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タイにおける千年王国運動について - Kyoto University Research

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タイにおける千年王国運動について - Kyoto University Research
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タイにおける千年王国運動について
石井, 米雄
東南アジア研究 (1972), 10(3): 352-369
1972-12
http://hdl.handle.net/2433/55705
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
東南 アジア研究
1
0
巻 3号 1
9
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2
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2
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タ イにお け る千 年王 国運 動 について
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は
じ め に
被抑圧階層に蓄積 され た現状- の不満が,政 治的手段に よって充足 され る見通 しを欠 く場合,
それ は時 と して, 千年 王 国論 的イ デオ ロギ ーを背景 と して 出現す るカ リスマ的指導者 の指導 の
下に,狂熱 的なエネル ギ ーの噴 出 とな ってあ らわれ ることがあ る。 近 世 の初 め,北 ドイ ツの ミ
ユ ソス ターで発生 した再洗 礼派 の千年王 国運動 な どほ そ の古典 的事例 のひ とつに数 え られ てい
l
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enari
an movement
s)は, もと, ユ ダヤ-キ リス ト教 の黙 示文学 の系
る。 千年王 国運動 (mi
譜 をひ く宗 教運動 な ので,直接 ・間接 に, ユ ダヤ教, キ リス ト教, あ るいは イ ス ラム教 の影響
のお よんだ地域 に多 く発生 してい る.
1
) た しか に,仏教や ヒソ ドゥ教 の よ うに, r世界 を不断
*京都大学 東南 アジア研 究 セ ンタ-
1
)ホブズボ-ムは, So
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sの初版 (
1
95
9)および再版 (
1
9
63)において,
古典的な千年王国運動が,「ユダヤ-キ リス ト教の宣教の及んだ諸国においてのみ」(
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ganda) 起 こっているように思われる,
971
) では,この見解を改め,「ヒソドゥ教や仏教のような宗教は,千年王国論
と書いたが,第 3版 (1
的期待についての異なった合理化を編み出している」(
Hobs
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9
7
1
,5
7
) と述べている。
3
5
2
石井 :タイにおける千年王国運動について
の流れ,循環運動 の連鎖,あ るいは永遠 に静止 し続け るもの とみなす宗教 的伝統 のなかで,千
)と考 え られ よ う。 と くに, 合理主義 的 自力
年王 国論的イデオ ロギ -を構築す ることは困難」2
救済 を強調す る南方上座部仏教 の教理 は,千年王国諭 とは一見無線 の存在 であ るかの よ うに思
われ る。 しか し,南方上座部仏教において も,正統教理 の一部に存在す る未来仏思想が,民間
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a)
信仰 と結合 して,独得な千年王国論 を生み 出す可能性 は存在す る。 伝統的な呪術師 (
信 仰が,「ミロク仏」 ない し 「転輪聖王」信仰 と合体 して,「千年王 国諭的仏教」(
Mi
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Buddhi
s
m) とで も呼ぶべ き特異な宗教 を生み 出 した ビル マがそ の一例であ る。3) タイにおけ
る 「千年王国論 的仏教」 は, これ まで学者 の関心をほ とん どひかなか った。す くな くとも,仏
教研究者 の側か らは まった く無視 され て きた とい って も言い過 ぎではないであろ う。 しか し,
最近 の歴史研究 は, タイにおいて もまた,今世紀 の初頭,そ の鎮圧に軍隊 の出動を必要 と した
ほ どの反乱が,千年王国運動の よそおいを とって発生 した事実 を教えてい る。
この事件につ いて言及 した最初 の学者 は,当時, 内務大臣 と してそ の鎮圧 の最高責任 を負 う
地位 にあ った タイの歴史家 ダム ロン親王 (
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p) であ った。 親王
は,正史に現われない歴史上 の事件につ いての覚え書 きを まとめた 『ニタ- ソ ・ボー ラ ンナカ
』(
1
94
4)のなかで, 1
9
02年, 東北 タイで発生 した 「ピー ・ブ ンの反乱」の経緯
デ ィ(
昔語 り)
を語 ってい る0
4
) 東北 タイ研究家 トゥ- ム ・サ ン- ッサ テ ィツ ト (
Toe
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t
)は,
そ の後, 『メ コン河の右岸 』 (
1
95
6)を書 き, そ のなかで この宗教的反乱 を さらに詳細 に論 じ
た 。5)
「ピー ・ブ ソの反乱」に学 的考察を加えた最初 の学者は,歴史学者 テ ッ ト・ブ ソナ- ク (Tej
Bunna
g)であろ う。 チ ッ トが1
96
7年, タイ語で発表 した小帯 「ラタナ コー シ ソ暦 1
21
年 の東北
タイにおけ るプ一 ・ミ- ・ブ ソ (エ ビ- ・ブ ン)の反乱」 は, タイにおけ る千年王国運動 を取
り扱 った最初 の論文であ る。
6
) チ ッ トは,そ の翌年, オ クス フ ォ- ド大学に提 出 したかれ の学
位論文 のなかで も 「ピー ・ブ ソの反乱」 に触れ, この反乱 と相前後 して北 タイ,お よび南 タイ
で発生 した反政府暴動 とともに, この事件を,バ ンコク政府 の行政 中央集権化に反発 した辺境
諸民族 の反体制運動 ととらえた 。7) テ ッ トの これ ら二第の論文は,いずれ も一次史料を駆使 し
ての優れた実証研究であ り,今後の研究 の出発点 とな るものであ る。
1
9
02年に発生 した東北 タイの 「ピー ・ブ ソの反乱」につ いて見 るか ぎ り, チ ッ トの問題提起
は適切であ り,その主張は説得的であ る。 しか し, タイの千年 王国運動は, この年に起 こった
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6)Te
j(1967:78-86)
j(1968:272-273)
7
)Te
35
3
東南 7ジア研 究
1
0
巻 3号
rピ- ・ブ ソの反乱 」につ きるものではない。 王朝年代記 の中に も, アユ タヤ王朝滅亡後 の困
乱 に乗 じて,おそ らく千年 王国諭的 イデオ ロギ ーを背景に成立 した と推定 され る短 期的な地方
9
5
9年に,チ ュラロ ンコソ大 帝 の生 まれ代 りと自称す る 「ピ
政権 の記 事が見えてい る し,近 くは 1
ー ・ブ ン」 が 出現 して, 警察 と衝 突 して死者 を 出す事件が発生 してい る。(後述参 照)それ ゆ
21
年 の プ- ・ミ- ・ブ ソの反乱」 もまた,世 界
え, テ ッ トの取 り上 げた 「ラタナ コー シ ソ暦 1
の諸地域 において見 られ る千年王 国運動 の視 点か ら見直 され,そ の特殊 タイ的な特徴が 明 らか
に され なければ な らな いであろ う。 タイ国の千年王国諭的宗教運動につ いて,今 日われわれが
利用で きる資料 は きわ めて限定 され てい る。 こ うした状況 は今後 の研究 の深化に よって改 め ら
れ なければ な らないが,幸 いそ の徴候 は,す でに現われか け てい るoB
) 春稿 は,そ の よ うな将
来 の研究- の足 がか りを得 る 目的を もって,仏教 的文脈 の中で発生 した千年王国運動 の性 格を
解 明 しよ うとす るひ とつ の試 みで あ る。
Ⅰ 千年王国論運動 の諸特徴
「
その日には, この恩難の後, 日は暗 くな り,月はその光を放つことをやめ,星は空から落ち,天
体は揺 り動かされるであろう。そのとき,大いなる力と栄光 とをもって,人の子が雲に乗 って来る
のを,人々は見るであろう。
3:24
-2
6)
(マルコによる福音書1
「また見ていると--イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにお
り,また獣をもその像をも拝まず,その刻印を額や手に受け ることしなかった人々がいた。彼 らは
