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文献 継承
発行所
Kanazawa Bumpokaku
文献
継承
□□□□□□□第
金沢文圃閣
第22号 2013年 4月 発行 ●発行人 田川 浩之
●〒920-0867 金沢市長土塀2-16-30
●Tel 076-261-8884 /Fax 076-233-3111
●出版目録http://kanazawa-bumpo-kaku.jimdo.com/
22GO
書店の展開を考える【注 4】。台湾随一の大書店といえ
ば、新高堂。日本統治下の台湾についての研究者なら、
◎外地書店を追いかける―台湾・新高堂以前
◎貸本屋から街の図書館へ
◎樺太庁長官 棟居俊一のこと
◎校正の神様―神代種亮書誌
◎カードと分類で大東亜戦争大勝利!
:もうひとりの稲村さん、国際十進分類に挺身す
一度は聞いたことのある名前だろう。台湾の書店文化史
を書くならば、まずはこの新高堂を押さえなければなら
ず、その経営者であり、かつ斯業のみならず台湾実業界
の大物の一人だった村
長昶に注目せねばならない。
が、研究者の悲しい性で、つい「前史」から見たくなる。
今回は、新高堂が台湾一の卸・小売書店として業界を牛
耳る以前、すなわち同店が誕生する前、そしてまだ同店
外地書店を追いかける―台湾・新高堂以前
が小規模店だった時代の話をしてみたい。誰も調べたこ
日比 嘉高
とのない、埋もれた歴史である。
はじめに
最近、戦前外地の小売書店について調べている。最初 1900 年前後・外地台湾の小売書店
はサンフランシスコなどの北米太平洋岸にあった書店
新高堂の村
には回想記があり、書店立ち上げ期の同
を調べた。直接的な資料は当然ほとんど残されていない 業他店について、次のような記述がある。
が、『日米』や『新世界』などといった現地の邦字新聞
に掲載されていた広告を拾い、年鑑やら雑誌記事やらを
同業者中、新本屋の開祖城谷書店は、店員の遣ひ
寄せ集め、関係者にインタビューしたりもして論文に書
込みで閉店し、新鋭の書店太陽堂は〔教科書がらみ
いた【注 1】。この作業が意外に面白かったので、ちょっ
のトラブルで〕衰亡の途を
と別の地域でもやってみようと思い立って、東・東南ア
は専ら小学校の教科書と学用品の販売用達を営ん
ジアの旧外地の方へ目を向け始めた。 本は流れる か
でゐたが、家庭の事情から廃業し、西門外の古本屋
ら、太平洋の対岸に向かってだけ流通していたわけはな
杉田書店、文明堂書店が栄町に移転し、新本屋を開
った。近所の並木書店
い。むしろアジア地域への物流の方が多いに決まってい
業せしも、読者の人気は我店に集中し、
〔……〕
【注
るだろうと見込んだ。
5】
案の定、その流れは太い。外地書店の鳥瞰的な略史を
つい先日書いたところだが【注 2】、小売書店史とあわ
日付は明確に書かれていないが、前後の文脈から 1898
せて、外地への書物流通史もやらなければならないこと 年から 1902 年頃の記述として読みうる。回想記は非常
は明白である。本誌 18 号掲載の戸家誠氏「幻の「大阪屋 に有用だが、一方で当てにならない記述も多い。新高堂
号書店」のこと」などに勉強をさせてもらいながら、そ 以前の台湾の日系小売書店は、実際どうなっていたの
ちらも調査は進めている【注 3】。
か、
『台湾日日新報』の広告から再構成してみよう。
(以
帝国日本に広がっていた本の流通網を、ネットワーク 後、特に断りのない日付は同紙の紙面を指す。)
『台湾日日新報』がまだ『台湾新報』を名乗っていた最
の末端から考える、というのがさしあたっての大きな目
標となる。出版文化史はどうしても大手版元や大取次と 初期の時代から広告を打っているのが、城谷商店であ
いった中心の研究が手厚い。外地の小売書店史は、それ る。村
に対するオルタナティヴにもなるだろう。
の記述に出て来た城谷書店と同じ店である
(1897 年 2 月ごろから「書店」と改称している。以後城谷
今回は個別の地域史の一つとして、台湾における小売 書店と呼ぶ)。1900 年前後の同紙では、書店として断然
1
目立った存在だった。正確に言えば、他に広告を打つ書 の北門街三丁目にあった。創立年は未詳。私の同店初見
店と言えば、台北の書林博文堂(1900 年 1 月 1 日)が時々 となる 1900 年 1 月 1 日の広告には『増補三版 日台会話
顔を見せ、学校用書籍・器具に注力していたやはり台北 新編』『台湾土語叢誌
第一号』があり、いずれも博文
の並木商店があり(1986 年 9 月 15 日)、一度だけ基隆の 堂の刊行物に見える。1901 年 1 月 1 日の広告では「博文
日進堂書店(1900 年 2 月 7 日)が掲載される程度である。 館図書大販売所」を掲げ『太陽』『文芸倶楽部』『中学
他に書店がなかったのかと言えば、そうではない。た 世界』『女学世界』『太平洋』『少年世界』各誌の誌名
とえば同紙 1900 年 2 月 3 日には台北市内の日系書店 5 店 を並べている。この広告に同店と関係が深い「台湾土語
連名の告知広告がある。「緊急広告/本月一日ヨリ小包 叢誌社」の社主、湯城義文の名があるが、この人物と博
郵便料引上ニ就テハ各地方書籍購求ノ諸君ハ一層御迷 文堂の関係は不明である。1900 年 2 月 2 日の広告では
『大
惑ノ義ト奉存候依テ此際同業申合ノ上各店売価ヲ一定 阪朝日新聞』『時事新報』がそれぞれ一ヶ月 40 銭、同
シ誠実ニ販売仕候間卸小売共倍旧御注文之程奉願上候 60 銭となっており、取次販売をしていたようだ。
敬白」。「台北書林」と上に横書きがあり、その下に 5
なお、村
の回想に登場する「新鋭の書店太陽堂」と
店が連署し、縦書きで右から城谷書店、並木書店、新高 いうのは、まったく目にしない。あるいは村
が書林博
文堂のことと記憶違いを起こしていた―博文館の『太
堂、開進堂、博文堂とある。
短い広告だが、語るところはなかなか興味深い。まず 陽』?―可能性もある。
こうしたある種の各協定を結ぶ程の同業的連帯が醸成
されていたこと。戦前の書物販売史、とくに地方におけ 台湾の書籍/雑誌/講義録流通
ここで書店から書物流通の問題へと少し視野を広げ
る歴史を紐解けば、送料と値引濫売防止との闘いの歴史
だった。初期の台北でも、商売の事情は同じだったよう よう。1900 年前後の『台湾日日新報』を見ていくと、出
だ。値引合戦を避けるためのある種のカルテルが、1900 版関係の広告として目だつのは、むしろ現地の書店より
年の台北で結ばれていたのである。また、各地方に台北 も日本内地の版元の広告である。大倉書店(東京)の辞
の書店へ郵送で注文する客たちが存在したこともわか 典や英語独習書(1898 年 2 月 3 日)、玉潤堂(名古屋)
る。そしてその地方の顧客には、個人の購書者だけでな および青木嵩山堂(大阪)の書籍目録(1900 年 1 月 1 日)、
く、地方の小売書店もいたらしい(「卸小売共」とある)。 粋友社書店(大阪)の性的な赤本(同年同日)、日東館
城谷書店の広告には「各地酒保ノ御方ヘハ相当ナル割引 (東京)の『李鴻章』『苦楽観』(1902 年 1 月 1 日)、『男
可仕候」という一文もあり、同店が日本軍内部の売店へ 子生涯之務』『女子生涯之務』を掲げる大阪の吉岡書店
のものもある(1902 年 1 月 11 日)。また『ニューナショ
本を卸していたこともわかる(1897 年 1 月 7 日)。
さて、話が前後したが上記の書店のうち、断片的なが ナル読本会話』を販売する水野書店(東京)と龍文堂(台
ら書店の輪郭がわかるものを紹介しておこう。まずは城 南)の連名広告もある(1900 年 3 月 2 日)。同じパター
谷書店。台北の府前街二丁目二四番地にあった(1900 年 ンで六法、民法の教科書を売る清水書店(東京)とその
頃には三丁目に移っている)。創立の経緯は不明だが、「台湾特約販売」城谷書店の広告も同年同日に出ている。
開業時期は 1895 年の末あたりらしい【注 6】。先に述べ
書籍の広告だけでなく、雑誌の広告もある。『世界之
た通り、当初は城谷商店と言った。店主は今のところ未 日本』(1897 年 1 月 8 日)、『快楽』(1898 年 2 月 3 日)、
詳である。1900 年前後の広告を見ていけば、雑誌では『太 『文明』『朝野週報』(1900 年 2 月 1 日)、『新著月刊』
陽』『文芸倶楽部』『新小説』といった博文館、春陽堂 (1902 年 1 月 1 日)、『実業之日本』(1902 年 1 月 9 日)、
の大雑誌も取り扱っている。書籍の扱いはかなり幅広 『太陽』『太平洋』(同 14 日)、『女学世界』(同 15 日)。
い。数学や英文法、台湾語、アコーディオンなどの独習 このような雑誌自体を宣伝する広告は、同時期の北米の
書があり、辞典などの実用書、また小説、軍事関係の読 新聞では見たことがない。他の地域とも比較する必要は
み物があり、漢籍の講義本があり、ときには政論を載せ あるが、それだけ版元が台湾の読者数を見込んでいたと
た硬い本も扱っていた。廃業の時期は不明だが、現在の いうことだろう。なお『太平洋』(博文館)の 1900 年
ところ 1902 年 1 月 1 日の広告まで存在を確認しており、 2 月 2 日の広告には、台湾内の売捌所が列記してある。
