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本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ

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本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
The Nick Adams Stories について -"Three Shots" を中心に-
Author(s)
中村, 正生
Citation
長崎大学教養部紀要. 人文科学篇. 1980, 21(1), p.47-57
Issue Date
1980-09-13
URL
http://hdl.handle.net/10069/15123
Right
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http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第21巻 第1号 47-58 (1980年8月)
The Nick Adams Stories について
- "Three Shots" を中心に-
中村正生
On The Nick Adams Stories
With Special Reference to "Three Shots"
MASAO NAKAMURA
作家によっては、どの時期のどの作品をとりあげても、その中に紛れもなく
彼固有の文学世界が存在していると思われる作家がある。一方、これとは対偲
的に、最初の作品から次の作品、さらにその次の作品へと進むにつれて、その
作家の世界がchronologicalな展開をみせる作家もある。 Ernest Hemingway
は後者を代表する作家の一人である。小論では、 The Nick Adams Stories
(1972)をとりあげ、特に"Three Shots"から"Indian Camp" -の展開に焦
点を絞って考察し、あわせて=Three Shots"が作者Hemingwayの生前に発
表されなかったことの意味を考えてみたい。
I
Ernest Hemingwayは本質的に短篇作家である。しかも二十世紀アメリカ
文学を代表する短篇作家であるということができる。 Ray B. West Jr.はその
著The Short Story in America (1952)の中で、特にその第四章をHemingway
and Faulknerと題し、さらに斜字体で「項代短篇小説の二人の巨匠」 {Two
Masters of the Modern Short Story)と書き添えている。
It seems clear that the two most significant American writers of
fiction in the first half of the twentieth century are Ernest Hemingway and William Faulkner. Whether their reputations are based
primarily upon their novels or upon their short stories is not important. Undoubtedly their popular reputations are based upon their
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中村正生
novels. Critics have persisted, however, in calling attention to the
excellence of their short stories. In fact, it is probably in the realm
of the short story that the supremacy of these two authors is least in
question. Their art, interesting and important as it always is, falters
occasionally in even the best of their novels - and the best (such
works as A Farewell to Arms and The Sound and the Fury) come
nearer to being extended short stories than they do to approaching
the limits of the novel form. The best of their stories stand comparison with the finest works of all time, with the stories of Chekhov,
Maupassant, Balzac, Flaubert, and Joyce in Europe; with the works of
Hawthorne, Melville, Poe, and James in America.1)
上の引用に見る如く、二十世紀前半におけるもっとも重要なアメリカの作家
がHemingwayとFaulknerであることに異論をはさむ余地はないであろう。
ここではFaulknerは措くとして、 Hemingwayに論点を絞ると、彼が作家と
しての足場を固めたのは、長篇The Sun Also Rises (1926)によってであっ
た。彼はまず長篇作家として名を成したのである。しかし、 RayB. WestJr.は
Hemingwayが「作家としてもっともゆるぎない地位を占めているのは、おそ
らく短篇小説の領域においてであろう。 」と述べており、このことは、なによ
りも、彼がすぐれた短篇を発表したという事実によって証明されている。彼の
「もっともすぐれた短篇は、いかなる時代の傑作にも劣らない」のである。ま
た、 Ray B. West Jr.は、彼の代表的作品であるA Farewell to Arms (1929)
に言及し、この長篇すら「短篇の拡張されたようなもの」になりかかっている
と指摘する。そして処女長篇The Sun Also Risesにも、この傾向が顕著にあ
らわれているように思われるHemingwayは本質的に短篇作家なのである。
ところで、各語を大文字で始めたアメリカ版InOur Timeがボニ・アンド
・リグァライト杜から出たのは1925年のことであった。これには十六篇のスケ
ッチと十五の短篇("Big Two一由earted River"を二第に計算している)が収め
られ、それらのスケッチと短篇が交互に組み合わされた体裁を整えていた。こ
の短篇集をいかに理解するかという問題に関して、これまで色々な議論が行な
われてきているが、その中でPhilip Youngの説がもっとも有力な手掛りを与
