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小特集 翻訳と情報社会

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小特集 翻訳と情報社会
群馬大学社会情報学部研究論集
第15巻
143―148頁
2008
143
平成18年度社会情報学部学際・ 合型プロジェクト報告
小特集
翻訳と情報社会
前 書 き
このプロジェクトは,
「情報文化論」を学際的に充実させていこうとする努力の一環として,継続的
に実施しているものである。文学や文化の問題を,社会情報学の中で捉え直してみようというのがそ
の趣旨であり,また,欧米と日本についての比較という関心も通底している。1)平成15年度の「情
報化時代における「教養」の意義
日本,英米,ドイツの比較
」
(第8回社会情報学部シンポジ
ウム[2005.
1.26],及び『群馬大学社会情報学部研究論集』第12巻の《小特集》に成果発表),2)
平成16年度の「文学メディアとジェンダーの歴 」
(
『群馬大学社会情報学部研究論集』第13巻の《小
特集》に成果発表),3)平成17年度の「都市と文学メディア」
(
『群馬大学社会情報学部研究論集』第
14巻の《小特集》に成果発表)に続く,平成18年度社会情報学部学際・ 合型プロジェクト「翻訳と
情報社会」の成果発表である。
*
*
*
*
*
日本の近代化が,軍事的,経済的,社会的にと同様,文化的にも,主に西洋の文明・文物の移入・
翻訳によって推進されてきたことは周知の事実であり,それを日本の近代文化の底の浅さとして,あ
る場合には揶揄的に,またある場合には自 気味に語るのが一つの知的ポーズのようにさえなってき
た。しかし小林秀雄は,
「ゴッホの手紙」
の中で,そうした知識人たちの常套に,彼一流の逆説めいた
文体で次のような痛罵を浴びせている。
文学は翻訳で読み,音楽はレコードで聞き,絵は複製で見る。誰も彼もが,そうして来たのだ,少くと
も,凡そ近代芸術に関する僕等の最初の開眼は,そういう経験に頼ってなされたのである。翻訳文化とい
う軽蔑的な言葉が屡々人の口に上る。尤もな言い であるが,尤もも過ぎれば嘘になる。近代の日本文化
が翻訳文化であるという事と,僕等の喜びも悲しみもその中にしかあり得なかったし,現在も未だないと
いう事とは違うのである。どの様な事態であれ,文化の現実の事態というものは,僕等にとって問題であ
り課題であるより先きに,僕等が生きる為に,あれこれ退っ引きならぬ形で与えられた食料である。誰も,
或る一種名状し難いものを糧として生きて来たのであって,翻訳文化という様な一観念を食って生きて来
たわけではない。当り前な事だが,この方は当り前過ぎて嘘になる様な事は決してないのである。この当
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り前な事を当り前に
えれば
翻訳と情報社会
える程,翻訳文化という脆弱な言葉は,凡庸な文明批評家の脆弱な精神の
なかに,うまく納まっていればそれでよいとさえ思われて来る。愛情のない批判者ほど間違う者はない。
(生の)音楽に対するレコード,オリジナルの美術作品に対するレプリカは,翻訳文化と言えるの
かどうか,またそれは日本の近代に特徴的なことかどうか
おそらく「複製文化」という近代社会
通有の問題として別に えたほうがよさそうであるが,それはともかくとして,ここには,翻訳を通
じて形成された文化の中で生きることについての根本的な問いが横たわっているようだ。
(そしてそれ
は,小林の指摘するように,複製文化の問題とも繫がりがある。)Arthur Symonds の The Symbolist
Movement が,岩野泡鳴の 渋を極めた(とされている)翻訳によって日本に紹介され,その時代を
画する西洋文芸思潮が,小林を中心としたグループによって情熱的に咀嚼され,新しい気運が醸成さ
れたことは日本文芸
の隠れた一つのエピソードである。「悪訳」と呼ばれるものからすら,original
の根本的な精神,ないしそれ以上のものに到達できる場合があるという好個の見本であろう。人間の
精神とテクストとの関係は,君たちの思いたがるような単純なものではあるまい,と言うかのような
小林の辛辣な批判には,なるほど肯
に中るところが確かにある。しかし文化は,小林やゴッホのよ
うな《絶対糾問者》たちとは月とスッポンのわれわれ凡愚の身にとっても,今日を生きる糧であるこ
とに変わりはないとすれば,われわれは,小林の心意気は高く買いながらも,もう少し日常の暮らし
の観点に寄り添うようにしながら,われわれの涙ぐましいような右往左往の文化生活を,寛容と情愛
を持って眺めてみるのも悪くないのではあるまいか。
そのようなわけで,二十世紀末から今日まで,静かな爆発とでも言いたくなるような情報革命が進
行しつつある今日,コミュニケーションに本質的に関わりを持つ翻訳について,情報学的,歴 的,
社会的,文化的,言語学的に
