Comments
Description
Transcript
2.南スーダンの独立
授業に役立つ新しい話題 2012 ② 南スーダンの独立 おち ひろ ひろ 東京都立上野高等学校教諭 落 弘 幸 ͤ 2011年7月9日,アフリカ54番目の独立国と ヌビアはエジプト,スーダンに二分され,南部 して,南スーダン共和国がスーダン共和国か 地域はスーダンに併合された。イギリスはア ら分離独立し,193番目の国連加盟国となっ ラブ民族主義による独立要求を防ぐため,南 た。 北分断政策の下で,南部はアラブ的要素が禁 1. スーダン略史 止された地域とした。 南スーダン分離独立前のスーダンは,アフ 2. スーダン独立から内戦 リカ最大の面積を有する国家であった。北部 1956年にスーダンはエジプト・イギリス共 は砂漠からステップが広がり,南部はサバナ 同管理から独立したが,政権を掌握した北部 と湿地帯,そして南端は年降水量1,500mmを のアラブ・ムスリムの支配に対して,自治要求 超える熱帯雨林地帯となっていた。その歴史 が強かった非ムスリムの南部との間に内戦が は古く,紀元前3000年ころから,地中海,西ア 勃発した(第一次内戦[1955-1972年])。政府は フリカ,インド洋を結ぶ国際交易網の中心と 1972年に南部自治政府の成立を認め,内戦も して重要な位置を占めていた。また,南部は内 一旦は終結した。しかし,政権に影響力をもつ 陸アフリカとの交流が深く,前2200年ころか ムスリム同胞団(現在の国民イスラーム戦線 ら内陸部より移動してきた黒人集団の王国が [NIF],救国革命政権の母体)勢力の主張によ 栄えた。14世紀ころに,アラブ・ムスリムとの り, イスラーム化が進むと, 1983年に第二次内 接触が深まると,ナイル川流域にアラブ系民 ▲ アフリカのなかの南スーダン 族のイスラーム国家が生まれ,18世紀になる と広くスーダン中北部にイスラームが浸透し ていった。 19世紀末になると, 実質的なイギリス支配の もとで, 現在のスーダンの範囲が画定された。 スーダン 0 200km 0 2000km アビエイ地域 (係争中) ベンティウ マラカル ユニティ州 クワジョック アウェイル ワラップ州 西バハル・ ワウ ルンベック ジョングレイ州 エルガザール州 中央 アフリカ 共和国 レイク州 エチオピア ジュバ 東エクアトリア州 トリート 中央エクアトリア州 ▲南スーダン ウガンダ 0 500km スーダン ハルツーム アビエイ ボル 西エクアトリア州 ヤンビオ コンゴ民主共和国 ダルフール地方 上ナイル州 北バハル・ エルガザール州 ケニア 南スーダン エチオピア ジュバ ウガンダ ケニア ▲旧スーダンのなかの南スーダン ※1 一般的にエジプトのアスワンあたりからスーダンにかけての地域をさすと考えられる。古代エジプト第25王朝は内陸か らの黒人たちの立てた王朝でヌビアにつくられた(現在の南スーダンは含まれないと考えられる)。イギリス支配がアフリカの 地域区分を無視して行われた一例である。 戦がはじまった。1989年の無血クーデタによ スーダンの2010年の原油産出量は2,757万kl り,救国革命評議会が組織され,オマル・アル= で,世界の0.7%を占める。スーダンにとって, バ シ ル 政 権 が 成 立 し ,現 在 ま で 続 い て い る 日本は中国,インドネシアに次ぐ石油輸出相手 (2011年11月現在)。 国である。油田開発は1975年から始まり,1992 救国革命政権は,1970年代に成長したごく 年に本格的に採油が始まった。21世紀になって 少数の資本家層を中心としており,イスラー 急速に産出量と輸出量を増やしているスーダ ム 主 義 を そ の 拠 り ど こ ろ と し て い る 。イ ス ンは,近年石油産出国として注目を集めてい ラーム法を施行し,国家 ・ 社会のイスラーム る。油田地帯は紅海沿岸,中西部,そして南部で 化を進め,野党や労組などの反対勢力を抑圧 ある。 し,独裁体制を築いてきた。さらに,南北の 1993年,アメリカ合衆国はオサマ=ビンラ 経済格差,開発問題,資源の配分などの問題 ディンの拠点があったスーダンを,急進的イス を背景とした南部の非アラブ ・ 非ムスリム勢 ラーム主義の温床とみなし, 「テロ支援国家」 力の抵抗を「ジハード」の名のもとに鎮圧し に指定した。このため欧米企業が撤退するなか た。対する南部では,スーダン人民解放運 で,中国をはじめ,インド,マレーシアが 進 出 ͤ 動 ・ 軍(SPLM/SPLA;以下SPLM/Aと略す)を 中心に抵抗が続き,内戦は泥沼化した。 産油地帯 油田 パイプライン 3. 