋮⋮抜いているつもりですが﹂
﹁つもり、だと痛いぞ。私の時は、︱︱⋮⋮兄に手を握ってもらっ
たな﹂
レティシアが、身体を揺らして脱力を表現しているランタンに向
かってそう言った言葉には湿っぽい懐かしさがある。けれどランタ
ンはそんなことよりも、痛いことをされるのか、と思わず身を固く
した。エドガーが苦笑したのが掴まれた首から伝わってくる。
﹁まあいいや。痛いのは我慢しますので、どうぞお好きに︱︱﹂
諦めと共に言う。するとリリオンが手の中から抜け出して、くる
りと反転してランタンを見つめた。口元にある笑みは何かしらの企
みが露わだった。
﹁えいっ。うふふ、これでどうかしら?﹂
エドガーに捕らえられて身動きが取れないことを良いことに、リ
リオンはランタンを胸に抱きしめて離さない。
薄い柔らかさの奥に骨があり、その更に奥には心臓の鼓動がある。
少女の体温と、汗の匂いがある。
そして人目もあって、ランタンには羞恥がある。恥ずかしさは緊
張と同意だ。
﹁お、良いぞ﹂
だと言うのにエドガーは褒める。うそだあ、とランタンは口を開
くこともできないほどに抱きすくめられて今にも窒息しそうだった。
1243
リリオンの体温は高い。それよりもエドガーの掌が。
何をされるのか。まさかリリオンと一緒くたに振り回されるのか。
ふかつ
しかしこの位置では横壁に身体が叩き︱︱
賦活。
エドガーの手が離れる。熱はまだそこにある。
﹁んう︱︱﹂
声にならない。
それは妙な感覚だったし、馴染みのある感覚でもあった。熱いよ
うな冷たいような。興奮している気もするし、果てなく冷静である
ような気もする。全身の細胞の一つ一つが把握できるような自己認
識と、同時に感覚が肉体から抜け出して自分を他人事のように俯瞰
する曖昧さ。
匂い。
すぐ傍にあるリリオンの匂いが薄い。レティシアからは少し濃く、
エドガーからは噎せ返りそうなほどの。それは体臭ではない。死臭
でもない。それはむしろ。これは迷宮の匂いに似ている。迷宮の匂
いって何だろう。
うるさい。
五月蠅すぎて、静寂の中に放り込まれたような耳鳴りがする。心
臓の鼓動は自分のものか、それともリリオンのものか。あるいはこ
れは迷宮の音か。迷宮の音って何だ。
﹁ランタン﹂
ランタンは少女の胸の中で無言で喘ぎ、無力な赤子のように少女
の身体に全てを預け、離れがたく背中に爪を立ててしがみつく。も
たらされた僅かな痛みを感じ取り、リリオンがうっとりと瞳を潤ま
せる。少年の髪をくしゃりとかき寄せ、いっそう強く抱きしめた。
﹁ランタン﹂
熱っぽい声は少女らしからぬ色気があった。
見ていられないとばかりにレティシアが視線を逸らしたことに二
人は気付かず、エドガーは深く眉間に皺を寄せて己の掌をじっと見
1244
つめた。
1245
083
083
時間が這うようにゆっくりと流れている。澱んだ空気が肌に馴染
むほどに。
﹁ランタン、ランタン﹂
﹁んー、なに?﹂
ランタンはベッドの上で骨抜きになったかのようにだらけている。
寝起きというわけでもなかったが、心なしか表情が眠たげで幼い。
それは寝衣のせいもあるのかもしれない。
身に付けている寝衣は締め付けのない襟元や袖口のゆったりとし
た貫頭衣で、リリオンと揃いのようにも見える。だがそれはリリオ
ンがお揃いを望んだものではなく、ランタンが迷宮から帰る道すが
らに発作的に購入したものだった。
剥き出しになった二の腕と、妙に柔らかそうな生足にリリオンの
視線が吸い寄せられていた。いつもはズボンに覆われていて、風呂
しっか
の時ぐらいにしか晒されることのない太股は日の光を知らないよう
な青白さを放っている。特に皮膚の薄い膝窩には薄緑の血管がぼん
やりと透けていた。まるで茨に絡み取られるように。
﹁ねえ、大丈夫?﹂
リリオンは滑らせるように視線を移し、心配そうにランタンの顔
を覗き込む。そして放心したように脱力しているかと思うと、ふと
くだ
むずがって身体を動かすランタンを撫でる。そこには落ち着かせよ
うとする意図もあったが、気が付けば撫でる手は下へ下へと下って
いく。
﹁さっきからそればっかりだね﹂
されるがままにそんなことを言うのだから、そればっかり、にな
1246
るのも仕方はない。
横様になっているランタンの身体をリリオンは撫でる。薄布の下
に華奢な肉体があって、リリオンは寂しげに結んだ唇を震わせる。
言おうか言うまいかの逡巡を一間置き、リリオンは舌で唇を割った。
﹁ねえ、ランタン。ご飯食べよう?﹂
迷宮から帰っては失われた体重を取り戻すかのような食欲を見せ
るランタンは、けれど帰還して口にしたのは水ばかりである。食事
の用意を済ませリリオンが食事をする様を見届けるだけで、ランタ
ンはなにも手を付けなかった。
食べないの、と聞いても、お腹空いてないから、の一言で済まさ
れてしまう。その時はそれで納得をしたが、流石にこれでは良くな
いと思う。腹ばかりではなく、今は柔らかい太股も痩せてしまうの
ではないかと思う。
﹁ねえ﹂
﹁うん﹂
リリオンの提案に少年は頷くが、ただ頷いただけで食事を取ろう
とする気配はない。リリオンは肋骨を奏でるように撫でて、そこか
ら指が滑り落ち、触れた脇腹から悲鳴を聞いたような気がした。ラ
ンタンはやはり空腹なわけではないのだ。
心配だけれど、腑抜けているランタンはちょっと愛しい。
﹁じゃあ、お水飲むのよ。ね?﹂
水筒を口元に持っていくと、ランタンは唇を開き、重たげに顎を
持ち上げ、唇の先で啄んだ。ほんの浅く傾けて水を流し込むが、唇
の端から少し零れる。リリオンはそれを拭い取ってあげるのだ。頬
から唇に指を滑らせると、そことの手触りの違いに今更ながらに気
が付いた。
頬はすべすべで、唇はしっとりしている。水の指を刺すような冷
たさの奥には、熱っぽい体温があった。
﹁ランタンの身体、ぽかぽかしてるわ﹂
リリオンは濡れた指をベッドで拭い、そっと少年の太股に触った。
1247
そしてランタンの顔を覗き込んで、やっぱり少年は何も言わないの
で、その掌を遠慮がちに動かした。そしてまた顔を覗く。もうちょ
っといいのかな、と大胆に手を動かすと、ついにぺちんと叩かれた。
﹁やめなさい﹂
﹁うん﹂
少女は頷いたが、そこは少年と同様に口だけである。ランタンは
嫌がると言うよりは擽ったがって俯せになり、リリオンは尻を隠す
裾を本当に怒られるぎりぎりまで捲り上げたりもするのであった。
リリオンの肌も白かったが、少年の肌もまた別種の白さを持ってい
る。
リリオンは何だかもやもやした。
目の前に美味しそうなものがあった時、空腹であるけど食べない、
と言う選択肢はないと少女は思う。
﹁えい﹂
噛み付くみたいに太股を鷲掴みにすると肉が揺れた。痩せていた
がほんのりと脂肪があって、けれどむしろ柔らかいのはその下に隠
された筋肉である。リリオンは思わず自分の太股と少年の太股を揉
み比べる。皮膚と脂肪層と筋肉と骨。構成するものは同じはずなの
に、何か違う。
ランタンの筋肉は指を押しつけるとどこまでも沈むようで、それ
でいて抵抗がないわけでもない。リリオンは密度というものを感覚
的にしか理解していなかったが、何だか自らの肉体がスカスカなも
ののように感じた。
えへへ、とリリオンはその肉の柔らかさを弄ぶ。
﹁くすぐったいよ﹂
手から逃げるようにランタンは今度は仰向けになって、さっと捲
れた裾を直した。その仕草がむしろ誘っているように感じ、リリオ
すね
ンは性懲りもなく手を伸ばす。膝立ちになってのそのそとランタン
の臑を跨ぎ、片手をベッドに突いて身体を支え、もう一方が少年の
内股を。
1248
﹁ふえ﹂
ベッドの上に度重なる寝返りによってシーツが襞を作っていた。
それは白い波頭のようで、ランタンは静かに忍び寄る波のように少
女の足を浚った。
ランタンの臑に接地する膝を押され、ベッドに突いた手はシーツ
の襞を払うに引き摺られて滑らされた。リリオンはあっという間に
体勢を乱されて、それを矯正しようと慌てて腹筋に力を入れる。だ
が内股に伸ばした手がいつの間にか掴まれていて、少年に引き寄せ
られると丸めた腹筋が抵抗虚しく伸ばされる。力が三方向に散らさ
れて、そうなるともう体勢を立て直すどころではない。
﹁大人しくしろ、もう﹂
悪さをする腕を封じられ、未練がましく絡みつきたがる脚は少年
の太股に捕らえられて満更でもない。リリオンは全く身動きが取れ
なくなったが、しかし不満の一切はあろうはずがない。
﹁へへへへ﹂
リリオンはだらしなく笑う。
リリオンを抱き枕としたランタンはぼんやりと眠たそうで、少女
の鳩尾辺りに顔を埋めながら額を擦りつけるように頭を揺らしてい
る。だぼっとした襟元から覗く首筋がほんのりと桃色だ。
うなじ
それはただ火照っているようにも見えるし、あるいは人の手形の
ようにも見える。
﹁ランタン、首さわってもいい?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁さわるだけだから﹂
片腕だけ解放されて、リリオンは少年の項を撫でる。
熱い、のだと思う。リリオンはしばらくそこを撫でてやり、気が
付けば胸元に手を伸ばしていて再び腕を封じられた。
﹁もうしないから、ね﹂
その言葉は信じてもらえない。
ちょっと鎖骨に触っただけじゃない、とリリオンは開き直る。
1249
エドガーに活を入れられたその時から何だか落ち着かない。
魔精の活性化、とエドガーは言っていたような気がする。こんな
ことならやる前に説明してほしかった。落ちつかなさのせいで、色
々説明をしてくれたような気もするがあまり覚えてはいない。聞い
たところで、どうだという気もする。
ランタンは今まさに身の内でのたうつこの感覚に既視感を覚えて
いた。
それは戦闘の昂揚に似ている。殺戮によって戦鎚を振るうその時
に、魔物の苦悶がはっきりと目に見える時がある。絶体絶命に追い
詰められた時、魔物の愉悦をはっきりと感じられる時がある。そう
いうものだ、と勝手に納得していたが、これこそが魔精による肉体
活性なのだろう。
精神が研ぎ澄まされるのはただ肉体の作用ではなく、同時に魔精
も反応しているのだと今更ながらに理解した。いやあるいは、まさ
に身に染みたと言うべきだろうか。なるほど探索者が肉体活性薬を
服用するのも頷ける。
鋭敏化された感覚は行き過ぎてこそ魔精酔いを引き起こすが、落
ち着きつつあってちょうど良い具合になると何だか鳥になった気分
だった。エドガーに振り回された時もそうであった。全体を俯瞰す
るような、鋭敏化された感覚は、目が良くなったとか耳が良くなっ
たとかそういった類いのものではなく、知覚器官そのものが肉体を
飛び出して広がっているようだった。
その感覚は万能感と呼び変えてもいいのかもしれない。
リリオンの肌は出会った頃と比べると見違えるようであり、研ぎ
澄まされた感覚で見つめると白く張りのある肌には銀の粉を吹いた
ような燦めきがあるような気がした。銀には殺菌や消臭効果がある
らしい。けれどそれは嘘なんじゃないかとランタンは思う。
1250
美しい肌の少女は、少し汗臭い。
鳩尾に顔を押しつけているのは視覚情報を少なくするためであっ
たが、その弊害がそれである。こんなことならばベッドに顔面を押
しつ付けていた方がマシかもしれないが、そうするとこの少女を野
放しにすることなる。ランタンはべたべたと触ってくる指先に己の
心臓に触れられているような気分になって落ち着かない。
横隔膜が上下する。リリオンの呼吸は妙に荒く、背に回した手に
も細い身体が膨らんだり萎んだりするのが伝わってきた。汗を吸っ
た寝衣がぺたりと肌に張り付いていて、少女の湿った体温が生々し
い。
ともあれやはり汗臭いのである。そろそろ起きるか、と思う。匂
いは現実感のない鳥のような俯瞰感覚をあっさりと地に落とした。
ふわふわする感覚もなくなり、ベッドに横たわったランタンはいっ
そ迷宮で魔物の足音を探るかのようである。
足音が聞こえる。
太りすぎた大鼠がどたどたと足を鳴らしているのではない。それ
は直立二足。人である。それも二人。足音が奏でられる間隔から歩
幅を、歩幅から身長を、響きから重量やそこに混ざる硬質な音に武
装しているだろうと当たりをつけた。やはり、まだ完全に感覚が落
ち着いているわけではないのだろう。便利のような、情報が多すぎ
るような。
外階段を上ってくる足音ははっきりと大きく、けれど女の気遣い
があって、しかし足音を消そうともしない無遠慮さや無警戒さは、
同時に敵意の無さである。念のため程度だが身体は起こしておいた
方がよいだろう。
﹁ああ、もう﹂
元々決めていたとは言え、いざ起きるとなると倦怠感が肩にのし
掛かる。ランタンはそれをベッドに置いてけぼりにして身体を起こ
ヘーゼル
し、急な動きにリリオンが驚いて縋るようにその腰に巻き付いた。
少女の前髪の隙間からは淡褐色の瞳が心配と期待を一緒に湛えてい
1251
る。
感覚が優れようとも、見ようとしないものは見ないのかもしれな
い。ずいぶんと心配をさせていたようで、ランタンは安心させるよ
うに柔らかな眼差しで少女を見下ろした。前髪をそっと払う。
﹁ご飯食べる?﹂
﹁うん、何かお土産があれば、それを食べるよ﹂
﹁どういうこと?﹂
リリオンが尋ねたのと同時に弾けるように扉が開いた。雪崩れ込
んできた陽光に目を細めると逆光の中には腰に手を当てて仁王立ち
になっている女の影があった。特徴的な頭部の影は兎人族特有の耳
のためであろう。
ずけずけと入り込んできたのはリリララだ。足音は二人分あった
はずだがリリララ一人である。ランタンは兎女にもわかるようには
っきりと眉を持ち上げた。
﹁邪魔するぜ﹂
﹁入る前にお願いしたいですね﹂
﹁ノックしてもいいけどよ、たぶんうるさくて頭がんがんするぜ。
せめてもの気遣いだよ﹂
﹁ふうん、それはどうも。で、今日はお一人ではないんでしょう?﹂
﹁⋮⋮まあな、いきなり踏み入ってお嬢に変なもん見せるわけには
いかねえし﹂
リリララは部屋の中を見回し、免疫ねえからな、と腰に巻き付く
リリオンに視線を落ち着けた。あるいはそれはリリオンの腕によっ
て捲り上げられた裾から覗くランタンの脚を見たのかもしれない。
ランタンは何気ない指使いでリリオンの拘束を解く。スカートを織
り込む女のように尻を浮かせて裾を直し、膝を揃えてベッドに腰掛
けた。
いかにも気弱げで大人しい風に擬態をするランタンにリリララは
唇を歪めた。
﹁お嬢、入って構いませんよ﹂
1252
呼び込まれてようやくレティシアは物珍しげに視線を揺らしなが
ら部屋に入ってきた。
探索貴族のご令嬢にとっては迷宮よりも余程に珍しいのだろうか、
つるりとした灰色の石壁やひんやりした床に撫でるような視線を向
けて、ようやくランタンを向いたかと思うと、その目には戸惑いが
浮かび、助けを求めるようにリリララを見た。
リリララはどうしようもないとでも言いたげ肩を竦めるだけで、
ランタンは何だか侮辱されたような気分になった。レティシアはも
う一度ランタンを見て、口元に感情を曖昧にする中途半端な笑みを
浮かべた。
視線は一片の雪のようである。
上から下へとひらひら落ちて、膝を閉ざしても隙間のある太股の
合わせ辺りで風に煽られたようにうろうろしていた。その視線を遮
るようにリリオンがランタンを後ろから抱きかかえ、太股と裾の隙
間が作る三角の影を手で押さえる。ランタンの頭上からレティシア
を視線で咎め、ご令嬢ははっとして視線を逸らすのであった。
ランタンは妙な無頓着さでただリリオンの腕を子猫がじゃれる程
度の力で叩いたり引っ掻いたりしている。
﹁それで、︱︱どうやってここを知りましたか﹂
﹁はん、何とも暢気だな。ちょっと金はかかるが情報屋に頼めばす
ぐだったぜ﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
ランタンは思いの外素っ気ないものであった。慌てたところで知
られてしまったものはしょうがない。
この部屋に自分の匂いが染みついた居心地のいい部屋ではあるが、
終の棲家として見初めたわけではなく、もともと一時的な借宿のつ
もりであった。廃墟はランタンにとっては一時的に風雨を凌ぐため
のものであって、その風雨の一部として他人の視線があるだけだ。
隙間風や雨漏りがあるのならばまた別を探せばよい。
けれどそれも特に焦ることではない。もともと盗まれて困るよう
1253
なものはないのである。しいて言えば使い慣れた枕であったり、隣
の部屋の湯船であったり、ベッドの下に隠された言語学習用の教本
であったりもするが、それらはランタン以外には無価値と言ってよ
く、盗まれる心配もない。
寝込みを襲われる心配は寝床を知られていようと、知られていな
かろうと常に付き纏うものである。多少、危険度が上がったことを
意識するだけで充分だ。
﹁まあいいか﹂
ランタンは欠伸を零した。
下街で廃墟は選びたい放題であるし、あるいは商工ギルドのエー
リカを頼って上街で家を借りてもよかった。商工ギルド自体も幾つ
か不動産を所有しているらしいし、その母体である商人ギルドや職
うりいえ
しゃくや
人ギルドも不動産を所有している。特に商人ギルドともなれば都市
の売家、借家の半分以上を取り扱っている始末である。
エーリカであれば信頼できるし、そもそもランタンが家を借りな
かった最大の問題であった文盲のことも既に知られている。支払い
に関しても借りるにしろ買うにしろ余程の豪邸でなければ問題はな
いのである。
﹁で、ご用件は?﹂
﹁ちょっと様子見てこいって。椅子借りるぞ、お嬢座って﹂
﹁ああ、エドガー様が﹂
リリララが一人掛けのソファを、ランタンが許可を出す前から引
きずり出してレティシアに座らせた。そして本人はランタンに近付
くと焦茶色の目を、内斜視の右目で覗き込んだ。赤錆色の目に遠慮
はない。
﹁魔精の活性は治まったか? ふわふわしてねーよな、今は倦怠感
の方が強いか?﹂
﹁まあ、そうですね﹂
﹁うん、エドガー様がやり過ぎたっつってたからな。食欲なくても
飯食えよ。体力消耗しているだろうし。あ、そうだ。これお嬢から
1254
の差し入れ。その辺で適当に買った果物詰め合わせ。食欲無くても
これぐらいは食えんだろ﹂
リリララは詰め合わせでも何でもない、屋台から引っ掴んできた
ような丸出しの柑橘類三種各一個を手品のようにどこからか取り出
すとテーブルの上にバランス良く縦に重ねた。
﹁あとこれ魔精薬。寝る前に飲んどきな﹂
頂上に小瓶に入った魔精精製薬を置いた。淡い青の液体が、中で
不安げに揺れている。ランタンは礼を言うとそれをすぐにテーブル
の上に降ろした。
﹁まあ、あんまり無理すんなよ。お前も、無理させんなよ﹂
リリララはランタンの頭上に視線を滑らせて、リリオンの頷きが
ランタンの髪を押さえつける。少女は頷くばかりではなく何か話し
かけようとしているようだったが、もごもごと顎が動くだけで声に
はならない。少女の弱気にランタンは思わず苦笑を零した。
﹁そういえばリリララさんは魔道使いなんですよね。凄腕の﹂
ランタンは眼前で仁王立ちになるリリララを避けレティシアへと
問い掛ける。するとレティシアは頷き、その視線はリリララの尻へ
と向けられて苦笑を宿す。リリララの尻にはぽんぽんのような兎の
尻尾が咲いており、おそらくそれが何らかの反応を見せたのだと思
う、
﹁なんであたしに直で聞かねえんだよ﹂
﹁人伝に聞くのが流儀とかと思いまして﹂
﹁ちっ﹂
慣れた様子の舌打ち一つ。
赤錆の目がランタンを睨み付けて、少年は平然としている。魔精
活性の残滓。失われつつある感覚の鋭敏化が、リリララに苛立ちが
ないことをはっきりと伝えていた。
リリララはレティシアに一声掛けて、やはり許可を得る前に侍女
とは思えない堂々たる動作で肘掛けに腰を下ろす。レティシアは慣
れたものなのか苦笑を漏らすでもなく平然としたもので、リリララ
1255
の太股を膝掛けにしている。
﹁そんであたしが魔道使いなら何だってんだよ。あたしの技が見た
いのか?﹂
ちょっと高いぜ、とリリララは指輪をしている指を拳にした。
﹁それは大丈夫です。どうせ迷宮でお目に掛かるでしょうし。無料
で﹂
﹁ああ、そうかよ。お嬢、やっぱこいつ連れてくの止めたほうがい
いっすよ。ムカツク﹂
﹁ふふ、リリララそう言うな。ランタンもすまないな﹂
﹁︱︱お嬢痛いっす﹂
レティシアはリリララの太股に肘を刺している。リリララは文字
通りにお手上げになって、その和やかな雰囲気を察したリリオンが、
ここしかないとでも言うように意を決して口を開いた。
ランタンは咄嗟に二人に目配せをして、少女を勇気づけるように
手を重ねる。それでも言葉は最後、喉につっかえてランタンは苦笑
を禁じ得ない。いざ勢いに乗ってしまえば暴走特急と化すのだが、
それまでがなかなか難しく、その繊細さはやはり年ごろの少女なの
だと思う。
﹁僕が言おうか?﹂
・
﹁大丈夫、言うわ。リリララさん﹂
﹁あんだよ?﹂
左の口角が歪む笑みは、威圧感や皮肉気な気配を孕みやすかった
が、このときばかりは何とも頼もしげな姉御然とした雰囲気があっ
た。リリララはリリオンを見つめてたっぷりと言葉を待って、レテ
ィシアはランタンにこっそりと微笑む。
なるほど全ては打ち合わせ済みなのだろう。
﹁わたしに﹂
﹁あたしに?﹂
﹁魔道の使い方を教えてください﹂
ようやく言ったリリオンに三人が三者三様な満足げな笑みを浮か
1256
べて、少女への返答は、嫌だね、のそっけない一言であった。
レティシアの笑みが仮面のように固まり、リリララの笑みは左の
口角が目尻まで裂けるように意地悪で、ランタンは後頭部で少女の
胸が空気をいっぱい吸い込んで膨らむのを感じる。
咄嗟に耳を塞いだ。
﹁なんでそういうこと言うの!﹂
甲高い声は耳を塞いだ手を貫通し鼓膜を突き刺す。
リリオンは興奮してランタンの裾をぐいと握るものだから、少年
の白々とした太股が付け根の近くまで露わになった。レティシアの
仮面の笑みに罅が入り視線が吸い寄せられて、リリララは一拍置い
たあとにわざとらしい舌舐めずりを。軽く蹴り上げられたリリララ
の爪先がランタンの膝を割ろうとして失敗する。舌打ち一つ。
ランタンがゆっくりとした動作で耳を露わにすると、耳の先がぽ
っと色づいている。
ランタンは無言で少女の腕を解き立ち上がり、これ見よがしに裾
を払い、ぺたぺたと足音を鳴らして絡みつく視線を引き千切るよう
に乱暴に歩く。床に脱ぎ捨てられているズボンを手に取り、脚を抜
いたままに裏返っているそれを引っ繰り返す。
三人へ一瞥の一つをくれてやり少女が、ああ、と変な声を出すの
も無視してズボンを履いた。
そして三人から距離を取るようにしてベッドの端に腰を掛ける。
﹁見せたがりなのかと思っていたぜ、なんだ、つまんねえ﹂
ランタンはにやにや笑うリリララを睨み付け、鋭くリリオンに視
線を滑らせる。嫌だね、の理由を聞くように目線で促すと、少女は
ランタンの機嫌を取り戻そうとするように何度も従順に頷いた。そ
して背中を叩かれたように立ち上がり、一足で距離を詰めるとリリ
ララの肩を掴んだ。
﹁おわっ、なんだよ﹂
﹁なんでダメなんですか?﹂
﹁顔近えよ、ばっ。お嬢も背中押さないで!﹂
1257
﹁ねえねえ、なんでなんで﹂
鼻息が掛かるような距離にまで顔が近付き、リリララはいよいよ
劣勢になった。赤錆の視線が彷徨うもランタンはもちろん満面の笑
みを浮かべるばかりで何もしない。リリララはもう無用の意地悪を
する気分でもなくなったのか、ぐったりとして己の負けを認めるし
かなかった。
長い耳ごと短い髪を掻き回して、今なお掴みかかろうとする直前
のような前傾姿勢のリリオンに畏怖と呆れの混じった視線を投げか
けた。まるで虎と兎である。
はあはあと荒い息をと調えると聞き分けのない子供へ言い聞かせ
るようにリリララは口を開く。
﹁⋮⋮いいか、エドガー様がこっちの魔精を活性化させて、お前に
しなかったのには理由がある。いくつかあるが、もっとも致命的な
のは体内の魔精保有量だ。肉体活性は魔精を内々で回すから、理論
的に言えば魔精の消耗はない。疲れたりするのは肉体や精神で、い
わゆる魔精欠乏症にはならない。もっともそれは理想論でしないけ
どな。ほら見てみな。ランタンだってあのざまだ、エドガーさまだ
って極まってるけど消耗がないわけじゃないらしいし﹂
リリララは捲し立てて、それは煙に巻くような雰囲気もなくはな
かったが正論である。リリオンは少しばかり理解が追いついていな
く、ぱちぱちと不安げな瞬きを繰り返していたが、最後にランタン
を指差されると納得がいったとばかりに頷いた。
﹁内々で魔精を回す活性化ですらあれだから、抜ける魔道ともなる
ともっと酷い﹂
ランタンはこそりと自らに問う。爆発を使う時、虚脱感はあるだ
うえ
ろうか。よくわからない。今までは魔精を意識することがなかった
した
からだろうか。
﹁迷宮なら魔精も濃いからいくらかマシだけどよ。地上で試すとな
ると、︱︱次回の迷宮探索は留守番だな。それでもいいなら教えて
やらんでもないが、どうする?﹂
1258
細い視線を向けられるとリリオンの顔が緊張を孕む。白い喉が唾
を飲んだ。
﹁リリララ﹂
﹁わかってますよ。冗談だよ、貴重な戦力を置いてけぼりにはしね
えよ﹂
﹁そう言うわけだリリオン。魔道は強力だが、それは時に自分に牙
を剥く。男と比べると女の方が魔道が発現しやすいし、本当に必要
ならば自然と目覚めるさ。焦る必要はないよ﹂
レティシアの緑瞳がランタンに向いた。足首から先、裾から半分
だけ覗く小さい足から身体の線をなぞるように視線が上がっていく。
﹁探索の日取りが決まった﹂
﹁そうですか﹂
ランタンはようやくベッドの端からリリオンの隣へと身体を滑ら
せる。
﹁うん、一週間後を予定している。迷宮へ持ち込むもので望みがあ
るのなら言ってくれ。湯船以外で﹂
とは言えランタンが口出しをしなくても余程準備は万端だろう。
湯船を封じられるとなるとランタンにはそれほど望みがあるわけで
はなく、リリオンに視線を向けても少女はふるふると首を横に振る
ばかりである。
ランタンが、どうしようか、と小首を傾げて、あ、と口を開いた
かと思うと迷いを匂わせながら唇を結ぶ。
﹁遠慮なく言ってくれ。望みは可能な限り叶える﹂
﹁⋮⋮では、ええっと、その。迷宮へ行く顔ぶれなんですが﹂
﹁変わりはないぞ。私とエドガー様、リリララにベリレ、それに君
たち二人﹂
﹁運び屋さんは?﹂
﹁ああ運び屋は二人だな、一人はたしか︱︱﹂
﹁ええ、存じております。あの、その方なのですけれど﹂
﹁どうした? 何か粗相があったか?﹂
1259
﹁いえ、その︱︱﹂
もう少し身綺麗にと言いますかええっとそのあの、とランタンは
ぼそぼそと呟く。
それは正論であったかもしれないが、やはりどうしても指摘し辛
いものである。ランタンは己を潔癖であるとは言わないが人よりも
綺麗好きであると自認してはいたが、迷宮内でのレティシアやエド
ガーの反応を見るにやや過剰であることをあらためて認識させられ
た。
﹁ああ、わかった。言っておく﹂
﹁そのはっきりとは言わないでください。たぶん僕が同じこと言わ
れたら嫌な気分になるし﹂
﹁⋮⋮うん、わかった。迷宮内で長く過ごすわけだしな。他には、
何か無いか﹂
思いがけずあっさり頷かれたことにランタンは驚きもして、もう
ないです、と言ってもよかったが思わず他の望みを探してしまう。
部屋に望みが転がっているわけでもなかろうにランタンは視線を彷
徨わせ、結局隣のリリオンを見て。
﹁あ、そうだ。ベリレさんに僕は別にいいんだけど、この子のこと
睨むの止めさせられませんか。怖がってるし﹂
﹁⋮⋮こわくないわ﹂
そう言っても目を伏せている。
熊と見まがうような熊人族の巨躯を思い出しているのだろう。あ
るいはもしかしたら初めての最終目標であった嵐熊と重ねているの
かもしれない。
﹁あんなやつ怖がらなくったっていいんだよ。あれはまずランタン
に嫉妬してんのよ。エドガー様がお前のことを褒めるのを拗ねてや
がんのさ。あんなデケえ図体しているくせに。エドガー様が甘やか
してるせいだな﹂
﹁ふふ、まあエドガー様はお子がおられないからな﹂
﹁いやあでも、だからあいつはいつまでも英雄さま離れができない
1260
んですよ﹂
明け透けなリリララの言にレティシアもその実同意見なのだろう
か、堪えきれないような笑い声を零して唇に拳を当てている。鬼神
の幻影と重なるエドガーの意外な甘さにランタンもつられて頬を緩
めた。ベリレから感じる幼さはその辺りのせいなのだろうか。
そして朗らかな三人とは裏腹に、リリオンだけは俯きがちで伏せ
た睫毛が頬に影を落としている。
﹁じゃあ、わたしは、なんで⋮⋮?﹂
﹁それはリリオンが綺麗だからだろうな。あれは照れ隠しさ。リリ
ララ以外の女の子と話をしているところはあまり見ないし﹂
﹁ちっ、あいつ一辺シメてやる﹂
ベリレと遠慮なく言葉を交わしているリリララは低い声で冗談め
かして吐き捨てる。
﹁むしろリリオンと仲良くしたいのに、どうして言いか判らないだ
ほ
けなんだ。あまり気にしなくて良いし、できることなら優しくして
やってくれ﹂
﹁優しくしたらつけあがるから放っときゃいいんだよ。あんな童貞
野郎﹂
﹁うん、わかりました。⋮⋮ねえ、ランタン?﹂
活性化した魔精による感覚の鋭敏かは一切失われ、むしろ揺り戻
しに鈍化しているのかもしれなかった。けれど何か嫌な予感がした。
ランタンはリリオンと視線を合わせない。
﹁ねえ、ど︱︱﹂
ランタンは咄嗟にリリオンの口を塞ぎ、疑問を喉の奥へと押し返
した。
1261
083︵後書き︶
むしゃくしゃして書いた。
前半ぐらいまでは話半分で、どうか。
1262
084
084
リリオンが窓をじっと見ている。窓に反射する己の顔を見て身だ
しなみを整えているのかと、ランタンは何だか感慨深くなったが、
屈んだ少女の肩越しにそっとその表情を盗み見ると、少女の難しそ
クリスタルケイブ
うな顰めっ面の奥に張り紙が透けていた。
水晶洞の窓には一枚の張り紙がある。風雨を避けるために窓の内
側から、外向きに貼り付けられている紙は以前に訪れた時も張って
あったようにランタンは朧気ながら記憶している。ふとリリオンが
振り返る。
﹁ねえ、これはなんて読むの?﹂
聞かれてランタンはどきりとする。だが同時に大丈夫だという勇
気も湧いて生くる。エーリカの教本はだいぶ読み進み、今では商用
語以外の語彙もそれなりに増えた。もし語彙がわからなくても、前
後の文脈から穴埋めをすればどうとでもなる。
筈だ、とランタンは思いきって張り紙に視線を向けた。
﹁あ﹂
ほとんど読める。読めるが、視線を滑らすほどに頬が引きつる。
﹁ねえ﹂
﹁某単独探索者御用達の魔道具店。水晶洞。某単独探索者好みの水
精結晶も各種取り揃え。某単独探索者と同じお水を飲んで、一緒に
探索をしている気分になろう﹂
ならねえよ、とランタンは窓をぶち破りたい気分になった。もし
かして以前に水精結晶が少なかったのはこの張り紙のせいではある
まいか。
﹁単独探索者なんて、ランタンみたいね﹂
1263
﹁⋮⋮そうだね。僕はもう一人じゃないし。一体誰のことを指して
いるんだろうね。ちょっと聞いてみようかな﹂
ランタンはリリオンの手を引いて水晶洞の扉を押し開いた。獣を
解き放つようにしてリリオンを先に入れ、背後でしっかりと扉が閉
まったのを確認する。店内に他の客はいない。魔道光源の燦めきに
満たされている。
﹁あ、いらっしゃー⋮⋮い﹂
ランタンはもじゃもじゃ頭の店主を一瞥すらせずに窓に近付く。
・
カーテンを開き。窓に貼り付けてある紙をそっと剥がした。振り返
ると店主は唇をいの形に開き、地獄から助けを求めるように手を伸
ばしている。
﹁こんにちは。ちょっとお尋ねしたいことがあるのですがよろしい
でしょうか?﹂
ランタンはもちろん救いの手を差し伸べたりはしない。ただ苦し
む罪人にさらなる罰を与える鬼の笑みを口元に浮かべて、天使のよ
うな甘い囁きを添えて張り紙をカウンターに置くのである。店主の
視線がランタンの表情から、萎れるように張り紙へと沈んでいく。
自らの罪を確認するがいい。
﹁これ、なんですか?﹂
﹁あああえええっと、その、ね﹂
沈黙の帳が落ちる。リリオンは二人を見比べて、けれど我慢比べ
のようになにも喋らないので飽きてしまったのか、ちょんとランタ
ンの外套を引っ張った。
﹁わたし、見てきていい?﹂
﹁うん、行っておいで。落としたりしないように気を付けてね﹂
﹁もうっ、そんなことしないわっ﹂
リリオンは魔道光源の群れに向かって足取り軽く跳ねて行くので
ある。リリオンの背に揺れる、ざっくりと編んだ二本の三つ編みに
ランタンは頬を緩めた。その柔らかな雰囲気に店主は一縷の望みを
掛けた。
1264
﹁ごめんっ﹂
﹁いや、これが何かを聞いているのですが﹂
天使の容貌だが鬼である。
けれど鬼にも慈悲があるのでランタンは椅子を借りると、ちょこ
んと腰掛け、両肘を付き、絡めた指は死者に祈りを捧げるようであ
る。慈悲とは死者に向けられるものであるのか、と店主の表情が引
きつる。夥しい魔道光源を背に迎え、その光の中を跳び回るリリオ
ンは妖精のごとく、それを従えるランタンは幼形の神であるのかも
しれない。
﹁これって呼び込み広告ですか﹂
店主が痙攣するように頷いた。
﹁つい、出来心で﹂
﹁ふうん、効果の程は?﹂
﹁⋮⋮あまり﹂
水晶洞はいつも静かだ。
だからこそランタンはこの店を贔屓にしているのである。呼び込
み広告の一つを張りたくなるのもわからない話ではない。しかしこ
の文字だけの広告に目を向けるものがどれほどいるかは疑問である。
リリオンのように何事にも興味津々な子供は視線を向けるかもしれ
ないが、この店には子供の小遣いで賄えるような商品は置いていな
い。
﹁こんな中途半端するぐらいなら名前書いちゃえばいいのに﹂
ランタンは張り紙に視線を落とす。
某単独探索者。それを指す人物をランタンは一人しか思い浮かば
ない。文字が日に焼けているのが何か少し面白い。開き直って名前
を記した方が潔く、ランタンも色んな意味で文句を付けやすい。
大人を嫌みったらしく責めるのは、なんとなしに居心地の悪い物
である。
﹁ええっ、いいのかいっ?﹂
﹁んー、どうしよっかな。でも効果はあんまりないと思いますけど﹂
1265
﹁そんなことはないよっ﹂
おどおどを一転させて店主は鼻腔を膨らませて興奮気味に拳を握
った。広い額で汗が光り、勢い余ってもじゃもじゃ頭がゆさりと揺
れた。ランタンは店主を冷ややかに見つめる。
﹁僕、結構嫌われたり恨みをかってるから、変なのに目を付けられ
ちゃうかもですよ﹂
﹁⋮⋮何かやったの?﹂
﹁降りかかる火の粉を払う程度ですよ。いやになっちゃいますね﹂
﹁ああ、⋮⋮確かに、最近は特に物騒だものねえ﹂
店主は拳を解いて物憂げなため息を漏らした。
﹁ま、何もしてなくても嫌われちゃうこともありますけど﹂
ランタンはぼんやりと熊人族の騎士見習いを思い出す。探索して
いる間に仲良くなれるだろうか。それともその前に一度話をしてみ
るべきだろうか。そんな思案はほんの少し前の自分には縁遠いもの
で、ランタンは不思議な感覚になった。
歩み寄るのか。この僕が、と苦笑が。
﹁ランタンくんの活躍だと、嫉妬もあるだろうしね。大変だねえ﹂
﹁さあ、どうなんでしょう。︱︱まあいいや、お店が本当に困って
るなら、どれほどの効果があるかわからないけど、名前書いちゃっ
てもいいですよ。実績がないから恥ずかしいけど⋮⋮﹂
熊人族の騎士見習いから竜殺しの英雄を連想して、ランタンは目
を伏せてそっぽを向いた。そんなランタンに店主は驚きを持って髪
を掻き回す。空気を入れ換えるようなそれにより、もじゃもじゃ頭
がいっそう大きくなった。店主はランタンとは別種の恥を表情に滲
ませ、眼鏡を外してレンズを服の裾で拭った。
﹁ありがとう、でも止めておくよ。閉店の予定はないし、道楽でや
っているような店だけど、ランタンくん以外にも贔屓にしてくれる
お客さんはいるからね﹂
言葉と共に眼鏡を掛け直して、店主はがたりと椅子を引いて立ち
上がった。
1266
﹁今日もいつもの水精結晶で良いかい? 前はあんまり仕入れられ
なかったから、頼み込んで余計に回してもらったよ。これだけあれ
ばしばらくは困らないんじゃないかなあ﹂
意識的な明るい声に引かれて、背後でリリオンが振り返った気配
がある。どたどたと足音を鳴らして駆け寄って、ランタンの背中に
飛びついた。頭上から回り込んで顔を覗き込むようにランタンに覆
い被さって、三つ編みに纏めきれない髪が銀糸の雨のようにランタ
ンに降り注ぐ。
ランタンは空模様を確かめるようにリリオンを見上げる。
﹁なにか良い物はあった?﹂
﹁うん、どれもステキだったわ﹂
晴れ。
﹁壊したりは﹂
﹁してないよっ、もう。お話は終わったの? 某単独探索者ってだ
れのこと?﹂
﹁⋮⋮創作の人物だって。ひどい詐欺だよね﹂
ランタンはくすくすと喉を鳴らし、そっと銀雨を払い視界を開い
た。そして中途半端に振り返っている店主に向かって無慈悲に微笑
む。
﹁黙っていてほしかったら、在庫全てください﹂
﹁え、は?﹂
﹁全部。一つ残らず。ハローヴァさんの水精結晶を買って行きます﹂
水晶洞へ来た目的はこれである。レティシアは飲料用の水精結晶
を用意してくれるだろうが、ランタンにはこだわりがあり、こだわ
りは他人に任せられないものだ。ランタンは固まる店主を解凍する
ために、カウンターを指で鳴らした。
﹁ちょっと大迷宮に行くことになりまして﹂
ランタンは店主に向かって肩を竦める。そして呟きは店主にしか
聞こえない。
﹁在庫を残しても、もう買いに来れないかもしれませんしね﹂
1267
そっと撫でた張り紙をリリオンが覗き込み、一塊となった二人を
店主は複雑な表情で見つめる。
大量の水精結晶がリリオンの背嚢の中でじゃらじゃらと音を立て
ている。軽くなったポーチを銀行で再び重たくして、ランタンはリ
リオンの手を引いて職人街を行く。歩いていると連なる店々から何
となくの視線を感じた。
そぞ
ランタンを見ているのではなく、誰か何かを探しているような気
も漫ろな感じの視線である。
天気も良いせいか、何だか浮ついている。何処かの店から研ぎを
失敗したのか甲高い金属音が、そして悲鳴のような声が遅れて聞こ
え、間髪入れずに怒声が響く。若い職人が開き直りもいいことに言
い訳をしていて。ランタンは、ああなるほど、と思う。
﹁だって竜殺しが通るかもしれないじゃないですか﹂
だが竜殺しは簡単な研ぎを失敗するような店を利用しないだろう。
ランタンはリリオンの手を引いて歩く。
﹁いい天気だね﹂
﹁うん、ちょっと暑くなってきたね﹂
﹁そうかなあ。リリオンは暑いの好き?﹂
﹁んー、ベターってする暑いのはきらい﹂
﹁そっか﹂
ベタベタしてくるくせに、と思うがランタンは満更でもない顔を
する己に気が付かない。
迷宮から帰れば、きっと暑くなっているだろうなと思う。短い雨
期は湿度が高いが、それ以外はカラッとしている。雨期を迷宮内で
過ごせたら楽だろう。もっとも迷宮内が高温多湿であることもまま
あるのではあるが。
戦闘服は攻略後に買い換えるとして、夏の服はどうしようかと思
1268
う。ランタンは直射日光が肌に触れることがあまり好きではないが、
リリオンは透けるような白い肌とは裏腹に日向ぼっこが好きなよう
である。窓のない部屋に引きこもりがちなランタンの手を引いて、
外に連れ出すのはリリオンの役割だった。
リリオンは眩しそうに空を見上げて、背嚢と剣盾の重さも相まっ
てそのまま後頭部から転びそうだ。そうなるとランタンはぴっと腕
を引くのである。そしてそのままグラン武具工房へと足を踏み入れ
た。
見習い職人が入り口に背を向けている。紛う事なき職場放棄であ
る。そわそわと肩を揺らし、座った椅子がぎしぎしと軋んでいる。
カウンターの下では貧乏揺すりもしているのかもしれない。ランタ
ンはその隙だらけの後頭部に声を掛ける。
﹁また怒られても知らないよ﹂
﹁うおっ、あ、いらっ、ああ、何だよ脅かしやがって﹂
﹁よし言いつけてやろう﹂
﹁⋮⋮いらっしゃいませ﹂
迎える側の礼を渋々滲ませていて、ランタンは偉そうに頷く。や
ればできるじゃないか。
﹁じゃあ勘弁してあげよう﹂
﹁すげえむかつく﹂
﹁仕事さぼってるのがいけないんでしょ? グランさんはいる?﹂
﹁⋮⋮いるけど、お前にゃ会わねえよ﹂
意趣返しのつもりなのか、見習いは吐き捨てるようにランタンへ
言った、その余話を受けてリリオンがランタンの外套を掴まえて、
職人見習いは気まずそうだ。リリオンは男ばかりの職場に咲く花の
ようなものだ。ちらちら視線を送れども、話しかけるどころかそれ
を摘もうなどとはこれっぽっちも思わない。思ったらランタンが被
っている猫を脱ぎ捨てるだろうと感づいている。
ランタンが目を細めると、僅かばかりに気圧されたのか見習いは
肩を振るわせた。けれどやはり男の子、どうにかぐっと堪えて荒々
1269
しく鼻息を鳴らしてランタンを睨み返した。
すると花が肉食花へと変ずる。リリオンの目がきっと細められた。
﹁どうして、そんな意地悪するの?﹂
﹁︱︱っ意地悪じゃねえしっ、今すっげー人が来て親方と話してん
だよっ! だから︱︱﹂
﹁ああ、おじいさまが﹂
﹁おじいちゃん来てるの?﹂
見習いの顔がぽかんと歪んだ。
﹁エドガー様が来てるんでしょ? じゃあちょっと挨拶しなきゃ﹂
﹁え、なに? お前ら英雄と知り合い、っていうかおじいって。は
あ?﹂
情報の過負荷に思考能力が限界を迎えて見習いはあうあうと口か
ら溢れる言葉は既に音でしかない。そして沈黙。ランタンは再起動
の隙を突いて、見習の前を横切り、するりと気配を薄めて、リリオ
ンにも忍び足を強要する。そそくさと店の奥へと足を進め、話し声
はいつもの応接室から聞こえてきた。その近くには見習いではない、
いい歳をした職人がうろうろとしていて、ばったりと出くわしたラ
ンタンに驚き、ランタンは平然と微笑む。
堂々としている方が勝ちなのである。
﹁サボってると怒られちゃいますよ﹂
ランタンは職人に見せつけるように扉をノックし、たっぷりと返
事を待って隙間から顔を覗かせる。驚いた顔の老人が二人、向かい
合って座っていた。扉の隙間からランタンの顔が、その上にぬっと
リリオンの顔も覗くと二人揃って苦笑を零した。
﹁よう、どうしたんだよ﹂
﹁ちょっと寄ったのでご挨拶を。先日はどうもおじいさま。帰った
あとも大変でした。魔精薬は大変美味しゅうございました﹂
お
﹁ああ、ならいい。元気そうで何よりだ。若いってのはいいなあ﹂
﹁ええまったく。二人ともそんなとこ居らんで入ってこい。︱︱お
らあっ、サボってんなよ!﹂
1270
グランの怒鳴り声と入れ替わりになるように、ランタンたちは扉
の隙間から部屋に入り込んだ。後ろ手で扉を閉めるその僅かな隙間
に滑り込むようにして、職人たちの謝罪と返事と走り去る音がごち
ゃごちゃっと入り込んできた。
グランは腕組みをして嘆息する。
﹁ったくもう、あんの阿呆ども。いやお恥ずかしいところを﹂
ぶつくさと文句を垂れるグランの横にランタンは腰を下ろし、そ
の隣にリリオンは自分の尻を収める隙間を見つけられず、置いてけ
ぼりにされたように立ち竦んでいる。エドガーが己の隣をぽんぽん
じじい
と叩いて少女を誘った。
﹁爺の隣で我慢してくれ﹂
﹁うん、我慢する﹂
﹁ばっ︱︱!﹂
﹁おじゃまします、おじいちゃん﹂
リリオンは膝を揃えてちょこんと座り、ランタンはあまりの物言
いに大慌てだった。
﹁本当に申し訳ないです!﹂
こんな事ならランタンはリリオンを先に座らせて、恥を我慢して
その膝の上に座った方がマシだったと思う。けれど覆水盆に返らず、
エドガーは頬を緩めて満更でもなさそうだ。もうランタンはやけく
そになるしかなく、一つ息を吐いて冷静を装い、リリオンに負けじ
とグランに向かって少女めいて微笑んだ。老職人の顔は表情筋の一
筋すら動かない。
﹁そう言うのはお前の本性を知らん奴にやれ﹂
﹁⋮⋮ええ、そうします﹂
髭さえも動かない。全く以て笑い損で、そもそもが意味不明であ
そよ
ることに思い至り、ランタンは拗ねたように顔を背ける。グランは
その姿にこそ髭を戦がせた。ぽんと向けられた後頭部を撫でるよう
にひと叩き。
﹁で、何の用だよ。挨拶のためだけに来たわけじゃないんだろ﹂
1271
これ
それ
﹁⋮⋮はい、戦鎚とか方盾とかの整備のお願いを。おじいさまもで
すか?﹂
﹁ああ、紹介ありがとうな。おかげで万全の状態で挑める﹂
﹁おお、そうだ。ありがとうよ坊主。いやこの手で竜骨刀を手入れ
できるとは思わなかった。黒竜の芯骨から削りだしたとはいえ、や
はりこれは凄まじいものですな。︱︱けれどそれも残り四刀とは、
まったく随分と斬りましたなあ﹂
﹁刃の減りを惜しんでは命が幾つあっても足りはせん﹂
﹁く、まったくその通りだ﹂
竜骨刀の深い白刃を思い出したのかグランは上機嫌である。
老人たちは顔を合わせることはなかったが、同時期の王都を過ご
したことがあるらしく過去の思い出話に花を咲かせている。何とか
言う探索者の与太話がどうだとか、どこの酒場の料理が美味かった
だとか、固有名詞が朧気な会話は若者二人には複雑怪奇であった。
けれど生まれるよりもずっと前の話は面白可笑しく、興味津々な
リリオンの先を急かすような相槌に老人二人はメロメロで気分を良
くし、ランタンはランタンで大人しくして会話の花となるものだか
ら、二人は昼間っから花見酒を始める始末である。
物言わぬ花が、桜の唇をそっと解く。
﹁もう、まだ仕事中でしょう?﹂
﹁俺は多少の酒が入った方がいい仕事ができるんだよ﹂
そう嘯くグランにエドガーが尤もらしく頷いている。ダメ老人ど
もめ、とランタンはその戯れ言の真偽を確かめようとして酒に手を
伸ばすリリオンの手を叩いた。めっと叱るとリリオンは唇を尖らせ
て納得しかねるような目付きになり、ランタンは元凶である老人二
人に対して攻めるような冷淡な視線を向ける。
だが老職人と老探索者は屁とも思っていないようである。嬢ちゃ
んにはまだ早えよ、などと杯を空にして手酌で再び満たす暴挙に至
る。もう知らない、とランタンはグランから顔を背けた。
﹁⋮⋮そう言えばベリレさんは居られないのですね﹂
1272
﹁ああ、ベリレなら置いてきた。あの図体じゃ目立って適わんから
な。まったくいつまで経っても隠行が下手で困る﹂
その口調は酒精のせいか柔らかい。不出来な弟子への愚痴ではな
く。不器用な子を愛でるような。なるほどリリララが文句を言って、
レティシアが苦笑する理由がよくわかる。酒のせいばかりでこの甘
さは出ないだろう。
﹁昔っから俺の側を離れたがらんでなあ。困ったもんだよ。そう言
えばグランどのはお子は?﹂
﹁恥ずかしながら嫁き遅れが一人。仕事にかまけるのもまあいいん
ですがね、今は金策に奔走しているようでどうにも色気がなくてい
かん。どうやら生きている内に孫の顔は拝めんようで﹂
グランは蓬髪をくしゃりと掻いて。とろんとした視線をランタン
に寄越した。
﹁お前のおかげで商工ギルドは結構忙しいらしい。なあ、あいつい
らんか?﹂
いとま
﹁⋮⋮だいぶ酔われているようですね。程々でお止めになった方が
いいですよ﹂
ランタンは返事を避けて暇することにした。もうちょっとお話聞
きたい、とリリオンがぐずって、老人二人の脂が下がる。リリオン
には爺転がしの才能があるようだ。また今度はリリオンに金銭交渉
をさせようとランタンは画策する。
﹁じゃあ僕は行くから、リリオンはお話ししてる?﹂
﹁やあだ。ランタンと行く﹂
リリオンは素早く立ち上がって、飛びかかるようにしてランタン
の隣に収まった。老人たちはにやにやと笑っていて、ランタンは少
しも面白くない。失礼します、の素っ気ない一言で背を向けた。
﹁装備は工房の方へ持って行け。代替品は適当な奴掴まえて適当に
な。ああ、あとちょい待て﹂
扉を抜けようとするランタンをグランは呼び止めて、別の扉から
のしのしと部屋の外へ抜けたかと思うとすぐに戻ってきた。その手
1273
には水精結晶がある。
それはお守り代わりに購入したとても飲めたものではない純水精
結晶である。親指ほどの大きさの八角柱は、細かな細工の施された
金属に辺を絡められて、何となく鳥かごを思わせた。
﹁ほら望みの通り首から下げられるようにしてやったよ。ああ、疲
れた。細かい装飾は目が痛くなって適わんな﹂
どこに出しても恥ずかしくないお守りとなった結晶をランタンは
受け取った。掌に水の塊を受け取ったような優しい冷たさがあった。
リリオンがランタンの手の中を覗き込んで、わっと声を上げる。
﹁そのまま﹂
ランタンは真っ直ぐ向かい合うリリオンの顔を抱きしめるように
腕を回して、少女の細首に銀の鎖を結んでやった。
﹁おやグラン殿はそのような装飾品は作らないのかと思っていたが﹂
﹁若い時分は技術がなかっただけですよ﹂
わざ
﹁くっはっは、なるほどよくわかる。だが、今度はこの歳になると
技術があっても身体がなあ﹂
﹁儘ならんもんですな﹂
なんと先の暗い話を笑っているのだろう。
ランタンは何もかもを照らすような少女の笑みに抱きしめられな
がら老人の会話を背後に聞いた。
﹁ランタン。わたしすごくうれしいっ。んーランタン、ランタン﹂
耳の中を満たす甘い声。ランタンは老人二人にからかわれるまで、
ずっとその音を聞いていた。
水精結晶が陽光に反射して煌めく。
鎖骨の高さで揺れる結晶をリリオンはよく見ようとしようとして
いるが、鎖の長さが足りないので俯くようにして歩いている。ラン
タンは付けてやった手前、外せばいいのに、とは思うが口には出せ
1274
ない。ランタンはただリリオンの手を引いて、少女が転んだりぶつ
かったりしないように気を付けるだけである。
﹁あ﹂
そんなランタンが急に立ち止まると、当然のようにリリオンはラ
ンタンにぶつかって、ぎゃあ、と可愛げの欠片もない声を上げる。
その声に反応して、往来の視線が集まった。道の先では二人の女が
振り返る。
レティシアとリリララである。レティシアは叫び声に心配げな、
リリララはただレティシアの視線を追う無関心な視線を。けれど視
線の先がランタンであるとわかると、明らかな呆れを含んだ。
道端で起こる騒ぎに首を突っ込んでも得をすることはそれほどな
いし、変な因縁を付けられてはたまったものではない。そもそも何
処かの路地では常に悶着が起こっているのだから、リリララの反応
は概ね正しい。心配などはするだけ無駄だというものだ。
だがそれが顔見知りともなると話は別で、レティシアはそれを当
然の行動として、リリララはあからさまに面倒くさい雰囲気を出し
ながら令嬢の背を追いかけた。
﹁どうしたんだ? 大丈夫か?﹂
﹁お嬢、⋮⋮大丈夫に決まってるでしょう。おい、ちゃんと前見て
歩けよ。そいつだからいいけど、阿呆に絡まれたらつまんねえぞ﹂
﹁あう、うん。ごめんなさい﹂
リリオンは言われて思い出したように結晶を手放すと、ぶつかっ
たランタンの身体を撫で回している。
レティシアが若干の気まずさを表情に浮かび上がらせていた。そ
れは恥ずかしがっているのかもしれず、世間知らずの探索令嬢は、
もしかしたらあっちこっちを見回してリリララに迷惑を掛けたのか
もしれない。
﹁こんにちは。お二人でお出かけですか?﹂
﹁ああ、リリララに︱︱﹂
﹁うちのお姫様は下々の生活を見る機会はそうないからな。適当に
1275
冷やかしてんだよ、貧乏人どもを﹂
﹁リリララっ!﹂
レティシアが恥ずかしがってリリララの腕を引っ張り、表情に浮
いた羞恥を隠すようにランタンから視線を逸らした。けれどそれこ
そが恥ずかしいことである時が付くと、レティシアはわざとらしい
咳払い一つで表情を切り替える。貴族然とした澄ましたものへと変
えた。
﹁ランタンたちは、どうしたんだ?﹂
﹁まあ、散歩のようなものです。探索の準備なんかもしていました
けど﹂
﹁ほら見て! これランタンからもらったのよっ、いいでしょ!﹂
リリオンが鎖を引き千切らんとばかりに、結晶を二人に見せつけ
ている。
