...

激動の歴史を歩んだショパンの故郷 ポーランド 9日間

by user

on
Category: Documents
16

views

Report

Comments

Transcript

激動の歴史を歩んだショパンの故郷 ポーランド 9日間
激動の歴史を歩んだショパンの故郷 ポーランド 9日間
2012/4/19~4/27
ポーランドと言うとショパンの故郷と負の遺産・アウシュビッツを思い出すがそれ以外は頭に浮かんでこない。ツアーもバルト三
国と同時に組みこまれたり、7日間コースであったりと見所が少なのかなと思っていた。ところが行ってみると各地の町の旧市街
はヨーロッパの他の国と比べても遜色なく十分見ごたえあるものばかりだった。しかし、そのほとんどが戦争で破壊され,戦後間
もなく 限りなく以前と同じ形にポーランド人の手によって復元されたものであった。アウシュビッツも見学したが全体として暗
いイメージは感じなかった。しかし数々の遺品が展示されている所では写真を撮る気分にさせられなかった。最近では若い人たち
の見学も増えてはいるが、
もっと大勢の若者に来てもらい
「歴史は繰り返す、
事実を見てこれからどうあるべきかを考えてほしい」
と言う日本人ガイドの話が印象的だった。ポーランドに来て、ここでも「命のビザ」の話があったことを初めて知った。第一次世
界大戦のあと、反ソビエト思想の大勢の政治犯などが家族とともにシベリアに抑留された。抑留中に孤児となってしまった子供た
ちを母国ポーランドに帰国させようという運動が起きた、唯一申し出を受け通過ビザを発給したのは、まだ国交を結んでいなかっ
た日本だけだった。765人の孤児達の健康を回復させたのちポーランドに送りだした。日本もこんなに深く関わっていたポーラ
ンド、機会があればもう一度行ってみたい国だった。
1日目 4 月19日(水) セントレア~成田~コペンハーゲン~グダンスク
(曇)
今回は成田出発のツアーなのでセントレアからは我々だけ。8:20のANA338に乗るためK さんに送ってもらって6時半に
家を出る。成田からはANA と同じスターアライアンスグループのスカンジナビア航空(SAS)でコペンハーゲンを経由してポー
ランドのグダンスクまで。チケットも最終のグダンスクまで3枚出て、荷物もグダンスクまで預ける。SAS の座席は右の2人席
をリクエスト。737-300は満席(150 人)で10分ほど遅れ定刻離陸。富士山が雲の上から顔を出して見送ってくれた。成
田到着後乗り継ぎ通路を通り手荷物検査とパスポート・コントロールを通りそのまま出国。この流れは初めてで歩く距離も短いし
利用する人も比較的少なく便利だ。手数料が現地より日本で換える方が安いとの旅行社のアドバイスがあり空港でポーランドの通
貨ズウォティに両替する。1ズウォティ約31円。成田では搭乗ゲートで添乗員と待ち合わせ。11時少し前に搭乗カウンターか
ら呼び出され無事添乗員のO さんと無事合流。座席の配列は2×4×2(後方2×3×2)のA330-300(300 人)は満席。
定刻11:40エプロンを離れる。11時間10分のフライト予定とアナウンスされる。JAL が割りこんだりして離陸したのは
12:05でSAS の後ろにも6機並んでいる。新潟上空では信濃川と阿賀野川が海に流れ込み茶色に変色しているのが見える。
13時少し前ドリンクサービスが始まる。飲めない人には関係無いがアルコールはドリンクサービスと食事の時間以外は有料。燃
油サーチャージ、サービスの有料化とますます旅行代金が高くなって困ったもの。映画の日本語版への切り替えがわからないので
CA に教えてもらうが数は少ない。途中二回の食事と軽食が配られる。13:30ハバロフスク上空で昼食。サーモン添えサラダ、
焼き肉のたれがかかった牛肉と温野菜と俵ご飯、ジャム添えケーキそれにパンが美味しそうだったので2個貰う。パンは今晩の夜
食用に持ち帰りする。
18:20軽食 おにぎりかチーズ入り野菜サンド。
途中最後尾のギャレーでおにぎりとサンドを仕入れる。
21:30 2回目の食事(朝食)パンとチーズ入りサラダ。SAS の機内食はどれも美味しくほぼ完食。23:00(現地16
時)コペンハーゲン到着で約11時間のフライト。乗継の手荷物検査ではベルトも外し水はすべて没収される。17:25定刻よ
り少し遅れて離陸した満席のボンバルディアCRJ-200(50人)の小さな飛行機は一気に上昇しグダンスクに向かう。背中が押
し付けられるような感じの急上昇は久しぶり。18:15小さなグダンスクの飛行場に着陸。外は結構寒くフリースを持ってきた
のは正解か。マフラー、手袋、ダウン姿のツアーの人も。19:20海岸そばのポセイドン・ホテルに入る。まあ普通のホテル。
エアコンが効きそうもなく、毛布一枚では寒そうなのでもう一枚貰う。飛行機で仕入れたおにぎりとサンドイッチを食べ、ゆっく
り風呂に入って21:30ベッドへ。通常ポーランドに入るツアーはホテルに入るのが深夜になることが多いそうだが、今回は早
くホテルに入れて良かった。今回からIC レコーダーで録音していくことで夜日記を書くことが無くなる予定。
2日目
4月20(金) グダンスク~マルボルク~トルン
(晴れ~曇)
一度目を覚ますが4時半起床。外は薄暗く小雤が降っている。庭の大きな3本のポプラがライトアップされ奇麗だ。6時前、雤も
やんだので散歩に出る。ロビーで海岸に出る道を聞いて表に出ると少し涼しいが寒いとい
うほどではなく気持ちが良い。服装は長袖、ベスト、風邪よけ。200mほど歩くと自転
車専用道路がある公園を横切った先に幅50m ほどの奇麗なバルト海の砂浜が左右に延
びている。どのぐらいあるのか長すぎて左右ともその先端はかすんで見えない。海水浴シ
ーズンには賑わうことだろう。6:30朝食。ツアーの参加者は20名で夫婦3組、女性
2人組4組、一人旅6人(男性2、女性4)後で分かったが女性二人組はすべて旅友だっ
(バルト海と砂浜 )
たのにはびっくり。9:00世界遺産でもあるグダンスクの旧市街観光に向かう。グダン
スクはバルト海沿岸の港湾都市で千年以上も歴史のあるポーランドでも最も美しい街の一つ。旧市街にはゴシック、バロック、ル
ネッサンスと言った各時代の建物が建ち繁栄を謳歌したが、一方激動の歴史をたどりたびたびその帰属を替え第一次世界大戦後に
は国際連盟の管理下に置かれたこともある。第二次世界大戦では大きな被害を受けたが、市民の力によって復興を果たした。この
町に来るまで、のちの大統領のワレサ委員長が率いる連帯による民主化への労働運動のあったグダニスク造船所のあった町だった
と気がつかなかった。
9:30バスを降りて旧市街に向かう。
旧市街は海岸から5kmほど内陸にあり大きい運河で結ばれている。
ガイドブックに書かれているメインコースの流れとは反対のコースで入る。新モトリヴァ運河の手前の聖バーバラ教会(多分)の
前でバスを降り旧市街を目指す。新モトリヴァ運河と旧モトリヴァ運河(旧港)の間の中州に建つレンガ造りの円柱の塔はミルク