すなわち社会情報学的に
思いを巡らせながら,今後に向けての
視点を確認しておくのもよいのではないかと えた次第である。以下の六篇の論
は,これまで行わ
れてきた翻訳論とは一味違う,群馬大学社会情報学部ならではの特色を出そうという意欲のもとに起
筆された。以下,読者の 宜のために,それぞれの論 の梗概,及びそれら相互の関連について整理
しておきたい。
A)
「The Giving Tree の各国語への翻訳から言語と文化を える」
では,S.シルヴァスタインの,
すでに30以上の言語に翻訳され,文字通り世界中で読み続けられている絵本 The Giving Tree
(1964)
を対象とし,この日本語訳と,その他の言語への翻訳を比較してみることによって,翻訳というもの
が,言語的,文化的な面で,どのような問題を抱えているかが 察されている。原作はシンプルな英
語による,実にシンプルな物語であるが,子供はもとより,知識人が読んでも,驚くばかりに多様な
解釈を生む作品であることが,シンポジウム「日常生活の倫理学」
(1995)の簡潔な紹介からも浮かび
上がってくる。
日本語訳と,フランス語訳,ドイツ語訳,ラテン語訳を比較検討してみると,E.A.Nida の所論の
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正当性が裏づけられることが かる。翻訳は,異なる言語文化圏の間で等価な言葉を探す作業を要求
するものであるが,そこには,⑴生態学的,⑵物質文化的,⑶社会文化的,⑷宗教文化的,⑸言語文
化的な深い溝が存するのであり,それを甘く
えて naı
ve な置き換えをすると,不可避的に discom-
munication が発生する。The Giving Tree の場合も,シンプルな物語ゆえに却って,ごくごく基本的
な言葉
例えば,love や happyというような言葉
が,一つ一つ,宗教文化的,ないし言語文化
的な豊かな深層を有していることが,各種の翻訳を比較してみることではっきりとしてくる。
印欧語族に属する,フランス語,ドイツ語,ラテン語の場合,英語の love とそれほど違いのない動
詞を有している。しかし,宗教文化的,言語文化的に大きく異なる日本語の場合,こなれた訳(日本
語として通りのいい訳)にする
例えば“love”を「なかよし」と訳す
と,異世界との わりを
放擲して自世界に籠ることに等しくなり,いわば翻案的となって,必然,文化的な溝が露呈し,原文
と訳文との乖離感が広がってしまう。
“The tree was happy,but not really.”という,多様な解釈を
生むであろう重要箇所などを見ても,シンプルに見えて,その実,日本語への翻訳は極めて難しいこ
とが頷けるのである。
最後に提示されている「試訳」は,そうした困難の中,なるべく原作に近づこうとする試みとして
高く評価されよう。
B)
「日本文学
上におけるハイジ翻訳」
では,前半部で,日本の翻訳 を五期に けて,それぞれ
の時期の特徴が簡潔に紹介され,次にその中での,日本における児童文学 の透視図が提示され,翻
訳移入の歴 的背景とその本質が 析されている。後半部では,その一つの case studyとして,日本
の翻訳 の第三期後半から第五期にかけて継続的に行われ,かつ児童文学の発達にあたって重要な役
割を果たしたキリスト教精神の籠められた,ヨハンナ・シュピーリの Heidi(
『ハイジ』)の日本語訳に
ついて詳細な検討がなされている。野上弥生子の旧訳,同新訳,竹山道雄訳,矢川澄子訳,上田真而
子訳の5つの version が相互に,また,英語テクスト,独語テクストとそれぞれ比較照合され,
『ハイ
ジ』の日本語訳が,1)英訳テクストに基づく重訳からドイツ語原典に基づく翻訳へ,2)自由翻案
的な翻訳から原文テクストに忠実な翻訳へ,3)今日の目から見ると時代掛かった日本語から子供向
けの読みやすい日本語へと進化してきた過程が跡づけられている。同時に理論面でも,歴 的視点か
ら,二葉亭四迷,森鷗外,戸川秋骨,野上豊一郎,谷崎潤一郎,佐藤春夫,村上春樹等の翻訳観が紹
介され,鷗外や谷崎のそれについては独自の視点からの批判がなされ,また村上の翻訳に対する姿勢
の中には,現代がまた新しい日本語形成の一つの節目になろうとしているのではないかという可能性
が嗅ぎ取られている。全体として,翻訳は interactive な文化 流の一つのアスペクトであり,ゲーテ
が夙に提唱していた「世界文学」の
成という文脈で捉えられるべきものであるという認識,及び,
日本語は翻訳を通じて今日の日本語になってきたのであり,歴 上の「言文一致」も,その流れの中
で把握されるのが正当であるという洞察に裏打ちされている。
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C)
「社会情報学としての翻訳論」
は,翻訳を社会と情報の視点から
合的に捉えようとする試みで
あり,前半部では,W.
