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資料 - 碧南市

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資料 - 碧南市
棚尾地区まちづくり事業
平成 25 年 3 月 21 日(木)19 時~
棚尾公民館 3 階
第21回
第21回 棚尾の歴史
棚尾の歴史を語る
歴史を語る会
を語る会 次第
進行(小笠原幸雄)
1 前回までのテーマに関する参考意見など
平岩種治郎,小学校校舎、棚尾神社、味淋造りなど
忠魂碑は戦後、一時地中に埋められたことがあった。
2 テーマ40 「源氏の地名と長田氏」
(1) 説明(磯貝国雄)
(2) 出席者による補足説明、感想など
3 連絡事項・情報交換など
4月3日(水)史跡めぐり 10時八柱神社集合 「棚尾南部地区をめぐる」
コース:棚尾神社、若宮社跡、若宮公園、雨池ポンプ場(場内見学)、雨池公園
4 次回日程
第22回 4月24日(水) 午後7時から
「杉浦宗京の土風炉(どぶろ)
」
第23回 5月22日(水) 午後7時から
「琴平社」「光照寺弁天池」
棚尾の歴史を語る会
テーマ41
「源氏の地名と長田氏」
1
要旨
棚 尾 に 永 年 伝 わ る 古 文 書 に よ る と 、源 氏 の 地 名 は 、平 安 時 代 の 末 期 源 平 の
争 い に よ り 、平 家 の 武 将 で あ っ た 長 田 氏 が 知 多 郡 美 浜 町 の 野 間 か ら 、こ の 地
へ 逃 れ 隠 れ 住 ん だ 。や が て 、源 氏 の 世 に な り こ こ を 源 氏 と 称 す る よ う に な っ
たと云う。
こ の 伝 承 と は 別 に 、鎌 倉 時 代 初 め 、源 氏 の 武 将 熊 谷 若 狭 守 直 氏( な お う じ )
が 地 頭 と し て 棚 尾 に 住 ん だ 時 、高 台 で あ っ た こ の 辺 り を 源 氏 山 と 称 し た た め 、
源氏という地名が付けられたという説もある。
そ の 後 、長 田 氏 は 大 浜 熊 野 神 社 や 八 柱 神 社 の 神 官 を 永 年 に 亘 っ て 務 め る な
ど、この地域の有力な一族となった。
2
参考文献
(1) 本 村 沿 革 記 録
明治32年書之
(2) 棚 尾 町 古 文 書
昭和23年2月調
棚尾村役場
棚尾町役場
(3) 大 浜 霜 山 長 田 家 保 存
棚尾町関係古文書
(4) 碧 南 市 史 料 第 4 7 集
八柱神社縁起
棚尾町名勝古跡調査会
棚尾町役場
(5)「 八 柱 神 社 と 棚 尾 の 歴 史 」 平 成 2 1 年 度 文 化 財 展 解 説 書
(6) 碧 南 市 立 南 中 学 校 「 私 た ち の 郷 土 研 究 」 昭 和 3 8 年 1 2 月
村瀬正章
「源氏の地名について」
(7)「 平 氏 長 田 家 大 河 の ご と く 」
発行:長田隆之
著者長田白赤(なおあか)
平成14年10月
(8)「 碧 南 風 土 記 抄 」 碧 南 市 文 化 財 集 第 9 集
3
長田姓
最 初 に 長 田 姓 に つ い て 見 て み る 。明 治 2 9 年( 1896)の 棚 尾 小 学 校 寄 付 者
名 簿 に よ る 棚 尾 の 苗 字 分 類 は 以 下 の と お り で 、全 世 帯 数 1,054 名 の 内 、長 田
姓は34名を占め、源氏町に多いのが特徴である。
1
1位
杉浦
132 名
11位
井上
26 名
2位
斎藤
109 名
12位
小澤
22 名
3位
小笠原
104 名
〃
古久根
22 名
4位
石川
90 名
14位
清水
20 名
5位
生田
80 名
〃
長崎
20 名
6位
榊原
69 名
16位
鳥居
18 名
7位
永坂
64 名
〃
永井
18 名
8位
長田
34 名
18位
三島
16 名
9位
金原
29 名
19位
名倉
15 名
〃
鈴木
29 名
(以下)
池田、黒田、辻‥‥各 9 名
澤田、多田‥‥各 6 名
大竹、岡本、加藤、平岩‥‥各 4 名
磯貝、酒井、藤井、山田‥‥各 3 名
伊藤、太田、神谷、亀島、樹神、小島、小林、近藤、芝田、角谷
竹内、成瀬、三浦‥‥ 各 2 名
浅田、荒川、安藤、石河、石原、稲 垣、井浪、上野、榎 本、岡田 、
小川、槽、小野木、梶川、片 山、河内、川口、川 出、國松、小浦、
小 高、小 島、賢 木 原、坂 部、佐 野、杉 邨、須 田、十 河、高 木、高 橋 、
竹本、鶴岡、中野、中根、新 實、野村、服部、坂 野、深井、深見、
村松、柳瀬、山口、米津‥‥各 1 名
4「碧南風土記抄」から抜粋
長田親致古屋敷
長 田 氏 は 、代 々 知 多 郡 野 間 の 内 海 に 住 む 豪 族 で あ っ た 。源 義 朝 が 平 治 の 乱
に 破 れ 、平 氏 に 追 わ れ 、郎 党 と 共 に 尾 張 へ 逃 れ て 、内 海 荘 司 忠 致( た だ む ね )
の 家 に 寄 る 。忠 致 と そ の 子 景 致( か げ む ね )は 平 氏 に 通 じ 、義 朝 を 殺 そ う と
兄親致(ちかむね)に相談した。親致はその不義を説いたが、聞き入れず、
つ い に 忠 致 は 義 朝 を 浴 室 に 案 内 し て 家 来 に 殺 さ せ た ( 野 間 の 変 )。 源 平 の 争
い が 繰 り 広 げ ら れ る 中 で 、親 致 は 自 分 の 身 が 危 う い 様 子 で あ っ た の で 、夜 ひ
そ か に 漁 船 に 乗 っ て 逃 げ 、大 濱 郷 棚 尾 に 移 り 住 ん だ 。こ れ は 親 致 の 子 の 乳 母
2
初 音 が 棚 尾 の 生 ま れ で あ り 、そ の 縁 故 に よ り 潜 居 し た と い う 。親 致 の 子 仙 千
代 は 白 正 と も い い 、長 田 政 俊 を 名 乗 り 、大 浜 太 郎 と い っ た 。源 氏 の 勢 い が 盛
ん で あ っ た の で 、源 氏 の 浪 人 と し て 、蟄 居 し て い た 。こ れ か ら こ の 地 を 源 氏
と言う様になったと伝える。以下省略。
参考写真
5
野間大坊の源義朝廟(木刀型のお札が奉納されている)
明治32年書之「本村沿革記録」から長田氏関係部分のみ抜粋
長田親致古屋敷
所在
字源氏
現状
宅地
雑項
仁安2年尾張国野間内海ヨリ長田親致三男長田仙千代白正棚尾
出生乳母名ハ初音ノ縁故二依リ潜居ス
其後永正年中長田甚助ノ代ニ大濱内小山屋敷ニ転居ス本村長田
居住ハ七代ノ間ナリ
3
6
昭和23年2月調べ
「棚尾町古文書」棚尾町役場
№ 1973-3
別紙ハ明治3年三州碧海郡棚尾村所有取調書其他参考古文書ニ依リ調製
セルモノナリ
昭和23年3月10日
棚尾町名勝古跡調査会
(棚尾町沿革)
往昔本州に国造或ハ荘司ヲ置カレタリ
現今碧海郡ト称スル以前ハ第四
十八代称徳天皇神護景雲年代迄ハ青海郡ト書キタルモノナリ西加茂郡辺湾
