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グローバリゼーションとメキシコ権力構造の再編
グローバリゼーションとメキシコ権力構造の再編 −官僚機構のテクノクラート化をめぐって− 松 下 冽 はじめに Ⅰ.グローバリゼーションとメキシコ社会の変容 1.ラテンアメリカ社会の変容 2.ネオリベラリズムとメキシコ社会の危機 Ⅱ.テクノクラートの台頭と予算企画省(SPP) 1.テクノクラート的官僚の成長 2.予算企画省の設立とその意義 Ⅲ.予算企画省の支配 1.統治エリート内部の対立・抗争 2.SPPの政治領域への侵食=SPPの政治的成功 Ⅳ.テクノクラート政権としてのデ・ラ・マドリ内閣 1.SPP−MMH集団とネオリベラル・モデル 2.大統領(継承)問題のテクノクラート化 Ⅴ.大統領サリーナスの支配:SPPからPRONASOLへ 1.SPP内部の二つの官僚機構 2.SPP解体とPRONASOL 3.サリーナスにとってのPRI−PRONASOL関係 おわりに:テクノクラート支配と民主主義 はじめに 1980年代以降、ラテンアメリカはネオリベラリズムと世界経済のグローバル化の激しい波に 襲われている。輸入代替工業化の行き詰まりと累積債務危機を背景とした未曾有の経済危機は、 構造調整政策の実施ならびに「ワシントン・コンセンサス」の受け入れを余儀なくされた。そ して、国家に対する市場優位の一連の諸政策が、台頭してきたテクノクラートたちによって 次々と推進された。国家が経済を支配・管理する時代から市場重視の時代への変化については、 −191− 政策科学8−3,Feb.2001 J.スタニスローとD.ヤーギンが括的的に論じているが1)、ラテンアメリカ諸国も経済のグ ローバル化と世界的なネオリベラリズムの広がりの重要な一部を形成している。しかし、国民 各層と社会全体に与えるその影響は、とりわけ民衆レベルでは厳しいものがあるが、各国・各 地域・各階層によって必ずしも同一でも均質的でもない2)。 ペエール・ブルデューは「グローバリゼーション神話」の打破を主張し、「市場独裁主義」 を批判する。彼の注目すべき主張の一つは、国民国家へのグローバリゼーションの影響が国民 国家の歴史的成果によって差異化される点への言及である。そして、国民国家の「両義的存在」 に注目してその「普遍的な機能」、とくに社会福祉的側面を擁護していることである。したが って、国家を抗争の場と捉える視点を提起していることである3)。 本論はネオリベラリズムがメキシコの権力構造、とくに官僚機構に及ぼしたインパクトに焦 点を当てている。その帰結の一つは官僚機構のテクノクラート化であるが、そのプロセスと見 通しはラテンアメリカ各国においても決して一律ではなく、各国の独自性に注目した検討が必 要であろう4)。他のラテンアメリカ諸国と比較して、メキシコは「革命的ナショナリズム」の 強さ、軍事政権を経験していないこと、大統領権力の強大さ、長期間の政治的な相対的安定性、 アメリカとの地政学的関係など相違点が多くある。したがって、ネオリベラリズムについても、 言わばそのメキシコ的変種がありうるし、その具体的分析が重要であろう。 以上の視角を意識して、本稿は「官僚のテクノクラート化」を予算企画省(SPP: Secretaría de Programación y Presupuesto)と大蔵省の関係から考察する。この二つの中核的 官僚機構に焦点を当てることで、メキシコの官僚機構全体の幾つかの興味深い側面が明らかに なる5)。まず、政治官僚とテクノクラートとの対抗関係の縮図がみられること、次に、テクノ クラート支配の確立は明らかになるが、そのことが直ちにネオリベラリズムの本格的実施には 結びつかなかったこと、さらに、官僚機構内部における三つの対抗的構図が見られることであ る(SPP対大蔵省、経済的政策ネットワーク対政治支配のための政策ネットワーク、そして SPP内部の2機構の対抗)。さらに、本稿は予算企画省をサリーナスの政治的・経済的目的 との関連で検討する。サリーナスはテクノクラートであると同時に正統性の危機に直面し、政 権党である制度的革命党(PRI: Partido Revolucionario Institucional)の支持基盤の低下の中 心にいた政治家でもあった。 本稿の構成は次のようになる。第一に、グローバリゼーションがラテンアメリカ社会、とく にメキシコ社会にもたらした危機と変容の様相を全般的に把握する。次に、テクノクラート官 僚の台頭をエチェベリーア政権(1 9 7 0 ∼7 6 )の政策ならびにロペス・ポルティージョ政権 (1976∼82)の予算企画省設立と関連づけて考察する。第三に、大蔵省との対立・抗争を経て、 政治領域にまでその支配を急速に拡大したSPPに言及する。第四に、テクノクラート政権と してのデ・ラ・マドリ政権期(1982∼88)に頂点を迎えるSPPとその政策、またテクノクラ ートの独特なネットワークについて検討する。第五に、サリーナス大統領(1988∼94)のSP P廃止と全国連帯プログラム(PRONASOL: Programa Nacional de Solidaridad)設立の目 的を検討する。最後に、以上の検討を踏まえて、民主主義の視点からテクノクラート支配の限 −192− グローバリゼーションとメキシコ権力構造の再編(松下) 界をも簡単に触れておきたい。 Ⅰ.グローバリゼーションとメキシコ社会の変容 1.ラテンアメリカ社会の変容 近年、ラテンアメリカ諸国における経済、政治、社会生活を含むほとんど全ての主要な側面 はグローバルな資本主義システムに統合され、激しい転換を遂げた。すなわち、グローバルな 資本主義は生産基盤、自然環境、国内市場、国際貿易関係、金融・銀行システム、所得配分、 資本−労働関係、労働条件、農村社会構造、都市部における生活の質、ならびにこの地域にお ける経済発展の方向に関して決定的な影響を及ぼした。こうした広範かつ急激な変化のなかで、 ラテンアメリカ社会は不平等の構造を拡大させた6)。 80年代の債務危機はネオリベラル政策の浸透を加速した。緊縮政策、そして構造調整政策の 実施が押しつけられた。これらの政策の実施がこの地域における社会的不平等の広がりと無関 係ではない。さらに、大規模な農村から都市への移民の増加、農村移民や失業者のインフォー マル・セクターへの吸収、スラムの拡大といった現象が現れた。ネオリベラル政策は市場の優 位のもとに自由化・民営化を推進した。それは、重要な国営企業・銀行の民営化、規制や貿易 関税の撤廃、補助金の廃止を伴った。また、労働組合の交渉力は低下し、労働環境の悪化とい う事態が進んでいる。労働者を保護する諸立法は改正、あるいは形骸化した。ラテンアメリカ 諸国は、先進国と比較して、技術、熟練労働者、国内消費市場、資金を欠いている。したがっ て、この地域のビジネス・エリートは多国籍資本に安価な労働力、天然資源、消費市場を提供 し、その地域的なジュニアー・パートナーとして彼らとの同盟に参加する道を選択した。 他方で、ラテンアメリカの国民国家は、現代資本主義のグローバルな構造の出現によって掘 り崩されている。もちろん、国民国家はグローバル・システムにおいても引き続き重要である。 しかし、このシステムにおける国民国家の位置は、グローバルな企業や制度(IMFや世界銀 行、GATTなど)に次第に従属するようになった。グローバルな秩序は経済的側面だけでな く、政治的・文化的側面に対して強く影響を行使している。 この地域の政党や政治エリートは、多国籍企業や国際金融機関、そして合衆国政府の決定や 行動がしばしばこの地域の経済的・政治的条件に直接的インパクトを与えることを厳しく認識 している。とくに、1980年以降、多くのラテンアメリカ政府の主要な政策的争点は、対外債務 の支払いとグローバルな経済システムへのその経済の統合であった。この点では、軍事政権に 代わった文民政権も基本的に同じである。合衆国政府は、多くのラテンアメリカにおける軍事 支配から文民支配への移行のための交渉を助けた。他方、その経済のグローバルな資本主義経 済システムへの統合を促進した。この地域に対するワシントンの戦略は“自由市場”、“援助で はなく貿易を”、そして以前の軍事独裁のネオリベラル政策を継承する選挙による文民政権へ の支持に基づいていた7)。 選挙による文民政権の形成と軍部の兵営への撤退は、この地域での合衆国の利益に役だった。 −193− 政策科学8−3,Feb.2001 なぜなら、文民政権のより大きな正統性は、軍事支配のもとで始められた不人気なネオリベラ ル経済政策を続けることを可能にしたからであった。