缶ゲートと呼ばれる15世紀の要塞。ドイツ騎士団が造ったレンガ造りの城壁が戦争で破壊されたままで残されている。新モトリ
ヴァ運河を渡ると旧市街。正面に緑の門、左右に15,6世紀の住宅や倉庫群が並ぶ。運河沿いにある当時の使われていた木造ク
レーンを見に行く。クレーの下からハムスターの回し車のような大きなサークルが並んで
二つあり、軸の部分に太いロープが巻かれている。三人の人がサークルの中に入って歩き
サークルを回してクレーンを動かしていたそうだ。この辺りには運河を挟んで両側にかつ
ての倉庫群が広がっている地域。聖マリア門から正面に聖マリア教会が見える聖マリア通
りに入る。建物の前が小さなテラスのような階段になっていて、テラスにはレリーフが飾
られている。開店準備中のお店が多く外を掃除する店員さんらしい娘さんにカメラを向け
(旧港と木造クレーン)
るとポーズをとってくれる。この通りにはポーランド名産の琥珀を売る店が多く、地下に
もその店がある。聖マリア教会(1502)はレンガ造りとしては世界最大級の建物で星形円形の天井がある。尖塔の高さは82m、
480段の階段を上り屋根の上の上ることも出来る。その隣の朱色の建物は王室礼拝堂。聖マリア教会を通り過ぎ美しい建物が並
ぶ道を進むと正面にルネッサンス様式のピンクとグレイそして金色の奇麗な建物の大武器庫が建っている。武器庫とは思われない
見事な建物でグダンスクの家の屋根の形はこれを真似したそうだ。戦争でそのほとんどが破壊されたが1945年に再建されたも
の。正面の形も素晴らしいが裏から見た大武器庫の形も素晴らしい。14世紀に町の防衛のために建てられ、その後囚人を閉じこ
めるために使われた14世紀に建てられた窓の少ない塔は囚人塔。今は囚人が琥珀に代わって琥珀博物館になっている。その後ろ
にグダンスクの表玄関、白いレンガ造りの塔は高い門(1588)がある。その向かいにあるのがドゥウガ通り(王様の道)の入口
にあたるオランダ・ルネッサンス様式の黄金の門(1614)
。鼠色に塗られた建物は黄金と言う感じはしない。門の壁に戦争で破壊
された時のドゥウガ通りと旧港方面の写真が飾られている。建物のほとんどが壁の一部を残しているだけで道路はがれきの山。復
興にかけるポーランドの人達の思いは長年のいろんな国の支配者に対する抵抗の力であったという。幅30m ほどのドゥウガ通
りは歩行者天国。両側にレストランや商店が並んで午前中なの地元の人や観光客で賑わっている。お金持ちの家だったウプハーゲ
ンの家は他の家が同じ高さで4階建てなのに3階建てになっている。お金持ちの象徴なの
か?グダンスクのランドマークでもある市庁舎(1561)は82m の尖塔を持ち展望台に
なっている。内部は歴史博物館になっていて16世紀頃の品々が展示されているそうだ。
ドゥウーギ広場の中央にグダンスクの守護神ネプチューンの噴水があるが残念ながらメ
ンテナンス中で梯子がかかり水を吹き上げていなかった。レストランは市庁舎の一角にあ
る共産党時代からの古いレストランPALOWA。予約は12時なので30分ほどのフリー
(ドゥウガ通り)
タイム。トイレを借りに琥珀屋さんに。琥珀は木(主に松)のやにが地下に長年埋没して
固化したもので樹脂だが鉱物のように固い宝石でグダンスク沿岸で多く産出される。本物は水に入れると浮く、と行って試してみ
てくれた。I さんと一緒に市庁舎の展望台に上ることに。Ya は他の女性とウィンドーショッピングへ。市庁舎に行くと中からTさ
んが出てきて、
「今日は上れないそうだ。しかし中は見ごたえある」との話で中に入ってみる。軍のOBらしい団体がこっちを見
る。装飾が奇麗ならせん階段、壁や天井に描かれた絵や飾りは16世紀のものだとか(ガイドブック)
。これがヨーロッパでも最
も美しい部屋の一つ、赤の広場かな?どうもこの仲間に入るのは場違いな気がして早々に
退散。Iさんはお金を払って見てきたそうだが我々はただでちょい見。仕方がないので聖
母マリア教会の展望台に上ることに。5ズォティを払いいざ。最初の階段は狭い螺旋階段、
途中薄暗い中に金網が張ってある所があり、何やら工事している様子も。目が慣れてきて
いろいろ見てみるとどうやらここが星形円形天井の屋根の部分らしい。ここから上は鐘楼
の外壁部分があるだけ。外壁に沿って階段が付いているが考えてみれば怖い。大きな鐘が
(聖母マリア教会から旧市街を望む)
3つあるが今は使われている様子が無い。10段ごとに段数が書かれている階段をさらに
上るとやっと392段で明るくなり鉄板の階段に変わった。やっと5m四方ほどの展望台に。鐘楼の屋根の間に後で作ったような
展望台は5m四方ほどで狭くて、4方の屋根が邪魔で眞下が見えない。それでもここから見る景色はすばらしい。旧港のある運河
やよく見るとその先のバルト海もみえる。市庁舎の82mの時計塔も下の方に見える。旧市街の家並みはまるで積み木で作られた
ように赤い屋根の家が整然と並んでいる。快晴で無いのが少し残念。有料望遠鏡の管理人らしい若者に階段の数を聞いたら409
段で高さ83mだという。市庁舎より1m高いのかな?一緒に写真を撮って、別れ際良い旅をと言ってくれた。下に降りて教会内
の写真を撮る。ステンドグラスは破壊を免れたオリジナルで16世紀初めのもの。12:00昼食のレストランPALOWA はゴシ
ック調の天井、椅子は木製で皮張り、ウェイトレスの衣装は中世の衣装となかなか雰囲気がある。メニューはマッシュルームのか
ら揚げ、シーバスのレモンパイ包み、ストロベリー・シャーベット。マッシュルームは美味しかったが他はあまり…。13:10
レストランを出て50kmほど南東にあるマルボルクへ向かう。田園地帯を走る。山らしい景色はまったく見えず。ポーランドと
言う名前は野原を意味し国の80%は平原で東の方に2千m級の山が少しあるだけという。全く変化のない景色が続く。14:2
0マルボルクに入る。ヴィスワ川対岸の写真スポットでバスを止め、世界遺産のゴシック様式で赤いレンガ造りの奇麗なマルボル
ク城を撮る。お城に行くのにはヴィスワ川にたった一つしかない橋を渡って行く。その為シーズンになるとすごい渋滞で1時間か
かることもざらだが今回はすんなり渡りお城に向かう。この城は北方十字軍のドイツ騎士団により1274年に造られたがドイツ
騎士団とポーランド王国の間でしばしば戦いがおこり最終的にマルボルクからドイツ騎
士団は一掃された。第二次世界大戦の末期ドイツ軍がマルボルク城に立てこもりソ連軍と
激しい戦いを行い城はほとんどが破壊された。戦後市民の手で修復されたが今でも城内の
マリア大聖堂だけは破壊されたまま残されている。14:55遅れてきたガイドとともに
城内へ。この城は低城、中城、高城の三層からなる大きな城だが低城は駐車場になってい
てその姿が無い。中城の入口から中に入る。元々は中城の周りにはお堀があったが今は無
(マルボルク城)
い。入口の上にキリストを抱いたマリアのレリーフが掲げられているところからマリアの
お城とも呼ばれている。中城と低城には800人の兵士がいた所で台所や食堂などを見ることが出来る。一部の部屋には下の部屋
