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安藤正楽に於ける戦争と詩歌

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安藤正楽に於ける戦争と詩歌
明治大学史紀要第十一号︵二〇〇七・三︶
安藤正楽に於ける戦争と詩歌
はじめに
神 鷹 徳 治
安藤正楽氏は、慶応二年︵一八六六︶に生まれ、昭和二十八年︵一九五三︶に亡くなっている。氏の八十八年の生涯
は、日本の開国から、太平洋戦争の敗北に至るまで、その時期をほぼ一にしている。生前、明治法律学校で学んだ後
は、おおむね一地方人として、骨太の異端と反骨の生涯を送っているので、ほとんど世に知られることはなかった。
しかし、近時、明治期に於ける、﹁非戦論者﹂の一人であったのみならず、“風雅の心”を愛する、志の高い素封家
としても知られるようになった。︵山上次郎﹃非戦論老安藤正楽の生涯﹄古川書房、一九七八︶山上次郎氏は、重ねて﹃人
間讃歌 非戦論者安藤正楽遺稿﹄︵古川書房、一九八三︶を編集して、それまで埋もれていた、正楽の少なからざる詩
歌を世に問うたのである。後者の﹃人間讃歌﹄には、文芸作品として、短歌・俳句・自由詩・漢詩等が収められてい
安藤正楽に於ける戦争と詩歌︵神鷹︶
217
二 学問と思想
る。この機会に、正楽氏が生涯、遭遇した四度の戦争︵日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・第二次世界大戦︶と、どう
対峙したか、氏の文芸作品、就中、漢詩にその姿勢がどのように詠まれているかを検討することにより、“反戦者”
安藤正楽の思想的一面を垣間見ることにしてみたい。その際、正楽氏とほぼ同世代の詩人・学者諸氏の文芸作品をも
取上げ、比較検討することにする。この方法により、正楽氏の作品の底にある、彼の思想的特長乃至特異な視点がく
っきりと浮き上ってくることが予想されるからである。
明治二十七年
明治三十七年
大正 三年
昭和 十二年
昭和 十四年
昭和 十六年
ェ九四︶二十八歳
縺Z四︶三十八歳
繹齊l︶四十八歳
緕O七︶七十一歳
緕O九︶七十三歳
緕l一︶七十五歳
渡辺宗太郎氏が
正楽氏は、八十八年の生涯の中で、四度の戦争に会っている。今、その戦争の開戦の時と、氏のその時の年齢を記
してみよう。
日清戦争
第一次世界大戦
日中戦争
第二次世界大戦
太平洋戦争
日清戦争の時期
正楽氏、二十八歳の時、日清戦争が勃発している。氏自身は、出征してはいないが、義弟︵妹婿︶
出征している。その留守を守る、妻貞子と子供を慰める、︿自由詩V三首の子守唄が遺されている。
一218
(一
(一
(一
(一
(一
(一
日露戦争
⑥⑤④③②①
自由詩その︵こ
ネーエンくネーエンヤ 坊の父上何処へ往いた
刀を帯びて露西亜へ往た
ネーエンくネーエンヤ 坊の母上何処へ往いた
し ロ
鍬を提げて畠へ往た
ネーエンくネーエンヤ
露西亜の父上何時帰る 坊の父上何処へ往た
219
畠の母上何時帰る 莫斯秤の城の落ちし時
坊は夫れまでネーエンヤ
明治期の最初の対外戦争、日清戦争の時に作られた、︿自由詩Vその︵一︶である。筆者が、この︿自由詩﹀を読
むと、中国の唐時代の大詩人、杜甫︵七一二 七七〇︶の反戦歌としても知られている﹁兵車行﹂をどうしても想起せ
ざるを得ない。﹁兵車行﹂は、唐の天宝十↓年︵七五二︶の作である。杜甫はその時、四十歳前後と推定される。当時、
玄宗皇帝は、領土拡大政策を行い、南は辺境の南詔に、西は、遙か遠くの大食にまで軍隊を進めていた。その結果、
各地に安禄山等の軍閥が賊属するようになっていた。当然、兵士としての負担が重くのしかかるのは、農民である。
彼らの微兵、徴用の悲惨を正面から杜甫は歌っている。全体は三十四句にも亘る長詩である。今、その一節を引用す
る。
安藤正楽に於ける戦争と詩歌︵神鷹︶
「正楽詩文集」(明治27年∼41年)
車鱗鱗 馬瀟薫
