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根源的契約と自由

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根源的契約と自由
193
根源的契約と自由
カント政治思想の意味論―
―
林 嵩文
(堤林研究会 4 年)
序 論
Ⅰ 政治の正当性と根源的契約
1 政治論の問題設定
2 政治社会の構成と根源的契約
Ⅱ 自由と強制の要請
Ⅲ 抵抗と言論の自由
結 論
序 論―正当性を問う思想としてのカント実践哲学
近代政治思想における中核的概念である社会契約について、イマヌエル・カン
ト(Immanuel Kant, 1724-1804)もまた様々な著作で論じている。カント自身の社
会契約説は契約論の先行者たちのものとは明らかに違った意義を有しているが、
その意義について福田歓一は次のように論じる。すなわち、カントの実践哲学に
もホッブズ同様に政治哲学の資格がある。しかし、その道徳哲学の特徴は「個人
規範性の純粋化と社会性の脱落」にあり、それは「いかなる意味においてもデモ
クラシーの哲学をなし、または生みえないことは、もはや否むべくもないであろ
う」。そして、カントの契約説は「大陸自然法学のそれのごときたんなる既成権
力関係の解釈原理ではないまでも、その歴史的所与への依存は、これを構成原理
となしえたホッブズよりも深く、主権の民主的構成なきかぎり、所与の国家に義
認を与えないルソーの革命性をまったく蒸発させて、むしろ形式的保守主義に恰
194 政治学研究49号(2013)
好の正当化を与えている」のだとする1)。
福田によるカント政治哲学のこのような意義づけには問題がある。というのも、
カントの実践哲学の意義がその原理の個人化と社会性の脱落とに求められるなら
ば、カントが提起した哲学的問題は、人々が社会的国家的な次元でどのように行
動するべきかということではなく、ある個人がどのように行動するべきかという
ことにすぎず、国家ないし政治社会の正当性についての哲学的問題提起を結局は
為しえていない、とも評価しうるからである。それにもかかわらず、福田がいう
ように、カントの実践哲学に政治哲学としての意味を見出すならば、カントが政
治哲学的問題を提起しているかどうか、そして提起している場合、それにいかな
る解答を与えているか、ということが示されなければならない。それは結局のと
ころ、カント実践哲学に政治の正当性 Legitimität の関する重要な問題提起が見
出せるかどうか、ということに帰着する。
それゆえ、本稿の目的は、政治の正当性の問題について、カントがいかなる解
答を与えたかを解明することに設定される2)。そのために、1793年に発表された
論文『理論では正しいかもしれないが実践では役に立たないという通説について
Über den Gemeinspruch: Das mag in der Theorie richtig sein, taugt aber nicht für
3)
(以下『理論と実践』)での論述に即し、初めに以下の分析的論点を設
die Praxis』
定する。
①政治の価値はいかなる規準によって判定されるのか。
②支配がなぜ必要なのか。
③統治が正当性を失ったと考えられるとき、被支配者は何を正当になしうるか。
以上の問いにカントが与えた解答を検討するのが本稿の具体的内容である。第
Ⅰ章では、カントの政治論の主題が何であるか、そしていかなる概念によって政
治の価値を特徴づけたかを考察する。第 1 節では、カントの政治論の中核的概念
―
法権利 Recht―についてのカントの洞察が批判期を通じて一貫していることを
示し、その内実を検討する。第 2 節では、前節をうけて、カントの政治に対する
問題意識から、政治論が問うべき課題をいかなるものとして設定しているかを論
じる。その際、論述は伝統的政治論との関連性やそれらとの差異を示すことに
よって進められる。第Ⅱ章では、法権利を基礎づける「自由」概念が、政治論で
原理として示される自由とは違い、カント固有の実践哲学によってのみ支えられ
るものであることを示す。これによって、カントの政治論がその実践哲学との概
念的連関を保持していることが判明する。第Ⅲ章では、カントの政治論における
195
抵抗権の問題についての考察を展開する。問題の中心は、カントが抵抗権をいか
なるものとして想定し、抵抗権を正当化する理論の基礎にいかなる思考が潜んで
いると考えたのか、ということである。それが明らかにされるとともに、カント
のいう「言論の自由」の意味内容もより判明なものとなる。1780年代から一貫し
て主張している「言論の自由」が、実は統治を批判する自由に他ならないことが、
抵抗権否定の主張との関連において、示される。結論部では、以上の論述から示
されるカントの政治思想を簡潔に要約する。
Ⅰ 政治の正当性と根源的契約
本章では、政治の価値はいかなる規準によって判定されるのかという問題につ
いてカントがいかなる解答を与えているのかを考察する。その際、一般的な評価
や概念史研究によるカント政治哲学の歴史的意義づけを踏まえつつ、特に根源的
契約という概念の意味を歴史的観点とカント哲学に内在的な観点から考察してい
く。
1 政治論の問題設定
政治の課題についての明確な定式は、『純粋理性批判』に見出される。
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各人の自由が他人の自由と共存しうるようにする諸法則に従った最大の人間
的自由の体制 Verfassung(最大幸福の体制ではない、というのは、幸福はもとよ
りおのずから帰結するであろうから)は、やはり少なくとも一つの必然的理念
であり、国家体制の最初の草案においてのみならず、すべての法律において
もその根底に置かれなければならない。そして、その際、目前のもろもろの
障害ははじめは度外視されなければならない。( 5 、30頁 /A316=B373)4)
この文章の文脈を確認しておこう。カントは、プラトンの国家を実行不可能な
ものとみなして無視するのではなく、この思想を追求するべきだと主張する5)。
こうした文脈において、「最大の人間的自由の体制」が必然的理念として提示さ
れる6)。しかもその体制の実現するべき価値は、各人の幸福ではなく、各人の自
由である。プラトンの議論を参照しつつ国家体制の理念が論じられているのだか
ら、カントにとっては、自由の国がすなわち正しさ(正義)の国である。そこで
196 政治学研究49号(2013)
問題となるのは、正しさとはいかなる概念か、ということである。
よく言われることだが、ドイツ語の Recht という言葉の意味内容は直ちに確定
することができない。それは文脈によって法と訳されたり権利と訳されたりもす
る。そうした Recht 概念の多義性を念頭に置くことは、カントの Recht 概念の理
解にとっても不可欠である7)。以下ではカントの Recht 概念を把握することを目
指す。なぜそうした作業が必要なのかと言えば、カントにとって政治の根本問題
は、Recht をいかに実現するかということだからである。
カントにとって、Recht は何らかの自然的実在ではない。つまり、理論哲学的
な次元での認識の対象ではない。『純粋理性批判』には次のような文章がある。
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健全な悟性が用いる正しさ Recht の概念は、疑いもなく、最も細密な思弁が
この概念から展開することができるものとまったく同じものを含んでいる、
ただ、異なるのは、普通の実践的使用においてはこうした考えのうちにある
これらの多様な表象が意識されていないということだけである。だからと
いって、普通の概念が感性的であり、単なる現象を含むと言われることはで
きないのである。というのは、正しさはおよそ現象することはできず、その
概念は悟性のうちにあって、諸行為の一つの性質(道徳的性質) ―この性
質は諸行為自体そのものに帰属する―を表示するからである。( 4 、118-19
頁 /A44=B61)
カントの叙述からしても、ここで述べられている Recht という言葉を、制定法
ないし法律、あるいは制定法によって保障されている権利という意味で理解する
ことはできない。ここで言われる Recht という概念は、行為の意味を評価するう
えで用いられる「正しさ」を意味していると考えるべきである8)。そして行為に
おける正しさというこうした概念が、法や権利といった概念の上位にあるものと
考えるべきだろう。それゆえに、制定法の正しさというものが問題になるのであ
る。
正しさという概念をカントが政治的問題意識の中心に据えていたことは、ユン
グ=シュティリングとの文通に端的に示されている。1789年 3 月 1 日付カント宛
書簡でユング=シュティリングは、モンテスキューの『法の精神』に基づく自然
法の 4 つの原理を、カントのカテゴリー表に倣って述べているが、その考えに対
して、カントは提案された原理の内容を個別的に検討することをしない。「立法
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の分類のために、その根底に据えることをあなたが提案している諸原理は、それ
にふさわしいものとは言えません。というのも、それらはすべてが依然として、
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(22、
自然状態にある人間に対する命令 praecepta として妥当するものだからです」
320頁 / ⅩⅩⅢ, S. 494)。カントによれば、立法の原理についての本来の問題は「市
