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Title
「相互学校システム」と「教育学論争」(1) : 近代学校システムの形成
と教授・教育方法の改革(その三の1)
Author(s)
大崎, 功雄
Citation
北海道教育大学紀要. 教育科学編, 56(1): 1-16
Issue Date
2005-08
URL
http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/391
Rights
Hokkaido University of Education
北海道教育人学紀要(教育科学編)第56巻 第1弓一
JournalofHokkaidoUniversityofEducation(Education)Vol.56,No.1
平成17年8月
August,2005
「相互学校システム」と「教育学論争」(1)
近代学校システムの形成と教授・教育方法の改革(その三の1)
大 崎 功 雄
北海道教育人学教育学部旭川校数青学研究室
Die”WeChselseitigeSchuleinrichtung“unddie”padagogischenStreite“(1)
DieEntstehungdermodernenSchuleinrichtungunddieReform
derUnterrichts−undErziehungs−Methode(Tei13,Nr.1)
OHSAKIIsao
AbteilungftlrallgemeinePadagogikundErziehungswissenschaft
HokkaidoUniversitatftlrErziehungswissenschaftzuAsahikawa,AsahikawaO70−8621
Zusammenhssung:
WiesiehtdiemoderneSchuleinrichtungaus?DerZweckdieserForschungsreihenistes,dieEntstehungder
modernenSchuleinrichtunginDeutschland,besondersinPreussenklarzumachen.DabeimachtderVerfassersich
aufmerksamaufdenSehulraumund dieBildungsbeziehungunterdem AspektderModernisierungvonBildungs−
methode.WobeibegannermitderEr6rterungtiberdieEinftihrungdesBell−Lancater−SysteminDeutschlandund
dieAuseinandersetzungunterdenBeteiligtenwegendiesemSytem(Tei11).Dannbehandelteerdenwech−
SelseitigenUnterricht,diewechselseitigeSchuleinrichtunginNormalschulezuEckernf6rdeunddieKritikderselben
(Tei12).
Nun,unterdemTite13werdendiep良dagogischenStreitezwischenA.F.W.DiesterwegunddenAnhangeran
diewechselseitgeSchuleinrichtungbehandelt,dieausAnlassvondenDiesterweg’sBemerkungentlberdiewech−
SelseitigeSchuleinrichtungvon1836begonnenhatten.
DerInhaltistwiefolgt;
Einleitung
l Verlaufder”padagogischenStreite“
2 Die”padagogischenStreite“−dieerstePeriode
(1)StreitzwischerlPetersurldDiesterweg
l)TendenzenderPeters’sKiritiktiberDiesterweg
2)八useinandersetzungunterderbeidenwegenderVermischungvonder”八bteilung“und”Stufe“
3)WechselseitigeSchuleinrichtunggegen”Klassse−System
4)Privatsehtilergegen”Sehulgenossensehaft“
人 崎 功 雄
5)WechselseitigeSchuleirichtunggegen”Praparandensystem
6)ProvisorischerSchluss
(Fortsetzungfolgt)
キー・ワード:近代学校,相互教授法,クラス・システム,一斉教授法,ゼミナール改革
はじめに
近代に成立する学校システムを 〈教育関係〉 のシステム化ととらえ,その定型化過程を解明するというの
が,この一連の研究の中心モチーフである.その際の素材は,ベル=ランカスター・システムとの接触を契
機に展開する一連の改革論争であり,その舞台はプロイセンを中心とするドイツ諸邦である.第一部では,
ベル=ランカスター・システムのドイツにおける最初の受容と理解を明らかにするために,L.ナトルプに
おける同システム把握にメスを入れた.ベル=ランカスター・システムは文字どおり学校の自動システム化
を図るものであるという基本認識が浮き彫りにされるとともに,それゆえに拒絶・否定されていくプロセス
が明らかにされた.第二部では,ベル=ランカスター・システムに一定の修正を加えた,相互教授法あるい
は相互学校システムの導入からそれへの批判までを,ジラール,フォン・クローン,そしてデイースター
ヴュー
クにおける教育言説の分析を通じて明らかにした.就学児童の増人に対応する試みが生み出した
「相
1)
互学校システム」とそれへの対応は,教室,クラス,一斉教授,進級制等の近代学校を特徴づけるシステム
を生成していく前提的な条件をなすもので,ドイツにおける近代学校システムはこの相互学校システムの批
2)
判の上に形成されていくのではないか,というのがそこにおける一つの仮説であった.
第三部では,この相互学校システムの理解者・支持者と見られていたデイースターヴュークが,それへの
批判者・反対者としての立場を表明したところの『教育旅行記』(1836年)を契機として展開する,いわゆ
る「教育学論争」を検討し,その論争点を整理するとともに,その論争から浮き彫りとなる学校システム像
を明らかにすることを課題とする.
「教育学論争」とは,デイースターヴュークによる命名である.『教育旅行記』に対し,当然にも各方面
から批判文書が出されるのであるが,デイースターヴュークはこの諸批判に対する反批判を『ライン教育時
報(月ゐgブ′gわcゐgβJ励≠gγ)』に継続的に掲載した.彼はこれを,1837年に,他の批判論文と併せて『教育学領
3)
城における論争問題Ⅰ(5≠γピグ紬〝αZげdg∽Cg∂ゴビ≠gdgγ物曙戊,Ⅰ)』(以下,『教育学論争問題』と略)
と題して一冊にまとめている.この『教育学論争問題』に集約される,その前後の一連の論争が,いうとこ
ろの「教育学論争」である.
この「教育学論争」は,デイースターヴューク研究においても,また相互学校システム研究においてもほ
とんど注目されていない.数少ない相互教授法の展開過程に関しての史的研究である,M.ポポヴァの研究
がわずかに扱っているのみである.しかも,その扱いは,ドイツにおける相互学校システム熱の終焉という
4) 角度からのものである.本稿では,まず,この論争の経緯と論争点を整理するところから始めたい.
「相互学校システム」と「教育学論争」(1)
1 「教育学論争」の経緯
デイースターヴュークの『教育旅行記』(1836年)への反響は凄まじかった.おそらくそれは,デイースター
ヴュークの当初の予想を超えるものだったにちがいない.なぜなら,『教育旅行記』は著者の友人やかつて
の教え子に対して率直な見解を開陳するというもので,したがってそこからの応答がまず第一に期待された
のだが,実際の応答はそれとは相当に異なっていたからである.早くも同年中に批判的な意見が『アルトナ・
メルクール』に出はじめ,翌1837年になると,その年の早々から矢継ぎ早に批判文書が出された.まず最初
5)6)7) に,H.ベータースの批判が,ついで,P.J.レネンカンプの批判が,そしてC.Ch.G.ツェアレナーの批判
が出版された.それ以外にも,『メクレンブルク=シュヴュリン,メクレンブルク=シュトレリッツ大公国
およびシュレスウイヒ=ホルシュタイン公国学校誌』(以下,『メクレンブルク学校誌』と略)には,件の『教
8)
育旅行記』の書評も含めて,先記のデイースターヴューク批判の諸文献の書評が載せられている.
さて,先記3名の批判書に対し,デイースターヴュークは同年中に,反批判の冊子を出版した.これが,
前述の『教育学論争問題』である.論争は一挙に過熱気味となった.その後,この論争に,D.H.グレーフェ
9) が加わる.1837年10月から12月にかけて,『一般学校新聞(』腹g∽gブ〝g5cゐ〟たどブ≠〟グ材)』に掲載されたグレー
フェの一連の論文は,先記3名のデイースターヴューク批判とこれへのデイースターヴュークの反批判をふ
まえた,いわば論争の整理を兼ねたものだったが,実質的にはデイースターヴュークを批判するものであっ
た.また,これとはべつに,『教育旅行記』とそれへの三つの批判書を受けて,ブランデンブルク州学務委
員オットー・シュルツも,自身の編集する『ブランデンブルク州学校誌』において,それとなくデイースター
10) ヴュークの認識の不正確さを指摘しながら,相互学校システムの諸特徴を整理している.
1837年の『教育学論争問題』を受けて,論争はさらに続いた.1838年には,C.F.G.バウムフェルダーが
三部からなる著書の第一部でデイ
11)
ースターヴュークの所論に批判的検討を加えた.さらに,グレーフェも,
デイースターヴュークからの反批判に対して,「デイースターヴュークに反対する(GegenDiesterweg)」
12)
と題する小論を『一般学校新聞』に載せている.
