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よくわかる新?戦国日本史∼異世界人と現代人が

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よくわかる新?戦国日本史∼異世界人と現代人が
よくわかる新?戦国日本史∼異世界人と現代人が戦国時
代で無双する∼
式村比呂
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
よくわかる新?戦国日本史∼異世界人と現代人が戦国時代で無双
する∼
︻Nコード︼
N6761DE
︻作者名︼
式村比呂
︻あらすじ︼
異世界の魔法使いと錬金術師が戦闘中に<時空跳躍>の魔法を暴
走させ、キャンピングカーで旅行中の安倍晴之を巻き込んでしまう。
暴走した<跳躍>でたどり着いたのは、戦国時代の日本だった。
<言語理解><収納><錬金>を使う晴之とフリーデ、<治癒魔法
>を使うアイリの3人は、京で出会った知識人で公卿の山科卿に助
1
けられ、なんとか生き延びる手がかりを掴む。
この物語は、平成生まれの現役工学部の学生が、異世界の﹁魔法使
い﹂や﹁錬金術師﹂と一緒に戦国時代に放り込まれて生き残りを模
索する、良く分かる﹁新?日本史﹂である!?
カクヨムサイトにも投稿しております。
2
プロローグ1︵前書き︶
カクヨムにも投稿しています。
3
プロローグ1
魔法使いと錬金術師が殺し合うようになって30年以上経っていた。
もう今では、そもそものきっかけやら和解交渉やらといった﹁昔の
話﹂は双方どうでも良くなっていた。
殺し合いの結果、恨みや憎しみが一人歩きしている。
国家にとってはどちらも貴重な人材。言うまでも無く皇帝も何度も
仲介に入ろうと努めた。
しかしそれも、10年以上前に交渉会議中に時の皇帝を巻き添えに
会議場が爆発消滅して以降、口に出すことさえタブーになる始末だ
った。
﹁見つけたぞフリーデ!﹂
全身黒ずくめのスーツ姿の青年が、石造りの古い都市の裏通りで叫
んだ。
赤銅色の鮮やかな髪を美しく整えた端正な風貌をもっている。
身につけた衣服も相まって、この青年の身分が尋常では無い事は一
目瞭然だった。
青年は右手の指をパチンと鳴らした。
すると、三角帽、マント、杖という魔法使いの﹁戦闘服﹂が虚空か
ら現れ自動で装着された。
フリーデと呼ばれた少女は振り返らず立ち止まり、ちっ、とひとつ
舌打ちをした。
少女の服装は、町の平民の少女たちとさほど変わらない。
木綿仕立ての質素なワンピースのスカート姿だ。上着は胸のあたり
4
を皮糸で結んでいる。この世界ではなんと呼ばれているか分からな
いが、﹁チロルスカート﹂にちかいデザインといえる。
使われている綿布は充分に漂白されていない上につむぎの粗い安物
だった。
服装だけを見れば、彼女はどこにでもいる名も知られない庶民の小
娘に見えただろう。
だが異装なのは、その上に彼女が羽織っているコートだ。
薄茶色の革のロングコートである。
質素ながら可憐な木綿のチロルスカートとは似つかわしくないこと
この上ない。
例えばこの上に、この世界にあるかは分からないが、ボルサリーノ
というイタリアマフィア愛用の帽子でもかぶれば、まるで大昔に流
行したB級映画の殺し屋、といった風情の無骨なコートだ。
事実、フリーデは表通りを歩いているときにはこのコートを羽織っ
ていなかった。
つまり、チロルスカート姿は人目を欺くための擬態だったのであろ
う。
︱︱極力戦闘は避けて逃走すべき。
フリーデはほんの一瞬で彼我の戦力評価を終えた。
それほどの相手だった。
その判断が体重移動に現れたのか、フリーデの気配を読んだ男は顔
をゆがませて嗤った。
﹁逃がすわけがないだろう?﹂
男は、杖を持たない左手でさっと合図を送った。
︱︱誰に?
5
ちら、とフリーデが視線を後方に送る。
そこには、男と同じように魔法使いの正装をした二人の少女が、男
と結ぶと三角形を描くようなポジションを取っていた。フリーデは
その三角の中に捕らわれた形になる。
﹁久しぶりねマロール。伯爵自らご登場とは恐れ入ったわ﹂
フリーデは逃走をあきらめた。
夕日が町を赤く染めてるとはいえ、まだ小さな子供さえ屋外で遊ん
でいておかしくない時間だ。
にもかかわらず、この裏通りには、あらゆる人々の生活の気配がし
なかった。
︱︱人払いの結界か、もしくは⋮⋮
フリーデは、巧みに彼らの張った罠に誘い込まれたようだ。
﹁やっと法務卿から君に対する仇討ちが認められたのでね、フリー
デ。父の敵だ。せいぜい抵抗するがいい﹂
マロールと呼ばれた男は、これから仇敵を殺すという暗い愉悦を表
情に浮かべた。
伯爵、という単語から想像される男性像からはほど遠い若者だった。
おそらく、フリーデと呼ばれている少女と同年配だろう。まだ、2
0歳の区切りは越えていないようにも思える、どこかしらうっすら
と幼さを感じさせる容姿だった。
﹁あら、私もちゃんと仇討ちの認定を取ったわ? 私の父の、ね﹂
そもそも、フリーデの父をマロールの父が闇討ちに近い形で討った
ことがこの因縁の始まりだった。
6
フリーデは、正規の手順でマロールの父を討ち、その結果を王庁に
届けた。
つまり、マロールに仇討ちの許可が下りるはずはないのである。
もっともそんな話をフリーデが持ち出したのは時間稼ぎに過ぎない。
この状況で正当性を主張したところで、殺されればそれまでなのは
彼女にもよく分かっている。
そうした話をしつつ、コートのポケットに入れた左手には、いざと
いうときのため常に用意してある﹁触媒﹂が握られている。
魔法親和性の高い数種の貴金属を含有した原鉱石だ。
だがその触媒が効力を発揮するまでの目くらまし、そして時間稼ぎ
のために、フリーデにはもうワンアクションどうしても必要になる。
﹁フン、そのようなものお前を討てばどうとでもなるのさ⋮⋮やれ
!﹂
マロールは、フリーデの背後に陣取らせた二人の魔法使いの少女に
命令を出した。
同時に、自身も全力で駆けだし、フリーデとの距離を縮めていく。
フリーデ。
この稀代の天才錬金術師を前に、魔法使いたちは危機感を募らせて
いた。
故に、魔法使いたちも結束して、この少女を抹殺するべく策謀を巡
らせていた。
特に、彼女に深い恨みを持ち、かつ、暗殺後にも司直が手を出せな
い人物。
マロールがリーダーとなった。
動機も理由も充分にあり、高確率で免罪される家柄。
現伯爵自ら手を下すことで成立する完全犯罪だった。
7
フリーデは左手で魔力を注いでいる触媒への準備に並行し、コート
の内ポケットにある試験管を取り出した。
にびいろ
試験管の口にはゴムのキャップがされている。
アマルガム
中には、鈍色に輝く液体の金属⋮⋮水銀をベースに数種の貴金属を
溶解させた触媒が入っている。
その試験管を三本。それぞれ自分に向かって迫り来る魔法使いたち
の進路上に投げつける。石畳の上で砕けた試験管から、触媒が飛び
散る。
触媒。
錬金術は魔法の術式の発動に自身の身体を使わない。
術式によって魔法が発動するのは魔法使いも同様だが、錬金術師は
その術式を触媒に乗せて世界に干渉する。
対する魔法使いは、自身の身体そのものをある種の触媒としている、
といっていい。
思考そのものが一種の回路であり、当人のイメージが世界に干渉す
る。
そしてその干渉の補助のため、呪文なり杖なりを使う事になる。
だから、錬金術師と生命を賭けた戦いを繰り返す魔法使いたちは、
錬金術師がばらまく触媒に対して慎重になる。
触媒は、術師が魔法を発現させるまではどのような攻撃か判断がつ
かないためだ。
﹁ゴーレム!﹂
フリーデの後方に陣取った少女の1人が叫んだ。
錬金術師の使う術の中でも比較的攻撃・防御共に高い能力を誇る戦
闘術式だ。
石畳の路地から、光と共に、まるで舞台の奈落からせり上がってく
るかのように、フリーデの撒いた水銀の触媒から三体のゴーレムが
8
出現してきた。
﹁くっ!﹂
マロールは、とっさに自身の眼前に現れたゴーレムに魔法を放った。
同様に後方の二人の少女もそれぞれ、杖を突き出し詠唱を始める。
呪文の詠唱に気を取られた三人は、ほんの一瞬、フリーデに肉薄す
る歩を緩めた。
フリーデの狙いは、そこにあった。
アマルガム
水銀合金と違い、コートのポケットに隠した鉱石は、充分に魔力を
通すのに時間がかかる。
本来は精製された貴金属のほうがもちろん魔法触媒としての能力も
高いのだが、言うまでも無く目がくらむほど高額である。
そこで、全く精製されていない原石の鉱石を可能な限り安く調達し
て身につけている錬金術師は多い。
充分に魔力を行き渡らせれば、必要かつ充分だからだ。
フリーデは、魔法が行き渡り虹色に色を変えながら輝きだした鉱石
をポケットから取り出した。
﹁それじゃあね、ご苦労様﹂
出現しきっていないゴーレムは能力を発揮することなく3人の魔法
使いに駆逐されている。だが、充分に足止めの役割は果たした。
﹁アイリ! そいつ時空展開してる!﹂
少女の1人が叫んだ。
﹁了解! エリーカ、カバーして!﹂
フリーデは捨て台詞を残して消えた、はずだった。
﹁今回は逃がさないよ、フリーデ!﹂
だが、アイリと呼ばれた少女も、指から抜いた指輪をフリーデの展
開した時空展開の境界に向かって投げつけた。
指輪は、境界の中に入ると激しい光と共に消滅し、次の瞬間には時
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空境界を一気にふくれあがらせた。
﹁なっ! バカ!﹂
フリーデの悲鳴が響いた。
フリーデが展開した時空展開は、その干渉によって、もはや彼女の
制御を離れて暴走を始めてしまったのだ。
ふくれあがった時空境界は、マロールともう1人、エリーカと呼ば
れた少女をも巻き込んで暴走し、やがて消えた。
そして4人の姿もまた、この世界から消失していた。
主を失った空間魔法は消散し、この下町に人々のさざめく声が戻っ
た。
それはいつもと変わらぬ夕暮れの街の姿そのものだった。
10
プロローグ2
安倍晴之は、大学四年の夏休みを、昨年末に死んだ祖父の形見のキ
ャンピングカーで旅して過ごしていた。
8人乗れるキャンピングカーに一人っきりなのは、細かい言い訳を
すれば就活の忙しさがピークの時期であるとか、昨今の就職難のせ
いであるとかいくつでも付けられるのかも知れないが、端的に言っ
てしまうと彼の性格ゆえであろう。
本質的な部分で彼は群れるのを嫌う質である。
同様に、親戚をこの車に乗せるのも晴之にとっては御免被りたい。
彼自身、一族中では社交性の乏しい男とみられているし、それを良
しとしている。
国立最高峰の工学部に所属し、実家は規模こそ中小レベルだが安定
している企業を経営する一族。
そして見た目も人並み以上だ。
もし彼に誘われたら、少なくともデートくらいなら間違いなくつき
あいたい、と考える女性は多いだろう。
そんな家庭の資産状況で、かつ恵まれた容姿でありながら、こうし
た旅行の助手席に乗せる女性がいないというのも、彼の特徴的な人
格の一部だろう。
彼の祖父である安倍晴貞は戦中生まれだった。
規模は職人数人の町工場ながら、戦闘機の精度を要求される部品を
手作りしていた精密加工職人の家に生まれた。
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戦後、時代の変化に対応出来ないいくつかの工場や部品商などを買
い取りつつ、柔軟にニーズに応じて自動車やバイクの部品、電化製
品の部品、精密機器の部品などを手作業で仕上げるスペシャリスト
として厳しい時代も乗り切ってきた。
晴貞には男3人、女2人の子供がいて、彼自身の引退と共にその5
人に会社をそれぞれ分けて譲る形で身を引いた。きっかけは、妻の
死だった。
﹁仕事が落ち着いたらどこか旅行に行こう﹂
いつもそんな話を妻とはしていた。
いつもは
﹁はい、期待しないで待ってますからね﹂
等と微笑んでくれた妻だったが、最後に
﹁そんなつもりもないくせに﹂
と、本気で怒られて以来、口にしなくなった。
そのときもう妻は自分の余命を知っていたのだった。
妻に呼び出されて病院に駆けつけると、無慈悲に医師から、末期の
大腸癌で転移も認められる。余命はもう幾ばくもない、と聞かされ
た。
時が止まった気分だった。
その足でキャンピングカーを買いにいった。
セミフルコンと呼ばれる、ベース車体を切ってキャンパー部車体を
接合した、ベーシックモデルでも1400万円を越えるキャンピン
グカー。これに考え得る限りの贅沢な装備を施し、電源部にはガソ
リン駆動のジェネレータを二機も積んでいた。
総額2000万を越える買い物だった。
晴貞はそれを即金で購入し、納車を待った。
だが困った問題がひとつあった。
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晴貞は免許こそ持っているものの、40代半ばからは専属の運転手
の後部座席にしか乗る機会はなかった。
運転が出来ないのである。
昨年末に退職した、長年彼の専属運転手を務めた里長という男にも、
晴貞は良く、
﹁お互い隠居したらどこか温泉にでも行こう。お互いの妻を連れて﹂
等といったものだ。
それを思い出し電話を入れてみた。
彼の妻が出た。
﹁2ヶ月前急に倒れて、そのまま意識は回復しませんでした﹂
あまりに予想外の返答に、言葉を失ってしまった。
その日のうちに秘書課全員に、
﹁一日でも早く引退する。最短で引退できるよう手を尽くしてくれ﹂
といった。
全員、突然の困惑で固まってしまった。
﹁妻が、末期癌だ。もう、長くない﹂
自然と瞳から涙がこぼれた。
この年まで、会社の部下達の前で一度たりとも涙など見せたことは
なかった。
部下達は、死にものぐるいで、彼がいなくても会社が回るよう道筋
を付けてくれた。
注文したキャンピングカーの納期は最短で、2ヶ月だと言われた。
だがキャンピングカーが完成する前に、妻の容態が急変した。
大腸癌が腸閉塞を起こした。骨と皮のよう痩せてしまった妻は、そ
のまま消えるように亡くなってしまった。
13
そのあと、キャンピングカーが納車された。
49日が終わっても、もはや自宅から出ることさえ億劫になって、
彼はただ一日なにもすることなくテレビを見て過ごした。
そろそろ、車を動かさないとまずいかな。
そんな風に思えるようになったのは、もしかしたらやっと心の整理
がついたからかも知れなかった。
だが、軽トラックならいまでも運転は出来るかも知れないと思うが、
これほど大きな車体には自信がなかった。
会社から1人運転手を借りて旅をしようかと思ったが、さすがにそ
れは味気ない。
そこで一族を見回す。
大学生であり、就職活動が必要なく、しかも学業が優秀な孫の1人
である晴之に白羽の矢が立った、というわけだった。
彼の夏休み期間を大きく割いてもらって、気ままなキャンプ旅行を
しよう。
と言うことになった。
ほかの孫達にも全員声はかけた。
だが、あまりに無計画で長期間の旅行には、誰1人参加しようとし
なかった。
皆、習い事やら塾やら、部活があるといっていた。
2人の旅行が始まった。
一日おきに、道の駅やパーキングエリアでキャンピングカーに泊ま
る。
そして、翌日は老舗温泉旅館で豪華な食事と温泉を味わい、酒を飲
んだ。
さすがの無愛想な晴之も、三日もすると祖父と打ち解けた。
お互いにとって、心に残る旅になった。
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京都、大阪と神戸では、祖父のコネを使って一流企業の工場や研究
所を見学させてもらったりした。
名所旧跡を訪ねたり、祖父の知る名湯や名だたる名旅館のもてなし
も楽しませてもらった。
そんな旅を、ついに鹿児島まで2人で続けた。
だから、年の瀬も近づく12月の初旬、晴貞が亡くなったと知らさ
れたときには晴之は驚いた。そして自身でも意外なほどに動揺した。
心筋梗塞だった。
︱︱もしかしたら自分は身内が死んでも悲しめないほど冷酷な性質
ではないか?
晴之はそんな風に自分のことを思っていたのだ。
由来、晴之は他人の感情に頓着しない。
彼に心を寄せた少女は1人や2人ではなかった。だが、中学生の頃
一度近所の幼なじみと、恋ともいえぬ曖昧な関係を築きかけ、
﹁あなたはやっぱり、冷たい﹂
そんな捨て台詞を残して去られた。
それ以来、晴之は自身のそばに女の影を置かなかった。
本人は人の世の機微に疎いと思い込んでいる。
だが、
﹁それは逆だ﹂
と晴貞は旅の途中で言った。
︱︱お前は、聡い。
﹁聡いからこそ、ほんの小さな指の動き。目の動き。顔の小さな筋
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肉の動き。そんなもので何かを悟ってしまうのさ﹂
︱︱それは人として欠点ではないのか?
というようなことを祖父に聞いた。
﹁そんなわけ、あるか﹂
祖父は大笑した。
﹁それは一種の感覚だ。嗅覚、触覚、視覚。そう言ったものの一種
だ。だがそれは、誰もが持てるものではない。いつか⋮⋮﹂
祖父は少し晴之を見つめ押し黙った。
﹁いつかお前が世に出たとき、それはお前を助けるだろうさ。それ
にな晴之﹂
息を継いで、祖父は続けた。
﹁同僚が出来、仲間が出来、上司やら部下が出来たら、孤独なんて
言っている暇がなくなるさ。お前はやがて、人の上に立つ。それは
間違いない。お前の能力や才能が、お前を孤独に朽ちることを許さ
ないだろう﹂
﹁そうでしょうか?﹂
﹁そうだ。人の世というのはな、そんな風に出来ているらしい﹂
晴之が、まだ不承不承に曖昧な表情を残していると、祖父は彼の目
をじっと深くのぞき込み、まるできゃっと笑い声を上げたような無
邪気な表情になった。
﹁俺がそうだった。まあ今に見てろ。俺が正しかったって、わかる
さ﹂
あの日、物心ついてからわだかまっていた晴之の心のどこかが、ほ
ぐされたような気がした。
冷たい、と公然と他人から浴びせられた言葉で固まっていた何かが、
再び熱を持った気がした。
その何でもない会話が、祖父の亡骸の前で何度も何度も頭で再生さ
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れる。
自分が泣いていることに、晴之は気がつかなかった。
焼香を終え、父の横に座る。
晴之はどうしても祖父との旅を思い出してしまう。
旅の途中、高速道路の単調な風景が流れる中、祖父が突然晴之に訊
ねた。
﹁晴之、お前は今何を学んでる?﹂
﹁基礎工学と材料工学﹂
﹁基礎工学は何となく分かるが、材料工学?﹂
基礎工学というのは、現代のように複雑に多様化した社会の中で﹁
全ての技術の根幹になっている技術を基に、工学全域を見渡した研
究と開発が出来うる知性を追求﹂している。
基礎工学が学生に伝えようとしている内容は、晴貞にも分かる。
﹁材料工学は、物質の分析や、新素材の解析や開発﹂
ばけがく
﹁バイオとかか?﹂
﹁そっちは化学。ウチの方は金属や無機物⋮⋮セラミックとか﹂
﹁なるほどな。で、お前はこの先何になりたいんだ?﹂
晴之は、ハンドルを握りながら流れる景色の中でしばし考え
﹁やっぱり研究開発⋮⋮かな?﹂
研究開発
この青年にしては珍しく、言いよどんだ。なやんでいるらしい。
﹁ウチにはR&D部門がなかったな?﹂
﹁うん﹂
﹁他社に行くのか?﹂
﹁⋮⋮とりあえず、院試を受ける﹂
﹁そうか。まあもし間に合うようなら、お前のために部門を用意し
てやりたいところだが⋮⋮﹂
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そう言いかける祖父に、
﹁精密の開発部があるから。それに、出来れば研究室に残りたい﹂
設備が違うからね、と晴之は言った。
精密というのは、晴之の父晴信が経営する安倍精密加工のことだ。
だが、やはり大企業とまでは行かない企業のことだ。
とても晴之の通う国立工大のラボとは比較にはならなかった。
ホールディング
晴貞は亡くなる直前に、遺言状を書き換えていた。
晴之には、アベグループHDという持ち株会社の株式31%と、こ
のキャンピングカーが相続された、
これは、孫としては彼だけのえこひいきだった。
安倍家全ての企業資産と、全グループ企業の株式が管理されてる資
産運用会社だった。つまり、晴之はいきなりそこの筆頭株主になる。
そして晴之の両親にそれぞれ10%ずつ。残りの49%を残る4人
の兄弟とその配偶者達に残した。
晴之がその気になれば、即51%の議決権が得られる。
祖父の個人弁護士の山本弁護士が遺族全員の前で読み上げた遺言状
には
﹁晴之と二人っきりの旅行は人生最後の愉快だった。つきあってく
れた感謝が彼への相続を残す理由だ﹂
と記されていた。
不満は持ったが、それぞれの親族一同には返す言葉がなかった。
﹁晴之、ちょっといいか?﹂
ウチ
晴貞の長男、つまり晴之の伯父にあたる晴良が、葬儀のあとの精進
落しの会席で声をかけてきた。
﹁⋮⋮親父がお前のためにって、本社に研究所を作ろうとしてたの、
18
知ってるか?﹂
晴之は首を横に振る。
﹁こんな話を今すべきじゃないとは思うが、一応伝えておく。親父
の肝いりだから表だって反対する者は居なかったが、経営面でも、
業績面でも、今ウチでは、あの規模の研究所は不要だと思っている。
俺は次の役員会で、この話を止めるつもりだ。分かってくれ﹂
晴良は、硬い表情で晴之にそう伝えた。
﹁分かりました﹂
晴之としても何ら異論はない。そもそも、祖父が引退してからのア
ベグループに、晴之はなんの期待もしていなかったのだ。
手堅くはある。
だが、今のままではやがて先細り、いずれは厳しい国際競争と価格
競争の波にのまれるような予感がしていた。
﹁お爺さまにも伝えたんですが、僕は大学に残りたいので﹂
晴之は先回りしてそういった。
﹁そうか﹂
顔をこわばらせたまま、晴良はうなずき、自分の席に戻った。
﹁⋮⋮いいのか?﹂
小声で父が耳打ちした。
﹁大学のラボやメーカーの技研の方が俺にはむいてるよ﹂
そう小声で返して、晴之は目を伏せて笑った。その微笑に、晴信は
どこかしら儚さを感じた。
19
プロローグ2︵後書き︶
すっかりご無沙汰いたしました。
式村比呂です。
奥多摩個人迷宮は、おかげさまで順調に書籍化作業に入らせて頂い
ております。
お待ちいただいている皆様には恐縮ですが、その間を利用しまして、
新しい作品を一本書き進めました。
もしよろしければ、こちらの方もよろしくお願いいたします。
20
プロローグ3
晴之の意識は、祖父との思い出への追憶から、現在にもどる。
今夜は、京都の北、京北にある道の駅の駐車場で一泊する。
過ぎた日に祖父と一夜を過ごした場所だった。
晴之は、なんとなしに祖父が亡くなってから今日までのことをとり
とめもなく思い出していた。
だが、ひとつ頭を振ると、卒論のために集めた膨大な資料の下読み
の作業に戻った。
なにも夏休みの自由な旅行中にまですることはないと自身でも思い
はするが、どうせ日が暮れてからはやることもなかった。
祖父が金に飽かせて作り込んだこのキャンピングカーには、40型
のテレビや27型モニター付きのパソコン。コピー、スキャナやフ
ァックス機能のついたプリンターなど、論文を書くためには充分以
上の設備が整っている。
そして、化学総覧や分子データベース、工作機械総覧や特許データ
などを保管したUSBデータもあるだけコピーして全て持ち込んで
いた。
さらには、有機系物質分野への応用のため、現代の治療方針、現代
の治療薬と言った医学・薬学系の資料なども持っている。
食事は近場の食堂で簡単に済ませた。
手洗いは、道の駅に備えられたトイレを借りる。
キャンピングカーの構造的な弱点。それは水回りだった。
キッチンの流し台も水洗トイレもシャワールームももちろん車内に
はある。
21
だが、給水と排水については、未だ日本国内でも﹁どこでも﹂とい
うほどには普及が進んでいないのだった。
晴之が論文作業に没頭し始めてから数時間がたった。
周囲はすでに街灯以外の明かりが消え、静寂が訪れている。
晴之が時計を見る。深夜の11時48分だった。
突然、キャンピングカーの窓から、薄赤色の閃光が差し込んできた。
その光は、車窓を覆うレースのカーテンを透かして、車内の明かり
よりも強く晴之に降り注いだ。
︱︱なんだ? 大型トラックのライトか?
とっさに晴之はそう思い、そしてすぐさま自分の考えを否定する。
自動車のヘッドライトには、使ってよいとされる色が決められてい
る。
様子を窺おうと晴之がデスクを離れた瞬間。
激しい衝撃が、3トン以上は間違いなくあるキャンピングカーを大
きく揺さぶった。
﹁んな! ばっ!﹂
んな馬鹿な。
叫びかけた彼の身体は衝撃で揺さぶられ、次の瞬間、宙に浮くよう
な浮遊感に襲われた。
数秒、だろうか。
彼の浮遊感は突然現実に引きずり戻されたように喪失した。
マイクロバスを改造して作られた重量級のキャンピングバスは足回
りが強い。
そのサスペンションが深くきしむように波打った。
車内で晴之は転倒し、ダイニングテーブルに背を打ち付けて苦悶し
22
た。
﹁くそっ!﹂
しばらく目を腫らして苦痛にうめいたあと、やっと引いて身体の硬
直が収まったので、晴之は客室の扉から表に飛び出した。
何者が彼に危害を加えたのかは知らない。しかしなんであれ、一言
言ってやらねば気が済まないし、可能なら、法の裁きを受けさせた
かった。
だが、外に出た瞬間。
晴之は硬直することになる。
腕時計を見る。確かに今は真夜中の23:52を示している。
だが、外には松や杉の生い茂る山林があり、そして、薄い霧を淡く
光らせる朝日が昇っていた。
﹁くっ⋮⋮﹂
小さな声で女がうめいた。
晴之がとっさに振り返ったとき︱︱。
彼の肉体は得体の知れない閃光によって打ち抜かれた。
アイリは、敵の錬金術師︱︱見知った女だった。名をフリーデとい
う︱︱を討ち取った!、と確信して、それでも用心深く近づいた。
だが、そこに倒れていたのは、かつて見たことのない衣服を着た年
若い男だった。
﹁アイリィ!﹂
見知らぬ男を誤殺した。アイリが動揺した隙をフリーデは見逃さな
かった。
アイリの顔を握りしめたこぶしで殴りつけた。
アイリは完全に不意打ちを決められ、固い金属の壁のようなもの、
23
もちろん晴之のキャンピングカーのボディだが、そこに頭をしたた
かに打ち付けて倒れた。
フリーデはそのままアイリに馬乗りになり、その首に、黒いヒモを
巻き付けた。
更にそのヒモに、内ポケットから取り出した水銀を垂らす。
﹁抵抗するんじゃないよアイリ。あんたもそれが何か知ってるだろ
? 首から上が消し飛ぶよ!﹂
隷属の首輪、等と称される拘束具だ。
抵抗しようともがき始めたアイリは敗北を悟り、ぐったりと力を抜
いた。
﹁さて、あんたが巻き添えにした人の様子を見ようか?﹂
フリーデはそのままアイリを解放すると、攻撃魔法の誤爆をうけた
男性の様子を見に行った。
︱︱まったく。相変わらずいい腕をしている。
フリーデはため息をついた。
男性は見事に胸部を打ち抜かれている。だが、幸いなことにギリギ
リまだ命はあった。
一瞬躊躇したものの、フリーデはコートの内ポケットから、虹色に
輝く小石の入ったビンを取り出し、打ち抜かれて肋骨や肺が鮮血に
混じってむき出しになっている青年の心臓付近にその石を置いた。
﹁アイリ、回復魔法をかけな!﹂
言われてアイリは一瞬、反抗的に実をすくめてフリーデをにらみつ
けたが、自分が犯した罪もない人間への暴虐の因果を目の当たりに
し、急いで青年の元に駆け寄った。
﹁⋮⋮﹂
小声で回復魔法を詠唱し、青年に置かれた石に施術する。
すると、その石は一瞬発光し、みるみるうちに青年の肉体を修復し
ていった。
24
やがて損壊した皮膚が傷口をふさぐように盛り上がり、最後には大
きな傷こそ残したものの、なんとか生命としての形を取り戻した。
﹁まさか、今の触媒は⋮⋮﹂
そのあまりにも劇的すぎる再生を見てアイリは目を剥いた。
﹁そう。<賢者の石>だよ⋮⋮使うしかしょうがなかったでしょ﹂
失血と外傷性ショックで、もう数瞬でも2人のどちらかがためらっ
ていたら、青年は命を落としていただろう。
キャンピングカー
青年が出てきたこの奇妙な建物⋮⋮というには小さい家屋に、アイ
リとフリーデは彼を運び入れた。
彼女達は、あまりに自分たちと違いすぎる文明の産物に驚きつつも、
なんとか青年をベッドに横たえた。
魔法使いと錬金術師が同室で対面しても、話すことなどなかった。
重苦しい沈黙の中、2人はやむなく、沈黙の中で自分たちが傷つけ
た青年の容態を見守った。
﹁⋮⋮う﹂
どれほどの時間がたっただろうか。長い沈黙の時間が過ぎ、やっと
青年はぴくり、と指を動かし、うめき声を上げた。
﹁ぐっ⋮⋮!﹂
青年は胸に手を当て、苦しそうにうめいた。
直後。
様々な魔法の現象に出くわしたはずの錬金術師も魔法使いも、かつ
て遭遇したことのない出来事を青年は引き起こした。
魔法には、触媒を用いる錬金術であれ、その身を触媒とする魔法使
マナ
いであれ、発動させるために必要な﹁構成要素﹂がある。
それは世界に満ちている魔素だ。
そのマナが、たった一瞬で、彼女らが知覚できる空間から消え失せ
た。
25
もしマナを知覚できる瞳があって、このキャンピングカーを外部か
ら観察していたとしたら、青年︱︱晴之を中心に、球形にマナが喪
失したのを見ただろう。
それも、半径にして数キロ、という規模でだ。
2人の女性は全身からマナが強奪されたような衝撃を受けた。
だがそれは一瞬のことで、四方八方から再び、キャンピングカーの
車内にマナが満ちて来た。
反対に、生まれて初めてマナというものが身体の隅々まで行き渡っ
たのを感じ、晴之は戸惑った。
だが、それ以上に戸惑ったのが自分の着衣だ。気を失う直前の記憶
が戻っただけに、その混乱は大きかった。
︱︱確か、胸に大きな穴が⋮⋮
首を傾け、自分の胸元を見る。
確かにそこには、失った細胞を再生させたことを物語る、ややピン
ク色がかった再生された皮膚のあとがある。だが、明らかに致命傷
だった、肋骨や肺まで抉られて見えていた傷の状態は、すでにかけ
らもないほど状態は回復している。
しばしの沈黙のあと、やっと周囲を見回して、晴之は言った。
﹁あんたら、なに?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
2人の女たちは何かよく分からない言語で話しかけている。
日本語ではない。日本語であればたとえどれほど強い方言であって
も、日本語だと感じられる音節があるものだ。
26
そして、英語でもない。
もしかするとドイツ語やラテン語に近いのかも知れないが、残念な
がら晴之には全く聞き取ることが出来ない。
業を煮やしたのか、革のコートを着た女がポケットから、白濁した
河原の石のようなものを取り出して、晴之に握らせた。
⋮⋮?
ひんやりした石を握らされて晴之が首をかしげると
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
何か声に出したコートの女が、その石にちょんと触れる。
ぞわっと、何かが多量に晴之の体内から吸い出された感じがした。
﹁これで、言葉が通じます。私はフリーデ。こっちはアイリ﹂
﹁⋮⋮俺は晴之だ﹂
フリーデとアイリは、彼女らがとある都市で出くわし、その後戦い
になり、時空跳躍で逃げようとしたフリーデに妨害を仕掛けたこと。
その結果、2人がどこか分からない時空に暴走した跳躍を行い、晴
敵
之を巻き込んだこと。
最後に、アイリがフリーデと誤認し、晴之を攻撃したこと等を話し
た。
魔法にしろ錬金術にしろうさんくさそうな顔で聞いていた晴之だっ
たが、いくつか自分の身体で体験している以上、軽々に否定はしな
かった。
一方でフリーデとアイリも、これほどのトラブルに巻き込んでおき
ながら、責めるでもなくただ事情を淡々と聞いている晴之に不気味
ささえ感じている。
知性の高さと感情の抑制を感じていたのだ。
もっとも、アイリについては、一体どれほどの賠償を求められるの
か? と、不安だったのかも知れないが。
27
キャビン
晴之は、客室の窓にかけられたカーテンを開けてみた。そして腕時
計を確認した。
﹁なるほど。話は分かった⋮⋮ところで、ここはどこなんだ?﹂
今度はフリーデとアイリが驚愕する番だった。
晴之の説明では、
﹁ここは俺の居た世界ではない﹂
ということになる。
ひとつは、時間が違う。晴之はキャビンの時計、スマホやタブレッ
トの時計、PCの時計で腕時計のデジタル時計で、時間に狂いがな
いことを確認した。
どの時計も今が深夜0時30分前であることを示している。
だが、どう見ても外は朝の8時過ぎ、といった風景だった。
朝霧は去り、緑豊かな山中といった風景が広がっている。
晴之が聞いた彼女達の話を総合すると<時空跳躍>とは、隣接した
時空世界にほんのわずかの気泡のような泡を発生させて転移してい
るらしい。
だが、世界と言うのは無数にあり、その<時空跳躍>魔法のベクト
ルによって任意の世界を﹁勘﹂で動くひどく﹁アナログ﹂な魔法の
ようだ。
フリーデは他人、つまりアイリによる妨害干渉を受けたため、彼女
達の意図しない世界︱︱晴之の世界︱︱に飛んだらしい。
だが、晴之に言わせれば、ここは﹁彼の世界﹂ではない。
まず、見渡す限りの範囲に、高圧電線、送電線、信号機といった支
柱のある人工物がない。
道の駅だったはずのこの場所には、アスファルトやコンクリートと
28
いった敷設物も建造物もなにもなかった。
そして、時間が8時間以上狂っているように思う。
﹁一つの可能性として﹂
フリーデが言う。
﹁アイリによって暴走した<時空跳躍>が、貴方を巻き込むことに
よってさらにベクトルを換えて跳躍してしまった﹂
﹁わかった﹂
晴之はうなずいて思考に沈んだ。
晴之は、危機感を感じている。この世界がどこで、どういう状況な
のか早急に理解する必要がある。
モンスター
なぜなら、場合によっては、自分たちはこの世界で飢える事になり
かねない。
仮に人類がいなかったら。仮に、怪物などがうろつくような世界だ
ったら。仮に、毒性の高い大気や植生を持つ世界だったら。
︱︱自分たちは、早急に現実を確認せねばならない。
晴之は車外に出て車での移動の可能性を探ろうとしてすぐにあきら
めた。
舗装されていないばかりか人間の手が加わってさえいないような山
腹だった。
歩いて下るより方法がない。
だが、キャンピングカーは出来れば置いていきたくなかった。
﹁なあ、あんたらの力で、この車をなんとかできないか?﹂
晴之は2人に聞いた。
﹁なんとか、とは?﹂
フリーデが問い返した。
29
﹁つまりここからなんとか麓に下りたい。だが道がない。例えば浮
かせて運ぶとか、一度別の世界にしまって、いいところでまた取り
出すとか、出来ないか?﹂
﹁⋮⋮できなくはない、と思う﹂
ただし自分たちには無理だ、フリーデは答えた。
﹁私たちには、これを正確にイメージできない﹂
フリーデはキャンピングカーを指さして申し訳なさそうにいった。
﹁つまり俺なら出来るって事だな?﹂
﹁貴方が<収納>の魔法が使えれば、あるいは﹂
晴之は早速、錬金術師であるフリーデに触媒をもらい、小物から収
納を試してみた。
結果から言うと、晴之はものの数分で<収納>を覚えて車を格納し、
取り出すことが出来るようになった。
フリーデが言うには、この収納の魔法では、時空というほど大きな
場所ではない亜次元的な場所に干渉して、望む物質を格納している
らしい。
亜次元は術者に関わる時空的空間になるので、その本人以外には干
渉できないが、本人であれば、たとえ世界のどこに居ても瞬時に干
渉できるらしい。
科学者である晴之にとってはこの現象は﹁証明不能﹂という非常に
不満の残る状態ではあるが、今はそれらを研究したり分析する暇は
ない。
可能であれば、陽のあるうちに人里というものに近づいておきたい。
晴之がキャンピングカーを<収納>して、3人は下山を始めた。
小一時間ほど、道のない山を下って行くと、やがて麓に小さな集落
を見つける事が出来た。
だが、眼下に広がる集落を見て、晴之は頭を抱えることになる。
30
板葺きやかやぶきの屋根。舗装されていない道路。不揃いな田畑。
電柱も電線もない小ぶりな村。そして、粗末なつぎはぎだらけの着
物を着た子供たち、畑仕事をする大人たち。
・・
﹁ここは、俺の世界じゃない⋮⋮というか、俺の時代じゃない﹂
晴之がやっと、うめくように絞り出せたのは、そんな言葉だった。
3人の格好は明らかに人目を引くものだった。
晴之は、キャンピングカー内で就寝用に使っているジャージ。
まげに月代を当てているこの時代の人間に、晴之の髪型︱︱ショー
トカットに七三分けはどう見えるだろう。
フリーデは散る留守カート風のワンピースに革のロングコート。
アイリは、黒マントに黒い帽子、そして杖。
フリーデはシルバーブロンド。アイリは赤髪。容貌も明らかに日本
人とはかけ離れた彫りの深い作りをしている。
村人たちはそんな3人を見て固まっている。
﹁すいません、ここはどこですか?﹂
日よけに手ぬぐいでほおかむりしている小柄な中年の男に、晴之は
思いきって声をかけてみた。
この際、自分たちへの警戒心を解かせるにはその方がよいと思った
のだ。
﹁しゅうざん﹂
周山の事だろう。だが土地勘のない晴之には分からなかった。
﹁実は道に迷いました。京都はどっちでしょうか?﹂
﹁なんや迷子かいな、難儀やな﹂
恰幅のいい男が、門構えのある家からでてきた。一見してわかる庄
屋風の旦那だ。
晴之が声をかけた農民風の男はその旦那にぺこりと頭を下げると、
そそくさと逃げるように早足で去った。
31
﹁そちらはん、異人はんでっか?﹂
にこやかではあるが目が笑っていない。おそらく、治安を守る何ら
かの義務がこの男にはあるのかも知れなかった。
﹁え、ええ。どこかで道を間違えたようで﹂
﹁さよか。ま、この道をのぼたら都に出るよって﹂
﹁ありがとうございます﹂
晴之は慣れない愛想笑いを浮かべつつ、ぺこりと頭を下げた。
あまり長居をすべきではないようだ。
晴之は2人を目線で招いて、指さされた方へと歩いて行った。
32
京の都 1
日本の街道は、川の流れによって作られた侵食段丘を活用して作ら
れていることが多い。
そのために標高差があったり、比較的狭く曲がりくねった道が多く、
現代人である晴之には厳しい徒歩になった。
意外にも、魔法使いやら錬金術師といった得体の知れない2人の女
性はタフだった。
歩きながら3人はとりあえず、現状の認識と今後について話しあっ
た。
﹁とにかく、あんたらは俺を元の時代に戻してくれ﹂
というのが晴之の主張だった。
晴之の見るところ、今のここは京都には違いない。
もっともこの時代︱︱ここがいつなのかを晴之が知るのはもう少し
やましろのくに
先になるが︱︱における京都は、洛中に限られる。
この一帯の呼称で言えば、山城国である。
だがいずれにしても晴之が確信していたのは、間違いなくここは江
戸期以前だということだった。
例えば、日本が過疎地の山間まで完全に舗装化されたのは昭和50
年代に入った頃だったろう。
先ほど会話をした村には、一切電線のようなものがなかった。
電線の敷設は明治の後年だろう。
そして、あの庄屋風の男は髷を結っていた。
晴之はさほど歴史には詳しくない。
だが、そんな彼でも雑学的に知っている事実がひとつある。
33
少なくともここが江戸期以前の文明であれば。
︱︱寄生虫の罹患率が全人口の9割を超える。
安易に食事が出来ない時代だという事である。
﹁とにかく、元の時代に戻りたい﹂
晴之はそう繰り返した。
だが、後ろを歩く2人の女たちの口は重かった。
巻き込んだという引け目ゆえだろう。だが。
﹁もしかして、戻れないのか?﹂
晴之は立ち止まって2人に聞いた。
﹁世界には、無限と言って良いほどの異界があります⋮⋮私たちは
そこを経験で⋮⋮長い時をかけて見つけた方法で、安全な異界へ跳
ぶ事を学びました﹂
重い口を開いたのはフリーデだった。
﹁安全な異界への跳躍は、師から弟子に受け継がれます。ですが、
やはりある程度の事故は起きます。そして、ひとたび事故を起こせ
ば、奇跡的な確率でしか、生きて戻った者は居ません﹂
﹁どのくらい?﹂
﹁自身が意図しない世界に飛んで帰ってきたと主張した者は、この
300年では2例です﹂
たとえばだが、跳躍した先に惑星がないことだって起こりえる。
もし今ここからどこかに跳んだとき、そこが真空の宇宙空間である
可能性だってある。
あるいは海の中、火山の中。
最悪は、ここにさえ戻れないでもっと悪い世界に飛び、そこで朽ち
果てることもあり得る⋮⋮。
というようなことをフリーデはいった。
34
どうやら晴之の前途は、暗いようだった。
﹁あの⋮⋮寄生虫に関しては、私が何とかします﹂
アイリが言った。なんの慰めにもならなかった。
やまあい
晴之たちが今歩いている道は、周山道だ。京北を流れる清滝川沿い
に道が着く。
山と山の間︱︱山合という言葉のまさにふさわしい曲がりくねった
川に寄り添って進むので、晴之の疲労ほどにはなかなか京には近づ
かない。
鯖街道などと言う呼称もあったようだが、それは江戸中期以降の話
だ。
鯖街道とは特定の道への呼称ではなく、海のない京に魚を届けた道
筋への愛称のようなものである。
京都と若狭をつなぐ街道ではあるが、この時代でも、若狭道と言え
ば京都大原から大見尾根を通り熊川宿に抜ける道の方が主流だった
ろう。
若狭では﹁京は遠ても十八里﹂などと言われたという。
人が1時間で歩くのが約1里だと言われるので、その言葉を聞くと
当時の人々は18時間程度を想像しただろう。
実際は険しい山道が続き高低差もあるため、2泊の行程だったと思
われる。
この時代以前の藤原京や平城京からも、若狭を出た塩や海産物の荷
札が出土しているので、よほど古くから、数え切れない若狭人たち
が、重い荷物を背負って踏み固めてきた街道なのだろう。
5時間ほど山道を歩いただろうか。3人は、やっと京の都にたどり
着いた。
高雄口から清滝川と別れ宇多野に入る。
その景色に晴之は呆然とした。見渡す限りの焼け野原だった。
35
京都観光では、どこに行っても目に触れないことのない、壮大な寺
院仏閣といったものはおよそ見当たらない。
わずかに、進路上に再建途上の寺院が一つあるのみだった。後に、
晴之はここが妙心寺だったと知る。正法山妙心禅寺。臨済宗妙心寺
派の大本山でさえ、この有様である。
あとは焼け残った松や杉などの針葉樹や、難民が自身の田畑のそば
に立てただろう掘っ立て小屋が散見されるだけだ。
およそこれが千年の古都だといわれても、どう反応して良いか分か
らない惨状だった。
気を取り直して晴之は東に向かって進んだ。やっと、遙か先に京都
らしい風景が見えてきた。
京の町に着いた。
取り合えずまず心配するべきなのは、日が暮れたあとの宿と飯だ。
﹁なあ、あんたたち、金目のものは持ってるか?﹂
晴之は2人に尋ねた。
フリーデは、コートのポケットから一枚の金貨を取り出した。
晴之はその金貨を受け取ると、試しに一軒の小間物屋に入った。
﹁すいません。この金貨を両替したいんですが﹂
うさんくさげに晴之と金貨を代わる代わる眺めていた店の女は
﹁そういうのは金屋にいきな﹂
というと、邪魔そうに晴之をあしらった。
金屋というのは、三条堀川近辺にある鍛冶屋や鋳物屋のことらしい。
道行く人間たちに何度も訊ねながら、やっと晴之は金屋を見つけた。
﹁目方からすると1貫ってところだ﹂
親父は無造作に手のひらで金貨を量ると、うなずいた晴之に、ヒモ
でくくられた銅銭を1本渡した。
36
もちろん安すぎる。
だが、とにかく晴之はこの市中で通用する通貨を手に入れることが
出来た。
﹁もし﹂
金屋から出てきた3人を待ち構えていた小者が、晴之に声をかけた。
﹁黄門様が呼んだはりまっさかい、お越しおくれやす﹂
妙な訛りだ。
と思いつつ、言葉が翻訳されない以上これは通じてるという事なん
だろう。
と晴之は心中で苦笑し、小者のあとをついていった。
案内されたのは、辻に立っている直垂姿の公家らしき中年男性の許
だった。
﹁余は山科黄門と申す。こなたら、異人どのおすやろか?﹂
好奇心をむき出しに黄門は声を上げた。
﹁ええまあ⋮⋮﹂
2人の女たちの外見は、現代人の晴之から見ても、まさに異人とし
か言いようがない。
それに、うすうす気づいているが、晴之自身の姿もだ。
﹁それにしても、こなたら、随分安く金を売られましたな。あの目
方の金に銭1貫とは﹂
﹁あ、やっぱりですか?﹂
晴之は笑った。
﹁お気づきどしたか﹂
﹁ええ。あの男、値を決めてから俺の目をまっすぐ見ませんでした
から﹂
ほう。
おもしろいものを見るように晴之の目を黄門はのぞき込んだ。
﹁ただ、不案内な土地ですから、どうしても﹃銭﹄が必要でしたん
で。まあしょうがないか、と﹂
37
﹁さいどすか。そうや、これも何かの縁。よろしければ余の屋敷に
いらっしゃるがよろしかろ﹂
﹁それはありがたいです﹂
この短い会話の中で、晴之は黄門の値踏みをしていた。
そしてもちろん、黄門もまた、この異装の3人について見極めよう
あない
としている。
﹁では案内します﹂
小者がひとつ腰をかがめ、先導した。
ときつぐ
烏丸通から中立売通を東に入ると山科黄門の屋敷はあった。
山科黄門。名は言継。
黄門は中納言の唐名である。水戸黄門というドラマでもおなじみの
ことだろう。
あぜち
しょうしゃく
山科家は羽林家の家格で、代々従五位・内藏頭を以て任じられてい
る。
その山科家の当主が正二位・権中納言・陸奥出羽按察使まで陞爵し
ているというのは、彼の偉才を表すと共に、朝廷の貧窮も物語って
いる。
内藏頭は朝廷の資産管理部門ではあるが、応仁の乱以降京の都から
逃げ出した数多くの公卿のために慢性的な人材不足である朝廷にあ
って、山科言継は必死に朝夕の膳まで整えた忠義の人でもあった。
山科邸に案内されたところで、
﹁こなたらを案内したのはな⋮⋮﹂
と黄門は声を潜めていった。
﹁こなたらをずっとつけ回しておった怪しき風体のものがあったか
らよ﹂
﹁それは⋮⋮ありがとうございます﹂
晴之は礼を言った。
38
フリーデとアイリにその言葉を伝えると、2人とも気がついていな
かったらしい。
﹁こちらの2人からもお礼を伝えて欲しい、と﹂
﹁よい。これも縁よ﹂
山科卿は無邪気に笑う。不惑︵40歳︶はとうに過ぎているであろ
う厳しげな顔が、とたんに人好きのする素晴らしい人格を滲ませる。
﹁ところで、今更ではあるがこなたの名を訊ねてもよろしいか?﹂
﹁失礼しました。俺は安倍晴之。こちらはフリーデ、こっちがアイ
リです﹂
すえ
﹁ほう⋮⋮安倍、とな? 家紋を伺ってもよいか?﹂
﹁丸に五芒星です﹂
﹁やはりか⋮⋮﹂
﹁といいますと?﹂
﹁こなた、安倍晴明の裔であろう?﹂
﹁はい、そう聞いております﹂
晴之と山科卿の間には実際にはかなりの齟齬がある。
晴之は、実際には今から更に500年近く後の世に生まれた。
だが、山科卿にとっては、安倍家というのは、今まさにある隣近所
のようなものだった。
﹁こなた、土御門家とは面識があるか?﹂
﹁いえ﹂
﹁さよか⋮⋮ま、ええわい﹂
そういえば晴之も、安倍氏というのは公家化した後、土御門とか倉
橋と名乗ったと聞いたことがある。
倉橋は江戸時代だったかも知れないが、いずれにせよ本家といえど
安倍は名乗っていない。
﹁あがるがよい﹂
玄関前での立ち話を終え、山科卿は3人を招き入れた。
39
﹁とと様﹂
﹁おなが、今帰った。⋮⋮起きてよいのか?﹂
おなが、と呼ばれたのはまだ幼さの残る少年だった。
﹁麻呂は平気にございます﹂
ちっとも平気には見えないが、随分気丈なことだと晴之は思った。
﹁お風邪ですか?﹂
﹁であろう。この数日熱も上がっておってな﹂
山科卿は心配そうに少年を見つめる。
後に知ったが、卿はこのくらいの歳になった長男を病気で失ってい
た。
彼は嫡子ではあるが、長男ではなかったのだ。
おなが
﹁お客人、ようこそ参られました﹂
美しい所作で長松丸は晴之たちに頭を下げた。
﹁安倍晴之です。お世話になります﹂
晴之は正座し、両手を腿に据えて軽く頭を下げた。
﹁アイリ、回復魔法って、風邪にも効くのかな?﹂
晴之は後ろを振り返ってアイリに聞いた。
﹁おそらく大丈夫でしょう。やってみましょうか?﹂
﹁頼むよ﹂
晴之は山科卿に向き直り
﹁アイリは異国の、なんというか、道士なのです﹂
といった。
﹁道士?﹂
﹁ええ、方術を使って、病を癒やします。まあ、治ることも治らな
いこともあるようです﹂
まじないみたいなものか、卿は思った。
だが、たかがまじないであっても溺愛する我が子の体調を気遣って
くれているというのは嬉しい話だ。そう考えて顔をほころばせた。
﹁治療してもよろしいでしょうか?﹂
﹁それはありがたいこと。是非に﹂
40
山科卿の返事を待ち、アイリは回復魔法をかけてみる。
幸いにも効果はあったようで、長松丸の顔から、すっと腫れとむく
みが引いていった。
﹁おお、これはえらいものどすな﹂
彼らは、実は山科卿は医学の面でも当代においては著名であるとは
知らなかった。
時間のあるときには、上は殿上人、下は町屋の庶民にまで治療を施
し、手元不如意な貧民からは、無理に金を取らない事でも有名だっ
た。
﹁楽になりましたか?﹂
晴之が訊ねると、﹁はい﹂と少し元気になった声で長松丸は答えた。
その後、晴之たち3人には膳が出された。
膳を食べるに当たって晴之は2人に﹁生のものには手を付けるな﹂
といった。
﹁寄生虫の問題?﹂
フリーデが晴之に聞いた。
﹁そうだ。この時代の生の野菜は特に不衛生だ。漬け物なんかも、
塩蔵野菜だけど塩漬けじゃ寄生虫の卵は、死なない﹂
食事前にいやな話をする、とフリーデとアイリは顔をしかめた。
食事を施してもらった後、晴之は山科卿にいくつか訊ねたいことが
残っていた。
時間が欲しい、とお願いすると、卿は気さくに応じてくれた。
﹁黄門様、とお呼びすればよろしいでしょうか﹂
﹁そうや。余はこなたをなんと呼べばよい?﹂
晴之は困った。
﹁晴之では?﹂
﹁それはあかん。忌み名に触れるよってな﹂
41
忌み名。日本人は明治維新まで、本名を隠し、通名で呼び合う風習
があった。
例えば、目の前の男は山科権中納言言継。
だが、本来目下の者が彼を﹁山科様﹂と苗字や姓で呼ぶのでさえも
無礼に当たるのだ。
本人の前では、﹁黄門様﹂と呼ぶのが正しい。
﹁俺には通称がありません。﹃は﹄の字とでも呼んで頂ければ﹂
やくざもの
晴之が言うと、卿はケラケラと笑った。
﹁なんや、余も市井の若い衆になった心持ちがするのう﹂
卿は笑いを納めると、文机の上の和紙にさらっと文字を書き添えて、
それを晴之に手渡した。
安倍内藏允晴之
右、格別の儀を以て内藏大允に任ず
天文十九年庚戌水無月十五日
山科権中納言 花押
くらのじょう
﹁これでこなたは内藏允よ﹂
﹁はあ、いただきます﹂
ちょこん、と押し頂く風を見せて晴之がその書き付けを無造作に内
ポケットにしまうのを見て、また卿は大笑いした。
豪儀な、とも思うし、無知なのかも知れない、とも思った。
従七位上、内藏大允。仮冒ではない官職がついた。
実は、この書面には晴之が知りたかった情報がある。
正確な今日の日付だ。
天文十九年庚戌水無月十五日。
水無月が陰暦の六月であることくらいはさすがに晴之も知っている。
問題なのは、天文十九年の方だ。
正直、ただこの時代に紛れて生きるのであればこのあたりはどうで
42
もいい。
それほど歴史に強いわけでもない晴之にとって、今日がいつであっ
ても、それに乗じて何かが出来るような状況でもない。
ただ、キャンピングカーにはPCがあり、DVDによる何種類かの
辞書がある。
そして、金にものを言わせて揃えた分子辞典。
安倍本社にあった工作機械総覧など、様々な英知があの中には詰ま
っている。
﹁あ、そうだ黄門様。これを﹂
晴之は、昼間両替してもらった銭一貫文を山科卿に差し出した。
﹁泊めて頂くお代です﹂
﹁ほほ。いらぬよ﹂
卿は穏やかに首を横に振った。
﹁こなたらにはおながが世話になった。余も医学を聞きかじったゆ
え分かる。あれは疱瘡よ﹂
疱瘡。つまり天然痘だ。
まずいな、内心で晴之は覚悟した。
﹁疱瘡を癒やす術など身共にはない。それをああも容易く癒やして
もろてはの﹂
卿は、ふと遠くを見るような瞳を宙に泳がせた。
﹁おながの産まれる少し前にの、余は長子を亡くして居る。おせん
という名であった﹂
気づくと、卿は瞳をまっすぐ晴之に向けていた。
﹁内蔵允殿。今宵の恩は終生忘れぬ﹂
﹁いえ、俺じゃなくあの異人のアイリですよ。俺はただ言葉を通訳
しただけです﹂
43
京の都 2
その異人の娘2人。
香の焚かれた客間の布団で、その枕の異質さに閉口していた。
とにかく、高く、固く、小さかった。
2人とも、寝間着などは持ち合わせていない。やむなく下着姿で布
団に入った。
布団自体は良く陽にさらされて行き届いてはいた。
だが、いかにも暑い。
おそらく、香は虫除けでもあるのだろう。
﹁フリーデ﹂
﹁なんだ?﹂
フリーデは、晴之の前では若干言葉を選ぶものの、アイリに対して
はかなりぞんざいな口をきく。
殺されかけたことを思えば当然ではあるが。
﹁あれはこの国の貴族なんだろうか?﹂
あれ、つまり山科卿のことだ。
﹁おそらくはそうだろう。家人が彼を中心に従っているからな﹂
﹁だけど、なぜだろう? 晴之のほうがよほど貴人に見える﹂
アイリの言葉に、フリーデも思い当たる節があったのだろう。
﹁晴之はおそらく、こことはまた違う世界の人間なんだろう。彼も
この都を見て戸惑っていたからな﹂
そして。
﹁⋮⋮多分、だが、彼は私たちよりもっと進んだ時代の人間だと思
う。あの車の中を見ただろう?﹂
アイリもうなずく。
﹁錬金術師の私でも、あれほどの緻密な工芸は無理だ。何がどうや
44
って成立しているのかさえ見当がつかない。素材さえ分からないも
のがほとんどだった﹂
﹁しかしその割には、彼は魔法や錬金術について何も知らない⋮⋮﹂
アイリの指摘にフリーデもうなずく。
﹁おそらく、晴之の世界は魔法のない世界なんだろう。かつて、時
空跳躍の魔法が研究された時代には、そうした世界も数多く見つか
っていたと記録にある﹂
﹁⋮⋮それと、この世界にはマナがある﹂
﹁ああ、有るな。幸いにして、なのかも知れないが﹂
フリーデもアイリも、無尽蔵に魔法が使えるわけではない。周囲に
あるマナに干渉したり、体内に蓄えられたそれを使うことで魔法を
発動させる。
見たところ、この屋敷にはその魔法を使える人材が1人もいない。
それぞれ身体にマナがこびりついてはいるが、暮らしに必要な最低
限の魔法さえ彼らは持ち合わせていないのだ。
時空跳躍でマナがない世界に飛んでしまった場合は、出来るだけ速
やかに引き返さねばならない。
体内に残留したマナを使い果たせば、もう二度と魔法が使えなくな
るからだ。
﹁フリーデ、私たちは今後どうしたらいいんだろう?﹂
アイリの問いかけにほんの少し沈黙で答えたが、ふとフリーデは口
を開いた。
﹁わからない﹂
かれ
その後しばらくじっと身じろぎもせずフリーデは天井を眺めていた。
﹁晴之の怒りはもっともだ。私たちは、自らの業で彼を巻き込み、
あまつさえ殺しかけた。そのことを思えば、今日こうやって、全く
見知らぬ文明世界に来て、いきなり食事と、寝床にありつけている
45
のは奇跡に近い。しかも、彼は私たちが巻き込んでこの世界に漂着
したことには怒りを見せたが、誤って殺しかけたにもかかわらず、
そのことについては何一つ触れていない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁何か、根本的に私たちとは器の大きさが、違う﹂
人間としての、という意味だろう。アイリもそれは同感だった。
﹁私たちは、とにかく彼を頼るしかあるまい。その代わり、彼を全
力で支え、まずはなんとか生き延びねばならない。もし可能なら、
彼だけでも元の世界に戻せればいいが⋮⋮﹂
その後2人とも、この夜は一言も発しなかった。
2人が言いかけた﹁元の世界に晴之を戻す﹂事。
それはおそらく、不可能だろうからだ。
海流の激しい海の上で船から指輪を落としてしまったら、その指輪
を探し出せるものだろうか。
異界の2人が寝静まった頃、まだ山科卿と晴之は会話を続けていた。
いつの間にか、2人の前には膳が出て﹁菩提泉﹂という名の銘酒も
饗されていた。
﹁黄門様は、﹃神隠し﹄という言葉をご存じですか?﹂
﹁むろん﹂
﹁実は、あの異人の2人と俺は、それぞれ別の世から、ここに神隠
しで渡ってきたようなんです﹂
信じますか?という瞳を晴之は卿に向けた。
﹁京の都も近頃では減ったが、それでも洛外の山中では、未だに神
隠しが起こると聞く﹂
そういう答え方を卿はした。
﹁俺たちは、気づいたら周山の山中にいました﹂
博識の山科卿は、当然周山について知っている。
46
﹁俺たちはひとまず、都に出ることにしました。どこに飛ばされた
にせよ、その方がほんの少しでも、帰る手がかりが掴めるかと思っ
たからです﹂
﹁なるほど﹂
﹁そして幸運にも黄門様と巡り会えたわけです﹂
﹁さよう﹂
﹁黄門様﹂
晴之は杯を膳に置き、改まった。
﹁もし、お庭を拝借できれば、その証明が出来ます﹂
﹁よいわさ﹂
卿も杯を置き、立ち上がった。
﹁すいません、お庭の結構を乱すかも知れません﹂
﹁お手柔らかに頼む﹂
晴之のキャンピングカーはマイクロバスを改造したものだ。そのサ
イズは、通常のマイクロバスより更に大きい。
だが、幸いなことに、西に烏丸通を隔てる塀の手前に、充分キャン
ピングカーを出せるスペースがあった。
﹁では、私も方術を使います﹂
﹁こころえた﹂
宣言してから、晴之は亜空間にしまったキャンピングカーを出現さ
せた。
﹁な⋮⋮んと﹂
すでに夜半。さすがに室町の世で夜も更けた時間に、発電機も含め
一切のエンジン音は立てられない。
幸い、バッテリーの充電率は充分にあるので、ひとまず卿を案内す
るだけの時間は稼げるだろう。
晴之は客室の扉を開け、卿を招き入れた。
卿にとっては、まさに異界と言って良い。
暗がりを生まぬほどに明るい電灯に、何より卿は面食らっていた。
47
晴之は、車内からひとつ持ち出したいものがあった。
ノートパソコンやタブレットの入った鞄だった。
ふと思い立って、冷蔵庫から祖父の残した缶ビールを取り出し、卿
を車から降ろすと、再び<収納>にキャンピングカーを戻した。
卿はまだ夢見心地で、腰が定まらない様子だった。
再び、2人は膳の前で正対した。
﹁黄門様、いかがでしょう? 信じて頂けましたか?﹂
﹁無論。さすがにこの目でみたものを⋮⋮今更忘れられようか﹂
﹁もし、余人の目を気にしないであれをおける場所があれば、一泊
ほどなら黄門様をご招待できますよ﹂
﹁それは⋮⋮それは!﹂
山科卿はこの時代一等の文化人だ。
そして、文武のみならず芸術や医学などにも秀でた学者であり、そ
の才で時代最高の日記を残した偉人でもある。
文化人だけでなく、晴之の愛する﹁科学者﹂の目を存分に持ち合わ
せている。
﹁よいか、必ず時と場を用意する。必ず頼む﹂
興奮で声が大きくなった卿に、晴之も微笑んでうなずいた。
この夜、山科卿は日本ではじめて、ビールを飲んだ男になった。
本来なら、これから約六十年後の慶長18年まで待たねばならなか
った。
もちろん、これらのことは卿と晴之の秘密とされ、記録には残らな
かった。
翌日。
少し夜更かしをしてしまった晴之が目覚めると、すでに所用のため
山科卿は他行していた。
晴之は朝の膳に汁物をかけていただいた。
その後、改まって、2人の異界の女たちから、相談があると持ちか
48
けられた。
﹁どうしたの?﹂
2人とも随分改まっての対面だった。
フリーデが切り出す。
﹁晴之様﹂
﹁様?﹂
彼女達とは言語体系が全く違うため、初日に施した魔法がなければ
会話もままならない。
だが、いまその意思は明らかに、晴之を様と呼んでいた。
﹁まず昨日の我々の不手際によって、ご迷惑をおかけしたことを改
めてお詫びします﹂
﹁うん﹂
晴之はさほど考えるでもなく返事をした。
﹁更に、我々が争っていたため、うかつにも大怪我を負わせたこと
をお詫びいたします﹂
﹁わかった﹂
昨晩フリーデたちが推測したとおり、彼はその身に起きた︱︱死に
かけたと言って良い大怪我については、さほど気にも留めていない
ようだった。
﹁その後、我々を導き、このような安全な場所で寝食を与えていた
だけましたことを、感謝いたします﹂
﹁それは別に俺の手柄じゃないけど、わかった﹂
﹁我々だけであれば、もしかしたら、文化や文明の違いのため、一
晩も生き延びることが出来なかったかも知れません﹂
﹁あのさ、2人ともなんなの? 何が言いたいかはっきりしてよ﹂
さすがに前置きが長く、しかも尻がむずかゆくなりそうな言葉が続
き、晴之が焦れてきた。
﹁私フリーデとこのアイリは、晴之様を主と定め、今後はそのよう
にお仕えしたいと考えております。もし必要なら、私も自ら隷属の
49
契約を施し、いかなる時も晴之様に生殺与奪の権を託してお仕えす
るつもりです﹂
﹁ストップ。それはいらない﹂
話の途中で晴之は止めた。
﹁リーダーが俺って言うならそれは分かった。ここは日本だし俺は
日本人だ。君たちよりいくつかアドバンテージがあることもある。
だからまあ、君たちの文化で俺を主にしたいならそれでいい。ただ
し﹂
晴之は、アイリの首に巻かれた隷属の首輪を不愉快そうに眺めた。
﹁もしアイリが今後、フリーデと殺し合いをしないと誓えるなら、
その首輪も外して欲しい。どう、アイリ?﹂
﹁⋮⋮あの﹂
﹁どうなの?﹂
﹁⋮⋮誓います。共に恩讐を乗り越え、晴之様にお仕えします﹂
﹁フリーデは?﹂
﹁私も、誓います﹂
﹁じゃあそれで。君たちも気づいているかも知れないけど、ここは
俺にとっても、俺たちの世界で言うところの﹃中世﹄でさ。正直、
明日からどう生きるべきか、その手がかりさえ掴めないほど文化も
文明度も違うんだ﹂
晴之が2人を見る。昨日のことで彼女達もそれは理解していたよう
だ、うなずいて答えて見せた。
﹁違うのは文明度だけじゃない。モラル、分かる?﹂
﹁はい﹂
2人はうなずいた。
﹁モラルがね、非常に低い。人は殺す。家財は奪う。女は犯す。そ
してそれは明日は我が身だ。そんな状況がね、もう100年近く続
いている。君たちの世界がどんな状況かは知らないけどさ、この世
界じゃ、庶民はそうやって毎日恐怖の中で生きている﹂
﹁あの⋮⋮私たちは魔法使いと錬金術師に別れて戦争をしてました
50
が、さすがに無関係の庶民にまでは⋮⋮﹂
アイリが言葉を挟んだ。
﹁そう、それはよかった。ちなみにここは、俺たちの世界では戦国
時代と呼ばれている。その概念、分かる?﹂
﹁はい。私たちの歴史にも、貴族同士によるそうした時期がありま
した﹂
﹁ならわかるよね? 俺たちが元の世界に戻れればいい。でももし
戻れなかったら⋮⋮﹂
どれほど生き延びるのがやっかいか。
2人は神妙にうなずいて見せた。
﹁ひとつ、君たちに聞きたいことがあるんだ﹂
晴之は、努めて感情を落ち着かせて2人に問いかけた。
﹁もしここが、俺の先祖たちが暮らした世界だったとしたら、どう
してもあらかじめ知っておかなければならない事がある﹂
﹁⋮⋮なんでしょうか?﹂
フリーデにもアイリにも、隠しても隠しきれない晴之の緊張が伝染
している。
﹁例えばここに、俺が後世に産まれるために必要なご先祖が居たと
する。その人を、俺がうっかり殺したとする。俺はどうなる?﹂
﹁親殺しの矛盾、でしょうか?﹂
フリーデが答える。
﹁その概念は分かるんだ?﹂
﹁はい﹂
フリーデは少し考えをまとめると、答える。
﹁まず経験則として、全く同一の時間軸をさかのぼったものは1人
も居りません﹂
その答えは晴之にとっては不満だった。なんの保証にも、慰めにも
ならない。
﹁次に、これも経験則です。ある世界で、自身の親族に干渉したと
51
しても、元の世界に戻ったときに、影響は一切ありませんでした﹂
﹁つまり?﹂
﹁私たちの知る限り、私たちの時空跳躍は、無限にある時空現実の
別の場所にしか動けないという事です。逆説的ですが⋮⋮﹂
フリーデはひとつ例を挙げた。
﹁今、晴之様は魔法がお使いになれます﹂
﹁うん﹂
魔法は、この言語の自動翻訳ともいえるものだ。その仕組みは実は
言語ではなく、言語を使う人間の意思の理解では有るが。
普通、人は音を聞き、その音から意味を分析し、理解する。その行
為に介在し、晴之の思考を相手の思考にリンクさせて通訳する。
その過程で相手にとっては、まるで晴之が自分の母国語を話してい
るように錯覚させているのだ。
マナ
﹁その魔力を支えるだけの魔素が、この世界には満ちています﹂
﹁なるほどね﹂
﹁もしかしたら、晴之様は、マナのない世界からここに来られたの
ではありませんか?﹂
﹁どうしてそう思うの?﹂
﹁それは、晴之様の傷を癒やした際、貴方を中心に、一瞬全てのマ
ナがそのお体に奪われたからです﹂
通常、マナと共に生きている肉体では、それほど劇的な量を必要と
しないらしい。
﹁さすがに、俺の世界に魔法があったかどうかは分からない﹂
実は、晴之の生きてきた世界にも、遠い過去には、どう考えても魔
法があったと思えるような伝承が無数にある。
それらを一つ一つ、2人に聞かせる。
魔女、忍者、仙人、妖怪、怪物、悪魔、天使。
あるいはギリシャ神話や北欧神話。日本神話ももしかすれば。
なるほど、と2人は聞き入った。
52
﹁事情は分かりませんが、晴之様の世界からは魔法が消えたか、奪
われたのかも知れません﹂
アイリがいう。上手く説明できないが、そのような異世界も稀にあ
るらしい。
﹁⋮⋮話を戻します。この世界が、ほんのわずかでも晴之様の知る
事実と違っているのであれば、数百年の後の歴史がもし変わろうと、
それは晴之様の過ごした世界の現実には一切影響いたしません﹂
別の時空現実だからです、とフリーデは言った。
﹁いままで、時間をさかのぼったことはないの?﹂
﹁ありません﹂
フリーデは即答した。
﹁どんなにそのように見えても、私たちの時空跳躍では、過去が変
えられません。それは⋮⋮個人や国が不幸に見舞われるたび、数え
切れない人間たちが渇望し、挑戦し、あきらめた行為そのものだか
らです﹂
逆に言えば、とフリーデは続ける。
﹁今この世界でさえ、私たちには時を戻ってやり直すことが許され
ないのです﹂
と。
﹁わかった﹂
2人が居心地の悪さを感じずにはいられないほどの時間、晴之は無
言のまま考え込んでいた。
﹁⋮⋮あの?﹂
つい耐えきれなくなってアイリが声を発したのをフリーデがたしな
めた。
﹁⋮⋮わかった﹂
晴之は、再び同じ言葉を繰り返した。
53
﹁とりあえず、その隷属の首輪は外してくれ。あまり見ていて気持
ちよくない﹂
﹁承知しました﹂
フリーデはさっと首輪の鉛色した金属部分に触れる。
すると、はらっと首輪がほぐれて落ちた。
﹁フリーデ﹂
﹁はい﹂
﹁アイリ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁これから頼む。力を合わせて、助け合って、まずはとにかく生き
抜こう﹂
2人はついお互いの顔を見つめ合った。そして
﹁はい!﹂
自然と息が合った答えを返すのだった。
54
京の都 3
警戒していた通り、晴之、フリーデ、アイリの3人に天然痘感染の
兆候が現れた。
それをアイリ自身の治癒魔法でシャットアウトした。
﹁フリーデ、アイリの治癒魔法は君たちの世界でも一般的な能力な
のか?﹂
﹁治癒魔法の概念自体は一般的ですが、彼女の才能は私たちの世界
でも屈指です﹂
﹁例えばそれはどうやって判断されてるんだ?﹂
﹁そうですね⋮⋮本来貴族にしか門戸が開放されていない貴族学校
に、魔法の潜在能力の高さ故に平民の身分で推薦入学し、卒業後に
伯爵家が専属魔法使いとしてスカウトする、という、幾重にも選抜
をされた人材という意味で、です﹂
そういわれても晴之にはほかに比較対象がない話なので判断のつけ
ようはないのだが、どうやらアイリという人材を、成り行きながら
手に入れることが出来たのは大変な幸運だったようだ。
﹁ちなみにフリーデは?﹂
﹁私は実家が貴族ですから。それに錬金術師は本質的に﹃誰でも手
順を覚えれば使える﹄事を目指しています。⋮⋮だからこそ魔法使
いとの紛争を招く結果になったのですが﹂
﹁⋮⋮要するに既得権益と新興勢力の利権を巡る戦いだった?﹂
﹁利権⋮⋮そうですね、突き詰めれば﹂
フリーデによると、魔法使いは先天的な才能がものを言う分野だと
いう。
頭でいくら魔法の理論を理解したところで、実技で結果が出せると
いうものではなかった。
55
先天的な才能に恵まれて平民の身の上で貴族学校に入った瞬間から、
その才能を以てアイリは貴族化したと言って良い。
﹁魔法の才能は遺伝すると考えられていますから﹂
対するフリーデは、家柄は申し分なかったものの、魔法を発動させ
る才能に乏しかった。
フリーデも貴族の一員らしく、身体の魔法親和性の高さは同年代で
屈指の素質だったらしい。だが、実技が壊滅的に苦手だった。
ところが反対に、触媒を用いた魔法には、同時代の錬金術師の中で
も突出した能力を具現化させていた。
ア
特に、魔法薬の精製、金属精錬などを触媒を用いて精製する能力に
長けていた。
マルガム
さらに、触媒による戦闘能力も屈指のものがあり、その中でも、水
銀合金を用いた魔法使いへの殺傷能力の高いいくつもの術を知り尽
くしていた彼女は、常に恐怖の的だった。
﹁その恐ろしさ故に、フリーデは魔法使い達から常に抹殺の対象と
されていました﹂
アイリが言う。
﹁要するに俺は、君たちの世界のトップレベルの魔法使いと錬金術
師を仲間に出来たって事か﹂
幸運にも、晴之の言う通りこの2人の能力は、確実に一同の生存確
率を飛躍的に上昇させている。
2人も言わず、晴之も意識していないが、もしこの中の誰が欠けて
いても、この世界で生き延びるのはとても厳しい状況に陥っていた
だろう。
黄門
晴之たちは山科権中納言家に引き続き世話になっている。
とにかく、晴之にはやらなければならない課題が山積だった。
56
まず、どうにかして安定的な収益を得たかった。
そのために、この時代がどんな文明レベルで、何をすれば金になる
のか知ることが大事だった。
陽のあるうちは、山科卿の家中である雑掌大沢家や家司である井上
じげにん
家や沢路家の家人たちが3人の町歩きを警護してくれた。
ここのところ、晴之は地下人の若君、といった服を着ることが多く
なった。
簡素な狩衣に張烏帽子、袴は神主用の実用的なものでごまかした。
とにかくこの時代の公家服は動きにくいことこの上ない。
服装を変えるとほんの少し、見えざる敵意、というか隔意は減った。
人間というのは、衣服も含め環境の中で無意識に彼我のポジション
を決めて安心する生き物なんだな、と改めて晴之は実感させられた。
数日かけて御所を中心に洛中を調べて歩いた晴之は、まずひとつど
うしてもやっておくべき課題があることに気づいた。
﹁ごっさんからの紹介どすか?﹂
奥から呼ばれて出てきたのは、薬種問屋小西屋の弥九郎宗寿だ。
この時期の京都は上京も下京も戦乱で焼けることが多く富も安定し
ていない。
薬種問屋は比較的御所に近い室町筋二条から烏丸二条の間、東玉屋
町当たりに店を構えている。
規模は、大きい。
周囲の店舗より間口が一回り以上大きい。
もっとも間口については商売の規模ではなく、この屋の主の血縁が
背景にある。
堺の薬種問屋小西屋弥左衛門行正は、丹波守護代内藤国貞の実の甥
だ。
57
その小西屋の息子である弥九郎︱︱近頃では宗寿と名乗っている︱
︱が若旦那として切り盛りしているのが、京都の小西屋支店だった。
天文十九年現在、丹波守護代内藤家は、京都に勢力を獲得しつつあ
った三好長慶の元に属している。
ある種の権勢を獲得しつつあったと言って良いだろう。
まべちせん
一般に京の都では、間口の広さによって税が決まる。
これを間別銭という。南北朝以来、権力構造が二重化し、更に戦国
の世になった事で権力者が戦国大名に移るに従い、京の町屋などは、
何重にも税を絞られるのが常態化していた。
閉口した庶民たちが自己防衛のために取った策が、別名﹁ウナギの
寝床﹂等と呼ばれる間口の狭い町屋だった。
さすがに商家などでは、商いの規模に見合った家並みになるが、重
量物を商わない商家は、細長い敷地の奥に土蔵を隠すことで、間口
を狭めているのだ。
さて、小西屋。
山科邸から烏丸通りを南に下ること約20分、距離では1.4km
といったところにある。
どちらも把握してるのは晴之だけではあるが、無論この時代の現代
したた
っ子である家司の家人たちにも最初からきちんと土地勘はある。
丁稚風の若いのに家司が来訪を告げると共に、山科卿の認めた案内
状を渡すと、中から、いかにも道楽商人風の若旦那が出てきたわけ
だ。
くらのじょう
﹁小西屋どす﹂
﹁内蔵允です。よろしく﹂
宗寿は内蔵允と名乗った晴之と、背後の異人の娘2人、更に3人の
家司を見て
﹁ま、立ち話もなんでっさかい﹂
58
と店脇の土間を回って一行を奥に案内した。
かいにんそう
﹁ご用を伺いまひょ﹂
﹁ご主人は海人草をご存じですか?﹂
﹁海人草⋮⋮?﹂
﹁マクリとも呼ばれる海藻です﹂
﹁はて⋮⋮お待ちを﹂
小西屋は即答を避け、一度立ち去った。番頭にでも確認にいったの
だろうか。
裏に呼んだのでお茶でも出すのかとおもったが、単に店頭に6人も
突っ立っていられたら迷惑だという話程度らしい。
﹁お待たせして申し訳ない﹂
しゃこさいとう
小西屋は手に紙袋を携えて戻ってきた。
﹁鷓鴣菜湯、と申す煎じ薬でおます﹂
この中に海人草が含まれている、と小西屋は言う。
どうやら、現状では単品での在庫はなく、堺に発注して数日から数
ヶ月待つことになるらしい。
﹁分かりました、ではそちらをお譲り下さい﹂
晴之は小西屋の持ってきた薬袋を受け取り、言い値通り48文を支
払った。
﹁まいどおおきに﹂
小西屋は愛想よく店外まで見送った。
﹁期待はずれだったかなあ?﹂
晴之はつい本音を漏らした。
小西屋にいけ、というのは山科卿からのアドバイスだったし、その
場ですぐに案内状を書いたので、晴之は特に考えもせず訪問してみ
た。
小西屋としては言い分もあったかも知れない。この時期、京は堺衆
にとってさほど魅力のあるマーケットではないのだ。
59
﹁虫下しをお望みなのでしょう﹂
番頭は海人草と聞いて即断した。鷓鴣菜湯を出したのはその意味で
は正しかった。
ただ、晴之が欲しかったのは原料である素材そのものだった。その
意味では、小西屋は客の欲しいものが提供できなかったことになる。
とはいえひとまず、虫下しの入手に成功した。
この数日、晴之はフリーデの手ほどきで錬金術の修行を行っている。
触媒を用いた魔法の具現のほかに、特定の素材を抽出する術がある。
フリーデたちはあまりこの術を重要視していなかったが、晴之にと
って、この術は驚愕だった。
物質を亜空間に格納し、また取り出すといった魔法と併用すると、
晴之には容易にこの世界で資金を確保する方法がいくつも思い浮か
ぶ。
だが、それよりまず試したいのが、今すぐにでも必要な医薬品の開
発だった。
山科卿の子供たちの健康状態はあまり芳しくない。
先日治療した嫡男の長松丸だけでなく、次女の阿子にもアイリの加
療が必要だった。
全く医学に無縁な晴之には﹁具合が悪そうだ﹂以上の知見があるわ
けではなかったが、アイリにとってはそれで充分な治療の要因だっ
た。
栄養状態も発育状態も悪い。
そして、アイリが言うには
﹁やはり、この世界の寄生虫害は重篤です﹂
とのことだった。
若年からの寄生虫感染は言うまでもなく成長を阻害する。栄養の失
60
調は成長だけでなく、病原への抵抗力をも奪う。
長松丸の症状にしても、もしあのまま治療が行われなかったら、死
に至っていたかも知れなかった。
アイリの治癒魔法はすごみすら感じさせる。
どういう仕組みかは分からないが、山科邸にいる全ての住人、使用
人の身体から寄生虫を卵も含めて異物として取り除いてしまった。
晴之の暮らしていた21世紀の文明でも、それは不可能だった。
21世紀でも卵の駆除は出来ず、幼生にかえってから再度駆逐する
よりほかはなく、寄生虫駆除は根気と時間が必要だった。
ただ、問題もある。
アイリがいなくなれば、せっかく駆虫しても、また日々の食事から
感染が始まることだ。
日本の農業は、第二次大戦後まで人糞が肥料として使われ続けてき
た。
つまり、人間の腸内で寄生虫が産卵し、人糞に潜む。
それを下肥として田畑に入れることによって、農作物に卵が付着し、
それを消費者が食べるというサイクルが完成してしまっている。
寄生虫に感染しても、日々栄養価の高い食事をしていれば、発育不
良などの危険性は低いのかも知れない。しかし、公家である山科卿
の子供たちでさえ、肥立ちが悪い事は明白だった。
現状で晴之に出来ることは少ない。
人糞を禁じる農業改革など夢のまた夢だし、よしんば虫下しを漢方
の煎じ薬から近代的なタブレット薬に出来たとしても、それを日本
全土に安定供給させるなど難しい。
それが分かっていても、せめて長松丸や阿子といった幼い子供たち
だけでも、健康に過ごして欲しいものだ、と晴之が思い悩むのはや
むを得ないことなのかも知れなかった。
61
ちなみに、農業に人糞が使用されているこの現状で感染を防ぎたい
場合、後手ではあるが方法がないわけではない。
水、肉や魚、野菜といった食材全てを充分に加熱することだ。
70度以上に加熱されると、寄生虫卵は死滅し無害化されるのだ。
そうした知識を山科卿をはじめ、家内の知識層に辛抱強く説明して、
晴之はなんとか理解を得た。
それでも実際は田畑やあぜ道を歩くことで卵や幼生が付着する。
幼生が足やふくらはぎの皮膚を食い破って体内感染するのまでは防
げない。
この問題は、国家レベルで取り組まなければ到底解決が出来ないと
晴之は思い知らされたのだった。
そうした思いがあってか、晴之ははじめて、能動的に錬金術をマス
ターすることに成功した。
晴之は、フリーデから見ても特異な能力を発現しつつあった。
彼女達の世界においては、晴之の科学レベルに到底至っていない分
野がいくつもある。
錬金術というのは一種の科学だ。
無機化学の探究によって、様々な物性が明らかにされる。
それにくわえ、彼女達の世界には魔法があった。だが魔法は、科学
の発展を阻害した。
魔法で出来ることを、コストと労力をかけてわざわざ人力で、それ
も効率悪くやる必要性がないのだ。
晴之は分子辞典を持っている。
そのデータを見ながら魔法を使うことで、その分子そのものを作る
ことが出来るようになりつつあった。
最初は、鷓鴣菜湯から駆虫薬の薬効成分であるカイニン酸︵C10
62
H15NO4︶を錬金術で抽出分離することから始まった。
だが、そのうち奇妙なことが起こり始めた。
それ以外の成分から、カイニン酸が合成され始めたのだ。
そして、必要となる素材が欠乏するまで、鷓鴣菜湯の原料であるマ
クリや甘草やシャクヤク粉の分解は進んだ。
まさにこれは錬金術か?
と晴之は興奮した。山科邸の庭から玉砂利を持ってきて、金に変え
られるか実験をした。さすがにそんな変化は一切起きなかった。だ
が、砂に混じっていたごく微量の金が分離された。
63
京の都 4
﹁虫下し?﹂
﹁ええ。黄門様は医術もなさるそうですので、これをお渡しします﹂
晴之は数日かけて様々な素材を試し、更にデータベースや辞書から
寄生虫に有効な薬効成分を選んで作成した粉薬を、茶筒に入れて山
科卿に渡した。
カイニン酸のほか、パモ酸ピルビニウム、リン酸ピペラジン、サン
ひしゃく
トニンなどを精製して混合した駆虫用のカクテル製剤だ。
﹁この茶さじ一杯で、この柄杓10杯の薬が出来ます。お湯で溶い
てよく混ぜて飲ませます。一人1回柄杓一杯でいいでしょう﹂
﹁煎じるのか?﹂
﹁いえ、薬効を取り出しましたので煮詰める必要はありません。問
題は⋮⋮虫を下すのですからおなかをゆるくしないと危険です。そ
れに、虫に効くのですから、用量を間違えると、人間にも毒になり
ます﹂
﹁なるほど⋮⋮ま、それはどの薬にもいえる事やな。腹をゆるくさ
せるんは生薬にもいろいろあるよって⋮⋮﹂
山科卿は早速晴之の話をメモしだした。
この人物は、博覧強記なだけでなく、無類のメモ魔でもあった。
﹁この薬、量産出来るのか?﹂
といった意図の質問に晴之は首を横に振った。
﹁道士の修行をしなければ作れない﹂
と答えるにとどめた。
露骨に無念そうな顔をする卿に
﹁でも鷓鴣菜湯には一定の効果があります﹂
そう付け加えるのが精一杯だった。
64
晴之がフリーデとアイリに錬金術による分子構造改変の話をしたと
ころ
﹁さすがにそんな話は聞いたことがありません﹂
と2人に断言されてしまった。
﹁その前に、分子ってなんですか?﹂
アイリには聞き返された。
晴之は一応、この単語が現れる中学レベルの化学の話を聞かせるが、
やはりというか2人には全くぴんと来ないようだった。
﹁じゃあこっちは?﹂
庭の砂礫から金だけを選択的に収集し、亜空間の<収納>に貯まっ
た砂金を手のひらにのせて2人に見せる。
﹁な、なんと⋮⋮﹂
﹁すごいです﹂
﹁マギラ工房の工房長がそんな錬金術を持っていたと伝わっていま
すが﹂
伝わっている、ということはそんなに普遍的な技術ではないという
ことだろう。
﹁普遍的⋮⋮ですか? そうですね。やっている事象については特
別なことではありません。ビンに集めた素材から特定の素材の錬成・
収集をするのと同じですから﹂
フリーデは続ける。
﹁でも、それをこのような形で地面から直接選別する、というのは
よほどの潜在的な魔力保持者でないと難しいですし、魔法と錬金術
を同時に使いますので、私たちの世界ではあまり安全な術ではあり
ません﹂
﹁両方から狙われかねませんから﹂
アイリが補足する。
65
﹁なるほどなあ﹂
彼女達にとっても知らない技術というわけではないのだろう。
ただ、魔法使いと錬金術師が殺し合ってるような世界だと使いにく
いということなんだろう、と晴之は結論づけた。
翌日。
晴之は鴨川沿いを散策することにした。
無論、目的は砂金集めである。
砂金はこの時代、日本中のほとんどの河川に遍在している。
言うまでもなく、鴨川でも砂金は取れる。
効率よく取る方法は、流れの緩やかな場所と速い場所が同時に存在
している場所︱︱つまり川の蛇行部の中瀬や河原の、もっとも緩や
かな部分の堆積部だ。
金は比重が重いため、大雨などで流されても、こうした流れの緩や
かなところで沈降しやすいのだ。
朝から川岸をのんびりと遡上しながら、蛇行部を見つけては晴之は
砂金集めに没頭する。
やがて高野川と賀茂川の合流部にたどり着くと、今度は賀茂川に沿
ってのんびりと歩いて行く。
道具ひとつ持たず、ただだらだらと2人の異人娘や地下人の青侍を
引き連れた晴之は、端から見たらただ川辺に遊んでいるようにしか
見えないだろう。
途中で、早起きして作った握り飯を全員に振る舞ったりしながら、
陽のあるうちに戻れるよう蛙ヶ谷あたりで一行は引き返した。
この日一日で晴之が河原から浚った砂金は35kgにも及んだ。
これは当時の京都におけるレートで言うと、金2000両以上にな
る。
山科邸に戻った後、魔法の使いすぎか疲労のせいかは分からないが、
晴之は熱を出して一晩うめいた。
66
それでも、この収益を考えれば、安い代償だったかも知れない。
翌朝、様子を見にわざわざ晴之を見舞ってくれた山科卿に
﹁ああそういえば﹂
と、昨日砂金集めをしてきたと報告した。
そして、1000両分ほどになる約17キロ分を﹁お納め下さい﹂
と差し出した。
﹁こ、れを昨日一日で?﹂
しばし唖然と無造作に麻のずだ袋に詰め込まれた砂金を眺めていた
山科卿だったが
﹁こなた、この金で官職を求めなさるがええ﹂
と言い出した。
﹁いずれにしても、余には過ぎた砂金。ならば向後役に立つやも知
れぬ故な﹂
﹁はあ﹂
正直、晴之には未だにこの官職とか官位というものが全く理解出来
ていない。
宮中にいなければ意味がないだろう、と思っているのだ。
実は、このときすでに晴之は、京都を離れ、東日本から北陸あたり
をぐるっと見て歩く気になっていた。
そのために、むしろ朝廷に官職で縛られるのはあまりうまいことと
思えなかった。
ところが、もしかしたらこの時代一等の行動力があるかも知れない
公卿が山科言継という男だ。
彼はその日の夕には、時の関白二条晴良を連れ、晴之の前に現れた
のだった。
﹁黄門より聞いた。金1000両の献納、誠忠である﹂
﹁はっ﹂
﹁とはいえ、弱ったのう⋮⋮そなた、安倍と申したがしかと相違な
67
いか?﹂
﹁はっ﹂
安倍だといったい何が困るのか⋮⋮言われて晴之も困ってしまった。
﹁実はの⋮⋮そなたが安倍なれば、氏の長は土御門よ。なれど土御
門のごときは、京を捨て若狭に落ち、帝が乱れた世にお心を痛め万
魔調伏を望まれても出仕せぬ﹂
ほうっと関白はため息をつく。
さきの
﹁土御門がそのようゆえに、そなたのこたびの大功、忠勤を以てし
てもそなたを引き立てるには及ばぬのよ﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
ただふさ
﹁そこでよ。そなた、安倍というは思い違い。まことは、我が父前
左大臣藤原尹房が隠し子晴之ではないか?﹂
﹁えぇ?!﹂
﹁おお、なんとそのようなことが!﹂
山科卿が白々しく追従する。
﹁であれば話は早い。早速帝に奏上し、そなたを我が一族の末席を
担ってもらい、従三位左近衛少将と侍従を⋮⋮﹂
﹁お待ち下さい!﹂
さすがに話が飛躍しすぎだ。
﹁関白様、黄門様も。俺は、この先京の都に住むつもりはありませ
ん﹂
晴之は、自分が今後しばらくは近畿から東海、甲信越、北陸などを
旅して、よい場所を選んで開発しようと考えていることを告げた。
晴之の本質は科学者であり工学者だ。
この時代、まったくそれらの分野は未開だから、今からどれほどの
ことが出来るか、死ぬまでかかってもろくな仕事は出来ないかも知
れない。
ましてや、可能であれば元の世界にかえりたいとすら思っている。
さすがにそれらの秘密は彼らには口が裂けても言えないが、ともか
く、そうやって各地を巡って見聞を広げ、その後身を立てていこう
68
おのこ
と考えていることをなんとか説明した。
だが。
﹁おお、男子であるのぅ﹂
ほほほ、と二条晴良公は笑うのだった。
﹁関白様﹂
﹁兄上さま、と呼んでみてはくれぬか?﹂
きんだち
﹁⋮⋮黄門様?﹂
﹁これは公達さま﹂
どうやら、これはこの2人、なにやら企んでいるとしか思えなかっ
た。
ふっとため息をひとつつくと、関白は威儀を正した。
ちくでん
﹁本来のう、このようなご時世じゃ。そなたのような忠勤の者、仮
に家が半家であろうと、その主が若狭に逐電して居ろうと、引き立
てて帝のおそばで存分にその才を活かして欲しい。ましてやそなた
は才のみならず、財を以ても内裏を救ってくれようという。黄門に
聞いたぞ。そなた、異国の方術なる技を用いて黄門家の子女を癒や
したと聞く。疱瘡をあばたも残さず消したというではないか。近頃
これは陰陽師にも出来ぬ技よ﹂
ギロ、と関白はその瞳を見開いた。
﹁内蔵允殿。余の奥にも、その方術とやらでお救いをたもりゃぬか
?﹂
関白の奥方は今年で21才。初産を流してしまい、近頃身体が思わ
しくないという。
現在のところ、後継に恵まれず、彼の弟が猶子となっている。
その弟も、兄である彼を残して、父である前左大臣尹房公と共に、
周防の大内家に寓居したきり、一向に戻る気配さえないという。
大内は、現在のところ天下屈指の戦国大名である。
当然、その都は京に例えられるほどの栄華を誇る。治安も良く、文
化も高い。
69
彼らは、要するに帝を捨て、都を捨て、職務を捨てて安寧の地に逃
げたのだ。
そして、1人都に残され関白として立つ彼は、流産で心身ともに疲
れ果てた妻と2人、なんとか日々を過ごしているのだという。
﹁⋮⋮分かりました。とにかく、奥方様のご容態を一度、拝見いた
します﹂
ほかの話はともかく、流産の後体調が優れないというのは聞き捨て
がならなかった。
一行はその足で二条邸へ向かう。
関白と黄門は牛車、晴之とフリーデ、アイリは青侍たちと共に徒歩
だ。
二条邸は、先日晴之が訪ねた小西屋より更に南に下った場所にある。
今で言うと烏丸御池の一帯、広大な敷地と瀟洒な庭、御池通りの名
前の元になった御池が自慢の大邸宅である。
もっともこの時代は二条家にとっても悪夢といえるような時代だ。
公卿としての体面が保てるかどうかも厳しい荒れ果てた邸内には、
関白である亭主を公然と無視して庶民までが庭見物にぶらつくとい
う始末だった。
そんな邸宅は、本宅のみがやっと修繕され、少ない資産をなんとか
やりくりして維持をしている。
雑掌たちの案内で、先行していた関白と黄門にあいさつをして、奥
にあがらせてもらうと、気丈に布団から身を起こして二条晴良の室、
伏見宮親王の娘・位子女王が晴之たちを待ち構えていた。
﹁奥方様、安倍晴之と申します。こちらはフリーデとアイリ。異人
です﹂
﹁殿下より聞き及びました。お医者殿とか﹂
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﹁はい、ご容態を拝見いたします﹂
晴之は少し枕頭の方に身体をずらし、アイリに診させる。
﹁どう?﹂
﹁大丈夫、子宮に問題があるようだけど、癒やせるよ﹂
アイリが自信を持って請け負った。
﹁関白様、奥方様。これよりアイリが方術をもちまして、奥方様の
おなかを癒やします。奥方様、どうぞ布団に横になって下さい﹂
言われるまま、奥方は横になる。
そこにアイリが進み出て、彼女のおなかに手を当て、回復呪文を詠
唱した。
﹁おお⋮⋮﹂
関白が小声でうめく。
周囲の者にもはっきりと見て取れる魔法の拡散。そして、得体の知
れない力が、奥方の下腹付近に淡い光と共に渦巻いている。
じっと、奥方の顔を心配そうに窺っていた関白は、彼女の頬や唇に、
徐々に血の気がうっすらと戻っていくのを確かに見た。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
全く意味の分からない言葉をアイリと呼ばれた﹁道士﹂が晴之に告
げている。
晴之はうなずき、
﹁終わりました。俺は薬は出しませんけど、もし薬を頼むのでした
ら、身体を温める煎じ薬をもらって下さい﹂
﹁⋮⋮あの﹂
奥方はか細い声で、そのまま立ち去ろうとする晴之を呼び止めた。
﹁⋮⋮もし⋮⋮なおったのですか?﹂
﹁はい。もう大丈夫です﹂
晴之は視線をアイリに向ける。アイリも力強くうなずいて見せた。
余談だが、位子女王はこの2年後に子宝に恵まれる。男の子だった。
ひとまず治療はしたものの、その後どうしたものか。
71
二条家で夕餉を馳走になっている間に、山科卿は帰宅してしまった
らしい。
﹁今宵はこちらでゆるりと過ごされよ﹂
雑掌がにこやかに3人を客間に通す。
しばらくすると、晴良公が、晴之に話がしたいと、呼び出してきた。
﹁奥のこと、誠にもって感謝に堪えぬ﹂
﹁しばらく大事を取っていただければ、来年にはすっかり元気にな
るそうです﹂
アイリから詳しく聞いた通りに晴之も答えた。
﹁すぐに、は難しいか?﹂
﹁身体が、苦しみや痛みをしばらく覚えてしまっているそうです。
心の問題で、時がたてば自然に癒えるものなので、焦らない方がよ
いのでしょう﹂
﹁道理であるの﹂
関白は、そう言うと自らの膳の酒盃を持ち、手酌で酒を飲む。
晴之にも肴と酒が用意されている。こちらも自前で酌をする。
﹁内蔵允殿。月が改まればそなたを余の弟として参内させる﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
﹁従三位左近衛中将、と思うたがこれはちとよろしゅうない﹂
その官位には、実の弟が今就いている。
﹁従四位下・侍従と左近衛少将に任じる。名は、変えてもらわねば
ならぬ﹂
︱︱苗字も本姓も、名前も変わるのか。まるでどんどん自分ではな
くなる。
杯を宙に浮かせたまま、晴之はぼんやりそんなことを考えた。
﹁無論のこと、訳がある。内蔵允殿は先の将軍の名を存じ居るか?﹂
﹁あー﹂
足利義晴である。
実は晴之がこの世界に来たときにはすでに他界している。
72
﹁我が名も偏諱を受けて居る。が、そなたにはその記録がない。そ
れ故、晴の字を、我が家の通字である良の字に改めて頂きたい﹂
﹁⋮⋮揉めますか﹂
﹁まずは、の﹂
その話は山科卿からもちらっと指摘されている。
例えば、長尾家の晴景。武田家の晴信。北畠の晴具。伊達家の晴宗。
そして、細川晴元。
晴の字を与えられた武家、義の字を与えられた武家など、挙げ始め
ればきりが無い。
きりは無いが、言うまでもなく、足利将軍家では、それら全てを漏
れなく把握している。
﹁分かりました⋮⋮俺は二条良之ですか?﹂
﹁ひとまずは﹂
この先、また変わるのか。やれやれと晴之は思う。
﹁それについては今はまだ何ともいえぬ。そなた、いつ京を立つお
つもりか?﹂
﹁⋮⋮できる限り早くを考えてます﹂
﹁急ぐわけはあるか?﹂
﹁ひとつは、あまり京にいると、身動きが取れなくなる怖れを感じ
ています。例えば今日のように、医師として頼られれれば、やがて
抜き差しならなくなる気がします﹂
﹁ふむ?﹂
﹁俺は、元来医師ではないのです。どちらかというと成り立ちは工
人、あり方は商人、現状は学僧に近い生き方をしていました﹂
﹁よくわからぬのう﹂
ふっとひとつ苦笑いを浮かべ、杯を干し晴之はいった。
﹁関白様﹂
﹁うむ﹂
﹁今この国︱︱天下、でしょうか。何もかも足りない状態です。で
すが真っ先に足りないものはなんだと思いますか?﹂
73
そう問われてさすがは関白だった。じっと瞳を伏せ、何事かを考え
ていたが
﹁力、かの?﹂
﹁武家の力は凄まじいほどに満ちてます。実は、民の力も、歴史上
かつてないほどにあがっているのです﹂
﹁ほう? ではなにが?﹂
﹁銭が、足りません﹂
74
京の都 5
﹁銭?﹂
全く予想だにしなかった答えに、関白は目を丸くした。
﹁銭です。長くなりますがお聞き下さいますか?﹂
﹁よい。聞かせよ﹂
晴之は、まず武家が台頭する理由を明確に言い当てた。
﹁応仁の乱の頃から、農家の生産量が爆発的に増えました。それま
で例えば農家1人が一年頑張って3人とかを食わせていたのが、1
人が一年頑張れば5人、10人が食えるようになる﹂
要を得ないまでも関白はひとまず先に進めさせる。
﹁米を作らず、買って食えるようになると、工人が台頭します。鉄、
木工、布、革などの親方から職人まで、彼らは畑ではなく工場で一
生を過ごします﹂
﹁なるほどの﹂
﹁異国からも異人が訪れます。この国の産物を買い、銅を買い、代
わりに鉄砲や火薬や珍しい渡来ものを残して去ります﹂
﹁うむ﹂
﹁ただでさえ世の中が年貢から銭に移るのに、銭が全く足りないの
です。これが、戦の大きな理由になっている﹂
﹁さてそこが分からぬ﹂
﹁世の中に銭が満ちれば、大名たちは他国に攻め入る必要がなくな
るのです。今は銭が足りない。貧しい。だから、食わせ切れない家
臣や百姓のため、他国を侵し、奪わねばならないのです﹂
﹁銭が満ちれば、収まるというのか?﹂
﹁ある程度は、はい、そうです﹂
人間には欲がある。
75
小さい欲。よりよく暮らしたい、楽に暮らしたい。子供が病で死な
ない国に暮らしたい。不条理に殺されることのない世の中で暮らし
たい。
だが一方で、ただ勝ちたい、偉くなりたい、権力を得たい。
贅沢がしたい、人を殺したい、よい女をかき集めたい。茶器が欲し
い。酒が欲しい。
将軍になりたい。関白になりたい。
一つ一つ指を折りながら晴之は関白に話し続ける。
﹁欲がある限り、どんなに銭を作っても、あるいはそれで得た利で
更に戦い続ける者達も出てくるでしょう﹂
﹁道理だな﹂
欲の中に関白を挙げられて、苦笑いをしつつも晴良公はうなずいて
見せた。
﹁銭の話ですが﹂
﹁うむ﹂
﹁いまこの国は、かつてないほど危機的な状況を迎えています﹂
﹁ほう?﹂
バテレン
﹁あまりに多くの富が異国に流れ出しています﹂
﹁なんと⋮⋮﹂
﹁いずれそう遠くない時に、この都にも﹃伴天連﹄と呼ばれる、異
国の一向宗のような者達が訪れます﹂
﹁何者じゃそれは?﹂
﹁今は詳しくお知りになる必要はないと思います。ただ、これだけ
は覚えておいていただきたいのです。彼らはこの国の富を盗みに来
ます。富は金銀だけではありません。彼らは鉄砲を売ります﹂
﹁紀州の鍛冶が作って居ると聞いたが﹂
﹁ええ。その鉄砲。猟師が弓の代わりにも使いますが、多くは大名
たちが戦に用います﹂
﹁戦に⋮⋮﹂
﹁弓は人間が引いて放ちますが、銃は違います。火薬、という薬を
76
用います﹂
﹁ふむ﹂
﹁この火薬の代金として、この国の︱︱日本全ての場所で、女や子
供を奴隷としてさらっていくのです﹂
﹁奴隷?﹂
公は首をかしげる。
﹁いにしえの、奴婢のようなものです。ですが奴婢よりわるい。女
は犯され、犬や馬のように首に縄をつながれ、見世物のように扱わ
れます。全裸で檻に入れられ、遠い異国に船で売られていきます。
子供は、鞭で打たれながら、辛い労働を強いられます。どちらもそ
う長くは生きられないでしょう﹂
﹁ま⋮⋮まことか!﹂
公は、思わず杯を落とした。本人も気づかぬうちに、右手が震えて
いる。
﹁関白様。俺はさっき、大名の中にはいろいろいて、名誉や快楽で
戦を続けるものがいる、といいました﹂
﹁⋮⋮そうやな﹂
﹁伴天連も同じです。中には全く心根の美しい人々もいる。そうい
う人たちの中には、一向宗が一揆のために命を捨ててかかるのと同
じくらい、そういう信徒をまとめられる尊い上人のような傑物もま
た多くいるのです﹂
晴之は言葉を継いだ。
﹁大名の中にも、京に入っても焼かず、奪わず、民に愛される者も
居ますが、中には、戦に勝てば女子供をさらって売るような者も居
ます。同じです﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁国に銭が溢れれば、火薬の代わりに、民を売るような大名が減ら
せるかも知れません。それに⋮⋮﹂
﹁⋮⋮なんや?﹂
﹁いま明や朝鮮、南蛮といった国々は、この国から棹銅を買って帰
77
っています﹂
﹁よう分からんが、それがどないした?﹂
﹁実は、日本の銅には金や銀がたくさん含まれたままなのです。彼
らはそれを知らん顔して国に持ち帰り、吹き直して銀を得ています。
丸儲けなのです﹂
︱︱代わりに、この国からはみるみる財産が奪われているのです。
晴之はそう言うと、かれかかった喉を潤すために、手酌で酒を飲ん
だ。
二条関白も、先ほど落とした猪口を取り直し、興奮を収めるかのよ
うに、一口啜った。
﹁なんや、きいとるだけで胸がくるしなってきたわ﹂
ぽつりと関白はつぶやいた。
すっかり肩を落とし、当初、奥方が元気になったことを喜ぶ無邪気
わどうかいちん
さは影を潜めてしまった。
﹁昔、和同開珎を作った時の法は、今も興せるんでしょうか?﹂
じゅせんのし
しばらくの沈黙を晴之が破った。
﹁鋳銭司の事か⋮⋮調べなわからんな﹂
800年近く昔のことである。
﹁そういう制度があるなら、俺はそれになりたいです﹂
﹁そんで、銭を作るいうんか?﹂
﹁ええ﹂
﹁⋮⋮しかし、それなら都をはなれんでも出来るのやないか?﹂
﹁⋮⋮いえ、都には金山も銅山もありません。それに、大きな問題
があります﹂
﹁世情が安定しとらん、のやな?﹂
﹁ええ﹂
細川と三好、法華教と天台宗と一向宗。そして足利、六角。
78
しばらく三好が京を安定させても、いつ果てるとも知れぬ小競り合
いが、今後も続いていくだろう。
﹁なら、どこがええんや? 堺か? 紀州か? 丹波か?﹂
紀州にも丹波にも、有望な鉱山はある。だが、晴之は学生時代に知
った、この時代︱︱そして今日に至るまで東洋で最大の鉱山のこと
を知っていた。
﹁飛騨神岡﹂である。
飛騨にはいくつかの鉱床が足りない。しかし、足りない鉱物床は隣
国の美濃、越後、信州にある。
鋳銭をするのに最高の環境である。
だが問題もある。
有力国人同士が小競り合いを繰り返している難治の国なのだ。
その上、加賀越中の一向宗、越中守護代の神保、越後長尾、そして、
今このときにも信州を侵略し続けている武田。
西には越前の朝倉、そして南には、時代の寵児ともいえる美濃の斉
藤、そして更にその南には、織田が盤踞している。
南北朝の時、守護と国司で争った。
飛騨の場合、国司の姉小路は京から飛騨に土着し、なんとか勢力を
保とうと戦ってきた。
結果、三木という国人が姉小路の勢力を代表し、着々と権力をつか
みかけている。
その隣には、江馬という国人が根を下ろしている。
飛騨の守護は京極氏だったが、こちらは、この時代にはすでに傀儡
と化している。
だが、傀儡とはいえ足利将軍家と結びつき、なんとか余命を保って
いる。
﹁飛騨⋮⋮か。名分は、ないではない﹂
二条公は、しばらく考えた後、ぽつりといった。
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﹁飛騨にはいくつか荘園があっての﹂
朝廷領、近衛家領、そして山科領に代表される荘。それに寺社領。
それらはほとんど全て、現状、国人や豪族に支配され横領されてい
る。
それらについては、どうせ横領されているのなら、大義名分をもっ
て晴之が確保することもあるいは出来るかも知れない。
もっとも。
それは晴之にそれを成し遂げる武力が備われば,の話である。
現状たった3人の晴之達に、たとえ個々に超常的な魔法の能力があ
ったところで、それだけではあまり意味がない。
例えば人間は、食事をし、排泄をし、睡眠を取る。
そのどの瞬間でも、もし外敵に襲われれば致命的な状況に陥る怖れ
がある。そういう意味では、人間の能力というのは、決して万能で
はないのだ。
ひとまず、今後の晴之の人生の目標、というか存念を二条公に伝え
た。
二条公は、晴之がこの夜提示した様々な卓見に驚いた。
銭の話、伴天連の人さらいの話、鉄砲の話、布教の話。
あまりに話が大きすぎたり、現状では抽象的すぎる部分もあったが、
それでも充分に二条公は理解を示した。
﹁それにしても⋮⋮お公家様は血筋を大切になさっていらっしゃる
と思いました。私のようなぽっと出の下位の家柄のものを、便宜と
はいえ落胤として迎えるなんて﹂
﹁前代未聞であるよ、ほほ﹂
﹁問題になりませんか?﹂
﹁かまわぬわさ。じゃが、相済まぬがそなたを藤の長者にまではす
ることは出来ぬ﹂
藤の長者とはつまり藤原の長者、公卿藤原家のトップという意味で
80
ある。
もちろんそのくらいは晴之も心得ている。
﹁ところで話は変わるんですが、関白様。このお屋敷の修繕︱︱そ
うですね、せめて門と外壁を直し、お屋敷を修繕しようと思ったら、
どのくらいのお金が入り用になるでしょうか?﹂
﹁見当も付かぬ⋮⋮﹂
二条公は表情を暗くした。
いずれにせよ、自身の荘園も朝廷の荘園も、京に近いものはそれぞ
れの実力者の温情ともいえる配慮で収入を上げているが、飛び地で
各地に散在する所領は、各地の豪族や国人共に横領されて久しい。
﹁それでは、先ほどの金1000両と別に、関白様には砂金500
両、黄門様には砂金100両をお送りいたします。その金で、出来
るだけお屋敷の警護や修繕にお努め下さい﹂
﹁それはかたじけない⋮⋮﹂
﹁いえ、﹃あにうえ様﹄のためですので﹂
晴之がそう言うと、ほほ、と二条公は笑った。
﹁お、地揺れじゃ﹂
暢気に山科卿はつぶやいた。
丑の下刻、と言うので真夜中だろう。
ほんの一瞬。
布団に入っていた者達は﹁ミシリ﹂という根太や天井のきしむ音を
起きていれば聞いただろう。
直後、突き上げるような激しい縦揺れのあと、家が倒れるかと思う
横揺れを起こし、京の町を騒がせた。
朝までに数回余震があった。
この日の日記に山科卿はたった一言、
﹁︵六月︶廿二、甲申、天晴、十方暮、丑下刻地震暫﹂
81
とだけ記載している。
十方暮というのは、暦の上の厄日が10日も続く期間のことで、一
説には﹁途方に暮れる﹂という語呂遊びだと言われている。
この国の人間たちは地震には驚くが、建物が壊滅するほどでもなけ
れば比較的慣れている。
気の毒だったのはフリーデとアイリで、地震に目覚めたあと、建物
のきしむ音に恐怖し、そのあとの余震ですっかり寝付けず、一日青
い顔で過ごしていた。
﹁慣れた方がいいよ。この国、地震大国なんて言われてるから﹂
晴之は同情しつつも、どこかしら冷たいアドバイスをした。
じゅ
結局のところ、物心ついて以降地震に慣らされている日本人には、
こうした異国人の恐怖は分かりにくいのかも知れない。
月が改まった翌七月の一日。
だい
晴之は昇殿用の礼服を整え、名を良之に改め、二条公に導かれて入
内した。
従四位下・侍従。翌二日には正五位上・左近衛少将を拝命する。
あわせ、内蔵允から正五位上・鋳銭司長官へ位階の一部が切り替わ
った。さらに。
﹁従六位飛騨守、ですか﹂
﹁いまは実のない名前だけだがの⋮⋮やがて真の国司となることを
期待して居るぞよ﹂
﹁ありがたく﹂
やがて、関白に伴われ、昇殿となる。
言うまでもなく、この日までに二条公はあらかたの根回しを終えて
いる。
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実は、天文十九年当時の天皇である後奈良帝は、後世にも清廉さが
記録として残るほどの人物で、土佐国司として権勢を振るった一条
房冬や、周防長門から九州北部の広大な領土を誇った大内家の当主
が、それぞれ多額の金品によって売官行為を行ったことを深く憤っ
た。
一条家については摂家という家格のため任官を認めたものの、献納
された金品は全て返させた。
大内については、左右のものが勅勘を解き昇進を得るのに、その後
丸一年以上の時を要した。
そこに、悪びれもせず父の落胤に御座います、と二条晴良が良之を
連れ込み、いま、帝の前に漆塗りの盆を運ばせたのである。
﹁これなる良之、すぐる年、これなる晴良が弟と判明いたすも、幼
きより地を読み川より黄金を集め暮らし来たり。今畏くも帝の御お
側に侍りけるに至り、この上己の蓄財は不要と、かように献上いた
したくお持ちした由。何卒お許し賜りたく﹂
﹁良之、直答を許す、面を上げよ﹂
後奈良帝は、いぶかしげに晴之の顔をしげしげと眺め
﹁これなるはいかなる存念か? 聞けば近頃、二条の館も不如意に
て荒れるに任すると聞き及ぶ。さればこの黄金にてまずは心ゆくま
で館を直すがよい﹂
﹁それは順が違います故。このように落胤として育った事を不問に
され、弟として扱われる兄には感謝はあります。増して、こうして
畏くも帝御自らお声を頂けるなど、往事は夢にも思わぬ事。なれば
この身の華美を求めるより、この金を以て禁裏を華やがせる事が、
何よりこの身を美しくさせましょう﹂
何日もかけて練習してきた口上だった。
﹁良之殿のみ残られよ。余のものは外されよ﹂
後奈良帝はそう言うと、御簾を挙げさせた。
83
﹁良之、表をあげよ。何が狙いじゃ?﹂
﹁⋮⋮いえ﹂
﹁有り体に申すがよい。二条の落胤など荒唐無稽な作り事で謀り、
宮中にて何を企む?﹂
﹁⋮⋮されば。畏れ多くも、帝はなぜ世が荒れているのかおわかり
でしょうか?﹂
﹁道が外れて居るからよ。人が皆、道をうしのうてさぶろうておる﹂
﹁この身はその道を、銭に見つけました。この日の本に足りぬのは
米ではない。銭で御座います﹂
はくりく
激しい勘気に満ちた声が良之に降り注いだ。
﹁それは博陸よりすでに聞き及んだ!﹂
博陸とは関白の唐名だ。つまり、二条晴良の根回しは、すでに帝に
も奏上されていることになる。
﹁なれば。この身はこれより、世の見聞のため東の国々を歩き、ふ
さわしき山を見つけ、そこで鋳銭の工場を作りたく思います。いず
れは世の隅々に金貨・銀貨・銅の銭を行き渡らせ、争いのない世を
見たいと存じます﹂
﹁参議・納言を望まぬと言うか﹂
﹁それが平和の世のためであれば。必要なら望みもいたします﹂
ふむ、と帝は怒気を沈めた。
﹁都に残らぬと言うか﹂
﹁はい。都にいても出来ることは少ないです。官位は、仕事をする
上では役立ちます。地方の国人や豪族は、位の高さをありがたがり、
従ってくれるものもあると聞きます。ですが、その程度でございま
しょう﹂
しばしの沈黙のあと、穏やかに後奈良帝はいった。
﹁あい分かった。この金、納めよう﹂
﹁⋮⋮﹂
良之は頭を下げた。
84
﹁励むがよい﹂
言い残すと、帝は御簾の奥に去った。
良之のプランは、帝に認可されたことになる。
そして、この瞬間から安倍晴之の名前は、従三位少将二条朝臣藤原
良之に変わることになった。
85
京の都 6
この後、関白二条晴良と良之は、摂家︱︱五摂家と呼ばれる近衛、
九条、一条の各家を回り、手土産としてそれぞれ砂金100両を置
いて帰った。
さらには山科卿の邸宅を訪ね、彼にも100両を献じた。
そして、二条には500両。
実際のところ、これで手持ちの砂金は100両前後になったが、良
之は全く気にしていない。
なんとなればまた川縁を歩き、こっそりと砂金集めにいそしめばよ
い。
それより問題は、この後諸国見聞の旅に出るのだが、このたびに際
して、可能な限りリクルート活動をしなければならない。
二条家の雑掌や雑色はさすがに引き抜けない。関白に叙任されただ
でさえ人手不足なのだ。
ところで、摂家などへの献金は、それを越えるメリットをもたらし
た。
各地に盤踞する大名家への紹介状が手に入ったのだ。
良之は、当初から後学のため、京を皮切りに摂津和泉、紀州、大和、
伊賀、伊勢、尾張、三河、駿河、甲斐、信濃と回り、越後から越中、
飛騨を抜けて美濃から近江を通って帰京するプランを立てていた。
目的は多々あるが、一つは、産業に関わる人材の発掘。そして資源
の確認。
文明度の視察、そして敵情偵察だ。
こうした道中では、将来敵になる可能性を隠し、あくまで公卿の公
達︱︱部屋住みの気ままな旅を演出するべきだった。
その話は各摂家を通じてすでに流布させている。
献金の礼として、例えば近衛は本願寺や武田、足利などの紹介状を
86
認めてくれた。
九条、一条では当主不在のため、留守居の家司に託けて帰った。
山科卿はかつて朝廷の貧窮を救うため、東海道を下向して金策を行
ったことがある。
織田、今川といった有力者達に紹介状を書いてくれた。
人間という生き物が、衣服によって直感的に彼我のポジショニング
をする生き物なのはどの世界のどの民族でも変わらない。
むしろ、室町期ではその度合いが激しかった。
三位少将となった良之のため、最近ではすっかり床を払い元気を取
り戻した晴良の奥が力を尽くしてくれた。
これから旅に出る良之にとって、大量に必要となるのが衣服、それ
も位階にふさわしい衣冠だ。
これらは、奥である位子女王のすすめをほぼ断り、晴良の古着を回
してもらう。
代わりに、晴良には順次、新しい衣冠を都合していった。
こちらは、衣料に造詣が深い山科卿の力を借りた。
フリーデとアイリの服装については、いろいろ試したが
﹁この国の女服は動きにくい﹂
と言う2人の意見を取り入れて、女性ながら諸大夫姿の軽装を誂え
ることにした。
袴に工夫を凝らし、戦闘時に戦いやすいよう研究を重ねている。
実際問題、彼女達は良之にとって重要なパートナーであるだけでな
く、いざというときには頼もしいボディガードなのである。
87
部屋住みとはいえ、飛騨国司と鋳銭司長官という特命を帯びている
良之は、家司や雑掌を多く雇用する必要に迫られた。
だが、失業者の多い京といえど、有能な人材はそう多く遊ばせてい
るわけでもない。
関白や黄門に手伝ってもらい、伝手を当たって何人かの家臣を推薦
してもらっていた。
取り急ぎ良之が必要とするのは、祐筆と諸大夫数人。それに雑掌や
雑色たちだった。
旅の荷については、彼らには秘密兵器の<収納>魔法がある。
本来ならあり得ないほどの少量の荷姿で旅が出来る。
だから、荷物担当の人夫というよりは、腕の立つ青侍が欲しかった。
青蓮院宮侍法師の望月法橋のところの部屋住みの若侍が訪ねてきた
のは、そんな人材募集活動中のことだった。
きんだち
法橋の部屋住みと名乗る割には若い。というより、幼いと言う感じ
だ。
﹁望月三郎と申します。公達さまにはご機嫌うるわしゅう﹂
ひとまず烏帽子は付けているものの、どう見てもやっつけの成人を
行ったばかりのようで、狩衣姿がどこか板についていない。
﹁これなるは妹の千。それがしが養って居ります故、共にご奉公で
きればと﹂
こちらは更に幼かった。
﹁良之さま、この2人には筋があるかも知れません﹂
アイリが良之に耳打ちする。筋、というのはおそらく魔法の素質の
ことだろう。
﹁分かった。じゃあアイリに付けるから、よろしくね﹂
小声でアイリに伝え、2人に向かって、
﹁あい分かった、励むがよい﹂
とうなずいて見せた。採用である。
ひとまずは準備金として銭一貫を渡し、旅に必要な身なりを整えて
88
びたせん
おくように指示する。
けち
鐚銭ではなく永楽銭で一貫渡されて三郎は目を白黒させる。
きんだち
この時分、公卿などは貧乏が当然で、その上吝嗇だった。
意外に金払いのよい公達に巡り会えたと、三郎と千は大喜びをした。
永楽銭一貫は、鐚銭の実に四貫分もの価値があるのだ。
﹁手持ちが少ないね﹂
一方良之は、砂金の残りが5両を切っている。
これから、もう数人お供を雇ったら、まずは堺を目指し旅をする予
定だ。
﹁もう一度砂金取りに行かないとなあ﹂
都の東を流れる鴨川沿いでは、良之が本気で砂金を浚ってしまった
ので、おそらくさほどの収穫は期待できない。
おき
となると、都の西を流れる桂川が狙い目だ。
﹁隠岐どの。明日は朝早く、桂川に向かいます。これからの旅の予
行演習ですから、特に理由がない限り全員参加させて下さい﹂
﹁承知つかまつりました﹂
隠岐は表情を変えず受諾した。
この隠岐は、二条の家司である隠岐家の部屋住みだった三男坊で、
縫殿少属を名乗っていた。
年は良之より2−3才上と言うところらしい。
隠岐家は必ずしも二条家専属というわけではない。鷹司家にも選ば
れる家司の名門といえる。
今回良之が彼を雇用できたのは大変な幸運といってよい。
公卿の家内経営のエキスパートの一門と言うべき家の子として、幼
少より勉学を積んでいる人材だからだ。
本来であれば、良之が賜った官職が持っている人事権で隠岐の地位
を上げたいところではあるが、手間に比べて効果が薄い。
すでに旅の空に心が動いている良之にとって、宮中の書類仕事で時
89
間を浪費して、結果としてさほどの効果が望めない人事は、後回し
にしたいところだった。
そこで彼にはひとまずは二条少将家の従七位下・家令として仕えて
もらっている。
さて、翌日の砂金取りはちょっとした小旅行だった。
良之は、牛車も輿も不要とした。
彼の考えでは、自身は馬で旅をし、騎乗が出来る供回りには全員に
馬を与えるつもりだった。
意外なことに、フリーデもアイリもおのおの騎乗が出来るようだっ
た。
だが、彼女らの世界の馬より二回り近く小さい上に、この当時の日
本の馬は、気が荒い。
理由は、去勢という文化がないからだが、そんな理由を知らぬ2人
は、慣れるまでさんざん振り回され、噛まれ、危うく蹴られそうに
なった。
良之も手ひどい洗礼を受けた。
彼は人生で数回乗馬を体験していた。
しかしそれらは主に、引退した競走馬のサラブレッドであり、幼駒
の頃からしっかりと馴致され、引退後乗馬に回される気性のよい馬
ばかりだった。
﹁ほとんど野生じゃねえか﹂
毒づきながらも良之はなんとか、五条室町の馬市で買った馬をなん
とか従えさせることが出来たのだった。
良之やフリーデ、アイリらの苦戦を笑っていた隠岐をはじめとする
家司、諸大夫達に良之は命じた。
﹁金が入ったらあなたたちにも馬を与えますから、堺に着く頃まで
には乗馬を習得するように﹂
一同、青くなったのは言うまでもない。
90
公卿の権威として、隠岐は良之に畿内は牛車、関東下向には輿を使
ってもらいたいと思っていた。
特に牛車は、三位以上の身分を内外に誇示する。
その言い分には良之も賛成だった、が、いかんせん乗り心地は悪く、
歩みが早いわけでもなく、邪魔だった。
輿に至っては、人力でもあるため不要に雇用人員が増す。
その上、戦乱が招いた結果として、担ぎ手の質が悪かった。
くつわ
良之は、可能であれば家臣全員分、馬を買うつもりだった。
轡取りの小者や中間、文官である雑色まではさすがに無理だろうが、
姓を名乗る上級文官、諸大夫や青侍には、極力騎乗を強要するつも
りでいる。
話を砂金取りに戻す。
良之たちは、3人が騎乗、残りの家司達が徒で従うことになった。
意外なことに、望月兄妹は器用に馬の轡を扱った。
﹁ふたりは馬の経験はあるのか?﹂
良之が聞くと
﹁はい。元々望月は御料の御牧、望月荘の出自です﹂
﹁道理で手慣れてるわけだ﹂
徒で従う隠岐達が疲れてしまわぬよう、上手に馬の歩みを一定に整
えて進んでいく。
良之とフリーデの騎馬の轡を取る兄妹は、褒められて顔を上気させ
ながら、得意気に歩いている。
アイリの馬の轡を取っているのは、彦六郎という名の中年近い小者
で、隠岐に従って当家に来た。
さすがに馬の轡取りにはあまり経験がないようで、冷や汗を掻きな
がら2人の後に従った。
二条屋敷を出て、春日小路︱︱現在の丸太町通りを西に進む。今の
91
感覚で言うとおよそ9kmほどの行程でたどり着くのが嵯峨・嵐山
にある天龍寺だ。
この時代、禁裏のある北小路︵今出川︶烏丸から北、そして西は、
かつての京の賑わいなど想像もつかないほどに荒れ、そして焼け落
ちていた。
再建しても、今日でさえ続く細川家の戦、そして三好家、将軍家、
六角家などの戦によって、周囲の寺院さえも灰燼に帰している。
戦乱に焼かれたのは天龍寺も例外ではなかったが、この寺は足利家
由来のこともあってか、この時期にはひとまずの安寧を見ている。
隠岐の交渉で一行の宿をこの寺に求め、昼食の休憩の後、いよいよ
桂川を遡上しての砂金集めを開始した。
6人ほどの諸大夫や侍を引き連れ、残りは隠岐に指図をさせ、寺に
残す。
良之はフリーデ、アイリに周囲警戒を一任して、全力で河原の砂礫
から砂金の抽出を行いながら、やがて保津川と清滝川の合流点まで
たどると、この日の作業を終了して、天龍寺に引き返した。
翌日は天龍寺から桂川を下り、鴨川の合流点からは鴨川岸をさかの
ぼり、東寺に宿を求めた。
こうして良之は砂金取りをしながらぐるりと京都の西から下京まで
を見て歩き、あまりに自身の印象︱︱主に学生時代の旅行で見知っ
たものだが︱︱とかけ離れた応仁の乱以降の惨状を知ることになっ
たのだった。
ちなみに、この2日で良之が収穫した砂金は3500両に及んだ。
手元不如意な時代に二条家が豪商などから借財したものの返済に5
00両を充て、その指図を隠岐に取らせた。
また、現在良之に従って旅をすることが決まっている全ての家臣に
準備金として、職務に応じた金額を前払いして、旅の準備に当たら
せた。
92
そして。
﹁馬が扱える小者、ですか?﹂
良之は、望月三郎と千を呼び出し、馬を扱える小者を40人ほど常
雇いで召し上げたいと相談していた。
﹁それは、身分に限らず、でしょうか?﹂
﹁うん、身分にはこだわらない。能力を以て仕えて欲しいかな? 必要なら、身分も上げて取り立てていくよ﹂
﹁もし地侍やその郎党などが、小者ではなく諸大夫や侍として仕官
を望んだとしたら、いかがいたしましょう?﹂
﹁うーん。厄介の身分だったらいいけど、本貫の地をもってる相手
は俺の力じゃどうにもならないかな? 口先で安堵の約束したって、
守ってあげられなきゃ意味ないでしょ﹂
厄介というのは、後継者である嫡男に対しての、次男坊以下の立場
のことだ。
彼らは、猶子として跡取りのスペア扱いされているが、実際は、才
能に応じて分家に入ったり、または有力な大名や貴族、豪族などに
仕官する。
﹁私どもの実家は甲賀の望月荘です﹂
﹁甲賀?﹂
それほど歴史に詳しいわけでもない良之は知らない。
甲賀の望月と言えば、それなりに名の通った忍者の家系だ。
とはいえ伊賀甲賀の忍者については、人並みには知っている。
﹁甲賀伊賀の甲賀?﹂
﹁そうです。彼の地には惣と呼ばれる集団があります。必ずしも武
家として成っているものばかりではありません﹂
三郎の話を良之なりに解釈すると、伊賀や甲賀という農産的に貧し
い地域にとって、外貨獲得の手段として傭兵として一族、時には族
長までもが他国で仕えるという。
そのため、国人や豪族、守護代やいにしえの地頭といった由来では
ない武力集団が存在する。
93
それらのうちには、交渉次第では良之の臣としてヘッドハンティン
グできる一族もあるかも知れない、という話だった。
彼らにとっては人生をかけた選択になる。当然、今の良之の境遇を
他者が冷静に分析するのなら、ただの部屋住みの公達に過ぎず、し
かもご落胤という怪しげな経緯で五摂家の庶子として加わり、どこ
から沸かせたか千金を用いてわずかひとつきで三位少将まで昇った
うさんくさい人物に見える。
だが、逆の考え方もある。
こんな時代だ。どこの誰がいきなり出来星になるのか分からない。
そこに博打で張り込みたい一族も存在する。
例えば、甲賀望月氏のように、だ。
﹁なるほど。分かった。それで、三郎はどうしたいんだ?﹂
﹁少将様。仮に総領に扶持を出すとして、年にいかほどまで用意で
きますか?﹂
﹁全部で、ってこと?﹂
﹁はい。今お召しの家司、諸大夫などの方々とは別に、ということ
です﹂
良之は少し考える。
今、彼が得ている収入は、まさに﹁錬金術﹂によって生み出してい
るに過ぎない。
とりあえず行く先々の川で砂金を浚おうとは思っているが、いつ尽
きるかは分からない。
﹁分からない、な。でも、年に1000両までなら何とかなると思
う﹂
﹁その1000両。今それがしにお預けいただけましょうか?﹂
幼さが残る顔を精一杯に引き締めて、上目遣いに三郎は問いかけて
くる。
﹁いいよ﹂
隠岐が聞けば怒るかもなあ、とは思うが、良之にとって、どうにも
三郎の真摯さは信じるに値すると感じられるのだ。
94
﹁かたじけなく⋮⋮千を、質に残して参ります﹂
﹁いいよ質なんて。千は、アイリが気に入ってる。彼女に付けて育
てるつもりだから、そう思っておいて﹂
﹁⋮⋮はっ﹂
﹁俺たちは京を出たら山崎から堺に入る。黄門様から、堺では小西
屋の手配で宿を取れるよう口利きしてもらってるんで、つなぎが必
要なら小西屋を使ってよ﹂
﹁承知いたしました⋮⋮あの﹂
﹁小者が必要?﹂
﹁いえ、それは法橋様からお借りします。若輩のそれがしを、なぜ
少将様はお信じになられるのですか?﹂
三郎は、自分が言い出したことといえ、あまりにあっさりと100
0両などと言う金を出す決済をする良之にただ呆気にとられている。
﹁それは、三郎が俺のために必死で考えてくれているのが分かるか
らかな?﹂
三郎は、それを聞いて平伏した。
畳に置いた両手に、ぽたぽたと涙が落ちるのを、三郎は止められな
かった。
三郎がこれほど感激する理由を良之は知らない。
ひゃくせい
この時代、血統の明らかでない地侍の類い、そしてそれよりさらに
身分の低い百姓たちはあまり大切にされなかった。
武家であれ公家であれ、門閥主義は根強い。
能力を以て仕える者達でさえ、どのような有能さを示したところで、
滅多に重用された事例はない。
ひどい場合になると、武田信虎に仕えた三井源助のように、主君か
ら虎の字を賜るほどの愛顧を受けながら、門閥の重臣たちにいじめ
られて召し放たれてしまう事例さえある。
三井源助虎髙。この後故郷に戻り藤堂家の婿養子になる。子に、藤
堂髙虎。
95
ひゃくしょう
この時代の百姓という言葉は、現代の百姓とはニュアンスが全く違
う。
この時代、侍というのは司令官の立場にあるもののことだった。
せいぜい士官クラスまでが侍であり、戦闘員である足軽や雑兵たち
は、それぞれ何らかの職を手に付けている。
最も多いのが農業従事者だった。
よく知られていることだが、この時代は大きな合戦は農閑期に起き
る。
特に手間のかかる水田稲作では、収穫期がもっとも大事で、収穫に
適切なわずかな期間に稲の刈り取りをしないと、その年の苦労が水
泡に帰してしまう。
だが、この時代百姓といえば、商家や職人もあった。
要するに、百姓というのは、源平藤橘とその末裔で構成される著名
人以外、というほどの意味でしかない。
百姓を農民と定義したのは、江戸中期以降の儒学者であり、日本史
上においては、歴史が浅いのである。
話がそれた。
三郎は、地元でこそ望月の惣領息子と持て囃しもされるが、こうし
て京に上れば、名もなき氏族の一員に過ぎなかった。
親や親戚の勢力圏でこそ大事に扱われはするが、ひとたびそこを離
れれば、誰からも冷たく遇される。ましてや、三郎は未だに幼い。
三郎は、あまりに平易に接してくれる良之に、最初から好意と敬意
を持っていた。
だが、思い切って進言をした人材確保のことについて、1000両
もの金を自分に託してくれたことに、驚きと感激を覚えたのである。
この日のことを、三郎は生涯忘れないだろう。
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京の都 7
三郎はすぐに用心棒として、一族の望月法橋から3人の小者を借り
受けた。
誰にも気づかれていないが、それぞれが望月の郷の手のもので、忍
びである。
3人を良之に紹介したのち、良之から1000両の砂金を預かり、
四等分して隠し持った。
その上で良之は小者達には10両ずつ、三郎には別に100両の工
作金を手渡した。
﹁路銀に使いなさい﹂
小者達は感激して奮い立った。
三郎達がひっそりと京を立って近江を目指した数日後。いよいよ良
之達の出立の日がやってきた。
出発前日。
急に1人の少女が一行に加わることになった。
山科卿の次女、阿子である。
﹁少将殿に命を助けられた娘やからな。ならいっそお預けしてみよ
うかと思うたのや﹂
山科卿は悪びれもせずそういった。
この時代、貴人の女御や娘は旅などしない。
どちらかというと、軽装で旅をする女性は、あまりまともでないと
見なされている。
旅どころか、軽装で辻売りなどをする大原女や桂女、白拍子白川女
などといった町歩きをする姿だけで、真実はどうであれ、遊女であ
97
るかのような扱いを受けた。
さすがにそのことは、隠岐の猛反対によって良之も知った。
だが、隠岐と山科卿では、格が違う。身分だけの話ではなく、人間
としての迫力が違いすぎる。
結局、押し切られた。
やむなく、条件を付けた。
﹁男装をしていただきます﹂
そういえば、阿子自身があきらめてくれるかと思ったのだ。
ところが、むしろ﹁その程度なれば﹂と本人も大乗り気になってし
まった。
﹁黄門様の息女として扱うことも出来ません。青侍の見習いなんで
すから。それでもよろしいんですか?﹂
﹁ええわ。阿の字は生来あまり強い子ではなかったというに、少将
殿の治癒のおかげで、このように色つやも日に日にようなっておる。
とはいえ、あくまでそれは少将殿があってのこと。であればお側に
おいていただけるのが何よりであろうからのう﹂
﹁家格が今少し高ければ、そのような悩みもあるやも知れませぬが、
妾は⋮⋮姉はお寺に参りました。妾は生まれつき弱く、お寺には耐
えられぬ故残りました。お気に為されず⋮⋮﹂
﹁致し方ありません。では、阿子様はフリーデのお付きといたしま
す。お千がアイリのお付きで侍姿となっております故、お互い仲良
くお過ごしを﹂
﹁いや少将殿ありがたい﹂
﹁というわけで、よろしく頼む﹂
やむなく良之と隠岐は、フリーデとアイリに頭を下げて頼んだ。
宮中屈指の実力派公卿の姫だ。もちろん誰しもそれを知りつつ、男
装させて軽格の侍として扱わねばならない。面倒なことこの上なか
ったが、
98
﹁分かりました﹂
と、2人は面倒を引き受けてくれた。
京の最後に、出立のことを帝に伝奏してもらうため、宮中に足を運
んだ良之は、急いで引き留めに来た蔵人に
﹁急ぎ昇殿なさいますよう﹂
と言付かった。
慌てて引き返し参内すると、帝はすでに良之を待っていた。
ゆる
御前に進み良之が頭を下げると、
﹁少将、色を聴す。離京を許す。身体をいとえ﹂
と、異例の勅許が下された。
﹁ありがたき幸せに存じまする﹂
その後、御下賜品として飛鳥井宰相が蹴鞠を良之に渡した。
禁裏から二条屋敷に下がると、すでに準備の整った家臣達が良之の
命令を待っていた。
﹁はや、出るか?﹂
﹁関白様⋮⋮いって参ります﹂
二条晴良は、わざわざ彼の出立を帝に言上し、今また、急いで帰宅
し見送ってくれていたのだ。
見ると、山科卿もまた、邸宅から二条邸に駆けつけてくれていた。
﹁黄門様、大変お世話になりました﹂
﹁なんの。阿の字をよろしく頼む﹂
やはり人の親。山科卿は謹直に顔を取り繕っていても、その瞳は赤
く腫れている。
隠岐はじめ家司雑掌3名。諸大夫3名、青侍は男装のフリーデやア
イリ、お千と阿子を含め10名。その全員が騎乗だ。
17騎の騎馬にはそれぞれ2名ずつ中間・小者が付き、小者達が轡
99
を取り、中間が槍や薙刀を担いでいる。
そのほかに本来は荷駄を扱わせる10名の小者達がいる。彼らは、
荷車を押したり、先触れに立ったりする。
総勢60名を越える一行となった。
物見高い公家や町人達は、すでに烏丸小路に見物の列をなしている。
一行の召し物は狩り装束。風折烏帽子に狩衣姿だ。
衣服のことは専門家である山科卿が指図をしてくれた。小者の1人
に至るまで、全員が新品を誂えた。
その色、表地も裏地も全て白で、全く汚れがない。
生地の表面は丁寧に砧で打たれて光沢を帯びている。
むしろ見るものにその贅を感じさせる。
そして、その中で1人だけ古着の狩衣を着ているのが良之だ。
ただの古着ではない。
紫地に、金糸と銀糸で交互に、二条家の有識紋︱︱二条藤が大きく
描かれている。
裏地は白。
誰かは分からないが、おそらくは二条家のいずれか名のある当主が
用いた遺品だろう。
この時代の有識者達は、服に使われてる色と紋でたちどころに相手
の身分を理解した。
旅装である狩衣はファッション性も高く、必ずしも色と家の格は同
一である必要がない。
ただし、ある種の色を用いるにはその本人の位階が釣り合っている
必要があり、さらには勅許が必要にもなる。
﹁聴色﹂という勅許は、おそらく公然と良之が紫地に金糸銀糸を用
いた狩衣を着るために、山科卿あたりの入れ知恵で関白が得たのだ
ろう。
京の町は、美麗な行列にざわめいていたが、騎乗の良之の姿を見て、
一様にほうっとため息をついた。
100
応仁の乱からというものの、公家の貧困は年を追って進んだ。
もはや、こうした華美な行列は見なくなって久しかった。
101
堺へ 1
京の町を出ると、手はず通り隠岐の指示で東寺に立ち寄る。
ここで、象徴である良之以外は全員が普段使いの狩衣に召し替えを
した。
ていきょう
それぞれが自前の狩衣に着替えた。
全員に今回の狩衣は下賜されるが、荷物になるので<収納>に納め
てしまっている。
同様に、3台の荷駄も丸ごと<収納>に片付けてしまう。
良之や2人の異人の女達の実力を知らない家臣達は驚いて戸惑って
いたが
﹁少将様やお付きの方々は異国の方術を修めておられる。方術とは
それ、いにしえの陰陽師安倍晴明のようなお力よ﹂
と得意気に隠岐が全員に説明すると、分かったような分からないよ
うな状態ながらも、﹁それは偉う御座いますな﹂などと何となく納
得するのだった。
東寺を出ると、この日の目標は離宮八幡宮だ。
この地は、鴨川と桂川の合流地として水利を活用し古くから栄えた。
やがて、豊富な水量で摂津や堺からの水運が活発化すると、豊富な
食料生産や富の集中によって好循環が生まれ、知識層によって様々
な新事業が産まれていった。
油の生産もそのひとつだった。
大山崎の社司である何某がテコの原理で荏胡麻を絞ることを発明し、
この製油の元祖になったと言われている。
102
この製油と原料の調達、そして販売。それらを一貫して権力を背景
に独占することによって、中世以降、大山崎はかつてない繁栄を見
た。
ひとつには、公家社会の権威である離宮八幡宮と、武家社会の象徴
である石清水八幡宮という公武双方の尊崇の対象である宗教力を背
景にして、朝廷と室町幕府に強訴を繰り返すことで、これ以上ない
ほどの利権を生み出したこともある。
だが、彼らの成功を、宗教を使ったゆすりたかりだけだとみるのは
間違っている。
長年の富と努力は、この地に住む人間達に独自の知性と社会性を生
み出させていた。
幼い頃から読み書き算盤をまなび、政治的圧力によって、この時代
の庶民にとって侵しがたい権力であったはずの朝廷も幕府も屈服さ
せ続けてきた。
そうして、畿内のみならず東国にまで大山崎の油座を遍在させ、人・
モノ・カネの全てを押さえた。
そんな中から、良之でも知っている2人の戦国大名が登場した。
いずれも、梟雄と呼ばれることになるこの2人は、こうした大山崎
の雰囲気と無縁ではないかも知れない。
1人は、美濃の斉藤道三。
もう1人は、まだこの時代には阿波の守護代三好長慶の臣であり祐
筆兼武人である松永久秀である。
この2人を歴史に生み出したという一事をもっても、山崎という土
地の当時の民心が偲ばれる。
話を旅の空の良之に戻す。
こがなわて
東寺を出た一行は九条大路を西に進み、羅城門跡から鳥羽作道を南
下する。
鳥羽から久我に渡り久我畷をさらに南下すると、目的地の離宮八幡
宮にたどり着く。
103
﹁妙な公卿が来た?﹂
﹁へい。初めて見るお顔どすが、二条藤の紋の衣を着たはります﹂
﹁人数は?﹂
﹁騎乗20ほど、御徒が40ほどで﹂
公家にしては人数が多い。今時はどの家も困窮し、総数でもその四
分の一出せるかどうかといったところだろう。
とはいえ二条藤という事であれば、今の関白家ということになる。
ただし、前左大臣も次男の左近衛中将も周防当たりに落ちていって
京にはいない。
﹁宿は?﹂
﹁離宮八幡様やそうで﹂
﹁会いに行ってみるか﹂
この会話の主こそが、この地出身の戦国武将、松永弾正である。
一行が離宮八幡宮に到着すると、なにやら物々しい雰囲気が周囲か
ら感じられた。
﹁これは少将様よくお越し遊ばされました﹂
宮司らしき壮年の男が頭を下げ出迎えた。
隠岐とは顔見知りのようで、宮司はなにやらふたつ三つ彼と耳打ち
を済ませると、祢冝達に命じて一行の馬を預かる厩へ案内したり、
諸大夫以下騎乗の者達を休憩処へ案内したりしている。
﹁三好筑前守様御家中松永弾正忠と申す武人がお目通り願っている
そうに御座います﹂
隠岐が良之に耳打ちした。
﹁許す﹂
良之は答えると、宮司が案内の先導を買って出た。
通されたのは宮司宅の茶室のようだった。
104
通された茶室は利休好みのにじり口があるものではなく、随分とお
おらかな雰囲気のものだった。
案内した宮司が遠慮したため、家令の隠岐にも遠慮させ、良之は客
座に座った。
一瞬悩んだが、あぐらで腰掛けた。
﹁三好筑前守家中、松永弾正と申します﹂
﹁二条三位左近衛少将と申す﹂
﹁京より参られたとか。お疲れで御座いましょう。お茶をお点てい
たしましょう﹂
﹁待たれよ。まずは用向きをおたずねしたい﹂
正直、松永久秀相手に初対面で毒味もなしにお茶など飲みたくない。
その良之の腹が透けたか、弾正は苦笑して居住まいを正した。
﹁なれば。茶室なればご無礼の段、お許し頂きたく﹂
﹁許す﹂
良之はことさら身分の上下を意識してしゃべった。数日間、隠岐より
﹁少将様への侮りは、ひいては関白様、帝様への侮りへと通じます﹂
とさんざん習ったばかりだった。
﹁こたびの山崎へのご来訪、いかなご用向きで御座いましょう?﹂
