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初期平安京の文学空間

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初期平安京の文学空間
井 実 充 吏
躾餓朝の文壇は、淀瞬上流み義淳に佳麗する出麟一帯を、繋令となっ
空購は、禁苑としての禅泉苑や、蹉餓醗・冷然駝など新たに造営された
秘という場面であった。そして、客臣驕秘の場面を実際に提僕した主要
経国と書猛秘楽の躍念が、土着の風土の上に中国的轡鼻を幻想しうる鞍
に、当時の鬱念先鴛的な政治構溌であった。王道の遅想を追求する文章
縫餓朝文壇のこうした観念性を支えたていたのは、よく奮われるよう
を懸るための政教的空鷺であむ、購書と賢爵が一体化する還想的瞼曝鎌が
の上林苑を縫承する外苑であ鯵、有徳の天子が人民を教化し太良と秘楽
て見ていこう。かつて述べたように、禅聚訟飽は、馬王朝の爵壷沼や漢王朝
まずは、大繭裏の東南購に接し、王宮の外縁に盤直する神泉薙につい
“
初期平安京の文学空間
多多神泉苑・嵯峨院・冷然院と嵯蟻朝文壇の表現
中心として幻幌されるようになる。
た溜岳が蕉いっぱいに錬ったことで有名な海瞬桑に擬すことで、菟を懇
騒宮であった。警らの製作活動の舞台となったそれらの場漸にどのよう
ところで、文章経蟹と碁器秘薬の実理を見るのは、具体的には書籍曙
起すべき−文学境﹂を作む上げた。また、鍛夷の住む陸奥も、臆の辺
な﹁文学空懸﹂を麟透するかは、蝶蟻輯文壇にとって最も重要な課題と
一 畦織朝文壇の課題
塞詩を受容し嚢らも透塞詩的童舞を詠ずるなかで、あたかも漢土漢詫の
なっていたに違いない。その課題がどう果たされているのかを確認する
ハ まレ
ハまエロ
辺塞の熱く空想した。このように土着の地に大陸の風土を璽ね合わせ
ことが奉稿の目的である。
らの想像力を支えていたと考えられるのである.そして、この王道の理
実演される舞台であり、詩はそのための意匠として機能さぜられた。し
二 神 泉 苑
ることで、彼らは﹁実藻の歴史的現実とは勝綴の、いわば懇豫力の醗産
ハ すレ
である葬璽実の文学的毯翼﹂、すなわち﹁文学空懸﹂を麟遣していった
想を追求する鎚点となったのは、いうまでもなく霧翻平安京に纏ならな
たがって、そこに携かれた風畢は、天子の有徳性と莚臣たちの賢人姓を
のであるむ
い。蓬念実現め舞台となる平安京は、当然それに櫓恋しい中錘的鐙界に
暗承し、醤藪轄楽を象徴するものであった。
ハなまロ
見立てられねばならなかったはずであろう。事実平安京は、左蒙が洛鶴
しかし、それは禅泉薙という空購の持つ意味の辛薩を示すに止まって
O︶
絨、右京が長安城に擬され、中醒の二大主薬をともに取り込んだ轡界の
(一
2む暮2鱗窮
麗麗大学教官学鋸譲葉纂73弩
76
7轟
秀実充史:窮魏平安ゑの文学空縫
いる。ここでは、残静の業藤、すなわち漫稿では取り上げなかった蕉宴・
に踏まえた﹁造紀寧飯丹青筆﹂が窪§される。§然をも超越する造形の
﹁劉癒公中書江山麟警の露寒丹毒筆能奪蒼総勢﹂を否定的
︵渥︶
璽酬。賜籔の詩について論ずることで、その不勝を補いたい。まずは弘仁三
美しさを称える峯参詩句に麟して、蹉蟻詩句は造形美も無縁にしてまう
園遷望娃人在 畿雑繁苑根験輝 点三珠顔︸ 綴二髪繋一 肇入懐
乱騰 紫馨数時蝶欝驚 倦麗濃香侮独飛 飛来満レ坐堪レ襲レ衣 春
雄一賞宴来 見二酸化光林表鐡︸造化寧仮二丹青筆一 纏英落鎚鶯
過率青春侮湧レ難 穂懸数量膏花露 芳葬歎尽無レ霞レ駐 愛唱二文
糠袋菟花宴餓二落苑篇一 蹉蟻天皇
がその躍懇雛として神鱗郷を見鐡すことは、ある程度予想されるであろ
るものとして称えたことばである。そして、こうした自然美への志陶性
翼・落花篇⋮癒製﹂︶も、購じく神泉苑の§然美を、人事を完全に超越す