」
生きかえって,キ リス トと共に千年の問,文配 した。
(ヨ-ネの黙示録2
0:4-5
)
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hi
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c" とい う語 は, 聖 書的な文脈において, r天か ら雲に
乗 って」来 臨 した 「人 の子」 イエ ス ・キ 1
)ス トが,復 活 した聖徒 た ち とともに統治す る至福 の
mi
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um)を意味 したが, 現在 では,そ の特殊聖書的な限定 の枠 を越 えて,ひ ろ く
一千年 (
類型諭的に,全 面的かつ究極的 な集 団的救済が, この1
勘こ,す ぐに も起 こるべ きことを待望す
9)
る宗教運動 を特徴づけ る形 容 詞 と して用い られ てい る。
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s
)は,なん らか の形 で存在す る現状- の不満 を動
千年王国諭運動 (
因 として発生す る。 それ はた とえば農村社会- の近代 資本主義 の侵入 に よって貧 困化 した農民
(イ タ リアの ラザ レッテ ィ運 動),圧制 と飢餓 に苦 しむ都市下層民 (ミュソス ターの再 洗礼派),
)な ど
白人支配に対す る社会 的 ・経 済的不満 を抱 く未 開民族 (メ ラネシアの「カー ゴ ・カル ト」
の間で発生す る。 運動 の担 い手に着 目す るな らば,千年 王 国論運動 は, 「圧迫 され た階層 の宗
教」(
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) とい うことがで きよ う。
千年 王国論者 の狂熱 的期待 は, 目前 の苦 しみか らの解放 であ る。 しか し,かれ らほ改 良主義
8
)たとえば ワシントン大学の社会人類学者 Ch
a
r
ksF.KE
Y(S は, 東北 タイの宗教運動について研究を
進めている。
9
)Ta
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96
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3
5
4
石井 :タイにおける千年王国運動について
●●●●●●
者ではない。現状が よ りよ くな ることは,かれ らに満足を与 えない。かれ らが求め るのは,覗
存す る一切 の秩序 の崩壊であ り, まった く新 しい,完全な世界,善その もの,至福の世界の究
極的実現であ る。
千年王国運動 のひ とつ の特徴は, こ うした願わ しい新秩序を実現す る具体的手段についての
認識が きわめて漠然 と した もので しかない点にあ る。
10
) この ことは,千年王国論 の信奉者 たち
浴, しば しば政 治的に 未組織であ り, 政治過程か ら疎外 され てい る 状況 と無関係ではない。
かれ らは, 自らの苦 しみや,
ー解放- の欲 求を表 出 し, これを効果的に伝達す るための制度的手
段を欠いてい る。 千年王国運動が, 「本質的に前政 治 的 現 象J (
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non) と言われ るの もこのためであ る。11) もちろん, 千年 王国運動 のなかには,変革
を志 向す る合理的行動の欠落 した, よ り 用屯粋 な」 ものか ら,た とえば, シシ リ-島の フ ァッ
シの例 の よ うに, 同 じく伝統 的な千年王国運動 の装 いを示 しなが ら,指導者 と近代的イデオ ロ
ギー とプログラムを備 えてい る点で,近代的革命運動に よ り近 い ものにいた るまで, さまざま
な変 種が存在 し
てい る。 しか しその理想 型を立て るな らば,革命 の プログラムを もたない こと
が,千年王国運動 のひ とつ の特徴に数 え られ よ う。 ホ ブズボー ムは言 う。 「(
かれ らは) 革 命
●●●●●
の担 い手ではない。 --千年王国運動- の参加者は--・(
革命が)ひ と りでに起 こるのを期待
●●● ●
す る。 神 よ りの啓示に よって,天上 よ りの告知に よって,奇蹟 に よって,それが何 とな く起 こ
」かれ らほ,ただ r集 まる」 のであ る。 備 えを為す ので
るのを期待す るのであ る。(傍点筆者 )
あ る。 来 るべ き審 きの徴を見守 るのであ る。 偉大 な 口の到来を予 言者 の叫びに耳 を傾け るので
あ る。 そ して,おそ らくは,審判 と変化 の瞬間に 向か って,なん らかの儀礼的手段を講ず るの
であ る。 あ るいは,悪に まみれた この世 の垢塵を洗 い流 し, き らめ く無垢 の世界- と参入す る
ことが許 され るよ うわれ とわが身を浄 め ることであ る.」12)
しか し,千年 王国論者 の行動様式が, この よ うにす ぐれ て宗教的であ ることは,かれ らの強
い期待 と関心 とが,地上的であ ることをなん ら妨 げ るものではない。事実, r千年王国論者は
●●●
将来 の千年王国の ことな ど気にかけてはいない。彼 に とって重要な ことは,千年王国が この世
●
●●
にあ り,現在存在す ることであ る。
」(傍 点筆者 )'3) 「
雲 に乗 って来臨す る人 の子」 は,永遠 の
国を この地上に もた らす のであ る。
,この点は,十分 に注意 され る必要があろ う。 なぜ な ら,千
年王国運動 のかか る地上的性格は, この運動 と地上 の権力 との対 決を必至 の もの とし,やがて
権 力の弾圧をひ きお こして,崩壊 と消減を招 く結果 を生み 出すか らであ る。 その意味において,
ミュソス ターに立 て寵 った再 洗 礼派 の悲 劇的結末は,はなはだ示唆的であ るといえ よ う。
最後に,千年王国諭運動を特徴づけ るイデオ ロギーのパ ター ンと,運動の指導者について1
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3
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5
東南 アジア研究
1
0
巻 3号
言 してお く必要があ ろ う。14) 多 くの千年王 国運動は, 「メシア的」 であ る。 つ ま り,救済 は,
神的 な もの と人間的 な ものを仲介す る 「仲保者」 に よって もた らされ る。 そ の もっとも著 名な
事例は, ナザ レのイエ ス ・キ リス トであろ う。 中世 の ヨー ロ ッパでは,眠れ る王がそ の永遠 の
眠 りか ら目覚めて, 民衆を救 うとい うモチ- フが見 られ た。未 開社会 においては,権 力の手 に
かか って死 んだ指導者 とか, あ る場合には多数 の祖霊が メシアとな って出現す るとい う例 もあ
る。 千年 王 国運動 には, また,超 能力を神 よ り与 え られ た と自称す るカ リスマ的指導者が しば
しば重要 な役割 を演ず るの も特徴 的であ る。
さて, 以上に のべ た千年王 国運動 の諸特徴 は,仏教 の優勢 な タイにおいて発生 した千年王 国
運動 のなかで, どの よ うな形 で発現 してい るだ ろ うか。次節 では ,1
9
0
2
年に,東北 タイ一帯 に
猫軟 を きわめた, いわゆ る 「ピー ・ブ ソ」 の うち,最大 の反乱に発展 した 「オ ング ・マ ンの反
乱」 の具体 的検討 を通 じて, タイの千年 王国運動 の諸特 徴を検討 しよ う。
Ⅰ
Ⅰ 「オ ング ・マ ンの反乱 」- 「ピ- ・ブ ン」 の-事 例ラタナ コ- シ ソ暦 1
1
9
年
15)
(
1
9
0
0/
0
1
)
, 東北 タイの メ コソ河沿岸地方一帯 に, 大異変 の到来 を
l
ait
hae
ng)をめ ぐる噂がひ ろ まった。 そ の貝葉 の出所 や作者 な どほ い
予 言 した一 片 の貝菓 (
っさい不 明であ るが, 各種 の資料 を総合 してみ ると,お よそつ ぎの よ うな内容 を もっていた も
の と考 え られ る。 す なわ ち, 『ラタナ コ- シ ソ暦
1
2
0
年 3月あ るいは 4月 (
1
9
0
2年 2月あ るい
phet
phai
)が起 こる。 そ の時,金銀 はすべ て砂傑 とな り, この地方 に
は 3月 )16) に,大異変 (
yak)とな り,
多い ラテ ライ ト中の砂硬 が補注)
金銀 に変わ る。 豚 と奇形 の角を もつ 白子 の水牛が鬼 (
人 を捕 えて食べ る。 と うがんやか ぼ ち ゃが,象や馬に な る。 す ると, 「クーオ ・タ ン ミカラー
ト」 が現われ て, この世 に君臨す る。
この異変 の現われ た とき, 災を逃れ よ うと願 う者 は,
貝葉 に書かれ た予 言 の内容 を,人 々に宣べ伝 えなければ な らない。罪 のない者 は砂利 を集め て
「クーオ ・タ ン ミカ ラー ト」 の来臨 を待 つが よい。 この世 に現われ た 「正義 の王」 は,人 々の
集めた砂利 を ことごと く金銀 に変 え るだ ろ う。 罪 に汚れ た者は, 僧 を招 いて 「ナ ンモ ソ (
聖
