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全文 - 成城大学

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全文 - 成城大学
Journal of Glocal Studies
Editors
Mamoru TOYA, Seijo University: Editor in Chief
Rika NAKAMURA, Seijo University
Shoichiro NISHIDO, Seijo University
Consulting Editors
Kazuhisa NISHIHARA, Professor Emeritus, Nagoya University
Dennis RICHES, Seijo University
Tomiyuki UESUGI, Seijo University
Shujiro YAZAWA, Professor Emeritus, Hitotsubashi University
Editorial Board
Naoto IWASAKI, Seijo University
Youichi KIBATA, Professor Emeritus, Tokyo University
Kenji KITAYAMA, Seijo University
Makoto ODA, Tokyo Metropolitan University
Masahito OZAWA, Seijo University
Mamoru TOYA, Seijo University
Tomiyuki UESUGI, Seijo University
Journal of Glocal Studies is a peer- reviewed
journal published once a year. Through the
publication of articles that variously engage
with the processes of globalization, localization, reverse- globalization and re- globalization, the journal seeks to make available the
wide range of emergent, interdisciplinary
scholarly pursuits that will contribute to the
further development of the field. The views
expressed in the articles do not necessarily
represent the views of the editorial board or the
policy of the Center for Glocal Studies.
Manuscripts should be sent to the Editor in
Chief at glocalstudies- ed@seijo. ac. jp as email
attachments. The editors reserve the right to
edit for style and length. Submission guidelines are posted at:
http:/ / www.seijo.ac.jp/ glocal/ kankou/ journal.html
Journal of Glocal Studies ( ISSN 2188- 6091)
is published annually by the Center for Glocal
Studies.
All correspondence should be addressed to
Journal of Glocal Studies, Center for Glocal
Studies, Seijo University, 6- 1- 20 Seijo,
Setagaya- ku, Tokyo, 157- 8511, Japan.
Copyright@ Center for Glocal Studies, Seijo University, Japan.
All rights reserved. Except for the quotation of short passages for the purpose of criticism and
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Online documentations
All articles published in Journal of Glocal Studies will be made available to general public in the
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the editors in writing.
編集委員
東谷 護(成城大学)・編集委員長
中村理香(成城大学)
西土彰一郎(成城大学)
専門委員
上杉富之(成城大学)
西原和久(成城大学,名古屋大学名誉教授)
矢澤修次郎(一橋大学名誉教授,成城大学名誉教授)
デニス・リチェズ(成城大学)
刊行物編集委員会
岩崎尚人(成城大学)
上杉富之(成城大学)
小澤正人(成城大学)
小田 亮(首都大学東京)
北山研二(成城大学)
木畑洋一(成城大学,東京大学名誉教授)
東谷 護(成城大学)
ISSN 2188-6091/ISBN 978-4-906845-15-6
C3036
グローカル研究 ઄号
2015年અ月20日発行
編集 『グローカル研究』編集委員会
発行 成城大学グローカル研究センター
〒157-8511
東京都世田谷区成城6-1-20 成城大学グローカル研究センター
Tel:03-3482-1497
E-mail:[email protected]
[email protected](編集委員会専用・投稿等)
URL:http://www.seijo.ac.jp/glocal/kankou/journal.html
印刷 三鈴印刷株式会社
〒101-0051
東京都千代田区神田神保町2-32-1
著作権:
『グローカル研究』に掲載される論文等の複製権と公衆送信権については,成城大学グローカル研究セン
ターに帰属するものとする。著作者人格権は著者に帰属する。著者は転載先に出典を明記すれば,本誌に
掲載した自分の論文等を自由に利用できる。
電子化:本誌に掲載されたすべての原稿は,原則として,電子化媒体によって複製・公開し,公衆に送信できるも
のとする。投稿原稿に引用する文章や図表等の著作権に関しては,著者の責任において処理する。
グローカル研究
Journal of Glocal Studies
઄号
2015
論文
越境する実践としてのトランスナショナリズム
―多文化主義をこえるコスモポリタニズムと間文化主義への問い―
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㌀西原和久 ・・・・・・・・・・1
日本発の演劇にみるグローカリゼーション
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㌀倉田量介 ・・・・・・・・・25
Special Section
Global Social Thought and Academic Practices in the Social Sciences
Introduction
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㌀Shujiro Yazawa ・・・・・・・・・43
From a ‘World-system’ to a Social Science Knowledge ‘Scape’
Perspective:
Anthropological
Fieldworking
and
Trans-
nationalising Theory-making in the ‘Periphery’
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㌀Zawawi Ibrahim ・・・・・・・・・45
Academic Culture: An Alternative Conceptual and Analytical
Framework for Discussions on International Collaboration in
Social Sciences
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㌀ Kazumi Okamoto ・・・・・・・・・69
Australian Indigenous Knowledge and the Globalising Social
Sciences
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㌀Michael Christie ・・・・・・・・・93
書評論文
東谷護(編著)
『ポピュラー音楽から問う―日本文化再考』
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㌀高橋聡太 ・・・・・・・・105
研究ノート
歴史学におけるグローカルな視座
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㌀木畑洋一 ・・・・・・・・113
『グローカル研究』
No.2(2015)1-24
越境する実践としてのトランスナショナリズム
―多文化主義をこえるコスモポリタニズムと間文化主義への問い―
西
原 和 久
成城大学イノベーション学部,名古屋大学名誉教授
[email protected]
(受理:2015 年月日,採択:2015 年月 20 日)
要
旨
本稿は,トランスナショナリズムと関連するコスモポリタニズムおよび多文化主義と
間文化主義に言及して,これらの概念の関係を明確にする試みである。それは,今後の
調査研究にむけた現段階での理論的検討が必要であるとの筆者の認識に基づく。本稿で
は,一方で人の移動を中心とするグローバル化のなかでトランスナショナリズムとコス
モポリタニズムが注目され,他方で地域社会での外国人居住者の増大のなかで地域にお
ける多文化主義や間文化主義に注意が向けられてきたが,それらはグローカル化という
視点を取ることで別々のものでないことが示されている。そうした諸概念の布置状況の
なかで,グローカルな視点に立つ方法論的トランスナショナリズムが重要であるという
点が,本稿では確認されて提唱されている。
キーワード:トランスナショナリズム,コスモポリタニズム,多文化主義,間文化主
義,グローカル化
はじめに――多文化主義の行方
2011 年月ノルウェーの小島で起こった銃乱射による大量殺人事件は衝撃的であった。
それは集会に参加していた約 70 名の若者が死亡したからだけではない。日本にとって衝撃
の所在は,当時 32 歳の犯人がヨーロッパの多文化社会を呪い,外国人労働者などを受け入
れず多文化主義を政策としていない日本を称賛する言辞を発していた点にもある。だが,日
本の現状も大きく変容しつつある。少子高齢化に対応すべく,正面からではなく,サイドド
1
『グローカル研究』઄(2015)
アから日系南米人や外国人研修生(2010 年からは外国人技能実習生)を招き入れ,バック
ドアからのイリーガルな滞在者も抱えこんでいる。日本でも多文化社会化状況は進行中であ
る。そうしたなかで,銃の乱射事件は起こったのである。
カナダやオーストラリアと異なり,アメリカや西欧,北欧,そして南欧の国々は,多文化
主義宣言をおこなったわけではないが,事実として多文化主義的な「寛容」を謳いあげて,
外国人移住者(このなかには労働者だけでなく,アジアやアフリカからの国際養子も含まれ
る)を受け入れてきた。また,外国人差別・民族差別につながる「ヘイト・スピーチ」に関
する規制も多くの国でなされている。しかしながら,この銃撃事件は起こった。
いま多文化主義は曲がり角に来ているといわれている。それはなぜなのか。もしそうだと
すれば,どのような方向でこの問題に対処していけばいいのか。本稿はこうした問いに対す
る,現時点での思索の方向性の暫定的な整理であり,かつ今後の研究に向けた試論である。
あらかじめ本稿の視角を述べておこう。それは,方法論的ナショナリズム批判をベースに
して,多文化主義の行き詰まりを打開する方向性を問うための,
「グローカル」なスタンス
の活性化という視角である。そのために本稿では,トランスナショナリズムとコスモポリタ
ニズム,および多文化主義と間文化主義という考え方を取り上げて,それらの考え方を筆者
なりに位置づける。なお,こうした作業はこれまでの社会と社会学を再検討する意味合いも
持っている。本稿は理論研究とはいえ,筆者自身のこれまでの移民・移動者に関する調査研
究(西原 2011a/b,2012,2013b/c,Nishihara & Shiba 2014,西原・芝・小坂 2014)から
見えてきたことを念頭に置いて理論的・概念的な整理をおこないつつ,現代社会と現代社会
学への一種の提言を含むような論述に努めたい。
ઃ.出発点としてのトランスナショナリズム
今日,人びとの国境を越える移動が際立つようになった。日本を例にとっても,2014 年
には来日外国人観光客数が 1300 万人を越え,外国人留学生も年間 16 万人余りとなり,国際
結婚も年間万組前後の数値を示している。ここで逐次数字を示すことは控えるが,これら
の数値が 1990 年前後と比較して 4 倍程度の大幅な増加であることは念頭に置いておくべき
だろう。ナショナルな境界を越える人びとの移動,すなわちトランスナショナルな移動は,
これまで比較的閉ざされてきた国・日本も例外ではない形で進行している。
そうしたトランスナショナルな移動に関して,社会学や人類学などでは「トランスナショ
ナリズム」研究という新たな研究領域が活性化している。したがって,今日においては国内
外でかなりの著書・論文・翻訳が蓄積され始めている。社会学を例にとれば,トランスナ
ショナルな視角に関しては,中央アメリカやカリブ海諸国を含む南北アメリカにおける移動
の研究事例が一つの核をなして検討が進んでいる(cf. Smith and Guarnizo 1998, Portes and
Rumbaut 2001=2014)
。ただし,そうした研究を踏まえて,小井戸(2005)や樽本(2009)
は,トランスナショナルな移動研究がトランスナショナリズムを標榜して既存の国家批判を
含む形で進行することには疑義を呈している。その論拠は主に,トランスナショナリズムと
2
越境する実践としてのトランスナショナリズム
いう概念が分析用具として十分に鍛えられておらず,また今日でも重要な機能を有する国家
や国境がもつ意味(国家の出入国管理のあり方を含む)が十分に射程に入れられていないと
いう点にある。管見の限り,メインタイトルとして初めて「トランスナショナリズム」とい
う語を掲げて著書を刊行した S. バートベックも,これまでの実証的な知見の整理に力を注
ぎ,現状認識としては「多次元における多様性の進展,社会的複雑性の増加や移住者のトラ
ンスナショナリズムは,日常的なことあるいは少なくとも不可避なことであり,現代的な局
面やグローバル化した社会の局面として幅広く認知されている」
(Vertovec 2009: 158=
2014: 222,ただし訳文は変更した)と述べるが,現在までのところ「さまざまな意味で移住
者のトランスナショナルな実践が先導した」
「グローバルなさまざまな相互連結の数々のプ
ロセス」が「未来の姿」であるかどうかという点については「結論を出すにはまだ早すぎ
る」と述べるにとどまっている(Vertovec 2009: 163=2014: 228)
。
さて,このようななかで,筆者としてはトランスナショナリズムを別稿において次のよう
なつに分類した(西原 2015a,2015b:ただし一部の表記法は変えてある)
。すなわち,①
事実としてのトランスナショナリズム=経験論的トランスナショナリズム,②研究視角とし
てのトランスナショナリズム=方法論的トランスナショナリズム,そして③理想としてのト
ランスナショナリズム=理念論的トランスナショナリズム,である。これらの分類は,一方
の極に①として,実際に人びとがトランスナショナルに移動する「リアリティ」を位置づ
け,他方の極に③として,国境を越える人びとの交流が望ましいものと捉える一種の理想型
としての「イデアリティ」を位置づける試みであり,それらが「リアリティ」と「イデアリ
ティ」を両極とする数直線をなすという考え方である。さまざまなトランスナショナリズム
論は,その数直線上のどこかに位置づけられるであろう。それら①と③に対して,②の方法
論的トランスナショナリズムは,そのような経験論的,理念論的なトランスナショナリズム
を社会学において検討・探求する際にとられる視点としての方法論的な視角のことである。
とはいえ,この最後の方法論的トランスナショナリズムは,U. ベックが主張した「方法
論的ナショナリズム批判」
,すなわち社会学的研究を国家内の社会(国家内社会概念と筆者
は名づけている)に限定しておこなうような視点(あるいはせいぜい,他の国家内社会との
比較によって自国を位置づけようとする視点)によって,知らず知らずのうちに結果的に自
分の所属する国家および国家内社会を優先するような一種のナショナリズムに陥ることへの
批判を念頭に置いて考えられている1。
そしてより重要なことは,そのような方法論的トランスナショナリズムを採用すること
で,今までは例外として見られていたさまざまな社会現象が事実として,あるいは理念とし
て,見えてくるという点である。筆者が論じてきた日本における外国人研修生/技能実習生
(西原 2011a/b,2012,2013c)や,国際結婚移住者の第二世代あるいは国際養子当事者,あ
るいは留学生などの諸事例が示唆的である。それらにおいては,たとえば日本国家が強いる
単一の国民アイデンティティのなかで複数のアイデンティティに悩むという存在だけではな
く,少なくともつ以上のアイデンティティを超えるようないわば第のアイデンティティ
3
『グローカル研究』઄(2015)
を模索しようとする存在者の姿が見えてくるケースがある。具体的には,在日コリアンやコ
リアン・ディアスポラを論じている郭(2013)の論考や国際養子の当事者たちの運動を観察
して多重国籍に関する興味深い論点を提出している芝(2013)の論考などに垣間見ることが
できる一種のコスモポリタン的な志向である。方法論的トランスナショナリズムに基づく検
討は,こうしたコスモポリタン的志向の存在を照射してくれる。その意味でトランスナショ
ナリズムの考察は,ナショナルなレベルでの検討だけでは見えてこない,すなわちあまりに
も現実離れした,雲の上のような理念であるコスモポリタニズムが,意外にも近しい存在と
して身近にある点を描いて見せる可能性を秘めている。しかしそれはもちろん一つの可能性
に過ぎない。社会学におけるコスモポリタニズムは,とくに 21 世紀に入ってからようやく
本格的に語られ始めた議論に過ぎない。そこでまずこのコスモポリタニズムに立ち入って考
察を加えてみたいと思う。
઄.コスモポリタニズム的志向――正義論の挑戦
哲学史的には比較的よく知られているが,コスモポリタニズムの源流は,シノペのディオ
ゲネスが,特定のポリスに所属しているのではなく,コスモポリスへの所属を表すコスモポ
リタンを標榜したあたりにあるとされている(Long 1964=1989)
。そしてその思潮は,ス
トア派の哲学から中世・近代初期をへて I. カントの哲学へ,そして現代の哲学まで続いて
いる(古賀 2014)
。とはいえ,今日のコスモポリタニズムは,哲学・思想の領域では,J.
ロールズの正義論に影響を受けた現代アメリカ哲学,カントの人格論や平和論に影響を受け
た国際政治学,あるいは批判的地理学(ここでは Harvey 2009=2013 が念頭に置かれてい
る)
,そして社会学におけるコスモポリタニズム(後述)として新たな展開を示している。
ここではまず,現在の哲学におけるコスモポリタニズムに焦点を絞ってみておきたい。
哲学の領域でのコスモポリタニズムは,アメリカでの展開が注目できる。プラグマティズ
ムの影響が大きかったアメリカの哲学界では,ロールズの『正義論』
(初版は 1971 年刊行)
の登場で様相を一変するように思われる。それほどロールズの影響力は大きかったようだ。
よく知られているように,ロールズは格差のある社会において自由と平等を成り立たせるた
めの,いわば社会的「正義」の実現の原理(
〈正義の二原理〉
)を考察した(Rawls 1999=
2010: 84)
。そして彼の到達した結論は次のように表現できる。すなわち,まず各人は基本的
自由に対する平等の権利をもつべきであり,その基本的自由は,他の人びとの同様な自由と
両立しうる限りにおいて,最大限広範囲にわたる自由でなければならない。これが彼のいう
「第一原理」である。しかしこれには,以下の二つの「第二原理」が続く。つまり,第一原
理の基本的自由への平等が満たされない社会的・経済的不平等が認められるのは,次の二つ
の場合である。まず一つ目は,それらの不平等が最も不遇な立場にある人の利益を最大にす
るようにされる場合(格差原理)
,二つ目に,公正な機会の均等という条件のもとで職務や
地位がすべての人に開かれている場合(機会均等原理)
,である。こうした正義の原理は,
移住者たちにとっても妥当な民主的原理のように見える。
4
越境する実践としてのトランスナショナリズム
しかし,問題は少なくとも二つある。第一に,彼の正義論においては,各人の基本的自由
が最大のポイントであり,それに対する平等な権利が語られている点である。そしてその自
由を制限することで生じる不平等が第二原理で語られるとしても,機会均等原理は問題を内
包している。たとえば入学試験のように,競争の機会は均等に開かれていても,受験する前
の段階ですでに格差に基づく勉学機会の差異(ブルデュー風にいえば文化資本の差異)があ
ることは十分に議論の射程に入ってこない。第二に――本稿にとってはより重要な点である
が――ここでいう基本的自由に対する平等の権利をもつべき「各人」の範囲が不分明であ
る。少なくとも『正義論』の段階でのロールズにおいては,
「各人」とは(正規の)国民を
指していると判断できる(後になってロールズはその範囲を多少修正・拡大した点から見
て,少なくともここでは国民だけが想定されていたと考えられる)
。この点に関しては,A.
センも同様の批判をしている(Sen 2009=2011: 124)
。ここにおいては,帰化していない移
住者たちは含まれにくい。この点で格差は存続する。それゆえ,一見すると移住者たちに
とって妥当に見える原理が,さまざまな具体的権利においては,十分に満たされない場合が
想定される。ロールズの議論には,アメリカ国民的価値観,つまり国民の自由を最大限尊重
する個人主義的な思想が見え隠れするように思われる。
なお,ロールズ以降,最大限の自由尊重を唱える「リバタリアン」が活躍する。それに対
して行き過ぎた個人主義を批判・是正しようとする人びとは,個人よりもコミュニティの共
同体的価値観を重んじるその主張によって「コミュニタリアン」と呼ばれた。そして 1980
年代,リバタリアン・コミュニタリアン間の論争が繰り広げられることになった。しかしな
がら,コミュニタリアンの思想も,
「失われた徳を求めて」伝統回帰的になるのであれば,
個人の側に大きく揺れた振り子を今度は共同体の方に揺り戻すだけで,
「昔はよかった」式
の一種のアナクロニズム(時代錯誤的な懐古主義)に陥る。リバタリアンとコミュニタリア
ンとの論争は,考察すべき問題の一つの所在を明らかにはしたが,移民たちの置かれている
状況に鋭く関与するものではない。
したがって 1990 年代以降は,こうした論争から,むしろ多文化論争とよばれる議論が生
じてくる。多文化の共生をめざして「寛容」を論じる多文化主義者において,その代表的論
客のひとり,W. キムリッカは 1995 年に『多文化時代の市民権』を著し,ケベック州を中
心にフランス系住民の存在を念頭に,多文化主義的シティズンシップを唱えた(Kymlicka
1995=1998)
。その批判の矛先は,共同体論者/コミュニタリアンたちが,その共同体の範
囲を国民国家と容易に重ねてしまう点にもあった。キムリッカの主張は,そうではなく,い
わば国家よりも下位の中間的なものへの忠誠に基づく多文化市民権という構想にあった。そ
れはいわば,カナダの二言語政策,二文化政策という国家政策と符合するような議論であっ
た。だが,そのような国家政策に活路を見いだすような議論は,トランスナショナルな事態
に対して一体どこまで適切な射程をもつものなのだろうか。
この問いの視角からは,集合的アイデンティティを疑うリベラル多文化主義者やラディカ
ル多文化主義者のように,国家の境界といった共同体的境界を流動化し,透過的なものとす
5
『グローカル研究』઄(2015)
るといった主張が見えてくる(安達 2014)
。そしてそれは,既存の国民国家とその境界を,
あるいは近代国民国家で自明視されている価値観それ自体を,あらためて問い直す方向性へ
と展開される射程をもつ。この点では,J. N. ソイサルの「ポスト・シチズンシップ」
(Soysal 1994)や B.S. ターナーにおける身体の「傷つきやすさ」
(vulnerability)に基礎を
置いた「ヒューマン・ライツ」
(Turner 2006)の発想などとも重なる。つまりそれは,近
代国民国家を批判的にまなざす本稿の視線とも重なり合う。かくして,1980 年代から 90 年
代を中心に続いた先のリバタリアンとコミュニタリアンとの論争もまた,国家内社会での人
間存在を自明視するドメスティックな議論であった。
だが,ロールズ正義論の伝統は,20 世紀の 90 年代から 21 世紀に入って興味深い展開を
みせた。それが M.C. ヌスバウムの新たな正義論の展開と T. ポッゲの登場である。ヌスバ
ウムは,原著 2006 年刊行の『正義のフロンティア』で「ケイパビリティ・アプローチ」を
標榜した(Nussbaum 2006)
。ケイパビリティとはここでは人間の潜在能力のことである
が,この能力を最大限発揮できるような社会環境のあり方が求められたのである2。そこで
彼女は,
「変更可能」で「批判を踏まえたさらなる修正があること」を前提に,10 項目にわ
たる「中心となる人間的ケイパビリティ」
(the Central Human Capabilities)を示した
(Nussbaum 2006: 76-78=2012: 90-92, Nussbaum 2011: 34f.)
。それらをなるべく原典通りに
(ただし括弧内は要点をまとめる形で)示せば,以下の通りである。.生命,.身体の
健康,.身体の不可侵性,.感覚・創造力・思考力,.感情,.実践理性,.連
帯(A. 他者との連帯,B. 尊厳ある存在者として扱われること)
,.他の種との共生,
.
遊び,10.自分の環境の管理(A. 政治的な管理,B. 物質的な管理)
,である。いうまでも
なく,これらの最適な形での実現が目指されるのが,彼女のケイパビリティ論である。
筆者の視点からこのリストをさらにまとめるならば,ここで着目できるのは,次の 4 点で
ある。①人間の生命・身体の「傷つきやすさ」を真っ先に挙げている点,②思考力だけでな
く,感覚や想像力や感情を挙げている点,そして③他者との連帯のみならず他の種との共生
を挙げている点,そして最後に④環境の管理の指摘である。これらを「実践理性」
(
「善の構
想を形成し,かつ自らの人生の計画について批判的に省察することができること」
)という
カント流の用語法を核として組み立てているのが彼女の特徴であろう。したがって,身体・
感性・他者・環境の実践理性の遂行がヌスバウムの主張の核だといえよう。
ただし,一点だけ重要な点を補足しておきたい。それは他者の意味である。ヌスバウムの
この著書『正義のフロンティア』には,Disability, Nationality, Species Membership とい
う副題がついていた。日本語訳では,わかりやすさを優先させて「障碍者・外国人・動物と
いう境界を越えて」と巧みに訳されている。メンバーシップとして,障害のある人,ナショ
ナリティを異にする人,人間以外の種としての動植物・自然界の生き物に代表される他者と
モ ダ ン
の共生を目指すのがヌスバウムの狙いである。そこには単に「近代的」な,理性中心的で合
理的な人間像や人間中心主義的なヒューマニズムを超える意図が見えてくる。とはいえ,ポ
ストモダンの思潮とは大きく異なる点がある。それはあえて倫理の「大きな物語」を掲げ直
6
越境する実践としてのトランスナショナリズム
す点である。いいかえれば,そこでは脱構築ブームのあとの「解体=構築」
(西原 1998)が
目指されているかのようである。そしてそれは,
「未完の近代」を批判して自由や平等と
いった近代の理想を掲げ直し,
「コミュニケーション的理性」を説いた(後述の)ハーバー
マスの発想とも大きく異なる。いずれにせよ,ヌスバウムの試みは上述のロールズの正義論
から出発しながらも,一国内の理性的な健常者としての国民にだけしか着目していないかに
見えた正義論を,マイノリティへの着目というパースペクティブのなかで大きく展開させる
試みとなったのである3。ここでは,さまざまなマイノリティのうちでも,とくに「他者」
とみなされる「外国人」に着目して,さらに補足をおこなっておこう。
この他者/外国人という文脈では,ポッゲの思考が重要である。ヌスバウムと同様にロー
ルズに学びながらも,ポッゲは『世界の貧困と人権』
(原著第 2 版)を 2008 年に著し,国境
を越える財の再配分を提唱している。彼によれば,今日の世界の貧困の原因はかつての「劇
的な征服と植民地化の時代にその大部分が形成された」
(Pogge 2008: 209=2010: 311)もの
で,それに対して現在の先進国が配慮しなければならない。もちろんそれは先進国の後続世
代が「回復義務」を負っているというのではなく,こうした歴史的な「根源的不平等が道徳
的に非常に醜悪な歴史によってもたらされることは,許容されてはならない」
(Pogge 2008:
209=2010: 312)と主張しているのである。さらに彼は,
「新薬開発」に関しても言及し
(Pogge 2008: 222-61=2010: 329-81)
,特許を取得している高額な新薬に貧困層がアクセスし
うる機会はきわめて限られていて,助かる命も助からない状況がある点を重視する。知的財
産所有権といえば聞こえはいいが,HIV 感染している貧困者に薬を提供することは,いわ
ば新薬を開発するだけの科学の進んだ先進国が配慮すべきことではないかという発想であ
る。要するに,植民地支配を遂行した先進の帝国主義的国家の過去の所業と,そのお蔭で現
在の繁栄を謳歌している先進国の(世界的)体制が,世界の貧困と人権に大いに責任がある
と述べているのだ。いわばそれは,
「二重の賠償責任」といってよいだろう。この原書の日
本語翻訳のタイトルは,
『なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか』というものであった。
国家の境界を超越・越境して,外国の他者への義務を説くその発想は,グローバル時代の正
義論から展開する「コスモポリタニズム」の一つの形であるといえよう。
では,政治学や社会学などの社会科学者たちはどのようなコスモポリタニズムを構想して
いるのか,この点を,今度は主に社会科学の議論を整理する形で言及しておきたい4。
અ.コスモポリタニズムの現代的な展開――社会科学の挑戦
現代の社会科学的なコスモポリタニズム論議はカントに由来するといっても過言ではな
い。カントはいわば中央集権的な世界国家は否定しているが,世界連邦のような形での緩や
かな連合が「永遠平和のために」必要だと考えていた(Kant 1984[1795]=1985)
。現代の社
会思想家・社会科学者も基本的にはこの路線に沿っているように思われる。
まず,フランクフルト学派第二世代のドイツの社会哲学者ハーバーマスを取り上げてみよ
う。彼は,1980 年代には,アメリカの社会学者パーソンズの議論(AGIL 図式)を彷彿と
7
『グローカル研究』઄(2015)
させる形で市場と国家からなる「システム」と現象学出自の(公的・私的な)
「生活世界」
とを対比させたうえで,
「システムによる生活世界の植民地化」を批判して「コミュニケー
ション的理性」に基づく「市民的公共圏」を展望していた。だが彼は,1990 年代には『他
者の受容』と題された著作で「カントの永遠平和の理念」を論じながら,
「各国政府を拘束
しうるものへと制度化」された「世界市民法」
(Habermas 1996=2004: 207)の必要性を説
いた。カントと同様に中央集権的な世界国家ではなく,同時にまたナショナリズムではない
にせよ憲法に具体化されている普遍的価値への忠誠を説く「憲法パトリオティズム」という
考えをもちながらも,そうした世界市民法の成立のポイントは,
「国際法の集団的主体であ
る国家を飛び越えて,個人に法主体としての地位を付与すること」
,そして「自由で平等な
世界市民の連合に構成員資格を直接に根拠づけること」にあるとしている(Habermas
1996=2004: 207-8)
。ようするに,こうした世界市民法を展望するハーバーマスの発想は,
法制的コスモポリタニズムの一つとして数えることができるだろう5。
さらに,イギリスの政治学者 D. ヘルドもまたこの法制的コスモポリタニズムの立場に
立っているといえよう。ヘルド自らが自著の序文で語っているように,民主政とグローバル
化とともに,コスモポリタニズムが彼にとっての「3 つのキーターム」であり(Held 2010
=2011)
,
「コスモポリタン社会民主政」
(Held 2002=2003: 163)が彼の目指すべき方向性で
ある。そしてそこでは,かなり具体的にそのあり方が法的・制度的に論じられている。すな
わち,彼は「コスモポリタンな制度要件」として,法のコスモポリタニズム,政治のコスモ
ポリタニズム,経済のコスモポリタニズム,環境との関わりを含めた文化のコスモポリタニ
ズムといったように区別しながら(Held 2010: 103-12=2011: 78-85)
,短期的な施策として
は A. センの主張と重なる「人間の安全保障理事会の創設」やトービン型課税などのグロー
バル市場の規制などから,長期の施策としては選挙によって選ばれる「民主的な国連第 2 議
会」の構想や環境裁判所の設置などが提示されている(cf. Held 2010: 51f.=2011: 190)
。ヘ
ルドの試みは,政治学の法制的土壌でかなり具体的にヌスバウム的なリストを提示する試み
であるとも表現できよう。
では,社会学者はどうか。イギリスの社会学者 G. デランティは 2000 年に刊行した『グ
ローバル時代のシティズンシップ』において,法的,政治的,文化的,市民的なコスモポリ
タニズムを区別して論じながら,
「コスモポリタンな挑戦」として国民国家を超える「コス
モポリタン・シティズンシップ」を提唱していた。そこで彼は,国家を前提とするような
「インターナショナリズム」や上からのグローバルな市民社会論を批判的に検討しつつ,
「ト
ランスナショナルなコミュニティ」や「脱ナショナリズム」を見据えて,
「シティズンシッ
プの基礎的基準は……出自ではなく居住」だとし,
「コスモポリタニズムの新しい構想を構
築するための基礎」を論じた(Delanty 2000=2004: 131)
。それはちょうど,
『帝国』を著し
たネグリらが,
「政治的プログラムの第一の要素,第一の政治的要求」を「グローバルな市
民権」とし,具体的な一歩を「万人に居住証明書を!」という要求を掲げたフランスの未登
録外国人のデモのシーンに見つつ,このような要求は,
「マルチチュードの生産と生に対す
8
越境する実践としてのトランスナショナリズム
る〈帝国〉の基本的な管理装置に挑みかかるものである限りにおいて,ラディカルなもので
ある。空間に対する管理権を再領有し,こうして新しい地図作成術を構想するマルチチュー
ドの力,それがグローバルな市民権なのである」
(Hardt and Negri 2000: 400=2003: 497)
とした視点と――法制的には――重なり合う面がある。
そしてデランティは,比較的最近の著作では,はっきりと「グローバル化への規範的批判
としてのコスモポリタニズム」
(Delanty 2009: 250)を意識したポスト主権国家の方向性で
多 文 化 主 義 を 検 討 し つ つ,同 時 に「ポ ス ト 西 洋 世 界」に お け る「間 文 化 的 な 対 話」
(intercultural dialogue)を強調するようになる。近年,デランティは,コスモポリタニズ
ムに関するこれまでの代表的論考を集成した著作(Delanty and Inglis 2011)や,この領域
での現在の代表的論者を書き手とする分厚い国際ハンドブックも編集して(Delanty 2012)
,
精力的にコスモポリタニズムに関する議論を推し進めている。とくに後者で彼が主張してい
るのは,
「批判的コスモポリタニズム論」
(Delanty 2012: 38-46)として,コスモポリタニズ
ムはコミュニティの否定ではないこと,さらにそれは西洋中心ではないこと,そしてそれは
単なる同質化や混交ではないこと,などである。なお,この最後の点は,多様性の中での交
流に基づく連帯や統合の新たな枠組みを見出すことを意図しており,そうした試みを社会学
でも進めていくことが目指されているのである。
もちろん上記以外にも,コスモポリタニズムの議論にはまだまだ取り上げるべきものがあ
るが,紙幅の都合上,言及はここでとどめておかざるを得ない。しかしながら,筆者として
は現段階でコスモポリタニズムの議論にただちに与するわけではない。それは EU が成立
しているヨーロッパと,強烈な国家主権やナショナリズムがいまだに作用している北東アジ
