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東方空狐道 ID:314

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東方空狐道 ID:314
東方空狐道
くろたま
︻注意事項︼
このPDFファイルは﹁ハーメルン﹂で掲載中の作品を自動的にPDF化したもので
す。
小説の作者、
﹁ハーメルン﹂の運営者に無断でPDFファイル及び作品を引用の範囲を
超える形で転載・改変・再配布・販売することを禁じます。
︻あらすじ︼
ポックリ逝って畜生道。手がないと何も出来ないので、狐耳娘になってみました。何
それ怖い。
にじファンから避難してきました。鈍亀更新ですが、よかったらどうぞ。
目 次 狐の様子が⋮
導入なんてこんなもん │││││
畜生道なめんな おや⋮
│││││││││││││││
神代の三貴子は斯くの如し │││
似非未来都市での日常 │││││
俺もツクヨミも、きっと臆病者 │
SFのAIはすごいと思う │││
子供って、よく分からない │││
過保護親ってモンペかな ││││
たのもーー
そもそもの発端は狐 ││││││
食べ物の神様 │││││││││
食べ物の妖怪 │││││││││
恐竜はあっさりフェードアウト │
心 の 痛 み と は 他 を お も う が 故 で あ る 41 30
どーれ。 ││││
51
色 々 と 違 う 気 が す る 日 本 神 話 あ、はじめまして、奥さん │││
心の揺れ幅、前代未聞 │││││
赤黒い地の底で ││││││││
能力って結構ずるいと思う │││
│││││││
60
!
荘厳なる天照大御神 わらわら │
九尾の次は八尾
71
165
?
薬剤少女 │││││││││││
?
158 146 135 118 108 98
224 212 201 188 179
1
11
78
90
19
│
禍々しき白狐 │││││││││
寄り道は計画的に │││││││
⋮え もう終わり
│
神話の兎はなに見て跳ねる │││
落とし穴で会いましょう ││││
十二本脚の闇蜘蛛 │││││││
今回の原因、何ぞ │││││││
嵐 の 前 の 静 け さ と い う わ け で は な い ただちょっと間が悪かっただけ │
紅と紫と藍 ││││││││││
気になる視線はスキマから │││
狐である │││││││││││
キュッキュッキュー この話の主人公は
414
諏訪の地のけろちゃん │││││
諏訪大戦
聖地を荒らしてはいけません ││
境界少女 │││││││││││
捜し者は誰ですか 白狐です ││
紫色の客らしい ││││││││
迷子は二人目逆行者 ││││││
?
401 380
472 460 443 428
!
布 教 は さ り げ な く 気 づ か ぬ う ち に 342 328 314 305 292 275 262 252 236
369 360
350
│
導入なんてこんなもん
ながる
⋮今日は気が乗らないからやめとくわー﹂
初見で彼を男と断定できるものは少ない。
﹁んー
?
た。﹃何事も、自分の思い通りになった方がいいだろ
﹄。
﹂
た結果である。何故それほど強くなろうとするのかを彼に問えば、彼はいつもこう返し
なよなよした容姿ながら、流は非常に腕が立った。小さい時から彼が貪欲に力を求め
ただけなんだが⋮﹂
﹁人聞き悪いな。知りあいがかつあげされてたから、懇切丁寧に説得して帰ってもらっ
﹁おっ前相変わらずだなぁ。お前、前もあそこの連中ぼこったんじゃなかったか
﹂
ない、ある意味浮いている人物だった。声も容姿も中性的で、学生服を着ていなければ
帰り支度をしているのは、留見 流。周りには変人と呼ばれているが不思議と嫌われ
とどみ
た一人の男子生徒に話しかけた。
髪をくすんだ金に染め学生服を着流している不良風の男子生徒が、帰る支度をしてい
﹁おい流、今日S高の連中んとこにカチコミに行くんだけどよ、お前も行かねぇ
?
?
1
?
力至上主義者。その答えを聞いたものはみなそう考える。
流も、それは否定しなかった。力があれば何でも出来る、そこまでは思っていなかっ
たが、あった方がやれることは多い。彼は常々そう考えていた。
﹁関 節 外 し が 懇 切 丁 寧 か よ。お 前 の 場 合 ち ゃ ん と は め て い く か ら む し ろ 性 質 わ り ぃ よ
な。変にお人よしなのによぉ﹂
﹁お人よしなぁ。俺は視界に写しといて知らん振りするのが寝覚め悪いだけなんだけど
な﹂
﹁おぅ。じゃーな﹂
﹂
ま、俺はもう行くぜ﹂
何の変哲もない日常。俺はいつもどおり帰路につく。
!
答えはNO、頻繁ではないがわりと日常
?
非日常なんてものは俺の日常はない。
喧嘩に誘われたのは非日常ではないのか
﹂
な。ま、お前を嫌ってるやつなんてあんまいねえよな。何でだ
﹁そういうのがお人よしなんだよ⋮なんで俺、お前とそこそこの付き合いしてんだろう
どの口で言ってんだよ
﹁俺に聞かれてもな。みんな俺に癒しを求めてるんじゃないか
﹁はいよ、気ぃつけてな﹂
﹁だはははははははっ
?
!
?
導入なんてこんなもん
2
的 な も の だ。今 回 は 俺 が 出 て い け ば パ ワ ー バ ラ ン ス が 崩 れ そ う な の で 遠 慮 さ せ て も
らった。分が悪そうであれば友人のよしみで参加してみたりするのだが、今のところは
無敗である。そもそもうちの高校とS高の仲はそれほど険悪ではない。無論いいわけ
ではないが、今日のような衝突はままあることだ。
ある意味小戦争をして日頃の憂さを晴らすといったところか。ルールなど欠片もな
いがそこには暗黙の了解のようなものがあった。全体の勝敗などはあってなきような
もので、双方の数がある程度まで減れば自然に収束しめいめいに去ってゆくのだ。
俺の力は彼らの間で無闇にふるってよいものではないと思う。少々ベクトルが違う
のだ。いうならばアマチュア戦に空気も読まずプロが入っていって優勝するようなも
のか。たまの参加でもやるのは何の細工もない殴りあいで武術は使わない。
一般家庭に生まれ、普通に育てられ、こうして普通の学校に通っている。だが、俺は
人間関係におけるあらゆる軋轢を避けてきた。常に強い自分をイメージし、仮面どころ
からこそ貪欲なほどに力を求め、自らを守る術を身につけた。他人の顔を読み心を読み
実のところ、俺の根本にある特性は﹃臆病﹄だ。何かに害されることに怯えながら、だ
?
が処世術に長けているせいだろう。俺のようなものはある意味異端となるのだろうか
﹃変人﹄と呼ばれるようなものに育ってしまった。それでも大衆に排斥されないのは、俺
3
か着ぐるみを着込み臆病な自分を知られないように隠している。⋮今ではどちらが本
当なのかは分からなくなってしまった。何せ俺の心は何にも震えなくなってしまった
のだから。起伏が少なくとなった、と言い換えるべきか。喜怒哀楽の感情こそあれど、
それらも自分の演技なのかどうか分からないほど希薄だった。﹃不動の心﹄などと言え
ば聞こえはいいが、プラス方向の高揚感などすら俺は忘れてしまっている。
だから俺は求めているような気がする。俺の全てを揺るがすような非日常を、だ。
││だから死後の世界などというものを知った俺は罰当たりにも喜んでしまったの
だ。きっとここは、俺の知る日常なんてなくて非日常に溢れているのだと。
もう、日常には戻れない。そんな事実も飲み込んで。だから俺はせめて俺の日常に
あった人たちに謝った。こんな人間味に欠けた人間でごめんなさいと。
﹂
!
上なら関係のない事らしい。好きで死んだわけでもないのに、流石に十三歳以下で死ん
親より先に死んだのに、賽の河原なんてものはなかった。いや、というより十四歳以
が、自分で﹃様﹄とかどうかと思うよ。
目の前の、でっかいいかつい男が俺にそう言った。﹃閻魔様﹄だと、彼は名乗っている
﹁地獄行きじゃ
導入なんてこんなもん
4
でしまった子供が可哀想に思えた。
しかし、地獄行きとはどうやら俺は悪行を積んでいたらしい。はて、自覚は無かった
のだが。
た。すごい音がしたが、別に足が折れたとかそういうことはなく無傷である。なにやら
しばしの空中落下を楽しんだあと、俺は足をクッションに不毛の大地へと降り立っ
どごん
ないが、とにかく俺はあっさりと死んでしまったのだ。
人間は頑丈なくせに妙に簡単に死んでしまう。今回は鉛玉だったので頑丈もくそも
と自動扉を開けて入ってきた俺は半ば錯乱状態の銀行強盗に頭を打ち抜かれた。
ているらしい銀行強盗が銃を振り回して銀行員を脅していたようだが、そこにのこのこ
貯金を下ろそうと銀行に何も考えずに入ったが運の尽き。どうやらかなりてんぱっ
落ちている時間のうちにぱぱっと終わる程度のことだ。
そもそも何故俺が死んでしまったのかといえば⋮特に特筆することでもない。この
り下ろすと、ぱかっと俺の足元の地面が開き俺はまっさかさまに落ちていった。
﹃閻魔様﹄が手に持っているこれまたどでかいハンマーのようなものをガツンと机に振
5
生前より身体がずっと軽く、ずいぶん強くなっているような気がする。死んだからだろ
うか。いやわけ分からん。
﹂
俺の降り立った地獄とやらは、真っ暗なのに妙に蒸し暑い。地の底から響くような叫
び声もどこからか聞こえてきてかなり気味が悪かった。
ここ、地獄で自分の罪を悔いると良いわ
!
赤とか青とかそんなことはなくて、灰色 茶色
因みに彼
よく分からないがそれ系の濃い肌の色
らはかなりマッチョだ。その肉体美が身体の細い俺にはとても眩しい。
をしている。悪い意味でこの地獄にマッチしているのではないだろうか
?
﹂
!
棘つき棍棒なんて、ずるい。
﹁亡者風情が生意気な
ほぁぁ
!
﹂
せてもらおう。鬼と戦うのも、なかなか乙なものだ。いやむしろ楽しいかもしれない。
しかし見に覚えの無い罪を悔いろと言われても実感が湧かない。折角なので、抵抗さ
?
?
のは角があるからだ。いや、彼らが鬼と自己申告はしてないから︵仮︶になるのだけど。
太陽の無い空をなんとなく眺めていると、ぞろぞろと鬼がやってきた。鬼と分かった
﹁がははっ新入りか
!
﹁はっ、連れて行きたきゃ力づくできな
導入なんてこんなもん
6
!
﹁閻魔様、閻魔様
﹂
!
確かにそのような者を地獄に落としたはず⋮いや、ちょっと待つの
毎度毎度机の上を片付けて書類を整理する
書類には確か地獄行きとあったはず⋮﹂
!
﹁⋮それはもう何百年も前のものですよ
!
おろう
!
!
!
!
そもそもあやつを地獄に送ってそれほど時間は経っておらんぞ
﹂
﹁馬鹿な 人間程度の剥き身の魂が耐えられるものか 消滅してしまうに決まって
す。既に大焦熱地獄、黒沙地獄、無間地獄、等活地獄、大叫喚地獄を踏破されました⋮﹂
獄卒の鬼をぼこぼこにした後意気投合し、あらゆる地獄を体験している真っ最中で
﹁現在、地獄巡りをしております⋮
流とかいうものは何をしているのだ⋮﹂
﹁な、なんということだ⋮どどどどうすれば⋮そういえば、その地獄に堕としてしまった
!
!
からいちいち注意してたっていうのに
﹂
ように言ってるでしょうが ﹃ワシには分かるから問題ない﹄ってこんなことになる
!
じゃ
﹁な、何じゃと
見 流﹄だったかと⋮﹂
行中で、次の転生を終えた後に神霊に昇格するはずの魂なんです⋮確か今世の名は﹃留
﹁あの、地獄に落とした魂のうちでミスのあるものがあったのですが⋮﹃輪廻の環﹄の修
﹁なんじゃ騒々しい。何かあったのか﹂
7
﹁﹃地獄﹄では個人の主観においての時間の概念なんて無きにしに有らずですよ。外界に
器
とっての一秒が本人にとっての千年に匹敵することもざらにあるのですから。⋮それ
にあの者の霊格は桁外れです。そんな強靭な魂が肉体に阻まれず剥き身のままでいる
からこそあらゆる地獄を耐えうるのですよ。そもそも、修行の初期段階としてこの魂は
数百年前の時点で地獄巡りを終えています﹂
それを罪人道の畜生道へ
あの男はむ
書類には﹃輪廻の環﹄に
﹁ぐ、ぐ、ぐ、そそんな者を間違いで地獄に落としてしまったことが知られれば⋮ぐぐぐ
⋮﹂
﹁ど、どういたしましょう﹂
﹂
﹁⋮その男をよべ。こうなったら太古の畜生道に転生させる
耐えきれず魂が消滅してしまったとでもしておけばよい
!
!
あまり、心配させたくはないのではないか
﹂
それにあれほど
﹁そ、そんな 神霊一歩手前の魂を畜生道に堕とすのはまずいですよ
しろ神仏になるはずの魂なのですよ
!
!
の霊格のモノを、畜生道といえどうかつに下界にやればどうなるか⋮﹂
﹁そ、それは⋮分かりました。あの男をよびます⋮﹂
?
なんか地獄制覇して次は何しようかと鬼達と話していたら呼び出された。⋮そうい
?
!
!
﹁黙れ。お前にも、家族はいるだろう
導入なんてこんなもん
8
いや、狂気と正気の狭間は得難い経験
えばそもそも何で地獄巡りしようとしたんだっけ。暇してたら、鬼達に勧められたから
だったか。は、もしかして俺鬼に乗せられた
何故に。
﹁お前は未開時代の畜生道行きじゃ
いやいや、今はこっちが重要か。
﹂
ニカ。そんな刺激が止められない止まらない。あ、俺はMな人じゃないよ。
でしたが。いやはや苦痛と苦悩と苦難で幾度も俺の精神が消し飛びかけましたが。ナ
?
﹂
さっさと行ってしまえ
!
?
る事にする。
罪人が惚けるでないわ
!
﹁あのー。俺の罪状ってなんなんですか
ぱかっ
﹁黙れ黙れ
!
納得いかないなぁ。まぁ何かあればいいんだけどなぁ。
﹂
それはともかく問答無用で畜生道も納得がいかないので、とりあえず理由を聞いてみ
で地獄がなかったなあ。なんだか温泉に入りたくなってきた。
障ったのだろうか。折角だから鬼と酒を酌み交わしたかったんだが。そういえば釜茹
なんか悪化してるし。あれだろうか、俺が地獄をアトラクションにしてたのが癇に
目の前にはまたあのでかいいかつい男。男は手に持つ槌をふってそう叫んだ。
!
9
導入なんてこんなもん
10
キュー キュー
次に意識を覚醒させた俺が最初に聞いたのはそんな鳴き声だった。そして目を開け
て最初に見たのは白くて大きい、二本の尻尾を持つ狐だった。
なにこれすごい。
狐の様子が⋮
?
的なものを丸めて
?
まぁとはいっても俺もその化け物連中とある意味同類なわけでして。
物だったりと正直俺の知っていた世界とはまるで違う。
ようなものだったり、足がいっぱい生えているのに胴体がどこにあるか分からない謎生
それに異形の者を見ることもままあった。巨大な蜘蛛であったり、ぬめぬめした蛇な
ぽんぽん外敵に放り投げそのうちに逃げ出すといった風に生き延びてきたぐらいだ。
た。俺とて別に肉球パンチで戦うわけではないが、生体エネルギー
実際、俺の知る現代と比べると狐に限らずこの時代に生きる生き物はどれも強かっ
思ったものだ。
言って巣から出て行ったのだからこの時代の狐はまぁずいぶんとアグレッシブだと
立ちをすませ散り散りにどこぞへと去っていったのだ。母狐ですら﹃夫捜す﹄的な事を
そもそも母含めて兄弟達とともにいたのは生まれて一年程度だった。みな早々に巣
ぜ。二尾の白狐の母を見て仰天したのも今では懐かしい。
昔々大昔に狐に生まれて早七百年。正直もう生物として長生きってレベルじゃない
畜生道なめんな おや⋮
11
畜生道なめんな おや…?狐の様子が…
12
母狐が二尾だったので、俺は母狐がいわゆる妖狐ではないかと考えていた。ちなみに
生まれた当初の俺の尻尾は一本である。あたりまえだが。それはともかく、妖狐ならば
もしかして人間に化けられるんじゃないかと俺は考えたわけだ。何せ獣の前足ででき
ることなどたかが知れている。俺は以前のような便利な両手が欲しかったのだ。
が、この世界で百年を過ぎたあたりで俺はほとんど諦めていた。狐の身でありながら
これだけ長生きするのも驚くべきことであったが、しかし百歳になっても俺は一尾のま
まだったのだ。その上身体は1m足らずで、大して成長もしていない。母狐は少なくと
も全長2mはあったのに。そもそも尻尾が増える事はともかく人型になれることには
微塵の保証がないのだ。長らく生きてきたが、人型の生き物は今のところうほうほ言っ
てるけどとりあえず二足歩行はしている猿八割人二割のものしか見た事はない。案の
定意思疎通ははかれなかった。というか食べられそうになったし。原始人︵ ︶こわい。
五百年ごしの人間の身体だったために違和感を感じるとは、ずいぶんと狐の身体に慣
そこでようやく気づいたのだ。自分に手足があることに。
り、動きにくかったりとそんな感覚を意識しながらとりあえず俺は四肢に力を込めた。
その日は、朝起きてからとにかく違和感しかなかった。風景がいつもと違って見えた
だが、転機が来たのは五百年目のことだった。
そんなこんなでさらに数百年は各地を転々としながら細々と生きながらえていたの
?
13
れてしまったものだ。
になっていた。⋮今更女
ぷるぷると生まれたての小鹿のように足をふるわせながら立ち上がり、俺は自分の身
体をよく観察してみると、身長140cmほどの少女、幼女
なった今では服がある事は非常に助かる。しかしなんでこうなったのかが全く分から
今まで狐として裸一貫で過ごしてはいたもののこうして体毛のないすべすべの身体に
ところであまりの衝撃にスルーしていたが、人型になった俺はなぜか服を着ていた。
年かかるとかどんだけーとか思った俺は悪くない。
た。また頭には真っ白な狐耳があり、腰には二本の尻尾があった。二尾になるまで五百
それはともかく人型になった今もそれは変わらず、真っ白な髪に真っ白な肌となってい
まるでカモフラージュできないその身体に頭を抱えたのは一度や二度ではなかったが。
狐状態の俺の体毛は白だ。別にキタキツネだとかそういうわけじゃない。森の中で
大きいは大きいが人間の中で言えば小さい部類に入るだろう。
人型になった俺の身体は狐状態だったとき同様非常に小さい。狐だったときよりも
かついてないか程度の差だったわけで。人型になった後もそれはあまり変わらない。
ていたため、いつの間にか自身が雌であることには慣れてしまっていた。まぁついてる
たのだから。そして雌であることに違和感を感じる前に狐であることに違和感を感じ
になっていることは驚かない。そもそも狐に生まれたときから雌というカテゴリだっ
?
畜生道なめんな おや…?狐の様子が…
14
ない。結局突然人型になったこと以上に不毛だったので考える事は止めてしまったが。
袖や裾で広がっているずいぶんとゆったりとした単純なつくりの白い着物、といった
ふうなデザインなのだが、妙に身体には馴染んでいた。それこそ狐だった頃のあること
がもはや自然だった体毛のようにだ。つまるところ、これはそれの代わりのようなもの
なのだろう。
その後二本足では歩きなれない、というか歩き方を忘れてしまった俺はふらふらしな
がら近くにあった泉へと向かった。逃走手段として生存本能の賜物かいつのまにか空
を飛べるようになっていたが、今回は徒歩を選んだ。早いうちに身体に慣れる必要が
あったのだ。さもなければミミズやらアリやらに食べられてしまう。無論魔改造的な
ミミズやアリだが。五百年と比べてずいぶんと力の増した俺だったが、この身体がどれ
ほど使えるか分からないような状態ではどうにもならないのがこの世界の法則だ。
水面を覗きこんでみると、表情に乏しいが、狐の時とは違う丸い瞳孔の金色の瞳を持
つ掛け値なしの真っ白な美少女がこちらを見ていた。ぺたぺたと顔を触ってみると、水
面に映った少女も華奢な手を顔に当てていた。どうやらこれが俺らしい。
ちなみに表情を変えてみようとぐにぐに口やら頬やらをいじってみたが、ほとんど無
表情なままだった。どうやら俺は表情筋の使い方も忘れてしまったらしい。
さて話は戻るが、人型になったことを契機に俺はこれまで定住地を捜していた。人型
15
になった俺の身体が相当ハイスペックである事を知ったためだ。ここ二百年は逃げる
事を止め負け知らずである。もう住まいを転々とする必要はない。
五百歳になってから二百年、いい場所を見つけたのはそんな時だった。
俺は人型になったことをいいことに、行く先々で畑を作っていた。食は暇を潰す重要
なファクターのひとつだったためこれは外せなかった。そしてそれに最適な場所をよ
うやく見つけたのだ。
俺は畑のそばに小さな小屋を建ててそこに住む事にした。
畑には今まで集めてきた様々な植物が植わってある。にんじんみたいな大根だった
り、植木みたいなブロッコリーだったり、毒のあるピーマンだったりもどきの類がかな
り多いが、それでも俺は満足だった。
さて、ようやく安定した生活に入った俺は太古に生まれてほとんど諦めていたことに
着手することにした。
そう、﹃Sake﹄だ。
俺は人間だった頃酒が好きだった。
未成年ではあったが、隠れてよく飲んだものだ。初めての出会いは、酔拳を試みたと
きだった。いやいや、あの頃の俺はまだまだ若かった。無論酔ったところで酔拳が出来
るわけではないのでそちらは失敗したものの、俺にはそれ以上の収穫というか出会いが
あったわけだが。
幸い、以前各地を放浪していたときに稲を見つけていたので、原料は何とかなる。⋮
そういえば日本に野生の稲なんてあっただろうか。いや、元の世界を基準に考えても仕
方ないか。そもそも諸説はあっても事実なんて現代には残っていないし。
稲の量産に二十五年、とりあえず飲めるものができるまで八十年。あくまで﹃飲める
モノ﹄↓﹃液状のナニカ﹄であり、正直言って不味い、不味すぎる代物だった。むしろ
ほとんど何も知らずにここまで来れた俺を褒めてやりたいぐらいだったが。時間がい
くらでもあることは幸いだった。酵母菌の用意に特に苦労したのもいい思い出だ。
その手法を主軸に、結局妥協できるものが造れるようになったのは三百年後のこと
だった。その頃には俺の尻尾は三本になっていたが、それもおまけのようなものだ。俺
の知る時代のものには未だまるで敵わないものの、長い時をかけてようやく作り上げた
という達成感はたまらないものだった。
ところで、さりげなく毒ピーマンとやらがあったが、俺には毒は効かなかったりする。
それは俺自身の持つ能力のせいだ。
生まれた時から、俺はこの能力の存在には気づいていた。が、俺は大して役に立たな
﹃式を司る程度の能力﹄
畜生道なめんな おや…?狐の様子が…
16
17
いものだと考えていた。能力の特性か数字の類には滅法強く、円周率など億単位で小数
点以下が出せるが、正直野生に生きる俺には意味がない。他に冠婚葬祭司ってどうすん
ねん、神職でもするんかいなとかやさぐれていたが、この能力の便利さに気づいたのは
落ちていた木の実を広い食いしてしまった時だった。
小さい林檎のようなその木の実は実のところ非常に毒性の高いもので、特定の動物し
か食べられないようになっていた。しかし、俺はそれをうかつにも口にしてしまったの
だ。が、俺が毒に苦しむ事はなかった。食べた途端その毒の化学式が頭に浮かび、同時
にそれを無害なようにばらばらにしてしまったのだ。なんらかの化学反応を生じたわ
けではなく、超上的な力で無理やりにだ。
それからは、今までは大して調べようとはしなかった能力頻繁に試してみるように
なった。基本的には数式を解く時などに自動的に発動しているようになっているが、化
学式を操ったように意識的に使うこともできる。
空気中の分子式がいじれる事を知った時は特に驚いたものだ。同時に反則すぎる能
力にも呆れたが。これで地球温暖化も解決だぁとか思ってみたが、今はまだ手元の式し
か操れないのでやってみたところで焼け石に水だ。そもそもそんな世界的問題もずい
ぶんと先の事のことだ。
今は爪の先ほどのフラーレンを作ってみたり、石を放り投げてあらゆる障害に至るま
畜生道なめんな おや…?狐の様子が…
18
で計算しつくし落ちてくるまでの時間を誤差なく割り出してみるとか地味な使い方し
かしていないが、未来ではとてつもなく使える能力となるだろう。特にネットワークで
も発達すれば俺の独壇場だ。定められている一定の方式でつくられた世界は俺にとっ
て鴨もいいところだろう。
そんな事を考えながら、また何年も酒造りや農業、能力開発にいそしむのだった。
俺の知らないことはまだまだいくらでもある。能力同様幼い頃から知覚していた生
体エネルギーのことも未だによく分からない。
結局俺だけでは解明させることはできなかった。俺が俺にとっての武器であり生命
線であるこれの正体を知ったのは、それから千年ほど経った頃。狐になってできた初め
ての友人に教えられたのだった。
妙に味気ないものになる事を知ってからは普通に作っている。俺の能力は広い分野に
能力を使って一気に糖をエタノールにしてみたりだとか裏技をしたこともあったが、
今は長持ちするようなものを試行錯誤している。
できてからは少し行き詰っていた。俺が半ば満足してきたということもあるだろうが、
昔と比べて酒醸造の技術もずいぶんと向上していたが、
﹃清酒﹄と呼べるようなものが
に散﹃歩﹄とはこれいかに。まぁようするに暇つぶし兼不思議探しといったところで。
んぶん振り回しながら森をふよふよと飛んでいた。最近日課の散歩だ。飛んでいるの
そんなわけで俺はその日も造った酒を大きな瓢箪に詰めて、その瓢箪をなんとなくぶ
自分の中でかなり画一化されているのかもしれない。そろそろ変化が欲しいなぁ⋮
間の頃の感覚で言えば千年が三年程度のものだ。特に何の代わり映えもしない毎日で、
におかしくなったような⋮まぁいいや。正直一年なんてそれこそ﹃あっ﹄と言うまで、人
は時間感覚がおかしい。というより多分地獄にいたせいで元々おかしかったのがさら
俺の尻尾が丁度五本になったころ、二千歳になったころだ。正直この世界に来てから
色々と 違う気がする 日本神話
19
色々と 違う気がする 日本神話
20
渡って使える便利な代物だが、その反面非常にデジタルで融通が効かない時がある。な
ので、時間をかければできるようなことは大抵能力を使わずやっていた。その方が日常
にも味があると言うものだ。
また能力を使って構造式をいじり、リアルダイヤモンドダストーとか馬鹿みたいなこ
とをやってみたが、正直ダイヤモンドはフラーレンやグラファイト以上に燃費が悪かっ
た。俺の能力はパッシブならばともかく、意識的に何かを操るとそれに比例して俺のエ
ネルギーは削られてゆく。その上多量の炭素元素をいじる必要があったせいで、いくら
かダイヤモンドを作ったらほとんど動けなくなってしまった。効率悪すぎ。
さて、普段は何もなかったり、話の通じない非常識生物と遭遇したりとそんなことば
かりだったが、その日は違った。
いつも通り﹃てーれれーてー﹄と意味のない音律を鼻歌交じりに口から垂れ流しなが
ら森を徘徊していると、突然がさがさと近くの茂みが揺れた。俺は、すわ敵でも出たか
と謎エネルギーを溜めて臨戦態勢をとった。普段はエネルギー玉をばらまけば大抵の
相手は逃げてゆく。それでもこちらに向かってくるものは体術で相手をしていた。そ
して尻尾が五本に増えた今、力もそれに伴ってずいぶんと増した。人型を手に入れた時
からの不敗記録は未だに続いている。
果たして、茂みから現れたのは、一人の男だった。
との邂逅に、声にならない声をあげた。男は上下のあ
正真正銘、男である。完全に人型の、男だ。
﹂
俺は突然の二千年ぶりの人間
﹁ぉぉお
仮に致命的であろうと、俺にとって死は障害ではない。むしろ退屈のほうが敵だ。そ
が、心中では確かに笑っているように思う。
れてはいなかった。むしろ今の俺には歓喜しかない。鉄面皮な表情はまるで動かない
力を手に入れて、かなり浮かれていたようだ。だが俺はこれほどの相手を前にして、恐
どうやら俺はずいぶんと慢心していたらしい。ここら一帯の誰にも負けないほどの
だろう。それほどの絶望的な差だ。
しかも、男が俺に殺意を持って腕を振るえば、それだけで俺は一瞬で散り散りになる
この男、俺より強い。
とって致命的な事実だった。
しかし、驚いていた俺はあることに気づくことに遅れてしまった。さらにそれは俺に
トルの蝙蝠や群れをなして襲ってくる肉食のダンゴムシよりも断然いい。
のできそうな相手だ。例え彼が俺にとっての敵であったとしても、羽根四枚体長一メー
俺は溜めていたエネルギーも霧散させ、しばしの間呆けていた。何せ久々の意思疎通
る布でできた服を着込み、腰には剣を下げている。
?
?
21
んなことを考えてしまう俺は、本当におかしくなってしまったのだろう。
おかしな声を上げてからまるでしゃべらなくなった俺を前に茂みから出てきた男は
﹂
しばらく黙っていたが、俺が再び口を開く気配がない事を悟ると、一言こう言った。
﹁ヌシは、何者だ
俺や謎生物が持っているような気配、謎エネ
?
男の持っている膨大な力は人間にカテゴライズするには到底大きすぎる。
な進化スピードだとか言われてもまぁ仕方ないのかなと納得するしかないが、だがこの
らでこんな人間状態になっているとは到底思えない。いや、仮にこの時代の生物が異常
ないようだし、俺の知るこの時代のヒトはあのウホウホ達なはずだ。たかが千年やそこ
ルギーとは違うものを、この男は放っている。どうやら俺のようなカテゴリ化け物では
そもそもこの男は何者なのだろうか
せいぜい﹃俺﹄自身であることと雌狐であることぐらいだ。
これはまたずいぶんと哲学的な問いだ。残念ながら俺も自分の事は大して知らない。
?
しかしこれほどすごい力漲らせながらヒトなどとはおこがましい。むしろ﹁私は神で
ついそう言ってしまった。
﹁嘘付け﹂
﹁我か。我はヒトだ﹂
﹁俺は見ての通り狐だろうが。あんたこそ何者だ﹂
色々と 違う気がする 日本神話
22
ザ
ナ
ギ
ザ
ナ
ギ
﹂
なにそれこわい。
す﹂とか言ってくれる方が頷ける。今の俺は寛容だ、そんな超常存在だって受け入れら
イ
れるほどにな。わはは。
﹁本当だ。名は﹃伊邪那岐﹄という﹂
﹁ぶはっ﹂
イ
え、ちょっと待って。え、いざなぎ
﹁﹃伊邪那岐﹄という﹂
﹁二回言わんでも聞こえとるわい。イザナギて、え、神様
﹂
?
ら今まで必要のなかったものだ。
⋮しかし困った。名乗りたいのだが、俺には名乗るべき名がない。何せ狐になってか
儀に反する。
ザナギが勝手に言ったことだが、しかし相手に言わせといて自分が言わないのは俺の礼
内心でおろおろとしていた俺に構わず、イザナギは今度は俺に名を問うた。名前はイ
﹁それで、主の名はなんというのだ
ただ超展開過ぎて。国産みの一柱を前に俺にいったいどうしろと。
たか。どうしよう、なんかよく分からないことになってきた。いや、面白いんだけどね、
こいつはいったいどういうことだ。イザナギといえば日本神話最古の神ではなかっ
﹁神か。間違いではない。我はヒトであると同時に神でもある﹂
?
?
23
﹃留見 流﹄。これは、前世での名だ。男でも人でもなくなった俺に、この名を名乗る気
はない。
俺がそう搾り出すように言うと、イザナギは驚いたように言葉をまくし立てた。
﹁悪いが⋮今まで名前は必要なかったからな。俺には、名前が無いんだ﹂
ぞ
﹂
﹁名を持っておらぬのか。力有る者にとっては真名とは何よりも大切なものであるのだ
﹂
?
嬉しい限りだが、そこまで悩んでくれなくても。
俺がイザナギに頼むと、イザナギは顎に手を当てて考え込んでしまった。俺としては
込められる。それはとてもいいものだと俺は思う。
だと言ったイザナギはある意味正しい。短い音、文字の中に、つけた者の願いや想いが
なんとなく気分が良かった。名前とは、ある意味祝福だ。真名とは何よりも大切なもの
俺はイザナギに託すことにした。自分でつけるよりも、他人につけてもらったほうが
﹁そうだ。どうせ呼ぶのはお前ぐらいしかいないしな﹂
﹁我がか
﹁そう言われてもな⋮無いものは仕方ないだろう。何なら、あんたがつけてくれよ﹂
?
しいものをつけねば﹂
﹁そうもいかん⋮真名がヌシ自身に方向性を与えることもあるだろう。だからこそ相応
色々と 違う気がする 日本神話
24
名は体を表す、まさに言の葉に込められた祈り、言霊といったところか。特にイザナ
ギのような力を持つものなら、名を付けた者に与える影響も大きいような気がする。
﹂
?
﹂
?
﹂
神ってなぁ、自分で言うのもなんだが俺は得体の知れない狐だぞ そんな
大層な名前をもらってもいいのか
!
?
﹁﹃神﹄とは大なる力を以って世界に干渉するものの事を言う。ヌシほど力のあるものな
?
﹁えぇ
﹁倉稲御魂。これには穀物や食物の神という意味があるのだ﹂
﹁﹃ウカノミタマ﹄になんか意味でもあるのか
ん、絶望的だな。仰ぎ見ることすらおこがましいじゃないか。
が悪すぎる。仮に俺の力を5とすると、イザナギは20000といったところか⋮う
え、全然気づかんかった。俺もまだまだ未熟ということか。てかイザナギ相手じゃ分
う名前にしたのだ﹂
は珍しかったので見ているだけだったのだが。ともかく、だからこそウカノミタマとい
の近くまで行った事があるのだ。ヌシは確か食物の世話などをしておったな。その時
﹁うむ。実は以前から妙な気配が森にあることは気づいておったのでな、ヌシの住まい
どこかで聞いたような。
﹁ウカノミタマ
﹁うむ、思いついた。ヌシの名は、﹃ウカノミタマ﹄にしよう﹂
25
らば、構わぬだろう﹂
神の定義ってそんなのなのか。今の時代はそれが普通なのだろうか。
というより、俺って一応力の強いほうだったんだな。イザナギと差がありすぎて自信
消失していた。ということは今まであってきた謎生物たちはこの世界の底辺なのだろ
うか。そんな連中相手に最強気取ってた俺、恥ずかしい
から、呼ぶ時は﹃ウカノ﹄って呼んでくれ﹂
﹁分かった、イザナギ﹂
?
そうして、俺達は少しの間笑いあった。
﹂
?
人のような姿をした﹃禍物﹄は、ウカノがはじめ
それに畑の世話してただけなのに珍しいって何でだ
﹁ところでイザナギ、俺に﹃何者か﹄って聞いてたけど、見れば狐って分かるだろう
まがもの
ウカノは﹃禍物﹄であろう
?
がいるとは思わなんだ﹂
てなのだ。それに﹃禍物﹄は総じて知能が低い。まさか畑を作り食物を育てているもの
﹁む
?
﹁ウカノミタマ、ウカノミタマ⋮うん、いいと思う。あ、ウカノミタマじゃちょっと長い
わざわざ頭をひねって考えてくれたものだし。
とにかく、イザナギにもらった名前はありがたくいただくことにしよう。イザナギが
!
﹁うむ、承知した、ウカノ。では我のこともイザナギと呼ぶとよい﹂
色々と 違う気がする 日本神話
26
﹁待て待て待て。ちょっと待て。俺は﹃禍物﹄なんぞ知らんぞ。﹃禍物﹄って何だ﹂
放っているではないか。紛れもなく﹃禍物﹄である証拠だ﹂
﹂
﹁また分からん単語が出てきたぞ⋮﹃禍気﹄って何だ
﹁承知した﹂
﹃禍気﹄。
?
そのままでは全てが崩壊する危険すらあったため、世界はむしろ歪みをカタチとして
でしまったらしい。
割は死滅してしまった。そのような大異変が起きてしまったために、地上はかなり歪ん
大地は天界と地上に別れてしまったそうだ。その時の余波で地上の生命の八割から九
らしいが、この穢れから逃れようとした者達がある場所の要石とやらを抜き、結果的に
穢れがたまり、地上はずいぶんと汚染されてしまった。当時は地上はもう少し広かった
ずいぶんと昔の事、世界に大地ができた頃は争いが絶えなかったらしい。そのせいで
構わぬか
﹁むう⋮﹃禍気﹄から説明するとなると長いのだがな
?
﹁⋮できるだけ簡潔に頼む﹂
?
これを話すにはまず世界の事から、と説明された。
﹂
﹁﹃禍物﹄とは﹃禍気﹄によって変質した生物のことであるが。ヌシも大量の﹃禍気﹄を
27
現出させることで安定化を計った。こうして世界の歪みがカタチになったもの、それが
﹃禍気﹄だ。
今では地上に欠かせないものらしいが、元が歪みだったために影響も多々出てきた。
だと思っていたものは、この﹃禍気﹄とやらだったよ
それが﹃禍気﹄によって変質してしまった生物、﹃禍物﹄だ。
どうやら俺の生体エネルギー
うだ。
違うのは、中身が俺なせいなのだろうか。
その上、
﹃禍気﹄を丸めてみたり空を飛んでみたりしていたのも俺ぐらいだ。俺だけ他と
それに、人型のものに遭遇したことがなかったのは俺以外にいないからだったようだ。
して魔改造されてたんだな。妙に機能的ではなさそうなものも多いとは思っていたが。
それにしても、
﹃禍物﹄か。今までみてきたトンデモ生物達は、進化の過程をすっとば
のだそうだ。
い。万が一地上が崩壊すれば、連鎖的に天界が崩壊するのは確実なので、必要なことな
不安定な状態が続いている地上を調整するために天界から期限付きで降りてきたらし
ついでとばかりに話してくれたが、イザナギは崩壊の危機は免れたものの未だに若干
?
てみぬか
招待しよう。我だけウカノの住居を知っているのでは、不公平であるし
﹁ウカノよ。こうしていつまでも立ち話をしていても仕方あるまい。我の今住む地へ来
色々と 違う気がする 日本神話
28
?
な﹂
﹁ん
そうだな⋮ここから遠いのか
﹂
?
⋮こんなに真剣になって考えてるのに、これ
?
で、数日前に越して来ました∼、なんてオチだったら怒るぞ。
で俺はそれを見つけられなかったんだ
が、イザナギの住居はここから二日程度行ったところにあるという。ならば、何故今ま
俺がこの地に住んで千三百年ほど、ここら一帯は大体探りつくしていはずだったのだ
ザナギの言葉に疑問も感じていた。
は、案内するというイザナギにほいほいついていくことにした。しかし、同時に俺はイ
折角出会えた話し相手と早々にサヨナラでは、はなはだもったいない。そう思った俺
﹁なんだ、すぐじゃないか。行く行く、今から行こうすぐ行こう﹂
﹁歩いていくのならば、二日ほどかかるであろうな﹂
?
29
雲を見ながら胡蝶の夢について考えていると、イザナギが突然立ち止まり俺に向かっ
とができるんだ。多分。
忘れてるだろという突っ込みは受け付けていない。きっともう一度見たら思い出すこ
目と鼻と口がついていた、ということぐらいしか覚えていないのだ。⋮それもう完全に
た人達の顔はもうほとんど思い出すことはできない。自分の顔に至ってはとりあえず
空に限った事ではなく、前世の記憶はずいぶんと薄れてきた。実際、前世で縁のあっ
どだ。
然にこちらの方が長い。最近では昔、時系列的には未来の空色の方が夢に思えてくるほ
とはいえ、人間だった頃の空を見ていた時間と狐になってから空を見ていた時間は断
気の膜を通して、目には綺麗な空色に映るのだろう。
うか。科学など微塵もないこの世界では、自然のままの大気が広がっている。そんな空
今も昔も、空の顔は変わらない。いや、この時代の方がより澄んだ色をしているだろ
夜が来て朝が来て夜が来て朝が来て。
あ、はじめまして、奥さん
あ、はじめまして、奥さん
30
て口を開いた。
﹂
?
のだが。⋮ふぅむ、まぁ、少し待て。││ 開﹂
ひらけ
?
うな形ではなく﹃/﹄である。それほど鋭角でもないが、ずいぶんと斬新なデザインだ
建物だった。大体は木造で、屋根も瓦葺ではない。さらにこの建物の屋根は﹃へ﹄のよ
式倉庫が現れた。正倉院と言ってもいいかもしれないが、実際はどちらとも造りが違う
ぴしりと、何かが切り替わったような空気を感じるとともに、俺の視界には突如高床
ともに右腕を振った。
俺が口を開かず目で自身の心情を語っていると、イザナギは心外だとばかりに一言と
コトダマ
﹁ウカノ、何か失礼な事を考えておらんか ヌシの目に憐憫が見えるような気がする
なんでも泥臭すぎだろ。モグラかよ。
⋮はて、こいつは地面に穴でも掘って住んでいるのだろうか。おいおい神様、いくら
でない。
にさわさわと静かにざわめきとてもよい雰囲気、だが建物らしきものはどこにも、まる
真ん中で立ち止まった。しかし、周囲にはそれほど高くない草しかない。風が吹くたび
既に昨日の内に森を抜け草原を歩いていたところだったが、イザナギはこの草原のど
﹁⋮
﹁ここが、我の住処だ﹂
31
な。ログハウスというには造りが簡単だが、この草原には妙に合っている気がする。
しかし、そこにはさっきまで何もなかったはず⋮いやちょっと待て、俺はさっき周囲
を見回した時確かにこの建築物を目に映していた、ような気がする。いや、確かに目線
をやったはずだ。なのにどうしてもう一度目にするまでこうして認識できなかったん
だ
さっきのは。イザナギが何かするまで、これは確かに見えていたはずなのに
?
認識できなかったぞ﹂
なんだ
﹁威容というか異様というか。つかそもそも建物そのものに驚いたんじゃねーよ。なん
﹁さて改めて。ここが我の住処だ。ふ⋮どうやら驚いたようだな、我の屋敷の威容に﹂
?
しかしそれよりも、この世界では﹃結界﹄などという空想技術もまかり通るらしい。い
つまり五感で捉えてはいても、それを明確に意識することができないということか。
でも張れば、別ではあるが﹂
ころで一度根付いた認識を阻害する事はできんからな。阻害でなく認識遮断結界など
れほど強力なものでもない。こうして一度認識してしまえば、再度先の結界を張ったと
きないものはここに入る事はできないようになっておる。とは言ってもこの結界はそ
嗅覚ついでに味覚、対象特定に必要な情報認識を阻害し、また正しくこの場所を認識で
﹁そのことか⋮。何、屋敷の周囲に我が結界を張っていただけのことだ。視覚聴覚触覚
あ、はじめまして、奥さん
32
や、そんなことも今更。﹃禍気﹄だとか﹃禍物﹄だとか、以前は非常識だ非科学的だとい
それとも能力だ
えるようなものが蔓延っているのだ。仮に﹃魔法﹄が出てきたところで俺はもう驚かな
い。
⋮この時代からしてみれば未来の科学技術の方が﹃魔法﹄か。
﹂
そもそもこの﹃結界﹄はイザナギにとっては技術なのか
とかで感覚的に作っているのか
﹁⋮んー
?
﹂
?
いざという時に役立ちそうだ﹂
﹁いやいや、ただの確認だ。イザナギ、この﹃結界﹄というやつを俺に教えてくれないか
﹁うむ。何故そこまで念を押すのだ﹂
﹁ふぅん⋮﹃結界術﹁式﹂﹄と言ったな
て地面に落ちるだろう。本質的にはまるで同じものだ、影響力が違うのだがな﹂
で起動させている。石を投げた時こめた力によって飛ぶ距離が変わり、また法則に従っ
﹁いいや。一定の法則にのっとり正確に結界術式を構築し、我の神気を燃料とすること
?
?
33
いだけだ。それに、そうして試行錯誤して新しいモノを作っていくという快感は何事に
囲を広げていくことは可能だろう。雛形さえあれば、あとはそれを組み替えていけばい
るのはおよそ不可能だ。が、
﹃結界﹄の術式を知る事ができれば、そこからさらに応用範
能力の新たな分野の開拓。いくら俺とてゼロからこんなよくわからんものを組上げ
?
も変えがたい。酒造りに何百年もつぎ込めたのも、造る過程も結果も俺にとっては娯楽
のようなものだったからだ。
気﹄を扱えるようだが、我の知る術式にそのまま使うことはできないのではないか
﹂
﹁教えるのは構わぬが⋮我が術式に使っているのは﹃神気﹄と﹃霊気﹄だぞ。ヌシは﹃禍
それは織り込み済みだ。式の根本の仕組みを理解できれば、機構を﹃神気﹄
﹃霊気﹄
﹃霊気﹄
を詳しく知らなければいけないだろうが⋮それも含めて教えてもらおう。い
用から﹃禍気﹄用に変換することが出来るはずだ。まぁそのためにはイザナギの﹃神気﹄
?
?
話をしているのであろうな﹂
﹁ふむ、了解した。⋮そう言えば屋敷の前まで来たというのに、何故我々はわざわざ立ち
﹁いや、いい。術式、あるいは基礎だけでも教えてくれたら、こちらで何とかしよう﹂
ざとなれば、時間をかけて試行だけ繰り返していけばいい。いつかはできるだろ。
?
⋮あら、お客さんが来ていたのですね﹂
?
美しい。イザナギにも共通しているが、二人とも綺麗な黒髪と整った顔立ちをしてい
呆れた顔で立っていた。俺と目が合うとニコリと笑ってひとつ会釈をする様は、とても
ざった。その声のした方を見てみると、建物の扉が開いておりその前には一人の女性が
と、イザナギと結局立ち話をしていると、突然俺でもイザナギのものでもない声が混
ですか
﹁そうですよ。わざわざ結界を開けたというのに、いったい屋敷の前で何をしているの
あ、はじめまして、奥さん
34
る。
体のスペースを占有している。床は板張りで、しかしどのような技術で接合してあるの
といえるような壁で区切られた部屋は2,3ほどしかないようで、大部屋一つが家の大
イザナギの家に上がり部屋まで案内されたが、中の造りはとても単純だった。小部屋
といえばいいだろうか。
そして神秘的というか神々しい。決して騒がしいわけではないが、威風堂々としている
な雰囲気で、そして神秘的な空気にあふれていた。イザナギはもう少し豪儀な感じだ、
イザナミさんにはイザナギと同等ほどの力を感じるが、イザナギと違いとても物静か
じゃないかな。
そ し て イ ザ ナ ギ の 次 は イ ザ ナ ミ さ ん が 来 ま し た。も う ア マ テ ラ ス と か 来 て い い ん
き締まるようなものを感じる。
はっ。つい丁寧な言葉遣いをしてしまった。彼女の丁寧な雰囲気には自分の気も引
﹁あ、お邪魔します﹂
﹁お帰りなさい。それから、いらっしゃい﹂
﹁うむ、帰ったぞ、イザナミ﹂
35
か軋みなどは一切なかった。つやつやとした表面はさしもの一枚の板のようで、未来の
科学技術をもってしてもこれほどのものはなかなか作れはしないだろう。
さて、俺は今大部屋の真ん中でイザナギと膝を突き合わせて座っているのだが、現在
進行形で小さい敗北感と大きい感動に打ちのめされていた。そんな俺の手にあるのは
﹂
一つの器。イザナギの手にも同じ物があり、なみなみと透明の液体がそそがれている。
﹁どうだ。なかなかのものであろう
すっと口から喉へと伝ってゆく。飲んでしまった後も身体の隅々まで何かが巡ってい
は な い。キ リ ッ と し た 辛 口 と ほ ん の り と し た 甘 味 が 絶 妙 に 混 在 し、口 当 た り も 良 く、
イザナギの言葉に、俺は小さく頷いた。これほどのものは、前世も含めて味わった事
?
﹂
るような気がして、とてもいい気分になるのだった。
?
の時に肩にぶら下げていた瓢箪を下ろしたのが始まりだ。
家に上げられた後は大部屋に案内され、用意された座布団に腰を下ろしたのだが、そ
ていた。
なんとなく借りてきた猫のようになりながら注いでもらい、こうなった発端を思い出し
そばに座っていたイザナミさんが空になった器を見てお代わりを差し出した。俺は
﹁あ、お願いします⋮﹂
﹁おかわりいかがですか
あ、はじめまして、奥さん
36
どうやらイザナギも気になっていたらしいが、聞くタイミングが今まで無かったらし
い。それは何か、との問いに俺が簡便に﹃酒﹄と答えるとそのまま酒の話題になったの
だ。イザナギも酒を嗜むと聞き、まずは一杯ご馳走になったわけだが、結果は上の通り。
俺の作った酒ではこれほどの味を出すには、まだ千年単位の時間が必要では無いだろ
うか。俺の酒は今壁にぶち当たっている。その壁をまず越えなければならないのだ、時
み
き
間がかかるのは当然の事。しかもそれを乗り越えたところで課題はまだいくつも残っ
﹂
ていることだろう。それほどの代物なのだ、イザナギの酒は。まさに神酒と言ったとこ
ろか。
﹁ウカノはこの世界に生まれてどれほどになるのだ
﹂
?
生まれた時一番最初に何を見ましたかとかナンセンスすぎたか。俺は今世の最初が
んとも言えん曖昧な世界だったように思うがな﹂
﹁ふーむ⋮虚無だったような気もすれば、何かが出来上がっていたような気もする。な
﹁昔ってレベルじゃないな。生まれた時はどんな景色だったんだ
界ができた頃に生まれたことは覚えているのだがな。どれほどかは覚えておらん﹂
﹁我か。我は、いやイザナミも我と同時期に生まれた事を考えれば我らとなるが、この世
うな気がするが。そう言うイザナギはどうなんだ﹂
﹁女に歳聞くなよな。別にいいけどさ。⋮そうだな、多分八十万ほど太陽と月を見たよ
?
37
今ティニューだったから覚えているが、イザナギはそういうわけでもないのだ。まして
や気の遠くなるような年月が過ぎているのに詳しく覚えているはずもない。イザナギ
﹂
の話からすれば、一応イザナギの前があったということだろうか。⋮俺が見たわけじゃ
ないしな。イザナギもあまり覚えていないというのに考えたところで不毛か。
﹁イザナギは地上を調整する、とか言ってたよな。どういうところを変えるんだ
﹁そうすると、﹃禍物﹄はどうなるんだ
﹂
が少なければ問題は無いのだが、今の地上にはこれに満ち溢れている﹂
う。このままのカタチで地上に残るには劇物すぎるのでな、密度を薄めるつもりだ。量
﹁ふーむ。まずは一番の大仕事となるであろうが、
﹃禍気﹄に手をつけることになるだろ
?
る、正だけなればよいのだが、そういうわけにもいかんだろうな﹂
上には﹃禍気﹄の影響で劇的な速度でヒトが生まれつつある。そうすれば感情も生まれ
い。⋮いや、成り立ちが少し変わる事になるかもしれんな。我らの天界の天人同様、地
﹁どうもならんだろう。これ以上の変化は止まる、が、それでどうなるというわけではな
?
ころを作っておかねばいかんのだ。⋮おそらく﹃禍気﹄を薄くするためにそれらを使い、
囲に少なからず影響を与える。それらが深刻な変化をもたらす前に、何らかのおとしど
﹁むぅ。喜怒哀楽だけならばむしろよいのだが、憎悪や恐怖といった顕著な負の気は周
﹁よく分からなくなってきたぞ。簡単に頼む﹂
あ、はじめまして、奥さん
38
それらのおとしどころには﹃禍気﹄を使うことになるだろう﹂
﹂
!?
するとイザナミさんはにっこりと笑うと改めて手を伸ばし、俺の頭を撫でるのだっ
な気がしてきたので、俺はおとなしく頭を差し出した。
イザナギはスルーするとして、なんだかイザナミさんの顔を見ていると俺が悪いよう
﹁む、すまぬな。イザナミは可愛いものが好きなのだ。前も三つ頭の犬を拾ってきて⋮﹂
た。その視線は俺の頭の上、具体的にはふさふさの耳に向いている気がする。
ナミさんは伸ばした手をふらりと彷徨わせている。その顔はどこかしょぼんとしてい
さりげなく俺の頭に伸びてきた手を、俺は寸前で反射的にかわした。かわされたイザ
﹁ぉぉ
イザナミさんは、手を伸ばしながら微笑み
酔い状態に調整し俺はようやく席を立った。
まるでうわばみのごとくかぱかぱと器を空け、アルコールを微妙に分解しながらほろ
﹁さて、俺はそろそろ帰るぞ。あ、イザナミさんもありがとうございました﹂
﹁うむ。この案が形になるのはずいぶんと先になるであろうな﹂
﹁⋮ふぅん。ま、すぐの話じゃないんだろ﹂
39
た。母狐になめられた記憶はあるが、撫でられた記憶は無い。それ以降はそんな繊細な
動作をするものには出会った事は無い。狐になって初めての経験に、耳がぷるぷると震
えている気がする。まぁイザナミさんが嬉しそうなので本望です。
﹁しかしウカノよ﹂
ようやく解放された俺に、イザナギがふと声をかけた。さっきまでケルベロスもどき
の話を熱く語っていた時とは違い、その顔には真剣味に溢れている。俺はそれにつられ
て自然と身体を引き締めた。
﹁我は、ヌシのその口調はどうかと思うのだが﹂
﹂
﹂
﹁気を引き締めた俺の緊張を返せ。んなことどうでもいいだろ⋮。それに、理由はある
ぞ
﹁実はな﹂
﹁うむ﹂
﹁俺の前世が男だったんだ﹂
おい神様、スルーすんな。
﹁⋮うむ。それでその理由とは
?
?
﹁ほう、なんだそれは﹂
あ、はじめまして、奥さん
40
その考えの下、尻尾が二本になった俺をイメージしてみると、思
?
だりこの世界のことを教えてもらったりと、することはいくらでもあるのだが、イザナ
さてイザナギのところへはたびたび遊びに行っては酒を飲み交わしたり術式を学ん
に戻ることはあまりない。それこそ数百年に二、三度だ。
込んでいったのだ。因みに狐の状態に戻ることもできるが、人型の方が便利なので四足
いの外簡単に成功した。ぱふっ、と空気をはたくような音とともに俺の身体の中に引っ
きるのではないか
が、こうして人の形をとって自然に生活している。ならばさらに人に近づけることがで
何本か隠すことができないかと考えたわけだ。そもそも、俺の本体は狐なのだ。それ
の尻尾に埋めると、それはもう最高の気分なのだが、その分とても嵩張る。そこで俺は
そう、尻尾が六本だ。もふもふで、寝る時などに手足を折りたたんで身体を丸ごとこ
らい。ちょっと前に俺の尻尾が六本に増えてたので、間違いは無いと思う。
イザナギやイザナミさんと交流を始めてこれまたずいぶんと経った。多分、五百年ぐ
心の揺れ幅、前代未聞
41
心の揺れ幅、前代未聞
42
ギは忙しいのかよく家を空けている。その補佐らしいイザナミさんもよくイザナギに
ついていくお陰で、家に行っても誰にいないなんてことはざらにある。
そんな時はふてくされて一人で飲んだくれたり、イザナギの家に張ってある結界をい
じったりしている。ちゃんと元には戻してるよ
うん、術式を組み立てたり組み
?
るらしいが、それも何年後の事か。俺を神と名づけたイザナギが言うのだから、間違い
つ霊格の高い者は持ってるらしいけど。イザナギ曰く、いつかは俺にも﹃神気﹄が備わ
まるで違い、相当強力なものだ。⋮俺も﹃神気﹄欲しいなー。天人の中でも力が強く、か
因みに﹃神気﹄とやらはかなり万能で、その上﹃霊気﹄や﹃禍気﹄との力の密度とは
ということだ。
純な関係ではない。分かったことは、
﹃禍気﹄用の術式を新しく確立しなければならない
液体の関係のように熱や圧力など外部から力を与えると状態を変えるような、そんな単
あるが、しかし同じ機構で使うにはこれら両者の質は違いすぎる。それもこれらは気体
仮に﹃霊気﹄を液体燃料だとすると、
﹃禍気﹄は気体燃料だ。かなり強引なたとえでは
料にすることができなかったんだよね。
替えたりすること自体はできるんだけど、残念ながらイザナギの術式じゃ﹃禍気﹄を燃
イザナギの結界をいじったりしてるじゃないかって
ところで、イザナギに教わった結界術式だが⋮俺には使えないことが分かった。え、
?
43
は無いだろうが。
以前にも記した気がするが、俺の能力は既存のものを読み取ったり学習する事などに
関しては桁違いに優れているが、完全に新しい何かを組み立てるとなるとそうはいかな
い。
今回は﹃霊気﹄方式とはいえの事象を確立するための術式を知ることができたので、
まったくゼロからやるよりはましなのだが、それでも気の遠くなるような時間が必要と
なるだろう。
そもそも﹃力﹄であるのに何故これほど二つに違いがあるのかと言えば、それはおそ
らく成り立ちの違いのせいだろう。確かに俺は﹃禍気﹄を放出し、イザナギは﹃霊気﹄を
発している。しかし、元から生体から生じた﹃霊気﹄とは違い、
﹃禍気﹄は世界によって
半ば偶発的に生み出されたものだ。およそ血と空気ほどの違いがあるのに、同じエネル
ギーとして使うことなどできようはずも無い。
結局大いに暇は潰せるているのだが、五百年経ってもまだ完成していないと言えばそ
の苦難も分かってもらえるだろうか。無論術式開発ばかりをしてきたわけではないが、
それでも丸々二百年ほどはやってきたはず。必要になるのは能力より突発的な発想な
ので、一人ではどうしても時間がかかってしまう。発想、というかとっかかりさえ確立
することができれば、俺の能力ならば瞬く間にそれを補完することができるだろう。最
初の一歩や二歩さえ踏み出せれば、あとは筋斗雲に乗って一っ飛びーとでも言えるほど
なのだが、その最初の一歩が遅々として進まないのが現在の状況だ。
﹁あ、そういえば出産祝いとかどうしよう。⋮果物詰め合わせでいいかなー﹂
百年ほど前にイザナミさんが妊娠していることが分かった。きっと二人でくんずほ
ぐれつ夜のプロレスをした結果なのだろう。そろそろ出産時期らしいのだが、臨月まで
百年とかどんだけー。妊娠している間にかなり弱体化しているということなので、贈り
物は酒なんかより果物のほうがいいだろう。
俺はくぴくぴと瓢箪に口をつけながら、果物類を集めている畑のほうへとよさそうな
ものを探しに、小屋の外へと出た。ちなみに中身はイザナギにもらった酒だったりす
る。いまだにあの味に勝るようなものは作れてはいない。
空を見上げると、いつもと変わらず青い空が広がっている。天気が悪くなりそうな様
子もない。
が、それを確かめ歩き出そうとしたとき、その空が一瞬で真っ赤に染まった。
﹂
!?
の前兆もなく赤色になるわけがない。
夕焼けなど、こんな時間ではありえない。そもそも数秒前までは青空だったのだ、何
﹁え⋮
心の揺れ幅、前代未聞
44
俺はいっそ空まで飛んで原因を確かめるかと、宙に浮いた。が、木々を越えたあたり
カグツチか
・・・・
﹂
ですぐにその原因を見つけることができた。
!
