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源氏物語の読者たち

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源氏物語の読者たち
特
別
講
演
源氏物語の読 者たち
―絵画化と出版―
伊
井
春
樹
(国 文 学 研 究 資 料 館 )
1
源氏物語一千年紀の意義
寛 弘 5 年 (1008)11 月 1 日 、 藤 原 道 長 邸 で は 敦 成 親 王 (一 条 天 皇 の 第 二 皇 子 、 後
の 後 一 条 天 皇 )誕 生 の 「 五 十 日 の 祝 い }が 盛 大 に 催 さ れ て い た 。 生 母 は 道 長 娘 で 一
条天皇中宮の彰子、その女房として仕えていたのが紫式部である。この年の 7 月
に出産を控えた中宮彰子は父の土御門邸に里下がりし、お供に彼女も従ったので
あ る 。9 月 11 日 に 皇 子 誕 生 、道 長 に と っ て は 初 孫 と い う だ け で は な く 、将 来 皇 太
子から天皇に即位させて政権を握ろうとする狙いがあるだけに、その喜びようは
う ぶ やしない
一通りではなかった。例によって 3 日、5 日、7 日、9 日と産 養 が続き、さらに
50 日 目 を 迎 え た の で あ る 。 権 力 者 道 長 邸 に は 大 勢 の 公 卿 た ち が 参 列 し て の 祝 宴 、
それはにぎやかなことで、紫式部などが控えている女房たちのもとにも喧騒は聞
こえてくる。
『紫式部日記』の当日条によると、藤原公任が少し酒に酔いながらふらふらと
紫 式 部 の い る あ た り 訪 れ 、「 あ な か し こ 、 こ の わ た り に わ か む ら さ き や さ ぶ ら ふ 」
(恐 れ 多 い こ と で す が 、こ の あ た り に 若 紫 さ ん は い ら っ し ゃ い ま す か )と 呼 び か け 、
彼女をさがしていたという。紫式部は、
源氏にかかるべき人もみえ給はぬに、かのうえへはまいていかでものし給は
む と 聞 き ゐ た り 。(源 氏 物 語 に は そ の よ う な 人 も い ら っ し ゃ ら な い の に 、ま し
て紫上などはどうしていることがあろうか)
と、不満な思いでいた。公任は著名な歌人でもあり、明らかに『源氏物語』を読
17
んでいた。この後も『紫式部日記』には、中宮彰子が敦成親王をともなって宮中
に還啓する直前、道長邸で大々的に『源氏物語』の書写作業がなされるとか、一
条天皇までがこの作品を目にして内容を称賛するなどの描写がある。ともかく、
歴史上初めて『源氏物語』の名が口にされた記念すべき日となったのである。も
っとも、
『 源 氏 物 語 』そ の も の は 寛 弘 五 年 以 前 に は で き あ が っ て い た は ず だ が 、こ
の年から流布するようになったのは明らかである。
( 道 長 邸 で の 五 十 日 の 祝 宴 『 紫 式 部 日 記 絵 巻 』 (角 川 書 店 )よ り )
その年から今日まで千年、
『 源 氏 物 語 』は た ゆ む こ と な く 読 み 継 が れ て き た わ け
で、世界の文学史においても例のないことといえよう。世界的に古典として評価
さ れ る シ ェ イ ク ス ピ ア で も 16 世 紀 か ら 17 世 紀 、紫 式 部 は そ れ よ り も 600 年 も 昔
の人物だけに、その古さと偉大さが知られよう。これはたんに日本の古典文学と
いうだけではなく、世界の遺産として保存し、次の世代へ引き継ぐ必要がある。
『源氏物語』がすぐれている点は、成立して以後たんに千年も残されてきたと
いうだけではなく、その間に数限りない人々に読まれ、また新しい文学作品や文