13) 1839年になると,『メクレンブルク学校誌』に,P.パウルゼンの論文と匿名の論文が掲載された.これら
はいずれも,この間の論争に触発されて参加したという形式を取ってはいるが,そのねらいは相互学校シス
テムを支持し,その改良を図るというものであった.また,論者の一人パウルゼンは初等学校の教師でもあっ
た.このように,論争参加者の範囲は拡大していく.また,同年には,レネンカンプの再反論が『一般学校
14)15) 新聞』に出されたり,それに対する当事者からのレネンカンプ批判の論文も出されたりする.さらに,同年
‖莞E
には,相互学校システムを擁護するH.F.F.ジッケルの一書が,そして,1840年には,レネンカンプの手にな
17) る,批判者に対して相互学校システムを擁護し,その改良を図る論争吾がそれぞれ出されている.
一方,デイースターヴュークの側では,『教育学論争問題』以後,『ライン教育時報』誌を中心に,反批判
の論文を書き続けている.1838年から1839年にかけての,「相互学校システム(DiewechselseitigeSchul−
einrichtung)」と題する,バウムフェルダー,グレーフェ,ジッケル,それにレネンカンプなどへの批判論
18)
文がそれである.さらに,1840年には同誌の「雑録」欄でティーディマンの著書,レネンカンプの著書への
19)
批判がなされている.そして,おそらくデイースターヴュークにおいて相互学校システムに関するまとまっ
20) た発言の最後になると思われる所見(「相互学校システムに関する鑑定意見」)が1849年に出されている.か
くして,相互学校システムをめぐる教育学論争は,表だった論争としては1840年代末にほぼ終息したと見ら
れる.
こうしてみると,1836年の『教育旅行記』に端を発する「教育学論争」は,1837年の『教育学論争問題』
を前後して,大きく二つの時期に整理できる.そこで,『教育学論争問題』にいたるまでを第一期,それ以
人 崎 功 雄
降を第二期として,論争の内容と性格を整理しておきたい.
2 「教育学論争」一第一期
ここでは,ベータース,レネンカンプ,そしてツェアレナーのデイースターヴューク批判とこれへのデイー
スターヴュークの反批判を一連の過程としてとらえ,論争の性格とそこで展開された論点について整理して
おこう.
(1)ベータース対デイースターヴェーク
ベータースの著作は,『ハルトウイヒ・ベータースにより考慮されたる,相互学校システムについての
デイースターヴュークの判断』(以下,『デイースターヴューク考』と略)と題する,全文75頁からなる′ト冊
子である.ベータースは,フレンスブルクの聖マリアン教会の副牧師(Diakonus)で,1825年ころからエ
ケルンフェルデ由来の相互学校システムの積極的な推進者となり,1829年には相互学校システムを擁護する
21)
著書を執筆している人物である.
1)ベータースの批判の諸傾向
さて,ベータースの批判はいかなるものであったか?その批判の仕方には著しく特徴があった.まず,形
式面であるが,全文75ページのうち約34ページ(1ページ29行換算)がデイースターヴュークの『教育旅行
記』からの引用であり,しかも同書の151ページから180ページまで(エケルンフェルデの相互学校システム
に関わる部分)が,ところどころに加えた批評によってつなぎ合わされながら,全文引用されるというもの
であった.この点については,批判される当のデイースターヴュークも「私の『教育旅行記』からの引用が,
およそ[ベータースの著作の引用者]50ページにわたって充満しているだろう.私が与え,そしてペニ
22) タースが複製したものは32ページか,あるいはそれ以上に達している」(傍点は原文の強調部分)と酷評し
ている.だが,ベータースにあっては,デイースターヴュークからの全文引用というスタイルを耽ることに
よって,その著作全体に対する否定的印象(問題点が部分ではなく全面にわたる)の喚起という効果をねらっ
た,ということができる.
さらに,ベータースは,『教育旅行記』が「教育」を扱った部分はきわめてわずかである(実際,大目に
見ても,教育に関わる部分は全体の3分の1にすぎなかった)ということから,「そのタイトルは人を欺く
ものである」と論断した.「精神的に病んだ教育家」の「気晴らし旅行記」にすぎないとして,『教育旅行記』
23) の形式面からその価値を値引こうとしたのである.
第二の特徴は,デイースターヴュークの論者としての適格性を問題にし,『教育旅行記』におけるデイー
スターヴュークの所見自体の意義を疑問視させるフレームワークを作るという手法であった.すなわち,
デイースターヴューク自身が語っている出発前の不幸な出来事とそれに由来する精神的ダメージを根拠に,
24)
「旅行者は[精神的な一引用者]病気であった」とし,正常な判断ができない状態にあったという構図を用
意する.くわえて,デイースターヴュークが精神的不安定さを,神以外のもの(デイースターヴュークはゲー
テとその作品を心の糧としていた)に頼っているとして,「かかる信仰のなさにおいては,人間の教育を語
25) ることはほとんどできない」と論断する.
第三の論法は,デイースターヴュークは一貫して相互学校システムに無知であり,その理解と判断には信
用がおけないというフレームワークづくりをするというものだった.それは,デイースターヴューク自身が,
相互学校システムについて,ツェアレナーなどの権威者の言説に頼り,自らが直接見聞して知ることに努め
「相互学校システム」と「教育学論争」(1)
ていなかったと反省していることを逆用しての,巧妙な布陣であった.
[前略]施行前には,彼は,[中略]
相互学校システムを知らなかった.旅行中には彼はそれを知
ることができなかった.なぜなら,
彼は機嫌が悪かったので,表面的にしか見られず,また見誤っ
たからである.そして施行後には,
彼は自分の観察したことをもう一度ツェアレナーらのそれと比
較する時間がなかった.なぜなら,
その『所見』はただちに出版に回され,すでに8月には前書き
2(〉) が書かれていたからである.
そして,このような無知で,時間もなく,しかも精神的に病んでいた旅行者のあれこれの判断は「いった
い何によるのか?」と問い,それはかれ自身のものではなく,かつて(1829年ころ)フレンスブルクで相互
27) 学校システムを批判するために流布した「報告書」からの借り物だと類推する.これが,ベータースの第四
の論法である.しかも,この「報告書」からの借り物説は,『教育旅行記』批判のもっとも核心的な部分で
あり,『デイースターヴューク考』の随所で開陳されている.(ベータースがこのように類推し,批判するに
は大きな理由があった.それは,ベータースの前作において批判対象としたのがこの「報告書」であり,し
28)
たがって,それにより,デイースターヴュークの判断の根拠が崩れた,ととらえたいからである.)
こうしたベータースの批判には,当然のことながらデイースターヴュークから厳しい徹底した反批判がな
された.『教育学論争』に収められた「相互学校システム」と題する四つの論文のうち第一から第三までが,
ベータース批判であり3人への批判の中でももっとも分量が多い.その一々は挙げないが,第三の論難につ
いては,相互学校システムをツェアレナーなどの著作を通してしか知らなかったからこそ,直接「実見」す
るためにエケルンフェルデに旅行したのであり,そこで,文字どおり既存の理解と実見により得られた理解
とに隔たりが生じ,その過程でデイースターヴューク自身の思考の発展があったのだ,と反批判する.さら
に,第四の推測と論難に対しては,事実無根であり,その証拠を示せと追っている.
『教育旅行記』におけ
る「教育」記述の少なさについては,レネンカンプ批判の巾で,旅行記という記述なのだから,通常は厳密
な教育学ハンドブックのようなものを期待する方がおかしいと一蹴し,病人の「気晴らし旅行記」説に対し
ては個人的中傷として取り上げない.
さて,以上のような論法は,相互学校システムそのものについての理解とは別次元のものであり,ここで
あえて検討するにはおよばない.ただ,このような論争スタイル(デイースターヴュークからの反批判も含
めて)が,その応酬の激しさにもかかわらず,論争それ自体において必ずしも内容的な発展を生み出してい
ない要因であることを確認しておきたい.