民社会をすでに前提した上で、もろもろの法律はそこでどのように立てられるべ
きか」(同上 / ⅩⅩⅢ, S. 495)ということである。
カントの政治論を理解するうえで、この前提を欠くことはできない。カントは
契約によって人々が自然状態から市民的体制へと移行したという説明を放棄す
る9)。市民社会という何らかの形式によった現存する人間の結合体において、い
かなる規準に拠って法が定立されるべきかを問題にするのである。カントは、
「市
民的統合の普遍的問題」を、「自由を強制と結合せよ、しかもその結合が普遍的
自由と合致し、その自由の維持保存に適うようにせよ」10)(22、321頁 /ibid.)とい
う命題に整理している。この問題の解決は、上述の原理による立法によって、
「自
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然状態ではたんに理念でしかなかったもの、すなわち法権利 Recht が、たんなる
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強制する権限 Befugnis として、実現される」(同上 /ibid.)というかたちで図られ
る。
このやり取りで示されているのは、カントは、立法論の課題を、いかにして法
の理念が実現されるかに関する問題だとして理解していたということである。こ
れが『理論と実践』第 2 部の前提を成している。ところで、前述の通り、カント
は正しさという概念の原理は経験から得ることができないと考えていた。した
がって、正しさの概念の原理はまったくアプリオリなものとして考えられなけれ
ばならない。ここで、アプリオリな正しさの概念をいかにして法権利として実現
するか、つまり、単に思考された概念にすぎないものをいかにして実際の行為の
次元へともたらすか、という問題が生じる。この問題について、カントは自身の
実践哲学の理論にしたがった仕方で解答しようとする。それが、『理論と実践』
第 2 部の課題である。
カントは、実践 Praxis を「何らかの普遍的に表象された原理に従ったやり方
でなされると考えられるような目的実現行為」(14、163頁 / Ⅷ, S. 275)だとする。
つまり、実践は何らかの普遍的原理に依拠しながら何らかの目的を実現する行為
である。そして義務の概念に基づく理論を実践する場合には、その実践の価値は、
「それの基礎となる理論に適合しているかどうか」(14、166頁 / Ⅷ, S. 277)によっ
て決定される。
『理論と実践』でのカントの論述は、道徳的実践の価値を決定す
198 政治学研究49号(2013)
るべき「(実践)理性の規準」(同上 /ibid.)を明示することに向けられている。そ
して政治もまた、このような実践の一つとして把握される。『理論と実践』準備
原 稿 に は 次 の よ う な 文 章 が あ る。「 理 性 は、 政 治 す な わ ち 国 家 体 制
Staatsverfassung のすべての実践の根底に、自由、平等、統一をおくのであって、
この三つは政治の力学的カテゴリーである」(18、282頁 / Ⅹ, S. 141)。また『理論
と実践』には次のような文章がある。
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しかし、国家の正しさ Staatsrecht という語によって表現されうるような何
ものかが理性のなかにあるのならば、〔…〕その何ものかはアプリオリな原
理に基づいている(というのも、経験は、正しさとは何であるかを教えることは
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できないから)
。そして、国家の正しさの理論 Theorie が存在し、この理論と
一致しないような実践は妥当性を持たない。(14、211-12頁 / Ⅷ, S. 306)
カントは政治を道徳的実践の範囲に包含されるものとして考えることによって、
法の理念の実現という課題の解決を、実践としての政治によって図ろうとする。
つまり、カントにとっては、法の理念の実現に向けられた実践こそが政治に他な
らない。そして、この政治という実践の価値を判断する規準概念はいかなるもの
なのかというのが、『理論と実践』第 2 部の問題である。
2 政治社会の構成と根源的契約
第 1 節では、法の理念の実現こそがカントにとっての政治であるということを
示した。問題は、法の理念の実現=政治がいかなる規準によって判断されるのか
ということである。したがって以下では、カントの政治社会と社会契約論の概念
構成を『理論と実践』から明らかにすることによって、上の問題にカントがいか
なる解答を与えているかを示す11)。
カントによれば、市民結合契約とは、「結合すること自体が(ひとりひとりすべ
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ての人がもつべき)目的」であり、同時に「無条件的で最初の義務」である(14、
185-86頁 / Ⅷ, S. 289)。そのようにして成立する市民的状態
12)
における「不可欠条
件」である目的は、
「公的な強制法律のもとでの人間の法権利」に他ならない(14、
186頁 / Ⅷ, S. 289)。法権利は、
「すべての人の自由との調和という条件による各人
の自由の制限、とはいえただしその調和が普遍的法則に従って可能となるような
仕方で制限するもの」(同上 / Ⅷ, S. 289-90)であり、公的法権利は、そのような
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調和を可能にする「外的諸法律の総体」(同上 / Ⅷ, S. 290)である。公的法権利は
「権力と結びついて現実に法が立てられた状態」(14、190頁 / Ⅷ, S. 292)である、
とも言われる。ところで、強制とは、「自由が他人の選択意志によって制限され
ること」(同上 /ibid.) である。したがって、市民的体制とは、「自由な人間の関
係であるが、しかし(他人との結合の全体においては自由であるが)強制法律の下
にあるような関係」(同上 /ibid.) である。こうした強制は、「アプリオリに立法
する純粋理性」(=純粋実践理性)自体が欲するがゆえに正当化される(14、186187頁 /ibid.)。
市民的体制のアプリオリな原理は、人間としての自由、臣民としての平等、市
民としての独立自存の三つである(14、187頁 /ibid.)。この三つの原理に基づいて、
当時の国家体制が批判される。人間としての自由という原理からは、国家元首に
よって臣民の幸福が決定される父権的支配が否定される(14、187-88頁 / Ⅷ, S.
290-91) 。臣民とは、
(14、188頁 / Ⅷ, S. 291)のことである。
「法律のもとにある者」
13)
そして臣民としての平等という原理からは、世襲的特権が否定される(14、190頁
/ Ⅷ, S. 292) 。市民とは、公法を制定する権利を有する、つまり公法の立法に際
14)
して投票権を持つ者である(14、193-94頁 / Ⅷ, S. 294-95)15)。そして市民としての
独立自存という原理からは、市民だけが法制定権を有するべきであるという主張
が導かれ、子供や女性、「生計を立てるための何らかの財産」を持たない人々に
は市民の資格を認めない(14、193-95頁 / Ⅷ, S. 294-95)16)。したがって、「既存の
所有秩序を前提としたかぎりにおいて、カントの政治社会ないし国家は、なお自
権者の法共同体としての性格を維持しえたのである」17)という指摘は確かにカン
トの政治社会論に当てはまるが、無論、それはカントが既存の所有秩序がそのま
ま政治秩序へと連続している身分制的政治社会を是認したことは意味しない。カ
ントが法のもとの平等という原理からの帰結として身分的特権を攻撃しているこ
とは『理論と実践』からも明らかであるが、カントが意図していたかどうかはと
もかくとして、この批判がプロイセン一般ラント法への批判という意味も孕んで
いることは間違いない。すなわち一般ラント法は、「人間は政治社会において何
らかの権利義務を有するかぎり人格と呼ばれる」と規定しており、普遍的権利能
力を積極的に認めてはいない18)。したがって、身分制的秩序は、国家の意思によ
る再編成という側面はあるにせよ、その維持保存が認められるのである。これに
対し、カントが身分的特権を法のもとの平等という原理によって否定したことは、
人間の自由の主張と結び付けられ、各個人が自由でありかつ法のもとに平等なも
200 政治学研究49号(2013)
のとして取り扱われるべきであるという主張に帰結する。
こうした市民的体制の概念からして、カントにおいては、国家は第一義的には
法共同体である19)。それゆえに、『理論と実践』では、主権者とは「法律を生み
出す代理人というより人格化された法律そのもの」(14、193頁 / Ⅷ, S. 294)だと
述べられる。こうした議論の帰結として、カントは実体的権力を誰が保持するべ
きかについての議論を詳細には展開せず、また支配権を誰が有しているかという
観点からの政体論についても『理論と実践』では触れていない20)。それではカン
トが市民的体制における支配者についての議論をしていないかと言えば、そうで
はない。
『理論と実践』では、法として把握された主権者ではなく国家元首
Staatsoberhaupt について詳細に論じられている。国家元首についてのカントの
説明はのちの抵抗権に関する議論に関係するので、ここで詳しく見ておく。