1907 年の『全国書籍商名簿』(東京書籍商組合事務所) 城谷商店、博文堂の他に「台南府草花街卅一番戸龍泉堂
書房」「基隆草店尾街小西日進堂」が記してある。
の台湾の部には名前がないことがわかっている。
このほか 1900 年以降に目だつのが、講義録の類いで
次に広告をよく目にするのが書林博文堂である。台北
2
発行、1983 年 6 月、pp.52-53。
ある。日本国内の〈成功熱〉の時代、高等レベルの学校
教育を受けられなかった独習者たちのために、通信教育 6 . 1896 年 12 月 26 日の広告に「開店一周年の祝」とあり、1900
年 1 月 1 日の広告にも「明治廿八年開店」とある。
講座や講義録が数多く刊行された。台湾にも、その波が
押し寄せていた。目に入ったものを挙げていけば、東京
教学院の『数学講義録』(1900 年 1 月 1 日)、東京通信
【付記】調査にあたり科学研究費補助金 若手(B)課題
番号 24720091 を受けている
学院の『英語通信講学』(1901 年 1 月 1 日)、日本経済
(ひび よしたか/名古屋大学)
協会(東京)の『日本経済協会講義録』(1901 年 2 月 1
日)、中学講習会(東京)の『尋常中学科講義録』(1901
年 3 月 1 日)、京都法政学校(京都)の『京都法政学校
貸本屋から街の図書館へ
講義録』(1902 年 1 月 1 日)、文官普通試験学科講習会
(東京)の『普通文官
裁判所書記
藤島 隆
試験学科通信講座』
(1902 年 1 月 15 日)などの広告が掲載されていた。
貸本屋さんのことを、いつ頃から街の図書
館と呼ぶようになったのか。また、誰によっ
以上、さまざまな内地版元の書籍、雑誌、講義録の広
てそのように言われたのかも知りたい。
告を検討して来た。さてでは、これらの広告はいったい
どのようにして『台湾日日新報』に載ったのだろうか。
答えの一つとなりそうなのが、1900 年 2 月 3 日の広告で
わたしはここ数年、図書館司書を目指す学生達に必要
ある。
「全国新聞広告 割引 取扱」を掲げた大阪勉強社 な科目のいくつかを大学等で教えている。その一つに
は、広告の取次業者である。同社は京阪が地盤だったよ 「レファレンスサービス演習」という科目がある。手元に
うだが、同様の広告取次各社が大都市部を中心に営業を テキストがあるのでみてみると、レファレンスサービス
展開し、版元から広告を取って外地の新聞へと流してい とは、「利用者の求めに応じて、当該図書館等所蔵のコ
たのだろう。書籍流通を支えた、下部構造の一つである。 レクションおよび公表されている情報源を典拠として、
図書館員が直接行うサービスで、利用案内、利用指導、
最後に再び新高堂のことに触れておく。村
の回想は 具体的な質問事項に対する調査・回答などのサービスを
不十分な点が多かった。彼の回想のみに頼ると、新高堂 いう」とある。
は開業後すぐに大きくなったように感じられるが、1898
演習のはじめに、レファレンスサービスのプロセスや
年の創業後数年は広告すら打たない小規模店だった。新 レファレンスツールの種類と特性などについて数時間
高堂が始めて新年の挨拶を『台湾日日新報』に掲げたの 解説した後、数人で班を構成して、様々なレファレンス
が 1902 年。同店の本格的成長はこのあたりから始まる。 質問を図書館資料やコンピュータを用いて協同で解決
するというものである。最後には学生どうしで質問を出
【注】
1. 日比「北米日系移民と日本書店─サンフランシスコを
中心に─」『立命館言語文化研究』20 巻 1 号、2008 年
9 月、pp.161-177。
2. 日比「外地書店とリテラシーのゆくえ─第二次大戦前
の組合史・書店史から考える─」『日本文学』第 62 巻
第 1 号、2013 年 1 月、pp.44-56。
3. 日比「書店資料から読む外地の読者─『全国書籍商総
覧』(1935 年)を用いて─」『芸術受容者の研究─観
者、聴衆、観客、読者の鑑賞行動─』科学研究費補助金
報告書、課題番号 20320028、研究代表者五十殿利治、2011
年 3 月、pp.54-60。
4. 日本統治下の台湾における出版文化史研究としては、河
原功『台湾新文学運動の展開─日本文学との接点─』
(研文出版、1997 年 11 月)、同『翻弄された台湾文学─
検閲と抵抗の系譜─』(研文出版、2009 年 6 月)に関連
論考がある。
5. 村 長昶『記憶をたどって 八十年の回顧』村 敏昶ほか
3
し合い、お互いにインタビューをして調査のプロセスや
回答を記録としてまとめさせている。
勿論、図書館が提供するサービスは講義や演習によっ
て簡単に習得できるものではない。実際に図書館員と
なって現場に立ち、体験して積み重ねてゆくことによっ
て確かなものになってゆくのだと考えてはいる。このと
きいつも悩む。自分は質問の答を知っている。あまり難
しい課題を与えても学生達は困るであろうし、調べるた
めのツールがはたしてこの図書館に用意されているか
といった問題もあるのだ。
ところでいま、『貸本関係文献目録』という書誌をま
とめる作業に携わっている。これは東京で長く貸本屋さ
んをやってこられた大竹正春氏が「貸本文化」編集部の
名で自らの研究や貸本文化研究会の仲間のためにまと
められたものであった。平成 8 年頃で作業が中断してい
るので、これを引き継ぎ、全体的にも補記するというも
放運動に恰も吾々貸本業者のみが悪書の巣くつで
のである。この作業のなかで、文献のタイトルに「街の
あるが如き所論を吐く文化人も出て……零細企業
図書館」という表記をよくみるので、貸本屋さんのこと
である貸本営業は全般的に苦況に陥いつた。……
を、いつ頃から街の図書館と呼ぶようになったのであろ
哀しきかな当時全貸本業者の声を代表とする組織
うか。これはレファレンスサービス演習の課題としても
がなかつた為非常に不利な立場に立つに至つたの
有効ではないか。
である。この頃より東京に地方の貸
大竹氏に所用でお電話をしたとき、ついでで恐縮では
本組合の設立にも刺戟され、……元古書組合理事
あったが、ただいま金沢文圃閣で編集・復刻されている
都崎氏を中心に古書組合とは別個に貸本組合の設
『貸本関係資料集成―戦後大衆の読書装置』のなかに、東
立準備運動をはじめたのでる。それから以後は順
京都読書普及商業組合の機関誌『街の図書館』というの
次日誌を追つて見よう。〔以下略〕
があるが、このように命名した人物は誰なのかご存知で
東京に新方式の貸本業者、ネオ書房 1 号店が開店した
あるか尋ねてみた。答えは、「ドン・ザッキーこと、都
崎友雄氏ではないかと思うが、詳しいことは分からな のは昭和 28 年 7 月 28 日である。翌年 10 月、東京古書組
い」とおっしゃった。それでは調べてみる価値がありそう 合に貸本部ができた。昭和 30 年 6 月 28 日には 40 人程の
である。
業者が集まり貸本組合の設立準備委員会がもたれ、8 月
26 日教育会館で創立総会が開催され東京都読書普及商
一.東京都読書普及商業組合の機関誌『街の図書館』の 業組合は誕生した。
創刊号掲載の「組合日誌」によれば、9 月 2 日、第 1 回
命名の由来を知りたい。
レファレンスサービス演習の課題にちょうどよいな 理事会の席上で機関誌部長(荒井欣一)より機関誌の名
どといったが、どうもこういう些細なことに興味を持つ 前を「街の図書館」とし、発行部数 1,500 部とすることな
悪いくせがある。現在取りかかっている書誌を一日でも どが提案され承認されている。そして創刊号は 11 月 1 日
に発行される。だが、命名の経緯はどこにも記されてい
はやく完成させるといいのに、困った性分である。
本当のところは、全国津々浦々にあった貸本屋さんが ない。
どのようにして糾合し、組合が出来ていったのか、また
その中心となったであろう東京の状況などについて知 ○荒井欣一「誇りと苦難と失意の貸本屋時代
昭和 51 年 9 月 23 日(秋分の日)、東京水道橋の中央
で、あっさりと諦めてしまった。
○『街の図書館』創刊号
回想記」
『貸本文化』13 号(昭和 61 年 3 月)p27-37
りたいと思ったが、なかなか複雑な事情があるようなの
東京都読書普及商業組合(東 労政会館に 30 数名が集まり、貸本文化研究会を設立す
る会が開催された。会則の 3 条には、「この会は全国の
読)昭和 30 年 11 月 1 日発行
貸本業者および貸本文化に関心のある者が貸本業の系
まず昭和 28 年頃から東読結成までの動きを、副理事 譜ならびに貸本業をめぐるさまざまな問題について調
長田中利彌の「東京都読書普及商業組合創立までの経 査研究し、貸本文化の向上をめざすことを目的とする」
と掲げられている。会誌『貸本文化』第 1 号は翌年 1 月
過」(上掲 p13-14)によってみてみる。
15 日に発行されている。この資料も今回、金沢文圃閣か
数年前より関西地方で隆盛を極めていた新方式 ら『貸本関係資料集成―戦後大衆の読書装置』第Ⅰ期と
による貸本業者が同地方で飽和点に達したため昨 して復刻された。
その 13 号に五反田書房の荒井欣一氏が、復員後に職
年あたりより東京に進出して来た、当時、東京には
古書組合員が兼業に貸本をやつている程度でその を得た大蔵省印刷局主計係から脱サラして、古書業界に