﹁堺への下向の道行きの宿とした﹂
﹁なるほど⋮⋮堺へはいかなるご用で?﹂
﹁後学のための見聞﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁こちらからもよいか?﹂
﹁どうぞ﹂
弾正はうなずいた。
﹁三好筑前守殿の家中がなぜ山崎に居られる?﹂
弾正は一瞬躊躇したが、答えることにした。
﹁少将様は細川京兆家が銀閣寺の裏山に城を築いたのはご存じです
か?﹂
105
話せば長い。
だが、弾正は根気よく背後関係も含めて良之に解説した。
京兆家細川晴元は、お側衆としてかわいがっていた三好政長が、謀
略を以て主家の主三好元長を滅ぼして私腹を肥やしたのを許した。
三好長慶は元長死後、阿波三好本家の家督を11才で継いで以降、
強兵と戦術眼、そして政治交渉の巧みさをもって瞬く間に畿内を席
巻し、やがて晴元に、政長が奪った本家の所領の返還を願ったが却
下されたため暴発した。
すでにこの段階で主の細川家を凌いでいた三好家は苦闘しつつも徐
々に勢力を伸ばし、ついに政長を打つことに成功。その結果、管領
細川晴元と将軍足利義晴は京を失地し、近江の六角を頼って落ち延
びるという事態になっていた。
更にこの年には、隠居して足利将軍家を嫡子義藤に継がせていた1
2代足利義晴を失っている。
﹁中尾城と称するその城に先月来、足利義藤と細川晴元が入城し、
盛んに斥候を京に放っております。我らはこれを食い止め京の町を
守るため、数日中に主・筑前守含めこの山崎に参集する手はずとな
っております﹂
﹁分かった。そこに俺のような公卿がのこのこやってきた故、弾正
殿は存念を確かめようとこの席を用意してくれたわけだな。お手数
をおかけした。もし興が冷めて居らぬのなら、茶を一服所望する﹂
良之はあぐらを解いて正座に直した。
︱︱ほう。
表情を変えずに弾正は心の中だけで感心した。
居住まいを正しただけで、今までとは桁の違う人物的な迫力がこの
謎の公卿から発せられている。
弾正は茶を点てた。
106
そしてその公卿が茶を喫する様を注意深く観察し続けた。
茶道は良之の母の趣味だった。
良之は子供の頃からどこか醒めたところがあって、お茶の作法がお
為ごかしに思えて仕方なかった。
茶菓はうまいが、それだけ取ってもさほどのものではない。和菓子
屋に行けばいくらでも買えるものだ。
そして、抹茶など、現代人の彼にとって、別にどうと言った飲み物
でもなかった。
ただ抹茶を飲むために相手が所作通り動くのをじっと待ち、やっと
出てきたお茶をお辞儀してから飲んだり、お辞儀に3パターンの所
作があったりと、馬鹿馬鹿しくて仕方がなかった。
それで、ほんの数回の講習で全ての所作を完璧に披露して以降、二
度と茶道には関わらなくなった。
周囲にとっては難儀な子供だっただろう、と今にして思う。
決して茶の心などもとめていなかった。
ただ、与えられた課題を完璧にこなしたい。そんな自己満足のため
だけに学び、やめた。
一方の弾正は、所作に美しさのあるこの公達に違和感を覚えた。
茶の喫し方がおかしいわけではない。
だが、どこかしら自分の知る茶の道とは違うような不思議な感覚だ
った。
﹁率爾ながら、お手前はいずれの師匠にお習いになりましたか?﹂
つい訊ねてしまった。
良之は苦笑して首を横に振った。
﹁結構を頂戴いたした﹂
茶碗を返し、頭を下げ、姿を戻すと良之はいった。
﹁明日、油座を案内させ、見終わったら堺に発ちましょう。油座に
は興味があるから立ち寄ってみたい﹂
107
﹁油座にご興味? それは⋮⋮﹂
﹁ただからくりが見たいだけで、それ以上はなにもいらぬ﹂
﹁なれば今から見に参りましょう。明日は払暁から堺に下られるが
よい﹂
そう言ってから弾正は
﹁我らがこの地に屯集すれば、もしや戦になるやも知れませぬ。雑
兵も集まる故、ご無礼があっては相済みませぬ﹂
と意図を明かした。どうもこの公卿は、ものの道理を冷静に計れる
ようだと弾正は思ったのである。
﹁そのようにしよう﹂
案の定、良之が即座にうなずいたのをみて、いっそその思いを強く
した。
その足で弾正は油座の案内を始めた。良之は驚いた。
﹁そなたは武家ではないのか?﹂
﹁山崎の地は庭のようなものでござる﹂
そういうものなのか、程度にしか良之は気づかなかった。
やがて2人は圧搾機のある搾油場に入った。
弾正にとってはこの若い公達に、少しいいところを見せた気分にな
る瞬間だった。
だが意外なことに、良之はそれをちらっと見ただけで、
﹁分かった。弾正殿、案内お世話になった﹂
といったのである。
一目見ただけで、実作業も見ていないのに理解したのか、さもなけ
ればどこかですでに見知っていたのか。
﹁⋮⋮少将殿は、一目見ただけでこれが何かおわかりなのか?﹂
﹁搾油機だな。そこの棒に職人達が力を込め、そこに荏胡麻を袋か
何かに詰めて押し込んで絞る﹂
﹁⋮⋮どちらかでご覧になりましたか?﹂
﹁いや、そうでもないが、大体そのようなものだろう﹂
108
原始的だが効率はよい圧搾法だ。鉄がふんだんに使えれば更に荷重
がかけられるようになるし、酸やアルカリの薬品が使えるようにな
れば精製も出来るようになるだろう。
﹁絞った油は紙で漉して溜め、澱を除いて上澄みをすくい取るのか
?﹂
﹁なぜおわかりに?﹂
反問されてしばらく良之は中空を睨んだあと
﹁人のやることだから、理由がある。その理由から考えれば、何と
なく、分かる﹂
と答えた。
弾正はショックを受けた。
実際彼の言う通り、仕組みを見て推測すれば、頭の切れるものには
見通せるだろう。
だから、この公達がほんの一瞬で油座の仕組みを全て見通した事は、
驚くべき事ではあるが恐るるまではいかない。
こうした人間を弾正は何人も知っているからだ。
例えば紀州の鉄砲鍛冶などにもそういう類いはいて、南蛮渡来の種
子島を見て、ひとつきとかけずにもう模造してのけていた。
そしてすでに、弟子どもを指図して量産まで始めている。
ではなぜ自分は衝撃を受けたのか、弾正は頭に登った血を沈めなが
ら考える。
︱︱おそらく、この公達は⋮⋮
そうではないと思ったのだ。
どちらかというと、なにもない時代にこの圧搾機︱︱長木を創り出
したそれのような存在なのだ。
だが、この弾正も並の男ではなかった。この瞬間、たった一瞬の遭
遇でそれを見抜いたのだ。
109
翌朝。
急な貴人の来客に追われながら、離宮八幡宮が朝餉を饗し終わった
あと。
再び松永弾正忠久秀が二条三位少将良之の許を訪ねた。
﹁堺から上ってくる三好の兵と万が一にも諍いがあっては困ります
ゆえ﹂
彼自らが良之に帯同して三好軍との遭遇までお供する、というのだ。
﹁それはありがたいのですが、良いのですか?﹂
﹁もちろんでございます。それと、1人是非にお目通りを願いたき
者が居ります。お許しねがえましょうや?﹂
﹁許します﹂
良之はうなずいた。
﹁我が愚弟、松永甚介と申します﹂
﹁直答を許します﹂
﹁はっ。ありがたき幸せ﹂
ちっともありがたそうに見えないものの、甚介は顔を上げた。
弾正忠を名乗る松永久秀は、もし正当であれば最低でも正六位下よ
りは地位が高い。
まあ仮冒であったところでなにも変わらないだろう。
京と摂津・和泉・河内を制した讃岐・阿波の戦国大名、三好家臣。
松永を名乗る以前の経歴がほとんど分からぬ百姓出身でありながら、
その家中で首脳部にまで登り詰めた兄弟だ。
いずれ公卿との関係を元に、本物の官職を得ることに間違いもない
ところだろう。
要するに、六位弾正を名乗り直答が許される久秀とちがい、官職の
ない甚介がが三位少将である良之に直言するのを憚ったわけで、久
秀が良之に公然と敬意を表した事になる。
110
それが甚介には不快だったのかも知れない。
111
堺へ 2
以下余談。
この2人の兄弟が生まれ育ち、教養や武芸を磨いた故郷がここ、大
山崎であることは前に触れた。
この、淀川を挟んで西岸に存在する丘陵地帯は、別名を西岡とも呼
ぶ。
丘陵は古くから城郭として利用された。
交通・物流の要衝であるという事は、軍事的な拠点でもあることを
示す。
この岡の名を﹁天王山﹂という。そして、その天王山の頂にある城
が山崎城である。
現代人には、山崎城より天王山という単語のほうが分かりやすい。
テレビのスポーツキャスターが最終決戦のことを天王山と呼称する
からだ。
いずれかの時期に視聴者はその呼称の意味を知るようになる。
つまり、天下分け目の明智光秀と羽柴秀吉の決戦で戦場となったこ
とに由来する事を理解する。
大山崎とは元来そうした戦略上・歴史上重要な立地にある。
軍事力としての山崎城を麓から睨みつつ、石清水八幡宮や離宮八幡
宮の権威を嵩に着て、古来、大山崎油座に属した商人達は自らを﹁
神人﹂と呼んだ。
大変な自尊心といえる。
気に入らないことが少しでもあると彼らは石清水八幡の放生会で御
輿を京の都まで運び、禁裏や将軍の居城である花の御所の正門前に
112
その御輿を放置し立ち去るという方法で脅迫をした。
似たようなことを奈良興福寺や比叡山延暦寺も年中行っている。
強訴、という。
最初は寺社の権威を背景に行われていた強訴は時を経るごとに凶暴
化して、ついには各宗教勢力は武力を背景にした恐喝団体としか言
いようのない状況に陥っている。
そうした中で育ったこの土地出身の長井豊後守・斉藤道三親子や松
永久秀・松永長頼兄弟のような人材が、時に朝廷や幕府の権威を全
く軽視するような言動を取るのは、その土地がもつ雰囲気というも
のの発露なのかも知れなかった。
彼らはその人間性の成長の中で、
﹁権威があるから尊い﹂
のではなく
﹁武力があるものが権威さえ牛耳る﹂
というこの時代の真実を冷徹に見抜き、体現しているのかも知れな
かった。
良之に松永弾正忠久秀は言う。
﹁この甚介、我が弟ながら武辺者にて主君の覚え我をも上回る男。
少将様には、お心にお留め頂ければ我が松永の誉れとなりましょう﹂
﹁承知した﹂
﹁⋮⋮というわけで、この甚介が居ります故こちらのことは問題ご
ざいませぬ﹂
そう言うと弾正は、用意させた馬に乗ると、良之主従の一段に加わ
り、良之の横で馬を進めた。
呼び出された上に一言も発する前に放置されて甚介は呆気にとられ
ていたが、公然と盛大に舌打ちをして、兄に変わって三好軍駐屯の
113
ための指図を取るのだった。
﹁弟さん、怒ってましたがいいんですか?﹂
﹁なあに、あいつは事務方の仕事が嫌いなのです。出来ぬ訳ではな
いのでやらせておけば良いのです﹂
良之の問いに弾正は暢気に答えた。
弾正は言葉には出さないが、実は、良之の一行がこの先で三好軍と
接触する時、万が一にもゆすりたかりや狼藉といった目に遭わされ
ることを警戒しているのだった。
三好軍本体の士気は高く、練度やモラルも悪くはない。
だが、そうかといって問題のある雑兵が居ないかと言えば、それも
またそうでもない。
国人・豪族層、つまり三好家が管理していない土豪などが率いる軍
は略奪目当てで参加する者も居る。
三時間ほど淀川沿いを騎乗と徒歩の一団は下った。
前方からかなりの大群が良之たちの進路を逆行してくるのが見えた。
双方の先触れの小者が駆け寄ってなにやら話す。
やがて先触れたちが良之たちの許へ駆け寄ってきた。
隠岐が先触れに話しかけようとするのを制し、松永弾正が
﹁我は松永弾正忠。こちらは二条の三位少将卿でおわす。急ぎ戻り
筑前守様にお伝えせよ。卿は堺へ下られるので、我が山崎よりお供
つかまつって居る﹂
先触れにとっては、公卿はともかく弾正忠でさえも雲の上の存在に
近い。
三好方の先触れはその言葉を受け慌てて自軍に駆け去った。
﹁弾正殿、かたじけない﹂
隠岐が主に変わって礼を言う。
114
﹁なんの。ご同道したのはこれが目的ゆえ﹂
弾正は答えて、良之主従に先を急がせた。
引き返していた先触れが再び姿を見せ
﹁筑前守様より、二条少将様にご挨拶をしたいと言付かってござい
ます﹂
と弾正へ言上した。
弾正は良之に視線を送る。良之はうなずいて見せた。
かみにわじしょう
良之と三好筑前守が出会ったのは、上仁和寺荘と呼ばれる村を過ぎ
たあたりだった。
このあたりは現在では寝屋川市になっている。
この時期は京大阪を支える穀倉地帯だ。
三好長慶の父元長が、その領有権を狙う三好政長の陰謀により一向
一揆に追い詰められ自害したあと、公然と政長によって略取された
河内十七箇所と呼ばれる荘園地帯である。
行軍中でありながら、三好筑前守は幔幕を張り、床几を並べて良之
を出迎えてくれた。
﹁行軍中なれば、ご無礼の段平にご容赦を﹂
﹁もし足止めをしてしまったのならお詫びします﹂
筑前守のあいさつに良之も詫びで返す。
﹁二条少将です。このたびは弾正忠殿にお世話になりました﹂
松永弾正に水を向けると、弾正は
﹁少将様は堺へ下向の途にてご縁あり、道案内を仕りました﹂
と報告する。
三好筑前。諱は長慶。
わずか11才で元服すると、その軍事的な才能を一気に発揮し、周
囲の同族と国人などを良く束ね、17年足らずで当時の日本最大の
版図を治める大大名に成長した。
115
良之と遭遇したこの時期には、未だ肩書き上は細川家の陪臣である
が、実情はすでに戦国大名として主君であった細川晴元、細川氏綱
を凌いでいる。
良之の前に並ぶ左右にも、十河民部大輔、三好孫四郎、その長子弓
介等が控えている。
十河は鬼十河と言われた一存で、長慶の実弟である。
﹁弾正殿にお聞きしました。京の街をお護り頂けるとのこと、あり
がたく存じます﹂
良之は床几に腰掛けたままで軽く頭を下げる。
﹁都を騒がすのは不本意なれど、兵火を以て侵略を志す敵があれば
致し方なく﹂
筑前はそう答えた。
話によるとこの頃の筑前は28才くらいのはずだが、良之の目には
随分と疲れた男に見えた。
その後、筑前の配下、といっても身内だが、1人1人を紹介され、
それぞれとあいさつを交わした後、良之は出立した。
﹁時を失いました。今宵は石山にて宿を求めましょう﹂
大宮八幡宮で休息を取るため立ち寄った際、隠岐が良之にそう告げ
た。
﹁任せる﹂
良之の返答を受けて、隠岐は先触れに小者を走らせた。
石山。
山科にあった本願寺が堂の一つすら残さず焼け落ちたあとの天文2
年、本願寺の本山として開発がはじまった。
以来、数度の敗戦はあったが順調に城郭と寺内町の拡大は続き、1
7年目を迎えるこの時期には、国内で並び立つものがないほどの大
城郭に成長していた。
116
この時期の宗主は10世証如。
先触れが戻った。
一緒に僧兵のような出で立ちの男たちが数人、同行してきている。
﹁申し上げます。本願寺より少将様ご来訪を歓迎するとのお申し出。
これなる2人はご案内を仰せつかる由﹂
先触れは隠岐に報告をする。
続いて、僧兵が言上する。
﹁申し上げる。少将様におかれては、今宵法主よりご歓待を望む由
言上いたす。御家中の皆々様には、宿坊にてお寛ぎ頂けるよう坊官
が手配いたしたる由、安んじてお休み頂きたく﹂
﹁かたじけない﹂
隠岐が主に変わって返礼する。
戦雲が近づく京より、あるいは安全かも知れない、などと隠岐は考
えている。
﹁では愚禿どももこれよりご同道いたす﹂
言われて、隠岐は顔を引き締め直し、うなずいた。
一時間ほどで石山御坊の寺内町が見えてきた。
驚いたことに、この頃はもうすでに、京より賑わっている。
良之はこっちの世界に来てから、焼けた京しか見ていなかった。
大山崎の賑わいも鮮烈だったが、本願寺門前町の豊かさもまた、良
之にいろいろ考えさせることになった。
ここに来るまで、良之は心の片隅で本願寺を敵視していた。
なんと言っても、この国がここまで荒れた原因のひとつは、間違い
なく宗教戦争の側面もあった。
歴史に強くない良之でもそのくらいのことは知っていた。
ことに、法華宗、天台宗、そして一向宗。武装して我意を通そうと
した宗教家たちは、やがて政治権力に利用され、時にはそれを利用
117
して、放火し略奪し殺し合った。
寺のような巨大建造物が焼かれれば、当然門前町にも延焼する。む
しろ門前町こそ略奪され、灰燼に帰す。
そんな行いのため、上京も下京も未だに再建されず、焼け跡に黒々
と炭化した柱の跡を残していた。
だが、この石山の町の豊かさを僧兵たちが守っていることも、一方
では紛れのない事実だった。
やがて、僧兵たちに案内され、良之の供回りは宿坊へ、良之と隠岐、
しもつま
フリーデとアイリは御坊へと案内された。
﹁奏者下間上野法橋でございます。ようお越しはりました﹂
中年の青白い僧が四人を迎えた。
﹁二条少将です。このたびはお招きに感謝します﹂
良之は軽く礼をした。
﹁良之様⋮⋮﹂
アイリが良之に耳打ちをした。
﹁失礼、奏者殿。もしお気を悪く為されなければ、貴方のご病気、
治療させて頂けませんか?﹂
﹁はて? 病?﹂
﹁時々、おなかが激しく痛んだりしませんか?﹂
﹁⋮⋮﹂
どうやら思い当たる節がありそうだ。
﹁手間は取らせません。なんなら今ここですぐ終わります。私の連
もろこし
れは方術が使えますので﹂
﹁なんと、方術とは⋮⋮唐土の道術仙術の類いですかな?﹂
﹁はい。ものは試し、と申します。ほんの少し座ってお待ち頂けれ
ば、背中をとんとんと叩く間に終わります﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
上野法橋は不得要領にうなずき、胡座座りに腰掛けた。
118
その背後にアイリは廻り、治癒魔法で彼を癒やし、背中をとんとん、
と叩いた。
﹁⋮⋮これは﹂
上野法橋はついうっかり、人には隠していた症状の消えた胃のあた
りを右手で撫でてしまった。
同じ症状で先年兄を亡くしていたので、自分ももはや長くない、と
思っていたところだったのである。
﹁胃袋に腫瘍があったという事です。さぞおつらかったでしょう、
もう大丈夫です﹂
アイリの見立てを良之が訳して伝える。
腫瘍、という単語が伝わるか不安だったが、良之には言語理解の魔
法がかかっている。
先方にも意味が伝わったようで、上野法橋はなにやら神妙な顔をし
ておなかをさすっていたが、ふと気づいて赤面し
﹁これは、かたじけのうございました。同じ病にて兄を喪ったばか
りでございます。どのような御礼を差し上げればよろしいのでしょ
う?﹂
と頭を下げた。
﹁そのお言葉だけで充分です。それより法主様をお待たせしては﹂
良之が言うと、
﹁さようでございますな。では早速﹂
と、四人を案内して庫裏に通した。
本願寺ほどの寺になると、内向きの来客用に対面室といった応接間
がある。
四人はそこに通された。
やがて、一度奥に下がった上野法橋が、法主証如を連れて戻った。
﹁証如でございます﹂
﹁二条少将です。このたびはお宿をご提供いただき、ありがとうご
ざいます﹂
119
﹁今、法橋から聞きました。胃の腫瘍を跡形もなく取り除いて下さ
ったと。誠に、感謝の念に堪えませぬ﹂
証如はそう言うと、客人に向け、深々と頭を下げた。
﹁少将様、厚かましく存じますが、よろしければ、法主様も診て頂
けますまいか?﹂
心配そうな表情で上野法橋がちら、と証如を見やる。
﹁これ、尊きお客人に無心など⋮⋮﹂
証如がたしなめる。だが、すでに良之はアイリに治療を命じた。
﹁法主様、すぐ済みますのでお気になさらず﹂
マナ
そう言うと、先ほどと同じようにアイリに治療を任せた。
﹁⋮⋮これは、心地よい﹂
目をつぶって証如はアイリの術を受け入れた。
一方、上野法橋の瞳には、尋常ではない神気︱︱実際は魔素だが︱
︱がアイリから法主に発せられるのを感じた。思わず手のひらを合
わせ、その様を拝んだ。
﹁⋮⋮﹂
アイリが良之に耳打ちした。
﹁法主様には、心臓に不安があったそうにございます。胸が締め付
けられるような経験はありませんでしたか?﹂
﹁そういえば、この頃とみに疲れやすくなり、横になると脈が乱れ
ることが⋮⋮﹂
﹁なんと!﹂
言いかけた法主の言葉に上野法橋が驚く。
﹁あの、もう大丈夫だそうですので⋮⋮﹂
良之は苦笑して、法主を叱り出しそうになる法橋を止めた。
﹁いやこれはまさしく、神医と呼ぶにふさわしい。ほんに有り難う
存じます﹂
法主も手を合わせて頭を垂れた。
﹁少将殿。厚かましいことを承知でお頼み申す。このお医者様をお
120
借りできますまいか?﹂
ぐとく
法主が意を決して平伏した。
﹁愚禿が祖父、蓮淳もまた、今病を得て床に伏せっております。畿
内の名医に診させましたが、なにぶん齢87にも至りますれば、薬
も効果なく⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
良之は後ろに控えるアイリに通訳する。
﹁病なら癒やせるが老衰は癒やせぬと申しております。が、診もし
ないでお断りするのは人の道に外れる、と申しております﹂
﹁おお、それでは!﹂
﹁ですが、一人だけお貸しするわけにも参りません。ご覧の通り、
異国の者ですから、俺が一緒に行かないと言葉も通じません。です
から全員で治療に向かうしかありません﹂
﹁それでは⋮⋮﹂
﹁伺いましょう﹂
﹁なんと⋮⋮なんと、かたじけない﹂
法主と法橋はそろって良之に頭を下げた。
121
堺へ 3︵前書き︶
式村です。
良くある実用書風なタイトルっぽく
﹁よくわかる新?日本史﹂というタイトルで掲載をはじめて見まし
たが、何となく気になってGoogleで検索したところ、大変不
本意ながら本物の参考書や実用書に完全に埋まってしまう結果とな
りました。
そこで若干タイトルをいじりまして、
﹁良く分かる新?戦国日本史﹂と変更いたしました。
もっともこれでも歴史読本さんとかのムック本とかぶってくるよう
なんですが、それでも若干はマシかも知れない、と思っております。
⋮⋮今後ともどうぞご愛顧のほど、よろしくお願いします。
122
堺へ 3
その日の夕餉は、随分張り切ったものが饗された。まさに山海の珍
ひしお
たまり
味といった豪華さに驚いたが、もっとも良之を喜ばせたのは、この
膳に醤油が出たことだった。
﹁法橋殿⋮⋮これは?﹂
﹁ああ、それは近頃紀州にて発明された醤醢で、溜まりと申すもの
でしてな。未だ量が作れぬ故、特別な日にのみお出ししております﹂
溜まり醤油か、と良之は喜ぶ。
醤油はこの時代にはまだ存在していないのかと、あきらめていた良
之だった。
それが、もしかしたら手に入るかも知れない。
少なくとも、製法についてはすでに現地でも理解しているものがい
る、ということで、これはありがたかった。
﹁堺のあとで是非紀州に遊学に行こうと思います。もし作り元をご
存じの方が居られましたら、お教えいただけませんでしょうか?﹂
﹁はは、おやすいご用にございます﹂
法橋は、まるで子供のようにはしゃぐ良之をみて、自分自身も嬉し
くなったのか、柔らかく微笑んだ。
その姿に、法主も小さくうんうんとうなずいた。
翌朝、夜明けと共に良之主従は起こされた。
彼らはお勤めこそしないが、ほかの迷惑にならぬよう身支度を調え、
朝餉を待つ。
やがて僧たちのお勤めが終わると、信徒たちもお堂に来て、各自朝
の勤めを終えて解散する。
良之主従も朝食をいただき、出立の準備がととのった。
123
﹁おはようございます﹂
下間上野法橋が法主を案内して、客間の良之にあいさつして控えた。
﹁少将様、本日はよろしくお願い申し上げます﹂
法主が手を合わせ、頭を下げる。
﹁はい、できる限り﹂
良之も同じように頭を下げた。
﹁案内に二人、お付けいたします⋮⋮こちらに﹂
法主が頭を下げたまま呼び出す。
﹁これは下間筑後法橋。こちらが下間虎寿﹂
筑後法橋と呼ばれた方は若々しい精力的な僧だった。法橋を名乗る
という事は血統的にもエリートなのだろう。
虎寿、と呼ばれたのは幼名から分かる通り、まだ得度を済ませてい
ない童子姿の少年だ。
この時代では、11−16才あたりで元服をする。
下間姓は代々本願寺の僧官、つまり幹部になる候補生の家柄なので、
この虎寿もおそらく、将来は法橋からはじまる出世コースに乗るの
だろう。
下間氏の祖とされる源宗重は、真宗の宗祖親鸞の内弟子だった。
一族が謀反を企てた門で宗重も処刑されそうになった。そこに居合
わせた親鸞が、自らの弟子として出家させることを条件にして命を
救ったという。
やがて親鸞が東国に下ると同行し、親鸞が庵を構えた下妻の地から
下妻氏を名乗るようになったという。
それ以来、本願寺においては、武家で言うところの家老のような立
場で代々仕えている。
﹁良くご案内なさりますよう﹂
﹁はっ﹂
﹁はいっ﹂
124
法主の言葉に二人はうなずいた。
本願寺を出て馬上の人になった良之主従は、河内久宝寺の地にある
顕証寺へと向かった。
筑後法橋は意外、でもないが器用に乗馬をこなした。
だが問題は虎寿だった。
12−13才に見える虎寿は、大きな風呂敷を抱えている。片道二
時間半ほどの行程とはいえ、馬にあわせて比較的早足で進む一行に
必死で着いてきているが、もうじき、疲労で動けなくなるのは明ら
かだった。
良之は右手を挙げて一行を止める。
﹁隠岐、虎寿の荷物を誰かに代わらせよ﹂
﹁はっ﹂
隠岐は、小者の1人に荷物を持たそうとする。ところが、虎寿にと
っては大事なお勤め。
我を張って、荷物を渡そうとしなかった。
﹁虎寿﹂
﹁⋮⋮﹂
幼いとはいえ、虎寿も相手が二条関白の弟御で三位少将だとわかっ
ている。
頭を下げたまま、返答しない。
﹁直答を許す﹂
隠岐が声をかける。
﹁虎寿、そなたに大事な用をお願いしたい。良いか?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
消え入りそうな声で虎寿はうなだれたまま返事をする。
荷物を預けて、帰されるとでも思っているのだろう。聡い子だった。
﹁隠岐。虎寿を俺の前に座らせろ。虎寿。これから訪ねる光応寺殿
のお話を俺に教えてくれ。お前が徒歩だと聞きにくい。俺と同乗し
て話すが良い﹂
125
ちら、と筑後法橋が厳しい視線を虎寿に送り、ふと良之に目を移す。
良之は、刺すような視線で筑後を見つめている。
筑後法橋もただの男ではない。文武に秀で、武家も逃げ出すほどの
剛の者だった。
だが、一瞬、まるで気をのまれるように良之の視線に射すくめられ
た。
﹁法橋殿、よろしいな?﹂
やむなく筑後法橋はうなずいた。
﹁さ﹂
小者が虎寿から荷を受け取ると、すかさず良之が左手を差し出す。
つい、虎寿は充分の手をその手に伸ばした。
そのとき、良之の小者がさりげなく虎寿の腰を持って馬まで引き上
げてくれた。
︱︱立派な御方だ。
虎寿は訳もなく感動していた。ただ、感動していた。
片道二時間半ほどの道行きで、虎寿は訥々と、光応寺蓮淳のことを
語って聞かせた。
第六世、中興の祖とまで謳われる蓮如の6男であること。
現法主証如がわずか10才で法主をつがねばならなかった時、彼が
後見として支え、今日まで証如の心の支えであり続けたこと。
若い頃はとても恐ろしい人物だったが、近年下々にまでとても優し
く接するようになった事。
87才になるが、倒れられるまではとてもお元気であったこと。
話しているうちに、徐々に虎寿の緊張はほぐれた。
緊張が去ると、虎寿は不思議な感覚を良之から感じるようになった。
126
それは、あるいは昨晩上野法橋がアイリから感じたものと同様だっ
ただろう。
彼は、はっきりと良之のマナを感じ、それが自分の身のうちに染み
込んでいくことも感じていた。
良之も、自身の身体から漏れるマナを虎寿が吸収していることに気
づいていた。
2人は、穏やかに話を続けながら、やがて顕証寺に到着した。
顕証寺に着くと、筑後法橋が大声で寺の小者を呼び出し、良之たち
の来訪を告げる。
証如自らの文を蓮淳に届けさせると、良之の臣たちに宿坊での休養
を手配し、さらに、良之、隠岐、フリーデ、アイリの四名を庫裏に
案内する。
しばらく待つと、庫裏から準備が整ったとの知らせが来た。
蓮淳は床に半身だけ起こした姿で来客を待っていた。
﹁二条三位少将です。私の臣の同士に方術にて病を癒やす者が居り
ます。法主様の願いにて、三位法印どのの診察に参りました﹂
﹁文を見た。かたじけなく﹂
老齢でかなり参っている様子が見て取れた。
おそらく、病と暑さ、それに不衛生な状況で危険な状況と思われる
が、それを精神力で押し殺し、周囲に見せまいとしているのだろう。
﹁では早速﹂
﹁頼み申す﹂
良之はアイリに視線で指示を出す。
背後からアイリが回復魔法をかけ始める。
﹁む!﹂
蓮淳の重いまぶたが、かっと見開かれた。
アイリは、今までに見せたことのない疲労感を額や頬に滲ませてい
127
る。
つっと彼女の頬に冷や汗が伝う。
だが、眉ひとつ動かさず魔法を使い続け
﹁終わりました。胃腸の衰弱が激しかったため全身が衰弱していま
したが、おそらく大丈夫かと思われます。右肩と左足の股関節に深
刻なダメージがありました。転倒による骨折でしょう。治療しまし
た。腎臓と肝臓も癒やしました﹂
早口で良之に伝え終わると、ふうっとため息をついた。
﹁席を外して休ませていただきます﹂
とアイリが言うので、彼女が休める部屋を用意してもらった。
﹁いかがですか? 法印殿﹂
﹁⋮⋮これはたまげた。こんなことが起きるものなのか﹂
法印はそっと立ち上がった。慌てて筑後法橋が支えると、
﹁⋮⋮うむ﹂
と法印はその瞳をまっすぐみてうなずいた。
﹁悪い部分は方術で癒やしました。ですが、衰えた筋肉や骨までは
何とも出来ません。どうぞ、適度なお食事と散歩などで徐々にお体
を慣らしてください﹂
﹁法主様の文は読んだが、さすがに信じてはおらなんだ。じゃがこ
れは⋮⋮これは味おうたものにしか分からぬ感動じゃ。かたじけな
い、少将殿﹂
﹁それは良かったです﹂
﹁⋮⋮聞けば上野法橋、そして我らが法主様まで癒やしてもろうた
とか。この恩義、愚僧らは誰1人忘れませぬぞ﹂
﹁そのお言葉が、何よりの宝です﹂
にこりと良之が微笑むと、やせ衰えた老僧の瞳は、再び炎を得たよ
うに強く光った。
良之たちが病床を遠慮し去ったあと、蓮淳は祐筆に自身の体験と結
果を法主への報告として認めさせた。
128
署名を済ますと、それを控えていた筑後法橋へと手渡した。
﹁法主様によしなに。恢復を待ち、参上仕る﹂
﹁はっ﹂
筑後法橋は畏まってその文を預かった。
﹁フリーデ、魔法回復薬はありますか?﹂
﹁⋮⋮はい。やっぱり。無理しすぎたんでしょ﹂
アイリは一気に大量のマナを使ったため、船酔いに似た症状で顔を
青くしていた。
マナの枯渇で死ぬことはないものの、こうしてひどく足下がおぼつ
かなくなる。
めまいや悪心も起きるので、手っ取り早く回復させるには、マナポ
ーションの服用が効果的だった。
フリーデからポーションを受け取ると、アイリは一気に全て呷った。
﹁ん⋮⋮有り難うフリーデ﹂
空き瓶を返すと、フリーデはそのビンを再び懐に戻した。
懐にしまうように見せて<収納>に戻しているのだろう。
﹁さて、じゃあ行こうか﹂
アイリが回復して出てきたので、良之たちは出立の準備にかかった。
﹁筑後法橋殿。俺たちは途中から堺に別れます。法主様によしなに
お計らい下さい﹂
良之は帰りも虎寿を乗せ、傍らを少し先行して進む法橋にいった。
﹁とんでもない。法印様からの言付かりもございます。何より、こ
れほどの恩義を受け、礼も申し上げず別れて帰っては、愚禿たちが
叱られます。ここは何卒お顔だけでも、御坊にお出し下さいませ﹂
﹁⋮⋮はあ、わかりました﹂
行きと違い、やけに筑後法橋の表情が柔らかい。
なるほど、彼は彼なりに忠義心から良之のことを疑っていたのだろ
う。
129
良之の心を法橋も読んだ。
苦笑し、
﹁お詫び申す﹂
と手綱を離して右手だけで拝んで見せた。
途中、虎寿が居眠りを始めた。良之はその彼の身体を優しく護りな
がら、石山御坊へと戻っていった。
かち
ここ数日、朝が早かったため、良之主従は昼餉のあと午睡を取らせ
てもらった。
さすがに騎乗は騎乗なり、徒は徒なりに疲労のピークだった。
夕刻。夏の炎天下を邸内で休んだことで、全員それなりに元気を取
り戻していた。
夕餉のあと、良之、隠岐とフリーデ、アイリは、再び法主証如から
の礼と酒膳を受けていた。
法主にとって蓮淳は、外祖父であり師であり、後見人であり、とて
も大切な存在だった。
我が身のみならずそうした精神的支柱を救われて、証如は溢れる涙
を隠そうともせず喜んでいた。
本願寺としては、法主、後見の法印、そして坊官上座・奏者の上野
法橋という首脳部の重鎮の命を永らえてくれた大恩人に、どのよう
に報いようか考えていた。
﹁率爾ながら、愚禿らにとっては公達の方々が望むものは分かりか
ねます。とにかくは、金子をご用立て⋮⋮﹂
それには、良之が首を振った。
﹁俺は金には困っていません﹂
﹁では、お困りのこととは⋮⋮﹂
130
﹁人材です﹂
良之は言う。
﹁俺はこれから、帝のためにとある国の国司となり、そこで工業を
興すつもりです。そこで働いてくれる人材が、喉から手が出るほど
欲しいのです﹂
﹁ほう⋮⋮どのような? 職人ですか?﹂
﹁ええ、職人も欲しいのですが、それより、俺の右手になり左手に
なり、目になり耳になる。そういった能力を持った人材が欲しいの
です﹂
そのため、例えば堺、紀州といった本願寺にゆかりがある人材、あ
るいは技術者集団へのつなぎがお願いしたい、良之はそう改めてお
願いした。
﹁その人材、例えばこの本願寺にも居りましたか?﹂
法主の問いに
﹁ええ、幾人かは。でも、法橋の方々はさすがにいただけませんよ
ね?﹂
﹁申し訳ございません﹂
﹁実は、虎寿が俺にとっては欲しい人材の筆頭です﹂
﹁虎寿、でしょうか?﹂
法主も上野法橋もおどろいた。
﹁確かにあれは聡い子ではありますが、まだ元服も得度も済ませて
居らぬ童でございましょう?﹂
法橋が問い返す。
﹁あの子は、もしかしたら、皆さんを治癒したあの医術が使えるよ
うになるかも知れません﹂
﹁なんと!﹂
﹁断言は出来ません。素養があるとしか⋮⋮﹂
﹁さようですか﹂
法橋が黙ったのを継いで、法主が訊ねた。
﹁もし少将殿にお預けするとして、虎寿はいかなる身分になりまし
131
ょう?﹂
﹁そうですね⋮⋮まずは近習。長じて才が伸びれば、ひとまず四位
までは。それより、反対にもし彼をお預かり出来るとして、それは
武家でしょうか? 僧籍でしょうか?﹂
良之の問いに、2人は顔を見合わす。
﹁それはいっそ、本人に聞くのがよろしいでしょう﹂
﹁お呼びでしょうか?﹂
もう床についていたのか、眠たそうな顔をした虎寿が、上野法橋に
連れられて対面所にやってきた。
﹁虎寿。その方に大事な話がある。身をただして良く聞きなさい﹂
法橋が言う。緊張が伝わったのか、虎寿はすっと背筋を伸ばした。
それを引き取って法主が続ける。
﹁二条少将様から、こたびの一件でその方を臣下に取り立てたいと
の仰せがあった。ただし、武家として仕えるか、僧籍で仕えるか、
ここに残るかはその方の考えに委ねて下さるとの仰せじゃ。その方、
よく考えて明日答えよ﹂
﹁お仕えしとう存じます!﹂
﹁虎寿。俺に着いてくるとこれからずっと旅の空だ。それほど楽な
旅じゃない。仲間とも家族とも会えない。それでもいいのか?﹂
良之は、言ってはみたが、考えてみると彼の人生をすっかり変え、
身内からも切り離してしまうことに気づいて、少し迷いが出ている。
﹁平気です!﹂
虎寿はすっかり眠気が引いた頭に、どんどんと血が上っていくのを
感じた。
﹁最後に、虎寿。少将様に仕えるにあたり、その方は武家となるか、
得度僧となるか? 選びなさい﹂
意外なことを言われ、虎寿は一瞬理解が遅れ、その後に戸惑いが来
た。
132
﹁あ、あの﹂
数秒悩んで口ごもったが、虎寿ははっきり決めたようだ。
﹁得度を受けとうございます﹂
得度を受けるため、虎寿は引き続き寺に残ることになった。
﹁どこに行っても分かるようにしてるから、まずは堺の小西屋にお
いで﹂
﹁はい!﹂
﹁法主様、法橋殿、お願いいたします﹂
﹁こころえました。こちらこそ虎寿をお願い申し上げます﹂
そうやってあいさつを済ませ一同は解散し、就寝した。
133
堺へ 4
﹁堺への船便を用意いたしました﹂
翌朝。上野法橋が、60人に馬20頭という良之の一行のため、本
願寺から堺港への船を手配してくれた。
﹁これはありがたい。なんとお礼を申せば良いか﹂
隠岐が深々と頭を下げる。
そろそろ一行の疲れはピークだ。
良之自身も全く顔色は変えないが、実は尻が痛くて仕方ない。
さすがに、臣下たちが必死に耐えてる中で、無理矢理乗馬させてい
る良之自身が痛いなどといってはいられなかった。
乗馬はとにかくつらい。騎乗の時間が延びれば伸びるほどだ。
石山本願寺から堺への船旅はさほどの時間ではない。一行は、のん
びりと楽しませてもらうことにした。
乗り降りと船上、あわせて三時間。
石山から堺への船旅は快適だった。
海上からみた大阪の地は美しかった。そして、堺。
今まで京、山崎、大阪、河内とこの時代の都市をみてきた良之だっ
いらか
たが、そのどれにも似ていない絢爛な都市に思えた。
﹁隠岐、堺の町は豊かなんだな﹂
﹁⋮⋮さようです。京より建物が美しい。甍が黒く輝き、倉が抜け
るように白い。あれは、富の色でございましょう﹂
甍というのは、屋根のことだ。良之にとっては、鯉のぼりという童
謡で聞いたことがある程度の古い言葉だ。
134
なかぞら
甍の波と雲の波 重なる波の中空を
橘かおる朝風に 高く泳ぐや鯉のぼり
確かに、あの歌のように屋根と瓦がまるで波のような都市だ、と良
之は海から望む堺の景色をずっと見上げている。
ところで、海から入った良之が気づいていない堺のもう一つの特徴
がある。
それは、環濠都市であることだ。
南北に細長い一帯はサツマイモのように地形が不揃いで、北側が細
く、南に向かっていびつに太くなっている。
自然の地形を利用しているためで、掘られた環濠も地形に沿って凸
凹に蛇行している。
現代人が古地図で想像している堺は、良之が今見ている堺とは別物
である。
太閤秀吉が全て堀を埋め整地し尽くしたあと、堺の町は大坂の陣で
全て焼け落ちた。
そののちに、再び大規模工事を行って直線的な堀を新しく開削して
出来た江戸時代以降のものだ。
さらに第二次大戦後、海へ海へと埋め立て工事が行われ、もはや往
事の面影は、一切堺には残っていない。
環濠都市に話を戻すと、室町期の都市は、富を守る必要のある都市
になるほど、空堀や人工的に付けられた河川によって防御されてい
る。
代表的なのがこの堺だが、良之が光応寺蓮淳を治療しに向かった近
松山顕証寺なども、寺内の町ごと環濠で包まれていた。
135
一般に、本願寺の勢力下にある一向宗の都市は全て環濠都市である
と言って良い。
それは、一向宗にはそのような教養のある知識層があり、それを実
現させる富があり、そして実行する指導力と労働力があることを物
語っている。
堺のこの時代の環濠は、一見すると人力で掘削したのではなく自然
に成立した河川を改修して堀に使っているように見える。
後に騎乗で堀を越え橋を渡った良之が、これを環濠と見抜いたかど
うかは、わからない。
堺に上陸した良之主従の一行は、まず到着のあいさつのために小者
を各所に派遣した。小西屋弥左衛門、日比屋了慶、武野紹鴎、津田
宗達、田中与四郎などである。
彼らには、山科卿や二条家・九条家、本願寺の法主証如や奏者上野
法橋らから紹介状などをいただいている。良之はそれらを一通一通、
別の先触れの小者に託して走らせたのだ。
20頭近い馬を世話したり、馬を担当する小者をおける宿屋は限ら
れる。
金さえ積めばどこにでも宿が取れる侍身分たちと違い、小者たちの
宿はしっかり押さえる必要がある。
そちらについても隠岐が別に小者たちを走らせ情報収集に努める。
小者と共に駆けつける中年男が現れた。
﹁皮屋の今井と申します。少将様にはお疲れのところ大変お待たせ
いたしました。あるじの紹鴎も宅でお待ちしております。どうぞお
運び下さいませ﹂
良之とフリーデ、アイリ。そして2人の従者に指定された千と阿子
は、後を隠岐に任せて皮屋の番頭然とした今井という男に導かれて、
彼らの店の裏手の庭に案内された。
136
﹁お供の皆様はこちらにどうぞ。少将様、主が茶室で、御一服差し
上げたいと申しております﹂
﹁承知した﹂
良之だけ、庭の一角に建てられた数寄屋の茶室へと向かった。
︱︱ああ、これは。
にじりぐち
良之が茶道が嫌いな理由のひとつである、潜り込まねば入れぬ躙口
の茶室だった。
実用性を全く無視し、四つん這いにならないと茶室に入ることの出
来ないこの構造は、良之には全く悪趣味にしか思えない。
しかも、こんなものを潜るためだけにも作法がある。
やむなく扇子を懐から取り出し、幼い頃に習った所作通りに中に入
って、待ち構えていた亭主に、真行草でいうところの真の座礼をす
る。
﹁お招き、ありがたく﹂
まったくありがたがっていない表情で完璧に作法をこなす。
そんな良之を亭主は愉快そうに眺める。
﹁ようおいでくだされました。紹鴎でございます。さ、まずは甘い
ものでも﹂
仕方がないので懐紙を取り出し、一枚だけ反対に折って、その上に
茶菓を取る。
有平糖という名前の菓子だ。この時代では作れる職人もそう多くな
い。そもそも、砂糖自体が南蛮商人か中国商人から輸入せざるを得
ないものだからだ。
一方の紹鴎は、明らかに茶席を好んでいないように見えるこの青年
が、なぜここまで完璧な所作を見せているのか気になって仕方がな
かった。
武野紹鴎。
茶の湯において黄金時代を作り上げた天才芸術家である。
137
千利休、今井宗久、津田宗及を筆頭に、数え切れない一級の茶人を
輩出し、彼らの孫弟子まであわせれば、現時点でもこの時代の文化
活動において比較対象がないほどの文人といえる。
茶筅の音が止まり、良之に茶碗が供される。
それを相変わらず完璧な所作で喫するが、全く心がそこに無い事に、
紹鴎はむしろ強く感心した。
飲み口を指でぬぐい、懐の懐紙で清める姿まで、いちいち堂に入っ
ている。
これで心がこもっていないのだ。いっそ清々しいほどだった。
﹁少将様は、お茶がお嫌いどすか?﹂
﹁いえ、お茶は好きです。紹鴎殿のお茶はほのかな甘みもあって大
変美味しかったです﹂
﹁ほな、茶道がお嫌いどすか﹂
﹁ええ。まず茶室のにじりが嫌いです。あれは、客人に土下座姿で
這いずり回らせるのを亭主がみて喜ぶものでしょうな。次に、所作
を細かく付ける姿が押しつけがましくて嫌いです。お前のために心
を尽くしてる。そう見せつけるためとしか思えません。最後に、茶
菓や器や掛け軸や茶道具や花について、ウンチクを傾けたり知識を
ひけらかしたり、値打ちを誇っている姿は、一期一会どころか、こ
の世の欲得の餓鬼をみる思いがします﹂
あまりに辛らつな言葉でありながら、いっている本人はまるで、般
若心経でも唱えているような口調で、表情だった。
は
﹁それほどお嫌いやのに、少将様はなぜ、お茶の心をご理解なさっ
て居るんどすかな?﹂
﹁ある時、お茶の席に呼ばれる機会を得ました。何度かお時間をい
ただき、所作のみは覚えました。単に要領が良い子供だったのでし
ょう﹂
ふと表情を崩し、良之はいった。
138
﹁紹鴎殿のお茶は素晴らしかったです。あの躙口さえなかったら、
とても幸せな気持ちになれたと思います。帰りもあそこを通るかと
思うと気が鬱屈しますが﹂
いいながら良之は、もしかしたら自分は閉所恐怖症気味なのかも知
れない、と思った。
﹁ああ、そうか。もしかしたら俺は、狭いところが怖いのかも知れ
ません。紹鴎殿はそういう性質のことを聞いたことがありますか?﹂
﹁もちろんどす。それは失礼仕りました。もしお許しいただけるな
ら、次は広い場所で献じとうございますなあ﹂
﹁ありがとうございます。そう言われれば、俺は野点の雰囲気は大
好きだったかも知れません。先ほどのような毒舌は一度も吐いたこ
とがなかったです﹂
﹁ほっほ、率直な御方や﹂
ひとまず茶席を終わらせ、紹鴎の招きで、躙口ではなく茶道口から
良之は屋敷に戻る。
良之たちを迎えに出た今井が、フリーデたちをもてなしていた。
﹁旦那様、少将様、いかがいたしました?﹂
茶道口から現れた2人に今井は目を丸くした。
﹁御不興を買うてしもうてな﹂
たわむれ
﹁えっ?﹂
﹁冗談ですよ﹂
紹鴎の言葉に驚く今井に良之が耳打ちした。
﹁そうでしたか。ならよろしければ当家に逗留なさるがよろしいで
しょう﹂
馬の世話がある小者たちとは別に宿を求めたいと相談した良之に、
紹鴎はいった。
﹁20名ほどのお侍でしたら問題おまへん﹂
さすがはこの堺を牛耳る会合衆の一員というところであろう。
139
﹁ああそうや、少将様、改めて紹介しときます。これはうちの娘婿﹂
﹁お婿さんでしたか。恰幅の良い方なので番頭さんかなと思ってま
したが﹂
﹁ほっほ。番頭言うても道楽の方で﹂
紹鴎は、茶筅を振る手つきをして見せた。
﹁今井宗久と申します﹂
改めて名乗り、頭を下げた。
﹁そうだ。宗久殿。うちの若い衆に指導をしていただけませんか?﹂
﹁指導ですか?﹂
ちら、と宗久は紹鴎をみる。紹鴎は微笑みながらうなずいた。
﹁わたくしでよろしければ﹂
﹁良かった。後で隠岐に話をさせます。いつまで堺にいられるか分
かりませんが、みっちりしごいてやって下さい﹂
﹁ええ経験になるやろ。人に教える言うんは、自分を教えることに
もなるさかいな﹂
紹鴎が話を拾って締めてくれた。
やがて、隠岐が汗をかきながら紹鴎の邸宅にやってきた。
﹁宿屋町から堺を出ますと、本願寺様の別院がございます。こちら
で小者と馬、お世話になれるとのことです﹂
﹁ご苦労様。あ、そうだ隠岐。紹鴎殿のお屋敷で俺たちは全員逗留
させてもらえることになった。いつまでいられるか分からないが、
全員、今井宗久殿にお茶を習うといい。費用は全部俺がみる﹂
﹁茶道、でございますか?﹂
﹁うん。やっておけ。役に立つかも知れない﹂
なぜ戦国期にお茶が流行したのかまでは知らないものの、良之も当
時茶道が大流行し、彼が育った時代まで綿々と引き継がれていたこ
とを知っていた。
今回隠岐が頑張ってかき集めた人材は、貧家のものや次男坊以下が
140
多いので、お茶の修行まで手が回らないで居た者も多い。
﹁承知いたしました﹂
首をひねりつつも、主の指示通りに隠岐は手続きを進めるのだった。
ほかの全員を紹鴎邸で休ませつつ、良之はフリーデとアイリを連れ、
堺を歩いた。
ちなみに千と阿子にはゆっくり休むよう申しつけ、隠岐と共に屋敷
に残した。
案内は宗久が受け持ってくれた。
まず、良之は堺における主要な取引を行っている問屋とその製品を
調べて歩いた。
堺の代表的業種は納屋、つまり倉庫業だ。
次に、米、魚などといった食品。
そこからが加工業になる。
皮革原料生産から加工販売まで。
染料と繊維、反物、そして衣服の生産まで。
鉄、銅による鍛冶や鋳物の製造。
木工製品や紙製品。
それに、製油と販売。
酒、味噌、干物などの加工品。
最後に、輸出入だ。
相手は、明、朝鮮、そして最近は南蛮人と呼ばれるポルトガル人・
スペイン人、紅毛人と呼ばれるオランダ人、イギリス人。
港とその周辺には納屋が多い。
納屋というのは倉庫のことだ。転じて倉庫業から派生した全てのビ
141
ジネスを象徴する単語になった。
荷の出入荷への場所と労力の提供。帳簿作成と管理。集金や支払の
代行。そして信用付託のための名義貸し。
さらには新商品の開発や営業まで、納屋は行っている。
良之からすれば、総合商社、とおもわれた。
また、納屋は専門問屋への卸しに加え、町域の維持管理、防衛兵の
雇用、堀や柵の維持といった運営も手がけていた。
翌日は、堺周辺の職人・工人の集落を訪ねて歩いた。
案内は、皮屋の手代で百舌鳥という集落出身の五平という男だ。
それなりの距離になるので、良之・フリーデ・アイリは騎乗。
小者2人ずつをつけ、五平には徒歩で案内してもらう。
百舌鳥村には天才的な鍛冶師がいる。
鉄砲又こと、橘屋又三郎である。
見学を依頼すると、徒弟はうさんくさげに良之を凝視していたが、
やがて同行の五平に気づくと鍛治屋敷の中に消えていった。
﹁皮屋さんの案内なら﹂ということで、鍛冶場の中を覗かせてもら
えた。
スラグ
彼らとしても秘中の秘であろう工房だったが、実際のところ、何一
つ良之の想定を越える行程は存在しなかった。
むしろ良之が興奮したのは、村の外れに積まれたのろだった。
﹁これ、もらっていっていいですか?﹂
案内してくれた徒弟は、
﹁のろやで? 使い道なんかあらしまへんで﹂
といいつつ、許可した。
その瞬間、数トン以上は間違いなくあったはずののろが、目の前か
ら消えて、徒弟は腰を抜かした。
その足で、良之たちはさらに東に向かった。
142
仁徳陵を越えさらに東。金田という村にたどり着いた。
ここには金屋や鋳物屋が軒を連ねている。
ここでも同じように工房を見学させてもらい、帰りにカラミと呼ば
ごせ
れる廃棄物をごっそり<収納>して去って行った。
﹁御所はん。一体あの手妻はどのような種があるのでしょう?﹂
恐ろしげに五平は馬上を盗み見た。
﹁陰陽師って知ってる?﹂
﹁へえ﹂
﹁似たようなもの﹂
﹁はあ﹂
﹁鬼退治や悪霊退治が出来るんだから、のろやカラミだって消せる
よ﹂
﹁⋮⋮そないなもんでっか?﹂
﹁そ。そないなもんや﹂
良之はそんな風に煙に巻きながら堺に向かって引き返していった。
143
堺へ 5
そんな風に、日中はとにかく少しでも情報収集をして過ごしていた
良之だったが、ある日の朝、激しいケンカに遭遇した。
ケンカといっても、どうやら10人以上に1人が一方的にやり込め
られているようだ。
だが、多人数のほうがいう事がだんだん剣呑になって来た。
﹁今度っちゅう今度はゆるさんで彦。簀巻きにして海にたたっこん
だるわ﹂
﹁おうやれるもんならやってみい﹂
ろれつの回っていない啖呵を返してはいるが、明らかに相手のヤク
ザ者達は本気だった。
よっててたかって殴る蹴るを繰り返した後、本当に筵と縄を持ち出
してきた。
﹁まちなさい﹂
誰も止めようとしないので仕方なく、良之が歩み寄った。
﹁けっ!⋮⋮な、なんや?﹂
怒りにまかせて振り返ったはいいが、そこには身分の高そうな公卿
がいて、ヤクザものは一瞬ひるんだ。
﹁この者が何をしたのか知らないけど、おおかた理由は金でしょ?﹂
﹁せや。こんだ阿呆は金も持たんと賭場に入れ込んで、傭い先から
借りた返済の金も昨夜張り込んで、無一文になり腐りおってん。傭
い先も始末におえんで召し放ちになりおってからに開き直りよって﹂
﹁やかましわ! さあ殺せ!﹂
見た感じ、身体もしっかりしてるし頭も悪くなさそうだ。
﹁あんた、名前は?﹂
144
﹁彦右衛門⋮⋮滝川彦右衛門﹂
﹁そう。もし良かったら俺が立て替えてもいいけど、一体いくら借
金あるの?﹂
﹁ごっさん、やめときや。こういう手合いは、人の情けも分からん
と、またやるで?﹂
どうやら周囲の者達も、このヤクザものを止める気がないようだ。
﹁で、あんたらにはいくら貸しがあるの?﹂
﹁せやな。積もり積もって120両や﹂
﹁おうふざけんな!﹂
﹁分かった。払うからこの彦右衛門を連れて皮屋まで来てくれ﹂
そう言うと、ヤクザものと彦右衛門を連れ皮屋に戻り、隠岐から1
20両出させて彼らに支払った。
﹁証文はあるの?﹂
﹁おう﹂
金を受け取ると気味が悪くなったのか、素直に証文を良之に渡すと、
ヤクザ者達はそそくさと去って行った。
﹁お公家様、かたじけねえ﹂
﹁あー、彦右衛門。傭い先にも、もしかして借金、ある?﹂
ヤクザものに解放されて皮屋の土間に転げた彦右衛門は、こくりと
頷いた。
隠岐を走らせて勤め先の納屋衆に返済をさせ、証文を二通受け取る
と、
﹁で、どうする? この金、どうやって返すのかな﹂
まだ土間にへたり込んだままの彦右衛門に一応聞いてみる。
﹁お公家様、ではこう言うのはどうだろう? 飯だけ食わせてもら
えればそれでいい。俺を雇っちゃくれねえか?﹂
﹁冗談じゃありませぬ。このような無法人、少将様の名に傷がつき
ます!﹂
隠岐がついに怒り出した。
145
﹁伊勢屋さんから事情は聞きましたが、そらひどい話でした。飲む
打つ買うで暮らしも乱れ、せっかくの鉄砲の腕も近頃すっかり錆び
付いて⋮⋮﹂
﹁鉄砲の腕?﹂
﹁へい。なんでも元はどこかのご領主の出だったとかで、弓矢や鉄
砲やらの修行は人並み以上に励んだそうでして⋮⋮。ただ、なんや
国元で諍いごとを起こし、親戚を殺して堺に落ちてきたやら⋮⋮﹂
﹁ふーん。じゃあこうしようか彦。今から一挺鉄砲と玉薬を買うか
ら、それを自分1人で準備して、的に当たったら雇う。どう?﹂
﹁⋮⋮やる﹂
﹁よし、じゃあアイリ、彼のけが治してくれる?﹂
なんとお人好しな、とアイリはため息をつきつつ、このぼろぼろな
男を治療した。
﹁な、なんだこりゃ﹂
﹁治療術だとおもってよ。それより、早速始めようか﹂
良之は、野次馬をしていた今井宗久に﹁鉄砲と玉薬を用立てて下さ
い﹂と頼んだ。
すると奥から
﹁いえ、当家の用品をお貸ししましょう﹂
と紹鴎が現れて、奉公人に指図して一挺貸してくれた。
堺らしい、といえるのは、堀を出てすぐのあたりに射撃の訓練地が
あることだろう。
柵で囲って余人が入れないようにしているものの、意外と見物人が
見やすい場所にあった。
しっかりとした的もあり、的の後ろに土塁もあるので流れ弾の心配
はないようではあった。
おそらく鉄砲商人のデモンストレーション用だろうと良之は思った。
146
﹁では30歩でいかがか?﹂
鉄砲を持ってきた皮屋の奉公人が彦右衛門に聞いた。
ぶ
彦右衛門は無言でうなずくと地面に直に座り、胡座をかいて種子島
に玉を詰めている。
30歩、徒歩で言うと、右、左と足を進める。ふた足で1歩である。
30歩は今で言う約50mといったところだろうか。
手際はいい。
黙々と装填し、火縄に口火を付け、準備が終わると片膝たちになり、
照準を合わせたかと思うと、あっけなく撃った。
弾は見事に的に当たった。
﹁たいしたもんだ﹂
奉公人は彦右衛門から種子島を返されると、手入れを始めた。
﹁彦右衛門﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁召し抱えよう。ただし、これからしばらくは旅の空だけどそれで
もいい?﹂
良之が聞くと
﹁それは楽しそうだ﹂
とうなずいた。
早速彦右衛門の身なりを隠岐に整えさせる。
彼自身は慣れない狩衣の青侍姿に戸惑っていたが、少なくともヤク
ザと見分けのつかないような傭兵姿よりはよく似合っていた。
腰の刀と槍を用意し、彼のための鉄砲も誂えることにした。
だが、普段は良之が預かり<収納>しておくこととした。
隠岐は未だに少し不満のようだったが、約束は約束として、文句を
言わずに受け入れていた。
147
その日の日没ごろ。
小西屋から言付かった望月三郎が皮屋の邸宅に訪ねてきた。
﹁戻りました﹂
平伏してあいさつをする三郎の後ろには、2人の武家姿の男たちが
控えている。
武家姿というのはこの時代、鎌倉期の武家姿である直垂をさらに簡
素化させ、不意の襲撃にも即応できるよう活動的な意匠が取り入れ
すおう
られている。
素襖と呼ばれる。
ちなみに三郎は正式な良之の臣下なので、狩衣姿のままだ。
﹁こちらは伊賀の服部半蔵殿。そして、こちらは千賀地石見守殿で
す﹂
2人は紹介され、平伏する。
﹁服部殿は三河の松平清康公、および御嫡男岡崎三郎広忠公に仕え
ましたが、主家に不幸が相次いで起きたため帰郷なさっておりまし
た。千賀地殿は、この春まで将軍家にお仕えなさっておりましたが、
三好家に京を追われ、近江の地で先公が亡くなられたのを機に、や
はり帰郷なさっております﹂
﹁そうか。よくお越しになりました。俺は二条三位少将です﹂
良之の後に隠岐が
﹁直答を許す、お顔を上げられよ﹂
というと、2人はおずおずと顔を上げた。
﹁このたびは遠路良く来ていただきました。俺はこの先、紀州から
東国を廻り、飛騨で国司を務めるつもりです。お二方は、それをご
承知でここにお越しになられましたか?﹂
﹁はっ﹂
服部と千賀地は頭を下げる。
﹁すでに服部殿には粒金300両、千賀地殿には200両を手付け
148
金として納めました﹂
三郎が答える。
ようへい
良之もうなずく。
﹁お二人は銭傭いのつもりで来られたかも知れませんが、禄は銭で
も、俺の臣下になる道もあります。その際には官職を与え、いずれ
は重く用いることも出来ると思います。まあ今の状態では、何を言
っても難しいので、様子を見て下さい﹂
そう言ったあと良之は、三郎に、
﹁三郎に相役を付けます。滝川彦右衛門﹂
良之が呼ぶと、隣の間から
﹁はっ﹂
と彦右衛門が入って来た。
三郎の顔を見て固まった彦右衛門と、その彦右衛門をびっくりした
顔で見上げる三郎。
﹁なんだ、二人とも知ってるのか?﹂
良之が声をかけると
﹁え、ええ。滝城の御嫡男でいらっしゃいます﹂
と三郎が言った。
﹁おやめ下され三郎殿。やつがれはすでに勘当の身﹂
彦右衛門は一回りも若い三郎に恐縮する。
︱︱まあ、あれじゃあなあ。
良之は、出会った時に彦右衛門を思い出して苦笑した。
どうやら、服部や千賀地の二人も名前を知ってるようだった。
﹁悪事千里を走る。ってことか。彦右衛門。何をやったの?﹂
良之が聞くと
﹁そ、その話はまた追々。それより相役とは?﹂
﹁うん。二人には俺の馬廻りにいてもらう。二人も知ってると思う
が今はフリーデとアイリがいるが、二人とも異人で言葉が話せない。
149
もう一人、おっつけ石山から来るけど、下間虎寿という少年を雇っ
た。彼も三郎と同じくらいの年回りだから、彦右衛門がしっかりし
てくれると助かる﹂
﹁はっ。粉骨砕身にて﹂
﹁お酒は控えるようにね﹂
﹁⋮⋮はっ﹂
一瞬間があった。未練は断ち切りがたいのだろう。
﹁ところで、服部殿と千賀地殿。お二方はどのような形で今後お仕
え下さるんですか?﹂
﹁どのような、と申されますと⋮⋮﹂
代表して服部半蔵が聞き返す。
﹁俺はこのあと、紀州から大和、伊賀、伊勢、尾張と巡って東海道
から甲州に行きます。そこから信濃、越後、越中から飛騨に入るつ
もりです﹂
各自、頭でその経路を追う。
﹁現在供回りは60人ほどです。あと40人くらい欲しいと思いま
す。これでも三位少将ですしね。そこで、出せるならお二人に20
人ずつ出して欲しいのですが⋮⋮例えば、お二人が領地に残りたい
と言うのであれば、名代を出して下さい。もちろん、ご本人が加わ
ってくれても構いません﹂
﹁なるほど⋮⋮それがしはお供仕ります﹂
服部半蔵は即答した。
﹁承知仕りました﹂
千賀地石見守も、しばらく悩んだあとで、頭を下げた。
﹁少将様。望月荘から20人ほど、馬廻りの事が出来る者達を呼び
寄せております﹂
・・・
﹁わかった。じゃあお二方は10名ずつお願いします。遠路の旅に
なりますから、京やそれぞれの里につなぎが取れるような人材、そ
れと、行く先々の人々の暮らし、工芸、商いなどの情報収集の出来
150
る人材を揃えていただけるとありがたいです﹂
﹁武芸の方はいかがでしょうか?﹂
千賀地が聞いた。
﹁無理に揃える必要はありませんが、おそらく飛騨に入れば現地の
土豪と対立することは考えられます。ですので、人数を集めるのは
それ以降、という事になるでしょう﹂
﹁あの。例えばその10名の定めのほかに、われらが独自に配下を
引き連れても構いませぬか?﹂
服部が言う。
﹁それは構いませんよ。あくまでこの人数は、俺が道中の費用を全
部面倒を見る人数です。皆さんが自分の給料から家人を雇うのは全
然問題ありません﹂
﹁なんと⋮⋮費用を全部とおっしゃるが、それはどこまで⋮⋮?﹂
良之の答えを聞いて千賀地も問い直す。
﹁全部ですよ。手取りの給料も含めてです﹂
﹁つまり、その上で我らの禄も払っていただけると?!﹂
﹁そうです。そうしないと皆さんも、里を守るもの。出て働くもの、
両方を養えないでしょ?﹂
これには、その場に居合わせた全員が驚いた。
﹁人は財産です。どんどん育てて下さい。皆さんの里の出身者の出
来が良ければ、どんどん報奨を出します﹂
良之との話のあと服部と千賀地は、隠岐の元で人数と諸経費その他
を詰めて、帰って行った。
彼らが伊賀から人数を連れて戻るまで、もうしばらく良之たちの堺
逗留は続く。
﹁少将様。俺もみんなと同じように手下を雇って来ていいか?﹂
服部たちが帰ったあと、彦右衛門が言い出した。
﹁構わないよ⋮⋮じゃあ俺が費用を全部面倒見るのが10人。あと
151
は働きを見て自分で出せばいい。もっとも、早く借金返してもらわ
ないと困るけどね﹂
﹁少将様。それがしももう一度里に戻り、自前の者を用意したいの
ですが﹂
﹁いいよ、行っておいで。どうせなら彦右衛門と一緒に廻ってきた
らいい﹂
良之がそう言うと、彦右衛門と三郎は顔を見合わせてうなずき合っ
た。
良之は、出来れば堺に拠点が欲しかった。
しかし、何日もかけた調査の結果、かなり厳しいということが分か
った。
ひとつには、公卿であり国司である良之の身分が、この地の会合衆
たちにとっては邪魔になる。
応仁の乱以降、めまぐるしく権力構造が変化する中で、堺衆たちが
やっと出した答えが自治都市という形だったのだ。
そこで、営業を委託する形で富を分配する代わりに、リスクを背負
ってもらえる商人。
腹を割って信用が出来るパートナーを探すことに切り替えた。
﹁紹鴎殿。俺がこの町で商家を持つのは、やっぱり難しいでしょう
ね?﹂
良之は夜、武野紹鴎に時間をもらって相談することにした。
﹁⋮⋮そらまあ。少将様がお公家を辞めなはれば別ですが﹂
紹鴎も、かつて親子そろって武士を辞め、やっとの思いで今がある。
良之は紹鴎からみても少し異常な公卿ではあるが、それでも片手間
で何とかなるとは到底思えない。
﹁実は、俺は将来、飛騨で国司をしながら新しい銭を生産する気で
152
います。今のこの国が荒れて乱れているひとつの理由が、国の力に
銭が追いついていないからなのです﹂
﹁⋮⋮ほほう﹂
﹁銭の量が追いついていないから、庶民が働いても豊かにならない
のです﹂
﹁それはまあ、なんとのうは分かりますな﹂
さすがに紹鴎は商人だけあって、世の上から下、それこそ公卿や大
名や貧民までを知り尽くしている。
﹁この天下の富が明や南蛮に流れているのも問題なのです﹂
﹁といいますと?﹂
﹁棹銅です。紹鴎殿は、明の商人がこの国の相場より随分高く棹銅
を買い上げていることはご存じですよね?﹂
ご存じどころではない。紹鴎の商いのひとつである。
うなずいてみせると良之は続けた。
﹁高く買うはずなのです。日本の棹銅には、吹き直しただけで余計
に払った額を超える銀が出るんです﹂
﹁な⋮⋮!﹂
﹁明の職人は日本の棹銅から銀を取り出すことは出来るようですが、
金までは分離できていないようですね。ただ、そういう理由で今、
日本の富がどんどん明や南蛮にだまし取られてるようなものなので
す﹂
﹁それで、少将様は何をなさりたいんですやろか?﹂
﹁俺は、棹銅から金や銀やその他の金属を分離する技術を知ってい
ます。可能な限り精製した銅を棹銅として、朝廷の勅許印を打刻し
て共通化させたい﹂
﹁⋮⋮それをわてに話してよろしゅうおましたか? 堺の商人たる
もの、そのお話だけで少将様のお力を借りずとも、自分の力でいつ
かやり遂げまっさかい﹂
﹁紹鴎殿が俺の力なしに出来るというなら、是非お任せしたいです
ね。俺は、日本から本人たちの知らないところで富が流出してるの
153
が許せない。止めてくれるならいくらでも﹂
﹁ほほう﹂
﹁もちろんこの話は帝も関白もご存じです﹂
紹鴎はじっと何かを考えていたが、
とと
﹁この話、わてがお断り申し上げたらどないなさいます?﹂
﹁天王寺屋か魚屋に﹂
天王寺屋は津田宗達、魚屋は田中宗易。どちらも彼の茶の門人でも
あった。
堺衆の規模としては、もしかしたら天王寺屋が一番巨大かも知れな
い。
﹁⋮⋮分かりました。お手伝いいたしましょう﹂
紹鴎の顔には、正直半信半疑だ、という表情がはっきり浮かんでい
る。
﹁どうです? 論より証拠。一度やってみましょうか?﹂
﹁その方がありがたいですな﹂
良之もうなずいた。
﹁では、いくつか用意して欲しい材料と、鋳物工場、それに職人が
必要です⋮⋮﹂
154
堺へ 6
翌々日。
宗久が紹鴎に命じられ、良之が指示した素材は全て整えられた。
目的地は五箇荘朝香山村。ここには、いわゆる河内鋳物師たちの工
房が建ち並んでいる。
朝早くから、宗久の指図で店子たちが荷造りをして出かける。
紹鴎の店の荷車で目的地まで運ばれるのは、現に輸出用として集め
られている棹銅、燃焼用の松炭、精製された鉛、そして。
﹁骨灰、ですか?﹂
集めろと言われた時、紹鴎は驚いた。
﹁味噌屋の味噌樽一杯ほど欲しいんですが、集まりますか?﹂
﹁そら、うちは皮屋どすからな﹂
皮屋は皮のなめしのほかに、牛馬の遺骨やスジから膠も煮出してい
る。
荷出し終わった骨は骨灰にして売ってもいる。
﹁なんに使われるんどす?﹂
﹁まあ、それはあとのお楽しみ、です﹂
良之は悪ガキのような表情で笑った。
ひろしな
五箇荘には皮屋御用達ともいえる職人がいる。
そのうちの一人、広階美作守に今回の実験を依頼していた。
﹁親方、よろしくお願いします﹂
良之は、あらかじめ指示していたように今回のために、炉をふたつ
用意しておいてくれた親方に頭を下げる。
特に南蛮絞り用の炉は特別に、絞るための機構を用意してもらって
155
いる。
まず、炉に木炭を敷き詰め、その上に棹銅を並べ火を入れる。
高温で銅が融解したところで、銅の倍量の鉛を入れ、ふいごで新鮮
な空気を送りつつ良く攪拌し、完全な銅=鉛合金に仕上げる。
それらを水たらいで冷却し完全に溶解炉から取り出すと、次に、絞
り炉での作業になる。
絞り炉では、2種類の金属の比重や融点の違いを利用して、合金か
ら鉛だけを絞り出す。
銅は1084.62度を下回ると結晶化を始める。対して、鉛の融
点は327.46度。
徐々に固まり出す銅を絞るため、グランドならしのトンボという器
具に似たものを鉄で作ってもらい、それで炉内の銅を絞り、まだ液
状化している鉛を絞り出す。
炉の手前は、液化した鉛を流れ出させることが出来るよう工夫され
ている。
粘土製の炉の口を切るだけで、銅を残し鉛だけを流し出すことが出
来るのだ。
そうやって絞られた鉛は、骨灰を強く押し固めて作った相撲の土俵
のような山の上に流し込む。
鉛の堅さが増してくると、再度火を強くして、丁寧に銅と鉛を分離
する。
最後に、固まってしまった鉛をもう一度溶解させ、骨灰の山に染み
込ませる。
﹁おお⋮⋮﹂
職人たちも、皮屋の一同もその結果に驚いた。
鉛は骨灰の山に吸い込まれ、表面には、確かに銀が浮き残っている。
156
誰もが初めての実験だったため朝からはじめて昼下がりまでかかっ
てしまったが、60キロ程度の棹銅から、4匁近い銀が抽出された
のだった。
﹁いかがでしょう? 親方も、紹鴎殿も、これでご理解いただけま
したでしょうか?﹂
作業が終わり一休みしたあと、良之は二人に話した。
﹁明国人も、南蛮人も、もちろんこのことは知っているんです。知
っていて、黙って堺や博多や、その他の港で銅を買っている。黙っ
てるわけですよ、せっかくの儲け口なんですから﹂
﹁⋮⋮口惜しいのう﹂
親方の美作守が漏らした。
﹁どうですか紹鴎殿。銅座を作り、こうして銀をきちんと絞った銅
を公許品として、これだけを海外に輸出する。日の本の銀は盗まれ
ずに済むのです﹂
﹁なるほど。あい分かった。だが少将殿。であれば、この方法を全
ての鉱山で教え広めれば、なおのこと話が早いではないか?﹂
紹鴎が言った。
﹁確かにそうです。ですが、では実際そうしようと誰がするでしょ
う? 見返りや利があればともかく、こんな乱世です。鉱山に出向
くだけでも場合によっては命に関わりますし、たいていの大名たち
は鉱山に近づくものがあれば、命を狙いかねません﹂
﹁む﹂
︱︱それは確かに。
紹鴎も納得した。
この時代の職人たちは総じて既得権益主義であり、秘密主義である。
鉱山というところはスパイを嫌い、紹介のないよそ者にとっては危
険地帯でもある。
157
まして、その鉱山によって軍資金を調達している戦国大名や豪族た
ちは、家の実力を知られる危険がある鉱山の全容を知られることを
怖れ、警戒している。
そんな時代に、のこのこと﹁この方法は利益がありますよ﹂などと
教えに行って誰が信じるだろうか。
入り口で取り締まるのが難しいなら出口でやればいいのだ。
確かに燃料費と労働力、そして貴重な資源の浪費にはつながるが、
要はそれを補う利益が上がればそれでいいと良之は思っている。
美作守は技術的なことでいくつか良之に教えを請いたいようだった。
﹁少将様。この灰ですが、こいつは竈や炭火の灰でもかまいまへん
ので?﹂
﹁出来るようですが、やはり骨灰には叶いません。成分の違いのせ
いなんです﹂
灰吹き法の原理は、鉛が灰と化合して灰の中に溶け込み、銀は反応
せずに析出するのを利用する。
骨灰の主要な成分であるリン酸カルシウムが、この反応に最適なの
である。
﹁なるほど⋮⋮次に炉ですが。これは大きな坩堝の下に穴を開け、
その穴から鉛を絞っても構いませんので?﹂
さすがに有史以来その名を響かせた河内鋳物師だ。
たった1回の試験で、何か工夫に気づいたようだった。
﹁そうです。仕組みは銅と鉛の比重の違い、それに融点の違いを使
うのが原理です。だから、鉛だけ出す工夫が出来るなら、坩堝に穴
を用意し、そこから鉛だけを出せば効率が良くなります﹂
なんと言っても良之も技術屋だ。打てば響く親方の知性が心地いい。
﹁溶かしの炉と絞りの炉を分けた理由は?﹂
﹁目的の違いです。溶かしの行程では何より、鉛と銅をしっかりと
混ぜ合わせて、銅の中にある銀を鉛にくっつける必要があるんです。
158
そうして、絞りの炉では、炉の温度を下げていくと銅の方が先に結
晶化する仕組みを利用して、銀を鉛に残したまま銅を絞り出すので
す﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
﹁親方、銅の純度によって、もろくなりやすい銅と、鋳物にしても
しっかり固くなるものとかはありますか?﹂
﹁それはもちろん。産地によって全く違いまんな﹂
﹁この方法で絞った銅は、おそらく今までのどの銅より質がいいは
ずです。なぜなら、取り除かれるのは銀だけではないからです﹂
﹁そうか! それはすごい!﹂
実際に試験の結果を見ているだけに、親方の理解は早かった。
つまり、この南蛮絞りは、ただ銅から銀を産出させるだけでなく、
鋳物師にとっては製品の品質向上にもつながるのである。
﹁それにしても少将様の博識には恐れ入りましてございます。わし
ももっと若ければ、工場を捨てて弟子入りしたいくらいで﹂
しまいには親方はそんなことを言い出した。
その後、武野紹鴎と親方、そして良之は今後の方針を話し合う。
﹁やはり、銅座を作らなあきまへんな﹂
﹁官製、ということにするならそうでんな﹂
親方の意見に紹鴎も賛同する。
﹁銅座はある種の鋳物やさかい、鋳物師と利権争いが起きますな﹂
親方が腕を組んで考え込む。
﹁どういうことです? 何か問題でも?﹂
﹁へえ。少将様は鋳物師が帝様から勅許を頂いとる、いうんはご存
じでっか?﹂
﹁いえ﹂
﹁⋮⋮これでおます﹂
親方は、棚から紫の袱紗に包まれた桐の箱を取り出し、その箱から
159
一通の文を出す。
桐の箱の中に、さらに丁寧に油紙で幾重にもくるんである文は、御
綸旨と呼ばれる、天皇の勅許を蔵人が権限を持って私製する類いの
ものだった。
ある種の特権である。
一、公事免除。兵役や労役に駆り出されることなく生きていける。
二、市手山手免除。市手とは市場税、山手とは入会地での薪炭採取
税の免除のことだ。
三、関料津料免除。関所や港での免税特権。
四、専売特許。鋳物製品の販売を独占する権利。
五、行商の自由の保障。一切の行商、旅の自由を保障する権利であ
る。
こうした巨大な利権は、鋳物師が帝に鋳物の灯籠を寄進したことで
産まれた。
その後、これらは受給する鋳物師にとっても、発給する地下人の蔵
人にとっても大きな既得権益になっている。
﹁なるほど。で、問題というのは?﹂
﹁へえ。例えば、棹銅は鋳物であるから銅座ではのうて鋳物師が行
うべきである、いうて訴え出られる怖れがおます﹂
﹁うん﹂
﹁鋳物に必要な職人を脅し、銅座で働かせんよう仕向けるようなん
も考えられます﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁入会地で薪集めしとったら数にものいわして邪魔するやも知れま
せんな﹂
﹁なるほどね。わかった。その辺は一度京に帰って関白様と相談し
てこよう﹂
160
良之も、いろいろ聞くうちに確かに危険をはらんでいることに気づ
いた。
﹁少将様。真継家と事を構えなさるならご用心を﹂
紹鴎が口を挟む。
﹁彼のものは、御蔵小舎人の新見家の家人でありながら主家を乗っ
取り、その後、日本中を飛び回り鋳物師を利権化させ私腹を肥やし
たる者どす。なんでも噂では主は毒害し世継ぎは餓死させたなどと
いわれとりまっさかい⋮⋮﹂
なるほど、典型的な下剋上である。
良之はちらっと顔をしかめたがなにも答えなかった。
﹁問題はそっちより、銅座をどこに作るのか。どのくらいの規模で
作るのか、誰が作るのか、だね﹂
﹁さいでんな⋮⋮少将様は堺の内に作りたいとお考えで?﹂
﹁それが安全だよね。あるいは、堺の外でもいいけど、堺と同じく
らい強固な堀と塀、それに戦力がいるかな﹂
なにしろ銀、鉛、銅といった有価金属を一手に扱う産業である。
打ち壊しや略奪に狙われるのはほぼ必然だろう。
﹁それについてはわてにお任せ下され﹂
﹁職人の手配や育成についてはわしが﹂
ひとまずは紹鴎と親方に実務を任せることにして、良之は朝廷での
工作を引き受けることにした。
﹁あ、ちなみに、親方。この辺一体に捨てられてるのろやカラミ、
もらってっていいですか?﹂
許可を取って、ぼた山のように積まれた精錬スラグを、<収納>し
尽くして帰る良之だった。
161
堺に戻った良之は、関白と黄門にそれぞれ一通文を送った。
返答を待つ間、フリーデやアイリに、物質の抽出法を教えた。
また、空いている納屋を借りて、集めたスラグの錬金分解実験を始
めた。
スラグの主成分は酸化鉄が五割、酸化ケイ素が三割ほどで、残りは
微量な元素群だ。
科学者である良之にとって有用なのは、アルミニウムの原料である
アルミナ、酸化チタン、酸化マグネシウム、酸化カルシウムなどで
ある。
とりあえず、微量な元素から無理矢理抜き出し、それぞれ<収納>
にストックする。
そして、酸化ケイ素を粉末状態にして取り出し、錬金術と魔法を組
み合わせて一瞬で焼き上げてみた。
﹁⋮⋮これはなかなか﹂
石英ガラスの塊が出来た。
ふと思い立って、完成した石英ガラスを錬金術と魔法のハイブリッ
ド術式でさらに高温高圧に晒すと、無色透明な水晶玉が完成した。
そこで、大小様々な水晶玉を精製して紹鴎に見せた。
﹁紹鴎殿。水晶玉を方術で作って見たんですが、どれが一番儲かり
ますか?﹂
紹鴎は絶句した。
﹁⋮⋮これとこれは高う売れると思います﹂
紹鴎が選んだのは、ビー玉ほどの大きさと、良之的には占い師が袱
紗の上に置いて覗いてる水晶玉の大きさのものだった。
﹁しかしどのように⋮⋮いえ、方術であればわてが聞いたとてども
なりまへんな﹂
もはや宝玉やおまへんか。紹鴎はその水晶玉を眺めてはため息をつ
162
いた。
理由は分からないが、日本人は古来よりさほど玉石に関心を持たず、
代わりに貴金属を愛した。
反対に、中国や朝鮮では玉は至宝とされ、ヨーロッパ人もまた、ジ
ュエリーを好んでいる。
﹁そうですか。2500貫︵10トン︶ほど作れますが、銅座を作
る費用に足りますか?﹂
良之に言われ、また紹鴎はたまげることになる。
﹁もちろんなりますとも。惜しむらくは、宝珠はまとめて取引が出
来ないことどすなあ﹂
と答えた。
そこで早速、納屋を借り切って、一日がかりで10トン以上の水晶
玉で埋めておいた。
翌日。
スラグの残滓は酸化鉄と微量元素のみになった。
二割ほどが酸化鉄Fe2O3で、残りは酸化鉄Fe0だ。
これを全量Fe2O3に置換したい良之だったが、さすがに納屋の
密室でやるのは危険すぎる。
酸素は濃度が上がっても、下がっても危険だからだ。
そこで、海岸に出て行った。
まずベンガラFe2O3は全量を抽出する。
残りの酸化鉄は、以前に虫下し薬を抽出した方法で組み替えて作っ
た。
足りない酸素は海水から抽出した。
﹁今度は何事どす?﹂
﹁ああ、紹鴎殿。これ、なんだか分かります?﹂
﹁⋮⋮錆ですな﹂
163
この時代、錆は重要な染料、顔料として多岐にわたって使用されて
いる。
特に、良之が紹鴎に見せたように精製されて微細粉になっているも
のは最上ものに分類されている。
もちろん、紹鴎も知っている。
﹁まさか⋮⋮﹂
﹁はい。6000貫くらいあります。売れますか?﹂
﹁少将様。昨日の水晶玉といい今日のこの錆といい、元手は一体何
なんですやろか?﹂
﹁ああ、いつも鋳物屋とかに行くとカラミやのろをもらってるでし
ょ? あれです﹂
ゴミではないか! 紹鴎は驚いた。
﹁でも残念ですが、これはフリーデやアイリにも未だにやり方が分
からないらしくて、今のところこうやって作れるのは俺だけでしょ
うね﹂
一生懸命教えてるんですが、と良之は苦笑する。
﹁これほどの純度ですと、結構高値に捌けるんやないか思います。
あの、これも⋮⋮﹂
﹁ええ、銅座の資金に充てて下さい﹂
これだけの量の錆や水晶は、到底一度では売れない。
値崩れするからだ。
だが、供給の心配をする必要がない安定的な商品として、皮屋は大
きな富を築くことになる。
164
堺へ 7
石山から船で、下間虎寿がやってきた。
﹁少将様。まかり越しました。このたび剃髪し、下間頼廉の名を法
主様より頂戴仕りました﹂
﹁待ってたよ。これからよろしく頼みます。ところで、通名はある
の?﹂
﹁はっ。源十郎と﹂
剃り上げた頭も青々しい小坊主殿だ。
だが、得度の中で少し、人間的に成長したのだろう。どこかしら、
ほんの前に別れた時より、表情が大人びて見える。
﹁うん、源十郎、いずれ官名を授けるけど、しばらくはそう名乗っ
ておいて。お前は俺の近習にしたいけど、いいかな?﹂
﹁はっ。ありがたく﹂
実際のところ、良之は今でもあまり本願寺︱︱浄土真宗は信用でき
ないと思っている。
だが、少なくとも石山の証如らは人間的にも思想的にも問題はなか
った。
そこに、虎寿改め源十郎のような人的なパイプが出来るのはありが
たいことだった。
それに、なんと言っても、彼自身が聡く、かわいげがあった。
良之は元来、あまり子供に懐かれるたちではない。
それだけに、自分への好意を隠そうとしないこの少年に、感じると
ころがあったのかも知れなかった。
﹁皮屋さんに頼んで、この先の旅に必要な僧衣や荷物などを揃えて
おきなさい。終わったら、お千や阿子たちと一緒に、読み書き・算
165
盤・茶の湯などを学びなさい﹂
﹁はい﹂
ひとまず京にいる間は、彼にも基礎学習を受けて欲しいと良之は考
えている。
ひとまず、関白からの返信が来るまでの間、良之は銅座の候補地を
探して歩くことにした。
まず、堺から船に乗り、海上から銅座の候補地を見て歩いた。
堺の商人たちは主から小僧に至るまで、そして堺を護る雑兵たちも
含め、一人残らず食料生産業ではない階層になる。
堺が商業地として拡大するにつれ、元々この地で漁を行っていた猟
師たちは移住を迫られ、堺の南に、湊という集落を作った。
消費地の直近であるため、その関係は良好だっただろう。
だが、人口に比べ消費が著しいため、ひとつ隣の漁師町も栄えた。
海上四キロほど南にある船尾である。
船尾は元々、石津川と三光川に挟まれた堆積地だ。
両川の運ぶ砂礫の量は多いようで、かつて太古の昔から沖だったと
される場所はすでに内陸になり、現在はさらに西の沖合に猟師小屋
が建ちならんでいる。
良之は、この一帯に目を付けた。
船からの上陸はあきらめ、堺に引き返してから馬で見に行くことに
した。
石津川の北岸には、古くからある寺社仏閣が多い。
特に川の名前の元になった石津太神社は、帝の後押しもある神社だ。
対する南岸は、石津川と三光川に挟まれた低湿地帯であるだけでな
く、四ッ池と呼ばれる池を筆頭に、池沼が異様に多く、さらに川や
海に運ばれた低湿地帯特有の地質のため、ひどくぬかるんでいる。
大雨が降ったりすると氾濫原になったり、高波が来ると打撃を受け
るような土地のため、あまり大規模な寺社の進出は起きなかったよ
うだ。
166
とはいえ、この地は太古から人が定住した痕跡がある。
細々と耕すものの話では、頻繁に土器などが出土するようだ。
この時代、後の紀州街道となる住吉参道は船尾まで整備されていな
い。
世が下って紀州街道が完成すると、ここに北畠顕家討ち死にの碑な
どが建つ。
北畠顕家は海岸に追い詰められて討ち死にしたので、この碑の位置
は往事の海岸線をしる手がかりになるかも知れない。
それはともかく、堺の中心を貫く通りは、まっすぐ線を引くと住吉
大社の参道へと連なっている。
その線を南に引き下ろせば、現在の紀州街道にほぼ相当する。
陸路としても海路としても、銅座を作り堺に棹銅を搬出するのに具
合が良いだけでなく石津川と三光川を利用した環濠集落の形成にも
利便性が高い。
さらに、東には熊野古道が通っている。
熊野古道を利用したこの地の開発、そしてその後の食糧供給路も確
保できる土地だった。
良いことずくめのようだが、いくつも問題はある。
まずは干拓し、次に相当量の盛り土を行う必要がある。
先にも触れたが、この地は石津川と三光川に挟まれたいわば中州の
ような立地にある。
当然、土地の形成はこの両河川の氾濫による扇状地、沖積地である
と想像された。
それは、太古以来人が住んでいた形跡が豊富に残されているにもか
かわらず、現在は荒れ果てた氾濫原に甘んじていることで証明でき
る。
良之が銅座の候補地として船尾を見つけ、さらに周辺を探索して歩
167
いていると熊野古道をわずかに南に下った先の地平線に山が見えた。
土地のものに聞くと、信太山という。
船尾からは約4kmほど南東に当たる。
もしかしたら、有力な盛り土の供給源になるかも知れないと良之は
思った。
きょさつ
もう一つの候補地は、大雄寺跡だった。
浜寺の異名で親しまれた海岸沿いの巨刹だったが、応仁の乱で門前
町もろとも焼失した。
だが、この場所は膨大なスペースこそ提供するものの、結局のとこ
ろ良之の関心は引かなかった。
堺から遠くなりすぎることもあったし、そもそも、戦で焼けるとい
うのは責め手があるという何よりの証拠に思えたからだった。
武野紹鴎に﹁銅座の候補地を見つけました﹂と伝えると、彼もまた
いくつか候補地を選んでくれていた。
ひとつは、堺の南にある少林寺のさらに南東一帯。
おりおの
もう一つは、先日南蛮絞りの評価をしに行った朝香山村にほど近い
遠里小野だ。
双方、提案地を案内し合ったが、遠里小野の立地は非常に良かった。
だが、紹鴎は
﹁船尾は素晴らしいでんな﹂
と良之の見立てを褒めた。
﹁ただ、かなり金と時間がかかりまっしゃろな﹂
と見積もった。
農閑期に近隣の住民たちを銭で傭い、干拓をする必要があった。
﹁どないですやろ? 船尾を干拓するまでの間、遠里小野を使こて
みたら?﹂
紹鴎の提案に、良之も賛同した。
こうして、まずは遠里小野の地で、銅座を開設することにして、準
168
備方を紹鴎に一任したのだった。
そうしている内に京の関白から返信が届いた。
銅座の件、根回しが整った故、急ぎ参内するようにと書かれていた。
﹁じゃあ少し京都に戻ってくる﹂
フリーデ、アイリのみを連れ、残りは全員堺に残し、良之は京に向
けて旅だった。
侍たちは堺では何らかの遊学が出来たし、小者たちも、もし読み書
き算盤が出来るようになれば地位の向上が約束されていたので、必
死で学ぶ者達が現れていた。
乗馬が苦手な家司たちもまた、この期間を利用して特訓に励んでい
る。
望月荘からきた小者たちは、この時代の新技術である鉄砲の撃ち方
修練に励んでいた。
これは、特に良之から命じられてのことだった。
隠岐を中心に家司や諸大夫からは安全上の理由から反対の声も上が
ったが、
﹁大人数だとかえって移動時間がかかる﹂
という理由で却下した。
堺から山崎までは船で向かう。
山崎までの船便は時間がかかるが安全性が高い。
堺からだと、乗り合わせにもよるが二昼夜で山崎まで着く。
山崎では、三好長逸・十河民部大輔一存らが、率いてきた一万八千
の兵の撤収を行っていた。
﹁やあ、二条少将様ではございませぬか﹂
169
めざとい臣が伝えたのだろう。十河民部大輔が声をかけてきた。
﹁京へお戻りですか?﹂
﹁ええ。帝より参内を命ぜられまして﹂
良之が答える。
﹁ではお供をお連れでないのは⋮⋮﹂
﹁上り船だと邪魔でして﹂
しゅうと
邪魔、という言葉がおかしかったのか、愉快そうに民部は笑う。
﹁豪儀な御方だ。我が岳父様もそうであったが﹂
民部の妻は九条稙通の実子である。
はとこ
植通の父九条尚経の娘が良之の祖父になった二条尚基に嫁いでいる。
つまり、良之と十河民部は九条尚経を通じた縁者という事になる。
そのためか、民部は良之に親しみを覚えてくれているらしい。
﹁京から堺は、下りは早いですが上りは不便ですからね﹂
良之が苦笑すると、民部も
﹁さよう、さよう﹂
と笑ってくれた。
この時分。民部はすでに鬼十河と呼ばれるほどに名を上げているが、
天文元年の生まれなので数え19、実年齢で18才である。
随分立派なもんだ、と21才の良之は感心せざるを得ない。
170
堺へ 8
山崎からは十河民部に馬を3匹譲られ、騎乗で久我畷を北上。久我
から吉祥院への渡しを利用し、あとは一路、二条邸を目指した。
二条の小者に伝馬の馬に飼い葉と水を付けてもらうと、一同は邸内
に入った。
良之の帰京を関白に知らせると、関白は急いで帰宅した。
﹁帝がお待ちじゃ。急ぎ参内せよ﹂
その足で良之を連れ、禁裏に向かった。
はくろく
﹁話は博陸より聞いておる。わが朝の財産を異国に横領させまいと
するその方の働き、忠義である﹂
どうやら、手紙の内容を関白や山科卿が根回ししてくれていたよう
だ。
帝は、純白の絹に五三の桐が描かれた天皇家の裏御紋を良之に下げ
渡した。
﹁この紋を以て官許の証とせよ﹂
﹁ありがたき幸せにございます﹂
良之は深々と帝に頭を下げた。
﹁実は、今ひとつお諮りいただきたき儀がございます﹂
﹁申すが良い﹂
良之は、銅座を運用するにあたって、地下蔵人真継家が保有してい
る利権と競合する可能性を示唆した。
このことはすでに、関白を通じて帝の耳にも入っている。
﹁そこで、将来の禍根を防ぐため、律令の改編をお願いいたしたく﹂
171
良之のプラン。
つかさ
しょうしゃく
かぬちのつかさ
じゅせんのつかさ
てんちゅう
それは、現在木工寮に属している鍛冶司、内匠寮に属している典鋳
司、先日良之が陞爵を受けた鋳銭司をまとめて大蔵省に移管し、あ
りょうげのかん
わせて大蔵卿の叙任を賜りたいと陳情した。
﹁む⋮⋮﹂
鋳銭司は元々令外官なので問題はない。
だが、木工寮は宮内省、内匠寮は中務省に属しているため、移すに
はそれなりの政治的配慮が必要となる。即答は難しい。
﹁典鋳司は元来、大蔵省に属した部門ゆえ、旧に復すという事で問
題はありますまい﹂
問題は鍛冶司のようだった。
利権がある。
﹁結論は急ぎませぬゆえ、是非ともお諮り下さいますようお願い申
し上げます﹂
良之は再び平伏して願った。
その後、海外に輸出されている棹銅から南蛮絞りで銀を絞り出す実
験を堺で行い、300グラムの棹銅200本から、四匁に迫る銀を
分離した話を帝と関白に伝える。
﹁なんと、それほどとは⋮⋮﹂
帝も関白も驚いた。
さらに、良之は大蔵卿を望む理由を説明した。
﹁官許の分銅?﹂
﹁はい﹂
分銅。天下を統一したあと徳川家康の政策として登場した﹁後藤分
銅﹂を良之は念頭に置いている。
﹁金や銀、銅といった貴金属を流通させる場合、日本全国あまねく
平等で公平な取引をさせるには、度量衡の統一が不可欠。そこで、
畏れ多くも官許の分銅を普及させれば、民も金屋や銭替えを疑うこ
172
となく取引が出来るようになります﹂
﹁ふむ、なるほど﹂
帝もうなずいた。
﹁これには、もう一つ大きな効果があります﹂
﹁取引の円滑化以外にか?﹂
﹁はい﹂
良之はいった。
﹁そのような政策を広めることで、畏れ多くも皇家の威信もまた、
全国にあまねく広がりましょう﹂
分銅によって、公平な取引を図ってくれたのが朝廷であり、その分
銅を官許で制作・管理するとなれば、分銅を見るたびに、商人も、
庶民も、朝廷について思いを馳せるようになる。
良之はそう説明した。
﹁なにより、商人が分銅を使う。その分銅自身を誰も信用しなけれ
ば、何を信じたらいいのでしょう? 分銅には権威が必要であり、
権威は、今の世では朝廷以外にございません﹂
良之の説明に、帝も関白も心が沸き立った。
﹁あい分かった。この件、考え置く﹂
帝はそう言ってこの件を預かった。
翌朝。
良之は関白、山科卿を伴って九条邸に逗留する三好筑前守長慶と、
主の九条植通を訪ねた。
﹁筑前殿、このたびは京の安寧を護る戦のご勝利、おめでとうござ
います﹂
関白が改めて三好筑前に祝賀を述べる。
﹁御所様、このたびは婿殿の武功、おめでとうございます﹂
良之は、初対面の名乗りの後、九条植通にそう付け加えた。
ちなみに、御所号は摂家の当主に許された尊称である。
﹁これはこれは、少将殿。先だっては大層なお言伝を頂戴し、感謝
173
いたす﹂
これは、良之が送った砂金100両への礼だ。
一通り一同があいさつを終えたあと、良之は本題に入る。
﹁実はこのたび、この身は帝より銅座、鋳銭の任を賜りました。つ
きましては、堺なる市のほとり、遠里小野と船尾、このふたつの土
地にて銅座を営む事を、筑前守殿にお願いいたしたく参上仕りまし
た﹂
どちらも筑前の勢力圏である。
官位は良之の方が上だが、実権は筑前が握っている。このあたりの
バランスが難しい。
﹁遠里小野は分かるが、船尾?﹂
遠里小野は大山崎の油座より古く、油の生産で有名だった。この時
代は山崎の荏胡麻油に敗れ、衰退している。
筑前の認識では船尾は猟師の村だ。水利はいいがあまりに農耕に適
さぬ湿地帯で、金属加工業に向くとはとても思えない。
﹁実はこのたびの銅座の一件。あまり堺に近すぎますと不都合があ
ると考えております﹂
堺は本来、商人たちの自治で運営されている。
そのことは、権力者である筑前守にとってもあまり愉快なことでは
なかった。
独立勢力が武力を持って自身の勢力圏に盤踞しているというのに近
い。
国人のように従ってくれればそれでもいいのだが、彼らは、要求し
なければ税すら納めない。言うまでもなく、合戦に際して兵も出さ
ない。
だから、良之が﹁堺とは距離を置きたい﹂という話をすると、筑前
には良く理解出来た。
それだけでなく、共感も持った。
174
九条植通と三好筑前に良之は、包み隠さず銅座の目的と意義につい
て説いた。
﹁棹銅200から銀四匁⋮⋮。はて? それでは労力や費えに対し、
あまり利があがらぬのではないか?﹂
さすがに巨大組織を運営する戦国大名。筑前は直感的に、この事業
が営利目的ではなさそうだと気がついたのだ。
﹁はい。ですが、この日の本の富、という点を見ますと、明や南蛮
に奪われていた銀を国内に残すことにつながります。これは、今は
この身や朝廷に利益がなくとも、いつの日にか必ず、民のためにつ
ながりましょう﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
無策に海外に持ち出されてしまっている財産を国内にとどめる。
その意義は、植通にも筑前にも理解してもらえた。
﹁よろしいでしょう。遠里小野と船尾の地、銅座のために使うこと
を承知仕りました﹂
﹁忝く存じます。それと今ひとつ、筑前守殿にお願いがあります﹂
良之は、船尾を干拓し銅座に仕えるようにするため、信太山から土
を運ぶことと、その作業に民を動員することを願い出た。
﹁無論、労役ではなく全ての民に賃金を支払います﹂
﹁夫役に狩り出すのでなければ問題はありますまい﹂
こちらの件についても、了承を得ることが出来た。
どちらについても、後日良之は抜け目なく筑前守に一筆認めさせて
いる。
後になって、難癖を付けて運上金など要求されては堪らないからだ。
﹁それにしても、報国のため、利ではない事業を志されるとは、少
将殿は天晴れなものよ﹂
九条植通はしきりに感心している。
﹁無論、持ち出しが多くてはいずれ立ちゆかなくなってしまいます。
何らかの利益が望めるよう、考えて参りたいと思います﹂
﹁良い心がけじゃ。励まれよ﹂
175
こうして、九条植通も三好筑前守も快く送り出してくれた。
帝からの勅許、三好長慶からの認め状を待つ間、良之は京の金屋な
どを見て歩いた。
その技術などを分析し、ついでにのろやカラミなどの廃棄物もしっ
かり頂戴している。
さらに、寺社の焼け跡などを歩き、がれきや土中に埋もれた財宝の
類いを集めて歩いた。
どちらも、今後の軍資金として活用するつもりではあるが、今のと
ころは<収納>の中で眠らせている。
﹁それにしても、良之様のその術はすごいですね﹂
フリーデは、いつもの事ながら、焼け跡から金銀、銅と言った金属
を回収する術を見て感心している。
﹁出来れば二人にも覚えて欲しいんだけどね﹂
良之が言うと、フリーデとアイリは苦笑して首を横に振る。
﹁出来たとしても、到底魔力が足りません﹂
アイリが言うと、フリーデは少し考え、
﹁おそらくですが、良之様の治療の触媒に使った<賢者の石>が、
何らかの作用を起こして、今の良之様の膨大な魔力の源になってい
るのでしょう﹂
といった。
寺社の焼け跡には、意外に多量の金属が埋もれている。
当然寺の鐘、屋根の銅、倉の財宝などは雑兵、あるいはその後庶民
たちによってすでに持ち去られている。
だが、隠されていた財宝や焼け落ちた瓦などによって埋もれ、誰に
も気づかれずにいた金属類。それに、溶けて変形し、価値を失った
銅銭や銅製の器具など、実に様々な金属類が潜んでいた。
結果として、上京の名刹の跡地を数日探索しただけで、良之は数万
176
両に匹敵する財貨を得た。
かなりの割合で、再加工しなければ使えない状態ではある。
遠里小野や船尾に銅座が出来ればそこでリサイクルに回せるのだろ
うが、良之のプランでは、後事を武野紹鴎に委ねて、早く紀伊に旅
立ちたい。
まだ現状では、河原から抽出した砂金の方が、即効性のある資産だ
った。
数日後。後奈良帝から、勅許が降りた。
苦労してやっと儲けの種を育てたであろう真継家からは、暗に様々
な妨害を受けたようだが、それが帝の不興を買った。
真継を筆頭に、数家の地下人が勅勘を被って追放された。
いずれも、金属加工、つまり鋳物、鍛冶に利権を持つ蔵人を世襲す
る一族だった。
﹁二条三位少将良之﹂
﹁はっ﹂
﹁正三位にとりあげ、参議、大蔵卿に補す﹂
﹁しかと承ります﹂
﹁併せ、大蔵省に鍛冶司、典鋳司、鋳銭司を併合し、金銀、銅鉄に
ついて監督せよ﹂
﹁はっ﹂
異例の出世に宮中はざわめいた。
だが、このあとすぐに堺に戻った良之の代わりに二条関白と山科中
納言。それに前関白九条植通らの周旋によって、やがて落ち着きを
取り戻した。
良之は三好筑前守からも遠里小野、船尾の土地の所有権を認められ、
177
その安堵を約束された。
今回の帰京での交渉は、ほぼ満額回答を得られたと言って良い。
178
堺へ 9
山崎で十河一存にもらった馬を返し、船便で渡辺津、乗り継いで堺
まで下る。
帰りは、早い。二日で堺に船は着いた。
ひろしな
五箇所の鋳物師広階美作守を堺に呼び寄せた。
﹁帝より勅許を得ました。遠里小野についても三好筑前守殿より土
地を譲られましたので、住民と対立しないよう注意しながら銅座を
お作り下さい﹂
﹁承知しました⋮⋮ところで、鋳物師の勅許の方は⋮⋮﹂
﹁そちらも解決しました。真継家ほか鋳物、鍛冶に関わっていた蔵
人のうち、私腹を肥やしていた数家は、勅勘を被りました﹂
﹁ははぁ﹂
﹁代わりに俺が大蔵卿として人事権を持ちました。まあその辺は追
々やりましょう﹂
﹁承知しました﹂
同席させた武野紹鴎にも
﹁船尾の地と信太山からの干拓土の採取、銭で人夫を雇っての工事
の許可も取りました。安堵状をお預けしますので、こちらはお任せ
します﹂
費用は足りていますか? と良之が聞くと、顔料の錆がよく売れて
いるそうだ。
﹁当座はなんの問題もおまへん﹂
と太鼓判を押してくれた。
﹁御所様﹂
179
難しい顔をして紹鴎が身を改めた。
﹁信太の民についてはいかがするお考えですやろか?﹂
良之には意味が分からない。
﹁どう、って。お金払って工事手伝ってもらって下さい。あ、もし
かして、山の高低差が必要な仕事とかあるんですか?﹂
﹁いえ⋮⋮﹂
紹鴎はどうにも歯切れが悪い。
﹁当家の商いはご存じですやろ?﹂
﹁皮屋。ああ﹂
やっと良之は察した。
この時代、仏教文化がある種の成熟を迎えている。
つまり、革職人、猟師などは穢れた存在として、他の業種からいわ
れのない偏見と差別を受けている。
良之は不思議でしょうがない。
討ち取った敵の首をかっ斬るような連中でさえ、河原者などと彼ら
を揶揄するのである。
﹁もしかして、信太って紹鴎殿に縁のある土地でしたか?﹂
﹁商いの大事な職人の村ですな﹂
なるほど。
良之もうなずいた。
﹁たとえば、土をもらい受けた後の更地を彼らに提供するとかは?﹂
﹁それは問題ありますまい。あの、追い出すんやのうて?﹂
﹁まさか。もし翌年の農作業に影響があるなら、皮屋さんの方で作
物の保証をして下さい。その金も必要な経費ですんで﹂
山を崩し、木を切って運んだ後、新田を起こすのならついでにやっ
てもいいし、大きな工房を作りたいなら、その費用を出してもいい。
良之はいった。
﹁そもそも、やれ穢れだのなんのと言っておいて、革製品をありが
たがってるのが不思議でしょうがありませんよ、俺には﹂
180
公家でさえ、衣服のヒモやら靴。弓や馬の鞍。武家や百姓には鎧甲
冑から財布巾着に至るまで、革製品がなくてはならない必需品であ
る。
その上、彼らの生産する膠なども、この時代、欠けてはならない接
着剤や繊維、漆器、紙業の原材料である。
紹鴎はその言葉にほっとしたようにうなずいた。
﹁とにかく、彼らの不利にならないよう、よく目を光らせておいて
下さい。それと、協力してもらったら、きっちり金銀で報いましょ
う﹂
﹁承知いたしました﹂
﹁一番大変な立ち上げ時で申し訳ありませんが、俺はそろそろ旅に
戻ります。伊賀と甲賀に出ている家中の者が戻り次第、出立する予
定です﹂
すでに旧暦8月に入っている。
良之は冬が来る前にせめて東海道には入っておきたかった。
ひとまずは、紹鴎、親方、良之で綿密に計画を詰める。
それを良之の祐筆が成文化させる。
場合によっては良之が図面を引いた。
最初は筆で描こうとしたのだが、あまりに不便なので鉛筆で引いた。
﹁な、なんですそれは!﹂
職人である広階親方、商人である紹鴎には、その道具の利便性が一
目で分かった。
﹁舶来品ですが、明や南蛮のものではありません﹂
そんな風にごまかしたが、良之から奪うように浚うと、親方と紹鴎
は競って試用した。
﹁あ﹂
181
とばかりにうっかり親方が先を折ってしまう。
そこで、良之が筆箱に入る小さな鉛筆削りで先を整え、手渡す。
﹁少将様。これは便利な発明品でございますな﹂
親方が感心して見入っている。
﹁よもや、大蔵卿様はこれの作り方をご存じなのですか?﹂
﹁ええ、知っていますよ。というかお二方も墨の作り方は知ってま
すよね?﹂
﹁ええ﹂
﹁あの墨を作るのと同じです。膠の代わりに、焼き物に適さない焼
いても固まらない土ってありますよね? あれを混ぜて焼くんです。
それを木にくるめば出来ます﹂
口で言えば簡単だが、できあがったものを見ればどれほどの試行錯
誤と年月がかかったのか、職人である親方には察することが出来る。
それをいうと、良之は
﹁そういう人生を賭け一生を費やした努力なら、お二人だってそう
じゃないですか﹂
といって、話を切り上げ図面を引いた。
わかぞう
紹鴎も親方も、鉛筆の利便性には感動したが、良之のそういう公達
らしくない洞察力に、感激するのだった。
﹁銅座の運営費を稼ぐための副業どすか﹂
﹁ええ﹂
紹鴎の問いに良之は答える。
﹁実は⋮⋮﹂
と紹鴎と親方に、日本中の分銅を全て一元生産し、それらを官許品
として品質を維持することで、金屋や鋳物屋、鍛冶屋、銭替え屋か
ら果ては米問屋に至るまで、全ての秤の信頼性を上げるプランにつ
182
いて説明した。
﹁それはすごい﹂
目を輝かせたのは紹鴎である。
彼には、この分銅が一体どれだけの富を生み出すのか、聞いただけ
で察しがついたのだ。
﹁確かに⋮⋮﹂
暗い表情をしたのは親方だった。
彼は、聞いただけでどれほど重労働で、大変な役割かが想像出来た
のだろう。
﹁分銅自体は鋳物です。ほんの少し重く作って、研ぎながら計って
校正したらいいと思います。問題は材質です﹂
秤の分銅は、腐食したり酸化すると目方が変わってしまう。
本来は素手で触る事自体禁忌とされるのだが、この時代でそうした
教育まで施すのは難しいだろう。
本来、もっとも分銅に望ましいのはステンレスである。硬度があり、
耐腐食性に優れ、素材が希少金属に比べ安価である。
材質自体の重さも申し分ない。比重の軽い金属で作るとどうしても
サイズが大きくなる。
だが、さすがに現状ではステンレスは望むべくもない。素材はとも
かく製鉄精度の問題でである。
この時代に入手出来る素材で作ろうと思うと、やはり洋白か白銅だ
ろうと良之は思う。
ただ、ニッケルの単離はこの時代、世の東西含めまだ実現していな
いはずだった。
つまり、輸入が難しいのだ。
一般に、和名の付いていない金属、アルミニウム、ニッケル、コバ
ルト、クロム、イリジウム、チタン、ルテニウムなど、例を挙げれ
ばきりが無いが、こうした素材は、単離が遅いか、まだこの時代に
未発見だったりするものが多い。
183
本来、鉄にメッキが一番廉価だろう。
だが、この時代の鋳物は精度が出ていないし、クロムは鉱山の調達
から始めないとならない。
青銅だと緑青によって目方が変わりそうだ。
﹁あの、ひとまずはわしらに扱えるもので出したらどうですやろ?﹂
悩み出して口数の減った良之から事情を聞いた親方がおずおずと言
った。
﹁⋮⋮ああ、すいません。そうですね﹂
自分が1人で思考の中に沈んでいたことに気づいて良之は苦笑した。
﹁青銅でお願いします﹂
青銅、日本人にとっては10円玉としてもっとも見慣れた銅合金だ
ろう。
寺の銅瓦、梵鐘などでもよく見る。
銅と錫の合金である。
だがひとつ問題がある。日本には錫鉱石が乏しい。
﹁紹鴎殿。錫は明から輸入できると思います。輸出品はいろいろ研
究してみますんで、可能な限り確保してもらえますか?﹂
﹁わかりました﹂
先に良之が生産した水晶玉と錆顔料だけでも、明との貿易の軍資金
としては充分だ。
だが、値崩れを防ぐためにはどうしても放出量を抑えねばならない。
一定量を安定的に供給してこそ、持続的な価格維持が出来るのだ。
もんめ
﹁ところで、1匁の基準に、これを使って欲しいんですが﹂
良之は、用意してあった5円玉を親方に手渡した。
日本の5円玉は、正確に3.75グラム=1匁として生産されてい
る。
この時代でもすでに1匁を10等分すると分。10倍すると両にな
184
る10進法で計量される。
もし分銅を公定し各種の商人に義務づけるとするのなら、
50両、30両、20両、10両
5両、4両、3両、2両、1両
5匁、4匁、3匁、2匁、1匁
5分、4分、3分、2分、1分
以上の19種類の分銅が必要になる。
40両が含まれないのは、利用頻度と勘案してのコストカットだろ
う。
ひろしな
こうして、武野紹鴎・広階美作守による南蛮絞り、公定棹銅、そし
て公定分銅作りは、研究段階に入った。
良之は今後旅に出るつもりなのだが、こうやって京・堺・遠里小野・
船尾と活動範囲が広がると、どうしても各地の連絡員が必要になる。
三々五々集結してくる伊賀・甲賀の者達や望月三郎や滝川彦右衛門
が集める浪人たちを見て、良之は、各所に用人︱︱用心棒兼連絡員
として配備したらどうかと考えている。
将来の人材化としても有効だし、雇用の拡大という意味でも、リー
ダー格である服部や千賀地、望月、滝川の影響力が増えて悪い事で
はない。
8月中旬にはやっと全員が顔を揃えられたので、一同を集め相談し
て見た。
出席者は、リーダー格一同に、広階の親方と武野紹鴎、今井宗久、
それに隠岐である。
ちなみに、隠岐については今後、良之の名代も努めてもらわねばな
185
らない関係上、良之が持つ職掌権の中からいくつかの官職を与え、
正五位大蔵大丞としたいと、二条関白に手紙を送ってある。
彼によって奏上され認可されれば、隠岐は正式に大蔵大夫を名乗る
ことが出来るだろう。
もっとも否決されることもないだろうから、すでに公然と名乗って
いるのだが。
﹁つまり、京の二条邸に10人、皮屋さんに10人、遠里小野の鋳
物の里に10人、ですか?﹂
三郎が確認すると、
﹁わてはこの際、京にも新しう店を起こそか思います﹂
と紹鴎は言い出した。
﹁だんなさま、それは?﹂
宗久が慌てた表情で問うと
﹁二条大蔵卿様の御用掛として京に店を起こしたらええんやないか
と思うてました。どや? 宗久。京の店を切り盛りしてみんか?﹂
﹁旦那様⋮⋮おおきに!﹂
﹁ということは、京の皮屋にも10人くらい必要になるのですか?﹂
三郎が確認する。
﹁うちと京に新しく出す店の人数は、こちらで給金を用意しましょ。
普段は働いてもろたらええ﹂
﹁ありがとうございます﹂
良之は礼を言った。
この時代、伊賀も甲賀も貧しかった。
大きな理由は、やはり平地が少なく、農業生産量がなかなか増加し
ないことにあっただろう。
狭い農地に細かい土地の豪族たちが身を寄せ合っているので、どう
しても生き方としては他国での出稼ぎが主になる。
そうした状況から、忍者が生まれたのだろう。
186
すっぱ らっぱ
戦働きでも、槍働きのほかに、素破乱破と呼ばれる工作員がいた。
それとは別系統に存在していたのが、﹁草﹂や﹁影﹂と呼ばれる諜
報員である。
彼らの多くは、故郷を出て様々な地方に奉公に上がる。
主には商家であるが、庄屋や職人、場合によっては公家や寺町など
にも潜り込んで、一生を過ごす。
そこで得た様々な情報を流し、場合によっては直接伝達を行う。
伊賀者・甲賀者の見識の広さと情報の速さは、こうしたネットワー
クから生まれている。
良之は、各家に配置する者達を服部、千賀地、望月の三家に一任し、
滝川と下間に紀伊までの旅に必要な物資の買い出しを命じた。
隠岐には、本願寺別院に寄宿する小者たちへの動員を命じた。
いよいよ、明日、堺を旅立つ。
187
旅の空 1 −紀州−
出立の別れに、堺の商人のうち魚屋、日比屋、小西屋、天王寺屋な
どが顔を出していた。
ほかにも手代などをよこす者も居たが、おおかたはさほど関心を持
っていなかった。
このあたり、商人の町は合理的なのかも知れない。
﹁では皮屋さん、あとはお願いします﹂
﹁承知いたしました。良い旅を﹂
武野紹鴎はそういって良之たちを送り出した。
良之は紀州行きが楽しみで仕方なかった。
科学者として、工学技術者として見た時、この時代の紀州は、堺に
劣らない輝きを秘めている気がする。
紀州も、必ずしも農業生産には恵まれているとは言いがたい。
分国法で紀伊国と呼ばれる紀伊半島南部地域は、その全面積の8割
以上が紀伊山地に占められている。
人は、その山々が織りなす谷に流れる川沿いか、川が海に注ぐまで
に、運んできた土砂を積み上げて作った堆積平野で営みを始めた。
やがて、山岳信仰を基点にして寺社が集うようになり、興教大師に
よる新義真言宗の総本山根来寺が、この時代には27万石と讃えら
れるほどの富と、僧兵1万人と言われる強大な軍事力を持っている。
この根来寺にいる僧兵たちのリーダーが杉之坊、岩室坊、専実坊だ
った。
188
このうちの杉ノ坊算長が、津田監物。津田流砲術元祖となる人物だ。
泉州日根野荘から道を南方に変え、根来街道を進むと、やがて小高
い峠にさしかかる。
風吹峠を越えると、壮大な根来寺の景観が見えてくる。
400万平米にも及ぶ広大な寺社は、その権力のすさまじさを物語
っている。
︱︱これはすごいな。
良之は感嘆した。
本願寺でもそうだったが、この時代の寺社は知性の集積場でもある。
戦国に名を残した武将たちには、それぞれ幼少期から専属の教師と
もいえる僧の姿が背後にある。
たとえば織田信長には沢彦宗恩。
たとえば武田信玄には岐秀元伯。
たとえば伊達政宗には虎哉宗乙。
そうした名将を生み出す師。彼らの知性を支えていたのがこうした
寺院と、そこに納められた書物や経験だったのだろう。
峠を下って根来寺の寺内に入ると、早速僧兵が2人、駆け寄ってき
た。
手はず通り、良之は杉ノ坊算長と面会した。
﹁杉ノ坊にござる﹂
﹁二条三位大蔵卿です﹂
算長は、随分と尊大な性格の人物だった。
人生を賭けた大ばくちで鉄砲という武器を根来寺や雑賀にもたらし
189
た大立役者であり、現在に至っては根来寺1万の僧兵の頂点に立つ
惣頭まで登り詰めているからそれは当然のことだろう。
彼らに言わせれば、没落してなんの力も無い、と思い込んでいる京
の公卿の若造である。
このころ、すでに算長は50を越えているので、なおのこと良之が
青二才に見えて仕方がない。
さらに、良之が九条家とゆかりの深い二条の御所家というのも、算
長の心証がとても悪かった。
根来寺は、50年ほど前に九条家の大切にしていた日根野の荘園を
武力で奪い私有化しているのだ。
﹁実は、芝辻清右衛門どのの鍛冶の技を拝見させて欲しいのです﹂
その青二才が言った。
算長は腹の中であざ笑った。
そのような重大な秘密、誰が見せるものか。
﹁あいにくですが、芝辻の縁者と里以外の者の立ち入りを禁じてお
ります故﹂
にべもなく断り、
﹁諸用繁多ゆえ﹂
とさっさと下がってしまった。
﹁とりつく島もなかったな﹂
良之は呆気にとられて見送ってから我に返り苦笑した。
﹁なんと無礼な﹂
隠岐大蔵大夫は怒りに顔が血膨れするほど興奮したが、良之には別
に珍しいとは思えなかった。
彼が学生の時分にも、特許を持った企業の開発責任者には良く居た
手合いだった。
算長から伝手をたどって大伝法院座主にあいさつしたいと思ってい
たが、そちらの当ても外れた。
やむなく、この日は寺町の宿坊に泊まり、翌日には雑賀荘に下った。
190
雑賀荘では一転、良之一行は厚くもてなされた。
真言宗の根来寺の足下にありながら、雑賀衆は一向宗寄りなのであ
る。
どうやら、証如が彼ら一行の身を案じ、随分前に手紙を送ってあっ
たらしく、佐大夫と名乗った当主はひどく陽気に歓待してくれた。
早速宿の手配を整え、良之たちを宴に招き、大いにもてなした。
だが、彼には狙いがあってこれほどの歓待をしたのだった。
翌朝。
良之は佐大夫の部屋に招かれた。
近習が襖を開けると、そこには佐大夫が平伏して待ち構えていた。
﹁どうされました?﹂
﹁実は、大蔵卿様にお願いに儀がございまして﹂
﹁我が長子孫一の事にござる。生まれついて身体が弱く、常の子の
ように庭を駆け巡る事すら出来ませぬ。鉄砲の修練をただ脇で見て
いるだけで、その夜はひどい喘息を起こし、時には心の臟さえ乱れ
る有様。お聞きすれば御所様は、法主様や法眼様の病まで癒やされ
た異国の道士を家来にお持ちとか。倅を、見るだけ見てはいただけ
ませぬか?﹂
なるほど昨晩の大宴会はこう言うことだったか、と良之は思った。
とはいえ、子を思う親の気持ちには嫌な気持ちがするはずがない。
﹁分かりました﹂
気楽に受けて、孫一のところへ案内させた。
﹁孫一﹂
﹁父上!﹂
﹁ああ、起きんでええ。今日はな、本願寺の法主様を治されたとい
う都のお医者様に来てもらったぞ﹂
191
そう言ってから佐大夫は
﹁二条大蔵卿様とその家司の皆様だ﹂
と、慌てて言い直した。
﹁構いませんよ﹂
良之は苦笑しながら
﹁孫一殿、始めまして。二条大蔵卿です﹂
﹁御所様、わざわざお越し頂き恐縮です﹂
布団に横になったままで孫一はあいさつをする。
10才ということだったが、確かに様子は悪いようだ。
成長も遅いし顔色も悪い。
佐大夫の話を聞く限り、喘息持ちのようだった。
﹁アイリ、どう?﹂
良之はアイリに孫一の部屋で診察を依頼する。
﹁⋮⋮確かにひどく弱っています。フリーデの薬と私の治療で試し
てみたいのですが﹂
﹁フリーデの薬?﹂
﹁はい。身体に衰弱がありますので、一気に治すのは負担が重すぎ
ると思います﹂
アイリがフリーデに視線を送ると、フリーデもうなずいて、懐から
ビンに入ったポーションらしきものを出した。
見たこともないような美しい意匠の透明な薬ビンと、内容物の液体
の緑色に目を白黒させながら、孫一は半身を起こして薬を飲んでみ
た。
飲んだ瞬間に、少し身体の芯に活力がみなぎるような感覚がして、
ほっと孫一はため息をつく。
﹁では、回復魔法を使ってみます﹂
﹁これは⋮⋮﹂
佐大夫は、孫一に施術するアイリのマナを感じた。
192
何をどうしているのか全く見当も付かないが、なにか病弱な息子が
確かに癒やされているように思えた。
﹁何日か様子を見たいと思います﹂
施術後アイリはそういった。
良之が佐大夫に通訳すると、佐大夫は、
﹁どうぞご滞在下さい﹂
と笑顔で良之に返した。
﹁薬草採取?﹂
フリーデが良之のところにやってきて、ポーションの薬草に使える
ものがないか探しに行きたい、といいだした。
﹁はい。普段私たちはそんなに大量のポーションは持ち歩いていま
せん。こちらの世界に来て、ポーションの購入が不可能になった事
もあって、自分たちで作る以外になくなりました。もしかしたら、
薬草に使える草が見つけられるかも知れませんので⋮⋮﹂
﹁なるほど。それは大事だね﹂
良之も、彼女のポーションが孫一に効果があったのを実際に見てい
るので、いざというときのために、生産できるのならして欲しいと
思った。
佐大夫にその旨を頼んでみる。
﹁薬草摘みなら、ここから東に見える山が良いでしょう﹂
と、小者を1人案内に付けてくれた。
土地の人間は大日山と呼んでいる里山で、良之にとっては、こうし
た広葉樹林というのは新鮮に思えた。
彼の育った時代では、人がしっかり手入れをしないでいると、山と
193
いうのは針葉樹林に覆い尽くされてしまう。
この時代は、里山や入会地というのは、下草刈りをしたり枝打ちを
したり、薪や山菜採りに利用されているため、意外と豊かな植生が
見られた。
草に関する知識は全くない良之だが、アイリやフリーデにつきあっ
て一緒に薬草探しに歩く。
やがて、集めた草をひとまとめに袋に詰め、良之の<収納>に入れ
て下山した。
集めたのはキノコ数種とヨモギやゲンノショウコやオオバコといっ
た薬草だ。
特に、ヨモギには良く魔力が染みていて、良い材料になるとフリー
デは喜んでいた。
良之も、佐大夫の屋敷に戻ってから、彼女達のポーション作成を見
学させてもらったのだが、何をどうやって成分を抜き出しているの
かはさっぱり分からなかった。
ただし、すりつぶして液化したあと、その汁に限界まで魔力を充填
していることだけは分かった。
その薬草の持つ薬効は無視していないようだが、それより、その薬
効に魔法を上乗せしている印象だった。
﹁経験則で作っているので、上手く説明は出来ない﹂
とのことで、ひとまず良之としてはただ見るだけにして、分析はあ
きらめた。
﹁ところでそのビン。まだ一杯あるの?﹂
良之は、薬を小分けにしてるビンが、もしや良い売り物になるので
はと思って聞いてみた。
﹁いえ、もう手持ちはこれだけなのです﹂
悲しそうにフリーデが言うので、
194
﹁じゃあ作ろうか?﹂
ということで、例によって、スラッグ由来の酸化ケイ素での加工を
やってみた。
前回鋳物師の里からもらってかえってきたカラミから、二酸化ケイ
素だけを抽出する。
全く混じりけのない二酸化ケイ素を、イメージの中でポーションの
ビンの形に押し込めて、高熱をイメージする。
二酸化ケイ素がシリカガラスとして整形できる温度は1600−1
700度。目の前に置かれたビンを模倣し、次々に抽出したケイ素
を投入する。そのたびに溶解して成長し、最後には完成して、ころ
ん、と座卓の上に転がった。
﹁これは⋮⋮薬ビンの精製は本当に熟練の錬金術が行っていると聞
いたことはありましたが⋮⋮﹂
アイリが目を輝かせてその成果を見る。
﹁いえ、残念ですが私の知る限り、失伝していました。私たちの使
っていたのは、本当にガラス職人が作る手製のものです﹂
﹁え? そうなの?﹂
良之は首をひねる。
﹁ガラス職人のところに行って、ガラスの作り方を勉強するだけで
作れるんじゃないかな? 要するに、これがどうやって出来ている
のか、その仕組みを模倣するだけなんだよ﹂
良之があまりに簡単に言うので、フリーデは苦笑するしかない。
その仕組みを知る事自体が、彼女の世界では至難だったのだ。
﹁どう? 使えそう?﹂
﹁はい。とても高精度で、良いと思います﹂
キャップはゴムなどの密封ではなく、すりあわせの精度で塞いでい
るようだった。
そこは魔法の便利さ。良之は真円をイメージして、ぴったりと口を
塞ぐビンを創り出した。
195
一度創ると、頭にイメージができあがる。
その後、フリーデやアイリにも原料のシリカを提供し、全員で生産
にチャレンジしてみた。
良之が行うイメージ法を紙に図を書いて説明した。
錬金術によるガラスの鋳型の中で、シリカだけを高温にするイメー
ジだ。
繰り返すうちに、彼女達にも出来るようになっていった。
このビンのおかげで、フリーデの作るポーションは30本ほどスト
ックが出来た。
10本ずつ、アイリと良之にも分けておいた。
196
旅の空 2 −紀州−
数日かけて徐々に孫一の治療を繰り返すと、彼はだんだんと健康を
得始めていた。
生来の病弱だったために、それは孫一にとって生まれて初めての経
験だった。
五日ほどすると、ついに彼は外出しても発熱をしたり喘息を起こし
て倒れたりすることがなくなった。
彼は、今まで時分がひ弱なためにつきあってあげられなかった弟の
孫二郎と、毎日遅くまで遊び歩くようになった。
佐大夫より、もしかしたらこの孫二郎こそ、兄が健康になったこと
をもっとも喜んでいるのかも知れなかった。
﹁ところで佐大夫殿。折り入ってお願いがあります﹂
﹁なんでしょうか?﹂
﹁湯浅の醤油作りを見学したいのです﹂
良之は、この時代にすでに醤油があることを喜んでいた。
正直、これほど現代日本人にとって大事な調味料だとは思いもよら
なかったのである。
醤油はこの時代にはすでに量産されている。
だが、はじめは全くといっていいくらいに売れなかったようである。
﹁はて?﹂
湯浅と言えばなんと言っても味噌である。なめ味噌というご飯の供
のような味噌が有名だった。
とはいえ、京から下った公達よりはよほどこの地に詳しい。
﹁もしかして、溜まりの事ですか?﹂
﹁そうです﹂
良之は、時分があの調味料を大変気に入っていて、もし可能であれ
197
ば、堺の皮屋に卸して欲しいと考えていることを佐大夫に告げた。
﹁分かりました、お供仕りましょう﹂
と、佐大夫も一緒に湯浅に下ることとした。
雑賀から湯浅はおよそ24km近くある。
﹁船で行く﹂
と佐大夫はいった。
雑賀党というと良之には鉄砲のイメージが強かったが、実は紀州と
堺・大阪を結ぶ海運で栄えた氏族でもある。
24kmといっても馬でも丸一日仕事となる。現代人の感覚では車
で一時間足らずだろうが、騎乗で旅してもかなり身体的にはきつい。
船で行けば、その点楽であった。
船で湯浅に着く。まずは宿を取り、小者たちを使って佐大夫は﹁溜
まり﹂を生産している職人を探す。
正体はすぐに分かった。赤桐右馬太郎という男で、湯浅の街で研究
を重ねながら大阪に出荷しているという。
早速良之と佐大夫は使いを出し、翌日訪ねる約束をした。
翌朝。
宿に頼んで、鰯を白焼きにしてもらったものを包んでもらい、それ
を<収納>に納めて佐大夫たちと一緒に赤桐宅に向かった。
赤桐は、都の公卿が来るというので驚いて縮こまっていたが、良之
があまりに熱心に醤油がいかに気に入ってるのか語るので、だんだ
んと興奮してきて、ついには先導して蔵の案内までしてしまった。
赤桐に製品を出してもらい、朝焼いてもらった鰯にかけて一同に試
食させる。
﹁ほう。これはいい﹂
佐大夫も、昔食べた溜まりとはひと味違う専用品の醤油に感心して
いる。
198
﹁これを、堺の皮屋に卸してもらいたいんですが、これから毎年増
産するとして、そのくらいの費用が必要ですか?﹂
﹁どのくらい、といわれても⋮⋮﹂
自分の手の届く範囲までしか生産していないため、赤桐自身にも見
当が付きかねるようだった。
﹁では、とりあえず俺が赤桐さんと醤油の座を作ります。俺が株主
としてまず300両用立てるので、その金で醤油の増産をお願いし
ます﹂
﹁わかりました﹂
﹁できあがった醤油は、今までのつきあいもあるでしょうから大阪
に卸しても構いませんが、可能な限り堺の皮屋を通して下さい。そ
して、荷運びは佐大夫さん、雑賀衆にお願いしたいのですが⋮⋮﹂
﹁わかった。蔵出しの時期になったらわしらが受けよう﹂
こうして、赤桐右馬太郎の湯浅醤油は、良之によって歴史より早く
普及することになる。
だがそのあたりについては、単に良之自身の食への追求のためだっ
たので、本人には全く無自覚であった。
ひとまず自分用に2石=200升もの醤油を手に入れ、それを<収
納>に納めると、あとで契約に人をよこすと告げて良之たちは宿に
引き上げた。
良之には、紀州という事でもう一つどうしてもやりたいことがあっ
たのである。
﹁佐大夫さん。今度は印南浦に行ってもらえますか?﹂
﹁印南浦? 今度は鰹か?﹂
﹁はい﹂
さすがに鰹節については佐大夫も知っている。
199
回遊魚である鰹には産地が決まっている。
紀州も、その代表格のひとつだった。
鰹節は、平安時代から都に献上されていた物資のひとつだ。青魚で
足の早い鰹は、干されて献上された。
当時は堅魚などと呼ばれていたらしく、それが鰹の語源だという説
がある。
それはさておき、良之はこの時代の鰹節に不満がある。
堺で使われている鰹節は、どちらかというとまだ乾燥が足りないな
まり節に近かった。
うまみはあるが、良之の知る鰹出汁まで、まだ到達していないのだ。
実際に産地を見ないと分からないので、是非見に行きたいと思って
いた。
湯浅から印南浦までは海上約40km。
佐大夫の指示で、再び一行は船上の人になる。
印南浦に船を着けると、早速小者たちに頼んで網元を探す。
印南の助五郎と名乗る中年男があらわれ、自分がそうだと名乗った。
﹁鰹節をもっとおいしくする方法がある。一緒にやってみないか?﹂
と良之は持ちかけてみた。
だが、野次馬たちも助五郎も、ひとしきり笑ったあと、去って行っ
てしまった。
﹁こりゃあダメだな﹂
佐大夫は肩をすくめた。
﹁佐大夫さん、ありがとうございました﹂
200
雑賀に戻ると、良之は、つきあわせてしまった佐大夫に礼を言い、
醤油を10升提供した。
そして、台所を借りて、佐大夫に鰹出汁と醤油のお吸い物を作って
味を見てもらった。
自分が、なぜ醤油と鰹節にこだわったのか知って欲しかったのだ。
﹁いや、確かにこれはうめえ﹂
﹁本枯れ節さえ作れれば、もっとうまいんです﹂
がっかりした表情で良之は肩を落とした。
﹁時機もあるのさ御所様。鰹節の仕込みは5月頃だと思う。もう仕
込もうにも鰹は捕れねえからな﹂
佐大夫は慰めた。言われればその通りかも知れないと、良之も思っ
た。
だが、その頃はその頃で忙しく、おそらく見向きもされないだろう。
鰹節の焙燻仕込みは紀州ではじまったが、カビ付けは土佐ではじま
り、本枯れは伊豆で完成した。
全て、必要が発明を生んでいる。
大量の鰹を腐らせないよう、一括して処理するために、燻製小屋で
の焙燻を発明した紀伊。
輸送中にカビて廃棄せざるを得なかった消費地から遠い土佐で、カ
ビても品質が落ちるどころか、特定の白カビが付けばむしろうまみ
が凝縮させることに気づいた土佐。
さらに消費地から遠距離だったため、カビを落としてもまた発生し、
それを数回繰り返すと、鰹節自体の熟成が進んで、従来のものとは
比べものにならない品質になると気づいた伊豆。
物事には、そうして進んでいかねばならない事もある。と気づかさ
れた気がした良之だった。
孫一は、もうすっかり元気になったようだが、万一のために良之は、
佐大夫にポーションをふたつ手渡した。
﹁もう大丈夫と思いますが、念のため取っておいて下さい﹂
201
と、孫一のために特別に提供することをにおわせた。
﹁無闇に使うべきではないし、今後提供できるかも分かりません﹂
作れるか分かりませんから、というと、その希少さが理解出来たの
だろう。佐大夫は、深く秘す事を約束した。
明日、旅立つと告げると、佐大夫はひどく名残惜しそうに一同を送
り出してくれた。
ちなみに、雑賀でも、何かあったら情報を堺の皮屋に上げてくれる
と約束してくれた。
それと、湯浅の醤油屋についても、何くれなく面倒を見てくれると
言った。
﹁いつか、今回のお礼を出来る時も来るだろう﹂
佐大夫はそんなことを言っていた。
202
旅の空 3 −尾張−
良之一行の旅は、九度山∼筒井∼宇陀∼伊賀∼甲賀と進んだ。
はじめは海路で新宮∼鳥羽∼桑名と進むことも考えたが、宇陀から
甲賀までの経路を通る事を優先した。
ひとつには、この旅に加わっている武士や小者の故郷だからでもあ
り、今後、彼らの親類縁者を雇いやすくさせる狙いもあった。
甲賀を出立すると亀山から鈴鹿峠を越えて四日市、四日市からは船
で尾張の熱田に入った。
熱田神宮にお参りをしつつ、山科卿からの紹介もあって、織田備後
守信秀に尾張到着の知らせを送る。
やがて宿所に備後守からの使いがやってきて、末森城までお越し召
されよ、と言上があった。
そのまま、良之は行列をなして末森に向かった。
熱田からおよそ二時間。末森城はまだ新築一年目の館だった。
各所に贅を尽くした館で、織田備後守の富と権力が一目で分かる。
この時期、備後守は三河守も朝廷から拝領しているのだが、熱田神
宮などに安堵状を出している記録では、相変わらず本人も息子の信
長も、信秀のことを備後守と記している。
三河守については、安祥を手がかりに松平家を攻略しようとした名
分のつもりだったのだろう。
末森城に付くと早速備後守にあいさつに行く。
備後守は数日前から全身にむくみが出来、体調不良で休んでいると
いう。
203
アイリの所見は、高血圧・腎不全・肝不全だ。
﹁原因は?﹂
﹁高血圧は体質や生活習慣ですが、腎不全と肝不全は、ヒ素の可能
性もあります﹂
﹁治療は?﹂
﹁可能です﹂
アイリは、フリーデのポーションを備後守に服用させてから、回復
魔法を使用する。
﹁⋮⋮おお、らくに、なった﹂
痛みなどでよほど苦しかったのか、備後守はやがて、穏やかな寝息
を立てて眠った。
このあと、城内でちょっとしたもめ事があった。
この城の家老、林美作守と織田勘十郎付きの家老柴田権六郎によっ
て、城主格として勘十郎信勝が二条大蔵卿にあいさつしたいと言い
出したのだった。
﹁お父上はご隠居召されたのか?﹂
隠岐大蔵大夫の一言で2人は引き下がったが、備後守の病状がヒ素
だとすると、どうにも彼らはうさんくさく良之には思われた。
林美作と柴田権六の存念は、船で熱田に直行し、熱田からまっすぐ
末森城に入った三位大蔵卿に、この末森城の権力の移譲は信秀︱︱
信勝の線で行われることを示し、それを既成事実として尾張全土に
見せつけることであった。
この戦国の世に公家などと言うものに存在価値があるとしたら、自
分たちの権力構造へのお墨付きぐらいだと美作守は考えている。
以前に山科と飛鳥井がこの地に訪れた時も、さんざん食って飲んで、
やれ蹴鞠だやれ和歌だと遊んだ上に、官位を売ったり内裏の修復費
を無心したりして帰って行った。
204
おおかた、この二条とかいう公達もその類いに違いないと美作は踏
んでいた。
だが、意外にもこの公卿は蹴鞠でも和歌でもなく、医術なんぞを使
っていた。
﹁まあ、明日までお待ち下さい。俺もさすがに今日は疲れたんで休
ませてもらいます﹂
美作が裾を引くように信勝との引見を強要しようとしたのを、良之
は拒絶し、提供された寝所に籠もった。
まあ明日になれば逢うというならそれで良かろう。
美作は屈辱を紛らわすためにそう思った。
翌日。
末森城は混乱状態になった。
医者の見立てではもう長いことはないとまで言われていた信秀が一
晩で完治し、それは二条大蔵卿の医術のおかげであるという。
信勝を城主名代として用意された全ては信秀のものへとスライドさ
れた。
本来なら信勝が座るべき上座右手に信秀が付く。その並びの遙か壁
際に信秀の小姓と家老の林美作は追いやられる。
列席左手は二条大蔵卿の臣たちが座り、右手筆頭に信勝、信勝の後
ろに柴田権六、という席次になる。
やがて、隠岐大夫を筆頭にアイリ、フリーデ、望月三郎、服部半蔵
が入室する。最後に主の良之が入室すると、信秀は自ら上座より迎
えに行き、手を引かんばかりの態度で上席上座に良之を座らせ、自
身は下座に並んだ。
﹁御所様、こたびはわが病を癒やして頂き、誠に感謝に堪えませぬ﹂
まず、備後守は良之に向かい、深々と頭を下げた。
205
併せ、下に座る織田家のものも頭を下げる。
ちら、と良之は頭を下げる備後守の後ろの小姓や宿老、林美作守を
窺う。
︱︱傲岸な男だ。
良之の顔が嫌悪にゆがんだ。
その表情で、美作の運命が決まった、といっていい。
﹁くるしゅうない﹂
良之はいった。
その言葉をもって織田家一同は頭を上げる。
﹁まずは備後殿、床が払えて何よりでした。今後は少しお酒を控え、
食事も塩辛いものを減らすことです。中風︵脳卒中︶の気が出てま
すので﹂
﹁はっ、これはかたじけない﹂
﹁それと、俺の従者によると、備後殿、貴殿は毒飼いされて居りま
した﹂
﹁なんと!﹂
その瞬間の一同の表情を、良之は観察した。
よほどの役者でない以上、この瞬間の表情で見抜く自信が良之には
あった。
意外なことに、次代を狙う信秀の三男織田勘十郎、その付け家老の
柴田権六らは、良之の見立てでは﹁シロ﹂だ。
ということは、やはり全く驚くことのない林美作守が首謀というこ
とになる。
﹁備後殿。こうなるとお毒味役も心配でしょう。ここに呼び出して
頂きたい。身が従者が診て進ぜよう﹂
﹁これは重ね重ねありがたきこと。誰ぞ、良阿弥を連れて参れ﹂
下座の先、開け放たれた襖の影に控えていた小者が立ち上がり、毒
206
味役を連れに駆けた。
﹁⋮⋮申し上げます。良阿弥殿、本日は未だ出仕して居らぬ由﹂
﹁屋敷に迎えに参れ﹂
﹁はっ﹂
ちんどく
﹁御所様、わしに使われた毒は、どのようなものでありましたか?﹂
﹁鴆毒﹂
良之はヒ素、といったが、この時代の彼らには自動通訳で、鴆毒、
もしくは別の者には銀毒、と聞こえただろう。
化合物において硫化ヒ素だけはニンニクのような硫化臭がするが、
単体のヒ素は無臭で、毒薬として使われる三酸化二ヒ素は、料理に
含ませると無色無臭となり、発見を困難とさせる。
世の東西を問わず使用されてきた毒で、もしかすると、この世でも
っとも多く、敵を暗殺してきた毒といえるかも知れない。
﹁申し上げます。良阿弥殿、屋敷にも姿がありませぬ﹂
小者が息を切らせて戻り、そう報告する。
﹁露見を察知して逐電したか?﹂
備後はそううめいたが
﹁あるいは、消されましたか﹂
良之がその言葉を継いで補足した。
ちら、と良之は視線を服部半蔵に流す。半蔵は小さくうなずいた。
﹁いずれにしましても、この城の台所では危険が大きい。申し訳な
いが、俺はこの台所で作られた食事を食べる勇気は持てません。今
より、出立させて頂きます﹂
良之はそう言い、席を立った。
﹁備後守殿、よろしければ、いずれか別の城にご案内願えますか?﹂
備後守信秀に先導されて向かった先は、那古野城だった。
末森城からはおよそ一刻=二時間の距離となる。
207
城主は上総介信長。
先触れによって事情を全て把握していた上総介は、日頃とは違い、
正装をして烏帽子まで付けた姿で良之と父親を出迎えた。
上総は開口一番、実の父親に向かって
﹁だから申し上げたではありませんか﹂
といった。
﹁織田上総介信長でござる。こたびは父上の危難をお救い下され、
誠に感謝の極みにござる﹂
﹁二条大蔵卿です。こちらこそ急な訪問にもかかわらず、大人数を
お世話頂き、ありがとうございます﹂
このとき、信長は17才。まさに大うつけと呼ばれた時分である。
どこがうつけなんだ、と良之は思わざるを得ない。
鋭い眼光、きつく結ばれた口元。
刺すような視線は彼の知性を如実に物語っている。
ひとまずは那古野城に移ったことで、良之たちもゆっくり休むこと
が出来た。
上総介も良之の人となりを用心深く観察しているが、良之の方でも、
織田弾正忠家の二代、信秀と信長を分析している。
織田家は実質、尾張の覇者といえるポジションでありながら、なぜ
か信秀は主である守護代織田家や、守護である斯波家を滅ぼそうと
はしないで居る。
さらに言うと、三河で対立する松平家や、この時代にはすでに実質
的に松平家を乗っ取って支配している今川家と厳しい戦闘を強いら
れているにもかかわらず、斉藤山城守︵のちの道三︶によって追放
された美濃守護の土岐氏を匿い、彼の望みによって美濃大垣を攻め、
斉藤軍によって壊滅的な打撃を被ったりしている。
尾張に後顧の憂いを残していることが致命的な足かせになっている
208
のだ。
上総介信長は、確かに一廉の人物に良之にも見えた。
後年、朝倉宗滴が﹁あと三年長生きして、織田上総介がどのような
人物になるのか見てみたかった﹂といったとか、斉藤道三が﹁わが
子どもは、上総が門前に轡をつなぐことになろうよ﹂といったとか、
この時代の名将たちは、彼の能力を評価している。
だが、この頃の上総介は、相変わらず上半身裸に近い姿で町を練り
歩き、小姓や若手家臣どもとチンピラのような言動をして地元から
は蛇蝎のごとく嫌われている。
良之は、
﹁彼は何かを実験しているのかも知れない﹂
と感じた。
身なりで他人の評価が変わることは良之自身が京で実感した。
ジャージ姿の時。地下人の若といった出で立ちの時、そして二条の
御落胤として御所風に改めた時。
そのときに応じて、京の市民たちは全く異なる生き物を相手にする
ように違った対応を取ってきた。
そうした実験を、上総介はしているのではないか。
もう一つは、彼は﹁うつけ﹂だと評価されることで命の危険を回避
しているのかも知れない、とも良之は思った。
この時代、当たり前のように暗殺が横行している。
信長の生家である弾正忠家は、未だ主君斯波家の守護代織田家の、
そのまた家臣の奉行家なのである。
守護代織田家には三奉行家があり、弾正忠家は家格からいったら筆
頭ですらない。
実勢は国主に等しいのに、である。
当然、備後守も上総介も見下されている。
家臣や家老にさえである。
そうした雰囲気が彼を自己防衛させているのかも知れないと良之は
209
思った。
一方の上総介信長。
いきなり現れたこの公達を、得体が知れないと思っていた。
そもそも、この時代、たとえ関白の弟で三位大蔵卿を名乗ったとこ
ろで、彼のように160人以上の家臣を引き連れて、一文の得にも
ならない旅行をして歩く者など、あるわけがないのである。
ついて回っている家臣にも謎が多すぎる。
彼が手の者に聞き込みさせたところによると、望月は甲賀の中惣の
家。服部・千賀地は伊賀者。滝川は放逐されたならず者。下間は本
願寺の坊官。
その全てに本貫の地を与えることなく、銭で雇っているという。
その銭の出所も怪しい。
なんでも京の小西屋や堺の皮屋あたりとつるんでいるようだが、よ
ほどの事でも無ければ、商人どもは酔狂に金など出さない。
ではどこから金が生まれるのか?