カントによれば、国家元首とは「自然的あるいは道徳的な一人格」(14、189頁
/ Ⅷ, S. 291)である。臣民が各人に対する強制権を持つ一方で、国家元首は強制
権ないし強制法律に服従せずに他の人々を強制する権限を有しており、国家構成
員相互の法的強制、すなわち強制権の実現は国家元首を通すことによってのみ可
能である、そして強制を受けない人格である国家元首は単一である(14、188-189
頁 / Ⅷ, S. 291)。こうした概念規定が、おそらくカントが啓蒙専制君主の擁護者と
して評価されることの理由であろう。しかし、『理論と実践』では国家元首につ
いてさらに詳細な概念規定が施されている。強制権ないし強制法律に服さないと
される国家元首は公法の執行者である(14、189頁 / Ⅷ, S. 292)。後段では、
「国家
行政の元首」はいかなる強制権をも差し向けられない唯一の人格とされている
(14、192頁 / Ⅷ, S. 294)
。規定内容が同じであることからして、国家行政の元首と
は国家元首のことである。この元首の役割は、「公法に従って可能となる善事す
べてを生み出して与える」(14、192-93頁 /ibid.)ことである。したがって国家元
首とは、臣民から強制は受けないにせよ、公法によってその行為が制約されてい
る人格に他ならない。そして国家元首という人格は道徳的人格でもありうるのだ
から、一種の法人格である。したがって、その人格は実質的には複数人から構成
される団体でもありうる。カントが挙げる例によれば、ヴェネツィアのような貴
族制国家にあっては、元老院が国家元首であるし21)、元老院の構成員たる貴族で
すら臣民である(14、193頁 / Ⅷ, S. 294)。つまり、国家元首は臣民による強制は
受けないにせよ、法に従った統治を行う個人ないし団体である。
したがって、カントのいう市民的体制においては、その構成員は、権利として
201
の自由を有するが、同時に法律に平等に服する臣民であり、立法者として法の制
定に関係する市民である22)。そして法律に従った統治を行う国家元首が支配者で
ある。
こうしたカントの政治社会の概念構成は近世・近代のヨーロッパにおける政治
社会論の伝統の中でどのように位置づけられるだろうか。以下では、マンフレー
ト・リーデルによる政治社会概念に関する研究を参考にしながら論述を行う23)。
まず、ホッブズの理論では、人間の結合体としての国家の構成への合意と、支
配関係の成立とは契約のなかで一挙に成立する24)。つまりホッブズの国家では、
支配権力が必要であるがゆえに各人は自然状態を脱して国家を構成するのであり、
政治社会と支配権力が契約のなかで同時に構成される25)。のちの社会契約論者た
ちは、このようなホッブズの国家論の前提となる自然状態の概念を批判する。つ
まり、自然状態にあっても人間は、本性上「万人の万人に対する闘争」を繰り広
げるわけではない、したがって自然状態でも自然法によって平穏な人間関係がで
きあがると言うわけである。しかしこのような自然状態概念を持ち出す場合、支
配権力の必要性の根拠が改めて理論的問題となる。そこで、ホッブズ以降の自然
法論者は、人間同士の結合関係の説明と支配関係の正当化原理をいかに結び付け
るかについて新たな説明を加えていく。プーフェンドルフは、結合契約によって
成立した社会が支配者なるべき人と支配服従契約を結ぶことによって、支配関係
が成立するという二重契約論を展開することによって、問題の解決を図った26)。
またロックの場合であれば、自由で平等な諸個人からなる政治社会が特定の人間
ないし団体に立法権力を授与するのは、信託によると説明する27)。しかし、この
ような契約論がさほど明確化していなかった問題、すなわち、自然状態にあった
人間が、社会契約を介して政治社会あるいは国家を構成したという命題は、歴史
的事実の説明なのかどうかという問題が議論の俎上に載せられるようになる。
ヒュームは、歴史的事実として社会契約を把握した場合、そうした契約が行われ
たことなど一度もない、という批判を加えた28)。
こうした理論的問題を孕みつつも、ホッブズ以来自然法論は大陸でも受容され、
特にプーフェンドルフやヴォルフなどドイツ語圏で活躍した学者たちは精緻な理
論を組み立てた。しかし大陸の自然法論は、アリストテレス的自然内在的目的論
とホッブズ以来の自然法論を折衷したために、理論的には難点を抱えることに
なった。政治社会の成立と支配関係の正当性は契約を通じて得られるのに対し、
その契約そのものは自然法則と同様の自然法を土台にしている。したがって、大
202 政治学研究49号(2013)
陸自然法論あるいはロックにおいては、政治社会の正当性が自然法則と同様に考
えられた自然法に基づくのか、あるいは契約に基づくのかが判然としない29)。
ヴォルフは、アリストテレス以来の正統哲学にのっとり、政治社会の目的を自然
内在的目的論と類比的に考えられた、公共善だと主張した。しかし、自然的自由
を有する人間が契約によって公共善を目的とする政治社会を構成するという教説
は、それだけでは身分制政治社会の根本的変革ための理論とはならなかった。む
しろ、自然法論的契約論は、等族や都市といった支配領域内の自立的諸権力を支
配権力からは排除して、それにもかかわらず社会秩序においては身分制的秩序を
残存させつつ集権的支配を確立しようとしていた君主政の正当化原理として広く
受容された。また逆に、帝国国法論者などは、まさにロックやモンテスキューの
理論を吸収しながら、自立的諸権力の領邦君主権力からの独立性ないし等族の自
立性を担保する帝国国制を正当化した。その際に持ち出されたのが、「良き旧き
法」という観念である30)。ホッブズ以来の契約論・自然法論は、それだけでは直
ちに現在われわれが考えるような近代国家体制への変革に連続しなかったのであ
る。
目的による政治社会の正当化に寄与した公共善という概念は、人間の福祉や幸
福を意味する限りで、自然法論者にも国法学者にも同様に採用された。しかしそ
の意味内実をカントは批判する。カントによれば、政治社会の目的=義務からは、
各人の自然な目的とみなされる幸福や福祉は排除される。幸福や福祉を目指した
法の制定は市民的体制を現実に維持するための手段にすぎない(14、200頁 / Ⅷ, S.
298)。もちろん、これは幸福を各人が各様の仕方で追求してよいというカントの
自由の主張と相反するものではない。カントは、公共善とは、「法によってひと
りひとりすべての人に対して自由を保証するような法的体制」(14、199頁 / Ⅷ, S.
298)のことであるとして、政治社会において各人の実践の目的が強制を伴って
決定されるべきではないとした。そしてこの市民的体制における法規の抽象性の
高さが、個々人が各様の仕方で目的を追求することを許容することを意味してい
るのである。
こうして、カントは、人間同士の結合関係と支配関係の正当化原理を、事実と
しての契約や公共善といった自然に内在する目的と考えられた概念を採用するこ
となく説明する。カントが依拠するのは、ルソーが『社会契約論』で示した理論
に他ならない31)。次の文章はルソーの一般意志概念をカントが継承していること
を示している。
203
すべての法権利は法律に依存する。しかし、何が法的に許され何が法的に許
されないかをすべての人に対して規定する公法は、すべての法権利が由来す
るところの公的意志 öffentliche Wille のはたらきである。したがって公的意
志そのものは誰に対しても不正をなすことがありえないようなものでなけれ
ばならない。(14、194頁 / Ⅷ, S. 294)
誰 に 対 し て も 不 正 を な さ な い 公 的 意 志 は、「 社 会 的 で 公 的 な 意 志
gemeinschaftlichen und öffentlichen Wille」(14、197頁 / Ⅷ, S. 297)「 普 遍 的 意 志
allgemeine Wille」(14、206頁 / Ⅷ, S. 302)
「普遍的国民意志 allgemeine Volkswille」
(14、209頁 / Ⅷ, S. 304) と呼ばれる。この構成された意志こそが法権利を実現す
るところの公法の由来である。
こうして、
「根源的契約 ursprünglicher Kontract」(14、197頁 / Ⅷ, S. 297) の概
念が構成される。根源的契約とは、三つのアプリオリな原理(自由・平等・独立
自存性)に条件づけられた政治社会における規範概念であり、これによって普遍
的意志が構成される。カントは、この概念は、原初契約もしくは社会契約とも呼
ばれると述べて、社会契約論の先行者たちの命名を考慮している。しかし、根源
的契約がいかなる機能を果たす概念なのかをめぐって、カントは従来の社会契約
論者とは一線を画すことになる。
カントによれば、この根源的契約が歴史的事実であることは必要ないばかりか、
不可能である(同上 /ibid.)32)。したがって、根源的契約の概念は歴史的事実を説
明する概念ではない。それは「疑う余地のない(実践的な)実在性」を持った「理
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性の単なる理念」(14、198頁 / Ⅷ, S. 297)であり、その帰結は、
すべての立法者に対して、彼が立法するにあたって、その法律が全国民の統
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一された意志によって生じえたかのように立法することを義務づけること、
そして市民であろうとする限りでのすべての臣民を、彼がそのような意志に
同意したかのようにみなすこと(同上 /ibid.)