ハ 海 ニ シ テ 棚 尾( 三 州 ノ 半 島 ヲ 意 味 セ リ )及 大 浜 衣 ヶ 浦 ノ 名 共 ニ 古 来 ノ 地 形
ニ起因スルモノノ如シ
第五十五代文徳天皇仁寿元年末大和国ヨリ当国碧海郡ノ荘司トシテ志貴
左衛門藤原周亮当町ニ住居ス
右志貴左衛門荘司タルヲ以テ当町始矢作川西数ヶ村志貴ノ庄ト称ス当時
ノ跡形ナキモ屋敷跡ヲ現在志貴屋敷ト称シアリ此ノ当時本町ヲ棚尾大浜ト
称シタ後大浜ハ分離セシモノナリ
第八十二代後鳥羽天皇建久年間熊谷若狭守直氏ノ所領トナル領地六百余
石当時ノ跡形ナキモ屋敷跡ヲ上屋敷ト称スル
当町字源氏ト称スルハ熊谷若狭守直氏ノ領地タルヲ以テ源氏山ト称シ当
時山跡古木アリシモ現在右屋敷跡形ナシ此ノ古事ヲ以テ其ノ称起ル
其ノ後徳川領ニ属シ徳川家康公御伯母花染当町小折戸ニ来住セシコトアリ
(現在字畑中)其ノ愛顧セシ井戸ヲ花染ノ井戸ト称セルモ現在跡形ナシ
第百八代後水尾天皇寛永二年当国岡崎城主本田下総守領地トナリ次デ第
百十代後光明天皇正保二年酉年ヨリ当国城主井伊井兵部小輔領地トナリ第
百十一代後西天皇万治二年亥年ヨリ代官所ハ鈴木八右衛門代官所トナル
第百十四代中御門天皇享保十一年丙午年ヨリ当国額田郡岡崎藩本田中務
大輔領地トナリ竹田吉十郎知行所トナル
其ノ後第百十七代後桜町天皇ノ
御代明和六年駿河国沼津城主水野出羽守領地トナリ明治元年上総国菊間県
管轄トナリ明治四年額田県管轄トナリ明治五年五月第二区棚尾村トナル明
治六年愛知県管轄トナル
明治九年十二月本町ノ内字東浦側百五十四戸ヲ裂キテ当郡平七村ニ組込
ミ又明治十六年五月中飛地二付本町字西山東山戸数百七十七戸ヲ分離シテ
北棚尾村ト称シタ此レ
現在ノ新川町字西山字東山ナリ
明治二十二年地方自治制ニ伴ヒ町村制ヲ布キ大正十三年町施行今日ニ至ル
4
7
大濱霜山長田家保存
棚尾村関係古文書
棚尾町
№ 1973 年 代 記 載 な し
(長田親致)
長 田 親 致 は 長 田 忠 致 の 兄 な り 。保 元 の 乱 起 る や 親 致 は 崇 徳 上 皇 の 御 召 に 応
じ 白 河 殿 に 馳 せ 参 ず 。戦 利 あ ら ず 上 皇 方 敗 る ゝ に 及 び 逃 れ て 知 多 郡 野 間 な る
弟 忠 致 の 邸 に 入 り 、内 海 に 屏 居 す 。平 治 の 乱 後 、源 義 朝 平 家 に 追 は れ 東 国 に
逃れんと主従数名にて敗走の途中家臣鎌田政家の勧めに従ひ正家の長田忠
致 の 家 に 立 寄 る 。忠 致 並 に 其 子 景 致 平 氏 に 疑 を 通 じ 義 朝 を 討 っ て 恩 賞 に 預 か
ら ん と 欲 し 親 致 に 謀 る 。親 致 卓 識 其 の 不 義 を 説 き 思 い 止 ま ら し め ん と す れ ど
聴 か れ ず 反 っ て 己 の 害 さ れ ん こ と を 暁 知 し 、ひ そ か に 内 海 之 営 宅 を 出 で 自 ら
小 舟 に 棹 し 三 河 棚 尾 の 里 に 来 り て 蟄 居 せ り 。棚 尾 に は 親 致 の 三 男 仙 千 代 丸 白
正乳母の家ありこの家に入る。
(長田政俊)
長 田 仙 千 代 丸 白 正 は 長 田 親 致 の 三 男 に し て 保 元 の 乱 の 時 、谷 従 ひ 白 河 殿 に
赴 く 、戦 敗 る ゝ に 及 び 逃 れ て 三 河 大 浜 郷 の 内 棚 尾 の 里 に 到 り 乳 母 の 家 に 投 ず 。
仁 安 3 年 ( 1168) 大 浜 に 熊 野 大 権 現 を 勧 請 し 神 主 と な る 。 元 暦 元 年 ( 1184)
源頼朝弟範頼義経をして木曾義仲並びに平氏を討するに及び其の軍に加は
っ て 数 々 の 戦 功 あ り 。其 の 功 に 依 っ て 三 河 国 大 浜 郷 の 地 を 賜 ふ 。屋 敷 を 棚 尾
の 里 に 構 え 大 浜 太 郎 政 俊 と 称 す 。人 皆 常 に 長 田 を 源 氏 と 言 い 、其 の 屋 敷 を 源
氏屋敷と呼ぶ。今に至るも字名を源氏と称す。
(長田廣正)
長 田 廣 正( 初 め 喜 八 郎 弘 光 、後 に 甚 右 エ 門 尉 )は 高 望 王 の 裔 長 田 仙 千 代 政
俊 八 世 の 孫 な り( 実 は 醍 醐 天 皇 皇 子 宗 良 親 王 四 世 の 孫 大 橘 和 泉 守 定 廣 四 男 な
り。長田政頼の養子となりて長田氏を継ぐ)
徳川廣忠に嘱し采邑壱千三百貫を領し大浜海岸防備の任に当れり屡々織
田 方 と 戦 へ り 、大 浜 は 岡 崎 へ 入 る 要 地 な る を 以 っ て 時 に 上 之 宮 熊 野 大 神 の 神
主河合惣太夫疑を織田氏に通じ尾張の人数を岡崎へ引き入れんと計る廣正
之 を 知 り 岡 崎 城 主 廣 忠 に 注 進 惣 太 夫 追 い 払 い の 旨 を 蒙 り 直 吉 、重 吉 の 二 子 を
し て こ れ を 追 放 せ し む 天 正 1 8 年 ( 1590)
(永井氏)
永 井 姓 は 大 江 も と 平 氏 平 政 頼 四 世 の 孫 長 田 忠 致 の 兄 親 致 よ り 出 づ 。孫 俊 致
承 久 の 乱 北 条 氏 に 属 し 軍 功 に よ り 三 河 国 碧 海 郡 棚 尾 村 百 町 の 地 を 賜 ふ 。八 世
5
の 孫 廣 常 妻 は 大 江 宗 秀 の 娘 な り 。其 の 子 政 廣 子 な し 因 っ て 後 醍 醐 天 皇 の 皇 子
宗良親王四世の孫津島奴野之城主大橋中務少輔定廣の四男廣正を養子とな
す 。孫 直 勝 徳 川 家 康 に 任 へ 屡 々 軍 功 を 顕 す 。家 康 よ り 汝 の 祖 は 大 江 氏 に 由 あ
らば永井と称すべき台命あり依って永井と更む(以下省略)
8
南中学校資料
南 中 学 校 郷 土 ク ラ ブ の 資 料「 私 た ち の 郷 土 研 究( 6 )」
(昭和38年12月
発行
村 瀬 正 章 昭 和 3 2 年 4 月 ~ 4 0 年 3 月 南 中 勤 務 )「 源 氏 の 地 名 に つ い
て 」が あ る 。少 し 長 い が 、古 典 を 多 数 参 照 さ れ る な ど 、力 作 な の で 引 用 す る 。
(1) 碧 南 市 に は「 源 氏 」の 地 名 が 残 っ て い る 。明 治 初 年 に 作 ら れ た と い わ れ る 。
「 棚 尾 村 史 」に は 、長 田 親 致 古 屋 敷
所在字源氏
現状宅地
雑項
仁安二
年 尾 張 国 野 間 内 海 、長 田 仙 千 代 白 正 棚 尾 出 生 の 乳 母 初 音 の 縁 故 に い り 潜 居 す 。
そ の 後 永 正 年 中 長 田 甚 助 白 重 の 代 に 大 浜 小 山 屋 敷 に 転 居 す 。本 村 居 住 は 七 代
の間なり。
と 記 し て い る 。記 事 に よ る と 、長 田 親 致 の 屋 敷 が 源 氏 の 地 に あ っ た こ と は
分 か る が 、源 氏 の 地 名 が 生 ま れ た 詳 細 は 明 ら か で な い 。親 致 は 、野 間 の 長 田
忠 致 の 兄 に あ た る 。古 老 の 言 に よ る と 、こ の 地 に 移 り 住 ん だ 長 田 氏 が 、源 氏