2)「分団」と「段階」の混同をめぐる応酬
ベータースの批判の中で唯一意味をもつものは,デイースターヴュークにおける,「分団」(教授の組織)
と「段階」(生徒の学習レベル=自習活動の組織)との混同批判である.そして,この点こそが,デイースター
ヴュークからの反批判も含めて,この論争における正味の問題であり,デイースターヴュークとその他の論者
における学校システム理解の根本的相違に通じるものである.したがって,ここでつぶさに検討しておきたい.
ベータースは,デイースターヴュークの根本的誤りは,「分団」と「段階」の混同にあるとして,デイー
スターヴュークの『教育旅行記』におけるつぎの記述を引用する.
相互学校システムの本質はつぎの点にあります,あるいは,それ特有の原理はこういうものです.
すべての生徒を,かれらがその知的位置に合致するように分団に分割すること,これらの分団の一
人 崎 功 雄
つに対する教師の側によるもっぱらの教授,そしてそのあいだは残りの分団の,助手のもとでの自
・・29)
習活動と練習.(引用中の傍点は原文の強調部分.以下,同様)
この点は,すでに指摘したように,教師による教授の分団と,生徒の自習活動の組織との混同であり,デイー
30)
スターヴュークにおける致命的な欠陥であるかに見える.少なくとも文言上はそうである.ベータースはこ
の点を鋭く指摘する.「ここに,
われわれはただちに,デイースターヴュークの所見のそもそもの根本的誤
31) 謬(Grundirrthum)を見出す.なぜなら,彼は分団と段階を相互に混同し,同一視するのだから」と.この,
「分団」と「段階」の混同という批判は,ベータースにかぎらず,レネンカンプやツェアレナーもデイース
ターヴューク批判の中心的位置にすえており,問題の核心はここにあったということが分かる.
「相互学校システムは,あらゆる通常の学校同様,二つから三つの分団を構成し,しかるのちに,この分
団をさらに,初等教授の三つの対象である,読み,書き,算における生徒の習熟にしたがって,多数の段階
に分類(等級化)する」.ベータースは,正当にも相互学校システムにおける「分団」と「段階」をこのよ
うに区別してみせる.さらに,フレンスブルクにおける無償学校(Freischule)の事例を取り上げ,追い打
ちをかける.いわく,そこでは120人の生徒が二つ(計算では三つ)の分団に分けられ,教師がそのうちの
一つに直接に教授する.残りの分団は助教(副助手)のもとで自習活動をする.その自習活動に際して,読
みと書きでは13段階,計算では14段階に分割され,生徒はその段階の一つにおいて練習するのである.だが,
この段階化はあくまでも生徒の練習活動にだけ適用されるものであり,教師の直接教授は,前記のこないし
三の分団に対して行われる.したがって,教師は13段階あるいは14段階の中の一つにしか直接教授を行うこ
とができないとするデイースターヴュークの理解はまったくの間違いである.デイースターヴュークは
「まったく誤った前提から誤った結論」を導き出している.要するに,デイースターヴュークの「時間算術」
には根拠がない,とするのである.
このベータースの批判に対し,デイースターヴュークはどのように応答するのだろうか?デイースター
ヴュークが
「時間算術」から導き出したかったのは,相互学校システムのもとでは,教師による直接教授の
時間がきわめてわずかになってしまう,ということであった.ところが,ベータースからの批判への反論は
これとはべつの問題へとすり替わる.それは,二つの主張となって現れる.一つは,デイースターヴューク
自身も「分団」と「段階」の区別を認識している,という主張.そのこは,多数の習熟「段階」に区別され
ている生徒をこないし三の「分団」に一緒にして教授することの困難性の主張である.
まず,第一の主張について.デイースターヴュークは『教育旅行記』における該当箇所を挙げて,つぎの
ように立論する.
[前略]「これらの簡単な特徴づけから,普通の学校と相互学校システムによる学校のちがいが目
につきます.それは,生徒たちが分団に分けられることそれは,上でもっばら問題となってい
るあらゆる混合学校において行われていますにあるのではありません,そうではなく,生徒た
ちがその立脚点の相違が要求するほど多くの分団に分割されること,そしてすべての練習が一人の
32) 助手あるいは副助手によって指導されること,にあります」[以上は『教育旅行記』からのデイー
スターヴューク自身の引用引用者].この叙述から,読めるものなら誰にでも,ベータース氏も
分団と呼んでいるものを私が分団と呼んでいること,そしてベータース氏が段階(Stufen)と呼ん
でいるものを私がもう一度分団(Abtheilungen)と呼んでいることが,目に飛びこんでくるだろう.
したがって,事柄は,私にも彼にも同じように認識されているのだ.私は,広義の分団と狭義の分
団を区別している.私が後者を段階と呼んでいないこと,このことがベータース氏の発見した「根
「相互学校システム」と「教育学論争」(1)
本的誤謬」である.この,事柄のちがいではなく,名前のちがいが,私がその上に立っている「途
方もない基盤」なのだ[中略].じつにくだらない!
33)
デイースターヴュークによれば,事柄のちがいではなく名前のちがいであるという.だが,これは論理のす
り替えである.デイースターヴュークの「時間算術」で挙げる「分団」は,明らかに教師による直接教授の
単位としての「分団」であり,そこでは,教師の教授時間は分団の数に逆比例する(正しくは段階の数に逆
比例する)として多数の「分団」に区分することを問題としたのであった.こうしたデイースターヴューク
34)
の「反論」は,その論争を整理したグレーフェも,「この説明は成功しなかった」と述べるように,一般の
支持を得られなかった.
デイースターヴュークの第二の主張は,厳密に区分された段階で自習活動をしている生徒をふたたび一つ
の「分団」に合体させて教授することの困難性を挙げるものであった.彼はベータースが賞賛するフレンス
ブルクの学校の事例を挙げ,120人の生徒が練習時間には13ないし14の段階に分けられ,教師の直接教授時
間には2ないし3の分団にまとめ上げられるのだから,一分団は平均して読みと書きでは6∼7,計算では
4∼5の異なった段階の生徒を含むことになる.ここから,「5∼7の異なった段階にある生徒たちを,同
時に教授するとは?」と問題を立て,より進んだ生徒とより遅れた生徒を一緒にして,効果的に教授するこ
とは実際には不可能であり,したがって,「エツガースあるいはハンゼンのような人にあっても,実際には,
そのようなこと(規定どおりに生徒を分団に集合させて教授することの困難引用者)があったらしい.
課題解決の困難性ゆえに,そしてそれぞれ個別の段階で,分離して教える方が容易であるがゆえに,それ(分
35) 団にまとめて教授すること一引用者)は,普通の教師には期待できないし,けっして要求できないのである」.
ここから,デイースターヴュークはつぎのように結論づける.
[前略]それゆえ,読みでは二つの,計算では三つの分団に分けられている学校においては,各生
徒は,読みにおいてはそれに当てられている時間の半分のあいだ,計算ではそれに当てられている
時間の三分の一のあいだ,教師自身による直接的教授を受けるということを,私は,書斎
3(〉) (Schreibstube)の中で作られた,実際から引き出されたのではない,見解だとみなすものである.
要するに,相互学校システムにおける教授の実際は,「分団」ではなく,「段階」を単位として行われる,
と主張するわけである.しかし,この実際論の根拠は必ずしも自明ではなく,また実際の見聞に基づいてい
るわけでもない.多分にデイースターヴュークの推測も加わった立論である.だが,重要なことは,「分団」
と「段階」の関係についての理解である.相互学校システムでは,「分団」の中を,生徒の自習活動が可能
なように厳密に多数の「段階」に区分する(〈差異化〉).その目的は,生徒を助教の監督のもとにおき,そ
れぞれの段階の習熟を図ることにある.ところが,デイースターヴュークによれば,この多数の段階に区分
された生徒を分団に再編成すると,その差異のため,一緒に教授することは困難になるという
意味しているのだろうか?生徒の習熟を容易にするために段階に分け自習活動をさせるわけだから,仮に段
階化せずに習熟活動をさせても,そこに現れる現象は習熟の度合いのちがいであり,もともとの学習レベル
の高低差はそのままではないのか?それとも,何かべつの事態が想定されるのだろうか?想定されることは,
第一に,学習到達度に応じた習熟過程をくぐると,差異が固定されてしまい,「分団」に戻すとその差異の
ために同時の教授がむずかしくなるという,「段階」= 〈差異の固定化・拡大〉 という現象.第二はベーター
ス(相互学校システム推進論者)とデイースターヴュークが前提とする「分団」の構成(学力レベルの範囲)
が相互に異なるという場合.第三は,ベータースとデイースターヴュークの想定する「段階」が相互に異な
.これは何を
人 崎 功 雄
る場合.(第三のケースは,両者とも具体的には語っておらず,しかも,デイースターヴュークにおいては
相互学校システムにおける「段階」を前提としているのだから,ここでは考えにくい).