に焼き石を置きその熱が上の部屋に流れるようになっていて暖房が出来る床暖システムがあったのにはびっくり。堀の上の跳ね上
げ式の橋を渡って高城へ。大小30~40cmほどの石の大砲の弾がごろごろ転がっている。中庭に入ると井戸がありその屋根の
上にはペリカンの像が掲げられている。ペリカンは「食物が無いと自分の身を子供に与える」と言われ、騎士たちに示したのだと
か。金型の上に金属を置きハンマーで叩くだけの当時やり方でのコイン作りを売っていた。戦争で破壊された当時の写真が掲げら
れているが、わずか外壁が残っているだけで原型をとどめてない。グダンスクの街の様子と一緒だ。マリア大聖堂に入る。入口部
分はオリジナルで1280年のもの。
8年前から開放しているが修復することが決まっている。
修復するには10年以上かかるが、
このまま残した方が良いという意見もある。貴重な財産でもあり是非このままの形で後世に残して欲しいと思う。16:15見学
を終えトルンに向かう。牧草地と林が交互にあらわれる変化が無い景色が続く。18:20トルンのホテル、旧市街まで5分ほど
の所にあるメルキュールに到着。19:00ビュフェスタイルの夕食は種類も少なく、美味しくもない。 明日は5時半に起きて
旧市街の散歩に行こう。 21:45ベッドへ。
3日目 4月21日(金) トルン~ボロツワフ
(晴れ)
5時起床。6時半Iさんと一緒に旧市街の散歩に出る。トルンは紀元前12,3世紀ごろ要塞として建設され、その後ドイツ騎士
団により今の地に移された。14,5世紀頃にはポーランド最大規模の商業都市として発展した。第二次世界大戦中ナチスドイツ
に占領されたが戦闘地とは離れていた為旧市街のほとんどが震災から免れたと言う世界遺産の街。地動説を唱えたコペルニクスの
生まれた町としても有名なところ。旧市街の入る道を監視塔のあるビルに入ろうとしていた2人に道を聞くと、ドアを開けて待っ
ていた管理人(?)がまたドアを閉めてしまった。道を聞かれた人は締め出されてしまった。この厳重な管理体制の建物は?後で
聞くと留置所を備えた裁判所とのことだった。人がほとんどいない旧市街のプラネタリュ
ーム、市庁舎、コペルニクスの像、聖母マリア教会、聖ヨハネ大聖堂と旧市街を散策。中
世の面影を残す建物の中を独り占めならず3人占め。ヴィスワ川の出るとまさに太陽が川
上から昇りだしたところ。朝日が映し出されたヴィスワ川は幅100m以上あろうかと思
われる大きな川で流れも速い。何人かの釣り人が糸を垂れているがまだ収穫は無いそうだ。
川沿いに沿って13世紀にドイツ騎士団が作ったレンガ造りの城壁が残されている。6:
(市庁舎)
45また来た道を引き返しホテルに戻り朝食。8:30徒歩で市内観光に出発。城壁に沿
って旧市内に向かう。雤が降ってきた。熊本の81歳のおばあちゃん、傘を車に忘れてきたと大騒ぎ。添乗員のKさんが貸してあ
げ、Kさんは現地ガイドと合いあい傘。しばらくして雤もやむ。城壁の見張り台のような3階建ての建物は先端で1.4m傾いた
斜塔。地盤沈下で傾いたがこの8年間変化はないと言うが現在も使われている。船乗り通りに通じる門は14世紀に作られたオリ
ジナル。船から降りた舟乗り達はこの門を抜け旧市街に入った。彼らを14世紀に建てられた聖ヨハネ大聖堂の大時計が迎えてく
れたという。この辺りは朝散歩した所。旧市街広場に入る15 世紀に立てられた旧市庁舎の中庭に入る。市民から不要になった鍵
を提供してもらい溶かして作ったトルンの街のジオラマが飾られている。中は博物館になっているが今回は外観だけ。市庁舎の前
になぜかバイオリンを弾いた船乗りの像が立っている。昔トルンを洪水が襲った時に漁師がバイオリンを弾いて洪水をおさめたと
言う言い伝えがある。洪水が引いた後にカエルが残っていたので像の周りにカエルが置かれ、そのカエルをなぜるとお金持ちにな
ると言う。大勢の人になぜられたカエルは金色に光っていた。広場をはさんで緑色の尖塔をもつ聖霊教会が立つが今は改装中で足
場が組まれている。
その隣にはレンガで造られたゴシック様式の郵便局が立つ。
朝来た時にはまさか郵便局だとは思わなかったが、
言われてみると電気がこうこうと付いていた。14世紀後半に建てられた聖母マリア教会に入る。レンガ造りとしてはヨーロッパ
一大きい建物だとか。
すべての窓には27mの天井までステンドガラスがはめられ、
壁に14世紀に描かれた壁画が描かれている。
パイプオルガンは17世紀のもので見事な装飾が施されている。天井は星型で可愛い模様が描かれている。9:30コペルニクス
の生家が開く10時までフリータイムとなる。トルン名物のピュニルクの店をのぞいたり繁華街のスゼェロカ通りを散策。レンガ
を敷き詰めた通りにはポーランド各地の紋章を描いたプレートが埋め込まれている。グダンスクとトルンの紋章も見つける。再集
合してコペルニクスの生家へ。外人のグループ何組かがすでに開場するのを待っている。3階建て+屋根裏部屋の建物の中に当時
のトルンの町を描いた絵、コペルニクスの家系図、地動説を説明する天体図などが置かれている。最近まで写真が駄目だったらし
いが、今はフリー。見学を終え瓦礫しか残っていないドイツ騎士団の城跡を見ながら旧市庁舎にあるレストラン「ストロ・モース
カ」で10:50 ちょっと早めの昼食。旧市庁舎の一角をレストランにした内部は中世の面影を残している。メニュウーはヒラメの
ソテー、ブロッコリーのポタージュ、アップルの包みパイですべて美味しかった。12:00ホテルに戻り、ヴィスワ川に架かる
大きな橋を渡りボロツワフへ向かう。285km約4時間10分と旅のしおりにはあるが、この時間では行けず7時間ほどかかる
と添乗員のOさんから説明がある。皆も納得がいかないので高速を走ったらとか高速料金を皆で出そうかとか申し入れをすると、
これは高速道路を使った時間で実際には高速道路が無いので7時間ほど掛かる。計画担当者がよく知らないので高速道路で計算し
たものだから間違えているとの説明。
何回も催行しているのに直しておいてほしいものだ。
松林や田園の中をかなりの速さで走る。
今日は土曜日なので道路も空いているようだ。写真を撮る対象物が無い変化の無い風景の中を走る。どこまで行っても同じような
景色。2回トイレ休憩をして17:20 ボロツワフに入る。しおりの時間より1時間かかったが、7時間よりかなり早く5時間と1
0分。ドライバー、いい仕事するね!現地ガイドと落ちあい郊外にある世界遺産の百年記念会館から見学。ナポレオンとの解放戦
争における勝利100年を記念して1913年に建てられ、6000人余り収容可能な広大な円形の中央空間を持ち、当時としては世界最
大の鉄筋コンクリート製の建物だった。
現在でも展示会場やコンサートなどの催しに使われてい
る。今日はビューティーフェアーが開催されていてドームの中には入れなかった。写真や模型で
建設過程を説明していたが建物に興味のある人には面白いかもしれないが、
自分にははずしても
良い所。