と 称 し た と こ ろ か ら 源 氏 の 地 名 が 生 ま れ た と い う 。長 田 氏 は 源 氏 で あ ろ う か 。
長 田 親 致 の 流 れ を く ん で こ の 地 に 住 む 長 田 家 の 系 図 に は 、同 家 は 桓 武 天 皇
の 後 裔 と し る し て あ る と い う 。 す る と 平 氏 で あ る 。「 愚 管 抄 」 に は 平 忠 致 と
あり、古書にも野間内海の長田氏について、次のように記したものがある。
長田庄屋司は、尾張の野間の内海に平相国より領地を賜りて居りける故、
内 海 の 庄 司 な り 。義 朝 妻 縁 に よ り て 、庄 司 を 便 り と し て 忍 び 居 り し 事 、不 覚
と い う べ し 。庄 司 は 高 望 王 の 裔 に し て 、そ の 祖 勅 勘 の 事 に よ り て 尾 張 に 配 え
らる。子孫内海に残りてありけるなり。
こ れ に も 野 間 の 長 田 家 は 平 氏 と な っ て い る 。大 浜 の 長 田 親 致 家 は 、野 間 の
長 田 氏 の 子 孫 と 称 し て い る が 、平 氏 の 一 統 で あ る 長 田 家 が 、な ぜ 棚 尾 に 潜 居
し て 源 氏 と 称 し た の で あ ろ う か 。そ れ に は ま ず 長 田 氏 と 源 義 朝 と の 関 係 か ら
始 め な け れ ば な ら な い 。そ こ で 、野 間 大 御 堂 寺 に 所 蔵 さ れ て い る「 京 都 六 波
羅 合 戦 御 絵 解 」「 源 義 朝 公 御 最 期 の 絵 解 」 や 「 愚 管 抄 」 な ど を も と に 考 察 し
てみることにした。
6
(2) 平 治 の 乱 に 、一 方 の 旗 頭 と し て 戦 っ て 敗 れ た 源 義 朝 は 、関 東 に 赴 い て 、源
氏 と ゆ か り の 深 い そ の 地 で 再 起 し よ う と 考 え 、京 都 か ら 比 叡 山 の 麓 を 廻 っ て 、
八瀬大原の方面から逃れようとした。
残 っ た 軍 勢 は 、義 朝 父 子 の 馬 を 囲 ん で 、た が い に 呼 び 合 い な が ら 逃 れ て い
っ た 。追 撃 し て く る 平 家 は 、先 に 廻 っ て 退 却 口 を ふ さ ご う と し た の で 、こ れ
ら を 蹴 散 ら し て 逃 れ て い く う ち に 、始 め 5 0 騎 ほ ど あ っ た 軍 勢 も 、加 茂 上 流
の雪ばかりの山里へ着いた時には、義朝父子を含めて14名になっていた。
比 叡 を 越 え よ う と 、高 野 川 に 沿 っ て い く と 、行 く 手 に 、一 群 の 僧 兵 が 陣 を
し い て 道 を 塞 い で い た 。そ の 数 は 300 人 近 く 、義 朝 は 一 戦 し て 切 り 抜 け よ う
と し た が 、人 々 は 固 く 諌 め 斎 藤 実 盛 一 騎 、僧 兵 の 群 れ に 近 づ い て 貨 幣 を ま き 、
兜 を ぬ い で 投 げ 、小 刀 な ど 持 ち 物 を 投 げ 与 え 、僧 兵 た ち が 争 っ て 拾 お う と し
て い る 間 を 義 朝 主 従 、馬 に 鞭 打 っ て 駆 け 抜 け た 。こ の よ う な 群 れ を 何 度 も 切
り 抜 け 、追 い 散 ら し 、こ の 先 船 を 利 用 し て 、東 近 江 の 野 洲 川 尻 へ 、そ し て 守
山の宿、山篠原などを経て、美濃国青墓に達した。
青 墓 か ら 柴 船 を 仕 立 て 、尾 張 に 入 ろ う と し た 時 に は 、義 朝 に 従 う 者 は 鎌 田
政 家・渋 谷 金 王 丸・平 賀 四 郎 義 宣・鷲 津 玄 光 の 4 人 に な っ て い た 。義 朝 は 源
氏 と 関 係 の 深 い 熱 田 大 宮 司 を 頼 ろ う と し た が 、受 け 入 れ て も ら え ず 、や む な
く 鎌 田 政 家 の 勧 め に よ っ て 、野 間 の 長 田 氏 を 頼 る こ と に な っ た 。こ こ に 長 田
氏の名が表れる。
(3) 鎌 田 政 家 が 、野 間 の 長 田 氏 に 頼 る こ と を す す め た の は 、長 田 氏 が 内 海 荘 の
荘 司 と し て こ の 地 方 を 支 配 し て お り 、長 田 氏 の 娘 が 鎌 田 氏 の 妻 で あ っ て 、両
者 は 舅 と 婿 の 関 係 に あ っ た か ら で あ っ た 。長 田 氏 と 鎌 田 氏 は 、共 に 遠 江 の 人
で 、長 田 の 所 領 は 天 竜 川 の 西 に 、鎌 田 の 所 領 は 天 竜 川 の 東 の 鎌 田 の 地 で あ っ
たという。徳富猪一郎の「源頼朝」には、次のように記している。
義 朝 は 野 間 に 赴 き 、長 田 忠 致 に 頼 り 、武 具 な ど を 整 え て 、関 東 に 赴 か ん と
心 が け た が 、そ の 途 中 で 佐 渡 重 成 は 義 朝 の 身 代 わ り と な っ て 討 ち 死 に し 、又
平賀四郎は長田の油断ならない者であれば、気を付け給えと諌めたが、否、
長 田 は 鎌 田 の 舅 な り 、此 方 と も 浅 か ら ぬ 因 縁 が あ る 。心 配 に 及 ば ず と て 、こ
れ を 退 け 、平 賀 四 郎 に も 暇 を 遣 っ て 、い よ い よ 鎌 田・金 王 丸 を 伴 い 内 海 に 赴
く事となった。
内 海 の 海 岸 は 、昔 か ら 鵜 の 多 く い た 所 で 美 濃 方 面 の 鵜 飼 の 鵜 は こ の 地 方 か
7
ら供給していたので、この方面との水上交通が開けていたと思われる。
義 朝 は 、海 部 郡 立 田 村 か ら 海 路 内 海 に 向 か い 、岡 部 に 上 陸 し た 。時 に 平 治
2 年 ( 1159) 1 2 月 2 8 日 、 農 家 で は 丁 度 正 月 の 餅 つ き の 米 を 蒸 し て い た 。
空 腹 を 感 じ た 義 朝 は 、あ る 民 家 に 立 ち 寄 り 、お こ わ を 手 づ か み で 食 べ 、腹 を
満 た し た と い う 。今 も こ の 地 方 で は 、正 月 1 5 日 間 は 餅 を 食 べ ず 、お こ わ を
手 づ か み で 食 べ る 風 習 を 伝 え 、村 人 の 義 朝 へ の 深 い 同 情 を 伝 え て い る と い う 。
長田一族は、喜んで迎え厚く持て成した。
と こ ろ が 、長 田 忠 致 は 、ふ と 逆 心 を お こ し た 。あ る 時 、忠 致 は 、一 室 に そ
の 子 景 致 を 招 き 、ひ そ か に「 我 が 君 、義 朝 は こ れ か ら 東 国 に 下 ら れ て も 今 は