化が生産されてきたことである。今日のもっとも初期の読者として知られる人物
たかすえのむすめ
さらしな に っ き
に 菅 原 孝 標 女 が お り 、 そ の 『 更 級 日 記 』 の 14 歳 の 日 記 に は 、
をばなる人のゐなかよりのぼりたる所にわたいたれば、
「 い と う つ く し う 、生
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ひ な り に け り 」な ど 、あ は れ が り 、め づ ら し が り て 、帰 る に 、
「何をか奉らむ、
ま め ま め し き 物 は 、ま さ な か り な む 、ゆ か し く し 給 ふ な る 物 を 奉 ら む 」と て 、
ひつ
源氏の五十余卷、櫃に入りながら、ざい中將、とほぎみ、せり河、しらゝ、
あさうづなどいふ物語ども、一袋とり入れて、得て帰る心地のうれしさぞい
み じ き や 。 (治 安 元 年 、 1021)
(お ば に あ た る 人 が 、 地 方 か ら 都 に 上 京 し て い る 所 に 、 尋 ね て 行 っ た 折 、「 と
て も 美 し く 成 長 な さ い ま し た ね 」な ど な つ か し が り 、珍 し が っ て 、帰 る 際 に 、
「何をさしあげましょうか、実用的なものはふさわしくないでしょう。ほし
がっているものをさしあげましょう」と、源氏物語の五十余巻、箱に入った
まま、それに在中将、とほぎみ、芹河、しらら、あさうづ、などといった物
語などもひとつの袋に入れて、いただいて帰る私の心地のうれしさは、大変
なものであった。)
『 源 氏 物 語 』 が 書 か れ て 20 年 ば か り 後 の 記 述 で 、 以 前 か ら 読 み た く て た ま ら
なかった物語を全巻を手にし、少女にとっての喜びは何物にも代えがたいもので
あった。彼女は夢中になって読みふけり、幾度も読み返すうちに、ついには暗記
までしてしまったというありさまであった。このような『源氏物語』の熱烈なフ
ァン、これ以降も時代ごとに人々によって読み継がれ、現代まで千年という時を
刻むことになったのである。
2
源氏物語の読まれ方
この千年の間、
『 源 氏 物 語 』は『 更 級 日 記 』の 作 者 の よ う に 純 粋 な 物 語 と し て だ
けではなく、さまざまな読まれ方がされてきた。まず『源氏物語』を読むといっ
ても、成立して百年ばかり時間が過ぎてくると、ことばや風俗習慣なども違って
くるし、政治が貴族から武士の時代になってくるにともない、かつてのように自
由には読めなくなってくる。作品と読者の間に溝が生じてくるのは避けられない
ことで、それを埋めて理解を助けるために生まれてきたのが注釈であった。かと
いって面白くない作品で、しかも読むのが困難だとなると、誰も見向きもしなく
19
なり、忘れられてしまうはずだが、作品の魅力から人々は何とか物語を読もうと
努力してくる。読者の欲求が高ければ高いほど、より理解しやすいようにしよう
と注釈書が派生し、また容易に作品が読めるようにと、さまざまな解説書やダイ
ジェスト版も作られてくる。
12 世 紀 に は 、 藤 原 俊 成 (定 家 の 父 )は 『 源 氏 物 語 』 を 和 歌 の 書 と し て 位 置 づ け 、
歌 人 必 読 の 書 と 主 張 す る 。い わ ゆ る『 六 百 番 歌 合 』に お け る 判 詞 で 、
「 紫 式 部 、歌
よみのほどよりももの書く筆は殊勝なり。その上、花の宴巻は艶なるものなり。
源 氏 見 ざ る 歌 詠 み は 遺 恨 の こ と な り 」(紫 式 部 は 、歌 人 と し て よ り も 物 語 の 文 章 は
す ば ら し い も の で あ る 。そ の 上 、