また、文民支配の回復は軍政末期に高ま っていた民衆の政治動員を解除するのにも役だった。しかし、ラテンアメリカ国家の権威主義 的性格は、民政への移行にもかかわらず大幅な変化はなかった。多くの場合、軍部と治安部隊 は国家のなかの国家であり続けた。そして、その地位と直接的利害を脅かすいかなる政策に対 しても非公式な拒否権を保持した。合衆国政府はラテンアメリカの文民政権がネオリベラル政 策を追求し、政府の政策形成への左翼政党と民衆運動の参加を排除するという条件でこれらの 政権に政治的・イデオロギー的支援を与えた8)。 一方、文民政権はこの地域の上層階級や多国籍資本に不利なことはしたがらなかった。彼ら は、上層階級やその北アメリカの同盟者の支持を失った60年代、70年代の文民政権に起こった ことをはっきりとに覚えている。それゆえ、彼らは多国籍企業や地域ビジネス・エリート(大 生産者、銀行家、大規模小売業者、輸出業者)、中産階級支持者、そして合衆国政府の諸利益 にその政策を適用する他にほとんど選択の余地がなかった。 2.ネオリベラリズムとメキシコ社会の危機 メキシコではネオリベラルな政策は1980年代初頭、デ・ラ・マドリ政権のもとでに導入され、 サリーナス政権のもとで本格的に展開された。その政策は、規制緩和、貿易自由化、民営化を 推進した。これらの諸政策は社会の広範な諸領域や生産過程に重大なインパクトを与えた。民 営化は、例えばメキシコの電話システム(Telefonos de México)、石油化学産業(Tereftalatos Méxicanos)、航空輸送システム(AeroméxicoとMéxicano)、銅産業(Méxicana de Cobreと Minera Cananea)を含んでいた。こうした諸政策は大企業にとっては短期間で資本蓄積を有利 に進める主要な措置となった。1986年から94年までに、メキシコ最大の持株会社あるいはグル ープ10社は、100億ドルないしGDPの5%の売り上げを記録している。『フォーブス』は、メ キシコでは1988年に二人であった億万長者が93年には23人に増加したことを報じた。実際、 『フォーブス』はそれまでメキシコで二人以上の億万長者を記録したことがなかった。新たな 大富豪の多くは国営企業の民営化に直接関係していた9)。他方、中小企業は厳しい経営に直面 した。1986年から94年までに2万8000の中小企業が倒産している10)。民営化はエヒードにも及 んだ。 ネオリベラル経済モデルと構造調整政策がもたらした社会的不平等の結果はすでに触れた他 のラテンアメリカの場合と同様である。ここで本論との関連で注目したいことの第1は、国家 と資本との関係の変化についてである。一方で、権威主義的支配とコーポラティズム的調停に より、長期にわたって安定的支配のメカニズムを維持してきたメキシコの政治体制(PRI体 制)の危機は誰の目にも明らかであり、その再編・再構築の方向が模索されていた。この危機 は、この10数年間をとってみただけでも、1988年の大統領選挙をめぐるPRIの分裂およびサ リーナスの際どい“勝利”、石油労働者組合指導部のカルデナス支持、NAFTA発足に合わ せたサパティスタ民族解放軍(EZLN)の武装蜂起、1994年大統領選挙をめぐるPRI内部 −194− グローバリゼーションとメキシコ権力構造の再編(松下) での対立、97年の初めてのメキシコ・シティー連邦区市長選挙でのカルデナスの勝利、等々の 政治的現象に現われた。他方、前述のように、資本に有利な国際的・国内的諸条件の強まりが あった。1982年の金融危機と銀行国有化は、国家と資本家との関係の最終的決裂に終わり、資 本家階級の政治化は頂点に達した。国家と資本との関係修復は、デ・ラ・マドリ政府のもとで 徐々に、サリーナス政府によって本格的に資本の優位のもとで進められた。さらに、セディー リョ政府においてこの関係は「戦略的同盟」にまで達した。レモンダ・B・クラインバーグは、 この「戦略的同盟」を以下のように述べている。 「10年にわたる広範な経済諸改革の後に、企業家階級の優位がメキシコほど強力なところは どこにもない。この地域の他のどの国よりも、国際金融諸機関と自由貿易の双方の要求を 満たすための規制緩和、民営化、そして経済自由化の諸手段は、経済政策立案領域の中で 企業家階級を強力な立場に押し出した。自由貿易の要求は、国家と民間部門の間の代表者 を結集し、両者の新しい交渉形態を開始した。そして、エルネスト・セディーリョ政権 (1994∼2000)のもとで強化された戦略的同盟は頂点に達した。その同盟は戦略的である。 なぜなら、経済改革は民間部門の協力と投資を要求しているからである」11) 結局、国家と資本との関係、言い換えると政治的支配グループと経済的支配グループとの関 係は、メキシコ史の伝統であった分裂や対立の関係から80年代以降、収斂の過程を進めた。こ れは「革命的ナショナリズム」の解体と民間・市場志向のイデオロギーに重心を置く「専門 的・技術的合理性」の優位を意味した。国家の経済から撤退であった。内外の大企業は議論の 余地のない基本的アクターとして歓迎された12)。 第二に、このことは国家と労働者のコーポラティズム関係にも甚大な影響を及ぼした。基本 的に従来のこの関係は転換された。しかし、労働者が経済的・政治的諸問題に介入できる他の 手段は構築されなかった。新しいコーポラティズム形態が現れるとしても、労働者が経済ナシ ョナリズムやネオリベラリズムに替わりうるプログラムを提起できなければ資本との関係で従 属的状況が続くことはあきらかである。 第三に、ネオリベラリズムの社会への浸透はナショナリズムの解体と連動してメキシコにお ける「国民性」、「国民的アイデンティティ」の変容の問題を突き付けた。1980年代以前のメキ シコにおける国民的・民族的プロジェクトの議論に関する土台はメキシコ革命であった。メキ シコ革命に関連する観念・理念・信条が国民的アイデンティティーを構成し、公式の国家イデ オロギーともなっていた。そして、このアイデンティティーやイデオロギーが既存の権力を形 成・強化し、その再生産に利用された。与党PRIは長期にわたりそれらの独占に成功した。 しかし、他方、野党は全体としてそれらの獲得に失敗し、国民的プロジェクトを定式化し提起 する能力をもてなかった。 NAFTA成立によってメキシコ経済はアメリカ経済の一部に統合されるにつれ、メキシコ 人の対米ナショナリズムも希薄化している。今日、メキシコの上・中流階級の一定部分は合衆 国の文化的諸規範の中で自己の新しいアイデンティティーを形成しようとしている。メキシコ 人対“グリンゴ”の対立は強調されなくなり、“メキシコ的”であることの意味が問われている。 −195− 政策科学8−3,Feb.2001 国家に対する感情も急速に変化している。これまでメキシコ人は万能の存在としての国家に 積極的位置づけを与えていた。しかし、今日では、国家は腐敗しており、非効率であるとみな され否定的に位置づけられている。官僚も社会的害悪の源泉とされる。国立大学よりも私立大 学の優位傾向は、国家に対する否定的感情の反映でもある。これはすでに述べた市場に対する 考え方の変化に関係しているのは言うまでもない。以前、市場は国家によって強力に規制され るべき必要悪であった。だが、最近はこの関係が逆転している。 土地、宗教、エスニックの諸観念も国民的アイデンティティーを構成する重要な要素である。 メキシコ革命の歴史的プロセスにおいて、土地と農民の関係、宗教・教会と国家の関係が定式 化された。今日、これらの関係も修正されつつある。エヒードは解体されつつあり、外国資本 の土地保有制限も緩和されている。これまでの世俗国家と政教分離の建前に対し教会は新たな 要求を持ち出している。また、メキシコの国民的アイデンティティーはインディヘニスモを通 じても定式化されていた。この現実的意味は、メスティーソや貧民、農民のエスニックな下層 民衆のエネルギーの強調にあった。だが、マス・メディアの普及、そして合衆国の圧倒的影響 により、こうした“メキシコ的なこと”は肯定的には見られなくなり、今日、中産階級や上流 階級は合衆国との文化的類似性を強調するようになった。 こうして、メキシコの旧いナショナリズムを支えていた諸理念や価値は力を失いつつある。 グローバリゼーションとネオリベラリズムはメキシコの政治・経済を変えただけでなく、国民 的アイデンティティをも攻撃している。