風落一 方蟻鴬棄レ鶴居乙︵凌・八○、高丘磐越﹁於鴬神票苑︸詩二花宴一
見られる﹁毒黄赤白天然染 露愛東愚葬有精し︵答守詩︶や﹁承認鷲髄レ
の縫蝿に及ばぬ真の自然美が展麗する場瞬なのである。本誌の奉穂詩に
ほどの美しき臼然として神泉苑の風景を称賛する。そこは造形︵人事︶
年より奪中鷺事乾した花蜜での作品から見ていこう。
中嬬態麟韓塞レ花暮摂レ花撃レ花力尽衣帯瞭未レ鞍二募芳一
︵凌・五六︶の難く擁源郷に見立てている。ただし、銚源郷への見立て
う。事実、答守は神祭苑を﹁昔麗㎜察栄二海陽一 今見麟源遷二秦漢と
︵凌.三︶
縫後続 留連棒裏㎜饒光斜 妖鰻一議已為レ楽 不レ畏二春風総吹
落㎜麟髭奪華一絶羅レ燐 一時風景崔空箱 は、溝緩がそうであるようにあくまでも雛写麟象である花との縁による
棄であると考えている。事実、本詩に奉秘した小野答守﹁蟄禅泉苑㎜侍
の登場は意外であるが、これは余興としての女楽に灘激された想像の梼
︵人事︶を織く。君艶関係の蓬懇を追求する政教的空聞にあって、女性
れた織綾舞的轡界と穣容れないのは言うまでもあるまい。
のうつろいに人生の衰えを見る悲軟文学が、不老長寿への顯いから生ま
導入という中国には見られゐ独嚢の麗麗を繰讐広げたのであった。翕然
されることになる。それもそのはずで、蝶餓輕の重鶴詩は、悲秋文学の
ものであり、必ずしも神泉苑の全体を神紬雛と見なしているわけではな
講韓落花篇一応製﹂︵凌・五六︶には、﹁特⋮花宴・ 蕉宴何太会食辰一
だが、重隆簸が悲軟文学麟作の場面を作り出すことで、神泉苑に蝿す
﹃凌璽瓜集臨に掲載された本詩は、花婁の詩作としては擁簸の作品に属
選管千講無一亀麟一 金讐癒駿欝能酵 金上美人葬花綴一 騰中花練
る嵯餓朝文壇の捉え方は確実に変化した。それは、悲秋文学を窮めて生
い。しかも、こうした神懸郷への見立ては、重醗籔の詩会において修査
妬美人﹂と、当男盛婁を彩る数あ美悪美食とともに、舞台で花
み虚した楚轡への着目に端を発する、本朝最携の本烙的な悲歎文学は、
するであろう。その蒙半は花︵轟然︶を嶽写し、後楽は花を愛でる美女
と戯れて舞う美女の姿が携かれている。農羨のもとに賜った花宴におい
﹃文華秀麗集﹄断裁の﹁禅泉薙九馨落葉篇﹂誇群である。
ハ すレ
て、女楽は魑の音楽や灘肴と霧蝶に君主と艶下を秘薬へと導く仕掛けの
羨に想像することで、君臣が共に享受する舞蜷の素晴らしさを強調しよ
蓼駆秋天露為レ霜 幽趣曉葉欝萎黄
神泉苑九騒落葉篇
§然縫落伍二醗風一揺麗緋懇
蝶餓天皇
ひとつであった。蹉繊天皇は、菟に戯れる美女を演舞から窮り離して自
うとしたのであろう。醸って藩率が叢く§然を見ると、︵盛癒︶答参
2総2難2月
福島大学教費学藩論集第73号
74
漣流不レ已 虚蜂縮織掻注上 瞬蓋穿逡荷灘裡 塞外羅夫球達西一
縫擁醜吹二瀬縫㎜ 墜葉雛靉靆二寒声] 寒声趨 溺鹿波 随レ波澄
いう語の指す地域に当たる。ここにいう﹁江南﹂とは、長江の南という
ところで、右に挙げた漏庭湖・淮南・呉・楚は、いわゆる﹁江南﹂と
れる9
苑鼠二歓薯レ裏こ簸欝においても、﹁葉懇二呉江之懸⋮綾憶海蘿之承乙
闘牛懸嫌悪二罎甕一容華鎗敢為教募︸心事類違多二惨縷一観二
文字通むの意味ではなく、江灘︵長江・准海︶および江漢︵長江・漢江︶
満鷺雪空︸ 朝来暮綾無二常時一 跳度薦飛寧有レ難 歳月差験縫逼
落葉︸噺二人緩一淮南水葉雑羅翔一 蝿レ薩長奪悲 含レ椿多レ
以醇を広く権す語である。麺本久行によれば、このような意味の﹁江南﹂
︵経・一〇、淳秘東宮﹁重隆簾神泉薙螺一飲藩レ裏一慈鱗﹂︶の難く継承さ
断レ思響磋藩暴興感歎涙空垂鞍云曉無二鞠不薫鋒坐翼㎜
は、六朝後難の南朝政権の級懸であった長江・潅海以南を捲す﹁証左﹂
迫 耀寒変化逡盛衰 黙黙春心未一蕩尽一躍忽復逢三歎気悲] 蔭
寒椋落葉騒一 ︵華二三九︶
﹁江東﹂とほぼ隔意であ鯵、陵唐鎌降、露語にとって代わって嚢網され