イザナギが腰につけていた剣が突き刺さっている、真っ黒な炭のようなものがあった。
かったかのように、ただただ更地が広がっている。そして、イザナギのそばにはいつも
俺はイザナギの少し後ろに降り立ち、周囲を見回した。あの高床式の家も元から無
ザナミさんの姿はどこにもない。
中心あたりにくぼみのような場所にイザナギらしき人影がいるのが見えた。しかし、イ
そのせいでイザナギの家の場所を捜すのに手間取ってしまったが、だいたい焼け跡の
残っていない。
俺が草原のほうへと行ってみると、草原は案の定ほぼ完全に焼失していた。灰すらも
ているのではないだろうか。
まっているため火事はおきていないが、外周でこれならば火柱の中心は溶解してしまっ
く、いや、むしろ天すら焦がしていた。触れるもの燃えるものは一瞬で消し炭にしてし
イザナギの家がある草原から立ち上がる巨大な紅蓮の火柱。それはまさに天まで届
﹁しまった⋮
!
45
それが、何であったのかなどは考えたくは無い。イザナギがここにいて、イザナミさん
がここにいないということが分かれば、それで十分だ。そして、それも風に吹かれると
ぐずぐずになり灰のように散り散りになってゆく。
﹁イザナギ﹂
俺は、俺が来ても微動だにしなかったイザナギの背中に声をかけた。何をしたのか、
イザナギの力はかなり弱体化してしまっていた、それでも俺よりは大きいのだが。
イザナギはピクリと震えると、ようやく俺のほうを振り向いた。⋮しかし、その瞳は
﹂
俺を見るはいない。光の反射もなくなってしまったかのように、とても虚ろなものだ。
﹁ウカノか﹂
﹁ああ。何が、あった
というレベルではない。そして、イザナギが天之尾羽張で刺し殺した。天界から万が一
やはり間違いないらしい。神話では火傷程度だったが、実際のこの状況では火傷など
殺した﹂
﹁⋮我らの子が、生まれたのだ。しかし、奴は天を焼き、イザナミを焼いた。だから我が
?
のためにと持って来ていたものらしいが、その万が一で役に立ってしまうとは皮肉なも
のだ。
﹁⋮﹂
心の揺れ幅、前代未聞
46
﹁⋮﹂
しばし、その場に静寂が満ちた。俺は黙祷するために。イザナギは⋮何を考えている
のだろう。
数分後、俺は再度口を開いた。このままここにいても、仕方が無い。
神話のようにはさせたくはない。イザナギに聞いた話を考えれば、時間が経てば経つ
﹁さっさと行くぞ、イザナギ﹂
ほどまずいことになる。
﹁どこへ、行くと言うのだ。ウカノ﹂
イザナギ
空っぽの声で、俺に返事をするイザナギ。なんだか、イライラする。俺は、いつまで
もこんな虚ろで弱々しくてうじうじしている親友を見ていたくはない。
放って置けば、こいつはいつまでもここにいるだろう。我を取り戻すのがどれほど先
﹃我らにとっては死と消滅は同義ではな
か。しかしそれでは駄目だ、間に合わなくなる。
﹂
﹁馬鹿野郎 黄泉に決まってんだろうが
い﹄って前教えてくれただろうが
!
る。まさに下界における最大の歪みでもある。
にできた世界に対する反作用のように。そしてそこは最大の﹃禍気﹄の集積地帯でもあ
はるか昔、天界が地上を離れた頃、地底には同時に巨大な空洞が出現した。まるで天
!
!
47
地上で器が死んだとき、魂はこの地底の大空洞、黄泉へと自然に落ちてゆく。ならば
この地上で死んだイザナミさんも黄泉に行くはずなのだ。⋮しかしいかにイザナミさ
んといえど、いつまでもそのままでいれば﹃禍気﹄に魂を蝕まれ、イザナミさんはイザ
ナミさんで無くなってしまうだろう。そうなった時は、それが本当の死で、イザナミさ
んの消滅だ。たとえ地上に戻すことができなくとも、それを避けることの意味は大き
﹂
!
い。
お前が行かなきゃ、俺が行く
﹁このままいつまでもお前がここいたら、イザナミさんは本当に死んじまうんだぞ
⋮もういい
!
そんな俺を見られるのが嫌で俺は踵をかえし飛び立とうとした。
へと散り散りに消えて行った消し炭。。その食い違いが、たまらなく俺をかき乱した。
イザナギと今のイザナギの姿、そしていつものイザナミさんの微笑みと、灰となって空
めてだったかも知れない。その波とともに浮かんでくるのは、いつもの威風堂々とした
然としているイザナギにたたきつけた。⋮これほどの感情の波は、前世すらも含めて初
どうしてこんなに心が乱れるのか分からず、俺はただただその激情を言葉に乗せて呆
!
弱々しい。だが聞こえた声はいつもの調子を取り戻してきていた。
しかし、その前に俺の肩に手が置かれた。その手はいつもと比べると、頼りないほど
﹁⋮待て﹂
心の揺れ幅、前代未聞
48
﹁いざなぎ
﹂
かし、なぜかその端正な顔が少し歪められる。
羽張を引き抜いた。そしてそれを腰の定位置に挿すと、もう一度俺のほうを向いた。し
俺が振り向くと、イザナギは俺の肩から手をどけて地面に深々と刺さっていた天之尾
?
﹁さて、我は行くとするが、ウカノも行くのか
﹂
の調子を取り戻している。そして空中に飛び上がり俺のほうを向いて言った。
ぶっきらぼうな俺の言葉にイザナギは苦笑をもらした。その顔は、もう完全にいつも
﹁ふん。俺には、分からんな﹂
俺はそっぽを向きながら答えた。
と、そうして顔に触っているのをイザナギが見ているのに気づき、ばつが悪くなった
たらしい。
ているような気がする。見ただけでこれが分かるとは、存外イザナギも俺の事を見てい
俺はぺたりと自分の顔を触った。なるほど口も頬も動いてはいないが、しかし強張っ
そして安心しろ、とばかりに笑うのだった。
ともいい。我はもう、大丈夫だ﹂
見るぞ。いつもと変わらぬようにも見えるが、しかしどこか辛そうだ。そんな顔をせず
﹁すまなかった、手間を、かけさせてしまったな。⋮我はウカノのそのような顔を初めて
49
?
俺は一度死んだときのことを思い出して、そう言葉には出さずに続けた。
前は、何も言わずに逝ってしまったからな。
﹁お世話になったからな。俺もありがとうぐらいは、言いたいさ﹂
心の揺れ幅、前代未聞
50
こちらより断然過ごしやすかったとも言える。彼らは人ではなかったが、ある意味とて
ころだ。以前俺が行った地獄も、この風景と比べればまだましだ。獄卒の鬼がいたぶん
出しになっている。第一印象は、汚染物質で完全に汚染された荒廃した大地といったと
には寒気すら感じる。赤や黒や茶や、そんな色が滅茶苦茶に混じったような地肌がむき
しずつ闇が晴れていった。それでも薄暗く、むしろうっすらと見えるだけの周囲の風景
り口から見えた中同様しばらく濃厚な闇が広がっていたが、もうしばらく奥へ行くと少
俺はこの場所を知らなかったためイザナギに案内されて来たのは、先刻のことだ。入
りだろう。なにせ死者でさえここの環境では変質してしまうのだ。
黄泉への入り口。生者でここに入りまともでいられるものは、それこそ地上では一握
のように漏れだしていた。
も見える。そこから質量すら感じさせるほど濃密な﹃禍気﹄が、飽和状態をこらえるか
うにはコールタールのようなどろりとした闇が広がり、生者の侵入を拒んでいるように
むき出しになったごつごつとした地面にある、巨大な皹割れたような空洞。その向こ
赤黒い地の底で
51
もまっすぐな気性をしていて付き合う側としては気分が良かった。
しかしここはどうだ。濃密な﹃禍気﹄は目に見える風景すら歪ませているようで、た
だただ禍々しい。そして身体に纏わりつきこちらの歩みを遅くさせた。かなり強力な
どうやらここの広さ、半端
部類の﹃禍物﹄である俺でさえ、あまり長くいると俺が俺自身でなくなってしまうだろ
う。
﹁⋮イザナギ、イザナミさんがどこにいるかは分かるのか
﹁だがここにくるまでも時間がかかったんだ。あまり、時間も無いだろう。急ぐぞ﹂
それに、どうやらまだ﹃イザナミ﹄のようであるな﹂
ないことなどは無い。⋮うむ、それほど遠くはない、イザナミも我に気づいたようだ。
﹁ふ、我は長き時をイザナミとともに過ごしてきたのだ。我にイザナミについて分から
じゃないぞ。元が天界の反作用であることを考えると、それも当たり前か﹂
?
いったところだろうか。
は俺の感覚は鋭すぎた。どれだけ嗅覚が優れていようと、激臭の中では役に立たないと
いて行くことしかできない。特にこの場所は﹃禍気﹄が濃すぎて、他の何かを感じるに
俺にはまったくイザナミさんの居場所が分からないので、俺はとにかくイザナギにつ
﹁うむ﹂
赤黒い地の底で
52
﹁む﹂
しばらく行ったところで、前を進んでいたイザナギが止まった。てっきりイザナミさ
んを見つけたのかと思ったが、前にも、そして周囲にも誰もいない。ただ死の大地がど
こまでも続いているだけだ。
﹂
?
﹂
???
じゃないか。
そ の イ ザ ナ ギ の 言 葉 に さ ら に 首 を か し げ る。俺 は 今 こ う し て 眼 を 開 い て い る は ず
﹁
がなかろう﹂
﹁ウカノ。ヌシは﹃眼﹄を閉じているではないか⋮その状態で魂を見ることができるはず
言った。
いない。訝しげな視線をイザナギのほうへと向けると、イザナギは反対に呆れたように
首を傾げてイザナギが両手を伸ばしたところへと目を向けるが、そこにはやはり何も
﹁え
﹁何を言っているのだ。イザナミならここにいるであろう﹂
伸ばすと俺にこう言ったのだ。
すると、イザナギは不思議そうな顔をして俺のほうを見た。そして前の空間に両手を
﹁どうしたんだ、イザナギ。急ぐんだから、立ち止まってる暇はないだろ﹂
53
赤黒い地の底で
54
俺はもう一度イザナギの両手のあたりを眼を凝らすように見つめた。俺に分からな
いことを言っていても、基本的にイザナギの言っている事は全て正しい。なので俺はイ
ザナギの言葉に従い、﹃眼﹄が開くようなイメージを浮かべるのだった。
すると、目に見える風景が途端に変わった。具体的に言えば視界が広がり、今まで見
えなかったようなものが見えるようになった、という感じだ。後々気づいたことだが、
どうやらこのときの俺は眼の擬態を外し、禍物狐としての眼に戻していたらしい。丸い
瞳孔が縦に割れ、金色も増していたようだ。まさにイザナギの言うとおり俺は﹃眼﹄を
閉じていたのだ。
その状態でイザナギの両手の先に見えたのは、漆黒と紅蓮が混ざったようなぼんやり
とした光の塊である。さらに良く見るようにすると、それに重なるように半透明のイザ
ナミさんの姿が視界に浮かんできた。
この環境にあって、イザナミさんは変わらず穏やかに笑っていた。赤い何かを大事に
抱えるようにして。
ぱくぱくと半透明のイザナミさんの口が動き、それに合わせてイザナギが頷く。なに
やら話しているようだが、俺にはさっぱり分からない。イザナギの顔が驚いたり暗く
なったり複雑そうになったり嬉しそうになったりするのをただ見つめているだけで
あった。
55
二人の話に区切りがついたところで、俺はイザナギに何を話していたのかを聞いた。
イザナギが言うには、イザナミさんは既にギリギリの状態らしい。つまり、完全に変
質し彼女の本質が暴走してしまうのも時間の問題だとか。なのでイザナミさんをここ、
黄泉の奥に封印してしまうらしい。封印式には魂の浄化式も含め、長い時間をかけて歪
みを戻し天界に戻すという計画だそうだ。⋮概算では億単位の時間がかかるらしいが。
因みに、二人の子、カグツチの魂はイザナミさんと一緒にいて、しかも融合しかかっ
ている。それをゆっくりと剥がすことも含めての、気の遠くなるような時間の封印のよ
うだ。
カグツチの名前は産まれる前から決めていたらしく、ここに来てようやくちゃんと名
づけることができたと、複雑そうな中にも嬉しさを見せながらイザナギはそう言った。
愛せるのか、と問うと、
﹃我らが愛さなければ誰が愛するのだ﹄と当たり前のように言わ
れてしまった。かくも深きは親の愛、とな。本当に、幸せ夫婦だよ、イザナギとイザナ
ミさんは。あんなことがあったというのにな。
封印場所に選ばれたのは、イザナミさんと出会った場所からさらに少し行った場所。
擂り鉢状に窪んだクレーターのような場所の中心である。
イザナミさんがそこに立つと、イザナギは地面に宙に、無数の線を描いていった。さ
赤黒い地の底で
56
らにはそれと符合するように何本かの短い線でできた記号をいくつも連ねてゆく。イ
ザナミが教えてくれた封印式の術式であることに気づいたが、今までに無いほどにそれ
は強固なものだ。普通の術式に注げる力の限界値を桶一杯分とすると、これの限界値は
湖ほどはあるだろうか
イザナギは術式を束ねるような場所に天之尾羽張を刺しており、それを中心に術式全
て窪地の外へ出た。これからイザナギが力を注ぐことでようやく封印術が発動する。
イザナミさんに少しだけお礼を言った後、俺は術式が完成したと言うイザナギについ
する。どうやら幸せ夫婦の子供も、いつの日か幸せになれそうだと。
て、穏やかにすやすやと眠っていた。それを見て、俺は安堵するように息をついた気が
イザナミさんの腕の中にいたのは、一人の赤子である。紅蓮色の髪が既に生えてい
もそれに気づき少しかがんでくれる。
そうに何かを抱えているが、それが気になった俺は少し身を乗り出した。イザナミさん
イザナミさんはその様子を、にこにこしながら眺めていた。その間中もずっと、大事
とぐらいは俺にでもできる。
ミさんの周囲に張った結界の補強を行っていた。力こそ注げないが、術式に干渉するこ
その間俺はと言えば、状態ができるだけ進まないようにと簡易的にイザナギがイザナ
?
体へと力を行き渡らせ行く。
その操作自体は非常に順調に進んで行き、何も無く終わると思われた。が、異変が起
﹂ きたのは終盤にさしかかったころである。
﹁││││││
た。
﹂
無いほど強固だったはずの結界は、その黒い靄に押されぎしぎしと音を立てて軋み始め
留まらずイザナギの構築し完成しかけていた封印とぶつかり凌ぎを削る。見たことも
真っ黒な靄のようなものが噴出し、イザナミさんを覆い隠してゆく。そしてそれだけに
れ は 到 底 人 に 発 音 で き る よ う な も の で は な い。そ れ と 同 時 に イ ザ ナ ミ さ ん を 中 心 に
音にもならなかった悲鳴が、ある時を境に空気を揺るがす大叫声へと変わる。だがそ
﹁││││■■■■■■■■■
!!!!!
そして、その変化は直に臨界点を越えた。
それでもこの様子を見ていて心中穏やかでいられるはずがない。
仕込んであるようなのでイザナミさんそのものが消えてしまうことはもうないのだが、
漏れ、俺達の目の前で何かがイザナミさんを変えていく。封印式には魂情報保存効果も
身体を押さえて、イザナミさんが苦しみ始めたのだ。口からは音にもならない悲鳴が
!
57
﹁イザナギ
﹂
﹂
﹁⋮⋮っ⋮っ
!
い靄は完全に封印内を埋め尽くし、イザナミさんの姿は全く見ることができない。
らっていられる暇は無いだろう。しかし、封印はそれに構わずなおも軋みをあげる。黒
がら力を止まることなくどんどん放出している。前代未聞の大封印なのだ、他にかかず
かなりまずい状況に思わずイザナギのほうを見るが、イザナギも脂汗を大量に流しな
!
イザナギと俺の疲労がピークに達した時、途端に封印が収束し始め、黒い靄も押し戻
そして、どれほどの時間が経っただろうか。
ような形をとれば問題ない。
況で基盤の術式をいじれば、一気に崩壊してしまうだろう。だがその上から被せてゆく
綻んだ部位を補強し、そしてより緻密に強固に術式を後付けで構築してゆく。今の状
を持つ俺はイザナギの上を行く。
高のものを作ったのだろう。しかし、こと術式の構築技術ならば、
﹃式﹄に特化した能力
確かに、この術式は今まで見たことの無いほど高度なものだ。イザナギにとっても最
れてゆく。しかし、俺はそれに構わず術式へと介入した。
俺は封印術式に手を触れた。じゅっと、すさまじい熱さが伝わるとともに手が焼け爛
﹁くそっ﹂
赤黒い地の底で
58
59
してゆく。そしてぎりぎりまで収束すると、封印から真っ赤な炎が溢れだし封印を覆っ
ていった。炎は際限を知らないかのように窪地に溜まっていき、淵でようやく止まっ
た。深紅の炎はまるで海のようにそこで波打っている。
イザナギも俺も封印が完成したことを悟り、深々と息を吐き出した。
いた仕事が、ここに来てようやく形になり始めたのだ。
また人間の進化に伴い、
﹃禍物﹄ではない異形も生まれ始めた。イザナギが以前やって
だ俺と意思疎通をはかれるほどではない。
やりしている毎日は少し堪えた。人間も信じられないほどの速度で進化しているが、未
イザナギやイザナミさんと交流していた頃は毎日が充実していたために、一人でぼん
さて、俺はと言えばまたわりと暇な日常に戻っていた。
なんでもスケールでかすぎだろ。
イザナギは完全に力を取り戻すまで最低でも千年はかかるとか言っていたが、いくら
る。
ち込んでいて、あの状態で地上で仕事が続けられるかと言えば自信を持ってノーと言え
て行ったのだ。なるほど封印を終えた後のイザナギは俺ですら勝てそうなほど力が落
退してしまった力を回復しなければと言うと、挨拶もそこそこにふらふらと天へと上っ
イザナミさんを黄泉に封印した後、イザナギは一度天界へと戻っていった。著しく減
能力って結構ずるいと思う
能力って結構ずるいと思う
60
61
彼らは人間の負の気が﹃禍気﹄と結びつくことで、それを器として生まれる。そして
彼らが感情
負の気が核であるためか、彼らは基本的に人間に対して敵愾心を持っていた。いや、と
いうよりも﹃本質的に人間を害する存在﹄と言ったほうが良いだろうか
に取って代わられつつある。
そして今まで地上に蔓延っていた﹃禍物﹄はと言えば、日に日に減少してゆき、彼ら
もいいだろう。
していたか、想像もつかない。それを思えば、イザナギの仕事はうまくいったと言って
ような存在でおとしどころを作っておかなければ負の気がどうような作用を引き起こ
る。それがこれほどの現象を引き起こしているのだ、イザナギが危惧したように彼らの
行った。彼らは日々順調に増えているが、彼らを生み出したのは人間の負の感情であ
彼らは﹃禍物﹄と比べると少し力が劣るが、しかし知能という点では﹃禍物﹄の上を
た。
人間を襲うたびに、人間の彼らに対する恐怖は増してゆく。そのような循環ができてい
人間を襲い、その際に出される人間の負の気で自身の存在を補填する。そして彼らが
彼らの存在意義とも言えた。
はない。悪戯のようなもの、人間にとっては堪ったものではないが、しかしそれこそが
的な理由無く人間を害するとき、人間に対して明確な悪意を持つものは実のところ多く
?
能力って結構ずるいと思う
62
原因はいくつかあるが、一つは彼らが生み出されていることで﹃禍気﹄の濃度が減少
していること。﹃禍物﹄の出現原因も彼ら同様﹃禍気﹄だが、この場合彼らのほうが優先
される。負の気は﹃禍気﹄に引き寄せられやすく、
﹃禍気﹄が通常生体を無理やり﹃禍物﹄
へと変容させることを考えれば、非常に自然な流れだ。
二つは﹃禍物﹄が彼らと同じものへと変わっていっていること。上で述べたように負
の気は﹃禍気﹄へと吸い寄せられてゆく。そして﹃禍物﹄は﹃禍気﹄を放出している存
在だ、負の気が﹃禍物﹄とつながることもむしろ自然な流れと言える。
そうして、徐々に﹃禍物﹄は彼らになってゆくのだ。元々﹃禍物﹄は変異した存在。そ
れゆえ新たな変化に対して順応してしまっていた。
最終的に、世界からはほとんどの﹃禍物﹄が消えてしまうだろう。⋮俺のような例外
を除いて。
それに気づいたのは、俺の尻尾が八本になった頃のことだ。そろそろイザナギ帰って
くるかなー、と日々心待ちにしていた俺は、愕然としたものだ。俺が彼らと同様の存在
に近くなっていることに。
俺は、正直俺がどういう存在なのか分かってはいない。今までは俺が﹃禍気﹄を放っ
ていたため﹃禍物﹄なんだと判断していたが、ことここに来て、俺の力が一つ増えたの
63
だ。
人間は、イザナギ同様﹃霊気﹄という力を持ち、イザナギはそれに加えて﹃神気﹄を
持ち、そして﹃禍物﹄は﹃禍気﹄を持っている。
彼らも当然力を持っているが、しかし上であげたもののどれとも違う。⋮と言って良
いかどうかは迷うところだ。何せ彼らの持つ力は人間の﹃霊気﹄と本質的にはまるで同
じものだからだ。それでも違うといえるのは、
﹃霊気﹄と、仮に﹃反霊気﹄とするが、こ
れらはそれぞれ正反対の力なためだ。
人間は専ら正の気のほうが多い。そのため、正の気というフィルターを通すようにし
て外に放出されるのは正方向の﹃霊気﹄だ。
そして、彼らは元々負の気が元であるため、当然負の気のほうが多い。結果的に、負
の気というフィルターを通して外に放出されるのは負方向の﹃反霊気﹄というわけだ。
さて、ここまで来たら分かると思うが、俺に増えた力というのがこの﹃反霊気﹄とい
うわけだ。俺の場合他の﹃禍物﹄とは違い、
﹃禍物﹄の特性たる﹃禍気﹄を失ってはいな
い。つまり完全に彼らと同じにはなっていないのだ。しかし、今更例外だと慌てること
もない。俺が例外だったのは﹃禍物﹄だったころからだ。そもそも、イザナギは突発的
事態で急に天界に戻ることになった。イザナギの機構に不具合があってもおかしくは
ない。
・・・・・・・
そして俺が何故愕然としたかと言えば、実のところ歓喜のためだとも言える。この
﹂
﹃反霊気﹄は﹃霊気﹄の正反対の力だが、しかしその本質はまるで同じものだ。
つまり。
!
かったのだ、﹃反霊気﹄を。
しかし、この時の俺は故意に連中を呼び寄せたとも言えるだろう。俺は使ってみた
力は減退する。上のような理由からむしろ好都合とは考えていたが⋮
る。眼を擬態していると機能が下がっていたように、尻尾も擬態していると俺の全体の
普段ならば二本ほどに抑え、面倒の外敵を呼び寄せないように力の放出も控えてい
ことはなかった。
ていたものだから、血気盛んな異形を呼び寄せることになったが、俺がそのことに構う
ていたのだ。尻尾も五本ばかりだして﹃禍気﹄や﹃反霊気﹄を撒き散らしながら走り回っ
この嬉しさを表現する方法が思いつかなかったというか、衝動のままに森の中を疾走し
それからの俺は、近年稀に見るハイテンションで森を豪風のように駆け巡った。他に
用の術式を﹃反霊気﹄用に変換する程度のことは俺からすれば容易なものだ。
違う﹃禍気﹄であったためにどうしようもなかったが、今度の﹃反霊気﹄は違う。﹃霊気﹄
イザナギに教えられた術式は基本的に﹃霊気﹄に対応したものだ。今までは全く質の
﹁ようやく、イザナギ式術式を使うことができるってわけだ
能力って結構ずるいと思う
64
そして、その日引っ掛かった異形は俺もはじめて見るほどの弩級の異形だった。
轟々と木々を揺らしながら森の中を爆走していると、そいつは木々をばきばきと破壊
しながら現れた。しかしそのくせ足音などは不気味に静かで、そして異常に速い。
そして、がさがさと木々を踏み倒し掻き分け俺のまえにやってきたのは、一匹の蜘蛛
だった。
無論ただの蜘蛛ではない、正面から見える高さで既に三メートル強。でかいなんても
のじゃない。八つの紫の目はどこを見ているのか分からないが、なぜか全て俺を見つめ
ているような気がした。身体には八本ではなく十二本の脚がついており、さらに先端に
は鋭い鎌がついている。そして全身真っ黒で鋼のような剛毛がびっしりと生えており、
全体的には﹃ずんぐりむっくり﹄という印象を俺に与えた。
その上、俺を驚かせたのはそいつは﹃禍気﹄と﹃反霊気﹄の両方を放っていたのだ。ど
うやら俺同様の例外らしい。
の鳴き声であるらしい。
?
﹁とりあえず、はじめまして。ってか 初対面ならまずは挨拶からだよな、分かってる
らこれが彼
蜘蛛から、錆びた金属と金属を擦り合わせたような妙に濁った音が漏れ出た。どうや
﹁ぎ、、ぎぎ、ぎ﹂
65
?
よ、お前。さあ、そんじゃ後はまぁ⋮分かるよな﹂
さて、こうして広大な森の中で出会い、目と目があった以上そこには一つの縁が出来
上がるわけでして。まるで一目惚れの恋人同士ようにお熱い関係がこれから始まるわ
けです。
﹂
それはもちろん殺し合い。
﹁ぎ、、、ぎ、ぎぎぎ
﹁わはは、それだそれだ。いやー久々だなー、この感じ 別にバトルジャンキーってわ
!
体毛は伊達ではないらしい。
くそいつの身体にぶつかると簡単に霧散してしまった。どうやらあの鋼のような黒い
のがたまらない。こちらも避けながら禍弾をぽんぽんばらまいたが、それらをことごと
在の武器のように、次から次へと俺へと飛んできた。しかもそれが移動しながらという
でなければ続く他の脚の攻撃をかわすことなど不可能だ。こいつの脚はまるで伸縮自
殺気を撒き散らしながら振り上げられた脚の一撃を、俺は余裕を持ってかわす。そう
けじゃないけど、男としては闘争本能がうずくというか⋮今は女かね。まぁいいや﹂
!
俺はそいつのあまりの防御力に、俺は呆れ混じりに呟いた。望外な堅さにスピード、
﹁ぎぎ、、ぎぎぎ﹂
﹁手数⋮というか脚数多い上に堅すぎだろ、お前﹂
能力って結構ずるいと思う
66
そして重量がついたとき、それだけでそれは何物にも勝る凶器となる。俺だからこそ避
け切れているが、普通の輩ならば既に脚に貫かれるか、あの巨体に押し潰されているだ
ろう。
この分では近接戦闘も無理がある。この世界に生まれて三千年余り、
﹃禍気﹄によって
魔改造された俺の体躯では想像もつかないほどの異常な怪力を有するが、それでもこの
蜘蛛の防御を貫ける気はしなかった。
しかしまぁ、それならそれでやりようはあるわけで、そして試したいこともいくつか
あった。蜘蛛の脚の攻撃はなおも続いていたが、俺は避けるのを止め急に足を止めた。
そうすると、もちろん今まで当たらなかった攻撃は俺へと殺到し、激突する。蜘蛛は
成功だ
﹂
串刺しにされた俺でも想像するだろうか そこまでの思考力を持っているかどうか
は不明だ。
ガキン
!
﹁ぎ、、、、、﹂
﹁わは
!
?
俺が自身の身体に貼りつくように構えていたのは、遮断結界。イザナギの教えてくれ
とぶつかるような音ともに停止していた。
蜘蛛の脚は確かに俺に直撃した。しかし、それは俺の身体数ミリ手前で何か堅いもの
!
67
た認識遮断結界の汎用性を高めた上位術式だ。
単純に他者のありとあらゆる干渉を遮断するもので、それが物理的だろうが霊的だろ
うが構わない。
だが、仮に俺の未知の干渉、例えば能力によるものなどは少々別だ。ただそれも最初
の数度しか効かないが。
能力干渉はあまりにも抽象的すぎて普通では解析する事はできない。だが、相手が能
パターン
プログラム
力で俺に直接干渉してきたときは別だ。俺を一つの受信端末と仮定することで能力を
逆算し、定型化あるいは 式 化することで遮断結界式に打ち込む。
こんな無茶な力技ができるのも、俺の持つ能力ゆえだ。他のやつには絶対に真似をす
る事はできないだろう。
俺は糸が俺の領域に入ると同時に、その組成をばらばらに、散り散りにした。
こんな巨大蜘蛛であろうとその糸の組成は所詮たんぱく質だ。
今度は腹の部分から器用に俺のほうへと糸を飛ばしてきたが、何のことはない。例え
も楽にすいすいと避けることができた。
でだ。蜘蛛はどうやら飛べないらしく、脚を伸ばし攻撃してきたが、地上で避けるより
遮断結界の性能を確かめると、次に俺は宙に浮かんだ。大体蜘蛛より少し上ぐらいま
﹁んじゃ、次行くぞ﹂
能力って結構ずるいと思う
68
それがすむと同時に、俺は今度は﹃反霊気﹄を﹃禍気﹄同様丸めて投げた。それはひゅ
るひゅると蜘蛛に向かっていき、やはり簡単に跳ね返された。
﹂
!
﹂
!!
そして直に結界内の蜘蛛の姿が不自然に歪み、蜘蛛は尋常ではない鳴き声をあげながら
線によって形成された面は、蜘蛛が胴体を叩きつけても脚を叩きつけても破れない。
﹁ぎ││││
ががががががっ
危険を悟ったのかその囲いから出ようとしたが、もう遅い。
描き出した。そして、それは蜘蛛を閉じ込めるような形になっている。蜘蛛は本能的に
すると、先ほどばら撒いた反霊弾が弾同士で共鳴し線を結び、宙に幾何学的な図形を
俺は蜘蛛が何かする前に、指を振った。
﹁ぎ、、、
﹁何言ってるか分からんけど、もう終わりだ﹂
﹁ぎ、ぎぎ、ぎ、、﹂
それを確かめると、俺は再び蜘蛛の前へと降り立った。
くその全てが跳ね返される。
そう呟くと、俺はまたいくつも反霊弾を作り出し蜘蛛へと投げた。そして当然のごと
﹁うーん、大体同じか﹂
69
苦しみ始めた。
捕殺結界。
相手を閉じ込め、物理的、あるいは霊的圧力を加え圧殺するかなり物騒なタイプの結
界術だ。封印結界の亜種ではあるが、こちらのほうがより攻撃的であることは否めな
い。無論イザナギに教えてもらったものではなく、俺のオリジナルである。作った当初
は使わないんじゃないかと考えていたが、必殺不殺を任意で調節できることに気づいて
からは有効活用することを決めていた。
蜘蛛の鳴き声が聞こえなくなったところで、俺は結界を消した。
自身の能力に戦々恐々しながら独りごちた。
三メートル強の巨大蜘蛛が倒れ伏し、ピクピクと足を動かしている前で、俺は改めて
﹁概ねうまくいったか成功か。けど便利すぎだろ、この能力﹂
能力って結構ずるいと思う
70
荘厳なる天照大御神 わらわら
イザナギが天に上って1500年ほど。俺の尻尾がとうとう九本になった頃に、よう
やくイザナギが帰ってきた。
そのときはもうほとんどの禍物の姿は消え、妖怪が世界主流の異形となっている。ち
なみに妖怪とは人間の呼んでいた呼称だ。俺も彼らだとか異形だとか言うのは分かり
にくいので、妖怪に統一することにした。しかし妖怪とは、なかなか言いえて妙ではな
妖怪の出現に困惑するか、禍物の
いか。妖しき怪異とな。まさに人間側からすればそんなところだろう。
今の地上をイザナギが見たらどう思うだろうか
髪や顔はイザナミさんに似ているが、雰囲気というかそういう感覚的なものはイザナギ
それはともかく、突然俺の家にやってきたイザナギは一人の少女を連れてきていた。
消失に驚愕するか、予想通りの結果に満足するか。
?
に似ていた。髪は頭の横で二本に縛っており、この時代にはそぐわないが、彼女にはと
ても似合っていた。
﹁久しぶりだな、ウカノ﹂
71
﹁⋮ああ、本当に久しぶりだ。千五百年ぐらいだったか、結構長かったな﹂
最低でも千年、とは言っていたが、振れ幅五百年は長すぎる。そう思った俺は、少々
不機嫌さを混じらせながらイザナギに暗に理由を聞くと、イザナギは渋い顔をして言っ
た。
高
で、上の連中に引き留められておったのだ⋮あそこは人は多いのだが怠け者も多い。時
﹁回復は予想通り千年と少しで完了したのだがな。しかし少々仕事が溜まっていたよう
﹂
?
折我らにしわ寄せが来るのだ﹂
貴なお人は仕事はしませんってか
﹁なんだそりゃ。天界の癖に世知辛いな、おい。怠け者が多いって、天人の気風か
?
﹁ほんとだ、すごい
ねぇねぇ、その尻尾私に触らせて
﹂
?
は持って
?
と、イザナギと話していると、イザナギが連れてきた例の少女が口を出してきた。イ
!
るけど、元は禍物だしな。
あれ、そもそも俺は妖怪九尾に分類されるんだろうか。反霊気というか妖気
現 代 で 聞 い た 話 で は 九 尾 の 狐 が 最 多 だ っ た は ず だ。十 尾 だ と か 聞 い た こ と な い し。
﹁俺に聞くなし。俺だって知らんよ。まぁどうせ九本で頭打ちだろ﹂
また尻尾の数が増えたのではないか。それいったいどうなっておるのだ﹂
﹁どうだろうな⋮しかし地上人は勤勉であるのに情けない。それでウカノ、ずいぶんと
荘厳なる天照大御神 わらわら
72
ザナミさんとは違いずいぶんと活発そうな子だ。別にイザナミさんが暗いと言ってる
わけじゃないが。きらきらとした目を向けている先にあるのは無論俺のもふもふの尻
尾である。とっさに俺は尻尾を背中にかばった。しかし、九本だ。俺の小さな身体では
痛い、痛いって
﹂
隠しきれない。擬態して隠してしまえば良かったのだが、そのときの俺は慌てていて思
ひっぱるな
!
いつかなかった。
﹁おいイザナギ、誰だこの娘⋮ってぎゃあぁぁぁ
!
﹂
勝手にそういう事をしてはならぬと、いつも言っているだろう
!
ずだったのだが、しばしの間地底から動けなくなってしまったのでな、代わりに連れて
﹁すまなかったな、ウカノ。この娘は我らの娘、アマテラスという。補佐はイザナミのは
尻尾の毛が持っていかれたが、笑って許すのが大人げあるだろうか。
イザナギは少女を引き剥がすと、少女の腕をつかんだまま再度俺の前に立った。少し
﹃父様﹄だって。なんだか親子みたいだな。もしかして、もしかするのだろうか。
!
!
﹁だって父様
﹂
﹁む、すまぬ。⋮こら
痛い。強烈な痛みよりも、こういう地味な痛みのほうが存外響くものだ。
尾をもふり始めた。それも、それがあまりに熱烈であるために、少しひっぱられて正直
その少女は瞬間移動のごとき速さでイザナギの後ろから俺の横に移動すると、俺の尻
!
73
きたのだ。が、イザナミに似て可愛いものが好きでな。それにイザナミと違って遠慮せ
ぬから困っておるのだが⋮というわけで犠牲になってくれんか﹂
﹂
ではアマテラスはカグツチの姉になるのだろうか ずいぶんと子供っぽいが。とは
神が﹃人柱になってくれ﹄とか冗談じゃなさすぎる。しかし、アマテラスか。こちら
﹁嫌じゃ
!
﹁はじめまして
アマテラスです
よろしく、ウカノミタマちゃん
!
﹂
!
﹁よろしくね、ウカノちゃん
尻尾と耳触らせて
!
前住んでいた場所は、千五百年
﹂
すら焼き払ってしまったらしい。はて、あの場所に生物が蘇るのはいつのことやら。
経った今でさえぺんぺん草一本生えていない。神殺しの炎はどうやらあの場所の生気
か。そういえば、イザナギはどこに住むのだろうか
の時にちょっと手を貸したぐらいで、あとはイザナギの家でごろごろしていたぐらい
世話になるっつっても、俺は大して何もしたことないけどな。イザナミさんの封印式
﹁ウカノでいい。そして﹃ちゃん﹄をつけるな﹂
!
﹁アマテラス、彼女はウカノミタマだ。地上にいる間は世話になるだろう﹂
イザナギはアマテラスを俺のほうへ少し押し出した。
分か大きいというぐらいで、イザナギとは比べるべくもないが。
いっても、流石神の一柱といったところか、持っている力は大きい。まぁ、俺よりも幾
?
?
!
荘厳なる天照大御神 わらわら
74
﹁聞いてやしねえ。それと触らせるのは嫌だ、お前引っ張るもん。俺だって痛いんだよ﹂
俺を円形脱毛症にする
!
わったら迎えに来るのでな﹂
﹂
⋮世話になるってそういうことか おいイザナギ
つもりかっておい、行くな
﹁へ
?
けで。
結界
﹁ウカノちゃん
﹁どぅぁ
﹂
!
!
はぶっ﹂
?
⋮俺のほうが年
﹄とか言いながらしょぼんとしていたが、罪悪感は大
!
して感じない。イザナミさんとの人徳の差を思い知るがいい、小娘
下だろうか。まぁいいや。
!
しまった。アマテラスは﹃あー
ち着いた俺は尻尾や耳を隠せることを思い出し、耳も、尻尾も九本全て擬態して隠して
襲いかかってきたアマテラスを遮断結界で物理的に止めると、俺は溜息をついた。落
﹁え
!
﹂
場に残ったアマテラスは、止めていたイザナギがいなくなればもう歯止めは効かないわ
訴え虚しく、イザナギは俺とアマテラスを置いてどこぞへと飛び去っていった。その
!
!
少々我らには不便なのだ。というわけでだ、アマテラスのことはしばらく任せたぞ。終
﹁うむ、それではウカノ、我は丁度いい土地を探してくるからな。この辺りは森ばかりで
75
﹁はぁ⋮とりあえず、上がってけ。前、茶の木に似たものを見つけたからな、茶ぐらいは
出そう﹂
﹂
!
はせめてアマテラスが尻尾を乱暴に扱わないことを条件に妥協したぐらいだ。しかし、
た。その間俺の精神力はアマテラスの苛烈な攻めによってがりがりと削られ、最終日に
イザナギがアマテラスを迎えに戻ってきたのはそれから三週間ほど経ってからだっ
珍しいのか、ずいぶんときょろきょろしていたが。
俺は引き戸をからからと開けて、アマテラスを中に入れた。アマテラスは和風の家が
今の家の構想は純和風といった感じだ。
らはそんなことも一度もない。
てない。昔は低気圧や強風に破壊されたこともあったが、結界を使えるようになってか
しているため、腐ったり劣化したりということはなく、自然に朽ちたものはひとつとし
たが、これは何代目だろうか。どちらにせよ、普通に建っている間は俺が組成式を固定
ちなみに、俺の家は昔に建てたものとはもう違う。何度か壊したりして建て直してき
スはずいぶんと素直だった。
そういうと、アマテラスはおとなしく俺についてきた。尻尾や耳の絡まないアマテラ
﹁あ、うん
荘厳なる天照大御神 わらわら
76
77
その特訓
のお陰か常時結界を張り続けていられるようになったのは幸いである。
せなのだ。
騒がしい毎日だろうと、充実しているというのならば、それはきっとこれ以上ない幸
を好いていたからだろう。
それでも、そんな日々に不満を感じなかったのは、何だかんだいって俺が彼らのこと
手伝うことになるなどは、この時の俺は知る由もない。
来ることや、イザナギの地上における魂循環システムや彼岸づくりなどの仕事をなぜか
イザナギの定住地が決まってからはむしろ、頻繁にアマテラスが俺のところに遊びに
そして、俺はこんなことはこれで最後だと思っていた。
精神はぎりぎりで平穏に保たれていた。
げを見つけて涙したのは蛇足である。次の日には元に戻っていたので結果的には俺の
アマテラスの帰った後に、俺が少しくたびれた尻尾の手入れをしていると、小さなは
?
?
彼女も時折数年単位で来ないときがあったが、そんなときはマガラゴと遊んでいた。
しおとなしくしていれば、尻尾を触るぐらいなら許可するのだが。
してアマテラスにあえて言わせてもらうなら、もう少し自重して欲しいものだ。もう少
欠点を残したままなのは否めないが。とりあえず新しい結界作りは今後の課題だ。そ
たびにこちらも結界術の腕を上げているので悪いことばかりではない。どちらにせよ、
破されてしまうことがばれてしまった。特に物理攻撃には弱かったりする。まぁその
念結界だとかそういうぶっとんだ代物ではないので、こちらの出力を大幅に上回ると突
界の怠け者ってこいつじゃないのか⋮。一応結界で防いではいるものの、俺の結界は概
件のアマテラスはと言えば頻繁に俺の家にやってきては、俺の尻尾を狙ってくる。天
つもりはないが。
だ。まぁイザナギの仕事の手伝いは基本的に俺の善意なので、イザナギにどうこう言う
り頼りにならないのか、俺が手伝うこともしばしばあり俺もあちこちを飛び回ったもの
イザナギが地上に戻ってきてからは、本当に騒がしい日々だった。アマテラスがあま
九尾の次は八尾
九尾の次は八尾?
78
79
マガラゴというのは以前殺り合った大禍蜘蛛のことで、それからも何度か顔を合わせ
ていた。殺りあったのは最初の一度だけで、今ではお友達だ。よくよく見てみると愛嬌
のあるような顔をしている、様な気がする。名前はなかったそうなので俺がつけた。彼
の顔を見ているとなんとなく浮かんだ言葉がそのまま名前になっただけで、大した意味
はない。幸い彼はこの名前を気にいってくれているようだが、
﹃ぎ﹄としか言わないので
意思疎通が容易でないのが難点か。
多分この辺りでは俺同様唯一の禍蜘蛛だろう。他の禍蜘蛛は大体妖怪蜘蛛になって
しまった。とはいってもマガラゴも純粋な禍蜘蛛というよりは、妖怪とのハイブリッド
だ。禍物の力に妖怪の知能を持ついいとこ取りである。そんなわけでここら一帯妖怪
の頭をやっているらしい。最近一方的に妖怪が人間にやられることが増えているよう
で、そのことを愚痴っていた。
そういえば、最近酒を造る暇があまり取れず難儀していたが、相変わらず瓢箪はぶら
下げている。少し前に瓢箪の中に虫が棲みついたのだ。外見はつるつるのサンショウ
ウオもどき。きっと﹃酒虫﹄というのはこういうのなんだろう。虫というか、酒の精み
たいなもので、水を入れてしばらく置いておくと美味い酒が勝手に出来上がっている。
おそらくこの瓢箪を数千年も酒瓢箪に使っていたために、この中に生まれたのだろ
う。実害は無いし、むしろ利益ばかりだ。まだ意思疎通を図るほどの知能はないらし
く、俺の呼びかけには反応しない。また放っている霊気も極少量だ。いつか話せるぐら
いに成長してくれたら、話し相手に最適なんだがなぁ。
さて、それは俺の尻尾が九本になってから千年ほど経ってからのことだった。
とある朝のことである。起きだしてきて早速尻尾に違和感を感じた俺は、ぼうっとし
た頭で自分の腰を見た。
﹂
で俺は家を飛び出していった。
まっている。それを理解した時、俺の眠気は一発で吹き飛び、しかし混乱した頭のまま
擬態して隠しているとかそんなことはなく、俺の尻尾が一本消えて八本になってし
﹁なんじゃこりゃあっ
!
戯れたりとイザナギの家には行ってはいなかった。
実はここ五百年ばかり、アマテラスがこちらに来たり、マガラゴと遊んだり、酒虫と
摩擦で燃やしながら飛んだ。
そうな勢いで吹き飛ばし︵壊れた︶、地を踏み砕いてイザナギの屋敷のある方へと空気を
多分このときの俺の行動原理は﹃困ったときの神頼み﹄だったように思う。戸を壊し
﹁イィィィィィザァナァギィィィィイィイィッ﹂
九尾の次は八尾?
80
だからイザナギの家が見えるはずのところまで飛んでいった俺はさらに仰天した。
﹂
何故気づかなかったし
が太陽に反射しきらきらと光っている。
と車道を走っている。世界の風景にそぐわない高い建物が立ち並び、ガラスらしきもの
様々な人間があちこちの舗装された道を行き交い、たくさんの車が音もなくすいすい
い、元現代人の俺から言わせてもらえば、所謂未来都市である。
そこには、五百年ほど前はなかったはずの街ができていた。しかもただの街ではな
﹁なんじゃこりゃあっ
!
街に入るにも、入ってからも警備がしっかりとしてあったが、人間に擬態しかつ高度
いたためにそのことを気にしている余裕はなかった。
けてから人間達の街に入り込んだ。このときも少しの違和感を感じたが、未だに慌てて
らに禍気を隠し、特殊な結界をフィルターに見立てて張ることで、妖気を霊気に見せか
とにかく、人間のど真ん中にこの姿のまま飛び込むわけにはいかず、俺は耳と尻尾、さ
ことに⋮人間といえど、成長スピードが半端じゃない。
縄文だか、それぐらいの文化しか持っていなかったはずだ。それがいつの間にかこんな
ことに気づかなかったことに俺は頭を抱えた。そもそも、以前見た時の人間は弥生だか
こちらのほうにはしばらく来ていなかったとはいえ、これほどのものが作られている
!
81
な認識遮断が使える俺にはまるで効果がない。街の中には人工的な風景に満ちている。
風情のある風景など一切なく、とても無機質な世界だった。イザナギの家がこんな街の
中にあるなどあまり考えたくはなかったが、イザナギの気配は間違いなく街の中心辺り
にあった。
俺がぱたぱたと小走りにそこまで行くと、イザナギの家はこの未来都市の中で変わら
ず存在していた。俺の和風の家を真似て作られたらしい和風の屋敷。五百年前に見た
ものとまるで同じものだ。変わっているのは周辺の風景だけで。
ばしばしと入り口である引き戸を叩き、俺はイザナギの名を叫んだ。アマテラスが出
﹁イザナギッイザナギッ﹂
てきたらどうしようとか考えないこともなかったが、今の俺にはそれ以上に優先すべき
ことがあった。はたして出てきたのは、運よくアマテラスではなく久しぶりに顔を見る
イザナギだった。
騒ぐ俺を、イザナギは宥めながらとにかく俺を家に上げてもらった。そして、座敷で
俺が一息ついたところで、イザナギは口を開いた。
ウカノ﹂
?
たい事はあるが、まずはこっちからだ。なぁ、お前こいつを見てどう思う
﹂
﹁そうだな。しかし俺は思い出話をしにきたわけじゃない。この街のこととか色々聞き
﹁ずいぶんと久しぶりではないか
九尾の次は八尾?
82
?
慌てて来てはみたものの、俺は少し
と、俺は今出せる尻尾を全て出してイザナギに見せた。九本だったはずの尻尾は今は
八本。これにイザナギはなんと答えるだろうか
い。九尾狐なんかも、この地上では俺ぐらいのものだ。
が、イザナギはこともなげにこう言ったのだった。
﹂
﹁おお⋮霊格が上がったのだな。我はウカノにおめでとう、と言えばよいのだろうか
﹁へ
﹂
冷静さを取り戻してきていた。よくよく考えれば、イザナギ自身狐に詳しいわけではな
?
まだこんな兆候は見られなかったのだがなぁ﹂
俺の尻尾が八本になっちゃったことに関しての反応は無し
﹂
﹁ちょっと待ってちょっと待って、五百年が長いか短いかはいやどうでもよくて、え
?
﹁え
﹂
あろう⋮﹂
﹁前にも言ったはずなのだが⋮。﹃眼﹄を閉じていれば見えるものが見えないのも当然で
ミさんを見たとき以来で⋮
顔をした。どこか呆れたような顔である。イザナギのこの顔を見るのは黄泉でイザナ
俺がイザナギの意外な反応に戸惑いながら言うと、イザナギは俺がいつか見たような
?
﹁ううむ。やはり、五百年というものは短いようで長いということか⋮以前会った時は
?
?
83
!
とにかく俺は、あの時と同じようにイザナギの言葉にしたが
確かにこのとき俺は眼の擬態はまだ解いてはいなかった。しかしそれが尻尾と何か
関係があるのだろうか
﹁俺の尻尾が霊体化してる⋮
なんだこれ、聞いたことないぞ﹂
態にあったイザナミさんとどこか似ている。
すると、八本の尻尾の間に半透明の尻尾が一本見えてきた。その感覚はいつかの魂状
い眼の擬態を解いた。瞳孔が縦に割れ、瞳がますます金色を帯びていく。
?
?
それ
?
?
そして、霊体と化してしまった俺の尻尾の受肉作業。これは存外簡単だった。擬態の
和感の正体だろう。これでかなり使える術の幅は広くなることが見込まれる。
が放出されていた。これが禍気と隠したり、妖気を霊気に擬態していたときに感じた違
まずは神気の確認。なるほど俺からはイザナギのものと同じ、高密度の力の塊、神気
頭のどこかは冷静だった。
次から次にイザナギの口から出てくる言葉に、俺は目を回した。しかし、その一方で
る﹂
に、気づかぬか ずいぶん前に我の言った通りになったぞ。今のウカノには神気があ
こともウカノには可能なはずだ。自身の領域内での操作はお手の物であろう
の上昇に伴って肉体から逸脱してしまったのであろう。だが、それなら逆に受肉させる
﹁ヌシはもともと例外だらけであったろう、今更だと我は思うのだが。おそらくは霊格
九尾の次は八尾?
84
時と同様だ。俺の意思一つで尻尾は霊体実体と切り替えられるらしい。そこではじめ
て気がついたが、尻尾を霊体化しているときは俺の力は著しく上昇していた。これがイ
ザナギの言う、霊格が上がるというやつなのだろうか
?
?
それがどうしてこんなことに⋮﹂
?
はははと笑いながら事も無げに言うイザナギに俺は嘆息した。いつの間にか、って相
展を遂げようとは⋮さしもの我も仰天した﹂
とになっていたのだ。しかし今代の地上人は凄まじいな。この短期間でこれほどの発
を行っていたのだがな⋮いつの間にか人間が集まってきてな、気づいてみればこんなこ
﹁うぅむ⋮ウカノとともに地上の魂の輪環機構を創り上げてからは、各地で最終微調整
しかしイザナギは首をかしげながら軽く言った。
らないわけがない。
たが、しかし周囲に人間の集まりはなかったはず。この劇的ビフォーアフターが気にな
ザナギの家のように草原が広がっているだけだった。以前ほど広大な草原ではなかっ
五百年ほど前、確かにここにはイザナギの似非和風の屋敷しかなく、あとは以前のイ
じゃなかったか
だ。いったいどうなってんだ ここは確か五百年ほど前はお前の家しかなかったん
えたってことや、ここにいきなり未来都市ができてた方にびびってたし。⋮ってそう
﹁ようやく神気が出てきたってのに実感が無いな⋮一応妖気で事足りてたし、尻尾が消
85
変わらず時間感覚ぶっ飛びすぎだろ。⋮俺も人のこと言えないか。
しかし、他に重要そうなことを言っていたイザナギが、俺は気になり思わず尋ねた。
少しトーンを落として問うた俺に、イザナギも笑いを潜めて真顔になると言った。
﹁⋮最終、ってことは、そろそろ戻るのか﹂
すれば、我は天界に戻る。やることはほとんど終わったのでな、いつまでも地上にいる
﹁近いうちに、ヌシに挨拶に行こうと思っていたのだがな、丁度よかった。⋮あと数年も
わけにもいかぬ﹂
﹁⋮そうか﹂
﹁うむ﹂
﹁⋮⋮﹂
覚は確かに人外のものだが、過ぎ去った時間への思いはまるで人間のようだ。
人間だったときの感覚を捨て切れていないからだろうか。俺の異常に気の長い時間感
ばとても感慨深い。感覚的には十年も経っていないように思えるが、それは俺がどこか
いるし、イザナギも千五百年ばかり天界に戻って地上にはいなかったが、こうしてみれ
イザナギ、イザナミさんと出会ってからおおよそ三千年。イザナミさんは今は地底に
しん、と清涼な座敷が静まり返った。俺もイザナギも何も言わない。
﹁⋮⋮﹂
九尾の次は八尾?
86
俺はイザナギのことを親友だと思っているが、イザナギは俺のことをどう思っている
のだろうか。時折、こうして俺の臆病な部分が顔を見せる。気恥ずかしくて怖くて、面
と向かって聞くことはできない。せめてイザナギも俺といる時間を楽しく感じてくれ
ていれば、それは俺にとってもとても嬉しいことだ。
別に今生の別れというわけではないのに、何故こう湿っぽくなっているのだろう。俺
もイザナギも、多分無限に近い寿命を持っている。百年後か千年後か万年後か億年後
か、いつなど想像もつかないが、生きてさえいればいつかまた出会うこともあるだろう。
あの日、ぱったり森の中で出会ったように。
とにかく、こんな空気は俺にもイザナギにも似合わない。だから俺は瓢箪をつかみイ
ザナギの方に掲げて、粛々とした雰囲気を一掃すべく一言、こう言った。
俺は器と酒を取りにいくイザナギの背中を見ながらそう思った。
困ったときの酒頼み。今日から少なくとも数日は夜通し酒盛りになるだろう。
﹁うむ﹂
﹁⋮呑むか﹂
87
﹂
﹁なぁイザナギ、さっき自分で取りに行ってたけど、この家お前一人なのか
スはどこ行ったんだ
アマテラ
?
なのだ﹂
?
﹁いや⋮﹃軍事部﹄は基本的には防衛しかせんはずだ。妖怪を狩っているのはおそらく
﹁へぇ⋮三権分立ねぇ。最近妖怪が狩られてんのはその﹃軍事部﹄の仕業なのか
﹂
もう一つは﹃技術部﹄。天岩戸は﹃技術部﹄の中枢で、アマテラスはそこの長というわけ
のだが、この街は三つの部門で全体を統括している。一つは﹃行政部﹄、一つは﹃軍事部﹄、
﹁⋮話の腰を折るでない。我は人間には過干渉はせぬようにしておるので詳しくはない
﹁ああ、聞いてない﹂
﹁ふむ、言ってなかったか﹂
﹁ふーん。って、天岩戸って何だよ。さりげなく知らない単語出すのは止めてくれ﹂
戻った後もしばらく地上に残るようだぞ﹂
﹁今は確か天岩戸の方に行っておるはずだ。む、言い忘れておったが、アマテラスは我が
?
図っておるのだろうが、いつかはそれも崩れるのだろうな。どういう形かは分からぬ
﹃軍事部﹄や﹃技術部﹄が少しだが行政権を持っておったりな。それで権力の平均化を
けではないのだ。﹃行政部﹄や﹃技術部﹄が些細とはいえ独自の軍事力を持っておったり、
﹃行政部﹄の私兵だろう。確かに権力は三つに分けられているのだがな、完全にというわ
九尾の次は八尾?
88
が﹂
﹂
?
そこの長⋮ついでに﹃軍事部﹄の
?
﹁⋮⋮なるほど。││そうだな、良い名だ﹂
長は﹃ツクヨミ﹄、﹃軍事部﹄の長は﹃スサノオ﹄という。どうだ、良い名だろう
﹂
ようなのだが、たまたま我が拾って育てておった。どちらも優秀な子らだ。﹃行政部﹄の
﹁ふむ、実は二人とも我の養子なのだ。どうやら力が大きいゆえに捨て子になっていた
長は何ていうんだ
じゃない。それで、暴走してんのは﹃行政部﹄か
﹁人 間 て な そ ん な も ん だ ろ う。純 粋 な 力 だ け で 全 体 を 纏 め ら れ る ほ ど、簡 単 な 生 き 物
89
?
イザナギに聞いた﹃天岩戸﹄を見つけたのは、屋敷を発って一時間ほどしてからだっ
の真っ白な容姿が目立たないのはいいんだが。
また人間の髪や目の色も様々で、丸ごと染めているんじゃないかと思うぐらいだ。俺
ている。俺の白いシンプルな着物なんぞは、その中では街の景観の一部にすぎない。
発展したせいか服飾文化が安定しておらず、通りには様々な種類の服を着た人間が歩い
認識阻害のせいもあるが、他に多種多様の服であふれているという理由もある。急激に
立つ、それは目立つ。それでもこの未来都市で俺が堂々と歩いていて目立たないのは、
わっていない。言うならば、とても古めかしいものだ。仮に現代の街で歩いていれば目
ところで、俺の服装は人型になった時にいつの間にか着ていた白い着物から何も変
たい。普段の様子からは全然想像がつかないので。
スへの挨拶はそのついでだ。それにアマテラスの仕事をしている様というのも見てみ
テラスに進んで会いたいわけではなかったが、
﹃天岩戸﹄自体には興味がある。アマテラ
イザナギの屋敷を出た俺は、早速アマテラスの天岩戸に向かうことにした。別にアマ
薬剤少女
薬剤少女
90
91
だとか監視カ
た。一際立派な研究所といった風情で、これまた多種多様の人間が出入りしている。
俺はその中の一人にぴったりとくっついて侵入していった。警備員
ば、それを真横から眺めていた。相変わらず認識阻害を行っているため、少女が気づく
ぴっと、無機質な電子音とともに端末の画面が目まぐるしく変化してゆく。俺はといえ
少女は﹃主任室﹄の扉の前で立ち止まると、指紋認証端末に指を差し入れた。ぴっ、
のおかしなナース服の上に白衣を羽織っている。
てきた通路から一人の少女が歩いてきた。長い白い髪をお下げにして一本に縛り、青赤
俺は諦めて、他の端末からクラッキングでもしてみようかと考えていると、俺の歩い
るのは尻尾だけだ。尻尾だけ通り抜けてもしようがない。
きないし、破壊するのも論外だ。扉をすり抜けでもできたらいいが、そんなことができ
思ったりしてみたが、俺でもこれはどうしようもない。認証端末を騙くらかすことはで
の 主 任 室 の 入 り 口 に は こ れ ま た 障 害 が あ っ た。⋮ 指 紋 認 証 で あ る。こ こ か よ ー と か
う場所の情報を、受付嬢の認識を騙しながら受付にあった機械から入手したのだが、そ
それから、アマテラスのいる場所を見つけるのにも苦労した。結局﹃主任室﹄とか言
るので意味はない気がする。
属性を付加して透明になってみたり、体温も偽装してみたりしたが、認識阻害もしてい
メラ的なものはあったが、指紋認証だとかそんなハイレベルなものは無い。一応結界に
?
様子はない。
ほどなく、しゅいんとほとんど無音で扉が開く。少女は特に臆することなくつかつか
とそこに足を踏み入れた。俺はすかさず少女がそこに入ると同時に、身体をスルリと中
へと入れた。
が、そこはアマテラスの部屋ではなかったらしく、彼女はいなかった。
そもそも、そこは主任室というよりは研究室だった。隅っこには申し訳程度に執務ス
ペースが置いてあるが、ほとんどはさまざまな薬剤や器具で埋め尽くされている。
少女は執務机で何事かしていたが、その何かを終えた後は、栓をして並べてある試験
天岩戸
管の方へと歩いていった。どうやらこの主任室は少女の部屋らしい。
主任室の主ということは、多分そういうことだ。つまり、アマテラスの場所も知って
﹁という事は、ここでも結構上の人間なのかな﹂
いる可能性が高い。そう思い、俺は少女に話しかけることにした。何気に人間に話すの
はこれが初めてなのだが、俺は大して気にしていなかった。
﹂
!?
﹁なぁ﹂
誰
!!?
の時点で少女は一本の試験管を手に取っていた。少女が驚いた拍子に持っていた試験
認識阻害を解いて少女に話しかけると、少女は身体を強張らせて叫んだ。しかし、そ
﹁
薬剤少女
92
管は少女の手から滑り落ち、試験管は床にぶつかって割れ、中の溶液も無残に床に飛び
散る。
﹂
﹁あーぁ⋮﹂
﹁
?