百年記念会館の前に1984年に建てられた高さ96mの鋼鉄製の鉄柱のモニュメント
が立っている。そのうち壊されるだろうと言うことだった。この建物は大きな公園の中にありそ
の一角には日本庭園も作られているそうだ。16:30旧市街に向かう。ボォロツワフは6世紀
(百年記念会館)
頃にはスラブ人がすみ始め、その後モンゴル、ボヘミア、ハプスブルク、戦前まではドイツ
と複雑な歴史を持つ。第二次世界戦で町の70%が破壊され復興するに他の町より莫大なお金がかかっているそうだ。旧市庁舎広場はポー
ランドを代表する中世の広場で13世紀頃作られた。古い建物に囲まれた広場の中でもゴシック様式の旧市庁舎の建物は目を引く。市庁舎
の前には悪ことをした人を縛りつけて見せしめにした恥の柱が立っている。ヘンデルとグレーテ
ルと言う建物にかかるアーチは小人の世界への入口。この町には小人伝説があり旧市街のいたる
とところに30個以上の小人の像が置かれている。勿論小人の世界への入口にも何やら不思議な
小人が。何処が小人の世界かわからなかったが狭い路地に42軒もの肉屋がある肉屋の通りを抜
けてまた旧市街広場に戻る。O添乗員、ポーランドは5回目だがこの肉屋の通りに来るのは初め
てだとか。旧市街広場の隣にある塩の広場(花屋の広場)には花屋さんがズラーと並んでいる。
ポーランドでは家を訪問する時に花を持って行くのが習慣だそうだ。19:05 観光を終えホテルに
(市庁舎)
向かう。ホテルは旧市街まで徒歩で30分ほどの所にある。明日早く起きれたら散歩に来てみよう。19:20 ホテルに入る。周りに見ると
ころは何も無さそう。20:00夕食はスープ、ポーク、ミントのアイスでまあまあ美味しかった。下調べをギッシリ書いたA4紙を何枚
も持っている旅慣れたSさんと一緒。海外旅行100回を目指しているそうだ。10:45ベッドへ
4日目 4月22日(日) ボォロツワ~チェンストフォヴァー~クラフク
(晴れ)
6時から朝の散歩で昨日観光した旧市街に向かう。旧市街まではガイドは30分と言っていたがホテルで聞くと20分ほどとのこ
と。歩き始めると前方にI さんの姿を見つけ一緒に旧市街に向かう。I さんもカメラが好きでデジイチを2台も持ってきている。
交差点の横断歩道を挟んで向こうから地下にもぐり、こちら側の歩道に出くる数人の市民の彫刻がある。遊び心だろうか。なかな
か面白い。旧市街に入る手前の地下道では大きなシャボン玉を作ってパフォーマンスをしている人がいる。朝早くから練習だろう
か。
直径50cmほどで長さ3mほどの大きなシャボン玉。
こんなに大きいな実物を見るのは初めて。
15分ほどで旧市街に着く。
人はほとんどいない。昨日ゆっくり見えなかった小人を探しながら歩く。大きなボールを二人で運ぶ小人や消防士の小人。あちら
こちらにあって楽しい。花屋の広場にはお客の姿はいないが店はもう開いている。旧市街広場にも誰もいない。昨日と同じ小人の
世界へ入り肉屋の通りを経て今日はオドラ川まで行ってみる。湖のような川には橋が3本掛かり白鳥や鴨が泳いでいる。旧市街広
場を経由して7:25ホテルに戻り朝食に。外人客も多く食材の種類も豊富で美味しかった。9:20チェンストホーヴァーに向
かう。第二次世界大戦で使われた戦車や高射砲が展示された軍事公園の前を通過。外の気温は12度ほどで冬の名古屋ほどか。今
までよりの若干林の中が多い感じはするが相変わらず変化のない景色の高速道路を走る。途中で降った大雤のため道路が冠水し一
車線が通れなくなり渋滞。我大型車は冠水した道路を水しぶきを上げ無事通過。ポーランドの平均年収は90万円ほど、消費税2
2%だけど生活必需品は3~5%で医療費にはかからないなどポーランドの基礎的な説明がある。座席が前のMさんのガイドブッ
クにはメモ書きが一杯。後で見せてもらおう。Mさんのお母さんの実家が高浜で半田も知っているそうだ。高速道路沿いに鳥の巣
のようなヤドリギがたくさん見える。ヤドリギは落葉樹に寄生する常緑の小低木で栄養は寄生先から吸収し一本の木にいくつも寄
生している。1度トイレ休憩をして小雤の中12:10チェンストホーヴァに入る。住宅街の中にあるレストラン・バイキングで
昼食。ピエロギ(水餃子)
、チキンのグリル、ケシの実のケーキ。チキン以外はまあまあ。13:10 昼食を終え黒いマドンナのある
ヤスナ・グラ修道院へ向う。この修道院は1382年に建てられ、16世紀に神学者たちが奉納した黒いマドンナの絵画がある。
かつて侵入したモンゴル人がこの絵画を持ち出そうとしたところ鉄のように重くなり持ち出せなかったという伝説を持つ。また1
7世紀のスウェーデン軍の攻撃にも耐え、当時のポーランド国王から聖母マリアはポーランドの女王と宣言され、それ以来このマ
ドンナはポーランド国民の篤い信仰を集め、年間5千万以上の巡礼者が世界各地から訪れると言う。13:50サイモン神父の案
内で信者で満員の教会内に入る。信者にパンを与える聖体が行なわれている。聖体が終わると信者で満員の中を神父に引率され奥
へと進む。丁度マドンナが置かれた祭壇のを隠すようにかぶされた柵のような覆いが外されたところ。柵の間から褐色のマドンナ
の姿が見える。またミサが始まった。さらに奥へと進む。信者が不思議そうに見ている。
写真も自由に撮って良いと言われるし、我々も不思議だ。ミサ中に祭壇の脇を通り奥にま
で進むなんて。柵越しに見ていたマドンナが柵の内側から見えるところまで来た。隣では
説経をしている神父さんが立っている。パウロ二世が身につけていた袈裟があると説明し
ていたが見つからなかった。周りにはマドンナのおかげで病気や怪我が治った信者たちか
らの寄進品で飾られている。かつて日本で布教活動をし、のちアウシュビッツで死刑を宣
(褐色のマドンナ)
告された人の身代りになって殺され、聖人にもなったコルベ神父が日本に来る前にこの修
道院でお祈りをしたという。修道院には博物館もあり、ヨハネパウロ二世の肖像画やワレサ元大統領のノーベル賞のメダルなどが
飾られている。ここはなぜかカメラ禁止。15:30ユーモアたっぷりのサイモン神父の案内はここで終わり。これはビジネスな
のかサービスなのか?15分のフリータイムが出来たのでTさんと鐘楼に上って見ることに。鉄板で出来た階段が鐘楼のレンガ造
りの内壁に沿って付いている。壁には褐色のマドンナの絵も掛けられている。時間が無いので途中の展望台でストップ。360度
の雄大なパノラマが広がる。山らしい景色ははるかかなたに見えるだけ。15:45クラフクへ向かう。一時間ほど走ると大雤で
片側2車線のうち1車線が冠水し渋滞している。バスは冠水している車線を水しぶきを上げながら走り抜ける。景色は今までとち
ょっと違い小さな丘や針葉樹の森、白樺林の中を走り、古城も目に入る。桜のような白い花が咲いた木もあちらこちらに。道路の
そばに飛行場まで現れた。道路の気温15度の表示でそんなに寒く無い。17:45クラフクの町に入る。18:00旧市街から
少し離れたところにあるホテル・シンポジュムに入る。周りは何もなく散歩が出来そうもないが10分ほど歩くと大きなスーパー