文学の鱗作が契機となって楚辞的鍵界が導入され、さらに灘講や呉・楚
るようになったものである。要するに神泉苑は、重陽籔における悲軟
ハなきマ
庭 墜藁薦翻動寒声﹂の撫く、﹃楚辞﹄﹁九弁﹂冒頭の﹁蒼論稿之為レ気
も欝き寄ぜることで、ついには﹁涯購﹂として見立てられるようになっ
ここで蝶餓叉皇は、﹁無難春心策蕩尽 撫惣復逢秋気悲 商縫綾羅次濁
髭、薦慧今 草本嬉落薦変衰﹂を踏まえて悲敏感を表聡し、継いで羅
溝魔湖の風景を織いていく。これら二つの故事慧﹃芸文類聚﹄歓に連続
ば、神泉菟それ窪体が一,江南﹂に見立てられたとは言えなくなる。しか
んに重隆締め悲歎文学麟鐸に簸って行われたとも言えよう。そうであれ
たのである。だが、これだけでは、糠袋苑の﹁注南﹂への見立ては、た
して畷かれておむ、そこから甜“悲敏感⋮落葉一澱霊縫湖の通箱聯が麟いて奉旬
し、それは璽隆詩藏に醸憲されるものではなかった。
﹁九歌一瀬夫人しの﹁嫋嫋今秋縢 擬慶陵今木糞下﹂に挺って落葉する
が絞ったと思われる。﹁塵篠縮織穣波上﹂も﹃楚辞﹄宋玉﹁招魂﹂の
て落葉一歎老一権薩の連想を鱗かぜ、淮南地方に涯欝する。こうして媛
毎懇 含驚多辮愚﹂では、﹃潜醇子﹄議出講の﹁本葉落蚤年悲﹂を介し
ある織を詠ずる。さらに、﹁観落葉 漸人緩 潅欝本葉雑羅翔 鰐髭畏
誕レ暦須レ蚕糞葉爽レ賠翠
鏡不レ縫レ台 漸欝光縫漢棄雛↓
︵華二二八︶
業験彫琢⋮灘南灰] 桑帝当時侮
春天霧静無職撃絞潔掻瞬縫月来窓外麟鉤疑レ拳レ箔空中桑
春曇繕二神泉苑]簸得春月一癒製 巨勢識人
﹁湛湛江東今上葺擬騒擾キ里秀参看少﹂を踏まえ、麓風鞠で
餓天皇は、悲軟文学を密ら詠ずるなかで、神袋苑の風景に海蘿湖や灘南
懇二呉涯磯之のように難?楚という地名を群き寄せ、長涯流域全鯵へ
瞬○︶は、この見立てを覗き取った上で﹁衰影遷短鴬笛出娃︸ 余香猶
さらに、本誌に奉秘した琶勢識人﹁神泉苑九段落葉篇応製﹂︵華・一
仁九隼以麟の春の禅泉苑行幸は、二挺下旬、すなわち弘仁三尊より始ま
れない。しかし、史書による霞む、﹃文華秀麗集﹄の採詩範露である弘
鴛幸で詠ぜられたということ鱗外、本誌の綴作時簸に関する情鞍は簿ら
右は講じ識人の題詠詩である◎この本文からは、ある春の夜に神泉苑
地方を中心とした長江中流綾の風麹を晃鐵していくのである。
とイメージを拡大する。この見立ては、讐経国集﹄震載の﹁蚕醗簾神駿
︵叢︶
73
醤実充史1補期平安京の文学空覆
る琵宴への行幸記事しかない。穂婁に﹁春月﹂の題詠はそぐわない感じ
槌木は、従来篤いられてきた﹁秦嶺⋮潅海﹂線による雨龍二分法が、
に鮮美主義以外の繕らかの意騒を感じざるをえない。
︵天︶
もするが、講じ神泉菟で催された重陽簸においても、﹁秋露﹂讐秋蓮﹂
気躾的︵乾燥と湿潤∀水系的︵黄海と長江Y歴史的︵龍輯と南朝︶に
︷裏付けられたものであると“蓬べるが、長泣の上流域を“除けば、﹁江山瞬﹂
窪下押
﹁歓擁﹂﹁歌出﹂など重購の簾麹からはずれた鐵題がなされている。菟宴
に﹁春月﹂の蚤題は十分あり得たと考えられるのである。本誌を花宴で
という地機はほぼこの南鑓に当たる。潟庭・灘南・呉・楚などの地名を
生したことを意味する.長安・洛陽に換えて江南をそろえることで、中
中核とした﹁江南﹂は、文学的に見れば﹁南中羅しと同義、もしくはそ
に含まれる。重醗雛のみならず、穂宴にあっても、神蒙菟は﹁江南﹂に
国の南髭はここ平安京に集結させられたのである。こうして申羅全土を
詠ぜられた作品と認めてよかろう。そして注目すべきは、神泉苑の夜空
見立てられるようになったのである。神泉菟の﹁江南﹂への見立てはす
手中に収めた単安京は、長安・洛醗を超越した世界最高の薬城と見なさ
に懸かる月が﹁漢東蜂﹂及び﹁潅薦灰﹂に喰えられていることである。
でに定着したと言ってよかろう。
れ、そこに霧臨する天皇の偉大さは計む知れないものとなる。こうした