3)相互学校システムか〈クラス・システム〉 か
デイースターヴュークにおける生徒集団の構成,「分団」と「段階」の関係認識を問うていくと,そこに
ある一つの傾向が浮かび上がってくる.それは,〈差異化〉 の縮小,教師の直接教授・生徒全体への影響の
確保という主張である.デイースターヴュークは,「分団」を少なくすることを提唱する.『教育旅行記』で
はつぎのような提案となっていた.
[前略]すべての生徒の進歩のために絶対必要な数にだけ,そしてすべての生徒が実際に進歩する
ように,教師が彼の成熟した力をもってすべての生徒に対しふるまい,何ごとかを与えることがで
きる数にだけ,分団(正確には「段階」引用者)を少なくすることの方がはるかに優れていな
37)
いだろうか?
このように,デイースターヴュークは,「分団」の数を必要最′ト限にしようとする.それは,教師が生徒全
体にできるだけ多く関わるためであった.しかし,分団の数を少なくするためにも,分団内の「段階」の数
を少なくしその幅も′トさくしなければならない.分団内の 〈差異化〉 の拡大は教師の直接教授にはむかない
というのがその理由である.だが,このような教授組織形態には一つのモデルが想定されていた.
デイースターヴュークは,相互学校システムが適用されるのは,「教場」(Schulstube)が一つの「クラス」
(Schulklasse)をなし(〈単級学校〉),一人の教師のもとでさまざまな「分団」に分割されて結合されると
いう状況を前提としている,と見る.そして,その「分団」は,通常は年齢の相違による多様な学習到達度
に基づいているという.だが,より望ましい学校システムは何か?彼はすでに『教育旅行記』において,つ
ぎのように描いていた.
[前略]これが該当しない場合,つまり生徒たちを異なった教師たちのもとで,多くの分離したク
ラスに分割することができ,その結果,[各分離クラスの中で引用者]すべての結合された生徒
たちがすべての教授対象において一緒に教授され得るような場合には,上の原理(相互学校システ
ムの原理引用者)が適用できる要素は欠けます.そのような学校が非常に多様な子どもたちの
38) 結合を必要とする学校よりも優れているということは,証明を要しません.
要するに,ここでは教場(学校)が多数のクラスに分割され,それぞれに教師が配置されるという学校組
織が想定されている.したがって,すでに,デイースターヴュークにおいては,1教師=1学校形態ではな
く,1教師=1クラス方式を前提とした,多数のクラスからなる学校形態(〈多級学校〉)が想定されていた,
と見ることができる.
同様の認識は,『教育学論争問題』の中でも,レネンカンプ批判の論文において引用しているオットー・シュ
ルツの論文を通して見られる.
一つの学校が,各クラスにおいて等しい予備知識と等しい知的発達の生徒たちだけが教授されるよ
うに,たくさんの分離されたクラス(vielegesonderteKlassen)を形成できるならば,ここに相互
学校システムを導入することは明らかに後退であろう.一クラス全体を有能で活動的な一人の教師
「相互学校システム」と「教育学論争」(1)
によって一緒に取り扱うことは,容易には他に取り替えられない.
39)
デイースターヴュークが望ましいと想定している1教師=1クラス方式の特質は,比較的等質(差異の少な
い)の生徒からなる集団に対して,教師一人が全体的に関わることができるということであり,それゆえこ
の方式は教師の影響力が保持される形態であった.ここに,新しい「クラス」概念が登場していることが分
かる.これまでは,クラスは,学習内容の「段階(Stufe)」あるいは「等級化(Klassifikation)」とそれに
応じた生徒の「分類」(等級化)もしくは「分団(Abtheilung)」や「下位分団(Unterabtheilung)」に対し
ても用いられていた.とりわけ,相互学校システムにおいては,ナトルプやクローンにおいて見たような,「等
級制(Classificationsystem)」や「クラスシステム(Klassensytem)」に示されるように,クラス概念は,
学習内容のレベルとそれに対応する生徒の分類に対して使用されるのが通例であった.これに対し,デイー
スターヴュークやシュルツにおいて見られるように,一人の教師が担当する生徒集団としての「クラス」概
念が明確に登場してきたのである.1教師=1クラス方式がそれである.われわれは,これを,「等級制」
ではなく,〈学級制(クラス・システム,Klasse−System)〉 と命名しよう.
デイースターヴュークやシュルツは,この 〈クラス・システム〉 を相互学校システムに対比し,その優位
性を確認するのである.それは,生徒の学習レベルが相対的に均質であり,教師がクラスの生徒全体を一緒
に取り扱うことのできるシステムというものである.これが可能なのは,多数の教師を配置する学校である.
だが,多くの民衆学校(初等学校)は,1ないし2クラスからなる1教師学校である.そこでは,年齢も,
学習レベルも多様な多数の生徒を一人の教師が指導しなければならず,したがって,学習レベルの異なる生
徒をどのように扱うかという問題が生じたわけである.
問題の核心はここにあった.生徒の増加・多様化に対し,一人の教師のもとに多数の助教を配置して対応
する(相互学校システム)のか,教師の複数化,したがって複数クラス化によってこれに対応する(〈クラス・
システム〉)のか,いずれの道を選択するのかという問題であった.デイースターヴュークは後者の道を選
択し,それにむけてのプロセスとして,クラス内の分団化と分団内の段階化を最小限に抑えようとするので
ある.〈クラス・システム〉 の原理は,1教師学校においても貫かれなければならなかったのだ.
4)私的生徒集団か「学校協同体」か
それにしても,デイースターヴュークが直接教授の単位にかくも強くこだわるのはなぜだろうか?彼は
ベータース批判の中で,相互学校システムと普通の学校との相違を,生徒を旅人,学習の進行を旅にたとえ
て,概略つぎのように述べている.
相互学校システムのばあい:目的地で結びついている3本の道が設定される(読み・書き・算にお
いてそれぞれ生徒が異なった段階に組織されることを「道」と「駅」にたとえるわけである).
2本の道(読みと書きの道)には14の,もう1本の道には13の「駅」がある.それぞれの旅人
は,「ただ独りで」あるいは「他の仲間とともに」進んでいく.彼は,ある道をたどるときは,
例えば7番目の駅にいる.他の道をたどるときは,2番目あるいは3番目,5番目,10番目の
駅にいる.そして,どの駅にも連れの旅人がいるのだが,「彼はここでは追いぬき,あちらで
は追いぬかれる」.旅行査察官(Reiseinspector:教師のたとえ)により進む駅数を要求され,
ある時は素早く,ある時はゆっくりと進んでいく.その駅(諸表Tabellenが想定される)は
確定されていて,変更がきかない.また,旅行中与えられる食料はみな同じである.教師の注
意は駅にだけむけられる.
人 崎 功 雄
普通の学校のばあい:道は3本ではなく1本.その1本の道を分かれて進む.それぞれの旅人はずっ
と同じグループ(「分団」)に所属しているから,「彼の仲間はいつも同じである」.そして指導
者は教師だけである.時々,教師の特別の委託を受けた「より成熟した生徒」が補助者となる.
食料は内容は同じだが旅行者の消化力に応じて調理される.旅行者は働くのだが「各々は能力
に応じて働く.あるものは深く掘り,あるものは浅く掘る」.「しかし,仲間は真の協同体
(Gemeinschaft)に一緒にとどまり,学校生括全体,しばしば生涯全般にわたって,仲良く
40) するのである」.
デイースターヴュークの対比は明らかである.相互学校システムは等級制を取っているから,生徒は相互
に切り離された個人として,「ただ独りで(f(irsichallein)」進級していくことになる.「彼はここでは追い
ぬき,あちらでは追いぬかれる」.他方,普通の学校では,生徒は仲間とともに,「協同体」をなして進んで
いく.デイースターヴュークによれば,相互学校システムには,かつてジラールが肯定的に描いた 〈学習の
41)
共同性〉は存在せず,あるのは競争原理に基づく 〈学習の個別性〉である.デイースターヴュークが危惧し,
否定するのは,この 〈学習の個別性〉 であった.かくして,デイースターヴュークは,「相互学校システム
はすべての生徒を私的生徒(Privatschtiler)のように扱う.他の学校はすべての生徒を学校協同体(学校
仲間:Schulgenossenschaft)に加える」と特徴づける.めざすは「学校協同体」の形成であった.