えてくれるものと考えられている。つまり、彼はこの短篇集の中のほぼ半数の
作品に登場する主要な人物であるNick Adamsに焦点を定め、このイノセン
トな少年がこの世の悪と暴力にイニシエイトされる物語だと明言したのであ
The Nick Adams Storiesについて
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る。もちろん、これに対する反論はあった。第-に、主人公とするには、 Nick
Adamsの登場する短篇の数があまり多くない。必ずしも全体に悪と暴力が浸
透しているというわけでもない。若いHemingwayの作家修業から生み出され
た習作を集めたにすぎないのではないか。等々--しかし、いかなる反論も
Youngの見解を一蹴することは困難である。いささか「コロンブスの卵」め
くが、卓見であることは認めざるを得ない。彼はErnest Hemingway (1952)
の中で、次のように述べている。
・ -the book cannot really be understood at all without the clear perception that the stories are arranged in the chronological order of his
boyhood and young manhood, and that the volume is in large part
devoted to a scrupulously planned account of his character, and the
reasons for it.2)
これは、取りも直さず、 In Our Timeを主人公Nick Adamsの視点か
ら`chronological'に読むことで、この短篇集を、いわば、一つの長篇として
読むことを示唆しているのである。さきに引用したRay B. WestJr.の言説
と考えあわせると極めて興味深い。 In Our Timeが出版されてから二十七年
後に、奇しくも二人の批評家によって、このようなHemingwayの読み方が同
時に示されたのであるから。
Ⅲ
1972年になって、チャールズ・スクリブナ∼ズ・サンズ社からTheNick
Adams Storiesが出版された。これはNick Adamsを主人公とした二十四の
短篇を少年期から青年期-とchronologicalに配列して一書としたものであっ
た。 Philip YoungがErnest Hemingway (1952)を書いてから実に二十年後
のことである。これは、文字通り、 YoungのIn Our Timeの読み方を他の作
品にまで拡大し実践した試みセぁり、彼の見解に対する根強い支持の存在を感
じさせる。彼はこの書につけた序文の中で、これまでの、いわゆるNickもの
は、その順序がどたまぜであるため、彼の冒険に一貫性を欠き、その効果が分
散されると述べ、作品をchronologicalに配置することの必要を説いた後で、
さらに次のように記している。
Arranged in chronological sequence, the events of Nick's life
閑
ai^Ks ^^Hl生
make up a meaningful narrative in which a memorable character
grows from child to adolescent to soldier, veteran, writer, and parent
a sequence closely paralleling the events of Hemingway s own life.
In this arrangement Nick Adams, who for a long time was not widely recognized as a consistent character at all, emerges clearly as the
first in a long line of Hemingway's fictional selves. Later versions,
from Jake Barnes and Frederic Henry to Richard Cantwell and Thornas Hudson, were all to have behind them part of Nick's history and,
correspondingly, part of Hemingway s.3
chronologicalに配列することによって、 Nick Adamsを主人公とする短篇は
集って一つの意味のある物語を形成するNickの成長の過程は、 Hemingway
のそれと密接に関連しており、この操作によって、 Nickは作者Hemingway
が投影された最初の人物として明確な輪郭を与えられる。 Jake Barnesや
Frederic HenryからRichard CantwellやThomas Hudsonに至るまで、後
にあらわれる長篇の主人公たちもすべてこのNick,そして同時にHemingway
の歴史の一部をその中に所有しているのである。因みに、ここに集められた二
十四の短篇は次のように分類できる。
In Our Time (1925)から八篇(スケッチ一つを含む)
Men Without Women (1927)から五篇
Winner Take Nothing (1933)から三篇
作者の生前未発表のもの八篇計二十四篇
ここで注目すべきは、上記の通り、この中にHemingwayの死後発見された八
つの短篇が含まれていることであり、これもThe Nick Adams Storiesの出
版されキ重要な動機の一つであると考えられる。
ところで、 In Our Timeは"Indian Camp"から始まっていた。かって僕
は「Ernest Hemingwayと死Dignityの探求-」と題する小論の中
で、 "Indian Camp"に触れて次のように書いた。少し長いが以下に引用する。
「題名を大文字にしたアメリカ版In Our Timeの冒頭を飾る"Indian
Campは、少年Nickが湖の対岸にあるインディアン部落-難産で苦しんで
いる女を診察にでかける医者の父親のお伴をしてlいく話である。そこでNick
は生まれて初めて、人間の誕生と、それから全く偶然にも、人間の死の場面と
を目撃することになる。死んだのは、その妊婦の夫である。彼はけがをして、
たまたま妻の上の寝棚に寝ていたのだが、ジャックナイフによる帝王切開手術
The Nick Adams Storiesについて
51
のすさまじさに耐えきれず、カミソリで自分ののどを耳から耳までかき切って
無残な自殺をとげていたのである。この場面をめぐって、帰りのボートの中
で、 Nickと父親の会話が次のように展開されてくる。 (会話部分省略)ここで
は、会話の運びの絶妙さは措くとして、無残な自殺を目撃したことがきっかけ
で親子の間に始まった、いわば、自殺問答は、やがて`Is dying hard, Daddy?'