アの現状を踏まえれば,ただちにコスモポリタニズムの議論に乗るわけにはいかないという
思いがあるからだ。そしてさらに,まだまだ検討しておくべき課題として,上記の最後に示
したデランティの議論にあるようなトランスナショナルなレベルでの「多文化主義」や「間
文化主義」の議論を考察しておくべきだという判断があるからである。そこで次に,多文化
主義に関する議論に論及しておきたい。
આ.多文化主義のゆくえ――間文化主義の挑戦
4-1. 多文化主義の現在
2006 年月,前年から始まった総務省「多文化共生の推進に関する研究会」は,報告書
『地域における多文化共生の推進に向けて』を提出した。その「報告書」において「多文化
共生」に関しては,
「地域における多文化共生を『国籍や民族などの異なる人々が,互いの
文化的ちがいを認め合い,対等な関係を築こうとしながら,地域社会の構成員として共に生
きていくこと』と定義」するとされている6。グローバル化した社会状況をふまえて,この
ような多文化主義的な提言が(北東アジアでも)多く見られるようになった。では,ここで
あげられている「多文化」や「共生」は,本稿で筆者が提示している「方法論的トランスナ
ショナリズム」とどういう関係にあるのか。
「多文化主義」――「多文化共生」も同様に
9
『グローカル研究』઄(2015)
――という,一見すると理想のように語られているスローガンは,そもそもの「多文化」や
「文化」という語の定義から,現状,そして未来に向けた問題点も含んでいる。多文化主義
とは何か,それはいかに変質しているのか,そして多文化主義はどこへ向かうのか,こうし
た論点を織り交ぜながら,多文化主義の現在を以下でみていきたい。
まず,もっとも妥当性をもちかつ簡潔な「多文化主義」の規定を掲げたい。それは,
「多
文化の共存を是とし文化の共存がもたらす積極面を肯定的に評価しようとする主張ないしは
運動」
(梶田 1996:256)である。この規定は,多文化主義の「主義」的要素を明確に包含
し,かつ主張ないしは運動という形で示したものだ。日本における多文化主義は,2001 年
から始まった「外国人集住都市会議」に典型的なように,国家政策としてよりも,地方行政
レベルで,しかもボランタリーな形で一種の運動として進められてきた7。
諸外国の様子も見ていこう8。まずは南北アメリカ。アメリカやカナダは「入植者」や
「移民」からなる国家といった性格上,
「多文化」
「多民族」は半ば自明視されてきた(とは
いえ,他方でかつての奴隷制の存在や,その後の排日法案などのアジア人を含めた人種差別
の存在は忘れるべきではない)
。アメリカでは,19 世紀の終わりから 20 世紀初期にシカゴ
学派社会学が議論の対象としたように,シカゴは「人種のるつぼ」と表現され,
「同化」論
が議論されていた。たとえば社会学者 G. H. ミードも大量の移民労働者の教育等に心をくだ
き,その相互行為論に研究を集中させていった(西原 2003 参照)
。さらに,近年では,ヒス
パニック系あるいはラティーノと呼ばれる,中南米からの移動民の問題が政治的問題ともな
り,また母語教育/英語教育も大きな問題となっている。カナダは,1970 年代早々に当時
の首相が「多文化主義」を宣言し,多文化社会を目指している。フランス語系住民の多いケ
ベック州の独立問題を含めた多文化的政策も国民の関心事である。中南米諸国も,スペイン
およびポルトガルによる植民地化を経て,さらに積極的な移民受け入れ政策によって,マル
チ・エスニックな状況がある。そうしたなかでも,先住民系住民と白人系住民との間の格
差・差別も,さらに中南米からの出移民も大きな問題になっている。
ヨーロッパにおいてはどうであろうか。イギリスにおいては,20 世紀初頭には革命期ロ
シアを逃れたロシア人移民,20 世紀中盤からは旧大英帝国領域内の,たとえばカリブ海地
域やインド圏からの大量の移民,さらには 2004 年のロンドンでの爆破事件とその後のイス
ラム系住民への対応の問題,そして近年では激動を経た東欧諸国からの移入問題もクローズ
アップされている。さらにドイツでは,トルコ系移住労働者が問題となり,ネオナチによる
排斥運動などが起きていることはよく知られている。またフランスでも,イスラム系女性
(ムスリマ)のスカーフ問題や北アフリカ・マグレブ三国からの移民を中心とする(暴動を
含めた)出来事,さらにイスラム急進派信奉者によるパリの新聞社への襲撃事件も起きた。
そして,オーストリアと同様に,移民排斥を声高にさけぶ「極右政党」が国政選挙において
少なからぬ得票数を獲得するような状況になっている。他方,イタリアは,かつては移民の
送出国であったが,近年は大量の移民の受入国となっており,スペインやギリシャと同様,
移民政策が政治的課題ともなっている。
10
越境する実践としてのトランスナショナリズム
アジア太平洋地域はどうか。東南アジアを含む東アジアでは,
「多民族国家」が多く,事
実上,居住者に対する「多文化主義」が実践されている。それは,シンガポールのような多
民族国家から,名目上にせよ,あるいは部分的にせよ,多文化・多民族の統合を謳う中国
(56 の民族からなるとされ,その優遇策も分離独立運動もあるとされている)
,さらにベト
ナム・タイなどの国家や,少数とはいえいわゆる山岳民族を含む 13 の民族がいるとされる
台湾など,
「単一民族神話」のある日本を一応除いて,どこの国でも多文化的状況が存在し
ている。1898 年にアメリカ合衆国の一部となったハワイもまた,中国・日本・ポルトガル・
朝鮮・フィリピンなど多数の国からの移民からなるマルチ・エスニックな社会である。
さらに,多文化主義を考える際にしばしば引き合いに出されるオーストラリアのケースは
少し詳しく見てみたい。オーストラリアは,1970 年代前半から,それまでの白豪主義
(white Australia policy)を放棄し,多文化主義を国家政策とする方針を打ち出して実施し
始めた。それはカナダの多文化主義と共通点も少なくない。とはいえ,それまで「白人」だ
けを受け入れて,先住民(アボリジニ)を押しのけて建国し発展してきたオーストラリアに
とって,これは大きな転換点であった。そしてその転換の際には,
「福祉主義的」あるいは
「人道主義的」な見地が強調された。もちろんそこには,メルボルンの国立博物館に再現さ
れているが,1960 年代のアボリジニたちの公民権運動による自由かつ平等の要求運動(た
とえば公民権を求めて主要都市をバスで巡って運動した「フリーダム・ライド」運動)も影
響を与えたと推測される。さらにいえば,1975 年ごろから本格化するベトナム難民のオー
ストラリア漂着という問題も重なり,オーストラリアの福祉的・人道的な多文化主義は定着
したかに見えた。
しかしながら,オーストラリアでは近年,移民を選別する政策がとられ,高度専門職・技
術者だけが入国しやすくなる仕組みを採用し,他方でインド系住民に対する「カレー・バッ
シング」という言葉で表現されるような移民排斥傾向も高まりを見せ始めている。同時に,
オーストラリア政府は,イギリス政府と同様に,移住希望者たちに国家への忠誠を約束させ
る政策を取り始めている。明らかに,オーストラリアの移民政策は,
「国家主義的」かつ
「経済主義的」な方向性が明確になってきている。
このようにオーストラリアの多文化主義は,福祉主義的多文化主義から経済主義的多文化
主義へと変質したと指摘されてきた。そしていまやここの多文化主義は,国民国家統合の理
念としてのみ存在すると揶揄する人もいる。
「人権」か「管理」かという論点が,いまや
オーストラリアにおいて問われていると言ってもよい。多文化主義への視点として,塩原良
和は,リベラル派は寛容・調和・多様性の承認を説き,保守派は社会の分断を批判し,そし
ていわばラディカル派は社会的不平等の黙認やマイノリティの権利の否定を批判すると指摘
している(塩原 2010 参照)
。2000 年シドニーオリンピックでは,アボリジニの人びとを前
面に出したシンボリックな多文化主義は,しかしながら現在このような問題を抱えているの
である。
11
『グローカル研究』઄(2015)
4-2. 多文化主義への批判
すでに少なからぬ論者によって(たとえば関根 2000)
,多文化主義の抱える問題点は指摘
されてきている。ここでは,主要なものとしてつの現実的問題点に簡潔に触れたあとで,
より根底的な問題点に言及しておきたい。
第一に「タコツボ化問題」
。せっかく多文化主義政策を採用したのに,流入してきた移動
民は,容易には既存の社会に「同化」せず,逆に移動民たちだけのコミュニティを形成して
分離・分断され「タコツボ化」(
「ゲットー化」
)するという問題点。それは,
「共生」ではな
くコミュニティ間での交流を伴わない「分生」だとも指摘される論点である。それが不可避
の現実だとするならば,多文化主義は理想でしかなかったと批判的に考える人びとが出てく
る理由も了解できるといえるだろう。第二に「コスト問題」
。政治経済的にも,多文化主義
は困難を抱え込む。それが,多文化主義政策を実施する際にかかるコストの増大という問題
点である。経済主義的に変質した多文化主義は,自国の経済発展に有益な者のみを積極的に
受け入れ(
「国益」
)
,そうでない「他文化」の人びとを排除しがちとなる。そうした経済的
コストという点では,
「異文化」集団の流入やその存在感の増大に伴う先住民や移民たちの
「利益・権利の主張」の高まりのなかで,彼ら・彼女らの擁護のためのコスト増に直面する。
身近なところでは,さまざまな案内表示の多言語化といった問題から,彼ら・彼女らの生活
保障といった福祉的な面が例として挙げられるであろう。第三に「逆差別問題」
。こうした
ことから移民受け入れ側においても「逆差別感」ともいうべき反動が生じることが理解可能
となる。それは,一般にブルーカラー層・下層ホワイトカラー層に多いといわれるが,経済
不況や失業問題などが絡みつつ,新たなナショナリズムの生成あるいは再構築へ向かう傾向
が生じやすい。先に挙げた,オーストラリアにおけるカレー・バッシング,それ以外にも,
ドイツのネオナチ台頭,ルペンが率いるフランスの国民戦線への熱狂的な支持や,日本にお
ける「新しい歴史教科書をつくる会」や「在特会」
(
「在日特権を許さない市民の会」
)のよ
うなナショナリズムも,他の要因も絡みながらではあるが,一定の注目を受けるような事態
となっている。それは本稿冒頭でふれたノルウェーの銃乱射事件のような「外国人排除」と
いう形で,多文化主義がやり玉にあがり,ナショナリズムが称揚されるという現実政治に見
られる形態である。
だが,こうした現実的問題と絡みながらも,そもそもの多文化主義それ自体にも,次のよ
うな絡み合う論点を伴った根底的な問題点がある。まずもって多文化主義の第一の根底的/
原理的な批判は,それが標榜する多文化のもつ「文化」の諸相・多義性・多層性を無視しが
ちであることにある9。それは「文化」だけにいわばフェティッシュに着目することで,文
化現象を一面化・類型化・物象化することに通じる10。この点がなぜ問題なのか。そこに
は,潜在的および顕在的な問題点がある。
潜在的には,文化の諸相・多義性・多層性を問わずに議論することは次の帰結に至る。す
なわち,多文化主義や多文化共生の現場では,たとえば言語や食べ物(の嗜好や調理法な
ど)の「差異性」などを認め合うことは出発点ではあるが,そのことで,差異の関係のなか
12
越境する実践としてのトランスナショナリズム
から見えてくる「同一性」
,いいかえれば,いずれにせよ言語を用い,食べ物を摂取すると
いう「共通性」は見えにくくなる。つまり,普遍共通文化については,あるいは特定個別的
な集合文化それ自体を共通に持つことについては,言及され難いものとなる。このことは,
次の多文化主義の顕在的な問題点とはコインの裏と表の関係にある。すなわち顕在的には,
多文化主義の目下の最大の問題点――と筆者には思えるのだが――は,文化の特定の相であ
る「国民文化」という文化の一面を偏重する点にある。多文化主義は,
「国民文化」を既定
のもの,固定的なものとして捉え,その普遍性・不変性を前提にして多文化を語る傾向とな
りがちだ。だが,文化は歴史的に変わりうるし,世代的にも変化するだけでなく,地域的に
も階層的にも,さらには個体的にも差異をもつ。
文化は,たとえばメキシコにおける 16 世紀以降のメスティーソ(スペイン人と先住民と
の結婚によるハイブリッドな)文化の形成といった歴史的事例から,仮に同一文化圏に生ま
れたとしても個人によってその文化の取得状況は異なるという細部の差異の事例に至るま
で,多種多様・多層的でかつ変化するものである。文化を「特定国民文化」レベルで語るの
は,一種の物象化であり,一種の文化本質主義である。そしてなによりもそれは,いまは目
立たないマイナーな文化実践を,あるいは今後生まれるかもしれない新しい文化実践を抑圧
する装置に転じる恐れもある。文化を仮に精神文化と物質文化に分けるにせよ,精神文化と
行動文化に分けるにせよ,文化の多義性と多層性などに配慮しない文化論は虚妄である。そ
して,文化は地域的,世代的,階層的,ジェンダー的……でもあるという社会学的視点も重
要である。そうした差異のなかでの交流から,新たな文化の生成・創新が生じる可能性があ
るからだ。
以上,これまでにタコツボ化問題,コスト問題,逆差別問題といった現実的な批判点か
ら,文化の物象化のもとコインの両面である文化的差異偏重および特定文化偏重,とくに国
民文化偏重といったより根底的/原理的な批判点まで多文化主義批判をみてきた。最後に,
政治思想的には以上よりも「よりラディカルな多文化主義批判」にもふれておこう。
G. ハージはその著作において,結局のところ多文化主義は,白人権力の強化にすぎない
とか,形を変えた同化主義の温存にすぎないと述べて痛烈に批判する(Hage 1998)
。近年
のオーストラリアやイギリスにおける国家への忠誠をもとめる動きは,同化を強制するもの
として捉えられ,しかもその同化は,これらの国においては,白人権力の強化のためである
と批判されるのである。この批判は,
「白人権力」以外の他の国々,たとえば中国や日本な
どにおける権力状況にも場合に応じて当てはまる射程をもつ議論であって,白人に焦点化し
たハージの主張に即座に同意することはできないとしても,時の支配権力による多文化主義
「政策」がこうした側面をもつことまでは確実にいえるであろう。その意味で,ハージの問
題提起は大いに傾聴に値する部分があると筆者は考えている。
4-3. 多文化主義を超える道――間文化的な対話という道
そこで,最近では,多文化主義(multiculturalism)をその内部から乗り越えていこうと
13
『グローカル研究』઄(2015)
して,間文化的な対話(intercultural dialogue)を重視する間文化主義(interculturalism)
という視点が出始めている。そのわかりやすい例が,2008 年に欧州評議会から出された
『間 文 化 的 な 対 話 に 関 す る 白 書:尊 厳 あ る 平 等 と し て の 共 生』
(White Paper on
Intercultural Dialogue:ÑLiving Together as Equals in DignityÓ
)である。そこでは,文
化の多様性(diversity)の民主的ガバナンスとして,間文化的な対話を促進するための 5
つの政策が提起されている。それらは,多様性の尊重,人権の尊重,市民参加,多言語教
育,対話の場(space)の創出である。さらに,メアら(Meer and Modood 2011)は,間
文化主義と多文化主義を比較しながら,間文化主義のメリットを次のように述べている(cf.
Cantle 2012: 142)
。
第一に,共存(coexistence)よりも優れたものとして,間文化主義は多文化主義よ
りも相互行為や対話とよりよく関わり合うと思われる。第二に,間文化主義は,多文化
主義よりもより「タコツボ化」
(groupist)が少なく,全体のまとまり(synthesis)を
生じやすいと思われる。第三に,間文化主義は,社会的凝集やナショナルなシティズン
シップといった点から見て,より強い意味合いの全体性に一層関与できるものである。
最後に,多文化主義が非リベラルで相対主義的であるのに対して,間文化主義は(間文
化的な対話の過程の一部として)非リベラルな文化実践への批判に向かいやすくなって
いる。
(Meer and Modood 2011: 176)
これは,間文化主義を掲げて多文化主義の問題点を「対話」という視点から乗り越えてい
こうとする努力だといえよう。多文化主義の行き詰まりを,それがもともと志向していた
「対話」に焦点化して再活性化しようという試みが間文化主義だということもできる。間文
化的対話は,文化間交流の問題として教育現場では切実な問題であって,実践的にも理論的
にも検討が進み始めている(実践的なものとしては,たとえば坪谷・小林 2013 参照)
。日本
においても共生の現場を歩いていると,こうした間文化的な対話の実践にしばしば出会うこ
とがある。
すでに別稿で記したことだが(Nishihara and Shiba 2014,西原・芝・小坂 2014)
,宮城
県の登米市には,国際結婚した日本人夫側のグループである
「多文化ファミリーとめ」
という
グループがあり,そのサポートのもとで外国人妻たちが,フィリピン出身,中国出身などと
いった垣根を越えて,毎週の日本語学習とともにしばしば交流会も開いている。リーダーの
日本人夫が語った「男性側も変わらなくては」という言葉が印象的であった。近くの南三陸
町でも,早い段階で来日していたフィリピン人国際結婚移住者が――自らの自宅が津波で流
されたにもかかわらず――大震災後にフィリピン系や中国系の国際結婚移住者を対象に,ヘ
ルパー資格取得も目指したボランティアの教室が開かれていた。また石巻でも,韓国系の国
際結婚移住者が NPO を立ち上げて,さまざまな国籍の移住者が対話しうる集会所も建設
し,活用されている。また石巻には,ロンドンに在住していた日本人女性が大震災の報に接
14
越境する実践としてのトランスナショナリズム
して急遽帰国し,
石巻に住み込んで欧米系の人びとのボランティア活動をコーディネートし,
さらに現在は小さな喫茶店風のお店を開き,人びとが集う場を提供している事例もあった。
こうした諸事例からは,たくさんのことを学べるが,なかでも筆者が着目したのは,人び
とをトランスナショナルに連結・接合する「媒介者」の存在であった。外国にルーツをもつ
人びとに共振・共感し,共苦と共歓をともにしつつ,トランスナショナルな関係を築きあげ
る「共振者=媒介者」とも表現できる。その共振者に媒介されたローカルな地域でのトラン
スナショナルな対話の実践は,ローカルとグローバルとが絡み合う,まさに「グローカル」
な試みであると同時に,相互行為(interaction)の場を確保しつつなされる間文化的
(intercultural)な対話に基づく相互主観的(intersubjective)な実践である。そうした人
びとの実践は,interculturalism という言葉を知らずに,
「下から」経験的な事実として実
践を積み重ねているのである。
間文化主義は,エスニック・グループが交渉のないままに分離し「タコツボ化」して行き
詰まりを見せている多文化主義に風穴を開ける試みである。そこに,今後への一つの可能性
を見るとともに,これからもさらなる可能性を追求する越境実践として着目し,問われ続け
る必要があるだろう。ただし,その可能性を拡げるためには,理念論的なトランスナショナ
リズムやコスモポリタニズム的な発想のさらなる展開もまた求められる。逆にいえば,間文
化主義がもし地域社会や国家内社会の統合のためだけに志向されるならば,ナショナルな思
考の枠は超えられないという問題が残るだろう。それゆえ,トランスナショナリズム/コス
モポリタニズムのさらなる検討がここでも求められることとなろう。
ઇ.結びに代えて――トランスナショナリズムの可能性
トランスナショナリズムがナショナリズムを超えてくのは,一方でローカルな視野で多文
化主義から間文化主義へ,他方でグローバルな視野でトランスナショナリズムからコスモポ
リタニズムへという二つの方向をとりあえず区別することが可能である。ただし,それらは
別々のものではない。それらは,いわば車の両輪のようなものである。そしてそれらは,
「グローカル」な視点を取ることによってはじめて結びつくし,実際にすでに部分的には結
びついている。
15
『グローカル研究』઄(2015)
ただし,理論的には,一足跳びに遠くまで行ってしまうような見解にはただちに従うこと
はできないだろう。それはむしろ現実的ではない。実際に他国で生活を営む移動者たちの日
常的な生活世界からは乖離してしまう恐れがある。国家対立が存在する現状において,かつ
国家的な現実的政策が求められている場では,絵に描いた餅にすぎなくなる。苦悩する移動
者たちを顧慮した,いわば短期的,中期的,そして長期的なヴィジョンが求められるゆえん
である。短期的なものは,当座の政策変更を求める。ただしその背後には,社会創新の中長
期的なヴィジョンが必要だ。
とはいえ,特権的な国民国家に対して,今日では事実として国家の頭上(国連など)
,国
家の外部,国家の下部(外国人移住者たち)が重要なことには留意しておくべきだろう。そ
の点で,近代国民国家のあり方そのものの再検討が求められている。そこで,近代国民国家
と深く関わる多文化主義それ自体をその内部から超脱していくためには,今後とも多文化の
内実をさらにきちんと捉えなおしつつ,同時になお目指すべき理念・理想(=理念理論)を
問い続けることを促すような方向性が求められているのである。
結びの代わりとして最後に,ここで再度,ベックの方法論的ナショナリズム批判について
触れておこう。ベックはまず経済を中心とするグローバル化と区別して,人びとがグローバ
ル時代に「コスモポリタン化」していることを指摘している。そしてこの指摘は,前述のよ
うな彼の「方法論的ナショナリズム」批判と深く関係している。筆者もしばしば引用してい
るが(西原 2013a など)
,ベックは「システムと生活世界の分離」を説くハーバーマスとは
異なって,
「個人の情況はシステムと生活世界の双方の領域にまたがる形で位置している」
と述べ,
「個々人の人生は,ますますその直接的な生活圏から解き放たれ」
,
「国境を越え,
専門家の境界を超えて存在する抽象的な道徳に身をさらすようになる」と述べる。だが,
「個 々 人 の 人 生 は す で に 世 界 社 会 に 対 し て 開 か れ て」お り,
「さ ら に 世 界 社 会
(Weltgesellschaft)は,個々人の人生の一部である」にもかかわらず,
「政府は(依然とし
て)国民国家の枠組みのなかで行為する」
(Beck, 1986: 219=1998: 269-270)
。
このような認識のもとでベックは,
「伝統的な学問による検討だけでは古い思想の殻を打
ち破ることはできない。……代表性[≒客観性・実証性:引用者の注]を重視する論述は過
去の忠実な再現でしかない」と述べ,
「私の論述は…(中略)…未だなお支配的である過去
と対照することにより,今日すでにその輪郭をみせている未来を視野の内に据えることを追
求するものである」
(Beck 1986: 12=1998: 8)と述べた。これはまさしく,これまでの国家
内社会だけを対象としてきた伝統的な社会学に対する批判であることも間違いない。だが,
こう述べていたベックはつい先日(2015 年元旦)に心臓発作で急逝してしまった(享年 70
歳)
。彼との交流の機会を何回か持つことができた筆者としては,O. E. ライトのいうような
「リアル・ユートピア」
(十全な形ではどこにもないユートピアだが,その片鱗・輪郭はリア
ルなものとなりつつある実践や思考)を探しながら,ベックの越境する思考と実践をさらに
「グローカル」に進める必要があると考えている。
本稿は,トランスナショナリズム論の整理から始め,コスモポリタニズムの展開を正義論
16
越境する実践としてのトランスナショナリズム
と社会学の視点から確認しつつ,困難を抱えつつある多文化主義を内側から乗り越える間文
化主義に論及して,トランスナショナリズムの可能性を論じてきた。そして本稿では,
「越
境する」という言葉を題名に含ませたが,それは二重の意味での越境である。すなわち,国
境を越えることと,専門分野を超えること,である。筆者が専攻する社会学においても,こ
の二重の意味での越境・超越が,トランスナショナリズムだけでなく,コスモポリタニズム
や間文化主義の理論化の際にも求められている。21 世紀を生きる我々社会学者としては,
そうした探求を「open-endless」
(ヌスバウム)な理念・規範の現実性と必要性の要請とし
て,今後とも問い続けるべき課題を負っているのである。
注
()階級論,あるいは国家権力を頂点とする権力論などのこれまでの社会学的研究は,国家内部の
社会だけを想定しがちであったというのがベックの指摘である(Beck 2002 参照)
。
()ヌスバウムのケイパビリティ論が,一時期ともに研究活動をおこなった A. センに影響を受け
たものであることは明らかである。この点に関しては,たとえば Sen 2009 を参照。
()こうしたヌスバウムのマイノリティへのまなざしを含むコスモポリタニズム的志向は,ナショ
ナリスティックな愛国心の問題と対立するかのように見える。しかし彼女は,愛国心それ自体を
否定してはおらず,むしろそれを越えた階層的ないしは同心円的な正義の拡がりを主張すること
で,この問題を乗り越えようとしているように思われる。そしてその拡がりを最終的に支えるの
は人文学的な想像力である。この問題に関しては,Cohen 1996 所収のヌスバウムの二論考から近
年の Nussbaum 2010 での展開を参照願いたい。
()なお,正義論との関係でのこの方面の日本の業績としては,押村(2008)
,井上(2012)が,社
会学でのコスモポリタニズムを論じた論考には,鈴木(2014)があることを書き添えておく。
()だが,こうした発想は,法的拘束力はないが実はすでに 1948 年に国際連合総会で採択された
「世界人権宣言」に基づき,この宣言採択後 18 年間にわたって議論を重ねて 1966 年の国連総会で
採択され 1976 年発効した「国際人権規約」の自由権規約と呼ばれる B 規約=「市民的及び政治的
権利に関する国際規約」
(ちなみに A 規約は「経済的,社会的及び文化的権利に関する国際規約」
で社会権規約と呼ばれている)の「第選択議定書」に見られるものである。すなわち,それは
「市民的政治的諸権利に関する選択議定書」と名付けられ,B 規約に規定された権利侵害が生じた
場合には,国連が個人の通報を受理・審議することができる手続きについて定めたものである。
通常それは,
「個人通報制度」と呼ばれている(なおその後,死刑廃止を柱とする「第選択議定
書」が定められた。日本は 1979 年に A 規約・B 規約ともに批准しているが,選択議定書につい
ては第・第ともに批准していない)
。
()なお,多文化共生は,韓国では「多文化相生」と呼ばれること,また中国でも「共生」が語ら
れるが,それは国内諸民族間の「共生」としてもしばしば語られることを付け加えておこう。
()たとえば,外国人集住都市会議は,2014 年度はじめの時点で 26 の都市が参加している。
(その
詳細に関しては,つぎの URL を参照。http://www.shujutoshi.jp/)
17
『グローカル研究』઄(2015)
()以下の記述は,文献を挙げるとなると膨大になるので割愛する。ただし,一部は樽本(2009,
2012)や塩原(2010)や安達(2013)を参考にしている。
(
)文化をまず,E. カッシーラーのいうように「象徴を操る動物」であり,
「過剰な」言語をもつヒ
トに特有なものだと考えてみよう。この論点は,
「種別共通文化」として取り出しておくことがで
きる(そうすると,道具を使ってバナナを取ったり,芋を海水で洗って塩味にして食べたりする
(
「類人猿の知恵試験」
)は,文化と非文化の境界線上にあるこ
などの行動をする類人猿的「知恵」
とになる)
。
そして,ヒトとしての種にとって,身体的なレベルでは,
「普遍共通文化」がある。食物を煮
る,焼く,蒸すなどして好んで摂取する性向は,人間の身体組織とも深く関連し,人間身体に普
遍的に共通である。
そうした身体は,個体としての誕生と死で区切られた個体としての個的生を生き抜く。そして
その個的生は,他と区別できる身体的個性を有し,他と区別される行動特性をもった個的文化を
形成する。
とはいえ,この個的生は元来,他者から生じ,他者によって支えられる。すなわち,それは一
定の集合体のなかでのみ生起する。文化面からいえば,それは一定の時代背景のもとにある特定
集合文化のなかで生成する。その「特定集合文化」の主なものは,特定の時代文化を背景にした
現代社会においては,特定地域文化・特定団体文化・特定企業文化・特定世代文化・特定階層文
化・特定ジェンダー文化などと例示できる。
さらにこれらの文化とは別に,
「特定国民文化」
(たとえば日本文化やイギリス文化など)と,
より広範囲の特定広域文化(東アジア文化,照葉樹林文化,稲作文化など)とが区別できる。以
上の「文化」にも,
「特定」という言葉が付されている。要するに「普遍共通文化」に対する「特
定個別文化」である。
それゆえ,最後に挙げるべきは,
「普遍個別文化」である。これは,地球レベルで,現代の人間
状況に普遍的な文化面を強調し,かつ同時に文化の個別面も考慮した一種の理想型,つまり目指
すべき理念であろう。ここでは,M. ヴェーバーのいうような「理念型」的思考のレベルでのきわ
めて簡潔な説明にとどめざるを得ないが,個別的であるという点での普遍性をも認識し,個別性
を普遍的に承認する文化の相を含めて,最低限こうした文化の諸相を顧慮せずには,コスモポリ
タンな多文化主義を語ることはできない(西原 2010a,2015b 参照)
。
,どこに差異・区別の境界線を引いて文化
なお,
「多文化」においては(
「多民族」も同様だが)
や民族を一つの界として区別するのかという問題がある。主観的には一定程度の境界づけが可能
であるにせよ(またその探究が社会学的な課題の一つではあれ)
,客観的には「下位単位の区分基
準の不明確さ」は明らかである。そもそも「文化」を共同主観性(後注(10)参照)として文化本
質主義的に固定的・物象化的に捉える問題性がここにも示されているのである。
(10)物象化に関しては,とりあえず廣松(1986,1992)を参照されたい。
(後期の)廣松物象化論に
おいては,相互行為からなる社会関係が物象的な関係として立ち現れることが要諦となる。ここ
では詳述する紙幅はないが,筆者はすでに,相互行為的な「相互主観性」が物象化して「共同主
18
越境する実践としてのトランスナショナリズム
観性」へと至るプロセスを「間主観性」論として展開したことを記しておく(西原 2010a 参照)
。
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Journal of Glocal Studies 2 (2015)
Transnationalism as a Cross-Border Practice: A Quest for
Cosmopolitanism and Interculturalism beyond Multiculturalism
Kazuhisa NISHIHARA
This article attempts to clarify some important concepts that are closely related to
transnationalism: namely, of cosmopolitanism, multiculturalism and interculturalism. The
study is based on my belief that a theoretical examination of those concepts is necessary
to advance social/sociological field research on transnational migrants.
As we live in the age of globalization, scholars have focused on transnationalism and
cosmopolitanism on the one hand, while on the other hand multiculturalism and
interculturalism stemming from multiculturalism have also been given special attention
with regard to our society’ s increasingly multiethnic situations. The two groups of
concepts, however, do not constitute entirely different notions to be investigated; they can
be closely linked to each other if we take a viewpoint of glocalization.
In my reconfiguration of these concepts, this paper states that methodological
transnationalism based on the perspective of glocalization is decisively important not only
for the critique of ethnocentric nationalism but also for contemporary social/sociological
studies.
Keywords: transnationalism,
cosmopolitanism,
glocalization
24
multiculturalism,
interculturalism,
『グローカル研究』
No.2(2015)25-40
日本発の演劇にみるグローカリゼーション
倉
田 量 介
東京大学,早稲田大学
[email protected]
(受理:2014 年
月 30 日,採択:2015 年月 29 日)
要
旨
本稿では,文化の交差という観点から,歌舞伎,能,狂言を取りあげ,グローカル化
の現象を再考した。
「文化化」と「暗黙知」の観点から,身体技法的な「型」がグロー
バル化し,ローカル化する原理を論じた。
「芸」は地域的な個別性を顕現させやすく,
異文化相互の「翻訳」という作業を可視化する。日米の劇場は文化の序列を示唆する。
訪欧歌舞伎,能役者によるベケットの不条理演劇,外国人による狂言の事例比較によ
り,暗黙知の習得を前提とする日本の演劇は「型」を重視し,西洋文化も合理性への懐
疑で日本の伝統芸能に接近しうることが理解された。差異を認めて融合に向かうイン
ターカルチュラリズムの可能性もそこにみてとられた。
キーワード:グローカル化,型,身体,暗黙知,翻訳
はじめに
本稿は演劇の分析を通じて,グローカル化という現象をとらえ返す試みである。筆者はラ
テンアメリカ地域をめぐる音楽研究と平行して,日本の「大衆演劇」および民俗芸能の参与
観察を重ね,論文を発表してきた。本稿はそれらの成果を理論的に補完する意味合いを含
む。ただし,
「大衆演劇」については海外公演などが定着しておらず,グローカル化の考察
と馴染みにくいため,ここでは歌舞伎,能,狂言を主に取りあげる。
人類学者の上杉富之(上杉 2009)が説くように,グローカリゼーション(glocalization)
すなわちグローカル化という概念は,1980 年代の日本におけるマーケティング用語に起因
し,英国の社会学者ローランド・ロバートソン(Roland Robertson)がアカデミックな分
25
『グローカル研究』઄(2015)
析に導入した。企業が世界進出するうえで,現地のニーズに合わせた商品土着化の戦略をと
るに至り,それが均質化と多様化というグローバル化の 2 局面を説明するアプローチと関連
づけられた。今日では,そうした理解が浸透し,次のような言い換えもみられる。
グローカルとは,グローバル(global =世界的な)とローカル(local=地域的な)
を合わせた造語である。今日の社会が,全世界を飲み込んでいくような世界普遍化
のうねり(globalization)のなかにある反面,地域のもつユニークな特色や特性に
も注目していこう(localization)とする面性を有していることを表現しようと
した言葉である。
(今泉 2013:)
筆者もまた,かような定義に異議を唱えるものではなく,上記の共通認識について冗長な
異口同音を避けたい。むしろ本稿では,
「今日」という時代限定的な政治経済の容貌ではな
く,いつでも起こりうる文化の交差という観点から,この現象を掘りさげる。とりわけ
「芸」と称されたりする身体技法的な演劇の「型」が,どのようにグローバル化し,かつ
ローカル化するのかという原理を,習得過程に着目しながら分析する。
「芸」は「暗黙知」
を軸にすることが多く,地域的な個別性を顕現させやすい。ゆえに,いわゆる異文化相互の
「翻訳」という作業を可視化すると仮定されることが,対象に選んだ理由である。
社会学では,ゲマインシャフト(地縁や血縁などにもとづく共同体)とゲゼルシャフト
(約縁などにもとづく利益社会)の区分が古くから主張されてきた。それにしたがいつつ,
対面的な前者をローカル,非対面的な後者をグローバルと結びつける発想も相応には有効で
あろう。ただし,文化の交差はローカル間における人の移動による場合も多く,対面性の有
無を問うだけでは視角として不充分という事実は慎重に検討されなければなるまい。演劇
は,いわゆる文化と呼ばれる領域のなかでも生身の公開を基本とすることから,世界に拡散
しても非対面的にはなりきれず,対面的な性格を保ちやすい。逆に映像と異なり,その特質
は,高度情報化社会に顕著なマルチメディア前提のグローバル化だけに還元されないグロー
カル化の議論に,新たな知見を加える要素となりうるのではなかろうか。
ઃ.