﹁へえ水精結晶か。こうして見ると綺麗なもんだな﹂
﹁ほう、この細工すごいな。ああ、結晶を透かすとよく見えるよう
になっているのか。神獣交合図、あ、いや、これは﹂
レティシアがそっと結晶を手にとってその中を覗き込んでいる。
鎖が短いのでそれは結晶の細工ではなく、リリオンの慎ましやかな
胸元を齧り付きになって覗き込んでいるようである。珍しくリリオ
ンが恥ずかしがって視線を彷徨わせて、ランタンは面白いのでそれ
を見ていた。リリオンは困ったようにレティシアの頭頂を眺めるし
かない。
そんなレティシアが結晶の彫金、戯れる幼神と幼獣の姿を認める
とはっと面を上げた。
﹁ああ、うん。これはいいものだ、な⋮⋮なんだ皆。そんな目で、
おい﹂
リリオンは黙って鎖骨の辺りを手で押さえている。辱めを受けた
と言わんばかりの仕草に、何のことかわからないレティシアは慌て
ふためいている。リリララは口元を隠して笑うのを堪えていた。
﹁ああ﹂
1276
笑い声を溜め息に誤魔化して、リリララは頬ににやつく笑みを消
せない。
﹁なあ、お前ら暇なんだろ。ランタン、ちょっとこいつ借りていい
か?﹂
急にそんなことを言った。挑発的な笑みにランタンは驚き、リリ
ララはさっとリリオンの腕を取ってランタンから引き離す。リリオ
ンは抵抗したが、リリララは思いの外力強く、それを許さなかった。
﹁え、や。ランタン﹂
﹁いいじゃねえか、たまには。ちょっと女同士で親交を深めようぜ。
ねえお嬢も良いでしょう?﹂
﹁ああ、別に私は構わないが﹂
﹁やだ、ランタンといっしょがいい﹂
なんと可愛いことを言ってくれるのだろう、と思うと同時にラン
タンは考える。あるいはこれはいい機会であるように思う。ランタ
ンがリリオンを連れ歩くのは色々な心配があったからでで、レティ
シアの権力はランタンの代わりとなった。
ランタンは助けを求めて伸ばされたリリオンの手をそっと握った。
少女は安心したように力を抜き、リリララが逆の腕をぐいっと引っ
張りリリオンの顔の位置を下げた。
﹁なによっ﹂
リリララがその耳にこしょこしょと何事かを囁いている。リリオ
ンは視線をランタンにちらちら向けて、蚊帳の外のレティシアが少
し寂しそうだった。少女は曲げた口元をゆるゆると緩めて、そっと
ランタンの腕を手放した。
﹁ランタン、わたし⋮⋮﹂
小さく微笑む。
﹁お小遣いはある?﹂
﹁こっちで持つから。気にしなくていい﹂
﹁じゃあ、ちゃんとお礼は言うんだよ﹂
リリオンはこくりと頷いた。リリララに何を吹き込まれたのかは
1277
知らないが、ランタンが言わなくても、自ら行動を選んだのだと思
うと何やら感慨深い。
﹁ではご迷惑をお掛けするかと思いますが、よろしくお願いします
ね﹂
﹁夕頃までには帰してやんよ。家の場所も知ってるしな﹂
﹁ランタン、心配しなくていいぞ﹂
レティシアが急にランタンの頭を一撫でして。少年は目をぱちり
と。
もしかして。
﹁じゃあランタン、わたし行ってくるね﹂
﹁うん、楽しんでおいで﹂
送り出して遠ざかっていく背中を見送る。少女は何度も寂しげに
振り返るものの、きちんと自分の脚で遠ざかっていく。
﹁さて、⋮⋮どうしようかな﹂
もしかしたら、寂しそうな顔をしていたのは自分なのかもしれな
い。
1278
085
85
元々、ランタンは目的もなく行動をするような質ではない。
迷宮にいる時以外を空いた時間と呼ぶのならば、けれどランタン
がそこで行うのはいつだって次の探索のための準備であった。食事
も睡眠も、あるいは大好きな風呂でさえも迷宮探索の気力を蓄える
ための一つの要素でしかないのかもしれない。
思い出してランタンは笑う。死と隣り合わせでありながらも、随
分と味気ない日々を過ごしていた。
最近はリリオンのための時間である。探索の準備でさえ、リリオ
ンと一緒だと色を帯びる。
そのためかランタンは傍らから少女が失われて目的を見失った。
探索のための準備はもう済んでいるし、自分が行わなくてもレティ
シアたちがどうにかしてくれる。そう言った考えもまたランタンを
暇にさせた。
ランタンは一人でぶらぶらとして、時間も、繋ぐ相手のいない左
の手も持て余していた。
左手で戦鎚を扱う練習でもしようかな、と思う。それとも右で戦
鎚、左で狩猟刀を、いや、あるいは打剣術の練習をしてもいい。そ
れならば一度下街に戻るか。でも面倒だし身の内にある魔精を認識
できるように努めようか。
それならばそこの木陰に座って、ぼんやりしていればそれっぽく
見える。
木陰には簡易的な長椅子が座る者無く置かれていて、その隣の屋
台では果実水を売っていた。でもきっと温いだろうな、とランタン
1279
は思う。まあいいか。
﹁すいませーん、薄めずにください﹂
果実水は果実を潰して煮詰めた原液を水割りにしたものだ。大鍋
にすでに水割りにした果実水を置いた屋台もあるが、ここは原液と
割水がわけられている。客の目の前で薄めることで、変な混ぜもの
をしていませんよ、と証明しているのだ。それに売れ残ったとして
もそれならば捨てるのは水だけで済み、余った原液は更に煮詰めら
れて次回に持ち越される。火が通っているのでたぶん不衛生ではな
いと思う。
四半銅貨一枚。水割りにしようとしまいと値段は変わらず、原液
は小さなひしゃくの半分ほどを掬っただけ。粘性を帯びた濃い液体
は林檎と檸檬の混合果汁で、とろりとした飴色がコップの底を極薄
く広がる。ランタンは長椅子に座って水筒の水を注いだ。
﹁マドラー貸してください﹂
これも四半銅貨一枚。良い商売だな、と思う反面、よくこれで食
っていけるな、とも思う。探索用品の支払いに銅貨が使われること
はまずない。四半銅貨などは買い物よりも孤児への施しに使うこと
の方が多い。
ランタンは果実水をちびちびやりながら、木陰に透ける青空を眺
めていた。果実水の屋台にはランタン以外の客はなく、通りを挟ん
で向で商売をしている揚げ鶏の屋台はそれなりに繁盛していた。
こんな陽気に、とランタンはそちらに目を向ける。
屋台の大鍋の中には油が満たされて、弱火で熱されている。油の
中には大蒜がぷかぷかと浮かび、半身に割った丸鶏が逆立ちをして
脚を鍋の縁に立てかけてぐりるぐるりと二回り分沈められていた。
大蒜の匂いと、油の熱がここまで漂ってくるようだった。
つら
揚げ鶏屋台の店主は猫人族の男だ。きびきびとして働いていて、
年の頃は三十から五十ぐらい。亜人族の面に年齢を探るのは難しい。
果実水を一口。
傾いている。
1280
店主の重心が右寄りなのは、左の脚に古傷があるからだろうか。
おそらく膝。斬られたとか叩き折られたとかそう言うのではなく、
元が左重心でその負荷に耐えられずに軟骨がすり減った結果だろう。
痛みは鈍痛で断続的。右足重心になったのはそれほど昔ではなく、
筋肉の付き方は左半身が発達しているが、肩胸腕は包丁を振るう右
の方が鍛えられている。
その結果として何となくバランスが取れているような、やはり軸
芯が歪んでいるような。その内、腰を痛めそうだ。
そして呼び込みの声がやや掠れるのは、まあ煙草のためだろうが、
これは目に見える歯の汚れから推測した結果である。
魔精の活性化による感覚の鋭敏化。その行き着く先は人魔問わず
心の内も見透かす心眼心聴であるらしい。内にある魔精が活性化す
ることにより、外気に混ざる魔精と共振して知覚範囲が広がる。そ
して外気を媒介して触れる他者、その内なる魔精に干渉すると、つ
いには。
与太だな、と思う。
ランタンが果実水で口を潤す。活性化しているのかなあ、と自信
がない。取り敢えず猫人族に狙いを定めては見たものの、彼の人物
像の認識が事実であるのかそれともただの妄想か区別は付かない。
心の内など透かし見ることなど到底無理で、目に見えたものに屁理
屈を付けただけの妄想であるように思う。
悪趣味だけど、他の人でも試してみようか。
ランタンは無指向に意識を広げる。木漏れ日の光が温かい。遠く
から運ばれてくる風が涼しい。果実水の店主が欠伸をして、揚げ鶏
の店主が汗を拭った。道行く人がこちらを見ている。誰かが立ち止
まって迷っている、揚げ鶏を買おうかな、どうしようかな、と。
迷っているのは熊人族の騎士見習いベリレである。
鎧も長尺棍も装備しておらず、だぼっとした簡素な服に身を包み、
肘や腰、膝の辺りを紐で絞ってある。腰に下げた長剣が短剣に見え
る。ランタンに向けた背中が大きく、けれど猫背に丸められている。
1281
だぼっとした服が肩の肉に引っ張られて今にも破れそうだった。
ベリレの姿はたいそう目立っていた。背中が大きい、と言うのは
つまるところの、身体が大きいと同意だ。道行く人よりも頭が一つ
二つ高く、堂々たる巨躯はほれぼれするほど立派だった。
なるほどこれはエドガーが置いてきたのも頷ける。隠行が苦手だ
とかそう言った話ではなく、そもそもとしてそのように身体が作ら
れていない。
正々堂々とした身体である。
しかしそんな男が猫背になっているのだから違和感しかない。
何をしているんだろう、とランタンは己の状況を棚に上げて、じ
っと背中を見た。
心眼。ではなく透視。でもなく結局は状況からの推測である。
財布、だろうか。
ベリレは財布を覗き込んでいる。そしてその財布は軽そうだ、と
ランタンは背中を透かして思う。あの巨躯ならば揚げ鶏を幾つ買お
うかと悩んでいるようにも見えるが、その実、一つ買おうかどうか、
と言ったところだろう。
寂しげな気配が背中にあった。妙に哀れである。あの身体ではさ
ぞ燃費も悪かろう。熊人族の男、いやこれは少年か、透かした背中
の内にある魂は若い。
もしかしたら、とランタンは果実水を飲みきって立ち上がった。
近付くがベリレは気が付かない。
やはり財布の中を覗き込み、︱︱覗き込んだままだ。どうぞお好
きにしてください、と言わんばかりの無防備さであり、ランタンが
このような隙を見せれば六人の掏摸と十二人の痴漢とその他諸々の
変態が一個小隊ほどやってくる。リリオンも好き放題にしがみつい
てくる。
ベリレに近付く者はランタン以外にいない。
何とも羨ましい身体付きだ。ランタンは迷った挙げ句に、最も柔
らかそうな脇腹に人中の二指を突き入れた。
1282
﹁うわあ︱︱っ!!﹂
堅く、脂肪はほとんどない。突き指しそうだった。
全身筋肉の巨躯が獣じみた反転をみせて、胸板に財布を押しつけ
て守り、右手が腰の長剣に伸びて空を掴んだ。まだランタンと認識
していない忍び寄った影から視線を逸らさずに、ランタンによって
掏り盗られた長剣を虚しく探している。
それは虎を前にした小熊の顔。ランタンを認識してぎりりと奥歯
を噛んだ激情は、ただの隙である。一足で間合いを詰めて、放り投
げるような無造作な刺突により長剣は鞘に戻された。ランタンはベ
リレの右手を取ってやり、そっと柄に握らせてやった。
﹁お腹空いてるのかもしれないけど、ちょっと不用心だよ﹂
指太い。ごつごつしていて、掌が厚い。甲の半ば程から短い焦げ
茶色の毛に覆われていて、前腕に繋がっている。毛皮を持つ亜人族
は全身が覆われている者と、そうでない者がいる。後者の多くは延
髄や背骨沿い、そして前腕や臑に発現することが多い。非対称に生
えている者は、みっともないと剃ってしまうことが多いのだとか。
﹁こんにちは﹂
﹁︱︱なんだよ!﹂
﹁隙だらけだったので思わず﹂
ベリレがランタンを苦々しく見下ろす。思わず、で他者を害する
者は、多いとは言わないが少なくもない。もっと日が落ちていたり、
裏通りだったり、あるいは下街だったりするとベリレの内臓は抉り
取られていたかもしれないが。
﹁どこから、︱︱ぐ、⋮⋮いや、なんでもない﹂
ベリレは財布を後ろ手に隠して、落ち着きなく剣の柄を触ってい
る。ランタンはベリレに笑いかけて、視線を揚げ鶏屋台へと向けた。
さ
猫人族の店主が不安げな視線をこちらに向けている。右の手には鶏
を骨ごと真っ二つにする大振り肉切り包丁を提げている。
移動式の屋台とは言え、出店場所には取り決めがあって、客入り
が悪いからと言って好き勝手に場所を変えられるわけではない。店
1283
先で揉め事が勃発すれば、客引きいらずに野次馬が集まることもあ
るだろうが、衛士隊もやってくる。そうしたらもう商売をするどこ
ろではなく、あるのは四半銅貨の一枚の得にもならない事情聴取だ
けである。
猫人族の店主はそれなりに荒事もこなしそうな雰囲気があったが、
ベリレの巨躯にはさすがに尻込みをしている。ちょっかいをかけた
のはランタンだったが、その目は速く逃げろと警告を発しているよ
うにも思えた。身体が大きいのも良し悪しなのかもしれない、けれ
ど羨ましい。
なんて事はない。なぜなら決して小さいわけではないから。羨ま
しがることなどはない。
﹁良い匂いだね﹂
油の鍋からは香ばしい大蒜の香りが漂っている。ベリレはむっつ
りと何も言わず、ただゴクリと唾を飲んだ。
﹁おいしそうだね﹂
﹁うん﹂
指差してそう言うとベリレは結局素直に頷いて、それからかっと
頬を赤くした。ランタンは声にこそ出さなかったが、耳元まで裂け
るのではないかと言うほどに唇を三日月にする。にやりといやらし
く目元が緩み、それに見つめられたベリレは何やら怒鳴っているが、
ランタンはどこ吹く風である。
﹁お腹減ってるんだ﹂
﹁別に﹂
﹁ふうん、奢ってあげようかと思ったけど、いらないんだ﹂
﹁いる。いっ、いらないっ﹂
ランタンは喉の奥で笑いを押し止めるが、もうほとんど呼吸困難
になりそうだった。三日月だった唇が、そんなものを取り繕う余裕
がなくて、ゆるっと半開きにして生々しく呼吸を荒げている。ラン
タンは大きく肩を震わせて、眦に溜まった涙を拭った。
﹁あー、おっかしいんだ﹂
1284
ランタンはどうにか息を整える。そして踵を返して逃げ出そうと
するベリレの初動を防いだ。動線に一歩足を踏み入れてしまえば、
ベリレはそれだけで身動きが取れない。ああたぶん、これが感覚の
鋭敏化か、と思う。
ベリレからははっきりと羞恥や困惑や怒りが感じられた。けれど
そこには敵意がなくて、ただ純粋な感情はやはり子供の物である。
﹁あれ食べようか。おいしそうだし﹂
﹁⋮⋮食べない﹂
﹁どうして?﹂
ランタンは意地悪く小首を傾げる。ベリレと目が合って逸らされ
た。鼻筋を通って唇に、白い前歯を一つ一つなぞって、その中の赤
い舌に絡め取られる。ベリレは中の貨幣を砕かんばかりに財布を握
りしめた。
﹁別に、腹は減っていない﹂
ぐるぐるとベリレが唸った。腹で。
ベリレは開き直っており。恥ずかしがるでもなく慌てるでもなく。
堂々と腕組みをして、その二の腕を引き千切らんばかりに抓ってい
る。もう二度と鳴るなよ、と己の身体に言い聞かせるようだった。
ランタンも笑わない。聞かなかった振りをして、もう一度やり直
す。
﹁どうして?﹂
と。自分の脇腹を抓りながら。
﹁お前に、奢ってもらう理由がない﹂
﹁理由はあるよ。これから一緒に探索するんだから、奢ったり奢ら
れたりなんて普通でしょ?﹂
ランタンにそんな経験は一つもないが、そう言う物であるらしい。
そして一つ。
﹁それに年長者が下の子に奢るのだって普通のことだよ﹂
﹁は?﹂
何を言っているんだ、とベリレの顔がむかつくが、ランタンはや
1285
れやれと溜め息を吐く。
﹁エドガー様付き従騎士ベリレ。お歳はお幾つ?﹂
﹁今年で十四になる﹂
ランタンはベリレの尻を蹴っ飛ばした。
﹁いってえ、何をするんだ!﹂
﹁僕はもうすでに十五歳だよ。文句あるか﹂
聞き耳を立てていた猫人族の店主が足の上に包丁を落として騒い
でいる。きっとベリレが歳の割に大柄なので驚いているのだろう。
きっとそうに違いない。
﹁はあっ、嘘吐くなよ。どう見てもお前の方が子供だろう!﹂
﹁子供って言うのはどうしてこう捻くれているんだろう。全く嘆か
わしいことだね。まったく身体がちょっとだけ、ほんのちょっとだ
け大きくてもやっぱり子供だね。お兄さんが揚げ鶏を買ってあげよ
う﹂
﹁ひ、一つ二つしか違わないのに歳上面するな!﹂
﹁あ、認めるんだ。それなのにそんな言葉遣いなんだ。まったくエ
ドガーさまはどんな教育をしているのだろう﹂
﹁ぐ、⋮⋮ありがたく、ちょうだいします﹂
ランタンは高笑いである。道行く人がぎょっとしてランタンを振
り返って、ランタンは慌ててベリレの影に入った。どうにも陽気に
やられたようである。別にほぼ同い年なのにこの体格差があること
が腹立たしくて、意地悪をしているわけではない。
猫人族の店主は何故だか極端な左重心に変わり果てていて、ラン
タンは揚げ鶏を二つ買った。
揚げ鶏は下味を付けた鶏の半身を大蒜油でしっかり火を通した豪
快な料理である。値段も屋台のわりと豪快だが、量があり複数人で
一つを回し食いするので高価すぎるというわけでもない。鶏足に持
ち紙を二重巻にして、ランタンは迷惑料も込めて半銀貨を渡した。
すると揚げ大蒜がオマケに。いらないなあ、と思ったのでそれはベ
リレの口の中に放り込む。
1286
﹁あっつあっ!﹂
はふはふ、とベリレは慌てていて、それでも一つの揚げ鶏を受け
取とると、ありがとう、と言ったような言わないような。全ては大
蒜により曖昧になっていた。
鶏皮は脂が抜けてぱりぱりとして香ばしい。しっかりと火が通っ
た肉は旨味が閉じ込められていて、表面はしっかりと噛み応えがあ
ったが、内側に食べ進むにつれて柔らかくなっていく。下味の香辛
料は少なめで、仄かに野性味を感じさせる臭気があった。
﹁けど、おいしいな﹂
﹁なにが、けど、なん、ですか。とても旨、おいしいです﹂
﹁そんなに片言だったっけ?﹂
﹁う﹂
ベリレは話さなくてもいいように一心不乱に肉に食らいついた。
まさしく熊のごとき食べっぷりで、見ていて清々しい気持ちにさせ
られた。軟骨や細い骨などは気にせずに噛み砕き、太い骨は骨髄を
啜るようにして未練がましく舐っている。
果実水屋台の長椅子に座る。これだけで四半銅貨二枚を要求され
たので、結局二つ頼んだ。買えば席料は無料である。
ランタンはまだ二口、三口、口を付けただけだったがベリレはす
っかり食べ終えてしまった。余程に空腹だったのだろう。もっとゆ
っくり食べれば、ランタンと会話をしなくても済むというのに。
ベリレは豪快な仕草で唇と頬を纏めて袖口で拭った。果実水を一
気飲みして、満足感と物足りなさのある顔をしている。丸い耳が萎
れたように前傾だ。
﹁もういらないから、あげる﹂
﹁いいのか。ですか﹂
﹁あーもう、気持ち悪い。普通で良いよ。ほとんど同い年だし﹂
何でもない、気持ち悪い、にちょっとだけ傷ついていて、面倒く
さい男だな、と思う。鬱陶しいので無理矢理に揚げ鶏を握らせてや
った。先ほどよりも少しばかり一口を小さくベリレは食べ始める。
1287
ランタンは果実水を一気飲みして、コップを屋台に返却した。
立ち上がるとベリレも立ち上がり、歩き出すと付いてくる。一歩
が大きくて、ベリレはすぐにランタンに並んだ。そして窮屈そうに
歩調を合わせる。
きっとエドガーの後ろもこんな感じについて歩くのだろう。ベリ
レはもうそれが無意識的に行ってしまうほどに染みついているのか
もしれない。ランタンは頬に浮かぶ苦笑を隠して、ベリレを見上げ
た。
﹁今日は一人なんだ﹂
﹁お前もだろ、いつも引っ付いてるのはどうしたんだよ﹂
意地悪な質問だったかな、と思っていたらそっくりそのまま返さ
れてしまった。ランタンとは違い意識してのことではないだろう。
それだけにランタンは驚いて、声を出して笑った。
﹁実は誘拐されまして、兎と竜のお姉さん方に﹂
﹁︱︱それは、災難だったな﹂
ベリレは大きく一口齧りついた、二口、三口で鶏の半身を食べ尽
くしてしまうような一口だ。じゅっと溢れ出す肉汁に頬や唇を汚し
て幸せそうに目を細めた。リリオンと同じだな、とランタンは思う。
けれど頬を拭ってやる気にはならない。ベリレはぺっと骨を吐き出
した。
﹁リリララさんとは仲よさそうなのに﹂
﹁ふん、別に仲が良いわけじゃない。あいつが俺のことをからかっ
てくるだけで。だからあんまり好きじゃない﹂
好きじゃない、と来たか。ランタンは一瞬だけバツの悪そうな顔
をした。きっとリリララの悪意ない暴言に、ベリレは律儀に傷つい
たりするのだろう。ランタンは矛先を逸らす。
﹁ふうん、そうなんだ。じゃあレティシアさんは?﹂
﹁レティシア様は美人だ﹂
ベリレの答えは簡潔で、そして至極真面目だった。
﹁まあ、︱︱ほんとそうだよね。じっと見られると少しドキドキし
1288
ちゃうし﹂
﹁⋮⋮少しだと?﹂
小さい呟きにある感情は、混沌としすぎて読み切れない。レティ
シアを変な目で見るんじゃない、と言われているような気もするし、
少ししかドキドキしないとは何事だ、と言われているような気もす
る。斜め上から見下ろしてくるベリレの視線がランタンの頬を抓る。
レティシアは美人である。
濡れたような黒曜石の肌は匂い立つほどに艶めかしいが、緑瞳の
涼しげな凜々しい面立ちは、そういった色気を軽蔑するかのような
潔癖さがあった。けれど背反する性質はむしろそれらを際立たせる
ようだった。レティシアの頑なまでの清廉さは、己の色香に気が付
くがゆえの羞恥と苦悩であるのかもしれず、けれどそれによってレ
ティシアの色気は増すばかりだった。
そして、それがまた。
﹁兄君、︱︱ヴィクトル様を亡くされてもレティシア様は、それで
・
も気丈に振る舞っておられる。ご自身が一番傷ついておられるだろ
・
うにリリララなんぞも気遣って﹂
﹁へえ、リリララさんをレティシアさんが﹂
ランタンは逆だと思っていた。リリララがレティシアを引っ張っ
て元気づけようとしているようにランタンの目には映る。だがベリ
レは逆だと言う。リリララに思うところがあるからこそ、そう見え
ているのだろうか。それとも。
﹁ああ、リリララは元々ヴィクトル様付きの侍女だから。余計にレ
ティシア様は気にされるんだろう﹂
リリララのあの立ち振る舞いは、悲しみを隠すためか。ベリレは
それを素直に受け取っているようで、何やらぶつくさと言っていた。
ランタンはベリレの脇腹を一発殴りつける。そして睨み付けてくる
ベリレの視線を冷たく返した。
﹁ぐ、⋮⋮なんだよ。ともかくとしてレティシア様は美人で、素晴
らしい御方だ。俺にも優しくしてくれるし﹂
1289
結局はそこに収束するのが、哀しい男の性だった。ベリレは脇腹
をさすりながら、ふとどこか遠くを見上げた。
﹁いずれ誰ぞに剣を捧ぐ日が来るのならば、その時はレティシア様
のような御方に捧げられたらと思うよ﹂
敬慕。
﹁レティシアさんに、じゃないんだ﹂
﹁︱︱ばっ、お前、そんな恐れ多いっ。全く何を言っているんだ﹂
なんとなしにランタンが訊くとベリレは一瞬で何を想像したのか、
顔を赤く、そして青くして大いに慌てた。落ち着こうとすると揚げ
鶏を囓る。
ぐあう、と獣のような唸り声を上げて、ばきばきと骨を噛み砕い
ている。リリオンもよく骨まで料理を食べているな、と思い出す。
僕もそうしようかなあ、とランタンはベリレを見上げる。
二メートルの巨躯。身体の厚みはランタン二人と半分。肩幅は三
人分。体重は百三十前後はありそうだ。難しい顔をして揚げ鶏を食
べている。こうしてぼんやり見てみれば、精悍な大人びた顔立ちを
している。眉間に寄った皺が深く、そうすると眉尻が上に向いて迫
力があった。
﹁じゃあ、おじいさまは、⋮⋮まあいいや﹂
はつらつ
﹁なんでだっ、エドガー様はな。素晴らしい方なんだぞ。それを第
一お前はそんな御方をおじいさまだなんて﹂
眉間の皺がぱっと消えて、その顔は少年そのものの溌剌さがあっ
た。いかにエドガーが素晴らしいかを語るとベリレの言葉は止まら
ない。
いつぞやの討伐作戦がどうだとか、最終目標との死闘が何だとか
それはベリレが生まれる前の話だったが、まるで見てきたように話
す。そして実際に目にした物の話となるともうこれは少しばかりぞ
しゅゆ
っとした。あの戦闘の、あの瞬間の踏み込みが、あの一撃の角度が、
でっ
振り抜きから斬り返しまでに掛かった須臾の時間が、とベリレは事
細かに覚えていた。もしかしたら捏ち上げているのかもしれないが、
1290
それにしたって整合性がとれている。
﹁⋮⋮かっこういいねえ﹂
﹁だろうっ。エドガー様は格好良いんだ。俺もいつかはあんな風に、
なれる、だろうか⋮⋮﹂
揺り戻しで声が萎む。一挙手一投足を事細かに記憶する狂信に近
い憧憬は、その頂の高さを測りかねている。ただ届かないと言うこ
とだけを確信して、そしてそれを認めたくない己がいる。本当に届
かないかどうかなんてわからないのに。
ランタンは慰めるようにベリレの肩、には届かないので腕を叩い
た。
﹁そう言えば魔精の活性化ってできる?﹂
﹁できる。⋮⋮エドガー様の手ずから教えて頂いた。きちんと、ち
ゃんと、お前と違って﹂
﹁はいはい、羨ましいことで。あれって何かコツとかってあるの?﹂
﹁ない、が感覚さえ掴めばあとは楽だった﹂
﹁その魔精の感覚が分かんないんだけど﹂
﹁知らん﹂
ベリレは骨ばかりになった揚げ鶏を捨てた。
活性化している時はこの感覚なのだろうと思い当たるのだが、そ
うでない時はよく分からない。不活性時でも魔精は体内にあり、肉
体に影響を及ぼしているというのに。
﹁なあ俺たちはどこに向かってるんだ﹂
﹁商工ギルド﹂
﹁はあ? もう探索の用意は済んでるぞ﹂
﹁僕には用事があるの。あ、これ買っていこう。飴菓子﹂
宝石のように綺麗な飴菓子を包んでもらった。ベリレは飴を舐め
ながら歩くのかと思っているようだが、これは土産である。脂っぽ
い指をした手を伸ばしてきたので、ランタンは強めに引っぱたいた。
ベリレは不満そうな顔をして、ズボンで指を拭いていた。ズボンに
指の跡が付いている。
1291
﹁最後に、リリオンのことどう思ってる?﹂
﹁ああ? 何だ急に﹂
﹁これから迷宮に行くわけでしょ? だから確認﹂
﹁別に、どうも思ってない。お前にベタベタしてるのが目に付くぐ
らいで﹂
﹁ふうん﹂
﹁何だよ﹂
ランタンはじろりとベリレを見上げた。やや半眼のその目付きに
は妙に重たげな感情が滲んでいる。
﹁ならなんで睨むの? リリオンのこと﹂
﹁⋮⋮別に睨んでなどいない﹂
ランタンはじっとベリレを見て、ベリレは目を逸らした。ランタ
ンは唇を歪め、次の言葉を。
﹁僕のことは睨んでたよね﹂
﹁⋮⋮睨んだ。それは認める﹂
思いの外、素直だった。
ベリレは本当にリリオンを睨んでいた自覚がないようで、それは
つまりリリララの言葉が正しいことを意味するのかもしれない。ベ
リレが眉間に皺を寄せるのは感情を隠すためのものである。レティ
シアにしろ、リリララにしろ割と極端な反応を見せたベリレは、リ
リオンに対しても極端に緊張し、それ故に眉間の皺はより深くなっ
ている。
と言うことだろうか。
﹁リリオンのことも睨んでるよ﹂
﹁⋮⋮知らん。俺は睨んでなど︱︱!﹂
てめえが否定しようとリリオンは怖がってるんだよ、と内心思っ
たかもしれない。
言葉の途中でベリレは大きくランタンから距離を取って、目をま
ん丸に見開いてランタンを凝視している。ベリレの顎に汗の粒が浮
いて、一粒の雨となった。
1292
魔精による感覚の鋭敏化。その行き着く先は他者の心象への干渉
であり、触れると言うことは同時に触れられていると言うことに他
ならない。言葉にせずとも意思が伝わり、あるいはそれは戦場にあ
や
って敵意や殺意と呼ばれるものであるのかもしれない。
﹁あの子のことを怖がらせるのは止めてね﹂
ベリレはただ頷くことしか出来ず、商工ギルドに入っていったラ
ンタンの背中を遅れて追った。
1293
086
86
エーリカの頬は繁忙によって削ぎ落とされた。
ランタンが大がかりな芝居を打ったあの日から、商工ギルドを訪
れる探索者の数は右肩上がりに増えていった。それは専業運び屋を
求めて探索者であったし、運び屋という職を求めた元探索者でもあ
ったし、一部にはランタンとの間を取り持ってくれと言う輩もいる
と聞いている。
だが商工ギルドはその全てを受け入れたわけではないし、最後の
輩には問答無用にお引き取りを願ったことは言うまでもない。
探索者の需要に対して運び屋の数は足りず、元探索者の中には即
戦力となる者もいることにはいたが、大多数はやはり教育が必要で
あって需要を満たすには至らなかった。
エーリカは有能だった。
満たされぬ需要に対しての不満を上手く操作して更なる期待へと
転化させて、効率化した教育によって元々下地のある元探索者は次
々へと運び屋への転身を果たして逐次、探索者の元へと派遣された。
エーリカは有能だったが、相も変わらず商業ギルドと工業ギルド
は渋かった。
運び屋派遣業は大きな収益をもたらし探索者との縁を生み出した
が、運び屋を育てる教育費用を始めとした諸経費は積み重なって次
第にエーリカの首を絞めていき、彼女を支えるパティ・ケイスは休
日返上で迷宮に潜っていた。
商工ギルドの職員も頑張らなかったわけではないが、二大ギルド
から派遣された者たちは相も変わらず水面下での牽制こそを本業と
1294
し、純粋な商工ギルド職員の数は少なく、商工ギルドの仕事は運び
屋派遣業ばかりではなかった。他部門の利益が教育費として湯水の
ごとく使われることには反感もあって、エーリカは責任感が強かっ
た。
金策。
エーリカは痩せて綺麗になった。
豊かな金の髪をざっくりと後ろで纏めて、露わになった顎のライ
ンはかつての丸みを失い、やや怜悧に切れ上がった。疲労の滲む目
元を白粉で隠し、大人の微笑はそんな苦労を少年に悟らせまいとす
る気丈さである。白い首がほっそりとして、丸襟の装いからは陽気
のためか大胆にも鎖骨が露わになっていた。エーリカは肩に軽くは
織物をしているが、妙齢の色気は隠しきれない。
﹁お邪魔ではなかったですか?﹂
﹁いいえ、大丈夫ですよ。ありがとうございますランタンさま。お
かげさまでどうにか一息は付けました﹂
次回の探索で必要物資の購入は、ランタンの口利きにより商工ギ
ルドに一任されることになった。食料と魔道薬を含む薬品と何だか
本格的な医療用品。睡眠食事に諸々のための野営道具とさらには特
別製の荷車まで。レティシアの個人資産から一括で支払われた金額
は、なかなかどうしてランタンも驚くような金額であるらしい。
﹁お忙しい所、無理なお願いをしちゃったみたいで。少し痩せられ
ましたね﹂
﹁ええ、でもちょうど良かったのよ。昔に戻ったみたいに身体が軽
いもの﹂
そう言えばケイスがエーリカは昔痩せていたと言っていたな、と
ランタンは微笑みながらベリレの膝上から土産を手に取った。
なんとなしにベリレから渡させようかと思っていたが、この騎士
見習いはエーリカを見てからまるで石像である。ランタンが脇腹を
突いても微動だにせず、痩せたことでむしろ身体のメリハリの露わ
になったエーリカの、柔らかそうな胸を見ているような見ていない
1295
ような間抜けな面を晒している。
童貞野郎が、とランタンの脳内で兎が叫んでいる。
﹁これお土産です﹂
﹁あら、ハックルベリーの果物飴。ありがとうございます、ランタ
ンさま。あとでギルドの皆で頂きますね﹂
干した果物を水飴で薄く糖衣したその果物飴は、小さくてころこ
ろした宝石のようで女探索者にも人気がある。
だが夏季となると糖衣がドロドロに溶けて台無しになってしまう
ので、迷宮から帰ってきた頃にはもう食べられないだろう。
エーリカは受け取った菓子包みをソファの脇にそっと置いた。
﹁ええっと、ランタンさま。そちらの方はベリレさまでよろしいで
しょうか?﹂
﹁合っていますけど、よくご存じで﹂
﹁ランタンさまの、︱︱お友達かしら?﹂
﹁次の探索で一緒に行く知らない人です﹂
ただそっと羽織りに触れた。視線を遮るわけでもないその仕草に
ベリレがびくんと震えて、地続きのソファに座るランタンこそが飛
び跳ねた。
﹁もう、やめてよ﹂
ランタンは半眼になってベリレを睨む。べた足の状態から尻で震
脚を踏みやがった、と巨躯の内に潜む練武の片鱗をなぜこんな所で
実感せねばならないのか。ランタンは唇を曲げながら尻の位置を直
し、意趣返しにソファを揺らしたわけでもないのに何故だかベリレ
が立ち上がる。
﹁エドガー様の従騎士ベリレと申します。この度は迷宮探索に必要
な物資の調達に尽力して頂きまして︱︱﹂
﹁もう言ったよ、お礼﹂
﹁こちらに土産が︱︱﹂
﹁渡しました﹂
﹁︱︱ええっと﹂
1296
﹁座れ﹂
ベリレが諦めて腰を下ろそうとしたところに、エーリカが手を伸
ばして従騎士の手をそっと取った。騎士見習い兼探索者であるベリ
レの意識の外より行われたそれに、騎士見習いはもう何が何やらわ
からない。中腰の尻を突き出した中途半端な体勢は、けれどエーリ
カと顔を合わせるにはちょうどよい。
微笑み。
お母さんみたい、とランタンは思う。
﹁ベリレさま。ランタンさまはこう見えてかなり無茶をなさるよう
なので、よろしくお願いしますね。迷宮探索の成功を心よりお祈り
しております﹂
エーリカが座る。前屈みになった一瞬、エーリカは無防備で、こ
れはおそらく意図的なものではないのだろうと思う。忙しさによっ
て削ぎ落とされたのは頬肉ばかりではなく、女性的な意識もそうで
あるのかもしれない。例えば探索者業に性差はあまりないが、それ
以外の職種ではやはり男性優位が目に付いた。
けれどこれはちょっと。
ベリレは離れていく手を名残惜しげに見つめて、それを引き剥が
したのはやはりエーリカの白い胸元である。妙齢の、皮膚の緩みこ
しっか
そが生む柔らかさにランタンこそが恥ずかしげに目を伏せて、ベリ
レの膝窩に横払いの手刀を当てて膝をかくんとぶち折った。ベリレ
は尻餅を付くようにどうと座って放心している。
童貞野郎が、と脳内で叫んだのは紛れもない己である。
﹁無茶なんかしませんよ、もう何を言っているんですか。エーリカ
さん﹂
エーリカの微笑みは、嘘を見通して問い質さない慈愛であった。
まあいいけど、と呟いたのはランタンで、言葉を続けたのはエー
リカである。
﹁それで今日はどのようなご用件でいらしてくださったのでしょう
か? 探索の日取りもありますし追加のご注文はなかなか難しいの
1297
ですが﹂
﹁んー、注文というか。お願いがあるんです。一ヶ月ぐらい迷宮行
っちゃうので急ぎじゃないんですけど、ちょっと引っ越ししたいな
って﹂
急なランタンの提示にも、エーリカは動じない。それどころか。
﹁引っ越しですか、そうですね。ランタンさまのお住みになってい
る下街は、あまり治安が良くありませんものね。もう少し上街側な
ら探索者の多く住んでいる所もありますが、そこはそこで揉め事も
多いようですし。上街内にてお探しと言うことで︱︱﹂
予想以上に情報はダダ漏れだった。エーリカが知っているのは大
ギルドが公然の秘密として所有している諜報組織のためであるのか、
それとも既に炉端の噂ほどの情報へと落ちているのか。秘匿してい
るとは言わずとも、複数の帰路を使い分けたりもしているのだが。
帰ったら知らない人が居るかもしれない、と思うと面倒くさい。
けれどそれが得難い出会いを生むこともあると思うと感慨深い。あ
るいはだからこそランタンはこれほどに余裕であるかもしれない。
﹁そうですね。ほとんど寝て起きるだけだから大げさな家や部屋で
なくてもいいんですけど、んっと、武器庫なんていうと大げさです
けど、それなりの収納がほしいんです。今はちょっと出かける時で
もリリオンは盾を背負わないとだから﹂
愛用の装備を探索者はなかなか手放さない。それらは血肉の一部
も同然であり、ランタンも腰の戦鎚は常に側に置いてある。だが大
型の装備は現実的な問題として邪魔であり、リリオンは平気そうな
顔をしているが負担であることは間違いない。
﹁あとは、やっぱり治安と防犯でしょうか。家を空けることも多い
ですし﹂
﹁⋮⋮下街住みの奴が何を﹂
どうにか再起動を果たしたベリレが口を挟んでくるが無視である。
﹁それと︱︱﹂
﹁お風呂ですか?﹂
1298
先んじて言われてランタンが吃驚していると、エーリカは目を細
める。
﹁うふふ、迷宮にお風呂を持って行こうなんて、そんなことを考え
られるのはきっとランタンさまだけです﹂
あんな適当な、そして僅かに本気の発言をどうやらレティシアは
叶えようと努力はしてくれたらしい。けれども湯船という要素はな
かなかそれ以外の使い道が無く、荷車と合体させるにしても邪魔で
ある。迷宮内で風呂に入るにしても、それは毎日のことではないの
だから。
﹁まあ別に水の汲み上げも必要ないですし、熱源も自前でどうにで
も出来るので、湯船は別注するにしろ、水捌けの良い部屋さえあれ
ば﹂
エーリカはランタンの要望を書き留めて、深く頷いている。
﹁では、お帰りになられるまでに幾つか探しておきます。予算はど
れほどに﹂
﹁あ、そっか。ん︱︱、さすがに買う気はないから賃貸がいいんで
すけど﹂
﹁どうかされましたか?﹂
﹁エーリカさん、実は僕それなりにお金持ちなんですよ﹂
﹁はい、存じ上げております﹂
﹁融資、いりませんか? どうせ腐らせておくだけの貯金だから、
その不動産を担保に。利息は無しでもいいですし、賃料と相殺でも、
足りない分の補填としても︱︱﹂
白いおっぱいが目の前にある。まるで放り出されたように。
少女のものとはまるで違う。
甘い匂い。
﹁ランタンさま、詳しくお願いします﹂
テーブルに手を突いて身を乗り出すエーリカに、ランタンはベリ
レを笑えなくなった。
1299
商工ギルドに融資をした。担保となる不動産は未だに確定してい
ないし、利息は賃料と相殺することとなったが、まだ借りていない
今はただ積み重なっていくだけのものである。場合によっては家な
り部屋なりを借りる際に、家具を入れたりそれこそ水回りを改装す
る時の資金とする方向で話を纏めた。
疲れた。
﹁ベリレ﹂
﹁なんだよ﹂
﹁目線がいやらしかった。あんなんだからリリララさんにからかわ
れるんだよ﹂
﹁別に俺は﹂
﹁おっぱい見てた。そんなんだと女の人には嫌われちゃうよ?﹂
﹁うぐっ、見ていないっ! 適当なことを言うなっ!﹂
﹁⋮⋮まあ、いいけど。自覚の有る無しは自分がよく知ってるだろ
うし﹂
ランタンは大きく溜め息を吐き出して、背伸びをした。指の先端
は、しかしベリレの頭頂に届かないかもしれない。頭上の丸い耳の
分だな、とランタンは思うことにする。
﹁って言うか、女の人に会うのに大蒜食べてからってどうなの? 手だって脂塗れだし﹂
﹁何がだ、いい匂いじゃないか大蒜。手だって別に普通だ﹂
﹁脂っぽい手で僕に触るな﹂
素っ気なく言うと一丁前に傷ついている。でかい図体をしょんぼ
りさせて、あんな人に会うなんて知らなかったんだからしょうがな
いだろう、などと言うようなことをぐちぐち溢していた。一目惚れ
なんて高尚な物ではなく、若さゆえの青い憧れだろうがなんにせよ
不潔である。
﹁って言うか何で着いてきたの? おじいさまの所行けばいいじゃ
1300
ん﹂
﹁だってエドガー様が﹂
﹁道すがら連れ立っていると目立つっていう話でしょ? 先に行っ
たり後から乗り込んだりすればいいのに﹂
﹁︱︱お前天才だな﹂
﹁触るんじゃないよ。あーもう、ほんっと気遣いが出来ないんだか
ら﹂
ばちんと肩を叩いてきたベリレをランタンは憎々しげに睨み上げ
て、その不機嫌な子猫のような横顔に声が掛けられる。
﹁ランタンさん?﹂
振り返ればミシャがいた。目を丸くして驚いているのは、ランタ
ンの隣にいるのが愛らしい長身の少女ではなく、むさ苦しい巨躯の
熊人族であるからかもしれないし、ランタンも驚いて目をまん丸に
して見返してきたからかもしれない。
ミシャはいつものつなぎ姿ではなかった。肌の露出の少ない薄染
めの長袖は、胸下に切り返しがあって女性らしいラインを浮かび上
がらせている。少年のような活発さのある大きめのシルエットのズ
ボンは七分丈で、細い足首に絡みつくような革編みの草履を履いて
いた。
おかっぱ頭はいつも通りで、右手には食べかけの肉串が。
﹁わあ、ミシャだ。今日は仕事はお休み?﹂
かっこ
﹁お休みっすよ。そんなに驚くなくても﹂
﹁見慣れてない格好だからびっくりしちゃった。いつもは格好いい
感じだけど、今日は可愛いね﹂
ミシャは薄い唇を噛んだ。ありがとう、と照れていて、ランタン
はもっと珍しいものを見たなと思う。胸を膨らませて呼吸を一つ。
ミシャは持ち上げた顔をベリレへ向けた。
﹁それで、そちらは?﹂
﹁気にしなくていいよ。知らない人だから﹂
﹁おい、お前なあっ﹂
1301
﹁うるさいなあ、もう。ミシャ、こちら次の探索をご一緒してくだ
さるエドガー様の従騎士かつ、ええっと何とか種探索者のベリレ様
でございます。これで満足? で、こっちは探索で降下引き上げを
してくれるミシャだよ﹂
﹁あら、そうなんっすか。初めましてミシャと申します。安全無事
に迷宮へ送らせて頂きますので、よろしくお願いします﹂
ベリレがぺこりと頭を下げたミシャの胸元に視線が向けたので、
ランタンは思いっきり尻を蹴り上げた。おうぐ、と妙な呻き声にミ
シャは不思議そうにちらと顔を上げて、ベリレはランタンを睨んで
くるので睨み返すどころか軽蔑の視線を向けておく。
エーリカのように胸元がゆるい服ではなく、首までをぴったりと
覆っているのにこの男は。
﹁う﹂
次やったら目を潰す、という思考が魔精に乗って伝わったかはさ
ておいて、ランタンは腕を組んで仁王立ちになった。ちゃんと挨拶
を返さないと今度は前に付いてるのを蹴り潰すぞ、と思う。足首を
回して、関節を鳴らす。爪先には尻を蹴った時の堅い感触が残って
いた。鉄のような尻だ。腹立たしい。
﹁ベリレと申します。よろしくお願いします﹂
﹁よし、じゃあおじいさまの所行きな。場所はわかるでしょ?﹂
﹁え、あ、な﹂
﹁気を使えないと、女の子に嫌われるよ﹂
行け、とランタンはベリレを追い払い、ミシャは困惑していた。
何度も振り返る大きな背中をランタンは一瞥して、すっかり表情を
改めてミシャに微笑みかけた。
﹁いいんっすか。お友達でしょう﹂
﹁友達じゃないよ﹂
友達一人もいないし、と口の中で転がす。
﹁大っきい人でしたね。リリオンちゃんが変身したのかと思っちゃ
ったっすよ﹂
1302
﹁やめてよ、そんな気持ちの悪い。リリオンはネイリング家のお嬢
様方に連れて行かれちゃったの﹂
﹁ああ、それで﹂
歩き出したのはどちらともなく、ミシャは肉串を一塊ランタンに
食べさせて、残りを自分で。もぐもぐと口を動かしながら歩く様子
は身長はそう変わらないのに姉と弟に見える。
夕の気配の滲む陽光に伸びた影が、大人になりつつある少女の身
体と子供のままの少年の身体の対比を拡大して地面に映った。手を
繋ぐように影が重なる。
﹁ランタンさんと二人って久し振りっすね﹂
﹁んー、そうだね。こうして仕事以外で会うなんて、それこそ﹂
﹁お客さんになる前だけっすよ。それも会うというか、出会ったと
いうか﹂
そっかあ、とランタンは思わず苦笑を漏らし、それに釣られてミ
シャも笑った。あの当時こんなふうに笑えるとは、そんなことを想
像すらしなかった。
﹁だからリリオンちゃんを連れてきた時はビックリしちゃった﹂
﹁僕もそうだよ。だってあの時点で、出会って⋮⋮一日だし、そう
いえば﹂
﹁それは本当に、︱︱ランタンさんも変わられたっすね﹂
ミシャは口調こそ軽かったが、その目にはありありと驚きを湛え
ていた。ランタンとリリオンの距離の近さに、ミシャはもしかした
らリリオンはランタンの秘蔵っ子のようなものだと思っていたのか
もしれない。ランタンの懐に入るのが、物凄く手間であることをミ
シャはその身を以て体感している。
﹁それまでの出会いに恵まれてたからね﹂
それにしてはぐずぐずと理屈をこねていたような気もするが、と
ランタンは内心自分に呆れる。
例えばミシャやグランと出会っていなければランタンは野垂れ死
んでいた。あるいは生きていたとしてももっと酷い境遇に置かれて
1303
いたのではないかと思う。今は嫌悪感と共にぶちのめす破落戸ども
した
の一人かもしれないし、探索者とは別の意味で身体を使ってお金を
稼いでいたかもしれない。
﹁ミシャの休日って何だか珍しいね﹂
﹁まあ完全休養は珍しいっすけど、ランタンさんが迷宮にいる時は
それなりに休んでるんっすよ﹂
﹁⋮⋮それもそうか﹂
会う時はいつだって仕事中だからその印象が強いのだろう。
﹁ランタンさんも、こんな風なお休みは珍しいっすよね。いつも探
索、探索ばっかりだから﹂
﹁まあ、そうかも﹂
﹁今日は何をされていたんです?﹂
﹁挨拶回り兼引っ越しの準備、かな﹂
﹁お引っ越しされるんですか?﹂
﹁まあ帰ってきたら、そのつもり。まだ探索中に物件を探してもら
うぐらいだけど、商工ギルドにお願いしてきた﹂
﹁へえ、リリオンちゃんがいると下街は物騒っすからね﹂
﹁あの子がいなくても変わらず物騒だよ﹂
﹁ふふ、私の目の前で襲撃者の頭をかち割った人の言葉とは思えな
いっすよ﹂
﹁しかたないでしょ。あれが普通だと思ってたんだから﹂
やるならば徹底的に。一人を見せしめに十の敵を散らしたのが悪
手であると悟ったのはいつだろうか。十の敵が二十になってお礼参
りに来た時はさすがに参ってしまった。
﹁ま、上街なら手加減するけど﹂
﹁私、ひっさびさに絡まれたっすよ﹂
蝿を追い払うような手首の撓り。顎先に当たったのは中指の爪の
先でしかなく、けれど若い二人の男女にやっかんだ酔っ払いのなら
ず者はぐるんと白目を剥いて崩れ落ちて、ランタンたちは既に歩き
出している。背後で人一人が倒れる音が転がる。
1304
﹁通り魔に間違われなきゃいいっすけど。ランタンさん、なんだか
んだで有名なのに良く絡まれるっすよね﹂
﹁探索者ぐらいしか、僕が何したかわかんないよ。絡まれるのは可
愛い女の子を連れてるからしょうがないね﹂
気が付けば夕焼けの赤色が濃く、目抜き通りの突き当たりまで来
てしまった。終点は教会で、ランタンは困った顔で、どうしようか、
とミシャを見る。荘厳な教会にランタンは祈るべき神もいないので
何となしに怖じ気づいて立ち入ったことはなかったが、訪れる人の
中に探索者は多くいる。探索の無事を祈る者も、祝福を賜ろうとす
る者も、仲間の魂の平穏を願う者も。
﹁お祈り、していこうかな﹂
呟いたランタンの手をミシャが取った。
﹁珍しく弱気っすね。ランタンさん﹂
ミシャの手は冷たくてすべすべしている。片手は指を絡めるよう
に、もう一つはそれをそっと甲側から包み込んだ。祈りの形。
﹁そうなのかな? 大迷宮も、竜種も初めてだし、そうなのかも﹂
思えば、ミシャは昔こんな風に手を握ってくれた。
薄汚れた己の姿と、機械油に黒く汚れてもすべやかな白い指。つ
なぎ姿の少女を、大して背も変わらないというのに見上げていたの
ではなかったか。ランタンは過去の己の姿を思い出し、それは何故
だか他人の視点のように少年少女が眼前に浮かんだ。少年は情けな
い顔をしていて、蹴っ飛ばしてやりたくなった。
﹁大丈夫っすよ、ランタンさんは﹂
ほら行こう、と手を引かれた。
﹁もう、何を根拠に⋮⋮﹂
そんなことを言いながらも逆らえずにランタンは歩き出す。腕を
引かれるのは何だか癪なので、ミシャの隣に並んで少女の横顔をち
らりと睨んだ。薄い唇に笑みがある。横目に見つめ返されてランタ
ンは不意に黙り込んだ。
﹁根拠は今までの実績かな。私との約束ちゃんと守ってくれてるか
1305
らね﹂
初めての迷宮。ランタンを一人で送り出す時、交わした言葉。
﹁︱︱ちゃんと帰ってくるよ﹂
﹁そうしたら僕を子供扱いしないで﹂
﹁⋮⋮そんなこと言ったっけ?﹂
ランタンが空惚けるとミシャはランタンの腕を引き寄せて、こつ
んと肩を当てる。
﹁言ったよ。だからこんなふうに話してるんじゃないっすか﹂
﹁それは抵抗だろうに﹂
﹁ふふふ、もう癖になっちゃったっす。ランタンくんのせいだ﹂
ミシャは肩を寄せて、ちょっとだけ爪先立ちになった。耳元に口
を寄せる。
﹁今までちゃんと約束を守ってくれた証っすよ﹂
ミシャはぱっとランタンから離れて向き合った。教会に背を向け
て、まるで通せんぼするように腕を広げる。
﹁大丈夫だよ、ランタンくん。約束破ったら子供扱い。ちゃんと私
が迎えに行ってあげるから。ね﹂
にっとお姉さんの笑みを浮かべるミシャに、ランタンは拗ねた子
供のような顔で応える。
﹁ちゃんと帰ってくるよ。だから僕を子供扱いしないで﹂
ふん、とランタンは教会に背を向けて、ミシャが後ろからそっと
ランタンの腕を取った。
名も知らぬ神への祈りは、ミシャとの約束の足元にも及ばない。
ランタンは心の底からそう思う。
太陽が地平へ沈み、星が出始めた。地平の底にはまだ名残惜しそ
うに夕陽の赤が燻って夜空が紫に見える。しかし昼中の陽気はどこ
にもなく、吹いた風にミシャの体温すらが温かい。
1306
﹁ん﹂
背後に不穏な気配を感じ取り、ランタンは咄嗟にミシャを抱え上
げると少女が声を上げる暇もなく背後へ跳躍。振り返ると奇襲を空
振りしたリリララが憎々しげに蹴り足を下ろしていて、レティシア
が感嘆を、何故か居るベリレがむっつりと眉間に皺を寄せた。
しかしリリオンがいない。気配は横。闇夜に姿を溶かして、足音
を小生意気にも殺している。奇襲は本命を隠すための牽制であり、
ちょっと別れていた間に妙な小技を覚えたリリオンは腕を突き出し
てランタンに飛びかかる。
せっかくの消音も、これほどはっきり喜色を滲ませては無意味で
ある。
ランタンは肩腕にミシャを抱きかかえながら突き出された腕を左
手で絡め払い、少女の懐に好き放題に入り込む。鎧袖一触に吹き飛
ばすことも、どの臓腑を刈り取るのも容易であるが、ランタンは少
女の勢いを意のままに操り一気に抱き寄せて背中に手を回した。
﹁⋮⋮わたしが抱きしめるはずだったのに﹂
少女は不満を口に、しかし満更でもなくミシャごと腕を回してラ
ンタンにしがみつく。
﹁何ともまあ熱烈なことだね。ミシャ、平気?﹂
﹁あ、ははは。リリオンちゃん、ちょっと痛いっす﹂
リリオンとランタンの間に挟まれたミシャは驚きに目を回してい
たが何が起こったのかを悟ると苦笑を漏らす。ミシャの頬がランタ
ンの胸に少し押し潰されていて、逆の頬はリリオンの胸に。
﹁わあ、ごめんなさい! ミシャさん﹂
リリオンは飛び退くように離れて、大丈夫っすよ、と微笑んだミ
シャは何故だかランタンの胸に体重を預けっぱなしだった。その不
自然さにランタンが戸惑って、けれどその重みを許してしまう。
﹁ほんっと節操ねーな、てめえは﹂
リリララを先頭に三人が近付いてきて、赤錆の目がミシャを見下
ろしてそう言った。それからそっとミシャは身体を起こしてリリラ
1307
ラに向き合った。
﹁レティシア様にベリレ様とご一緒ということは、リリララ様でし
ょうか? 私、引き上げ屋のミシャと申します。よろしくお願いし
ますね﹂
﹁お、おう。⋮⋮よろしく﹂
ミシャの微笑みに、何故だかリリララはぎくりとしている。そこ
にある妙な気配にベリレが尊敬するような視線でミシャを見つめた。
ランタンはこそりとミシャの顔を覗き込むも怖い顔をしているわけ
ではない。
﹁リリオン、楽しかった?﹂
﹁うん。二人とも優しくて、色んなお店に行ったのよ。食べ物屋さ
んとか服屋さんとか。お風呂屋さんにも! でもやっぱりランタン
も一緒がいいな。今度ランタンも連れて行ってあげるね﹂
﹁探索後にね。二人ともありがとうございました。⋮⋮で、ベリレ
はなんでいるの? おじいさまに会いに行ったんじゃ﹂
﹁途中でリリララに捕まった⋮⋮、あいつ︱︱﹂
﹁ふうん、まあいいけど﹂
ベリレに適当な視線を投げかけて、この子を睨んじゃいないだろ
うな、と意念を伝えようとしていると急にリリオンがランタンの手
を取った。
抱きつくでもなく、手を繋いで横に並ぶでもなく、向かい合って
両手を取って淡褐色の瞳が見下ろしてきた。長い睫毛。鼻筋が一度
震え。唇が尖り、視線が逸れる。
﹁どうしたのリリオン?﹂
リリオンは伏し目がちにちらりとランタンを見るだけで応えない。
﹁さびしくなっちゃった?﹂
意地悪な質問にリリオンは素直に頷いて、ランタンは苦笑のよう
な淡い笑みを口元に。
レティシアが背後からリリオンの肩を優しく叩き、穏やかな視線
をランタンに向ける。
1308