「 花 宴 」の 巻 は 優 艶 な 内 容 で あ る 。そ の よ う な 源
氏 物 語 を 読 み も し な い 歌 人 は ま こ と に 残 念 な こ と で あ る )と い っ た こ と ば で 、こ の
影響は大きく、歌人にとって『源氏物語』は必読の書と位置づけられてくる。和
歌を詠む上において、
『 源 氏 物 語 』の こ と ば を 引 用 す る と か 、物 語 の 世 界 を 取 り 込
むことが求められたわけで、必然的に人々は読む必要に迫られてくる。といって
も容易に読めるような作品ではないだけに、注釈書が作られ、ダイジェストなり
抄出した本文が人々に利用されるようにもなったのである。
『源氏物語』が和歌の手引書として用いられるだけではなく、政治を知る本と
して、また仏教や儒教道徳の書としても読み継がれてもいった。具体的な例を示
すと、斯波義将の『竹馬抄』には、
尋常しき人は、かならず光源氏の物語、清少納言が枕草子などを、目にと
どめて、いくかへりも覚えはべるべきなり。なによりも人のふるまひ、心の
よしあしのたたずまひを教へたるものなり。それにてをのづから心の有る人
の さ ま も 見 し る な り (一 般 の 人 は 、 必 ず 源 氏 物 語 や 清 少 納 言 の 枕 草 子 な ど を 、
しっかりと目にして、幾度も読んで覚えなければならない。なによりもこれ
らの作品は、人の行動、心の善悪の用い方を教えた書物である。これらの本
を読むことによって、自然に真に心のある人のさまを見知ることができるよ
う に な る )。
と、物語を純粋な文学として読むのではなく、人の生活に役立つものとして読む
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ことが求められたのによって、むしろ『源氏物語』は生き残ったといえるかもし
れない。このようなひとつの作品に対して、一方向からだけではなく、多様な読
みがなさてきたというのは、それだけさまざまな読者のニーズに対応できる包容
力の大きさを持っていたのが『源氏物語』でもあったと表現できるであろう。
『源氏物語』に魅了された人々は孝標女をあげるまでもなく数多く存しており、
それはいつの時代にも変わらず存在し続けた。室町末期の一人の読者として九条
たねみち
稙通の例を示しておこう。
く
ご
つねに供御の後には、御机にかからせ給ひ、明け暮れ源氏を御覧じけり。こ
の物語ほどおもしろきことはなし。六十余年見れどもあかず、これを見れば延
じょう は ほ っ きょう
「何
喜 の 御 代 に 住 む 心 ち す る と 、不 断 お お せ ら れ し 。あ る 時 紹 巴 法 橋 ま ゐ り て 、
を か 御 覧 な さ る る 」 と 申 さ れ け れ ば 、「 源 氏 」、 ま た 「 め づ ら し き 歌 書 は 何 か は
べ る 」 と 問 は れ し か ば 、「 源 氏 」、 ま た 「 誰 か ま ゐ り て 御 閑 居 を 慰 め 申 す ぞ 」 と
申 さ れ け れ ば 、「 源 氏 」 と 、 三 度 ま で 同 じ 御 返 答 あ り し 。 (松 永 貞 徳 『 載 恩 記 』 )
(い つ も 食 事 の 後 に は 、机 に 向 わ れ な さ り 、明 け て も 暮 れ て も 源 氏 物 語 を ご 覧
になっていた。この物語ほどおもしろい作品はない。私は六十数年読んできた
が、飽きることはなく、この物語を読むと延喜の醍醐天皇の御時代に住んでい
るような思いがしてくると、たえず仰せになっていた。ある時、里村紹巴法橋
が お い で に な り 、「 今 は ど ん な 本 を ご 覧 に な っ て い ま す か 」 と お 尋 ね に な る と 、
「 源 氏 」、 ま た 、「 珍 し い 歌 の 本 は 何 が あ り ま す か 」 と 問 い ま す と 「源 氏 」、 さ ら