数は微々たるものであった。ところへこの様な事 身をおくことになった思い出を語っている。「(5)東京
態となつて来た為、いち早く古書組合では対策を 都読書普及商業組合の創立
新風吹き込む?」をみる
検討し、城南地区には貸本部が出来て(協同購入、 と、次のようにある。
機関紙発行等)に活溌な動きを見せた。……その数
約千五百軒に及ばんとしている現勢である。そし
私は古書組合第六支部貸本部での機関誌発行の
て四月、エロゾッキ本の手入に端を発した悪書追
経験を買われて、機関誌部長に任命され、誌名も
4
「街の図書館」と命名され毎月発行する事になっ いた。中頃になると、書生を相手とした「新式貸本屋」
た。この「街の図書館」と言う名前は、私が貸本部 といわれる共益貸本社やいろは屋のように、扱う資料も
にいた頃「貸本普及標語募集」という懸賞を行った 従来の
史小説などから学術書(洋装本)を中心とする
事があるが、その時三位に入賞した「貸本は街の図 ように変化し、客からの注文に応じて配達するようにな
書館、私の図書館」という標語から借用したもの る。なかには縦覧室を設けるものもあった。恐慌下の昭
で、〔以下略〕
和初期には雑誌の回読会などもはじまり、やがて居座り
式といわれるように、大きさはまちまちだがそれぞれ店
これが東読の機関誌『街の図書館』命名のあらましと を構えて、顧客が来るのを待つというかたちが定着して
いうことになる。その頃、昭和 30 年 4 月 28 日、警視庁 いったものと思われる。
防犯課による刑法 175 条のワイセツ文書販売目的所持
翻って図書館の歴史についてみると、我が国に近代図
禁止違反の取締が強行され、と時を同じくして起こった 書館の理念が移入されたのは明治維新を迎えてから、お
青少年保護育成運動のなかで、貸本屋は悪書の巣窟のよ 雇い外国人や欧米に派遣された留学生や視察者によっ
うに批難されたときであった。組織としてこれに反論す てもたらされた。なかでも文部大輔田中不二麻呂は米国
るためにも機関誌の名前が「街の図書館」というのは良 独立百年記念博覧会を視察した報告書で、「公共書籍館
(パブリックライブラリ)何人ニテモ代料ヲ払ハスシテ
いネーミングであったろう。
もう一度、『街の図書館』の創刊号をみてみると、組 縦覧スルコトヲ得ル書籍館ナリ」と説明している。
公共図書館が定着しはじめるのは明治 30 年代になっ
織部長熊谷波也は「良書普及に一役買おう」という短い
文章を寄せている。そこには「子供の要求を正しくとり てからである。だが多くの図書館では入館料を徴収し、
あげ良書推薦選定といふ形にもって行き地域と結びつ 資料の貸出しを受けるにも有料であった。それは戦後、
いた貸本業として、即地域の文化センターの役割を買っ アメリカ教育使節団が来日し、その報告書のなかでも、
て出るという様な精神的の結合が我々の業界に必要な 「図書館組織は、公立ではあっても無料ではなかったこ
のであります」といっている。自らを「街の図書館」と とが思い出されなければならない。……本を調べたり借
名乗り、良書選定委員を設け良書推薦や読書感想文コン りたりするのに、料金を課してはならない」【注 2】と
クールを実施し、漫画出版社や漫画家との連携を深め、 指摘している。
貸本屋が児童の読書に積極的にコミットしていこうと
わたしが生まれたのは終戦の年の暮れである。小学生
する姿勢がみてとることができる。
の頃の北海道札幌の公共図書館の状況をみてみると、現
荒井欣一氏の作詞になる「街の図書館」という歌もみ 在観光客にもよく知られている時計台が市立札幌図書
館(昭和 25 年 5 月に開館)であった。ここは明治の末期
ることができるので、一番の歌詞を掲げておこう。
から北海道教育会、札幌市教育会の図書館として一部の
君読んだかい貸本で/僕も読んだよ貸本で/皆ん 市民には知られていた。もう一つ、北 1 条の道警の西側
なで読もうよ
良い本を/街の図書館
僕等の図 に大正末期、北海道庁立図書館ができている。いずれも
書館
街の中心部で、電車やバスを使わないと行くことができ
なかった。子供の足では 1 時間近くもかかった。その他、
二.貸本屋さんのことを、いつ頃から街の図書館と呼ぶよ 昭和 22 年 5 月財団法人北海道奨学会地崎文庫の開設、翌
うになったのか。誰によってそのように言われたのか。 年 5 月には札幌CIE図書館が開館しているが、それは
さて最初に疑問に思ったことである。まずは昭和 12 後年、図書館に勤めたので知ったことである。いずれに
年に平凡社から出た『大百科事典』第 5 巻第 1 冊をみて しても、その頃の図書館は一般大衆から遠い図書館で
みた。藤澤(達夫)が「カシホンヤ」について書いてい あった。
る。それには江戸時代、天明の頃、松平定信の命で奥州
わたしの家は新開地で北のはずれにあり、引き揚げ者
白河に前川伝吉なる者が貸本屋をはじめたのが、貸本屋 住宅(いまの市営住宅)といっていて、小学校 3 年生の
の濫觴であるという記述があるのみである。
頃だったか市電が延伸した。その頃、家の近くに貸本屋
わたしの貧しい知識では、明治初期の貸本屋は江戸頃 さんがあった。いわゆる全国に貸本屋が 3 万軒もあった
と同じように「木樵が薪木を背負うよう」【注 1】に背 という頃のことである。
丈より高く貸本を背負い、お得意先を
昭和 28 年に学校図書館法ができ、わたしの通った小
って商いをして
5
学校や中学校にも立派な図書室があった。植物採集など ではないだろうか。
で図鑑を見るために図書室に行ったことはあったが、ほ
これまでみたかぎりでは新聞でしか「街の図書館
とんど利用したことがなかった。まだ子供達によく知ら (室)」という表現を探すことができなかった。マスコミ
れていなかったように思うのだ。家は貧しかったから、 が勝手にそのような表現をするはずもなく、一般大衆の
わたしが貸本屋さんを利用したこともなかった。もっぱ なかではすでに昭和期に入ると、身近にある貸本屋さん
ら友人の借りた『少年画報』や『冒険王』をまた借りし のことを誰いうともなく、「街の図書館」として意識し
て読むといったことだった。
ていたということではないだろうか。貸本屋さんが地域
このように子供にとっては街の真ん中にあった図書 住民のための「街の図書館」としての役割を果たしてい
館は遠いし、学校の図書室には漫画など置いていなかっ ると自ら認識していたかどうかは別であるが。やがて
た。近くにあっていつでも借りられる貸本屋さんは身近 「街の図書館」は貸本業者の結束のための一大スローガ
かな存在であった。それは大人達にとってもそうであっ ンとして用いられていった。
昭和 31 年 5 月、日本図書館協会は機関誌『図書館雑誌』
たにちがいない。
次に、ただいま編集中の『貸本関係文献目録』を昭和 (50 巻 5 号)で貸本屋の特集を組むが、東読の初代理事長
30 年頃から逆に終戦直後から戦前へと って一つひとつ 都崎友雄は「貸本屋の現状と文化的意義―「貸本屋」か
の文献のタイトルをみていくことにする。新聞や週刊誌 ら「街の図書館」へ」と題する一文を寄稿している。
については網羅的な検索ができていないので弱いところ 【注】
はあるが、「街の図書館」とか「街の図書室」といった表 1.篠田鉱造『明治百話』四条書店(東京)、昭和 7 年 10 月、
p162-167
現を用いたものを掲げると以下のようである。
2.全訳解説村井実『アメリカ教育使節団報告書』講談社(講
談社学術文庫; 253)、昭和 54 年 1 月、p102
○渋沢秀雄「デフレ下の 街頭図書館 貸本についての雑
(ふじしま たかし/「北の文庫」編集人)
感(読書欄)」『朝日新聞』昭和 29 年 11 月 1 日、p5
○「(社説)街の貸本屋について」『図書新聞』昭和 25
年 4 月 26 日、p2
○藤澤達夫「街の図書館を待望―回覧制の欠陥は何か」
樺太庁長官
棟居俊一のこと
鈴木 仁
『日本読書新聞』昭和 20 年 5 月 21 日、p4
○「街の図書室
本のない本屋 に対策(展望)」『日 樺太の図書館史をまとめて
昨年 9 月、『北の文庫』54 号に樺太の図書館史につい
本読書新聞』昭和 19 年 10 月 11 日、p1
○「きたない貸本
街の図書館を見る(現代読書風俗)」 て発表した。樺太で中央図書館の役割を担った樺太庁図
『日本読書新聞』昭和 19 年 7 月 11 日、p4
○「市民の簡易図書館
貸本屋さんの統制
書館は昭和 12 年に開館し、その活動や規則については
東京古書籍 昭和 16・17 年に出された館の『要覧』に記録されている。
小売商組で」
『日本読書新聞』昭和 18 年 6 月 5 日、p4 また昭和 14 年からに勤務し、ソ連軍の占領にも立ち
○「古本屋が貸本兼業
最低七銭で借り出せる気易さ」 会った司書塩野正三が、自身の体験も踏まえてその歴史
『朝日新聞』昭和 18 年 6 月 9 日、夕刊、p2
をまとめている。拙稿は、それ以前にあった教育会や青
東京古書籍小売商組では……「街の図書館」として統 年会の運営による図書館や図書館設置運動について補
足した。
制した貸本を開始することになった。
樺太庁図書館の注目すべき活動の一つに「貸出文庫」
○「女らしい感覚の―私設図書館は? (新商売往来 こ
んなのは如何?)」『読売新聞』昭和 11 年 2 月 7 日、 事業がある。これは樺太庁図書館の蔵書を支庁・出張所
朝刊、p9