があるそうだ19:00夕食はグリンピースのスープ、ミートボール、アップルパイ、いつも同じみのキャベツの漬物(カプスタ・
クファショナ)が付く。味はどれもまあまあ。20:00夕食を終え小雤の中近くのスーパーに出かける。リンゴ115円/k、
オレンジ100円/k、ジャガイモ50円/2.5k、30cmほどある大きなパンが50円と食料品はかなり安い。衣料品はそれ
ほど安くない。19:20買い物を終えホテルに帰り、風呂に入り明日の支度をして22:30ベッドへ
5日目 4月23日(月) クラフク~オシフィエンチム~ヴィエリチカ~クラフク
(晴れ)
5時に起きたが今日は朝の散歩も無く
(したくても歩く所もない)
のんびり。
6時半の朝食でSさんOさんと7時半まで話し込む。
今日はポーランド観光の目玉オシフィエンチム(ドイツ語でアウシュビッツ)とヴィエリチカ岩塩抗の二つの世界遺産の観光。8:
00オシフィエンチムに向かう。昨日来た道を一時間ほど戻る。往復で2時間の無駄で、もう少しうまく計画出来ないものかと思
う。昨夜は一晩中大雤が降っていたそうだが今日はまあ良い天気、外は12度でやや肌寒い。9:05収容所に到着。ポーランド
に来て初めて他の日本人ツアーや観光人ツアーに会う。赤いレンガ造りのサービスセンタ
ーは何だったのだろうか。9:25ただ一人の日本人ガイド中谷さんの案内で収容所に入
る。専用のガイディングレシーバーが用意され中谷さんのガイドを聞くことが出来る。有
名な「ARBEIT MACHT FREI」
(働けば自由になる)の文字が掲げられた入口から収容
所の中に入る。Bの文字が上下逆さまになっているが、作らされた収容者のせめてもの抵
抗の証と言う説がある。建物のほとんどが修復されたもので赤いレンガ造りの建物は新し
(アウシュビッツの入口)
く奇麗だ。収容所の周りには高圧電流の流された鉄条網で囲まれている。中谷さんの話で
は220Vと言っていたが?建物外観からはこの中で何が起きていたかを想像することは難しいし、ポプラ並木も60年たったの
で植えかえられた、と説明。最近は若者たちが訪れることが多くなったとかで今日も大勢の若者たちが団体で来ている。28棟あ
る囚人棟から他の団体とかち合わないように案内してくれた。棟毎に展示物が異なり、当時の写真が飾られた棟、1940年~1
945年に130万人が収容され内110万人が殺されたと説明している棟、ポーランド人も14万から15万人が殺されたとあ
る。中には山のようなうず高く積まれた女性の髪の毛、ちょうど自分の孫が履いているような小さな子どもたちの靴、メガネ、義
手義足の山が展示されている棟もある。さすがここでは写真を撮る気分にはならなかった。遺品の前でも写真は自由だが収容され
ていた人の家族のことを思って髪の毛の展示してある所ではカメラを禁止された。収容者が銃殺された死の壁には今も花束がささ
げられている。11号棟には餓死刑を言い渡された囚人の身代りになり殺されたコルベ神父が餓死させられた所。戦後命を助けら
れた人の家族からこの事実を明らかにされパウロ二世によりコルベ神父は列聖された。助
けられた人は94歳で天寿を待とうするまでコルベ神父の関する講演を世界各地で行っ
たそうだ。収容所の一角に所長のヘスが住んでいた家がある。その側には死体を焼いた焼
却炉があり、さらにヘスが戦後絞首刑にされた絞首台がある。中谷さんは「ここで行われ
ていた事実を大勢の人に見てほしい。またここに来たことで、いろいろなことを再確認す
るチャンスにしてほしい」と話していた。アウシュビッツに関しては本も読み写真も見た
(収容所が並ぶ)
がその時は戦争本の一つとして感じなかったと思うが、今実際のものを見てみると世界の
負の遺産という表現がぴったりと当てはまり、それでもなお無くならない民族戦争、宗教戦争の愚かさを感じてしまう。11:1
0第2アウシュビッツ・ビルケナウ収容所に移動。5分ほど走るとアウシュビッツと言うと必ず出てくる線路と死の門に到着。ま
ず死の門の見張り台に上り収容所全体を眺める。1.75k㎡という東京ドーム37個分に相当する広大な土地に300以上のバ
ラックが建っていたが、レンガ造りの建物は一部ダイナマイトで破壊され、木製のバラッ
クは戦後再建用の材料として使われたものを再現したもので現在残っているのはそれぞ
れ30棟ほどであろうか。死の門をくぐった引き込み線はまっすぐ敷地の奥まで伸びてい
る。貨車が1輌置かれているが当時のものであるそうだ。木造の収容所を見に行く。収容
所の建物は馬小屋として使えるように作られたそうで、木の三段式のベッドがまるで馬が
並ぶように奥まで続いている。収容所の建物の中にはトイレが無く、200人ほどが並ん
(ビルケナウ収容所・死の門)
で用を足す専用のトイレ建物が作られている。ベッドやトイレなどは当時のまま残されて
いる。この収容所には最大で9万人が収容され百数十万以上の人が亡くなったと言う。そのほとんどが労働に従事し、-20度に
もなる冬の寒さで凍死した人も数多くいるという。中谷さんの案内はここで終了。中谷さんのガイドに会うチャンスはなかなか無
いそうで、日本語の話を直接聞くことで平和の大切さをしみじみと感じることが出来た。中谷さんも言っていたように、世界中の
人々、特に若者たちに事実見てもらい、そこからこれからの世界はどうあらねばならないか考えてほしいものだ。11:50見学
を終了し、世界遺産・ヴィエリチカに行くため朝来た道を引き返す。13;00クラフク市内を迂回しヴィエリチカに入る。ヴィ
エリチカ岩塩抗の前にあるレストラン・マキシムで昼食。ホワイト・ジューレック(スープ)
、ポークンのグリル、リンゴのケー
キでどれもまあまあ。14:30昼食後建物の後ろにエレベーター昇降用の大きなドラムの付いた巻揚げ機らしき構造物がある岩
塩抗の入口に移動。本来はまず64m地下までは8人乗りのエレベーターで降りるのだがあいにく今日は点検中とかで階段を歩い
て降りることに。階段は木製で7段下りると踊場がありそこで方向を変えてまた7段下り
る。と言う繰り返しでほぼ一まっすぐに降りてゆく。踊り場の数は53で階段の数は37
1を約10分で降りる。遅れずについてきた81歳のおばあちゃんには脱帽。ここから専
門のガイドについて岩塩抗の見学を開始する。1250年頃~1950年頃まで水が出て
採掘できなくなるまで稼働していた。64m~325mの深さまで複雑にいりこんだ採掘
抗の2.5kmが公開されている。世界遺産に登録された最初の12の内の一つである。
(ヴィエリチカ岩塩抗)
周りを木で補強された高さ3mはば4mほどの坑道を進むとところどころに広場があり、
昔の採掘の仕方を展示しり、岩塩で作られたコペルニクスの像、小人の像などが置かれている。屋根がすすけた1383年の火災
現場のあとは火を消すのに3カ月かかったと言うことだ。昨日出来たばかりと言う真新しい階段でさらに90mに降りる。階段は
定期的に作り替えているそうだ。大きな空間の礼拝堂にはマリア像や最後の晩餐、ローマ