だが、ネオリベラリズムは旧いメキシコ・ナショナリ ズムを簡単には駆逐できないでいる。“市場”と“効率性”の観念は、貧困と不平等が拡大し ている国においては最終的支持を獲得できなであろう。メキシコの国民的アイデンティティー や“国民性”の議論は、メキシコ社会がいかなる方向で転換を模索するかにかかている。90年 代に入りメキシコにおける“国民性”、 “国民的アイデンティティー”をめぐる議論が提起され、 新たな国民的・民族的プロジェクトが模索されてきた13)。 最後に触れておきたいことは、統治機構内部の問題、とくに官僚機構内部の変化の問題であ る。グローバル化する世界市場へのメキシコ経済の統合の要請、経済自由化と厳しい緊縮政策 の要求はよりポピュリズム的・国家主義的傾向の政治エリートのほぼ全面的な政治的排除を必 要としていた。1970年代以降、テクノクラートが次第に勢力を拡大し、伝統的な政治官僚に対 して優位を確立するにつれ、メキシコの政治エリートの異質的・コーポラティズム的性格は終 焉を迎えることになる。この論点は本稿の主題なので以下の各章で考察する。 Ⅱ.テクノクラートの台頭と予算企画省(SPP) 1.テクノクラート的官僚の成長 1940年から70年までに、官僚は政権党と軍部に対するコントロールを確立していた。この強 力な官僚制の頂点に大統領は君臨していた。そして、70年以降の執行権力内部での重要な変化 は、大統領のまわりに権力の一層の集中化が起こったことであり、それを土台にして公的な政 −196− グローバリゼーションとメキシコ権力構造の再編(松下) 策形成におけるグローバルな計画立案が制度化されたことである。そして、この過程で予算企 画省の制度的優位が確立していったことである14)。 1970年以前には、内務省と大蔵省が官僚機構の中枢の位置を占めており、両者の関係はいわ ば拮抗関係にあった1 5 )。他方、経済政策に関する大統領権限の集中・強化の方向を精力的に推 し進めたのがエチェベリーア大統領(1970∼76)とロペス・ポルティージョ大統領(1976∼82) からであった。エチェベリーア大統領は、大統領府が他の強力な諸機関から制約を受けずに完 全に官僚機構を支配できる体制を追求し始めた。彼は官僚制の制度的自律性を弱め、大統領制 のなかに権力の集中をはかった16)。 この過程は国家機関・企業の公的部門の劇的な拡大・肥大化となって現われたが、そこには 複雑な要因があった。外的要因としては開発主義的計画の拡がりおよび世界的な景気後退があ った。他方、国内的には、歴史的な介入主義的傾向を背景に国家主義的官僚勢力の影響、経済 的に非効率な国内民間部門の存在、1968年の正統性の危機問題、そして大統領継承をめぐる問 題などが要因として考えられる。政治的視点からすると、経済における国家の介入的・積極的 役割は、大統領府の一層の集権化プロセスに拍車をかけた17)。 とりわけ、エチェベリーアの諸政策は、「国家主義を推奨する自律的官僚勢力集団の存在を 明らかにしただけでなく、彼らをさらに強化した」1 8 )。1975年のPRI大統領候補としてのロ ペス・ポルティージョの選出は、これらの勢力の強さを証明した。エチェベリーアは、経済政 策立案を政治的影響力から切り離し、ロス・ピノス(大統領官邸)で経済政策を作成すること にした。経済政策立案への大統領の積極的関与は、「経済型大統領」の開始を意味した。この 動きは、大統領府が制度的資源を集中する長期のプロセスの重要な局面を画した。この結果の 犠牲者は大蔵省であった。ロペス・ポルティージョほこの方向を是認し、その制度化を進め た19)。 確かに最近の20年間のメキシコの政治・経済構造はドラスティックな変化を遂げた。国家お よび国家機構の役割は根本的な転換が行なわれ、経済発展戦略にも重要な変化が見られた。ロ ペス・ポルティージョ政権期には石油開発に期待を託し、その一層の開発に邁進した結果、長 期の国家主義的プロセスがピークを迎えた。しかし、石油価格の急落は経済危機をもたらすこ とになった。こうして、1986年以降、事実上の市場友好的政策の採用に向かうことになった。 こうした政策変化の中心的推進力が、1976年以降権力に就いていたテクノクラート的官僚エリ ートであった。 テクノクラートの台頭は、メキシコの政治システムを重要な点で変えていった。彼らは広範 な政治闘争を通じてではなく、その技術的専門性を生かして国家機構内部でその権力と権限を 拡大してきた。そして、テクノクラート的官僚はメキシコの大統領主義の中心的支柱であった PRIに事実上、取って代ることになる。 2.予算企画省の設立とその意義 政治的・経済的発展の総合的プランの必要性が高まるにつれ、各省を超えた新しい“スーパ −197− 政策科学8−3,Feb.2001 ー・エージェンシー”によるグローバルな計画立案が要請された。そして、そのような計画立 案機関の設立により、大統領とそのまわりのエリートたちが連邦政府の諸活動に対して一層直 接的なコントロールを行使できるようになった。このための機関は、1976年にポルティージョ 政府によるSPPの設立で現実化した。SPPの設立はテクノクラートの登場を決定づけた。 ロペス・ポルティージョは1976年の就任演説で大幅な行政改革を発表した。彼は行政の効率 性を目標に掲げ、第一に、公共支出を統制するただ一つの省が開発のプログラミングとプラン ニングに責任を負うこと、第二に、この省によって導入される全国計画は、多岐にわたる部門 別計画とその目的の枠組みを結合させること、第三に、準国家諸機関は統制と協力を目的にし た諸部門にグループ化されること、の三項目を強調した2 0 )。このため、一連の法律と布告が政 権発足の一ヵ月の間に承認された。 連邦行政部門の構造と機能を調整していた国家省庁法(Ley de Secretarías y Departamentos de Estado)は実質的に修正され、連邦行政組織法(Ley Orgánica de la Administración Pública Federal:LOAPF)に改名された。この法律は、一方で大統領官房(Secretaría de la Presidecia:SPre)を廃止し、公共支出と全国計画立案に責任を持つ省としてSPPを設立し た。その結果、大蔵省の役割は、税の徴収と信用拡大に縮小された。他方、国家資産省 (Secretaría de Patrimonio Nacional:SEPANAL)は産業振興資産省(Secretaría de Patrimonio y Fomento Industrial:SEPAFIN)に転換されて、工業部門全体に介入する権 限が与えられた21)。 LOAPEはさらに実質的意味で政府と準国家機関との関係を変更した。第一に、準国家セ クターの直接的監督は1省に割り当てられたのではなく、部門別基盤に基づき各省に委ねられ た。それにもかかわらず、SPPと大蔵省は財政部門を指導したうえに、高位の総括的出先機 関を与えられ、それらの基準は行政機関全体に影響を及ぼしたと考えられた。この地位は、少 なくとも法的には新しい部門別機構の頂点にこの二つの省(SPPと大蔵省)を置くことにな った22)。 こうして、1976年行政改革の最も中心的な制度改革はSPPの設立であった。SPPは機構 上の全体的な調整を担う基軸の位置を占めた。だが、この省が強力に発展することになった要 因はこの特別な構造にあったのではなく、「制度的諸資源が行政改革によって配分される方法」 にあった。SPPは法的に新しい諸機能を付与されただけでなく、以前には幾つかの諸省に分 散していた権限をも与えられた。とくに、公共支出プログラムの策定、すべての公共支出の監 督とその結果の評価、そして外部評価実施の指図などを含め、全国的・部門別・地域別な経 済・社会計画を発展させる責任を持った(LOAPE、32条)23)。 SPPが直接に関与した1976−82期行政改革プログラムの明確な目標には、省庁を越えた計 画立案の採用、近代的人事システムの確立、中央政府と地方政府との間の協力改善が掲げられ た。制度上のこれらの戦略的資源は、準国家セクターを含めて連邦政府の多くの部門の諸活動 への介入権限をSPPに与えた。さらに、連邦政府は、SPPが地方政府に政治的に介入する ことを許した。こうして、前例のない制度的・法的資源のSPPへの集中は、他の省庁の支配 −198− グローバリゼーションとメキシコ権力構造の再編(松下) 領域への侵食を可能にした。このことは、公共支出と全国的プランニングの確定過程に対する SPPのコントロールを通じて、大統領が国の開発過程を指揮できるようにするねらいを意味 していた24)。 