デイースターヴュークが見た相互学校システムの原理は,学習活動の 〈差異化〉 = 〈個別化〉 による学習
者の 〈差異化〉 = 〈個別化〉 であった.それは,デイースターヴュー
ク自身が,かつて相互学校システムに
42) その実現を期待していた「協同性(Mitwirksamkeit)」の原理が,現実には裏切られていた,と見ているこ
とを意味するだろう.だから,デイースターヴュークは,相互学校システムによる学校をたんなる個別教授
の集合体ととらえ,「個々の私学校の複合体(einComplexusvoneinzelnenPrivatschulen)」と表現してい
る.そして,これに対置する学校を,「本来の公的学校,団体(eineCorporation)」ととらえる.ここに,
43)
デイースターヴュークが一斉教授への指向性を示していた正味の理由が明らかとなる.
だが,このデイースターヴュークの描く「学校協同体」ないしは「団体」は,市民社会以前の共同体的関
係を意味するのであろうか.しかし,それは当たらない.すでに如上に見るように,彼が念頭に置いている
「学校協同体(Schulgenossenschaft)」は,その結合原理が「協同性(Mitwirksamkeit)」にあり,一つの
目的のもとに結合される「協同組合(Corporation)」としての「団体」であった.それは,個人の自律を欠
いた,うしろむきの前近代的な共同体的関係ではなく,いうところの生徒の「自己活動」に支えられた,新
44)
しい市民社会的関係による結合体でもあった.
5)相互学校システムか「教職志願者システム」か
さて,ベータースのデイースターヴューク批判の中には,もう一つ注目すべき論点がある.それは,年少
の助教(副助手)ではなく,15∼18歳の教職志望の若者を各学校当たり3∼4人ずつ助手に採用するという,
デイースターヴュークが『教育旅行記』で行った提案に対する批判である.ベータースによれば,これは途
方もないことで,およそ実現しないものだとらえる.彼によれば,シュレスウイヒ=ホルシュタインには1,000
の混合学校ないし初等学校が存在し,その結果3,000∼4,000人の助手が必要となるが,ゼミナールからはこ
れだけの教職志願者を得ることはできない.仮にそれを選ぶことができたとしても「熟達し,有能な教師た
ちのあいだでは,われわれが11年前から両者の方式を詳しく観察し,比較する機会をもってきた後では,
デイースターヴュークにより提案されている教職志願者システム(Praparandensystem)よりも相互学校
45) システムの方を選ぶだろう」として,相互学校システムの優位性を主張する.
10
「相互学校システム」と「教育学論争」(1)
ここでは,必要な数の「教職志願者」が得られるかどうかという,たんなる「数」の問題だけでなく,相
互学校システムと教職志願者システムとの優劣の問題が語られている.ベータースにおいては,その優劣は
自明のこととして具体的には語られていないが,レネンカンプがその辺の事情を語ってくれる.それは,「い
かにすれば,これらの助手を,教授の厳密な段階化と生徒の等級化に関して,もっともふさわしく利用でき
4(〉)
るか」という事情である.つまり,段階化と等級化に代表される,相互学校システムヘの適応・その効率的
活用を規準としての「助手」の適否であった.相互学校システムのもとで教育された生徒でなければ,それ
への適応・熟達はむずかしいというのが,正味の理由である.
このベータースの批判に対するデイースターヴュークの反論を見てみよう.デイースターヴュークは,独
自の計算から,シュレスウイヒ=ホルシュタインの1,000の単級初等学校のうち,助手を必要とするのは500
47) 校であり,それらの学校が必要とする学校助手は最大1,000人であると推定する.さらに,教師100人につき
1年当たりの退職者数を6∼7人と推定して,1,000人の教師に対しては60∼70人の新教員が必要となる.
これに,中途転職者数と死亡者数を含めると,毎年90ノー、−ノ100人の教師が必要になるとする.デイースターヴュー
クは,新教員をゼミナール卒業生からリクルートすることを前掟とし,問題の助手1,000人のリクルートを,
第一は14∼17歳の教職志願者,第二は末採用のゼミナール生徒,第三は教職志願者ではない14歳以上の生徒
(年長生徒),そして第五に,14歳以上の年長生徒が欠けているときには,12∼13歳生徒,に求めている.
そして,いずれのばあいにあっても,「過密の単級初等学校から,養成された複数の教師のもとに多数の段
階クラス(mehrereStufenklassen)を形成する資力が欠けているばあいには,どこでも応急処置であり,
48) またそうであり続ける」と,とらえるのである.
見られるとおり,デイースターヴュークにおいては,1教師=1クラス方式の「多数の段階クラス」(多
級学校)を標準とし,それを形成できない時の「応急処置」として助手システムを位置づけるわけである.
彼の独自の試算によれば(註47参照),教員一人当たりの生徒数の上限は60人で,それを超える生徒を擁す
るばあいには,クラスを二つ以上の段階に分け(段階クラス),各クラスに教師を配置するという
,1教師
=1クラス方式(〈クラス・システム〉)が原則とされている.当時,過大クラス(学校)は一般に生徒数80
入超をさしていたから,デイースターヴュークが60人を限度に置いていることは相当に進んでいたと考えら
れる.いずれにせよ,〈クラス・システム〉 を標準として1教師学校(単級学校)の在り方を論じるその認
識こそが,相互学校システム論との基本的な相違と見なければならない.
したがって,デイースターヴュークの基本的要求は,過大クラスを解消するのに必要な教師の養成であり,
そのためのゼミナールの整備にあった.この観点から,教職志願者にはゼミナール入学の準備教育として,
初等学校における「助手」としての実習が課されるのであった.
[前略]重要なことは,つぎのことだけであった.すなわち,彼ら(14歳以上の生徒引用者)
のうちから,将来のゼミナール生徒が選ばれるべきこと,これらの生徒はゼミナールに入学する以
前に,学校において実践的に自分の力を試しておくよう規定されること,これはゼミナールヘの最
良の準備であり,教職に奉職する14歳から17歳までの少年たちに課すべき必須の課題に応えるもの
49)
であるということ.
だから,デイースターヴュークにおいては,いうところの「教職志願者システム」における「助手」の位置
は,相互学校システムにおける「助手」の位置とは別個のものであった.それは,準備教育としての実習に
相当し,過大クラス問題解決の応急措置とは別個の体系に属するものであった.
11
人 崎 功 雄
6)中間的まとめ
デイースターヴュークにおける,明らかに誤解と思われる「分団」と「段階」の混同は,意外な背景を浮
き彫りにした.デイースターヴュークとベータースとの論争は,じつは,多数の生徒を所与とする学校のむ
かうべき方向性をめぐる論争だったのである.それは,両者の学校システム像の相違をあぶり出したのであ
る.相互学校システムの支持者は,1教師=1学校形態を前提に,助手システムを導入して生徒増に対応し
ようとした.他方,デイースターヴュークは,1教師=1クラス方式を標準とし,多級クラス(段階クラス)
にむかうことを視野に入れて,それにむけての過渡的措置として,「教職志願者システム」の導入により対
応しようとした.そして,その担保はいうまでもなくゼミナール制度の充実であった.
この,デイースターヴュークの構想の背景には,一方ではベルリン市における公立「多級学校」の出現(1827
年)が,他方ではデイースターヴューク自身によるゼミナール付属初等学校の設立(1832年)とそこにおけ
50)
るゼミナール学生の実習教育の展開があった.
さて,以上の論争の結果を総覧すれば,デイースターヴュークにおける相互学校システム批判は,一定の
学力幅・
年齢差で構成されたクラスを対象とする一斉教授の工夫・考案をもとに,1教師=1クラス方式を
実現しようとする一つの潮流を示しているであろう.その目的は,「生徒をできるだけたくさん,教師の直
・・51)
接的で,精神を昂揚させる影響にさらすような仕組み」をつうじて,「学校協同体」を構築することにあった.