二 学問と思想
車鱗鱗 馬薫薫
行人の弓箭各々腰に在り
りんりん しょうしょう
行人弓箭各在腰
塵埃見ず威陽橋
巽声直ちに上りて雲雷を干す
うんしょう おか
衣を牽き足を頓し道を閲りて笑す
さえぎ
じんあい
きゅうせん
塵埃不見威陽橋
牽衣頓足閲道実
巽声直上干雲害
いなな
鱗鱗は、兵車の進む音。 薫瀟は、騎馬の噺く声、父母や子供は、行進中の、息子や夫や父を見つけて、行軍に突入
し、戦地にいかせまいと、 大声を張り上げて悲しみ嘆く。正楽氏の詩は、自由詩の和語による素朴な、家族の悲しみ
を歌う詩歌である。杜甫の 、 反戦歌の名作、﹁兵車行﹂には、出征兵士の苦悩と、労働の担い手を奪われた家族たち
の悲惨な生活が描き出され
て
い
る 。 期せずして同じモチーフが歌われているようだ。
自由詩その︵二︶﹁祷衣﹂
トンくトソくトンくヤ
ほそ
或は高く又低く
月は小りて色青く トソくトソく
トンくヤ
トンくトンくトソくヤ
或は遠く又近く
一220一
霜は光りて野は白し
トンくトソくトンくヤ
トソく音する何の音 父上軍に征った後
坊に仕着の衣の音 母上苦心の胸の音
長安一片の月
この詩には、明らかに、李白の名作﹁子夜呉歌﹂の漢詩が踏まえられている。
長安一片月
総是玉関情
秋風吹不尽
何れの日か 胡虜を平らげ
総て是れ玉関の情
秋風 吹いて尽きず
万戸 衣を梼つの声
ロつ
何日平胡虜
良人遠征を罷めん
万戸播衣声
良人罷遠征
短い漢詩なので、全文紹介する。留守を守る一方、出征中の夫をきつかいながら、一日も早い帰国を願う、妻の心
を詠っている名作と言われている。正楽氏の自由詩その︵二︶は、恐らくはこの李白を踏まえて作られているようだ。
杜甫の﹁兵車行﹂や、李白の﹁子夜呉歌[其三]﹂の漢詩は、江戸時代、わが国でも良く読まれた。﹃唐詩選﹄や﹃古
文真宝︵前集︶﹄にも収められている。明治期、漢詩を作る人にとっては、恰好の漢詩の詞華集なので、周知の作品
安藤正楽に於ける戦争と詩歌︵神鷹︶
221
二 学問と思想
であった。自由詩はその︵一︶も、反戦を歌うモチーフが、﹁兵車行﹂と偶合していると、筆老は先に述べたのであ
るが、あるいは、自由詩その︵一︶も、﹁兵車行﹂に直接のモチーフを求めた翻案的作品であったのかも知れない。
もしそうであったとしても、正楽氏の漢詩の教養が、日清戦争を契機として反戦乃至非戦論的自由詩として発露され
たものであろう。日露戦争の時は、絶対的非戦論を主張した、キリスト教者内村鑑三も、日清戦争の時は、朝鮮を守
る為のく義のための戦争Vであり、日本国の︿慾の戦争﹀ではないとして、義戦論を展開している。正楽氏の自由詩
は、未発表の作品ではあるが、戦争の庶民にもたらす悲しみを詠うことによって、期せずして、当時としては希にみ
222
る反戦歌となっているようだ。
垬I戦争
導者への痛烈な批判となっている。
又、自由詩の一作﹁ああ王よ﹂︵日露戦争、奉天大会戦、一九〇五・三⊥0後の九月の作と推定される︶は、日露戦争指
戦役記念碑については、山上次郎編著﹃人間讃歌 非戦論者安藤正楽遺稿﹄︵古川書房、一九八三︶を参照されたし。
四字を滅するにあり﹀と書き、墓誌銘には︿徴兵は一大背理、戦争は一大惨毒﹀の文字を選している。正楽氏の日露
の文章には、断固とした反戦・非戦論老の覚悟が語られている。その記念碑に、戦争を止めるには、︿﹁忠君愛国﹂の
れらの詩歌には、正面から反戦的高揚は詠われてはいないが、戦後に故郷に建てられた戦役墓碑銘を執筆した正楽氏
明治三十七年︵一九〇四︶は、日露戦争勃発の年である。この年のものとしては四十四の作品が遺されている。こ
一一
ああ王よ 王は何の為に国てふものを築きし
ああ王よ 王は何のために戦てふものを宣せし
王の軍人は能く国を護り悉く発れたり
王の宰相は能く国を売り悉く肥えたり
王よ 王の国は王の手に在らず
王よ 王の臣民は王の手に在らず
而して光栄は悉く宰相のポケットに隠れたり
而して父・夫・妾が子等は悉く棺に蔽はれたり
ああ 妾等何れに適帰せん!