である。つまり、カントにあっては、「社会契約は国家とその法の妥当性を判断
するための基準を提供する理性の理念であり、実際の合意や実際の服従する契約
とは関係がないのである33)」。そして「ア・プリオリな理性原理に基づく ―そ
して、そのことによって現象としての政治社会を判断する基準(「理念」) たる
204 政治学研究49号(2013)
―
規範」34)として契約概念がとらえ直された。結局のところ、正当な政治社会
を構成するためには、契約という形式が重要なのであり、経験的意志ないしその
合致としての契約という事実が重要なのではない。政治社会は、純粋意志=純粋
実践理性によって法権利の維持を目的として基礎づけられる。
この帰結の意味について更に考察しておこう。ドイツ語圏における自然法論は、
実定法を自然法化することによって既存の法秩序(領邦君主の集権的支配体制)を
正当化する理論として機能したのであった35)。自然法論のこうした帰結を、カン
トはまさに契約論によって回避しようとする。そして理念として把握された根源
的契約は、政治が正しいかどうかを恒常的に判断する規準を人々に与える。「国
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民全体がそれに同意することが不可能であるような公法(たとえば臣民の中のある
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4
階級が世襲的に支配者の身分の特典をもつというような公法)は不当である」
(同上 /
ibid.) が、その一方で、
「これに対して、国民がそれに同意することが可能であ
りさえするのならば、その法を正当なものとみなすことは義務である」(同上 /
ibid.)。つまり、カントが根源的契約を理念として定式化したことは、現に存立
している政治社会における法権利ないし公法をアプリオリなものに神聖化したと
いうことは意味しない。むしろ、既存の実定的法権利がアプリオリな法権利に適
合しているかどうかを、いかなる時点においても判断することのできる規準を提
供しているのである。その意味において、根源的契約は実践理性の規準であり、
かつ「あらゆる公法の正当性 Rechtmäßigkeit の試金石」(14、198頁 / Ⅷ, S. 297)
である。カントの政治論において、政治の価値がいかなる規準によって判断され
るのかという問題は、ここで解明される。カントにあっては、政治は、法権利を
公法によって実現する実践として把握される。そしてその正当性は、法権利に合
致していること Rechtmäßigkeit によって判定されるのである。そしてその判定
規準である根源的契約の理念は、まさに理性の理念であるがゆえに、全ての人間
がもつものである。
カントの契約論の構成とその意味は以上で明らかにされたはずである。しかし
ここで 2 つのことが問題となる。 1 つは、各人の自由を制限する強制法律がなぜ
正当化されるのか、むしろ自由と強制とは両立しえない概念なのではないか、と
いうことである。もう 1 つは、契約論の帰結としてなぜ抵抗が正当化されえなく
なるのか、ということである。これ以降の 2 章では、この 2 つの問題の解明を試
みる。
まず第一の問題については、より踏み込んで言えば、強制と自由がなぜ概念的
205
に両立するのか、という問題である。この強制という問題に、カントは『理論と
実践』では詳しい説明を与えていない。正しい政治社会を構成するためには強制
が必要であるならば、カントは強制の必要の根拠をその実践哲学に従って説明す
る論理を用意していなければならない、さもなければカントの政治論の体系的一
貫性は破綻せざるを得ないだろう。それゆえに、強制をアプリオリに立法する純
粋理性が欲する、という簡潔な説明を解明することが必要である。そのため次章
では、強制がなぜ必要か、強制が必要であるならば、なぜそれが自由と両立する
のか、という問題を追究する。
Ⅱ 自由と強制の要請
この章の目的は、『理論と実践』でアプリオリな原理として主張される「人間
としての自由」がなぜ「公的な強制法」と両立するのかという問題を、カント実
践哲学の根本命題の考察を通じて解明することにある。それは、なぜ支配関係を
伴う政治社会一般が必要とされるのか、という問題に関わっている。もう一度確
認しておけば、法権利とは、「すべての人の自由との調和という条件による各人
の自由の制限、とはいえただしその調和が普遍的法則に従って可能となるような
仕方で制限するもの」であり、公的法権利は、そのような調和を可能にする「外
的諸法律の総体」であり、かつ法権利の原理にしたがって「権力と結びついて現
実に法が立てられた状態」である。ところで、『理論と実践』における「人間と
しての自由」とは以下のような原理である。
いかなる人といえども、私に対して強制的に(その人が他の人の幸福をどのよ
うなものと考えるかという)その人のやり方で幸福にすることなどできない。
各人は、自分がよいと思うやり方で幸福を追求してよい。ただ、自分と同じ
ような目的を追求する他の人の自由が可能的な普遍的法則に従ってすべての
人の自由と両立しうるときには、そうした他人の自由(目的を追求する権利)
を侵害しさえしなければよいのである。(14、187頁 / Ⅷ, S. 290)
この規定と、法権利の規定とを比較すると、どちらも共に「普遍的法則」を制
限条件としていることが分かる。法権利も「人間としての自由」も、各人が各人
の目的を普遍的法則から逸脱してまで追求することを許容する原理ではない。し
206 政治学研究49号(2013)
たがって、法権利と「人間としての自由」をともに制約する普遍的法則とはいか
なるものなのかが問題になる。「人間としての自由」と強制との連関性の問題は、
4 4 4 4
4
後述するように、実践理性の根本法則が端的に与えられる、という『実践理性批
判』におけるカントの主張と密接に関係している。したがって、本章では、カン
トの実践哲学における第一の普遍的法則である「純粋実践理性の根本法則」と法
権利ないし「人間としての自由」という原理の連関を解明する。
そもそも、カントにとって、自由という概念は、「その実在性が実践理性の必
当然的法則によって証明されるかぎり」、純粋理性の体系の要石をなすもので
あった( 7 、124頁 / Ⅴ, S. 3-4)。したがって、純粋理性の体系の一翼を担う実践
哲学でも自由概念が根本に据えられることは、カント哲学の当然の帰結である。
こうした自由概念を政治論においても重視していたことは、先に引用した『純粋
理性批判』における「最大の人間的自由の体制」に関する叙述からもわかる。もっ
とも、『純粋理性批判』における自由概念に関する論述は、もっぱら、自由とい
う能力は実在するのかどうかという問いに向けられている。そこで、自由による
原因性が存在するかどうかが考察される。ここでその議論の詳細を追うわけには
いかないが、端的に言えば自然必然性一元論に対する批判こそがアンチノミー論
における眼目であり、自由概念の客観的実在性を叡智界において確保するという
のがカントの議論の流れである。
4
4
宇宙論的な意味の自由を、カントは、「ある状態を自ら始める能力」( 5 、232
頁 /A533=B561)とする。そしてこの自由の理念は、全ての生起するものは原因を
持つという経験の可能性の普遍的法則に対して、いかなる他の原因をも必要とし
ないという点で、経験から得られたものではないし、理念の対象が経験の中で与
えられることもない。したがって、この自由の理念は超越論的理念である( 5 、
233頁 /A533=B561)。理念とはカントにとって「それに合致するいかなる対象も諸
感官において与えられえない必然的理性概念( 5 、38頁 /A327=B383-4)」であり、
4
4
4
4
4
4
4
超越論的理念が意味するのは、「与えられた被制約者に対する諸制約の総体性の
理性概念」( 5 、35頁 /A322=B379)である。
カントによれば、実践的な意味における自由は、こうした超越論的自由に基づ
4
4
いている。実践的な意味における自由とは、「選択意志が感性の衝動による強制
から独立していること」( 5 、233頁 /A534=B562)である。もし感性界が全て因果
法則によって支配されているのであれば、人間の選択意志もまた現象に規定され
るのであり、したがって超越論的自由は存在しないし実践的自由もまた存在しな
207
いので、人間の選択意志もまた自然必然性によって支配されているということに
なる。カントがこうした難問に対してとった解決は、自由と自然必然性とを、別
の視点を導入して両立させるというものであった。行為主体がヌーメノン、叡智
的存在者とみなされる限りで、この主体は自然必然性に支配されているのではな
く、自由である。「だから、そもそも自由と自然とは、まさに同じ諸行為において、
われわれが諸行為をその叡智的原因と比較するか、あるいは感覚的原因と比較す
るかに応じて、おのおのがその完全な意味において、同時に一切の矛盾なしに見
出されるだろう」( 5 、239頁 /A541=B569)。
超越論的自由の理念に基礎づけられた実践的な自由の概念については、責任論
的な論証が試みられる。つまり、人々がある人の行為をその人に帰属させ非難す
るという行為には、「理性は、行為のすべての経験的制約にもかかわらず、完全
に自由であったのであり、行為は全面的に理性の怠慢に帰せられねばならないの
である」( 5 、250頁 /A555=B583)という判断が伏在している。もっとも、このよ
うに規定されてきた自由の理念は、『純粋理性批判』においては、アンチノミー
が仮象であり自然は自由からの原因性と少なくとも矛盾はしないということを示
4 4 4
4 4 4
しただけであって、その「現実性」も「可能性」も立証しえないものとして扱わ
れる( 5 、252頁 /A558=B586)。つまり、超越論的自由は単に思考可能な概念にす
ぎず、客観的実在性を持たないものだとされるのである。
以上に概括したような『純粋理性批判』における超越論的自由の理念の意味づ
けは、そのまま後のカントの実践哲学においても生かされている。しかし、カン
トは「自由からの原因性」という概念から「積極的」な自由の概念を分析的に導
出する。カントによれば、感性からの独立という自由についての説明は「消極的」