Ⅲ.予算企画省の支配 1.統治エリート内部の対立・抗争 ところで、SPPが設立された理由は、前に述べた行政上ならびに制度上の整備だけではな かった。SPPの設立の背後には、1971年以降の大統領と大蔵省との軋轢もあった。SPPの 設立は、前述のように「国家改良主義とマネタリスト的正統学派とのかなり目立った政治的内 部抗争に取って代るため、経済的意志決定の新しいテクノクラート化の制度化」を象徴してい た25)。 行政改革が導入された翌1977年、早くも国家機構内部の対立が起こった。大蔵省とSPPと の協力は達成されるどころか、両省の関係は次第に対立的になった。いわば、財政機関と計画 立案機関との対立は予想されたことであるが、これに経済的・制度的諸要因がこの対立に加わ った。マネタリストと構造主義者の対立的立場をめぐって経済キャビネットは分裂した。SP PとSEPAFINは成長と拡大の開発戦略を主張し、他方、大蔵省、メキシコ銀行、商務省、 産業開発銀行(NAFINSA)は、IMFの方針にそって安定化戦略を擁護した。財政諸機 関が予算規模の削減を要求したのに対して、78年11月、SPP大臣、カルロス・テリョが「I MFに支持された大蔵省当局によって編成された緊縮政策」に抵抗して辞任したのは、この対 立の象徴的出来事であった26)。 2.SPPの政治領域への侵食=SPPの政治的成功 メキシコにおいて各省庁間の地位と権限には著しい格差があった。しかし、二重の政策ネッ トワーク・システムは、ネットワーク間相互作用を制限するすることにより特定の省庁が過度 の制度的資源を集中することを妨げていた。その一方は、経済政策ネットワークであり、経済 成長を追求する省庁(大蔵、大統領官房、通産、農業、通信など)から構成されていた。他方 は政治的紛争や対立を阻止・解決し、あるいは撲滅する省庁(内務、防衛、PRI、外務、労 働など)から成っていた。 この暗黙のルールを決定的な点で変えることになったのはポルティージョ大統領の諸政策が 契機となった。彼は民間部門の振興だけでなく、社会福祉政策の推進にも責任を担う強い国家 の理念を再生させるため、SPPを利用した。SPP傘下の諸機関に重要な諸資源が集中した ことは、事実上、公共政策の大部分が収斂する位置にこの省を置くことになった。この事実ゆ えに、SPPは経済政策ネットワークの展開だけでなく、政治的統制のための政策ネットワー クの展開にも重要な影響力を行使した。このSPPの政治領域への侵食の一例は、政府の政策 立案者たちによる80年代初めの開発計画作成過程における「国家安全保障」観念の広範な使用 −199− 政策科学8−3,Feb.2001 に見られる。1983年に発表されたナショナル・プランでは、「安全保障」の概念および軍部の 役割を規定していた。これはこれまで官僚にとってタブーであった事柄に踏み込んでいた。そ して、この事実は、内務省−PRI−議会ネットワークの伝統的機能に対する侵食が進んだこ とを意味した27)。 SPPの急速な台頭、そして政治的な成功はいかなる要因によるのであろうか。SPPは大 統領の諸決定および公共政策の形成にたいする影響力、高級官僚への決定的な跳躍台としての 役割において際立っていた。SPPの資源は機関予算や先任権や規模の問題というより、精巧 な制度的諸資源と政治的諸資源の結合にあった。それは、大統領と官僚制との中心的連携者と しての役割、大統領からの支援、そして、とりわけ国家支出に対するコントロールを含んでい た。SPPの政治的役割の拡大に影響を及ぼしたこうした要因は、それが置かれた状況も大き く関係した。すなわち、一方で石油収入の増加は予算配分権限の拡大をもたらした。他方で、 82年以後の石油ブームの崩壊と債務危機は公共支出を削減し、より目標を限定したプログラム への支出を余儀なくした。いずれにしても、SPPは予算を管理する役割を担った。こうして、 SPPの制度的資源はこの省を体制のパトロネージ・ネットワークの中心に置くことになった。 Ⅳ.テクノクラート政権としてのデ・ラ・マドリ内閣 1.SPP−MMH集団とネオリベラル・モデル デ・ラ・マドリ内閣は、「革命後のメキシコ史において最も同質的」であった 2 8 )。また、き わめてテクノクラート的であった。その最も際立った特徴は、そのメンバーの経歴とイデオロ ギー傾向の類似性・同質性にある2 9 )。それは、デ・ラ・マドリが彼の閣僚をきわめて少数の官 僚集団から引き抜いたこと、そしてごく少数の政治勢力を内閣に統合したことから説明できる。 とりわけ、SPP内で彼によって集められた人々は重要であった。 1979−82年の期間にSP Pのために働いた官僚は、「SPP−MMH(デ・ラ・マドリ)集団」と呼ばれたが、彼らは 軍事的ポストを除いて第一次デ・ラ・マドリ内閣の30%以上を占めていた。86年までにはこの 割合はほぼ半数を占めた。単一の機関からこれほど多数の大臣と高官が引き抜かれたことはか つてなかった。この集団は中心的な経済的閣僚ポストを占めただけでなく、その多くの構成員 の政治的経験の不足にもかかわらず政治的閣僚ポストにもその存在を拡げた。こうして、多く の省は官僚制の行き詰まりを感じるようになった30)。 デ・ラ・マドリ政府もこれまでの政府と同様に行政部門の再編あるいは改革を実施した。そ の第一は、中心的な経済主導省庁の役割を改めて明確にした。その結果、大蔵省とSPPはそ れらの中核的権限を維持しただけでなく、政策立案における指導的役割を強化された。たとえ ば、大蔵省は準国家機関の年収を計算し、国家によって提供された財とサービスの価格を固定 する責任機関となったし、SPPは最高の国家計画立案機関として再確認された。1983年、こ の政府が掲げた「当面の経済再編プログラム(PIRE)」の成功のためには大蔵省とSPP の緊密な協力が決定的であった。PIREは82年のIMFとの協定を実施しようとしたプログ −200− グローバリゼーションとメキシコ権力構造の再編(松下) ラムであった。また、緊縮政策実施はSPPにとてはその役割の再規定を意味したが、大蔵省 にとって従来の主張であった。 第二に、公共部門の活動にかんして重要な修正が行なわれた。SEPAFINがエネルギ ー・鉱業・準国家産業省(SEMIP)に、商務省が通産振興省(SECOFI)に再編され た。この変化は民間工業部門を促進しようとする大統領の目的の沿っていた。そして第三に、 連邦会計検査院(SECOGEF)が政府内の腐敗反対キャンペーンを実施するため設立され た。その主要な任務はSPPの内部計画を監督することであった31)。 まえに述べたように、SPP−MMH集団は経済関係閣僚を支配した。それだけでなく、彼 らは内務省やPRI、連邦区局(DDF)のような政治的コントロールのためのネットワーク の主要機関をも握った。こうした結果は明らかに1976年行政改革で生き残った多くの官僚集団 の排除を意味した。 1982年に実施された経済諸政策は、1940年以来経験されたことがないほどに国内民間部門を 政府から遠ざけるとともに、外国の債権者との関係を悪化させた。内外の信頼を回復させるこ とがデ・ラ・マドリ政権の緊急課題であった。しかし、85年まではデ・ラ・マドリの民営化プ ログラムはいわばレトリックに近かった。事実上、それは準国家機関の合併に限定されていた。 このプログラムがスピードアップしたのは86年以降であった(図1参照)。SPP大臣サリー ナスは1985年半ば以降、生き残り戦略として大蔵省以上にラディカルな市場重視の経済政策を 提案し始めた。86年の石油価格の大幅な下落は、これまでの政策変更の不可避性を政府に再確 認させた。以後、本格的にネオリベラルな経済政策が採用されることになった。そして、SP 数 Pは緊縮政策のもとで公共支出を統制するもっとも強力な省となった。他方、こうした政府お 図1 準国家諸機関数(1982-1992) (出所)The Mexican Economy, Banco de México. 