そして,その保証は,ゼミナール改革であった.かくして,一斉教授クラス・システム学校協同体
ゼミナール改革は一つの円環をなすものであった.
(つづく)
註
1)「相互学校システム」とは,WeChselseitigeSchuleinrichtungの訳であるが,それはgegen−Od.wechselseitige
Unterrichts−OderLehrmethode(相互教授法)とは区別して用いられている.後者が教授法の一つの形態の意味で用いら
れているのに対し,前者はむしろ教授形態をも含む学校の仕組み・組織形態(システム)をさすものとして使用されている.
そこでは,ベル=ランカスター方式が教授法としてではなく,「学校システム」としてとらえられる(「ベル=ランカスター
方式は……教授法ではない」,「ベル=ランカスター方式は学校システムそのものである」(デイースターヴェーク))とと
もに,その改良版としての学校システム(dieveredeltewechselseitigeSchuleinrichtung:フォン・クローン)が想定さ
れている.本稿では,このwechselseitigeSchuleinrichtungに,学校の仕組み・装置(システム)を指す概念として,「相
互学校システム」なる訳語を当てている.意味は,「相互教授の学校システム」である.なお,このシステムにおける「相
互性」(ないし交互性)の意味について,エケルンフェルデの模範学枚の紹介者であるティークマンはつぎのように説明し
ている.「[この仕組みは一引用者],ここではすべてが交互的・相互的に支えられている(教師が生徒を,生徒が教師を,
生徒が生徒を一原文)という,ほかならぬその特性のゆえに,相互的ないし交互的学校システムとも呼ばれるれることが
できるのです」(H.Diekmann,βγg(ゾ(ね乃′βJJβプ7ddgβ紺βCゐ∫βたβg′など5cゐ〝Jβわ7γgC鋸〝プ7gプ7〟Cゐgゐγβ椚ββ∫′β如プ7わ7dβγAわγ椚α才一
∫lリ川/‘・二J/J・「l・hノ〃_/晶・(/‘・.JJ‘/lリJ沌ハ・川什‘・∫i〃J川〟‖吉日≠J川(/JJ‘/lリJ沌ハ・ノ・(.’‘・∫ん///J川∫./1汁J川∫川・l’り/h∫lリ川/i〃(/i〃=肛
standengemL2L3,2.Ausgabe,Altona1826,S.11)と.
2)拙稿『プロイセン・ドイツにおける近代学校装置の形成と教育方法の改革ご 北海道教育大学旭川校 学校教育講座・教育
学研究室,2002年.とくに「結 まとめに代えて」同書,161∼174ページ,参照.
3)F.A.W.Diesterweg,Strei∠カ′agena乙げdemGebietederPddagogik,(以下,Strei∠カ′agen.と略)Essen,beiG.D.
Badeker,1837.(SBB所蔵.全文168ページ)なお,同書所収論文は,デイースターヴェークの山版意図に別して,同全集
第19巻にそのまま収録されいている.vgl.F.A.W.Diesterweg(Hrsg.vonGertGeissler),SdmtlicheI穐rke,Bd.19(hrsg.
vonRuthHohendorfundManfredHeinemann),Neuwied,Kriftel,Berlin,LuchterhandVerlag,1999,S.361436)この「教
育学論争」の中心的内容は「相互学校システム」にかかわる論争と,大学およびギムナジウム・高等市民学校における教育
の在り方に関する論争であるが,ほかに教授法一般についての論文が収められている.同書の内容構成を示すと,つぎのと
おりである([]内は補足).前書き,Ⅰ.[論争について],Ⅱ.[大学間題における論争について],Ⅲ.[ギムナジウム・
高等市民学校問題について],Ⅳ.相互学校システム(第一論文)(第二論文)(第三論文)(第岡論文),第一補論,第二補論,
12
「相互学校システム」と「教育学論争」(1)
教授法一般について,付録.これらのうち,「Ⅳ」の四つの論文と第一,第二の補論が相互学校システムとそれに関連する
問題を扱っており,その分量は全文168ページ中132ページを占める.相互学校システム問題が量的にも中心的位置にあるこ
とが分かる.
4)たとえば,ポポヴァはこの「教育学論争」をつぎのように締めくくる.「相互学校システムにもともと付着していた不十
分さ,つまり,それが練習と教師の教授とを有機的に結合することができなかったことによる不十分さ,および,デイース
ターヴェークの権威とが一緒になって,相互学校システムを迎え入れた熱狂を,間もなく,徐々に弱めるために作用したの
である」(M.Popova,βgβββ紺βgZイブ7gノ滋γ且わも薇ゐγ〝プ7g(7β∫紺βCゐ∫βたβg′などプ7∽7′βγγgC始わ7月プ7g/αプ7d〝プ7dわ7dβプ71句J点∫∫Cゐ〝Jβプ7
dβ∫〟0プ7′わ須リ7由z〝』プちねプ7gdβ∫ズエ方.ノ〟カγカ〝プ7dβγね,Ztirich1903,S.106).
5)HartwigPeters,Dr.Diesteru)egbLWheiliiberdieu)eChselseitigeSchuleinrichtunginEru)云恕unggezogenLJOnlhrtu)ig
Pete77;,(以下,Diesteru)egbLWheil.と略)Altona1837.(Schleswig−HoIsteinischeLandesbibliothek所蔵)
6)P.J.R61111ellkalllp,βgJg〝Cゐ/〝プ7g(7g∫βgg∫/gγ紆ggゝc如プ7こケ/如才た顔みgγdgg紆gC如gたどg/など5cゐ〝Jgわ7γgCゐ/〝プ7g,(以下,βピー
leuchtungdesDiesterwegbchen Lh・theiLs.と略)Altona1837.(EutinerLandesbibliothek所蔵)
7)C.Ch.G.Zerrenner,Diewechsebeitigt7Schuleinrichtun&naChihreminnerenundduBerenI穐rthemitBe,=iehunga乙げ
desSeminar−Directo7TDr.DiesterwegLh/theilz沌erdieselbegwzh/dなt,Magdeburug1837.(BayerischeStaatsbibliothek所
蔵)
8)A.C.L.‥BemerkungenundAnsichten,aufeinerpadagogischenReisenachdend良nischenStaatenimSommer1836
ftirseineFreundeundftlrdieBeobachterderwechselseitigenSchuleinrichtungniedergeschriebenvonDr.F.A.W.
Diesterweg,DirectordesSeminarsftirStadtschuleninBerlin.Berlin1836‘,in:Schulblattj?irdie GroBherzogtiimer
Mecklenbuプ甘・Schu,erinund−Strelitzundj滋rdie旅7?OgtZimerSchlesu,なundHoLstein,hrsg.vonJoh.ZehlickeinParchim,
1.Band,Heft4,1837,S.4460;A.C.L.‥Dr.Diesterweg’sUrtheiltiberdiewechselseitigeSchuleinrichtung,inErwagung
gezogenvonHartwigPeters,DiakonuszuSt.MarieninFlensburug.Altona,beiK.Aue.1837‘;derselbe‥Beleuchtungdes
Diesterweg’schenUrtheilstiberdiewechselseitigeSchuleinrichtungvonP.R6nnenkamp,PastorinCosel,Mitgliedder
CommissionzurVervollkommnungundAusbreitungderwechselseitigenSchuleinrichtung.Altona,beiK.Aue.1837‘;
derselbe‥BeleuchtungeinigerBehauptungenausDr.Diesterweg’sp良dagogischerReiseu.a.(InderSchleswig−
HoIsteinschenVolksschul−Zeitung,herausgeg.vondenSchullehrernGudenrath,GreveundHennings.Altona,beiK.Aue.