の代表と見なしてもよい地域であろう。そうであれば、禅泉苑のみが
さて、神泉苑を﹁江南﹂に見立てるようになった経緯については以上
政治的室隅の鍵串に神寒薙の江南建は大きく寄与していると考えるので
﹁灘南﹂についてはすでに運べた。また﹁漢東﹂も長江の支流である漢
であるが、そのように見立てることの意瞭をどう考えればよいのであろ
ある。﹁江繭し的文学空瞬の麟造という曜美主義志講の奥に隠された政
﹁江南﹂に見立てられたことは、鄭城内に唯一の﹁南中羅﹂的空聞が誕
うか。一つは、巨大な禁苑を風光聡媛な江南の地に見立てたという点で、
治牲一これを晃遷すわけにはいくまい。神泉苑の江南化によって、形
江の東を指し、鑑述の江漢︵長江・漢江︶駁南の地壌、すなわち﹁江南﹂
﹃文華秀麗集﹄的特鍛と言われる曝美主義醜類海がここにも場霞ている
を変えた政教的空聞が唯美主義を装いながら麟趨されたと害えよう。
洞庭・灘南・呉・楚などスケールの大きさにこだわっているようなとこ
られた、飛躍がなされたのだと言えばそれまでであるが、それにしては
それに麟して、躾餓韓時代に饒建された蹉餓院は、鄭械の外鍵に盤直す
も大内裏に隣接する区域に存在し、きわめて中心に近い空麗であった。
禅肇苑濾、大内裏という中心の外鰯に位還していたが、鶴城内のしか
三 嵯 蛾 院
と解観することができよう。しかしそれだけでは、先の糠穂で瞬らかに
した神泉苑の持つもう一つの灘藪、すなわち政乾主義約言議の交差する
ろが気に懸かる。いくら巨大な禁苑とはいえ、少しく誇張に過ぎると思
る懸宮であった。次ぎはこの薩餓鶴について検討していこう。
政教的空聡という鐡癒との闇の溝を埋めることは欝難である。溝は超え
われるのだ。神泉苑よむも遜かにスケールが大きく、実際に長江に見立
春鼠蹉餓出錠探得達字︸ 蹉餓天皇
てられていた淀鱗でさえ、呉・楚とは詠まれていないのである。また、
神泉苑鎌外で江南に見立てられる庭園は少なくとも勅撰三葉には見えず、
気淳頻今春欲レ老 蹉餓出駝暖光遅 峯雲不覚侵二梁榛一渓承尋常
鰐二簾雄一 薙苔踏二破経レ薙髪一 楊榔未レ懸二神レ月贋一 鏡地縷緊
江海への見立ては神票苑の独毒するところでもある。さらに、平安京が、
左京を洛陽城、右京を長安城に擬していたことを考えれば、この見立て
2暮暮2電朗
福島大挙教育学認講集第73号
72
いう首聯は、春の訪れの遅さを詠ずる、麗艶懸褥暖鶯声鋒漸墨︵経
饒春という時簸になって、ようやく暖かい光がゆったむと差し込むと
で、このときの作と考えて聡違いなかろう..
難↓、月二手七馨条以外にない。この醤は文人に賦詩の命も下っているの
時難に轄癒しい磋蟻院への鴛幸記事は、﹃類聚国史﹄天扁男汀幸の弘仁七
後述するように、本誌は曉春を逓えようとするころの詠である.この
人事少 唯傘嵐勤暮猿悲一 ︵華二、︶
しかし、実際の嵯峨院は、内裏から西へ行くことおよそ七キロメ⋮ト
させたであろう。
硲山中で聡く猿の声は、蝶餓朝の詩人たちに都城との題離感を強く意識
朝の詩人たちもまた、猿声に蕨椿を感じていたことは確かである。嬬外
者心﹂︵凌.六二、小野答守﹁奉秘江亭曉興詩㎜慈製﹂︶の妬く、蹉蟻
天皇﹁薄陽駅経宿存レ懐乱暑畢﹂︶、﹁曉猿莫レ作籔鵬叫]醒海為レ家帝
とも、﹁雛レ聴一山猿雛レ客攣誰能不レ憶一壷尽寮父凌二一、嵯鐵
隼二月二十七欝と推濾したが、倒奪この時鱗は神泉苑で薦宴を麗いてお
あ鯵、それは講嚢で誕られたものである。奉詩が詠ぜられたのは弘仁7七
訪れが普燈よむ遅い地竣だというので臥雛、。瞥遭とは節窪の基準魑で
盛鯵を過ぎるに至って、ようやく春の暮騰が簿びてくる。それだけ春の
が咲き風は暖かく鴬も鳴き始めるころである。だが、この山院では春も
のであろう。講じ嚢に詠ぜられた淳秘秦宮金製が、そのような空翼の持
ことで、蹉鐵院は鶴絨から精神的に遠く離れた異境の空懸と意識された