ぶん後のことだ。
どうやってここに入ったの
﹂
知らなかった。幽霊みたいになったのに成長ってどゆこと
と首をかしげるのはずい
と、俺は思っていたが、尻尾が霊体になると同時に少し成長していたことをこのときは
2cmほど、負けていた。数千年前から少しの変化もない身長では仕方がない。⋮
﹁俺の方が背が低い⋮﹂
で、俺ははたと気がついた。
いる少女の方を見た。彼女との距離は既に50㎝程度、ほとんど目の前にいる。そこ
それに栓をして、とりあえず試験管たてに戻した俺は、改めて口をぱくぱくとさせて
いないのか知らない俺ではどうしようもない。
た。⋮ただし完全に元に戻ったのは試験管だけだ。溶液が反応してしまっているのか
散った溶液や試験管に指を乗せた。瞬間、それらが落ちて割れてしまう前の姿へと戻っ
さすがに驚かせた俺が悪かったかと思い、俺は少女の足元まで歩いていくと、飛び
!?
﹁⋮貴女、誰
?
?
93
少しは落ち着いたのか、警戒の現われか身構えながら俺に向かって誰何する少女。俺
の目的は彼女ではないので、特に何かをするつもりはない。⋮場所聞くために暗示とか
するかも
﹂
?
﹁だろうなぁ﹂
﹁⋮信用できないわ﹂
ありがたいんだが﹂
﹁そうだな、そこそこ古い知り合いだ。それで、アマテラスのいる場所を教えてくれたら
﹁わけが分からないわ⋮アマテラス様に会いに来たって、知り合いなの
かといえば、あんたについて入ってきた。あんたが気づかなかっただけだ﹂
こにいるのか分からん。ここは、
﹃主任室﹄ははずれだったしな。で、どうやって入った
﹁俺はウカノミタマという。天岩戸にいるはずのアマテラスに会いに来たんだがな、ど
!
いのか責任者。いいのか少女。
怪がお友達っていってるようなものだろ。尻尾が九本ある普通の狐とか、ないわー。い
アマテラスに他に狐のお友達がいなければ俺のことなのだろう。だけどそれって妖
が何を言っているのか、良く分からなかったんだけど、もしかして⋮﹂
本もある、言葉は乱暴だけど可愛い娘だって。⋮私も、それを聞いた時はアマテラス様
﹁でも、以前アマテラス様が白い狐の友達のことを話してたわね。ふかふかの尻尾が九
薬剤少女
94
が入り込んでるわけだが、どうする
妖怪は基本的に人間の敵なはずなのだが。
﹁俺のことだろうな。で、妖怪
﹂
?
﹁そーか、助かった。じゃ、ばいばい﹂
の趣味でロックはない扉だから、そのまま通れるはずよ﹂
m行ったところに扉があるわ。データ上には記載されてない場所だけど、アマテラス様
﹁⋮この部屋を出て右に10m、突き当たりでさらに右に14m、そこから今度は左に8
くれた。
少女は呆気に取られた顔をしていたが、直に冷静な顔つきに戻すと俺の要望に答えて
俺は少女の言葉に答えるべく、尻尾を九本全部を一瞬出してまた戻した。
少女もおそらく突然変異的な、力を持っている方の人間なのだろう。
いい例だろう。つまり、妖怪に劣らぬ力を持っているということだ。
い余裕がある証拠だ。会った事はないが、イザナギが言っていたツクヨミやスサノオが
に突然変異的な人間がいて、そういう人間は闘いや様子見を選ぶ。それは他の人間と違
妖怪を相対したときの人間の反応は、恐怖、逃走、失神、とこんなところだが、たま
であることに反応はない。
俺が妖怪、というか禍物だけど、めんどいのでもう妖怪でいいか。少女から俺が妖怪
﹁⋮でもあなたには尻尾がないわ。それにどう見たって人間でしょう﹂
?
95
﹁ば、ばいばい﹂
と、俺は颯爽と扉に向かった。しかし、その歩みは途中で止まる。
﹂
これ作るの苦労したのよ
どうしてくれるのよ
﹂
!
ろうか。
﹁ちょっと
﹂
!?
えば、俺があれを元に戻したことに対しては何も言わなかったが、よくあることなのだ
突然の叫び声に振り向くと、少女が例の試験管を持って中の溶液を見ていた。そうい
﹁あーーーーーっ
!!
何がいけないんだ
?
!
を指差しながらなおも叫んだ。
俺は扉から執務机の方に移動しながら少女に聞いた。少女は試験管の中の青い液体
﹁あん
?
﹂
!
!
を颯爽と去っていった。
突然の俺の謎の行動に、ぽかんと口を開けている少女を尻目に、俺は今度こそ主任室
おし、少女の手へと戻した。その間僅か四秒。
れから、その手にある試験管を奪い取り、栓を抜いて少し振ってからすかさず栓をしな
俺は執務机の上の記録紙をざっと見やり、それから少女のほうへと歩いていった。そ
たやり直しだわ
﹁これは元々は緑色だったのよ、それが空気と反応したせいで青色に⋮ああもう ま
薬剤少女
96
部屋に一人残された少女は、ウカノが出て行った後に我に返り、扉を恨めしげに見つ
めながら肩を落とした。﹃どうしてくれる﹄と、見るからに門外漢の少女に言ったところ
でどうしようもない。
﹂
言いようもない虚無感を感じながら、少女は手の中にあった試験管を何気なく見つめ
た。
何で⋮
?
しかし、少女の手の中にある試験管の中では緑色の溶液が静かにゆらめいていた。
ある。
天岩戸の中でも少女ぐらいのものだ。だからこその主任、だからこその専用の研究室で
いるのは通常の溶液よりもはるかに高度で繊細なもの。そして、それを扱えるのはこの
一度酸化してしまったものが、そう簡単に戻るわけがない。ましてや、少女が扱って
﹁な⋮
!?
97
の中央には低いテーブルがあり、それを囲むように置いてあるソファには三人の男女が
いてある。壁にはいくつもの棚が並び、その中には無数の紙媒体があった。そして部屋
スのイメージとかけ離れている。床には絨毯がひかれ、部屋の奥には重厚な執務机が置
扉を押し開け中を見ると、そこは一種の別空間だった。部屋の中の雰囲気はアマテラ
だからだろうか。
に用心の必要があったとしても、趣味を先に置きそうだと思えるのは、あのアマテラス
間は此の都市にはいない。無用な用心ならば、彼女は趣味を優先するだろう。しかし仮
くだろう。無用心と、思えるかもしれないが、少なくともアマテラスの相手ができる人
扉にはなるほど鍵というものは一切なく、取っ手を掴んで押し開ければ簡単に扉は開
あいつはこんなアンバランスを楽しむやつだっただろうか。
むしろ民家にあるほうが自然な扉が目の前にある。アマテラスの趣味と言っていたが、
もなく、無機質なこの通路においても絶妙に浮いている、どこまでも〝普通の〟扉だ。
少女に言われた通りに通路を歩けば目の前には普通の扉。豪奢でも華美でも荘厳で
神代の三貴子は斯くの如し
神代の三貴子は斯くの如し
98
座っていた。テーブルにはその人数に合わせて、ソーサーに乗った三つのカップがめい
めい湯気を立てている。
一人は銀髪の男で、尖った雰囲気を醸し出していた。美形の顔も、その空気のせいで
どこか神経質に見えてしまう。そして、男のかけているソファには一本の両刃の剣が立
てかけられている。
一人は金髪の女で、男とは違い落ち着いた感じだった。飄々としていて、その態度に
大人の余裕が見受けられる。こちらは壁に巨大な黒い大剣を立てかけていた。その存
在感は男の剣とは段違いである。
そしてもう一人は黒髪の女で、言わずと知れたアマテラスである。前二人は人間なの
でアマテラスが一番年上のはずだが、しかし三人の中では一番子供っぽい。人間二人
も、どちらかといえば少年少女ぐらいの容姿だが、少なくともアマテラスよりは大き
かった。
俺が扉を開けたのに最初に気づいたのは、扉がすぐ見える位置に座っていたアマテラ
﹂
スだった。アマテラスはその子供っぽい顔に喜色を表し、つかつかと扉の方にやってく
ると、
﹁あーーーーー│││││誰
俺の腰を見ながらそう宣いやがったのだった。
?
99
ごめんごめん。久しぶり、ウカノちゃん
﹁顔を見ろ顔を。俺を尻尾の有無で判別するな﹂
﹁あはは
﹂
!
﹂
!
すら混じっているような気がするのだ。
ガキンッ
!
と、アマテラスが言い終わるか言い終わらないかのうちに、俺の左手の人差し指と中
!
﹂
とも多いが、この男の態度には熟考の余地はない。何せ俺に向けられる視線には、殺気
えてしてその言葉が使われるとき、態度が悪いのはむしろそう言っている方であるこ
それはいくら美形でも、﹃何あれ感じ悪ーい﹄とでも言われそうな態度だった。
に立てかけられている剣に伸びている気がする。
たが、銀髪の男の方はといえば、剣呑な目つきで俺を見つめていた。その手は、ソファ
もなくアマテラスと俺の方を向いている。金髪の女は俺と目が合うと笑顔で会釈をし
二人の男女は、アマテラスの突然の行動には慣れているのか、特に大きなリアクション
アマテラスは俺の手を取ると、部屋へと招き入れた。アマテラスと話していたらしい
かく入って入って
﹁久しぶりだよー、あぁ、もう私はウカノちゃんのもふもふ成分が足りなくて⋮あ、とに
﹁それほど久しぶりでもないと思うが、うんまぁ久しぶり﹂
!
﹁あ、二人とも、前言ったような気がするけど、この子がウカノミタマだよ
神代の三貴子は斯くの如し
100
指は剣を挟んで止めていた。止めずとも、彼の腕では俺を斬ることは出来なかっただろ
うが、真剣白羽取りをリアルでやってみたかったがためにやってしまった。失敗しても
切れやしないので、危機感もスリルも爪の先ほどもなかったが。
ケ
モ
チ
この、有稲姥痴が
ウ
﹂
そして、俺を攻撃して来たのは無論銀髪の彼である。俺に一体何の恨みがあるのか知
さっさと死んでしまえ
!
!
らないが、正直場所はわきまえて欲しい。
﹁姉上を惑わす穢らわしき妖怪め
要約すると、﹃ウカノのクソババア﹄
喧嘩売ってんのか、てめぇ﹂
?
だ
﹂
﹂
何故妖怪がこの神聖な場所に⋮さっさと去れ
滅しろ
﹁はっ、四千年は早いぞ、糞ガキ
﹁止めなさい、ツクヨミ
﹂
を焦がす。マガラゴあたりには劣るものだったが。
いや、ここで死骸塵芥残さず消
微塵もぶれることなく俺の方を向いている。先ほどよりも強い殺気がぴりぴりと空気
俺が指から剣を離すと、男は流れるように剣をひき戻し再度構えた。その切っ先は、
!
!
!
!
!
﹁黙れしゃべるな空気が穢れる 貴様らが息を吐き出すたびに、空気が穢れてゆくの
﹁あ゛あ゛
?
有稲=多分俺の名前。姥=婆。痴=愚かなこと。
!
101
!
しかし、一触即発の空気をアマテラスが破った。むしろ、今まで黙っていたほうが珍
しいぐらいだ。どうやら突然の男の、ツクヨミ の行動に驚いていたらしい。ツクヨミ
﹁し、しかし姉上
姉上はこいつに騙されておられるのです
らわしき妖怪で⋮﹂
﹂
こいつは正真正銘穢
私の友達に剣を上げるなんて、どういう了見なの
!
すなど、素人でもしない。
⋮どうやらこの男、こういう荒事は専門ではないらしい。剣を向けた相手から目を逸ら
はアマテラスの怒声にびくっと震え、しかし抗議するようにアマテラスの方を向いた。
?
﹂
﹁そ、それは⋮﹂
﹁ツクヨミ
!
どう見ても謝ってないだろ的な謝罪を、俺に向かって二秒で済ませると、ツクヨミは
﹁う⋮シツレイシマシタ﹂
!
﹂
高いツクヨミに負けじと胸を張る姿はとても微笑ましいが。
で、頭の両脇で髪を縛っていて、身体もちっこいが、その姿は弟を叱る姉である。背の
俺は少し小さくなっているツクヨミから目を離し、叱るアマテラスの方を見た。黒髪
!
!
おー。なんだかお姉さんっぽい。
﹁黙りなさい
!
﹁ウカノちゃんに謝りなさい
神代の三貴子は斯くの如し
102
即座に背を向けて扉から出て行った。というか逃げて行った
なかったが。
どちらにせよ、彼は最
後に俺に向かって一瞥、と言うより精一杯の心のこもった一睨みをしていくことを忘れ
?
﹁ツクヨミ ⋮もう ごめんねウカノちゃん⋮ツクヨミが妖怪が嫌いなことは知っ
103
!
﹁うん
﹂
﹃もふもふの尻尾が九本ある可愛い女の子﹄って言ったよ
?
いいのかなぁ。
てる﹃行政部﹄の長のツクヨミね。父様の養子で、私の弟なの
﹂
﹂
﹁あ、まだ紹介してなかったね。さっき出て行ったのは、この街のもっぱら行政を担当し
まるところ妖怪であることはすぐに分かるということだ。
そして尻尾のある人間などはいない、つまりアマテラスの話を聞けば、俺が人外、つ
れも当然なのだが、だからこそ、人間と似た姿をしている妖怪がいてもおかしくはない。
だった。しかし、存在する妖怪の姿も千差万別である。元が人間の負の気なのだからそ
少なくとも、今まで俺が見た妖怪の中では、人間と同じ姿をしている妖怪は俺だけ
!
のことは言っていたのか
﹁人間一人に傷つけられるほど弱くないから、別にいいけどな。やっぱり、他のやつに俺
てたんだけど、まさかウカノちゃんにまであんなことするとは思わなかったから⋮﹂
!
﹁あぁ、そう⋮﹂
!
!
﹂
ま、いいや。こっちに座ってるのはスサノオ、父様に聞いてたのなら知っ
﹁あぁ、それはイザナギに聞いてる﹂
﹁そうなの
てると思うけど、この街の防衛を司る﹃軍事部﹄の長だよ
というぐらいだ。
?
ますよ﹂
﹁はじめまして、スサノオです。ウカノミタマさんの話は、姉さんにも父さんにも聞いて
べると月とすっぽんだ。月読みなのにすっぽんとはこれいかに。
彼女は上品に笑顔でぺこりと頭を下げた。こういう余裕のある態度も、ツクヨミと比
ちぐらいには持ち込めるのではないだろうか
らしく、力も空気もツクヨミとは段違いだった。この歳で、おそらくマガラゴにも相打
ファに座っていた、金髪の女だった。なるほど﹃軍事部﹄の長というのは伊達ではない
そう言ってアマテラスが指したのは、ツクヨミが飛び出してからもずっと動かずにソ
!
?
私には似合わないぐらい女の子らしい名前だと思いますけど⋮﹂
?
スサノオは自然な動作で首をかしげながらそう言った。俺は肩をすくめながらそれ
﹁あぁ、そう⋮﹂
﹁そうでしょうか
ぐらいだから、男だと思ってたんだが﹂
じゃ語呂悪いから、俺呼ぶときはウカノって呼んでくれ。しかし、
﹃スサノオ﹄っていう
﹁み た い だ な。お っ と、は じ め ま し て。挨 拶 に は 挨 拶 で 返 さ な い と な。ウ カ ノ ミ タ マ
神代の三貴子は斯くの如し
104
﹂
に返す。こんなところに感性の違いがあったとは。カルチャーショックにしても大世
代違いすぎだろ。
﹁スサノオは、妖怪がここにいることに何か反応はないのか
イザナミさんに似ている気がする。
!
?
?
た。
﹁あ、もしもーし
うん、私私。飲み物のお代わりを持ってきてくれないかな あ、
それに気づいたらしいアマテラスが、執務机の上にあったおかしな機械に手を伸ばし
これに口をつける気はしない。
面だった。テーブルの上にはツクヨミのものであろうカップが乗っていたが、さすがに
く従うことにする。俺が座ったのはさっきツクヨミの座っていた位置で、スサノオの正
アマテラスが俺の背をソファの方へと押した。遠慮する理由もなかったので、大人し
﹁あ、ウカノちゃん、とにかく座ってよ
﹂
アマテラスはイザナギに似ているけど、スサノオは血もつながってないのに、雰囲気が
アマテラスとスサノオの性別ぐらいしか見つからないんだが。何この出来すぎた妹は。
なんだろう。アマテラス、ツクヨミ、スサノオで色々と違いすぎだろ。同じところは
な方に向ける刃は、私は持ち合わせておりません﹂
﹁ここにいらっしゃるウカノさんは、妖怪である以前に姉さんのご友人です。そのよう
?
105
運ぶのはオモイカネちゃんに任せてね。ついでに、オモイカネちゃんの分の飲み物もお
願い。⋮うん、うん、それじゃよろしくー﹂
どうやら電話の類らしい。
﹂
新しい名前が出てきたのは気になったので、話を終えたらしいアマテラスに聞いてみ
ることにした。
﹁なぁ、オモイカネって誰だ
﹁ここ、
﹃天岩戸﹄の研究主任だよ ホントはもっと長い名前何だけど、長すぎるし発
?
!
﹂
音も面倒だから、最後の﹃オモイカネ﹄だけで呼んでるの。まだ小さいんだけど、私よ
り優秀なんだよ
!
別に仕事してないわけじゃないんだよ
﹂
基本的にここの研究業務の最高責任者はあの子なの。私はお飾りみたいなものか
﹁だろうな⋮﹂
なー。あ
!?
?
﹁うわぁん
﹁わぁん
スサノオちゃんが虐める
オモイカネちゃん早く来て
!
助けてウカノちゃん
!
﹂
﹁⋮うん。アマテラスはアマテラスらしいのが一番だよな﹂
!
!
﹂
﹁大丈夫よ姉さん。姉さんの仕事はここの看板なんだから、何もしなくていいの﹂
!
﹁
神代の三貴子は斯くの如し
106
!
107
しばらくしてやって来た、さっき出会った赤青白衣の少女にアマテラスが縋り付いた
が、理由を聞いた少女にけんもほろろに扱われていた。アマテラスの直属の部下が少女
なのだから、訳は言うに及ばず。
太陽神とはすなわち斯くの如し。言わば太陽のような彼女ではあるが、神秘など欠片
もない天照大御神である。
しかし天照=彼女が既に染み付いてしまった俺は、もうこの時代に毒されているのだ
ろうか。月夜見尊は狭量で姉命の妖怪嫌い、建速須佐之男命は大人な女。
けれど、そんな後世に語られない神の姿が見られるこの時代を、俺は心底楽しんでい
ると思う。
似非未来都市での日常
俺がこの未来都市を見つけてから五年後、イザナギは宣言どおりに天界へと帰って
いった。五年程度は、俺達にとってはそれこそたいした期間じゃない。だからか、イザ
ナギとの別れもずいぶんとあっさりとしたものになった。イザナギが行くことを惜し
んだのは無論俺だけでなく、多くの人間がいたが、イザナギは派手なことを嫌ったため
に盛大な送別会などは無く。俺とも二言三言言葉を交わしたぐらいだ。
ア マ テ ラ ス は ま だ 地 上 に い る も の の、彼 女 も あ と 数 年 も す れ ば 天 界 に 戻 る そ う だ。
﹃天岩戸﹄はやはりオモイカネに任せるとのこと。
ちなみに俺とオモイカネは相性がよかったのか、最近はオモイカネのところに入り
浸っている。
俺が最近はオモイカネのところに入り浸っているのは、こうしてオモイカネの仕事を
俺はオモイカネの差し出した紙を手に取り、試験管群に手を伸ばした。
﹁へいへい﹂
﹁G│97からG│283までお願い。詳細はこの紙に書いてるから﹂
似非未来都市での日常
108
手伝うためだったりする。はじめて会った時にたまたま見せることになった俺の能力
が、彼女のニーズに合致したらしく、彼女からの協力要請がアマテラスを通して俺のほ
うに来たわけだ。躊躇いなく妖怪に何かを頼むところ、オモイカネも本当にいい性格し
てると思う。
俺にもメリットがあったので快く引き受けたのだが、しかし何分オモイカネの仕事量
は多すぎた。だから、俺がこうして忙しなく働いているというわけだ。
五年が経って、オモイカネはまた成長していた。既に俺との身長は比べるべくもな
﹂
く、また胸部も張り出してきた。人間って成長早かったんだなぁ。
﹁どうしたの
﹂
?
残念ながら、俺も自分の身体にそこ
?
﹁今お前は全俺を敵に回した﹂
﹁そうよね⋮大きい胸なんて邪魔だし、肩が凝るし、およそデメリットしかないわ﹂
までのこだわりはない﹂
﹁はっ。俺がでかい胸を欲しがっているとでも
ば成長しない妖怪のほうが不思議よ。それと胸を睨むのは止めてくれない
﹁あなたは最初に会ったときから私より小さかったでしょう。それに私達人間からすれ
なってしまって⋮﹂
﹁オ モ イ カ ネ も 昔 は あ ん な に ち っ ち ゃ か っ た の に な ぁ ⋮ 今 で は こ ん な に 可 愛 げ が な く
?
109
﹁めちゃくちゃこだわってるじゃない
﹂
ていると砂丘ぐらいは欲しいとか思わないか いつからこんなこと気にするように
とは言ったものの別にでかい胸が欲しいわけじゃない。ただなんとなくまな板を見
!
﹁出来たぞ、97∼283。えーと、次はCの方をやればいいのか
をかけても、不純物がいくらか混じるのに﹂
﹂
反応物を推測、生成物を分離抽出とかやってた私が馬鹿みたいじゃない。それだけ手間
﹁ええ。⋮相変わらず馬鹿みたいに早いわね。しかも不純物一切なしって⋮。いちいち
?
ことのほうが重要だった。
ん狐の身体しかなかったときは、ついてるかついていないかより、動物の身体に慣れる
だろう。しかし、この身体になる前に狐の身体のスパンがあったことが幸いだ。なにぶ
る。おそらく、男からそのままこの身体になっていれば、こう簡単には馴染めなかった
なったんだろうなぁ。精神は男のままのはずなのだが、俺は妙にこの身体に適応してい
?
﹂
?
い。例えば、以前作っていたがん細胞を過程はどうあれ結果的に駆逐する薬とか、もう
物理的に作れるものであれば、材料さえあればどんな薬でも作ることが出来るらし
オモイカネの能力は﹃あらゆる薬を作る程度の能力﹄。
かなくなるぞ。⋮あぁ、オモイカネの能力ならそれも無意味か
﹁そっちの方が正道だろ。俺のは正直邪道だぞ。あんまり楽には慣れるなよ、応用が効
似非未来都市での日常
110
謎過ぎる。がんって遺伝子疾患じゃなかったっけ⋮。
さらに俺がいることで、自然界にはありえないような組成の物質を作ることもできる
ので、オモイカネの能力の反則ぶりに磨きがかかっている。そのうち不老不死の薬でも
作るんじゃないだろうか。
﹂
?
﹁ええ、今日もありがと。スサノオ様によろしくね﹂
﹁んじゃ、俺はそろそろ行くわ﹂
俺は仕上げた試験管を置き、オモイカネへと声をかけた。
い。だからこそ、遅くなるわけにはいかなかった。
点がないのでどうでもいい。とにかく、スサノオが時間を取れることはあまり多くはな
スサノオは存外忙しい。いや、おそらくツクヨミが一番多忙なのだろうが、彼とは接
ところに行くつもりなので、あまりのんびりはしていられない。
首をかしげるオモイカネをよそに、俺はCの試験管を仕上げた。この後はスサノオの
﹁できたらオモイカネに見せる。それまでは言えないな﹂
﹁何が
﹁あれか。あれは失敗作だな。もう少しで成功しそうなんだが⋮﹂
きは気が狂いそうになったわよ﹂
﹁あなたの能力のほうが大概反則でしょう⋮。意味不明の構造をした石を持ってきたと
111
﹁ういうい﹂
この都市に来て俺が一番頻繁に通う場所はオモイカネのところだが、その他にも時折
通う場所がある。それが、スサノオのところだ。
最初は、スサノオの腕鳴らしに誘われたのが始まりだったが、あれよあれよと言う間
にその交友は今まで続いている。最近では彼女の副官、タケミカヅチとも模擬戦をやっ
﹂
ているほどだ。ちなみにタケミカヅチも俺が妖怪だということは知っているが、特に文
句はないらしい。彼も、いわゆる強者なのだ。
﹁おーい、スサノオ。⋮あれ、どこか行ってたのか
?
精悍な顔つきの、中年に入る前の青年、といった感じの男がタケミカヅチである。極
だからなおさらだ。
髪も少しほつれてしまっている。さらに、彼女のそばにはタケミカヅチも付いていたの
かけた。その身体には木の葉などが付いていて、そしていつもは櫛の通ったつややかな
真っ黒な戦闘装束を身に纏い、黒い大剣を背負って歩いていたスサノオに、俺は声を
てきました。例の﹃蜘蛛﹄です﹂
﹁あ、こんにちは、ウカノさん。ええ、街の近くまで妖怪が来ていましたので、追っ払っ
似非未来都市での日常
112
113
限まで鍛え上げられた細マッチョ。理想的なその肉体は、戦闘においてもその見た目を
裏切ることはない。そして、タケミカヅチはどちらかと言えば寡黙なタイプの人間だっ
た。話を振られなければあまり口を開くことはない。
例の﹃蜘蛛﹄⋮マガラゴが来たということは、二人だけで行ったのだろう。一般兵の
未来的武装な光線銃ではあの身体には傷一つつけることはできないのだ。
彼女も、そしてタケミカヅチも銃を使わずに剣を使っているのは、ただ単純にその方
が強いからだ。禍気は、人間の外見を大きく変貌させることはないが、進化を早めたり、
こうしてたまに異常な能力を持った人間を生んだりする。おそらく、禍気が今以上に薄
れてしまってもこれがなくなることはないだろう。
ている俺だからこそ知っていることだが、実はマガラゴは、人間に
さて、二人と戦ったマガラゴだが、今回も死んでしまっていることはないだろう。普
段マガラゴと話し
はいるが、それが居なくなってしまえば 人間に対し個人的な感情を持たないマガラ
が無秩序に動き出してしまうためだ。今でこそマガラゴが頂点に立つことで纏まって
ガラゴが死んでしまえば、頭がよくなったとはいえお世辞にも人間ほどではない妖怪達
それが分かっているのかスサノオもタケミカヅチもマガラゴを殺すことはない。マ
以上に人間と敵対することはないのだ。
対する感情は種族の確執程度のものしか持ってはいない。ようするに、マガラゴは必要
?
?
ゴのようなものが、また上に立つとは限らない。もしも人間に対し憎悪を持つものが
立ってしまえば⋮行きつく先は泥沼だろう。
相変わらず妖怪に手を出してるのか
﹂
二人は相対するマガラゴの態度から、なんとなくそこは察していた。
﹁ツクヨミはどうしてるんだ
?
まずありえない。アマテラスが天界に戻った後はいったいどうするつもりなんだか。
ことでようやく纏まっているようなものだ。二人だけで一つのテーブルにつくことは、
オとツクヨミの相性は実はとてもよろしくはない。この二人は、アマテラスが間に立つ
すると、スサノオの端正な顔が嫌そうに歪んだ。彼女にしては珍しい面だが、スサノ
?
結局、事なきを得たわけだが。
確証はないが、二人が動かなければマガラゴは街へと本格的に侵攻していたはずだ。
今回マガラゴが街の近くまで来ていたのも、そういう不満を払拭するためだろう。
が出てくるのは当然だ。
ない。そのため狩られているのは、力の弱い小妖怪ばかりだが、それでも妖怪側に不満
もが一般兵だ、スサノオやタケミカヅチのような単体で妖怪を蹴散らせるような者はい
ふぅ、とスサノオは不愉快そうな表情で悩ましげに息を付いた。ツクヨミの私兵は誰
ことはほどほどにして欲しいものです﹂
﹁どうやら、そのようです。ウカノさんが来られてからは減っているのですが。勝手な
似非未来都市での日常
114
﹁ま、それなら今回は模擬戦無しだな。また暇が出来たら呼んでくれ﹂
?
標である。実はこの目論見は、未だ完成こそしていないものの、五年前に神気が使える
ゆくゆくは、この式紙の性能を上げることと、式紙よりも上位のものを作ることが目
あると効果を発揮することは出来ない。
会話ができるものだ。ただ、この式紙では出力があまり高くなく、あまりにも隔たりが
ちなみにスサノオに渡したものは、通信符の名前そのままに離れた場所にいる相手と
ことは出来なかった。
気タイプと霊気タイプがあることだろうか。残念ながら二つともに対応した式は作る
来のアニメとかに出てきた御札を参考にしたのだが、存外にうまくいった。欠点は、妖
ば誰でも使える上に、俺にとっても術式をショートカットできる便利な代物である。未
決して大層なものではない、紙に術式を打ち込んだだけの単純なものだ。力さえ注げ
﹃式紙﹄。
た短冊大の紙を一枚渡した。
頭を下げるスサノオに、俺は袖から出した、いくつもの短い線で出来た記号が書かれ
﹁ん、ああ分かった﹂
まったんです⋮﹂
﹁あ、すみませんウカノさん⋮通信符をいただけませんか 戦いの最中に紛失してし
115
ようになったことでかなりの進歩を遂げていた。
﹁ありがとうございます﹂
な﹂
﹁今 日 は も う 戻 る わ。ま た 暇 が 出 来 た ら そ の 式 紙 で 呼 ん で く れ。タ ケ ミ カ ヅ チ も ま た
﹁はい。お気をつけて﹂
そしてその日は、最近発生している解決しなければならない問題諸々にめそめそと嘆
のに何故か微笑ましい。
俺がマガラゴの前に降り立つと、ガサゴソと彼は小さく動いた。その様は巨大蜘蛛な
器ゆえに肉体の欠損を空気中にある禍気で補えるためなのだろう。
生しているほどだ。あな恐ろしきは妖怪の再生力。おそらく人間とは違い、妖怪はその
が、マガラゴにとっては外傷は重傷とはなりにくい。特に脚ともなると数日後には再
込んでいる巨大な蜘蛛を見つけた。その脚は三本ばかり折れてしまっている。
街を出た後の俺は、マガラゴのことが気になり彼を探していると、俺の家の前で座り
人の激闘地だったのだろう。
て行った。街の近くの森が、ぼろぼろになっていたが、おそらくあそこがマガラゴと二
スサノオのにこやかな声とタケミカヅチの重厚な声を背に、俺は街を出て森へと戻っ
﹁⋮ああ﹂
似非未来都市での日常
116
117
なのだが、生憎彼の身体というか口は酒を呑むの
く、意外と繊細なマガラゴを慰めることになるのだった。
俺としては、こういう時は酒だ
マガラゴに相づちを打つぐらいのものである。
には適していない。結局俺がしたのは一人で瓢箪に口を付けながら、ぐちぐちと愚痴る
!
俺もツクヨミも、きっと臆病者
イ ザ ナ ギ が こ の 地 を 去 っ て さ ら に 五 年。今 度 は ア マ テ ラ ス が 天 界 に 戻 っ て 行 っ た。
イザナギ同様多数の人間に惜しまれていたが、それは彼女なりの人徳があったためだろ
う。俺が見た彼女は自由奔放だったが、それでも誰からも好かれていたと思う。
最後は、俺の尻尾を千切れんばかりにもふってから、名残惜しそうに去って行った。
数本ばかり毛を抜かれていったが、最後だと思えばお安いことだ。⋮別にさっさと行っ
て欲しかったというわけではない。俺も彼女を好いていた一人だったのだから。
さて、アマテラスがいなくなったことで都市の情勢は大きく変わった。もともと水面
下でくすぶっていた事が表面化しただけのことだ。
たところか。
うと使う気がなければ意味はない。﹃技術部﹄の立場は﹃行政部﹄
﹃軍事部﹄の中立といっ
らしい。﹃技術部﹄はあくまで技術畑の運営する勢力だ、少なからず行政権を持っていよ
まっていたことであるし、そもそも彼女自身は街の流れに関してはそれほど興味はない
﹃技 術 部﹄の 現 ト ッ プ は ア マ テ ラ ス に 代 わ っ て オ モ イ カ ネ。彼 女 が そ う な る こ と は 決
俺もツクヨミも、きっと臆病者
118
しかし、
﹃軍事部﹄は違う。﹃軍事部﹄のトップ、スサノオと﹃行政部﹄のツクヨミは、
ツクヨミのでしゃばりを発端として、静かではあるが幾度か衝突していた。アマテラス
がいたからこそバランスが崩れることはなかったが、そのアマテラスももういない。
場合によっては本格的な抗争にまで発展しただろうが、スサノオ自身はその展開を望
んではいなかった。そして、結局ぎりぎりで均衡を保っていた三貴子の二人は、スサノ
オとツクヨミが互いに完全に愛想を尽かす形で、崩れる過程もなく完膚なきまでに崩壊
した。
スサノオの都市からの追放。ツクヨミが裏から動いたこともあるが、スサノオ自身も
このままツクヨミのいる都市に留まるつもりは微塵も無かった。﹃軍事部﹄のトップは
タケミカヅチに受け継がれ、スサノオは一人都市を去る。
目に仕事に打ち込んできたスサノオが、ようやく自分のしたい何かを始めたというのだ
イザナギもアマテラスも、彼女の行動を責めることはないだろう。幼いときから真面
そう言って、スサノオは黒い装束を纏い大剣を背負い行ってしまった。
無責任かもしれませんが、それでも私は私がしたいこともやっておきたいのです﹂
﹁以前から都市を出て一人旅をしてみたいと思って居ましたし、後悔はしていません。
あれが近くにいることは、私にはとても耐え難いものなのです﹂
ツクヨミ
﹁姉 さ ん も も う い ま せ ん し、こ の 都 市 に い つ ま で も 居 る つ も り は あ り ま せ ん。そ れ に
119
俺もツクヨミも、きっと臆病者
120
から、むしろ喜んでいるかもしれない。天界に行ってしまったので、実際どうなのかは
預かり知らないが、あの自由奔放な二人ならきっとそうだ。
さて、スサノオの後任のタケミカヅチは良くも悪くも、軍人というより武人気質なと
ころがあった。ツクヨミに大きく反発する事こそないが、しかし曲がっていると思える
ようなことは絶対にしない。ツクヨミからしてみれば、スサノオよりはマシだろうがそ
れでも扱いにくい相手だろう。そんなタケミカヅチは、前線で戦う者でありながら妖怪
に対して、これまた種族間の隔意しか持っていない。そういうところは、とてもマガラ
ゴに似ていた。
タケミカヅチもマガラゴももう幾度もなくぶつかっていたが、そこに相手に対する負
の感情は微塵もなかった。ただただ、自分の帰属するもののために剣と爪を交え、互い
の根が尽きるまで自身の全てをぶつけあう。
それは恒例行事のようで、人間と妖怪のバランスを保つために必要なプロセスだった
ように思う。
が、それも限界に近づいていた。いや、イザナギが危惧していたようにいつかは来る
はずのものだったのだ。それが、少し早かっただけで。
マガラゴの言った、妖怪による都市の人間に対する総攻撃、徹底抗戦。
アマテラスとスサノオが都市からいなくなることで、激化した妖怪狩り。既にマガラ
ゴが妖怪を抑えるのは不可能だった。それでも、マガラゴは彼らを最後まで纏め上げる
ことをやめはしない。
そして、同じ時期にオモイカネの言った、月移住計画。
三年ほど前に採決され、既に最終段階へと入った壮大な地上からの脱走計画。まるで
図ったようなタイミングの実行日が告げられた。
結果的には、妖怪の進行を食い止めるために月移住組と残留組に別れることになっ
た。﹃軍事部﹄は、間違いなく残留組である。
主導は無論﹃行政部﹄の長、ツクヨミ。
この計画が地上の穢れとやらから脱却するためなのか、今は天界に、上にいるアマテ
﹂
ラスへ何らかの思い入れがあるのかは分からない。それでも、彼は確かに何よりも上を
目指そうとしていた。
﹁あなたはどうするの
るのよ
﹂
?
あなたは、人間と妖怪、どちらに付くの
?
﹂
﹁﹃行政部﹄の情報からでは、計画決行の日と妖怪達の大進行の日がほとんど重なってい
﹁どうって
天岩戸でフラスコの中の溶液を見つめていた俺に、オモイカネがそう聞いた。
?
121
?
﹁どちらにも、付かない﹂
少しの不安を声に滲ませながら聞いたオモイカネに、俺はそう答えた。
仮に俺が人間につけば、俺がマガラゴを殺せばそれで終りだ。他の妖怪が俺やタケミ
カヅチに勝つことはない。
が、俺がマガラゴを殺すわけはない。
仮に俺が妖怪につけば、この都市の主要人部を全員殺せば終りだ。既にこうして中枢
に入り込んでいるのだ、その程度は造作もない。
断じてノーだ。形はどうあれ、ツクヨミは間違いなく人間
しかし、俺がオモイカネやタケミカヅチを殺すわけはない。
仮にツクヨミを殺せば
ことだ、今度の衝突で、双方の全てを終わらせるつもりなのだろう。
首を突っ込んだことは、一度たりともない。似たもの同士のマガラゴとタケミカヅチの
問題は自分達で付けると、そう言い張っていた。なるほど、俺は今まで両者間の問題に
そもそも、マガラゴもタケミカヅチも俺が味方に付くことを望まなかった。自分達の
くほどの器量も義理もない。
側の指導者なのだ。俺は頭を失った人間を放り出すほど無責任でもなければ、人間を導
?
オモイカネは俺が人間に付くことはないと言ったのに、安心したように息を付いてい
﹁そう、それならいいわ﹂
俺もツクヨミも、きっと臆病者
122
た。
﹁何で
俺が傍観者でいることに﹂
ウカノらしいじゃない。あなたは他人との関係は大切にするくせに、とても
怪訝に思った俺がそう問うと、オモイカネはおかしそうに笑って言った。
﹁怒らないのか
?
らにも肩入れしないんでしょ
﹂
淡白ところがあるわ。どちらも大事だからこそ、いなくなることを承知しながら、どち
?
俺は式紙を作り、しかしその術式の弱さには頭を抱えていた。しかし紙一枚ではそれ
界にはまずありえない構造をした物質である。
オモイカネが袋の中を見ると、そこには朱色の石が入っていた。そして、それは自然
﹁これって⋮﹂
みたいなもんだ﹂
﹁これぐらいはいいだろ。力はあっても、オモイカネは非戦闘員だからな、それはお守り
少しずしりと感触と、ごろごろとした感触がする袋である。
そこまで言って、俺は袖から一つの小袋を取り出してオモイカネと渡した。
が、﹂
ら、俺はどちらも捨てないし拾わない。今の俺に、両方拾えるほどの力は無いんだ。⋮
﹁⋮ あ あ。俺 は 臆 病 者 だ か ら な。片 方 を 拾 う た め に 片 方 を 捨 て な け れ ば な ら な い の な
?
123
がほぼ限界で、段階を越えるにはそれこそ式紙の改良だけではまるで足りない。
そして思いついたのが、物質を構成する構造式だ。
ファンタジーには、あらゆる魔術的要素を取り入れ、要塞のような堅固さを持つ屋敷
や、迷宮構造を一つの封印式として作り上げ、超巨大な牢屋を作ったりと、一つの要素
に三次元的な術式を盛り込んだものが時折あった。
俺は自分の能力を利用し、それをミニマムサイズで行使した。
無論、簡単なことではない。妖気禍気では根本的に力が足りなかったり、あまり術式
側を重視すると物理的にカタチを保つことが出来なくなったりと、問題はいくらでも
あった。
しかし、神気によって力不足は改善され、さらにオモイカネとともにいることでその
膨大な知識を吸収し、最終的にはようやく俺なりの答えを導き出すことに成功した。
しきぎょく
その集大成が、今オモイカネに渡した朱色の石だった。その性能は式紙とは比べ物に
はならない。式紙に対し﹃式 玉﹄と言ったところだろうか。
も、そう聞こえるというだけで﹃オモイカネ﹄っていう単語すら入ってないわよ﹂
﹁⋮ありがと。││ねぇ、オモイカネって、私の名前じゃないのよ。今更だけど。そもそ
さ。俺からオモイカネへの餞別、贈り物ってわけだ﹂
﹁ちょっと前、お前にとってはずいぶん前にか、言ったろ。出来上がったら見せるって
俺もツクヨミも、きっと臆病者
124
﹁いや、知ってるけどな。だが、俺に
ぜ、俺は。言いにくいんだよな﹂
﹂
﹁⋮そう﹂
﹂
﹁ああ。じゃな、永琳﹂
﹁ばいばい、ウカノ﹂
マ ガ ラ ゴ は 既 に 街 へ と 侵 攻 し て い る。彼 と 顔 を 合 わ せ た の は 数 日 前 が 最 後 だ っ た。
の罪悪感のようなものなのだろうが。
俺を責めているような慰めているようなそんな気がした。結局のところ、それは弱い俺
それから何日も、俺は自分の家で瓢箪を傾けていた。瓢箪の中の酒虫も、なんとなく
でもなく、﹃永琳﹄て呼んで﹂
と呼べというのか。呼ぶたびに神経使うのは嫌だ
××
﹁ええ。だから、私のことはオモイカネでも
﹁⋮偽名か
﹁何
﹁│そんじゃ、﹃永琳﹄﹂
﹁そんなところね﹂
?
﹁そろそろ、行くわ﹂
?
××
125
そして、タケミカヅチともだ。タケミカヅチも体制を整えマガラゴを待っているだろ
う。
俺の知る限り、全体的に優勢なのは人間側だ。だが、今回の大戦ではおそらく妖怪側
のほうが優勢だろう。単純な数では人間のほうが多いが、個々の戦闘力では妖怪のほう
が上で、そして地上に残るのは﹃軍事部﹄の人間だけだろう。つまり数の利はそれほど
大きくはない。
あれの作る遮断結界は、マガラゴでも壊せない。
と言うことは、戦争も最終局面に入っているのだろう。しかし、永琳が死ぬことはない。
俺が一人酒を呑んでいると、式玉の発動を感知した。広域遮断結界、これが発動した
などいくらでもあるのだから。
都市の﹃技術部﹄なら、それが可能だろう。その上、穢れの無いという月に行けば時間
部﹄のように自身の意に沿わないものではなく、人間に逆らわない従順な奴隷を。この
おそらく彼は月にいけば﹃技術部﹄にでも都合のいい存在を創らせるはずだ。﹃軍事
たのだろう。﹃軍事部﹄の人間を一掃するために。
確証こそないが、しかし間違いなくツクヨミは故意的に妖怪の大侵攻に時期を合わせ
大ではなくなることは明らかだ。増してや、あのツクヨミがその策を選ぶわけがない。
﹃軍事部﹄に限らず戦える人員全てに武器を渡して応戦すれば勝てるだろうが、被害も甚
俺もツクヨミも、きっと臆病者
126
127
結局、人間に肩入れしてるんだな。
不意に俺はそう思った。
なんだかんだ言っても、死んで欲しくはないものだ。永琳は元より、マガラゴやタケ
ミカヅチにもだ。が、両者の争いに首を突っ込むわけにはいかない。何せ、そもそも成
り立ちからして人間と妖怪は敵同士だ。そこに憎しみなどの個人的感情がなくとも、ぶ
つかりあいは避けられない。そこに、どっちつかずの俺が入る隙などないのだ。
そうしてしばらくして、俺は瓢箪に栓をして立ち上がった。
せめて、見送りぐらいはしたかった。
少し前に見た街の面影は既にない。あちこちの無機質かつ整然としていた建物は、そ
のどれもが破壊され雑然とした様相を呈していた。いくつもの人間や妖怪の死体が散
らばり、まさに死屍累々といったところだ。⋮その中に、ただの一人も顔見知りなどは
いなかったが。
空を見上げれば、煙をたなびきながら凄まじい速度で一つの光が天へと昇って行って
いた。そのうち大気の層も突き破って宇宙へと飛び出し、俺にも見えなくなることだろ
う。玉石と、そしてその持ち主がその中にいることを確認して、俺はまた歩を進めた。
街の中心より少し手前にいたのは、一人の男と巨大な蜘蛛だった。
しかし、男は、タケミカヅチは何本もの爪が刺さり、完全に絶命していた。血が完全
に乾いていないことから、ぎりぎりまでマガラゴと戦っていたのだろう。苦悶の表情な
ど少しも浮かべておらず、どこか満足げだったことは救いになるだろうか。
巨大な蜘蛛、マガラゴは、十二本の脚のうち九本が既にもげ、身体のあちこちが焦げ
付き、そしてタケミカヅチの持っていた剣が胴体には深々と刺さっていた。
﹁││││﹂
虫の息でも、それでもギリギリの状態で生きていたのは、彼だからこそだろう。音に
﹂
ならない、かすれた空気のようなものしか、彼の口からは聞こえないが。
﹁⋮死ぬのか
いのに﹂
?
マガラゴにこんなに想われるほど、俺はいいやつじゃない。むしろ俺は選択から逃げ
﹁⋮そうか。お前らホントに、俺のこと良く分かってるよ﹂
﹁││││﹂
来るのかも分からないのに。お前を助けてやれるわけでもな
でも、こうして俺と話が出来るのは。
おくことは出来ないだろう。何せ、彼はもう死が確定してしまっているのだから。それ
俺は彼の前に立ち、聞いた。仮に神の奇跡があったところで、彼の魂をつなぎとめて
?
﹁俺を、待ってたのか
俺もツクヨミも、きっと臆病者
128
た卑怯者だ。タケミカヅチやマガラゴが死ぬことを容認した愚か者だ。
こんな時なのに、なぜ俺の顔はなおも動かないのだろう
いが、笑い顔だって見せられないじゃないか。
﹁││ぎ﹂
﹁⋮ああ。またな、マガラゴ﹂
永い永い時の中で、いつか再び出会えるからだろうか
泣き顔だって見せはしな
?
転生というものを、死が消滅ではないことを、知ってしまったからだろうか。
チも、マガラゴも、死んでしまったというのに俺はこんなにも揺れてやしない。
いつの間にか、俺は人間だったころより凍り付いてしまっているらしい。タケミカヅ
俺は、最後まで静かな瞳でそれを見つめていた。
た。
最後に、ようやくいつもの鳴き声を発し、そしてそれっきりマガラゴは動かなくなっ
?
裁定は厳しいぞ。あいつらはどうもお固いからな﹂
る。だから、また戻ってこい。お前の居場所ぐらいにはなれる。しかし、地獄の閻魔の
﹁⋮分かったよ。どうせ俺は死なないだろうからな、億年だって、この地上で待っててや
﹁││││﹂
129
﹁ん
﹂
ろ、そこは比較的無傷で、細部に傷はあるものの倒壊などはしていなかった。
そして、それはとある建物からだった。マガラゴたちがいた場所より少しいったとこ
に動くもののない、俺しかいないこの場で、何か大きい力が感じられる。
深く沈んでいた俺の心中に水を挿すように、俺はナニカが動いているのを感じた。既
?
まさに何かの指令室と言った具合だった。
それに付随するようにいくつもの椅子が置いてある。この部屋は、執務室というよりも
中は天岩戸のアマテラスの部屋よりもずっと広かった。いくつもの機器が配置され、
00:18 00:17 00:16
ける必要はなかったので、扉を構築する式をとにかくばらばらにしてやった。
扉はさすがに重厚な作りで完全に閉じてしまっていたが、もう壊さないように気を付
何かの執着を感じないでもないが、とにかく俺はそこへと向かった。
かった。そして、ツクヨミの部屋もアマテラスの部屋と同様の配置である。なんとなく
の類の妨害を受けることはない。造りは大体天岩戸と同様で、迷うこともほとんどな
中が気になった俺はそこへと脚を踏み入れた。セキュリティは大方停止しており、そ
俺も入ったことはない。
﹃行政部﹄の本拠、﹃月宮戸﹄。
俺もツクヨミも、きっと臆病者
130
00:15 00:14 00:13
さらに、中央にあった一際大きなモニターは不吉なカウントダウンを刻んでいた。既
にロケットは飛び立ったのだ、なおさら何かを起動しているとは思えないのだが。
しかし、今なおさら何かが動いているのだ。この数字は、その制限時間を示している
はず。
00:12 00:11 00:10
言いようのない不安に付き動かされ、俺は近くの端末を高速でいじった。もともとこ
の類に強い俺には造作もない。
やってくれたな⋮
﹂
そして、じきにこのカウントダウンの答えは導き出された。
ツ ク ヨ ミ
00:09
﹁あの、糞ガキ⋮
!
リー
ム
ボ
ム
永琳は間違いなく関わってはいないだろう。彼女がこんなものを作るとは思えない。
感じられたのだ。
感じたのは、この爆弾に込められた膨大な霊力だろう。起動することでようやく俺にも
と人間の霊力による神秘をふんだんにあしらった、まさに夢のような爆弾だった。俺が
ド
小さなモニターに映し出されたのは、この地上を破壊し尽くす、この都市の科学の粋
00:08 00:07 00:06
!
131
ということは、俺はずいぶんとツクヨミを見くびっていたらしい。永琳にも場合によっ
てははスサノオやアマテラスにも知られずに、これほどのものを作り上げたのだから。
可能だが、タイマーを止めたところで爆弾は止まらない。タイ
無理。どこにさ。
00:05
逃げる
00:04
タイマーの停止
爆弾の破壊、もくは解体
間などもない。
無謀。刺激を与えることは元より出来ない、解体する時
?
00:03
マーはただ表示されているだけで、爆弾とはシステムが独立している。
?
?
00:02
﹂
!
最後に、俺は出来るだけ身体を縮め丸くして、結界を極限まで凝縮した。
00:01
幾十、幾百、幾千もの結界を作り上げる。俺の手札はこれで全部だ。
しかし、それだけでは全く足りない。袖から今持っているだけの式紙、式玉をばらまき、
俺は八尾と、そして霊尾を一本、つまり今の全力を出し切り強固な結界を作り上げた。
﹁クソ
俺もツクヨミも、きっと臆病者
132
133
00:00
そして、次の瞬間には俺の視界も意識も全てが真っ白に染め上げられた。
この日、地上の生物のおよそ九割が死滅。
永琳が気づいたときには、地上はおよそ全てが火の海と化していた。青かった地球は
年後、某所。どこぞの地中より狐這い出る。
その時、まるで太陽のようにも見えたという。
?
﹁う⋮﹂
﹂
ずしん ずしん
﹁え
?
﹂
ギャァッ ギャァッ ガァァァァァァッ
﹁
?
﹂
人間↓恐竜
﹁
俺もツクヨミも、きっと臆病者
134
???
原生植物に恐竜、進化した哺乳類が本物を目にすることのないもののオンパレードで
しか見たことのない巨大なトカゲが堂々と闊歩していた。
周囲には絵や化石でしか見たことのない植物が生い茂り、これまたスクリーンやらで
きた。しかし、俺の目に飛び込んできた光景は以前のものとはまるで違っている。
そうして上だと思われる方向に必死に掘り進んでみれば、唐突に目に光が飛び込んで
これなら、十分俺が動くスペースを作ることが出来る。
周囲の土を構成するものをバラバラにしながら、俺は少しずつ結界を広げていった。
でも動く隙間が必要だった。
れほど積もった土の下で、動かせない手でどかすのは無理と言うものだ。とにかく少し
当に能力を持っていて良かったと思ったことはない。どれほどの腕力があろうとも、こ
身体の頭の天辺から足のつま先までがっちりと土で固まっていたが、このときほど本
かなり綻んでいたが、しかしぎりぎりで残っている。
最初に俺が目を覚ましたのは、深い土の中だった。自身の記憶の最後に張った結界は
SFのAIはすごいと思う
135
ある。
起き抜けの頭で必死で考える。
何故こうなったと。
爆弾で吹き飛んで、次は
だとすると今は約1億400
恐竜が出現したのは現代を基準に約2億5000万年前。が、地を揺らすほどの大型
恐竜が出現したのは、恐竜全盛期頃の白亜紀だろうか
だとすると俺達がいたのはいつごろになるんだ
0万年前ほどになるのか。
あれ
?
?
わけだ。
の地上には人間、ひいては妖怪がいないということになる。完全に恐竜の天下、という
⋮そういえば、今の大気に含まれる禍気の濃度があの頃と比べると濃い。つまり、今
わけだ⋮
つか俺どんだけ寝てんだよ。いや、生きてるだけマシかな。どうりで土に埋もれてる
んだ。
たってことになるのか。⋮あの時の生態系は謎だったな。なんで後世に残らなかった
恐竜。あれが中生代最後の大量絶滅だとすると、俺は2億5000万年前ぐらいにい
?
正直、何をすればいいのか分からない。現在位置など分からないし、仮に分かったと
﹁さすがに、恐竜とお友達にはなれそうにないな⋮﹂
SFのAIはすごいと思う
136
ころで無意味だ。恐竜がここまで進化しているということは、少なくともあの時から数
千万年は経過しているのだ。俺の家はあの時消し飛んだだろうし、もし壊れなかったと
しても埋まっている。そもそもそれがどこか分からない。
あの時の知り合いは、イザナギ、アマテラスは天界、永琳は月に辿り着いているのだ
ろう。これだけの時間が過ぎたのだから、生活環境も整っているはずだ。⋮しかしまぁ
天界も月も今の俺には接点がないわけで。スサノオだって、あの頃の時点で所在不明に
なっていたのだ。長い年月の過ぎた今となっては生存はもう絶望的。
ぶっちゃけ完全に独りなのだ。
また、これはおまけなのかどうかは分からないが、九本の霊体実体を切り替えて遊ん
耳だけが頭に生えている、尻尾無しのおかしな妖怪に見えることだろう。
俺の尻尾九本全てが霊体と化していた。霊体が見えないものが今の俺を見たら、狐の
そういえば、他に変わっていたこともある。
こないが。だが、酒は呑める。俺にとっては非常に大きい事柄だ。
た。しかし妙にでかくなっている気がする。相変わらず話しかけても反応を返しては
に瓢箪をお腹に抱え込んでいたのだ。中の山椒魚も、我関せずといった風に無事だっ
唯一の救いは、瓢箪をがっちりと抱えていたことだろうか。そういえば丸まったとき
﹁人間が生まれるまでって、流石に永すぎる。1億年話し相手がいないのは堪えるな⋮﹂
137
でいると、うっかり全身が霊体になってしまっていた。慌てて戻そうとしてみると簡単
に元に戻れたが、これは看過できないことだ。何せ尻尾しかすり抜けられなかった扉
も、今は全身が通り抜けられるのだ。⋮扉の無いこの時代では何の意味もないが。しか
も全身霊体にしてたらさながら幽霊ですぜ、俺。
おまけ機能はともかく、俺は霊尾が増えたことで同時に爆発的に増えていた力にも驚
きながら、霊尾七本を隠し残り二尾の霊体を解いて表に出した。俺にとってはやはり、
﹂
!
この状態が一番落ち着くのだ。
成長してる
!
につながる
?
ことにした。科学技術で人工知能搭載のロボットだとか造ったりする発想があるのだ
さてそれはともかく、1億年の間ぼっちで過ごす度胸のなかった俺は話し相手を創る
ろう。相変わらず俺の存在自体が謎過ぎる。
しかし、今まで成長しなかったのに、幽霊みたいになったら成長ってどういうことだ
却、これ以降成長することがなくとも、その事実は俺を一時的に高揚させた。
と言えよう。それゆえ、10cmも伸びたのは俺としては大快挙なのだ。幼女からの脱
あった。以前男だったものとしては、いつまでもちびっ子では自信の喪失
これに最後に気づいたことに心中泣きそうになったが、ショック同様そこには喜びも
﹁って、なんか地面までの距離が少し遠い
SFのAIはすごいと思う
138
139
から、俺の術式技術でもなんかできるんじゃないの 最初はその程度の考えではあっ
式紙で代用してみれば
れに魂が入ることでそれは妖怪となる。ならば器をつくり、その器を動かす器官、魂を
その上で思い出したのが、妖怪という存在だった。人間の負の気と禍気を器とし、そ
を創ることから始めることとする。
最初にやったのは、式紙のバージョンアップだ。そして、まずはこれを核として人形
けに没頭していた。
たものの、他にやることのない俺は適当な場所に結界を張って引きこもり、その作業だ
?
だった。次段階には式玉があるのだから。
?
に気づいた後に辿り着いた答えは式紙同士の連結だった。うまく術式を乗せ組み合わ
だが、これは一枚では不可能だった。やはり式紙は強化しても弱すぎる。結局、それ
だった。似たようなことは、今までもやってきたのだ。
が、禍気には詳しいこともあり、負の気の禍気を吸い寄せる機能を再現することは可能
気に引き寄せられ一つの器となす。俺に負の気そのものを造ることなどできはしない
俺にとって運が良かったのは、禍気の特性を知っていたことだろうか
禍気は負の
がりつつあった。式紙では自由意思を持たせるには弱すぎるが、初期段階としては十分
簡単なことではないが、それを思いつくと同時に俺の頭の中には既に設計図が出来上
?
SFのAIはすごいと思う
140
せることで、複数枚の式紙は互いに相乗しあい、ようやく基準値には達せられた。
式紙三枚を使い、禍気を集め器とする器官にする。さらに式紙を五枚を使い、それら
にありったけのプログラムを打ち込んで魂代わりの器官を創った。いや、簡易AIと
いったほうがいいだろうか。最終的には、自身で思考し、俺の指令を遂行するような人
形が完成したのだが、そこに柔軟性は微塵もなくどこまでも機械的なものだった。なん
というか、どうもしっくりとこない。
が、これはあくまで式紙を核としたもの。本番は式玉からだ。
一応、人形は最初に式紙を使ったと言うことでそれにちなみ、
﹃式神﹄と名づけたが。
ちなみに、俺の情報を式神の器の術式に打ち込んでいるため、できた式神の姿は俺自
身だ。ついでに白い小袖と赤い袴も付属させてある。イメージは巫女装束だ。なぜか
ロリサイズなのだが、耳もあれば尻尾もある。⋮そして、俺同様に無表情だった。それ
に見つめられるのはなんだかあれだったので、狐の仮面を上に被せておく。複数体作っ
たときに同じ顔がずらりと並んでいるのも怖いので、この仮面はこのままでいいだろ
う。
そういえば、式神を造る仮定で憑依型の式神もできたが、正直今はほとんど使い道が
ないので置いておこう。
式紙核タイプはひとまず放置すると、俺は次に式玉のほうへと手を付けた。
ただこちらは構造が複雑ではあるものの、基盤や工程はほとんど式紙の方から流用で
きる。式紙という下地がある分、発想ゼロからやるよりはマシだろう。
こちらは式紙のように連結することはしなかった。式紙より断然体積が大きいこと
もあるが、こちらは禍気を集める器官と核を分ける必要が無かったためでもある。
ただ誤算だったのは式玉の構造をいじる必要があったことだろうか。そのお陰で、全
体構造のバランスをとるためにこれまた苦労することになってしまった。
最終的に完成はしたものの、結局それまでの時間は式紙の時よりもかけてしまってい
る。
しかも、完成したのはまたしても人形だった。いや、式紙のものより比べるべくもな
く高性能なのだが、やはりどこか無機質だった。自己進化していくという可能性もある
が、確証はない。どれだけかかるかも分からない。やはりAIでは限界があるのだろう
か
行き詰った俺は、最後の手段を選んだ。
?