おそらく、何らかの利権を握っているのだろう。そうとしか思えな
かった。
だが、上総介は、フリーデとアイリという、父親を救ってくれた異
人の従者については、素直にうらやましいと思っていた。この辺が、
信長らしいところである。
210
旅の空 4 −尾張−
﹁津島を見に行きたい﹂
良之は上総介に頼んだ。
﹁勝三郎に案内させよう﹂
上総介は即座に、自身の乳兄弟として物心つく頃からかわいがって
いる池田勝三郎を付けてやった。
お供は、フリーデとアイリ、望月、滝川の4人のみである。
﹁津島のどちらに参られるので?﹂
勝三郎は、騎乗のみの一行で、良之に馬を寄せながら訊ねた。
﹁伊藤屋という問屋さんに向かって下さい﹂
伊藤屋は、信秀が勝幡時代に従わせた津島の名商だった。
堺の皮屋や天王寺屋と縁がある。
﹁では、駆けます﹂
勝三郎は鞭を入れ、馬を飛ばした。
異人の2人があまり乗馬がうまくないが、意外にも良之は器用に馬
を扱っていた。
公家の中には、ある程度武芸に秀でた人材がいることを勝三郎は知
っていた。
おそらく、山科卿あたりがこの地に滞在した時に語ったのだろう。
だが、青白い公達に見えていた良之が、結構侮れないかも知れない
と思えたのは、その巧みな手綱さばきからだった。
約4里を駆け、馬を勝幡城に預けて休ませ津島に向かう。
伊藤屋には皮屋からの文が届いたせいもあり、主自らがあいさつに
たった。
211
その帰り道。
津島の町外れで、その少年と良之は出会った。
少年の名を、藤吉郎という。
伊藤屋に出入りする百姓の子どもは多い。
小者を売り歩いたり、力仕事を手伝ったりして駄賃を稼いで家計を
助けるのだ。
藤吉郎は針を売って歩いた。
幼い頃から父親と折り合いの悪かった藤吉郎は、自分で稼いだ金を
少しずつ貯め、いずれどこかで仕官をしようと頑張っていた。
藤吉郎には先天性の多指症という変異がある。
そのため、薄気味悪がられたり、明確な差別を受けたり、いじめを
受けたりもした。
もしかしたら父親との反りが悪かったのも、このせいかも知れない。
この日も、藤吉郎は精算のため伊藤屋に向かう道すがら、地元の悪
ガキどもに道をふさがれ嫌がらせを受けていた。
顔に微笑みを浮かべじっとこらえている藤吉郎に、やがてガキども
は焦れたか飽きたか、立ち去るそぶりを見せた。
ガキどもに散らされた針売りの道具箱を地面に座って丁寧に片付け
ている藤吉郎に、やがて悪ガキどもは石を投げ出した。
これはさすがにやり過ぎだった。
年かさの悪ガキの投げた石が藤吉郎の額に当たり、藤吉郎は倒れた
まま動かなくなった。
﹁にげろ!﹂
さすがにまずいと悪ガキたちは逃げようとしたが、藤吉郎を倒した
もっとも年かさのガキはつまみ上げられ、顔の形が変わったかと思
うほどしたたかに殴られ、道に転がった。
激しい怒りに満ちた顔で、その男は残りのガキどもに怒鳴った。
212
﹁こいつは預かっとく。親に伝えよ。返してほしくば、あれの治療
費を持ってこいとな﹂
﹁彦右衛門殿、また酔狂な⋮⋮﹂
勝三郎が苦笑した。
﹁ああいうのは、許せん﹂
滝川は、未だに怒りで震える拳を開くと、伸びた悪ガキをひょいと
担いだ。
﹁⋮⋮アイリ、あの子、診てやって﹂
良之の指示で、アイリは藤吉郎の治療を始めた。
﹁ところで、勝三郎殿は彦と顔見知りなんですか?﹂
良之の問いに
﹁ご存じなかったのですか? 彦右衛門殿はそれがしの親類筋にあ
たります﹂
驚いた顔で勝三郎は良之と彦右衛門を代わる代わる眺めた。
﹁知らない。そういえば俺、彦のこと何にも聞いてなかったなあ﹂
その言葉に、望月三郎も池田勝三郎も呆れた顔をした。
﹁堺の町で、博打に負けて簀巻きにされるところを助けて、その借
金の形にこうやって仕えてくれてるんだ﹂
﹁ああ! 御所様それは!﹂
﹁まったく、滝川彦右衛門ともあろう御方が、何をなさってるんで
す﹂
勝三郎はその話を聞いて、ついに怒り出してしまった。
﹁面目ねえ﹂
両手を合わせて彦右衛門は勝三郎に詫びる。
﹁⋮⋮このこと、誰にもいわんでくれ、な? な?﹂
そうやって勝三郎に詫びているうち、剣呑な雰囲気で、津島の町か
ら武装した男たちが20人ほどやってきた。
﹁勝幡の城に知らせねばなりません。御所様、ひとまず御免を﹂
213
勝三郎は表情を変え、1人離脱して勝幡城に走って去った。
藤吉郎は頭部に投石を浴びて昏睡したが、アイリの治癒魔法で回復
した。
うっすら目を開けると、男装姿の異国の女が自分を介抱してくれて
いた。
︱︱天女みてえだ。てことはわしは死んだのか?
藤吉郎は、痛みも苦しみもなくなった状態の中、ぼんやりと思った。
津島の町から現れた男たちの中には、武器を持った者も居た。大刀
や薙刀である。
望月三郎は、懐から細竹で作った笛を取り出し、ピイッと短く吹い
た。
すると、5人ほどの郎党が変装を解いて現れ、武器を用意し始めた。
商人姿の男は担いでいた荷をほどき、四つほどに分割された薙刀を
組み立てた。
﹁滝川様、お使いになりますか?﹂
男はその薙刀を彦右衛門に手渡す。
﹁かたじけねえ﹂
にやり、と彦右衛門はそれを受け取り、ブン、と振った。
その姿に、ほんの一瞬、町から来た男たちの足がすくんだ。
人数は少ないが、相手はただ者ではないと悟ったのだろう。
藤吉郎に石を当てた悪ガキは、彦右衛門から三郎が預かり、彼が懐
から出した縄で後ろ手に縛り上げられている。
フリーデは、すでに懐から試験管を取り出し、構えていた。
214
どっこしょ
望月の手の者は、変装姿だったために長物は持っていなかったが、
代わりに、独鈷杵や鎖鎌といった暗器を手にして、三郎の前に横一
列に並んだ。
その5人の前には、凄まじい殺気を放つ滝川彦右衛門。
けえ
﹁うちのガキを返してもらおうか?﹂
あまり素性の良くなさそうな男が、薙刀を地面にどんと突いて怒鳴
り声を上げた。
﹁そうはいきません。その子どもは、石を投げてあの子どもを殺し
かけました。うちの従者がそれを治療しましたので、治療費を頂き
ましょう﹂
良之が答えた。
﹁なんでえ、六つ指の藤吉じゃねえか、ばからしい﹂
父親が言うと、その男たちは一斉にあざ笑いだした。
﹁そんなヤツに医者を使うなんざ、あんたらも酔狂だね﹂
後ろの子分のような若造も叫んだ。
﹁で、治療費はいくらだい? 額によっちゃ仕方ねえ、払ってやる﹂
さすがに、良之もこのふてぶてしい態度に腹が据えかねた。
﹁10両もらい受けます﹂
﹁10両だと? はは、10両!﹂
﹁藤吉のヤツを見てみろよ、ぴんぴんしてやがる。腕尽くで取り返
したっていいんだぜ﹂
﹁おう。数はこっちが上だ。皆殺しにしちまおうぜ﹂
﹁三郎。あいつらなんなの?﹂
良之は小声で三郎に聞いた。
﹁津島の傭兵でしょう﹂
﹁たち悪い連中だなあ﹂
215
﹁食い詰めものですから﹂
なるほどね、良之はうなずいた。こういう時代なだけに、荒事を町
で起こされた時のためにこういう手合いを飼っているのだろう。
そういえば、まさに堺で飼われていたのが、滝川彦右衛門だった。
状況から見ると、藤吉郎に石を当てた悪ガキは彦右衛門に殴られ、
ひどい顔になっている。
対する藤吉郎は、アイリが治療したため、頭部のダメージも治り健
康そのものになっている。
﹁なんかこっちが悪者に見えそうだよね﹂
良之は苦笑した。
﹁アイリ、悪いけどこいつもついでに治しといてくれる?﹂
良之に言われ、アイリは悪ガキの顔を治療した。
⋮⋮すげえ。
藤吉郎は、アイリが治療した悪ガキの顔がみるみる元に戻るのを見
て驚いた。
本物の天女様だ。
藤吉郎の中で、すでにすっかりアイリは天女として信仰の対象にな
っていた。
じりじりと津島の傭兵たちがこちらに近づいてくる。
それだけでなく、町中からさらに、武装した男たちが駆け寄って、
その数を増やしていた。
そこに、
﹁なんの騒ぎです?﹂
と、現れたのは、先ほど良之たちがあいさつに行った伊藤屋だった。
﹁御所様これは一体どうされた事ですか?﹂
伊藤屋は剛毅にも、この対立した二つのグループの真ん中に歩み出
216
てきた。
良之は、今縛られて座らされている悪ガキの藤吉郎に対するいじめ
からはじまった騒動を話して聞かせた。
伊藤屋はため息をひとつつき、
﹁承知いたしました。藤吉の治療費はうちが払いましょう﹂
といった。
﹁いかほどで?﹂
﹁治療費は10両。別に手打ち金として、津島の町から1000両
頂きましょう﹂
﹁⋮⋮何をおっしゃいます﹂
伊藤屋は目を丸くした。
﹁じゃあ2000両﹂
﹁⋮⋮﹂
伊藤屋はどうやらまともに取り合っていないようだったが、
﹁そんなに出せるとお思いですか?﹂
と良之に聞いてきた。
﹁どうでしょう? ただ、武器で脅されたとあっては黙っておけま
せん。この上は、備後守と語らった上で、織田家の兵を借りてこの
町を攻め滅ぼそうかと﹂
良之は本気だった。少なくとも、本気でそう言っている。
そこに、勝幡城に駆け戻った勝三郎が戻ってきた。
城兵200ほどを武装させて引き連れてやってきた。
町の用心棒たちは驚き、三分の二以上が逃げ散っていった。
﹁伊藤屋さん。番犬を飼うのはいいけど、躾もちゃんとしたほうが
いい。町の子が、いじめでよその子を殺しかけても親が薙刀持って
出てくれば許される。そんな町は、焼き払うに限ります。そうは思
いませんか?﹂
﹁⋮⋮﹂
伊藤屋は返す言葉がなかった。
217
﹁二条三位大蔵卿藤原朝臣良之。津島の町に殺されかけた事、一生
忘れません。このこと、織田備後守にもきつく叱り置きます﹂
﹁いや何卒その儀は⋮⋮﹂
慌てて伊藤屋は道に座って良之に詫びた。
﹁では伊藤屋さんに免じて、今回は水に流しましょう﹂
けろっと良之は言い残し、城兵たちに護られながら去って行った。
あとには、後ろ手に縛られたままの悪ガキと、道にへたり込んだ伊
藤屋だけが残った。
﹁ところで藤吉。あれじゃあもう津島に出入り出来ないと思うけど、
今後どうしようか?﹂
良之は、あの場から連れ去った藤吉郎に聞いてみた。
﹁⋮⋮﹂
困った顔で藤吉郎は黙り込んだ。
﹁いっそ、俺の小者として働いてみる?﹂
﹁えっ?﹂
その場の一同は皆驚いた。
ちなみに、言うまでもなく良之はこの少年が木下藤吉郎、後の羽柴
秀吉だと気がついていた。
﹁あ、あの﹂
藤吉郎は目を白黒させながら良之を見上げた。
﹁ひとまず1両あげるから、家に帰ってよく考えなさい。俺たちは
今夜勝幡城に泊まるんで、仕える気になったらおいで﹂
そう言って、藤吉郎に永楽銭を一貫目手渡す。
﹁三郎。阿呆どもが悪さをするかも知れない。今夜は彼の家を手の
者に見張らせてくれ。もし危害を加えそうなら、斬り捨てろ⋮⋮い
いですよね? 勝三郎殿﹂
﹁あ、ああ⋮⋮﹂
正直、1人の百姓の子どもになぜ良之がここまで肩入れするのか誰
218
にも分からなかった。
幸いにと言うか、尾張中村の彼の実家は、その後も問題なかった。
言うまでもなく、藤吉郎が京の公卿の家臣に取り立てられたことと、
津島の伊藤屋を筆頭に町人たちが町の傭兵たちを締め上げたからで
ある。
伊藤屋が支払った治療費10両は藤吉郎に慰謝料として手渡された。
彼はその金を実家に残し、良之の小者として、旅に加わることにな
った。
翌日には良之たちは那古野城に引き返し、事の次第を備後守と上総
介親子に報告した。
備後守は真っ赤になって怒り、危うく飛び出して行きかねない有様
だったが、それは良之が止めた。
﹁おそらく、津島の町衆が和解金でも持ってくるでしょう﹂
良之がさんざん脅したことを話すと、上総介が愉快そうに笑い、そ
れで備後守も怒りを緩めたようだ。
﹁それにしても、町方のああしたならず者は始末に悪い﹂
備後守は、腕を組んで考え込んだ。
﹁ただ、町方にも言い分はある。強盗やら火付けやらから財産を護
らねばならぬゆえ﹂
上総介がぽつりといった。
確かに、それがこの時代の真実だろうと良之も思う。
219
旅の空 4 −尾張−︵後書き︶
お読み頂きありがとうございます。式村です。
感想欄にて頂きましたご指摘やご質問について、活動報告にてお返
事させて頂いております。
ブックマークや作品へのご評価、感想の投稿など、本当にありがと
うございます。
特に、現在の小説家になろうというサイトにおける評価ポイントは、
付けて頂けると、まだこの作品に関心をお持ちいただけて居ない方
に発見して頂けるきっかけとなるので、本当にありがたく思ってお
ります。
これからも、本作品をどうぞよろしくお願いいたします。
220
旅の空 5 −駿河−
多指症。
木下藤吉郎の場合、右の親指が一本多かった。
彼が藤吉と呼ばれ、針売りをしていたことと、この多指症であった
事でいわれのない差別といじめを受けていたことで、偶然良之は彼
の正体に気がついた。
彼のことを六つ指と信長が呼んでいたことは有名だったし、同時代
のフロイスなどにも記録があった事は、歴史にさほど詳しくない良
之でさえ雑学として知っていた。
良之の時代でも多指症はさほど希少な症状ではなかった。
1000人あたり2.6人とかそんな感じだったと良之は記憶して
いた。
その多くは乳幼児期に整形手術が行われ、問題なく生育している。
良之は藤吉郎と語らって、やはりこの多指症が彼の心に影を残して
いることを知った。
もうじき、尾張を立って三河から駿河に向かおうと考えている良之
にとって、のんびりしているこの時期に藤吉郎の整形手術を行って
しまいたいと考えていた。
﹁アイリ。藤吉郎の指だけど、君たちの魔法で治療は可能?﹂
良之は、アイリに相談してみた。
﹁多指症は、物理的に切って傷口を塞ぐ方法での治療となるでしょ
う﹂
アイリは答えた。
﹁じゃあ、切れば可能なんだね?﹂
﹁問題はありませんが、その⋮⋮麻酔がありませんと、切るのは相
221
当痛いと思います﹂
実は、この時代にはまだ麻酔薬がない。
﹁フリーデ、麻酔薬は作れる?﹂
﹁⋮⋮残念ながら、習ったことがありません﹂
﹁あの、御所様。痛いのは一瞬だら、わしゃ辛抱出来るで﹂
﹁うまく斬れる人がいたら一瞬だけど、斬れなかったらかなり痛い
と思うよ?﹂
﹁おらあ滝川様に切っていただきてえだ。滝川様だったら、いてえ
のがまんする﹂
﹁やだよわしゃ。勘弁してくれ﹂
いきなり振られて彦右衛門は顔を背ける。
﹁なら望月様﹂
﹁勘弁して下さい﹂
﹁なら、御所様は⋮⋮﹂
﹁刃物なんか持ったら、自分を切りそうです﹂
どこかから﹁確かに﹂という声が聞こえた。
ノートパソコンの辞書で調べてみる。
麻酔の成分はリドカインと言うらしい。リドカインを分子辞典で調
べる。
C14H22N2O.ClH。
塩素以外は常在の元素で、塩素も塩から取り出せる。
考えているうちに作ってしまえ、とリドカイン塩酸塩を作ってみた
が、問題は注射器だった。
いろいろ悩んだが、別に工業製品を作るわけでなく、藤吉郎のため
だけに錬成すれば良いのだと気づき、辞書で注射器の映像を見て、
シリコンガラスでシリンジを作成。
ゴムもビニルメチルシリコンゴムを化学式連想で錬成し、シリンジ
に成型した。
針は純鉄で錬成し、シリンジに直接取り付けた。
222
リドカインを2mg、10mlの純水に解きシリンジに注入。
その状態で<収納>に保存した。
問題は誰が切るか。
﹁滝川様﹂
﹁⋮⋮﹂
藤吉郎はどうやら、滝川彦右衛門に照準を定めたようだった。
﹁おらはあん時、滝川様が怒ってくれて嬉しかったで、切らるんだ
ら滝川様にお願げえしてえだ。しくじってもええで、お願いします﹂
﹁こりゃひでえ、御所様﹂
﹁俺からも頼みます彦。俺にはとても自信がない。本人のたっての
願いですから、お願いします﹂
﹁⋮⋮痛くても俺を恨むな﹂
﹁ありがてえ、滝川様﹂
藤吉郎は頭を下げた。
とりあえず手を良く洗わせ、新しいサラシで拭かせたあと。
﹁麻酔を打ちます﹂
良之は、藤吉郎に、作った麻酔注射で右手に少しずつ麻酔薬を注入
していった。
︱︱こちらの麻酔の方が、よほど痛かった。
藤吉郎には後々まで言われ続けた。
切るべき部分にマジックペンで赤線を引き、
﹁じゃあアイリ、彦、お願いします﹂
といって、良之も藤吉郎と同じように目を閉じた。
那古野の鍛冶師が打った小柄の中でもっとも切れ味の良いものを選
び、藤吉郎の右手の親指を一本、彦右衛門はあっさりと切り取った。
すかさず、アイリが治癒魔法で皮膚を再生させ、あっけなく彼の整
223
形手術は終わった。
﹁もう行きなさるか?﹂
織田備後守信秀は、名残惜しそうに良之に返答する。
﹁出来れば、雪が降る前に行けるところまで行きたいのです﹂
良之は、滞在中の好意に感謝する。
﹁一体、御所様は何しに行くのだ?﹂
上総介が率直に問う。
この少年はいつも率直だ。それが実に良之には心地いい。
実は、上総介の方も、このおよそ公卿らしくない平明さを持った青
年のことをすっかり気に入っている。
父親の命を救われたと言うだけでなく、この少年の心を沸き立たせ
る何かを、この貴人は持っている。
それだけに、別れがたい思いがある。
﹁一つには、社会の状況をこの目で見ることです﹂
この親子に分かるように、良之は言葉を選んで語る。
﹁この世に何が足りなくて、このような乱れが起きているのか。ど
こを直せば、世の中は平和になるのか。そういうことを探している
のです﹂
﹁それは、この尾張でわしらと一緒には出来んのか?﹂
それは意外な言葉だった。
織田上総介という人物、つまり信長という人間が持つ印象は、良之
にとっては超ワンマンの経営者であった。
うまくいっている時は良いが、精神に負荷がかかれば、部下に理不
尽な追放や死を与える。
到底並び立てる人格ではないと思っていた。
﹁それは、俺がこの世をしっかり見て、考えて、そのとき答えが出
てからの話です。その頃には上総介殿も、お父上の後見を得て独り
224
立ちされているでしょう。その頃にまたお会いしましょう﹂
じっと上総介を見つめていた良之が、視線を備後守に移す。
尾張の虎と呼ばれた男も、良之にうなずいて見せた。
ちなみに、良之への武力脅迫へのツケは、ひとまず備後守が銭10
00貫を立て替えて払った。
良之はさすがに固辞したが
﹁そういう名目でお支払いするだけ故、わしの心付けと思って受け
てくれ﹂
と備後守が言うので、良之はありがたく受けた。
その代わり、手持ちから砂金1000両を京の二条家に届け﹁尾張
の織田備後守から﹂とした。
数ヶ月後に二条関白より織田家に礼状が届き、彼らはそれを知った。
すでに旧暦9月も半ばを過ぎている。
良之は先を急いでいる。
那古野から刈谷、安祥、岡崎を抜け、一行は東海を東に進む。
豊川稲荷の名で有名な妙厳寺に宿を取ったところで、今川家からの
使者が来た。
使者の先導で引馬、掛川、島田と宿を取りつつ進み、良之たちはな
んとか9月中に駿府の町にたどり着いた。
良之は、噂に聞いた太原雪斎と逢うことを楽しみにしていた。
しかしこの時代、雪斎は京都妙心寺の住持として良之と入れ替わる
ように京に上ってしまっていた。
妙心寺とは、はじめて京の惨状を眺めた晴之の頃の彼が、わずかに
見つけた再建中の寺のことだ。
225
後の徳川家康である松平竹千代もこの時分は駿府には居ない。三河
吉田城あたりに居たと思われている。急いで通り過ぎたので、良之
は顔を見損ねてしまった。
駿府の今川屋形に招待された良之主従は、当主今川義元、宿老の朝
比奈、三浦、庵原ら、婚姻による親戚関係となっている関口などを
紹介され、義元の嫡男、龍王丸などにも引見した。
さらにこの地の今川家商人司、友野屋に出向き、堺の町で展開中の
錆顔料、水晶玉の営業をする。紀州の醤油についても2合程度の味
見品を提供する。
それぞれのサンプルを渡し、どれも皮屋が売っていることを伝える。
また、朝廷が棹銅を官許品として今後規格化するだろう事。
全国統一分銅を定めるだろう事などの情報を提供しておく。
公卿のこうした情報提供は商人たちにとって馬鹿に出来ないものが
多い。友野屋は良之に感謝し、幾分かの情報料を支払った。
駿府での滞在が長引いている。
今川家は、中御門との婚戚ということもあり、また、義元自身が幼
少時より太原雪斎と共に京の五山で修行をした人物であることもあ
って、公卿に対する礼が深い。
朝廷に対する礼も大きい大名家なので、山科卿からも可能な限りご
機嫌を取り持って欲しいと繰り返し依頼されていた。
後世、桶狭間において奇襲という形で織田に敗北したこともあって
か、今川家とその家臣団は徹底的に無能扱いをされるきらいがある。
だが、良之から見たところ、文明度にしろ武将としての能力にしろ、
この駿河国の臣は決して他国に劣っているとは思えなかった。
結果、ひとつき近く滞在するに及んで、季節はすっかり冬になって
226
しまった。
この間、良之の家臣たちはすっかり今川家で師匠を見つけ、文武の
修行に励んでいる。
アイリやフリーデも、お千や阿子たちに日本語を習い、反対に彼女
達もフリーデたちの言葉を覚え、徐々に会話の壁が無くなりつつあ
る。
望月三郎、下間頼廉、木下藤吉郎ら年少組は毎日競って寺に通い、
四書五経を学んだりしているらしい。
そして、服部、千賀地、滝川らは、日々野山を駆けまわって鉄砲の
訓練をしつつ、鳥獣を狩って帰ってきている。
それらを許す環境は、ひとえに駿府の豊かさから来ているのだろう。
駿河から甲斐に入るには、南部から身延を抜ける富士川沿いの街道
がほぼ唯一の道になる。
そろそろ冷え込みも厳しくなり、良之もやむなく、甲州入りは翌年
春まで待つ気になった。
この時代、実は地球的に小氷河期と言って良い期間で、今では想像
も付かないが、甲斐にも大雪が降り、場所によっては人の背丈ほど
も雪が積もる。
だが、太平洋の海沿いはそれでも比較的温暖で、伊豆になら抜けら
れるようだ。
それなら、と良之は方針を変え、行く予定のなかった北条家の領地
に入ることに決めた。
一つには、あまり今川と親しくなり過ぎることを彼が警戒したこと
もある。
今川は、織田がこの公卿に1000貫を贈呈した評判を聞きつけて
いた。
227
去るにあたって義元もまた良之に1000貫贈呈し、良之もまた、
その金を実家である二条関白家に送るのだった。
228
旅の空 6 −相模−
服部半蔵の配下に北条家へのつなぎを頼み数日。
北条幻庵名義による北条相模守氏康代返の書状が届けられ、これを
機に今川家に暇乞いをした。
今川家では別れを惜しんでくれたが、良之は、どうせ越冬せねばな
らないのなら、この際箱根あたりで雪解けを待つ気になっていた。
天下の堅城といわれる小田原城も見てみたかったし、小田原もまた、
駿府に負けない文化的な都市だという。
旧暦10月20日。
良之主従は駿府を発った。
蒲原、吉原と宿を取り、沼津に入った。
﹁なんだこれ!﹂
沼津を流れる狩野川の河川敷を良之は、ついいつもの癖で砂金取り
にいそしんでいると、取っても取っても砂金溜まりが見つかる。つ
い興奮状態で足を止め、一心不乱に収穫を始めだした。
ついに主従の歩みはほとんど停止状態に近くなった。
﹁今日の宿の予定は?﹂
良之が聞く。隠岐大蔵大夫は
﹁三島でございます﹂
と答える。
﹁変更。この川をさかのぼるよ。どこかに宿はある?﹂
先触れを務める服部の手の小者が
﹁北条寺がございます﹂
と報告したので
229
﹁じゃあそこに宿を取って。俺の供回り以外は先行していいよ﹂
と言うと、再び馬上から錬金術での砂金取りに没頭し始めた。
こうなると隠岐も言われた通りにするしかない。
馬回りの藤吉郎、近習の下間、それにフリーデとアイリ、諸大夫格
の服部と滝川を残し、残りは先行し北条寺を目指した。
北条寺ではいきなり現れた公卿の家臣に困惑し、韮山城に届けた。
韮山城でも扱いに苦慮したが、
﹁お公家様なら小那温泉がよろしかろ﹂
となり、小田原へ早馬を出すと共に一行を長岡温泉郷に案内した。
隠岐は手早く一行を分宿させ、本人は急いで良之のもとへと引き返
した。
ところが、隠岐が良之を見つけたのは、柿田川と狩野川の合流地点
を少しさかのぼった湯川あたりだ。
﹁御所様、急ぎませんと、日が暮れてしまいます﹂
隠岐は良之を案じてしつこく急かすが、良之は全く隠岐の言葉に耳
を貸さず、一心に砂金を集めている。
ついには、川岸に立つ蔵六寺のあたりで日没を迎えてしまった。
やむなく一行はこの寺で宿を借り一夜を過ごすが、翌日からも良之
は砂金取りに夢中でなかなか進まなかった。
やっと3日かけて従者たちの待つ長岡に到着。
ところが、良之はさらに上流に上ると宣言した。
﹁この上には?﹂
﹁修善寺温泉があります﹂
隠岐は一同を再び指揮して修善寺へ。
一方良之は大仁あたりでかなり時間をかけ4日後に修善寺に到着。
数日のんびり温泉を楽しんだあと、また家臣たちをほっぽらかし、
230
山に登ったり川をさかのぼったりを繰り返していた。
さすがに退屈をもてあましたか、藤吉郎が
﹁御所様、そんなに砂金が取れるのですか?﹂
と聞いた。
﹁うん、すごいぞ藤吉郎。もう5万両は集めた﹂
﹁ご! ⋮⋮﹂
5万両。約850kgである。
修善寺のあたりは後に大仁金鉱が見つかるが、この時代、北条氏は
まだ気がついていなかった。
その一帯を洗って流れた狩野川には、砂金が多かったのだろう。
この時代の伊豆半島は、まさに黄金の国だった。
一般に、金という物質は火山や温泉の多い地域に多く産出する。
地底のマグマ活動などで高温、高圧条件に熱された水は、周囲の金
属を溶解させ内包しつつ、地下岩盤の割れ目を探して浸透していく。
やがてそうした岩の中で結晶化した金属が、長い時間を経て地上に
露出するのが、鉱脈である。
特に、火山帯で多く存在する塩素や硫化水素の雰囲気下では、地下
資源は化合物を作り、石英質の岩盤の中で鉱物資源化しやすい。
伊豆や佐渡の金山、飛騨の銅や鉛と言った、産地に特徴的な鉱物資
源は、その近辺に存在する火山や温泉と、決して無縁ではない。
家臣たちを隠岐に任せ修善寺に残し、すでに良之は天城に分け入っ
ている。
船原川という支流を遡上していくうち、フリーデが辰砂を見つけ、
良之に収集を頼んだ。
辰砂、朱の原料であり丹とも呼ばれる、水銀の原料、硫化水銀であ
231
る。
フリーデにとって、この世界に来たことの難点が、新たな水銀が手
に入らないことだった。
だが、わずかながらも有望な量の辰砂が露出しているのを見て、彼
女は柄にもなく興奮した。
良之も、彼女が触媒として水銀を使っている事を知っているので、
指示通りに収集した。
船原川を尾根まで遡上すると、分水嶺を経て、さらなる伊豆の金鉱
床地帯に出る。
すなわち、土肥である。
このあと4日くらいかけて土肥川を下った彼らは、土肥の港から船
で再び沼津まで送ってもらい、再度船原川沿いに砂金を集めつつ遡
上していくのだった。
ひとつき近い時間をかけて良之はやっと満足したようだ。
従者たちの待つ修善寺で数日たっぷり骨休めをしたあと、小田原へ
と向かった。
修善寺から三島にでて、箱根を越えて小田原に。
小田原では、応接掛の幻庵が、一向に来ない良之を待ちわびていた。
﹁いや御所様には随分伊豆がお気に入りのご様子でしたな﹂
幻庵に言われると、良之は満面の笑みで
﹁伊豆は本当に素晴らしいところですね!﹂
と返されたので、すっかり幻庵も毒気を抜かれてしまった。
先の返信で北条相模守氏康が多忙、といっていたのは、関東管領山
内上杉家の平井城を攻めていたからだ。
この時期、攻略はならず北条軍は撤退。氏康は小田原に帰城してい
232
た。
良之は、春までの小田原滞在を氏康に願い、これを許された。
良之の臣下たちは、小田原でもそれぞれ、文武の師範を探しては教
えを受けている。
一つには、こうした教育を﹁経費﹂として良之が認めたこともある。
さらに、乗馬が出来る者は次々と騎乗を許され、地位が上がった。
小者たちはこぞって乗馬を習い、牧場の荘出身の望月三郎に認定を
任せる。
認可されると正式に青侍になれた。
リーダー格の望月、服部、千賀地、滝川、下間の下に組織され、給
金はリーダーを通して支払われる組制度が始まっている。
別格として、京の諸大夫や青侍は隠岐の下で組織され、公家の諸法
度や作法などを各組に教授するなど、良之の配下の質を向上させる
役割を担ってくれている。
また、フリーデやアイリにも、その下の千と阿子が組頭になり、若
手の小者を中心にした良之の親衛隊的な組織を作り上げている。
良之自身の小者頭は木下藤吉郎で、彼もすでにその人柄を活かした
組織構築に、非凡の才を見せ始めている。ちなみに、小者頭とはい
え藤吉郎は、すでに騎乗の身分になっている。
問題もあった。
この時代、さすがに300を越えた武装騎乗の一団が歩き回るのは
穏やかではない。
どうしても戦闘や略奪を警戒されるし、良之たちのように、武家の
庇護下を利用して旅をする上で、いらない摩擦を生む可能性もある。
そこで、ある程度の実力が身についた臣下たちは、それぞれ伊賀、
甲賀の里に送り、さらなる修行をさせることにしていた。
彼らは銭侍なので必ずしも新田を開墾する必要はないが、希望者に
はそれを許していたし、中には、その里で相手を見つけて婚姻する
者達も現れたようだ。
233
里の者達にも良い刺激になり、新たな仕官希望者も増えているとい
う。
良之は、騎乗60。それに従う小者は一騎に付き2人の180人を
上限に、各組頭に自由に編成を任せている。
また、砂金集めで得た豊富な資金を背景に、里に戻した臣下たちの
生活も保障している。
この冬、良之は小田原鍛冶の見学をしたり、鋳物師に工房を借りて、
京都で収集した、滅んだ寺社からの金属製品の精製といった作業を
行っている。
幻庵を相手にした連歌や茶道など文化交流は、主に隠岐や、良之の
祐筆などに任せている。
良之は、小田原でも商人司相手の営業を行う。
小田原では、顔役を漢方の欄干橋虎屋が務めている。
ここでもいつものごとく、水晶玉と錆顔料、そして醤油のサンプル
を提供。
京・堺の昨今の話題を提供しつつ、棹銅の宣伝も行う。
魔法と錬金術の併用による元素単位の抽出は便利だが、良之以外の
人間で、生産業として成り立つほどの生産量が上げられないのは大
問題だった。
結局のところ、大量生産を行おうと思えば工業化せざるを得ないし、
そうなれば人手がかかる。
良之は、すでにその問題を銅座の一件で悟っている。
詰まるところ、こうやって錬金術で金属を採取したり精製したりし
ているのは、将来のための軍資金稼ぎである。
小田原の良いところは、一キロも行かないで砂浜があるところだっ
234
た。
良之は、砂浜から将来のためにアルミナを抽出しては<収納>して
いる。
日本の砂に含まれているアルミナは、3%ほどだろうか。
業として精製したらとてもではないがコストにあわないが、錬金術
で集めて歩く分には、100%純粋な物質として得られるので、問
題はない。
ただし、この時代にアルミニウム工業を発生させるためには、中国
か東南アジアからボーキサイトを輸入せねばならず、それは現実的
には難しいだろうと良之は思っている。
アルミナにはいくつかの非常に大事な用途がある。
一つは、触媒。
大気汚染を防ぐためには脱硫装置が必要であり、脱硫の触媒として
アルミナは優秀だった。
次に、高温の坩堝。
アルミナによるセラミックス坩堝は、高温に耐えられる。
そして。
爆薬としてアルミニウム粉末は有能なのである。
ほかにも、サンドブラストのメディア︵媒体︶としても使われる。
錬金術で集めるんだったら砂礫の状態がもっとも集めやすい。
せっかく海岸線に近いところで春までの時間をつぶすからには、こ
れを有効活用しない手はないと良之は思っている。
また、砂金を錬金術で精製し、純金の粒に換え、それを小田原城下
の金屋で銀や銅銭、または棹銅と交換をしたり、この季節には安価
になる米の買い付けをしたりもしている。
どれもあまりハデに行うと北条家に迷惑をかけるため、それなりに
遠慮しながらではあるが。
また、小田原では麻や木綿、絹と言った布地を大量に買った。
鍋や釜、乾燥させた薪炭なども200人の炊事が出来るほどの量を
235
仕入れておいた。
この時代の旅行は、道中でトラブルがあると最悪、野宿をせねばな
らない。
そうした場合の備えである。
良之とその配下の首脳陣はキャンピングカーで寝泊まりできるが、
200人近い諸大夫や小者には、さすがにそうした環境までは用意
できない。
せめて、テントを作って、あるいは幔幕を張って雨風や夜露を凌が
せてやりたかった。
また、この頃、小田原の染め物屋で、二条藤の旗を二本作らせた。
戦闘行列ではないと通行人や国人豪族に分からせるためである。
この旗を先頭に掲げて歩く事で、少なくとも家紋から行列の主を理
解してもらえないかという配慮だった。
伊賀・甲賀のネットワークによる情報伝達は今のところうまくいっ
ているようだ。
通行した都市で、甲賀や伊賀の小者たちが数名ずつ消え、かと思う
と新顔が補充されている。
どういう手管か、彼らはうまいこと町屋を借り、口入れ屋や世話人
を介してその町に住み着いている。そうして、良之から出る俸禄で
裏工作をしつつ、新しい連絡網を構築している。
それは素通りした三河や遠江などでも行われていたようだ。
ひろしな
遠里小野の広階美作守親方から、南蛮吹きの作業がはじまったこと
を知らせる連絡が来た。
五三の桐の御紋、二条紋下がり藤の家紋を打刻したサンプルも届け
られた。
236
現在のところ、おおよそ80両目=300gに鋳込まれているとい
う。
皮屋を通じて二条家にも届けられ、朝廷にもサンプルが献上された
と報告が京からも届いた。
京・河内・堺の鋳物師たちの供給素材としてすでに需要が発生し始
めている。
親方から、別の鋳物師のファミリーを引き込んで良いかという打診
があった。
情報漏洩を防ぐ方策を万全にとる事を条件に、良之はこれを許可し
た。
素材の粗銅購入は皮屋だけではすでに追いつかず、天王寺屋、魚屋、
小西屋などにも発注をしているそうだ。
また、日比屋など博多の商人に顔の利く会合衆にも仕事を回してい
る。
それらの原資は、灰吹きによる産銀と皮屋への委託商品で充分賄え
ているようだった。
皮屋からは、京で戦があったために人手の確保に苦労はしたが、船
尾の干拓・埋め立てがはじまったことを知らせる書簡が来た。
また、錆顔料は木工職人、染色職人、陶芸職人といった職人たちに
好評であり、彼らに顔料を提供する卸たちがこぞって買い上げてい
る。
また、純度の高さから明国人も買い上げていると聞く。
水晶玉も、小玉は仏具商が数珠用にまとめ買いをしている。
大玉は、南蛮商人も関心を示していて、上々の売れ行きのようだっ
た。
良之は電子秤を持っている。
工業精度のものではなく、キャンピングカーのキッチン用の物だ。
これで純銅300gを計って、円柱形の棹銅を錬成した。
237
これを原型として、<収納>されている銅を錬金精錬して純銅の棹
銅を大量生産した。
箱根の木工師に、これを200本収納できる木箱を量産させ、小田
原から船で堺へ送らせる手配を付けた。
小田原にある粗銅を買い占めつつ、純銅の棹銅を売却した。
箱根の木工細工師たちは良之の特需に沸いて、総出で生産を請け負
ってくれた。
600ケースほどが完成したので、それに一箱200本ずつ詰めて、
全て皮屋へと輸出した。
一箱60kgのこのケースは、やがて共通規格化されていく。
ところで、良之が錬金精錬したこの棹銅を見て、広階親方は衝撃を
受けた。
そしてこれを素体に鋳型を作り、出来るだけ近い棹銅を作ろうとが
んばったらしい。
だが、結局はそんな手間をかけると需要に追いつかないため、やむ
なく従来通りの鋳型で妥協した。
この時代の棹銅は、まるで天然の山芋のように不格好な物が多いの
だった。
238
旅の空 7 −甲斐−
武野紹鴎から、錫の明からの輸入について指示を求めるつなぎが来
た。
曰く、
﹁鉱石で仕入れるか、精錬された錫を仕入れるか﹂
である。
鉱石で仕入れれば割安ではあるが、精錬してみないと収穫量は分か
らない。
精錬された地金で仕入れれば、割高になるのである。
﹁地金で仕入れろ﹂
と良之は指示した。
明の商人は信用が出来ない。
安く買ったとほくそ笑んだところで、精錬してみて後悔したら身も
蓋もない。
明の商人は水晶玉に目の色を変えているらしいので、プライオリテ
ィはこちらにあった。
それと、精錬には大きなコストがかかる。
労力に加えて、薪炭を消費する。
それらは明国に支払わせたいと良之は考えている。目先の金だけの
問題ではないのだ。
さらに、現在良之も錫を10トンほど持っている。
これも、小田原から船で堺に送りつけておいた。
これだけあれば分銅作りも始められるだろう。
問題が発生した。
この頃、小田原の早川衆には数人の輸送船の船主が居たが、良之が
239
錫の運搬を手配した虎屋によると、どうもその船が九鬼で拿捕され
たらしい。
事情は分からないが、このままでは私掠されるおそれがある。
﹁九鬼なら、もしかしたら話が付くかも知れませぬ﹂
滝川彦右衛門が言ったので、
﹁よし、じゃあ俺も行こう﹂
と良之も腰を上げた。
﹁なにも、海賊なぞに⋮⋮﹂
隠岐は愚痴をこぼしたので
﹁じゃあ隠岐は残ってみんなをよろしく﹂
と、最少人数での出発とした。
尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、相模。
良之のたどった地域の大名には、良之の家紋﹁二条藤﹂の積み荷の
運行はほぼ保障されている。
問題が発生した伊勢志摩は、今回の旅程で飛ばした地域だった。
厳密には、今回私掠を起こした伊勢志摩の海賊九鬼衆も、本来、雑
賀衆から伝言された新宮堀内家によって積み荷は守られているはず
だった。
だが、この時期、伊勢国司北畠家の権力を背景に志摩に移り独立色
を強めつつあった九鬼家は、熊野海賊の意向を無視したようだ。
九鬼に言わせると
﹁通行料を納めない相模の船を拿捕した﹂
ということになる。
だが、船主にも言い分はある。
彼にしたら、熊野には払っているという事になる。
小田原の早川から志摩の鳥羽までは、最速で一日。通常の航行で延
べ三日。
虎屋の仕立てた急ぎ船は、積み荷の代わりに交代水夫を満載し、な
240
んと七刻で鳥羽に着いた。
フリーデとアイリはひどい船酔い。良之、藤吉郎はダウン。さしも
の彦右衛門も望月三郎も足下がふらついている。
小半時休んだあと、早速虎屋手代は海賊屋敷に交渉に向かう。
一方、滝川は志摩地頭九鬼家、まあその有り様は海賊頭なので結局
の嫡男浄隆だ。
向かう先は海賊屋敷ではあるが、通される場所が違うのである。
﹁これは滝川の﹂
彦右衛門の来訪を許した九鬼の名代は当主定
﹁お久しゅう﹂
彦右衛門は胡座で軽く頭を下げる。
﹁京の御所さんの家臣になりなさったか、おんしほどの男が、酔狂
な﹂
伊賀甲賀は歴史上、六角の近江や大和、伊勢志摩と縁が深い。
浄隆はこの時期20ほどで彦右衛門より五歳は若い。
その浄隆が彦右衛門を知っているということは、この一帯で彦右衛
門の悪名がどれほど響いているかの一つの証になる。
﹁はは。世の中は広い。わしも最初は公卿などと軽く見て居ったが、
あの御所様は、侮らぬ方が良いぞ﹂
﹁そうか。まあそのことは置くとして、向後はわしらはこの海の通
航に加料を取る﹂
﹁分かった。此度のこと。御所様にとっては単なる巻き添え故、自
身の荷に問題がなければとやかく口出しはせぬと仰せだ﹂
﹁船を押さえては居るが荷には手出しして居らぬゆえ、安心召され
よ﹂
まず、彦右衛門と九鬼清隆の面会はこれで双方の確認ごとが済んだ。
次に、九鬼清隆と良之の面会が用意された。
この席上、良之は金150両という破格の資金を提供し、代わりに、
241
船標に二条藤が上がっていた場合、臨検せず通航させることを約定
させた。
今回の荷についても、鳥羽で九鬼の船に乗せ替え、彼らによって堺
へと運ぶことに決まり、その運賃についても良之が改めて支払った。
良之にとっては虎屋と九鬼に同じ荷の代金を二度払う形になってい
たが、そのことで九鬼衆の心象に好影響があるなら安い出費だと良
之は思った。
この時代、公卿と言えば貧乏の代名詞だと思われている。
金払いの良い良之に浄隆は内心驚いたが、また一方で、彦右衛門の
言う﹁侮らぬ方が良い﹂という言葉の真意がこの辺にあるのだろう
と思った。
また、良之はこの地に数日滞在し、彦右衛門と望月三郎を新宮の熊
野衆・堀内家に使いさせ、彼らにも150両の金を贈り、改めて二
条藤の船標を掲げる船への不干渉の約定を得てきた。
堀内としては、雑賀衆からも申し入れを受けていたので二言はなく、
これで良之の荷は、少なくとも小田原から堺への安全な航路が確定
した。
このあと良之主従は、霧山御所に北畠国司家を訪ね、北畠天佑入道
やその嫡男、侍従具教らの応接を受けた。
次いで九鬼衆に依頼し、大湊や桑名で、余剰食糧を購入したり、棹
銅を購入。
小田原の時同様に、こっそり錬金術で純銅化した棹銅を売りに出し
たりもした。
同様のことをそのまま北上し、津島湊や熱田でも繰り返した。
その後、良之らは急いで小田原に戻った。
冷え込みが厳しく、天候も怪しくなってきたためである。
242
明けた天文二〇年。良之は万全を期して旧暦2月まで小田原に滞在
した。
小田原の文化レベルは高く、この時期、良之配下の侍大将格の隠岐
侍郎︵配下は諸大夫・青侍︶、望月三郎︵配下は主に甲賀︶、滝川
彦右衛門︵甲賀・美濃・尾張︶、服部半蔵︵伊賀︶、千賀地石見守
︵伊賀︶、下間源十郎︵門徒衆︶らとその部下たちは、文武教授を
見つけては師事していた。
隠岐は北条幻庵と随分親しくなったようで、彼の人脈から諸大夫た
ちへの和歌や連歌の教授などを引き受けてもらっていた。
そうした全ての授業料は、良之が俸禄とは別に全て支払っていた。
いつか、飛騨の無人地帯に工場を作る時、彼らが今度は教師になる
ことを想定してのことだった。
同様に、ある一定以上の教養を身につけた者達を、伊賀や甲賀に戻
して、現地の子弟の教育を奨励した。
この時期、雑賀衆や堺衆に依頼して、良之は種子島筒も300挺ほ
ど購入している。
これは、鉄砲の習熟には時間がかかるという滝川彦右衛門の要請に
応えたもので、北条家に依頼して山での鹿狩りや鳥の狩りなどで腕
を磨かせた。
望月千と山科阿子は、もうすっかりフリーデやアイリと会話が出来
るようになっている。
彼女達は、すでに魔法の行使や錬金術への理解がはじまっている。
木下藤吉郎、下間源十郎と併せ、良之はこの6人に化学の教育を行
っている。
魔法にしろ錬金術にしろ、化学知識を理解することで、数段階上の
力を発揮するのだ。
この6人の中では、藤吉郎の理解の早さが桁違いで、彼は残りの5
243
人の補習さえ受け持てるほどになっていた。
良之主従の、雪解けを待つこの時期は有意義に過ぎていった。
旧暦2月頃になるとようやく街道の雪も解け、良之は甲斐への旅に
出る決心を固めた。
別れに際し、北条相模守もまた、1000貫の銭を路銀として贈っ
てくれた。
良之はありがたく頂戴し、目録を付けて手持ちの金1000両に換
え二条関白家に贈った。
小田原を出た良之一行は、山北、湯船を通り明神峠、三国峠を経て
山中湖に入る。
川口︵河口湖︶から三坂峠を下り石和に着く頃には、武田家からの
使者が一行を迎えてくれた。
この時期の武田晴信は、後世に伝わるような名君でも、不敗の伝説
を誇るような戦上手でもなかった。
信濃勢、特に村上氏との合戦は上田原、砥石城と連敗し、特に砥石
城攻略戦においては砥石崩れと後世伝えられるほどの敗北を喫し、
この二戦で板垣信方、甘利虎泰、初鹿野伝右衛門、横田備中らを喪
っている。
板垣、甘利は晴信が父、信虎から政権を奪取した際に家中をまとめ
たいわば宿老の二大巨頭であり、彼らを喪ったことは国内的にも対
外的にも、危機的な状況だった。
家中の人材はこの時期から大きく顔ぶれが変わる。
山本勘助や真田弾正が一線に起用され、教来石、工藤、飯富兄弟な
どの晴信の側近らが重用され始めた時期である。
教来石は馬場氏の名跡を継ぎ馬場民部を名乗り、工藤もまた内藤の
244
名跡を継いで内藤修理を名乗っている。さらに、飯富の兄は晴信の
嫡男義信の宿老になる飯富兵部、弟は、後に山県の名跡を継ぐこと
になる﹁赤備﹂の山県昌景である。
甲斐国は貧しいが、文化的には決して他国に劣るものではなかった。
特に鎌倉期の成立と共に甲斐の立地的重要度は高まり、この地の出
身である逸見、小笠原、南部などの甲斐源氏と呼ばれる氏族は、他
国の守護として広まりを見せた。
ちなみに、この時代の覇者と呼べる三好氏も、元来は小笠原一族の
支流である。
その中で、浮沈を見せながらも甲斐の主へと成長したのが武田家だ
った。
武田のみならず、甲斐源氏は一般に、三河、尾張、美濃、近江や京
から、高僧、名僧を招致して住持とし、人材育成に励んできた。
みんしゅくけいしゅん
ほうせいげんりょう
名僧・夢窓疎石国師の開山である臨済宗妙心寺派の恵林寺は、飛騨
出身で三木家の血族の明叔慶浚、岐秀元伯の法兄の鳳栖玄梁などを
住持に招致している。
良之一行の応接掛を担当したのは、晴信の弟で典厩を名乗る信繁と
刑部を名乗る信廉だった。
どちらも晴信と同じ大井氏を母に持つ兄弟で、晴信と全く同じ環境
で教育を受けた知識人だった。
三兄弟は大井氏が招いた岐秀元伯に学ぶため、母の実家の近くにあ
る長禅寺まで通っていた。
後の信玄の逸話にあるような内政・戦闘に卓抜した才能を発揮する
のは、幼小児期からの岐秀元伯の薫陶が大きいことは疑う余地がな
いだろう。
﹁典厩にござる。こたびは二条大蔵卿様の訪問誠に喜ばしく﹂
245
﹁お世話になります﹂
﹁刑部にございます。御所様におかれましては、大層ご高名なお医
者をお供にお連れと聞き及びました。不躾を承知でお頼みいたしま
す﹂
﹁こら、やめぬか刑部﹂
﹁構いません﹂
発言しかけた刑部を典厩は止めるが、良之は典厩をなだめ、刑部に
続きを促す。
ひとめ
﹁我らが母君、この冬に卒倒いたしましたところ経過もよろしから
ず⋮⋮何卒一目なりとも診察頂きたく﹂
﹁意識はあるのですか?﹂
﹁ございます、が、衰弱が激しく⋮⋮﹂
刑部の表情からは、あまり猶予がなさそうな緊迫感を感じた。
﹁分かりました。すぐに向かいましょう。お住まいはどちらですか
?﹂
つつじがさき
躑躅ヶ崎屋形は、後世に想像されているより遙かに広大な城郭だっ
た。
郭の北と西方は相川による自然の堀をなし、東部には藤川が同様に
自然地形による防御の役を果たしている。
北東から東までは棚山や兜山と言った山が天然の要害となっていて、
各山頂には狼煙台が置かれている。
躑躅ヶ崎という地名は、この棚山が海の岬のように、相川が作った
扇状地に張り出して残ったものを土地の人間が呼んだのだろう。
さらに北の要害山は山城が置かれ、躑躅ヶ崎屋形の支城の役を果た
している。
躑躅ヶ崎屋形を本丸と考えると、その南側には武田家に仕える武家
たちの屋敷が建ちならび、規模としては小田原城に負けない郭を持
った城であることが分かる。
246
﹁人は城、人は石垣、人は堀﹂
といって築城をしなかったとされる晴信だが、現実には堅固な石垣
と深い水堀が館の四方を守っている。
躑躅ヶ崎屋形の北に、御隠居曲輪と呼ばれる北の方があり、彼らの
母である大井氏はそちらで隠棲しているという。
屋形に入る東の大手を素通りし、良之たちは武田刑部信廉の案内で
まっすぐにご隠居曲輪へと入った。
典厩信繁は、兄で国主の晴信の元へ連絡するため屋形に戻り、小者
たちに、良之の配下たちを城下で休息させる指示を出して去った。
良之は、供回りに藤吉郎、望月三郎と下間源十郎。
診察のためフリーデ、アイリ、望月千、山科阿子を連れ、刑部にし
たがって移動した。
大井の方は明応6年︵1497年︶生まれなので、55才という事
になる。
この時代の感覚ではどうか分からないが、良之の実感ではまだ若い
と感じられる年齢である。
今回は、千とアイリが大井氏を診る。
﹁それでは、失礼します﹂
アイリが後ろから千に小声でアドバイスをし、それに従いながら千
が必死に魔法を使った治療を始めた。
︱︱いつの間にお千はあそこまで覚えたんだ?
次の間に控えつつ、良之は小声で兄の三郎に聞くと、
﹁小田原で、小者たちの治療を行い修行したと言うてました﹂
流感などで体調を崩した良之配下の小者たちや、地元の庶民への治
247
療の中で、アイリは千を鍛え上げたのだそうだ。
﹁終わりました。阿子様、投薬を﹂
千が魔法による治療を終え、阿子にバトンタッチした。
阿子は懐からポーションを取り出すが、どう見ても彼女は<収納>
を使いこなしている。
﹁どうぞ、お飲み下さい﹂
と阿子は大井の方の半身を起こし、ポーションをビンから直に口に
させた。
﹁おお!﹂
刑部信廉はその光景を驚嘆しながら見ていた。
卒中で倒れ、完全に身体の自由を失っていたことを誰より知ってい
た刑部だった。
フリーデ、アイリ、千、阿子が異国の言葉でひとしきり話し合った
あと。
﹁完治しました﹂
と、けろっとした顔で良之と刑部に報告をした。
激しい足音を響かせて、そこに武田大膳大夫晴信と典厩信繁が駆け
込んできた。
﹁お静まりなさい!﹂
それを、聞く者がしびれるような大声で叱ったのは、彼らの母、大
井氏だった。
248
旅の空 8 −甲斐∼信濃−
﹁未だに信じられぬ⋮⋮いや、まるで夢のようじゃ﹂
晴信は、改めて良之たちを屋形に招き、そういった。
良之は、アイリたちから細かい所見を聞いていたので、それを武田
家の三兄弟に伝えた。
﹁衰弱が激しいので、これからは徐々に食欲を戻させ、早い時期に
床を離れて散歩などをされた方が良いでしょう﹂
良之もさすがに、彼女達の回復魔法の威力には驚きを隠せない。
21世紀でも脳卒中は重大な病で、幸運にも早期発見、早期治療が
図られなければ、運動障害を克服するために、よほどのリハビリが
必要になる。
大井夫人は、布団から起きだし正座をすると、自身を治した医師や
公卿の良之の前での不調法を、晴信や信繁、信廉兄弟にとがめ、叱
りだしたのである。
﹁それはさておき、改めてご挨拶いたす。武田大膳大夫晴信でござ
る﹂
﹁二条大蔵卿です。このたびはお世話になります﹂
﹁お世話などととんでもない。母の病を治療して頂いたご恩、せめ
てこの地に居られる間はお返しいたしたい﹂
言葉通り、その後は心のこもった夕餉を馳走になった。
甲斐では、反対に食料を売却した。
ここ数年、災害と異常気象によって甲斐の食糧自給率は低下してい
る。
反対に、塩山における産金は、この頃からまさに黄金期を迎える。
249
武田家には金がある。
そこで、良之は躑躅ヶ崎城下の八日市の豪商、坂田屋で、棹銅を買
い占め、醤油のサンプルを提供し、食料を提供し、最後に純銅化し
た棹銅を納品した。
かなくそ
良之は武田晴信に、黒川金山ののろやカラミを提供して欲しい旨を
伝える。
﹁構いませぬが、金糞など何に用いるのです?﹂
晴信は首をかしげた。
工夫次第では役に立つのです、と良之は答えた。
実際、黒川金山で廃棄されるカラミは、ビスマスやテルル、亜鉛、
タングステンといった元素が多く含まれる。
この時代、黒川金山は流域の砂金、露天鉱床による採掘がメインで、
その豊かさ故にあまり熱心な選鉱を必要としていなかった。
それでいて、おそらく金の生産量はこの当時、日本一だったと想像
される。
武田がこの時代屈指、あるいは最強と言われる軍を作ることが出来
た理由の一つではなかっただろうか。
良之は、岐秀元伯との面会をとても楽しみにしていた。
なんと言っても、武田信玄という人物の教養と人格を醸成した僧で
ある。
面会の許可を得て、早速最少人数で訪問する。供は望月三郎と滝川
彦右衛門、それに木下藤吉郎のみである。
岐秀元伯はさすがに大物の人格的迫力に満ちた僧だった。
様々な民政について良之は語り、聞いた。
彼のアドバイスは、今後に全て活かせそうな物だった。
良之にとっても、岐秀元伯に取っても有意義な時間だったが、この
対談をもっとも身近で、感動と衝撃を持って聞いていたのは、良之
の供3人だっただろう。
250
このたった1回の邂逅を間近で聞いただけでも、彼らにとって、新
たな世界を垣間見たような情報量と質だった。
ひとつきほど甲斐に逗留し、良之の一行は信濃に旅だった。
武田家の三兄弟はひどく別れを惜しんで、出立に際しお礼金として
3000両もの粒金を良之に出してくれた。
良之は深く感謝し受け取った。
そしていつものように、二条関白家にその金を送付した。
他の大名家の時と同じように、やがて武田家にも関白からの礼状が
届くだろう。
躑躅ヶ崎を出て小淵沢、諏訪と宿泊し、次の旅程に立った。
良之は諏訪でもまた、御用商人たちを相手に、棹銅の買い占め、純
銅の提供、そして、戦乱によって状況の厳しい食料や塩の提供をし
て利ざやを稼いでいる。
良之の家臣たちの誰もが、次は深志、もしくは信濃府中に行くと考
えていたが、良之が指示したのは安曇から大町に抜けることだった。
大町。仁科荘である。
隠岐あたりはあからさまに不満の表情をした。
彼の連想は伊豆の時の狩野川での砂金取りである。
もちろん彼の予感は正しい。
良之は、この際たっぷり時間をかけて、姫川で採取をする気なので
ある。
良之が姫川で狙っている鉱物は、クロム、ニッケル、翡翠、白金類
だ。
251
他にも、この川の砂礫からは砂金や酸化マグネシウム、正長石と呼
ばれるカリウムケイ酸塩鉱物が豊富に取れる。
これらの鉱石がこの川に集中しているのは、ここが糸魚川静岡構造
線と呼ばれる大断層によって出来た地形に沿って流れているからで
ある。
この断層によって隆起した地層には蛇紋岩帯と呼ばれる地層があり、
前述した鉱物はこの地層に豊富に含まれているのだ。
こうした地層を長年にわたって風雨が洗い流し、鉱物を砂礫として、
あるいは岩石として集積しているのだ。
翡翠や白金はともかく、他の鉱物はよそでも採れる。
この川に良之がこだわる理由は、白金属、特に、ルテニウムだ。
ルテニウムは希少元素としては珍しく、日本国内でも採集できる。
とはいえ残念ながら現状の良之では手の届かないエリア、つまり蝦
夷︱︱北海道の雨竜川流域がその最大の候補地である。
姫川は、本州での大きな候補地で、そのため、良之はこのチャンス
を見逃すつもりは全くなかった。
付け加えると、翡翠はこの当時、南蛮にも明にも高く売れる鉱石で
ある。
﹁あ、分かりました御所様!﹂
いきなり藤吉郎が叫んだ。
彼を含む側近たちには、この姫川流域がいかに鉱物資源にとって重
要なのか、小田原以降の勉強会で繰り返し教えてきている。
良之は微笑んでうなずいた。
化学の元素周期法をたたき込んでいる藤吉郎を筆頭にしたフリーデ、
アイリ、千、阿子と、千から話を聞いて学んでいる望月三郎あたり
は、良之にとっていかに貴重な機会なのか分かっているのだ。
﹁金より貴重な金属だ﹂
252
などと一生懸命に隠岐などに説明するが、まず金より貴重な物とい
うのが想像出来ないのだ。
﹁翡翠の産地だ﹂
というと、隠岐は理解したのか不満は言わなくなったが、それでも、
この規模の兵が泊まれる宿があるか、不安を感じているようだった。
千国街道、という。
松本宿から保高、池田、大町、佐野。
千国、山口、糸魚川へと抜ける街道である。
佐野峠が分水嶺となり、南には青木湖という大湧水の湖があり、中
綱湖、木崎湖を経て農具川となって、下ると高瀬川と交わる。
高瀬川は穂高川と交わり、犀川に合流する。
佐野峠から北に行くと、姫川である。
言うまでもなく、良之は犀川、高瀬川や農具川でも砂金の採取をし
ている。
そのため、ひどくのんびりとした旅である。
佐野峠あたりで、堺からのつなぎが来た。
広階親方の分銅の試作品が送られてきたのだった。
﹁いい出来だね﹂
良之が配下たちに見せて意見を求める。
形はまさに後世の後藤分銅のパクリではある。
偽造防止の彫金と目方の彫金が職人の手仕事で施され、表に皇家の
五三の桐紋、裏には二条藤の刻印が打刻されている。
そして、校正を示す打刻によって、正当性を主張している。
253
家臣一同もその出来に満足しているようだった。
﹁うん、じゃあこれを、禁裏と関白家、それと、脈のありそうな大
名家に贈るよう皮屋に手配してくれる? それと、関白様に御綸旨
を用意させるよう頼んでおいて﹂
御綸旨というのは、帝の手を煩わせないよう手続きを簡素化し、実
務担当の蔵人たちによって作成された勅令伝達手段だ。
京の政情に疎い良之に変わって、関白である兄の晴良が、大蔵省付
に数家選んでいるはずだ。
そこに、このサンプルの分銅と、度量衡統一の勅を添えて贈る。
京と堺の商人たちには、希望者に比較的安価に譲るが、それ以外の
土地の商人には、原価の数倍の値を付けて売る。
﹁高すぎませんか?﹂
世事に明るい服部半蔵がつい声に出した。
﹁それがいいんだよ。人間って、安すぎる物と高いもの。どっちを
信じると思う?﹂
良之が言った。
﹁世間の誰もが、高いものだと知ってる。そういう物は、その値段
だけ信用が付いてくるんだ﹂
商人たちはその信用を買っていることに、やがて気づく。
良之はそういった。
この作戦にはもう一つ裏がある。
伊賀者、甲賀者のネットワークを最大限に活用する。
噂を流すのである。
曰く、帝が新しく分銅をお決めになった。
曰く、京や堺では早速大商人が使い出した。
曰く、日本全国、どこに行っても同じ目方、同じ分銅だから、使っ
てる商人の信用は桁違いに上がる。
曰く、使ってない商人は寂れるかも。
254
こうすることで、数年後には、高い分銅を、頭を下げて買い求めに
来るだろう。
京や堺でも噂を流す。
﹁安いのは今回だけ。次は定価で買わねばならない﹂
19個そろいで銀65匁。ただし、50両一ついらない場合は15
匁、30両一ついらない場合は10匁、それぞれ割り引く。
ただし、あとから買う場合は20匁、15匁と割高にする。
京・堺での初回限定価格は、揃いで40匁とした。
次回からは65匁で、ディスカウントは一切ない。
つなぎは、良之の指示を持って引き返していった。
次に、良之は関白宛にお願いのための文書を用意する。
祐筆が、早速墨を用意した。
﹁蔵人の仕事を、身分を問わず達筆な公家に手伝ってもらえるよう
計って下さい﹂
良之のアイデアは、こうだ。
宛先と発給人の蔵人の名前を明け、御綸旨の本文だけを写筆する。
一通につき、銀1匁。
10通ごとに別に銀5匁をボーナスに出す。
蔵人は、送付先の宛名と自分の署名、花押を書くだけで済む。
さらに、昇殿以上の身分の公家には、誰でもいい、知人の高僧に案
内状を送るように依頼する。
つまり
﹁このたび帝が新しい分銅で統一なさる勅令を出した。付いては大
255
蔵卿が新任され、彼の元でその分銅が製造され販売される。このこ
とを知っておいて欲しい﹂
という内容である。
ダイレクトメールによる世論形成である。
こちらは、一通あたり銀10匁。
どちらも、必要になる紙や墨は、申請すれば京の皮屋から無償で提
供される。
皮屋にもその旨を伝え、報酬の原資と紙や墨を用意するよう指示を
する。
さらに、良之自身もここまでで知り合った高僧、大名、海賊や豪族
と言ったリーダー格の人物たちに、分銅のことを紹介する手紙を認
めた。
特に、すでに戦国大名と化している三好、今川、武田、北条。そし
てこの先飛躍するであろう織田。
さらに、商売で縁を持った商家等にも同様に手紙を送る。
それらを、小者の中からつなぎ要員として選ばれた若者に託し、最
寄りのつなぎ︱︱諏訪まで届けさせるのである。
256
旅の空 9 −越後−
姫川での採集を、良之はたっぷりひとつきはかけて行った。
その間、ついに焦れた隠岐は、糸魚川の宿に先行することにした。
これほどの大人数の宿はなかなか確保できず、食料も用意できない
宿場が多かったせいである。
良之たちにとっても都合が良かった。
キャンピングカーでの宿泊の方が、こうした街道沿いの宿場より快
適だったからである。
アイリたちは結界魔法を持っている。
キャビン
夜盗や野獣に襲われる心配はごくわずかで、ゆっくりと、そして快
適な21世紀の客室で寝られるのである。
トイレやシャワーも解放した。
上水タンクへの補給は、魔法使いが水を生成することで行った。
下水は、申し訳ないが山中などで処分させてもらう。
姫川での採集の最中、尾張の草からつなぎが来た。
旧暦三月三日。
尾張末森城から出奔した柴田権六が那古野城へ逐電。
さらに、林美作守も城を抜け、末森の東を流れる植田川を渡ったと
ころで、何者かによって殺害された、という。
権六はそのまま織田備後守の家老として那古野城へ番勤。
津々木蔵人という若者が、以降末森で家老に取り立てられたという。
備後守は壮健で、近頃はまた酒の量が増えてきて心配だと上総介が
愚痴をこぼしている。
257
すでに5月近くなり、やっと良之たちが糸魚川に到着した。
糸魚川には、すでに長尾家の案内人が良之たちの到着を待ち構えて
いた。
ひとまず急いで、良之たちは長尾家の居城である春日山を目指して
進んだ。
﹁よう参られた﹂
長尾家当主、長尾平三景虎にございます。
と21才の青年が頭を下げた。
﹁二条大蔵卿です。このたびはお世話になります﹂
良之も礼を述べる。
他の言葉があるかと思いきや、
﹁ごゆるり過ごされよ﹂
と言い残し、去って行ってしまった。
﹁誠に相済みませぬ﹂
と、老臣っぽい雰囲気漂う長尾十郎が詫びた。
﹁いえ、長旅で疲れていたところです。気配を読んでお気を使って
下さったのでしょう﹂
良之は本心からそういった。
﹁かたじけないことです﹂
十郎はまだ恐縮している。良之もここで応接方に下城する旨を伝え、
その足で一路、直江津の港に向かった。
直江津の座を取り仕切っているのは越後屋である。
蔵田姓を持つ大商人で、京や堺、伊勢、近江などにも蔵や納屋を持
あおそ
つ、いわばこの時代の国際商人である。
その理由は、青苧である。
258
からむし
苧は、この時代の主要な服飾繊維だ、背の高い草であり、その茎の
皮が丈夫な繊維となる。
ちぢれ
布の他にも紙などに利用されるため、この時代においては、高付加
価値作物といえる。
さらに言うと、南魚沼や小千谷あたりで織られた縮は越後上布と呼
ちりめん
ばれlすでに鎌倉期から最上級とされている。
余談だが、水戸黄門の作中﹁越後の縮緬問屋の楽隠居﹂と名乗って
いるのもこれにあたる。
高級品だけに、諸国漫遊していてもおかしくないという説得力が、
この作品が爆発的に流行った時代にはまだ常識として通用したのだ
ろう。
越後屋。
長尾家との関係は非常に古い。
景虎から数えて四世代以上前からの共存関係である。
友好関係となると、それ以上さかのぼるのだろう。
非常に高額な作物であり、その完成品もまた高額なので、輸送につ
いても神経を払われていた。
越後を出た完成品や原料の青苧は、直江津から敦賀に船で運ばれ、
陸路近江まで届けられる。
近江からは琵琶湖を渡り、消費地の京や伊勢に納品されたのだろう。
その経路上に越後屋、もしくは蔵田家の代理店的な店舗が進出して
いる事から見ても、この当時の青苧の人気と実力が合間見られる。
一方、越後は青苧に頼ったせいか、もしくは気象的な要因か︱︱そ
の双方だろう︱︱食料生産に難のある土地柄だった。
この時代、日本各地で農業生産量が飛躍的に増大した。
すなわち、贅沢品を販売する代わりに、各地の余剰米を輸入するこ
とで越後のように国家を経営できるということになる。
259
さらに、高価な武装を揃えたり、専業の兵士や文武教授が登場して
くる。
越後の守護代長尾家などはまさにその手合いであっただろう。
この時代の越後屋は、青苧の徴税権を持つ京の三条家とたびたび揉
めては、時に徴税を拒否したり、徐々に納税額を値切ったりしてい
る。
そしてその背景にはいつも長尾家が居た。
武力や権力を硬軟織り交ぜ、実に長期的な視点で三条家の税収権を
侵害している。
そうした商人のしたたかさと、金という物の価値の理解。そして、
武力を背景としない権威の脆弱さを、長い時をかけて長尾家は理解
したように思える。
ただ、長尾家にも弱みがあった。
食糧供給を銭と国外︵この場合の国外とは、越後国以外という程度
の意味︶の余剰生産量に頼るという事は、不況、不作などの要因で
食糧供給量が減少すると、容易に国家の危機が訪れるという事いな
る。
豊かさ故に越後一国もなかなか統一が進まなかったが、為景︱晴景
︱景虎と三代を経て、今若き景虎によって、越後統一がなされよう
としている。
歴史に疎い良之が、どこまでそういった越後の特殊性を理解してい
たかは分からない。
ただ、直江津の商家の富が尋常ではないことには気がついていた。
さらに、越後屋がすでに官許の分銅を用いていることに驚きを持っ
ていた。
そして、彼らが、この分銅を創った二条大蔵卿こそこの良之だとは
っきり理解してることにも驚いた。
260
この情報の速さこそが優れた商家の証でもあるのだろう。
良之は、荷を京の皮屋に届けて欲しいと考えている。翡翠の原石だ。
翡翠の善し悪しはあまり日本人には分からない。ただ、南蛮人や明
国人には非常に人気のある宝玉である。
それなりに硬度はあるが、輸送中の破損は極力避けたい。
そこで、俵に緩衝材の藁を詰めて荷造りし、京、もしくは長門回り
で堺に送って欲しいと思っていた。
荷下ろしの際に投げられると困ってしまうので、どのように送るの
か相談がしたくて、越後屋にやってきたのだった。
﹁費用の方は言い値でよろしいので?﹂
越後屋の問いに、
﹁出せる金額だったら﹂
と答える。
﹁100石あたり25両でいかがでしょう?﹂
﹁⋮⋮これ見て下さい﹂
良之は、浮き玉を錬成して、越後屋に見せた。
﹁なんです? これは﹂
﹁南蛮渡来のビードロ玉です。これを落とすと﹂
ガチャン、とガラス特有の破砕音を立てて、その玉は割れてしまう。
﹁あっ﹂
なんともったいない、越後屋はとっさに思った。
なんに使うか分からないが、今まで見たことのない玉だった。
﹁これを一俵に一つ入れます。乱暴に扱えば今のように割れますが、
大事に扱えば、荷が届くまで割れることはないでしょう。これが割
れていた俵の分の運賃は払いません。俵一つ50石。10両でどう
でしょう。ただし、一つもこの玉を割らずに届けてくれたなら、倍
の20両を出します﹂
全部で500石分の翡翠である。
261
俵10個。
にや、と越後屋は微笑んだ。
﹁いいでしょう﹂
越後屋は、琵琶湖回りを選んだ。
﹁越後屋さんならダメだった時、きちんと返金するでしょう?﹂
と良之は200両を預けた。
無論証文は交わしたが、それでも信用されたことは越後屋の自尊心
を満足させた。
ちなみに、良之は、ここでも食料を売りさばき、棹銅を買い上げ、
純銅を売った。
越後は銀が比較的高かったので、銀を売って金を買った。
越後が米処になるのは謙信没後のことであり、この時代は、食料は
良い値段で転売が出来、良之は充分、稼がせてもらえた。
ちなみに後日。
彼らは慎重に大切に俵を運び、京の皮屋で荷を改めた時、見事に全
てのビードロ玉は割れずに残っていた。
﹁ようあんた﹂
若い、気の強そうな男装の女性が、越後屋を出た良之に話しかけた。
思わず良之と女性の間に潜り込もうとした藤吉郎を良之はとどめた。
﹁おもしろいことやってたなあ、さっき﹂
女性は愉快そうに越後屋のほうをあごでしゃくって言った。
﹁ああすまん。あたしは虎っていうんだ。あんたは?﹂
﹁二条大蔵卿です﹂
﹁あーそっか、やっぱただもんじゃねえと思ってたよ﹂
虎と名乗った女性は、
262
﹁越後屋がこないだ買った分銅の正体、あんただろ?﹂
と言ったので、さすがに良之も彼女もまた、ただ者ではないと思い
知った。
﹁申し訳ないのですが、どちらの虎さんでしょうか?﹂
良之が聞くと、あまりにそれがおかしかったのか、クツクツと笑っ
て女はいった。
﹁長尾家の虎御前さ﹂
虎御前は越後屋にもう一度良之主従、といっても今回は藤吉郎だけ
だが、を再度招き入れた。
奥座敷に2人を通すと、直江津で作ったらしいイカの一夜干しをあ
ぶって、どぶろくを出してくれた。
手あぶりで1枚ずつ虎御前があぶってくれるので、ふと良之は<収
納>からサンプル用の二合醤油を取り出し、イカにかけてみた。
何とも香ばしい香りが座敷に広がる。
﹁いいねそれ。しょっつるのにおいじゃないけど﹂
﹁紀州の醤油です。もうじき、越後でも簡単に手に入るようになる
でしょう。紀州から堺までは商路を引きましたんで﹂
﹁へえ、溜まりは知ってたけど⋮⋮﹂
﹁なめ味噌のついでじゃなくて、これ専用に漬けてるんですよ。絞
ったかすは捨ててしまいます﹂
﹁ぜいたくだねえ﹂
そんな会話をしつつ、焼いたいかを良之に渡す。
良之は、そのイカを味わいつつどぶろくを飲む。
次に焼けたのを虎御前は藤吉郎にも渡した。
﹁あんた、主の毒味しなくって良かったのかい?﹂
﹁あ、しまった!﹂
主従は顔を見合わせて笑った。
﹁全く、変な御所さんだねえ﹂
263
最後に自分の分を虎御前は焼く。もちろん醤油をかけてである。
﹁ところで、長尾の虎御前が、こんなところで何をしてるんですか
?﹂
良之が聞いてみた。
どこかで見覚えのある顔だと思っていたのだが、確かに彼女は景虎
と面差しがそっくりなのだ。
﹁ああ、まあね。あたしは本来は居ない女なのさ﹂
びく、と藤吉郎が一瞬身体を硬くする。
﹁⋮⋮﹂
事情が飲み込めていないのは良之だけのようだった。
﹁まったく、鈍いのか、知らないのかさ﹂
虎御前はそう言うと、どぶろくをくいっと呷って、いった。
﹁畜生腹なのさ、平三のヤツとね﹂
﹁あんた本当に知らないのかい?﹂
﹁ええ﹂
畜生腹ってなんです?
と首をかしげた良之に、心底不思議そうに虎御前は聞き返した。
﹁同じ腹で生まれる双子の事さ﹂
へえ、二卵性双生児か。良之はまじまじと虎御前の顔を眺め
﹁たしかに、似てるような、似てないような﹂
と言ったから、虎御前はケラケラとひとしきり笑った。
この時代、双子は忌まれる。
そのそもそもの前提が分からないから、良之とは話がかみ合わない。
何となくそのことを察した時、虎御前は、人生で最初で最後の決断
を下した。
﹁なああんた、あたしをもらっとくれよ﹂
264
﹁嫁はまだいらないんです﹂
良之は即座に言い返した。
﹁へえ、じゃあ嫁じゃなかったらいいんだね?﹂
﹁? ええまあ﹂
家臣だったらまあ、女性でも構わないか。良之は思った。
﹁よし、じゃあ決まりだ。3日おくれでないか?﹂
そんな話が、まとまったような、まとまらないような。
﹁御所様、よろしいんで?﹂
﹁男装の諸大夫が1人増えるだけだろ?﹂
良之の返事で、藤吉郎は全てを悟った。この御方はわかっとらんが
ね。
﹁虎御前様、側室に上がるおつもりだがね!﹂
265
旅の空 10 −飛騨へ−
良之は慌てて春日山城に戻り、一同に藤吉郎から説明させる。
頭を抱えたのは隠岐だった。
﹁まだ正室もお決めでないのに!﹂
﹁それもですが、畜生腹というのは御所様としては問題ではないの
ですか?﹂
服部半蔵が聞いた。
﹁それは割とどうでもいい。問題は、長尾家に縛られる可能性があ
るなら困るって話だ﹂
もし将来、長尾家が良之の考えに賛同してくれればいう事は無い。
日本全土をひとまず公有化し、警察や軍以外は全て武装を禁じ平民
にする。
良之はそんなビジョンを漠然と抱いている。
戦国大名というのは、その対極にいる存在である。
そのことに長尾家や虎御前自体が反対だったら、大変迷惑な縁にな
る。
﹁しかし、一度受ける態度を女性に見せた以上、お断りも出来かね
ましょう﹂
隠岐が顔を手で覆ったままいった。
3日後。
結論はあっけなく付いた。
﹁あたしは今日から、もと蔵田の娘で平三の養女さ。長尾の養女に
するのは単に家格を付けるためだから、もらってくれるなら是非に
との事さ﹂
もう20才も越えちゃったしねえ、虎御前は言った。
266
ちなみに、
﹁婚儀などはなしでいいんだよ﹂
あたしは、忌み子だから、本当は居ないことになってるからね。
そう言って、淋しそうに笑った。
ちなみに、この虎御前。
とんでもない女傑だと良之主従に知れるのは、一応のあいさつとし
て﹁景虎と彼女の産みの母君﹂である青岩院殿にあいさつに行った
時である。
﹁お虎。せっかくもらってくれる御所様に巡り会ったのだから、も
う戦に出るような真似はおよしなさい﹂
青岩院殿はそういった。
15才で栃尾城主になった景虎と共に栃尾城の戦いで初陣を果たし、
数倍の兵力で押し寄せた反乱豪族たちにわずかな手勢で背後から奇
襲し大混乱を起こさせ、景虎がその期を逃さず大手門から打って出
て、さんざんに蹴散らす大勝利を収めたのだという。
景虎をして
﹁よもや軍事の才で後れを取るかも知れぬ女、と密かに怖れさえ抱
いて居た﹂
と、このあと本人がそう言ったのであった。
ちなみにお虎は
﹁あたしが奥でのんびり出来るかどうか。それは御所さんの甲斐性
次第さね﹂
と、良之本人の前で母と兄にしれっと言い捨てたものだった。
くそうず
お虎御前の一件ですっかり頓挫してしまったが、良之は越後でどう
しても仕入れたいものがあった。土地の人間が﹁草水・臭水﹂と呼
ぶ黒い水。石油である。
267
良質の原油が欲しければ掘削して汲み上げねばならないが、それに
はその地の領有が必要になる。長尾という戦国最強の部類に入る大
名が居る以上、それはあまり現実的ではない。
むしろ、今回の虎御前の一件を奇貨として、越後屋に収集させるべ
きだと良之は考えた。
この時代、地上に湧出している油田が越後領内ではいくつも知られ
ている。
これらを、報酬を出して集めてもらえば、ある程度の原油が確保で
きると良之は考えている。
﹁ひとまず、領内からありったけ集め、越後屋さんが新しい蔵を建
てて保管してもらえますか?﹂
﹁新しい蔵?﹂
﹁ええ。他の収蔵品と混ぜると良くないんです﹂
良之は原油に潜む硫化ガスなどによる金属や食品の劣化について解
説した。
一石樽についても、もし一度石油に用いたら、二度と他の用途には
使えない。
﹁そうなると、随分金がかかりますが?﹂
越後屋はじっと頭の中で計算する。
﹁では、代金は品物で預けましょう﹂
良之は、6000貫以上の翡翠の原石、錬金術によるナノ精度の錆
顔料5400貫︵20トン強︶、石英ガラスによるガラスビン10
000本、それに砂金1000両を越後屋に託した。
﹁足りますか?﹂
﹁⋮⋮充分です﹂
越後屋は、これらの生むであろう富を想像し、固唾をのんだ。
越後屋にも、5人の伊賀・甲賀の手の者を雇ってもらう。
良之との連絡員である。
268
基本的には、良之の資産を管理したり、取引に立ち会ったりするほ
か、多忙期には越後屋の手伝いに狩り出して良いことにした。
この時期。
信濃では真田弾正ただ1人による調略で、たった一晩にしてかつて
武田軍が総崩れした砥石城を落とした。
晴信は弾正を﹁我より知略優れたる男﹂と認め、これ以降、信濃先
方衆の重鎮に据えて重用する。
戦国村上氏が北信の支配権を失い越後に流亡するにはまだ猶予があ
るが、飛騨で地歩を堅め武田、長尾と共存するか、もしくは戦うか
⋮⋮。
その猶予は、もう数年しか良之には与えられていない。
越後から飛騨に入るためには難所がある。
親不知子不知、単に親不知と称されることが多い。
切り立った海食涯に付けられたやっと人が通行できるばかりの広さ
の崖道で、転落事故のリスクが高い街道である。
転落すれば岩場ばかりの海岸に日本海の荒波が打ち付けるような場
所である。助かるまい。
その名所の絵を見て、
﹁全員で船で移動しよう﹂
早々に良之は結論づけたのだった。
直江津から魚津までは海上およそ55海里の航路で、約2日。
50年は続く長尾と神保の抗争のせいでこの先の岩瀬には停泊しに
くいようなので、長尾の勢力圏である魚津まで運んでもらうことに
した。
269
この時点の主従は相変わらず200人規模なので、この船による輸
送は大助かりだった。
全員の下船後、松倉城に椎名右衛門大夫を訪ねあいさつをし、一夜
の宿を借りる。
その後、魚津の町で、棹銅買い上げや純銅の売却、海産物や米の買
い上げ。相場の安い金を銀で買い上げるなどの取引をして、一行は
西へと旅を進める。
岩瀬の港付近にも大きな商業地が広がっている。
噂では、この地の発展は明の商人による生薬買い付けによる物らし
い。
なるほど、富山と言えば薬なのか、と良之は思った。
置き薬の富山商人が発展するのは遙か先の江戸中期になるが、その
萌芽はこういう形ではじまっていたのか、と良之は感心した。
飛騨山脈で構成される北アルプスは自生する薬草の宝庫だった。
種別によっては土地の農民たちが換金作物として育てたりもしてい
て、そうした薬草が、富山に集まったのだろう。
良之はこの街でも、銀の両替や食料の買い付けをする。
意外と棹銅が多く出てきたのは、まさに発展している商業都市とし
て、需要が高いせいかも知れないし、明国の商人が多いせいかも知
れない。
もちろんここでも粗銅の棹銅を回収し、純銅の物を代わりに提供す
る。
明国の商人には<自動翻訳>が働くため、良之は京や堺、直江津で
大量の翡翠の原石が出回っていることを教えておく。
遠回りになるために神保家にはあいさつに行かず、まずは八尾、次
に猪谷に家臣を宿泊させ、良之は川の砂礫から鉱物を取り出してい
270
る。
﹁御所様、首尾はいかがです?﹂
藤吉郎が良之に、神通川の様子を聞いた。
﹁さすがに飛騨の川だね。金は多い。ただ、思ってたより重金属は
少ないね﹂
神通川はかつて、イタイイタイ病という日本の歴史上に大きな傷跡
を残した。
上流の神岡鉱山から河川に廃棄されたカドミウム汚染水が、下流の
田畑に蓄積したことで、食物から人体に入り、身体を蝕んだ。
良之は、選択的にカドミウムやヒ素、鉛、亜鉛、水銀などを探して
みたが、この時代では問題になるほどの蓄積は見受けられなかった。
271
初めての城 1
猪谷から西に行くと白川荘、東の道を選ぶと神岡に至る。
良之の主従は、神岡を目指す。
神岡。
この地の鉱山の歴史は古い。
養老年間というから、720年代には、山師がここを掘っている事
になる。
現在の支配者は江馬氏である。
神岡に入った一行は、高原諏訪城に先触れを遣わし、江馬氏の歓迎
を受けた。
良之は江馬家のあいさつを受けると、宿の礼に米を100石提供し
た。
良之にあいさつをしたのは江馬時盛。左馬介を称している。
そしてその嫡男常陸介。
﹁京の御所様が、このような土地にいかようでございましょう?﹂
左馬介が聞く。
﹁この先に良い温泉があると聞きまして﹂
﹁はあ﹂
温泉はあることはある。
実際、平安以降、貴人たちは各地に湯治に出かけたりしている。
服部配下の忍び数名が、先触れとして神岡城下から東の物見に出て
いる。
半蔵はその部下から状況を逐一報告されている。
﹁どうだった?﹂
272
﹁この先には、この人数で泊まれる場所は、本覚寺という寺のみで
す﹂
﹁平湯の様子は?﹂
﹁廃れた道があるとのことで、行くには行けますが、民家すらない
藪道だそうで⋮⋮小屋のひとつもございません﹂
想像以上の状況のようだ。
実は、良之は祖父との旅行で平湯温泉に立ち寄っている。
その時見た開湯の縁起に
﹁武田信玄配下山県昌景が飛騨攻めの際発見﹂
とあったため、良之はこの地を拠点にすることを決めたのだ。
﹁半蔵、もし金も人も際限なく使えて、材料だけ現地で切り出さな
きゃならない。お前だったらどれくらいで、3000人が冬を越せ
る城を作れる?﹂
﹁城⋮⋮でございますか﹂
良之は、ノートパソコンに平湯の等高線地図を表示して見せた。
﹁ここと、ここと、ここに砦を作って関所にする。中には堀や石垣
はいらない。平城で充分だけど、背丈より高い雪は降るかもね﹂
良之が示した場所は、それぞれ、東の安房峠、西の平湯峠、そして、
平湯と一重ヶ根と呼ばれる地区の境だった。
﹁ここは、堀と土塁がいります。残りは見てみないと分かりません﹂
等高線図の読み方を教えると、半蔵はじっと見つめて答えた。
一重ヶ根は大工事になると踏んだ。
﹁黒鍬衆400から600、山方衆も同程度、大工衆200以上、
労夫1000人、炊き出しや世話役に200﹂
で、ひとつき、と半蔵は読んだ。
﹁いくらかかる?﹂
273
﹁見当もつきやせん﹂
リーダー格を全員呼んで、再度、平湯への築城プランを提示する。
出席は、良之、隠岐、フリーデ、アイリ、千、阿子、藤吉郎、虎御
前。
服部半蔵、千賀地石見守、滝川彦右衛門、望月三郎、下間源十郎。
﹁労夫の1000人は、築城後に城兵になれる人材が欲しいかな﹂
良之が口火を切る。
ひとまずは、半蔵が300、千賀地が120、望月が200。滝川
も80程度の人材を確保できそうだった。
﹁炊き出しなどは、それらの女房衆で賄えましょう﹂
千賀地が見積もった。
﹁信州の流民を雇っちゃどうだい?﹂
虎御前がいった。
北条の侵攻とその後の不作、そして天災によって関東から。
そして武田の信濃侵攻によって、信州にはかなりの人数の流民があ
るようだ。
おそらく、木曽あたりの山合に、一定以上の武家やその親族といっ
た流民が隠れているだろうと虎御前は言う。
﹁もしお虎さんに任せたら雇ってこられる?﹂
﹁話して見ねば分かりませんがねえ⋮⋮﹂
﹁じゃあそっちは任せようかな。問題は専門家たちか﹂
﹁黒鍬衆は、尾張の輪中衆に頼んだらどかね?﹂
藤吉郎が言う。
有名な集団らしく、半蔵も同意する。
﹁藤吉郎、当てはあるの?﹂
﹁金次第だぎゃ﹂
﹁わかった。金額は半蔵と詰めてくれ。三郎、半蔵、伊賀衆と甲賀
衆で職人はどのくらい集められる?﹂
274
﹁黒鍬、大工はそれぞれ100人ほど﹂
﹁甲賀も同じくらいかと﹂
﹁山方衆についてはもう少し当てにして頂けましょう﹂
伊賀も甲賀も山の多い地域だから、伐採や製材に慣れた者達も一定
数居る。
﹁俺は何したらいいんだ?﹂
﹁彦には、飛騨の職人を探して集めて欲しい。飛騨は大工の本場で
しょ﹂
﹁心得た﹂
﹁源十郎は俺の供を頼む。フリーデとアイリ、千と阿子は、寺に残
す手勢の世話を頼む﹂
魔法と錬金術が使える4人には、<収納>で食料や軍資金を保管し
てもらわなければならない。
﹁今ここに居る200人は、職人たちの住む小屋がけを前もってや
ってもらわないとな﹂
半蔵に確認すると、彼が縄張りが出来るという事なので、任せてお
く。
﹁隠岐、俺が留守の間、名代を任せる﹂
﹁はっ﹂
﹁御所様は何をなさるんで?﹂
藤吉郎が聞く。
﹁俺は、飛騨の豪族を訪ねて歩く。その後、美濃の斉藤を見に行く﹂
こうして、良之の初めての拠点、平湯御所の築城が開始された。
以下余談。
良之がこの地で作る城郭は、平湯御所と呼ばれることになる。
これは、良之が﹁御所号﹂を許される身分だからである。
275
同様に御所号が許される一条家の土佐の居城は中村御所。
北畠国司家の伊勢の居城は霧山御所。分家で、現在陸奥国に居を構
える浪岡北畠家の居城は、浪岡御所と呼ばれる。
武家において同様な称号を持つ者も居る。
源氏の棟梁である足利家の将軍は、御所号を名乗る者が何人も現れ
ている。
一方、屋形号というものもある。
この時代では、足利将軍家によって公式に発給されている幕府幹部
を表す称号である。
この時代に四百以上は存在したであろう国人や守護のうち、わずか
21家しか屋形号を持つ名家は存在しない。
代表的なところでは、六角家、京極家、今川家、大内家、武田家な
どである。
後世の娯楽作品などで、これら以外の大名や武将が
﹁御屋形様﹂
と呼ばれているような作品が散見されるが、そう呼ばれたり呼ばせ
たりした事実はないと思われる。
なぜなら、屋形号というのはれっきとした根拠の上に成立している
尊称だからである。
一行は翌日、本覚寺に拠点を移した。
住持に充分な食料や金子を提示し、長逗留をさせてもらう。
その間、伊賀甲賀の者達が、徐々に平湯の整備を始めている。
また、人足や専門家の手配のため、各リーダーたちは行動を開始し
ている。
良之は翌日には下間源十郎と忍び衆5人を従え、本覚寺を立った。
276
2日かかって白川に着いた良之一行は、荻町から帰雲城に入った。
当主は内ヶ島家。夜叉熊という少年だった。
前当主が亡くなったため、6才という幼さで家督を継いだものの、
臣下の支えで充分以上にこの城下を治めているという。
あいさつを済ませると良之はすぐに出立。
来た道を引き返し古川へと入る。
翌日、百足城に姉小路右近衛中将を訪ねた。
ここでも良之は顔見せだけの簡単なあいさつで出立し、3日かけて
下呂の桜洞城を訪ね、三木氏と面会した。
三木氏とも、顔見せのあいさつに終始し、陽のあるうちに城を離れ
て下呂の町で一泊。
その後は10日以上かけて郡上八幡を巡り、長良川沿いに稲葉山城
の麓、井口の町に入った。
井口もまた、太平洋側の都市に共通した豊かさを持った町だった。
良之は積極的に棹銅を買い、純銅を売り、鐚銭を買った。
商家によっては、鐚銭5貫でも永楽銭1貫と換えたがる者達も居た。
銭の需要が高い土地である。
つまり、豊かだという事だった。
この地では、米も買い求めた。支払は全て金で賄った。
その後、斎藤山城守利政から使いが来て、良之は稲葉山城に登った。
この時期、山城守は織田と和睦し娘を嫁に送ることで安定していた。
かつて織田家の力で返り咲いた美濃守護大名の土岐頼芸と、それを
支持した揖斐川沿いの豪族たちを攻めていた。
すでに齢50を越えているが、精力は未だ衰えを見せていない。
﹁御所様は随分ほうぼうの国を見て歩いてなさるとか﹂
277
﹁ええ、若い時にしか出来ませんから﹂
はじめはそんな雑談から山城守は切り出した。
﹁それにしても、豪儀な買い物をなさるようだが、買われた荷が忽
然と消えると聞く。いかな方法でなされるのか?﹂
﹁山城殿は仙人をご存じか?﹂
﹁無論﹂
﹁弟子入りしました﹂
﹁はっは﹂
山城守は笑ったが、その瞬間、井口で買った米俵を良之は取り出し、
自分の脇に積んで消したので、肝をつぶした。
﹁仙人と言うよりは道士に近く、仙術と言うよりは方術に近いので
すが﹂
﹁⋮⋮な、なんと便利な﹂
山城守の驚き方は、常の人とさすがに違った。
面妖な、と驚く者が多いが、彼はその利便性が即座に理解出来たの
である。
その後、山城守は<収納>について執着した。自分も使いたいとい
う知的好奇心が抑えられないようだった。
だが、
﹁では、美濃を離れ俺の弟子になりますか?﹂
と聞くと、暫し呆然と考えたあと、豪快に笑って
﹁なるほど、口惜しいがそれも叶うまい﹂
とうなずいた。
その後、登城している家臣や親族の紹介を受け、この晩は客殿に宿
を借り、良之は美濃を去った。
別れ際に、斉藤家も銭1000貫を良之に献じてくれた。深く感謝
し、京の二条関白家へと砂金で送付した。
278
稲葉山から長良川を船で下り、長島に入る。
下間源十郎の案内で願証寺証恵と対面。父の蓮淳を助けてくれたこ
とに深い感謝の意を告げ、歓待してくれた。
その翌日。
前の晩に源十郎から平湯御所建設のことを聞き及んだ証恵は、長島
の職人衆や河内、堺、京や加賀から越中にかけての人材の手配を請
け負ってくれた。
特に加賀の人材として大工衆や山方衆がかなりの人数用意できると
いう事で、これには良之も深く感謝した。
その後、長島の商家でいつものように取引。
ここでも鐚銭を5−6貫に金一両、もしくは永楽銭一貫で大量に交
換した。
また、比較的在庫が豊富だった海産物も大量に買い付けた。
その後、船便にて雑賀へと向かった。
途中の湯浅では、味噌を大量に買い付けた。
鈴木佐大夫は、久しぶりの訪問を喜んでくれた。
特に、嫡男孫一の病状はあれ以降全く喘息の発作を起こさなくなっ
たという事で、久しぶりに見た孫一は、真っ黒に日焼けをして背も
大きくなっていた。
その晩はにぎやかな宴会でもてなされた。
﹁飛騨の山中に築城、ですか?﹂
﹁ええ。それで、もし出来ることなら紀州の鍛冶、味噌職人、鋳物
師などを欲しいと思っているのです﹂
279
﹁なるほど﹂
どれも人数の多い城となれば必要な人材だった。
﹁それと、もちろん兵も﹂
﹁⋮⋮﹂
佐大夫は一瞬じっと良之を見返して
﹁それは、家臣ですか? 銭侍ですか?﹂
と問いかけた。
﹁どちらでも、それは当人の意思に任せます﹂
率直なところ、良之にとっては本心からどちらでも良かった。
﹁人数は?﹂
﹁それも、いくらでも。両親や女房子ども連れでも構いません。飯
炊き、風呂焚き、小商い。仕事はいくらでもあるでしょう﹂
﹁そのような者にまで給金を出すおつもりか?﹂
﹁働き次第ですけどね。ただ、飯は必ず食わせます﹂
﹁わかった。郷の全ての長にも声をかけておく﹂
佐大夫は請け負った。
﹁ところで、種子島が手に入るだけ欲しいのですが﹂
良之は話題を変えた。
﹁ほう?﹂
﹁今はどこも欲しがっているでしょうから難しいかも知れませんが
⋮⋮﹂
﹁なぜ急に欲しがりなさる﹂
﹁撃たせなくては練習にならないからです﹂
確かにその通りだった。
鉄砲ほど習得に金がかかる兵科はそうそうない。
特に、日本では硝煙が産出しないのだ。
鉛もさほど産出量が多いわけではない。
鉄砲に関わるその多くが輸入だよりであり、訓練させるだけでも非
常に多額の資金を要求される。
280
﹁硝石はどうなさる?﹂
佐大夫は率直に聞いた。
﹁ああ、作ります﹂
こともなげに良之はいった。
﹁作り方を知っておられるのか?﹂
佐大夫の質問に、うなずいて答えた。
実は良之は、もちろん錬金術で作るつもりだった。
だが、飛騨の白川や五箇村で江戸期に量産された製造方法は知って
いる。
硝酸をもっとも効率よく作るのは人の尿とヨモギ、それに養蚕時に
出る蚕の糞や廃棄物だ。
それらを防水加工した床下で数年、地中の細菌に腐敗発酵させると、
硝酸カリウムが析出する。
﹁とにかく、種子島については可能な範囲で構いません。取引は堺
の皮屋とお願いします﹂
良之はそう依頼して、この日のうちに堺に向けて旅だった。
281
初めての城 2
堺の手前、埋め立て事業中の船尾を通りかかると、もう浜越しにだ
いぶ、盛り土が出来上がりつつあるのが見て取れた。
﹁浜寺の焼け跡からも残骸を持ってっちゃ使ってるようですぜ﹂
船頭がそう教えてくれた。
さすが商人、武野紹鴎もやるなあ、と良之は感心した。
堺に入港すると、良之はまっすぐ皮屋に向かった。
﹁これは御所様、お懐かしゅうございます﹂
紹鴎が笑顔で迎えてくれた。
﹁紹鴎殿お久しぶりです。懐かしむ前に、まず納屋をひとつお借り
したいんですが﹂
良之は皮屋の蔵を借りると、そこを翡翠で埋め尽くした。
﹁翡翠の出はどうです?﹂
﹁南蛮人も明国人も競って買いなはりますな﹂
紹鴎はほくほく顔で答えた。
早速ながら、良之は金と永楽銭などの上銭を皮屋に提供し、鐚銭を
買いあさらせた。
納屋衆も、鐚銭が処分できるとあって1対5でも喜んで放出した。
﹁鐚銭などなんにつかわはるんでっしゃろ?﹂
﹁もちろん、鋳つぶすんですよ﹂
良之は答えた。
数日で堺中の鐚銭は枯渇し、代わりに金が堺を潤した。
さらに、金を売って銀を買わせた。
この銀で、今度は関東、特に小田原や甲府の金を買わせる予定でい
282
る。
翌日、紹鴎の案内で遠里小野の広階親方の許を訪ねた。
親方もまた、随分と良之との再会を喜んでくれた。
全ての工房を見学したあと、良之は<収納>に大量に蓄積された錫
を親方に提供した。
﹁前回の船便も驚きましたが、またえらい量でんな﹂
親方は驚きつつも喜んだ。
分銅は出荷が追いついていないようだ。
近隣の鋳物職人はついに総動員になっているようだった。
﹁来年には銅座を船尾に移せそうな案配です﹂
﹁それは良かった。南蛮絞りも進んでますか?﹂
﹁そらもう。こっちはうちとこの職人以外には覗かせとりませんよ
って、なかなか人手が確保できまへんが⋮⋮﹂
﹁いずれ安定したら公開しましょうかね﹂
﹁へえ﹂
今のところ、公定銅棹の出荷をコントロールするため、南蛮吹きは
広階親方のみに一任している。
﹁あ、そうだ﹂
棹銅の打刻に使ってる全ての刻印を良之は借り受けた。
そして、錬金術で全く同一の刻印を大量に作った。
﹁この素材は、金剛石です。鉄の2倍以上固いので長持ちですよ﹂
言うまでもなく錬金術で作り上げた。
これほど精密なコランダムの加工品は、おそらくこの時代に他にな
いだろう。
親方に、平湯御所へ鍛冶屋と鋳物師の指導者を派遣するように依頼
283
し、良之は遠里小野の郷に出た。
ここには、油職人も多く居る。
地の者にそうした職人の頭を紹介してもらい、
﹁新しく出来る城下で働きたいものがあったら、皮屋に来い﹂
と告げて帰った。
堺では、仕入れられる範囲の生活物資を仕入れた。
布や針、工具などの他、器など。
他にも、薪炭や膠など。
一時的にも1000人を越える労働者が集まりそうな状況なので、
少しでも多くの物資をかき集めた。
後事を紹鴎に託し、そのまま良之は京に上る。
途中、渡辺津、大山崎でも粗銅の棹銅を買い、食料や酒、油などを
購入した。
京に帰ると、二条邸にまっすぐ向かう。
兄である二条関白に、状況を報告するためである。
翌日には、良之は京の商家を回り、様々な物資を仕入れた。
山科邸に顔を出し、阿子の消息を伝えると共に、酒と北陸の干物、
紀州の醤油などを手土産に置いていく。
二条家の青侍たちに同行させ、7日ほど前に細川と三好による戦闘
によって全焼した相国寺の様子を見に行った。
僧侶が河原者達と、放置され遺棄された雑兵たちの遺体を焼いてい
た。
現代っ子である良之には耐えがたい光景ではあった。
284
天文20年の7月22日は、現代で言えば8月24日頃。
遺体は腐敗が進み、ひどい悪臭が立ちこめている。
良之は、全焼した寺社領から、青銅や他の金属を全て回収して歩い
た。
すでに、めぼしい物は盗み出されたあとらしい。
回収を終えると、僧侶の代表に1人10両相当の金を渡す。
河原者達にもリーダーがいる。
不浄仕事を進んで仕切る義侠心の厚い男だった。
彼にも、報奨として働いた者達に分けるようにと1000両の砂金
を与える。
その後、二条邸に戻り、身を清めてから寝込んだ。
精神的に激しくふさぎ込んでしまったのだ。
下間源十郎は、付き添った青侍たちからその話を聞き、良之の寝所
の控えで夜半まで小声で正信念仏偈の読経をあげた。
﹁源十郎﹂
夜中に、寝所から良之の声がかかった。
﹁⋮⋮は﹂
﹁もう休め。お前の気持ちは良く伝わった﹂
﹁は﹂
源十郎は見えぬ主に深々と頭を下げた。
﹁源十郎﹂
﹁はっ﹂
﹁⋮⋮ありがとうな﹂
万感の籠もった礼の言葉だった。
源十郎は、部屋に戻り、泣いた。
285
翌日、良之は参内した。
帝への報告は関白が済ませてくれていた。
﹁宰相より申し出の姉小路国司が一件、許す。よしなにいたせ﹂
﹁は﹂
﹁なお、励め﹂
﹁恐れながら、申し上げます﹂
﹁許す﹂
﹁こたびの銅の吹き替え、並びに分銅などの益。また、旅先にて拾
い集めた金粒、10万両、お納めいたします﹂
臨席していた公卿たちも、その額の大きさにざわめいた。
﹁ご決済のうえ、御所の修復などにお役立て下さいますよう﹂
﹁⋮⋮あい分かった﹂
そのまま良之は下がり、奥に向かった。そして女御殿たちに食材や
酒、肴などを提供し、そのまま邸に帰って行った。
夕暮れに遅れて帰った関白から
﹁帝より10万両のお礼のお言葉を預かった。だが案じても居られ
た。こなたに必要な金ではないか、とのう﹂
﹁ご心配なさらぬようお伝え下さい﹂
﹁⋮⋮さようか﹂
﹁それより兄上。お願いがあります﹂
﹁申してみよ﹂
﹁この邸にて、食のない地下人や青侍を養い、教育をして欲しいの
です。そのために屋敷もきちんと修繕し、常傭いもお増やし下さい﹂
﹁それはいずれこなたに必要な人数となるのか﹂
﹁はい。是非ともに﹂
﹁わかった﹂
﹁金子は、残念ながらこの屋形は不用心ゆえ皮屋に預けます。必要
な時、必要なだけご用立て下さい﹂
﹁良之﹂
286
﹁は﹂
﹁おおきに﹂
関白は頭こそ下げなかったが、そう言い残して自室に下がった。
京の皮屋の支店を切り盛りしている今井宗久に、米や干物を託して
﹁ほどよく捌いて﹂
と言い残す。安定供給しろ、という意味である。
同時に、翡翠や錆顔料などを蔵に入れ、売れないようなら堺へ送る
ように指示をする。
また、手持ちの純銅の棹銅を納め、さらに砂金、粒銀を託す。
﹁関白から望みがあれば言われただけ用立ててくれ。二条邸の改築
の相談にも乗ってやってくれ﹂
と言い残して去った。
京を立った良之は、山科から近江八幡に入り、ここでも大商いを済
ませ、多賀、今浜でも食料や物資の買い入れ、粗銅の購入と純銅の
売却などをしつつ北上する。
今浜からは敦賀に抜け、宿を取る。
明けた翌日、川舟屋で粗銅、塩、昆布などを買い付け、海路で富山
を目指した。
岩瀬で下船。
そのまま、一路平湯へと戻った。
天文20年8月22日。
平湯に到着した良之はさすがに驚愕した。
この時代の人力作業の能力と精度を完全に見くびっていた。
一重ヶ根との境は堀と土塁によって隔てられ、関所のようなわずか
な切り口が通行できるようになっている。
そこを潜ると、見通す限りに長屋が建ちならび、さらに槌音がそこ
287
かしこで響いている。
正直、京の都よりにぎやかな気がする。
良之の到着を知って、小者が案内をしに駆け寄ってきた。
平湯御所は平屋建てだが、意外と大ぶりな建築だった。
公家の場合、城、とは呼ばず、御所、と呼ぶ。
露天湧出の温泉を邸内に持ち、平湯川を利用した水堀まで備えてい
る。
漆喰がまだ乾ききっていない土蔵が堀の内側をぐるりと取り囲み、
石垣のような防壁の役を担っている。
内部に入ると、さすがに本邸は未だ工事中ではあるが、大名屋敷で
よく見る書院風の作りになっている。
﹁お帰りなさいませ、御所様﹂
服部半蔵が誇らしげに良之を迎えた。
﹁半蔵、これはすごいね。どんな魔法を使ったの?﹂
半蔵は、自分の手柄ではないといい、尾張の黒鍬、飛騨匠、美濃や
木曽、飛騨、加賀の山方衆が、いかに労を惜しまず働いたのか解説
してくれた。
そのうち、匠の1人がおずおずと進み出て良之にあいさつしたあと、
聞いた。
﹁屋根はどのように葺きましょう?﹂
冬を越させるためには板屋根では無理で、積雪で木が腐らないよう
に何らかの対策が必要だという。
一応、瓦の重みにも耐えるよう建ててはいるが、茅葺きか藁葺きが
最もいいと匠はいった。
﹁ただ、手に入りません﹂
藁ならひょっとすると収穫期が終わったあとの美濃や尾張で購入で
きるかも知れないが、その時期まで待つと今度は葺いている時間が
怪しくなる。
288
﹁銅板は?﹂
良之が聞いた。
﹁へい、手に入れば次善で﹂
匠がうなずいた。
結局、良之が﹁創る﹂しかないだろう。
繰り返すが、良之はかなり高度な﹁錬成﹂で物質を作る事への忌避
感も躊躇もない。
問題なのは、
﹁自分が介在しなければ何一つ進まない﹂
という事態への不安と不満だった。
だから、フリーデやアイリ、千や阿子が協力して屋根葺き用の銅の
錬成に手を貸してくれていることを素直に喜んでいる。
﹁不思議なのですが﹂
フリーデが言う。
﹁かつては感じもしませんでしたが、こうして良之様の手伝いをす
るようになって、自分の魔力の質と量が向上しているように思いま
す﹂
﹁それは、私も﹂
アイリが同調する。
近頃ではこの2人はそれぞれ、魔法と錬金術の垣根を越えて協調し
始めている。
殺し合うより遙かにいいと良之も思うし、それに千や阿子に良い影
響を与え始めているのもありがたかった。
良之も含めた﹁方術﹂使い5人は、蔵の中でこっそり錬成し、蔵が
一杯になると次に移る。外部の人間も多い状態で、他人にあまり錬
成を見せたくないのだった。
良之たちが蔵を開けると、表出番をしている藤吉郎や下間源十郎が
労夫たちを指揮して銅板を運び出させ、匠たちがそれを手際よく屋
289
根に敷設させていく。
やがて、人材がそろってくるのを見計らって、鬼瓦や樋などに相当
する部分の加工は鋳物師に任せ、良之は人材育成に着手し始めた。
290
初めての城 3
紀伊・雑賀から銭侍で来てくれた顔ぶれは、なんと孫一がリーダー
格だった。
﹁御所様、恩返しに参りました﹂
病で成長の遅かった孫一が無邪気に微笑みながらあいさつした。
紀伊の鍛冶師まで来ている。
言うまでもないことだが、紀伊の鍛冶師という事は、種子島の専門
家という事で、玉薬の調合まで出来る。
そして、この時代の鍛冶師は、鍛冶場を自分で作れるのだ。
雑賀の鍛冶師に無理を言って、滝川彦右衛門と下間源十郎。そして
彼らが見込んだそれぞれ5人の男たちを、この機会に徹底的に鍛え
てもらう。
ハサミかペンチ、あるいはやっとこに似た鉛玉を作る工具を自作さ
せる。
さらにそれで鉛玉を作らせる。
良之が火薬倉に大量に用意した硝石、硫黄、木炭を使って、玉薬の
調合を覚えさせる。
そしてそれらを使って自分自身で射撃の訓練をさせる。
エリート教育である。
年が若く身体が出来ていない者達には、一日ごとに交代で読み書き
と算盤を教える。
これは隠岐や祐筆、公家の次男坊以下の仕事である。
商家の心得のある者達には、良之が次々に満たす蔵の在庫を控えさ
せ、必要な時に、必要な場所や人に供給させる。
291
これは藤吉郎に天賦の才があった。皆ライバル心を燃やし競ったが、
やはり彼に及ぶ者は居ないようだ。
藤吉郎のあとを付いて歩く小一郎もなかなかに聡い。
彼は藤吉郎の弟で、母や姉妹と共に、藤吉郎がここに連れてきてい
た。
決して出しゃばらず、藤吉郎のサポートをしている。
木下家の女性陣には、良之が昆布や鰹を使ったダシの取り方を教え、
味噌汁を教える。
ダシを取り終えた昆布や鰹は、砂糖と昆布などで佃煮を作らせた。
フリーデたちには、ここに入る者達の健康診断と寄生虫の駆除を任
せている。
良之は、まずはここから寄生虫のない社会を目指したいと思ってい
た。
こも
堺からの荷が、岩瀬港経由でやってきた。
菰につつまれ、さらに油紙で丁寧に梱包された種子島だ。
﹁五百挺用意できました﹂
得意気に語る皮屋の手代頭たちを労い、温泉とごちそうを振る舞っ
て帰らせる。
望月三郎、服部半蔵、千賀地石見、滝川彦右衛門、下間源十郎の組
頭たちに、それぞれ百挺ずつ与え、鉄砲隊を編成させる。
平湯の建設ラッシュは佳境だが、防衛力の強化もまた急務になって
いる。
そろそろさすがに、この派手な建設ラッシュに近隣の豪族たちも気
がつき始めたのだ。
292
江馬常陸介は、神岡の国人、時盛の嫡子で、以前に会っている。
このとき18才。
高原諏訪城を拠点にする左馬介江馬時盛は、例の風変わりな公卿が
神岡を通過して東に消えて以降、領内を通過する庶民、領内から銭
仕事で雇われ東に消える農民や猟師や山方衆や大工。そして、京や
堺や敦賀あたりから大量にやってきては東に去って行く物資を薄気
味悪く見ていた。
神岡を南北に通る街道を越中では飛騨街道といい、飛騨の人間は越
中街道と呼んでいる。
これは飛騨の人間にとっての生命線のような街道で、食糧自給率の
低い飛騨に、海産物や糧食を運んでいる。
神岡には、東西二本ある越中街道の東街道が通っている。
この道は元来通行量が多いのでまだ分かる。
だが、神岡を基点に東へ向かう道は、行く先には、一重ヶ根という
人口三百にも満たない山村があるだけだ。
当然国人など存在せず、戦の時には神岡に編成され村長が率いてい
る。
その先には集落など存在せず、無人の荒野が飛騨山脈に囲まれ、そ
の先の信州でも似たような状況である。
ではなぜそんな原野に道があるのか。
鎌倉時代に飛騨に入ったのが鎌倉方で、地元の人間たちを賦役に徴
発して、いわゆる鎌倉街道を作ったからである。
使いもしないのに三本も作った。
そのうちの、上ノ道が、いま神岡と一重ヶ根を結んでいる。一重ヶ
根から平湯までもわずかに痕跡として残っていたが、通る人間のい
ない道などものの2年で草に埋もれる。
室町期に入って、飛騨と信州は没交渉となった。
当然鎌倉道の事など忘れ去られ、土砂崩れなどで切れるに任せたま
293
ま放置されている。
現在信濃の者が飛騨に入ろうと思うなら、美濃に向かう木曽道から
下呂、もしくは不便な山道を通り高山に入るしかない。
常陸介は、一重ヶ根をまず調べた。
村人たちも、道さえない︵と思っている︶平湯に消えていく人間や
物資に首をかしげていたが、誰1人近寄っては居ないようだ。
村人に道案内させて騎乗の常陸介は一重ヶ根から東に登っていく。
そこで、道をふさぐ随分と立派な関砦を発見した。
常陸介が騎乗のまま関の中に入ると、槍を持った小者たちが駆け寄
ってきた。
﹁江馬常陸介と申す。この砦はいかなる御仁の所有か?﹂
常陸介は駆け寄った小者に訪ねた。
﹁二条三位大蔵卿様の湯治宿でござるよ﹂
この関の番頭である中村孫作が答えた。
孫作は滝川の組配下で、血縁があるらしい。
﹁御所様には先日お目にかかった、是非お会いしてお話を承りたい﹂
常陸介が言うと、孫作はうなずいて、﹁こちらへ﹂と案内した。
鎌倉道は神岡から一重ヶ根まで緩やかに南東に上り坂で進み、この
関のあたりから若干下りつつ南に進む。
下りきったあたりで平湯川を渡ると、すぐに、高山から伸びる鎌倉
道と合流する。
常陸介は、川に立派な橋が架かっていることにも驚いたが、それ以
いらか
上に、急な角度を付けた切妻屋根の長屋の数に驚いた。
しかも、屋根という屋根が銅葺きで、赤々とした甍を大地に敷き詰
めている。
いったいどのくらいの規模の人間がここに居るのか。
そして、どれほどの富を散じたものか。
294
﹁江馬常陸介? ああ﹂
お通ししろ。と良之は伝令に伝える。
やがて、供回りも連れず1人で常陸介が母屋に通される。
﹁ようこそ、常陸介どの﹂
良之は、母屋の入り口から一番近い部屋、謁見室らしい間で常陸介
に会った。
謁見室の片側は障子が開け放たれ、随分凝った枯山水の庭が広がっ
ている。
いわゆる﹁お庭番﹂が控えているような庭である。
さすがに妙に恐縮しつつ、常陸介は下座でひとつあいさつしてから
良之に尋ねた。
﹁御所様、これは一体いつの間にお建てになったのですか?﹂
﹁まえに、あなた方の城にあいさつによったあと、ここの温泉を見
つけたんですがね。まあ常陸殿もご存じと思いますけど、ここって
無人の原野だったでしょ?﹂
﹁ええ﹂
最後に見たのはいつだったか常陸介もわすれたが、それでもここが
人通りさえない寂れた荒野だったのは知っている。
﹁で、まあ俺もこう見えて金は一杯あるんで、金に飽かせて温泉宿
を作った訳ですよ﹂
良之がそう言うと、温泉の源泉を挟んだ反対側に作られた訓練場か
ら、凄まじい炸裂音が山々にこだまするように響き渡った。
﹁な、何事ですか!﹂
﹁ああ、種子島の訓練です﹂
﹁種子島?﹂
﹁鉄砲ですよ。ご存じですか?﹂
295
もちろん常陸介も知っている。
﹁しかし、種子島ではあんな音はしないはず⋮⋮﹂
﹁ああ、あれは八百挺で一斉射撃の練習をしてるんです﹂
﹁八百⋮⋮一斉﹂
﹁見学して見ますか?﹂
﹁是非!﹂
というわけで、常陸介を連れて、練兵場にしている北部の荒れ地へ
と彼を連れ、良之は移動した。
この時分の種子島は、連発が効かない。
砲身を冷まし、すすを綿棒で掃除し、やっと薬籠め、玉籠めを済ま
せて撃つ。
﹁必ず、耳を指で塞いで下さい﹂
良之の指示通り、常陸介は耳を塞ぐ。
大声で指揮を執る滝川彦右衛門に従い、八百の銃兵は統率の取れた
動きで、片膝立ちになり、構え、撃った。
今回の訓練は約百メートル︵55間︶くらいのようだ。彦右衛門や
下間源十郎あたりだと、すでに100間︵200メートル︶の遠当
てで外さないらしい。
だが、今訓練中の銃兵たちは、さすがにまだまだ修行が足りないよ
うだ。
半数近くが、的を外している。
﹁⋮⋮﹂
だが、常陸介には、今でさえ衝撃だった。
これがもし、我が城に殺到したら⋮⋮。
どうしても考えずにはいられなかった。
食事と温泉を振る舞われて、常陸介は帰宅した。
寝ても覚めても、あの公卿の軍事力が頭から離れず、常陸介はつい
296
に、父江馬左馬介に相談することにした。
﹁お通しして﹂
三日後。
江馬親子が訪ねてきて、
﹁鉄砲の修練を見せて欲しい﹂
といった。
無論良之は彼らを伴って、練兵場へ向かい、滝川彦右衛門たちに準
備をさせて、その訓練の様子を存分に見学させた。
﹁御所様は、この兵力をいかにお使いになられますか?﹂
思い詰めた表情で、江馬左馬介は切り出した。
﹁俺は帝から、飛騨国司に任じられました。この意味、分かります
か?﹂
﹁なんと! では姉小路家は?﹂
﹁本人にはまだ伝えておりませんが、これまでの朝廷に対する不義
理の状況では、移し替えになるでしょう。あの様子では、他国の国
司に任じられても、統治など出来ますまい﹂
まあ京に上るなら邪魔はしませんが。
と良之は冷たくいった。
国人、という立場にある江馬家にとって、二条良之の国司宣言は重
大な意味を持つ。
姉小路が没落してるのは、ひとえに名目のみの国司であり、有力国
人の庇護で家を保っているに過ぎなかった。
ところが、良之は違う。
江馬親子が見たところ、すでに彼は1500以上の兵力を持ち、そ
のうち八百には、未だこの時代では普及も進んでいない﹁種子島﹂
を装備させ、射撃訓練まで行っている。
297
問題は、江馬家がこの地に巨大な城郭とすら言って良い﹁平湯御所﹂
があると気づいたあとも、神岡を通ってこの地に入ってくる人数が
1000以上になるという事である。
そして、彼らを寝泊まりさせ、充分に食事も提供しているという。
多くは職人や労夫だったが、明らかに武家として雇われていると分
かる者達も居て、彼らは弓や馬などの訓練をし、希望者は鉄砲を無
制限に撃たせてもらえている。
一体ここには、今何人くらいの人間が居るのか。
﹁さあ、5000人以上になってるようですが﹂
こともなげに良之は答えた。
驚くのは、その物資の量だった。
良之の母屋の周りにはぐるりと一周土蔵が並んでいる。
そこに荷車で連日荷物が届いては運び込まれている。
その全ては富山の岩瀬港経由で越中東海道を通ってくる。
もはや今の時点で、もし江馬家が支配下国人を総動員しても、勝て
ないかも知れなかった。
江馬親子は呆然と神岡に戻り、やがて、支配下の者を全員集め、評
定を行った。
﹁戦いもせず、下るのか?﹂
河上や脇田といった重臣たちは色をなしたが、
﹁では自分の目で見てくるがいい﹂
と左馬介に言われ、憤慨して平湯に視察に出向いた。
翌日の評定では、一同、音もなかった。
この当時、内ヶ島と塩屋は江馬の家臣ではない。どちらも国人とし
て江馬と協調はしているが、仮に戦などの重大事があった際には、
その時々で参戦か傍観かを決める権限があった。
彼らを招き
﹁当家は二条三位大蔵卿に臣従する﹂
298
と宣言した。
塩屋も内ヶ島も驚いてその真意を尋ね、自分たちもと平湯にその真
偽を質しに行った。
﹁御所様、江馬、内ヶ島、塩屋の三家から当主が参っております﹂
隠岐が母屋で言上した。
﹁お通しして﹂
謁見の間に行くとすでに江馬左馬介時盛、塩屋筑前守、内ヶ島夜叉
熊とその後見豊後守が下座に控えている。
それぞれの名乗りを受け、良之もあいさつを返す。
﹁ようこそおいで下さいました﹂
三者は左馬介を代表に、臣下の礼を取るので所領を安堵して欲しい
旨を言上する。
じっと考えていた良之が、やっと口を開いた。
﹁皆さんは、全て領地を俺に返納し、代わりに、今と同じ身分と、
年貢の代わりに銭で受け取ることで仕える気はありますか?﹂
良之は、この時代の統治がひどく不経済で、不合理で、不安定だと
感じている。
この時代の京に飛ばされて以来、良之は近畿・東海・甲信越、そし
て越中飛騨と見て回った。
﹁領地の経営は、大変でしょう?﹂
良之は切り出す。
﹁俺は、戦や領内の警護は、専門の軍人に。農業は農家、商業は商
家、工業は職人に専業させて、それを監督する公務、と、生き方を
決めて欲しいと思ってます﹂
﹁理屈は分かります。が、それはかつてうまくいきませんでしたな﹂
塩屋が言う。
彼は出自が商人で、越中や加賀と飛騨を結ぶ食糧の供給で巨万の富
を稼ぎ、各地の国人に金を貸しては、その形に城や領民を受け取っ
299
て国人化している。
だから今の良之の話は実体験として理解が出来る。
﹁建武の新政のことですか?﹂
﹁その通りです。結果、国は南北に別れ乱れに乱れ、未だにその頃
の傷も癒えず、親子兄弟が敵味方で戦う風習を残しました﹂
良之はしょせん大学受験で必要となる丸暗記風の日本史程度の知識
しかない。
受験用日本史の知識というのは、役に立つようで居て、こうして実
際使おうと思えばなんの役にも立たない。
あの教育には、人間哲学とか、政治史の背景などが一切ないからだ。
だが、ここでは少なくとも、良之が自分自身で見て、研究したため
にいえることがいくつかあった。
﹁あの頃は結局、無理だっただけです﹂
﹁では、御所様にはそれがおできになると?﹂
塩屋筑前はなかなか鋭い男だった。
﹁結局、﹃貧しいから戦う﹄って人間を減らせば、戦の半分以上は
この世界からなくなります﹂
いきなり良之が言い出した。
﹁そして、﹃飢えるから戦う﹄って人をなくせば、残りは、後世に
名を残したいとか、戦いの中でこそ自分が輝くとか、そんな人間だ
けが残るでしょう。随分それでも平和になります﹂
﹁⋮⋮﹂
一瞬思考が止まったような国人たちのうち、最初に反応したのはや
はり塩屋筑前守だった。
﹁どうやったらそんなことが出来るのですか?﹂
﹁貧しいのは、まず通貨制度と商取引を安定させます。次に工業生
産力を上げ、最後に、教育です﹂
﹁飢えるのは?﹂
﹁農業、水産業、畜産業を向上させればいい。そして、戦争が無く
なれば、田畑を焼かれなくなる﹂
300
﹁⋮⋮なるほど。いってることは分かります﹂
﹁⋮⋮わかるのか?﹂
塩屋に江馬が問い返す。
﹁理屈は分かる。だが方法が分かりませんな﹂
﹁通貨の方は、新たに銅銭を作ります。それも大量に、安定的にで
す。商取引は、まずは全国の分銅を統一させます。どちらも、もう
準備ははじめています。もう一つ、棹銅を官許にしました。こちら
も、徐々に浸透していくでしょう﹂
加賀や越中と取引をしている塩屋は耳が早い。それらはすでに知っ
ていた。
﹁軍事の方は、これはもう仕方ないです。戦わねば分からない相手
も、どうしても出てくるでしょう。そういう場合は、戦うしか無い﹂
﹁それが、御所様が揃えている鉄砲ですか?﹂
江馬が聞く。
﹁そうです。今年はこのまま行きますが、もしあなた方が本当に俺
の事を信じ、領地を俺に差し出して臣下になってくれるのなら、一
年で、どこにも負けることの無い軍隊と、飢えることの無い国を作
ります﹂
論より証拠。
良之は、邸内の蔵という蔵を開けて、4人に見せた。
どの蔵にもうずたかく、米が、塩が、味噌が、干し魚が、野菜が積
み上げられていた。
﹁ここに集まってる兵や労夫たちは、誰1人農作業をしていません。
食料は俺が提供し、そのほかに銭で給料を支払います﹂
彼らは、商家を持つ塩屋以外は全員、国人の支配層でありながら貧
しかった。
﹁わしは従う。これほどの力を見せられては、戦っても負けるし、
戦う前から負けている﹂
301
江馬はため息混じりに、そういった。
﹁⋮⋮やれやれ。わしも商人として日の本に誇れると自負していま
したが⋮⋮この蔵を見せられては、力の差は歴然。何より、御所様
の展望はおもしろい。一緒にその先が見てみとうございます﹂
﹁わしらは、一度持ち帰り、衆議にかけたい﹂
内ヶ島家は、そう言って辞した。
302
初めての城 4
﹁それで、わしらは何をしたらいいのか?﹂
江馬が聞く。
﹁ひとまず今年は例年通り、税を集めてください。その後、検地・
刀狩りをして下さい﹂
﹁検地・刀狩り⋮⋮﹂
﹁治安は俺の兵が守ります。これを警察と言います。警護し、巡察
する﹂
﹁検地はまだしも、刀狩りはどうでしょうな⋮⋮﹂
﹁金を出しましょう。正しい金額で武具を買い取ります。どうして
も手放したくない場合は、農地を手放し、俺の下で武家になったら
いい﹂
﹁わしはどうしますかな?﹂
塩屋が愉快そうに良之に問う。
﹁あなたも今年は、例年通りの徴税。そして検地と刀狩りをお願い
します。終わったら、是非やって欲しいことがあります﹂
﹁それは?﹂
﹁街道の強化、加賀、越中の国境への倉庫町の建設、そして、架橋
です﹂
﹁橋?﹂
﹁商人には堪らない開発でしょう?﹂
良之が笑った。
良之は早速、平湯∼一重ヶ根∼神岡間の街道の整備を人夫と黒鍬衆
303
に行わせ、匠には神岡ではじめる新住居建設の他、架橋にも参加し
てもらった。
橋というのは、戦時に敵にも利便性を提供してしまう。戦国期の領
主は作りたがらないのが一般だが、良之は少なくとも領内には積極
的に架橋するべきだと思っている。
要は、橋を渡られたくらいでびくともしない軍を作ればいい。
そう決めて次々に架橋を指示したのである。
製材を担当していた山方衆の中には、自領に帰らねばならぬ者も現
れだしている。
労夫として訪れた加賀の門徒たちも、雪が降る前に故郷に帰る者達
が出始めた。
だが、雪がこの地を覆って仕事がままならなくなっても、日当と食
料は変わらず支払うという条件に惹かれ、この地に残ることにした
労夫や職人も多い。
雪かきや建物の補修など、雪中にも仕事は多いのだ。
平湯は統治を隠岐大蔵大夫、軍事を千賀地石見に任せ、良之は兵1
000を引き連れ、全側近と神岡に移った。
この頃、信濃で浪人や流民を集めていた虎御前が戻ってきた。
意外な人物を連れてきていた。
木曽左京大夫義在だ。
左京はすでに八年前には、嫡子義康に家督を譲り、隠居の身分であ
る。
彼は自身の隠居地に集まった流浪の一族を多く匿っていた。
関東や甲信から、凶作、震災、戦乱で流民化した氏族の新田作りを
許し、入居させている。
そうした流民たちの入植スカウトに歩いていた虎御前から話を聞き
﹁気があった﹂
304
という。
この頃すでに六十才近い。意気投合しただけで隠居の身がはるばる
飛騨までやってくる訳が無い。
彼は彼なりに、二条三位大蔵卿の正邪曲直を見極めたいと思ってい
たのだ。
虎御前と木曽左京の連れてきた流民たちは多かれ少なかれ﹁代表者﹂
的な側面を持っている。
代表と言うより、一種の偵察に近い。
安定した環境で飛騨への移住が出来るのなら、一族の代表が女房子
どもまで総出で引っ越したいと考えている。
そこで、良之は彼らの案内を下間源十郎と木下藤吉郎にさせること
にした。
神岡での長屋建築も、平湯と同規模で行われている。
つまり非生産従事者が五千人規模で常駐できる空室の確保である。
同様に、蔵も﹁江馬様の下の屋敷﹂と呼ばれる屋敷の周囲に建てさ
せる。
あとひとつきで、飛騨は雪に埋もれる。
誰もが必死に急いで工事に励んでいた。
源十郎と藤吉郎は一行を平湯まで案内した。
虎御前や木曽左京さえも、その大規模な公共投資に驚いている。
しかも、7000人近い﹁富を生まない﹂労働力を一時に集めて、
それを食わせている良之の資金力に驚きを隠せなかった。
﹁黒鍬・金山衆、それに山方、猟師、皮職人は優遇します。鍛冶、
鋳物師なども﹂
良之は一同に話す。
﹁武家も、働きを見て優遇します。当家のお家芸は鉄砲ですが、弓、
槍、騎馬の能力も重視します﹂
305
その言葉に、喜色を浮かべる一団は、北条や武田に負け、彼らに与
するのを良しとせず、本貫の地を離れた一族の者だろう。
﹁飛騨の地は農業に適しません。ですから翌年以降は換金作物を検
討します。養蚕や絹糸紡ぎ、梅などです﹂
もちろん、家中で青物を育てることは奨励するしその土地は提供し
ます。
良之はいった。
﹁女、老人には手工業を頼みますし報酬は払います。子供達は読み
書き算盤、有能な子には四書五経など、様々な教育を与えます。学
費は全て、俺が出します。基本、働かせないものと思って下さい﹂
﹁それは河原者や猟師、山方も同じですか?﹂
﹁同じです。俺は職種で貴賤を見ません。どんな仕事も人が暮らす
のに必要ですから﹂
源十郎と藤吉郎による見学会と良之との説明会の後、早速一族郎党
を呼びに走る者達が現れたが、慎重な者達はまず飛騨の様子を見て
考えることにした。
早速、各組頭たちによって、人材の配分が行われた。
神岡の金山衆は、ひとまず全員鉱山や吹屋での労働を休止させ、道
普請に狩り出している。
もちろん、賦役ではなく、報酬を正規の額支払う。
この休山の時を利用し、良之は神岡で出ているカラミなど選鉱後の
廃棄物の回収を行った。
良之に、京からつなぎが来た。
が、家臣陶隆房の謀反により討ち死にした。
周防・長門・石見・豊前・筑前といった巨大な領地を持った戦国大
名、大内義
306
大寧寺の変と呼ばれる9月1−2日の間に起きた政変によって、良
之の父前関白二条尹房と兄三位中将二条良豊も死亡、他にも左大臣
三条公頼、権中納言持明院基規などもそれぞれ自害もしくは惨殺さ
れた。
また、これらに付き従っていた諸大夫や小者、女子どもまでが虐殺
されたという。
帝や関白を筆頭に公卿たちのショックは深く、大変沈んだ状況に落
ち込んでいると知らせがあった。
良之は出来れば京に戻りたかったが、飛騨の経営の端に付いたばか
りで、現在ここを離れられないと判断した。
祐筆を総動員して、帝、関白、山科卿をはじめ、被害者たちの遺族
にもお見舞いの書状を送った。
また、兄の関白にも、つなぎに2000両ほど持たせ、お見舞い金
に使うよう言付けた。
すでに5日待ったが、内ヶ島からの連絡は来なかった。
良之は、大名と国人の関係を考え続けている。
﹁フランチャイズみたいだ﹂
大名が、である。
たとえば武田家。
フランチャイズを提供する﹁親﹂の事をフランチャイザーと言い、
フランチャイズ提供を受ける﹁子﹂のことをフランチャイジーと呼
ぶ。
フランチャイザー武田家は、長い年月をかけて同化した地域を直営
店としている。
管理は自社の社員が行う。
307
これが家臣だ。
直系家族である武田信繁や信廉などは役員になる。
内藤や馬場や飯富などは、役付きの部長職のようなものだろう。
親族衆というのが居る。長年のフランチャイジーの中には、社長一
族から嫁をもらったりして、本社のグループ企業的ポジションにな
っている国人が居る。穴山だったり、小山田だったりがここに含ま
れるだろう。
そして、所領を安堵されている国人。市河や高梨、武川衆など。彼
らがフランチャイジーのようなものだ。
独立採算で武田の看板を掲げて営業している。
﹁フランチャイズチェーンのイメージ悪くなるから、略奪するな﹂
と命じて、彼らが親会社のいう事を聞くかどうかは結局のところ、
収益性の問題である。
チェーン店の親会社が充分に食わせてくれていれば、独立採算制の
フランチャイジーたちはきっちり働く。
だが、親会社の様子がおかしければ、グループ企業になっている穴
山や小山田でさえ、徳川や北条、織田にフランチャイズを乗り換え
る。
いわんや所領を安堵した国人たち。
戦ごとに両陣営から誘いが来る。どっちに付くか考える。勝ち馬に
乗れれば安泰で、負ければ最悪全てを喪うのである。
内ヶ島にとっては、独立採算でいた方が儲かると判断しているのだ
ろうと良之は思った。
実際そうだった。
この時点で良之が知らない情報として、内ヶ島家が鉱山を三つ持っ
ている事がある。
308
全て、主要産物は、金鉱である。
その上、白川は文化的には飛騨の中では特殊なポジションにある。
庄川流域の五箇山あたりの文化の源流となっている上、たとえ越中
街道を封鎖されようと、この地の門徒たちが開いた加賀・小松まで
の道と、庄川をたどって越中・砺波平野まで下る交易路があるため、
戦略的には意味が無い。
つまり、飛騨国内にある他領への依存度が元々低い。
塩屋のように元来が商人であり、その財力で国人化した者。
あるいは立地的に他の国人や周辺国の大名に影響を受けやすい江馬
とは、内ヶ島はポリシーもスタンスも違う。
良之は、配下首脳陣との評定で﹁内ヶ島への接触禁止﹂を伝えた。
要するに﹁放っておけ﹂といったのだ。
良之に面会することを強要してはいけない。
それどころか、越中西街道を下る内ヶ島家の荷物も黙って通し、通
行料も取るなと伝えた。
二条家では、内ヶ島をどうとも思っていない。その明確なジェスチ
ャーを示すことを臣下たちに求めた。
良之は、今できる技術の積み重ねによってステップアップさせて工
業化を成し遂げたいと思っている。
そのため、毎日鍛冶師、鋳物師、冶金師、山方衆、黒鍬衆、金山衆
といった労働現場を視察しては、彼らの経験から生まれた知性を吸
収している。
どの業にも、弟子にさえ見せない秘伝があるが、そこは強権で押し
通した。
309
彼らは、はじめこそ嫌がったり気味悪がったりしたが、やがて、彼
の知性に心服したり、本来貴人である彼が、一定の尊敬を持って卑
人である職人に接してくれることに感激して、徐々に協力的になっ
ていった。
良之は、まず電気を必要としていた。
金属を人類が制する上で、最初の武器が炎だったとするならば、最
大にして最後の武器は電気だった。
電気精錬、電解精錬はもちろん、加熱、還元送風、加圧減圧、脱硫、
吸排気。
それらの全てに電気が使われる。
電気産業において最大の発明は、モーターおよびタービンである。
どちらも本質的には、同じ原理で動く。
磁気とコイルによって電気が生まれ、その電気によって回転動力が
生まれる。
だから、たとえ小型のおもちゃ用モーターであっても、回転させれ
ば発電機になり得る。
モーターにしろタービンにしろ、必ず必要となる材料は二つ。
磁石と、銅線である。
銅線について鋳物師と話し合っていると、彼らによれば遅くとも1
4世紀には銅の針金が生産されていることを良之は知った。
生産方法は、水車による延伸である。
ほうよう
銅の棒を、砂時計の砂が落ちるくびれた部分︱︱蜂腰に似た工具に
差し込んで棒を押しこみつつ、細くなった銅線を引っ張って巻き取
ると、均一な細さの銅線が作れる。
ちなみに蜂腰だが、蜂の腰のくびれを表す言葉で、女性の腰の造形
の美称でもある。
鋳物師はその工具を作ったことがあるらしい。
310
銅線の用途は、この時代の場合、宝飾品や法具、仏具の類いが主な
ようだ。加工素材に用いられるのだろう。
良之は、もし銅線が安定的に入手出来るようであれば、エナメル線、
つまり被膜絶縁された銅線の制作は容易だろうと考えている。
絶縁性の高い素材を塗布して乾燥させ、乾燥後は曲げ耐性があれば
良い。
エナメルの語源は、まさにエナメル塗料を塗布した事による。
量産の観点からやがて被膜素材はポリウレタン樹脂に変わったが、
要は絶縁体であって巻き上げた時に銅線同士がショートしなければ
良い。
磁石もまた、この時代に全ての材料と生産に必要な工具、装置がそ
ろう材料だ。
酸化鉄とバリウムを焼結させ、ミクロン単位に粉砕する。それをセ
ラミック焼成したあと、強い磁力線に晒すと永久磁石になる。フェ
ライト磁石だ。
銅線のコイルと磁石、それに回転エネルギーがそろえば、戦国時代
でも容易に発電は可能だ。
発電だけであればもっと簡単な方法もある。
この神岡で産出する鉛を精製し、平湯の南東にある硫黄岳から採取
した硫黄で硫酸を作る。それを、二酸化鉛を陽極、純鉛を陰極にし
て電池を作ればいい。
鉛蓄電池は再充電が可能なので、発電機との併用も考えられる。
タービンさえ作れるのであれば、今のところ良之が必要とする電力
量は水力だけで賄えそうだ。
それに、平湯なら温泉を、アカンダナ山なら地熱を使えば地熱発電
所も可能になるかも知れない。
311
312
初めての城 5
神岡には、土地の鍛冶がいた。
良之は、錬金術で精製した純鉄の粒を提供して、その使用感を試し
てもらっている。
﹁親方、どうです?﹂
﹁⋮⋮ああ御所様、これは﹂
ぺこりと頭を下げ、鍛冶はいう。
﹁素晴らしい出来に上がりますな。ただし、そのままですと柔くて
使い物になりませぬ﹂
いい目をした親方だなと良之は思う。
純鉄は言うまでも無く一切の炭素、酸素を持たない。
金属としては安定した物質だが、鍛冶屋の望む鉄の性質、たとえば
日本刀の皮鉄なら、剛直で固く、心鉄ならしなやかで柔らかい。そ
ういう炭素鋼の特色を一切持ち合わせない。
﹁ただし、一度沸かして打ち直すと、良い鉄になります﹂
親方はいろいろ研究をしたようだ。
沸かし行程には炭素が混入する余地がある。
沸かしたあとなます行程で、わら灰でなますと、適度な炭素を供給
出来ることを鍛冶は経験から知っているのだろう。
品質が一定である以上、使い方を把握すれば最良の素材だ、という
ようなことを親方は言った。
良之は喜び、蔵に5000貫以上純鉄を積み上げた。やり過ぎであ
る。親方はあごが外れんばかりに驚いていた。
同様に、平湯の鍛冶にも純鉄を供給する。
良之の供給源は言うまでも無く、神岡や各地で入手したのろやカラ
ミといったいわゆるスラッグであり、ほぼ産業廃棄物であるためコ
313
ストは全くかかっていない。
﹁沸かしたあと灰なましをして使って下さい﹂
平湯の鍛冶に指示をして、ここにも5000貫ほど供給した。
﹁鉄は国家なり﹂といったのは鉄血宰相ビスマルクだ。
﹁鉄を制する者が天下を制する﹂などという言葉もある。
どちらも意図することは同じである。
良之は、後に至るまで、このときの純鉄供給が飛騨に産業的優位を
与えたことに気づかなかった。
飛騨地方では鉄製品の生産量が飛躍的に増大した。常に鍛冶は人手
不足になり、やがて各地から、良之の領地に鍛冶師やその志望者が
集うことになった。
逓信総合博物館に所蔵されている宿村大概帳によると、開幕後、徳
川家康は大街道を6間、小街道を3間、補助路を2間と定めた。
一間が大体1.8メートルなので東海道など主要幹線道路は10.