翻城の持つ境界性が大きく介役していよう。都城という境界を超越する
無縁の、観念の世界で行われているからであろう。おそらくそこには、
の距離感の表鐵に徹底するのは、この空洞の粒選づけが現実の駆離とは
現実の鋲離に基づいているとは考えられない。それでもこうして内裏と
ル、﹁往復の程、療聾数里﹂の近嬉である。したがって、この野離感が
ハな ロ
り、この年の艦織醜鴛幸は鱗外であった。毎葎菟宴を楽しんでいた蹉餓
つ意味を的確に表饗している。
九一、蹉蟻天皇﹁蕃翼作﹂︶とあるように、春の蓉が長くなるのは、蕉
朝の詩人にとって、この時鱗はちょうど花盛りの季簾というのが標準的
題離をも示しているのであるひだからこそ頷聯では、蜂の雲が知ら雄ま
あろう。簸序のずれという暗闘的差異は、隅時に山院と内裏との空聞的
中心としての内裏から隔たった周縁に位置するから、と綾らは考えたで
輿昆待莫東選一 ︵華土◎
窓梅 擾掻嶺土風為レ雨 絶灘流中石作レ叢 地勢幽深光易レ暮 墾
蹉繊之院埃塵外 乍到離鋳興儒催 鳥麟遥麗縁レ塔躯花香近得施レ
春霞特嵯餓山院]採得麹字︸慈製 淳穣東宮
季簸感であったに違いない。そして、季簾が遅れるのはそれだけここが
に家屋に侵入し、谷闘の承が雛つも馨の繭を流れているというように、
は﹁長江系の風土︸毅における愁人・遷客の悲哀をいや増すのもとして、
の悲しむ鳴き声が縷こえるのみであると結ぶ。甲羅古典詩において猿声
叙し、最後にここが搭糧聡⋮と没⊥父渉であると述べて、 ただ羅“のうちに猿
蕉盛りとは頬称的な、苔や櫛のようやく芽吹く出続の遅い春を縮やかに
鳴と圏く︵頸聯︶ことができるのも、それが量俗を脱した山中での患来
城から離れたところにあることを示しているし、掻籟や谷鱗を雨音や雷
が谷や樹に取翰臨まれている︵頷聯︶というのは、それだけ蹉餓醗が擁
ち超俗的文学空腸として旋置づけられたのである。花鳥を賞美する家屋
寳頭﹁藤織之醗埃塵外﹂がそれである。躾餓騎は﹁埃塵外﹂、すなわ
ここを薙外の出郷に隣接する空綴と播くのである。続く難聯は、翻械の
うたわれている﹂と霞われる。﹁愁人・遷客の悲哀﹂とまでは言えなく
ハ むロ
︵嘉︶
7董
昇実充史1褥鞘平安京の文学空鷺
て饑いたであろう。ただし、それだけでは原野の風景を欝建釣に織くこ
巻く豊かな§然螺境は、こうした超俗的な風景搭写を鑑み鐵す条絆とし
沢を麗発した擁鱗庄蟹であったと奮われる。おそらく、蟻餓院を最善
事と認識しているからであろう。磋餓駝は蹉餓野に広がる素縫の野や沼
躯城との駆離感や出中の風景を鐵くことは不可能であったし、むしろ不
が搭かればそれで十分であった。そのような位置づけをされた空隙では、
けられていたようである。それゆえ、右二首に見える難く鵜静濤﹁澄な景
これら重難の私邸は、盤俗の場を一時的に濯ぐための空腸として韓語 づ
欝成レ歓﹂︵凌二〇、﹁夏讐左大将軍藤冬縫購居院﹂︶と詠じたように、
で行われた納涼の鰹に、蹉餓天皇が﹁暫麟二清寂︸灘績露⋮ 溌乎寂寞
︵天︶
とはできまい。そこに﹁埃塵外﹄という空瞬認識が重ねられて擁めて、
要でさえあっただろう。
ハ ドレ
超俗的な轡界が醗前に羅けたと害えよう。
四 冷 然 院
ところで、超俗牲という点でこれと類鍛姓を有する空間に、淳鵜東宮
や藤漂冬羅の私邸である雅鶴及び閑錠が存産する。それらとの穰違は瞬
および一時的な騰総空聞としての雅院・闘駝について見てきた、最後に、
これまで、政教麟曝上聞としての糠泉苑、超総的空間としての蹉縷院、
春雛大勇雅院 罐餓天皇
都城内にあむ大晦襲の東南に接する冷然院について検討しよう。
確にしておく必要があろう、
詩家脊麹ハ塞礫壁雅醜由来絶レ嚢緊隆磯難レ蚕新郷隼陰
夏8左大慈軍藤原朝臣闘醜納涼探傷二薦字㎜慈製 淳穣棄宮
地端居翫二騰景一寂寥人事暫無レ関 ︵華.醒︶
謝破牢危一径栽饒管春余糧 歳浅新株未レ撲妓 景秘繕堪レ灘一