平 家 の 勢 い が 盛 ん で あ る か ら 、ど こ で 殺 さ れ る か 分 か ら な い 。我 々 の 手 で 首
を討って、清盛公に奉ったならば、厚い恩賞にあずかるであろう」と申し、
景致はこれに同意した。義朝を討つには婿の鎌田政家を討ち取らなくては、
こ の 謀 の 妨 げ と な る で あ ろ う か ら 、ま ず そ れ か ら 手 を 付 け よ う と 話 は ま と ま
った。
(4) 翌 平 治 二 年 正 月 二 日 の 夜 、忠 致 は 一 室 に 鎌 田 政 家 を 招 き 、保 元 の 合 戦 以 来
の 疲 れ を 慰 め よ う と 酒 を す す め た 。政 家 は 婿 の す す め で あ る か ら 、安 心 し て
酒 を 呑 み 過 ご し た 。そ し て 座 を 立 っ て 出 る と こ ろ を 妻 戸 の 脇 で 待 ち 受 け て い
た景致が切り殺してしまった。
翌 正 月 三 日 、御 湯 殿 薬 師 へ 参 詣 の 義 朝 に 、忠 致 は 初 湯 を す す め た 。側 付 き
の 渋 谷 金 王 丸( 1 6 歳 )は 、刀 を 取 っ て 湯 殿 に 控 え て い た が 、し ば ら く し て
も 浴 衣 を 持 参 す る 者 が な く 、諸 事 気 の き か な い 有 様 で あ っ た の で 、金 王 丸 は
怒 り 、長 田 の 屋 敷 へ 浴 衣 を 取 り に 走 っ た 。長 田 の 屋 敷 は 、湯 殿 か ら 約 6 丁( 650
メ ー ト ル )あ る 。金 王 丸 が 出 掛 け た 隙 に 窓 の 下 に 隠 れ て い た 橘 七 郎 が 、湯 殿
の 中 に 飛 び 込 ん で 裸 の 義 朝 に 組 み 付 い て い っ た 。橘 七 郎 は 美 濃 尾 張 で は 無 双
の 大 力 者 で あ っ た が 、義 朝 は 苦 も な く ひ ざ の 下 に 押 さ え つ け て し ま っ た 。け
れ ど も 続 い て 出 て き た 弥 七 兵 衛・浜 田 三 郎 が 左 右 か ら 一 度 に か か っ て き た た
め 、さ し も の 義 朝 も「 せ め て 木 立 の 一 本 で も あ え ば 」と 歯 ぎ し り し な が ら 無
念 の 最 期 を と げ た 。義 朝 は 、源 氏 再 挙 の 悲 願 も 空 し く 、3 8 歳 に し て 非 業 の
最期を遂げてしまった。
首 は か ね て の 計 画 に よ っ て 、湯 殿 か ら 二 丁 程 の と こ ろ に あ る 、小 山 田 相 模
谷 に 隠 さ れ た 。飛 ん で 帰 っ た 金 王 丸 は 、こ れ を 知 っ て 格 闘 し 、3 人 を 切 り 伏
8
せ た が も う 取 り 返 し の 付 か ぬ こ と で あ っ た 。今 、野 間 に 義 朝 の 墓 を 訪 れ る 人
達 は 義 朝 の 無 念 の 思 い に 心 を 引 か れ 、木 太 刀 を 手 向 け て 墓 前 に 供 え て 行 く の
である。
「愚管抄」には、義朝の最期について、少し変わった書き方をしている。
即 ち も う か な わ な い と み た 義 朝 は 、鎌 田 政 家 に 介 錯 を 命 じ 、政 家 も ま た 自 害
したと次のように記している。
義 朝 ハ 馬 ニ モ ノ ラ ズ 、歩 跣( か ち は だ し )ニ テ 尾 張 国 マ デ 落 行 テ 、足 モ ハ
レ 疲 レ タ レ バ 、郎 党 鎌 田 政 家 カ 舅 ニ テ 、内 海 荘 司 平 忠 致 ト テ 、大 矢 ノ 左 衛 門
致 経 ガ 末 孫 ト 云 者 ノ 有 ケ ル 家 ニ ウ チ 頼 テ 、カ カ ル ユ カ リ ナ レ バ 、行 著 タ リ ケ
ル 、待 悦 フ 由 ニ テ イ ミ シ ク イ タ ワ リ ツ 、湯 沸 カ シ テ サ ン ト シ ケ ル ニ 、正 清 事
ノ 気 色 ヲ カ サ ト リ テ 、爰( こ こ )ニ 撃 シ ナ ン ス ヨ ト 見 テ ケ レ バ 、叶 ヒ 候 ハ シ 、
ア シ ク 候 ト 云 ケ レ バ 、サ ウ ナ シ 皆 存 タ リ 、此 首 討 テ ヨ ト 云 ケ レ バ 、正 清 主 ノ
首打落シテ、ヤガテ我身自害シテケリ。
金 王 丸 は 、長 田 氏 を 討 と う と し て 、忠 致 の 屋 敷 を 指 し て 向 っ た 。邪 魔 者 を
切 り 抜 け 、更 に 鷲 津 玄 光 を 呼 び 、二 人 で 斬 り ま わ っ た が 、長 田 父 子 を 討 ち 取
る こ と は 出 来 な か っ た 。さ て は 、首 を 持 っ て 、京 都 へ 上 っ た で あ ろ う と 、馬
屋から馬を引き出し、大音声で「歳積もって六十三、戦に会うこと十三度、
ま だ 一 度 も 敵 に 後 ろ を 見 せ た こ と は な い 」と 逆 馬 に 乗 っ て 駆 け 出 し た 。平 賀
四郎義宣は、母の重病のため、国に帰っていった。
(5) 長 田 父 子 は 、大 い に 賞 に あ ず か ろ う と し て 、義 朝 の 首 を 持 っ て 京 都 に 上 り 、
そ れ を 平 清 盛 に さ さ げ た 。し か し 、清 盛 は 義 に そ む く 長 田 父 子 の 行 為 を 察 し
て 、厚 く は 賞 し な か っ た 。わ ず か に 忠 致 を 壱 岐 守 に 、景 致 を 兵 衛 尉 に 任 じ た
だ け で あ っ た 。勿 論 長 田 父 子 は こ れ を 喜 ば な か っ た 。重 盛 は 、不 義 の 者 を 斬
っ て 後 の 戒 め に し よ う と 言 っ た の で 、こ れ を 聞 い た 忠 致 父 子 は 、密 か に 逃 れ
て野間に帰った。
義 朝 の 首 は 左 獄 の お う ち の 木 に 晒 さ れ た 。後 、義 朝 の 恩 顧 を 受 け た 染 物 屋
の 五 郎 と い う 者 が そ の 首 を 乞 い 左 獄 の 門 の 傍 ら に 埋 め た 。や が て 平 氏 の 栄 華
も 空 し く 、源 氏 に よ っ て 平 氏 は 滅 亡 の 運 命 に あ っ た 。平 氏 を 滅 ぼ し た 源 頼 朝
は そ の 後 野 間 に 赴 い て 、父 義 朝 の た め に 追 福 を 祈 る こ と に な っ た 。頼 朝 は 建
久 元 年 ( 1190) 1 0 月 3 日 鎌 倉 を 出 発 、 関 東 武 士 を 率 い て 東 海 道 を 上 っ た 。
1 8 日 遠 江 橋 本 駅 に つ き 、三 河 を 経 て 尾 張 に 入 り 、鳴 海 か ら 尾 張 の 御 家 人 須
9
細 治 郎 太 輔 為 基 を 案 内 者 と し て 2 5 日 野 間 に 到 着 、直 ち に 父 の 廟 所 を 拝 ん だ 。
平 康 頼 が 義 朝 の た め に 寺 を 建 て て そ の 菩 提 を 弔 っ た こ と は 、頼 朝 は す で に