保王の像まである。天井には豪華なシャンデリアがぶら下がり、これも岩塩からできてい
る。掘った岩塩をトロッコが使われるようになるまでは人力、そして馬で運んでいたそう
で、馬はこの地下で一生を過したと言うことだった。岩塩抗の中は年中15度前後で暑く
ン寒くいもない。デジカメで自分撮りをしていた若者の写真に後から写りこんでやったら、
モニターを見てびっくりして大笑い。ブラジルからの観光客だとか言っていた。それにし
(聖ギンガ礼拝堂)
てもよくぞこれだけのものを地下深く掘り上げ色々な岩塩の彫刻など残したものと感心
する。16:50最後は2階建てのエレベーターでやっと地上に出る。30分のフリータイムで岩塩を買う人も多い。17:20
クラフクへ戻る。ヴィスワ川越に眺めるヴァヴェル城は美しい。18:40一旦ホテルに戻り旧市街にあるレストランに向かう。
バスを降りてヴァべル公園を横切り旧市街の中にある木馬の看板がかかったレストラン・Konik na Biegunnach(揺れる木馬)で夕
食。内部には木馬の絵があちこちに飾られていてシンプルな感じが良い。ヌードル入りチキンスープ、ロールキャベツ、ポーラン
ドの伝統ケーキはどれもおいしかった。ロールキャベツの皿は40cm ほどもあろうかという大きなものでそこにまた大きなロー
ルキャベツが乗っている。しかしポーランド料理は全体にやや塩味が強い感じがする。20:00夕食を終えホテルへ。途中ヴァ
ベェル城が見えるがライトアップされていない。観光客からすると残念な気がする。ホテルに戻ってからI さんにポットを借りて
コーヒーを飲む。久々のコーヒーは美味しかった。23:00ベッドへ
6日目 4月24日(火) クラフク~ワルシャワ
(晴れ)
5時起床。今朝は散歩なし。6:30の朝食時、Y さんがプラグを昨日のホテルに忘れたそうなので予備のプラグを貸す。最近の
旅行ではプラグを貸したり、予備のメディアを分けてあげたりが多い。写真好きなI さんは、撮った写真を販売サイトで売ってい
て「Mac さんもやってみたら」と言われる。小遣い程度にはなるそうで帰ったら考えてみようかな!朝食後出発前にスーパーに
パンを買いに行く。大きなパンが60円ほどで安い。9:00ホテルを出発。今日は世界遺産の街・クラフクの市内観光と電車に
乗ってワルシャワへ移動の日。今日のガイドは日本語を話すエバさん。9:50バスが停車したが降りる気配なし。何やら前の方
でごそごそしている。旅慣れたS さんが体調を壊したらしく観光についていけそうもないのでどうするか相談しているらしい。
結局今日の観光はやめてバスでワルシャワのホテルに先に移動することになった。旅行の下調べをぎっしり紙に書いて持ってきて
いたし、昨夜も遅くまで整理していたらしい。ここまで来てさぞかし残念なことだろう。
この町は大戦中にドイツの司令部が置かれていたが、この街の歴史的価値を考え連合軍が
攻撃を断念したためほとんど中世の建物のまま残されている。旧市街の北にあるフロリア
ンスカ門より入りフロリアンスカ通りを通って中央市場広場に。まだ時間が早いせいか通
りも広場も人はそんなに多くない。200m四方もある大きな広場の中央には14世紀に
建てられ長さ100mもあるクリーム色をした織物会館がデーンと建っている。その隣に
(中央市場広場)
は旧市庁舎の中では唯一壊されずに残された3mの時計を持つ時計塔が建っている。また
織物会館の前にはポーランドを代表する詩人でもあり政治活動家でもあったアダム・ベルナルト・ミツキェヴィチと言う人の銅
像が建っている。織物会館の向かいには2つの塔を持つ13世紀に建てられた聖マリア教会が建つ。昔モンゴル軍がクラフ
クを襲った際、教会の塔の上から襲撃を知らせるためラッパを吹いていたラッパ手がモンゴル兵の弓矢で殺された。そのこ
とを悼んで今でも1時間ごとにラッパが鳴らされる。丁度10時でラッパが鳴っている。ここでもでも多くの花屋さんだけは
商売を始めている。写真だけ撮ってさらに南に進む。とにかくこの町は教会が多くあちこちに建っている。17世紀に建てられた
聖ペテロ・パウロ教会の柵にはキリスト12使徒の像が飾られている。旧市街の南、ヴィスワ川のほとりに建つヴァヴェル城は1
1世紀から16世紀までポーランド王の居城だった。城へ続く長い坂道を上って行くとメインの城門がある。門の脇に18世紀の
3国分割に反対して反乱をおこしたポーランドの英雄の像が立っている。城門をくぐると大理石を敷き詰めた大きな広場がある。
広場に端には桜だろうか、白やピンクの花が満開の木が何本もたっている。左側には18
世紀まで歴代ポーランド王の戴冠式が行われ、3つの礼拝堂を持つ大聖堂が建っている。
3つの礼拝堂はそれぞれ形が異なるドームを持っていて、その一つは金色のドームを持つ
ジグムント・チャペルだ。この大聖堂の中もみどころが沢山ありそうだが残念ながら外観
だけ。高校ぐらいの数人の女性が写真を撮れと言っている。写真を撮ったあと折りヅルを
あげたら、最初はけげんそうな顔をしていたが、羽根を広げてあげたらびっくりして顔を
(ヴァベル城)
赤らめて喜んでくれた。11:00セキュリティーチェックを受け旧王宮の五角形をした
中庭に入る。周囲を16世紀に建てられた3階建ての建物が囲んでいる。飾りなどあるものの内部から見たお城の建物は、美しい
形をした外観からは想像できないほどシンプル。
フリーの見学者はすぐ入れるが、
団体の見学は順番待ち。
内部は写真撮影はだめ。
減るもんでもないのにケチだ。メインは3階で大理石の階段を上がると、カラマツを使った天井はカラマツ天井と呼ばれ、金色に
ぬられて奇麗だ。壁には高さ20m長さ30mほどの大きなタペストリーが掛けられている。天井から沢山の顔がぶら下がった部
屋がある。一人の女性がマスクをしている。王様が裁判で間違った判決をしてしまったため、事実を知っている女性にしゃべらせ
たくないために口をマスクで覆ったとか。11:25見学を終了し来た道を戻り中央市場広場に戻る。12:10広場でフリータ
イム。Tさんと70mの旧市庁舎の塔に上る。レンガ造りの壁で囲まれ、一人がやっと通れるほどの狭く、鎖が付いている急な階
段を上る。やっと上った屋上は外に出ることはできず3方向にある窓から外を見るだけ。残念!それでもヴァベェル城や中央市場
広場、聖マリア教会など見え素晴らしい景色。下に降りると広場の周りには観光用の馬車がたくさん並んでいる。美しい女性の御
者を写させてもらう。12:30広場の側にあるレストラン・ボヘマで昼食。半地下でドーム状の内部はレンガ造りで雰囲気があ
る。メニューは麦のスープ、マスのグリル、チーズケーキでどれも美味しかった。ポーランドではどこでも食事の時に水道水だが水が出て
助かる。しかし硬水なので量はほどほどにしておく。13:10食事を終えワルシャワに向かうため旧市街を抜け、途中奇麗な外観のスウ
ォヴァユキ劇場と聖十字架教会を見ながらクラフク本駅に向かう。午前中と比べ沢山の人が出ている。火曜日なのに子供たちの姿も多い。