8メートルの道幅を指定したことになる。
現実にはそううまくいかなかったようだ。
江戸から品川までのような平地ではともかく、街道工事が山間地に
入ると、当時の行政担当者たちは道幅については妥協せざるを得な
かった。
それでも、かつては等高線地図の標高を表す線に沿って右に左に九
十九折りで登って、山の尾根沿いにふらふらと付けられていた道が、
想像を絶する人海戦術によって、まっすぐな街道として整備されて
いる。
この工法を﹁切り通し﹂という。
314
行く手に山があれば人力で谷を作り、平地でもわざと地面を削いで
道路を作り、そこに河原の砂利を敷き詰め、その砂利を丸太や板で
叩き馴らして平らにして、牛馬や荷車の通行を容易にした。
さらに、切り出した土砂を路肩に積んで突き固め、水害への備えと
した。
この頃切り通しで作られた街道の名残は、鎌倉や日光、箱根、京な
どで残っている。
この工法自体は古い。
鎌倉街道。﹁いざ鎌倉﹂の言葉と共に知られるこの政策道路は、当
時の土木技術を発展させた。
同時に切り通しの技術も爛熟した。
中にはトンネルまで掘られた街道が現存している。
鎌倉当時の建設工具のことを思うと、どれほどの人力と期間がかけ
られたのかが偲ばれる。
その鎌倉道には、もう一つ、後世の街道とはっきり違う特徴がある。
戦略道路であるため、道幅が異様に狭いのである。
場所によっては、一間かそれ以下という事もある。防衛側が敵を隘
路に閉じ込めるという思想で作られているのだ。
一方、江戸期に開削された街道は、経済道路である。
荷車が上りと下りですれ違えることを意図して作られているため、
平坦で、直線的で、広い。
良之が黒鍬衆と金山衆、そして彼らが指揮する労夫たちに指示した
のは後者である。
現在平湯から神岡につながっている鎌倉道は、狭い上に激しく蛇行
し、場所によっては、その後ほぼ廃れていたため、川の氾濫などに
よって切れている。
深い山中でもあり、山の崎がノコギリの歯のように入り組んでいる
場所もある。
315
そうした場所は、掘削させた。
川が邪魔であれば、川底を浚わせ付け替えさせた。
浚った土砂はそのまま堤防として築かせた。
さらに、橋を架けさせた。
従来の思想とは全く異なる工法を粘り強く親方衆に説明し、やがて、
彼らのスキルとして定着することになる。
江馬左馬介と塩屋筑前守は検地に難儀している。
良之はその状況を聞き、
﹁今の年貢の割合はどうなってます?﹂
と聞いた。
飛騨はさほど国人の権力も強くない。場所にもよるが、実質は五公
五民程度がいいところらしい。
﹁十月中に検地を終わらせることが出来た村は、来年四公六民にし
ます。出来なかった村には賦役を課します﹂
全ての村長に告知して下さい、と良之は命じた。
効果はてきめんだった。
江馬領も塩屋領も全て、十月中に検地を終え、戸籍も更新された。
飛騨の山方衆、匠衆、それに木工職人たちの主立った者達を集め、
良之は、棹銅箱を量産するよう斡旋した。
以前小田原で箱根職人に作らせた棹銅箱である。
この地も冬期は雪に埋もれるので、こうした家内工業には受け手が
居るだろうと考えたのだ。
箱の角を補強する金具や釘は、現在平湯に集まっている鋳物師や鍛
冶師たちに作らせればいい。
316
一つ三百文の値を付けたので、職人たちは関心を持って、寸法を測
ったり木組みの工夫を考えたりしつつ帰って行った。
良之は、多忙を極めた諸事が一段落付いて、やっと鋳銭のあれこれ
を考える時間に恵まれた。
造幣所をどこに建てるか。
その条件は、交通の便が良く、防衛に適していて、平地があること
になる。
やっぱり神岡かな、と考えている。
良之の考える銅銭製造は、一口で言うとプレス打ち抜きと打刻だっ
た。
えんぎょう
彼が見学した造幣局の製造法と同一である。
まず、地金を板金にして巻き取る。
その板金を加熱しながらプレス機で円形に打ち抜く。
打ち抜かれた円形は再び加熱され、高速回転する洗濯機のドラムよ
うな機械で縁が作られる。
これには真ん中に心棒があり、ドラムと心棒の隙間が、その硬貨の
直径にぴったりになるように調整できるものだ。
この機械の中で高速に延慶は回転を繰り返し、硬貨の縁が出来上が
る。
これを酸で洗浄する。工程中に付着した油脂分を取り除くためで、
酸で洗ったあとアルカリ中和を行い、良く水洗いされて乾燥機にか
けられる。
こくいん
そして、最後の工程がプレス打刻だ。
硬貨の打刻は極印と呼ばれる。
偽造を防ぐためにはこの刻印は常に正確に同一で無ければならず、
かつては造幣局にはこれだけを一生涯の仕事として勤めた彫刻師た
317
ちがいた。
この部分は、良之が錬金術で複製したらいいと考えている。
この打刻機によるプレス生成を、日本の造幣局では最大、一分間に
1500枚の速さで生産できるという。
工場見学でその話を聞き、驚いた思い出があり、良之の記憶に深く
刻まれている。
ここまでの工程を工業化する。
それに必要な工業設備を良之は想定した。
まず、地金の圧延に必要なのが鋳炉とローラーコンベアとモーター
だ。
加圧には油圧も必要になるだろう。
次に円形にコインを打ち抜くプレス機。これも数十トンの油圧プレ
ス機とプレス形が必要になる。
回転ドラムには、加熱器とモーター、洗浄器には産業ロボット、乾
燥機には加熱送風機。
最後の貨幣打刻には、プレス機。
良之は、可能なら銭らしい四角い穴を開けたいと思っているが、お
そらく、これが最後の技術的な課題になると思われる。
言うまでも無く、ここまでの工程で最も必要になるのは電力であり、
次に、人力である。
全ての工程を自動で行うにせよ、機械を知り抜いた職人の監視が必
要になるし、不具合に対応出来る知識も求められる。
完成品の検品も1000枚ごとに一貫として束ねるのも人力に頼る
しか無いだろう。
油圧はパスカルの原理である。この原理を応用した器具を作成する
ために、この戦国時代で問題になるのは油の調達だった。
318
大山崎の油座を見学したのは、このためだった。
結果ははかばかしくない。
植物油生成のプラントを作らねば、到底数十トンの品質が求められ
る油圧プレス機に使うことは出来ない。
また、露天掘りである越後の原油もあまり油脂の精度に期待できそ
うに無い。
319
天文20年冬期 1
天文二十年十一月一日。新暦では11月28日。
良之は飛騨を家臣たちに任せ、厳冬期に京と堺で活動することに決
めた。
﹁隠岐大蔵﹂
﹁は﹂
﹁飛騨での俺の名代を頼む。攻め込まれた場合、交戦を許す﹂
﹁はは﹂
﹁江馬左馬介、神岡代官を任せる。塩屋筑前、丹生川代官に任ずる。
まあ2人とも、今まで通りの感じで頼む﹂
﹁はっ﹂
﹁服部半蔵、兵1000、鉄砲500を預け、江馬左馬介付きを命
ずる。千賀地石見にも兵1000、鉄砲500を預け、塩屋筑前付
きとする。しっかり守ってくれ﹂
﹁はっ﹂
﹁承知﹂
﹁望月三郎は兵500鉄砲300で平湯を守れ﹂
﹁はっ﹂
﹁鈴木孫一殿、三郎の与力をお願いいたします﹂
﹁承りました﹂
﹁残りは俺と京に上る。準備を頼む﹂
﹁御所様﹂
江馬左馬介が評定のあと声をかけてきた。
﹁実は、お馬廻りに1人、我が子円成を置いていただきたく﹂
見ると、剃髪した若者が1人付き従っている。
320
僧衣である。
﹁分かりました。馬には乗れますか?﹂
﹁は﹂
﹁じゃあ騎乗で従って下さい﹂
﹁承知いたしました﹂
随分利発そうな少年だった。
すぐに旅装を整えに走り去る。
﹁左馬介どの。古川や広瀬、高山あたりの調略、くれぐれもご用心
下さい﹂
﹁⋮⋮は、はい﹂
いきなり良之に言われて、江馬左馬介は驚いた。
左馬介は、内ヶ島の取り込みが不調に終わったあと、文を使って塩
屋と共同で、高山周辺の国人層に、二条家への帰順を促す書状を送
っている。
こうした動きは、当然、内ヶ島や姉小路、三木を刺激しつつある。
今回、丹生川の塩谷氏居城である尾崎城に千賀地を入れ、兵を10
00付けたのも、こうした動きと無縁では無い。
よもや真冬に戦など仕掛けはしないだろうが、雪解けを待って軍を
動かす可能性は無いとはいえない。
﹁現状は、彼らよりあなた方の安全の方が俺にとっては大事です。
くれぐれも、安全に。それと、身体を労って下さい﹂
良之に言われ、江馬左馬介は感激した。
神岡を立ち猪谷で一泊、そのまま富山の岩瀬から船便で敦賀に向か
う。
敦賀からは陸路で比叡山、そして京の市街に上った。
321
良之は禁裏に参内し諸事報告。下がって女御たちに塩、肴などの提
供をした後に山科邸へ赴き、金150両を納める。
この時期の山科家の逼迫は厳しい。
特に、三好家の被官である今村紀伊守慶満あたりに内藏寮率分関を
横領され、わずかに残った運営費まで喪った。
このとき良之が支払った150両は、飛騨の山科家領、内蔵領から
の収益という名目にして、山科卿が受け取りやすくした。
その後、二条の実家に戻る。
この頃、やっと二条家では、資金難から解雇せざるを得なかった家
令たちが戻り、京の商人、特に皮屋今井宗久、小西屋小西宗寿らに
よって、塀の修復、館の修繕などが進んだ。
禁裏も、良之の献じた金によって、いくつかの施設が再建され、生
気を取り戻した感があった。
翌日、帝の命により参内。
周防で死んだ次兄に代わり、左近衛中将を拝命。
しゅうと
良之はその後、三好筑前守長慶に面会し、改めて遠里小野と船尾の
土地について礼を述べた。
この年、筑前は二度も暗殺未遂に遭遇し、さらに岳父遊佐長教まで
が暗殺される事態となり、精神的に参っていたようだった。
非常に優れた人物でありながら、この人物の精神には貴族的な線の
細さがある、と良之は思った。
しものしょう
翌日には良之は京を立ち、醍醐寺に宿を取った。
翌朝、藤吉郎と源十郎のみを供に、笠取山の下庄を目指す。
この一帯は、日本に数ヶ所しか無い重晶石の産地である。
322
良之の鉱山の知識には、種元がある。
日本鉱山総覧や鉱床総覧を底本に、データベース化された鉱山鉱床
の電子地図がある。
良之はこのデータをUSBでコピーしてあった。
鉱山が工業史に与える影響の分析のために揃えたデータだった。
廃坑になるとその地に栄えていたはずの都市が、たった10年たら
ずで風化してしまうため、論文の課題としてはあきらめた。
ちなみにこのデータ、鉱石マニアと廃墟マニアの学生たちには大変
人気のあるデータ群だった。
笠取下庄一帯で心ゆくまで重晶石の採取を行った良之は、日暮れ前
に慌てて醍醐寺に引き返した。
重晶石。硫酸バリウム鉱である。
病院で胃のレントゲンを撮る時に飲まされることでおなじみの物質
で、ほぼ中国などからの輸入に頼っている鉱石の一つである。
良之がこの鉱石を欲したのは、言うまでも無くフェライト磁石作成
のためだった。
良之の錬金術では、原子単位の抽出精製や有機・無機物の化合物合
成は可能だったが、たとえば水銀の原子を金に換えるような力は無
い。
そのため、化合物作成であっても必ず、オリジナルの元素が手元に
必要になる。
山城・丹波にはもう一箇所、京北にバリウム鉱が産出する地域があ
る。
日本においては、残るのは蝦夷しかない希少鉱だ。
宇治から多賀、田辺に下り、西に進路を取って淀川沿いを下り、石
323
山へ。
一行は石山の寺町で休息を取る。
良之と源十郎は法主証如にあいさつに訪ねた。
﹁法主様、先日は平湯開拓にお力添え、ありがとうございました﹂
﹁御所様、お久しゅうございます﹂
良之は、この時代屈指の知性である証如に、この一年の行動を話し
て聞かせた。
そして、特に、刀狩りによる庶民の武装解除と、警察・軍の専門職
化による治安向上のアイデアについて説明した。
﹁俺はこれを、白川の照蓮寺や帰雲城の内ヶ島にもいずれ徹底させ
たいと思っています﹂
﹁む⋮⋮しかし御所様、そうなると、戦は避けられますまい﹂
証如は、表高では分からない内ヶ島の豊かさと、加賀の一向宗門徒
との結束を知っている。
かつて越前の朝倉氏が加賀の一向宗門徒と武力対立した際、越前国
境を門徒に対して封鎖した。
門徒衆は物資や人の移動を越前の街道から白川の街道に頼り、いつ
しか美濃の郡上から白川を抜け、小松や金沢へと至る街道が整備さ
れるに至った。
こうした長年の強い絆があるからこそ、加賀門徒衆の武力を背景に
内ヶ島は強気なのだと良之は見ている。
﹁法主様、門徒衆はなぜ武装しているのでしょう?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
話せば長い質問である。この時代の本質を突いた質問であり、証如
に取っては、正当性を証明するためには、全身全霊を以て対峙せね
ばならぬ事柄である。
﹁俺は、門徒も国人も大名も、突き詰めればより良く生きたいから
武装してると思います﹂
﹁より良く?﹂
324
﹁女房子どもを守りたい。財産を守りたい、村を、畑を守りたい﹂
証如はうなずいた。突き詰めると、もちろんそうである。
﹁ところが、中には不心得者も居て、代官や庄屋や豊かな商人を打
ち壊して、反対に奪う者も居る。その最たるものが合戦です。でも
門徒もそうした夜盗強奪の類いをやっている﹂
﹁⋮⋮返す言葉もございませぬな﹂
証如自身、何度も加賀の一揆衆のリーダーを破門している。
おおやけ
力を持つと人は奢る。残念ながら、それは僧侶でも変わらない。
﹁俺は公な組織を作り、警察、軍のみに武装を許し、残りの四民・
万民は全て武装を禁じる社会を作ろうと思います。代わりに、商人
ぎょうしゅん
や農民が戦争なぞに狩り出されなくても幸福に生きていける社会を
目指します﹂
﹁それはまるで、堯舜の世のようなお話ですな﹂
証如はため息をついた。
堯舜の世という概念は古い。
中国でも長い間国が乱れた。世が乱れると偉人が生まれる。偉人た
ちは常に、遠い過去の堯舜の治世を振り返り、理想に掲げた。
孔子や老子、孟子などの思想家の著作によって、あるいは司馬遷の
史記などによって、こうした思想は戦国期の日本にも広く知れ渡っ
ている。
しのび
ある日堯帝は、お微行で里に下りた。
そこでは人々が陽気に歌いながら働いていた。
日出而作
日入而息
鑿井而飲
耕田而食
帝力於我何有哉
325
日が出たら作り
日が暮れたら休む
井戸を掘って飲み
田んぼを耕し食う
帝の権力なんてわしらにゃ関係ない
この歌を聴いた堯帝は心から満足し、帝位を禅譲し引退した。
﹁帝のおかげで平和に暮らしてる﹂
などと言う者がいるうちは本当の善政では無い。
善政が行き渡れば、帝の存在さえ忘れられる。そう説いているのだ。
﹁御所様。愚禿には今ここでお答えする事は出来ません。ですが、
もし愚禿が生きている間にそのような世が来るとしたらその時は⋮
⋮御所様の傍らで愚禿もその世を見てみたく思います﹂
﹁その言葉だけで何よりです﹂
良之は証如に頭を下げた。
﹁ただし、加賀のこと。重々心にお留め下さい。欲得で兵を使う事
があれば、俺は絶対許しません﹂
心得ました、と証如は言ってくれた。
翌日。
払暁から船を出してもらい、一行は堺へ赴いた。
天文20年12月1日。
新暦ではすでに1551年の12月27日に至っている。
堺について早々、良之は一行に
﹁3月までは滞在するから、それぞれ師匠を見つけて修行するよう
に﹂
326
と言い渡して、小者たちを本願寺堺別院に寄宿させている。
うまのじょう
良之とフリーデ、アイリ、千、阿子。
それに藤吉郎や滝川、下間、江馬右馬允は、良之と同じく皮屋の別
荘に入った。
右馬允は、江馬時盛の三男で僧籍に入れていた円成を、良之の供回
ゆきもり
りに加えるにあたって還俗させた。
諱には良之からの諱を一字与え、之盛としている。通称は右馬允。
聡い子で、滝川からは武芸、下間からは鉄砲、藤吉郎からは学問を
習っている。
その誰からも、将来が楽しみだと期待されている。
武野紹鴎は、この冬体調を崩した。
早速アイリと千をやって治療させると、早くも翌日には本復し、精
力的に働き出した。
その紹鴎と連れだって、良之は船尾に向かった。
すでに干拓、環濠の工事が終わり、現在は急ピッチで銅座の建築が
進められているという。
紹鴎に率いられて主従は馬で、住吉道を南に延ばした街道を進む。
この道も以前には無かったもので、紹鴎らの指示で開削されたもの
だった。
﹁へえ、橋を架けたんですか﹂
石津川には橋が架けられていた。銅座橋、と名付けられたらしい。
﹁船着場も作りました﹂
かつて猟師の小屋が建ちならんでいた一帯は船着場となっていた。
川を浚って水深を下げたらしい。随分と大規模な工事をしたものだ
と感心した。
外周を案内されると、かつて湿地帯の四つ池からの排水が流れてい
た三光川も完全に開削され、銅座の環濠へと変貌していた。土は街
の内側に土塁として積み上げたらしい。
外から見たら堂々とした城構えにさえ見える。
327
街の南東の端に今池を取り込んでいる。この今池から北に向かって
も新しい堀川が掘られ、石津川につなげられている。
内部には、鋳物師たちが信仰する三宝荒神、稲荷神、金屋子神など
の寺社が建てられ、北西から南西にかけては土蔵が、北東から南東
にかけては職人の居住地が建ちならぶ。
中心一帯には、鋳物師の作業場、銅座、そして分銅工房が建ちなら
んでいる。
﹁これは大変だったでしょう、本当にお疲れ様でした﹂
良之は労った。
﹁わては器をこさえただけ。こっからがんばらなあかんのは、広階
の親方たちでっさかいな﹂
照れくさそうに、それでも誇らしそうに紹鴎は答えた。
その後、広階美作守の所にも顔を出し、大いに労って良之たちは堺
に戻った。
328
天文20年冬期 1︵後書き︶
式村比呂です。ご感想など本当にありがとうございます。
ご質問・ご指摘など、活動報告にてお答えできる部分についてお返
しいたします。
4/1より、一日1回の更新とさせて頂きます。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
329
天文20年冬期 2
遠里小野は、一時沸いた鋳物師たちによるバブルのような景気から
一転、随分冷え込んでしまっているらしい。
良之は早速、紹鴎の案内で遠里小野の郷に向かった。
遠里小野はかつて、製油業が盛んだった。
大山崎に興った荏胡麻油の生産に質・量共に凌駕されて没落した。
この時代、細々と在来種の菜種を絞って頑張ってはいるが、未だ荏
胡麻油に対抗しうる実力には至っていなかった。
製油に使う菜種のうち在来種を赤種、西洋種を黒種と呼ぶ。
この時代には、未だ日本古来種の赤種が搾油に使われていたが、生
産量は微々たるものだった。
良之は村長に、菜種油の生産量を増やすための資金として100両
提供した。
代わりに、生産した油の全てを皮屋に納めること。
そして、生産量の多い菜種を入手してくるので、それによって量産
することを約束させた。
南蛮商人が日本を顧客とするこの時代であれば、良之には当てがあ
った。
セイヨウアブラナは、遠里小野や灘を中心に江戸期に栄えた。
応仁の乱に参加したことで没落したとは言え、まだこの戦国時代に
おいては、油と言えば荏胡麻だった。
山崎から日本各地に逃散した神人たちを各地の大名は庇護し重用し
た。
結果各大名家はお膝元で荏胡麻油の量産に成功し、すでにこの頃で
は山崎にはかつてのような賑わいは無く、油税とでも言う運上金を
330
各地から払い受けてもらうことでかろうじて利益を上げている。
遠里小野が菜種によって復活するのは、まだこの時代から50年以
上待たねばならなかった。
それだからこそ、三好筑前守も、気軽に良之にこの地を譲ったので
ある。
とにかく技術の育成と保存のため、今は遠里小野の職人たちには、
在来種の赤種で菜種油を生産してもらうしか無い。
紹鴎に赤種の買い付けと供給を依頼し、遠里小野の郷から堺に戻る。
二条家会議である。
﹁さて、とりあえず銅座も動き出したし、飛騨にも足がかりが出来
たけど⋮⋮﹂
﹁足がかりと言うには広すぎるのが気になるな﹂
言いかけた良之を揶揄するように半笑いの虎御前がかぶせてくる。
﹁⋮⋮だよね﹂
だが全く意に介さないどころか、良之もうなずいてしまう。
﹁御所様。とはいえ飛騨なら易々と落とせんでしょう? 江馬、塩
谷それぞれの兵力は1000。それに常駐軍が、服部と千賀地いず
れも1000。これらのうち500ずつ、種子島を配してある﹂
滝川が言う。
﹁おそらく、内ヶ島が総動員で1000、三木も多くても2000
は行きますまい﹂
﹁⋮⋮源十郎、内ヶ島は1000か?﹂
﹁いえ御所様。もし背後の門徒衆の合力があれば、5000が動い
てもおかしくはございません﹂
下間源十郎が答えた。
331
﹁法主様から釘を刺せてもらえるとは思うけど、加賀の門徒衆は従
うと思う?﹂
﹁彼の地は、時に法主様のご意向さえ無視して居ります。そのあた
りは何とも⋮⋮﹂
﹁彦、三木もさ、もし美濃への押さえがいらなくて、姉小路と古川
を従えたら?﹂
﹁4000ほどにはなるかも知れませぬな﹂
指摘され、滝川が訂正する。
﹁鉄砲が全然足りないよね﹂
良之の言葉に、一同うなずいた。
﹁彦、早合の開発具合はどうなの?﹂
﹁まあ、ぼちぼちですな﹂
滝川は腕を組んだ。
﹁御所様の言いつけ通りに、薬筒をこさえて使わせておりますが、
どうにも熟練が必要なようで、誰でもがすぐに早合を使えば早く装
填できる、とまでは至っておりませぬ﹂
﹁逆に言えば、慣れれば早い?﹂
﹁御意に﹂
早合。
良之は紙で作らせている。
銃口にフィットするサイズに紙を丸めて筒を作る。
その筒をしっかりと漆で塗り固めて、今風に言うと散弾銃のカート
リッジのようなものを作るのだ。
筒を同じ長さに切り分けたあと、片側には底を貼る。
出来た筒に鉛玉を入れ、その上に一回分の玉薬、つまり火薬を封入
する。
最後に、封をして持ち運ぶ。
玉入れは皮屋に依頼して、ポーチのような腰袋を今量産してもらっ
ている。
332
﹁みんなが早合を使いこなせるようになると、だいぶ防衛戦には有
利になるけど⋮⋮もう一工夫必要かなあ﹂
﹁工夫、でございますか?﹂
藤吉郎が興味深そうに聞き返す。
﹁手投げ爆弾とか、爆裂矢とかかなあ?﹂
﹁なんですその物騒な武器は﹂
呆れたように滝川が素っ頓狂な声を上げる。
﹁うーん、まあ一度試作してみるけどさ、作るだけで危ないんで、
ちょっと保留﹂
一同、それを聞いて青くなった。
﹁アイリとフリーデの日本語の方はどうなの?﹂
﹁だいぶん上手になられました﹂
阿子が答え、千がうなずく。
﹁2人の魔法の方は?﹂
﹁千殿はもうアイリ様の助けなしに治療が出来ます。妾は、お薬の
作り方を教わっております﹂
﹁そうか。とにかく、2人には良く覚えてもらって、藤吉郎や源十
郎、右馬允たちの先生になってもらわないとね﹂
﹁ぐ、愚僧もですか?﹂
源十郎が寝耳に水と言った評定で顔を上げた。
﹁うん、覚えると便利だよ﹂
良之は<収納>からぱっと財布を取り出し、また消して見せた。
﹁まあとにかく、アイリと千は引き続き回復魔法の可能性を探って。
フリーデと阿子は、魔法薬の研究をお願い﹂
4人はうなずいて答えた。
﹁銅座による南蛮絞りと棹銅の供給は今んとこ、いい感じではある
けど、東北と四国、九州あたりの商家まではまだ行き届いていない
ね⋮⋮﹂
333
皮屋の報告を見て、良之は少し考え込む。
﹁今年の冬は、博多と平戸に行ってみようと思う﹂
博多も平戸も、南蛮商人たちの第一選択港だ。
比較的日本海側で自由に活動する明の商人と違い、南蛮商人たちは、
言葉の問題や風俗の違いによって生まれる軋轢に慎重で、この時期
なかなか堺には進出してこない。
このあと、キリスト教の伝播に従って堺に船を入れる商人が増える
のだが、それはもう少し先になる。
﹁とりあえず、彦と源十郎は、小者たちの射撃訓練をしておいて。
俺は船で博多に行く。供は、藤吉郎と右馬允にしようか﹂
﹁では、千もお連れ下さい。回復魔法の術者がそばに居た方が何か
とよろしいかと思います﹂
アイリが推挙する。良之もうなずいた。
﹁あたしも行くかね﹂
にっと虎御前が笑った。その顔を見て男どもはすくみ上がった。
滝川も猛者であるが、実は武芸では虎御前に勝てる気がしないらし
い。最高の用心棒である。
﹁ところで、銅座の常駐軍だけど。誰か推挙はある?﹂
良之は一同に聞いた。
ここには伊賀の服部や千賀地、甲賀の望月は居ないが、彼らの手の
者は飛騨の押さえで残してある。
滝川が発言を求めた。
﹁身内びいきで申し訳ないが、中村孫作を使ってやっちゃくれねえ
か?﹂
﹁孫作?﹂
﹁ほれ、一重ヶ根の番の番頭をやらせてた男よ﹂
良之にも覚えがある。
実直そうな男だった。これと言って印象に残るほどのつきあいは無
334
かったが、滝川が推挙するなら間違いは無いだろう。
﹁分かった。呼び寄せの手配は任せる。他は?﹂
﹁国元に、まだ青二才だが滝川儀太夫ってのが居る。もし雇っても
らえるなら呼び寄せるが⋮⋮﹂
﹁うん、じゃあ手配を頼むね。小者は1000人くらいまでなら雇
っていい。遠里小野からしばらく若いのを雇ってやってくれると嬉
しいな。食料や金は皮屋に頼って﹂
﹁承知した。かたじけねえ﹂
彦右衛門は、自分の推挙した人物を二言も言わず引き受けた良之に
頭を下げた。
﹁その代わり、しっかり鍛えて置いてよ﹂
そう言って次の話題に移った。
﹁この中に、獣の肉はどうしても食えないって人はいる?﹂
誰も名乗り出ないところを見ると、どうしても口に出来ない者は居
ないようだ。
だが、生理的嫌悪感や忌避感がある者は居るようだ。
阿子は少し顔をしかめた。一般に、獣肉は汚れがあると信じられて
いる時代のことだ。
﹁むしろ、御所様はお口にできるんで?﹂
藤吉郎はそっちの方が驚きだという顔をした。
公卿はことさらに汚れを嫌う。
﹁まあね。ただ、そう言うからには帝や公家には知られない方がい
いのか?﹂
﹁それは、まあ⋮⋮﹂
﹁わかった、気を付けるよ。で、話を戻すけど。俺はなるべく早い
段階で、食用になる動物を手に入れて、食糧事情を改善したいと思
ってる。その辺はどう思う?﹂
これには一同⋮⋮良之とアイリとフリーデを除く全員が顔をしかめ
た。
335
家畜の屠殺と食用は、実は明治以降でも日本人には強い抵抗と忌避
感が残った。
﹁魚はうまいけど、さすがに毎日だときついんだ。食べられない人
に無理強いするものじゃ無いけど、食えるなら、俺は肉が食いたい
し、人間ってのは、肉食った方が身体も強くなるし、長生きもする﹂
それはもう、人体とはそういうものだとしか言い様が無い。
なぜ日本に家畜をつぶす事に忌避感があるのか良之には分からない
が、それは本来、決して悪い倫理では無い。
その倫理を同じ人間にまで広げてくれていたらもっと良かったのに、
と彼は思う。
人間は進化の過程でいろいろ喪ったが、植物の摂取で栄養素を生み
出す臓器もそのひとつだ。
虫垂などもその名残と言われている。つまり、端的に言うと、すで
に人間という生き物は、構造的にも肉食動物なのである。
﹁まあ、あれだね。君たちには一度試食してもらうから、食べられ
るかどうかはその時決めたらいい﹂
良之は、この時代の肉食の風を彼らの反応で知れただけで良いと思
った。
実際、この時代の人間は肉食もする。
おそらく、野獣の類いは食べるが家畜は食べないというのは、情が
移るからだろう。
それに、畜産技術も高くない。家畜は貴重な労働力でもあるのだ。
食肉用につぶすというのは考えにくいのだろう。
正直、フリーデもアイリも、そしてもちろん良之も、さすがに肉に
飢えていた。
336
旅に出た紀州以降は、稀に領民の狩った肉をお裾分けで夕餉に供さ
れることはあった。
﹁公家は肉を嫌う﹂
などという良之にとってありがたくない常識がこの世界に蔓延して
るため、甲斐の武田あたりではわざわざ良之の分だけ肉が無かった
りしたものだ。
聞いたところでは、平戸には、南蛮人が持ち込んだ豚・牛・鶏を育
てる牧場もできはじめているらしい。
良之にとっては、夢が広がるばかりである。
337
天文20年冬期 3
﹁南蛮商人にお会いなさるなら﹂
と、武野紹鴎がいくつか交易にかけるおすすめ物資をリストアップ
してくれた。
良之の心が動いたのは、丹である。
丹、水銀の事である。硫化水銀、つまり辰砂は、国内には希少な鉱
物資源だ。
国内において最も多く産出するのは、伊勢の多気から大和の宇陀を
直線に結んだ線状にある一帯で、これは、いわゆる日本列島の中央
構造線とほぼ一致する。
中国の市場においても、いつの時代であれ丹は高額だった。
三国志時代に関羽の治めた武陵の一帯が、中国における辰砂の一大
産地だ。
山肌を削っても削っても、赤い土が現れるほどの露天鉱で、世界的
な産地である。
元江︵正しくはさんずいに元︶を下るとやがて長江に合流し、上海
に至るこの産地は、悠久の昔から川舟で大いに辰砂を輸出していた
ことだろう。
辰砂は国内では朱砂と黒砂で産出する。
黒い方は色素的な優位に乏しく、水銀鉱としての価値以上に値打ち
は無い。
赤い方は、神社仏閣の丹塗りの色素や朱肉といった用途が大きい。
他にも生糸、絹織物、硝石、鉄砲などが候補品に挙がっている。
それらはあまり良之の関心を惹かなかった。
338
12月4日。
良之、フリーデ、アイリと木下藤吉郎、江馬右馬允之盛、長尾虎、
望月千の7人が、堺発博多行きの貿易船に乗り込んだ。
石山、渡辺津あたりでは上陸しなかった良之は、姫路では上陸。
この時分の姫路港は飾磨津と呼ばれていた。
粗銅の棹銅を買い占め、純銅の棹銅を売り、余剰食糧の類い、そし
て塩を買った。
次が玉島湊。
この頃の倉敷は、後に宇喜多氏がはじめる大干拓による児島などへ
の接続は無く、多島海の風光明媚な風景が広がっていた。
赤馬関は、古来馬関と呼ばれる。下関、という呼称もある。
下関に呼応する上関は竈戸関である。
関という名前から分かるように、どちらの関でも通行税を徴収した。
その上関の海軍の長が、能島村上氏だ。
下関は大内氏によって栄えた港だが、同時に、日明貿易や対岸の門
司への物流路という事もあり、古くから富を蓄えた。
良之は赤馬関には上陸し、下関屋でいつものように大商いをした。
粗銅を買い純銅を売る。そして、食料を蔵ごと買い上げる。
このときの公卿を、下関屋の主、佐甲藤太郎は深く記憶した。
﹁あれは、こないだ討たれた二条様の御落胤であります﹂
手代たちが集めた情報によって正体を知った。
339
下関屋はこの時代にはすでに堺相手に大商いを行っている。
当然、すでに﹁二条分銅﹂﹁大蔵分銅﹂などと呼ばれる官許分銅も
導入していた。
また、すでに官製の棹銅も赤馬関では数多く見られるようになって
いた。
そうした施策の話題の主だと知り、佐甲は慌てて追ったが、すでに
船は、博多に向け出てしまっていた。
よししげ
この頃の博多は、大友修理大夫義鎮が領有している。
言うまでも無く、陶隆房の謀反により空白化した九州北部を電撃的
に掌握した裏には、隆房との約定があってのことだろう。
ちなみに、この時代の博多は、まだ河川の付け替えなどが行われて
いない元寇以降の状況そのままで、まさに水の都というのにふさわ
しい。
良之たちは上陸後すぐ、大商家の神屋を訪ねた。
日明貿易、日朝貿易で財をなしただけあり、贅沢品、嗜好品の在庫
が凄まじい。
そして、彼らが扱っている棹銅は、南蛮吹きがされている。
﹁これはどこの銅ですか?﹂
手代に聞いてみる。
﹁石見産と聞いています﹂
なるほど、と良之は思った。
石見銀山を神屋が得るきっかけは、近隣の銅山の採掘権を得たこと
だったらしい。
3代前の神屋寿禎は、南蛮吹きを学ぶため中国の現地の冶金場に潜
り込み技術を学んだ。
340
そして帰国時に優れた職人2人を引き抜き、日本に連れてきている。
その寿禎が船から山を見て、銀の輝きに気づいたとされる逸話は、
この時代でも商人の間では有名だった。
神屋が管理する石見の鉱山では近隣の鉱山も併せると金、銀、銅、
鉛が産出されている。
非常にバランスのいい鉱山経営だっただろう。ことに、南蛮吹きを
マスターしたあととなれば。
ひとまず、現当主神屋紹策にあいさつをし、銀で金を買ったり、棹
銅を買い上げ、代わりに純銅製の棹銅を売却したり、砂糖や小麦粉
を購入した。
神屋紹策には、ひとつ依頼があった。
﹁紹策殿。﹃燃える石﹄はご存じですか?﹂
﹁はて?﹂
﹁筑後と肥後の国境、三池のあたりで採れる黒くて燃える石のこと
です。他にも、筑前と豊前の国境、香月と呼ばれるあたりにも多く
産します。これを採取し、飛騨や堺に輸出して欲しいんです﹂
﹁燃える石⋮⋮﹂
﹁石炭、といいます﹂
良之は出来るだけ詳しく石炭の特徴を話した。
もっとも、現地に行けばすぐに分かる。この当時、地元の人間たち
は燃料に使っていたのだ。悪臭があるので屋内の煮炊きには向かな
いが、屋外であれば、露天でただのように転がっている石なのであ
る。
﹁分かりました。少し調べさせていただきましょう﹂
﹁ではひとまず手数料という事で、100両ほどお納めいたしまし
ょう﹂
341
もう一つ、神屋と良之の間で、大きな取引があった。
﹁官許にございますか?﹂
棹銅を官許品に定めたことを良之は告げた。
﹁神屋殿は、もちろんわが日本の銅に、銀が含まれることはご承知
ですよね?﹂
無論である。
神屋が貿易商から貴金属の鉱山を預かるに至った秘伝中の秘だ。
﹁俺は帝に奏上し、この棹銅から海外に銀が流出していることを問
題視し、これらを南蛮吹きで精製してからで無いと国外への持ち出
しを許さぬ勅令を発給していただきました﹂
神屋紹策の目の色が変わった。
棹銅は最も大きな明・朝鮮・南蛮への輸出品目だからである。
﹁先ほど店頭で買い求めた神屋殿の棹銅ですが、きっちり南蛮絞り
にて施されて居りまして、品質に問題はありませんでした。ですが、
官許の証である五三の桐の紋が打たれておりません﹂
当然である。現在この打刻が許されているのは、堺銅座の広階一門
のみだ。
﹁そこで、当方から検査人を派遣し、神屋殿がお作りになる棹銅の
勅許印を打刻することを提案します﹂
﹁なんと⋮⋮﹂
﹁もちろん、正式に帝より勅許を授けていただきますゆえ、そうな
れば棹銅に関しては神屋殿は御用商のお墨付き、となります﹂
紹策は暫し黙考した。いいことばかりでは無い。勅許、検査人の受
け入れとなると、おおかた何らかの費用を要求される。
棹銅の利潤が減るのである。
﹁して、その対価はいかほどになりましょう?﹂
﹁勅許に対しては幾ばくかの心付けをお願いします。検査人と打刻
の手数料に関しては、派遣に1人年100貫文。別に作業賃1人あ
342
たり年100貫文、でいかがでしょう?﹂
それを5人。一年に一千貫文である。
紹策はほっとした。それで天下御免の資格と御用商の看板が手に入
るのであれば、安いものである。
﹁承知いたしました。御所様には何卒よろしくお手続きいただきま
すよう、お願い申し上げます﹂
紹策は即断した。
こうして良之と神屋の初会合は終わった。
この時代の博多には、博多屋という酒卸商もある。
博多屋は酒以外に、大名貸しと呼ばれる貸金業で大きくなった。
ここにも一応顔を出し、銀で主に鐚銭を買い上げた。
博多屋は大いに喜んだが、良之は日本の東西の金銀銅の為替差を大
いに利用しているので、博多屋が思うほどの不利益は被っていない。
むしろ、よそに比べても格安で鐚銭を入手出来て良之自身にもメリ
ットが大きい。
そして、ついに良之たちは、今回の目的地である平戸へ向かう。
博多から西に航路を取りおよそ一昼夜。
途中で荒れた場合は唐津で潮待ちをするが、幸いにもこのときの航
海は順調だった。
平戸はこの時点で、南蛮貿易の拠点のようになっている地域である。
倭寇の海賊王として名高い五峯、中国名・王直が平戸に住み着いて、
やがて平戸にポルトガル人を紹介したのがそもそもの馴れ初めだっ
た。
やがて、昨年天文19年にはフランシスコ・ザビエルが平戸に訪れ、
ここで教会を開いた。
343
領主は松浦肥前守隆信。元服当時は主筋だった大内義
を偏諱されている。
から隆の字
ザビエルの斡旋によって、これ以降毎年、ポルトガル船の来訪があ
り、平戸は大きく栄えることになる。
平戸入りした良之はまず松浦肥前と謁見した。
松浦肥前は享禄2年︵1529年︶生まれなので、良之と同い年で
ある。
肥前は、この京から来た貴人の来訪を喜び、大いにもてなした。
良之は肥前に勅許棹銅のサンプルと官許分銅を一セット贈った。
そして、度量衡のうち目方の全国統一政策と、棹銅による銀流出防
止の政策を話して聞かせた。
棹銅の検品について、肥前は快く承知してくれた。
居城を辞して次に向かったのは、コスメ・デ・トーレスの住む教会
である。
土地の大工職人が理解出来る範囲で精一杯に工夫して建てられた南
蛮好みの建築様式の教会は、不思議と周囲の建築物と馴染みながら
も、独特の存在感を主張していた。
﹁トーレス殿は居られますか?﹂
良之は教会に入って、ベンチに座る若い男に声をかけた。
﹁俺は京から来た二条三位大蔵卿といいます。トーレス殿にお願い
があって来ました﹂
﹁はい、少々お待ちを⋮⋮﹂
男は盲目らしく、ベンチを伝いながら礼拝堂の傍らの扉に消えた。
しばらく待つと、黒衣の宣教服に身を包んだ外人が現れた。
﹁私がトーレスです﹂
ありがたいことに<自動翻訳>が働いた。
344
﹁京の公卿、二条三位大蔵卿と申します。はじめまして﹂
﹁二条様、スペイン語がおわかりなのですか!﹂
トーレスは驚いて目を見張った。
﹁ええ⋮⋮まあ﹂
実際は英語ならなんとか、ドイツ語はかじっただけである。
﹁実はトーレス殿に折り入ってお願いがあってやってきました。今
お時間頂いて構いませんか?﹂
﹁構いませんとも、さあ、ここでは落ち着きません。奥へどうぞ﹂
良之はまず謝意を告げたあと、早速本題に入った。
﹁堺へ輸入品、ですか﹂
﹁ええ。ヨーロッパや新大陸からの作物の種、苗を私は欲していま
す。もちろん、運んでいただく労力に見合う品をご提供いたします﹂
トーレスは、良之の来訪が宗教的な理由で無かったことに落胆はし
たが、隣に控えるロレンソ了齋が
﹁かなりの貴人です﹂
と耳打ちをしたため、気を取り直してメモを取った。
トマト、トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、唐辛子、小麦と
いった食料産物。
セイヨウアブラナの種は、遠里小野の製油業のために依頼した。
それに牛、豚、ニワトリといった家畜。
生きた蚕と桑の木、綿の種など繊維素材である。
﹁トーレス殿。この国の民が何を主食にしているかご存じですか?﹂
﹁米です﹂
トーレスは即答した。
﹁そうです。この国の民は稲作に適さない土地にさえ米を植えよう
とする。だから飢えるんです。たとえばジャガイモは寒冷地にも育
345
ち、サツマイモは火山灰で出来た痩せた土地でも収穫できる。トウ
モロコシは強くて、水害の多い土地でも育つ。まあ全部程度問題で
すが﹂
﹁なるほど﹂
﹁トーレス殿がもし、今後飢えた民を不憫に思われたなら思い出し
て下さい。おそらく彼らは必死で米を作ろうとしている、と﹂
良之は、トーレスのために金と銀で併せて二千両分用立てた。
無論、依頼した品を堺へと届けてもらうためである。
トーレスは良之と宗教論をしたかったが、彼は
﹁俺は、いかなる神も仏も信仰していませんしするつもりもありま
せん﹂
ときっぱり謝絶されたため、あきらめた。
それにしても、無神論者とは珍しい、とトーレスは思った。
この国の人間は多かれ少なかれ神仏に頼って生きている。
トーレスは良之に潜む深い知性と、その奥のうかがい知れない何か
を感じ、記憶した。
おそらく彼なりに、この時代の人間では無い良之の異常性に触れた
のだろう。
﹁ところで、この地では牛か豚の肉は食べられますか?﹂
良之はこの旅行のもう一つのテーマである﹁肉﹂を欲した。
﹁いえ、私も日本に来て、この地の人々と同じように食生活を改め
ました。食肉は一切断っております﹂
良之はショックを受けた。それをトーレスは不思議そうに眺めた。
﹁もし、二条様は肉が食べたいのですか?﹂
﹁ええ。一度挑戦しようと思いまして﹂
では、ということで、トーレスは良之を五峯に紹介した。
346
347
天文20年冬期 4
五峯の居住地は平戸城の西い小高くそびえる、勝尾岳と呼ばれる岡
の東麓にあった。
まさに平戸港を抱える西の岸壁沿いであり、海運・海賊にとっては
一等地だっただろう。
良之は、倭寇の親玉であり、常時兵力二千を養う五峯︱︱王直の居
住地があまりに平戸城に近いことに驚いた。
それは裏を返せば、松浦氏にとって、彼らがいかに貴重な存在かの
裏付けでもある。
たいじん
五峯は六十近い老境にあった。良之から見ると、いわゆる中国人の
大人の風がある男で、これが史上に悪名高い倭寇の親分とはとても
思えないほどだった。
﹁肉が食いたいとか。良いでしょう、心ゆくまでご飲食なされよ﹂
五峯は気さくに応じてくれた。
最初はおっかなびっくりで料理を眺めていた望月千や木下藤吉郎、
江馬右馬允は、大喜びで食事をはじめた良之やフリーデ、アイリと、
それに釣られて一口食べたあと、夢中で食事を続ける長尾虎たちに
押されておずおずと獣肉の料理を食べ、そのうまさに驚いた。
ラードで揚げた鶏肉やごま油で炒めたチャーハン、それに肉まんじ
ゅうなど、現代人である良之以外の全員は、おそらく、人生ではじ
めて食べる食事ばかりだっただろう。
だが、その誰もがその美味に酔いしれた。
食事の礼に、良之は五峯に水晶玉を献じた。
五峯はその水晶玉をすでに知っていたが、改めてその宝玉としての
348
出来に固唾をのんだ。
﹁二条様。お聞きしたいんだが、何か明から取り寄せたいものはあ
るか?﹂
﹁丹が欲しいです。堺の皮屋に輸入してもらえればありがたいです
ね﹂
﹁皮屋か。この水晶も確か﹂
﹁ええ、そちらで求めていただけますよ﹂
良之はふと思い立って、翡翠も五峯に渡した。
﹁他にも翡翠なんかがあります。あとは、硫黄ですかね﹂
﹁硫黄?﹂
五峯は日本には硝石が無い事をよく知っている。また、反対に硫黄
の産地であることもよく知っていた。
﹁そうか、一度皮屋には顔を出そう﹂
五峯は約束してくれた。
﹁あとは、精肉職人や畜産の出来る人材が欲しいですね﹂
﹁ほう﹂
日本人はあまり畜産を好まない。珍しい貴人だと五峯は思った。
﹁やっぱり、塩漬けじゃない肉はうまいですからね﹂
﹁なるほどな。良かろう、考えておく﹂
﹁それと、なんと言っても料理人ですね﹂
﹁ははは、それはそうであろう﹂
五峯との面会はスムーズに終わった。
五峯に食事の礼を言って、良之は平戸城下に戻っていった。
﹁御所様、あの食事はうまかったですなあ﹂
藤吉郎は夢見心地でいつまでも言い続けた。
349
﹁ああ、2年後くらいまでにはなんとか、飛騨や堺であれをいつで
も食べられるようにしたいんだ﹂
﹁2年もかかるのかい?﹂
聞き耳を立てていた虎御前が残念そうに言う。
﹁もっとかかるかも知れないよ? 牛や馬を赤ん坊から一丁前に育
てるのに似てる。これはそういう話だからね﹂
﹁⋮⋮なるほどねえ﹂
虎御前や千は軍用馬を知ってるので、そのたとえには合点がいった
のだろう。
﹁あの唐揚げは、ニワトリが手に入れば1年くらいで食べられるか
な? ただそっちも、種になる親から育てないとね﹂
﹁ああ、あの唐揚げも実においしゅうございました!﹂
藤吉郎の瞳は輝いた。
﹁みんなに知っといて欲しいんだけど。あの食事は美味しいだけじ
ゃ無いんだ。身体も大きく強く育つ。美味しいって感じるってこと
はさ、それだけ身体に必要な栄養があるってことなんだ﹂
良之の言葉に一同うなずく。
しし
﹁ああいう食事を取っていると、長生きにもなる﹂
﹁薬食い、などといいますもんなあ﹂
藤吉郎が相づちを打った。
畜産に関わる技術的課題は、五峯に技術者の斡旋が頼めればおおか
たは解決する。
問題はやはりこの当時の人間たちの倫理的忌避感だろうと良之は思
う。
これについては、同じく宗教的・倫理的な差別に詳しい皮屋・武野
紹鴎に相談してみようと良之は思った。
350
平戸での目的であった宣教師コスメ・デ・トーレスとの面会や輸入
品の依頼も無事に終わり、その上、松浦氏や五峯とも知遇を得られ
て、良之の九州訪問はほぼ成功と言って良い状況だった。
そこで、良之は帰りの便を曲げて、豊後府中に大友氏を訪ねてみよ
うと思い立った。
この時期から数年後には、大友は九州随一の領土を得て、九州探題
にまで登り詰める。
それより増して、この地に教会を建て、独自の南蛮貿易を始める。
知遇を得ておくことは、今後の良之にとって無駄では無いという判
断だった。
大友修理大夫義鎮。
享禄3年生まれなので、やはり良之と同年配という事になる。今風
に言うと一年年下である。
良之がこの地に飛ばされた頃に﹁二階崩れの変﹂という暗殺を伴う
政変によって大友氏を継いだ。
そのすぐ一年後には宿敵の大内氏も﹁大寧寺の変﹂で混乱する。
大寧寺の変で、二条家の前当主二条尹房・二条良豊も巻き添えで死
去したことについては以前にも触れた。
良之が訪れようとしているこの時期、主家を葬った陶隆房は、大友
家の次男で義鎮の実弟ある左京大夫晴英を大内家への養子へ迎える
ための準備をしている。
修理大夫義鎮は陶隆房を信用も信頼もしていなかったようだ。
この実弟の養子について、彼は最後まで反対していた。
だが当の晴英自身が﹁自分は大内に入りたい﹂と主張したため、や
むなくこれを許すことになった。
大友家の府内館に到着した良之は、そこで、自身の父と兄を虐殺し
351
た陶隆房と遭遇している。
実際はついに一度も面識が無かったかりそめの家族ではあるが、良
之はこの事を以て、陶隆房との面会を拒んでいる。
隆房は、翌年3月に晴英を迎える事に決め、周防に戻る。
このとき、晴英から偏諱を賜り﹁陶晴賢﹂と改名。
大友の兄弟と良之は府内館で面会した。
まずは形通りのあいさつを済ませ、早速、良之は官許分銅と棹銅に
ついて2人に話し、それぞれにサンプルとして提供した。
また、修理大夫義鎮には、彼の領地である筑豊や三池の地の石炭に
ついて詳しく話し、神屋に堺の皮屋宛てに出荷を依頼したことを伝
え、これに許しを得た。
﹁石炭、というのはそれほど有望ですか?﹂
修理は深く関心を持ったようだ。
﹁そのままでは臭くて煮炊きには使えません。明にはここから臭み
を取り除く技術があり、庶民も炭の代わりに使っていると思います。
こうした技術さえ輸入できれば、将来無くてはならない産業になる
でしょう﹂
良之は惜しみなく情報を伝えた。
実際問題、もし大友がコークス生産までやってくれるならそれに越
したことは無い、程度に良之は考えている。
美濃や飛騨にも炭田は無い事は無い。
ただし、いわゆる黒炭ではない褐炭・亜炭と呼ばれる品質のもので、
良之が望むコークスの材料にはほど遠い品質だ。
九州の三池や池島の石炭は、その点では精製次第で製鉄に使えるコ
ークスになり得る。
ただそのためにはある程度の開発が必要だから、大友が乗り出して
352
くれるならそれで良かった。
大友家も倭寇であり明国人である五峯とは面識もある。
この情報をとてもありがたがり、良之に石炭においての協力を約束
した上、銭一千貫を与えた。
良之はその金を、いつも通り京の二条関白家へと送付し、後に感状
を贈ってもらった。
大友家を辞したあとで府内でも良之は豪商を巡った。
府内の商人司は仲屋乾通だった。
仲屋にも、分銅と棹銅について伝え、良之の手持ちの分銅を実費提
供した。
また、在庫の棹銅のうち、桐紋刻印の無いものを純銅製の棹銅と交
換し、さらに求めに応じ、2000本の棹銅を提供した。
また、ここでも金銀で鐚銭を買い上げた。
そうこうするうち、豊後で天文21年の正月を迎えた。
良之は堺行きの船を求め、豊後を去った。
ぼんやりと武野紹鴎別宅で正月を過ごした良之は、紹鴎に精肉業に
付いてのアイデアを語って聞かせた。
﹁技術が無いわけではおまへん﹂
屠殺業については、紹鴎がはっきり断言した。
屠児、などと古語に言う。
畜産も、無いでは無い。
阿波の三好家では、公然と肉食をしているという。
戦争で人を殺して置いて、今更肉食の汚れなど気にしない、という
事のようだ。
353
一方で、やはり公家文化の根強い京では、歴代の帝のうち、何人も
が肉食を禁じる勅令を出している。
公家社会は汚れを気にしたが、にもかかわらず禁令を出すというこ
とは、それだけ肉食は京にあっても行われていた、と考えるべきな
のかも知れないと良之は思った。
﹁分かりました。とりあえず南蛮人から牛、豚、鶏の輸入を皮屋さ
ん宛に行ってきました。それらを増やして、安定的に供給出来るよ
う、取り組みたいと思います﹂
﹁そんなら、一度彼らの長に会うて見たらどないでっか?﹂
よほど考えた後で紹鴎は言った。
さすがに、公家と引き合わせるのは紹鴎といえど、判断が難しかっ
たのだろう。
河原者。
古くからそう呼ばれている。
屠殺には洗浄のために大量の水を要し、さらに皮のなめし、膠生産
にも清浄な水を要する。
彼らが水辺に居を求めたのは、単なる被差別だけでは無かったであ
ろう。
良之を引き合わせるにあたって、紹鴎は秘密主義に徹した。
良之自身に差別意識が無かったとしても、悪意のある流言でも飛ば
されてはいけない。
良之も理解し、従った。
堺からわずか一里。南に下った里に良之は案内された。
甚八郎と名乗った頭は、紹鴎とは縁が深いようだった。
なめし革から革製品の仕上げを行う職人集団のようだ。
人によっては耐えきれないような悪臭がする場所であるが、良之は
さほど気にもせず、紹介が終わったあと、いきなり交渉を始めた。
354
﹁なるほど。要するに食用にするには生きたままつぶさなきゃなん
ねえ、って訳だ﹂
頭はうなずいた。
﹁そいつぁ古今、変わんね。鷹の餌にしてもそうだ。わしらも死ん
だ家畜は食わねえ﹂
衛生観念として、屍肉の危険性を経験則から知っているのだろう。
良之は彼らの知識に安心した。
﹁まずは堺で家畜の数を増やし、いずれは飛騨で食肉生産と皮、膠、
灰の生産を行いたいと思ってます。その時には、飛騨に移り住む職
人も必要になるでしょう﹂
﹁御所様は、穢れは気になさらないので?﹂
頭は不思議なものでも見るように良之を眺めた。
﹁俺個人で言えば、全然気にしてません。部下たちのなかには残念
ながら、気にする者達も居るでしょう﹂
良之の言葉に頭はうなずく。
仏教の中にも、穢れを非常に厭う宗派と、そうでない宗派がある。
たとえば、法華教が商人に指示されたのは、金銭というある種の現
世利益に関わる職業である商人にとって、それでも救いを認めたか
らだと言われる。
同じように、猟師や彼らのような屠殺業の者達にとっての救いにな
ったのが一向宗である。
生き物を殺した穢れを持つものであっても、阿弥陀仏は救済する。
そうした思想が、根底にある。
やれやれ。
肉が食いたいだけでも一大事だ、と良之は改めて思う。
彼のかつて暮らしていた世の中は、スーパーにでも行けば毎日店頭
に、何百キロもの精肉、鮮魚が並んでいたものだった。
355
それらを、特に誰も意識せず購入し、家で調理して食べていた。
それがどれだけ恵まれていたか、良之は思わずにはいられない。
ひとまず、畜産のことについては甚八郎の頭は承諾してくれた。
牧場の整備や人件費にと、良之は200両を頭に託した。
﹁ところで頭。牛や豚や馬の脂って、どうしてます?﹂
﹁脂は、膠を煮る時の焚きつけに使っているが?﹂
﹁そうですか。ではこれから言う方法で、今後は精製して欲しいん
ですが﹂
良之は、脂を水で煮だし、再度冷やして固める方法を細かく説明し
た。
﹁⋮⋮わかった。しかし脂など、なんに使うんだ?﹂
﹁石鹸を作るんですよ﹂
石鹸、という言葉に驚いたのは頭では無く紹鴎だった。
﹁なんと! 御所様は石鹸の作り方をご存じでいらっしゃるのか﹂
﹁ええまあ﹂
石鹸は、良質な油脂があれば比較的簡単に作れる。
この時代であれば、食用に適さない海藻あたりを猟師に頼んで大量
に買い付け、それを焼いて灰にする。
その灰と油脂を大釜でじっくり煮て、鹸化した成分を固めればいい。
ただし、良之は容易に塩から水酸化ナトリウムを合成できる。
これは錬金術に限ったことでは無い。
塩化ナトリウム溶液、つまり塩水に通電し、陰極側の水だけを抽出
すれば良い。
イオン交換膜だけは錬金術で作る以外に仕方ないが、それ以外の器
具は、この時代に手に入る素材で充分生産できる。
﹁脂についてはわてが責任もって集めますさかい、是非石鹸の量産
をお願いいたします﹂
石鹸は貴人や大名、豪商などといった富裕層に非常に受けがいいも
356
のの、輸入量はあまり多くない。慢性的な品薄なのであった。
﹁分かりました。なんなら頭の所から職人を出してもらえれば、飛
騨に戻った時に作り方を仕込みますよ?﹂
﹁是非に﹂
紹鴎が頭に変わって答え、あっと気づいて頭を見た。
頭も苦笑しながら
﹁お頼みします﹂
といった。
今後の活動費について、足りない分は皮屋に請求してくれと言い残
し、紹鴎と良之は帰路についた。
357
天文20年冬期 5
﹁ところで紹鴎殿。宣教師トーレス殿に作物の種や家畜を。倭寇の
五峯殿に明の辰砂を依頼しましたけど、対価は錆の顔料と水晶、翡
翠、ガラスビンで足りると思いますか?﹂
﹁どうですやろ? 一時に出すと値が崩れますよって﹂
﹁分かりました、じゃあ新しい宝石を作りますんで、それを市場に
流して様子見てもらえますか?﹂
ルビー
﹁⋮⋮今度は何を作らはるんで?﹂
﹁紅玉です﹂
ルビー人造の歴史は古い。
フランス人科学者オーギュスト・ヴィクトル・ルイ・ヴェルヌイユ
によって1902年には実用的な合成ルビーが産声を上げている。
彼の製造法は、種になるルビーの微結晶の上に、溶解させた原材料
を降らせて結晶を育てる方式だった。
その後、様々な手法が研究され開発された。
良之の時代には、スタールビーやスターサファイアまで人造され人
気を博していた。
一般に、ルビーの組成は98%のアルミナに2%の酸化クロムが混
入しているものが上質とされる。
これよりクロムが少ないとピンク色になるが、ピンクダイヤモンド
と違い、価値が下がってしまう。
良之は、皮屋に納屋︵倉庫︶をひとつ用意させ、そこで錬金術によ
るアルミナとクロム溶解で作り上げたルビーを積み上げた。
ひとつサンプルを作ると、あとは材料ごとの複製で仕上げていく。
358
あっという間に、10トン近いルビーが完成した。
同じように、アルミナに鉄とチタンを微量含ませて精製してみる。
ブルーサファイアである。
これも10トンほど生成して置いた。
全て5カラットである。
ひとまず宝石を作り終わったあと、良之はふと高額商品について思
いついた。
ラズライト
ウルトラマリンと呼ばれる顔料のことである。
素材は青金石。ラピスラズリと呼ばれる宝石の主成分で、西洋画で
は希少な顔料とされ珍重された。組成は︵Na,Ca︶8︵AlS
iO4︶6︵SO4,S,Cl︶2。
色素成分はケイ酸ナトリウム、ケイ酸アルミニウム、硫黄の錯体で
ある。
日本では原材料が採れないため使われなかったが、西洋ではシュメ
ール文明やエジプト文明にまでさかのぼることが出来る。
合成するための素材は、良之の<収納>に、全部ある。
だが、この色素は成分通り、毒性がある。
良之は、以前に作った石英ガラスのビンの中にウルトラマリンを生
成し、コルク栓を錬成して全て封をしてみた。
ビン一本あたり10g程度だがとりあえず1000本ほど作った。
そして、せっかくなのでその一本をサンプルとして紹介文を付けて
平戸の宣教師トーレスに送ることにした。
﹁とりあえず、青色顔料作ったけどこれは毒性あるんで一般売りし
ないで。あと、南蛮では同じ重さの金と同価値って言われるほどの
ものだから南蛮人以外に売らないように﹂
﹁承知しました﹂
紅玉と蒼玉の質と量に驚きながら、紹鴎は答えた。
359
﹁紹鴎殿。銅の針金、それも出来るだけ均一で出来るだけ細いもの
を探して、仕入れてもらえますか?﹂
良之は、発電機を作るための材料集めとして、紹鴎に依頼をした。
以前にも、水車の回転を利用したいわゆる水車引きによる銅の針金
は、遅くとも14世紀には日本に存在したことに触れた。
京の名産品にも、針金細工がある。
針金細工自体は奈良期から発展がはじまったようであるが、この時
代の銅線は、板銅を叩いて圧延し、手作業で針金に仕上げていたの
かも知れない。
﹁銅の針金どすか?﹂
﹁ええ。白川衆に割り増しを払って奨励してもらっても構いません
し、広階親方のところで新しくはじめたい職人がいたら資金援助し
てやって下さい。とにかく、たくさん欲しいです﹂
﹁たくさんとは?﹂
﹁500両目︵20トン弱︶は欲しいですね﹂
﹁⋮⋮﹂
紹鴎は、常識外れの発注に唖然としたが、おそらく頼まれたからに
はやるしか無いと思いなおし、船尾の銅座に相談に行くのだった。
﹁御所様、久しぶりでんな﹂
急速に拡大を続ける堺の鉄砲鍛冶商の橘屋又兵衛は、良之の来訪を
歓迎した。
この半年製造した鉄砲は、そのほとんどが良之の飛騨へと送られて
いる。
その売り上げで表店を堺に構え、今や飛ぶ鳥を落とす勢いである。
鉄砲鍛冶町を堺の堀外に増築中で、現在堺でもっとも勢いのある商
人の1人である。
360
﹁橘屋さん、無理言って本当にすいません﹂
﹁まあええわい。こっちも儲けさせてもろてるがな﹂
良之は橘屋にも、例の純鉄のインゴットを提供してみようと思った
のだ。
﹁飛騨の鍛冶屋にはもう使わせています。混じりけなしの鉄ですか
ら、藁で焚かないと柔いんですが、逆に言うと鋳鉄には最高の素材
になると思うんですが⋮⋮﹂
﹁ほう、混じりけなし⋮⋮ええやろ、使こてみよ﹂
﹁ありがとうございます。皮屋の蔵に納めておきますんで、行けそ
うならよろしくお願いします。それでこれからですが⋮⋮﹂
﹁ああ、皮屋に聞いた。もっと欲しい、言うんやろ?﹂
橘屋は、今後の生産についても請け負ってくれたので、良之はもう
一度礼を言って、橘屋をあとにした。
最後に、五峯に硫黄の約束をしたのを思い出した良之は、機密性の
高い納屋を借り、そこで硫黄を錬金術で精製して納めた。
このあと良之は船で雑賀に向かう。
鈴木佐大夫の居宅に赴き、雑賀衆の派遣に礼を言い、さらに、紀州
鍛冶にも純鉄のインゴットを提供して、そのまま船便で伊勢、尾張
と向かった。
尾張で上陸し、那古野城に。
﹁ようおいでになった﹂
織田備後守信秀が一行を出迎えた。
361
備後とは一別以来だったが、すっかり太って見違えるほど元気にな
っている。
﹁体調はいかがですか?﹂
﹁おかげさまをもちましてな。はは﹂
備後は脂の付いた腹のあたりをさすりながら、その節は本当に命を
救われました。
と頭を下げた。
名古屋城内で応接を受けていると、どたどたと足音を上げて上総介
信長がやってきた。
﹁おお、御所様、ようおいでになった﹂
父親と全く同じあいさつをする信長に、
﹁これ、なんじゃその出で立ちは。服を纏わぬか﹂
備後守がしかりつける。
弓でも引いていたのであろう。片肌脱ぎのまま駆けつけたようだっ
た。
﹁ところで御所様。聞きましたぞ。飛騨に一夜で城をお建てとか﹂
備後は愉快そうに酒を呷ってから、良之に話しかけた。
﹁まさか。周囲の国人に気づかれないようこっそり建てただけで、
一夜じゃありませんよ﹂
良之は苦笑した。随分噂に尾ひれが付いているようだった。
良之は、元々無人だった平湯の地に小屋がけをしてから山方や黒鍬、
飛騨匠といった職人衆を送り込み、外部からの労働力で一気に町を
建てたのだと説明した。
﹁それにしても、一度も戦わず江馬、塩屋などの衆を味方に付ける
とは⋮⋮﹂
上総介が興奮気味に話す。
﹁それは、飛騨には元々人が多くないためですよ﹂
おそらく、この時代の飛騨には老人や赤ん坊までひっくるめても3
362
万人に及ばないのでは無いかと良之は思っている。
神岡の江馬氏でも1000、丹生川の塩屋氏も同程度の動員数がい
いところだろう。
そこに、銭傭いではあるが5000以上の働き盛りの男がたむろし、
1000もの鉄砲を日々打ち鳴らしていれば、彼我の差を計算せざ
るを得ない。
﹁親父様! わしはこのまま御所様に付いて飛騨を見に行ってみた
い﹂
上総介が目をぎらつかせて言い出した。
﹁む⋮⋮御所様、いかがであろう?﹂
親バカか備後。良之は思った。
﹁え、ええ。それは構いませんが、嫡男ですよね? いいんですか
?﹂
﹁こ奴が言い出したら止めても聞かぬ。ならいっそ、御所様に手綱
をお預けした方が、後々どこにも迷惑をかけぬやも知れぬで﹂
はっはと備後は笑った。もうだいぶ酔ってるようだった。
﹁⋮⋮﹂
良之とその従者たちは、翌朝、上総介が本気だったと知る。
すっかり旅支度を調えた信長は、左右に池田勝三郎恒興、丹羽五郎
左衛門尉長秀、川尻与兵衛秀隆を従え、騎乗で待っていた。
信長の供として槍を担いでいるのは、まだ元服さえしていない前田
犬千代だ。
﹁⋮⋮よろしいので?﹂
見送りに出た備後守に改めて問いかける。
﹁なあに、飽きたら帰って来るであろうさ。それより、愚息のこと、
お頼み申し上げる﹂
﹁は、はあ⋮⋮分かりました﹂
仕方なく、半ば強引に一行に加わった上総介信長を連れて、良之の
363
一行は美濃に入った。
﹁なに? 御所様と婿殿が?﹂
斎藤山城守利政は耳を疑った。
﹁はっ。二条御所様のお先触れが文を持って参りました﹂
﹁⋮⋮﹂
山城守は文を読んだ。
曰く。
しゅうと
所用あり上京、春を待って飛騨に戻る。道行き、織田上総介殿の願
いにより彼を飛騨に案内する。斉藤山城守殿は舅殿であるとの事で、
上総介殿より、ご挨拶したいと申し出がある。お許しを。
斉藤山城守は慌てて家臣らに歓迎の準備をさせる。
それにしても、御所様は分かるが、なにゆえ婿殿が?
山城守は首をひねった。
一行が稲葉山城に着いた。
斉藤山城守自らが門外まで迎えに出て、一行を居館の大広間で歓待
した。
﹁織田上総介信長でござる。舅殿にお会いできたのは恐悦至極﹂
﹁うむ。山城じゃ。よう参った。それはいいが、なにゆえ婿殿は御
所様と同道なさって居る?﹂
﹁そのこと。わしは御所様の一夜城を是非みたい。あれは男の夢よ﹂
信長は斉藤山城守に、熱っぽくその夢を語って聞かせた。
本来この時代において没落の極みである公卿が、自身の知恵と才覚
を持って一夜で飛騨に城を作り、周囲の国人を屈服させた。
それが真であれば、この目で見たいと思うのも、また男である、と。
﹁なるほど、かっかっか﹂
山城守は腹から笑った。
364
信長の思いを青臭いと切り捨てるのは容易だが、世は乱世だ。
ある種の命がけの戯れに本気で乗り出す行動力は、素直に感心でき
ると山城守は思った。
同時に、自分もこの城を置いて御所様の一夜城を見てみたい。
その欲望がもたげている事に気づいてもいた。
そして、その感情は、斉藤山城守にとって最大の暗部をじくじくと
痛ませる。
一同の歓迎の宴の最中。
1人の小者が山城守に耳打ちする。
﹁なに? 新九郎が?﹂
その一声にあまりに深い怒りが籠もっていたため、一瞬、宴に沈黙
が降りた。
﹁⋮⋮よい、通せ﹂
山城の言葉に小者は下がり、やがて、異装の男がのっしのっしと、
広間を闊歩して入って来た。
大きい。
良之は彼の身長が2メートル近いんじゃ無いかと思った。
だが、その顔は、山城守の嫡男であれば未だ25才ほどのはずなの
に、山城守よりよほど老けて見える。
良之を除く二条家の家臣は息をのんでいた。
上座に座る良之の前に新九郎義龍は胡座にかけ、両拳をついてあい
さつをした。
﹁斉藤新九郎義龍と申す。御所様にはじめてお目もじいたす﹂
﹁二条三位大蔵です﹂
良之が返礼した時、陪席筆頭の位置に座っていた滝川彦右衛門が怒
り声を上げた。
﹁山城守殿! 業病の者を御所様のお近くに寄せるなど! いかな
る存念か!﹂
365
366
天文20年冬期 6
﹁業病?﹂
良之が首をかしげる。
確かに何らかの病気であることは違いが無い。
顔の皮膚はふくれあがったり反対にしおれたりを部分的に起こして
いて、そのせいで斉藤山城守の子どもでありながら、よほど老けて
びゃくらい
見えたのだった。
﹁白癩であろう、貴様!﹂
滝川彦右衛門は激怒している。
その言葉に、良之や信長の臣下も、斉藤家の家中も凍り付いた。
﹁新九郎⋮⋮もはや下がれ﹂
﹁⋮⋮﹂
父の言葉に、憎々しげな視線を上座の3人に送る新九郎義龍。
腰を上げ、広間を去ろうと背を向けた彼に、良之は声をかけた。
﹁待ちなさい﹂
﹁千、治癒魔法かけられるか?﹂
﹁は⋮⋮はい﹂
良之の言葉に、千も動揺を隠せない。彼女達の常識が、彼女自身の
能力を阻害している。
﹁山城殿。千は俺の仙術と同じような医術を心得ています。新九郎
殿の治療を行ってみますので、どちらか適当な部屋をお貸し下さい﹂
﹁⋮⋮心得た﹂
﹁御所様! おやめ下さい。癩は移る病にございますぞ!﹂
滝川彦右衛門は激しく叫んだが、良之はそれを手で制した。
﹁お前らはここに残れ。千、俺と来い﹂
良之は命じると、山城守、新九郎と共に襖の向こうに消えていった。
367
癩。
ハンセン氏病である。
この時代には有効な治療法が無いため、多かったと言われる。
彦右衛門の言う通り、経験則として接触感染はあっただろう。
だが、実のところハンセン病を引き起こすレプラ菌の感染力は非常
に弱く、寒天での培養すら出来ないほどである。
体質的にこの菌への抵抗力が無いものが発病しやすいが、接触して
も感染を起こさないものもいる。
感染時期の年齢に依るが、大人になって発症する感染者はほぼ皆無
と言われているあたり、栄養状態や健康状態にも大きく左右される
菌である。
﹁じゃあ千、はじめて﹂
良之は厳しい目で千に治療を促す。
千は冷や汗をかきながら、新九郎への加療をはじめる。
﹁おお⋮⋮!﹂
父親である山城守は目を疑った。
もはや往事の影も無かった新九郎の顔から瘍がみるみる消えていく。
それを新九郎も実感しているのであろう。
やがて、つるりと自分の顔を撫で、呆然とした顔で千と、良之を見
た。
﹁この薬を飲んで下さい﹂
良之はフリーデの作ったポーションを新九郎に手渡した。
﹁身体の弱った部分を癒やす薬です﹂
﹁⋮⋮かたじけない﹂
ぽつりと新九郎は礼を言った。
﹁山城殿。済みませんがお庭を拝借します﹂
﹁う、うむ﹂
368
良之は庭に出るとキャンピングカーを出す。
そして、驚きざわめく屋敷の者達に一顧だにくれず、車の中に千と
消えていった。
﹁千、シャワーを浴びて服を着替えなさい﹂
﹁⋮⋮はい﹂
言われるままに千は、以前使い方を習ったシャワーを浴び、新しい
服に着替えた。
その間、良之はハンセン病の治療指針を本で調べ、必要とされる薬
剤の分子構造を確認した。
ジアミノジフェニルスルホン・クロファジミンという二種類の抗生
剤は毎日。
リファンピシンという抗生物質を月1回。
この投薬を一年続けることで、良之の時代ではWHO・世界保健機
関ではハンセン氏病完治と見なしていた。
ジアミノジフェニルスルホンは化学式C12H12N2O2S。
クロファジミンはC27H22CL2N4。
リファンピシンはC43H58N4O12。
全て錬金術で必要量を合成した。
シャワーから出てきた千に良之はいった。
﹁いいか、千。お前にシャワーを使わせたのは、万一のためだ。あ
の病気はそう易々と移るものじゃ無い。だが、そうであってもお前
は心配だろうから、あえてシャワーを使わせたんだ。まあ、心配す
るな﹂
﹁は、はい⋮⋮﹂
﹁それに、今治療薬も作った。癩病はな、俺に言わせれば治る病気
なんだ。業病である訳が無い﹂
良之の自信に満ちた言葉に、千もやっと安心した。
369
千の着替えを待ち、良之は待たせていた一同の許に戻る。
﹁新九郎殿。薬を作ってきました﹂
良之は、タブレットに生成した三つの薬について、飲み方を指示し
た。
﹁この二つのビンの薬は毎朝一錠。こっちのものは、暦の一日に飲
んで下さい﹂
﹁あの⋮⋮御所様?﹂
新九郎は戸惑ったような表情でじっと良之を見つめた。
﹁これで、治るのでしょうか?﹂
﹁ええ、治ります﹂
﹁お待ちあれ、御所様。業病が治るのでございますか?﹂
斉藤山城守が驚いたように叫んだ。
﹁ええ。山城殿も先ほどご自分で見ていたでしょう?﹂
﹁それはそうですが⋮⋮あの、この薬は、他にもお分けいただける
ものでしょうか?﹂
﹁構いませんけど?﹂
﹁実は、この新九郎が母も同じ病に伏せっており申す。是非ともご
慈悲を賜りたく⋮⋮﹂
﹁分かりました﹂
良之はこのあと、自身の家臣団にハンセン病について説明する羽目
になった。
小児期に発症しなければまず感染しないこと。
栄養状態と衛生状態が良ければまず発症しないこと。
業病などでは無くただの感染病であること。
そして、先ほど良之が作った薬で菌を退治できること。
さらに、良之も内心感動したが、アイリや千の使う治癒魔法で、容
姿も回復する。
370
滝川彦右衛門は驚いて、そして感動していた。
﹁新九郎﹂
斉藤山城守は、改めて夕刻、新九郎を居室に呼び出した。
﹁はっ﹂
﹁わしは隠居し、ぬしに国を譲る﹂
﹁⋮⋮!﹂
﹁わしは出家し、あの御所様の国を訪ねてみようと思う⋮⋮よいか
?﹂
﹁ははっ﹂
﹁のう新九郎。お主の病によってわしの心にも迷いがあったわ。お
主を廃して孫四郎に美濃を継がせようと考えもした。わしが愚かで
あった﹂
﹁父上⋮⋮﹂
﹁お主の顔の膨れが取れた時、わしはどれほど、お主の見た目に惑
わされていたか悟った。新九郎﹂
﹁はい﹂
﹁すまなんだ﹂
斉藤山城守はじっと頭を下げ、そのまま下げ続けた。
﹁⋮⋮父上﹂
﹁うん﹂
﹁⋮⋮分かりました。もうよろしいのです﹂
﹁そうか﹂
ぽとり、と山城の瞳から涙が落ちた。
371
翌日。
斉藤山城守は稲葉山を下り、西麓の常在寺にて得度を受けた。
円覚院殿一翁。道三と号す。
﹁そのような次第でな。わしは隠居し跡を義龍に継がせる﹂
﹁⋮⋮はあ﹂
﹁返す返すも御所様にはかたじけないことであった﹂
﹁いえ、それはもう﹂
この日、良之は斉藤家の歴々が並ぶ広間で全員から謝礼を受け、銭
3000貫を供されている。
また、深芳野殿を治療したことで、彼女の弟の稲葉一鉄などもひど
く感激し、わざわざ稲葉山城まで駆けつけて良之に礼をしていた。
﹁そこでじゃが。どうであろう? わしも婿殿同様、御所様の御料
地へお供させていただけまいか?﹂
﹁⋮⋮まあ、今更1人増えるも2人増えるも変わりませんが、いい
んですか? 国をほったらかして﹂
﹁その心配はいらぬであろう。新九郎はあれでなかなかやりおる。
もはやわしより臣下の心を掴んで居る故な﹂
実際、病のことを除けば義龍は非常に優れた人物であった。
健康に不安が無くなった今、父より家督を譲られたその全身は、精
気に満ちていた。
斉藤道三入道に従って馬を進めるのは明智城主の明智兵庫頭光安、
大御堂城主竹中道祐重元、そして轡を取るのが猪子兵助。
いずれも道三を慕う老臣であり、跡を継ぐべき後継に恵まれている。
下間源十郎は、お千の治療の腕に痛く感動していた。
372
お千が斉藤新九郎を治療してのけたあと、時間を見つけては必死で
魔法による治療術を習っていた。
お千が言うには、
﹁源十郎様は非常に筋がおよろしいです﹂
とのことで、すでに<収納>をマスターし、外傷の治療も覚えだし
たという。
ところが、どうにも内臓疾患や感染症の要領を得ないようだ。
﹁源十郎様。御坊は鉄砲の実力がおありですもの。慌てて治療を覚
えずとも良いではありませぬか﹂
お千はそう言って落ち込む源十郎を慰めている。
藤吉郎も<収納>までは覚えたものの、そこから先には苦戦してい
る。
もっとも、化学を教えだした良之にとっては、彼が今のところ最良
の弟子である。
そして、良き師範代になってくれている。
源十郎はともかく、藤吉郎にも先を越されて江馬右馬允は焦りを覚
えていた。
だが、彼のことは長尾の虎御前が妙に気に入っていて、時間を見つ
けては木刀を取らせ、また、紙に古今の戦の絵を描いては、どう攻
めるか、どう守るか、などと難問を与えている。
意外なことに、斉藤道三は非常に面倒見の良い老人だった。
娘婿の上総介信長に何くれ無く語りかけては、彼やその臣下が孤独
感を覚えぬよう、気を使っている。
一行は、この時期未だ残雪の厳しい間道を避け、明智、苗木で宿を
373
取る。
緊張状態にちかい下呂を堂々と通って高山から丹生川に入ろうとい
うのだ。
危険度は高い。だが、道三は良之の小者で、甲賀の手の者を下呂の
桜洞に遣わせた。
このあたりの剛胆さは、さすがに斉藤道三だと良之は感心した。
触れが出て、領民たちは静かにこの一行を見送った。
そして、桜洞では、三木大和守が渋い顔で出迎えていた。
﹁これは、山城守殿﹂
﹁久しいの、大和殿。わしはこの通り出家して、後事はせがれに任
せての隠居旅行よ。今のわしは道三入道じゃ﹂
﹁さようでしたか。それで、そちらの御仁は?﹂
﹁これはわが娘婿殿の織田上総介殿。こちらは⋮⋮﹂
﹁ああ、存じております。二条三位様﹂
﹁一別以来です﹂
良之も応じる。
﹁のう、大和殿。寒くてたまらぬわ。かたじけないが、どこぞに宿
を借りることは出来ぬか? なに、明日にはすぐ出立するゆえ﹂
いけしゃあしゃあと、という言葉があるが、まさにこのときの道三
の態度はそれであろう。
ある種の殺気をにおわせていた三木大和守直頼とその家臣たちは、
やむなく彼らの宿を引き受けることいなった。
﹁いやはや、道三入道殿はすごいねえ﹂
長尾の虎御前でさえ、この顛末には驚いている。
どう抜けようかと考えていた敵の城下にぬけぬけと宿泊し、あまつ
さえ、下呂温泉で暖まろうというのである。
374
その道三。
現在三木家の当主と密談中である。
﹁では、斉藤殿はもし当家から救援を依頼されても動かぬと申すか
?﹂
﹁ああ。動かぬであろうよ。あやつも、いやわしもじゃが、御所様
にはすでに返し切れぬ恩義を受けて居る。今の美濃は国内の反抗勢
力もほぼつぶし、隣国の尾張とも和平がなった。貴殿らが御所様と
戦でもしようものなら、むしろあやつ自ら兵を率いて桜洞に攻め上
がりかねんよ﹂
﹁なんと⋮⋮それほどの恩義とは一体⋮⋮﹂
﹁あやつとあやつの母の病をな、たちどころに治したのよ。御所様
はな﹂
そういえば三木も聞いたことがある。
斉藤家の嫡男は﹁業病﹂であると。それを治したとなれば奇跡に近
い。
﹁大和殿。もし未だ姉小路の名跡を継いで飛騨を手に入れようと思
うておるなら、用心した方がええ。御所様は、そのお口ではっきり
と﹃国司である﹄と仰せだ。この意味、分かるであろう?﹂
﹁! ⋮⋮それは﹂
三木にとっては寝耳に水だった。
名目とはいえ三木にとって、姉小路の国司という地位は自身にとっ
ての大義名分でもあった。
もし姉小路が国司の地位を失おうものなら、大義名分はあの若い公
卿に移ってしまう。
﹁だがあの御所様。江馬と塩屋から領地を奪い、領地も検地やら刀
狩りやらで無力化していると聞く。わしらが従ったとして、そのよ
うなことをされては立ちゆかぬ﹂
﹁そうは言うが、ではなぜ江馬はせがれを近習にいれ従って居る?﹂
375
それは三木も気づいていた。
江馬の三男で寺に入れられていた15才の子どもが、右馬允と名乗
り彼に随行している。
それだけでは無い。
江馬領も塩屋領も、あの御所に従って以降、わずか数ヶ月で食糧事
情が飛躍的に向上し、領内に金が多く流通し、しかも、賦役全員に
給与が支給され、道路の拡張や治水工事などが行われ、検地に至っ
ては税が減免されてむしろ領民はこぞって協力したという。
銭払いの良さと待遇の良さから、南飛騨から逃散して北飛騨へ移住
してしまった山方衆や河原者、農奴のように使われていた小作など
もかなりの数がいると聞く。
以前良之が江馬・塩屋の実情から飛騨全土の人口が3万に満たない
と推測したのは、かなり良い線を行っている。
三木の臣下で高山の押さえに入れている三仏寺城の平野氏を併せて
も三木は最大動員で1500ほど。
旧北朝側で今のところ三木とは同盟関係ではあるが折り合いの悪い
高山外記は500、高堂城に依る広瀬山城守も同程度。
総動員をかけたとしても3000−5000程度の兵力しか無く、
すでに良之の持っている5000以上の兵と1300挺の種子島と
いった兵力には拮抗しうるか微妙な線である。
﹁のう大和殿。いっそ、わしらと一緒に御所様の領地、見聞にいっ
てはどうじゃ?﹂
道三は三木大和守を誘ってみた。
道三に言わせると、すでに三木家は生き残るためには、良之の臣下
に下るより他は無いと思っている。
春が来れば三木の兵たちは畑仕事がある。
だが、二条大蔵卿の兵士達は完全な職業軍人であり、5000の兵
はいつでも好きな時に動かせる。
376
政・戦の政についても、すでに勝負が付いているように道三には思
われる。
彼は大蔵卿・左近衛中将の他に、軽視できない地位を持っている。
飛騨守である。それも私称ではない。帝より直々に飛騨国司として
励むように玉音を賜っているという。
﹁⋮⋮承知いたした﹂
三木大和守は、道三の手引きで、良之の一行に加わることにしたの
だった。
377
天文20年冬期 7
翌日、三木大和と手勢を道中に加え、下呂から高山に向かう。
高山でも高山外記自らが視察の一行に加わった。
高山から進路を東に取り、丹生川沿いを東に進む。
こうして、現在良之の勢力圏である丹生川の尾崎城にようやく一行
は到着した。
塩屋筑前守秋貞、千賀地石見守保長の両名が、主を出迎えた。
天文21年2月20日のことである。
﹁御所様ようお戻りを。まだ雪が厳しかったでしょう﹂
塩屋が言う。
新暦に直すと3月上旬といったところで、飛騨の場合この時期はま
だ山地には残雪が多く、確かに旅は厳しかった。
ただし、下呂では三木家、高山では高山家等に世話になっているた
め、実際の所、騎乗の良之たちは寒さを除けばさほどつらくは無か
った。
御徒たちはさぞつらかったであろうが。
良之は、滝川彦右衛門と下間源十郎、それと軍団長である服部半蔵
正種、千賀地石見守保長らに命じ、平湯の射撃訓練場の準備をさせ、
一千三百挺の種子島による射撃訓練の支度を急がせた。
これらは、斉藤道三、織田上総介信長、三木大和守直頼、高山外記
らの観覧のもと行う予定である。
一行は翌日、尾崎城を出て平湯御所に着。
平湯御殿に着いた一行は、早速良之の政策の見聞に入った。
まずいきなり食堂で彼らは驚いた。
378
総勢四千人近い在住者の食事を一箇所で作り、住人全員に提供して
いる。
現在この地に居住しているのは圧倒的に独身者が多い。
そのため、米を支給されても食事が難しいのである。
たとえば藤吉郎の母や姉のような居住家族の女手に加え、支配下に
入った里の寡婦や若い娘などを集め、四千人の食事を100人以上
で煮炊きさせている。
おかずは、味噌汁、漬け物、魚、煮物などで、織田上総介などの目
から見てもこの時代の庶民の水準を遙かに上回ったぜいたくなもの
だった。
﹁あの、皆さんもよろしければ﹂
藤吉郎の姉のお智が、おずおずと勧めた。
そこで一行も、この食堂で一食試してみた。
﹁うまい⋮⋮﹂
高山外記と三木大和守は衝撃を受けた。
自分たちが日常食しているものより、むしろ美味い。
これを御所では、人夫たちに提供しているというのである。
﹁御所様、ここの人夫たちはこの冬、遊んで暮らさせたのか?﹂
信長が聞く。
﹁ええ。どうせ春になればまた仕事がありますし、聞いたところだ
と、ただ飯食らうのは申し訳ないって、雪かきや雪下ろし、建物の
修復なんかで随分働いてくれたらしいですよ﹂
﹁飯の他に、日当も出したのか?﹂
﹁ここに来てもらったのもこっちの都合ですからね﹂
信長は頭の中で計算する。
銭と飯で併せてひとり百文の人件費が一日に発生する。
それを一冬、180日としても四千人で72000貫。
それを何でも無いようにけろっと出しているということになる。
彼の実家である弾正忠織田家も桁違いの富豪ではある。
だが、彼がもし同じ事をしようとしても、家臣たちの反対や妨害に
379
遭って成し遂げられるか怪しいところだった。
斉藤道三は妙なところに感心している。
﹁御所様。なぜこの町の建物は長屋の屋根まで銅葺きなんですかな
?﹂
﹁ああ、藁や茅で葺いていては雪の季節に間に合わなかったんです
よ﹂
良之は、ここに入って家を建て始めた経緯を説明する。
﹁なるほど、それで一夜城などと言われて居ったわけですな﹂
﹁一夜じゃ無いんですけどね﹂
良之は苦笑した。
﹁瓦さえ用意するのが難しい状況だったんで、銅にしただけですよ﹂
良之はこともなげに言うが、普通は銅をこれほどの量、一度に用意
することなど不可能である。
﹁まあそこは、俺は銅座の主でもありますしね﹂
実際は、京の焼け寺の跡地で大量に仕入れたり、棹銅を各地の市場
で買い占めたりして<収納>の中に唸っているからであるが。
食後にそうしてくつろいでいると、やがて滝川彦右衛門が
﹁準備が出来ました﹂
と一行を呼びに来た。
演習場の雪は見事に掻き上げられ、1300人の銃兵が整列して待
っていた。
第一隊の指示は服部半蔵。第二隊は千賀地石見、第三隊は望月三郎
が指揮を執る。
﹁じゃあ第一隊から順に一斉斉射で。打ち終わったら各隊早合にて
装填。各隊3回の射撃を見せて下さい﹂
良之の指示で全隊準備を始める。
380
﹁撃てぇい!﹂
彦右衛門の号令によって、三隊三回ずつ、計9連射の実演が終わっ
た。
これには、道三や信長、高山外記、三木大和らは声さえ失った。
道三は、紛れもなくこの公卿を中心に戦争のあり方が変わることを
悟った。
信長もまた、源平の昔から今に至るような合戦など何も意味をなさ
ないことを理解していた。
一騎打ちなど、しているいとますら無かろう。
彼ら2人の従者たちもまた、この凄まじい武力に相対し、言葉さえ
見つけられずにいる。
明智、竹中の2人は、歴戦の男どもだ。
道三の許で美濃統一戦を必死に戦ってきた。当然、現実の戦場とい
うものを知り尽くしている。
だが、信長に従ってきた若い者達には、今ひとつその認識が足りな
い。
川尻は歳も上で織田信秀に従軍した経験もあるが、丹羽、池田、前
田あたりは、その凄まじい轟音に驚き、鉄砲という新技術に興奮こ
そしているが、その重大性にまで思いは至っていないだろう。
深刻なのは高山や三木だった。
彼らは当然、撃った銃兵では無く、撃たれて砕け散っている的の方
に自分たちを幻想した。
﹁なるほど。あれを見た江馬や塩屋が戦わず御所様に降った意味が
381
分かった﹂
青白い顔で高山外記は三木大和守にいった。
鉄砲の演習を閲兵し、その後平湯の母屋に宿を与えられた外記は、
大和守の部屋を訪ねていた。
﹁わしはな大和殿。御所様に降るよ﹂
﹁外記殿。それはまだ早かろう!﹂
﹁大和殿も本当はおわかりだろう? あの種子島の銃口を向けられ
れば、わしらは終わりじゃ﹂
﹁⋮⋮﹂
三木大和のこぶしは固く握られ、震えていた。
もう一息だった。
すでに高山の地は調略によって手に入れたも同然だった。
ある家には嫁を、息子を、親族を跡取りや政略でいれ、さらに真綿
で首を絞めるように広瀬や高山外記や姉小路の領地を孤立化させて
きた。
降れば良し、降らねば滅ぼす。
その準備も万端だった。
大義名分として姉小路右近衛中将の家督さえ継げれば、そこから彼
の輝かしい飛騨攻略が始まるはずだった。
だが姉小路右近衛中将はついに、三木大和守の圧力に屈することは
無かった。
頑迷にも、中将は三木の子との縁組みを拒んでさんざんにののしっ
たのである。
そのため、三木はじっくりと高山の国人や土豪を取り込んでいった。
もう一息でその調略も終わるところだった。
それを一気に、二条大蔵卿にひっくり返されたのである。
高山外記が帰ったあと、入れ替わりに斉藤道三入道が三木を訪ねて
382
きた。
﹁⋮⋮これは、入道様﹂
﹁つらいところじゃな、大和殿﹂
どっかと胡座をかいて道三はいった。
﹁あの種子島、一挺いくらかしって居るか? 通しで考えたら30
両だそうじゃ。つまり、御所様は39000両を支払って居る。兵
士や職人どもには一年で15万両を払って居る﹂
道三は天井を仰いだ。
﹁わしも、これでも美濃の蝮と言われた男よ。それなりの自負もあ
る。が、あの男は今少し手の届かぬ高みに居る気がするわ。わしは
な、大和殿﹂
天井から三木大和守に視線を戻し、道三はいった。
﹁もし御所様が美濃を欲したら、せがれには戦わず臣下に降れと言
おうと思う。あれは、それほど恐ろしい御方じゃ﹂
35万石以上を領した梟雄が、1万石を領した男に告げた。
現実問題として、この時点での美濃の総動員数は3万人近くあるだ
ろう。
対して今の良之は5000あるかどうかである。
だが、その3万をもってしても道三は、勝てるか自信が持てなかっ
た。
あの鉄砲がどれほど連射できるのかは分からない。だが、あれと野
戦をすれば、総崩れをするのでは無いかと道三は思う。
まだ良之がこの地に御所を建てて、半年に満たないのである。
あれが二年、三年と時を経て、力を蓄えたら一体どうなるのか。
﹁大和殿。貴殿は運が良いのやも知れん。あれと戦うなら歴史に名
が残る。従うなら、黄金の日々を見ることになる。わしはうらやま
しい。もう10年若ければ⋮⋮﹂
﹁道三殿であれば、どちらを選びましたか?﹂
やっとの思いで大和が絞り出した言葉を聞いて、道三は目を閉じる。
383
﹁⋮⋮わからぬ。が、戦ってみたくはあった﹂
そう答えた。
信長の興奮は、与えられた客室に下がっても収まらなかった。
﹁お犬。あれはすごかったな!﹂
すごいとしか言いようが無かった。
信長も実際は鉄砲というものを知っていたし、撃ったこともある。
だが、一発撃ったあと、次弾を装填させようと渡したあとでぐずぐ
ずと弾籠めのことをやっている職人に愛想を尽かして去った。
こんなものが戦の役に立つか。
そう思っていた。
だが、今日見た1300人の鉄砲隊は、3隊に別れそれぞれが発砲
後に弾籠めを行い、一糸乱れぬ隊列で9連射した。
信長の配下たちはその統制に驚いていたが、彼自身は、その弾籠め
の速さこそがこの軍のキモだと見抜いていた。
良之は9連射でやめさせたが、あの速さであれば、戦場ではどれほ
どの敵を討ち取るのか想像すら付かない。
﹁わしはな、鉄砲というのはしょせん猟師の道具と思うておったが、
あれは違う。弓や槍と同じで、今後は戦で使う武具じゃ﹂
﹁はあ、さようでございましょうか?﹂
犬千代は煮え切らない。
﹁そちはどう思う?﹂
焦れた信長は、池田勝三郎に水を向ける。
﹁戦場で使うには高額すぎましょう﹂
勝三郎の知識のもとは津島商人である。
日本に硝石が産出しないと知った南蛮商人たちは、ここぞとばかり
高額な金額をふっかけてくる。
一説には、同量の砂金まで要求されたこともあるという。
﹁そういえば御所様は一体、どこから硝石を工面して居るのであろ
うな?﹂
384
良之の配下である滝川彦右衛門に聞いたところによると、彼らは毎
日種子島の修行をしていると聞く。
もはやよほどの量の硝石を消費してきたことだろう。
﹁なんでも、煙硝倉には硝石が山のように詰められていると聞きま
す﹂
丹羽五郎左が言った。
﹁わしも撃ちたいものよ﹂
信長の興奮は収まらない。
﹁行けませぬぞ若。種子島なぞ、足軽の扱う武具でございます﹂
川尻与兵衛が慌てる。
﹁ふん﹂
信長は鼻を鳴らす。
﹁あれがそんな安い武具かよ。見ておれ与兵衛。いつかあの種子島
が、全ての戦を左右する時がきっと来るわい﹂
信長はそう言い捨てると、犬千代を伴って、平湯の温泉に浸かりに
出て行った。
その頃の良之は。
小者たちと総出で、一冬の間放置された鉛玉拾いにいそしんでいた。
せっかくの貴重な鉛である。
良之は、土や木、土手にめり込んだ鉛を錬金術で収納し、藤吉郎が
指揮する小者や子供達が集めてくる鉛も同様に受け取っては収納し
ていた。
﹁これは結構重労働だなあ﹂
今回の閲兵が彼らに与えた衝撃など知らず、藤吉郎たちと暢気な午
後を過ごすのだった。
翌日には高山外記や三木大和、彼らの配下たちは帰途についた。
385
だが、結局信長の主従たちは一同そろって射撃訓練に参加していた。
意外にも信長は的当ての腕も、早合の装填も一番早くマスターして、
なかなか上達しない犬千代や与兵衛をからかっていた。
道三とその臣の明智兵庫頭、竹中道祐は、良之の家司、隠岐大蔵大
夫によって御所内の物資を紹介されていた。
どの蔵にも物資が所狭しと詰め込まれていたが、一番驚いたのはそ
の多彩な食料だった。
これは、良之の道楽だと隠岐は渋い顔をしたが、
﹁そのおかげであれほどの食事が出来ることを感謝したほうがいい﹂
と道三にたしなめられて青くなっていた。
386
天文21年春 1
道三や信長は、隠岐たちに案内されて切り通し道や新築した橋、街
道沿いに配備した倉庫町を見て歩いている。
良之は、春になって再び集まってきてくれた金山衆や黒鍬衆に新し
い指示を出している。
旗鉾、という地名が丹生川沿いの里にある。塩屋の出身地である塩
屋の里より東の上流にあたる。
縁起は古い。
神功皇后が三韓征伐をためらった際、﹁乗鞍の神﹂が夢枕に立ち彼
女を励ましたという。
皇后はこれを受けて出陣を決意。
戦勝後、このときの旗と鉾をこの地に遣わし、枕頭に立った神に感
謝したという。
この地に、足尾鉱山には及ばないものの、当時のアジアでも屈指の
銅鉱山が眠っていることを良之は知っている。平金鉱山である。
﹁川の付け替えでございますか?﹂
﹁うん。旗鉾の村のあたりの川を、北の道沿いに付け替えて欲しい
んだ﹂
良之はプリントアウトした周辺図を一同に配って説明する。
﹁そして、川の南岸に大きく四つ、池にするための穴を掘って欲し
い﹂
図面に良之は、田の字型に四つ、池の絵を描いた。
﹁みんなは、鉱山を掘ると鉱毒が出たり赤水が出るの、知ってる?﹂
黒鍬衆はともかく、金山衆は知っていた。
﹁その水をこの池に流し込んで沈める。上澄みを下の池に流して、
387
さらに浄化するんだ。四つある理由は、こっちの二つが一杯になっ
たら、次にこっちの二つを使うためなんだ﹂
﹁その間に干して、こっちの二つの池を浚うのですな?﹂
﹁そう﹂
この平金の鉱山は、書物によると生涯で推定1万トン以上の精製鉱
を産出している。
しかし深刻な赤水の被害を周辺流域にもたらした公害鉱山でもあっ
た。
良之はなんとか、その被害を未然に防ぎたいと思っている。
現在神岡の操業を停止させているのものこのためである。
自身がイタイイタイ病の元凶になるのはどうしても避けたかった。
﹁鉱毒は出ますか?﹂
金山衆が聞く。
﹁出る。出ない山なんてほとんど無いんだけど、ここは沢が多いで
しょ? 多分掘ると赤水が沸くから、必ず﹂
開発経験者たちなだけに、金山衆たちは納得せざるを得ない。
﹁鉱山から赤水が出たら、必ずこの池に流れるようにする。この池
で赤水が沈殿したら、上澄みだけを川に流す。そういう仕組みなん
だ﹂
池の建設予定地に住む立ち退かせる住民たちは、塩屋の里に移し新
しい畑を開かせる。
そのため、転居を良之が援助し、さらに一年間の年貢の免除を指示
した。
掘削を指揮する黒鍬衆の他に、100人ほどの黒鍬衆と木下藤吉郎
に、良之はセメントとコンクリートの技術を伝えた。
飛騨には良質な石灰の山地が無数にある。
そうした石灰の産地は、この旗鉾のすぐ近くにもある。
388
銚子滝と呼ばれる久手川支流南岸の山が、ちょうど石灰の地質であ
る。
良之はこの一帯の伐採を山方に指示、黒鍬衆には作業道を開削させ、
さらに山方衆のうち炭焼きの知識がある者達に命じて炭の生産をさ
せた。
石灰を焼くための準備である。
匠衆には、伐採で開いた作業場に蔵を建てさせた。
また、鍛冶屋や鋳物師たちには、セメント用の工具や鉄筋を作らせ
た。
その間にも、良之は錬金術で精製した原料を元に藤吉郎たちにセメ
ントについて講義し続ける。
セメント自体は、世の東西を問わず古代からある。
日本の漆喰などは一種のセメント・モルタルに近い素材だ。
エジプトのピラミッドにも用いられている。
山方衆が伐採し、黒鍬衆が整地した山の斜面から石灰岩が現れた。
これを金山衆が指導して人夫たちに採掘させる。
採掘した石灰岩を炭焼きの窯を利用して焼き上げ、何基もの石臼を
使って粉砕させる。
ここに良之の持つスラグ由来の二酸化ケイ素の粒を混合し、さらに
河原の砂利などを水と共に混合攪拌する。
まずは、この作業場の地面の舗装をさせてみた。
﹁これは便利なものですな﹂
金山衆も黒鍬衆も、飛騨の匠までもがその有用性に期待を膨らませ
た。
実際、コンクリートの多様性は様々な分野において人類の近代化を
支え続けた。
389
土木・建築・治水・インフラ工事。
ここでセメント工法の知識を得た一同は、やがて良之に欠かせぬ技
術者となっていく。
炭焼き窯は温度調整が難しい。本来ならロータリーキルンが欲しい
ところだが、良之は妥協した。
生産されたセメントを、掘削した四基の沈殿池の側面に施工する。
まずは鉄骨を打ち込み、木板で形を組み上げ、そこに混成したコン
クリートを流し入れた。
また、漆喰塗りの左官を指導し、池の床面にもコンクリートを流し
込んだ。
一通りの工法を教えたあと、残りを全て藤吉郎に指図させ、与力と
して江馬右馬允を付けた。
新兵器開発は、良之にとってずっと頭に引っかかっている課題だっ
た。
鉄砲は強い武器ではあるが、いくつかの欠点がある。
最大の欠点は、現状では雨天時には無用の長物となることである。
それに、いかに破壊力が強かろうと、貫通力にも限度がある。
守りに適した武器ではあるが、攻城戦には使いにくいのである。
﹁お呼びでしょうか?﹂
﹁おう、源十郎殿もか﹂
先に来ていた滝川彦右衛門が下間源十郎にほほえみかける。
﹁2人には、今から渡すものを作って欲しいんだ﹂
良之は、プリントアウトしたロケットエンジン︱︱子ども向けの教
育玩具の方だが︱︱の設計図を手渡した。
また、ロケット弾の概要図を一緒に渡す。
390
﹁なんですこりゃ?﹂
﹁火箭、ですか?﹂
さすがに本願寺で育った源十郎は博識だった。
﹁そう。唐や宋の時代には震天雷とか神火飛鴉とか言われた武器だ
けど﹂
震天雷は水滸伝にも登城する。
地軸星轟天雷の凌振。
彼は火薬に通じ、砲兵を指揮して攻略戦に活躍した。
炸裂弾などもこの物語には登場するので、少なくとも宋朝末期には、
中国にはこうした火薬兵器が実在したのだろう。
実際、戦国期には焙烙玉という火薬兵器が存在した。
史実では織田の水軍がこれによってさんざんに焼き払われ、九鬼の
鉄甲船が誕生するきっかけとなった。
火箭。現代のロケット花火の大型のような武器だったと思われる。
直進安定性に欠き、横風に脆く精密射撃が難しい。
故に、後部に長い棒を付けているのである。
良之の図には、紙飛行機のような羽根が描かれている。
これも現代兵器に共通である。現代においてもロケット兵器の直進
安定性には難があるのは変わらない。
電子兵装が一般化し、ロケット兵器にはカメラセンサーや推進コン
トローラが取り付けられるようになった。
目標を自認し飛翔するのである。
﹁鉄砲鍛冶や鋳物師、木工師と相談して、10町くらい離れてもあ
たるようにして欲しい﹂
そんな風に頼んだ。
﹁火薬は今使ってる煙硝で行けるはずだ。頼んだよ﹂
突然のことに滝川も下間も困惑したが、頼まれてしまったものは仕
方が無い。
391
良之は神岡に移動すると江馬、塩屋、服部、千賀地を呼び出し、猪
谷までの道の検分を行った。
雪解けを迎え、前年の切り通しで作られた道は若干のぬかるみはあ
るが、それでも良之が飛騨に着いた頃に比べれば、格段に道路とし
て進歩している。
神岡から猪谷へと至る街道を越中東海道と呼んでいることは以前に
も触れたが、この街道は、高原川という神通川支流に並行して付け
られている。
自然の地形をうまく活用して付けられているが、やむなく川や支流
を越えなければならない場所には、立派な橋が架けられている。
猪谷手前で、黒鍬衆たちによる拡幅工事と遭遇した。
良之は一同を労うと先を急いだ。
高原川が宮川と合流する一帯。
東岸は東猪谷、青岩は蟹寺と呼ばれた。
土地の人間は、かんでら、と呼んでいる。
ここは、越中からの荷が東は神岡、西は白川へと別れる三叉路で、
物流の要衝でもある。
人が長い時をかけて慣らしたのであろう平地はあるが、惜しむらく
はこの集落は水利が悪い。
畑作に適した沢が無いのである。
良之はこの蟹寺に城郭を築かせようと考えている。
蟹寺を構成する地盤は固く、高原川と宮川の合流点であるにもかか
わらず侵食されていない。それどころか、山と呼ぶに近い岡がそそ
392
り立って岬のようにそびえている。
古来ここに住んだ住人たちにも開墾されていないところを見ると、
よほど固い地盤なのだろうと良之は思った。
﹁どう思う?﹂
まず、江馬と塩屋に良之は聞いた。
﹁場所は申し分ありませぬが、水に難儀しそうですな﹂
塩屋が言う。
﹁なんのための城ですかな?﹂
江馬が訊ねる。
﹁一つには、うちの荷物を守るための監視所だね。もちろん、神岡
を守るための砦でもある。どちらにしても、最大で5000から1
万が拠れる拠点にしたいところだね﹂
﹁1万でございますか?﹂
土地の規模から言うととてもそれだけの城は作れないだろうと江馬
は見た。
﹁それはもちろん、猪谷も勢力下に収めたらいいよ﹂
簡単に良之はいった。
猪谷は、水量が盛んな季節にはここまで上り舟がやってくる。
反対に、飛騨から切り出した材木は筏舟として越中に下って行く。
神通川水運の基点になれる土地だった。
水量が足りないと楡原から猿倉あたりで荷揚げし、その後陸路で猪
谷を経て越中街道を東西に別れる。
この土地は、食料や生活必需品のかなりの部分を輸入に頼ろうとし
ている良之にとって、まさに生命線なのである。
越中や飛騨の武家がこの拠点に進出していないのは良之にとって幸
いだった。
さっさと軍事拠点化するに限ると良之は考えている。
393
蟹寺、猪谷の百姓たちは、この降って湧いたような築城騒ぎに皆驚
いた。
だが、城主は京のお公家様であり、飛騨への品々を守るための築城
だという。
さらに、やけに金払いが良く、炊き出しの飯も豪華だ。
この土地の人間たちは皆、畑作の傍ら人夫として小遣い稼ぎをした
し、娘たちも炊き出しを手伝うと、食料や給金がもらえるのでこぞ
って参加した。
地元の寺社にも寄進をしたりと大盤振る舞いなこの新しい城主を歓
迎した。
彼らにとって問題は、年貢だった。
この時点では、越中は能登守護畠山氏の所領である。
ただ能登畠山氏は本来河内畠山氏の家来筋で正当性が弱かった。
そのためご多分に漏れず家内に権力争いが渦巻き、越中の支配など
出来る状況では無かった。
そこで台頭してきたのが越中守護代神保氏である。
この一帯は神保氏が代官として年貢を取っている。
寒村という事もあり五公五民で賦役や銭によって不足分を補ってい
たようである。
この村の者達は、当然、良之が治めた場合、賦役なしで人夫には報
酬がある上、四公六民であることを知っている。
だが、良之にとってこの地を奪うことは神保との対決を意味してい
る。
彼にとっては魚津や富山岩瀬湊からの荷が安定して飛騨に届けばそ
れで良く、全く領有などは頭に無かった。
良之は、猪谷までの飛騨街道の普請も命じた。
394
飛騨国内で越中街道と呼ばれる道は、越中に入ると飛騨街道と名を
変えるのである。
併せて、猪谷の船着場の整備なども黒鍬衆に行わせ、塩屋に、二条
家の倉町を普請させた。
塩屋筑前守はこの頃から、二条家の商業面の責任者を任されること
が増えていく。
すでに旧領地は江馬の嫡男、右馬介が代官として着任している。
実質上、江馬も塩屋も領有権を国司である良之に返上しているため、
領民にはさほどの混乱は無かった。
良之は塩屋に、蟹寺と猪谷での二条家の倉町建設の指揮を取らせる
と同時に、富山岩瀬港においての株取得と、六十棟以上にも及ぶ巨
大な倉町建設を命じている。
﹁そんな規模で必要なのですか?﹂
塩屋はさすがにその規模に驚いた。
﹁うん。たとえば、堺や京、敦賀からの荷物は船便で届くでしょ?
直江津からは草水、平戸からは丹が届くし、博多からは石炭が来
るようになると思う。それをどうするかはまだ決めてないけど、上
り舟や人力で神岡まで運ぶにしたって、船便の量とは比べようが無
く輸送量が弱いでしょ?﹂
海路で運ばれる積み荷は1回の量が多い。
それを飛騨に運び込もうと思えば、大変な人海戦術が必要となるだ
ろう。
﹁もし法外な値を要求されましたら?﹂
﹁そしたら対岸の草島あたりに新しい湊を開いて構いません﹂
その返答に塩屋は暫し考え込んだ。
﹁いっそ、はじめからその線で行かれたらどうでしょう?﹂
395
塩谷の商人としての勘は、その方が結局安く付くと告げている。
だが良之は首を横に振る。
﹁よほど法外な事を言われなかったら、岩瀬を使って下さい﹂
良之は、自分だけで無く岩瀬の商人たちにも利を与え、運送業に乗
り出して欲しいと思っている。
わざわざ対立して、彼らを締め出したり敵視させたりする必要は無
いのである。
そこにまで考えが至らないのは、豪商として一代で成り上がった塩
屋の限界なのかも知れないし、良之と塩屋の目指しているゴールの
違いかも知れなかった。
塩屋には与力として望月三郎を相役に付けた。
近頃では三郎は、妹のお千から魔法を習い、<収納>や回復魔法を
使い出している。
多額の金を動かす際、この時点で彼は最適だった。
396
天文21年春 2
織田上総介信長が、平湯で良之の帰りを待ち構えていた。
﹁御所様。わしは決めたぞ!﹂
﹁⋮⋮はあ。どうしました?﹂
興奮気味に信長は宣言する。
﹁この信長、御所様の家臣になり申す﹂
上総介信長はこの年、数えで22才である。
天文19年に数え22才だった良之は、この年数えで25才。
ほぼ同年代である。
確かに、良之としても信長は接しやすいし何よりこの時代屈指の先
見性がある男だった。
だがさすがにそれはどうだろうと思う。
ひとまず良之は自室に信長のみを請じ、やむなくお茶を点てて与え
た。
﹁このお茶、うまいな﹂
信長はいたく気に入ったようだ。
﹁上総介殿。あなたには尾張があるでしょう?﹂
﹁ああ、いらん﹂
信長は一言で切り捨てた。
﹁第一、親父殿の腰が定まらんことには、尾張など危のうて暮らし
ゃーせんわ。わしを世継ぎにというてからは、母御前までわしを殺
そうとする﹂
彼の母、土田御前は信長をひどく嫌っていた。それも公然とだ。
世継ぎは次男の信勝であるべきだとして、那古野を離れ末森で信勝
と暮らしはじめた。
397
那古野を譲った父の信秀が妻子と共に末森に居を移してからの顛末
は、良之も知っての通りだった。
﹁一体、どうして急にそんなこと考え出したんですか?﹂
﹁わしはな、神岡や塩屋を見て歩いた。御所様、一体どうやれば刀
狩りなぞが出来る?﹂
秀吉が太閤になった後年、刀狩りは大々的に行われた。
言うまでも無く、太閤検地と呼ばれる国勢調査ともいえる施策と併
せてのことだ。
太閤の成功要因は、一つには、世が治まった事が大きいだろう。
その中で圧倒的な武力を持つ太閤が強行した訳である。
もう一つは、世が豊かになった事の表れでもある。
食えず他所から強奪するほどの貧困が収まることによって、武装す
る必要が薄れた。
良之が飛騨の地でこの二つの政策を実現させ得たのも、規模は違う
がこれと同様である。
﹁なるほどな﹂
信長はその説明に納得した。
﹁それもこれも御所様が居ってのことであろ? なあ、御所様の富
はどこから来る?﹂
ストレートな質問だった。
﹁⋮⋮俺は異国の知識を持ってます。それは明や南蛮をもあるいは
凌ぐでしょう。その知識で軍資金を稼いでるんですよ﹂
その中にはもちろん、フリーデやアイリたちと育てている魔法や錬
金術も含まれている。
この世界で良之が巡り会い、病を癒やすことで大きく歴史は変わっ
てきている。
この時点で、本来であれば織田備後守信秀は死去し、信長はとうに
398
尾張を継いでいる頃である。
しかも、本来であれば老臣である平手政秀は信長を諫めるために切
腹して果てていたはずである。
﹁それはわしが御所様に代わってなし得るか?﹂
良之は首を横に振る。
おそらく、この時代にあっては良之のみが持つ知識であり、実力だ
ろう。
﹁わしはな、旗鉾のコンクリートを見てつくづく感じた。この御方
は偉い御方じゃ。いつか世界を変えてしまわれるであろう。その時
に、尾張だの美濃だの三河だの。まことどうでもいい話では無いか
?﹂
﹁まず、備前守様のお許しが必要です﹂
やむなく良之は条件を出した。
﹁あい分かった。ところで御所様。平湯の侍大将だった三郎殿を塩
屋に付けたとか。であれば現状この地には大将不在であろう?﹂
﹁ええ﹂
﹁わしにやらせてくれんか? なに、親父殿から返事が来るまでで
良い﹂
おもしろそうだと良之はこれを許した。
ひとまず信長には300貫、丹羽、池田、川尻にはそれぞれ100
貫。
小者の犬千代の禄は信長が出すこととして、仮に雇った。
斉藤道三入道がひとまず美濃に帰るというので、信長は父への書状
を舅殿に託した。
彼は平湯城の兵を預かったが実質的な軍の指揮は全て川尻と丹羽に
399
やらせ、池田と前田を引き連れて、毎日調練場で銃を撃っているら
しい。
腹立たしげに隠岐が小言を言うので
﹁それでなんか問題が起きてるの?﹂
と良之は聞いた。
川尻も丹羽も意外と上手で、良く鉄砲以外の兵科をまとめ、訓練な
どもかなり質が良いという事だった。
﹁だったらほっときなよ。部下がやることやってるなら、上司なん
て遊んでたっていいさ﹂
良之が笑いながらそう断じたため、渋々、隠岐は引き下がった。
﹁道三殿、お気を付けて﹂
﹁なんの。さすがにそこまで老いぼれては居りませぬ。それより、
婿殿をお頼み申す﹂
﹁それはもう。ところで、備後守殿はどうなさいますかねえ﹂
良之は見送りの席で訊ねてみた。
﹁さて。存外ご本人がこの地に見分に参上するやも知れませぬぞ?﹂
あり得るなあ。
良之は嫌な予感がしたのだった。
この時期の良之は多忙だ。
飛騨の山方衆や匠衆の頭を集め、前年に依頼した棹銅の箱について、
状況を聞いてみた。
サンプルとして持ち込まれた冬の手仕事はどれも質が良く、良之は、
﹁これを毎年頼む﹂
と改めて依頼した。
納品時に、蓋に二条の家紋と五三の桐紋を焼きごてで押印し、公式
な通用箱として採用した。
400
50ほどをサンプルとして手元に残し、残りを全て、焼き印をして
から堺へ送るように指示した。
しかし、見ればみるほど時代劇の千両箱みたいだな、と良之は思っ
た。
三木とその家臣のうち、城を持つ主立った者達、それに、高山とそ
の手の者達が連れ立って平湯御所にやってきた。
良之はその一行へのもてなしを隠岐に指示し、上総介信長と滝川、
下間らに
﹁おそらく種子島の訓練を見たがるでしょうから﹂
と、翌日に連射訓練を行うように指示をした。
﹁二条大蔵です﹂
謁見の間に集まった一同に上座から良之はあいさつした。
それぞれのリーダーである三木と高山が、顔ぶれを1人1人紹介し
てくれた。
集まった国人や豪族は全部で12名。
これで良之に従わない飛騨の少領主は、姉小路と内ヶ島一党のみと
なった。
﹁今年いっぱいは皆さんに現在の領地をお任せします。まずやって
欲しいのは検地と戸籍の再確認。それと刀狩りです﹂
覚悟していたとはいえ一同、刀狩りの言葉に戸惑いを隠せない。
﹁農家は農家、商家は商家、猟師は猟師に専念させます。合戦に動
員したり、落ち武者狩りなどはさせませんし許しません。各村に警
察を置き、要所には警備の軍を常設します。今後は、その地位にあ
るもの以外の殺しは御法度とします﹂
401
良之は、武具は適切な価格で買い取ることや、どうしても武具を手
放せないものは侍として取り立てるから名乗り出たらいいこと。
それに、女子どもでも仕事はいくらでもあるから、身売りや口減ら
しはさせず、良之の家臣に相談させることを命じた。
この時代、養いきれない年寄りや赤ん坊を口減らしと称して当たり
前に殺す事例があった。
だが、現状良之にとっては全くもって人手不足なのである。
﹁来年には皆さんから領地を俺が召し上げます。ただし、代わりに
俸禄は銭で支払います。また、飛騨に足りない食品や物資は、国を
挙げて輸入します。皆さんは、俺の武官になるか、文官になるか、
代官になるか、あるいは他国の代理人になるか。皆さんの希望や能
力によって決めていきますが、おそらく、今までよりは暮らしは楽
になるでしょう﹂
だからまずこの屋敷で数日見分を行って、それを感じてみて下さい。
良之はそう訓示して接見を終える。
まずは、彼らの中から離農して常設軍に加わるべき人材の確保であ
る。
例によって、食事と温泉でもてなしたあと、射撃演習を見学させる。
その後、良之の武官たち全員で、今回良之に従うことに決めた国人
や豪族から、1000名の戦士候補を選び出させた。
それらを、各武官が得意分野ごとにオーディションしていく。
国人や豪族の長や幹部らは地元に戻り、まずは検地を開始した。
例によって、検地に協力した村には四公六民を許す。
驚くほどスムーズに検地は進んだ。
天文21年三月。
飛騨の山々もやっとまともに行動できるほど雪解けが進んだ。
新暦で言うと1552年の3月25日である。
402
この日、信州の木曽から良之に、ありがたい知らせがやってきた。
﹁木曽左京大夫と、昨年平湯を見分した関東甲信の流民、浪人とそ
の親、家族ら6500名が移民を希望﹂
当然良之は快諾の返答をし、彼らがやって来るであろう木曽と高山
を結ぶ木曽道を整備させ、平湯での受け入れを準備させた。
平湯のキャパシティを上げるため、現在平湯に駐留する兵士や銭傭
いたちを高山に移し、尾崎城に駐留する千賀地石見守の兵士100
0を下呂に移す。
問題がひとつあった。
それは新たな流民の受け入れによって、さらに、三木衆と高山衆の
参入によって生じる食糧自給率の低下と、その対策だ。
本当のところを言うと、良之やアイリ、フリーデの<収納>に納め
られた食糧は、亜空間による時間の停止︵もしくはそう言って構わ
ないほどの時間の遅延︶によって鮮度が保たれたまま、この程度の
人口増加では問題にならない量がストックされている。
だが、こうした方法では無く、この時代なりの正しい方法で食糧が
確保できねば、今後、良之たちがこの地を離れた時に対応出来なく
なる。
﹁隠岐、美濃井口、越中岩瀬などの商人と諮って、日本中から余剰
の食糧、干物、野菜、味噌醤油、塩などを買い付けろ。場合によっ
ては、京・堺の皮屋、直江津の越後屋、尾張の伊藤屋、博多の神屋
などにも草を出し協力を頼め。ただし、足下を見られて無駄な金は
使うなよ﹂
﹁⋮⋮はっ﹂
本来であれば白川を除く飛騨全域の街道拡張なども命じたいところ
だが、残念ながら人材が尽きている。
403
それについては、新たに加わる信濃からの入植衆が落ち着いてから
でもいいかと良之は思い返した。
この頃。
アイリとフリーデ、阿子は毎日神岡や平湯の後ろにそびえる山々に
登っては、ポーションを作成している。
1人に付き2人の小者が帯同しているので、もうすっかりアイリも
フリーデも日本語に堪能になっている。
不思議なもので、外見と異言語であることによって恐怖されていた
彼女達も、言葉が話せるようになると随分人気になっている。
殊にアイリは、回復魔法によって健康面で救われた人間が多く、藤
吉郎が広めたこともあって、影では﹁天女様﹂と呼ばれているらし
い。
フリーデとアイリは﹁神隠し﹂によってこの世界に来たと噂されて
いるので、その天女説にはいっそう拍車がかかっている。
この頃は、魔法を習得したい長尾の虎御前も彼女達と一緒に行動し、
<収納>あたりはマスターしているようだ。
﹁フリーデ、アイリ。明日は俺と一緒に来てくれ﹂
良之がそんな彼女達に依頼した。
﹁はい。どちらに?﹂
フリーデが答える。
﹁金山衆の頭たちを連れて、銅の鉱脈を探しに行く﹂
平金鉱山の大まかな場所は良之も知っているが、この時代では完全
な原野である。
もちろん道が付いているわけも無く、この鉱脈探しは結構重労働に
404
なりそうだった。
それでも、阿子や虎御前も来るという。
阿子は良之の一行に加わって以降、みるみる体力が付いてきて、今
では良之よりタフになっているかも知れない。
平湯峠の分水嶺を越えると、東から西に流れるのが小八賀川である。
さわのうえだにがわ
この川は丹生川集落を通過し、高山で流れを北に変え、宮川となる。
その小八賀川の源流である池之俣川と沢之上谷川のうち、沢之上谷
川をさかのぼると、良之の探している平金の鉱床はある。
つまり、良之が鉱毒によって汚染すると警戒している川でもある。
沢の脇にわずかについてる生活道をさかのぼること約1.5km。
良之が地図で目視した平金の鉱床が眠る小山へは当然道が無い。
沢の西岸に渡り、山肌を観察していた金山衆の頭が、どうやら鉱床
を発見したらしい。
﹁これは確かに、赤水の出そうな山ですな﹂
頭は、採掘する前から沈殿池の大工事を指示させた良之の先見を讃
えた。
良之にとっては﹁過去﹂を知っているだけなので、あまり褒められ
てもぴんと来ないのである。
そのまま急峻な山肌を良之たちは登る。
およそ200mほど登ったところで、頭たちは大規模な同鉱床の露
床を発見した。
﹁うん、じゃあお頭、ここまで北の麓から道を付けて下さい。山方
衆に木や柴を狩ってもらって、黒鍬衆に道を開いてもらうといいで
しょう﹂
﹁承知しました﹂
﹁鉱石の選鉱場がいりますね。とにかくこの近くに、一町ほどの空
405
き地を作ってもらって下さい。極力、鉱床と重ならないように。も
ったいないですから﹂
﹁わかりました﹂
この鉱床は、良之のいた未来では明治期に入るまで発見されること
の無かったものだ。
発見するほどの人口がこの地域にはなかったのかも知れない。
406
天文21年春 3
鉱床の採掘、選鉱、そしてそれらを加工する溶鉱炉を作る段階に進
めるまでに、いくつかの大きな課題がある。
まず第一は、作業が出来る状態にまで原生林を伐採せねばならない。
伐採した原木は加工され、材木、木炭などに加工される。
次に、藤吉郎が行っている石灰焼成工場と炭焼きなどで発生した白
灰を水で洗い、上澄みの水を乾燥させてカリを生産する。
残った灰は、畑の肥料に出来る。
炭焼きで発生する木酢液も蓄積させた。
﹁あ、そうだフリーデ。君たちの錬金術って、分溜の技術、あった
?﹂
﹁はい。ありましたが?﹂
﹁ちょっと詳しく説明してくれる?﹂
彼女達の世界では魔法が発達していたため、良之の実感では科学が
ちぐはぐな形で進化していた。
だが、分溜の技術があったとしたら、良之にとっては大いに助けに
なる。
フリーデはためらいながらも、錬金術師が行っていた精溜技術を説
明する。
﹁精溜塔じゃ無いか! フリーデ、職人たちを指揮して建造出来る
?﹂
鉛筆で図に書かせた良之が興奮してフリーデの両手を自分の手でく
るんだ。
﹁えっ? あ、は、はい⋮⋮﹂
フリーデはいきなりの接触に顔を真っ赤に染めながらも返答する。
﹁よし! じゃあフリーデ、君は職人たちを指揮して木酢液の分溜
407
塔を作ってくれ! いずれは越後の原油の分溜にも挑戦してもらう
から!﹂
良之にとって、石油の分留は最大の課題であった。
小さな課題としては、彼のキャンピングカーの燃料の問題がある。
ディーゼル車であるキャンピングカーは、エンジンが軽油、発電機
がガソリンである。
どちらも現状では入手が難しい。
原油から錬金術で抽出すれば製造は可能なのでさほどの問題でもな
いが、それよりは、石油製品の入手は工業力を大きく発展させてく
れるのである。
引き受けたものの、フリーデは課題の大きさに戸惑った。
ひとまず、彼女はこの時代の職人たちの能力の把握からはじめるこ
とにした。
大工、鋳物師、鍛冶師などの工房を廻って、代表者に分溜塔につい
て講義し、感触を得た。
彼女が﹁割と文明度が低い﹂と思い込んでいたこの時代の職人たち
は、精度の高い仕事が出来る事を知って驚いた。
実際、フリーデの引いた図面に関する理解度は各職人においても高
く、およそ三ヶ月ほどで全高10mにも及ぶ試作の分溜塔を建造し
てしまうのだが、それはまた別の稿に譲る。
平金鉱山や神岡鉱山などに代表される金銀銅、および鉛の鉱石を産
出する鉱山には、多くの場合良質な亜鉛鉱も産出する。
にもかかわらず近代まで亜鉛を人類が有効に使えなかった理由。
それは亜鉛がごく低温で︱︱具体的には摂氏900度近辺で蒸発し
てしまうためである。
この時代、中国では亜鉛の単離に成功していたらしい。
408
その方法は、亜鉛鉱を高熱で焼き、ガス化した亜鉛を羊毛によるフ
ィルターで再結晶化させる方法だったようだ。
良之の時代には、亜鉛鉱を自溶炉などで発火焼成し、そこに鉛の鉱
石をシャワーのように降らせることで気化した亜鉛を再結晶化させ
る。
そして鉛は液化し、亜鉛が結晶化する温度まで下げると、亜鉛は固
化して浮遊する。
この亜鉛を集めて電気精錬でフォーナイン純度にまで高めていた。
良之がこの方法をとろうとする時、大きな障害がある。
温度管理である。
次善の策として、銅︱鉛溶鉱炉に排気ガス処理を加え、レトルト製
法によって亜鉛を分離する方法がある。
レトルト法は、良之の時代、小中学校の理科や化学の時間に実験室
で学ばせているため、おなじみの方法である。
水溶液をフラスコで熱し、蒸気を凝集する水冷の器具こそがレトル
トだ。
中国で行われている亜鉛精製もある種、同じ理論で構成されている
と言って良い。
この場合、触媒・還元剤として羊毛を利用していることになる。
良之が考えなければならないのは亜鉛収集対策だけでは無い。
鉱石を焼くと一般に、硝酸化物、硫化物、ヒ素、カドミウムなど有
害ガスや有害物質が発生する。
ちなみに、ヒ素は615度、カドミウムは767度、亜鉛は900
度で蒸発する。
これらを効率よく分離すれば、場合によっては資源として活用でき
るが、排気ガスとして垂れ流せば、深刻な環境汚染や健康被害の原
因になる。
409
分溜を理解しているという事は、フリーデにはレトルトについても
理解があることだといえる。
分溜精溜塔などは、レトルトから派生して進化しなければ得られな
い科学技術だからだ。
鉱山より金銀銅を産出する際、併せて鉛や亜鉛の鉱石を加えて粗精
製するのはコストの面から言っても非常に効率が良い。
特に銅にとっては、南蛮絞りと全く同様の理由から、粗銅の時点で
比較的高純度の銅に出来る。
ただし、銅の融点は1084度。前記の汚染物質や亜鉛は全て蒸発
する。
鉱石が含む硫黄の酸化反応で自溶炉を作るとなると、さらに大きな
問題がある。
吹き込む空気に高酸素濃度が要求されるのである。
酸素の製造は、電気があれば実はそれほど難しくは無い。
高圧、低温下で空気を圧縮冷凍すると、液体空気が製造できる。
この液体空気の融点の違いから、徐々に温度を上げるとまず窒素が
気化し、次いでアルゴンなどの希ガス、そして酸素が残る事になる。
液体空気の分溜である。
余談だが、この液化窒素があれば、硝石の生産は科学的に一気に進
む。
フリッツ・ハーバーとカール・ボッシュによって開発されたハーバ
ー=ボッシュ法によって、窒素はアンモニアへと化学合成できるよ
うになったからである。
さらに言うと、良之にとっては、人糞の使用をやめさせ、化学肥料
410
への移行を促すのに最適な﹁化学肥料﹂の生産が可能になる。
技術的課題はある。
この時代、高圧に耐える﹁継ぎ目なし﹂容器を作るための工業手法
も素材技術も確立していない。
いわゆるボンベ容器は、そのサイズの鋼管を鋳造後切り分け、底部
と頭部を熱加工によって作成する。
素材はマンガン鋼かクロモリ鋼が使われ、高圧充填に耐えるよう設
計されている。
同様に、ボンベに装填されるバルブも高圧に耐える精度と安全性が
要求される。
バルブは一般にはねじ山切りによって接続される。
ネジによる噛み合いによって、漏洩を防ぐのだ。
良之の考察は終わった。
いずれにしてもこの規模の工業化を果たすためには高炉と転炉が必
要である。
さらに、鋳造であれ鍛造であれ、まずはその規模の工場を作らねば
ならない。
技術というのは一足飛びには誕生しない。
一見関係ないように見えても、それぞれの発明や開発は、密接に関
係し合っているのである。
良之の見たところ、この時代の鋳物師にしろ鍛冶師にしろ、適切な
器具と知識を広めれば、充分に職工としての能力は発揮できるとみ
ている。
排ガスの処理については、ひとまず電気とモーターが無いと話にな
411
らない。
前段処理で粉塵をフィルターで漉し、水素ガスを吹き込むことによ
って窒素酸化物を還元、また硫化水素を発生させ、脱硫を行う。
その後脱硝処理にはセラミックスとアンモニア法によって窒素に還
元させ、脱硫処理も触媒と水蒸気によって硫酸となり収集出来る。
最後に、水中に沈殿させた石灰に残った硫化ガスを反応させれば、
石灰が化学反応によって石膏に変化する。
この無害化によって、ある程度の安全と、副産物を得るのが良之の
プランだった。
いずれにせよ、モーターとファンによる排煙のコントロールが必要
になる。
木曽左京大夫義在が、今回到着した6500人の代表として良之に
あいさつに訪れた。
﹁このたびの流民の受け入れ、誠にありがたく﹂
左京大夫はまず深々と頭を下げる。
﹁どういう素性の人たちですか?﹂
良之の問いに、
﹁まずは武田によって占領され流亡した信濃の国人、豪族。さらに、
北条によって流民と化した関東の者達。そして、飢饉や災害によっ
て発生した甲斐の庶民でございます﹂
と左京大夫は答えた。
いずれも、前々から聞いていた通りである。
﹁分かりました。まずは本人たちの意向に合わせて仕事についても
らいます。ですが、実際の所現状では飛騨には農家の需要があまり
ありません﹂
﹁なんと⋮⋮﹂
412
左京大夫は暗い顔をする。
この時代、専門技能など早々持っているものではないし、そうした
者達は流民化しにくい。
戦で支配者が代わったところで、どの統治者も技能者は重用するか
らである。
﹁まず武家ですが。本人たちの希望があれば戦闘専門の銭傭いにな
ってもらいます﹂
﹁銭傭いですか?﹂
﹁ええ。俺の土地では、武家は全員そうです。所領を与えたりは一
切しませんし、新しく加わる国人からも領地は召し上げます。代わ
りに、領地を持っていた時より多くの銭や食糧を支給します﹂
この時代、銭傭いはそう珍しいことでは無い。
堺や大山崎と言った商業地にいる傭兵は全て銭傭いだった。
こうした傭兵は、浪人や武家の冷や飯食いの他に、伊賀甲賀と言っ
た特定の地域出身の者や、雑賀衆や九鬼衆と言った傭兵団を組織し
ている一団もある。
﹁次に文官ですね。領地の代官、出納役、記録係など。戦闘には一
切参加させません﹂
﹁はあ﹂
これも現状、そう珍しいことではない。
読み書き算術に強い家臣から、納戸役や代官などが選ばれて、年貢
や戸籍を管理している。
﹁他にも外交担当、商業担当、工業担当などの職があります﹂
外交担当は分かる。だが、商業担当や工業担当とは珍しい。
左京大夫が確認すると、要するに、飛騨では農産物より工業生産を
優先させるため、食糧は他国からの輸入に頼る。
ゆえに御用商任せでは無く、商業の監視や工芸品に対する国営化を
進めているという事だった。
﹁そして、職人層です。まずは皆さん、どうしても畑が欲しいとい
う方には畑を斡旋します。将来が決まっていない人たちで武家にな
413
らない人には、まず人足として働いてもらいます。もちろん、食事
と給料はきっちり払いますし、住むところも保証します﹂
﹁な、なるほど﹂
6500の流民のうち、半数以上の3500は女や子ども、老人だ
った。
残る3000のうち、1000が専業兵士、500が帰農し、残り
はひとまず労夫として働きながら資金を得ることになった。
女性陣は飛騨の各地に分住して、給食などの業についてもらった。
子供達はまず学校を開設し、読み書きや算術を習わせ、その後に適
性に応じて就職させることとした。
年寄りについては、縄や竹細工と言った手仕事を斡旋した。
これらについても、強制では無くあくまで副収入として環境を提供
したのだった。
﹁ところで、左京大夫殿はどうされるのですか?﹂
良之は聞いた。
﹁そうですな。わしにも領地はあるにはありますが、ここに連れて
きたものへの責任も、御所様への責任もありますゆえ、残って面倒
を見ようかと﹂
﹁それはありがたい﹂
つい良之の本音が出た。
﹁では、この地の代官をお願いします。きちんと給料はお支払いし
ますんで﹂
そう言ってさっさと既成事実化して左京大夫に有無を言わせず押し
つけたのだった。
414
天文21年春 4
アイリと千は多忙を極めた。
新しい住人たち全員に対する健康診断と、特に寄生虫対策を良之が
求めたからだ。
良之もまず6500人分の虫下しを合成して提供し、全員への服用
を勧めた。
また、飛騨全土にも同様に虫下しを無料で配布した。
同時に、飛騨領内での人糞の使用を禁止し、村ごとに処分場を作ら
せた。
処分場はいわゆる肥だめである。
穴の回りには石灰が撒かれて、肥を処分する人間以外の立ち入りを
禁じている。
これはもちろん感染予防のためである。
この時代の飛騨には空き地も多く、さほど問題になることは無かっ
たが、井戸水を利用している地域に関しては、地下水の汚染を警戒
して村の最下部の端に作らせるよう指導した。
電力さえあればロータリーキルン型の焼却炉が作れるので、いずれ
は何とかしたいと良之は考えている。
岩瀬に出向いていた塩屋筑前からつなぎが来た。
重要な決済を頼みたいので、現地に出向いて欲しいという。
現状、自由に動ける人材が枯渇している。
﹁俺が警護に就こう﹂
415
言い出したのは上総介信長である。
丹羽や川尻などは強く反対したが、信長は押し通した。
丹羽と川尻には、高山と平湯の兵のとりまとめを依頼しているため
に動けない。
そこで、池田勝三郎と前田犬千代が信長に付くことになった。
﹁あたしも行くよ﹂
長尾の虎御前も同道することになった。
雪解け水により水かさが増していることもあり、猪谷からは船で下
れることになった。
﹁よくお越し頂きました﹂
岩瀬の船屋が一同を代表してあいさつに出た。
﹁それで筑前殿。問題とは?﹂
良之はあいさつもほどほどに、塩谷に尋ねた。
﹁ひとつは建設用地の問題です。60棟の蔵となると、堀の内に充
分な用地が足りません﹂
﹁他にも問題があるの?﹂
﹁ええ。用地が足りなければやむを得ません。対岸の草島に新たな
船着場と倉庫を作ろうと考えてみたのですが、神保様が⋮⋮﹂
富山城は神保氏の居城だった。
その膝元の話なので、彼らが出てくるのは当然の話だろう。
﹁うん、分かった。船屋さん、今岩瀬で空いている土地、空いてい
る蔵を買い上げるとしたら、蔵はどの程度用意できますか?﹂
﹁20ほど、でございましょう﹂
﹁分かりました。その数で手を打ちましょう。塩屋殿、あとはお任
せします﹂
﹁残りはいかがいたしましょう?﹂
﹁仕方ないんで人海戦術で飛騨まで運びましょう﹂
﹁⋮⋮分かりました﹂
416
船屋は、この一年で取引高が急増した全ての中心がこの公卿だと熟
知している。
当然、今後の全面協力を約束してくれた。
良之も、人足手配、舟運のことなどを船屋に一任し、蔵の建築など
後事を託した。
船で猪谷まで戻り、平湯経由で高山に出た。
高山で良之は、越中経由の物資搬入のみに頼る危険性を考えていた。
今のところ、さほどの警戒感を神保氏は良之に向けているようには
思えなかった。
しかし、仮に荷止め、岩瀬の荷の没収などと言った暴挙に出られる
と、最悪、飛騨の民は飢えることにもなりかねなかった。
そこに、ちょうど良い相談相手が集まった。
斉藤道三入道、義龍親子。それに、織田備後守信秀である。
﹁御所様。我が子治部大輔義龍、こたび御所様のご治世の見分にま
かり越しました﹂
﹁御所様にはご機嫌うるわしゅう﹂
﹁はい、お久しぶりです治部殿﹂
﹁御所様。我が子上総介信長よりの書状拝見しましてまかり越しま
した﹂
﹁備後守殿もご壮健で何よりでした﹂
まずは懸案の信長の就職問題である。
﹁備後守殿は、上総殿の一件、どうするおつもりですか?﹂
﹁それはまあ、困ることは困るのだが。あやつがいうには、尾張よ
417
りよほど未来があるから、御所様の家臣になると﹂
﹁⋮⋮こういうの、例があるんですか?﹂
良之は、嫡男がよそに仕官するというのはさすがに異常だと思う。
﹁たとえば、将軍家に嫡男を入れ、直臣とする例などは古今、行わ
れておりますな﹂
たとえば、今なら甲賀の和田惟政。
あるいは和泉上半国守護細川元常の養子、細川藤孝あたりの例もあ
る。
﹁わしもはじめは腹に据えかねましたが、道三殿のお話によると、
いずれ御所様は天下人にすら届く御器量人とのこと。もし当人が望
むのであれば、あやつの生涯をお預けするのも良いかと考えを改め
ました﹂
﹁⋮⋮そうですか。まあその辺、備後殿、ゆっくり親子でお話し下
さい﹂
この親があって、あの子、である。
良之は、まあ信長は鉄砲が楽しくてここに留まってるんで、飽きれ
ば国に帰るだろう、程度に思っていた。
﹁ところで、美濃と尾張のご両人が居られるので相談したいんです
が⋮⋮﹂
良之は、越中での一件を話し、食糧などの買い入れで飛騨にとって、
新たな物資搬入ルートが必要なことを相談してみた。
﹁では、津島から木曽川の舟運を使ってはいかがか?﹂
国主を継いで治部大輔を名乗りだした義龍が言った。
木曽川は、上流の支流、飛騨川の川辺あたりまで、木曽川も八百津
あたりまでは舟運が可能で、この川に根ざした木曽川衆とでも呼ぶ
べき集団があるという。
この時代、良之が要求するような荷が運べる街道は川辺∼下呂の間
に通っていない。
良之の認識している益田街道は、天下の治まった後年、秀吉の治世
418
に金森長重が飛騨国主として大工事を行ったもので、しかもそれで
も充分な交通量に耐えられず、江戸期に再度普請されたものである。
結局、八百津から陸路で中津、苗木に出てそこから下呂に登らねば
ならず、越中廻りに比べると、いかにも迂遠である。
﹁なるほど。難しいもんですねえ﹂
良之は地図を見ながらうめいた。
この地図の精度に驚いたのは美濃・尾張の支配者たちである。
﹁御所様、この地図は一体⋮⋮いえ、この箱自体もなんというか⋮
⋮光っておりますが?﹂
﹁ああ、異国のからくりです。魔法ですよ﹂
ノートパソコンにインストールされている地図ソフトなのだが、良
之はそんな風に煙に巻いた。
﹁あのようなものがあれば、戦にならぬのでは無いか﹂
義龍は恐怖した。
父、道三の﹁対立するくらいならいっそ、先んじて御所様に降り重
臣になれ﹂
という言葉の一端を義龍はこの時はじめて実感した。
この時期、冬期に蓄えられた紀伊と堺の種子島が1500挺、新た
に飛騨に入っている。
従来の銃は前線に送られ、この新しい銃によって、平湯での調練が
続けられることになった。
良之の配下の銃はこれで2800挺になっていた。
紀伊から来た鍛冶屋の親方は、メンテナンスに大わらわである。
飾りでは無く一切の妥協をせずに射撃の修行をさせている良之の軍
419
は、間違いなくこの時代でもっとも種子島を酷使している集団だろ
う。
秘伝もなにもあったものでは無かった。
最初は紀伊から連れてきた内弟子のみに構造を教え、製造法を教え、
直し方を教えていたが、近頃では修理依頼が殺到し、改造依頼が殺
到し、しかも良之からは通常の鍛冶業務まで命じられ、完全に仕事
が溢れていた。
ここに至って親方は、神岡や高山の鍛冶師たちに助けを求めざるを
得なくなった。
熟練や中堅の鍛冶師を多く回してもらい、自身と内弟子たちで徹底
的に実地で種子島について教え込んだ。
良之から与えられた鍛冶師の仕事と見習い・若手たちは神岡や高山
に回し、平湯では徹底して種子島の補修を担当した。
結果として、この頃より飛騨鍛冶は種子島が製造できるようになっ
ていく。
﹁御所様、お待たせしました﹂
滝川彦右衛門と下間源十郎に呼び出され、良之はロケット︱︱ミサ
イルの実験を見にやってきた。
﹁結局、棒付けたんだね﹂
良之が教えた通り、燃料缶にノズルを付けてそこから火薬に点火す
ると、ノズルから燃焼時の爆発的な噴出が起きてミサイルは飛翔す
る。
その飛翔は四枚の水平翼で維持するものの、直進安定性がやはり稼
げなかったようだ。
良之にとっては、そのまんま見た目が子どもの頃遊んだロケット花
火だった。
420
ただし、サイズが違う。
打ち出すロケットと棒は、木で作られた筒で支持されているが、そ
の筒は1人では支えきれなさそうで、大柄な手下3人がかりで支え
ている。
﹁じゃあはじめて﹂
良之の命で、彦の手下三名はロケットを水平から若干上に持ち上げ
一町先に掲げられた赤い旗がくくられた杭とその後方にある岩に照
準しているようだった。
﹁点火﹂
彦の号令で火縄の種火を導火線に付ける。
導火線の燃焼が筒まで達すると、轟っと風切り音を立ててミサイル
は飛び出した。
そして、見事に岩に衝突して転がった。
﹁うん。お見事﹂
良之はこの短期間でものにした一同を褒めた。
﹁ですが御所様、こんなモン、なんの役に立つんですかい?﹂
彦が首をかしげた。
﹁それはまあ追々ね﹂
良之はそう言って一同を下がらせた。
その日の晩。
彼らの創ったロケットを一本預かった良之は、先頭に詰めるように
指示してあった鉛によるおもりを取り外し、炸薬を詰めた弾頭を取
り付けた。
炸薬はTATB、トリアミノトリニトロベンゼン。亀の甲︵ベンゼ
ン基︶に、三つのアミノNH2と三つのニトロNO2の付いた火薬
である。
科学的に作るのであればニトログリセリンあたりからはじめねばな
らないだろうが、素材さえあれば良之は分子を錬金術で錬成できる。
421
この火薬を選択したのは、落としたりぶつけたり、火気が近くにあ
ったりしても偶発的に爆発することがとても稀な低感度火薬だから
である。
信菅も錬成した。
信菅は、着発信管と呼ばれる衝突感知型の信菅である。使用直前ま
で安全ピンが刺さっていて、かつ、雷管を叩く針にはバネが組み込
まれている。
もっとも単純な機械式の安全装置である。
雷管には発火金とDDNP、ジアゾジニトロフェノールを選択した。
翌日。
彦右衛門と3人の手下に、再実験につきあってもらうことにした。
﹁今回は失敗すると全員死ぬんで、一つも間違えること無く行うよ
うに﹂
良之はよくよく言って聞かせた。
まず装填。
そして安全ピンを抜き、照準、着火。
昨日と同じく、良く訓練された彼らは、目標である岩に見事にこの
ミサイルを当てた。
昨日と違ったのはここからだった。
ミサイルは爆音を山彦させて四方に響き渡った。
﹁⋮⋮なんです、ありゃ﹂
滝川彦右衛門は、その爆発に驚き、そして我に返って尋ねた。
﹁爆薬だけど。あんまり効果良くないなあ﹂
敵城を攻める時のこけおどしにはなると思うが、使う味方側のリス
クに比べて、あまりにリターンが小さいように良之には思えた。
良之はつまり、不発だったりロケット推進が消えたりした時のリス
クを考えている。
自陣にぽとりと落ちて炸裂したら目も当てられない。
422
﹁やっぱり大砲かなあ?﹂
良之は頭を切り換えた。
この時代、世の東西を問わず大砲と言えば青銅砲であり、青銅のそ
の柔らかい性質上後装砲は実現せず、全て砲口から火薬と砲弾を装
填して着火する方式だった。
北欧において鋼鉄製の後装砲が誕生するのはこの時代から約80年
後のことだ。
青銅製の後装砲は、この時代は対海賊用にポルトガルやスペインの
船にも搭載されている。有名な大友の﹁国崩し﹂は、これを買い取
ったものである。フランキ砲、などと呼ばれた。
この時代の攻城戦では、さほどの飛距離は必要ないと良之は思って
いる。
せいぜいが1km。500mほどでも敵軍の投石や弓、鉄砲の攻撃
はしのげる。
つまり、砲身の強化より砲弾をりゅう弾化、焼夷弾化させる方が効
果があると考えたのだ。
500mほどの射程で良いのなら砲身の強度はさほど必要としない。
早速良之はキャンピングカーに籠もり、電子辞書でこうした用途の
砲が無いか探し始めた。
解決法は意外な所から現れた。
この時代の冶金技術では、後装砲は安全面や安定性に問題がある。
弾薬を詰めたあと、密閉できないため発射ガスの漏洩や砲身の変形
など、重大なリスクを背負うことになるのである。
だが、てき弾発射筒や迫撃砲であれば、工夫は弾薬側で行えば良く、
発射をする筒の側は単純、軽量、かつ既存の冶金技術で製造できる。
迫撃砲弾は、投擲遊具であるダーツによく似た形をしている。
423
ダーツ矢のように尻部に飛行安定性を高める羽根を持ち、頭部にり
ゅう弾や燃焼弾を、尾部に飛翔用の推進燃料火薬を充填している。
これを筒口から投入すると重力で筒の底に落ちて、筒の底にはめら
れた針が、迫撃弾に組み込まれた雷管を撃つ仕組みになっている。
雷管からの発火によって推進剤が燃焼して、筒から発射される仕組
みである。
最大の課題は照準である。
良之には、この迫撃砲の照準器の原理が全く分からない。
424
天文21年春 5
良之はまず、81mm迫撃砲のテスト弾500発とと発射筒を5基
作り、これを滝川彦右衛門たちに託した。
﹁どの角度で発射するとどの距離に届くのか、何度も実験して把握
して欲しい﹂
良之は依頼した。
いずれ照準器についても勉強して理解する必要があるが、現状、こ
の事だけに没頭している時間が良之には無かった。
ひとまずは、経験則的に使いこなせる人材が養成できればそれでい
い。
堺から、五峯やトーレスに依頼していたいくつかの荷のうち、桑の
木や丹が越中経由で届いた。
早速、丹はフリーデに、桑は山方衆に託した。
﹁桑なんぞ、枝をもらってきて挿し木にしたらいくらでも増えるだ
に﹂
山方衆が、高額な出費をして輸入した良之を笑った。
﹁そうなんですか。では、加賀や越中や信濃あたりの桑の枝をもら
ってきて、とにかく桑を増産して下さい﹂
良之は山方衆に依頼する。
﹁飛騨では米もあまり良く実りませんから、夏は養蚕して繭を育て、
冬はそれを紡いだり織ったりして稼ぎたいんです﹂
﹁丹は、朱にして売る必要がありますか?﹂
1俵60kg前後、50俵という多量の丹を前に、フリーデが良之
425
に尋ねた。
﹁もちろんそうしたいところだけど、もしフリーデが水銀にしてス
トックしたいんだったら全部水銀にして構わないよ?﹂
﹁いえ、さすがにこんな量は必要ないですよ﹂
フリーデは苦笑した。
﹁そう。なら朱の生産を頼みたいかな? 飛騨の大工たちに提供で
きれば、彼らが良い値で売ってくれると思うよ﹂
寺社仏閣の建造にとって朱は欠かすことの出来ない塗料なのである。
そして、当時の日本においてそうした建造のスペシャリストとして
尊敬されていたのが、飛騨の匠たちである。
﹁分かりました。朱の工房を作ってみましょう﹂
こうして、良之はフリーデに丹の運営を一任した。
日本の工学史を学んだものにとっては、豊田佐吉と、彼の紡績や織
機を知らぬものは無い。当然良之も豊田織機について、見学をして
いる。
コンピュータやロボット工学の無い時代に自動織機を開発したその
テクノロジーは、やがて後世、トヨタ自動車という世界に冠たる自
動車帝国を築き上げる原動力になっている。
良之は、電力や動力が確保できれば自動紡績や自動織機はなんとか
できると踏んでいる。
彼にとって、電子分野は全くの門外漢であり、現実問題としてター
ビン発電が出来ても変圧や安定化、AC−DC変換などの電気回路
の知識は全く持ち合わせていない。
言うまでも無く半導体やIC、集積回路といった分野についても無
知である。
そのため、良之自身が暮らしていた時代の再現はあきらめざるを得
ない。
良之にとって唯一馴染みのある電気分野は、素材としてのシリコン
ダイオードである。
426
これは彼の得意分野がシリコン、アルミナ、金属の材料工学だった
ことによる。
電気回路についてはさっぱりであるが、シリコンダイオードの原理
と作り方は知っていた。
そして、良之にはいくつかの武器があった。
電子辞書、電子版日本工業機器総覧、分子辞書といった最高級のデ
ータベースに、錬金術である。
たとえば、キャンピングカーに乗せられている二機の発電機なども、
良之は、素材さえ手に入れば分解して部品ごとに錬成すれば製造で
きるのである。
ただ、良之はそうした作業は行っていない。
自分の特異な能力のみで何かを作ったところで、それは本当の意味
での力にはならないことを理解しているからである。
可能であれば、この時代の職工たちに技術を移転し、あとは彼らの
力で普及・発展させていきたいと切実に考えている。
発電機の構造というのは、驚くほど単純なメカニズムで構成されて
いる。
バイクや自動車のジェネレータから水力、火力、風力発電から果て
は原子力発電に至るまで、全て原理は全く同一なのである。
運動エネルギーでシャフト︵軸︶を回転させ、その軸に取り付けら
れている永久磁石を回転させて、周囲に取り付けられたステータコ
イルから磁力線によって電力を生み出す。
バイクや車のエンジンは、タイヤを転がす力をクランクシャフトに
よって生み出している。
その回転の恩恵に浴しているのがジェネレータなのである。
427
また、水力や風力発電の場合、水車や風車の回転をそのまま発電に
利用する。
火力、地熱、原子力発電などは、その熱エネルギーを利用して水蒸
気を発生させ、その圧力でタービンを回転させている。
いずれにせよ、シャフトに磁石を取り付けて回転させれば、電力は
取り出せるのである。
堺の皮屋から銅線が届いたが、ここに一つ技術的な課題がある。
ステータコイルとして銅線を使う場合、銅線は絶縁体で被覆してい
なければならないのだった。
良之は各職人の頭を呼び寄せて、その被覆について見解を聞いてみ
た。
﹁つまりこうやって金属に巻き付ける必要があるから、曲げても折
れないものを塗って、しかもそれは乾燥していて、かつ、剥がれな
い必要がある﹂
良之は銅線を実際に四角い鉄の棒に巻いて見せた。
﹁やはり、膠でしょうな﹂
鍛冶師は言った。
こうろ
﹁わしらにはそこまでの膠の知識はありませんが、弓師には、独自
の技術があると聞きます﹂
鍛冶師が言うには、弓師にとって、黄櫨というハゼノキを貼り合わ
せて弓を作る際、引いても剥がれず、しなやかさを失わない膠の作
成が秘伝中の秘になるという。
このため、弓師は購入した膠を自身で調合し、使用しているという
事だった。
良之は早速飛騨の弓師を呼び出し、銅線の被膜について依頼した。
銅線の被膜の塗布については、銅線を二本の棹の間に貼って、膠を
刷毛で塗るという人力工法が現実的だろう。
被膜溶液に銅線を浸した状態で巻き上げるような現代的な量産体制
は、現時点では実現は難しい。
428
発電機のステータの金属部分について、鍛冶師と鋳物師に相談した。
工業資料の中にあったステータの設計図をプリントアウトして提示
したところ、鋳物師がその作成を請け負うことになった。
良之は、全波整流のブリッジダイオードは作成できる。自動車産業
におけるいわゆるレクチファイアである。だが、レギュレータにあ
たる電圧制御回路はお手上げだった。
やむなく良之は、鉛蓄電池の大型化で吸収させることにした。
この部分については、ツェナーダイオードと呼ばれる定格化ダイオ
ードの開発が必須となる。良之はこのダイオードについて、現状は
ほとんど知識がなかった。興味が無かったためである。
鉛蓄電池の寿命について妥協するならば、蓄電池自体がレギュレー
タとして利用できる。
発電機からの電圧が電池の電圧を超えないとそもそも充電されない
のであるが、過圧充電になっても、鉛蓄電池の場合、内部の化学反
応によって耐えるのである。
水素と酸素のガスを生成することによって自己消費していくのだが、
この対応は、電解液である希硫酸の補給である程度カバーできる。
石油は複数の炭化水素と不純物が混在する液体である。
アルケン
待ち遠しかった越後からの原油が少量ながら届くと、良之は、現在
もっとも必要としている不飽和炭化水素の抽出、合成をはじめた。
プロピレンである。
プロピレンのポリマーをポリプロピレン=PPと呼ぶ。鉛蓄電池に
最良の外殻素材である。
429
常時、希硫酸とその反応物質に晒される鉛蓄電池にとって、酸にも
アルカリにも強く、熱、油などの外部要因にも抵抗性のあるポリプ
ロピレンは最良の素材だった。
ガラスなどでももちろん鉛蓄電池は作れるが、破損が怖い。
プロピレンはドイツの科学者カール・ツィーグラーが発見した触媒
と、その後半世紀にわたる高分子工学によって生まれた精製技術に
よってポリマー化する。
だが、良之にとっては魔法と錬金術によって容易に合成が出来るの
で、大量生産体制でも取らない限り、必要とする分の生成は容易だ
った。
いずれ、石油の分留や関連製品の大量生産を可能にする事があれば
その時職人たちと一緒に開発すれば良いと良之は考えた。
良之は、斉藤義龍、織田信秀と道三、信長らを伴って、新しく到着
した種子島1500挺の評価を行った。
試射を行うことで製品の質を確認し、動作に不安や不満がある製品
については、平湯の鉄砲鍛冶師たちに修正を依頼する。
そのため、この場には鍛冶師たちも別の席で控えていた。
義龍や信秀は、あまりにぜいたくに射撃を繰り返す良之の軍に驚き
を隠せなかった。
信長に求められて、実演という事で早合による3隊交代による9連
射を良之は行わせた。
その現実を目の当たりにして、彼らはその軍事的な脅威をまざまざ
と見せつけられた。
430
斉藤道三、義龍親子と織田信秀、信長親子の4人は、射撃訓練の後、
平湯御所の客間で様々なことを話あった。
﹁いやはやどうにもこれは、参りましたな﹂
備後守信秀が口火を切った。
上総介信長と道三入道が把握しているだけで、現在二条家の軍には
常雇いの兵が最低でも5000人はいて、そのうち2800人あま
りが、種子島を持つ銃兵ということになる。
戦闘に供することが出来る馬は現時点で500頭程度で、良之はこ
れも自家で増産しようとしているらしい。
さかんに、木曽左京大夫に馬産についてのあれこれを教わっていた
のを信長は見ている。
弓や槍が扱える兵は1000から1500。これは元々鍛えられて
いた飛騨の兵たちである。
伊賀や甲賀の忍びに至っては、一体どれほどの数が紛れているのか
見当も付かない。
金払いの良さから、美濃や尾張から集められた黒鍬衆は、すっかり
飛騨に居着いている者達も居るらしい。
彼らは土地の人間を指導しつつ良之が指示した道路の開削に従事し
ている。
今後は木曽左京大夫が連れてきた難民たちも加わるので、数年後に
はかなり強固な地元の黒鍬衆が組織できるだろう。
同じように、山方衆、金山衆、鍛冶師、鋳物師への良之の信頼は厚
く、彼らもそれを意気に感じているようだ。
おそらくこの時代、美濃も尾張も人口30万人に迫る勢いで繁栄し
ていたと思われる。
つまり良之が未だ全土を押さえられていない飛騨の総人口の10倍
以上を持つ支配者たちが、斉藤治部大輔義龍と織田備後守信秀であ
431
る。
その彼らをして、心胆を寒からしめる存在に、良之はすでになって
いる。
良之が平湯を実効支配し始めてから、まだ半年。
その段階で、すでに飛騨を8割方手中に収めたと言って良い状況な
のである。
432
天文21年春 6
美濃の斉藤家と、尾張の織田家の密談は続いている。
﹁困った﹂
と織田備後守はつぶやいた。困る理由はいくつもある。
もっとも大きな理由は、自分たちが命を助けられていることだった。
信秀は高血圧とヒ素中毒から。
義龍はハンセン病を母と自分の2人、完治してもらっている。
良之のいた時代と違い、この時代には抗生物質が無かった。
つまり、どんな名医にかかろうとも、癒やせぬ病だったのを、良之
の錬成した薬と、アイリの回復魔法によって治療されているのだっ
た。
さらには、彼が武家では無く公卿、それもかなり高位な存在である
ことも彼らを悩ませている。
たとえば良之が武家や百姓であれば、婚姻などで同盟を結び、親族
衆のような形で融和させ、やがては家中に同化してもらうという選
択肢がある。
だが、官位を取っても、血統性についても、良之の方が圧倒的に上
なのである。
そして、正三位の参議として帝に直接拝謁できる身分であり、兄は
じゅさんぐう
現役の従一位関白であり、現時点では二条家の猶子でさえあるのだ。
家格も准三宮︱︱三宮である太皇太后︵先々代皇后︶、皇太后︵先
代皇后、あるいは現帝の生母︶や皇后に準ずるほどの家格が与えら
れる二条家である。
433
そこに、種子島による武装と有り余るほどの火薬の在庫を持っての
この訓練である。
信長が言うには、
﹁毎日、今日のような射撃訓練で火薬を消費しても、10年は使い
続けられる﹂
というほどの在庫を、今の段階で良之は持っているらしい。
鉛についても、現在はどちらも休鉱させているが、神岡と平金とい
う二つの鉱山を持ち、自己生産力を有しているのである。
この点、信長の分析力は卓越していたが、神ならぬ身の上。
良之が他にも、昭和期の学者がまとめた鉱脈の記録データによって、
江戸期や明治期に入って開発された日本中の鉱山情報をいくつも知
っていることには気づいていなかった。
彼らがもっとも扱いに困るのは、良之の行動力と、どこから沸いて
くるのか分からない得体の知れない資金力だった。
関東甲信越から東海、近畿のほとんどの大商人と直接会い、さらに
は、博多や平戸、そのうえ伝説の倭寇、五峯とまで面会していると
聞く。
しかも堺に銅座を作り、棹銅や分銅などの官許事業まで経営してい
る。
織田備後守信秀の﹁参った﹂という一言は、まさにそうとしか言い
ようのない万感が籠もっているのである。
﹁備後殿。わしもな、婿殿がこの地で御所様の家来をやると聞いた
時には驚いた。だが、もしやこれは存外正しいやも知れぬと思いは
じめたわ﹂
道三は言う。
﹁そういえば、木曽の左京大夫殿も御所様に求められ、この地に残
って居るであろう? いかにも、卿に求められやむなくといった体
434
を装ってはいるが、わしは、木曽もいずれ現当主がここにやってき
て、臣従を言い出すと睨んで居る﹂
﹁武田に強い圧力を受けてますゆえな﹂
﹁うむ﹂
道三の言葉に義龍が言った﹁圧力﹂とは、信濃統一の進む武田によ
る木曽家への脅迫に他ならない。
木曽が、強大な武田を選ぶか、新興ながら一気に国家としての体力
を付けはじめた二条を選ぶか。
あるいは、二条大蔵卿良之は、木曽が臣従を言い出した時、どうす
るのか。
﹁わしは、御所様はお受けになると思う﹂
信長は言った。
﹁それに、武田には御所様に大きな借りがあるらしい﹂
﹁ほほう?﹂
信長の言う﹁借り﹂というのは、現当主武田晴信とその弟、典厩信
繁と刑部信廉の母、大井氏が卒中で衰弱しているのを助けられたこ
とだという。
﹁そのようなことで、大膳大夫が思いとどまろうか?﹂
義龍は首をかしげる。
﹁その時は﹂
信長がにやっと笑って言った。
﹁御所様の真の実力が知れるであろうな﹂
﹁のう、せがれ。わしもこのまま御所様にお仕えしてみて良いか?﹂
﹁⋮⋮それは?﹂
道三の言葉に一瞬義龍は返答に窮した。
﹁一つには、今婿殿が言った話もある。わしもあの御所様が何者か
見極めたくはある。が、やはり好奇心であろうな、本音は﹂
道三もさすがに老いを感じる。
もうじき60を越える老境である。
435
肉体だけで無く、近頃では精神の衰えを痛感している。
残りの人生に感動を覚えないのである。
だが、死ぬ程に嫌悪していたせがれの病を癒やされた時、道三は人
生ではじめてと言って良い種類の感動をあの若い公卿に抱いた。
ほとんど他人を尊敬したことの無い道三が、はじめて他者に畏れ︱
︱畏敬の念を抱いた。
ひるがえってせがれのことを思うとき、自分がいかに、白癩という
難病を背負った息子に精神的苦痛を与え続けたかを気づかされ、い
たたまれない気分に陥る。
患った義龍に当てつけるため、公然と次男孫四郎、三男の喜平次を
溺愛して見せた。
そうしたわだかまりは、今もこの親子の間にははっきりと傷跡にな
っている。
病のことを除けば、この義龍は非常に優れた支配者であり指導者で
あった。
道三は認める気は全くないが、大方の家臣団は、道三より優れてい
ると見ている節を感じてもいたのだ。
その筆頭が、彼の叔父であり道三の奥の兄、稲葉一鉄である。
﹁孫四郎と喜平次も、わしと一緒に御所様に仕えさせようかと思う。
そなたは、喜太郎を嫡男として、思うままにしたがええわさ﹂
﹁⋮⋮﹂
言外に道三の意図を敏感に感じたのだろう。
義龍には返す言葉が見つけられなかった。
﹁うらやましいのう。わしも権十郎に家督を譲って御所様に仕えて
みたくはあるが⋮⋮あやつでは尾張は治まるまいのう﹂
﹁親父殿に尾張を治めてもらわねば、せっかくのわしの株が下がる。
やめてくれ﹂
436
﹁ぬかしよる﹂
信長の言葉に信秀は苦笑する。
そういうまるで自分を軽視したかのような信長の、その視線の奥に
ある自分への愛情と、必死さを感じて信秀は胸が熱くなる。
この信長という人間を真に理解出来ている家臣はどれほどいたであ
ろう。
おそらく、川尻や池田、丹羽あたりは、奇矯な振る舞いに秘められ
た信長の本性を見抜き、愛したが故にこうしてどこまでも従ってい
るのであろう。
だが、平手政秀あたりは、彼の才を愛しはしたが、その奥に眠る本
当の実力に思いを馳せること無く、ただ振る舞いだけをもって信長
という個性を判断してしまっている。
林佐渡守に至っては、信長付きの一の老臣でありながら、公然とそ
の弟で信勝付きの美作守と信長廃嫡を共謀していたらしい。
信長を廃して信勝に尾張を渡せば、それは家臣どもにとっては御し
やすい主君が生まれるだろう。
だが、その途端に、尾張の滅亡の音が東の海道から響いてくるだろ
う。
どうにも、信秀の家臣どもにはそれが分かっていないようだった。
﹁まあ、まずはあの御所様の身近で様子を窺うしかあるまい。わし
も、婿殿もな﹂
道三は言う。
﹁飛騨が治まり、木曽がもし臣従したとして、御所様の目は、どち
らに向くのであろうな? 信濃か? 加賀か? 越中か? あるい
は﹂
美濃か?