というNickの言葉で自殺による死から死そのものへと展開していくのであ
る。
°
●
帰途、湖上の早朝の空気の中で、父の漕ぐボートのともに坐りながら、 Nick
が『自分は決して死なないのだ。 』と確信するくだりは重要である。今、 Nick
の脳裡をかけめぐっているのは『死とは何ぞや?』という大きな謎である。少
なくとも、あのインディアンのような死に方は、彼にとって納得のいく死に方
ではない。あんな死に方は是認できない。だからNickは『自分は決して死な
ない』と考えるのである。 」4)
このようにNick少年が人間の死に方について考えるに至る直接のきっかけ
は、インディアンのカミソリによる自殺という生々しく暴力的な死を目撃した
ことであった。
The Indian lay with his face toward the wall. His throat had been
cut from ear to ear. The blood had flowed down into a pool where
his body sagged the bunk. His head rested on his left arm. The
open razor lay, edge up, in the blankets.53
ここに描かれているのは、一切の観念を排した「具象としての死」である。
Ⅲ
さて、 The Nick Adams Storiesでは、この"Indian Camp"の前に、 HThree
Shots"という一つの短篇が配置されている。これは作者の生前に発表されなか
った八篇のうちの一つであり、分量的には前者よりさらに短くなっている。
その内容は、 chronologicalな観点から、当然ながら、少年Nickの"Indian
Camp'以前のせ界に焦点があわされている。
"Three Shots"は、少年Nickが父親とおじに連れられて、キャンプ旅行を
する話である。このNickはHemingwayの作品に登場するNickのうちでも
最年少である。従って、上にも述べたように、時間的にはもちろん、内容的に
52
・・^ES i開国
見ても、 "Indian Camp"の中で、インディアン部落に向かう舟の上で、父親
に抱かれていたあのNickよりも少し前ということになるであろう。さて、夕
食後、森の中のテントにNick一人を残して、父親とおじは、トーチを持って
夜釣りに出かけて行く。舟を出す前に、父親は息子に向かって、自分たちの留
守中になにか緊急の事態が起ったら銃を三発発射して合図するように、そうし
たらすぐに戻ってくるからと言いきかせて出発する。湖のほとりから森を通っ
てテントの方へ歩きながら、夜のしじまの中にNickは遠ざかっていく権の音
を聴く。やがて、その昔も聴こえなくなると、あたりを支配するのは、夜の闇
と静寂であるNickはふいに恐怖を感ずる。夜の森が恐いのはいつもの・こと
ながら、ひとりばっちの時は、また、格別である。テントに入って彼は服を脱
ぎ、毛布にもぐりこむ。外の炭火も燃えつきてしまった。暗闇の中で、物音ひ
とつ聴こえない。いくら眼を凝らしても、いくら耳を澄ましても、なにも見え
なければ聴こえもしない。少年Nickが恐怖にとらわれる舞台装置は、すでに
できあがっているのである。
There was no noise anywhere. Nick felt if he could only hear a
fox bark or an owl or anything he would be all right. He was not
afraid of anything definite as yet. But he was getting very afraid.