更に王の命を待たん?
否否否⋮⋮
正楽氏の戦争批判の目には、︿一将功成って、万骨枯る﹀の実態が、見えすぎるほど、見えていたのである。
三第一次世界大戦
大正四年︵一九一五︶1八年︵一九一九︶の間は、第一次世界大戦の時期である。正楽氏、五十歳代の前半期である。
この期間は日本も連合国側の]員に加わったものの、日本にとっては、漁夫の利を占めた戦争といわれている。さら
安藤正楽に於ける戦争と詩歌︵神鷹︶
一223
二 学問と思想
に、国内的には、大正デモクラシーが謳歌された時代でもあった。加之、正楽氏自身、大正四年に、上野の健筆会に
出品した作品が、官憲の餐めるところとなり、時に目立つその行動も八方塞がりとなり、反戦詩歌は作られていな
い。それでも、次のような短歌が遺されている。末弟の利喜太氏は、明治三十三年、商船学校卒業の直前、乗り込ん
でいた練習船月島丸が遭難し亡くなっている。大正十年の頃、上京し、靖国神社の遊就館に掲げてあった、弟やその
周囲の肖像写真を見て詠んだものである。
喜んで死んだ人も悲しんだ人もだまされた
人も皆同じ社に祀られるとは
国のためか自分のためか妻子のためか死もいろいろあらうが
形ばかり此処に祀られるとは
正面切って非戦を歌っていないものの、却って戦争のもつ、理不尽さが色濃く表現されている。
さて、正楽氏の詩歌のうち、漢詩が多くなるのは、大正十一年︵一九二二︶から、昭和二十年︵一九四五︶の終戦前
後である。
大正七年︵一九一八︶八月四日に、シベリア出兵が宣言され、徴兵は大正十年︵一九二一︶である。この間に、米騒
動︵大正七年八旦二日︶が起こり、全国に波及しているが、正楽氏の短歌等の作品には、特に詠われてはいない。ただ、
大正十二年︵一九二三︶の関東大震災については、十首の短歌が遺されている。
224一
四第二次世界大戦
第二次大戦は、昭和十四年︵一九三九︶九月一日、ドイツ軍のポーランド侵入を以て開始され、昭和二十年︵一九四
五︶八月十五日の、連合国側への日本の無条件降伏を以て終わっている。昭和に入ってからは、日本は戦争に次ぐ戦
緕Oこ 九月 十八日
緕O二︶ 一月二十八日
緕O七︶ 七月 七日
緕O九︶ 八月 二十日
緕l一︶ 十二月 八日
緕l五︶ 八月 十四日
無条件降伏の受諾による終戦
太平洋戦争
ノモンハソ事件
日中戦争
上海事変
満州事変
争の状態であった。そして正楽氏の漢詩作品が、矢継ぎ早に作られるようになったのも、まさにこの時期である。
昭和 六年
昭和十二年
昭和十四年
昭和十六年
昭和二十年
戦争という人をも我をも呑みこむ極限状況を歌う詩型として正楽氏に漢詩が選ばれたのも決して偶然ではなさそう
である。ただ、漢詩がかなりの数で作られる前に、戦乱の深刻化を見通していたかのように、和語の作品が書かれて
いる。昭和六年︵一九三︼︶九月十八日に勃発した満州事変を詠じた俳句﹁満州事変﹂と題する一句がある。
安藤正楽に於ける戦争と詩歌︵神鷹︶
一225一
(一
(一
(一
(一
(一
(一
昭和 七年
⑥⑤④③②①
二 学問と思想
霜ほろく踏倒されて行く曼珠沙華
可憐な曼珠沙華を踏み潰す行軍を目にしては、戦争の深刻化を予感する。ついでその翌年、師とも仰ぐ、犬養毅首
相が、急進派青年将校の凶弾によって、亡くなっている。この事件︵五二五事件︶は、正楽氏にとっては、まさに
痛恨の極であり、自由詩﹁犬養木堂をいたむ﹂が詠じられている。
犬養先生は憲政擁護のために寛に逝き玉ふ
恋しともかなし
吾等国民は今後誰に尭って行きて行かふ