に貸出し、その本を管轄地域内で巡回させる事業であ
る。巡回文庫は各地域、町村で教育会により行われてい
すでにみたように戦前、公共図書館の多くは有料で たが、蔵書の不足が問題になっていた。「貸出文庫」は
あった。戦後になっても図書館に対する大衆の意識は変 巡回文庫の活動を補い、各地での図書館設置を促すこと
わらなかった。貸本屋にわずかな料金を払って小説や雑 も期待され、将来に向けた法整備も進めていた。結果と
誌を読むのも、さほど公共図書館と違わなかった。だか しては戦時下の影響もあり、樺太に公共図書館は樺太庁
ら貸本屋は地域の図書館、街の図書館(室)といえたの 図書館の他に公立 2 館のみであったが、「貸出文庫」そ
6
のものは会社や町内会の読書会にも利用され、読書普及 棟居俊一という行政官
運動という意味では効果は大きかった。
棟居が樺太庁長官に就任するまでの経歴に、文化人と
さて、この事業を進めたのは誰か、というと本誌でも しての特別な活動は見えない。明治 26 年に山口県徳島
取上げられた楠田五郎太が登場する。兵庫県立図書館で 市に生まれ、東京帝国大学を卒業し、大蔵省主税局に勤
館外での閲覧利用拡大に取り組み、「動く図書館」活動 務、税務署長や神戸税関総務部長を勤めるエリート官僚
を提唱していた楠田五郎太は、昭和 14 年 3 月に赴任し、 である。昭和 4 年に設立されたばかりの拓務省の書記官
6 月には「貸出文庫」事業を開始させている。拙稿では に転出し、ここでも大臣官房文書課長や管理局長など
樺太での活動に限定したため、楠田の赴任前の履歴と樺 華々しい経歴を持っている。樺太庁長官の就任は拓殖計
太時代の彼の文章の引用のみで、その人物像は十分に説 画実施のため、外地行政にくわしい人物を選んだという
明できなかった。また楠田が赴任する経緯について、樺 ことであろう。当時、拓務省内では樺太拓殖委員会によ
り立案された 15 年に及ぶ長期の拓殖計画が進められて
太関係の資料からはわからず、次の予想に止めた。
おり、これに棟居も携わり、樺太の視察にも加わってい
博物館の場合
た。
昭和 13 年 5 月、45 歳の棟居俊一は第 13 代樺太庁長官
楠田赴任の背景に、当時の樺太庁長官が主導する文化
政策があったことは確かであろう。昭和 13 年 5 月から約 に就任する。ここから棟居の「顔」が見えてくる。就任
2 年間、樺太庁長官を務めた棟居俊一は、在職当時「文 直後の島内視察を取材した地元の新聞『樺太日日新聞』
化長官」の綽名がつく異色の長官であった。歴代の長官 では棟居が「文化」への関心が高いことに注目している。
も樺太の「文化」について言及しているが、寒冷地農業 新聞・雑誌の取材・寄稿でも棟居は「北進基地としての
など環境に適した社会や生活文化を意味しており、実際 樺太」という、大陸や南方に注目する国策のなかで樺太
の政策では開発事業が優先されていた。棟居もまた拓務 開発の前向きなスローガンを打ち出すとともに「住み良
省で作成した拓殖計画に基づいているが、同時に「文化」 き樺太の建設」も掲げている。
も柱と考えていた。その推進には人材を重視し、島外か
樺太文化振興会の事業
ら専門家の招聘、島内の研究者への支援があった。
昭和 14 年 6 月には、棟居長官を会長とした「樺太文化
図書館と並ぶ社会教育施設である博物館もこのとき
すでに樺太に開設されていた。樺太庁博物館の歴史は領 振興会」が設立される。会の設立趣意書には、「樺太に
有直後まで
る。庁舎の一室から公共の建物に移され、 即したる日本寒帯文化建設を目標とする島民の創造的
資料を充実させ、昭和 12 年 8 月には「東京以北随一」と 活動を旺盛ならしめ、以て拓地殖民其の他諸般産業の振
称せられる三階建の新館が建設された(この建物は現在 興発展に資すると共に、北方國土に於ける日本人生活の
もサハリン州郷土博物館として利用されている)。博物 安定向上を期する」と説かれている。
館には昭和 3 年から植物学者菅原繁蔵が専任職員とし
昭和 14 年度の事業概要によると、生活面の事業では、
て運営にあたっていたが、棟居は展示手法の改善を図り 農村や市街地の住宅改良を助成する住宅改善、島産品を
昭和 14 年 4 月、建築家山本利雄を招聘する。
使った栄養講習会などの食料改善、図書館も含む娯楽及
山本は大阪府堺市に開設された富民協会農業博物館 修養施設助成などがあり、学術的な事業では、教員の研
で展示設計を担当しており、図表や模型などを使い視覚 究活動を推進する樺太中等学校学術研究会への学術振
に訴える展示方法が注目されていた。拓務省で大東亜博 興奨励金交付の他、次のような支援・事業が行なわれた。
物館構想に関わっていた棟居も視察し、その手腕を評価 〈図書館の整備〉樺太庁図書館は、樺太教育会の附属施設
していた。樺太庁博物館では先任者に代わる人物が島外 を引継ぎ開館された。しかし官舎を利用した建物は狭
から突然に登場したことへの反発もあったが、昭和 15 く、蔵書や閲覧席を増やせず、専門職員の不足から中央
年には研究職である技術員制度も設けられ、文化・研究 図書館としての機能を果たせずにいた。棟居は「社会文
施設として整備されていった。
化施設の拡大」として図書館への支援を行い、本館の増
図書館における楠田五郎太の赴任も、棟居がその活動 改築や児童閲覧室が開設される。
に注目し招いたのではないだろうか。「貸出文庫」とい 〈樺太叢書〉樺太文化振興会から「郷土研究の栞たる小文
う全島規模の図書館事業を成しえた背景には、総合行政 献」となる新書版の「樺太叢書」が創刊された。第 1 巻
である樺太庁の長官の影響は大きい。
の『樺太探検の人々』(西鶴定嘉)を始め、チェーホフ
7
の『サガレン紀行』の抄訳(太宰俊夫)や『樺太の鳥』 の文献の収集・調査に取り組み、樺太史の編纂を構想す
(岡田宜一)、『ツンドラ』(菅原道太郎)、『樺太の古 る。また、大蔵省昭和財政史編集室の依頼を受けて、三
生物界』(黒澤守)など昭和 17 年までに 8 巻が刊行され 東忠之介(元樺太庁内務部財務課長)とともに樺太の財
た。
政史の編纂にも取り組んでいる。
また樺太庁博物館の資料を解説する目的で「樺太庁博
しかし、樺太史編纂を本格的に実行する矢先の昭和
物館叢書」も創刊され、『となかひ』(廣瀬國康)、『海 29 年 1 月、世田谷区の自宅で急逝した。先にまとめられ
豹島と膃肭獣』
(村井正雄)、『樺太アイヌの民俗』(
た樺太の財政史は、昭和 36 年に刊行された『昭和財政史
西猛千代)など昭和 18 年までに 9 冊が刊行されている。 旧外地財政史編』
(東洋経済新報社)に収録されている。
これらは樺太島内の教員、試験所職員、郷土研究者によ
り執筆された。特に自然科学分野での評価が高く、戦後 残されたもの
も中谷宇吉郎や梅棹忠夫により紹介されている。
棟居が文化事業に取り組めた背景には、拓殖計画の実
〈文化人の来島〉観光地だけではない樺太の姿を内地に 施で財政的に安定したことや、国民精神総動員運動が始
伝えるため、また島内文化活動の刺激のため、棟居は旅 まり郷土意識を高めるための活動が時勢に適ったこと
行や講演活動による作家・俳人・評論家など文化人の来 も理由にある。
島を奨励した。昭和 14 年 1 月には棟居の知人で作家の前
もちろん「文化」創造に取り組んだ彼の性格も重要で
田河廣一郎が訪れ、その年 5 月に『國境からふと』(六 あろう。歌人であった棟居は島内の文人たちの集まりに
藝社)が刊行された。同年 7 月には林房雄が招待され 11 参加し、次世代を担う青年たちとも交流を持っていた。
月の『文学界』に「樺太に就いて」を発表している。他 樺太庁の発行物に掲載された棟居長官の写真は、落ち着
にも松根東洋城や木村不二男、土岐善麿の講演会が開催 いた表情から繊細な印象も受けるが、交流のあった人々
されている。
の回顧には、親しまれる「文化長官」の姿が語られてい
る。すでに戦時下であった時代に、2 年ほどの棟居の施
「文化」の時代のおわり
政で花開いた「文化」は、その後の樺太の運命から、よ
棟居施政の終焉は、エネルギー問題から起きた。樺太 り輝いて見えるのであろう。その成果は戦後、樺太叢書
は領有当初の調査により、良質な石炭の埋蔵が確認され や文芸作品などが樺太を伝える貴重な文献となり、今も
ていたが、島内の産業育成に合わせるため封鎖炭田とし なおその役目を果たしている。
て保護されていた。その後、製紙業など工業の発達によ
(すずき じん/北海道文化財保護協会幹事)
り段階的に開放され、棟居も拓殖計画に則り、内地への
供給も果たしながら島内の産業開発を図っていた。
しかし戦時下では石炭の増産が急務とされ、中央が指 〈書誌片々〉
校正の神様―神代種亮書誌
導する国策会社による開発が計画された。棟居はこれに
大久保久雄
反対し樺太庁長官案と拓務省案がぶつかることになっ
た。その結果、棟居は昭和 15 年 4 月の人事刷新により樺
最近のある著書中に、辞典のページをめくるときの紙
太庁長官を退任させられる。後任は三重県知事で「産業 の「ぬめり感」を大事にするという編集者の話があった。
長官」の異名のある小河正儀となった。国家は「文化長 本づくりに関してはこの用紙のほかに製本、装幀など外
側の仕事がある。さらに本文を左右するほどの仕事で校
官」を必要としない時代に入っていた。