に「どなたがこちらにおいでになってお暇な折をお慰めになりますか」と申し
ま す と 「 源 氏 」、 と 、 三 度 ま で 同 じ ご 返 答 を な さ っ た )
もうしんしょう
と、徹底して『源氏物語』を読みふける毎日だったという。稙通は『孟津抄』と
いう注釈書を執筆もしている源氏学者であり、このように晩年はもっぱら王朝の
物語世界に浸っていたようである。
そう
も う 一 人『 源 氏 物 語 』と か か わ り な が ら 、数 奇 な 運 命 を ま っ と う し た 人 物 に 、宗
ちん
椿という連歌師の存在も忘れるわけにはいかないであろう。
和泉の堺に宗椿とて手書きありし。源氏を写すこと二十三部、二十四部目
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しょう は く
の 朝 顔 の 巻 き に て む な し く な り ぬ 。 牡 丹 花 ( 肖 柏 )、 か れ が 心 の ほ ど を あ は れ
みて追善のため、
せいすいしょう
筆 に そ み 心 に か け し ち ぎ り に や 折 し も 消 え し あ さ が ほ の 露 (『 醒 睡 笑 』巻
五)
(和 泉 の 国 の 堺 に 宗 椿 と い う 書 写 を す る 者 が い た 。源 氏 物 語 を 写 す こ と 二 十 三
部、二十四部目の朝顔の巻を写していて命を失ってしまった。師匠の連歌師
である牡丹花肖柏が、彼の心のほどを痛んで追善のために、
これまで筆を染め、心にかけながら源氏物語を写すことを誓っていたの
であろうか、折しも朝顔の巻を写していて、花に置く露のようにはかな
く命を失ってしまった)
これなどあわれな逸話というほかはなく、連歌師としての活躍もしていたはず
で、そのかたわら『源氏物語』を書写することを自らの使命とし、毎日のように
筆を手にして作業に没頭していた。
『 源 氏 物 語 』の 一 部 と は 54 巻 す べ て を 指 し 、1
日の仕事量によっても異なるが、早くても 3 ヶ月や 4 ヶ月はかかるはずである。
400 字 詰 め 原 稿 用 紙 に 換 算 す る と 、全 巻 で お よ そ 2300 枚 ば か り に な る 。そ れ だ け
の 書 写 に か か り っ き り に な る わ け に は い か な い た め 、1 年 で 2 部 終 え る と し て も 、
十数年は机に向かって筆を動かし続けなければならない。考えただけでもその仕
事量の多さに圧倒されるが、ただ『源氏物語』はそのような読者なり、伝えよう
とする人々がいたからこそ、今日まで失われることなく存続してきたのだともい
えよう。
3
江戸時代の絵入本
17 世 紀 初 め の 室 町 時 代 ま で 、『 源 氏 物 語 』 は も っ ぱ ら 貴 族 の 文 学 と し て 享 受 さ
れ、それにともない王朝文化にあこがれを持つ大名家などにも広がってはいた。
ただ読むのはきわめて困難であったようで、原文を学ぶとすると、講釈師に教え
を 請 う か 、本 文 と と も に 膨 大 な 注 釈 資 料 を 手 に 入 れ る 必 要 が あ っ た 。た だ 注 釈 は 、
時代を経るにしたがい詳細になるばかりで、そこには漢籍や仏典までも引用され
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るだけに、かなり有識者でなければなかなか近づくことができなかった。そうで
な け れ ば 、 簡 便 な ダ イ ジ ェ ス ト 版 で す ま せ る か で 、 そ れ w@f
あ ら す じ だ け に し か す ぎ な い 。室 町 末 期 の 花 屋 玉 栄 な ど は 、