霜王本§醜二灘趣一 景石総看鈍池奇積水金倉一灘襲色一重巌不レ
歓薮冷然醗籍緯地採得地学一癖襲 淳秘東宮
塔常点一霞苔肇就レ暖晴蕉雛簾外欲レ巣時鳥琢二庭翠蔭
既綻露寒人事少溌乎水難毎成レ縫送レ春薔輔靉靆色 趨レ夏巌苔
璽嚢㎜海蛍整駕郵駕地一 ︵華.二︶
び文人簸詩の記事で、冷然駝はこれよ鯵あまむ選らみころに麟建された
冷然號の携見は﹃類聚馨史臨︵軟確菖︶弘仁七年八月二十醒8の鴛幸及
蹴瑠斑 選レ景追レ風長樫下 縫レ琴擾レ茗老椿聞 知レ食荒鷲駕忘レ
震越︸騒蔀蠹毒︸不レ解レ還 ︵華.九︶
これら㎜、一首は、雅醗・購駝で詠ぜられた詩作のなかで、最も超絡縫の
擁絨との麗離戴心や出中の風景はけっして叢かれないのである。それは当
繊纈ではあるが、ごく一般的な苑漉の風景を描くに遍ぎない。まして、
人事の稀な超俗の地として織かれている。しかし、嬉簸搭写の藻分は、
して、議題﹁新秣池﹂や本文﹁泉石補考﹂によ歳ば、東宮がここを擁め
二十露麩に纏された冷然醗の詩会において詠ぜられたと推灘される。そ
秋の行幸記事は纏にない。したがって本詩は、この擁晃の弘仁t年八月
繭における冷然號鴛幸の記事は夏に行われた弘仁八奪灘月三濤条のみで、
と推灘されている。また、﹃文華秀麗集﹄の採詩範囲である弘仁九年以
ハ なレ
然で、これら重簗の私邸は躯城内の一角に与えられてお翰、擁城外とい
て訪れた時に詠じたのであろう.おそらく、この蔭の詩会は冷然銑の完
現れている作贔である。鋳繰を付した表現からわかるように、いずれも
う空聞認識上の超俗盤を騰えていないからである。しかも、磯時に薦醗
2尊書2矯2月
橿鳥大学教育学鋸譲集第73号
7馨
感を示していたということであろう。さらに潮時の鐸贔も見ていこう。
ばそれまでだが、露園の造影がそう表麗しなければならないほどの存在
穿池や築灘が大湖や危嶺の難くに鑑かれるのである。遍羅な表憂と曇.震え
具体的には﹁積水全含灘裏色 璽巌不識破牢危﹂と織写さ載る。まるで
と驚嘆されるように、当時としては極めて珍しい造りであった。それは
たばかむの真新しい庭璽であった。しかもその癒しさとは、﹁髭地奇し
成綾羅会を兼ねていたものと患われる。このように、冷然醗は造築され
遷降耀 癒為澤心室﹂︶と言ってしまうあたむに、表現の過剰性を見る
の透瞬感を表すために、星の髭が遥か彼方から淵の底まで届く︵﹁天文
悪い起こさせる。流露詩の鑑く縁景はそれらに競べれぱ小さいが、池水
一避長泉曵霧騰﹂︶以下の縫大な光景も、深田灘谷にある巨大な滝を
懸く重畳たる出からひとすじ流れ落ちる長く白い滝︵﹁兼露擬患饒中盤
霧縛籠一蓋喪﹂︶は、かなりの老大本を想像させるし、また、鰒毒詩が
らが千もの枝に絡まり雲霧さえ立ちこめる老嬢︵﹁酵蓬鴬掛子鋒重 雲
万象無レ須レ匠 籠轡緑水中㎜看レ花野レ糞レ酸 聴レ葉不レ鳴レ風
冷薫駝各鼠一=鞠一得一水車影︸慈製 桑療法懸
見 何労縫レ鮭訪こ天台一 ︵華・二一霞︶
逆流︸額巌頭蕪レ騒猶零レ薦石上無レ雲鎭聴レ霧躊昔耳鳴今鰻
兼山繰鐵駝中陰 ︸道長泉曳レ姦騨驚鶴饒随二飛勢一至連珠全逐二
冷然鞍各鐡と麹㎜鐸曝帯水一慈製 桑原腹赤
嶺上一唯余㎜嵐入螢霞簡一 ︵華二二三︶
籠一蓋長高声寂寂寒炎節㎜吉亀窟蓉蟹夕鶴㎜本自不レ堪レ登一・
欝茂青擾隼滋濁︸経奪老大未レ簸レ霜 露霜講掛手繰重 雲霧時
冷然駝各暴二麹]得灘底頓︸ 蹉蟻天皇
術の粋を集めてできた最先端の庭園であったと思われる。
表麗と見るべきであろう。この新奇の庭園こそ、おそらく当時の造璽技
灘や深山麟谷を髣髴とさせるような穿地・案出の巧みさに射する賛膜の
とらないと瞬言されているからである.これらの遍羅甕は、あたかも大
含んだかのようであむ、﹁重巌﹂︵実は築由︶もまた麟の中の験しさに溶
識破牢危﹂にあるように、﹁積水﹂︵実は穿纏︶は外心までも大湖の色を
実景と考える必要はまったくない。淳秘詩句﹁積寒金倉湖裏色 璽巌不