1993 −201− 政策科学8−3,Feb.2001 表1 PRI大統領候補を輩出した省(1933-1993) 政治的支配のための 政策ネットワーク 経済政策ネットワーク 社会開発省 ― Carlos Salinas (October 1987) ― 予算企画省 Miguel de la Madrid (September 1981) ― 予算企画省 José López Portillo (September 1975) ― 大蔵省 Luis Echeverría (October 1969) 内務省 ― Gustavo Díaz Ordaz (November 1963) 内務省 ― Adolf López Mateos (November 1957) 労働省 ― Adolf Ruiz Cortines (September 1951) 内務省 ― Miguel Alemán (1945) 内務省 ― Manuel Ávila Camacho (1939) 国防省 ― Lázaro Cárdenas (1933) 国防省 ― 大統領候補(日付) Luis Donald Colosio (Nov. 1993) (出所)E. Krauze, La Presidencia Imperial: Asenso y caída del Aistema poritico Mexicano (1940-1996), 赤字※ Tusquets editores, 1997. 年 図2 公共部門の財政赤字(1968-1994) ※ GDPの割合 (出所)Eduardo Torres Espinosa, Bureaucracy and Politics in Mexico, Ashagate, 1999, p.211より引用。 −202− グローバリゼーションとメキシコ権力構造の再編(松下) よびSPPの変化は産業界だけでなく、ワシントンにおいても歓迎され、サリーナスは彼らの 友人と見なされるようになった。この事実は、1987年、PRIの大統領候補としての彼の選出 を決定的にした32)。 2.大統領(継承)問題のテクノクラート化 だれがメキシコの大統領になるのか。1940年から70年までの期間、すべての大統領は政治的 統制のための政策ネットワークから出ていた。予算システムの管理・運営を担う省は、大統領 後継争いには関わらなかった(表1参照)。このシステムにおいて、大統領のマクロ経済運営 への関与は限定的であり、急激な政策的変化は妨げられた。他方で、政権の移行期における不 確実性は減らされた。ところが、エチェベリーア大統領および彼の後継者としての大蔵大臣ポ ルティージョの選出はこの慣例を終わらせた。大統領候補指名を獲得するために、経済運営担 当大臣は経済政策立案プロセス全体を歪めた。公共部門の財政赤字は1973年、79年、85年に大き く増加している(図2参照)。これらの財政赤字急増の年が各大統領在任期間の中ごろの時期 に対応することは注目してよい33)。 この政権移行をめぐる問題はその後の政治過程の変化に重要な政治的意味をもった。エドゥ アルド・トレス・エスピノサはこの政治的意味について以下のように述べている。 第一に、PRIの大統領候補者選出過程および政治過程の重要な部分の「テクノクラート化」 である。第二に、デ・ラ・マドリ政権期にピークに達することになった重要なネットワーク間 の緊張・対立を引き起こした。この緊張の背景は、公式には経済政策をめぐる不一致にあった が、より本質なことはエリートの配置替え問題にあった。この問題は1987年のPRIの分裂を も説明している。第三に、デ・ラ・マドリとサリーナスは政府のテクノクラート間の権力バラ ンスを変えた。SPPはこのバランスを変える道具であった。ポルティージョの権力掌握とS PP設立は、「大統領のテクノクラートたち」と「体制のテクノクラートたち」との区別を意 味あるものにした34)。 こうした大統領継承をめぐる政治過程のテクノクラート化は支配エリートのリクルート・パ ターンの変化を反映している。SPPは内務省に変わってPRI大統領候補の選出過程に決定 的な影響力を行使するようになった。SPPに結集したテクノクラート支配には経済的要因だ けでなく、制度的・官僚的要因もまた基本的役割を果たした。支配エリートの教育的バックグ ラウンドは1976年以降かなり変化した(表2および3参照)。支配エリート編成に関わる決定 的ファクターは大統領である、とするのが伝統的見解であった。しかし、最近では、カマリー リャという特定の官僚的環境の重要性が強調されている3 5 )。その後の支配エリートの傾向との 関連で、ポルティージョの大統領就任は今日的意味をもった。すなわち、第一に、ポルティー ジョと彼のカマリーリャが経済政策ネットワークの所産であった。そして、第二に、企画計画 予算方式(PPB)技術の一括採用は政府の専門家の役割を高めた。SPPを生み出した改革 がメキシコにおける政治のテクノクラート化と密接に結びついていた。 SPP出身の二人の大統領、デ・ラ・マドリとサリーナスは、最近の支配エリートのバック −203− 政策科学8−3,Feb.2001 表2 上級国家公務員の学歴(1970-1994) Echeverría (N=392) Level of study Undergraduate degree Master’s degree Doctoral degree No degree Field of study Law Economics Engineering Military degree Accounting Business Others Universities attended (undergraduate level) UNAM IPN ITAM Iberoamericana El Colegio de Mexico Anahuac ITESM Others Graduate studies by country Master’s level Mexico United States Great Britain Others Doctoral level United States Mexico France Others サンプルの割合* López Portillo De la Madrid (N=521) (N=601) Salinas (N=483) 72.65 14.98 7.76 4.61 62.99 23.17 10.97 2.87 50.91 31.12 15.47 2.50 44.30 37.06 17.19 1.45 31.71 7.76 26.53 2.91 4.85 0.32 25.92 24.54 17.24 17.44 1.82 8.72 1.41 28.83 21.11 15.48 17.06 3.79 8.85 4.58 29.13 19.67 19.57 17.44 5.81 5.42 4.84 27.25 66.34 4.85 1.61 0.00 0.32 0.00 0.32 26.56 65.31 4.05 1.21 1.83 0.81 0.40 0.60 25.79 57.03 6.31 2.37 3.32 1.26 0.32 2.37 27.02 47.48 6.58 5.42 5.03 1.35 1.16 0.97 32.02 33.82 35.29 7.35 23.54 42.59 26.54 10.49 20.38 39.56 31.46 12.46 16.52 46.46 34.00 9.09 10.45 12.50 58.33 16.66 12.51 25.93 48.15 14.81 11.11 34.40 31.18 18.28 16.14 48.19 28.71 13.25 9.85 ※ 行政機関の局長、事務局長、次官、大臣、長官のレベルの公務員ならびに大統領がサンプルには含 まれる。 (出所)図2に同じ。p.215. グラウンドと政治のテクノクラート化を明瞭に示している。両大統領はその中心的閣僚ポスト の人員配置に彼らのカマリーリャを起用した。彼らは経済政策ネットワークおよび、とりわけ その基軸的機関のひとつであるSPPとの連携であった(図3参照)。別の視点からすると、 政治的統制のためのネットワークとの制度的結びつきは、実際上、ほとんど持っていなかった。 こうした支配エリートの変化とその発展の政治的意味は三つの重要な意味を持っている。第一 に、テクノクラート的エリートの明確な台頭が確認できる。第二に、政治的統制のためのネッ トワークへの急速な浸透と影響は、経済的管理者と政治的管理者との以前の鋭い相違を緩和し、 政治のテクノクラート化を進めた。そして、第三に、新任の各大臣がしばしば彼自身のSPP カマリーリャを伴って着任したが、このことは支配エリート構成におけるSPPの影響力を強 化をもたらすことになった36)。 −204− グローバリゼーションとメキシコ権力構造の再編(松下) 表3 SPP高官のバックグラウンド(1976-1992) 1976年12月から1979年 の間にSPPに着任 (N=74) 1979年5月から1982年 11月の間にSPPに着任 (N=60) 1982年11月以降 にSPPに着任 (N=71) 60.0 60.0 59.7 71.4 0.0 8.9 3.6 1.8 5.3 8.9 61.1 5.5 11.1 7.4 7.4 0.0 7.4 53.6 15.9 7.2 4.3 2.9 2.9 13.0 37.9 12.1 18.2 18.2 4.5 9.1 37.3 18.6 6.8 25.4 1.7 10.2 43.7 23.9 12.7 4.2 2.8 12.7 12 6 16 14 30.5 32.1 22.7 Promoted while in the SPP 36.5 53.3 47.9 Political activity before joining the SPP A PRI member Posts in PRI Electoral Office 73.6 24.4 0.0 78.4 33.3 0.0 89.4 50.0 2.3 Place of birth Mexico City First degree UNAM ITAM IPN UIA ITESM Anahuac Other Subject studied Economics Law Engineering Accounting Business Other Post-graduate studies in the US* Master’s degree PhD Director General before joining the SPP 7 2 ※ 絶対数 (出所)図2に同じ。p.219. (出所)図2に同じ。p.179. 図3 顧問集団のネットワーク(1958-1994) −205− 政策科学8−3,Feb.2001 Ⅴ.大統領サリーナスの支配:SPPからPRONASOLへ 1.SPP内部の二つの官僚機構 SPPの内部には二つの異なる官僚機構が並行的に発展していった。一方は計画立案/予算 編成の機構であり、SPPの専門的領域から構成され、予算、統計、マクロ経済分析の作成に 関わっていた。他方、地域開発ネットワークは知事、市長、PRI職員、地方利益集団とのよ り実際的諸関係および交渉を担当していた。このネットワークの教育上および官僚的バックグ ラウンドの特徴は、前者に比較してUNAM(メキシコ国立自治大学)の卒業生、技術者、そ れほど高度の訓練を受けていない経済専門家をリクルートするか、昇格させたことである。ま た、大蔵省との関係の弱さやPRIとの強い連携も特徴である。彼らは通常、SPPを離れた 後にPRIの高いポストを占めた。 これらの二つの機構は競争的に発展した。ペドロ・アスペと彼のチームは、経済政策におけ るテクノクラートの信任のもとに計画立案/予算編成機構の専門的役割を高めた。他方、SP P大臣サリーナスは実質的に地域開発ネットワークのリーダーシップを握っていた。これによ り、後にサリーナスは地域的なパトロンークライアント関係を大規模に利用して大統領候補指 名を受けることになる。 2.SPP解体とPRONASOL 大蔵大臣に就任したペドロ・アスペは、大統領サリーナスの支援を受け際立った役割を果た した。外国との債務交渉や民営化プログラム実施、「安定と経済のための協定(PECE)」で の指導的役割などは彼の威信と政治的地位の上昇をもたらすと同時に、一方での大蔵省の強化 と他方でのSPPの低下に導いた。この基本的背景には新自由主義的経済路線に沿ったメキシ コ経済の再構築を目指した大統領の戦略があった。 さらに、SPPの衰退は全国連帯プログラム(PRONASOL)の設立と無関係ではない。 SPPの「地域開発」部門とPRONASOLとの継続性に注目すべきである。1988年までの SPPの社会・地域政策を担当していた政治−官僚機関は、その後PRONASOLの実施に も責任を負っていた。しかし、サリーナスは意志決定の中心をSPPから大統領府に移し、P RONASOLにおける官僚の役割を減らすことを意図した 3 7 )。この意味で、「制度的には、 SPPは大統領サリーナスのPRONASOLに対する個人的支配の主要な犠牲者であった」 と言える3 8 )。1992年、SPPは廃止されたが、すぐに社会開発省(SEDESOL)がPRO NASOLの実施機関として設立された。そしてこの省の中にSPPの地域開発ネトワークが 再現した。この事実にもサリーナスの意図が表れていた。 3.サリーナスにとってのPRI−PRONASOL関係 ところで、サリーナスにとってPRIとPRONASOLの関係、両者の意味はどのような ものであったのか。社会プログラムとしてのPRONASOLは、PRIの選挙アピールを強 −206− グローバリゼーションとメキシコ権力構造の再編(松下) 化するための「典型的な大統領型プロジェクト」として描写された。ネオリベラルな諸政策に よる社会的混乱の沈静化と厳しい打撃を被った都市や農村のコミュニティーの改善のために集 中的に資金を投入してPRIの支持基盤を回復させ、同時にテクノクラートによるパトロンー クライアント関係のもった新しい政治・社会構造を創出しようとする企てであった39)。 PRONASOLの特徴は、第一に、それはコミュニティー・ベースの組織強化のため、ま た、「パターナリズム、ポピュリズム、そしてクライアンティズムのすべての痕跡を除去」(サ リーナス)ため、このプログラムに関係する全ての活動にコミュニティー構成員を深く巻き込 み、そのプロジェクトへの融資と実施に関わって彼らの共同責任を要求した40)。 第二に、PRONASOLの資金配分はきわめて選択的に行なわれた。このことは、このプ ロジェクトが党派的・政治的考慮に動機づけられていることを証明した。たとえば、1992年に PRONASOLの全予算のほぼ12%が比較的小さな州であるミチョアカンに配分された。こ こは民主革命党(PRD)の強い選挙地盤であった。 第三に、重要なことは大統領が直接このプロジェクトをコントロールすることにより、伝統 的なPRIの党機構や政治ボスを排除しつつ地方コミュニテイーとの直接的関係を築こうとし たことである。いわば、社会の草の根レベルでの直接的統制と統合の新しいポピュリズム型ネ ットワークの構築を狙っていた。 ピーター・ワードはPRONASOLを次のように要約している。それは「高く目標が設定 されていたが、その役割は構造調整と結びつけられた、そして・・・ネオリベラル的諸政策の追 求によって不可避的に生ずる一定の社会的コストを埋め合わせるための緩和剤の一つである。 その本質は国民的ではなく、再建プロセスを実施するためにIMFによって要求されていた。 しかしながら、その実行形態は確固としてメキシコ的である」と41)。 おわりに:テクノクラート支配と民主主義 サリーナスのリーダーシップの下でメキシコ経済のグローバル経済への統合を加速化させる ため、メキシコ政府は経済構造を本格的に転換させるための様々な措置を断行した。そのため、 サリーナスは「米州大陸で最も競争的で革新的」4 2 )と呼ばれた彼のテクノクラート・チームと 協力して、サリーナストロイカと称されたメキシコの「国内政策と国際関係双方の経済化の拡 大」4 3 )を推し進めた。1980年代から影響力を拡げていた「ネオリベラル・コンセンサス」に共 鳴し、あるいは支援されて市場経済への転換は不可避の状況になった。その結果、「メキシコ 経済は世界で最もオープンなものの一つ」4 4 )と考えられるまでになった。そして、NAFTA は「完全にネオリベラル・プロジェクトのシンボル」4 5 )を体現した。しかし、このことはメキ シコのテクノクラートが無条件に、あるいは純粋にマネタリスト的政策を採用したわけではな いことは本稿で論じた。 それでは、こうした経済のネオリベラリズム的改革とそれを推進したサリーナスとテクノク ラートの支配は、メキシコの民主化とどのような関連をもつのか。テクノクラートの専門性や −207− 政策科学8−3,Feb.2001 効率性、中立性はメキシコの民主化を促進する契機となったのか。最後に、これまで考察して きた視点からこれらの問題に触れておきたい46)。 最も基本的な問題は、彼らによる政策立案および意志決定のプロセスが権力の集中と世論か らの隔絶状況を背景に行なわれている点にある。ほとんどの場合、フォーマルで効果的なチェ ック機能をもった制度が存在しないか、あるいは無視されている。