であるが、積極的な自由の概念をその消極的な自由の概念から導くときに鍵とな
るのが、意志は、自然必然性に従うのではないにしても、理性的存在者の行為の
因果性の一種であるという規定である。因果性という概念にはアプリオリに法則
の概念が伴うがゆえに、カントは、類比的に、意志の自由もまた何らかの法則に
従うものと考える。さもなければ、理性概念である自由が何の法則にも従ってい
ないものとして扱われることになるからであり、自由はあくまで合理的なもので
なければならないというのがカントの考えである。
『人倫の形而上学の基礎づけ』
と『実践理性批判』に通底する目的は、「意志」が従う特殊な法則を解明するこ
とである。前者においては、そうした法則の実践的で無条件的な必然性の理解不
可能性を理解する、というかたちの結論が出される( 7 、116頁 / Ⅳ, S. 463)。
208 政治学研究49号(2013)
ところが、1788年の『実践理性批判』では、特殊な種類の法則の特性に関する
カントの新たな理解が示される。まず、「自由は確かに道徳法則の存在根拠 ratio
essendi であるが、道徳法則は、しかし、自由の認識根拠 ratio cognoscendi なの
である」( 7 、125頁 / Ⅴ, S. 4 )、つまり、道徳法則があるには自由がなければな
らないが、自由を知るには、道徳法則をまず始めに知らなければならないという
主張が提示される。そして、「そのことをなすべきであるとかれが意識するがゆ
( 7 、165頁 / Ⅴ, S. 30)と人が行為をなすにあたっ
えに、それをなすことができる」
て判断したとき、
「もし道徳法則がなければ知られないままにとどまったであろ
(同上 /ibid.)とされる。こうして、
う自由を、みずからのうちに認識するにいたる」
意識に道徳法則が開示されたとき、「君の意志の格率が、常に同時に普遍的立法
(同上 /ibid.)という「純
の原理として通用することができるように行為しなさい」
粋実践理性の根本法則」を人は知る。そして、
「純粋実践理性の根本法則」を「理
性の事実」として意識するのだとされる( 7 、166頁 / Ⅴ, S. 31)。このような道徳
法則が表現するのは、「純粋実践理性の自律すなわち自由」( 7 、170頁 / Ⅴ, S. 33)
であって、個人の通常の意思が無媒介に自律的であるわけではない。
自由と強制の関係について、『理論と実践』では、強制法律のもとにあること
を理性自身が欲するがゆえに自由と強制とは両立しているのだとされていた。こ
こでは、この強制法律を欲する理性が「アプリオリに立法する理性」だとされて
いることに着目する。そもそも、理性がそれ自体として立法的であるというカン
トのテーゼは、『実践理性批判』で与えられる。カントは、純粋実践理性の根本
法則の定式化ののち、その「系」で、「純粋理性はもっぱらそれ自体のみで実践
的であり、普遍的法則を与える。そしてわれわれはそれを道徳法則と名づける」
( 7 、167頁 / Ⅴ, S. 31) と述べられている。ところで、カントにあっては、
『人倫
の形而上学』の構成からも察せられるように、道徳論とは、徳論と法論を含むも
のである。したがって、純粋理性がそれ自体で実践的であるというテーゼは、法
論にも妥当する。そこで、法論においても理性は実践的である。『理論と実践』
において、理性自身が強制を欲するとされたのは、カントの実践哲学の必然的帰
結である。
こうした実践理性の根源的に自己立法的な性格はどのような意味を持っている
だろうか。ここでは、ヘーゲルによるカントの道徳論への批判を手がかりにしよ
う36)。ヘーゲルによれば、カントのいう実践理性の根本法則とその自己立法とい
う事態は、
「暴君的な悪虐であり、この悪虐は、恣意を法則とし、人倫を、この
209
恣意に対する従順とするものである」37)。この解釈は、カントのいう自己立法と
いう事態の一つの側面を正確に言い当てている。カントのいう「理性の事実」と
は以下のような事態を示している。すなわち、道徳法則は、各人が選択しようと
して選択するようなものではなく、「まったくそれ自体のみでアプリオリな総合
的命題としてわれわれに迫ってくる」( 7 、166頁 / Ⅴ, S. 31)。そして、「純粋理性
はこの事実を通じてみずからを根源的に立法的なものとして(sic volo, sic iubeo 私
はかく欲し、かく命ずる) 告げ知らせる」( 7 、166-67頁 / Ⅴ, S. 31)。ヘーゲルが
38)
いうように、カントにあっては、各人の通常の意志(これを後にカントは選択意志
Willkür という用語で表現するようになる) が立法的なのではなく、各人の意志の
39)
一つの側面であるところの純粋理性が各人にこの法則を命令してくるのである。
したがって、各人の通常の意志の観点に立てば、純粋理性によって根本法則を命
令されるという事態が自己立法であり自律である。ところで、カントによればそ
もそも公的意志こそが、普遍的法則の制限のもと全ての人間の自由を調和させる
ことを本質とする法権利(14、190頁 / Ⅷ, S. 292)の由来である。ここに、各人の
意志が自己立法的であるがゆえに、公的意志もまた自己立法的でなければならな
いとするカントの論理構造を見て取ることができる。自己立法的公的意志によっ
て法権利が可能となるのだから、「自由と強制は、「アプリオリに統一された万人
の意志」(ルソーの一般意志)、すなわち実践理性による規範措定そのものから生
ずる正当な(ひとりひとりの自由を可能にする)強制力という概念のもとに結び合
わされている」40)のである。道徳法則によって各人は自由を知るに至るというこ
とは、各人が単なる考えられた自由ではなく客観的実在性を持つとされた自由を
有するようになるということを意味する。したがって、道徳法則が人を現実的に
自由にする。これによって、他の人々との関係における自由すなわち法権利を、
市民的体制における強制、しかも権力と結びついた強制によって確定するという
構造が明らかになる。これはある意味で、ルソーのいう「自由であるように強制
41)
される」
という事態であって、カント自身は『理論と実践』の準備草稿で次の
ように書いている。
意志は、私が意のままにすることのできない法則に向けられている―選択
意志は、私が意のままにすることのできる行為へと向かう。―私は、法則
に関しては自由ではないが、格率の採用に関しては自由である。(18、283頁
/ ⅩⅩⅢ, S. 143)
210 政治学研究49号(2013)
したがって、理念としての法権利を実現するということは、必ず権力と結びつ
いてその法権利を実定化することを意味する。そのときに初めて、理念としての
法権利に客観的実在性が与えられ、人は現実的に自由になる、すなわち実定的権
利として自由を受け取るというのがカントの論理構成である。カントにとっては、
自然法とは自然状態においても妥当する法のことであるが、その法は単なる理念
にすぎず、現実性がない。市民的体制が成立していなければ、法権利は実現され
ているとは言えない。ゆえに、理念としての法権利を現実化するために、人は支
配を必要とするのである。
Ⅲ 抵抗と言論の自由
以上で、政治の正当性は根源的契約という規範概念によって恒常的に判断され
るという政治の価値に関わる問題、そしてそもそも自由のために支配が必要であ
るという支配の必要性の根拠に関わる問題にカントの実践哲学がどのように答え
ているかを見てきた。以上のような所説からすれば、カントが政治社会の正当性
の裏づけを超実定法的理念に求めていることは明らかであり、したがってそのよ
うな理念と相反する政治社会において人はいかに行為するべきか、という問題が
生じてくる。こうした問題の典型として考えられるのが、抵抗権の問題である。
『理論と実践』第 2 部では、市民的体制の根本原理を説明したあとに、抵抗を不
当だと断じ、その後「国民の権利の唯一の守護神」としての言論の自由の必要性
が論じられる。したがって、カントにとって抵抗の否認と言論の自由の擁護は密
接に関係していると考えられる。本章では、まずカントにおける「抵抗」観念の
内実を明らかにする。ついで、言論の自由の内実を著作の順番に従って跡付けつ
つ、それが『理論と実践』において与えられた意義を明らかにしていく。
カントが『理論と実践』や『人倫の形而上学』で抵抗権 Widerstandsrecht を
否定したことは、同時代の知識人たちの間でも様々な反響を起こし42)、今なお法
哲学や政治哲学の分野では問題視されている事実である。そして抵抗権の否定を
43)
以て、カントの法論・政治論は「現実を義認し、美化し、聖化するもの」
だと
評価するむきもある。本節では、このような評価も頭の片隅に置きながら、カン
トが排除しようとした「抵抗」とはいかなる事態なのかを明らかにする。
『理論と実践』において、根源的契約が定式化されたあと、直ちにそうした制
約は臣民としての判断にはあてはまらないと述べられる(14、199頁 / Ⅷ, S. 279)。
211
カントによれば、法権利に適った公法には、強制の権限が、言い換えれば「立法
者の意志に対して暴力的に反抗してはならないという禁止」(14、201頁 / Ⅷ, S.
299)が結びついている。それゆえ、
「最高の立法権力に対するすべての反抗、臣
民たちの不満を暴力行為へと転化させるためのすべての煽動、暴動の発生をもた
らすすべての蜂起」(同上 /ibid.)は無制約的に禁止される。この禁止は、たとえ
「最高の立法権力あるいはそれの代理人である国家元首」(同上 /ibid.)によって、
政府が専制的統治を行うにしても維持される。つまり、
「臣民には対抗暴力
Gegengewalt としての抵抗は許されていない」(14、202頁 /ibid.)のである。その
根拠としてカントは、臣民と国家元首のどちらが正当なのかを法的に判断するに
は、決定を下すために元首を超える元首が必要となるが、それは自己矛盾である
と述べる。また自身も講義で使用していたアッヘンヴァルの教科書から抵抗権を
正当化する箇所を引用してそれを批判している。アッヘンヴァルの記述はロック
による抵抗権の正当化の弁証と似通っているが、カントはこうした議論が生じる
所以を二つ挙げている。まず一つは、
「法の原理が問題になっているときに幸福
(14、205頁 / Ⅷ, S.