﹁破中危﹂﹁叢雲爆壌﹂とまで醤 、日われない。もちろん、こうした風景を
えてしまっている。確かに蹉餓醗での詠は出中の懸景を携くが、﹁重嶽﹂
見えない。また、駆城外の未醗地に造営された蹉餓醗の精叢叢写すら超
このような遍羅姓は、属じ躯城内に盤鬱する雅駝・閑號にはまったく
ことができよう。
⋮鳥還添レ鳥 錘叢更晦レ叢 天文遷降レ耀 応レ為一灘心空一
これら三蓉について、藏申しのぶは、①本朝露題詩の購矢とされる
蓼であむ、これら三首の難く醗景がたんなる実景織写ではないことを瞬
これら三首も題麟詩であったと鑑濾する。鮨摘された額絵雛はその通
ハ ぱヤ
とその文選注から饒痩されたと晃られることの二点を主な横鑓として、
飯性があり、かつ﹁醐腹懸﹂﹁曝布承﹂﹁水中影﹂の詩題も﹁、遊天台山騒﹂
選注が題醸駿と見なす鴨文選臨孫緯﹁遊天台山騒﹂との閣にも表窺的類
霊総出欲し﹁清涼殿薩壁出水歌﹂との醗に表現的類似盤があること、②文
︵華二二五︶
蹉鐵詩句の﹁炎簸﹂よ鯵、当無が夏季の鴛幸であったことがわかる。
﹃文華秀麗集﹄の採諸節欝における冷然駝行幸記事は、擁見を除くと先
蝿の弘仁八隼鰻月三婆のみであった。鰻月三嚢に﹁炎簸﹂は早すぎる感
もあるが、暦上は矛癒しないのでこの時の作と考えてよかろう。
ここでの情叢掻写もとにかく過剰である。蹉蟻詩に詠まれたつたかず
︵荒︶
69
井実充史1擁霧平安京の文学空間
たとも言えよう。瞬時にそのことは、そのような幻境に堪えうる灘園造
いるのである。あるいは天台山の妬き深慮麟谷の神銚郷をそこに幻擬し
考えなければなるまい。要するに冷然醗を天台由的禅纏轡鼻に見立てて
なく、﹁遊天台出睡しという先貸テクストを介して薄構成されていると
庭園と考えたい。ただし、その叙景表現は実景を直接に議いたものでは
なす必要はないであろう。やはり、その叙景対象はあくまでも凄然銑の
みられていた手法の纒承である。したがって、三曹をあえて題画誇と見
自然が凝縮した空聞の鋤く見なすのは、運べたように淳秘詩ですでに試
の築山を轟いたと読む以外にあるまい、また、庭懸の出水をあたかも大
溌誕縫に過ぎず、腹赤詩句﹁蓑虫傑出錠中陰﹂などは、やはり冷然錠中
らかにした点では評癒できる。しかしそれは藪題詩と認定するための状
のは、むしろここ冷然駝にお疑て騰花したのである。そのような意味で、
量俗姓と相容れなかったのであろう。神泉苑において翻り捨てられたも
込んでしまう恐れのあるような造化美の追求は、禅泉苑の持つ政教盤§
谷や禅譲郷への見立てが定着することはなかった。継局、超総牲を難き
かし、あくまでも政教的空懸と旋置づけられていた神泉苑では、深虚露
として禅泉苑が称えられ、擁濠鄭の繁き糠態郷に見立てられていた。し
化寧飯丹毒筆﹂のように造形︵人事︶を超越した造化美の展隣する場瞬
宴で詠ぜられた﹁落蕉篇﹂にも見受けられた。そこでは、嵯峨詩句﹁造
ところで、造化の美をひたすら追求するこうした姿勢ほ、禅泉苑の花
めの工夫であろう。
るで謎かけのような凝った表現技法を取るのも、造化の妙を表現するた
も騒音がしない︵広蟹詩句﹁看慈疑蕎酸 購葉不覊綴﹂︶のように、ま
︵二〇︶
りが冷然駝に要請されていたことを示していよう。それと瞬時に、詩人
神泉苑と冷然院は補完的麗係にあったと思われる。
文章経石と君駆秘楽を基本蓬念とする繕餓韓文壇は、君臨曝穣という
五 ま と め
もまたここを単縄に織写してはならなず、その新奇さに櫨癒しい態度を
取らなければならなかったと患われる。造園技簸と詩人には、冷然院に
場麟を主に提供した禅泉苑・蝶鐵院・冷然駝を次のように慈き分けてい
凝縮された自然、すなわち造化の精髄を麟造・懇像することが要請され
たのであろう倉
至 違繋金逐逆流頽bとしてデフ煮ルメされたのであろう。また、濤
漉は、白鳥が飛び立ち真珠が飛び散る難き滝︵腹赤詩句﹁驚鶴偏随飛勢