2.Jahrgang.Januar−Heft.1837)‘,in:ibid.,1.Band.,5.Heft,S.4853.(BBF=BibliotehkftlrBildungsgeschichtlicheFors−
chung所蔵)
9)グレーフェは,1837年10月から12月にかけて,『一般学校新聞(』J/函椚βわ7β5cゐ〝たβg′〝プ7g)』に,「デイースターヴェーク
と相互学校システム」と題するillつの論文を,合わせて11回にわたって連載している.D.H.Grafe‥Diesterwegunddie
WeChselseitigeSchuleinrichtung‘,in:AILgemei71eSchulzeitu71&Jg.1837∴Nr.159,Sp.12811284:Nr.160,Sp.12891293;Nr.161,
Sp.12971300;Nr.165,Sp.13291333;Nr.167,Sp.13451350;Nr.168,Sp.13531358;Nr.169,Sp.13611364;Nr.172,Sp.1385138
Nr.194,Sp.15691573;Nr.195,Sp.15771580;Nr.196,Sp.15851587.(BBF所蔵)
10)OttoSehulz‥NoeheinigeWortetlberdieweehselseitigeSehuleinriehtung,inBeziehungaufdieSehriftenderHerren
Diesterweg,Peters,R6nnenkampundZerrenner‘,in:Schulblattj滋rdieProLJin2B77uldenbu7%Berlin1837,S.7681.(SBB
所蔵)
11)C.F.G.Baumfelder,1.WiederholtePr妨ngderEckernjbrderElementa77;ChuleinrichtungmitRzicksichta乙げDr.
川‘・∫/‘川・りド(’ノ川‘・///J/‘ノ/砧・ノ・.〃..\1/膏仇榔J抽‘ノ(//‘・∴lJ川・i〃(/J川∫(/‘ノ∫‘・/わi〃わ‘・/(/i〃J(’JJ/‘ノノイlリJ//JJ(/i〃J(∴・∫‘川∫.(/‘ノ
(亘川≠心/止J川(//JJ(ん/∫/ノイ‘・.///.(.’ノ〃JJ(/二/ノg‘・二J/‘イブJけJ?‘・〟丹心lイJ/豆J/卑ドIJ川(/J?‘・∫lイ扉/7豆J/卑ド‘川∫ん///_/前・(//‘・ノJ坤〃(//JJgハ、砧・ノ〃
Stddten,Dresden1838.
12)D.H.Grafe‥GegenDiesterweg‘,in:Al/由meineSchuleinrichtung1838,Nr.184,Sp.14971501.
13)P.Paulsen‥FreimtithigeGedankenundBemerkungentiberdiesogenanntewechselseitigeSchuleinrichtung,VeranlaL3t
durchdieneuestenSchriftenvonHrn.Dr.Diesterweg,Hrn.PastorPetersundHrn.PastorR6nnenkamptiberdiesen
Gegenstand;nebstkritischenBemerkungentlberdieseSchriften‘,in:Schulblattjiirdie GroBherzogtumerMecklenbu7g−
Schu,erinund−Strelitzundj滋rdieHerzogtzimerSchlesu,igundHoIstein,2.Band,1839,S.130,205219;Anonym,
,AnthitheseninBeziehungaufdiewechselseitigeSchuleinrichtungundderenWiderlegung‘,in:ibid.,S.130144.(BBF所
蔵)
14)P.L.RLirlrlerlkarrlp‥WiderDiesterwegurldeirlerlArlOrlyrrluS‘,irl:AllgemeineSchz4leinrichtznlg,1839,Heft27,
Sp.217220;Heft28,Sp.225228.なお,この論文の執筆者の表記はP.L.R6nnenkampとなっているが,そこで書かれてい
る内容からして,件のPeterJohannR6nnenkampその人と判断できる.また,デイースターヴェークからの反論も,
13
人 崎 功 雄
P.J.レネンカンプとして行われている.
15)C.E.Gabriel‥FtirHerrnPfarrerR6nnenkampundseinesGleichen‘,in:AllgemeineSchulzeitung,1839,Nr.97,
Sp.793796;Heft略Sp.SOl尺O3.
16)H.F.F.Sickel,DieBedeutsamkeitderu)eChseLseitigenSchuleinrichtungj2irunsreungeteilten tjblksschulen,einBeit7t7g
ZurBeantu,OrtungeinerpadLW?gischenStreith77ge,Erfurt1839.
1TIRい‖tlし・tl】くこ川叩.〃‘二/右.l・/り招〃J川(トl/−/ハ〃・山ノけJJ/晶・ノ・(山∫什‘・∫i〃.(//‘・l’りノ・二J仕1・.(//‘・l’け川//ん川川川J川∫J川(/(/i〃√1け山川g(/け
/=∵在町人=/b・JJしヾlイ川/‘イブJノイlイ情/JJ∫/JJ(/i〃/Jけ二骨相川‘川しヾlイJ/‘・∫/‘セJ川(//Jり八/‘イブJ./‘イ(/け(//‘・(.’‘・gJJけ(//‘・∫けしヾlイ川/‘イブJノイlイ情/JJ∫.
Altona1840.
18)F.A.W.Diesterweg‥DiewechselseitigeSchuleinrichtung‘,in:5凄mtlicheI穐rke,4.Band,1961,S.201213;ders.‥Wech−
SelseitigeSchuleinrichtung‘,in,ibid.,S.351356.
19)デイースターヴェークは,「雑録(Mannigfaltiges)I」の欄で,初等学校教師ティーディマン(ElementarlehrerThiedemann)
しつ汁.Ⅰ:= し.1〟//.イ/J川∫川{/J/∫‘/川J♪川仙∫.\/J川しヾ.\/川//.・わ川.わ.・/J・.∵′1′/‘/.・/′/b・‘/.・川心/J/豆ヾ/川(∴・∫.〃∫ん仙/.・‘/‖・汀.・.血.・古.・//b・
Schuleinrichtung,Flensburg1839)とレネンカンプの著書(注17参照)に批判的な書評を加えている.Diesterweg,
5近肌′ノブcカβI穐γ烏β,5.Bd.,1961,S.121126.なお,筆者はまだ,ティーディマンの著書を人手していない.
20)F.A.W.Diesterweg‥GutaehtlieheBemerkungentiberdieweehselseitigeSehuleinriehtung‘,in:5適mtlicheI穐rke,8.
Bd.,1965,S.1214.
ご11J)/i/什lリJ∫‘心‘・〟1ビ‘・しヾlリ川/‘・/JJノイlリJ/J川.ビ.‘・/JJわ‘・(/=//i〃(/‘ノーヾlリけ///二J/ノ・l’‘ノわ‘・∫∫‘ノ〃〃.ビ(/‘ノl’り/h∫lリ川/i〃..ビ‘・.ビi〃J・「/ノ川・/亘/i・
gerech娩rtなtLJOnlhrtu)なPete7T,Altona1829.(BibliothekderLtlbeck所蔵)
22)Diesterweg,Streith7mn,a.a.0.,S.47.
23)Peters,Diesteru)egbLh/theil,a.a.0.,S.910.
24)乃gd.,S.10.
25)丑軋13.
26)乃gd.,S.18.
27)乃gd.,S.28.
28)なお,この「報告書」は教育当局から,実地において相互学校システムを調査し,鑑定を下すように命を受けた一教師の
1824年9月1日付けの報告書と見られる.ベータースによれば,そのタイトルはつぎのとおりである.”BerichtundBeden−
kentlberdieinderEckernf6rderNormalschuleeingeftlhrtewechselseitigeSchuleinrichtungsweise“,in:H.Peters,Die
紺βC如βたβg′など5cゐ〝Jβわ7γgC鋸〝プ7&a.a.0.,S.Ⅷ.ベータースは,この「報告書」と闘い,1829年5月12日に,件の「報告書」
を執筆した教師に依頼した同じ教育当局の上官から,これまた件の教師の手になる,1824年の「報告書」とはまったく異な
る,相互学校システムを肯定的に評価する「見解」を公式的に引き山したことを述べ,その「見解」なるものを,『デイー
スターヴェーク考』の前書きに翻刻している.vgl.Peters,Diesterwegbこh/theil,a.a.0.,S.ⅤⅧ.
29)Peters,DiesterwegbLh/theil,a.a.0.,S.30;F.A.W.Diesterweg,BemerkungenundAnsichten,a乙げeinerpadagog
〃‘・/∫=ノ山リノ‘ノi〃‘んブタノ/∫lリノi〃、ヾ/‘/‘//i〃/川、ヾり川川‘・J・J凡■J/り丁/J∫‘・/ノブ‘イ’ハ・/川‘ノi/川‘り丁/J‘ノ/‘・才子‘りわ‘/lリノ/‘・J・‘ノ‘・J・/什lリノヾ‘・/∫‘・//b〃
5cゐ〝Jβわ7γgC鋸〝プ7£(以下,♪gβ♪βd脚gねcゐβ月βねβJβ36.と略)Berlin1836,S.155.なお,デイースターヴェークは,その反
批判において,引用を一部間違えている.,auSSChlieL31icherUnterrichtvonSeitendesSchtilers‘(Diesterweg,Streit−
カ聯n,a.a.0.,S.51)としているが,正しくは,SchtilersではなくLehrersである.