「文化化」にもとづく「暗黙知」および「民俗知識」としての「型」
グローカルがグローバルとローカルの相互補完を意味する概念ならば,新自由主義的なグ
ローバル化すなわち地球規模の標準を求めるグローバリズムの対義語は,ローカリズムない
しリージョナリズムであろう。ともに地域主義と邦訳される。中規模を想定する後者は政治
経済学で「統合」という別の文脈を指す場合に用いられたりもするが,共通に提起するの
は,地域と称される空間がどこまでの範囲でいかに形成されるかという問いにほかなるま
い。つまり,何がローカルとローカルを分かつのかということである。
フランツ・ボアズ(Franz Boas)らの学派によって合衆国で育くまれた文化相対主義は,
地域の個別性を尊重しようという態度といえる。依拠するのは比較というアプローチだが,
26
日本発の演劇にみるグローカリゼーション
それにも反論の積み重ねがあったことを見落とすべきではない。たとえば本質主義批判は,
各ローカルに自閉するような文化の枠組をアプリオリに定めると,差異が誇張され,相互理
解を阻みかねないという主旨に立脚する。それについて,沼崎一郎は,ボアズの弟子にあた
るメルヴィル・ハースコヴィッツ(Melville J. Herskovits)の業績をたどり,
「文化化」1)と
いうキーワードで咀嚼している。沼崎は,ハースコヴィッツが文化相対主義を直接的に表明
した最初の人類学者であるとして,以下のように述べる。
ハースコヴィッツによる文化相対主義の定義において,文化と学習という側面が強
調されているということは,文化相対主義の本来の意味を知るうえで重要だ。
(沼
崎 2006:61)
概括すると,技術や思想が開発されたり,他から導入されたりしても,文化化の過程が違
えば,学習内容に改訂が加えられる。新しさに照らして経験の意味解釈が変わり,それに応
じた判断も流動的となる。学習と経験の役割を重視するハースコヴィッツの文化相対主義
は,人々の判断が移ろう可能性を最初から定義に含めるのである(同書,64 頁)
。
換言すれば,個別性は文化そのものよりも文化化の社会環境に所在し,それが各地域で文
化を多彩にさせる。ゆえに個々の背景を相対的に論じても,文化の差異を固定化させて語る
ことにはあたらず,本質主義批判は回避されるというロジックである。
ハースコヴィッツはラテンアメリカ地域を対象とするアフロ文化研究の先駆者として,文
化混淆に注目した人物である。その点では,クレオール概念など混血主義的な創造性に比重
を置く構築主義とも近いわけだが,文化相対主義が本質主義と同義でない以上,齟齬はない
ことがわかる。文化の習得とは伝承の営みにあたる。伝承というと,固定的な様式(型)を
絶対視するような保守のイメージを与えかねない。しかしながら,型の授受とは裏腹に,実
際の現場で観察される伝承は,むしろ創造性を助長する場合が多い。その基盤が文化化の多
様なプロセスであり,ハースコヴィッツはそのことを指摘したのであった。
今日,文化化という概念は,学校に代表される教育の現場と結びつけて吟味されることが
多い。このキーワードで検索すれば,少なからぬ論文に行きあたる。とりわけ帰国した日系
中南米人社会におけるフィールドワークの成果が目につくようである。文化を身体化させる
というのは周囲の環境に同調することでもあり,社会化と一体の側面を示す。その過程で
ローカルな「暗黙知」が内面化されていく。
「暗黙知」はハンガリー出身のマイケル・ポランニー(Michael Polanyi)が唱えた概念
であり,日本では福島真人の人類学的な儀礼分析(福島 1993)などに着想2)を与えた。言
語で知覚的に表現したり説明したりできない身体の所作をあらわす概念である。
儀礼は非言語的形式的行為であるため,福島は,それが言語的に「解釈」されることを問
題視する。特に「神秘的」
,
「象徴的」な機能をアト・ランダムに決定する「儀礼=神話上演」
論3)のような社会統合の機能主義的図式に疑念を抱く。そこで発する「機能とされる要件が
27
『グローカル研究』઄(2015)
本当に儀礼そのものによって生じているのか,それとも単に研究者の空想に過ぎないのか」
(同書,105 頁,以下の引用は頁数のみを示す)という提起に留意すべきである。
文化人類学一般では,決まりごとの反復を儀礼と呼ぶ。福島のいう儀礼とは,
「構成要素
によって様々な民俗知識を喚起する高い能力」すなわち「喚起ポテンシャル」を有する営み
である。その構成要素は,
「当該共同体に共有されている民俗知識」のなかでも「喚起を引
き起こしやすい素材が中心」となる。それをふまえて,
「儀礼とはそれゆえこうした高い喚
起ポテンシャルを持つ傾向がある種々の要素(言語,行為,物品)を,ある目的の為に時間
軸にそって構成したもの」
(134 頁)として定義されている。
ただし,時間軸に沿うことで擬似的な意味や命題が生じるかにみえたとしても,実際の民
俗知識すべてを喚起させるのではなく,一部の範囲に限られる。かたや当事者にとっての
「儀礼とは慣習的行為」であり,
「先祖の言い伝えに従うという事」
(136 頁)のうえに成立
する。それゆえ観察者が軽視しがちな細則を手放しに遵守して執行されるにすぎず,無限の
象徴を読みとろうとする好事家的な意志との間にギャップが生じる。様々な「釈義」が作ら
れてしまうのは,
「何が実際に喚起されうるのか,そしてどの程度喚起されうるのか,とい
う二つの不確定性」
(137 頁)に原因がある。もともと形式自体に理屈はない。
福島の論旨に戻ると,
「記憶の呼び出しの母体となる民俗知識の集合が変化するに伴い,
当然喚起される知識の形態も変化」
(137 頁)し,
「儀礼が担う事になる擬似意味論的構成
は,その文脈(喚起しうる民俗的知識の集合の傾向)によって大きく変化する」
(137 頁)
のが普通である。さらに「政治化」
,
「観光化」
,
「重要文化財化」
(144 頁)の介入につれて,
細則遵守にしか関心のなかった当事者に内的視点から外的視点への転換が起きる。外部の
「観客」は内部の民俗知識を共有しないし,地域の儀礼的システムに必ずしも参加しない。
それが解釈の恣意性を引き寄せるものの,当事者もそれを反照的に自覚するようになり,そ
れまでの儀礼を文化的アイデンティティーの中心とみなすようになったりする。それが正統
と異端をめぐる「解釈」の闘争にもつながる。福島のいう「儀礼の解釈学」
(145 頁)は,
そのように登場する。
長くなったが,福島の主張が本稿に与えるヒントは多い。
「民俗知識の集合」は「暗黙知」
に置換可能な言葉である。それは地域で共有される非言語的形式的な慣習的行為であり,前
述のとおり,文化化によって身体化ならびに内面化される細則すなわち「型」にあたる。そ
こから民俗芸能の伝承をめぐる身体資源論(菅原[et al.] 2005)が展開された例4)もある。
઄.演劇にみられる「ハイブラウ」と「ロウブラウ」のような「暗黙知」の分化
環境に左右されるため,暗黙知5)は各地域で異なりやすく,文化の分岐をうながすことが
ある。人としての普遍性を求める一方で社会化の個別的文脈を尊重する文化人類学では,広
義の文化すなわち人の生きかたについて優劣を決めない姿勢が一貫する。しかしながら,わ
ざわざ文化ヒエラルキー的な見方を自覚しないまでも,
「芸術」を「ハイブラウ」
,
「民俗」
を「ロウブラウ」のような高低のニュアンスに振り分ける傾向は,現代社会の日常生活で普
28
日本発の演劇にみるグローカリゼーション
通に散見される。日本でも,文語中心の「歌舞伎」が知識人の教養として崇高な「伝統」と
位置づけられやすいのに対して,口語中心の「大衆演劇」は一般庶民向けの「演芸」といっ
たステレオタイプを脱しきれないという実情にある。
もちろん,そうした二分法に異議を申したて,
「上から」と「下から」の弁証法,いわば
「ハイブラウ」と「ロウブラウ」のせめぎ合いに「ポピュラー文化」の創造原理をみいだそ
うとするジョン・フィスク(John Fiske)6)のような研究者も少なくない。とはいえ,それ
もまた文化の序列化が自明視されるようになったからこその反論にほかならない。
そもそも「ハイブラウ」と「ロウブラウ」の概念を広く世に問うたのは,ローレンス・
W・レヴィーン(Lawrence W. Levine)
(レヴィーン 2005)であった。彼は 19 世紀の米国
におけるシェイクスピア劇があらゆる娯楽と一緒に上演されていたことに目を向け,その大
衆文化における位置づけを検討していく。具体的には「手品師や踊り子,歌手,アクロバッ
ト師やミンストレル,コメディアンと同じ領域の一部として上演された」
(同書,31 頁,以
下の引用は頁数のみを示す)とされ,幕間での出し物として,シェイクスピアをアメリカ文
化に溶け込ませたという。以下の指摘は重要である。
十九世紀アメリカ演劇におけるシェイクスピア劇の位置は,ポピュラー・カル
チャーとフォーク・カルチャーに恣意的な境界線をひくことがいかに困難かを示す
フォーク
だろう。ここに,多くの民俗的要素を含みつつ,知識豊かで参加型かつ多大な支配
力を発揮する観客を有するプロフェッショナルな娯楽があったのである。文化全体
にシェイクスピアが取り込まれていた事実は,文化を「ハイ」
「ロウ」
「マス」
「フォーク」といった包括的な形容詞のカテゴリーによるヒエラルキーにきちんと
分類されたものとして,垂直方向の規準でみてしまう我々の傾向に重大な疑問を投
げかける。
(レヴィーン 2005:41)
シェイクスピア劇は,米国人にとって「今まで我々があまり注目せずにいた共有文化」で
あるが,
「ポピュラー」というカテゴリーを審美的に使ってしまう習慣により,その事実を
曖昧にされてきた。それは高い人気を誇っていたものの,芸術的資質ゆえにポピュラー・カ
ルチャーから除外され,大衆文化としてのダイナミックな複雑性を不可視にされたというの
である(42 頁)
。
つまり,本稿でいう暗黙知のごとく多数に好まれていたシェイクスピアは,19 世紀後半
のどこかで「普通の人びと」と分離され,日常から遠ざけられた(45 頁)
。メロドラマのス
・ ・ ・ ・ ・
タイルや常套の雄弁術と親和したことも過去における流行の理由であるが,
「正統な文化へ
と変身」
(46 頁)させた要因がいくつかあげられる。メディアの推移もさることながら,
「アメリカ演劇自体の変容」
(61 頁)
,
「英語を話さない人びとの大量流入」
(63 頁)
,ひいて
は「平等主義のアメリカに生じた階級意識と階級分裂」
(83 頁)が根底にあった。劇場本来
の「平土間,天井桟敷,桝席という伝統的な区分が崩れて」いったことは,
「異なる観客の
29
『グローカル研究』઄(2015)
ための個別の劇場創設を促進」させたが,それは米国社会における「広範囲の分岐の一部
分」
(80 頁)であった。
その結果,20 世紀に「文化的聖人と化した」
(71 頁)シェイクスピアは,階級分化に応じ
・ ・
て「一般大衆のための劇作家から特定の観客のための劇作家へと変貌」
(75 頁)した。彼の
作品は,崇拝されるべき「真面目な」文化(91 頁)として,訓練を経た思慮深い階級が
「分別ある顧客用の劇場」
(95 頁)で観る「正統な劇」
(101 頁)となった。もはや面白半分
のパロディ化も許されず,大衆娯楽から離脱した。
「ハイ」と「ロウ」
,
「ポピュラー」と
「エリート」を区切る文化の序列化である。地方の劇場に密着した万人向けのストック劇
団7)は,所定の演目で都市を起点に旅回りをするコンビネーション劇団8)に主流の座を奪わ
れ,
「全米予約システム」
(104 頁)が興行系列への依存を誘った。後者は富裕でない大衆が
ほとんど関心を抱かない「ハイブラウ」な文化(104 頁)に転じていく。いずれも移民を含
む社会経済的集団の多様化とそれぞれの嗜好的な差異に起因するが,レヴィーンは前後に
「文化分裂というより大きな現象」
(106 頁)をみるべきであると提言している。
અ.日本の芝居に向けられる二重の視線
上記は米国の個別的な文脈であるが,日本も含めたローカルな文化が共通にたどりうる軌
跡も示している。たとえば,歌舞伎の歴史においては同種の構造が浮かびあがる。
歌舞伎がいわゆる民俗芸能から派生したことは周知の事実9)として,それが劇場中心の興
行として確立された経緯については,郡司正勝の論考(郡司 1956)が詳しい。
「日本で演劇
というものがはじめて今日のような劇場建築様式をもち,入場料をとって独立経済をもつよ
うになったのはかぶき芝居からだ」
(同書,23 頁,以下の引用は頁数のみを示す)と述べ,
茶屋の飲食パッケージと融合した江戸三座のような公認の鑑賞システムを描いている。それ
は官許による「興行権の独占と世襲制度」
(43 頁)に立脚し,客席も入場料別に「桟敷」
,
「切落し」
,
「土間」
,
「向桟敷」
(56 頁-57 頁)などの分化がみられたという。その意味で,年
号は違えども,米国における序列化との相似を指摘できる。
江戸時代の日本は士農工商の身分制社会であり,貧富の差も大きかった。ゆえに郡司は
「各階層の人々が,すべて江戸ならば江戸三座のかぶきをみていたのであろうか。また,み
る余裕があったのだろうか」
(38 頁)という設問を掲げる。一種の反語なので,当然,答え
は否となり,普通の人々が愉しんでいた文化として「小芝居」と「地狂言」の存在を強調す
る。
これまでの日本演劇史は大劇場の歴史を説くのに専らであって,社会現象としての
小芝居や地狂言の存在に触れることをあえてしなかった。したがって社会現象ある
いは文化現象としてのかぶきの意義を究明することができなかったのが,その盲点
であったのである。江戸民衆のもっとも大多数を占める下層階級の人々と歌舞伎を
結びつけ,あるいは全国的に津々浦々にまで農村・漁村の人々に迎えられた旅芝居
30
日本発の演劇にみるグローカリゼーション
と,それが土着した地狂言との関係は,江戸封建社会のあり方にとって重要な課題
でなければならない。
(郡司 1956:38)
引用が長くなったが,前述のレヴィーンによる主張に照らすと,歌舞伎が「ハイブラウ」
,
小芝居や地狂言が「ロウブラウ」に該当しよう。さらに後者は都市と地方という上演環境の
違いをふまえて枝分かれした。筆者は個々のカテゴリーに関する論考を投稿中のため,ここ
での反復は避けるが,再び郡司の記述に戻ると,いくつか留意すべき点がある。
江戸三座の歌舞伎すなわち「大芝居」は利権をともなっており,商売敵になりかねない小
芝居は公私ともに摘発や弾圧を受けた。小芝居は中世の宮座に起源を有しており,寺社や盛
り場に分散したため,手軽に短時間の見物を望む労働者階級にとってアクセスが容易という
有利な立地条件を備えていた。その分,庶民の人気は根強かったものの,
「宮地芝居停止令
と寺社門前の売女禁制とは,いつも同時に行なわれている」
(40 頁)ことからして,
「私娼
の地位とおなじ立場」
(40 頁)の見世物小屋扱いであった。大芝居で定番となった「引幕」
,
「花道」
,
「廻り舞台」は禁止され,15 才以下の子供だけからなる「ちんこ芝居」や「首振芝
居」のみが許可される時代もあった。一度でも小芝居に出演すると,
「緞帳役者」という蔑
称を付され,大芝居の檜舞台から永久追放された(41 頁)
。そのように小芝居と大芝居の間
に厳格な上下の意識が根をおろしていた。
天保の改革で一時全廃されつつも,明治維新後は小芝居のなかから「大劇場に進出したも
のもできてきた」
(41 頁)というが,そうした階級差にもとづく序列構造が踏襲されたこと
は,筆者が続ける「大衆演劇」の研究でも明らかになっている。歌舞伎が伝統芸能として高
尚な位置づけをなされる一方,小芝居は現在でいう「大衆演劇」に引き継がれた。米国に似
て,観劇者側の態度にも分化が維持された。そのことは第二次世界大戦中に日本で刊行され
た歌舞伎論の読み比べにより,はっきりとした輪郭をあらわす。
そのような類書のなかで,まず,フランス文学者の太宰施門(太宰 1943)は,パリにお
ける自身の観劇体験に触れながら,都市の劇場における歌舞伎鑑賞の心得といったものを力
説する。
「上演時間の制限」に起因する内容無視の「無慈悲なカット」が批判されたり,興
行のあり方が責められる一方,確かな判断力や趣味眼を有する識者すなわち「通(ツウ)
」
の養成ひいては「見物や聞き手の教育」が強調されている。
美的基準は劇場に何度も足を運ぶという経験で会得されるが,筆者の関心は太宰が「通」
と「大衆」を相対させた点に向けられる。彼は「いい芝居」と「惡い浄瑠璃」
,
「古典藝術」
と「通俗娯樂」に「見さかひ」をつけるべきだと信じている節がある。
「大衆を當てにした
上演曲目は,かふいふ平凡な欠陥がある」と述べることからも,彼は必ずしも「大衆」を肯
定的に評価していない。太宰は「大衆」を「多く勤勞生活者である」
,
「旺盛な物質力の人が
多い」と決めつけている。さらに「生活力の旺盛な,大衆に對して喜びになるものは先づエ
ロである。第二はグロである。第三は事件である」と断定し,
「精神教養の不備」を責めて
もいる(太宰 1943:211)
。
31
『グローカル研究』઄(2015)
あえて「エロ」
,
「グロ」
,
「事件」すなわちスキャンダルを糾弾するように,太宰の批判対
象が小芝居の系譜であるのはいうまでもない。一方,
「大衆上演も容易に良い藝術上演にな
り得る」
(同書,226 頁)とも記していることから,非常に啓蒙色が勝る。結論部分では
「自分の周圍から養はれた境遇によつて,その周圍が狭いといふことによつて,養はれた眞
實といふ判斷が違ふのであります」
(同書,233 頁)と添える。学習と経験によって視野を
広げろと主張する点では,ホセ・オルテガ・イ・ガセット(José Ortega y Gasset)やフラ
ンクフルト学派のような西欧近代の「大衆文化」批判10)に近いものの,戦時中という特殊
な環境をふまえ,国体礼賛のバイアスも影をおとしている。
かたや江戸時代に小芝居と地狂言が人気を誇ったことを受け,当時,地方では「村芝居」
の営みが続けられた。それについても筆者は別稿でまとめているが,都市の大芝居で仕事に
あぶれた歌舞伎役者が旅回りの出稼ぎで雇われる場合と,それに習った村人がみずから演じ
る場合に大別されていた。国文学者の瀧田貞治による『傳統演劇瑣談』
(瀧田 1943)には,
自身の観劇記がつづられている。
瀧田が訪れた芝居の舞台は田んぼにしつらえられ,見物席はゴザ敷きであった。民家を舞
台に用いる場合は「座敷芝居」と呼ばれる。噂と寄せ太鼓で観客が集まり,
「自然木戸銭は
無いが,その代り勧進元に熨斗をつけた御祝儀の金一封」で桟敷に案内される。昔から親し
まれる「浄瑠璃歌舞伎」の古典が外題(演目)であり,三味線をともなう。初日には三番叟
が奉じられ,日間,午後から中入りをはさんで夜半まで続く。
「村の人達自身の手に依っ
て興行さるる歌舞伎」として,
「他からの援助を仰がないのが原則」であり,役者は互いに
顔見知りである(瀧田 1943:265-275)
。
そこまでは実体験を書きとめたフィールドノートである。そこで読み取られるのは都市の
大芝居がモデルになっていることだが,筆者が読み込みたいのは,やはり瀧田の「大衆」論
である。やや長くなるが,瀧田は次のように続けている。
過般私は「淡路の人形浄瑠璃」を見て農村娯樂の叫ばれてゐる今日,この問題に關
して種々敎えられるところが多かった。淡路の村の人々は,野良仕事が終り夕食が
すむと稽古本を懐に入れてサッサと師匠の許に通ひ,同好と樂しく稽古[...]農閑
期をねらひ,萬般の道具を荷車に積込んで巡業に出掛けるのである。
(瀧田 1943:
275)
かように形成される「農村浄瑠璃團」は近隣の村を次々に廻るが,巡業から帰った翌日か
ら百姓の仕事に戻る(同書,276 頁)
。
彼等は娯樂の創造者であると同時に,その享受者と少しも變わりはない。彼等は大
衆が何を求めてゐるかを身を以て知つているのである。
(瀧田 1943:276)
32
日本発の演劇にみるグローカリゼーション
瀧田の著書には新劇などを扱う章も含まれるが,
「村芝居」について分析するこの箇所で
は,農村浄瑠璃団の例をあげている。ここにみられるのは百姓が演者と観客を兼ねる状況で
あり,しかも,その人々は「大衆」と同一視される。彼らは自分たち「大衆」の嗜好を日常
生活における経験で熟知するからこそ,娯楽の創造者にも享受者にもなりうるというのが瀧
田の主張である。彼もまた章の末尾で青年層の浄瑠璃・歌舞伎に期待しているが,
「娯樂た
る以上矢鱈に教訓のしもとが見えるのでは人は寄りつかない」
(同書,279 頁)と述べ,自
発性を重視する点は,太宰による啓蒙主義的な「大衆」論と対照をなしている。
異文化はグローバルな文脈のみならず国内でも想定されうる。観察の場が都市か地方とい
う相違だけでない。太宰と瀧田の見解を分かつ要素は何か。結局,それは「大衆文化」に創
造性を認められるかどうかという姿勢の違いではなかろうか。
一口にローカル礼賛といっても,太宰の場合は想像の共同体たるナショナリズム,瀧田の
場合は対面の共同体とでもいうべきゲマインシャフトの村に依拠する点が異なる。太宰の演
劇論には戦時中の挙国一致を前提とした大衆批判と啓蒙の色調が強く,瀧田の演劇論はむし
ろ民衆の自生的な想像力を評価しているようにみえる。もちろん,当時の村は国家の土台で
もあったが,その議論は差し当たって保留する。審美の基準を経験に求める点は共通する。
そのうえで,両者のようにベクトルの違うローカルな演劇観はグローバル化の時代におい
て,いかなる意義を示すのであろうか。続けて外国との関係からグローバル化とローカル
化,それらを合わせたグローカル化について考えてみたい。
આ.演劇をめぐる文化の交差
グローバル化と拮抗するローカルな嗜好の根強さを描く方法として,いわゆる伝統芸能が
本拠地と別の社会で公演を敢行した場合のリアクションは,ひとつの目安になると考えられ
る。筆者が別稿で論じてきた「大衆演劇」はもともと旅回りを基本とする11)ので,日々,
そうした異文化接触的な状況に直面しているともいえる。ただし,近年,その分野の海外遠
征も皆無ではないが,決して頻繁ではない。ここでは一般に伝統芸能と位置づけられる歌舞
伎の例に触れておきたい。
国際文化振興会が発行した『訪欧歌舞伎―その記録と反響』
(1966)という資料がある。
これは文字どおり,1965 年に実現されたヨーロッパ初舞台の全容を総括したものである。
「使節団」は
月 29 日よりベルリン,パリ,リスボンを巡回し,11 月日に東京へ帰着し
た。団長の河竹登志夫が編者も務めたが,各国における劇評と観客へのアンケート結果が特
に注目される。
河竹のまとめたところでは,上演されたつの外題を評判の高い順に並べると,最上位は
『俊寛』
,最下位は『車引』であったという。西洋ドラマの理念で理解できるかどうかの違い
が好評不評の鍵を握った。装置や演技などがリアルに伝わらなければ,人気はでない。不評
になるほど,
「むずかしい」あるいは「ながすぎる」という感想が寄せられる。様式美が完
全に否定されるわけではないが,女形のように「おどろきと関心」を呼び寄せることもあれ
33
『グローカル研究』઄(2015)
ば,
「明らかな違和,矛盾」が意識されると敬遠につながる。反応全般は「理解し,共感で
きるという親近感・連帯感」と「異質なもの,別の世界の発見とおどろき」に二分される。
とはいえ,やはり「ドラマチックなものの方が,踊りや型物よりも外人にとってわかりやす
く,入りやすい」という傾向もみられた。様式美の鑑賞には「経験の積み重ねを要する」
が,
「近代リアリズムからの突破口を,あれこれと試み」ながら,未知のものを現代の眼で
解析し,自分のものに取入れようと努力している西欧の人々に向けた公演は,とりあえず成
功であったとしめくくられている(河竹 1966:22-25)
。
以上は時代が異なる日本人の間にも起こることである。人はあくまで自分自身が生きる
「現在」の主観で好き嫌いを判断する。つまり,社会的経験の違いが「芸」への評価差を生
じさせ,そこに過去を規範とする「伝統」の解釈が投影されるという図式は,古今東西に遍
在しうる。グローバル化が近代を特徴づけるのか,あるいは脱近代を特徴づけるのかは研究
者によって見解が分かれるとして,情報が世界規模で一挙に拡散する現代において,
「伝統」
と称されるローカルな個別性が薄まる可能性は大枠として否定できない。ただし,新鮮なア
イデアが次々と補充されても,居心地のよい感性に落ち着くことは少なくない。かような揺
らぎもまたグローバル化の副産物たるグローカル化の容貌といえる。
演劇については,ストーリーひいてはドラマの解体が共通の志向として浮かぶ。それは,
誰もが近代的な制度の呪縛から解かれて一斉に発話する不条理劇などの形態であらわれ,い
わゆるポストモダンの多声的状況と重なるかにみえる。したがって,西欧の観客が経験不足
で「踊りや型物」にとまどいつつ,
「近代リアリズムからの突破口」を歌舞伎に探ろうとし
ていたとする河竹の指摘は,きわめてグローカルな展開を予見していたともいえる。
日本では,もともと文楽や歌舞伎の戯曲と並び,ストーリーに最初から依拠しない身体重
視の舞踊劇が「伝統」の一角をなしてきた。ある時期から,西欧でも「ドラマチックなも
の」より「踊りや型物」に注目するという美的価値観の転換が生じ,日本との間に横たわる
「伝統」の距離感が縮まったと仮定される。
その意味で,アイルランド出まれのサミュエル・ベケット(Samuel Beckett)が不条理
演劇を世に問い,能や狂言の役者がそれを演じたりしてきたという事例は象徴的である。
楠原偕子がいうように,日本の伝統芸能では,まず型で身体のフォームを鍛えあげる。役
者は様式化された所作を稽古で暗黙知とすることにより,はじめて「自由に身体の動きを使
い得る」のであり,
「行為そのものを示す―action 自体を present する」という「芸」の目
標に到達する。型自体に疑問を抱いたりせず,西欧のように「テキストを分析し説明し合う
ことからリハーサル」したりもしない。さらに,能や狂言の役者は音楽と同じようなプロ仕
様の教育を子供の頃より受け,かような俳優術は人形芝居やパントマイムに似るとされる
(楠原 1995:61-76)
。
「芸」という文化の習得をめぐる楠原の分析によって描かれるのは,日本と西欧の間にみ
られる演劇作法の交差である。両者の相違は明らかとしても,それを埋める発想として「イ
ンターカルチュラリズム」の概念が引かれている。今日,それは多文化主義すなわちマルチ
34
日本発の演劇にみるグローカリゼーション
カルチュラリズムと区別される。どちらも価値観の対立を避けようというベクトルは共通す
るものの,前者は多数派集団による主流文化との二元性を意識したうえで,違いを直視し,
少数派集団の複数文化とバランスのとれた関係調整に向かうことを理念とする。その意味で
グローバル化による均質化に収束されない再ローカル化の構図を想起させる。
楠原の場合,相互交流という一般用語化のきらいはあるにせよ,それを共同作業への道と
解釈し,
「さまざまな分野の境界線が消えマージナルな部分で他分野との接点を見出して新
しい表現の可能性が追求」
(同書,62 頁,以下の引用は頁数のみを示す)される方向とみな
している。再ローカル化に先行する脱国民文化の機運ととらえれば,グローバル化の定義に
親しいかもしれない。
「今日では形のうえからなぞらえてエキゾチシズムを狙う時代は終
わって」
(65 頁)いるとし,西欧に日本的な「新しい表現の可能性」が芽生えているととら
える見方は,前述した河竹の観察につながっていく。
ここであらためて浮かぶのは,いかなる要素が日本的であるかというローカルな問いであ
る。再び楠原によれば,能や狂言の役者は「日頃息をととのえ身体の線を崩さずに保つとい
うことへの訓練を叩き込まれた」
(66 頁)がゆえに,西洋前衛戯曲への適応を意識しすぎる
と,
「身体の使い方において作品の要求するものとずれて」
(66 頁)いき,
「写実も徹底でき
なければ形を生む基礎訓練もない曖昧な身体の演技」
(66 頁)に陥ってしまう。それは「心
理的一貫性を重んじて自然な身体表現を目指している近代的俳優術」
(67 頁)の逆をいく。
日本の役者にとって「型で鍛えあげられた彼等の身体は,型の中でこそ最も解放され命を吹
き込み得る」
(67 頁)ため,あくまで「形から入り,それに命を吹き込むことも物理的効果
である,という演技への認識」
(69 頁)が踏襲されてきたのであった。つまり,台詞より身
体的な「型」から入り,それに徹するのが日本的といえる。
細部の比較は省くが,いうまでもなく西欧の演劇は言語すなわち戯曲重視であり,日本と
西欧では「伝統演劇」の劇場空間も構造的に異なる。そうした落差を埋めるのが,楠原のい
うコラボレーションである。それもまた国際交流の一端とみなせば,グローバル化の側面に
連なる。実際に楠原は,ベケット作品と能の間で主題や構造の類似性が指摘されてきた点,
西欧の俳優術においても「近代的な心理主義を排し,かたちが内容を決めていくということ
に専念する方法」
(76 頁)が注目され始めた状況を指摘し,日本の演劇が共同作業で与える
相互作用の可能性を強調しつつ,議論を閉じている。本稿に絡めると,そこから新しい西欧
演劇の表現が結実した時,それこそがグローカル化の成果といえよう。
逆に西欧人が能や狂言を演ずるという事例も紹介されている。たとえば,大蔵流茂山家の
狂言師たちと能法劇団を結成したジョナ・サルズ(Jonah Saltz)であり,楠原はサルズ本
人による主張を引用している。
日本の俳優たちは,動きに疑問を持たずに,ただそれぞれで表現の明確さを心掛け,そ
して観客を動かす流れるような時と力の感覚を持ってそれらを一本の糸で繋いでいく。
(楠原 1995:61)
35
『グローカル研究』઄(2015)
やはり「型」の重視を強調する演劇観については,サルズ自身が記した次のような論考
(サルズ 2009)がみられる。最初に「演劇も未曾有の国際化を経験」していることから,
「孤高を保っていた伝統芸能の担い手も,今や国際的な観客や研究者を相手にしなければな
らなくなってきた」という指摘がなされる。それは「内需向けに温室で育てられてきた日本
の伝統芸能が,貴重な輸出商品として注目される」
(同書,87 頁,以下の引用は頁数のみを
示す)とも言い換えられる。
外部を意識する上記はグローバル化の徴候であり,すでにみた福島による儀礼論の検討が
想起される。
「伝統的に受け継がれてきた厳格な約束事」
(87 頁)すなわち民俗知識たる暗
黙知に明るい通(ツウ)の保護を離れ,
「約束事をまったく知らない観客」
,特に外国人の眼
にさらされた時,芸能者は「言葉の壁」
(87 頁)にぶつかる。そこで生じるのが翻訳の問題
にほかならない。
翻訳は他者の言葉を自分の言葉で説明したり,その逆をおこなうことである。サルズの場
合は,みずからが取り組む狂言ほかの喜劇を主な例にあげている。
ローカルなユーモアをグローバルに紹介しようとすれば,翻訳上の戦略が必要となる。サ
ルズによれば,ひとつは,マルチメディア的な環境を活かして視覚的・聴覚的な要素を重視
する方法である。他方では,地域や階級または個人差に応じた「声」や話し方が鍵を握る場
合,個性を排したニュートラルな翻訳は不可能に近く,古語を現代表現化するのに似た「大
胆な置き換え」
(89 頁)が求められる。結局,翻訳者は以下の決断を迫られる。
原文にある曖昧さの程度(不透明か半透明か透明か)を保持しようとするか,それ
とも,わかりやすくするために原文のニュアンスを犠牲にして単純に訳すか,の二
者択一[...]。
(サルズ 2009:89)
そのうえで「舞台上演には,動作や表情など言語以外の要素もあって,それらが言葉とは
また別の意味を伝える」のであり,とりわけ「生上演(live performance)の翻訳には,リ
アルタイムで意味が伝わらないと取り返しのつかないことになる,という時間的制約」
(90
頁)が付随する。
「喜劇の真髄は即興性」
(91 頁)にあり,現場の観客とタイミングの合っ
た持続的なかかわりが必須とされる。身ぶりのように「文化的・言語的な慣例への配慮」
(91 頁)すなわち暗黙知にあたる要素の処理も欠かせない。
「本物志向」
(authenticity)
,
「わかりやすさ志向」
(accessibility)
,
「娯楽志向」
(entertainment)が拮抗することで「緊
張」
(tension)が生じ,
「世界のスタンド・アップ・コメディアン,道化師,不条理劇役者
などと交わることで自らの芸術を拡充」
(108 頁)するという理想をサルズは掲げる。ロー
カルな文化の翻訳は三者のさじ加減によって差配され,それこそがまさしくバランス感覚に
依拠したグローカル化の過程で要求されるものではなかろうか。
36
日本発の演劇にみるグローカリゼーション
まとめ
狂言師の観世榮夫もまた他流派の「芸」すなわち身体技法的な暗黙知を習得し,他分野の
演劇にも進出したひとりであった。本稿では江戸時代における歌舞伎のローカルな状況と第
二次世界大戦後の初訪欧,能や狂言の役者がサミュエル・ベケットの戯曲を演じたり,外国
人が狂言を翻訳したりといった越境の事例を扱ったが,個別性の意義はグローバル化の渦中
で一層の議論を求められる。
「グローバリゼーション」と題した『舞台芸術』創刊号の企画
特集において,演劇批評家の鴻英良は「ローカリティは歴史的・地理的な限定性と多様性に
いろどられていますから,サイボーグ(異質なものの接合)は単一でも,均一でもありえ
ず,様々な形態で出現してくる」
(鴻 2002:81)と対談のなかで発言している。劇作家の平
田オリザに関する観察映画「演劇」
「演劇」
(2012 年)を公開した想田和弘監督は,
「混
沌とした,ありのままの世界」を舞台に構築し,観客とその世界を共有しようと試みるのが
平田演劇と定義し,同時に「綿密な計算や操作,技術や鍛錬」すなわち「芸」の必要を説く
(想田 2012:vi)
。
つまり,言語表現としての台詞よりも身体的な「型」を重視する日本の演劇は西洋近代の
論理的なドラマツルギーと対極をなし,
「芸」の習得過程でローカルな傾向を共有する。ゆ
えに民俗芸能,能,狂言,歌舞伎などで連続性も共感される。サミュエル・ベケットの戯曲
は,西欧文化の合理性を懐疑することで日本の伝統芸能に接近した。そうした前提にたち,
楠原は前述のようにインターカルチュラリズム12)の可能性を検討したのである。それは文
化の交差が生む新しい創造性の模索と換言できるかもしれない。グローバル化は境界を限り
なく拡張する。それに歯止めをかける反発力が再ローカル化の所以と考えれば,グローカル
化はいつの時代にどの地域でも原理的に起こりうる現象である。日本発の演劇は身体技法的
な暗黙知の習得を前提としてきたからこそ,言語文化より変化の遅い非言語表現の構造を可
視化させる。ただし,翻訳の過程において,そこには行く先々の土着性が付与されていく余
地もある。本稿では,
「大衆演劇」までを対照させる分析に至らなかったが,今後の課題と
したい。
注
()
「文化化」の原語として,異文化接触による変容と適応を説く概念は acculturation であり,
ハースコヴィッツはその含意に傾く。ただし,教育学で一般的な名詞 enculturation の場合,本
稿と関連する行動パターン(型)の習得という特質に焦点が移行している。
()福島には『暗黙知の解剖』
(2001)などの著作がみられるものの,この稿では暗黙知の概念を直
接的に強調するわけではない。ただし,民俗知識などの用語に着想が反映される。
()福島と研究会を組んだ橋本裕之が柳田國男や折口信夫ほか従来の民俗芸能研究を批判する際に
も根拠とした。その辺りは『民俗芸能研究という神話』
(2006)に詳しい。
()それ自体は西浦田楽を扱う論考だが,あらかじめ「福島真人の理論の適用可能性を検討する」
37
『グローカル研究』઄(2015)
と明言されている。
()概括が終わったので,以下ではカギ括弧なしの表記に切り替える。
()そうした観点からポピュラー文化研究の著作を発表している。
()木戸銭の安い常打ち小屋に専属し,手持ち演目でやり繰りするバラエティ本位の一座。
()芸術的評価につながる作品ごとに役柄と釣り合ったキャストをオーディションなどで選抜し,
大都市の舞台中心に高額入場料の公演ツアーをおこなう形態。
(
)出雲阿国らの「かぶき踊り」を原初とみることが定着している。
(10)
『大衆の反逆』
(原書 1929)やアドルノのジャズ批判を参照されたい。第二次世界大戦中の日本
における演劇改良の国策については別の機会に扱う。
(11)
「芸能の比較研究に向けて:キューバのルンバと日本の大衆演劇における大衆性と即興性」
(2010)
,
「文化を売る:日本の「大衆演劇」におけるマーケティング」
(2013)で論じられる。この
分野でも口立て稽古と呼ばれる身体技法の伝習がみられる。
(12)インターカルチュラリズムについては,青山学院大学国際共同研究センターの主催で「多文化
社会の課題と挑戦 インターカルチュラリズムの可能性」と題したシンポジウム(2012 年)が開か
れた。PDF(http://www.jripec.aoyama.ac.jp/publication/results/rlt0003.html)で主旨ほかの
内容を確認することができる。楠原の議論は演劇に関する記述が中心であり,概念そのものの検
討を詳しくおこなっていないが,
「異文化を持つ者の共同作業」を言い換えた語法になっている。
差異の認知にインターカルチュラリズムの出発点があるならば,そこで生じるコラボレーション
については,ローカルとローカルの拮抗という文脈において,さらなる分析の余地がみいだされ
よう。
参考文献
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38
日本発の演劇にみるグローカリゼーション
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試論(<特集>文化のリソースとしての身体)
」
『文化人類学』70(2)
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瀧田貞治,1943,
『傳統演劇瑣談』書物展望社。
上杉富之,2009,
「
「グローカル研究」の構築に向けて:共振するグローバリゼーションとローカリ
ゼーションの再対象化」
『日本常民文化紀要』27:43-75 頁。
39
『グローカル研究』઄(2015)
Glocalization in the Dramas of Japanese Origin
Ryosuke KURATA
This paper reconsiders a phenomenon of “glocalization” from the point of view of
cultural crossings while referring to the cases of ‘Kabuki,’ ‘Noh’ and ‘Kyogen.’ From the
perspective of “culturization” and “tacit knowledge,” I have analyzed the principle
through which the body technique like “kata (form)” was globalized and simultaneously
became more local. A learning process of the body technique is easy to make regional
individuality manifest, while “gei (performance)” allows us to see theatrical work as
“translation” between different cultures. Theaters of Japan and the U.S. each suggest
cultural hierarchy. By comparing the performance of ‘Kabuki’ in Europe by Japanese
actors, Beckett’s theater of the absurd by a Noh actor and ‘Kyogen’ by a a non-Japanese
actor, it is understood that Japanese drama based on the acquisition of "tacit knowledge"
prioritizes “kata (form),” and Western theatrical culture can take on a form close to a
traditional Japanese entertainment when it begins to have some doubts over rationality.