ベンヤミンとG.
スタイナーの著名な翻訳論が検討され,前者から《志向する
もの》という概念,後者から翻訳の4つのプロセス
4)restitution
1)trust,2)aggression,3)incorporation,
のモデルが優れたものとして抽出され,それらに照らして,主に文学テクストの
翻訳に伴う困難の原因の説明,及び,逆に翻訳を通して見えてくる《文学》の意義の再 がなされて
いる。後半部では,1)翻訳,及び翻訳者を取り巻く社会環境,2)一般社会,教育機関における翻
訳の認識,3)翻訳から出版に至るプロセスの現状,4)情報テクノロジーの翻訳作業への影響,5)
学問領域(翻訳理論)と翻訳の現場,及び,英和翻訳と和英翻訳の 断,6)根強い「翻訳不可能論」
等の問題点が簡単に紹介され,翻訳は,古代から現代まで営々として継続されてきた,異文化間 流
のための人間的な営為であり,それを現在情報領域で活発である networking という社会現象の,先駆
的な伝統の一つとして捉え,多様な言語文化圏が,ゲーテの所謂「世界文学」の鳥瞰図の下で,それ
ぞれ高度な翻訳能力を備えるよう努力していくのが望ましいと結論されている。
D)
「若 賤子『小 子』の翻訳について」は,C)で言及されている,翻訳が母語を変えていく契
機になり得るということを検証するために,若 賤子が明治23年から25年にかけて翻訳した,F.バー
ネット原作の『小 子』を 析したものである。Little Lord Fauntleroy と『小
子』のテクストの
綿密な照合に基づく review は,意外なことにこれまでの研究において行われておらず,それを補うた
めにも,今日の目から見て,訳として不満が残る部 ,及び今なお優れていると思われる部 につい
て,幾つかのカテゴリー別に,典型的と思われる passage に即して,
析・解説がなされている。そ
の上で,『小 子』
は, 合的に見て,名訳の名に恥じない訳業であること,また文学 の
「言文一致」
の歴 においても,これまでそれほど高い位置が与えられていないにもかかわらず,何人かの研究者
が指摘している通り,その時代において傑出した業績であったこと,そして若 の日本語が,現代日
本語の大きな源流の一つになっていることが確認されている。
E)
「ハムレット第四独白の翻訳について」
は,C)に述べてある,文学の古典の翻訳に伴う問題を,
実際のテクストに即し,筆者自身を被験者として,翻訳行為の中でどのようなことが えられている
のかを観察し,それを記録する試みである。G.