たとえば、サリーナスの大 統領就任後の1年間に制定された全ての新しい法律のうち、90%以上は行政府によって、ある いは議会による単なるラバー・スタンプによって導入されている4 7 )。NAFTAの締結に関し ても、合衆国では当然、その法案可決のためには議会の承認が必要であった。メキシコでは自 由貿易協定は大統領プロジェクトであり、それはサリーナスおよび彼の経済アドバイザーによ って立案され、コントロールされており、それが構想された時から承認は既成事実であっ た48)。 第二に、メキシコの官僚機構、とくにテクノクラートはその社会的背景、教育的キャリアな どから同質的コミュニティーとパトロネージ的ネットワークを形成していた。こうした基盤の うえで、官僚機構は彼らに情実と政治的・行政的昇進のための手段を提供している。こうした 社会・政治環境のもとでは汚職と腐敗、社会的不公正の蔓延は避けられない。一方、権力の人 格化、さらに権力の個人化の傾向も強まる。サリーナスには専制的政治手法や政策立案スタイ ルがしばしば見られた。先に述べたように、PRONASOLはPRIへの支持の回復や正統 性の確保を目標にしていたが、その実施スタイルは、大統領個人に強い忠誠を直接に結びつけ ること狙っていた。 しかし、結局は民主的諸制度と市民参加を保障する手段の欠如ゆえに、多くの民衆がその要 求を反映できないと感じ不満が蓄積された時、またその結果、社会の分極化が深まった時には、 政府に対して説明責任と参加のチャンネルの構築の社会的運動が起こってこざるを得ない。メ キシコのテクノクラート支配そのものがPRIと彼らの支配を掘り崩すことになる。サパティ スタの出現は、より応答的で、説明責任を伴った民主主義的改革をメキシコ国家にもとめる広 範な社会運動の集中的な現れであろう。 一般的に言えば、「効率的官僚制の伝統が深く根付いていない国では、少数のグループのテ クノクラートの手に経済的・政治的権力が集中することは政府のアカウンタビリテイと民主的 強化のプロセスを厳しく掘り崩す」ことになる49)。 〈付記〉 本稿は文部省科学研究費(平成11∼13年度)基礎研究(C)「サリーナス政権下にお けるメキシコの地域社会構造の変容と政党構造の再編過程」の成果の一部である。 注 1)ダニエル・ヤーギン/ジョゼフ・スタニスロー『市場対国家(上・下)』日本経済新聞社、1998年。 2)Ray Kiely and Phil Marfleet eds., Globalisation and The Third World, Routledge, 1998. 参照。 −208− グローバリゼーションとメキシコ権力構造の再編(松下) 3)ペエール・ブルデュー『市場独裁主義批判』藤原書店、2000年。 4)拙稿「メキシコ官僚制試論−メキシコの社会変動とテクノクラート」 『政経論叢』、第65巻第5・6号、 1997年、参照。 5)SPPに焦点を当てた研究については、Eduardo Torres Espinosa, Bureaucracy and Politics in Mexico : The case of the Secretatiat of Programming and Budget, Ashgate, 1999. が実証的に優れている。 本稿もこの成果を参考にしている。 6)若干の事実を挙げてみる。ラテンアメリカ13ヵ国の全所得に関し、最上位20%がその48%から67%を 得ているのに対して、最下位40%がその7%から16%を得ているにすぎない(1992年)。この地域の全 世帯の40%は貧困ライン以下の生活をしている。貧困人口は、1980年に1億 200万人であったのが90年 には2億人に急増した。同時期、中米では人口の80%が貧困ライン以下であった。90年から93年の間に、 ホンジュラスでは貧困率が68%から78%に上昇している。革命後のニカラグアの失業は70%以上に達す る。誕生後1年以内に死亡する新生児は20人に1人の割合である。農村での文盲率は50%から75%に及 ぶ。 ラテンアメリカでは他にも著しい不平等が存在している。農村における土地所有の伝統的な格差に加 え、資本主義市場の拡大や農業の広範な商業化によって、小農や貧農が土地を手放すことを余儀なくさ れている。わずか1%の大土地所有者(1000ha以上)が42%の土地を所有し、逆に、62%の土地所有 者(10ha以下)が4%の土地を所有しているにすぎない。新しい輸出作物の急速な拡大は、農村の女 性に一時的・季節的労働を提供する一方で、男性は都市に追いやられている(Sandor Halebsky and Richard L. Harris, “Introduction: Capital, Power, and Inequality in Latin America”, Sandor Halebsky and Richard L. Harris eds., Capital, Power, and Inequality in Latin America, Westview Press, 1995.) 7)Richard L. Harris, “The Global Context of contemporary Latin America”, S. Halebsky and R.L. Harris eds., Ibid., p.291. なお、合衆国政府を中心に西側諸国が冷戦後に主導する市場志向民主主義への包括的な批 判としては、Jochen Hippler ed., The Democratisation of Disempowerment: The Problem of Democracy in the Third World, Pluto Press, 1995. 参照。 8)R. L. Harris, op.cit., pp.291-292. 9)Alina Rocha Menocal, “The Myth of the Infallible Thecnocrat: Policy-Making in Mexico Under the Salinas Administration”, Journal of Public and International Affairs, Vol.9, Spring, 1998, p.179. 10)El Financiero, May 7, 1992. 11)Remonda Bensabat Kleinberg, Strategic Alliances and Other Deals: State-Business Relations and Economic reform in Mexico, Carolina Academic Press, 1999, p.8. 12)Gerardo Otero, “Mexico’s Economic and Political Futures”, Gerardo Otero ed., Neo-liberalism Revisited: Economic Restructurng and Mexico’s Political Future, Westview Press, 1996, P.234. 1 3 )以上のメキシコにおける国民的・民族的プロジェクトをめぐる最近の議論については、E s t h e l a Gutíerrez Garza, ed., El Debate Nacional, Vol.IV, Editorial Diana, 1997 を参照。 14)メキシコの官僚制および政治エリートの研究については次の文献が参考になる。 Frank Brandenburg, The Making of Modern Mexico, Prentice, 1964, Peter H.Smith, Labyrinths of Power: Political Recruitment in Twentieth-Century Mexico, Princeton University, 1979, Roderic A. Camp, Mexican Political Biographies, 1935-1981, University Arizona Press, 1980, Miguel Basáñez, La lucha por la hegemonía en méxico, 1968-80, Editorial Siglo XXI, 1982, Juan D.Lindau, Los tecnócratas y la élite gobernante mexicana, Editorial Joaquín Mortiz, 1993, Miguel Ángel Centeno, Democracy Whithin Reason: Thecnocratic Revolution in Mexico, Pennsylvania State University Press, 1994.