聞 い て い た 。頼 朝 は そ の 恩 に 報 い る た め 、文 治 2 年( 1186)7 月 、康 頼 を 阿
波 国 麻 埴 保 と し た 。歳 月 を 経 て い る の で 、荒 れ 果 て て い る も の と 思 い 、来 て
み る と 、仏 殿 の 荘 厳 さ は 目 を 見 張 る ば か り 、読 経 の 声 も 盛 ん に 聞 こ え る の で 、
頼 朝 は 自 分 の 予 想 に 反 し た 状 況 に 遭 い 、ま す ま す 康 頼 の 心 に 感 じ 入 っ た と い
う 。頼 朝 は さ ら に 数 十 の 僧 侶 を 呼 び 集 め て 仏 事 を 営 み 、2 7 日 に は 精 進 潔 斎
し て 熱 田 神 宮 に 奉 幣 し た 。「 吾 妻 鏡 」 に は 、 こ の 時 の 模 様 を 次 の よ う に 記 し
ている。
建久元年
十 月 二 十 五 日 、尾 張 国 ノ 御 家 人 須 細 治 郎 大 夫 為 基 ヲ 以 テ 案 内 者 ト ナ シ 、当
国 野 間 ノ 荘 ニ 至 リ 、故 左 典 厩 ノ 廟 堂 ヲ 拝 ミ 給 ウ 、此 ノ 墳 墓 荊 棘 ニ 掩 ワ レ 、へ
き へ い 薜 蘿 ヲ 払 ワ ザ ル カ ノ 由 、日 来 ハ 関 東 ニ 於 テ 遥 カ ニ 懐 ヲ 遺 ラ シ メ 給 ウ ノ
処 、閣 ヲ 払 イ 扉 ヲ 拝 シ 、荘 厳 ノ 粧 眼 ヲ 遮 ル 僧 衆 坐 ヲ 構 エ 、転 経 ノ 声 耳 ニ 満 ツ
ル ナ リ 、二 品 之 ヲ 怪 シ ミ 、疑 氷 ヲ 解 ク 為 ニ 濫 觴 ヲ 尋 ネ ラ ル ル ノ 処 、前 廷 尉 康
頼入道、国ヲ守ルノ時、水田三十丁ヲ寄附セシメテ以降、一伽藍ヲ建立シ、
三 菩 提 ヲ 祈 リ 奉 ル( 中 略 )此 事 康 頼 入 道 ノ 殊 功 ヲ 謝 ス ル 為 、兼 田 一 村 ヲ 賜 ウ
ト 雖 モ 、彼 ノ 任 国 ハ 往 年 ノ 事 ナ リ 、行 行 定 メ テ 廃 絶 セ シ ム ル カ 、潤 ? ヲ 加 ウ
ベ キ ノ 由 、思 シ 食 ス ノ 処 、鄭 重 ノ 儀 親 シ ク 之 ヲ 覧 、弥 々 禅 門 ノ 懇 志 ヲ 憐 ミ ラ
ル、国別綿衣ニ領、曝布十端之ヲ施シ給ウ。
また「本朝通鑑」には
二 十 七 日 頼 朝 尾 張 ニ 至 リ 熱 田 社 ニ 奉 幣 ス 、而 シ テ 野 間 ニ 到 リ 、義 朝 ノ 墓 前
ヲ 拝 ス 、往 歳 忠 宗 平 氏 ノ 為 ニ 棄 テ ラ レ シ 、父 子 相 携 エ テ 鎌 倉 ニ 来 リ 、且 ツ 平
氏 ヲ 撃 ツ ノ 軍 ニ 従 ウ 、頼 朝 佯 リ テ 厚 ク 之 ヲ 遇 ス 、此 ニ 忠 宗 及 ビ 子 景 宗 ヲ 誅 シ 、
以テ墓前ニ徇ウ。
と あ り 、頼 朝 が 長 田 父 子 を 召 し 出 し て 恩 賞 を 与 え よ う と 沙 汰 を し 、父 子 の
首 を は ね て 墓 前 に 供 え た と い う 説 を 裏 書 き し て い る 。「 大 御 堂 旧 記 」 に は 、
長 田 忠 致 は 、義 朝 を 殺 し て か ら 平 家 に 仕 え よ う と し た が 容 れ ら れ な か っ た
の で 、こ の 地 に 帰 っ た 。源 頼 朝 が 天 下 を 統 一 し た と き 、忠 致 父 子 は 出 頭 し て
罪 を 願 っ た 。頼 朝 は し ば ら く こ れ を 許 し 、土 肥 実 手 の 家 来 に し て 、平 家 の 征
伐 に 手 柄 が あ っ た ら 、恨 み に 報 い る に 徳 を も っ て し よ う と い っ た 。忠 致 父 子
10
は 大 い に 喜 ん で 、軍 に 従 い 、し ば し ば 功 が あ っ た 。後 、頼 朝 は 賞 を 行 う と い
っ て 、忠 致 父 子 を 家 に 帰 ら せ 、こ れ を 捕 ら え て 野 間 の 義 朝 の 墓 所 の 松 に 磔 に
した
と 記 し て い る 。「 平 治 物 語 」 に は
頼 朝 、忠 致 に 謂 て 曰 く 、約 の 如 く「 身 の 終 わ り 」を 宛 て 行 う べ し と 、忠 致
乃 ち「 な が ら え て 命 ば か り は 壱 岐 守 、身 の 終 わ る を ば 今 は 賜 る 」と 詠 じ 辞 世
せり。
と あ る が 、と も に 吉 良 上 野 介 の 最 期 の よ う に 息 詰 ま る 思 い が す る 。長 田 父
子 は そ の 後 、駿 河 で 戦 死 し た と い う 説 も あ る 。徳 富 猪 一 郎 の「 源 頼 朝 」に は 、
北 条 時 政 が 甲 斐 源 氏 の 一 党 を 率 い て 、駿 河 国 に 出 か け ん と す る 際 、駿 河 の
目 代 は 、曾 て 義 朝 を 裏 切 っ て 、彼 及 び 我 が 婿 で あ る 鎌 田 政 家 を 殺 し た る 長 田
入 道 忠 宗 の 謀 略 に 依 っ て 、こ れ を 途 中 に 迎 え 撃 た ん と し た が 、そ の 謀 が 甲 州
源 氏 の 方 に 漏 れ 聞 こ え 、武 田 太 郎 信 義・次 郎 忠 頼 ‥ ‥ 、何 れ も 富 士 の 北 若 彦
路 を 踰 え 、石 橋 敗 戦 以 来 甲 斐 に 逃 亡 し た る 加 藤 太 光 員・同 藤 次 景 廉 等 を 具 し
て 、十 月 十 四 日 は 駿 河 目 代 と 途 中 に て 出 合 、遂 に 長 田 入 道 忠 宗 其 子 景 宗 の 首
を鳧し、駿河の目代は捕虜となった。
と記している。
歴 史 の 因 果 は 妙 で あ る 。義 朝 は そ の 父 を 殺 し 、兄 弟 を 殺 し 、ま た そ の 子 女
を さ え も 殺 し た 源 氏 の 性 格 を 最 も 露 骨 に 表 し た 人 物 で あ る 。彼 は 全 く 主 義 一
本 に 生 き 、抜 群 の 武 勇 者 で も あ っ て 、猪 の よ う に 直 進 す る 坂 東 武 者 の 代 表 的
人 物 で あ っ た 。従 っ て 彼 の 部 下 に は 、彼 の た め に 奮 戦 し 、彼 の た め に 一 命 を
捨 て る 者 も 少 な く な か っ た が 、長 田 父 子 の た め に 裏 切 ら れ て 横 死 し て し ま っ
た 。自 業 自 得 と い わ れ て も 、や む を 得 な い か も し れ な い 。そ し て 又 、長 田 父
子も誅される運命になったのである。
(6) 長 田 氏 と 碧 南 と の 関 係 は 、 大 浜 の 長 田 家 の 系 図 に 依 ら な け れ ば な ら な い 。
新井白石の「藩翰譜」には、
長 田 一 族 は そ の 後 散 り 散 り に な っ た が 、小 牧 長 久 手 の 合 戦 で 、徳 川 家 康 に
従い、池田信輝の首をあげた永井伝八郎直勝は、その子孫だという
と書かれている。長田家の系図によると、