Then suddenly he was afraid of dying.6)
Nickにしてみれば、キツネでもふくろうでも何でもいい、とにかくその鳴き
声が聴こえさえすれば大丈夫だと思う。要するに、その正体がはっきりしたも
のであれば恐くはないのである。しかし、前述したような舞台装置の中で、彼
の恐怖感は段々とつのり、それから突然、それは死の恐怖となる。くりかえす
が、彼はanything definiteなものは恐くなかった。裏を返せば、不明確な(indefinite)ものが恐かったのである。つまり「死」は「不明確なるもの」の象徴、
しかもその最たるものとしてここに描かれ、 Nickの恐怖をかきたてている。
Nickが自分もやがては死ななければならないのだと「初めて死を認識し
た」のは、ほんの二・三週間前、 "Some day the silver cord will break."7)と
いう賛美歌を歌っていた時のことであった。その夜は、うばの眼を逃れて、
とうとう夜が明けるまで、ホールの終夜燈の下で本を読んですごしたものだっ
た。いつか死なねばならぬということを忘れたい-心からであるNickがキ
ャンプ旅行の森の中で、その夜感じたのは、まさしくこれと同じ正体不明の死
というものに対する恐怖であった。彼は恐いと思い始めると矢も楯もたまら
The Nick Adams Storiesについて
53
ず、ライラルをとりあげて三発発射する。眼に見えぬ死の恐怖との闘いであ
る。射ってしまうと、すぐに心が落ち着いてきた。得物は静寂を破る銃声でも
よければ、夜の闇を裂く燈火でもよい。やっと平常心に戻ったNickは、父の
帰りを待ちながら眠りに落ちていく。一方、大好きな釣りを三発の銃声によっ
て中断させられたおじは、憤まんやる方ない思いでNickに患態をつく。 「森
にNickを連れてくるべきではなかった。 」 「奴にはがまんできない。とんで
もない嘘つきだ。 」とまくしたてる。彼にもかって、 Nick同様に幼い子供の
時代があったであろうに。その点、父親はNickが小さな子供であること、従
って臆病ではあるが、誰だってあの年頃にはそんなものさと彼の立場を弁護す
る。しかし、 Nickの臆病の原因が父親にわかっていたかどうかは疑わしい。
Nickは、その日おじから習ったばかりの‖cross between"という言葉を使っ
て、恐怖を感じた理由を「狐とも狼ともつかぬものがテントの近くをうろつい
ていた。 」 (‖It sounded like a cross between a fox and a wolf and it was
fooling around the tent," Nick said.)8)からだと説明する。これを受けて、多
分それはみみずくの一種(a screechowl)であろうと、まともに答えるおじ
が由ickの本心を知り得ないのは、至極当然のことといえよう。
物語は、このような事件の起った翌日の夜、床につくためにNickが服を脱
ぐ場面から始まっている。寝るために服を脱ぐという行為が、昨晩のできごと
を否応なしによみがえらせてくる。それはどうしても思い出したくなかった。
しかし、思い出してしまうと彼は恥辱を感じないわけにはいかなかった。その
とき、テントの外から父親がNickに服を着るようにと呼びかける。昨夜の一
件に懲りてか、今夜はNickを釣りに同行させるつもりのようである。彼は、
大急ぎで服を着る(He dressed as fast as he could.)9)死の恐怖から逃れるに
は、せめて静かで暗い夜にひとりばっちにされないことである。さらに父親が
「コートを着なさい。 」とNickに呼びかけるところで、この物語は終わる。
夜の湖上は寒かろう。 Nickは、確実に父親の庇護のもとにおかれているので
ある。
以上、 "Three Shots"の荒筋を辿りながら、 Nickの死に対する恐怖感を探
ってきたoその恐怖というのは、まさしく実体のないもの、実体がない故に、
つまり、正体不明であるが故に、少年Nickの恐怖をかりたてたものであっ
た。それはindefiniteなものであり、 〟cross between"という言葉を使ってし
か表現し得ないものであった。さきに、 "Indian Camp"に描かれた死は一切の
観念を排した「具象としての死」であると書いた。しかるに"Three Shots"の
54
中村正生
中に表現される死は、これとは対照的に、漠然とした、いわば、 「抽象として
の死」である。
ここで再び、 The Nick Adams Storiesの序文からPhilip Youngの言葉を
引用してみよう。
If the decision to publish them at all is questioned, justification is
available. For one thing, the plan for rearranging the Nick Adams
stories coherently benefits from material that fills substantial gaps in