棟居が去った樺太庁は昭和 17 年 11 月の大東亜省開設 正という分野もある。「文字に誤りがないかどうか、原
にともなう拓務省廃止により内務省へと移管し、昭和 稿と校正刷とを引き合わせて不備を調べ正すこと」を作
18 年 4 月、内地に編入される。そして太平洋戦争末期の 業とするが、ほとんど出版社内の仕事として処理され校
昭和 20 年 8 月、ソ連軍に占領され今日に至る。
正者が表に出ることはない。しかし、以下に紹介する神
樺太を後にした棟居は東京市役所に勤め、昭和 19 年 代種亮(こうじろたねすけ)は校正作業を、間違わない
に京都市の助役に就任し、ここで終戦をむかえ翌年退任 「校正の神様」といわれ、作家や学者に愛され、関わった
図書の目次や後書に校正者としてその名を記されたほ
する。
戦後、樺太引揚者の福利厚生を目的に全国樺太連盟が どの人物であった。
結成されると、棟居は顧問となり、内地に残る樺太関係
8
5 月(駒込閑人編)
神代種亮略歴
神代種亮は明治 16 年 6 月 14 日(1883)島根県津和野 ○御代栄譽迺寿(現代文士録)『書物往来』(1)5 月(駒
に生れた。松江師範学校を卒業、郷里で教師を勤めたの
込閑人編)
ち大正 10 年に上京、海軍図書館、慶応義塾図書館、一誠 ○紅葉山人逸文(1)(明治 24 年刊鬼桃太郎)『書物往
堂編集部などに勤務のかたわら明治文学を研究、明治文
来』(2)6 月
化研究会の同人となって『明治文化全集』
(日本評論社) ○鏡花小史余墨(1)(大正 12 年引札翻刻)『書物往来』
(2)6 月(甲二郎)
の編集に貢献した。
博学多才の人であったが、
「明治文章史」の著述もあっ ○鴎外著書解説(文つかひ美奈和集つき草)
『書物往来』
て文字にくわしく、校正の技術に秀でており、文筆関係
(2)6 月
者の間に、 校正の神様 の名があった。芥川龍之介、坪 ○「裸胡蝶縁起」余談『書物往来』(2)6 月(七松庵主人)
内逍遥、永井荷風、谷崎潤一郎、佐藤春夫、姉崎正治な ○老の繰言(ポイント活字)『書物往来』(2)6 月(明
どの学者文人はいずれも彼の校正技術を尊重し委嘱し
朝五号子)
たという。
○古本界の悪傾向『書物往来』(2)6 月
大正 13 年 5 月、石川巌と共編で『書物往来』を発刊し ○漱石と黄河『書物往来』(2)6 月(七松庵主人)
た。内容は、逸文や本の掘出し話、東西の愛書随筆など ○逸文につきて『書物往来』(2)6 月(神・種)
で、永井荷風、芥川龍之介、坪内逍遥など大家の寄稿も ○瓢箪と大杏『書物往来』(2)6 月(駒込閑人)
あって、読書家から歓迎された。しかし、石川氏とは性 ○言文一致創始者異説抄『書物往来』(2)6 月
格的にあわず第 5 号で決別した。
○当今披露往来(1)結婚地獄『書物往来』(2)6 月(猫
昭和 5 年 5 月、日本校正協会を設立、主宰し、『校正
頭児)
往来』を創刊して校正に関する薀畜をかたむけたが、第 ○いろいろ話『書物往来』(3)8 月(往来甲子)
2 号(昭和 6 年 5 月)で終刊となった。
○紅葉山人逸文(2)『書物往来』(3)8 月(甲二郎)
昭和 8 年 1 月さらに、『銀座往来』を発刊したがこれ ○「一読三
も 3 号の短命で終った。
当世書生気質」異本考
同はしがき『書物
往来』(3)8 月
昭和 10 年 3 月 10 日逝去される。享年 53 才であった。 ○幽窗清話(原稿用紙、購書)『書物往来』(3)8 月(荷
風山人
甲二郎筆記)
神代種亮氏は稀代の物識りで、帚葉山人、七松庵など ○悼菊島丙三君『書物往来』(3)8 月
のペンネームを用いて諸雑誌に逸文、奇聞、珍文などを ○長塚節の歌『書物往来』(3)8 月(かうじろう)
○文士と猟銃『書物往来』(3)8 月(竹崖山人)
紹介したり、書物の解題、文章史などを書いた。
以下の書誌 113 点は嗣子神代正方氏の協力を得て作 ○芸苑遺聞(1)漱石と愛山、漱石と静座、漱石と骨重、
漱石と坊ちゃん『書物往来』(3)8 月(甲二郎聞書)
成した。表紙に付した肖像写真も同氏より借用したもの
○当代濫著紹介(3)大日本金石史
である。記して御礼申しあげる。
Ducks of the world『書
物往来』(3)8 月(鬼各哥)
神代種亮書誌・凡例
○「東日」と「往来」『書物往来』(3)8 月(甲二郎)
排列は執筆年月順とした。各文献に付した記号○は雑 ○当今披露往来(2)(みなかみ紀行ほか)『書物往来』
(3)8 月(猫頭児)
誌、新聞に発表されたものである。各文献の記述順は論
○鴎外の誤書『書物往来』(4)10 月(七松庵主人)
題、『誌名』巻号、発行月(注記)の順とした。
○蘆騒『書物往来』(5)11 月(甲二)
1924(大正 13)年
○昔かたり『書物往来』(5)11 月(坪内逍遥
談
神代種
亮記)
○漫言冗語(1)読書『書物往来』(1)5 月(荷風散人
○偏奇館漫談(3)回顧『書物往来』(5)11 月(荷風散
甲二郎筆記)
人
○新「漱石全集」に望む『書物往来』(1)5 月
甲二聞書)
○「春日霊験記」一日覚書『書物往来』(5)11 月(七
○絶版本について『書物往来』(1)5 月
○東西回忌一覧『書物往来』(1)5 月(甲二編)
松庵主人)
○千代栄譽迺寿(明治大正文壇故人帳)
『書物往来』
(1) 1925(大正 14)年
9
○鴎外舞姫異本考略『書物往来』(6)1 月(七松庵)
○訣字弁『校正往来』(1)5 月(校字郎)
○内地雑居未来の夢抄『書物往来』(6)1 月(坪内逍遥 ○赤面録『校正往来』(1)5 月
甲生)
○舌代『校正往来』(1)5 月
○「ふらんす物語」の記『書物往来』(6)1 月(七松庵主) ○校正(サンデー毎日所蔵「校正の研究」)『大阪毎日』
○アンダアセンの飜訳について『書物往来』
(6)1 月(甲
二)
5 月(攷辞老)
○売れた書物(出家と其弟子、此一戦、肉弾)『本道楽』
9(5)9 月
○音聞誉廼鑑(明治大正文壇故人帖)名香御代誉(近代
文士)『書物往来』(6)1 月(七松庵編)
○闇汁散筆『食道楽』4(10)10 月
○安南将棋の話『ゲーム』2(6)11 月
1926(大正 15)年
1931(昭和 6)年
○閑談(1)『書物礼讃』(3)1 月(同(6)まで)
○銀座味覚風景『漫談』1 月
1928(昭和 3)年
○新しい言葉二つ三つ『校正往来』(2)5 月(坪内逍遥
○逍遥先生の事ども『太陽』(34)1 月
種亮付記)
○小鳥の物理学『中央公論』(43)2 月
○輸出日本語『校正往来』(2)5 月(考字老)
○危険なる流行『第一線』4(3)3 月
○瀟々集小引『校正往来』(2)5 月(帚葉山人)
○大臣博士の学校成績公開『中学世界』31(3)3 月
○馬琴の校合日記『校正往来』(2)5 月(校字郎)
○二つの国府津『校正往来』(2)5 月(較字弄)
1929(昭和 4)年
○ Tokyo・Tokio『校正往来』(2)5 月(考字弄)
○田中義一月給伝『サラリーマン』2(4)4 月
○鬼室小東人『校正往来』(2)5 月(校字老)
○蕎麦会の記『食道楽』3(6)6 月
○竹柏園訪問記『校正往来』(2)5 月(校字老)
○鮎『食道楽』3(7)7 月
○江戸と東京『校正往来』(2)5 月(校字老)
○蕎麦の月次会『食道楽』3(8)8 月
○短歌と漢字『校正往来』(2)5 月(好字弄)
○迷ひ惑ふ事 2『洋畫家の滞欧作品と日本畫『美し國』 ○植民か殖民か『校正往来』(2)5 月(較字老)
5(9)9 月
○大嫌な恋人『校正往来』(2)5 月(佐々木信綱談
○東京食べ物行脚『経済往来』4(9)9 月
神
代生記)
○妖窟今昔物語『サラリーマン』2(10)10 月
○辞書珍文抄(広辞林)『校正往来』(2)5 月(攻辞郎)
○地名人名雑話『校正往来』(2)5 月(好蕎三老)
1930(昭和 5)年
○哭福田徳三博士『校正往来』(2)5 月
○愛書運動を起す『新刊月報』1 月
○工場見聞記『校正往来』(2)5 月(帚葉山人)
○食味漫語『糧友』5(1)1 月
○七松庵付記注釈『校正往来』(2)5 月(菜香山七松庵)
○銃猟漫記『ゲーム』2 月
○「小説神随」の広告『書物展望』1(2)8 月(校字郎)
○「手帖」『東京日々新聞』3 月 25 日(校正往来評)
○文字と用語『校正往来』(1)5 月(坪内逍遥
○書架乱抽録(1)(アンダルウード・バルザック)『書
種亮記)
物展望』1(2)8 月
○辞書一暼(言海・ザンデル・漢和大字典)『校正往来』 ○近事奇聞『書物展望』1(3)9 月(校字老)
(1)5 月(猫頭児)
○七千万の二百人(特殊装幀本の購読者)『書物展望』
1(4)10 月(甲二郎)
○此処黒木『校正往来』(1)5 月(武内桂舟 校梓楼)
○最近のイギリスの誤植『校正往来』(1)5 月(永井万 ○上方行脚(古書価メモ)『書物展望』1(4)10 月(帚
助
神代生村記)
○女人禁制の建物『校正往来』(1)5 月(菜番矢馬
葉山人)
付 ○珍書往来『中央公論』46(11)11 月
甲二郎)
○南亭博士『校正往来』(1)5 月(好蕎三老)
1932(昭和 7)年
○仮名合字の一先例『校正往来』(1)5 月(好字老)
○新春食味感『糧友』7(1)1 月
○工場見聞記『校正往来』(1)5 月(帚葉山人)
○東京近在地名漫考『明るい家』(173)2 月
10
○明治文章史講話(2)∼(11)『国漢』(昭和 7 年 5 月
∼ 8 年 11 月)
カードと分類で大東亜戦争大勝利!