There we can see a possibility of interculturalism where differences are acknowledged
and drawn into fusion.
Keywords: glocalization, kata (form), body, tacit knowledge, translation
40
Special Section
Global Social Thought and Academic Practices in the Social
Sciences
Journal of Glocal Studies
No.2 (2015) 43-44
Introduction
Shujiro Yazawa
Professor Emeritus,
Seijo University/Hitotsubashi University
[email protected]
(Received 12 December 2014. Accepted 2 February 2015)
This special section is consisted of three papers which were presented at the Second
Tokyo Thinkshop, jointly organized by Center for Glocal Studies at Seijo University and
World Social Sciences and Humanities Net (World SSH Net)1 on 4th of October, 2014 at
Seijo University in Tokyo.
World SSH Net prefers Thinkshop rather than conference or workshop. It means
intensive debate and discussion after short presentation. World SSH Net has been
organizing Thinkshops worldwide.
The First Tokyo Thinkshop was held at Seijo University in May of 2012. The Center
for Glocal Studies immediately published the book titled as Theories about and Strategies
against hegemonic Social Sciences which is collection of papers presented at Thinkshop2.
The title of The Second Tokyo Thinkshop is “Global social thought and academic
practices in the social sciences.” The rationale of the thinkshop was defined as follows.
“The Thinkshop in Tokyo therefore focusses on some first attempts to explore what the
nature of the universalized approach to social thought is, how the universalization of the
nature of the western way of theorizing affects the ways of global social theorizing and
discourse, as the academic practises under this approach. Finally, it will also initiate
discussing some ideas about how to go beyond the social sciences model of social
thought.”
This section will present three papers which correspond to three components of the
rationale. Zawawi Ibrahim’ s paper investigates what the nature of the universalized
approach to social thought. He tries to elevate anthropology as world system level to
43
Journal of Glocal Studies 2 (2015)
social science knowledge ‘scape’ level. By doing so, he got a key of transnational- cum‘hybridised’ theory- making.
Kazumi Okamoto’ s paper deals with academic practices under universalized
approach of western way of thinking. With her sharp critiques on ordinary contrastive
approaches (center- periphery, North- South etc.), new conceptual and analytical
framework that is called “academic culture” is introduced. This approach would be an
alternative approach to discussion on academic work in a context of international
collaboration.
Michael Christie’ s paper looks for a renewed definition of social science in
postcolonial knowledge work. This paper closely looks at two ceremonial practices of
Australian Aboriginal people and gets two concepts for understanding a social knowledge
practice. The author understands “these concepts as metaphysical underpinnings to a
particular performative epistemology.” They provide, according to author, “analytical
framings whereby alternatives can be discerned to the globalising social sciences and
humanities.”
As an editor of this special section, I sincerely hope that readers are able to
understand a present situation of global social science and critiques on established global
social science and alternative approaches to the globalizing social sciences and
humanities. In the nutshell, if it is possible for me to use our wording, this special section
will present a present situation of glocalization of social theory today.
Notes
1.
About World Social Sciences and Humanities net, please check its home page and following books.
http://www.worldsshnet.org/about- us, Michael Kuhn and Doris Weidemann (eds), Internationalization
of the Social Sciences, [ transcript] Bielefeld, 2010. Michael Kuhn and Kazumi Okamoto (eds), Spatial
Social Thought, Local knowledge in Global Science Encounters, [ ibidem] , Stuttgalt, 2013.
2.
The book can be downloaded from World Social Sciences and Humanities Net’s home page.
[要旨]特集への序文
矢澤修次郎
著者は,特集に掲載されたつの論文が発表された第二回東京シンクショップの概要,
とりわけその趣旨とシンクショップとは何かを説明する。その後で著者は,それぞれの論
文の注目されるべき論点,要旨を略述する。このイントロダクションは,結論として,
つの論文が今日の社会理論のグローカル化の現状を表していることを述べる。
44
Journal of Glocal Studies
No.2 (2015) 45-68
From a ‘World-system’ to a Social Science Knowledge
‘Scape’ Perspective: Anthropological Fieldworking and
Transnationalising Theory-making in the ‘Periphery’
Zawawi Ibrahim
Professor, Institute of Asian Studies & Faculty of Arts and
Social Science, Unversiti Brunei Darussalam.
[email protected]
(Received 12 December 2014. Accepted 2 February 2015)
Abstract
This article represents an anthropological engagement with the question of
social science knowledge production in the context of a ‘world- system’
(Kuwayama, 2004) where the construction of its theoretical base has
historically been identified with the ‘centre’ rather than the ‘periphery’. The
Japanese anthropologist, Kuwayama, adapted the term from Wallerstein, to
refer specifically to anthropology as a ‘world- system’, which is shared
unequally between the ‘centre’, ‘semi- periphery’ and ‘periphery’. It is not
surprising therefore that given this uneven epistemic playing ground,
allegations of theoretical “underdevelopment” and “knowledge dependency”
have been directed towards social science scholarship in the ‘periphery’
(King,2008). Thus far, the epistemological responses from the ‘periphery’
have been articulated in the form of discourses such as ‘decolonising
anthropology’, ‘Provincialising Europe’ and ‘indigenisation’ as a way of
countering Eurocentrism (colonial knowledge) and the dominant
‘Anglo- American’ theoretical template (Chakranarty, 2000; Atal, 1981; S.
Hussein Alatas,1977; S. Farid Alatas, 2006). Taking a lead from Appadurai’s
notions of ‘scapes’ (2005), the article attempts to elevate Kuwayama’ s
‘world- system’ conception to another epistemic level, i.e the recognition of a
‘missing scape’ – a social science knowledge ‘scape’ (Zawawi 2013: 1- 2)
which is transnational, uneven and contested, but yet privileges an interactive
playing field for possible theoretical exchanges and synthesis between
knowledge producers from both ‘centre’ and ‘periphery’ who occupy this
‘scape’. In its original vision, the idea of ‘scape’ is multidirectional, more
45
Journal of Glocal Studies 2 (2015)
fluid and ‘flowy’ than a ‘world- system’ concept and to some extent, this
dilutes the rigid distinction between ‘centre’ and ‘periphery’ found in the
latter. For anthropology, the possibility of such a transnational synthesis is
premised upon an understanding that fieldworking in the ‘periphery’ is not
only a site for collecting empirical data but that it also functions as a base for
reworking with and innovating upon existing theoretical and conceptual
formulations. It is important to remind ourselves that a fundamental principle
in social science is that theory- building is based upon an ongoing dialectical
relationship between theoretical practice and empirical research. The
outcome of this is essentially a ‘hybrid’, in the form of a theoretical synthesis
which is transnational in its genesis. This means that its origin is neither at the
‘centre’ nor ‘periphery’, but one which draws its analytical resources from
both the corpus of theoretical knowledge established at the ‘centre’, as well
as from the conceptual nuances which are activated through research, derived
from the local, cultural and indigenous empirical domain of the ‘periphery’.
Hence, anthropological fieldworking becomes an essential, critical site and
link in this transnational- cum- ‘hybridised’ theory- making project.. The case
study will revolve around problematizing Marxist theoretical formulations of
‘class consciosuness’ and class ideological practice from the ‘centre’ to the
‘periphery’, mediated by my own fieldworking among Malay working class
in plantation society.
Keywords: ‘world system’, social science knowledge ‘scape’, transnationalising, hybridisation, indigenisation, anthropology,
fieldworking.
This article represents an attempt to revisit and engage with some of the epistemological
questions raised by Asian or non- western scholarship in relation to its contribution to the
production of social science knowledge in a globalising world. In a recent review of Asian
anthropologies, the Japanese anthropologist Takami Kuwayama (2004: 37), positions this
knowledge as occupying the ‘periphery’ within the global framework of a ‘world- system’
of anthropology, with work produced in the USA, Britain and France dominating the
‘centre’ of anthropological knowledge production. Japanese anthropology, on the basis of
its unique historical trajectory, has been privileged with a ‘semi- peripheral’ position
(Ibid.: 39). While Asian social sciences, including anthropology and sociology, continue
to flourish and can no longer be seen as a purely western import (Fahim, 1982; Yamashita
et al., 2004: 1- 2), critics still lament the ‘underdevelopment’ of (Southeast) Asian social
science and the ‘visible knowledge dependency’ of Asian scholarship on western- based
concepts and theories (Evers, cited by King, 2008: 20- 23).
Obviously, the issues at stake between the centre and periphery of knowledge
production in social science are complex and multilayered. Historically, western
46
From a ‘World-system’ to a Social Science Knowledge ‘Scape’ Perspective
imperialism was not only the harbinger of economic and political domination but also of
knowledge hegemony on a worldwide scale. This correlation between power and
knowledge persists in the postcolonial global era. Theoretical production in social
science, for instance, has historically been identified predominantly with the ‘centre’
rather than the ‘periphery’. For a long time, the latter has been reduced to the position of
receiver and consumer of theoretical knowledge, rather than its initiator or producer. At
most, the periphery remains a laboratory of rich empirical data for western social
scientists to investigate and utilise at will when undertaking their research, and ultimately
to create new theories or engage in current theoretical discourses pertaining to the
‘periphery’. Hence the articulation a distinctive Southeast Asian or Asian epistemology in
the globalising age has to confront the epistemological imperatives of “ a North American
style of knowing” (Goh, 2012) or what Anthony Reid (2012) refers to as “the new
intellectual hegemony” of the ‘Anglo- American code’.
Epistemological Responses from the ‘Periphery’:
Towards a ‘Decolonising Anthropology’ Discourse?
In my journey as an anthropologist, I have never ceased to be amazed by the eloquence of
the indigenous people, whose narratives I have diligently been recording in celebration of
both a postmoedernist ethnography and a decolonising anthropology. (see Zawawi, 1996;
1997; 1998a; 1998b; 2000; 2001). In many ways, the task of the anthropologist is made
easier by the presence of these articulate speakers in his midst, for what they express are
not only the facts but also the wisdom and knowledge to understand and interpret their
landscape. For a long time, anthropology, as we were reminded way back by the
insightful Levi Strauss, has created the indigenous as ‘objects’ of its research enterprise.
However, the more I listen to their narratives, the more I have come to believe that it is
these ‘subjects’ rather than the colonial anthropologists, who have been the true bearers of
knowledge of the field. To a large extent, there has been a degree of mythologising which
privileges the anthropologist as the authority who translates, interprets, and gives ‘added
value’ to the raw data solicited from fieldwork. In so doing, the anthropologist apparently
renders respectability to indigenous narratives and forms of knowledge, elevating them to
the status of ‘scientific knowledge’. This has been a part of the baggage of ‘orientalism’
and the colonising methodologies that has trapped western anthropology since its birth
when dealing with indigenous people (Smith, 1999), and in the representation of ‘the
Other’.
Marsden, in his review of the place of indigenous knowledge under the domination
of conventional scientific thought, echoes the above sentiments when he remarks that
47
Journal of Glocal Studies 2 (2015)
(u) ntil relatively recently the dominant paradigm, which stressed the
superiority of western objective, scientific rationality consigned ‘other’
forms of knowledge to positions of inferiority. It seems that the scientific
tradition itself is the one that is ‘traditional’, endowed with magic, religion
and superstition, as its tenets turn into dogma and as intellectual creativity
is thereby stifled. ‘Local’, ‘traditional or ‘folk’ knowledge is no longer the
irrelevant vestige of ‘backward’ people who have not yet made the
transition to modernity , but the vital well springs and resource bank from
which alternative futures might be built (1994: 45- 46).
Within postcolonial anthropology, the Maori anthropologist, Linda Tuhiwai Smith,
representing the new imaginings of Maori indigenous anthropology, launches a vehement
critique against colonial modes of epistemology and methodology that have rendered
Maoris as mere objects of research. The ‘calling’ by Tuhiwai Smith is to move the
‘indigenous’ as ‘agency’ and ‘subjects’ in their own right, thereby empowering them to
determine their own ‘indigenous’ research agenda through ‘decolonising methodologies’
(Tuhiwai Smith, 1999). In this context, I believe that Smith has moved her methodology
beyond postmodernist ethnography (Fontana, 1994). Of the 25 indigenous projects that
she advocates, they emphasise not only ‘storytelling’, but also ‘claiming’, remembering’,
‘indigenising’, ‘writing’ and ‘sharing’. . In my own story- telling research among the
Penans of Sarawak, Borneo (Zawawi & NoorShah, 2012), I have utilised story- telling as
a form of decolonising colonial methodology to unveil the Penan emic perspective and
their ‘subjugated discourse’ (after Foucault) on ‘development’, as a counter- narration to
the neo- liberal- driven ‘developmentalism’ of the Malaysian postcolonial state , which
has dispossessed them of their rainforest nomadic ecology and other irreplaceable jungle
resources through logging . Mediated by the narrations of Penghulu James of the Penan
village of Long Lamai, in Ulu Baram, I have been able to articulate an indigenous
perspective on ‘deterritorialisation’ and their ‘reterritorialisation’ imaginings, to unravel
‘a representation of an indigenous notion of place, space and territory’ in defence of
Penan traditional claims to ‘stewardship’ over the land to contest the current bureaucratic
‘rational- legal’ and official discourse which governs the present Penan landscape
(Zawawi, 2008, p 6, & pp. 75- 92).
Among the Orang Asli of Peninsular Malaysia, for instance, indigenous storytelling
and writing has already assumed momentum (see Zawawi, 1996; 1998b; Akiya, 2001;
2007). In Borneo, the island which locates the Penan, the Dayak intellengenstia of
Kalimantan Indonesia have long been active in ‘writing their own culture’ through the
48
From a ‘World-system’ to a Social Science Knowledge ‘Scape’ Perspective
NGO movement, Pancur Kasih, and the formation of their own research and publication
wing, IDRD- Institute of Dayakology Research and Development which publishes the
monthly Kalimantan Review, and books – all of which articulate and attempt to represent
Dayak emic perspectives on culture and development (see Tamayo et.al., 2012; Alcorn,
Janis and Antoinette G. Royo (eds.), 2000).
On ‘Provincialising Europe’?
It is Dipesh Chakranarty who in his Provincialising Europe (2000), acknowledges that
“Europe has already been provincialised by history itself” , referring to the fact that in the
20th century, the locus of power has already shifted to outside Europe. However he
astutely observes “the so- called European tradition is the only one alive in the social
science departments of most, if not all, modern universities” (2000, p. 3). Habibul
Khondker sees Chakranarty’s critique as one that envisions a move towards ‘genuine
globalism’. He asserts that Chakranarty’ s Provincialising Europe argument is not a
recommendation for ‘cultural relativism’, nor is it an argument “to first contain Europe
and its influence and then delink”. For him, “It is an argument for putting Europe and its
influence into perspective, to curtail its earlier imperial notion and to open up a dialogue
that would benefit all. This is not to recommend that Europe or the so- called West be the
source of theories and concepts and the rest of the peripheral world be the empirical area
for testing and refining these theories. The whole world can be the arena simultaneously
for conceptual- theoretical innovations and empirical testing…It is true that Western
social science can be quite parochial or provincial. What is important is to fight
provincialism, for genuine globalism” (2012, p. 69).
‘Indigenisation’?
The interventionist ‘indigenisation’ discourse has been moved by scholars such as Atal
(1981), S.Farid Alatas (1977) and S .Hussein Alatas (1977).
Atal refers to ‘indigenisation’ to mean “ replacement of the exogenous , Western
concepts by the local, endogenous ones; the latter means incorporation, localisation, and
fine tuning of the concepts in the context of local circumstances” (cited in Khondker,
2012: 70). Atal emphasises the need for indigenising the exogenous elements to suit local
requirements. As to whether this is undertaken by the ‘indigenous’ themselves or
‘outsiders’ “is a mere detail” (1981, p. 193).
Another indigenous scholar, S. Farid Alatas refers to the need to seek “alternative
discourse in Asian social science as responses to Euroentricism”, referring to
‘indigenisation’ as “a plurality of calls” (2006). On anthropology, citing Evans, he asserts:
49
Journal of Glocal Studies 2 (2015)
“The indigenisation of anthropology cannot simply be understood in negative terms of
delinking from metropolitan, neocolonialist control. It is also understood in a more
positive way in terms of the contribution of non- Western systems of thought to
anthropological theory” (p. 85). He insists that “ Non- Western thought and cultural
practices are to be seen as sources of anthropological theorising, while at the same time
Western anthropology is not to be rejected in toto”. Citing Sinha, he stresses that: “The
indigenisation –of- anthropology projects is not conceived to be a ‘categorical rejection of
all “Western” input in theorising’ and ‘does not seek to replace “Eurocentrisim” with
“nativism” or any other dogmatic position” (S. Farid Alatas,ibid. p. 85).
A critical epistemological question revolves around the imperative for Asian
scholarship to decolonise itself from orientalist and Eurocentric forms of knowledge, the
western discourse of the non- European that was eloquently critiqued in the influential
writings of Edward Said (Said, 1979; S. Farid Alatas, 2006, pp. 42- 45; Cohn, 1996). From
the Asian world, the sociology of knowledge – based arguments by S.Hussein Alatas in
The Myth of the Lazy Native (1977) that actually preceded Said’ s pathbreaking
Orientalism and the perspectives reconstituted from various disciplines under the rubric
of cultural studies – has played a vital role in advancing new understandings of how and
why knowledge is produced and reproduced. In the above landmark work, S. Hussein
Alatas is able to bring into the discourse both a critique of colonial knowledge ( i.e the
colonial representation of the Malays as ‘lazy natives’ ) as well as of ‘indigenous’
perspectives which extend ‘the ‘colonial gaze’ into explaining the causes of Malay
underdevelopment ( for instance, his critique of former Malaysian PM Mahathir’s famous
treatise The Malay Dilemma (1970) and the Malay ruling elite’s orientalist response to
Malay underdevelopment in Mental Revolution (1970)). In addition, the author is also able
to enlighten us on Malay Islamic and indigenous values that are counter- narrations of
British colonial and orientalist representations of the Malays (see Zawawi Ibrahim, 2012,
pp. 165- 200).
From Kuwayama’ s “World System of Anthropology” to a “Social
Science Knowledge ‘Scape”
In elaborating upon Kuwayama’s ‘world- system’ perspective, I am reminded to revisit
Arjun Appadurai’s well- known notion of the five dimensions of global ‘- scapes’. In his
study of the cultural forms of modernity, and the global exchange of ideas and
information, Appadurai (2005, pp. 48- 65) highlights the fluidity of ‘flows’ emanating
from all parts of global society, how they juxtapose with one another and touch us at so
many interconnected levels. In Appadurai’s neologisms, these flows are comprised of
50
From a ‘World-system’ to a Social Science Knowledge ‘Scape’ Perspective
ethnoscapes, technoscapes, financescapes, mediascapes and ideoscapes, through which
globalising and localising processes feed and reinforce each other. Taking a lead from
Appadurai’ s notion of ‘scapes’ , this article attempts to elevate Kuwayama’ s
‘world- system’ conception to another epistemic level, i.e the recognition of a ‘missing
scape’ – a social science knowledge ‘scape’ (Zawawi 2013, pp. 1- 2) which is
multidirectional, transnational, global, uneven and contested, but yet allows for social
science knowledge to move in multidirectional flows, as an interactive playing field for
intellectual articulations and exchanges of knowledge (theories, concepts, and empirical
research findings), between knowledge producers from both ‘centre’ and ‘periphery’ who
belong to the epistemic community and occupy this ‘scape’.
It is obvious that this ‘scape’ interweaves and interconnects in various ways with the
other ‘scapes’ outlined in Appadurai’s original schema. Similar to other global flows, our
‘scape’ also harbours its own differences and disjunctures. It is also characterised by its
repertoire of binary constructs: global versus local, centre versus periphery, Orientalism
and Eurocentrism or the colonial versus Occidentalism, the anticolonial or ‘the Other’.
Despite its critical ruptures, this social scientific scape has always been a laboratory and
dialogical space capable of generating its own constructive exchanges – across borders,
within or across nations, for collaborative work of the highest order, or for coming to
terms with difference and diversity. Ultimately, it is a scape based on a universal
collective. It is forged and consolidated by a certain shared critical consciousness within
an epistemic community of global scholars whose modus operandi is defined by a
‘sacred’ framework, the fundamental principles of which have long been established.
The ideational contents embedded in the flow of this ‘scape’ are based on our
disciplinary perspectives and empirical research – be they individual, collaborative,
national- based, comparative – drawn from all parts of the world. Such a flow diffuses and
circulates through the usual media of seminars, conferences, journal articles and books
(including visual and digital forms) in the brave new world of global information and
communications technologies. In fact the traditional infrastructure empowering this scape
has already been in place for a long time: universities, social science faculties and
research institutes, publishing companies and their distributors, including numerous
journal production houses which straddle both the ‘centre’ and ‘periphery’ of the
world- system. In its original vision, the idea of ‘scape’ is more fluid, more interactive and
‘flowy’ than a ‘world- system’ concept and to a large extent, it dilutes the rigid distinction
between ‘centre’ and ‘periphery’ found in the latter. Indeed, in its ideal form, it would
also be possible for knowledge production to be conducted in a playing field that
approximates Khondker’s notion of ‘genuine globalism’, i.e it can be located anywhere in
51
Journal of Glocal Studies 2 (2015)
this ‘scape’, be it at the ‘centre’, ‘semi- periphery’ or ‘periphery’ .But as mentioned, it is
also a highly contested playing ground. However, by opting for a ‘scape’ rather than a
‘world system’ framework, it logically provides more social space for transnational fusion
and hybridisation of theoretical ideas and concepts between the different parts of the
‘scape’.
From ‘Centre’ to ‘Transnational’ as a Hybridising Base for Knowledge
Production
I propose that in the context of this social science knowledge ‘scape’, the ‘transnational’
becomes a crucial meeting ground for knowledge production, between the ‘centre’ and
‘periphery’ mediated by the process of hybridisation. Implicit in the idea of ‘knowledge’
is the embeddedness of theory and concepts, as ‘knowledge’ in essence, refers to a set of
empirical data and information that is organised and interpreted by theory and concepts. It
is pertinent here to note that in social science, theory building is the product of the
dialectical relationship between theory and the empirical world. My argument here is that
the ‘periphery’ is not just a reservoir of empirical data: indeed the so- called ‘empirical
domain’ at the ‘periphery’ is equally capable in generating conceptual inputs and
analytical innovations into the existing corpus of the theoretical formulation hatched at
the ‘centre’.
I also suggest that in response to the allegation of ‘knowledge dependence’, we
should move the discourse of knowledge production from the realm of the abstract to the
that of ‘the concrete’, to the site where actual research is conducted, in order to analyse
how these empirical contents make their ‘insertions’ into the theoretical domain (i.e the
theories generated at the ‘centre’), and how these existing theories are re- modified,
re- worked, re- formulated and innovated in the process. This then is the articulation of
the transnational, i. e when the theoretical/conceptual nuances extracted from the
empirical periphery ( call it ‘indigenous’,’local’ or whatever) are hybridised with the
initial theoretical contents from the ‘centre”. As an anthropologist, the domain of the
‘concrete’(empirical) brings me to consider the site of ‘anthropological fieldworking’.
On Situating Anthropological Fieldworking
From the perspective of anthropological practice, fieldworking becomes the site of the
‘concrete’ and actual research where existing theories , most of which are formulated at
the ‘centre’, are applied to analyse and interpret the fieldwork empirical data. This is
where the question of ‘knowledge dependence’, mentioned earlier, can also be tested. The
logical move is then to follow how the anthropologist juxtaposes and interweaves
52
From a ‘World-system’ to a Social Science Knowledge ‘Scape’ Perspective
between both domains – the western concepts/theories that initially guide him, and how
during and after the process of fieldwork, he is able to make new ‘insertions’ and
‘innovations’ into the existing theory.
My own fieldworking took me to the’ periphery’ , amongst Malay plantation
labourers who were working and living on an oil palm plantation of Kemaman, located in
the southern district of Terengganu state of Peninsular Malaysia. The whole plantation,
being 30,000 acres in size had a predominantly Malay labour force of about 3,000, drawn
mainly from different villages from the largely Malay populated east coast states of
Terengganu and Kelantan, Malaysia. Altogether a period of one year was spent in the
field (spread between 1972 and 1975), with the fieldwork being concentrated on the
community residing in the main workers' compound (kongsi) of the central administrative
area of the whole plantation complex. At the time of research, the compound had an
estimated population of 1,500 residents, consisting mainly of unskilled field and factory
workers (for the oil palm mill).
My own fieldworking was an attempt to capture the proletarianization process of the
Malay peasantry and to analyse the contents of their class ideological practice as a
wage- labouring class. In the course of undertaking the above research, I became
conscious of the ‘tyranny’ and ‘burden’ of the Marxist theoretical perspective and
concepts of ‘class’ and ‘class consciousness’. I was aware that as an anthropologist/social
scientist, I had to work within the framework of the above conceptual framework and all
its attendant neo- Marxist revisions and reformulations coming from the ‘centre’.