the narrative. Further, all this new fiction relates in one way or another to events in the author's life, in which his readers continue to
be interested. Last and most important is the fact that these pieces
throw new light on the work and personality of one of our foremost
writers and genuinely increase our understanding of him.10)
上の引用文中の第一行目にある`them'は、作者Hemingwayの死後に発見さ
れ、この中に初めて収録された八つの短篇を指している。そしてYoungは、
これらの短篇を出版することにした理由を三つ挙げている。まず、 Nickので
る作品を配列し直す計画そのものが、これらの短篇の利益に与ること。つま
り、 NickAdams物語の中にある本質的な空所が、これによって満たされると
いうわけである。次に、これらの新しい短篇作品は、なんらかの意味で作家
Hemingwayの人生に起ったできごとと関連があり、彼の作品を読む者は、そ
こに興味を抱き続けることになる。そして、最後に一番重要なこととして、こ
れらの短篇が我々の時代のもっともすぐれた作家の一人であるHemingwayの
作品と人間に新たな光を投ずることになるのだとしている。ここにYoungの
挙げた三つの理由は、いずれも説得力があって、直ちに首肯せざるを得ないよ
うに思われる。確かに、読者の側から見れば、Hemingwayを理解するうえで、
これら八つの短篇が出版されることの意味は、決して小さくはないからであ
る。
Ⅳ
HThree Shots"から‖Indian Camp" -と読み進むとき、 Nickの心の変化
が一層よく理解されるであろう。 HThree Shots"の結びの一行"Put your coat
on, Nick," his father said.n)は、 ‖Indian Camp"の冒頭で、インディアン部
落へ向かうボート上のNickの描写Nick lay back with his father's arm
The Nick Adams Storiesについて
55
around him.ユ2)へと滑らかに連絡される。さらにHThree Shots"の中でNick
に恐怖を抱かせたIndefiniteなものとしての死、つまり抽象的な死が、 "Indian
Camp"の中では、インディアンの自殺というかたちで具体的に示されてくる0
しかるに僕は、ここにおいて一つの疑問につきあたる。それは「何故、このよ
うな作品が作者Hemingwayの生前に発表されなかったのか?」という素朴
な疑問である。
A Farewell to Arms (1929)の結末が十七回書き直されたという`伝説'が
ある。これは、一度原稿を仕上げても執掬に推敵を重ね、納得のいかぬ限り作
品を発表しなかったという芸術家Hemingwayのきびしい態度を雄弁に物語る
一つの例であり、このような態度は、金のために乱作を余儀なくされたF-S
Fitzgeraldの姿勢としばしば比較されるところであるOこのようなHemingwayの態度について、谷口氏は次のように書いている。
「原稿が売れ始めた後も、彼は濫作によって、自分がスポイルされることを
恐れ、自ら好んで地味で貧困な生活を続けて行った傾向さえ見られます。彼の
言葉に「作家の純粋さば、女性における処女性の如きものだ、一度失えば、二
度とふたたび戻っては来ない」と云うのがあります。この言葉通り、 -ミング
ウェイは自分の純粋さを大切にして、どんな大雑誌の、どんな有利な申し入れ
も、もし彼らが自分の最も書き度いものを自分の最も満足したやり方で書き上
げて、それを出版してくれるのでなければ、すべて断っています。 -ースト系
の雑誌から、もし書いてくれさえすれば、数年間は楽にくらして行けるだけの
ものを払おうと云う有利な申し出があった時も、それを断って、モンパルナス
の墓場の裏手にある友人のスタディオに、貧しくて孤独な生活をつづけて行き
ました。しかも、その時は、 『日はまた昇る』の出版が大成功を収めた後だっ
たのです。こういう生活態度は、あの同じ失われた佳代に属する、才能に恵ま
れたフイツツジェラルドの派手で浪費的な生活とは丁度逆です。」13)
そして、ここでFitzgeraldの生活態度に深入りするつもりはないのだが、彼の
享楽的生活がやがて悲劇的な最後を招来したのとは対照的に、 Hemingwayは
「次算に作家としての力量を発揮し、終りを全うした」14)のである。こういう
芸術家としてのきびしい生活態度が、 A Farewell to Armsの結末を十七回に
わたって書き直させたものと考えられる。
ところで、彼はどのようにして、こういう態度を身につけたのであろうか?