」 の儀 礼を行 ない,罪 を洗 い浄 め よ。 死 を怖れ る者 は,そ の 日の来 る前 に, 豚や水牛を殺
水)
し,それ らが鬼 とな って人 々を食 うのを未 然に防止せ よ。 若 い娘 た ちや,未婚 の女 た ちは,鬼
に食われ ぬ うちに, いそいで結婚せ よ。
」 云 々。
こ うした噂 について,当時 の地 方役人た ちは,愚か な農 民 の迷信 と して取 り合 わず,遠 か ら
ず 消滅す る もの と考 えて放 置 してお いた。 ダム ロ ン内相は, のちに当時を回想 して, 「私 自身
もそ う思 っていた」 と述懐 してい る。17
)ところが, こ うした政府関係者 の楽観的予想に反 し,
1
4
)Ta
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1
9
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2:1
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)
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1
9
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3
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)
1
5
)本節の内容は,主 として To
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m(
1
9
7
0)
,Da
mr
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ng(
1
9
6
2
)および Te
j(
1
9
6
7
)にしたが う。
1
6
)Te
j(
1
9
6
7:7
8
)による。ダムロンおよび トゥームは,いずれも陰暦 6月としている。
1
7
)Da
mr
o
ng(
1
9
6
2:4
2
2
)
石井 :タイにおける千年王国運動について
異変発生 の予言を録 した貝葉 をめ ぐる噂 は ます ます ひ ろが り, イサ- ソ州のみな らず, ウ ドン
州, ナ コソラーチ ャシ-マ-州な ど,東北 タイの全域に拡大す る形勢を示 した。そ して,予言
され た時が近づ くと,各地において不穏 な動 きが現われ始めた。た とえば, セー ラブー ムか ら
ほ,住民たちが,すでに豚を殺す準備を ととのえ, しき りと砂磯 を集めてい るとい う報 告が も
た らされた。
ここに至 って,政府は よ うや く事態 の重大性を認識 し,各行政村 の村 長や字長に対 し,民衆
の説得に努め るよ う指令 したが,すでに集団 ヒステ リー状態に陥 っていた村民 の動揺 を押え る
ことはで きなか った。一方, こ うした異常 な精神的状況を背景 として,超能力を体得 した と自
称す る白衣 の行者が各地に現われ, さまざまな 「奇蹟」 を行な って,民衆 の注 目を集めた。 こ
れ らの行者たちは,おお よそが 出家の経験者であ って,いずれ も 「ナ ンモ ソ」 の呪法に長 じて
いた。 「ナ ンモ ソ」 とは
,「パ リッ ト (護呪)」 の詞 唱 と 「サーイシ ソ (霊糸)」 に よって,「ナ
ンモ ソ
」 と呼ばれ る霊水を生成す る呪法で,今 日で もタイ全土で 日常行なわれ てい る擾 災招福
儀礼であ り,民衆仏教 の重要な構成要素 のひ とつ とな ってい る。 「
サ ンモ ソ」 に存在す ると信
じられ てい る神秘 的な霊力は,第一に rパ リッ ト (護呪経典 )
」 自体に付与 された霊性 に 由来
す る ものであ るが, パ リッ トを詞唱す る僧 の資格 とも無関係ではない。民衆 は,修行に よって
s
e
t
)
」 の諭成 した 「ナ ンモ ン」 に特
超能力を体得 したいわゆ る 「プ- ・ウ ィセ- ト (
phdwi
別 の霊験を認め る。 したが って, さまざまな 「奇蹟」 を示 して,超能力の存在を確信 させ るこ
とに成功 した これ らの行者たちが,民衆 の信 じこんだ 予 言 の 言 葉 を 引用 しなが ら, 「ナ ンモ
ソ」に よって, 己の罪を浄め,呪いの 日に備 え よと説いた とき, これを聞いた無知な民衆が,
進 んでそ の言葉に したが ったのは,む しろ 自然の勢 いであ った といえ よ う。 これ らの白衣 の行
者た ちのあ る者 の周 囲には,やがてそ の カ リスマ的支配に服従す る信徒集団が形成 され て行 っ
た 。
東北 タイの農 民は これ らの行者たちを, 「プ- ・ミ一 ・ブ ン」 と言い,そ の名の前に 「オ ン
グ」 とい う尊称 をつけて呼 んだ。 (例 :オ ング ・マ ン) 「プ一 ・ミ- ・ブ ソ
」 (訳せば 「功徳
あ る人」
)とは,「長期にわた る善業 の蓄暦 の結果 と して,卓越 した境涯に到達 し得た人」 を意
味 し,文献上では, 「ブ ッダ」,「アラ- ソ
」,「転輪聖王」 な どを形容す る語 として用い られ て
い る。18) のちに これが 「ピー ・ブ ソ」 とい う蔑称で呼ばれ,「オ ング ・マ ン」 が 「アイ ・マ ン」
と卑 しめ られ るよ うにな ったのは, 「プ一 ・ミ一 ・ブ ソ」 とそ の信奉者 の行動が, 明確に,皮
政府暴動に発展 し,あ るいはその危険 をは らんだため,不法分子 として取締 りの対象 とな って
か ら以後 の ことであ る。19) そ して,そ の原因のひ とつをつ くったのが 「ォ ソグ ・マ ンの反乱」
1
8
)たとえば 「トライブ-ム」などにその用例を見ることができる。〔
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bhi
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1
9
6
3:9
3
)
〕
9
0
2
年 4月1
2日付のイーサソ総督
1
9
) チットによれば,「ピ- ・ブソ」とい う語が最初に用いられたのは,1
c
f
.Tej(
1
9
6
7:7
8
)
〕
発ダムロン内相あての電文中であるとい う。 〔
3
5
7
東南 アジア研究
1
0
巻 3号
で あ った。
オ ング ・マ ンの素 姓 は不 明で あ るが, ラオ ス領 出身 の ラーオ人 らし く, サバ ンナ ケー ト付近
で活動 していた行者 といわれ る。 かれ は,地 上 に 住 む 人 類 を救済す るため天 界 よ り来臨 した
「プ- ・ミ一 ・ブ ソ
」, 「チ ャオ ・プラサ ー トー ング」,「パ ヤ- ・タ ン ミカラ- ト」 で あ ると自
称 した。 「プ- ・ミ- ・ブ ソ
」につ いては前 述 の とお りで あ るが, つ ぎの二 つ の語 につ いては
若干 の説 明を要 しよ う。 「チ ャオ ・プラサ - トー ン グ」 は, アユ タヤ王朝第 2
5代 の タイ国王
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a
c
ha
oPr
a
s
atTh6
n
gで あ ろ う。ただ しこの国王 名が,ラーオ人 に とって どの よ うに理解 さ
れ , なにゆ え 「救世 主 」 の名 と して 引用 され たか とい う事 情 は不 明で あ る。 つ ぎの 「パヤー ・
タ ン ミカ ラー ト」 につ いては, ふ た通 りの解 釈 が成 り立 つ 。 ひ とつは これ を実在 の国王名 と考
え る解釈 であ って, そ の場合, 有 力な候 補は, 1
7世紀 後半 の5
7年間, ラ ンサ ン王 国 の支 配者
と して 内政 ・外交 に治 績大 いにあが り, また文芸 の黄 金 時代 を築 いた といわれ る
phr
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ya
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n
g
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mmi
k
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dで あ ろ う。20) も うひ とつ の解釈 は, これ を普 通 名詞 に解 し,「法
を奉 ず る王」(
dh
a
mmi
k
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r
a
j
a
)つ ま り 「転輪 聖 王」とす る見方 であ る。 いずれ も推 定 の域 を 出
ないが, 「プラサ ー トー ン グ」と併 記 され てい る点か ら見 て, 固有 名詞説 の可能性 が高 い よ う
に思われ る。
さて, オ ング ・マ ンは, ラオ ス領 におい て 「プ一 ・ミ一 ・ブ ソ」 と して知 られ,す でに多 く
の信奉 者 を得 ていたが, さ らに タイ国内に進 出 し, と くに, イサ ー ソ州 の州都 で あ る ウボ ンに
そ の勢力を扶植 しよ うと して ,1
901年, メ コ ン河 を渡 って タイ領 に入 った。 オ ング ・マ ンは,
メ コン河沿 い の古 邑 ケマ ラー トと, ウボ ンの中間 にあ る トラカー ン ・ブー トボ ン在 住 の医者 ル
ア ン某 (の ちに オ ング ・フ ァと し.