怖しき毒腕は舌を巻き鎌首をもたぐ
恐しき猛獣は牙を鳴らしそそりたつ
これ等の作品の後に、戦争の激化にともない、それまでの反戦論者であった正楽氏に、突如として、戦争鼓舞の漢
詩が排出するのである。
﹁偶成﹂︵昭和十二年十一月二十五日作︶
皇軍万里山川振 皇軍万里山川振う
中華全土化焚塵 中華全土焚塵と化す
一226一
日章旗下新邦土
尭舜一望廃嘘跡
四百余州誰思仁
私利満腹如鼠逃
自力救民無一人
堪憐迷蒙頼英魯
日章旗の下新邦生れん
尭舜一望廃嘘の跡
四百余州誰か仁を思はん
私利満腹鼠の如く逃ぐ
自力民を救う一人も無く
迷蒙英魯を頼むを憐れむに堪へんや
昭和十二年の作とあるので、詠まれた時期は、日中戦争の最中である。
又﹁寄在上海於海軍某飛行士︵上海に在る海軍某飛行士に寄す︶﹂では
南京落城逼寸秒
鷹懲四月列国前
姦雄売国軽我挑
元是同祖同文国
北京已落上海標
紅風白雨星山の秋
南京の落城寸秒に逼る
膚懲す四月は列国の前
姦雄国を売りて我を軽んじ挑む
元は是れ同祖同文の国
北京は已に落ち上海は標たり
皇軍連勝野瞭の如し
紅風白雨星山秋
点然として君を思い飛鳥を送る
白王雷干連陛勝加期野瞭
点然思君送飛鳥
安藤正楽に於ける戦争と詩歌︵神鷹︶
一227一
二 学問と思想
当時、中国では、一九二七年いらいの国民党と中国共産党との内戦が西安事件を契機として停止し、抗日統一戦線
が成立した時である。
山上次郎氏は、この二つの漢詩について、次のように述べている︵﹃非戦論者安藤正楽﹄︶。
﹁非戦論者たるものがどうしてこのような詩を作ったのか、この詩は日本の中国侵略を是認して排日抗戦を叫ぶ蒋
あ へ
︵介石︶政権を鷹懲することを聖戦のように言っている。あれほど嫌った軍を皇軍という。何か割りきれないものが
ある。﹂と。
百艦来襲するも百艦輪む
又、昭和十九年の︿年頭の感﹀と題する二作目の作では、正楽氏は
百艦来襲百艦輪
太平洋上日新たに出ず
千機万機蹴らるること塵の如し
太平洋上日新出
東亜十億一声の春
千機万機蹴如塵
東亜十億一声春
と詠じている。山上氏は、引き続き、次のように、正楽の心情を解説する。
﹁⋮⋮︵中略︶やはり安藤は思想的にも理論的に戦争はしてはならないと思いつつ、日本をめぐるそのころの世界
情勢のなかで、如何とも出来ないものがあり、一旦口火を切った戦争、しかもそれが酒々たる流れになっているなか
ついに昭和十五年の﹃介せず世間酒々この流れ、風塵は吾において擁うべくもあらず﹄の諦観から、戦争協力へと進
んだかのように思える。﹂と。
一228一
確かに、この漢詩には、あの安藤氏までがと、山上氏が絶句するほどの戦勝鼓舞が歌われている。しかし、当時、
国運を賭した、未曾有の戦争に対して﹁たとえ戦争に確信が持てないにしても、勝敗の議論を超越して国の歩みに人
生を重ね合わせようとするのも、この当時の国民ひとりひとりの率直な心情であったろう。﹂︵高瀬正仁﹃評伝岡潔﹄
︵花の章︶海鳴社、二〇〇四︶と言われているように、当時の﹁詩人は詩を歌い、歌人は歌を歌い、俳人は句作に託して
この大戦に寄せる心情を表明した﹂︵同書︶のである。高瀬氏は、同様な詩人の例として、同書に於いて、佐藤春夫
の﹁大東亜戦争史序曲﹂、斎藤茂吉の﹁轟沈﹂、三好達治の﹁アメリカ太平洋艦隊は全滅せり﹂等の作品を取り上げ、
中勘助の詩に至っては、﹁大東亜戦争﹂の全文を紹介している。
五 河上肇・南原繁両氏の反戦歌
それでは、当時の逼迫した状況のもと、たとえ、未公開の作品であっても、この大戦争に、批判的な詩歌はまった