81歳のKさん「私は腰が痛くて早く歩けない」と言いながらも皆についてくる。13:35やっと駅に着く。改札も何も無くホームへ移
動。14:05発のワルシャワ行の列車。列車はすでにホームに入っている。左に通路があり3人ずつ相向かいの6人乗りのコンパートメ
ントにくじ引きで席決め。H夫婦、Yさん、Nさんと我々の6人で席は残念ながら真ん中の席。窓側だったNさんが写真は撮らないからと
窓側を譲ってくれた。コンパートメントは通路とは透明アクリルで仕切られ、やや狭い感じがする。事前に添乗員からコーヒーのサービス
があるとの説明があったが、サッカーのヨーロッパ・カップの準備で人手が無くサービスできな
いそうだと訂正あり。12:05定刻、何の合図もなく走りだす。町、林、田園と交互に現れ変
化が無い景色が続き、勾配やトンネルもまったく無い平坦な線路を走る。ワルシャワ近くでブド
ウ畑が見えたのは唯一の変化?17:06ワルシャワ中央駅に到着。約3時間の変化のない列車
の旅だった。
ポーランドの首都ワルシャワは今までの町と違い高層ビルも多く近代的な感じがす
る。現在地下鉄工事中であちこち掘り返されている。17:30駅から徒歩圏内で旧市街にも近
(2等コンパートメント)
いホテルに入った。今日は団体客が多いそうでロビーは混雑している。大都会の5星ホテルだけ
あって簡素な感じだがいいね~と言う感じ。18:40バスに乗り旧市街にあるレストランに。後で調べると歩いて5分もかからない1ブ
ロック離れたところにあった。Kresowa Hawira は外観は現代風だが中に入ると木組みの柱などで昔の民家風に作られていてなかなか
趣がある。ボーカルとギター伴奏の女性2人組の生演奏中。残念ながらポーランドの曲ではなく
ポピュラーばかり。チキンスープ、モツ添えソーセージ、マシュマロのケーキ。モツ以外は美味
しかったので完食。3歳の女の子がいたので折り鶴をあげたらお母さんの方が喜んでくれた。H
さんと一緒にテーブルで、
Hさんが仕事の関係で三河の会社にも来たことがあるいという話から
いろいろ盛り上がる。20:20ホテルに帰る途中で通りを挟んで向かいにあるライトアップさ
れた文化科学宮殿を撮りに行く。スターリンが贈ったと言う234mの塔を持つ高層ビル。し(
(文化科学宮殿)
かしワルシャワの人達からは嫌らわれてるとか。確かにこの町には不釣り合いな感じがするがラ
イトアップされた建物は奇麗だ。Yasu は他の女性陣と明日の買い物の下見にスーパーに行く。22:10備え付けのポートでお湯を沸か
しコーヒーを飲んで寝る。ポーランドではどこのホテルでもミネラルヲォターが付いていて助かった。
7日目 4月25日(水) ワルシャワ~ジェラゾヴァ・ヴォーラ~ワルシャワ
(晴れ)
5時起床。5時半にフロントで1/29000 の小さくポーランド語で書かれた見にくい地図を貰い散歩に出る。日本語版の地図を持
ってくるのを忘れてしまったので仕方がない。
聞いたオールドシティーの方向へ向かう。
4人の酔っ払いが大きな声で歌っている。
この国では散歩中に朝から酔っ払っている若者によく出会う。クラフク郊外通りを旧市街に向かって歩いているようだ。天球儀を
持ったコペルニクスの像を見つける。その後ろはスタシッツ宮殿(ポーランド科学アカデミー)が建つ。斜め向かいにはショパン
の心臓が埋められている聖十字架教会がある。エントランスの前には十字架を背負ったキリスト像が立っている。ここは午後から
見学する予定。朝日が昇り建物の上の方に陽が当たりだした。幅30mほどのこの通りは全面石畳で幅10mほどの歩道は一段高
くなっていて、その両側には中世に建物がズラーと並んで壮観。ワルシャワ・カレッジと書いた看板があるワルシャワ大学、ショ
パンが日曜日オルガニストをしていたヴィジトキ教会は奇跡的に震災を免れた(後で調べた)を見て6時15分を回ったのでそろ
そろホテルに戻る。日本語版の地図が無いのが残念、もう少し行くと大統領官邸やオペラ劇場があったのに。現在位置が分からな
いがL字で来たから逆L字で戻ることに。大きな公園がある。公園の入口に衛兵が守る戦没者慰霊碑のような建物が。銃剣を付け
た小銃を肩にした衛兵は直立不動で、そばに行くと何者だと言わんばかりに眼だけが動く。丁度仕事に行くのか一人の男性に出会
う。地図でここはどこと聞いたら、ホテルから直線のサスキ公園と教えてくれた。お礼に折り鶴を渡したら「娘にあげると」と喜
んでくれた。公園を通り抜け無事ホテルに通じる大きなマルシャウコフスカ通りに出る。歩道で倒れている人がいて2人が触った
り電話をかけたり。動く様子もない。凍死?夜中は4.5度。これでは凍死するかも。しばらして救急車の音が聞こえた。6:4
5無事ホテルに到着。さすが大都市の5星ホテルのビュッフェの朝食は種類も豊富で楽しくなる。ここで珍しいものを見つけた。
ネスプレッソと言うコーヒーメーカー。一人分円盤状に真空パックされた物をセットするとあとは自動でコーヒーを抽出してくれ
る仕組み。酸化しないので美味しいと言うことだろう。確かにポットに入れてくるコーヒーより美味しい気がする。8:30観光
の最後の日。ショパンの故郷と世界遺産の街・ワルシャワ歴史地区の観光に向かう。今日もSさんはホテルで休養。朝食を部屋に
届けてもらったようだが。今日のガイドは日本語が話せるヨランダさん。まずワルシャワの西55kにある、ショパンの生まれた
町ジュラゾヴァ・ヴォラに向かう。市内は朝のラッシュと道路工事で渋滞が激しい。相変わらず単調な風景が続く。ポーランドは
コウノトリ(実際はシュバシコウ…赤いくちばしのコウノトリ)の一大繁殖地で世界の1/4が国内で繁殖し、冬になるとアフリ
カに越冬するという。そのコウノトリが多く繁殖する村を通ったが帰りに一羽見えただけ。
珍しい木造教会も車窓にさーと見ただけ。これではデジカメでは撮れないな。9:40シ
ョパンの生家に到着。ショパンの父親が伯爵家の家庭教師をしていたので伯爵の館で生ま
れ、育った所。今は建物を中心にポプラ並木が続く大きな公園になっている。建物の中に
はショパンが初めて書いた楽譜(コピー)などが展示されている。ピアノも展示されてい
たがショパンとは全く関係ものだそうだ。公園にはショパンの像が建ち、緑一杯の公園の
(ショパンの生家)
あちらこちらからショパンのピアノ曲が流れ、小川も流れていて心穏やかな気持ちにな
る。小学生の子供たちが沢山見学に来ていたが、まだ11時前なのに先生と一緒に大きなサンドイッチをかじっていた。11:0
0見学を終えワルシャワに戻る。12:20旧王宮に近いレストランLiteratka に着く。外観も内部の作りも中世風だがインテリ
アは現代風。マッシュルーム・スープ、ポークチョップ(カツレツ)
、フルーツサラダでどれもまあまあ。13:30旧市街の観
光に出発。王宮広場に1596年に首都をクラフクからワルシャワに移したジグムント3世の像が立ち、その後ろには赤いレンガ
で出来た王宮がドンと構えて建っている。王宮の中
庭は8角形をしているが見るものは何も無い。戦争
で破壊され復元されたものだが、バロック様式の建
物の中は当時をそのまま再現しているそうだ。が見