持って生まれた体質、生活環境等々考えられるが、なかでも彼が高校卒業後就
職したキャンザス・シティ・スター社で、いちはやく開始した文章修業を忘れ
中村正生
56
ることはできないCarlos Bakerは次のように記している。
He was "constantly talking to older writers on the staff about
how
they
got
their
stories
and
how
they
wrote
them..‥To
work
on the paper was to learn how "to write declarative sentences, 'how
"to avoid hackneyed adjectives," and how "to tell an interesting narrative. There was also a stylebook which the young reporters were
supposed to study. It said that the key to fine reporting was to Huse
short sentences. Use short first paragraphs. Use vigorous English,
not forgetting to strive for smoothness. Be positive, not negatvie."15)
上の引用文に見る如く、 Hemingwayは入社早々から先輩の記者たちに熱心に
学ぼうとし、また新前の記者を一人前に仕立てるために、新聞社が提供してく
れる様々な便宜を利用することができた。そして、その中に、若い記者たち
が勉強することになっていた`stylebook'があった。そこに書かれている内容
が、後日、ほとんどそのまま彼の文体の特徴として顕現しているといってよ
い。日く「短い文章を使え。最初の一節は短くせよ。力強い英語を使え。否定
形でなく肯定形を使え。 」と。そして新聞記者の仕事というのは、いかにして
「叙述的な文章を書く」か、いかにして「陳腐な形容詞を避ける」か、またい
かにして「面白い話を語る」かを学ぶことであった。なかでも特に彼が形容詞
の使用を忌避したことはよく知られている。前述したHemingwayの芸術家
としてのきびしい態度は、この文体修得のためのきびしい努力と切り離して考
えることはできない。彼こそ「文は人なり」の一つの典型と言えるであろう。
ここで「何故、 "Three Shots"が作者Hemingwayの生前に発表されなか
ったのか?」という疑問に戻ることにしよう。もし、この作品が彼の生前に
発表されていたら、 Philip Youngという先達に倣って、たとえThe Nick
Adams Storiesが出版されなくても、読者は、当然ながら、この作品を時間的
に"Indian Camp"の前に置いて読むであろう。以前にも指摘したように、
HThree Shots"から"Indian Camp"へと読み進むとき、 Nickのイニシエイ
トされる過程が一層よく理解されるからである。言い換えれば、HThreeShots"
が"Indian Camp"を「説明」し、 Youngが言うところの「本質的な空所」
(substantial gaps)を埋める作用をするからである。これは、しかし、巧利的
な読者の立場とは裏腹に、芸術家Hemingwayの好むところではなかったと
思われる。作品は彼の作家生活に置かれた、いわば、飛び石の如きものであ
The Nick Adams Storiesについて
57
り、飛び石は飛び石であってこそ意味がある。間隙を埋められてしまったので
はその存在の意味を失うNickは、一切の「説明」を省いて、いきなり暴虐
な人生に直面させる方がよい。それでこそ、ジャックナイフとテグスとによる
帝王切開も、カミソリによる暴力的な死もより生々しくリアルに読む者の心に
刻まれるのである。所詮、 HThree Shots"はりIndian Camp"にかかる「陳腐
な形容詞」 (hackneyed adjective)であるにすぎない。 Hemingwayがこの「形
容詞」を削除することを蹄措したとは思えない。 NickAdamsは、やは
りりIndian Camp"から旅立たなければならない。
註
1) Ray B. West, Jr., The Short Story in America (New York : Gateway Editions, Inc., 1952), P.82.
2) Philip Young, Ernest Hemingway (New York : Rinehart & Co., Inc., 1952),
p.2.
3) Philip Young, ed. The Nick Adams Stories (New York: Charles Scribner's Sons, 1972), PP. 5-6.
4)中村正生「Ernest Hemingwayと死- Dignityの探求-」長崎大学教
養部紀要人文科学第15巻1974
5) Ernest Hemingway, The First Forty-Nine Stories (London : Jonathan
Cape, 1964), P. 89.
6) Philip Young, ed. op. at., PP. 13-14.
7) Ibid., P. 14.
8) Ibid., P. 15.
9) Loc. at.
10) Ibid., P. 7.
ll) Ibid., P. 15.
12) Ernest Hemingway, op. at., P. 86.
13)谷口陸男著『ヘミングウェイの肖像』 PP. 97-98. (南雲堂)
14) hoc. at
15) Carlos Baker, Ernest Hemingway, A Life Story (New York : Charles Scribner's Sons, 1969), P. 34.
(昭和55年4月30日受理)
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