とは言わず、じっと義龍の瞳をのぞき込んだ。
437
﹁実は、治部殿に折り入ってお願いがあるんです﹂
レンガ
夕餉の席で、良之は切り出した。
﹁明知城のそばに、焼き物の積み石に最適な土が出る村があるんで
す。そこで工房を作り、飛騨に輸出して欲しいんです﹂
﹁焼き物の積み石?﹂
この時代には、日本にはレンガ技術は導入されていない。
日本の建築の基盤は木造であり、石垣はその名の通り石︱︱自然石
で組まれるのが一般的だった。
レンガが日本に入ったのは、幕末に反射炉を作る必要に応じたもの
で、まさに良之が必要としている理由そのものだった。
良之が必要としているのは耐火レンガである。
将来、高炉や反射炉を作るためにも、コークスや石灰を焼くために
も、そして直近では、銅や鉛、亜鉛を自溶炉で精製するためにも、
喉から手が出るほど耐火レンガが欲しかった。
良之は率直なところがある。
自身が大蔵卿として、鋳物や鍛冶の朝廷側の棟梁として今後どうし
ても必要になる材料がそこに眠っていることを包み隠さず一同に話
した。
そして、そのレンガを作るための技術、職人の育成を全て受け持っ
た上で、きちんと対価を払って購入するから頼むと、義龍に頭を下
げたのである。
﹁御所様は、その⋮⋮秘法を我らに伝授なさると?﹂
﹁ええ。もちろんです﹂
﹁秘伝にして商えば全ての富が御所様のものになりましょう?﹂
義龍は本心からそう思っている。
自分たちに出来ない技術を彼が知り、それを作れもする。にもかか
438
わらず、その秘伝を公開し、しかも支援して、出来るようになった
ら金を出して買うというのである。
﹁それだと、確かに俺は儲かりますが、俺の一生がそれで終わっち
ゃうじゃ無いですか﹂
良之は微笑しながらそう言ったのである。
﹁今の俺がやらなければならないのは、この日本に、銭を行き渡ら
・・
せ、技術を行き渡らせ、人間が幸せで、健康で、長生きな国を作る
ことです。少なくとも、俺はそういう国を見てきましたから、この
日本でも出来るはずです﹂
正直なところ、良之は自身の世界には帰りたい。
だが、そのためにフリーデやアイリに、命がけで無謀な<時空跳躍
>をさせる気は全くなかった。
彼は彼なりに、それがどれほど危険で、無意味で、しかも実りが無
いのかを理解していた。
おそらく、そんなことを繰り返させては、いつの日にか、永遠にフ
リーデとアイリを失うことになるだろう。
それでも良之に﹁やれ﹂と言われればあの2人はやるだろう。
だから、良之はいつしかきっぱり、元の世界に戻ることを忘れた。
そうしてこの戦国時代と向き合ってみると、実際の所、おもしろく
て仕方が無い。
自身の知識や能力で何かを為すと、その結果がおもしろいように跳
ね返ってくるのである。
﹁御所様はそのお歳で、異国に渡られたのですか?﹂
信長は驚いて聞き直した。
﹁ええ﹂
﹁あの2人の異人も、その時に召し抱えられたのですか?﹂
﹁まあ、そんなところです﹂
439
﹁御所様は、それほど優れた国に渡られながら、なぜ日の本にお帰
りになったのですか?﹂
信長からして見たら、それは不思議で仕方が無い事だった。
それほどの技術がある国であれば、こちらに帰らずずっと暮らした
ほうがよほど楽しかろう。
﹁まあ、定め、としか言いようが無いですね﹂
良之は運命論者では無い。そのあたり、彼は非常に無邪気に、自分
の能力でこの世界と自分の人生はきっと変えていけると信じている
ところがある。
だから、この﹁定め﹂という言葉は、<時空跳躍>に巻き込まれて
ここに来て、帰れなくなった事実をそのまま表したに過ぎなかった。
だが、この夕餉に臨席した全ての者達にとって、あまりにも鮮やか
に、心に残る言葉になった。
﹁明知に関しては、承知いたしました。しかし、彼の地は遠山家の
所領ゆえ、今ここで確約とは参りませぬ﹂
﹁分かりました。よろしくお計らい下さい﹂
良之は頭を下げた。
440
美濃へ 1
戦国時代の主家と国人・豪族の関係は、後世思われていたような主
君・家臣の関係とは異なる。
どちらかというと、良之がいた時代にも根強く残っていた政治の世
界における、派閥の領袖とその会派に所属する議員に近い。
既得権益における、利益代表なのである。
だからこそ、後世から見ると奇妙なほどに主家は国人たちに気を使
っている。
自身の娘をやり、所領を安堵する書状を何度も出し、戦に狩り出し
た場合、勝てば増封、恩賞などで報いる。
国人層は地縁・血縁で強固に地盤に根を下ろしているため、よほど
の力量差でもなければ転封などはままならないし、旗色が悪い防衛
戦などにおいては、嫁に出した娘を殺されたあげく、その国人が先
頭を切って攻め込んでくるなどと言った状況も当たり前なのである。
日本人がこの時代の人間に対して漠然と持っている﹁家臣の忠義﹂
というモラルは、実は江戸期に創作された物語の影響が根強い。
世の中が平穏になって以降、その体制の維持のために儒教が導入さ
れ、江戸幕府は多くの儒家を優遇した。
その儒学の教えの中心的思想が、﹁仁義﹂や﹁忠孝﹂といった人間
関係における道徳だった。
武家社会においては、家臣や領民に対する仁、主君に対する忠、親
に対する孝が特に重んじられた。
だが、そうしたフィルターで戦国時代を振り返ると、もはやそこに
は往事のリアリティなど存在しない、完全な虚構のみが残ってしま
う。
441
もちろんこの時代にも忠臣もいたし、義によって戦い、身を滅ぼし
たような武将も数多いた。
だが、それが美談として残る程度には、それは珍しいか、愚かしい
行為だったのも事実なのである。
要するに、遠山氏は美濃において重い存在であり、国主である斉藤
治部少輔義龍にとっても、頭ごなしに領地のことを命じられるよう
な相手ではないのだった。
良之も、最初の大旅行で大名家を数々訪ねて歩いた結果、実感とし
てそのことについては理解した。
だが、一方で良之は、おそらく遠山氏も納得して参加してくれると
楽観視している。
良之のレンガ工房は遠山家に新たな富を生むし、また、美濃と飛騨
との間に強固な商業路を確立する事でもあったからだ。
こじゅう
斉藤家にとっては、遠山氏と飛騨の二条家が強固な商圏で結ばれる
ことには大きなリスクがある。
この時代、国人層が大名家に二股、三股で扈従するのは、呼吸をす
るように当たり前なのである。
後世の忠も信もない。まずは命があっての物種なのだ。
だが、斉藤家はそうした憂慮を理解してもなお、良之のためにこの
話を受けようと考えている。
良之に言わせると、彼の現代的な感性によるものだから﹁当たり前﹂
のビジネスマナーのつもりなのだろうが、この時代にあって、良之
の胸襟を開いた率直さと、偽りや策謀の無い交渉は、そうした現実
に晒されて生きている織田家や斉藤家の人間たちにとっては、恐ろ
しく心地が良いものだった。
442
いっそ、小気味よさすら覚えてしまうほど、良之の事が率直に感じ
られるのだ。
ひとまず、遠山家のことは義龍が全てを請け負った。
もう一つ、良之は木曽川舟運のことについて、再度道三と義龍、そ
して対岸の権力者である織田備後守に相談した。
越中における安定的な交易路と倉庫の確保がままならない。
このことは、良之が進めようとする飛騨の二次産業偏重の政策に、
ぬぐいがたいリスクの影を落としている。
加賀への出口を現状、内ヶ島が押さえていること。
そして越中の湊口を神保が押さえていることによるリスクは大きい。
どちらかと対立が深まった場合、この両者は共闘する可能性も秘め
ているからだった。
そのためにも良之は、飛騨高山から木曽口、飛騨下呂から苗木の美
濃口は、なんとしても街道を再整備したいと思っている。
さらに付け加えると、木曽舟運の基点である八百津にも、可能な限
り大きな倉庫町を所有したい。
八百津に関しては義龍は即答で応じた。
この一帯は、斉藤家の勢力下にあるからだ。
木曽舟運の一件で木曽川衆と取引がしたい。
さらに、八百津での倉庫町建設、遠山氏との折衝といった一連の話
から、良之は美濃入りを決意した。
同行は道三、それに織田上総と長尾の虎御前とした。
虎御前はフリーデやアイリといった別世界の才女たちとはまた違っ
443
た意味の才媛だった。
服部や千賀地の使う伊賀の符牒を岡目で見ていて覚えてしまったり
して、彼らをすっかり感心させた。
千からも甲賀の符牒を教わったらしく、今では随分多くの草に慕わ
れている。
良之のボディガードに彼女が出ると、良之の警護の忍びの他に、彼
女のための忍びが動いているとさえ、噂されている。
それでいて、兵略は双子の兄の長尾景虎も舌を巻くほどだし、騎乗
からの弓や槍も使いこなし、この頃では騎乗から全力で駆けさせた
馬上で鉄砲を放って、60歩︵100m前後︶の遠当てをしたなど
と噂されている。
その噂を聞きつけた下間源十郎や滝川彦右衛門は、今ムキになって
馬上筒の鍛錬をやっているらしい。
<収納>魔法を覚えた虎御前だが、どうにも錬金術も回復魔法も苦
手だった。
目に見える外傷などを塞ぐことは出来るが、そこから先は全く不出
来だった。
代わりに彼女は、恐ろしい魔法をマスターした。
初遭遇の時、良之の胸をえぐったあの攻撃魔法を、アイリから習っ
て一度実演を見ただけで模倣してのけたのである。
アイリのマスターした日本語で言うならば<火弾>というところら
しい。
美濃への道中、行きについては斉藤義龍、織田信秀とその臣下たち
がいる。
帰路には、
﹁申し訳ありませぬ、わが家中の者、率いて頂けませぬでしょうか
?﹂
要するに上総介信長の身内などを引き連れてくれないかと要請され
たのである。
444
もちろん良之には渡りに船である。
天文21年三月一五日︵1552年4月9日︶。
下呂を発ち、一行は苗木城を目指す。
良之の見たところ、この街道も近いうち、黒鍬衆たちに大がかりな
整備をしてもらわないとならない状況のようだ。
この世界に良之が飛ばされたときに歩いた京北の周山道を彷彿とさ
せる。
何より良之を不快にさせたのは、標高差を登るために一度進路を逆
行して九十九折りを登ることだった。
いずれ、架橋かトンネルか切り通しで、道をまっすぐにしてみたい
と良之は思うが、さすがに今の人的リソースではそれは難しい。
一つの道を通すだけで生涯を終える黒鍬衆を多数生みそうな話であ
る。
大威徳寺という寺で一行は一泊し、この険しい山道をさらに行く。
良之は、ノートパソコンに首っ引きでこの地の事を事前調査してい
たので、道中ずっと小者に、地名を聞いていた。
﹁見佐島﹂
と地名を聞いた時、その進路左手にある山を記憶した。
福岡鉱山の鉱床が眠る山である。
すでにこの一帯は、良質なカオリナイトや耐火粘土層を豊富に持つ
地域である。
また、恵那地方は有力な錫の一大産地でもある。
良之の暮らした平成の時代においては、国内鉱山は、労働賃金に見
合う収益さえ上げられて居らず、ほぼ全てと言って良い鉱山が休鉱、
もしくは廃鉱に追い込まれた。
445
錫なども欧米や中国から安価に輸入できたため、こうした情報すら
一部の鉱石マニアくらいにしか見向きもされていなかった。
苗木から恵那にかけての鉱山は、和田川沿いに鉱床がある。
また、いま下呂から苗木に向かう良之たちがたどる街道に沿って流
れる付知川に流れ込んでいる西麓の沢々には、多量の砂錫が眠って
いる。
良之にとって、見逃せるはずは無い。
まずは、苗木に入り、斉藤氏の手引きによって苗木城下で遠山氏と
面会する。
この時期、苗木遠山氏には本家である岩村遠山氏から養子が入って
いて、苗木城対岸の手賀野に城館を建設中だった。
本人は苗木の勘太郎、と名乗っている。遠山直廉である。
遠山家が東美濃に精力を根強く持っている理由は、この家が鎌倉幕
府の地頭として東濃に入ったためである。
同じく西濃に入った地頭が土岐氏で、土岐は南北朝期に美濃守護と
して栄え、道三によって美濃を追放されることで潰えた。
東濃の地で遠山三家とも遠山七家とも言われ栄えている遠山氏は、
先に触れた通り地頭職だったために、斉藤家の家臣では無く、政策
上従っている存在である。
戦に兵を出す際には従うが、内政に関して斉藤家が口出しをする権
限は無い。
鉱山の開発や街道の整備、倉庫町の建設、それに耐火レンガ製造と
一連の話を聞いた勘太郎は
﹁承知しました﹂
と答えた。
﹁岩村、明知の当主を呼びますので、数日お待ち下さい﹂
446
良之は勘太郎に感謝を伝え、
﹁申し訳ありませんが、数日、山を歩かせて下さい﹂
と申し出た。
﹁御所様は優れた山師でござる﹂
と織田上総介信長が大げさに吹聴する。
まるで詐欺師のようじゃ無いか、と内心良之は苦笑する。
ここで織田備後守信秀とその供とはお別れになる。
彼らは﹁信長のことを頼む﹂と良之に暇乞いをした。
また、斉藤治部大輔義龍も、後事を父の道三に託して、ここで別れ
ることとなった。
良之が付知川沿いで大いに砂錫を錬金術で収集している間。
道三によって遠山家にも様々な情報が伝えられている。
鉄砲については遠山家の反応は薄かったが、一切戦をせず、飛騨に
おいて二条家が下した国人豪族衆の名を聞いて驚いた。
江馬、塩屋、高山、広瀬衆と三木家である。
みんしゅくけいしゅん
三木家と遠山家の関係は古く、良好だった。
飛騨禅昌寺の住持明叔慶浚によって縁の出来た両家は、近接する国
人として、円満な関係を続けていたのである。
ちなみに、この頃の慶浚は、体調を崩してアイリの治療によって本
復し、以降精力的に民心の安定のため協力してくれている。
良之は出仕を望んだが、僧としての生き方にこだわりが深く叶わな
かった。
三木家が、圧倒的な二条軍の戦力と、その文化レベル、資金力を見
て屈したという話自体は、驚きではあったが遠山にとっては動揺は
無い。
もっとも動揺したのは、尾張の弾正忠家織田の嫡男と、美濃の蝮が
家臣を引き連れて二条へ出仕するという一件だった。
447
しかも蝮は、次男孫四郎三男喜平次もそれぞれ出仕させるという入
れ込みようだった。
そして、こっそりと未確認情報として耳打ちされたところでは、遠
山にとっては親派として認識されている北西隣の国人、木曽家も、
先代義在がすでに出仕していて、近いうちに二条家に臣従するので
は無いかと思われていることだった。
その二条が、遠山領のためになる鉱山開発、新しい産業の育成、街
道整備、そして、輸送品の集積基地を作りたいという。
これは、遠山にとっても一種の好機だと勘太郎は思ったであろう。
呼び出していた三家に加え、この地の遠山七家を全て呼び出し、勘
太郎はそうした情報を共有することにした。
この時代の遠山衆の宗家は岩村だ。
岩村遠山左衛門尉景前は、苗木勘太郎の報告を受け、唸った。
﹁それは誰ぞ代表を出し、見に行かねばなるまい﹂
早速、岩村遠山からは景任。明知遠山からは景玄。苗木遠山からは
勘太郎がそれぞれの老臣を連れて、飛騨の見学を申し出た。
これを良之は許し、飛騨掾︵国司代理︶を任じている隠岐大蔵大夫
への紹介状と指示を認めて代表の景任にわたした。
448
美濃へ 2
良之の依頼した倉庫町については、遠山氏から親切にも、
﹁苗木に作るより、南岸の一帯に作った方が良い﹂
というアドバイスがあった。
一つには木曽川が暴れ川のため、荷は渡しになる。
大雨などで川が暴れれば長期に船止めになるので、西濃からの荷は、
南岸に集積場がある方が良い、というもので、なるほどと良之も理
せんだんばやし
解した。
千旦林という地に適当な町割りをもらい、さらに、大工人足から着
工まで遠山氏が請け負ってくれるという事だったので、良之は前金
で1000両を渡し、依頼することにした。
次に、良之が案内した鉱山の候補地について、見佐島、蛭川、遠ヶ
根などについて美濃の金山衆と諮ることを約束した。
良之も、選鉱に対して協力することと、この時代にそれほど有価値
ではないいくつかの資源、たとえばマンガンやタングステン鉱につ
いては良之が購入を約束し、錫については土地の金山衆が精錬して
納めてくれることになった。
さらに、蛭川宮ノ前にある良質な御影石の石切場を教えた。
こちらについては、良之は一切報酬を要求しなかった。
いよいよ、明知へ出発である。
案内は明知遠山の領主相模守景行が務める。
良之の求めた粘土は、彼の資料では土岐口陶土層とされている。
449
その地層の上には、河川によって運ばれた砂礫層が積もっている。
この粘土層の獲得のためには、まず上層部をこそぎ落とし、粘土層
を露出させて資源としなければならない。
そうした地層が、断層上ではっきり視認できるからこそ、最初の資
源化が可能になるのだ。
岩村から西に向かって、小里川という川が流れている。
川沿いに降ると、山岡という地がある。
地名の起こりになった山というのは、この集落の南にある断層隆起
した丘だろう。
良之たちは、この川沿いに断層を探した。
﹁あった﹂
内心、良之は喜んだ。
いつ起きた断層か次第では、良之の知識にあったとしても発見でき
ない可能性がある。
そうした懸念を抱えつつ、不安を一切顔に出さず探して歩いていた
のだった。
美濃には、焼き物の職人が多数いる。
鎌倉期に、かれら遠山の祖先である加藤景正という人物が中国で技
術を学び、瀬戸で陶芸窯を開いた。いわゆる瀬戸物である。
そうした職人のうち、遠山で融通の利く人数を集めてもらい、良之
は耐火レンガについてレクチャーをした。
基本となる寸法は、並型と呼ばれる規格を提示した。
210×100×60mm。
この寸法できっちりした青銅の寸法を作って提供した。
当然、レンガも焼き物なので、焼成すると縮む。
そのあたりは、職人たちが経験で学んでもらうしか無いだろう。
良之は、木で枠を作り、粘土を押し固めたあとで枠を分解する成形
法なども伝え、後事を託した。
450
美濃での重要な課題としては、木曽川衆と呼ばれる、沿岸の商圏や
流通を押さえている川衆との面会である。
川衆は本来、産みの海運に対する川の舟運に関わった庶民たちの組
織である。
世が乱れると、当然こうした流通事業者は、野盗強盗などの獲物に
なる。
そうなれば対応策として川衆たちも武装する。
また、下りの木材筏や物資輸送の舟は速度が出るが、上り舟という
のは、難所などでは舟に縄を張って、両岸から人力、馬や牛と言っ
た家畜の力を借りて引き上げることになる。
そうした人間の社会が形成されていくと、必ずそこには、何らかの
権威をもって彼らを束ねていく人物が現れ、そして、ある種の権力
と武力が発生するようになる。
それが川衆である。
尾張と美濃の場合、舟運に最適な河川が三筋もある。
揖斐川、長良川、木曽川だ。
川衆はその川筋ごとに棲み分けることで不要な対立を避けるように
なり、むしろ金次第で共同で事に当たるようになっていく。
この時代、後世ほどでも無いが、食糧を自給せず、商業や工業、そ
して彼らのようなある種のサービス業に従事している者達は、武家
や貴族、そして農民を中心にした土豪などから低く扱われた。
殊に、殺生を行う猟師や漁師、金を扱う商人や職工、そして死体に
触れる穢多と呼ばれる存在や、彼らのような河原者と呼ばれる者や
海賊と呼ばれる者などのいわゆるサービス業者は、銭傭いの戦力と
して要求されることでも無ければ、自分たちを高い身分と定義した
者達からは接触されないものだった。
451
戦国の世が終盤にさしかかると、そうした中から何人も武家に転じ
る者が現れた。
だが、それらでさえ、自分たちは源平藤橘いずれかの出自である、
と家系を作らざるを得なかったのである。
木曽川衆は、川衆の中でも織田家に属している者が多い。
最下流から舟を守りつつ難所においては縄で引くのが蜂須賀の手の
ものである。
やがて舟が川島あたりまで北上すると、坪内の手の者が引き継いで
いく。
こうして舟は飛騨川と木曽川の合流点である川合まで遡上して、こ
の湊に入る。
この上は、木曽川の八百津の湊か、飛騨川の川湊に別れていく。
彼らの日常の九割方は平和なものであっただろう。
雨が降れば休み、川が濁れば休む。
川衆の舟を襲うのはよほど飢えているか、よほどの無知かである。
川の上の舟、という戦術的に不利な庇護者を守りながら戦う術に長
けた川衆は、弓、長槍を器用に使い、良く鍛えられた野犬の群れの
ように、号令一下敵に襲いかかる。
年の半分を農作業に費やし、オフシーズンだけ合戦に参加するよう
な農民の兵とは格が違うのである。
故に、国人として彼らは腕を買われる。
儲かる戦なら喜んで参加するが、どちらに転ぶか分からないような
微妙な戦では静観する。
彼らは、その日常業務故に情報通でもある。
荷を託す商人たちや、職人たちから、日常的に様々な情報を聞き出
している。
独特の感覚を備えているといえるだろう。
452
同じような存在として、尾張には生駒氏があった。
生駒は元は染料や油を商う商人だったが、馬借という、馬の背に荷
をのせて運ぶ輸送業で栄えた。
それだけで無くその業務中に得意先や行動範囲で馬借たちが得てき
た情報によってこの時代屈指の事情通にもなっている。
生駒家は、弾正忠織田家の二代、信安と信秀に正室を送り込んだ土
田氏と縁戚であり、そこから土田の家子を養子に迎えて、分家生駒
家を作っている。
本家生駒氏からは、信長の側室吉乃が、分家生駒からは信長の家臣
生駒親正が出ている。
ちなみにこの生駒氏は蜂須賀とも関係が深く、また、坪内とも縁戚
関係を結んでいる。
生駒が商う馬借は、馬の背に、縄で結んだ二俵の俵を左右にのせて
馬丁が引いて配達する商売で、多量の専従者を抱えていたが、オフ
シーズンには地域の百姓たちも小遣い稼ぎにこぞって参加した。
馬丁は荷を狙われやすい存在であったために独自の軍事力を持つよ
うになり、結果としてその実力と資金力、そして地域の信頼の高さ
から国人化したものが多かった。
飛騨の塩屋なども、その類いであっただろう。
良之はそのような美濃、尾張の商人、川衆、馬借の元締めたちにい
ちいち面会し、金を渡しては、荷物のことをお願いして歩いた。
これについて歩いたのは、上総介信長と、長尾虎、そして、信長の
小姓の前田犬千代だった。
彼らに対しての信長の知名度は大きかった。
その多くは大うつけとしてのものだったが、うつけと侮っていた多
くの者達は、良之の家臣として狩衣を纏い烏帽子をかぶった信長の
453
偉容に圧倒されていた。
そして、男装している虎御前の倒錯した美貌もまた、尾張や美濃に
響き渡るのだった。
ひとまずあいさつ回りを済ませた良之は、明知城から岩村、そして
苗木を通り飛騨に戻っていった。
帰りの道中は、信長の家臣たちを引き連れての旅である。
そこには、意外な人物も加わっていた。
柴田権六と平手政秀である。
また、信長の奥方で道三の娘の美濃の方、さらに、少年期から信長
の側室だった生駒の方も同道している。
斉藤道三も次男と三男、それに数人の老臣を連れて現れた。
前回のたびにも同道した明智光安や竹中重元、猪子兵介らである。
斉藤家は現在、美濃に再度入った土岐家を攻略中らしい。
いずれ落ち着いたところで、飛騨へ何人か、孫四郎と喜平次への付
け家老を送りたいと言っていたので、良之は了承した。
織田家の女中陣は、当初は尾張から飛騨という引っ越しに都落ちの
ように嘆いていたが、いざ飛騨・平湯に着いてみると、海こそは無
いものの意外と風光明媚、食べ物はうまくしかも温泉入り放題とい
う。
ホームシックだけはどうしようも無いが、それでも皆、徐々に飛騨
の暮らしに慣れていったようだった。
平湯に戻ると良之は、真っ先に滝川彦右衛門と下間源十郎の報告を
454
聞いた。
﹁迫撃砲、なんとか使い方を理解いたしました﹂
彦がいった。
要するに飛ぶ距離は一定なので、打ち出しの射角によって弾着の位
置が決定する。
彦と源十郎は、これをこまめに記録させ、また、発射筒の向く方向
を簡単に調整するための原始的な照準器を取り付けていた。
良之が作った81mm迫撃砲は、簡便な筒に二脚の支脚を持ち、筒
の底に撃針が付いている、いわゆる﹁ストークス砲﹂である。
余談だが、この武器は1915年にイギリスの農具メーカーの専務
だったウィルフレッド・ストークスが発明した。
筒の前から弾薬を重力による自然落下で落とすと、弾薬の尻に付け
られた雷管を筒の底の針が叩き、雷管が燃えて発射火薬に引火する。
発射火薬の燃焼ガスによって発射物は飛翔する。
だが、ストークス砲にとっては、発射速度やそれを保証する砲身の
強度はそれほど問題では無い。
発射物である弾薬が自分で飛ぶので、初速を要求される大砲のよう
な強度がそもそも要求されないのである。
銃や大砲は、密閉された筒の底に火薬を敷、重量物である弾丸や弾
頭で塞いで火薬に点火する。
点火された火薬は一気に体積を膨張させ、行き場を失ったガスが弾
丸を高速で押し出して飛ばせる。
当然、弾丸を飛ばすためには筒や砲底に、その爆発エネルギーに耐
える強度が要求される。
砲底に亀裂でも入ろうものなら、次の発射で大惨事が起きるからだ。
迫撃砲にとっても同様なリスクがある。
砲身先端から投入した迫撃弾が不発だった時である。
455
40度以上の射角を付けて筒の中に落とし込まれる迫撃弾の発射火
薬が不発だった場合、当然底から人力で不発弾を取り除かなければ
ならない。
その際にもし暴発すれば、その射手は、控えめな表現で言えば﹁大
変危険である﹂という事になる。
話を戻す。
彼らが取り付けた照準器は、射線の方向を決定するもので、いわゆ
る拳銃の照準と共通する思想の物だった。
飛距離と射角を経験則に頼る以上、照準はこの程度で充分だった。
良之はその工夫を褒め、採用した。
﹁問題は、最低1回は試し打ちをしないといけないことです﹂
彦が言う。
訓練場でいつも同じ的を狙っている分にはいいが、発射地点と目標
の高低差がある場合や距離感の分からない初見の場合、試し打ちを
しないと手も足も出ないという。
こけおど
﹁じゃあ最初の一発は、音と光がやたら派手な空砲でも作ろうか?﹂
虚仮威しである。良之の提案に、彦はにやっと笑って
﹁そいつぁあいい﹂
とうなずいた。
456
飛騨での内政 1
越中で倉庫町の建造を担当していた塩谷筑前が、大量の樽を伴って
平湯に帰参した。
樽の中身は、冬に堺で依頼した、お湯で煮出して精製した牛脂だっ
た。
﹁御所様、このような脂、何にお使いなさるんで?﹂
塩屋は興味深そうに、検品する良之の傍らでその脂をしげしげと眺
めつつ聞いた。
﹁石鹸を作るんです﹂
この時代、南蛮からの渡来品として石鹸はすでにある。
だが、あまりにも高額で希少な商品のため、供給地である平戸や博
多からはわずかな量しか堺まで到達せず、そこから先には滅多に流
通しなかった。
﹁シャボンでございますか。牛脂からでございますか?﹂
﹁うん。実際はどの油からだって作れるんだけど、牛脂が一番手軽
に手に入るからね﹂
塩屋は首をかしげた。これは、良之にとっては、の話である。
堺の皮屋と縁が深くなったからこそ、河原衆の協力を得ることが出
来、結果として、こうして丁寧に処理された牛脂が入手出来るので
ある。
実は、この牛脂の煮出しのあとの汁にも良質のコラーゲンが分離す
る。膠作りの材料にも転用できるので、河原衆にとってもあながち
無駄な作業では無い。
何より、こうやって良之が値を付けたことで、本来焼却材として処
457
分していた牛脂に価値が生じた。
牛脂は、燃焼材や明かりの燃料に使うと、多くの黒すすが発生し、
動物臭も強いため忌み嫌われているのである。
﹁そうだ、塩屋殿。この石鹸作りの奉行を推薦してもらえませんか
?﹂
石鹸作りは全く難しい技術は要求されない。
ただ、奉行という監視者を付けねばならない理由がある。
製造に使うのは、水酸化ナトリウムという、扱いにくく、とても強
烈で危険な薬剤なのである。
アルカリ
強塩基性で、鹸化作用が強いため、人体に付着すると深刻なダメー
ジが起きる。浸透性も強く、眼球や皮膚に付着すると、水酸化ナト
リウムはその奥深くにまで達してしまい、予後を不良にする。
また、水酸化ナトリウムは潮解性が強く、空気中に放置しただけで
溶解してしまう。
この際、かなり強い水和熱を発生させるため、水酸化ナトリウムの
固形ビーズなどの取り扱いには入念な密封管理を要求される。
そして、この物質はガラスを溶かしてしまう。
そのため、保管にはプラスチック容器が要求される。
そのような理由で、もし石鹸製造を民に広める場合は、その特性を
深く理解し、適切に管理できる人材が必要になるのである。
良之は、そうした危険性を細かく塩屋に伝え、人選を依頼した。
早速良之は試作品作りに挑戦することにした。
まずは、水酸化ナトリウムの生成と、保管容器の作成である。
10リットル程度のポリプロピレン容器を精製し、その内側に、塩
458
から精製した100%NaCl塩から、水酸化ナトリウムNaOH
を精製させた。
次に、石鹸製造用の鍋である。
これは鍛冶師が作る普通の鉄鍋のうち、いろりにかける深鍋を用意
し、PTFE樹脂でコーティングした。フッ素樹脂と呼ばれる、焦
げないフライパンの表面を覆っている樹脂である。
酸やアルカリにも耐性があるため、アルカリ石鹸作りでは役に立つ。
最後に、牛脂10kgをこの鍋で火にかけて解かし、そこに、牛脂
100gあたり12gの分量で水酸化ナトリウムを投入した。この
際、所定の分量を水溶液化させて、石鹸内にムラが出来ることを防
ぐ。
さらに良之は思い立って、<収納>内に保管してある柚子の実の皮
を錬金術で粉砕し、ついでに絞り汁も加えてみた。柚子石鹸である。
そうして60度前後の温度でじっくりと攪拌をして、石鹸を完成さ
せた。
良之は、評判を確かめるために平湯の女性陣や幹部たち、そして飛
騨全土の代官たちに石鹸を送って、感想を求めた。
女性陣からの反応は強烈だった。
フリーデやアイリの世界では、石鹸は比較的手に入りやすかったら
しく、こちらに来てからはやむなく米の脱穀後のぬかを袋に詰めた
ぬか袋を使っていた。
垢は落ちるがにおいがひどく、渋々利用していたらしい。
阿子や千、虎といった面々も、香りが良く、しかも手ぬぐいに石鹸
をこすりつけて身体を洗うと爽快感があり大絶賛だった。
﹁一度使ってしまうと、手放せないぜいたく﹂
459
と興奮していた。
言うまでも無く男性陣にも受けが良かった。
新しい物が何より好きな信長は特に石鹸に執着し、自分が奉行にな
るとさえ言い出した。
さすがに彼ほどの人材を石鹸作りに縛るわけにもいかないし、何よ
り、そのうち飽きる気がするので、良之は笑って聞き流した。
江馬に属した豪族で、河上河内守という男が、石鹸を使ったあとで
立候補してきたという。塩屋に連れられてやってきたこの男に、良
之は徹底的に水酸化ナトリウムの危険性をたたき込んだ。
そして、全工程を伝授して、数回、良之の監督の下で石鹸作りを実
践させた。
やがて河上は数ヶ月後、主に信濃からの流民のうち、女性陣をメイ
ンに雇用して、500人規模の石鹸工房を設立して量産化に乗り出
す。
飛騨の石鹸は良之のお膝元には安定供給され、やがてその周辺国、
そして堺を通じて、大きな利益を生み出していった。
良之は、皮屋の武野紹鴎に、河原衆へと石鹸を格安で提供した。
頑張って素材を作っている彼らに、せめてもの恩返しのつもりだっ
た。
また、紹鴎に、各地の河原衆たちに動物性油脂の精製の技術指導と
出荷を依頼した。
河上もまた、越中や加賀、美濃、尾張を歩いて河原衆を訪ね廻り、
原料である動物油脂を求めて回ることになる。
そうするうちに、このエリアや堺を中心にしたエリアの河原衆は、
徐々に豊かになっていった。
460
岩瀬から、直江津発の原油の二陣がやってきた。
今回もまた良之は、炭化水素をプロピレンに変換して収穫している。
今度は、ニトリルゴムを錬金術で精製するつもりである。
この時代、西洋ではすでに天然ゴムの製品化がはじまっている。
うまくすれば南蛮商人からの買い付けが出来そうであるが、現時点
で海沿いの拠点を持たない良之にとって、流通量の確保や中間搾取
の排除、さらには、専用廻船の確保など、実現が不可能な課題が多
すぎる。
プロピレンからアセチロニトリルを精製し、また、原油残滓からさ
らにブタジエンを取り出し共重合させる。ニトリルゴムである。
良之が材料工学を学んでいた時代では、すでに植物アルコールから
の合成さえ行われていた。
最高品質のセラミックスは、いくつかの分野で触媒として利用され
ていた。
その分野で国内に名の知られた教授の1人が、良之の担当教授だっ
た。
良之は、懐かしさにふと顔を緩ませ、慌てて引き締めた。
懐かしさで涙が出そうになったのである。
残りの原油から、ナフサやガソリン、軽油を少しずつ精製した後、
タールをカーボンブラックへと変性させ、その全てを<収納>に納
める。
良之はフリーデにニトリルゴムを提供した。
分溜施設の圧力の問題に素材的課題を持っていたのを知っていたか
らである。
461
﹁フリーデはゴムの加工って出来るの?﹂
ニトリルゴムを手渡してから聞いてみると、
﹁ええ。錬金術で﹂
と彼女は答えた。
﹁それにしても良之様。こんな高品質なゴム、どこで手に入れたん
ですか?﹂
フリーデに良之は、
﹁錬金術で﹂
と答えた。
お互い、なんてでたらめな、と思ったが、それはお互い様であった。
カーボンブラックは、黒顔料として塩屋に扱わせてみた。
草を使い、堺、直江津、井口、津島など、めぼしい都市の商人たち
ざ
にサンプルとして提供。堺の皮屋から大量受注があったので、岩瀬
港から60kgの俵200俵を堺に向けて送りつけた。
残りは塩屋に管理させ、販売を一任した。
この頃、良之は顔料に凝っていた。
くろ
美濃から、採掘がはじまったマンガンやタングステン、緑柱石や柘
榴石、亜鉛や鉛、銅の鉱石が毎日下呂に届くようになっていた。
下呂では急ピッチで倉庫町の建設が進められていたし、遠山家が苗
木から下呂に向かって街道の大幅拡張をはじめてくれていた。
飛騨としても下呂から苗木に向かっての拡張整備をはじめさせてい
るが、現時点では飛騨国内の主要街道の拡幅と架橋がどうしても優
先になってしまう。
水酸化アルミニウムとリン酸水素マンガンを焼成して陶試紅という
顔料を作ったり、同じく、水酸化アルミにコバルト、亜鉛、クロム
を混ぜてピーコックという顔料を作り、これらも塩屋に扱わせた。
ちなみに、陶試紅は第二次大戦直前の日本の国家研究機関である陶
462
磁器試験所が開発して世界中に普及した。
どちらも、そのまま﹁薄桃﹂﹁青緑﹂と呼んで売りに出させている。
試薬を1300度ほどで焼成して作ることが出来る色素なので、人
気が大きく出たら工業化しても良いかと思って実験的に売ってみた
のだった。
鉱石が届くようになったため、下呂、高山、塩屋、旗鉾、平湯、神
岡の各拠点に、急いで蔵を建てる必要が出てきた。
まずは下呂から順に急ピッチで蔵の建造を推し進める。
幸い、木下藤吉郎が管理する消石灰工場では、フル稼働で石灰の焼
成を行っているため、匠たちへの漆喰の材料として提供が可能にな
っている。
材木も、山方衆に依頼し、平金鉱山のための山林伐採が進んでいる
ので、そこから人足を使った輸送で続々と高山に集積しつつある。
これらは、新たに良之に降った国人層に担当させ、その経理方に、
平手政秀と竹中重元を当てている。
平金の鉱毒沈殿池の南の山肌に生えている木を、山方衆総出で伐採
させ、その地域を黒鍬衆に平坦化させる。
そして、良之はそこに最初の自溶炉を建設する予定でいる。
美濃からの耐火レンガを待っているが、なかなか来ない。
そろそろ畑作のシーズンとなる。
良之は、この機に領地化した飛騨全土を回って、肥だめの内容物を
一掃する気になった。
まずは手近に旗鉾からスタートする。
463
従者は、肥だめの処理だというと皆嫌がって逃げてしまったので、
木下藤吉郎、江馬右馬允、下間源十郎と草の者五名ほどで出立する。
464
飛騨での内政 2
領地化によって最初に公布された良之による触れには、人糞の堆肥
化禁止と肥だめの整備がある。
飛騨の民は、住居のトイレから下肥を浚うと、各集落に作られた肥
だめへと捨てていく。
その肥だめで良之は、錬金術で全ての下肥の処理をして歩く。
まず、悪臭の原因であるアンモニアを処理する。
これは、下肥に存在するカリウムとアンモニアを錬金術で硝酸カリ
ウムにしてそのまま<収納>に納めることで終わらせる。
次はメタンチオールや硫化メタン、硫化水素と言った硫黄化合物で
ある。
硫化メチルには二硫化メチルも存在し、アンモニアを含めこの五つ
が主な腐敗悪臭源になる。
これも錬金術によって硫黄を単離して<収納>へ。
次に、下肥中のリンを消毒剤の石灰中のカルシウムと反応させ、リ
ン酸カルシウムとして単離、<収納>する。
最後に、残った全ての物質を錬金術により圧縮しつつ焼成する。
下肥が完全に炭化したところで<収納>して、一つの肥だめの処理
は終了である。
処理した下肥を、今度は村の長に畑の広さを聞いて、化学肥料とし
て頒布する。
もちろん炭化した下肥もだ。
硫黄を除く硝酸カリウム、リン酸カルシウム、そして下肥の炭素お
よび鉄や銅を含む微量に含有された金属。
これらは、畑に必要とされる重要な元素で出来た衛生的で効率の良
465
い化学肥料である。
硝酸カリウムとリン酸カルシウムは、水濡れを禁じて村長の納屋へ。
下肥を焼成した炭化肥料は村長の庭に積んで、村人に自由に使わせ
るよう指示した。
肥だめのくみ上げのような作業を想定していた従者たちは、呆気に
とられながら、良之に従って飛騨の村々を巡って歩いたのである。
良之にとって、これらの作業は可能なら工業化したいものの一つだ
った。
いずれ、電気と高炉転炉による製鉄、そして旋盤など必須の技術が
確立したら、ロータリーキルンなどで処理場を作ろうと固く決めて
いる。
15日以上かけて良之が全部の村を巡り終わった頃には、飛騨にも
旧暦4月がやってきた。
いよいよ、畑作のシーズンである。
村々に肥料として下肥を処分した物質を置いてきたが、それでも良
之の<収納>には大量の硝石、リン酸カルシウム、そして炭化物が
残った。
炭化物は、さらに錬金術で圧縮加工をしてペレット状の燃料にして、
藤吉郎に託した。
彼の受け持つ二つの工房、木炭工房と石灰工房では日常的に燃料を
欲している。
残った化学物質をみて、ふと良之は思い立った。
それは、とある飛騨の特産品を使った新たな化学工場のアイデアだ。
466
輝安鉱、この当時の山師は白目などと呼ぶが、この鉱石は飛騨のよ
うな鉱物生成プロセスの鉱床では比較的良く産出する。
物質名はアンチモン、もしくは硫化アンチモンである。
このアンチモンを石臼などで粉砕し、赤リン5、硫化アンチモン2、
それに接着剤3の割合で混合すると、いわゆるマッチの側薬が出来
る。
側薬に対して、マッチの頭の部分を頭薬という。
マッチの頭には様々なメーカーに工夫がある。
だが、いわゆる安全マッチと言われる、自然発火や毒性のガス噴出
の無いもっとも近代的な商品についてはほぼ似たような組成になっ
ている。
すなわち、助燃剤である塩素酸カリウムを5、ガラス粉や雲母粉、
珪藻土粉末などをブレンドした燃焼調整剤が3、松ヤニと膠を配合
した膠着剤に、微量の硫黄を加えた物が2である。
この安全マッチが出来る事によって、実はマッチとは、横のやすり
のような側薬が燃えるという商品に代わっているのである。
マッチを側薬にこすりつけ、その燃え方をじっと良く観察すると分
かる。
まず側薬が摩擦によって燃焼し、それがマッチに延焼するのである。
大昔のマッチはどこで擦っても燃えたものであるが、少なくともこ
の安全マッチによって、輸送中に自然発火するような商品ではなく
なったのである。
この頃、冬期に雪深い飛騨の庶民は、家に籠もって何らかの手すさ
びによって少しでも銭を稼ぐ工夫を行っている。
その中で良之が感心したのが、爪楊枝だった。
楊枝の原料として、最高級はクロモジの枝を小刀で一本一本楊枝と
して仕上げた物だった。香りが良く、また、煎じた汁は薬にもされ
467
ている。
飛騨の人間は、この木の枝を秋口に山から取ってきて、軒に吊して
干す。
楊枝としては柔らかすぎる若い幹や葉は、入浴時に湯船に入れて薬
湯にして楽しんで居るらしい。
武野紹鴎などもこの楊枝をひどく気に入っていて、茶会の席で菓子
に添えている。
それよりは少し落ちるが、白樺やドロヤナギなども楊枝にされる。
良之は、この白樺やドロヤナギという、建築資材には使えない柔ら
かい木を、マッチの軸に考えている。
飛騨には元々、楊枝を収めるための箱を作る寄せ木職人的な工芸が
ある。
ヤマナラシなどを用いて小箱などを、やはり冬期に作っては売るの
である。
良之が肥だめの処理をしている間に越後から来た原油の精製で、灯
油、ガソリン、軽油を錬金術で精製したあと、良之は残りをパラフ
ィンに合成し、最後にカーボンブラックにした。
このパラフィンもまた、マッチ作りには欠かせない物なのである。
良之は再び塩屋を呼び出した。
そして、マッチ作りを教えるので、前のように奉行を1人、山方衆
と匠を各一名ずつ呼ぶように指示をした。
塩屋が奉行としたのは、山田弥右衛門という男だった。
良之より若干年上だろうか?
良之が江馬衆から優先的に奉行を割り振っているのは、一つには、
他の者達と違い、すでに銭傭いに代わっているからである。
高山や三木の衆は、現状、検地や刀狩りと言った政策のため多忙を
極めていることもある。
468
奉行、山方衆、匠の三者を前に、良之は必要となる全ての薬剤と工
程を教え、実際に作って見せた。
まず、軸木の加工である。これは、爪楊枝と同様だが、もっとも質
の劣るドロヤナギを使わせた。
これを爪楊枝の原型︱︱つまりマッチには最適な角木の状態に切り
そろえさせると、リン酸アンモニウム溶液につけ込み、良く乾燥さ
せる。
次に、この軸木の先端3センチ位をパラフィンに浸し、再び乾燥さ
せる。
この二工程によって、頭薬が燃えたあとのマッチの軸木が、消える
ことなく燃焼を続けるようになるのである。
そして、頭薬である。
膠を精製して夾雑物を取り、そこに松ヤニと硫黄という燃焼剤、ガ
ラスやケイ素の燃焼調整剤を入れる。
最後に、塩素酸カリウムを加えて、練り込むために適度な水を加え
る。
これを辛抱強く攪拌し、適切に混ざったあたりで、軸木をこの漆喰
のような泥状になった頭薬に浸して、マッチの丸い頭を作る。
これをヒモにくくって軒で干す。
爪楊枝と同じ規格なので、ヤマナラシで作った楊枝箱にちょうどい
いサイズである。
この箱の横に、側薬を混合して塗りつける。
双方がしっかり乾いたところで、いよいよマッチの着火実演である。
﹁おお!﹂
一同はそのマッチの燃焼に感動した。
この時代の火起こしは、硫黄を塗ったかんなくずや経木に火付け石
469
で着火する不便な物だった。
火縄銃を使う良之の軍にとって、このマッチの開発は有用なだけで
なく、戦闘における効率性を大いに高めるだろう。
それだけではない。
もし大規模に生産が出来たなら、庶民の暮らしもまた便利になる。
そして、飛騨に巨万の富を運んでくれるだろう。
マッチ作りは、飛騨や信濃から来た流民衆のうち、主に老人などに
担当させた。
そしてこれも、まずは領内に普及させ、次いで、京・堺や博多、平
戸などにサンプル品を送りつけた。
石鹸にも、マッチの箱にも、二条藤の紋を焼き印した。
いずれこれらも、二条の技術力を誇る商品となってくれるだろう。
美濃のレンガ職人たちから、耐火レンガの焼成に苦戦している旨の
連絡が入った。
窯の温度を試行錯誤しているようだった。
焼成温度が足りなくて脆い物や、焼き上げたあとひびの入ってしま
った物などが多発しているらしい。
良之は、失敗作でも良いから納品しろとつなぎを入れた。
それらにも、半額以上の値は付けて引き取らせた。
輸送経路で働く馬借たちに報酬を発生させるためでもあるし、陶工
たちの人件費を維持させるためでもある。
それに、良之には錬金術がある。
彼の時代でも実現していない、自溶炉の全面にダイヤモンドで炉壁
を作るようなインチキな真似さえ、今の彼には出来るのだった。
470
この頃、良之には近習が1人増えている。
石鹸の奉行の川上の元小者で、新三郎という。
新三郎は、父親を早くに亡くし、母と妹の3人暮らしだった。
彼らは若干の土地は持っている物の、年貢を納めるような労働が出
来ない﹁村厄介﹂という存在だった。
村厄介は、名主の指示で村の雑用や他者の畑の繁忙期の手伝いをす
ることで糊口を凌ぐ。
こうした状況ではたとえ苗字を持っていてもそれを名乗らず、通名
だけで暮らしている。
父親は見所のある男だった。
その片鱗を新三郎も持っていて、同年配の村の子どものうちでは、
もっとも背が高い子に育っている。
近頃では、他家の畑仕事のあと、必死で自分の畑を再生しようと働
き、朝早くから目が利かぬ夜まで野良に出ている。
だが、このくらいの歳になると子どもと言っても社会性を帯びてく
る。
彼我の差を理解しはじめるのだろう。
村の子供達は、おおっぴらに新三郎をいじめはじめた。
だが、不幸なことに、そうやっていじめてくる子供達が束になって
かかっても、新三郎1人に勝てないのである。
いじめは日を追って、陰湿な方に向かった。
見えないところから石を投げる。
新三郎を雇う親たちに讒言をする。
そうして徐々に新三郎の一家は飢え始めたのだ。
川上はそれを惜しみ、一家を良之に託したのである。
良之は、まずこの少年と似た境遇にあった藤吉郎に託してみた。
藤吉郎も事情を良く察し、辛抱強く学問を仕込んだ。
しかし、ひらがなをなんとか覚えたが、そのあとがいけなかった。
藤吉郎は、この時代では異質なほど理解度が早い。
471
つまり、新三郎のような教え子が相手だと、焦れてしまうのである。
結果、新三郎も傷つき、やがて放棄した。
﹁御所様。わしが悪いでよ。新三郎のこと許して遣わさい﹂
藤吉郎はやむなく、良之に詫びた。
フリーデやアイリに相談してみたが、あまり新三郎は魔法の筋は良
くないようだった。
望月や服部ら忍び衆にも声をかけたが、どうにも骨柄が良すぎる。
目立つのである。
見かねた滝川が、この少年を引き取った。
初日に激しくしごき上げ、足腰が立たなくなるまで木刀で打ち据え
た。
これでダメなら仕方ないと彦右衛門は思った。翌日、新三郎は来な
かった。
だが、その次の朝。
﹁滝川様、昨日は熱出して動けなんだ。申し訳、ねえ﹂
彦右衛門が役宅を出ると、地面に座って新三郎は頭を下げていたの
である。
みると、一昨日の稽古のあとは紫色に腫れ上がり、白木で自作した
らしい杖をついて歩くような案配だった。
慌てて彦右衛門は千に治療を依頼した。
それ以来、新三郎は人変わりがしたかのように素直になった。
そして、常に彦右衛門のあとをついて回り、良く気を利かせて使い
を務めた。
472
飛騨での内政 3
新三郎の母と妹は、平湯に転居した。
その身体検査で、アイリは彼女達が﹁労咳﹂であると気づいた。
労咳、結核である。
急いでフリーデのマジックポーションと共に治療を開始し、2人は
数日かけてやっと、顔色が戻ってきていた。
﹁良之様、この病は前の白癩と同じく、細菌性なのでしょうか?﹂
だとするなら、フリーデにもアイリにも根治は難しい。
彼女達はあくまで対症療法で菌に冒された肉体を癒やすのみで、細
菌の撲滅にはイメージが届かないのである。
実際、彼女達の世界にも結核はあったが、やはり、再発と寛解を繰
り返すのみで、根治した例はほとんどなかった。
﹁わかった。とにかく俺は治療薬を探す。アイリは、彼女達の体力
を回復させるよう、食事を見直してくれ﹂
良之の指示で、新三郎の母と妹は、食事による体力回復と、温泉入
浴による衛生面の向上と言った闘病がはじまった。
接触させるのはアイリや千を含めた数名のみを指定された。
彼女達と新三郎には、その理由を根気強く説明した。
結核菌は、飛沫感染である。
彼女達にも、治療看護する者達にも、良之が錬成したマスクの着用
を義務づけた。
結核が広まる地域として、冬場の空気が悪い寒冷地が多かったのは、
締め切った屋内で微細な燃焼灰が浮遊する、換気の悪い居住空間は
473
無縁ではなかっただろう。
不完全燃焼によるすすなどによるじん肺も、同様に深刻だった。
良之は、医学書によって彼の時代の薬剤を特定。
その分子構成を分子辞典で参照して、治療薬を錬成した。
イソニアジド、リファンピシン、エタンブトール、ピラジナミドと
いう四種の抗生物質を毎日服用。
その後4ヶ月を経過したら、イソニアジド、リファンピシンの2剤
による投薬治療に切り替える。
ここまででもし未だ結核菌が陽性であれば、エタンブトールに代え
てストレプトマイシンの筋注が必要になる。
ここに挙げられた薬はどれも効果は強力だが、強い抗生物質は副作
用もその分強い。
そのため、たとえばビタミン剤の投与、抗ヒスタミン薬の処方など
も行われるようだ。
とにかく、飲み薬の錬成についてはまだしも、筋注を毎日行うのは
出来れば避けたい。
注射に関するノウハウは、全くの素人でしかない良之のみにしかな
いからだ。
今回の事態にあたって、良之は、アイリと千に、注射の修行をさせ
るべきだと強く思った。
良之の時代だったら医師法に反するが、ここは戦国の世である。
この治療法が、これほど強い抗生物質を使い、ここまで執拗に行わ
れるのは、理由がある。
抗生物質に耐性を持つ結核菌が生まれるからである。
耐性菌がもし殺しきれず世界に広まってしまうと、それは人類史に
新たな脅威が生まれることとなる。
新三郎にもアイリが治癒魔法を用いたが、彼には元々結核の症状は
474
出ていなかったようである。
結核菌の場合、栄養状態や健康状態によって、鼻や喉の粘膜で侵入
をシャットアウトできる。抵抗力が弱っている時に発病することが
多いのだ。
新三郎は隔離されなかったが、それは、母や妹という、彼がこの世
に生きる理由そのものと割かれる事になる。
新三郎は毎日、アイリのところにやってきては、遠目から2人の様
子を見て彦右衛門の元に参じる。
その様子があまりにも健気で、アイリや千、そして彼女達の弟子と
なった10人の子供達は、胸を詰まらせた。
その話を聞いた良之は、
﹁大丈夫。半年の辛抱だ、そしたら一緒に暮らせるさ﹂
と新三郎を励ました。
新三郎が来ると、アイリたちは2人を新三郎に見える場所へ案内す
る。
毎朝2人に手を振って、新三郎は出かけるようになった。
結核の検査はしたいが、さすがに顕微鏡の手持ちはない。
﹁フリーデ、アイリ、顕微鏡作れる?﹂
﹁いえ、さすがに。使い方は分かりますが⋮⋮﹂
フリーデが言う。
﹁あの。私、持っています﹂
アイリが<収納>から出した顕微鏡は、光学式の割合しっかりした
ダイキャスト製だった。
﹁なぜ顕微鏡など持っているのですか?﹂
﹁返しそびれた学校の備品なのです﹂
あなた⋮⋮フリーデはそのアイリのずぼらさに呆れるが、
﹁ありがたい﹂
良之は即座にアイリから顕微鏡を奪うと、2人が止める暇もないほ
どの手際で分解してしまった。
475
そして、全ての構成部品について錬金術で模造し、2台の顕微鏡を
組み上げた。
そこから連続して10台の顕微鏡を複製して、アイリとフリーデに
預けた。
顕微鏡が開発されたのは1590年、オランダのメガネ職人ヤンセ
ン親子が発明したとされている。
真偽は定かではないが、望遠鏡の反対から覗いて原理を得たとされ
る逸話が有名である。
いずれにせよこの時代には、まだ存在していないテクノロジーであ
る。
﹁これをうちの職人で作らせようと思うと、ガラス職人とレンズ職
人が必要なのか。先は長そうだね﹂
レンズは自然鉱石に産出する透明度の高い宝石でも代用できるだろ
うが、ガラス職人については、1から育てなければならない。
確かに良之の言う通り、気の長い話になりそうだった。
結核菌の顕微鏡検査では、発見者の名を取ってチール=ネルゼン法
と呼ばれる、染料によって感染者の痰中の結核菌を染色してカウン
トする方法がとられる。
幸いなことに、良之の手持ちの資料からその全ての染料の由来が判
別した。
カルボールフクシンは塩基性フクシンという既存の紫色した染料に
アルコールと石灰酸を加えて作る。
これに、耐酸性菌である結核菌以外を洗い流す1%塩酸アルコール。
そして、紫に染まった結核菌以外の物を青く染め、色差で菌を寄り
視認しやすくするメチレン青液を使用する。
その検査法をアイリに教え、検査が出来る人間の育成を依頼した。
476
結核予防については、まずは住民の栄養改善、衛生意識の向上と、
感染者の隔離治療が必要だった。
これは、いかに優れた科学力を持つ良之や、強力な魔法治療を持つ
アイリ、錬金術師のフリーデをもってしても、一朝一夕には成し遂
げられないであろう。
とにかく、専門知識を持った人材を1人でも多く育てる、そこから
こつこつとやっていくしかないのである。
良之は、
﹁労咳は治せる﹂
と全土に触れを出させ、患者を全員平湯に集めさせ、療養所を建設
した。
療養期間の生活の保証や、退院後の身分の回復を良之の名において
保証したので、患者は飛騨全土から集まった。
中には、内ヶ島や姉小路という対立した国人の領民もいたし、遠く、
美濃、尾張、加賀や越中から訪れた病人もいたという。
良之は構わず受け入れさせた。
500人近くの患者が集まったため、比較的症状の軽い患者にも、
看護を手伝わせる。
そして、ここの患者には栄養価の高い食事。米や肉、魚を与えた。
アイリ班30人、お千の班も同数に拡充し、とにかく、回復魔法の
習得に努めることを最優先させた。
新三郎も、この施設で働きたがったが、残念なことに、科学的な素
養も、魔法的な素養にも恵まれなかった。
滝川彦右衛門は彼に、槍と鉄砲を仕込んでみた。
477
こちらには優れた才があり、彦の弟子としては急速に力を付けてい
た。
また、この少年は持久力があり、平湯から神岡、平湯から旗鉾への
伝令として日夜駆け巡った。
足も速い。
専門職である草の者達ですら、年若いこの少年に一目置くほどで、
いつしか、里にいた頃とは比べものにならないほど、彼は周囲から
認められ、期待されるように育った。
木曽左京大夫の嫡男で、すでに国を譲られている木曽中務大輔義康
が、供回りを連れて平湯にやってきた。
この時期、良之は多忙なので、父の左京大夫に飛騨各地の案内など
を任せ、良之はあいさつのみで済ませた。
﹁どうか、ゆっくりおくつろぎ下さい﹂
せめてものもてなしに、贅を尽くした食事を共に摂って、翌朝には
旗鉾に戻った。
木曽義康は、父の案内で鉄砲訓練などを視察、また、労咳を治す病
院を建てたことにも驚き、さらに、寄生虫予防のため人糞を廃し、
化学肥料を提供したことや、鉱毒対策のため沈殿池を作っているこ
とや、その材料のコンクリートなどにも驚嘆した。
だが、彼が本当に反骨心を折られたのは、行く先々で無数に見かけ
る蔵と、その蔵が足りずに飛騨中で新しい蔵が建造されている現実
だった。
﹁勝てるわけがない﹂
義康は、父の書状に記されたことが大げさではなかったことを察し
た。
478
天文21年は、新年早々に天下が動いている。
京の都を落ちた足利将軍家を支え続けた近江の六角定頼が1月2日
に死去すると、継いだ義賢は日和見な態度に国論を修正。
そこで、従前から三好家による関係修復を打診されていた室町幕府
は三好長慶と和睦、感情論から三好とは断絶している細川晴元を残
して京都に帰ってしまった。
これが1月28日のことであった。
翌月2月26日。京に上って将軍足利義藤に面会した三好長慶は、
室町将軍の御供衆に任じられ、名実共に将軍家の陪臣︵細川氏の家
来︶から直臣に出世している。
この時代の日本という物を表す出来事がこのあとふたつ起きる。
ひとつは、陸奥の浪岡御所に在住する浪岡北畠氏が、京都の朝廷に
官位を求める運動をしていることである。
当主北畠具永の四位昇進と、嫡孫北畠具運に式部大輔の叙任を公認
させる運動である。
いうまでもなく、この時代、陸奥は日本の最北端といえる。
そうした土地の貴人でさえ、京都への使いを出している。
現代人は、戦国武将や庶民は一生領地にいるように考えがちである
が、実際は、かなりの交通量があったのである。
また、このあと6月には、今度は最南端の島津氏が、同様に官位の
ことで京に使いを派遣している。
島津貴久は従五位修理大夫を正式に認められ、また、室町幕府にも
面会し、嫡男島津島津又三郎に義の字を偏諱している。
この年の3月には、関東管領上杉氏の平井城が北条に落とされてい
る。
上杉氏は、川越夜戦による圧倒的敗北によって国人衆の支持を失い、
479
この侵攻にもはや誰も救援に立ち上がらなかったらしい。
逆に、北条は侵攻に際し与力した国人衆の所領を安堵し、着々と勢
力圏を広げていった。
平井を落ちた上杉憲政は、厩橋の長野氏を頼って逃げ延びた。
関東管領上杉の失脚は、武田が攻略する北信濃にもはっきり影を落
とした。
抵抗勢力として存在する大小の国人は、武田を側面から牽制し、こ
の戦いのイメージリーダーであった関東管領という権威を失った。
日増しに武田に誼を通じる国人層も増えてきている。
これは、村上と上杉の権威が失墜しつつある状況下で、積極的に山
本勘助や真田弾正忠幸隆が信濃の豪族たちを懐柔している事による。
480
飛騨での内政 4
小笠原を滅ぼした武田は、この時期、高遠城主高遠頼継を南信調略
の基点に考えている。
ところが、この高遠頼継は、幾度かの裏切りで今の地位を得ている。
腰の落ち着かない人物だった。
最初は、主家である諏訪を裏切り、武田に与した。
そして高遠諏訪氏として、諏訪・伊那方面のまとめ役に付きながら、
武田を裏切っている。
その後、上田原の戦いで武田の敗北に端を発し、伊那衆の反乱に乗
じて再び独立の姿勢を見せた。
二度とも武田に攻め寄せられ、そのたび頼継は甲斐に出仕し、武田
晴信から許しを得ている。
その高遠頼継に愛想を尽かせた木曽衆や伊那衆が、飛騨に唐突に現
れた二条大蔵卿という御所様に関心を寄せている。
特に、先代の木曽左京大夫が隠居の地から流民を引率して飛騨に移
住したという話と、現当主の中務大夫が飛騨に伺候に出向いた話は、
すでに伊那に知れ渡っている。
木曽中務は、父の説得もあり早々に二条への臣従を決めた。
良之は、臣従を受け入れた。
織田上総介の推薦をもって柴田権六を起用し、彼に兵1000、鉄
砲500を託して木曽の防衛と治安維持に協力。
木曽中務の検地と刀狩りに協力した。
481
ちなみに、良之は飛騨や木曽で買い上げた刀剣を堺に輸出している。
刀剣類は国内でも高額でも取引されるし、明や南蛮人も工芸品とし
て高く評価しているのである。
木曽と高山を結ぶ木曽道の状況があまりにひどい。
良之は、木曽にいる黒鍬衆をリーダーに、飛騨からも若干の人数を
派遣して、道路の拡張、付け替えや架橋を指示する。
堺の皮屋に、豚、牛、鶏が届いた。
また、宣教師トーレスと五峯の間で良之の望む品の情報共有が行わ
れ、五峯が調達可能なサツマイモ、菜種などが皮屋宛に届いている。
早速、家畜に関しては皮屋取引の河原衆に、数を増やすよう依頼し
た。
菜種は遠里小野に届けさせ、近隣で生産をさせるように指示をする。
トーレスは、ウルトラマリン顔料の価値を知っていたようだった。
早速、インドのゴアから船団が買い付けに来るだろうと返信が来て
いた。
さすがに﹁同量の黄金と同価値﹂とまで言われた顔料だ。
トーレスの手紙によると、対価が厳しいので、可能なら物々交換に
も応じて欲しいというゴアからの言付けがあったという。
良之は、甜菜、たばこ、ブドウなどの苗や種子を要求した。
この時期、西洋にはまだたばこ産業は起きていない。
だが、スペイン人やポルトガル人には、アメリカ大陸にあるこの植
物に対する知識は、すでにあったのである。
本来良之はサトウキビが欲しかったのであるが、飛騨や信濃、それ
に堺あたりでは畑作がうまくいかないことは承知していた。
482
とにかく、砂糖が欲しい。
良之自身は砂糖を錬金精製出来るが、食事に置ける調味料としての
砂糖が欠乏する可能性がある。
良之の領地で出される食事が美味なののひとつの理由がこの砂糖な
のである。
堺などの大都市では、茶会の菓子などに砂糖菓子が出されているが、
まだまだ一般的なものではなかった。
理由は、原料である精製糖が、明や南蛮に100%依存しているか
らである。
良之としては、自国生産のメカニズムをなんとか構築したいと思っ
ている。
旗鉾の山際の木材切り出しと整地が終わったのは、旧暦5月頭だっ
た。
その頃には、美濃からも耐火レンガが届きはじめた。
﹁確かに苦戦中のようだな﹂
そのできばえを見て良之はつぶやいた。
金属精錬炉に使う耐火レンガにとって、ひび割れや隙間は命取りで
ある。
そこから溶融した金属がしみ出してしまえば、炉の寿命は終わる。
それでも、良之は構わず職人を指揮して炉を組み上げさせた。
組み上げた炉を取り囲むようにして、建屋を作らせる。
ここから先は、良之の錬金術によって全ての施設を完成させること
になる。
まず、積み上げたレンガを、アルミナを錬成してファインセラミッ
クスコーティングする。
483
そして、レンガの下部に、補助熱源として石炭をコークス化させる
炉を併設する。
コークス炉にもセラミックスコーティングを施し、強度を上げる。
コークス炉の排気ガスはコンデンサ設備を介してコールタール集積
に当てられ、残った排ガスは、自溶炉に吹き込まれて燃料化される。
また、このコークス炉はコークス製造が目的ではないため、乾留が
終わり冷ましたコークスはそのまま自溶炉に投入されることになる。
自溶炉の上部には、資源や触媒を投入する投入口があり、さらに炉
の中心部には、高酸素圧縮空気を吹き込むノズルを作った。
最後に排気システムである。
この炉から出るガスには様々な毒性の強い重金属が蒸発しているた
め、まずはコンデンサ設備で亜鉛、カドミウム、ヒ素などを固形化
して集積させる。
次に、脱硝装置。ファインセラミック多孔質触媒にアンモニウムを
供給して、ここを通る窒化酸化物NOxを分解させる。
続いて脱硫装置。
ここもアンモニア用いて硫化アンモニウムに反応させ、硫黄分を回
収。
最後に、残った排ガスを消石灰のプールに吹き込む。
消石灰に硫化ガスが反応すると、石膏が生産される。
最後に集塵フィルターを通って、煙突から排気される。
自溶炉の原理は驚くほどシンプルだ。
鉱山から産出する金属は、一般に硫化金属の場合が多い。
金などは化合物ではない含有岩石で採鉱されるが、それ以外のほと
んどの鉱石は、硫化物である。
この硫化物に、燃料である重油や石炭を加え、高酸素濃度のガスを
吹き込んで自燃させることによって、炉を熱する熱源の省エネを計
っているのが自溶炉である。
484
また、燃焼補助剤として硫化鉄や酸化鉄なども投入される。
残念ながら今の段階では酸素ボンベが使えないし、コンプレッサー
もないので、職人たちにふいごを踏んでもらっている。
並行して、平金鉱山の採掘がスタートした。
良之の自溶炉では、現在、ストック分を良之が回収した神岡鉱山の
鉱石が溶錬されている。
そこに、各地で回収した鐚銭や、京都の廃寺から集められた銅など
が投入され、さながら南蛮絞りの再現のような光景が繰り広げられ
ている。
鉄、ケイ素、アルミニウムなどは溶解状態の炉に空気を吹き込む事
でスラグ化して浮上する。
スラグ化した物質を炉から掻き出すのは、残念ながら人力に頼らざ
るを得ない。
劣悪で危険な作業だが、職人たちは誇りを持って働いてくれた。
やがて、炉の温度が下がってくると、銅が溶けた鉛に浮かび上がる。
その銅を回収し、次の銅スクラップの投入となる。
その際、平金鉱山で採鉱した鉱石も一緒に炉に落とされる。
銅を絞ったあと、再び加熱を強め炉内に圧縮空気を吹き込むと、酸
化した錫やアンチモンなどが酸化物に変わって浮上する。
これらも人力で炉から搾り取る。
鉄やケイ素などのカラミ、粗銅、錫やアンチモン、ヒ素などの酸化
物は、それぞれの工程ごとに冷まされて、専用の倉庫に運び込まれ
る。
やがて、鉛の量が増えて作業の効率が落ちると、鉛中の不純物を取
り除く乾式精錬を行う。
まず、溶解した鉛に硫黄を投入して攪拌する。
485
すると、溶解していた銅が硫化銅として浮上するので除去。
次に、水酸化ナトリウムを投入し、錫、ヒ素、アンチモンなどの酸
化ナトリウム化合物を作って除去する。
また、亜鉛鉱を投入して炉の温度を下げると、亜鉛が炉中の金や銀
と化合物を作って析出するので回収する。
最後にマグネシウムとカルシウムを加えて加熱すると、ビスマスが
金属結晶として析出する。
これらの処理を行ったあと、多すぎる分の鉛を炉中から流し出して、
再び作業を続行する。
石膏水槽は、定期的に石膏化した石灰をすくい取り、新たな消石灰
を投入して、石膏を脱水したあと乾燥させて保管される。
この脱水機も良之は錬金術で作り、職人たちに説明した。
2号機以降は、鍛冶屋と鋳物師たちが作ってくれるだろう。
原理はとても簡単で、手動で動く洗濯機のドラムのようなものであ
る。
それを人夫たちが交代でハンドルを回して回転させるのである。
ひとまず全行程の習熟が終わったところで、良之は、責任者を池田
勝三郎に依頼して、平湯に戻った。
すでに炉に火を入れてからひとつきが過ぎている。
堺から届けられたサツマイモ、綿、唐辛子などは、先月中に作付け
を終えている。
いずれも、翌年以降のための育成である。
綿に関しては、織田上総介信長に、
﹁海に近くて塩害の強い土地に最適な換金作物だ﹂
と教え、可能なら尾張の稲作不適地域で奨励してもらえるよう、彼
の父につなぎを付けてもらっている。
どのように金になるのかを聞かれたので
486
﹁綿花からは繊維と織物が、種からは油が、そして茎は肥料になっ
たり紙にも出来る﹂
と伝えると、大いに期待しているようだった。
・・・・
﹁ちょっと京都に行ってくる﹂
良之は言い出した。
家臣一同、一瞬呆気にとられた。
﹁御所様、さすがにちょっと、で行かれては困ります﹂
代表して隠岐がたしなめた。
﹁帝に拝謁し、堺で皮屋と取引して、船尾で職人たちと相談してく
る﹂
﹁⋮⋮そのような理由であれば致し方ありませぬな。しかし、供回
りをいかがなさいましょう?﹂
現在、飛騨国内では人足たちがフル稼働している。
つまり、それを指揮、監督する人材が不足し、斉藤道三や明智光安、
信長の配下である丹羽や川尻なども借り受けて各地に派遣している
有様だった。
﹁お虎さんと⋮⋮上総殿、一緒に行ってみますか?﹂
﹁あい﹂
﹁おお、もちろん﹂
2人は喜んだ。
﹁小者は、新三郎と⋮⋮5人ほど伊賀の草の手を借りましょう﹂
﹁では、千もお連れ下さい﹂
アイリがいつも通り、千を推挙する。
﹁千も忙しいでしょ? 連れてって大丈夫?﹂
千は、最初の弟子の他に30人ほどの新弟子を抱えながら、領内の
診察や平湯の療養所などを切り盛りしている。
﹁この頃は、5名ほど千ほどではありませんが、回復魔法が使える
487
物が育ってきましたので。あの、良之様⋮⋮以前お見せ頂いた人体
の模式図と、医学書をお借りしてよろしいでしょうか?﹂
﹁ああ、良いよ﹂
写しがないから、<収納>に保管してくれぐれも破損や紛失しない
ようにと念を押した上で、良之は人体のカットモデルで内臓などを
解説する書籍と、﹁現代の治療方針﹂という医師用の虎の巻のよう
な本を貸した。
言うまでもなく、良之にとっての虎の巻でもある。
﹁ありがとうございます。やはり、外傷だけではなく内科の治療を
させるためには、しっかりとしたイメージが必要なようなんです﹂
﹁なるほどね﹂
良之も納得した。
﹁いずれ、祐筆とか絵師とかに模写させないとダメかもね﹂
良之の言葉に、アイリはうなずいた。
488
飛騨での内政 5
乗馬が初めての新三郎への習熟のため、数日は一行はのんびりと進
んでいる。
今回の京都行きのルートは、あえて越中を通らず、下呂から苗木、
明知、八百津から下り舟で津島。
津島からは舟を代えて、桑名、雑賀、堺、渡辺津。
渡辺津から馬を借り、大山崎から京に入る。
半月ほどかけ、一行は京に到着し、二条邸で休息する。
道中では、上総介信長の小者の前田犬千代と、良之の小者の新三郎
が随分熱心に乗馬や槍の稽古で張り合っていた。
時折上総介やお虎御前も槍の稽古に加わるが、この2人の強さは別
格で、少年たちはさんざんにつつき回された。
特に犬千代は、はじめお虎御前を女と侮ったため、一撃で昏倒させ
られ、慌てて千が治療する一幕があった。
二条邸で兄夫婦にあいさつを済ませ、2人の診察を千に任せて、良
之は上総介、お虎と小者たちを連れて京を歩く。
皮屋に顔を出し、今井宗久に礼を言う。
﹁二条御所修復、随分頑張ってくれたそうで﹂
﹁関白様はあまりご熱心でおざらぬため、万事控えめになってしま
いました﹂
宗久は恐縮して頭を下げる。
﹁俺があの屋敷に住んでた頃は、街のごろつきが﹃肝試し﹄といっ
489
て邸内をうろついたり、庭の御池で月見をやられましたから。それ
に比べたら素晴らしい出来です﹂
実際、二条邸には新たな土塀が巡らされ、その周囲には堀も切られ
ている。
京も良之が去ったあとをピークに治安が徐々に回復しつつある。
京都の奉行に入った松永久秀や、何度か京に上っては直接指示を出
した三好筑前守長慶あたりの努力もあったかも知れないが。
良之は、朝廷にある程度豊かな資産力があったことで経済が活性化
した効果だと思っている。
実際、禁裏の増改築は進んでいる。
そして、流亡した京の民たちも、そうした状況に誘われて京洛に戻
りつつある。
かたぎが多く住むようになると、自然と街の治安は向上する。
言うまでもなく、住民たちの努力によるものではあるし、治安向上
にはコストがかかるが、それでも、徐々に京の町にも平穏が訪れよ
うとしていた。
良之は翌日参内し、飛騨開発のこと、棹銅や分銅の状況などを報告
し、帝に5000貫の銭を献上した。
そして、本題である相談を帝に持ちかける。
帝のお手である御宸筆による﹁天文通宝﹂の揮毫を依頼したのであ
る。
﹁前例のない事ではあります﹂
率直に良之は打ち明ける。
基本、日本の通貨のデザインは、明治以前に誰が行ったか分かって
いない。
おそらく現場で名も知らぬ彫金師たちが彫ったのであろう。
金貨の大判には墨書で裏付けが書かれる事例があった。これは分銅
490
の後藤家の当主による花押の署名だった。貴金属や宝石の鑑定書の
ようなものである。
良之は、天文通宝の四文字を後奈良帝に揮毫してもらい、それをデ
ザインに取り入れようと考えた。
言うまでもなく、新規発行の通貨に対する価値の裏付けのためであ
る。
棹銅や分銅を官許とし、全国に権威として広めているのに発想は近
い。
京の帝の直筆からデザインしたとなれば、その通貨の信頼性が大き
く向上する。
そう帝に熱弁した。
﹁墨を持て﹂
帝は良之の説明を聞き終わると、快く宸筆を良之に下された。
良之は一旦二条御所に下がり、帝の揮毫を、キャンピングカー内の
プリンターでスキャンして、PCの画像処理で銅銭へとデザイン起
こしをした。
表は天文通宝の四文字。穴は四角。裏面には、五三の桐を浮き彫り
に仕上げた。
そして、秤で﹁銅7:亜鉛3﹂の真鍮を3.75グラム計って、そ
のデザイン通りに錬成した。
翌日、再び参内し、試作品を帝に献上。
勅許を得た。
いつも通り、奥の女御殿たちに、砂糖や塩、醤油や酒、油などを差
し入れして屋敷に下がった。
そしてそのまま、京から堺へと急いで下った。
491
良之が嵐の様に京を去ったのには理由がある。
長居をすると、彼にとって不愉快な事が持ち上がるからである。
この時期、足利義藤将軍が京にいる。
室町上立売から烏丸今出川あたり、焼失した花の御所跡地に室町殿
を再建している。
長居をすると彼から呼び出しがかかるだろう。
呼び出されれば、まず間違いなく名前に偏諱をされ、藤良か義之に
改名せざるを得なくなる。
事情を聞いた上総介信長とお虎は、それを聞いて呆れた。
だが、本当のところ、良之は室町幕府とその政権が嫌いなのである。
室町幕府の脆弱性は、ひとえにその設立に根源がある。
足利尊氏が鎌倉幕府、継いだ後醍醐天皇から権力を奪取した背景に
は、彼自身の力ではなく、各地にあった地頭や国人などの与力によ
ってだった。
東に走って武力を集結し鎌倉幕府を滅亡させ、西に逃げて九州の豪
族を束ねて京を落とす。
その経緯で各地の地頭や国人に大きな権力を許し、諸国の守護大名
として成長する余地を与えた。
一方で、自身の領地は少なく、故に自前の武力に乏しいため、三管
領、四職などの武力や政治力に頼ることで権力を維持することにな
る。
都を落ちた前帝の後醍醐は吉野で南朝を興し、以降、室町幕府は三
代義満の時代まで苦しめられることになる。
南北朝時代が終わり、権力が各守護家に集約させるようになると、
やがて脆弱な足利将軍家の背景基盤として彼らをコントロールしよ
うとする管領家が権力闘争を始める。
これが応仁の乱の引き金になる。
492
細川勝元と山名宗全による権力闘争は日本全土の守護大名たちも巻
き込み、11年に及ぶ期間に、両軍10万以上の兵が動員された大
騒乱状態になった。
京の町はほぼ全土が焼失、のみならず、日本各地でも親子、兄弟、
叔父と甥などが敵味方に分かれて権力争いを始めるといった状況に
陥った。
細川を東軍、山名を西軍と称した。
結局、最後は山名の西軍がわずか一日という時間で解散、四散して
応仁の乱は勝敗が付かないまま終わったが、この間の疲弊によって、
各地の守護大名は権力を失い、山城国一揆、加賀一向一揆などに代
表される反権力闘争や、守護代、地頭、国人らによる国司、守護大
名など権力層への下剋上や独立運動が日常化するようになる。
良之は、こうした諸悪の根源が、実力もないくせにお飾りの権威を
持った足利家の責任だと思っている。
不幸なことに、二条家の伝統として、足利家より偏諱の一字拝領が
伝統となっている。
だが、せっかく兄の晴良が晴の字を拝領していることもある。ここ
は逃げるに越したことはなかった、ということである。
渡辺津から堺への船旅の中、良之はそんな話を、上総介やお虎御前、
お付きの小者たちにのんびり語ったのである。
聡い上総介やお虎は、このときすでに良之の本音に気づいたものと
思われる。
彼は、およそ室町的な価値に一切の値打ちを認めていないのである。
だからこそ、朝廷から飛騨国司は拝命しても、足利将軍から飛騨守
護職を受けようなどとは夢にも考えて居らず、それどころか、将軍
家への敬意さえ持ち合わせていない。
493
このことは、ある種の危険性を孕んでいる。
傀儡に近いとはいえ、今このときでも、足利将軍家には一定以上の
権力が存在するのである。
石山に上陸し、証如にあいさつをして、寺内町で取引などを行って
堺へと去る。
堺でも、飛騨や木曽で必要になる様々な物資を調達した。
一冬分の食料品に加え、鍬や鋤、釘などの金属製品も根こそぎ購入
した。
また、馬の轡や鞍、雑兵用の鎧なども、堺の在庫全てを購入した。
そして、街に在庫する鐚銭もありったけを金銀や永楽銭で両替して
引き取った。
すでに鐚銭を鋳つぶせる自溶炉を入手しているためである。
鐚銭は金1両あたり5貫以下と、徐々に値が崩れだしている。
永楽銭は安定的に1両あたり1貫という高値で全国的に流通してい
る。
言うまでもなく質の高さがその価値の違いである。
武野紹鴎から、遠里小野の状況を報告される。
紹鴎が集めた国内産の菜種から、それなりの量の油を絞ることが出
来た遠里小野の油座は、やっと自信を回復しつつあるようだった。
良之のもたらした菜種を近郊の村々で栽培してもらい、生育も良好
なようである。
そして今回のもう一つの目的地である船尾に向かった。
広階の親方の屋敷で応接を受けた後、良之は本題を切り出した。
﹁私の跡継ぎをですか?﹂
494
﹁ええ。俺に預けて下さい。その際、10名以上、将来のれん分け
が出来るくらいの実力者を選んで、付けて下さい﹂
良之は、現在飛騨開発のために手一杯である飛騨の鍛冶師や鋳物師
をあきらめ、自身の手中で、科学教育をしつつ、いつか自分がいな
くても技術を伝播出来る人材を創出する方針に換えようとしている。
そのことを広階に伝えると、彼は大いに興奮した。
そして、手元には次男だけ残し、長男、三男、婿養子2人、そして
彼らの弟子を飛騨に送ることを約束してくれた。
良之は彼らに充分な路銀を渡し、飛騨への旅に出させた。
﹁これは見事ですな﹂
良之は、帝に献上した天文通宝のレプリカを何枚か錬金術で作って
置いた。
かね
その1枚を広階親方にプレゼントしたのである。
﹁これは先に御所様に頂いた﹃五円玉﹄と同じ金でっしゃろ?﹂
﹁そうです。銅7に亜鉛3の真鍮です﹂
﹁⋮⋮きれいなもんで御座いますなあ﹂
広階は丁寧に油紙でくるみ、袱紗でくるんで桐の小箱にしまった。
﹁いよいよ鋳銭をはじめなはりますか?﹂
﹁ええ。予想以上に飛騨で人件費がかかり出しましたし、とりあえ
ずは鋳物で作ります﹂
良之は、以前ちらっとオートメーションによるプレス打ち抜き工法
による造幣局式の通貨製造の話を親方に聞かせたことがある。
さすがに、あまりに奇想天外すぎて、このときの親方には理解を超
えてしまっていた。
﹁左様ですか⋮⋮それで職人を?﹂
﹁それもあります。一番大きい理由は、やっぱり後継者育成ですけ
どね﹂
﹁後継者など。御所様はそないお若いのに﹂
広階は苦笑した。
495
良之は、船尾の蔵に納まる限り、美濃で回収した錫砂を納めて去っ
た。
その分量、およそ40トン以上であった。
広階親方は、その精錬にも追われる羽目になる。
496
飛騨での内政 6
天文21年7月。
いよいよ良之の指揮によって、鋳銭がはじまる。
船尾の銅座から、広階美作守親方の長男平太、三男小三太、娘婿の
猪之助、彼らそれぞれの弟子、そして全ての者の家族を伴った一行
がやってきた。
良之は早速、一同を旗鉾の長屋に住まわせ、そして10日かけて、
3人に平金の自溶炉についてたたき込んだ。
その精錬のメカニズム、思想、危険性、品位を求める方法論などに
ついてである。
電気炉や高熱炉が技術的な理由で使えない代わりに、良之には、豊
富な燃料と錬金術が利用できた。
錬金術については、いまだ良之を継げる才能が見つからないため除
外するとして、豊富な燃料については、その恩恵に良之はだいぶ救
われている。
良之の時代にあっては、燃料代や電気代といったランニングコスト
が、製錬技術にとって常に一種の壁となってそそり立っていた。
逆に言えばそのことが冶金技術を大幅に進化させてもいるのである。
この3人は、船尾において南蛮絞りをマスターしているため、自溶
炉についての理解が早く、良之にとっては即戦力になってくれた。
彼らに、それぞれの弟子への教育を任せ、加えて、職掌を決めた。
長男平太を総監督。小三太を平金監督。そして、猪之助を鋳銭監督
にした。
平金の自溶炉は、回収非鉄金属のリサイクル炉としての側面を持た
497
せている。
良之の<収納>に納められていた大量の廃寺からの青銅物や貴金属
︱︱屋根や焼失した金属物、高炉や仏具や灯籠、仏像の残骸など︱
︱を野積みにして、それらを鉱石やコークス、木炭などと一緒に自
溶炉に供給し、溶解金属の抽出を行わせる。
それらを各工程ごとに異なった蔵に納めさせる。
この工程を、小三太に委ねた。
それまで木下藤吉郎が担当していた旗鉾の木炭、石炭、石灰の窯は、
総監督である平太に移譲した。
これらが金属精錬や工学にとって以下に重要な技術であるかをたた
き込まれた平太は、それぞれに自分の弟子を割り当て、さらに新し
い弟子を求めてスカウトした。
この頃になると、フリーデが作っていた分溜装置が完成したので、
これも平太の支配下として、フリーデを先生にして徹底的に仕込ま
せた。
さらに、一基目の分溜塔を作った職人全てに、二基目の建造を神岡
ではじめさせた。
一基目の分溜塔は木酢液がターゲットだが、神岡に作る二基目は、
言うまでもなく、直江津からの原油の分溜がターゲットとなる。
さらに、鋳物師や鍛冶師には、三基目のための部品製造も命じてい
る。
石炭のコークス窯が本格稼働すれば、コールタールの分溜が必要に
なるためである。
良之は、平太に仕事を譲り身体の空いた木下藤吉郎に、神岡の谷に、
谷を丸ごと使った沈殿池を建造させた。
一種のダムである。
木製の樋で沢の水を迂回させ、乾燥させた状態でダムを建造させる。
この時代にとっては、巨大工事だった。
498
藤吉郎は、良之の説明を良く理解し、放水口を備えたコンクリート
ダムの建造に取りかかった。
言うまでもなく、平岡にも石灰窯、石炭窯、木炭窯を作り、こちら
も藤吉郎が差配した。
従来平金の自溶炉を担当させていた職人たちは、新たに下呂で良之
が作った錫の精製炉に転属させた。
美濃の遠山氏が輸出する錫鉱石と、良之のストックしていた砂錫な
どを木炭やコークスによって精製・還元させる炉である。
本来は、クラッシャーによる鉱石の粉砕、比重選鉱、ロータリーキ
ルンによる乾燥、酸やアルカリの溶剤、などの手法を用いれば効率
性が上がるが、良之はあきらめた。
幸いなことに、錫に関してはこの当時の鋳物師たちには既存技術が
あるため、彼らに工房の開設などについても一任した。
そして、ここにも手持ちの砂錫を供給した。60トン以上はある。
それに、美濃の各鉱山からも、今後続々届くだろう。
彼らはおそらく、長い間、錫と格闘する事になる。
全ての器具、使う素材などをあらかじめ良之が用意していたため、
猪之助が学ぶ良之式の鋳銭は、非常に簡単であった。
だが、作業性は容易であっても、求められる精度は厳しい。
良之がこの時代医導入した貨幣鋳造プロセス。それは石膏とハード
ワックスによる鋳造である。
まず、あらかじめ良之が用意した鋳型に、原油由来の固形パラフィ
ンを流し込んで枝銭の型を作る。
この型を、水で溶いた石膏を流し込んだ木箱に差し込んでいく。
499
木箱はネジでかしめられているので、ネジを緩めると石膏が取り出
せる。
この石膏を、上下逆にして緩やかな加熱が出来る小さな窯で低温で
焼成する。
石膏を焼くことより、ハードワックスの型を解かして排出させる方
が主目的である。
加熱することで液状化したワックスは、下に置いた容器で回収され
る。
焼成した石膏内部には、枝銭の形の鋳型が残る。
ここに、真鍮の湯を注ぎ、銭を作るのである。
湯が冷めた後、石膏を突き崩して中から枝銭を取り出す。
そして、枝銭から一つ一つ銭を切り出し、真ん中の四角い穴に、角
棒を通す。
最後に、銭の周囲をやすり掛けして完成である。
鋳型に使われた石膏は、粉砕されたあと再度焼成することで石膏と
してリサイクルできる。
ハードワックスも、夾雑物の割合が高くなるまでは再生して使える。
切り離した枝銭の余剰部分も、再度湯にされて再利用する。
一本の枝銭で86枚。これを10本生産できれば、日産860枚の
生産力となる。
鋳型の場合、どうしても職人の熟練度によって、これより歩留まり
は落ちてしまう。
良之は、一日8000枚を目標に掲げた。
1枚3.75グラム。8000枚で30kgである。
猪之助は青くなった。
500
現状では日産800枚でも荷が重い。
﹁弟子を鍛えて、その又弟子たちを育てたら良い﹂
良之は、飛騨や木曽から新たに鋳物師を目指す人材を求めて各代官
に触れを出すよう命じた。
猪之助は、全ての工程を分業化し、弟子たちを配置してそれぞれの
エキスパートを育成する方式を採らざるを得なかった。
良之が従来通りの銅銭鋳造、つまり鋳物砂を用いた方法を採らず、
手間のかかるロストワックス法を導入したのには訳がある。
ひとつには、完成品の表面の精度が全く違うことである。
鋳物砂を用いた鋳物では、どうしても表層に砂による凹凸が発生す
る。
これらは、仕上げ職人によって均されるが、そこでどうしても作業
時間がかかるし、仕上がりには限界もあって、職人間で品質にばら
つきが出てしまう。
第二に、鋳物砂で鋳造した銅銭は、中央の四角い穴の精度が非常に
悪い。
結果として、この部分のバリを仕上げ職人が細かいやすりで1枚ご
とに修正せねばならず、これも結果として、多大な時間を要するこ
とになる。
そして、鋳砂法の最大の問題は、歩留まりの悪さである。
熟練した鋳物師が作る鋳物砂型と、修行中の若い衆では、クオリテ
ィが全く違う。
ロストワックス法にももちろん熟練が必要なのだが、最初から原型
が用意されていて、一度鋳型を作れば砂切りの作業を必要としない
ため、ここでも大きな工程の短縮と、熟練の差を吸収できるのであ
る。
501
平湯の自溶炉に技術的問題が発生した。
脱硝脱硫装置について、アンモニアが精製出来ないため、この炉は
良之がいないと早晩操業が出来なくなることが露見したのである。
そして脱硫プロセスにおいても、夾雑物が雑多な上、毒性と危険性
の高い精製物が生まれることも問題だった。
﹁確かになあ﹂
良之は錬金術と<収納>を使って、硫酸だろうと硫化アンモニウム
だろうと非接触で取り出せる。
だが、このプロセスを人力で行うのには危険が伴う。この時代には
防護服もガスマスクもゴーグルもないのである。
良之は、硫黄回収装置を作ることにした。
硫黄回収装置というのは、原油精製や精鉱、石炭のコークス化など
の工業設備で発生する二酸化硫黄や硫化水素ガスを接触触媒で硫黄
と水に分解する処理装置で、この反応をクラウス反応と呼ぶ。
触媒は活性アルミナや二酸化チタンで、良之の得意分野である。
言うまでもなく、こうした器具なども現状、良之以外に創れるもの
はいない。
だが、運用さえ出来る技術者が育てば、運用できる。
硫黄回収装置の技術的問題は、炉からの排気を可燃性ガスによって
燃焼させる点だ。
装置の原理は、燃焼によって脱酸化。あるいは硫化水素から水素を
奪い、硫黄の単成分化しつつ、触媒へと残留成分を送風させる。
触媒は、二酸化硫黄S02と硫化水素H2Sから酸素と水素を奪い、
硫黄Sと水H2Oを発生させる。
メカニズムは触媒自体が保有する半導体的な性質である。
酸化チタンに至っては、紫外線によって励起された電子によって、
水さえも水素と酸素に分解してしまうほどの酸化還元能力を持って
いる。
502
この触媒を通してコンデンサ、コンデンサから未反応分のガスをも
う一度触媒に。
このループを2−3回繰り返す。
これでも凝集できなかった分については、再度燃焼炉に吹き込むか、
石灰凝集で除去して大気放出する。
凝集された硫黄は、水と共にコンデンサから流して集められ、その
後乾燥させてストックする。
硫黄は水溶性が乏しいため、この手法によって、硫化物を扱う良之
のプラントなどでは、副産物として硫黄が精製出来るのである。
硫黄はこの時代、明や南蛮にも輸出できる鉱物なのだ。
早速、翌日からプラントの改築に取りかかる。
溜まっていた亜鉛やヒ素、カドミウムなどの鉱物、硫酸やアンモニ
ア化合物など全てを回収する。
そして、プラントの付け替えを行った。
良之は燃焼ガスについては、妥協した。
錬金術でガスボンベ、バルブ、そしてノズルと点火口を生成した。
いずれ、原油の分溜が出来るようになり、電気が使えるようになれ
ば、メタンガスなどが集積できるようになるだろう。
これで、硫酸よりは比較的安全に硫黄を集積できる。
そして、商品化が出来るようになる。
働いている鋳物師たちは、その工場のシステムがまるで理解出来な
いでいた。
良之は聞かれれば必ず詳細に説明したが、彼の錬金術と同様に、も
はやこの世界においては現状、オーバーテクノロジーなのである。
503
良之にとって、もう一つの課題だった銅精錬の工房も、いよいよ作
成に着手した。
こちらは機能実証施設。銅の電解精錬である。
鉛蓄電池1セル。これで2Vの電圧が得られる。
銅の電解精錬は0.3ボルト。これを長時間維持させ、硫酸溶液下
で、粗銅を+に、純銅を−極に取り付ける。
良之は6基の浴槽を用意し、並列に処理することで一基0.33ボ
ルトとした。
電解精錬については、平太に仕組みをよく話して聞かせ、不要な人
間の立ち入り禁止、状況の報告などを命じ、良之は神岡に移動した。
神岡では、木下藤吉郎が手際よく木炭、石炭、石灰などの窯を作り
つつ、鋳物師に鉄筋鉄骨を、人夫にコンクリート用の石材集めを指
示していた。
ダムを付ける立地を案内させ、良之は引き続き藤吉郎に全権を任せ
た。
504
飛騨での内政 7
良之は、恩師の言葉を思い出している。
﹁工業は、環境破壊だ﹂
それは人類史の現実だ。
ギリシャ・ローマは冶金の歴史だが、冶金は森林を失わせる。
失った森林を再生させず、その後農地化を推し進めたため、その後、
砂漠化した。
日本でも、無数の公害事件を起こしている。
リン石鹸の排水による富栄養化も工業の責任とするのなら、197
0年代の日本は、排煙、排水、そしてゴミや土壌汚染などで、日本
は激しく汚染された。
富山のイタイイタイ病、九州の水俣病、栃木足尾の鉱毒事件。
他にも、硫化ガスによる川崎・四日市喘息など。
企業体が起こした公害の爪痕も、残した。
日本という国家は、地球上の奇跡的なバランスで環境が回復してい
く。
本来、全国土の6割以上が砂漠化してもおかしくない緯度にありな
がら、温暖で高湿多雨な環境にあり、四方を海で囲まれた環境のた
め、世界的に見ても回復力の高い自然に恵まれている。
およそ40年以上の時を経て、日本の汚染などのダメージは良之が
大学生になった頃の平成ではだいぶ回復を得ていた。
だが、良之にはそうした工業史の中の暗部に付いて、どうしても考
えざるを得ないのだった。
505
神岡には、2箇所の大鉱山がある。
二十五山の西麓を基点にした栃洞鉱山と、池ノ山北西に広がる茂住
鉱山だ。
茂住は、神岡よりむしろ猪谷に近い。
神岡の集落は、江馬家の居宅︱︱籠城時に籠もる城とは別に、日常
生活を営む屋敷が、この時代には一般的で、籠城する城郭を﹁詰め
城﹂とよぶ︱︱神通川の上流で高原川と呼ばれる河川のほとりにあ
る。
その集落の高原川の下流部に、鹿閒と呼ばれる地がある。
藤吉郎が、窯を建てたのはこの地だった。
︱︱やはり藤吉郎は良いセンスをしている。
良之は思った。
藤吉郎にはセンスがある。
後年、本来の時代の流れでもし彼が羽柴筑前守秀吉になっていれば、
天才的な土木センスで攻城戦を行ったり、難攻不落な城郭を創り出
す人物である。
良之も、この鹿閒の地に神岡の鉱炉を創るつもりである。
平金と神岡の鉱質の違い。それは平金が銅を多く産出するのと比較
し、神岡は銀と鉛を中心に出す事にある。
どちらも石灰質に硫化水素が浸出して生成したスカルン鉱がメイン
であるため、生まれる金属は似通ってはいる。
金銀といった貴金属と、銅、鉛、亜鉛、それにヒ素、カドミウム、
506
アンチモンなどである。
鉱山が鉱毒を出すメカニズムは大きく分けて三つある。
一つは、坑道を掘削する時にわき出る地下水。これらはそもそも有
毒な鉱物を洗って毒性のある水であることが多い。
もう一つが、低価値鉱石の廃棄場。いわゆるズリ山である。
石炭鉱山の場合は、ボタ山と呼ばれる。
そして、精鉱施設から出る排水。
この三つが、主に警戒せねばならない鉱毒対策になる。
二十五山の脇にある沢にダムを付けさせたのは、このダムによって、
鉱毒を沈降させて上澄みだけ排水するための工夫になる。
旗鉾で沈殿池を指揮していた黒鍬衆に依頼して、鹿閒の里にも二つ、
沈殿池の作成を頼んだ。
こちらは、万一に備えてのものである。
こうした準備の後、良之は、鹿閒に平金と同一タイプの自溶炉を作
成した。
良之と比較して、人夫や職人頭への技術移転が卓越してうまいのが
フリーデだった。
彼女はすでに、分溜塔1号機での木酢液精溜について、自分の管理
下を離して職人たちに任せている。
分溜のターゲットはメタノール、フェノール、そしてクレゾールで
ある。
残りの有機成分とタールは再び集積され、肥だめの衛生剤に提供さ
れた。
フリーデは良之の指示通り、鹿閒で二号分溜塔の建設に入っている。
ここでのターゲットは原油の精製である。
507
フリーデは、自身の世界で石油の分留は学んでいる。
彼女の世界において、原油精製のターゲットは灯油と軽油までで、
ナフサを分溜して出来る強揮発性で引火爆発性のあるガソリンなど
は用途がないため廃却されていた。
今回は、良之の指示によりこのガソリン︵ナフサ︶収集のための分
溜棚と、排気ガスの脱硫装置を取り付けている。
原油の分溜による残滓は、自溶炉で焼却される。
木酢で取れるクレゾールとナフサの再分溜で取れるベンゼンは、く
み取り便所における代表的な殺虫剤として利用できる。うじ殺しで
ある。
ベンゼンに塩素分子を結合させたジクロロベンゼン、それにクレゾ
ールとメタノールを配合する。
これで、夏場に庶民を悩ませるハエの問題に、一つの解決法が提供
されることになる。
平金、神岡の二基の自溶炉が稼働したことで、良之の元には、金銀
銅、鉛、亜鉛が納入されるようになった。
電気精錬は良之の思った以上に高成績を収めている。構造が単純す
ぎて良之にとっては不安だったが、実用化が可能と判断し、両方の
自溶炉に併設し、電解精錬工場を各80浴槽ずつ建設した。
電解精錬によって純銅化された陰極棒は、再度溶解され、新しい陰
極棒と純銅のインゴットとして鋳銭場へ納品される。
陽極の溶けて痩せた粗銅は自溶炉へ戻され、再度粗銅として鋳直さ
れる。
508
各陽極側に沈殿した陽極泥は、現状では工業化するよりも良之によ
って必要資源を分離抽出した方が手っ取り早い。
陽極泥からは金、銀、銅残滓、テルル、ビスマス、セレン、白金族
が回収できる。
残りはケイ素やアルミナなので、これらも良之は分離回収する。
この工程については、フリーデの弟子であった山科卿の娘、阿子が
良之について修行をした。
結果、彼女は完全に錬金術と魔術を用いた良之の陽極泥分離をマス
ターし、それを又弟子たちに広める手伝いをしてくれた。
そこで良之は、自溶炉工程で生成する銅と鉄、ケイ素以外の酸化物
などのカラミからも阿子たちに元素抽出してもらうことにした。
専用の工房がある酸化錫は下呂の工房に輸送し、残りのビスマスや
アンチモン、ヒ素、カドミウムなどを抽出して倉庫に収めさせる。
天文21年八月一日︵1552年9月19日︶。
隠岐大蔵大夫は、良之に命じられた、国に充分な食糧を供給するた
めの取引について、斉藤道三入道に与力してもらいつつ、各商人に
発注を行っていた。
米の収穫期を迎え、各地方の商人たちは活発化する。
また、換金用に余剰な作物を収穫している地域では、米の相場が下
がるために、これからの季節が米を買い入れるのにもっとも適した
シーズンになる。
東海地方の米は津島の伊藤屋、近畿の米は京と堺の皮屋。
越後と出羽、加賀では代理店を越後屋に依頼する。
509
越中は塩屋に担当させる。
飛騨でも今期の農業が終わった世帯が増え、冬期の収入源として、
良之がこの年にはじめた各種の産業に従事する労働力が増加してい
る。
在宅で出来るのはマッチ、タービンやモーターのコイル巻き、各種
木工細工の箱作りなどだろう。
今年は一部の山方衆に、翌年以降の種になる桑と蚕を増やしてもら
っている。
こちらが軌道に乗ったら、糸つむぎと織機を作る必要がある。
生産量の問題もあるが、当初は人力の足踏み式などからはじめたら
良いだろうと良之は思っている。
コイル用の膠被膜はそれなりにうまくいっているが、もし将来的に
原油の精製から合成ゴムやビニル基などの加工がうまくいくなら、
それらによる被膜処理に移行したいと良之は考えた。
良之は養蜂業が欲しい。蜂蜜と蜜蝋のためである。
だがこれらについては彼には全く知識がない。
養蜂業の遠心分離機については、一度ネット動画で見たことがある。
良之が作った石膏の遠心分離式脱水機のオリジナルである。
ドラム缶の口にはまるサイズの取っ手付きのローテータを作り、人
力で回転させて、巣箱から蜂蜜を飛ばして収穫する物だった。
要するにあのサイズの木箱を何段か組み合わせ、箱にしておいて、
女王蜂が定住すれば、そこにコロニーが出来るのだろう。
箱については、飛騨の匠たちに依頼すれば作ってもらえそうだ。
問題はやはり、ミツバチだろう。
良之は、設計図とその仕組みを匠に相談し、ひとまず巣箱だけ、い
くつか試作してもらうことにした。
510
この収穫期が終わると、飛騨で良之に従った国人たちの領地への警
察を普及させる必要がある。
百姓たちから武力を奪うのと引き替えに、常在兵力による治安維持
と、訴訟のシステムを確立させる。
もちろん、刀狩りを行う際に、一揆などを起こさせないための備え
という側面もある。
警察を置く地域は、猪谷、神岡、平湯、旗鉾、尾崎、高山、国府、
小坂、下呂、そして木曽。
一拠点あたり300人。100が番勤、100が休日、100が訓
練の番勤制である。
一拠点あたり50挺、計500挺の種子島が配備され、訓練日に射
撃訓練が行われる。
兵が駐屯するのは神岡、平湯、高山、下呂、木曽の五拠点。
一拠点あたり1000人の常在兵、一拠点あたり600挺の種子島
を置き、常在兵たちは各兵科ごとに訓練を行う。
また、必要に応じて受け持ちエリアの出動をする。
割り振られない未訓練や能力の劣る兵力は、平湯にて訓練を行い、
以後、各拠点に割り振られる。
各警察には基本的に、元・土地の国人や豪族が割り当てられ、署長
とする。
飛騨全軍の指揮官に織田上総介信長。
副官に、長尾虎。
参軍に、望月三郎、滝川彦右衛門、下間源十郎、池田勝三郎。
神岡司令に服部半蔵正種、高山司令に千賀地石見守保長。
511
下呂司令に丹羽五郎左、木曽司令に柴田権六を据えた。
各司令の下には数人の副官・参軍を置き、それらは元の領主の師弟、
親族から推薦者を選んで置いた。
土地勘の問題、トラブル時の折衝、民との融和など、彼らには複数
の役割が求められた。
ここに名の挙がらなかった者達は皆、文官となった。
飛騨国司の代理は隠岐大蔵大夫。副官に斉藤道三入道。
この軍政を決めて、借り続けていた紀伊の傭兵たちは、契約終了と
なる。
﹁御所様﹂
鈴木孫一が改まってあいさつにやってきた。
﹁実は、500ほどの者が、この期に紀伊を離れ、この地で暮らし
たいと申し出ております﹂
孫一によると、主に独り者の身で、この地の豊かさに惹かれたり、
あるいは、この地の女と関係が出来たりという理由で、離れがたく
思っている者達がいるという。
﹁それはありがたいんだけど⋮⋮お国の方では大丈夫なの?﹂
傭兵の引き抜きという事になる。良之はそれを心配した。
﹁その辺は問題ないように運びます⋮⋮ですが、やはり若干の金が
入り用になるかも知れませぬ﹂
たとえば、頭筋への契約残金、個人的な借財の代理弁済などである。
供与されている種子島も、返却するか買い上げるか、決めねばなら
ない。
﹁分かりました。そのあたり、全て孫一殿に一任いたします。費用
は皮屋あてに請求して下さい﹂
﹁⋮⋮ありがたき幸せ﹂
﹁紀伊衆の認知は蟹寺城にしましょう。司令は⋮⋮﹂
512
﹁そのことですが、御所様⋮⋮。私をお雇い下さいませぬか?﹂
孫一は思い詰めたように言った。
﹁それは⋮⋮まずお父上のお許しを得てから、ですよね?﹂
﹁もちろんです﹂
﹁分かりました。お許しがあれば、願ってもないです。ぜひ﹂
この少年は、紀伊衆からの尊敬と信頼が厚い。
それは、一朝一夕に得られるものではないのだ。
513
暗雲 1
この年の飛騨で、最も長い距離を駆け回ったのは新三郎だっただろ
う。
高山で軍令を出す信長、平湯で新兵や再訓練しなければ使い物にな
らない雑兵などをしごくお虎や滝川彦右衛門。鉄砲隊の訓練をさせ
る源十郎。
そして、配置換えによって良之の側仕えに戻った望月三郎。
そうした彼らの間を、伝達書などを懐に日没まで駆け回っている。
別の日には、鹿閒で作業中の藤吉郎やフリーデ、平湯で医学を教え
るアイリ、千などの間を駆け巡っている。
新三郎は正式に代々の苗字である小林を名乗っている。
元服も、そう遠くない未来に出来るだろう。
母と妹が療養所から退所できたらやろうと考えているため、まだ新
三郎のままだった。
この時期、司令を賜った信長があえて高山にいるのには理由がある。
信長は、この秋、姉小路と戦になると踏んでいる。
姉小路は、妙に強気である。
当初良之のところに伺候してきた古川二郎から音信が途絶えた。
年貢も検地も一切報告がないところをみると、おそらく姉小路のス
パイだったのであろう。
元来、小島、向、小鷹利、古川あたりは姉小路の分家から興った同
族である。
良之が飛騨に入るまでは狭いエリアで陰湿な権力闘争をしていたよ
514
うだが、どうやら共通の敵を見つけて結束したようだった。
信長の元には、伊賀や甲賀の草から、戦略的・戦術的に必要な情報
が集まってくる。
それを取捨選択し、信長にあげるのは池田勝三郎の仕事である。
﹁若。やはり、姉小路の背後には内ヶ島が居りました﹂
﹁であるか﹂
﹁内ヶ島の背後には、どうやら神保が居りましょう。白川の草から
の報告では、荻町城の山下大和守が越中とのつなぎになって居るよ
うで﹂
﹁向牧戸の川尻備中守は?﹂
﹁それがどうにも。どうやら越前からの調略になびいている気配が
あるとか﹂
信長は苦い顔をした。
信長の倫理観は、奇跡的なくらいこの時代とかけ離れている。
どちらかというと、良之にもっとも近いとさえいえる。
この年、未だ元服を済ませていない内ヶ島の主君・夜叉熊を支え、
導くべき老臣たちが、ほうぼうの大名たちから調略を受けて二股を
かけるような状況がどうにも気に入らない。
一の老臣である尾上備前は、加賀の一向宗を頼りにしている。
要するに、二条家とこれほどの戦力差があるにもかかわらず内ヶ島
が強気であり、その上姉小路にすり寄って彼らを取り込もうとして
いる背景には、越前朝倉や越中の神保あたりの戦力を当てにしてい
ると言うことになる。
信長という男は、こうしたこの時代特有の国人・豪族の節操のない
外交を生涯嫌った。
また、この時代では呼吸をするように当然である、
515
﹁自分が生き残るためには、強者に自分の主君の首を持ってでも寝
返る﹂
という思考を生涯許さなかった。
信長は勝三郎に指示して、これらの報告を箇条書きに簡便にまとめ
させ、良之へと届けさせる。今日も小林新三郎に走らせる。
﹁新三郎、そちはまこと、健脚よな﹂
信長が頬を緩め、珍しく褒める。
この頃では、こうした家中の信頼によって新三郎の人格も薫陶され、
一種のかわいげが出てきている。
少年ながらひときわたくましい身体を縮こまらせて、照れて笑いな
がら信長に恐縮を見せ、新三郎は鉄砲玉のように高山から鹿閒の良
之の許へ急ぐ。みるみるその背中が小さくなっていくのを、信長は
微笑して見送っている。
その信長が、急に厳しい表情になる。
﹁勝三郎﹂
﹁はっ﹂
﹁滝川と下間を呼べ﹂
信長は、良之配下の鉄砲組の参軍2人を呼び出し、密議をする。
﹁実はな、国府あたりがきなくさい﹂
国府というのは、律令の頃各地に制定された首邑の事である。
国分寺が置かれたり国府の庁が置かれた。飛騨の場合は国府と呼ば
れるが、土地によっては府中という地名が残っている。
﹁国府の姉小路とその一党が、百姓どもを煽っておる。早晩、隣接
する広瀬あたりにちょっかいを出すであろう﹂
広瀬の領地では、現在刀狩りが進んでいる。
よそと違い、姉小路と隣接している広瀬の民は不安視し、あまり状
況は芳しくない。
516
この状況で広瀬に古川や姉小路が略奪なぞ仕掛けようものなら、刀
狩りに深刻な悪影響を残すだろう。
﹁滝川には広瀬城、下間には梨打城に入ってもらう。それぞれ、種
子島の上手を500ずつ選び、姉小路領の押し込みに備えよ﹂
梨打城は、国府近辺に唯一建てられた江馬の砦で、飛騨安国寺の西
麓に建てられている。
﹁へい。⋮⋮来た場合、討ち取って構いませんので?﹂
﹁構わん。こちらにとっては野盗も同じよ。⋮⋮ところで、雨が降
っても籠もった城から種子島を撃ちかけるような工夫はあるか?﹂
信長の言葉に2人は顔を見合わせ、
﹁雨に濡れぬよう、屋根などをかければ﹂
下間源十郎が答えた。
﹁ではすぐにかかれ。猶予はさほどない﹂
信長はうなずいて命じた。
この頃。
良之は、この当時灯油として使われている植物油の精製にチャレン
ジしている。
油圧装置に使える精度の油にするため、劣化する成分や固形化する
脂肪酸の除去など、化学的な処理を行わないと、油圧への利用に適
さないのである。
食用油の場合、搾油した粗油から脱ガム、脱酸、脱色、脱臭といっ
たプロセスを経て化学的に処理されている。
脱ガムというのは、リン酸、タンパク質、多糖類やグリセライドな
どの浮遊、固形化するガム質の夾雑物を取り除く。
この処理は、80度近辺に熱した油に、同様の温度の熱水を加え、
遠心分離して取り除く。
517
ここは、職人たちに手作業で一生懸命回してもらうしかない。
こうしてエマルジョン化したガム質と油分を分離させ、油分のみを
取り出す。
ガム質が除かれた粗油にリン酸液を加えて攪拌し、さらに水酸化ナ
トリウムを投入する。
そしてここでも遠心分離機が登場する。
リン酸液と水酸化ナトリウムによって、粗油中の金属分子や脂肪酸
などが分離される。
取り出された分離成分は、石鹸工房に提供される。
また、この後再びお湯を加えて遠心分離し、粗油に残る石鹸成分を
丁寧に分離する。
ここに、飛騨や美濃で手に入る白土を塩酸などで活性化させた﹁活
性白土﹂を投入し、純粋な油脂分以外の成分を吸着させて濾過する。
最後に再び、熱水を加えて遠心分離を行い、加熱処理で水分を除去
すると、精製油の完成である。
ちなみに、鹸化分は石鹸製造に、大量に発生する遠心分離後の残渣
は焼成後に肥料に、そして、精製後に残る排水には消石灰を投入し
てリン酸カルシウムを作れば、これも化学肥料に転用が出来る。
投入する化学物質などは全て、良之にとっては飛騨で容易く調達で
きるが、問題はやはり遠心分離である。
ハンドル型の人力遠心分離機を作成したものの、労力に対して効率
が悪い。
一刻も早くモーター化して省人力化したいところだった。
この精製油は、酸やアルカリの残渣をコントロールできれば食用に
も灯油にも適する。
だが、油圧作動油としては、本来石油から精製したいところだ。
流動性のパラフィン油から硫黄、リンなどのゴムや金属に腐食性の
518
ある成分を完全に除去できれば最良だが、現状、フリーデのプラン
トは建設中だし、その後、各部の分溜性能を実証せねばならず、工
業化の段階に至っていない。
精製した油の安全性を計ったうえで、良之は早速完成した油で天ぷ
ら料理を試作した。
平湯に戻って、昼前から厨房で油料理を作っていると、続々と近場
の幹部たちが試食に集まってきた。
良之が作るのは、鶏の唐揚げ、野菜の天ぷら、小魚のマリネなどで
ある。
厨房を指揮している藤吉郎の母、おなかなどは、良之の細かいアド
バイスを必死で覚えようと彼の調理に見入っている。
彼女達で一度味見。
そして、次はいよいよ調理実習である。
﹁これは、うまい﹂
フリーデは驚いた。
﹁良之様は、料理までお出来になるのですか?﹂
﹁ああ、凝り性でね。一時期はまった﹂
時代一流の錬金術でもあり、貴族の子女でもあるフリーデにはまっ
たく料理が出来ない。
なにか、ひどく負けた気分になる。
千や阿子も同様である。
藤吉郎や望月三郎は、若いだけにさすがに油料理が合うようで、盛
んにいろんな食材の揚げ物を食べ比べては、喜んでいる。
通常の油と区別させるために﹁天ぷら油﹂と名付けたこの食用油を
519
なかの管理する蔵に納め、くれぐれも揚げ温度に注意するように、
火傷に注意するようにと念押しした。
なかに指示して、天ぷらや唐揚げを高山の衆にも出すようにする。
新しいもの好きの信長や、若手衆には大好評で、レギュラーメニュ
ーとして期待されたという。
はじまったばかりの製油業は、直後から全土的な期待の重圧を背負
うこととなった。
ひとまず、良之は鋳物師にガラスの製作法を教えている。
炉を使いこなすこと、温度と溶解の関係を理解していること、そし
て、隣接工芸だからだ。
良之が作成を依頼しているのは、灯油ランプである。
もちろん、下部の灯油タンク、芯を送り出すつまみ、風防ガラスな
ど、必要な構造を錬金術で実物を作って参照させ、後は実質放りっ
ぱなしである。
ガラス窯炉は、マスプロダクトで無い場合電気坩堝式が多い。温度
が定量化できるのと、システムが小型化できるからだろう。
良之が技術移転した飛騨の鋳物師は、藤吉郎が生産する大量のコー
クスや木炭によって熱量が保障され、ガラス製造に必要な1200
度という温度を獲得している。
ケイ砂七割に炭酸ナトリウム、炭酸カルシウムを三割配合。
これによって坩堝で溶融したガラスに拭き竿を差し込み、職人が吹
きながら金型のなかで廻しながら成型する。吹き回しである。
金型の剥離剤には、木工職人たちの廃材であるおがくずを石臼で挽
いたものを使う。
ガスバーナーが出来れば、剥離剤を使わずガラス鋳型を直接バーナ
520
ーであぶってなめらかな地肌を作れるが、今は、金型製品が作れれ
ばそれで充分だろう。
職人たちに新たな技術を教えるたびに、職人たちは喜々としてチャ
レンジする。
この精神は、平成も室町も関係ないな、と良之は感動せざるを得な
い。
職人たちは、良之の作る精度の高い製品に驚愕せざるを得ない。
燃焼ハンドルで芯をコントロールして光量を調整したり消火をする。
ガラス製の﹁ほや﹂が火の安全と風による鎮火を防ぎ、ほやと枠の
間の空間から酸素が吸い上げられる。
こんなもの、みたことがない。
良之が作り出してくるものは、常に新しい。そして、技術が断絶し
ている。
脈々と進化した技術をあっさり越えて、見も知らない技術をいきな
り、そして平然と要求してくる。
難易度の高さが、職人たちを興奮させる。
521
暗雲 2
﹁竹矢来?﹂
小林新三郎が信長の伝令に良之の許へと走っていた。
﹁はっ。上総介様は領内の竹林より竹の徴収をお許し頂きたいと﹂
竹矢来というものを良之は分からない。
見たことがないのだ。
だが、竹をよほど必要とするのだということは分かった。
﹁許します。ですが、徴用ではなく買い上げと触れさせて下さい。
支払は隠岐殿に命じて下さい﹂
﹁はっ﹂
その言葉で新三郎は腰を浮かせ、中腰で止まった。
﹁御所様﹂
﹁うん?﹂
﹁りょう⋮⋮ようじょ、療養所で、母と妹に会いたいです﹂
中腰で、すがるような目で良之を見上げている。
その新三郎に押され、良之は、
﹁じゃあ窓の外からならいいかな。新三郎、この狩衣に着替えて行
きなさい﹂
良之は<収納>から、真新しい純白の狩衣を新三郎に渡した。
﹁あ⋮⋮ありがとうございます!﹂
﹁アイリには、それを着た上で、俺からの許可があるといってみた
ら良い。中には入れてくれなくても、外からだったら会わせてくれ
ると思うよ﹂
あわてて療養所に走ろうとする新三郎に
﹁おい、伝令は良いのか?﹂
522
と良之は声をかけた。
慌てて新三郎は方向転換し、高山へと駆けだした。
辞書で竹矢来を調べると、時代劇で関所などを取り囲む竹柵の絵が
出てくるだろう。
要するに、通行を阻害するための仮設の壁に近い。
古川と広瀬は距離が近い。
信長は、一気になだれ込ませるのを防ぎ、敵の侵攻直後に時間を使
わせる戦略として竹矢来の構築や堀の掘削などを行わせている。
当然こうした動きは、古川以北の姉小路の神経に障る。
敵として認識していることを態度で表明しているからである。
織田上総介信長という人物は、あまりに桶狭間の印象が強すぎるの
で誤解されがちだが、その生涯において、兵力や兵站の準備が整っ
ていない時、勝率が低いと思われる時点において、戦を無理強いし
たことはただの一度も無かった。
この飛騨に国に来てからの信長の初陣の条件。
それは、一兵たりとも領境を越えさせないことである。
現在、この土地では、警察という良之が創出した常備兵と、信長が
指揮する軍隊という組織のふたつが治安活動をしている。
信長には実に効率の悪い制度に思えて仕方ない。
これだけで8000もの非生産業の戦闘職集団を、25000ほど
の人口で養っている。
約、三人で1人を食わせている計算になる。
この25000人というのは、老人や乳幼児も含まれている。
さらに言うと、工人や鉱山夫、人夫などの農業ではない労働者もだ。
食糧自給率で考えれば、実際はもっと厳しいことになっているだろ
523
う。
だが、不思議なことに良之という公卿は、これだけの人数を食わせ
るためにどこかから金を生み出しては、その元手でさらに様々な産
物を工業化させている。
信長が望めばその全てについて喜々として説明してくれるが、どう
にもある時点から彼には全く良之のいう事が理解出来なくなる。
鉱炉の排煙からどうして戦略物資の硫黄が出来るのか。
水につけた銅がどうして片側で純銅になり、片側で出来た泥から金
や銀が取れるのか。
さっぱり分からないが、ある時点で信長はそれでもいいと思い始め
た。
この飛騨の豊かさというのは、尾張という、この時代で屈指に豊か
だった国の、その中でもっとも豊かだった家に嫡男として生まれた
彼から見ても、この飛騨の庶民の豊かさはちょっと尋常では無いと
思う。
その豊かさを生み出しているのは、間違いなく良之だと思う。
その彼が、何を根拠にしているか知らないが、専門兵と警察以外は
全て武装解除をせよと指示した。
ならばそれは、おそらく何らかの将来像を持って居るのだろう、と
信長は思う。
ならば自分の為すべき事は、それを軍事面で支えることだろうと思
う。
﹁下呂、木曽から500ずつを広瀬に、平湯、神岡から500ずつ
を梨打に配備させろ。おそらくもうじき、はじまる﹂
信長は命じた。
524
ここ数日、竹矢来を組んだ村境にちらほらと物見がやってくると草
の者達が報告している。
国府の真ん中を宮川が流れる。その西岸の広瀬にせよ、東岸の梨打
にしろ、姉小路の手の者は進軍こそしていないが、そろそろ準備を
始めたことには間違いないだろう。
平湯と神岡からは動員翌日。
下呂からは2日、木曽からは3日で動員兵が各拠点に集合した。
高山の兵はすでに広瀬と梨打に分けており、一拠点あたり1500
ずつという布陣になっている。
9月頭に堺から届いた種子島によって、ついに今回動員した部隊は
1000挺ずつの種子島を装備することになった。
警察の500挺には手を付けず、さらに任地に残した守備隊にも半
数の種子島を残している。
二条の所有する種子島は、4500挺にも達する。
信長は、頃合いと見て良之にも出座を願った。
自身は広瀬に、長尾虎を梨打の総監に廻した。
得体の知れない女だ、と信長は虎のことを思う。
御所様への押しかけ女房だという。だが、実際は越後の景虎と畜生
腹の妹だという。
軍隊の指揮経験もあり、しかも初陣で越後の豪族たちをさんざんに
打ち破ったという。
広瀬には種子島の指揮に滝川彦右衛門が。梨打には下間源十郎がす
でに付いている。
信長は、小者の指揮のため、自身の軍には池田勝三郎。梨打には竹
525
中重元を送り込んでいる。
良之は、その日の夜には広瀬城に入った。
﹁上総介殿。ご苦労様でした﹂
﹁御所様。かたじけない、が、本番はこれからです﹂
﹁ああそうか⋮⋮。動きますか?﹂
信長は暢気な良之に苦笑していた。
さすがにこのあたりが京のお公家様だなと思う。
実際は、平成生まれの日本の大学生である。
まあ戦慣れしていないという事では、京の公家より上回っているか
も知れない。彼は、喧嘩さえしたことがないのだ。
﹁上総殿。戦の前にひとつ言っておきたいことがあります。という
か相談です﹂
良之はふと、戦国映画をみて不合理だと思っていたある行動につい
て、彼にこの際相談したいことがあった。
﹁討ち取った敵の首を取るのって、禁止できますか?﹂
人間の頭の重さは、体重の1割くらいだという説がある。
実際は年齢や体格でだいぶ違ってくるのだろうが、成人男子の場合、
約5kgにはなるだろう。
そもそも、首を取ろうと思えばそこで戦線を離脱して脇差しなどで
死体から切り取ることになる。
そして、切った首を自分の帯にぶら下げて次の敵を探すことになる。
進軍は遅くなり、統率は乱れ、メリットが無い。
この首を取るというのは、相手の地位にもよるのだろう。
大将首は高い、などといったように、恩賞に直結するからだ。
また、出世や所領の加増など、今後の評価にも直結するので、首を
盗んだり、仲間同士で首を争ったりというような行動さえ起こす者
526
達がいるとも聞く。
﹁活躍したら評価をするのは当然ですから、それは否定しませんが、
戦働きと首の数は別の話です﹂
良之はいう。
この問題については、信長も戦場でかつて同じ事に気づいていたの
で、良之の指示を奇貨として、全軍に取り入れようと思った。
﹁次に、略奪の禁止です。略奪をされると、勝ってもその後慰撫が
大変です﹂
戦った後、その所領を統治下に納めるのであれば、略奪や放火は行
われては困る。
この時代、攻め手が放火するのは当然の戦略だった。
遮蔽物が多いと伏兵の危険が増す。
大軍勢で攻めるのにも不都合が生じる。
そして、敵の心理面を、城下の焼き払いは効率的に痛めつける。
﹁その辺は、手間がかかっても徹底させて下さい﹂
良之は厳命した。
放火、打ち壊し、略奪や非戦闘員への暴行は一切を禁じる。
百姓でも、武器を持って戦おうとした場合の反撃は認めるが、老人
や女子どもといった、無抵抗な存在には、一切攻撃を禁じる。
信長はひとまず了解し、その旨を全軍に触れ出させた。
果たして翌日。
姉小路軍は動いた。
﹁いいか、敵があの竹矢来を越えたら攻撃開始だ。一切容赦するな﹂
527
種子島隊の司令は滝川彦右衛門である。
彦右衛門は1000挺の部隊を甲と乙に分け、二隊で交互に発砲す
る組陣を敷いた。
﹁進めえ!﹂
古川二郎が、姉小路兵に号令を出したのは、兵士達の朝餉を済ませ
た半時後のことだ。
竹矢来が組まれている道を、兵たちは槍を担いで通る。
やがて、その竹矢来の二層目︱︱道を完全にふさぐ形で段になって
いる部分で左右に広がったところで、彼らの命運は尽きた。
﹁撃てえ!﹂
怒号が竹矢来の向こう、畑のうえに建てられた屋根だけの建造物の
あたりから響く。
およそ距離は50m。30歩程度前に伏せていた種子島隊の連射が
はじまった。
勝負はたった4連射で付いた。
古川二郎と120人の古川兵、そして小鷹利兵130は、飛来する
2000発の鉛玉によって沈黙。
良之の指示通り、首取りを控えた全軍は、討ち取った者達の中に潜
む生き残りを探し、また、遺体を整理して道を空け、発見した数人
の生き残りを捕縛し広瀬城へ送る。
むかい
そして、信長の号令で全軍、古川城へと向かった。
ほぼ同刻。
国府目指し進軍していた向の110と内ヶ島の重臣山下大和守の手
兵200ほどが南進していた。
こちらは、下間源十郎の仕掛けが早く、50ほどの兵を討ち漏らし
たものの、向の大将を討ち取り、長尾虎によって全軍が北へ向けて
進軍中である。
528
主君と、ほぼ全兵力である働き手が全滅した古川城は降伏。
信長はこれを200ほどの手勢で接収し、さらに北進。姉小路高綱
の籠もる百足城へと到着した。
﹁じゃあ、軍使を派遣して降伏勧告しようか? ⋮⋮姉小路には帝
から文も預かってるし﹂
﹁御所様、俺が行ってきます﹂
小林新三郎が名乗り出た。
彼は、良之にもらった真新しい真っ白な狩衣を着用し、馬に乗って
良之に従っていた。
﹁わかった。姉小路中将には、京で新しい邸宅と禁裏での奉職を用
意するからと伝えてね﹂
良之の言葉にうなずくと、新三郎は紫の袱紗に大事に包まれた手紙
を預かり、馬を百足城に進めた。
武装していない一騎の狩衣姿の少年が、たった1人で城へと登る表
道を騎乗でのんびりと進んできた。
﹁京の帝よりの文を持ちました!﹂
その言葉を受け、1人の老人が、百足城の城門わきの潜り戸から現
れた。
﹁これはご丁寧に﹂
新三郎は、紫の袱紗を押し戴いてから老人に渡す。
﹁二条御所様は、姉小路中将様の京での奉職をご用意いたすと仰せ
です﹂
﹁それはそれは。まずは主にこの文を届けますゆえ、今しばらくお
待ちを﹂
老人はその袱紗を受け取ると、再び引き返し潜り戸に消えた。
529
530
暗雲 3
姉小路高綱は、届けられた袱紗のなかの宸翰を読み、怒りに震えた。
要するに、飛騨国司の変更と、自分の更迭が書かれているのである。
怒りは、人間の判断力をショートさせる。
姉小路はすでにこの時点で、頼りにしていた自軍が壊滅し、内ヶ島
の臣で略奪隊に加わっていた山下の手の者もほぼ壊滅。山下も遁走
している。
百足城下には二条の兵1300が殺到している。
高綱は気づいていないが、この時点ですでに古川、小島の両城は落
ちている。
宮川東岸を北上する長尾虎隊はもうじき、牛丸氏の野口城に殺到す
るだろう。
すでに百足城には80名ほどしか戦えるものは残っていない。
城下の民も逃げる暇もなく、織田上総介に制圧されている。
その光景はどこか、現実味が全くなかった。
真新しい純白の狩衣に、真っ赤な染みがひとつ、ふたつと広がった。
新三郎がこの世で最後に見た光景は、御所様から頂いた自慢の狩衣
が、赤く染まっていくところだっただろう。
物見の櫓に登った姉小路高綱が、自分自身で射た弓は、門前で返答
531
を待っていた小林新三郎を絶命させた。
﹁あっ⋮⋮﹂
良之はその光景を、百足城の山の下から一部始終を呆然と見ていた。
ころん、と、糸が切れた操り人形のように大地に転がった新三郎を
みて、良之は思わず、二・三歩前に歩み出した。
﹁御所様!﹂
あわてて兵站のためここにいた木下藤吉郎が後ろから良之を抱き留
めた。
﹁⋮⋮し、新三郎が⋮⋮﹂
藤吉郎があまりに強い力で抱き留めたので、バランスを崩して2人
は尻餅をついてしまった。
﹁見たかあっ!﹂
姉小路がそう怒鳴ったのは聞こえたが、彼がその後発する声は、ろ
れつが回っていないため、誰にも判別できない。
﹁⋮⋮上総介殿﹂
﹁はっ﹂
信長の顔は怒りで血ぶくれしている。
軍使を攻撃するという例は、過去になかったわけではもちろん無い。
だが、彼自身もうかつにも、この瞬間までまさかこんな結末が訪れ
るとは予想だにしていなかった。
圧倒的な兵力差で鎮圧に動いた上、寛大にも、侵攻の罪も問わず、
今後も公家として成立するように取りはからった軍使だった。
それを射殺すなど、誰が想像出来ただろう。
信長にとっても、新三郎はお気に入りの少年だった。
出自は村厄介ではあったが、誰もが、あの少年には愛情を持ってい
た。
﹁上総殿。彦を呼んでくれ﹂
532
﹁はっ﹂
滝川彦右衛門は、目を真っ赤に染めていた。
彼こそ、他の誰より彼を慈しんで育てていたし、新三郎も、まるで
実の兄のように敬い、どんな厳しい訓練にも耐えていたのだ。
自分の肉体の能力をもてあまし、厄介者でありながら、自分をいじ
める村の子供達へ報復して歩く新三郎の姿に、過去の自分を投影し
ていたのかも知れなかった。
﹁彦。あの城、迫撃砲で焼き払え﹂
良之は命じた。
彦右衛門はうなずいて陣に駆け戻った。
彦右衛門は、5基の81mm迫撃砲を準備させ、炸裂弾、火炎弾の
双方を打ち込ませた。
あっという間に、百足城は紅蓮の炎に包まれた。
城内から逃げ出す兵の姿もなかった。
あまりに突然の炎上で、助かったものは無かっただろう。
﹁上総殿。小者たちに新三郎を引き取らせるように命じてくれ﹂
﹁承知⋮⋮この先の進軍は?﹂
﹁するさ。向小島と小鷹利に寄せろ。降伏しなければ、彦に焼かせ
ろ﹂
向小島城で長尾虎の軍勢が合流した。
先触れによって新三郎の死と、それに衝撃を受けている良之や信長、
彦右衛門のことを聞いていた虎は、何も言わず信長の指揮下に入っ
た。
向小島は抵抗の構えを見せたため、軍使も送らず、迫撃砲で焼き尽
くした。
533
その光景を物見が見ていたのだろう。
小鷹利城は不戦で恭順。ここに飛騨姉小路家は滅亡した。
そのまま一切休みを取らず、良之の軍は越中西街道を西に進路を取
る。
道中の角川砦も恭順。
昼過ぎには、2200の良之の軍勢が、飛騨白川郷萩町城下になだ
れ込んだ。
萩町城は、城主山下大和守が戦に敗れ、城に戻らず越中に逐電した
のを聞いて大混乱していた。そこに、2200もの大軍が攻め寄せ
たため、戦わずに開城。
荻町の武装解除も受け入れた。
この日、良之の軍は萩町に宿営した。
山下の一族である山下主殿と名乗る青年に、良之は帰雲城への使い
をさせた。
正直、新三郎が殺されたこともあり、自分の手の者を使いに出させ
る気は全く失せていた。
﹁戻ってこないかも知れないねえ﹂
お虎御前が、使いに出した山下主殿について、そう感じて言った。
﹁いいさ﹂
良之はそれを聞いても、全く無感情に言った。
山下が逐電しようと、帰雲城で殺されようと、あるいは帰雲城で心
変わりして立てこもろうと、良之はどうでもいいと思っている。
新三郎のあっけない死と、その後の転戦によって、良之の心はすっ
かり疲れ果ててしまった。
久しぶりにキャンピングカーを出し、良之はゆったりしたベッドで
534
休むことにした。
キャビン
キャンピングカーの客室は、まるで嘘のように良之を﹁現実﹂から
﹁現実﹂へと乖離させる。
戦国時代という現実の洗礼を受けた良之にとって、この車内は、失
った﹁現実﹂が包んでくれる最後の心のよりどころだろう。
だが、良く客室を見渡すと、ネットにつながらないPC、ワンセグ
の受信が出来ないテレビ。
食品の入っていない冷蔵庫。
いくつも、今の良之につらい現実を思い出させる品々が並んでいる。
電源の入っていないPCのモニターを、良之はじっと見つめた。
こんこんと、扉が叩かれる。
﹁御所様、これはすごいねえ﹂
キャンピングカーの車内を初めて見たお虎が、驚きの声を上げる。
﹁どうしたの? こんな時間に﹂
﹁こんな時間にって。あたしは一応これでも、御所様の側室なんだ
がね?﹂
言ってから、
﹁はいんな﹂
と表に声をかけた。
﹁藤吉郎﹂
﹁御所様、申し訳ねえ。これを、どうしても見てもらいたくて﹂
藤吉郎は恐縮して身を縮こまらせながら、懐から一通の手紙を出し
た。
535
ははうえとおよしのこと
おたのもうしあげそろ
おたのもうしあげそろ
しんざぶろ
﹁あの日の朝、新三郎がわしんとこ来て、書いてったもんでさ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あいつ、わしの手習いから逃げたもんで、ひらがなもよう書けん
で、教えてくれと﹂
そうして必死でこれを書いたという。
﹁御所様。あいつは犬死にですか? それとも、男らしく討ち死に
したのですか?﹂
藤吉郎は必死の形相で良之を見上げる。
犬死にだろう。
良之はとっさに思った。だが、思い返す。
彼の死に様は、確かに不要な落命だったと思う。それは、軍使を出
した自分のミスだろう。
だが、亡くなる瞬間まであいつはしっかりと、その役目を果たした
ではないか。
﹁藤吉郎。この文、滝川彦右衛門に見せてやってくれ。俺が﹃新三
郎の家族を頼む﹄って言ってたって伝えてくれ﹂
﹁は、はい!﹂
﹁藤吉郎﹂
良之は、溢れそうになった涙をじっとこらえ、いった。
﹁犬死になもんか。そうだろ? それを決めるのは、これからの、
俺たちだ!﹂
536
﹁彦右衛門様、御所様がこれを﹂
藤吉郎はその足で、滝川のところに向かった。
﹁御所様が、新三郎の家族を頼む、っておっしゃっとりました﹂
じっと、藤吉郎に渡された新三郎の遺書を見て、ぽつりと滝川は言
った。
﹁承知した。⋮⋮藤吉郎﹂
﹁はい?﹂
﹁早く飲めるようになれ。俺の酒につきあえ﹂
﹁⋮⋮はっ﹂
﹁彦右衛門﹂
﹁⋮⋮これは、上総介様﹂
藤吉郎が去ったあと、1人手酌で酒を飲む滝川彦右衛門のところに、
織田上総介がやってきた。
どっかと座ると、滝川の盃を奪って一気に酒を飲み干した。
ちら、と新三郎の遺書に目をくれると、
﹁御所様はどうか?﹂
ごぜ
彦右衛門に聞いた。
﹁虎御前様がお相手下さっておりましょう﹂
﹁であるか﹂
信長は盃を返し、彦右衛門に、
﹁明日も戦じゃ、深酒するな﹂
と言い残して去った。
翌朝払暁。
全軍朝食の後、出陣。
200を萩町に残し、南進。
目標は帰雲城。
537
城手前で鉄砲隊1000を中心に、鉄砲隊を槍隊と弓隊が護衛する
布陣である。
帰雲城から軍使が2人現れた。山下主殿と、内ヶ島豊後守である。
内ヶ島氏、恭順。
萩町城の山下主殿、内ヶ島豊後守に帰雲城、そして向牧戸城の川尻
備中。
この三者にそれぞれの領地の検地を任せ、各集落の刀狩りは、江馬
常陸介、右馬允兄弟らに兵500を任せて行わせる。
内ヶ島の当主夜叉熊は、高山城に。
ある種の人質ではある。
ただ、良之にとっては、偏狭で頑迷な老人たちから幼少の当主を切
り離す方が主眼だった。
10や11の少年が命をかけた様な決断をさせてもらえるわけがな
い。
いずれかの老臣による誘導があって、内ヶ島は二条に従わず、独立、
あるいは姉小路を焚きつけ軍事行動へとつながったはずだった。
内ヶ島の降伏は、百足城や向小島城の惨状が伝わったからだった。
迫撃砲による炸裂弾と火炎弾の攻撃は、拠点の破壊を意図したもの
ごづめ
であって、制圧などは意識していない。
立てこもって後詰による救出を待つ籠城にとって、もっとも恐ろし
い攻撃といえる。
加えて、広瀬や国府で略奪を行わせようとした姉小路の兵たちがほ
ぼ生還者皆無という情報も内ヶ島には届いていた。
こちらは、籠城兵が一丸で打って出ても、敵陣を突破する前に殲滅
されることを意味していた。
籠もっても無駄、逃走しても無駄という現実が、彼らの心を砕いた
538
のである。
自発的に降伏した江馬や塩屋、三木、高山、広瀬などの国人と、戦
闘後降伏した山下、川尻、内ヶ島、牛丸や小鷹利あたりとは明確な
差を設けた。
つまり、家財の没収、所領の没収、家臣団の解体などである。
そうしながらも、一年の食糧を無償で提供したり、生活レベルを落
とさないように賃金を保証したりとそれなりに気は使っている。
そして、今後の活躍に応じての出世には不利を設定しないと明言す
ることで、彼らのモラルの悪化を食い止めようとしていた。
飛騨全土を掌握したことで、もっとも忙しくなったのは隠岐大蔵と
織田上総だった。
隠岐は、物納の年貢などの銭換算、余剰生産品の買取、良之から指
示されている産業促進の庶民層への普及、帰農者への土地の斡旋、
戸籍の把握と検地の確認などに追われている。
商人出身者と寺社出身者など、読み書き算盤に秀でた人材はこの時
代少ない。
良之が推し進めた年少者への教育は一定の効果はあるが、それでも
未だ、幹部に用いることが出来るほどの成長は見込めていない。
織田上総介信長は、実質、飛騨一国の全ての軍を統括するポジショ
ンにされている。
彼は自分の家臣と供回りを連れて、防衛戦略を作るため、飛騨全土
の立地を確認して回っている。
良之から提供された地図のプリントアウトは、言うまでも無く昭和
以降の﹁国道﹂﹁県道﹂などの道路情報であるため、この時代には
役に立たない。
539
だが、等高線モードでの画像にはそれなりの価値がある。
信長の目から見ると、向牧戸城から西に延び越前大野に至る越前道、
白川郷から北に延び砺波平野に至る荘川沿いの越中道、そして白川
から西に延び加賀に至る合計三筋が、潜在的に危険を内包する街道
という事になる。
信長は、高山の常備軍1000の所属を白川に代え、荻町城下詰め
へと変更した。
そして猪谷に配した旧・紀伊傭兵団500を向牧戸に配し、神岡の
1000を猪谷に進駐させた。
併せてここで、各部隊から徴収した軍を解散させ、それぞれの所属
部隊へと返した。
540
暗雲 4
越中の神保が、岩瀬港の二条家の資産を没収し、越中からの物流を
凍結した。
慌てて落ち延びた塩屋筑前守秋貞の報告に、良之は、まずは彼の無
事を喜んで塩屋を安心させた。
続々と草による報告が良之やその官僚たちの許に届いてくる。
﹁御所様。要するに、神保は山下大和守の旧領を取り戻すという建
前で、飛騨の覇権を狙っているようです﹂
望月三郎が、草の報告をとりまとめ、報告した。
飛騨の泣き所。
それは、食糧を自給できないため、多くの物資を他国から輸入しな
ければならないにもかかわらず、四方を山に囲まれた陸の孤島のよ
うな地勢であることだった。
良之は、美濃の郡上八幡から白川を抜けて加賀に抜ける陸路の閉鎖
は行っていない。
この道は、越前の朝倉と対立する加賀の一向宗にとっては、欠くこ
との出来ない陸路だからである。
代わりに、加賀の吉崎や小松から白山越えで白川にやってくる荷を
奨励してもらってはいるが、この白山越えは難所と言って良い。
将来を見越した時、白山越えが主要な物流経路として発展すること
はあり得ない。
美濃の苗木から下呂を経て高山に至る物流路も、木曽川の舟運を活
用してなんとか拡張しようと美濃や尾張の木曽川衆や、東濃の遠山
541
氏に協力してもらって頑張っているが、あまりに陸路が長すぎるた
め、非効率なのは否めなかった。
つまり。
越中の港を封鎖されれば、飛騨は暴発せざるを得ないのである。
この頃。
武田は従来の南信政策を見直していた。
腰の据わらない無能な高遠頼継を甲斐に呼び出し切腹させ、代わり
に保科弾正忠正俊を城代に据えていた。
離反を繰り返す伊那衆を睨んでのことである。
良之は、木曽が二条家に臣従した経緯と、武田との競合の意思がな
いことを書面にして、武田当主の晴信へと送った。
また、美濃の斉藤義龍には、郡上と向牧戸間の国境について、分国
法通り飛騨と美濃の境としたい旨、書簡を送っている。
さらに、長尾家には、越中神保氏による資産略奪について触れ、富
山城を攻めることについて打診した。
最後に、神保氏には詰問の書状を送りつけ、岩瀬での略奪について
損害賠償を要求し、これを以て、二条家の大義名分とした。
この際、良之は京の兄、二条関白に依頼し、越中守に追任されてい
る。
武田、長尾、斉藤の各家から返書があった。
各家からの返信はおおむね、色よい返答だった。
長尾家は、越中常願寺川から東を二条家に要求し、その代わり、神
保の重臣寺島家など在地の国人への攻略を、椎名家と長尾家の軍に
よって引き受けると言ってきた。
542
越中を押さえるにあたって、ひとまず良之の課題は富山の制圧と海
運基地の岩瀬港であり、神通川舟運の保全である。
長尾家の申し出を受け入れる旨の使いを再び返した。
良之と信長は、下呂の丹羽配下1000と木曽の柴田配下500を
徴集。
猪谷の服部半蔵配下1000、白川の千賀地石見守からも500を
出させた。
他に、望月三郎に忍び衆・山方衆・黒鍬衆の1000を統率させ、
支援部隊とさせ、池田勝三郎に平湯の訓練兵から成人のうち100
0を率いさせて、兵站部隊とした。
フリーデとアイリ、千、阿子には、100名ほどの衛生兵を統率さ
せる。
姉小路攻めで有用性が実証された迫撃砲は、20人に増やされ、滝
川彦右衛門が直接指揮している。
平湯の鉄砲鍛冶、鋳物師に構造を設計図で示し、砲身やりゅう弾、
火炎弾の研究をさせているが、こちらは未だ実用化の精度には至っ
ていないため、良之が暇を見ては錬金術で作っている。
天文21年9月22日︵1552年10月11日︶。
払暁に進軍。
以前より猪谷の状況に恐怖を抱いていた楡原城は降伏、開城。
城生城は籠城。抵抗の構えを見せたため、迫撃砲で殲滅。
この様子を見ていた近隣の豪族たちは逃散した。
城生より神通川を渡河し、飛騨街道を北進。
途上の上熊野城の二宮氏が降伏したため、この城下で一泊する。
543
翌朝、二条の軍は北上を再開した。
蜷川を超え、土川を渡河。前にある太田川を挟んで、ついに神保軍
と会敵した。
神保は、前日の城生城からの伝令で急ぎ全軍招集。
ほうし
約9000の手勢を6段の魚鱗陣に組み、太田川北岸に陣を張って
いた。
対する二条軍は鋒矢陣。→の形を取って、後続は土川を渡っている。
先行する迫撃砲20名の指揮を滝川彦右衛門。その後を下間源十郎
の指揮する鉄砲2000が進み、左翼に柴田権六の弓・槍隊、右翼
に丹羽五郎左の同じく弓と槍隊が護衛する。
総司令織田上総助と副将長尾虎は、最前線にいる。
そして、二条藤の大幡を掲げた二条良之も。
鉄砲隊2000は、急ぎ横陣へと組み替える。
1000の二列横隊。
﹁彦、炸裂弾使用! 敵陣の真ん中目がけて撃て!﹂
良之からの命令一下、まだ陣構えも整わない二条軍から、迫撃砲が
打ち上げられていく。
5町︵500メートル︶以上の距離がある二条軍から続々と打ち上
げられる炸裂弾は、神保軍の魚鱗の中心で次々に炸裂し、二条軍の
2倍の兵力であった神保軍の兵卒を次々に殺傷していく。
神保軍の将兵は渡河の構えを見せたものの、下間源十郎の号令で一
斉射の試射をした轟音に浮き足立って、潰走をはじめた。
特に、先方を受け持たされた国人層の離脱は迅速だった。
中衛の凄まじい被害と前衛の潰走を見た神保長職は逃げに逃げた。
富山城には戻らず、15kmの西方にある増山城まで一気に逃げ、
ここで籠城した。
主君に放置されてしまった富山城は、城将水越勝重が降伏、開城さ
544
れた。
付近の国人層も、水越からの伝令によってそれぞれ降伏。
崩壊して放置された神保の死傷兵のうち、軽傷なものはフリーデと
阿子によるポーションで治療。
重傷者はアイリと千によって治療させる。
武装は全て没収し、遺体は、近隣の寺へと運び、弔いを依頼した。
これらの戦後処理は、近隣の国人たちに人足を出させた。
富山で一泊し、翌日には、水越に案内させ、増山城へと軍勢を動か
す。
水越勝重。越前守を私称している。
彼は神保家の重臣で、富山城の縄張りをしたことで知られている。
﹁越前殿。恭順する国人には、身分の保証をしますので、全国人衆
に書状を送って下さい。神保も、降伏すれば、当家の家人として家
門の存続を許します。その旨、使いを出して下さい﹂
ごおり
ねい
良之に命じられ、水越は増山城とその支城へと軍使を送り、併せて、
砺波郡、婦負郡、射水郡の諸氏族へも良之の意向を伝えるための使
いを送り出した。
おおがけ
進軍後、大峪、白鳥、安田の各城を開城させ、和田川沿いの増山城
へと向かった。
増山城からは、軍使として寺島三郎、小島六郎がやってきた。
それぞれ、主君の助命と恭順の意を示したので、小島を城に戻し武
装を解除させ、織田上総介によって、制圧させた。
545
にいかわ
常願寺川︱︱この時分は新川と呼ばれていただろう︱︱東岸は、長
尾家と椎名家一万二千による速攻によって、すでに占領されていた。
対岸を窺っていた長尾景虎は、予想以上に素早い二条軍の侵攻と、
その後の手際の良さに舌を巻いた。
長尾景虎は、控えめに見積もっても二条軍は倍以上の兵力を持つ神
保軍に苦戦すると読んでいたし、籠城した神保を包囲して攻城すれ
ば、やがて神保配下の国人衆の後詰めによって彼らは苦境に立たさ
れるだろうと読んでいた。
そうなれば常願寺川を渡り、神保の国人の城郭を攻略し、後々の領
有権を二条に認めさせるつもりだった。
だが、﹁凄まじい新兵器﹂によって緒戦から神保軍は壊滅。その後
神保当主は大逃げに逃げて増山城に籠城したが、家臣たちの説得に
よって降伏してしまったという。
神保軍9000のうち、死者2500、重傷者150、軽傷者12
00。
国人の率いる軍勢は四散し、富山城に逃げ込んだ手勢1200は水
越の開城に従って降伏。
残りの国人たちも、続々と富山城に向けて臣下の礼を取りに向かっ
ていると聞く。
﹁どのような兵器か?﹂
景虎は、自らの手の忍びに報告させる。
﹁空を飛んで5−6町も離れた敵に降りかかり、爆裂して敵軍を殺
す兵器に御座います﹂
それら新兵器を守るのは5000の兵で、うち2000には種子島
を持たせているという。
忍びは、絵図にして迫撃砲の解説をする。
﹁筒に落とした火矢のごとき兵器は自ら飛翔し、この火矢によって、
爆裂するもの、放火をするものがありました。籠城した城生城の斉
藤はこれにより全滅。生存者は御座いませぬ﹂
546
﹁御所様の手勢に死傷者は?﹂
﹁御座いませぬ﹂
﹁⋮⋮﹂
敵の矢玉が届かぬ距離から迫撃砲の攻撃は開始され、半刻も要せず
殲滅できる、と忍びは報告し、消えた。
越中のうち、能登の畠山の家臣が領有する北西部を除き、良之の領
有する土地になった。
この当時、おそらく人口は七万強。
移民を加えても三万五千といった飛騨の2倍の人口を持っている事
になる。
割合スムーズだった飛騨の統治に比べ、もちろん難易度が上がって
くる。
9月26日。
良之は富山城に入り、戦後処理を行うこととした。
神保右衛門尉は富山城に置いた。
その他の国人は全て所領に戻し、治安維持と防衛にあたらせる。
織田上総介は、放生津に1000、増山城に1000、富山城に1
000を置き、残りを飛騨や木曽に返す。
放生津には服部、増山城には明智光安、富山城には自身と長尾虎を
置き、3拠点にはそれぞれ種子島を500ずつ配した。
良之は、越中で彼に従った全ての国人に検地を命じ、この年中に完
了した所領には、翌年の年貢を四公六民にする約定を出した。
同時に、戸籍も改めさせ、金沢城下に結核やハンセン病、天然痘な
どの療養所を設立し、フリーデやアイリたちに運営させた。
547
ハンセン病は伝染力が脆弱なので隔離の必要は無いのだが、在所で
差別の火種を生むため、彼らの安全のため集めさせたのである。
すでに平湯でノウハウを蓄積していた医療チームは、迅速に体制を
構築し、良之の希望に応えた。
感染した病人の身体の菌を殺す薬は、現状良之にしか錬成できない。
だが、結核・天然痘・ハンセン病によって害された肉体は、アイリ
たちの回復魔法や、フリーデたちのポーションが効果を発揮する。
どの保有菌も、約半年程度の治療で駆逐出来る。
そしてその間の食事や寝所など、生活にかかる全てが保障されるし、
治療後は健常者としての社会復帰が見込まれる。
二条家の勢力圏には、ついに10万人以上の住民が確保できた。
アイリもフリーデも、積極的にリクルートをはじめ、それらを一番
弟子である千と阿子に託した。
彼女らにもそれぞれ10人程度の教頭になる人材が所属していて、
実際はその下に配属される。
最初の計20人の教頭たちは、すでにアイリ、フリーデ、千、阿子
の手を離れるくらいに魔法や錬金術に知識を深めてきている。
今後は、彼ら彼女らによって、魔法による医術は発展していくだろ
う。
548
暗雲 5
﹁というわけで、越中を攻め取ってしまった訳だけど、これからど
うしようかね﹂
良之は、良之が相談相手に選んだ者達を富山城に集めて、いきなり
言い出した。
集めた顔ぶれは、織田上総介、斉藤道三入道、隠岐大蔵。
フリーデ、アイリ、千、阿子。
長尾虎、滝川彦右衛門、千賀地石見守、服部半蔵、望月三郎。
それに、塩屋筑前守、江馬右馬允と木下藤吉郎、下間源十郎である。
﹁どうしよう、とおっしゃると?﹂
あまりに漠然とした物言いに、斉藤道三入道が質問を返す。
﹁どちらにせよ、飛騨街道を封鎖して岩瀬港の荷を没収された時点
で戦うしかなかったわけだけどさ。俺としては、領地が増えると敵
も増えるし面倒で仕方ないんだ﹂
実際、能登の畠山が騒ぎ出している。
能登畠山氏は、越中の守護であった河内畠山氏の分家である。
本来は越中への口出しが出来る家柄ではないが、実質上神保や椎名
などの守護代に越中が横領されるにいたって、越中への干渉を始め
ることになる。
越後の長尾が椎名と癒着し神保を攻めた際にも、畠山は長尾と神保
の間に講和を斡旋したりしている。
親族の所領という事もあり、能登畠山家にとっては、利権が自分に
あると感じている土地なのである。
549
要するに、領土的野心がある。
ばんきょ
もう一つは、越中・能登には一向宗の基盤があり、独自に武装して、
加賀の一向宗勢力を後ろ盾に蟠踞している。
彼らには、先に本願寺法主証如から、二条家との対立を禁じる書状
が送られているはずではあるが、越中を押さえた良之の許に、未だ
誰もご機嫌伺いに来てはいない。
現状、良之の持つ戦力では、飛騨と越中で一向一揆を起こされると、
かなり厳しい状況になる。
圧倒的な武器こそ持っては居るが、同時多発的にゲリラ活動を含む
一揆を起こされると、兵力、指導者、共に足りないのである。
良之が面倒というのは、ここである。
﹁なるほど。ではやはり、法主様より加賀や越中の一向宗門徒たち
に、当家との融和を謀って頂くしかございますまい﹂
下間源十郎が言った。
﹁うん。源十郎、悪いけど石山に行って、この状況と事情を話して、
法主様に協力を仰いでくれる?﹂
﹁承知いたしました﹂
源十郎はうなずいた。
﹁次に、伊那の問題だけど⋮⋮。これは武田が平定しようと軍事活
動も含めた調略をしている。うちに付きたいと国人たちから打診が
木曽中務のところにかなり来てるようだけど、武田家との関係を考
えると、断らざるを得ないかな?﹂
良之の言葉に、一同もうなずく。
﹁アイリ、千。越中の人口が7万人として、全土で寄生虫対策と健
康診断を行うとしたら、どのくらいの日数がかかる?﹂
550
﹁一日100人診たとして、700日ですよね?﹂
アイリが答える。
﹁だよなあ。まあじっくりやってもらうしかないけど⋮⋮。後進の
育成は進んでるの?﹂
﹁はい。ひとまずは私や千が直接指導しなくても、教頭たちが弟子
たちを指導する様になりました﹂
﹁飛騨で三万五千人だったから、最低でも、今の三倍以上の人手が
必要になるよね⋮⋮済まないけど、お願いね﹂
﹁⋮⋮﹂
言われればその通りだった。アイリと千は、先の長さに呆然とする。
﹁フリーデ、ポーション作りの人材の方はどう?﹂
﹁飛騨や越中の山地には、有望な原料が多く自生しています。やは
り原料より、人材育成が当面の課題です﹂
良之はうなずいた。
フリーデの部門は、分溜塔の建設が、やっとフリーデ抜きでも行え
るかどうか、という状況であり、ポーションの方は、初期に彼女の
下で修行をした四人ほどの弟子が、徐々に後進を育成しているとこ
ろであった。
﹁阿子。錬金術師は?﹂
阿子には、主に冶金部門で生まれる陽極泥や、蒸発した金属、亜鉛
やヒ素、カドミウムなどを錬金術で分離する部門を行ってもらって
いる。
﹁まず、元素とは何か? といった教育から入らねばなりませんの
で⋮⋮﹂
苦戦中なのだろう。
﹁わかった。大変だと思うけどよろしくね﹂
次は滝川彦右衛門である。
﹁彦。迫撃砲の研究は進んでる?﹂
彦右衛門には、先に平湯で鉄砲鍛冶や鋳物師に技術を公開して、8
551
1mm砲の砲身や砲弾の量産化に向けて監督させている。
﹁職人の数が全く足りませぬな﹂
親方衆が理解したところで、現場で働く職人の数が不足している。
職人の世界は、丸一年働いてやっと見習い、3年同じ仕事を続けて、
やっと初心者、という様な世界である。
まだ、ほとんどの弟子が1年未満である現状、安定した生産が始め
られる状況ではない。
元々、ある程度のスキルを持っていた中堅以上の職人たちは、現状、
日々持ち込まれる種子島のメンテナンスに忙殺されてしまっている
のである。
﹁分かった。とにかく越中で人材募集をして、可能な限り平湯に送
り込んでよ﹂
﹁承知した﹂
﹁申し訳ありません、道三殿。飛騨を隠岐殿に任せ、越中の会計の
こと、お任せしてもよろしいでしょうか?﹂
一番人材が厳しいのが文官である。
﹁まあ、この状況ではわししか居るまいなあ﹂
道三は苦笑いをした。
国人たちから領地を召し上げ、代わりに生活レベルを向上させつつ、
不満が出ない年棒を支払うというのは、実は非常にさじ加減が難し
い。
飛騨でさえ、現状では良之がどこからか持ってくる金銀や銅銭がな
ければ、すぐにも経営が破綻する状況である。
それが、飛騨の二倍以上のスケールで新たな領地が生まれてしまっ
た以上、到底、隠岐1人の能力ではこなしきれない状況に陥ってい
るのだ。
﹁美濃や尾張から人手を集められぬものかのう⋮⋮﹂
道三がぽつりと言った。
552
﹁⋮⋮上総介殿。どうですか?﹂
﹁一応親父殿につないでみよう。わしはあまり尾張では人望がない
からなあ﹂
信長は笑った。そういえば、尾張での彼は、うつけとしか認識され
ていないのであった。
﹁塩屋殿。人手は足りませんか?﹂
﹁まったく﹂
二条家の商業と物流を担当させている塩屋筑前守にとって、人材不
足はもっとも厳しい。
商業というのは、ある独特の嗅覚が必要だと彼は言う。
他人と同じ常識を持ちながら、他人と違った感性で世の中を見て、
﹁雨が降りそうだと思ったら傘を用意する﹂
のが優れた商人である。
良之は、領内で安価に、塩や醤油、味噌が流通するように計らって
いる。
さらに、石鹸やマッチなども、ゆくゆくは領内でいつでも手に入る
ような態勢を作りたいと思っている。
それらを商う小売商の監視も塩屋に任せたい。
﹁とりあえず、街道整備は別の者に任せようと思います。塩屋殿は、
大変でしょうが、飛騨と越中、双方の商人司として、元締めをお願
いします﹂
﹁⋮⋮畏まりました﹂
﹁街道の整備は、右馬允殿に任せます。現状は下呂、木曽、向牧戸
の道を拡充させてますけど、今後はそれに、越中の飛騨道や越中国
内の架橋なども加わります﹂
﹁⋮⋮はっ﹂
﹁分からないことは、塩屋殿や黒鍬衆の頭、大工の匠などに相談し
553
て下さい﹂
﹁千賀地殿、飛騨の司令をお任せします。服部殿は越中の司令を。
総司令に織田上総殿、副官にお虎さん。お願いします﹂
4人は﹁はっ﹂と承諾した。
﹁お二人の後任には、飛騨や越中の国人衆から優秀そうな人を選抜
して充てて下さい。これは上総殿に一任します﹂
﹁わかった﹂
信長がうなずいたのを良之もうなずきかえした。
﹁藤吉郎。神岡の開発、お前がいなくても大丈夫?﹂
﹁は、はい。わしも今ここに居りますが工事は進んでおります﹂
﹁そうか。悪いけどお前には、岩瀬の対岸に新しい工場を作る監督
をしてもらいたいんだ﹂
﹁畏まりました。あの、なにをお作りで?﹂
﹁塩、さ﹂
この時代。
製塩と言えば圧倒的に瀬戸内が突出している。
当然、他の地域では塩は購入すべき製品であり、その金額は、べら
ぼうに高い。
たとえば、塩の産地である瀬戸内に近い若狭などでは、一升で5文
足らずの塩が、甲斐まで行くと、ひどい時には100文を越えたり
する。
当然産地から離れれば離れるだけ高くなる。
良之は、この塩を大量に生産しようと考えているのだ。
﹁とにかく、みんな悪いけど、なんとか越中を平和に治められるよ
う、力を貸してくれ﹂
良之が頭を下げると、一同も、それに応じて平伏した。
554
長尾景虎が、やってきた。富山城で良之が引見した。
﹁御所様、このたびはご戦勝、おめでたく﹂
﹁ありがとうございます。平三殿﹂
﹁一体、倍の戦力にどのように戦い、兵を損ねずに勝ちなされたの
か、お聞きしたいものですな﹂
景虎は、いきなり本題を切り出した。
﹁迫撃砲という武器を作りました。弓矢が届かない距離から打ち上
げ、敵陣の中や城に落とす武器です﹂
良之はその仕組みを簡単に説明した。
﹁種子島が弾を撃つのと同じ仕組みです。ただ、別の工夫が必要に
なります﹂
﹁噂では、合戦の折、5町も飛んだとか?﹂
よく調べてるな、と良之は感心した。
﹁本当に熟練すれば、10町は飛ぶそうです﹂
残念ながら良之自身にはそのスキルもなく、未だに照準器や追加火
薬なども提供できていないが。
﹁鉄の器に火薬を詰め込んで、落ちると一気に火薬が燃えるように
すれば、器が爆発し、鉄の破片が木っ端微塵に吹き飛びます。これ
を炸薬と言います。砕けて四方に飛び散る破片は、無数の鉄砲玉の
ように周囲の兵を襲うんです﹂
﹁なんと⋮⋮﹂
﹁頭の上から降ってくるんで、おそらく避けようは無いでしょう。
もう一つは火炎弾といいます。要するに、油の詰まった弾薬が、落
ちれば油を吹きながら燃え上がります。水をかけても、消えません﹂
﹁⋮⋮﹂
景虎は唖然とした。
良之が言うことが真実であれば、もはや彼の軍勢と対峙すること自
555
体、全滅と同義ではあるまいか。
﹁では、それを目の当たりにして神保は、降ったと?﹂
﹁まあ、そうだと思います﹂
だから、軍勢の接触なしに神保は潰走し、こちらの軍に死者が出て
いないのだと、良之は話した。
﹁御所様。それほどの軍を、今後どのようにお使いか?﹂
景虎は聞いた。
﹁それほどの力があれば、越中のみならず、能登も、加賀も平らげ
られましょう⋮⋮越後も﹂
﹁うーん。俺は、銭をたくさん作り、物をたくさん作り、この国を
豊かにして、それで戦を無くそうって考えてるんですよ﹂
良之は答えた。
﹁平三殿。あなたの父上はとてもお強い方だったそうですね。この
越中も、一度は征服なさっている﹂
景虎はうなずいた。
﹁ところが、お父上が越後に引き上げると、討ち取った神保の子供
が現れて、結局は元の木阿弥です。椎名は残りましたが、神保の所
領は再び越後の敵になった。平和にはならなかった。なぜだと思い
ますか?﹂
﹁⋮⋮﹂
景虎は首を横に振る。それは、景虎にも良く分からない。
﹁越後衆は、この地に来て略奪をして、女子供を浚い、農奴に売っ
たそうですね﹂
それでは誰も、越後には従わないでしょう。
良之は断言した。
﹁結局、民には食える事、生きることが何よりの果報なんです。働
けば食える。もっと働けば、もっと良いものが食える。そういう世
の中になったら、隣の国に命がけで略奪しに行きたいと思うでしょ
556
うか?﹂
その理屈は景虎にも分かる。が、それはこの乱世において、楽園を
語るごとき夢物語である。
557
暗雲 6
良之は長尾景虎に、さらに続ける。
﹁隣に、良く食えて、病が治せて、仕事はいくらでもあり、殺し合
いが禁じられた国がある。それをもし知ってしまったら、民はどう
するでしょう?﹂
﹁わしなら、国を捨てて、家族を連れてその国に行くであろう﹂
﹁戦など、本当は必要ないんですよ、平三殿。俺はそういう国が作
りたい﹂
﹁だが、こたびの戦、御所様から仕掛けたではあるまいか?﹂
景虎はその言葉に反問する。
﹁それは、神保が、富山の港を封じ、荷を奪ったからですよ﹂
それは、良之の国作りにとって、見逃すことが到底出来ない妨害行
為であり、非道であった。
﹁俺は神保家の要求する通行税を払い、作物や資源を輸送していま
した。それを妨害された以上、妨害されない状態に戻さねば、飛騨
が飢えます﹂
﹁では結局、わしらと変わらぬではないか?﹂
景虎は言った。
﹁うちの軍は、略奪もしないし、人さらいもしませんよ﹂
そんな必要ありませんから。
その言葉に、景虎は打ちのめされた。
﹁武力で思い通りにしようと思う相手に、どれほどきれい事を並べ
たって無駄でしょう? 俺はね、そういう相手は、それ以上の武力
で制圧するしか無いと思ってる。それは仕方ありません。でも、そ
558
うでなかったら、いつかはきっと、俺が作った国を見て、仲間にな
ってくれる人が増えていくと思う。俺はね、人間はそれほど、捨て
たもんじゃないと思いたいんです﹂
無言になった景虎に、良之はいった。
﹁越後とは良い関係でありたいです。越後の物資はこの日本に必要
なものだし、いつか越後は、この日本を支えることが出来るだけの
力があります。平三殿。せっかく俺とあなたは義兄弟になったわけ
ですし、まあ、仲良くやって下さいませんか?﹂
良之は、側室に入ったお虎を持ち出して、話を締めくくった。
﹁あの御方は一体、何者なんだ?﹂
﹁さあてね、それはあたしにも分かんないさね﹂
景虎は、良之との面会後に自分の双子の妹と、本当に久しぶりに話
をした。
﹁平三、あの方はね、白癩を癒やし、痘瘡を癒やし、労咳を癒やし
たよ?﹂
それだけでも、神仏のごとき御方じゃないかえ?