学は今回なし。その隣に14世紀に建てられたレン
ガ造りの聖ヤン大聖堂はワルシャワで最も古い教会。
歴代の王の戴冠式なども行われた由緒ある教会だが、
(王宮広場)
(王宮)
勿論これも復元されたもの。入口から内のステンドグラスをパチリ。戦後忠実に再現された色とりどりの建物に囲まれた旧市庁舎
広場は露店の花屋や画商もたくさん並び、観光客でにぎわっている。広場の中央には楯を持った人魚の像があり沢山の人が人魚と
一緒に写真を撮っている。ここで30分のフリータイム。Yasu と別行動でヴィスワ川の方に行ってみる。特に目につく建物、景
色なし。黒地に白い胴体の珍しい鳥がいて、おばさんがカラスと教えてくれた。日本のカラスのように大きくなくどうもうな感じ
がしない。I さんから「反対側の城壁の方も景色が良いよ」と言われ行ってみる。赤いレンガ造りの城壁が半円形の砦バルバカン
まで続いている。城壁の上を歩けるようになっているが時間が無い。戦後再現されたものだがレンガはかなり新しい感じがする。
フリーを終え観光再開。先ほど見た15,6世紀に造られた砦カルバカンを通り抜け新市街へ。少し歩くと現在は博物館となって
いるキュウリー夫人の生家がある。三階建てのごく普通の家で外壁の一部がはげ落ちている。さらに西に400mほど行った所に
ワルシャワ蜂起記念碑が建っている。第二次世界大戦の末期、ソ連軍がワルシャワに迫ってきて解放もまじかと見たワルシャワ市
民がドイツ軍に対し一斉蜂起した。しかしソ連軍は政治的には反ソ連だった蜂起の実態を見抜きヴィスワ川の対岸で停止してしま
った。結果的に20万人の死者を出し2か月で降伏した。このワルシャワ蜂起45年を記念して1989年に造られた。十数人の
兵士たちが建物の蔭から出てきてマンホールの中に入って行く様子を表した像が造られている。道路を挟んだ歩道には実際に使わ
れたマンホールがあった場所があり、プランターに花が植えら飾られていた。この記念碑の後にはこの場所に不釣り合いな淡いグ
リーン色をした最高裁判所の近代的な建物が建つ。記念碑のそばの歩道には大理石で出来たショパンの椅子が置かれている。この
椅子に座ってボタンを押すとショパンの曲が流れる仕組みになっている。このショパンの椅子は市内に何箇所か置かれているとい
う。15:00王宮広場から南に伸びる王様の道(クラフク郊外通り、新世界通りと名を変える)を通り聖十字架教会に向かう。
この辺りは朝散歩に来た所だが、朝見れなかった大統領官邸も見ることが出来た。17世紀に建てられた聖十字架教会はショパン
一家が通っていた教会でショパンの死後、彼の遺言でポーランドの持ち帰られた心臓は紆余曲折を経て
1945年教会の柱の中に収められた。正面の祭壇は金色に塗られた豪華なもの。心臓が収められた柱
にはショパンの心臓(多分)と書かれたプレートがはめらている。多くの観光客や参拝者がショパンの
柱の前に集まっている。このあとショパンのピアノコンサートを聴きに朝散歩で通ったサスキ公園の端
にある建物に向かう。少し時間があるので公園内にある無為戦士の墓を見に行く。相変わらず直立不動
の衛兵が墓を守っている。16:00正面にショパンの肖像画が飾られた小ホールでコンサートが始ま
る。何人かコンサートをパスした人がいる。60歳ほどで何やら気難しそうな顔をしたMaciej
Polizewski と言う男性のピアニスト。休憩をはさんで全部で7曲を演奏。近くで生演奏を聴くとさ
(心臓が埋め込まれた柱)
すがに迫力がある。最初疲れが出て少しうとうとしたが、それ以降1時間うっとり聴きほれる。演奏後
彼が弾くCD の販売があったが2500円ほどもして無名の割には高い。
外に出ると先ほどの無名戦士の墓の周りに沢山の兵隊が
整列している。中国の首相が来ているらしく警備に当たっているのか?残念ながら見ている間には来なかったようだ。18:00
ホテルに帰り、明日の帰国準備をする。19:00ホテルで最後の晩餐はバイキング。なぜか二人席になってしまったので添乗員
のO さんが同席。6月から11月のシーズンでは3,4日日本にいるだけでまた次の添乗に出ることが多いとかで、この仕事も
大変だ。20:00部屋に戻って最終チェックをして寝る。明日は7時半の出発。
8、9日目 4月26日(木)
、27日(金) ワルシャワ~コペンハーゲン~成田~セントレア
(晴れ)
5時半起床。陽が昇りだした。6時半からの食事を終え、小銭が残っているので昨夜来たスーパーに出かける。最後なのにまたパ
ンを買う。Ⅰ斤ほどのパンがここでも60円ほど。手荷物で日本にお持ち帰り。7:30いよいよ帰国のためホテルを出発。8:
10ショパン・ワルシャワ空港でチェックイン開始。最初は窓口一つでチェックインを行っていたが途中でビジネス用も解放した
ので、我々より後に並んでいた人たちがほとんど移動した。その中でも先頭を切るのはO さん。彼女は常に並んでいるにも関わ
らずいつもさーと前に出てルール無視の人だった。T さんとともに比較的前の方にいた我々が結局最後になってしまった。窓側を
リクエストするもコペンハーゲンからはCD 席しか空いて無かった。グダンスクに入る時は小さな飛行機でCA も一人だったが、
この飛行機は少し大きくCA の数も三人。コペンハーゲンまでは1時間20分のフライト。コペンハーゲンでは約4時間の待ち時
間がある。見るものも無いのでパンを食べたりしてベンチで休憩。コペンハーゲンは定刻よりやや遅れて機内に。4人席で隣は8
1歳のK さん。全員が乗り込んでも今日は空席があり、移動の許可が出たので後の3人席を確保。体調を崩していたS さんが前
の席にいるが顔色は良さそう。映画も見るものが無いので1本見ただけで途中横になって3時間程寝る。大きな体の外人が二人席
で小さくなって座っている。きっとこの日本人目と思いながら怒っているだろうな。食事が2回出されたが美味しくない。最後に
出されたサンドイッチはまあまあ美味しかった。9:15定刻より20分早く成田到着。荷物を受け取りみんなにお別れを言って
ANA のカウンターでチェックイン。その後カード会社のラウンジで休憩。寝たり、トイレに行ったり、うどんを食べたりして時
間をつぶす。このラウンジは食べてはいけないと言うのが難点だがいつまで居てもいいですと言うのが助かる。16:55成田を
出て18:05無事セントレアに到着。
旅を終えて
今回のポーランドは想像していた以上に見ごたえがあり、特に通常あまり組み込まれないポーランドの北の町、グダンスクやトル
ンを見学出来たのは良かった。ポーランドの早期の復興を思う気持ちが十分伝わる気がする街だった。負の遺産のアウシュビッツ
は外観だけをを見ると過去にあった悲惨な出来事を忘れてしまうような気がするが、その中にある遺留品の数々を目にすると過去
の悲惨な状況が目に浮かび写真も撮ることが出来なかった。ガイドの中谷さんが言っていた「何が起きていたかを見てほしい、そ
して考えてほしい」とう言葉は印象的だった。こんなポーランドをぜひ訪れ自分の目で見てほしい。
Fly UP