て知 られ る よ うに な った) の協 力を得 て, 約 2
00名の信者 を
獲 得す る ことに成功 した。 オ ング ・マ ンらは,つ いで, ケマ ラー トに行 き, ここで教勢 の拡大
をはか ったが,かれ の不穏 な言 動を察知 した ケマ ラー トの代官 は, かれ の活動 を妨害 した。怒
った オ ング ・マ ンは, まず 副代 官 と郡長
(
k
r
o
mma
k
a
n) を捕 え, 二 人 を ケマ ラ- トの郊外に
引 き出 して処刑 し, さ らに代 官 を人質 と した。 オ ング ・マ ンは,捕 えた ケマ ラー ト代官 を厨 に
乗せ て行進 の先頭 にた てて,そ の実 力 を誇 示 した。 サ ブ-ヤイ村 では, 火薬 の代 りに砂 をつめ
た銃 を村 民 の面前 で発 射す るな どの 「
奇蹟」 を示 し, 住民 に対 し, さか んに 「ナ ンモ ン」の呪
法 を行 な った。 この村 では,約 1
,
0
00人 に も上 る信者 を新 たに獲得 して い る。 ここでは, また,
そ の名声 を慕 って各地 か ら集 ま って来 た 7人 の行者 た ちが , オ ング ・マ ンの一党 に加わ った。
オ ング ・マ ンは, こ うして形 成 され た, 1
,
000人を越 え る信徒 集 団を軍隊凧 に組 織 し, 各隊 の
指揮者 に行者 た ちを配 した。 かれ は, こ こで,爆 発銃 な どの武器 や糧 食 の調達 を命 じて, ウボ
ン- 向か う体制 を ととのえた。 隊 長 の行者 た ちは, 色 と りど りの衣 を僧侶 風に ま とい,頭 には,
20)Ma
haSi
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a(1
964:75
-77)
358
石井 :ダイにおける千年王国運動について
呪文を刻 した 貝葉を巻 きつけ るとい う異様 ないでたちであ った。 トゥ-ムは,そ の時 の雰 囲気
をつ ぎの よ うに描写 してい る。
「隊長 の行者たちは, オ ング ・マ ンの身辺を交代で警護 した。 『かが り火を絶やす な。 火縄
に火を ともせ。武器を手元にひ きよせ よ。 もし,大悪魔が現われ てわめいたな らば,そ の首を
打 ち落 として, オ ング ・マ ン様に捧 げ よ。 皆 の者,ぬか るな。
』 この命令 を聞 くと, い っせい
に 『サ -,サ ー,サ - (然 り,然 り,然 り)』 とい う閏の声が上が った。
」21
)
一万, イサ - ソ州 総督 サ ンバ シ ッ ト・プラ ソング親王は, オ ング ・マ ンの一味が, サ ブ- ・
ヤイ村に集結 して気勢を上 げ, まさに ウボ ンを窺 お うと してい るとの報告を受け ると, まず少
数 の巡遊警察隊 (あ るいは現地徴発兵 ともい う) を派遣 して, 不穏分子を 逮捕 させ よ うとし
た.逮捕 に赴 いた警察官た ち- おそ らくはイサ ー ソ出身 の ラーオ人であろ う- は, オ ング ・マ
ンの姿を見 るとその気迫 に恐れをな し,隊長のモム ・ラーチ ャオ ソグ ・ラーイ大尉一人を後に
残 し,全員逃亡 して しまった。 この様子を見てオ ング ・マ ン一党 の士気は ます ます上が った。
当時, イサ ー ソ総督 の配下には, バ ンコク兵2
00名 と,現地徴発 の ラ-オ兵を合わせ ,5
00名
足 らず の兵力が置かれ ていた。 イサ ー ソ総督サ ンバ シ ッ ト・プラ ソソグ親 王は, ウボ ン駐在歩
兵連隊司令官ル ア ンダ ・ソラキ ッ ト・ピサ - ン少佐に対 し,状況視察 のため偵察隊 の派遣を命
じた。 ソラキ ッ ト少佐は完全武装 の歩兵 1
2名 よ りな る偵察隊を編成 し, リー少尉を指揮官 とし
てサ ブ一 ・セイ村方面に派遣 した。 この時 の状況 については, トr
)-ムが,事件に関係 した父
よ りの聞 き書 きを もとに記録 した,偵察隊貞一兵卒 ポムの証言 な るものが残 ってい る。 それに
よれば, リ-少尉 のひ きい る偵察隊が, クル村 に到達す ると,圧倒的に優 勢なオ ング ・マ ンの
軍 勢に遭 遇 したので,援軍 を求紬 こカセーム村に引 きかえす途 中, オ ング ・マ ン一派 の待 ち伏
せ攻撃に 出合 い, リー少尉 は捕 え られ ,偵察隊員は,辛 うじて逃 げのびた ポム一兵卒 をのぞ く
全 員が戦死 して しまった とい う
。
イサ ー ソ総督は, ここで よ うや く重 火器 の使用 と,本格的な兵力の投入 を決意す る。 サ ンバ
シ ッ ト・プラ ソング親王は, ソラキ ッ ト司令官に命 じて 2門 の大砲 を装備 したバ ンコク出身の
下士官お よび兵卒 1
00名 と ウボ ン代官 らのひ きい る民兵 とを合わせ た討伐軍を編成せ しめ,ル
ア ング ・チ ッ トソーラカー ン大尉を指揮官 として, オ ング ・マ ン一味 の討伐を行なわせ ること
と した。討伐戦 の詳細につ いての叙述 は省略す るが, とにか く,
4発 の砲 弾は オ ング ・マ ンの
00名の戦死者
ひ きい る 「千年王国軍」 を完全に沈黙 させたのであ った。 オ ング ・マ ン一味は 3
と,4
0
0名の捕 虜を出 した。 しか し首魁 のオ ング ・マ ソ自身は,戦 闘の混乱に乗 じ,農民に変
装 して メ コン河を渡 り, ラオス領 (当時仏領)に逃れ たため,逮捕にはいた らなか った。
イサ ー ソ総督 は, オ ング ・マ ンの反 乱の鎮圧に成功す ると, 各地方官に対 し,それぞれ の地
21
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9
東南 アジア研 究
1
0
巻 3号
方にひそむ 「ピー ・ブ ソ
」 の一味お よび, オ ング ・マ ン事件 の荷担者を捕 え,ただ ちに ウボ ン
へ護送す るよ う指示 した。 この事件 に関連 して逮捕 された指導的 ピ- ・ブ ソの中には, セ-ラ
ブームをは じめ, イサ ー ソ州の各地で活動 していた 5名の 「オ ソグ」 のほか, ヤ ソー トソ郡
サ ムラ ン村 の僧 プラクル ー ・イ ソ,討伐隊 の隊長 の地位にあ りなが ら命に反 して部下 とともに
ビープ ソ側 に寝返 った カセームシーマー郡サ ン ミソ村村長の カムナ ン ・スイな どが含 まれてい
た。僧をのぞ くこれ らの首謀者たちは,見せ しめのため,それぞれ の事件 の関連地方-逮 られ,
そ こで処刑 された。僧については,還俗 した場合には無期徴役刑にす るとい う条件付で,僧形
の まま寺院 に軟禁 した。以上が, 「オ ング ・マ ンの反乱」 の概要であ る。1
902年を中心 として