:もうひとりの稲村さん、国際十進分類に挺身す
○チョッキとズボン『婦人子供服報知』(40)10 月
書物蔵
1933(昭和 8)年
ライブラリー・サイエンス vs. ドキュマンタシオン
○銀座往来(1)∼(3)(昭和 8 年 1 月∼ 8 月)
こんな本を高円寺の古書展で拾った(2005 年 3 月 5 日
○書架掃塵録(1)(ドガンドル クルークシャンク、キ (土曜日))。
ラウェア
イフイゲュイ、オマア
カーヤム)『書物 ・研究と動員 / 稲村耕雄. -- 日本評論社, 1944. -- (日本
評論叢刊 ; 5)
展望』2(2)2 月
○鴎外と装幀(1)明治装幀史上に於ける鴎外の著書『本』
3 月(江川)
稲村ちゅー姓にひかれて本をひらいたら、2 章ほど十
進分類について書いてあったんで図書館本に認定。カー
ドをつかえ、とか UDC(Universal Decimal Classification ;
○東西食物哲学『糧友』8(9)9 月
○満州と蕎麦=酒井章平氏の論文を読みて『糧友』8(10) 国際十進分類)をさかんに誉めていたりしておもしろ
10 月
い。戦後米国のワインバーグ報告(1963)みたいなもの
か?
1934(昭和 9)年
ちなみにのワインバーグ報告ってーのは、スプートニ
○美の日本『明るい家』(196)1 月
ク・ショック(1957 ;ソビエトが人工衛星打ち上げに成
○柚香録『食通』2(2)2 月
功してビックリという事件)で慌てた米国がまとめた報
○三保の松原=幕末、俳句以呂波加留多『本道楽』17(2) 告書で、技術振興の一環で情報管理についても触れ、旧
い図書館学を批判し「ドキュメンテーション」(情報管
6月
○支那の味覚哲学『食通』2(8)8 月
理)の発展が不可欠としたもの。予算がたくさんついた
○濱ゆふ筆まかせ『文芸放談』1(2)9 月
ことで、図書館学の「図書館情報学」化に役立った。
1935(昭和 10)年
ションってゆった)ってーのは、ざっくり言って旧図書
○文人嗜味『糧友』10(1)1 月
館学が「本」単位で情報を管理していたのを、さらに細
○雁『野鳥』2(2)2 月
かく管理しようよという動き。具体的には、「論文」単
○精気の感覚=近松秋江氏に『本道楽』18(4)2 月
位で情報をカード化して精緻な国際十進分類(UDC)で
○街頭風景『明るい家』(210)3 月
配列することだった。まあ、わちきに言わせれば、本の
○「一粒の種子」『糧友』10(5)5 月
管理 vs.記事の管理という細かさの違いだけで原理は同
○蕎麦散筆(当世書物談義 1 ∼ 9)『週刊朝日』5 月
じようなもんなんだけどねぇ(゜~゜) やってる人たち、
んで、ドキュメンテーション(以前はドクメンテー
とくにドキュメンテーション派は「図書館学とは違うの
【神代種亮について書かれた文献】
よ」と言いたがった。
○校正の神様『東京朝日新聞』大正 13 年 11 月 25 日
日本にも戦後、UDC の翻訳・普及を使命とした日本ド
□永井荷風
東綺談 新潮文庫 昭和 26 年(作後謷言 80
クメンテーション協会(の前身)ができたが(1950)、
∼ 100 頁)
○仁井宗人 校正の神様にだまされた話『新聞時代』1(1) わちきはすべて戦後の「アメリカ様」のおかげと思って
おったが……( ・ o ・ ;)
昭和 31 年 5 月
□岡野他家夫 書国畸人伝 桃源社 昭和 37 年(校正の神
様=神代種亮)
「直接戦力増強のため」にこそ、分類法 ! `・ω・´)o
○郷土の人物 80 校正の名人神代種亮『ごうぎん―山陰の
その 6 年前の戦時下に稲村ヤスヲさんはこう言う。
しおり』(109)昭和 47 年 1 月(山陰合同銀行)
研究の組織化にはカードがあまりバカにできない
○大久保久雄 神代種亮について『本の周辺』(5)昭和 51
役割をもつてゐる。カードを生かさうとすると問題
年2月
(おおくぼ ひさお/出版史)
になるのは分類である。現在わたくしが直接戦力増
強のために全力を注いでゐるのも実はこの分類法
の完成である(p.81)
11
側いっぱいを使って略歴が
いいなぁ(*´∀`*)モフー
「直接戦力増強のため」、「分類法の完成」に「全力を ある。カッパブックスが派
注」ぐなんて。なんちゅー先見性かしらo(^-^)o
カー 手々々しくカバーのうしろ
ドは「バカにできない」ことを国民に広めた梅棹忠夫『知 で写真入り著者紹介をやっ
的生産の技術』(岩波新書 1969)に先行すること四半世 たのは、出版史ではわりと
有名な話ぢゃ。
紀ぢゃ(`・ω・´)ゝ
しかし、カバーは当時、図
しかし、イナムラ・ヤスヲ氏の分類法が完成したって
書館では捨ててしまってい
話は、図書館学説史オタクの私でも知らないなぁ∼
(´・ω・`) あ!('0'*)
だから日本は負けちゃったのか た部分だねぇ(゜~゜) カバー
(。・_・。) 稲村さんの十進分類が完成していたら大東亜戦 を捨てる図書館は資料保存
争は日本の勝利で終わっていた……のか?(´∀` ;)
しているとはいえないなぁ
稲村耕雄
(『色いろは』光文社、1957年)
かわぐちかいじの漫画「ジパング」はタイムスリップ (*゜-゜) いまでも「保存図書館」を標榜しとる(とはい
ものだけど(戦国自衛隊みたい)、ちょうどこの本を拾っ いながら、行政作用法に「保存」の文言がないという)
た時には『モーニング』の連載で日本の原爆開発のとこ 国会図書館ではカバーを捨てとるという(#+_+)
ろだった。やっぱり科学動員には十進分類ですなぁ……
1908(明治 41)生まれ。家業が浴衣問屋なので東京
(σ^~^)
高工色染科に。その後、フランス政府招聘留学生と
戦後はじめての IFLA(イフラ;アイフラ;国際図書
してコレージュ・ド・フランスとモンペリエ大学に
(1938-40)。そして……
館連盟)に出席した天野敬太郎(書誌学者)は、「日本
戦後、東京工大にかえり、
「色」の研究に「たちもどっ
にアメリカが負けたのは、文献目録がなかったからだ」
と言われたそうな(『図書館学関係文献目録集成. 明治・ た」。昭和 32 年現在は理学博士だったという。
大正・昭和前期編 第 1 巻』金沢文圃閣, 2001 p.365)
って、戦争中になにをやってたのかは書いてない
(σ^~^)
図書館界に 2 人の稲村?
でも、読者諸氏はもう知ってるよね、直接戦力増強の
わちきがこの本を手にとるきっかけとなった稲村徹 ために分類研究に邁進していたことを(o^ー')b
元さん
(書誌学者; 1928-)
とは関係ないみたい(。・_・。)ノ テ
この書き方からすると、戦争中の分類研究は稲村さん
ツゲンさんのお父さんは稲村坦元(タンゲン)といって にとって脇道。もちろん、これは戦後的価値観が、 及
埼玉の郷土史家だったし。それにヤスヲさんとテツゲン 的に過去に反映されとるっぽいから気をつけねばいか
さんでは気風が逆さだね。たまたま手許にある徹元さん んが、ちとさみしいのー(*´д`)ノ
ちなみにヤスヲさんは、
の言にいう……
仕事のマニアル〔ママ〕を超えたノウハウは、当節、
昭和時代の化学者。明治 41 年 12 月 21 日生まれ。昭
パソコン・インターネットでカバーできるから……
和 18 年母校東京工業大の助教授となり,のち教授。
と安易にクリッピングを止めたがる施設の管理者
無機化学,分光化学,色彩学の研究で知られる。昭和
には頂門の一針となろう(「切抜帖趣味」『スムー
42 年 4 月 24 日死去。58 歳。(デジタル版 日本人名
ス』(10)(2002.9))
大辞典+Plus)
と、「安易にクリッピングを止め」た施設(おそらく、 と、人名事典的にはまとめられている。
1993 年 3 月に新聞切り抜きを廃止した古巣の国会図書
館のこと)を批判している。ことほどさようにテツゲン 留学帰りに持ってきた本が
稲村は最初、東京工業大学に勤めていたんだけれど、
さんは旧図書館学っぽく職人気質を擁護しているのに、
ヤスヲさんはもっと単純に、ドクメンテーション的な感 昭和 13 年にフランス政府に招へいされて留学する。最
じだから逆さ(σ・∀・)σ
初、パリのコレージュ・ド・フランスで化学研究をして
いたんだけど(諏訪根自子と交流があったという)、昭
稲村耕雄という人
和 14 年にフランスがドイツと開戦。とりあえず南仏モ
画像は、稲村耕雄(ヤスオ)さん。『色いろは』とい ンペリエの研究所に移ってさらに化学研究を続けてた。
う昭和 32 年刊行の「カッパブックス」の、カバー裏表紙 そしたらどんどん戦局が悪くなって「フランス敗れた
12
り」になっちゃった。
慧眼なり洋行がえりの稲村さん。
しょうがないので、帰国したんだけど、その際にもっ
いろいろ原稿の持ち込みをした当初は皆とりあって
くれなかったんだけど、昭和 16 年の半ばから、総合誌
てきた本のなかに、たまたまこんな本があったんよ
『改造』や『朝日新聞』、『帝大新聞』、『婦人公論』な
(。・_・。)ノ
・Organisation rationnelle de la recherche scientifique / Serge ど主要メディアに稲村さんの科学動員方法論が載り始
Tchakhotine. -- Paris: Hermann, 1938. -- (L'Organisation めた。よかったね(*^_^*)
dans la science ; 1 Actualités scientifiques et industrielles ;
732)
あたかもよし、大日本帝国は昭和 16 年 12 月 8 日、英
米と戦争状態に入れり!!!(`・ω・´)ゝ
ん?(・ω・。) おフランス語ぢゃ、わからんってか
稲村さんますます科学動員を書きまくり(もちろん、
(σ^~^)σ
専門の化学も書いてるよ)、そしてそれらが稲村さんの
さもありなん。ところがアリガタイことに、この本は 初期の科学方法論 3 部作に再編集されていくのだわさ。
・研究と組織 / セルジュ・チャコチン著 ; 稲村耕男訳.