正直どうかしてたと思う。
﹁いっそ、人工的に魂を造ってやろう﹂
141
SFのAIはすごいと思う
142
魂を作るために以前以上に結界に引きこもり、それからもう何年経ったのかは分から
ない。外にいる恐竜がどうなったかなんて知らない。世界がどう変わったかなんて、今
は興味ない。
俺はただただ完全自律式神を目指していた。
最初は話し相手が欲しい、それだけだったが、途中からはもう意地になっていた。存
外俺は、作る者だったらしい。
本物の魂は作れずとも、それと同じ機能を持った物は作れる。俺はその信念の赴くま
ま、式玉を改良し続けた。
魂というものは、イザナミさんを見たとき以来幾度となく見てきている。今の時代
だって、恐竜が死ねば魂は遊離してゆく。今は人間がいないせいで地獄の管理機関は凍
結されているため、魂は元々あった法則に従いあちこちを飛び回っている。
それらを思い出しながら、俺は創ることだけに打ち込んだ。
緻密に、複雑に、そうしていくたびに、式玉は朱色からどんどんと赤を増してゆく。
それを見るたびに、俺は完成が近づいていることを感じた。
思えば、俺は正気ではなかったのだろう。式神を作る過程でも然り、俺の思考は彼ら
同様どこまでも機械的なものになっていた。さもなければ魂を作ろうなど考えるはず
もない。その機構を知っているからこそ、俺は余計にそう感じられた。
ならば、こうして完成が近づいているというのは俺の執念故だろう。人間が生まれる
までの時間全てをそれだけに費やし、冷静な気狂いのごとく、正気ならば発狂しそうな
代物を精密に組み上げていった。
そうして、その時は呆気なくやってきた。
カチリと、そんな幻聴が聞こえるとともに、俺の手の中にあった未完成品が完成品へ
と変わった。式玉とは違うつるつるとした表面が、その瞬間は一際大きく輝いた気がす
る。
元々は朱色だった式玉は今は血色など通り越して、目を細めそうなほどの紅を呈して
起きろ
いた。
で吸い寄せていった。その濃度は従来の式神のものとはまるで違う。そう、妖怪並みの
ばしっと、そんな音とともに玉は急激に眩く光り、そして周囲の禍気を凄まじい勢い
俺は確信を持って、玉を放り投げた。
似事は出来るはず。この構造は、ほぼ妖怪のものと同一なのだから。
紅の玉を掲げ、俺は一言つぶやく。所詮これは魂の偽物。だが、きっとナマモノの真
﹁⋮式﹂
143
器を構成できるほどだ。玉は禍気を吸うたびにぎらぎらと発光していた。その様はま
さに﹃禍々しい﹄のだが、密かにてんぱっていた俺にはどうでもいいことだった。
これと同じ物はもう作れない。完全に同一の魂は、同じ存在というものは一つの世界
に同時に存在することはできない。きっと同じ物を作ればどこぞへと跳ばされること
だろう。つまり、俺はそれほど完成度の高い偽物を作ったのだ。
数分後、もう一度ばしっという音とともに発光はぱたりと止んだ。周囲の禍気の流れ
も完全に止まっている。
俺は玉があったところへと足を進めた。そこにはもう玉はなく、以前の式神達同様人
型が、多分俺そっくりの少女がいる。
だが、今までのものとは違いそれは赤い髪をしていた。
なのかどうか分からない。今の状況的にはほぼ成功なのだが、それもどこまで正確であ
うつ伏せになった頭を、俺は容赦なくばしばしと叩いた。正直起きてくれないと成功
だ。何でだろう。
ないせいで俺と同じ姿なのかは確証が持てない。ただ、身長は相変わらずロリサイズ
まるで俺のような不精者だ。赤い髪も、無造作に地に散らばっている。そして顔が見え
そもそも、従来の式神は立った状態で現れていたのだが、こいつはうつ伏せで現れた。
﹁おーい﹂
SFのAIはすごいと思う
144
ろうとあくまで推測だ。
しばらく叩いていると、そいつは徐にむくりと身体を起こし、これまたゆっくりと
﹂
きょろきょろと辺りを見回していた。その顔は、俺の造りとまるで同じだ。しかし⋮
﹁⋮﹂
﹂
?
しかし、話し相手になるにはまた時間がかかりそうだ。
なぜなら、機械も俺もこんなに無邪気な顔はしない。
﹁う
な今までの式神でもなく、完全に別の存在だと。
そいつの顔を見ると同時に俺は悟った。こいつは俺でも、自由意思に欠ける機械のよう
たゆっくりと俺と目を合わせた。その目は、髪同様に真っ赤に染まっている。そして、
そいつが何も言わないので、俺はもう一度声をかけた。そいつはぴくりと動くと、ま
﹁おーい
?
145
子供って、よく分からない
俺の生み出した完全自律式神、見た目は髪と眼が赤いロリ状態の俺そっくりである彼
﹁ぁう﹂
女に、俺は﹃紅花︽べにばな︾﹄と言う名前をつけた。紅花は他の式神とは違い、ほぼ完
全に一個の存在だ。いつまでも名無しでは心もとない。
しかし、紅花はまだ自分の名前も認識できていないようだった。しかしむしろそうい
うところが生き物らしく、完全自律式神の成功の証でもあるのだが、かつての俺の姿と
まるで同じということに奇抜さを感じた。俺にもこんな時期があったんだろうなと思
うと、感慨深いものではあるが。⋮前の人生でだけどな
!
か。どれもゆっくりやっていけばいいことだ。
蓄積しているはずだ。あとは使い方を教え、経験を積ませればいい。それと精神の成長
込んでいることだろうか。元俺の知識も、今は使えないと言うだけで十分に彼女の中に
だがやはりしゃべれないというのは残念だ。幸いなのは、俺の情報を少なからず打ち
﹁うー﹂
子供って、よく分からない
146
しかし。しかしだ。
﹂
?
相手というものを、俺は特に苦手としている。相手が何を考えているのか分からない
そこそこの歳をしていても、中身が赤子であることを思い知らされる。道理の通じない
正直、俺は紅花にどう接すればいいのか分からない。何かをされるたびに、見た目は
してしまったのだ。
引っ張る手を叩いた。すると、しばらくきょとんとした顔をしてからぴぎゃーと泣き出
口頭で注意しても伝わらないのか止めてくれないので、今度は注意しながらぱしりと
だった。しかし俺は痛いのだ、ちくちくしてもう地味に。
引っ張っている。その顔に悪意など欠片もなく、注意してみても首をかしげているだけ
紅花は自分の尻尾には興味がないのか、俺の尻尾が気になるのか、執拗に俺の尻尾を
の式神は尻尾を増やすなら俺がバージョンアップさせるしかないだろう。
ている。ただ尻尾の本数はどの式神も一本だけだ。紅花は成長する可能性はあるが、他
そう、他の式神にも言えることだが、俺を元にしたせいかどいつにも耳と尻尾は付い
にも尻尾はあるじゃないか。
アマテラスもそうだったが、お前らはもふもふをもっと丁寧に扱えんのか。てか紅花
﹁う
﹁とりあえず、尻尾を引っ張るのは止めなさい﹂
147
子供って、よく分からない
148
し、推測も出来ない。
泣き出した子供を目の前に俺に出来たことは、逃げることでも慰めることでもたたく
ことでもなく、ただ見つめていることだった。紅花の目からはぼろぼろと涙がこぼれ、
悲鳴のような泣き声が周囲に轟いている。だが俺は見ているだけ。その様を、痛ましく
思わないでもないがしかし、見ているだけ。
子供というものは、えてして視野が狭い。それは視界のことではなく、意識の範囲と
いう意味でだ。せいぜい同時に考えられるのは一つか二つ、だから子供の行いというも
のはいつも傍若無人に見える。何かをしていれば、周囲に配慮することほどの余裕は彼
らにはほとんど出来ないのだから。
結 局 何 が い い た い の か と 言 え ば、紅 花 の 泣 き 声 は 周 囲 に 対 す る 配 慮 は 少 し も な い。
俺が叩いたことが原因なのだ
ぶっちゃけて言えばうるさい。結界を張っていなければ恐竜が寄ってきていただろう。
そもそも、彼女はいったい何故泣いているのだろう
紅花にはそれが痛かったのだろうか。
が、しかしそれが泣く理由になるのか 叩かれた、と感じる程度の強さだったのだが、
?
をきっかけにこれほど大泣きするほどに。同じ顔をしていても、その様は俺とはまった
んやりと眺めていた。紅花は子供らしくその感情の起伏はとても大きい。些細なこと
そんな益体のないことをただつらつらと考えながら、俺は泣きに歪んだ紅花の顔をぼ
?
く似ていない。
今の泣き喚く紅花を見て、うらやましいと感じることはない。しかし、紅花が笑う様
子を見ても俺は同じ気持ちでいられるだろうか。
結局、紅花は泣きつかれて寝入ってしまうまで泣き止むことはなかった。数日間ぶっ
続けで泣き続けたのだから、大したものだと言わざるをえない。その様子をただ眺めて
い た だ け の 俺 も 大 概 だ が。ど う せ 起 き れ ば 今 回 の こ と は 忘 れ て し ま っ て い る だ ろ う。
幼い紅花に過去にいちいち目を向けるほどの思考力はない。
俺は式玉二つで式神を二体作り、取りあえず食べられそうなものを探しに行かせた。
俺は酒だけあればいいのだが、紅花はそうはいかない。いや、食べずとも支障はないだ
ろうが、俺は幼い頃の味覚って大事だと思うんだ。そうでなくとも、うまい物ぐらいは
経験として食べさせてやりたい。この原生植物生い茂るこの世界に何があるかは知ら
ないが。
自分で結界の外へと出て食べ物を探しに行った。一応紅花が結界を通り抜けられない
が、行かせたところでそれに気づき、俺は急遽式神を戻し眠る紅花の元に付かせると、
て指令、曖昧すぎだろ﹂
﹁あ。じゃあ式神に任せてたら分からないかな。食べられそうなものを探して来てなん
149
ようにはしているが、万が一ということもある。紅花の居場所は分かるものの、うっか
り出てしまって恐竜と遭遇してしまえば目も当てられない。紅花に戦闘力は無いはず
だ、多分。俺をある程度コピーしているから、生存本能のままに戦えるかもしれないわ
けだが。
結界の外へ久々に出た俺は、改めて周りを見回した。今まで周囲に注意を向けること
はなかったために、風景が変わっていることには気づけなかった。この場所は、俺が来
た時は岩や木々で囲まれた概ねただの平地だったのだが、いつの間にか少しなだらかな
斜面が出来ていた。それにともない周りの生態系も多少変わっている気がする。ただ、
恐竜は相変わらずこの地上を支配しているらしい。そこかしこにそれらしい足跡を発
見することが出来た。
夫か﹂
ということは、この世界は弱肉強食真っ只中。俺に見つかった運の悪い爬虫類
は、諦めて俺の経験値と紅花の血肉になって欲しい。
?
もぎゅもぎゅと幸せそうな顔で肉を食べる紅花を見ながら、俺は溜息をついた。食材
﹁うー﹂
諸君
﹁木の実探しと⋮、あとは、恐竜って食べられるかな⋮。トカゲみたいなものだし、大丈
子供って、よく分からない
150
151
集めでの収穫はいくつかの木の実と、草食恐竜を狩って持ってきた肉である。全部は
持ってきていないが、他の肉食恐竜が食べつくしてしまうだろう。
木の実は、幸いわりと現代まで形態が変わっていないものもあった。しかし数は少な
く、探すのには苦労したが。イチジクとか妙にでかい気がする。
草食恐竜を選んだのは、肉食恐竜は肉が固そうだからという理由からだったのだが、
しかし草食恐竜の肉も固かった。仕方なく能力でたんぱく質をある程度分解し焼いた
のだが、本当はナマモノにこの能力は使いたくはなかった。何が足りないのかは知らな
いが、そうして出来たものはどうしても味を物足りなく感じてしまうのだ。旨み成分ま
で再現しているはずなのに、何故か天然物に負けてしまう。
美味しそうに食べる紅花を見ていると、少し申し訳なく思ってしまう。いつか天然の
肉を食べさせてやりたいものだ。⋮よくよく考えれば、この時代でも哺乳類やその他の
動物はいるはずだ。今回は大きい恐竜にしか目が行かなかったが、今度から探してみよ
う。でも一応残った肉は干し肉かな。
ちなみに炎は術を使って出した。自然界において、なんらかのエネルギーが熱になる
ことなどはままある。では、妖気とかも他のエネルギーに変換できないかと試行錯誤し
た結果、実現させられたのが発火だ。ぶっちゃけありえないとか止めて欲しい、これで
も複雑な工程を踏んでいるのだ。今は改良が進んだので簡単な術式で発火させること
ができるが、最初は調節が難しかった。それこそ周囲を暖める程度の熱エネルギーしか
出せなかったり、二十メートルにも及ぶ火柱を出してしまったり。
﹂
?
紅花は俺のことをどう思っているのだろう
と。紅花を生んで、大した時間は経っ
そんな子供な紅花は、生まれてからずっと目の前にいる俺のことをどう感じているの
り泣いたりする。
だが、その精神はやはり子供なのだ。言葉はまだ分からないし、簡単なことで笑った
ためだろう。
来上がっているということもあるが、無意識下で俺から受け継がれた情報を使っている
で肉を食べることだって出来るし、あるいは歩くことだって出来る。それは、身体は出
供だが、何も出来ない人間の赤ん坊というわけでは実はない。歯は生えそろっているの
ちゃいない。そんな生まれたばかりの紅花は、俺をどう見ているのか。紅花は確かに子
?
そんなことをしながら、俺はふと思った。
を拭いた。紅花はくすぐったそうにしているが、抵抗はしていない。
らいことになっている。俺は作り置きしていた紙を取り出して、それで紅花の口の周り
た。その様はとても可憐ではあるが、しかし如何せん口の周りは肉汁で汚れ、小袖もえ
俺が相変わらず酒を呑みながら紅花を眺めていると、紅花はこちらを向き首をかしげ
﹁う
子供って、よく分からない
152
か。
問題は、俺自身ですら紅花のことをどう思っているのか分からないことだろうか。た
﹂
だ言えることは、俺は紅花のことを道具だとは思っていないということだが。
﹁なあ、紅花﹂
ニャァ、べニハな
?
べに・ばなの、なまえ
?
﹁べ・に・ば・な。お前の名前だ﹂
﹁べ・に・ば・な。なまえ
?
﹁その、ニく
俺が、取ってきたものだ﹂
﹂
?
?
おいしい、べにばなは。とてきた
?
﹁その肉は、おいしいか
のトレーニングではないか。
き、言葉を学習するものだ。ならば、紅花がしゃべれるようにするのなら、会話が一番
ば、十分彼女とでも会話になるはずだ。元々赤ん坊は周りの人間が話している言語を聞
何度もいったが、紅花には既に十分な知識がある。単語の意味を合致させてしまえ
﹁そうだ、紅花の名前だ﹂
﹂
俺は、一言一言を区切るようにゆっくりと繰り返し紅花に言った。
い。俺の真似とはいえ、何かをしゃべろうとすることは出来ている。
俺が紅花に話しかけると、紅花はたどたどしくも俺の言葉の真似をした。やはり、早
﹁う
?
153
﹂
﹁この肉は、おいしいか。それはよかった、とって来た、甲斐がある﹂
﹁このニク、おいしい。ヨカッタ
と、そこで俺は忘れていた事を口にした。
ることが、俺には喜ばしかった。
より、紅花は俺の言う言葉を考えトレースしている。言葉を使おうとしている意志があ
どうとでもなる。何だかんだいっても、こうして実際に会話は成立しているのだ。なに
た。まだ言葉はたどたどしいが、しかしどのようなものか覚えてしまえばあとは慣れで
そんな風に、途切れ途切れにゆっくりと会話しながら俺は紅花に言葉を教えていっ
﹁ああ、とても、いいことだ﹂
?
﹂
﹁そういえば、言ってなかったな。俺の名前は、ウカノミタマだ﹂
?
﹁おかーさん
﹂
?
?
﹁そうだ。⋮⋮⋮⋮あれ
﹂
が、次に紅花から出た言葉に俺は固まった。
だろう。そう思った俺は、急遽一人称を﹃私﹄と偽った。
別に俺が﹃俺﹄を使うのはいいんだが、紅花が﹃オレ﹄と言うと不安になるのは何故
﹁⋮それでいい。だがあえてもう一度言わせてもらおう、私の名前は、ウカノミタマだ﹂
﹁オレ・ウカノ
子供って、よく分からない
154
無邪気に言う紅花に思わず頷いてしまった後に、首を傾げる。そんな単語は、俺は教
えてないぞ。いや、単語は知っているだろう。しかしそれが正確に使えるかどうかでい
えば、別の話だ。
﹂
それも、俺が﹃おかーさん﹄だと 俺がおかーさんである要素がいったいどこにあ
る。
﹁おかーさん
?
ろう。
?
えない。
ているのではなくて、抱きついているのだろうか。紅花の力が強すぎて、攻撃にしか思
俺はきりきりと腕で腹を締め付けてくる紅花に尋ねた。もしかしてこれは締め上げ
じき出した。そもそも、何故俺はこれほど戸惑っているのか。
分からないのならば、本人に聞けばいい。俺のこんがらがった頭は、そんな答えをは
﹁お、私は、紅花にとって、母親なのか
﹂
を受けたが、しかし紅花が怪我をする可能性を考えるとむしろこちらの方がよかっただ
に、俺は上体を折り空気を吐き出した。結界を張っていなかったために思わぬダメージ
突然、紅花が俺の腹にぶつかってきた。しかも頭からである。紅花の思わぬ頭突き
﹁げふっ﹂
!
155
もぞもぞと紅花は俺の腹部で動きながら、ぐっと俺の方に顔を向けた。
﹁ワタシ、ハはおや ワタシ、の、おかーさん。ウカノ・は・ワタシの、おかーさん
﹂
!
?
わざわざ食べ物をとってきたり、紅花が美味しそうに食べていたり紅花が成長しよ
俺にしてみてもそうだ。今まで俺は、無意識に紅花のことを気に掛けていなかったか
かなど、そんなことは考えるまでも無かったようだ。
﹃生まれてからずっと目の前にいる俺﹄。そんな女を生まれたばかりの子供がどう見る
紅花が俺をどう思っているのか、だって
のか、その存在がどの言葉に当たるのかを自分で考え探し出したのだろう。
ならば、自身を生み自身を叱り自身に食べ物を与え自身を守るものがどう言う存在な
紅花に、言葉の知識はある。
しそうに。
紅花は俺に笑顔でそう言った。そして、一層強く俺に抱きついてきた。それはそれは嬉
そう舌足らずな口調で、しかし赤い耳と尻尾を嬉しそうにぱたぱたと動かしながら、
?
がら生んだそんな存在に、愛着がわかないわけが無いじゃないか。
永い、永い時間を掛けて、俺は紅花を生んだ。腹を痛めたわけではないが、苦労しな
うとしている様を見ると嬉しくなったり。
?
﹁そうだったんだな。紅花は、俺の子供らしい﹂
子供って、よく分からない
156
俺は紅花の赤い頭に手を置いて、そっと撫でた。初めて触ったその頭は、とてもさら
さらしていて俺のものより触り心地が良い気がする。紅花が自分の物ではなく俺の尻
尾を触っていた理由は、こういうことなのだろう。
﹁あぅー﹂
それは、とても幸せな
目の前で嬉しそうに揺れる尻尾を、俺はいつになく穏やかな気持で見つめていた。子
持ちの親というものは、いつもこんな気分でいるのだろうか
ことじゃないか。
事も、今では分かるような気がした。
⋮イザナギがあのカグツチを愛し、イザナミさんがあのカグツチを大事に抱いていた
?
157
彼 女 が そ の こ と に 何 も 感 じ な い で い る か も 知 れ な い 事 を 恐 れ て い る の か も し れ な い。
うことは想像に難くない。⋮いや、俺は紅花がもしも何かの命を奪ってしまった時に、
れでも﹃うっかり、偶然﹄殺してしまった等という経験が紅花に悪い影響を与えるだろ
そんなことになってしまったら、その恐竜はとりあえず食べることになるだろうが、そ
らく恐竜はその衝撃で首の骨でも折れて、ぽっくりあっさり死んでしまうことだろう。
例えば走り回っている時にうっかり小型の恐竜にぶつかりでもしたとしよう。おそ
熟なことが問題だった。
駕している。さらに精神的未熟さに付随して、紅花はまだその力のコントロールすら未
は当然のことだが、しかしその身体能力は普通の子供どころかそこいらの生物を軽く凌
まだ精神年齢の低い子供なのだから、動きたいという身体のうずきに抑えが利かないの
界の外に出した途端に、紅花はびゅんびゅんと地を走り、空を飛び回り始める。中身が
結界の中にいても十分元気なのだが、紅花は外に出るとさらに活動的になるのだ。結
紅花は基本的に活発な子である。
過保護親ってモンペかな
過保護親ってモンペかな
158
159
俺自身がそうだったゆえに、そうなる可能性も十分にある。
だから俺は、紅花が結界の外に出ている時に彼女から目を離すことはない。
ただそんな時、俺はこう思うことが多い。俺じゃない俺がもう一人欲しいと。
紅花を外に出した時は、大抵数体の式神を遊び相手兼護衛に付けているため、意識の
全てを紅花に向けることは出来ない。なぜなら、確かに式神はある程度自身で行動し、
自身で思考することはできるが、その式神という術式を維持しているのは間違いなく俺
だからだ。割かれる意識は一体ごとでは微々たる程度であるが、しかし間違いなく意識
に隙はできる。式神を増やせば増やすほど手は増えるものの、しかしその分俺の思考能
力は式神維持に割かれてゆく。そして、俺の情報処理能力とて馬鹿げた性能こそあるも
のの、決して無制限というわけではないのだ。
できるだけ外に出た時は、俺は紅花の自由にさせている。そもそも、厳しすぎる抑圧
など子供にはストレスにしかならない。ならばガス抜きは必要であるし、適度に自由に
走り回っている方が子供としてはとても健康的だ。しかし自由にさせる分、万が一の時
のために紅花のサポートをする式神は多く必要になる。それだけ、紅花にも注意を向け
なければならないはずの俺の隙は増えていくのだ。
紅花に集中する俺と、式神に集中する俺。もしも身体も思考も分けることが出来れ
ば、その利便性は計り知れないだろう。今とて紅花の面倒に苦労はしているものの手に
過保護親ってモンペかな
160
余っているわけではないが、もしもの事態が起こってしまった時にこのままで大丈夫か
と思うことはままある。結局、紅花の世話がメインとなっているため、その構想には
うーん。俺ってなんか過保護だよなぁ。
紅花にだらけた娘になられると、きっと俺は後悔しても仕切れないだろう。
るわけではないが、しかしこういうことは親として模範とならなければなるまい。将来
び、学ぶ時は学ぶ。食べる時は食べ、寝る時は寝る。⋮俺とてそこまでキチンとしてい
ずしていることは良くあることだ。だが、時には我慢することも大切だ。遊ぶ時は遊
気に走り回ることが好きなのだろう、俺が教えていてもどこか上の空で、身体がうずう
ただ問題は、やはり子供な紅花には堪え性がないと言ったところか。やはり自由に元
とでも言えばいいだろうか。幼い頃に培われたものが後々に与える影響も大きい。
使えるものでもないだろう。紅花に何かを学習させることで、紅花の思考力を養うため
の知識も持っているはずだが、全てを持っているわけではないし、そもそも今の紅花に
いた。そのため、妖気用の術式を教えることも無駄にはならない。紅花は術式について
の気の特性を打ち込んだために偶発的に後付けされたのか、紅花は俺同様妖気を放って
結界の中にいる時は、紅花には俺の知る術式について教えていることが多い。核に負
着手できずにいたわけだが。
?
俺は式紙や式玉状態の式神を調整しながら、術式を刻んだ複数枚の式紙をしかめ面で
睨んでいる紅花を横目で見ながら、そんな事を考えていた。
確かに俺は紅花には幸せでいてもらいたいし、いい娘に育って欲しいとは思っている
が、ちょっと神経質にきちきちし過ぎてやしないか。ここにいる俺は本当に俺なのか、
本気で考えそうになる。しかし紅花を前にすると、やっぱり過保護な母親になってしま
う。本当の俺はもっとだらけていたはずなのだが。
﹂
と、隣で式紙を睨んでいた紅花が式玉をつついていた俺に声を掛けた。
﹁おかーさん、おかーさん﹂
﹁どこか分からないところでもあったか
﹂
それが理解出来てるのなら、構わないが﹂
﹁それはもう出来たのか
?
﹁えっ﹂
﹁そうか。じゃぁ少しテストだ﹂
﹂
﹁ぇう・で、できた、よ
?
俺は相も変らぬ動かぬ表情で紅花の持つ式紙を指差しながら言った。
目遣いに俺を見ながらではあるが、残念ながら俺にはそんなものは微塵も利かない。
紅花は少しおろおろしながら、おずおずと口を開いてそう言った。無意識か故意か上
﹁ぅ、えと、あそぼ
?
?
161
﹁その式紙の2#84と332#3はどの部位を基盤として2
れたら、合格だ﹂
﹁え、あぅー2#84ぃ│
わ、わかんない・の⋮﹂
45とリンクしている
ついでに、これらの基点となっている部位も合わせて答えなさい。片方でも答えら
?
から34$22までだからな﹂
?
もう、あそびたい
﹂
!
だ。
紅花の言葉でそう思い、俺はその場から立ち上がった。
ワタシも・いきたい
!
﹁紅花、私は少し出かけてくるから、いい子で留守番していなさい﹂
!
﹁駄目だ。今回は食べ物を探してくるだけだからな、ここで大人しくしてなさい﹂
﹁ワタシ・も、おかーさん、と、おそと・いく
﹂
⋮が、勉強の合間に休むことは必要か。適度な休憩は集中力持続のために必要なもの
!
られるなど覚えてしまえば、それはそれは碌な者になれないだろう。
言った事を、子供の我侭で折るようなことは絶対にしてはいけない。駄々で現状を変え
くりやっていけばいいのだが、しかしそれを甘やかす口実に使ってはいけない。一度
涙目になっている紅花に、俺は無情に告げる。⋮別に勉強を急ぐ必要などは無くゆっ
紅花、遊びは、勉強が終わってからだ。今回は1
﹁その式紙の術式を理解していれば、式紙を見るだけで答えられるようなテストだぞ。
?
?
﹁うぅーっ・ワタシ、つかれた・の
過保護親ってモンペかな
162
俺は置いてあった式神の核のうち式玉を一つ抜き取り、式神を一体顕現させた。そし
て俺の尻尾にしがみつく紅花を霊体化しながらかわして、外に出ていった。この時俺は
⋮ぅー。おかーさん⋮﹂
多大なミスをしていたのだが、気づいたのは事が終り、大事が始まってしまってから
だった。
﹁おかーさん
も揺らいではいなかった。
!
は命令を遂行するだろう。恐怖心などの負の面もあるとはいえ、柔軟性を持つ感情とい
涙声で訴えても、式神は欠片も引く様子は無い。そう、たとえ四肢千切れようと式神
﹁ここで大人しく待たせるようにと、ウカノさまに申し付けられております﹂
﹁おかーさん・と、ワタシ、おそと・いきたい
﹂
顔の上半分を隠す狐の仮面のせいで式神の眼は見えず、そして下半分に見える口も少し
カノと比べてもとても無機質なものだった。紅花は濡れた眼を向けて式神を睨んだが、
ウカノの声や紅花の声に似てはいるものの、しかしその声は紅花は言うまでもなくウ
﹁いけません﹂
ノの式神に阻まれてしまった。
紅花は赤い瞳に涙を滲ませながら消えていくウカノを追いかけたが、その途中でウカ
!
163
えるようなものを、ウカノが持たせられなかったためだ。
紅花にしてみれば、時には自分の遊び相手で、時には自分を邪魔する、そんなちぐは
ぐな相手だった。そして、今はもちろん自分の邪魔をする相手だ。
そもそも、紅花を遮るものは式神だけでなく、この周囲に張られた結界も同様である。
ウカノが一緒の時ならすっと通れる薄膜のような結界も、紅花一人の時はまさに壁のよ
うだった。式神も結界もウカノが紅花を心配するがゆえなのだが、紅花にとってはどち
らも自分の邪魔をするものである。
普段なら紅花も大人しくしているのだが、この日の紅花はある意味運悪く我慢の限界
だった。身体がうずうずしてどうしようもない。早く外を掛けまわりたい。そんな思
いが心の中で溢れんばかりになみなみと揺れていた。
かされながら、式神にその小さな手を伸ばしていた。
紅花は何故か自分を邪魔する式神をなんとかできそうな、そんなおかしな感覚に突き動
そう呟く紅花の目の先には、式紙や式玉、そしてウカノの置いて行った式神がいた。
﹁おかーさんの、ばか⋮いい・もん。ひとり、で、おそと・いく、の﹂
過保護親ってモンペかな
164
や、今の紅花程度の力では破壊出来ないほどの代物ではある。だが仮に、俺の式神が八
に張ったためのもので、決して内側にいるものを捕らえるための結界ではないのだ。い
を誇るが、しかし内側はそうではない。元々あの結界は外側からの干渉を遮断するため
実を言えば、あの結界は外側からの力に対してはそれこそ物理的にも馬鹿げた防御力
た。
して体当たりしても破壊されないような結界は、
﹃内側から﹄呆気なく破壊されてしまっ
く改良し、張りなおしていたため綻びなどは決してない。しかし、仮に恐竜が大挙をな
つい先ほどのこと、あの場所に何万年も張っていた結界が破壊されたのだ。幾度とな
ずの紅花の安否にかきたてられ、他を気にしている余裕など無かった。
しに吹き飛ばし、元の場所へととにかく走る。望外予想外の出来事と結界の中にいたは
この時の俺は近年稀に見る焦りようだったろう。植物だろうが岩だろうがお構いな
め、結界のあった場所へと全力で引き返していた。
結界に紅花を置いて食べ物を探しに出た俺は、しかし十分も経たないうちに探索をや
心の痛みとは他をおもうが故である
165
体ほどで攻撃すれば破壊出来るのではないだろうか。
﹂
そうだ。俺の結界を破壊したのは十体の俺の式神だった。
全部なくなってる
!
!
どころか、もしものためのパスですらだ。こうなってしまっては、一度近くまで接近し
いた。紅花の世話を任せていたはずの式神からも、その反応は無い。そのコントロール
しかし、今回俺の結界を内側から破壊した式神達は完全に俺の手から離れてしまって
になっているのだ。
え他人が俺の式神を操っていたとしても、有事の際には俺がコントロールを奪えるよう
度は落ちるものの、俺の能力の特性上俺には式神に対しある種の絶対権があった。たと
めであり、そして万が一の時のための安全装置でもある。どれだけ離れていようと、精
本来なら俺の式神は常に俺とパスでつながっている。それは俺が式神を維持するた
中した。
る情報量も莫大なものとなる。それら全てを取捨選択し、紅花と式神の反応に意識を集
俺はその場を中心にして、感覚を外側全方位に向けて限界まで広げた。瞬間、頭に入
てしまっていた式紙や式玉も無くなってしまっている。
となっている。紅花も俺の式神もどこにもいなくなっていた。そして、置いたままにし
結界のあったはずの場所は、地面がえぐれ術式の残滓も分からないほど惨憺たる光景
﹁やっぱり⋮
心の痛みとは他をおもうが故である
166
直接能力で奪い返さなければならない。
俺の感覚に引っかかったのは、この場から高速で離れてゆく十体の式神、そしてその
うちの一体を追いかける紅花だった。おかしなことに、十体の式神はそれぞれ別々の方
﹂
向に動いており、まるで整合性が取れない。
いる者に他ならない。
﹂
パスに干渉できる者がいるとすれば、それは俺と同様、同系統の不条理な能力を有して
ない。先も述べたように、俺には式神に対し能力による不条理な絶対権がある。もしも
今は途切れてしまっている。このパスは何者かが術で奪えるようなちゃちなものでは
性は考慮していたため、パスをつないでいたのだ。しかし、そのもしものためのパスも
もともと俺が式神を作った時から、億が一にでも何らかの形で暴走をしてしまう可能
﹁まさか、暴走しているのか
?
完全に俺のミスだ⋮
!
俺の誤算は二つ。一つは、結界を外側からの侵入がほぼ不可能だと推測していことか
考えると、やれる者は一人しかいない。
結界の中にいたのは、俺の式神と紅花のみ。この式神も何者かに操作を奪われた事を
発動させなければ暴走などするはずがない。
そして、式神は基本的に受動的にしか動かない。暴走する時にしたって、誰かが一度
﹁くそ
!
167
ら、内側を考慮せず絶対のものと過信してしまったこと。もう一つは術式をまだろくに
扱えないと思っていた紅花のそばに、式神の核たる式紙や式玉を放置してしまったこ
と。
紅花は、俺の情報をいくらかコピーした一個の存在なのだ。俺の能力もいくらか引き
継いでいたとしても、不思議ではない。今式神が暴走させてしまったのも、この能力を
うまく使えていないせいだろう。
紅花が式神を追いかけていると思われるのは、おそらく俺に叱られると思ったためだ
紅花
﹂
ろうか。だが、今回の原因は俺の不注意だ。
!
!
花が自分自身を責めてしまうかも知れない。それを、俺はどうしても避けたかった。
り逃がした式神が他に大きな影響を与えても、俺は紅花を責める気は微塵も無いが、紅
なかった。今回のことは俺が原因ではあるが、少なくとも紅花も関わっている。仮に取
なので、器を維持する事が出来なくなるはずだ。しかし、それでも放置することは出来
暴走している以上、いつかは式神止まる。紅花からのコントロールも外れているはず
えてある。
で飛んだ。行かせた式神には、どうにもならない時は式神を破壊するようにと指令を与
式神を三体作り、散らばる式神のうち九体を追わせ、俺は紅花のいる方向へと全速力
﹁怪我などしてくれるなよ
心の痛みとは他をおもうが故である
168
169
その上、さらに悪いことに今回暴走している式神のうち数体には厄介な機能がついて
いた。
俺の式神には大まかに分けて二種類がある。半自律式神と、憑依式神である。本来は
どちらかでしかないのだが、しかしその数体には試作として両方の機能を付与していた
のだ。
憑依式神とは、ある種の拡張ソフトである。既存の存在と契約を結び、それに憑ける
ことでパスをつなぐ。そして憑かれたものは、憑依式神によって本来の自身の能力が拡
張される。簡単に言えば、より優秀に強力になるというところだろうか。
恐竜に試した時は、相手に契約を結ぶほどの知能が無かったために俺からの強制契約
となってしまったが、得られた結果は大きかった。知能もいくらか上がったのか、俺に
対して従順になり、そして他のどの恐竜よりも強くなっていた。⋮結局その時はその契
約はすぐに破棄したのだが。どうせ、強制的に結んでしまったものなのだ。相手の意思
など関係なく。
さて、本来であれば俺が契約をしなければならず、憑依式神が能動的に何かに憑依す
るなどはありえないのだが、今度の、いわば半自律憑依式神は違う。確証はないが、お
そらくあれらは自身を仮主として対象に憑依する事が可能だ。その上暴走してしまっ
ているために、もしも大型恐竜に強制憑依でもしてしまえば、被害は甚大なものとなる
だろう。そして、今の紅花では式神憑依した恐竜には勝てない可能性が高い。実のとこ
ろ、今回の半自律憑依式神とは式玉の式神達だ。式紙による憑依式神とはそれこそわけ
が違う。
しかし、とにかく俺が近くまで行ければ暴走していようが憑依していようが、強制的
に止めることが出来る。俺が行くまで紅花が無事でいる事を願いながら、俺は飛ぶ速度
をさらに速めた。
紅花は焦る鼓動を気にもせず地上を疾走していた。目の先にいるのは自分と八割九
分同じ姿をした、白い髪の少女である。紅花はその白い少女を追いかけていた。
結界にいた紅花が願ったのは、結界が無くなることだった。何かの理屈が、根拠が
あったわけではなく、紅花は自然に式神に手を伸ばし、ひたすらにそれを願った。
そしてその願いはすぐに叶う。式神達の暴走という形で。
紅花はまだ術式を自身で組み立てることは出来ない。式紙を介せばその式紙にある
術を使えるかも知れないが、しかし式神はそれとはわけが違う。それでも紅花が式神に
干渉することが出来たのは、紅花の持つ能力に理由があった。
﹃式神を操る程度の能力﹄。
心の痛みとは他をおもうが故である
170
171
ウカノの持つ﹃式を司る程度の能力﹄と比べると、まるで汎用性に欠ける、むしろウ
カノの能力を劣化コピーさせたような代物かもしれないが、こと﹃式神﹄という分野に
おいてはウカノに近い絶対権を持っていた。
だが、紅花が望んだのは漠然とした結果であり、明確なコントロールは最初から取ら
なかった。そして紅花は能力の使い方も、そもそも能力を持っていることすら知らな
かった。それゆえ、顕現していた式神も、式紙や式玉状態だった式神も、ウカノや紅花
の操作から外れ、結果的に暴走したのだ。これは、紅花も、増してや式神達が意図した
ものでもない。本来ならば、誰からの命令も受けていない式神の機能は停止するはずな
のだ。
今回の起動が無意識の紅花の能力が原因だったために、中途半端な命令を受けた式神
達は誰からの操作もないままに暴走してしまった。ある意味、紅花の能力は優秀だった
とも言える。不完全な形で発動し、式神を﹃操る﹄ことは一瞬しか出来なかったわけだ
が。
暴走を始めた式神達に対し、紅花は何も出来なかった。
スペックならば紅花の方が確実に上なのだが、しかし機能性という面では、経験の足
りない紅花ではただただ機械的な式神達には劣る。その上、一度に十体の暴走となると
紅花には止められるはずもない。結果的に式神達は結界を滅茶苦茶に破壊すると、方々
へと凄まじいスピードで勝手に走り去ってしまった。
紅花は呆然としていたが、すぐに我に返り式神のうち一体の後を追いかけた。ウカノ
の結界を破壊し、そしてウカノの式神達を理由は分からないがあちこちに散らしてし
まった。なので﹃おかーさんに叱られる。おかーさんがワタシを嫌いになっちゃう﹄、そ
う思ったのだ。もともと外に出る、という言いつけを破るようなことをしようとしてい
た紅花だが、これらのことはそのこと以上にまずいことだと、紅花は気づいていた。し
かし紅花は何をすればいいか分からず、とにかく式神を追いかけることにしたのだ。
前を走る式神に必死に呼びかけるが、式神は無言のまま走り続け紅花に答える気配は
﹁まって、あ、もと・もどって⋮﹂
全くない。紅花には、その後ろ姿がウカノの、母親のものと重なってしまった。だから、
紅花は必死に追いかけた。ここで白い式神を見失えば、ウカノにも置いていかれるよう
な気がしていたのだ。
﹁えぅ
﹂
ることなど、それは紅花にとって死に等しいことだった。
のいない紅花にとっては、ウカノは自身の全てと言えよう。だからこそ、置いていかれ
紅花は懸命に手を伸ばした。ウカノに生み出され、生まれてからウカノしか頼る相手
﹁まっ・て⋮おいて、いか、ないで﹂
心の痛みとは他をおもうが故である
172
!?
急に、前を疾駆していた無表情の少女が紅花の方を振り向いた。しかしそれは止まる
ためではなく、紅花にとっては最悪の展開だった。少女は、強く地を叩く音とともに紅
花の方へと高速で方向転換したのだ。紅花はそれにすぐ反応できるはずもなく、迫る少
女に対し何の防御も出来なかった。
物言わぬ少女の言葉は、紅花と同じ大きさのはずの小さな拳だった。しかし、見た目
はただ脆そうなそれは、岩のような硬さを伴い凄まじいスピードで紅花の腹につき込ま
れる。スピードに乗っていたはずの紅花の身体は、その逆方向へと簡単に飛ばされた。
﹁ぁっ、ぎゅっ﹂
地に勢いよく倒れた紅花の口から、うめき声が漏れる。肺から一気に空気が押し出さ
れ、咽たのだ。
﹁い、たい⋮いたい・よぅ⋮﹂
お腹がちりちりと熱さを帯びてゆき、そして身体の中までずきずきと痛んでいく。痛
みというものを初めて知った紅花は、感覚を支配してゆくそれに、ただお腹を押さえる
&$#﹂
?
おかー・さん⋮おかーさん
ШБ
﹂
ことしか出来ない。その視界も、何かをこみ上げるとともに涙で歪んでいった。
﹁$
?
﹁ひっ
!
ざしっと、何かが地を踏む音ともに、そんなわけの分からない、言葉なのか音なのか
!
173
も分からないものが聞こえ、紅花は身を竦ませた。恐怖が全身を支配し、そこから動く
こともままならない。紅花にできたのは必死に母親を呼ぶことだった。
﹂
紅花はびくっと身体を震わせ、恐る恐る顔を上げた。
違いなく何かとても重いものが紅花の近くにやってきた事を示している。
大きくなってゆき、ついに﹃ずしん﹄という音が紅花の間近で聞こえた。その音は、間
と、それからいくばくもしないうちに、地面が微かに揺れる。だんだんとその揺れは
目を閉じ震えていた紅花は、何も起きないことに首をかしげた。
﹁⋮
?
﹂
今の式神には明確な思考は存在しない。
それは、式神に憑依された恐竜だった。
た瞳がじっと紅花を見つめている。
があり、突き出した顔には割けた口が、何本もの牙があった。そして、冷たく縦に割れ
身を重厚な皮膚が覆い、凶悪な外見の二本の足が地を踏みしめている。四肢には鋭い爪
顔を上げた紅花の目の前にいたのは、紅花の数倍の巨躯を持つ巨大な生物だった。全
﹁││││││
!!???
﹁⋮⋮⋮■■■﹂
心の痛みとは他をおもうが故である
174
ただただ、﹃結界を破壊する﹄という命令、いや存在意義に動かされていた。
紅花を攻撃したのは、自身を追う者を邪魔をする者と判断したためだ。近くを通った
恐竜に憑依したのも、排除に最も確実な方法を選んだだけだった。
片や無感情で自動的で機械的。片や苦痛と恐怖と絶望。
﹂
半自律式神と、完全自律式神である紅花には、それほどの隔たりがあった。
﹁││■■■■■
﹂
!!?
た後悔だった。
この時の紅花の頭にあったのは、未知への恐怖と、ウカノの言いつけを破ってしまっ
死
その瞬間、紅花の見る世界がとてもゆっくりとしたものに変わる。
し迫り来ているのだ。
が完全に硬直する。先の恐怖など比べ物にならない脅威が、殺意じみたものを撒き散ら
瞬の光景だったが、それらが紅花にははっきりと見えていた。それと同時に紅花の身体
た。牙の一本一本が唾液でてらてらと光り、口の端からびちびちと唾液が飛び散る。一
恐竜は一声吠えるとがばっと口を大きく開き、目にも止まらぬ速さで紅花へと迫っ
あぁぁぁぁぁああぁぁあぁぁぁぁあっ
﹁ぁ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ ぁ ぁ あ あ ぁ ぁ ぁ ぁ ぁ あ あ あ あ あ あ あ あ ぁ あ あ あ あ
!!!
175
そして
﹁うちの娘に何しとんじゃこらあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ
﹂
目まぐるしく変化していった光景に対応できず、ぱくぱくと口を開閉させた。
恐竜の姿は紅花の視界から掻き消え、余波が周囲の木々をざわざわと鳴らす。紅花は
恐竜の巨躯を凄まじい勢いで薙ぎ払った。
轟と、その全てが鈍速の世界において、巨大な瓢箪が紅花の頭を食いちぎろうとした
!!!
るはずがない。
ない。だが、身体にも精神にも傷を負わせて間に合った等と言えるか
いいや、言え
間に合わなかった、そんな言葉が、俺の頭の中でめぐる。確かに、紅花は死んではい
温が上昇している。それはつまり紅花が何らかの怪我を負ったということだろう。
ろよろと立ち上がり俺の方へと歩いてくる。紅花の腹部の様子がおかしい。やけに体
俺は空っぽの表情で膝をついている紅花に走りよった。紅花も俺に気づいたのかよ
﹁紅花っ﹂
心の痛みとは他をおもうが故である
176
?
俺の不注意で、紅花に傷をつけてしまった。正直、悔やんでも悔やみきれない。
と、紅花は俺の手前で立ち止まると、俺から顔をそらすように少しだけ顔を俯かせた。
その口は小さく動いている気が、俺にはした。
紅花にさらに近づくと、俺の耳に小さな声が聞こえた。
次の瞬間には、俺は紅花の小さな身体を抱き締めていた。
﹁⋮⋮ご・めん、なさい。ごめん、なさい、ごめんなさい﹂
ふるふると震える身体を、ぎゅぅっと抱える。溢れだしそうな紅花の心を安心させる
﹁ごめん。ごめんな、紅花。俺が、悪かったんだ﹂
ように、包むように。
﹂
徐々に紅花の謝る声は小さくなってゆき、代わりに喉の奥から漏れだす嗚咽が大きく
なっていく。紅花もぎゅっと俺の身体をつかんだ。
﹁う゛ぅーーーーーーーーぅぁあああああああああああああああああああん
﹁大丈夫だから、もう大丈夫だからな﹂
ほど泣いている紅花のことが気になっていた。
は紅花の涙でどんどん濡れていったが、少しも気にはならなかった。いや、むしろそれ
しくて、抱きしめ続けた。少しほつれてしまった髪を撫で付けるように撫でる。俺の服
とうとう大きな声で泣き出した紅花を、俺はただただ申しわけなくて、ただただ愛お
!!!
177
心の痛みとは他をおもうが故である
178
少しでも早く、また紅花が笑えるように、また紅花の笑顔が見られるように、俺は少
しだけ俺よりも低い小さな赤い頭を撫で続けていた。
恐竜はあっさりフェードアウト
紅花が能力を初めて使ったときから、紅花の成長は加速していった。その時以来あま
り俺の側から離れようとはしなかったが、俺も紅花を一人にするのは出来るだけ避ける
ようにしていたので、問題のあることではない。時が経つにつれて、紅花の話す言葉も
ずいぶんと流暢なものになっている。
特に変わったのは、式神についてよく聞くようになったことだろうか。相変わらず、
普通の術式に関しては苦手のようだったが、こと式神においては理屈を越えて紅花は優
秀だった。基本は出来ないのに応用は感覚で理解できる天才、といったところだろう
か。自分の意識を集中させれば、同時に十数体の式神を維持出来るようになっている。
﹂
ただ、一度こう聞かれた時はどう答えるかとても困った。
﹁ワタシと、式神たちと、どう・ちがうの
﹁紅花が紅花としての個を持っていること。それが、紅花と式神達との違いだろうな。
式神もその本質は同じものなのだ。だが、決定的に違うものが、両者の間にはある。
おそらく、優秀であるがゆえに自分で自身と式神の関係に気づいたのだろう。紅花も
?
179
式神は主体性を持たないんだ。いや、持つことが出来ない。いくら自身である程度判断
する思考力を持たせようと、それはあくまでバックで主がいるからこそだ。式神は、自
分で自分に命令を下すことが出来ないのさ﹂
﹁よく、わかんない﹂
ろか。言い方はあまりよろしくないがな。つまり、俺達が使わなければ式神は自分がい
﹁うーんー⋮、式神は使うモノがいてようやくその役目を果たせる﹃人形﹄、というとこ
る意味を無くしてしまう、存在している意味を無くしてしまうんだ。だが、紅花は自分
が望むことで、自分の意思でここにいる﹂
銃は撃つために、傘は差すために、靴は履くために。それぞれが意図をもって作られ、
そしてそれに沿って使われる。使われることがなくなってしまえば、それらは在る意味
を無くしてしまう。それらに、自分で自分を使うことなどできないのだ。
なら式神は
?
﹂
?
あの時のことを引き合いに出すことは、卑怯だ。しかし、これは紅花が式神達を使う
存在意義を失ったものがどうなるか、もう、分かってるよな
花、式神を顕現させている時に式神とのつながりを絶つことは、絶対にしたら駄目だぞ。
を証明してもらわければならない。だから、式神を独りだけにしては駄目なんだ。紅
﹁式神の存在意義は、誰かの命令を受けて行動すること。紅花と違って、誰かにその存在
恐竜はあっさりフェードアウト
180
上で絶対に知っていて欲しいことだった。
元々、話し相手が欲しくて作ったのが式神だ。しかし、彼女達に紅花のような自己を
持たせることは出来なかったため、今ではその在り方もずいぶんと変わっている。紅花
を作り、それでも俺が彼女達を使うのは俺にとって必要な存在だからだ。俺は式神達を
道具だと考えている。しかし、だから積極的に顕現させ使っている。それが俺にとって
の、式神を使う上での責任だと考えていた。
紅花が式神に対してどう感じるかは彼女自身の問題だ。だが、意思ある者は━道具
しかし、やっと肩の荷が降りた気がする。
分のいくつもの共通点に気づいたとき、それをどう思うのか、ということを。
たからだ。紅花を俺の子供だと感じた時から、ずっと気がかりだった。紅花が式神と自
ろう。だが、俺はそれでもよかった。紅花が、自分の在り方に迷うことはないと確信し
俺の顔を見つめ、そう言った。必死で考えて、出した答えはきっと感覚的なものなのだ
俺の言うただただ難しい事を、紅花は眉根を寄せて聞いていたが、やがて顔を上げて
﹁よく、わかんない・の。でも、わかったよ、おかあさん﹂
紅花に理解していて欲しいことだ。
︽力︾を使う時はそれに対し何らかの責任を負わなければならない。それが、最低限俺が
181
恐竜はあっさりフェードアウト
182
そういえば、実は世界から恐竜が絶滅してしまった。原因は、ある時地球に激突した
直径数キロの弩級隕石である。凄まじい速度で迫っていたそれも、物体が大きすぎるゆ
えに目ではとてもゆっくりしたものだった。しかしその影響は尋常ではなく、余波で地
球を覆いつくしてしまったほどだ。
俺は早い段階に察知していたため、いつかのように強力な結界を張って紅花と引きこ
もっていた。
巻き上がった塵は空を覆いつくし、いくつもの粒が地上に降り注ぎ、隕石直撃を生き
延びたものも環境の変化に耐え切れずばたばたと死んでいった。俺は式紙をいくつも
飛ばし中継していたのだが、それはまさに地獄絵図と言えよう。実際に地獄を知ってい
る俺が言うのだから、間違いない。
つまり、その急な変革で次々に倒れていったのが恐竜だったのだ。さすが爬虫類と言
わざるをえない。
恐らく、これを生き残り進化するもの達が次の地上の覇者になるのだろう。このま
ま、後世に知られるとおりに進むのならば、人間が恐竜に台頭するようになるのだろう
が、そんなのは恐竜が滅んで6000万年は経ってからのことだ。
俺も正確に時を計測していたわけではなかったが、チンパンジーとヒトがわかれ始め
るのにそれぐらいかかったように思う。彼らは他の動物と違いいち早く道具を有効的
に使い始め、そしてそれに適した状態にどんどん進化していった。ちなみに、つい最近
久しぶりにヒトに襲われてなんとなく感動したところだ。懐かしすぎる。結局力関係
的には俺の方が何倍も上だったので、逆に追い散らすことになったのだが。どうやら同
﹂
じ人型をしていても、俺は彼らには尻尾や耳で異属と認識されたらしい。
あったか
花がそう言った。
﹁尻尾は
﹂
?
を口にすることはあまりない。俺以外の誰かと話す機会があれば、いつか改善されるか
の使い方も俺と遜色の無いレベルに近づいてる。ただ何故かまだ言葉が物足りず、長文
恐らくないだろう。なんとなくそんな気がする。力もそれに合わせて大きくなり、能力
かった紅花も既に九尾へと変じている。ただ、俺と同じように尻尾が霊体化することは
紅花はもっふもふの尻尾をゆらしながら、首を振った。そう、昔は尻尾が一本しかな
?
?
﹁んーん、なかったの。あの、ナマモノたちは、なになの
﹂
変えるたびに、俺の目に映る猿人は進化していく。そしてある時俺の隣を歩いていた紅
引きこもっていた結界から出て、俺達は安住の地を求めて各地を旅していた。場所を
﹁おかあさん。さっきなんだか、ワタシたちとそっくり、なのを見たよ
?
183
あれらが変化、進化してゆくと、俺達そっくり
もしれないが。今はまともな話し相手が俺しかいないのだ。
﹁今まで、サルは時々見ていただろう
たぞ
地上一帯破壊して月に逃げてったけどな﹂
になる。﹃人間﹄、とこの先呼ばれるものだ。紅花が生まれる前にはずいぶんと発展して
?
﹂
?
しれない。何せ、人間にとってこの世界は未知に溢れているのだ。
人間がでてきたのなら、直に本丸の妖怪達も姿を現すだろう。いや、もういるのかも
出来るのかもしれないが、共感は出来ないよ。絶対にね﹂
番あてはまるかな。少なくとも、
﹃人間﹄とは本質的に相容れない存在だ。あるいは共存
﹁そうだな。似てはいてもまったく違うものだ。俺や紅花は、⋮そうだな、
﹃妖怪﹄が一
﹁ワタシたちとは、違う、いきものなの
あぁ、アレを思い出すと忌々しくなるな。永琳を思い出して和もう⋮。
?
ものだ﹂
?
?
ものになろうという気はおきない﹂
﹁なれるさ、紅花ならな。⋮まぁ俺と違って淑女になって欲しいがな。俺は今更そんな
﹁ワタシも、おかあさんみたいに、なれる
﹂
﹁難しい方が、紅花は頭を使うことになるだろう 使えば使うほど、頭も成長していく
﹁⋮おかあさんの、言うことは、いつもむつかしい﹂
恐竜はあっさりフェードアウト
184
今では紅花と俺の体格はまるで同じものになっている。手を俺の頭ぐらいの位置に
持っていかないと、頭を撫でられないのでなんとなく寂しい。
外見だけ見れば紅花と俺はそっくりに見えるだろうが、しかし実際はまったく違う。
髪の色は違うし、服のデザイン、色も違う。俺は相変わらずの無表情だが、紅花は俺と
違い表情豊かだ。腰についている尻尾の色も違えば、数も違う。紅花は普段から九本だ
が、俺は七本を擬態し二本だけ出している。
さすがに九本もあると邪魔にならないんだろうか、尻尾。
﹂
?
に、俺達の領域は少なくとも確保しておきたいさ。﹂
﹂
俺達と似てるからって、そんなことしちゃいけません
﹁でも、たまをひとつなげたら、にげていった、よ
﹁こら
﹂
!
ういう存在は異種族に牙を剥く前に同種族の人間に潰されるだろうがな﹂
いからこその能力だろうな。それに、ごく稀に強い人間も生まれるはずだ。⋮まぁ、そ
﹁人間の強みは、並外れた向上心とぽこぽこ増えていく繁殖力、そして適応力だ。力が弱
﹁ご、ごめんなさい⋮でも、にんげんは、よわいよ
!
?
?
﹂
﹁あと数百万年もすれば、連中はこの地上に偏在する種族になる。版図を広げられる前
﹁どうして
﹁人間があの形になり始めたってことは、住む場所も急いだ方がいいな⋮﹂
185
スサノオやツクヨミも、確かそうして捨てられたと聞いている。それでいて都市の
トップに立てたのは、バックにイザナギがいたことと、明確な力を知らしめられるほど
同じにんげんなのに
﹂
成長できたからだ。不確かな力ほど恐いものはないだろうからな。
﹁どうして
?
﹁ん
﹂
そうだな、見晴らしや景色が良く、緑があって、それから肥沃な土壌の土地がい
?
うとする努力﹄を怠らない。それが今の紅花の強みだ。
ら、紅花の向上心は強くなっている。紅花は、自分がわからない事に対して﹃理解しよ
またもいちいち難しい事を選んで言う俺の言葉に、紅花は眉根を寄せた。あの時か
するも同然だ。違うのは、当たり前のことだからな﹂
ノであるように、彼らはそういう生き物なんだ。彼らを否定すれば、それは俺達を否定
﹁⋮そうだな。そうかもな。だが紅花、否定してはいけないぞ。俺達がこういうナマモ
﹁ふーん。へん、なの﹂
てほとんど覚えてやしない。一応名前は忘れてないんだがな。
はて、人間だった時、俺は弱いから強くなろうとしたんだっけか。もう昔のこと過ぎ
か、同じ杭でも、突出していればそれは違う存在に見えるらしいな﹂
﹁それこそ、弱いからだ。人間に限った話じゃない。出る杭は打たれるといったところ
?
﹁そういえば、おかあさん。どういう、ばしょ、さがしているの
恐竜はあっさりフェードアウト
186
?
187
い。そうそう見つかるわけじゃないが、だからこそ選ぶのは楽しいし見つけた時の感動
は大きいだろ﹂
酒は酒虫が造ってくれるが、食物はそうはいかない。別に自然にあるものを獲っても
いいが、折角なら安定した収穫をしたいものだ。うーん、畑が形になったら近くには無
い新しい作物を探しに行くのもいいな⋮夢が膨らむ。
数百年の後、俺達は条件に合う小高い山を見つけ、その頂上に陣取った。当初の予定
通り、和風の屋敷を建ててだ。俺と紅花の式神を使ったので、建築はすぐに終わった。
ちなみに、山の周囲を散策してみたがまだ人間はおらず、様々な動物は住んでいるが妖
怪もいなかった。
この世代の人間とまともに出会うことになるのも、それからずいぶんと経ってからの
ことだった。
してあるが、畑を削減するのも少し勿体なく、過剰にある田畑を俺はどうしようかと
のものを作ってしまっていたのだ。仕方がないので、余ったものはとあるところに貯蔵
た。式神に任せていることが多かったために気づかなかったが、自分達が消費する以上
いいのだ。その分俺は楽をさせてもらったのだが、しかし途中でまずいことに気がつい
なみに、俺が世話をする時は神気を振りまいている。何故か知らないがその方が発育が
と化している。世話は俺や紅花が直接することもあるが、大体は式神に任せていた。ち
折山の屋敷から遠くへと旅をし、その度に新しい何かを見つけてくることは俺の楽しみ
俺もその波に乗り、山の上だけでは飽きたらず麓に水田を始め様々な畑を作った。時
分そのうち、クニにでもなるんじゃないだろうか。
また、外に目を向けるようになったのか他集落同士の戦争も流行っているようだ。多
実剛健のものへと。そして狩りや採集も前ほどは行われなくなった。
集落が増え始め、稲作が始められている。石器などはただ不便そうで脆いものから、質
この山に来て随分経った頃、世界では縄文時代の終り辺りだったように思う。各地に
食べ物の妖怪
食べ物の妖怪
188
迷っていた。
さて、そこら一帯の開墾に調子に乗りすぎて、そうして少し困っていた頃だ。俺は屋
敷の方で昼飯を作っていた。毎日食べる必要はないのだが、紅花は何かを食べることが
好きなので俺達は定期的に食事を摂っている。俺もたまに一日中何かを食べているこ
ともあるが、そういう時は酒の方がメインだ。
人参やたまねぎを親の敵のごとく切り刻んでいると、紅花が少し困った顔でやってき
た。
だろ﹂
﹂
﹁でも、はたけに、どろぼうしてるみたいなの﹂
﹁何だと
﹁いま、ワタシの式神が、とめてるの。でもひとり、つよいにんげん、いるの﹂
﹁今畑の方で見張りしてるのは、どの式神だっけ。それから何体で相手してるんだ
﹂
?
?
ついでに、人間は全部で何人ほど
?
﹁ふーん。とうとうこの辺りにも来たか。ま、遅かったぐらいだな。ほっといてもいい
﹁おかあさん、にんげんがちかくまで、きてるみたいなの﹂
189
﹁しろいろ、ひとりなの。にんげんは、えと、さんじゅうぐらい、いるみたいなの﹂
しろいろ
あかいろ
いちいち式紙式玉の式神というのが面倒になった俺は、それぞれに呼称をつけた。式
紙のものが白色、式玉のものが朱色である。一応バージョンアップは終わっており、白
色には三尾、朱色には五尾がついている。とは言っても、俺が三尾や五尾の時の力と比
べると確実に力は小さいのだが。
しかし、白色一体とはいえ人間が相手を出来るとは驚きだ。そこいらの妖怪に負けな
い程度の力は持っているはずなんだが。
それにしても。
いや、土地の所有権を声高に主張するつもりはないが、少なくとも俺
﹁三 十 人 ⋮ ど う い う 大 所 帯 だ ⋮、も し か し て 泥 棒 じ ゃ な く て 土 地 の 略 奪 に 来 た ん
じゃないのか
?
﹂
﹁⋮俺が行くわ。連中が何しに来たのかも分からんしな﹂
﹁あ⋮。しろいろ、やられちゃった⋮。このにんげん、つよいの﹂
達の作った田畑なんだがなぁ﹂
?
?