東北 タイの各地に発生 した,いわゆ る 「プ一 ・ミ一 ・ブ ン (- ピー ・ブ ソ)の反乱」 は, この
「オ ング ・マ ンの反乱」 だけに とどま らなか った。 同 じくセ-ラブームに発生 した 「ピー ・ブ
ソ」を鎮圧す るためには, ナ コソラ-チ ャシ-マ総督に支援が要請 され, ブ リラム, コ-ラトか ら6
2
0名, ヤ ソー トソにおいて徴発 した現地兵5
20名,計 11
4
0名の兵力が投 入 され てい る。
チ ッ トが各州総督か らの報告に基づ いて計算 した ところに よれば ,1
902年 7月末 までに各地で
逮捕 された 「ピ- ・ブ ソ」 の数は, イサ - ソ州で4
3名, ウ ドン州で54名であ った。 このほかに,
少な くとも2
0名の 「ピー ・ブ ソ」 の逮捕 を確認す る資料があ るとい うか ら, 「ピー ・ブ ソ」 の
総数は,1
902年にあ らわれただけで も, 優 に1
00名を超 えた ことにな る。22' 貝葉 の予言が,全
東北 タイに及 んでいた事実 を考 えれば, これ らの 「ピー ・ブ ソ」 には,そ の運動 の規模 ・態様
に若干 の違 いはあ るにせ よ,いずれに も,終末- の切迫感 の強調,救済手段 としての 「ナ ンモ
ソ儀礼」 の執行,予言者 的, あ るいは, 「オ ング ・マ ン」 の例に見 られ るよ うに, 「メシア」
を 自称す るカ リスマ的指導者 の存在, とい った基本的パ ター ンが共通に存在 していた もの と考
えて よいだ ろ う。
以上 の記述か ら明 らかな よ うに, 「オ ング ・マ ンの反乱」 に代表 され る東北 タイの 「ピー ・
ブ ソ」は,前節で述べた千年王国運動 の一般的特徴をかな りよ く反映 してい るよ うに思われ る。
「金銀が砂磯 とな り,砂裸が金銀 に変わ る」 とい うモチ ー フは,既存 の価値が全面的に否定 さ
れ, まった く新 しい秩序 が誕生す ることに対す る期待 と願望 の表 明であろ う。 そ の秩序 の変容
を もた らす者は 「クーオ ・タン ミカラー ト」 で あ る。 オ ング ・マ ンの場合には, かれ 自身が
「ターオ ・タン ミカラー ト」つ ま り 「メシア」 であ ると称 した。他 の群小 の 「ピー ・ブ ソ」 に
おいては, おそ らく 「メシア」 を 自称せず, た とえば セ -ラブームの例の よ うに, もっぱ ら
「ナ ンモ ソ」 の呪法 の執行を媒介 として,信徒 集団を形成拡大 してい った もの と思われ る。
Ⅰ
Ⅰ
Ⅰ タイにおけ る千年王国運動 の特徴
9
02年に多発 したO しか し, 「ピー ・ブ ソ」 の伝統は, イサ ー ソ総督軍
「ピー ・ブ ソ」 は,1
2
2
)Te
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1
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7:8
4
)
3
6
0
石井 :タイにおける千年王国運動について
の放 った 4発 の砲 弾に よって絶 えた のではなか った。 た とえば, 「オ ング ・マ ンの反乱」が鋲
圧 され て2
2
年 を経 た 1
9
2
4
年, ル ーイ県 ワング ・サ ブ ソグ郡 ・ノングダ ソ村 ノング ・バ ッケオに
お いて,小規 模 なが ら 「ピ- ・ブ ソ」の反乱が起 こってい る。 チ ャイヤ プーム県 出身 の ブ ソマ
一 ・チ ャ トラ ッ トな る者 が, さまざまな 「奇蹟」 を行 な って農民 の信仰を集 め,近 く鬼が この
世 に現われ て人を食 うとい う予言を行 な った のが事件 の発端 とな った。 プ ソマーほ, 自 ら,人
類 救済 のため天 よ り降臨 した と称 し,鬼難 を避 け る手段 と して, しき りに ナ ンモ ソの儀 礼を行
ない, また護 符 ・呪衣 な どを頒布 した りした。信徒 は遠 くロイニ ッ ト, マ- -サ ラカムか らも
集 まって来 た と言われ, そ の数 は 1
,
000名を超 え るほ どであ った。 ブ ソマ ーは, ワング ・サ ブ
ング郡の郡長 の地位を得 よ うと,当時 まだ十分 に整備 され ていなか った地方警察 の弱体に乗 じ
3
名 とともに郡役所 を襲撃 したが,やが て鎮圧 され た 。
2
8
)最近 の例では,1
9
5
9
年 に,
て,一味2
ナ コソラーチ ャシーマ県 チ ョー クチ ャイ郡で,や は り 「ピー ・プ ソ」 の反乱 が発生 してい る。
首謀者 の 「ピー ・ブ ソJ は, ウボ ン出身のチ ャン ・シ ラーな る人物 で, チ ュラロンコソ大帝 の
生れ代 りを 自称 L, 1
0
0名を超 え る部下をひ きいて, チ ョ- クチ ャイ郡 バ - ソ ・マイ ・タイチ
ャル - ソ村 のバ - ソ ・コングタム レ-に拠 って, 自治を主張 した。 警察側 との衝突では,双方
4
) このほかに も, 「反乱」 に まで いた らない 「ピ- ・ブ ソ」 は,
に数 名の死者 を出 してい る.3
おそ らく無数 に存在 していた もの と思 われ る。 現在 において さえ, 「ピー ・ブ ソ」 の記憶 が人
9
6
6
年, 東北 タイを旅 行 した アメ リカの ジ ャーナ リス ト
々の脳裡 を去 っていない証拠 と して,1
の報告をあげ ることがで きよ う。 これ に よると東北 タイの-寒村,小寺 の住職 であ るル ソグ ・
ポ ー ・ジ- とい う僧侶が空 の鉄鉢 に, 呪文 を唱えて米 を満 た した り,木 の枝 にかけた投 網に,
純金 の魚がかか った な どとい う 「奇蹟」 を演 じた ところ,村人 はただ ちに これ を「ピー ・ブ ソ
」
と して と らえた とい う。25)
さて, これ らの 「ピ- ・ブ ン」 は, いずれ も東北 タイ地方 におい て発生 してい るのが特徴的
6
)す くな くとも, これ までに報告 され た事例だけか ら判断す るか ぎ り,「ピ- ・ブ ソ」
で あ る.2
とは,東北 タイに特有 な, したが ってす ぐれ て ラーオ的 な現象 と言わ ざるを得ない。 われわれ
は前 に,千年 王国諭が,抑 圧 され た者 の宗教であ り,民衆 の心 に密墳 した不満がはけ 口を求め
て千年王国運動- と発展す ると述べ た。東北 タイに 「ピー ・ブ ソ」 の多発 した背景には,や は
2
3
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)
朝 日アジア ・レビュ-』(
1
9
7
2
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1
2
)pp.