の原理を判断の根底にもぐりこませてしまうという思いちがい」
301)である。もう一つは、根源的契約を「現実に締結されたにちがいないもの
と想定」(同上 / Ⅷ, S. 302)することである。
以上の論述からは、カントが抵抗 Widerstand と呼ぶものの特徴が二つあるこ
とが分かる。一つは「対抗暴力としての抵抗」という暴力性であり、もう一つは
「公的に創設された対抗権力」(14、207頁 / Ⅷ, S. 303)という体制の法的至高性の
否定である。カントにおける抵抗ないし抵抗権概念の不明確さ、および抵抗と革
命の混同などが指摘されるが44)、少なくとも『理論と実践』では、上の二つを特
徴とする実践が禁止されている。こうした抵抗の禁止の弁証は論理的に整合性を
保っているのだろうか。少なくとも、市民的体制という政治社会によってのみ法
権利の理念を実現することができるというカントの理論からすれば、「法的状態
4
4
4
4
の存立必然性が、法の本質要素たる法的強制の契機を介して現実 国家と実定 法
4
4
(ここにおいてしかかの法的強制は現実化し得ない)を不可避的に要求する」 (傍点
45)
原著)のは当然である。この点については、カントの理論に破綻はない。
アメリカ独立宣言やフランス人権宣言における革命権や抵抗権の実定化は、カ
ントの論証の普遍性を破るものであると指摘されることがある46)。しかし、近代
ヨーロッパにおける権利宣言が保障する革命権・抵抗権が、果たしてカントが排
除する「抵抗」と一致するものなのだろうか。樋口陽一によれば、フランス人権
212 政治学研究49号(2013)
宣言において自然権の一つとして実定法上の権利とされた「圧制に対する抵抗」
が意味するところは、「具体的には旧体制=反革命に対するものにほかならず、
一般意思の表明として市民またはその代表者によって制定されるところの法律に
対する抵抗は許されない」47)。したがって、人権宣言において実定化された抵抗
権は、革命によって樹立された体制の根本原理―たとえば自由や平等―を変
革することを正当化する権利ではなく、体制の根本原理の至高性のもとに初めて
存在可能になっている実定法上の権利である。こうした事態は、憲法が「現存す
る体制を転覆させる権限を与えるような法律を含んでいる」(14、207頁 / Ⅷ, S.
303)ことは矛盾であるというカントの指摘とは矛盾していない。あくまで、
「圧
制に対する抵抗」はカントのいう「公的に創設された対抗権力」ではないと考え
られる。
カントの考えた「抵抗」とは、政治社会においては臣民でもある個々人が、市
民としての個々人の意志から構成される公的意志によって正当化されるところの
立法権力ないしその代理人たる国家元首に対して抵抗するということである。し
たがって、抵抗を権利として認めると、「最高の国家権力は最高でなくなり、そ
れが制定する法は義務づけるしまた義務づけないことが、現存の公共体について
48)
主張できることになる」
。繰り返すが、カントの政治論では、法権利は公法に
よって初めて現実的に保障される。その公法が義務づけ権利を保障する対象に例
外が許されないのと同様に、権利のカタログにおいても、公法の概念と相反する
ような権利は、例外として認められることはない。カントによる抵抗権の否定は、
法権利を普遍的に保障するような法律概念と引き換えにもたらされた論理的帰結
である49)。
カントはしかし、ホッブズの『市民論』に対する反論を手がかりにして、「断
じて喪失することのない権利」(14、208頁 / Ⅷ, S. 303)として言論の自由を保障
しようとする。カントがわれわれの知るような言論の自由を重視していたことは、
『啓蒙とは何か』における「理性の公的使用」の自由の主張(14、27頁 / Ⅷ, S. 37)
などからも知られているが、これが具体的にどのような内実をなすものなのかを
解明する。
1784年の『啓蒙とは何か』でカントが啓蒙の原理として掲げたのは、「自分自
身で考えること Selbstdenken」であった。その実現のために、「自分自身の理性
の公的使用」の自由が提案される。理性の公的使用とは、「ある人が読者世界の
全公衆を前にして学者として理性を使用すること」(同上 /ibid.)であり、これは
213
支配者にとって害の少ない自由だとカントは論じる。というのも、理性を公的に
使用する主体は、市民社会の中での何らかの地位に基づいて発言するのではなく、
世界市民社会という理念的共同体に属する学者という資格において発言するから
である。したがって、理性の公的使用によって市民が軍務の失策を批評し、課税
の不適当性や不当性を論評し、さらに教会の教義内容についての吟味を公表した
としても、市民としての義務には違反しない、とカントは述べる。
カントはこの論文では主に宗教制度について論じているが、こうした啓蒙の理
念が統治の原則にも及ぶだろうと期待している。カントによれば、法律の規準は、
「国民が本当にその法律をすすんで自らに課しうるか否か」(14、30頁 / Ⅷ, S. 39)
あるいは「国民が自分自身についてすら決議できないことを、君主は自分の国民
に対してなおさら決議できるものではない」(14、31頁 / Ⅷ, S. 39-40)である。こ
れは後年の『理論と実践』にまで連続している内容であるが、『啓蒙とは何か』
ではまだ理論的に基礎づけるということはされていない。しかし、1780年代以来
カントにとって言論の自由は重要な政治的価値を持っていた。『思考の方向を定
4
4
4
4
めるとはいかなることか』には、「自分の思想を公に伝達する自由を人間から奪
4
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い去るような外的権力は、思考 の自由をも人間から奪ってしまうのだ」(13、84
頁 / Ⅷ, S. 144)とある。このように思考の自由と言論の自由とを一体のものとし
て考えていたカントは、『理論と実践』において、言論の自由を権利として主張
するに至る。市民は、対抗暴力によって統治権力に反抗することが許されない代
わりに、
「元首が思いのままにおこなうことがらのうち公共体に対する不正と思
われるものについて自分の考えを公表する権限」を、「当然のこととして、しか
も元首自身からの恩恵として」受け取るのである(14、208頁 / Ⅷ, S. 304)。無論
このような権利は、統治が正しいかどうかを判定する権限なのだから、市民自身
の立法に比べれば「消極的」(14、209頁 /ibid.)である。しかし、このような統治
4
4
を批判する自由を人間が権利として持っており、それを行使することは、「自由
4
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4
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4
の精神」によって「国家体制の機構へと服従するということ」(14、210頁 / Ⅷ, S.
305) を意味する。カントによれば、言論の自由を実際に行使していくことは、
正当に統治に対して正不正の判断を下すことであり、しかもそれが保障されるこ
とによって各人が納得して政治社会に属することができるようになるのである。
214 政治学研究49号(2013)
結 論
以上の論述によって、根源的契約の構成と抵抗権の否定という『理論と実践』
におけるカントの中心的理論の意味と、それを支えるカントの実践哲学の根本的
な原理との連関が明らかになったはずである。そこで、序論に示した問いに沿う
かたちで、カントの政治論の主要なテーゼをまとめておこう。
第一に、政治の価値はいかなる規準によって判定されるのかという問いへの解
答である。まず、カントにとって政治とは、それ自体は経験からは得られないと
ころの法権利という理念を実現するような実践である。それは、法権利を公法に
よって実定化する、すなわち立法権力によって法権利を保障するというかたちを
とる。したがって、政治の価値は、法権利の理念に合致しているかどうかによっ
て判定される。そしてその判定能力は市民であるかぎりの政治社会の構成員の誰
もが有しているものである。そうした判断のための規準概念として、その法律に
同意できるかどうかという契約の形式が恒常的に用いられる。これが根源的契約
という概念である。
第二に、支配がなぜ必要なのか。カントの議論によれば、何らかの政治社会に
おいて初めて法権利が権力によって保障されるからである。権力による保障がな
ければ、法権利は実現され得ない。こうした権力による強制が各人の理性が納得
することの可能性は、そもそも「純粋実践理性の根本法則」が各人にとっては命
法というかたちで与えられていることに由来している。
第三に、統治が正当性を失ったと考えられるとき、被支配者は何を正当になし
うるか。カントによれば、統治権力の保持者に実力行使によって抵抗することは、
最高権力による立法を受け入れないということであり、それは自己矛盾である。
したがって抵抗は政治社会においては禁止されざるを得ない。その代わり、失う
ことのない権利として、統治を改善していく権利を政治社会の構成員は有してい
る。それが、言論の自由に他ならない。
以上のようなカントの議論が、革命という実践に結びつかないのはこれまでよ
く指摘されてきた通りであろう。しかし、今日、権力の実体の所在とその正当性
の所在が明らかに分離している状況において、権力の実体を有しない者に法破壊
を正当化するイデオロギーを無批判的に受容させることの意味と、革命を犠牲に
して正当な行為の領域を拡大する実践的理論を再度批判的に吟味することの意味
215
とを、よくよく比較衡量することが求められていると思われる。
1 ) 以上の叙述は、福田歓一『福田歓一著作集 第二巻』、岩波書店、1998年、所収
「近代政治原理成立史序説」、340-343頁、及び347-349頁に依拠したものである。
2 ) 以下では、カントの著作を引用する際、
『カント全集』(岩波書店、1999-2006年)
および Kant’s gesammelte Schriften(hrsg. von der Königlich Preußischen Akademie
der Wissenschaften und von der Deutschen Akademie der Wissenschaften, Berlin,
1900-) の巻数および頁数を併記する。前者の巻数はアラビア数字、後者の巻数
はローマ数字で表記する。カントの著作からの引用は、おおよそ『カント全集』
の邦訳に拠ったが、筆者の判断で変更を加えたり、原語を表記したりした箇所も
ある。また、引用文中の傍点はすべて原文ゲシュペルトである。
3 ) Gemeinspruch は「俗諺」と訳されることもあるが、ここでは「通説」として
おく。というのも、この論文での主な批判の対象は、「俗諺」という言葉からイ
メージされるような、人々の通俗的な考え方ではなく、むしろ題名にあるような
意 見 を 述 べ る「 利 口 な 連 中 Klügling」(14、164頁 / Ⅷ, S. 276) や「 高 名 な 人