翻訳があるのよ(。・_・。)ノ
-- 白水社, 1942.6.25
・研究と組織 / セルジュ・チャコチン著 ; 稲村耕男訳.
そう(o^∇^o)ノ
?部
再販 6.30
2000 部
・研究と條件 / 稲村耕雄著. -- 生活社, 1942.10.20
-- 白水社, 1942. -- (白水社科學選書 ; 7)
3000 部
買って帰った稲村さんが訳してくれ
・研究と動員 / 稲村耕雄著. -- 日本評論社 1944.12.20
ちゃったのだった。直訳すると「科学研究の合理的組織
5000 部
化」といったところかしら(゜~゜)
何千部も刷られて、それもだんだん増えているぢゃ
チャコチン(あるいはチャホチン)は、セルゲイ・チャ
コチン(Sergei Stepanowitsch Tschachotin [Sergei Stepanovich あ、ないのΣ(・ω・ノ)ノ!
ってか、この時期、出版企画
Chajotin] ; 1883-1973)。コンスタンチノープル生まれの はほぼすべて日本出版文化協会により審査され、マジメ
ロシア人で、条件反射のパブロフの助手もしてたけど、 な本の企画はとっても通りやすくなっていた。戦争に
ドイツで社会民主党に
入って、ナチスのプロパガンダ (名目的でも)役立ちそうならなおさら。出版用紙も優先
を最初に研究した社会心理学者で名前が残っているひ 的にまわしてもらえる。部数がすぐわかるのも、日本出
版配給株式会社が奥付に刷るように指示したからなん
と。彼についてサイトも(英語で)あるよ。
で、このチャコチンの本に、カードの利用と国際十進 だわさ。すばらしき戦時統制o(^-^)o
戦時統制から出
分類のことが書いてあったのだわさ。(まあほかにも、 版史がわかるのぢゃヾ(*´∀`*)ノ゛キャッキャ
学術語はエスペラントなど人工語をつかえとか、トンデ
モなく素晴らしいことが書いてあるが)
カードを使うには? →分類法統一ぢゃ ! (`・ω・´)ゝ
科学を動員するにはどうすれば……?
どに書きまくり、「カードを生かさうとすると問題にな
稲村さんはなおも『科学主義工業』なんちゅー雑誌な
→カードを使うの
るのは分類」で、UDC を研究すべしと説きまくり、結局
ぢゃ ! `・ω・´)o
昭和 15 年に日本へ帰ってみたらば、学界ではさかん それがどーなったかというと……。
全科技連・分類法統一協議会は去る〔1943 年〕9 月
に「科学動員」について議論されてた。これは軍事力強
化に科学者に協力してもらうことなんだけど、このころ
20 日の第 1 回総合部会に於て(略)国際十進分類法
から日本では「科学技術」という四文字熟語が成立し、
(D.K.)の採用を満場一致で可決した(石原紘「国際
十進分類法の簡略表(I)」『科学』13(11) p.416
科学者に技術者も手を携えて国策協力することになっ
(1943.11))
たのだった。とりあえず科学動員には技術動員も含まれ
ということになったのだ(゚∀゚ )アヒャ
ると考えてちょ(σ^~^)
ん?(・ω・。) 「全科技連(ゼンカギレン)」って何だっ
ところが、日本の学者がやる科学動員の議論は、ただ
の啓蒙だったり精神論だったりして、具体的な手段につ てか?(σ^~^) これは全日本の理系の学協会の連合体
いての議論がないことに、チャコチン本を読んでいた稲 ぢゃぞ(σ・∀・)σ 「(財)全日本科学技術連合会」と
村さんはすぐ気づいた。そこで、科学者の動員や科学論 いい、当時あった「技術院」ちゅー内閣直属の役所の外
文の動員には十進分類とカードを使えばよいと、盛んに 郭団体ぢゃ。そもそも日本語に「科学技術」という四文
吹き出したのぢゃ(o^∇^o)ノ
字熟語が定着したのはこの団体のせいともいうゾ(平野
13
千博「「科学技術」の語源と語感」 『情報管理』42(5) 3 月 10 日の空襲でまる焼け。わちきが通った(大正震災
p.371-379(1999.8))。
の)復興小学校に避難した周辺住民は火が
入ってほぼ
そのアリガターイ、全科技連に「分類法統一協議会」 全滅。ワーッっと一言、あっとゆーまだったってサ(奇
というのができて、日本全土で、理系の学問に関しては、 跡的に生き残った向かいの文房具屋さんに「平和教育」
国際十進分類法を使うべしと、昭和 18 年に決まってい の一環で聴いた)。
たなんて!(o^∇^o)ノ
そして敗戦。
この時代、図書館界でもどの分類表を標準的に使うべ
そんなハチャメチャなことがあったんだから、十進分
きか、山口県立の十進分類をつかえと決議までありなが 類の、それも戦力増強のためのものは放擲されてしまっ
らうやむやになっておって、そこにみなさんも小学校で たんだとテンから思っておったのだが、なにげに OPAC
習う(?)ニッポン十進分類(NDC)が出てきたんだけ をひいたらば……。
れども、それとは全然べつに、稲村さんらの努力で、国
なんとΣ(・ω・ノ)ノ!
際十進分類をつかえと「満場一致で」、内閣直属官庁の
・國際十進分類法. 第 5 巻 / 全日本科學技術團體聯合
會編. -- 全日本科學技術團體聯合會, 1946.7.30
外郭団体が決議しておったとはとは。稲村さんの影響
ぢゃ!(≧∇≦)ノ
ゼンカギレン(全科技連)じゃあ、あーりませんか!
これはびっくりといわずしてなんといおうか(・o・;) (*^_^*)ゞ
この第 5 巻の巻末を見ると、「国際十進分類法刊行予
いま生きてる図書館業界人で知ってる人はひとりもお
定」の一覧が載っていて、索引の巻を含めた全 15 巻の構
るまい(σ・∀・)σ
ちなみに UDC は英語風の略称で、D.K.(デーカー) 成がわかる。欄外に「隔月刊行の予定」とも(o^o^)o ワク
はドイツ風、CDU(セデユ?)はフランス風ね
ワク
(〃^∇^)o_彡☆
ところが次の巻が出たのは「隔月」どころか次の年
ともかく稲村さんの「直接戦力増強のため」の十進分 (・∀・`;)
類は、B-29 が本土を爆撃し始めた昭和 19 年末の著作『研
・國際十進分類法. 第 4 巻 / 全日本科學技術團體聯合
會編. -- 全日本科學技術團體聯合會, 1947.3.30
究と動員』で頂点を迎える。あの、エロ出版の極北、梅
・國際十進分類法. 第 9 巻 / 全日本科學技術團體聯合
原北明が科学の洋書を海賊出版する話(これは大東亜図
會編. -- 全日本科學技術團體聯合會, 1948.3.30
書館学ネタか?(〃⌒∇⌒)ゞ)やら、ベルリンからの日
本文部省による電信書誌ユーティリティーとか(『文献
この第 9 巻の「凡例」にはこうある。
継承』(16))が、断片的記述なんだけども顔をだす本
本書の編纂は旧技術院から委託され、本会内に特別
なんて、これだけでは(。・_・。)ノ
に委員会を設けて学会.図書館界.関係官庁から
いや実際、稲村さんにとっても、最初の 2 冊は翻訳に
夫々代表者の参加を求めて根本方針を定め、つづい
フランス留学話のエッセイなどをつけたもので、まるま
て各部門別の専門委員会を作つて夫々数々の会合
る自分の著作はこれが初めてだったよう(σ^~^)
をかさねて慎重綿密な編纂を進めた。この間に煩わ
した専門学者の数は百名に近い。本書の首巻 解説
昭和 20 年を越える「科学」
と補助表 に詳しい編纂経過を載せ参加者各位の姓
8 年前、高円寺の古書会館でこの『研究と動員』を拾っ
名を掲げて特に感謝の意を表するつもりである
てずっとこのかた、稲村さんの十進分類は雲散霧消して
が……
「首巻」つまり第 1 巻は結局でないままだった(*゜-゜)
しまったのだろうと、てんから考えておった。
稲村さんの本が出てからの日本は、それはもう大変
なんだぁ、みんな、こんなところにいたのかぁ(・∀・`;)
だったのだ(。・_・。)ノ
ブログにも書いたけど、幼児だったわちきの父親は昭
これは余談だけど、分類のほかにも全科技連は文献リ
和 20 年 8 月に北満の街、嫩江(ねいこう;ノンジャン) ストなんかもつくってて、やはり戦後にでた『科学技術
から南下する最後の列車(のそのあとの満鉄社員の列 文献目録』
(紀元社, 1951)の序文をみてたらこんな謝辞
車)にむりやり割り込んでかろうじて助かったんだけ が。
ど、残された乳幼児は栄養失調でバタバタと死に全滅
(400 人ほど)。母親は埼玉に疎開してたけど東京の家は
14
実務委員として資料整備につき並々ならぬ労を執
られた
叶沢清介(技術院総務部調査課)
という問題提起をしていたが……。
武田虎之助(東京帝国大学法学部)
で、稲村さんの UDC、つまりこの、全科技連による国
菊地厳(東京帝国大学第二工学部)
際十進分類に日本主義性がどっかにあるか考えてみた。
横井時重(大阪帝国大学工学部)
じつはこの分類、出自がベルギーで普及はフランス、
渡辺正亥(新潟医科大学)
ドイツが「鬼畜」米・英よりも先だったから、アリガタ
村上清造(富山薬学専門学校)
イことに「敵性」分類表あつかいされる可能性がもとも
(以下略)
と低かった(σ^~^)
昭和 21 年 9 月
それに科学技術のところだけ先行して翻訳・編纂され
ビビビ、ビックリ(@_@;)
たから、さすがに大東亜共栄圏内においても、共栄圏固
菊地厳以外全員、有名な図書館関係者じゃないの 有の物理学や化学はなかなかむずかしかろ(゜~゜ )
だ
(+ o +) ここで会ったが百年目、ぢゃなかた、戦争末 から昭和 20 年を超えて出版されたのだろう。ま、ルイセ
期、こんなところで戦争協力、ぢゃなかったご奉公して ンコ学説みたいなこともあるから、ホントは表を仔細に
たなんて!!!(゚∀゚ )アヒャ
調査せねばらなんが……(;´▽` A``
いやサ、先読みのオタどんが、柳田国男の『炭焼日記』
ん?(・ω・。) ぢゃあ日本主義的なところは全然ない
に出てくるこんな記事を紹介していたのは、このことを の?