﹁⋮⋮確かに﹂
﹁それがさ、その上に、金を生み、物を作り、人を育ててる。平三、
あんたにさ、ひとつでも真似が出来るって言うんだったら、あの御
方の邪魔でも何でもしたら良いさ。でもね、あんたがどうやっても
叶わないお相手だったら、せめて邪魔だけはしないでおくれでない
かい?﹂
﹁⋮⋮﹂
長尾景虎にとって、良之から言われた以上に、この血を分けた妹か
らの言葉は激しい動揺をもたらした。
そして、帰国後、日がな一日、考え事に沈む様になっていった。
559
良之は木下藤吉郎に、岩瀬港の神通川を挟んだ対岸にある草島の開
発を命じた。
越中はすでに農閑期に入り、賦役でない賃金が払われる人足仕事の
募集とあって、1万人近い労力が集められた。
ここに、良之の指示で防水のための堤防、専用港、そして、長屋な
どが次々と建てられた。
さらに、近郊の呉羽丘陵から土砂が運ばれ、盛り土が行われる。
盛り土を突き固めた後には、蔵が次々に建てられる。
ひとつきほどで、ここには新たな港と、蔵が建ちならぶことになっ
た。
﹁フリーデ、ここに石油の分溜塔をふたつ作ってくれ。藤吉郎は、
コークス窯だ﹂
現状、石油も石炭も、産地から船便で送られてくる。
ならば、どちらも港で精製するべきなのだ。
越中を占領した良之には、数少ないメリットのひとつがこれだった。
二人とも良く理解を示し、急ピッチで両施設の施工へとすすんでい
った。
良之は、人足に来ていた出稼ぎのうち、やる気のあるものや、村厄
介の者達などを、飛騨の鋳銭司にリクルートした。
借金のある者達は良之が代理返済したので、3000人以上が集ま
った。
一気に人数が増えたところで作業の効率性は上がるものではないが、
単純に製造ラインが増え、雑用が減り、効率は良くなる。
鋳銭司の親方衆は、一日8000枚を実現するため、必死で人材育
成に励んでいる。
560
﹁よし、じゃあ塩田を作ろうか﹂
良之は藤吉郎をコークス窯の現場から引き抜いた。
藤吉郎が指揮する親方衆は、彼がいなくてもすでに、設計から施工
まで出来るようになっているのである。
藤吉郎が必要なのは、予算の確保やフリーデとの折衝までである。
それはフリーデも同様だった。
良之はこの2人に、塩の作り方を教える。
良之が選択したのは、電気透析式の製塩だ。
イオン交換膜、という技術がある。
良之の時代、日本には世界に誇れる技術分野がいくつもあったが、
イオン交換膜もその一つだった。
イオン交換膜には二種類ある。
一つは、+イオンのみを通し、他を通さないもの。もう一つは反対
に、−イオンのみを通すもの。
つまり、海水にこの二種類の交換膜を向かい合わせに並べていくと、
Na+は+膜を通り、Cl−は−膜を通り、この二つに囲まれた水
の塩分濃度が上がる。
こうして、膜と膜の間に、塩分が奪われた層と、塩分濃度の上がっ
た層が出来上がる。
塩分の奪われた層の水を排水し、塩分が濃くなった層を集めて塩竃
で煮詰めれば、効率よく製塩が出来るのである。
つまり、この工場を作るために必要な技術は、こうである。
まず、海水を汲み上げるポンプ。
組み上げた海水から固形物を濾過する技術。
海水に通電する技術。
561
イオン交換膜。
そして、濃縮かん水を抽出し、煮詰める技術である。
工業的な利用のための海水汲み上げには、ロータリーポンプを使い
たい。
機構が単純なため、メンテナンス性が良く、この時代でも作りやす
いからだ。
技術的課題は、機械を壊すリスクがある砂礫や固形物の除去をしな
いと、噛み合いのローターが破損消耗すること。それと、パッキン
である。
ロータリーポンプというのは、二枚のローターをかみ合わせ、液の
進行方向にそれぞれ回転させることで負圧を発生させる仕組みのポ
ンプだ。
吸い上げられた液はローターの外周を回って排出路に押し出される。
ローターの動力はシャフト一本で良い。
ギア数の同じ歯車を、もう一枚のローターに取り付ければ良いから
である。
ひとまず良之はロータリーポンプを錬金術で錬成した。
これを工業的に作るためには、旋盤とフライス盤がどうしても必要
になる。
いずれ、鍛冶師や鋳物師を集めて、その二つの工作機械はどうして
も作らねばならないだろう。
ポンプから海水を汲み上げ、電気透析の水槽に入れる。
水槽に必要な機構は、各フィルターごとに水を抜き取る仕組みだ。
イオン交換膜に囲まれた水は塩のイオンが奪い取られるので排水し
て捨てる。
イオン交換膜からイオンが凝集された部分の水は、最高で海水の7
倍の塩分濃度を目標に繰り返し透析にかけられる。
562
この電力は、藤吉郎やフリーデが作る分溜塔やコークス窯の排煙を
冷やしタールを凝集するコンデンサ部分を水冷にする事で蒸気を得
た。
コークス窯から発生するガスをボイラーに当て、さらに、コークス
窯上部に管寄せして加熱させ、タービンを回す。
発電後の蒸気はそのまま、濃縮かん水の釜に噴射して、廃熱利用す
るのである。
そして、この製塩の原理をフリーデや藤吉郎に、日夜たたき込んだ。
今後は、彼らを通じて職人たちに技術普及を依頼するためである。
近頃では、藤吉郎の弟の小一郎が、多忙な兄に変わって実務レベル
の事務を行っているようだ。
良之は、小一郎の給与も支払うことにした。
そして、正規職員として藤吉郎のアシスタントに任命した。
良之の製塩プラントで出来る塩は、原塩だ。にがり分を除去してい
ない。
にがりの除去には本来、遠心分離機が使用される。
塩化ナトリウムとそれ以外の比重の違いを利用し、高速回転の分離
機でふるい分けられるのである。
その工程を省略し、生産の実現を優先したのである。
隠岐から、今年飛騨で出来た実験作物の報告が来た。
ジャガイモ、サツマイモなどは全て翌年の種に回させる。
唐辛子、綿なども同様だが、半数を尾張に託した。
綿のわたは、とりあえず布団の中綿にして幹部たちに配った。
製油からグリセリンを、綿からセルロースを。そして硝酸と硫酸が
563
あるため、良之は、やろうと思えばダブルベース火薬を作らせるこ
とが出来るようになった。
だが、現状では無理だろうと思っている。
ニトロ火薬の歴史は、事故死者たちの歴史でもある。
戦地でも、工場でも、そして事故現場で消火救助活動をした消防士
たちの命をも多数奪ってきた。
ニトロセルロースにしろニトログリセリンにしろ、製造現場では大
量の清浄な水が要求される。
上水道が完備され、機材の徹底した洗浄、製造物の脱酸洗浄のノウ
ハウなどの工作機器が完備しなければ、到底技術移転は出来ない。
だが、ひとまずは﹁作れる﹂ということが重要だった。
木綿については、翌年以降の生産量によっては紡績設備が必要にな
るだろう。
そして、種からは搾油が期待できる。
こうした大規模プランテーションは、尾張のような土地がもっとも
適している。
織田備後守の手腕に期待する良之だった。
美濃と尾張の人材の提供について、美濃からは武井夕庵が、尾張か
らは村井吉兵衛が送り込まれてきた。
どちらも、文官として卓越したセンスを持っていた。
まずは武井を斉藤道三の下に、村井を隠岐大蔵の下に付け、良之に
よる国家運営を学ばせることにした。
武官候補としては、尾張の豪族から佐々内蔵助、塙九郎などが信長
の許に推挙されてきた。
彼らはひとまず、信長の馬廻りとして育成される。
他にも、下呂の丹羽や木曽の柴田などにも依頼して、尾張から若い
豪族や国人の士官候補を育成してもらう。
564
同様に、美濃の明智や竹中にも、美濃の豪族から人材をピックアッ
プしてもらって、それぞれに若手家臣団を持ってもらうことにした。
良之は、つきあいのある豪商たちに、塩屋筑前の手代になる人材を
送ってもらえないか依頼してみた。
尾張の伊藤屋、越後の越後屋、甲斐の坂田屋、小田原の虎屋などは、
自家の直系の子を送ってくれた。
また、堺の皮屋、小西屋、駿河の友野屋、博多の神屋は手代を派遣
してくれた。
彼らはある意味、スパイ的な任務を帯びてやってきているはずだっ
たが、良之はそれを良しとした。
むしろ、コストをかけずに情報を流通させてくれるのならありがた
いくらいだと思っている。
塩屋筑前にとってこの人材の補充はありがたかった。
おそらく、この時点でもっとも二条家においてオーバーワークだっ
たのは、彼に違いなかった。
565
暗雲 7
天文21年11月1日︵1552年11月16日︶。
越中の専業軍人の募集は、6000人あまり。
壮年で武芸が達者な3000を三隊に分け、富山城、放生津城、増
山城に配備。
各指揮官の許で訓練に入る。
残り3000は飛騨の平湯で種子島や軍制についての訓練を行う。
平湯で訓練をしていた2500のうち、年少者を除いて、越中各地
の警察組織として、大まかに旧国制の郡邑に300ずつ配備する。
未だ越中においては刀狩りに着手していない。
これは、越中全土を武力で統治するだけの余力が、未だに二条家に
準備されていないためである。
岩瀬の二条家商館に集まっている手代たちに、ふと良之は
﹁朱肉って売れる?﹂
と聞いてみた。
﹁かなり良い値で。御所様には伝手がおありで?﹂
代表して伊藤屋の伊藤次郎左衛門が問い返す。
﹁うん。伝手と言うより、作れるかな?﹂
この時代、後世のように中国大陸から価格攻勢が行われていない朱
は、国内に朱座があるほどの専売商品だった。
各大名家も、利潤の大きな朱に対しては通関免除や様々な利権を提
供する代わりに、自領の発展のために利用した。
566
この当時は国産の朱といえばなんと言っても伊勢である。
伊勢には、朱肉、朱漆、朱墨などを作る職人が抱えられ、利益を独
占していただろう。
また、堺や博多では、表向き国際貿易を禁じている明国から、倭寇
やポルトガル人の介在を経て平戸に入る朱肉などを珍重していたと
思われる。
手代たちは驚愕した。
朱肉は、大名や国人、それに寺社の高僧や宮司などが求めるため、
言うまでも無い高額商品である。
飛騨の匠は、冬期の手仕事で肉池と呼ばれる容器を作っている。
その器は、漆塗りをされ出荷されているが、中に詰める朱肉とは別
売なのである。
﹁それほど難しくはないけど、重労働だと思うよ。だれか職人育成
からはじめる人はいる?﹂
手代たちは牽制しあうが、いち早く伊藤次郎左衛門が、﹁では﹂と
名乗りを上げた。
フリーデに任せてあった中国産の丹は、彼女の工房で金属水銀に精
製され、その後再び硫黄と反応させて純粋な朱に加工されていた。
この朱は、飛騨の匠たちに提供され主に漆塗りの原料に使われてい
たが、未だ大量に在庫があった。
朱肉の作り方は、この精製された朱に、ひまし油、木蝋、松ヤニな
どを加えて練り上げ、液状の朱油を作ったところに、和紙やモグサ、
綿などの植物繊維を加えて硬度を出し、印鑑に馴染む粘度に仕上げ
るのである。
朱の原料である丹ととひまし油だけは越中や飛騨では内国産が出来
ないが、残りは全てこの二国で手に入る。
567
ひまし油も、以前良之が平戸で購入した分があるので、材料は全て
そろっている。
ひまし油はインドからの輸入品だろう。漢方では下剤として用いら
れる。
人体では分解・消化されない油脂で、食用にならない。
適度な粘性があるため、長いこと日本ではミシン油として知られて
いた。
良之も、工業潤滑油なのを知っていたので、購入したのである。
ちなみに、モグサは越中に古くからある特産品である。材料はヨモ
ギの葉の裏にある白い産毛だ。
松ヤニは、山方衆が換金商品として古くから収集を行っているし、
和紙は飛騨にも越中にも産地があった。
木蝋は、ハゼノキやウルシの実を絞って取り出す高額商品だが、漆
職人や山方衆の多い飛騨や越中には生産者がいるのである。
伊藤次郎左衛門に全ての材料と大まかな生産方法は伝えたが
﹁悪いけど、後は職人たちと研究してもらうしかないかな?﹂
と言った。
この手のものは秘伝が多く、原材料は分かっても配合比率はそう易
々と公開されないのである。
ただ、ここまで分かっていれば、それほど時をかけず、商品化が進
むだろうと良之は見ている。
従った越中の国人層から、良之はこの年徴集した年貢の買い上げを
行った。
これらは、塩屋とその配下、越中を監督する斉藤道三などの指揮の
下、適正な価格で執り行われた。
568
越中の国人たちは奇妙な感覚に襲われた。
神保家も含め、敗北した後の方が、良い暮らしになっているのであ
る。
越中の農民たちも、木下藤吉郎らの指揮による大工事が強制労働の
賦役では無く、日当の出る人足傭いだった関係もあり、また、塩屋
による小売商の統括や、豊富な在庫に裏打ちされた安定供給なども
相まって、暮らし向きが随分楽になっていた。
そこに、アイリたちの療養所建設、健康診断や治療、フリーデたち
が供給するポーションによる治療効果も進んでいた。
良之は各村に必ず銭湯を設けるように触れを出し、石鹸を越中に供
給開始した。
皮膚病のうち、寄生虫によるものや細菌感染によるものは、入浴に
よって予防、治療が出来る。
加えて石鹸の洗浄効果は、数々の感染症を撃退できる。
特に、食事前の手洗い、トイレ後の手洗いなどは重要だった。
そうした布告と、結核患者らへの手厚い保護などによって、越中国
内の二条家への印象は好調だった。
これがおもしろくない者達がいる。
能登の畠山家。そして、越中一向門徒衆である。
良之は、ついに挨拶に来なかった越中の一向宗を黙殺した。
つまり、たったひとつきで門徒衆が実効支配する砺波南方の瑞泉寺、
勝興寺、土山御坊など越中西南部は、良之が富をもたらした支配地
と、ぬぐいがたい幸福度の格差が生じたのである。
当初はわずか5000の兵力と甘く見ていた二条家は、戦勝後、越
中の民から一気に6000もの常雇いの傭兵を雇い入れ、それらを
毎日訓練している。
また、各郡の首邑に警察という名の治安維持部隊を配置し、毎日警
569
護をはじめている。
これよりわずか後、石山から使者を携えて下間源十郎は瑞泉寺の証
心、勝興寺の玄宗らを訪ねた。
だが、彼らの二条家への侮りはぬぐいがたく、ついに彼らによる富
山への訪問は為されなかった。
この頃の能登、畠山家は世情から乖離していた。
理由は、重臣たちの権力争いによって、分析力が曇っていたせいだ
ろう。
能登畠山氏の歴史は、足利義満の頃にさかのぼる。
当時大御所だった義満が家臣である畠山満家を嫌い、弟の畠山満慶
を取り立てた。
謹慎していた満家は、足利義満死去後に勘を解かれたが、それに併
せて、本家を踏襲していた弟満慶は兄に家督を返した。
﹁天下の美挙﹂などと呼ばれたという。
美談というのは、人として為しがたい欲得を越えた行動に感動する
から生まれる。
兄の満家も、弟に深く感謝し、分家として能登を弟に渡し、新たに
能登畠山氏を興させた。
名門意識が強い。
それは、家臣団にしても同様だった。
たとえ実利が伴わなくとも、名家である。
畠山本家は管領の家柄だし、能登畠山氏も将軍御相伴衆の家格なの
である。
これは、先に触れた﹁天下の美挙﹂のあと、家督を兄に返したあと、
570
幕府から賜った名誉である。
当然、往事は管領として河内、紀伊、越中から伊勢や山城までを守
護とした畠山家の分家として権威を誇っていた家臣団から分家にも
家臣が入っている。
それが土肥氏であり、神保氏であり、遊佐氏である。
中でも守護代遊佐氏は、国人層である長氏や温井氏と執拗に権力争
いをし、ついに七尾城を一部とはいえ焼くに至った。
これを受け前年天文20年に家督を嫡子義綱に譲って国主畠山義続
は隠居。
大名個人としての能力を問われた義続・義綱親子に代わり、能登7
人衆などと言われる重臣たちによる国家運営が開始された。
そもそもの発端が家臣間の権力争いである以上、解決のためには大
名である義続の支配力や指導力が必要だった。それが結局、隠居し
て権力争いをしている者達に運営を託すというのは、火に油を注ぐ
ようなものだった。
能登がこうした状況だったことは二条家にとっては幸運ではあった。
だが、能登畠山家は、代わりに大きな面倒ごとを二条家に降りかか
らせた。
﹁将軍家から?﹂
良之は、伝令に問い直した。
﹁はっ。細川兵部大輔殿、和田伊賀守殿と名乗られて居られます﹂
﹁わかった。会おう﹂
良之は、謁見室に使っている富山城の武家屋敷、元は神保家の居宅
だった館で引見した。
﹁細川殿、和田殿、お待たせしました﹂
良之は当然のように上座に座る。
571
それにむっとしたのは細川兵部だ。
﹁二条殿。畏れ多くも大樹公よりの使者で御座る﹂
﹁細川殿。あんた俺のことどこまで知ってるんだ?﹂
﹁関白殿の弟御であるとか?﹂
﹁なるほど。お宅の大樹公は位階は? 俺は正三位、参議、左近衛
中将、大蔵卿。飛騨国司で、越中国司だ。いつからお宅の征夷大将
軍は、俺を従えたんだ?﹂
そう言って、良之は立ち上がり、この部屋を去って行った。去り際
に当人たちに聞こえるよう、
﹁隠岐、無礼者をつまみ出せ﹂
と怒鳴りつけた。
初手を誤った。
細川兵部は歯がみした。
二条家は、足利将軍の偏諱を受ける公家だ。
現関白でさえ、前の将軍義晴の偏諱を受け、晴良と名乗っている。
だが、良之は違う。
理由は分からないが、彼は一度として将軍御所には来なかった。
しかも、飛騨にしろ越中にしろ、彼は自分が﹁国司﹂であると自称
した。
もし彼が﹁国司﹂であるなら、同じ朝廷の権威によって﹁征夷大将
軍﹂の地位にある足利家は、手出しが出来ない。
富山城からこそ突き出されたが、城下への滞在は邪魔されなかった。
2人はこの日、宿を日枝神社に求めていた。
﹁兵部殿。一度都に戻りませぬか?﹂
和田伊賀守は、相役の細川兵部に持ちかけた。
和田は気づいている。
細川が、無理筋を承知で将軍の権威を振りかざさなければならなか
572
った理由。
それは、越中を守護である畠山家へ返還せよという一方的な通告だ
ったからである。
具体的には、能登の畠山家に明け渡せという話である。
だが、それをあの公卿は分かっている。
だから、ああやって話を聞こうとしなかったのでは無いか?
和田にとっては身内に近い伊賀・甲賀の手の者が多数この公卿の元
で働いている。
だから二条良之という公卿の尋常ではない知性と能力については聞
き及んでいた。
神保が二条に手を出しさえしなければ、おそらくあの公卿は越中な
ど眼中に無かったはずだ。
それを山下大和守という白川の国人に乗せられた神保が敵対行動な
ど起こすから話がややこしくなった。
そして、能力も無いくせに欲を出した畠山に、同じく能力のない足
利将軍家が便乗している。
そして、あの公卿は室町幕府とは全く無縁である。
実力を持った公卿であり、彼の国家統制における権威の源は国司だ
った。
朝廷における権威で言えば、現状、征夷大将軍である足利義藤より
上なのである。
573
暗雲 8
和田伊賀守は細川兵部大輔に、早々に都に戻るべきだと説いた。
だが、細川は頭に血が上っている。
人間というのは、理屈で負けると感情が沸騰するものだ。
翌日、細川は良之宛に発行された将軍・義藤の書状を富山城に届け
捨て、憤然と越中を去った。
﹁やれやれだな﹂
良之は、足利義藤から届けられた書状を放り投げていった。
﹁⋮⋮面倒ですな﹂
斉藤道三が、ちらっと書面を一瞥して言う。
﹁御所様は、これをどういたします?﹂
﹁どうにも? 俺は足利の家来じゃ無いしね﹂
良之は肩をすくめる。
そもそも、良之はこの戦国時代の元凶は足利幕府だと思っている。
足利幕府は、世の規範になるどころか自身で権力抗争を繰り返し、
よその権力闘争にお墨付きさえ与え、親子、兄弟が殺し合うような
世界を作り上げた。
しかも、今回もまた、家臣に国家を壟断されているような能登畠山
に、すでに3世代にもわたって実権を失っている越中の実権を、な
んの見返りも無く差し出せと良之にのうのうと言ってきているので
ある。
良之は、今の足利幕府は要するに政治ブローカーだと思っている。
574
ブローカーというのは仲買人のことだ。
買いたい人間と売りたい人間の間に入って、取引を成立させて手数
料を稼ぐ。
領地を持たない足利幕府にとって、この政治力こそが収入源だ。
越後守護が欲しい長尾家、信濃守護が欲しい武田。
彼らは積極的に足利幕府に取り入り、貢ぎ物を送り、戦争の大義名
分を得て、偏諱を賜る。
逆に、足利幕府は、敵対しあう大名間を仲介して和睦を結ばせたり、
討伐令を出してひいきの大名筋にとって有利な政治状況を作り出そ
うとしたりもする。
良之は、脆弱な基盤に存立している足利幕府が、この時代でも意外
に存在意義を全国に認められていることに舌打ちしたい気分だった。
一つだけ救いがあるとすれば、足利幕府にとって、良之への強制は
大義名分がない事だ。
足利幕府にとって、守護職を得ているならともかく、国司が軍事力
を持って統治をした場合、途端にその帰属は曖昧になる。
たとえば、土佐の守護・守護代は細川家だった。だが、現状土佐を
支配しているのは国司一条家である。
一条の場合、そもそもが将軍家より地位が上の殿上人、五摂家であ
る。
伊勢国司北畠家の場合は、従前からの足利との関係によって、国司
でありながら伊勢守護も得ている。
二条は、前例に沿って考えれば、一条と同じ五摂家である。
足利家にとって問題なのは、もし越中の領有権を左右しようとした
時、果たして世論が形成できるかどうかだ。
575
足利家はまず、朝廷に二条良之の非難を行った。
そして、甲斐の武田、越後の長尾、美濃の斉藤に、武力による越中
の獲得を指示した。
朝廷の動きは迅速だった。
良之の兄二条関白晴良は左大臣補任。
即日晴良は関白・左大臣を辞任、散位。
これは、先例に基づき左大臣陞爵の栄を与えてから辞任するという
一種の手続きである。
そして、新たに内覧如元。
内覧如元というのは、要するに新たな関白の職権代行職である。
主に、関白として参内する事が難しい場合に代行職として任命され
る。
新たな関白は、一条兼冬。
関白と左大臣を同時に任命している。朝廷の焦りが感じられる。
身体が生まれつき弱いのである。
良之宛に、後奈良帝より書簡が届いた。
正確には、女房奉書、という。
朝廷が外部の者に帝の命を伝える場合、伝奏と呼ばれる部局が対応
する。
だが、室町殿が政治実権を握って以降、伝奏は全て幕府が掌握した。
朝廷から政治力を削ぐのが目的である。
幕府にとっておもしろくない内容の場合、叩き返すか握りつぶす。
朝廷は対応策を編みだした。それが女房奉書である。
元々、伝奏が禁裏を休んでいる際の便宜上だった女房奉書を、その
まま相手に送ることにしたのである。
576
女房奉書によると、一条兼冬の容態は悪いらしい。
帝は、良之の医術に期待を寄せ、助けが欲しいとおっしゃって居ら
れる。と結ばれている。
﹁というわけで、頼めるか?﹂
良之は、千、阿子、下間源十郎らを呼び出し、京への出張を依頼し
た。
3人は快諾し、ボディガードの手練れの忍び5人と共に、岩瀬港か
ら敦賀を目指して立っていった。
武田から、二条領の実務が見たいという打診が届いた。
併せて、足利将軍家から二条領への侵攻が打診されたが、信濃に苦
戦している状況で無理だと返答したことが記されていた。
良之は深く感謝を伝え、見聞を認める旨を記して返した。
長尾家、斉藤家からも、将軍家からの出兵要請を断ったとの連絡が
入った。
どちらも、国内の反抗勢力を討伐したばかりで政情に不安があり、
長期遠征は無理だという理由にしたとのことだった。
天文21年12月。
飛騨ほどではないが越中においても、降雪量は多い。
だが、雪が降るとある種の緊張から解放される。
この時代の戦争は、雪が降ればそれで終わりなのである。
春が来るまでの間に、良之は翌年に作りたいものの設計図を引いた
り、製品に必要な職人たちの教育に時間を充てた。
577
たじひ
その中に、紀伊から帰ってきた鈴木孫一が連れてきた新顔の鋳物師
丹治善次郎がいる。
善次郎は幼いうちから下働きとして鋳物師の工房で働き、良之の噂
を聞いて飛騨に憧れた。
歳が18才と若いため、阿子について錬金術を学ばせたところ、非
常に高い成果を残したので、推挙されて良之に付けられた。
丹治善次郎は良之に付いて、この時期から計測器の生産を始めてい
る。
ノギス、マイクロメーター、ダイヤルゲージ、シリンダーゲージ、
曲尺、巻き尺といった金属加工に欠かせない各種の精密測定器であ
る。
単位の原器には、良之の文具のステンレス製の物差しを利用した。
にしぶかなや
善次郎がこれらの生産に狩り出したのは、高岡の西部金屋の鋳物師
である。
金森、喜多、藤田、般若といった頭衆に率いられ、職人や小間使い
や家族まとめて全て、木下藤吉郎が拓いた岩瀬港対岸草島村の南部
に引っ越させ、ここで測定器の量産に従事させた。
越中を支配したことで良之が新たに手に入れた技術者に、船大工が
ある。
氷見から岩瀬までの間で手の空いている船大工を全て集め、
﹁五千石の船を作って下さい﹂
といった。
船大工たちは困った顔をした。
それほどの船を作れる経験者がいないのである。
﹁千石ほどなら⋮⋮﹂
というので、良之は総掛かりで千石船を作らせ、徐々に技術を高め
578
ることにした。
東洋の船には、竜骨がない。
そこで、良之は数枚の資料を彼らのためにプリントアウトして渡し
た。
イギリスの快速船、カティサーク号の設計図である。
﹁全長86メートル。全幅11メートル。喫水は7メートル。これ
で四千石です﹂
ただし、真ん中以外のマストは要らない、と良之は付け加える。
その真ん中のマストも、クレーンとして使うだけで、帆を張る必要
はない。
帆のない船などなんにするのだろう、と棟梁たちは首をひねった。
見たところ、船体は細長く、3層構造で積み荷を詰め込む構造にな
っている。
水夫が櫂でこぐ訳でもなさそうである。
おしろい
良之の周囲の女性たちは男装が日常という事もあって気がつかなか
ったが、岩瀬に近い住環境に変わったことで良之は白粉に触れる機
会を得た。
はらや
そして、その成分を聞いて愕然とした。
平成
鉛白、つまり鉛である。他にも水銀粉などという有害物質まで珍重
されている。
良之は科学事典で、彼の時代の白粉を探した。
粉白粉の主成分は、滑石、蝋石、酸化亜鉛やカオリンなどと、デン
プンだった。
滑石、蝋石、カオリンは木曽、飛騨、美濃あたりでは比較的入手が
容易だ。
579
現在岩瀬に在庫している全ての粉白粉を購入し、以降、小売商の粉
白粉の輸入を禁じる。
また、塩屋に命じて領国内の在庫を全て回収させ、代替品として鉛
白を酸化亜鉛に置き換えた製品を提供することにした。
同様に、関係のある全ての商家、大名家、そして京の帝にも鉛白入
りの粉白粉の危険を認めた文を送り、代わりに無害な白粉を飛騨で
生産させようと決めた。
殊に、お膝元に白粉座を持つ伊勢の北畠家には、毒性の低い酸化亜
鉛を提供する代わり、水銀による白粉の生産をやめるよう求めた。
同様に、京白粉の座にも、京の兄の二条内覧を通じて同様の連絡を
依頼した。
国内流通分の粉白粉でフリーデの弟子たちの錬金術で脱・鉛白をト
レーニングさせ、代わりに酸化亜鉛を配合させて再出荷させる。
このとき、
﹁二条の無毒白粉﹂
という商標で売らせた。今までの白粉には毒が入ってますよ、と営
業させたのである。
ちなみに、このとき回収した鉛白は堺に送り、油彩顔料として南蛮
人に販売した。
ところで、亜鉛のコンデンサ凝縮の副産物であるカドミウムは、良
之のプランでは全く用途がなかった。
毒性が高すぎるからである。
無機顔料としてはカドミウムイエローとして珍重されている事を知
った良之は、硫化カドミウムCdSとして精製し、油彩顔料として
南蛮人に限定して提供することにした。
硫化カドミウムは単体では橙色に近い発色だが、硫化亜鉛が混入量
によって徐々に赤みが薄れ、強い発色の黄色となる。
580
良之は毒性の強さを強調し、くれぐれも油彩顔料以外に用いないこ
とを書面で念押しした上で、サンプルとして鉛白とカドミウムイエ
ローを数セットずつ、平戸宣教師トーレスに送付し、堺の皮屋で入
手可能であると営業をした。
そして、密閉されたビンに定量を詰め、岩瀬港から堺へと出荷させ
た。
天文21年も残りわずかになり、いよいよ厳しい冬が来た。
京に新関白、一条兼冬の治療で出張していた顔ぶれも無事越中に戻
り、二条家では年越しの準備に追われている。
一条関白は、予後が良好だという。
良之からの心付け2000両にも、とても喜んでくれていたようだ
った。
﹁善次郎、金屋には空いてる親方衆はいるか?﹂
良之は善次郎を呼び出し、聞いてみた。
出来れば、翌年中に良之には、どうしても実現させたい一つの課題
があった。
井戸の手押しポンプである。
井戸の手押しポンプは、非常にシンプルな構造でありながら、いく
つか実現しなければならない技術的な課題がある。
まず最初に、鋳物で制作する鋼製の加工物である点だ。
つまり、キューポラかもしくはアーク炉での溶鉱炉が必要となる。
次に、鋳物は既存技術で問題ないとしても、ピストン運動によって
水を井戸から汲み上げる場合、シリンダーの加工はどうしても必要
581
になる。
三つ目に、ジョイント部分はテコの原理でハンドルを上下させるた
めに、ボルトとナットが必要となる。
シリンダー内を鋼鉄の棒が通り、ピストンを上下させる関係上、こ
の棒にはプレス加工が必要にもなる。
そしてシリンダー。
最低でも、中ぐり、ボール盤による穴明け、そしてホーニングの処
理は行いたい。
中ぐりというのは、鋳物で作られた手押しポンプに均等な筒として
の穴空け削り加工を行う工作のことだ。
ボール盤は、ジョイント部分にボルトを通すための穴開け加工であ
る。
そして、ホーニング。
ホーニングは簡単に言うと、円形のやすり掛け工具が高速で回転し、
中ぐり後のシリンダー内部の表面を磨き上げる工具のことだ。
磨き上げられたポンプ内面はピストンとの密着度が良くなる。ピス
トンの性能向上と、耐久性の向上につながるのである。
可能であれば、シリンダー内部にメッキか、ステンレスのスリーブ
を打ち込むことで錆に強くしたいのだが、現在のところはそこまで
は望むべくもない。
手押しポンプというのは、暮らしていれば毎日使うものであり、毎
日使えば、長持ちするのである。
﹁それは、この年じゅうに図る必要が御座いますか?﹂
さすがに善次郎は相手が気の毒に思う。
﹁ああそっか、わかった。年明けにしよう﹂
良之はその意図を察したかうなずいて、善次郎を解放したのだった。
582
583
天文22年春 1
天文22年正月︵1553年1月14日︶。
大雪の富山に出仕出来る家臣のみを集めての正月の宴を行った後、
良之にとっては、これまであえて避けてきたいくつかの出来事があ
った。
三が日。
長尾虎、フリーデ、アイリが毎晩ごとにそれぞれ1人ずつ良之の閨
を訪ねてきて、やむなく男女のことが起きた。
本音の部分で性根の決まっていなかった良之にとって、これは覚悟
を決めざるを得ない事態となってしまった。
つまり、本腰を入れてこの世界で生きていくことについて、である。
どうやら後から良之が知ったことによると、この女性軍の猛攻は、
斉藤道三の差し金だったようだ。
道三は、彼女らに
﹁あれほどの男のお側に侍りながら、世継ぎを作らぬは恥と知りな
さい﹂
と3人を焚きつけたらしいのだ。
良之は割と、自分自身に無頓着なところがある。
だから、この世界にふと感じる非現実感を意識せずに生きてきた。
だが、側室といいつつ、現在の彼を今日まで支え続けた才女たちの
覚悟を思うと、あまり甘いことばかりを言ってもいられなかった。
3人とも、良之はもしかしたら女性嫌いであり、男色の気があるの
ではないかと考えていたのだが、
﹁あれは以前に女で火傷でもしただけであろうよ﹂
584
と道三は自信を持って言い切った。
後に3人が道三にその判断の訳を聞いたが、
﹁年の功よ﹂
とはぐらかした。
道三からみたら得体の知れなかった良之に対する、はじめてのほほ
えましい人格の未熟さだった。
だが、以前より道三も隠岐から相談されていたこともあり、今回は
要らぬ世話を焼いたのである。
好きに生きられる男と違い、女たちには焦りもあるのである。
その焦りもまた、人生の大半を終えた道三にとっては、同じように
ほほえましかったが、同時に気の毒でもあった。
良之は、松が明けると昨年同様、精力的に動き出した。
丹治善次郎と共に金屋の村を訪ね、まずは彼らの腕前を吟味した。
特に、中子と呼ばれる鋳物の技術についてである。
金森与兵衛という職人を選び、良之は、ポンプの設計図と実物を見
せ、それをかたどらせてまず青銅で試作させた。
その間に、良之はいくつもの施設を建設しはじめる。
まずはこの金屋の村にコークス窯と発電所を作る。
続いて、コークス窯の横に、アーク炉を建造した。
この溶鉱炉においては、他の溶鉱炉とは一風変わった金属の溶解が
行われる。
アーク炉は、アーク放電という落雷のような放電の熱エネルギーを
使って金属を溶解させる溶鉱炉の一種である。
黒鉛棒と呼ばれる炭素製の電極を炉底に+極、炉内上部に−極とし
て設置し、通電によるアーク放電の熱を利用する。電気炉の一種な
585
のである。
電極は3000度もの熱を持つために、この方式で使えるのは高純
度の炭素で作った黒鉛電極以外の選択肢を持たない。
アーク炉自体は、構造的には恐ろしくシンプルである。
だが、炉には耐熱構造が必要であり、湯になった金属を取り出すた
め、転炉のように回転させる機能が必要になる。
そして、鋳物のためシリンダーに凹凸がある手押しポンプ内部をシ
リンダーとして成型させるボール盤で、中ぐりとホーニングを行え
るよう二基製作した。
良之の時代だったら、数値制御のNC旋盤か、コンピュータ制御の
CNC。もしくは専用設計のロボットによって自動化さえ出来るの
だが、その知識が全くない良之には実現は不可能である。
バイトやドリルやホーニングの速度、その掘削速度などについては、
彼ら自身に研究を重ねてもらう以外にないだろう。
ハンドル、アームやボルト・ナットについては、同様に鋳物で作成
してもらい、タップダイスなどで完成品にしてもらう。
アームについては、バリを取った後焼き入れで硬度を上げてもらう。
ピストン部については、今回は木玉と呼ばれる木工細工に皮を巻い
た手工芸品を使う事にした。
木玉は、山方衆に旋盤を提供して定量生産してもらうことにする。
そして、アームのプレスについては、今回は妥協した。
板ヤスリや縦型グラインダーを作って、特にグラインダーについて
教え、彼ら自身のスキルでハンドルとアームのボルトナットでの接
合はやってもらうことにした。
木玉を専業で作ってもらう山方衆に木工用旋盤を提供したところ、
586
他の山方衆は一様にうらやましがった。
これさえあれば、あっという間に漆器の木椀が作れるというのであ
る。
いずれ、タービンやモーターが量産できるようになったら、鋳物師
や鍛冶師、山方衆や大工衆に、電動工具を潤沢に提供したいところ
だが、現状は限られたリソースをやりくりするしかない良之だった。
二条領に電気を行き渡らせるためには発電装置や送電線、電柱など
の他に、未だ変電すら実現させられない良之の電気に対する再学習
が必要であり、その上、ジェネレータについて再度クオリティを見
直す必要があるだろう。
熱間圧延による荒引線の作成と、そのまま冷やさず引延加工をする
電線一貫加工が必要になってくる。
さらに、絶縁体にも見直しが必要になる。
いわゆるエナメル線と呼ばれるポリウレタンやポリエステル、ポリ
イミドなどの被膜素材の開発も必要となる。
未だポリマー系を技術伝授して任せっきりに出来る人材はいない。
フリーデの時間が空けば、あるいは彼女によって実現が可能かも知
れないが、今はまだ、彼女自身が石油精製の道半ばである。
天文22年は一月の後に閏月が入る。
閏月というのは、簡単に言うと、太陽暦では365日で1年である
のに対し、太陰暦、つまり月の満ち欠けで一年を決めると354日
となり、一年間で11日、暦がずれる。
それを調整するのために、同じ月を二度繰り返す事を言う。
月と季節がずれるのを調整するのである。
閏1月15日。
587
りょうざん
前の年に霊山に居城を建てた将軍・足利義藤は、まさか自分の家臣
たちが元管領細川心月と内通しているとは知らず、表向き三好長慶
と和解していた。
細川心月は、晴元の出家名だ。
義藤が前年、三好長慶の招きに応じて京に戻った後、気の収まらぬ
晴元は若狭に逃げた。
管領右兆家細川の地位も家督も、長男聡明丸さえ人質に奪われなが
らも、晴元はお構いなしに丹波・若狭の守護や国人を煽って、京に
繰り出しては敗走している。
すでに勝負にならないほどの戦力差がありながら、なぜ三好長慶を
相手に、この時期の将軍義藤の家臣たちが細川心月入道と密約を交
わしたのか分からない。
自分がかわいそうだという自己憐憫が強すぎて、すでに国家の安泰、
平和などといった理想など、すでにイメージさえなかったのかも知
れない。
すでに本来足利家の所領のはずの山城の年貢の徴収でさえ三好家に
奪われている。
足利家は名実共に、三好に養ってもらっているのである。
その三好を、細川心月を使って攻めようと考えていた将軍家の家臣
たちには、異常性すら感じる。
良之はこの積雪が厳しい冬の時期に、休業中で屋内の手作業を行っ
ている越中の大工たちに、二つの木工工作を依頼している。
一つは二本足で立つスタンドのようなもの。
もう一つは割と複雑で、樽のような筒型構造を持つものの、板と板
の間に隙間があるもの。それの真ん中に鉄の棒を通すとその筒を空
中に浮かべることが出来る台座である。
588
良之の設計図通りに大工たちは試作品を作り、納めた。
これらを丹治善次郎と共にプロトタイプとして仕上げていく。
ハードル
良之が作ったのは、千歯扱きと、足踏み式脱穀機だ。
千歯扱きは、比較的シンプルな農具だ。
二本の足で自立した、ちょうどハードル競争の障害物のような構造
物の横棒に取り付けられた千歯に収穫した稲や麦を通すことで、穂
から籾をこそげ落とすことが出来る。
立って作業をするために負担になりにくい角度が付けられていて、
刈り取った藁の把をいっぺんに千歯に通して作業が出来る。
足踏み脱穀機は、足踏みミシンと同様の足踏みペダルの上下動をク
ランクによって回転力に換え、回転ドラムに逆V字に打ち付けられ
た針金によって種籾を穂先から脱穀させる。
千歯扱きの歯は竹で作らせ、コストを下げる。
足踏み脱穀機はフレームとドラム、ペダルを木で作らせ、シャフト
や軸などを鋳物師に作らせた。
ベアリングは簡単に言うと、軸を複数の球で支えて接触面を分散さ
せ、効率よく回転エネルギーを軸に伝える発明だ。
軸と軸受けの摩擦を限界まで減らせるために、エネルギーロスが減
るだけでなく、軸受けの寿命を飛躍的に改善する。
だが、その製造のためにはどうしてもまず硬度の高い鋼を球状にせ
ねばならず、それにはプレス機と金型が必要になる。
プレスによって球状に成型されたベアリングボールは、焼き入れや
何度もの研ぎを経て最終的に表面加工がなされ、真球に近づけられ
る。
研ぎ方には高度な工業的精密性が求められるが、そのアイデアは実
にシンプルだ。
要は回転する石臼の上で転がされて、バリを取り除いていくのであ
る。
589
石臼には、ベアリングボールが転がるための溝がらせん状に刻まれ
ていて、回転に合わせてボールは転がり、その課程を何度も繰り返
されて完成に至る。
この時代に生産ラインを根付かせるための技術的な課題は、素材の
鋼線の品質だろう。
良之は半日ほど悩んだあげく考えを放棄して、ジルコニアで数万個
のベアリングボールを錬成した。
今できない事は、出来るようになってから考えるべきだと思い直し
たのである。
新たな技術を誰かに伝えるたび、良之には大きな不満があった。
筆記用具である。
良之が技術の説明をしても、それを書き留めるまでにブランクタイ
ムが発生する。筆の準備をするからだ。
また、彼自身が筆を苦手としているため、どうしても工業化したい
商品の一つである。
鉛筆。
明治維新後の日本が最初期に獲得した輸出品工業の代表選手と言っ
て良い。
かつては天然黒鉛を軸状に加工して使われたが、やがて黒鉛の粉末
と粘土を水に溶いて攪拌し、それらを焼成して生産されるようにな
った。
かつてはどうだったか分からないが、平成の世において日本国内で
は、国内鉱に黒鉛は存在しない。
鉛筆は、粘土はドイツのクリンゲンベルク粘土を、木材はアメリカ
590
のインセンスシーダーを、黒鉛はオーストラリアやインド、中国な
どから全量を輸入して生産されている。
16世紀の船舶事情から言うと、厳しいながらも輸入に頼れそうな
のは中国の黒鉛のみで、他の海外調達は絶望的だろう。
黒鉛鉱については良之は平戸の倭寇で明国人の五峯にサンプルと書
状を送り調達を依頼してみた。中国大陸における著名な産地は四川
省であり、この時代、流通能力があるのか微妙なところである。
粘土は苗木のカオリン粘土、蛙目粘土などで挑戦するしかないだろ
う。
飛騨への搬入経路が確立すれば、土岐地方にも有力な粘土が多く産
出する。
高炉が作れるようになり鉄材の大量供給が実現すれば、神岡にも複
数のカオリン系陶石の産地がある。ドラムやロールによる砕石場で
セラミック原料化が出来るようになるかも知れない。
良之は木材については、とりあえずイブキなどビャクシンの木と、
飛騨匠に好まれ多用されるヒノキの端材を利用して軸木にして見る
ことにした。
鉛筆生産のために必要となるセラミック窯は、1100度で9時間
の焼成工程になる。
芯は炭化ケイ素製の箱に詰めてまとめて焼く。
このあたりの特製品は、良之が錬金術で作るしかない。
まずは金屋町の付近に鉛筆工場の建屋を発注し、完成を待つことに
した。
591
天文22年春 2
良之にとって北陸の冬期は、作業性が落ちてとても厳しかった。
しかも日本にとっても天文年間は小氷河期とでもいえる寒冷期であ
り、降雪量が多い。
この時期を利用するため、良之は物作り班ともいえる丹治善次郎、
木下藤吉郎、フリーデ、アイリ、望月千、山階阿子たちに化学と工
業についてじっくりと講義を行った。
閏一月と二月いっぱいをかけてじっくり行った講義によって、フリ
ーデと阿子は有機化学や分子工学的な理解を得、良之と共に、錬金
術の触媒による化学合成術を編み出した。
従来は良之以外錬成できなかった抗生物質や医薬品の類いが、錬金
術の理解があれば誰にでも錬成できるようになったのである。
また、これらの医薬品錬成用の触媒があれば、アイリや千という回
復魔法の使い手たちも医薬品が作れるようになる。
フリーデたちが作るポーションは効果が大きいが、目的に対して製
造コストが大きい。
多量の、魔法を含んだ薬草をぜいたくに使うため、風邪や食あたり
といった日常の治療薬に使うのはためらわれる。
この新たな技術が開発されたことで、目的別のポーション作りとい
う新しい技術が彼らによって生み出されたのである。
天文22年3月に入ると、いよいよいくつかの工業生産を開始しよ
うと張り切った良之の許に、京の帝から呼び出しがかかった。
592
良之は千と源十郎を連れて上洛、二条御所で一泊した。
二条家は、位子女王が懐妊していた。
良之は我が事のように喜び、皮屋に命じて、様々な物資を二条家に
届けさせた。
翌日、参内。
﹁良く参った。こたびはそなたを従二位に叙し、中納言に陞爵を行
いたいと思うての召喚じゃ。雪深き中の無体、許すが良い﹂
帝はそう言うと、早速昇進の儀を左右の者に命じた。
そして、人払いをすると、本題を切り出した。
﹁そなたに、わが娘を娶って欲しい﹂
﹁え?﹂
さすがにあまりにもいきなりな話に、良之は戸惑った。
﹁昨年末も、皮屋を通じ、そなたより10万両もの入金を受けて居
る。また、皮屋を通じ、衣食のこともそなたはよう気遣ってもくれ
た。まこと得がたき忠臣じゃ。聞けばそなた、その歳で未だ正妻も
持たぬと聞く。そこでじゃ、我が子を輿入れし、逢わせ、二条家の
正式な猶子と認め、中納言に補そうと思うたのじゃ﹂
﹁⋮⋮ははっ﹂
どうやら断れる筋合いの話ではないようだった。
﹁ありがたき幸せに存じまする﹂
平伏して受ける以外にない良之だった。
後奈良帝次女普光女王。
もし良之が現れなかったらこの後出家し、安禅寺宮となり、わずか
25才で亡くなる事になったかも知れない女性だった。この年、1
6才。
593
良之の中納言陞爵はそれほど横紙破りではない。
五摂家の二条家の猶子となればなおさらで、昇進条件である参議・
左近衛中将を満たした上、現状は名目のみではない本物の越中・飛
騨の国司である。
さらに、実情はともかく二条家であれば、女王の降嫁ももちろん問
題はない。
問題は、良之が実情は在京していない半独立的な分家であるという
事だった。
だがそのあたりは、帝にも、良之にさえ言わない深い考えがあった。
後奈良帝は、将軍足利義藤の良之に対する政治的攻撃に深く立腹し
ていたという。
名指しで攻撃されやむなく二条晴良の関白を散位させたものの、そ
れが二条家の失脚を意図しないこと、帝自身が良之に与える信頼を
政治的に明確に表すことを、この降嫁は意図している。
輿入れにかかる費用として良之は5万両を帝に献上し、併せて女御
たちにもいつもの付け届けの他、諸事万端のためと称し、各人のた
めに金子を提供した。
輿入れの行列は陸路近江から美濃を経て飛騨、越中へと至る事とし
て、その道中は京の二条家の諸大夫たちが警護することとした。
長旅になる。
良之は普光女王の身を案じ、千を遣わし、その身体の健康診断をさ
せ、千は彼女に回復魔法を使ったとのことだった。
暫し京での政治活動を余儀なくされた良之は、各摂家を回り留守中
の御礼などを済ませ、現関白、一条兼冬に面会した。
一条は千による治療を深く感謝し、今後の二条家と良之の後援を買
って出てくれた。
千による再診でも兼冬は往時に比べ体力も付き、血色も良いと言う
594
ことだった。
京都では重要な政治活動がひとつあった。
それは、粉白粉の有害性の普及である。
京の公卿たちは、良之がもたらした二条の無害白粉より、肌への延
性に優れた有害な鉛白白粉を好んでいた。
だが、鉛毒の蓄積によるダメージの蓄積は明らかで、特に多用する
女性たち、この時代の公家の女性の健康阻害の一大要因だったので
はないかと良之は危惧していた。
京の白粉座については、皮屋から安定して酸化亜鉛による顔料を安
定して供給する事を約定し、鉛白については全量を買い上げた。
京での活動を終えると、良之は帝の元に伺候し、暇乞いをした。
﹁黄門。能登と加賀のこと、聞き及んだ。そなたをその両国の国司
に任ずる。名分とせよ﹂
帝に深く礼を言い、良之は京を立った。
このあと良之は石山に赴き、本願寺法主証如と面会。
加賀や越中の門徒への周旋に深く感謝した。
﹁やはり瑞泉寺、勝興寺は御所様にあいさつに行きませぬか?﹂
証如は表情を暗くした。
﹁ええ。ただまあ今のところ敵対もしてこないので、構いません。
ただ法主殿。言うまでもありませんけど、もし攻撃されたら⋮⋮﹂
﹁はい、それは分かっております﹂
この頃、証如は下間源十郎から、二条家の戦闘力、分けても迫撃砲
のすさまじさの報告を得ている。
特に、対姉小路戦の百足城攻撃における火炎弾の威力と飛距離、そ
して対神保戦の野戦における、十数分で2500もの死傷者を対岸
から一方的に出し、2倍にも至る神保軍を潰走させた戦果などを驚
595
きを持って受け止めていた。
だからこそ、加賀や越中の諸寺には証如自ら筆を執り、くれぐれも
大恩ある二条家には敵対しないようにと繰り返し連絡をしていた。
翌日、石山より堺へ船で渡る。
﹁お久しゅうございます、御所様﹂
武野紹鴎に出迎えられ、良之は彼の別荘に寄宿した。
紹鴎に、五峯がマカオから連れてきた南蛮人のバイヤーたちが、目
の色を変えて良之が準備した宝石や顔料を買いあさっているという
報告を受けた。
良之は喜んだ。
この時代、明や南蛮商人が狙っているのは、日本の金銀銅と言った
金属である。
特にこの時代は日本の銀生産が大きく伸び、国内、特に西日本の相
場が安かった。
南蛮人は銀を、明国人は銅を欲していたので、日本からの流出が凄
まじかった。
そこに、新たな高額商品をラインアップさせたことによって、幾分
かでも流出を食い止めることに成功したといえるだろう。
トーレスからの情報と併せ、五峯に堺を案内されたポルトガル商人
たちにとっては、サファイアやルビー、水晶玉や鉛白、カドミウム
イエロー、ウルトラマリン、陶試紅、ベンガラと言った顔料は、そ
れこそ大枚叩いても仕入れたい商品群だった。
対価がない。
二条家は全く種子島や硝石を求めていない。むしろ、硫黄を大量に
596
輸出しているほどである。
﹁買い取る商品を選んどくれやす﹂
紹鴎に言われ、良之は南蛮商人の商品リストを見た。
﹁コショウ⋮⋮クミン。ターメリックか﹂
カレーのベーススパイスである。
他にもショウガ、ナツメグ、コリアンダー、アニス、カルダモン、
クローブ、シナモンなどを使用すると、香りの豊かなカレーが出来
上がる。
各種のスパイス、それに砂糖の輸入を指示する。
そして、天然ゴム樹脂や椰子の実油などを持ってこられるなら買う
と指示した。
良之は、遠里小野に行って油座の親方の相談を受けた後、河原衆か
ら脂を買い取り、船尾に行った。
今回、良之は船尾から広階親方たちを飛騨に移すことを考えている。
船尾は立地的には素晴らしいが、なんと言っても畿内の政情が不安
すぎる。
ここに、発電プラントや電気精錬などの工場を建設させる気には全
くなれなかったのである。
鍛冶師と鋳物師を移すとなると、せっかくの広大な船尾の銅座が宙
に浮く。
そこで良之は、ここに皮屋配下の様々な職人を入れることにした。
大多数の職人は飛騨での最先端の技術習得を望んだが、広階親方を
はじめに、数名の職人たちは飛騨への転居に難色を示した。
良之は、ここから数年の飛騨での技術革新を見逃すと後悔するぞ、
と一生懸命に説得した。
597
結局数名の職人は鉄砲鍛冶の橘屋又三郎の街に移住して残ったが、
残りの職人衆は全て、家族を連れて飛騨や越中に移住することにし
た。
ちなみに、ここに滞在させている中村孫作や滝川儀大夫たちは、今
まで通り船尾の銅座を維持させるため、兵力をそのまま残し滞在さ
せた。
せっかく作った拠点なので、いずれ活用したいと思っていたのであ
る。
引っ越しに際し、この時代の人間たちが運ぼうと思ったら難儀する
大荷物だけ、全て良之が引き受けて<収納>した。
また、南蛮絞りを行っていた現場などでは、錬金術で諸金属を回収
した。
移住にあたり、引っ越しにかかる全ての費用の面倒を良之が持つこ
とにした。
もちろん、休業中の日当など細かいところまで全てである。
その後、信太山の河原衆のところに立ち寄り、家畜たちの育成と繁
殖に従事してくれている彼らに感謝して、味噌や酒、塩などを差し
入れした。
臭いはひどいが、家畜の糞などは良質の堆肥になる。
良之は頭衆に、堆肥の作り方を指導する。
木工所からおがくずを回収したり、山から木の葉などをかき集めて
きて、糞と混ぜ合わせて置いておく。
このとき、家畜の寝藁なども加えておき、時々天地を返す。
すると、発酵がはじまる。堆肥発酵が適切に行われると、80度に
まで至る高温の発酵が起きる。
この課程で有害な繁殖菌や寄生虫などが死滅する。だが一方で有用
598
なアンモニアなどの窒素分も揮発してしまうため、高温期を終える
と切り返しを行い堆肥の攪拌を行い、必要なら水分を与えて保水を
行う。
切り返しを行うと、再び堆肥は高温で発酵し、発酵が終わると肥料
の温度が低下する。
この頃からが畑に肥料を入れるのに適した堆肥になる。
堆肥の温度が下がったら、また堆肥は切り返し、3度目の発酵を促
す。
堆肥作りについては、チャレンジ期間という事で、携わる者達全て
の報酬を良之が見る。
このあたりは、皮屋を通じて全て賄われる。
また、完成した堆肥は、遠里小野から菜種栽培を依頼された農家に
供給させることにした。
同じ村でも施肥をさせる農家とさせない農家をあえて作り、その効
果の差を実験してみる事とした。
畜産の指導員として、平戸の倭寇である五峯に借りている複数の明
国人や通訳は、かなり効率的に指導を行ってくれているらしい。
鶏、豚、牛については再び五峯に種になる親を輸入してもらおうと
良之は思った。
どうせ現状、輸出過多である。
良之は、信太の里に巨大な入浴場を建てた。
彼らの毎日は激務である。悪臭、高温といった劣悪な環境で辛抱強
く働いている。
川から水を引き、手押しポンプで池から組み上げ、薪のボイラーで
湯を沸かす。
この湯屋は里の人間は誰でも無料で使える事として、さらに、親方
に里の人間分の石鹸も提供した。
599
堺から紀伊に渡り、雑賀の鈴木佐大夫にあいさつした。
佐大夫には、現在富山で建造中の千石船を運営できる人材の派遣に
ついて相談した。
﹁承知しました﹂
快く佐大夫は承諾してくれた。
その後、佐大夫と共に湯浅に向かう。
湯浅では、すでに醤油生産に関心が集まっていて、角屋や油屋とい
った別業種の者達も赤桐右馬太郎の許で修行を開始していた。
良之は赤桐にいって各代表者を呼び寄せて、一同にそれぞれ2万両
ずつ与えてさらに製造量を増やさせ、それを堺の皮屋へ納入させる
ことにした。
赤桐右馬太郎には別口で1万両を与えて功績を労った。
600
天文22年春 3
その後、志摩に入ると佐大夫と別れた。
良之は九鬼家でも同様に海運のための人材をリクルートした。
﹁わしが行きましょう﹂
当主九鬼弥五郎の伯父である九鬼長門守重隆が名乗りを上げた。
九鬼家の船大将の1人であり、身内で固めた船夫たちも配下に持っ
た九鬼家の重鎮である。
実は、九鬼家でもすでに二条の各地での活躍はすでに耳に入ってい
る。
当然、今後のために二条とは誼を通じておきたいとは思うものの、
さすがに九鬼にとっては痛手ではある。
それでも重隆を二条に出す事に弥五郎は決めた。
この時代、家を分けるというのはチャンスでもある。
いつ何時、他者に攻め込まれて滅亡するかも知れない時代だという
事もある。
﹁ひとつ頼みがあります﹂
良之は九鬼に一艘の大船を作ってもらい、それに乗って富山の放生
津に来るように依頼した。
そしてその分の建造費として1万両もの金を渡した。
富山の岩瀬を雑賀衆に任せ、放生津に九鬼を入れる。
雑賀衆には舟運を、その護衛を九鬼に任せる分業として、双方発展
させる算段である。
九鬼の砦を去った後、良之は霧山御所を訪れ、国司北畠家に改めて
白粉の材料についての相談を行った。
601
ここでも良之は隠居の北畠天佑、国司北畠具教に鉛や水銀を使った
白粉の危険性について説いて、酸化亜鉛による代替顔料の提供を改
めて約束した。
北畠家の奉行と白粉座を訪問し、彼らの扱う水銀顔料や鉛顔料を回
収し、同量の酸化亜鉛顔料と交換する。
やはりここでも鉛白の顔料に比べて亜鉛顔料は不評だったが、この
件に関しては良之は譲らなかった。
伊勢を離れ大湊へ。
大湊の角屋七郎次郎と会見し情報交換。
角屋の船で津島に向かい、津島の伊藤屋とも面談。
さらに、那古野城にて織田備後守信秀と面会。
良之は日頃の恩と人材派遣に感謝を述べる。
備後守も、綿花や唐辛子の種子の提供などについて良之に礼を言い、
現状の干拓状況を報告した。
一泊後、良之は美濃に立った。
美濃でも稲葉山城で斉藤治部大輔義龍を訪ねた。
千に義龍の再診をさせ、すっかり快癒したとの報告を受ける。
﹁御所様、お千殿より伺いました。飛騨や越中には、療養所と申す
労咳、白癩、痘瘡を癒やす医院をお作りとか。是非、わが美濃にも
これらをお作り願えますまいか?﹂
義龍は、自身も感染病に苦しんだため、そうした病に今も苦しむ領
民に対し特別なシンパシーがあるようだった。
﹁そうですね。出来たら、温泉のある空気の綺麗な環境が良いでし
びゃっこ
ょう。温泉があれば湯治にもなりますんで﹂
﹁温泉と言えば⋮⋮白狐があるか﹂
602
義龍の言う白狐温泉は、屏風山という山を挟んだ明智の北西、土岐
川のほとりにある温泉街だった。
施設については義龍が用意し、二条家からは回復魔法を使う医師と
投薬を担当する錬金術師を派遣することとした。
このとき、義龍の長子で6才の喜太郎を千が診察し、彼も若干のハ
ンセン病による感染が認められたため、治療を施した。
その後、斉藤義龍に土岐や瀬戸での耐熱レンガ製造を依頼する。
前年にレンガ製造に乗り出した遠山氏と共同で、職人の育成と後継
の確保、生産量の増加などを頼み込み、快諾を得た。その後稲葉山
城を辞した。
苗木を経て、良之にとって未訪問地であった木曽に入る。
木曽にも療養所が欲しいと木曽中務大輔義康に言われたため、温泉
地を探させた。
二本木に源泉があるようだが湯温が低いため、良之は越中で導入し
たボイラーを作り、ここに療養所の建設を命じた。
やがて、伊那や松本などからも患者を受け入れるようになるが、そ
れは後の話である。
良之が木曽から高山に抜け、平湯に到着した頃には、すでに4月を
過ぎていた。
平湯で船尾の鋳物師たちの荷物を預け、富山城に戻った良之は、早
速主だった者達を全員集め、女王降嫁のことについて一同に諮った。
﹁⋮⋮おめでとうございます﹂
隠岐大蔵は現実離れした良之の話に魂を抜かれたように平伏して、
主に祝を述べた。
残りの一同もそれに合わせ平伏。
603
﹁問題は﹂
良之は頭を掻きながら言う。
﹁京の御所を離れたことのないような女性だって事だよな。これか
ら、みんな支えてやってくれ﹂
政略結婚とはいえ、時の帝の娘を正室に迎えるというのは、二条家
にとってこれに勝る栄誉はないだろう。
良之の中納言陞爵と共に、家中は大いに喜び賑わった。
良之にとって意外だったのは、越後殿と呼ばれるようになって新築
された富山二条御所に控えるようになった長尾虎も、フリーデやア
イリも、帝の娘が正室にあることを喜んでいることだった。
虎にしてみれば自分の亭主が帝から信任されている証だといえるし、
フリーデやアイリの認識では、貴族社会において良之が権威を勝ち
取った証拠といえるわけで、平成の現代っこであった良之とは、こ
のあたりの常識がまるで食い違うのである。
雑賀の船手衆、九鬼の海賊衆、河内の鋳物師衆が家族を伴って飛騨
や越中に到着しはじめている。
雑賀の船手衆は、越中の船大工たちを手伝って自分たちの専用船と
なる予定の千石船の建造に邁進している。
河内の鋳物師衆たちは、引っ越しが落ち着くと早速、良之の建てた
全ての施設を見て歩いて、自分たちとの技術格差に肝をつぶしてい
た。
やがて、それぞれに挑戦したい部門を選んで、分かれていった。
親方である広階美作守には、従来通り分銅と棹銅の生産を任せるこ
とになった。
新しい工房を富山の金屋町に新設し、生産を開始することになる。
分銅は従来の砂による方式から、石膏による鋳物へと換えられた。
604
また、使用する青銅も、電解精錬による高純度の銅に、同じく電解
精錬によって不純物を取り除かれた錫を添加して作成されるように
なった。
電解精錬前の錫の不純物は、貴金属、鉛、インジウムなどで、特に
インジウムの回収は良之の時代では関心が高かった。
親方は、純度の高い銅と錫を鋳物用に必要としている。良之は傾転
電気炉を用意することにした。
また、重さを量りつつ定量に揃えるための切削装置もモーターを利
用したリューターや回転砥石を用意した。
また、棹銅量産のために銅の電解精錬槽をこれまでの5倍に増やし
た。
工業化を推し進めている良之の現状で、すでに潜在的な危険性を持
った事態は、エネルギー危機である。
発電に関しては現状、老人たちの内職で作る手巻きコイルのステー
タによる小規模でピンポイント的な発電である。
その動力は石炭乾留設備における廃熱利用の火力発電である。
フリーデ設計の石油精溜所が稼働したため、重油ボイラーも作ろう
と思えば作れる状態だが、化学製品に転用が出来る石油資源は、極
力搾り取りたいのが良之の本音だった。
そうなると期待したいのが、大友家とその御用商人の博多・神屋に
よる石炭の輸出だが、良之なりに、彼らはこの時代としては頑張っ
てくれているとは思うが、比較すると、現状では需要に供給が追い
ついてるとは言いがたい。
問題はもう一つある。
ビンの口が細くなっているのは、内容物が適量出るようにわざとす
ぼめてある。
605
ボトルネックという。
この言葉は、効率を妨げることがらの比喩に使われる。
戦国時代にマスプロダクト=大量生産を成し遂げようとする時、必
ず問題になるのが、輸送力だった。
良之が九鬼衆や雑賀衆の船手たちを雇用してきたのは、この点の解
決を狙ってのことだし、船大工たちに大型船舶の建造を研究するよ
うに命じたのもそのためだ。
どちらも、即効性のある対策とはいえない、ある意味気の長い話で
ある。
﹁越後殿。悪いけど平三殿に書面を送ってくれる?﹂
良之はお虎御前に相談した。
良之は、ついに越後の石油の大規模開発を考えざるを得なくなって
いる。
石炭は欲しいが、産地が遠すぎる。
平戸の倭寇、五峯に中国の石炭やコークスの買い付けを依頼してい
るが、とにかくこの時代の明国は、表向き日本に対し経済封鎖中な
のである。
五峯はマカオの南蛮人をブローカーとして介在させることで大規模
な取引を斡旋しているわけだが、当然中間搾取が何重にも介在する
ので、良之にとってはあまりうまみがない。
それに、一度に運べる荷の量も少ない。
最大のジャンク船は五千石。満載しても750トンほどである。
実際はタンカーではないため、俵などで小分けされた荷姿で運ばれ、
さらに非効率である。
良之は、戦乱ですっかりゴーストタウン化した柏崎湊と、その奥に
ある油田の開発を計画している。
この話に越後の長尾家が乗ってくれるなら、開発費含め、良之が全
ての費用と人材、技術を提供するつもりでいる。
606
天文22年4月を過ぎると、尾張、美濃、そして甲斐から、有力国
人や大名の重臣たちが、飛騨や越中の見学に多数訪れるようになっ
て来ていた。
良之は、先端技術や軍事教練、医学、備蓄など、何一つ隠し立てせ
ずに彼らの見学をさせることにして、その案内者に、飛騨や越中の
旧支配者層を充てさせている。
案内者を統括しているのが隠岐大蔵で、それに斉藤道三が協力をし
ている。
甲斐からは、武田典厩信繁と刑部信廉がわざわざ訪れ、二ヶ月近く
も詳細に調査をするスケジュールを組んでいるようだ。
他にも、小山田、穴山、市河といった国人衆や、栗原や大井、秋山、
駒井、長坂と言った能吏もそれぞれ、わざわざ甲斐からやってきて
は、飛騨と越中の状況を視察して帰っている。
さらに、噂を聞きつけた北条や今川からも、親族衆を中心に飛騨や
越中の視察をしたいと申し入れがあった。もちろん良之はこれを許
した。
越中椎名家からも視察に重臣たちが押し寄せてきた。
そして、越後からも。
椎名家にとっては、新川︵常願寺川︶を西に渡った途端に豊かな暮
らしになる事は、国人統治のためには大きなダメージになって来て
いる。
特に、健康状態と栄養状態の差が歴然となっている上、この年から
年貢率が大幅に低減されている。
加えて、入浴や石鹸の推奨によって衛生面も向上し、さらに、肥料
607
の利用によって、作柄もこの時点ですでに明らかな差が出始めてい
た。
何より見学者たちを驚かせたのは、自溶炉や電気炉による鉄、銅、
鉛などの生産量。
それに付随した工業生産力、そしてその結果である。
特に、手押しポンプは見学した他国の支配者層の誰もが渇望した。
生産地である富山から徐々に手押しポンプは普及をはじめている。
精密計測器研究チーム以外の越中鋳物師や編入された河内鋳物師た
ちによって頑張って量産されているが、飛騨や木曽にまで行き渡ら
せるには、翌年一杯はかかるだろう。
その上、廃熱を利用した製塩事業によって、高額な原資と長距離輸
送を必要とせず、塩の国内需要を賄いはじめている二条領に、特に
塩については苦しんでいる甲斐の者達は驚いている。
甲斐では、堺で二文の塩が、同時期に十文を越えることも珍しくな
い。
五倍ものコストを支払わされているのである。
これほどひどくはないにせよ、事情は越後や駿河でも変わらない。
製塩は瀬戸内のもので、この時期の各国では、製塩事業は普及して
いなかったのである。
椎名家の国人たちはあからさまに二条家へと擦り寄りはじめた。
椎名家自体も、越中の国司である二条家に可能なら臣従したいと考
えはじめてはいる。
ところが、彼らは長尾家にすでに臣従している。
越中中西部が敵ではなくなった事によって多大なメリットは享受し
ているものの、川ひとつ挟んだ向こうの芝生が、青く見えて仕方が
無かったのである。
椎名領越中の病人の療養所での受け入れについて、二条家はこれを
608
認めている。
このことも、後に椎名領との格差があまねく知れ渡ってしまう引き
金になっていく。
609
天文22年春 4
能登、加賀、それに越中一向一揆衆からの二条領への人口流入が増
えている。
いち早くそれに気づいた能登の畠山家は国境を封鎖し監視を強めた。
一方の二条領は、ほぼ全分野で人手不足である。
ついに良之は織田上総介に命じ、常備軍を用いて道路拡張の土木工
事を彼らに受け持たせることとして、そこでこれまで働いていた人
足を物資輸送、各種生産の人手として再配分させた。
特に、鍛冶師・鋳物師と言った主力生産業やそれらに関わる工場建
設のための大工、そして船大工や船員の人材難は深刻で、この人足
たちの再配置は各所から喜ばれた。
一方、大変なのは織田上総介とその配下の侍大将たちである。
実際には、この指揮によって上総介たちの指揮官としてのスキルは
飛躍的に向上するのであるが、この時期は誰もが能力をオーバーフ
ローした作業にひたすら頭を悩ませることになる。
戦国時代は、意外にも城主でさえ土木工事に従事していた。
羽柴秀吉や前田利家でさえ、労夫と一緒にもっこを担いだという記
録があるほどである。
良之の要求する越中、飛騨、木曽と東美濃への街道整備の水準は高
い。
だが、その街道を通って自分たちにもたらされる富や食糧といった、
大げさに言えば文明そのものといえる物資は、明らかに彼らを幸福
にしていた。
そのため、その工事の重要性を兵士1人1人が理解をし、この事業
610
に取り組んでいた。
この頃から、越中や飛騨には京や堺、博多あたりから布地や古着が
多く運び入れられている。
つまり、庶民の消費能力が向上し、生きるために必要な必需品から、
徐々に人生を楽しむ消費が生まれはじめていると言うことである。
塩、干し魚、醤油、味噌、それに砂糖なども徐々に二条領では浸透
しはじめ、この当時の日本の中では屈指の美食地帯になり始めてい
る。
また、この時代の人口増加を妨げた大きな病を良之が国費で治療し
たことにより、この一帯は同時代のどこも成し遂げられなかったほ
ど長寿国になりつつあった。
二条領となった地域では、例外なく新築の長屋や蔵を建築する槌音
が連日響き渡っている。
そして、領内には潤沢で安価な鉄器具、鎌、鍬、鋤などが提供され、
加えていよいよ千歯扱きや足踏み式脱穀機なども提供されはじめた。
この後、麦の刈り入れ時期にその利便性から爆発的に普及し、やが
て、米の収穫期には自作農のほぼ全戸が購入することになる。
この時代の加賀の人口は約9万弱と言ったところだろうか。
越中一向門徒が蟠踞する砺波あたりは3万ほど。能登が6万強ほど
の人口だったと思われる。
その18万ほどのエリアから、すでに2万近い脱走者が飛騨と越中
に流入している。
越中・飛騨・木曽を併せて12万ほどだった二条領の人口は、この
頃15万人前後にふくれあがっている。
611
なのにまだ、人手不足なのである。
﹁釘が足りない?﹂
﹁はっ﹂
良之は、二条領の商業を管理する塩屋筑前守からの報告を受けて頭
を悩ませた。
この時代の釘というのは、鋳物師や鍛冶師が一丁一丁手作りで作る
四角い和釘である。
特に釘を専業とする鍛冶師のことを釘鍛冶と呼んだ。
釘の生産に欠かせないものがひとつある。
鋼の線材を熱間圧延させる工場である。
素材自体は炭素含有量の少ない軟鋼で良いのだが、効率を考えると
電気炉などで熔解させた鋼鉄をローラーで絞って圧延させ、巻き取
らねばならない。
とりあえず良之は鋼線工場から着手することにした。
美濃から届く耐火レンガは、電気炉の内材には使えない。
炉底には炭化ケイ素レンガ、湯口周辺には高耐熱のアルミナや熱に
よる伸縮の小さなジルコニアの耐火レンガが必要になる。
それらを錬金術で錬成すると、丹治善次郎に親方衆を指揮させ、耐
熱モルタルで組み上げさせる。
炉内に電気炉に適した各種のレンガを使い、その外周に、美濃から
の耐火レンガを利用した。
最後に炉を斜転可能なボルト吊りに成型し、軟鋼の電気炉を完成さ
せる。
次に、炉から流れ出た湯を絞るラインの構築だ。
炉口からは滑り台のように湯を流し、それを無数のローラーで数百
メートルにわたって運搬しつつ、縦と横のローラーで圧をかけて圧
延する。
612
最後に、糸車のように真ん中がくぼんだ3基のローラーで丸く絞り、
それをダイスに潜らせて巻き取る。
4月から6月一杯かけて、やっと正常に機能する初の軟鋼線製造器
が完成し、稼働がはじまった。
軟鋼線を釘に成型する装置は、金型プレスを用いる他はない。
釘の頭をプレス成形し、先端は布砥石で研ぎ上げるのである。
本来なら産業ロボットで自動化させる作業だが、この部分はやむな
く人力でやってもらうことにした。
このために集めた職人は150人ほど。鍛冶師や鋳物師のスキルは
必要ないが、今後、この工場を運営するための技能は全員に身につ
けてもらうしか無い。
最初に良之が全てやって見せ、後は工場長を選任して全てを任せた。
話は前後するが、炉の建設中の5月10日に長尾家からの返答が来
た。
良之は残りの作業を設計図に起こしてこの頃越後に向かっている。
本来は長尾虎を伴っていく予定だったのだが、実はこの時期、虎の
懐妊が分かったために動かすことが出来なくなっていた。
﹁まあ、あたしは奥方様のお迎えをするさね﹂
虎はせっかくの里帰りの機会を逃して残念そうだったが、そう切り
替えて言った。
京から越中に下ってくる正妻の普光女王は、越中への到着が若干遅
れている。
本来は言うまでも無く良之自身が迎えるべきであるが、製釘工場や
越後の原油生産についてはあまりにも時間的なゆとりがなさ過ぎる。
特に、九州からの石炭の産出量が予想以上に増えていないため、発
電プラントにやむなく重油を選択せざるを得ない。
613
石油についても自噴している原油を人力ですくい取っているといっ
た有様で、良之が心中で欲しいと思っている水準の生産量には達し
ていなかった。
供は望月千と下間源十郎、そして木下藤吉郎。
本来はフリーデか阿子を連れて行きたいところだったが、阿子がか
たくなにフリーデの旅行について異議を唱えた。
良之だけが気づいていないのである。アイリもフリーデも、懐妊し
ている。
そこで、藤吉郎に白羽の矢が立った。
﹁あの、御所様に申し上げなくてよろしいのですか?﹂
阿子は、良之が去った後フリーデに聞いたが、
﹁越後殿をご覧なさい。良之様は過保護すぎて、なにもさせてもら
えなくなります﹂
くすくすと、フリーデは笑った。
実際、お虎が普段通り薙刀でも振ろうものなら良之は慌てて止め、
その身を心配してしまう。
その愛情には感じるところもあるが、我が身に置き換えると、これ
は正直煩わしい。
良之は岩瀬から海路直江津に向かい、春日山城で長尾平三景虎と面
会する。
﹁柏崎と油田の開発について、当家に異論これなく﹂
と平三は切り出した。
﹁ただし、ひとつお願いの儀がござる﹂
﹁なんでしょう?﹂
﹁御所様の開かれる療養所についてでござる。越後にも労咳は多く、
614
痘瘡で命を落とすものもまたしかり。ご厚情を賜りたく﹂
平三の言葉に、良之は大きくうなずいた。
﹁もちろん、喜んで。ただし、建物や働く者達の手配は御当家でお
願いします。あと、温泉のある湯治場が良いと思います﹂
良之は快く引き受けた。
越後屋の蔵田家からは、千歯扱きの扱いを依頼された。
こちらも、自領の流通が一段落したらと言う条件付きで良之は了承
した。
簡易型の千歯扱きについては、釘の生産が軌道に乗れば、量産が見
込める。
反対に越後屋には、1000貫の銅銭を束ねるひもの量産を依頼し
た。
この頃すでに、飛騨の鋳銭司では一日1万枚の銅銭の量産がはじま
っている。
現在は、二条領からのぼろ着を割いて、老人たちが手作りでこのひ
もを作っているが、いずれ対応出来なくなることは明らかだった。
そして、もう一つ越後屋には依頼がある。
越中から京に向けての荷物の出荷である。
越後屋はすでに、越前鯖江から近江を抜けて今日に至る輸送路を持
ち、要所に支店さえ設けている。
銅座と棹銅生産を飛騨に移したため、これらの輸送が必要なのだ。
現段階で二条家は、九鬼の海賊船の一艘と岩瀬衆の五隻の海運船し
か持ち合わせていない。
そこで、可能であれば越後屋にも海運に手を貸して欲しいのである。
越後屋は交換条件を持ち出した。
つまり、堺の皮屋の専売になっている分銅について、東北地方にお
ける販売権が欲しい、というのである。
実情として、近畿、東海から中国四国、九州あたりまでを虎屋はな
615
んとかカバーしているものの、関東や東北、九州南部まではカバー
し切れていないらしい。
良之はひとまず、今後について皮屋と検討することを伝えておく。
柏崎一帯は、後世に越後守護代長尾家の忠臣と呼ばれる人物が多い
地域だ。
上条、安田、北条、宇佐美、斉藤など、名だたる越後武将たちが居
城を構えている。
この時期の柏崎は、古い繁栄の面影も残らない焼け野原だった。
ただ、越後縮の重要な輸送路でもあり、馬借や海運などを取り仕切
る荒浜屋宗九郎という商人が頑張って拠点の維持を図っていた。
良之による大幅な資本投下によって、まず柏崎湊の整備が行われた。
荒浜屋は非常に喜び、人足の手配や大工左官などを必死でかき集め
た。
野盗などを防ぐための堀なども整備され、鵜川の治水・開削なども
行われた。
それらを全て荒浜屋に任せ、良之一行は、自噴する油田地帯である
西山や尼瀬などを見聞して歩いた。
柏崎に戻り、良之は草のものを富山に派遣し、必要となるコンクリ
ートや大工などの職人を手配させる。
そして、油井について藤吉郎に講義した。
良之は日本鉱山史の資料を持って居るので、探査掘削をする必要が
無い。
しかも、このエリアの原油層は、地下200−500mという非常
に浅い地底に存在する。
地上の油井も、この時代の職人たちが建立する寺の規模を思えばな
んと言うことは無い。
616
まずは越中からコンクリートが着くまでの間、良之はドリルビット
やシャフト、水圧ポンプ、ディーゼルエンジンなどを作って過ごす。
617
天文22年春 5
その良之の許に、信濃で武田に敗れた小笠原長時と村上義清が訪ね
てきた。
﹁お初にお目もじいたします。小笠原信濃守にございます﹂
﹁村上左少将にござる﹂
﹁ご丁寧に。俺は二条黄門です﹂
あいさつももどかしげに、村上義清は、良之ににじり寄った。
高位の公卿を相手の無礼に小笠原信濃守は顔を曇らせる。
﹁お頼み申し上げる。御所様は長尾の姫を側室にお持ちと聞いた。
是非、わが旧領の回復に、兵をお貸し頂けまいか?﹂
歴史に疎い良之だが、これはさすがにぴんと来た。
信濃を失った村上が、長尾の軍勢に後押しされて武田と対峙する。
川中島の合戦では無いか。
良之が想像している川中島の合戦。
︱︱馬上の上杉謙信が床几に座る武田信玄に斬りつけ、その刃を信
玄が軍配で躱す。
あれは第四次の川中島合戦と呼ばれている。
上杉軍は車がかりで武田にあたり、武田の本陣まで崩されたと言う
が、両軍重臣を失い、上杉軍は死者が多く、武田軍はその才が信玄
に匹敵するとまで言われた弟の典厩信繁と山本道鬼斉入道の軍師勘
助を失った戦である。
双方痛手を被ったが、一丁たりとも領地を失わなかった武田軍の戦
略的勝利と言われている。
﹁村上殿。小笠原殿。俺の国の評判は聞いてますか?﹂
良之は村上義清の問いには答えず、問い返した。
618
村上義清は猪武者ではあるが、愚かでは無い。
答えを置かれたことで断られることを察し、さらににじり寄ろうと
したところに、下間源十郎が片膝立ちになって、刀の鯉口をカチリ
と切った。
その音で義清は我に返り、恐縮して元の位置まで下がった。
﹁お二人ともご存じでしょう。俺の領地は、国人層から土地を召し
上げ、代わりに応分の金子を以て俸禄としております。農民からは
刀を召し上げ、街の治安は常備兵と警察によって維持しています﹂
二人はうなずいた。
﹁俺はね、村上殿。領地など持たなくても、豊かな国を作って、そ
こで充分に生き、子をなして育て、幸福に暮らせる国を目指してる
んです。いかがですか? お二人に、信濃に居た当時と同じか、そ
れ以上の暮らしを提供しますから、もう武田の事は忘れ、よりよい
世界作りに力を貸してくれませんか?﹂
﹁なんと!﹂
義清は顔を真っ赤に腫らして怒りに震えるが、小笠原長時は冷静に、
﹁それはいかなる待遇でございましょう?﹂
と問い返した。
﹁いまウチには、美濃の斉藤道三殿と、尾張の織田上総介殿が居ら
れます。彼らと同等の待遇にてお迎えしましょう﹂
美濃の道三は国司代、尾張の織田は総司令官。それと同等というの
は破格の待遇である。
﹁はっ。この信濃守、喜んで御側に参じとうございます﹂
﹁し、信濃守様!﹂
﹁お控えなされ少将殿。わしらはすでに敗残の身よ。武田には恨み
もあるがそれはこの世の習い。噂に名高い飛騨越中にて黄門様にお
仕えできるとあれば、今ひとたび花見も咲くやも知れぬ﹂
小笠原信濃守はそう言ったが、村上義清は全く納得のいかない顔を
して震えていた。
﹁村上殿﹂
619
﹁はっ﹂
﹁納得いきませんか?﹂
﹁わしは家臣も家族も討たれておりますゆえ﹂
﹁それは武田も同じでしょう? 村上殿に武田家は、二人の老臣と
あなた
大物も五・六人と討たれ、兵も数千人討ち死にさせられていると聞
きました。ではその家族が貴殿を取り囲んで、親の敵だとなじった
ら、村上殿はなんと答えますか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁そもそも、城を失い所領を失い、長尾に頼り俺に頼ったところで、
取り返した後旧領は維持できるのですか?﹂
﹁わ、わしを愚弄なさるか!﹂
﹁貴殿の元の家臣たちは、すでに武田に仕えています。よしんば長
尾殿が勝ったとして、冬が来て越後勢が越後に帰ったらどうなさる
んですか? また武田が攻め寄せてきて、今度は逃げ落ちることも
叶わないかも知れません。村上殿﹂
良之は、剣呑な表情で今にも村上義清を斬ろうと構える下間源十郎
を目線で押さえ、言った。
﹁真の名誉は、領土の広さではありません。あなたは主君としては
平和な国を作れなかった。でも、もし俺の国に来てくれるのであれ
ば、侍として、本当の名誉を感じて生きていけるようにいたしまし
ょう。今日の話、戻って平三殿とよく語らって下さい﹂
良之はそう言い残し、奥の間へと去って行った。
翌日、春日山城から長尾景虎がやってきた。
したて
﹁昨日は村上殿が大変非礼な振る舞いをしたとか。お詫びいたしま
す﹂
珍しく景虎が下手に謝ったので良之はついおかしくなって笑った。
﹁平三殿らしくも無い。おやめ下さい﹂
﹁⋮⋮そうでございますか﹂
620
足を崩し胡座に直り、平三はけろっと表情を変えた。
﹁御所様は、こたびの一件、わしが武田を討つは反対でござるか?﹂
﹁勝てやしませんよ﹂
良之が言下に答えたので、景虎はむっと顔をしかめた。
﹁俺の聞いたところでは、北信の豪族や国人たちは、村上殿に愛想
を尽かし、武田に自ら降ったという話でした。つまり、今更村上殿
を旗印に信濃に討ち入ったところで、長尾の軍がいかに強かろうと
冬が来て越後に戻れば、村上殿のさらし首がひとつ出来上がるだけ
です。ましてや相手は甲斐の龍でしょう? 易々とは勝てませんし、
長引けば越後の民が今度は苦しみます﹂
はっと景虎は顔を引き締めた。
﹁武田と戦っている間に上野の関東管領から援護を求められたらど
うするんですか? 村上は捨て置いて今度は上野に兵を出すんです
か? そうやって腰が落ち着かないで居ると、再び越後は分裂しま
せんか?﹂
良之の言葉に暫し景虎は黙考に沈んだ。
景虎にとって良之の言葉は痛烈だった。
この公卿は、すでに小笠原、村上の失地回復に﹁義﹂がないと言い
放った。
それはすなわち、今後の長尾による信濃進出は、防衛する武田側に
﹁大義名分﹂のある戦いになるという事だ。
加えて、彼は景虎に﹁越後の内乱﹂﹁北条の上野侵攻﹂まで示唆し
た。
﹁ならば御所様は、今後わしはどうすればよいと思うか?﹂
景虎がやっと重い口を開いたのは、数十分後のことだ。
﹁越後一国を豊かにすれば、やがて反乱したがる国人も居なくなる
621
でしょう。国とは、そうやって広げるものです。長尾家はそのこと
よしかげ
を越中で学んでいるでしょう?﹂
彼の祖父長尾能景は、越中平定に乗りだし現地で討ち死にした。
相手は一向一揆だった。
ためかげ
北陸の一向一揆は、名のある武将を討ち取るたびに自信を付け、先
鋭化した。
能景没後に家督を継いだのが、越後の奸雄と呼ばれた為景である。
かいらい
為景はまず、支配下での一向宗を全面禁教とし、さらに主君である
越後上杉氏を攻略し滅ぼしてから、傀儡として遺児を立てた。
再び越中に侵攻し、椎名、神保を討ち取って神通川東岸までの覇権
を勝ち取った。
だがその後、為景は北越後の豪族や国人衆の反乱に苦しめられる。
為景は文武に秀でた英雄だった。反乱が起きるたび武力で鎮圧し、
やがて、干渉を続ける上野の上杉家まで圧力で下した。
一方で、京の朝廷や足利幕府に積極的に運動し、朝廷からは官位を、
幕府からは幕閣の地位を得ることによって、上杉の一被官から長尾
家を支配者の地位へと押し上げることに成功したのである。
ところがその頃には、自身の父をはじめに、越後将兵の数多の血で
勝ち取ったはずの越中は、椎名や神保の遺児たちが再び割拠。
あっという間に長尾家の手を離れ、苦労は無に帰したのである。
﹁その越中と同じ事が、信濃で起きるだけです﹂
良之の言葉は、景虎にとっては目を背けたい事実である。
目を背けたいという事は、自身にとって間違いの無い不得手な課題
だ、という事を受け入れるだけの器量が、景虎にはある。
良之の言う通り、越後も中部から北部と、本拠地の春日山城から離
れれば離れるだけ、長尾を軽侮する風潮が強くなる。
622
この時期。
長尾家が掴んでいない情報がある。良之は当然知っている。
前年、今川義元の娘が武田の嫡男、義信に嫁いでいる。
そして今年は、武田晴信の娘が、北条氏政の正室として嫁いでいる。
その上で、北条氏康の娘が今川氏真に嫁ぐことが密約されている。
甲相駿・三国同盟である。
長尾景虎が信濃に侵攻しようとした時、良之が言下に﹁勝てやしな
い﹂と言い切ることが出来た理由は、この情報を知っていたからに
他ならない。
武田は、後顧の憂いなしに全軍で長尾に当たることが出来るし、そ
れだけで無く、長尾への忠誠心に薄い揚北衆、つまり北越後の国人
層を煽って反乱を起こさせることも出来るし、すでに晴信の調略は、
柿崎、大熊、北条といった本来では長尾家の中核を為している越後
衆にも伸びている。
良之の目から見ても、この時代最高の武将は武田晴信だと思われた。
晴信は、誰よりも劣悪な甲斐という地盤から起こり、すでに信濃一
国を征服している。
二度の大敗戦で戦の本質を学び、さらに謀略・調略によって敵を弱
体化させる手腕を学び、三国同盟によって背後を政治的に固める事
を覚えた。
信濃との戦いによって、大軍を効率よく弾力的に運用することさえ
もマスターしている。
さらに言うと、一度支配した土地は、後年まできっちりと管理しき
っている。
これは、面従腹背を繰り返した伊那衆・諏訪衆を掌握する課程で学
んだのであろう。
一方で晴信は、内政にも優れた手腕を発揮した。
金山を開かせ、治水を行い、さらにこの頃からは長尾の信州への野
623
心を察して、棒道と呼ばれる諏訪までの軍用道を開削し始めている。
切り通し工法によるこの軍用道は、甲斐から信濃への防衛戦の移動
を、わずか数日で実現させるだろう。
そして山の尾根尾根に砦を築き、狼煙によってリレー式に変事を躑
躅ヶ崎館に伝送するシステムも構築しはじめている。
一つ一つの戦に関しては、長尾景虎も武田晴信に匹敵するだろうと
良之は見ている。
特に、寡兵であっても10倍の戦力に圧勝するという景虎の用兵の
巧みさは、自身の側室であるお虎から何度も聞かされていた。
だが、越中や揚北すら治められなかった長尾家が、この先信濃を狙
おうと、上野を狙おうと、治められるはずがない。
そのあたりが、武田や北条にあって長尾に無い能力だと良之は分析
していた。
624
天文22年夏 1
良之からの話を聞いて、長尾景虎は悄然と力を落として春日山城に
戻っていった。
殊に、
﹁他国に兵を出す暇があるのなら、国人が二度と反乱などしようと
思わなくなるような、豊かな国にして見せろ﹂
と言われたことが景虎を打ちのめした。
景虎は再び陸路、越後から越中新川郡に入り椎名家を訪ね、その足
で新川を超えて富山城下に入った。
川を越えた途端に、庶民たちの着ている服、肌のつやが明らかに違
うことに景虎も気づいていた。
しかも、農民たちが持って居る農具は、品質が明らかに越後とも、
椎名領とも異なっている。
高品位でぜいたくに鉄を用いて作られているのである。
さらに、二条領に入った途端、そこかしこで道路の普請が行われ、
蔵や長屋が建設され、さらには見たことの無いコンクリートと呼ば
れる素材によって護岸治水工事が行われている。
最初は泥のようなコンクリートは、乾燥すると岩のように堅くなる
と言う。
さらに進むと、二条領では積極的に河川に橋を架けている光景をよ
く見ることになった。
聞けば、二条の御所様の指示だという。
景虎は岩瀬から船で直江津に引き返し、春日山に戻った。
そして、小笠原を富山に送り出す一行に村上義清を同道させ、つぶ
625
さに富山を見聞してこいと命じた。
渋っていた村上もやむなく富山に向かい、景虎と全く同じ感想を抱
いた。
そして、織田上総介指揮による軍事調練を見て、やっと良之の配下
に加わる決心をするのだった。
小笠原信濃守は、二条家の家臣団に礼法を教える事となり、村上義
清はこの後、槍部隊の総監として、長槍の規格統一や槍衾といった
戦術を二条軍に導入することになる。
木下藤吉郎は、良之の指示通りに職人を手配し、出雲崎と呼ばれる
海岸線の近く、尼瀬に職人長屋を建てさせている。
一方で人足を多数動員して、沈殿池や油井掘削予定地の整地、油井
を作るための場所を数メートル四方の正方形に掘り下げさせ、コン
クリートによって堤防を作る作業などをやらせている。
良之から説明された油井掘削では、ドリルビットに常に高圧の水を
当て続けるという。
これはドリルビットの冷却と共に、掘削した際に出る土砂を取り除
く目的もある。
その泥水が井戸から吹き上げてくるので、その排水施設をコンクリ
ートで作っておかないと、油井周辺の土砂が流れてしまって、土台
が脆くなり危険なのである。
藤吉郎にとっては、得意なコンクリート工法という事もあり、良之
は彼にひとまず全工事を任せて越中に帰っている。
嫁いできた後奈良帝の娘の普光女王が、すでに富山御所に到着して
いる。
良之は取り急ぎ普光女王との祝言を挙げる。
626
﹁子作りは、あなたの身体がもう少し育ってからにしましょう﹂
と良之はいって、初夜に緊張している普光女王の横でとっとといび
きをかいて寝てしまった。
実際問題、医療担当の望月千からの報告では、普光女王の身体は決
して壮健ではないと言うことだった。
年齢も未だ16才という事もあって、まずは彼女にはしっかりと栄
養を摂ってもらい、適度な運動をする事で、出産に耐える身体を作
ってもらうより他に無い。
祝言が終わると、良之は数人の職人と木下小一郎を召し連れて、疾
風のように岩瀬から柏崎に発ってしまったのである。
﹁なんとひどい殿御に嫁いでしまったかと思いました﹂
その後、良之はさんざんに普光女王に言われ続けることになる。
藤吉郎は小一郎のサポートが得られたことで活動に幅が生まれてい
た。
そこで、同時並行で油井を建設するための足場組みを開始すること
にした。
油井の鉄骨は、良之が錬金術で錬成する事になっている。
完全にこの時代においてはオーバーテクノロジーで、材料となる鋼
鉄の生産力も、現場まで運ぶトレーラーも、それをつり上げるクレ
ーンも無いのである。
良之自身が足場に上り、地面から屹立する四本の支柱をその場で直
接錬成して上に上に伸ばすという、
﹁なんとでたらめな⋮⋮﹂
と藤吉郎が嘆息するような力業で全高50メートル近い油井やぐら
を建造してのけたのだった。
627
掘削に必要な動力はふたつある。
油井やぐらで、滑車で吊すシャフトやパイプをつり上げるためのモ
ーターと、水を圧入させるポンプ。このふたつの動力源は電気であ
る。
そして、シャフトを回転させ地盤を掘削するための回転力。
良之はここで、ディーゼル発動機を利用することにした。
大学時代の友人に自動車部の部員がいたこともあり、良之にとって
はエンジン系の理解はあった。
さすがに1からエンジンを作ることは骨が折れたが、彼には、エン
ジンの設計図というのに等しいメンテナンスマニュアルがあり、分
解する気はないにせよ、実物のトヨタ製のエンジンを積んだキャン
ピングカーがある。
この車を購入する際、エンジニアであった祖父はメンテナンスマニ
ュアルを全種類発注してよく眺めていた。
良之は、マニュアルから逆算して必要となる部品と工具を全て錬成
し、500馬力のディーゼルエンジンを組み上げた。
操作はバーハンドルで行う。
横置きのエンジンの回転は、歯車によって垂直に地面に立つシャフ
トに伝えられる。
発電機もまた、キャンピングカーに搭載されたホンダ製ガソリンエ
ンジン型の機種を、錬金術で模造した。
先に完成していたドリルビット。
これはローリング・スリーコーン・カッターと呼ばれる、シャフト
回転によって歯車が回り、ダイヤモンド歯が取り付けられた円錐形
のコーンが回転して地盤を掘り進めるビットを選択した。
良之は、この油井がせいぜい、長くても400メートル程度掘り下
げると原油が自噴する事を知り抜いている。
628
シャフトもパイプも、その程度しか用意していない。
しかも、ボーリング調査すら必要が無い。ここが日本石油発祥の地
であり、当時でも日産7キロリットルもの自噴量が得られた事を知
っているからである。
実物を稼働させたことの無い良之は、この石油掘削法が生まれた1
880年代にはあり得なかった高品位の部材を錬成している。
タングステン鋼、クロムモリブデン鋼などである。
掘削させたシャフトのつなぎには藤吉郎指揮の下、職人たちが当た
っている。
旧暦7月下旬には地盤を貫き、石油層に到達した。
自噴する原油を汲み上げるためのパイプの敷設を完了した良之にと
って、次に必要となるのはパイプラインだ。
尼瀬の海岸線に、船に直接原油を積み込めるラインを作り、船は原
油タンカーとして極力人力での積み卸しを廃した輸送形態を模索し
た。
千石船を作り終えた越中の船大工にオイルタンクの仕様を図面で示
し、鉄製のタンクを内包した千石船を作らせる。
千石船のタンクには船腹にバルブを持たせ、運ばれる富山港の陸上
と接続してポンプで吸い上げる方式にする。
原油と共に噴出する天然ガスについては、良之は妥協せざるを得な
かった。
昇華するガスはガスタンクで収集させる機構は作ったものの、タン
クからボンベに詰めて富山に運ばせる以外に道はなく、タンクの容
量にも限度があるため、残りは大気として海上に排気せざるを得な
い。
629
液化技術が導入できれば、プロパン、エチレン、メタンと分溜が出
来る上に体積もおよそ600分の1にまで圧縮できる。
だが、良之はここに居続けて数年、もしくは数十年にわたって技術
を伝播させるようなゆとりはなかった。
それに、LNGタンカーなどを作り出せるような船舶技術も、現状
の船大工たちには無い。
油井の完成をもって良之は春日山城へと向かい、長尾家と後事を相
談した。
直江津でも石油タンカー建造を依頼し、船が完成したところで富山
に回航させ、石油タンクの取り付けを行うこととした。
原油輸出港の建造のため、木下藤吉郎、小一郎などを尼瀬に残し、
良之は一足先に富山に戻った。
7月下旬。
越中に帰還した良之を、武田刑部信廉が待っていた。
﹁御所様。このたびは我らにお国の見聞をお許し頂き、誠にありが
たく﹂
信廉は平伏し、礼を述べる。
﹁また、お聞きしたところでは、越後の長尾家の信濃への進軍をお
諫め頂き、小笠原、村上両家の残党を越中にお引き取り頂いた由、
感謝に堪えませぬ﹂
﹁別に、武田のためにやったわけではありません﹂
くそうず
その言上に良之は一言釘を刺す。
﹁俺は越後から草水を安定して買いたいし、そのためには越後の安
定が欠かせません。信越の国境で争いが多発すれば、やがては大き
な戦に発展するでしょう。それが困るという事です。刑部殿、もし
この後、武田家が美濃や木曽、上野や越後に野心を抱くようであれ
ば、当家としても黙ってみていることは難しくなるかも知れません﹂
すでに良之の軍の種子島や迫撃砲の威力をつぶさに見聞した信廉は
630
青くなる。
総兵数では2万を超える武田軍だが、その動員は農閑期に限られる。
農繁期の動員はその年の収穫に直撃するし、合戦による死傷者数は、
労働人口の減少に如実につながる。
ところが、二条領の兵たちは一切の農業から切り離され、近頃は幹
線道路の切り通しなどの事業に駆り出されては居るが、基本的には
常に武芸を練り上げられた精兵である。
武田家としては、信濃をほぼ手中に収めた今、次の目標として美濃
の遠山氏、上野の長野氏、そしてあわよくば越後の長尾氏などに戦
略的な狙いを持って居た。
良之の指摘通りである。
だが、越後は二条の婚戚であり、美濃に出るためには木曽を通らね
ばならない。
上野に出る場合、やがては北条と領地が接するため、早晩武田の領
土拡張政策は行き詰まることになる。
戦で領土を広げなければ、山合にある甲斐や信濃では食わせ切れな
い。
また、塩の価格から分かる通り、武田領には海が無く、その物流に
潜在的な危機がある。
武田は、甲斐での政権が成立した鎌倉期当初から、生存本能のよう
に港を欲し続けたのである。
武田信廉が良之を待ち富山に留まった理由は、療養所の建設をねだ
るためである。
良之が温泉地に療養施設を自前で建設することを条件に美濃や越後
で療養所の運営を引き受けていることを聞き及んでいる信廉は、甲
斐や信濃での同施設の運営を良之に依頼した。
信濃についてはすでに木曽に建造が決まっているため、良之は甲斐
についてそれを了承した。
631
この時代の甲斐古府中には、その名の通り﹁湯村﹂という集落があ
る。
開湯は弘法大師と伝わるが、実は日本中に伝説として弘法大師が杖
を岩や地中に差し込み、そこから源泉があふれ出たという話が伝わ
っているのを良之は知っている。
︱︱空海はよほど温泉マニアだったんだろう。
さもなければ、どこかで聞き及んだ村人が、自身の源泉にも置き換
えたか。
良之はそんな風に思っている。
それはともかく。
療養所への運営依頼を快諾された信廉は、続いて、優れた山師であ
る、と思われている良之に、信濃や甲斐における新鉱山開発につい
て依頼した。
これについては、良之は断っている。
武田が独立した大名である以上、良い時はいいが、関係が悪化した
ら、良之にとっては人的、資源的なデメリットが発生する。
同様の理由で、信廉が求める電力開発や旋盤、ボール盤などの技術
供与についても断った。
千歯扱きや足踏み脱穀機の甲斐での模造については、これを認めた。
そもそも、こうした発明で利益を得るつもりが、良之には毛頭無か
ったのである。
632
天文22年夏 2
甲斐の武田は、越中の新製品であるマッチや石鹸、そして塩なども
欲していた。
輸出するのは構わないが、その流通経路が問題になる。
良之は、越中に入っていた越後古志長尾家の当主、長尾十郎景信と
武田刑部信廉を対面させた。
越後と甲斐・信濃を経済的に結びつかせ、経済で対立関係を融和さ
せようと考えたのである。
どちらにせよ、越中から産物を送るための経路は、高山から木曽へ
の木曽道だけでは脆弱だった。
もし産物を送ろうと考えた場合、その経路は富山港から直江津に船
便で運び、直江津から陸路で信州に運び入れるしか無い。
﹁これが実現すれば武田は物資を、長尾は人件費と通行税を得られ
ます。それだけで無く、交流が生まれれば、両家の対立もやがては
緩むでしょう。双方、良く考えて下さい﹂
と、この2人の重臣に議題を持ち帰らせ、検討させることにしたの
だった。
新たに建造せねばならないタンカー船のため、良之は溶接技術を開
発しなければならなかった。
原油を運ぶためのタンカーなので、油槽の堅牢性と密閉性が要求さ
れる。
この時代にはすでに、鋳掛けと呼ばれる溶接技術が存在する。
鉄と鉄の間に、熔解させた金属を流し込むことで、金属間を密着さ
せる技術である。
633
この技術は古い。
少なくとも奈良の大仏などは接合部に鋳掛けが使われている。
奈良の大仏は西暦752年の開眼なので、少なくともすでに800
年もの歴史があるといえる。
スポット溶接やアーク溶接といった電気溶接が利用出来るようにな
ればいずれ、堅牢な溶接も可能になるだろう。そのためには大規模
な発電、変電、送電と言った難問が横たわっている。
良之は、五枚の正方形の鉄板を鋳掛けで溶接し、その中に水を張ら
せて漏れの無い鋳掛けが出来るように鋳物師たちに修行をさせた。
親方衆には、石油タンカーの構造を熟知させ、その用途を説明し、
船内に油槽を作るための訓練を監督させた。
また、材木組みのドライドッグを作らせて、木製のクレーンを用意
させた。
滑車こそ鋳鉄で作らせたが、これによって船内の油槽製作作業の効
率を上げたのである。
製釘用に作った鋼線製造ラインをもう一基製造し、ここでワイヤー
用鋼材を生産し、クレーン用ワイヤーの製作を開始した。
そして、良之はこの頃には、水車による既存の銅圧延工法による銅
線の供給力に限界を感じ、純銅による銅電線の圧延工場も建設をは
じめている。
メカニズムは、釘やワイヤーを作る圧延とほぼ同じである。
多忙のため良之が面倒を見られなかったジャガイモの収穫が終わり、
蔵の中で唸っていた。
一部はすでに種芋として輸出され越中、美濃、尾張あたりで秋植え
がはじまっているようだ。
634
﹁ポテトチップスを作ろう﹂
良之は久々に台所に入ると、スライサーとピラーを作りジャガイモ
を下ごしらえし、食用に精製した菜種油を加熱し、次々と揚げては
塩を振った。
﹁これはうまいねえ﹂
﹁美味しいです﹂
妊婦の側室たちと正妻の普光女王たちは、はじめはおっかなびっく
りだったが、おずおずと山積みされたポテトチップスを食べ始めた
が、その風味に魅了されてあっという間に食べ尽くしてしまった。
作り方を台所を監督する藤吉郎の姉、智に教え、越中の幹部たちに
も振る舞ってみた。
おおむねポテトチップスは好評だったが、特に新しい物好きの織田
上総介は大喜びだった。
次いで、飛騨や木曽の幹部たち、それに越後で頑張る藤吉郎や小一
郎にも届けられた。
次に良之が挑戦したのは煮っ転がしである。
<収納>にストックしていた貴重な豚のバラ肉を塩抜きし、芋と出
汁を炊いてこんにゃくや長ネギなどと砂糖・醤油で甘辛く炊いた。
これも智に良く作り方を教えて大量に作らせた。
獣肉が入っていることで普光女王にはひどく嫌がられたが、
しし
﹁健康に良い﹂﹁子供を強く産める﹂
などとあまりに良之が力説するので薬食いとして折り合いを付けて、
やっと食べてもらえたのだ。
﹁⋮⋮﹂
奥の女性陣は言葉も無く、黙々と食べ続けた。
﹁智に作り方教えてあるから、またいつでも食べられるよ﹂
良之の言葉に、女性陣の目が輝いたのは言うまでも無い。
635
ところで、煮っ転がしを作った際に良之は、この時代に日本にタマ
ネギがない事に気がついた。
タマネギはピラミッド建造時代のエジプトにもあったとどこかで聞
いたことがあったので、早速トーレスと五峯に南蛮人からの買い付
けリストに加えてもらった。
種の買い付けと言えば、6月頃に平戸に入荷した良之発注のトマト、
トウモロコシ、甜菜の種が良之のもとに届いた。
どれもすでに種まきには遅れてしまっているため、このシーズンで
の育成をあきらめるしか無いだろう。
平戸の宣教師コスメ・デ・トーレスからの紹介状を持って、1人の
冒険商人が岩瀬港にやってきたのは、旧暦8月2日︵1553年9
月9日︶の事だった。
名前を、ルイス・デ・アルメイダという。
アルメイダは、良之が提供する大量の宝石や顔料に魅了されてこの
地にやってきた。
﹁御所様、お目にかかれて光栄です。私はルイス・デ・アルメイダ
と言います﹂
間に明国人の通訳が入り、それを日本人の通訳が訳す。
面倒になって良之は直接トーレスに、
﹁俺の言葉は分かりますか?﹂
と話しかけた。
﹁御所様はどちらでポルトガル語を?﹂
アルメイダは驚いて通訳たちを下がらせた。
﹁話せば長いんで。それより、南蛮人がいきなり直接岩瀬まで来る
とは珍しい。どういった御用です?﹂
636
﹁いえ、実はあまりにも素晴らしい産物を次々に販売なさって居ら
れる貴人がいらっしゃるという事で、お目にかからねばと飛んで参
りました﹂
そう言うと、アルメイダは貢ぎ物として、金細工のネックレス、象
牙のブレスレット、地球儀、望遠鏡などを良之に献じた。
良之は代わりに、分銅、石鹸、そしてマッチをアルメイダに試供品
として提供し、富山御所の酒席で応接した。
翌日、誰から聞きつけたのか、アルメイダは療養所に関心を燃やし
て、
﹁私は故郷で外科医の称号を得ております。是非お国の医療を拝見
させて下さい﹂
とねだった。
そこで、良之が自ら富山城下の療養所に案内をした。
﹁ここは、どういった療養所ですか?﹂
﹁結核、痘瘡、それに癩病の治療施設です﹂
﹁⋮⋮﹂
アルメイダの知識では、どれも難治の病気である。
﹁治療とおっしゃいましたが、治せるのですか?﹂
﹁ええ。今のところ療養者は半年から一年ほどで完治して退院して
います﹂
﹁完治!﹂
アルメイダはしばし呆然として、
﹁完治、というのは私の国では完全に治ることを言います﹂
良之のポルトガル語に問題があったと思ったらしい。アルメイダは
そう問い直した。
﹁その通りです﹂
良之にあらためて念を押された。
637
﹁ど、どのように癒やすのですか?﹂
﹁投薬治療です。この三つの病に共通しているのは感染力のある目
には見えない菌による感染です。それらを、薬で駆逐します﹂
﹁kin?﹂
どうやら、概念に無い言葉がそのまま翻訳されず伝わったようだっ
た。
﹁菌というのは、目では見えない病気の原因を指し示す言葉です。
いろんな種類があり、良いものはパンやチーズ、ワインなどを作り
ますが、悪いものは、カビになったりこうやって人間を病にかから
せます。それを殺す薬を作りました﹂
﹁⋮⋮すいません。私には理解の及ばないお話で⋮⋮では御所様は、
たとえばペストやコレラも治せるのでしょうか? あるいは壊血病
も﹂
﹁ペストやコレラはまだ患者に会っていないから分かりません。壊
血病は菌によるものではありません。あれは栄養失調の一種ですよ﹂
﹁壊血病は治せると?﹂
﹁ええ。というか、予防が出来ると思います﹂
アルメイダのショックは大きかった。
心の奥底では、日本と西洋医学との格差はあまりに大きく、医療に
関しては日本は取るに足りない国家だと心中侮っている部分もあっ
た。
だが、地球を半周してこの地にたどり着いたアルメイダにとって、
これほどの医学は、どこですら見たことの無いハイレベルなものだ
った。
とても、にわかには信じることが出来なかった。
﹁詐欺師だ﹂と叫びたくなる衝動をじっとアルメイダはこらえてい
た。この異国の貴人はどうしたことか彼の母国語を理解する。
療養所から富山御所に戻る。
638
﹁御所様、いかがでしょう? 壊血病の特効薬、ひとまずゴアに送
り治験をなさっては? そうですね、1000人分を2年分ほどで
良いでしょう﹂
﹁必要ありません。作る気も売る気もありませんから﹂
﹁⋮⋮失礼ですが、御所様は、喜望峰を回ってヨーロッパからイン
ドに来るうち、どれほどの船員が病に倒れ命を落とすかご存じです
か?﹂
﹁知らないし知る気もありませんね。アルメイダ殿、あなたは誤解
している。俺は聞かれたから﹃壊血病は予防できるしその薬も作れ
る﹄と言っただけです。そもそも売る気も教える気もありません。
あなたが俺に求めるならば、治験のための無料提供では無く、いく
ら出せば売ってもらえるかの交渉では無かったのですか?﹂
﹁ですが!﹂
まず薬などと言うのは本当に聞くかどうか試しでもしなければ誰も
金など払わない。
それはそうだ。そのくらいは良之にも分かる。
﹁アルメイダ殿。あなたの船には何人乗ってますか?﹂
﹁160人ほどです。遠洋だと100人でやりくりします﹂
﹁俺の船にはね、アルメイダ殿。いま12万人乗っている。あなた
ももし喜望峰あたりで食糧が尽きたらどうなるか、よくご存じでし
ょう?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁では、いかほどでお譲り頂けますか?﹂
アルメイダもさすがは海千山千の冒険商人である。
さっと気持ちを切り替えて表情に笑みを浮かべた。
その切り替えの速さは知性と剛胆さの表れだと良之は感心した。
良之はこのとき、値付けに際して永田徳本のことを思い浮かべてい
た。
639
医聖、と呼ばれる。
甲斐国で医術を施し、どんな薬を投与しようと患者からは1人16
文しか取らなかったという。十六文先生などと呼ばれ、流浪の旅の
どこにおいても愛された。
武田信虎の元で医術を施していたが、息子の晴信がクーデターで父
を駿河に追った直後に甲斐を離れた。
そのため、良之は今日まで本人とは会えずじまいである。
﹁では1人分1日16文で﹂
100人分を700日で1120貫文。莫大な金額になる。
だがあっさりとアルメイダは﹁分かりました﹂とうなずいて、急い
で平戸に引き返した。
640
天文22年夏 3
言ってしまったからには仕方なく、良之は阿子を呼び出してビタミ
ンC製剤の生産を図った。
糖
現在のビタミンCは、小麦粉やコーンスターチと言った穀物粉から
酵素によってグルコース化を行い、さらに化学合成で中間物質化さ
せて、数種の酸やアルカリ、溶媒などを使って工業製品化させてい
る。
古典的製法は、乳酸菌による発酵でグルコースをビタミンCへ変質
させていたが、溶媒による抽出などで生産効率は飛躍的に向上して
いる。
阿子とその性質について綿密に打ち合わせた上で、彼女に錬金術の
触媒化を進めてもらった。
良之が準備するのは、錠剤を入れるビンである。
正確には、ビンを成型する金型だ。
良之の時代の製ビン工程は、すっかりロボットオートメーション化
されていた。
ガラスを溶かして成型する工程より、むしろリサイクルされるビン
からゴミやアルミキャップを取り除くような作業の方に人的リソー
スを使っているような状況だった。
ガラスビン作りの要点は金型作りだ。
溶解させたガラスを吹き竿で中空に膨らませ、その玉を金型にブロ
ーで押しつけ成型する。ビンの口にあるねじ山も、このとき成型さ
れる。
キャップは、プレス機で加工される。絞り加工という。
円盤形に打ち抜かれた素材を、数回のプレスで徐々にガラスビンの
キャップにプレスして整えていくのだ。
最後にキャップの縁を丸め、中にゴム製のパッキンとなる塗装をす
641
れば完成である。
ガラスビンについては、将来多方面で用途が生まれるので、専従の
職人をビン、キャップごとに任命した。
ビタミンCと、錬金術で精製したカオリン、炭酸カルシウム、粉糖
に少量の砂糖水を霧吹きで拡散して良くこね、木型で作ったタブレ
ット錠に押し込んで固めさせ、それをテーブルで打ち出す。
良之が錬金術で錬成してしまえばあっという間だが、それでは少し
も産業として育たないので、阿子に命じて彼女に職人の育成をさせ
ている。
阿子は良之から習った通りに彼女の配下の教授に教え、職人の育成
は教授たちが行っていく。
木型に錠剤を詰めて打ち抜くのは、本質的には落雁というお菓子と
全く同じ作業である。
そして、工房から上がってきたビンに詰め、完成だ。
セラミック
ひとまずいくつかの工房も完成して落ち着いたこともあって、良之
は鉛筆作りを再開した。
鉛筆の芯が本質的には焼き物、つまり陶器に近似することは以前に
触れた。
炭化ケイ素のケースに、圧縮機で水鉄砲のように押し出された鉛筆
の芯を束ねて入れ、1100度という高温で9時間焼く。
焼き上がった芯は、豚ラードの脂肪を母材とした油の中に漬け込ま
れて焼き鈍しされる。
この脂が芯に染み込むことによって、書き味のなめらかな芯が生ま
れるのである。
軸木の座繰りはドリルビットで行う。
642
まず左斜め、右斜めと2回、カッティングソーと呼ばれる丸くて薄
い円形のノコギリで▽型に木の腹を刻み、そこに先端の丸いドリル
ビットで均一に座繰りをする。
ここで登場するのが、酢酸ビニルエマルジョンである。
日本では小学校の図工の時間に教材で使われるため、大変なじみ深
い。
木工用ボンドである。
酢酸ビニルエマルジョンは、木炭の副産物である木酢液を分溜して
取った酢酸と、同じく木酢液の分溜や原油の精製で得られるエチレ
ンやアルデヒドを化合させ、その後重合反応を経て作ることが出来
る。
精製水によってエマルジョン、つまり乳化されたのがポリ酢酸ビニ
ルエマルジョン接着剤となる。
鉛筆の座繰りが完了したら、ここに木工用ボンドをすり流し、芯を
乗せて加圧する。
木工用ボンドは加圧されて自然乾燥すると硬化するので、その後に
一本ずつ切り分ければ、鉛筆の完成となる。
鉛筆作りは、引退した山方衆の老練な人材を集め依頼した。
鉛筆加工の工程のうち、軸塗装は省略した。
ひとまず鉛筆がいつでも好きなだけ手に入るようになれば良いから
だ。
鉛筆削りに関して良之は、鍛冶師と鋳物師に肥後守と呼ばれる小型
の折りたたみナイフを量産させることにした。
回転型の鉛筆削りに比べれば、他の用途にも使えて便利な刃物だか
らだ。
黒鉛の輸入については、五峯がなんとか長沙あたりで輸出できそう
な土状黒鉛の鉱山を見つけたようだ。
643
この黒鉛が高額なため、良之の鉛筆はこの時点では、一本が大変高
額になるが、いずれ回収できるようになると良之は思っている。
釘にしろ木工用ボンドにしろ、良之は越中・飛騨・木曽という一大
木工生産地域を支配しているために需要が高かった。
特に木工用ボンドは木工工芸を変革させるほどの効果をもたらし、
釘は家屋建築の効率と、箱や机、椅子などの組工芸品のクオリティ
を押し上げた。
さらに、船大工にとっても釘はエポックメイキングなツールになっ
た。
ただし、船大工にとって釘の問題は打ち付けると木材が割れる事で
ある。
良之は釘の寸法にあった錐を鍛冶師に作らせることで対応した。
前年に集めさせた木蝋を高額商品化させるため、越中の各村の長老
こよ
たちを集め、冬の手仕事としてろうそく作りを普及させることにし
た。
ぜいちく
和ろうそくの作り方はとてもシンプルだ。
易者が占いに使う棒、筮竹に似た一定の太さの竹棒に和紙を紙縒り
状に巻き付ける。
そこに、畳に使うイグサの茎の皮をむいて芯を取りだし、複数本を
丁寧に巻き付けていく。
巻き終わったら真綿の繊維を薄く取りだし、巻いたイグサがほどけ
ないようにかぶせてろうそくの芯が出来上がる。
ここに、ハゼの実から絞った木蝋をしっかりと染み込ませ、丹念に
何度も蝋を潜らせて太らせていく。
最後に白い蝋を手で回しながらなすりつけることで、美しさと白さ
を出して完成である。
イグサは天然に自生しているものを収穫させる。
足りなければ越後の蒲原の湿地から輸入してもいいだろう。
644
和紙は越中も飛騨も産地であり、綿は前年種を取るために育成した
ものが大量に残っているし、今年は尾張で生産している。
冬の厳しい時期にろうそく作りを伝承してもらうことで、収益性を
向上させたいと言うのが良之の考えだった。
和ろうそくは非常に高価で、神事や仏事に用いられるが一般の庶民
には手が出ない。
そこで、石油パラフィンから洋ろうそくも作らせて、普及品として
提供することにした。
洋ろうそくの場合、芯はこよった木綿だ。
ろうそく金型に開けた糸通し穴より少しだけ小さくこよらせ、糸巻
きに巻かせる。
ろうそく金型は、引き抜けばろうそくの形になるように座繰りが為
されていて、ここに木綿芯を通して溶かしたパラフィンを流し入れ
る。
固まったらろうそくの底を断裁すればろうそくのできあがりである。
あんどん
洋ろうそくは庶民の手に届くような価格設定にして流通させた。
高額な行灯油と充分競合できる価格にする事で、領内には一気に普
及した。
堺南東の信太で良之に依頼された畜産に従事している河原衆と、近
辺の百姓との対立が起きている、と皮屋から連絡が入った。
悪臭、騒音や水利などの理由のようだ。
激しく根深い差別意識も手伝って、あまり状況は芳しくないようだ。
良之は、家畜全頭と河原衆全員の越中への移転を決意した。
豚と鶏は五峯に依頼しジャンク船で下関を回って岩瀬港へ。
645
仔牛も同様に船便で。馬と成牛は陸路で越中に入るように指示をし
た。
彼らのために、神通川流域の猿倉山一帯の土地を用意し、畜舎、家
屋、作業小屋、蔵などを敷設させて用意した。
良之には、彼ら河原衆に対する差別と偏見が全く理解出来なかった。
確かに彼らの作業は、悪臭を伴う。
だが、畜産にしろ屠殺にしろ、食肉や皮革や製灰や肥料生産など、
どれを取ってもこの世界に必要な技術だし、素晴らしい産業だった。
良之は美味しい肉や卵が食べたいし、革製品の貴重さは、この時代
にあっては良之がいた平成の世よりよほど高いのである。
良之は自分自身で迎えに出たかったがどうにも産業促進のことで身
動きが取れない。
そこで、下間源十郎に配下100ほどを引き連れさせ、彼らの道中
を保護させることとした。
﹁源十郎。構わないから二条の旗を掲げて歩きなさい。あと、河原
衆には人数分、こっちから古着を買っていって提供してやって﹂
良之の命で、食糧、古着、家畜用の飼い葉などを多量に抱え、源十
郎の一行は彼らが来るであろう道筋を逆行していった。
良之の時代の造幣局の技術である材料の真鍮冶金、プレス加工、モ
ーターによる円周の圧縮成型といった技術は、ここまでの良之の工
場建設によって全て実現していた。
いよいよ、良之は懸案だった自動鋳銭工場の作成に取りかかる。
富山御所から神通川を超えて西。呉服山と呼ばれる標高100メー
トルにも満たない旧領地の北側に、北代と呼ばれる集落がある。
646
この集落のさらに北側を整地させ、およそ500平米の区画を整地
させた。
この整地には、織田上総介を任じた。
さらに、周囲には土居を築き、堀を巡らせる。
そこに、造幣工場を木造で建築させた。
床はコンクリート打ちにして、重量物であるプレス機に耐える設計
を施している。
工場の建屋は木造だが、屋根は銅葺きにさせて工期を短縮。
上物が完成すると同時に良之は内部ラインを建造しはじめた。
まず、プレスのために真鍮板を作る必要がある。
ここは造幣工場の隣に別棟で建造させた。
素材である銅と亜鉛を電気溶鉱炉で加熱し、湯にする。
その湯をローラーによって熱間圧延し、およそ1.3ミリほどにし
て巻き取る。
えんぎょう
巻かれた真鍮板を造幣建屋に搬入すると、再びローラーで曲がりを
取り除く。
これを、プレス機によって円形に打ち抜く。
次に、円形を高速で回転させて硬貨の縁を作る。固い、筒型にくり
ぬいた金型の中に一本の軸を高速で回転させ、そこに円形を流し入
れると、円形は軸と金型の間でぐるぐると回転しながら徐々に縁が
盛り上がっていく。
この工程が終わったら、自動でプレス金型ひとつあたり1枚が乗る
ように円形を滑らせて流し、全ての金型に円形がはまったところで
プレスする。これを圧印と呼ぶ。
圧印は三度同じ金型で徐々に加圧されて行うが、このとき、四角い
穴を開ける部分がもっとも難易度の高い工程だった。
試行錯誤を繰り返しつつ、やっと圧印機も作り上げた。
647
圧印の終わった通貨は、酸で洗われ、水洗して中和し乾燥。
そこで、検品と1000枚ごとにヒモを通され一貫にされる。
この工場の製作に、およそ一月半を費やしたのだった。
生産能力現状およそ一分あたり500枚。
動力に必要な電力は専用重油ボイラー式の火力発電。それも、電気
溶鉱炉と工場の電力を別系統にした。
この工場の完成に合わせ、飛騨の鋳造による鋳銭司は解散。
鋳物師たちは良之が次々に開発する新事業に割り振られていった。
そして、この工場で働く労働力は、主に専業兵士の家族が優先的に
割り当てられた。
生産人口を奪わないための配慮である。
この工場の建設中に、ルイス・デ・アルメイダがビタミン剤を引き
取りにやってきた。
良之はアルメイダに約束通り薬を提供し、
﹁1日一錠服用させて下さい﹂
と、使用法を伝えた。
アルメイダの話では、この薬を一隻の船で試し、その効果を見ると
言うことだった。
ちなみに、アルメイダはこの薬ビンにも激しく興奮していた。
﹁是非工場を見せてくれ﹂
とアルメイダはせがんだが、良之は取り合わなかった。
そんな暇も義理もないし、そもそもこのビンはいわばサービスなの
である。
648
北陸大乱 1
堺の皮屋の了承を得て、良之は、東北と越後の分銅司を越後屋に任
命した。
同時に、関東は虎屋、東海は伊藤屋、北陸は塩屋、近畿、中国、四
国は皮屋、九州は神屋に分銅司を任せることとした。
実際問題、すでに大きくキャパシティを逸脱していた皮屋にとって
も、これは渡りに船だったようだ。
また、広階美作守親方に命じ、分銅の校正が出来る職人の育成を開
始させた。
彼らは、全国の分銅購入者の店舗を回り、分銅の校正作業をして手
数料を取る。
このため、分銅購入店のデータ管理も、分銅司の大切な仕事となる。
運営開始後、1日18万枚の天文通宝生産に至るまでの日数はそう
かかっていない。
大量生産が始まったこの新通貨を流通させるため、良之は日本全土
の商人たちに、鐚銭と天文通宝の両替を申し出た。
新銭1に鐚銭5の率で、どれほどの量の鐚銭でも引き取る。
それらを分銅司に代行させ、彼らにも1割程度の手数料を支払うこ
ととした。
分銅司自らが持ち寄った鐚銭にも当然この手数料を支払ったので、
彼らは積極的に鐚銭を収集した。
回収された鐚銭は、新たに造幣工場横に建造した電気炉で鋳つぶし、
乾式精錬で材質ごとに分離後、電解精錬などにかけられた。
一種のリサイクル施設といえる。
旧暦九月下旬。
649
船便による鶏や豚の輸送、それに、幼い子供や年寄りなどが五峯の
手配した船で続々と岩瀬港に上陸した。遅れて、下間源十郎に率い
られて、牛馬を連れた一団が、越中猿倉の郷に入った。
すでにこの地の農民は収穫を済ませ、来年に向けて別の農地に移住
させられている。
良之が畿内から集めた河原衆は総勢で6000名ほどだろう。
多くは和泉からだが、河内や京からも希望者を引き抜いている。
彼らはまず、自分たちに用意された施設の立派さに驚いた。
そして
﹁今後は河原者では無く、猿倉衆と呼ぶ。そのつもりで励むように﹂
という良之の書状に感動した。
彼らはもちろん、常に良之が自分たちに隔意無く接していたことに
気づいていたし、常の公卿と違い、全く﹁穢れ﹂ということに頓着
していないことも知っていた。
新たな猿倉衆たちは、皆一斉に奮い立って働いた。
様々な加工工場を作れたことで一段落していた良之は、犂の事を調
べていた。
犂。
唐鋤や牛鍬と呼ばれる農具である。
良之が南蛮商人から買い付けている作物には、多くの場合連作障害
がある。
もちろん、現有の内国産作物にも連作障害のある品種は多い。
農民は長年の経験によってそれらとつきあってきているが、もっと
効率の良い犂が作れれば、オフシーズンの土起こしや春先の田起こ
しなどで、化学肥料の施肥の効率と併せて、良好な田畑の運営が出
とうみ
来ると思っていた。
農機具と言えば、唐箕も何とかしたいと思っている。
650
良之はかつて、手回し式の自動選別機の原型を見たことがある。
手で円筒形の風車を回し、籾を飛ばして比重で選別する農具である。
実の詰まった籾は手前に落下し、未熟米やゴミはより遠くまで飛ぶ。
これを利用して、籾の自動選別を行う農具だった。
鉄の利用量も大幅に増えている。
永久磁石で海岸や河川の砂鉄を拾わせ、たたら製鉄などで鉄の原料
を生産したいと思っていたし、飛騨に戻って、神岡や平金の鉱山、
白川付近の各金山などの改善なども行いたい。
やりたいことは無数にあり、とにかく身体と時間が足りない状態に
焦燥していた。
そこに、そうした一切を不可能にする状況が発生した。
天文22年10月2日。
この日の工場視察から帰った良之を、各地の司令官たち全員を集め
た織田上総介が出迎えた。
﹁御所様。お疲れのところ済みませんが、危急の軍議がございます﹂
﹁分かった﹂
良之はひとまず奥で着替えを済ませ、衆議の間に降りた。
木曽の柴田権六や下呂の丹羽五郎左までわざわざ越中まで来ている。
良之はすぐに、能登や加賀、それに砺波の事だと分かった。
﹁御所様、まずは服部から報告があります﹂
上総介が言うと、服部半蔵が頭を下げ、口火を切った。
﹁能登の畠山が加賀、砺波の一向宗の門徒を扇動し、三者が一斉に
婦負郡へと侵攻する構えを見せております﹂
婦負郡というのは、良之が支配した富山を含む一帯の事だ。
放生津などの一帯は射水郡。
﹁射水にはすでに、畠山の斥候が出没しているようです﹂
半蔵の報告にうなずいて、千賀地を見る。
651
﹁飛騨の白川も、加賀より斥候と覚しき者どもが入り込んでおりま
す﹂
千賀地石見守も良之の意を理解して報告する。
﹁上総介殿。飛騨の備えはどのくらい必要ですか?﹂
﹁そうですな。兵3000。鉄砲1500、迫撃砲20門といった
ところでしょうか?﹂
信長の言葉に、司令官たちも皆うなずいた。
﹁じゃあ残りの兵9000、鉄砲8500、迫撃砲80を二分して、
一方を放生津、もう一方を増山城に入れて下さい﹂
﹁御意に﹂
上総介はうなずいた。
﹁俺の直轄は滝川、望月三郎、千、下間、鈴木孫一。それに、藤吉
郎と小一郎を越後から呼び寄せます。残りのものは、全て上総介殿
の指図とします。いいですか?﹂
一同を見渡すと、全員、
﹁御意﹂
と頭を下げた。
﹁彦は放生津へ、源十郎は増山へ、それぞれ迫撃砲40ずつで進軍
して下さい。攻撃の指示は俺か上総殿が出します。孫一殿は白川へ。
指揮は丹羽殿が執ります﹂
﹁はっ﹂
3人はうなずいた。
﹁三郎は全軍の情報統括。それと草から上がる情報を俺と上総殿に
上げる繋ぎです。飛騨、越中の旧支配者たちには、各地の警察を指
揮させ、物取りや野盗に備えさせて下さい。決して百姓たちに落ち
武者狩りなどをさせないよう取り急ぎ厳命して下さい﹂
﹁ははっ﹂
三郎が平伏する。
﹁上総殿。こたびの戦も、敵の首など必要ありません、討ち取って
もうち捨てておきなさい。そして、略奪放火など一切を禁じます。
652
徹底させて下さい。従わないものは磔にでもして下さい﹂
﹁承知﹂
織田上総介は、良之の指示が終わると一同に向き直り、軍令を発し
た。
﹁では陣構えを決める。五郎左﹂
﹁はっ﹂
﹁白川の萩町にて大将を命じる。川尻、千賀地、前田は副将とする﹂
﹁はっ﹂
﹁権六﹂
﹁はっ﹂
﹁増山を任す。服部、池田、江馬を副将とする﹂
﹁はっ﹂
﹁他はわしと放生津じゃ。こたびは全軍を動員する。木曽、下呂の
軍は急ぎ白川へ入れよ。向牧戸のみは動かさず越前に備えよ。平湯
と富山の兵は、それぞれ増山、放生津へ動かせ﹂
﹁ははっ﹂
上総介信長の命令によって、即、三郎が草を飛ばして全軍を動かし
た。
上総介の陣には、副将として小笠原信濃、村上左少将が付いている。
他に、馬回りとして塙、伊藤、生駒、佐々などが加わっている。
良之は、すでに産み月に入った越後殿を見舞った。
﹁悔しいねえ、もうちょっと待ってくれたら、あたしも戦に出られ
たのに﹂
﹁冗談じゃ無いよ、赤ん坊連れで戦われちゃさ﹂
良之は、お虎ならやりかねないと苦笑した。
﹁アイリもフリーデも、とにかく大事にしてよ? 富山を3人に任
せるから。行ってきます﹂
653
﹁行ってらっしゃいませ﹂
3人は努めて不安を顔に出さず、明るく良之を送り出した。
藤吉郎と小一郎は、慌てて越中に引き返した。
﹁塩屋殿に飛騨の兵站を任せてるから、2人は越中の兵站を頼むね。
小一郎は増山を、藤吉郎は放生津を頼みます﹂
﹁承知しました﹂
﹁わしもでごぜえますか﹂
小一郎はいきなりの大任に驚いた。
﹁小一郎には、塩屋の番頭を付けるから大丈夫。しっかり学びなさ