スタイナーの言う“aggression”のプロセスでは,1
語1語についての調査と 察が必要となり,これまで権威的とされてきた文献も,こうしたいわくつ
きのテクストになるとさすがに鵜呑みにできないところが多くあることが指摘されている。
“incorporation”や“restitution”のプロセスでは,数多くなされてきた邦訳の比較検討を加味して,テクスト
の裏で進行する《ドラマ》を摑まえ,それを日本語にしていくためのヒントが模索されている。
F)
「
『お気に召すまま』の「すべてこの世は舞台」の翻訳について」では,E)の悲劇の文学テク
ストに対して,喜劇の文学テクストの case studyとして,
『お気に召すまま』2幕7場の「すべてこ
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の世は舞台」が取り上げられ,E)と同種の実験が試みられている。その結果,F)は,翻訳上,E)
よりも遥かに大きな challenge を与えること,それはシェイクスピアの喜劇的テクストの ingenuity
の証しであることは当然としても,日本語が未だに,西洋の喜劇的精神を受容するための能力を十
に発達させていないと解釈できること,逆に言えば,今後西洋の comedyの理解と翻訳にこれまで以
上に本格的に取り組むことが,日本の言語文化にとって大きな意義を有するのではないかということ
が示唆されている。
*
*
*
*
*
この一連のプロジェクトでは,参加者が統一テーマの下でディスカッションを重ね,それを踏まえ
て,各々が自由に論じるという方式を採用している。従って,見解の相違が出てくる場合もあれば,
不思議に一致する場合もある。今回,三名とも児童文学の翻訳を取り上げたのは,誰も児童文学の専
門家というわけではないだけに,興味深い一致であった。
B)とD)に言及があるように,家 や子供の理想化は近代になってからのもので,疑似イデオロ
ギー的(幻想的)な側面を持っている。しかし一方で,古より家族は,親子の自然な(動物的な)情
愛という実体を持つものでもあり,産業化,都市化,情報化という社会の一連の進展の中で,個人の
寄る辺の重心が,自 の属する何らかの共同体から
いく中で
それらが否応なく Gesellschaft へと変化して
次第に家族へと回帰し,その重要性が強調されるようになってきたということなのかも
しれない。
長引く子供の「成長期」に合わせて,国家は教育という形で介入してくるようになり,それは多く
のプラス面をも含んでいようが,全てをそちらに任せきりにするというのも えものであれば,善き
「民意」は,家 以外のパイプを通じても,自由の中で,次世代に伝えていきたいものである。文学
はそのための有力なメディアなのであるが,遺憾ながら,日本の若年層のための文学は今なお 弱で
あり,翻訳の必要性が顕著に認められる領域になっている。そしてその翻訳については,より質の高
いものを求めていかなければならないのは勿論のことであるが,それを訳者個人の達成と見なすより
は,日本語という言語文化全体の新陳代謝という観点から捉えていったほうがよいのではないか
そのことが今回のプロジェクトにおける最も意義深い共通意識であった。
また,一般のコミュニケーション行為自体の中に翻訳の原理が働いていること,翻訳は異文化 流
の精神を体現していること,
「世界文学」という視座を確立・共有するには翻訳が不可欠のものになる
といった重要な共通認識も見出すことができる。これらはまさに社会情報学的認識と言えるもので,
理論的に定式化できることではないものの,われわれの日常生活の中に触知でき,かつ大きな視野に
も活かし得るものであろう。ソクラテスの“citizen of the world”の自覚にしても,彼の日常の対話
の精神に根差していたに違いないのであれば,われわれとしても,できるだけその顰みに倣いたいも
のである。
B)とD)には,日本語の「近代化」に対して翻訳が果たした役割についての共通の理解があるよ
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うで,B)においては二葉亭四迷の,D)においては若 賤子の「言文一致」への貢献が,それぞれ
高く評価されている。そしてそうして り上げられてきた近代日本語を,人工的なものとして貶める
のではなく,歴 の流れに う自然なものとして認めていこうとする姿勢にも通じるところがあるよ
うに感じられる。明治・大正期の翻訳の今日的評価というところでは少し違いが見られるが,進歩し
てきた面と,
今日なお凌駕できないものを残している面が併存するのはむしろ自然なことでもあろう。
翻訳に100%を期待する人はいまい。そこが「翻訳不可能説」の出てくる淵源であり,A)ではその
立場から不可能の原因の 析が行われている。C)では「翻訳不可能説」を駁してあるが,それは,
翻訳可能性について,
恰も0%のように決めつけて言うのはよくないという批判であって,
45%を50%
に,80%を82%に高めていく 設的態度の重要性を指摘したものである。
A)
,D),E)
,F)で論者自身が「試訳」を行っているのは,社会情報学における理論と実践の
interactivityの重視であると同時に,翻訳自体が,やってみて面白いものであるということの表れに
もなっているのではなかろうか。
ほとんどの日本人にとって,バベルの塔の物語は過去の神話にすぎまいが,その中に,今に生きる
寓話としての智慧を読み取ることは不都合ではないだろう。
哀れな裸の二本足の動物である人間には,
神の言語を手にすることは許されていない。しかし人間は,異なる言語間にいとも巧妙な方法で渡り
をつけていくところ
ロゼッタストーンの解読や『解体新書』を想起されたし
置けない存在でもあって,その翻訳の技と心は,争いに充ち,2兆円
切るのに5千年以上を要する額
なかなかに隅に
1日に百万円 っても い
を超える金を,
たった1日で軍事費に蕩尽し続けているこの世で,
わずかに平和への希望をつなぐよすがになってくれているようにも思われるのである。
(文責:南谷覺正)
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