示唆してたのねん(*´д`)ノ
昭和 20 年 1 月 18 日
といえば、ちょっとだけ見つけちった(^-^;) 正
確にいうと表そのものの日本主義性でなく、表の取り扱
奥田啓市君久々にて来る。技 い方、手続き的な日本主義ね(σ^~^)σ
術団体聯合会にはたらくといふ。
全科技連が人知れず(1946 年ごろ? とにかく国史大
http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20111123/p1
辞典の記述にも解散に言及がない)消滅した後、今度は
オタどんは「元鹿児島県立図書館長の奥田は、昭和 20 現在の「インフォスタ」
(INFOSTA ;情報科学技術協会)
年で数え 66 歳になるが、聯合会で何をしていたのだろ に直接つながる動きがでてくる。1950 年の「UDC 研究
うか」といぶかっておるが、奥田も文献リスト作成か分 会」発足と、そのフィド(FID ;国際ドクメンテーショ
類表に関与していたにちがいない(σ^~^)σ
ン連盟)への加盟ね(o^ー')b
全科技連が図書館人の徴用のがれの避難所、ぢゃな
で、そこが『国際十進分類法の解説』(日本ドクメン
た梁山泊となっていたのだねぇ大戦末期には
テーション協会, 1967)という 18 ページのパンフレット
(*´д`)ノ
を出した。その巻末に「UDC の簡単な歴史」という、ホ
そんなこと、彼らのうち、だーれも教えてくれないん ントに簡略な年表がある。見ると……
1930
だもんなー(σ^~^)σ
1943
持っていたようで、文学者らと交流があったよう。いま
ネットを見るに、吉田絃二郎(随筆家)からの奥田あて
全日本化学技術連合会で UDC の採用を決
定。分類表の全訳に着手。
1946
葉書が売りにだされとる。画像があるので拡大してみた
ら、昭和 30-40 年代の年賀状があるから、長生きしたん
だね。
旧台北帝大図書館 UDC 使用
(略)
ちなみに奥田啓市(1880-196?)は童山という号を
日本語版 54(FID 非公認)発行
とある。「54」ってーのは、UDC で「化学」の分野っ
てこと。
それよか問題は、
「FID 非公認」というところ(σ・∀・)σ
全科技連の「国際」十進分類に日本主義性はありやなし
どうやら、勝手に翻訳してたらしいのだ全科技連は
c(≧∇≦*)ゝアチャー
や?
まあ、昭和 18 年から 21 年にかけて、FID に連絡をと
2 年まえ、森洋介さんと「大東亜図書館学」について
話した時、彼が、
ること自体、むずかしかったろうけれど、元団体に断ら
大東亜図書館学のなかに日本主義ないし皇道図書 ないまま、勝手に翻訳してたっちゅーのは、これは手続
館学といったものがあったとして、では、戦後それ き的「日本〈勝手〉主義」といえませう(o^∇^o)ノ
大東
は根こそぎ否定され、ないし継受されなかったの 亜共栄圏の盟主たる日本が良いことをやろーってんだ
か、それとも、体制変換や占領政策にもかかわらず、 から、細かい手続きなんてドーデモいいぢゃん……って
遺産として残ったものがあるのか、ないのか。
か?(σ^~^)
15
それでも「法燈」は継がれた?
で、石原は「日本ドクメンテーション協会の育ての親」
詳細な著作年譜を作ってみたら、稲村さん自身は戦 となる。つまり、戦時 UDC は、表そのものは受け継が
後、急速に科学研究法への興味は失っていったみたい れなかったけど、人は受け継がれたということかしら
(´・ω・`) 昭和 26 年に「研究とカード」『化学の領域』 (*´д`)ノ変更
5(5) (1951.5)ちゅーのを書いたのが最後で、あとは
インダストリアル・デザインでご活躍。アパレルとか宣 そしてもう一人の稲村さんに話はもどる
その石原は、昭和 23 年に国会図書館が発足するにあ
伝とかカラーテレビとか、一般受けするものばかりに
なっていった(*゜-゜)
たり、「強い関心を持った」が、分類の提案をする機会
結局、稲村さんは分類を離れちゃったんだけど、UDC は与えられなかったという(同館の『三十年史』資料編
という分類「法」の、まさしく「法燈」を継いだ人がいて。(p.95)には欠席と書いてあるのが不審)。
それでも石原は、UDC は昭和 23 年から同館の新聞記
それは彼の東工大時代の友達で、東京電気無線(株)
(のちに東芝へ)の設計課規格係に勤めていた石原紘(ヒ 事の分類に使われており、
「UDC の利用によってのみ適
ロシ; 1911-1993.8.7)という人(。・_・。)ノ 『情報の科学 切に分類され得る」と豪語している。
と技術』43(11)(1993.11)に追悼記事がある。歌人で
ん?(・ω・。) これで思いだすのは、もうひとりの稲村
理論物理学者、のち不倫がキッカケで科学ジャーナリス さん(テツゲンさん)が、「安易にクリッピングを止め」
トの嚆矢となった石原純(最近、岩波から評伝がでた) ちゃうのはけしからんと怒っていたこと(この記事の先
の長男。戦時中は昭和 18 年に技術院の嘱託となり、戦後 頭を参照してちょ)。新聞記事の分類ってば、よーする
は昭和 22 年から 46 年まで文部省。記事に曰く「日本ド に、英語でいう「クリッピング」。国会のクリッピングっ
てば、じつは昭和の末年(1985.2)まで UDC で整理され
クメンテーション協会の育ての親」だそうな。
彼の書いた「日本における UDC」(『社団法人日本ド ていたのだ(その後、簡略分類で継続したが 1993.3 に廃
クメンテーション協会 30 年史』 1985 p.77-83)は、じつ 止)。
はとっても貴重な戦前日本における UDC 受容史で、そ
国会図書館が、和書に NDC、洋書に DDC(デューイ
こに全科技連の UDC 編纂も出てくる。なんと石原さん 十進分類)を使うなか、なぜクリッピングだけ UDC だっ
はチャコチン『研究と組織』の翻訳を読んで稲村さんに たかといえば、じつはこれ、なんと国会図書館成立前の
会いに行ったのだ。それがきっかけで UDC 編纂にかか 昭和 22 年から衆議院調査部で行われていたのを引き継
いだもので(『ドキュメント戦後の日本. 1』
わることに(@_@;)
1943 年末に翻訳を開始。分野別の小委員会が頻繁に開 社,1994.5
大空
p.356)、その担当者、鍋島弘が全科技連で
かれ、1944 年 3 月からは石原、稲村は調整のため小委員 UDC 担当だったから(『ドクメンテーション協会 30 年
会に出まくり。んで、1944 年末にはいくつかの分野で翻 史』p.63)にちがいない!(≧∇≦)ノ
そーいえば、設立
訳が完成したという。ところが 1945 年 2 月には全科技連 当初の調査員は、まるまる衆参の調査局から移籍してき
の事務所が戦災で焼失しちゃう。時をおかず印刷所に たのだったねぇ(σ^~^)
あった UDC 簡略版も焼失。長崎へ疎開した全科技連事
するってーと、なにかい、全科技連の、そして稲村さ
んの「直接戦力増強」UDC の法燈は、昭和 60 年まで国
務所で作業がつづく。
終戦時、原稿はおおむね無事だったんだけど、技術院 会図書館(の片隅)に息づいていたちゅーわけかい
からの援助金が止まり、全科技連は自弁することに。そ (@_@;)
こへ「紀元社」ちゅー出版社が「全分野の UDC 表の翻
(^-^;)
民主日本のかがやけるポツダム官庁に、帝国日本によ
る戦力増強の UDC とはとは(・∀・)
訳、出版を引受けようという冒険を買って出た」とか
そういえば、紀元社の UDC 序文に「一般(概
(しょもつぐら)
説)石原紘(分類法統一委員会委員)」とあったなあ。
でも全科技連もはインフレのため原稿を紀元社にひき
ついで解散。そして紀元社も資金難でそれを出版できん ■表紙図版は「校正の神様 神代種亮」〔大久保久雄氏提供〕
かったというわけ(。・_・。)ノ
やっぱり欧州との連絡がつかなくて、UDC 翻訳の合
意は得ていなかったそーな(σ^~^)
16
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