い﹂
良之はそう励まし、2人を送り出した。
良之はそのまま、増山城へ向かった。
下間源十郎に逢うためである。
﹁源十郎、門徒と相争わせることになった。申し訳ない﹂
良之は、呼び出されてきた源十郎に頭を下げた。
﹁なにをなさいます御所様!﹂
慌てて源十郎は良之の両手を取って、頭を上げさせた。
﹁とんでもないことにございます。この源十郎、先の使いの折、石
山の宗主様よりも言付かってございます。御所様に弓を向けるはす
でに、我らが同朋にあらず。その時より我ら浄土真宗は彼の者ども
を破門とし、存分に討ち果たす所存にございます﹂
﹁そうか⋮⋮ありがとう。源三郎。俺もお前にと法主殿から預かっ
てるものがある。受け取ってくれ﹂
良之は<収納>から、本願寺証如御筆の幟を取り出した。
それは見事な幟だった。真っ白な絹地に
654
﹁南無阿弥陀仏﹂
と墨筆されたものだった。
﹁もう一流あるんだ﹂
良之はもうひとつの幟を出した。
﹁王法為本 仁義為先﹂
と、やはり黒々と墨書されている。手が違う。
﹁こっちはね、蓮淳法眼殿がよこして下さったんだ﹂
この幟を見て、源十郎ははっきり気がついた。
これは、先方からもらったものではあるまい。
御所様が、自分のためだけに、宗主様と法眼様に頼んで作らせたに
違いない。
宗主証如なら自発的にあるいはこうして幟も下さるかも知れない。
だが、蓮淳はそういう人物では無い。
怖い、恐ろしい人だった。
御所様のためならともかく、自分程度のもののために、こんな幟に
揮毫なぞするはずが無かった。
﹁御所様、お願いがございます﹂
﹁うん﹂
﹁この幟、錬金術で複製して頂けませぬか? 御手のものはそのま
ま<収納>でお預かり頂き、復製を用いとうございます﹂
﹁分かった﹂
風雨に晒したくないのだろう、と良之は思い、言われたままに良之
は復製を作った。
王法為本、仁義為先。
本来仏教では、王法と仏法は並び立つものと言う思想がある。
一向一揆や法華一揆などはこうした思想から権威を得ている。
国家を運営する人間たちと同等の権利と資格を我々は持っている。
それが仏法だという思想によってこれを大義名分として、宗教一揆
は導かれている。
655
もと
対して、蓮如が説いたのが、王法為本である。
王法を本と為し、仁義を先と為せ。
王法というのは、突き詰めて言えば人間社会のルールのことだ。
王、つまり現世の支配者の定めた法という意味である。
対して、仏法というのは宗教的理念のことといえる。
仏が導く法、という意味になる。
﹁王法は額にあてよ、仏法は内心に深く蓄えよ﹂
とも蓮如は説いた。
現世においては世情のルールを押し戴き、心の平安のため内心で仏
法を抱いて生きろ、というほどの意味だろうか。
おんり えど
ごんぐ じょうど
少なくとも蓮如の思想は、一揆衆の掲げる
﹁厭離穢土欣求浄土﹂
などという思想とは、全く異質である。
この穢れた現世を離れ、仏の浄土に行きたい。
などという理論をすり替え、
﹁仏のために討ち死にしたら、魂は極楽で幸福に過ごせるのだ﹂
というまるで集団催眠のような扇動に変わり、一揆というテロを正
当化しているのに過ぎないのである。
一向一揆が精強なのは、ひとえにこの兵士1人1人の心根による。
他の兵が、支配や出世や略奪といった損得勘定で動いているのに対
し、宗教一揆は、上部は知らないが、少なくとも末端の細胞は、こ
うした心理誘導で動いているのである。
656
北陸大乱 2
下間源十郎に二流の幟を手渡すと、その日のうちに良之は放生津に
入った。
全軍の集合が終わると、織田上総介は全軍に小矢部川を渡河させ、
守山城へ入る。
同時に、草のものに狼煙を上げさせ、増山城の兵は南方の支城鬼ヶ
城へ、白川の軍は荻町城から西方の馬狩へと進軍させた。
この戦に際し、織田上総介は良之から4色の発煙筒を狼煙として提
供されている。
白、赤、黄、青色である。
発煙筒は、各拠点とその中間の狼煙台に豊富に用意され、その色の
組み合わせによって指示があらかじめ決められている。
白川は途中の砺波が敵地のため、富山経由で猪谷、白木峰、水無山
と狼煙台の伝達が行われる。
旧暦10月5日。
戦端はは鬼ヶ城下の三谷で切られた。
土地の古族南部源左衛門を先導にした砺波の一揆衆4000が庄川
を渡河。
そのまま北上して帯陣していた柴田権六軍に接敵した。
﹁おのれらいずこの手の者かッ!﹂
のぼりばた
大音声で叫んだのは、下間源十郎である。
その瞬間、柴田軍は全ての幟旗を揚げる。
砺波の門徒衆は息をのんだ。
﹁南無阿弥陀仏﹂
657
﹁王法為本 仁義為先﹂
二流の幟が嫌でも目に焼き付いた。
﹁良いか、この幟は石山の宗主様御自らの手によるものぞ! こち
らは、法眼様の手による幟じゃ。このまま攻め寄せれば、おのれら
皆、破門とするぞ!﹂
源十郎の声に先団の一部は動揺したが、
﹁かかれえ!﹂
後方から、1人の僧形が叫ぶと、源十郎の声を無視して、進軍を再
開した。
﹁下間殿、撃て!﹂
権六もまた大音声で命ずる。
その声に励まされ、源十郎は配下に迫撃砲を撃たせた。
炸裂弾は一瞬で、指揮を執っていた僧が居た周辺を壊滅させた。
道案内をしていた隠尾城主南部家の手の者100は散り散りに逃げ
る。
だが、門徒衆は口々に﹁南無阿弥陀仏﹂と唱えながら一斉に走り寄
ってくる。
急速に近づく敵軍に対し、迫撃砲はあまり効率の良い武器では無い。
源十郎は主に、後方で進軍を待つ敵軍に向けて炸裂弾の発射を命じ、
敵の間合いが近づいたところで、鉄砲隊と入れ替わった。
﹁撃てぇ!﹂
権六の指揮で鉄砲隊が入れ替わり立ち替わりに連射を続ける。
みるみるうちに前方に敵軍の屍が山となる。
それでも進軍をやめない前衛に対し、後衛の敵軍は遁走をはじめた。
﹁撃ち方、やめ!﹂
権六が命じた頃には、敵軍4000のうち、3000が死体となっ
ていた。
658
権六は草のものに、赤と黄色の狼煙を上げさせた。
開戦の合図である。
そのまま死体を踏み越え全軍は南下。
南部源左衛門の隠尾城は降伏、開城した。
この頃、守山城でも赤と黄色の狼煙が上がった。
氷見の街から放火のものと思われる黒煙が上がったためである。
﹁進め!﹂
織田上総の号令一下、全軍は北上を開始した。
やがて、おそらく能登の総動員の限界に近いと思われる1万あまり
の軍勢が、朝日村を焼き略奪をしている光景と出会った。
良之は軍頭から進み出て叫んだ。
﹁畠山義綱! 帝の御意志に楯突いた門により、朝敵と為す!﹂
その瞬間。
二条藤の幟の横に、日月二流の錦旗がはためいた。
﹁能登の真宗一党は、本願寺法主証如殿より、破門が言い渡される
!﹂
略奪から一転、二条軍へと転進しつつあった畠山軍に衝撃が走った。
実権がないとは言え、朝廷からの権威によって大名の座を維持して
いるのである。
それは、武家の棟梁たる幕府もまた同じであり、将軍自身も、帝の
家臣であることに変わりは無い。
﹁畠山義綱! 強盗の罪において官職、位階を剥奪し、勅勘申し渡
す。従うものは全て朝敵とする。覚悟せよ!﹂
659
良之の声は、敵のみならず静まりかえった味方の隅々にまで響き渡
った。
畠山1万に対し、良之の軍は4500。だが、この時点で士気の差
が歴然となった。
わずかに浮き足だった畠山軍の動揺を見逃す織田上総介ではなかっ
た。
﹁滝川、迫撃砲斉射!﹂
﹁撃て!﹂
時を置かず彦右衛門の号令が飛び、迫撃砲兵40が次々と畠山軍に
迫撃砲を撃ち込んでいく。
略奪によってばらけていたため、幸か不幸か死傷者は1000ほど
だったが、それでも畠山軍は総崩れし、潮が引くように北へと引き
上げていった。
名君畠山義総が縄張りした対越中・加賀の大城郭森寺城に、畠山と
一揆衆の軍勢は集結した。
だがこの時点で、松波、長、温井ら能登北部の領主の軍は離脱。
土肥、遊佐ら南部の重臣たちの軍も独自に引き上げており、畠山軍
は6000名規模にまで減少していた。
ここで軍容を立て直し、一気に逆転することを隠居で指揮官である
徳祐入道畠山義続は企てた。
とき
﹁そ、そなたら、未だ全軍は当家が勝って居る! ここが勝負の秋
ぞ!﹂
だが、相変わらず士気は低い。
とはいえ、ここで一当てして二条軍の足並みを崩さねば、能登に未
来が無いのは確かである。
逃げ散った3000ほどの敵がいつ寝返り、二条軍に加わるか知れ
たものでは無いからである。
660
能登の主君一族を壟断し、国政をまとめるどころか乱しきった能登
7人衆のうち、すでに長続連、温井総貞、遊佐宗円、遊佐続光の四
名が逃散してしまっている。
そもそもが、重臣の権力争いという内憂を、二条家を仮想敵の外患
としてまとめ上げただけの一夜漬けの軍だ。
それでも総数で2倍と勝っていると知って、誰もがなけなしの蛮勇
を振り絞って参加していた。
目端の利くものは、神保が以前に、2倍の戦力で挑み、手も足も出
なかったと知っている。
つまり、緒戦で迫撃砲の威力を目の当たりにして、さらに公卿とし
ての政治力を発揮し、朝廷からは能登畠山氏の勅勘と朝敵指名を、
本願寺からは北陸門徒への破門を引き出した事が追い打ちをかけて
いるだろう。
付け加えると、この直後に、二条良之が帝より直々に﹁能登国司・
加賀国司﹂にも補任された事を知ることになる。
伊賀と甲賀の草の者の本領発揮である。
織田上総は素早く全軍をまとめると、北西の森寺では無く北の阿尾
城に向かった。
そして、有無を言わさず火炎弾によって焼き払うと、方向を転じて
森寺城へと駒を進めた。
間にある砦や支城から次々と煙が上がるのを、畠山と一揆衆は呆然
と見守る以外になかった。
やがて、悪夢が訪れた。
二条軍の姿が見えた時。
それは上空から、野戦を選択した畠山軍7000弱の頭上に炸裂弾
が一斉に降り注ぐ瞬間となった。
661
この合戦で生き残った者は1000にも満たなかった。
進軍と共に標的は森寺城へと移り、難攻不落を誇った森寺城はあっ
けなく炎上した。
畠山徳祐入道、伊丹総堅、平総知、三宅総広、討ち死に。
生き残った者達は七尾城に逃げ込んだが、もはや、戦闘する意欲す
ら保てず、震えながら起こった事実をただ、傀儡の主君、畠山義綱
に伝えるのみだった。
白川に進軍した加賀の一揆衆は、この戦において唯一の二条家の死
傷者を生んだ。
彼らはあえて急峻な山岳森林を二手に分かれて進み、木陰から弓を
以て射かけた。
この奇襲に丹羽五郎左は良く対処したが、木を盾にされたため、迫
撃砲も種子島も効果が薄そうだった。
死傷者120名ほどを出しやむなく後退。
そこに、加賀門徒衆が追撃をかける。
そこで一気に丹羽隊の発砲が加わり、先走った門徒衆500ほどが
全滅した。
﹁迫撃砲隊! 火炎弾を打ち込め!﹂
丹羽の命によって、森に隠れる加賀の一揆衆に向けて火炎弾で攻撃
を加える。
直撃こそ無いものの、空から叩いても消えない燃える油が降り注ぐ
ため、じりじりと加賀の一揆隊が後退する。
しかし、細い山道を一列の長蛇で進んでいた加賀の一揆隊の後続に
行く手を阻まれてしまう。
好機とみた丹羽五郎左はすかさず追撃を決意。
弓隊と鉄砲隊によって縦隊で背を向ける敵部隊を一方的に蹂躙した。
加賀一揆隊、死者3500。
662
越中一揆衆の一方の雄、瑞泉寺は、緒戦開始直後に宗教的指導者証
心が討ち死にしたため、大混乱に陥っていた。
不幸にも、彼らは瑞泉寺前に現れた二条軍の降伏要求に返答できる
ような者が居らず、自然と籠城の構えとなった。
柴田権六がそのような暇を許すはずが無い。
瑞泉寺と詰め城の伊波城は迫撃砲によって一気に炎上、正門が開き
逃げ出してきた一揆衆は、1人残らず蜂の巣になった。
続いて権六は南西の井口城も焼き払い、進路を北に向け進軍させた。
どやま
宗守城の小林家は降伏。福光城は焼失。
進軍中抵抗を見せた土山、高木場も焼き払い、日が傾いても進軍を
やめず、ついに夕刻、勝興寺と安養寺城をことごとく焼き払い停止
した。
その戦のすさまじさから、これ以降鬼柴田とあだ名される。
丹羽五郎左はこの日、討ち取った3500の遺体を全て麓に運び、
武装を全て回収させた上で荼毘に付した。
白川の防衛を第一に据えた判断だった。
草を走らせ戦果を報告させ、次の指示を待った。
良之と信長の軍は、森寺城殲滅後に進路を富山湾方向に取り、宇波
城に至った。
伊波城の吉見氏は開城、恭順したため、ここで一泊となった。
夜半、駆けつけた草の対応に良之も出ていた。
663
﹁丹羽殿には明日白山を攻めてもらいましょう。手数が少ないので、
あまり無理押しはする必要が無いと伝えて下さい﹂
﹁はっ﹂
﹁柴田殿には、蓮沼城をお任せします。余力があれば加賀の国境の、
松根城まで進んで欲しいですが、そこから先は進まないで下さい。
突出すると危険ですから、とお伝え下さい﹂
﹁はっ﹂
﹁上総殿、付け加えることはありますか?﹂
﹁能登は明日には片が付く。励めと伝えよ﹂
上総介信長の言葉に草たちは﹁はっ﹂と返答して去った。
﹁明日までに片付きますか?﹂
良之の問いに上総介は
﹁⋮⋮まず間違いなく﹂
と答えた。
﹁松波、長、遊佐、温井の輩は、今日までいいように主家を食い物
にしたあげく、一敗地にまみれたところでさっさと軍を引き自領に
遁走したような輩であるゆえ、明日にはまずは降伏してこようかと。
畠山もまずは、傀儡で隠居の後ろ盾が無ければ何も出来ぬ義綱ゆえ、
まずは父の死を以て許しを請うて来るであろうかと﹂
上総介信長が渋い顔をしている理由は、そうした武家にあるまじき
畠山家の臣下たちへの不快感のようだった。
良之もおおむね上総介の言い分に賛成ではある。
問題は能登にも一向一揆が存在することだ。
彼らには、破滅賛美的な行動傾向と、集団ヒステリーのような突発
性がある。
だからこそ、たとえ一分の隙も無く生きては戻れないような突撃で
も、平気で死兵になり突撃してくる。
良之にとって、これは憂鬱な敵だった。
664
665
北陸大乱 3
翌6日。能登東部の海岸沿いに進軍する二条軍の前に、松波、長、
温井の軍使が訪れ、降伏の打診が行われた。
そこで、現当主とその嫡子を富山に送り、ひとまず飛騨や越中につ
いて学ばせることで折り合いを付け、さらに北上、七尾城を目指し
た。
七尾城でも森寺城の惨状を見知った報告がすでに為されていたため、
開城して恭順した。
ここで、七尾城の重臣や当主、畠山義綱もまた越中に送られる。
そのまま、織田上総介と良之が率いる二条軍は進路を南西に取り、
井田でその日の進軍を終了する。
柴田権六が率いる柴田軍は蓮沼城下にたどり着く。
守護代遊佐氏が開城したため、事前の打ち合わせ通り当主、嫡子、
付近の豪族による家臣などを越中に送った後、進路を反転して加賀
を目指し西に向かう。
付近の一揆衆は、1200ほどが柴田軍の足止めに出たが、叶わぬ
とみて金沢御堂まで遁走した。
形勢の不利を悟った松根城は開城したので、柴田軍はこの日、さほ
どの戦闘も無くここで進軍を終了し、次に備えることとなった。
この日一番激務だったのは丹羽軍だっただろう。
飛騨と加賀白山の間の急峻な山道を30キロメートル近く上り下り
をして、加賀南東山中にある尾添城に到着。
籠城の構えを見せたこの城を迫撃砲で攻撃し尽くし、ここで日没と
なった。
666
丹羽軍にとってはここを押さえておけば飛騨への進軍が完封できる
ため、この次の指示まではここを拠点とすることとした。
柴田・丹羽軍の侵攻を受けて、加賀一揆衆は激しく情報が往来して
いた。
加賀一向一揆をまとめているのは超勝寺や本覚寺を中核とした加賀
諸寺の僧侶たちである。
超勝寺の住持は実照。本覚寺は蓮恵。
この2人は、配下の一向一揆が自分らが日頃口を酸っぱくして警告
を繰り返した二条家との戦争を開始したことに慌てていた。
そもそもが、能登畠山の守護代であった遊佐氏にそそのかされての
ことだったようだ。
それに越中の一揆衆までが加わって、さしたる準備も無く気楽な略
奪程度のつもりで、元地侍や国人だった連中が参加したらしい。
その後、わずかな越中一揆衆の生き残りや、能登や加賀一揆衆の生
き残りたちから戦況が続々報告されるに至って、加賀一向一揆の拠
ふとげ
点、金沢御堂に詰めていた幹部たちは顔面蒼白になった。
そして、白山から飛騨白川に押し入った二曲右京進とその配下、近
隣から略奪目当てで参集した一揆衆およそ3500が全滅したこと、
丹羽が尾添城を破滅させ、現地に営陣をしていること、柴田軍も同
じく松根城に陣を張り、ここで宿営の構えを見せている。その数、
小者や兵站含め、約5000。内、4200ほどの兵が種子島で武
装し、さらに40ほどが、噂の迫撃砲を持っているようだった。
その上衝撃的だったのは、能登の畠山軍が12000ほどの兵で押
し出したところで二条軍4500と会戦。
緒戦で潰走して堅牢な森寺城の城郭は灰燼と帰し、8000名もの
死傷者を出した。
うち、7000名は間違いなく即死したというのである。
667
松波、長、遊佐など能登の国人豪族どもは一斉に逃散し、予想では、
二条家に臣従するようであった。
この時点で加賀の一向一揆の総動員数は3万。
内1万は各国境線の防衛のため動かせない。
つまり、動員で二条家およそ1万と対峙できるのは2万である。
だが、実照たちはさすがに学識ある僧侶である。
二条家の迫撃砲を前に、一揆衆の粗末な武装など、何の意味も無い
ことにとっくに気がついている。
物見から帰ってきた僧兵たちによると、能登は完全に制圧され畠山
は降伏。
二条家には南北朝以来の錦の御旗が掲げられ、このままでは本願寺
は朝敵となるという事だった。
さらに、松根城には、宗主証如による﹁南無阿弥陀仏﹂の幟と、蓮
淳による﹁王法為本﹂の幟まではためいているという。
困り果て、頭を抱える加賀一向一揆指導者たちの許に、救いの主が
現れた。
石山本願寺から派遣された下間上野法橋真頼、下間筑後法橋頼照で
ある。
上野法橋は状況を聞くと、全軍の解散を筑後法橋に命じさせ、自身
は慌てて能登へと北上した。
﹁よいか、従わぬものは破門の上、討ち取れ﹂
筑後法橋は金沢御堂の侍大将たちにそう命じ、併せて加賀全土へと
小者たちを走らせ、武装を解除するように命じた。
良之の許に、柴田軍からの草が到着した。
丹羽は狼煙によって白山越えが成功した知らせを送ってきた。
すでに下間上野法橋からの使いが良之の許に到着していたため、松
根の柴田軍は堅田に進め待機させ、二条軍との合流を待たせること
668
とした。
翌日、二条軍はさしたる抵抗も受けず津幡に入る。
津幡において一泊。
翌日に、堅田で柴田軍と合流し、そのまま金沢御堂に全軍で入った。
尾添城の丹羽軍もその翌日には金沢入りした。
﹁上総殿。能登・加賀全土の拠点を選んで、警察300人組織をそ
れぞれに派遣して下さい。それと、1000人を七尾城、同じく1
000人を金沢に残し、兵6000を越前国境の松山城に進めて下
さい﹂
﹁承知しました﹂
﹁上野法橋殿。治安維持のため加賀全土から、今後専従兵士になれ
るような人材を選んで集めて下さい。侍大将たちも召し抱えますん
で、そのまま残して下さい﹂
﹁承りました⋮⋮御所様、その。処罰のことなどは?﹂
上野法橋は青白い顔を浮かべて良之に恐る恐る問いかけた。
﹁処罰? いえ、そういうのはひとまず必要ありません。それより、
くれぐれも治安の維持と、一揆衆の跳ねっ返りが無いよう良く監視
して下さい﹂
﹁は、それは一命を賭して﹂
﹁千、彦右衛門、三郎は俺と一緒に越前に行く。残りのものは上総
殿の指揮の下、各自よく働くように。では解散﹂
﹁ははっ﹂
こうして、おそらくこの当時の日本の人口1200万人の1000
人に1人の命が消えるという空前の死傷者を出した北陸大乱は、二
条家の圧勝という形で幕を下ろした。
二条家側の死傷者は最終的に、丹羽軍の出した150名ほどに終わ
ったが、この死傷者に良之は衝撃を受けた。
669
これが、良之がこの後開発するアサルトライフル生産の原動力とな
っていく。
それはさておき、良之には一刻も早く解決せねばならない課題が発
生している。
国境を越え加賀の一部を占領し、今もなお虎視眈々と加賀侵攻をも
くろんでいる越前の朝倉家対策である。
良之は小者たちに朝倉家への書簡を持たせて先触れに走らせ、織田
上総介と共に前線の松山城へと向かい、返書を待った。
松山で返書を待つ間、良之は縁のある大名家に事の次第を包み隠さ
ず認めて送り、さらに京の帝にも報告書を送った。
殊に、今回の大乱を裏で演出したのが征夷大将軍・足利義藤である
こと、反抗的な加賀の一向一揆は、本願寺主導で鎮圧していること。
それに、石山本願寺が、加賀の沈静化に献身的に取り組んでいるこ
となどは明確に伝えた。
越前朝倉家からの返書を受け、良之は供に望月三郎、千兄妹と滝川
彦右衛門を引き連れて小者100名と共に越前入りをした。
越前一乗谷までは約40km。道中で出迎えたのは生きる伝説とも
いえる宗滴・朝倉金吾入道である。
この時代において一向一揆に打ち勝ち、さんざんに追い散らした上、
この時期には加賀にまで侵攻を進めていた名将である。
﹁御所様、お初にお目にかかります。宗滴にございます﹂
﹁二条中納言です。あの? 宗滴殿。申し訳ありませんが、俺の医
者の診察を今すぐ受けていただけませんか?﹂
良之は、宗滴の風貌に驚いていた。
往事はよほど強い武将だったという事だったが、良之が見る限り、
670
状態はかなり悪い。
良之は、遠慮する宗滴に対し半ば無理矢理に千の治療を施し、さら
にポーションも服用させる。
﹁おお⋮⋮なんと﹂
厳しい老将の表情がふっと緩んだ。
見る見る間に目の周りの黒い隈が消え、頬にも若干の赤みが戻って
きた。
﹁胃・肺・膵臓などに癌がありました。よほどおつらかったでしょ
う﹂
千が良之に所見を耳打ちした。
元気になった宗滴によって案内された良之主従は、そのまま当日中
に一乗谷へと入った。
翌日。
朝倉家の居館一乗谷城にて、当主左衛門督朝倉義景の応対を受けた。
この時、宗滴77歳、義景は20歳。
良之から見ると、自分よりよほど貴族然とした御曹司である。
﹁御所様、こたびの御戦勝誠に喜ばしく、また、金吾入道殿の病の
加療、一方ならぬご恩と厚く御礼申し上げます﹂
﹁急の訪問、誠に申し訳ありません﹂
良之も返礼する。
﹁それでは、今後は御所様が加賀国司として加賀をお治めになられ
ると?﹂
義景の質問に、良之はうなずき、
﹁まだ加賀全土を把握できておりませんが、遅くとも来年いっぱい
で、加賀の武装を解除し、一揆を解散させるつもりで居ます。これ
には、石山の本願寺の協力もありますので、今後は越前へのご迷惑
はおかけしないで済むでしょう﹂
671
と答えた。
ちら、と無念そうな顔を浮かべた宗滴に対し、義景はほっとした表
情でうなずいた。
宗滴に言わせると、ここが加賀制圧、朝倉家への編入の好機だった。
それを、あっという間に本願寺さえ服従させたこの公卿の手腕であ
る。
宗滴にとっては、取り損ねた思いがあるのであろう。
﹁御所様、つきましては当家が門徒衆より切り取りし加賀領、まと
めて御返納いたしたく存じます。心苦しいのですが、ひとつだけお
願いの儀がございます﹂
義景は、宗滴を治療した望月千を所望した。
﹁申し訳ありませんが、千は当家にとって必要な人材。お譲りする
わけには参りませんが、武田や織田の御家中にも、療養所という医
院を作り、そこに医師などを派遣する約束になっています。御当家
にも、そうした施設を作っていただけるのでしたら、医師の派遣は
お約束できます﹂
﹁なんと⋮⋮かたじけない﹂
その条件で朝倉家は充分なようで、宗滴も義景も喜んで療養所建設
を約束した。
また、これまで経済封鎖していた越中と加賀の街道を整備し、鯖江
からの陸路などについての通行も再開されることとなった。
﹁御所様は今後、門徒衆とはどうおつきあい為されるのですか?﹂
宗滴がふと問いかけた。
﹁そうですね。俺は宗教については全く口出しする気はありません。
ですが、宗教が武力を抱えて蟠踞することは一切禁じるつもりです﹂
﹁ほう、まさに王法為本でございますか?﹂
﹁ええ。もめ事は警察という治安組織に任せることで、住人たちの
672
武装や私闘を禁じるつもりです﹂
良之は宗滴に、二条領における司法制度について詳しく話した。
国司直属の奉行所を設け、人間社会における争議は全てここで裁定
する予定だと告げる。
﹁そのようなことを⋮⋮可能なのですか?﹂
﹁そうしなければ、いつまでたっても人を殺して解決しようという
世の中が変わりませんから﹂
良之の答えに、宗滴は心を打たれて何度もうなずいた。
朝倉家に対しては、どうしても依頼せねばならない一件がある。
足利将軍家とゆかりの深い朝倉家に対し、良之は、二条と足利に関
する限りにおいて、中立であって欲しいと依頼した。
今回良之が畠山を討ち、加賀を平定した裏には、足利の策謀があっ
た事を率直に語った。
その上で、足利から依頼があっても、決して動じないようにくれぐ
れもと依頼したのである。
中立であってくれる限りにおいて、二条家もまた、朝倉との交流を
深め、資源や物資の買い付けなどについて、美濃のように便宜を図
ることを約束する、と伝えて、検討してくれるよう頼んだのである。
673
北陸大乱 4
朝倉から返還される加賀領の線引きは、旧分国法通りとなった。
良之はそれを承認し、これによって所領を失う朝倉家に対し、補償
として金銀銅換算で10万両を支払った。
朝倉家は固辞したが、良之は推して支払った。
翌日越前を発って加賀に戻る。
国境線が変わったことと、朝倉との和平が成立したことで、上総介
の指揮する6000のうち、1000ずつを金沢と七尾に追加派兵
し、2000を大聖寺へ。残りを木曽と下呂に送った。
越中、能登、加賀の戦死者の家族には一家族あたり10貫文の支給
と食糧などの提供を行い、さらに検地までの年貢の免除を行った。
白川における戦死者の家族には200貫文、従軍した兵士達にも特
別給として10貫目を支給した。
これらの人件費は非常に厳しい出費になるが、七尾城や富山御堂の
蓄財のうち、奢侈品や武装などを処分することで賄った。
ある種の賠償として、彼らには理解させることにしたのである。
そのように戦後処理を進めている良之の許に、京の帝より呼び出し
の女房奉書がやってきた。
良之は、10月15日に加賀を出立。
10月20日に陸路、京に到着した。
﹁黄門、報告は読んだ。良く無事に参った﹂
後奈良帝は良之の無事を喜んだものの、その表情は暗かった。
12000人以上という死傷者に、心が沈んでしまっていたのだ。
﹁戦のこととはいえ、あまりに失われた命が大きうてのう﹂
674
良之も、もちろんそのことは心の中でわだかまっている。
だからこそ遺族たちに手厚く今後の生活のための費用を支払った。
だが、帝の心もなんとか励まさないと、今後もし同規模の戦があっ
た時に不安である。
﹁それでは、相国寺の再建を行い、亡くなった者達の弔いといたし
ましょう﹂
良之は、そのための資金捻出、そして、その奉行として皮屋を充て
あぜち
ることを帝に具申し、了承を得た。
﹁そうじゃ、黄門。新たに北陸按察使を創設し、そちに任じる。配
下を国司に任じ、その監督をするが良い﹂
﹁ありがたく承ります﹂
按察使は国司を監督する強い権限を有した令外官の役職だが、やが
て廃れた。
実権が伴わなかったためである。
この時代には、あくまで名目上とはいえ、山階黄門が陸奥出羽按察
使を拝領している。
中納言以上の兼職が通例である。
良之にとっては、家臣たちに国司を譲る事が出来るので、国政にと
って都合の良いポジションといえる。
さらに、今後のために二条領に隣接する越後、信濃、美濃、佐渡、
越前と、交流のある尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、相模の国司人
事権、そしてそれら各国の按察使も与えてもらうこととした。
その後、今年の分の10万貫を帝に納め、女御たちにも食糧などを
送って、良之は御所から二条邸に下がった。
以前にも触れたが、朝廷の権威である国司に対し、幕府においては
守護が各国の権威となる。
本来的には朝廷の国司は貴族や寺社の荘園を管理し、幕府側は武家
の新田を守護していた。武力による荘園の略奪によって国司は名称
675
だけに形骸化した。
だが、実力を伴う良之にとってはそれで充分である。
故に彼は、幕府の権威である守護、管領、探題と言った肩書きを一
切求めない。
この年8月、足利義輝は家臣たちの裏切りによって三好家と再び対
立する羽目に陥り、しかも敗れて、また近江の朽木に逃亡している。
良之にとっては非常に都合が良かった。
逢いたくも無い足利義藤に呼び出される心配がこれっぽちも無く、
しかも、守護より国司の方が権威があると認めさせる動機付けにな
るからである。
良之が禁裏に納める10万両によって、都の景気は随分と上向いて
いるようだ。
各公家への給与として朝廷から支給される金によって、公家たちも
青侍などが雇用できるようになり、京洛の治安も大分向上している
らしい。
御所でもやっと近衛府を実質ある警備隊としてなんとか運営できる
程度の回復を為し、近頃ではぽつぽつと京に戻る公家も現れている
ようだ。
ひとつには、過ぎる年に大量虐殺された大内領にいた公卿たちのシ
ョックがあったのかも知れない。
良之は、帝より足利家にも相国寺再建のために10万両出せと無心
の女房奉書を発給してもらい、出せやしない足利家の代わりに個人
的にその分の金を出すことにした。
無論、足利義藤に対する嫌がらせである。
もっとも、ただの嫌がらせでは無く、現在の良之の実力を日本全土
676
に示すアピールである。
ことに親足利である越後の長尾、越前朝倉、美濃斉藤、甲斐武田、
駿河の今川といった諸家に対するデモンストレーションも兼ねてい
る。
実家の二条家に1万貫を預け自由に使ってくれと念押しし、京の皮
屋支店で今井宗久に、相国寺再建のことを依頼した。
その軍資金のために、手持ちの銀や銅銭、それに北陸で生産したり
購入したりした物産など、没収した能登や加賀の財宝などを残した。
そして、急いで敦賀に下り、敦賀から船で富山の岩瀬港まで引き返
していった。
岩瀬に着くと、すでに旧暦11月に入っていた。
良之は急いで富山御所に向かった。
越後殿の子は、すでに誕生しているはずだった。
﹁お帰りなさいませ、主様﹂
﹁もう床を払って大丈夫なの?﹂
意外とエネルギッシュな虎御前を見てほっと安堵の顔を浮かべる良
之に、
﹁すごいお医者どのたちがいるからねえ﹂
と、産中産後の手厚いケアがあった事をほのめかせた。
この時代の産褥熱あたりは、衛生面に気を使えば防げる事が多い。
良之がアイリを通じて広める結果になった医学書は、アイリによる
と、複数人の職人によって現在翻訳作業中らしい。
早速、生まれたばかりの我が子を見に行く良之。
677
﹁すまないねえ、主様。女の子だったよ﹂
越後殿はそんな事をしおらしく言う。だが、
﹁なにいってんの。そんなことはこの際どうでもいいよ。いやあ、
可愛いなあ﹂
と、大喜びで抱き上げて顔を緩ませている。
﹁乳離れするまでは、お虎はお酒禁止だよ? あ、あと風邪とかは
引かないでね﹂
と、早速親バカを発揮しはじめた良之に、越後殿は苦笑せざるを得
ないのだった。
﹁お前様、お帰りなさいませ﹂
普光女王が、虎との娘を抱いてにやけている良之にあいさつをした。
虎は、普光が入出してきたため、さっと脇に避けて平伏した。
﹁よい、越後殿。おことの部屋じゃゆえ﹂
それをにこやかに制し、普光は良之の抱く生まれたばかりの娘をの
ぞき込み、
﹁ほんに可愛い娘御よ。長じれば、姫御前となろうか? 越後殿の
ような姫武者となろうか?﹂
といった。
たも
﹁どっちでもいいな。元気で育ってくれたら﹂
良之が答えた。
﹁わらわにも抱かせて賜れ﹂
普光が抱くと、未だ年の離れた姉妹のようである。
だが、この時代、側室の子供は儀礼的には、この普光の娘として扱
われるのである。
普光も帝の娘として、その常識は共有していた。
おんかた
普光女王の事を、良之は﹁ふ文字殿﹂と呼び、家中では﹁北の御方﹂
と呼んでいる。
﹁ふ文字殿、帰りました。戦は勝ちましたよ﹂
678
良之が言うと、普光は赤子を越後殿に渡し、
﹁ご苦労様にございました。ご無事のお戻り、まずはおめでとうご
ざいます﹂
と美しい所作であいさつした。
﹁京に上ってきました。帝はこの戦の死者に心を痛めておいででし
たから、せめてもの供養にと、相国寺の再建費用と手配をしてきま
した﹂
﹁それはよろしゅうございますな﹂
普光は懐かしそうに目を細めた。
その後、そろそろ臨月を迎えそうなアイリとフリーデの部屋を訪ね、
帰国のあいさつをした。
﹁良之様。お気づきですか?﹂
アイリに呼び止められて、良之は首をかしげる。
﹁魔法を極めると、この世界では、なぜか老化に差が出ているよう
なのです﹂
言われて、まじまじと手渡された鏡を見てみる。
﹁⋮⋮そうかも﹂
良之の顔は、本来来年には26歳になるはずなのに、まだこの世界
に来た頃のまま、あまり変化が見られない。
﹁君たちの世界で、そういう事実はあったの?﹂
﹁ええ。ありました。ひとつは回復や治癒による活性効果により老
化が阻害される現象。もう一つは、無意識に魔力によって肉体の劣
化が防がれる効果がありました﹂
﹁なるほどなあ。でもそうなると、赤ちゃんとかに良くない効果と
か出ない? よその子より成長が遅いとかさ?﹂
﹁そういうことはありませんでしたね。成長は細胞の老化と異なる
からかも知れません﹂
﹁なるほど﹂
679
生まれた子がなかなか大人にならないとしたら、それは親たちにと
って若干もどかしいだろう。
﹁ですが、私たちの世界と同じとは限りませんから。エルフと言っ
た存在は、見たことがありませんでしたが小児期も長いと思います﹂
﹁いや? 大丈夫じゃ無いかな? お虎の子供がおなかで育つ期間
は、常人並みだったし﹂
﹁⋮⋮それは論理的です﹂
﹁フリーデ、ただいま﹂
﹁お帰りなさいませ﹂
﹁ひとまず敵は討って、隣国とは和議を結んできたよ。君たちはし
ばらくゆっくりさせて上げたいけど、フリーデには、阿子や教授陣
への教師役をやって欲しいんだ﹂
﹁化学・錬金術のですね?﹂
﹁そう。そっち方面の進歩は工業にとって必須だけど、俺にとって
はそれほど得意な分野じゃ無いからね﹂
﹁⋮⋮分かりました﹂
﹁まあそれは先の話で、今は健康にのんびり過ごしてくれればうれ
しいな﹂
奥たちの居室を一通り回って、良之は自室に戻った。
能登の人口およそ55000人前後、加賀は8万人前後。そして、
砺波一帯の3万人。
二条軍はこの新しい土地から早速専業の兵士を募集する。
﹁3万人?﹂
良之は、織田上総介の報告につい問い返してしまった。
﹁加賀で15000人、能登で10000人、砺波で5000です
な﹂
680
﹁うん、いいんじゃない?﹂
予想外に多かった。戦争で鎮圧したこともあって、もう少し二条家
に従ってこないように思っていたので、嬉しい誤算だったといえる
だろう。
﹁よろしいので?﹂
一方の信長は、いくら何でも多すぎないかと考えている。
職業軍人は非生産階級だ。
増えるだけ自国の生産力は低下する。
﹁そんなことは無いよ。今は道路整備やってもらってるしね。基本、
軍人には本来、黒鍬衆や山方衆、川衆みたいな才能が必要なんだ﹂
だから、今の二条領において、決して軍人たちは無駄飯食いでは無
いと良之は言う。
織田上総介は、良之が言う﹁軍人に工兵が必要﹂という発想を良く
理解している。
それに、良之は基本給以外に工事に参加する兵士達に特別給を支払
うので、割と兵士達にも好評なのだ。
﹁まあ、砺波、能登、加賀とまた道路を広げなきゃならないしね。
それに、警察も増員してもいいし﹂
加賀や能登では、この年の刀狩りはあきらめている。
治安維持のため、警察力を強化するのは重要な課題である。
681
北陸大乱 5
京から金沢御所に戻って10日後。
良之は主要幹部を一堂に集めた。
﹁織田上総介殿﹂
﹁はっ﹂
﹁従五位下、加賀守に任命します﹂
﹁! ⋮⋮ははっ!﹂
﹁斉藤道三殿﹂
﹁はっ﹂
﹁能登守に任じます。併せて、法橋上人といたします。能登の国司、
お願いします﹂
﹁過ぎたる光栄なれど、拝受いたします﹂
﹁隠岐大蔵﹂
﹁はっ﹂
﹁正五位に叙し越中守に任じます。大蔵大夫、今後ともお願いしま
す﹂
﹁畏まりました﹂
隠岐は感無量といった表情で良之をまぶしそうに見上げた。
﹁江馬左馬介時盛。従六位飛騨守に任じます。飛騨国司、よろしく
お願いします﹂
﹁はっ﹂
﹁古川二郎、姓を姉小路に復し、京に上って下さい。侍従、左近衛
少将として帝にお仕え下さい。後事は、俺の兄、二条内覧が引き受
けますので、良く頼り、支えて下さい﹂
﹁ありがたき幸せ!﹂
﹁滝川彦右衛門﹂
682
﹁はっ﹂
﹁越中介に任じます﹂
﹁はっ﹂
﹁下間源十郎、加賀介に任じます﹂
﹁はっ﹂
﹁木下藤吉郎﹂
﹁へ?﹂
﹁飛騨介に任じます﹂
﹁わしが⋮⋮でごぜえますか?﹂
﹁よく頑張ってくれたからね。今後も励んで下さい﹂
﹁ははっ!﹂
﹁広階美作守、大蔵少輔に任じます。今後も鋳銭、鍛冶、鋳物師の
監督、お願いします﹂
﹁喜んで﹂
﹁塩屋殿。貴殿には能登介を考えているのですが⋮⋮名乗りより下
がってしまいますが、どうします?﹂
﹁お受けします﹂
﹁では正式に従六位能登介を授けます﹂
﹁はは﹂
こうして、良之は主立った家臣たちに官職を授け、彼らの権威の裏
付けとした。
飛騨や越中の旧国人層にも1人1人に官位を授けた。
中には、塩屋のようにこれまで自称していた官職より下がるものも
いたが、このたびの叙爵は、公式なものである。
良之は猿倉の猿倉衆︱︱河原衆と呼ばれていた彼らのもとに入り浸
り、様々な畜産に関わるアドバイスをしたり、今後必要となりそう
683
な施設や装置についての検討を始めている。
まずは、牝牛を増やして搾乳をさせたり、餌となる雑穀を塩屋に言
って買い集めさせたり、野菜の葉などを回させたり、あるいは糞尿
を改めて堆肥にさせたりといった手配も行っている。
良之は雄鶏を何羽かつぶしてもらい、さらに卵を50個ほど分けて
もらって<収納>に保存して富山御所に戻った。
鶏ガラはスープとして煮出させ、鶏肉は唐揚げにして城内の者達に
振る舞った。
卵は、だし巻きや卵ボーロ、カステラ、どら焼きなどにして一同に
試食してもらった。
良之は割と器用なところがあり、中学生頃からインターネットのレ
シピサイトを見て料理をして初見で成功させるようなところがあっ
た。
﹁御所様、これは大層美味しゅうございます﹂
ふ文字殿はカステラがお気に入りのようだ。
フリーデやアイリは、どら焼きと緑茶に妙にはまっている。
お虎は、相変わらず鶏の唐揚げがお気に入りである。
千や阿子はどの料理も全て合格点らしい。
﹁素材の卵はもうじきコンスタントに供給出来そうだね。肉の方は
なかなか難しいけど、それでも来年の夏くらいまでには供給体制が
整いそうだったよ﹂
良之は、猿倉衆のがんばりについて報告した。
卵については、江戸初期以降は人々の口に供されるようになった。
その理由は単純で、
﹁無精卵は孵化しない﹂
と気がついたためだった。
良之もまた、その倫理観を利用して無精卵の生産を振興した。
684
肉食を受け入れたがらない層であっても、卵や牛乳、それにチーズ
などは
﹁命を奪わない﹂
という理由で受け入れやすかった。
二条家中では、公家出身層を中心に根強く忌避感が残っていたが、
牛乳と卵、バターやチーズを使った洋菓子は幅広い人気を博すこと
になる。
雪の季節になった。
良之は、数ヶ月かけていくつもの食肉加工を研究している。
塩漬け、生ハム、燻製などにはじまり、ミンサーを使ったソーセー
ジ作りにもチャレンジしはじめている。
問題は腸詰めのケーシングである。
ケーシングというのは、家畜の腸を洗浄後に発酵させて腸の外周の
丈夫なコラーゲン繊維だけを残した物である。
この皮を残して発酵させた組織を洗い流し、塩漬けにして保存して
から水で塩抜きして用いる。
洗浄については水圧を用いて解決したが、発酵プロセスには試行錯
誤が強いられた。
腐敗させないよう工夫するのに手間取ったのだ。
だが、同じコラーゲンである革製品を生産する猿倉衆たちの努力で
ノウハウ化に成功した。
良之のミンサーはオーソドックスな手回し式のものだ。
中にらせん状に回るシャフトを入れ、手で回して素材を金型に押し
つける。
スクリューコンベア、と呼ぶ。
金型には挽肉のサイズ通りに多数の穴が開けられていて、その穴か
らミンチになって肉が出てくる仕組みである。
685
このミンサーで2回肉を挽いて、それにスパイスやハーブ、塩コシ
ョウを加えよくこね上げ、腸詰め機でケーシングに封入して、両端
を持ってひとつずつこよって成型する。
その後一旦陰干しして表面の湿気を取り除き、燻製チップでいぶし
上げる。
これがソーセージの作り方だ。
ソーセージは、二条領でも比較的食肉に抵抗を持たない層に人気が
出たが、何より興奮したのは南蛮人たちだった。
彼らの故郷の味なのである。
冒険商人ルイス・デ・アルメイダは、いち早く二条領に目を付けた
最初の冒険商人だった。
ポルトガル人である彼は、良之が試供品として提供したソーセージ
と生ハムに興奮し、高額で取引を約束した。
対する良之の要求は、インドや明からの家畜の輸入、材料であるス
パイスやハーブの輸入である。
アルメイダからは、遠洋航海中に食べられるような保存性の良いサ
ラミやベーコン作りも依頼された。
船乗りたちは主に樽詰めの塩漬け肉などでタンパク質を補給するが、
やはり少しでも旨いものが喰いたいと考えるのは当然のことなのだ
ろう。
ベーコンの場合は、豚バラ、いわゆる三枚肉の部分を生ハムと同様
の塩漬け処理をしたあとでじっくりと塩抜きを行い、ソーセージ同
様に燻製処理を行って製造する。
塩漬けと塩抜きの間に、塩、ハーブ、スパイスとウイスキーを使っ
た漬け汁で風味付けを行うこともある。
ソミュール法、またはピックル法と呼ばれる加工法である。
686
古くは、飽和塩水が用いられ、肉の奥まで塩分を染み込ませる工程
だったが、ここでコショウやローレル、セージ、ローズマリー、タ
イムなどをブレンドした香り付けも行われるようだった。
塩抜きは流水で行い、乾燥後に燻製が行われる。
アルメイダには、製造をして見る代わりに各種乾燥ハーブとそれら
の種、ブドウの種、ブランデー、ワイン、ウイスキーなどの輸入を
依頼した。
燻製のチップに関しても様々な素材を良之は猿倉衆と試してみた。
楢、ブナ、白樺や桜などだ。
良之の手持ちの資料には松、杉、ヒノキといった素材は燻製に使う
と香りが強すぎてうまくないというのは参考資料にあったので、広
葉樹で香りの攻撃性の低い素材を探してはいろいろ試すことになっ
た。
ソーセージなどの日持ちを良くするため、殺菌のためのボイル加工
法を取り入れることになったが、今度はボイル後の加工が必要とな
る。
そこで良之は真空加工を用いたレトルトパウチ、つまり真空パック
を開発することにした。
真空パックマシンの構造は実は単純だ。
食材を袋詰めして機械にかけると、袋の内部を真空引きし、袋と食
材が密着したところで加熱して袋を溶かして接着するだけである。
加熱は電熱器で行う。良之の時代では、大手家電メーカーが家庭用
の普及製品さえ開発していた。
ただし、素材の袋には工夫が要る。
ポリエチレンやポリプロピレンでは、袋自体に酸素透過性があり、
687
せっかく真空パックにしても内部で酸化が進んでしまうのだ。
そのため、こうしたレトルト加工に用いられる素材としては、酸素
透過性の低いポリ塩化ビニリデンやナイロン樹脂製の袋が採用され
ることが多い。
さらに、食品としてレトルト食品を名乗るためには、アルミ箔によ
る光線の遮断されたパックが条件付けられる。
余談だが、ポリ塩化ビニリデンは開発当初、酸素透過性の低さや耐
湿性などが軍用に期待された。
薬莢や火薬などの保存や運搬用途で用いられることになったこの素
材を、開発者の妻であるサラとアンの2人が、ピクニックで食品を
包んで運ぶのに使った。
この技術者たちはそれを見て、食品保存への有用性に気づかされ、
その2人の名前から﹁サラン﹂という商標名を付けて販売されるこ
とになった。
これが﹁サランラップ﹂である。
レトルトパウチに使うラミネート包装材は阿子たちに開発を依頼し、
ソーセージの改良は猿倉衆に任せ、良之はレトルトパウチャーの製
造にかかった。
食品を袋に入れて真空引きして口を加熱溶着させれば良い。ここま
でどの技術も良之は錬金術で創り出していたため、それらの製造に
は問題がなく、3回ほどの試作で完成させた。
レトルトパウチャーの使い方を猿倉衆に教え、加工製品全般を最終
工程でレトルト処理することで、日持ちのする美味しい加工肉、加
工乳製品と言った食品群が、二条領から出荷されることになってい
く。
畜産のもう一つの柱、乳牛からの搾乳のために、真空ポンプを使っ
たミルカーを製造する。
688
ミルカーの消毒にはエタノールが必要になるし、使用後のバケット
洗浄には次亜塩素酸ナトリウムが必要だ。
搾乳機のうち乳牛の乳に当たる部分をティートカップという。
この部分は牛にけがをさせないよう、柔らかいシリコンゴムで成型
し、真空引きの負圧によって自動化するのである。
牛や馬の革に加え、良之は豚の革の生産も指示した。
豚革は牛革より軟性で、その割に重さも軽く、強い。
豚の革は西洋では宗教的禁忌が関係して、この時代ではほとんど利
用されていない。
聖書に﹁死んだ豚の皮に触ってはいけない﹂
と記されているからである。
豚皮は、靴の素材として優秀である。
良之は、可能であれば、軍用靴を開発し、普及させたいと考えてい
る。
だが、靴の生産については、職人の育成からはじめなければならな
いので、実現までには時間がかかるだろう。
このように、良之は猿倉衆たちと、畜産、酪農、食肉、皮革加工な
どの技術を研究した。
猿倉衆にとっては、もう良之への尊敬は絶大で、特に越中において
一切の偏見を受けることの無い状況は驚異でもあった。
それをもたらしてくれた良之に対する忠誠心も強く、非常に重労働
である彼らは、一層励んで働いた。
689
天文23年春 1
北陸大乱が終わり積雪の季節を迎えると、良之は、多くの死者を出
した地域の全寺院に一斉に戦死者の法要を営ませた。
年の瀬にフリーデとアイリにも子供が生まれた。
先の虎と同様、全員女の子であった。
隠岐越中守などは大いに嘆いたが、良之は全く意に介さず大いに喜
んだ。
そして、良之にとってハードだった天文22年は暮れていった。
明けた天文23年。
良之は松が明けて以降、鍛冶師や鋳物師と屋敷に籠もってずっと勉
強会をやっている。
良之が招集した職人は、頭を広階平太に据えたプロジェクトチーム
だ。
総勢15名。彼らを各セクションのチーフに、新たなプロダクトを
開発する。
アサルトライフルである。
アサルトライフル
突撃銃。
マシンガンである。
正確には、セミオートマチックライフルと呼ばれる、発射ガスによ
って銃底を押し下げることで発射後の排莢を自動で行い、次弾を装
騎兵銃
填する仕組みになっている。
著名な銃はM−16やM4カービン。それに、ロシアのAK47。
良之が企図するのはM−16のクローンである。
690
有名な話だが、M−16もM4も設計図が公開されている。
設計をしたコルト社の特許権が20年で切れているからである。
そして、その設計は、インターネットで幅広く流布している。
良之が自軍の兵装に検討しているのはM−16である。
実は、M−16とM4カービンは、その8割もの部品が全く同一だ
と言われている。
実際はその双方とも開発後に独自進化を繰り返したため別物になっ
バレル
た機構が多いが、少なくとも銃弾を発射するためのメカニズムは同
じ仕組みのままである。
M−16とM4の違い。それは銃身の長さだ。
20インチ︵1インチ=2.54センチメートル︶のバレルを持つ
M−16ライフルに比べ、16.5インチの短銃身に切りそろえら
れたM4カービンは、屋内や近接戦闘という短距離射撃に用途を絞
られた銃といえる。
銃身を短くしたデメリットは大きい。
もっとも大きなデメリットは、バレルが過熱してしまうことだ。
バレルの異常加熱は銃の信頼性の他に銃器の寿命にも関わる。
さらに、銃身の短絡は中距離とされる400メートル以上の標的へ
の命中度も大きく下がる。
一方で、M4カービンの設計思想には、M−16にも導入が可能な
ストック
いくつかのアイデアがある。
そのひとつが、銃床の樹脂化だ。
バレルやボルトなどは強度のあるクロムモリブデン鋼が使用される
が、それ以外の構成部品にはアルミや超硬質樹脂などを用いること
で軽量化が出来る。
実際、M−16クローンである民生用のライフルなどはそうした製
品も数多く存在している。
691
中には、ジュラルミン製のステーで枠だけ作られた中空の銃底すら
ある。
この手のライフル銃は、銃床は肩に当てて支えて安定的に発砲する
ために取り付けられている。
肩に当たる部分の強度さえ確保できれば、以前のライフルのように
重い木製のストックは不要なのである。
木工工芸が不要になれば、その分工期も短縮できるし、樹脂製品が
使えれば量産も可能になる。
良之がPCで探った辞書には、彼の考えにマッチするドイツ製のヘ
ッケラー&コッホ社のアサルトライフルがあった。
これは、ボルトキャリア、つまり発射ガスで後退して薬莢を排出す
るボルト部分をバネで支えるバネ式支柱が納められる部分に、簡素
な肩当てのパッドのみが付いているシンプルな構造だった。
良之のアサルトライフルの設計は決まった。
M−16クローンの銃身に、H&K MP5シリーズのストックで
ある。
バレル
良之の時代ではすでに、軍用に大量生産されるアサルトライフルの
銃身はライフルマークの切削など行われてはいない。
5.56ミリの口径より20%ほど大きめに作られたクロームモリ
ブデンのパイプにライフルマークの通りに作られた金型を挿入し、
外側からこのパイプを金型で叩いて圧縮し、最後に金型を抜き取っ
て製造するのである。
冷間鍛造である。
この方式によって、正確に同一な銃身が量産できる。
一本一本職人がガンバレルドリルで鋼鉄の棒から掘削して作った銃
692
身に比べて鍛造した銃身の寿命は短くなる。
だがその代わりに交換部品として銃身も大量に供給出来るので、劣
化したらすぐに交換が出来る。
田の字型の四個の金型の中心部分を円筒形にくりぬいて、銃身にす
るパイプを周囲から何度も打ち付けて徐々に圧縮していく。
コンピュータ制御のロボットによる自動成形機が主流であり、すで
に職人が介在する余地の無い作業となっていた。
彼自身に知識がなくNC、CNCといったコンピュータ制御の機構
が作れない良之にとっては、冷間鍛造プレス機を作ったあとは専従
の職人の熟練でこの工程をやってもらうしか無い。
そのため、まず真っ先にこの工場を作り、日夜彼らを鍛えることに
した。
そしてこの工房とセットでクロムモリブデン製のパイプを作るため
のアーク炉も作る。
炉から出たクロモリの湯はローラーで丸鋼にされ、マンネスマン穿
孔機とマンドレルミルを経てパイプ化される。
このパイプに、ガンドリルピットで偏芯を取り除きつつくりぬく工
程を加えて、最後にホーニングで鏡面処理を施したあと、冷間鍛造
を行わせるのである。
アサルトライフルを製造する上でいくつか課題になる技術的なポイ
ントとして、他にはバネがある。
ばねを作るためにはバネ鋼を針金状に生産した後、コイリングマシ
ンと呼ばれる製造器で巻き加工を行い巻き上げて製造する。
製造するべきバネのサイズのガイドの円柱軸に巻き上げながら成型
する方法と、バネ材を金型に押しつけながら押し出して中空で巻き
上げる方式などがあるが、この時代の職人たちに手作りしてもらう
ためには、円柱軸で巻き上げて作る方法以外の選択肢は難しい。
693
銃の使用環境を考えると、素材はSUS304というオーステナイ
ト鋼ステンレス材かそれ以上の環境耐性と強度が要求される。
銑鉄をステンレスに加工するためには電気炉を無酸素雰囲気に維持
できる特殊な炉が必要になる。
そして、アルゴンという不活性ガスが必要とされる。
オーステナイト系ステンレスに必須のクロムが炉中で酸化するのを
防止するためである。
ライフル銃を作るためには空気の液化技術が必要になる。
液化させた空気から各空気を分溜するためには空気ポンプと冷却設
備が必要になり、動力としては電気が必要になる。
以前検討した際にはいくつかの要因で後回しにした空気の液化に、
まずは挑戦することになるのだろう。
良之は、まずバルブとボンベという空気液化技術の﹁出口﹂側の開
発を改めてはじめることとした。
高圧ガスボンベの必須要項は、無溶接であることだ。
あらかじめクロムモリブデン鋼の無溶接管を溶鉱炉直下で生産。
その鋼管を切断して所定の長さに切り分けたあと、プレス加工によ
って底を作り、最後にバルブ口部分を絞り上げて成型して仕上げる
工程が必要になる。
これをマンネスマン方式と呼ぶ。
マンネスマン式において、ボンベの底を作る部分こそが技術的な難
題になる。
一方、長方形の鉄塊や鋼板をプレスによって加工して、最初から底
のある深絞り成型でボンベを作るのがエルハルト方式、およびカッ
ピング方式である。
完成品の強度の安定性が高いメリットはあるが、生産エネルギーの
コストがマンネスマン方式よりかかる。
694
良之は結局、カッピング式を選択することになる。高圧ボンベの事
故は、あまりに凄惨な結末を生み出すからだった。
ここでガスボンベの製造を始めさせた事のメリットは、ただアルゴ
ンガスが利用可能になるだけでは無い。
新潟における天然ガスの燃料利用が可能になるし、溶鉱炉に対して
酸素が供給され、窒素からアンモニアや硝石が合成できるようにな
る。
窒素合成によって大量の肥料が供給出来るようになり、更には良之
を筆頭にした錬金術師の介在なしに、化学的手法で硝石の合成が出
来るようになるのである。
また、溶鉱炉や分溜塔などで発生する二酸化炭素を収集し、液化し
て保存しておくと、後に、油井にこの液化二酸化炭素を注入するこ
とで、石油の産出量を増加させることが出来る。
科学は、連鎖するのである。
バネ鋼生産のための準備を整える間、良之はライフル弾の薬莢製作
ラインの構築に取りかかった。
薬莢は、ボルトアクションの後装銃が誕生した時から、大まかには
現在と同じ機構で誕生した。
ピンファイアやリムファイアといった発火機構の進化を経て、マシ
ンガンが量産される時代には、現在の真鍮製の深絞りプレスによっ
て作られるセンターピン式が同時に発明されている。
マシンガンを作るためにはあの形式の薬莢の存在が必要不可欠だっ
たのだ。
薬莢は、プレス打ち抜きによって作られた円形の真鍮メタルを、数
回︱︱一般に3回の深絞りプレスとトリミング加工︱︱を経てリッ
695
ボルト
メディア
プスティックの媒体の形に絞ったあと、弾丸をかしめるためのウエ
ストと、銃底部の口径より大きいネック部分を金型でプレス成形し
て、最後に火薬の雷管を取り付けるホールを開けて完成される。
10回近いプレス機による圧延が課せられる金属にとって厳しい環
境下に晒される工程が求められるため、誕生時から現在に至るまで、
選択される素材は真鍮が多い。
世界中の多くの国が補助通貨に真鍮を用いる大きな理由が、有事の
真鍮不足を防ぐためだ、といわれるほど大切な戦略物資のひとつな
のである。
プレス加工は、ひとつの持ち場をステーションと呼ぶ。
薬莢の場合、3ステーションで構成され、最初は素材板から円形を
打ち抜く作業場、次に薬莢をその長さにまで深絞りで圧延する作業
場、最後に、ウエスト・ネック部分と雷管挿入部分を成型する作業
場に分けられる。
厳密には、深絞り後の真鍮を一度焼き鈍し、酸で洗浄してから水洗
いする工程が入る。
これらは、多くの箇所で自動化され、専用のベルトコンベアで横に
横にと移動されながら各工程が進んでいく。トランスファプレスで
ある。
なぜこうなるのか? なぜこの工程が必要なのかを一つ一つ説明し
つつ、良之は職人たちに技術移転を行っていく。
併せて、旋盤やフライス板による金型技術も伝えることで、今後ど
うしても必要になるメンテナンスについての技術も移転させた。
完成した薬莢に雷管を取り付け、定量の無煙火薬を充填し、弾丸を
挿入してかしめる自動ラインも構築した。
銃弾は、あえてメタルジャケット、つまり鉛の弾丸に被膜のように
別素材でコーティングする弾丸を良之は選択しなかった。
696
極力、工程を減らすことによって生産性を重視したのである。
弾薬には、CL−20と呼ばれる火薬を製造する。
本来は非常に人工的な製造過程を経て生産される自然界に存在しな
い分子だが、フリーデの尽力で開発された錬金触媒によって、窒素
のウルチタン構造生成と、この構成のニトロ化の2工程で安定した
物質化が可能になったために、製造工程は他の火薬をこの時代の人
間たちにやらせるよりよほど安全な工場とすることが出来た。
火薬の合成については、これまで、ダブルベースやトリプルベース
火薬は良之が錬金術で必要量を合成してきたので、この工場の稼働
と共に、彼への依存度がひとつ減少したことになる。
697
天文23年春 2
ステンレス鋼の生産拠点の建設がはじまる頃には、良之の周囲に集
められた若手・中堅の技術者たちの間に、良之が創り出すプレス機、
ベルトコンベアやローラーコンベア、旋盤などの各種工作機器につ
いて、その概要が理解出来る者達が現れ始めた。
まだ合金や素材に関する知識までは追いついていないものの、今後
は自力生産、あるいは錬金術が扱える技術者は錬成によって、こう
した機器の自作、もしくはメンテナンスが行えるようになるだろう。
また、銅線製造工房の設立によって、発電機やモーターの性能の向
上がめざましかった。
高品位の銅線は、発電、送電などに大きなメリットを生み出してい
た。
良之の時代の商業発電機は、数百万ボルトもの発電が可能だったが、
そうした発電機のステータコイル作成は、熟練の技術者が未だに手
作りしているような一品物で、背景となる教養から育てない限り、
現時点では良之の手に負えるものでは無い。
良之の周囲に集めさせた技術者たちは、今後、後進育成の﹁学校﹂
の教授陣となってさらに後進を育成させるキーパーソンになる。
木工工程を廃して樹脂とクロモリ鋼、ステンレスによる成型に終始
した事により、良之が開発したM−16クローンのアサルトライフ
ルの生産性は著しく高くなった。
石油系樹脂で作られるのは、ライフルの銃身の熱から兵士を守るハ
698
じゅうは
ンドガード、ハンドガード下部に付く前銃把と引き金の後ろの銃把、
つまり左手と右手用のグリップ。そしてライフルの銃床、肩に当て
るストックの部分である。
銃のボディ部分、銃身、銃底などはクロモリ鋼。アメリカのSAE
グレードでいうと4150のクロムモリブデン鋼である。
オリジナル
このうち銃身と銃底は冷間鍛造、残りの部分はダイキャスト成型と
する。
そして実銃と同じく、所持する兵士が日々、自身で分解清掃が出来
るように、ピンを外すことによって分解が可能なクリップ式に組み
立てた。
試作を経て量産をはじめたこのライフルで、兵士達に指示しなけれ
ばならない最重点項目は、銃身内の清掃、銃底の清掃、そして、ス
テンレス製のバネの長さの測定とゆがみの確認である。
また、発砲後の薬莢も可能な限り、従軍する小者たち非戦闘員に回
収させる。
ライフルの薬莢は、再度溶解させなくても簡易な修正プレスをかけ
ることで、容易にリサイクルが可能なのである。
一度発砲された空薬莢は、火薬の燃焼ガスによって規定のサイズよ
り膨張している。
その膨張をプレス機によって調整して洗浄。使用済みの雷管を外し
て新品の雷管を詰め直し、火薬を入れて弾丸をかしめると、複数回
の使用に耐える。
当初は一日10台程度だったライフル銃の生産は、やがて4月頃に
なると日産60台まで生産体制が向上していった。
従業員数、ライフル生産工場600人、銃弾製造ラインに400人。
意外なことに、ライフル銃におけるもっとも技術的に難問になった
のは弾倉、マガジンだった。
699
30発の弾丸をロードするマガジンはバネ強度の調整が難しい。
バネが強すぎるとマガジンに薬莢を詰め込むのが難しいし、緩いと
今度は銃に次弾を装填する時にジャムる。つまり弾詰まりを起こし
てしまうのである。
そのあたりについては、良之は全てを技術者たちに放り投げた。
工学の進歩は、技術的課題との対峙なのだ。
技術者たちは、線径の異なるバネや、巻き数の違うバネなどをいく
つも試作し、それらをマガジンに実際に組み込んではいくつも試作
品を作り、泥臭くこつこつと理想の製品を追求しはじめている。
インド
彼らの中からいつかきっと、バネのスペシャリストが登場してくる
のだろう。
三国一の、という形容詞がある。
この三国というのは、唐︵中国︶、天竺、そして日本のことだとい
う。
この言葉は義経記にも﹁三国一の剛の者﹂と登場することから、お
よそ鎌倉期から室町期にかけてすでに使われていたと思われる。
今風にいえば﹁世界一﹂という意味になる。
良之が南蛮商人たちに提供している有価値商品は、すでに南蛮商人
たちが吸収出来る不均衡を越えてしまっている。
そこで、良之は自給率が落ち込みだした自領の食糧事情好転のため、
インドや明からの米や小麦の輸入を指示した。
小麦といえば、パンと麺だ。
パンについては、酒の酵母や乳酸菌といった酵母菌を用いて生地を
作るいわゆるイースト式が一般的だ。
700
これらは、商業的酒造者がいるこの時代では比較的容易に供給が可
能だった。
先の大乱で寡婦になってしまった女性たちから立候補者を募って、
良之は製パン業を興させた。
麺についても、同様に希望者を集めて、うどん打ちをはじめさせた。
良之は関東人なので、うどんについては鰹節と酒、砂糖に醤油を使
った返し式の物が恋しい。
藤吉郎の姉である智に手順を教えて、とにかく試行錯誤をしてもら
って、あの江戸前のだしを再現させ、それを富山御所にいる全ての
者達に試食をさせてみた。
このとき、七味唐辛子も商業化させた。
唐辛子、ケシの実、麻の実、山椒、ごま、ミカンの皮、それに青の
り。
七味にはいろいろなレシピがあるが、そのどれも、メインになるの
は唐辛子だ。
﹁これは美味しいねえ﹂
お虎御前はうどん、特にたっぷり七味を浮かせたものが随分お気に
入りのようだ。
異世界組のフリーデとアイリは、うどんよりパン、それもこんがり
暖めてバターをたっぷりきかせたロールパンがお気に入りのようだ
った。
男性陣に受けがいいのは、竈で焼き上げるチーズとトマトをたっぷ
り使ったピザだった。
良之は岩瀬港に南蛮人用のレストランを開業させた。
言うまでも無く、西洋商人を吸引するのが狙いである。
牛ステーキ、豚の生姜焼き、鶏の唐揚げから、生ハム、ベーコンソ
テー、目玉焼きにパン、それにボイルソーセージ。
噂に釣られた南蛮商人たちは、こぞって岩瀬港に殺到して、帰りに
701
は良之の提供する様々な商材を購入していく。
無論、行きがけの駄賃に、彼が必要とする様々な輸送品を運び入れ
てくれる。
肉食に抵抗のない庶民層や兵士層にも、徐々にそうした食肉の美味
が広がっていく。
栄養状態の改善によって、伝染病に対する抵抗力も向上しているよ
うで、徐々に子供達の生育も向上していっている。
安全性をパスしたM−16クローンの配備がはじまった。
まずは教育士官を育成して、彼らに後進の育成を任せる方式となっ
た。
選任士官は望月三郎。
こうした銃器は、ただ引き金を引けば使いこなせるというものでは
ない。
日々の射撃訓練も大事だが、それにも増して重要なのが、使用前後
じゅうこう
の点検と清掃、つまりメンテナンスである。
鉛を使った銃弾においては、銃腔に残る鉛の残滓の清掃は性能維持
に欠かせない。さらに、メカニカル部の点検や清掃は狙撃手自身の
安全のために必要で、これらの技術まで含めてマスターすることで、
はじめて兵士として一人前だといえる。
織田加賀守信長が、新兵器の公開を見逃すはずが無い。
加賀国司の職務を平手政秀に押しつけて、長駆富山の練武場まで駆
けつけた。
﹁御所様、完成しましたか?﹂
﹁加賀殿。そんなに慌てなくても、一休みしてから来たらいいのに﹂
良之は、馬を飛ばしてきた泥だらけの信長を見て苦笑した。
﹁まさか。一刻も早く見とうて飛ばしてきたのに、そのような暇は
702
ございませぬ﹂
望月三郎に訓練を開始させる。
一列20人の兵がフルオートで斉射。一秒間に15発の連射をする
M−16の破壊力は凄まじく、ターゲットに用いた武家用の甲冑は、
全て蜂の巣になった。
﹁⋮⋮こ、これは、すごい﹂
信長はその威力に呆然と立ち尽くした。
﹁撃ってみますか?﹂
良之が声をかけると、まるで少年のような笑顔で
﹁もちろん﹂
と答えた。
三郎に手取り足取り撃ち方を教授されると、新しく的の鎧を用意し
てもらい、信長はピープサイトで照準を付けて引き金を引いた。
1秒に15発。30発の弾倉は、2秒で空になる。
﹁もはや種子島はなんの役にも立ちませぬな﹂
入浴し着替えも済ませた信長は、良之の前で改めてあいさつをし直
したあとで率直に感想を述べた。
﹁あの兵器の破壊力。2町︵約220メートル︶も離れた鎧をあれ
ほどに破壊するとは﹂
信長は、引き金を引いた自らの右手をじっと眺めて、目を良之に移
した。
同席していた三郎が、信長に向かっていった。
﹁加賀様。本当に恐ろしいのはそこではございませぬ。今日初めて
あの武器を手に取った加賀様が、半時にも満たぬ簡単な鍛錬だけで
使いこなせた。そこが本当の恐ろしさにございます﹂
﹁⋮⋮﹂
種子島という武器には長年の訓練が必要である。
火薬や銃弾の装填にはじまり、射角の先読み、早合による次弾装填
703
など、熟練せねば全く使いこなせない特殊性がある。
M−16にしても、長距離の狙撃では同様の課題が発生する。
いかに六条右回りの線条が銃身に刻まれようと、発射される銃弾は
気象条件や重力からは逃れ得ない。
だが、この時代の兵器である弓や槍、大刀や種子島でさえ、有効範
囲のアウトレンジからM−16は殲滅し尽くすだろう。
信長は、この武器に戦国時代の終わりを見た。
﹁今、なんとか一日100台を目指して増産させてます。配備が終
わった部隊から種子島は回収させて下さい﹂
﹁畏まりました。ところで、回収した種子島はどのようになさるお
つもりですか?﹂
信長はふと好奇心から聞いた。
﹁堺で一挺20両くらいで売ろうと思います﹂
良之は平然とそう告げた。
﹁1万挺以上あるから、20万両にはなるでしょう? 要らない物
は値の付く時に売ってしまうべきです﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
三郎も信長も、手放せばやがて自分たちの方に銃口が向くと考えて
しまうが、良之にとっては単なる経済物資に過ぎないらしい。
704
天文23年春 3
天文23年三月に時を戻す。
雪解けと同時に良之は、鍛冶師たちに命じてたたら製鉄を行わせて
いる。
これは、いよいよ鉄不足が深刻になってきている事への応急対策だ
った。
加賀や越中に流れる河川は、全てが砂鉄の宝庫である。
二条軍の兵士や各領地の庶民を狩り出し、海岸や河川で一斉に砂鉄
の収集をさせる。
集まった砂鉄を、たたら製鉄の知識がある鍛冶師たちに任せて製鉄
させた。
玉鋼と呼ばれる鋼が含まれるケラ、そしてズクと呼ばれる銑鉄の製
法の違いは、素材によって分けられる。
日本刀の素材として名高いケラは、ケイ素やチタンなどの不純物の
少ない真砂と呼ばれる砂鉄のみでたたらにかけられる。
一方、赤目と呼ばれる砂鉄の場合、ズクと呼ばれる炭素含有量の多
い銑鉄に生成され、これを大鍛冶場で再度精錬して炭素量を調整し、
むらげ
日用の鉄素材へと再加工される。
﹁うーん。焼け石に水だなあ﹂
良之は、たたら製法の親方︱︱村下と呼ばれる︱︱たちの報告する
生産量の見込みを聞いて頭を抱えた。
高値を承知で中国地方のケラやズクを博多の神屋から購入したりも
しているのだが、現在の二条領の鉄の消費量と、今後ライフルを量
産する事を考え合わせると、コストも高すぎ、しかも安定供給に不
安が残ってしまう。
705
結局は、やはり行き着くのは高炉による製鉄工場の建造しか無い、
と良之は思った。
高炉と聞くと、良之が思い描くのは新日鉄のような世界的な高炉だ。
その全高は100メートルにも達する人類史上最大の溶鉱炉である。
だが、この規模の溶鉱炉を建造するほど、周辺技術が二条領では発
展できていない。
良之はキャンピングカーに籠もって資料をあさった。
人類史上初の商用コークス高炉は、エイブラハム・ダービーの作っ
たダービー炉だ。
全高は4メートル程度。生産高の記録は無いが、ダービーはこの炉
で生産した鉄を用いて、アイアンブリッジを建造している。
高炉自体は、確認が取れているだけでも紀元前1世紀の中国にまで
さかのぼる技術だ。
高炉の存在は未確認ながら、中国の歴史学会は紀元前5世紀の鋳鉄
製品が発見されたとしている。
良之が知り得る限りで日本最大の溶鉱炉は、新日鉄と住友金属の合
併で誕生した新日鉄住金が所有する大分製鉄所の高炉で、全高は1
10メートル。容量は5775立方メートル。この規模の高炉が双
子の兄弟のように二基並立し、生産量は年間1000万トンを超え
る。
世界最大の高炉は韓国POSCO社の高炉で6000立方メートル
だが、生産量は400万トンに満たないため、実質上、大分製鉄所
のこの二基が世界最高の高炉だといえるだろう。
現状の二条領の規模としては、これらの溶鉱炉の10分の1で充分
である。
全高20メートル級の高炉を設計した良之は、富山と射水の中間、
海老江と呼ばれる海岸一帯を候補地に定め、木下飛騨介藤吉郎に、
706
整地と土盛り、そしてコンクリートによる土台作りを命じた。
高炉に必要な資源は、鉄鉱石の他に酸素と石炭である。
石炭に関しては、博多の神屋経由で九州の大友家の領地から輸出を
受けているが、到底良之の望む生産高に至っていなかった。
高炉の操業を開始したあと、石炭が枯渇するという状況はどうして
も避けたい。
良之の領有する飛騨や越中は国内有数の木材を保有している。
いざというときにはコークスの代わりに木炭が使えるのだが、それ
でもあっという間に木炭の在庫は尽きてしまうだろう。
高炉を操業させるまでに、石炭の安定供給をなんとしても図らなけ
ればならない。
飛騨、越中、能登、加賀の四か国にも鉄鉱石は産出するが、安定し
た高炉の操業という意味では、さらに多くの鉱石を収集したい。
有望な鉱山は信濃、美濃、越後に点在するが、輸送の観点からする
と越後がもっとも有望だった。
良之は、早速春日山城に赴き、長尾入道宗心と面会した。
宗心は長尾弾正少弼景虎が昨年、京都大徳寺で受戒した際に与えら
れた戒名である。
本人は、不識庵と号している。
﹁御所様、ようおいでになった﹂
﹁お久しぶりです、不識庵殿、とおよびした方がいいのですか?﹂
﹁御所様は我が義兄なれば、お好きにお呼び下され﹂
珍しく不識庵は機嫌良く顔をほころばせた。
﹁それにしても、あの虎が子を為すなど、わしには未だに信じられ
ませぬ。まこと、この一事を取っても、御所様は三国一の戦上手と
707
申せましょうぞ﹂
不識庵でさえ手を焼いた双子の妹である。
﹁惜しむらくは、女児であった事ですな。御所様、早々に虎に男児
を設けて下され。そして、願わくば、この不識の養子に下され﹂
不識庵は、長尾の当主に就くに当たって、生涯不犯の誓いを立て、
自らに女色を禁じている。つまり、彼は後継者を未だ持っていない
のである。
﹁さあ、こればっかりは俺がどうこうできる話じゃ無いですからね﹂
良之は苦笑した。
﹁そういえば、まもなく甲斐より武田典厩がこの越後に参るとのこ
と。御所様、ご臨席をお願いしてもよろしいか?﹂
﹁ああ、わかりました﹂
前年、良之が長尾景信と武田信廉の2人に提案した越後と甲斐の貿
易問題だろうと察した良之は快諾した。
甲相駿三国同盟をかかえる武田にとって、越後の長尾との和平は、
今後武田家が拡大を続けることが不可能になる重大な決断である。
その苦渋の選択を武田晴信が下したであろう事は、交渉に晴信が誰
より信任する次弟の典厩信繁を送り込んできたことで分かる。
旧暦3月20日。
武田典厩信繁は、事務方の長坂、栗原、駒井などを引き連れて越後
に入った。
対する越後方は不識庵の他、長尾景信、越後屋の蔵田五郎左衛門。
良之の陪席は、下間加賀介頼廉と、望月千である。
﹁典厩殿。ひとつお聞きしたい﹂
不識庵が口火を切った。
﹁甲斐は、駿河の今川、相模の北条と盟約を結び、いま、越後の当
家と不戦を約す。当家と約定するからには上野の上杉を攻めるは御
法度となるが、このこと、大膳大夫は納得して居るか?﹂
708
﹁はっ﹂
信繁はうなずいた。
﹁当家としましては、民が安んじて暮らせる世が来るのであれば、
これ以上の合戦は不要と心得ております﹂
﹁うむ﹂
不識庵はうなずき返した。
﹁せっかくの御所様の御光臨ゆえ申し上げます。我が兄晴信、もし
お許しいただけるのであれば、甲斐・信濃の地を御所様にお納めし、
家臣一同、御所様の臣下として越中・飛騨と同様にお仕え致したい
と申しております﹂
﹁!﹂
爆弾発言だった。
良之も驚愕したが、衝撃は越後方の方が大きかっただろう。
﹁つきましては、我が兄晴信の富山御所への訪問のお許しを賜りた
く、お願い申し上げます﹂
﹁⋮⋮わかりました。許しましょう。でも、どうして突然?﹂
﹁昨年、それがしと弟信廉が飛騨・越中を見聞致した折、御所様の
治世には、向後どのように武田家が取り組んだところで到底足下に
も及ばぬと覚えましてございます。故に、武田の家名を遺し、御所
様の覇業を補佐することが、この乱世を終えた後も生き残る道と心
得てございます﹂
要するに、晴信は弟の信繁・信廉の報告を聞き、二条良之とその領
国には到底勝てないと判断したという事になる。
実際のところ、武田晴信の決断には、自ら良之に下った江馬や三木
と、戦って敗れたその他の大名への扱いの差が大きく影響している。
加えて、織田の嫡男信長、斉藤の隠居である道三入道、それに、小
笠原や村上の当主への扱いも大きかった。
そして、もっとも武田家の幹部を打ちのめした事実。それは、二条
領の庶民の方が武田家の当主の晴信より、よほどよい衣食住の環境
709
を持っているという厳然たる事実だった。
衣類については、さすがにまだ庶民まで武家の当主の絹や青苧の上
質な品は普及していないものの、甲斐や信濃では武家でも無ければ
着られないような品を着ているのである。
食で言うと、百姓階級でも雑穀では無い食糧が供給されているし、
味噌や醤油、塩などの調味料、肉や魚といった副食が食膳に並んで
いる。
飛騨や越中にはすでに手押しポンプが普及している上、良之は入浴
を奨励し、石鹸を安価に提供していることもあって衛生状態が向上
し、皮膚病の類いや疥癬などの虫害も劇的に駆逐されつつある。
加えて、伝染病なども療養所によって治療が進んでいる。
治水開墾などについても、良之がもたらしたコンクリート工法によ
って大きな進歩をもたらしている。
物流も、幹線道路の建設と領内での架橋によって著しい発展を遂げ
ている。
しかも、領地を良之に献納した旧支配者たちは、代官として、もと
の領主時代以上に幸福な人生を歩んでいるようにしか見えなかった。
武田晴信は、独自の情報網によって、さらに衝撃的な情報を掴んで
いた。
東美濃の遠山、西美濃の斉藤の両家は、二条への臣従を考慮してい
るというものだった。
武田にとって、伊那の西であるこの両家が、戦国大名として拡大を
続けようと思った場合、最後の機会だった。
だが、現状においてもこの両家は二条家に親しすぎて、容易に手出
しが叶わぬ相手である。
ここに至って、晴信は二条家にかけてみる決心を固めた。
最後に、晴信は生母大井の方や臨済宗の高僧たちに意見を諮ったが、
その回答はどれも、二条家への臣従は武田家の将来にとって明るい
との見解であった。
710
信濃と越後の物流については事務方に任せ、典厩信繁は甲斐に帰っ
た。
良之は不識庵と、越後の鉄鉱山開発について協議を始める。
武田の二条家への臣従を聞かされたあと、不識庵の顔色は優れなか
った。
﹁では、越後の鉄鉱山の開発を進めさせてもらって構いませんか?﹂
良之は鉄鉱石の需要と重要性、そして越後における見込みの高い鉱
山について解説したあと、不識庵に確認をした。
対する不識庵の表情は暗い。
﹁御所様﹂
﹁⋮⋮はい?﹂
﹁もし、それがしも越後を御所様にお譲りするとすれば、御所様は
お受け下さるか?﹂
﹁御所様が越後を手にすれば、飛騨や越中のような豊かさを越後で
も実現できましょうか?﹂
不識庵の問いに、良之は
﹁それはもちろん﹂
と応じた。
﹁それはどのように?﹂
﹁そうですね。まず、不識庵殿の知らない金銀銅や鉄、蛍石や草水、
算盤石などを開削します。蒲原を埋め立てて見渡す限りの水田を作
ります。これだけで越後は、食べきれないほどの米が生産できるで
しょう。余った米は他国に売ります﹂
﹁ふむ。御所様が知る越後の鉱山はどのくらいおありでしょう?﹂
﹁6つ以上ですね。草水の井戸もあと5つは掘れるでしょう﹂
﹁なんと⋮⋮﹂
不識庵は絶句した。
尼瀬の油田は、柏崎に巨万の富を与えている。たったひとつでだ。
711
それをさらに5つ。
不識庵は、この公卿に自分は到底敵わないと悟ってしまった。
同時に、甲斐の龍と呼ばれた武田晴信や、美濃の蝮と呼ばれた斉藤
道三、尾張の虎と呼ばれた織田信秀などが、二条良之になぜ心酔し
ているのかを理解させられてしまったのである。
3倍近い兵力を持つ一向一揆と能登の畠山の連合軍に対し、死傷者
わずか150名で戦勝した手腕を取っても、不識庵は認めざるを得
ない。
しかも、戦勝後に二条軍では略奪、強姦、人身売買の全てを禁じて
いる。
のみならず、降伏した国人たちの領地を召し上げておきながらも、
彼らに充分満足させうる新たな地位、そして報酬を提供して、この
時代では考えられない﹁領地直轄制﹂を実現している。
天才的な軍事指導者を3世代にわたって生み出した長尾家がなし得
なかった事である。
﹁当家も、御所様に臣従しようと思う。家中の論を一統し、越中に
お伺いしよう﹂
﹁⋮⋮分かりました﹂
良之は不識庵の申し出を受け入れ、越中へと帰っていった。
712
天文23年春 4
天文23年4月20日。
武田家からの先触れを前に、良之は頭を抱えていた。
﹁武田晴信公、御妹君のお菊御寮人を伴い富山御所へ出立。御寮人
を御所様の側室へ﹂
との伝言が為されたのである。
これに過敏に反応した者達がいる。
﹁では御所様、我が娘も﹂
斉藤道三である。
﹁なれば、我が妹、お市も﹂
織田信長である。
﹁三名ともお受けせざるを得ますまい﹂
相談した隠岐越中守はため息混じりに答えた。
﹁道三どのの娘さんはともかく、お市殿はまだ7歳でしょ?﹂
数えで7歳という事は、実年齢は6歳である。
﹁政略結婚とはそうしたものです﹂
きっぱりと隠岐に断言され、良之は途方に暮れた。
﹁それはお受けなさるべきです﹂
良之は相談を奥の全員に持ちかけた。
北の方であるふ文字殿は即座に返答した。
﹁武田殿、斉藤殿、織田殿はいずれも日の本に響いた大名のお家。
御所様のご威光もさらに高まりましょう﹂
北の方はそういった。
﹁あたしも受けるべきだとおもうよ﹂
越後殿もうなずいた。
713
﹁あの、私たちも同意見です﹂
フリーデが言うと、アイリも同調した。
﹁世継ぎの問題だけで無く、人質としての面もあるのではありませ
んか?﹂
﹁もちろんさね。でも、主殿の寵を得られれば、それだけお家が安
泰だって言う計算もあるね﹂
越後殿が良之に代わって答えた。
﹁参ったなあ﹂
良之は頭を掻いた。
正直なところ、奥に女性が増えるのは、ただでさえもてあまし気味
の良之にとっては苦しいのだ。
やさぐれた良之の心を、3人の娘たちの寝顔がいやしてくれる。
﹁それにしても、たった数ヶ月でこんなに大きくなるんだなあ﹂
先に生まれた越後殿との長女はお愛。次女のアイリの娘はアリーセ、
フリーデの娘はエリーゼと命名されていた。
﹁⋮⋮まあ、みんなを飢えさせず食わしていけそうだってのが唯一
の救いかなあ?﹂
﹁仮に今謀反を起こされて失脚しても、主様が飢えることなどあり
ますまい﹂
良之のつぶやきを聞いて、背後から越後殿が大笑いをした。
一月頃から、丹治善次郎を選任に良之は電気関連の勉強を続けてい
る。
手持ちの資料や辞書などから電気物理系の知識をかき集め、自身も
再勉強中である。
課題は、変電、送電だった。
善次郎は、良之よりよほど柔軟に電気工学を吸収していく。
発電と送電については、すでに良之より多くの知識を持っている。
714
﹁しかし御所様。こうして見ますと、やはり鉄柱が作れたところで、
運び込み、組み上げる手段がございませんな﹂
﹁そうだね。運ぶためのトラック、それが走れる道路。それに、組
み上げるためのクレーンなんかがどうしても必要だ。まあ、地中敷
設にすればそうした問題は何とかなるにしても、今度は地面を掘る
労力と、人が歩けるような地下道が必要になる﹂
﹁先行きが果てしなく、気の遠くなるお話ですな﹂
﹁うん、おそらくは三代、四代とかけてやっと出来る類いの話だよ。
ただ、それを生み出す技術はもう飛騨・越中に作ってるんだから、
君たちに頑張ってもらわないと﹂
善次郎は良之が試作した電流計、電圧計を元に様々な電圧に対応す
る電圧計を作った上で、変圧器の試作を成功させている。
変圧器は、単純に言うと発電機と同じ思想で作られる。つまり電磁
誘導︱︱ファラデーの法則である。
鉄心とよばれる鉄の輪に、一次巻き線と二次巻き線を対面に巻き付
ける。
一切の損失を考えず、一次巻き線を100巻き、二次巻き線を10
巻きにして100ボルトの電圧を一次側にかければ、取り出せる二
次側の電圧は10ボルト、というのが変圧器の原理になる。
﹁それにしましても、御所様にも苦手とされる分野がおありなので
すね﹂
善次郎は、電気を全く苦手とする良之に改めて驚き、苦笑している。
﹁こんなことなら俺もしっかり物理をやっておけばよかったとは思
うけどね。でも、学生時代に戻っても、やっぱり苦手は苦手のまま
だと思うよ﹂
﹁そのようなものでしょうか﹂
﹁うん、それに、どっちにしたって俺1人が何もかもできる訳じゃ
無いさ。俺の知識を誰かが吸収して、そして次につなげていってく
715
れないと。俺だって永遠にいきられるわけじゃないんだからね﹂
﹁⋮⋮﹂
良之の言葉は衝撃だった。
確かに、もし良之がこの世を去ってしまったら、現状ではひどく限
られた分野以外の技術は失伝してしまうだろう。
﹁善次郎も、年内に最低3人は弟子を作って、しっかり育ててくれ
よ?﹂
﹁⋮⋮心得ました﹂
前年仕入れたり種を収穫したりした農産物の手配を取ったあと、良
之は訪問してきた武田晴信と面会した。
﹁御所様、お久しゅうございます﹂
﹁大膳大夫殿、遠路ようこそ。まずは皆さん、一晩ゆっくり疲れを
癒やして下さい﹂
武田晴信の供は刑部信廉、若年ながら甲斐国郡内の最高実力者であ
る小山田弥三郎。数え年16才。
そして、穴山伊豆守信友である。信友は西八代郡と南巨摩郡の一部
︱︱つまり富士川沿いの一帯である河内一帯の支配者で、武田とは
何重にも縁を重ねている親類衆筆頭格の家柄である。
富山御所の料理長に納まった智の本気の酒席で甲斐の客人をもてな
すが、酒癖が悪いと聞いていた穴山信友もこの日は随分しおらしか
ったようだ。
翌日。
正式に一同からの会見が申し込まれ、富山御所の謁見室で戦国大名
武田晴信からの臣従申し入れが行われた。
﹁二条中納言様に言上仕る。それがし源朝臣武田大膳大夫晴信。こ
れよりその所領ことごとく中納言様に返納し、以て、麾下にはせ参
716
じとうございます﹂
﹁許します。まずは本年は旧来通りの所領で、検地、刀狩りをお願
いいたします﹂
良之も型通り、上座で武田家からの臣従を受け入れる。
﹁大膳大夫殿。まずは貴殿に甲斐国司、甲斐守に叙任いたします。
信濃は小笠原信濃守を国司に充てますが、これは武田家の権威を奪
うことではありません。武田家の家臣が立ちゆくために必要な全て
の物資、食糧などは二条が責任を持って提供し、希望する者には二
条軍への配備を以て所領に替える報奨を支払いましょう﹂
﹁ははっ﹂
﹁また、庶民のうち、職の無いもの、厄介の身分で飢えているよう
な者達も、越中・飛騨をはじめとした農商工の仕事を用意いたしま
しょう。そして、甲斐・信濃にて希望する者達は、二条軍にて引き
取ります﹂
﹁ありがたき幸せ﹂
ここまでは、儀礼的な台本のある会見である。
﹁大膳大夫殿、他に何かございますか?﹂
良之の言葉に大膳大夫は面をあげ、良之をじっと見つめた。
﹁されば、ふたつお願いの儀がございます﹂
﹁まず、こたびの臣従に際し、それがしが妹、菊を同道いたしてお
ります。何卒菊を御所様の側に輿入れいたしたく、伏してお願い奉
ります﹂
﹁承知しました﹂
のぶあり
おお、と左右に並ぶ50人近い二条家家臣と武田からの家臣たちが
声を漏らす。
前日あいさつに同道した武田信廉、小山田弥三郎信有、穴山信友の
他、馬場、内藤、保科、飯富などの重臣衆も安堵の声を漏らした。
﹁今ひとつは、何卒再び御所様に甲斐へとお運びいただき、甲斐の
奇病の治療をお願いいたしとうございます﹂
717
﹁甲斐の奇病?﹂
良之は首をかしげる。
﹁はっ。腹っぱり、と申す病にて、これを患いますと疲労、嘔吐、
下痢などにてその身は骨と皮にやせ細り、やがては腹が地獄の餓鬼
のように大きく膨れ、死に至る病にございます。何卒、御所様が我
が母を癒やされた奇跡のような医術にて、この病、癒やしていただ
きとうぞんじます﹂
﹁分かりました。では、大膳大夫殿の帰路に同道し、まずはその病
の事を調べましょう﹂
せっかく甲斐の重臣などもそろっていることも有り、良之は側室に
入る菊御寮人のため簡単な祝言を上げ、急いで甲斐に向かった。
そして、年若い菊御寮人とも初夜は行わず、良之は高いびきで翌朝
を迎えている。
とにかくこの時代の女性は、ただでさえ栄養の足りない若年齢で婚
姻して出産するため、身体へのダメージが大きい。衛生概念も未発
達なため、出産前後の感染症による母子の死亡率は強烈に高い。
﹁まあ子供のことは数えで18過ぎてから考えましょう﹂
というのが、良之のスタンスである。
とにかく、この間に良之はキャンピングカーのPCで甲斐の奇病に
ついて調べた。
たのみ
文献に腹っぱりがはじめて登場するのは甲陽軍艦らしい。
わつらひしゃくじゅ ちょうまん
かごごし
のり
﹁小幡豊後守善光寺前にて。土屋惣蔵を。奏者に憑。御目見え仕。
いとまごひ
豊後巳の年。霜月より煩。積聚の脹満なれ共。籠輿に乗。今生の御
暇乞と申﹂
と、甲陽軍艦の品五十七﹁武田一門逆心﹂の稿に記載が見える。
718
小幡豊後は猛将小幡虎盛の嫡男で、このわずか3日後に病死してい
る。49才だった。
甲斐において特異に発生する風土病の腹っぱり。
良之が文献にたどり着くのにそう時間はかからなかった。
日本住血吸虫という寄生虫による感染病である。
土地の人間は﹁地方病﹂と呼んだがその語の誕生は浅く、明治期以
降と思われる。
特効薬はある。
ブラジカンテル︵C19H24N2O2︶。
六ヶ月投与で、九割という大きな回復率を示す駆虫剤だ。
良之は早速、富山に在住する錬金術師と医師をかり集め、この薬剤
を大量に生成させた。
ちなみに、良之らの出発直前に、加賀と飛騨の境の白山が噴火を起
こしている。
良之は織田信長に危険地域の住民の保護と全額二条家持ちでの生活
援助を命じている。
岩瀬や直江津で必要になる様々な物資を仕入れ、そのまま一行は、
長尾家と武田家によっこの出立に際し、産後2−3ヶ月であるアイ
リとフリーデ、それに千と阿子を同道させることにした。
甲斐の療養所には、医師として小林新三郎の母を赴任させることに
した。
彼女と娘もこの一行に加えている。
護衛は滝川越中介、下間加賀介、望月三郎。
そして、製鉄所の整地にかかっていた木下飛騨介を引き抜いて、弟
719
の小一郎に後事を託した。
こうした準備の後に、武田家の一行と共に、良之の主従も海路直江
津に向かった。
そして整備されつつある信越間の物流街道を通って甲斐へと向かっ
た。
720
天文23年春 5
甲斐に入った良之は、早速武田家の家臣を使って腹っぱりの調査を
開始させた。
過去に腹っぱりで死亡した農民がいる地域を全て報告させ、その地
域の全農民に人糞の肥料使用禁止、水田農法の禁止、そしてブラジ
カンテル投与をはじめた。
また、甲斐全土での健康診断を開始し、感染病患者の湯村への隔離、
腹っぱりの症状のある患者の治療なども行った。
腹っぱり、つまり腹水が溜まる原因は、肝硬変である。
日本住血吸虫症の場合、肝硬変の原因は肝組織内への虫卵の蓄積に
よる組織破壊だ。
良之は武田の全幹部を一堂に集め、住血吸虫の感染メカニズムを根
気強く解説した。
住血吸虫は、幼虫が水田作業などを行う農民の手や足の皮膚を食い
破って体内に侵入することからはじまっている。
このことは﹁土かぶれ﹂などという自覚症状によって農民たちは理
解していた。
﹁良いですか? 今回腹っぱりの患者が見つかった地域での水田は
一切これを禁止します。代わりに、二条が彼らの食糧を補償します。
今年は年貢も免除しましょう﹂
﹁しかし⋮⋮それではいずれ国が立ちゆかなくなるのでは?﹂
代表して武田晴信が良之に問い返した。
﹁まずはこの病気を駆逐しなければ、いつまでたっても人々は安心
して暮らせません﹂
721
良之は、農業を禁じられた地域の農民は全て、これからこの病気を
根絶させるための労働力として雇い入れるつもりだった。
感染は富士川支流の釜無川、荒川、相川、笛吹川の流域に集中して
いた。
特に感染者の多い御影、野牛島、臼井沼、登美などでは、村ごと離
農させ移住をさせてから、湿地帯の埋め立てを行わせた。
また、木下藤吉郎に有望な石灰鉱山を開削させ、コンクリートの生
産を始めさせた。
農業用水路を全てコンクリート側溝にさせた上で、小川などを全て
埋め立てるためである。
また、藤吉郎には武田の嫡男太郎義信と筆頭家老飯富虎昌を付け、
徹底的に石灰やセメントの生産術をたたき込んでいる。
日本住血吸虫の最終宿主は人間を筆頭にしたほ乳類である。
牛馬、犬や猫、野ネズミにさえ感染して地域を汚染するのである。
到底全ての最終宿主の手当などは出来ない。
すなわち、最終宿主の感染を防ぐことも重要だが、この病を駆逐す
るためには、中間宿主を根絶する事がもっとも近道なのである。
コンクリートの側溝は、自然の小川に比べ流速も早く、中間宿主の
宮入貝の生息を困難にさせる効果がある。
また、水田や湖沼を干拓させることによって、宮入貝や住血吸虫そ
のものを根絶させることが出来る。
さらに、感染源である人糞の利用をシャットアウトさせることで、
寄生虫のライフサイクルをも破壊する。
そして、ブラジカンテルの投与によって体内の親を殺虫し、体組織
の回復を図っていく。
また、飲用水は河川の水の使用を厳禁し、代わりに井戸を掘らせて、
手押しポンプによって日用水を汲み上げさせることにした。
722
罹患率は最初のひとつきで劇的に減少した。
良之は自身が行う全ての寄生虫対策について、一時の猶予も休憩も
与えず武田刑部信廉を帯同させ、彼に徹底的にノウハウをたたき込
みながらそのひとつきを過ごした。
良之は感染地域をこまめに回り、肥だめを錬金術で浄化しつつ、錬
金術で化学肥料を作り、それを提供して畑の寄生虫害の根絶も推し
進めていった。
﹁腹っぱりの多かった地域には、米の代わりにお金になる作物を作
らせましょう﹂
良之の言葉に、武田晴信はうなずいたが
﹁どのような作物がよいのでしょうか?﹂
と良之に教えを請うた。
﹁原七郷にはたばこや桑を植えましょう。登美にはブドウ、御影に
は梅や桃がいいでしょう。石和には薬草園を作りましょう﹂
﹁たばこ? ブドウ?﹂
﹁ああ、種は南蛮商人から入手出来ています。実験的にいま越中で
種の増産を行っていますから、甲斐から代表者を送り、修行させれ
ばよいでしょう。桑︱︱養蚕についてはすでに飛騨で製造が始まっ
てますから、こっちも村から修行させる人材を送るのが良いでしょ
うね﹂
肥料、農薬、そしてブラジカンテルの管理は各村の庄屋たちに全て
を任せた。
良之はそう長々と甲斐にだけ関わっているわけにはいかない。旧暦
6月が来たら、良之は越後に行かねばならないのである。
ついに、長尾不識庵も、越後を良之に委ねる決意をしたのである。
723
﹁御所様、ほんに、なんとお礼を申してよいやら﹂
武田家の晴信兄弟の生母、大井の方は深々と良之に頭を下げた。
大井家は、地盤がまさに腹っぱりの被害が集中している富士川沿い
の巨摩郡に存在している。
一族や郎党に罹患者が多く、今回の良之たちによる治療や投薬によ
って救済された氏族の筆頭にあげられるかも知れない。
ちなみに他には、原氏、金丸氏、秋山氏、飯野氏、三枝氏といった
一族が、多数の郎党を救われている。
﹁まだはじめたばかりですけどね。本当に大事なのは宮入貝の根絶
です。ただ、感染者は薬と治療でなんとか死なせず治療が出来るよ
うになるでしょう﹂
ブラジカンテルによる投薬治療は劇的だが、体内に残る寄生虫の卵
による肝硬変や脳炎などには効果が無い。
それを魔法による回復術で治療が出来る事が、良之の強みになって
いる。
﹁大井殿。村人たちは必ず飢えさせず救います。だから、土地のお
坊さんたちにも協力してもらって、病気の発生地からの避難と、臼
井沼の埋め立てについて、お力をお貸し下さい﹂
大井殿︱︱晴信たちの生母は、武田信虎の追放後にも甲斐に大きな
影響力を持つ女性である。
小笠原や信濃の豪族衆との上田平の戦いに敗れた晴信が意地を張っ
て現地に帯陣を続けた際に、彼女が文を認めて晴信に負けを認めさ
せ、甲斐へと帰らせた逸話が残っている。
非常に聡明な女性で、彼女があってこその後の武田信玄があるとは
っきり良之にも理解が出来る。
﹁それはもう、お約束いたします﹂
724
大井殿はその尼の頭巾頭をゆっくりと下げた。
良之が武田家の蔵に、越中や越後から持ち込んだ食料品でたっぷり
満たしてくれたことを大井殿ももちろん知っている。
中でも、甲斐においては恐ろしく高値になっている塩が、蔵一杯に
積み上げられたことは大井殿を驚かせた。
この一事でも、武田は二条には到底敵わない、と大井殿は考えてい
る。
﹁大膳大夫殿。後事はお任せいたします﹂
﹁もはや、行きなさりますか?﹂
甲斐を離れねばならない良之主従を、名残惜しそうに武田晴信は見
送る。
﹁ええ、越後の事も重要です。長尾不識庵殿も頑張ってくれてます
が、戦になりかねない状況のようです﹂
長尾家の二条家への臣従は、甲斐のように上手くいっていない。
織田加賀守信長に命じて柏崎にM−16の訓練が終わった5000
の兵と、50名の81ミリ迫撃砲兵、150名の忍びを派遣させて
いる。良之に従って甲斐に来ていた滝川、望月は一足早く現地へと
先行させている。
独立の動きを見せているのは、揚北衆の本庄、黒田、中条、新発田
らのようだった。
良之にとっては、別に従わないならそれでも構わないが、柏崎・尼
瀬の油田や港を攻撃されては堪らない。
彼らは、良之の行う施策のうち、領地を二条家に召し上げて銭傭い
の代官化にさせられることに大きな不満を抱いているようだった。
甲斐の場合、晴信や典厩信繁に従って、有力国人たちは飛騨や越中
の実際を体験しに行っている。
庶民までもが、自分たちより豊かな食生活を持っている事に衝撃を
受け、しかも、二条領には豊かに銭が流通し、そしてその銭で買い
725
たいものが大量にあるのである。
石鹸、ローソク、灯油ランプ、炭。
信じられないことに、庶民の一軒一軒までもが潤沢に夜の明かりを
ともしている。
二条家の領地では、夜が明るいのである。
だが、揚北衆でその事実を知っているのはほんのわずかだった。
心の奥深くでは未だに長尾に従わない彼らは、急速に長尾家に接近
しつつ、越中西部を支配した二条家を快く思っていない者達も多数
存在している。
﹁御所様、甲斐や信濃の兵を動かさずともよろしいのでしょうか?﹂
晴信は、良之の身を案じてそう訊ねた。
﹁大丈夫だと思います。揚北衆も本気でウチと戦う気はないでしょ
う。独立したいなら、俺は全然構わないんですよ﹂
新発田の鉄鉱山が使えないのは痛い。
だが、江馬の神岡鉱山や平金鉱山の領有を渇望した時期と違い、今
の二条家には飛騨、越中、信濃、甲斐、そして能登と加賀に未開発
の鉱山が大量に存在する。
特に加賀と信濃には有望な鉄鉱山が眠っている。
輸送手段さえ確立できれば、南越後と加賀で銑鉄生産をしてもよい
と良之は考えていた。
フリーデとアイリは甲斐に残りたがった。
腹っぱりの治療を完全に成し遂げたかったからだが、良之は阿子と
3人で富山に戻すことにした。
ひとつには、阿子と千配下の教授陣から、甲斐に向けて50人規模
の医療チームが派遣されたことがある。
また、小林新三郎の母のやすも、甲斐の療養所の院長として非凡に
働いている。
726
﹁療養所に入所していた人たちは、優れた医療従事者になるんです﹂
アイリが言った。
﹁いずれは、お吉もやす同様、指導的な立場に育ってくれるでしょ
う﹂
お吉は新三郎の妹だ。現在は、母を手伝い甲斐の療養所でかいがい
しく患者の面倒を見ている。
そうした状況を確認して、フリーデたちは富山への帰郷を納得した
のだった。
信濃経由で越後に下った良之は、旧暦五月下旬に柏崎に入った。
柏崎には、長尾不識庵が帯陣している。
﹁御所様、このたびは申し訳なく﹂
﹁不識庵殿。揚北衆が独立したいなら全く構わないと先方に伝えて
もらえますか?﹂
良之は不識庵の詫びを遮って言った。
﹁尼瀬の油田と柏崎が安定していれば、これ以上事を荒立てる気は
ありません。それより、絵図を見せて下さい﹂
良之は、不識庵が持つ、反乱者と長尾家臣領の線引きを記す絵図を
見せてもらう。
﹁折居川を挟んで西岸が長尾側、北が新発田側ということになるん
ですね? ならそれで新発田と手が打てるか話してみて下さい﹂
良之は絵図を見て即断する。
﹁尼瀬の織田加賀守に山浦城に進軍するよう命じて下さい。俺もす
ぐに追います﹂
良之は草の者に指示して伝令を走らせる。
山浦城は阿賀野川の北域、そして折居川の西域に存在する城で、大
見氏族山浦氏の居城である。
その北東には、上杉氏族山浦氏の居城笹岡城が存在する。
727
長尾不識庵は良之の指示通り、新発田・本庄を双頭とした揚北衆に、
折居川を境にして手打ちを申し入れる使者を送った。
﹁二条御所様は、揚北衆の独立を認め、攻められない限りはこちら
から手出しをするつもりは一切無い﹂
との確約を添えてのものだ。
つばめ
良之はまっすぐ山浦に向かう長尾不識庵とその軍勢と別れ、供回り
と一緒に津波目に向かう。そこから三条に入り、羽生田から山浦へ
と入った。
平成の学生時代、伝統工芸工場を見て歩いたルートをたどったのだ。
だが、良之が期待したような鉄工芸は、まだこの時代には存在して
いなかった。
728
天文23年夏 1
本庄繁長、加地春綱、新発田長敦、色部勝長らを含む揚北衆の代表
者15名とその従者らが、良之の求めに応じて笹岡城にやってきた。
彼らは口々に、良之の所領没収政策を非難した。だが良之は一切言
い訳も反論もせず、ただ彼らの独立を認め、二条家や長尾家からの
離脱を許した。
﹁我らにとって、蒲原津は命綱。この津の譲渡を願い上げます﹂
新発田長敦がおずおずと申し出た。
﹁それは出来ません。新たな津を皆さんでお作り下さい。蒲原は治
水干拓を行う予定なので、お渡しすることはありませんし、その理
由もありません﹂
良之はきっぱり断る。
新発田にとって、物流の重要拠点である蒲原津は最大の戦略目標で
ある。
過去、数えきれぬほどの回数、新発田は蒲原津を目指して侵攻を繰
り返している。
以前に良之が岩瀬港を神保に押さえられた際に軍事力を行使したの
と同様の感覚を揚北衆が蒲原津に持っている可能性を危惧した良之
は、彼らの貿易用のアクセスを許可する提案を行って、双方妥結し
た。
良之は揚北衆との会合を終えたあと、蒲原平野と湿地帯、そして阿
賀野川と信濃川という、日本でも屈指の水量を誇る河川について見
分を行った。
729
この時代の越後の海岸線は巨大な砂丘が平野を流れる全ての河川の
出口を塞ぎ、信濃川の河口へと迂回して大きな湿地帯や池を創り出
している。
信濃川から東は、遙か荒川に至るまでの全ての河川がこの天然のダ
ムといえる砂丘に河口をせき止められた。
胎内川は砂丘に沿って流れを東に変えて荒川河口に注ぐ。
それより西の河川は全て、紫雲寺潟、福島潟、島見前潟などに注ぎ
込んで、大低湿地を構成してしまっている。
悪い事にこうした河川の水が運び込む砂礫が、さらに豊富に砂丘の
砂を供給している。
だが、反対に砂丘の内側の低湿地は、日本列島を弓状に押し曲げて
いる太平洋プレートやフィリピン海プレートの圧力によって一万五
千年で150メートル以上も海底に沈み込んでいるのである。
良之の知る新潟平野は、江戸期から昭和まで400年以上もの時を
かけて、何代もの人々が必死に治水と干拓に取り組んだ姿だった。
また、三条以北の信濃川は猛烈な水量を誇る暴れ川である。
現在の中ノ口川と信濃川に挟まれた地域は、いつ洪水が起きても、
そして川の流路が変わってしまってもおかしくないような場所で、
到底安心して稲作が出来る土地では無い。
農業を行うのであれば、それこそ毎日神に祈るように暮らして行か
ざるを得ない土地である。
そしてその祈りは、高頻度で無情にも裏切られる。
こうした状況は、1922年に大河津分水という放水路による信濃
川のバイパス工事が成功して改善するまで、当地の庶民たちを苦し
めた。
大河津分水は、津波目から寺泊までの間を弓状に開削して建設され
た。
730
河口から徒歩で3キロメートルほどまでは、北にある国上山の山脈
が行く手を遮り、工事は難航を極めた。
この分水をもし良之が行おうとするなら、技術的な課題がひとつあ
る。
それは、もし信濃川の水流を全量この放水路で海に放つと、今度は
逆に下流部の農業に深刻な水不足を招いてしまうという事である。
つまり、可動堰を本流と放水路双方に敷設し、増水時には放水路か
ら排水し、渇水時には放水路を止め本流に流すという工夫が求めら
れる。
視察を終えて柏崎に戻った良之は、体調不良を覚えた。
身体に発疹が出来、足に富士山のように盛り上がった虫さされの傷
が出来ている。
そして、脇の下などのリンパ腺に痛みが有り、40度近い熱が出始
めている。
まず、千の魔法治療を受けて苦しい症状を緩和させたあと、良之は
この症状をPCで調査した。
﹁⋮⋮ツツガムシ病、か﹂
越後の風土病である。
信濃川以北の河原沿いに東北地方まで見られる感染病で、リケッチ
ア菌を媒介するツツガムシというダニに食われることで発病する。
比較的予後が悪い。
自覚症状が現れてから初期治療までの時間がものを言う。
治療にはテトラサイクリン系の抗生物質が効果的で、日本では塩酸
ドキシサイクリンが第一選択薬に選ばれている。
731
良之は早速ドキシサイクリン︵C22H24N2O8︶を錬成し、
200mg服用する。
また、随行した全員に自覚症状の有無を確認させ、症状のあるもの
を自身と同様に、千に治療させた。
また、長尾不識庵以下、土地の支配者たち全員に通達をだし、療養
所の医師に治療法を伝授したことを伝える。
不識庵たちは、このツツガムシ病︱︱彼らは赤虫と呼んでいた︱︱
の事をよく把握していた。
良之は、感染危険性のあるエリアについて野良仕事のあとの入浴、
衣服の恒常的な洗濯の推奨、そして、長袖の衣服の着用など、考え
られる予防策を徹底させた上で、自覚症状が現れた時には、療養所
に患者を搬送することを通達させた。
幸いにも、良之や随行員の罹患者は早期の治療によって事なきを得
た。
それにしても、寄生虫害に病的とさえいえるほどの恐怖感を持つ良
之がよりによって感染するとは、皮肉な話だった。
だが、ツツガムシ病に対する強力な対応策が早期に確立できたこと
は、怪我の功名といえるかも知れない。
甲斐の府中、信濃の諏訪、越後の柏崎にそれぞれ1000の常備兵
を配置し、加えて、各郡の首邑に300ずつの警察を配して、織田
加賀守信長の率いてきた5000の兵を所属地に帰投させる。
ひとまずの所、これまで通りに各領地の代官を従来通りの支配者た
ちに任せて治安の維持に努めさせる。
また、離農して専従兵になる希望者たちをそれぞれの駐屯地で訓練
732
させ、その後に適材適所で配属をさせるよう指示を出した。
木下藤吉郎には、越後において重大な使命がひとつ加わっている。
コンクリートによる護岸ブロックの量産工場の建設である。
水辺の護岸工事においては、現地に生コンを打つ工法に比べ、堤防
や岸壁、河川の堤などにプレキャスト︱︱あらかじめ専用工場で型
通りに製造されたコンクリート製の製品を並べることで工事をする
方が、環境面のダメージも少なく、工事が天候に左右されないとい
う利点がある。
その上、法面工事が終われば、あとはコンクリートブロックを組み
上げるのみで完成するため、圧倒的な工期の短縮が見込める。
信濃川や阿賀野川と言った水量が多く、夏秋の降雨によって毎年の
ように水害を発生させる河川を御するためには、必要不可欠なノウ
ハウといえる。
﹁御所様、その、石灰の鉱山にアテはございましょうか?﹂
藤吉郎が訊ねると、良之は
﹁うん。前、信濃から越後に抜ける時、姫川沿いを下ったの、覚え
てる?﹂
と言った。
﹁へぃ﹂
﹁あの川の西に、黒姫山という山がある。この黒姫山と、その北西
にある権現山の一帯に、良質な石灰鉱床があるはずだよ﹂
木下藤吉郎は、良之が最初に消石灰生産を始めた時から、この分野
を常に一任されてきていた。
平金にはじまり、神岡、岩瀬、そして尼瀬の油井、越中での工事な
ど、良之は原料作りから施工までを全て任せていた。
﹁藤吉郎、今度の事業にはひとつ条件がある﹂
﹁は?﹂
733
﹁今度の親方は一から十まで全部小一郎にやらせて欲しいんだ。も
ちろん藤吉郎は小一郎が分からない時、困った時には手を貸しても
良い。つまり、俺がお前に教えた時と一緒だ。それを今度は小一郎
に伝えて欲しい。出来る?﹂
﹁⋮⋮承知いたしました﹂
藤吉郎には良之の狙いは分からないが、少なくともこれは小一郎に
とって大きな機会なのは間違いない。
﹁あの。このたびの話に当たり、各地からわしの欲しい人足を引き
抜いてもよろしゅうございましょうか?﹂
﹁もちろんだよ。ただ、引き抜かれては困るって現場の親方に言わ
れるような人材はダメだよ?﹂
﹁はい、もうその辺は万事心得てございます﹂
そうか、相手は木下藤吉郎だった、と良之はうなずいた。
﹁見込みのある鉱床を見つけたら、山方衆、黒鍬衆、織田殿の軍、
全て俺の名前で手配して構わない。石灰工場では丹治善次郎に言っ
ていつも通り発電所を作って。それと、コークスが足りなくなる可
能性があるんで、燃料は木材か木炭を使って﹂
﹁はっ。どうせ木材の切り出しの事もございます。炭焼き工房も作
りましょう﹂
﹁うん。あとセメント工場は麓に作ってくれると嬉しいな。じゃあ
任せた﹂
﹁お任せ下さい﹂
藤吉郎は、信頼されて任されたことに大喜びで早速あれこれと思い
を巡らせるのだった。
旧暦6月下旬に入ると、越後での様々な見分と指示も終わり、良之
は富山へと戻った。
御所に戻ると、すでに斉藤道三の娘の美濃殿、そして織田信秀の娘
734
で信長の妹のお市殿が奥に入っていた。
どちらもこの時代では屈指の聡明さを持つ娘たちで、北の方以下、
全ての者達と打ち解けていた。
良之はそれぞれと型通りの祝言を挙げ、高炉建設のため藤吉郎配下
たちに造成させた海老江の予定地へと向かった。
製鉄業に関しては、広階親方の三男小三太を専任担当に据えている
ので、良之は海老江に帯同させた。
﹁やはり、高炉を作るには石炭が足りますまい﹂
小三太の報告に良之は唸った。
﹁まあね。それに、鉄鉱石もアテがひとつはずれたんだ﹂
﹁新発田の、ですか﹂
﹁⋮⋮電気炉で砂鉄やノロ、それと焼成した鉱石を電気銑鉄にする
しかないかな﹂
アーク炉による銑鉄生産においては、実は石炭はさほど必要としな
いですむ。
主な用途は還元剤としてのみなので、燃焼のためのコークスは全く
不要になるのだ。
また、高炉では使用が出来ないとされる砂鉄についても、電気銑鉄
であれば利用可能だ。
砂鉄は、特定産地の高純度なものを除くと、高炉での使用は禁忌と
される。
チタンやアルミ、ケイ素分の多い砂鉄を使用してしまうと、出銑口
で不純物が目詰まりを起こすのである。
﹁ひとまず、砂鉄集めを徹底して殖産しよう。加賀から越後にかけ
ては海岸も川も、本当に砂鉄の宝庫なんだ﹂
﹁承知いたしました﹂
﹁砂鉄の収集は前にも大規模にやったことあるから、分かるでしょ
?﹂
735
﹁はい﹂
﹁アーク炉については大丈夫?﹂
﹁承知しております。その、黒鉛棒のみは御所様にお作りいただく
必要がありますが⋮⋮﹂
﹁了解。じゃあそれ以外の部分は任せる。火力発電が必要になると
思うけど⋮⋮そうだな、砂鉄以外の硫化鉄や酸化鉄の還元用にロー
タリーキルンを作って、この余熱で発電しようか﹂
電気炉による銑鉄生産の前段階として、原料をあらかじめ加熱設備
などで脱硫・還元などを行う設備、ロータリーキルンを導入するこ
とは、効率面から見て重要になる。
ロータリーキルンについては、広階小三太も何度も良之からそのア
イデアを見せられているために機構については分かっていた。だが、
概念が分かっていても、それが実物としてイメージできるかはまた
別の話である。
﹁⋮⋮ロータリーキルンは、御所様にお作りいただく以外にござい
ませんが?﹂
﹁うん、わかった﹂
736
天文23年夏 2
ロータリーキルンは、スクリューコンベアに発想が近い。
スクリューコンベアはシャフトにらせん状のスクリューが付くこと
で材料を押し上げる仕組みだが、ロータリーキルンの場合、円筒の
内部にらせん状のコンベアプレートが設置されることで、材料を徐
々に上部に押し上げ、もしくは下部に落としていくことになる。
その円筒内にガスバーナーによる火炎の放射を行うことでキルン内
を加熱して、材料の反応を期待する設備である。
鉄鉱石の場合、粉砕された原料鉱石から選鉱プロセスによって抽出
された粉末状の原料鉄をロータリーキルンによって加熱し、ペレッ
ト化させた良質な鉄材料へと加工することが期待される。
ロータリーキルンに投入される材料は、選鉱時に抽出された鉄と、
還元剤としての粉末炭だ。
多くの場合はロータリーキルンによる焼成の前段階でペレット加工
がなされるが、ロータリーキルンから直接電気炉へ材料が投下され
る設備の場合、そのコストはカットされることもある。
余談だが、ロータリーキルンの用途は広い。
製鉄に用いる鉄鉱石の還元や焼成の他、セメントの製造においては
石灰と粘土の焼成に用いられる。
また、近年では下水設備で残留する汚泥の焼却や炭素燃料化といっ
たリサイクルプラントにも導入されるほか、自治体による可燃ゴミ
の焼却炉として導入される事例もある。
その全ての用途において、良之がこの時代の技術者たちに技術移転
が出来た場合、有効な基礎技術になり得るのである。
特に、人糞を肥料として使う事を禁止している二条領の場合、その
737
処理問題が発生している。
錬金術で肥溜めを資源化するようなでたらめは未だ良之以外の錬金
術師には不可能だ。
いずれかの時点で良之は二条領全土で上下水道の整備をせねばなら
ず、その際には、必ず汚泥の問題が発生することを覚悟する必要が
あるのである。
現状の技術面において、良之以外にロータリーキルンが作れない理
由は、単にクレーン設備がない、という一点に尽きる。
クレーン設備自体は、すでに造船所などでその原型を提供している
ことでこの時代の技術者たちにもその原理は理解出来てはいる。
問題は、クレーン車やトレーラー、貨物鉄道などの陸送重機が走れ
るような道路・線路が未だに解決できていないことだ。
単純な技術的側面で言えばすでに広階小三太や木下藤吉郎あたりは
ロータリーキルンの原理はきっちり把握しているので、良之抜きで
も彼らによって、近い将来にロータリーキルン建造が実現するだろ
う。
天文23年7月。
越中での電気銑鉄炉の完成を見た良之は、越後尼瀬の油井へと向か
っている。
以前、油井から発するメタンガスを海上に解放していた理由。
それは長尾家が支配する越後にあって、必要以上の技術を展開する
ことが危険だったためだ。
だが、長尾が二条家に臣従した現在、良之にとって自重する必要が
無くなった。
貴重な資源である可燃ガスを無為に廃棄する必要が無くなったので
738
ある。
良之は丹治善次郎を同行させ、天然ガスによるタービン発電所の建
造にかかることにした。
ガスタービン発電では高熱の排気ガスが発生する。
この高熱のガスでさらに蒸気を発生させると、蒸気による火力発電
も可能になる。
コンバインド発電だ。
油井から登る可燃性ガスには硫黄分が含まれるため、そのガスの燃
焼後の排ガスは脱硫装置を経て二酸化炭素分離回収プラントに回さ
れる。
二酸化炭素と硫黄分が取り除かれた排ガスは、窒素酸化物分解触媒
を経て大気放出される。
ここで生産される二酸化炭素には、いくつもの商品価値がある。
冷却剤としてのドライアイス。
そしてドライアイスブラスト。ドライアイス洗浄と呼ばれるサンド
ブラスト技術の一種だ。
それに、高圧二酸化炭素を油田に圧入することで石油産出量を増大
させる二酸化炭素石油増進回収法、いわゆるCO2−EOR法への
使用である。
油井に液化した二酸化炭素を圧入すると、原油の粘性が低下して、
さらにその加圧によって原油の産出量が飛躍的に増大する。
一般に、油田の埋蔵量の2割程度しか組み上げることが出来ないと
言われる油井による原油が、EORを用いると6割程度まで回収で
きるようになると期待されている技術である。
現状、原油を越後の油田に頼る以外に道がない良之にとって、環境
問題の理由ではなく、切実に二酸化炭素回収が必要なのである。
ガスタービン発電用のジェネレータは丹治善次郎に任せ、良之はガ
739
スタービン、蒸気発電の双方を製作した。
また、一連の排ガスプラントを完成させると共に、その技術を善次
郎やその配下たちに伝授した。
越後の二条領化に伴って、良之はフリーデ・阿子の配下たちに柏崎
への石油プラント建造を指示した。
尼瀬で発電される電力を用いて他の油田から原油をくみ出し、パイ
プラインで原油を運んで精製させるためである。
越中の精製プラントは今後もタンカーによる輸送で稼働させるが、
新たな精製プラントを作ることによって、一気に石油製品の生産量
を増大させる目論見である。
製鉄所の生産量増加によって工事用足場の規格品生産が可能になっ
たため、以前の木材組の足場より効率的なスチール製足場の量産が
はじまっている。
枠組み足場や単管足場といった技術の導入によってとび職や大工、
それにプラント工事などの効率性が飛躍的に向上している。
フリーデたちは、この足場工事においては専門職を育成して、本工
事の担当者とは別に足場の敷設や解体のみを行う専門家の育成を行
っている。
石油精製プラントにおいてはもはや良之の出る幕は無い。
尼瀬の発電所工事も丹治善次郎にステージを移譲したため、良之は
柏崎近郊の宮川に向かった。
砂鉄の鉱山探しである。
高浜鉱山と呼ばれた砂鉄鉱山を越後配下の山師と共に探索し、良之
は採鉱を指示。
その後、越中に戻っていった。
740
天文23年7月中旬。
良之は越中に戻ると食糧事情を改善するための大きな開発に入って
いる。
冷凍・冷蔵技術である。
現状、猿倉で生産される食肉は、富山城下で使用される生肉を除く
と、ハム・ソーセージ・ベーコンといった加工肉か塩蔵の肉が主流
である。
特にこの夏場においては傷みが早いため、食肉生産に限界を生じて
いる。
同様に、魚についても、干物や浜茹で、沖漬けといった加工品が主
体である現状から、生食の普及を狙う場合、冷凍、冷蔵技術が必須
といえる。
﹁冷蔵庫を作ろう﹂
良之は、富山に残っているフリーデを呼び出していった。
﹁冷蔵庫、ですか?﹂
フリーデたちの世界には電気式の冷蔵庫は存在しなかった。だが、
その存在は良之のキャンピングカーでよく知っていた。
﹁肉にしても魚にしても、鮮度を保ったり食中毒を防ぐためには、
冷蔵庫が必要だからね。それに、冷蔵庫があれば今よりもっと、美
味しいものが食べられるようになるし﹂
当初、フリーデはキャンピングカーにある小型の冷蔵庫を想像して
いた。
だが、良之が考えていたのは、巨大な冷蔵倉庫だった。
フリーデ配下の化学担当には、断熱材のためのポリフィルムと発泡
ウレタンの開発を命じ、藤吉郎配下のセメント技術者にも、石膏ボ
741
ードなどの耐熱ボードの開発を命じた。
新しい課題に戸惑う技術者たちに良之が発した言葉。
それは
﹁もっと美味しいものが食べたくないか?﹂
だった。
そして、良之は実際に新鮮な魚を刺身にして彼らに食べさせ、また、
塩漬けでは無い肉の料理を食べさせた。
﹁これをいつでも食べられる、そんな社会を作りたくないか?﹂
彼らは発憤してそれぞれの研究に打ち込みはじめた。
冷却機構については、広階親方の娘婿の猪之助を呼び出し、みっち
りと仕込んだ。
冷蔵庫や冷凍庫は、気化熱を応用して作られるのが一般的だ。
その心臓部はコンプレッサーという圧縮機が用いられる。
コンプレッサーは、モーターとポンプという、良之が今日までに実
現してきた基礎技術の組み合わせで作られるため、猪之助の理解度
は高かった。
気化熱を発生させる触媒のことを冷媒と呼ぶ。
コンプレッサーで圧縮された冷媒は発熱をする。
その熱を外部に放射させつつ冷媒を液状にする部分をコンデンサー
と呼ぶ。
コンデンサーの部分は自動車のラジエターと思えばよい。
細い管が何重にも重なる。この部分で高圧が加えられた冷媒は放熱
フィンや電動ファンなどで加圧による廃熱を外部に放出することで
熱を交換しつつ液体へと戻る。
冷媒がエキスパンションバルブ、つまり高圧から低圧へと移動する
逆流防止弁を通過すると急激に減圧される。
減圧されることで体積を大きく広げられた冷媒が冷却効果を発揮す
る部分。
742
これをエバポレーター、蒸発器と呼ぶ。冷媒が蒸発することからそ
う名付けられている。
エキスパンションバルブで圧が下がりエバポレーターで蒸発による
冷却効果を生み出した冷媒は、やがて再びコンプレッサーによって
吸い上げられて加圧されコンデンサーで圧縮され、液体に戻る。
このサイクルを繰り返す事によってエアコンであれば室温を下げ、
冷蔵庫であれば庫内を冷やし、自動車のラジエターであればエンジ
ンを冷まして高温になった冷却液・クーラントの熱をを奪うのであ
る。
業務用の冷蔵倉庫などに用いられる冷媒はアンモニアだ。
一般家庭用の冷蔵庫に使われているのはフロン、もしくは代替フロ
ン、イソブタンなどだが、これは万が一故障などで漏れた時に利用
者の人体に攻撃性がない事を求められた結果である。
アンモニアは冷媒としては最も優れた素材のひとつなのだが、毒性
が高いために何重もの安全策が必要になるのである。
最初にミニチュアのカットモデルを作り、冷却装置の製造方法を猪
之助に教えてから、今回は良之が錬金術で作り上げる。
まずは猿倉で食肉加工用冷蔵倉庫を4棟。
続いて、岩瀬港に漁業用の冷蔵倉庫。ドライアイスや製氷工場をそ
れぞれ建造した。
﹁御所様。この技術を使えば、もしや夏も涼しく過ごせましょうか
?﹂
﹁よく気づいたね。その通りだよ。そのためには、全ての家庭に電
気を行き渡らせないとダメだけどね﹂
猪之助はその道のりの果てしなさにため息をついた。
743
744
天文23年夏 3
﹁御所様﹂
織田加賀守信長は、精力の有り余っているような若者だったはずな
のだが、すっかり憔悴しきっている。
﹁わし1人では到底、今の二条軍は支えきれませぬ﹂
﹁あ﹂
良之は言われて、信長にのしかかった仕事量について思いが至った。
﹁加賀殿。申し訳ありませんでした﹂
飛騨、越中、能登、加賀の他、南越後、東越中、信濃、甲斐が増え
ている。
従来の倍以上の所領が増え、さらに従来の5万近い兵に加え、新領
地での雇用兵は6万人の規模になっていると聞く。
そうした兵の訓練、M−16や81ミリ迫撃砲兵団の訓練、警察組
織への人員配備に加え、各領地での道普請、橋普請、治水、整地、
干拓事業、寄生虫対策などなど。
すでに信長は可能な限り大物、小者を地元の尾張からリクルートし
てなんとかトップダウン式に業務を割り振っているものの、到底こ
なしきれない状況に陥っている。
﹁加賀殿。武田大膳大夫殿を甲斐、長尾不識庵殿を越後、木曽中務
大輔殿を信濃の担当にして、加賀殿には加賀と能登に集中できるよ
うに致しましょう﹂
﹁軍団制ですな?﹂
﹁そうです。越中も隠岐大蔵殿に権限移譲しましょう。飛騨も江馬
飛騨守に﹂
﹁⋮⋮それは助かります﹂
﹁大変でしょうが、ひとつきほど今挙げた首長たちをあなたの許に
派遣させますので、最低限必要な知識を伝授して下さい﹂
745
再び信長は青くなった。
仕事が増えているではないか。
﹁土木工事についてはあなたの手から離して、佐々や生駒たちに専
任させて下さい。それでだいぶあなたも楽になるでしょう。今の日
の本に、彼らにものを教えられるような人材はあなた以外にあり得
ません﹂
﹁⋮⋮畏まりました﹂
﹁あなたの補佐に、能登法橋殿もお付けします﹂
斉藤能登法橋道三は今まで以上に信長を溺愛しているらしい。老獪
な彼が居れば、長尾や武田と言った人格的に癖のある人物たちが相
手でも、なんとか上手くこなしてくれるだろう。
早速全人材に書簡を飛ばし、富山御所へと参集させた。
ちなみに、信濃国司を命じた小笠原信濃守は、名誉職として一旦受
けた後、再び隠居して二条家の礼式教授に戻った。
あくまで自身は敗軍の将だと身を律したのである。
代わって、良之は木曽中務義康を信濃守に任じた。
木曽家は信濃では比較的評判のよい一族であり、武田や江馬、美濃
の遠山などともわだかまりがない事を買ってのことだった。
繰り返しになるが、越後、信濃、甲斐における職業軍人の雇用は6
万人を超えている。
軍紀教育、戦闘訓練、銃歩兵、迫撃砲兵の選抜、そして治水や治安
維持、道路敷設といった土木実務への投入は全くうまくいっていな
い。
まずは国主クラスの武田晴信、長尾不識庵などを教育し、徐々にか
れらの血縁や臣下の教育を行った上で、領国単位の軍団制に移行さ
せねば、信長が過労死しそうである。
746
そんな中。
東美濃の遠山、そして西美濃の斉藤治部大輔義龍が富山御所にやっ
てきた。
目的は言うまでも無い。
美濃全土も、甲斐や越後と同じく、二条家に臣従を望んだのである。
斉藤義龍に同道した遠山七家の代表は遠山左衛門尉景前。岩村城主
である。
﹁認めましょう﹂
良之は即座に応じた。
すでに半年以上も水面下で折衝をしてきた事でもあり、その後の美
濃の統治などについては話が早くまとまっている。
斉藤義龍を美濃国司、遠山を国司代。つまり美濃守と美濃介に任じ
る。
そして、またしても織田加賀守信長の仕事が増えていくのである。
天文通宝の生産量を増加させ、日産24万枚に到達しているものの、
現状全く通貨が足りない状況になっている。
良之はついに、金貨と銀貨の生産に乗り出すことにした。
金貨は1枚一両。37.5グラムである。
銀貨は1枚一匁、3.75グラム。50匁で一両とする。
また、この時点で良之は度量衡のうち、升の公定化を決定した。
升というのは、各地方で全く大きさが異なっている。
すでに二条領では税は物納から通貨換算によって行われている。加
えて分銅が完全に共通規格化されていることもあって、升の統一に
不満が起きたり、まして一揆が起きるというような状況は存在しな
かった。
747
また、二条領にものを売りたいと思えば二条に合わせた度量衡を採
用せざるを得ないため、周辺諸国の商人はこぞって二条家の度量衡
を導入することになる。
二条升は瞬く間に普及をした。
良之は、自身の記憶通り、一合を180cc、一升を1.8リット
ルと規定した。
銅銭の生産ラインの運営が順調に推移した効果もあり、造幣所に新
設した金貨・銀貨の生産ラインは安定した生産が開始された。
どちらも最大生産量は一分あたり500枚。
銅銭のプレス工場と同一技術を用いているため、能力も同じになる。
銅銭20枚で銀貨1枚のレートとなるため、銀貨の投入は、二条領
の拡大と人件費圧力にてきめんな効果を発揮した。
金貨、銀貨共に二条の信用を背景にしているため、あっという間に
日本全土に受け入れられた。