Class, Consciousness and Class Ideological Practice: Theoretical Ideas
& Reformulations of Marx from the ‘Centre’
A prerequisite for any analysis of ideology must first come to terms with the structural
context in which such an ideology is produced. In this respect, the plantation must
essentially be seen as “a class- structured system of organisation” (Eric Wolf, 1971, p. 29)
in which “the basic distinctions between owners and workers are supported by a complex
system of political and legal sanctions.” (Ibid, p. 163). In short, the plantation is an
economic organization which is organized around the control of its labour force for the
appropriation of surplus value in the productive process. It entails a rigid demarcation
between those who own the means of production (or those who control labour) and those
who sell their labour organized for production (George Beckford, 1972, pp.53- 55).
In the context of the main objectives of my research, the present issue arises from a
theoretical concern in Marxist analysis about the relationship between class at the level of
production relations and class at the level of ideological practice. Its genesis stems not
53
Journal of Glocal Studies 2 (2015)
from Marx per se but rather from a vulgar materialist conception of the reflection and
mechanical determination of superstructure by the material base.
According to Rude, Marx's “material being” vs. “superstructure” relationship
“becomes an endless conundrum and has been a hotly debated theme,
susceptible to varying interpretations since Marx first penned his famous
phrase in the Critique of Political Economy. Taken literally, the
formulations he then used appear to justify those ‘determinists’- and critics
of Marx- who have insisted that the ‘superstructure’ (including
consciousness and ideas) must, according to Marxist theory, be a mere and
a direct reflection of the base from which it emanates. Others, however,
have argued that ideas and ideology, while in the first instance owing to
their existence to man's material being, can at crucial moments in history,
assume, temporarily at least, an independent role. While Marx’s earlier
‘philosophical’ formulations were either ambivalent or appeared to favour
the first interpretation, there seems little doubt that both Marx’s and Engel’
s historical writings -The Eighteenth Brumaiire and Peasant War in
Germany, for instance, lend support to the second” ( Rude, 1980, pp.
18- 19).
Hence when a disjuncture exists at the level of consciousness or ideological practice
which does not seem to conform to “some infrastructure that logically precedes it,” such
an ideology “thus becomes . . . imaginary, or epiphenomenal” (Kahn, 1981, p.49). Kahn
suggests that such an approach must be abandoned, “because economic and political
structures are not directly perceivable and because ideological systems are themselves
semi- autonomous- the product of their own internal properties as much as of economic
and political constraints.” (Kahn 1978, p. 104).
In his reformulation of the problem, Laclau questions the assumption of a necessary
correlation between class existence at the structural and the superstructural level:
“Classes are poles of antagonistic production relations which have no necessary form of
existence at the ideological and political levels” (Laclau, 1977, p. 159). Thus the
disjuncture is not essentially at the level of concrete experience but of theory itself, as has
been neatly put by Norton: “Theory of the nature of inequalities in relations of production
is not ipso facto a theory of consciousness and action. . . . Consciousness is a distinct
domain of social reality determined partly by material interests, but in ways not
necessarily complying with a logic deduced by an analyst of class.”(Norton, 1981, pp.
54
From a ‘World-system’ to a Social Science Knowledge ‘Scape’ Perspective
4- 5).
Most of these above authors recognize the flexibility of consciousness and action in
relation to class determinations. Thus while the ability of human beings to act as
“subject- incumbents of specific class positions” is still premised on their formation “as
class subjects by class ideologies” which are analytically defined on the basis of
production relations, these “class ideologies,” however, “exist in various kinds of
articulation with non- class ideologies. ” (Therborn, 1980, p.72). In other words, at this
level of operation, there may be no necessary logic why non- class values or contents
should be totally displaced by class elements.
Laclau, in his work on ideology, distinguishes two central contradictions in the social
formation- class contradiction and the “power- bloc vs people” contradiction (giving rise
to “class interpellation” and “popular democratic interpellation” respectively) - and on
this basis, asserts that the ideological sphere cannot be reduced to a direct expression of
class interests. What may occur is that these popular democratic (or non- class) ideologies
(interpellations) are articulated with class ideological discourses which then becomes the
basis of political action promoting class objectives.
As Laclau states it:
“Every class struggles at the ideological level simultaneously as class and
as the people, or rather, tries to give coherence to its ideological discourse
by presenting its class objectives as the consummation of popular
objectives”
(Laclau, op. cit., p. 109).
“Classes exist at the level of the ideological and political in a process of
articulation and not of reduction. . . . Articulation requires, therefore, the
existence of non-class contents-interpellations and contradictions-which
constitute the raw material on which class ideological practices operate.”
(ibid, p. 161).
The above reformulation, hinging on the process of articulation, is not only a more
useful theoretical pursuit than the rather purist search for some idealized notion of class
consciousness (1) ( or a resort to a false consciousness type of explanation, but is also an
approach which lends itself more readily to operationalization at the level of empirical
inquiry and investigation. It gives cognizance to the fact that at the level of concrete
experience, class subjects are also people (2), and that as people they also have other
55
Journal of Glocal Studies 2 (2015)
non- class ideational resources (universal, cultural or ethnic) with which class ideology
can exist in various forms of articulation. The analysis herein points to the limitations of a
theoretical perspective which attempts to reduce the emerging proletarian ideology
simply to a reflection of the material base. It is therefore suggested, following Laclau, that
the synthesis at the ideological level should not be seen as one in which class has
displaced all other non- class values. Rather the existence of class at this level must be
conceptualized as being in a process of articulation which requires the existence of
non- class contents.
Thompson (1968: 9) also provides another lead as to the problematic inherent in the
Marxist conception of class consciousness when he states: “Class consciousness is the
way in which these experiences are handled in cultural terms: embedded in traditions,
value-systems, ideas and institutional forms” (emphasis mine). James Scott’s seminal
work on ‘peasant moral economy’ (1976: 160) also points to the value of exploring the
‘emic’ anthropological perspective, rather than endorsing an abstract view of
“exploitation”, as evident in his assertion below:
“If the analytical goal of a theory of exploitation is to reveal something about the
perceptions of the exploited – about their sense of exploitation, their notion of justice,
their anger- it must begin not with an abstract normative standard but with the real
actors. Such an approach must start phenomenologically at the bottom and ask what the
peasants’ or workers’ definition of the situation is (emphasis mine).
For both Thompson and Scott, it is clear that the emphasis on exploring
“experiences”, “cultural terms” and “real actors” or “what the peasants’ or workers’
definition of the situation is”, is a call to probe into the realm of the ‘concrete’ and
empirical, in order to bring to bear these ‘empirical contents’ back to the domain of theory
and ‘the abstract’.
The Empirical Domain: The Poetics of Emic Malay Working Class
“Experiences”
For the Malay workers, the class basis of organization defines their role and status
position in relation to the non- producers ,the owners or those with capital (pemodal) ,
employers (majikan) and the supervisors as those whose primary task is “work selling
labour power” (kerja jual tenaga) and whose position in the hierarchy is without access to
either authority (kuasa) or control in the system. Even outside the workplace this
class- status dichotomy is equally determining. Socially and spatially the labourers
constitute a distinct community of their own: they reside together in a separate living
compound typified by kongsi houses, away from the rest of the plantation community, yet
56
From a ‘World-system’ to a Social Science Knowledge ‘Scape’ Perspective
are unfree from the jurisdiction of the plantation authority system.
Theoretically, under capitalist relations of production the labourer’s social worth is
primarily measured in terms of the labour power which he can provide. The Kemaman
plantation has features of a ‘new style plantation’ which according to Wolf is impersonal
and does not cater to the “status needs” of the worker. In such a system, its social relations
are mechanical and contractual; the worker is evaluated solely in terms of his role as a
provider of muscular energy and other aspects of his social and cultural worth are
irrelevant to those who wield authority and control the organization. Relations of
domination are not mediated “through cultural forms that bear the personal stamp” (.
Wolf, op. cit., p. 168) (3). Confronted by such a system, the Malay workers begin to
internalize a proletarian ethos in which their social existence is primarily determined by
“work selling labour power” (jual tenaga). Hence such comments as: “This company is
only interested in us purely for work”; “Outside work, they are not bothered about the
coolies”; “We are like the company= s cows, let loose in the field for eight hours a day.”
Hence for the years when the company was concentrating its capital outlay on land
development rather than on labour welfare, they were remembered by the workers as a
period of denial of their rights to subsistence and reciprocity ( after Scott’s concept of
‘peasant moral economy’,1976).
To a large extent, workers are able to accommodate to their role in the overall
division of labour as the main providers of muscular energy. Nor is there any rejection on
their part of the plantation class- status institution, or resentment against the idea of capital
investment and profit- making . More importantly for the workers at this level of
existence is that their human worth, or dignity ( the Malay cultural term is: maruah,) is
still intact. The status of a coolie or labourer, however low, does not mean a loss of their
maruah or dignity as human beings. They are coolies but not as yet animals or slaves. In
the overall division of labour, they, like other human beings, are simply “searching for a
living” (sama-sama cari makan); the question of loss of maruah does not arise and is
irrelevant. What is felt to be “exploitation” at this level still assumes a generalized and
instrumental form to which the workers could still accommodate or adjust
philosophically.
The danger of loss of maruah is greatest in the relations around the productive
process where the actual physical acts of labour power production and surplus
appropriation take place. In this on- going labour process of the capitalist system, the
confrontation between capital and labour takes on a new dimension- capitalist exploitation
becomes personalized and personally mediated. Here workers enter a set of face- to- face
57
Journal of Glocal Studies 2 (2015)
social relations with their pegawai (i.e the ‘official class’) who supervise and control
them. The pegawai has legitimate claims to “bureaucratic” authority (kuasa) and how he
asserts his authority to reprimand the worker or instruct him as to how, when and how
much to work, may inflict upon him a sense of moral suffering and a loss of his human
dignity. It is through such instances that exploitation becomes personalized, and the
feeling of being nothing more than a mere commodity of labour hits the worker right on
his face. He becomes stripped of his maruah. He actually feels like an animal (binatang),
a cow (lembu), a slave (hamba), a bundle of muscular energy with no human face. I refer
to such personal concern by workers over ‘exploitation’ towards their ‘status’ rather than
their ‘economic’ well- being as one that is based on a concept of ‘status exploitation’,
which of course, is a part of the overall ‘class exploitation’. Moments of such
‘exploitation’ are captured below, as expressed by the workers themselves, based on their
experience of the plantation labour process:
Just because he is masta or pegawai he thinks he can treat us like slaves here-Hey here!
Hey there!
Just because he has a higher rank, he thinks he can treat us coolies like rubbish by the
roadside!
We are always chased out or abused in the factory. He (the pegawai) always barks at us,
“If you want to work, work!!f not, you can go home!” Already two workers have been
scolded like that and they both have left= .
We don= t want to hear them go on telling us, “You stupid cow! If you don= t want to
work, you can go home!” Never for one moment should we let them feel that they can treat
us like cows, depending on them for food here!
This factory does not want people who have moral etiquette (budi bahasa). They only
want people who can eat people!
Workers have always told me that if they were to follow their emotions, they would have
thrown him (a pegawai) into the boiler, so that he would turn to ashes.
The above pegawai has many times committed acts of inhumanity to these workers who
are thirsty for work by abusing them with words that hurt the feelings of the workers
58
From a ‘World-system’ to a Social Science Knowledge ‘Scape’ Perspective
under his charge. . . . We feel that what is contained in the body of the pegawai is full of
thoughts to make the workers suffer. We on behalf of the workers feel anxious and
worried in case anything unpleasant were to occur since both sides would be in trouble. If
they were to follow their emotions, all these things would surely happen . ...
(part of a letter from the plantation union committee to the management)
The pegawai mentioned. . . has always caused great unrest amongst the workers. He
always uses his authority to hurt our feelings . . . with his harsh and rough action, even
though the workers concerned may have only committed a small mistake, which is an
aspect of human character. . . . Some proper action should be taken . . . before anything
unpleasant is done by the workers who are always harbouring their grudges toward him.
(part of a letter by an ordinary worker written to outside authorities)
The above examples are instances or moments in the productive process in which
authority is being asserted to control or appropriate labour power, in this case, through
language and verbal communication. On the other hand, a pegawai would also resort to
other means and ways of forcing the workers to work harder than usual in order to
maximize productivity for the company and in so doing, he gains recommendations from
his superiors for promotion or bonus increment. Such an act is called tekan by the workers
(to tekan literally means “to press”). Both types of action cited above are perceived by
workers as variants of personalized modes of exploitation whose immediate impact is to
inflict upon them a sense of moral suffering and reduce their human status to that of a
mere commodity of labour. Indeed, one can say that a crucial element in the workers’
emic perspective of ‘exploitation’ is the notion of ‘status exploitation’. This then is their
personalised notion of ‘class exploitation.’
In the above context of peasants becoming proletarians, I would like to add on to
Scott’s notion of peasant moral economy, the idea of a proletarian moral economy,
namely workers’ rights to human dignity and social worth (maruah). For the workers,
then, their everyday class struggle is essentially an ongoing struggle in the labour process
to sustain and preserve these rights to their ‘personal moral economy of maruah’. The
moral regulator is sought in the principle of timbang rasa (their cultural concept of
empathy; to timbang: literally means to “weigh” – such as to weigh ‘the pros and cons’ and to rasa: to “feel”). According to them, acts of ‘status exploitation’ which inflict upon
them loss of maruah occur because the values of those who control them are not governed
by the spirit (semangat) of empathy. Only when the assertion of authority is guided by
this “spirit” would workers experience no loss of human worth or status. Ideally the spirit
59
Journal of Glocal Studies 2 (2015)
of timbang rasa, they argue, should be forthcoming voluntarily, based on human
sensitivity. But if it does not, then workers themselves feel that they should be the ones to
initiate action to instil this moral component into the values of their immediate superiors.
There is thus a strong belief that: “We must be the people who should ‘teach’ (ajar) them
so that they can understand timbang rasa. If we protest ( lawan) everytime they ‘press’ us,
after a while they will soon know the ways of timbang rasa.”
Hence acts of personal or social protest against the pegawai, ranging from verbal
appeals or outbursts to defiance or, more extreme still, by actual physical action, become
intricately tied to the workers’ desire to ‘teach’ the spirit of timbang rasa to those
individuals who control them. Timbang rasa is thus an integral moral and ideological
component of the proletarian consciousness and their protest is intricately related to the
preservation of social worth and dignity (maruah) of human beings despite their classstatus differences. The spirit of timbang rasa is not directed against roles, institutions or
the class structure; its rationale is built upon a universal human praxis which
accommodates class inequalities and the social division of labour: “We must have
timbang rasa. We are both in search of a living (Kita Mesti ada timbang rasa. Kita samasama cari malum).”
Towards a Hybridised/Syncretic Proletarian Theoretical Discourse and
Class Ideological Practice
Clearly, this class ideological practice draws its impetus and strength from hydridisation
between both class and non- class values. Crucial to the latter is a more universal identity
and status of proletarians as "people" or human beings, but mediated through the cultural
nuances of indigenous culture, through Malay concepts such as maruah and timbang
rasa. Such articulation emerges by virtue of the fact that they “experience” ‘ class’ in
various ways.
Firsly, they experience these relations as a class, in which their social existence, role
and status is primarily defined in terms of the labour power (tenaga) that they can sell.
The emergence of this ideology as a dominant proletarian ethos is clearly evident from the
plantation fieldworking data. Essentially this ideology emphasizes the equality of sharing
a similar life- chance and class - status position among those who are at the lowest rung of
the plantation hierarchy and whose role is to provide labour power in the system. It is this
same ideological underpinning (combined with instrumentalism) that also becomes the
main source for the formation of the working class as a political community. This aspect
approximates closely to the Marxist idea of ‘class’ as a community rather than class as
60
From a ‘World-system’ to a Social Science Knowledge ‘Scape’ Perspective
just an economic category.
Secondly, they experience these relations as “people” or as human beings. This
aspect is intricately related to the first, specifically to the process of commoditization of
man through personalized forms of exploitation in the labour process. The concern here is
with the loss of human dignity or their moral and social worth (maruah) as human beings.
What emerges at the ideological level is an egalitarian norm, handled through the concept
of timbang rasa which emphasizes human empathy on the basis of “the equality of men
deriving from their intrinsic personal or human worth” (Jayawardena, 1968, p. 413). The
thrust of this ideology is on change at the level of personal human values rather than on
existing roles, institutions, class structures or the division of labour. The emphasis of this
equality “exists outside the system of social stratification”; it is instead “rooted in the
human condition, in the equality of men as human beings, in their similar propensities to
feel, to suffer and to enjoy” (ibid.). It is an egalitarianism which accepts the
socioeconomic differences of human beings ‘in search of a living’.”
Thirdly, they experience these relations as Malays. Terms such as timbang rasa and
maruah represent a cultural category and idiom of a specific ethnic group, hence they
constitute an important cultural dimension of ethnicity. By this I mean ethnicity as a
typification of shared knowledge, ideational resources, cultural concepts, norms, values
or symbols which relate to how a particular ethnic group handles and understands certain
social relations or phenomena. Indeed, as I cited with Thompson’s earlier, this cultural
dimension of ethnicity may be the very source of class consciousness in the way in which
these class experiences are handled in “ cultural terms: embodied in traditions, value
systems ideas and institutional forms” Indeed under certain conditions, these “cultural
terms” may also transcend their original cultural origins and specificities and take on a
universal character and form at the level of ideological discourse. Theoretically, the
concepts of timbang rasa are maruah are all culturally derived, and specific to Malays.
Yet these are also translatable even by the Malay proletarians themselves into a universal
form and assume their own viability to underlie relations between individuals as “people”
or human beings.
My anthropological fieldworking spent among Malays working as labourers in
plantation society reveals the essence of their proletarian moral economy and class
consciousness: namely, that it resides in the cultural and indigenous concept of maruah.
Whilst many could accommodate to the ‘economics’ of ‘class exploitation’, in their
everyday experiences of ‘class’ in the work place, in their personal encounters with the
plantation officials who control them, what they value most is to sustain their rights to
61
Journal of Glocal Studies 2 (2015)
maruah so that it remains unscathed and untarnished. Hence rights to maruah become the
essence of the Malay proletarian economy and underlies their notion of justice (keadilan),
a transgression of which would create a deep loss of their moral worth as human
(manusia) and engender different forms of resistance and protest. The above perspective
moves the theoretical analysis to that of a ‘proletarian moral economy’, beyond Scott’s
notion of ‘peasant moral economy’ which only revolves around rights to subsistence and
reciprocity (Scott, 1976; also see : Zawawi, 1983; 1998c; 2010).
Concluding Remarks
There are several reasons that underlie the above approach and discourse.
Firsty, it is indirectly a response to Evers’ observation of ‘knowledge dependence’
among local social scientists in Southeast Asia towards western social science ideas and
concepts. In order to grapple with the epistemological issues at stake (including
‘indigenisation’), the problem cannot be generalised nor gauged purely at the level of the
abstract and the statistical.. The issue, I feel, is best problematised and further interrogated
at the level of concrete empirical research (fieldworking) .Such a method will further
reveal the complexities and multilayeredness of theory- making, and indeed its
transnationality , and ultimately, the intricacies of the ‘hybridisation’ process. For
Asianists and anthropologists fieldworking in the region, such a qualitative interrogation
will also facilitate further dialogues and sharing of different research experiences, i.e by
reviewing their own respective empirical research discourses at the ‘ level of the concrete’
in order to put to test and resolve questions of ‘knowledge dependence’ or Southeast
Asian ‘sociology of underdevelopment’, including ‘indigenisation’ .
Secondly, and closely related to the core of my arguments and also to the first reason,
the approach that I propose is to demonstrate the possibility of transnationalising
theory- making at the ‘periphery’. I suggest to undertake this via a process of
‘hybridisation’, premised on the principle that theory building is the product of the
dialectics between theory and the empirical domain, which can take place in the
‘periphery’. For the moment, this alternative seems to be a more viable option compared
to an earlier perspective which only pays homage to the ‘centre’ as the sole producer of
theories and concepts. Such a mode of analysis does not totally delink social science
knowledge production from the ‘centre’ but recognises that any theoretical innovation
should take place in the context of existing cumulative knowledge production, which
obviously still revolves around the ‘centre’. However, by shifting our wider paradigm
from a ‘world system’ to a social science knowledge ‘scape’ perspective, it is hoped that
the rigid distinctions between ‘centre’ and ‘periphery’ will increasingly become more
62
From a ‘World-system’ to a Social Science Knowledge ‘Scape’ Perspective
blurred, and make room for greater fluidity in forging effective transnational theoretical
synergies within the global epistemic community among social scientists located in the
different parts of this ‘scape’.
Notes
1.
As Shivji remarks: “In fact classes hardly become fully class conscious except in situations of intense
political struggle. Class consciousness does not fully draw upon individuals until they are locked in
political battles...Actually such conclusions are not only too easy to arrive at by interviewing a few
hundred workers in non- revolutionary situations and by computing unfavourable answers as evidence
that workers are not class conscious,” Issa Shivji, Class Struggles in Tanzania (London: Heinemann,
1976), p. 8.
2.
According to Rude, Gramsci has, for instance, already argued that “attention must also be paid to the
simpler and less structured ideas circulating among the common people, often ‘contradictory’ and
confused and compounded of folklore, myth and day- to- day popular experience. So ideology and
consciousness, in his view. . . are extended to embrace the ‘traditional’ classes, including the common
people other than those engaged in industrial production, as well.” ( George Rude, op. cit. p. 9).
3.
According to Wolf, “The new- style plantation... dispenses altogether with personalised phrasings of its
technical requirements. Guided by the idea of rational efficiency in the interests of maximum
production, it views the labour force as a reservoir of available muscular energy, with each labourer
representing a roughly equivalent amount of such energy ... The worker who provides a given amount
of muscular energy is remunerated in wages. Otherwise his life- risks or life- chances are of no moment
to the planners and managers of production and distribution ... It does not extend credit to individual
workers, nor differentiate between workers according to their different needs, or the urgency of their
respective needs. It assumes no risks for the physical or psychological survival of the people who power
its operations. At the same time, the new- style plantation is not an apparatus for the servicing of the
status needs of its workers or managers. It thus bars the worker effectively from entering into
personalised relationships with the administrative personnel.” ( Ibid., p. 169.)
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「世界システム」から社会科学知識「スケープ」パースペクティブへ
「世界システム」から社会科学知識「スケープ」パースペク
ティブへ:周辺における人類学的フィールドワーキングとトラ
ンスナショナルな理論形成
Zawawi Ibrahim
本論文は,
「世界システム」
(Kuwayama, 2004)の文脈における社会科学知識の生産の問
題に対する人類学的介入を提示するものである。
「世界システム」は,その理論構成の基盤
は歴史的に,
「周辺」というよりも「中心」におかれている。日本の人類学者の桑山は,
ウォーラスティンのこの概念を人類学そのものに適用に,人類学が「中心」
「準周辺」
「周
辺」において不均等に分割されていることに言及した。こうした不平等な認識的な討議場を
前提にすれば,
「理論的未発達」と「知識的従属」という非難が「周辺」の社会科学学問界
になされてきたことは驚くにはあたらない(King, 2008)
.これまでのところ「周辺」からの
認識論的反応は,ヨーロッパ中心主義(植民地知識)と支配的なアングローアメリカ的な理
論範型に対抗する方法としては,
「脱植民地化人類学」
「ヨーロッパの地方化」
「土着化」と
いった議論の形をとって行われている(Chakranarty, 2000; Atal, 1981; S.Hussein Alatas,
1977; S. Farid Alatas, 2006)
。
本論文は,アパデュライの「スケープス」(2005)概念に導かれて,桑山の「世界システ
ム」の概念を別の認知レベルへと上昇させようとするものである。すなわち,今まで「見過
ごされていたスケープ」ー社会科学知識「スケープ」
(Zawawi 2013: 1-2)―に着目する。
スケープは,トランスナショナルで,不均等で,対立・論争を免れるものではないけれど,
この「スケープ」に位置する「中心」
「周辺」両方の知識生産者間の理論の交換,綜合のた
めの相互的な活動フィールドとして優れている。
「スケープ」という観念は,そのオリジナ
ルなヴィジョンにおいても,
「世界システム」概念よりも多次元的であり,より流動的,
「フ
ロー的」であって,この特徴は,一定程度,世界システム概念にみられる「中心」と「周
辺」の間の固定的な区別を弱めるように作用する。人類学にとって,以上のようなトランス
ナショナルな綜合の可能性は,以下のような理解の前提に立つ。
「周辺」におけるフィール
ドワークは,経験的データを収集するためだけのものではなくて,既存の理論と概念形成に
取り組む基盤を提供するものである。社会科学における根本的な原理は理論形成が理論的実
践と経験的調査との弁証法的な関係に基づいているところにある,ことを我々自身自覚する
ことが重要である。この結果は,起源からトランスナショナルな理論的綜合の形態を取り,
必然的に「ハイブリッド」である。これは,その起源が「中心」でも「周辺」でもなく,そ
の分析的資源を「中心」で確立された理論的知識体と,
「周辺」における調査によって活性
化され,ローカルな,文化的な,土着的経験的領域から派生する概念的なニュアンス,その
両者から引き出していることを意味している。従って人類学的フィールドワークはこのトラ
ンスナショナルでハイブリッド化された理論形成プロジェクトにおける必然的で,重要なサ
67
『グローカル研究』઄(2015)
イトになり,環となる。本稿のケーススタディは,私自身のプランテーション社会における
マレー労働者階級に関するフィールドワークを介して,
「中央」におけるマルクス主義の
「階級意識」と階級イデオロギー実践を「周辺」に持ち込むことを問題化したものである。
Keywords: ‘world system’, social science knowledge ‘scape’, transnationalising,
hybridisation, indigenisation, anthropology, fieldworking
68
Journal of Glocal Studies
No.2 (2015) 69-91
Academic Culture: An Alternative Conceptual
and Analytical Framework for Discussions on
International Collaboration in Social Sciences
Kazumi Okamoto
Karlsruhe Institute of Technology, Germany
World Social Sciences and Humanities Network
[email protected]
(Received 12 December 2014. Accepted 2 February 2015)
Abstract
The structure of knowledge generation in social sciences has been described
and discussed with contrastive terms such as North/South, centre/periphery,
and dominating/dominated, in order to focus on its skewed balance in
academic work. Such terms and the structure of academic work, in a certain
sense, reflect the reality of the globalized social science world. Nonetheless,
this type of discussion seems rather stagnated as academic debates, since the
discussions so much involve today= s nation states’ view of science which
considers science as a means to enhance the competitiveness of a nation state.
World ranking systems value comparison of the number of citations between
countries, and these are central components of the existing discussions on
globalized academic activities to indicate skewedness, inequality, and
dependence of small (often developing) countries in globalized academic
work. This approach strongly exhibits the competitive nature that advocates
of such discussions are interested in. Even though academic activities and
mobility of scholars have crossed geographical national borders, the ways in
which academic activities are discussed are strongly confined within and
fixed by nationalities of scholars/institutional affiliations.
In order to overcome the lack of academic people’s own perspectives on
academic work, particularly focusing on knowledge generation activities in
relation to international academic collaborations, a new conceptual and
analytical framework that is called “academic culture” is introduced.
Academic culture, inspired by the concept of “small cultures” advocated by
British linguist, Adrian Holliday, would be an alternative approach to
69
Journal of Glocal Studies 2 (2015)
discussion of academic work in a context of international collaboration. It
could emancipate us from ordinary intercultural perspectives in studying any
encounter of people from different global regions. Such perspectives can only
repeat that we/they are different from others/us because of national cultural
traits. Approaches such as Adrian Holliday’s enable us to go beyond such
stereotypical analyses of people with a non- essentialist approach that tries
not to classify people simply by their nationalities.
By the concept and framework of academic culture, international academic
activities such as international collaborations can be discussed and analysed
from academic people’s own perspectives on knowledge generation with
much less emphasis on competitiveness in academic work, and factors that
influence international academic collaboration could be clarified.
Consequently, topics of globalized academic work in social sciences could be
deployed from more diverse and different angles than the existing
discussions which stick to and are confused with nation states’ perspectives
on academic activities.
Keywords: International collaboration, social sciences, globalization,
culture, non-essentialist approach
Introduction
It has already been a couple of decades since globalization gained its popularity as
phenomena in almost every field of our lives, such as economy, trade, communication and
technology, politics, and other societal matters. Accordingly, scientists in related
disciplinary fields have attempted to explain, and often to solve, matters concerning
globalization, and consequently, such studies have formed a research field of
globalization studies. Today, globalization is a kind of fashionable word that nation states,
funding agencies, and research institutions around the world favour. Thus, there is no
doubt that globalization is one of the most discussed issues, and is seen as a relevant
research theme in various scientific fields.
Despite the fact that academic activities in social sciences (SS), which have been
affected by a big wave of globalization, are also not an exception, it seems that studies on
academic work and/or academic people that are influenced by phenomena of
globalization have been rather scarce. Although the field of such studies is not
quantitatively scarce, it is difficult to find diverse discussions on globalization and
academic work from different perspectives.
Therefore, this article attempts to exhibit a new approach to constructing discussion
paths on the above- mentioned matter, especially focusing on academic work. This new
approach is necessary in order to overcome the repetitive nature of current discussions on
this matter, which are often national comparative studies that tend to end up with mere
70
Academic Culture
description of one country/region in which international academic activities are
implemented. It is rather problematic to put so much emphasis on differences and
particularities of each country and/or global region, especially in order to further deploy
discussions in relation to international academic activities, since such differences could
simply create more distance, and in an extreme case unnecessary hostility, between
academic communities in which people work under different academic circumstances.
In order to achieve the purpose of this article, it is organized into five sections. First,
current mainstream discussions on structures of globalized academic work in SS will be
reviewed. Second, meanings of international collaboration will be explored. Third,
analyses of international collaborations exploiting intercultural studies will be revealed,
according to my past research. Fourth, a new approach on this issue conceptualized by
and based on Adrian Holliday’s “small cultures” (Holliday, 1999) will be introduced and
explained. Simultaneously, the framework which is called “academic culture” will also be
introduced, and the necessity and validity of using this framework to better understand
and analyse relationships between academic culture and academic work such as
international collaborations will be discussed. Fifth and finally, some concluding remarks
from the above discussions will be exhibited.
Current Discussions: Structures of Globalized Academic Work in SS1
Although it is very difficult to grasp all discussions which exist in each disciplinary field
of SS regarding the current status of academic work that crosses national borders, the
World Social Science Report published in 2010 can be a useful source to draw an
overview of the current status and issues in the field of SS2. This report is heavily
committed to describing how skewed the work in SS is. In other words, as the title of this
report suggests3, it shows how the academic work in SS is divided between those who
have more privileged working conditions for carrying out conventional academic
work- - such as publishing in academic journals, participating in international
conferences- - and other activities and those who do not have such conditions. If we
observe some chapter headlines4 of the report, we would already come to a conclusion,
without reading each article closely, that the world of SS has two sectors: One is a group
of scholars and/or academe that leads the whole world SS not only theoretically but also
institutionally, and the other is those who feel un- noticed, left behind, and even dependent
on their powerful counterparts in the North America and European global regions.
Some similar contrastive terms are frequently seen, such as North versus South,
centre and periphery, dependent, power, and hegemony, in order to depict the current
situation in SS, concerning skewed balance of human resources, funding, publication, and
71
Journal of Glocal Studies 2 (2015)
other academic practices that are seen in globalized academic work. Whichever term is
used, the central message of advocates of these terms is that small and less powerful
academe, particularly in developing countries, are not able to join international academic
practices such as publishing in prestigious academic journals, making presentations in
international conferences, and academic collaborative activities, due to the lack of
financial and human resources, English language ability that is necessary to join the
mainstream SS academe, and theoretical and conceptual understanding by the
Euro- American colleagues who are considered as hegemonic power of SS world. That is,
it is an impression that the winner oppresses the small participants in the world SS5.
On the one hand, it is relevant to discuss such disparity in globalized academic work
in SS, but on the other hand, it seems a great drawback to endlessly continue this type of
discussion. As is already indicated above, this contrastive discussion can only depict and
emphasize different working conditions among SS academics in the world. Drawing an
attention to the fact that there is a disparity in academic work seems meaningful as a
starting point to discuss the globalized academic work in SS; however, blaming academic
people and/or academe of the so- called dominating academic communities in SS would
only leave antagonism expressed by those who do not dominate in the world SS. Kuhn
criticizes this situation as “a battlefield of national science communities” (2013:40) and
questions:
Are they seriously thinking an internationally acting academic is a kind of
intellectual soldier gathered and organised in national science entity fighting a battle
between national science organisations from different countries? (ibid.: 43)
Battlefield as a metaphor of the current status of globalized knowledge generation
practice is really to the point to reveal the competitive nature of academic activities as a
whole6. If this nature is taken into consideration in thinking about and discussing the
current status of globalized SS, there would be no surprise that the above- mentioned
advocates only and always make contrastive remarks such as North/South,
centre/periphery, and dominating/dominated to discuss this issue. This, to my mind, is the
most problematic point in these discussions, since such comparisons, or complaints, can
merely focus on the fact that they/we are different and that we do not have working
conditions as favorable as our powerful counterparts. The main point of their discussion,
therefore, is that we would also like to be a winner in this battlefield. It is quite obvious, if
you look at what is happening in the global economy, that globalization implies more
severe worldwide competitions among participants. There would be no harmonious
72
Academic Culture
competition in which everyone is the winner at the same time, due to the fundamental
nature of competition (Okamoto, 2012). At this very point, such discussions are really
stagnated, and can only be repetitive, since no interests would be required to participate in
such discussions other than being a winner in this battlefield.