保 元 の 乱 の 起 こ っ た 時 、親 致 は 上 皇 方 に 味 方 し て 戦 い に 破 れ 、弟 の 内 海 の
荘 司 長 田 忠 致 の も と に 逃 れ て 身 を 隠 し て い た 。義 朝 暗 殺 の 前 、忠 致 か ら 相 談
11
が あ り 、力 を 貸 し て く れ る よ う に と の 依 頼 が あ っ た 。親 致 は 同 意 す る 気 が な
か っ た の で 、身 の 危 険 を 感 じ 、夜 陰 に 乗 じ て 漁 舟 を 利 用 し え 野 間 を 脱 出 、大
浜郷に逃れた。そこが今の源氏の地である
という。
義 朝 が 殺 さ れ た の は 平 治 2 年( 1160)正 月 、親 致 が 大 浜 郷 棚 尾 に 逃 れ た の
が 仁 安 2 年( 1167)と 系 図 に 記 さ れ て い る と い う か ら 、こ れ は 年 代 が 合 わ な
い 。親 致 は 野 間 か ら 直 ち に 棚 尾 へ 逃 れ て 居 着 い た の で は な く 、一 旦 ど こ か に
身を隠してから、この地に移ったものと考えられる。
こ の 頃 は 、平 氏 の 全 盛 時 代 で は あ り 、や が て 、平 氏 は 滅 亡 し 、源 氏 の 世 と
な る 。棚 尾 に 逃 れ て 潜 居 し て い た 長 田 氏 は 、元 々 は 平 氏 で は あ る が 、源 氏 の
世 に な っ た と こ ろ か ら 、自 ら を 源 氏 と 称 し た と い う 。源 氏 の 地 名 の 由 来 は こ
こにあるというのである。
ここにいろいろ疑問があるので、次に記してみよう。
さ き に 記 し た 新 井 白 石 の 「 藩 翰 譜 」 に は 、 家 康 か ら 、「 長 田 は 源 氏 の 敵 だ
か ら 永 井 と 改 め よ 」と い わ れ て 、改 姓 し た も の だ と い う よ う に 書 か れ て い る
が 、こ の 永 井 直 勝 に つ い て 、
「 夏 目 日 記 」に は 、
「永井直勝は緒川村の人なり。
初 め 長 田 伝 八 郎 と 称 す 。後 に 徳 川 家 康 の 命 に よ り 姓 を 永 井 と 改 む 」と 書 か れ
ている。
「 三 河 志 」に は 、
「 永 井 伝 八 郎 直 勝 は 、初 め 大 浜 村 の 名 主 で あ っ た 永
井 平 右 衛 門 の 子 で 、 信 康 に 初 め て 仕 え た 」 と 記 し 、 ま た 、「 永 井 直 勝 は 長 田
半 右 衛 門 重 元 の 子 で あ る 。長 田 半 右 衛 門 は 第 五 十 一 代 平 城 天 皇 の 三 王 子 阿 保
親王九代の後胤権中納言匡房卿三代の陸奥守大江広元四代甲斐守永井宗光
よ り 十 一 代 の 人 で あ る 」と も 記 し て い る 。直 勝 の 父 は 永 井 平 右 衛 門 、長 田 半
右 衛 門 と 異 な っ た 名 と な っ て い る が 、「 武 家 盛 衰 記 」 に は 、 長 田 半 右 衛 門 尉
と あ る 。「 国 家 異 変 録 」 で は 、 平 城 天 皇 の 後 裔 大 江 広 元 か ら 分 か れ た 永 井 宗
光 よ り 十 一 代 目 の 永 井 平 右 衛 門 の 子 と あ り 、「 神 武 創 業 録 」 に は 、 大 浜 村 の
地 主 長 田 半 右 衛 門 の 子 と 記 し て い る 。大 浜 の 長 田 家 の 系 図 で は 、直 勝 は 親 致
の 血 を 引 き 、大 浜 上 の 宮 社 田 を 食 す 重 吉( 喜 太 郎 、後 に 八 右 衛 門 )の 子 と な
っている。
こ こ で 、 注 目 す べ き こ と は 、「 武 家 盛 衰 記 」 に
十 一 代 長 田 半 右 衛 門 尉 重 元 が 代 に 至 っ て 、三 州 大 浜 村 に 至 り 、近 辺 を 切 り
従 え て 居 住 す 。こ の 時 な お 乱 世 の 最 中 な れ ば 、彼 の 邑 を 近 郷 よ り 掠 め 取 む と
12
欲す。重元毎度武威を震い、郷民を撫育して終に彼村の庄官を司ると云々。
と あ る こ と で あ る 。こ の 書 に よ る と 、平 城 天 皇 の 後 裔 で あ る 長 田 半 右 衛 門
重 元 が 、初 め 大 浜 村 に 来 て 、近 辺 を 切 り 従 え て 居 住 し 、そ の 子 が 直 勝 で あ る
と記しているので、長田氏が大浜に来たのは戦国時代ということになる。
長 田 氏 を 追 っ て き て 、つ い 長 く な っ て し ま っ た 。こ こ で 改 め て 長 田 氏 は い
つ の 時 代 に 大 浜 村 へ き た の で あ ろ う か 。長 田 氏 の 出 自 は ど の よ う な も の で あ
ろ う か 。野 間 の 長 田 氏 と は ど の よ う な 関 係 に あ る の だ ろ う か 。こ の よ う な 点
について考えてみると、諸書異なる記述があって一定しない。
「 日 本 歴 史 大 辞 典 」( 河 出 書 房 新 社 刊 ) に つ い て 「 長 田 忠 致 」 の 項 を み る
と、次のように記述されている。
忠 宗 と も 書 く 。世 系 粉 々 と し て 一 定 し な い 。一 本 に は 平 致 行 の 孫 、行 致 の
子 と 伝 え 、ま た 上 総 介 平 高 望 八 代 の 後 胤 と も い う 。駿 河 安 部 郡 長 田 荘 司 で 尾
張 知 多 郡 内 海 荘 を も 兼 領 し た 。源 義 朝 の 家 臣 鎌 田 政 家 の 舅 、義 朝 平 治 の 乱 に
敗 れ 、平 賀 義 信 、鎌 田 政 家 ら を 従 え て 美 濃 に 至 り 、忠 致 の 家 に 宿 る 。忠 致 平
氏 の 命 を 受 け 義 朝 を 害 し て 賞 を 得 よ う と 図 り 、義 朝 を 浴 室 に 刺 し 首 を 持 参 し
た 。功 に よ っ て 壱 岐 守 に 任 じ ら れ た が こ れ を 不 満 と し 、か つ 世 の 風 評 も よ ろ
し か ら ず 、 遂 に 尾 張 に 逃 げ 帰 っ た 。「 平 治 物 語 」 に は 、 そ の 後 、 彼 は 源 頼 朝
に 降 り 、木 曾 義 仲 の 追 討 や 一 の 谷 、屋 島 の 合 戦 に も 従 軍 し た が 、戦 後 、捕 ら
え ら れ 、義 朝 の 墓 前 で 、土 磔 の 刑 に 処 せ ら れ た と 記 さ れ て い る が 、実 録 に は
みえず信じがたい。
9「平氏長田家大河のごとく」
著者長田白赤(なおあか)からの抜粋
長 田 白 赤 氏 は 長 田 家 後 継 者 の 立 場 か ら 、野 間 で の 状 況 に つ い て 、別 の 見 方
をされて見えるので紹介する。
「寛政重修諸家譜」平氏良兼流
長田の條に
左 馬 頭 義 朝 、平 治 の 戦 に 利 を う し な い 、尾 張 国 に 逃 れ 、忠 致 が 許 に 寄 宿