﹁わぁい。わかったの﹂
﹁昼飯作っといてくれ。今日はみんな大好きハンバーグがメインだからな﹂
﹁わかったの。あ、おかあさん、ワタシはどうしよう
食べ物の妖怪
190
191
ウカノの領域にやってきた人間三十二人。
誰もが疲れた顔をしていたが、今はその中に希望を宿している。
彼らは、元いた場所を追い出された者達だった。この時代でもそう珍しくはない、里
同士の戦争。満ち足りた生を手に入れられると、むしろさらなる欲に走るのが人間の性
というものだ。しかし、彼らはその被害者と言っていい。小さな里で細々と暮らしてい
るところにやってきたのは、大きな里からの略奪者達だった。純粋な物量差で勝てるわ
けもなく、被害を甚大に出しながら彼らは自分達の土地から逃げ出した。
逃げ出した当時は五十人ほど、しかし、この人数が移動するなど楽なことではない。
外敵疲労飢餓疾病、様々な要因により徐々に一人二人と数を減らし、既に二十人が生存
競争から脱落してしまった。
残った者達も疲労困憊し、次々と病にかかってゆく。もうだめか、そう思われた時彼
らは楽園を見つけた。
見たこともない多種多様の野菜、色とりどりの果物、そしてまだ遠方の一部でしか作
られていないされている稲が、ここには広大な地でもって植わっていた。
頬がこけた一人の男が、恐る恐る赤い実に手を伸ばしもぎ取ると、口へ運んだ。普通
ならば警戒して食べないようなそれも、飢餓にも脱水にもなりそうな彼にとっては、何
かを食べること自体がそれ以上の急務だった。
そして、他の人々もごくりとつばを飲み込み男を見守っていた。
赤い実を食べた男が枯れた喉でそう吠えるとともに、それを見守っていた人々がその
﹁びゃぁぁぁぁぁぁぁぅまいぃぃぃぃぃぃぃ﹂
赤い実へと群がった。あまりの空腹に、そこが誰かに整理された畑であることにも気づ
かない。
﹂
!
幼い少女が空から降りたった。顔は狐のような仮面で隠しているので見ることが出来
力弾を撃たれた人々をかばうような位置に彼女が立った時に、その彼女の前にさらに
いたので俊敏に動くことが出来る。
子供、ということもあるが、その理由から彼女はみなより優先されて食料を回されて
それでも里を守れなかったのは、純粋に数の差だが。
ない、天然の強者である。彼女は種族人間よりも強い、いわゆる人間の突然変異だった。
多少の犠牲で切り抜けられたのも彼女がいたからなのだ。何の訓練などもしたことが
見た目は幼いが、ある意味彼らの命綱はこの少女だった。道中の外敵からの襲撃を、
弾した。幸い少女の対抗弾幕が間に合い、怪我人はいない。
実に群がった人々を止めたのは一人の少女、それと同時にいくつもの力弾が地面に着
﹁危ない
食べ物の妖怪
192
﹂
ないが、身体は人間そのものに見える。しかし、その腰には三本の真っ白な尻尾があっ
﹂
ここはこの妖怪の縄張りなの
大丈夫なのか
!?
た。
﹁妖怪
﹁て、テケ
!?
戦いはテケが優勢だったが、テケは時間が経つにつれ疲労に見舞われてゆき、しかし
ら守る。
しく異物とされるテケを仲間だと認めていた。だからこそ、テケも人々を全力で外敵か
え、強者として弱いものを守り続けた戦士である。仲間である人々は、人間としては珍
いくつもの弾幕が飛び交い、幾度となく両者の拳が交差する。テケとて幼いとはい
強かった。力云々の優劣ではない。とにかく戦い方が正確無比な、厄介な相手だった。
戦いは、熾烈を極めた。この白い妖怪は、今までテケが相手をしたどの妖怪よりも手
怪へと飛び掛る。
向け、心配そうに声を掛けた人々に力強い言葉を返した。そして少しも動かない白い妖
テケと呼ばれた少女は、紅白の装束を着た妖怪の後ろにある色とりどりの作物に目を
!
!
い、すぐに終わらせます
﹂
﹁大丈夫です 相手は一人ですし、それに勝たないとみんなが⋮下がっていてくださ
!
!?
193
反対に妖怪は少しも疲れを見せない。
双方の衣服は衝突と時間を重ねていく毎にぼろぼろのものになっていった。人々は
その様をつばを飲み込み見守っている。テケが負ければ、人々が目の前の楽園に届くこ
とはないだろう。戦うことも出来ないほどに人々の身体は疲労し、そして精神すらも憔
悴していたのだ。
果たして、最後に競り勝ったのはテケの方だった。
疲労で完全に力を下回る前に、彼女は渾身の霊弾を白い妖怪に当てたのである。途
端、妖怪は人々の前でふっと跡形も消えてしまう。
人々は歓喜の声を上げ、テケを取り囲んだ。そして生きる活気とともに、赤い実へと
手を伸ばす。
と、そこでテケはまたしても人々に待ってと叫んだ。
その視線の先には、またしても真っ白な獣耳と二本の尻尾を持つ一人の少女のような
妖怪。先の者とは違い顔を隠しておらず、美しい顔を無表情で固めていた。テケと同じ
盗人共﹂
ほどの身長で、そのほぼ同じ位置にある二つの瞳は金色に光りテケと人々を見据えてい
た。
?
容貌に違わぬ綺麗な声が妖怪の口から漏れるが、その口調は彼女のどこにも似合わず
﹁よぉ。俺の畑に何か用か
食べ物の妖怪
194
粗暴なものだった。
テケは二番手の妖怪に対し、危機感を覚える。
││尻尾の数は劣るのに、こちらの方が強い。
テケの経験には合致しないものだった。テケが戦ったことがあるのは尻尾が1∼2
本のものである。そして、尻尾の数は先刻戦った三本の妖怪が最高だった。尻尾が多い
ものの方が強い、今までは確かにそうだったのだ。
疲労に肩を大きく動かしていたテケに変わり、人々が奮起する。手の届きそうな楽園
﹂
に元気を取り戻し、そしてテケの奮闘に触発された特に若者を中心に、人々がめいめい
今度は俺達で妖怪をやっつけるぞ
﹂
!
の得物を手に前に出た。
﹄
みんなやめてください
﹁ここで退いてたまるか
﹃応
﹁あ、危ないですよ
!
人、こっちは三十人はいるんだぞ﹂
﹁よ、妖怪を見た目で判断しては⋮
﹁すまない⋮﹂
私も戦います
﹂
!
フラグたくさんの会話を黙って聞いていた妖怪に向き直ると、妖怪は首をかしげてま
!
﹁いつまでもテケ一人にはまかせてられないさ。大丈夫だ、相手は妖怪とはいえ小娘一
!
!
!
195
た口を開いた。
﹁なぁ。俺は﹃何用か﹄と聞いたんだがな。俺の質問は無視か
﹂
に近い。名も知らぬ妖怪の方、願わくば、食料を少しでも分けて欲しいのです﹂
地を求めて旅していたのです。ですが、見ての通りもう食料もなく、我々の体力も限界
﹁我らは、元々は遠くの小さな集落に住んでいたのですが、戦いで土地を追われ、安住の
老人は妖怪を目の前にして臆さずに答えた。
ものは珍しい。それも、これまでの辛い道程すら耐え切ったのだから、なおさらだ。
白いひげをたくわえた、往年の男である。この時代においてこれほどの長生きをする
と、人々の間から一人の老人が姿を現した。
﹁待て、お前達﹂
それに対し、若者勢が敵意をもって返そうとした時。
などはなかった。純粋に彼女は人々に対して疑問を呈している。
その口調はとてものんびりしたもので、言葉は粗暴でも無視されたことに対する怒り
?
また騒ぎ出した。そもそも、彼らももう限界の状態なのだ。続く飢餓状態の中、いつま
どちらもそういう気質なのかのんびりと会話していると、業を煮やしたのか若者勢が
﹁それは、申し訳ございません。ここの物が誰かの物とは存じ上げませんでしたので⋮﹂
﹁ふーん。それでここの実を勝手に食ったと﹂
食べ物の妖怪
196
でもたくさんの食べ物を前にお預けを喰らっていられるはずがない。
俺達の手で、ここを勝ち取りましょう
行くぞみんな
﹂
この妖怪はここの食べ物を独り占めして、来て食べようとする者を困らせて
いるんだ
!
!
!
それも当然か、光が止んだ後に現れたのは、自分が必死になって倒した仮面をつけた
テケの口から、かすれた声が漏れる。
﹁う、嘘⋮﹂
﹃⋮﹄
で目を見開き言葉を失った。
りの眩しさに思わず目を閉じていたが、光が止み恐る恐る目を開いた時には逆に限界ま
そして薄っぺらいものは次々に発光し、光が辺り一帯を覆い尽くす。人々はそのあま
た。
ら人々の周りを取り囲む。老人もテケも若者もその光景に呆気にとられ、足を止めてい
から大量に飛び出し、一つの生き物のように集合して宙を泳いだ。そして弧を描きなが
置かずその広い袖がごぼりと揺らめいた。次の瞬間、どばっと薄っぺらいものがその袖
それは、袖が広く手の先も見えない服の両腕を横に掲げただけの動作だったが、間も
人々の様子をただ見ているだけだった妖怪は、そこで初めて動く。
応と、再び答えた若者達は老人やテケが止めるも聞かず、妖怪へと足を踏み出した。
!
﹁長老
197
三尾の妖怪だったのだから。それと同じ姿をした妖怪が自分達をゆうに上回る数で取
り囲んでいたのだ。
分達の作った物の所有権を主張して、何が悪い﹂
﹁血気盛んなのはいいがな、人間。それでは早死にするぞ。そもそも独り占めも何も、自
人々も、三尾の妖怪達も一言もしゃべらない。前者は驚愕と絶望で、後者は純粋な無
口。百近い人型がいるその場が不気味に静まり返っている中、二尾の妖怪の声だけが無
情に響く。
そして、その沈黙の中最初に動いたのは長老だった。彼は頭を下げながら、ほぼ地に
伏した格好で声を上げる。
す
お怒りはごもっとものこと、ですがどうか、どうかお許しください
﹂
!
!
従い、彼は長らく人々をまとめてきた。
い。ゆえに、彼には最年長としての矜持があった。自身よりも若いものを導く、それに
長老は長く生きてきた中でも、人間の中で自分以上に長生きしているものを知らな
のだから、当然か。
らすればその通りだった。相手の領域で、圧倒的戦力を持つ者に喧嘩を売ってしまった
既に食料だのなんだの言っている問題ではなくなっている。少なくとも、彼ら人間か
!
﹁申し訳ございません 彼らはまだ若輩、彼らを止められなかった私に責任がありま
食べ物の妖怪
198
だからこそ、彼は自身で責を背負い妖怪に頭を下げていた。それが、みなの先頭に立
つ者としての責務と考えていたからだ。
ただ謝罪を受け取る妖怪、ウカノとしてはどうでもいいことだった。白色を倒された
ことも、勝手に作物を食べられたことも、自身に得物を向けられたことも、人間と違い
果てしない時を生きてきた彼女にしてみれば、これらのことは取るに足らないことだと
感じていたのだ。白色は死んだわけではないし、作物を少し盗られたところで自身にさ
したる痛痒はない。そして人間に攻撃されたところで、毛ほどの傷も受けることはない
のだ。
そもそも、この大所帯で移動し食物を食らった理由の所在を聞きたかっただけで、ウ
カノに人間を攻撃する意思はない。そして既に理由は聞いているので、
﹃まあいいか﹄程
度に考えていた。
式神を大量放出したのも、身の程を知らない者に立場を理解させようとしただけのこ
とだった。その効果は覿面だったが、ウカノにとっては予想以上の成果を見せる。
困ったなと、土下座する老人を前にウカノは思案していたが、急に顔をあげると老人
に向かってこう言った。
﹁は
﹂
﹁いいや﹂
199
?
﹁ここにあるものは、好きに食べていって構わない。ただし、その後であの山の頂上まで
来い。別に全員じゃなくていいぞ、お前達のうちの代表者だけでもな。じゃあな﹂
﹂
﹁あ、おかえりなさい、おかあさん。はんばあぐ、できたの﹂
﹁ただいまー﹂
くなっていた。
人々はその様を呆然と眺め、長老が我に返り声を上げた時には既に妖怪の姿は見えな
り、彼女の袖へと出てきた時と同じようにごぼごぼと吸い込まれてゆく。
へと飛び上がった。同時に、人々を囲んでいた妖怪たちは次々にうすぺらい物に変わ
人々の前で彼女は自分の住む山の頂上を指差し、そして来た時同様そこに向かって空
﹁⋮⋮⋮⋮え、あの
!?
﹁うん
﹂
﹁だから帰って来た。いい匂いだな、早速食べるか﹂
食べ物の妖怪
200
!
食べ物の神様
残された人々はしばらく呆然としていたが、やがてぼそぼそと相談し始めた。ぼそぼ
そこっそりする必要などないのだが、彼らの戸惑いを示しているといえよう。話し合い
はなかなかまとまらず、食物を前に手を出せない状況が続く。それが白い妖怪の残して
いった多大な影響だった。﹃食べても構わない﹄と言われても、どうしても警戒が先に
立ってしまうほどの力を示していったのだ。
しかし、十数分ただただ話し合っていた彼らも、結局色とりどりの食物で腹を満たす
ことになる。
実を食べた人々の感想は、その一言に尽きる。
﹁こんな美味いものは食べたことがない﹂
だんと速くなっていった。
さん生った赤い実へと手を伸ばす。もぎ取り、みながゆっくりと食べ始め、それはだん
出せなかったものの、彼らも我慢をしていたのだ。三十二人が固まり、そろそろとたく
﹃お腹すいた﹄。小さな子供の一言が、彼らの我慢を解いた。そう、恐れでなかなか手を
201
食べ物の神様
202
その実の元々の味もさることながら、彼らの知らない、未来の技術で培われた作物。
さらにウカノの神気で育ったものが、美味しくないわけがない。
その上、食べれば食べた端から失っていた体力が戻り、それとともに元気をも取り戻
していく。病人に食べさせれば、その状態もみるみる良くなってゆく。
小さいなれど、それはまさに奇跡だった。ウカノ自身は、デジタル思考ゆえに自分の
神気の本質には気づいていなかったが、神とは元来人にとって奇跡を起こすものであ
る。その力に、理屈は存在しない。
一度食べてからは、彼らの行動は早かった。他の実にも手を伸ばし、子供や病人、体
力の少ないものから順番に食べさせていった。むろん、ここの畑には全員がたらふく食
べてもまだ余りある作物が実っている。この時代の人間が小食であることもあるが、そ
れぞれの実が丸々と肥えていたということもある。まさに、神気恐るべし。
三十二人、全員が腹を膨らまし、満足した頃、新たな話が持ち上がる。
自分達に食べ物を恵んだ白い妖怪のことである。妖怪が畑を、それも自分達ですら不
可能なほど整然としたこれらを、作ることが出来るだろうか
老が頭を下げたのも、本当なら無駄に近かった。話の通じる者と判断した上での、苦肉
無理はないかもしれない。彼らにとって、妖怪とは人間に危害を加えるものである。長
そもそも、彼女は妖怪なのか。そんな話まで出る始末である。しかし、そう思うのも
?
203
の策だったのだ。
だが、長老が頭を下げた結果はこうして食物を全員が満腹になるほど恵まれただけで
はなく、その食物で病人たちもみるみる元気を取り戻している。
そして刃を向けられても、圧倒的戦力を持っていても、彼女は人間に敵意を向けな
かった。むしろ、助けている。
さて、次に話しの中心になったのは、誰が山の頂上に行くかという話だった。
既に長老とテケが行くことは決定していると言っていい。あとは一人か二人、山道で
長老あるいはテケのサポートをする者の選抜である。
ウカノのイメージが妖怪のままであったならば、誰も立候補しなかったであろうし、
そもそも罠と判断し山に登ろうとすらしなかっただろう。
だが彼らは、もらった恩を裏切るほど礼儀知らずではなかった。そして、ある意味自
然に対し信心深くもあった。見たこともない畑を営み、慈悲深く多くの食物を恵んだウ
カノを通して、何かを見ていたのかもしれない。
自分が、いやいや自分がとなかなか決まらず、結局力の強い者を長老が選ぶことにな
り、三十人の中でも特に屈強な男一人が選ばれた。
長老にテケ、一人の男は、残る二十九人に手を振り白い少女の指し示した山へと足を
向けた。
山の麓には、例の仮面をつけた二人の三尾の少女が待っていた。二人の姿は全く同じ
で、そして先刻見た者達とも同一であった。
﹁﹁こちらです﹂﹂
声をそろえて簡潔にそれだけ言うと、二人は歩き出す。三人が慌ててついていくと、
少女達の歩いていく先には綺麗に舗装された石段があった。二人は淡々とそれを登っ
てゆく。三人もそれに黙ってついて行きながら、直にそのうちの一人、テケが沈黙に耐
え切れず口を開いた。
﹁あ、あの﹂
﹂﹂
続ける。
振り返りもせず足も止めず、平淡な声で即座に返され少し気おされながらも、テケは
﹁﹁何か
?
え、それはこちらから相手の領域に入り、増してやそこの物を盗ってしまったからだ。
り、率直に言えばテケは彼女達の仲間を殺してしまったのだ。先に攻撃されたとはい
とは到底思えない。しかしその畑にいた少女を、テケは攻撃して消してしまった。つま
畑を守っていたらしい少女と、前を行く二人、ひいては頂上で待つ白い少女が無関係
﹁あの、あそこの番をしてらした、女の子を、あの、私、やっつけちゃったんですけど⋮﹂
食べ物の神様
204
非はこちらにあるのではと、少なくともテケはそう思っていた。そのことについて、
何か咎めがあるのではないかと心配していたのだ。
﹂
しかし、二人は相変わらず薄っぺらい声で返答した。
﹂
﹁はい。しかし、﹂
﹁それが何か
﹁ですので、﹃仲間﹄という言葉が﹂
﹁私達に、個は存在しません﹂
﹁仲間⋮﹂
﹁え、でも、彼女はあなた達の仲間ではないのですか
?
﹁﹁ウカノ様と紅花様に使っていただいています、道具です﹂﹂
﹁式神﹂
﹁私達は﹂
﹁そ、そうなんですか⋮。あなたたちは、いったい⋮﹂
﹁ですので、私達を下したあなたに咎はありません﹂
﹁私達には死の概念はありません﹂
二人はテケや長老でも首をかしげるような事を交互に口にし、そしてなおも続ける。
﹁定義付けられることはありえません﹂
?
205
﹁えと⋮﹂
﹁着きました﹂
テケが返答に窮していると、二人はテケが何かを言う前にそう言った。気づけば、上
﹁こちらです﹂
が見えないほど続いていたはずの石段は終わっていた。
そして頂上にやって来て、三人は幾度目かになる驚愕を表情に表した。
山の頂上にあったのは広い平地で、地肌はあまり見えずふわふわとした草が一面に植
わっている。その草がないところにはちんまりとした畑が作られていた。
さらにその向こうには、これまた今まで見たことのないような建物が建っている。自
分達の住まう竪穴式とは違い、地につかない造りになっており、屋台骨も木材でしっか
り細部まで作りこまれていた。そして、大きさなど竪穴式住居とは及びもつかない。
﹃ここ﹄だと言われなければ、住まいとすら気づかないほどの隔たりがあった。
彼女は家の、入り口らしき場所へと歩いて行くと、からからとそこを開きテケや長老
言える。
で遣せと言った白い少女だった。その肩に大きな瓢箪を引っ掛けているのが印象的と
その大きな家の裏からすたすたと歩いてきたのは、テケ達、というより代表者を選ん
﹁おう、来たか。まぁ上がれ。茶は│あったっけ﹂
食べ物の神様
206
達に手を振り誘った。そして、ついっと中へと入っていく。
三人をここまで案内してきた二人の少女は、いつの間にか三人の後ろに立ち、その背
中を静かに見つめている。
三人はその視線に押されながら、顔を見合わせてからぽっかりと開いた引き戸の向こ
うへと入っていった。
としては、そんなことは無論避けたいところであるが。
い。食物の対価か、はたまたその他の何か。渡せるモノといえば、ヒトしかない。彼ら
その言葉に、三人は身を引き締めた。そもそも、何の理由で呼ばれたのかが分からな
反対に、少女は自分の瓢箪を傾け、ふぅと息をつくと長老に短く返す。
しかしいつまでもそうしているわけにもいかず、最初に長老が話を切り出した。
れず、所在なげに周囲をきょろきょろと見回していた。
は真っ白な少女と向かい合い、落ち着かずにそわそわと出された飲み物にも口をつけら
立派な造りの家の中を進み、連れてこられたのはこれまた立派なお座敷。そこで三人
﹁あぁ、いいよ。そのことで話があるしな﹂
を取り戻し、感謝の次第もございません﹂
﹁こ、この度はたくさんの食物を恵んでいただきありがとうございました。みなも元気
207
少女はそんな心配などお構いなしに言葉を続けた。
﹁お前達は確か、安住の地を探しているのだったか﹂
ても既に住んでいる者達も居る場合がほとんどです。彼らもいっぱいいっぱいの状況、
﹁は、はい。しかし、三十二人も住むとなるとなかなか良い土地も見つけられず、見つけ
その近くに里を構えるわけにもいかず、またしばらく旅をして探すことになるでしょ
う﹂
何故そんなことを言うのか分からず、長老は内心首をかしげる。
しかし、その後で続けられた少女の言葉に顎を落とした。
﹂
﹁ふーん。じゃ、下の畑を世話してみないか もちろん、獲れた収穫物はお前達のもん
だ﹂
?
もちろん条件付だぞ。収穫された物の一部を、こっちに上納してくれ。まぁ、俺
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮は
﹁ん
?
﹂
がお前達を雇う、といった形だな。⋮この言い方じゃ難しいかね﹂
?
?
?
思うんだが﹂
﹁その、畑も、いただけるのですか⋮
﹂
﹁住まなきゃ畑の面倒は見られんだろ⋮。三十二人が十分に住めるだけの土地はあると
﹁ここに、住んでもよろしいのですか⋮
食べ物の神様
208
﹁さ っ き も 言 っ た、条 件 付 で だ が な。あ ぁ ⋮ 別 に 半 分 寄 越 せ と か 一 割 寄 越 せ と か 無 理
言ってるわけじゃないぞ。適当にくれりゃいい。俺としては、少々畑や田んぼを作りす
ぎて困ってたところだ。ただ貯蔵していても仕方ないし、お前達が消費してくれるんな
ら、それが一番いいのかもな﹂
﹂
?
﹄
!!
しかもその両方をもらえる条件は、ただ収穫の一部を彼女達に供えるだけ。そもそ
すぐに頭で理解出来なかったのも、当然のことである。
たのだ。少女の言葉一つで、今の彼らの現状全てが救われたと言ってもいい。
三人が呆けていたのは当たり前、住み場所も、作物も、三十二人分が一気に保証され
それ故、突然声をそろえて頭を下げた三人に、少女の身体も少し引いてしまう。
﹁おぉ
﹃ありがとうございます
﹁何かまずいことでも⋮⋮﹂
何かを言おうとした。
込んだ。そしてもう一度三人へと視線を戻し、まだ呆けた顔をしているのを確認すると
怪訝そうにそれを見返していたがすぐに興味を失い、瓢箪を振ってその中身を口に流し
長老を含めた三人はぱかっと口を開き、まるで阿呆のように少女を見つめた。少女は
﹃⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹄
209
食べ物の神様
210
も、言われずとも彼らならば自発的にやっているだろう。
人間に奇跡を起こす者、人は時にその者を﹃神﹄と言う。畏れ敬い、そして彼らにとっ
て絶対なる者。
ウカノミタマは、彼らにとってまさにそんな存在だった。
絶対的な力を持ち、奇跡を起こし、彼らを救う者。そこに彼らが超上者の姿を見るの
は必然といえよう。
未だ驚き高揚する頭で、甚だ興奮しながら彼らは山の上の屋敷を後にした。その前に
幾度も頭を下げていく事を忘れずに。人は、強制されずとも自然に頭が下がるものであ
る。彼らはまさにそれを体現していた。
これから、彼らは様々な理由で何度もこの場へとやって来る。
みながみな進んで歩を進め、人を代え、代を代え、何年何十年何百年となく、それで
も絶え間なくやってくる事を、ウカノは知らなかった。
ウカノは、以前は人間であった彼女は、この時代の人間の信心深さを舐めていた。
なんか知らんが神様と呼ばれるようになっていた。処遇に困っていた田畑を、丁度
やって来た人間達に提供しただけなんだが。
イザナギ、お前って予知能力あったんだな。名前教えてなかったのに、あいつらいつ
おかあさん﹂
の間にか﹃倉稲御魂﹄とか呼んでんだ。どういうことだし。
﹁どーしたの
﹁
﹂
﹁親友の偉大さを垣間見た﹂
?
211
???
彼らはといえば、こまめに家にお供えに来てくれるし、最近は小さなお祭り
曰く、自身の未熟ゆえということだったが、はてどうだろう。
も始め
何でも、元いた場所からここに来るまで二十人ほどの仲間が死んでいたらしい。テケ
ぶっちゃけ強くして欲しいとのことだった。
て い た ら し い が、式 神 は 困 っ て 俺 の 方 に 話 を 持 っ て き た の だ。聞 く と こ ろ に よ る と、
さて、一番この場所にやってくるのはテケという少女だった。最初は式神に話にいっ
わないことを。あまり富んでしまえば、迷走し始めるのも人間といえよう。
えて参加している。これも彼らが裕福になった証といえよう。願わくば、彼らが道に迷
ていた。ずんどこずんどこってわけじゃないけど、かなり原始的。俺や紅花も、酒を抱
?
で、新しい作物も増えていない。
でどおり俺達や式神が世話をしている。俺もここしばらくはこの地に留まっていたの
全ての田畑を渡すのは残念ながら彼らの数が少ないので出来なかったが、そこは今ま
人間が山の麓に住み始めて数年、わりかしうまくいっていると思う。
そもそもの発端は狐
そもそもの発端は狐
212
213
ただ、手ほどきをするということについては別に構わなかった。寿命の短い人間と違
い、俺はそれほど日々をせかせかと生きていない。人一人鍛えるぐらいならばお安い御
用だ。
見てみたところ、彼女には能力があった。おそらく、生まれ持ったセンスと霊力に加
え、この能力のお陰で彼女は紅花の白色にも勝てたのだろう。
その能力は、﹃霊力を扱う程度の能力﹄。
非常に地味であることは否定は出来ない。ただ、彼女の霊力の扱いはなるほど気が狂
いそうなほど繊細なものだった。大した訓練もしていないというのにこれなのだから、
能力というものは本当に恐ろしい。
⋮最近は霊気じゃなくて霊力っていうんだな。俺もそうしよう。あれ。じゃあ神気
や妖気、禍気もそうなのかな。まぁいいか。
一応、テケには俺の知る体術や霊術︵妖力式のものを霊力式に変換。実は結構簡単︶を
教えてみた。ただ、俺の式神を使うことは残念ながら出来なかったが。憑依式神も同様
だ。どうやら適正が無いらしい。
しかし数年で、結界や式紙に関しては十分過ぎるほどになっただろう。弾幕も昔とは
比べ物にならない。
俺はテケが屋敷の前で、無数の式紙を弾幕で撃ち落とそうとしているのをぼんやりと
そもそもの発端は狐
214
見ながら、ある事を思い出していた。
この地上に人間が出現し始めしばらく経った頃、俺は地獄へと顔を出しにいってい
た。地獄は、前の人間が月に行き地上の人間が一度絶えてからは、その間全ての機能が
凍結されていた。元々、人間のように思考レベルの高い者のために、イザナギが作った
場所なのだ。虫や動物、恐竜などは基本的に自然の輪廻にまかせておけばいい。時折畜
生道など介入することもあるが、放置が基本だ。
俺もイザナギがあそこを作った時に手伝いはしたが、転生システムの補助と閻魔をス
カウトして来たぐらいで、ほとんどの部分はイザナギが仕上げてしまった。
それでも一応俺が連れてきたという責任もあったので、時折こうして顔を出してい
る。
地獄は通常空間にはなく、黄泉へ魂が堕ちる時の受け皿ともいえるような役目があ
る。そこを経由し、人の魂は転生したり黄泉に落とされたりするわけだ。黄泉黄泉と
言っているが、少なくともあれは死者の国ではない。今の使われ方は煉獄、と言った方
がいいかもしれない。どれほどの重罪人であろうと、永遠に煉獄に縛られることは無
く、いつかは転生の輪に乗ることになる。煉獄は生前の罪を償う場所、という認識が正
しいだろう。
ちなみに天国とは天界をさすが、実際天界に送られる魂などはそうない。天人曰く、
もうほとんど満員なのだそうだ。本当かどうか怪しいが。
さて、その時は俺は紅花も連れて地獄へと来ていた。
そしてすぐに川のほとりで二つの人影を見つける。普通ならばもっと奥に行くのだ
が、この時は普段とは様子が違っていた。
それもそのはず、片方は俺の連れてきた十人の閻魔の内の一人だったが、もう片方は
本来ここにいないはずの、黒い髪を両側で縛っている少女だったのだ。彼女の応対をす
﹂
るためにここまで出てきていたのだろう。
﹁⋮アマテラス
ひさしぶっ﹂
!
アマテラスは、べしゃりと前もって張っていた結界にぶつかるとずるずると落ちてい
﹁勝手に殺すな﹂
﹁ウカノちゃん、生きてたんだね
でやって来た。そしてがばっと手を広げると俺に飛び掛ったのである。
で話していたはずの閻魔を置き去りに、いつかのように光のような速度で俺の目の前ま
俺が小さくその少女の名を呟くと、彼女はそれを耳ざとく聞きつけたらしい。目の前
?
215
く。昔と少しもテンションが変わっていやしない。もう少し落ち着いた性格になるま
で、あと何億年かかることやら。
ていましたが⋮﹂
﹁いえ、本当に心配しましたよ。魂がいらっしゃいませんでしたので、大丈夫だとは思っ
と、アマテラスと話していた閻魔がやって来てそう言った。中肉中背、どこにでもい
そうな人間の外見な彼も実際は十人だけでここを運営している内の、立派な一人であ
る。停止させる程度の能力を持っているのも彼なので、地獄を文字通り凍結していたの
も彼なのだろう。ちなみに、人間上がりの閻魔だったりする。元から霊格は高かった
が、今はまた随分と成長している気がする。
結界張っていなかったら、化石になっていたかも知れん。おいおい洒落にならんな。
﹁まぁ、実際俺も消し飛んだかと思ったさ。ずいぶん長い間地中で寝てたみたいだがな﹂
﹂
?
﹁は、はーい。べ、べにばな、なの。よろしく、おねがいします⋮﹂
﹁俺の娘の紅花だ。ほら紅花、二人とも俺の友人だ。出てきて挨拶しなさい﹂
ンションはさすがの紅花も苦手らしい。
はというと、
﹁ひっ﹂と言って俺の後ろに隠れてしまう。どうやら、アマテラスのハイテ
もう回復したらしいアマテラスが、俺の後ろにいた紅花を指差してそう言った。紅花
﹁ねぇねぇウカノちゃん、その子、誰
そもそもの発端は狐
216
おずおずと俺の背中から出ると、小さく頭を下げる。すると今度は紅花に狙いを定め
﹂
﹂
たらしく、きらりと目を光らせるとアマテラスの姿が霞んだ。
﹁かわいぃぃぃぃーーーー
﹁ぴぎゃーーーーーーーーー
!!
﹁もふもふもふもふ
﹂
あ∼、ウカノちゃんのとそっくりだー
! !!
﹂
﹁お、おかあさん
いたいのー
たすけて
﹂
ひっぱるの、このおねーちゃんすごくひっぱるの !
!
ぺたりと紅花に式紙を一枚貼り付けると、逆に紅花に貼りついていたアマテラスがば
﹁はぶっ﹂
﹁おっと。アマテラスー、うちの娘をあんま苛めてくれるなよー﹂
!
!
紅花が半泣きになって俺に助けを求めてくるまで、俺の思考は半ば停止していた。
まっている。これではまるでどこぞの変態のではないか。
が、長い時が経って欲求不満で箍が外れてしまったらしい。その表情は悦に入ってし
一心不乱に尻尾を触っている。前に尻尾には優しく触ってくれと言ったはずなのだ
!
﹁ふぎゃーーーーー
紅花が驚きに悲鳴を上げても、お構いなしである。さらには腰の辺りに手を伸ばし、
俺の時のように、高速で紅花に飛び掛るとがっしりとその胸に抱え込んでしまった。
!!
217
しりと弾かれた。何も特別なものではなく、小型の遮断結界だ。結界内の対象は紅花の
みに設定しているものだが。その隙に、紅花はまた俺の後ろにさっと隠れてしまった。
ウカノちゃんにチョメチョメした 男 は私
オロカモノ
アマテラスはといえば、今度は一瞬で復活すると俺の方に詰め寄ってきた。そしてこ
う言うのである。
がばふっ﹂
﹁そ、そう言えば娘って 父親はどこか
!
とにした。
アマテラスは放置することにして、俺は閻魔の方に彼女が何故ここにいるのか聞くこ
とりあえず叩いておくことにする。
!
あったのか
﹂
﹁そういえば、何を話していたんだ アマテラスがここにいるってことは、上で何か
?
?
﹁そうそう
天界はわりと怠け者が多いの
で、働き手が欲しいんだけど、霊格の高
!
!
がばっと三度目の復活をしてきたアマテラスが、そうまくし立てる。とりあえず、俺
⋮﹂
い者じゃないと上の人が納得してくれなくて⋮。あ ウカノちゃんが来てくれたら
!
いないのが現状でして、そのことを話していたのです﹂
﹁いえ、何でも、霊格の高い魂が上の方に欲しいとか⋮。基準が高すぎるせいで、候補が
そもそもの発端は狐
218
ぐらいの霊格が欲しいらしいが、少なくともまだ地上を離れる気は俺にはない。せめて
現代の先の先ぐらいは見てみたいのだ。
﹂
﹁悪いが、地上を離れる気はないな。だがなぁ⋮候補がいないんだろ どうするんだ
219
﹁ウ カ ノ ち ゃ ん
﹂
天 界 に 来 な い な ら 何 と か し て
?
何 に も 出 来 な い な ら 天 界 に 来 て
!
﹁おかあさん⋮どこか、いっちゃうの
﹂
相変わらずスケールのでかいことを、アマテラスが唸りながら言った。天界とやらは
﹁う∼⋮いっそ、百年後でも千年後でも万年後でもいいんだけど⋮﹂
を怯えさせてくれるな﹂
﹁いやいや。どこにも行かないから、その顔は止めてくれ。アマテラスも、あんまり紅花
?
な顔を向けている。
触り放題的な感じで。と、ぐいぐいと服のすそが引っ張られ、振り向くと紅花が不安げ
のところ、こいつは俺に天界に来て欲しいだけなのではないだろうか。側にいれば尻尾
詰め寄るアマテラスを押し止めながら、俺は胡乱な視線をアマテラスに向けた。結局
﹁無茶言うな馬鹿たれ﹂
!
﹁そうなんですよね⋮。今地上に生きている者達にも該当者はいないようですし⋮﹂
?
!
候補が無
行ったことはないが、随分とスローライフなところらしい。しかし、現在の年代が詳し
く分からないので俺も是とは言えなかった。
成長させればどうだろうか
普通ならば魂は代を重ねる毎に汚染されるだろうが、し
煉獄での魂の変質もそこでリセットされるわけだ。だが、必要な情報を初期化させずに
ふと、そう思いついた。魂は基本的に、転生の度にほとんどの情報を初期化される。
も問題ないだろうしな﹂
いなら、霊格を上げてやればいいじゃないか。それだけ時間があるなら、時間をかけて
﹁万年⋮微妙なところだな。もう少し地上にいるかも知れんし。⋮待てよ
?
その事を話すと、閻魔も頷いて賛同した。
も加えてやれば完璧だろう。⋮そのぶん魂の選抜は気を使うことになるだろうが。
かしその問題は俺が保護術式を打ち込むことで解決できる。ついでに進化を促すもの
?
﹁なになに
いい感じで話が進んでちゃったりしてるの
﹂
!?
﹁ああ。候補の魂は俺が探しておく。閻魔、決まったら連絡するからな、そっちでのこと
!?
﹁そうですね⋮。確かに一度あそこは経験してもらった方がいいでしょう﹂
﹁一度、煉獄に堕ちてもらった方がよさそうだな。その方が成長も早いだろう﹂
霊格の高い魂ができあがるでしょう。それも、相当のものが﹂
﹁それは、可能かもしれませんね。転生システム上の問題もあまりありませんし、確実に
そもそもの発端は狐
220
は頼むぞ
﹂
ら、混合してしまいます﹂
﹁言いにくいんだよ、お前の名前⋮﹂
﹂
?
と。
?
ですよ、ウカノ様⋮。閻魔は十人いるんですか
少しは成長と保護にプラス補正が得られるはずだ。何せ、霊力妖力は魂が出しているよ
力が﹃霊力を扱う程度の能力﹄なのだ。魂に直接関与するような能力では確かに無いが、
テケの現在の霊格も他の人間よりかなり高い上に、能力持ちでもある。しかもその能
テケは適任ではなかろうか
ケに﹁なんでもない﹂と返そうとして、はたと思いつく。
か、狂ったようなコントロールで最小限の霊力を使っているためだろう。俺はそんなテ
で息をついているが、しかし身に纏う霊力にはいささかの衰えも無かった。能力のお陰
俺の呟きが聞こえたのか、式紙を全て撃ち落としたらしいテケが俺に声を掛けた。肩
﹁あ、あの、どうかしましたか
の名前は、永琳の本名より難しいのだ。いちいち言ってられない。
閻魔の名前を思い出したところで、同時に月にいる永琳のことを思い出す。正直閻魔
××
?
﹁分かりました。⋮それと私の名前は
221
そもそもの発端は狐
222
うなものなのだし。
そう思い、テケに死後のことの提案をしてみると、あっさりと乗ってきてしまった。
それは単純なことだが、彼女は力という
﹂で押し切ってしまった。その目は決意に溢れ、意志を曲げ
これには俺も少し焦る。何せ、最初は煉獄に堕ちるのだ。簡単に決めていいようなこと
ではない。
が、テケは﹁修行です
ないだろうことが簡単に見て取れた。
どうしてテケはこれほどにやる気なのか
しかし、強くなって何を守ろうというのだろうか
へと飛
それは怖くて聞けなかった。
短い勧誘を終え、再び弾幕を飛ばし始めたテケを見ながら俺は式神を閻魔、
ばした。
る。幾度も、違う人格で人生を経験してもらわなければ困る。これは魂単位の修行で
片が残ることもあるかも知れないが、しかし記憶があるとむしろ魂の成長の阻害にな
ろう。テケとは恐らくそれっきりになる。転生の際には記憶は消去されるためだ。一
彼女が死んだ時は、俺が魂を捕まえて式を打ち込んでから、閻魔に渡すことになるだ
××
?
から。
ろう。⋮俺と似ているとはあまり言いたくはない。何せ、彼女の方が何倍も純粋なのだ
ものに対して少し貪欲なところがある。だからこそ死しても上を目指そうというのだ
?
!
223
あって、一人格の修行ではないのだ。一度の転生毎に少しずつ魂は違うものになってい
くだろうが、それはそれだ。霊格上昇の証といえよう。
記憶が消去されることはテケに言ってあるのだが、テケはそれを当然と受け止めてい
た。違う自分になることなど、死ねば当たり前のことです、とはテケの言である。記憶
の消去とは自己の消滅とも言える。が、それを人の身でケロリと流してしまうテケは、
なかなか末恐ろしい。
俺は、俺ならどうだろうと考えながら、テケが先よりずっと早い速度で式紙を撃ち落
としていくのを眺めていた。
どーれ。
!
ある。自分の薄情さに呆れながら、俺は魂を捜してみることにした。もちろん屋敷を空
経ってからのこと。鉄器が広まり始めたらしいということを、小耳に挟んだ頃のことで
テケの魂の行方が気になったのは、魂を閻魔のところに連れていってから何千年も
は知らなかったりする。
魂は生前の契約どおりに式を打ち閻魔のところに連れていったが、実はその後の推移
ことはなく、ただ寿命でゆっくりと死んでいった。
な人間だと思っていたものだ。テケは妖怪に殺されたとか、事故にあったとかそういう
看取ったのだが。彼女はなんと七十あたりまで生きていた。死ぬ寸前まで、とても元気
テケも例外ではなく、あっさり逝ってしまった。とは言っても、テケのことは最期を
ることなどざらにあるくらいだ。
いたり。前に来ていたのはどうしたのかと聞けば、十年前にもう逝きましたなど言われ
そう思うようになった。ともすれば、いつの間にか屋敷に来る人間の顔ぶれが変わって
時の流れはとても早い。以前はそう感じなかったことも、人間と関わることになって
たのもーー
たのもーー! どーれ。
224
225
けるのはよろしくなかったので、分霊を使ってだ。
分霊とはその言葉どおり俺を分けることだ。以前、俺が複数いればなどと馬鹿な事を
考えて、実現させたのがこれだ。おそらく、全身霊体が出来るからこそこんなことが出
来るのだろう。
俺の本体とは無論この身体そのものだが、俺の力の源はおそらく尻尾だと思ってい
そう考え実行したのが、分霊だ。
る。尻尾の増減、あるいは霊体化で、力も純粋に増減するためだ。ならば、尻尾を分け
ることが出来れば
も尻尾九本が必要になる局面などそうないため、俺は頻繁に使っていたりする。
能力も減退してゆく。それゆえ、本当ならば使いにくいものではある。しかし、そもそ
身を除いて八まで。その上、分ければ分けるほど減っていく尻尾の数に応じて、個々の
ところで、分霊はあくまで俺の尻尾を使っているため、最高でも分けられるのは俺自
基本的に円満なものだ。
れの個体に優位性などはないが、元々俺自身が不和より融和を好むため、俺同士の仲も
ちなみに、同じ人格が別個体に分かれたら喧嘩になる、とかいうことはない。それぞ
もあるが、俺であることは変わらないのでスルーしている。
持っている。⋮たまに、人格は同じだが性格が違うという摩訶不思議な個体が出ること
分霊の﹃俺﹄は尻尾が本体だ。が、俺としての特性は俺とまるで同じ、同一の人格を
?
神道でいう分霊とは違う。﹃神霊は無限に分けることができる﹄とか﹃分霊しても神威
は損なわれない﹄とか、冗談じゃない。分ければ減っていくのは当然だろう。神が全知
全能だというのはあくまで人間視点の話だ。俺は精々千知千能がいいぐらいである。
テケを捜すために使ったのは九本の内の六本だ。一本ずつに分け、総勢六人の俺であ
る。三本の尻尾が残った俺は、分霊がテケの魂を見つけるまで狐の姿に戻り、縁側で丸
﹂
まって日向ぼっこしていた。別にサボっているわけではない。大事なお留守番である。
別に日差しが気持ちよくてまどろんでいるわけではないのだ。
お母さん、お客さんなのー⋮寝てるの
?
首をかしげ、そして得心がいったかのように頷いた。
箪が狐の側にごろりと転がっていた。紅花は母親から感じられる普段より小さい力に
た。三本の尻尾を抱きこみ気持よさそうに眠っている。その狐より大きな、いつもの瓢
紅花が日当たりのよい縁側にやってくると、一匹の小さな白い狐が丸まって寝てい
﹁お母さーん。あれ
?
こともだ。今見えるのは三本の尻尾。六本も分けることはかなり珍しかった。
紅花はウカノの分霊のことは知っていた。無論、分ければ分けるほど力が小さくなる
﹁また、分霊しちゃってるの。どうしよう⋮困ったの﹂
たのもーー! どーれ。
226
そして、今回来ている客人は麓の人間ではなかった。そもそも人間ならば紅花が応対
すればいいことだ。
ウカノをわざわざ呼びに来たのは、今表で待っているのがウカノ同様神の一柱なため
だ。
だが、こうして見に来てみればウカノは寝ている上に尻尾は三本だけ。この状態でも
紅花が手も足も出ないほどに強いが、それでも小さな狐の姿を見ていると少し不安だっ
た。紅花が狐の姿になると、赤い毛の四メートルほどの九尾の狐になるので、それと比
べるとなおさらそう思えるのだ。
﹁おや、またあんたなの。ここの神様にはいつになったら会えるのかな
﹂
﹁お母さんは今取り込み中なの。代わりに、お母さんの娘である私が相手をするの﹂
?
た。
表に戻ってきた紅花に、表で腕を組み待っていた女が不敵な笑みを浮かべながら言っ
に。
いった空気があった。まるで、ここの神、ウカノが取るに足らない存在であるかのよう
たが、あふれ出る力はまさに神であることを物語る。ただ、その態度は何かのついでと
﹃相手﹄。突然ここに来た神曰く、信仰を力で奪いに来たとのことらしい。単身で来てい
﹁むー。うん、私が相手をするの﹂
227
﹁ふーん なんだ、娘に軍神の相手を任せて逃げたの。ここの神はとんだ腰抜けだっ
﹂
お母さんの悪口を言うな
お前なんか私がやっつけてやる
﹂
!
たことに激していた。
﹁むー
軽く挑発に乗った紅花を見て、軍神は肩をすくめて笑った。
!
一方紅花は、見えすいた挑発だったが、深く考えることなくただウカノが悪く言われ
た大きな注連縄がぎしりと音をたてる。その注連縄からも、濃厚な力が放たれていた。
黒と赤の衣に身を包んだ軍神が顔をそらし、はっと鼻で笑う。その拍子に、背に負っ
たわね
?
!
!
ちなみに神奈子より紅花の方が年上である。
美しき女神八坂神奈子を。
彼女は名のある軍神だったが、紅花はその神の事は知らなかった。大和の神の一柱、
相手は幾多の神の間で生きてきた軍神であるので、なおさらだった。
はあるが、経験が少なく、そもそも冷静さを保てなかった紅花に勝ち目はない。その上、
紅花側の陣地でありながら、いつの間にか主導権は握られていた。単純な駆け引きで
﹁はっ。これだから子供の相手は大変ね。いいわよ、相手をしてあげる﹂
たのもーー! どーれ。
228
屋敷からしばらく遠くに行った、誰もいない草原の上空で二人の人外が向かい合って
いた。片方は赤い尻尾を九本たなびかせ、敵意を露にして構えている。対する片方は腕
を組み胸をそらし、その不動の体勢で赤い少女を見下ろすように構えていた。
一触即発の間、ひゅうと風が吹く。
その瞬間、紅花は軍神へと飛び掛っていた。
宙につくった平面結界を蹴り、その勢いのまま右手に拳を作り軍神へと迫る。紅花は
本来ならば肉弾戦より、式神などを用いた間接戦闘のほうが得意なのだが、頭に血が
昇っていた紅花はそのことすら一時的に忘れていた。
喰らうことはなかった。神力の高まりと同時に、結界を張ったのだ。
められた神力は一気に弾となって放たれる。だが紅花もさるもの、そのままその弾幕を
軍神の左手に一瞬で神力が収束し、その手のひらは超至近距離の紅花に向けられ、溜
手の力が流され、軍神の左手があっさりと自由になった。
紅花は振り下ろされた右手を慌ててガードするが、その間に止められていた自分の右
け引きも軍神の実力が紅花を上回っていた。
紅花へと振り下ろす。紅花と軍神の間の単純な力差は、ほぼない。しかし、接近戦の駆
気のない吐息一つ、軍神は紅花の拳を左手で受け止めるともう片方の手で拳を作り、
﹁ふん﹂
229
ゴゴゴッ。鈍い音ともに紅花の急ごしらえで張った結界にぶつかり、しのぎを削る。
しかし反射的に張った結界は構成が荒く、次々に放たれる神力の弾幕を前に少しずつ押
されてゆく。軍神はその様を冷静に見つめていた。
﹁なかなか堅い防御ね。だけど、この程度で押されているようじゃ駄目よ﹂
軍神がそう呟くと同時に、弾幕が苛烈さを増す。きしりと結界が軋むのを察知した紅
花は、今の結界の後ろにさらに数枚の結界を設置する。それと同時に、軋んでいた結界
はガラスが割れるような音とともに崩壊してしまった。
紅花が使うものは妖力、それで張る結界は言うなれば妖術だ。ウカノのものほどでは
ないが、紅花の張る結界も非常に強力なものである。しかし急遽張ったものである上
に、止めているものは紅花の妖力と比べると、軍神の攻撃的な、濃度も濃いずっと強力
な神力の弾幕である。強力であるはずの結界が、一分もたずに崩壊してしまうのも仕方
がない。
後続の結界が弾幕を止めているのを見ながら、ほっと一息をつく紅花。しかし、その
暇も与えず軍神は既に動いていた。
﹂
?
その声が聞こえたのは、紅花の真後ろだった。ぞわりと嫌な予感に背をなめられ、慌
﹁えっ﹂
﹁どこを見ているの
たのもーー! どーれ。
230
てて紅花は振り向く。そこにいたのは、拳を固めた軍神だった。
弾幕がある方向に軍神がいる。そう認識してしまった紅花の失態である。ある程度
ならば、弾幕など単純な代物はプログラム化された動きに任せ独りでに動かせる事を、
紅花は知らなかった。
結果紅花は、背後からの軍神の直接攻撃と、集中が外れ一気に脆くなってしまった結
﹂
界を突き破って来た弾幕に挟まれてしまう。
﹁はっ﹂
﹁ったーーーーーーーーーっ
今度は紅花は反応せず、数十枚の式紙を取り出しばら撒いた。そして式紙は集合する
﹁口ほどにもないね。さっさと、そっちの神様を出してくれないと、話が進まないわ﹂
軍神は紅花を追撃することなく、余裕の態度で紅花を見下ろす。
地面すれすれで落ちる身体を止めると、紅花はキッと上にいる軍神を見上げた。
いた。
しかし、不幸中の幸いか紅花はすぐに意識を取り戻し、それとともに頭も冷えてきて
に一瞬意識が飛び、宙から墜落してゆく。
後ろへ飛ばされることも許されず間髪を入れずに、弾幕が紅花の背中に激突した。激痛
軍神の拳は、思考が一瞬停止していた紅花の顔面に容赦なく入り、さらに拳の勢いで
!?
231
﹂
と合計十一人の白色を形成する。
﹁いっけーーーーっ
た。軍神の弾幕が相手では、紅花の白色も当たれば簡単に落とされるだろう。
撃ち落としていく。それだけに留まらず、勢いを失わない軍神の弾幕は白色達へと迫っ
軍神が手を振るといくつもの弾幕が軍神から放たれ、囲んでいた白色の弾幕を次々に
﹁へぇ⋮。面白いことをするわね。でも、しょぼい、ちゃっちいわ﹂
距離をとりながら包囲すると弾幕を放った。
補い、その動きはまるで一つの生物のごとく隙がない。白色は軍神には接触せず、一定
紅花の号令とともに、白色は一斉に軍神へと突進する。それぞれがそれぞれの配置を
!
﹂
だが、紅花の狙いは他にあった。
﹁散
なの
﹂
!
とぶん投げた。
それを確認した紅花は空に飛び上がり、巨大な炎球を宙に作り出すと捕らえた軍神へ
に狭まり軍神を縛り上げる。
そして次の言霊に応じて、軍神を囲んでいた式紙群はいくつもの円環を作ると、一気
!
紅花の言霊とともに、白色の姿が一斉に元の数十枚の式紙に戻る。
!
﹁縛符
たのもーー! どーれ。
232
普通の相手ならば、これは必勝のコンボと言えるだろう。だが、それはあくまで相手
が完全に動けなくなったという前提の下で成り立つものである。
そう、紅花の放った炎球は、突如現れたこれまた巨大な円柱にかき消されてしまった
のだ。
﹁全然
通じてないのっ
﹂
?
に阻まれ、いつの間にか周りを包囲していた柱には気づけなかった。
た。さらにはそれに一瞬遅れていくつもの柱を轟と発射する。結果、紅花の視界は弾幕
軍神がそのままついと指を振ると、柱とは別に無数の弾幕が空を覆い紅花へと殺到し
る。
の一つ一つが神具と言ってもいいほどの力を放っており、軍神の本気を切に物語ってい
驚きを露にする紅花に軍神は無情にそう告げ、空中にいくつもの柱を出現させた。そ
らせてもらうわ﹂
﹁私も、いつまでも遊んでいる気はないのよ。用があるのはそっちの神なの、一気に終わ
!
ずの円環上の式紙は、無残にも散り散りになり風に流されていっている。
柱の向こうにいたのは、再び腕を組み笑っている軍神だった。その身を縛っていたは
捕まえたと思っているようじゃね﹂
﹁やれやれ、確かに結構出来るみたいだけど、やっぱりまだまだ非力だわ。この程度私を
233
たのもーー! どーれ。
234
周囲の弾幕の陰から凄まじい速度で柱が飛び出し、逃げ場がないことをそこでようや
く紅花に気づかせる。
紅花は、最後の手段と幾重もの球状の結界を張った。しかし、弾幕や、それをはるか
に上回る柱を防げるとは思えない。それを悟った紅花は、思わず自分の腕で身体を抱き
締めていた。身を守ろうとする防衛本能のようなものだったが、この攻撃の前にはあま
り意味のないことだろう。
紅花は、太い柱にすり潰されぐしゃぐしゃになった自分を一瞬幻視した。
ガガガガガガッ
が、それが実現する直前に、いつかのように大きな瓢箪が縦横無尽に宙を走った。巨
大な柱は、それに弾かれ弱弱しくひょろひょろと地に落ちてゆく。そのあまりと言えば
あまりの光景に、軍神の目が驚きに見開かれた。
強力な神具とも言える柱を、こうも簡単に撃墜するのは同じ神具ぐらいのもの。そし
てそれを用いこんなことが出来るのは、紅花が知る中でもただ一人。
紅花と全く同じ姿の、真白の少女が紅花の隣にいた。尻尾は三本しかないが、尻尾が
九本の紅花を大きく上回る力を放っている。背には先の瓢箪が、何事も無かったかのよ
うに背負われていた。その顔は相変わらずの無表情で、しかし鋭い眼差しで対面にいる
軍神を見つめている。
紅花の口から思わず呆けた声が漏れた。
﹁お、お母さん⋮﹂
235
禍々しき白狐
地へと無様に落ちていった柱を、どうやってか跡形もなく消した神がそう言った。
﹁⋮ふぅん。場末の弱っちぃ土地神かと思えば、結構やるみたいねぇ﹂
俺は⋮正直状況がよく分からない。
近くで力がぶつかり合っていてうるさいから目を覚ましてみたら、片方が紅花だった
ので急行して来ただけ。来てみたら、なんか危なくなってたので間に割り込んだ。で、
紅花の相手をしていたのはこの神様と。
目の前にいる女神は一応俺のお客らしいが、言葉から察するにどうやら俺と戦いに来
たらしい。つまりだ。俺達に喧嘩を吹っ掛けてきたということなのだ。俺や紅花より
若いが、それでもその身から感じる神力は相当なもの。俺も詳しくは知らないが、この
時代の神は信仰から神力を得るらしい。ということは、さぞや人々から畏れられる存在
なのだろう。
?
で、結局何しに来たんだコイツは。
﹁あんたが俺に喧嘩を吹っ掛けてんのは分かったが⋮俺に勝って何か得があんのか
禍々しき白狐
236
何も無いってんなら⋮何しに来たんだあんた﹂
女神は偉そうに腕を組んで、示威行為か神力みなぎる柱を再びいくつも出現させなが
らのたまう。
﹂
?
お嬢ちゃん﹂
?
今までただ無秩序に垂れ流されていた神力も、全てが俺に敵意をもって向けられてい
がしがしがしと、女神の周りを浮いているだけだった柱が俺の方へと一斉に向いた。
﹁⋮交渉決裂ね。予定通り、力尽くで叩き潰して奪ってやるわよ﹂
ぞ。それに、迷子になったら困るだろう
﹁そうかい。寄り道せずに真っ直ぐ行きなよ。世の中には怖いヒトだって沢山いるんだ
﹁景気づけよ。これから大物を喰らいに行くところだったの。お前は、その、ついで﹂
のと比べれば、まぁ小さいものだぞ
﹁分かりやすいな。そういうのは結構好きだ。だが、俺が信仰から得てる神力はあんた
来られたら、びっくりするじゃないか。
彼女は彼女なりの礼儀があるようだが、とりあえずアポぐらい入れて欲しかった。急に
非常に分かりやすい。こうしてまっすぐに向かってくる輩は好感を覚える。しかし、
お前の神力よこせ。
に降りなさい﹂
﹁お前の信仰を、力で奪いに来たのよ。あぁ⋮降伏は受け付けてるわ、さっさと私の軍門
237
﹂
る。なるほど、どうやら彼女は戦闘が専門の神のようだ。俺とは違うな。⋮俺って一応
食べ物の神様だよな、そうだよな。
﹁お母さん⋮﹂
﹁紅花、こいつを、休ませといてくれ。紅花も下がっとけよ
﹁え、でもこれ、お母さんの、武器じゃないの
﹂
不安そうな声を俺にかける紅花に、俺は背負っていた瓢箪を投げ渡した。
?
﹁ん
﹂
﹂
﹁うん。⋮お母さん﹂
弾が当たっても危ないだろうし、遠くにな﹂
﹁気をつけてな。出来れば屋敷に戻っといて欲しいんだが⋮まぁ戻らないよなぁ。流れ
﹁⋮よく分かんないけど、分かったの。私は、下がってるの﹂
て武器じゃない﹂
﹁違うよ⋮。そいつはあくまで酒器だ。激戦にも耐えうる至高の一品だが、本職は断じ
?
の女神の力を考えると、余波も大きなものになりそうだ。だが、こうして誰かとがちん
俺の渡した瓢箪を抱き締めると、紅花は尻尾を振りながら俺達から離れて行った。こ
﹁⋮あぁ。ありがとな﹂
!
?
﹁頑張るの
禍々しき白狐
238
こするのも久々だ。昔はイザナギとかマガラゴとかスサノオとかとやりあったんだけ
どな。となると、数億年ぶりか。そりゃすごい。
﹁話は終わったの﹂
神力をばしばしぶつけながら今にも攻撃しそうな状態で、しかし待っていたらしい女
神が俺に言った。
﹁あぁ、悪い。待たせたな﹂
律儀な女神に軽く謝罪すると、女神は上から目線のままに続ける。確かに、俺は信仰
から得ている神力しか出していないので向こうの方が格上に感じられるのだろう。と
ころがどっこい、どれほど格下であろうと警戒は怠るべきではない。
﹂
さっきのが末期の会話かもしれないわよ
何せ、今日が、今が、お前の命日なのだからね
﹁いいわよ。それより、遺言は済ませたの
!
﹂
﹂
あぁ、それとも、立つ鳥跡を濁さず、負けた後はさっさと尻尾巻い
﹂
﹁⋮ほざけ土地神風情が。軍神の力、思い知るがいいわ
て逃げてくれるのか
?
﹁舐めるなよ軍神。億年重ねた禍物の重み、その身に叩きこんでくれる
!
!
?
も食ってくかい
﹁遺言は伝えてないが、昼の献立は伝えておきたいな。どうせすぐに終わるんだ、あんた
?
?
239
ゴゴン
﹂
全て袖の奥から堰を切って溢れだした無数の式紙に阻まれる。
神へと掲げた。手を止めたウカノへと、容赦のない攻撃が降り注ぐが、しかしそれらは
それを見て、ウカノはそう小さく呟き、言い終わると同時に手の先も見えない袖を軍
?
細めウカノを上から見下ろしている。
ただ、ウカノが激しく動いているのに対し、軍神は一寸も移動していない。ただ目を
る。
一つで人一人を殺せそうな塊が間を飛び交い、神同士の戦いをただただ強く印象付け
擂り潰されてしまうだろう。それほどに二人の力は、攻守は苛烈だった。
その空は、紛れもない戦場だった。二人以外の何かが混じれば、場に満ちる力だけで
様々な手管でかわしてゆく。
次々と迫り来る弾幕をいくつもの式紙で撃墜し、紛れて走る柱を避ける弾く止めると
しみなくぶつけられた。
言葉の応酬が終われば、あとは力の応酬である。双方の濃密な神力が広い空の上で惜
高速で投げつけられた柱を、ウカノは素手で殴り飛ばす。
!