The advocates of the discussions might insist that in order to have future academic
collaborations where people with different academic backgrounds and experiences could
meet and work together, it is necessary to realize that there are difficulties, different
working conditions, and fixed frameworks for academic work such as publication
practices under which certain groups of academic people have more advantages than the
others. Albeit most of their claims about their working conditions/circumstances can be
the reality, a strong wish that they would also like to be recognized and dominant in the
globalized academic arena can be seen behind the terms such as ‘inequality’, ‘dependent’,
‘periphery’, and others. It is not to say that people should not be so ambitious in their
work7, but to question the validity of the argument that they are not recognized and
therefore are not prestigious because of disadvantageous working conditions and the
current structure of globalized academic work. Such an advocacy is very contradictive,
because they hate the current system and conditions where their work takes place, but at
the same time, they love to be included in the very system which they fiercely accuse.
This means that it would be all fine if they were finally recognized by the world audience,
and they would be able to forget about complaints and accusations that they ever made as
soon as they shift their position from the weaker side to the stronger one (Okamoto,
2013).
The fundamental nature of current discussion on international collaborations is much
the same as the above- mentioned individual prestige competitions. In the case of
international collaborations, more political implications are involved, such as that country
A is better than B and C in the region, since science is nowadays considered as a means to
enhance competitiveness of a nation state8. It is certainly necessary to closely observe the
current status of the globalized academic work in SS. Nevertheless, we should also realize
the great discrepancy between collaboration, which means working together with others
to create something, and competition which means, as discussed, deciding the winners
and the losers. In the next section, I will discuss what international academic
collaboration is in the fields of SS. That is, how globalized academic collaboration is
understood among SS scholars.
Implication of International Collaborations in SS
The term “collaboration” may give us an impression that it is peaceful and harmonious
73
Journal of Glocal Studies 2 (2015)
joint activities between participants. It might not be wrong in a general sense; however, it
is not necessarily the case in discussions on the globalized academic work in SS.
Unfortunately, very few studies on international collaborations such as cross- national
research projects in SS exist. Instead, co- authoring seems to be considered as a synonym
of academic collaboration (e. g. Franceschet & Costantini, 2010; Shin & Cummings,
2010; Sonnenwald, 2007; Glänzel & Shubert, 2005; Katz & Martin, 1997). Consequently,
extent and/or impact of collaborations tend to be measured by databases of citation
indices. Again, the implication of measuring any activity has the competitive orientation,
because measuring has a clear intention of ranking participants quantitatively. Although a
number of scholars not only in SS but also in natural sciences claim that measuring
scholars’ quality of work and/or internationality by use of science citation database
indices is inappropriate (e.g. Bedeian, Van Fleet, & Hyman, 2009; Lariviere, Gingras, &
Archambault 2006; Hicks, 2005; Klein & Chiang, 2004; van Leeuwen et al. 2001; Seglen,
1997). Because of various biases in those databases, this approach to evaluate work of
scientists is very common and seems to be the only approach to discussing quality and
productivity of scholars in the international context. The consequence of the usage of this
approach is ranking scholars (or countries) by the number of citations, and it accelerates
world competitions among scholars.
Scientific outcome is surely a significant aspect of academic work. Nevertheless, in
respect of academic collaborations, co- authoring is not the exclusive form of
collaborative work. Rather, it can be assumed that there should be many more phases of
collaborative work until they achieve a form of co- authoring, and even collaborations
without any formal publication such as journal articles and books is also possible. In this
sense, it seems too reckless to consider that co- authoring is the exclusive and
representative form of academic collaborations. Thus, an important question is raised:
How do we define international academic collaborations?
In order to deploy a new discussion path on international academic collaboration, it
is not unimportant that we go beyond any competitive aspects of conventional
understanding on international collaboration. Otherwise, as is the case in the current
discussions on the issue of academic working conditions and structure of knowledge
dissemination, SS scholars would only be busy with comparing between self and others/
my country and other countries about their academic prominence. Besides, such
discussions tend to focus more on nation states’ perspectives that put great importance on
competitiveness of people/organizations in a country, and as a result, the discussions
seem more political than academic. There might be some exceptions, but practitioners of
academic work in SS, particularly of international collaborations, are more interested in
74
Academic Culture
joining international research collaboration, due to their intellectual curiosity to know and
understand what scholars of the same field in other global regions think about and how
they carry out research activities (Kuhn & Okamoto, 2008). Therefore, I attempt to
suggest a new framework which is called “academic culture” to explore academic work in
SS, in order to see international collaboration in a different light.
Different Working (National) Cultures? : Irrelevance of Total Reliance
on National Cultural Characteristics in Analyses on Academic Work
Before academic culture is introduced, it is necessary to mention some points about
cultural/intercultural studies regarding the context of the topic which this article mainly
deals with. As soon as the term “culture” is seen, people tend to think of “national
culture”, and intercultural study is a very common approach when people would like to
analyse behaviour and phenomena occurring between people coming from different
global regions. Thus, it has been very conventional to employ this approach when
studying international educational/academic scenes. Particularly, studies on international
students, which often means Asian/non- Western origin students, in Western (often
English- speaking) higher education institutes employ an intercultural study approach,
explaining why international students tend to experience difficulties and challenges in
their degree courses, how to better handle these students from administrative and/or
educational staff perspectives, and other challenges people involved in such settings
encounter. Needless to say, intercultural studies are widely adopted to study other social
settings such as international corporations (e.g. Hofstede, 1984), local communities where
many immigrants live, etc. Therefore, it seems that employing an intercultural approach
to studying interactions in any group of people who come from different countries is the
right direction, according to existing studies.
With this background, some years ago I implemented a study on Japanese scholars of
social sciences and humanities in international academic activities, focusing on
disagreement discourse, (Okamoto, 2010). My hypothesis was that Japanese scholars
would have difficulties when encountering disagreement made by their foreign
counterparts in international academic collaborations. It is because Japanese cultural
characteristics are often defined as “collectivism”, “uncertainty avoidance” (Hofstede,
1984) and “high- context culture” (Hall, 1976). These definitions provide people particular
images about Japanese people that their thoughts are so implicit that they would not
express their feelings to others directly, and that people respect harmony in a group/ a
society rather than individual opinions and/or interests. That is, Japanese people might be
generally understood as tending not to reveal what they really think when they witness
75
Journal of Glocal Studies 2 (2015)
that other people have different opinions, due to these national cultural traits. However,
despite of my hypothesis, it turned out that Japanese scholars who participated in my
study confirmed the opposite of my hypothesis9. This research outcome simply made me
question the sole and total reliance on intercultural theories, which very roughly classify
people’s behaviour around the world, for analyses of working life of academics. In other
words, there should be other approaches besides intercultural studies in order to study SS
scholars as a unit of group that carries out, more or less, similar, if not the same, work
regardless of the places they are located.
My
realization
that
exploiting
national
cultural
characteristics
for
the
above- mentioned research aim is not workable is, at the same time, a realization of a
different approach which is called a non- essentialist approach. In the following section, I
introduce the fundamental concept of “small cultures” deployed by Adrian Holliday to
underlie “academic culture” as the new framework to develop discussions on
international academic collaborations in SS from a different direction.
Basic Framework of Conceptualising Academic Culture: Holliday’ s
‘Small Cultures’
Among other linguists who have teaching experiences of English language in
non- English speaking countries (e.g. Guest, 2002; Stapleton, 2002; Littlewood, 1999),
Adrian Holliday is also a scholar who felt uncomfortable about the essentialist approach
to investigating students’ learning attitudes, for using stereotypical national cultural traits
only generates “reductive statements” (Holliday, 2000: 40) that are already known before
any research activity starts. This means, since the national cultural traits are already
defined and fixed, any research findings would be biased to only confirm that their
research samples/participants do have the very cultural traits that are already known.
Additionally, Holliday suggests that frequented cultural traits such as individualism
versus collectivism and masculinity versus femininity, which can imply one culture is
right and other is wrong, “supports various spheres of political interest” (1999: 243). To
avoid bringing political interest into academic research and repeating the same statement
about people studied, Holliday took another way to bridge people’s behaviour and culture,
which is the non- essentialist approach. For Holliday (2000), culture can be “discovered”
by the non- essentialist approach, because it “can help us to unlock any form of social
behaviour by helping us to see how it operates as culture per se.” (Emphasis in original).
His intention is not to define culture as “X rather than Y, but to clarify what we mean
when we use the word in different ways for different purposes.” (1999: 238) Hence, what
Holliday claims is not that the non- essentialist approach (that is later introduced as
76
Academic Culture
“small cultures”) is correct and the only one that should be used to analyse people’s
behaviour, but that he introduces an alternative way to approach an understanding of
people’s behaviour. This approach could be more explorative than looking at pre- defined
ethnic/national cultural traits in people.
From the aforementioned conceptual standpoint, Holliday distinguishes culture as
two forms: One is large cultures and the other is small cultures. The distinction of these is
not exclusively Holliday’s own; however, his meaning of small cultures could be different
from others. Large cultures mean cultures that are classified by geographical
region/country such as Asian and Japanese, which is the foundation of the essentialist
approach as seen above. On the other hand, however, small cultures are seen differently:
Some people might see small cultures as a matter of size, and therefore, might understand
them as sub- cultures, and simultaneously, sub- culture is considered as a deviant form of
large culture. Then, sub- culture, as Holliday points out, is “essentially a large culture
concept” (ibid.: 238- 9). That is to say, sub- culture is only small due to its size compared
to large culture, but it belongs to large culture as its fundamental concept. Holliday calls
this structure and relationship between large and sub- cultures as “Russian doll or
onion- skin” to visualize it, and what he advocates as small culture is not sub- culture.
Rather,
The idea of small cultures (…) is non- essentialist in that it does not relate to the
essence of ethnic, national, or international entities. Instead it relates to any cohesive
social grouping with no necessary subordination to large cultures. (ibid.: 240)
Thus, in his concept, small culture has little to do with size, and is different from
so- called “sub- culture” which is a component of large cultures that are categorized under
ethnicity/nationality. In the table below, the two paradigms of small and large cultures are
briefly explained and characterized. It seems quite obvious that his emphasis on small
cultures is based on strong disagreement about observing ‘culture’ as something
pre- defined, fixed, and an over- simplified, stereotypical categorization by mere
ethnicity/nationality. Therefore, Holliday’s concept of “small cultures” can be assumed to
be a new concept of cultures that would attempt not to bind people’s behaviour but to
understand it by looking at them as units of cohesive social groups.
77
Journal of Glocal Studies 2 (2015)
Table 1 Two Paradigms
Small cultures
Large cultures
Character
Non-essentialist, non-culturist
Relating to cohesive behaviour
in activities within any social
grouping
Essentialist, culturist
‘culture’ as essential features
of ethnic, national or international group
Relations
No necessary subordination to
or containment within large
cultures, therefore no onionskin
Small (sub) cultures are
contained
within
and
subordinate to large cultures
through onion-skin relationship
Research orientation
Interpretive, process
Interpreting, emergent behaviour within any social grouping
Heuristic model to aid the
process of researching the
cohesive process of any social
grouping
Prescriptive, normative
Beginning with the idea that
specific ethnic, national and
international groups have
different ‘cultures’ and then
searching for the details (e. g.
what is polite in Japanese
culture)
Source: Holliday, 1999: 241
In the following sections, there is an explanation of why it is relevant to exploit the
concept of small cultures described above to generate “academic culture.” The following
sections also discuss what can be expected from the application of small cultures to
discussions of academic work in SS.
Academic Culture: Application of Small Cultures to Discussion of
Academic Work in SS
It is neither easy nor straightforward to discuss people’s behaviour by using the term
“culture”, since this term almost always implies and puts much emphasis on differences
between ‘we’ and ‘others/foreign’, and consequently, our mind is caught by the
categorization of ‘we’ and ‘others’ as if ‘we’ and ‘others’ were always different when
people have different ethnicity/nationality. It is simply because most of us take for
granted that the term ‘culture’ means large cultures, as Holliday (1999) notes, which is
conceptualized based on the geographical regions/countries where people come from.
Although there could be such regional/national cultural traits in people’s behaviour and
minds, there certainly is a risk of over- generalization about people under study when the
concept of large cultures is the only one that is available as a conceptual framework to
study diverse people’s behaviour. It is, therefore, apparent that my previous study on
78
Academic Culture
Japanese scholars failed to confirm10 that so- called Japanese cultural traits existed in and
underlay academic activities of Japanese scholars when they encountered discourses with
their foreign counterparts. Then, a different framework has to be sought for beyond this
popular essentialist framework to study academic work in SS.
A great attention was paid to the concept of small cultures advocated by Holliday, for
I noticed that SS scholars around the world carried out similar, if not the same, contents
and aspects of academic work. In terms of generating academic knowledge, there is not
Japanese, American, or African academic work, but fundamental academic work which
can share its concepts and practices around the world such as acquiring existing
knowledge, planning and carrying out a research project, and publishing his/her research
findings. Then, SS scholars around the world can be assumed to form a certain culture
around academic work, regardless of their individual nationalities. Borrowing Holliday’s
notions, SS scholars around the world could be a unit of “social group” and academic
work could be the “cohesive process of any social grouping” (ibid.: 241). Thus, the
concept of small cultures is suitable for establishing a concept of academic culture which
has no subordination of national/regional culture.
By setting up the framework of academic culture, not only could we closely observe
academic work in a confined setting11 but also we could exploit the observation for future
similar studies to clarify and confirm elements and factors which could have an influence
on international academic activities. An ultimate aim of establishing academic culture is
to achieve mutual discussions among scholars on academic work in SS without the
aforementioned “battlefield” nature of discussion by understanding what aspects and
practices affect activities generating academic knowledge. I expect that this new type of
discussion could be deployed with more qualitative nature of research that would look
into details of academic work rather than conventional quantitative analyses of academic
work. It is not to reject quantitative analysis on this issue, but to suggest introducing an
alternative way to analyse and discuss it, so that SS scholars could see their own work
from various angles12, especially when their work is located in a global setting.
Construct of Academic Culture
Academic culture can contain any aspects of academic work/life, dependent on a
researcher’s own interest. As long as the principal of its conceptual framework is a
non- essentialist approach and is based on keeping the small culture concept, academic
culture can be exploited for a number of studies as an alternative to studies which would
normally have intercultural study orientation.
In my current study, academic culture is constructed in order to investigate and
79
Journal of Glocal Studies 2 (2015)
analyse aspects of academic work that could be related to and therefore an influence on
activities of international collaborations, which is, in this research context, considered as
collaborative activities of academic knowledge generation. In other words, academic
work is defined in this research as generating academic knowledge. Therefore, even
though most of SS scholars are based in university institutes and are committed to
teaching and supervising students as well as their own research activities, teaching work
is much less counted as academic work in this study. Moreover, any aspects which are
specific to a particular country, discipline, and university are not explored, because
collaboration
in
this
study
presupposes
that
it
can
be
international,
inter/cross- disciplinary, and/or across diverse universities. If any specific aspects are
taken into account, the research outcome would put more emphasis on differences rather
than shared aspects of academic work. It is true that individual countries, disciplines, and
universities may have their unique aspects; however, the uniqueness is outside the scope
of this research13.
Academic culture in this research is divided into three levels14: Macro, micro, and
social relations. The following are the details of each respective level:
1. Macro level
Macro level is largely an environment where academic work is located. Although it
is important to investigate academic work itself, it is not advisable to ignore
backgrounds, settings, and locations of academic work, since they could also
influence the ways academic work is structured and carried out. In order to
investigate such background aspects, certain factors are identified:
J National science policy
Such factors as funding systems/programmes and nationally prioritized
research topics/fields could directly influence ways in which academic work
–in other words, research activity- - is structured. Additionally, national
science policy has also certain impacts on funding programmes/topics of
private funding agencies to some extent. In this sense, academic work is
largely framed by national science policy, and is influenced by research
stakeholders’ interests. Of course, it might not be always the case, but it is
apparent that there are always research trends, buzzwords for research
topics/themes, and societal/national demands for academic research, which
are largely defined and decided by national science policies.
J Institutional infrastructure: Roles of Higher Education
80
Academic Culture
For many researchers, universities are the place for their academic work.
Universities have diverse roles, which are not necessarily related to academic
knowledge generation in all countries15. Even though universities are
considered as places where various forms and processes of knowledge
generation take place in this research context, it might not be the main and/or
only role of university institutions in reality. Such diverse roles of universities
are likely to be easily overlooked, since universities are considered as
institutions which obtain universally shared concepts, roles, and systems
across the world. It might be true to a certain extent; nevertheless, roles of
universities might not be totally identical throughout the world. Universities
should be can be influenced by policies, demands from society, and other
elements that come from outside of universities. It is not diversity of the role
of universities but understanding of working environments of SS scholars in
which they try to carry out academic work that interests us in the context of
this research. The working environment could impact their academic working
life, since the working environments could also be an important element that
defines what work they are expected to do in universities.
J Mission of academics in the society
Connected to the above roles of universities, the mission of academics in
society is explored. That is: How are academics seen/understood in the
society? What do the public expect academics to do in the society? These
questions are raised to unfold how academics are perceived by the public.
When academics are defined as people who generate academic knowledge,
these questions ask what position academics occupy in society. It might seem
less relevant, at a glance, to investigate such aspects, but, considering that
academic work and scholars do not exist only in academic environments such
as universities and other academic societies/institutions, they are certainly
connected to the public world, which is non- academic society. Investigating
the position and perception of academic people in public society would
clarify the relationship between academics, who are people generate
academic knowledge, and society. It could also reveal much about the
society16 in which they work.
J Academic knowledge in society
Similar to the previous aspect (academics in the society), roles of academic
knowledge and/or relationship between academic knowledge and the society
will be examined.
81
Journal of Glocal Studies 2 (2015)
2. Micro level
Contrary to the macro level, more practical academic work will be explored at the
micro level. As already mentioned, the factors in this level as scholars’ practical
(daily) work focus on activities/aspects concerning academic knowledge generation.
As relevant factors at micro level, the following five factors are identified:
J Academic discourse practices
J Publication practices
J Managing academic activities
J Knowledge acquisition practices
J Disciplinary practices
These factors are all very straightforward. By investigating these academic
practices, a closer look at scholars’ academic working life will be possible. There are
inquiries such as: How they communicate with their colleagues, what they discuss
with their colleagues, where, how and why they acquire academic knowledge, where,
and why they publish their academic work, and other aspects in their daily working
life. Earlier in this article, I mentioned that fundamental aspects of academic work
can be shared around the world. That is to say, there is no nationally confined or
specific academic work. I insist on this point, but it has been much ignored in the
study of what academic people actually do in their working life. Therefore, it is not
irrelevant to look at something that seems normal, usual, and known to confirm that
all these conventional activities are surely carried out with certain purposes and in
certain ways.
3. Social relations in academic work
In this section, the below factors are explored:
J Hierarchy/ Status
J Gender
J Nationality/Ethnicity
These factors are often considered as components of national cultural
characteristics. Including these has little intention of emphasizing national culture
per se, but has an intention of simply exploring these factors at work. That means
whether or not such social relations influence implementation of academic work.
Further, even if it turns out by empirical study that such social relation factors
influence academic work, this would not directly relate to influence of national
cultural traits because the same could be true in other countries with regard to these
factors17. Then, it would be rather considered as a part of shared academic culture
82
Academic Culture
across countries/regions. Additionally, there could be other social relation factors in
this level. However, I try to limit the factors which could be related to knowledge
generation activities, according to the context of the research.
Thus, academic culture is constructed as above. There are many other possibilities to
construct academic culture, as suggested earlier. Nevertheless, the construct of
aforementioned academic culture is strictly focused on academic work, particularly on
academic knowledge generation that is a core of not only individual academic work but
also of collaborative work. In the next section, therefore, I will discuss the
interrelationship between academic culture and international collaboration.
Academic Culture and International Academic Collaborations
Academic culture to understand international academic collaboration is necessary
because it has almost never been attempted to establish a conceptual and analytical
framework for this purpose, especially ones which go beyond the nationally confined
views that are only used for comparative, country- specific studies. As discussed earlier,
international collaborations mean, for academic practitioners, satisfying their intellectual
curiosity by working together with others. They are not individually motivated to compete
against each other with their national flags. In this light, the existing discussions and
analyses would be much less relevant in order to observe academic work from academic
scholars’ own viewpoints. In other words, the existing studies have been intensively
discussing mainly from the perspective of nation states, and such perspectives suggest
they represent scholars themselves consider academic work as a means for international
competition. If we think of reasons why we carry out academic work as an occupation, it
is certainly not because we would like to beat someone else from other countries. Of
course, the reasons for this vary from one person to another, but it can be assumed that SS
scholars are interested in knowing and understanding what makes up the world around
them. Simultaneously, it is supposed that they are interested in how their foreign
counterparts generate knowledge. A possible motivation for academic collaboration can
be as simple as this. Then, it is better to totally leave the existing framework and
discussions on academic competition, and to consider scholars as those who share aims
and motivations for joining academic collaborations, as a unit of social groups.
Academic culture, based on the concept of small cultures advocated by Holliday,
would be more helpful to observe and analyse academic work, even that is carried out
within a country, since, after all, such everyday work is the foundation of all work,
whether it is carried out nationally or internationally. In my current research project, the
83
Journal of Glocal Studies 2 (2015)
Japanese SSH scholars are studied by the framework of academic culture. It does not have
an intention to study the “Japanese” academic culture, but to set up the academic culture
whose construct would be applicable to academic work in any country. Japan is a case for
the first attempt to apply academic culture. Of course, the contents of each factor
described above can be diverse from one setting to another. Nevertheless, academic
culture is not interested in descriptions of each country’s case and differences between
countries. Instead, it is more focused on how those factors would influence academic
work in global settings.
Having better understanding of academic work through academic culture would lead
us to better analyses of academic work carried out in international scenes. Because
academic culture would be able to show ways in which academic work is carried out and
the broader background in which academic work takes place, it enables explanation and
analysis of activities that could impact and influence international collaborations.
Academic culture does not provide any fixed definitions of academic work. Instead, it
provides a broad framework in which diverse activities and phenomena could be observed
to analyse academic work. Since each scholar carries academic culture, this framework
would be used to explain and analyse joint academic activities when they meet their
counterparts, may they be foreign or of the same nationality. Hence, academic culture
could provide a different analytical framework to discuss international academic activities
beyond a national cultural framework and the competitive nature of discussions of the
issue.
Concluding Remarks
Academic culture is not exclusive of the nature of academic work, but is an important
component of academic work when discussing world /globalised SS. It is not to deny any
influence of different working conditions in academic work. Nonetheless, focusing on
differences we encounter in academic work/working conditions would not promote
scientifically fruitful collaborations, and it could rather shed light on more conflictual
aspects in academic work. Needless to say, we have to observe the current situations in SS
that is increasingly globalized and has become borderless in terms of mobility and
interaction between academics from various angles. The existing discussions regarding
international academic activities, however, seem too much interested in differences in
opportunities, materials, prestige, human resources, and other aspects that are claimed as
unequal in different parts of the globe. Although it is not unimportant to discuss and
analyse such conditions, it would be only repetitive if it is the sole point raised in
discussing the globalised academic activities. Additionally, it seems quite evident that
84
Academic Culture
analysing international academic work only from an intercultural study’s viewpoint is
rather irrelevant, according to the previous study implemented by the author. Therefore,
based on the concept of Holliday’s small cultures, the construct of academic culture is
devised in order to build up a totally different approach to analyses of academic work,
regardless of the nationality of practitioners. Suggesting this alternative approach to
discussions of international academic work could bridge gaps that we have missed in
dealing with this challenging thematic discussion.
Acknowledgements
This article is based on my ongoing doctoral thesis project “Investigating Elements in Academic Work for
International Knowledge Production in Social Sciences and Humanities: The Case of Japan” (the title is
provisional). The project was awarded the research fund by the Konosuke Matsushita Memorial Foundation
for the period of October 2012- September 2013.
Notes
1.
At a glance, it might seem that the current discussions on structures of globalized academic work in SS
have little to do with international collaborations. Nonetheless, the contrastive structures described in
this section have strong influence on international collaborative academic activities. As this article
discusses, if international collaborations are widely considered as a synonym to ‘international
co- authorship’, the relevance of the current discussions dealing with matters of ‘North- South’,
‘centre- periphery’ and other similar topics can be found as a fundamental background of international
collaborative activities. Moreover, studies on international academic collaborations are very rare to find,
particularly in the field of social sciences. When scholars discuss any aspects of international academic
activities, they tend to discuss same/similar topics in the section of the article. This point is also easily
found the mentioned World Social Science Report (UNESCO, 2010) to discuss internationalization of
world social sciences.
2.
However, quite some number of authors in this report seem to be sociologists and bibliometricians.
Therefore, in a strict sense, the discussions do not necessarily represent all social scientific disciplinary
fields.
3.
4.
The title is “Knowledge Divides” (UNESCO, 2010).
For instance, chapter three is titled as “unequal capacities”, chapter four as “uneven
internationalization” and chapter five as “homogenizing or pluralizing social sciences?”.
5.
For more detailed discussion about this, see “Hegemonic Science: Critique Strands, Counterstrategies,
and Their Paradigmatic Premises” (Kuhn, 2013).
6.
Ranking system for Higher Education Institutions worldwide also indicates this competitive nature in
academic activities.
85
Journal of Glocal Studies 2 (2015)
7.
Becher and Trowler (2001) point out that majority of academicians are motivated to acquire individual
prestige in their academic fields.
8.
In the case of Japan, the Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology (MEXT) has
just launched a new funding project, namely “Top Global University Project” in autumn 2014. This is
“a funding project that aims to enhance the international compatibility and competitiveness of higher
education in Japan. It provides prioritized support for the world- class and innovative universities that
lead the internationalization of Japanese universities.” (MEXT, 2014 Retrieved on 5 December 2014
from the MEXT website: http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/26/09/__icsFiles/afieldfile/2014/10/
07/1352218_02.pdf)
9.
The research participants of this study expressed that it was not different communication style and/or
different national cultural traits that could be obstacles in international academic collaborations. Instead,
they were much more concerned about that Western- centred methodological approaches and dealing
with concepts which rarely exist in research partners’ countries. These would render such international
collaborations more problematic and make it more difficult to achieve mutual understandings. From this
viewpoint, aspects of conventional intercultural studies seem rather irrelevant to investigating
international academic work.
10.
Confirming that it is how they are because of their national cultural trait is a typical analytical style of
intercultural studies. It is the essentialist/culturist approach exploiting the concept of large cultures.
11.
In this research project, the setting is the Japanese SS scholars/academe. It often tends to be interpreted
that the study seeks ‘Japanese’ particularities in academic work if one has an image of conventional
cultural/intercultural studies. This study has, however, little intention of finding ‘Japaneseness’ in
academic work, but to exploit the Japanese SS scholars and academe as a case in order to obtain broader
views that are applicable to other similar settings, which, in the context of this study, would be other
countries’ scholars and academe.
12.
Currently, academic work can be only evaluated quantitatively by number of citations, as discussed
earlier in this article.
13.
Needless to say, in other research contexts/settings, it would be possible to include the specific aspects
that are mentioned in this article. For instance, researching a particular discipline’s academic culture
would be possible. What I emphasize here about the specific aspects is to clarify the construct of
academic culture for this particular study on academic work with regard to international academic
collaborations.
14.
The three levels and individual factors are identified and set up, according to a variety of literature on
structure of Higher Education (HE) systems, roles of HE institutes, and numerous other studies on HE
in general. Strictly speaking, they are too broad to identify and define academic work at more individual
and practical level, since the interests of above literature do not necessarily match the interest of this
study. However, since there are few studies which has similar orientations to this study, no clear identity
86
Academic Culture
and definition of academic work in this context could be found in existing literature. These levels and
factors had to be newly identified and devised by the author.
15.
In the case of Japan, universities are expected to contribute to education, research, and contribution to/
cooperation with local communities/societies.
16.
Such a question is raised because societal demands have influence on academic work, as previously
pointed out. Although the societal demands do not directly come to scholars, what the society requires
can often be top priorities as today’s research agenda (e.g. poverty, aging population, unemployment,
etc.). Under such circumstances, it is not unimportant to understand what the public society thinks about
academics as people generating knowledge.
17.
At this moment, we cannot know whether or not it is the case, since the article is based on the study on
academic culture focusing on the Japanese SS scholars as a case study. Therefore, it would be clearer
about this point when the same/similar studies are implemented in other countries. This entire research
project does not yet aim at making a grand generalization on academic culture worldwide, but attempts
to suggest another approach to discussion of globalized academic work as such.
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89
『グローカル研究』઄(2015)
アカデミック・カルチャー:社会科学分野における国際的学術
協同活動に関する議論のための新たな概念的、分析的枠組み
岡本
和美
社会科学における知識生産の構造はこれまで North-South,中心−周縁という対比的な
表現をもって描かれ議論されてきた。そして,それらの議論は学術活動において世界全体を
見渡した時にあらわれる不均衡な力関係,バランスに焦点をあてることに執心してきたとい
えよう。一方でそのような用語や構造はある一定の意味において現実の地球規模の社会科学
界を反映しているといえるが,その他方ではこの種のタイプの議論は,科学もしくは学術知
識,それに付随する学術活動を国家の競争力の拡大の手段とみなす国家による現代の科学観
と同調する面が多く,その意味では学術的議論としてはこれ以上の進歩が見られない状況で
あるともいえる。つまり,世界規模化した学術活動についてのこれまでの議論の中でその不
均衡,不平等または小さな国々(しばしば発展途上国)の大国への依存度を例示するために
主要な論題となってきた世界大学ランキングや国別の引用数の比較等は上記の
North-South,中心−周縁という対比的な表現をもって議論を展開してきた人々が関心を
持ってきた学術活動における競争的な性質を強く表している。この点において,たとえ学術
活動それ自体や科学者の物理的な移動性,可動性が過去と比較して国境を越えやすくなって
きたとしても,それについての議論は国家を超えるどころかその対極にあり科学者やかれら
の所属機関の国籍に強く固定,制限されているといえる。
上記の背景をふまえてこれまでの議論に欠けていた学術活動,特に国際学術協同活動にお
ける知識生産についての科学者自身の視点を補う目的で,本論では「アカデミック・カル
チャー」と呼ばれる新たな概念的,および分析的枠組みを導入する。アカデミック・カル
チャーは英国の言語学者 Adrian Holliday が提唱した small cultures という概念を基盤とし
た概念であり,それは既存の世界規模における学術活動に関する議論に代わる新たな議論の
ための枠組みになりうると考えられる。同時にアカデミック・カルチャーは非本質主義
(non-essentialist approach)に基づいており,どのような国籍の人々も出身国の文化的ス
テレオタイプでは区分されることはなく,しばしば異人種間における対話やインタラクショ
ンについて研究する際に用いられる,人々の振る舞い,言動は人々が生まれ育った国におけ
る「
(国家的)文化」によって説明できるとする異文化研究の概念からの解放も意図してい
る。
この新しい「アカデミック・カルチャー」という枠組みによって国際学術協同に代表され
るような国際的な学術活動は科学者自身の視点から議論,分析されることが可能になり,学
術活動における競争的な側面についてはこれまでに比べて前面に押し出される必要が少なく
なるであろうと考えられる。また,日常的な学術活動における様々な活動要素がアカデミッ
ク・カルチャーによってつまびらかにされることになるが,その中でもそれらの要素が国際
90
アカデミック・カルチャー
的学術協同活動に与えうる影響も考察の対象になるであろう。アカデミック・カルチャーを
概念的,分析的枠組みとして導入することによって,社会科学分野においてグローバル化し
た学術活動に関する論題は学術活動に関する国家的視点と必要以上に密着し混同されてきた
既存の議論の限界を超え,これまで以上にさまざまな異なる角度から議論できるようにな
り,今後の議論の発展にも貢献しうるであろうと考えられる。
91
Journal of Glocal Studies
No.2 (2015) 93-104
Australian Indigenous Knowledge and
the Globalising Social Sciences
Michael Christie
Northern Institute,
Charles Darwin University
[email protected]
(Received 12 December 2014. Accepted 2 February 2015)
Abstract
The knowledge practices of Indigenous people may provide valuable insights
and strategies in our struggle to understand the processes and effects of
globalisation on the social sciences and humanities. This paper begins with a
close look at two ceremonial concepts belonging to the Yolŋu Australian
Aboriginal people which have been offered as conceptual devices for
understanding a social knowledge practice which is pragmatic and local.