7
2
-7
4
に紹介したO
2
5
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1
9
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7:6
5
7
6
) この事件については『
2
6
)もし 「御親筆本王朝年代記」に見える 「チャオプラ ・ファーソグ」の 「仏教王国」を,「ピ- ・ブン」
あるいは同種の 「
千年王国運動」 と考えるならば, 東北 と北 タイの双方に存在する束 ・西南 ラーオに
7
6
7
年,アユタヤ王朝の滅亡によって, タイの統一が破れ,
共通の現象であるかも知れない。 これは,1
全国各地に群雄が割拠 したとき, ピサ ヌp-ク以北を支配 した地方政権であって, 北 タイ出身で,サ
ワンカブl
)-の大僧正ルアン (
Rua
n)が,僧形のまま王を称した特異な支配形態の地方政権である。
ルアンの 「
王国」幹部は,すべて僧侶であったとい う。 この 「
王国」は, 3年後, プラヤー ・ターク
シソによって滅ぼされたo〔
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)〕
3
6
1
東南 アジア研 究
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巻 3号
りその よ うな民衆 の不満が存在 していたにちがいない。そ して 「ピー ・ブ ソ」 とい う発現形態
は,東北 タイにおけ る宗教的伝統 と深 くかかわ り令 ってい るもの と思われ る。 本節 では, まず
「ピー ・ブ ソ」 の発生 の社会経済的基盤を検討 し,つづいて,そ の宗教運動に形態をあたえた
宗教的基盤を論 じよ う。
(
a
) 社会経済的基盤
1
8
9
3
年1
0月 3日に締結 された遅仏条約に よって, タイは, メ コン河左岸 の領土権 をすべて放
棄 し,右岸地方つ ま りタイ領 内につ いて も,河岸か ら2
5キ ロメー トル以 内に軍事施設を設けな
い ことが義務づけ られた 。2
7
)いわゆ る 「
2
5キ ロ地帯」は,実質的に フラ ンスの支配下 におかれ,
フランス人は, タイ側官憲に よるなん らの撃肘 を蒙 ることな しに, 自由に物資を搬入す ること
が可能であ った。
逆に当該地区-は,現地 出身者つ ま りラーオ人 の役人以外の タイ国官吏の立入
りが制限 された。 フランス人官吏は,また,タイ領 内の ラ-オ人に対 し,ル ア ング ・プラバ ン王
の名において租税を賦課 し, タイ側役人を逮捕 して, ル ア ング ・プラバ ンに送 った りした 。28)
この よ うに, メ コン河沿岸地方においては, タイ政府 の威信 がはなはだ しく低下 して しまって
いた 。
一方,当時の タイ政府は,主権 の独立を守 り,領土 の保全 を まっと うす るため, 中央 の威令
が辺境に まで及ぶ統治体制 の確立を急務 と考えた。そ のため, チ ュラロンコソ王は, かれが も
っとも信頼 した王弟 ダム ロン親王を内相に配 して,地方行政 制度の整備 に力を注いだ。 これ ま
で,世襲的 な地方土侯 の大幅な 自治にゆだね られ ていた辺境 地方 も, 「モ ソ トン ・テ-サ - ど
バ ー ン (州)
」 として徐 々に再編 され, 中央か ら派遣 された総督 らの統治下におかれた。 (
た
とえば, イサ ー ソ州総督 には, 国王 の異母弟サ ンバ シ ッ ト・プラソング親王が総督 として派遣
8
9
9
年には, 属領時代 の名残 りであ る貢納制が廃止 され, 代わ って,近代的税制導
された。) 1
入の先駆的試行 として,壮丁 1人につ き-率年額 4バ ー ツの 「課役代」 が徴収 され ることにな
った。 また州名か らラーオの文字がお とされ て,異民族意識 の払拭がはか られた 。29) 1
9
0
2
年い
と う年 は, こ うした ラーオ人居住地域 の, タイ国家-の統合が, ラーオ人 の反発をひ きお こす
あ る段階に到達 した時点にあた った と言 うことがで きよ う。
それ まで ラーオ人 の居住地域 であ り, 中央政府か らは, 名 目上 の支配 しか受けていなか った
東北 タイが, この よ うに, タイの中央集権的統治組織の一環に組み込 まれた ことは,各方面に
大 きな影響 を与 えず にはおかなか った。た とえば,各地方に在住す る土着 の下級役人層の権益
は, これに よって大 きな打撃を うけた。 かれ らは, 「課役代」 の導入 までは, 各種の手数料
辛,租税徴収 の報償金な どの収入のほか,農民の労働 力を私的に使用 出来 るな ど,かな りの特
2
7
)Duke(
1
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2:1
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8
-1
7
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)
2
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9
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2
)
2
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j(
1
9
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8:2
6
1f
f
.
)
石井 :タイにおける千年王国運動について
権 を享受 していた。 ところが,課役代が導入 され,農民を 「私篠」 に徴発す ることが禁止 され
たばか りか,地方官 の取 り分は,総額で 4バ ー ツ中 1
6パ-セ ソ ト弱に相当す る 0.
6
25バ ー ツに
押 え られて しまった。 しか も rナイ ・モ ワ ッ ト」 「ナイ ・コング」 な どと呼ばれ る最下層 の役
人た ちは,一件 につ き,一人 3.1
2
5サ タ ソ (-0.
031
25バ ーツ) を超 えない額 と定め られ た。こ
れは明 らかな収入減であ った。 こ うした,中央政府 に よる既得権益 の侵害 は, タイ政府 の役人
3
0
)イサ ン総督 の報告
としての威信 の低下 と相乗 して,かれ ら下級役人層の不満をつ の らせた 。
には, rクソム ン, パ ソ, タナイ (下級役人の官名) の中で,伝統的手段に よって生計を維持
していた者は,既得収益を失 い, ピー ・ブ ソとな った」 と述べ られ てい るよ うに, 「ピー ・ブ
ソ」 は, まず地方 の下級役人層の不満を代表 していた といえ よ う。31)
イサ ー ソ州サ ンガの管長 の地位にあ った プラ ・ヤ ソラ ッキ ッ ト長老は,
1
9
02年 の「ピー ・ブ ン」
の反乱 の原因を,農民の貧 困に求めてい る。
3
2
)水利に恵 まれず,気候 条件に よって作柄が大幅
に左右 され る東北 タイの水 田では, しば しば収穫 がゼ ロに近い状況が発生す るが,その場合で
も,近隣に労働市場が存在せず,現金収入の道は きわめて限定 され ていた。 こ うした不安定 な
農業 を生業 とす る東北 の農民 の生活は,恒常的な貧窮の中に押 しとどめ られ て来たので あ る。
しか も地方役人に よる圧迫 は,ただで さえ貧困にあえ ぐ農民の生活 の苦 しみを倍加 させ た。 と
くに 中央 集権化が進 み,辺境 に も複雑な行政組織が導入 され ると,地方役人 の中には,行政手
続 についての農民の無知につけ こんで,私利をむ さぼ る者が現 われた。た とえば,家畜取 引に
登録証 明を要す るよ う制度 の改正が行 なわれ ると,その制度は悪用 されて家畜 の円滑 な取 引を
妨げ,農民は無用の出費を強い られ る結果を生 んだ 。1
9
03年 の初め,東北 タイでは,例年に見
られぬほ どの家畜泥棒 が各地に発生 した こともまた農民の負担 を増加 させた 。
3
3
)これ らの原因
が相乗的に作用 して,農民を rピー ・ブ ン」 の煽動 に乗 りやす い心理状態 に追い こんでいた0
最後に,東北 タイの住民が,バ ンコクに対 して抱 く被害者意識,差別感について付言 してお き
826年 のいわゆ る ウイエ ソチ ャン反乱
たい。東北 タイ地方は, もともと人 口稀薄であ ったが,1
の戦 後処理の一環 として, ウイエ ソチ ャン王国の人 口削減政策 が採用 され,多数 の ラーオ人が,
メ コン河右岸地方-強制移住 させ られ, これが原因 とな って東北 タイに ラ-オ人 の人 口が急増
した と言われ てい る.34)こ うした歴史的事情に よって,一般に東北 タイの ラ-オ系住民には,
被征服民ない し隷属民 としての劣等意識,被害者意識,差別感が今 日もなお残存 してい る。 ま
た,かれ らには,バ ソコクを中心 として展開す るタイの政 治過程か ら疎外 されてい るとい う意
識 が抜け切れ ない。 これ らもまた,貧 困 とな らんで,東北 タイに r千年王 国運動」が発生 しや
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東南 アジア研究
1
0
巻 3号
す い素地を生 んでい る。
(
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) 仏教的基盤
パ ー リ語大蔵経 には, ユ ダヤ-キ リス ト教 の 「メシア」に相当す る 「救世主」の思想はほ と
Di