﹁ほら、リリオン。ランタンに渡す物があるんだろう?﹂
優しい声にリリオンは頬を赤くして、レティシアが勇気づけるよ
うに少女の背を撫でた。リリオンは名残惜しそうに片手だけ離して
外套の内側から何かを取り出した。
﹁あのね、ランタンは、わたしにいっぱい色んなものをくれるでし
ょう? だからね、お返ししたくて。⋮⋮でもランタンはアクセサ
リーとかは肌が痛くなっちゃうからね。だから、これ︱︱﹂
はい、と渡されたのは綺麗な白絹のハンカチだった。四折りにさ
れて、掌に置かされそれには少女の体温があった。
﹁あ、︱︱ありがとう、大事にするよ﹂
ランタンは気取って言ったけれど、頬の緩みが押さえきれない。
そんなランタンにリリオンは頬を赤くして喜んで、ミシャさえも
含んだ残り四人がにやにやと二人を見つめた。レティシアとリリラ
ラが良くやったと言わんばかりにリリオンの肩を叩き、ミシャはか
らかうようにランタンを突いて、ランタンは恥ずかしさの余りベリ
レの尻を蹴っ飛ばした。
﹁痛てぇ! 何でだよ!﹂
﹁おや、二人仲良くなったのだな﹂
﹁いいえ、なっていません﹂
尻を押さえるベリレは穏やかなレティシアの言葉に頷こうとして、
ランタンは否定する。リリララがひいひいと大笑いしていた。
﹁ああ、今度あたしも蹴ってみよう﹂
﹁絶対するなよっ﹂
﹁うるせえな。世の中には金払って女に蹴ってもらいたがるような
奴がいるんだぞ。喜べよ。それともなにか男に蹴られるのが趣味か
?﹂
﹁俺は、女が、好きだ!﹂
﹁⋮⋮往来で何宣言してるのさ﹂
﹁ランタンの言うとおりだな。さすがに引くぜ﹂
﹁まったく、二人ともあんまり苛めるんじゃない。ベリレも、さす
1309
がにそう言うことはもう少し声を小さくな﹂
﹁︱︱⋮⋮はい﹂
﹁ランタンはけられたい人?﹂
﹁僕は蹴られたくない人です。だからやめてね。もう、二人のせい
でリリオンが変なこと覚えちゃう。どうしてくれるんですか?﹂
﹁てめえ﹂
﹁おまえな﹂
ぱん、とミシャが手を叩く。
﹁はーい、皆様。こんな所で騒がないで下さい。お酒も入っていな
いのに﹂
月を背負ってミシャが笑った。
﹁よかったら、このままお食事に行きませんか? 景気付けに、近
くに美味しいお店がありますよ﹂
行く、とお腹を鳴らしたのはリリオンで、少女は右手にランタン
を左手にミシャを掴まえて三人を振り返った。
はやくはやく、と急かされて五人は夜の道を歩いていく。
﹁あ、そうだ。ハンカチ以外にも土産があんだよ。ねえお嬢﹂
﹁⋮⋮いや、あれは﹂
﹁リリオンの小遣いじゃ足がでちまうから、あたしとお嬢とリリオ
ンの三人からのプレゼントだ﹂
﹁そんな、お気を使わなくても。ありがとうございます。︱︱で、
これは何ですか?﹂
﹁下着。絹だぞ﹂
﹁⋮⋮ベリレ︱、こっち来て﹂
﹁いやだ﹂
﹁いいから来て﹂
﹁だってお前絶対︱︱わあっ! レティシア様、何を﹂
﹁ちょっと脇腹をな。これで勘弁してやってくれランタン﹂
﹁まあしょうがないですね﹂
ランタンは言って、ミシャと同時にリリオンの脇腹に触れた。
1310
ひゃん、とリリオンが飛び跳ねてランタンとリリオンは自業自得
に引き摺られる。
1311
087 迷宮
087
降下は三回に分けて行われた。
まず初めに非戦闘職を、そして食料等を積載した荷車を、そして
最後に探索者を。
相変わらずミシャの手際は完璧だったが、それでも最初と最後で
は一時間近くの時間が経過している。非戦闘職はその待ち時間の間
に、魔精酔いをある程度回復させなければならない。
今回の探索に随行する非戦闘職は二名。一人は運び屋の、ランタ
ンが屁理屈で煙に巻いた大男で名をドゥイと言った。ドゥイはネイ
リング家の下男であり、いわゆるその本業は運び屋ではなかったが、
下男として日がな何かしらを右から左へと運んでいるらしい。地上
だろうと迷宮だろうと物を運べばあのような肉付きになるようだ。
﹁まあ、あいつがちょっと馬鹿なのは確かだ﹂
リリララが霧の中でランタンに言い聞かせる。白い霧の中で表情
は見えないが、何故だかはっきりと睨みつけられているのがわかっ
た。
﹁でもあいつは馬鹿なりに、やることはきっちりやるし、馬鹿真面
目だ。だからお前みたいにまどろっこしい理屈をこねられると混乱
する。いいか、頼み事は簡潔に、はっきりと伝えろ。そうすればあ
いつは理解できるし、ミスらない﹂
わかったか、と声と同時に叩かれた。ランタンは反射的にその手
を掴もうとしたが、ただ霧を掴むばかりである。声の方向と、叩か
れた角度が一致しない。
﹁だからもう二度とからかってやるなよ。からかうならベリレにし
ろ﹂
1312
﹁⋮⋮おい﹂
リリララの言葉にベリレが反応するが、声はいつも以上に低くぐ
ったりとしている。ベリレはまだあまり探索の経験がないらしく緊
張していて、更なる追い打ちで魔精酔いも引き起こしているようだ
った。それを見越してレティシアから横になって降下するようにと
助言を貰っていたのに、ベリレは強がってこの様だった。
そしてリリオンはと言うと当たり前のようにランタンの太股の上
に頭を乗せて、腰にしがみついている。ランタンの下腹部に顔面を
押しつけるようにして、本人としてはこっそりと深呼吸をしている。
ランタンは諦めとともにその髪を撫でてやって好きにさせていた。
リリオンはそのお陰かベリレよりは症状がマシである。
大迷宮ともなると霧の膜が厚い。リリララの気配は霧中に溶けて、
どこにいるか全くわからない。ふと背後から声がして、ランタンは
耳の先をぴっと掴まれた。そして引っ張りながらリリララは囁く。
﹁シュアには逆らうなよ﹂
非戦闘職のもう一人はドゥイの双子の姉でシュアと言い、彼女は
医療担当である。治癒の魔道を保持しているわけではないが、その
医療技術はネイリング家でも上位に位置するようだ。大柄のドゥイ
の双子の姉と言うだけあって女性ながらにベリレ、ドゥイに次いで
筋肉質な探索者のような立派な体格をしていた。
﹁⋮⋮ちょっと怖そうでしたね﹂
三白眼の目に、高い鼻筋、厚い唇と大きな口はランタンと握手を
する時に舌舐めずりをした。
﹁そう、じゃねーんだよ﹂
苦々しくリリララが言ってランタンの耳を捩った。掴まえようと
すると、既に傍にリリララはいない。ランタンが不機嫌そうな雰囲
気を醸し出すと、それを察したのかレティシアが苦笑を漏らした。
﹁お喋りはそこまでだ。抜けるぞ﹂
竜系大迷宮は肌寒い。
ランタンはしがみつくリリオンの温かさをはっきりと感じ取り、
1313
すぐ背後にいたはずのリリララがレティシアの傍で素知らぬ顔をし
ていたので睨み付ける。ベリレは青い顔をして、不調を誤魔化すよ
うに唇をむっつりとして腕組みをしていた。
六人の探索者を乗せた荷車の車輪が地表に触れると、エドガーと
リリララが颯爽と荷車から降りて、リリララはレティシアの手を取
っていた。ランタンはリリオンを抱え上げてゆっくりと、ベリレは
根性を見せながらも足元がふらついている。
﹁思ったよりもお早いお着きで。愚弟はまだくたばっていますよ﹂
こっち
﹁引き上げ屋の腕が良いおかげだな。ドゥイはそのままでいいさ。
探索者が回復するまでには慣れるだろ﹂
先に降りたシュアが皆を出迎えて、エドガーはけろりとしている。
﹁さすがはエドガー様、気付け薬はご不要のようですね﹂
﹁いや、一粒もらおうか。これを食わんと探索が始まらん﹂
気付け薬の缶をじゃらじゃらと振って笑うシュアはエドガーが気
付け薬を口に放り込むのを横目に、獲物を前にした肉食獣のような
笑みを五人に向けて、一通りの顔色を確かめる。
﹁レティシア様とリリララは一粒。ほらリリララは口を開けて﹂
﹁いらねえよ。ああもう、自分で食うからやめろ。触るな﹂
﹁んふ。ベリレとリリオンは二粒な﹂
二人は諦めたように口を開いて、その口にぽいぽいっと緑の粒が
放り込まれる。ベリレは渋い顔をして尻からどしゃりと座り込んで、
ランタンは辛みに呻くリリオンを寝かせてやった。ランタンは青白
い顔をしていたが、端から見ると平然としている。しかしシュアは
じっとランタンの顔色を覗き込むと、じゃらじゃらじゃら、と三度
缶を振った。
﹁ではランタンには特別に三粒やろう﹂
﹁いらないです﹂
﹁若い内から遠慮するんじゃないよ。ほら、口開けて。魔精との親
和性が高いのは確かだが、我慢できるのと負担じゃないのとは別だ
ぞ﹂
1314
それらしい理由付けを否定することもできずに、ランタンは渋々
と口を開いた。
﹁んー、歯並び綺麗だな。ちょっと歯が小さいけど、虫歯もないし、
舌もピンク色だし。すこし奥歯がすり減ってるか﹂
唇に指を掛けられて歯茎まで見られて、ようやく気付け薬を三粒
口の中に放り込まれた。ランタンはそれを意地になって噛み砕き、
その痛い程の辛みにぷっくりと涙を溜めてシュアを睨む。
﹁一粒で良くないですか﹂
﹁一粒じゃ泣き顔が見れないじゃないか﹂
嫌がらせは弟であるドゥイをからかった意趣返しかと思ったが、
どうやらただの趣味であるらしい。
﹁ああ、いい顔だなあ。生意気そうで。リリララもいるし、楽しい
探索になりそうだな﹂
ランタンはぴっと親指で涙を払った。面倒な手合いだな、と思う
が同時に何だかんだと慣れている手合いでもある。強引なやり口は、
ランタンを勧誘する探索者たちの振る舞いに似ていたが、場を弁え
ていて尻に触るような真似はしない。
﹁ええ、そうですね﹂
シュアは素っ気ないランタンの一言に満足気に頷き、リリオンを
はじめとする魔精酔い組を一人一人確認して結局はリリララに絡ん
でいた。はっきりとリリララは苦い顔をしていて、シュアは楽しそ
うだ。
﹁うっぜえっ、ランタンに行けよ馬鹿っ!﹂
﹁そう言うなよ。ランタンに嫉妬しているのか?﹂
﹁⋮⋮てめえは自分の脳の治療をしてろ﹂
逆らうなと言うのは、身代わりになれと言うことだったのかもし
れない。ランタンはぎゃあぎゃあと騒ぐ二人から視線を逸らして、
苦しそうな顔をしているリリオンの顔を覗き込む。横たわる少女の
傍らに座って額の汗を拭ってやるとレティシアも様子を見に来た。
﹁重たそうだな﹂
1315
﹁そうみたいですね﹂
それだけ大迷宮内の魔精が濃いと言うことだった。
そしてそれは出現する魔物の強さを表しているのと同様である。
レティシアがリリオンを見下ろしながらぽつりと言葉を溢した。
﹁すまない。私の都合に付き合わせてしまって﹂
後ろめたさが素直に顔に出る。伏せられた緑の瞳が、ただ場違い
な程に澄んでいた。ランタンの呆れるような、慈しむような視線は
リリオンに向けていた名残でもあるが、レティシアに向けた素直な
気持ちでもある。
﹁お気になさらなくて結構ですよ、レティシアさん。お手伝いは僕
らからも望んでのことですから﹂
﹁⋮⋮ありがとう﹂
強張っていたレティシアの口元が少し緩んだ。
﹁ふふ、しかし、竜種との戦いランタンにかかってはお手伝いか﹂
﹁⋮⋮そういうわけじゃありませんけど﹂
ランタンは念のためリリオンを目隠しして、唇を甘く。すっとレ
ティシアに顔を寄せた。
﹁でも、頑張ったら、いっぱいご褒美下さいね﹂
悪戯っぽく微笑むランタンは、背後にベリレの刺すような怒気を
感じて堪えきれぬように肩を揺らした。レティシアはそんなランタ
ンに驚いたような顔つきになって、ぱちぱちと大きく瞬き。
﹁こら、からかうんじゃない﹂
叱るその顔は美人なのだけど驚きが抜け切らなくて可愛らしい。
﹁つれないなあ。僕は本気なのに﹂
﹁ランタンッ!﹂
ベリレが熊のように吠えて、ランタンはついに声を出して笑った。
迷宮内の温度は十度以下で安定して肌寒く、空気は乾燥している。
1316
攻略を開始して気が付くと唇が割れていた。ランタンはちらりと唇
を舐めて鉄の味を舐め取る。地上では夏になろうというのに、ここ
はもう冬の気配がうっすらと感じられる。
寒さと乾燥は度が過ぎなければ長期間の探索においては利点であ
る。
例えば迷宮に持ち込んだ食料は余裕を持たせて二ヶ月分もの分量
があり、その殆どが乾燥、塩漬け、砂糖漬けに発酵と長期保存を可
能にする物ばかりであるが、しかしそれでも腐敗しないわけではな
い。特に高温多湿の迷宮では食料の保存は難儀するらしい。それに
腐るのは何も食料ばかりではない。
例えば裂傷などの傷口もそうであるし、何よりむしむしじめじめ
した中を歩き続けると精神が腐る。
肌寒さも歩き始めれば気にならない。
﹁涼しいね、ランタン﹂
リリオンは体温が高いためかこの肌寒さを好んでいるようだった
が、時折不安そうな表情をランタンに向けた。
迷宮の道幅は十メートル以上有り、竜種が住み着くにふさわしく
天井も高い。迷宮を構成するのは金属質の硬質な物質であり、焼き
入れをした鉄のようなくすんだ色をしている。
たしな
足音が天井や壁に反響して、それは背後から誰かが忍び寄ってく
るような暗い音だった。
リリオンが後ろを振り返って、ついにエドガーに窘められる。
﹁後ろは大丈夫だから、前を向いていろ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
二人だけの探索ではないから、リリオンは我慢をしてランタンの
手を取らない。ただランタンがエドガーの視線を気にしながらも、
ほんの僅かリリオンに寄り添っている。腕を振ると時折、腕が触れ
る程に。
攻略は先頭にリリララ、次いでベリレ、その後ろにランタンを中
央に置いて、左右にリリオン、レティシア、殿がエドガーだった。
1317
ドゥイはそれよりもだいぶ後ろであり、それは戦闘の際に竜種が
吐き出す息吹系の広範囲攻撃を想定してのことだった。ドゥイは食
料その他を積み込んだ二台の荷車と、一台の空の荷車を連結した物
を牽いていた。シュアはその荷車の後端を押すと言うようなことは
せずに、自らも荷台に乗り込んで弟の背に声を掛けている。
応援と言うには厳しく、だがドゥイは従順であり、一定のペース
を守っている。
﹁足場、あんまりよくないですね﹂
﹁ああ、そうだな。血で濡れたら余計に滑りそうだな﹂
地面は分厚い鉄板の上を歩いているような不愉快さがある。歩く
度に跳ね返ってくる地面の固さは、今はまだよいが後々に膝や腰に
影響を及ぼす可能性があった。それに戦闘時も慣れない内は足を取
られるかもしれない。
﹁リリオンも、戦闘の時に気を付けてね﹂
﹁大丈夫よ﹂
﹁⋮⋮転ばないようにってだけじゃなくて、よく壁とか地面とか叩
いてるでしょ?﹂
リリオンの腕前は上がっているが、さすがにまだ高密度の金属を
斬るには至らない。
﹁横と上は広いから良いけど、斬り下ろしは気を付けるんだよ﹂
﹁うん﹂
叩きつけて跳ね返ったり手が痺れる分にはまだよいが、おそらく
高確率で剣が負けるだろうという予感が靴底から伝わってくる。長
い探索の中で武器を失っては、にっちもさっちも行かない。荷車に
は予備装備も積んであったが、馴染まぬ装備では最下層の地を踏ま
せるわけにはいかない。
﹁そういえば、レティシアさんの雷撃って壁を伝ってこっちに来た
りしません?﹂
﹁ちゃんと制御してあるから大丈夫だ。まあ、あえて無指向にして
広範囲に散らすこともできるが、さすがに味方を巻き込むような真
1318
こっち
似はね。指輪の方は出力も絞ってあるしな﹂
見上げるランタンにレティシアは涼しげな視線を寄越した。
﹁⋮⋮でもあまりおいたが過ぎるとわからないぞ﹂
ベリレをからかう際に、顔を寄せたことを根に持っているらしく
レティシアはぱちぱちっと指先に紫電を纏わせる。
﹁だってさ、リリオン。折檻されないように気を付けようね﹂
﹁わたし、いい子にしてるわよ﹂
冗談なのか本気なのか、リリオンはつんとして言って、レティシ
アは雷をすっかり霧散させた指先でランタンの額を弾く。笑いが零
れる程のどかだった。
そして先頭を歩くリリララの耳がぴくぴくと動く。地上にあって
は後ろに撫でつけるように寝ていたリリララの耳が、迷宮ではぴん
と直立している。元々は立っている方が正常らしいのだが、頭部へ
の攻撃に対する的を小さくするために訓練して癖を付けているのだ
そうだ。
リリララは後ろ手に止まるように示した。そして、黙れ、とも。
﹁︱︱エドガー様、足音です。数は五。四足で、尻尾を引き摺る音
も。地竜ですね。こっちに向かってきてます﹂
﹁ふむ﹂
﹁まだ茶をしばくぐらいの余裕はありますが、⋮⋮知覚されてる、
んですかね?﹂
﹁距離的に髭に引っ掛かったとも思えんが、さてどうかな。予定で
は初日は戦闘はないと見ていたが、来てしまったのならしょうがな
い﹂
大迷宮では戦闘の間隔が数日空くことも珍しくなく、また先遣偵
察隊の報告でも、初日は魔物との遭遇はない、との事だった。それ
は予定外の状況であったが誰も彼もが冷静なのはきっとエドガーが
平然としているからなのだと思う。
﹁遭遇までの時間は?﹂
﹁このまま速度維持しても半時ぐらいはかかるんじゃないっすかね。
1319
あー、⋮⋮これは壁も走ってるな。めんどくせえ﹂
リリララが舌打ちを一つ。彼女の耳は驚く程に高性能らしく、ラ
ンタンはひっそりと耳を澄まし、リリオンは壁に耳をくっつけてい
る。何にも聞こえない。ランタンがリリオンに目を向けると、少女
もふるふると首を横に振る。
そんな二人にリリララは赤錆色の視線を向けて唇を歪めた。
﹁あたしの真似をしようなんざ百年早えよ﹂
リリララは少なからず誇らしげに言って耳の根元から先っぽまで
をぴっと撫でる。
﹁百年後にはわたしもできるかな?﹂
﹁⋮⋮︱︱頑張れば五十年ぐらいに縮まるんじゃねえの?﹂
﹁うん、わたしがんばるわ﹂
﹁おー、がんばんな﹂
拳を固めたリリオンにリリララは疲れたように言って、それから
エドガーに視線を向けた。
﹁先に進むか。先頭はベリレに交代﹂
﹁はい、お任せ下さい﹂
﹁その後ろはあたしでいいすか、魔道の通りも確かめたいんで﹂
﹁ああ、わかった。引き続き索敵も頼む。魔物との距離が一〇〇〇
を切ったら迎撃の用意﹂
エドガーの視線がランタンへ。
﹁じゃあ僕は遊撃ですね。おじいさまは後ろでどうぞ見守っていて
下さいな﹂
ランタンが言うとエドガーは頷き、ランタンの肩をベリレの太い
指が強く掴んだ。まるでランタンを押しのけて会話に横入りするよ
うに。
﹁エドガー様は休まれていて下さい。俺が一匹も後ろに通しはしま
せんので﹂
﹁⋮⋮肩、痛いんだけど﹂
﹁ならお前も休んでいたらどうだ﹂
1320
﹁お気遣いどうも。あと前に言ったよね、僕に触るなって﹂
ランタンは首だけで背後に振り返って、ぎらぎらした瞳のベリレ
を見上げた。そして己の肩に置かれたベリレの指に触れる。
凄い指。
爪自体がかなりの厚みを持っていて、節だった指はランタンとは
比べるべくもなく太く、掌の皮が何度も塩を塗り込んだような弾力
のある硬さを有していた。ちょっと折るのは大変そうだな、じゃあ
爪か。
こちょこちょと爪の隙間をなぞるように触れてやると、それを挑
発と受け取ったのか指が肩に食い込む。
﹁こら、二人ともやめないか﹂
レティシアが低い位置にあるランタンの頭をぽんと叩き、高い位
置にあるベリレの額をぺんと叩いた。
﹁は、はい、レティシア様﹂
ベリレはビックリしたように額を押さえていて、瞳のぎらつきは
どこへやら、なんだか嬉しそうに声をうわずらせている。
﹁友達になったんだろう? まったくもう﹂
﹁友達じゃないですけど﹂
﹁ええ違います。レティシア様は勘違いをしていらっしゃいます!
こんな女に頭を撫でられて喜ぶような軟弱な奴と、どうして俺が﹂
レティシアに叩かれたランタンの頭をリリオンが撫でていて、ラ
ンタンは面倒なのでされるがままにしていた。リリオンが急に矛先
を向けられてびくりと慌てて腕を引っ込めて、ランタンはすっと目
を細め︱︱
﹁ランタンも先頭な。無駄口の罰だ﹂
エドガーに首根っこを引っ掴まれて振り返ることもできない。
ただそっと掌を当てられているだけなのに、首の動脈が大きく脈
動しているような気がする。ベリレはランタンを睨んでいたはずな
のにいきなり直立不動になって、それは呼吸どころか心臓さえも止
めているようだった。その目の中に映るエドガーの顔をランタンは
1321
見ようとも思わない。
背中がじっとりと汗に濡れている。叱られる、という感覚を久し
振りに思い出した。
﹁わたしはどうするの? おじいちゃん﹂
﹁リリオンはリリララの守りだ。大きく魔道を撃った後は消耗する
からな﹂
﹁はい﹂
リリオンは従順に頷く。
そして気まずそうな顔をしている男二人に赤錆の目が呆れを示し
た。
﹁はあ、男ってほんと馬鹿だな。ねえお嬢?﹂
﹁ふふふ。まあ、可愛らしいものじゃないか﹂
﹁もうお嬢、そんなんだから馬鹿二人がつけあがるんですよ。おら、
リリオンも馬鹿をあんまり甘やかしてんじゃねえよ﹂
﹁だって︱︱﹂
エドガーはやれやれと腕を組み、リリオンは掴まれたランタンの
細首にそっと触れる。
ベリレはもう睨むどころではなかった。
迎撃用意。
すでに地竜の足音は震動となって靴底に伝わる程だった。
﹁十メートル級だな。一発目はあたしの魔道だ。つっても壁のを落
とすだけだから、あとは馬鹿二人頼むぞ﹂
﹁⋮⋮まとめて呼ぶな﹂
﹁ベリレが二人分なんじゃないの?﹂
﹁うるさい﹂
﹁そーだね、また怒られちゃう﹂
ベリレの横顔はエドガーに叱られてから硬く、それでいてやる気
1322
に満ちていた。やや力が入りすぎているが戦意は充分。エドガーに
褒めてほしくて堪らないというよりは失点を取り戻したいのだろう。
逸る気持ちが肉体を突き破らんとするように武者震いをした。
迷宮路の向こう側に真っ直ぐな視線を向けて逸らしはしない。背
から長尺棍をずるりと外す。
太く、長く、いかにも重たそうなそれをベリレは重さを感じさせ
ぬように軽々と操る。
長尺棍は八角形で、その先端に一条の鎖を備えていた。それは地
上では見られなかったものであるが、妙に馴染んでいる。これが本
来の姿なのだろう。
鎖は棍の上部に幾重にも巻き付けられていた。鎖は連環の一つ一
つに幾つもの棘を生やしており、それを巻き付けている様はさなが
ら長大な狼牙棒のようである。
鬼の武器だな、とランタンは思う。
﹁そろそろ見えるぞ。集中しろ﹂
ランタンは半身になって、左目で迷宮の奥を、右目でリリララを
見ていた。
リリララはランタンもかくやという軽装備である。
身体に張り付くようなぴったりとした装備の、腕と足を覆うそれ
ボンテージ
は鱗革で艶めかしい光沢があり、剥き出しとなった太股の付け根と
脇が不健康そうな白さを晒している。リリララの装備は拘束衣を思
わせるタイトさで彼女を縛り付けるようだった。
リリララは相も変わらず挑発的にしゃがみ込んで地面に掌を押し
当て、目を閉じている。凄まじい集中力でただ耳だけが地竜の足音
を聞いている。
燐光。
手足の鱗革が魔物の青い血を流し込んだように青白い輝線を走ら
せた。それは心臓の鼓動にあわせるように明滅して、さっとリリラ
ラの頬を青く照らした。拘束が息苦しいとでも言うように、唇の隙
間から浅い呼吸を繰り返している。
1323
うち
体内にある魔精が地脈に染みこんでゆく。
赤錆の瞳。リリララが瞼を持ち上げて、奥から地竜の姿が現れた。
地竜は鈍色の鱗に覆われて、それは刺々しく逆立つように角張っ
ている。鰐のように突き出た顔に、獣の四足。
十メートル級とリリララは言ったがその半分は尻尾であり、身体
を左右に振るようにして激走してくる。引き摺った尻尾の先が地面
との摩擦に火花を起こして、ひどく耳障りな音を響かせていた。
地に一匹。左右の壁に各二匹。壁はつるつるしているし、爪を引
っ掛けられるとは思わない。だが地竜はそこを当たり前のように走
っている。吸盤ではないと思う。足音は硬質で吸い付くような雰囲
気はなかった。
﹁爪が磁性体だな。二人とも武器を取られんように気を付けろよ﹂
﹁はい、ありがとうございますっ!﹂
﹁だが、その分だけ足を取られる鈍足どもだ、後ろに通すような真
似は︱︱﹂
﹁︱︱しませんよ。どうぞ、ご安心を﹂
足を地面から引き剥がすような筋肉の動き。それは言われて辛う
じて気付く違和感である。身体を左右に振って走るのは身体的な構
造としてものと同時に、自重を使って磁力を引き千切っているため
つ
なのだろう。鈍足は呪いのようで、しかし竜の自重を支える磁力は
恐ろしい。
鋭い呼気。赤錆の目が竜を睨む。
﹁リリオンっ、あたしの魔道が見たいっ言ってたよな。よく見とけ、
カマすぜ!﹂
リリララが右の頬を吊り上げる好戦的な笑みを浮かべて、それは
起こった。
地の魔道。その真骨頂は物質への干渉である。青の燐光が一瞬眩
さを増し、ランタンは己とベリレの間を縫って疾風のように走った
気配を感じた。熱のない風のような、それは魔精であり、リリララ
の意志そのものだった。
1324
﹁すごい⋮⋮﹂
呆然とするようなリリオンの声。
壁を走る地竜の進行方向に、突如として巨大な氷柱のような隆起
ドラゴン
が無数に発生した。壁の半ばから天井までにびっしりと突き出すよ
うに鈴なりになった隆起は、鼠返しならぬ竜種返しか。
硬質高密度の金属質がリリララの手にかかってはまるで粘土のよ
うだった。
しかし地形を大規模に変容させたリリララの疲労は大きく、何と
も重たげな息を吐きだした。
壁を走っていた四匹の地竜が竜種返しに引っ掛かり、それは苦痛
の嘶きを漏らして壁から剥がれ落ちた。磁性の爪を有していようと
も地竜は急停止することができず、その突き出された先端に鱗を引
き裂かれて、青い血に濡れている。
巨大な生き物が中空で身を捩り、着地は衝撃波となって身体を打
つ。
咆哮。
散開していた地竜が唯一竜種返しを逃れた一匹を先頭に一纏めに
なり、ベリレが長尺棍を頭上に構えた。
巨躯のベリレが長大な棍を構えるとそれだけで周囲に大きな重力
発生するような威圧感があった。物凄い集中力だな、と思う。凜々
しい大人びた横顔に、距離を測る視線は冷静沈着。ゆったりと後ろ
にもたれるような重心の移動は、踏み込むための助走である。
地竜との距離は遠い。巨躯の一歩と長尺棍との射程を合わせても
全く足りず、それを埋めるのは棘鎖だった。
恐ろしく滑らかな体重移動はエドガーと瓜二つ。
﹁おぅらぁっ!!﹂
裂帛は迸る若さの表れだ。
ベリレの踏み込みに高密度の足場が踏み固められる雪のような悲
鳴を上げて、振り下ろされた長尺棍は釣り竿のごとく撓った。手首
の捻りに鎖が解かれ、蛇のように飛びかかった棘鎖は十メートル以
1325
上の距離などものともしない。
先頭を走る地竜の鼻を打ち付け、それは止まることなく足を払っ
た。爪の磁力など意味をなさぬ高速の薙ぎ払い。
だが地竜はそれをものともせずに前進し、鼻や臑から血を溢れさ
せながらも鎖を跨ぐ。
熊が笑う。奥歯がぎしりと鳴った。
ベリレがふっと手首を返した。手元の捻りが螺旋となって鎖を伝
い、増幅されたそれは先端近くで地竜を三匹まとめて食らいつく巨
大な顎門と化す。鎖を跨いだ地竜どもの胴に鎖が巻き付いたかと思
うと、鱗の表面を滑りその隙間に棘が食い込む。
そして。
ベリレが長尺棍を引くとそれは糸鋸のように地竜の胴を食い荒ら
して解け、ベリレは吠えた。
﹁がおっ!﹂
先頭の地竜の首に鎖が巻き付き、棘は深く、それは宙を舞った。
一本釣り。翼を持たない地竜が飛んだ。
剛と柔。遥かなる高みにある英雄の背を追う、練武の結晶。
﹁なんだ︱︱﹂
ランタンは駆ける。喉から血を溢す地竜を通り過ぎる。その背後
でベリレが長尺棍を翻して引き寄せて地竜の頭蓋を砕いた。鈍い音
と断末魔。
﹁︱︱やるじゃん﹂
負けてられない。
ランタンは獰猛な笑みを浮かべて戦鎚を振り上げた。
1326
088 迷宮
088
手足の締め付けを緩めると、流量を制限されていた血液が勢いよ
く流れ込んで末端がじんと痺れる。
リリララはその擽ったい痺れに呻き声を漏らして、舌打ちは音に
ならない。
外気に晒された太股の付け根と脇の下にある動脈が熱を放ち、そ
して冷やされた血液が身体を循環して内へ内へと潜っていく。全身
が泥になったように重たく、皮膚表面は冷たいのに身体の芯が熱を
持っていて内臓が煮えるようだった。
大規模な魔道の行使に伴う魔精流失の虚脱感は戦闘において致命
的な隙だった。
魔精は肉体を強化し、探索者を超人たらしめる。その魔精が失わ
れるということは、迷宮という弱肉強食の世界に素っ裸で放り出さ
れるのも同然だった。
地形を変容させたリリララの肉体は年相応の無力な少女と同様で
ひし
ある。だが赤錆の目だけが油断無く戦闘を見つめる。視線の先、長
尺棍が地竜の鱗を拉ぐ打撃音に顔を歪めた。うるせえなあ、と思い
ながら息を整える。
己の無力さを受け入れて、それでも余裕であるのは仲間の信頼を
しているからだった。
大探索者エドガーは言わずもがな。
レティシアの剣の冴えをリリララは身を以て知っていて、魔道に
関しては出来のいい妹分のようなものである。レティシアは長兄ヴ
ィクトルを失って一年もめそめそとして、その精神的な影響で大火
力の魔道剣はその使用が未だに不安定ではあったが、それでもよう
1327
やく持ち直してきていた。
そして何だかんだとからかってはいるが、ベリレの技量の凄まじ
さに気が付かぬのはベリレ当人ばかりである。
ブレス
リリララは脳天を砕かれてなお戦意を失わぬ地竜と格闘する年下
の大柄な少年を見つめた。
竜種の中でこの地竜の脅威はそれほど高くはない。息吹に類する
遠距離範囲攻撃の手段は有していないようで、物理攻撃はさすがに
直撃を受ければ一溜まりもないが俊敏さに欠けていた。
百キロ超の筋肉を積載して余裕のあるベリレの巨躯は、鍛錬では
どうにもならない天性の素質そのものだ。
闇雲な地竜の一撃を受け止めるのは技術もさることながら、それ
ひるがえ
を正面から受け止める度胸と筋肉量による所が大きい。磁力の爪が
棍を掴まえ、ベリレはお構いなしに棍を翻して地竜の腕をあらぬ方
向にへし折った。それは首への打撃ついでに行われた結果である。
一匹目が断末魔をあげて絶命した。
・ ・ ・
ベリレは英雄とばかり己を比べて、それは馬鹿みたいな自信家に
しかできないことだというのに、ベリレは馬鹿みたいではなく、本
当に馬鹿なので己の高みを知らない。
﹁はっ﹂
リリララは深呼吸の代わりに吐き捨てるように笑った。乾燥した
喉に唾液が張り付く。
エドガーはネイリング家の食客として騎士団を教導する立場にあ
るが、それでも名実ともに師弟関係と呼べるのはベリレだけだった。
騎士団員ばかりではなくエドガーに師事を請う者は多く居たが、英
雄が傍に置いたのはまだ子熊であったベリレただ一人である。
十メートル級の地竜を魚のごとく釣り上げるような真似をできる
者はネイリング騎士団の中にもそうそういない。それができただろ
うとすぐに思い出せるのは、ベリレと同等の体躯を誇ったヴィクト
ルぐらいのものだろうか。
ベリレが純粋に、嫉妬することなくその武威を認め、エドガーよ
1328
いただき
りも親近感のある憧れであった男。それは頂との距離を測りかねる
ベリレにとって現実味のある目標であり、それを失ったことでベリ
レはただでさえ認識できぬ己の位置を更に見失うことになった。
﹁どこいっちまったんだよ﹂
ヴィクトルに向けて吐き捨てた悪態は、しかしリリララはそこに
込められる悪態とはとても思えぬ寂しさに気がつけない。リリララ
の主人であったヴィクトルは、家中の誰も彼もがそうであったよう
に己の帰還を確信して迷宮に向かって未だに帰らない。
ヴィクトルは英雄になりうる素質を有していた。
大きく、強く、優しく、人望があっていつも人の輪の中心にいた。
ネイリング家は絶えず外の血を招き入れていたが、それでも歴史
に澱みつつある。絶対的な家督の継承者であったヴィクトルを失っ
たことで、次兄と三男の仲が拗れ、家中には影が差した。
次兄はヴィクトルが家督を相続すると信じて疑わず、ヴィクトル
が当主となった暁に直情型の兄を補佐をするために勉学に打ち込ん
だ。
三男はベリレよりも一つ幼く、宝剣を探しに行こうとして現当主
に止められている。ヴィクトルに憧れて鍛練を重ねて、才能の程は
さすがの血統であるが、今はまだ竜系迷宮を攻略できる程の実力に
は至らず、また幼さゆえに次兄を軟弱だと見なしている。
そして次兄と三男、その二人の間には、もう宝剣は見つからない
のではないか、と言うような雰囲気があった。ネイリング家の歴史
の中にあって輝く男であるヴィクトルに、宝剣は流転することをつ
いに終わらせて連れ添ったのではないかと。
また騎士団の隊長格どもは、あるいはその部下たちもヴィクトル
の敵討ちとばかりに竜系迷宮を攻略しているが、その実狙いはレテ
ィシアである者たちも多く居た。宝剣を見つけ出すということは、
宝剣に認められたと言うことに等しい。それはネイリング家におい
ては絶対的な家督相続権だった。
レティシアの魅力は、誰もが振り返る凜々しく美しい容姿や鍛え
1329
上げても失うことなく、防具の下に慎ましく隠された豊満な肉体ば
かりではない。
レティシアは娶れば誰も彼もが頭を下げる歴史ある有力貴族へと
自己を変身させる力そのものだった。探索者から騎士へと転身を果
たした男たちの向上心は、太陽の如く明るいヴィクトルを失って暗
い欲望へと変容しつつある。
レティシアは、宝剣を見つけ出すことが目的であったが、あるい
はそう言った淀みに耐えきれなくなったのかもしれない。
レティシアがリリララに緑の視線を寄越した。
リリララは赤錆の目でそれに応えると、視線にある隠しきれぬ疲
労にレティシアが気が付き、労いにぽんと手を置かれる。ヴィクト
ルによく似ている。耳の付け根を指先で掻くようにして頭を撫でる。
男であるヴィクトルの指は太く硬く、レティシアの繊細な指先とは
比べるべくもなく無骨であったが、それでもよく似ていると思う。
かたち
降り注ぐ気遣いの視線にリリララは気が抜けて、耳がぺたんと倒
れた。この状態がもう素になってしまった。リリララは溜め息のよ
うな苦笑を漏らす。緑の視線が再び戦場へと戻されて、リリララも
また視線を動かす。
ベリレはよく戦っている。大きな身体を目一杯に動かして、長尺
棍と棘鎖を振り回す様子はさすがに目を引く。
だがそれ以上に目を引くのは、地竜の影に飲み込まれてしまうよ
うな小躯のランタンであった。
戦闘を見るのはこれで二度目。
一度目は塔の上から、地竜はその時の相手である岩蜥蜴とよく似
ているが、ランタンの戦い振りはその時以上に、なんというか。
﹁馬鹿だろ、あいつ﹂
呟きにレティシアの手が震えた。
地竜に向かっていく小躯の背中。小兵のように死角へ死角へと回
り込むのではなく、事もあろうに突進してくる地竜と正面戦闘をか
まそうとしている。恐れを知らぬ流麗な沈墜に、引き擦るように構
1330
えた戦鎚が白い火花を散らした。地竜は丸呑みを疑わず、それはい
っそ馬鹿みたいに大口を開いて獲物が飛び込んでくるのを待ち構え
ているようである。
それを嘲笑うように、ランタンは鶴嘴の鋭さを利用して地面に触
れる下顎の隙間に戦鎚を滑り込ませた。手首を捻り、突如跳ね上が
ったそこには火花と呼ぶには大規模すぎる爆炎があった。
爆発に押し出された一撃は、下顎を砕き、強制的に閉ざされた牙
は地竜の口腔を穴だらけにした。後転しそうな程の衝撃は、しかし
地竜は磁力の楔に四肢を固定されて鼻先が背に触れる程に反り返る
ばかりである。
﹁あんにゃろう⋮⋮﹂
クラス
攻撃の手段は多いはずだ。なのに何故それを選んだのか。
地竜相手に徒手格闘を挑むのは、探索者としては最低級の小さい、
細い、軽いの矮躯である。性格と同じぐらい足癖が悪りぃな、とリ
リララは呆れた。
飛び込むような踏み込みは、嫌がらせのように地竜の前腕を踏み
付ける。それは不安定に滑る足場を磁力で固定するためであり、同
時に己の小躯を必殺の間合いに置くためでもある。
振り上げた戦鎚の重みに耐えかねるように、細い身体が捻れる。
軸足の柔らかな足首と膝。地面に残した蹴り足が爪先で震脚をして、
跳ね返った衝撃に腰が回る。降下前に念入りに柔軟体操をしていた
ことを思い出す。一八〇度の開脚は、地面が平行であるからのこと
でランタンの身体はそれ以上に柔らかい。
小躯を捩る螺旋は、ベリレの鎖に似ている。
先端近くで増幅される螺旋は蹴り足を馬鹿みたいな速度で加速さ
せて、跳ね上がったと思った次の瞬間には地竜の喉に深々と突き刺
さっていた。喉元の鱗は細かく、薄い。だがだからといってそれは
脆いわけではないのに、鱗は硝子のように砕け、爪先は分厚い肉を
押し潰して、あるいは気道まで達しているのかもしれない。
固く閉ざされた地竜の口から苦痛が零れる。そして地竜が痙攣し、
1331
苦痛が炎となって口から吹き出した。
喉に突き刺さった爪先から吹き荒れた紅蓮が気管を逆流して口か
ら溢れたのだ。それは地竜の頸椎を炭化させた力の余波であり、力
は口から溢れるに留まらず爪先を喉から押し出した。
ランタンの身体は蹴撃から逆回しに旋転して軸足の磁力を捻切っ
た。
おそろしく乱暴な戦い方だった。
岩蜥蜴の時は犬人族の、たしかジャックだったか、が居たせいで
ランタンは猫を被っていたのだろう。年長者を前にして畏まる礼儀
の正しさも、今ランタンの隣に並ぶのは年下のベリレである。
視線の先では旋転したそのままに戦鎚を薙いだランタンがいた。
仲間ごと噛み付こうとした地竜の鼻っ柱をすっ飛ばして、また別の
地竜がランタンに襲いかかりベリレの棍がそれを受ける。そして止
まった所にランタンが戦鎚を叩き込んで高笑いをしていた。ベリレ
が何か吠えていて、それは地竜にではなくランタンにだった。地団
駄は震脚で、跳ね返った体重を使って腕を振り抜き、解き放たれた
棘鎖が辺り構わず薙ぎ払ってランタンは平然としている。
馬鹿が二人。
﹁リリララ﹂
エドガーの呼びかけにリリララは釘付けだった己に気が付き、は
っとして振り返った。エドガーは苦笑を口元に滲ませていて、リリ
ララは急に恥ずかしくなって視線を己の指先に向けた。煮えるよう
な熱は失われて、失われた魔精は幾分回復している。
魔精を入れ替える。それも淀みであるのかもしれない。肉の内に
保有した魔精を魔道して放出して、迷宮に漂う魔精と交換する。そ
うするとその迷宮内での魔精の回復が早くなる。それは魔道使いの
中で信仰されているまじないのようなものだったし、実際に回復が
早まっているような気がしなくもない。
﹁魔道の通りは上々です。あわよくば土手っ腹にぶち込んでやろう
かと思いましたけど、ちょっと発動が速かったです。後ろ二匹がほ
1332
ぼ無傷なのは失敗でした。すいません﹂
﹁いや、ごくろう。あの二人にはあれで充分のようだ﹂
﹁次はもっと上手くやりますよ﹂
あるいはこの瞬間に、地竜を腹下から串刺しにしてやってもいい。
地竜が長い尾を振り回して、ベリレの鎖がそれに絡みつき捕らえ
ていた。地竜は磁力と強靱な四肢の粘りで、そしてベリレは尻尾に
棘を食い込ませ、途方もない膂力でそれに対抗している。腰を落と
して互いに引き合い、鎖が軋みをあげて、しかし先に音を上げたの
は地竜の尻尾だった。ごき、と尻尾の付け根が脱臼する音がここま
で聞こえる。
﹁ベリレは、調子が良さそうですね﹂
﹁あれぐらいはしてもらわなければ困る﹂
ソロ
腕組みをするエドガーはそう言ったが、満更でもなさそうだった。
﹁しかしランタンは思っていたよりもやんちゃ坊主だな。単独でや
っていただけあって、危険域の見極めが上手いが、ギリギリを選ぶ
のは癖かね。くく、︱︱ランタンはあれだな、猫だ﹂
﹁は?﹂
﹁猫、ですか?﹂
戦闘を観察していたエドガーが突拍子もないことを言って、レテ
ィシアとリリララは二人して老人を胡乱げに見つめる。
﹁狭い所が好きなんだろうな。あの体格だから、いかに敵の懐に入
り込むかを突き詰めた結果か。ちょいと危ういが、内に入れば暴れ
たい放題だろうよ﹂
値踏みするような視線。
﹁戦鎚は本命と囮を兼ねるのか。対人戦闘からの発展系かな﹂
﹁どういうことですか?﹂
﹁人はどうしたって武器に意識を取られるだろ。あんな物騒なもん
を目の前で振り回されたら特にな。当たればそれでよし。外れても
脅威を示せればそれだけで徒手格闘を入れやすくなる。魔物相手だ
と、武器を武器として認識させる所からはじめんといかんのが面倒
1333
だが、ふむ。しかしあの爆発は厄介だな﹂
ベリレがランタンに幼稚な敵愾心を抱くのは、エドガーがランタ
ンを評価するからだった。
評価は好ましいものでも悪いものでもない。ただどの程度のもの
かと気に掛ける。その興味を持っていると言うことがベリレは気に
入らないのだ。それほどまでにエドガーはランタンを気に掛けてい
る。
そして。
興味はやはり期待なのではないか、と思う。
それは宝剣を見つけることだけではないとリリララには半ば確信
があった。
今回の宝剣捜索は、ネイリング家の望みであるのだが、ほとんど
レティシアの私事のようなものだ。
食客の身分であるがエドガーは当主の娘の頼み事でも、それを断
れない立場ではないし、エドガーはヴィクトルを可愛がってはいた
がその未帰還を知っても平然としていた。哀しいことだが探索とは
そう言うものである、と。
この都市に来てからエドガーは英雄らしからぬことに探索者ギル
ドで古い顔なじみのお偉方と何かこそこそとやっている。だがその、
こそこそ、の中身をリリララは知らない。リリララの自慢の耳を持
ってしても、エドガーの技量を知っているからこそ踏み込む気にす
らなれなかった。
碌でもない隠し事かもしれないし、そうではないかもしれない。
だが対象がランタンならばリリララにとってはどうでもいいことだ。
たぶん。
﹁確かに爆発は強力ですが⋮⋮見ている方は少しはらはらしますね。
あっ﹂
﹁エドガー様、あれはギリギリで駄目な方じゃないですか?﹂
﹁⋮⋮かもしれん。戦鎚どころか己の命自体が囮か? 若いのに命
を粗末にしてるな、まったく死にたがりめ﹂
1334
さすがのエドガーも呆れるような戦いっぷりにレティシアの左の
二指は、馬鹿二人を援護できるように揃えられている。その心配げ
な横顔にリリララは少しの安堵を覚える。
沈み込んでいたレティシアはランタンとリリオンに出会って少し
だけ元気になった。
未だに哀しみの沼から抜けきれず、自らを取り巻く欲望に藻掻き
抗い、それでいて無関係の少年少女を巻き込むことに苦悩していた
が、その苦悩はネイリング家とは無関係の所にあって、二人のこと
を心配する時ばかりはレティシアは複雑な感情から解放されていた。
ただの優しいお嬢様の顔をリリララはこの都市でよく見るように
なった。
ランタンが地竜の背を走った。
脱臼の痛みに叫ぶ頭を踏んづけて、尻尾の方へと向かっていく。
既に赤々とした力を湛える戦鎚が、爆発に押し出されるように振り
降ろされて地竜の腰椎を鱗も骨盤もお構いなしに粉砕する。膨大な
熱量は血を蒸発させ、尾の付け根近くまでを黒々と炭化させて、尾
がボロリと崩れた。
急に尾が切り離されてベリレが慌てている。手首を捩って尾を手
放し、棍に鎖を巻き付けて回収しながら、のしのしとランタンに突
進する。鎖という距離の利を潰してまでも、ベリレは競い合うよう
にしてランタンの背を追った。
はつらつ
たぎ
がおがおとランタンに向かって何か吠えている。大人びた顔立ち
に少年っぽい溌剌とした感情の滾りがあって、それはレティシアと
同じく開放なのだと思う。
ベリレはエドガーに手ずからの師事を得ているだけあってその技
量は並外れているが、精神はやはり子供だ。思春期らしい自意識の
過剰さは、エドガーからの評価を気にするあまりにその戦い振りに
窮屈さを感じさせることがある。
がおう、と吠える声がここまで聞こえた。
鷹揚とも呼べる振り下ろし。ぐるんと肩を回した一撃は伸び伸び
1335
としていて、半身を焼かれて死にきれぬ地竜に慈悲のような死をも
たらした。そしてランタンに指差して目がぎらぎらさせていて、ラ
ンタンはつんとして澄まし顔だ。
言い争いと言うよりはベリレが一方的に突っかかっていて、地竜
相手に何とも余裕のあることだった。
エドガー様、エドガー様、エドガー様、と甘ったれのベリレが今
はランタンばかりを気に掛けて、エドガーの眼前であることなど全
く忘れているかのようだ。エドガーの興味を己に取り戻すための気
合いが、今はただランタンへの負けん気ばかりになっている。
きっとがおがおと吠えているその内容は、どっちが多くの地竜を
討伐するか勝負だ、なんて事をほざいているのだろう。ランタンが
その勝負を受けたのかは知らないが、二人揃って残り二匹となった
地竜へと駆けていった。
﹁なにやってんだか﹂
断末魔に笑う、黒髪の横顔。
気が付けば目が燃えるような橙色だ。夕焼けのように穏やかであ
りながら、ぞっとする程に眩しい。形の良い唇が三日月を作り、赤
い舌がそれを舐めた。性別の曖昧な華奢な身体付きに、ぶち切れた
獣の様な身のこなし。
華がある、とエドガーは塔の上でランタンの戦いを見て呟いた。
エドガーは興味から、レティシアは心配から、ベリレは競争心か
ら、そしてこの少女は。
リリララを守る背中に三つ編みが二本垂れていて、それはずっと
微動だにしない。リリオンはランタンに見惚れて阿呆面を晒してい
て、しかしついでのように構えた方盾は戦闘の余波に吹き飛んでく
る鱗や金属片の一切を防いでいる。
﹁おい﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁おい、リリオン﹂
﹁︱︱え、わ、なに?﹂
1336
リリララが声を掛けるとリリオンは上の空で振り返って、その口
元にはだらしない笑みの名残に緩んでいた。唇の端から溢れそうに
なっている涎を舌で舐め取って、ごっくんと豪快にそれを飲み込ん
だ。
﹁わたしちゃんと守ってるよ﹂
﹁それを疑っちゃいねえよ﹂
リリララは立ち上がってリリオンの背中に触れる。薄いがしっか
りと筋肉を背負った背中は、腰の近くに触れているのに跳ねるよう
ヘーゼル
な心臓の鼓動が聞こえる。ぽっと身体が熱っぽく、リリララを見下
ろす淡褐色の視線が黄金のようにきらきらしていた。
﹁ランタンって、いつもあんな感じなのか?﹂
﹁ランタン? うん、ランタンはいつも格好良いよ﹂
笑顔の眩しさにリリララは打ち上げられた水生生物のように顔を
顰める。
﹁⋮⋮あの馬鹿は、ランタンはいつもあんな無茶な戦い方をしてん
のか?﹂
﹁うん﹂
げんなりして聞き直して、リリララは返答に更にげんなりした。
﹁でも、いつもはわたしもいっしょに戦ってるから、本当はよく分
からないわ。無茶はいつもするけど﹂
きらきらの視線がふと陰って、唇がへの字に結ばれる。視線を向
けた先はランタンではなくベリレであって、それは紛うことない嫉
妬だった。
ベリレは嫉妬なんかにはこれっぽちも気が付きもせずに、鎖を巻
き付けた長尺棍を振り回していた。一匹を牽制し、もう一匹の横腹
に一撃を加えて、その逆側でランタンもまた戦鎚を振るって押し返
した。やられた地竜はたまったものではなくその場から逃げだそう
として、しかし気が付けばベリレの鎖に足を絡め取られている。備
わった磁力が仇となり、ベリレが棍を振り回すと足を取られて横転
した。
1337
だが止めを刺したのはランタンだった。横取りされたベリレが顔
を真っ赤にして怒っていて、両者の討伐数は二匹ずつで残ったのは
最後の一匹である。
そこはわたしの場所なのに、とむくれる気配にリリララは思わず
背に添えた手をあやすように動かしてしまう。危うい程の素直さは、
思わず手を貸してしまいたくなるような可愛げであった。
﹁エドガー様。あ−、取り敢えずは回復したんで、もうお守りは不
要です﹂
﹁ああ、そうか﹂
ラスイチ
リリララは手足を締め付け直して、その拘束具合を確かめるよう
に大きく伸び上がった。八割方は回復している。
﹁それで、こいつ戦闘に参加させてもいいですか? 最後一匹です
し、身体も動かしたいでしょうし﹂
苦笑は、どちらに向けられたものか。
﹁それもそうか。リリオン﹂
﹁はいっ﹂
振り返った顔には期待があって、そのきらきらにさすがのエドガ
ーもたじたじになっている。
﹁リリオンは、あれに混ざりたいか﹂
﹁はいっ!﹂
聞くのが野暮と言う程に、リリオンの背中はうずうずとしている。
落ち着かせようとリリララは背中を撫でて、ああこれは欲望だな、
と思う。
あの馬鹿が甘やかすから。
その欲望の熱はレティシアに向けられるような昏さはなく、から
っとして素直であるのはランタンがひたすらに甘やかした結実だっ
た。
﹁よっしゃ、馬鹿二人にばっかり好き勝手させちゃ女が廃るっても
んだ。ねえお嬢?﹂
﹁レティシアさんも行く?﹂
1338
﹁私は﹂
﹁お嬢と私は援護だ。あんなむさ苦しい所にお嬢を行かすわけには
いかねえよ﹂
﹁︱︱そう言うわけではないが、どうせなら女三人力を合わせて頑
張ってみようか。連係攻撃だ﹂
﹁れんけい!﹂
フォルム
﹁あの馬鹿二人はこっちの事なんて眼中にねえみたいだからな。目
にもの見せてやろうぜ﹂
最後の一匹がなかなか厄介のようだった。ぱっと見た姿形は岩蜥
蜴とさして違いのない地竜であるが、その身体能力は暴力的で、動
き出したらそれを止めるのは困難だ。
独特の緩急。
不随意の加速とでも言うべきか、磁力は地竜の制御の外にあって、
意図の存在しない緩急はそのタイミングを読み辛い。四肢に備わっ
た磁力は地竜の動きを阻害する楔であったが、ゆえにそれが外れた
瞬間の加速は尋常ではない。停止状態から一瞬にして最高速度とな
って振り回される爪の一撃はもちろん、体長の半分を占める長大な
尻尾はさながら極大の糸鋸のようであった。
仲間の死骸を微塵に粉砕して止まらぬそれは、さすがの二人も防
御、回避を余儀なくされている。特にランタンは血霞に汚れること
が嫌なのか、ベリレを盾にする始末である。そんなことに露も気付
かぬベリレは遠心力に伸びた尾の先を棍で迎え撃ち、弾けた衝撃が
迷宮を揺らした。
まるっきり背中を向けていたリリオンがその音に振り返り、平然
とするランタンの姿に安堵した。
﹁あたしとお嬢で地竜の動きを封じるから。リリオンは止めを頼む
ぞ﹂
﹁しかし二人を出し抜くには一撃で極めたい所だが︱︱﹂
鱗、皮、脂肪、肉、骨。竜種のそれらは強固である。ランタンの
ような爆発や、ベリレの棍のような重さをリリオンは持たない。
1339
﹁ふむ、首を落とすなら、あの皮膚の弛みを狙って切り上げればい
けんこともなさそうだが、二人が少し邪魔だな。心臓を狙うなら前
肢の付け根から刺突を入れるといい。が︱︱﹂
エドガーは口を挟んだかと思うと、ランタンより巻き上げた打剣
の一本を目にも止まらぬ速度で投げ打った。それは地竜の鱗の一つ
を削り落とし、黒い身体にあって薄桃色の皮膚を露出させている。
﹁目印だ。あそこから真横に突き入れろ﹂
肋骨の隙間。心臓の高さ。それは感嘆すべき技量であるのだが。
﹁もうエドガー様、馬鹿二人がこっちに気付いたじゃないですか﹂
﹁う、すまん⋮⋮﹂
ランタンとベリレが背後からの強襲に振り返って、その更に奥に
はその隙を見逃さずに突っ込んでくる地竜の赤い口腔があった。凶
悪な真っ白い牙は、滴り落ちる唾液と殺意に濡れていて、地の底か
ら響くような獰猛な叫びがレティシアの雷撃によって掻き消される。
レティシアは地竜の喉奥に雷撃を放り込み、リリララに苦笑を、
そしてリリオンに目配せをする。
﹁行くっ﹂
瞬間、大剣を引き摺るように構えてリリオンが疾風のように駆け
る。
少女は飼い主の元へと向かう犬のようで、棚引く銀の三つ編みは
喜色を隠しきれぬ尻尾だったし、そもそもとして喜びを隠そうとな
ど微塵も考えていない。
リリオンは満面の笑みであり、それに気が付いたランタンは目を
まん丸にして驚いている。
エドガーのせいで少し予定はずれたが、まあいい。
﹁かませっ! リリオン!﹂
リリララが口元に笑みを浮かべると、地面が蔦草のように地竜の
四肢を拘束して、リリオンが大剣を引き絞る。
﹁ランタンっ!!﹂
わんわん、と鳴いたのかとそう思った。
1340
088 迷宮︵後書き︶
しばらくは月3回更新になります。
ストックが全然できてないので。
書籍化作業のせいです。
!