Understanding these concepts as metaphysical underpinnings to a particular
performative epistemology provides analytical framings whereby alternatives
can be discerned to the globalising social sciences and humanities. Using a
case study of work about human rights, the paper concludes with a renewed
definition of social science in postcolonial knowledge work.
Keywords: Australian Indigenous, epistemology, postcolonial
An Induction into an Aboriginal Social Science
Australia’s Aboriginal people have distinctive epistemologies supporting what could be
called their ‘social sciences’. Here I begin with a definition of social science as
‘knowledge production about the social’. My induction into the knowledge practices of
the Yolŋu Aboriginal people in northeast Arnhem Land in the Northern Territory began
as a teacher in remote Australian Aboriginal schools in the early 1970s, where I soon
became a linguist, translator and interpreter of Yolŋu Aboriginal languages. Over the
93
Journal of Glocal Studies 2 (2015)
following 40 years my academic life has increasingly involved working with Aboriginal
knowledge authorities on collaborative transdisciplinary research which entails taking
seriously both academic and Aboriginal epistemologies. I am interested in Aboriginal
philosophy, particularly in epistemology, because it is in their epistemological practices
that Aboriginal philosophers make a major contribution to alternatives to western modes
of knowledge work, including the globalising social sciences and humanities.
These contributions could be understood, in terms of social sciences and their
epistemologies more generally, as ‘southern theories’ in the sense provided by Raewyn
Connell (2007); not as a ‘sharply bounded category’ of theory, but as theory that bears
complex relations ‘between intellectuals and institutions in the metropole and those in the
world periphery’ (p. vii- ix). What interests me here is not the Aboriginal knowledge
practices per se, but their contributions to the collaborations with academic knowledge
practices over local issues.
Garma and Galtha: Indigenous Metaphysical Commitments
In thinking of alternative social science and humanities practices, I focus on two
particular concepts derived from a Yolŋu Australian Aboriginal philosophy. The Yolŋu
people number about 5000, live on their ancestral lands in the remote east of Arnhem
Land in the Northern Territory, and speak a large number of related languages belonging
to the Pama- Nyungan group. The fundamental notions of garma and galtha were
originally provided to me and other educators and educational theorists working in
collaboration with Aboriginal knowledge authorities in school curriculum development in
the 1970s (discussed further below).
The garma which as we shall see can be understood as a powerful epistemological
frame, is first of all a public ceremonial space. People come together at a garma site to
celebrate and perform their very diverse ancestral histories, and to choreograph
collectively a statement of who they are, here and now, in all their differences and
samenesses, and thus to agree on an honourable and peaceable way of going on together.
There are many garma sites all over the land. Sometimes the garma space is used for
specialised conflict resolution, but more generally it is used for ceremonial cycles –
exchange of morning star totemic objects, for example, and for funerals.
To explain the philosophical underpinnings of a garma practice, I need to digress
slightly to an anthropological outline. The Yolŋu world is found divided in two mutually
dependent halves, or moieties, and everyone and everything belongs to one or the other
moiety. The world as we know it came into existence as the creating ancestors of each
moiety, walked, flew, swam and danced their way across the country, singing and crying,
94
Australian Indigenous Knowledge and the Globalising Social Sciences
and leaving in place the land forms, the waters, the species, and the peoples and their
languages, songs, sacred designs and ceremonies which we still celebrate today. Marriage
is exogamous. One must always marry someone from a different clan group, and one of
the opposite moiety. This has traditionally been organised through long standing alliances
between particular groups, who call each other ‘mother and child’ and ‘grandmother and
grandchild’. One is always the opposite moiety from one’s mother, and, of course, the
same moiety (but generally a different clan group) as one’s mother’s mother. It is through
one’s mother’s mother that one acquires much of one’s totemic affiliation and with whom
one unites in the garma for nuanced performances of sameness and difference. Enough of
the anthropology. Suffice it to say that one is who one is by virtue of long chains and webs
of connectedness between people, places and totems, and that all ceremonial and
agreement making activity necessarily involves members of a range of different totemic
groups in particular relation to each other. (For Yolŋu philosophical discussion on totems,
the environment, identity and knowledge work, see for example Buthimang 2010,
Garnggulkpuy 2002, 2010, Marika- Mununggiritj et al 1990.)
Arriving at the garma, everyone is conscious of those complex webs of connections,
and how they can be performed in subtle ways to draw out particular emphases, and
background others, and to focus upon particular identities or on particular distinctions.
The task is to work together, conscious of who and where we are, whose land we are on,
whose ceremony we are revitalising (or whose life we are celebrating), to make a
collective performance of who we are, while carefully preserving our differences, and
making agreed ways forward together.
People come from far and wide, and sit in shelters around the edges of the garma
space, and prepare themselves in extended family groups by singing their ancestral songs,
and painting each other with detailed ancestral designs. All ceremonial activities, like
paintings for example, entail owners (who ‘own’ or more correctly who ‘are’ the totem –
the cheeky yam, the storm cloud, the spiders web…) as well as ‘managers’ (who call the
totem and its human manifestations whether male or female, ‘mother’). The old men are
often in a sacred shelter, discussing links between the public garma, its paintings and
performances and the secret- sacred work to which it is connected, sharing and concealing
stories and coming to agreement over truth claims.
The ceremony has a particular starting point. When the general form of the
performance and the particular roles of senior people have been agreed upon, a senior
custodian of the land and the ceremony ‘throws the galtha’. Something, maybe a spear, or
a just a foot stomping in the sand, comes from the air and pierces the land as a sign that
agreement has been made, the talking will stop, and the performance will begin. This
95
Journal of Glocal Studies 2 (2015)
gesture, instantiating and (re)mobilising an ancestral complexity in the here and now, is
the ‘galtha’ (Marika- Mununggiritj and Christie, 1995).
Groups of people, young men dancing in front, women dancing behind, and old men
and women standing at the side calling out directions, beating clap sticks, singing
ancestral songs and incantations come into the garma, each group in turn, and work
together to choreograph the performance. The galtha is a sign that ancestral reality is at
work again in a special way, time bends back upon itself, history is folded back over the
present, and we are taking on once again the creative work of the ancestors, redefining
who and where we are in terms of our relation to each other and to the unfolding world.
Garma-galtha as a Social Science
The ancient practice of the garma and its galtha, and the complex philosophies which
emerge from it and which support it, first came to the attention of social scientists in the
1980s. The social scientists in question were curriculum theorists and developers
(including myself) in a remote corner of Arnhem Land, and the concepts of garma and
galtha were in fact pressed upon us by community elders and ceremonial leaders finally
reacting against fifty years of colonial education. It being a particularly liberal period of
Australia’ s political history, the policies of Aboriginal ‘self- determination’ and
‘reconciliation’ were finding their way into schools (and other institutions), and
Aboriginal governance practices and epistemologies were being taken seriously, at least
by some.
Taking the garma- galtha nexus seriously as a social science requires explicit
attention to its underlying metaphysical commitments. In terms of the education of young
people, it introduced a focus on embodiment in place as a reaction against the
universalised and objectified knowledge and knowers of the colonial classroom. Quite
opposed to the ‘episitemic equality’ of all creatures of the enlightenment (Addelson
1994), Yolŋu children (in fact all children according to Yolŋu philosophy), are
individually unique and different, depending upon their ancestral connections to people,
totems and place. In this knowledge practice, agreeing upon who we are, individually and
collectively, and how we should live, given our agreements, our places and our identities,
are all key features of any viable and just knowledge practice, whether it be in the
classroom, the laboratory, or the ethnographic field. As Connell points out, this insistence
upon land as ‘capable of entering into organised social knowledge and playing a central
role in representations of society’ (2007, p200) is a particular feature of Australia’ s
indigenous ‘southern theory’. As Indigenous social science worked in collaboration with
academic scientists interested in developing transdisciplinary alternatives to the
96
Australian Indigenous Knowledge and the Globalising Social Sciences
globalising knowledge practice under neoliberalism, Yolŋu knowledge practices have
informed and enriched research into fields as diverse as health communication (Christie
and Verran 2014) , environmental management (Christie 2007, 2008), resource allocation
and planning (Christie 2014), homelessness (Maypilama et al 2004) and housing (Christie
2013), emerging uses of digital technologies in Aboriginal knowledge traditions (Christie
& Verran 2013), mathematics education (Verran 2007), and problem gambling (Christie
and Young 2011). The references above all provide details of the practice of our
transdisciplinary research. (Transdisciplinary research in our definition, engages
knowledge practices from outside the academy – as opposed to interdisciplinary or
multidisciplinary which remain within the enlightenment tradition.) In the next section I
explore some of the analytic framings which provide a contrast between the Indigenous
knowledge practice and the increasingly globalising social sciences, not as they appear
(as galtha and garma) in Aboriginal philosophical discourse, but in the categories of the
western tradition.
Some Analytic Framings of a Yolŋu Social Science
Knowledge Traditions, and Knowledge Practices
My first move in framing this alternative social science is to step away from framing
knowledge as commodity. Scientists working within the social scientific traditions derived
from the European ‘enlightenment’, are prone to dismiss Aboriginal social science as
folksy and unscientific because it eschews objective facts in favour of narratives and
choreographed performances. So I use the term knowledge traditions deliberately and
carefully, taking both the garma and the enlightenment as historically situated knowledge
traditions. If we talk simply of knowledge, we may be tempted to think of knowledge as a
thing, rather than as a practice. To take knowledge as an object of human endeavour, is
already to slip into the enlightenment paradigm, where we find an a priori split between
the knower and the known. I argue, at least within the Indigenous knowledge practices
with which I am familiar, that the ontological divide between the knower and the known,
between the subject and the object, is always provisional, always emergent, always
negotiated and in fact always the effect of collective action, as in the garma process. We
are constantly working together to create new possible worlds, including new selves and
others, and ways of going forward together in good faith.
Framings and Theories
To resist the enlightenment figure of the knowable world ‘out there’ (see for example
Law 2007), and to embrace knowledge work as a collaborative, productive,
97
Journal of Glocal Studies 2 (2015)
world- making process, we reinterpret the traditional intellectual practice of theorising as
analytic framing. We are not taking a step backwards to judge an otherly world by
formulating a theory to map over and explain that external reality, but we bring an
analytic framing as a tool for use in the here and now, in the hope that our academic work
might intervene in the contestations around the problems of the moment (including
globalisation and its alternatives). Analytic framings, like the ancestral stories in the
garma, participate in knowledge production as players.They do not explain the world.
The galtha refuses the role of the judging observer. Knowledge makers are always active
participants in collective action, even if they feel and say they have a privileged
perspective through which they can see what others cannot. We must do theory and
practice together.
Political Ontology
Doing theory and practice together is significantly an ontological issue rather than an
epistemological one. And it is not merely that academic social sciences and Australian
Aboriginal knowers engage the world ‘out there’ using different ontological
commitments. (That would be mere relativism, see further below). What we learn from
Yolŋu philosophers is akin to what Blaser (2013) terms ‘political ontology’ which implies
not only a certain political sensibility to the ‘pluriverse’, but also a ‘problems space’
where different ways of ‘worlding’ interact productively (or not), and a modality of
analysis concerned with reality making and its own role in reality making’ (p552).
Performances and Representations
We do not reject or repudiate the knowledge practices of the enlightenment. They are
valid, significant and useful. (As the Yolŋu elders reassured the white Australian school
teachers in our discussion over curriculum many years ago, Western knowledge practices
are useful for Aboriginal people too, in appropriate framing). What distinguishes the
knowledge work of the enlightenment from that of the Yolŋu, is the focus on
representation: i.e. a subject perceiving and specifying an object. The metaphor of a light
shining to reveal a previously unseen but ready- made world ‘out there’ is of course the
fundamental metaphor of enlightenment epistemology. When following the Yolŋu, we
talk about knowledge as a practice, rather than an object, we can include both the
representational knowledge practices of the enlightenment and the performative practices
of those who resist representationalism, including Indigenous peoples. Representations of
‘truth’ are performances too. The notion of knowledge practices, provides us a frame
through which we can compare and contrast the globalising social sciences of the
98
Australian Indigenous Knowledge and the Globalising Social Sciences
enlightenment, and the localised knowledge work of other knowledge traditions. It also
allows us to see the knowledge practices of the enlightenment and of Aboriginal Australia
both in their cultural and historical contexts.
Relativism and the Local
So in any context of knowledge work, enlightenment practices (demography, sociology,
anthropology, history, etc.) may find their place in our agreement making. But they may
not. The Yolŋu knowledge tradition is strongly anti- relativist. Not all contributions are
equally useful, honourable or relevant. The different performances are all enacted and
interwoven as truth claims, upon which follow the difficult complex, sometimes tense,
located, embodied epistemic practices, where truth claims are assessed by the community
under the authority of the elders, making clear agreement about the here- and- now- for- us
truth of how we should go on together. This does imply a different notion of truth from
that found in representationalism.
Narratives and Facts
The truth claim of a Yolŋu is always a story. If you ask a Yolŋu a question, you will get a
story in reply. In my efforts to find a common ground from which to celebrate the
contributions of Aboriginal social science, I would argue that the (European
enlightenment) fact is actually a narrative with its cultural, historical and political clothing
removed. Facts are historically and politically contingent, and often depend upon a hidden
grand narrative’ of, for example, ‘progress’ or ‘cause and effect’. Theory is a narrative of
then and there. Practice is narrative of the here and now.
Progress and Colonisation
Aboriginal knowledge authorities are very conscious of the ways in which the colonising
social sciences refuse to engage face to face in collective action around the problems of
the moment, a refusal which is tied to the colonial project of progress. The garma (with
its insistence on the face- to- face here- and- now in truth and agreement- making) and the
galtha (with its insistence that all honourable futures must involve a careful
‘remembering of the future’), keep the progressivism of colonization (and of
globalisation) at bay. There is a close connection between the monologic of western social
science, and the notion of the colonised people being invited to move from a past of
darkness through a difficult present towards a glorious future of salvation, enlightenment
and progress (Fabian 2002, Rose 2004). Echoing as it does the monotheistic religions
from which it derives, this progressivism denies the viability and plurality of ancient and
99
Journal of Glocal Studies 2 (2015)
local life ways and obscures the alternatives to globalising knowledge priorities.
Contributions of Aboriginal Epistemology to Decolonising the Social
Sciences: The Example of Human Rights.
Aboriginal philosophers understand the world itself, including time and space, and all
social and political categories, as coming to be in collective action. Since the originary
actions of the ancestors who made our time and place, right up to now in the ongoing
garma- galtha practices of agreement making, including knowledge production, in this
metaphysics, the categories and boundaries are provisional and subtly negotiated in
place1.
So to use the example of human rights, an understanding and practice of rights must
be seen to emerge in collective action. Rights are not ontologically given. They are
constructed. But of course different groups (lawyers, activists, policy makers, academics,
Aboriginal participants) construct issues of rights quite differently. That is why in doing
careful postcolonial practices together, we search for a galtha – a new way of doing rights
as well as of understanding them. (We could have used any other example apart from
rights – it could be any social, psychological or political problem in context.)
In working in complex contested political situations, analytical framing work needs
to be directed towards ‘success in winning’ particular struggles over particular rights, and
not to a more general theory. Joining the battle over human rights requires using the
language and tools available for winning in the here- and- now of collective action. In
research work on Indigenous rights, we should assume that Aboriginal people and
governments should/ could both be winners, both ‘end users’ of research. They should all
be involved in the garma of social science. And as we work around concrete issues of
rights, we see how some particular discourses and practices actually constitute the nation
state, while others may unsettle it.
As we look at the way issues around human rights and responsibilities of individuals
and groups are defined as a public problem by various participants, we start to see the
range of solutions that are appropriate for human rights. Seeing all materialities as
somehow emergent in collective action allows us to be respectful of both government and
Aboriginal community members and the participants in their worlds – even though they
can be quite different. It allows us to avoid the metaphysics of western science, and the
individualism of western ethics and political philosophy.
While collaborations with Australian institutions over issues involving rights
(human, land, language etc.) seem straightforward in this analysis, they belie a quite
fundamental difference between Aboriginal and globalizing concepts of human rights, the
100
Australian Indigenous Knowledge and the Globalising Social Sciences
nation state and rationality. In an Aboriginal ontology, as noted above, all individuals are
unique and of a piece with their ancestral land (the natural and the cultural being
undifferentiated). So human integrity, like the integrity of all nature- culture is intrinsic.
But rights are political and constantly (re)negotiated. The nation- state in this analysis is
not an a priori category. It is emergent and constituted in the everyday here- and- now life
in Aboriginal Australia. This of course implies a quite different rationality in which things
and the relations between them are provisional and contingent, and (re) constituted
through complex performances by cultural authorities in an open (garma) forum, in good
faith.
How do these rationalities and understandings of law, statehood and rights find their
place in our collaborative social science? Methodologically we could for example look
together at the changing rhetoric and practices of governments concerned with individual
and collective rights, and compare them with the history of Aboriginal thinking and
practices of rights, responsibilities, care and concern (with respect to various issues or
projects of current concern– eg housing, land tenure, research, education, tourism, arts,
health). As pragmatists, we need to do this in the piecemeal tactics that work in producing
knowledge and policy and changed practice at the same time.
Yolŋu knowledge authorities, whose pragmatist philosophy see them engaged quite
directly in public problems, contribute to social movements in different ways from
general theorists. They are not looking for rational consistency across various
understandings and practices of human rights and responsibilities. It is from the tensions
between the different rationalities that we may be able to devise a more generative
approach to Human Rights policy, advocacy and practice.
So the contributions of Yolŋu social science to globalizing discourse of human rights