『 源 氏 物 語 』を 読 み た
く思っても注釈が複雑で、初心者にとってはその注釈の注釈が必要にもなってく
るほどだと慨嘆し、自ら一般向けにと梗概書を作成して提供する。
こ の よ う な 状 況 が 大 き く 変 っ た の が 、17 世 紀 の 江 戸 時 代 に お い て で あ り 、出 版
という文化の普及と、庶民層の台頭が『源氏物語』の読者に大きな影響を与える
ことになる。それまでは本文にしても注釈書にしても、すべて筆で写すしか方法
はなく、それだけ流布する人数も限られていた。それが版木に文字を彫って印刷
す る 方 法 が 普 及 し 、ま た 読 み や す く す る 工 夫 が な さ れ る こ と に よ っ て 、
『源氏物語』
の読者層は一挙に増大していく。しかも江戸時代は戦乱のない平穏な世となり、
「町人文化」とも称されるだけに、圧倒的多数の人々はみやびやかな王朝文化に
あこがれを持ち、民衆の間に『源氏物語』が広がりもしていった。
江 戸 初 期 の 古 活 字 版 『 源 氏 物 語 』 か ら 、 や が て 「整 版 本 」に よ る 出 版 の 訪 れ と な
しゅしょ
り 、そ の 早 い 時 期 の テ キ ス ト と 注 釈 と し て は 、寛 永 17 年 (1640)の『 首 書 源 氏 物 語 』
がある。そこからさらに飛躍的に読者層を獲得し、以後の『源氏物語』の普及に
大 き な 影 響 を 与 え た の が 『 絵 入 本 源 氏 物 語 』 で あ り 、 こ れ に は 226 枚 も の 挿 絵 を
持つという画期的なテキストであった。ただ、別冊に注釈を持つとはいえ、基本
的には本文と挿絵だけからなるため、一般読者が読むには困難な点もあった。こ
こげつしょう
れ が 読 む 作 品 と し て 工 夫 が 凝 ら さ れ た の が 延 宝 元 年 (1673)の 『 湖 月 抄 』 で 、 挿 絵
はないものの、頭部、行間にそれ以前の代表的な古注を摘記し、より利用しやす
い 形 式 を 生 み だ す 。以 後 近 代 に い た る ま で 、
『 湖 月 抄 』は 標 準 的 な『 源 氏 物 語 』の
本文と注釈書として継承され、人々へ大きな影響を与えることになる。なお『湖
ばんすいいち ろ
月 抄 』 の 先 蹤 的 な 存 在 が 『 万 水 一 露 』 で 、 成 立 は 天 正 3 年 (1575)な が ら 、 後 に 全
本 文 を 収 め て 寛 文 3 年 (1663)に 版 行 さ れ る 。
平 安 末 期 に 成 立 し た『 源 氏 物 語 』 (現 存 す る の は『 国 宝 源 氏 物 語 絵 巻 』)は 、物
語本文を読むだけではなく、絵画化することによって視覚的に作品を味わおうと
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する趣向が生じてくる。時代が下るにしたがい絵画化は増大し、場面の多様化、
彩色や白描といった手法だけではなく、絵巻、色紙、扇面、団扇、屏風などと各
種の形態も考案され、物語絵はさらに一般化していく。とりわけ、大量に現存す
る源氏色紙画は、1 巻 1 図を原則として、それに各巻の歌なり場面にかかわる文
章が染筆された色紙がセットとして流布するようにもなる。一方では室町期から
数多く見られるようになる奈良絵本の存在は、江戸期になっての絵入りの『源氏
物 語 』 の ダ イ ジ ェ ス ト 版 に も 大 き な 影 響 を 与 え た は ず で あ る 。『 絵 入 本 源 氏 物 語 』
を継承しながら、それをより当代的なことばによってダイジェスト化し、挿絵を
入れた出版物、色紙画の詞書部分をふくらませてダイジェスト化した体裁の絵本
など、以後江戸時代は入門書的な絵入本源氏物語の出版でにぎわうことになる。