1341
089 迷宮
089
先程、勝負だ、と勢い勇んで叫んだベリレが今は何とも情けない
顔をしているのが面白かった。それを面白がることでランタンは呆
気にとられた驚いた己に平常心を上書きする。
勢いのままに火蓋が切って落とされた勝負の内容をランタンは知
らないが、少しばかり乗り気であったので、急に乱入してきて一番
美味しい、戦闘を終了させる一撃を放ったリリオンが小憎らしい。
少女は断末魔の止んだ地竜の横っ腹に足を掛けて、一撃で心臓を
貫いた大剣をずるりと引き抜いた。傷口からどっぷりと青い血が溢
れ出した。
四肢を地面に固定された地竜は倒れることもできずに奇妙な彫像
のような死に様を晒している。
リリオンは足元に広がりつつある血溜まりを避けるように二歩後
退り、剣を汚す血脂を鷹揚に振り落として盾に収めた。そしてして
やったりとした笑みを浮かべて男二人を振り返った少女は、その背
中にレティシアとリリララを従えている。
﹁まあまあ上出来ってとこだな﹂
﹁お疲れ、リリオン。やったな﹂
リリオンは二人に褒められて嬉しそうだ。それを見て男二人の表
情は何とも微妙である。
﹁ふふ、二人もお疲れさま﹂
そんな二人にレティシアが声を掛けて、ベリレはようやく曖昧な
表情を喜びに固定した。緊張を孕んだ喜びに頬が上気していて、そ
れは先程までは持て余した戦意の残り火であった筈なのに、何とも
現金なことである。ベリレは構えたまま、振り下ろす先を見失った
1342
長尺棍をあっさりと背に戻して、それを見たランタンも戦鎚を腰に
差し戻す。
持て余して燻る感情を捨てるように深呼吸を一つ吐き出してラン
タンは自らの太股を叩いた。
痛みという程ではない違和感がある。初撃の上段蹴りのせいなの
だろうが、それは不思議と不快な感覚ではなかった。身体の調子が
良い。我ながら地竜に対して上段蹴りなど馬鹿の所行であると思う
のだが、あの瞬間、それができるという必殺の確信があった。
リリララの魔道やベリレの鬼神もかくやの戦い振りに感化されて
しまったのかもしれない。
くろがね
魔道により生み出された天井の棘はさながら巨大な鮫の口腔に囚
われたかのような印象を受ける。何列にもなって突き出す鐵の牙に
は、先頭で突っ込んだ地竜の血肉が付着していよいよ生物じみてい
る。滑らかな足場が不意にぬらつく舌にへと変容するんじゃないか
という不安すらあった。
それを引き起こしたリリララの顔色はその言葉遣い程にも悪い。
血の気を失った青白い面に浮かぶ右の頬の引き攣るような笑みが空
元気のように思えた。だがランタンが心配げな視線を送ると、余計
なお世話だと言わんばかりの強気な眼光が返ってくる。
﹁お二人も、援護ありがとうございます。おかげさまで引き分けで
した、ね﹂
ランタンは互いの健闘を称えるように、ベリレの二の腕をぽんと
叩いた。せっかくの喜びに水を差されたベリレが煩わしそうな視線
をランタンに寄越した。
戦闘によって血が流入して膨張するベリレの二の腕はじんわりと
した熱を保有している。鉄の身体は冷え固まったそれではなく、ど
のような姿にでも形を変えることのできる自由さそのものである。
剛柔自在の棍捌き。二メートルを超える総金属の長尺八角棍はおそ
らくランタンよりも重いだろうし、棍に付属する棘鎖も含めると百
キロに近い筈だ。戦鎚と長尺棍では求められる技術に差異があるが
1343
ベリレはランタンなど足元にも及ばない技術があった。
棍自体の技術もそうであるが,鎖を操る技もまた格別である。鎖
を操る時は棍を振り回すような乱暴な真似は殆どしない。ほんの僅
かな手首の反し、それだけで棘鎖は薙ぎ払うのも絡みつくのも自由
自在であった。まるで鎖自体が意思を持っているようである。
﹁ほらね、お嬢。やっぱり馬鹿な勝負をしてやがった。ったくこれ
だから男は﹂
﹁いやっ、違うんですレティシア様っ﹂
それ程の力量を持っている若い騎士見習いはあわあわと慌ててい
る。
﹁そんなに慌てなくたっても良いでしょ。引き分けなんだから﹂
ランタンが軽い口調で言うが、生意気にもすっかりと勝つ気分で
いたらしいベリレは不満も露わにランタンを睨んだ。そんなベリレ
の挑発的な視線にランタンは何だか面白くなってしまい、その余裕
綽々たる笑みがベリレはまた気に入らないようだ。
﹁まだ先は長いんだから、上下をはっきりさせたいならまた今度ね﹂
﹁何をうっ!﹂
がう、と掴みかかるように吠えるベリレの鳩尾にランタンは手刀
を置いて牽制する。これ以上前に進もうものならば横隔膜を切り裂
くぞ、と言うような稚気を込めたが腹筋の分厚さにすぐに引っ込め
る。突き指どころでは済まなさそうだ。
ベリレは不満げな顔を隠さない。技術はあってもすぐに頭に血が
上ったり、視野が狭くなったりするようだ。ベリレが鎖を扱うのは、
後方に下がって視野を広く取るための術なのかもしれない。
﹁まったくそんな大きな身体して、そんなにカッカするんじゃない
よ﹂
﹁何だと!﹂
﹁だから、もっと堂々としてなって。ちゃんと強いんだから﹂
こいつめ、とランタンは固めた拳をベリレの脇腹に打ち込んで、
ベリレは反射的にそれを防御した。まだ臨戦状態に片足を一歩踏み
1344
込んで抜け出していないのだろう。身に染みついた技が咄嗟に出た
でく
という感じで、拳を受けたベリレこそが驚いていた。
﹁もしかしたらただの木偶かもと思ってた自分が恥ずかしいよ﹂
﹁そんなことを思ってたのかっ﹂
﹁︱︱今はもう思ってないよ﹂
そんなこと、とランタンははっきりとベリレを見上げる。からか
うような口調はなく、素直な視線に晒されたベリレは戸惑うように
黙りこくった。凄い凄い、とランタンが無邪気にベリレを追い詰め
ていると、助け船を出したのはリリオンだった。
﹁ランタンっ﹂
﹁ん、何?﹂
リリオンの呼びかけにランタンタンは最後に一度だけベリレの肩
を叩き、戸惑ったままのベリレを置き去りに視線を移動させる。リ
リオンはランタンに見つめられると、何となく緊張を孕んだような
面持ちになった。百面相だな、と思う。四肢を拘束されていたとは
いえ、満面の笑みで地竜に向かって必殺の刺突を打ち込んだ少女で
ある。
そんな怖い顔していたかな、とランタンは怪訝そうに己の頬を撫
でた。
﹁あ﹂
頬を撫でるために腕を持ち上げた瞬間に、リリオンがぴくりと反
応した。そこにあるのは期待と、それを空かされた哀愁だけだ。ラ
ンタンは思わず苦笑を漏らして、己の頬を撫でた右の手、その人差
し指でちょいとリリオンの顔を眼前に呼び寄せる。一つ間を置くと、
少女はせがむように肩を揺らした。ランタンは差し出された頭に覆
い被せるように掌を乗せた。
﹁ご苦労﹂
一言。それだけで少女はこの上なく満足そうだ。おまけに一撫で
してやると、頬を笑みに溶かす。
﹁えへへ、ランタンもお疲れさま﹂
1345
﹁うん、でもそんなに疲れちゃいないよ。三人の援護はあったし、
ベリレは強いし。竜種って言ってもこんなものなんだね﹂
﹁ったく、えっらそうに﹂
﹁心強いことだ。いいことじゃないか。︱︱私も次は前衛に回ろう
かな。二人の戦いを見ているとそう思えるよ。な、リリオン﹂
﹁うんっ﹂
悪態を吐いたリリララは、しかし少なからずの驚きを持ってレテ
ィシアを見上げた。そんなリリララにレティシアは何も言わずに頷
くだけだった。
﹁こら、お前たち。初戦が終わったぐらいではしゃいでるなよ﹂
非戦闘職二人を引き連れてエドガーが合流して、手つかずの地竜
ばら
を一瞥すると冷厳な視線を五人へと向ける。
﹁さっさと解体すぞ。リリララはシュアの元で休んでいろ﹂
﹁あいさ﹂
﹁おや、素直だな﹂
﹁疲れてんだよ﹂
﹁リリララにしては珍しかったな。初撃で充分だっただろう?﹂
﹁景気付けさ。おい、あんまベタベタ触るなよ。せっかくサボれん
だから座らせてくれ﹂
手招きをするシュアにリリララは降下直後のような拒絶感を見せ
ず素直に近寄った。シュアはリリララの額に手を当て、頬を撫で、
頸動脈に指を置いて脈拍を測っている。
﹁レティシアは結晶の回収。尾の先だ。終わったら休んでよし﹂
﹁はい﹂
﹁ベリレは散らばった死体から鱗と爪を回収。鱗は大判ものだけで
いい。ドゥイ、お前の手よりも大きい鱗を竜の肉から剥がすんだ。
難しいものはベリレに頼めよ。行け﹂
﹁お任せ下さい﹂
﹁は、はい﹂
﹁で、お前らは俺と一緒に解体だ﹂
1346
一緒に、と言う言葉にベリレが反応して一睨みを。
﹁ベリレ﹂
﹁も、申し訳ありませんっ! すぐに行きます﹂
そして怒られている。いやエドガーの声は怒るという程ではなく、
ベリレが過剰に反応しているようだ。逃げ出すようにもっとも遠く
に散らばった肉塊へと走って行って、エドガーは何とも言えぬ苦笑
を湛える。
﹁すまんな﹂
﹁いいえ、ここまでくると可愛いもんですよ﹂
﹁どうにもランタンのことが気になるようだ。年が近く、実力で負
けると思える相手は初めてだからな﹂
﹁⋮⋮気にしているのはおじいさまのことかと思いますけど。まあ
いいや﹂
ランタンは原形を留めている二匹の地竜に目を向けた。一匹は最
初にベリレが仕留めた地竜だ。ひどい傷は脳漿をぶちまけた頭部と、
拉げて千切れ掛けている首。もう一匹はリリオンが止めを刺したも
ので、四肢がリリララの魔道により金属質で覆われている以外の目
立った傷は刺突孔ぐらいのものである。
残りの三匹は振り回された尻尾により破砕されて、簡単に言えば
地獄の肉林である。辺りに散乱する肉塊が熱源となって、肌寒かっ
たはずの迷宮はむわっとした生臭い熱気を帯びている。
素材の回収はそれ自体が目的ではなく、荷車を通行できるための
整理であると思う。
﹁目的は宝剣なのに、きっちり回収するんですね。荷物になるのに。
ね、リリオン﹂
﹁でも、やっぱりもったいないわよ。竜種の素材ってとっても高価
なのよ﹂
﹁それは知ってるけどさ﹂
﹁まったく、リリオンの言う通りだ。ランタンは探索者の風上にも
置けん奴だな。どれほどの探索者が少しでも多くの迷宮資源を持ち
1347
帰ろうと心血を注いできたか分かっていないようだ﹂
﹁⋮⋮それで目的が果たせなきゃ元も子もないじゃないですか﹂
﹁真面目なことだが、それでは息が詰まるぞ。資源回収は探索者に
とっては息抜きだ。迷宮での楽しみなど少ないからな。それに︱︱﹂
エドガーはすらりと竜骨刀を抜き放った。
﹁ランタンは、リリオンもだが、あまり解体はしたことがないんだ
ろ。魔物の身体構造を理解すると戦闘の助けになるぞ﹂
﹁僕︱︱﹂
﹁リリオン、注目﹂
これでもそういうの得意ですよ、と言わなくてよかった。
下から上への一刀は、一切の音を持たず地竜の首を落とした。鱗、
皮、脂肪、筋肉、筋、骨。そして逆回しにもう一巡したはずなのに
停滞どころか淀みすらない。この技量の前ではランタンの得意など
無いも同然である。
リリオンは瞬き一つなくエドガーの一刀を瞳に焼き付けて、難し
げに息を漏らした。
﹁わたしにできるかしら﹂
﹁まずはやってみる所からだ。四肢を落として仰向けにするぞ﹂
リリオンは大剣を抜き放ち、方盾を地面に降ろす。
﹁はい。⋮⋮竜種のお肉はどうするの? わたし食べたことないけ
ど﹂
﹁ふむ、そうさな。こいつは食わん方がいいだろう。もう少し上、
裏から狙え。前面は膝蓋骨が発達して盾状になってる﹂
﹁美味しくないの?﹂
しっか
﹁それは料理人の腕次第だな。こいつの場合は毒だ。角度が悪い。
膝窩は鱗が薄くなってるだろ? その変わり目から、膝の鱗、上か
ら四枚目、この下端を通すように斜めに剣を入れろ﹂
﹁はい。そっか毒じゃ食べられないわね﹂
﹁金属鱗を持つ竜は、肉に鉄を溜め込んでることがある。一食二食
なら、まあ気にする程でもないが、食わんにこしたことはない。ド
1348
ゥイが充分な量の食料を運んでくれているからな﹂
金属の鱗や外皮を持つ魔物は地食性を有していることがあるらし
い。自然にある鉱石を食べ、それを代謝分泌することで金属を体表
面に纏うのだ。そして代謝しきれなかった分が血肉に蓄積されてい
き、人にとっては毒である。
﹁女の場合は子の事にもかかわるからな、⋮⋮まだリリオンには関
係ないか﹂
﹁なんで僕を見るんですか﹂
﹁さてな。膝周りに肉はほぼないが、斬る時は左右の腱を留意する
ように﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁自信がないなら先に腱だけ斬っても良いぞ﹂
ランタンが腰から狩猟刀を抜くと、リリオンは視線を寄越す。い
らない、と雄弁に語る淡褐色の瞳が地竜の膝を見た。
﹁多少マズくても振り抜け。剣を信じろ﹂
リリオンは空の左手を前に突き出し、それは距離を測るようだっ
た。半歩下がり、剣先に地竜の足を捉える位置に身体を置く。鼻か
ら息を吸って、胸が膨らむ。
﹁︱︱ふっ﹂
浅い角度の袈裟懸けは淀みなく裏から表へと切り抜け、けれど骨
を断つ音をはっきりと響かせてリリオンは不満気だった。
﹁上出来じゃない?﹂
﹁惜しかったな。入りは良かったんだが腱の弾力に剣線が歪んだか。
軸足も少し滑ったし、まあこんなものだろう。気を付けるは硬いば
かりじゃないぞ。ちなみに動いてる奴を斬る場合には膝が伸びきっ
た瞬間か真横から狙うといい﹂
﹁⋮⋮おじいさまにしか狙えないですよ﹂
﹁お前の度胸があれば簡単なことだ。両断せずとも腱の一本を切れ
ば充分だしな﹂
﹁狩猟刀抜く暇がないですよ﹂
1349
﹁なら踏み折ればいいだろう。ほら次はランタンの番だぞ。さっさ
とやる﹂
﹁踏んでも体重足んないんですよ、ねっ﹂
ランタンは狩猟刀をどんぴしゃの角度で膝下へと滑り込ませ、音
のない一撃は最後の最後で引っ掛かった。丁寧に狙いすぎて力が足
りなかったのだ。繊維質が複雑に絡みついた竜皮は弾力に富み丈夫
である。ちくしょう。
﹁振り抜けって言っただろ。まったく戦闘中とは大違いだな﹂
ランタンは照れ隠しのように、無言で竜皮の一枚を引き斬った。
初日はそれ以上の戦闘は起こらなかった。
ただひたすらの行軍は夜の二一時まで続いた。迷宮の中を魚群の
ように纏まって進む。歩きづめで肌寒さの中にあっても次第に身体
は熱を帯び始めて汗を噴き、そして汗は外気に冷やされ、身体から
熱を奪い、体温を上げるために身体は熱量を消費する。探索者の身
でも、相応に過酷な行軍だった。
その中で運び屋のドゥイは弱音一つも吐かない。回収した地竜の
鱗や爪はそれなりの重量があったが、行軍の速度は戦闘の前後で変
わらず、ドゥイは指定された速度を頑なに維持する。ランタンはう
っすらと汗するだけだったが、ドゥイは白い湯気が見える程に汗を
掻いていて、そう言えばケイスもそうだったなと思い出す。
運び屋の仕事は大変だ。自らの意志で休むことは許されず、長時
間に及ぶ高重量の運搬は有り体に言えば奴隷の仕事、それは苦役そ
のものである。絶えず負荷に晒され続けた肉体は休息を求めて痙攣
して、消費され続ける酸素に肺が喘ぎ肩で息をしていた。だがそれ
でもドゥイは休みたいとも苦しいとも言わない。
そのせいもあってのことか、探索者の誰もが疲労を口に出すこと
はない。
1350
初日の行軍は終了して、過酷なその中ですら回復を果たしたリリ
アラート
バリケード
ララとベリレが斥候に出ていた。近隣に竜種の危険がないことを確
かめるついでに、鳴子を兼ねた阻塞を魔道によって張るようだ。何
とも万能な地の魔道であるが、その対価はやはり大きい。物質への
干渉と操作、変容には、現象を発現させる魔道よりも精神力を要す
る。
厳しい顔のベリレとは裏腹に顔色を悪くとも平然として戻ってき
たリリララは、けれど当たり前のようにドゥイと一緒に野営の準備
ゲスト
を免除される。
当初、お客様であるランタンとリリオンの二人も雑事はしなくて
よいとレティシアは言ってくれたが、あくせく働く人々の中でのん
びりできるような心根を二人ともしていなかった。
﹁おら、ランタン、きびきび働け! ほら、言えって﹂
﹁は、働っ、いてください﹂
﹁ったく、じゃあベリレにだ。もたもたすんな、ちゃんと働けっ、
はい﹂
﹁い、いやだ。ベリレはいい奴だから﹂
荷車に腰掛けて休息している二人のやり取りにランタンは思わず
苦笑を漏らした。
ベリレはいい奴だ。それはランタンも同意する所である。火熾し
のために地面に這いつくばっている様子は、何だかとても間抜けで
可愛げがあった。突き出した尻が巨大でどうにも蹴っ飛ばしたくな
る。そんな姿に罵倒を投げかけるなんてランタンにはとてもできな
い。
﹁愚弟がすまんな。お前にからかわれたことを根に持っているんだ﹂
﹁⋮⋮からかったことなんてないですよ﹂
あの時は他人がなんと言おうとランタンは半ば本気だったのであ
る。
料理担当はシュアを筆頭にリリオンとランタンである。リリオン
は中々の働きぶりを見せていたが、ランタンは免除組二人の台詞の
1351
通りにもたもたしている、と言うか余剰戦力であった。二人の手際
は下手に手伝うと足手まといになりかねない。手持ち無沙汰なラン
タンはデザート用の林檎を兎に剥いて、免除組の元へと持って行っ
た。
﹁お疲れのようですので、つまんで待っていてください。あとこれ﹂
と渡したのは濡らしたタオルである。たっぷりと汗を掻いたドゥ
イは少しばかり臭う。ランタンはそんなことはおくびにも出さずに、
ただ食事の前の当たり前としてタオルを渡したのだが、リリララの
目が少しばかりキツい。ランタンが戸惑いそれを見返すと、呆れた
ような溜め息を吐いた。
﹁悪意がないだけ質が悪いな﹂
﹁何がです?﹂
﹁ほら見ろ、すっかりビビっちまってる﹂
ランタンがドゥイに目を向けると、大男は肩を振るわせて視線を
逸らした。それは侮られることは多くとも恐れられることの少ない
ランタンには何とも新鮮に感じられる。ランタンが妙な感動に浸っ
ていると、その臑をリリララが蹴っ飛ばした。
﹁さっさと飯作ってこい﹂
﹁そうですね。ドゥイさんも、僕は怖くないのでよろしく﹂
にっこり笑ってみたものの、その頷きはどう見ても戸惑いである。
ランタンは諦め気味に肩を竦めて、あまりやることのない持ち場
へと帰った。
やることはあまりないが食事は言うまでもなく探索にとっては最
重要な要素である。人は食べなければ生きてはいけない。超人たら
しめる魔精に浸っていようとも、空腹は満たされず飢えれば人は無
力である。それに食事は閉塞空間における健全な娯楽だった。
迷宮では基本的に一日二食、朝晩の食事をしっかり、行軍中は小
休憩毎にビスケットなどの補助食を取るのが多くの探索班で採用さ
れている方法だった。そのためにドゥイが牽いてきた二ヶ月分にも
及ぶ食料は膨大であり、そして保存食が多いことは無論だったが、
1352
何気なく種類も豊富である。
﹁ねえ、このトマト緑色よ﹂
リリオンがまだ硬く食べられそうもないトマトを片手に呟き、シ
ュアはその手からひょいと未成熟のトマトを奪い完熟の物と交換し
た。
﹁それは探索後半に使うんだ﹂
﹁ああ、追熟か。ほら、前にオレンジの時も言ってたでしょ?﹂
﹁うん、早取りした野菜は貯蔵性が高いからね、ここは涼しいから
どれほど赤くなるかは難しいところだが﹂
﹁へえ、不思議﹂
﹁よく考えられてるよなあ。これも騎士団のノウハウですか?﹂
﹁騎士団の探索でも、これほど豪勢な事はそうないよ﹂
シュアはレティシアに目を向けた。
﹁でもレティシアさんはトマト嫌いなんじゃ﹂
﹁だから用意したんだよ。二人の前では食べられると宣言したよう
だし、克服するいい機会だ﹂
貴族のご令嬢であるレティシアがなんと全員分の寝床を整えてい
る。だが、それは不慣れなランタンの目から見てもあからさまに不
慣れであり、エドガーに小言を頂戴しては凜々しい美貌を小難しげ
に引き締めて傾聴している。真面目なのは良いことなのだが、その
度に手が止まるので一向に寝床が整えられる気配はない。
﹁主筋の方々が迷宮に赴く時ぐらいだな、ちゃんとした料理人も連
れて行くんだ﹂
エドガーが迷宮では身分は関係ないと言ったが、やはりそれは建
前である。ネイリング家の主題は強さを求めることで、それは戦闘
にのみ特化して、雑事は行う必要がない。レティシアが雑事をこな
せば下々の仕事を奪う事になり、気安さは上に立つ者としての神聖
さを失わせる。
﹁楽と言えば楽ですけど、ちょっと窮屈ですね﹂
﹁うん、ヴィクトル様はあまり好まれなかったな。大勢でぞろぞろ
1353
と迷宮へ行くのを嫌がって、騎士団員にこっそりと声を掛けられて
いたなあ。ご自分で屠った魔物を料理して振る舞われたこともあっ
たそうだよ。若い騎士団員はヴィクトル様にお声を掛けられること
を乙女のように望んでいたね、まったく毛むくじゃらの男どもが。
不潔なことだよ﹂
シュアはなかなかに辛辣だったが、その声は懐かしむように笑っ
ていた。
﹁さ、ランタン。その鶏をぶつ切りにして鍋に放り込んでくれ。そ
ろそろ火の用意ができそうだ﹂
ランタンは言われて塩蔵の丸鶏を三羽、乱暴に捌いて鍋に放り込
んでいく。随分と塩辛くなりそうなものだが八人分の量ともなると
これでちょうどよいらしい。探索者が集まっているのだからそもそ
もとして一人分が普通の一人分では到底物足りない。
額に汗して、顔を炭に汚したベリレが満足げな表情を浮かべてい
たので、ランタンは労いついでに尻を蹴った。
﹁お疲れさま﹂
﹁蹴るな﹂
もっともな言い分を無視して鍋を火に掛け、シュアが鍋に蓋をし
た。それには調圧弁が付いている。
﹁圧力鍋だ﹂
﹁おや博識だな。まだ軍用品から下りてきて間もないのに﹂
シュアの言葉にランタンは肩を竦める。
﹁爆発とかしませんかね?﹂
そして今度はランタンの言葉にシュアが肩を竦めた。その様子に
リリオンがビックリしてランタンの背中に隠れ、そして同時に守る
ように後ろから抱きしめる。
﹁爆発するなんてこのお鍋ランタンみたいね﹂
﹁抑圧されているのか? 可哀想に、私が解放してあげようじゃな
いか﹂
﹁結構です。そう言うのはベリレにしてあげてください﹂
1354
ランタンがリリオンに捕らわれていることをいいことに頬を撫で
回すシュアは、意味深な視線をベリレに向けて思春期の少年はしど
ろもどろになってしまった。回れ右して逃げだしてしまえばいいも
のを、生真面目に直立して視線に耐えている。
﹁ベリレはなあ、少し生意気さが足りないんだよな。これに唾付け
てる女は結構多いんだぞ。エドガー様の弟子で、ヴィクトル様にも
可愛がられていたし、実力もある。まだ若く、将来性はばっちりだ
からな﹂
﹁へえ、そうなんだ﹂
﹁ま、本人が女に興味ない振りをしているから何があるわけでもな
いんだが。エドガー様は若い時分はお盛んだったらしいのに、まっ
たくもって勿体ないことだよ。もっと遊んだらどうだ。こっそり避
妊具を融通してやってもいいぞ﹂
﹁⋮⋮勘弁してください、シュアさん﹂
ここまでくるとベリレは恥ずかしさよりも忌避感の方が強いらし
シモ
く辱めを受けた乙女のように小声で呟く。その姿は何とも言えず哀
れっぽく、それにリリオンの前で酷い下の話になることは防がねば
ならないのでランタンは助け船を出した。
﹁そう言えばベリレは、その、ヴィクトル、さま? の料理をごち
そうになったことはある?﹂
﹁︱︱いや、迷宮をご一緒させて頂いたことはあるが、手料理はな
いな。俺なんかがヴィクトル様の手料理など恐れ多い﹂
﹁そうなんだ、じゃあ︱︱﹂
ランタンはつつと視線を滑らせる。
﹁レティシアさんが手ずから整えた寝床でお休みできるなんて、ド
キドキしちゃうね﹂
﹁⋮⋮!﹂
ベリレは言われて真っ赤になって、ランタンの視線の先では不慣
れなレティシアを見ていられなくなったリリララが手を貸している
姿があった。
1355
そして圧力鍋が蒸気を噴いて、リリオンは警戒する猫のような目
付きで鍋を睨んだ。
1356
090 迷宮
90
丸鶏のスープは野菜がごろごろと入っており、櫛切りにされたト
マトが彩りと、そしてトマト特有の独特の酸味をスープの中に溶か
している。付け合わせは塩漬けの豚肉と鹿肉、そして大量の蒸かし
た芋である。
リリオンとベリレとドゥイは見た目通りの大食漢であり、運び屋
の大男はマイペースなものだったが、育ち盛りの探索者二人はいか
に多くの食料を自分の胃袋の中へと獲得するかを競い合うようにし
て料理を貪り食っている。
リリオンはあまりベリレを恐れなくなったように思う。それは睨
まれることになれたと言うよりは、僅かばかりの敵愾心であるのか
もしれない。ベリレがごっそりと芋を自分の皿へと取るとリリオン
も、肉を取ればリリオンも肉を、と。
エドガーはいかにも老人らしく、食欲旺盛な若者を肴にして気分
良く酒を舐めており、リリララやシュアはその暴食の宴にも慣れた
ものなのか自らの食事を粛々と進めている。三人の食欲の影に隠れ
ているが、リリララも何だかんだとよく食べていた。スープに黒パ
ンを千切って浸し、パン粥のようにしている。
そしてレティシアは貴族令嬢の感覚からすれば眉を顰めてもおか
しくないような乱暴狼藉の宴に、しかし不思議と楽しそうである。
慈しむような視線は昔を懐かしんでいるようにも見える。
さすがにこれは、と思うのはランタンばかりであるのかもしれな
い。
﹁ねえランタン! これおいしい!﹂
1357
こそ
﹁うん、よかったね。でもちゃんと飲み込んでから話そうか﹂
あばら
﹁うん!﹂
鹿の肋から肉を歯で綺麗に刮ぎ取った残骸を見せつけてくる。そ
してその向かいではベリレが喉奥からげぷと息を。
ランタンは深く眉根を寄せる。
迷宮での食事など決まり切った作法があるわけではないし、そもそ
もそんな作法がどうのと言う事自体が野暮であるし、食事中の諫言
ほど鬱陶しいものはない。
食事はただ一点、回復のためにあるべきなのだ。だがランタンは
無言のままちらりとベリレを見た。
﹁なんだよ﹂
﹁特に何も、よく食べるなって思って。騎士団の食事もこんな感じ
なんですか?﹂
ランタンは行儀よく食事を進めているレティシアに視線を移す。
﹁やっぱり基本的には指揮者の色によるかな。騎士意識の強い指揮
者の下だと規律がはっきりしているし、探索者からの転身者が指揮
者となっていると、まあこれぐらいはまだ可愛いものだと聞くな。
迷宮だと外の目がない分、どうしても地がな﹂
レティシアは苦笑して、リリララが豚肉の一切れを指に抓んで口
の中に放り込む。そして脂に濡れた指を舐った。
した
﹁お嬢に聞いてどうすんだよ。お嬢との探索でそんな狼藉を働く奴
はいねえよ﹂
﹁⋮⋮まあ、そうだな。でも兄は酷かったぞ﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁ああ、さっきも言ったろ? 食事作法にうるさい教育係も、迷宮
にまでは付いてこないからな。手づかみで物を食べる兄などその時
初めて見た﹂
人目がない、と人は獣になるのだろうか。
ベリレとリリオンは二人揃って詰め込むようにして肉を口の中に
放り込み、頬をぱんぱんに丸くして、ぎしぎしと咀嚼を繰り返すと
1358
エール ・
溢れた肉汁が口角から垂れる。ベリレはぐいとそれを袖で拭い、リ
・
リオンのそれはランタンが拭いてやる。そして二人は麦酒をなのか、
ソロ
麦酒でなのかわからないが酒を一息に飲み干す。
ごっくん。けぷ。
﹁⋮⋮でも、そう言えばランタンは長く単独だったか﹂
レティシアはランタンの手元を覗き込む。
肉と芋、そして黒パンが皿の上で綺麗に分けられている。ベリレ
やリリオンなどは大量の芋の上に肉を置いて、黒パンはもう膝の上
にまで追いやられていた。わざわざナイフとフォークで肉を切り分
ける、とまではさすがにいかないが、ランタンの一口は頬一杯では
なく本当にただの一口でしかない。
﹁女々しい食い方だな﹂
レティシアは感心してくれたが、リリララは辛辣だ。
でも酷かろうと下品になるよりはマシだと思う。そんなことを思っ
ていたらベリレの手の進みが遅くなっていることに気が付いた。今
更ながらレティシアの眼前であることに思い至ったのかもしれない。
﹁ベリレは、ヴィクトルや俺の悪いところを覚えてしまったな﹂
﹁いえ、そんな︱︱﹂
﹁おじいさまは、あまり食事作法なんかは﹂
﹁苦手だ。貴族位はもらったが、所詮は探索者だからな。堅苦しい
のはどうにも好かん﹂
﹁でも英雄さまともなると貴族のパーティにもお誘いがあるんじゃ
ないですか?﹂
﹁まあな、だがある程度はお目こぼしがあるし、そもそも探索者に
行儀のよさは求められんよ。荒々しく、獣のように料理を貪れば喝
うわばみ
采ものさ。おお、まさしく竜の化身よ! とな﹂
エドガーは蟒蛇のように豪快に酒杯を空けた。エドガーの隣で、
空になった杯にシュアが酒をつぐ。
﹁ふふふ、聞いていますよ。エドガー様﹂
﹁何の話だ?﹂
1359
﹁パーティに出られても、いつも早々に姿を消したそうじゃないで
すか。ご婦人方と。料理を味わう暇などなかったのでしょう?﹂
﹁もう昔の話だからなあ。そうだったかもしれんが、さてどうだっ
たかな。だがベリレ﹂
﹁は、はいっ﹂
﹁そっちの方は程々にな。下手すると命に響く。ランタンも気を付
けるんだぞ﹂
﹁はいっ﹂
﹁はいってベリレ⋮⋮﹂
リリララの視線は軽蔑に程近く、レティシアは困ったような呆れ
るような。そんな視線に晒されたベリレは、しかしその理由がわか
らずに戸惑い、リリオンはその隙に火に掛けられた肉を自らの皿へ
と。
﹁ちゃんと食べきってから取りな。誰もリリオンの分を取るような
真似はしないから。足らないようなら僕の分をあげるし﹂
ランタンはそう言って、芋をぱくりと食べる。リリオンはランタ
ンの皿を覗き込み、己の皿と比べた。
﹁ダメよ、ランタンもちゃん食べないと。それならわたしの分を︱
︱﹂
ランタンが皿の上に取っているのは鹿の肩肉である。脂の殆どな
い赤身肉で、リリオンの差し出したのは脂のたっぷりとのった豚肉
だった。脂身多いなあ、と思う。
﹁大丈夫、これで足りるから﹂
鹿肉は筋繊維がはっきりしている。噛み付くとびりっと裂けるよ
うであり、咀嚼すると独特な獣の臭気がある。その臭いは羊ほど酷
くはない。どことなく草っぽい素朴な匂いは、決して悪いものでは
ない。淡泊な味は濃い味付けの中にあってちょうどよかった。
﹁ベリレも程々にな。少なくとも俺の酒のあて程度は残してくれな﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁だがランタン﹂
1360
﹁はい?﹂
﹁お前は食わなさすぎだ。先は長いんだから色んなものを食えよ﹂
﹁ちゃんと食べてますって、でも脂ってあんまり取ると身体重たく
なりません?﹂
ランタンはスープの中から鶏肉を見つけて口に含む。塩っ辛く、
だが骨からはほろりと肉が外れた。ランタンはその骨を火の中へと
投げ入れて、もぐもぐと口を動かしている。全員の視線がランタン
を捉えていて、ランタンは咀嚼物を飲み込んでから口を開いた。
﹁なんですか?﹂
﹁なんですかじゃねえよ!﹂
リリララの言葉はそこ場全ての代弁である。誰も彼もが納得に頷
いていた。料理を囲む八人の中でランタンはあからさまに最軽量で
ある。リリララは前衛戦闘職ではなかったが、それでもぴちっと締
め付けられた四肢はすらりと鍛えられて、特に足は兎人族らしい形
のいい筋肉が発達している。
﹁その身体なら、さすがにもう少し太った方がいいだろ。︱︱体重
が足らないと自分でも言っていたじゃないか﹂
﹁まあ、そうなんですけど。でもいざという時に動きが鈍るよりは
マシかなって﹂
﹁⋮⋮お前は命の瀬戸際を狙いすぎだ。体重の増減なんて日々起こ
るものだろ。一食分でどうにかなるような戦い方をまず改めるべき
だ。危険は少なく、見返りは大きくが探索の基本だろう﹂
﹁それができればいいんですけどね﹂
﹁心構えの問題だよ。お前は端っから危険を減らす努力を放棄して
いるようにみえる。今日の戦闘だって︱︱﹂
﹁そんなことはないと思いますけど︱︱、ベリレ睨まないで﹂
こんなものは反論ではない。エドガーの言葉にランタンが返答す
る度に、ベリレはじっとランタンを睨む。ベリレにとってエドガー
の言葉は傾聴するものであって、応答するものではないのかもしれ
ない。エドガーのことを尊敬している、というか。
1361
﹁おじいさまのこと大好きすぎない? ベリレって﹂
﹁それの何が悪い﹂
ランタンの言葉にベリレは即応して、ランタンは思わず呆気にと
られてしまった。リリオンに負けず劣らず素直な子だなあ、とラン
タンは呆気にとられながらも思う。ベリレはじっとランタンを睨ん
で、手元の豚肉に大口で食らいついて獣のようにそれを引き千切っ
た。ごっくん。
﹁ちゃんと噛んで食べな。消化に悪いよ﹂
思わず、リリオンに言うように小言が。ランタンはしまったと思
う。今まで我慢していたのに反射的に言ってしまった。だがベリレ
は、うん、と頷いて二口目をランタンの言った通りにもぐもぐとし
ている。
いが
ベリレの肉体の中には素直さと、反抗心が同居している。肉体が
大きいがゆえに、啀み合うことなくその二つがすっぽり収まってい
て、それは僅かな歪さと言えた。
ベリレは肉を飲み込み、息を大きく吸い、怒鳴った。
﹁第一! 前にもあれだけ教えたのに、お前はエドガー様の素晴ら
しさをまだ理解していないのか!﹂
﹁理解してるから、もう。そんなに怒らないでよ。肉あげようか?﹂
﹁いらんっ。と言うかっ、さっきエドガーさまに食えと言われたば
かりだろうがっ。ええい、もうっ﹂
そう言ってベリレは自らの皿にあった肉をランタンの皿の上にで
んっと押しつけてきた。早々に皿の上に確保してあったらしいその
豚肉は脂が冷えて固まりつつある。これは、優しさをよそおった嫌
がらせなのだろうか。
﹁じゃあ、じゃあ、わたしのもあげる!﹂
そしてリリオンからの追加が。それは半分食べかけであり、噛み
きった後はリリオンの歯並びの良さがはっきりとわかる。大食漢だ
けれど、リリオンの口はそんなに大きくない。きっと顔が小さいせ
いだろうと思う。
1362
その思索は半ば逃避行動である。まだ食べてもいないのに、胃もた
れを起こしつつあるような気がした。
﹁ランタン、食っとけ。大迷宮の長丁場は日々の積み重ねが後々響
いてくる。シュア、あとで胃薬を出してやれ﹂
﹁はい、わかりました﹂
﹁それとレティシア﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁トマトを隅に寄せているのはわかっているぞ。後回しにするな﹂
エドガーはすっと一息に酒杯を空にする。
﹁どうせいつかは向き合わねばならんのだ﹂
ランタンは肉を、レティシアはトマトを、二人揃って目を瞑って
口の中に放り込んだ。
ドゥイはシュアのマッサージを受けて早々に眠りに落ちて、シュ
アは朝食の仕込みをはじめた。
そしてリリララは、戦闘に野営の準備にと八面六臂の活躍をした
魔道使いはレティシアやエドガーに遠慮をしていたが、やはり疲労
は重いらしくレティシアに促されるままに毛布に包まっている。
リリララは顔まですっぽり毛布に包まっていて、見えているのは
兎の耳ばかりである。寝息もなく泥のように眠りリリララの耳は、
完全にリラックスしているのか左右に開いてぺたんと力無く横たわ
っている。
起きている五人で火を囲んで以後の日程についての確認がてら言
葉を交わしていたのだが、気が付けばリリオンはもう眠たげである。
ランタンに寄り添っていた少女は、ランタンの肩へとついに頭を預
けてうつらうつらとし始める。すると示しを合わせたように皆々は
口を噤んだ。
まだ夜が深いわけではない。リリオンは何だかんだと言葉数も少
1363
なかったし、きっと大人数であるという事実に緊張をしていたのだ
ろうと思う。
ランタンはリリオンを支えるように少女の背に手を回して、そっ
と髪紐を解いてやった。緩く波打つ髪に指を通して梳る。髪の中に
は熱が篭もっていて、ランタンが頭皮を指で擦ってやると、少女は
言葉にならない何かを呻くようで、やがてふっと身体から力が抜け
て、すとんと太股の上に頭が。ランタンはごく自然に髪に指を通す。
﹁甘やかしてるな﹂
﹁あ、シュアさん。お疲れさまです﹂
﹁探索者たちほどじゃないさ。お、ベリレありがとう﹂
ベリレがシュアに酒を渡し、駆けつけ一杯シュアはそれに一つ口
を付ける。
﹁ランタンは、いつもそんなにリリオンを甘やかしているのか?﹂
﹁そんなに甘やかしてはないですよ。⋮⋮なんですかお二方、その
目は﹂
エドガーは苦笑を杯で隠し、レティシアははっきりと笑った。
﹁食事中も甲斐甲斐しく世話を焼いていたじゃないか﹂
﹁いつもはもっと綺麗に食べられますよ。ただ少し、ふふ、今日は
ベリレに対抗意識があったみたいだから、まああれぐらいはいいで
しょう﹂
﹁なんで俺に﹂
﹁さあ、全部食べられちゃうと思ったんじゃないの? ︱︱ちょっ
と失礼﹂
リリオンの身体がぽかぽかと暖かくなり、少女は完全に眠りに落
ちた。ランタンはリリオンを抱え上げて中座する。たらふくの食事
を取ったせいか、リリオンははっきりと重たかった。
寝床は、壁の左右に男と女で足を向かい合わせるように用意され
ている。迷宮の構造は事前に調べてあって、金属質の地面に身を横
たえては身体を冷やしてしまうのでそれなりに上等な断熱材が敷か
れていた。毛布は起毛のもので何とも暖かそうで、枕はその毛布を
1364
丸めて造ったものだ。
たったこれだけのことにレティシアは何を戸惑っていたんだろう、
と思う。あのお嬢様はしっかりしているように見えて、なかなかど
うして不器用なのかもしれない。
ランタンはリリオンの靴を脱がせた。そして襟元にそっと指を忍
び込ませて首を緩めてやる。指が喉を撫でると猫のようにうわごと
を呟いた。ランタンは手の甲で少女の頬を撫でてやって、首までぴ
ったりと毛布をかけてやって踵を返す。
﹁ほら、やっぱり甘やかしているじゃないか﹂
﹁子供を寝かしつけることぐらい普通のことでしょう。皆さんもし
たりされたりしませんでしたか?﹂
﹁まあドゥイの世話は焼いたな。今じゃ裸で寝かせても風邪もひか
なそうだが﹂
ドゥイは大の字になって寝ていて、毛布から四肢が飛び出してい
る。ほんの僅かだが鼾をかいているが、鼻の奥でぐるぐると鳴る程
度なので気にはならなかった。
﹁私は記憶がないなあ。記憶にもないような小さい頃にはあったか
もしれないが﹂
﹁ふうん、じゃあベリレは?﹂
と尋ねた先はエドガーである。
﹁子熊の頃には多少な。⋮⋮あのちび助が随分でかくなったもんだ﹂
﹁何を今更﹂
ランタンは思わず苦笑した。
ベリレの巨躯は急にぽんと大きくなったわけでもないだろうに、
エドガーはベリレに視線を投げるとまるで意外なものを見たとでも
言うようにぽつりと呟いた。
ベリレは戸惑うように唇を閉ざしていて、嬉しがっているような、
そうでないような。もしかしたら照れているのかもしれない。
ランタンの視線に気が付き、今度はベリレが。
﹁︱︱じゃあ、お前はどうなんだよ﹂
1365
﹁僕? 僕は、︱︱知らない﹂
﹁なんだそれ﹂
﹁レティシアさんと同じく記憶無し。でもまあたぶん、そんな悪く
はなかったと思うよ。知らないけど﹂
﹁⋮⋮なんだよ、それ﹂
ランタンは肩を竦めるだけで答えない。ベリレは何かを聞こうと
したようだが、ぐいっと酒を呷って言葉ごと飲み込んだ。食事中は
麦酒だったのだが、ランタン以外の四人は蒸留酒をお湯割りにして
飲んでいる。割っているとは言え、度数はそれなりに高くベリレの
吐きだした息が熱い。
﹁ほどほどにしときなよ。ベリレだけじゃなくて、おじいさまも。
お食事中もずっと飲まれてたでしょうに﹂
﹁これぐらいでは酔わんよ。昔は探索と言えば水ではなく酒だった
からな﹂
﹁そうだったんですか﹂
﹁その時代に生まれていたらランタンは探索者ではなかったのかも
しれないね﹂
ランタンは一人、白湯に蜂蜜を溶かしたもの飲んでいた。レティ
シアの言葉にランタンはどんな顔をしていいかわからない。探索者
以外の自分は一体何になれただろうかと思う。
﹁水精結晶が安くなったのはここ二十年ぐらいか。水は澱むとすぐ
腐ってしまうからな。もっぱら持ち込むのは酒樽だった。まあそれ
も、大迷宮の帰りにもなると酸っぱくなったりするのもあってな。
火を入れてどうにか飲むんだよ﹂
﹁へえ、酔っ払っちゃって探索どころじゃないですね﹂
﹁探索者は酔わんよ、そう簡単にはな﹂
﹁⋮⋮私に言わせていただけば、探索者も酔いますよ。私が一体ど
れほどの騎士団員のげろの始末をしたと思っているんですか。胃薬
や二日酔いの薬を取りに来る者の多さと言ったら。エドガー様も探
索者の心得を教える前に、まず酒の飲み方を教えたらどうですか﹂
1366
﹁考えとくよ﹂
エドガーは鹿肉を火に炙った。濃い飴色の表面にふつふつと焼き
色が浮かぶ。
﹁昔は運び屋の人数も多かったな。水物は重くてしょうがないし、
荷車の性能も悪かったし。ドゥイは労ってやらんとな﹂
﹁いざとなったら俺が手伝いますっ﹂
﹁ふ、ありがとう、ベリレ。だがうちの愚弟はあれでなかなかやる
から要らない心配だよ﹂
﹁ああ、ドゥイはちょっと凄いな。探索者見習いでもないのに、弱
音も吐かずによく働く﹂
﹁あの連結の荷車は凄いですよね。初動はどれほど重いんでしょう﹂
どこかずれたランタンの言葉にレティシアは杯から口を外せない。
﹁凄いが、あれもどうなんだろうな﹂
﹁⋮⋮お嫌いですか? 連結荷車﹂
﹁昨今の運び屋、と言うか探索者見習いを不憫に思うことはある。
今でも大迷宮なんかだと多くなるが、昔は探索者一人に運び屋一人
と言うこともそんなに珍しい事じゃなかったからな。荷車の性能は
悪く水物は重くても、後ろを押してくれる仲間がいたわけだ。それ
が今は荷物が減ったついでに、運び屋も減って、結局の仕事量はむ
しろ増えているのかもしれん。探索者の集団の中で、見習い一人と
いうのも心細かろうよ﹂
ランタンは単独探索者だった頃に、探索者ギルドを赴いた時の感
覚を思い出す。それはきっと似て非なる感覚なのだろうが、近しい
感覚であると思う。孤独さは、春暖に囲まれてこそ際立つ。ランタ
ンは運び屋の心労が容易に想像できた。一度の探索で胃に穴が空い
てしまうかもしれない。
﹁昔の探索班は苦楽を共にした運び屋たちがそのまま、というのも
多かったからな。もちろん欠員補充で上がるのもあったが、今は知
らん者がめいめいに集まって、だろう?﹂
﹁元単独探索者に聞かないでくださいよ﹂
1367
﹁それもそうか。まあ何にせよ、昔よりは苦労は多いだろうな。そ
れを嫌って運び屋を経ずに迷宮に行く奴も多くなったし、初探索で
の未帰還率はちょっと考えんといかんな﹂
未帰還。それは自然淘汰であるし、仕方のないことと言えば仕方
がないが、初回探索ならばほんのちょっとの知識や経験の有る無し
で未帰還率は大幅に減少する。己の実力に見合った迷宮を吟味し、
あるいは攻略不能と判断したら最終目標のみを諦めて、雑魚魔物だ
けで金を稼ぎ次に繋げることだってできる。
苦労、と言うのはもしかしたら己の分を知ることであるのかもし
れない。肉体にしろ精神にしろ。
﹁ふふ、愚弟は楽しんでいるようですよ。今回の探索を﹂
﹁おや、そうか。それは心強いな﹂
シュアは肉食獣のような目を柔らかく細めて、視線をランタンに
流した。
﹁ええ、探索者たちの戦い振りに興奮しておりましたよ。ベリレの
戦い振りなんかには特にね﹂
﹁そう、なんですか﹂
﹁やったじゃん、ベリレ。ねえレティシアさん﹂
﹁ああ、本当にな。隊長格と比べても、遜色はないんじゃないか﹂
﹁そんな! 恐れ多いっ!﹂
﹁謙遜するなよ。ランタンのことも、ビックリして見ていたぞ﹂
﹁僕は⋮⋮怖がられてるんじゃないんですか﹂
﹁いや、そんなことはない。凄い凄いと鬱陶しい程のはしゃぎっぷ
りだったよ﹂
どうにも想像が付かない。ランタンは軽く肩を竦めた。
﹁別にランタンを嫌ってるわけではないよ。あれは﹂
﹁そうですか?﹂
﹁そうだよ。︱︱ふふ、あれはなあ馬鹿だろう? だが何も考えて
ない訳じゃないんだ﹂
シュアは酒杯を一息に呷る。
1368
﹁私は昔なあ、あれの馬鹿は病気だと思っていたんだよ。だから病
気を治してやれば馬鹿じゃなくなると思って今こんなことになって
いるわけだが﹂
﹁弟さん思いなんですね﹂
意外、と言ったら失礼だろうか。ランタンは内心の驚きを隠して、
隣に座るシュアを見上げる。
﹁そんないいもんじゃないよ。馬鹿が鬱陶しかったからどうにかし
ようと思っただけだし。なんとも傲慢なことだがな。まあそうやっ
て色々勉強して、人間を知るとあれが病気じゃないんだとようやく
気が付いたよ﹂
苦笑。
﹁そうなると大変さ。折角勉強したのに病気じゃないときた、あれ
の馬鹿は地なんだとわかった私の荒れようといったら、そりゃもう
酷いものさ。八つ当たりにぶっ殺してやろうと思ったね、病気じゃ
ないことを喜ぶより先に﹂
﹁過激ですね﹂
そっちは何だか容易に想像できた。だがシュアの横顔にその想像
がすっかりと塗り潰される。苦笑は、苦みが濃く出ていた。
﹁そしたらね、謝られたよ。ドゥイに。あの時はさすがに参った。
あれは馬鹿だが、私が思っていた馬鹿じゃなかった。私はドゥイは
何も考えていないものだと思っていたが、そうじゃなかった。普通
の人間と同じように色々考えていて、ただそれを口にするのが少し
苦手なだけだった。あれは何かを言おうとしていて、聞こうとしな
かったのは私だった﹂
肉食獣のようなキツい目付きは変わらず、しかしシュアの白目が
薄桃色に充血している。首筋が赤く、匂い立つよう熱気があった。
﹁私は、悪い奴だろう﹂
シュアは言ってランタンを見つめた。
﹁⋮⋮酔ってますか﹂
﹁酔ってないよ。たった一杯ぐらいで﹂
1369
持ち上げた空の杯がシュアの手の中から零れ落ちて、ランタンは