﹁おいおい。そのままじゃぁ面白くないだろう
禍々しき白狐
240
まるで重厚な壁のように式紙は広がり、軍神の視界からウカノを覆い隠し、さらに勢
いを増す攻撃すら一寸も通さない。さらに壁だけには留まらず、壁の一部から細長いも
のが飛び出したかと思うと、それは一気に龍のような炎に変わり軍神へと顎を開いた。
﹂
そして、軍神に向かうのはその一つではない。壁を形成していた膨大な数の式紙が次
から次へと炎龍へと変じ、その全てが軍神に牙を剥く。
﹁つまらない手品だわ。その程度で、私が倒せると思っているの
び出した。先にいる軍神に腕を振り上げ無表情に続ける。
いつ⋮⋮がっ
﹂
!?
横振りの長大な柱が胴に直撃し、細い身体の上半身と下半身がくっつきそうなほど折れ
が、軍神に届く前にさらにもう片方の手に現れた柱に、呆気なくその身を捉えられる。
﹁あんなちまちました攻撃で、俺を落とせると思っていたのか
?
しかし、もっとも軍神に近づいていた炎龍が散らされた時、その中から白い少女が飛
﹁││そいつは俺の台詞だ﹂
ただの蛇だ。
に接触した炎龍はなすすべなく吹き散らされてゆく。これでは龍というよりはむしろ
き起こされる風はさながら局地的な台風である。その様は、まさに荒ぶる神だった。柱
片手で軽々と、しかし凄まじい勢いで振り回した。ごうとかき乱された空気が叫び、巻
だが軍神は数十匹の炎龍を前に一歩も退かない。一際太い柱を出現させると、それを
?
241
曲がった。
﹁そんな手が通じると思う
ろう
しょぼいのよ、お前。さっさと落ち﹂
﹂
来ない。しかし、それが十枚なら、百枚なら。もしもそれが千枚でできた塊ならどうだ
だ。紙で出来ているなどと到底思えない硬さ。一枚では到底神を傷つけることなど出
壮絶な音とともに、今まで最初の位置から動かなかった軍神の身体が大きく吹き飛ん
ドゴッ
のような鎚を、半透明になったウカノが軍神の真後ろで振り下ろした。
り向くと同時に柱を引き戻そうとするが、しかし時既に遅く式紙で作られ固められた巌
は紙に変わり、ちりぢりになっていった。軍神はそれを目で見、理解する。そして、振
その声が後ろで聞こえると同時に、柱にぼろ雑巾のようにひっかかっていた白い少女
﹁いつまで俺を見下ろしてんだ
?
?
ら叩き落とした、白い小さな少女が自分を見下ろしている。
﹂
し、再び一枚一枚の貧弱な式紙へと戻ってゆく。そして、それを振り下ろし自分を天か
烈な一撃を。まるで天から降ってきた星石のごとき、重き一撃。それは今槌の形を崩
軍神は噛み締めていた。一匹の、自分よりはるかに脆弱なはずの狐神に入れられた痛
?
﹁││ぉぉおおおあああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ
!!
禍々しき白狐
242
叫び声にも等しき苛声が、軍神の口から迸る。ギシギシと体が軋むのも無視し、軍神
は慣性に従って飛んでいた身体を空に固定し、渾身の神力をもって四本の柱を呼び出し
た。それは今まで弾として使われていたものとは違い、まるで発射寸前の砲門だった。
そして、その見かけに違うことなく膨大な神力がその柱からレーザーのごとくウカノに
向けて四本発射された。
ウカノは、軍神への意趣返しか腕を組み不動の態勢で、尻尾を三本ゆらりと揺らめか
せると、その三本から対抗するかのように三本のレーザーもどきを発射する。
四│三、単純な引き算だ。軍神の発したもので止められたのは三本の光線。残った一
本はウカノに直進する。
しかしウカノは不動の態勢を崩すことなく、前方に複雑な結界を幾枚も張った。光線
はその結界にあたると何度も反射し、一秒も経たないうちに見えないほどに細くなり消
えていった。
﹂
が、軍神もいつまでものんびりとはしていない。再び長大な柱を二本手にすると、今
度は直接それを振り上げウカノへと攻撃した。
ごがっ
﹁はあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ
確かに、柱はウカノに接触する。しかし、直撃はしていなかった。
!!
243
またも幾枚もの式紙が、今度はウカノの腕に取り巻き巨大な一つの腕を形成していた
のだ。その、ウカノの身体すら包みこんでしまいそうな巨大な腕は、渾身の力で振られ
た柱を易々とその一本だけで受け止めていた。
﹂
そして、残ったウカノのもう片方の腕に高速で式紙が取り巻いてゆき、さらにもう一
本の巨大な手を作り上げる。
!!
﹂
﹁おらあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ
﹁くあああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ
ごおぉぉっん
!!
間を巻き込み、先とは比べものにならない強大な力と力の応酬が始まる。
それだけでは終わらない。ウカノの巨大な腕は二本、軍神の長大な柱も二本。周囲の空
ウカノのその手と、軍神の柱が、凄絶な衝撃波を撒き散らしながら激突する。さらに
!!
預けられた瓢箪を抱きしめた。
生じ始める。ゆっくり後ずさりしながら、紅花は巨大な腕を振りかぶるウカノを見上げ
遠くのはずのぶつかりあいの余波で、結界はぎしりぎしりと、その精密な構成に歪みを
随分と離れた場所で、さらに結界まで幾重も張って観戦していた紅花はそう呟いた。
﹁も、もっと離れるの﹂
禍々しき白狐
244
245
右へ左へ上へ下へ奥へ手前へ、最初のぶつかり合いなど児戯に思えるほどの激突が、
草原の上空で繰り返されていた。
腕と柱の衝突も、既に高速という表現すら軽い生ぬるい。双方は豪速で武器を振り回
し、打ちあわされる度にその余波は草原を荒地へと変えていく。
ウカノにとって、これほどの激戦はスサノオ以来だった。イザナギ相手では力差があ
りすぎて、これほどの戦闘にならなかった。そしてマガラゴとはこれほど激烈な遊戯を
することはなかった。
いや、スサノオですらこれほど激しくはならなかったかもしれない。それはスサノオ
が劣るというわけではなく、ただ場所がなかったということだが、それでも今の相手で
ある軍神は強かった。
ただのぶつかり合いでは攻めきれないほどに。
一方軍神の顔は、空を飛びまわりウカノとぶつかる毎に歪んでいった。対するウカノ
の顔が未だに涼しげであることが、さらにそれに拍車をかける。今の戦いは、紛れもな
く軍神の全力である。それでも届かない、削れない。自分よりも小さな少女に少しずつ
疲労させられていくことに、軍神は焦りを覚えていた。
最初は、本命とやりあう前の準備運動程度に、そこらの土地神を引っ掛ける程度に考
えていた。だが開けてみればどうだ
ている。
ガァン
ちっぽけな存在を瞬殺するどころか、圧倒され
は、苛立ち怒り戸惑いの他に、おかしな高揚感が確かにあった。
こうして自分の領分で押される事は今までなかった。⋮だからだろうか。彼女の中に
野となれば、仮にも軍神なのだ、数いる神の中でも彼女は最高の一柱だった。それゆえ、
彼女は、大和の神々の中でも、とりわけ強力な一柱である。ましてやそれが戦いの分
?
と、肩を動かす軍神の目の前で、ウカノが巨大な両腕を元の式紙にばらしてゆく。
し、軍神は呼吸が乱れ大きく息をついている。疲労度が両者の間でまるで違っていた。
どちらが押されているかなど、一目瞭然だった。ウカノが汗一つ掻いていないのに対
﹁はぁ⋮はぁ⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
一際大きな音ともに腕と柱がぶつかり、二人の距離が必然的に離れる。
!
﹁名のある軍神と、蜜月のごとく拳で語り合うのも心躍るが、いつまでも紅花を待たせる
ウカノはばらした式紙を、手を上に掲げて頭上に集めながら答える。
疲労のためか、それとも怒気のためか絞り出すように軍神が言った。
﹁⋮何を、してるの﹂
禍々しき白狐
246
わけにもいかなくてな。あんたを普通に落としても、駄目そうだし、どうせなら最後に
今の最高の一撃で落とそうかと﹂
それを聞き、軍神はにやりと笑い、息を整えて腕を組んで宙に仁王立ちになった。そ
して自身の神力を高めてゆく。彼女にとっても、正真正銘最後である。
と、再び軍神が聞く。それもそのはず、ウカノは自分の神力を小さくし始めたのだ。
﹁面白いわね。受けてたつわ⋮⋮何をしてるの﹂
﹂
それとともに、頭上の数多の式紙は光り輝く光点となり、いくつもの線をつくり複雑怪
奇な図形のようなものへと変わってゆく。
﹁準備だ。⋮⋮折角だ、少し話をしよう。なぁ、柱の。﹃禍気﹄って知ってるか
﹁⋮あぁ、分かったわ。自然の力のことね。﹃禍気﹄と言うとは知らなかったわ﹂
神力はどんどん小さくなっていった。頭上の図形は相変わらず怪しく瞬いているが。
は少しずつ疲労から回復してゆき、さらに神力を高めてゆく。それと反対に、ウカノの
言葉には言葉を返し、二人は正しく会話をする。しかし、その間にも軍神は、神奈子
力や神力、妖力みたいな力のことだ。で、俺はウカノな。覚えとけよ、〝神奈子〟﹂
﹁そうか。﹃禍気﹄ってのは││まぁ詳しい説明はどうでもいい、今世界に満ちている、霊
狐の﹂
﹁⋮知らないわね。それと、私は﹃柱の﹄じゃなくて〝八坂神奈子〟よ。覚えときなさい、
?
247
﹁自然の力⋮。あんたからすれば、その認識なのか。いや、今じゃそれが正しいんだろう
﹂
な。かなり世界に馴染んでいるし、それにずいぶんと薄くなってしまった⋮﹂
﹁何を言ってるの⋮
とびっきり強力にしてなぁ
のだ。
﹂
量を持たないはずの﹃禍気﹄が、まるで強風のように、ウカノの頭上へと集結してゆく
凄まじい速度で二人の周囲、辺り一帯から力が図形へと吸い取られてゆく。物理的な質
途端、ウカノの頭上にあった複雑な図形が一際激しく瞬いた。そして、それと同時に
!
俺でもその特性を再現することぐらいは、出来るのさ。
だがな。
物質化できるはずがない。
な、それそのものを作り出すことはできないんだ。﹃感情﹄なんて代物、デジタルな頭で
のと引き合うという特性があるのさ。ずいぶんと昔に出来た、﹃自然の摂理﹄だ。俺も
﹁あぁ、本題はこれじゃない、さっきのは忘れていい。⋮実はな、
﹃禍気﹄にはとあるも
?
神奈子は、言葉を失う。辺り一帯の﹃禍気﹄を吸い取る、だけではなかった。
﹁なっ⋮⋮﹂
禍々しき白狐
248
彼女の見ている前で、神力を収めたウカノの身体から今度は﹃禍気﹄が噴出したのだ。
確かに、
﹃禍気﹄は世界に満ちているだけあって生きとし生けるもの、誰もが持っている。
それぐらいのことは彼女も知っていた。
だが、それを神力や霊力同様に使うことができるのは、自然の体現とされる妖精ぐら
いのものだ。
しかし、ウカノは妖精のように﹃禍気﹄を我がもののように扱い、さらにはウカノか
﹂
ら放出されるその﹃禍気﹄は妖精や世界のものとは桁違いの濃度を持っていた。
﹁お前は、なんなのよ⋮
を作る。それは、まさに砲台だった。果てしない強大さを持った力が、砲弾の。
その﹃禍気﹄の球体にいくつもの円環が巻きつく。さらに、神奈子に向けて円環が道
上を支配していた〝化け物〟さ﹂
﹁今は、神をやっているし、ある意味妖怪でもある。だが俺の原点は﹃禍物﹄。太古の地
ている。
り、ウカノの高濃度の﹃禍気﹄を加えたそれは、格上の神力を圧倒的な物量で押し潰し
きく上回っている。質は確かに神力の方が上だ。だが、広大な空間から丸ごと吸い取
の景色すら歪めそこに不気味に静かに座していた。既に、その総量は神奈子の神力を大
ウカノの放出した﹃禍気﹄すら吸収した頭上の術式は巨大な球体を形成し、その空間
!
249
ウカノは既に﹃禍気﹄の運用法を確立していた。ヒントは、ウカノの人間時代の記憶
にあったのだ。
あの時代の空想学である、
﹃魔法﹄。その、魔法陣。無論、ほとんどはウカノのオリジ
ナルだが、ウカノは魔法から円陣やその他いくつかを模倣した。結果は作用としてかっ
ちり合致、ウカノはそのままそれを術式として昇華させた。
﹃禍気﹄とは、世界の歪みから生まれた力である。ならば、その使い方がもっともはまる
のは当たり前のこと。
起こすべき事象を特有の技術でプログラムし組み立て、起動することで既存法則、自
然摂理を一時的に歪める、あるいは手順に逆らい別プロセスでそれらを人為的に起こ
す。
それが、ウカノの見つけた式だった。
﹂
﹁これはそれほど複雑なものじゃなく、本質は弾幕と同じものだがな。⋮さぁ、俺の準備
は整ったぞ。最後のがちんこだ、あんたの神力も完了か
?
来上がった巨大な砲台から放たれるものが止められる気はしなかった。
そこいらの神なら一撃で落とせるほどの力があった。だが、それでもウカノの頭上に出
全力の神力、一本に集中し、御柱を出現させる。消耗しているとはいえ、軍神の全力。
﹁⋮⋮⋮っ﹂
禍々しき白狐
250
それでも神奈子は退かない。自分で売った喧嘩から途中で逃げ出すなど、卑怯者にす
ら劣る行為だった。そしてそれ以上に、彼女の誇りは戦いから背を向けることを許さな
い。
片や清純かつ濃密な神力、片や純粋かつ超弩級の禍気。双方の覇気が間の空気を圧迫
する中、
て
﹂
﹂
二人は同時に叫んだ。
﹁っ発射ぇっ
!!
んでしまった。
そして、神奈子の身体も光壁に飲み込まれ、意識も同時に光の中で呆気なく弾けて飛
の光で埋め尽くす。端など、この光を前にしては見ることなどできはしない。
れはまさしく壁だった。その光壁は神奈子の光線を軽々と飲み込み、彼女の視界を禍気
う。⋮が、相手が悪かったと言うべきか、ウカノの砲台から撃たれたのは線ではなく、そ
撃、数多の人間だろうと妖怪だろうと神だろうとこれの前には地に臥すことになるだろ
神奈子の御柱から、四本の時の数倍の極太の光線が放たれる。軍神の名に恥じない一
﹁禍々式﹃大禍鬨﹄
!!!
251
寄り道は計画的に
ここどこなのよ
﹂
!
﹂
﹁ちょっと
﹁あ
!
お前
﹂
落としたものも弾幕に近いものであるため、破壊特性は最小にとどめてあった。
と、森が崩壊するわ山が抉れるわ肉片が飛び散るわ、碌なことにはならない。神奈子を
だとか衝撃特化だとか、そうして分けていないとどうにも危険なのだ。破壊特化にする
弾幕、と一口に言っても俺が使うそれはいくつかの役割で分けられている。破壊特化
﹁起きたか。やっぱり、外傷はなかったみたいだな。さすが俺﹂
をすすっていると、どたどたと慌しい足音を響かせ神奈子がやって来た。
るまで放置することにしよう。と、考えていたのだが、茶の間の卓袱台で紅花とうどん
んだ。紅花には神奈子の介抱を任せたが、特に問題はないようなのでうどんを食べ終わ
目を回して墜落した神奈子を回収した俺は、予定通り昼食にうどんを作ると紅花を呼
?
!
!
﹁﹃お前﹄じゃない、ウカノだ。もう教えたんだからちゃんと呼べ。あぁ、今から神奈子
﹁お
寄り道は計画的に
252
の分も入れるから、そこに座っててくれ﹂
俺は神奈子のうどんを入れるために立ち上がった。食べるかどうかは知らんが、まぁ
食べなかったら俺がいただこう。神奈子がうどんを知っているかどうか思案しつつ、俺
は台所に入って行った。
﹁ここ
座るの
﹂
!
しないだろうに。
は昔から唐辛子だとか山葵だとかそういうものが好きだったが、あれではうどんの味が
掛ける紅花に、神奈子が少し引いていた。赤いうどんがさらに紅に染まってゆく。紅花
赤く染まっているうどんに、小さな容器からばさばさとなおも赤い七味唐辛子を振り
﹁そ、そう﹂
﹁七味かけると、美味しいの。辛いの、好きなの﹂
だったが﹂
﹁うどんだ。若布に油揚げに青葱に蒲鉾に鰹だし。これだけ揃えるのは、なかなか厄介
﹁本当にご馳走になるとは思わなかったわ⋮。それで、何なのこれ﹂
﹁あ、はい﹂
!
﹁ちょ、ちょっと⋮﹂
253
このうどん、もちろんお手製の手打ちうどんである。小麦は見つけてあったので、小
麦粉︵中力粉︶にする過程が面倒だったぐらいで、それほど苦労はしていない。蒲鉾は
結構大変だったけど。
この時代に小麦を使った麺類はないようで、それでもわりと神奈子には好評だった。
どうして
﹂
﹁思ったより大人しいな、神奈子﹂
﹁ん
?
﹂
?
俺は確かに今は土地神をやってはいるが、元々は別の物だった。
では、あろうが無かろうがそれほどの差はない。
信仰の大小で力を決定付けられることが心外だ。そもそも、今ぐらいの信仰による神力
素直にうどんをすすりながら、しかし胡乱げな視線を俺に向ける神奈子。俺としては
どうしてあんなに強いわけ
言うわけがないわ。にしても、納得いかないわね。こんな小さな土地の、動物神程度が
﹁構わず私にうどん出しといて何言ってるの⋮。私が負けたんだから、いちいち文句を
﹁俺に落とされたろう。起きたら暴れだすんじゃないかと思ったんだがな﹂
?
?
この時代の狐を見ていると、昔の自分の兄弟を思い出す。結局別れてから会うことも
に対して仲間意識が無いわけじゃないがな﹂
それに、俺が狐であることは間違いないが、この時代の狐とはまるで別物だぞ。まぁ狐
﹁言わなかったか
寄り道は計画的に
254
なかったが、今頃は別の動物か、あるいは人にでも転生していることだろう。あの頃は
魂を識別することが出来なかったので、今更捜してみることも出来ない。捜してどうす
る、というわけでもないしな。
﹁2∼3億年ぐらいにもっとも栄えていた種族、化け物かねぇ⋮ 外見としては、今生
なのよ、結局﹂
﹁それよ、それ。お前、あぁ、ウカノだっけ、
﹃禍物﹄って言ったじゃない。あれって何
255
一応情報が伝わってるってことは、昔の話は天界あたりから伝わったのかな
たらどうだ
あいつのことだ、たまに地上に降りてきてるんじゃないか
﹂
﹁信じる信じないは神奈子次第だがな。気になるんなら、アマテラスあたりに聞いてみ
?
竜の時代を挟んでいるとは、夢にも思わなかったが。人類に空白期があって、それでも
旧神話ね。後々からすれば今も神話時代になるわけだから、妥当だろうか。まさか恐
じゃない﹂
の時から生きてたって⋮さすがにそれは嘘だわ。ウカノも旧神の一人ってことになる
﹁2、3億って⋮旧神話の時代じゃない。イザナギ様やイザナミ様の国産みの時代。そ
な﹂
きているあらゆる動物を怪物化した感じだ。3mのムカデとか、四枚羽根の蝙蝠とか
?
?
太陽信仰はかなり昔からあったはず。地獄にも降りてきていたアマテラスが、太陽神
?
として地上に来ていても不思議ではない。それにアマテラスは土着神ではないので、大
和の神とか言っていた神奈子が知っている確率も高い。あれ、神話じゃアマテラスが神
奈子達を追い出しことになってたっけ。しかし神奈子の話を聞く限りでは、そういう事
実はないようだ。
﹁アマテラス様⋮ 確かに時折天上から降りてきているけど。もしかしてアマテラス
﹂
るのかは分からない。
している。しかし今俺の後ろには俺しかいない。いったい神奈子が何を見て驚いてい
神奈子は自分が汁をこぼしたことにも気づかないようで、俺の後ろを見ながら愕然と
﹁ちょ、え、えぇ
﹁あーあー⋮何やってるんだ神奈子。漏らしていいのは隠し事だけだぞ﹂
とにはならなかったが、身体が揺れた拍子に器から汁がこぼれてしまっていた。
と、突然神奈子が噴きだした。幸い口にうどんを入れていなかったので、屈辱的なこ
様と知りあい⋮ぶっ﹂
?
?
したのは俺の後ろで、ずらりと立っている六人の俺である。全員が顔を無表情に固め、
夢中でうどんを食べていた紅花も、顔を上げて俺の後ろを見た。そして紅花に返事を
﹃ただいま、紅花﹄
﹁あ、お母さん達帰って来たの。おかえりなの﹂
寄り道は計画的に
256
それぞれ尻尾は一本だけだが間違いなく俺自身だ。
半透明の霊体になって屋敷の壁をぞろぞろと抜けてきた分霊達だが、我が家では日常
茶飯のこと。六人とも今回の用事を終えたので、ここに戻ってきたのだ。
全員がぽわぽわと尻尾に戻ってゆく。ただ、この瞬間はどうにも慣れない。六人の記
憶や経験が全て俺に入ってくるためだ。というより、混ざっていくような感覚か。全員
が等しく俺自身なせいで起こる現象なのだが、まぁ仮に失敗しても自己を消失するなん
て事はない。
⋮全員がばらばらの場所に行っていたので、テケの転生体を見つけたのは一人。どう
やら山中でキノコを食べて死に掛けていたらしい。何やってるんだか。ただ、順調に霊
力が増えていた。この調子で増えれば、すごいことになること請け合いだ。
他の五人は、新しい作物を見つけただとか、餓死しかけだった人間の突然変異を拾っ
﹂
ただとか、そこらへんの木っ端妖怪に喧嘩売られただとか、人間の妖怪退治に大海を教
えたとか、そんなところか。
頭の整理が終わらせて息をつき、俺はまたうどんに手を伸ばした。
それに力が増してるじゃない、どういうこと
!?
揺れるが、紅花も俺も倒れる前に器を右手で持ち上げていた。神奈子のは知らない。と
しかし、その前に神奈子が卓袱台に手をつき身を乗り出した。その拍子に各々の器も
﹁ちょ、何なの今のは
!
257
りあえず倒れるのは免れたようだが。とりあえず、俺は卓袱台がひっくり返る前に左手
分霊って神の特技の一つじゃなかったっけ﹂
で卓袱台を押さえつけてから神奈子の質問に答えた。
﹁何って、分霊だろう
﹁分霊ぃ あれが
分霊っていうのは、分社を作ってそこに神の力の中継点である
?
?
文字通り分霊だからいいじゃないか﹂
﹁ふーん。これが分霊ってわけじゃなかったのか。⋮まぁ定義が違うだけで、こっちも
できないわ﹂
ないから、力が小さくなることもないわ。⋮あなたの場合文字通り分けてるわね。理解
だから基本的にそれぞれの分社に伝わる神の力は均等だし、神霊が分割されるわけじゃ
御神体を据えることよ。あくまで神は一人だけ、身体が増えたりするわけじゃないわ。
?
﹂
?
⋮しばし、うどんをすする音だけが茶の間に響いた。
手を伸ばす。
わせて左手を卓袱台からどけた。そして、計らずも神奈子と同じタイミングでうどんに
脱力したように、神奈子はすとんと自分の座っていた場所に腰を戻す。俺もそれに合
てたことは本当だっていうの⋮
﹁良くないわよ⋮。なんでそれだけ弱体化してて、私に勝てるのよ。まさかさっき言っ
寄り道は計画的に
258
?
いる真っ最中らしい。言うなれば、神話の戦国時代だろうか。ただ神々も自由思考のも
神奈子も含めて、大和の神々はそれぞれ各地の主要な土地神や土着神に喧嘩を売って
ただけだったのに、とんだ爆弾だったわよ﹂
﹁一度出雲の方に戻るわ⋮。ウカノのお陰で、調子が駄々下がりなのよ。肩ならしに来
らわりと近いな。
ミシャグジ様を束ねているやつは諏訪地方の辺りにいるんだったか。俺のところか
ミシャグジ様の信仰が厚いのも、これらの強力な飴とムチからだろう。
た。
強力な守り神となり、人間を守っている。正直俺の朱色でも手出しはできそうになかっ
プの神の代名詞でもある。それでもその恩恵も大きい。奉られている地ではそれぞれ
ミシャグジ様とは簡単に言えば祟り神だ。それこそ、恐怖で人間を支配しているタイ
が、のんびりしていていいのだろうか。
うどんの器を下げながら、俺は神奈子に聞いた。自分でうどんを出しといてなんだ
が見つけてたな﹂
えーと、土着神の⋮⋮ミシャグジ様とか言ったっけ。そういや、それらしきのを﹃俺﹄
?
﹁それで、神奈子はこれからどうするんだ 予定通り本命とやらのほうに行くのか
259
のが多く、どうやら信仰を奪った後のことについては決まっていないとか。とりあえず
獲った土地でがんばろー、みたいなノリらしい。適当だな。大和の神々、いいのかそれ
で。
で、その中でも有望な神奈子さんは、強力な土着神ミシャグジ様の相手になったと。
意気揚々と向かい、その前に景気づけにそこらの土地神をひっかけてみれば、自分より
強かったなどとは予想もつかないだろう。俺は神奈子の運の悪さに合掌した。俺とし
ては久々に思いっきり動けたので、運が良かったが。
諏訪地方の方に行くのは﹂
んて、恥ずかしすぎる⋮﹂
﹁まだ宣戦布告してなくて良かったわ⋮。そこらの土地神に負けたので一度帰りますな
﹁いつぐらいになるんだ
﹁多分⋮二ヵ月後ぐらいね。それほど長くはかからないわ﹂
?
﹁じゃ、俺が宣戦布告に行こう。使者的な感じで﹂
﹂
?
﹁あ、
﹃止めろ﹄って言っても行くからな。あそこは気になってたんだ、丁度いい。ミシャ
していたい。
とは決定事項だ。テケの転生体は捜し終ったので、しばらく暇なのだ。どうせなら何か
俺の提案に、神奈子は疑問とともに眉をしかめる。が、俺の中では諏訪の方に行くこ
﹁はぁ
寄り道は計画的に
260
グジ様の束ね役とやらの顔を拝んでくるさ﹂
どうせなら外して隠してみてもよかったかな。
子はそれには気づいていないようだった。
いた時もだ。ささやかな嫌がらせに、うつ伏せに寝かせていたりしていたのだが、神奈
ちなみに神奈子が背中に背負っている注連縄は外していなかったりする。介抱して
に大きな注連縄が揺れた。
渋々といった風に、神奈子は溜息をつく。いつかと同じように、それに連動するよう
いように﹂
﹁⋮分かったわよ、頼むわ。私が途中まで来て、途中で帰っていったなんてことは言わな
261
とぐろを巻いた、でかい白い○○こを想像してしまったじゃないか。願わくば、モリ
⋮⋮おぇっぷ。
ているのだろうかと妄想してみる。
蛇になったのかは知らないが、彼らの纏め役であるモリヤ様とやらも似たような姿をし
だが関係ないと思う。ミシャグジ様が元々白蛇だったのか、信仰されるようになって白
ミシャグジ様の姿は、白蛇。白は元来神聖なものと言われている。ちなみに俺は白狐
すことは無いそうで、どんな姿をしているかは不明だ。
信者達からはモリヤ様と呼ばれているらしい。ただ、一部の人間を除いて人前に姿を現
を奉っている村々を見たのは何度かあったが、親分の本拠地に行くのは初めてだった。
諏訪の地は俺のいる土地から、東の方へとずっと行ったところにある。ミシャグジ様
今回はこそこそ侵入するつもりなので、一人の方が良いのだ。
は屋敷に残り、一本は遊んでいる。そして紅花は三本の俺と一緒に屋敷に残っている。
万全には万全を期して。俺は諏訪の地へと五本尻尾の俺で向かった。他の尻尾、三本
諏訪の地のけろちゃん
諏訪の地のけろちゃん
262
ヤ様が人型をしていますように。
ではあるが、それ以上にモリヤ様を見に来たとい
?
うこともある。要件を伝えてはいさようならでは、収まりがつかないだろう。主に俺
したのだ。俺の目的は神奈子の使者
入した。モリヤは姿を見せないというので、お目どおりを願っても会えないような気が
俺は尻尾を全て隠し、久々に認識阻害の結界を張ると、町の上にある諏訪の社へと侵
るとは思わなかった。
技術まであるらしい。そういう話は聞いていたが、まさか中部あたりのこんな場所にあ
り、農耕、狩猟だけではなく、どうやら現代には遠く及ばないもののここには既に製鉄
地肌むき出しの地面を、多くの人間が行き交っていた。彼らの会話をこっそり聞く限
の大きさがうかがい知れる。
これほどの人間を膝下に置き信者に据えていることで、ミシャグジ様、モリヤ様の力
人の集落としてはその規模は異常だった。
広がっている。昔に見た都市のように、技術やらが異常発展しているわけではないが、
大違いだ。少し高い位置にある大きな社の下には、時代に似つかわしくない大きな町が
そこにつくなり、俺はそう呟いた。増えたとは言え、人口百人かそこらの俺の村とは
﹁俺のところを倉稲村だとすると、ここは諏訪王国だな﹂
263
の。
麓の人間の住まいに比べ、一際大きい神の社。だがぶっちゃければ俺の屋敷の方が
かっこいい。こちらは昔見た正倉院みたいな、住まいとしてはとてもシンプルなもの
だ。表、麓から見れば豪奢に見えるような飾りがあるが、近くで見ればそれもはりぼ
てっぽい。
そんなしょぼい優越感を感じながら、俺は強い神力の感じる方へと、出入りする神職
らしい人間の合間を抜けながらすいすいと向かった。ただこの建物の規模から考える
と、いる人間はとても少ない。やはり、情報の漏洩を恐れてだろうか
するに、この幼女がモリヤなのだろう。白いう○○じゃなくてよかったが、しかしこう
ら眠っているらしい。そして間違いなく強力な神力は幼女から垂れ流されていた。察
俺よりも背の低いおかしな帽子を被った幼女は、口を半開きにしてか細く息をしなが
しかし、そこで俺が最初に見つけたのは、うつ伏せに倒れた幼女だった。
なっており、それからは荘厳さが多少なりとも感じられる。
と比べると上等な作りのそこは、濃厚な神力が漂っていた。戸は引き戸、観音開きに
神力を感じたのは、奥まった一室。俺はそこへ霊体化しながら音もなく侵入する。他
?
しておかしな体勢で眠っている姿には威厳のいの字もない。俺が侵入して枕元にいる
というのに、無用心過ぎないだろうか
?
諏訪の地のけろちゃん
264
それにこいつらはこうやって寝ていることに、少しは寝苦しさを感じないのだろう
か。背中があまり上下していないせいで、まるで死体みたいだ。
﹁土地神なんてことは見ればすぐ分かるんだけど
⋮ああ、聞き方が悪かったのかな。
﹁ウカノ。ここから西にしばらく行ったところで土地神をしてる﹂
⋮⋮と、言いたいところだがよくない雰囲気を周囲からひしひしと感じる。
ものとしては寛大だった。どうやら不法侵入ついてどうこう言うつもりはないらしい
モリヤの物言いは見も蓋もないものではあるが、むしろその対応は侵入者に対しての
にもない。しかし、今更威厳も糞もなかったが。
先ほどまで起き上がって寝ぼけ眼で俺を見つめていたあどけない幼女の面影はどこ
腕を組んで、モリヤが不機嫌そうな顔のまま開口一番にのたまう。
﹁で、あんた誰﹂
た。
そっと近寄り鼻をつまんでしばらく経つと、幼女の口からおかしなうめき声が響い
﹁んがっ﹂
﹁見ろよ、死んでるみたいだろ。寝てるんだぜ、こいつ﹂
265
?
余所の土地の神が、諏訪の地に何の用
神の土地にいるなんてさ﹂
かを怪しんでいるような気がする。
いいことじゃないよ、別の信仰の神が、別の
モリヤの俺への不信感は、俺が不法侵入したことにも原因はあるようだが、他にも何
のだ。ちょっときもい。
かしもう二つはおかしな帽子にくっついており、それらもぎょろぎょろと俺を見ている
合わせて四つの瞳が俺を見つめる。二つは勿論幼女の顔についている目である。し
じろじろじろじろ。
﹁⋮ふーん。なんだかな、あんたさ、なんか怪しいんだよね﹂
りをしに来たわけじゃないぞ﹂
﹁あー⋮。すまん。好奇心みたいなもんなんだよな、ここに来たのは。別に信者の横取
?
﹁へー⋮、私にね⋮。何だって
ぎろりじろじろ。
﹂
るという音も聞こえる。念のために、すぐにでも動けるようにしておいた方がいいだろ
相変わらず視線が痛い。というより強くなった気がする。しかもどこかからずるず
?
だ﹂
﹁あぁ。そういや、用事も預かってきたんだった。⋮諏訪大社の祭神へ、大和の軍神から
諏訪の地のけろちゃん
266
う。
﹁⋮よく分からないなぁ。それで あんたはどうするわけ
﹂
?
その、軍神とやらの仲
?
?
がないのだから、この祟り神も大概だ。
﹁いや⋮。あいつとは友人以上仲間未満
だな。伝言役は︵無理矢理︶引き受けたが、戦
おかしなことに、殺気がないのだが。人一人殺せそうな威圧感を出しておきながら殺気
あるが、モリヤから突然溢れだした冷え冷えとした神力で空気が変わったのは確かだ。
モリヤの言葉とともに、ぴきりと部屋の中の空気が凍りつく。あくまで比喩表現では
間なんでしょ。私とやってくの
?
の大凶引いたとかな。そりゃ出直したくもなるわな﹂
﹁色々あったんだろ。験担ぎに九分九厘大吉の出るインチキ御神籤引いたら、確立一毛
構遅かったね﹂
に大和の神々が戦争を仕掛けてるってね。もう少し早く来ると思ったんだけどなー、結
﹁そー、やっぱりね。ま、そういう話は私の方にも入ってきてたよ。各地の主要な土着神
かし、モリヤは存外軽そうに答えた。
宣戦布告。別に俺が戦うわけではないが、モリヤとしては穏やかではないだろう。し
そうだ。戦争とは言っても、単騎で来るだろうがな﹂
﹁近いうちに、諏訪に戦争を仕掛けるってさ。目的は勿論、諏訪大社の莫大な信仰なんだ
267
争に参加するつもりはない。用も済んだしな。ってわけでここにいる意味もないし、も
う帰るさ﹂
ずるり
一際、何かを引きずるような音が室内に響く。ずるずる。コンマ数秒毎に、そんな音
がますます増えていった。
モリヤは三日月のように口を曲げて、爛々と光る蛇のような目を俺に向けると、こう
言った。
だが、俺の脅威にはなりえない代物だ。確かに人からすれば、祟りとは超自然現象で
ることなく、強力な祟りに特化しているというわけだ。
作用するし、神奈子なら主に戦に作用するのだろう。そしてモリヤは祟り神の名に恥じ
を引き起こす神力によってそれは為される。俺の場合は何故か食べられる植物に良く
く本物のそれである。祟りとは、言わば神による呪いだ。個々の神によって様々な作用
後世では、ただの自然現象だったと片付けられる祟りだが、今この時代では間違いな
が俺を包んだ。俺は今祟りをこの身で実感しているのだろう。
ヤからだけではない、俺の周囲一帯、部屋中からだ。それに伴い、言葉にし難い強制力
途端、今まで指向性を持たなかった神力が全て祟りを帯び、俺に襲い掛かった。モリ
﹁いいじゃん。ちょっと遊んでいきなよ﹂
諏訪の地のけろちゃん
268
ある。
しかし俺からしてみれば祟りは超自然現象でもなんでもないのだ。元を辿れば俺に
もある神力なのだから、防ぐ手段などいくらでもある。力が足りなければ呆気なく呪い
殺されるのだろうが、俺には要らぬ心配だ。
神力には神力。今までちょろちょろとしか出していなかった神力を、蛇口の栓をひね
るように増強した。それと同時に、隠していた尻尾が三本飛び出す。俺を覆っていた重
⋮⋮
﹂
圧は俺の神力に押され徐々にその力を失っていった。
﹁
§!!
﹁それじゃ
こっちはっどうかなっ
﹂
!?
モリヤはミシャグジが全て封じられるかいないかうちに、両手を虚空へと伸ばした。
!
落とした。そして、はたきおとしついでに全てのミシャグジを床に式紙で拘束する。
しかし数には数。百近いミシャグジを、俺はそれを上回る数の式紙を乱舞させはたき
括者の命に従い俺に牙を剥く。
その正体は無数の白い蛇、ミシャグジである。大きい者も小さい者も入り混じり、統
でずるずると這いずり回っていたモノ達が一斉に襲い掛かってきたのだ。
速かった。言葉とは言えそうにない言霊が一言モリヤの口から出るとともに、俺の周囲
力技で押し戻される自身の祟りを見てかモリヤは一瞬目を剥くが、しかし次の行動も
!
269
諏訪の地のけろちゃん
270
今度の行動にはおよそ時間差がない。まるで結果が分かっていたようなふしすらある。
何かがこすれるような音とともに、モリヤの両手にいくつかの鉄の輪が出現する。見
た目はただの鉄で出来た輪っか⋮だがその本質は神奈子の御柱同様、神の使う神具であ
る。
それら全てを、惜しげもせず、そして室内であることも気にせずモリヤは両手を振る
い、俺に投げつけた。ひゅひゅっ、と空を切る心地よい音を響かせながら、それに似つ
かわしくない凶器がいくつも駆ける。御柱が威容をもって押しつぶすならば、こちらは
怖気をもって切り刻むだ。
しかし俺は俺の細腕を容易く食い破りそうないくつもの鉄の輪を、全てひょいひょい
と素手で受け止める。見えていれば、そして手元に来るタイミングや輪の回転、神力の
かかり方、その他もろもろを把握していれば造作もない。そもそもボールの落下地点の
予測など、人間ですら可能なことだ。その上俺は能力のお陰か、人間時の及びもつかな
い精度で行える。行き過ぎた予測、それは未来予知にすら匹敵するのだ。
手で受け止めたそれらは、余すことなく鉄を構成するものをばらばらにして、空気へ
と溶かした。
能力とはいえ、神力を纏う神具にはそう簡単に干渉することは出来ない。しかし、逆
に条件さえ整っていれば可能なことだ。鉄の輪が能力が強力に作用する俺の領域内に
あった。そして純粋に俺の神力が上回った。これらの理由から、俺は容易に神具をいじ
ることが出来たのだ。
そりゃまた、どうしてそんなめんどいことを⋮。俺が強かろうが弱か
?
と。まぁ、神の住まいに不法侵入したのだ。これぐらいのことは甘んじて受けるべき
ようは、意趣返しということか。それに俺が反撃しないだろうことは見越していた、
時だって戦意がなかったよね。それが気に入らなかったってのもあるかなぁ﹂
﹁ただの、好奇︽・︾心︽・︾だよ。それにあんたには最初からずぅっと、祟りを向けた
・
俺の問いに対し、モリヤはふんと鼻で笑うとこう言った。
かめる必要などないだろう。
いことなはずだ。最後まで戦うつもりがないのなら、リスクを冒してまで俺の実力を確
途中で矛を収める程度の戦意しかなかったのなら、そもそも俺の強弱などどうでもい
ろうが、モリヤには関係ないだろうに﹂
﹁試したのか
﹁やっぱりあんた、力を隠してたね。どうも臭いと思ったんだ⋮﹂
あった戦意も、もう微塵もなくなっている。
さっと崩れてゆく鉄の輪を見ながら、神力を霧散させてモリヤが呟いた。先ほどまで
﹁あーぁ⋮﹂
271
か。
俺は自分の中でひとつ納得しひとつ頷くと、ばら撒いた式紙を全て回収した。ぺりぺ
りとミシャグジから式紙がはがれてゆき、その全てが俺の服の袖へと舞い戻ってゆく。
そして俺はモリヤに手を振って、さっさと部屋から出ようとした。モリヤの腹いせが終
わったのならもういいだろう、もう帰ろう。そう思っての行動だった。しかし、どうや
らまだ終わっていなかったらしい。
ぐっと、歩き去ろうとしていた身体が後ろに引かれる。それほど強い力では無かった
が、何故か抗いがたい。俺は身体の一部分に誰かの重みを感じながら、そっと背中を振
り向く。
そこでは、モリヤが俺の背中、正確には腰に三本ついている尻尾にしがみついていた。
﹂
甘い、甘いよ尻尾君
その顔には神として対峙していた時の表情はどこにもなく、年頃にも見える嬉しそうな
笑顔が浮かんでいる。
﹂
﹁あーうー。もしかして、もう私に許されたなんて思ってるの
?
﹁初めて見た時から思ってたよ⋮、この尻尾は私にもふられるためにあるってね と
﹁俺を尻尾に特定するな﹂
!
?
﹁⋮まだ、何か用があるのか
諏訪の地のけろちゃん
272
!
いうわけで、不法侵入の罰としてしばらく私にもふられていきなさい。異論は認めない
よ﹂
なるほど。あの時一瞬固まったのは祟りを神力で押し返したからじゃなくて、俺の尻
尾を見たからか⋮。
⋮まぁ、神の住まいに、不法侵入したのだ。これぐらいのことは、甘んじて受けるべ
﹂
!
ているモリヤを見ると、他のことはどうでも良くなる気がしてくるのだ。
それに逆らえないでいた。不法侵入したという負い目もあったが、本当に楽しそうにし
ただ、モリヤは俺がどこかに行こうとすると子供のように怒るのだ。俺はなんとなく
だけマシではある。
抱きしめたり寝転んだりと、非常にくすぐったいことこの上ないが、しかし痛みがない
のように扱いがはじけていないことが唯一の救いだった。モリヤは触ったり離れたり
モリヤが幸せそうに尻尾をもふる様は、とてもアマテラスに似ていたが、アマテラス
﹁駄目ですかそうですか⋮﹂
﹁あーうー
﹁⋮もう帰っていいかなぁ﹂
﹁もふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふもふ﹂
273
諏訪の地のけろちゃん
274
それから二ヶ月もの間、もふられていない時もそうして止められ、俺はずるずるとそ
のままモリヤの社に留まっていた。⋮二ヶ月経っていたことに気づいたのは、いつの間
にか神奈子が諏訪の地にやって来ていたからである。
神奈子が怪訝そうな顔でもふられる俺を見ていたのが、印象的だった。然もありな
ん。
諏訪大戦
⋮え もう終わり
?
国産みの二柱、伊邪那岐と伊邪那美の娘、その人である。
地上においての最高神、太陽を象徴とする神は天照大神。
が地上に縛られていないという事を示していた。
る神のために作られているのだ。そしてこの神域が社でも神殿でもないことが、その神
をイメージした図形をある意味芸術的に表現していた。この神域はつまり、太陽に関す
この時代最も信仰されているものは、太陽。いくつも立てられた石柱は、人間の太陽
れていた。
すら失われてしまったが、この時代ではそこは人間にとっても神にとっても聖域と扱わ
べられている。未来では朽ちる壊れる壊されると、あらゆる要因で完全に消え失せ伝承
出雲の、西端に位置するある場所に、いくつもの石柱が広範囲にわたって規則的に並
!
立ち並ぶ石柱の中心、八坂神奈子の眼前に長い黒髪の女神が立ち、そう言った。その
﹁ウカノミタマに会ったのですか﹂
275
立ち振る舞いはどこまでも楚々としており、落ち着きのなさは欠片もない。大人びた丁
﹂
寧な声には、何かしらの神秘すら感じられる。
答える。
輝く女神は神奈子の緊張など露知らず、相変わらず落ち着いた声音で神奈子の問いに
などはないが、しかし純粋な力の差というものは確かにある。
まりにも具合がよろしくはなかった。地域の違う神に明確な序列などは存在するはず
ば、神奈子は旧神の一人に喧嘩を売ったということになる。それは神の一柱としてもあ
少し緊張しながら、神奈子はそう聞いた。狐神の言っていたことが本当だったなら
﹁はい。やはり、お知り合いなのですか
?
?
する。
﹁私達⋮
﹂
神奈子はなおも嫌な予感を感じながら、アマテラスの言葉にあった気になる点を指摘
いた。
そう呼ぶかも知れない。それほどこの太陽神の有り様は、かの国産みの女神に酷似して
そう言いながらふわりと笑う女神、アマテラス。ウカノが見れば、イザナミさん、と
ましたので、先日久しぶりに彼女の無事な姿を見た時は安心しました﹂
﹁はい。ウカノミタマは私達の古い友人です。しばらく地上に降りられない期間があり
諏訪大戦!…え もう終わり?
276
﹁ええ。私だけではなくお父様とも親友だそうですし、それにお母様とも仲が良かった
そうですよ。ただ、お父様が天界に戻ってからは、もうずっと会ってはおられないそう
ですが⋮﹂
あぁ
神奈子は頭を抱える。自分はなんてものに喧嘩を売ってしまったのかと。しかも仕
掛けたのは小規模とはいえ侵略戦争だ。こちらが潰されることになっても、文句など言
えない。言えるはずがない。
もしや、ウカノミタマと何か
﹂
神奈子のおかしな様子に、アマテラスは首をかしげた。
﹁どうかしましたか
?
﹁︵温和⋮あれで⋮︶確かに気にしているような様子は、ありませんでしたが⋮。そうい
りはしませんよ。ああ見えて、温和な方ですから﹂
﹁ふふ、それは災難でしたね。でも、彼女は実害がなければ、その程度のことを気にした
話し終え、少し汗をかいている神奈子に、しかしアマテラスは笑いながら言った。
の間では人間間以上に嘘が露呈しやすいのだ。
は、神の間で吉にはたらく事は少ない。いや、それは人間の間でも同様ではあるが、神
問うアマテラスに、神奈子は正直にウカノの土地を襲撃したことを話した。隠すこと
﹁いえ⋮それが││﹂
?
277
えば、そのわりにはずいぶん粗暴な口調ですね、彼女は﹂
真っ白な髪に、真っ白な肌。透きとおるような容姿には、無表情の鉄面皮とあいまっ
て、この世のものとは思えない美しさがある。真っ白な身体にただ二つある、宝石のよ
うな輝きを放つ金色の目で見つめられれば、息を呑んで言葉を口に出来なくなるほど
だ。
だが。だがその小さな口から漏れる言葉のなんと粗暴なことか。声こそ容姿を裏切
らないせいで、ウカノの口調はとても際立っている。
ふ、と物憂げに手を頬に当てアマテラスはぼやいた。しかしすぐに笑顔に戻す。
﹁昔からですよ⋮お父様も、初めて出会った頃からあの口調だったと言っていました﹂
本物を文字通り分ける、わけのわからない技法。空ろなあの狐にだけ出来ることらし
﹁分霊ですか﹂
言っていたことだ。
の だ っ た。﹃た ま に 私 の よ う に お か し な 個 体 が 現 れ る﹄。こ れ は そ の 彼 女 自 身 が そ う
ウカノ本人ではあったが、しかし自分のことを﹃私﹄といい、口調もとても穏やかなも
偶然ではあったが、アマテラスは分霊のウカノに会ったことがあった。それは確かに
の一面が、分霊の器を借りて一時的に表に出ているんでしょうね﹂
﹁ですけど、分霊のウカノミタマは稀に柔らかい口調をしているんですよ。きっと彼女
諏訪大戦!…え もう終わり?
278
い。そこで神奈子はふとここにいるアマテラスのことも思い出す。
﹂
?
・・
れは、そろそろアマテラスが天界に戻る合図でもあり、神奈子にとってもタイムリミッ
側に限界まで伸びている。空は朱色に染まり、気の早い星々が顔を見せ始めていた。そ
アマテラスの視線の先では太陽が山裾に沈んでゆき、全ての石柱から影が太陽の反対
﹁八坂さん。そろそろ向かわないと、遅くなるのではないですか
と、アマテラスはふと空に目を向けると、目線を固定したまま神奈子に口を開いた。
思わないだろう。
る。そしてもしも神奈子がツインテールの快活少女を見ても、それをアマテラスだとは
振るだろうが、残念ながらここにいるのはこのアマテラスしか知らない神奈子だけであ
しれっとアマテラスはそう言った。この場にウカノやイザナギがいれば全力で首を
す﹂
﹁ええ。こちらは私の、地上における化身、でしょうか。天界にいる本物とは少し違いま
変わりはないのだが、しかし本物との確かな差異は表れていた。
メージで形作られると言っても過言ではない。あくまでアマテラス自身であることに
違う形でアマテラスを地上へと現界させていた。つまりこのアマテラスは、人間のイ
アマテラスとて、そう簡単に天界から降りられるわけではない。だが人々の信仰は、
﹁そういえば、アマテラス様のその姿も本物ではないんですよね﹂
279
トを示していた。
ウカノに言った刻限は二ヵ月後、既にそれほどの時間がこの地で過ぎている。今頃か
ら飛ばなければ、諏訪の地につく日が遅くなってしまうだろう。
﹁あっと⋮本当だ。それでは、失礼しますね、アマテラス様。話を聞いてくれてありがと
うございました﹂
うに完全に沈んでしまう。それと同時に石柱の間からアマテラスの姿は影も形もなく
一瞬だけ全ての影が交差し、しかしすぐに辺りは夜の帳に包まれた。太陽も山の向こ
だけ起ころうとしている。その様子を、アマテラスは目を細めて静かに見つめていた。
なことに一点に集束しようとしていた。普通なら角度的にありえない現象が、この一時
けた。そちらには幾本もの石柱の影が地面に長々と伸びている。それらの影はおかし
と、アマテラスは神奈子が完全に見えなくなってから、沈む太陽とは反対側に目を向
た。
薄れてゆく。それは太陽が沈んでいく早さと同じで、そして夜の始まりとも同義だっ
会釈を一つして空に飛び上がった神奈子の背を見ながらも、そのアマテラスの身体は
ほわほわと笑いながら、アマテラスは神奈子にそっと手を振った。
て﹂
﹁い え い え。私 も ウ カ ノ ミ タ マ の こ と が 聞 け て 良 か っ た で す よ。八 坂 さ ん も 気 を つ け
諏訪大戦!…え もう終わり?
280
なっていた。
﹁何やってんの
いた。
﹁もふもふー﹂
﹂
なくもぞもぞと動いていた。まるでその中に他の誰かがいるかのように。
えとは言えなかった。良く見ると分かるだろうが、五本の尻尾はウカノの意志とは関係
少し遠い目をしながら、そんな事を言う。それは愚痴のようで、神奈子の問いへの答
﹁尻尾はもふもふで気持ち良い。俺も、それは否定しないんだけどな﹂
白な尻尾がついていた。
け神奈子と相対している。彼女の頭には白いふわふわの耳が、そして腰には五本の真っ
神奈子の目の前には一人の白い神、ウカノ。相変わらずの無表情を端正な顔に貼り付
よって遮断されている。つまり、この場は既に限定的ながら戦場足り得るものだった。
界が張られ、外から内への侵入者も、内から外への流れ弾も、それら全てがその結界に
気は全くなく、この場には神奈子と他二人しかいない。山を丸ごと覆うように強力な結
諏訪王国の山の上。その境内で、軍神八坂神奈子が腕を組んで立っていた。辺りに人
?
281
そもそも神奈子の言葉はウカノへの言葉であるとともに、尻尾をもふっている幼女へ
の言葉でもある。ウカノは尻尾に埋もれている幼女をつかみ上げ神奈子の方へと差し
出した。
﹁諏訪子、お客さんだ。侵略者でもいいがな。大和の軍神、八坂神奈子。お前んとこの信
仰が欲しいんだとさ。ああ、それはもう言ったかね﹂
洩矢諏訪子。ウカノに、モリヤはそう名乗っていた。この二ヶ月の間にしていたこと
はそんな簡単な自己紹介と、後はもふっていたぐらいである。
諏訪子は尻尾から引き離され名残惜しそうな顔をしていたが、神奈子に四つの目を向
けると顔を引き締めた。小さく何事か呟き、周りに何匹もの白い蛇を呼び寄せる。
あはは
それとも身のほど知らずなのかな
﹂
!?
蛙の方がお似合いだよ、モリヤ神﹂
それでもお前には
身の丈を理解しない蛙は、荒
波にもまれて溺れてしまえばいいわよ。あ、お前は蛇だったっけ
﹁は、吠えるな土着神。井の中の蛙って言葉は知ってる
!
ないね﹂
が、よくもまぁ吠えたもんだよ。だからこそ諏訪に来たんだろうに、惨めなことこの上
﹁その言葉、そっくりそのままあんたに返すよ。明確な信者も持たない大和の軍神風情
?
?
?
﹁待ちくたびれたよ、軍神。諏訪に喧嘩を売るなんて、なかなかどうして豪儀じゃないか
諏訪大戦!…え もう終わり?
282
なに、その貧相な身体。最有力の祟り神の一
あははははは
﹂
いや、ある意味最先端なの
関係ないんじゃないかな ⋮それなら、なにさあんたのそ
﹁惨めなのはお前のその身体じゃない
柱が⋮惨めだねぇ﹂
﹁な⋮ 私の身体は
ださいにも程があるよね
!
!
先取りし過ぎ、だけどね。あはははははははははっ
!!
の髪型は
かな
?
!
!
!?
もう帰るぞ。何が悲しくてお前らの好みは熟知せにゃならんのだ﹂
﹁おい。かぶだろうが大根だろうがどうでもいいがな、これで終りなら俺は結界解いて
なっていたことは内緒だ。
⋮ちなみに、神奈子のもっさりとした髪や、諏訪子のえぐい帽子がウカノ自身も気に
とで争えるのか、ウカノには不思議だった。
で口を挟んだ。ちなみに諏訪子はかぶが、神奈子は大根が好きらしい。なんでそんなこ
ウカノは後ろで黙って聞いていたが、二人の争いが自分達の好みに移ってきたところ
る。容姿の貶しあいなど、不毛でしかない上に見苦しい。
かも交わす言葉は回を重ねる毎に、お互いに段々と幼稚なものにランクダウンしてい
売り言葉に買い言葉、一触即発の空気が漂う中、しかし話はまるで進んでいない。し
!
!
だってださい帽子を被って、きもいのよそれは
﹂
﹁言わせておけば⋮ 私がこの髪を整えるのにどれほど苦労してると思う そっち
!?
!
!
283
﹁ちょ、ウカノの結界がないと麓に被害が出るから困るんだけど﹂
﹁人の居ない所に行けばいいじゃないか。天竜川の辺りでいいんじゃないかね。川幅も
だって準備してないんだよ
﹂
﹂
広いし、そのくせ雨降ったらすぐ氾濫するせいで周りに人も住んでないしな﹂
﹁えぇ
﹁ういうい﹂
﹁⋮あーうー。分かったよ、さっさと始めるから、結界解かないでよね
﹁もふもふばっかしてるからだろうが﹂
!
げるわ﹂
別に構わないわよ、懸命な判断だと、褒め称えてあ
主に対しては効きづらい。神奈子の相手をするには、力不足と言えた。
祟りという、ある意味攻撃手段は持っているが、先に言った通り一定以上の力の持ち
に剛毛がついた程度の能力しかないのだ。
に欠けている。それは彼らの物理的な力がとても小さいせいだった。そこらにいる蛇
に強いが、ウカノの時でも分かるように一定以上の力の持ち主に対しては著しく決定打
しかし神奈子の顔に動揺はなく、むしろ余裕が見てとれた。⋮ミシャグジの力は確か
シャグジも周囲を完全に包囲している。
口論を打ち切ると、諏訪子は一歩前に進んだ。その手には既に鉄の輪が握られ、ミ
!
!
﹁一応言っておくわね。投降する
諏訪大戦!…え もう終わり?
284
?
祟り神の頂点の力、思い知らせてあげるよ
﹂
﹂
!
﹁冗談。信仰が欲しかったら、力で奪ってみなよ﹂
﹁あははっ、上等
!
とともにぼろぼろと次々に落ちていく。これまた、注連縄の神力に阻まれて、である。
地上にいたミシャグジも二人を追いかけて空に駆け上がっていたが、それらも鉄の輪
代物だ。
くあれが伝承どおりの藤の蔓なのだろう。おそらくは神奈子が神具として手を加えた
た。その原因は神奈子の背負う注連縄、それから発せられる神力のせいだった。おそら
実際に諏訪子の投げる鉄の輪は、ことごとくぼろぼろに錆びていき地へと落ちていっ
に使うザルの原料だ。
の蔓で錆びらされたんだったか。蔓の原点は藤の枝、この時代、砂鉄を他と分離する際
どこかの伝承では、二人の争いは諏訪子の投了で終わっていた。鉄の輪が、神奈子側
参入する気はないが。
て他への影響を抑えているので、二人の間に入るつもりはない。何の仕事がなくても、
軍神と祟り神。二人の戦場は諏訪の山の上空だった。俺は高い円柱状の結界を張っ
!
﹁あっそう。それじゃ、お言葉に甘えて⋮手加減は、しないわ、よ
285
諏訪大戦!…え もう終わり?
286
諏訪子側の戦力が完全に把握されている。
これは神奈子が元々諏訪子の力を買っていたということだ。だからこそ、その対抗手
段を整え、万全の状態でこの戦いに挑んだのだろう。その前に俺に当たったのは、ご愁
傷様としか言えないが。
ただ、諏訪子は鉄の輪やミシャグジが封じられても諦めはしなかった。
自身の神力を高めると、直接神奈子と打ち合っている。彼女の﹃祟り﹄が、今物理的
な力すら帯びているのだから、諏訪子の本気が見てとれる。
神奈子の御柱を弾き飛ばし、いくつもの光弾を間を縫い飛ばしている。神奈子も負け
じと無数の弾幕を展開しているが、どちらの攻撃も決定打に欠けていた。
ちなみにいくつもの流れ弾があらゆる方向に飛び回っているが、全て俺の結界に阻ま
れ被害はゼロだ。結界の重ね張りをしているので、諏訪の社の方にも傷はない。御柱が
ごつんごつんと結界に当たっているが、無視。祟りが結界を侵食しようとしているが、
無意味。そして、俺の方に飛んでくるやつは問答無用でばらばらにしてやった。鉄の輪
だろうが御柱だろうが例外はない。まぁミシャグジ以外、だけどな。
さて、互いに決定打がなければ争いが長引くのは必至。しかも互いに持っている力が
大きい故に尽きるのも随分と先のことだろう。俺がそんなことを考えている間にも、二
人は飽きずに神力をぶつけ合っていた。それは大体互角、と言っていいだろう。戦いを
287
生業とする軍神に、膨大な信仰を集める土着神、それが戦争という舞台において力が拮
抗するというのも面白い。
ただ、神奈子の方が優勢と言えばそうかもしれない。諏訪子が鉄の輪をまともに使え
ていれば違ったかもしれないが、あの注連縄の前には何の役割も果たせていなかった。
それゆえ、諏訪子は神奈子の御柱には少し押されている。神力では負けてはいないが故
に、少し惜しい。
だが、その状況下でも二人の戦いは次の日まで続いていた。神奈子がここに来て、戦
闘が始まったのは昼をしばらく回った頃。そして次の早朝まで、ということでゆうに半
日は戦い続けているということになる。
戦況に大きな変化はなく、しかし諏訪子が神奈子に喰らいついているのだろうか
子の周囲に集まっていたが、何をするかと思えば、連中はむちむちと奇怪な音をたてな
グジが諏訪子の最後の手段だった。今度は彼らは神奈子に直接向かうことはなく諏訪
落とされ地に伏していたミシャグジが、徐々に力を取り戻し空に上っていく。ミシャ
諏訪子の方が勝負に出たのだ。
しかし、戦闘はそれ以上長引くことはなかった。
た。
神奈子の顔にも疲労は見て取れたが、諏訪子の表情にはそれ以上の苦悶が貼りついてい
?
諏訪大戦!…え もう終わり?