く作られなかったのであろうか。私は二人の学者、河上肇︵︸八七九−一九四六︶と、南原繁︵一八八九1↓九七四︶両
氏の詩歌を少しく紹介してみることにする。両氏ともに、周知の人である。前者はマルクス主義経済学者としてその
著﹃貧乏物語﹄で一世を風靡した、京都帝国大学教授であった。しかし、↓九三二年、日本共産党に入党し、翌年検
挙された。一九三七年の出獄後は、名著﹃自叙伝﹄を執筆し、その間、当時としては未公開の少なからざる詩歌を作
り、戦中の思いを託している。
昭和十二年︵一九三七︶七月七日に日中戦争が始まっている。河上肇氏は、翌年、十三年十月二十日に﹁天猶活此
翁︵天猶ほ此の翁を活かせり︶﹂と題する七言絶句を作っている。
安藤正楽に於ける戦争と詩歌︵神鷹︶
229 一
如今把得奇書坐
寒雨 粛々五載前
秋風就縛度荒川
尽日魂は飛ぶ万里の天
如今奇書を把り得て坐せば
寒雨蓋⋮々たりし五載の前
秋風縛に就いて荒川を度りしは
二 学問と思想
尽日魂飛万里天
当日の日記︵一九三七・+・二+一︶には、
﹁何ヶ月か前に堀江君の貸してくれたる国ασq費ω8ぎ肉ミのミ、ミミOミ謡◎のうち、毛沢東の談話筆記O§ミミミミ
馨の章より読み始め甚だ面白㌔外国圭口を手にせざる・と既に五年以実今日久振りに・﹂の圭・を縮ミまだ鵬
読書力を保留し居ることを確かめ得て、愉快極りなし。﹂と書かれている。
漢詩の起句・承句の二句は、河上が、共産党に入党した後、逮捕され、小菅刑務所に収容された当時の悲しみを歌
っているが、転句・結句の二句は、獄中で出会った洋書から、希望の星を見出した喜びを詠っている。名ノンフィク
ション作家エドガー・スノーの第二次大戦中のルポルタージュの名作といわれる、毛沢東指導下の中国共産党の活動
を報告している﹃中国の紅い星﹄を、河上は感動を以て読んでいる。単に久しぶりに、外国書を読んだという理由だ
けではない。長征を経験した新生中国共産党の存在は、当時の河上氏にとっては、まさしく希望の星であったと思わ
れる。従って、昭和二十年八月十五日の敗戦の日、大多数の日本国民が、うち沈んでいる時に、かの有名な﹁平和来
る 八月十五日﹂の一連の短歌を詠むことができたのである。その一つの作、﹁けふの日の誰にもまして喜ぶは先
生ならむと人は云ふなり﹂の歌は、その苦難の道を歩んだ思想家河上肇の心情を表現してあまりあるものである。
一方、南原繁氏は、昭和に入り、色濃くなった当時のファシズム思潮を批判した﹃国家と宗教﹄を発表したものの、
戦中は、東京帝国大学法学部の﹁洞窟の哲人﹂教授として、﹁もっぱら研究室で研究と講義に専念﹂していたといわ
けいそう
れる。しかし、戦後、公開された﹃歌集 形相﹄には、
かたつぶり殻にひそめる如くにも
われの↓生のひそみてあらぬ
と、詠われているように、決して研究だけに専念していたわけではない。南原氏は学人として、あるいは、一国民と
蹴
して、戦争のなりゆきを悲痛の思いを以てみつめていた。 一
4﹄文春文庫、一九
昭和十六年︵↓九四一︶、六月二十二日の﹁独蘇開戦﹂の折の連作、八首は、南原氏のファシズム国家に対する不安
と、ソ連への期待が心から素直に歌われている。その一作を示そう。
ヒットラーがモスクワ入城せむと
きほいたる八月十五日よ
永久に過ぎたり
︵ドイツ軍と、ソ連軍とのモスクワ攻防戦のすさまじさについては児島嚢﹃ヒットラーの闘い
安藤正楽に於ける戦争と詩歌︵神鷹︶
二 学問と思想
九二︶
従って昭和十六年十二月八日の開戦のニュースを耳にした南原氏は、当時の国民の大多数が、大本営発表の戦果