それをさっと受け止めた。そこに琥珀の滴が溜まり、そっと匂いを
嗅ぐと噎せ返るような濃い酒精の香りが。
﹁⋮⋮ベリレ、これちゃんとお湯割りにした?﹂
﹁え、あ。し、てないかもしれない⋮⋮﹂
ベリレはシュアの変容に驚いていて、あたふたとしていた。たま
に気を利かせたと思ったら、人間慣れないことをするものではない。
エドガーやレティシアも酔っているシュアを物珍しげに見つめて
いる。
﹁︱︱女の人酔い潰してどうするつもりさ、まったく。シュアさん
はお酒弱いんですね﹂
﹁私も初めて見たよ、シュアはしっかりしている印象があったから﹂
﹁ははは、レティシアさま。私は酔っていませんよ﹂
口調ははっきりしているが、身に纏う雰囲気がそうではなかった。
﹁ほら、シュアさん、水飲んで﹂
﹁ランタン何を、だから大丈夫だと﹂
﹁飲め﹂
一言ランタンがはっきりと言うと、シュアは驚きに目を丸くする。
そして従順に水を飲んだ。ごくごくと喉が上下していて、冷たい水
が滑り落ちると赤くなっていた喉の色味が薄くなって、ふは、と漏
らしたシュアの吐息は温冷入り交じっていた。
﹁ランタンは、⋮⋮いい男だなあ﹂
シュアはぽつりと呟いて、ランタンの肩を掴む。そしてそのまま
押し倒そうとして、声は寝床の方から。
﹁ずるい!﹂
珍しい。
一度寝たリリオンが、朝が来る前に起きてしまったようだ。上体
を起こして首だけでこちらを向いていて、起きたもののやはりまだ
眠いのか瞼が半分下がっている。毛布から這い出て立ち上がると、
ふらりふらりとしていた。
1370
﹁わたしも、ランタンと寝る﹂
そして近付いてきてそう呟いた。ランタンは取り敢えずシュアを
押し返す。
﹁よし、じゃあ一緒に寝ようか。三人で﹂
﹁寝ません。リリオンもちゃんと一人で寝なよ﹂
﹁やだ﹂
﹁やだじゃないよ。僕はそっち側で寝るから、二人は向こう側でし
ょ?﹂
﹁じゃあ、わたしがそっちに行く﹂
なんでだよ、と思ったのはランタンばかりではない。
﹁︱︱女は向こう側だろ﹂
ベリレが潔癖そうな声で言いリリオンを見た。睨む、と言うほど
ではない。ただちらりと視線を投げかけただけで、リリオンはそん
なベリレにつんとそっぽを向いた。リリオンはベリレを怖がらなく
なったのはいいのだが、これはどうにも。
﹁じゃあ、ランタンを向こうに持ってく﹂
﹁そいつは男だろっ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮男、だよな?﹂
﹁馬鹿。︱︱ベリレも酔ってんの? ちゃんと見張りできる?﹂
﹁酔ってないし見張りもできる﹂
﹁無理なら替わってあげてもいいよ﹂
﹁できるって言ってるだろ!﹂
ああもう、がやがやとうるさくなってしまった。
疲れ切っているドゥイやリリララを起こしてしまわないだろうか。
ランタンが視線を逸らすようにして二人を確かめ、ついにエドガー
が大きく手を叩いて場を静めた。
﹁初日でまだ気力が有り余ってるようだが、明日のために残してお
くとするか。さ、もう寝るぞ。ベリレは俺が起きるまで見張り頼む
な﹂
1371
・ ・
﹁は、はいっ! お任せください﹂
立ち上がったエドガーにぽんと頭を撫でられて、ベリレは酔って
いたのかもしれないが一気に素面になった。そしてレティシアにも、
よろしくな、と肩を叩かれて有頂天だ。シュアは欠伸を一つ漏らし
て、また今度、とランタンに囁きを残して毛布に包まり、レティシ
アもそっと眠りについた。
そしてランタンは結局リリオンが眠りにつくまで添い寝をしてや
って、ベリレに要らない一言をもらう羽目になった。
﹁甘やかしてるじゃないか、やっぱり﹂
﹁しかたないでしょ、あの子はまだ子供なんだから。じゃあベリレ、
先に休ませてもらうね。おやすみなさい﹂
ベリレの肩に触れて、ランタンは毛布に包まる。
﹁ああ﹂
ベリレは一言呟き、ずっと火を見つめていた。
1372
091 迷宮
091
歩く。ひたすらに。
探索において休憩のタイミングは、魔物の出現を基点にすること
が多い。
事前に魔物の存在を察知すれば大事を取ってその前に休憩を取る
こともあるし、休憩なしで戦闘に突入したら、その後には確実な探
索者の休息が訪れる。魔精結晶の回収は戦闘に比べればほとんど休
憩のようなものであるし、一つの戦闘を終えれば肉体や武器への急
激な負荷は避けられない。
勝利の余韻は士気を高めるが、無駄に興奮状態を長引かせれば、
無駄に体力、精神ともに消耗を招く。仕切り直しは、やむを得ない
事情がない限りは必要である。
そして魔物の出現がない場合は、指揮者の一声で全てが決まる。
指揮者の中には探索班全員の体調管理を己の義務としてみている者
もいるし、時間を神と崇めて予定の遵守にこだわる者もいる。どち
らが優れている、という話ではない。それは探索班の色である。
この探索班の指揮者はエドガーである。締めるべき所は締めるし、
膨大な探索経験をその老身に宿しているためか彼が後ろについてい
ると、それだけで探索班の士気は上がる。だがエドガーは割合、放
任主義のようだった。自分で考えさせるのはネイリング家での後進
育成という役目が染みついているのか、あるいは古い探索者に多く
見られる大雑把さゆえか。
三日、魔物が出現していない。
目覚め、朝食を取り、ひたすらに歩く。栄養補給や水分補給で、
いちいち立ち止まることはない。ただただ、ひたすらに歩き詰める。
1373
先頭はベリレで、二番手のリリララが時折ベリレを追い抜いて立
ち止まるのはその時ばかりだ。リリララが耳を澄ませて魔物の存在
を探る、その僅かな停止は、休憩と言うよりはむしろ疲労を実感す
るための時間のようだった。
そして夜になると、濡れた布で身体を清め、たらふくの夕食を取
り、少しの会話の後、たっぷり眠る。見張り以外。
夜の見張りは初日のベリレから、レティシア、ランタン、再びベ
リレに戻り、今晩はレティシアがその役目を負う。
リリオンもいずれその役目をするかもしれないが、今はまだ免除
であった。
睡眠時間は八時間たっぷり取っており、見張りは二交代制で五時
間の夜番を若い三人で、そして早朝からの三時間をエドガーが引き
継ぐ。エドガーばかりが連日の五時間睡眠であるのだが、エドガー
曰く。
老人の朝は早いからな、とまるで気にした様子がない。
歩く速度が速い。
ベリレの二メートルの長身。
ベリレは横にも身体が大きくて、つい見落としがちなのだがベリ
レの脚は相応に長い。リリオンに負けず劣らず、と言いたいところ
だがリリオンの足の方がちょっと長い。
とは言え長いことに変わりはない。ベリレの一歩は大きく、遠慮
というものがない。ランタンやリリララは小走りと早足の中間ほど
の歩調となっている。リリオンやエドガーは平然としていて、レテ
ィシアはあの腰巻きの下に長い脚を隠しているようだった。
迷宮内の温度は相変わらずに低い。けれど全身はじっとりと蒸さ
れているようで、背中は排熱が追いつかずに汗ばんでいる。ランタ
ンばかりではなく、エドガー以外の誰もが汗だくだった。
特に左隣を歩くリリオンは持ち前の代謝のよさも相まって、玉の
汗が顎から滴り落ちるほどだった。いつもは三つ編みにしているリ
リオンの髪は、今は頭頂近くで丸く結い上げている。それは大きな
1374
うなじ
ほつ
銀の蕾のようだ。項に解れる、纏めきれなかった後れ毛に汗が鈴な
りになっていて、少女は時折それを掌で拭い、掌をズボンで拭った。
少女が歩きながら水筒に口を付けると、歯が飲み口に当たってカ
チカチと音を立てた。
ベリレは後ろを振り返らない。なぜならエドガーが声を掛けない
から。
リリララの耳が魔物の存在を捕捉することはなかった。戦闘はな
い、という判断である。そのため体力の消耗を度外視した強行軍を
エドガーは指示した。
エドガーの命はそれだけで明確な速度の指示はなかった。
三日間の進行速度は、少しずつ加速している。ベリレは限界を探
っているのか、それとも一向に声を掛けてくれないエドガーに声を、
叱責ですら構わないからほしがっている、と言う感じだった。
エドガーは放任主義どころか、これはむしろスパルタであるのか
もしれない。
速度は探索者ならば問題なく、ならばエドガーの更に後ろからつ
いてくるドゥイはどうかというと、やはりあの大男は侮れぬ真面目
さを発揮している。脱落どころか、相も変わらず弱音の一つも吐か
ぬのである。とは言えさすがに探索者との間にある身体能力の差は
如何ともしがたく、肉体活性薬を服用しているが。
そしてその姉のシュアは最初から最後まで荷車に乗っかって荷物
の一つと化している。文字通り、探索者の速度に自らの足を使えば
お荷物になることを理解しているのだ。
しかしシュアはお荷物などではない。
ランタンはリリオンにこそ好きにさせるものの、他者に身体に触
れられることを好まない。リリオンと出会うより以前、ランタンは
なめくじ
己の身体に触れる他者の肉体を汚らわしいものだと思っていた。言
葉通りの不潔もあり、しかし多くは己の身体を蛞蝓のように這い回
る手指から伝わる欲望があからさまだったからだ。
シュアは、さも本音であるように欲望を口にする。けれど疲労の
1375
溜まる身体に触れる彼女の手指は優しく繊細だ。まるで無垢な少女
がそっと花を摘み取るように、シュアは肉体から疲労を摘み取って
ゆく。彼女の手には他意がない。慰撫。ただそれのみに特化してい
て、ランタンの警戒心さえも摘み取るほどだった。
この弟思いの姉がいなければ、ドゥイは薬品に頼ろうとも探索者
の速度にはついてこられなかっただろう。
遠く後ろを来るあの姉弟はどんな会話をしているのだろうか、と
ランタンはふと考えた。
そんな余裕があるはずもないと思い至らないのは、少年が探索者
の中でも上等な部類であるからこそだ。会話をする余裕がある、と
はこの強行軍において余力を残していると言うことに他ならない。
ただただ歩き続けることは、体力よりも精神を消耗させる。景色
の変わらない単調な迷宮路では、己がどれほど進んだかも曖昧だ。
リリオンが溜め息を吐き出して、気が付けばその唇が尖らされてい
た。
体力はまだ余裕がある。だが少女の集中力は、と言うとそうでは
ない。
ランタンの視線は少女を通り過ぎて、そのままエドガーを振り返
った。エドガーはそんなランタンの視線を察して、苦笑を零し、口
を開く。
﹁昨日はどんな話をしたかな?﹂
﹁︱︱! 海竜のお話よ、おじいちゃん﹂
尖らせた唇にリリオンはぱっと笑みを浮かべた。
この世界の海は、それなりに地獄に近い。海底に口を開いた迷宮
は、当たり前に水攻めを喰らって内部の魔物は人知れず全滅してい
るらしいが、迷宮の中には水棲魔物が出現するものがある。そうい
った迷宮は、迷宮の崩壊を待たずして外界に魔物を流出させる。海
水は魔精の霧さえも押し流して、彼方と此方を地続きならず、海続
きにする。
そうして出現し、海辺の街の脅威となったのが大海竜である。
1376
昨日道中に始まって、幾つもの甲板を足場にして足らず、遂には
海面を氷漬けにするまでに至った海竜討伐戦はエドガーの二刀によ
って夕飯の最中に幕を閉じた。
リリオンは、そして密かにランタンも単調な行軍の暇つぶしと呼
ぶには豪華な英雄自らが語る冒険譚を楽しんだのだ。ランタンの楽
しみ方は、少しばかり歪んでもいたが。
﹁今日は、何の話をしようか﹂
﹁ベリレからもご活躍は沢山窺ってますからね、どれも聞きたいな。
ねえリリオン?﹂
﹁⋮⋮わたし、ベリレさんから聞いていないもの。わからないわ﹂
﹁あれ、そうだっけ?﹂
﹁うん⋮⋮、でも昨日もその前も、おじいちゃんは竜殺しの英雄さ
まだから竜種の話が多いのよね﹂
リリオンは額から頬、そして顎の汗を拭って振り返る。そんなリ
リオンにエドガーは渋い笑みを浮かべた。
キメラ
﹁そんな風に呼ばれもするがな、竜種専門じゃないぞ。じゃあ今日
は混合獣の話でもしようか﹂
﹁混合獣、ですか。たしか一匹だけやったことがあったかな。山羊
となんかの鳥だったなあ。あれ羊だっけ⋮⋮? 何にせよ翼のある
生き物って全滅した方がいいですよね﹂
あまりにもな物言いに隣を歩くレティシアが、呆れを含んだ緑の
視線を寄越した。
﹁レティシアさんには雷があるからわからないんですよ﹂
﹁ランタンには爆発があるじゃないか。あれほどの高威力を持って
いて贅沢だな﹂
視線が交わり、どちらともなく肩を竦める。
﹁面倒であることは確かだな。しかし混合獣は珍しい魔物だが、な
かなか引きがいいな﹂
﹁うれしくないですよ﹂
﹁だが、たかが二匹混ざり程度でぐちぐち言ってちゃ格好悪いぞ。
1377
俺がやってまあまあ強かったのはあれだ。頭部は獅子三匹、角は山
羊、胴は蜥蜴で翼は鷲、四肢が狒々と豹︱︱﹂
リリオンは一つ、二つと指を折る。片手では足らない。
﹁︱︱尾は双頭の毒蛇だったな﹂
そして獅子を三と数えるか一と数えるか、毒蛇を一と数えるか二
と数えるかで迷っている。
﹁七匹だよ﹂
そんな少女にランタンはそっと囁く。
﹁そうなの?﹂
﹁そうだよ﹂
なぜならベリレがそう言っていたのだから。
混合七獣。
高難易度獣系中迷宮の道行きは、枯れた花の道であった。それは
まるで沼地のようであり、ぬるりぬるりと腐臭を放ち、時として臑
半ばまで埋まるほどに腐花は堆積していた。そんな腐花迷宮の最奥
は、それまでと打って変わって、噎せ返るほどに甘く咲き狂う花園
であり、その天辺には偽月の浮かぶ幻想的な異界であった。
フラグ
ごくり、とエドガーが唾を飲んだのは、その甘い香りに誘われて
のことではない。
最下層までの道程は、あるいは最終目標に生命の源である魔精を
捧げたがゆえのことであったのかもしれない。それは花園に充ち満
ちる魔精を悠然と泳ぐかのようだった。
大魚のように、ゆたり、と振り返ったそれにエドガーは唾を飲み
込んだ。
花園の主はおぞましき異形でありながら、一種の神々しさを感じ
させた。
銀の鬣の三つ首の獅子は、それぞれが炎、冷気、そして毒を吐き
1378
出し、鬣から覗く角は紫電を纏った。
銀の鱗に覆われた蜥蜴の胴は、あるいは竜種であったのかもしれ
ず、狒々の前肢は人のそれと同じく知性を携え、豹の後肢は天地を
問わず遍くを駆ける。
そして鷲の翼は異形の巨躯を空へと昇らせた。そして混合獣の尾
である双頭の毒蛇は、偽月の中に浮かんでなお地に咲く花を嗅ぐほ
どの大蛇であり、その双頭に意志を持つ。
偽月の獣。混合七獣に立ち向かうは、大探索者エドガー率いる六
名の探索者。
いざ火蓋の切って落とされた激突は、混合獣の火炎息吹から始ま
った。狂い咲く花々の一切を灰にする高熱の息吹は、強烈な閃光と
音を纏い、不意を突かれた探索者の目が眩む。そして恐るべきこと
に混合獣は自らの放った炎の中に身を躍らせて、赤熱する身体を持
って突撃を。
仲間たちは熟練の探索者。匂い立つ神性にあてられたがゆえの隙。
命取りになるには充分な一瞬。
ああ探索者の命を燃やさんとする混合獣の激突を止めたのは、エ
ドガーの神速の抜き打ちであった。
目を灼かれ視界は白む。だが接近する熱量を感覚する事はエドガ
ーにとっては造作もないことである。
黒竜の芯骨より削り出された竜骨刀は恐るべき高熱であろうと炭
化せず、超速の突進を迎え撃って欠けることすらしない。ただ閃光
さえも吹き飛ばす激烈な高音を奏でて、それは叱咤するように震え、
その白々とした刃を晒すばかりである。
高熱に炙られたエドガーは声を出すことができない。だが探索者
たちは確かに聞いた。その堂々とした背は確かに語った。
たとえそれが神であろうと、俺に斬れぬものはない、と。
おおお。と仲間たちは打ち震えた。あの竜殺しエドガーは、きっ
と神の使いでさえも斬ってみせるだろうと。その証拠にどうだ。あ
の神獣のごとき混合七獣が、まるで怯える子猫のように距離を空け
1379
たではないか。
偽月を背に跳び上がった混合獣が、今度は氷嵐のような息を吹い
た。高熱に炙られた地表が急激に冷却されてひび割れ、それは氷震
が起して花びらが一斉に舞い上がった。
花吹雪を裂いて飛んだのは魔道使いの放った風刃である。それは
混合獣に息吹を吐かせる余裕を与えなかったが、自由自在に天翔る
のその巨躯を捉えることもできなかった。
膠着状態、ではない。
混合獣の銀の巨躯はまるで疾走する雷雲の如き。山羊の角から放
たれる落雷は絶えず動き回れば滅多に当たることはないが、立ち止
まれば必中の指向性の雷撃であり、魔道の行使には集中力を要する。
頼みの風刃も逃げ回りながらでは息吹を封じるほどの数を放つこと
はできない。
そして混合獣の攻撃はそればかりではない。尾となる大蛇は、そ
れ自体で最終目標となりうる能力を有している。
それは意思を持つ絞首台そのものの残酷さで、ちろりちろりと舌
舐めずりをしていた。細く鋭い牙から絶えず滴る毒液を舐め取るよ
うに。
探索者たちは散開して狙いを散らし、飛びかかってくる蛇の双頭
を躱し、そして時にどうにか切り払う。けれどそれは直撃を避ける
ために腰が引け、致命傷をもらわぬ代わりにまた致命傷を与えるこ
とも困難であった。
最下層はじりりと毒に蝕まれていた。
三つ首の内の一つが吐き出す毒霧は花を枯らした。そしてその場
に滞留した。ぞっと暗い毒霧は冥府へと手招きする亡者の影に似て
いる。皮膚が触れると灼熱の痛みがあり、金属を腐食させ、吸い込
めば命に届きうる毒である。そしてそれは斬ってもただの霞であっ
た。行動範囲が狭められ、苛立った一人の魔道剣士が火を以て焼き
払った。
閃光と音。魔道剣士は弾き飛ばされ、それを狙った蛇をエドガー
1380
が迎え撃ち、風刃が援護を。倒れた魔道剣士を仲間が引き起こした。
そして吐き出される毒霧を起きざまに魔道剣士は燃やした。今度は
離脱しつつ。
ああやはり、とエドガーは思う。
火炎息吹と毒霧息吹は同種のもの。可燃性の毒霧を、雷撃によっ
て発火させているのだ。
好機。火炎息吹の目くらましは、既に敵のものだけではなくなっ
た。探索者たちにとって目の前の現象を理解することに時間は要ら
ず、そしてエドガーの背を追うことに恐れなどなかった。
風の魔道により滞留する毒霧をまるごと移動させ、魔道使いを狙
う雷撃を大盾持ちの探索者が身を以て防いだ。そして毒霧の中に蛇
を誘い、火の魔道により焼き払って視力と熱感知器官を一時的に消
失、あるいは焼失させて、また別の仲間が獅子の三つ首を引きつけ
る。
二度と訪れぬ、万分の一秒の間隙にエドガーは身を躍らせる。
エドガーは跳んだ。残火燻る蛇の双頭を踏み付けて、天辺より垂
れる尾を駆け上り、右の袈裟懸けはついに蛇を斬り落とし、混合獣
の背に立ったエドガーは二刀を以てその翼を切り裂いたのである。
と言うのがベリレから聞かされた話である。
﹁︱︱で地面に落ちたら、混合獣の尻の割れ目が増えてるわけさ、
仲間の一人が大笑いだよ。そいつは危うく笑い死にするところだっ
た﹂
﹁まあ﹂
リリオンは頬を押さえて、笑うのを堪えるようだった。八の字に
なった眉に恥じらいがあり、むしろその顔にランタンは笑う。
ベリレとエドガーの語るそれは表現の差異であって、内容はそれ
ほど変わらないのだろう、とランタン思う。もうベリレは、とラン
タンは楽しむのだ。
エドガーの言葉は時折古い探索者らしい伝法さを帯びるが、基本
的には簡潔で淡々としている。
1381
ベリレのそれもであるが、世に語られるエドガーの逸話は魚が溺
れるほどの尾びれ背びれが付いている。それは戦いの残酷さから目
を逸らすための役割を持っていたし、ベリレのそれにはエドガーへ
の尊敬や憧憬が多分に含まれていて、同じことを語っていてもやは
り受ける印象は大きく違った。
幾ら英雄と言えども、戦闘はやはり残酷であるし、苦戦する時は
苦戦するのだ。
尾を斬り落とされて、翼を斬られようとも、混合獣にはまだ獅子
の顔も山羊の角も狒々の手も虎の足も残っている。
それは辺り構わず毒霧を吐き散らし、容赦なく空間を焼き払う。赤
熱紫電の突進は角に意識を牽くためのもので、本命はエドガーの足
を狙った狒々の手であった。
エドガーは何とその突進に膝をあわせたようだ。獅子は鼻血を吹
いて、エドガーは山羊角を鷲掴みにする。
﹁また無茶な。雷撃はどうするんですか。熱は﹂
﹁手袋してたしな、まあ感電はしたんだが、それは気合いで耐える。
感電すれば筋肉が収縮するだろ。がっちり掴む分には丁度良いから、
そのまま首を捻折る。腕が動かんから、こう腰を回してな。これは
運び屋の時の経験だな、酒樽を転がす時の︱︱﹂
﹁⋮⋮ランタンみたいなことするのね。おじいちゃんも﹂
﹁そんなことしたっけ?﹂
﹁したわよっ、もうっ。ついこの前っ﹂
むっと頬を膨らませてリリオンは怒る。ランタンは、冗談だよ、
と言いながらも、言い終わってから金蛙か、と思い出した。あれは
痛かったなあ、と迫真の演技をするがリリオンは疑いの眼差しを送
るばかりだ。
ともあれ混合七獣は恐るべき強敵であり、リリオンはエドガーの
話を興味深く聞いていて、疲労も忘れたかのように頬を赤くして、
時に悲鳴を、時に歓声を上げる。もちろん小さな声で。
斬り落とした蛇が付着する尻肉を噛み千切り、半分ほどに短くな
1382
った胴体を引っ提げて魔道使いに飛びかかったところでリリオンは、
ほう、と溜め息を吐き出した。無力化したと思っていた蛇が何と死
んだふりをしていたのだ。
蛇の心臓は蜥蜴の胴部に納めてあり、双頭の蛇は半不死であった。
迎え撃つ風の魔道使い。
一撃目は掌を基点にした面の突風。二撃目は十字を描いた線の風
刃。そして三撃目は指先より放たれた二点の風弾。胴を幾つにも寸
断し、双頭を砕き、それでも蛇はまだ生きていたのかもしれないが、
巻き付くことも噛み付くこともできなくなっていた。圧縮した空気
の弾を、肉の内側で解放する。それは光も熱も伴わない爆発である。
﹁かっこいいな﹂
やはりリリオンは魔道に憧れがあるようだ。レティシアの真似を
するように目の前に手を突きだして指を揃える。レティシアが微笑
み、するとリリララが振り向いた。
﹁それでほんとに使えたらどうすんだよ﹂
その言葉にリリオンはビックリして手を引っ込めた。
﹁ベリレの背中に穴が空くぜ。背中から撃たれちゃベリレも浮かば
れねえよ﹂
そして肩を竦めて再び前を向く。リリオンは少しだけバツの悪そ
うに指を擦り合わせる。ベリレは全く興味もなさそうだった。万に
一つもリリオンが魔道を使えるとは思っていないのだろう。
けれどしばらく歩いて、ベリレは急に振り返る。
﹁どうかした?﹂
ランタンが聞くと少しの逡巡、そして恥ずかしげに一言。
﹁⋮⋮お話の続きを﹂
エドガーは苦笑して、話を続けた。探索者は歩き続ける。
結局この日も魔物の出現はなかった。
1383
ランタンは靴から足を引き抜いて、靴下を、まるで皮膚でも剥が
すようにそっと脱いだ。汗で蒸れたそれを丸めて脇に置いて、ラン
タンは濡らした布で足を拭いた。熱した濡布は疲れと汚れを拭い取
って、しかし後に残るのは冷たさばかり。
すこし迷宮内の温度が下がっているのかもしれない。
ランタンが足を綺麗にすると、シュアがその足元に跪いた。ラン
タンは荷車に腰掛けており、さも当たり前のようにまず右足を女の
膝の上にぽいと放り出す。シュアも当たり前のようにそれを受け入
れた。
シュアの指が膝から脹ら脛を指圧しながら落ちて、細く滑らかな
足首を優しく回した。関節に痛みはない。靴の内側に擦れたくるぶ
しが赤みを帯びている。女の指がそれを擦り、足底に親指が強く押
し当てられる。筋肉の筋に沿って、何度も。
﹁靴、合ってないんじゃないか?﹂
﹁まあそうですね﹂
﹁帰ったらちゃんと測って作ってもらえよ。稼いでるだろ﹂
﹁買った時はもっと大きくなる予定だったんですよ。この足﹂
嘘。本当は一目見て、ごつごつしていて、大きくていかにも頼も
しかったから買ったのだ。
ランタンは指圧の擽ったさに、足の指を開いては閉じる。爪の切
り揃えられた足指の一つ一つをシュアは揉んだ。柔らかい痺れにラ
ンタンが頬を緩めていると、その隣にリリオンがちょこんと座った。
汗ばんだ身体に恥ずかしげもなく、甘酸っぱい匂いを薫らせている。
﹁リリオンも後で揉んでやるから、ちょっと待っててくれ﹂
﹁ううん、わたしは平気です。ランタン、手ちょうだい?﹂
﹁⋮⋮しかたないなあ。ちゃんと返してよ﹂
ランタンは、よいしょ、と左手で右腕を持って、まるで取り外す
かのように肘の関節を、こきり、と鳴らした。リリオンは目を丸く
して、シュアは鋭く細めた。
﹁あとで肘も見せてもらおうか。脱臼の経験は?﹂
1384
﹁今のところはないです、たしか﹂
﹁もともと柔らかいのか、それとも緩いのかな。一度外れると癖に
なるから気を付けた方がいいぞ﹂
ランタンは地竜の鱗を纏めたものに肘をついている。足はシュア
に揉ませて、リリオンに腕を渡すと少女は献身的にそれを揉んだり
撫でたりしている。
片肘をついて首を傾けているランタンの姿は、いかにも尊大であ
る。奉仕させることが当然とでも言うような物憂げな半眼が、視線
を横切ったリリララを無意識に追った。
はべ
尻尾も、小振りな尻も丸い。立ち止まり、振り返る。
﹁お前はどこの阿呆貴族だよ、二人も女侍らして。なんなら爪も削
ってやろうか?﹂
そう言ったリリララの両手は清潔なタオルを山ほど抱えて塞がっ
ている。
﹁んー、今のところ大丈夫です﹂
ランタンは身体を起こして、右手を伸ばす。掌をリリララに向け
て、甲は己の方へ。ぴんと指を伸ばして爪を見つめる。爪はまだそ
んなに伸びてはいない。
リリララの皮肉にもランタンは真面目に応えて、兎の女は肩透か
しを食らったように軽く肩を竦める。そしてランタンを通り過ぎた。
向かう先はレティシアの元で、レティシアは布張りの目隠しの向こ
う側で湯浴みをしている。
大きなたらい一杯の水を温めたのはランタンだった。爆発は加減
が利かないので熱くなりすぎてしまったが、外気が冷たいので丁度
良いのかもしれない
湯船に浸かりたい。だが、たらいは足湯を楽しむ程度の深さしか
ない。ランタンの身体が小さかろうと、それに浸かるような真似は
できない。
ランタンは再び片肘をついて、背中を丸めた。
﹁レティシア様の湯浴み姿が気になるか?﹂
1385
﹁まあ、ほどほどに。でも、ベリレほどじゃありませんよ﹂
熊の少年は目隠しの方を少しも見ない。完全に背中を向けている
が、その大きな背中から放射される気配はただ一枚の、水音すらも
遮れない布の奥へと向かっている。ランタンは苦笑を一つ零して、
今度は逆の足をシュアに。
﹁ランタン!﹂
﹁ん?﹂
﹁ランタンの手は、小さくて綺麗ね﹂
﹁なに急に?﹂
リリオンは揉んでいたランタンの手を急に包み込んで、今度は温
めるように擦りだした。そっと窺うような瞳には、妙な気配がある。
感情が瞳に解りやすく浮かび上がる少女であるが、ランタンはそれ
を読み取ることができなかった。ランタンが小首を傾げてみると、
リリオンはつんと唇を尖らせる。不満、これはわかる。
見つめ合う少年少女の間に割って入ったのは、押さえきれぬ笑い
声だ。
﹁ランタン、リリオンはね。ランタンがベリレにちょっかいを掛け
るのに思うところがあるのさ﹂
﹁⋮⋮そうなの?﹂
リリオンは頷きも、首を横に振りもしなかった。ただぽつりと呟
く。
﹁わたしのお尻、けっても、いいのよ?﹂
﹁ばか。そんな趣味はないよ。僕は﹂
ランタンは手を引き抜いて、人差し指でリリオンの鼻の頭をつん
と押した。少女は鼻を押さえて、いじましく、囁くように呻いてい
る。
﹁尻なら撫でる方がいいよな。わたしとリリオンと触り比べてみる
か﹂
﹁みません。⋮⋮けどリリオン、僕とベリレが仲良しなのは嫌?﹂
﹁いやじゃない、けど﹂
1386
煮え切らぬ口調が全てを物語っているような気がする。
﹁まあ、べつに仲良くはないけど。どんなもんか確かめてるだけだ
よ﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁そんなこと言わずに、ベリレと仲良くしてやってくれよ。あれに
とってはきっと初めての友達なんだから﹂
こんな時に、シュアは表情を和らげる。つつと視線が脹ら脛を撫
でるように這い上がる。
﹁騎士団にお友達はいないですか﹂
﹁あの子は騎士団の所属じゃないからな。ヴィクトル様を友人と呼
んでいいものか、と言った感じさ。ベリレは頑なに弟子をとらなか
った大英雄の、ただ一人の弟子だからな。あの子の立場はなかなか
難しいよ。家中の者ではない。貴族の出でもない。嫉妬も期待も色
々あるし、エドガー様はエドガー様で﹂
エドガーはベリレと肩を並べている。ベリレは恥ずかしそうに背
中を丸めていて、エドガーの背はしゃんと伸びている。それは寒々
しい鉄の迷宮内に似つかわしくない暖かな姿だった。
﹁ベリレのことは可愛がっているし、相応に厳しくしていらっしゃ
るが、やはり甘い方が大きいね。あのお歳までずっとお一人だし、
ずっと戦い続けてこられたお方だから子供への接し方は不器用で、
極端だ。ランタンとリリオン。エドガー様とベリレの関係は似てい
るかもな﹂
﹁そうですかね﹂
ランタンは言いながら、赤くなったリリオンの鼻を擽る。少女は
目を細めた。
﹁そうだよ。エドガー様がランタンを気になさるから、ベリレはこ
のところちょっと焦っている。大好きなエドガー様を取られないよ
うにとね。エドガー様はエドガー様で、そんなベリレに戸惑ってい
る。初日の夜を覚えているか? あんな風にはっきりと、ベリレが
好意を口に出すのは珍しい。まあ、そんな戸惑うお姿は珍しくて面
1387
白くもあるのだがな﹂
ベリレは自分の居場所を守っているのかもしれない。
﹁そしてランタンがベリレを構うから、リリオンは拗ねる。⋮⋮と
思ったけど、もう大満足なのかな。ランタンは悪い男だね﹂
リリオンは睫毛の隙間からシュアを、そしてベリレを見た。
﹁ベリレさんは、おじいちゃんのことばかりじゃないわ。戦ってる
時、ずっとランタンのこと見てたもの﹂
﹁そうなのか? ほう、それは。私は戦闘に参加することはできな
いからな、そうか。ベリレ⋮⋮﹂
リリオンの言葉にシュアははっきりと驚きを示して、考え込むよ
うに眉根を寄せた。マッサージの手が止まっている。
﹁よく見てますね、皆のこと﹂
﹁うん? 身体ばかりじゃなくて、精神の方もケアも私の仕事だか
らね﹂
﹁僕にじゃなくてベリレに言ってあげたらどうです?﹂
﹁⋮⋮思春期の子は難しいんだよ。ああ見えて繊細だからね﹂
﹁僕も思春期ですけど、年齢的にはたぶん﹂
﹁でもベリレよりはお兄さんだろ? よし、足終わり。次は︱︱﹂
ふと暖かな、湿っぽいいい匂い。目隠しの奥からレティシアが姿
を現した。まだ髪が濡れていて、涼しげな目元が嫋やかに滑りラン
タンを捉える。
﹁先に使わせてもらったよ。待たせて悪かったな﹂
﹁いいえ、シュアさんのおかげで全然です。︱︱ありがとうござい
ます、汗流してきます﹂
﹁ああ、肘はまた後でな﹂
シュアは耳元に顔を寄せた。
﹁⋮⋮あとこれ、先に渡しておく﹂
﹁なんですか?﹂
手の中に握らされたのは紙包みされた粒剤である。シュアは声を
潜める。
1388
﹁眠剤だ。あまり寝られていないんだろう﹂
知らない人がいっぱいいるから。眠りは浅い。だからまず手始め
にベリレを知ろうとしているのかもしれない。ランタンは内心で驚
いて、しかしリリオンの目を気にして表情は澄ましている。
﹁よく、見てますね﹂
﹁仕事だからな。どうしても使いたくないなら私の寝床においで。
子守歌を歌ってやるよ﹂
ランタンは返事をせずに立ち上がった。欠伸を誤魔化して大きく
背伸びを一つ。振り返ってリリオンに手を伸ばした。
﹁おいで、一緒に﹂
﹁うん!﹂
リリオンはその手を掴むばかりか、ランタンを抱き上げて目隠し
の奥へと一目散に飛んでいった。
そこは二人っきりになれる唯一の場所だ。
一人になりたい、じゃないんだ。とランタンはリリオンを脱がし
てやりながら笑う。
たぶん、その内に寝られるようになるだろう。
1389
092 迷宮
092
眠ったと言えば眠ったし、眠っていないと言えば眠っていない。
ランタンの小躯の奥底に潜む神経質さや、消し去りきれぬ他人へ
の恐れが、警戒心となってどうしても意識を夢の中に手放すことを
あわい
拒むのである。目を瞑ってもランタンの眠りは浅く、少年は暗闇の
中、夢と現の間を彷徨う己をはっきりと記憶している。
太陽も昇らぬ迷宮に朝が訪れるまで、他人の寝息や寝返りを聞く
だけの、不愉快な微睡みを過ごした。
ふむ、とランタンは思う。何でこの子は平気なんだろうな、とリ
リオンを見上げる。
ランタンは少女に抱きすくめられて完全に熟睡できる。時折息苦
しさや、少女の寝返りに目を覚ますこともあったが、概ね安心感を
抱いていると言って間違いではない。
ランタンは珍しく、己の方からリリオンに寄り添った。少女の隣
は、その体温の高さのせいかぽかぽかと暖かい。リリオンは、喜ん
でランタンに寄り添うくせに、いざランタンが寄り添ってくると、
驚き戸惑ったように瞬きをした。
ふむふむ、とランタンは思う。睡眠不足ではあるが、まあ大丈夫
だろうと軽く考えていた。だが理性でそう言い聞かせてはいたが、
本能はやはり眠気を欲しているようだった。
どうしたもんかな。
ランタンは己に向けられる幾つもの視線に、甘ったるいおっとり
とした微笑みを返した。他意はない。ただ眠たいだけであるが、し
かしどうにも警戒しているのは己ばかりではないのかもしれない。
ベリレとドゥイがぎくりと身体を強張らせた。リリララは顰めっ面
1390
になっていて、レティシアは戸惑っている。エドガーはいつも通り
で、シュアは面白がっていた。
真横のリリオンはそのランタンの顔を見ることはできずにいて、
恐る恐る差し出したスプーンにランタンが素直に食らいついたこと
に、得も言われぬ感動を覚えているようだった。
朝方に温めたスープは、鍋に毛布を巻いて保温をしていたがやは
り昼も過ぎると、迷宮の低気温も相まってだいぶぬるくなってしま
う。だが、うまい。
探索班は、全員で車座になって遅い昼休憩をしていた。
朝食の残りのスープに、ビスケットや黒パン。それにチーズや干
し肉等の調理不要の食品と、レティシアが毎食毎食、切り分けて振
る舞ってくれるオレンジが添えられている。
割合豪勢であるが、あくまでも中途の休憩。ゆえに火は熾さない。
行軍の中断はリリララが魔物の気配を察知したからである。
聞こえたのは唸り声のような音でそれは腹の鳴く音ではないか、
とリリララは言った。
﹁初日に地竜三匹。六日目でようやく、か﹂
﹁出現間隔からすると、なかなか厄介な相手になりそうですね﹂
エドガーの呟きに、レティシアが形のいい眉を顰ませる。
迷宮内の出現する魔物は、数が多ければ個体の質が下がり、質が
上がれば全体数が減るらしい。魔精によって生み出される魔物たち
は、迷宮内に存在する魔精量を振り分けられてその存在を顕現させ
ると考えられている。
迷宮内の魔精は人の身からすると無尽蔵とも思えるほどに濃密だ
が、そのやりくりはなかなかシビアであるらしい。数を取るか質を
取るか、はたまたほどほどの平凡を行くか。三者択一の大前提は滅
多なことで崩れない迷宮の法則であった。
数を多く出現させるものは虫系が主であるが、もっとも酷いのは
やはり迷宮兎であり、あれは数の暴力の権化である。そして個体の
質が高い魔物の系統はやはり竜種が代表的である。
1391
﹁六日で四匹は、少ないですか?﹂
ランタンが聞くとエドガーは曖昧に頷く。
﹁まだ先にいるのが一匹と決まったわけじゃないが、もしそうなら
まあ少ない方だな。今回はまず地竜が五匹出たわけだが、そのまま
どどっと同種の魔物が続くことが多い。だが︱︱﹂
﹁︱︱地竜じゃないでしょうね。あの耳障りな足音は聞こえないし。
老個体で知恵が回る可能性もなくはないっすけど、唸り声にしろ腹
の音にしろ、金属的な響きがなかったです。もっと鈍い、水中に響
くような﹂
唸りが聞こえたのは一度だけ。リリララはよくその音色を逃さず
に聞いた。
この兎の侍女はなかなか侮れぬ実力を持っている。
魔道や索敵能力だけではなく、身のこなしにもそれは現れる。進
行の際に前を歩くリリララの後ろ姿は、どうしたって目に入る。ほ
んのり茶色の丸い尻尾が愛らしい引き締まった小尻は、あれほど厳
しい進行の中でほとんど揺れない。ぴしりと一本、芯の通った体軸
を見るに、恐らく何かしらの格闘術を修めているのではないかとラ
ンタンは思う。
気が付けば口の中に豆のスープがあり、差し出したリリオンに視
線を向けると少女はにへらと笑った。取り敢えず何も考えず無意識
のまま、ランタンはリリオンにビスケットを食べさせてやる。少女
の唇が指の先に触れた。
﹁緊張感ねえなあ。わかってんのか? 戦闘だぞ﹂
﹁緊張しながらご飯食べたら消化に悪いですよ。︱︱それで今は音
はありますか?﹂
﹁ないな。あれっきりだ﹂
リリララはエドガーに視線を向けた。
﹁やっぱりあれは腹の音じゃないすかね。自分の意志では止められ
なかった音なんだと思います﹂
﹁ふむ、つまりは意識的に身を潜めていると言うことだな。待ち伏
1392
せするとなると﹂
﹁蛇竜の可能性が高いですね。地竜にも待ち伏せるようなものもい
ますが、初日のは随分うるさかったですから、その筋はないと考え
てしまってもよろしいでしょう﹂
﹁お嬢の意見にほぼ賛成で。まあ、完全にない、とは言い切れない
すけど﹂
経験則から目の前でぽんぽんと会話が繰り広げられて、ランタン
とリリオン、そして非戦闘職の二人と、ベリレもその話を聞くばか
りだった。巨熊の従騎士は黙々と昼飯を喰らっている。それは戦闘
への準備をしているようにも見えるし、それに没頭することで口を
挟まない己を肯定しているようにも見える。
ベリレはこれで結構、皆に心配されている。
探索前に部屋を訪ねてきたレティシアやリリララ、そして昨晩の
シュアも何だかんだと、今でこそ最年少をリリオンに譲りはしたが、
外見とは正反対のベリレを気に掛けている。
気が付かぬは本人ばかり。
その理由は隣にいる老人が、ベリレの全てだからなのだろう。こ
の熊の少年は他に目を向ける余裕がないのだ。
ベリレは消化に悪い食事の取り方をしている。あの夜に隣り合っ
ていた二人の姿を見た時とは比べるべくもなく、はっきりと緊張し
ていた。エドガーはそんなベリレを気遣うが、その気遣いにベリレ
はまたいたたまれなくなる。
シュアの言う通り不器用だ。エドガーも、そしてベリレも。
どうにかしてやりたいな、と思ったような気がするがきっと気の
せいだろうとランタンはベリレを横目に見る。身体の大きな男がう
じうじしているのが鬱陶しいだけで、これをどうにかしてやればき
っと己の睡眠環境に好影響を与えるだろう、という打算による思考
だ。そうに違いない。ランタンは言い訳がましく頷いた。
だがどうやって、と言うのはいつも後ろを引っ付いてくる悩みで
あるが、知ったことではない。ベリレの心配なんて、ランタンはし
1393
ていないのだから。
﹁蛇ですか、昨日の話を思い出しますね﹂
ランタンが呟くとリリオンが隣で頷く。
﹁頭二個あるかな?﹂
﹁頭はどうか知らんが、往々にして有毒種が多いな。またしても食
える竜種ではないが、ああ、そんな顔をするな﹂
ざんねん、と唇を突き出したリリオンにエドガーが笑いかけた。
﹁そうね、このご飯も美味しいものね。はい、ランタン﹂
ランタンはスープの具材である豆をもそもそと咀嚼して、こくん
と飲み込み、オレンジに手を伸ばす。レティシアの手によって八等
分に櫛切りにされて、食べやすいように皮と果肉の間に半ばまで刃
を入れてあった。これは今朝から見られるようになった心遣いだ。
恐らくリリララが助言をしたのだろう。ランタンは手を伸ばして、
その一つをがぶりと噛んだ。
﹁あ、これ酸っぱいやつだ。︱︱ベリレ﹂
﹁何だよ﹂
﹁蛇竜についての戦い方を教えて。どうせおじいさまの英雄譚に、
一匹二匹出てくるでしょ?﹂
﹁どうせって何だよ﹂
ベリレは不満げな表情を隠しもしなかったが、それを語ることを
嫌がりはしなかった。
﹁蛇竜は、基本的には蛇とそう変わらない。足が無くて、鱗は鰐の
ようにごつごつしているものから、蚯蚓のようなものもいる。だが
基本的な攻撃手段は噛みつきと、体当たりからの絞殺だ。噛み付き
に留意するべきは、先程もエドガー様が言ったように毒がそうだ。
噛んで注入する、というよりは吐きかける種類のものが多い。そも
そもお前ぐらいの大きさなら大抵は丸呑みにできるほど大きいから、
牙を立てる必要がない。だから前面には立たない方がいい。噛みつ
きを誘おうとして毒をくらうことはよくある。だが、かといって懐
の内に入り込むのもあまりよくない。巻き付かれれば最後、抜け出
1394
すことは困難で、首に巻き付かれると窒息以前に頸椎を、身体なら
全身の骨が砕けて死ぬ﹂
ベリレは、一つ一つを思い出すようにしながら語る。きっと隣で
エドガーが一つ一つ頷いていることにも気が付いていない。ベリレ
は自分の頭の中身を覗き込むので精一杯だった。そして言葉を結ぶ
とようやくエドガーを見て、大英雄の反応に安堵しているようだっ
た。
ベリレに少しの余裕が生まれて、ランタンへ寄越した視線は少し
ばかり生意気そうだ。
﹁せいぜい気を付けることだな﹂
﹁お︱︱﹂
お互いにね、と大人の余裕を持って返そうかと思ったらランタン
はリリオンに肩を引き寄せられた。驚いたベリレから視線をリリオ
ンへと移動させると、少女はベリレをきっと睨み付けている。
﹁ランタンは、大丈夫よっ﹂
リリオンはランタンを抱きしめながら啖呵を切った。はっきりと
言い切ったリリオンに、ベリレは不可解そうに眉根を寄せる。眉間
に深く皺が刻まれて睨み返しているようにも見えるそれが、その実、
何を言われるのかと怯えを隠す仮面であるとすぐにわかった。耳が
ぴくぴく。
﹁⋮⋮なんで、そんなことが言い切れるんだよ﹂
﹁ランタンが危なくなったらわたしが守るもの。だからランタンは
大丈夫なの﹂
ふふん、とリリオンは鼻を鳴らし、ベリレは何故だかぐうの音も
出ない。根拠のないリリオンの自信に呆れているわけでもなく、難
しい顔つきになっている。
ランタンは己の肩を抱くリリオンの手をからそっと抜け出して、
少女から身を離した。
﹁ありがたいけど、僕は別に危ないことなんてしないよ。ねえ、皆
様﹂
1395
反応は一つも返ってこない。ランタンは不満もたっぷりに唇を曲
げた。
﹁なんで無視するんですか﹂
﹁⋮⋮それはお前が馬鹿だからだ。危ないことしかしてねえよ。っ
たく、冗談にしても笑えねえ﹂
﹁うむ、あまりリリオンに心配を掛けるんじゃないぞ。ランタン﹂
﹁さて、蛇竜の対処法に注釈を入れるのならば︱︱﹂
女二人には諭されて、エドガーに至っては完全に無視である。
﹁接近する際は、尾の先か、頭部ならば側頭から首の付け根辺りだ
な。深追いは禁物。常に胴体の確認は怠らないように。リリララ、
距離はわかるか?﹂
﹁二十ってことはないと思います。十キロ超ってとこでしょうが、
あんま自信はないです。もっと近いかも﹂
﹁いや充分、ご苦労﹂
﹁いえ、どうせ今回あたしはあんまり使い物になんないので﹂
﹁どうして?﹂
リリオンが素直な疑問をあげると、リリララは肩を竦める。
﹁蛇どもは天地無用だからな。地形を弄っての足止めはあんまり効
果がな。あいつら感度もいいから、うまいこと隙を突かないと串刺
しにもできねえし。ま、ある程度の補助はするから、リリオンは今
回前衛に上がっていいぜ﹂
﹁やった!﹂
リリオンは一つ手を叩いて黄色い声を上げた。
﹁今回は俺も参加しよう。前衛は俺にベリレ、リリオンに︱︱﹂
﹁私は今回も後衛に。もっとも竜種が雷撃に耐性があるようなら、
前に上がりますが﹂
﹁攻めたがりですね、レティシアさん﹂
﹁ランタンには負けるさ﹂
レティシアはオレンジを口にして、酸っぱそうに片目を閉じる。
﹁では、ランタンはどうする?﹂
1396
含みのあるエドガーの問い掛けにランタンは視線を動かさず、視
界を広げてシュアを見る。女は僅か、肩を竦めただけだった。報告
はしていない、とそう言っているようだ。
だがエドガーはランタンがあまり寝られていない、と感づいてい
るのか、少なくとも多少不調であることは察しているようだった。
﹁参加しますよ。ベリレと勝負を付けないといけませんし。ねえ﹂
﹁お前には負けないっ﹂
ランタンの挑発に容易く乗ったベリレは、がお、と吠える。ラン
タンは小さく頷く。
﹁おじいさまを差しておいて、とどめを狙いに行くなんて頼もしい
ことだね﹂
﹁え、あ、いや、ちが︱︱﹂
﹁違わないでしょ? ベリレ。さあて頑張りましょうか﹂
﹁違うんです、エドガー様っ!﹂
﹁︱︱よい、そうでなくては困る﹂
ああ、また、そんな言い方して、と思う。今までは気になりもし
なかったが、ベリレの心を想像してみると、なかなかどうして重た
い言葉であるように感じた。
﹁迷宮もそろそろ中層に近い。気は抜かないように﹂
行くぞ、とエドガーが声を掛けるとリリオンが跳ねるように立ち
上がりランタンに手を伸ばす。ランタンはそれに掴まって立ち上が
り、最後の最後に立ち上がったのがベリレだった。
巨熊は俯いて、ぼそりと弱音を呟く。ランタンはその言葉を聞か
なかったことにして、取り敢えず一発ベリレの尻を蹴っ飛ばす。発
破を掛けられて振り返ったベリレの目に映るのは、期待に目を輝か
せるリリオンの尻を引っぱたくランタンの姿だった。
﹁なにを⋮⋮?﹂
﹁ベリレのせいだからね、これ。ったく﹂
﹁はあ、意味が︱︱!?﹂
喚くベリレを無視して、ランタンは大きく背伸びをする。そして
1397
リリオンがそれを真似した。
雷撃から戦いは始まった。
絞るように背を向けたレティシアの腰の細さをランタンは横目に