常掛子篠重 雲霧鋳籠一蓋長﹂︶として誇張され、穿漣に涯ぐ人工の水
た吉松は、かずらが重くかかり雲霧の立ちこめる高本︵蹉餓詩句﹁藤嘉
ではなく造化の妙を織くことが求められる。それ故に、案出に移植され
ある。これを造影の文学空懸と言っておこう。そこでは、造影そのもの
そこに君臨する天皇を称賛するという政治牲も合わせ持っていたと考え
安・洛醗に醸えて江南を平安京に集結させることで、経界最高の篠城と
てることが童流となった。これは鮮美窯義的傾海の現れではあるが、長
姜への志講は擁えられ、むしろ漏庭・潅南・呉・楚など江南地方に見立
空間としても描かれた。しかし、悲秋文学麟作の場となることで、造乾
空聞として搭かれる一方で、︼時的には人事の及ば灘造化の美を備えた
禅泉苑は、有徳の天子が人民を教化し人民と秘薬を麟るための政教的
た。
造牝の精髄とは、自然の最農薬分、いわば躍想的な自然美である。冷
が熱るのに雨が降り、璽瓜がないのに雷が騰る︵腹赤詩句﹁巌頭黙縁猶零
られる。
然続は造化の精髄が詰まった理想の自然空間として盤置づけられたので
雨 石上無糞鎭聴欝﹂︶とか、花を見ても香りはなく、葉に耳を鑛けて
との籍離感を感じさせる超総的空懸として描かれた。そこには、属りの
嵯餓醗は、簾序のずれ?出中の雰醗気真鮒椿的嬉緒が詠ぜられ、雛城
︵7︶注6繭捲書、序章至
︵6︶槌本久行﹃康詩の風景﹄序章昼︵一九九九・懸︶
﹁山辺の戯醗のあたりは暖い嚢差しが遅い、暖い光のさしてくる
︵8︶小島憲之﹁﹃文華秀麗集臨誨淫⋮−−一第二睡 第馨の詩 ﹂で、
介窪していたと考えられる。もちろん、一時的な脱総の場勝に過ぎなかっ
のは遅い﹂という解毅の醒能性について言及する。﹁春欲老﹂と
自然豊かな藻境とともに、薬城轟量俗の外灘にあるという空購的認識が
た雅醗・闘駝など重臣の私邸とは一線を露する空聞であった。
︵§︶ 橿浦友久﹁﹁猿声﹂考﹂︵﹃詩語の諸撚﹄、勧農一九七七・醗︶
の関連を考えればその可能性は十分ある。
化の妙を形象する空懸として麟建された。そのため、当時の造鴎技術の
︵欝︶
冷然院は、禅泉苑で釁り捨てられた造化美への志向姓を瞬き受け、造
粋を集め、大甕然を摸した新奇の庭園が造形され、それに権継しい深山
︵簸︶
断葦子﹁平安薩難の冷然院と朱釜駝﹂︵皿,史窓﹂二八、一九七〇・
擁調査鞭告﹄、 ︸九九七土ε
橋本義麟﹁史料から見た蹉蟻院と大覚寺﹂︵﹃史跡大覚寺齢断跡発
﹃嚢本三代実録﹄貞観元年醤月二士二嚢条
幽谷の躍懇郷を措くことが詩人に要請された。
これら三方藤の文学空筒慧、南中羅を内包した政教的空購、超欝的空
︵捻︶
i3
聞、造化の空腸として、互いに補完関係を像ちつつ叢き分けられていた
三︶
︵三︶
藏申しのぶ﹁題醒詩の発生﹂︵﹁国語と蟹文学﹂六五一一二、一九
八八・十二︶
)
と考えられる。京壊及びその近郊にこうした文学空購を鋤えることで、
平安蒙は中遜文化の粋を取り込んだ鍵想の王都と観念されたであろう。
躾蛾朝文壇の課題はここに果たされたのである。
小島憲之﹁弘仁鰯文学より承穣難文学へ﹂︵﹁国譲国文﹂三囲一九、
︼九六五 ・ 塩 几 ︶
六︶。
二〇〇皿・一︶
雛稿﹁蹉餓輓詩駿に叢かれた神泉苑の自然﹂︵﹁吉代硬究﹂三難、
︵違︶
︵3︶秋田慶皿,王朝の文学空聡﹂︵﹃王朝の文学空襲﹄、麺出一九七六・
八○・三︶
︵2︶後藤昭雄﹁躾餓朝詩人の表麗し︵﹃平安朝漢文学講者﹄、襖鐡一九
︵ま︶
涯
︵5︶擁稿﹁凌響本巣の詩宴臨詔詩について﹂︵﹃古代文学の思想と表現﹄、
宦宦宦e一︶
一、
2曇麗鰭2月
福轟大学教奮学編譲葉第稔号
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井実充史1擁難平安京の文学空鶴
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