288
がら合体していった。
出来上がったのは一匹の真っ白な大蛇、ある意味神秘的なその姿は龍とも言える。本
来は群体としてのミシャグジだが、逆に個体としての意味もあまりないのだろう。無数
のミシャグジの合体でありながら、その大蛇は異常なまでに統制が取れていたのだ。
諏訪子はその大蛇なミシャグジに跨ると、ぺしりとその身体に手のひらを当てた。す
るとミシャグジが大きくなった顎を開く。瞬間、暴力的なまでに攻撃的な神力がそこに
集束していった。
神奈子はといえば、既に四本の御柱を自分の周囲に展開していた。投擲用ではなく砲
撃用の、である。攻めでもあり、しかしある意味受けの姿勢でもあるそれ。つまりは諏
訪子の意図を汲んだのだろう。その光景は、俺が神奈子と相対した時のものに似てい
た。違うのは、今は神奈子の方が諏訪子より優勢だというところだろうか
これほどの力の放射、そう長らく撃てるものではない。それを示すように、均衡はそ
極彩色に呈していた。
士が激突する。早朝の白み始めた空を二つのレーザー光が丸ごと染め上げ、諏訪の空を
したレーザーを撃ち出した。どちらも瞬きのうちに空を走り、二人の中心で眩い光線同
その巨大な顎の奥から惜しげなく撃ち出し、対する神奈子は四本の御柱から一本に収束
戦局の硬直は一瞬、静寂すら刹那で破られる。諏訪子のミシャグジは青いレーザーを
?
れほどかからないうちに崩れた。最初に押されたのは、ミシャグジの、諏訪子の方だっ
た。そ れ を 皮 切 り に 神 奈 子 の レ ー ザ ー は 諏 訪 子 側 の レ ー ザ ー を 飲 み 込 み か き 消 し た。
諏訪子もミシャグジも、自身のレーザーを貫いた神奈子の攻撃に飲み込まれる。
その光景すら、奇しくも俺が神奈子にアレを撃った時のものに類似していた。今回の
勝者は見ての通り神奈子の方ではあるが。
あの時の神奈子のように目を回して落ちてきた諏訪子を、俺は下で受けとめる。しか
しミシャグジはノータッチだ。まぁほっといても大丈夫な気がする。ぷすぷすと燃え
尽きた感漂う諏訪子を見ると、そんな状態でも頭に乗っけられている帽子についている
﹂
目もぐるぐるになっていた。本当になんなんだろうこれ。
﹂
?
る。時には極上の布団にもなる尻尾の方が。
寝かせた方がいいのかもしれないが、なんとなく諏訪子ならこっちの方がいい気がす
諏訪子をそっと尻尾の中に埋めながら、俺は神奈子に返す。諏訪子は、社内に入れて
んじゃないか
﹁ああ、お疲れさん。ずいぶんと、苦戦したじゃないか。対抗策がなかったら危なかった
どや顔でそう言った。
へろへろと、疲労困憊で上から降りてきた神奈子が、しかし胸を張りながらかなりの
﹁どうだい、ウカノ。私の勝ちだったろう
?
289
﹁まあね。でも、これで諏訪の信仰は私のものさ﹂
神奈子はやり遂げた表情で笑っている。しかし、それはどうだろう
俺も大概、面倒見がよすぎる。
いてそこに諏訪子を寝かせた。
普通ならば確
ふと、なんでこんなことしてるんだろうと首をかしげながら、俺は社の表に尻尾を敷
えず、諏訪子が起きないことには二人の話も進まない。
そんな事を考えながら、嬉しそうな神奈子を尻目に諏訪子を社の方に上げる。とりあ
係ない。
まぁ、信仰のあり様などは神奈子と諏訪子が決めればいいだろう。第三者な俺には関
る。モリヤの祟りを忘れて、素直に神奈子を信仰するとは思えない。
う。諏訪子に神奈子が勝ったとはいえ、諏訪子の存在の方が人間達には強く根付いてい
が少し特殊だ。強力な祟りと見返りの、飴とムチ方式。そう簡単に信仰は奪えないだろ
かに人間は力の強い方の神につくかも知れないが、しかし諏訪子の場合は信仰の集め方
?
あぁ⋮アマテラスに聞いたのか。別に信じようが信じまいがどっちでもよかっ
?
たんだがな﹂
﹁ん
﹁そういえば、前ウカノが言ってた事は本当だったわね﹂
諏訪大戦!…え もう終わり?
290
﹁⋮態度は畏まった方がいいのかしらね
﹂
?
﹁ん
何か
﹂
﹁尻尾触っていい
?
﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ご自由に﹂
?
?
﹁そ。それじゃ、今までどおりにするわ。⋮あ、そうだ﹂
よ、強要はしない﹂
﹁ご自由に。変に敬語を使われるより、今までどおりの方が望ましいがな。どちらにせ
291
迷子は二人目逆行者
人間と人外の境というものは存外曖昧なものだ。霊力と妖力の関係も、それを物語っ
ている。正反対の間柄ではあるが、あくまでこれらは裏表、神力やましてや禍気などと
比べればその根源にそれほどの違いはない。正に染まるか、負に染まるか、それだけの
違いだ。
それゆえ、人間は簡単に人外に変わることがある。血を吸われて吸血鬼になった、人
魚の肉を食べて不老不死になった、憎しみに駆られて鬼となった。人間が何かを境に人
間じゃなくなったという話は、どこにでも伝わっている。そもそも、人間は正負両方の
特性を持っている。だからこそ、両者は紙一重なのだ。
だが、これには一つ落とし穴がある。一度黒に染まった白は、もう元の白には戻れな
いということだ。
﹂
!
こんなことに⋮⋮
!
﹁なんで⋮
迷子は二人目逆行者
292
293
森の中を、一人の少女がばたばたと走り回っていた。年の頃は十代後半、あくまで人
間換算で、ではあるが。見た目は確かに普通の人間ではあった。しかし、着ている服に
は違和感のみがある。時代が時代ならば、むしろ自然な紫色のワンピース。胸元に小さ
な赤色のリボンをつけた﹃現代﹄風の服装だ。だが、今この時代は紀元になるかならな
いかの大昔。彼女の服の方が不自然な時代なのだ。
それもそのはず、つい先日まで彼女がいたのは、未開の土地の広がる荒野でも原始的
な人里でもなく、科学技術溢れる﹃現代﹄だった。少女はその時代で、ごくごく普通の
大学生をしていたはずなのだ。そこで普通に暮らしていたはずの彼女が何故こんな時
代にいるのか、それは彼女自身にすら分からなかった。いや、そもそも彼女はこの時代
などと思えるものか。
が大昔であることも知らない。例え未発達の人里を見たとしても、それで昨日今日文明
社会にいた少女が、大昔に来ちゃった
人間、人外問わず、彼女を見たものは各々の武器を振りかざし襲い掛かってきた。彼
少女は追われていた。その表現が一番正しい。
ただそれだけ、というわけでもなかったが。
彼女が今こうして走り回っているのは、その焦燥感を現していると言えた。しかし、
わらない。だからこそ彼女は言いようもない焦燥に囚われていた。
だが、いつの時代であろうと少女が見も知らぬ土地に飛ばされているという事実は変
!
らは彼女を見てすぐに、ではなく、視界に入れ、そしてしばらくして何かに気づいたよ
うに敵意を向けてきたのだ。
お陰で彼女は追うものを振り切った今でも、何かに追われるような錯覚に怯え逃げ続
けていた。
少女が走り続けて、既に太陽と月が二度空を巡っている。現代に居た頃は、それほど
体力があったわけでも運動神経が良かったわけでもない。それに仮に優れたそれらを
持っていたとしても、休みなく全力疾走を続けられるものではないが⋮。しかし彼女は
実際に少なくとも2日間は走り続けていた。何かを境に、彼女の中身は確実に変化して
いたのだ。
だが、それでもいつかは限界が来る。それはもつれ始めた足を見ても明らかだった。
雑な足運びで地面を叩き、慌しい足音が森に吸い込まれてゆく。それも少しずつ途切れ
途切れになり始めていた。そして、その時は唐突に訪れる。
絶望してしまっていた。気持ちが折れてしまったのだ。
女にはもう立ち上がる気力すらない。夜も昼も足を動かし、それでも変わらない景色に
既に体力は限界、これまで走り続けられたことの方がむしろ奇跡だった。しかし、彼
とうとう自分の足に躓き、地面に倒れこんでしまったのだ。
﹁あっ﹂
迷子は二人目逆行者
294
何でこんなことになったんだろう
でおかしな世界に紛れ込んだことは、以前にも幾度かあった。しかし、こん
?
けれども、こうして目を閉じて、次に開けた時にはきっともう覚めている。そうでな
びに、自分のいる場所が崩れていくような気持ちの悪い浮遊感に襲われた。
なことは初めての経験。しかも、現実感を痛烈に、ひしひしと感じる。それを考えるた
夢の中
もう疲れた。
その繰り返し。
た。それもいなくなったと思えばまた人間に見つかって追いかけられた。
い回された。ようやく撒いたかと思えば、今度は得体の知れない化け物に追い回され
に住んでいた、動物の毛皮を着て、先端に黒い尖ったものがついた槍を持った人間に追
その後途方に暮れて周囲を歩きまわっていると、原始的な村を見つけた。そしてそこ
い出せない。
だ。しかし、何かがあって、いつの間にか見知らぬ場所に立っていた。その何かを、思
少女は考える。どことも知れぬこの地に来る前は、確かに自分の部屋にいたはずなの
?
先行きが全く見えない閉塞感に、少女の精神にも限界がきていた。
今まではそんな暇すらなかったが、ここに来てようやく涙が溢れだした。心細さと、
﹁⋮⋮ぅう、ぅぅー﹂
295
いといけない。だってこんなことは普通じゃない。
でもやっぱり現実だったら
﹁■■⋮⋮﹂
たいと感じるようになるなんて思わなかった。
いつも一緒にいることが、当たり前だと思っていた。会えなくなって、こんなに会い
目だと笑い合っていた。
頭の中に浮かんできた、黒い中折れ帽がトレードマークの親友。いつも互いに、変な
﹁⋮⋮会いたい﹂
また、友達に会いたい。
い。
希望が藁屑であろうと、そもそも今の自分には何もない。元の場所に戻る可能性が欲し
狐に会いなさい〟と。こうなってしまっては、その言葉だけが頼りだった。たとえその
自分が元いた場所からいなくなる直前に、声が聞こえた気がしたのだ。曰く、〝白い
﹁白い狐、探さないと⋮⋮﹂
そしたら、
考えたくない。考えたくはないけれど。
?
あれ⋮⋮名前、なんだっけ⋮⋮⋮
?
迷子は二人目逆行者
296
今の自分からは何もかも消えてゆく。自分の名前も、自分の世界も、自分の居場所も、
この娘、人間かね、妖怪かね
自分の大切な誰かとの記憶も。
││ん⋮⋮か、倒れとるぞ
││む、本当じゃ。⋮おや
││わかっとるわい、そう急かすな⋮ どっこらしょ ⋮いかん、老骨には響くのう
││ほれ、お主はそっちを持ってくれんかい
││そうじゃの。万が一の時は、ウカノミタマ様もおられるしのう
う
││⋮わしらじゃ見分けがつかんのう⋮ 仕方ない、神和ぎ様のところへ連れて行こ
?
夢うつつに、誰かの声を聞きながら少女の意識も闇に飲まれていった。誰かに運ばれ
ていることにも気づかずに。
﹁目が覚めましたか﹂
﹁あ⋮﹂
297
目を、開くと、私はござのようなものに寝かされていた。
やっぱり、夢じゃなかったんだ。
ここがどこかとか、さっきの声は誰かとかよりずっと先に、私はそう思った。
私の下にあるござは、藁で編んだような、とても粗末な造りをしている。それは布団
と呼ぶにはあまりに薄っぺらい。そして、そのござの側には、つまり私の側には一人の
女性が座っていた。
上は白く、下は赤い布を身につけており、それらもとても薄く下着すらつけているよ
うには見えない。昔の、それこそ弥生時代あたりに生きていた人々がつけていたような
服装である。そう、先日まで私を追い掛け回していた人たちのような。
伸ばした。後になって思えば、その手は私を心配してこそのものだったのだろう。しか
赤白の、とにかく古めかしい服装の女性は不思議そうな顔をしながら、私へと右手を
むしろのようなものを握り締めた。
私は思わず起き上がった姿勢のままずるずると後ずさり、身体の上にかけられていた
また、石を投げられ、槍で突かれるのだろうか。
掛け回された恐怖が、一瞬フラッシュバックした。
それに思いいたると同時に、ひきつれた叫びが喉の奥からまろび出る。何時間も追い
﹁ひっ﹂
迷子は二人目逆行者
298
しこの時の私にはその手があまりにも恐ろしく見えて、握り締めていたむしろを頭から
被って身体を隠してしまった。そして、自分の意思を無視してがたがたと震える体を押
﹂
さえつけるように抱きしめる。
﹁こ、来ないで
﹂
?
﹁いじめない
﹂
を安心させるように笑っていなかっただろうか。私がそれに気づかなかっただけで。
に笑っている。それを見て私は思った。この人は私が初めて起きた時から、こうして私
いる女性を見た。先ほど差し出した手はもう膝の上に収められていたが、彼女は優しげ
私は頭まで被っていたむしろを少し下げ顔の上だけを出して、側で静かに正座をして
﹁はい。ここはウカノミタマ様が守護される地、助けを求める者を拒みはしません﹂
﹁⋮⋮ホントに
その声に、私は震えた声音で小さく返した。
﹁何があったかは存じませんが⋮大丈夫ですよ、ここは安全です﹂
と、そうしてふるふると震えていると、むしろの向こう側から穏やかな声が届いた。
う側が見えそうな粗末なむしろも、この時だけは私を護る立派な防壁だった。
し、その時の私にはそれが精一杯だったのもまた事実。粗い目の、目を近づければ向こ
絞り出すように、それだけ言う。抵抗とすら言えない、稚拙な行動ではあった。しか
!
299
?
﹁何もしませんよ。そもそも、何かするつもりならあなたは今こうしていることは出来
ないのではありませんか﹂
それもそうだ。
女性にそう言われ、私の頭の中は少しずつ冷めていった。しかしそれと反対に少しず
つ顔が熱くなってゆく。私はがっしりとつかんでいた粗いむしろをそろそろと放した。
しわのついて形の歪んだむしろを見ていると、余計に恥ずかしくなってくる。自分がず
いぶんと幼稚なことをしていたような気がしてきた。
﹂
?
言っては悪いが、何もかもが粗末だ。もしかしてこの女性の家は貧乏なのだろうか
ざと女性でほとんど満杯だ。部屋の造りもとても粗く、木だけで出来ている。
けてしまいそうだ。そして部屋の広さは畳にして2∼3畳程度。私を寝かしていたご
ても狭い場所だった。天井まで大体2mほど。思いっきりジャンプすれば頭を打ちつ
私は顔を上げて首を巡らせ、周囲に視線を向けた。とは言っても、私のいる場所はと
がどうなってここにいるのかとか。
どこなのかとか、目の前にいる人が誰なのかとか、そもそも私は森にいたはずなのに、何
私にうってつけのものだった。なにせ今の私には分からないことの方が多い。ここが
話をそらそうと、私は慌てて口を開いた。が、話題づくりの咄嗟の一言は、存外今の
﹁ぇ、えと⋮⋮そうだ、ここは⋮⋮
迷子は二人目逆行者
300
⋮。
ますね﹂
?
﹁守り、神
神様がいるの
﹂
?
あるいは土地神をしていたような神ではなかったはず。
?
す﹂
﹁はい。私達の先祖がこの地に訪れる前から、ずっとこの地を守護されておられたので
う呼んでいるのだろう。地方の村ではよくある話だ。
⋮きっと現人神というやつだ。この地では、一人の人間を神話上の神になぞらえてそ
守り神
日本神話に出てきた神様だったはず。詳しいことはまったく覚えていないが、それでも
念的なものではなく、実際にいて人のように動いていると。それに確かウカノミタマは
どうやら神職らしい女性は、神様がいるのだと言っている。しかも単なる信仰上の概
?
から、私達がお側にいる必要はあまりないんです⋮﹂
の守護が私達の仕事なのですけどね。あの方は自分で動かれる事がお好きのようです
﹁この地の守り神様、ウカノミタマ様に仕える者のことですよ。⋮ふふ、実際は、この地
なんだろう。どこかで聞いたような言葉だけど、思い出せない。
﹁かむなぎ⋮⋮
﹂
﹁ここは私達神和ぎの住んでいる家ですよ。私以外に二人いますけど、今は出払ってい
301
﹁え゛。ずっと、って
﹁千年
﹂
えっと、その、ウカノミタマ様って、人間なんじゃないの
?
そろそろ現実を見るべきだ。
?
孤立無援で、何も分からない今の私。ならば
幾度となく襲われたじゃないか。今更人間じゃないものがいるからと驚くこ
とはない。⋮今の私に重要なことは何
を詳しく知るべきだ。
﹂
に、ここを支配しているのはウカノミタマなのだろう。ならば彼、もしくは彼女のこと
⋮ウカノミタマという神様についてもう少し知りたい。女性の言葉から察するよう
私を追いかけていた者達に殺されていたのだろう。
きっと、こうして助けられた私は運が良かったのだ。助けられなければ、きっと私は
顔が嘘だとは思いたくない。
この女性が、私の敵でないことはもう言うまでもない。いや、そう信じたい。この笑
必要なものは、情報と、そして味方だ。
?
いか
そもそも、〝人間じゃないもの〟はこうしてここに来るまでに何度も見てきたじゃな
私は、いったい今どこにいるんだろう
﹂
﹁少なくとも、千年は経っているのでしょうね。私も詳しくは存じておりません﹂
?
﹁いいえ、違います。あの方は人間ではありませんよ﹂
!
?
﹁その、ウカノミタマ様について、もっと教えてくれないかしら⋮
?
迷子は二人目逆行者
302
﹁構いませんよ。どんなことを知りたいのですか
﹂
?
﹂
?
ないだろうか
私達の神様に無礼なり
と、殺されやしないだろうか。
!
う﹂
?
善狐の代表格とされているのは、白狐。昔から神の使いとされ、そして現代ではほと
⋮私がひっかかったのはそれだ。
狐も、人間と同じだ。悪もあれば、善もある。
たい。さもなくば、日本のあちこちに稲荷神社があるわけがないではないか。
者として描かれることの多い狐だが、狐というだけで悪者だと捉えることには異を唱え
人を化かし騙くらかすとか、悪戯好きだとか、白面金毛九尾の狐だとか、近代では悪
少し、ひっかかった。
﹁狐⋮⋮
﹂
けれど、あの方はいつも尻尾を何本も出してらっしゃいますからね。間違いないでしょ
﹁私は本当の姿を見たことはありませんが、あの方がおっしゃるには、狐、だそうです。
しかし女性は私の無作法な言葉を気にした風もなく、口を開いた。
?
あ⋮、と言い終わってから気づいた。今の、そして今までの私の言い方って、まずく
の
﹁えっと、人間じゃない、って言ってたけど、それじゃウカノミタマ様っていったい何な
303
んどの稲荷神社で白狐が祀られている。
﹂
ここのウカノミタマという神様も、きっと、間違いなく白狐だろう。希望的観測を含
んではいるが、私にはおかしな確信があった。
﹁ウカノミタマ様は、⋮⋮どんな姿をしているの
あぁ、きっと今の私は泣いている。泣きながら笑っている。だってこんなに嬉しいの
白い色をしておられますよ﹂
でも、尻尾と耳はそのままなんですけどね。それから、服も髪も肌も耳も尻尾も、真っ
﹁とても美しい方ですよ。あの方は普段は人間の姿をしていらっしゃいますから。それ
は帰れるかもしれない。私の居場所に、戻れるのかもしれない。
私は少し胸を高鳴らせながら、恐る恐る女性に聞いた。もしも、もしもそうならば、私
?
だ。だから、目の前にいる女性の驚いた顔も歪んでしまって見えやしない。
⋮ようやく、希望がつながった。
﹁会わせて、ください。あなた達の、神様に﹂
迷子は二人目逆行者
304
紫色の客らしい
そろそろ弥生時代も終りが近い気がする。俺のところはそうでもないが、力を持った
か
し
て
シャグジ信仰が予想以上に深く、より力の強い自分にそのまま乗り換えさせられなかっ
そ れ に 神 奈 子 自 身 も そ の 仕 組 み に ま で 持 っ て 行 く の に ず い ぶ ん 苦 労 し て い た。ミ
ぶんと愚痴っていたが、負けた手前それ以上強くは出られなかった。
を神奈子が掠め取るといったものだ。諏訪子は信仰を搾取されるそのシステムにずい
りにうまくやっているらしい。信仰は、諏訪子が今までどおり看板になって集め、それ
二人とも喧嘩した間柄ではあるが、たびたび遊びに行って見る限りはどうやらそれな
で押し返したようだ。荒っぽいが、形としてはそちらの方が正しい。
聞いた話では神奈子や諏訪子の方でも似たようなことはあったらしいが、向こうは力
で潰せるほど、俺も甘くないのさ。
便に対処して帰ってもらった。まぁ力といっても所詮人間単位の話だ。数の暴力だけ
化
規模化したといったところか。俺のところにちょっかいを出してきた連中もいたが、穏
﹃豪族﹄が各地に現れ始めたのだ。支配者というものは元からあったが、それがさらに大
305
たことが誤算だったか。
しかし過程はどうあれ、今うまくいっているのならいいことだろう。面倒な争い事は
御遠慮願いたい。
ところで神奈子達の名前で気づいたんだが、俺の名前ってどうだろう。
倉稲御魂。
今まではこれを丸ごと名前に使っていたが、このままでいいのか。神奈子達の名前
は、八坂神奈子、洩矢諏訪子。名字と名前がしっかり分離している。
﹂
俺の場合は、倉稲は名字でいいが、御魂が名前ってちょっとおかしい。神って意味ら
しいしな。
﹁というわけで改名しよう﹂
?
や特製のたれをつけるのもいいが、冷やして何もつけずにたべることである。
だった時の俺ですら食べたことのない芸術品になりました。お勧めの食べ方は、きなこ
みを持たせることに、俺はかなり本気を出した。そうして完成させたワラビ餅は、人間
に苦労はしなかったが、プルプルとした触感、ほのかな甘み、舌でとろけるようなとろ
ちなみにワラビ餅は俺が作ってきた食べ物の中でも力作。材料集めや作ること自体
俺の隣でワラビ餅を食べていた紅花が俺の方を向いた。
﹁何が、﹃というわけで﹄なの
紫色の客らしい
306
だが紅花、俺もさすがにワラビ餅に七味をつけるのは許せないんだな。
﹁
名前、変えちゃうの
﹂
?
﹂
﹁むー。よく分かんないの。何か違うの
?
﹂
稲﹄にして、名前が御魂ではどうもおかしい。
のが増えてくるだろう。そんな時俺が一人だけ名前のみでは寂しい。そして名字を﹃倉
いなかったから、必要なかったし。しかしこれからは神奈子達みたいに名字を持ったも
そういえば名字という言葉自体、紅花には教えていなかった。基本的に俺と紅花しか
り紅花だし﹂
便利なものではあるが⋮まぁ、あんまり気にしなくてもいい。どうせ呼ぶ時は今まで通
としての意味合いも強いけど。名字で個人の属する集団を特定できることもあるから、
縁等を区分する名前みたいなものかな。個人に特定されないから、下の名前以上に記号
﹁うーん。とりあえず、名字について説明しとくか。名字ってのは一つの集団、家族や血
?
紅花﹄だな。結構いいんじゃないか
そのまま使わせてもらうさ。変えるのは﹃御魂﹄のところだな。⋮あ、紅花は﹃倉稲 ﹁全部は変えない。イザナギにつけてもらった大事なものだしな。﹃倉稲﹄は名字として
?
じゃなくてちゃんとした名前にしようと思ってな﹂
﹁神奈子も諏訪子もちゃんとした名前を持ってるし、俺も﹃穀物や食物の神﹄って名前
307
﹁名前│。俺の名前か。はてどうしよう﹂
以前はイザナギに丸投げして、倉稲御魂になった。そのことは確かに感謝している
が、この名前も今となっては少々古めかしい。しかしこうして自分で考える段階になっ
ては、なかなか思い浮かばないものだ。どうせなら、俺である、ということが分かりや
すい名前にしたい。
俺が軽く思案していると、それを見ていた紅花は首をかしげてこう言った。
﹁私は紅いけど、お母さんは白いから、白がいいの﹂
そういえば、紅花の時は赤いから﹃紅﹄にしたんだったか。﹃花﹄、をつけたのは、紅
﹁白。白な。いや確かに俺は白いけど﹂
花の容姿が俺と似ているからこそ、そこで差異をつけるためだったりする。﹃花﹄なんて
女の子らしいじゃないか。読み方に濁音をつけてしまったところは、なんとも言えない
が。
いや、それはともかく俺の話だ。
力とあいまってピッタリじゃないか﹂
﹁白と紅で紅白狐か。それもいいな。じゃ、俺の名前は﹃白式︽ハクシキ︾﹄だ。うん、能
﹁うん。おそろいなの﹂
﹁紅花には﹃紅﹄をつけたんだし、俺にも﹃白﹄つけるか﹂
紫色の客らしい
308
結局名前は能力の﹃式﹄からそのままもらった。それが一番いい気もしたし、俺には
これが似合っている気もする。イザナギにもらった﹃倉稲御魂﹄は、これまでどおり真
名ということでいいだろう。これから俺が名乗る名前が、
﹃倉稲 白式﹄に変わったとい
うだけで。
そんな事を話しながら、丁度紅花がワラビ餅の器を空にした頃、邸内に〝シャーーー
ン〟という涼やかな音が響き渡った。それは少し前に俺が屋敷の表につけた呼び鈴の
音だった。俺の作ったそれの外見はまさに神社などにある鈴で、それについている紐を
引っ張ることで今のような心地の良い音が屋敷の隅々まで聞こえるようになっている。
この形式は本来なら戦後から広まったらしいが⋮まぁいいだろ。
さてこれが鳴らされたということは、誰か来たということだ。麓の人間か、はたまた
余所からの神か妖怪か。いや、この呼び鈴を知っていて鳴らす者といえば、麓の人間に
限られてくるのだが。
座敷の畳に投げ出した、だれきった格好だ。非常にだらしない姿ではあるが、いつも酒
座敷に一人残った俺は、いつも持っている大きな瓢箪にもたれかかった。尻尾も足も
て、俺は嬉しいよ。
紅花がそう言って、器を持って出ていった。ちゃんと片付けられるような子になっ
﹁私が出てくるの﹂
309
瓢箪を持ち歩いている神様にそれは今更というものだ。哀しきかな俺のキャラ作り。
そうして数分ばかりぼんやりしていたが、ほどなく紅花の通信が式紙を介して頭の中
に飛んできた。
た。
別に俺が指示したというわけではないが、いつの間にかそういう様式が出来上がってい
にやって来る。それから数年して、ようやく神和ぎとしての一通りの完成をみるのだ。
彼女達は術の基本は神和ぎの先輩に教わっているが、一定以上を修めると俺のところ
の力が働いているのではないかと思うこともある。
み。そして老若男女問わず、だったりする。しかし実際は少女の割合が多く、時折何か
しかし俺の思考がうつったのか、神和ぎの選考基準はほぼ純粋な個々人の能力面での
人に至ってはほぼ血のつながりは無いのだが。
は途絶えており、今の名代であるタクリもテケの遠い遠い傍系で、タクリ以外の残り二
みに初代はテケで、それから脈々と受け継がれている。とは言っても、既にテケの直系
の巫女を想像してもらえば分かりやすく、今の主な仕事は麓の人里の警備である。ちな
タクリとは、俺の住む山の麓に住んでいる神和ぎの一人だ。そして神和ぎとは、現代
まずは一言簡潔に、それだけであったが。
︵タクリが来たの︶
紫色の客らしい
310
ちなみに、俺が見た限りでは神和ぎの歴代最強は、やっぱり初代のテケである。そも
︶
そも能力持ちが稀なのだから、仕方ないのだが。
︵それで、用件は
︶
?
︵何
︶
と、そんな事を考えていると、紅花から続けて通信が来た。
︵あ、お母さん︶
タクリが連れてきたのだから、面倒な相手というわけでもないだろうが。
た。暇、でもあるが、来客のものらしき変わった気配が気になったということもある。
一つトーンの下がった紅花の思念を流しながら、俺はとりあえず来客に会うことにし
︵そうか。まぁいいや、通してくれ。丁度暇してたしな︶
︵私より少し大きいぐらいの女の子なの。紫色の服を着てるの。⋮ボインなの︶
︵外からの客か。特徴は
︵お母さんに会いたいっていうのを、案内してきたみたいなの︶
たばかりだ。
しかし神和ぎの術の指導は既に済んでいるし、お供え物にしてみても少し前にもらっ
鈴を鳴らしたということは、俺、あるいは紅花に用があるということだ。
彼女達はとても真面目で、用無くここに来ることは滅多に無い。そしてわざわざ呼び
?
311
?
俺がどうしたのかと聞くと、紅花はあっけらかんとこう送ってきた。
︵暇だから、諏訪子のところに遊びに行ってくるの︶
︵⋮そうか。気をつけてな︶
︵うん。行ってきまーす︶
随分前に諏訪大社に紅花を連れて遊びに行ったのだが、その時波長があったのか諏訪
子と意気投合したのだ。それ以来紅花は頻繁に諏訪の方にお邪魔している。何をして
いるかは知らないが、まぁ紅花に友達が出来たのはいいことだ、と思いたい。
前に神奈子が少し疲れた顔をしていたので、二人ともそれほど大人しくはしていない
ようだが。
﹁はて⋮ここはやっぱり、親として少しは責を負うべきかね﹂
不可解なのは、口調だけではなく表情も少し違うところか。完全な無表情な俺とは違
いなく俺自身といえる分霊だった。
して顔には金色の瞳と、どこまでも俺と同じ少女である。それは、口調こそ違うが間違
間にか俺の側に立ち俺の独り言に答えたのは、白い髪に白い肌、白い服に白い尻尾、そ
俺の独り言に答える声、とは言っても、その声が加わろうと所詮俺の独り言。いつの
きますから、〝俺〟はお客さんの相手をしててください﹂
﹁子供が他所様で迷惑をかけないように監督するのも、親の役目ですよね。私が行って
紫色の客らしい
312
い、その俺と同じはずの顔には少しだけ表情が見える。どうせ同期すれば〝俺〟に戻る
とはいえ、稀に出てくるそいつに対する疑問は絶えない。
他称もされているが、俺は精々千能程度で、万能でも、ましてや全能でもないのだ。
そして、俺には彼女の願いを叶えることは出来なかった。神などと自称もしているし
陥っている者がいるとは、こうして出会うことになるとは思うまい。
客であることに気づいた時は久々に仰天した。まさか、別経路ながら俺と同じ状態に
この時は俺も暇つぶし程度に思っていたのだが、やって来た来客が俺の予想以上の珍
なると途端に暇になる。俺はまた瓢箪に上体を戻し、だらりと身体を横たえた。
俺はその尻尾の先まで完全に消えてしまうまで壁を見つめていたが、それも見えなく
ることだ。もう慣れた。
た。幽霊かドッペルゲンガーかと言いたくなる現象ではあるが、これも何度もやってい
俺と声も顔も同じな分霊はニコリと笑いながら半透明になり、壁の中に消えていっ
﹁はいはい、分かってますよ。っと﹂
﹁任せた﹂
313
と。以前はあくまで夢の中であったし、そこにいた人外、妖怪もこの時代に出会った化
大昔に飛ばされたことなど初めてではないが、しかし問題はこれが現実だというこ
準なのだ。むしろ他の里と比べればこの辺りは進んでいるらしいが。
初めて目を覚ました時に見たタクリの家も別に特別ボロイわけではなく、この時代の標
居るこの時代のことだ。案の定、この時代は私の知る時代の過去にあたるようだ。私が
そして困ったことに、非常に困ったことに私はあることの確信を深めていた。今私が
ば、私はもう生きる事を止めていただろう。それほどあの時の私は疲れていた。
が尽きない。あのまま放っておかれたり、万が一にもちょめちょめな展開になっていれ
まず私は、森で倒れていたところを里の人に助けられたらしい。それに関しては感謝
私はここに来るまでにもタクリに色々話を聞いていた。
接来ることはないそうだが、人と交流がないわけでもないようだ。
石段を上っていた。ウカノミタマはこの山の頂上に住んでいるらしい。あまり麓に直
神和ぎの女性、名前はタクリと名乗ったが、私は彼女に連れられて山の頂上へと続く
捜し者は誰ですか 白狐です
捜し者は誰ですか 白狐です
314
315
け物と比べれば可愛げがあった。そうでなければ、私もあそこまで取り乱しはしなかっ
そういえば、私はどうして人にも追いかけられたんだろう。妖怪なら分かるけ
たはずだ。何よりもこの現実感が私を蝕み苛む。本当に、夢だけだったら良かったの
に。
⋮
のがこの地で、そしてその頃から様々な作物が植わっていて、飢えに耐えかねた人々は
で、しかも元いた地を追い出されて死にかけていたそうだ。そこでたまたま辿り着いた
年以上前に彼女の先祖はこの地にやって来たという。当時は百人にも満たない集まり
それほど詳しくは昔の話も伝わってはいないようだが、先刻タクリが言ったように千
悪いものは感じられない。
いるが、それでも私には良かった。少なくとも、タクリから聞くウカノミタマの話には
は私にとって吉兆の証だ、と思う。得体の知れない〝声〟を信じているかたちになって
破できるかもしれないし、もしかすると元の時代に帰れるかもしれない。白い狐、それ
安全は確保できたし、それにここの神様とやらにも会える。八方塞がりだった現状を打
それはともかく、不幸中の幸いだろう、この里の人に拾ってもらったことは。当座の
じゃないか。だから彼らは過剰な反応をしたのだろう。きっとそうだ。
あぁ、よくよく考えてみると、私の着ている服は彼らと比べるととても異質なもの
ど、人に追いかけられる謂れはない。ましてや槍やら弓やら向けられるなんて。
?
それに手を出したとか。しかしその作物は実はウカノミタマのもので、勝手に獲った人
間に一度は怒ったが、理由を聞くとそれを許したばかりか、土地すら与えてくれたらし
い。それが、今人々が住むこの地のことだ。
神との古い盟約に従い、定期的に獲れた作物を上納しているが、それも全体の収穫量
と比べると微々たるものだ。そしてウカノミタマの加護のためか、凶作になることもあ
まりないという。
それと人との交流の話だが、もっぱら人が山の上に行くことの方が多いらしい。先の
ように作物を納める時や、神和ぎの修行など、頻繁にあることではないが。他に、里の
人間では手に負えない病が発生した時も、社にお参りに行く事がある。なんでも今里に
ある薬を作る技術は昔々にウカノミタマに教えられたものが大半で、そしてそれに留ま
らずありとあらゆる薬の知識をウカノミタマは持っているとか。
これらの話から分かることは、ウカノミタマは非常に寛容で、かつ人間に甘いという
ことだ。そしておそらく数多の知識を有している。きっと、私の願いが無碍に扱われる
こともないだろう。
⋮それにしても、この石段はどこまで続いているのだろう。そもそも、昔の高床式倉
﹂
庫程度の家しか作れない人達がこんな綺麗な石段を延々と作れるだろうか。
﹁この石段は、あなた達が作ったの
?
捜し者は誰ですか 白狐です
316
﹁いいえ。初代様がここを上って、初めてウカノミタマ様のところに行ったという話が
残っていますから、おそらくは最初からあったものと思われます。もしかすると、田畑
同様ウカノミタマ様が作った物なのかも知れません﹂
﹂
?
隔て、あるいは閉ざす、門としての意味合いがあるそうですが⋮私も詳しくは﹂
﹁いえ、こちらは私達の先祖が作られたもののようです。神域への入り口であり、外界と
﹁これも、ここの神様が⋮
までの石段とはかなり意匠が違う。
く、2∼3m程度のものだった。削りは粗く、かろうじて鳥居と分かる形のもの、これ
石段の終りには石で出来た鳥居があったのだ。その鳥居はそれほど大きいものではな
と、そうこうするうちにようやく石段の終りが見えてきた。山の頂上であり、そして
うことか。技術力も馬鹿に出来ない。
このようなものを今よりさらに前の年代に作り出すとは、〝神〟は伊達ではないとい
朽ちているという風でもなく、年代を感じさせない様を呈している。
思わせた。植物など苔の類に侵食されていることもなく、かといって風雨にさらされて
となく続いている。石段の造りはどこまでもぶれることなく、無骨ながら一つの秩序を
どう作ったのかはまるで分からないが、隙間なく組まれた石段は、麓から途切れるこ
﹁そんな⋮そんな昔に、それにまだこんなに綺麗なのに⋮﹂
317
そう言いながら、タクリは鳥居の前まで歩いて行った。そして鳥居の一歩手前で立ち
止まると、静かに両手を合わせ、ゆっくりと頭を下げた。
何をしているかは、聞くまでもない。この作法は現代日本にも残っていたはずだ。こ
の時代ならば、本当の形で存在しているだろう。郷に入りては郷に従え、私も倣わない
わけにはいかない。
私はタクリの仕草を真似ながら、頭を垂れた。
のような。
が、それでも私は屋敷を見ていると懐かしさを感じる。まるでここだけ現代に戻ったか
があった。より快適に、より機能的に改良されたその姿は似ても似つかぬものではある
そして驚いたことに、そこにあった屋敷は現代の、いわゆる日本家屋に通じる雰囲気
所にはふわふわとした芝生がひかれ、また隅には小さな畑もある。
先には大きな社があった。そこが、ウカノミタマの住む屋敷なのだろう。石畳以外の場
境内、といえばいいだろうか、広いその空間には石段に続く形で石畳が敷かれ、その
と、鳥居をくぐった途端に、周囲の空気が一変した、気がする。
につづく。
直にタクリは頭を上げて、鳥居をくぐった。私も下げていた頭を戻して、タクリの後
﹁失礼いたします。⋮⋮さ、行きましょうか﹂
捜し者は誰ですか 白狐です
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319
タクリは、少し屋根のせり出した入り口らしき場所に下がっている紐の前まで歩いて
行った。そしてその前で立ち止まると、また手を合わせてお辞儀をした。今度はその
後、二度ぽんぽんと柏手を打ち、そして最後にもう一度頭を下げる。一つ一つの動作は
とても丁寧で、かつ洗練されていて、何度もそれらを繰り返してきたことが分かった。
それで全ての礼が済んだのか、タクリはぶら下がっている紐に手を伸ばすと、それを
ついと引っ張った。
シャーーーン
澄んだ音が、辺りに響き渡る。不快感を微塵も感じさせないその透明な音色は、体の
隅々まで響いているようだった。どうやら、物理的な音だけではないらしい。涼やかな
この鈴の音には、不思議な何かを感じさせる。神秘的な何かを。
鈴を鳴らした後、私達はしばらく引き戸らしい入り口の前で待っていた。それほど大
きい戸というわけではないが、それでも何故か威圧感がある。そのせいでどうも近寄り
がたい。タクリもそうなのか、戸からは数歩退いて離れていた。
不意に、音もなくスッと目の前が引き戸が開く。
その戸を開け、外に顔を出したのは紅の少女だった。とても整った顔立ちをしてお
り、こちらを見る紅い眼差しには幼さが見える。そしてその頭の上では、二対のふさふ
さとした獣の耳がぴくぴくと動いていた。
﹁紅花様⋮。ご機嫌うるわしゅう⋮﹂
私の隣にいたタクリは、紅い少女を見るとペコリと頭を下げてそう言った。少女がウ
カノミタマで、違う名前で呼ばれているのか、それても少女はウカノミタマではないの
かそれだけでは判別できない。
少女はタクリを瞳にうつすとニコッと無邪気に笑い、戸をさらに開けて外へと出てき
た。身体の全体が見えてようやく分かったが、頭頂にある獣耳だけでなく、彼女の背後
何か用
﹂
にはもっふりと九本の紅い大きな尻尾が揺らめいている。よく見なくても分かる。そ
れらは間違いなく狐の尻尾だ。
﹁タクリだったの。どうしたの
?
おり願えますでしょうか⋮
﹂
﹁はい、いいえ。ウカノミタマ様にお会いしたい⋮という方をお連れしました。お目ど
?
﹂
?
?
もしかして、そっちの
?
私のところで休んでいただいていたところでした﹂
﹁はい、彼女です。先日、森の中で倒れていらしたのは、里の方が見つけられたようで⋮、
ろうか。とても警戒されているような気がする。
の瞳孔は獣のように縦に割れ私を見つめている。私は、何か気に触るような事をしただ
ちらと、もう一度私の方に少女の視線が向けられた。先と変わらない紅い瞳、だが、そ
﹁お母さんに
捜し者は誰ですか 白狐です
320
﹁ふーん﹂
じろじろと紅い瞳で見つめられ、徐々に居心地が悪くなってきた。タクリが心配そう
﹁は、はじめまして﹂
にしてくれていることが唯一の救いか。
と、少女の視線が私の胸の辺りに向けられる。
⋮⋮ちっ
舌打ちされた
﹂
る衣服の袂から一枚の札を取り出すとそれっきり黙ってしまった。
少女の挙動に少しどきどきしていると、少女はぷいっと顔をそらしてしまい、着てい
!?
﹂
?
それは││﹂
?
﹁お母さんが通していいって。あ、でも私は用事があるから、これから出かけるの。案内
﹁式紙⋮術⋮
のは通信に関するものですね。私達神和ぎも、少しは扱えますよ﹂
﹁あれは式紙といって、術を行使する際に用いるものです。紅花様が今使っておられる
﹁あの紙は⋮
﹁ウカノミタマ様と話されておられるようです。直に通していただけますよ﹂
私は少し動揺を露にしながらタクリに聞くと、タクリはこう言った。
﹁か、彼女は、何をしているのかしら
?
321
はタクリに任せるの。お母さんは奥の間にいるから、まっすぐ行けばいいの﹂
タクリの言う〝式紙〟や〝術〟なるものについて聞こうとした時、丁度少女がこちら
を向いてそう言った。当然、話も途切れてしまう。気にはなったが仕方がない、また聞
く機会もあるだろう、と私は思い口を閉じた。
﹁かしこまりました⋮。お気をつけて﹂
﹁それ、お母さんにも言われたの。私が危なくなることなんて、そうないの﹂
ぷっと頬を膨らませて少し機嫌を損ねたように少女が言う。その様子はとても子供
らしいものだった。それを受け、タクリは少女に深々と頭を下げる。
﹁そうですね。失礼いたしました。それでは、行ってらっしゃいませ、紅花様﹂
タクリがそれに驚いた様子はない。どうやら日常茶飯のことのようだ。
びゅんと紅の軌跡を残して凄まじい速度で青い空へと消え去ってしまった。
一瞬だけ紅い瞳が私を見つめていたが、ほどなくべーっと舌をつき出したかと思うと、
ふと少女はこちらを振り向き、目を丸くして少女を見ていた私とたまたま目が合う。
の尻尾もそれに追随するように宙でゆらゆらと揺れる。
中に来ると同時にとんとつま先で地を叩いた。するとふわりとその身体が浮かび、九本
とっとっとと、スキップするように軽やかに私達の間をすり抜け、少女は境内の真ん
﹁うん、行ってくるの﹂
捜し者は誰ですか 白狐です
322
﹁さぁ、参りましょうか﹂
﹁奥の座敷はこちらです﹂
を失いたくはなかったのだ。それがたとえぼろぼろの靴だったとしても。
くさなかったことが幸いなのだ。そう思うようにして。願わくば、一つも私としての証
ろで、今にも破れてしまいそうなそれを、私は少し切ない気持ちで見つめる。むしろ、失
タクリにもそう言われながら、私はかなり草臥れてしまっている靴を脱いだ。ぼろぼ
﹁ええ、分かってるわ﹂
﹁ここで、履物を脱いでください。決して土足で上がりこんではいけませんよ﹂
置いてあり、ここで履物を脱ぐのだという確信を強めさせる。
まさに玄関で、言うならば土間だ。そこには既に小さな草鞋が一足、綺麗に並べられて
屋敷の中はやはり日本の様式に似ていて、床が地面より一段高くなっていた。そこは
だ。
へ入っていくタクリの後を追いかける。少なくとも、今の私にはそれしか出来ないの
を向いてそう言った。何事もなかったのように冷静なタクリに戸惑いながらも、私は中
タクリは少女の消え去った方へ一つお辞儀をすると、踵を返し戸の開いた入り口の方
﹁え、えぇ﹂
323
屋敷内は広く、通路は三本に分かれていたが、タクリはためらいなく真ん中の一番大
きな通路を歩み始めた。その後について歩いていると、この屋敷の色々なことに気づ
く。広い通路の脇には進む度に障子戸や板戸があり、部屋がいくつもあることが分かっ
た。また天井も存外高く、ジャンプしたところで到底届きそうにない。タクリのいた家
とはまるで違う。そしてこの廊下だ。歩いているとよく分かるが、板の軋みがまるでな
い。材料はどれも麓の人里の家と変わらず木だろうが、それで作られた床は現代のもの
同様平たく、とても綺麗に出来上がっている。またニスかワックスか、それに類するも
のが塗られているのか、とてもつるつるとしており、この時代のものとはまるで思えな
い。まさに、この屋敷だけ別世界だった。
私は目に映るものにいちいち驚き、きょろきょろとしながらタクリの後をついて行っ
た。と、タクリが不意に口を開く。
﹁その⋮、昨日も聞いたような気がするけれど、ウカノミタマ様って、どういう方なのか
があって、無礼な真似をしでかしてしまえば本気でやばい。それはもう色々と。
カノミタマ様のことについて聞いておいた方がいいだろう。万が一にも予想外のこと
急に話しかけられたので、少しどもりながら私は答える。⋮どうせなら、もう少しウ
﹁え、えぇ、分かってるわ﹂
﹁ウカノミタマ様はとても気さくな方ですが⋮くれぐれも失礼のなきよう﹂
捜し者は誰ですか 白狐です
324
しら
﹂
?
﹁ウカノ様。タクリでございます。お客様をお連れしました﹂
タクリは障子の前に身体を横にしながら膝をつき、障子の向こうに声をかけた。
うか。
障子を透かして障子戸の向こうから光が射しているのが分かる。これは太陽の光だろ
そこは入り口である障子戸からしても、他の部屋より一際大きい部屋だった。そして、
ま ざ る を 得 な い。何 せ そ の 障 子 戸 の 部 屋 で 通 路 は 行 き 止 ま り に な っ て い る の だ か ら。
そう言うと、タクリは一つの障子戸の前で立ち止まった。⋮いや、というより立ち止
さぁ、着きましたよ。ここが奥の間です﹂
﹁私 の 口 か ら は こ れ 以 上 は ⋮。お 会 い す れ ば、直 ぐ に で も お 分 か り に な る で し ょ う。
だろう、凄く気になる。
ふっと、小さな溜息とともにタクリはそう言った。何か問題があるのだろうか⋮なん
げているのですが、一向に直してくださらないのです﹂
﹁ただ⋮、その、ウカノミタマ様の口調には驚かれるかもしれませんね。私も時折申し上
どの紅花様と呼ばれていた少女は﹃お母さん﹄と言っていた。母娘、なのだろうか。
おやこ
なら、ウカノミタマ様も少女の姿をしているということなのだろ。そういえば、先ほ
﹁そう、ですね。お姿は、紅花様にそっくり、瓜二つといってもよいでしょう﹂
325
﹁いい、入ってくれ﹂
程なく障子の向こうから聞こえたのは、先ほど聞いた紅花という少女と全く同じ声
だった。いや、全く、ではないだろうか。紅花のものは感情豊かだったのに比べ、こち
らは、冷たくはないが感情の乏しい、とても涼やかな声だった。
ほど、しかしそのどっしりとした重厚感は広い部屋の中でも圧倒的な存在感を醸し出し
そして部屋の真ん中にあるのは大きな木で出来たテーブルがあった。高さは卓袱台
しい。
ますことなく部屋の中へと降り注いでいた。その光景だけで、言葉に出来ないほど神々
さきほど私が入った障子戸のある方だ。残りの一面は外に向けて開かれ、太陽の光があ
くれる屋敷だと、私は思った。少し高い天井に、そして二面ほどを壁に囲まれ、一面は
や、というよりこの座敷は畳敷きだったことに少しして気がつく。何度も私を驚かせて
⋮部屋の中は予想通りとても広く、畳何畳分かなどはすぐに数えられなかった。い
礼を尽くすべきだと私は考えていた。
を踏まないように慎重にまたいだ。⋮この時代にはないはずの礼儀作法だが、それでも
そして私の方を向き、小さく手を動かして部屋の中へと誘う。私は緊張しながら、敷居
タクリは障子の向こうからの声に一際厳かに答え、音もなくするりと障子を開いた。
﹁はい。それでは、失礼いたします。⋮⋮どうぞ﹂
捜し者は誰ですか 白狐です
326
ている。外見はとても無骨な代物だが、それに高い技術が使われていることは見れば分
かる。何せ、そのテーブルには継ぎなどは全くなく、一本の巨大な木から作られたこと
が見て取れるからだ。
だが、そのテーブル以上に存在感を放つ存在が、テーブルの側にいた。
それは大きな瓢箪に上体を預けるようにして寝転がっている、真っ白な少女。
絹のような白い髪を惜しげもなく畳に散らし、三本の白い尻尾もだらりと床に垂らし
ている。その顔はなるほど先ほどの紅花と瓜二つ、というより同一だった。しかし彼女
の方は、先の声同様無表情で私を見つめている。
彼女は気だるげに寝かせていた顔を持ち上げ、口を開いた。
俺に話があるというのは﹂
そして私は悟る。彼女こそ、私が捜していた〝白い狐〟なのだと。
しているのか。そうだ、目の前のこの少女こそがこの地の神なのだ。
その鋭い目つきに押され、私の身体で何かが駆け抜けた。目の前の少女の神威に畏怖
わたしを容赦なく射抜く。
小さな口が綺麗な声で、しかし男のような言葉を紡いだ。同時に金色の二つの眼が、
﹁よぉ。お前さんか
?
327
境界少女
白狐の少女は部屋の外にいたタクリを帰らせると、大きな木のテーブルの側に座布団
﹁まずは座ってくれ。立ったままいられると首が痛い﹂
を置きながらそう言った。彼女自身が動いて座布団を敷いたわけではなく、彼女が小さ
く手を振るとそれにあわせて座布団が現れる。そんな不思議をさりげなく行っていた。
そして対面にも座布団を敷くと、大きな瓢箪を持って立ち上がりそこに座る。そして
促すように私の方を見た。
私は慌てて私のために敷かれた座布団に腰を下ろした。彼女の言葉から分かるよう
に、私と同じ視点で話を聞いてくれるということだろう。どうやらタクリの言うよう
う か の は く し き
に、言葉遣いとは裏腹に誠実な神様のようだ。外見にまったくそぐわない語り口は少し
驚いたが。
を下とも上とも見ていないことが分かる。⋮よくない言い方をすれば、彼女は透明で、
どこまでも礼儀正しく、彼女はまずそう口にした。その姿には皮肉も傲慢もなく、私
﹁はじめまして。俺は〝倉稲 白式〟という﹂
境界少女
328
﹂
とても測りにくい。やりにくい相手といってもいい。無表情で私を見つめるその顔が、
ウカノミタマではないのですか
その見解に拍車をかける。
﹁倉稲⋮白式
?
﹂
?
つまり記憶喪失ってことか﹂
⋮でも、私は、私の名前を覚えていなくて⋮﹂
!
﹁﹃無い﹄、ではなく﹃覚えていない﹄、か
﹁は、はい﹂
?
﹁ご、ごめんなさい
ることはできなかったが。
うな気がした。それに気がつき、私は慌てて頭を下げる。ただ、彼女同様に自己紹介す
平淡な声ながら、その言葉尻は詰問調だ。怒ってはいないらしいが、叱られているよ
疑問で返すとはどういう了見だ
も俺を表していることに変わりはない。だがそんなことはどうでもいい。自己紹介に
﹁⋮〝白式〟は先刻考えた俺の名前だ。〝倉稲御魂〟は俺の神としての名称さ。どちら
少女は、タクリはウカノ様と呼んでいたか、は案の定眉をひそめながら言葉を返す。
さもなくばこんな失礼なことは言わなかった。
てしまっていたのでなおさらだ。
たのは、タクリが初めてだった。そのタクリがいなくなり、この神様と二人きりになっ
思えば、なんだかんだで私は緊張していたのだろう。この時代に来てまともに会話し
?
329
ふーん、と頷くウカノ様に追随して頷く。そのままウカノ様は押し黙り、何かを考え
るように首をかしげた。そんな彼女を前にして私も不用意に口を開くわけにもいかず、
結局口を閉ざして結果的に対面のウカノ様を観察することになった。
こうして改めて見ると、ウカノ様の体躯はやはり小さい。私より頭一つ分、あるいは
二つ分低いだろう。背に見える自分の尻尾にすら埋もれてしまいそうだ。
それでいて、純粋な存在としてはとても大きかった。それが何か、自分には分からな
いが、しかし確かに大きい力を彼女から感じている。生まれてこのかた、こんなことは
初めてだ。こんなオカルトは体感するのは、私の能力ぐらいのものだと思っていた。
単純なものだとしても、そこには確かに界を隔てる境界が存在している。
壁で四方を囲んで完全に密室となった空間、そんなものでも一つの世界だ。物理的な
る。
とかそういう表現で示されるものだけでなく、もっと小さい意味での世界も含んでい
ここでの世界は、世界などと一口に言っても、それは〝世界一〟だとか〝異世界〟だ
れが結界。
目とは、広義的に言えば境界のようなものだと思う。世界と世界を隔てる境界、壁。そ
有体に言えば、他の人には見えないものが私には見えるというだけのこと。結界の境
﹃結界の境目を見る程度の能力﹄。
境界少女
330
そも、人自体が個々人の世界を持っていると思う。それぞれが周囲を独自の価値観で
観察し、同じものなど一つとしてない世界を形成している。心の壁、なんて言い得て妙
じゃないか。仮に物理的な距離が0だとしても、この壁で隔たれるだけで精神的な距離
は果てしないものにまでなるのだ。
⋮ところで、よく見ていると彼女の周囲にも壁があるのが見える。うまくは言えない
が、何かが彼女と外界を遮断していた。それはとても強固なもので、たとえ現代兵器を
全て集めてぶつけても彼女に傷一つつけられそうにないほど。もしかして、あれがタク
私の能力でそんなことまで分かったっけ。やっぱりこの時代に来てからの
リの言っていた〝術〟による結界だろうか。科学に喧嘩を売っているようにしか見え
ない。
あれ
むらさき
には私の服を、であるが。
と、ふわふわの白い耳がピクリと動いた。ふと気づくと、彼女が私を見ている。正確
私は色々おかしい。
?
さすがに承服しがたい。まるで、性は〝ブラウン〟なのに日本に来ると﹃茶色さん﹄と
﹁そ、それは⋮さすがに⋮⋮﹂
あれだけ考えて、それですかと。
﹁⋮⋮紫 ︵仮︶でいいだろう。紫色の服を着ているしな﹂
331
ゆかり
呼ばれているような。
﹁せめて紫にしてください﹂
ころに来て、俺に何の用だ
﹂
﹁まぁ、呼べればなんでもいいんだけどな。⋮⋮それじゃ紫、本題だ。わざわざこんなと
ませんか
﹂
がたくさん浮かんでいる様に見えた。確かに
言っている意味がよく分からん。記憶喪失だとか言ってなかったか
﹂
﹁あの⋮なんて言ったらいいか分からないんですけど、私を元の時代に戻すことは出来
でしまっていた。
一瞬忘れていたそれを思い出す。彼女の態度に毒気を抜かれ、他のことは頭から飛ん
そうだった。私はウカノ様にお願いに来たんだ。
?
軽く首をかしげる彼女の頭の上では、
﹁⋮
?
?
いだろうか。
今の言い方では分からなくても仕方がない。とりあえずまずは私のことから話せばい
?
?
野は相対性精神学といって﹂
京都の大学で、普通の大学生をしてました。生まれは京都じゃないですけど。専攻分
です。
﹁記憶喪失なのは、一部だけです。⋮私は、今よりずっと先の時代から、未来から来たん
境界少女
332
話さなければ。それが先行していた私は、真実ではあったが聞く側からすれば支離滅
裂な言葉を繰り返していた。確かに聞く側に十分な知識があれば理解出来たのかもし
れない。しかし何かを説明する時、話し手は聞き手のことを考えなければならない。た
だ自分の頭の中を口にするだけではいけないのだ。そしてよくよく考えれば、この時代
の神様が京都だの大学だの、ましてや相対性精神学だの話したところで分かるわけがな
い。けれど私は、少しずつ霧がかかるように薄れてゆく記憶に焦りを覚えていた。いつ
か全ての記憶が消えてしまい、私が私でなくなってしまうんじゃないか。そんな思いに
囚われていた。
それでも、白い少女は私を見つめながら黙って耳を傾けてくれていた。その金色の瞳
は全てを見透かすかのように深く、私の中の焦燥感も見抜いていたのかも知れない。そ
こに感情の色はなく、だからこそ全てを受け入れてくれそうな気がした。
やがて、私の話が尽きると同時に彼女がようやく口を開く。
理解力の高さに舌を巻きながら私が頷くと、彼女は少しだけだが初めて表情を変え
﹁そ、そうです﹂
して欲しい、とこういうことだな﹂
住人だから、その時代に帰りたい。けれど帰り方が全く分からないので、どうか手を貸
﹁││つまり、何故かは分からないが、時間遡行してしまった。自分は西暦20XX年の
333
た。とても形容し難い顔、何かの感情が浮き出たわけではなく、難しい顔をしている。
信じていない、わけではないと思う。彼女の顔には疑念も呆れも全く無かったのだ。し
﹂
かしそれでも不安になる。やはり、帰ることは出来ないのだろうか
﹁あの、どうかしたんですか
?
﹁﹃驚いた﹄
⋮私の話、信じてくれるんですか
﹂
﹁いや、俺も大概永く生きてきたけどな。これほど驚いたのは久方ぶりだ﹂
?
?
紫、その上で聞きたいんだが。お前、元の西暦20XX年に戻ってどうするんだ
?
﹁もちろん、普通の暮らしに、戻ります﹂
てきていた。いったい、元の時代に帰ることに何の障害があるのか。
﹂
るまでもないと思うけど。⋮けど、言葉に出来ない不安が、足先からじわじわと広がっ
その時、私は彼女が何を言っているのか分からなかった。どうするかなんて、問われ
?
然り、語り口の真実と嘘ぐらい聞いていれば見極めなど容易い。
﹁俺が、俺の百分の一も生きてなさそうな娘の嘘も見抜けないとでも思ったか 逆も
?
聞きたくない。
そらしているのか
﹂
あぁ、まさかと思ったが、気づいてないのか。というより、自分の中の変化から目を
﹁⋮無理に決まってるだろう。現実につぶされるぞ。
境界少女
334
?
けど、聞かなきゃいけない。
本当は分かっていた。
人間に追いかけられた私。夜通し走り続けられた私。おかしな力を感じられるよう
になった私。月の出る夜に、身体が高ぶった私。
タクリにも、紅花という少女にも、〝人間〟とは一度も言われなかった私。
種はどこにでもあった。
本当に、この時代に来てからどうすればいいか分からないことばかり。
る限り不可能だ﹂
俺はどうだったかな
そこまで言って、まるで迷子の子供のような顔になった紫を見ながら、俺は思った。
?