Ehrenmann」(14、167頁 / Ⅷ, S. 277)の考え方だからである。この点については、
Dieter Henrich, Einleitung: Über den Sinn vernüftigen Handelns im Staat in: Kant・
Gentz・Rehberg Über Thorie und Praxis, Suhrkamp Verlag, 1967, S. 9を参照。『理論
と実践』と同時代の議論との関係については、フレデリック・C. バイザー『啓蒙・
革命・ロマン主義』(杉田孝夫訳、法政大学出版局、2010年)を参照。
4 )『純粋理性批判』からの引用については、アカデミー版のページ数ではなく第 1
版(A 版、1781年)と第 2 版(B 版、1787年)のページ数を記載する。
5 ) プラトンの国家概念を批判期以来一貫して重視していたことは、最晩年の著作
である『諸学部の争い』からもうかがわれる(18、124頁 / Ⅶ, S. 91)。
6 ) プラトンは『国家』第 8 巻において、民主制から僭主独裁制が発生する過程を
記述している。そこでは、民主制国家では自由こそが善であり、その自由への飽
くことなき欲求が民主制国家を滅ぼし僭主独裁制国家を誕生させる(プラトン
『国家』(下)、藤沢令夫訳、岩波文庫、1979年、216-221頁)と説かれる。こうし
たプラトンの記述を読む限り、プラトン自身が「自由」を尊重していたとみなす
ことには無理があるように思われる。むしろそれがゆえに、プラトンの国家論を
「最大の人間的自由の体制」の模範と見なしたカントが、正義の国を自由の国と
同じものとして把握していることには注意が必要だろう。
7 ) ドイツ語における Recht という言葉の多義性については、イェーリング『権利
のための闘争』村上淳一訳、岩波文庫、1982年、32-33頁を参照。
8 ) この点につき、細川亮一『要請としてのカント倫理学』
、九州大学出版会、2012
年、204-206頁を参照。
9 )『世界市民的見地における普遍史の理念』では、人間が市民的体制のような拘束
された状態に入らざるをえない根拠が非社交的社交性という観念によって説明さ
216 政治学研究49号(2013)
れる。つまり、人間は非社交性をも持っているため、何らかの拘束状態に入らな
ければ共存が不可能になるので、必要に駆られて、社会を形成するのだとされる
(14、 8 -11頁 / Ⅷ, S. 20-3)。
10) この文章の内実は、ルソーが提示した根本的問題、すなわち「各構成員の身体
と財産を、共同の力のすべてをあげて守り保護するような、結合の一形式を見出
すこと。そうしてそれによって各人が、すべての人々と結びつきながら、しかも
自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること」(ルソー『社会契
約論』桑原武夫他訳、岩波文庫、1954年、29頁)と連続するものと考えられる。
11)『理論と実践』第 2 部における重要な概念について、本稿では以下に示すような
訳語をあてている。Recht=法権利、Gesetz=法律、bürgerliche Verfassung= 市民
的体制、bürgerliche Zustand=市民的状態、Zwangsrechte=強制権、Zwangsgesetz
=強制法律、öffentliche Recht=公的法権利、öffentliche Gesetz=公法。
12) 後段では「自由の普遍的法則に従って互いに制限しあう選択意志の作用と反作
用とが等しい状態」(14、190-191頁 / Ⅷ, S. 292)とも表現されている。自然科学
的用語を用いたアナロジーで法原理を表現するカント特有の方法については、中
島義道『カントの法論』、ちくま学芸文庫、2006年、176-177頁を参照。
13) おそらくカントが念頭に置いているのは、ヴォルフのような自然法論者による、
「公共善」こそ統治の目的であるという主張だろう。後段でカントは、「何をもっ
て幸福とみなすかという幸福観は、互いに衝突しあうし、またたえず変化しうる
(そして、何をもって幸福とみなしたらよいかを指図できる人などいない)」(14、
199頁 / Ⅷ, S. 298)と述べて、各人の幸福という意味における「公共善」を統治
の目的とすることを批判している。これは、啓蒙専制君主による行政のイデオロ
ギーとして機能した当時の自然法論への批判として理解される必要がある。
14) この主張は身分制的特権に対する批判であるが、当時のプロイセンにおいて身
分制が保存されていたことと無関係ではない。
15) カントはドイツ語における市民 Bürger という言葉の意味の二義性に注意して、
市民とは citoyen つまり国家市民 Staatsbürger のことである、と述べているが、
この区別の仕方は、フランス語をわざわざ使用している点からして、ルソーに由
来すると考えられる。
16) この議論は「能動的市民」と「受動的市民」との区別という議論に対応するも
のとされる(バイザー、前掲書、77頁)。カントは市民概念を明確に規定するこ
とは難しいと述べている(14、196頁 / Ⅷ, S. 295)が、これはアプリオリな原理
からの帰結は必ずしもその純粋さを維持しえていないことをカント本人も自覚し
ていたことの表現かもしれない。
17) 村上淳一『近代法の形成』、岩波書店、1979年、 8 頁。
18) 同上、104頁。
19) 同上、 6 - 7 頁を参照。後年の『法論の形而上学的定礎』では、国家 Staat つま
り civitas は、「法の諸法則のもとにおける一群の人間の統合である」(11、154頁
217
/ Ⅵ, S. 313)とされる。
20) 政体論に関する言及が少ないことは、カントが政治思想家としてはさほど重要
ではないと評価されることの一因かもしれない。しかし、アリストテレス以来の
伝統的政体論とは異なるレベルで専制と共和制を区別し、恣意による統治―形式
としては立法権と執行権が分離されていない統治―を、目的の如何に関わらず専
制へと帰着させる後年の主張(『永遠平和のために』、14、265-268頁 / Ⅷ, S. 3513)からも分かるように、カントが政体論について無理解であったわけではない。
今述べた意味での共和制理解―立法権と統治権の分離、及び法に従った統治―は、
ルソーによる共和国の定義(ルソー、前掲書、59-60頁。またルソーによる主権
者と統治者の区別については、同書、83-85頁をも参照)を踏襲したものとみな
せるだろう。ところでルソーはまた、立法権と執行権を区別し、執行権の合法的
行使を委任された人間ないし団体を統治者とした(同書、95-98頁)。そして執行
権と立法権とが結合している民主政は人間には相応しくないと評価したのである
が、カントが民主政を批判するのはルソーのこうした議論を承けてのことだろう。
21) なおルソーもまたヴェネツィアの元老院が統治者と呼ばれたという例を挙げて
いる。ルソー、前掲書、85頁。
22) 以上から明らかなように、カントの市民的体制における構成員の資格の規定は
ルソーを踏襲している。ルソーの場合、人民は主権に参加する者としては市民で
あり、国家の法律に服従する者としては臣民である(ルソー、前掲書、31頁)。
もっともカントの場合には、物質的基盤の有無が市民資格の基準になっているが
ゆえに、臣民でありかつ市民である構成員と、自然的資格ないし自己の支配者で
はないという理由で臣民ではあるが市民ではない構成員とが区別されていること
には注意が必要である。
23)『市民社会の概念史』(河上倫逸他編訳、以文社、1990年)および「支配と社会」
(F. ハルトゥング他『伝統社会と近代国家』成瀬治編訳、岩波書店、1982年所収)
を参照した。
24) ホッブズ『リヴァイアサン』(二)水田洋訳、岩波文庫、1992年、27-35頁を参照。
25) リーデルはこうした点から、ホッブズはアリストテレス的政治社会概念の欠陥
を清算しえなかったと理解している(前掲「支配と社会」、9 頁)。もっとも、ホッ
ブズが国家に先立つ何らかの秩序を伴った社会状態をその理論から全く排除して
いることに注意するべきだろう。その点で、ホッブズの理論と後の自然法論者の
理論との隔たりは大きいと見なければならない。
26) プーフェンドルフの契約論については、M. シュトライス編『17・18世紀の国家
思想家たち』(佐々木有司・柳原正治訳、木鐸社、1995年)所収、ノートカー・
ハマーシュタイン「ザームエル・プーフェンドルフ」、296頁を参照。
27) ジョン・ロック『統治二論』加藤節訳、岩波文庫、2010年、441-467頁を参照。
ロックは、立法権力は信託と神法、自然法によって制限されるとする(同書、
465頁)。これは、ロックにあっては政治の正当性が人々の同意ないし信託によっ
218 政治学研究49号(2013)
てのみ基礎づけられているわけではないことを示している。
28) ヒューム『市民の国について』(上)小松茂夫訳、岩波文庫、1982年、126-154
頁を参照。
29) ロックおよび大陸自然法論一般については前掲「支配と社会」、 9 -10頁を参照。
ヴォルフの自然法論の特色については、前掲『市民社会の概念史』、45-48頁を参
照。
30) 村上淳一は「良き旧き法」という観念が帝国国法論者によって既得権論として
維持展開されたと指摘する(「「良き旧き法」と帝国国制」(三)
、『法学協会雑誌』、
91巻・ 2 号、1974年、244頁)。またその代表的論者であるヨハン・シュテファン・
ピュッターの見解については、「「良き旧き法」と帝国国制」(二)、『法学協会雑
誌』、90巻・11号、1973年、52-54頁および60-65頁を参照。ピュッターは、まさ
にロックがプロパティを神聖不可侵と主張したことを援用しながら、最高権力と
いえども既得権を取り上げる権利を持っていないことを説いている。
31) 細川亮一は、カントの倫理学そのものがルソーの『社会契約論』のモデルを採
用していることを論証している。前掲書、107-131頁を参照。したがって、「主権
者(立法権)→政府(執行権)→臣民」という『社会契約論』における国家構造
(同書、126-127頁)はカントの政治社会の構造にも対応するだろう。そのように
考えると、『理論と実践』におけるカントの政治社会の構造は、「市民(立法者)
→国家元首(統治者)→臣民」と定式化できる。
32)「その再定式化によってカントは、国家は通常強制と暴力を通じて現れるのであ
り、合意や契約を通じてではないというヒュームのアンチロック的歴史的反論に
一 致 す る こ と が で き る 」(Patrick Riley, Will and Political Legitimacy, Harvard
University Press, 1982, p. 126)。ヒュームの「原始契約について」との内容的関連
を考えれば、カントはヒュームの社会契約論批判を念頭に置いているのかもしれ
ない。
33) Riley, ibid., p. 125.
