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転職について考える

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転職について考える
漫筆漫歩
転職について考える
諏訪伸夫
人間総合科学研究科教授
はじめに
なる。その際日本の大半の会社は、勤続年
日本型雇用の象徴といわれる終身雇用
数や年齢にあわせて給与が上がる年功型賃
は、いわゆる高度経済成長期の1960年代以
金をとっていた。そのため、働く側にとっ
降に日本社会に浸透していったとされる。 ては長期勤務による給与の上昇と雇用の安
1960 年代といえば、国内では近代日本史上
定が確保されているので転職は不利であっ
最大の大衆運動といわれる安全保障条約改
た。その後、日本列島改造論等の政策によ
定反対闘争いわゆる安保闘争(1959年∼60
り経済はオーバーヒートし、今日のデフレ
年)をはじめ、わが国初の近代オリンピッ
現象とは対蹠的ないわゆる狂乱物価へと突
ク競技大会の東京での開催(1964年)
、国外
入していったことは周知のことである。
ではアメリカの有人月探査計画いわゆるア
そして長引く不況克服及び会社の経営の
ポロ計画(1961年∼72年)による人類初の
活性化・効率化等のため成果主義賃金が導
月面での歩行(1969 年)やアメリカ・南ベ
入されはじめ、1990年代の後半には日本社会
トナムと北ベトナム・南ベトナム解放戦線
において次第に目立つようになっていった。
(ベトコン)が戦ったベトナム戦争(1960年
私は、明年 3 月末をもって退職予定の身
∼75年)などが印象深いものとして想い起
であるが、私を含め私たち世代は今話題と
こされる。
なっている「団塊の世代」より数年、齢を
私が高校を卒業して東京の霞ケ関に本社
重ねているのでいわば「前団塊の世代」と
を置く会社に初めて就職したのは 1962 年
いえよう。ただ、私は東京教育大学に 23 歳
であったから、まさにわが国経済が右肩上
で入学したので、私はまさに団塊の世代と
がりで急激に経済成長していった時期と重
共に教育を受け、学生生活を送ってきたと
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筑波フォーラム74号
いえる。ここで戦後日本の社会や経済の変
ても私たち(前)団塊の世代よりも「適職」
遷について、いわゆる「自分史」に重ね合
を求めての「転職」が今日容易な社会にな
わせ、高齢化社会における(前)団塊の世
りつつあるのは確かである。
代の一員として回想録風に語ろうという意
そこでこれからの人々が「適職」を求め
図ではない。それは私は経済の専門家でも
ての「転職」により、いうなれば「天職」に
ないし、それを語るには私の能力を超えて
めぐりあうために少しでも参考になればと
いるからである。ただ、私はこれまでの約
考え以下に私の転職の経験を述べてみよう。
35 年の職歴の中 、 民間企業に 4 年、地方公
就職はちょうど人と人が縁あって結ばれ
務員として約3年、国家公務員(みなし公務
る結婚のように、人と職が縁あってあるい
員を含む)として28年勤めてきたという経
は必然的に結ばれたものといえよう。両者
緯を踏まえ、経験した若干の職をベースに
とも自らのまた第三者による万全な下調べ
その人にふさわしいいわば「適職」を求め
や親・先輩・教師等の有意義な助言などが
ての「転職」について一言述べてみようと
あって、自ら望んで、あるいは他者から勧
思う。
められて意志決定を行って首尾よくゴール
インしたとしても、実際に職につきあるい
適職への転職について
は結婚生活をしていくうち、少しづつしっ
終身雇用・年功賃金制度になれ親しん
くりいかなくなった場合、ある者は適宜修
だ?者にとっては、私自身がそうであるよ
正や調整を施してより充実したものとして
うに任期制・成果主義賃金制度には、なか
いくが、ある者は両者の行き違い・溝が次
なか馴染みにくいと思われる。しかし、日
第に拡大して修正や調整できなくなり破局
本社会は既に賃金についてみると年功型か
に至ってしまう場合があろう。相思相愛の
ら成果主義型にシフトしてきているという
思いが強ければ強いほど結果の明暗は、良
調査がある。
(2006年9月10日朝日新聞、 労
きにつけ悪しきにつけ、増幅されて出てこ
働政策研究・研修機構による従業員200人以
よう。
上の企業を対象とした調査では58%の企業
転職はこのような就職のいわば再就職の
が成果主義賃金を導入)また任期制につい
形態ともいえるので初めての就職のときよ
ては、わが筑波大学でも導入・実施し始め
りも入念な準備や慎重な判断の下に行われ
ている。このように着々と転職への条件や
ていく。私の転職の経験では、就職の際と
状況が整いつつあるといえる。いずれにし
転職の際の大きな相異点は、短期にしろ長
漫筆漫歩
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期にしろ正規の職員としての職場での職務
起点とすれば再就職であり、転職である。
経験の有無があげられる。私の場合もその
そこで 3 年ほど勤務してから筑波大学に
例外ではなかった。
教官として採用され、今日に至っているが、
このときも大きな職務の専門の変更がなさ
就職と転職の実際
れている。すなわち、教育研究職から体育
民間企業の 4 年間は、最初の半年が本社
の教官へのメジャーの変更である。もっと
の企画部の事務職員として、後半の 3 年半
もこれを最後にこの度は 28 年も継続して
が海水の総合利用の研究に研究部の研究職
いて、現時点において変更はない。
員として従事していた。
「寄らば大樹の蔭」
よろしく会社の事務職員として入社したの
おわりに
であるが、生来、好奇心が旺盛なため、事
私の就職と転職の変遷を振り返ってみる
務部門から研究部門に会社の内部試験を受
とそこに共通しているものは、いわば知的
けてパスし、職場を変わった。大学の学部
好奇心・探求心と自分にとって新しいもの
でいえば人文学部から理工学部に変わった
へのチャレンジではないかと考える。いず
ようなものである。今にして思えば「若気
れにしても転職を決めた場合、準備は用意
の至り」ともいうべき行為が、人生を左右
周到に越したことがない。そして一度実行
するその後の転職にまで影響を及ぼすとは、 したからには、初志の目的・目標の実現に
その頃夢想だにしなかった。いくら若きエ
向けて総力を挙げて邁進し、その職務・職
ネルギーに溢れ好奇心や探求心が旺盛でも
場で精を出し、人生を楽しむくらいの余裕
心を静めて冷静に考えれば無鉄砲な行為で
が欲しいものである。
あることは自明であるのに、猪突猛進して
また、現職と前職、現職と前々職の間に
しまった。
一見たいした脈絡もないよう見えても、社
当然のごとく研究成果も思うように出せ
会的状況や心境の変化等時間が経つうちに
ず、その結果は会社をやめることになった。 次第に関係や脈絡が生じてくる場合もみら
この時実質上私は事務職から研究職に転職
れる。前職や前々職を正の遺産として現職
していたようなものであるので、今度は慎
に生かし、転職を契機に現職を自己に相応
重にしかも準備を十分に整え(大学・大学
しい職務=天職としてまっとうすることを
院を修了して)教育研究所の研究職(地方
望みつつ筆をおく。
公務員)に就いた。民間企業の事務職員を
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(すわ のぶお/体育行財政学)
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