以下、
『 首 書 源 氏 物 語 』以 降 の 出 版 物 を 時 代 順 に 列 挙 し 、挿 絵 本 は そ の 旨 を 注 記 し
てみた。
首書源氏物語
一竿斎
絵入源氏物語
山本春正
くもがくれろくじょう
雲隠六帖
そ で かがみ
え ほ う まくら
源氏絵宝 枕
こうもく
十帖源氏
野々口立圃
北村季吟
源氏ひながた
加藤吉定
※絵入本
※絵入本
貞 享 2 年 (1685)
貞 享 4 年 (1687)
小島宗賢・鈴村信房
風流源氏物語
※絵入本
延 宝 元 年 (1673)
菱川師宣画
みちしば
※絵入本
寛 文 10 年 (1670)
源氏大和絵鑑
源氏道芝
※絵入本
万 治 3 年 (1660〇 )
寛 文 元 年 (1661)
野々口立圃
成立は室町中期
万 治 3 年 (1660)
万 治 3 年 (1660)
小島宗賢・鈴村信房
湖月抄
※絵入本
小島宗賢・鈴村信房
源氏鬢 鏡
おさな源氏
※絵入本
※絵入本
万 治 2 年 (1659)
一華堂切臨
び ん かがみ
承 応 3 年 (1654)
寛 文 5 年 (1655)
十二源氏袖 鏡
源氏綱目
寛 永 17 年 (1640)
都の錦
※絵入本
※絵入本
元 禄 7 年 (1694)
元 禄 16 年 (1703)
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※絵入本
※絵入本
源氏物語道しるべ
紅白源氏物語
雛鶴源氏
水月堂梅庵
若草源氏
水月堂梅庵
さえづり
多賀半七
※絵入本
享 保 8 年 (1723)
山朝子
絵本源氏物語
酔画朧月文、寺井尚画
元 文 元 年 (1736)
寛 延 四 年 宝 暦 元 年 (1751)他
源氏絵本藤の縁
源氏絵合
宝 暦 4 年 (1754)
雅俗画源氏
北尾重政
尾崎雅堂
寛 政 9 年 (1797)
文 化 4 年 (1807)
紫文製錦
橋本稲彦
文 化 4 年 (1807)
中野貞利
源氏物語五十四帖絵尽
北村久備
源氏物語大意
今様源氏狂歌合
源氏物語忍草
源氏百人宝文庫
※絵入本
文 化 年 間 (1804~ 1817)
文 化 9 年 (1812)
文 化 9 年 (1812)
青雲亭光海・緑樹園
北村湖春
渓斎英泉画
黒沢翁満
黒川春村
※絵入本
※絵入本
※源氏物語の系図
文 政 13 年・天 保 元 年 (1830)
天 保 3 年 (1832)
※絵入本
天 保 5 年 (1834)
天 保 8 年 (1837)
えづくしたいいしょう
※絵入本
※絵入本
弄 花 軒 和 田 祖 能 詠・天 野 直 方 評 注
源氏物語絵尽大意抄
二藍源氏
寛延四年
天 明 5 年 (1785)
橋本稲彦
源氏百人一首
※絵入本
天 明 8 年 (1788)
源氏装束文化考
※絵入本
※絵入本
紫文消息
すみれ草
宝 暦 元 年 (1751)以 前
北尾紅翠斎
掌中源氏物語
※絵入本
※絵入本
方舟子述・長谷川光信画
源氏百人一首錦織
※絵入本
※絵入本
女源氏教訓鑑
源氏小鏡
※絵入本
※絵入本
宝 永 7 年 (1710)
享 保 3 年 (1718)
紫文蜑の 囀
宝 永 4 年 (1707)
宝 永 5 年 (1708)
水月堂梅庵
絵本草源氏
宝 永 3 年 (1706)
水月堂梅翁・奥村政信画
俗解源氏物語
し ぶ ん あ ま
素兄堂
※絵入本
天 保 8 年 (1837)
天 保 11 年 (1840)
天 保 12 年 (1841)
25
※絵入本
※絵入本
※絵入本
掌中源氏物語系図
源語図抄
山田常典
松岡行義
弘 化 元 年 (1844)
弘 化 4 年 (1844)
源氏五十四帖和歌并香の図
『 百 人 一 首 女 訓 抄 』所 収 、
嘉 永 4 年 (1851)
※
絵入本
さとひ源氏写真鏡
源氏絵物語
一陽斎豊国画
源氏歌仙絵抄
源氏仮名文章