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k畠ya)中の 「転輪聖典 師子qL
経」(
Cakkavat
t
i
ん ど現われ ていないが, 長部経典 (
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hanえdaSut
t
ant
a)は,その数少 ない例外 として, しば しば 引用 され る。
5
5
) この経典 には,
Met
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yya) と呼ばれ る未来仏 と, 「転輪聖王」 (
Cakkavat
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i
) と呼ばれ る理想
「ミロク仏」 (
王の双方が取 り上げ られ てお り, 上座部仏教 と千年王国論 の接 点に位す る c
anon として,注
目され なければ な らない。 「転輪聖王師子軌経」 に よれば,人間の寿命が八万才にな った時,
七つ の宝を具足 した転輪法王が,人民 の保護者 として世にあ らわれ, 「刀杖を用いず正浩を以
って」 あ まね く四天下を統御す る。 また, ミロクと呼ばれ る 「応供,等正覚.…‥仏,世尊 な る
‥
如来」が 出現 して, 「初め もよ く中 も善 く後 も葺 き法を説 き,文義具足せ る一切 円満に して清
浄 な る先行を説 く」 とい う。36
) ビル マにおけ る千年王国諭を論 じた Me
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RO も, この
Cakkavat
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Si
han豆daSut
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ant
a を,その典拠 として挙 げてい る。37)
上座部仏教におけ る 「メシア」 思想は,蔵外文献 の中で, よ り詳細 に論 じられ てい る。 た と
えば 『未来史』(
An畠gat
a-var
hs
a)がそれであ るが, ここでは, ゴー クマ ・ブ ッダが この世を
去 った後,正法が五つ の段階を経 て漸次消滅 して行 き,最後に, ミロク仏が 出現 して人 々を救
うと説 いてい る。 そ してその最後 の時 に,究極的な救いに あずか る者 の資格が詳細かつ具体的
に論 じられ てい る。38)
●●●●●●●
しか しなが ら, タイ仏教 の場合, これ らの蔵経 あ るいは蔵外文献が,その ままの形で広 く知
られた とい うことは, この国におけ る不振 な教学 の状況か ら推量す るに,可能性が きわめて低
い といわなければ な らない。1
83
0年代 の後半, クマユ ッ ト派が成立 し,復古的仏教改革 の原動
力 と して, パー リ語聖典 の重要性が叫ばれ るまで, タイ仏教を支 えていた 「聖典」 は,1
4世紀
のス コ-タイ王 リタイ王の著作 といわれ る 「
三 界経」(
Tr
ai
phdm あ るいは Te
bhdmi
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ha)
な どの通俗仏教書であ った。 タマニ ッ ト改革 ののちにおいて も, パー リ聖典が,読 話用ではな
く, 内容 の理 解を 目的 として研究 されたのは,大都市の ご く一部の寺院 にす ぎず,大部分 の地
方小寺院 においてほ, パー リ語聖典 はほ とん ど読 まれ なか った と言 って さしつかえないであろ
う。 た とえば,1
887年,東南部 タイ御巡幸の途 中, た また ま地方寺院を訪問 し,講話を聞 く機
会を得たチ ュラロンコソ王は,僧 の講話 の内容 が愚劣であ るとして,深い憂慮 の念 を表 明 して
い るO
3
9
)それゆえ,東北 タイの僻村 の農民の間 に, 「未来 仏」 ない し 「転輪聖王」 についての
35)Ma
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a(1958:161)
36) 『南伝大蔵経』第 8巻長都経典 (1
970:92
-93)
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o(1970:171)
38)Wa
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n(1953:48ト486)
39)Wa
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n(1971:54-56)
石井 :タイにおける千年王国運動について
●●●●●
知識 が流布 され ていた とすれば,それはパ- 1
)聖典や蔵外経典以外の,別 のなにかの中に求め
なければな らないだ ろ う。
タイ国各地 の寺院 の本堂には,たいてい壁画が措かれてい るが,そのモチ ーフは,前 に触れ
た リタイ王の 「三 界経」であ ることが多 い。 タイの農民は,壁画 とい う視覚的表現を通 して,
「
三 界経」 の内容 にかな り古 くか ら親 しんでいた と考 え られ る。 「
三 界経」 の 「三界」とは,
「欲界」,(
k云ma
phdmi
)
, 「色界」(
r
apa
phami
)
, 「無色界」(
a
r
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pa
phdmi
)の三種煩 の生存
の状態を指す。生 命あ るものの さまざまな生存 の状態を,詳細かつ具体的に描写す ることに よ
って, 厭わ しい状態に陥 るのを さけ, 好 ま しい境涯 に生 まれ るために, 人は何を為すべ きか
を,民衆に理解 しやすい形で提示 した通俗仏教書, これが 「三 界経」であ る。 内容的には,
「欲界」 についての記述が もっとも多 く, 中で も 「人間界」 のそれが,全巻 の 5分 の 2を 占め
てい るとい うの も,本書 の実践的性格を示 してい るといえ よ う。
4
0
)その巻頭 と巻末に,典拠 と
した文献三十数 点が列挙 され てい るが, その中には 『未来史』 な ど,終末論を と りあつか った
manut
s
a
phdmi
) の一節 におい
文献 が含 まれてい る点に注 目したい.41)と くに, 「人間界」 (
て,七宝を具足 した転輪聖王が, この世 に現われ,正法に したが って全世界を統治 し,人 々は
合掌 して王の支配を讃仰す ると述べ, しか も 「転輪聖王」 を, 「ブ ッダ」や 「ボサ ツ」 と並 ん
で, 「プ一 ・ミ一 ・ブ ソ
」 のひ とつに数 えてい るのは,東北 タイの千年王 国諭 との関係で興味
をひかれ る。42)おそ らく, 『三界経』は,未来に 出現す る理想王の理念の普及化に,重要な役
割を果 た した と 考 えなければな らないであろ う。 この理想王が, タイ語 あ るいは ラオ語で,
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hammar
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haあ るいは t
hammi
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)語 d
ha
mma
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豆j
aお よび dha
mmi
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の靴音) と呼ばれ,国王の名の一部 として も用い られ てい る点 も,あわせ て指摘 してお きたい。
この 『三 界経』 とな らんで, タイの民衆に親 しまれ て来た通俗仏教文学に, 『プラ ・マーラ
Phr
aMal
ai
)があ る。 これは, タイのみな らず ひろ く東南 アジア各地 に分布 してい る作
イ』(
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aであ るといわれ る048)ラオスでは, Tan
品で,その原型 は セイ ロンで書かれた Me
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n な どと呼ばれてい る.44) 現存す るタイ語 の 『プラ ・マ
-ライ』は, アユ タヤ朝後期 の詩人, チ ャオ フ ァ ・タンマテ ィべ - (チ ャオ フ ァ ・クソグとも
ya Met
t
eyya (
俗に SiAn と言 う)をひ とつ のテー
言 う)の作品 と言われ,未来仏 SriAri
マ と して書かれた長篇詩であ る。 その大筋 は, セイ ロンの僧 プラ ・マーライが,修行の末,超
自然的能力を会 得 し,飛和 して天界 と地獄 とを経め ぐり,ついに未来仏であ る「シー ・アー ソ」
40) 『
三界経』の解題としてほ,Coe
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9
5
7)が便利であるO より詳細な解説には,Anuma
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がある。なおテキス トには,クルサパー版を用いた。
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5)によって 『プラ・マ-ライ』 の大略を知ることができる.