34) リーデル、前掲「支配と社会」、12頁。
35) 無論このことはプーフェンドルフやヴォルフが当時の支配権力にただ迎合して
いたということは意味しない。
36) 加藤尚武編『ヘーゲル「精神現象学」入門』、講談社学術文庫、2012年、180頁。
37) G. W. F. ヘーゲル『精神現象学 上』樫山欽四郎訳、平凡社ライブラリー、1997
年、486頁。
38) このラテン語句はユウェナーリスからの引用である。
『諷刺詩』の文脈は以下の
通りである(ペルシウス / ユウェナーリス『ローマ諷刺詩集』国原吉之助訳、岩
波文庫、2012年、159頁を参照した)。妻が奴隷を磔にすることを夫に求める。夫
はその理由を問う。すると妻は、
「ああ、あなたはなんという間抜けの阿呆でしょ
う。そしたら奴隷は人間ですか。あいつは何もしていないでしょう。それでも死
刑なのです。このことを私は欲しているのです。私は命じます、私の意志が処刑
219
の理由です」と発言する。「このことを私は欲しているのです。私は命じます、
私の意志が処刑の理由です(hoc volo, sic jubeo, sit pro ratione voluntas)」という
語句を思想家たちがいかに理解してきたかについては、細川、前掲書、70-71頁
参照。おそらく先述のヘーゲルによるカント批判は、ユウェナーリスの言葉を、
そうしたいからそうするという主観的恣意という意味で理解する思想的伝統に根
ざしていると思われる。それだから、一面において、ヘーゲルによるカント批判
は正しいが、しかし、カントの場合、無条件的に命令するのは純粋実践理性であ
り、その命令の根拠にはもはや溯り得ないものとされている。
39) 純粋実践理性と等置される「意志 Wollen」と法則に従う意志としての「選択意
志 Willkür」が、二つの独立した意志ではなく、「一つの意志の二つの契機」であ
るということについては、細川、前掲書、76-78頁を参照。さらに『人倫の形而
上学』におけるカントによる明確な区別については、同書、78-80頁を参照。
40) リーデル、前掲『市民社会の概念史』、63頁。
41) ルソー、前掲書、35頁。
42) Lewis White Beck, Kant and the Right of Revolution in: Essays on Kant and Hume,
Yale University Press, 1978, pp. 171- 2 などを参照。
43) 小牧治『国家の近代化と哲学』、御茶の水書房、1978年、149頁。
44) 片木清『カントにおける倫理・法・国家の問題』、法律文化社、1980年、300301頁および303頁参照。片木はカントの形式主義や「ダイナミックな歴史的弁証
法の論理」の無視を論理外的見地から批判している。同書、302-307頁。また「一
種の循環論」という批判も加えているが、『理論と実践』については、これはあ
たらない。立法権力ないしその代理人たる国家元首に対する対抗暴力が許されな
いのは、立法権力が「最高」であるからであり、これは概念上当然の結論である。
カントによる抵抗権の否定の議論を解明するには、臣民が国家元首に対して何を
正当になしうるか、というかたちで問題を構成する必要がある。
45) 三島淑臣『理性法思想の成立』、成文堂、1998年、223頁。
46) 片木、前掲書、308-309頁。
47) 樋口陽一『近代立憲主義と現代国家』、勁草書房、1973年、308-309頁。
48) シュトライス、前掲書所収、クリスティアン・リッター「イマーヌエル・カント」、
565頁。
49) なお、オットー・ブルンナーによれば、歴史的には、抵抗権概念は「神授王権」
の概念と対になるものであって、中世においては、国王や君主に対するフェーデ
や抵抗も認められていたのであり、実力を有する貴族や騎士が抵抗やフェーデを
担っていたとされる(オットー・ブルンナー『ヨーロッパ―その歴史と精神』石
井紫郎他訳、岩波書店、1974年、250-252頁)。近代国家の形成は、そうした権力
を等族から奪い君主の側にのみ集中させようとする絶対主義に始まっており、プ
ロイセンはそうした絶対主義的国家形成の典型と見なされる。したがって、18世紀
末プロイセンにおいて中世的抵抗権の観念が成立する余地はなかったと言えよう。
220 政治学研究49号(2013)
引用・参考文献
イェーリング『権利のための闘争』村上淳一訳、岩波文庫、1982年
石部雅亮『啓蒙的絶対主義の法構造』、有斐閣、1969年
上山安敏『法社会史』、みすず書房、1966年
片木清『カントにおける倫理・法・国家の問題』、法律文化社、1980年
加藤尚武編『ヘーゲル「精神現象学」入門』、講談社学術文庫、2012年
『カント全集』有福孝岳他訳、岩波書店、1999-2006年
小牧治『国家の近代化と哲学』、御茶の水書房、1978年
中島義道『カントの法論』、ちくま学芸文庫、2006年
バイザー,フレデリック・C.『啓蒙・革命・ロマン主義』杉田孝夫訳、法政大学出版
局、2010年
樋口陽一『近代立憲主義と現代国家』、勁草書房、1973年
ヒューム『市民の国について』小松茂夫訳、岩波文庫、1982年
福田歓一『福田歓一著作集 第二巻』、岩波書店、1998年
プラトン『国家』(上)(下)藤沢令夫訳、岩波文庫、1979年
ブルンナー,オットー『ヨーロッパ ― その歴史と精神』石井紫郎他訳、岩波書店、
1974年
ヘーゲル,G. W. F.『精神現象学 上』樫山欽四郎訳、平凡社ライブラリー、1997年
ペルシウス / ユウェナーリス『ローマ諷刺詩集』国原吉之助訳、岩波文庫、2012年
細川亮一『要請としてのカント倫理学』、九州大学出版会、2012年
ホッブズ『リヴァイアサン』(二)水田洋訳、岩波文庫、1992年
三島淑臣『理性法思想の成立』、成文堂、1998年
ミッタイス,M. 編『17・18世紀の国家思想家たち』佐々木有司・柳原正治訳、木鐸社、
1995年
村上淳一『近代法の形成』、岩波書店、1979年
村上淳一「「良き旧き法」と帝国国制」(一)(二)(三)
『法学協会雑誌』、90-91巻、
1973-1974年
リーデル,M.『市民社会の概念史』河上倫逸他編訳、以文社、1990年
リーデル,マンフレート「支配と社会―哲学における政治の正当化問題に寄せて―」
(F. ハルトゥング他『伝統社会と近代国家』成瀬治編訳、岩波書店、1982年所収)
ルソー『社会契約論』桑原武夫他訳、岩波文庫、1954年
ロック,ジョン『統治二論』加藤節訳、岩波文庫、2010年
Beck, Lewis White, Essays on Kant and Hume, Yale University Press, 1978
Beiser, Frederick C., The Fate of Reason, Harvard University Press, 1987
Henrich, Dieter, Kant・Gentz・Rehberg Über Thorie und Praxis, Suhrkamp Verlag, 1967
Haensel, Werner, Kants Lehre vom Widerstandsrecht, Vaduz, Liechtenstein: Topos Verlag,
1978, 1926
Kant’s gesammelte Schriften, hrsg. von der Königlich Preußischen Akademie der
221
Wissenschaften und von der Deutschen Akademie der Wissenschaften, Berlin, 1900
Riley, Patrick, Will and Political Legitimacy, Harvard University Press, 1982
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