せしとき、男、景致と倶に義朝を討て平家の恩賞にあづからむとて、兄、
親 致 に は か る と こ ろ 、肯 ぜ ざ り し か ば 親 致 を も 并 せ て 殺 さ む と す 。よ り て
親 致 は 内 海 の 宅 を 逃 れ て 、し ば ら く 智 多 郡 に 潜 居 す 。‥ ‥ ‥ ま た 三 河 国 碧
海郡大浜の郷、棚尾村に隠る。
と あ り ま す 。こ れ も 又 、話 の 筋 と し て は お お よ そ の と こ ろ は 、良 し と し
ておきましょう。
13
当 家 の 伝 承 と し て は 、義 朝 と 正 清 は 年 末 の 3 1 日 に 到 着 し 、早 く 東 国 へ
逃 れ た い が ‥ ‥ と 云 っ た ら し い が 、も う 正 月 だ か ら し ば ら く 泊 ま っ て 行 け
と い っ て 、忠 致 の 野 間 の 館 で 当 初 は 歓 待 し た が 長 男 の 景 致 が 内 海 の 出 城 よ
り 帰 り「 平 家 の 大 軍 が 船 で 攻 め て き た 。も う 駄 目 だ 、こ の ま ま で は 当 家 は
滅 び る 。」 と 言 い 「 義 朝 を 討 た ね ば 当 家 は 戦 に な り 、 多 数 に 無 勢 、 敗 け て
し ま う 。」と 強 力 に 主 張 。忠 致 は 兄 の 親 致( 当 家 に 隠 れ 住 ん で い た 。)に 相
談 し た と こ ろ 親 致 は「 由 緒 あ る 人 を 討 つ の は 良 く な い 、止 め て お け 」と 言
っ た が 、 景 致 が 聞 か ず 、「 伯 父 親 致 を も 共 に 討 ち 取 ら ん と の 気 色 と な り 止
む を 得 ず 逃 れ 去 る 。」 と あ り 、 こ と の 次 第 や 動 き な ど 、 平 家 攻 め 寄 せ る こ
とを伝え聞き「すは合戦かと館の人々の騒動や様子で、鎌田正清が知り、
義朝も知る所となり、今は逃れられずとみて自害したもの」とあります。
10
八柱神社と長田氏
(1) 八 柱 神 社 と 長 田 氏 は 関 係 が 深 く 、当 神 社 で 参 詣 者 用 に 配 布 し て い る 説 明 書
は次のとおりである。
八
柱
神
社
概
要
鎮座地
碧 南 市 弥 生 町 3 丁 目 140 番 地
祭神
正哉吾勝勝速日天之忍穂 耳 命
まさ か
あめ の
あ かつ かつ はや ひ あめ の おし ほ みみのみこと
ほ ひの みこと
天之穂日 命
あ ま つ ひ こ ね の いのち
天津産根 命
いく つ ひこねのみこと
活津彦根 命
くま の く す びのみこと
熊野久須毘 命
いじょうあまてらすおおみのかみ
( 以上 天 照 大 御 神の五男子)
た き り び めのみこと
多紀理毘売 命
いち き しま ひ めの みこと
市杵島比売 命
14
たき つ
ひ めの みこと
す
湍津比売 命
さ
の
おの みこと
(以上須佐之男命の三女子)
仁徳天皇(若宮社から移る)
創立
仁寿3年8月21日
由緒沿革
文 徳 天 皇 の 仁 寿 3 年( 853)、志 貴 荘 司 志 貴 左 エ 門 藤 原 周 亮( か ね た か )の 創 立
で 八 王 子 宮 と 称 し た 。永 暦 元 年( 1160)正 月 長 田 荘 司 平 親 致 の 三 男 仙 千 代 白 正
が棚尾村に来て神主となり、以来明治維新まで社家となる。
文 化 9 年( 1812)永 井 日 向 守 直 進 が 社 号 額 を 奉 献 す る 。明 治 5 年( 1872)9 月
村 社 に 昇 格 し 、 社 号 を 八 柱 神 社 に 改 称 す る 。 同 1 7 年 ( 1884) 2 月 2 8 日 に
郷社に昇格する。同年3月18日従四位山中信天翁が社号額を奉献する。同
3 9 年( 1906)4 月 神 饌 幣 帛 料 供 進 社 に 指 定 さ れ る 。大 正 3 年( 1914)8 月 6
日 、字 上 屋 敷 5 7 番 地 に 鎮 座 の 若 宮 社 の 祭 神 仁 徳 天 皇 を 合 祀 す る 。同 1 0 年 8
月 男 爵 千 家 尊 福 書 社 号 額 を 氏 子 中 よ り 奉 納 す る 。昭 和 2 3 年( 1948)9 月 愛 知
県神社庁より六級神社の等級を受ける。
例祭日
10月第3日曜日
境内末社
宮比社
あめのうずめのみこと
祭神
天 細 女 命 (芸能の神)
(2) 棟 札
八 柱 神 社 が 保 管 す る 棟 札 で 江 戸 時 代 の も の は 2 4 枚 あ る が 、そ の 中 で 長
田 氏 の 名 前 が 出 て く る も の は 次 の 通 り 1 7 枚 あ り 、長 田 氏 が 永 年 に 亘 っ て
神主であったことが分る。
ア
元 和 6 年 ( 1620) 奉 建 立 御 寶 殿 之 守 護 所
檀那
イ
寛 永 1 5 年 ( 1637) 奉 建 立 八 王 子 御 寶 殿 供 守 護
神主
ウ
長田安右衛門白勝
寛 文 1 0 年( 1670)大 八 王 子 社 并 華 表 當 処 守 護 所
神主
エ
長田安右衛門白勝
長田氏也
貞 亭 3 年 ( 1686) 奉 建 立 八 王 子 ・ 碧 海 郡 ・ 棚 尾 邑 氏 子 繁 畠 幸 祈 処
大濱邑神主
オ
※華表は鳥居のこと
長田氏兵部白久
宝 永 2 年 ( 1705) 奉 修 造 八 王 子 上 葺 鳥 居
15
神主
カ
長田氏兵部白勝
享 保 6 年 ( 1721) 奉 上 葺 八 王 子 三 刕 碧 海 郡 棚 尾 村 想 氏 子
権現神主
キ
長田求馬
宝 暦 1 0 年 ( 1760) 奉 修 造 八 王 子 御 社
※この棟札は現存しないので、
調査書の写しによる。
神主
ク
明 和 元 年 ( 1764) 奉 修 造 八 王 子 御 社 葺 替 総 氏 子 安 全 守 護 所
神主
ケ
長田主水白晴代
文 化 8 年 ( 1811) 奉 修 造 八 王 子 御 社 葺 替 総 産 子 息 災 安 全 守 護 所
神主
シ
長田主水白晴代
寛 政 4 年 ( 1792) 奉 再 建 八 王 子 御 社 総 氏 子 息 災 安 全 守 護 所
神主
サ
長田主水白晴代
天 明 元 年 ( 1781) 奉 修 造 八 王 子 御 社 葺 替 総 氏 子 息 災 安 全 守 護 所
神主
コ
長田求馬白恒代
長田求馬平白賁
天 保 3 年 ( 1832) 奉 執 行 地 鎮 大 行 事 埴 山 姫 命 當 境 守 護 攸
長田平白賁
ス
天 保 3 年 ( 1832) 奉 執 行 地 鎮 大 行 事 軻 過 突 知 命 當 境 守 護 攸
神主
セ
天 保 3 年 ( 1832) 奉 執 行 地 鎮 大 行 事 岡 象 女 命 當 境 守 護 攸
神主
ソ
長田内蔵介平白賁代
天 保 3 年 ( 1832) 八 王 子 御 本 社 添 棟 札
神主
チ
長田平白賁