は、﹁暁光﹂と題する
に、万歳又万歳を叫んでいるその時に、まことに沈欝な一首を﹁十二月八日﹂と題して詠んでいる。
人間の常識を超え学識を超えて
おこれり日本世界と戦う
この時点で、已に二十年八丹十五日の敗戦を予言しているかの如くである。
されば、ヨーロヅパでの独軍の無条件降伏のニュースが届くと、﹃歌集 形相﹄
ヨーロッパ戦終了したれば壁に貼りし
世界地図はたたみてしまいぬ
けふよりは詩篇百五十日に︸篇
読みつつゆけば平和来なむか
ま よ
ひむかし
真夜ふかく極まるときし
東の暁の光のただよふにかあらし
一 232一
の三首で結ばれる。 歌集が閉じられ、歌集を読み了えた私達の心にいかなる饒舌よりも、平和の喜びが湧き起こって
くる。
む す び
正楽氏の思想的系譜の一つとして、重野安繹︵一八二七 一九一〇︶や、久米邦武︵一八三九−一九三一︶両氏への傾
倒がある。重野や久米の﹃太平記﹄に登場する児島高徳、実在説へのいわゆる抹殺論が知られているように、正楽自
身も、両氏の実証史学を高く評価している。正楽氏の非戦論や、社会的活動の底には、当然、合理主義的色彩の強い
批判精神が存在している。その正楽氏にして太平洋戦争の時期の戦争謳歌の漢詩が作られたことへの疑問を山上次郎
氏は抱きつつも、一方、戦争讃美の漢詩が作られざるを得なかった理由をも提示されている。
しかしそうであるにしても第二次戦中前後に於ける河上肇や南原繁両氏の詩歌と、正楽氏の漢詩を比べるならば、
そこにはある歴然たる相異なる詩魂が存在していることは誰しも感得するのではなかろうか。確かに河上肇氏・南原
繁氏の歌は、心から感動する詠歌である。それでは、正楽氏の詩歌は、我々にとっては、無意味な詩歌となるのであ
ろうか。我々にとっては、この河上・南原の両氏の詠歌はある意味では仰ぎ見る星ではあるが、そうであるだけに、
私達の詠歌とは、却って為りにくい詩歌なのではなかろうか。それに対して正楽氏の詩歌は我々には受け入れやす
い。日本は、戦後五十年を経て、経済大国として復興したと言われる。しかし一方、戦争責任の問題は空洞化されつ
つあるとも言われている。歴史家の故家永三郎氏はこの空洞化現象を何よりも危惧し、次のように述べている。
﹁まず日本人の責任を自覚し、自己批判することが不可欠であって、それなしに他国の非のみを非難しても世界の
安藤正楽に於ける戦争と詩歌︵神鷹︶
一 233一
二 学問と思想
人々の同感は得られまい。︵中略︶さらにすべての日本人が自己の責任を自覚するならば、自己の秘蔵している戦争
中の日記、その他の記録を、純然たる私事に関する部分を除いて公開するなり、自己の体験した事実を、自己の実践
した行為を見聞した事項との両面をふくめて、口頭または文章化して公表するなりして、正確な戦争の実態の復元に
協力すべきではなかろうか。﹂︵﹃戦争責任﹄岩波書店、一九八五.七︶
これを
正楽氏の諸作品は、文芸作品としてのみならず、我々に、多くの課題を与えつつ、ともに我々が担っていく作品と
して享受されることによって、まさに、我々の現代の詩歌となるのではなかろうか。
[参考文献]
一海知義﹃河上肇詩注﹄︵岩波新書、一九七七・十︶
南原繁﹃形相﹄︵図書月販、一九六八・六︶
附記 筆者は、東京都私立女子学院︵高等部︶に奉職中、同僚の喜多川愛子先生より、御父上の歌集﹃形相﹄を頂いた。
機縁としてこの歌集を幾度も緒いたことか。私事に渉ることながら、このことを記すことを許されたい。
234
Fly UP