※絵入本
※絵入本
※絵入本
長雄耕文
源氏かるた絵合
綾岡
絵入一枚物
絵入一枚物
五十四帖源氏発句双六
俗源氏五十四帖
雛源氏
文 久 元 年 (1861)
※絵入本
源氏絵合かるた
源氏双六
若本貴世
魚堂
国貞画
絵入一枚物
※絵入本
※絵入本
雛鶴源氏絵百人一首
奥村政信画
※絵入本
後半には刊記不明の作品を付したが、ここに示した大半は挿絵を持っており、
当然これ以外の出版物もまだ多く存するし、書写本も伝来する。なぜこれほどま
でに次々と生み出されたのか、それは『源氏物語』を読みたいとする読者の要求
とともに、前代とは異なり、庶民が読者層の大半を形成した点も大きな要因であ
ろう。作者は人々の欲求、とりわけかつては一部の知識階級の占有物にすぎなか
った『源氏物語』を、より大衆化するために作者もさまざまな工夫をし、普及を
図ったことも背景に存する。
4
教育書としての『源氏物語』と挿絵
『源氏物語』が古典としての権威を保持していた時代は、読者との媒介は講釈
の場なり注釈書という手段によって伝授されていった。そのために教える側、ま
26
た注釈書を作成するのは男性の知識人であり、読者対象も歌人として実践するの
に有用と認識されるとか、儒教道徳の書としての利用価値、また古代の文化を知
るという学問的な要求が基本にあった。それが江戸期の庶民文化に『源氏物語』
が読まれるようになってくると、より平易で、受け入れやすい内容と形式にする
必 要 が 生 じ て く る 。そ れ が ダ イ ジ ェ ス ト 化 と 挿 絵 の 融 合 で あ り 、ま た『 源 氏 物 語 』
を素材にした新たな作品の出現であった。すでにリストとして示したうちのいつ
くかを、具体的に図版として掲載し、簡単な注記を末尾に付すことにする。
図 1
源氏雲隠六帖
図 2
27
右刊記
図 3
おさな源氏
図 5
序
おさな源氏
図 4
桐壺
28
右刊記
図 6 絵本草源氏
図 7
紫文蜑の囀
帚木
図 8
29
源氏小鏡
空蝉
図 9
図 11
源氏歌仙絵抄
図 10
室町源氏
図 12
30
源氏大和絵鏡
右同
図 13
図 14
源氏双六
源氏かるた
ここに示した資料の大半はダイジェスト版の図版であり、
『 絵 入 本 源 氏 物 語 』以
31
降展開した庶民社会への普及は、挿絵をともなって急速に広がり、それをさらに
促進したのが各種の作品の出版であった。それぞれの著作の意図が序文等に記さ
れているため、以下数点を例示しておく。
⑴
代々の歌人さへ大事と伝へをかれたる巻々を、うはの空に見分くべきならね
ば、数々のうそにかたことを取りまじへて、おさな源氏と名づけたり。かのあ
だごとをよみおぼえんよりは、いろはのかた手にこれを見習ひはべらば、よそ
めにはやさしくも思はれ、大人になり手もまことのたよりにもなるべきものに
こ そ 。 (『 お さ な 源 氏 』 )
⑵
源 氏 も の が た り を 見 ざ ら む 歌 よ み は 無 下 の こ と な り と 、俊 成 卿 は の た ま ひ て 、
此道まなばんともがらのつねに手にすべきものなめれど、さりとてたはやすく
巻々にわたりて、そらにこころえんことはたかたかるべれければ、今この一部
の人物、故事などをいろはもてわかちしるし、作者のうへをもおほむねことは
りて、掌中源氏物語と名づく。かくなづくることは、いとしもをこなるわざな
な に は づ
れど、わづかに難波津をつづけん人のためにとおもひおこせるのみにて、なに
の ふ か き こ こ ろ あ る に は あ ら ず な む 。 (『 掌 中 源 氏 物 語 』 )
⑶
この
む か し
き せ ん
こえ
此源氏物語の事は、往昔より貴賎となく人々の好める事、他書に越たり。さ
しんせつ き れ
しょじゃく
むね
みつ
れ ば 此 道 の 先 達 心 切 に 、さ ま ざ ま な る 注 解 を く は へ た る 書 籍 、牛 に 汗 し 棟 に 充