entails framing and enacting what is happening in the public problem of the moment,
producing provisional theories and practices that we should not expect to easily or
automatically extend to cover other situations, but through which we devise, celebrate and
perform just ways of going on together. We point to this located, momentary practice of
knowledge and agreement making as informing discussions around alternatives to the
globalizing social sciences and humanities.
Notes
1.
The exception to this is the ontological split between the two moieties, Dhuwa and Yirritja, which seem
to both precede and enable this metaphysics of emergence.
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103
『グローカル研究』઄(2015)
オーストラリア先住民族の知識とグローバル化社会科学
Michael Christie
先住民たちの知識実践は、グローバル化の過程と、それが社会科学、人文科学に与える影
響とを理解しようとするわれわれの営為に、価値ある洞察と戦略を与えてくれる。本論文
は、はじめに、Yolŋu オーストラリア先住民の二つの儀式概念に注目する。その分析は、
彼らのプラグマティックでローカルな社会的知識実践を理解する概念的手がかりを与えてく
れる。こうした概念を文脈依存的な行為遂行的認識論にとっての形而上学的な基盤と理解す
ることは、現状のグローバル社会科学、人文科学とは別様の分析枠組みを提供してくれる。
本論文は最後に、人権研究を一つの事例研究として検討し、ポストコロニアルな知識研究に
おける新しい社会科学の規定を提示する。
104
『ポピュラー音楽から問う―日本文化再考』
『グローカル研究』
No.2(2015)105-111
[書評論文]
東谷 護 編著
『ポピュラー音楽から問う―日本文化再考』
(せりか書房,2014 年)293 頁,ISBN978-4-7967-0336-9
高
橋 聡 太
東京芸術大学大学院博士課程
[email protected]
(受理:2015 年月 26 日,採択:2015 年月 29 日)
本書は日本のポピュラー音楽を歴史的側面から研究した論文を集めた一冊である。編著者
の東谷護は,これまでにも『ポピュラー音楽へのまなざし―売る・読む・楽しむ』(東谷編
2003),および『拡散する音楽文化をどうとらえるか』
(東谷編 2008)と,日本のポピュ
ラー音楽研究の成果をまとめた領域横断的な論集を編んでいる。さまざまな学問領域から主
に同時代的なポピュラー音楽の諸問題を取り上げた両書に対し,本書の特色はやや古い事例
をとりあげ,それぞれの足跡を丹念にたどることにより,現代にまで通底する普遍的な議論
を組み立てている点にある。
まずは本書の射程を俯瞰するため,以下にその目次を引く。
第章 エドガー・W・ポープ「日本のポピュラー音楽にあらわれる「中国」―明清楽
の変遷を手がかりとして」
第章 輪島裕介「
「カタコト歌謡」から近代日本大衆音楽史を再考する」
第章 遠藤薫「
〈盆踊り〉と YOSAKOI の間に―グローバル/ナショナル/ローカル
のせめぎ合う場としての現代祝祭」
第章 周東美材「
「未熟さ」の系譜―日本のポピュラー音楽と一九二〇年代の社会変
動」
第章 永原宣「
《東京行進曲》から探る「アンクール」な日本の再発見」
第章 安田昌弘「文化のグローバル化と実践の空間性について―京都ブルースを事例
に」
第章 東谷護「ポピュラー音楽にみる「プロ主体」と「アマチュア主体」の差異―全
日本フォークジャンボリーを事例として」
105
『グローカル研究』઄(2015)
各論考での主題を編年順に並べると,19 世紀末から 20 世紀初頭にかけて日本で受容された
明清楽(ポープ)
,1918 年の『赤い鳥』創刊後に萌芽した童謡運動以降の子どもに関する音
楽(周東)
,1929 年にレコードが発売された流行歌《東京行進曲》
(永原)
,1931 年のバート
ン・クレーン《酒がのみたい》に端を発する外国語風の発音を用いた歌謡曲(輪島)
,第二
次世界大戦をはさんでやや時代をおき,1970 年前後に岐阜県で開催された全日本フォーク
ジャンボリー(東谷)
,1970 年代初頭から花開いた京都ブルース(安田)
,1992 年に北海道
で始まった YOSAKOI(遠藤)となり,全体でおよそ一世紀以上もの広がりがある。
このうち,特に戦前の事例に関しては,ポピュラー音楽と捉えることに違和感を抱く向き
もあるだろう。明治から 1945 年の第次世界対戦終結までを近代,占領期以降を戦後,そ
して主権回復後の日本が経済的な自立を遂げて以降を現代として扱う画一された教科書的歴
史区分からすると,戦前の明清楽・童謡・流行歌などは近代音楽史研究の対象でもある。さ
らに,東谷が本書の序文で指摘しているとおり,ポピュラー音楽研究が本格的に制度化され
たのは 1980 年代末以降のことだ(東谷 2014a:)
。そこで主に俎上に載せられたのは,か
つて「価値の低い,語るに及ばない」
(同前)とみなされていた,戦後以降の比較的に新し
い音楽だった。それゆえか,ポピュラー音楽研究を「
「いま」ヒットしている」
(前掲書:
)はやりの音楽を対象とする学問領域として捉える傾向は今なお根強いようだ。
しかし,ポピュラー音楽研究の意義は決して卑近な事例を扱えることに限られるわけでは
ない。その真価は,リチャード・ミドルトンが主張したように,様々な音楽文化の流動性や
重層性を前景化させることにある(Middleton 1990)
。とりわけ歴史的視点による研究は,
クラシック,非商業的な芸術,伝統芸能,民族音楽など,
「ポピュラー」の対立項としてそ
の存立基盤がしばしば自明視されるカテゴリの布置や,前段で述べた画一的な時代区分が,
さまざまな実践と批評のなかで再編される過程をあきらかにし,諸文化に接するわれわれの
思考が何に囚われているのかを露呈させる。その上で,かつて「ポピュラー」であったはず
の忘れられた音楽文化が,いかなる社会的文脈のなかで意味づけられ,どのように経験され
ていたのかを論じることは,きわめて有効な手段である。
以下,本書の各論文を収録されている順に概括する。通常の学術論文や論文集とは異な
り,本書は規定枚数を設けていないため,各論文の長さにばらつきがある。また,一口にポ
ピュラー音楽を対象とする歴史的研究といっても,各論文で採用されている調査方法はそれ
ぞれ異なっている。そのため,すべての論文の論証過程をバランスよく詳細に検討すること
は困難である。そこで,本稿では各論文の骨子となる論点を簡潔に述べた上で,特に輪島論
文と周東論文を例にとり,本書で扱われた歴史的諸問題が現代の読者にとっていかなるアク
チュアリティを持つのかを強調することにより,本書の意義を主張したい。
第章のポープ論文は,一般的に西欧化の過程として語られる日本の近代化に,中国文化
がどのような影響を与えていたのかを,明清楽と呼ばれる音楽に見出された記号的意味の変
遷に着目して論じている。中国文化は江戸時代以前から長らく中流以上の階級の趣味として
受容され,明治初期に受容された明清楽も,当初は上品な音楽として親しまれた。ところ
106
『ポピュラー音楽から問う―日本文化再考』
が,1894 年の日清戦争以後,敵国である清を貶める風潮を受け,明清楽にもネガティヴな
イメージが付与される。こうして中国風のポピュラー音楽は一時的に廃れたものの日本が帝
国主義的な政策をとった大正期から昭和初期にかけて再興し,明清楽の流れをくむ支那楽が
大陸への勢力拡大を図る日本である種の理想郷の表象に利用された。近代に受容された明清
楽は,同時期に急速に流入した西洋音楽のシステムと連動し,現在では日本のポピュラー音
楽の本質的特徴とみなされるヨナ抜き長音階の成立にも少なからぬ影響を与えているとい
う。また,ポープは,こうした異国の音楽に付与される記号の推移を「未知→エキゾチック
→普通→懐かしい→忘れ去った」
(ポープ 2014:13)と五段階に分けた経時的モデルを提唱
して検証している。
第章の輪島論文の主題は,外国語風の発音と語彙を用いた日本語歌謡の系譜だ。輪島は
この概念を「カタコト歌謡」と名付け,日本で外来の音楽文化が受容される際にはカタコト
による歌唱が通史的かつ通ジャンル的に現れると主張する。論文中では特に 1930 年代に焦
点を絞り,バートン・クレーン,川畑文子,ディック・ミネを主な事例として,各歌手の伝
記的事実やレコードの制作背景をふまえつつ,主にアメリカ由来の英語なまりを強調した歌
唱方法がどのように受容されたのかを当時の評論をもとに分析し,レコード歌謡揺籃期から
カタコト歌謡が出現していたことをあきらかにする。しばしば差別的なほどに文化的ステレ
オタイプを強調し,あえて俗悪な発音と語彙を用いるカタコト歌謡は,えてして「正統」な
音楽史からは除外されてしまう。しかし,輪島が論じるように,耳慣れぬ言葉を用いたパ
フォーマンスからは多言語が絶えず混淆する文化実践の本質を垣間見られる。また,各時代
においてどのような訛りが「カタコト」とみなされていたのかを考察することは,どのよう
な言語の用法が正統化されてきたのかを逆照射する上でも有益だろう。
第章の遠藤論文は,1992 年に北海道札幌市で創始された YOSAKOI ソーランを事例
に,参加者のアイデンティティが「グローバル」
・
「ナショナル」
・
「ローカル」というつの
タグへと重層的に帰属する現代的な祝祭の様相を多角的に観察する。中心となる事例こそ本
書の論文中では最も新しいが,やや実証性に欠くものの仏教の伝来にまで「ポピュラー」な
歌と踊りの歴史をたどった大胆な構成だ。一見してローカルな伝統のようにも思える盆踊り
やよさこいなどが,実際には多種多様な文化の「Remix」
(遠藤 2014:104)によって成立
したものであるとし,さまざまな要素によって複合的に成立される空間として祝祭を捉えて
いる。さらに国際化と情報化の進展した現代では「YOSAKOI ソーラン」に代表されるよ
うに,外来の音楽を用いつつ(グローバル)
,
「和」のテイストが強調され(ナショナル)
,
同時に地域コミュニティを活性化させるような(ローカル)
,きわめて複雑なアイデンティ
ティを構成する空間が出現したという。
第章の周東論文では,音楽史において受け手としても送り手としても周縁化されてきた
「子ども」に焦点をあて,20 世紀のメディア変容のなかで前景化した子どもの身体性や媒介
性に着目し,その「未熟さ」に価値を見出す心性の歴史がメディア論的に検討される。特
に,近代家族の成立とともに子どもが新たなメディアの消費者となった 1920 年代の社会変
107
『グローカル研究』઄(2015)
動を中心に取り上げ,子どもをターゲットとした商品展開や,印刷媒体である雑誌をつうじ
て子どもの芸術性を開発しようとした北原白秋らの童謡運動,レコード文化の揺籃期から活
躍した童謡歌手たちの活動など,豊富な事例をもとに日本のメディア文化が常に子どもを注
視しながら展開してきたことを説得的に論じている。
「未熟さ」を尊重する傾向は,ある程
度は慈愛や親しみから生まれるものかもしれないが,その背後ではそうした心情を近代国家
や資本主義体制の成立基盤となる家族観の確立に利用せんとする権力がはたらいている(周
東 2014:173)
。ありきたりな子ども観の相対化は,近代社会そのものを抜本的に批判する
可能性を秘めていると言えるだろう。
第章の永原論文は,1929 年に日本ビクター蓄音機より発売された《東京行進曲》をめ
ぐる当時の批判的言説を分析し,ポピュラー文化のネガティヴな側面を検討する。西條八十
が作詞,中山晋平が作曲を手がけ,佐藤千夜子が歌った《東京行進曲》は,これまで外国の
音源や日本の伝統芸能のレコードを発売していた日本国内のレコード会社が,初めて主体的
に制作した「オリジナル」の楽曲であり,日本のレコード歌謡史において画期をなす一曲と
して位置づけられている。しかし,当時の流行や盛り場の文化を反映させたこの楽曲は,日
本の文化的エリートから低俗なものとして非難された。永原は,
《東京行進曲》を声高に批
判した上流階級の人々の胸中には,この楽曲の流行の背景に自分たちの存立を脅かす中流階
級の台頭への危惧があったと指摘し,ポピュラー文化を低俗的にみなす言説空間を各階級の
価値観が衝突する「文化戦争」
(永原 2014:205)の場と捉えている。ポピュラー音楽の俗
悪さを認識することは,ポピュラー文化がもつインパクトを両義的にとらえ,いわゆる
「クール・ジャパン」のような近視眼的日本文化礼賛に一石を投じることにもつながるはず
だ。
第章と第章は,主に文献資料に基づくこれまでの章とは異なり,いずれも聞き取りを
もとにした質的調査によって,ポピュラー音楽の理論的諸問題についての議論を深めてい
る。
第章の安田論文では,京都のブルース文化を事例に,特定の音楽ジャンルが構成するグ
ローバルな空間の多元性を腑分けしている。これまで文化的グローバライゼーションの過程
は,グローバル/ローカルの二元論をもとに,前者が後者を支配する単純な構造としてまと
められがちであった。安田は空間論の先行研究をもとにこの短絡的なモデルを分節し,質的
調査によってあきらかにした京都ブルースの展開プロセスの分析に援用する。京都の土地
柄,そこでブルースを実践する人々,舶来のレコードやミュージシャンなど,様々な要素が
交錯する京都ブルース文化の生成過程は、ともすれば「アメリカの黒人文化であるブルース
が京都に根付いた」といった単線的な図式で語られてしまう文化のローカル化を、より多元
的かつ複方向的な現象として捉え直すための視座を提供してくれる。
第章の東谷論文が議論するのは,プロ/アマチュアという,これも同様にポピュラー音
楽文化のあいだでしばしば自明視されてきた二項対立である。多くの場合,ポピュラー音楽
の歴史はヒット曲を流通させるプロ側を中心に語られるが,さまざまな実践の場をつぶさに
108
『ポピュラー音楽から問う―日本文化再考』
見ると,そこではアマチュア的な志向を持つ人々もまた音楽文化の根底を支えていることが
あきらかとなる。東谷は,1969 年から 1971 年にかけて開催され,日本フォーク史のメルク
マールとなった「全日本フォーク・ジャンボリー」の運営に携わった人々への綿密な聞き取
り調査を実施している。当事者たちの証言をもとに,舞台裏を支えた人々の熱意や,イヴェ
ントと地域との関係性を克明に描き出し,さまざまな協同と対立のなかでどのようにアマ
チュア的な主体性がつくられたのかを論じている。アマチュア主体のアイデンティティ形成
を追うだけではなく,当事者たちの回想や貴重な写真資料などをもとに歴史的なイベントの
実態を再構成する手法は,ポピュラー音楽の質的調査の可能性を充分に示すものだ。
すでに本稿の冒頭で述べたように,本書の最大の魅力は,どの論文も他の地域や時代にま
で敷衍できる議論を展開していることにある。例えば,輪島論文は主に戦前のカタコト歌謡
を論じたものだが,外国語の発音と語彙を用いた日本語での歌唱が,キャロルやサザン・
オールスターズなど 1970 年代以後のロック受容においても反復されたことにふれている。
カタコト歌謡的なロックの歌唱スタイルは,現在も一種の定番となっており,その一例とし
て輪島は脚注にて近年お笑いの分野で知られている〈T-BOLAN を知らない子どもたち〉
と〈ジェッタシー〉を紹介している。前者は T-BOLAN,後者は BLANKEY JET CITY
とモデルの違いこそあるが,両者とも日本語の歌詞に英単語を織り交ぜ,あからさまにアメ
リカかぶれなカタカナ英語の発音で歌う,日本のロック・バンドの様式をナンセンスなほど
に強調している。本来であれば「かっこよさ」を狙ったカタコト歌謡の様式を過剰に踏襲す
ることが,ありきたりな「ダサさ」に直結して笑いとなり,広く受け入れられたという事実
は,昭和初期から続くカタコト歌謡の流れを汲む日本のロック・バンド特有の歌いまわし
が,スタンダードなものとして広く認識されていることの証左となる。われわれがテレビで
何となく目にしているお笑い文化のうちにすら,ポピュラー音楽における多言語混淆の軌跡
を読み取ることができるのである。
また,周東論文では,
「一九二〇年代の社会変動」と明記された題目を一見しただけでは
やや分かりにくいが,1910 年代に設立された宝塚少女歌劇から 2010 年代のももいろクロー
バー Z に至るまでの,世紀をまたぐ多種多様なポピュラー音楽文化を議論の対象とし,各
時代ごとのメディア変動に対応してどのように「未熟さ」が立ち現れ,それがいかに消費さ
れてきたのかを概括している。こうした野心的な試みは,カタコト歌謡のヴァリエーション
とも言えそうな舌足らずな機械的発音を特徴とする初音ミクなどのボーカロイド文化,登場
する役者の歌・踊り・演技などの技術的な拙さがかえってファンの熱狂をよぶ『テニスの王
子様』に代表されるマンガ原作つきミュージカルなど,近ごろ領域横断的に学術的な関心を
引きつつある様々な新興のポピュラー文化を,より広く深い文化史的時間軸のなかに位置づ
けて議論する上で,きわめて重要な視座を提供してくれる。
ここまで紹介してきたように,本書の論文はいずれをとっても特定のジャンルにとどまら
ず,より広い「問い」へとつながる可能性を秘めているが,最後につだけ可能であれば本
書により詳しく補足してもらいたかった点を指摘したい。
109
『グローカル研究』઄(2015)
第一に,長い歴史的な時間軸を設定した多角的な論集であるからこそ,ポピュラー音楽の
歴史的研究における方法論の議論にも紙幅を割くべきだったように思う。本書で最も古い事
例を扱ったポープ論文が,ディスコグラフィーとして YouTube にアップロードされた SP
盤音源を参照していることは,きわめて現代的な傾向だと言える。音と映像のデジタル・
アーカイヴが公的にも私的にも進んでいる昨今にあっては,過去のさまざまな音楽と人々と
の相対的な距離は急速に変容している。文献資料にもとづくオーソドックスな研究や,聞き
取りにもとづく質的な歴史調査の方法論はもちろんだが,新たに利用可能になった視聴覚的
史料をどのように研究に組み込むべきなのかは,今後さらに慎重に議論するべきだろう。
もう一点は,本書のほぼ全論文でも言及されている,歴史的研究を進める上で「日本」と
いう地理的枠組を設定することの限界である。文化実践は近代的な一国史の範疇を容易に超
越し,その経験もまた様々な言語圏をまたいで,一種の共有財産のように蓄積されていく。
その実態を知るためには,ポープ論文や輪島論文でも言及されているように,国家ではなく
海洋を中心に据えた文化史の構築が必要だろう。本書によって日本から発せられた「問い」
が,海をこえて響きわたることを期待する。
参考文献
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〈盆踊り〉と YOSAKOI の間に―グローバル/ナショナル/ローカルのせめぎ合う
場としての現代祝祭」
,東谷護(編著)
『ポピュラー音楽から問う―日本文化再考』せりか書房,
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周東美材,2014,
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「未熟さ」の系譜―日本のポピュラー音楽と一九二〇年代の社会変動」
,東谷護(編
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『ポピュラー音楽から問う―日本文化再考』せりか書房,135〜179 頁。
東谷 護(編著)
,2003,
『ポピュラー音楽へのまなざし―売る・読む・楽しむ』勁草書房。
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『ポピュラー音楽から問う―日本文化再考』せり
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『ポピュラー音楽から問う―日本文化再考』せりか書房,
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,東谷護
(編著)
『ポピュラー音楽から問う―日本文化再考』せりか書房,207〜244 頁。
,東谷護(編著)
『ポピュ
輪島裕介,2014,
「
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110
『ポピュラー音楽から問う―日本文化再考』
ラー音楽から問う―日本文化再考』せりか書房,47〜79 頁。
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*本書に収められた論考のうち,第章,第章,第章,第章は,成城大学グローカル
研究センター主催による公開シンポジウム「日本のポピュラー音楽をどうとらえるか−グ
ローバルとローカルの相克−」
(2012 年月開催)にて,第章は「日本のポピュラー音
楽をどうとらえるか―ローカルからグローバルへの逆照射―」
(2013 年月開催)に
て,それぞれ発表されたものを発展したものである。
(編集委員会)
111
『グローカル研究』
No.2(2015)113-120
[研究ノート]
歴史学におけるグローカルな視座
木
畑 洋 一
成城大学法学部,東京大学名誉教授
[email protected]
(受理:2015 年月 27 日,採択:2015 年月 29 日)
グローカル研究というものは試行錯誤の段階にある。グローバル化とローカル化が同時か
つ相互に影響を及ぼしながら進行していく現象としてのグローカル化が現代社会のありよう
を特徴づけている,という作業仮説の上に立って進められる成城大学グローカル研究セン
ターの共同研究の一環として,歴史学の立場からグローカル化に迫るとするとどのようなこ
とが問題になるか,以下はそれについての予備的考察である。
ઃ グローバル・ヒストリーとローカル・ヒストリー
「歴史学におけるグローカルな視座」について論じるために,グローバル・ヒストリーと
いう研究潮流に示される「歴史学におけるグローバルな視座」とローカル・ヒストリー研究
が立脚する「歴史学におけるローカルな視座」のそれぞれについて,まず考えてみたい。
この内グローバル・ヒストリーという言葉がよく使われるようになったのは,1990 年代
のことである。この言葉をタイトルに含む本は,アメリカ合衆国ですでに 1960 年代から出
されてきていたが,それが目立ちはじめたのは,1990 年代以降,とりわけ 90 年代後半以降
のことである。それはグローバリゼーションという言葉が人口に膾炙するようになった状況
と,軌を一にしていた。
そして最近ではグローバル・ヒストリーばやりであるといってもよい状況が現出してい
る。日本でも,水島司が『グローバル・ヒストリーの挑戦』
(山川出版社,2008 年)を編集
し,
『グローバル・ヒストリー入門』
(山川出版社,2010 年)を執筆したあたりから,タイ
トルにその言葉を冠した書物が出版されはじめた。とりわけ,大阪大学の秋田茂を中心とす
る研究者グループの活躍はめざましく,秋田茂・桃木至朗編『グローバルヒストリーと帝
国』
(大阪大学出版会,2013 年)や秋田茂編『アジアからみたグローバルヒストリー』
(ミ
ネルヴァ書房,2013 年)など,研究成果が続々と世に問われている。
このグローバル・ヒストリーの特徴については,水島司があげる次の点がよく引かれ
113
る1)。
) 扱う時間の長さ:従来は考古学の範囲であった有史以前の人類の誕生から現在まで
を扱い,場合によっては宇宙の誕生までもが対象に含まれる。
) 対象となる空間の広さ:ユーラシア大陸やインド洋世界というように,陸域,海域
全体の構造や動きを問題とすることが多い。
) ヨーロッパ世界の相対化,あるいはヨーロッパが主導的役割をはたした近代以降の
歴史の相対化:ヨーロッパの歴史的役割や先進性の意味が再検討され,従来重視され
てこなかった非ヨーロッパ世界の歴史やそこでの歴史発展のあり方が重視される。
) 地域比較に加え,諸地域間の相互連関,相互の影響の重視:モノや制度を通じて諸
地域が相互にどのように連関した歴史的動きを示したかという点が重視される。
) 新たな対象,テーマ:従来は戦争,政治,経済活動,宗教,文化などが主なテーマ
であったのに対し,疫病,環境,人口,生活水準など,日常に近く,しかし社会全体
や歴史変動のあり方全般に関する重要な問題が取り組まれる。
この水島の議論にみられるように,これまでの歴史研究で意識的にせよ無意識のうちにせ
よ中心にすえられることが多かったヨーロッパを相対化して(ヨーロッパ中心史観批判)
,
対象とする時間や空間を広げつつ,地球で生きる人間に関わる多様なテーマを検討していこ
うとするのが,グローバル・ヒストリーのねらいであるといってよいであろう。
ここで一つ注意しておくべき点は,従来の世界史研究のなかにも,この点に通底するよ
うな方向性を指向してきた仕事があったことである。第二次世界大戦後の日本における世界
史研究を牽引した上原専禄や上原の後継者ともいえる吉田悟郎の仕事が思い浮かぶ2)。た
だ,1990 年代以降,このような課題がより意識的,積極的に追求されるようになったこと
は確かである。
一方,それぞれの地域(ローカリティ)に密着した歴史研究(ローカル・ヒストリー)
は,営々として続けられてきた。
『岩波講座日本通史』の別巻は「地域史研究の現状と課
題」にあてられているが,そこで総論的な議論を行った木村礎は,
「所定地域内における豊
かな具体的細部についての関心」に発する研究の軌跡を,江戸時代の地誌から論じはじめて
いる。近代に関しては,柳田國男などの民俗学研究と密接に結びついた「郷土史」研究が戦
前に盛んになったこと,戦後になるとこの「郷土史」を視野が狭く「非科学的」であると批
判する形で「地方史」という流れが起こってきたこと,さらに 1970 年前後から「地方史」
は中央に対する地方の従属性という語感を強くもちすぎているとして「地域史」という考え
方が出現してきたこと,を紹介している3)。
注目すべきは,地域というものについての議論もまた,1990 年代に新たな活性化をみせ
たことである。今触れた『岩波講座日本通史』別巻が 1990 年代半ばに出されたこともそ
れを示していたし,90 年代後半には,
「地域の世界史」と銘打ったシリーズが公刊された4)。
また日本を代表する歴史学会の一つである歴史科学協議会は 90 年代末に二度にわたって年
次大会のテーマとして「歴史の方法としての地域」を掲げた。こうした議論のなかで問題と
114
される地域は,地理的に固定され同定されるものには限られず(もちろんそのような具体
的・地理的イメージと結びついた地域が,多くの場合歴史研究の対象となることは事実であ
るが)
,歴史家の課題意識に応じて設定されるもの(たとえば地理的に離れたいくつかの場
所が同じ課題に直面することを通じて一つの地域として考えられる場合など)であると考え
られた5)。
こうして,1990 年代以降,グローバル・ヒストリーの台頭と,ローカル・ヒストリーに
おける地域についての新たな検討が進んできたのである。
઄ ナショナル・ヒストリーの相対化
この動きのなかで,グローバルの側からもローカルの側からも改めて問題とされた歴史学
の流れが,ナショナル・ヒストリー(国民史,国家史)である。
ナショナル・ヒストリーは,近代歴史学の王道であったといってよい。近代歴史学は 19
世紀ヨーロッパにおいて発展をとげ,ヨーロッパの知的・文化的影響力拡大の重要な部分と
して世界に広がっていったが,それはヨーロッパで国民国家体制が展開し世界に拡大する過
程と重なりあっていた。歴史家自身が属する国をあつかう自国史であれ,自国以外の外国を
扱う外国史であれ,歴史研究のさまざまな視点が結局のところは基軸としてのナショナル・
ヒストリーに収れんしていくなかで,歴史学は国民国家の形成と展開を支えていく有力な手
段となったのである。
そのようなナショナル・ヒストリーは,国家や国民それ自体を直接の対象としない場合で
も,歴史研究において圧倒的な重みをもった。
先に紹介した水島司はグローバル・ヒストリーの新しさを強調するなかで,
「一国史を相
対化すべき役割の世界史も,しばしば自国と周辺地域の国民国家史の寄せ集めである。
」と
記したことがある6)。従来の世界史がすべてそうであったと言い切ってしまうことはできな
いものの,自国史を重視しつつ,さまざまなナショナル・ヒストリーを並列させていくこと
で世界史を描こうとする傾向は確かに存在したのである。
一方ローカル・ヒストリーの方も,地方・地域についての議論がナショナルな枠組みに回
収されていくことが多かった。1950 年に設立された日本での地方史研究の代表的組織であ
る地方史研究協議会の会則に,
「日本史研究の基礎である地方史研究を推進することを目的
とする」と記されているように,日本におけるローカル・ヒストリーは日本史というナショ
ナル・ヒストリーと密着していたのである。
このように,世界を問題とし,地方・地域を問題とする場合でも,ナショナル・ヒスト
リーを媒介とする研究,ナショナル・ヒストリーに収れんする研究が,長く歴史学の支配的
な枠組みとなってきたといえよう。筆者は後述するように,グローバリゼーションの波のな
かでも国民国家の意味と役割は依然として大きく,その状態はこれからも長く続いていくと
考えているし,国民国家のあり方に関わるナショナル・ヒストリーの重要性は決して軽視す
べきではないと思っているが,ナショナル・ヒストリーを基軸とするこのような歴史像が相
115
対化されるべきであることは確かである。グローバルな視座とローカルな視座を結びつける
グローカルな視座は,それにとってきわめて有効なのである。
અ グローバルとローカルを結ぶ
グローバルな視座とローカルな視座をいかに結びつけるか,まずは本項でそれについての
方法的な議論をいくつか紹介した上で,次項で具体的な研究の例をとりあげてみたい。
水島司は,先にあげたグローバル・ヒストリーの点の特徴の内,第点目である対象の
空間的広がりについて,それは必ずしも広い空間というわけではなく,
「一国史と呼ばれる
ような一つの国に限定された分析で終始することはなく,たとえ小さな地域を事例として取
り上げたとしても,より広域の諸関係のなかに事例を位置づけるということが意図され
る。
」7)と付け加えている。ローカルと表現されるような小さな地域であっても,それ自体が
グローバル・ヒストリーの対象になるという主張である。
また,現在グローバル・ヒストリーとして提示されている枠組みは従来の世界史研究のな
かでも十分みられたとする南塚信吾は,そうした世界史の視角について以下のように述べ
る。
「まず,地域から出発する方法があります。それにもいろいろありますが,いずれも国
民国家という枠組みを「相対化」して,国民国家の並列としてではない世界史を考えようと
いう志向をもっています。ドブロヴニクや沖縄や飯田などミクロな地域から世界史を展望し
ようとする試み,東欧や東南アジアやラテンアメリカといったマクロな地域で世界史を構成
しようとする企画,そして最近では,大西洋世界や地中海世界やユーラシアやインド洋世界
といった「メガ地域」を構想する方向があります。
」8)ミクロな地域として,クロアチアの都
市ドブロヴニクや日本の飯田地方(これらはいずれも南塚自身が関係している地域である)
,
さらには沖縄が例としてあげてあるが,これがより小さな地域についてもあてはまる議論と
して提示されていることはいうまでもない。
水島や南塚の議論に見られるのは,小さな地域についての考察を,その地域のみにとどめ
てしまうのでなく,また従来一般的であったようにナショナルなレベルに収れんさせるので
もなく,そこから広くグローバルな問題を考えていこうとする姿勢である。2011 年にオク
スフォード大学に設置された The Oxford Centre for Global History は,研究対象の一つと
して,
「グローバルな文脈でみた地域(region)の歴史,相互に交錯するローカルな社会の
研究」をあげているが,これもそのような姿勢を示したものといえるであろう9)。
そもそも,グローブにせよ世界にせよ,それを構成する個々の地域の集積に他ならない。
地域はさまざまな形をとり多様な規模をもつが,そうした地域の変動なくしてグローバルな
変化というものも起こりえない。グローバル・ヒストリーであれ世界史であれ,ローカル・
ヒストリーの刻印を常に帯びながら動いているのである10)。そうした意味で,グローバル・
ヒストリーはローカル・ヒストリーという基盤から切り離しては論じ難いし,ローカル・ヒ
ストリーの方はグローバルな展望につながることによって新たな息吹をみせることになる。
そのような問題意識を明示的に示した共同研究に,河西英通,浪川健治,M. ウィリア
116
ム・スティール編『ローカルヒストリーからグローバルヒストリーへ』という本がある11)。
これがめざしているのは,
「それぞれが研究対象とする地域空間を互いに相対化しながら,
よりひろく世界史の新たな獲得の仕方,世界の新たな結合の展望として,地域史=地域歴史
学を提起すること」である。彼らはそうすることによって「新しい地域史,新しい歴史学の
誕生」を促そうとしている。
グローバルとローカルを結ぶ道は,こうして,グローバル・ヒストリーがローカル・ヒス
トリーのなかに発現し,また逆にローカル・ヒストリーがグローバル・ヒストリーのなかに
発現するという双方向性を追求していくところに見出されると考えられるが,それに際して
一つ注意しておきたいことがある。前項で触れたナショナル・ヒストリーの位置づけであ
る。グローバル・ヒストリーに関する議論やグローバルとローカルの関係についての議論が
ともするとナショナル・ヒストリーについて全く消極的に論じがちなことに,筆者としては
疑問を覚えるのである。グローバリゼーションがさらに進展していったとしても,近い将来
に国民国家の役割がなくなるとは考えられない。国民国家というまとまり,ナショナルなレ
ベルがもつ意味は,消えていくことはないのである。グローバルとローカルといっても,そ
れは明確な二極をなすものではなく,非常に多様なスペクトラムがそこには存在するのであ
り,ナショナルなレベルに焦点をあてたナショナル・ヒストリーの有用性,重要性を否定し
てしまうことは,ナショナル・ヒストリーを聖化することと同様の過ちに陥ることになろ
う。秋田茂たちは,グローバル・ヒストリーを推進するにあたって,グローバル,リージョ
ナル,ナショナル,ローカルという「四層構造」論を提唱したが12),筆者もこのあたりが
妥当な枠組みではないかと思っている13)。
આ グローカルな歴史叙述に向けて
次に,このようなグローカルな視座に関わる具体的な歴史研究の例を,いくつか紹介して
みたい。もとより,グローバルとローカルが交錯する問題はいくらでもあるといってよく,
以下は筆者自身の研究をも含むごくわずかの例である。
最初に取り上げるのは,そうした視座をきわめて強く意識した研究の例である。アメリカ
合衆国のニューヨーク州ロングアイランドにあるストーニイ・ブルック大学には,Center
for Global and Local History というセンターが存在する。2003 年に作られたこのセンター
は,地球と人類の相互依存性を強調し,ローカルな文化とグローバルな科学技術文明の間の
相互作用に重点を置く研究をめざしている。センター創設に際して中心的役割を演じた科学
史家のヴォルフ・シェイファーが,そのような視角からの研究例として,以下のような内容
の「ロングアイランド:グローバル,ナショナル,そしてローカル」という論文を書いてい
るので,まずそれを紹介しよう。
シェイファーがこの論文で取り上げているのは,ドイツからアメリカ合衆国に亡命し,ロ
ングアイランドに居をかまえたアルバート・アインシュタインが,1939 年月日にフラ
ンクリン・ローズヴェルト大統領に宛てて書いた,ナチス・ドイツがきわめて強力な兵器を
117
所有することになるかもしれないと警告する内容の,一通の書簡である。核兵器の歴史のな
かではよく知られたこの手紙を,シェイファーはグローバル・ヒストリー,ナショナル・ヒ
ストリー,ローカル・ヒストリーという三つのレベルで検討する。まずグローバルなレベル
では,それが世界を揺るがすことになる核兵器の製造につながっていったという科学および
政治の国際的な領域での意味が指摘される。次いでナショナルなレベルでは,それがドイツ
ではなくアメリカ合衆国での核開発に結びついたという点に注意が向けられる。さらにロー
カル・ヒストリーとのつながりでは,アインシュタインが他ならぬロングアイランドに住ん
でいてそこからその書簡を発送したことの意味が,その地のユダヤ人商人であったデイ
ヴィッド・ロートマンとの親交などを軸として論じられるのである14)。
次に,日本の大学歴史教育のなかでの学生たちによる研究の例を引いてみたい。福岡大学
のドイツ史研究者星乃治彦は,学生の共同研究を推進してこれまでにも豊かな成果をあげて
きているが,その成果の一つを 2013 年に『地域が語る世界史』として刊行した15)。この本
に結実した学生たちの研究は,
「グローバル・ヒストリーと従来の地域史(地方史)を接近
させ,地域の視点から世界史をみていく」ことをめざしている。それは三部から構成されて
おり,第一部では,自分たちの住む地域である博多の歴史を世界につなぐ試みがなされ,博
多港が近世における銀の流通の場になったこと,アジア主義者を通してアジアとの密接なつ
ながりが存在したことなどが論じられる。第二部では,欧米における地域が対象とされ,た
とえばスペインのカスティーリャとカタルーニャを素材としてスペインという国家のあり方
を問い直す作業などが行われる。さらに第三部は,
「大きな地域」を取り上げ,カリブ・ラ
テンアメリカ地域が大西洋にひろがるネットワークにいかに関わったかという問題などが検
討されているのである。学生なりに真摯にグローバルとローカルの関連を問う姿勢がここに
は見られる。
一方,先にあげた『ローカルヒストリーからグローバルヒストリーへ』の具体的な成果は
どうであろうか。いささか厳しすぎる評価かもしれないが,野心的な目的にもかかわらず,
その成果はナショナル・ヒストリーに回収されない形でローカル・ヒストリーを描くという
ところにとどまっているとの感がある。その限りにおいては十分成功しているが,そこから
グローバル・ヒストリーにどのようにつながるかということが,筆者にはよく見えてこな
い。それは,この本の続編ともいえる『グローバル化のなかの日本史像』
(岩田書院,2013)
でも同様である16)。
最後に,筆者の研究についても触れておこう。近年筆者が取り組んでいる,ディエゴガル
シアという小さな島をめぐる次のような研究である17)。
インド洋にあるチャゴス諸島に属するディエゴガルシアは,イギリス帝国領モーリシャス
に属していたが,脱植民地化が進展するなかでモーリシャスの独立が日程にのぼってくる
頃,冷戦下でインド洋の戦略的意味を重視しはじめたアメリカ合衆国軍部の関心を引くこと
になり,イギリスから貸与してもらうための交渉が 1964 年から始まった。モーリシャス独
立後もこの島をイギリスがアメリカに自由に貸与できる仕組みを作るため,モーリシャスの
118
独立に先だって,イギリス政府は 65 年にチャゴス諸島をモーリシャスから切り離し,イン
ド洋イギリス領という新たな領土を作りあげた。その上で,アメリカへの貸与が取り決めら
れたのである。その後,ディエゴガルシアにアメリカの軍事施設が作られる前提として,島
の住民たちが強制的に退去させられ,モーリシャスやセイシェル,さらに一部は後にイギリ
スで,みじめな生活を送ることを余儀なくされることになった。ディエゴガルシアの米軍基
地が拡充され,アメリカの世界戦略の要ともいえる位置を占めるに至った反面,島への帰還
を望みつづけている元住民たちの願いはかなえられていないし,最近では,チャゴス諸島付
近の海の環境を守るという大義名分が,住民の帰還を阻む理由としてあげられるようにも
なってきている。
サンゴ礁から成る島というごく小さな地域の現代史,そこに住んでいた少数の人々(ディ
エゴガルシアはじめチャゴス諸島から放逐された人々の数は,1500 人程度であった)の生
活史に,冷戦と脱植民地化の絡み合い,インド洋海域をめぐるイギリスからアメリカへの覇
権交代,アメリカの世界戦略,さらには地球環境問題をめぐる言説に隠された意味といった
さまざまなグローバルな問題が映し出される,そのような研究として筆者はこれに取り組ん
できた。とはいえ,このテーマについての検討を始めた時,筆者はこうしたグローカルな視
座というものをきちんと意識していたわけではない。グローカル研究センターの活動に関
わったことで,それまでの研究についてこの視座を意識するようになったことを記して,歴
史学におけるグローカルな視座についての試論を閉じたいと思う。
注
()水島司『グローバル・ヒストリー入門』
(世界史リブレット)山川出版社,2010,pp. 2-4.
()上原専禄編『日本国民の世界史』岩波書店,1960;吉田悟郎『世界史学講義』お茶の水書房,
1995 など。
()木村礎「郷土史・地方史・地域史研究の歴史と課題」
『岩波講座日本通史 別巻 地域史研究
の現状と課題』岩波書店,1994.
()
『地域の世界史』全 12 巻,山川出版社,1997-2000.
()参照,木畑洋一「地域研究,地域世界と地域共同体」研究会「戦後派第一世代の歴史研究者は
21 世紀に何をなすべきか」編『21 世紀歴史学の創造 別巻Ⅰ われわれの歴史と歴史学』有志
舎,2012.
()2007 年夏学期における東京大学教養学部でのグローバル・ヒストリーについてのリレー講義紹
介文より。
()水島司『グローバル・ヒストリー入門』p. 3.
()南塚信吾『世界史なんていらない?』
(岩波ブックレット)岩波書店,2007,p. 45
(
)http://global.history.ox.ac.uk/ (2015 年月 21 日アクセス)
(10)A. G. Hopkins, ed., Global History: Interactions between the Universal and the Local,
119
Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2006.
(11)河西英通,浪川健治,M. ウィリアム・スティール編『ローカルヒストリーからグローバルヒス
トリーへ』岩田書院,2005.
(12)秋田茂・桃木至朗編『歴史学のフロンティア―地域から問い直す国民国家史観』大阪大学出版
会,2008.
(13)筆者の「開かれたナショナル・ヒストリー」論については,参照,木畑洋一「現代社会と歴史
学の役割」東田雅博・安部聡一郎編『歴史学の可能性』
(金沢大学人文学類歴史文化学コースブッ
クレット)
,2012.
(14)Wolf Schäfer,ÑLong Island: Global, National, and LocalÓLong Island History Journal, 21-1
(2009). http://lihj.cc.stonybrook.edu/2009/articles/long-island-global-national-and-local/ (2015
年月 23 日アクセス)
(15)星乃治彦・池上大祐監修,福岡大学人文学部歴史学科西洋史ゼミ編著『地域が語る世界史』法
律文化社,2013.
(16)河西英通・浪川健治編『グローバル化のなかの日本史像』岩田書院,2013.
(17)その概観が,木畑洋一「覇権交代の陰で―ディエゴガルシアと英米関係」木畑洋一・後藤春美
編『帝国の長い影―20 世紀国際秩序の変容』ミネルヴァ書房,2010 である。
120
『グローカル研究』論文募集
成城大学グローカル研究センターでは,グローバル化とローカル化が同時かつ相互に影響
を及ぼしつつ進行する現象ないし過程についての研究を「グローカル研究」
(glocal
studies)として構想し,2008 年の創設以来,理論的・実証的な研究を推進してきました。
これまでに各種講演やシンポジウム,ワークショップ等を開催し,それらの成果等をワーキ
ングペーパーやシンポジウム報告書,リポーツ,研究叢書等として刊行してきました。
このたび,それらに加え,新たな研究領域であるグローカル研究の成果を広く世に問うた
めの一助としてレフェリー付き学術機関誌『グローカル研究』を創刊いたします。グローバ
ル化やローカル化,さらには,いわゆる逆グローバル化ないし再グローバル化までをも対象
とし,グローカル研究について自由闊達な議論の場を提供しようというのが創刊の趣旨で
す。
『グローカル研究』編集委員会では,投稿を随時受けつけています。
(ただし,刊行は
年に回ですので,各号の〆切については,グローカル研究センターのホームページでご確
認下さい。
)
グローバリゼーションやローカリゼーションに関わる意欲的な論文の投稿を期待していま
す。本誌を皆さんの意欲的,挑戦的な研究成果の発表の場としてぜひともご活用ください。
なお,
『グローカル研究』への投稿規程・執筆要項は,成城大学グローカル研究センターの
ホームページ(http://www.seijo.ac.jp/glocal/kankou/journal.html)をご覧ください。
◆投稿資格:
大学や各種研究機関の研究者,大学院生,及びグローカル研究とその関連領域の研究を進
めている者。
◆原稿の投稿先および問い合せ:
郵送:〒 157-8511 東京都世田谷区成城 6-1-20
成城大学グローカル研究センター
『グローカル研究』編集委員会
電話:03-3482-1497
E-mail:[email protected](編集委員会専用アドレス)
121
『グローカル研究』投稿規定
.
『グローカル研究』は,成城大学研究機構グローカル研究センターの学術機関誌であり,原則とし
て年に巻発行する。
.成城大学研究機構グローカル研究センターの研究員,並びにグローカル研究と関連領域の研究に
従事する成城大学内外,国内外の研究者(大学院生を含む)が,投稿できる。
.原稿は,グローカル研究とその関連領域に関する論文,研究ノート,書評(論文)とし,未発表の
ものに限る。ただし,学会等で口頭発表したものについては,その限りではない。
.原稿の文字数は以下の通りとする。
,和文要旨
論文:12,000〜20,000 字程度(400 字詰め原稿用紙換算 30〜50 枚程度,図表含む)
(300 字程度)
,欧文要旨(400 語程度)
研究ノート:4,000〜8,000 字程度(400 字詰め原稿用紙換算 1O〜20 枚程度,図表含む)
書評(論文)
:2,000〜12,000 字程度(400 字詰め原稿用紙換算〜30 枚程度,図表含む)
なお,欧文の場合は以下の通りとする。
論文:4,800〜8,000 語程度(図表含む)
研究ノート:1,600〜3,200 語程度(図表含む)
書評(論文)
:800〜4,800 語程度(図表含む)
.欧文要旨は著者校閲を原則とする。
.投稿は原則として電子文書とし,e-mail の添付ファイルまたは電子媒体の郵送として受け付ける。
.抜き刷りは各執筆者に 30 部進呈する。追加の抜き刷りを希望する場合は実費を申し受ける。
.校正は原則として著者校正のみとする。
.投稿希望者は,編集委員会の定めた所定の期日までに投稿の申し込みをすること。
10.投稿申し込みをした者は,執筆要項にしたがって,編集委員会の定めた所定の期日までに原稿を
提出すること。
11.執筆要項は別途定める。
12.掲載の可否は,グローカル研究センター刊行物編集委員会または専門委員による厳正な審査の上,
決定する。なお,審査に当たっては,必要に応じて臨時の専門委員を置くことができる。
13.審査の結果,原稿の加筆・修正を求めることがある。
14.原稿の内容によっては,図版等の印刷料金を投稿者が実費負担することがある。
15.原稿の投稿先および問い合せは下記宛とする。
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122
『グローカル研究』執筆要項
.原稿は横書きとし,原稿の文字数は以下の通りとする。
論文:12,000〜20,000 字程度(400 字詰め原稿用紙換算 30〜50 枚程度,図表含む)
研究ノート:4,000〜8,000 字程度(400 字詰め原稿用紙換算 1O〜20 枚程度,図表含む)
書評(論文)
:2,000〜12,000 字程度(400 字詰め原稿用紙換算〜30 枚程度,図表含む)
.論文には,本文・注・文献リスト・図表のほかに,表題紙,和文要旨,欧文要旨(英文タイトル
を含む)
,およびキーワードを添付すること。
⑴ 表題紙には,題名の全文,著者名,所属機関名,職名,Eメールアドレスのみを記す。
⑵ 本文の冒頭に題名を記載する。著者名・所属機関名・職名・Eメールアドレスは本文には記載
しない。
⑶ 本文には必ずページ番号をうつ。
.論文の要旨は和文で 300 字程度,欧文で 400 語程度,キーワードは個以内とし,本文の前に添
付する。
.
「本文」には,見出し,小見出し,注,文献リスト,図表までを含むこととし,これらを合計した
文字数が規定の分量におさまらなくてはならない。表紙,およびキーワードに使用された文字
数については,この制限外とする。
.原稿の書式は,原則として以下の通りとする。
⑴ 原稿はA判のサイズとし,横書き 40 字× 40 行で作成する。
⑵ 注と文献リストを別にする。参照文献の本文,注における挙示は,
(著者名 発行年:ページ数)
という形式にする。
⑶ 参考文献は,著者名,発行年,題名,出版社(欧文の場合はその前に出版社所在地都市名を併
記)の順に記述すること。和文の書名は『 』
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,欧文の書名はイタリック
体にすること。
⑷ 注は,本文中の該当箇所の右肩に上付き文字で順に)と番号をうち,注自体は本文の後にま
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123
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Masukyuriniti” [“Renarration of the War and Post- Cold War Masculinities”]. In Iwanami
Koza: Ajia Taiheiyo Senso [Iwanami Koza Lecture Series: The Asia-Pacific Wars] vol. 1,
eds., Kurasawa Aiko, et al. Tokyo: Iwanami Shoten, 317- 356.
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矢澤修次郎(一橋大学名誉教授,成城大学名誉教授)
デニス・リチェズ(成城大学)
刊行物編集委員会
岩崎尚人(成城大学)
上杉富之(成城大学)
小澤正人(成城大学)
小田 亮(首都大学東京)
北山研二(成城大学)
木畑洋一(成城大学,東京大学名誉教授)
東谷 護(成城大学)
ISSN 2188-6091/ISBN 978-4-906845-15-6
C3036
グローカル研究 ઄号
2015年અ月20日発行
編集 『グローカル研究』編集委員会
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