南北包括和平協定 内戦が長期化するにつれて,救国革命政権 紅 エジプト リビア 海 側もSPLM/A側も相手を圧倒する軍事的成果 を得られず,政権側は非イスラームに融和的 チャド な態度をとりはじめ,1997年には宗教の自由 スーダン を含む新憲法を制定した。また,アメリカ合衆 ハルツーム 国の積極的なはたらきかけで,2002年ごろか ら和平合意に向けた協議がみられるように なった。そしてついに2005年に,スーダン政府 エチオピア とSPLM/Aの間で南北包括和平協定が成立し, 200万人以上の犠牲者と400万人以上の難民, アビエイ 国内避難民を出したと推定される内戦は終 わった。 包括和平協定では,①内戦の終結,②自治権 中央アフリカ 共和国 南スーダン ジュバ を有する南スーダン政府の成立,③南スーダ ンの帰属を問う住民投票の実施,④南部の宗 ウガンダ ザイール 教的自由(イスラーム法の不適用),⑤南スー ケニア ダンの石油収入の南北均等配分などが盛り込 まれた。2011年1月には和平協定に基づき独 立の是非を問う南部の住民投票が行われ,約 ルワンダ 0 500km ブルンジ タンザニア 99%の圧倒的多数の賛成を得た。 4. 石油と国際関係 ▲南スーダンの産油地帯 ※2 南部の最大の旧スーダン政府に対する対抗組織とその軍事部門。 北部にも勢力を持つ。南スーダン分離・独立後,SPLMは 政党となり,現在の南スーダンの最大与党,SPLAは南スーダンの正規軍となった。北部では政府への対抗組織として存在。南ス ーダンは複数政党制でほかに議会に議席を持つ政党がある。 し,石油利権を獲得していった。こうした動き 決議」を提起した。南北和平も,ダルフール問 に対し,アメリカ合衆国は再び,この南スーダ 題もこの枠組みのなかで解決しようとするも ン独立を契機として,南スーダン,ソマリア, のであった。この意味で,包括和平協定は政府 エチオピア,中央アフリカ共和国,チャドと とSPLM/Aとの二者の協定であり,スーダン政 いった政情不安な地域に安全保障体制をつく 権自体の改革が抜け落ち,スーダン政権の現 る第一歩を築き,そのうえで,石油産出地域と 状維持につながっているともいえる。NDAが して注目されてきたこの地域に,政治的な安 この問題をどう再構築するかも注目される。 定と石油利権へ影響力を及ぼしたいと考え JICAの報告によると,南スーダンは独立し た。こうした意図は同時に,孤立したスーダン たものの,長期にわたる内戦の影響もあり,高 政府にとっても「テロ支援国家」解除に向けて い乳幼児死亡率,低い初等教育就学・修了率, 利害が一致した。また,この地域の石油に権益 深刻な貧困,食糧不足などの問題を抱えてい をもつ中国も,この地域の政治的安定が必要 るとされている。水,道路,港湾などの整備も であり,その点でも利害関係が一致したとい 遅れるなど民生部門も, 産業部門もインフラが う見方も有力である。 不足しており,新たな国づくりは容易ではな 5. ダルフール問題と今後の南スーダン い。また,南北の境界に位置し,石油産出地域 南スーダンが独立し,スーダンとの間で一 の一つであるアビエイの帰属問題も残るな 定の和平協定が進む一方,スーダン西部のダ ど ,課 題 は 山 積 し て い る 。米 中 は も と よ り , ͤ ルフールでは2003年以来紛争が激化し,2011 スーダンにとって経済的につながりの深い日 年現在まだ継続中である。長く低開発地域と 本も含め,国際的な協力体制のもとでの実効 して放置されてきた非アラブのダルフールの ある和平の模索が求められている。 民衆の格差是正要求に対して,政府はジャン ジャウィードという民兵組織を用いて武力弾 圧してきた。この結果少なくとも十数万人の 死者,200万をこえる難民が発生し,隣国チャ ドへ難民が避難し,チャドとの関係も悪化し ている。 ダルフールにおける弾圧についてICC(国 際刑事裁判所)は2008年,スーダンのバシル 大統領をジェノサイドの罪,人道に対する罪, 戦争犯罪の容疑で逮捕状を請求,これに対し スーダンは反発を強めている。 スーダン内部では政府に対して,SPLM/A を含む,民主勢力,反政府勢力が結集し,国民 民主同盟(NDA)が組織されている。NDAは 1995年に,複数政党制,人権尊重に基づく民 主的制度の確立,宗教・人種を問わず市民とし ての平等な権利の保障,地域間の格差解消を 目ざす極めて革新的な内容の 「アスマラ会議 ※3 独立後のスーダン西部の地域。イスラーム化は進んだが, 非アラブ人が居住する地域。 【参考文献】平野克己 「 新国家南スーダンの命運を握る米中の連携」(IDE-JETRO アフリカ情勢2011.7) 栗田禎子 「 『包括和平協定』 成立後のスーダン 現状と展望」 アフリカレポート№42(アジア経済研究所,2006.3 )