た へ ず
よみえ え
また
る に 不 堪 。其 志 し あ る も の に い へ ど も 、其 本 文 だ も 読 得 る 事 か た く 、亦 読 得 た
げ
かかい か い
みょうじょう
もうしん
みんごう え
りとて解す事も又かたし。まして故人の注釈せる 河 海、 明 星 、孟津、 岷 江、
べんいん
ばんすい み ず
こげつ げ つ
た い ぶ
弁引、 万 水、 湖 月のたぐひ、巻数多き大部の品は更にもいはず、十帖、をさ
あま
さへづ
ぜ う は せ う
しのぶ く さ
な 源 氏 、蜑 の 囀 り 、紹 巴 抄 、 忍 草 等 に て 間 に 合 す さ へ ま た か た く 、を さ な き 者
かろかろしく、一覧するもたやすからねば、五十四帖の絵を写し、画上に一首
いささか
のうたをあげて、児童の眼にふれなば、 聊 物語のゆゑよしをしるたよりなら
ん か 。 (『 源 氏 物 語 絵 尽 大 意 抄 』 )
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こたび板にゑりて、世に広がらしめんとせられて、其ゆゑよごし端書せよと
のたまへるを聞きて、おのれいへらく、そは幼き人のためのみにもあらず、源
氏物語しらざらむ人の、此源氏一首を見ば、なべての巻をも見むと思ひおこす
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べき、ひとつのはしだてとなるべきわざにこそあらめ、いともいともよきこと
なるかな、とくとく世の人にしらせたまへかしと、いささかかいつくるになむ
あ り け る 。 (『 源 氏 百 人 一 首 』 )
それぞれの著者が作品で狙いとする部分に傍線を引いたが、共通するのは『を
さな源氏』と書名にもあるように、幼い子供のためであり、また『源氏物語』の
入門書だと主張する点にある。ただ、字義通りには受け取るわけにはいかなく、
それ以前の時代における一部の知識階級の教養として受容されていた作品を、受
容の高まっている読者層にさらに浸透し出版部数を獲得するためにも、幼童や婦
女子にも読める平易さであると導く背景もあった。これによって『源氏物語』は
江戸期を通じてより大衆化し、
「 源 氏 文 化 」の 現 象 ま で も 呈 す る よ う に な る 。も っ
と も 、原 典 そ の も の も 読 ま れ は し た が 、ダ イ ジ ェ ス ト と 挿 絵 に よ っ て『 源 氏 物 語 』
の概要を知り、さらに儒教道徳の教えの書としても用いられたのである。
江戸期の『源氏物語』は、このように視覚的な要素を多分に持った作品として
庶民層に広がり、さらに他の分野の世界へも拡大していった。前代からの能だけ
ではなく歌舞伎、錦絵、遊びとしての双六、かるた、さらには投扇興といった茶
屋 の 遊 び 、華 道 、意 匠 、調 度 な ど と い っ た も の な ど 、
『 源 氏 物 語 』が 日 常 生 活 に ま
で 入 り 込 み 、古 典 と い う 意 識 の な い ま ま 現 代 化 さ れ た 文 化 と し て 継 承 さ れ て い く 。
こ の「 源 氏 文 化 」と も 称 す べ き 現 象 は 、そ の ま ま 現 代 の 社 会 に も 反 映 さ れ て お り 、
マンガやアニメ、映画、テレビという、媒体は異なるとはいえ、多様な世界を構
築しているのが現実である。今後どのように発展していくのか、これまで千年と
いう長い時代を経てきた『源氏物語』は、新たな世紀を生き続けるであろが、作
品そのものはさまざまな解釈をされながらも読み継がれていくはずである。
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