通貨の流通量が増大し、その通貨で買える商品の開発を徹底して行
っていることで世の中の雰囲気が明らかに変わっていることも良之
は気づいている。
良之が頭を抱えるほど悩んでいるのは、まずこの時代の人口の少な
さであり、次いで生産性の非効率だった。
かなり多額の対価を支払っているにもかかわらず、九州の大友家か
らの石炭は全く増加していない。
石炭の安定供給が得られないために高炉建設は頓挫している。
二条領においても、専業兵士化によって農作物の生産量は低下を起
こしている。
この時代には1200万人ほどしか日本全土に生活していない。
つまり、農業生産高を上げようと思えば、大規模農場化を推し進め
る以外になく、そのためには農業の自動化が必要になるだろう。
748
二条領になって、子供の間引きや年寄りの放棄などといった人命軽
視の動きは影を潜めている。
それはとりもなおさず、食わしていけているからである。
だが、食料品を明やインドからの輸入に頼ることには潜在的なリス
クもある。
現在はまだ手を付けられないが、数年内には、トラクターや耕耘機、
田植機、コンバインといった農業機具を開発し、あわせてトラック
やダンプ、それに鉄道といったロジスティックスを確立せねばなら
ないだろう。
越後、信濃、甲斐などから大工を多数越中の造船所に回したことで、
以前命じていたカティサーク号の設計図による技術検証モデルが完
成したのは、天文23年8月下旬のことだった。
良之は早速、この船のためにディーゼルエンジンを錬金術で錬成し、
スクリューによるディーゼル動力船として進水させた。
操船技術習得は九鬼衆にまず任せ、空いたドライドッグでは、さら
に大型の船を建造させることにした。
この際、竜骨には大胆に鉄製の部品を増やさせ、さらに次回は船の
全周を鉄板で張らせることとした。
今回竣工したカティサークもどきの船は、船名を越中号とした。
越中号には木造ながらしっかりしたセンターマストのクレーンがあ
り、荷の積み卸しの効率は、従来の和船の比ではない。
良之は、とにかく九鬼衆にこの船を用いて彼らの地元までの訓練航
海を行わせ、技術的課題などを全て洗い出してもらうように依頼し
た。
749
試作2号船は、センターマスト部の竜骨を全て鉄張りに補強、マス
トも一本木では無く組木に鉄輪を用いた強靱な材質で作らせ、クレ
ーンは鋼鉄製にさせた。
やっと竣工したばかりのドライドッグも、大幅に改造を加える。
大地には巨大なローラーを配し、船を引き上げるためのウインチは
ディーゼルエンジンで作成した。
船大工たちは、十日ほどの休息の後、またフル稼働の日々がはじま
った。
﹁発電が安定すれば、いずれ総鉄製の船が作れるようになると思い
ます。木造の巨大船は大変でしょうが、必ずこうした技術は将来に
つながります。頑張って下さい﹂
良之は船大工たちを励ました。
各所の発電プラントの設計や施工に飛び回る丹治善次郎の配下で、
富山でアーク溶接を研修させていた鈴木徳之進が良之に成果を見せ
にやってきた。
﹁徳之進、よくやった﹂
良之と善次郎によるDC200V電源を使っての直流アーク溶接機
だ。
﹁早速、実演を致します﹂
徳之進は造船所で、越後で建造され回送されたタンカーの油槽の溶
接によって検証を続けていた。
アーク溶接は、これまで実用化してきたアーク放電による溶鉱炉な
どと全く同じ原理で発明された。
電気の放電による高熱で金属同士を溶解させ、接合する。
750
アーク溶接の溶接棒自体も高熱で解けるが、アーク溶接の利点は、
溶接させる母材の方も高熱で解けることによって溶接点の分子構造
が強固に結びつく点に尽きる。
はんだなどを使用したロウ付けとは、本質的に違うのである。
単なる溶接棒による溶接だと、溶接点で熔解した母材や溶接棒が水
素や酸素によって脆くなってしまう。
また、溶解自体も酸素によって不安定になり、母材にピンホールと
いう穴が空いてしまう。
徳之進に命じた技術的課題は、ここにあった。
アーク棒は、微粉末による被膜を形成して高熱で一緒に熔解するフ
ラックスによって、溶接点の母材と溶接棒の素材の溶着を、大気中
の酸素や水素から保護せねばならない。
被覆材と呼ぶこのフラックスには、いくつかの素材的要件がある。
アーク放電を安定化させる性質を持つ安定剤。溶接棒が熔解して出
来るビードを保護するスラグ材。溶接点を大気から保護するガス発
生剤、そして母材を酸化から守るために代わりに参加する素材を使
った脱酸素剤。
そのほか、溶接点で母材に混ざることで強靱な合金を形成する合金
剤などが必要になる。
アーク安定剤には長石やケイ酸カリや酸化チタン。
スラグ剤には石灰石や酸化鉄。
ガス発生剤には石灰石やセルロース。
酸化剤にはフェロマンガンやフェロシリコン。
そして、合金剤にはフェロクロム、フェロマンガンなど。
これらは良之が工学辞典からピックアップして研究を続ける彼らに
提供して実地に訓練させていた。
751
フラックスを被覆させた溶接棒は、使用直前まで80度から100
度のストッカーに納めて酸素や水素から保護しておく。
﹁⋮⋮いかがでしょうか御所様。ご指摘通り、被覆棒と保温庫を作
りました﹂
﹁うん、じゃあ早速やってみて?﹂
徳之進は早速、溶接の職人たちに指示をしてアーク溶接を開始させ
た。
﹁うん、お見事。溶接工はつらいし危険な仕事だけど、頑張って職
人を育てて下さい﹂
良之は、想像以上の徳之進の成果に目を見張った。
アーク溶接が実現したこと。それは、二条領のさらなる技術的進化
を底上げすることになる。
752
天文23年夏 4
寒天は、日本の特産品だった。
発明した人物も、その状況も分かっている希有な食品でもある。
良之たちのいる天文23年︵1554年︶から130年後の江戸時
代、貞享2年︵1685年︶の京都伏見。
美濃屋太郎左衛門は旅館美濃屋の当主だ。彼は島津の当主の参勤交
代のもてなしに、その頃京で流行していた天草で作ったところてん
を饗した。
余ったところてんを終夜屋外に放置していた所、翌朝には偶然、フ
リーズドライ状態になっているのが発見されたのである。
美濃屋はこれを再び水で戻してみた。すると、今まで食べていたと
ころてんより遙かに美味なものになっていた。
見た目のつやがきめ細かく美しい上、従来の乾燥させたところてん
に残っていた海草の乾物臭さが抜けていたのだ。
第二次大戦直前まで、全世界で使用される寒天は、ほぼ日本製だっ
た。
寒天は食品としてだけで無く、医療分野で細菌の培養に用いられて
いた。
非常に重要な商品だったのである。
寒天の一大生産地は信州だった。
原料となる天草は、伊豆や紀伊半島の海岸で採取され、浜でしっか
り乾燥させて圧縮して陸路、信濃に送られる。
言うまでも無く、海草である天草は、土地の海女によって収穫され
る。
春から秋にかけてたっぷり収穫された天草は、厳冬期の信濃の農民
753
によって寒天へと加工された。
乾燥保存された天草はしっかり洗浄され塩分と砂を取り除く。
その後2昼夜水にしっかり浸して戻される。
戻した天草は巨大な釜で半日間煮上げて、天草から寒天液を抽出す
る。
抽出された寒天液は、木綿の漉し袋に入れられて、上に重しをかけ
て絞り出される。
寒天液の状態では大量の天草の残滓が残っているが、ここで漉され
ると、夾雑物は取り除かれる。
この時点では寒天液の色は、天草の色である赤紫色だ。
寒天成形用の四角く大きな桶に寒天液を張り、室温で丸1日寝かせ
ると、寒天液は凝固する。
この凝固した寒天を荷姿の大きさに切断し、露天に2週間晒すと、
乾燥と凍結を繰り返し、天然のフリーズドライ状態になる。
また、直射日光に晒すことで天草の色素が漂白され、美しい乳白色
に落ち着く。
良之は太平洋側の商人たちにこの天草採集を推奨させ、費用を出し
漁師の妻子などを海女として動員させた。
また、信濃の諏訪から伊那にかけての農民たちに設備と知識を提供
し、寒天作りを教えた。
実稼働は今年の冬からになるだろう。
真空引きした大釜があれば、工業的にフリーズドライは実現できる。
まずは業務に携わる全ての者達に、良之はところてんやあんみつを
振る舞った。
自分たちがこれから作る食品の真価を知って欲しかったのである。
754
言うまでも無く、富山御所にいる女性陣や、信長、晴信、不識庵ら
﹁二条軍﹂について検討を続けている幹部たちも余福に預かった。
男性陣には三倍酢のところてんが高評価だったが、女性陣には黒蜜
のところてん、そして何よりあんみつが大好評だった。
﹁信濃の寒天作りが成功したら、いつでも食べられるようになるよ﹂
試作品を全て食べ尽くされた良之はそう言って、陰に陽に再生産を
要求する一同をいなしたのだった。
信濃国司中務大輔義康は、この一件における最大の被害者だった。
﹁中務殿﹂
富山御所を歩く義康を呼び止めたのは越後殿、お虎御前だ。
﹁これは﹂
主君の側室に義康は一礼する。
﹁御所様から聞いたんだけどねえ。寒天、あたしはあれが大好きな
のさ﹂
﹁は? はぁ﹂
﹁御所様は冬になったらたくさん作れるって言ってるんさね﹂
﹁はい、聞き及んでおります﹂
﹁⋮⋮はやく食べたいねえ﹂
﹁⋮⋮越後殿。御所様からは、諏訪湖が凍る季節にならねばはじめ
られぬ、と聞いております﹂
﹁ああ、そうだったねえ。とにかく、楽しみにしてるよ﹂
ほっとため息をつき一歩踏み出そうとした中務の目の前に、北の方
が微笑んで立っていた。
﹁ふう﹂
女性陣からの笑顔の圧迫外交を凌いで、織田加賀守たちとの会合に
出席した中務は、ほっとため息をついた。
﹁中務殿﹂
顔を上げると、そこには満面の笑みの信長と晴信、無表情の不識庵
755
が待っていた。
﹁あのところてん、美味しゅうございましたなあ﹂
﹁さよう。わしはあのあんみつとやらが恋しゅうござる﹂
﹁ほう、不識庵殿は甘い方もいけるのですなあ﹂
﹁わしはくろみつ掛けのところてんが一番ですな﹂
なんと恐ろしい、中務は青くなった。
織田信長と武田晴信と長尾不識庵が、寒天などというもののために
共謀しているのである。
﹁御所様、お助け下さい﹂
その晩、木曽義康は良之に泣きついた。
﹁全くみんなしょうがないな﹂
良之は苦笑して、錬金術による合成を承知した。
良之が虎視眈々と食のブームを起こそうと企んでいる分野は﹁卵﹂
だ。
冬場に向けて、良之はおでんの開発に入っている。
冬の味覚を真夏に準備しなければならない理由は、竹串だった。
美濃から越中・越後にかけての一帯は、良質の竹が多く手に入る。
ゆえに古来から竹細工の盛んな地域だが、良之は主に山方衆のリタ
イアした老人たちに依頼して、徹底的に竹串のプロダクトを殖産し
た。
猿倉衆に卵や鶏肉の増産をさせ、ミンサーで鶏つくねを生産させる。
また、竹串を使った牛すじも作らせ、真空パックで冷凍庫に保存さ
せる。
越後屋に命じて蝦夷地からの昆布の仕入れを強化させ、さらに能登
や加賀の漁師たちに白身魚を獲らせては、薩摩揚げやはんぺんなど
756
の加工を教えて保存食化させていく。
揚げ物用の大釜やフライヤー、鉄製の菜箸やトング、揚げ物用の網、
ボウルなども生産ラインを確立して、網元たちのうち乗り気な者達
に提供していった。
こんにゃくは甲斐の水利が悪い荒地で換金作物として作らせる。足
りない分は上野など関東一帯からかき集めた。
豆腐は京都から職人を呼び寄せ、油揚げやがんもどきの製造を研究
させた。
そして、普及のための料理人は言うまでも無く、木下智である。
だしは鰹節と昆布。出しがら昆布は当然、結び昆布として具に加え
る。
おでんの評価も上々だった。
良之の狙い通り、徐々に宗教的忌避感より、美食の欲求が庶民に広
がっていく。
この時代の食生活は、汁と米を中心にしたご飯。それに干物や野菜
の漬け物と言った貧相な栄養状態だった。
この栄養状態の改善にうってつけなのが食肉だ。
猿倉衆の最大限の努力によって、良之やフリーデ、アイリといった
ビーフステーキ派にとっては満足のいく牛肉が冷凍庫には積み上が
っている。
だが、なかなかシェアが増えない。
とにかく食肉への忌避感に勝つには、美味を提供することだ。
良之が次に投入した食品。それは、親子丼、カツ丼、そして焼き鳥
だ。
ステーキで肉の姿に抵抗感をもたれることを悟った良之は、極力肉
757
のイメージが和らぐ食べ物で徐々に浸透させていこうと考えたので
ある。
串を量産させたことの狙いもまた、ここにある。
良之の記憶では、焼き鳥は老若男女まんべんなく好まれる食品だっ
た。
親子丼やカツ丼も、同様に日本人に広く愛されていた食品だった。
どちらも、醤油と出汁をメインに酒やみりん、砂糖を使用して調理
される。
カツ丼のどんぶりについては、美濃の焼き物職人たちに大量に発注
した。
また、どんぶりの普及に併せて牛丼も提供されはじめた。
﹁滋養強壮によい﹂
と良之は積極的に、もはや布教と行ってよいほどに牛丼を推奨した。
ステーキに抵抗を示した層にも、意外に牛丼は好評だった。
﹁獣臭さが少ない﹂
というのがどうも理由だったらしい。
この頃には、甘酢に漬けたいわゆる﹁ガリ﹂や、赤梅酢に漬けた﹁
紅しょうが﹂も薬味に加わった。
さらに、甲州で水田農から離れさせた農民に推奨した梅干しや甲州
小梅は二条領で大好評を博している。
特に甲州小梅は食べやすさやおにぎりへの使いやすさから爆発的人
気を得て、武田晴信は大規模な果樹園への転作が指示できることに
なった。
また、能登の輪島塗職人たちに量産を依頼したのが天丼やうな重の
ためのお重である。
758
これらの新たな食生活は、全て富山御所から発信され、同心円を描
くように徐々に近隣諸国に伝播される。
新しい調理技術を学んだ職人は数ヶ月単位で加賀、能登、飛騨、越
後、信濃、甲斐、美濃の各主城に派遣され、まずは在城の士族たち
から順に新文化として広がっていく。
旧暦8月。
良之は柏崎で、ナフサを原料にした合成ゴムの工場を建造していた。
急激に発展する二条領の底を維持するため、いよいよゴムタイヤの
開発に着手したのである。
ゴムタイヤは、本来であれば合成ゴムと天然ゴムを半量ずつ使う方
が好ましい。
天然ゴムの方が転がり抵抗が少なく、また、合成ゴムの方が品質が
均一で寿命が長い。
これら原料ゴムを、加熱したローラーで何度も圧力を加えつつ混ぜ
合わせ、さらにここに石炭や石油の精製で生まれるカーボンブラッ
クや硫黄、それに加硫促進剤を加える。
紫外線によって劣化する性質を持つゴムの寿命を延ばすため、化学
物質や油脂も加えられ、何度も混ぜ合わされる。
そうして製造したタイヤのゴムは、ナイロン製の芯布に貼り付けら
れ、タイヤとして成型製造されていく。
良之のタイヤ事業のスタートは、牛馬や人力で扱うリアカーの車輪
からである。
車輪は自転車と同様のハブとスポーク製。
チューブ式の空気タイヤで、ベアリングを用いることで転がり抵抗
を抑える。
シャフトは鋼鉄製。従来の木製のいわゆる﹁大八車﹂に対して、鋼
759
鉄製でありながらむしろ軽量で、労力も圧倒的に小さくなる。
アスファルト舗装がされていないこの時代の道路においては、大八
車は非常に過酷な輸送具だった。
車自体が自重があまりに重い。上に乗せる荷物の荷重に耐えるため、
全ての構造材が頑丈で大きくなるためだ。
さらに車輪もシャフトも木製のため、製造には熟練した職人が必要
になる。
木製の車輪やシャフトは壊れやすく、壊れると直しづらい。
すでに二条領にはアーク溶接があるため、鋼鉄のパイプ材同士の溶
接が可能になっているため、リアカー製造においてネジ止めやリベ
ット止めより堅牢な構造生産が可能になっている。
むしろ、大八車よりリアカーの方が製造コストも工期も短いのであ
る。
プロダクト開始当初からリアカー生産は圧倒的な人材投入をしてい
た。
だがそれでも生産は需要に追いつかなかった。
二条領においては、軍のみならず商家、工場、それに富農がこぞっ
て欲しがり、生産より予約の方が上回る状況がこのあと数年続くこ
とになる。
760
天文23年秋 1
酷暑の夏が終わり、旧暦9月が訪れた。
収穫期に入り多忙な時期になったため各国司を領国に戻し、この時
期を利用して良之は望月千、下間加賀介を連れて外遊に出ることに
した。
まずは相模の北条。
武田が二条家に臣従したために宙に浮きかけた甲相駿三国同盟を、
良之は大筋で維持しようと考えていた。
そのため、甲斐で武田典厩信繁を帯同させ、相模小田原城に北条相
模守氏康を訪ねた。
﹁相模守殿。お久しぶりです﹂
﹁御所様、ご無沙汰いたしておりました。典厩殿もよくぞ参られた﹂
﹁相模守様。武田を代表し、こたびの一件、言上つかまつりに参り
ました﹂
典厩は、武田が二条家に臣従したいきさつを、率直に氏康に話して
聞かせた。
﹁⋮⋮なるほど。御所様のご治世はそれほどでござるか﹂
氏康は表情を一瞬曇らせるが、良之に
﹁されば、当家も御所様のご治世の見分を願い奉ります﹂
と申し出た。
﹁ええ。歓迎しますよ﹂
良之も快諾した。
北条相模守との平和協定は従前通りで妥結した。
761
ただし、二条軍の派兵協力については、防衛時のみと条件を付けた。
次いで東海道を西に上り、駿河で今川治部大輔義元と謁見する。
今川家は足利将軍家の連枝である吉良氏のさらに分家であるが、そ
れだけに足利の権威による所が大きい。
当然、日本有数の足利親派だ。
義元は名門意識が大きいが、彼を上手く補佐して、この時期駿河、
遠江、三河までを掌握している戦国屈指の大所帯をまとめ上げてい
る人物が居る。
良之とはなかなか縁が折り合わなかった太原崇孚雪斎である。
雪斎は、出自が父方が庵原氏、母方が興津氏というどちらも今川家
譜代の重臣であり、その政治的影響力はあるいは、主君の義元より
大きい人物である。
義元にとっては、自身が今川の家督を継げたのは全て、雪斎の周旋
のおかげであり、ただ恩人と言うだけで無く、人生の師ですらある。
雪斎の政治的影響力は単に駿河に留まらない。
この時代屈指の臨済宗の重鎮としての顔も持ち、以前に触れた通り、
東海・近畿に根強い精力基盤を持つ臨済宗妙心寺派の中心的人物と
して、戦乱に苦しむ妙心寺の三十五世宗主を務めても居る。
この時代において臨済宗は、政治家と軍事家の両面を持つ大名や国
人豪族たちに絶大な影響力を持つ。
甲相駿三国同盟という、当時の常識では荒唐無稽なプランが成功し
た背景には、ひとえに太原雪斎という大人物の功績があればこそで
ある。
良之は、飛騨の明叔慶浚、甲斐の鳳栖玄梁や岐秀元伯、美濃の快川
紹喜、沢彦宗恩といった二条家の内政をよく知る僧侶たちに、こぞ
762
って二条家の世論形成のため太原雪斎に書簡を送らせている。
彼が今川家における楔であることを知り抜いていたからである。
同門の高僧たちから繰り返し聞かされた噂の主との謁見ということ
で、雪斎は非常に興奮し、今川家と二条家の会談は終始、成功裏に
終わった。
初対面の際には良之は望月千に雪斎を診察させ、加療を施している。
現状で太原雪斎を失うことは、今川にも二条にも悪影響があると考
えてのことだった。
﹁これが音に聞く二条様の魔法治療でございますか⋮⋮﹂
老化による肩や膝の痛み、時折感じていた内臓の不具合などが一気
に改善して、雪斎は驚き、感嘆の声を上げた。
﹁御所様、当家にも療養所なるものの建造をお願いしたく﹂
今川義元は良之に求めた。
﹁数年の猶予をいただければ。実は、二条領があまりに急に広まっ
てしまい、お医者の数が足りないんです。頑張って育成中ですから﹂
派遣が出来るようになるまでは、甲斐や尾張、美濃の療養所で受け
入れること。回復魔法より修練度の高い錬金術による薬剤師を先行
して派遣するので、三河・遠江・駿河に先行して療養所を作ること
などを提案する。
二条家の投薬治療の効果を聞き及んでいた雪斎と義元は、喜んで温
泉付き療養所の建設を承諾した。
﹁今川として、もし将軍家から当家との戦を求められたら、どうな
さいますか?﹂
従来通り、甲相駿三国同盟は形を変え、二条、北条、今川間で持続
することが決まった。
だが、足利と親しすぎる今川に対しては、この一点はしっかり確認
せねばならない。
良之の問いに、太原雪斎は即刻返答をした。
763
﹁ご先代の義晴公とちがい、今代の将軍家とは、さほどの深い誼は
ございませぬ。当家としては、三国同盟の誼を優先いたすことでし
ょう﹂
﹁もう一つ。俺が尾張に三河への野心を捨てさせたら、今川家は尾
張への野心を捨てていただけますか?﹂
﹁さて、それは⋮⋮﹂
雪斎は言葉を濁した。
よしむね
実はこの年、尾張では内紛が重ねて起きている。
尾張守護斯波義統は、傀儡とはいえ尾張守護代織田信友の尾張にお
ける権威の象徴だった。
その義統が、近年力を付け続け、嫡男信長が噂の御所様・二条良之
の腹心中の腹心として重用されることもあって飛ぶ鳥を落とす勢い
になった弾正忠織田家の織田信秀と接近している。
信秀の所領である津島や熱田では、すでに二条領から輸出される豊
富な物資が渡来している。
食住環境において、北尾張と南部地方では明らかな格差が生まれて
いる上、二条家からもたらされる富と知識によって、道路や田畑の
改革も進んでいる。
織田大和守信友はこうした状況に不満を持ち、織田信秀の暗殺を企
てるが、それを事もあろうに斯波義統が信秀に密告してしまったの
である。
怒った信友は機会を窺い、義統の嫡男義銀が川狩りのため城兵を率
いて出かけた隙に居城の武衛陣屋を急襲する。
斯波家の家臣は寡兵ながらよく戦い、信友の軍に多大な死傷者を出
したものの衆寡敵せず、義統は一族と共に自刃して果てた。
川狩りを切り上げた義銀はその足で那古野城の信秀を頼って落ち延
びた。
信秀は義銀の逃亡によって主君の仇討ちという大義を得て、清洲城
764
を攻め落とした。
この戦においては、二条家が放出した種子島が実に三千挺も使用さ
れている。
その凄まじい戦果によって、信秀より高位であった織田伊勢守家も
臣従し、ここに尾張の覇権は正式に織田尾張守信秀のものとなった。
こうした経緯から、良之の許には信秀からも、尾張を二条に捧げ織
田家も臣従するという打診が来ている。
あまりに急速な領地の拡大によって、良之自身の能力をも超えるよ
うな負荷が彼だけでなく全家臣団にかかっている。
出来れば尾張の吸収はもう少しゆとりを持って行いたいというのが
本音だが、今川の返答次第では、この会談を終え尾張に入った直後
に併合する腹づもりで良之はいる。
だが、今川からはついに織田と今川に関する和平の確約は得られな
かった。
﹁それでは仕方ありません。今川殿、雪斎殿。尾張は俺がこれから
は支配します﹂
呆気にとられる今川主従たちにそう宣言して、駿河の滞在を切り上
げた。
その後、三河で良之は松平家を訪ねた。
当主は幼君松平竹千代。後の家康であることはさすがの良之でも知
っている。
当時の岡崎城は城代として朝比奈備中守泰能が本丸を所有していた
ため、竹千代とその臣下は二の丸に入っている。
良之主従は朝比奈備中と面会後に、松平主従に面会した。
このとき主君竹千代と共に良之に謁見した松平の家臣は、阿部貞吉、
石川清兼、鳥居忠吉といった、初期家康を支えた忠義の三河者達で
ある。
765
この後、竹千代は駿河に戻され、翌年元服。
今川義元より偏諱を受け、松平次郎三郎元信を名乗るようになる。
良之が尾張に到着したのは、旧暦9月20日過ぎだ。現在の暦に直
すとすると、すでに10月上旬に入っている。
二条家から購入した種子島や鉛、そして黒色火薬によって、尾張は
一気に統一を見た。
そもそも親信秀派だった国人層に加え、守護代織田家の諸分家も、
清洲城の陥落を見て信秀に従っている。
その信秀から﹁決して逆らうな﹂と厳命されている二条良之という
青年貴族の姿を一目見ようと、尾張中の支配者たちが清洲に集まっ
てきた。
良之が今川の尾張に対する野心を察して尾張を併合しようと決断し
たように、織田信秀もまた、斯波義銀や彼とつながる足利義藤らの
陰険な策謀から尾張を守るため、新たな権威を必要としていた。
だが、言うまでも無く信秀はすでに、国を差しだし二条に仕えた方
が、より一層民は幸福に、そして旧支配者たちは豊かになっている
ことを知り抜いている。
歴史上、どんなに実権を掌握しても織田家が尾張守を名乗らなかっ
たのは、尾張守護斯波家への配慮だっただろう。
だが、斯波武衛家の滅亡と同時に良之は信秀を正式な国司に任命し、
尾張守を拝領させている。
完全に足利家の威信を無視したのである。
766
尾張各地の支配者層を清洲城に集め、良之への臣従が行われた。
すでに根回しの終わっている国人層や親信秀派の織田分家たちは動
揺しなかったが、織田伊勢守家、岩倉城主の織田信安はあまりに急
激な変化に驚きが隠せずにいた。
﹁伊勢殿。まずは富山でしばらくお過ごし下さい﹂
良之はその事情を察し、伊勢守信安を富山御所に招いた。
信安は戸惑ったが、尾張の有力者たちは誰もがそれをあまりにうら
やむため、最後は気をよくして富山に旅立っていった。
ところで、尾張が臣従したことによって、織田弾正家の後継問題が
持ち上がった。
だが、草に繋ぎをとらせた所、信長は全く弾正家の跡取りに関心を
示さず、スムースに織田信勝が後継に据えられた。
良之はあまり信勝に好意を持っていない。だが、彼を信秀の後継の
国司に据えねばならない以上、好悪で物事は動かせない。
そこで、信勝自身を二条流に教育し、その能力を見定めることにし
た。
﹁弾正殿。貴殿にも富山での国司修行に赴いていただきます﹂
﹁⋮⋮はい﹂
良之の有無を言わさぬ指示に、信勝は否応なく従わされることとな
った。
やがて信勝は、二条家の底力を嫌と言うほど見分させられ、素直で
扱いやすい人材へと変わっていく。
そして、長年侮っていた実兄の本当の能力を、まざまざと見せつけ
られることになる。
良之はひとつきかけて、尾張で大量生産が始まった木綿の自動紡績
機を生産し、木綿糸の生産を織田信秀に始めさせた。
767
また、木綿の種子から綿実油の生産も開始させ、さらに収穫後の枯
れ草も粉砕して堆肥化できるよう粉砕器を製造して提供した。
人糞の禁止、堆肥生産、治水工事などは、来春以降に越中の技術者
を派遣して行うことになるだろう。
美濃と尾張という大穀倉地帯が得られた事は、甲信地方の厳しい食
糧事情にとっては福音といえる。
二条領全体としてみたとき、加賀、越中、美濃、尾張という穀倉地
帯を得たことで、米穀生産量の乏しい甲斐、信濃、越後、飛騨を支
えることが可能になったのである。
また、気候が温暖な太平洋岸の土地が、木綿やトウモロコシといっ
た新しい普及作物の収穫をもたらしてくれることになるだろう。
768
天文23年秋 2
尾張と美濃を合わせた人口は、60万人を超える。
この人口は、甲斐と信濃を合わせた人口の2倍、とは行かないが1.
5倍以上は優にある。
現状の良之にとってもっとも渇望しているのは労働力だ。
史上、信長が類い希な拡大を果たした真の原動力。それがこの日本
屈指の人口を誇る穀倉地帯の掌握だった。
以前にも触れたが、良之は職業軍人を平時には工兵として道路工事
や架橋に用いている。そのため、平時にあっても彼らは無産階級で
はない。
むしろ、良之が推し進める近代化にとって最も重要なポジションを
担っているといえる。
美濃と尾張でも、3万人規模の職業軍人への希望者が得られた。
この中で良之がもっとも喜んだのは、木曽川衆の仕官だった。
坪内、前野、蜂須賀ら後年羽柴秀吉に仕えることになる木曽川沿い
の土豪たちである。
良之に言わせると、金勘定から荒事までこなす彼らは、どこぞの名
家出身で威張り腐っているような貴族化した武家よりよほど有能だ。
二条家としては以前、越中から飛騨への物流が危険に陥った時、尾
張津島や伊勢長島から美濃経由で下呂へと荷を運び込むプランを実
行させて以来のつきあいになる。
川衆と言っても彼らの多くは本貫の地を持っている。
ただの風来坊ではないが、かといってこれまではどの権力にも臣従
せず、戦ごとに参戦しては報酬を稼ぐような存在だった。
769
これまではこの地の権力は全く安定しなかったので、それでビジネ
スが成り立っていた。
ところがある日突然、気がつくと美濃も尾張も木曽も飛騨も、彼ら
の商売先は全地域がすっかり二条家になっていた。
さすがに川衆たちは驚き、幸い尾張で指揮を執る良之が在地のうち
に、慌ててあいさつに出向いてきた、というわけである。
良之はひとまず、じっくりと彼の領地政策を語って聞かせた。
北越後で失敗した反省から﹁ただ領地を召し上げるのではない。検
地したあと査定を行い、従来通りの上がりと同程度の賃金を金で払
う﹂ということをしっかり語って聞かせることで、無用な反発を防
ごうというわけである。
川衆たちも、日に日に高まる二条家の評判をよく知り抜いていた。
全員がこぞって飛騨や富山の見学を希望し、良之は彼らの路銀まで
用意して、送り出したのだ。
帰ってきた川衆たちは一家残らず、二条家に仕えることになった。
良之は、川衆たち全員を木下藤吉郎付きとした。
セメント、コンクリート技術によるエキスパートである藤吉郎に彼
らを付けたのは、その豊富な知識と実績を買ってのことだ。
しゅんせつ
つまり、治水事業についてである。
河川水運は、治水や川底の浚渫などと表裏一体の事業である。
美濃と尾張には、治水面で難問を抱える河川が三筋もある。
木曽川、揖斐川、長良川だ。
いずれも水量が多く、穀倉地帯である濃尾平野を潤して、更には舟
運を底支えしてくれる恵みの川は、ひとたび牙をむくと、全ての富
や人命を押し流す暴れ者へと豹変するのである。
これらを、藤吉郎の培ったノウハウで治めさせようというのだ。
770
さらに広階猪之助に命じ、尾張の津島にも冷凍倉庫、冷蔵倉庫を発
注する。
良之は、二条領の各本城所在地でのこれら倉庫の建造を指示してい
る。
尾張の場合は那古野城下だが、そのほかに津島にも特に建造を命じ
たのである。
それらの手配が完了すると、良之は北近江に向かった。
天文23年11月2日︵1554年11月26日︶。
良之は浅井氏の小谷城を訪れ、当主の浅井久政にあいさつをしてい
る。
先に越前の朝倉氏と円満に外交を終えていたこともあり、朝倉の盟
友といえる、あるいは従属的大名家ともいえる浅井氏とも穏やかな
面会で終えることが出来た。
翌日京に向け出立。
途中、良之は比叡山延暦寺を訪問し、座主梶井宮応胤法親王と面会
している。
11月4日。
良之は禁裏に上がり、この一年の報告を帝に行った。
帝は良之の報告を喜んだ。ことに、伝染病や風土病の治療に注力し、
職の無い庶民、親のない孤児などに新しい職を斡旋、そして、口減
らしを禁じ、公金で人口増加策を進める良之を大いに嘉した。
﹁黄門。新たに東国按察使を創設し、任ずる﹂
帝の言う東国按察使というのは、国司を監督する令外官で、その権
ちんてき
限を東国全域に広めた役職である。
帝は当初、鎮狄将軍の任命を考慮したが、同時期に征夷大将軍と同
771
等の宣下は例がなく、国家をふたつに割る状況は好ましからず、と
して代替案として新たな職制を生み出したのである。
良之は、帝に請願して平安京時代の大内裏があった一帯を譲り受け、
この土地に二条城を建設することに決めた。
兄の持つ二条邸も広大ではあるが、都の治安維持、禁裏の護衛など
の兵を収容し、さらにいざというときの防衛拠点として用いるには
手狭すぎる。
三好家の行っている京の防衛体制には良之は大いに不満がある。
その上、容易に細川の侵攻を許し、危うく禁裏まで焼きかねない戦
災を生んだのはほんの2年前である。
幸いなことに、二条家の軍備は順調すぎるほど順調である。
この辺で、京と堺の南、船尾の2拠点にM16と81ミリ迫撃砲で
武装した常在兵を派遣して、駐屯させる腹づもりを固めたのである。
平時は警察業務を行わせ、有事には帝を護衛させる治安維持軍であ
る。
良之は、朽木谷に亡命している足利義輝︱︱この年2月に義藤から
改名︱︱を警戒している。
もはや二度と自力で京への回帰は不可能だろうが、いつ何時帝に牙
をむくか分かったものではない。
本来、京は天皇家と公卿によって武力統治されていた。
それがここまで荒れるに至ったのは、ひとえに収入源であった荘園
が私掠され、武家の社会になったためである。
帝の勅許を得、良之は早速、町民を転居させ、城郭の造成をはじめ
させた。
担当は、京の皮屋の今井宗久に手配させる。
﹁とにかく、金は惜しみなく使って、急がせて下さい﹂
足りない人足や大工は、畿内から金にものを言わせてかき集め、資
材も堺や石山、それに京北あたりから物量作戦で運び込ませる。
772
三好家には、あくまで禁裏守護の名目で一条家や九条家を通じて了
承させた。
二条家にとっては別段、京の利権には興味がない。
こうして良之は外遊活動を終え、堺に下って武野紹鴎と情報交換を
した後、富山御所へと帰還した。
773
天文23年冬 1
越中富山の冬は冷え込みも霜も降雪も厳しいが、良之にとってはあ
る意味、幸福な季節といえる。
軍事や政治での突発的な出来事で彼の研究開発が阻害されないから
だ。
天文23年12月。
いよいよ降雪がはじまった富山御所で、良之は絹の自動紡糸の研究
を行っている。
絹糸の紡ぎ方は、完全手工業の時代から完全自動紡績まで、まった
く原理は変わっていない。
蚕が繭を作った時点で加熱乾燥によって生育を止め、熱湯でゆでる
ことで絹糸の構造物の繭をほぐす。
ほぐされた繭の糸口を取り出し、複数本の糸をこよって錦糸を巻き
上げるのである。
自動紡糸機の場合、各種センシング技術によって新しい繭が供給さ
れ続ける。
だがこのコンピュータ技術の部分については、良之の知識では再現
不可能である。
絹糸には、用途に応じて様々な撚り数が設定されている。基本にな
るのが3撚り。
次いで4撚り。
撚り上げられた糸同士を再度組み合わせて番手を上げることもある
が、原料としての絹糸は一般に、撚り数が少なく細い方が、より良
質であると言われている。
774
撚り技術などはのちのち、長い時間をかけて技術者たちが個々に発
展させればよいと良之は考えた。
まずは、三つの撚り糸滑車の付いた撚糸機を作り、新たな糸口を供
給するアームの操作を工員に任せる形の半自動撚糸機を開発し、生
糸生産地である飛騨で小規模に実験運営を開始した。
冬場の農閑期に、若手の未婚女性を中心に雇用を促進したが、希望
者は飛騨のみならず二条領各地から殺到した。
この時代の暖房の熱源は、全国的に薪の燃焼熱である。
いろりには郷愁があって、屋内で赤く燃える炎を眺めながら家族が
過ごすのはなかなかよいのであるが、他方で、この燃焼時に発生す
る煤が、じん肺や肺結核、肺気腫などの健康被害につながっている
ことは見逃せない。
また、寝室においては手鉢や行火などの燃焼型の暖房具が用いられ
るが、こちらも火災の危険があったり火傷の問題などもあって、何
より不便である。
良之はまず、個室用に石油ストーブの生産を開始した。
石油ストーブのボディや燃焼器、灯油タンクは8割方が鉄板プレス
製品だ。
灯油を芯と呼ばれるグラスファイバー繊維で蒸発させ、その芯の先
端に着火して燃焼。
さらに灯油の燃焼熱を使って燃焼網と呼ばれる金属網を加熱させ、
この熱で不完全燃焼した灯油から発生する一酸化炭素を燃焼させ、
余熱を得る。
屋内に高濃度の一酸化炭素ガスが発生することも防ぐ一石二鳥の仕
組みである。
775
不完全燃焼した灯油の燃焼網による再燃焼のためには、燃焼筒外部
に耐熱ガラスによる筒が必要になる。
燃焼筒内部に燃焼ガスを押し込め外気と遮断させ、その上で燃焼網
赤熱による赤外線を効率よく屋内に伝えるため、透明性が必要なの
である。
また、ストーブの筐体、つまりハウジングにおいても、この赤外線
を屋内によりよく伝えるため、鏡面加工が必要になる。
通常のハウジング部分は、一般に耐熱塗装された鉄板が、また、鏡
面部分には劣化腐食が少ないステンレス板が用いられる。
石油ストーブは日産50台規模で製造ラインを構築させ、製造を開
始させた。
また、鋳物と亜鉛メッキ鋼板による薪ストーブの製造も指示した。
ガソリンスタンドが全く整備されていない現状、甲信越から北陸、
東海に及ぶ広大な二条領において灯油の流通は輸送力に限界があり、
現状においても薪が燃料の主力である。
石炭やコークスは、一般家庭で使用できるほどの生産量が得られて
いない。
鉄鋼生産で全量を消費してしまって欠乏している資源の一つだった。
薪ストーブは、ハウジングを鋳物、燃焼ガスの排気用煙突に亜鉛メ
ッキ鋼板を用い、覗き窓に耐熱ガラスが用いられる。
この時代としては比較的大型の鋳物になる。
鋳型には砂が用いられ、そこに若干量の糊として石油由来のポリマ
ー液を含ませて鋳造する。
1日の生産量は10台が良い所だが、こちらは職人数の増加と熟練
によって、今後大きく生産量が増えていくだろう。
炭火の手鉢などは美濃の瀬戸に増産させる。
776
火鉢や五徳、鉄瓶などは鍛冶師や鋳物師に量産させる。
全国の商人に分銅や升、それに通貨の新造などでネットワーク力を
持った二条家は、全国に強大な販売力を持った。
どのような製品でも作れば作るだけ売れ、それだけでなくさらなる
増産を渇望されることになる。
﹁全滅?﹂
良之は報告を聞いて唖然とした。
アルメイダら南蛮商人から購入して試験育成させていた能登のブド
ウ農園の育苗が、全て枯れてしまったという。
能登では、先の大乱で働き盛りが多く戦死してしまったため、働き
手が新たに成長するまでの間、官費を大量に投入して様々な支援策
を行っている。
西洋から買い上げた種苗の農業試験場もそのひとつだった。
能登、加賀、越中に幅広い政治力を持っている遊佐続光を代官とし
て任命していたが、その遊佐が青い顔で恐る恐る報告に来たのであ
る。
﹁は。地面を藁で覆ったり添え木に糸でくくったり、雪かきをした
りしたのですが⋮⋮﹂
﹁わかりました。南蛮から仕入れた作物ではよくあることです。遊
佐殿も気を落とさず。民をよく労ってあげて下さい﹂
良之は、京から仕入れた酒粕と南蛮商人から買い付けた砂糖を遣わ
し、寒い中頑張った皆に甘酒でも振る舞ってあげて下さい、と続光
を慰めた。
﹁御所様、ところで、甲斐からブドウの修行に来ている若い衆のう
ち、岩崎なる土地のものが、これなら甲斐にもある、と申しており
ました﹂
﹁えっ?﹂
777
﹁なんでも、鎌倉の頃に渡来の坊様によって甲斐に持ち込まれた株
が、今でも大事に保存されているとか﹂
ぱっと浮かんだ良之の喜色を見て、続光はほっと安心して意気込ん
だ。
﹁よろしければ、事の真偽を確かめ、事実であればこちらを取り入
れとうございます﹂
﹁うん、悪いけど頼みます。ただ、もし甲斐で育ってるようだった
ら、能登に持ってくる必要はありません。武田殿に言って、登美か
ら勝沼、一宮あたりで大々的に植樹してもらいましょう。あと、ブ
ドウ棚の作り方を彼らに伝授してあげるよう、手配をしてあげて下
さい﹂
﹁承知いたしました﹂
ブドウ棚は、蔓を持つブドウを中空で支え、果樹を育成する手法の
ことである。
二条領においてはすでに鋼鉄ワイヤーの量産がはじまっているので、
試験場において藤やひょうたんなどで棚の技術を開発済みである。
﹁遊佐殿。今後も南蛮から来た作物が失敗することはいくらでもあ
ると思います。陽気が日本や能登とは合わなかったり、土地に根付
かないなんてことはどんな作物でもあることです。失敗を恐れない
で頑張って下さい。失敗してもちゃんと禄は払います﹂
﹁⋮⋮ありがたき幸せ﹂
﹁あなたたちはとても大切な仕事をしてるんです。南蛮から来た作
物は、成功したら能登だけじゃなく、日本中の飢えている人の命を
救えるんです。その誇りを持って、これからもお願いします﹂
その言葉に、失敗の叱責を恐れていた遊佐続光は大いに励まされて
代官地に引き上げていった。
ブドウという作物は非常に難しい。
778
良之が失敗したヨーロッパ種は、温暖で、かつ降水量の少ない地中
海的な気候を好む作物で、日本のような寒暖差が激しく多雨、多雪
な地域には不適である。
日本においては、アメリカ種の一部やコーカサス種が適しているの
であるが、この時代、アメリカ種はまだヨーロッパにも伝来してい
ない。
甲州に根付いたブドウは、コーカサス種だ。
その起源は分かっていないが、勝沼の土豪である雨宮家が、大事に
その種を後世に伝えたと伝承に記されている。
土地の気候に適応した新種といえる作物で、現代では海外でも﹁K
oshu−Grape﹂種と呼ばれている。
良之がブドウにこだわる理由は、ワイン生産のためだ。
ワインがこの時代の日本人にどこまで受けるかは分からないが、少
なくとも、南蛮人に売りつければ巨利が得られると確信している。
そもそも甲州盆地は稲作に向かない。
富士川水系の各河川による堆積地・扇状地であるため、目の粗い砂
礫のせいで極度に水はけがよすぎる上、富士山の火山灰による土壌
は貧しい。
その上、水田は日本住血吸虫の主要感染源である。
何代にも渡って、土地を耕し、一つ一つ岩石を取り除き、肥料を与
えて必死で水田を作り上げ、這うように、地に根を生やすように苦
心をしてその結果が寄生虫による衰弱死では、努力が浮かばれない。
甲斐では、換金作物を振興し、米穀類は他領から購入させた方がよ
いと良之は考えている。
甲斐、それに信濃のみでものを考えざるを得なかった武田家と違い、
良之はすでに、美濃尾張、加賀越中といった米穀の生産地を持って
いる。
その土地土地に応じた最適な殖産が可能なのである。
779
この頃から、良之は配下を通称ではなく苗字や名前で呼ぶようにな
って居る。
今までは相手を気遣い、必ず通称で呼んでいたのだが、実は同じ官
職を名乗る配下があまりにも多く増えてしまい、時によっては同席
したりするため、この国家規模ではすでにままならなくなっている
のである。
たとえば、織田信長の弟信勝は弾正忠を私称しているが、三好の重
臣松永弾正久秀はともかく、武田だけでも、保科弾正正俊、真田弾
正幸隆がいる。
場合によっては当人同士が相談して官職名を私称するのを替えたり
しているのだが、
﹁ゆくゆくは私称を禁じたい﹂
という良之の触れによって、すでに何人もの武将が、名乗りを替え
てくれている。
名乗りを替えるのは良いのだが、今度は良之やその側近が覚えきれ
ない。
﹁目上である御所様なれば、姓や名を呼ばれるのは問題ございます
まい﹂
信長や道三、不識庵、晴信らの同意もあり、同席者に同姓が居ない
場合は姓を呼び、同姓が居る場合は姓と名を呼ぶことにした。
とはいえこうした工夫は家中のみで、他家の者達に対しては相変わ
らず、通称を用いねばならなかった。
煩わしい話だが、この時代においてそれらは確固たるマナーであり、
明確に敵対でもしていない限りにおいては、良之といえど従わざる
780
を得ないのである。
781
天文23年冬 2
冬場は堺の商人たちにとっても一息付ける季節だ。
秋口には大量の食料品の買い付けや、その代金を得た支配者層への
物品の販売などが集中して多忙を極める。
オフシーズンに入った商人たちを良之は富山御所へと招待したので
ある。
皮屋の武野紹鴎や今井宗久、魚屋の田中与四郎、それに鉄砲屋の橘
屋又三郎など堺衆総勢40名ほどが、富山への視察旅行に訪ねてき
た。
時代を覆すような新発明が続々生まれる二条領を知らねば、今後の
商いに深刻な影響があると判断してのことである。
彼らにはあらかじめ声をかけておいた、紀州の鈴木佐太夫や湯浅に
おける量産醤油の開発者である赤桐右馬太郎などを随行してもらっ
ている。
彼らは越中における工業や生産業。それに銃工場などを視察させた。
この視察で誰もが、あまりに進んでいる二条領での工業に驚愕した
が、驚愕どころか心神喪失に近い衝撃を受けたのが橘屋又三郎だっ
た。
実は、橘屋は以前に良之からの誘いを断ったことがあった。
種子島という最先端技術を修めた時代屈指の職人という自負がある
彼にとって、未開地に近い飛騨越中くんだりまで行かずとも、当時
の日本の物流の中心地、堺で巨万の富を築く自信があったのである。
782
だが、創業10年。
このたった10年で、二条良之によって、種子島の技術は最先端か
ら引きずり下ろされ、どう見ても過去の遺物になりはてているので
ある。
良之の作るM−16というアサルトライフルは、種子島が1発撃つ
時間で100発以上の弾を撃ち尽くす。
しかも、その弾道は正確で、しかも薬莢や弾倉というシステムによ
って元込めされ自動供給されるため、兵士達はただ撃つことだけに
専念できるのである。
橘屋は文字通り、膝から崩れ落ちてしまった。
そして、数日間富山御所で寝込んでしまった。
﹁わしは、廃業します﹂
橘屋は弱々しく良之に告げた。
﹁そんな。橘屋さん、あなたほどの職人はそういません。もしよろ
しければ、富山に職人を連れて引っ越して下さい。俺が新しい銃の
技術を伝えますから、是非お力をお貸し下さい﹂
良之の言葉で顔色を取り戻した橘屋は、良之の両手をとって頭を下
げ、その提案を受け入れた。
皮屋の武野紹鴎もまた、猿倉の皮職人や精肉業に大いに感動してい
た。
近畿では河原者としていわれのない偏見に晒されていた彼らは、二
条領においては信頼と尊敬を集める基幹産業従事者として扱われて
いるのである。
良之は、信教の自由、布教の自由は認めているが、その宗教の倫理
を他人に強要することは厳しく禁じていた。
783
どのくらい厳しいかというと、その身分にかかわらず、実刑を以て
臨んでいる。
それに、すでに肉や卵、牛乳や乳製品の美味が二条領に広く伝わっ
ている。
それらを支える酪農畜産の担い手である猿倉衆のおかげで、毎日う
まいもんが食えるという認識も良之は強調している。
その上で、猿倉衆には充分な富を報いた。
彼らの生活水準は飛躍している。
それに、工業製品によって作業環境は改善し、悪臭や疫病などの危
険性も対策されている。
また、良之の命によってこの世界初の下水処理施設も完備されたこ
とで、汚水などの問題も下流において発生させずに済んでいる。
紹鴎は、近畿各地の河原者達が、さらに猿倉へ移住できるか良之に
諮った。
もちろん良之は快諾した。
外国から家畜を生きたまま輸入までしているものの、働き手が全く
足りないほど仕事の方が山積している状況である。
また、堺の倉庫業者である納屋衆にとって、冷凍倉庫や冷蔵倉庫は
夢の倉庫だった。
大事な商品の腐敗劣化や悪臭の発生を防ぎ、商品価値を落とさず長
期間保管が可能なこの設備を堺衆は欲しがったが、良之は諸設備の
堺への提供は全て拒否した。
堺が独立した都市である以上、二条にあるどの技術も全て提供する
つもりがなかった。
ただし、京都に新設中の二条城と、堺の南にある船尾には発電所を
建造するので、この2箇所に冷凍・冷蔵倉庫は建造する。
そのアクセス権は販売する予定であると告げた。
784
赤桐右馬太郎を越中に呼び出したのは、彼を頭に味噌や醤油の生産
を二条領で興させるためである。
すでに技術移転が済んでいる紀州湯浅から彼を引き抜いても大丈夫
と判断した良之は、より一層醤油や味噌を量産化させることで、こ
の時代の食生活をもっと豊かに広げようと考えたのである。
すでに食塩の工業化に成功している二条領では、塩の価格は最低値
に落ちている。
かつて塩の流通で巨万の富を得た商人たちにとってはショックだっ
ただろうが、塩が豊富になった事で二条領の治安は安定している。
豊かになれば、庶民はそれ以上の美味を求める。
そうした食糧が安定的に欲しければ、商人や輸送するものへの攻撃
は控えるものだ。
彼らが自分の土地に来なくなってしまえば、そうした美食から遠ざ
かってしまうのである。
また、慢性的に労働力に飢えている二条領において、銃火器で武装
した軍や警察におびえながら野盗をするより、おのおのが就職して
暮らした方がよほど幸福なのである。
とはいえ、本音の部分では、赤桐右馬太郎を越中に呼び寄せたのは、
良之自身が醤油を恋しがったという方が大きいのかも知れない。
紀州の鈴木佐太夫を呼んだのは、二条家が所有する新たな輸送船へ
の船員のリクルートの依頼である。
4000石級のディーゼル貨物船越中丸の同系でさらに積載量を追
加した船の完成を待ち、新たに船員を割り振らねばならない。
そのあとには、竜骨まで鋼鉄で作る輸送船の建造も計画している。
二条家にとって、有能な船乗りは喉から手が出るほど欲しいのであ
る。
もちろんそれだけではない。
富山の岩瀬、放生津を母港とするなら、二条家にとって近畿におけ
785
る拠点としての港が欲しい。
東海の尾張津島、九鬼の志摩、紀伊の湯浅、雑賀、そして堺。
堺からは瀬戸内もしくは土佐回りで下関。博多、平戸へ。
日本海は出雲、敦賀を経て金沢、七尾、放生津、岩瀬、直江津へ。
資材や重量物などを効率よく運用するための海運路線を目指すため
に、海上のノウハウを持つ雑賀衆とは今後どうしても協力関係を確
立したいと良之は考えている。
そのためには、今後のビジョンを鈴木佐太夫にしっかり感じて欲し
いと、彼を富山に呼び寄せたのである。
佐太夫は、浜のドッグで建造中の新造船を見上げてため息をついた。
﹁御所様。これは壮観でございますなあ﹂
通常の和船の最大積載量は150トン。千石程度である。
この時代には、5000石クラスのジャンク船に似た和船もわずか
ながら運航されている。
余談だが、日本人が巨大船の文化を失ったのには、徳川幕府の異様
に小心な国内政策が影響している。
徳川幕府は、既存の戦国大名の最上位に座ることで日本の統治機構
の権を得た。
そのため、各地方行政は全て戦国時代のままに残されることになる。
つまり、大名家が各地を分割統治し、国政を徳川家が負う形となっ
ている。
徳川家は、そうした配下の諸大名家の反乱を病的に恐れた。
大名家の家族を人質として江戸に住まわせること。
参勤交代によって年単位で大名自身も江戸に勤番させること。
日本の旧分国法に従って、一国に城塞は一城へと制限すること。
786
鉄砲や槍、大刀を持って街を歩くことを禁じること。
そして、千石以上の船を持つことを禁じた。
徳川家の怖れは、江戸を船で直接攻め入られることへの不安だった
だろう。
事実、徳川幕府は江戸への全ての入り口に流れる河川に架橋せず、
渡し船を使用している。
その上で何重にも街道に関門を築き、通過者をチェックした。
大型船に大砲を乗せ、武装した兵士を満載して品川あたりに一斉に
攻め込まれるのを危惧した結果、日本からは一隻残らず大型船の姿
が消え、そして、鎖国政策も相まって日本からは造船、操船などの
技術が失伝してしまうことになる。
やがて徳川家の不安は、日本の大名家ではなく、アメリカの海軍提
督ペリーによって現実の姿となる。
良之と鈴木佐太夫は新艦建造中のドライドッグにいる。
カティサークの設計図によって船の背骨ともいえる竜骨を用いた新
型艦を習得させているが、2号艦はさらに大型化にチャレンジさせ
ている。
船体の構造は木製だが、外装やセンターマストのクレーン、デッキ
などは鉄張りである。
ドッグの各所で溶接の炎が飛び散る活気に佐太夫は圧倒されている。
﹁⋮⋮この船は、どれほどの荷が積めるのでしょう?﹂
﹁千石船で4隻分ですよ﹂
﹁⋮⋮﹂
佐太夫はその規模、その技術に圧倒された。
﹁いずれ、この船の何倍も大きい輸送船を作りますよ。佐太夫殿﹂
787
﹁なんと﹂
佐太夫は心から感嘆の声を上げた。
﹁いまうちの船にとって支えになってくれているのは、雑賀と九鬼
の海賊衆です。佐太夫殿、今後も、是非よい船乗りをお願いします﹂
﹁こちらこそ﹂
﹁海運が安定すれば、そう遠くない将来、二条の商品は雑賀にも送
れるようになりますよ﹂
良之の言葉は、純粋に佐太夫を喜ばせた。
二条領の視察では驚かされることが多かった佐太夫だが、その技術
だけでなく、食生活や便利な生活用品、それになんと言っても美味
しい食事などにすっかり魅せられてしまっている。
佐太夫は、1号艦の越中丸で紀州に帰った。
彼は特に、ディーゼルエンジンによるスクリュー駆動の船舶のその
速度に驚いた。
風力も人力も使わず、しかもその気になれば昼夜問わずに航行でき
る。
風だよりの和船、船夫による櫂走船の時代は、二条によって終わる、
と佐太夫は理解させられた。
そして、群雄割拠の戦国乱世もまた、二条が終わらせるのだろう、
と確信して紀州へと帰っていったのである。
他の招待客も、この船便で海路、畿内に帰っていった。
橘屋又三郎はその配下数百人を連れ、越中丸の戻り便で富山に戻る
という。良之は彼らとその家族のための住居建設を指示した。
788
天文24年春 1
天文24年正月。
例年通りのんびりと三が日を過ごした良之は、富山御所での仕事を
7日まで行うと、堺から下ってきた橘屋又三郎たち150人以上の
鉄砲鍛冶たちにM−16工場へ従事させ、彼らへの教育を開始した。
良之はこの春の雪解け後に、軍用のM−16に代わり警察用に、イ
スラエルのサブマシンガンであるミニウージーを作成させるつもり
でいる。
他国との戦争に用いられるアサルトライフルのM−16は、戦国時
代においてはほぼ他国を圧倒できる武器ではあるが、自国領の治安
維持にあたる警察組織においてはあまり使い回しのよい武器とは言
いがたい。
そこで、9ミリパラベラム弾を用いて、マガジンにも25発から最
大で50発まで装填でき、近距離の制圧力に優れたウージーの量産
と普及を検討しているのである。
ウージーというサブマシンガンの誕生は、イスラエル建国と大きく
関わっている。
このウージーというのはイスラエル陸軍兵器研究所に在籍した研究
者、ウジエル・ガルの名前から採られた名称である。
第二次大戦後、世界各地からユダヤ人たちが集まり、シリアの南方
イギリス領パレスチナにユダヤ人によるユダヤ国家、イスラエルが
建国された。
なにもない所に突如作られた国家であるイスラエルには、当時アラ
ブ人との戦争の危険が差し迫っていたが、それに対応する武器も、
789
それを生産する工業力も乏しかった。
そこで、あまり高精度な銃は生産できないと悟ったウジエルは、非
常にシンプルな工作機械で作成が可能なプレス加工を多用した量産
型の短機関銃を設計した。
ただ小型・単純な構造なだけでなく、部品点数も極限まで少なく、
また素材も鉄のみでデザインされた。
部品点数を減らすためにグリップに弾倉を差し込むように開発され、
またその重量の8割近くが金型プレスで量産されることで、緊急性
の高い治安維持兵器を一気に国内に配備できた。
ウージーは、シンプルさ故に泥や砂に強い、いわゆるヘビーデュー
ティーな銃になった。
そして、イニシャルコストやランニングコストにも優れ、修理や交
換も容易な武器になる。
ウージーは世界60以上の国で制式採用され、開発された1950
年から60年以上経つ現在においても、今なお現役である。
使用される弾薬の9ミリパラベラム弾も小型、軽量で、M−16の
弾薬である22口径5.56ミリNATO弾よりさらにシンプルで、
大量生産に向いている。
その上、銃弾特性に優れ、反動性も低く良好だ。
戦場ではなく市街地や屋内などでの犯罪制圧に用いるためには、理
想的なチョイスだといえる。
事実、銃弾には様々な規格が存在するが、21世紀においてはこの
9ミリパラベラム弾が最大シェアとなっている。
開発の歴史は古く、プロダクト開始が1901年。以来100年以
上経つ今日においてもまさに銃弾の主流であり続けている。
開発者はゲオルグ・ルガー。このパラベラム弾の他、ドイツ軍の制
式自動拳銃であるルガーP06などで著名な設計家だ。
二条領において、このウージーと9ミリパラベラム弾の採用は、ま
790
さに貧弱な工業力下での量産という部分に合致している。
良之としては、橘屋又三郎の鉄砲鍛冶たちの生産労働力吸収を背景
に、この天文24年の6月くらいを目処に量産化させたいと考えて
いる。
候補地は越後の三条や津波目。
柏崎の発電所による電力と信濃川の舟運力を背景に、この地を鉄工
生産拠点としたいと考えていた。
前年にたたら製鉄を開始させるため各地から集めた越中の村下たち
に、良之は加賀、能登、飛騨、甲信へと製鉄所の建設を指示してい
る。
原料である砂鉄の荷姿ではなく、製造したケラやズクの荷姿での効
率的な輸送を考慮しての事である。
現状においても未だ鉄不足は深刻であり、電力を使用したアーク炉
は発電所の問題があって容易に各地への普及は難しい。
たたら製鉄においては大量に木炭を浪費するという欠点はあるが、
他方では熟練した鍛冶師や鋳物師たちにとっては地産地消で素材が
手に入るという利点もある。
良之が推し進めるような工業製品ばかりではなく、未だにこの世界
には村鍛冶が存在し、日用の鉄器を生産、修理をしている。
こうした過渡期といえる時代を支えるために必要な政策として、主
要各地での砂鉄採集と原料生産を命じたのである。
美濃や尾張には元々砂鉄から原料鉄を生産する職人が存在している。
彼らには資本投下や人材投下、さらに砂鉄を潤沢に供給させるため
に商人たちに振興させ、製鉄量の増加を求めた。
791
良之が鉄の生産量にこだわる最大の理由は、鉄道のレールの原料確
保のためである。
良之の暮らした平成時代の日本においては、日本全国、どんな小さ
な農道でさえアスファルトで固められた現代的な交通が確保されて
いたが、それは戦後の高度成長、そしてバブル期までかかってやっ
と実現した姿である。
戦国時代に来てしまった良之の能力では、おそらく領地にあまねく
アスファルトの道路を広げようと思えば、3世代はかかるのではな
いか。
そこで、広大になった二条領へ物資や人員を移動させる手段として、
一刻も早い鉄道網の構築を第一目標としたいと考えている。
人類史において、鉄道とは飢餓対策の特効薬であり続けた。
日本に限らず、発展途上国において鉄道は、飢餓地帯への迅速な食
糧輸送に効果を発揮し、誕生以来、多くの人命を救い続けてきたの
である。
二条領では、地道に馬借たちによって内陸部へ食糧や物資を送り続
けているのであるが、人力、または牛馬で運べる物資など、たかが
知れている。
やはり、この規模の国家を運営するのであれば、どうしても鉄道が
不可欠だと良之は考えている。
さらに言うと、良之が望む高炉による製鉄において、鉄鉱石は内陸
部で産出することが多い。
原料の一方であるコークスは船によって運ばれるため、製鉄所は沿
岸部に建造することが望ましいため、鉄鉱石など原料鉱石は内陸部
から鉄道で搬出することが不可欠になるのである。
良之の時代では、日本のレール生産技術は世界一を誇っていた。
官製八幡製鉄から後の新日鐵住金八幡製鉄所に至るまで、八幡は世
792
界屈指のレール生産工場であり続けた。
そのクオリティはまさに国際レベルであり、世界中、それこそ遠く
南米にまで海路で輸出されるというほどの信頼を勝ち得ていた。
八幡におけるレール製作を良之は祖父と一緒に見学したことがある。
熱間圧延によるユニバーサル工法と呼ばれる特殊な圧延技術を用い
て成型されるレールは精度が高く、在来工法によるレールより工数
が少なくありながら、品質の高い製品を大量に生産することが可能
になっていた。
ユニバーサル工法を一口に説明すると、多数の圧延ローラーで一斉
に四方からレール型に押し転がして、一気に目的の形に押し伸ばす
システムといえる。
一本25メートルから50メートルという長さのレールを素早く圧
延させるためには、全長数キロという広大な工場と無数のローラー
が必要になる。
人類の工業史における一種の究極がそこにはある。
レール工場は柏崎の荒浜一帯に建設することになるだろう。
つまり、最初の鉄道はこの地から発祥することになる。
こちらも、春の雪解けを待って工事が始まることになる。
越後における開発の最後は、尼瀬に次いで刈羽西山での第2号油井
の建造だ。
1号油井と同様に、この時点では油井のような大規模構造物は良之
にしか作れない。
産出した原油は、パイプラインを敷設して製油所へ直接送り出す。
副産物の天然ガスも、尼瀬同様ひとまずは液化を行い、余剰ガスは
発電所へと供給することになる。
793
富山御所において、良之は雪解け後の越後開発のための準備計画を
着々と練り上げていった。
各地域における基礎工事は、織田信長の率いる工兵に行わせ、コン
クリート打ちは木下藤吉郎配下に行わせる。
レール敷設のための下準備である整地についても信長の配下に教育
を施し、越後∼越中間、越後∼信濃間について、先行して整地、架
橋、トンネル工事などを行わせることにした。
鉄道建設における最大の敵は、傾斜勾配である。
たった1%の上り傾斜であっても、機関車の牽引力は半減してしま
う。そして下りにおいても、ブレーキをかけてから列車が制止する
までの距離が倍近く伸びてしまう。
それに加え、鉄道においては線路のカーブは輸送速度の低下や車体、
レールの損耗を激しくさせる要因となる。
つまり、理想的な鉄道の姿とは、極力傾斜を作らず、極力直進させ
ることであるといえる。
残念なことに、その点において日本の地勢は鉄道建設とは決定的に
相性が悪い。
明治以来、日本の鉄道技術者はその技術的課題に取り組むため、ト
ンネルと架橋によって技術的難題をクリアしてきた。
条件の厳しい日本の鉄道技術が世界最高峰まで成長したのには相応
の理由があったのである。
理想的には鉄道の架橋は鉄橋が望ましいのだが、残念なことに、鋼
鉄製建造物が建造出来るほどの輸送技術が未だに確立していない。
そこで、良之は木下藤吉郎と鉄筋コンクリートによる架橋を研究し
ている。
越後−越中間、越後−信濃間双方とも山脈越えがあるため、場所に
よっては谷越えという架橋が長大な距離において発生する。
794
さらに、トンネル掘削においても、コンクリートによる補強工事が
必要になるだろう。
トンネルについては、良之はまず実験的に鉱山での発破を開発して、
更にはダイヤモンドヘッドによるドリルなどもすでに試作を済ませ
ている。
火山灰土などの軟地質や地下水脈にあたった場合などは、シールド
工法が必要になる可能性もある。
シールド工法とは、シールドマシンという円筒形の巨大なドリルを
先端に持つ掘削機でトンネルを掘り進めつつ、シールドマシン内部
でプレキャスト工法で製造されたトンネルのコンクリート壁を組み
上げながら徐々に先に進んでトンネル工事を行う、超大型建設工機
のことだ。
日本では主に海底トンネルや地下鉄工事に利用される。
この工法によって、従来大変危険だった地質の場所での工事は、一
定以上の安全性を確保できるようになったのである。
シールドマシンを導入する際には、間違いなくその場に良之がいる
必要があるだろう。
巨大なシールドマシンを収納できるのも、錬金術で組み上げられる
のも、彼以外にあり得ないからである。
そのため、できうる限りにおいては、木下藤吉郎などの技術者が配
下を使って工事を進めてもらう必要があった。
795
天文24年春 2
線路敷設に必要な材料としては、レールの他には枕木、バラストと
呼ばれる敷石、それに枕木とレールを止めるためのプレートとボル
トがある。
鉄道発祥直後には、この枕木とレールを止めるのに犬釘や亀釘と呼
ばれる杭状の四角い大釘が使われていた。
現在では、レールにかみ合わせるJ字型の鋼鉄プレートと、枕木に
開けられた穴を通すボルトとナットによってカシメられている。
このボルトやナット、プレート、そしてそれらを締め付けるレンチ
などは、現在の富山の諸工場で製造が可能である。
枕木については、飛騨や越中の杉やヒノキを選んでいる。
これは、長期間屋外で重量物を支える枕木という用途の場合、直射
日光、風雨、気温差などで腐食する材質の木材では安全性が確保で
きないためである。
あらかじめ枕木に寸法通りのドリル穴を開けることでレールの隙間
を適正に保って敷設が出来るため、木工所において全ての枕木に穿
孔加工を行わせた。
そのために、専用のドリル工具も開発し、量産化させて大量の枕木
を準備させることにした。
また、レールや枕木を支えるバラストについても準備を進めた。
バラストには鉱山で掘り出した岩石などのうち、材料鉱にならない
いわゆるズリや、自溶炉などで排出されるノロが流用できる。
理想は花崗岩などを砕石場で加工して運搬することが望ましいのだ
が、専用の砕石場などは現状、労力面で用意が出来ない。
796
良之はそうした鉄道建設のための材料を生産、運搬させる道筋を各
担当者たちと協議して、雪解けを待つことにした。
猿倉衆の努力によって、豚のなめし皮の品質が徐々に向上している。
以前から良之は、軍用のブーツをこの皮で生産して欲しいと考えて
いたが、いよいよ革靴の生産に乗り出すことにした。
理想を言えば、1人1人に採寸して靴底を作るのが理想だが、それ
が実現できるほどの職人は到底確保が出来ない。
そこで、良之の時代と同じく0.5センチ刻みで型を作り、さらに、
靴の横幅も数種類用意することで試作品を作らせた。
また、二条軍に命じ、全員の足裏の採寸をさせて統計を取る。
結果、だいたい23センチから26センチあたりにサイズが集中し
ているため、このあたりを中心に量産化を開始させた。
靴底は、タイヤゴムを流用してゴム底を用意し、皮によるブーツに
貼り合わせて成型する。
靴紐は尾張の木綿糸をヒモに編み上げさせて、越中で靴紐に加工さ
せた。
ブーツに合わせて、軍足の提供も開始した。
この時代の軍は素足にわらじが多かったので、足回りの負傷が多発
していた。
今後ブーツが行き渡れば、感染症や破傷風といった病気の軽減も期
待できるだろう。
足下の他、良之は軍服や警察の制服などについても考えている。
だが、なかなか素材となる繊維が安定供給に至らない。
尾張での木綿製造はまだ端緒に就いたばかりで、飛騨における絹糸
797
生産も、実証の域を出ていない。
麻や青苧なども既存のマーケットに提供するので精一杯といった所
だ。
そこで、麻や青苧、木綿などの繊維くずを大量に集め、セルロース
から化学反応でビスコースを生成し、射出法で再度セルロース繊維
化させる化学プラントを計画した。
レーヨンである。
セルロースは植物の細胞が創り出す炭水化物で、一説には地球上に
存在する炭水化物の三割以上がこの物質だと言われている。
綿など人間が作る布の原材料物質であり、特に木綿繊維は綿花が作
る天然のセルロース繊維をこよって糸にして使用されている。
材木も、ある意味においてはセルロースの集合体である。
植物繊維がある所には必ずセルロースがある、といってよい。
このセルロースを水酸化ナトリウム溶液に漬け込むとセルロースが
アルカリセルロースに変質する。
このアルカリセルロースに、さらに二硫化炭素を加えるとビスコー
スが生成される。
このビスコースを加圧して細いノズルから射出し、その繊維を希硫
酸に晒すと再びセルロースに戻る。
つまり細い糸状のセルロース繊維が完成する。これがレーヨン生産
の原理である。
レーヨン生産にかかる数種類の化学物質はいずれも危険で有害なも
ので、このことが量産に対するネックになる。
また、原料セルロースから中間物質のビスコースを得るまでには様
々な工夫が必要となる。
798
レーヨンは化学繊維としては美観があり、かつては人絹などと呼ば
れるほど絹に近い光沢がある。
一方で、吸湿性が高い上、水分を含むと縮むという欠点がある。
風雨に晒される軍用服には適さないが、屋内で着用される高級服な
どにおいて、他の素材の代用には充分に提供しうる素材といえる。
では、軍用に向く繊維素材とはどういう材質なのか。
良之は資料を探った。
答えは自衛隊の迷彩服にあった。
屋外の劣悪な作業環境のために開発された素材。それはポリエステ
ル50%に、ビニロン30%、木綿20%の混紡であった。
ビニロンは日本で開発された合成繊維だ。
京都帝国大学で発見され、倉敷レーヨンと大日本紡績によって実用
化された合成一号繊維に端を発している。
ポリエステルは、現代人にとってもっとも馴染みの深い化学物質だ
ろう。
ポリエチレンテレフタレート製のボトルは、その頭文字からPET、
つまりペットボトルと呼ばれ、日常で見ない日がないほどの流通を
見せている。
このPETを繊維化したものがポリエステル繊維である。
余談だが現代においてポリエステル繊維が使われている代表的な着
衣は、体育用のジャージである。
このジャージは、たとえば資源リサイクルで回収されたペットボト
ルから生産されている工場も存在する。
ペットボトル飲料の2リットル製品で言えば、約200本で一着の
ジャージが生産できる。
これら化学繊維に関しては、フリーデや山科阿子たちと打ち合わせ
を重ね、彼女達に越後の石油精製プラント付近で、新工場の設置を
799
任せることにした。
混紡紡績から織布、更には裁断や縫製といった服飾加工が完成する
までには、おそらく数年のちを待たねばならないだろう。
また、型紙のための製紙、裁断のためのハサミ、縫製のためのミシ
ンなど、周辺産業の整備ももちろん必要になる。
何か新技術を実現させようとするとき、必要になってくる周辺技術
が無限に広がっていくことに、時折良之は絶望的な気分に襲われる
ことがある。
だが、それでもよりよく生きていきたいと思うなら、取り組んで行
かざるを得ないのである。
良之は、まずは裁ち鋏、待ち針、チャコと呼ばれるチョーク、型紙
などのすぐに実現が可能な製品の工業化、さらに糸や布、ボタンな
ど規格の制定、ミシン用木製糸巻き、ボビンなどの設計、そしてミ
シンの試作品のための準備を行い、工業化に向けてのプロジェクト
を開始した。
公文書に使用するには、鉛筆には問題点が多すぎる。
そこで、良之は万年筆の生産に踏み切った。
万年筆の原型である付けペンは、歴史的に見るとその起源は羽根ペ
ンにさかのぼる。
西洋では古来ガチョウや白鳥、カラスなどの羽根の付け根を細く加
工し、インクに浸して筆記具と為した。
やがて18世紀頃から、金属に細い切り割り加工を施し、毛細管現
象を応用してインクを蓄えて、可能な限りインクにペン先を浸す回
数を減らす工夫が取り入れられる。
その最終的な進化が、万年筆である。
800
万年筆は、金合金、つまり半量以上の金に対して銀や銅を混ぜて合
金としたペン先に、高寿命製を与えるために硬度の高いイリジウム
にオスミウムを混ぜたいわゆるイリドスミン合金をペンポイントと
して溶着させた設計になっているものが多い。
このペン先から毛細管現象でインクを吸い上げさせると、ペン軸内
部にインクが溜まり、そのインクが空になるまで筆記が可能になる。
世が下るにつれ、このインクのタンクがカートリッジ式に変わった
りしたが、現在においても最高級品は、このインクタンク式が用い
られている。
日本では1970年代以降、公文書へのボールペンの使用が容認さ
れたことで万年筆の需要が一気に低下した。
それまでは、社会人になった若者への贈り物として、年長の親族か
ら記念品と送られる文具として人気の高い商品だった。
良之自身も万年筆よりボールペンの方が手に馴染む筆記用具なのだ
が、ボールペンは、この時点の二条領の生産能力では手に余る。
ペン先のボール製造やペン軸にこのボールをかしめる加工技術、そ
れらを不良品を極限まで抑えて量産する技術などが不足しているた
めである。
万年筆の場合、エボナイトやプラスティックのペン軸以外の全ての
製品が、この室町期において製造が可能な部品となる。
もっとも、ペン軸にプラスティックを用いるのであれば、M−16
においてすでに量産工場が稼働していることもあり、金型を起こせ
ば製造ラインの構築は容易だろう。
エボナイトというのは、天然ゴムに硫黄を加硫させて硬化させた物
質である。
801
天然ゴムは硫黄の配合でその硬度が決まるが、万年筆の軸に利用す
るためには、長い年月の利用に耐えうるだけの堅さが必要となる。
その素材として万年筆の誕生当時から好まれたのがエボナイトだっ
た。
良之はペン先の加工を金細工師に、ペン軸の加工を銃工場の職人に
任せ、インクの製造については石油精錬工場からスピンオフさせて
製造させた。
万年筆のインクの主要な原料が、カーボンブラックだからである。
次いで、万年筆とは相性の悪い和紙の代わりに、良之は美濃で洋紙
の生産を始めることを計画した。
和紙は一般にコウゾの木とトロロアオイの粘液を用いて手漉きをさ
れるが、洋紙の場合は針葉樹などの木片を砕き、水酸化ナトリウム
で熔解させ繊維パルプとして抽出。
そのパルプを次亜塩素酸ナトリウムなどの漂白剤で晒し、その繊維
を機械漉きで紙に成型して作られる。
ちなみに、製紙業のパルプ生産は、実はレーヨン生産のセルロース
抽出と原理を同一にする工程といえる。
セルロースナノファイバー技術を製紙会社が牽引しているのは、決
して偶然ではない。
天文24年の雪解けまでの長い冬を、こうして良之は様々な分野の
専門家育成に充て、過ごしていった。
802
天文24年春 3
二条領において需要が拡大している資源は鉄ばかりではない。
木材に対する需要も常に拡大し続けている。
住居や工場の建設、造船にはじまり、農機具、架橋、工芸品、家具
など、二条領の拡大や人口増加に伴い、供給が追いつかない状況が
続いている。
それに加え、今度は線路の枕木、製紙業などが加わった。
増え続ける需要に応じるため、良之はチェーンソーの提供について
検討を始めた。
だが、調べるうち、この工具が作業者にとって非常に危険なものだ
と知った。
最も多いチェーンソーによる事故は、作業者自身の身体への裂傷で
ある。
次いで、周囲の人間への被害だが、それらはどのような工具でも本
質的には変わらない。
チェーンソーにおける作業者の怪我は、8割以上が自身の下半身、
特に足にチェーンソーを当ててしまうことによる重傷である。
高速回転するチェーンソーは、たった1秒足らずの接触でも、深刻
なダメージを受けてしまう。
また、高速回転するチェーンソーは、応力が働いてしまうため、回
転の力場のタイミングによっては、キックバックという現象を起こ
してしまう。
チェーンソーが切断する木材を蹴り上げて、作業者の顔に向かって
跳ね上がってくる現象である。
さらに、高速回転とその回転を生み出すガソリンエンジンの振動に
803
よる両手への神経ダメージも問題になる。
そこで、様々な経験則から築き上げられたチェーンソーの安全対策
をしっかり提供した上で、免許制にして教育を施した上で、チェー
ンソーを提供することとした。
チェーンソーの発動機は2ストロークガソリンエンジンである。
2ストオイルをガソリンに混合し、ピストンやシリンダに潤滑油を
供給しながら稼働させる。
チェーン自体は従来の二輪車のチェーンに類似した製品に、木を切
るための刃を取り付けて、これをスプロケットで回転させる仕組み
である。
2ストロークエンジンは非常にシンプルな内燃機関だ。
4ストロークのような吸排気のバルブのタイミングを取る必要もな
い。
一般に、チェーンソーのエンジン排気量は、20ccから100c
c前後である。
良之は大学の自動車部の手伝いで、ジャンク屋から購入した50c
cの2ストロークスクーターのレストアをしたことがあった。
そのため、チェーンソーの仕様を見てすぐに、その構造を理解する
ことが出来た。
ピストン・シリンダー関係はかつて、手押しポンプをプロダクト化
した際の工作機械で実現が可能であり、チェーンも構造物は金型プ
レスで生産可能。もしチェーンソーを生産する場合に新開発する必
要があるとすれば、Oリング、2ストオイル、それに、使用者の保
安用品といった所だろう。
チェーンソー使用者に身につけさせる安全ズボン。これは、チェー
804
ンソーが万一足にあたった際に、内部に織り込んだ化学繊維がブレ
ードに絡みつき緊急停止させる原理で身体を保護する。
また、顔に跳ね上がったチェーンソーの対策は、ヘルメット及びフ
ェイスガードの付いたプロテクターがある。
振動による神経障害については、日本では1日2時間以内に作業時
間を限定することで対応されていた。
チェーンソーによる木材の切り出しは、今後の二条領の発展を左右
するほどの作業効率の改善が見込まれるため、こちらも夏前の開発
完了を目指し、工場の設立を指示した。
また、試作品、設計図、部品などを良之が作り、それらの検討を担
当職人たちに行わせた。
チェーンソーによる伐採が木材産業の入り口とすると、製材所にお
ける工具の電動化は出口部分にあたる。
以前より大工や木工職人、山方衆などから要望の多かった加工工作
機のうち丸のこ、テーブルソー、ドリルなど各種工作機械の開発も
良之は指示した。
電源の関係上、発電設備のある岩瀬、金屋などの一帯に製材所を作
る必要はあるが、枕木を量産せねばならない関係上、こうした器具
の作成は急務だった。
機械を作り出す機械、いわゆるマザーマシンである旋盤、フライス、
ボール盤などの工作機械においては、すでに熟練しつつある職人が
誕生しているため、良之の指示によってこれら木工用機械の製造は
スムーズにいっている。
また、電気関係も丹治善次郎に一任出来る状況になっているので、
動力源については彼に任せ、こちらも春以降の本格稼働に向け、準
備してもらうことになった。
805
マザーマシン系については、工業化の当初から徐々に築きつつあっ
た徒弟制寄宿学校を、まずは富山において専従的に開校させている。
一種の専修学校であるが、講師陣は持ち回り。100人程度の若者
たちに、旋盤やフライス盤などの操作方法を伝授している。
工場の生産ラインで新人を育成するとどうしても生産効率や品質が
落ちてしまうため、修行の場がどうしても必要になったのである。
ここで修行した若者たちは、親方衆のリクルートごとに引き抜かれ
て現場に入っていく。
そのため、入学も学期制ではなく随時補欠が編入されていく。
地道な活動ながらも、こうした設備もまた、二条家の工業力の底上
げに寄与しているのである。
良之は、新たな食の楽しみとしてサンドイッチを考えはじめた。
南蛮貿易商アルメイダによって、様々な野菜や果物の種や苗がもた
らされているが、そのうち玉ねぎは、まだ煮物以外には使われてい
ない。
玉ねぎは本来中央アジアの作物だが、なぜか東洋には伝播しなかっ
た。
一方、ヨーロッパや北アフリカなど地中海沿岸では大変に好まれた。
辛い玉ねぎのイメージが強い人には信じられないことだろうが、玉
ねぎの糖度はリンゴに匹敵するとさえいわれる。
日本人の食卓に登るようになったのは、遙か明治中期まで遅れた。
理由は分からない。
少なくとも江戸初期には確実に長崎に入っているのであるが、全く
普及することはなく、せいぜい観賞植物として珍重されたに過ぎな
かった。
806
日本人の食の好みに沿わなかったのかも知れない。
玉ねぎは二条領では主に肉じゃがに用いられている。
その玉ねぎをみじん切りにしてハンバーグも提供している。
二条領の若手には大変人気のある食品だ。
その玉ねぎを用いた新たな食品を良之は作った。
ひとつは、玉子サンドである。
固ゆでにした卵の殻をむき、白身はこま微塵に切る。
玉ねぎは生のままみじん切りにしてよく塩もみをして水出しをする。
そして、夏の収穫期に甘酢で瓶詰めにして置いたキュウリのピクル
スも玉ねぎと同じサイズにみじん切りにして、ふきんで絞る。
玉ねぎもよく水切りして、塩コショウ、カラシを加えてマヨネーズ
で和える。
これを具として、バターを塗った食パンに挟めば、玉子サンドので
きあがりである。
そして、玉ねぎを使った食品、というより調味料であるが、良之は
ウスターソースの作成をはじめている。
室町期においてはすでに良質の酢が入手可能だったため、マヨネー
ズ作りは容易だったが、ソースに関しては南蛮商人がもたらすスパ
イスなしではなかなか風味がおぼつかない。
ソースの原料は、玉ねぎや人参、セロリ、トマト、エシャロット、
ニンニクなどの野菜と、唐辛子、コショウ、チョウジ、ナツメグ、
シナモン、コリアンダーといった舶来もののスパイスである。
原料の野菜は全てフードプロセッサーで粉砕し塩と酢で味付けする。
そして砂糖を鍋で焦がしてカラメルを作り野菜と煮込む。最後に砂
糖でさらに甘みを加えた後、全てのスパイスを加えて熟成させる。
これがウスターソースの作り方である。
807
良之が作るウスターソースは、日本においては中濃ソースやとんか
つソースと呼ばれる濃度のものである。
この濃度区分は日本独自のもので、西洋においてはさらさらなウス
ターソースも、どろりとしたとんかつソースもどちらもウスターソ
ースとして扱われている。
サンドイッチを作るためにソースを作る理由。
それは、カツサンドのためだ。
とんかつやチキンサンドにこのソースをよく絡めて食パンに挟む。
良之の学生時代の大好物のひとつだった。
同じくアルメイダに輸入させたキャベツの千切りを一晩水に晒して
ザルに上げておいたパリパリのものをカツと一緒に挟んで食べる。
思い出の味だった。
﹁よし、完成﹂
﹁⋮⋮﹂
いつもながら、あまりに器用に料理を作る良之に女性陣は言葉もな
い。
﹁お肉がダメな人は玉子サンド、そうじゃなかったらカツサンドも
食べてみて﹂
大量に作り上げたサンドイッチを前に、良之は得意気に全員に振る
舞った。
﹁カツサンド、美味しいです﹂
﹁ほんとにこれはうまいねえ﹂
アイリと越後殿は、がっちりとカツサンドに食いついている。
山科阿子や普光女王はまず玉子サンドからトライしているようだが、
こちらも一口食べたあと、その美味しさに心を奪われたようだ。
﹁カツサンドも美味しいですが、玉子サンドもすごい!﹂
808
フリーデは、どちらも甲乙付けがたい、と双方おかわりして食べて
いる。
釣られて、一同は全ての試食品を一周しているようだった。
﹁阿子、どうだった?﹂
良之は、従来肉食にあまり好感情を持たない公卿の息女である阿子
に聞いてみた。
﹁⋮⋮美味しいです﹂
複雑そうな表情でカツサンドを頬張り、阿子は答えた。
﹁そう、よかった﹂
良之は心の中で小さくガッツポーズをとった。
食肉の風習に忌避感を示すのは宗教的な感情なのでそれを矯正させ
るつもりは毛頭ないが、良之としては、健康上の理由としても、可
能であれば食べて欲しいと考えている。
﹁近い将来、カツオの缶詰を開発してカツオのサンドイッチを作ろ
うと思ってるから、それが出来たら肉食が出来ない人たちにも満足
してもらえるとおもうよ。ツナサンドっていうんだ﹂
﹁早く食べてみたいねえ﹂
越後殿は肉食系女子のまぶしい笑顔で、にっと笑った。
﹁そうだ、もう一つ新しいサンドイッチを作ろう﹂
良之は木下智に食パンをトーストさせ、その間にトマトの輪切り、
キャベツの千切りを用意させ、豚バラベーコンと鶏もも肉の千切り
を塩コショウでローストして、いわゆるクラブハウスサンドを作っ
て試食させる。
また、ハンバーグを薄くのばしてミートパテにして、デミグラスソ
ースにしっかりまぶしてコッペパンに挟んで出してみた。
挟んで添える青菜は、ちしゃ菜と呼ばれる中国から伝来した葉レタ
スの一種である。
つまり、簡易なハンバーガーである。
809
﹁これも美味しいねえ﹂
﹁はい、ハンバーガー、美味しいです﹂
﹁さ、さすがにもう食べられません⋮⋮﹂
他の全員が食べ過ぎて苦しがる中、越後殿と望月千は、けろっと全
ての試食品を平らげ、幸福そうにおなかをさすっていた。
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天文24年春 4
良之が次々と新製品を開発している調理パン分野は、その普及がめ
ざましい。
特に、この頃では富山の岩瀬港に直接入港する南蛮商人たちにも大
好評で、このことが堅調な小麦輸入を下支えしてくれている。
彼らは、良之が提供する各種西洋食︱︱といっても明らかに中世期
を逸脱した美食だが︱︱の虜になり、すでにその美味は、インドの
ゴアにまで鳴り響いている。
二条領は魚もうまい。
すでに、良之は刺身のみならず江戸前寿司も導入している。
江戸前寿司というのは、しゃりにまぶす酢に、意外に多量の砂糖が
必要とされる。
この時代の砂糖は高額な輸入品なのだが、慢性的な輸出超過になっ
ている二条領にとって、なんということはない出費なのである。
そもそも、良之が<錬金術>で生み出した宝石の数々は、わざと出
し惜しみさせて明や南蛮に売られているし、宗教画家たちが金を惜
しまずに顔料を欲しがるため、二条領が出す顔料素材は貴重な東洋
からの舶来ものとしてすでに西欧各地で有名になってしまっている。
その上、近頃良之は戦略的に全国に硝石を売り出している。
このことは、特に南蛮商人に対する日本人の奴隷取引を抑止させる
ための政策として行った。
九州各地の大名や豪族が、住民を対価に火薬を欲しがろうというの
なら、その住民は二条領でいくらでも買い取ってやろう、というこ
とである。
811
言うまでもなく良之が、奴隷などという差別を容認するはずがない。
そもそも、二条領においては全ての分野で人手不足なのである。
良之は、南蛮商人が提示する硝石の価格より2割程度安値で常に硝
石をダンピングさせている。
二条領においては、液体窒素からアンモニアや硝石を化学合成する
プラントが、すでにフリーデたちの努力で完成しているため、良之
の錬金術に頼ることなく量産されている。
作物でいうと、南蛮商人たちに持ち込ませた作物の中では、甜菜も
失敗の部類に入るだろう。
前期に収穫された甜菜を絞って糖度を測ってみたが、到底砂糖生産
事業が興せるほどの品質にはいたっていなかったのである。
とはいえ、怪我の功名といえるかは分からないが、甜菜は家畜の飼
料として、葉も茎も根も充分に転用が可能だった。
そこで、良之は連作障害を持つ作物の輪作時の換金作物として甜菜
も推奨し、葉や茎は飼料に、根は汁を搾った残渣を加工して、同じ
く家畜の餌として提供することにした。
また、温暖な尾張での作付けでもはかばかしくなかったサトウキビ
については、良之にはひとつプランがあった。
それは台湾島と琉球王国での産業促進である。
琉球王朝はこの時代すでに明国との間で朝貢貿易を開始しているだ
けの社会性があるが、台湾については、正史においては後に豊臣秀
吉が﹁高山国﹂として自身への貢ぎ物を要求したものの、実情は国
政に至らぬ集落社会であったため、その実現は果たせなかった。
ポルトガルが支配地として占領するのはこの時代からさらに一世紀
812
以上後であり、現状は、現地の人間と倭寇によって割拠されている
ような状況である。
良之は、この台湾と琉球において、二条の資本を100パーセント
投下して、砂糖のプランテーション化を目論んでいる。
日本においては、四国や南九州においてサトウキビによる製糖は江
戸時代に成功を収めている。
だが、現状の国内事情では、良之は一切他家に富や技術を渡すつも
りがない。
ひとまずは琉球や台湾に現地視察に行きたい所である。良之は倭寇
である五峯に書簡を出し、仲介の依頼をすることとした。
砂糖の安定供給は、住民の幸福度に最も大きく寄与すると良之は見
ている。
なんとか二条領全土に行き渡らせるだけの味噌やしょうゆは確保し
ているのだが、しょうゆについては今後の需要増に対応するには基
盤が脆弱なため、赤桐に大工場を任せる予定で準備中である。
塩については製塩工場を太平洋側の尾張に建造すべきか検討中であ
る。
だが、砂糖だけは現状、全量を南蛮商人に頼っている。
これは大きなリスクを内包しているように良之には思えて仕方がな
かった。
良之にとってもう一つの資源に関する鬱屈は、九州大友家の石炭輸
出量が全く良之の要求量に満たないことだった。
おそらく現在の量は、露天掘りで出荷してくる程度の開発量である
と容易に想像が付く。
きっちりと鉱山として掘削事業を開始していれば、もっとしっかり
813
した産出量が当然得られてしかるべきである。
なぜなら、三池や筑豊といった、有力鉱山の所在地さえ良之は教え
ているからである。
高炉の建造を急ぎたい良之は業を煮やしている。
そこで、良之は二条家直轄による炭鉱開発を検討している。
良之には選択肢がふたつある。
大げさに言えば、蝦夷地、つまり北海道はその全島が有力な石炭鉱
の宝庫といえる。
それに、貴金属や鉄鉱といった鉱物資源、海産資源、木材資源など
の宝庫である。
だが、この段階の二条家であってもなお、蝦夷地の開発は厳しい。
ひとえに冬期の厳寒さ故に、容易に腰を上げられないと良之は思っ
ている。
そうなれば、石炭のもう一つの国内優良鉱である九州を狙う以外に
ない。
だが、九州は大友が支配している。
となればどうするか。
実は、良之にはしっかりした目算がある。
長崎近辺には小佐々水軍という海賊衆があり、西彼杵半島の西海一
帯を縄張りにしている。
その海上拠点の松島の南西に浮かぶのが池島である。
池島。
九州の石炭産出を最後まで支えた海底炭鉱、池島炭鉱の拠点基地が
あった島である。
海底600メートルの深度まで掘り進められた坑道は、もっとも遠
い地点で10km先まで達したという。
良之は、この池島と小母島、大蟇、小蟇島など鉱区にかかる島々を
814
全て、小佐々家から買い取る腹づもりを決め、その折衝を博多の豪
商、神屋に依頼することにした。
能登から加賀にかけての一帯が穀倉地帯であることは以前に触れた
が、豪雪地帯で冬場の農業が封じられるこの一帯は、出稼ぎによる
酒造が古くから盛んであった。
殊に、加賀白山地方の菊酒の歴史は古い。
良之は、秋口頃から加賀の蔵元に資本を投下して、仕込み量を増や
させている。
清酒造りに挑戦するためである。
良之が具体的に指示したのは、いわゆる10石仕込み桶と、その桶
を複数置くことが出来る蔵の開発だった。
10石仕込み桶は、良之が介入しなくても30年後には奈良で誕生
していたであろう。
奈良は、京の酒造りが麹座と酒造商人が紛争を起こして双方が自滅
して以降、日本酒造りにおいてステータスとなった。
良之がかつて京の山科言継にごちそうになった僧坊酒﹁菩提泉﹂な
どはそのトップクラスの銘酒だった。
清酒は鴻池善右衛門によって発明されたという俗説があるが、誤り
である。
鴻池が発明したのは、清酒の大量生産法であり、それ以前から濾過
のノウハウは確立していた。
ただ、非常に手間のかかるフィルタリングが行われていたために清
酒は希少品であった。
清酒生産の工程において、上槽、つまりもろみ酒を布袋に詰めて絞
815
り出し、にごり酒と酒粕に分離する作業がある。
上槽後におり引き、つまり沈殿物と上澄みを分ける作業を経て、濾
過が行われる。
この濾過に活性炭を使って浮遊する米の白い微粒子を取り除く手法
を導入したのが、鴻池だった。
もちろん良之もまた、この手法を加賀において伝授するつもりであ
る。
また、ガラス職人たちに一升ビンの大量生産を命じている。
そして、山方衆に命じて、この一升瓶が六本納まるケースの量産も
はじめさせている。
さらに良之は、酒粕を真空パックに納めた上で、冷蔵倉庫や冷凍庫
で保管して商品化することも命じている。
酒粕は、甘酒に使用させたり、魚の粕漬けとして金沢や能登、越中
などで高級魚の保存食化に使用させている。
今後は海路、畿内や東海に運び入れ、瀬戸内や太平洋岸の魚にも使
わせる予定でいる。
良之が提供した新技術は、発酵菌を加熱殺菌する火入れ設備と、火
入れ後の新酒を熟成させる熟成タンクの敷設である。
熟成タンクへの酒の移送はポンプを使用する。
火入れは、温度計の付いた大釜を提供した。
この年の酒造プラントが成功したら、良之は順次、各地の醸造所へ
技術を提供する予定でいる。
ところで、越中を支配して以降、ずっと良之が考え続けている冬の
816
味覚がある。
ズワイガニだ。
水深200メートル以上の深海に生息しているため、言うまでもな
くこの時代では希少な美味である。
この時代の漁船の能力からすると、網漁はよほど難しかっただろう。
水深200メートルもの地点に碇を沈めて、小さな船で沖合で網を
たぐらねばならないためである。
それよりは、カニ籠と呼ばれるカゴ罠に餌を入れて海底に沈ませて、
一定時間後に引き上げた方がよほど効率的だったと思われる。
ズワイガニについてはこの時代をさかのぼること40年以上前に、
三条西実隆が越前ガニについて日記に記している。
つまり、すでにその味覚は京の公卿さえ知っていたのである。
ズワイガニ自体は、日本海沿岸各地やや太平洋岸でも常陸以北で生
息している。
オホーツクやアラスカ沿岸でも豊富に生息する蟹である。
ただし、言うまでもなく乱獲に耐えるほどの繁殖力はないため、日
本各地では禁漁期やメスの収穫を禁じる、幼い個体は放流するなど
様々な資源保護策を講じている。
冬の入り口から翌春までがシーズンになり、オフシーズンには主に
オホーツク産の冷凍物が饗されている。
良之は、新たに放生津に小型漁船用のドライドックを2基作り、沖
合底引き漁船の建造をはじめさせた。
深海用の底引きの効率化のため、2隻が協調して底引き網をウィン
チで巻き上げられるようにする予定である。
それまではかに籠漁で、上がったカニを身内だけで楽しませてもら
う。
817
鮮度がよければ刺身や寿司、カニシャブなどで食べられるが、日持
ちがする素材ではないため、素早く冷凍保存するか茹で上げるしか
ない。
かつては北洋で盛んに水揚げされたが、冷凍技術が未成熟な時代は、
蟹工船と呼ばれる缶詰工場を持つ大型船で、船内でカニ缶詰に加工
され、高級食材として珍重されていた。
良之の指示で10杯のズワイガニが富山御所に納められたので、早
速良之は側近や奥方たちに、天ぷらやかに玉、茹でがにとして試食
させた。
その評価は、改めて言うまでもないだろう。
818
天文24年春 5
天文24年の活動方針を支配者、指導者、軍略家といった武士層や
技術者、職人、研究者らに伝えると、良之はディーゼル船越中号に
乗って九州を目指した。
目指すのはまずは博多の神屋。次いで平戸の王直︱︱五峯の許であ
る。
2月に入るといよいよ海上の冷え込みも厳しく、また荒天も多く航
行は厳しかったが、ひとまずは無事に博多に到着した。
良之はそのまま神屋の番頭らと、肥前の小佐々家に向かい、池島周
辺の小島を65万両で購入した。
次いで五峯の許を訪れ、台湾と琉球でのサトウキビ生産についての
協力を取り付けた。
特に台湾については、中国本土の奴隷や流民などに移住を斡旋して
もらうことになった。
この時代の明は対外的には鎖国状態であり、南蛮との取引は全て密
貿易である。
さらに、国民に対する渡航や移住にも厳しい制約がある。
そうした明国の国家からある意味自由な存在として、逃亡した流民、
家族や自分自身によって身売りをした奴隷たちが存在した。
良之は五峯にそうした人々の台湾への移民を行わせた。
現地の島民は一万未満。
良之は、あらゆる特産品を用いて明国から台湾への移民の対価を支
払った。
819
そして、まずは言語学校や治療所、代官所、宿舎といった建設を指
示した。
台湾の占有はうまくいった。
五峯の全面協力があった事に加え、明国の鎖国政策によって棄民さ
れたも同然の状況だったからである。
台湾における最優先作物はサトウキビ。
食糧は全量をひとまず明や南蛮からの輸入と二条領からの搬送で賄
うこととした。
台湾の代官には馬場信房と丹羽長秀を任命。
兵士は2000とした。
続いて、琉球へ向かう。
琉球には王家があるため、台湾よりスムーズに話が進んだ。
サトウキビの製造については王家が請け負い、二条家は全量を買い
上げた後、借り上げた土地に工場を建設して砂糖の生産に入ること
とした。
当初のサトウキビも二条家によって全量を提供する。
琉球にも交易所の他、診療所、代官所を設け、兵も駐留させる。
派遣したのは、安藤守就と内藤昌豊。
同じく、武装兵2000による駐屯となる。
ちなみに肥前池島にも、三木良頼と飯富昌景に兵2000を付け送
り込んでいる。
どの拠点においても、まずは兵の駐屯施設の構築からはじまり、発
電所や工場が完成するまでには、一年以上の月日がかかるだろう。
820
東北や九州では、養えない乳幼児を海に流したり山に捨てる、老人
を同じように山に捨てるといった口減らしが横行している。
﹁二条領で1人残らず引き取るので、手配をお願いします﹂
良之は、こうした無辜の被害者たちを保護育成し、将来の人材とし
て教育することを考えた。
また、同様に二条領各地に学校を整備し、識字率向上やモラル教育
などを行うことを企画している。
教えるのは読み書き、計算からはじまり、10代半ばからは、進路
に応じて商業・工業・科学・そして軍事の各科に分けることとした。
費用は食事含め全て二条家が拠出する。
他領から引き取った乳幼児なども孤児院を建設して育成し、適齢に
なれば学校へと進学させることにした。
老人たちにも、技能や知識に応じて様々な仕事を割り当てる。
いずれにせよ口減らしとして見放された老人たちは、新たな居場所
と衣食住を保証することにしている。
二条領においては、肉体的負担の少ない手工業、孤児院での育児な
ど、老人でも充分に対応が可能な職場が無数にある。
たとえ仮に老化によって身体的に厳しい老人であっても、良之は分
け隔てなく引き取ることを命じている。
貧困による人命の抹殺など、良之は許す気がなかった。
二条分銅・二条升を扱う日本全土の商人たちにそうした乳幼児や老
人、そして口減らしに売られる子供達の二条領への移住を指示して、
それらの費用も全て二条家で負担した。
この政策も、本当に二条家にとって人口増や労働力、それに知性の
向上を生み出すには10年以上のスパンでの長い目が必要だろう。
821
だが、本来良之が望んでいる日本の理想的な人口は最低でも600
0万人以上。
現状は全国でも1200万に欠ける程度しかいないのだ。
人口を増やすためには食糧自給率の向上、健康状態の改善、治安の
維持、そして、経済を活性化させて幸福度を満たすしかあるまいと
良之は考えている。
天文24年三月。
九州、琉球、台湾の外遊を終えて良之は二条領に戻った。
﹁御所様、お疲れ様でした﹂
良之を出迎えたのは全領地の国司たちである。
代表して年長の斎藤道三があいさつしたあと、居並ぶ全員が頭を下
げる。
﹁留守中ご苦労様でした。新しい食べ物はもう食べましたか?﹂
この冬の間に良之が提供した食品群は、どうやら彼らにも好評だっ
たらしい。
皆口々に、自分はどれが気に入ったかを語って聞かせてくれた。
二条領では、国司は、たとえば飛騨なら飛騨守を充てている。
そして国司代には飛騨介、飛騨掾を任命する。
良之は、介には彼自身の副官を任命する事が多いため、彼ら国司が
国を離れる場合、代官には掾を充てることが多くなっている。
能登守の斉藤道三をはじめ、加賀守織田信長、越中守隠岐良成、越
後守長尾不識庵、信濃守木曽義康、甲斐守武田晴信、美濃守斉藤義
龍、尾張守織田信秀。
822
そうそうたる顔ぶれである。
良之が全国司を一堂に集めたのは、今後の二条領の方針を話し合う
ためである。
﹁すると、御所様は京は目指さぬおつもりですか?﹂
武田晴信が聞いた。
良之が正月からやってきた様々な政策を語り終え、
﹁出来れば鉄道や公共工事が終わるまでは領土は拡大しないでいた
い﹂
と結んだ後の質問だった。
﹁うん。ていうかさ、俺は元々公卿だから、別に京に攻め込む必要
ないしね﹂
これが良之の強みである。
京の朝廷にとって、良之は藤原家五摂家の二条家の人材であり、ま
た、時の帝の娘婿でもある。
京の二条に広大な屋敷を持つ上、今、二条平安離宮跡に、御所に匹
敵する規模の大城郭を建造中である。
そのうえ、越前の朝倉、北近江の浅井と不戦の協定が出来、畿内・
四国の雄三好家との関係も良好である。
三好には、二条城のことも含め関白一条や三好の婚戚である九条家、
それに近衛家などから充分に政治的に働きかけてもらっている。
現状、二条家には京を含む山城国に対する領土的野心が一切ないこ
とは充分伝わっているため、関係は平穏に推移している。
南近江の六角家の庇護下にある足利将軍家や、将軍家の影響が大き
い駿河遠江三河の今川との関係には若干の政治的緊張はあるが、板
東一円の制覇を目指す北条とも良好な関係が出来たため、今川も容
易に二条領への手出しは出来まい。
823
﹁御所様。実は、山内上杉家の旧臣たちが、当家への臣従を願い出
ております﹂
不識庵がいいにくそうに切り出した。
上野の長野家、沼田家、横瀬家、足利長尾家などである。
彼らは旧主上杉憲政の流亡後の生活を支え、越後長尾と相模の北条
の圧迫を受けながら半ば独立した形で抵抗を続けている。
﹁⋮⋮北条と揉めるかなあ?﹂
﹁その心配はないかと存じます。⋮⋮関東管領上杉様が、この春越
後に参り、それがしに上杉の家督を譲り隠棲したい、と申しており
ますが、いかが致しましょう?﹂
不識庵は報告を続けた。
﹁うーん、その判断は不識庵殿にお任せしましょう。ただ、関東管
領を継ぐと、足利家から要らない干渉を受けそうですね﹂
良之の言葉に一同、うなずいた。
﹁しかし反対に、不識庵殿が上杉の名跡を継ぐことで、関東からの
足利の影響力がそげますまいか?﹂
武田晴信が言った。
﹁確かに。ですが、御所様は足利家をどのようになさるおつもりで
すか?﹂
不識庵は晴信の意図を察して同意はしたが、彼の心中には足利義輝
に対する同情の念もある。
﹁うちにとっては迷惑な相手ではあるんだよね。それに、日本がこ
んなに荒れてるのは、彼、というか足利家の責任が大きいんだ﹂
﹁⋮⋮﹂
良之の持論である。
常日頃から二条家の幹部たちに説いているため、彼らも良く承知し
ている。
良之のスタンスは、足利幕府の権威を一切必要としていない。
824
たとえば斉藤家が美濃守護職、織田家が尾張守護職を背景に勢力を
伸ばし、武田も信濃や甲斐の守護職を欲したのとは異なり、良之は
一貫して朝廷の国司の権威を背景に勢力を拡大してきている。
現状、二条家においては尾張守護職の相続権を持つ斯波義銀を保護
しているが、別に彼を担いで相続させようという気は全くない。
義銀も、二条家において手厚いもてなしを受けている上、これまで
とは桁違いに裕福な暮らしをさせてもらっている事もあり、不満は
全く持っていないようである。
﹁不識庵殿が上杉を継ぐのはいいと思います。ただ、関東管領職は
要らないかな?﹂
﹁はっ﹂
良之の言葉に不識庵はうなずいた。
﹁もし次に、足利が何か仕掛けてきたら、彼から征夷大将軍を剥奪
します﹂
﹁!﹂
居並ぶ一同は驚愕した。
﹁⋮⋮そのようなことが、お出来になるのですか?﹂
織田信秀が良之に尋ねた。
﹁まあ、そのためってわけじゃないけど、京都に城が出来て二条家
で帝をお護りできれば、別にもう滅んだに等しい足利なんて、残す
必要ないしね﹂
百害あって一利なしだよ。
良之は冷たく言い放った。
上野国北部・西部の国人衆が二条家に従属することについての北条
家との折衝は不識庵に一任された。
また、当地への防衛軍や警察の配置の手配は武田晴信に任された。
﹁誰を遣わしましょう?﹂
晴信の問いに、
825
﹁信廉殿と真田殿が良いでしょう﹂
と良之は指名した。
有能な兄晴信の影に隠れてあまり評価されていないきらいはあるが、
武田信繁も武田信廉も非常に有能な男だった。
特に信廉は、自身の手柄を全て兄に付け替えて影に隠れるようなと
ころがある。
それほど有能な割に、隙さえあれば隠棲して詩歌や絵画といった風
流にふけりたがるこの男を、良之は遊ばせておくつもりはなかった。
真田幸隆もまた、信濃・上野あたりにおいて顔が効く。
この2人であれば、血なまぐさい事態に陥ることなく、上手に難し
い状況である上野を切り盛りしてくれるであろう。
826
天文24年春 6
﹁今年から、信長殿にはもう一段高い所から軍の指揮を執ってもら
いましょう﹂
次に、良之は二条軍の指揮系統について検討を始めた。
﹁去年は本当にすいませんでした。信長殿に仕事を集中させてしま
って⋮⋮﹂
﹁こちらこそかたじけのう存じます﹂
信長も頭を下げた。
﹁領地の最前線を指揮する不識庵殿と晴信殿、それに信秀殿、義龍
殿には、それぞれ方面軍の総指揮官を受け持ってもらいます﹂
名指しされた者達は頭を下げ、
﹁はっ﹂
と承諾の意を示す。
﹁加賀の総指揮官は信長殿の配下から選びます。⋮⋮柴田勝家殿は
どうでしょうか?﹂
﹁あやつなら大丈夫でしょう﹂
信長も賛意を示した。
柴田勝家は、北陸大乱の折の見事な用兵が評価され、二条家中でも
評判が高かった。
﹁飛騨は江馬時盛殿にお任せします。越前とは不戦協定が出来てい
ますから、申し訳ありませんが2000程度の兵でお願いします﹂
﹁承知いたしました﹂
飛騨国司の江馬も了解した。
﹁信長殿には、これまで通り工兵の全運営をお任せします。ただし、
827
部隊を連隊ごとに分け、それぞれに司令官を任命して彼らに実務を
行わせましょう。信長殿は総司令官として、それを指揮管理しても
らえば、昨年のような忙しさからは解放されると思います﹂
﹁はっ﹂
﹁人選はお任せします。もし人材が足りないようでしたら、越後以
外からなら指名して構いません。皆さんも、出来るだけ信長殿にご
協力お願いします﹂
越後は、未だ揚北衆が独立状態という事もあって、容易に気が抜け
ない状況下にある。
現状では長尾不識庵の配下たちはそれぞれ、代官地の治安維持や防
衛に不可欠であるため、容易に引き抜くわけにはいかないのである。
かといって南近江の六角や足利への警戒が必要な美濃や、今川への
警戒が必要な尾張もそう人材の引き抜きは出来ないだろうが、東美
濃の遠山や飛騨、能登、越中、信濃あたりにも有能な人材は多い。
信長は、斉藤道三の次男龍重、三男龍之や竹中重元、現在道三の右
腕として能登を守る明智光継の子明智光綱。
それに自身が引き抜いてきた尾張の塙、伊藤、生駒、佐々ら若手を
専任士官として任命した。
信長が率いる軍は、現在工兵部隊として二条領の発展をもっとも支
えている重要な部隊である。
そのため、現在も続々と志願者が増え続けている職業軍人たちの半
数は彼の配下に編入されている。
新たに鉄道工事まで加わったために、今後10年以上は土木工事を
リードしてもらわねばならない大切な部隊といえる。
ことに今後は、高低差と曲進に弱い鉄道のレール敷設に取り組んで
もらわねばならないために、土盛り、掘削、架橋、トンネル工事と
828
いった、これまで以上に大がかりな建設作業を進めてもらう必要が
ある。
それに、良之はまだプランを発表していないが、今後は上下水道の
開発と、それに伴う工事の仕事も発生する。
二条家における信長の立場は、非常に重要なことに変わりはなかっ
た。
二条家の今後を国司たちと討議した良之は、会議の終わりにアイス
クリームを振る舞った。
貿易赤字解消のためアルメイダの商会がヨーロッパから持ち込んで
きたスパイス類のなかに、中南米からの輸入品であるバニラビーン
ズが含まれていたため、猿倉衆に新鮮な生クリームを分けてもらっ
て、良之が指導して木下智に作ってもらったバニラアイスである。
南蛮渡来の新しいものが誰より好きな信長はともかく、食生活につ
いては非常に保守的な武田晴信や長尾不識庵までもが、アイスクリ
ームの虜になった。
﹁これは、いつか甲斐でも食べられるようになりましょうか?﹂
﹁すぐには難しいですけど、甲斐で酪農をはじめられれば、城下で
作れるようになるでしょう。八ヶ岳の麓あたりで畜産をはじめたら
どうですか?﹂
何気なく良之の言った一言で晴信は、広大な八ヶ岳高原での畜産を
本気で導入した。
バニラビーンズはこの時代、すでにスペインのコンキスタドール、
エルナン・コルテスによってヨーロッパに提供されている。
ヨーロッパにおいても非常に珍重される香料である事から、その価
値は非常に高い。
種子を導入してヨーロッパでも栽培が幾度となく試みられたが、花
粉の受粉に媒介する蜂の不在などの条件が重なって、ついに成功に
829
はたどり着けなかった。
二条家にとっては、南蛮取引においてはすでに巨額の貿易不均衡が
発生していることもあって、バニラビーンズを言い値で買い上げる
ことなどなんの問題もなかった。
現在美濃で計画されている製紙工場で廃棄物として産出するリグニ
ンがプラント化できれば、リグニンの発行物として人工バニリンが
精製出来るかも知れない。
武田晴信だけでなく、斉藤義龍や織田信秀、木曽義康なども本気で
畜産を志したため、良之は彼らに、猿倉衆の畜産技術者のリクルー
トを一部許可した。
こうして、甲斐、信濃、美濃、尾張における畜産は、施政者たちの
熱烈な後援を得てスタートした。
また、同時に各地での大規模養鶏業もスタートしている。
宗教的な理由で食肉を忌避する武田晴信や長尾不識庵にも無精卵に
ついては納得させているので、領地への鶏肉や鶏卵の普及は問題な
く広がった。
その結果、二条領全土で栄養状態は大きく改善して、流行病による
死者を激減させることにつながるが、それは養鶏業が普及する後の
ことになる。
信濃の木曽、伊那、諏訪各地の農民たちの努力によって、寒天も大
量に生産することが出来た。
全ての食の流行を大きく広げるため、良之は伊賀甲賀の忍衆に調理
法を教え、彼らを二条領各地に派遣して普及販売させた。
830
国司たちとの会議を終えると、良之は次に、全技術指導者を集めて
の会議を始めた。
年頭から良之が布石を打った今年の技術的課題は多岐にわたる。
そのうち、良之自身が指揮を執らねばならないものは、刈羽での油
井、池島での炭鉱開発、琉球・台湾での製糖工場、美濃の製紙工場
の4つである。
その他の万年筆やウージー生産工場などは、彼ら技術者間でやりく
りをして、油圧プレスや金型生産、製鉄から熱間圧延、鋳造部品や
バネ生産などをこなしてもらう必要がある。
電力網については、現在丹治善次郎によって各発電所間に送電線を
敷設して電力の安定供給を計画してもらっていて、これには電線の
地中敷設技術が絡むため、コンクリート管の地下敷設が必要となる
ため、木下藤吉郎の協力が不可欠となる。
工作機械は電動で稼働するため、広階親方や彼の子供達は、善次郎
の協力が必要になるし、非金属部品については、山科阿子ら化学プ
ラント技術者の協力が不可欠になる。
各部門の縦割りでの指揮系統についてはかなりうまくいっているの
だが、残念ながらこうしてあるプロダクトについて横に広がる連携
については、良之がいなくなるとだいたいストップしてしまうこと
が多い。
今年はかなりの期間を良之本人が不在になる事が予測されるため、
どうしても良之の名代として生産部門を統括する責任者が必要にな
る。
﹁藤吉郎。小一郎はお前抜きでコンクリート部門の総責任者が務ま
ると思う?﹂
﹁はっ。⋮⋮小一郎は知識はすでにそれがしと同じくらい学んでお
ります。が、なにぶん元服してまもなく、全てを任すには荷が重い
かと存じます﹂
﹁そう⋮⋮。あのさ、斉藤道三殿の配下に、明智光秀っていう若者
831
がいるんだけど、彼や塩屋殿の番頭に雇ってる尾張の伊藤屋の若い
のとかを付けたら大丈夫かな?﹂
﹁はあ。あの、御所様。わしはお役御免なのですか?﹂
良之が自分の後釜に小一郎を据えようとしているのは分かったが、
藤吉郎にとっては、自分以上にコンクリート産業を統括できる人材
はいないと自負している。
小一郎でも確かに年長のものを補佐に付ければこなせるだろうが、
自分が外されるのは少し心外に感じているのである。
﹁うん。藤吉郎には、俺がいない間、俺の名代を務めてもらいたい。
要するに、二条家の全ての生産設備の開発、運営の責任者を務めて
欲しいんだ﹂
藤吉郎は、降って湧いたあまりの責任の重い職種に圧倒されて声を
失った。
だが、
﹁ほう、藤吉郎殿ですか。それは良い﹂
広階親方が顔を緩め、
﹁そうですね。藤吉郎殿なれば、御所様不在の間も円満に進みそう
に存じます﹂
善次郎も賛同する。
﹁私どももお力添えいたしますゆえ、是非お受け下さいませ﹂
山科阿子も後押しする。
実はこの会議の前に、藤吉郎以外の出席者に良之は根回し済みであ
る。
藤吉郎の個人的能力はすでに二条家の家中で確固たる評価を得てい
るのだが、実は彼の人柄についても、評価はすこぶる高かった。
陽気で機知に富んだ人柄や、物事の本質を見極めるバランス感覚の
良さは、技術部門に属する、どちらかというと人間性においてとが
った部分の多いエンジニアたちの中で、誰の目から見ても若年なが
ら、統率者としての能力は一段抜けている。
一方の藤吉郎は、その職責の重さから、二度三度と固辞し続けたが、
832
ついに良之から直々に、
﹁頼むよ﹂
と頭を下げられて断り切れなくなったのである。
﹁よほど困ったことがあったら俺への伝令のためだけにディーゼル
船を使って良いから、ね?﹂
﹁は、はあ。わしにどこまで出来るか分かりませんが、やむを得ま
せん⋮⋮お引き受けいたします﹂
顔に不安を一杯に浮かべつつも、藤吉郎は良之の名代、今風にいえ
ばプロジェクトリーダーを引き受けた。
藤吉郎には相談役として二条領の物流部門の総責任者である塩屋秋
貞を付けた。
塩屋も二条家においては信長に匹敵するほど多忙を極めた1人であ
るが、ここのところは全国の豪商から借り上げた人材が育ってきて、
やっと大局を検討するだけの精神的なゆとりが出来てきている。
商人と武士、双方の視点で物事が見える優秀な人材であるため、藤
吉郎と組ませて産業の監督をさせるのにうってつけの人物だった。
﹁まあ、出来るだけ早く帰ってくるようにするから、あとはお願い
します﹂
良之は居並ぶ技術者たちに後事を託して、会議を締めくくった。
833
弘治改元
この年は、二条領に住む全ての人々にとって、大きな飛躍の年にな
った。
もしくは、その飛躍の原動力となり、後に生まれる他国︱︱それは
日本国内の旧分国法上の他領に留まらず、明、インドからヨーロッ
パ文明を含め︱︱との文明格差を決定づける年となった。
何をするにも良之がいなければ崩壊するような危うさを持っていた
全ての分野が、まるではいはいしている赤ん坊が、危うげながらも
捕まり歩きをはじめたようなものだった。
二条領に住む全ての人々が、良之たった1人の活力に当てられて突
き動かされているように見える。
だがそれは、楽天的で陽気な気分に満ちていた。
だからこそ、誰もが自身の持てる全ての能力を惜しみなくつぎ込み、
まだ見ない明日を目指して動き出した。
良之は4月には刈羽、6月には琉球、7月には台湾。
そして8月には池島で1日の休みもなく働いている。
その間何度も信長や藤吉郎から急ぎの問い合わせがやってきたが、
ひとつき、ふた月と時を追うごとにその頻度は減っていった。
まさにこの年こそ、二条領は良之ひとりのまがい物の国家から﹁本
物﹂の国家へと成長した嚆矢という事が出来るだろう。
すべての外地における開発、そしてその布石を終えた良之は天文2
834
4年9月下旬に、京に入った。
良之の指示に従い、京の皮屋支店では今井宗久が金に糸目を付けず
人足をかき集め、二条城と相国寺の二大建造物を建造中である。
遠く、丹波や若狭、播磨、伊賀や伊勢など近隣各地域から噂を聞き
つけた者達が流入し、京は応仁以来久しぶりの賑わいを取り戻して
いる。
良之はそれらの監督を行ったあと、参内した。
﹁黄門。良く戻られた﹂
後奈良帝は、久しぶりに戻った良之を朗らかに迎えた。
﹁相国寺、二条城の槌音が、都を明るく致して居る。黄門、おおき
に﹂
﹁ありがたきお言葉﹂
﹁⋮⋮ところで黄門。ひとつ願い事を申して良いか?﹂
帝は声を沈ませ、良之に問いかけた。
﹁なんでしょう?﹂
﹁うむ。実は、仙洞御所のことよ﹂
仙洞御所というのは、帝が隠居をして次帝に譲位をした後、隠棲す
るための御所のことである。
本来、公卿であれば知らないはずはないが、良之は無論、知らない。
帝は仙洞御所について良之に細かく解説してくれた。
﹁⋮⋮なるほど。承知いたしました。それで、紫宸殿の東にお造り
すればよろしいのでしょうか?﹂
﹁引き受けてくりゃるか?﹂
﹁はい﹂
良之は早速、堺から武野紹鴎を呼び寄せ、仙洞御所の建設を命じた。
紹鴎を呼んだのは、隠棲後の上皇になる後奈良帝のため、大庭園を
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建造させるためである。
﹁引き受けてもらえるかな?﹂
﹁そらもう、喜んで﹂
紹鴎も、上皇のために庭園が造れるとあって、大興奮で引き受けた。
10月。
建設のはじまった仙洞御所の槌音の響く御所において、後奈良帝は
改元を宣言した。
天文24年10月23日を以て、元号を弘治に改める。
戦乱に加え、震災や噴火、異常気象による飢饉などが続いた天文年
間だった。
帝は号を改めることで、そうした時代の流れを断ち切りたいと望ん
だのである。
そこで、良之も銅銭の改鋳をせねばならないことになる。
早速帝に弘治通宝の揮毫を願い出て、快諾された。
余談だが、この改元について、朝廷は京から落ち延びている亡命幕
府に通達を行っていない。
足利義輝は翌年まで元号を天文のまま使い続けて恥をかき、恨み言
を詰問の形で朝廷に送りつけて冷笑された。
このことについて良之は無関係であるが、世間はそうは取らなかっ
た。
良之の足利嫌いはすでに公然たる事実として、公卿のみならず地下
人の1人1人に至るまであまねく知れ渡っている。
ことに、北陸大乱のきっかけが足利による能登畠山氏への扇動であ
る事実を掴んでいる良之は、その密書をすでに、後奈良帝の目に触
れさせている。
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二条城が完成し、二条軍が京の都の防衛体制を固めれば、それは、
おそらく14代続いた足利幕府が終焉するときになるだろう。
公家という貴族が実権を失ったもっとも大きな理由は、その徴税の
苛烈さゆえだった。
荘園に暮らす庶民たちは、未開拓の地に新しい活路を求めて逃散し、
やがて、その新田を守るために武装した。
彼らを庇護するために武士が興った。
武士は組織化を繰り返し、ついには荘園に攻め込んで私掠をはじめ
た。
やがてそうした各地の武家をまとめ上げた武家政権が登場する。
鎌倉幕府である。
後に建武の新政で後醍醐帝が公家社会の復興を目指した。
しかしやはりうまくいかなかった。ひとつの理由は、やはり過去、
公卿が行った暴政の印象があまりに深く残ってしまったためであろ
う。
朝廷と足利家の南北朝時代は、時と共に陳腐化して終焉する。
北朝方の足利幕府は、自然消滅した南朝を吸収する形で結果的に勝
利を収めた。
だが、自力で完全勝利できないような脆弱な基盤を元にした足利幕
府は、結局、その最後までこの日本という国をよりよい社会へと導
くことは出来なかった。
良之は、按察使である。国司の上位に位置する権力者として、各所
領に国司たちを任命して統治している。
戦国大名ではないため、二条領は大名領ではない。
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とはいえ、この時点においてすでに日本最大の領土を誇っている。
二条領に次ぐ規模の大名は、九州の大友、畿内の三好、そして東海
の今川あたりが存在する。
彼らはすでに、いわゆる足利幕府による守護大名ではなく、独立の
風を強めた戦国大名へと脱皮している。
さらにこの時期においては、まさに現在滅亡を迎えている周防の大
内を吸収しようとしている毛利や、関八州にその所領を広げつつあ
る北条なども、徐々に台頭しつつある時代である。
現状においては、未だ足利幕府が消滅すると、その権力背景の消滅
によって大義名分を失う権力者は数多い。
良之はまだ、足利幕府を滅亡させたあとの日本の国体について、深
く検討したことはない。
もし滅ぼせば、新たな秩序が必要になるのは言うまでもないだろう。
京における政治活動を終えた良之は、敦賀に下って船便で富山御所
に戻った。
富山に戻った後も、しばらくは自身が不在中の各分野の経過視察で
領地を忙しく飛び回っていた。
おおむねその経過に満足した良之は、この年じゅう考えていた計画
を動かすことにした。
﹁御所の移転、でございますか?﹂
越中にいた全ての幹部を呼び出して、会議を開いた良之の言葉に木
下藤吉郎が問い返した。
﹁うん。俺の所領で一番栄えてるのが富山だけど、今の状況だと富
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山御所は、京から遠すぎるんだよね﹂
﹁確かに﹂
織田信長がうなずいた。
﹁織田殿は、新しく御所を移すとしたら、どこがいいと思う?﹂
﹁そうでありますな。わしなら、稲葉山かと﹂
稲葉山。
斉藤家の居城稲葉山城を要する美濃屈指の要所であり、陸路に加え
て木曽川の水運にも恵まれ、古くから栄えた土地である。
史実において美濃攻略を果たした信長が本拠地を移し、岐阜と改名
したことで有名な土地である。
﹁うん。俺も同感。越中は四方が全部うちの領地になって安全地帯
になっているし、あんまりここに兵力を置いておく利点はないから
ね﹂
﹁確かに﹂
一同も同意する。
﹁それより、南近江の六角家に備える意味でも、うちの中心は美濃
に移した方がいいと思う﹂
良之が常時つきっきりにならなくても、この年、全てのプロジェク
トは遂行することが出来ている。
そのことも良之の戦略的な視点を変えさせるきっかけになっている。
﹁どうかな? 道三殿と信長殿に、稲葉山への御所の移転、任せて
良いかな?﹂
﹁承知しました﹂
信長はにやっと笑って快諾した。
彼は建設マニアというべき性癖がある。
﹁御所様、お任せいただけるにおいて、わしの好きに縄張りしても
よろしゅうございますか?﹂
﹁? ⋮⋮もちろんいいけど﹂
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﹁して、ご予算は?﹂
・・・・・
﹁必要なだけ使って良いよ﹂
﹁必要なだけ、ですな?﹂
こうして道三と信長は美濃に向かっていった。
富山から美濃への引っ越しは、陽気の良くなる来春ということにし
あのう
て、信長は必要とされる職人たちを数多く引き連れ、また工兵団も
引き連れていった。
また、信長から北近江の穴太衆への参加を求められたため、良之は
浅井家へ依頼状を認めて、望月三郎配下の忍びを走らせた。
関東管領上杉憲政は、長尾不識庵を養子に取り、上杉景虎と名を改
めさせた。
そして直後に家督を譲り、政の字を偏諱して、景虎を政虎に改めさ
せている。
自身は出家し光徹入道を名乗り、現在は平湯御所でのんびり温泉と
美食三昧の日々を送っている。
一方、上杉政虎はというと、親上杉・足利であった上野・下野の国
人たちから頼られて閉口しているようだった。
問題なのは、古河公方足利藤氏である。
関東公方は本来、鎌倉に在して足利家連枝として幕府を支えていた。
しかし、北条早雲によって伊豆・相模を奪われると、やがて関東公
方の座は古河足利家が引き継いだ。
この古河公方は、川越夜戦において北条氏康に完膚無きまでに敗れ、
実権を失い北条の傀儡となっている。
前公方足利晴氏は北条によって強制的に隠居とされ、次男の義氏を
後継に建て古河公方家を継いでいる。
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一方、将軍足利義輝は、旧名義藤から藤の字を与えて晴氏長男の藤
氏を古河公方として擁立し、それを関東管領であった上杉憲政も後
援していた。
全く以て足利将軍家お得意のお家騒動である。
他家の分裂を起こさせて、あるいは付け込んで、自身の権力を維持
増大させようとするこうした行いのために、一体どれほどの血が流
れたことだろう。
こうして古河公方足利家には公然と二君が並立している。
その藤氏方が、上杉政虎に庇護と剛力を望んできているのである。
一方、現状の政虎は二条方である。
二条はすでに公然と足利将軍家を黙殺し、その権威を一切否定して
いる。
さらに北条とは同盟関係にある。
政虎は対応に苦慮して、富山御所に良之を訪ね、その対応を相談し
に来ている。
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弘治改元︵後書き︶
式村です。
活動報告で触れましたが、本作について、少しお休みを頂くかも知
れません。
できる限り毎日書き続けたかったのですが、ちょっと体調を崩して
おり、本人の気力だけではいかんともしがたい感じです。
何より本人が楽しんで書いている作品ですので、読みにくい作品に
もかかわらず望外にも多くの方に読んでいただけて居ることに感激
しています。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n6761de/
よくわかる新?戦国日本史∼異世界人と現代人が戦国時
代で無双する∼
2017年1月24日15時10分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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