そして、E.T.Espinosa, −209− 政策科学8−3,Feb.2001 op.cit. とくに、最後の二つはサリーナス期のテクノクラート化に焦点を合わせている。 15)Centeno, op.cit., pp.77-79. 16)1970年から76年までにGNPは51%増加し、全公共部門の予算は 116%以上増大した。また、同期間 に国家機構の数は84から 845に増え、70年代末までには1000を越えた。この国家機構の拡大は、当然多 くの有望なポストの増加を意味した。1970年に61万6000人であった公務員は76年には 210万人に、83年 には 330万人へと劇的に拡大した(Centeno, Ibid., p.82)。 17)Espinosa, op.cit., p.53. 18)Ibid., p.84. 19)Ibid., p.207. 20)López Portillo, “A todos les pido que participen ahora y siempre”, PRI/CEN, 1976, pp6-7. 21)SPPは新規のプランニングと予算計画において中心的役割が与えられていた。予算計画はすべての 段階でSPPの承認を必要とした。SPPの責任は次の範囲に及んでいた。すなわち、基本的経済発展 プランの作成・監督、連邦および準国家支出の予算作成と承認、政府購入の基準確定を含む計画実施の 監視、公務員のリクルート・管理・訓練・開発に関する規則の作成、政府の全統計部局を含むあらゆる 情報サービスの統一・開発、ならびに政府レポートの作成のためのガイドラインの提供などである。こ うして、SPPは国の将来の計画立案、その計画を実現するために必要な資源配分の割り当て、政府が これらの目標を達成するための手続きの作成、そしてこれらの諸政策の成功の評価に責任を負うことに なった(Centeno, op.cit., p.89.)。 22)Espinosa, op.cit., pp.71-72. 23)Ibid., p.73. 24)Ibid., p.74. 25)J.A.Erfani, The Paradox of the Mexican State: Rereading Sovereignty from Independence to NAFTA, Lynne Rienner, Boulder, 1995, p.140. “マネタリスト”と“ケインジアン”との間の官僚機構内部の対立 については、Centeno, op.cit., Chapter 7 参照。 26)Espinosa, op.cit., p.77. この統治エリート内部の対立抗争については、拙稿、前掲論文、358-359参照。 27)Espinosa, op.cit., pp.209-210. 28)Judith Teichman, “The Mexican State and the Political Implication of Economic Restructuring”, Latin American Perspectives, No.2, 1992, p.97. 29)この点については、R.Hernández, “Los Hombres del Presidente De la Madrid”, Foro International, vol.28, núm.1, 1987. 参照。 30)Espinosa, op.cit., pp.130-131. 31)Ibid., pp.132-133. 32)1993年2月にサリーナス自身が主催した夕食会にメキシコの最も裕福な企業人30名が参加した悪名高 い事件があった。彼らは1994年の大統領選挙においてPRIのためにそれぞれ2500万ドルの献金を求め られた。この夕食会は、政権党とメキシコのビジネス・エリートとの緊密な結びつきを表わした。夕食 会に出席した多くの企業人は、サリーナスの民営化プログラムから莫大な利益を得ていた(J o r g e Castañeda, “Can NAFTA Change Mexico ?”, Foreign Affairs, no.4, 1993)。 33)Espinosa, op.cit., p.212. 34)Ibid., pp.213-214. 35)カマリーリャスとテクノクラートとの関係については、Jorge Gil-Mendeita y Samuel Schmidt, “Génesis y evolucion de la red política en México”, Este País, núm.44, noviembre, 1994, Roderic A. Camp, “Camarillas −210− グローバリゼーションとメキシコ権力構造の再編(松下) in Mexican Politics: The Case of the Salinas Cabinet”, Mexican Studies, no.1, 1990, Centino, op.cit., pp.146149 参照。ここではとりあえず、カマリーリャスをパトロン−クライアント文化と多くの類似性をもっ た師弟関係と捉えておくが、詳しくは、拙稿、前掲論文を参照。 36)Espinosa, op.cit., pp.216-217. 37)Ibid., p.199. 38)Ibid., p.201. 39)PRONASOLの目的、意義については拙稿、前掲論文。 40)W.A.Cornelius, A.L.Craig and J.Fox eds., Transforming State-Society relations in Mexico: The Natinal Solidarity Strategy, Center for U.S.-Mexican Studies, University of Calfornia, 1994, p.7. 41)Peter M. Ward, “Social Welfare Policy and Political Opening in Mexico”, Journal of Latin American Studies, no.25, 1993, p.628. 42)Riordan Roett ed., Political and Economic Liberalization in Mexico: At a Critical Juncture ?, Lynne Rienner, 1993, P.5. 43)Jorge Chabat, “Mexican’s Foreigen Policy in 1990: Electoral sovereignty and Integration with the United States”, Journal of Interamerican Studies and World Affairs, no.4, 1990, p.10. 44)A. R. Menocal, op.cit., p.169. 45)Víctor Arriaga, “El Manejo de la Relación con Estados Unidos, 1990-1994”, Foro Internacional, num.4, 1994, p.758. 46)これらの諸問題と関連して Jorge Domínguez はラテンアメリカ諸国のネオリベラリズム改革を推進し てきた中心的リーダーに対してテクノポール(Technopol)という概念を提起している。彼らは技術的 な専門性をもち、政治的な経験も豊富なリーダーである。ドミンゴ・カバリョ(アルゼンチン)、フェ ルナンド・H・カルドーゾ(ブラジル)、エブリン・マッテイとアレハンドロ・ホックスレイ(チリ)、 そしてメキシコのペドロ・アスペが上げられている(Jorge I.Domínguez ed., Technopols: Freeing Politics and Markets in Latin America in the 1990s, The Pennsylvania State University press, 1997. 47)A. R. Menocal, op.cit., p.171. 48)Ibid., p.174. 49)Ibid., p.167. −211−