捉え、その左手に握り込まれた雷光に目を細める。やや腰を落とし
たレティシアのその姿は抜刀直前の緊張感を湛えていた。迷宮の先
に立ちこめる闇に身を潜める竜種から隠した雷光は、今にも暴れだ
そうとするのを力ずくで抑えつけているかのように小さな紫電がば
ちばちと嘶く。
牽制程度、とレティシアは言ったが、それはきっと建前だ。
﹁やっぱり攻めたがりじゃないですか﹂
呟いたランタンの言葉に、笑みを吹き消すように深呼吸を二回。
りゅうよう
緑瞳に、雷光が反射した。
柳腰の旋転。
﹁︱︱っ!﹂
放たれた雷撃。それは輝く短鎗のようである。平手で打たれたよ
うな破裂音を残して、瞬く間もないほどの速度で飛翔する。駆け抜
ける雷槍に迷宮の闇がざっと払われて、魔物の輪郭が露わになった。
蛇、と言うよりは百足に似ている。
艶のない漆黒の身体。押し潰された菱形の頭部と、足のない扁平
の胴体。尾の先までは二十メートル以上あるのかもしれず、その異
様な竜種は鎌首を持ち上げて既にこちらを見つめていた。目はない。
その顔は口の裂け目すらも把握できないのっぺりとしたもの。
隠したはずの雷の、その熱なり魔精なりをレティシアの背を透か
して感覚していたのだろう。蛇竜は雷速の一撃を、すれ違うように
避け、まるで解放されたバネのごとく飛びかかってきた。はっきり
と照らされたその身体、艶の無さはざらつきで、鱗はなくゴム質で
包まれているようだった。
1398
じゃ
蛇、と鳴った風切り音は扁平の形状が奏でる独特の音色。それは、
けれど微かである。目を凝らせば胴体の縁が極薄い鰭のようにうね
っているのがわかった。自律しているのではなく、風に煽られては
ためいているようだった。
﹁せっいっ!﹂
ベリレの長尺棍が、鎖を巻き付けたままの野蠻な棍棒のような姿
で振り上げられる。ランタンとエドガーは左右に広がって、リリオ
ンはベリレの斜め後ろに控える。
高速で飛びかかる蛇竜をベリレが迎え撃った。蛇竜は待ち伏せを
していた慎重さを微塵も感じさせぬ真っ向勝負を挑んできて、ベリ
レは蛇竜から軸を半分ずらした形で長尺棍を振り下ろした。頭蓋を
砕いてあまりある一撃である。直撃した蛇竜の頭部がぐにゃりと変
形して、だがベリレの表情が渋い。
そして潰された頭部を追いかけるように、胴体が慣性にならって
突っ込んでくるとリリオンが盾に身を隠しながら飛び出してそれを
弾いた。衝突の音は鈍く、小さく。だが質量は見た目通りにある。
力負けはしていないが、リリオンの足が滑って少しの後退を余儀な
くされる。
頭部はぺちゃんこ。だが胴体は暴れている。エドガーとランタン
が油断無くその胴を狙った。エドガーの袈裟懸けの一撃が、未来予
知のごとき恐るべき身のこなしで躱される。
そして弧を描いて膨らんだ胴体はランタンに向かってくる。
むかつく、と素直に思ったのは眠気による不機嫌さや、あるいは
ベリレのことを気にしたせいもあるのかもしれない。蛇竜はエドガ
ーの一刀を避けるために、ランタンの戦鎚に自らの身を投げ出した
のだ。魔物の本能か。一瞥もなくエドガーを強者として、そしてラ
ンタンは比較して弱者として区別した。
その順位付けは事実であるが、腹立たしいことには変わりがない。
ゆら、とランタンの眼差しに赤が燈る。それは紅蓮を撒き散らす
戦鎚の赤である。返した手首に鶴嘴が獰猛な牙のごとく立ち上がり、
1399
足元から振り上げられた戦鎚は蛇竜の胴に深々と埋まった。
異様な感触。ベリレの渋い表情の理由がわかった。高弾力性の、
鶴嘴を押し返すような抵抗は一瞬のこと。今、手の中に伝わってく
るのは溶けた鉛に似た重く粘度のある液体の気配。
ランタンはそれを掻き泳ぐ負荷を感じながらも、鋭い呼気を吐き
出して戦鎚を振り抜いた。
焼け焦げる臭気。
﹁一旦、退くぞ﹂
言われずとも、と思った時には蛇竜の腹下をいつの間にかかいく
ぐっていたエドガーがランタンの首根っこを掴んでいる。またかよ、
と思いながらもランタンは足掻くように、戦鎚の先に爆発を巻き起
こした。そしてエドガーに引っ張られる、ランタンの視界に水袋が
内側から弾けたように溶断する蛇竜の姿が見えた。臭気は血の臭い
ではない、いかにも身体に悪そうな石油のような臭いだ。
掴まれた首筋がやはり熱い。ベリレはこの手に頭を撫でられる時、
きっとはっきりと格の違いを思い知らされているのだと思うと、何
もかもに腹が立ってきた。
ランタンがそんなことを考えていると、半溶解した皮膚が黒い液
体となってランタンに降り注ぐ。そしてそれは後方より放たれる雷
撃によって、消し炭へと、いや蒸発させられていた。あれはどうや
ら熱で溶けるようだ。
ランタンはぽいっと放り投げられてリリオンがそれを受け止める。
﹁あれはまだ無傷だ﹂
﹁寄生型ですか?﹂
﹁いや、あれは︱︱﹂
蛇竜の下半身はぴくりとも動かず横たわり、だが上半身はベリレ
の潰した頭部は拉げたその形のままに鎌首を持ち上げる。口の裂け
目が見えないのではない。そもそもとしてそれは口がないのだ。
蛇竜が、エドガーを避けるように右に回り込んで飛びかかる。
ほんの一瞬の目配せがエドガーとベリレの間に行われ、長尺棍の
1400
回転は棘鎖を走らせて蛇竜の首へと巻き付いた。蛇竜はその戒めを
抜けようと身体を回転させるが、その瞬間にベリレは蛇とは逆の回
転を鎖に伝える。一層深く蛇竜の首に棘鎖が巻き付き食い込んで、
ベリレは力任せにその首根っこを地面に押さえつけた。
エドガーが刀を振るった。断頭ではない。骨から身を削ぐような
浅い角度の横薙ぎが、ただでさえ扁平なその身を芸術的な剣線が裂
いた。
断面に背骨を抜いたような窪みがあった。まるで幼虫の住み着い
た木の幹を割った時のような。
﹁左っ!﹂
リリオンが盾を振り回し、しかしそれを回り込む何かいた。蛇。
長さで言えば二メートルに満たぬほどの、灰白の蛇竜がランタンの
視界を横切った。
あの漆黒の巨躯は、恐らく皮膚分泌物の固まった鎧皮。それを脱
ぎ捨てた蛇竜は、まるで拘束から解放されたような鋭さをもってラ
ンタンに飛びかかってきた。鏃型の頭部は発達した棘鰭が返しのよ
うになっている。食虫植物じみた口は、まさに肉を掘り進むために
ある。細かく並ぶ牙、喉奥の窪みは毒の噴射口。だが避けると後ろ
にリリオンが。
視界が遮られる。振り回した盾をリリオンは力任せに切り返し、
その表面に水音が響いた。
ランタンが盾から飛び出す。しかしそこには既に蛇竜の姿がない。
大きさを言えば十倍以上、重さを言えば二十倍以上もありそうな皮
を脱ぎ捨てた蛇竜の身のこなしは一度視界から外してしまうと追う
ことが難しいほどに速かった。
振り返る。レティシアの方に抜けたわけではない。レティシアは
指差していて、放たれる幾つもの雷撃が蛇竜の残影を照らし、尽く
が躱される。そっちか。蛇竜は影のように気配はなく、足がないか
ら足音もない。ランタンは忌々しげに目を凝らした。
リリオンは首を左右に振って縦横無尽に駆け巡る蛇竜を追う、ラ
1401
ンタンは視線だけを動かし、洒落臭いことにベリレは泰然自若にど
っしりと棍を構えている。足元には鎖が、ベリレを囲むようにして
無造作に横たわっている。そしてエドガーは待ち惚けるように右肩
に竜骨刀を担ぎ、とんとんと肩を叩いていた。
瞬間。
その腕がぱっと閃いた。エドガーの刃圏に入った蛇竜の尾が斬り
落とされている。ほんの五センチ程度。鱗の細かな白い蛇革に包ま
れるそれは、ゴム質の漆黒ではない。断面から青い血が流れる。
エドガーは尾を切り落とした刃先に視線を向けた。油に濡れたよ
うにてかっている。
﹁分泌液は潤滑作用があるようだ。きちんと捉えないと滑るぞ﹂
と言われた通り、ベリレの巻き上げた鎖が蛇竜に巻き付いて、ぬ
るりと抜け出された。ベリレは鎖を引いて、その棘で引き裂こうと
しているようだったが、それも上手くは行かない。表情が歪む。細
かく生えた棘の隙間を縫うように、蛇竜は悠々と鎖の海を泳ぐ。
﹁跳ね上げろっ﹂
﹁うる︱︱さいっ﹂
ランタンの命令に、ベリレは反射的に悪態を吐きながらもそれを
実行する。
ベリレは誇り高いのにちょっぴり卑屈で、生意気だが素直だ。そ
れに自信はないのに実力はある。
座りながら尻で踏めるほどの自由自在の震脚は、巨躯の全身を巡
り、手足のごとく操ることのできる長尺棍はまさしくその肉体の延
長である。長い長い鎖など指と変わらず、生える棘は伸びた爪かは
たまたささくれかと言ったところだ。鎖に伝わった震動が地面に跳
ね返り、蛇竜は放り投げられるように宙に。
﹁わたしもっ!﹂
鋭く振り回される大剣がランタンの頭上を通り過ぎた。ベリレへ
の対抗心に振り回された大剣は唸り声を上げて蛇竜の身を捉えて、
残念ながらその身を滑った。蛇竜はてらてらと塗れるほどの分泌液
1402
の飛沫を散らして、ランタンの戦鎚は飛沫を毒素の一切も残さず燃
やし尽くした。
下から振り上げた戦鎚が、松明のように燃える。そして。
高く掲げた戦鎚が号令を掛けるように振るわれた。瞬間。紅蓮の
残滓を貫いて、雷槍が駆け抜ける。蛇竜は中空に身を捩り、既視感
を覚えるような身のこなしで肌を鞣させるように魔道を避けようと
した。だが突如、一枚の鉄板が地面から生えた。幅三センチに満た
ない鉄板はリリララの魔道によるものだ。レティシアより背後、リ
リララは中指をおっ立てている。
たったそれだけの金属の板に避を妨げられた蛇竜に雷撃が直撃し
た。
灰白の鱗が沸騰して下ろし金のように逆立った。異形の蛇は、い
よいよ竜種じみて、ぞっとするような殺意を漲らせる。
竜は死んではない。傷つくほどに、内に秘めた獰猛さを解放する
ようだった。
その気配を察知してエドガーが動く。ランタンはその瞬間、リリ
オンの尻を引っぱたいた。
﹁たあっ!﹂
紅蓮も雷槍も、鉄板も切り裂いて、エドガーの出鼻さえも挫く歓
喜の一撃が、あふるる殺意や獰猛さを分泌液として一回りも大きく
なった蛇竜を半ばから両断して、後一歩踏み込めないベリレにラン
タンは怒鳴った。
ベリレは止めをエドガーに譲ろうとしていた。
﹁根性見せろ!﹂
蛇にして竜。その恐るべき生命力は、半身になっても失われるこ
とはない。憎悪も戦意も充分に湛えた冷たい瞳に、毒を滴らせる牙
はまだそれが脅威を失っていないことを告げている。
だが混合獣の尾っぽのように、半不死などと言う上等なものでは
ない。迷宮もまだ序盤、一皮剥けるには頃合いだ。
頭を潰せばそれで終い。だが激しくうねり、べったりと塗れるそ
1403
の頭部を滑らずに捉えることは。
︱︱きっとベリレにならできる。
がおう、と威勢よく吠えたベリレが棍を翻して石突きが下から跳
ね上がる。
音。それは硬質な金属同士がぶつかる甲高い衝突音。
ベリレの長尺棍は蛇竜の頭部を完璧に捉え、そしてランタンの戦
鎚もまた同時に振り下ろされて、蛇竜は二つの武器の間にその頭部
を押し潰されていた。
ランタンの手の中に痺れがあるように、ベリレの手の中にもまた
それがあるのだろう。熱い痺れが、皮膚を貫いて骨まで響いている。
それはベリレの積み重ねた練武そのもの。
﹁また引き分けだね﹂
ぽかんとしたベリレに、ランタンはにっこりと獰猛な笑みを浮か
べた。
1404
093 迷宮
093
昨日討伐した蛇竜は、エドガーの言うところ幼竜であったらしく、
成竜ともなれあの二十メートルはありそうなあの毒皮ほどの大きさ
が本体の大きさとなり、その二十メートルの本体が身に纏う毒皮は
二百メートルを超えるのではないかと言うことだった。
そんな奴が出なくてよかった、とランタンは本気で思う。
二十メートルの毒皮はその本体を失って早々に激烈な腐卵臭を発
生させたので、探索班は結晶を回収すると逃げるような速度で存分
に距離を稼いだ。もし成竜だったとしたら、きっとこの穏やかな休
息も訪れなかっただろう。
悪臭は、追い立てるようにしばらくの間、探索班を追いかけてき
た。
戦闘後相当な距離を進んだ。それゆえにと言うわけではないが、
探索七日目はたっぷりの休養日だった。前夜にキャンプを張った位
置から、一歩も前に進むことはない。悪臭の残り香が付着する服を
洗濯することもできる。
探索者たちは各々で穏やかな時間を過ごしており、ベリレはドゥ
イを相手に組み手を行い、エドガーはそれに指導しつつ酒を飲んで
いて、シュアは洗濯に食事にと雑事をこなしてくれた。
そしてレティシアはリリララに爪を整えて貰っていて、リリオン
が少し羨ましげにそれを見つめていたのでランタンは少女の手を取
って二人の側に腰を下ろした。細く長い指にふさわしい縦長のリリ
オンの爪は先端の白い部分が確かに増えてきているようだった。
﹁ちょっと爪痩せたね。んー、割れてないからいいけど﹂
﹁そう? よくわからないわ﹂
1405
﹁爪が薄くなるのは長期間の探索だとよくあることだな。日光不足
が原因らしいが﹂
﹁ああ、何か聞いたことがある気がしますね。太陽光を浴びないと
皮膚が弱くなるとか。発酵食品を食べるといいんじゃなかったかな
あ﹂
﹁だからチーズが頻繁に出るのかな。食品選びはほとんど家のもの
に任せていたからなあ⋮⋮﹂
﹁あ、でもオレンジもいいらしいですよ。柑橘系は、骨の生成に何
とかって﹂
﹁お前の知識、穴だらけじゃねーか。爪の削り方はまあまあ上手い
けど﹂
粗い目のヤスリを使って形を整えて、細かい目で仕上げていく。
削る向きは常に一定の方向で、ランタンは見栄えも相まってやはり
柔らかく丸みを帯びた形に削るのが好みだった。尖らせすぎないよ
うに丁寧に。
﹁ほお、どれ。ああ、本当に。ランタンは器用だな。よかったなリ
リオン﹂
﹁うん、いいでしょ﹂
一つ一つ美しく整えられていく指先に、リリオンは誇らしげな微
笑みを浮かべてレティシアに応える。
﹁これは、あれか? 腕相撲のお願いか﹂
﹁ううん、まだ。何にしようか迷っているの﹂
﹁⋮⋮忘れたんじゃないのか﹂
リリララが余計な一言を、とランタンは思い、しかし本当に余計
な一言を呟いたのは己自身だった。三人の女の視線が冷たさを帯び
てランタンを刺し貫き、ランタンは素知らぬ顔をしてそれを切り抜
けようとする。
﹁約束破りはいかんよ、ランタン﹂
﹁まったくお嬢の言う通りだ。男の風上にも置けねえな﹂
辛辣だな、とランタンは思わず苦笑を漏らすが、リリオンの指先
1406
は、自らの瞳に湛えた冷たさに侵されたように小さく震えた。
﹁わたしは、ランタンに何をお願いしたらいいのかしら﹂
﹁まあ、何か願い事ができたら言って。可能なことならするよ﹂
﹁⋮⋮優しいというか、甘いというか。ランタンは、何なんだろう
な。君は﹂
細められた緑瞳は、笑みの形ではない。視線は二人の間に一本線
を引いて、その外側から得体の知れぬ者を見定める時の視線に似て
いる。だが似ているだけで、宝石のように美しい緑瞳には何やら複
雑な感情が乱反射するように揺れる光が湛えられている。
ベリレもレティシアも、あるいはリリララさえも長兄ヴィクトル
の影響が色濃く残っている。それもまたランタンを落ち着かなくさ
せる要因の一つなのだろう。
ベリレに構ってやることで、少しだけ視野が広がったような気が
する。だが人の感情は複雑でランタンはそれがもどかしい。
﹁何なんだろうなって、レティシアさん。ただの探索者ですよ﹂
﹁ただの探索者は、お嬢やエドガー様と探索なんかできねえよ﹂
ふ、とリリララはレティシアの右の爪を吹き、そして左の爪を整
えはじめた。
﹁そのおかげで、ベリレは苦労しているみたいですね。偉大な人た
ちに囲まれて、押し潰されずよくもあんなに大きく育ったものです
よ﹂
ランタンはリリオンの爪先を指の腹で撫でて、滑らかになったこ
とを確認するとリリララに倣って左手を手に取った。ベリレのこと
を口にするとリリオンは口を尖らせる。ランタンがベリレのことを
深く知ろうとするのは、それが自らの睡眠環境改善のためだけでは
なく、少女のこの表情を見るためであるのかもしれない。
﹁昨夜、二人して随分と話し込んでいたようだな﹂
﹁えっ! そうなの、ランタン?﹂
﹁今日が休みだからって、夜更かしなんてね。なりはでかいけど子
供ですよね、やっぱり﹂
1407
昨晩の見張り当番はランタンで、何故だかベリレはランタンに付
き合って明け方までずっと起きていた。早々にランタンによって寝
かしつけられたリリオンはその事実に何か愕然としたように声を上
げて、むう、と頬を膨らませる。ランタンは膨らんだその頬を突い
た。
﹁⋮⋮どんなお話ししてたの?﹂
﹁昔話﹂
﹁ランタンの?﹂
﹁まさか、僕は聞き役だよ﹂
リリオンはつまらなそうに、ふうん、と口ずさんで悩まし気な視
線をランタンに向けるも、ランタンは曖昧に微笑むだけである。
昔話は十年前に蛇竜に贄として捧げられ、そして英雄に救い出さ
れた幼熊が、歳を重ねて英雄の足跡を知りその偉大さを知って思い
悩む話だ。そして苦悩する幼熊に手を差し伸べたのがまた、大貴族
の跡取りだというのだから笑えない。長兄ヴィクトルも確かに尊敬
すべき人物なのだろうが、英雄に貴族に可愛いがられるベリレへの、
外野の期待や嫉妬は、ベリレをただの探索者に満足することを許さ
なかった、と言うような七面倒くさい話である。
それは確かにリリオンの興味をそそるものではないだろうに、し
かし何ともつれない反応である。
本当によく潰れなかった、と思う。ベリレはリリオンほども純粋
に、届かぬと思い込んでなお努力を弛まぬ資質を持っている。それ
はベリレをより追い詰める資質でもある。だが、そろそろ。
﹁昔話ね。ベリレは昔なかなかの美少年だったって知ってるか? ねえお嬢。あたしが初めて会った時はもう結構でかかったけど、ち
ょっとその名残があったんだぜ﹂
うち
﹁え、何ですかそれ。聞いてないです﹂
﹁家に来たばかりの時は髪は金色で、目の色ももっと薄くて、頬な
んかふっくらしてな。ふふ、エドガー様が稚児趣味に走られたんじ
ゃないかと少し騒ぎになったほどの美少年ぶりだったんだぞ﹂
1408
﹁今じゃ見る影もねえすけどね﹂
四人揃って視線を向けると、組み手を終えて休憩中であったベリ
レは雄々しく、凜々しさすらある顔を引きつらせて怯えるように肩
を振るわせた。その足元ではドゥイが座り込んでくたばっている。
浴びるように水を飲んだのか、襟元どころか肩まで濡れていた。
﹁よし、お嬢できたぜ﹂
﹁うん、ごくろう﹂
﹁さ、仕上げしますよ。リリオンも、しょうがねえからそれ使わせ
てやるよ﹂
そう言って視線で示したのは爪の保護用のクリームだった。薄桃
色をしていて、ほんのりと甘い匂いがする。リリララはそれを指先
に小さく掬い取って、レティシアの指先に丁寧に擦り込んでいく。
そうすると爪はつやつやとした真珠のような輝き帯びる。
リリオンは蓋の外された瓶を見つめて、十本の指をランタンに向
けながらいじましげに瞬きを繰り返す。ランタンはしかたなく少女
の爪をつやつやにしてやった。
﹁これぐらい自分でやんなよ﹂
﹁言われてますよ、お嬢﹂
リリオンへ向けた言葉を、リリララがレティシアへ。
﹁む、そうだな。リリララ、よかったら︱︱﹂
﹁あたし、まだ指を失いたくないっす﹂
﹁ランタンの爪はわたしが︱︱﹂
﹁大丈夫﹂
ランタンとリリララは二人してそっと視線を外す。そして指に付
着したクリームを拭うように自分の指先に拭い付けた。リリオンと
レティシアは二人揃って不満げな目付きで睨み付けてくる。睨まれ
た二人はちらりと目配せを交わして、完全に無視をすることに決め
込んだ。
﹁二人とも⋮⋮﹂
﹁ひどい﹂
1409
恨めしげに呟かれてもそっけなく無視し、しかしリリララの耳が
ぴくりと反応したのは背後からベリレが近付いてくるためだった。
ランタンが振り返ると、ベリレは何か言いたげにしていたがむっ
つりと黙った。昨晩の話を吹聴されている、と思ったのかもしれな
い。ランタンが安心させるようにベリレに笑いかけると、大熊は大
きく肩を上下させて安堵を漏らした。そしてそれから艶やかになっ
たランタンの爪を見て不意に悪態を吐いた。
﹁ふん、女々しいな﹂
﹁言われてますよ、レティシアさん﹂
﹁レティシア様は女性だろうがっ!﹂
﹁まったく、二人とも。仲良くなったんじゃないのか?﹂
﹁いいえ︱︱﹂
﹁︱︱違いますっ﹂
ぴったりと息のあった二人に、リリオンがベリレを睨み付けるも
ベリレはレティシアへの言い訳に忙しく気付かなかった。リリオン
は妙に大人びた溜め息を吐き出し、ランタンはそれが妙におかしく
て笑ってしまった。
﹁女々しいと言ったのはランタンにです、決してレティシア様にで
は﹂
﹁爪切るのの何が女々しいのさ。爪伸ばしたっていいことなんてな
いよ﹂
﹁今レティシア様に、ああ、くそ。お前、何言ってるんだ﹂
﹁爪伸ばしてると割れたりするし、剥がれやすいし﹂
﹁剥がれることなんてそうそうないだろ﹂
﹁剥がれるよ﹂
﹁どんな時に﹂
﹁相手の目の中に突っ込んだ時﹂
冗談でもなく、しれっとそんなことを言い放ったランタンにベリ
レは固まった。
ランタンは己の細指をそっとなぞる。右の人差し指。初めて敵の
1410
眼窩に指を突き入れた時、爪は剥がれ突き指になって最悪だった。
﹁知ってる? 眼球って硬いの﹂
﹁知らん。っていうかランタンの身長では相手の目には届かないだ
ろ﹂
﹁まあ、顔は下りてきてるからね﹂
馬乗りになって、のし掛かってきた男の顔はすでに思い出せない。
ズボンを下ろすために半分腰を浮かせて体勢を崩したのか、それ
ともランタンの顔を覗き込もうとしたのか、まず手始めに唇を吸お
うとしたのかも定かではないし、知りたくもない。だがその時に降
り注いだ生臭い吐息と、眼窩の中の温かさは、忘れたくともよく覚
えている。指の痛みを感じたのは、そこから抜け出した後だったこ
とも。
よくわかっていなさそうな三人を尻目に、リリララだけが一瞬妙
な目付きでランタンを見た。
﹁いや、目に突っ込むなよ﹂
﹁最近はしないよ、でもまあ、念のためね﹂
文字通りに爪を研ぐことをランタンは怠らない。
レティシアの話ではベリレは過去なかなかの美少年であったよう
だが、すでに英雄の庇護下にあった少年は男に馬乗りにされた経験
はないようだ。何とも羨ましい話である、とランタンは思う。その
羨ましさが目に滲んだ。
﹁何だよ﹂
﹁何でもないよ﹂
嫉妬。ベリレはそれに少なからず敏感で、昨晩ある程度ランタン
に気を許していたこともあって、不機嫌そうに声を荒げた。面倒く
さい奴だな、と思ったランタンの反応も気にくわなかったのかもし
れない。
﹁よし、じゃあ決着付けるか。昨日は引き分けだったし﹂
﹁ああ、望むところだ﹂
﹁武器有りだと危ないし、徒手格闘戦ね。目潰しは勘弁してやろう﹂
1411
﹁はっ、吠え面をかくなよ﹂
﹁あなたの方こそねっ﹂
﹁なんでリリオンが言うのさ﹂
ランタンは腰も重たげに立ち上がり、ドゥイに戦闘指南を聞かせ
ているエドガーに振り返った。
﹁ちょっといいですかあ?﹂
ランタンは無垢な顔をして呼びかける。
武器の使用は不可。探索に支障が出るような怪我はさせないよう
に努力する。ランタンは爆発能力を使ってはいけない。それが勝負
の規則である。
﹁なんで、こんなことに﹂
﹁だって勝負はどっちが多くの敵を倒すかでしょ? 雑魚やっつけ
たって何の自慢にもならないよ﹂
構えはなく、ゆらりとした自然な立ち姿を前にしてベリレが震え
る声で呟いた。その隣に並んだランタンはベリレに気合いを入れる
ように脇腹を引っぱたく。相変わらずの腹筋の硬さだ。
相対するのは大英雄。勝負はランタンとベリレ対エドガーである。
ランタンはエドガーに視線を飛ばした。英雄はこの探索班の中で
もっとも得体の知れない男だ。
ああ、おっかない、いざという時はこの腹筋に盾になってもらお
う。
ランタンのそんな思惑を見透かしたのかベリレは苦々しげに小柄
な少年を見下ろして、しかしその頬に浮かぶ余裕の笑みに勇気づけ
られたのか、視線鋭くエドガーを睨んだ。そんなベリレにエドガー
は怖がらせるように言い放つ。
﹁どうした、来んのか?﹂
﹁すぐに行きます、ベリレが﹂
1412
﹁俺かよっ︱︱!?﹂
とベリレが大声を上げた瞬間にランタンは踏み込んだ。エドガー
の意識の継ぎ目、僅かに揺れた視線はベリレを見たはずである。距
離は十メートルに足らず、ランタンの一足の踏み込みは音を置き去
りにして、エドガーから薫る微かな酒気を感じるほどに肉薄する。
最短の鳩尾。手刀、直突き。
少しでも距離を稼ぐために伸ばした指が空を切り、半身になって
見下ろすエドガーの顔を振り返ることもなく、ランタンは避けられ
うけ
たと悟った瞬間に右腕を振り上げて顎を狙った。遠い。紙一重が遥
か先にある。旋転。エドガーは余裕から防御に回らず回避を選ぶ。
放った後ろ回し蹴りはエドガーを一歩退かせるためのものであり、
呆気にとられているベリレを叱りつけるためのものだった。
手伝え。
何せ相手は大英雄。ランタンの回避読みの思考の裏をつき、踏み
込んで腹で蹴り足を受け止めたかと思うと太股を脇に抱え込んだ。
締め付けられる力は万力のようであり、捻ろうと捩ろうとまるで抜
けない。内股の動脈が完全に塞がれて、あっという間に爪先が氷の
ように冷たくなった。
ランタンは足を引き抜くのを諦めて、残った足でエドガーの腰に
飛びかかり、負けじと胴を締め上げる。だがエドガーの表情は毛ほ
ども変わらない。
﹁うおおおっ!!﹂
エドガーはランタンをまるで長物のようにしてベリレを牽制し、
しかしベリレはお構いなしに突っ込んできた。天地が逆さまになっ
たランタンの視界にどでかい靴底が見える。
今までの憂さ晴らしに頭を踏まれるのかと思ったがそんなことは
なく、ベリレはランタンの頭を跨いで深く踏み込むと容赦のない上
段蹴りを放った。どん、と破裂する音はそれが軽々とエドガーの片
手に受け止められた音で、エドガーはベリレの足首を掴まえると腕
の力だけで大熊を放り投げた。
1413
あとで骨は拾ってやろう。
ランタンはエドガーの胴を締めながら、一気に上体を引き起こし
た。鼻頭に頭突きを叩き込んでやろうとして、しかしそれはランタ
ンの足を締めているはずの腕に受け止められる。足は感覚を失って
いて、それが手放されたことにすら気が付くことができなかった。
ぶん投げられた。
﹁ああ、くそ、︱︱ってうおあっ!?﹂
起き上がり様のベリレの肩に着地したランタンは、その盛り上が
った僧帽筋を緩衝剤に勢いを殺した。
﹁ナイス、ベリレ﹂
﹁うるさい、降りろっ﹂
労いにベリレの頭を一撫でして、ランタンはその肩から飛び降り
る。とんとん、と地面を蹴って足の感覚を取り戻す。わかっていた
ことだが鬼のように強い。
エドガーは余裕綽々たる笑みを浮かべており、攻める気はまるで
ないようだった。それは少しばかり腹立たしいが、息を整える間を
もらえたと思えばありがたい。
﹁ベリレっておじいさまから一本取ったことってある?﹂
﹁ない﹂
﹁ったく、もう少し甘やかしてもいいだろうに﹂
﹁手を抜いたら訓練にならないだろう。それに俺には特に厳しくし
てくださった﹂
﹁なるほどね、何とも真面目なことで大変結構。それでそんなベリ
レだけが知っている、おじいさまの弱点とかないの?﹂
﹁あるわけないだろ、馬鹿か。エドガー様だぞ﹂
﹁⋮⋮じゃあ攻めるだけだね。取り敢えず挟撃の維持を最優先で。
行けっ﹂
尻を引っぱたく。
先行するベリレの影に追従し、ランタンは左回りにエドガーの背
後を取った。ベリレは真正面からエドガーに乱打戦を仕掛けており、
1414
数を放っているのにその一撃は何とも重たそうである。発達した背
筋からの左右の振り回しはなかなかの脅威だが、その筋肉が邪魔を
して直線に腕を振るうのがどうにも窮屈そうだった。
豪腕の唸りは、しかしそれが躱されるがゆえの音色で、反撃の掌
打がベリレの胸元を押すと巨体が大きく踏鞴を踏んだ。押した反動
で振り返ったエドガーは膝を狙ったランタンの姿を容易に捉えてい
る。ぞっ、とランタンの首筋が総毛立った。
右肩担ぎの構えは、竜骨刀を握っているわけではない。振り下ろ
したのは拳を固めた鉄槌で、鎖骨を砕きに来ているそれをランタン
は腕の交差で受け止める。衝撃が骨の芯まで染み渡り、金属の足場
がまるで砂岩のように砕けて罅が入った。
﹁よく止めたな﹂
﹁︱︱探索に支障が出ますので。おじいさまの反則負けでは決着が
付きません﹂
呻きを漏らさなかったのは、ランタンなりの負けん気である。平
静を装っているものの、お喋りなんかをしている余裕はまるでない。
厳しくするのはベリレにだけにして欲しい。
だがランタンは腕の交差を解きながらエドガーの手首を掴む。飛
びつき逆十字。そのまま引き倒してしまおうと思ったがエドガーの
足は微動だにせず、梃子の原理を利用しているのに肘を拉ぐことも
できない。エドガーは腕にしがみつくランタンをそのままベリレに。
ならば。
﹁︱︱っ、反則負けになるぞ?﹂
﹁爪の一つぐらいでは大した戦力の影響もありませんでしょうに﹂
爪の隙間に指を突っ込もうとしたら、遠心力に吹っ飛ばされた。
そしてランタンの頭上を通り過ぎてベリレの横面打ちがエドガーの
視覚の外から飛び込む。
軽く仰け反り、エドガーはそのまま大きく後ろに距離を取ってゆ
っくりと息を吐いた。
﹁挟撃の維持が最優先じゃないのか?﹂
1415
﹁人のことを目隠しにして避けられてるんだからあいこでしょ?﹂
少しだけ息が揃ってきたかもしれない。
二人は揃ってエドガーに突っ込んではいいようにあしらわれて、
しかし次第にエドガーへと近付いている実感があった。致命打は一
つも与えられないが、それでも何やら面白くなってきたのをランタ
ンは自覚する。それはきっとベリレもそうだ。なんとなくわかる。
ランタンの大振りの浴びせ蹴りをエドガーは両腕で受けて、その
影からベリレが中段蹴りを放った。だがエドガーは後の先をあっさ
りと奪う。下段蹴りに軸足を刈られたベリレは体勢を崩し、ランタ
ンは蹴り足を踏み込んでエドガーの背後に飛んだ。そして。
ランタンを目隠しにしたリリオンの上段蹴り。
﹁おっ、っと!﹂
初めてエドガーが呻いた。右の甲に受けた蹴り足がものすごい音
を立てて、エドガーは押し返されるように左に足を滑らせる。
﹁ベリレさんばっかりずるいっ。わたしもランタンといっしょに戦
いたいのにっ!﹂
﹁ずるいって、これは男の勝負︱︱﹂
﹁リリオンっ、畳みかけろっ!﹂
反応良し。リリオンはベリレに一瞥も残さずに、エドガーを追っ
た。
そしてリリオンを追ってベリレも加わると、まるで二匹の巨大な
獣が暴れ回っているかのようである。
しかし急な乱入にもエドガーは早々に冷静さを取り戻し、二人の
猛攻撃を凌ぐ。
躱し、払い、打ち落とし。
ランタンへ落とした鉄槌のような乱暴なことはせずに、あくまで
も防御一辺倒。その場に仁王立ちになって、恐るべき技術で全てを
凌いでいる。子供を相手にするのは何とも楽しそうで、口元に笑み
すら浮かんでいる。ベリレも、リリオンも。
﹁これでっ、どうっ!﹂
1416
﹁があっ!﹂
﹁なんの、まだまだ﹂
二匹の獣が雄叫びを上げて、エドガーはじゃれつく幼獣をあやす
ように転がした。そしてその恵まれた体格の影から、地を這うよう
にランタンが肉薄する。真一文字に唇を結び、狩猟者の沈黙を保っ
たままに全力で足を振り抜く。踏み込みの一瞬を狙った軸足刈りは、
ついにエドガーの体軸を乱した。
﹁おっと︱︱!﹂
地面に片手を付いて、驚愕の表情が捉えたのはランタンの頭を馬
跳びして突っ込んでくる膝だった。
﹁リリララっ!﹂
﹁私もおりますよ﹂
仰け反るようにどうにか避けたエドガーにレティシアが追撃を掛
ける。踏み付けるような踵落としを辛うじて受け止めて、大英雄は
貴族令嬢の片足を掴んでぶん回してリリララへと投げつけた。
﹁お前ら﹂
﹁皆が楽しそうなのでつい。私にも一手ご教授を﹂
﹁こいつら全然ダメっぽいので、まあ手伝いっすよ。最近は魔道ば
っかで身体鈍ってるし﹂
さしものエドガーももうこうなるとなりふりを構ってはいられな
い。容赦なく飛びかかる探索者たちを剛柔混合の格闘術で大きく吹
っ飛ばすと、気合いを入れ直すように息を吐き袖を捲った。
年輪のような皺の刻まれた老いた顔に、エドガーは若々しく獰猛
な笑みを浮かべその瞳はこの上なく剣呑である。
﹁悪ガキどもめ。もう容赦はせんぞ﹂
一転攻勢、そうなるとエドガーの実力は恐ろしい。五人もいるの
に三人四人はどうしたって防御に専念せざるを得ず、残りの攻め手
も暴風のような徒手格闘に二の足を踏んでしまう。
だがそこに飛び込むのはいつだってランタンで、置いて行かれま
いとリリオンが付き従い、ベリレが負けじと追いかけ、レティシア
1417
もリリララもそれに続いた。
なんだこれ、とランタンは思う。みんな何だか楽しげにしている。
あるいは己も笑っているのかもしれない。
ランタンは顎先狙いの打突を辛うじて避け、左右から突っ込み上
段中段に蹴りを放つ年少組にエドガーは押し返される。そしてその
二人の間からレティシアが追いかけて拳を突き出し、影より這い出
たリリララがエドガーの肺を裏から狙った。
リリオンの徒手格闘はランタン仕込みの喧嘩殺法で、レティシア
とベリレは正々堂々を旨とするような騎士格闘術というようなもの
だったが、ベリレの方がやや乱暴だ。そしてリリララはなかなかの
くせ者で、足音はなく俊敏。気配は稀薄で常に人の影と化し、狙い
はいつだって必殺の急所である。
しかしその戦力を持ってしてもエドガーに一歩も二歩も足らない。
﹁一旦集合!﹂
ランタンの合図に全員が引き波のように後退し、エドガーもよう
やくと言ったようにゆっくりゆっくりと一息吐いた。こちら側は誰
もが肩で息をしている。
﹁なんだ、降参か?﹂
﹁まさか、ご冗談を﹂
﹁なるほど、ならば一人ずつ沈めてやるか︱︱﹂
﹁ですって﹂
ランタンはエドガーから視線を切って、飯の用意をしながら横目
に観戦しているシュアに微笑む。
﹁エドガー様、失神させるなら絞め技で。打撃系は探索に支障が﹂
頸動脈を締められても、失神までには三秒かかる。その間は片手
落ちだ。
﹁︱︱シュア、お前は。⋮⋮まったくランタン、手が早いな。いつ
の間にシュアを﹂
﹁おじいさまほどではありませんよ﹂
ランタンはリリオンとベリレに合図を送り、ついに最後の攻勢が
1418
始まる。
胸一杯に息を吸い込んだベリレの巨躯が一回り大きく膨らみ、酸
素を燃焼させて突き進む。逆袈裟のように右の横打ちを放つと見せ
かけて、ここまでは堂々正直に振るった拳が、巨躯の旋転に変化す
る。ベリレは身体を振り回して左の裏拳を。
しかし手首を取られて転がされ、リリオンが長身を折りたたんで
その下をかいくぐった。喉を狙った打突。首を傾けただけで躱され、
手首と肘に手を添えられたかと思うとリリオンは真上に飛ばされて
いた。
驚きいっぱいの表情をしたリリオンの下をレティシアが突き進む。
肝臓狙いの三日月蹴りは一歩踏み込んで腹に止められるも、今度は
そこを踏み台に延髄蹴りへ。それを掴まえたエドガーの、リリララ
は既に背後へ。
レティシアの蹴りに己の意を紛れ込ませた無音の一撃。エドガー
は恐るべき速度で旋転してレティシアを壁とする。そして再び振り
返った先にいるランタンは、左手を背後に隠して、大きく跳び上が
っているところだった
燃える瞳が、まるで迷宮に昇った太陽のようで。
小柄な全身から漲るような戦意を迸らせて、背後にリリオンを守
るようにエドガーの顔上より高くから飛びかかる。右の手は掌打を
狙ってか大きく開かれ、左は未だに隠したままだった。一秒に満た
ない高速の連携。その最後は小細工なしの正面戦闘。
ではなかった。
上空から切り裂くように振るわれた右手と、ぎりぎりまで隠して
いた左手がエドガーの眼前で高らかに鳴り響いた。破裂音。それは
猫騙しである。
とエドガーが悟った時には、ランタンの強烈な気配の中に隠され
ていたドゥイがエドガーの腰に組み付き、大木を引っこ抜くように
肩へと担ぎ上げる。
隠していた左手は、ドゥイへのハンドサインである。
1419
声を出すな。そして全力前進。真面目で愚直な男は、言われたこ
とを必ず成し遂げる。
ランタンはドゥイに担がれるエドガーに勝利を確信して笑いかけ
た。
﹁どうです?﹂
﹁︱︱降参だ。まったく姉弟揃って﹂
﹁ありがとうございます。下ろしてあげてください﹂
﹁す、す、すみません、え、エドガー様﹂
﹁いや、よい。しかしまさかドゥイに最後を任せるとは﹂
﹁ベリレと組み技の練習するの見てましたからね﹂
ドゥイはレティシアとリリララに存分に労われている。リリオン
は汗いっぱいになってランタンを背後から抱きしめて、ベリレはエ
ドガーに一礼を。
﹁六人がかりでようやくだよ﹂
﹁やはり、エドガー様は凄いな﹂
ベリレは頬を昂揚させていた。それはエドガーの実力を改めて実
感したからか、それとも目指した頂きにほんの僅か爪の先が触れた
からか。
﹁けど決着は付かなかったね。序列の一番上がドゥイさんになっち
ゃったよ﹂
﹁︱︱ああ、まったくだな﹂
﹁まだ決着付けたい?﹂
﹁⋮⋮考えとく﹂
ランタンがそんなことを言うと、ベリレは清々しく笑う。そんな
ベリレにドゥイが慌てて首を振った。
﹁そんな謙遜しなくても。荷車引きをずっとして、組み手の練習も
して、おじいさまに突っ込まされて、愚痴の一つもないなんて、そ
うそうできないですよ﹂
﹁俺は、ベリレが頑張ってるのを見てたから、俺も頑張るんだ﹂
﹁俺は︱︱﹂
1420
言葉もなく驚いているベリレの太股をランタンは叩いて場を離れ
ることを示した。ランタンはリリオンを背中にひっつけたまま、シ
ュアの元へと向かった。そこにはレティシアやリリララもいる。米
の炊ける甘い香りが漂っていた。
﹁お疲れさま、ランタン、リリオン﹂
﹁レティシアさんもリリララさんも、お疲れさまです。お手伝いあ
りがとうございます。リリオンもね。シュアさんも助かりました﹂
シュアはにっと笑って肩を竦めた。それに釣られるようにレティ
シアが微笑む。
﹁ランタン、ありがとうな、ベリレのことを﹂
﹁何がですか?﹂
﹁とぼけなくたっていいだろう。あの子が悩んでいたから、きっか
けをやったんだろう?﹂
﹁まさか、なんで僕が﹂
﹁なんでって﹂
リリオンがランタンを殊更強く抱きしめる。
﹁それはランタンが優しいからよ﹂
﹁︱︱優しい奴は人の目の中に指を突っ込まねえよ﹂
毒づくリリララにランタンは同意して頷いた。
﹁ただあれが睨んでくるのが邪魔だっただけだよ。まったくおじい
さまが僕のこと見てるからって﹂
エドガーがランタンを見る時の視線と、ベリレを見る時の視線は
まったく別種の物である。それなのにベリレは、エドガーにほっぽ
り出されるんじゃないかと不安になってしまったのだ。視線の質は
まったく違うものだろうに。
﹁気が付いてたのか﹂
﹁ええ、リリララさん。こう見えて人の視線には敏感なので﹂
﹁ランタンは目立つからな。しかしエドガー様は何で﹂
﹁まあ、部外者二人なので気に掛けてもらっているのでしょう﹂
﹁部外者だなんて言うな。我々は仲間だろう﹂
1421
﹁⋮⋮ええ、そうですね。最後の連携は、なかなか楽しかったです。
ねえリリ︱︱﹂
リリララはあからさまに表情を歪めて、ふんとそっぽを向いた。
﹁︱︱オン﹂
﹁うん。ランタン、汗の匂いするね﹂
リリオンはこくんと頷くついでにランタンの首筋に顔を埋める。
﹁ねえ、リリララさん。湯船って︱︱﹂
﹁ざけんな﹂
兎耳の少女は取り付く島もなく、リリオンは日に日に濃くなる香
りに頬を緩めた。
1422
094 迷宮
094
リリララの指が壁を撫でる。身に付けた手袋はただつやつやと鱗
の模様を沈黙させているだけであり、リリオンはその様をじっと目
を凝らして見つめている。
・
冷たい鋼鉄がたっぷりの水を含んだ泥のように柔らかく、リリラ
ラの人差し指と中指の先端をつと迎え入れた。指が壁に埋まる。液
化したようにも見えるが波紋は浮かび上がらず、それはまるで壁中
に埋まる化石でも取り出すように兎の少女は引き抜いた二指の間に
一本の針を挟み込んでいた
手首の付け根から中指の先端ほどの長さ。壁と同色のそれは、暗
く重い色をしている。針はまるで影のようで、リリララが手首を翻
してリリオンへ掌を向けると、針はリリオンの視界から掻き消えて
しまった。
﹁え?﹂
目を凝らしていたリリオンが呆気にとられたような声を出し、ラ
ンタンは感心して唸り、リリララは意地悪そうに喉を震わせて笑う。
真っ正面から見つめていたリリオンは、リリララの指や掌に視線を
切られてしまっていた。リリララはただ奇術師のような器用さで針
を甲側に隠し、そして今では右手から左手へと持ち替えていた。
﹁消えた、すごいっ。それも魔道なの?﹂
﹁ああ、そうだ﹂
﹁へえ﹂
﹁︱︱嘘教えないでくださいよ﹂
﹁あながち嘘でもねえよ。理解できないもんは大抵魔道だと思っと
きゃ間違いないし︱︱﹂
1423
リリララは左の指に挟んだ針をくるくると回して、しかしある一
瞬で針は剃刀のような薄く小さい刃物へと変形していた。消えたと
思っていた針が現れたこと、そしてそれが姿を変えたことにリリオ
ンが驚く。ランタンも見ていたはずなのに変形の瞬間を捉えること
はできなかった。
﹁︱︱納得できるだろ?﹂
リリララは指で弾いて剃刀をランタンへと投げ打って、ランタン
は眼前でそれを挟み取った。
刃が思いがけず鋭い。硬質な皮膚を持つ魔物には通用しないだろ
うが、対人であれば充分な致命傷を与えることができそうだ。ラン
タンは刃を寝かせて肌に当て、すっと引いた。
ランタンは殊更に毛というものが薄い。黒く艶やかな髪や眉や睫
毛はあっても、それ以外は産毛とも呼べぬ燦めきがあるばかりだ。
ランタンは刃先に溜まった銀の綿毛に似た何かをふっと払った。鍛
冶屋泣かせの切れ味であるが、耐久性は薄さの通りだった。
﹁お前にゃ必要ないな。返せ﹂
﹁リリララさんからのプレゼントかと思ったのに﹂
﹁お前には下着をやったろうが。ちゃんと使ってるか?﹂
﹁⋮⋮確かめてみますか?﹂
﹁そういうのはこいつとか、シュアにやれよ﹂
リリララは半ば本気でランタンを睨み付けて、剃刀を乱暴に奪っ
ていく。剃刀の刃がリリララの手を傷つけることはない。それはリ
リララが握った瞬間に刃を失った。リリララはランタンの軽口を誘
導するように、リリオンへと視線をずらした。
リリオンは肌身離さず首から下げている水精結晶を服の上から押
さえて、唇に笑みを浮かべてランタンに笑いかけた。
﹁ランタンは、下着は履いてないのよ。わたしは知ってるんだから﹂
少なからず誇らしそうにそんなことを呟いて、リリララは頬を邪
悪に歪めた。
﹁へえ、ふうん、履いてないんだ。下着﹂
1424
﹁語弊のある言い方をしないでください。履いていますよ﹂
頂戴した絹の下着は、履き時がわからず背嚢の底に隠されている。
指で撫でた肌触りは良さそうなのだが、小尻なランタンにでも足り
なさそうな布面積が、少年にそれに足を通すことを躊躇わせた。
﹁履いてなかったら変態だろ。やだよ、あたし。ノーパン野郎と探
索すんのなんか﹂
﹁⋮⋮もういいです。魔道のことを教えてくれるんでしょう?﹂
﹁ああ、リリオンにな﹂
ランタンが苦々しく目を逸らすとリリララはようやく気が収まっ
たのかリリオンの目の前に針でも剃刀でもない何かをかざした。け
れどリリオンはランタンのことばかりを見ている。
﹁ほら、こっち見る﹂
﹁あう、ごめんなさい﹂
リリララは金属片をぐにゃりと折りたたんで再び剃刀に、そして
すっと捩ると針へと姿を変える。やってみな、とリリララは針を手
・ ・
渡し、リリオンはそれをぐにゃりと折り曲げようとして鋼鉄の針は
ぱきと音を立てて真っ二つになった。折れると言うよりは、割れる
と言った方がよい。
リリオンが躊躇いなく力を入れた結果だった。
﹁ま、最初はそんなもんだ。いきなりできたら天才か、どっかに異
常があるな。魔精が抜けやすい体質だとか。リリオンは、どうだろ
うな。ちょっと抜け辛い方かもな﹂
﹁ええっ!? なんで?﹂
﹁見てわかるものですか?﹂
割れた針を繋げ直しながら言ったリリララに、二人揃って無垢な
瞳を向けたものだからリリララは思わず気圧されたようだった。ほ
ろ苦い咳払いをして、困ったように視線を傾げる。
﹁リリオンは身体付きの割に力が強いだろ? つまり肉体に取り込
んだ魔精を内々で使う術に長けてるんじゃないかと思うんだよ。ま
あ体質は変わることもあるけど、少なくとも今はな﹂
1425
﹁うう、そっかあ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮それなのによく腕相撲を挑もうと思いましたね﹂
﹁腕相撲⋮⋮? ああ、あれか。そんときゃこうしようと思ってた
からな﹂
リリララの嵌める指輪、その掌側に芽吹くように細い針が。
う
﹁睨むなよ。痛みもないし血も出ない、ただちょっと力が抜けるぐ
らいで後遺症もない。それに今はそれをする気がない﹂
睨むランタンにリリララは不敵に笑った。
ち
﹁まあ何にせよ、魔精の感覚を掴むこと。それができたら魔精を身
体から抜くことを覚えないことにはどうにもならないけどな。あれ、
いや、それは同時にか⋮⋮?﹂
滑らかに舌を回していたリリララがふと自問して、針の尖ってい
ない後端で兎耳の付け根あたりを擦る。ぺたんと垂れた耳がむず痒
そうに震える。
﹁⋮⋮? ねえ、リリララさんはどうやって覚えたの?﹂
﹁あたしのやり方は参考になんねえよ。こんなかで参考にできるの
・ ・
はお嬢ぐらいじゃないかな。ねえお嬢?﹂
﹁急にねえと言われてもわからんぞ﹂
・ ・
エドガーやベリレと話をしていたレティシアが、リリララに話を
振られて苦笑しながら振り返った。そしてリリララがねえの中身を
かいつまんで話すと、レティシアはリリオンに申し訳なさそうに視