30)拙稿「F.A.W.デイースターヴェークと「相互学校システム」(1)一近代学校システムの形成と教授・教育方法の改革(そ
のこの3)−」『北海道教育大学紀要(教育科学編)ご 第54巻 第2号,2004年2月,8ページ.
31)Peters,Diesteru)egbLh/theil,a.a.0.,S.30.
32)Diesterweg,DiepadLW?gischeReise1836,a.a.0.,S.157.
33)Diesterweg,Streith7mn,a.a.0.,S.53.
34)Grafe‥DiesterwegunddiewechselseitigeSchuleinrichtung‘,in:AILgemeineSchulzeitung1837,Nr.194,Sp.1571.相互学
校システムに必ずしも全面的には好意的ではなかったシュルツも,このデイースターヴェークの時間算術には否定的であっ
た.vgl.OttoSchulz,PP.cit.,S.80.
35)Diesterweg,Strei紬n,a.a.0.,S.56.
36)乃gd.,S.55.
37)Diesterweg,DiepadagvgischeReise1836,a.a.0.,S.160.
38)乃∠d.,S.156.
39)Diesterweg,Strei紬n,a.a.0.,S.112.vgl.OttoSchulz‥BerichtandasK6nigl.Schul−CollegiumderProvinzBran−
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「相互学校システム」と「教育学論争」(1)
denburgtiberdieAnwendbarkeitderwechselseitigenSchuleinrichtung‘,in:SchulblattJ薇rdieProLJin2B77uldenbu7¥,
1836,4.Heft,S.435.
40)Diesterweg,Streith7mn,a.a.0.,S.596l▲
41)拙稿「G.ジラールと相互教授法(2)一近代学校システムの形成と教授・教育方法の改革(そのこの2)−」『北海道教育
大学紀要(教育科学編)』第52巻 第1号,2001年9月,参照.
42)拙稿『プロイセン・ドイツにおける近代学校装置の形成と教育方法の改革』前掲,152153ページ,参照.
43)拙稿「F.A.W.デイースターヴェークと「相互学校システム」(1)一近代学校システムの形成と教授・教育方法の改革(そ
のこの3)一」『北海道教育大学紀要(教育科学編)』第54巻 第2号,2004年2月.とくに,1112ページ,参照.
44)だが,デイースターヴェークは,「相互学校システムは憲法的生活のために作られる」というような考えをとらない.な
ぜなら,諸制度に生命を与えるのは成人した市民がなすことであり,「そもそも実生活(dasLeben)が達成できないあら
ゆることを学校に強制しようとする」のは「思い違い」であり,「馬鹿げたこと」だからである.vgl.Diesterweg,S/rei侮n,
a.a.0.,S.71.この点で,初期に見られた社会における課題と学校教育の課題との安易な混同は後景に退き,「学校」が教
育学の対象としてより限定され,その課題が明確化されてきたのである.しかし,そのことは市民社会のモラルや市民的特
性の形成が後景に退いたことを意味するのではなく,学校という教育空間における〈教師一生徒関係〉〈生徒一生徒関係〉
を通じて形成すべき教育課題の問題として,引き取られたことを意味する.
45)Peters,Diesteru)egbLh/theil,a.a.0.,S.74.同様の理FRから,レネンカンプもまた,デイースターヴェークの提案の実行
不可能性を強く指摘している.vgl.R6nnenkamp,BeleuchtungdesDiesteru)(好bchen Lh/theils,a.a.0.,S.810.
46)乃gd.,S.9.
47)デイースターヴェークの試算はつぎのようなものである.まず,シュレスウイヒ=ホルシュタインにある単級初等学校
1,000校のうち,60人以上の生徒を擁している学校は500校と推定する.助手を必要とするのは60人以上の生徒を抱える学級
学校だから,この500校に対して助手が想定される.そしてこの500校の生徒数とそれに対する助手の数をつぎのようにはじ
き山す.生徒数60人のばあいは助手なし.70人の生徒に対しては助手1人,90人に対しては2人,110人に対しては3人,130
人以上に対しては4人.これを,推定学校数に置き換えると下表のとおりとなる.ここから,必要助手数は合計1,000人と
なる.vgl.Diesterweg,Streith77gen,a.a.0.,S.7778.
平均生徒数
必要助手数
60(人)
学 校 数
100(校)
0(人) 100 70 100 100 90 200 100 110 300 100 130以上 400
48)乃Zd.,S.78.
49)乃∼d.
50)19世紀のベルリン市における初等学校(民衆学校)の設置状況は〔表1〕〔表2〕のとおりである.〔表1〕は,1828年か
ら1857年までの学校数・クラス数・男児生徒数・1校当たりの生徒数(男児)および1クラス当たりの生徒数(男児)を示
したものである.〔表2〕は1827年から1870年までの学校数・クラス数・生徒数(男女)および1クラス当たりの生徒数(男
女)を示したものである.1827年10月8日,LandsbergerStraL3e27に,男女別の,それぞれ上級・下級の2クラス(計4
クラス)からなるベルリンで最初の自治体立学校(Kommunalschule)が設立された.その後徐々に,学校数・生徒数は増
えていく。1836年ころまでは,男児2クラス,女児2クラス,計4クラスタイプの学校が続くが,1837年ころから4クラス
以上のクラス(男児クラスで見ると,2クラス以上)をもつ学校が登場している.しかし,1クラス当たりの生徒数は100
人以上であり,100人を切るのは1840年代後半,60人を切るのは1865年以降70年代になってからである.
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人 崎 功 雄
〔表1〕ベルリンにおける自治体立学校(男児)数・生徒数・クラス数(1828∼1857年)
年 学校数
年 学校数
生徒数(男児)(人)
クラス数
クラス数
生徒数(男児)(人)
1828
2
4
305
153
76 1843
12
43
4749
396
111
1829
5
10
799
160
80 1844
12
43
4745
396
110
1830
7
14
1668
238
119 1845
12
44
4371
364
99
1831
7
14
1801
257
129 1846
13
47
4512
347
96
1832
7
14
1889
270
135 1847
15
57
4964
331
87
1833
7
14
1882
269
135 1848
15
59
5016
334
85
1834
8
16
2234
279
140 1849
15
62
5372
358
87
1835
9
17
2237
249
132 1850
15
64
5452
364
85
1836
9
20
2493
277
125 1851
15
65
5552
370
86
1837
9
23
2657
295
116 1852
15
66
5638
376
86
1838
12
31
3278
273
106 1853
15
66
5710
381
87
1839
13
39
3572
275
92 1854
15
66
5796
386
88
1840
12
37
3607
301
98 1855
15
66
5978
399
91
1841
12
37
3760
313
102 1856
15
66
5968
399
91
1842
12
40
4030
336
101 1857
15
67
5985
399
89
(vgl.D.K.Mtlller,So,ZialstrukturundSchul叩Stem.A車ektzumStrukutrwandeldesSchulwesensim.19.jahrhundert,G6ttingen1977,
S.372−376.必要事項のみ摘=した)
〔表2〕ベルT)ン市立下級初等学校(St畠discheniedereElementarschulenBerlins)(1827∼1870年)
学校の種類
年
1827 Kommunalarmenschule
1830 Kommunalarmenschule
学校数
クラス数
4
7
28
生徒数(総数) 1クラス当たり生徒数(人)
300
75
3,300
117
1840 Kommunalarmenschule
12
73
7,100
97
1850 Kommtlnalschtlle
15
128
10,700
84
1860 Gemeindeschule
20
185
13,700
75
1865 Gemeindeschule
33
341
20,300
60
1870 Gemeindeschule
53
615
37,700
55
(vgl.WernerLemmu.a.,SchuLgeschichteinBerlin,Berlin1987,S.64.)
なお,デイースターヴェークは,1832年秋に,それぞれ約30人の生徒を擁する2クラスからなる初等学校(男児)をベル
リン都市学校教員養成ゼミナールに付設し,ゼミナール学生の実習校としている.
51)Diesterweg,DiepadLWフgischeReise1836,S.161.
(旭川校教授)
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