43)Dha
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8)および De
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6)を用いた。
なおテキス トは Chaof
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5
東南 アジア研究
1
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巻 3号
にめ ぐ り会 うとい う話 であ る。 ここには,未来 において, この世 に 「シ- ・7- ソ
」 な る 「メ
シア」 が来 臨 して人 々を救済す るとい う思想 が明確 に述べ られ てい る。
ところで, 『プラ ・マー ライ』 は, どの よ うな形 で民衆 に受容 され た のだ ろ うか。 ア ヌマ ン
・ラーチ ャ トンに よれば, 『プラ ・マ ーライ』 の読 唱は, もと婚姻儀 礼 の重要 な一部であ った
とい う。
4
5
)す なわ ち, タイの伝統 的慣 習 に よれば,新 郎は,結婚式 の夜直 ちに新婦 と同床す る
ことが許 されず,吉 日到来す るまで, 3日, 5日, 7日あ るいはそれ 以上 の期間,独 り空間 を
守 らなければ な らなか った。 この慣 習は, タイ語 で 「ノー ソ ・フ ァオ ・ホ ー」 (
n6nf
aoh6
)
と呼ばれ る。 この期 間 中,新 郎 ・新婦 双方 の両親 は,毎夜,学識 あ る俗人をそれぞれ二人ず つ
招 き,閏 の外で 『プラ ・マー ライ』 を読 唱 して新郎に聞かせ るのが古 くか らの慣 習であ った。
『プラ ・マ -ライ』 の内容 は,天 国 ・地獄 巡 りに仮託 した仏教道徳説 であ り, これ を新郎に聞
かせ ることは,結婚 後 の生活- の戒 めを与 え ることを意味 したのであ る。 『三 界経』が,壁画
とい う視 覚を媒 介 と しての遺徳教 育が あれば, 『プラ ・マ- ライ』 は,詩 の朗唱 とい う聴覚に
訴 え る民衆教化 の方便であ った といえ よ う。 なお, この習慣 は,次第 に失われ,現在 では婚姻
儀 礼ではな く,葬儀 の際,死者 に対す る 「引導」 と して, 『プラ ・マ- ライ』 の朗 唱が一部 の
地方で行 なわれ てい る。 以上 の考察か ら,つ ぎの よ うな結 論が導 かれ るであろ う。 す なわ ち,
(
1
)東北 タイの 「ピ- ・ブ ソ」 は
,『三 界経』 ない し 『プラ ・マ-ライ』 な どの通俗仏教文学書
の視覚的 ・聴覚的表現 を通 して,人 口に腺 炎 していた 「未 来仏」 と, 「転輪聖王」とい うふた
つ の観念 の合体 に よって成立 した思想 を背景 と して発生 した。 (
2
) 「メシア」 は, 具体的には
「タ ン ミカラー ト」 と呼ばれ たが, この語 は, 「正法に従 って統 治す る王」 を意味 し, 「転輸
聖 王」 の修飾語 と して用い られ る。 「オ ング ・マ ン」 の例 を とるな らば, 「パヤ- ・タ ン ミカ
ラー ト」 は, この意味 に もとれ るが, 同時 に具 体的 な ラオス国王 の名 とも考 え られ る。 おそ ら
くは, この両者 が重 な り合 った もの と見 られ よ う。46)
お
わ
り に
「
千 年王 国運動」 は, ユ ダヤ-キ リス ト教 の伝統 の及 んだ地方に と どま らず, 仏教 の優 勢な
国 々において も発生 してい る。 タイ国 もまた, そ の例外ではない。今 日まで タイの 「千年王 国
運動」(
「ピー ・ブ ン」 ない し rプ一 ・ミ一 ・ブ ソ
」
)は,東北 タイにのみ発生 してい る。 その
理 由は, この地方 の住 民が ラオ族 であ り,かつ ての被征服 民の後商 と して, タイ国の支配民族
であ るタイ族 (シ ャム教)に対 し,被差別感,被抑圧感, 疎外感 を もってい るとい う心理的 事
情 に加 えて,東北 タイ地 方 の住民が,水利 に恵まれず,天候 に左右 され たは なはだ不安定 な農
45)Anuma
n (1
964:251
-257)
46)救済あずかる資格としての 「
ナンモソ」 儀礼の意義については, 文献上の証拠を見出せなか ったが,
949)参照一 と,
「ナンモン」が,すでに民衆仏教の中に捷災儀礼として定着している事実一佐々木 (1
phGwi
s
etとい う観念が結合したものと考えられ ようO
366
石井 :タイにおける千年王国運動について
業 を生業 と してお り,恒 常 的貧 困に苦 しめ られ てい るとい う経 済的事情 に よる。1
902年 には,
「ピー ・プ ソ
」の異常 な大 量 発生 を見 たが, これ は, タイの近 代化 の進 展 とともに, 行政 の中
央 集権化 がすす み , ラ-オ族 が タイ社 会 の*へ と強制 的に統 合 され て行 く過 程 にお い て,新 旧
勢 力 の利害 が衝 突 し土着 支 配 層 が反発 した とい う新 しい要素 が 加わ っていた ため と見 られ る。
一 般 に仏教 は, タイ社 会 の統合 に正 の役割 を果 たす と考 え られ てい る。 山地 民教化 のため の
サ ンガの利 用
(
「タ ンマチ ャ- 1
)ックJ 運 動), 東 北 タイ等 の地 方 開 発に対す る サ ンガの協力
(
rタ ンマノ
ミタナ」, rタ ンマ トゥ- ト」 運動 な ど) な どほ,か か る認識 に基 づ いてい る。 しか
しなが ら,東北 タイの 「ピー ・ブ ソ
」 の内容 を検 討 してみ る と,そ の構成 要素 は, いず れ も仏
教 的枠組 の中に あ り, 「千年 王 国運 動 」の参 加者 た ちは,すべ て仏教 的文 脈 にお い て行動 して
い る ことに気づ く。 起 原的 に は バ ラモ ン教 であ るが, 現在 では, 民衆 仏教 の不 可分 の構 成要 素
」儀 礼が, 「ミロク仏」 (タイ語 では 「シー ・アー ソ」
)あ るい は 「転
とな ってい る 「ナ ンモ ソ
輪 聖 王」 信 仰 と結合 して, 特殊 タイ的 な 「千年 王 国 諭」 が成 立 し うる ことが rピ- ・ブ ソ」 に
よ って実証 され た ことは, 仏教 の中に もまた, タイの社 会 統合 の分解 要 因が 内包 され て い る も
の と して注 目され よ う。
引 用 文 献
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石井 :タイにおける千年王国運動について
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再洗礼派』東京,1
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マ ン-イム (鈴木二郎訳) 『イデオ pギ-とユ- トピア』東京 ,1
9
7 1.
佐 々木教悟 「南伝 仏教の-様相- シャム仏教 におけ る詞 ヲ
己
-」 『大谷学報』28の 2, (
1
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年 3月)
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ホブズボーム (
青木保編訳)『
反抗の原初形態一千年王国主義 と社 会運動』東京 ,1
97
1.
参 考 文 献
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補注)京都大学東南アジア研究 セソタ-の久馬-剛教授の示唆に よれば,強い風化作用を うけた熱帯土壌
お よび ラテライ ト中には 「コソク リ-シ ョソ」あ るいは 「ビゾリス」(
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大型展弾 (
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)状の鉄質形成物がみ られ ることが多い とい う。 ここの 「ラテ ライ ト中の砂疎」 と
は, これを指す もの と考え られ る。
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