線を送る。
﹁私は、何だかんだで最初からできたからな。魔精の感覚も。魔道
も。効率を上げるためにリリララに教えてもらったこともあったが﹂
﹁あれ、お手々繋いで奪ってもらってませんでしたっけ?﹂
﹁奪うとは言い方が酷いな。私は導いてもらったんだよ、兄様に﹂
﹁でかいなりして器用な人でしたからね。血縁関係もあるからでき
る芸当でしょうけど﹂
﹁ふふふ、導いてやると兄は言ったが、まあ私はたぶん実験台にさ
れたんだと思うよ。リリオンみたいに色んなことに興味がある人だ
1426
ったからね﹂
﹁どう、やったの?﹂
優しげな緑瞳に見つめられて、リリオンは遠慮がちに尋ねる。
﹁高いところから低い方へ流れるように、かな。どうやったかはよ
くわからないけど、少なくとも兄によって魔精が活性化されて、自
分の魔精が兄の方へと流れ抜けていくのを感じたな。そして抜けた
分は﹂
﹁お兄さんのを注いでもらうんですか?﹂
ランタンは何となく、円環を思い浮かべていた。大きな魔精がレ
ティシアに注がれて、それに押し出されるようにレティシアの魔精
が抜けて兄の方へと流れていくのを。
しかしランタンがなんとなしに呟いた言葉にレティシアは恥ずか
しげに目を伏せる。
﹁いや、私のは抜けるばかりで、それは魔精薬で回復させたよ。循
環というものは、まあ、なんだ⋮⋮﹂
その恥じらいの意味を知ることはできないが、それでも聞いては
ならなかったのだとランタンは察して気まずげに視線を逸らした。
そんなランタンの姿にリリララは呆れた様子だったが、けれどうっ
すらと色づくランタンの耳先を見て眉を持ち上げた。ふうん、と意
外そうな吐息を漏らす。
﹁活性化。ねえ、ランタンはおじいちゃんに魔精を活性化してもら
ったでしょ?﹂
﹁︱︱うん、まあそうだね﹂
﹁じゃあ、わたしもしてもらいたいな﹂
そう言ったリリオンに、リリララもレティシアもはっきりと首を
横に振った。
﹁やめとけって、前も言ったろ﹂
﹁でも今、リリララさんがわたしはうちで使うのが上手だって。そ
れなら活性化はしてもいいと思う﹂
﹁ダメだ。エドガー様のはわりと乱暴なやり方だから﹂
1427
﹁うん、探索者らしいと言えばそうだが、ちゃんとした人にやって
もらった方がいいぞ﹂
﹁⋮⋮そうなの?﹂
﹁ああ、あれは浸透勁つーか、まあなんだ﹂
言い淀み、一瞬ランタンを見た。リリララもレティシアも。
﹁要は身体を内から壊す技の応用みたいなものだからな﹂
その言葉にランタンは思わず肩を振るわせて、反射的に鷲掴みに
された項を撫でる。なるほど確かに乱暴なやり方は探索者の流儀で
ある。大英雄であり、エドガーは紛れもない大探索者である。ラン
タンは己を納得させ、しかし不満もたっぷりな視線をエドガーへと
向けた。その視線を受け止めたのは何故かベリレである。エドガー
は悪びれることもなく笑っている。
﹁そう睨むな。ランタンになら耐えられると確信があってこそだ﹂
﹁⋮⋮認めていただいたようで光栄です。でも、そんな風に言うと
ベリレが拗ねますよ﹂
混ぜっ返すようなランタンの言葉にベリレはぴくりと耳を動かし
て、ほんの僅か視線を動かした。それは余裕である。
彫りの深い凜々しい面はランタンの言葉に動揺の一つも見せるこ
とはなかった。軽く肩を揺らして、何も言わずにただ唇の端を僅か
に持ち上げたる。それがどうした、と言わんばかりに。
﹁⋮⋮可愛げがなくなった﹂
舌打ち混じりに呟くランタンにレティシアは肩を揺らして笑う。
﹁ふふふ、そう言うなよ。頼もしいじゃないか。少し兄に似てきた
かな?﹂
﹁そ、そんなっ。恐れ多い﹂
レティシアはすっとベリレに近寄って、熊の少年の肩を叩いて横
並びになった。長身の少年を見上げる横顔がぞっとするほどに整っ
ている。凜とするばかりではなく、憂いを押し殺そうと努める緑瞳
に己の表情を映すとベリレはさっと顔を逸らした。頼もしいねえ、
とランタンは口の中で呟く。ベリレは大きな背中を丸めて、痙攣す
1428
るように耳を震わせた。
﹁わたし、乱暴でもいいよ﹂
﹁ダメ﹂
一つの間もなく、ランタンは言う。そしてリリオンの頬を優しく
抓った。白い少女の頬に、口付けの後に似たごく薄い赤い花が咲く。
﹁うむ、ランタンの言う通りだな。女には少し負担が大きいやり方
であることは確かだ。そんなに焦らんでもよかろうよ﹂
﹁エドガー様の言う通りだよ。さっきも言ったろ、身体を内から壊
す技だって﹂
・
エドガーは後の説明をリリララに託して、ランタンの肩を労うよ
うに叩き側を離れた。
﹁男と女じゃ身体の構造が違う。男みたいに外にあるわけじゃねえ
からな、負担は少ないに越したことはねえよ﹂
﹁そと?﹂
リリオンが小首を傾げたが、リリララはそれを無視する。
﹁それに魔精の抜ける感覚はその内にわかるようになるさ。女なら、
嫌でも﹂
リリオンは、リリララとランタンの顔を疑問混じりの眼差しで見
回した。ランタンははっきりと困った顔つきになって、リリララは
少しばかり思案している。リリオンはぺたんと座り込んで前のめり
にすらなっていて、答えが返ってくることを疑わない純真さでただ
待ち続けた。
ランタンはリリララが明確に言わなかった言葉を朧気に理解して
いた。だがそういった女性特有の症状が存在することは知っている
が、詳しくは知らなかった。女性探索者用に、そういった症状を飛
ばしたり和らげたりする薬剤が存在していることぐらいしか知らず、
そういった専用の薬が生み出されるほどなのだから大変なものなの
だとは思う。思うだけで、現実感はないのが実情だった。
それが急にあるものとして感じられた。一気に深い沼の底のよう
な思案へと沈むランタンは、リリオンの眼差しに溺れるように唇を
1429
震わせる。そんなランタンにリリララが何事かを呟いた。音にはな
らず、無言で言葉を紡ぐ。そしてそっとリリオンの耳を引っ張って、
角を突き合わせるように顔を近づけた。
﹁女の秘密の話だから、この探索が終わったらちゃんと教えてやる
よ。あたしやお嬢や、シュアは本職だし、あの引き上げ屋の女も呼
んでさ。またどっか旨い飯屋で連れてってもらって、他にも必要そ
うなことを色々な﹂
最後の言葉はリリオンに向けたように見せかけて、ランタンへ向
けた言葉だった。
﹁魔道のことも?﹂
﹁ああ、それもな。取り敢えず昼の授業はこれで終いだな。そろそ
ろ休憩終わりだ﹂
ドゥイが荷車と一体となり、戦闘休憩も兼ねた少し長めの昼飯休
みが終わった。
ランタンは奇妙な師弟関係の生まれつつある二人を見つめながら、
リリララの唇の動きを思い出していた。
﹁⋮⋮やっぱり?﹂
慌てていたので唇の動きを読み間違えただけなのかもしれないが、
ランタンは僅かに首を傾げた。
リリララは立ち上がって伸びをするリリオンの、ちらっと見えた
腹を見て笑っている。
赤錆色をしたその目が向けられたのは、あるいはランタンにでは
なかったのかもしれない。
夜もまたリリオンはリリララの手元を覗き込む。
﹁地の魔道は、まあ少しだけ他のものよりは特殊だな。例えばお嬢
の雷撃は手元でおよその過程が完了している。指先とか掌とかな﹂
リリララはレティシアの真似をするように二指を揃えて突き出し
1430
て、その間に一センチ四方の正立方体を挟み込んでいる。それは押
し潰されるように厚みを失い小さな鉄板となり、その片面に薄く刃
が浮き上がり、引き伸ばされて針へとなった。
﹁手元で魔精を練り上げて形を作る﹂
針は硬度を失い、ただ重力に身を任せてリリララの指を垂れて掌
に溜まった。金属の水溜まりは、あらゆる可能性を孕む羊水である。
リリララが指を閉じ、液体を掌の中に隠した。
﹁そしてできあがったものを相手にぶつける﹂
リリララがランタンへ手を撓らせる。正八面体の礫。
ランタンはもう慣れたものでそれを容易に掴み取った。二指を目
標へと向ける残心はレティシアの真似事かもしれないが、放たれた
ものは物質であり、雷撃のような現象ではない。物質的であるとい
うのは地の魔道や、あるいは水の魔道の特徴だった。
﹁既にあるものを、相手にぶつけるイメージだな。意識だけででき
る奴もいるけど、実際に投擲動作をする奴もいる。その方が意識し
やすいだろ?﹂
﹁意識﹂
リリララの言葉を真剣に聞いているリリオンは、ランタンから八
面体を受け取るとそれを掌に乗せてじっと見つめている。穴が空く
ほど、あるいは、穴が空くまで、と思えるほどの健気さで瞬きの一
つもなく。
﹁だが地の魔道はこれを無色のままに﹂
﹁無色?﹂
﹁魔道は、意識が大切だって言っただろ。外に出した時、それは火
なのか風なのか雷なのか、意思の力でもって色づけすることで安定
する。ただ漫然と魔精を抜くと、それはどっかに散ってしまう。そ
れが酷くなると魔精欠乏症に繋がるな。だから無意識的に魔道を発
現させると、そのまま垂れ流しになっちまう奴もいる。できたのは
偶然で、実際には魔精の抜き方も、止め方もわからないから﹂
正八面体。角の柔らかな美しい形が、リリオンの手の中に転がる。
1431
﹁だけど地の魔道は違う。無色のままに、遠くへ魔精を流す。地脈
を通じて、と表現されるがそれはよくわからん。感覚的なものだか
ら、根のようにと言う奴もいるし、地下水のようにとか言う奴もい
る、酷くなるとモグラみたいに、とかな﹂
﹁リリララさんは?﹂
﹁あたしは、︱︱液体が乾いた地面に弾かれて地表を流れるように、
かな。発動させる時はぶっ殺してやるって気持ちだけど。敵の足元
に墓穴を掘ってやったりな﹂
リリララは笑いながらリリオンの問い掛けに応えて、意味深にラ
ンタンへ視線を滑らせる。ランタンは反射的に視線を俯かせた。そ
こには硬く滑らかな、しっかりとした地面があるばかりだ。
﹁魔精の無駄遣いはしねえよ﹂
﹁⋮⋮お優しいですもんね﹂
﹁なんだ、ちゃんとわかってるじゃねえか﹂
﹁けど、それは? 何度も形を変えてますけど、負担じゃありませ
んか?﹂
ランタンはリリオンの持つ八面体に指を向けた。リリララは一向
に形を変えないそれをひょいと摘まみ上げて、その姿は針へと変わ
った。
いしき
﹁これがあたしのもっとも楽に使える魔道だ。変化させる材質で変
化する質量は変わるけど、無意識的にやると、あたしの魔精は魔道
をこの形で発現させる﹂
針。手の中に隠せるほどの、けれど確かな武力を宿している。
何とも物騒な無意識だな、と表情に出さずにランタンはリリララ
の身のこなしを思い出していた。
﹁初めから?﹂
﹁まさか、あたしは優しい女だぞ﹂
貴族の跡取り、その傍付き侍女としての嗜みだろうか。リリララ
は暗器と呼ぶような、人目に付かぬものを扱うことに長じているの
かもしれない。リリララは針となったそれを、ずっと差し出され続
1432
ける掌の上へと戻した。
﹁ま、人によって得手不得手はあるけどな。直線、曲面、平面、立
体、硬い、柔らかい。それに大きい小さいも、このへんは少し難し
いけどな。扱う質量が増えればそれだけ必要な魔精も増える、だけ
ど小さ過ぎるものを作ろうとしても消費は増える﹂
﹁極めるのはなんにせよ大変ってことですかね﹂
﹁そりゃそうだろ。⋮⋮んー、あたしは哲学っぽくてよくわかんね
それ
えけど、魔道を使うためには意思の力が大切だけど、極めんとする
には意思こそが最大の障壁であるとかなんとかって。学者連中は言
ってるな﹂
﹁ええ⋮⋮、どういうこと?﹂
しばたた
針を見つめていたリリオンは気が付けば寄り目になってしまい、
ついには目が乾燥してしまったようで何度も目を瞬かせている。拗
ねるように針を睨み、握った針でいじいじと地面を引っ掻いて耳障
りな音を奏でている。
﹁あーもう、うっせえな﹂
﹁だって﹂
リリララがリリオンの手から針を奪って、あっという間にどこか
に隠してしまった。瞬きの多いリリオンはもとよりランタンにすら
その針がどこへ消えたかわからないほどの早業だった。魔道ではな
く、技術である。
リリオンは引っ掻いた際に浮かび上がった鉄粉を溜め息で散らし
た。
﹁技を修めるとはそういうことだぞ﹂
夕食の腹ごなしに長尺根を素振りしていたベリレが、一時の休憩
か盛り上がった筋肉もそのままに車座に座る三人のもとへふと立ち
寄った。荷車からエドガーの酒を取りに行くついでだろうか。それ
は何気ない呟きだったが、三人揃って胡乱げな視線を向けるものだ
からベリレは少しばかり狼狽えたようだった。
特に大きく開かれて真っ直ぐと差し込むリリオンの瞳には。
1433
ベリレはわざとらしい咳払いを一つして、勿体ぶって一言。
﹁こ、言葉にするのは野暮というものだ﹂
﹁あ゛あ゛?﹂
思わずランタンとリリララが恫喝するような呻き声を上げてベリ
レを睨み付けて、リリオンは大きな眼差しを哀しげなほどに萎ませ
て、眉を八の字にした。ベリレはあれよあれよという間に追い詰め
られてしまう。
﹁だ、だってエドガー様がそう仰っていたんだ!﹂
﹁意味は?﹂
﹁解らんっ﹂
言い訳でありながら正直な言葉を吐き出した大きな背中に、痩せ
た影が近寄る。
﹁では素振りの追加といこう﹂
﹁え、エドガー様っ!?﹂
﹁まったく何を大声で吹聴しておるんだ。気も漫ろ、漫然と素振り
をしておるから︱︱﹂
痩躯の老人に、巨躯の少年がなんの抵抗も許されずに引き摺られ
ていく。こうなるとベリレは見た目とは裏腹に完全に子供だった。
頼もしくなったと思ったのにこの様では、やはり大英雄への道のり
は遠そうである。だが少し、エドガーとの距離は縮まったかもしれ
ない、と思える。英雄に対する尊敬はそのままに。
﹁あいつ、何がしたかったんだよ﹂
﹁さあ?﹂
﹁ランタンとお話ししたかったのよ、きっと﹂
﹁そう? それじゃあとちょっと︱︱﹂
からかってこようか、とランタンが腰を浮かせようとすると、リ
リオンは指の先でランタンの服を摘まんだ。言葉も、力もなく、引
き寄せるでもない。ただ触れるだけの指先に、ランタンは肩を竦め
るだけで腰を持ち上げることはなかった、
﹁混ぜてもらっていいか?﹂
1434
ベリレと入れ替わるようにレティシアがやってきて、その手には
麦酒で満たされた四つのジョッキがあった。
﹁炭酸が抜けてきたから、悪くなる前に飲みきりだ。絞ったオレン
ジで割ってあるからランタンでもいけるぞ﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁うん、あとエドガー様の肴もくすねてきた﹂
レティシアは三人にジョッキを渡すと、どうやって隠していたの
か腰巻きから肉の塊を取り出してみせた。それは冷え固まった溶岩
のように真っ黒な、長く熟成された干し肉だ。
﹁くすねてきたって丸ごとですか﹂
﹁ベリレが隙を作ってくれたからな﹂
﹁あいつもたまには役に立つな﹂
ランタンは再び素振りへと戻っていったベリレへと首を回した。
ベリレは上半身裸になっており、隆々とした筋肉を軋ませて長尺根
を大上段から振り下ろしている。持ち上げることよりも、振り下ろ
しで地面に触れるかという瞬間にびたりと止める技術と筋力が恐ろ
しい。あれほどの重量となると、握力だとか手首だとか、どこか一
点が重要という話ではない。
活力漲る肉体を維持するために、ベリレは毎食毎食よく食べるが、
しかしそれでも皮下脂肪が少し薄くなっている。彫刻のような肉体
は、筋肉の束がありありと浮かび上がっている。
﹁じゃあその犠牲に感謝して﹂
ベリレは追加の素振りが嬉しそうだ。ランタンはまったく感謝も
なく音頭を取って、四人は一斉にジョッキへと口付けた。炭酸の弾
ける雰囲気はほとんどない。小さな気泡が粒となって舌の上を転が
るようなくすぐったい飲み口に、麦酒特有の仄かな苦みがあるもの
のそれはオレンジの風味を際立たせる一要素になっているだけだっ
た。
﹁うん、飲みやすい﹂
﹁子供の飲み物だな﹂
1435
ランタンがぽつりと呟くと、リリララは意地悪に応える。リリオ
ンは一気にジョッキの半分も空けてしまって、満足気な溜め息をぺ
ろりと舌で舐め取った。
﹁こっちは大人の食べ物だぞ﹂
レティシアがくすねてきた干し肉の塊は、大きさの割には軽いよ
うに思えた。すっかりと水分が飛んでいて、指先で弾くと硝子のよ
うな音を立てるほどだ。真っ黒のように見えたが、狩猟刀で切れ目
ルビー
を入れて削ぐと、それは分厚い麻布を引き千切るような酷い音とは
裏腹な、まるで紅玉のような濃い赤色の断面を露わにする。ランタ
ンがそれを裂いては配り、リリオンは差し出したそれに雛鳥のよう
に食らいつく。
﹁もう﹂
甘ったれめ。
ランタンは少女を甘やかしながら肉を食んだ。
﹁うわ、癖が凄い。血の味?﹂
﹁ちょっとしょっぱいね﹂
﹁濃い味がする、あーこれは酒が進むわ﹂
﹁エドガー様は、炙ってらっしゃったかな。ふうむ﹂
ふんだんに使われた香辛料と、それでも消しきれない野性味のあ
る風味。血抜きが甘いのではなく、そもそもとして血肉こそを材料
としているのだろう。好き嫌いの分かれそうな独特の風味は、エド
ガーがこれを肴に酒をやる姿は何とも様になって美味そうなのだが、
レティシアは想像を裏切られたのか何やら難しい顔つきで咀嚼して
いる。
手元に残った干し肉を二指に挟み、その手をランタンが遮った。
通電させて、熱抵抗で火を入れようとしている。器用だけど、不
トーチ
器用な人だ。どれほど出力を絞れるかは知らないが、ほぼ確実に干
し肉は松明と化すだろう。
﹁僕がやりますよ﹂
﹁そうか、頼むよ﹂
1436
ランタンは車座の中心に手を伸ばし、冷たい鋼鉄に掌を押し当て
た。手加減は、得意ではない。だが風呂を温める時のような気持ち
で。掌の下に閃光を隠し、震えるような音は耳鳴りを起こし、赤熱
する鋼鉄はどう見ても熱しすぎだった。
﹁やり過ぎちゃった﹂
﹁あちいよ馬鹿。何が、僕がやりますよ、だっ!﹂
リリララは盛大に悪態を吐き、まだ冷たい鋼鉄から四本の金串を
するりと生み出した。それに干し肉を刺して、立ち上る高温の陽炎
に晒す。
﹁あ、やらかくなった﹂
﹁火傷しないように気を付けなよ﹂
﹁うん﹂
唇で肉を迎え入れる。子猫のような横顔に注意を払いながら、ラ
ンタンは金串から肉を外して手の中で冷ましてから口の中に放り込
んだ。炙ったおかげで香辛料が薫り高く、血液独特の臭気は大人っ
ぽい苦みへと変化している。
﹁リリララさんの魔道は便利ですね﹂
﹁ふふ、リリララのは特別だからな﹂
﹁なんすか、お嬢。急に﹂
レティシアの言葉に、リリララが少し照れているのが解った。そ
んなリリララを見る緑瞳が大人びている。
﹁本当にそう思うよ。さっきベリレが叫んでいただろう﹂
﹁なんか言ってましたね。よく解らんことを﹂
﹁気付かぬのは当人ばかりかな。あれはリリララのことだよ﹂
レティシアは金串を指先でなぞった。節の一つもない滑らかな表
面を。
﹁竜種はどれだけ優雅に空を駆けようとも、雷火を吹こうとも、竜
種はそれを技だとは誇らないだろう。技が身に付くというのは、そ
の術理がすっかりそのまま己の血肉になると言うことさ﹂
リリララが針を生み出すのに、意識はいらない。
1437
レティシアが誇らしげにしたのでリリララは、よしてください、
と冗談めかして大げさに嫌がってみせた。わざと大きく口を開けて
干し肉の切れ端に野蛮に噛み付く。
﹁ううん、リリララさんの魔道は凄いわ。わたしも、したいな﹂
リリオンが小さな声で呟いた。
車座を囲む四人の中でリリオンだけが、ランタンのそれは不確定
であったが、魔道を使えないせいか少しばかり寂しげだった。ラン
タンはリリオンの身体を撫でてやった。少女の身体は温かい。そろ
そろ眠たくなっているのかもしれない、と思う。
﹁そんな焦んなって﹂
﹁ああ、一朝一夕で身に付くものではないからな。どうしても、と
言うなら魔道具を使ってもよいだろうし﹂
﹁そうだよ。リリオンは剣だけでも充分に強いんだから﹂
二人の言葉にランタンが乗っかると、リリオンは淡褐色の瞳をラ
ンタンに向けた。
﹁わたし、ランタンにお風呂作ってあげたい。ランタン、ちょっと
疲れてる。小っちゃくなっちゃたわ﹂
﹁そんなこと︱︱﹂
﹁あるよ﹂
﹁まあ、探索中だからそりゃあ体力の消耗はあるけど﹂
眠りは少しだけ深くなったが、まだ浅い。
けれどその事をリリオンには、シュア以外には口に出して伝えて
はいない。
﹁ランタンのこと見てるの。ベリレさんだけじゃないのよ﹂
ランタン。
呼びかけに、ランタンは表情を作れない。
1438
095 迷宮
095
余計なことを言って、と思うのはただの八つ当たりでしかないし、
リリオンの前で格好を付けるのならば、まあ多少はね、なんて自ら
の疲労を肯定するようなことを決して口に出してはいけなかった。
リリオンに無様な姿を見せたくない。自らの内にある虚栄心が、
鉛を飲んだように腹の底に沈んでいた。
気を使われている、とランタンは自らを窺う気配を感じ取る。
女の人は、優しい人が多い。
そう思うのはランタンにちょっかいを掛けてくる男性の多くが優
しくなかったからこその感覚なのかもしれないが、それでもリリオ
ンの呟きを聞いたレティシアとリリララがランタンへ気遣わしげな
視線を向けて来ることは確かだ。
︱︱恥ずかしいな。
ランタンは羞恥を押し殺して極めて平静に努める。
汗を拭く振りをして、歩きながら自らの頬に掌を押し当てる。薄
い頬肉の下。指先に歯の硬さや大きさ、その数までもがはっきりと
数えられるような気がする。
リリオンの指摘の通りに少し痩せた。それを指してリリオンはラ
ンタンの疲労に気が付いたのかもしれない。
違う。この子はきっと僕のもっと深いところまで見ているのだ。
目で、鼻で、あるいは指先で、五感全てを使って。
リリオンはランタンの隣を歩く。
少女の背筋がぴんと伸びていて、浅く開いた唇から一定の間隔で
呼吸音が刻まれている。今朝、リリオンは三つ編みを自分で編んだ。
ランタンが編むよりも少しばかり緩く、ふわっとして柔らかな雰囲
1439
気の三つ編みが少女の薄い背中でほとんど揺れない。
真っ直ぐに通った軸。骨盤の中心に真球のような重心が収まって
いる。横顔がいつもよりも凜々しく見えるのは、自らの弱気のせい
だとランタンは思う。情けない。
リリオンは長い腕をゆったりと前後に揺らし、時折手の甲がラン
タンに触れる。まるで撫でるように。
小生意気な、なんて言えた義理ではない。ランタンはリリオンの
気遣いをありがたく受け取って、しかしそれを持て余してしまう自
分に苦笑する。
どうしたらいいのだろうか。
﹁︱︱止まれ﹂
リリララが耳をぴんと立てて低い声で呟く。そこにはヒリつくよ
うな、苦い響きがあった。
同時にリリオンがランタンの腕を取って引き寄せた。
﹁大丈夫だよ﹂
ランタンはリリオンの身体に触れてそう伝えたが、唇を結んで見
下ろしてくる少女の眼差しはその言葉を信用してはいない。凜々し
く、頼もしさすらある顔つきも、しかしすぐに唇がむずむずとして
拗ねるように尖る、それは少女の幼さの表れだった。
がんばらないと、とランタンはリリオンの身体を、自らの力を教
えるようにぐっと押し返して、いつものように唇に笑みを浮かべた。
﹁風切り音、飛竜の群れです。すいません、だいぶ接近を許しまし
た。目視まで十分かからないかも﹂
やや慌てた様子でリリララが捲し立て、エドガーは探索者の皆々
を見渡した。
﹁シュアたちは現状で待機させる。前衛は可能な限り上がるぞ。前
で迎え撃つ。レティシアも上がれ、リリララは適当な位置から足場
の構築を頼む﹂
飛竜。飛ぶ竜。空を飛ぶ相手は好きではないが、出現してしまっ
たものはしょうがない。ベリレはエドガーの言葉に先陣を切って、
1440
長尺棍を肩に担ぐと猛然と前進する。
迷宮では疲れていても、戦闘は避けられない。大丈夫、大丈夫。
ランタンはゆっくりと息を吐ききって、戦鎚の柄を握り込んだ。こ
んなこと初めてじゃない。単独探索者をやっていた頃から、これぐ
らいの不調は慣れっこだ。
だと言うのに、
﹁ランタンはシュアたちの元まで下がれ﹂
﹁え?﹂
息を吐ききったはずなのに、ランタンの喉から驚きが声となって
吐き出された。大きな瞬きを繰り返してエドガーの顔を呆然とする
ように見上げる。
﹁お前の役目はリリララが抜けられた場合の守りだ。それに飛竜は
何かしらを吐くことが多いからな。遠距離攻撃の迎撃は頼むぞ﹂
﹁⋮⋮了解しました﹂
エドガーは既に戦闘に片足を突っ込んだような厳しい顔つきにな
り、有無を言わせない口調でランタンに命令した。ランタンは視線
を逸らさず、その命令に頷く。そしてリリオンの腕にぽんと触れる
と、リリオンははっと両目を見開いた。
﹁ランタンっ、行ってくるねっ﹂
﹁うん、がんばっといで﹂
リリオンが先行するベリレの背を追い、駆けていく。
﹁ようやくの前衛だ。軽く捻ってこようかな﹂
レティシアが冗談めかしてランタンに笑いかけ、そしてリリオン
の後に続いた。
﹁ランタン﹂
﹁うわ、なんですか。おじいさま﹂
エドガーはランタンの頭を鷲掴みにして不器用にがしがしと髪を
掻き回した。剣を振り続けた掌は、老いの分だけ水分が抜けて硬い。
﹁立て直せるか?﹂
﹁ええ、大丈夫です﹂
1441
﹁よし。だが、後は顔だけだな﹂
﹁顔?﹂
エドガーはランタンの頭部に腹立たしほどの熱量を残して、問い
かけには応えずにゆったりと戦場へと駆けていく。取り残されたラ
ンタンに、その場に留まるリリララが手を伸ばした。
ぺちり、とランタンの額を叩いてリリララはいつも通りの厳しい
視線を向けてくる。
赤錆色の半眼に映った己の表情に、ランタンはうへえと唇を歪め
た。みっともない顔をしている、と思う。
﹁なっさけねえ面晒してんな。ちったあ信用しろよ、リリオンのこ
とも、あたしらのことも﹂
リリララは奮然として言い放ち、蹴っ飛ばすようにしてランタン
を追い払った。ランタンはリリララに背中を向けて持ち場へと向か
う、その背に声が飛んでくる。
﹁なあ、お前マジで疲れてんのか?﹂
﹁ほどほどです﹂
﹁ふうん、でもちゃんと働けよ。シュアたちを頼むぜ。あたしは結
構忙しくなりそうだ﹂
ランタンはちらと振り返る。リリララ、そしてリリオンたちのそ
の先に緑の影が迫っていた。
﹁ふて腐れているね﹂
﹁そう見えますか?﹂
背中に掛けられた声に、ランタンは振り返らずに応えた。
シュアはランタンの背後でドゥイと並んで堂々と仁王立ちになっ
ており、その隣のドゥイは荷物一杯の荷車に装具で結びつけられて
いて、いつでも荷物ごと逃げ出せるようにか、それとも逃げ出さな
いようになのか、判断が付かない有様になっていた。
1442
いや、そもそも逃げ出す気などないのだ。この二人は。
ドゥイは恐怖とも興奮ともつかぬ表情で、目をじっと凝らして、
爪先立ちになって戦場へと視線を向けている。ベリレ相手に組み手
をするのは、ベリレの都合もあるのだろうか、ドゥイ自体が戦いに
憧れがあるからなのだろう。
﹁見えないよ﹂
シュアの言葉にランタンは首だけで振り返った。その先には不敵
とも見えるシュアの微笑みがあった。
﹁ランタンはいつでも気を張っているように見える﹂
シュアはドゥイを落ち着けるようにぽんと肩を叩いて、ランタン
の背中から隣へと歩み寄った。戦闘は既に始まっている。ランタン
が危険を伝えたが、シュアはお構いなしだった。
﹁単独探索者だったんだっけ、ランタンは﹂
﹁まあ、そうでしたね﹂
﹁一人でなんでもしたがる癖は、その時の名残か?﹂
﹁なんでもしたがっていますか?﹂
﹁少なくとも、自分のことは自分で解決しなければならない、と思
っているように見えるな。甘え下手と言うのが一番適当かな。リリ
ララもそうだ。私の好きなタイプだよ。なんだかんだと気が強くて
︱︱﹂
シュアがランタンに手を伸ばして、ランタンはそれを避けた。
﹁恥ずかしがり屋で、真面目で。私はいつ布団に潜り込んでくるか
と待っているのに﹂
﹁戦闘中ですよ、背中に入っていてください﹂
視線の先ではリリオンたちが戦闘を繰り広げている。
迷宮の奥から姿を現したのはリリララの言う通りに飛竜であった。
あしゆび
飛竜はいかにも竜種らしい竜種で、深緑の鱗に包まれた胴体に蝙
蝠のような翼手があり、この距離からではっきりと目視できる趾は、
猛禽類のそれを遥かに凌ぐ鋭い鉤爪がぎらぎらと輝いていた。
ぬ、と伸びる太めの首。蛇腹状の鱗に覆われた喉元が、蛙のよう
1443
ねじ
に大きく膨らむ。拗くれた四本角の凶暴な顔つきは口腔に牙を隠す
気もなく、大きく開いた口から青く分厚い舌がべろんと伸ばされる。
咆哮は高低二重の倍音。ランタンの位置までびりびりと痺れる様
な震動があり、萎む喉元に反比例するように上下の牙の間に生まれ
た火球が大きく膨らんでいた。
可燃性の分泌液やガスを媒介にしているのではない。生まれ持っ
て身に付いている火の魔道をこの飛竜どもは操るのである。濃い橙
色の火球が、咆哮の終わり際に放たれる。尾を引き、天井高くから
一直線にエドガーを狙う。そして飛竜は翼を畳み、火球の後ろに隠
れて急降下を。
﹁反応いいな﹂
火球の下を掻い潜ったエドガーの抜き打ち。
﹁︱︱私にはまったく見えんよ﹂
飛竜はエドガーの刃圏に鼻先を入れた瞬間に、首を擡げてほとん
ど垂直に急上昇をした。エドガーの影だけを焼いて立ち上った上昇
気流にその身を乗せて。
﹁ほら右足、皮だけで繋がってるでしょう。おじいさまが刀を抜き
様に斬ったんです﹂
﹁ああ、本当だ。いつ抜いたのかもわからないな。まったく探索者
の動体視力はどうなっているんだ﹂
﹁狙いは首みたいでしたけどね﹂
飛竜の右足首が骨まで断ち斬られて、皮だけで繋がっている。切
断面から思い出したように血が溢れ、飛竜は仲間に危険を伝えるよ
うに細く嘶く。天井を旋回する飛竜がそれに応えたのか鳴き声を返
した。俄に騒がしい。ぴぃちくぱぁちくとお喋りをしているようだ。
エドガーの一撃を足一つで済ませた。
一匹一匹の大きさはそれほどでもないが、なかなか厄介な相手だ。
だが飛竜どもは前衛三人に釘付けで、まだここまで、あるいはリリ
ララにさえ気が回っていないようだった。
エドガーの濃密な気配に、覆い隠されて、守られているのかもし
1444
れない。
撫でられた頭頂にある熱量は、火傷しそうなほどの熱いのに妙な
優しさがある。
優しさ。そんな風に感じられるのに、心の奥底にある蟠りが消す
ことができない己の小胆さが嫌になる。
﹁おおっ!﹂
ドゥイが興奮に声を上げた。
天井高くで旋回する飛竜の群れ。それを狙い撃ちにできるのはレ
ティシアの雷撃と、そしてベリレの長尺棍のみ。
レティシアが拳を握り、はらりと解く。握り込まれた雷撃が五指
五爪に流れて溢れ出す。飛竜の爪にも負けず劣らずの切り裂くよう
な指の形は、レティシアに宿る竜種の血統の表れであるのかもしれ
ない。
雷爪一閃。迷宮を切り裂くように伸びる雷撃に悠然と旋回してい
た飛竜どもが慌てふためいた。捕食者であることを疑わぬ飛竜に、
それはまるで格の違いを見せつけるようである。柔らかな指使いは、
ランタンの髪を撫でたその繊細さを失わず、けれど指先からつなが
る雷撃が狂ったように暴れ回った。
雷撃に追われて零れた嘶きの一つをベリレの鎖が狙った。
最も低くを飛んだ一匹。長尺棍に巻き付く鎖は既に解け、ベリレ
は棍の半ばを蹴り上げる。その勢いが棍から鎖へと伝播して、鎖は
重力を切り裂いて跳ね上がる。構成材の特性ゆえか、それともベリ
レの腕から一体となるほどの技術の賜か。鎖は生物的な伸びのよう
に目一杯に腕を伸ばして、鎖を躱そうとする飛竜の足首を掠め、そ
の尾に触れた。
手首の返しに呼応する螺旋が、尾を掴まえる。
﹁うおぉらっ!﹂
熊の咆哮は、棍を蹴り上げた足が鉄の大地踏みしめる音を伴った。
飛竜の羽ばたきは、竜の自重を中空に持ち上げる浮力を生み出す
ほどだ。その力強い羽ばたきが、具現化した重力そのものである鎖
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に絡め取られて、じりじりと高度を下げる。棍に鎖を巻き付けなが
ら飛竜を引っ張り、ベリレの背筋が二回りも大きく膨らんだように
思える。
ベリレに背を向けて鎖から抜けだそうと足掻いていた飛竜が身を
翻した。
苦悶を現す口の形。だがそれ以上の戦意を飛竜は銜え込んでいる。
限界まで開かれた顎門に拳大の火球が逆巻く。それは大気を、魔
精を吸収して大きく膨らむ。その一匹だけではない。群れの飛竜、
その多くがベリレを見下ろしていた。火球をその口に咥えて。
火球が身動きの取れないベリレへと驟雨のごとく降り注いだ。
ごう、と燃える音が離れたランタンの耳にも届く。けれどベリレ
は臆さない。どっしりと踏ん張ったまま初めの一匹を逃がさない。
雷撃。紫電が迸った瞬間、炎の塊は球形を保てなくなり暴発する。
レティシアの放った雷撃は、火球の重なりを狙い二条の紫電が四つ
の火球を貫き、ベリレへと火の粉の一片さえも通さなかった。
エドガーは戦場の一番先頭にいる。老躯が駆ける。どのような脚
力か、あるいは身のこなしのなせる技か。エドガーは壁を走った。
壁の半ばまでを斜めに切り裂くように駆け抜けて、ついに限界に到
達した壁走りが空を踏む。
その瞬間にリリララの魔道がどんぴしゃの位置に足場を形成した。
足場はエドガーの脚力に耐えきれず踏み抜かれて落下し、反面エド
ガーは火球へと跳躍した。
右の壁から左の壁へ。ともすれば緩慢とも思える刹那の瞬間に、
エドガーの腕が三度振るわれた。
深い白の刀身が火球を切る。氷の球体を熱した刃物で切るように、
火球はゆっくりと断面をずらして倍の数の半球と化した。その半球
はレティシアが貫いたような暴発を引き起こさずに、ぐずぐずと燃
焼して融けるように形を失った。
ベリレの横をリリオンが通り抜ける。ベリレへと収束する最後二
つの火球に、リリオンは方盾を左前に構えて突っ込む。少女が火に
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巻かれた一瞬、ランタンは拳を握った。
あの子は大丈夫だ、といつものように自分に言い聞かせる。
少女の姿が視界から消えたのはほんの一瞬、火球はまるで水風船
が割れるように霧散して、リリオンは火中を突っ切って飛び出した。
そしてベリレはついに飛竜を地面へと引きずり落とした。
﹁やああっ!﹂
炎の中から生まれた少女に、飛竜が引き寄せられる。ベリレは一
つの手加減もなく棍を引き倒す。鎖が恐ろしい速度で引っ張られて、
その先端に括られた飛竜はリリオンへと一直線に向かってきていた。
リリオンが盾の中から飛び出すのは、いつものことながらハラハ
ラする。盾を振り回して足りない筋力を補い、大上段に振りかぶっ
た大剣が盾の遠心力を推進剤に馬鹿みたいな速度で振り下ろされた。
両断どころではない。高速の斬撃は飛竜の鱗を容易く裂いて、暴乱
する力の行方はランタンのお株を奪うような爆発を引き起こした。
真っ二つになった飛竜の骸が左右に弾け飛び、ランタンは拳を解
いた。最初の戦果を上げたリリオンに飛竜が憎悪を募らせる。だが
追撃の全てをエドガーとレティシアが切り払い、牽制し、撃ち落と
した。
余計なことなど考えない、淀みのない連携。
﹁気が休まらないな、ランタン。見えすぎるのも大変だな﹂
ゆっくりと長く息を吐くランタンにシュアが声を掛ける。
﹁リリオンは子供だ。だから疑いなく人を信用できる。ベリレのこ
とをよく睨んではいても、あれは好き嫌いのせいじゃないのはわか
ってるよな?﹂
﹁⋮⋮素直なのはいいことですよ﹂
﹁でも、その分だけ危なっかしい。だからランタンはリリオンの分
まで警戒している﹂
単独探索者としての癖は、身に溶けてランタンと一体になってい
る。ありとあらゆるものを潜在的な敵と見なして、誰も信用せず、
ただ一人であることだけを安寧とする。孤独こそがランタンが気を
1447
抜くことのできる住処であり、しかしどういうわけかリリオンがそ
こに住み着いてしまっている。
﹁ふふっ﹂
その矛盾に、ランタンは思わず笑ってしまった。その笑みにシュ
アが思わずという風にランタンの顔を覗き込んだ。まるで急変した
患者の様態を確かめるような、険しく真剣な表情で。そしてランタ
ンの笑みの柔らかさに、安堵を零した。
﹁ごめんなさい、心配してもらっているのに。でもリリオンの分ま
でっていうのは、あんまり自覚がないですよ。でも、もしそうなら、
きっとそれは好きでやっていることだから苦じゃない﹂
﹁︱︱さすが、男と言うのはこうでなくては﹂
困ったような顔つきでシュアは嘆息した。珍しく言い淀むように
言葉を探す。そして今まで戦闘に釘付けであったドゥイが姉と入れ
替わるように視線を寄越してくることにランタンは気が付いて、戦
闘に意識の大半を残しながら振り返った。
運び屋の大男は、いつものようにびくりと身体を震わせる。
﹁どうかしましたか?﹂
﹁⋮⋮ランタンは、つ、疲れているのか?﹂
﹁ドゥイさんほどではないと思いますよ。運び屋って大変そうです
し﹂
ランタンの労いの言葉に、ドゥイはぶんぶんと首を横に振った。
﹁ち、違う。探索者が、一番大変なんだ。ランタンは、ねね、寝れ
ていないのか? 疲れてる時は、寝るのが一番だって、ねえちゃん
が﹂
純朴な言葉にランタンは微笑みと頷きを返す。
ドゥイは背伸びしているのを忘れているのか、脹ら脛がぴんと伸
ばされたままでいた。気遣わしげにランタンへと向けられる視線の
中には、これまでの道中に溜まった疲労と、隠しきれない苦手意識
がはっきりと浮かび上がっている。
運び屋は疲れている。だがベリレに次ぐドゥイの巨躯は、日に日
1448
にベリレとの差を詰めていた。成長しているのではない。過酷な迷
宮の道中にベリレの体重は減少し、しかしドゥイは保持しているの
だ。休むことなくがんがんと働き、探索者に遠慮することなくもり
もりと食事をとって、姉の言いつけ通りにぐっすりと眠る。
運び屋としての勤めを果たすための、最適化されたルーティンを
ドゥイは遵守している。
﹁ドゥイさんって、あんまり僕のこと好きじゃないですよね﹂
﹁⋮⋮そ、そんなことは、ない、ぞ﹂
視線があからさまに逸らされて、ランタンは思わず苦笑を漏らし
た。初対面の印象というものは、なかなかに抜けがたい。例えばラ
ンタンがリリオンに抱く心配は、少女がどれほど頼もしくなっても
完全に消え去ることはないように。
ドゥイの中にあるランタンへの苦手意識もそうであるはずだが、
ベリレに並んで感情のわかりやすい、そして至極真面目なドゥイを
ランタンは好ましく思っている。
﹁ドゥイさんは、迷宮で眠る時怖くないですか? 僕のこととか、
魔物のこととか﹂
﹁ランタンは、こわくない、けど。魔物は、す、少しだけ怖い﹂
﹁怖くて、寝られない時ってないですか?﹂
﹁ない。だってねえちゃんに言われたから。怖くても、寝ろって﹂
﹁どうやって?﹂
﹁︱︱我慢して﹂
当たり前のようにドゥイはそう言った。
﹁探索は、大変だ。俺は、それを助けるために来たんだ。だから魔
物が怖くても、寝るんだ﹂
ランタンは思わず身体ごと振り返って真正面からドゥイと向き合
った。ドゥイはいつの間にか背伸びをやめて、踵が地面に付いてい
た。姉とは似ていない木訥とした顔立ち。相変わらず目を逸らされ
ていたが、その目がちらちらとランタンを窺う。
﹁それに魔物よりも、エドガー様やベリレの方が、強い。ランタン
1449
だって、た、戦ってる姿は、頼もしい﹂
﹁⋮⋮戦ってない時は?﹂
﹁⋮⋮︱︱こ、こども﹂
乙種探索者を掴まえて子供扱いとは。
﹁子供なんて気まぐれなものですよ。信用ならないですよ、僕とか
は特に﹂
﹁う、疑いだしたら、終わりがないだろ﹂
息を飲む。ランタンは絞り出すように呟いた。途方もない尊敬を
込めて、
﹁⋮⋮さすがは序列一位﹂
ランタンの呟きにドゥイは大真面目に照れて頭を掻いた。その側
頭部をシュアが慣れた手つきで鷲掴みにして締め上げ、さっと青く
なったドゥイの顔が炎に照らされた。
ランタンは視線を切って振り返る。背後に火球が迫っていた。
自分は何のためにここにいるのか。
ついさっきエドガーから課せられたこと、シュアを、ドゥイをも
守ること。酒場で跪いたレティシアの泣き顔がちらつく。道中で見
つけたベリレの焦りや、リリララの虚勢も。
そしてリリオンに安寧をもたらすこと。
そのためにはドゥイのように我慢をしてでも眠らねばならない。
炎の中に突っ込むような乱暴な踏み込み。炎へと身を晒す、生物
ならば避け得ない本能的な恐怖。そんなものはいつだって踏み潰し
て生きてきた。やると決めたことはやる。
鋼鉄の地面を削り取って振り上げられた戦鎚は、火球を打ち付け
てその炎熱の内部に鎚頭を埋め込んだ。火球の内部で破裂したラン
タンの爆発は、まるで熱量を蚕食するかのようで、もともとある炎
を飲み込んで膨らんだ爆炎は、破壊の一切を後ろへと通さなかった。
﹁二人とも、背に入ってください。こっちにもいることに気が付い
たみたい。あまり動かないように﹂
爆発の白い残光が失せて視界が広がる。そこには飛竜から目を逸
1450
らして振り返るリリオンの姿があった。
ランタンは振りかぶった戦鎚をリリオンに向けて真っ直ぐに振り
下ろした。
ドゥイを振り返り、戦闘に背を向けて、それでもはっきりと感じ
取れる気配があった。
数多に群れる飛竜ではない。己が魔精と迷宮の魔精を練り上げて
形作るリリララではない。紫電を纏い飛竜を羽虫のごとく蹂躙する
レティシアでもない。縦横無尽に長尺棍を振り回すベリレでもない。
直向きに戦いに身を躍らせるリリオンでもない。
それはこれまでの道中の全てにあって、ランタンはその気配を正
確に読み取ることができなかった。神経質なほどの恐れと、哀れな
ほどの警戒心を持ってしても。あるいはそれがランタンの感覚を狂
わせたのかもしれない。
そんな幼い言い訳がランタンの羞恥を掻き立てる。
巨大な熱量。火球など歯牙にも掛けぬ、戦場を昂揚させる大炎。
エドガーがランタンを戦場から遠ざけたその理由は、あの言葉の
通り、己の背中を見せるためだったのかもしれない。ドゥイを振り
返ったのは、視線を感じたからだけだろうか。エドガーの背中から
目を背けるためではないだろうか。
自分が恥ずかしくなってしまったからではないか。
ランタンは四方を鋼鉄に囲まれた冷たい景色に花が咲いたように
さえ思えた。
それは飛竜の放つ火球であったのかもしれないし、こぼれ落ちる
青い血に濡れた臓物のせいであったのかもしない。
雷撃をばらまくレティシア、低空飛行の飛竜に駆けていくリリオ
ン、棘鎖で空間を削り取るベリレ。各々が己の役割に没頭している
1451
のは、戦場にあってそこが揺り籠のごとく安全であるからだった。
ベリレのどっしりとした構えは、エドガーから受け継いだものか
と思っていたが、どうやらそうではないらしい。刀と棍。その武器
の区別がそうさせるのではない。
今までの戦場の後ろでどっしりと構えて指揮するその姿は、若輩
に指導する立場がゆえの嗜みでしかないのだ。
誰よりも、もっとも危険なところへ。
エドガーは獲物を求めて戦場を縦横無尽に駆け巡る。
壁の上方、その左右には片足を乗せるだけで精一杯の小さな足場
が無数に生み出されている。エドガーはまるで階段でも駆け上るよ
うにその小さな足場を踏み付けて重力を無視する。火球も飛竜も区
別なく斬攪している。
尾を付け根から切り落とし、飛竜の背に着地して刀を根元まで突
き刺す。絶叫が音にならない。肺腑を刺し貫き、絶命直前に咥えた
炎は球体をなさずに暴発して、飛竜はエドガーを道連れにするよう
に火だるまと化した。だが既にエドガーはそこにいない。
竜骨刀を飛竜から引き抜き、背を蹴りつけて跳躍する。地上組を
狙った火球が一刀に払われる。
﹁ああ﹂
なんという視野の広さ。
味方に向けられる攻撃の一切合切をその刃圏に収めているようだ
った。リリオンはどうだ。レティシアはどうだ。ベリレは、リリラ
ラは。あるいはランタンたちのいるこの場所にさえ。エドガーの意
識は水のように隅々にまで満たされている。
すれ違い様に翼の被膜を裂かれた飛竜が、くるくると螺旋を描い
て墜落する。
エドガーの墜とした飛竜はリリオンやレティシアによって止めを
刺される。飛べなくては戦力半減。だがそれでも竜種に連なる物の
一つとして、飛竜はなかなかに侮れない。
レティシアの二指から放たれ雷撃は火球を貫くに足りて、飛竜を
1452
打ち据えるに足らない。黄金の光条は深緑の鱗の表面に弾けて、突
進を多少怯ませることはしても足を止めることはできない。地面を
泳ぐように翼手を掻き、猛禽に似た後肢が不便であろうに巨躯を猛
然と押し進める。リリオンがそれを真っ正面から迎え撃ち、その守
りを信用してレティシアは気持ちを落ち着けるような大きな呼吸を。
二指から放たれた雷撃が、三つ叉槍のごとくに飛んだ。三条の紫
電が飛竜の両目を焼き、大きく開いた顎門の中に生まれた火球の種
を貫いた。
一瞬の怯みに、リリオンは大股に踏み込む。
リリオンの剣は大きく右に弧を描き、下から掬い上げるような一
撃だった。飛竜の顎下に滑り込み、突進の速度を利用して背を削ぐ
ように斜めに抜けた。切断されて跳ね上げられた飛竜の頭部が、狼
煙のように断末魔を叫ぶ。
天翔る飛竜が、己が最後の一つとなったことを悟った。
だが誰も彼も油断が無い。集中。エドガーの発する膨大な熱量。
英雄の気配に炙られるように、誰もが戦意を絶やさない。
飛竜は天井を抜けるような急上昇で雷撃を避け、ベリレの鎖が真
っ直ぐに伸びて届かぬ位置に羽ばたき、天井から生み出されたリリ
ララの魔道による槍の一撃が恐るべき反応速度で躱される。そして
槍の穂先が、鎖に結びつけられた。
天に繋がる茨の道をエドガーが駆け抜ける。恐れるように振り返
った飛竜が、全力をもって火球を生成した。迷宮に満ちる魔精が、
飛竜の必死に感応して収束する。顎門を遥かにはみ出し、赤から白、