天 保 3 年 ( 1832) 奉 再 建 八 王 子 宮 惣 産 子 息 災 安 全 守 護 所
神主
タ
長田平白賁
長田白賁代
嘉 永 6 年 ( 1848) 奉 葺 替 惣 氏 子 息 災 安 全 守 護 所
神主
長田内土岐丸平白斐
(3) 八 柱 神 社 由 緒 記
碧 南 市 史 資 料 調 査 室 の 棚 尾 村 文 書 の 中 に № 1360「 八 柱 神 社 由 緒 記 」の 筆
写がある。
記 録 者 は 大 浜 下 の 宮 熊 野 神 社 の 神 主 で あ っ た 長 田 家 の 者 と 思 わ れ る 。本
文は「八柱神社と棚尾の歴史」参照。
16
11
中山神明社の由緒
中山神明社は字源氏から現在地へ遷されたものという。
(1) 神 明 社 の 由 緒 碑 は 以 下 の よ う に 記 し て い る 。
当 神 社 ハ 、往 昔 棚 尾 村 字 源 氏 ニ 鎮 座 坐 シ テ 、生 田 新 左 衛 門 ノ 崇 敬 セ シ 神
社 ナ リ シ ガ 、或 時 赫 々 タ ル 神 霊 ノ 夢 想 ニ ヨ リ テ 、本 村 ナ ル 字 稲 野 、即 チ
現 在 地 ヘ 一 宇 ヲ 建 立 シ 、茲 ニ 御 霊 ヲ 遷 シ 奉 リ 、国 土 ノ 安 泰 、農 工 商 ノ 繁
栄、氏子ノ守護ヲ祈請シ奉リタルモノナリ
大 正 三 年 多 度 社 祭 神 天 津 日 子 根 命 ヲ 合 祀 、大 正 五 年 神 明 社 祭 神 天 火 明 命
ヲ合祀奉ル
昭 和 二 十 年 十 二 月 十 五 日 、村 社 ニ 列 セ ラ レ 、昭 和 二 十 二 年 六 月 九 日 愛 知
県神社庁ヨリ第十二等級ノ神社ニ認証セラル
(2) 棚 尾 町 史 資 料
神明社参籠殿に関する記
昭和7年壬申10月
棚尾町役場
町長永井治郎平
棚尾町字神明鎮座源氏神明宮遷座の事
ア
昭和7年10月18日棚尾町字神明に鎮座まします源氏神明宮の渡殿
新築し終りたり
イ
本 殿 は 其 の 儘 西 の 方 へ 約 24 尺 ば か り 移 し 新 築 の 渡 殿 兼 参 籠 殿 の 工 事 は
全く了りたり
元の渡殿は幅7尺のものなりしかは御祭りに差支あり且は長き歳月を
歴 て 破 れ い た み た れ ば 今 年 新 し せ ん と て 其 氏 子 惣 代 た る 長 崎 重 治 、斎 藤
甚 四 郎 、鈴 木 岩 二 郎 、生 田 松 治 郎 の 4 氏 中 山 部 民 の 切 な る 願 い を 納 れ て
新築する事とはなりぬ。
ウ
昭和7年9月4日午後9時半頃より本殿と神鎮りまします神霊の遷宮
を此に奉る
神官栗田竹治郎病気のため代りて神官石原久治郎雑掌野村金作の二名
仕 え 奉 る 時 に 棚 尾 町 長 永 井 治 郎 平 氏 子 惣 代 斎 藤 甚 四 郎 、鈴 木 岩 二 郎 、生
田松治郎の四名及び中山生田國太郎外ら四名仕え奉る
午後10時頃惣ての燈火を滅し祝詞奉賛終炬火の光に御影を照し警い
つの声に導かれ恙無く神霊は神楽殿に遷御あらせ終ふ又最も荘重の式
の内神官祝詞を上り神饌を進め厳粛に式は終らせたまふ
17
エ
本殿に鎮まり座す三柱の神は源氏神明宮、堀切神明宮、多度社なり
オ
源氏神明宮の御はこは長さ2尺ばかり幅8寸ばかり台は高サ3寸ばか
り堀切神明宮の御はこは長1尺3・4寸ばかり幅6寸ばかりなり
多度社のはこは長8寸ばかり幅6寸ばかりなりと聞きたり以上三柱の
神まします
カ
源氏神明宮の御はこはこの表に「源氏神明宮」と明記しありと聞く
キ
当夜は東風微にあり星稀に夜深く沈々として物のけはいなし誠に森厳
の極みなりき
ク
源氏神明宮の沿革に就て
平治の乱に左馬頭源義朝戦に破れ東鎌倉に逃れんと美濃国青墓より河
を下り尾張国内海荘野間に館する旧臣荘司長田忠致の方に寄る
忠致
其子景致と厚く遇し正月4日湯殿にて義朝を刺殺す
義朝の事頼朝鎌倉に起り天下に令す其臣安達前九郎盛長を熱田宮司方
に遣し忠致景致を招き之を捕ふ刑を旧里野間の館に行り
眷属驚き其の財宝を携へ小舟に乗りて景致の長子2歳なるものは乳母
の里棚尾に隠る
其の時持来せるものの内源家の重宝「髯切(ひげき
り )」 と 称 す る 短 刀 あ り
天下に聞ゆる名剣なればとて屋敷の隅に小な
る祠を造営して之を源氏神明宮と称し後々まで祭りたり
其 後 当 国 幡 豆 郡 西 の 町 に( 西 尾 町 大 字 上 町 實 相 寺 の 西 及 北 )館 す る 領 主
足利義氏の許に此家より乳母として上がりくるものあり
四方山の談
に乳母の実家に名剣あり之を尊崇して神と祭りある旨述へたり
さう
いそれ覧したしとの内意に依り之を持来るして披露すれは源家の重宝
「 髯 切 」な り
なり
鎌倉に上り委細奏上すれは足利義氏方に保管せよとの命
之 を 居 館 に 置 き 後 西 條 の 城 を 移 し( 現 今 西 尾 町 )城 内 に 御 剣 八 幡
宮で祭り今日まで其神霊と尊崇する所なりと聞く
足利義氏公は乳母の実家に神明宮の神霊を下附せられたり初めは当町
上 屋 敷 に 祭 り 後 に 字 源 氏 に 移 り た り( 口 碑 に は 長 田 坂 一 氏 の 宅 地 な り と
聞 く )弘 化 3 、4 年 頃 ま で 其 の 古 址 に 古 松 数 株 あ り て 古 の 神 明 宮 の 跡 な
りと称す
今 中 山 神 明 の 地 に 移 り た る は 今 歳 を 去 る 313 年 目 な り( 昭 和 7 年 よ り 起
算して)以上源氏神明宮の起源なり
18
棚尾町字神明鎮座源氏神明正遷宮の事
ア
昭和7年10月18日夜10時兼て新築中なりし渡殿も落成し本殿の西
の方へ移りたれば今日のよき日を撰みて今夜正遷宮の式を行い奉る
イ
神官栗田竹治郎病気のため神官杉浦文太郎に代り社掌斎藤千代三郎仕え
奉る
ウ
棚尾町長永井治郎平氏子惣代長崎重治、斎藤甚四郎、鈴木岩二郎、生田
松太郎等及中山生田一郎、岡本開太郎、生田國太郎、其他5、6名ばか
り御供し奉る
エ
此度の新築渡殿の棟梁は当町堀切大工小澤長十承り、屋根の瓦は当町源
氏斎藤昇平承る
オ
仮の神殿たる神楽殿にて祝詞を奉し、炬火の光と警ひつの声に導かれ本
殿に御遷らせたもふ
夜深くして四隣闃(げき)として声なく沈々たる神明の森炬火の光写る
は警ひつの声誠に森厳謹粛の極みなりき
昭和8年10月19日朝認之
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以上
棚尾町長
永井治郎平
その他関連事項
(1) 長 田 川 に つ い て
安城市から西端の東を流れ下って油が渕へ注ぐ長田川について、上記
「 平 氏 長 田 家 大 河 の ご と く 」で は 、長 田 氏 が 周 辺 の 新 田 開 発 を 進 め る 中 で 、
建設した人工の河川であると推測されている。
(2) 家 紋
平 家 の 家 紋 は 三 つ 剣 に 三 つ 柏 で あ る 。長 田 家 の 家 紋 に つ い て 、一 部 で お
聞きしたところ、同じ家紋であるとのことであった。
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