白から青いほどの高熱となった火球は飛竜の姿を覆い隠すほどに肥
大化した。
逆光の中に浮かび上がるエドガーの背中。
﹁ああ﹂
ランタンは呟く。
エドガーに感じていた感情が何であるか、はっきりと理解する。
それは恐れではなく、身の引き締まるほどの畏れである。
1453
竜殺しエドガー。迷宮に死をもたらす者。大探索者。
︱︱右肩担ぎの袈裟懸けから、それは始まる。
エドガーを飾る数多の二つ名は何も物騒なものばかりではない。
救国の英雄。民衆の守り手。守護剣聖。
︱︱袈裟懸けから跳ね上がり、横薙ぎ、払い。
そして斬り上げ、頂点に結ばれる、高速の五連撃。炎熱の一切を
斬り払う、護剣五芒。
エドガーは手首を返し、飛竜の首に竜骨刀を叩き込んだ。
1454
096 迷宮
96
ひゅるう、と飛竜の喉が鳴ったように思えた。
ランタンは呆然とした表情で、ドゥイと同じように爪先立ちにな
って目を凝らす。
飛竜は翼を閉じて、まるで緑色の卵に包まれたような形で落下し
ている。
戦闘の幕を引いたエドガーは棘鎖の上に難なく着地をすると流麗
な動作で血脂を振り払い、もっともあの恐るべき斬撃は刀身に血肉
を付着させることはないのだが、するりと納刀して階段を下るよう
に鎖を渡った。
﹁さすがに凄まじいな﹂
﹁青い、太陽を斬った⋮⋮﹂
姉弟が呆然と呟いた。
エドガーが最後に斬った火球は、ドゥイの言う通りにまさしく太
陽のようだった。迷宮に昇った青い太陽は白々とした熱を発して不
吉極まりなく、周囲に発生させた熱波は周囲の大気と迷宮を炙って
天井は今なお赤黒い熱を保有している。
眩しさに目を細めた次の瞬間には、それが嘘であったように消え
ているのだから驚きも無理からぬことである。
だがランタンはあの高速の五連撃よりも、最後、飛竜の首を打っ
た一撃が未だに信じられない。火球に目が眩んだが為の見間違いか
もしれない、とランタンは瞬きを繰り返し背後を振り返る。ドゥイ
の脇腹を叩き、つい思わずシュアの尻を引っぱたいて急かす。
﹁おわっ、な、なんだ?﹂
1455
﹁向こう行きましょう。リリララさんが、ちょっと辛そうだ﹂
﹁ああ、そうだな﹂
ドゥイは思い出したように息を整え、ランタンとシュアは荷車に
飛び乗った。荷車を牽くに最も力がいるのは初動である。停止状態
から車輪を回すのは、なかなかの難事だ。ランタンがドゥイの唸り
に冷静さを取り戻し、それを手伝おうと思う間もなく荷車は動き出
した。
﹁お見事。へえ、これは楽だな﹂
﹁つ、疲れたら、頼ってくれ。い、いつでも﹂
﹁頼もしいですね。ありがとうございます﹂
滑らかな動き出しから淀みない加速を経て、荷車はリリララへ迫
る。
﹁あ、おい、ドゥイ。速度が︱︱﹂
シュアがはっとして声を上げると、ドゥイもはっとして、ランタ
ンは思わず笑った。
ランタンが褒めたのに気を良くしたのか、それとも戦闘の興奮冷
めやらぬ現場へと一目散に向かいたがったのか、荷車はリリララ近
辺で停止するには少しばかり速度が乗りすぎていた。
﹁僕が拾い上げますから、速度は落とさなくていいですよ﹂
ランタンは言うが速いか荷車から飛び降りて、リリララへと駆け
寄る。
﹁お疲れさまです﹂
﹁︱︱ああ、おう﹂
リリララはかなり消耗しているようだった。貧血を起こしたよう
に顔は真っ青で、返ってきた返事が虚ろである。
﹁荷車に乗せてもらいますので、肩を﹂
ランタンが優しく言うと、リリララは言葉を理解しているのかい
ないのか、俯くように頷いた。ランタンはリリララの腕を己の首に
回し、背中を支えて、兎の少女の膝窩に腕を滑り込ませて抱き上げ
た。
1456
リリララは恐ろしく軽かった。いつかリリオンを抱き上げた時を
思い出す。それは氷のように体温が低いからかもしれない。だが身
長差を考慮してもそれ以上に軽いように思える。
曰く神経を使う細かな魔道を連発したせいなのだろう。リリララは
冷や汗を掻いており、さらさらと濡れた体温が抱え上げたランタン
にまで伝播するようだった。
ランタンは荷車に飛び乗ろうかと思ったが、可能な限りリリララ
を揺らさぬように、通り過ぎ様の荷車に大股の一歩で乗り込んだ。
﹁ここに寝かせてやってくれ﹂
荷車にはシュアが既に毛布で寝床を用意しており、ランタンはリ
リララをそこに寝かしつける。
﹁あー、悪い。ちょっと数を打ち過ぎた﹂
リリララはぐったりとして、骨が失せたように小さくなった。シ
ュアがリリララの汗を拭いてやり、手足の拘束を緩めてやるとほっ
と一息、疲労を吐き出す。
リリララは毛布に包まり、ぼんやりとした眼差しを隠すようにシ
ュアが額から目元を掌で覆う。掌の熱にリリララの口元が僅かに緩
んで、ふうふう、と小さく穏やかな呼吸が胸を上下させた。
﹁体温が下がってるな。また無茶をして﹂
﹁いやあ、エドガー様が張り切るからつられちまった﹂
﹁凄かったですもんね、おじいさま﹂
﹁ああ、ちゃんと見てたか?﹂
リリララは目元からシュアの手を外して、赤錆色の瞳でランタン
の顔を見つめた。薄ぼんやりとしながらも観察するような、確認す
るような視線である。ランタンはその視線に妙に緊張してしまい、
唇が怖々と曖昧な笑みの形を作った。
﹁ふうん﹂
リリララはそう呟いただけで、再びシュアの掌に自らの眼差しを
隠してしまった。
﹁見てましたよ。リリララさんのことも、もちろん﹂
1457
派手さはない。だが壁の上部では足場を、そして地上では地に落
ちた飛竜の行動を阻害する遮蔽物を的確に構築した魔道の撃ち分け
は、姿を変えた戦場を見ればその凄さが一目瞭然だった。戦場に突
き出す無数の棘は、その先端に飛竜の血肉で青い花を咲かせている。
戦場ではベリレが飛竜の死体を脇に退け、リリオンとレティシア
が棘を刈り取っていた。荷車の通行の邪魔になるようなものはほと
んど片付けられて、道には噎せ返るような死臭と車輪を空転させか
ねない血溜まり、そして遥か頭上には火球の熱気がぐずぐずと未だ
に渦巻いている。
ドゥイが次第に荷車の速度を、今度は確実に落としていき、ラン
タンは早々に飛び降りてリリオンに駆け寄った。
いつの間にあんなことができるようになったのだろう。
ランタンは大剣を左右に振り回し棘を断ち裂くリリオンの姿に驚
いていた。鋼鉄の棘は最も太い部分でもランタンの二の腕ほどもあ
るかと言う程度で、飛竜と相打ちになって歪み拉げてはいた。だが
それでもリリオンは鋼鉄を斬っていた。
盾は地面に降ろしている。大剣の柄を両手でしっかりと握り込み、
凜然とした脇構え。鋼鉄を斬ろうというのに躊躇いのない腕の振り
と、対象へ垂直を保つ刀身。直撃の瞬間に一瞬の火花と、体重を乗
せて圧して斬るリリオンの前傾。
大剣は鋼鉄を両断して止まらず、慌てて急停止したランタンの横
面に走り込み、ランタンはそれを人差し指と中指の二指の間に挟み
止めた。
﹁わっ、ランタンっ!? ごめんなさいっ!﹂
金属摩擦で大剣はかなりの熱を保有していて、リリオンは驚き慌
てて剣を引こうとしたが刀身はぴくりとも動かなかった。
力強いな。
慌てるリリオンを余所にランタンは冷静にそう思い。既に危険は
ないのだから力を抜けばいいものを意地になって体重を後ろに掛け
ていた。鋼鉄を斬った技術を持っているとは到底思えない、力任せ
1458
な行動だった。
﹁リリオン、引いて駄目な時は押すといいぞ﹂
最後の一匹、首を打ち据えた飛竜に腰掛けるエドガーが笑うよう
に少女に声を掛けて、当初の目的を既に失っているリリオンはその
アドバイスを何の疑いもなく受け入れる。
この子は、引くよりも押すことの方が得意だ。
ランタンは圧力に合わせて腕を引いて、リリオンの鳩尾に顔を埋
めて少女を抱きとめた。心臓の音が聞こえる。
﹁お疲れさま。がんばってたね。僕、楽させてもらっちゃったよ﹂
汗の匂いがする。お腹空いたな、と思う。
ランタンはリリオンの腰を抱き寄せたままひょっこりと、少女の
脇下から顔を覗かせた。
﹁おじいさま、いい椅子ですね﹂
エドガーは走り詰めで少し疲れているようだった。幾ら大英雄と
言えども御年七十に掛かろうかという老身であることには変わりな
いのだ。エドガーは飛竜の肩口辺りに腰を下ろして、寝かしつける
ように緑の鱗を撫でていた。
ランタンをちらと一瞥し、口元が僅かに緩む。口角に年齢よりは
若々しく皺が刻まれ、どこかに逸らされてしまった眼差しの色が優
しい。その表情にランタンは目を伏せた。
畏れ。
だが、これは︱︱
﹁お前の枕に敵わんさ﹂
﹁ええ、知ってます﹂
︱︱超えたくなる。
エドガーの言葉にランタンは当然のように頷き、枕はランタンの
尻を触った。
﹁⋮⋮あっちの椅子の方がよかったかな﹂
リリオンの手が尻を撫で上げ、腰をさすって、背骨を伝った。
﹁ランタンっ、おじいちゃん凄いのよっ﹂
1459
ドラゴン
﹁言われなくたって見てたよ﹂
﹁そうじゃなくてっ、あの竜種まだ生きてるのよっ! すごいねっ、
わたしもできるかしら?﹂
﹁さあ、どうかな。でも両刃じゃちょっと無理じゃないかな﹂
ああやっぱり、あれは見間違いでなかったのだ。
手首の返し。あの細くしなやかな竜骨刀による重い峰打ち。鱗を
徹し、頸椎を打ち、全身全霊をかけて死を追い払おうとした飛竜の
意識をあっさりと飛ばした。
﹁リリオンが竜種を食いたがってたからな。こいつは食えるし、ま
だ幼竜だから肉も柔い。ちょっとした御馳走だな﹂
﹁でも、なんで生け捕りなんかに﹂
エドガーは立ち上がり、二人を手招いた。リリオンはあれだけ地
に落ちた飛竜を斬ったというのにおっかながっていて、ランタンは
物珍しさも相まってリリオンの手を引いて躊躇いなく飛竜へ近付く。
幼竜と言えども大きい。青息吐息に震える喉などはランタンどこ
ろかリリオンを鵜のように一飲みにして蓄えられそうだった。
﹁これで何キロぐらい何だろう?﹂
こわ
﹁飛ぶために見た目よりは軽いぞ、五百か四百ぐらいだな﹂
四本角は見た目の強さよりも随分と柔らかそうだ。骨質ではなく、
皮膚の延長なのだろう。幼竜であるからこそ角質化がまだ甘いとい
う雰囲気で、高級な薬屋にはこういった角が干し柿のように吊され
ていたりする。
ランタンは飛竜の背に触った。
鱗は背側と腹側で雰囲気が違った。背中側の鱗は一枚が大きく分
厚く、異形の花弁のように重なり合っていたが、腹側の鱗は小さく
細かく敷き詰めるように密集していた。飛翔するために鱗は軽量で、
しかし硬度があるので鱗鎧の材質として最も高価なものの一つだ。
自分ならどう攻めるだろうか。戦鎚で叩くにしても背中は硬そう
だし、鶴嘴で鱗を剥がすならば角度を付けて引っ掛けてやらなけれ
ばならない。鱗の硬度は、さすがは竜種。リリオンの首下から滑り
1460
込んだ切り上げは正解だな、とランタンは飛竜の顔を覗き込む。
﹁あ、鼻焦げてる﹂
﹁ね、自分の火で焦げちゃうなんて間抜けね。うふふ、お鼻つやつ
や﹂
炭化ではない。飛竜の鼻先はどれほどの熱に炙られたのか硝子化
している。
﹁最後のやつの余波だな。魔道の暴走というか︱︱﹂
﹁おじいさまへの恐れですか﹂
﹁くくく、もしそうならお前より可愛げがあるな。食うのが惜しく
なる﹂
エドガーがそんなことを言うのでランタンはありったけの可愛げ
を込めて、しなを作って微笑んで見せた。だが効果があるのはリリ
オンばかりだった。ちらちらと盗み見をしていたベリレなんかは顔
を青くする始末であるので、ランタンはそちらへ向けて片目を閉じ
た。
﹁あ、視線逸らしやがった﹂
﹁わたしは逸らさないよ、ほら。ああん、もう、なんで逸らすのっ﹂
ふい、と逸らした先でレティシアが苦笑していた。ランタンが何
となく会釈をすると、口元を隠して肩を振るわせる。レティシアは
息を落ち着けるように肩の震えを次第にゆっくりと大きくして、こ
ちらに近付いてくるその手には切り取った棘が握られていた。
﹁充分可愛いじゃないですか、エドガー様﹂
﹁半分以上はリリオンのおかげだろうが、⋮⋮まあよいか。ベリレ
と、ドゥイも頼めるか? シュア、用意を﹂
エドガーが手招きするとドゥイは初陣であるかのように飛び上が
り、ベリレに並んだ。何ともむさ苦しい絵面である。
﹁何故生かしたまま捕らえたかと聞いたな。それは血抜きのためだ。
心臓を動かしたままの方が都合がいい﹂
レティシアが飛竜の足首に棘を打ち込んで足枷のように連結して
股を開かせる。ベリレは棘の中心に鎖を巻き、そこから更に伸びた
1461
先端を尾の付け根に巻き付ける。そしてドゥイがベリレの補助をし
て、二人して顔を真っ赤にして長尺棍を持ち上げた。ぎりぎり、と
鎖が軋みをあげて飛竜が吊り上げられる。
﹁ベリレ、ドゥイ。あと五秒耐えろ﹂
﹁リリララ、まだ︱︱﹂
荷車から崩れるように降りたリリララが地面に座り込み、そこか
ら流れたリリララの意志が長尺棍に絡みつきそれを支えた。ベリレ
とドゥイは恐る恐る長尺棍から手を離し、シュアが慌てた様子で駆
け寄っていく。ランタンも思わず駆け寄ろうかとすると、血の気の
失せた青白い顔でリリララが睨み付けてきたのでその場に留まった。
﹁ランタンが疲れているようだから、取って置きのいいものを飲ま
せてやろうと思ってな。リリオンの可愛げに感謝することだ﹂
レティシアがシュアから渡された小さなグラスと、馬鹿みたいに
度数の高い蒸留酒の瓶を揺らした。
竜種は吊られていても、頭部は地面につき、首が蛇のように折れ
曲がっている。
エドガーは竜骨刀を抜き、無造作に飛竜の首を斬った。動脈が断
ち割られて飛竜が痙攣し、傷口から青い血が勢いよく流れ出す。命
が流失していく。
エドガーはレティシアからグラスを受け取ると、その半ばまで血
を満たす。血はグラスの縁から外側に伝っている。そこにレティシ
アが蒸留酒を注いだ。
﹁わあ、綺麗﹂
飛竜の血はさらさらとしていた。グラスから溢れるほどの蒸留酒
うえ
で割った竜血は青い冷光を発するかのようで目に美しく、リリオン
の歓声にランタンは苦虫を噛み潰すような顔つきになった。
﹁竜血は最上の滋養強壮薬だ。疲労なんて一撃で吹き飛ぶぞ。地上
じゃそうそう飲めるものではないからな﹂
﹁⋮⋮お心遣い痛み入ります。ありがたく頂戴いたします﹂
﹁わたしも飲みたいなあ﹂
1462
呟きにランタンは、これはリリオンのための毒味だ、と覚悟を決
めた。ほんの小さなグラスが異様に重たいのは、あるいは竜血の重
さであるのかもしれない。
ランタンは唇から迎え入れるようにグラスに口付けをし、一息で
グラスの中身を空にした。
﹁︱︱ランタン?﹂
ランタンはリリオンの顔を見上げて、僅か青く染まった唇をちら
と舐める。
炎を飲んだようだった。
吊した飛竜の下に加脂して防水性を持たせたクロスを構えてリリ
オンとレティシアが放血して溢れ出た血をそこに溜めた。重量比で
二割、約八十キロほどの血液はクロスを破らんばかりに満ち足りて、
脂に染みて膨らんだ丸みからぽつりぽつりと血が滴っている。その
血をシュアが小鍋にたっぷり掬い取り、乱暴に攪拌して凝固を防ぎ
表面に泡の膜を張った。青い泡の粒は、昆虫の奇妙な卵のように見
えなくもない。酸化を防ぐ役割があるのだそうだ。
余った血液は荷車よりも後ろに流し捨てて、血に染まったクロス
を飛竜の下に敷いた。
まず邪魔な翼手を切り落とし腹を割く。血の青さとは裏腹に飛竜
の腹の中は赤々としている。血潮の残熱が残っていてむわっと鉄臭
く、水の魔道使いが欲しくなるな、とエドガーがぼやいた。
飛竜の解体をしているのはリリオンで、エドガーは口を出すだけ
だった。
リリオンは腕まくりをして、狩猟刀を構えている。さすがは嵐熊
の爪からグランが造り上げた狩猟刀。その刃は飛竜の肉を魚のよう
に捌く。
まず肛門周りの肉を切り取って腸を外し、すると葡萄の房のよう
1463
に諸々内臓が一斉に落ち、リリオンはそれらを傷つけないように気
をつけながら横隔膜を切り取る。五臓六腑、その他諸々の全てが丸
ごと外れる。
リリオンは臓腑の全てをクロスに下ろして広げ、部位ごとに分け
ていく。心臓、肝臓、腎臓あたりはなかなかにおどろおどろしい色
味をしていたが、それらは血液と同じくシュアが回収していった。
他にも飛竜にはよくわからない臓器がちらほらと見られる。浮力
を得るために比重の軽い気体を溜め込む、それは既に萎んでいたが、
浮袋や、種火を作るためか、あるいは火の魔道を補助するためか、
可燃液を溜める器官があった。可燃液は常温で気化するようで、こ
の液体は何かしらに使えるかもしれないので密閉瓶に注ぎ、空にな
った袋はやはりシュアが回収する。
解体の邪魔になると切り落とした頭部もシュアは嬉々として持ち
去っていった。
﹁何に使うんですか?﹂
﹁ふふふ、まあちょっとな﹂
はぐらかすシュアにランタンは首の据わらぬ頭をゆらゆらと揺ら
した。
荷車でくたばっているリリララを除いた女たちは誰もが腕まくり
をしていて、手を飛竜の青い血に濡らして忙しなく働いていた。
リリララと同じように魔道を連発していたはずのレティシアは少
しの疲労があるだけでリリオンと一緒に飛竜を解体している。黒い
肌は青い血に濡れていっそう艶めかしい。血に汚れないように恐る
恐る額に浮いた汗を拭う様は、持ち前の気品をむしろ自ら汚すよう
で官能的ですらあると思う。
ベリレやドゥイは死屍累々となっている飛竜の死体から魔精結晶
や爪や鱗皮、それに可燃液を回収していて、ランタンはというとリ
リオンの周りをうろちょろとしていた。
しおみ
血酒が胃の腑で熱を発しているようだった。喉を滑り落ちたきつ
い塩味と鉄の臭気。酒精では誤魔化しきれない命と死の香りが、喉
1464
奥から這い上がってくるような気がしてランタンは多少ふらふらと
している。
むずがる子供のように落ち着きがなかった。
当初は手伝おうかと思ったのだが、レティシアに狩猟刀を奪われ
てしまって手持ち無沙汰なのである。
ランタンはリリオンの三つ編みを指先にくるくると巻き付けなが
ら少女の手際のよさに頬を緩めていた。
﹁綺麗なお肉ね﹂
﹁ああ、これは当たり個体だな。胃も腸も空っぽだったぞ﹂
リリオンとレティシアが何やら物騒な会話をしている。
魔物は迷宮に湧き出る。だがその魔物には二つの区別があると考
えられている。
人知れぬどこか魔境から召喚される魔物と、迷宮によって生成さ
れる魔物の二種だ。前者である場合は以前の生活で食したものを腹
に収めていたり、雌であれば子を成している場合もある。
この飛竜はどうやら新規生成されたものらしく、そういった魔物
は召喚魔物に比べて肉に雑味がないという。それを上品と取るか、
物足りないと取るかは食した個々人の味覚によるが、概ね生成魔物
の味を好む者の方が多く、同種の魔物肉であるのならその方が高額
で取引される。
﹁筋がすごいわ﹂
﹁弓の材料になるぞ。引ける者は極々少数だが、リリオンならでき
るかもな﹂
﹁でも探索者はあまり使わないんでしょう?﹂
﹁まあな、だがうちの騎士団に入るなら必修だぞ。野外での戦闘も
多いからな﹂
吊して内臓を抜いた飛竜はそれだけで随分と軽くなったようだ。
足首と尾の周りに切れ目を入れて、足首から内股へと刃を進める。
さし
そしてリリオンとレティシアが息を合わせて飛竜の皮をひん剥いた。
皮下脂肪は薄く、脂肪交雑の少ない真っ赤な赤身肉がそこには吊さ
1465
れている。これで体重は三分の一、あるいはもっと軽くなっただろ
うか。内臓を外して剥き身にすると、あの獰猛な姿が思い出せない
ほどに痩せて見える。
﹁すごい﹂
一枚の見事な竜皮である。ランタンが感嘆の声を上げていると、
それもシュアが横から掻っ攫っていく。鱗皮は随分と重たそうでシ
ュアは受け取ったものの難儀しているようだった。
﹁どうするんですか?﹂
﹁脂肪を外す﹂
﹁食用ですか?﹂
﹁いいや、竜の脂は食用にはあまり向かないよ。不味くはないが取
り過ぎると腹を下すからね。濾してやれば上質な機械油になったり、
刀剣類の錆止めなんかにも使えるけど今回は外すこと自体が目的だ。
使わない脂があっても荷物だし、時間が立つと剥がし辛い﹂
﹁僕も手伝いましょうか?﹂
﹁ドゥイとベリレが手隙になったようだから、あいつらにやらせる
よ。ランタンは今は刃物を持たないように﹂
﹁どうして?﹂
﹁自覚がないのなら尚更な。リリオンも、レティシア様もお願いさ
れても渡したら駄目ですよ﹂
シュアはリリオンから皮を受け取りながら、二人に釘を刺した。
どうしてそのようなことを言うのかまったく理解できないランタン
は、くるくると指に巻き付けたリリオンの髪を意地悪そうに引っ張
って、こちらを向いた少女を上目遣いに見つめた。
﹁僕、暇なんだけど﹂
﹁ダメよ、ランタン。後で美味しいお料理を作るからね﹂
﹁⋮⋮いけず。レティシアさんも、狩猟刀取るし。もう、どうして
そういうことすんですか?﹂
﹁すぐ返すよ。だから大人しくな﹂
作業の手を止めてランタンにかまい始めようとする二人をエドガ
1466
ーが手を叩いて叱責する。
﹁ほら、休んでいるんじゃない。手を動かせ。ランタンも邪魔をす
るな。こっちに来い﹂
﹁いやです﹂
ランタンは手刀を成しているエドガーの右手を見つめて首を振っ
た。うろちょろとする子供を黙らせるには、失神させるのが一番簡
単で確実な手口である。特に無駄に場数を踏んだ探索者の子供には。
だが子供は無駄に場数を踏んでいるので、無駄に目敏くもあるの
だ。
あの手の形は延髄へ振り下ろすためのものではなく、喉元に打ち込
むためのものだ。ランタンも数度やられた経験がある。躱し、反撃
して手首や肘をねじ切ったが。一度躱し損ねて反吐を吐いた。喉に
苦みを思い出し、だがそれは血酒の風味にすぐに忘れてしまった。
エドガーは隠しもせずに舌打ちをして、右手をゆらゆらと揺らし
て危険がないことを伝えるが、ランタンはリリオンの髪を揺らすこ
とに夢中だった。
﹁酔っているのに、それでもどうにも緊張が解けんようだな。まっ
たく面倒な奴だ﹂
﹁酔ってないですよ、探索者ですもの。味があんまり好きじゃない
だけで弱くはないですよ﹂
﹁いや、酔ってるよ。魔精酔いだ。魔精との親和性が高いようだが、
これはこれで問題だな﹂
﹁なるほど⋮⋮確かに活性化の状態に似てるかも。ほら心臓触って﹂
ランタンがリリオンに言うと、少女は手を持ち上げる。
﹁あ、その手で僕に触らないで﹂
リリオンが血に染まった手を悔しげに見つめた。
﹁︱︱わたし、手に血が﹂
青い血は酸化と魔精の喪失が同時に進んでいて、それはやや紫が
かっているようだった。放血当初はさらさらとしていた血も今では
粘性を帯び始めていて、リリオンの掌には少女の手相がくっきりと
1467
浮かび上がっている。
﹁もう、しかたないなあ﹂
哀しげなリリオンに、ランタンはべったりと身体を預けた。平べ
ったい胸を少女の身体に押しつけると、鼓動が混ざり合うようだっ
た。
﹁ね﹂
﹁︱︱うん、どきどきしてる。心臓、はやいね﹂
﹁蚤の心臓だからね﹂
ランタンはぱっとリリオンの身体から離れて、けれど薬指に巻き
付いた三つ編みはそのままで少女の髪を弄ぶ。
﹁悪い奴だ。酔わせるんじゃなかったな。レティシアも気をつけろ
よ﹂
﹁︱︱ご自分の昔を思い出しますか、エドガー様﹂
﹁俺がやったら頬を張られているさ﹂
リリオンは背骨と肋骨の間に狩猟刀を叩きつけた。どうやら三枚
に下ろすようだ。
骨に触れる肉は獣臭が濃く香るが、肋肉はそんなものが苦になら
ないほどに肉の味が濃く美味な部位である。
ごそっと外した肋骨は、肋間に刃を通して一本一本に分けていく。
﹁焼いて食べたい﹂
﹁うん、じゃああとで塩と香辛料で漬けておかないと。ランタン、
髪くすぐったいわ﹂
﹁スープも作ってよ﹂
エドガーに注意を払っていたかと思うと、ランタンはすぐに意識
を別に移す。
﹁蚤の心臓か。どの口がそんなことを﹂
﹁この口ですよ。おじいさまがベリレのこともほったらかしてじろ
じろ見てくるから、気になって夜も寝られなかったですよ﹂
空気の流れ。ランタンはリリオンの髪を指から解いた。
血液は魔精の溶媒であるが、迷宮の大気もまたその一つである。
1468
鞘に収めていたようなエドガーの静謐な意念が、大気に溶ける魔精
を伝ってランタンの肌を撫でる。そして大気が魔精の溶媒であるの
なら、魔精は意思の溶媒である。魔精の制御を極めれば口を利かず
とも他者を圧倒し、敵の身の内から漏れる気配から心を読み取る。
それはあくまでも優しく撫でるような。
ランタンは未来予知と思えるような身のこなしで、どのような踏
み切りをしたのか誰も捉えられないエドガーから距離を取った。ラ
ンタンを掴まえようとするエドガーの手を辛うじて躱して、リリオ
ンの影からレティシアの影へと身を躍らせる。
ランタンはスカートめくりをするようにレティシアの腰布を巻き
上げて、エドガーの視界を遮った。布の手触りは抜群で、めくられ
てレティシアは驚き慌てていたが、彼女もまた手が青くべったりと
汚れているのでそれを押さえつけることができないでいる。
﹁っ、ランタンっ!﹂
﹁レティシアさんも、なんだかいじいじしてるし﹂
﹁︱︱っ﹂
﹁もっと、頼ってくれてもいいのに﹂
ランタンはレティシアにだけ聞こえるように不満気に呟き、途中
シュアを経由して、ベリレとドゥイにちょっかいを掛けて、荷車に
飛び乗った。猫のような身のこなしで、着地には足音が伴わない。
﹁お加減はいかがですか?﹂
魔精に酔い、奔放に振る舞うランタンを誰も捉えることができず、
エドガーも追撃を諦め、あるいは呆れたようだった。穏やかな眼差
しだけが追いかけてくるばかりだ。
荷車の上にぺたりと座り込み、ランタンはリリララの顔を覗き込
む。
リリララはまだ血の気の失せた顔色をしていたが、赤錆の目はい
つものような険を取り戻していた。頬の引き攣るような皮肉気な笑
みを口元に湛えて、ランタンに顔を寄せるように人差し指で招く。
ランタンはそんなリリララに従順に従った。
1469
﹁大丈夫だよ。お前よりはよっぽどな﹂
ランタンは意識を断たんと突き込まれた指を容易く避けた。
﹁くそっ、極まってんな﹂
﹁でしょう?﹂
リリララは舌打ちを一つ吐き出して、仕方なしにランタンの膝を
撫でる。
﹁ここで大人しくしてろ。いいな﹂
ランタンは手を重ねて大人しくなった。
﹁手、小さいな﹂
﹁あまり変わらないでしょう?﹂
手が冷たい。
﹁お前の手が熱いんだよ﹂
無言のランタンに、リリララがぽつりと呟いた。
1470
097 迷宮
97
飛竜を解体し、下拵えを済ませて再開した行軍はその先頭にラン
タンを置いた。
リリララは魔精薬を服用したがどうにも調子が戻らず、本人は大
丈夫だと言い張ったがシュアがそれを許可せず荷車に寝かされてい
る。絶対的な索敵役の代わりを努めることとなったランタンだが、
しかし本来その索敵能力はさほど高いものではない。
だが魔精の活性化により、身の内の魔精と、身の外の魔精の区別
がほとんどなくなっている。猫の髭のように敏感なランタンの神経
は、肉体から抜け出して迷宮に充ち満ちる魔精の海を我が物として
自由気ままに泳ぎ、その尽くを知覚していた。
そして我が物である海を勝手に泳ぐ不届きな竜種を見つけると、
行け、と脳が命令するよりも速く、ランタンは爆発するような速度
で飛び出して後続を置き去りにした。
すでにエドガーは呆れていて、リリオンとベリレは必死にそれを
追いかけ、レティシアが世話が焼けると言わんばかりにそれに続い
た。
そしてドゥイはいつもよりもやや速い行軍速度に食らいつくのに
精一杯で、いっそ休憩とも呼べる戦闘も、その交戦時間は僅かであ
った。
ランタンは血に酔っている。
竜血酒を一息に飲み干して、腹の中に燃え上がった大炎をランタ
ンはすっかり己の一部だと認識している。炎は炎のままに血管を流
れて、睡眠不足に青白い頬はいつかの赤みを取り戻す。ランタンは
1471
機嫌が良さそうな笑みを口元に浮かべて鼻歌なんぞを歌いながら鎧
袖一触に竜種を蹂躙する。
戦鎚の先に起こる爆炎は遠慮が一つもない。血の滾りがそのまま
威力に直結したような鮮烈な紅蓮は、あの飛竜が命を賭して放とう
とした青い火球を倍にして足らぬ程の熱量を有していた。焦がされ
た迷宮壁がどろりと赤熱して滴り、竜種は強固な肉体を完全燃焼さ
せられて灰も残らない。
魔物が死ぬと肉体の一部が魔精結晶へと変じる。心臓の鼓動が止
まり、血の循環が失われ、ただその停止する血液の中で魔精だけは
動きを止めない。それは肉体の最も強固な部分へと集まって凝縮し、
溢れ、大気へと放出され探索者の肉体へと取り込まれる。
そしてランタンの遠慮無用の爆発により、強固な部分もそうでな
い部分も問答無用に消失させられて、行き場を失った魔精はそのほ
とんどがランタンの肉体に吸収された。
魔精の活性化したランタンは暴食とも呼べる魔精の摂取を経て、
どれほどに暴れようとも疲れを知ることがないようだった。
今日の分の行軍予定を終了して野営地を決めると、女たちは食事
の準備を始めて、男たちは昂りの収まらぬランタンの相手をするこ
とになった。寸止めの約束は、当たり前のように失われている。
ドゥイは顎先を、指の、ほんの爪の先っぽで横払いにされて既に
立ち上がることすら適わない。ベリレはランタンの頭をかち割って
勝利に気を緩めた瞬間、肝臓、鳩尾、肋骨の上から肺、崩れ落ち様
に人中、眉間と致死量の連撃を喰らい、それでなお足を踏み締めた。
肺の空気を抜かれて、痙攣する内臓の痛みを噛み殺し、ベリレは
恐るべき気迫でもってランタンの肩を掴む。薄い肉を押し分けて関
節の隙間に親指をねじ込み、ランタンの小躯を振り回し、叩き付け
ようとして失われた肉体の重みに戸惑った。
﹁僕の勝ちっ﹂
ベリレの背中。ランタンは熊の少年の首に足を回し、肩車の体勢
になる。そして腕で目を塞ぎ、耳に唇を押し付けるようにして、身
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体を寄せると首を絞めた。脳へ流入するはずの血が塞き止められて、
ベリレは最後の力でランタンの顔を後ろ手に掴む。ぐらりと膝を突
いた。
これでなお失神しない。ああきっとこれすらも魔精の影響だ、と
ランタンは理解する。例えば魔精が魔道によって様々に変質するよ
うに、熊の少年の肉の内でもそれが行われて、ベリレの戦意や負け
ん気によって魔精は意識をつなぎ止める何かへ変質したのだ。
ランタンは指を入れられて充血する右目を擦り、真っ青な顔で荒
い息をするベリレの頭を撫でた。普段は高いところにある頭を見下
ろす心地よさにランタンはうっとりする。濃い茶色の髪が汗に濡れ
ている。呼吸に連動するように熊の耳が小刻みに痙攣して、肺に息
が満たされぬのに、まだもう一度、と再戦を望んだ。
いい子だな。
﹁またあとでね。おっかない人が来ちゃったから﹂
﹁ベリレ、呼吸を戻しておけ。⋮⋮まったくおっかないのはお前だ
ろう﹂
﹁竜殺しの英雄さまに、怖いものがありますか﹂
﹁恐れをなくしては、この歳まで五体満足ではいられぬよ﹂
﹁なるほど、だから僕のことじろじろ見てたんですか﹂
ランタンが純粋な納得をもって頷くと、エドガーは茶目っ気を滲
ませて視線を逸らして自らの首を揉んだ。ランタンが反射的にどこ
を見るでもないエドガーの視線を追う。
気が付ついた瞬間にはエドガーが目の前にいる。首を揉んでいた
はずの右手が拳に固まり、頭上に振りかぶっていた。鉄槌。
﹁ぐっ!﹂
交差させた腕にどうにか受け止めて、ランタンはエドガーの膝を
蹴りつける。だがそれは臑に受けられて、そのまま逆に蹴り飛ばさ
れる始末である。ランタンは壁に着地をして、迫り来る掌打を跳び
越えて躱した。さして力を入れたようには見えないのに壁が放射状
に陥没して、蜘蛛の巣のごとき罅が入った。
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身体を内側から壊す技。
﹁喰らったら死にそうだ﹂
﹁余計な魔精が消し飛ぶだけだ。命に害はない﹂
﹁そんな勿体ない、折角気分がいいのに﹂
﹁ふん、酔っ払いが﹂
鉄槌を受けた痛みよりも、ベリレに指を入れられた肩が痛い。ラ
ンタンはぐるぐると腕を回して、仕切り直しとばかりに大きく呼吸
を繰り返す。半端に吐き出した瞬間に踏み込む。こんな事でエドガ
ーの虚を突けるとは思えないがやらないよりはマシだ。
﹁えい︱︱﹂
蹴り足は躱される。水月狙いは半身になって空かされ、空かされ
た掌打に身体を引き寄せて肘を畳む。細く尖った肘打ちを容易に掌
に受け止められて、ランタンは背中から老躯に突っ込んだ。
﹁︱︱やっ!﹂
踏み締めた両足の下で鋼鉄が砕ける。舌打ち。震脚に跳ね返って
くるはずの体重が地面に抜けて、体重の乗らない背撃はただエドガ
ーに身体を預けるだけになってしまった。肩肘手首を固めて腕を鉤
型に。腰を回す。
肝臓打ち。
﹁ぶっ﹂
エドガーの脇腹を掠めただけ、ランタンは顔面に拳を受けて吹き
飛んだ。咄嗟に顎を引いて額で受けようとしたが間に合わなかった。
鼻の付け根の衝撃は、その内部に血の味を感じさせて、ランタンは
それが垂れる気配に鼻を啜った。ぺっと吐き出した唾液が赤く、舌
先に鉄の味を感じる。
﹁くそう﹂
それでもランタンの口元に笑みがある。突撃。
格上相手に正面戦闘。ランタンは手足を目一杯に動かして、エド
ガーに挑んだ。狙いは急所に絞らずどこかに直撃できれば御の字だ。
満遍なく無作為に徒手格闘を振り回し、今度は胸一杯に酸素を溜め
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込みそれを完全燃焼させる勢いで、ひたすらに攻める。
若さにものを言わせて、無茶をする。
﹁あれほど暴れたのに、まだ足らんのかっ!﹂
﹁おじいさまが変なものを飲ませるからっ﹂
猛攻にエドガーの呼吸が一つ荒れた。突き放すような中段蹴りを
胸に受け止めて、だが既に吐き出す分の呼気すら胸の中にはない。
諸手の掌打。だがそれよりもエドガーの頭突きの方が早かった。ラ
ンタンは叩き潰されるようにその場に倒れたる。
追撃の踏み付け。ランタンは腕で地面を突き押して、猫のように
跳躍した。
﹁死んだ振りは悪手だぞ。そういう魔物もいるからな、遠距離で狙
い撃ちにして終いだ﹂
﹁僕は魔物ではありませんよ﹂
ランタンはかち割られた額を指差して赤く流れる血を指先に掬い
取った。頭部の出血は怪我の大きさに比べて派手だ。大した怪我で
はない。興奮により血液は粘性を帯びて、指がベタベタとする。
﹁ああ、安心したよ。レティシアは親不孝な家出娘だが、何かあっ
てはあれの父に申し訳が立たんからな﹂
酩酊は人の理性を剥離させる。今のランタンはまるで心を剥き出
しにしたようで、笑いながら戦いに身を躍らせるランタンの姿は無
邪気の一言に尽きた。あるべくしてあるように四肢に戦意が満たさ
れていて、それの振り回す力は善悪の区別がなかった。赤子と同様
だった。
ランタンも呼吸を荒く、肩で息をして、そして疑問を吐き出す。
それは今までランタンが胸に抱くも、大人びた思慮深さや、ある
いはあと一歩、他人に踏み込めない臆病さとも呼べる繊細な性格か
ら吐き出せずにいたものだった。
エドガーはそんなランタンを眩しそうに見つめた。
﹁⋮⋮レティシアさんのためだけ?﹂
﹁お前以外の全員のためさ。リリオンも含めてな。お前は得体が知
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れなさすぎる﹂
﹁得体、⋮⋮ああ、なるほど。それは確かに︱︱﹂
体勢を低く、エドガーの足元に飛び込む。軸足への蟹挟み。掌打
をぶち当て膝をかっくんと折り曲げ、ええっとここからどうしよう
か、と迷いながらアキレス腱を固める。当然のように振り解かれた。
エドガーの脛当ての上を指が滑り、回し蹴りの要領ですっ飛ばされ
る。直接壁に叩き付けられなかったのは、これがあくまでもランタ
ンの体力を、赤子を泣き疲れさせるように消耗させるためである。
身体が縦に回転する。真横に吹き飛んでいるはずなのに何だか落
下しているような気がするのは、感覚器の肥大に寄る悪影響だろう。
わかりすぎる、というのも考え物だ。地に足が付いても天井を感じ、
地を離れるとついに天地の区別が曖昧に混ざる。
ランタンは頭上に手を伸ばした。地面に触れる。指先を滑り止め
に、だが遠心力が強すぎる。
倒立、後転、着地をして三歩後退。
﹁遅いっ!﹂
追撃の上段蹴り。
顎を引き、咄嗟に掌を差し込む。だが薄い掌は緩衝剤の役目をま
ったく果たさず、ランタンは自らの手の甲に額をしこたまに打ち付
けると、額の傷から再び出血が起こったのを感じた。首に繋がれた
紐を引かれたように真後ろにすっ飛んで、ランタンはそのまま安全
圏まで後退する。
いい匂いだ。
そこは飯場である。
戦闘音楽を遠くに聞きながら夕飯を作っていたリリオン、レティ
シア、シュアの三人がランタンの急な乱入に目を丸くしている。そ
してランタンの顔が血に汚れていることに気が付くと、リリオンは
手に持っている包丁を取り落としそうになった。
﹁わあっ、ランタン怪我してるよっ!?﹂
﹁探索中だもん怪我ぐらいするよ﹂
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とは言ってもここまで、なんだかんだと安全を第一に探索をして
きた。
竜種相手に大きな出血をするような怪我はなく身体の不調は、例
えば歩き続けることにより断続的に掛かり続ける負荷や、あるいは
竜種の強固な肉体へ対抗するために攻撃を打ち込む瞬間に掛かる巨
大な負荷による、肉体の内部に蓄積するものがほとんどだった。
表面に見えるものはこれが初めてに近い。やはりエドガーは強い。
一発ぐらいいいのを入れてやりたいな、とランタンは思う。リリオ
ンの心配を余所に。
リリオンは落としそうになった包丁をしっかりと握り、エドガー
を睨んだ。そしてレティシアやシュアが、なんだなんだ、とランタ
ンの頭部を覗き込む。生え際のあたりが裂けて、とろりと赤い血が
垂れていた。ランタンは掌で乱暴にそれを拭い、顔の右側に血化粧
が塗りつけられた。
﹁大した怪我じゃないな、唾付けておけば充分だろう﹂
﹁ふむ、はしゃぐのもいいが程々にな﹂
﹁⋮⋮何作ってるんですか?﹂
﹁ふふふ、秘密だ﹂
レティシアは小麦粉を練っていたのだろう手が白く染まっていた。
その手がにゅっと伸びてランタンの額を触ろうとしてシュアに窘め
られる。レティシアが何を作っているのかは不明だが、ランタンも
己の血が混じった料理を食べたいとは思わなかった。
ふと、腹の虫が哀れっぽく鳴いた。魔物と違って魔精だけでは空
腹が満たされないのだ。
﹁お腹空いた。リリオン、期待してるからね。レティシアさんも、
シュアさんも﹂
﹁ああん、ランタンっ⋮⋮﹂
ランタンは額の怪我に舌を這わせようとするリリオンから逃げ出
しつつ、待ち構えているエドガーへと走った。
歩幅の一つ一つを調節して、体重の全てを乗せきって踏み切り。
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エドガーの眼前に跳躍し膝を突き上げ、それが躱されるとみるや腰
を回す。
胴回しの浴びせ蹴り。滑空する右足を受け止められて、追従する
左足がエドガーの横面を狙う。ああ、惜しい。鼻先を掠めただけだ。
大きく弧を描いた左足に身体を預けて、止められた右足が再び動き
出す。エドガーの前腕を滑り落ちて肘窩を踏み台にして、背後を取
った。
背中合わせ。気配が膨らむ。
反転は同時。エドガーの拳が耳の傍を通り抜ける。実戦なら耳を
千切られていたかもしれない。肩を内に入れて肘打ちを胸に。胸甲
の表面を滑り、ランタンは一回転し左の肘で顎を狙った。エドガー
が大きく仰け反り、老躯は後転して跳ね上がりの爪先が喉に迫りく
る。
潜れ。
身体が自由に動く。ベリレのように幼い頃からの修練を積んだわ
けではない。リリオンのように類い希なる種族としての頑強さがあ
るわけではない。小さく、痩せた身体は、荒事には不向きであり、
その性根は暴力には不慣れだ。だが動く。たかだか一年かそこら、
迷宮に潜り続けて身に付くものか。
才能といってしまえばそれまで。
だが、これは。
エドガーの爪先を潜って躱し、後ろへ距離を取るエドガーへ迫る。
飛竜が火を吹いたように、空を飛んだように、当たり前に。着地と
同時に拳を突き入れた。
﹁︱︱⋮⋮、ふう、今のはやばかったな﹂
﹁これを受けますか。少し腹立たしいです﹂
﹁さすがに躱せはせんがな。実戦なら爆発一発に俺の胴は消し飛ぶ
さ﹂
﹁⋮⋮その前に首を落とされているような気がします﹂
ランタンはエドガーの肘に受けられてじんじん痺れる拳を解き、
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ぷらぷらと手を振った。受けた相手がエドガーではなかったら中手
骨の何れかが折れていたかもしれない。閉じて開いて、それが苦で
ないことにエドガーに感謝をする。
﹁僕も自分の得体が知れないのですけど、どのあたりまでお調べに
なれましたか﹂
﹁⋮⋮奴隷商に持ち込まれたところからだ﹂
ランタンが尋ねるとエドガーはやや声を潜めた。
﹁それ以前が四方八方に手を尽くしてもまったく追えない。探索者
ギルドの助力を得てもだ。普通はありえん。その奴隷商も、すでに
この世に存在しない。どうやら木っ端微塵になったらしい﹂
﹁⋮⋮へえ、不思議なこともあるものですね。でも残念だな。僕も
・
そのあたりまでしか知らないから、まあよくある事ですよね﹂
﹁親の顔を知らんことは少なからずあるが、十余年の生を知らんと
いうのは滅多なことではないぞ。何を気楽にしておるのだ﹂
﹁だってどうにもなりませんもの。人生諦めが肝心ですよ。生きる
こと以外に関しては﹂
﹁さもありなん。だが、嫌な達観だな。まだそんな歳じゃなかろう﹂
エドガーは思わずといったように笑いを零した。
ガキ
﹁でも過去が追えないだけで、僕がそんなに要注意に見えますか?﹂
﹁一見普通の奴の方が危ないんだ、特に子供はな。それに﹂
﹁それに?﹂
﹁⋮⋮お前は噂を知っているか? 下街でこの一年程で広まった噂
だ﹂
﹁ええっと、闇市で売ってる軍放出品の刀剣類の中に魔剣が潜んで
るとか、そういう類いのですか?﹂
﹁違う、そんなものは俺が生まれる前からある﹂
﹁屋台売りの大鼠の肉は実は人肉だって言う﹂
﹁それは真実だな、まあよほどないが。空惚けているのか本当に知
らんのか。カボチャ頭と言うものを聞いたことはないか?﹂
﹁⋮⋮? 魔物のあれですか。植物系と見せかけて、死霊系に属し
1479
てる︱︱﹂
﹁黄昏時に下街の薄闇に現れては、出会った人間を死に誘う。鬼の
ように強く、残酷で、手が付けられない。出会ったら逃れる術はな
いらしい。そう言った怪異の話だ﹂
﹁⋮⋮知らないですけど。でも逃げられないなら、どこからそんな
噂が出たんでしょうね﹂
ランタンは冗談ではなく思い当たる節ではなかった。この探索が
無事に終わったら、リリオンが一人で外に出歩けるようになるかと
思ったが、まだもう少し気をつけなければならない。
﹁お前はどうだ? よく絡まれては暴れていると聞いてるぞ﹂
﹁でも、僕は結構逃がしてますよ。ちゃんと殺さないとよくないと
はわかっていますけど、あんまり暴力って好きじゃないし﹂
真面目にそんなことを言い放つランタンにエドガーは両手を腰に
当てて俯き、低い声と一緒に肩を揺らしている。額に浮き出た汗を
拭い、そのまま髪を掻き上げて顔を上げた。
殺しきれない笑みが口元にあり、エドガーはベリレを振り返った。
﹁刀を。それとこいつに戦鎚を持ってこい﹂
﹁何を⋮⋮?﹂
﹁いいだろう。ちょっと斬りたくなったんだ﹂
﹁⋮⋮何を、仰っているのかわかりませんが﹂
理解できていないのはランタンばかりで、ベリレはいそいそと武
器の用意を始めた。壁際に立てかけられている竜骨刀の一振りをエ
ドガーに恭しく差し出して、戦鎚はいかにも投げやりに、ほらよ、
と言ったような感じだった。それでも乱暴なことはしないあたりよ
く教育が行き届いている。
﹁ありがとうね﹂
﹁⋮⋮ああ、うん﹂
ランタンが礼を言うとベリレは頷き、じっとランタンが見つめ続
けると、もごもごと口を開く。
﹁エドガー様は別にお前を殺そうとしてる訳じゃないから、安心し
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て斬られてくれ﹂
﹁何を言ってんのか全然わかんない。師弟揃って﹂
とは言え何か気に障ることして殺されるわけではないようだった。
例えばエドガーが気に掛けているレティシアの腰巻きを捲り上げた
事に対する罰を与えられたりと言うような。
やばい、後で謝っておこう。ランタンは不意に己の行動を思い出
し、一筋垂れた冷や汗はそれ以前のものと混ざって区別が付かない。
人生諦めが肝心だ。後悔は先に立たない、もう、変なもの飲ませる
からとエドガーを睨む。人はそれを責任転嫁という。ランタンは肉
付きのよく、引き締まった足を思い出して赤くなった。
ランタンは戦鎚の重さを確認するようにぐるぐると手首を回す。
少しだけ、軽く感じる。
﹁男同士、拳を交えてわかり合える事も多い。ベリレと仲良くして
くれてありがとうな。あれも最近は楽しそうだ﹂
﹁はあ﹂
﹁拳を交えてわかり合えるのならば、斬ればもっと深くを知る事が
できる。ほらよく言うだろう。腹を割った話し合いと﹂
エドガーは自分の言った冗談に呵々と笑い、竜骨刀をすらりと抜
き放った。
﹁爆発の使用を許可する。遠慮はいらんぞ﹂
﹁⋮⋮僕、なめられていますか﹂
身体を動かし続けて小さくなった腹の中の炎が
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