灰色だがな。どちらにしろ、人外になった身体、ひいては魂を人間に戻すことは俺の知
﹁無理だ。一度黒に染まった白は、元の白には戻れない。⋮まぁ、人間は白というよりは
﹁⋮⋮人間、に、戻れないんですか﹂
ままならない。
﹁紫。お前、もう人間じゃないだろ﹂
335
時代を遡り、そして人間でなくなった元人間、紫。こちらに来た過程も来た時代もま
るで違うが、境遇は本当に俺とそっくりだ。紫から感じられた妖力と、そして霊力の残
り香。最初は相反するものに疑問も感じたが、紫の話を聞いて大体合点がいった。
俺が転生した時はわりと胸躍らせていたような気がする。そして実際、今までの俺の
狐生は楽しかった。まぁそれも転生前の俺が人生を体験していたからこそなのだろう
けど。紫は、俺と違って戸惑っただろう。前触れ無くこちらに飛ばされたらしい。
だが俺は紫を帰してやることは出来ない。封印術で紫を凍結して元の時代に解凍、な
んてことは出来るだろうが、そんなことをしてもおよそ無意味だ。既に人間じゃない、
幻想になってしまった紫では、肥大化した20XX年の━科学︽現実︾に押しつぶされ
てしまうだろう。ましてや、紫はまだ生まれたばかりの幻想と言っていい。力を持って
いないうちは、この選択肢は危険すぎる。
⋮だが、このまま放り出すのも気が引ける。俺の中には確かに同族意識があった。狐
以外⋮人間、妖怪、神に対してすらそれを感じない俺にしては珍しい。
﹁これからどうするんだ﹂
紫は、そんな擬音がとてもよく似合う顔をしている。しかし間抜け面といえるほど呑
ぽかーーん。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
境界少女
336
気なものでもなく、どこか悲壮感が見えた。開いた眼球は乾燥しているのか、少し潤ん
でいるようだ。
ああもう。俺にどうしろってんだ。
﹁わたし⋮戻れな、いぃ、えぐっ﹂
というか何で泣いてるんだろう。
泣かれるのは落ち着かないのだ。
だが、どうやらそうでもないらしい。紅花の時から永い時が経ったが、今でも目の前で
泣かれるとどうしていいか分からない。泣くのは子供の専売特許かと思っていたの
﹁だって、だっでぇぇ、ひっく﹂
﹁泣くなよ⋮﹂
﹁⋮⋮ぇぅーーーーー﹂
服に垂れてゆく。
ぽろっと涙がこぼれた。それを皮切りに、堰を切ったように雫がぼろぼろと顎を伝い、
すると、虚空を見ていた紫の顔がきりきりとこちらを向き、そして潤んでいた瞳から
重ねた。
そのままにしているわけにもいかず、平淡ながら気持ち語調を強めながら俺は言葉を
﹁おい。聞いているのか、紫﹂
337
泣いてる紫を見てると、本当に紅花を思い出すなぁ。昔のあいつはよく泣いて、俺を
困らせたものだ。子供っぽさは今でも抜けていないが、それでも昔に比べればずいぶん
成長した。親としてはとても感慨深い。
﹁うくっ、ぃっく、ひぐっ﹂
現実逃避してる場合じゃなかった。
人間でなくなったことがショックなのか、元の生活に戻れないことが響いたのか、む
しろ全部が原因のような気もするが、どうにしろいくら泣いたところで戻ることは不可
能だ。現実はかくも厳しい。ならば別の道を見つけてもらわなければいけない。俺の
推測が正しければ、紫がこのまま何らかの形で妖怪として生き続けることは確定事項
だ。さもなければこの紫はここにいない。
﹁なぁ紫、泣いたところで、現状は何も変わらないぞ﹂
﹁ひっく、泣かなくたって、えぐっ、何も変わらないわっ﹂
こちらが地なのか、敬語がなくなっている。それほど紫も取り乱しているということ
なのだろう。言っていることもなんだかおかしいし。
時間はいくらでもある。既に俺の常套句のようなものだが、人外になった紫にもそれ
のことを考えるのも、涸れてからでもいいだろう﹂
﹁まぁいいや。泣け泣け、存分に泣くがいいさ。時間なんぞいくらでもある。これから
境界少女
338
はあてはまる。おそらく紀元が近いこの時代、少なくとも紫が来た時代までは二千年ほ
どある。人間だった頃の寿命を考えると破格の時間だ。それだけあれば、大抵のことは
為せる力もつく。紫がどうしたいかは知らないが、幻想としてこのまま儚くも消えてい
﹂
く気はないだろう。多分。
﹁⋮⋮これからの、こと
﹁紫は、能力持ちだろう。自分で気付いているか
﹂
紫から読み取った情報は、俺の中でいくつもの解を導き出している。元が人間であっ
?
俺はそれに一石を投じることにした。
い こ と も 分 か ら な い の は 道 理 だ。し か し 少 な く と も 今 の 紫 は 前 に 進 も う と し て い る。
落ち着いた紫の最初の言葉は迷いだった。何をしたいかが定まらなければ、すればい
﹁私は、何をすればいいか、分かりません﹂
俺は紫が顔を上げるまでぼんやりと外を眺めていた。
放している表から鳥の鳴き声が聞こえてくるほど、他には何の音も無い。
紫は服の袖で涙を拭うと、黙りこくった。しん、とこの時だけ辺りが静まり返る。開
﹁⋮⋮⋮﹂
ないんだろ。なら必然的に考えることになると思うが﹂
﹁ああ。いっそ死にたい∼ってんなら今すぐ俺が殺してやるけどな。そういうつもりは
?
339
た痕跡や実年齢、現在の力の総量や身体情報等など。その中には強力無比な能力の情報
﹂
もあった。俺の能力も最近特に万能すぎると思っていたが、紫のそれも冗談にならない
ほどに反則じみている。
﹁﹃結界の境目を見る程度の能力﹄、のことですか
そんなちゃっちぃものじゃ断じてない。元々はその能力だったみたいだが、
?
﹂
そして、人間から妖怪になってしまったのもこの能力が原因だろう。
るわけがない。
や、おそらくは兆候はあったはずなのだ。さもなければ突然こんな強力なものに進化す
案の定自分の能力の変化にも気付いていなかったのか、紫は訝しげな顔をした。い
﹁⋮え
今の能力はそれとは比べ物にならないぞ﹂
﹁いや
?
?
は出来ないが、一時的に人間に戻ることは可能だ。紫自身の能力を使い、今一度妖怪と
だが、不可能ではない。既に妖怪の色に染まってしまった魂を完全に塗り替えること
し一度傾けてしまったものを、また元の均衡状態に戻すことは難しい。
にする事などゆらゆらと揺れている天秤を片方に傾けるほど容易なことだろう。しか
いじってしまったのだ。人間と妖怪の境界を。この能力を持ってすれば、人間を妖怪
﹁﹃境界を操る程度の能力﹄。それが、今の紫の能力だ﹂
境界少女
340
341
人間の境界をいじることができれば。
るものがあった。既にタクリのものよりも強固なものを張り、紅花の張るものすら追い
が、そうして分かったことがいくつかある。特に結界関連の術には正直かなり目を見張
の術者であることを聞いたとか。別に断る理由もなかったので教えることにしたのだ
タクリから全てを教わった後は俺のところにやって来た。タクリに俺がタクリ以上
て優秀だったのだろうか。
く、人間だった時はこれほど頭はよくなかったらしいが、元々妖怪の因子のみに特定し
てしまった。俺のように能力の恩恵を受けているわけでもないのに、末恐ろしい。紫曰
霊力関連のものだったにもかかわらず、紫は自力でそれを自身の妖力で扱えるようにし
クリに学び、わずか数ヶ月で全ての行程を終えてしまったのだ。しかもタクリの知識は
それに関連してか、紫はタクリに術を学び始めた。が、紫はいわゆる鬼才だった。タ
られないでいることは分かった。どうやら大切なものを置いてきたらしい。
あったようだが、さすがに心中までは読めない。ただ、やはり元いた時代のことは捨て
未来からの来訪者、紫は、結局俺の地に留まっている。なにやら色々と思うところが
聖地を荒らしてはいけません
聖地を荒らしてはいけません
342
343
越している。おそらく能力による後押しも受けながら、それでいて頭の優秀さがそれに
拍車をかけているのだろう。
ただ式神に関しては憑依までしか使えていない。紫が言うには、自律式神はまともな
者が使う術じゃないというのだが⋮それは俺や紅花がまともじゃないと受け取っても
いいのだろうか。
そういえば紫は俺のところに居候しているのだが、何故か紅花と仲が悪い。というよ
り紅花が紫を敵視しているような。紫自身も何故あんなに睨まれるのか分かっていな
いようだった。
埒が明かないので紅花に直接聞いてみたが、それでもよく分からない。﹃アイツを見
てると、なんだかざわざわするの﹄っていったいなんだろう。
ただ、その言葉のヒントは紫と話している時に見つけることが出来た。どうやら紫は
この地に来るまで、人間と妖怪に追いかけられていたらしい。人間に追いかけられたの
は分かるが、妖怪は何故だろう そう考えてみて上げられたのは霊力の残り香だが、
紅花も似たようなものだろう。紫に対して潜在的な畏怖を覚えているのだ。なにぶ
に気付いたのだろう。だからこそ力の弱いうちに潰そうとした。
わけではなく、少し間をおいて襲ってきたらしい。推測だが、彼らは本能的に紫の能力
それ以外にも思いあたることはあった。妖怪は、紫の姿を見てすぐに襲い掛かってきた
?
ん、紫の能力は一妖怪が持つものとしては強力に過ぎる。論理的な創造と破壊の能力、
神にすら匹敵するであろうその能力は、生き物という存在からしてみれば恐怖でしかな
い。
ただ強力とはいえ、紫もまだそこまで十全に扱えているわけではないらしい。ああい
うタイプの能力は概念に干渉してからが本番だが、まだまだそれも遠いようだ⋮。百年
か二百年か、複雑な能力はそれだけで修めるのに時間がかかる。純粋に難易度が高いと
でも言えばいいか。紫ならそう遠くないうちに極めてしまいそうだが。
俺はといえば、以前と変わらず自由奔放に生きている。気の向くままに諏訪に遊びに
行ったり各地を飛び回ったり、時には海を越えたりしている。土地神としてそれはいい
のかとか思われるかも知れないが、一応屋敷に〝俺〟は常駐しているので問題ない。俺
が九人もいるってホントに便利だな。
さて、そんな日常に変動があったのは諏訪の地に遊びに行った時だった。諏訪子はい
つも通りだったが、神奈子はどこかそわそわしており様子がおかしかったのだ。諏訪子
いわく数日前からあの様子だという。
﹁嫌な予感がするからさっさと帰るわ﹂
﹁あぁウカノ、いいところに来たわね﹂
聖地を荒らしてはいけません
344
だ。その辺りには元々大和の神々の本拠地もあったが、今は大和の神々でも有力な神
俺の屋敷から、西へ西へと飛べば出雲につく。アマテラスの聖地はその出雲の端っこ
俺はアマテラスの聖地がある出雲に向かうことにしたのだった。
諏訪を離れられない神奈子に代わり、そして俺自身も気になったということもあり、
をえないが、地上からではそれも確かめにくい。
そう簡単に異常があるとは思えなかった。むしろ天界で何かあったのか、とか思わざる
地上で最大の信仰を集める太陽神、アマテラス。その最も強い影響下にある聖地で、
りで何か起きた、ということそれ自体だ。
いるアマテラスには何の影響もない。ただ、俺が気になったのはアマテラスの聖地の辺
は、あくまで地上における重要ポイントであり、そこがどうにかなったところで天界に
神奈子の話を要約すればつまりこういうことになる。アマテラスの祭壇、つまり聖地
〝アマテラス様の祭壇のある辺りがどうもおかしい〟
る話かどうかは微妙だった。⋮ただその内容には大いに興味は引かれた。
その言葉に引きとめられて結局神奈子の話を聞くことになったのだが、俺に関係のあ
﹁ちょ、待ちなさいよ、あなたにも関係ある話だと思うんだけど﹂
345
聖地を荒らしてはいけません
346
だった大国主とやらが封印されてあやふやな状態になってしまっている。各々の神が
各地の土地神に喧嘩を売りに行ったのも一因だが。さて大国主の封印の原因は色恋沙
汰という話だ。内々でもめて暗殺とかもされたらしいが、
﹃滅びぬぅ﹄とか言って何度も
蘇ってきたあげく自重もしなかったらしいので、最終的に封印という手段がとられたと
か。
俺にはどうでもいい話だが。風の噂では封印されても元気にやっているらしい。歪
みねぇなオオクニヌシ。
閑話休題。
出雲に入って俺が感じたのは、違和感だった。外と内の空気が違う。具体的には、大
気に満ちる禍気の質だ。現在世界に広がっている禍気は、昔と比べればそれこそ空気の
ようなもので、基本的には無害の代物だ。時折生態に変化を生じさせることもあるが、
それらは自然の成り行きと見過ごせる程度のもので済んでいる。
﹄程度の違和感な
が、今出雲に漂う禍気には何か混ざっていた。というより、何か汚染されているよう
な、そんな気さえする。それこそ、
﹃あれ なんかガス臭くないか
のだが、俺の嗅覚にはどうも気に触る。
?
地であるはずの聖地がこの有様とは、今回の異変は性質が悪そうだ。
しかも聖地に近づくにつれ濃くなっているのだから、始末に負えない。本来は清浄な
?
何だ、これは﹂
?
どちらにしろこの状況では、もうここを聖地として扱うことはできないだろう。出雲
な光景である。
か重いものを引きずったような跡が各所にあり、巨大な何かが蹂躙していったかのよう
辺りをよく見てみると、ところどころの地面は弾け、雑に穿り返されていた。また何
な真似をするわけがない。
マテラスの聖地の要たる石柱群なのだ。神が太陽神たるアマテラスに喧嘩を売るよう
これまたありえない。壊すという行為のみならば神が適任だろうが、その壊す対象がア
ぶっちゃけ大妖怪が押し寄せたとしか言い用がない有様だ。そして神という選択肢も
るだろうか。一本や二本ならまだありえるかも、と思えるが、しかしこれは多すぎる。
ラスのものだとしても、アマテラスの影響下にあるはずの石柱をこうもやすやすと壊せ
人間は論外、妖怪も、並みの者では聖地に入ることすらおぼつかない。仮に大妖怪ク
﹁神、妖怪、人間⋮⋮ありえるとすれば、神ぐらいのものだが⋮﹂
少ないほどだ。断面は粗く、ただただ純粋な力で壊されているらしい。
た。奥へ奥へ進む度に、破壊されている石柱が増えてゆく。むしろ、無事なものの方が
飛び続けて一時間ほど、俺が聖地ではじめに見つけたのは真っ二つに折れた石柱だっ
﹁⋮⋮
347
に入った時から感じているおかしな違和感も、ここが一番顕著だ。不幸中の幸いなの
は、辺りに悪影響を及ぼすほど濃くもないし強くもないというところか。時が経てば浄
化されていくだろう。
ただこれの元凶は無視できるものではない。潰すか見なかったことにするかは、対象
を確認してからだが。あわよくば話し合いでも出来ればいいのだが、アマテラスに喧嘩
を売るようなやつにそれを期待しても無駄だろうか。
結局可能性が一番高いのは妖怪だ。今までにない巨体かつそこいらの大妖怪を凌駕
する力を持つ望外の妖怪。少なくとも人間や神よりも元凶としては考えやすい。
犯人像をシュミレートしながら、俺はふと今の尻尾を見た。
つの方が極稀だしな⋮﹂
﹁⋮まぁ、大丈夫だろ。上には上がいるとは言っても、むしろ神奈子の上にいるようなや
れない。
い。そのアマテラスに敵対するようなやつだ、もしかしたら⋮ということもあるかも知
例えば、地上に顕現していた本体より格段に弱いアマテラスでも、神奈子より力は大き
確かに霊尾三本で神奈子を圧倒したこともあるが、それでも上には上がいるものだ。
俺の背では変わらず三本の白い尻尾が揺れている。
﹁万が一を考えると、三本じゃ少なかったかな⋮﹂
聖地を荒らしてはいけません
348
349
荒れ果てた聖地から点々と地面が抉れた跡が道のように続いている。まず間違いな
く、元凶の足跡だろう。まるで蛇行するように滅茶苦茶な軌跡を描くそれを、俺はひと
まず追いかけることにした。
布教はさりげなく気づかぬうちに
絶賛困惑中。
﹁困ったな⋮﹂
アマテラスの聖地から、足跡はふらふらと行く方向を変え様々な場所を破壊してい
た。そ れ ら は、対 象 が 迷 走 し て い る よ う に し か 見 え な い。し か し、つ い 先 刻 そ れ を 見
失ってしまったのだ。草原を蹂躙し、盆地を踏み潰し、山道を開いていった足跡を追い
かけていたが、それが途中でぷつりと途切れてしまっていた。川を越えたとかものすご
いジャンプをしたとかではなく、痕跡が全くなくなっているのだ。まるで爆走していた
祟り神が、途中で太陽の光でぐずぐずに溶けてしまったかのように、足跡が忽然と消え
ている。
足跡が消えたことは、対象が死んだ証明にはならない。つまり、俺は足取りを失った
倒じゃないか﹂
れば同じことか。面倒だなぁ。﹃いないこと﹄の特定なんて、
﹃いること﹄の確認より面
﹁本当にこの世から消えてくれてれば、俺の手間も省ける⋮⋮いや、それが確認出来なけ
布教はさりげなく気づかぬうちに
350
まま捜索を続行しなきゃならんということだ。
﹂
?
結果は不明瞭な答え。おぼろげな既視感はあっても、確証にはまるで至らない。喉の
てるのか
﹁うーん。似たようなものに覚えがあるような、ないような。特定できないな。変質し
の記憶と照らし合わせた。
なくとも、それを構成する式、一定のパターンは存在する。俺はそれを噛み砕き、過去
中に広がる異物、それを解析し、バラバラにする。たとえ化学式で表せるようなもので
しかし、思うところがあった俺はこの違和感のある空気を大きく吸い込んだ。身体の
不快なことには変わりない。
いところだが。そのうち自然の自浄作用に洗い流されることが分かっていても、今現在
し鈍ければ、きっと気づかなかったことだろう。不快感を味わう事を是とするかは難し
わらず異物が拡散しているが、それでも地上のそれよりマシだった。俺の感覚がもう少
俺は地面に刻まれた最後の痕跡を一瞥し、東の方を目指し空に飛び立った。空には変
も何も見つけられなければ、⋮朱色で人海戦術だな。
しずつ進んでいた。俺もそちらに歩を進めれば、何か見つけられるだろう。もしそれで
足跡は滅茶苦茶な順路を辿っていたが、しかしとある方向、大体東の方に少しずつ少
﹁とりあえず、今まで通りの進行方向を捜してみるかな﹂
351
布教はさりげなく気づかぬうちに
352
奥に小骨でも引っかかったようだ。余計に不快感が増してしまった。
俺は頭を振って、その既視感の本を思考の隅にやった。思い出せないのなら、いつま
でも中心にあっては邪魔だ。どうせこれの根本、足跡の主を見つけられればはっきりす
るだろう。
東に飛び始めて数時間、俺は再び足跡のようなものを見つけた。その時俺の眼下に
あったのは深い森で、その一部にそれはあった。
最初は薄い残り香のようなものを感じただけだったが、それのする方に進路をとって
みると、森を見つけ、そしてその中で小さなクレーターのようになった地面を見つけた
のだ。クレーターの周囲の木々は無残に倒され、そこから何かが木を掻き分けていった
だろう跡がまるで木々の間に開いた穴のように顕著に残っている。
突然消えた跡同様、こちらは森のど真ん中に突然にこの痕跡が出現している。いった
いどのように移動しているのか謎だ。俺のように飛んでいるのかもしれないが、それに
しては宙に残った異物が少なすぎる。
またここいらにある木々にもおかしな痕が多々あった。倒れている木は不自然に枯
れているし、ぐずぐずに崩れている箇所まである。立っている木も妙に元気がなかった
り、枯れてしまっていたり、まるで生気を食べられたかのようだ。
幹に軽く拳をぶつけてみると、なんの抵抗もなく突きぬけてしまった。
の思考が全く読めない。
?
がそれほどの力
?
追いかけた。今回のものは目立ちすぎるほどに、その存在を主張している。乱雑に掻き
逝ってしまった昔の知り合いの顔を思い出しながら、俺は森に穿たれた大きな足跡を
転生してるんだろうが、魂が分からないから捜しようがない﹂
﹁そういや、マガラゴもスサノオもどこ行ったんだろうなぁ。ついでにタケミカヅチ。
を持っていることなどありえない。
たところであれには敵わないだろう。今回のような、ぽっと出の妖怪
り合いが俺の周囲にいたために目立たなかったが、この時代の妖怪がそれこそ束になっ
俺の知る限り、マガラゴはあの時代の最強レベルの妖怪だった。それを軽く上回る知
にも程がある﹂
﹁もしも力も全盛期のマガラゴぐらいあったら、霊尾三本じゃ絶対足りないな。は、冗談
か。かなり、大きい。そういえば、人間との大戦時のマガラゴと同じぐらいの大きさか。
その穴やクレーターから推測するに、元凶の大きさは4,5メートルといったところ
の周囲同様、木々が侵食されている。
俺は木々の間でぽっかり空いた、元凶の進行方向に目を向けた。そちらもクレーター
犯人
﹁なんじゃこりゃ⋮。何がしたいんだ、いったい﹂
353
分けられた跡も然り、ところどころにある緑が抜け落ちた茶色い枯葉も、緑広がるこの
森では目立つことこの上ない。
しかし、クレーターから少し進んだところで森は終わっていた。森を割って進行して
いた足跡は森を飛び出し、その先にわき目も振らず一直線に突貫している。むしろそち
らが目的だったかのようだった。
森を抜けた先にあったのは、人里。既に何かに荒らされ、滅茶苦茶な様相を呈してい
る。柵は一応あるものの、きっとなんの役にも立たなかっただろう。戦車すら上回る巨
躯の侵略者相手を止められるわけがない。実際奇のてらいようもなく軽く倒されてい
る。木で出来たやぐらは根元から折られている上にぐしゃぐしゃ。この時代の家屋で
ある竪穴式住居もどれもこれもぺしゃんこという、かなり気の毒な状況だった。
畑らしき場所も土が醜く掘り返され、しかも植わっていただろう植物は全て枯れてし
まっている。水田も似たような有様だった。
ただそれらの破壊痕にはむらが見受けられた。ただただ暴れまわり壊しただけ、と言
うべきか、作物の類はおよそ全滅だが、住居に関してはいくつか無事なものが残ってい
﹂
る。そして元凶はそれらで満足したのか、既に足跡は人里を出て行っていた。
?
地上に降り人里を探索していると、破壊されていない住居の陰で、数人の人間が座り
﹁〝在ったからとりあえず壊した〟。そんな感じだな。⋮ん
布教はさりげなく気づかぬうちに
354
込んでいるのを見つけた。大体男が主で、その横顔には色濃い疲労が見える。全員視線
を地面に落としていて、俺が覗いているのも気づいていないらしい。
その中の一人が、依然顔をうつむけたままぽつりとつぶやいた。
姿は見たのかな
︶
?
ぺたと彼らの背中に張り付いた。
間達の方に放り投げた。式符はするすると音もなく宙を飛び、人間達に気づかれずぺた
を聞きだすべく、俺は服の袂から式符を数枚取り出した。そして、それらをこっそり人
に反応した。会話の流れから、間違いなく俺の追っている奴だろう。もう少し詳しい話
ぼそぼそと内輪だけで交わされる会話を盗み聞きながら、俺は〝あいつ〟という言葉
︵あいつ
?
﹁畜生⋮なんだったんだあいつは⋮。いつもの化け物どもとはまるで桁違いだったぞ﹂
⋮。畑も、種もモミすらもあいつに滅茶苦茶にされちまったんだぞ﹂
﹁だがよぉ、家も軒並み壊されちまったし、それに俺達の作った作物だって全滅してる
﹁そりゃ、村の再建だろう⋮⋮じゃねぇと、死んでったやつらが浮かばれねぇ﹂
いていたが、他の男が小さく声を出す。
ている他の人間には聞こえたようだった。しばらくは誰も口を開かずにまた静寂が続
ほとんど一人言のように自問しているかのような声音だったが、それでも黙りこくっ
﹁⋮⋮これから、どうする﹂
355
他の者から見えたものも統合すると、黒い靄はとにかく忙しなく里中を走り回り、そ
なかった。生きていただけでも奇跡かもしれない。
たのはそんなもの。その後はおそらく落ちて頭でも打ったのだろう、真っ黒で何も見え
同時にめきめきと見張りの足場は崩壊していった。⋮見張りだったらしい男から見え
して、そいつは見張りが里人に注意を呼びかける前に柵を紙のように突き破る。それと
昨日の昼を少し回ったころ、最初は、何か黒い巨大な靄が森から飛び出してきた。そ
そうして人間達の頭から読み取った映像は、とても曖昧なものだった。
られた映像や、感情の色、考えていることなど、まさに頭の中を覗いている。
影響する術も多々持っているが、これはその中でもかなり初歩的なもの。脳に焼き付け
自身が﹃妖狐﹄というものにそういうイメージを抱いていたためだった。精神や感覚に
は式神にも少し使っている。当時は別に必要だったから作ったというわけではなく、俺
のこと、妖力を持ち始めたころだった。俺の使う術の中でもかなり古参の代物で、それ
洗脳だの憑依だの幻術だの、俺がそういう妖術じみたものを作ったのもずいぶんと昔
問題はない。
が、彼らの頭にはこの里を惨憺たるものに変えたモノの記憶が鮮明に残っていたので、
それを通じ、彼らの頭の中の情報が流れ込んでくる。読めるのは表層のものだけだ
︵むーん︶
布教はさりげなく気づかぬうちに
356
の中途であらゆるものを破壊し踏み潰し、そしてしばらくしてから里を去っていった。
⋮それだけ。
黒い靄に包まれ、その中身は全く見えない。襲撃が夜だったなら、きっとこの靄すら
確認できなかっただろう。正体は依然闇の中、である。あ、俺今うまいこと言った。
深い憂愁や絶望が痛々しい。つながっているがゆえに、切々と伝わってくる。
連中の感情が勝手に俺と同調し、その上映像までご丁寧に流れて来る始末。
た里の崩壊。戻って来ない死んでいった家族。
少しずつ建てた住処の破砕、苦節作り上げた畑や水田の潰滅、みなで協力し築き上げ
娘が消えた息子が消えた。
弟の首の骨が折れる妹の胸が潰れる。
父が潰れた母が千切れた。
しかしその前に、彼らの頭の中がまた流れ込んでくる。
俺はさっさと追いかけようと、式符を回収しようとした。
つけられるだろう。
も黒い靄が来たのは昨日のことだ。このまま捜索を続けていれば、きっと近いうちに見
東に飛んできたことは間違いじゃなかった。それを確信できたことは大きい。それ
︵進行方向がまた分かっただけ、収穫だな。存在も確認できたし︶
357
︵⋮⋮むーん︶
俺は手を少し止め、考え込んだ。しかしそれも一瞬のこと、俺は指を軽く動かす。す
ると、人間達の背中に付いていた式符は彼らの背を離れ、俺の服の袂の中にふわふわと
戻っていった。
その場を飛び去る前に、俺はもう一度袂に手を突っ込み式玉を一つ、そして服にどう
やって入っていたのか怪しいほど大きな袋を一つ取り出した。そうして、それらをそっ
と地面に置く。
俺のこういうところは、人間だったころと大して変わっていない。放っておけないと
も言うべきか。
後々、ここら一帯では狐を使いとする稲荷信仰が流行るのだが、俺はそれが自分を発
俺は式玉から〝朱色〟が現れるのを見届け、今度こそ飛立った。
に黒い靄のせいで少々荒れている。
やら妖怪や獣が蔓延っており気軽に入っていけるほど安全な森でもないらしい。それ
土地に入ってきた人間達ほど追い詰められた状況でもなく、資源ある森も近いが、どう
袋の中には種やら食料やら薬やら、
﹃彼らに必要なもの﹄が入っている。以前の、俺の
﹁変にお人よしか。そうかもな﹂
布教はさりげなく気づかぬうちに
358
359
端としていることに気づくことはなかった。
神話の兎はなに見て跳ねる
竹、といえば、古くから日本で親しまれているというイメージがある。竹の特性上大
抵群生しており手に入りやすく、また削る・曲げるなどの加工がしやすい。繊維の方向
がはっきりしており、それに沿った方向には細かく割りやすく、様々な道具に使われて
きた。また実際に、かの﹁古事記﹂や﹁万葉集﹂などの古文にもこれに関する記述が残
されている。あるいは文を読み、頭の中にその時代の背景、情景を浮かべることで、竹
は古めかしい印象が持たれているのかもしれない。ただ、竹は本来は帰化植物だと言わ
れている。農耕技術や漢字同様、古代中国から伝来したものではないかと。
しかし日本古来の植生かどうかはともかく、やはりその歴史は古い。現代の主要な一
種とされるマダケも七世紀ごろに日本に来たという説がある。古事記もそのあたりの
ことだと考えると、最低でもその頃には間違いなく竹は日本にあったのだろう。
20mの高さはあろうかというマダケの太い節くれだった茎ばかり。太陽の光が絶妙
ウカノは周囲を見回しながらつぶやいた。彼女の周りにあるのは10mを軽く越え、
﹁で、何でこの時代にもうマダケがあるんだろうなぁ﹂
神話の兎はなに見て跳ねる
360
に入り込むその深い竹林の合間で、ウカノはとぼとぼと歩を進めていた。
ウカノが半壊した人里を離れ、再び地面に刻まれた足跡を追いかけること数時間。相
変わらず滅茶苦茶な蛇行を続けていた足跡だったが、それは今度は広大な竹林の中に消
えていっていた。この竹林にいるのか、はたまた通過した後なのか⋮。そこがまるで地
表の見えない竹林であったことが災いし、地上近くで調べる羽目になったのだ。それで
も結局見失ってしまったが。それは決して彼女がずぼらだったわけではなく、またもそ
の足跡が前触れなく中途で消えてしまったためだ。
しかし、ウカノが今こうしてとぼとぼと肩を落として切なげに歩いているのは、決し
て足跡を見失ったからではない。
が紫と酒盛りをしているせいだったりする。本体に戻れば結局この苦悩も共有す
?
ることになるのだが、それでも今現在こうして苦悩しているのはこちらのウカノだけで
体
るのも、そんなウカノ御用達の嗜好品を欠いているせいだったり、本拠地の屋敷では本
に、しばらく酒に口をつけていなかった。こうして現在テンションが駄々下がりしてい
自身の屋敷を発って早数日、今ここにいるウカノは例の酒瓢箪を持っていないため
頭上高くに生い茂る笹を見上げ、愚痴をこぼす。
﹁口寂しいな⋮﹂
361
ある。
なんとなく腑に落ちないものを感じながら、ウカノは同じような景色がいつまでも続
く竹林でただ淡々と歩を進めていた。
﹁ガァァァァァァァァァァァァッブギュッ﹂
と、そんなウカノに竹林の奥から唐突に襲い掛かってきたのは、四足の妖怪だった。
ふさふさとした毛や尻尾、ぞろりと口に並んだ牙など、身体が大きすぎることと目が四
つあることを除けば狼と見紛う姿である。だがその妖怪は、ウカノにその鋭い牙をつき
立てる前に地へと倒れ伏した。いや、何かに押し付けられた、叩き落とされた、とでも
言うべきか。妖怪の身体が地に付くと同時に、ボキリと骨の折れるような音までする始
末。それほどの勢いだった。
うちこそコミュニケーションを試みたウカノだったが、しかし彼らは錯乱状態にありウ
このような突発的な妖怪の襲撃は竹林に入ってからもう幾度かあったことだ。最初の
来事も一応意識内のことではあったが、優先順位は酒より低かったのだ。実のところ、
だが、ウカノにはそれに反応した様子はまるでない。真横で起きたショッキングな出
はそこらの酒虫とは違うし。あぁもう、ままならない﹂
よなぁ⋮。酒虫在住の瓢箪なんてそうごろごろと転がっちゃいないし、そもそもあいつ
﹁そもそも瓢箪が一つしかないのがいけないんだ。あぁ⋮でもあれは量産できないんだ
神話の兎はなに見て跳ねる
362
363
カノの言葉に耳を貸しはしなかった。何かに憑かれたように、ひたすらウカノに攻撃を
加えてくるのだ。
倒れ伏し意識も飛ばしたらしい妖怪に一瞥もくれず、ウカノはさらに歩を進めた。
さて、そんな目にあいながらもウカノがこうして探索を続けているのには訳がある。
妖怪に見られる異常、これに足跡の主の影を嗅ぎ取ったためだ。
妖怪はそもそも人間等の負の感情、恐怖の類と魂を核に生まれた、虚ろな生き物であ
る。主体性こそ持ってはいるが、先の特性故に他の形のないものに染まりやすい側面が
ある。妖怪にとっては、自身より力の強い者の妖力や気で、強化・凶暴化してしまうこ
となどはままあることなのだ。
ただ、ここ竹林ではその状態が過剰に過ぎる。妖怪は、力と引き換えに知性を得た化
生である。無論、力は強い者はとことん強いし、頭の悪い者はどん底に悪い、という妖
怪も中にはいるが。しかし前述のようなイメージを持っていたウカノにとっては、ここ
で遭遇する妖怪に、太古の化物、禍物の面影を思わせた。
ウカノが着目したのは、これまでにない妖怪の反応、という点だ。それに合致するよ
うに、この竹林には例の空気の違和感が色濃く散布されている。残り香にしては、広範
囲に高濃度で広がりすぎていた。黒とは言わずとも、灰色と判断するには十分の状況
だ。
気配そのものは、ない。だが、なんとなくいるような気が、ウカノにはしていた。
それが、ウカノがここの探索を続けている理由だった。
ぶちぶち一人で愚痴りながら、ウカノはなおも淡々と歩を進める。頭頂では白い耳が
﹁ようやくここまで来たんだ、さっさと見つけて、さっさと帰りたい⋮﹂
せわしなくぱたぱたと動いていた。
と、突然、踏み出した足に何かが絡まる。それはリング状になった縄のようなもの
だった。ひゅひゅっと一瞬で土の下から縄が持ち上がり、上へと何かに引っ張られる。
縄の先、リングに絡まった足もろとも、だ。結果的に小さな身体は逆さまに、やすやす
と吊り上げられてしまった。
古典的な罠ではあるが、その実非常に性質の悪い。足一本で吊り上げられるせいで、
その一本にかかる負担は場合によっては深刻なものになる。さらに言えば、いろいろな
部分が重力に引っ張られて、とても格好が悪いことにもなっていたりするわけで。
しかし屈辱的な状況にも関わらずその顔には変わりなく、相変わらず何の感情も浮か
んではいない。ただ何も言わず、ぼやっと虚空を見つめ続けている。
﹂
?
は分かってるんだからね
﹂
﹁あはははっ、引っかかったわね さぁ観念しな、あんたがこの異変の犯人だってこと
﹁ん
神話の兎はなに見て跳ねる
364
!
!
そうしてぶら下がったままぼんやりしていると、いずこからか一人の少女がやって来
た。その体躯はウカノよりも小さく、白い簡単な服に身を包んでいる。頭にはふかふか
した兎の耳のようなものがついており、その下にある顔は勝ち誇った表情をしていた。
﹂
どうやらこのトラップを仕掛けていたのは彼女らしい。
﹁犯人
﹁そうよ 最近、ここらの連中の様子がおかしくなってることよ。竹林の空気も悪い
?
365
﹂
!
﹂
﹂
﹁最近って、俺がここに来たのは今日だぞ。君の言う異変
わないんじゃないか
﹁う⋮き、今日初めて来たっていう証拠はないじゃない
の時期にはちょっと噛み合
﹂
?
この
﹁あー⋮まぁ、うん、確かに。⋮それで 仮に俺が犯人だったら、君はどうするんだ
﹁もちろん、あんたを捕まえてぼこぼこにして、元に戻させるに決まってるわよ
!
?
!
?
?
らない少女に察しろ、というのは無理な話だが。
のだろうが、しかし残念ながらウカノがここに来たのは今日が初めてだ。そのことを知
むけて指をさした。犯人候補、とでも言うならば確かにウカノはこの場で最有力候補な
トンデモ理論を展開しながら、うさ耳の少女はびしりと逆さまになっているウカノに
けない顔なのよ、つまりあんたが犯人だっ
し。私の仲間もそろってくるくるぱーになっちゃったわ。⋮あんた、ここいらじゃ見か
!
気持ち悪い空気もね
﹁ふーん﹂
ついのよね∼﹂
﹂
も塗りこんでみるのも、いいわね。それから風通しのいい場所に放置して⋮あれ結構き
﹁ふっふっふ、さて、どうしてやろうかしら⋮そうね、毛を毟り取って皮を剥いで海水で
いた。ふひひと悪そうな笑みを浮かべながら、少女が口を開く。
しゅっとシャドーボクシングをし始めた白兎を胡乱な目で見ながら、ウカノは溜息をつ
て お り、あ と は ぼ こ ぼ こ に し て 言 う 事 を 聞 か す だ け、と い う と こ ろ だ ろ う。し ゅ っ
い胸を張りその場を歩き回る。少女の視点からすれば既に一工程目︵捕獲︶はクリアし
ぶら下がったままの、ろくに身動きの取れない白狐を前にして、白兎はぐるぐると薄
!
﹁は
﹂
?
あんたあたしのこと知って││﹂
﹁もしかして、因幡
あった。前世での知識にある、よく知られていた神話の一節である。
苦々しげな表情で、少女はそう言った。そして、ウカノはそういう話には心当たりが
いころに、性悪の神連中に騙されてね。あの頃のあたしは馬鹿だったわ﹂
﹁あんた、随分落ち着いてるわね。ふん、ま、あるわよ。あたしがまだ妖怪兎になってな
﹁グロいな。⋮それに、まるで体験したことがあるみたいな言い草じゃないか﹂
神話の兎はなに見て跳ねる
366
?
ずんっ
と、その時地面が揺れた。相当重量の何かがどこかに落ちたかのような振動である。
その拍子に、ぶらさがっていたウカノの身体がゆらゆらと揺れる。少女はハッとした顔
をしてウカノから視線を外し、とある方向に目を向けた。
その心理は妖怪でも大差はない。普段迂闊な者ほどその傾向は顕著だ。
出すためだった。人は、自身が優位に立つと警戒心が緩み、情報を漏らしやすくなる。
しかし、それでもなお罠に掛かったままでいたのは││妖怪兎の少女から情報を引き
の話だ。
のだ、足を吊り上げたところで、浮かび上がって足に絡まっている縄を解けばいいだけ
ただ正直なところ、そもそもこの罠自体には拘束効果はなかったりする。空が飛べる
ノの色白の顔は、少し朱に染まってきていた。
一人残ったウカノの声が、竹林の合間で寂しく響く。長時間逆さまになっていたウカ
﹁ちょっと待てぇ。⋮降ろしてけよな、まったく﹂
去って行った。
そう言って、ウカノの方にはもう目もくれず、目を向けていた方向に一目散に走り
めに行かないと﹂
﹁そんな⋮あれに引っかかるやつがいるなんて。⋮こうしちゃいられないわ、早く確か
367
というよりも、そもそも罠には掛かっていなかったりするのだが。
﹁あぁ、まったくもって情けない姿だ﹂
今まで認識阻害結界で兎の少女の目から隠れていたウカノが、ぶら下がっているウカ
﹁うるさい﹂
ノにしみじみとした口調でそう言うと、ぶら下がっていた方の⋮身代わりはぽつりと呟
きながら数枚の式符に戻った。身代わりとは式神ほど高度な存在ではなく、それこそ何
の力もない人形のようなものだ。応答したのも、ウカノの性格をコピーしプログラムさ
れた受け答えに過ぎない。時折リモートコントロールにしていたこともあったが。使
いようによってはとても重宝する代物で、ウカノは好んでこれを良く使っていた。
式符を袂にしまいながら、兎の少女の走っていた方に目を向けて少し考え込む。あの
地面が揺らぐ少し前、ウカノはそちらの方向で何か巨大なものの気配が突然出現したの
を感じ取っていた。それは、例の足跡が唐突に消えてしまったのと、まさに逆の現象
だった。
無表情ながらも、しかしどこか笑っているような雰囲気で呟く。
きしりと音を立てながら地面を踏みしめ、進むべき方向へとウカノは足を向けた。
﹁ようやく、見つかったのかな﹂
神話の兎はなに見て跳ねる
368
落とし穴で会いましょう
の空気を凝縮したようなそれ。こいつだ、こいつが竹林をこんなにしたんだ。そんな確
ただ、その霧状の闇にはてゐも覚えがあった。竹林を覆っている気持ち悪い空気、そ
と崩れはじめていた。
噴き出し、黒い何かの特定を許さない。穴の側面の壁は噴き出す闇に侵され、ぼろぼろ
てゐが見下ろす穴の底、そこでは、黒い何かが蠢いている。霧状の闇が後から後から
して半ば冗談で作ったようなものだった。
が落ちるような強度ではなかった。てゐ自身も、仲間達が正気だったころ、彼らと協力
ういない。落とし穴に使ったカモフラージュの蓋も相当なもの、そこいらの妖怪や人間
掛けた落とし穴だったのだ。穴の直径は5∼6m⋮こんなものに嵌まるものはそうそ
だろう。だがてゐが驚いているのは穴そのものではない。そもそもこの穴はてゐが仕
は呟いた。彼女の前にあるのは巨大な穴、竹林にこんなものが突然あれば、それは驚く
広大な竹林の、ぽっかりと開けた少し薄暗い広場のような場所で、妖怪兎、因幡てゐ
﹁何、これ⋮⋮﹂
369
信に満ちた予感が、てゐの心中を駆け巡る。
﹂
そんな奇怪な物体を見下ろすてゐの背中に、ウカノは声をかけた。
﹁なんじゃこりゃ。この落とし穴も因幡が作った罠なのか
﹂
!
れたーとか思ってる方がどうかと思うぞ﹂
﹁あんなもの、空でも飛べれば簡単に抜けだせるじゃないか⋮そもそもあれで捕まえら
﹁いや、悪いもなにも、あんたも私の罠にひっかかってたままのはずじゃ﹂
﹁なんだ。いちゃ悪いのか﹂
く、穴に近づきながら言った。
のがウカノだったことに気づき、ずさっと飛びのいた。ウカノはそれを気にした風もな
なんでもない声に答えるようになんでもない風で返事したてゐだったが、声をかけた
とか違ってたはずなのに⋮⋮って、あんた、なんでここに居るのよ
﹁そーよ。まさか引っかかるやつが居るとは思わなかったけど。あからさまに地面の色
?
直視していれば、背筋が凍る思いをしたことだろう。
眼の瞳孔は一時だけだが縦にぱっくりと割れていた。もしもてゐが真正面からそれを
底へと目を向けた。そして、その虚ろな何かの姿に少し不機嫌そうな声を漏らす。その
ウカノはうんうんと頷くてゐに少し呆れながら、今度は真剣味を増した眼差しで穴の
﹁⋮それもそうね﹂
落とし穴で会いましょう
370
﹁罠云々はおいといて、だ。因幡が言ってた犯人
ってのはこいつのことか
?
﹂
?
﹂
?
総計六十七本。それらの全ての竹槍が一本の狂いなく穴の中への爆撃を完了する。
ながら、てゐがそれにかける情熱はたちの悪いことに至って真面目なものだった。
に手を抜いたわけでははなかった。悪い戯れと書き、イタズラと読む。非常に不真面目
落とし穴そのものは冗談で作った物だったが、この仕掛けから分かる通りてゐはそれ
た落とし穴に飛び込んでゆく。
ている。所謂竹槍と呼ばれるものだ。十数本の竹槍は、狙い過たずぽっかりと口を開い
ひょんひょんと飛び出した。それらは先が斜めに切り取られており、鋭利な先端を呈し
気の抜けた掛け声とがさがさという音とともに、竹林のあちこちから竹が山なりに
﹁ふふん。これで終りなんて思われちゃ困るわ。⋮⋮⋮てゐっ﹂
ふると、踵を返しそばの茂みに潜り込んだ。
これからどうするんだ、とウカノはてゐに言外に眼で聞いた。てゐはちっちっと指を
じゃ出てくるんじゃないか
﹁俺 の 疑 い が 晴 れ た よ う で 何 よ り だ。て か さ ⋮ こ い つ の 方 も 落 と し 穴 に は め て る だ け
いわね。気持ち悪い空気噴き出してるところとか﹂
力は弱すぎる。その点、こいつなら中妖怪ほどの力はあるみたいだし、特徴もそれっぽ
﹁多分、そうね。よくよく考えてみれば、この竹林中の妖怪を狂わせるにしてはあんたの
371
そして竹槍の雨が止んだかと思うと、ウカノとてゐのいる場所の反対側からばきばき
と竹をへし折りながら巨大な岩が出現し、それも一部の狂いなく穴へと吸い込まれるよ
うに落下した。ごぼんと、計ったようにぴったりのサイズの岩が、みしみしという音と
ともに穴に落ち込んでいる何かを押し込んでゆく。きっとその断面図を横から見れば
﹂
とても愉快な光景を堪能できることだろう。
﹁おぉう﹂
﹁ふははー。見たか、私の渾身の落とし穴
た。その顔にはある種の達成感も垣間見える。
ウカノの身代わりを引っかけた時のような勝ち誇った表情で、てゐが茂みから出てき
!
ろもろは君が一人で作ったのか
かなり大掛かりだったが﹂
﹁凝りすぎだろ。既に落とし穴と呼んでいいのかどうか怪しいな。こいつや、その他も
?
﹂
?
汁一菜生涯悪戯
﹂
﹁ふっ。それはおそらく、あたしが兎一倍健康に気を遣ってるからだね。早寝早起き一
だけ無事なんだ
﹁さいで。楽しそうで何よりだ。そういや、仲間が全員イッちゃってて、それでなんで君
ね﹂
﹁んーん、仲間が息災だったころに協力して作ったわよ。まぁ、あたし主導だったけど
落とし穴で会いましょう
372
!
﹂
﹁え、別に関係なくね
?
﹁あ、そういや、あんたあたしのこと知ってんの
ジストされていたのだ。
さっき言いかけてたけど﹂
ゐ自身も気づいてはいなかったが、異変の元はてゐの精神に異常をきたす前に完全にレ
しかしちっぽけな力とは打って変わって、精神面では竹林の誰よりも強靭だった。て
でどんぐりの背比べ、他の妖怪で比較してしまえばその力は下位に位置する。
族ゆえか長生きをしていながら、反面非常に力が弱い。妖怪兎の中では強いが、あくま
たまた他の妖怪の中でも、最も我が強かったためだ。てゐは妖獣でありながら、その種
この竹林に在り、しかし他の兎とは違ってこれまで狂わなかったのは、てゐが兎、は
実際は当たらずも遠からずである。
﹂
﹁健康優良兎なめんな
!
﹂
?
ウカノは頭をかきながら、首をめぐらせて自分の背中を見た。白い三本の尻尾、それ
﹁あー⋮⋮そっか﹂
情報筋じゃん。なんで一介の妖怪が知ってるわけ
﹁⋮⋮あたしの話知ってんのは神連中ぐらいのはずだけど。﹃その筋﹄って、ようは神の
﹁﹃因幡の素兎﹄の話は、聞いた事があった。その筋じゃそこそこ有名だな﹂
けたけた笑っていたてゐが、ふと笑いを引っ込め真面目な顔でそう言った。
?
373
ら全てが実体化されている。ウカノが自分が追っているモノに気づかれることを懸念
して、神力も禍気も隠し、妖力もぎりぎりまで抑えていたため、てゐはウカノを自身と
力の差も大してない妖怪だと見ていたのだ。それゆえ、ウカノを罠に引っ掛けて姿をさ
らけ出した後もそれほど警戒はしていなかった。
﹂
しかしここにきて、てゐは自身のことを知っているウカノに少し不審を覚える。
﹁⋮あんたやっぱり怪しいわ。そもそもあんたこの竹林に何しに来たわけ
い。先ほどまでは下の何かを押しつぶすようにじわじわと沈んでいたが、それも今は不
型はまりゆえに隙間などほとんどなく、岩の下がどうなっているかはさっぱり窺えな
ちらとウカノが視線を向けた先には、穴にぴったりと嵌った岩がある。そのあまりの
たんだ﹂
﹁﹃これ﹄を追いかけてた。竹林に入った痕跡が残ってたからな、この辺りの捜索をして
?
気味に静まっていた。ウカノの﹃これ﹄とは無論岩の下にいる何かである。
﹂
?
﹁⋮はっきりしないわね。その答えじゃ結局あんた自身の願望は不明瞭だし、あんたが
まぁ、正直それも無理くさい﹂
及 び、場 合 に よ っ て は 討 滅 ⋮ 話 し 合 い で も 出 来 れ ば、そ れ が よ か っ た ん だ け ど な ー。
﹁好奇心、危機感、既視感、動機はそんなところだったかな。当座の目的は、目標の特定
﹁何で追いかけてたわけ
落とし穴で会いましょう
374
﹂
何なのかも分かんない。あたしみたいに、仲間のために、とかじゃないみたいだし﹂
﹁意外と頭回るんだな﹂
﹁意外と、は余計よ。それで
これはいかんてことで、狼藉者を捜してたんよ﹂
?
能だと思うんだけど﹂
?
あんたの力じゃ到底不可
?
?
はひゅうひゅうと風が抜けていた。
﹁でも、結局こうなってるわけだし、あんたのやることはもうないんじゃない
﹂
その程度では岩もびくともせず、不動を貫いている。いつの間にか、岩と穴の隙間から
穴に歩み寄った。そして穴から少し飛び出ている岩の頭に乗り、がつんと蹴りつけた。
ふーん、とまったく信じてなさそうな顔で、てゐはウカノから視線を外し、元落とし
﹁いや、今はこんなんだけど、俺わりと強いよ
﹂
それにしても、ようは力の強いやつを倒すってことでしょ
﹁で、その狼藉者はこの竹林を荒らして、あたしの罠につぶされたやつと同一っぽい、と。
じゃ俺としても都合が悪くてな
なかったってことでさ。そんな力の強いやつが、意志無く無秩序に暴れ回ってるよう
してくれるから別にいいんだがな、問題はその住処がそう簡単に壊せるようなモノじゃ
ものだから、そいつがこっちに出て来れなくなったんだわ。それはー、まぁ時間が解決
﹁⋮⋮こっからずっと西の方にある友達の住処が荒らされててな。出入り口が壊された
?
375
まさかぁ。この岩の下でぐしゃぐしゃになってるよ﹂
﹁それで終わってれば、な。﹂
﹁え、あんだけやったのに
は竹に阻まれはっきり見えなかったが、開けたこの場所ならよく見える。そう、今日は
怪訝な表情でそう言うてゐに答えず、ウカノは天頂にある太陽を見上げた。先刻まで
?
﹂
雲に阻まれることもなく、太陽は地上を照らしている。
しかしそれでも
﹁ここ、少し暗くないか
何言って﹂
?
﹂
た。そして、次の言葉を失う。
急に脈絡もないことを言うウカノに眉をしかめながら、てゐも反射的に周りを見回し
﹁はぁ
?
?
﹁そ れ に、最 初 よ り 少 し 暗 く な っ て き て る。ど う も 竹 林 に 攪 拌 し て た も の が こ こ に 集
開けた場所において、﹃薄暗い﹄などという表現出てくること自体がまずおかしい。
はこの場の薄暗さに飲み込まれていた。いや、そもそも日光を遮るものが何もないこの
切っても切れない関係と言ってもいい。しかし、今ここは太陽が天に見えていながら影
影は光が物に遮られることで必然的に作られる。今空で輝いているはずの太陽とは
少し寒いものを感じ、てゐは身体を震わせた。
﹁影が、ない
落とし穴で会いましょう
376
まってきてるみたいだな。正直、嫌な予感しかしないぞ。⋮おーい、そっから早く降り
ろ﹂
ウカノの言葉に頷き、てゐが登っていた岩から飛び降りる。それと同時に、岩の間で
ひゅうひゅうと鳴いていた風が轟と唸った。てゐがその音に面食らって振り向くと、黒
﹄
﹂
いものが次から次へと岩の隙間へ吸い込まれていく光景がそこにあった。
﹁な、な、なん﹂
﹂
﹁﹃なんじゃこりゃー
﹁言ってる場合か
?
逃げるわよ
﹂
!
カァン
と爆音が響いた。その有様はまさに噴火のごとく、降り注ぐ弾丸と化したばら
ごとく走り出すてゐの背中を、ウカノも追いかける。まさにその時、二人の後ろでバ
ぴしりと、巨大な岩に入った亀裂を見て顔を青くしたてゐが叫んだ。文字通り脱兎の
﹁離れた方がよさそうだな﹂
﹁やばい、やばいって
つつある。より強固に濃密に、聖地を破壊した狼藉者の本領発揮といったところか。
た。それも、落とし穴に落ちた時は中妖怪程度の力だったそれは、大妖怪の力すら越え
い岩が少しずつ盛り上がってゆく。同時に、希薄だった気配も加速度的に増していっ
二人が二言三言交わす間にも黒い風は絶え間なく下へと吸い込まれてゆき、それに伴
!
!
!
377
!
ばらに砕けた岩が竹林に襲い掛かった。
﹁なわーーっ﹂
無論いくつかは二人にも襲い掛かり、しかし直撃する前に妖力弾で撃ち落とされる。
そこでようやく飛ぶ事を思い出したてゐが、空に浮かび上がった。
澄み切った雲ひとつない空で、てゐが一息つく。不自然な暗闇は上空までは覆ってお
らず、太陽光が素知らぬ様子で燦燦と降り注いでいた。
﹁あれだな。ようやく出てきたみたいだ﹂
てゐと同じく空に上ったウカノが、竹林の一点を指差した。そこは先ほどまでいたは
ずの開けた広場のような場所で、靄のような闇がそこを取り巻いている。しかしその靄
の中心で、殊更に黒い塊が蠢いていた。既に不明瞭なカタチを脱し、一個の化け物がそ
こにたたずんでいる。
ウカノは異形の、十二本足のシルエットを目に留めて、殊更不機嫌そうに眉根を寄せ
た。きっとそれが、その異形の鳴き声なのだろう。
それはノイズ混じりの、錆びた金属と金属を擦り合わせたような妙に濁った音だっ
﹁ギ、■ギギ■、ギ■﹂
てゐが心底嫌そうな声を漏らすとともに、それが呻き声を上げる。
﹁うわぁ⋮⋮﹂
落とし穴で会いましょう
378
379
た。
十二本脚の闇蜘蛛
じゃない﹂
﹁あ ん な 化 物、ど う し ろ っ て の よ。あ ん な も の が 出 て く る な ん て 予 想 で き る わ け な い
眼下にどっしり鎮座する異形を見やり、途方に暮れた様子でてゐが呟いた。既に例の
﹂
落とし穴がやぶられた時点で、てゐの打つ手はない。もともとあれはノリで作ったよう
な、彼女にとっても望外の罠だったのだ、次策はまったく用意していなかった。
なんで。あれ、ちゃんと動いてるじゃん。生き物じゃないならなんだっての
?
﹁あれは、生物じゃないな﹂
?
た。だがその身体には一寸の損傷もなく、視覚で確認できるだけでも五体満足に見え
しりと唸っている。硬質に見えるその身体は、少し動くだけでも節々で軋みを訴えてい
異なる表情で浮遊する二人の眼下では、黒い靄を絶え間なく噴き出す異形がぎしりぎ
のだ、首を傾げもする。
た。ウカノの言ったこと然り、そして自身の言った事とはまるで無関係の事を返された
てゐの呟きに眉をしかめたままのウカノが答え、それにてゐは疑問だらけの顔で返し
﹁へ
十二本脚の闇蜘蛛
380
る。
その様子を冷めた目で観察しながら、ウカノは言葉を続けた。
?
の口調を気にした風もなく、半ば無意識に先ほど自身が言ったことを補足するように言
そんなそわそわとしているてゐをよそに、ウカノの方はといえばせっつくようなてゐ
た。
見えない今の状況や得体の知れない化け物のことが彼女の心中をさらに波立たせてい
いるようなおかしな狐の少女のことも彼女には気に入らなかったが、それ以上に、先の
てゐは口を尖らせながら言った。こちらの反応を窺うように情報を出し惜しみして
てんのなら、もっと分かりやすく言ってよ﹂
﹁あのさー⋮あんたの言ってること、なんか自分だけで完結してない あたしに言っ
言葉だけで理解できようはずもない。
い特性までは知らなかった。ましてや、
﹃中身﹄とやらがどう生物云々に関わるのかあの
げる。長く生きているてゐとて、かろうじて﹃魂﹄という概念を知っていてもその詳し
たのは前半だけだった。どちらにしろ言葉の意味が詳細には伝わらず、てゐは首をかし
ウカノの言葉の後半は独り言で、ほとんど口の中で収まったために、てゐの耳で拾え
イツじゃない、粗悪な紛いもんだ﹂
﹁中身がない、まるで空っぽなんだよ、あれは。魂だって入っちゃいない⋮⋮あれは、ア
381
葉を紡ぐ。
﹁生物の定義って言えば、やっぱり生きてることだよな。けどそれだと、生きてるって何
みたいな話になる。これは結局俺の私見になるが、俺は生物が生物たらしめるのは、
落ちるのを見て、
﹃この水は生きている﹄と言うか あれも同じだ、成り立ちや法則が
生物だ。が、今あそこで蠢いているやつは違う。なぁ、立て板に垂らした水が下に滑り
個々の意志の有無だと思ってる。知能の低い獣にだって、本能が、感情がある。立派な
?
てゐは少し眉をしかめた。しかし首をひねりしばし沈黙する。
回のは魂云々以前の問題だし、そっちは置いとこう﹂
違うだけで、受動的にしか動いちゃいない。中身がないってのは、そういうことだ。今
?
てるだけってこと
ふざけんじゃないわよ。というより、そもそもあれの意志の有無
﹁⋮つまり何。あの化け物にはこの竹林を荒らす意志はなくて、ただ結果的に荒らされ
だとか、見てるだけなのになんで分かるのよ﹂
?
折自分と同じ姿で唯々諾々と自分に従う式神に複雑な思いを抱きながらも、ウカノはそ
で生み出された式神達は、ほとんど意志を持たずウカノに道具として使われている。時
見慣れている、ウカノの言うそれは無論彼女の使う式神のことだ。紅花をつくる過程
﹁あんなのがごろごろいたらそれこそ〝悪夢〟だわ﹂
﹁見慣れてるから、かね﹂
十二本脚の闇蜘蛛
382
のことについては割り切っていた。
黒い異形ともっとも印象が被ったのは、昔紅花が暴走させた式神である。制御を外れ
動き回っていたあれは、しかしその行動はどこまでも機械的だった。自身の意志など微
塵もなく、自分の機構が働くに任せ暴れ回る。その式神の持つ独特な冷たさは、今眼下
にいる黒い異形の持つ雰囲気ととても似通っていた。
そして〝眼〟で見通す限り、あの黒いものは魂を持っていない。あれが、自身の古い
知り合いと同一でないことは確定的だった。
と、突然思考を邪魔するように黒い何かがウカノ目掛けて飛んできた。反射的に手で
それを払いのけるが、べたりと肩辺りまで何かが張り付いてしまう。少し不快な気分に
⋮ちょっと離れなさいよ、あたしにもつくじゃない
﹂
なりながらウカノが視線を動かすと、それがあの異形から伸びていることが分かった。
﹁きもっ、何それ
!
のと化している。しかしどんな代物であろうと、そこには存在するための法則が存在す
なにか真っ黒い要素が、ただのたんぱく質の真似をしておかしなダークマター的なも
ないことに気づいたウカノが、ちゃっかり身を引いていたてゐに向かってそう言った。
自身に付着した不快な代物を分解させようとした時、単なるたんぱく質の固まりじゃ
が。いや、というより蜘蛛の糸を真似てるのかな﹂
﹁酷いな。多分、蜘蛛の糸的なものじゃないか。何かに染まって未知の物体になってる
!
383
る。ウカノは改めて蜘蛛の糸の紛い物を構築している式を読み取り滅茶苦茶にかき乱
した。
さらさらと消えていく黒いものに目を丸くし、しかしそんなことよりも、とてゐが異
物を放ってきた異形を指差しながら少し声を荒げた。
レ
﹂
﹁この際生き物だろうが、化け物だろうが何でもいいわ。それより どうすんのよア
!
﹂
﹁負ける未来しか見えないんだけど。もう逃げていい
ウカノにとって最も効率よく力を振るえるのは、尻尾だけを霊体化させている状態で
その途端身を包む開放感、そうしてそれに乗せて、抑えていた力も同時に開放させる。
る。そして実体化させていた尻尾を三本まとめて霊体化させた。
冷静に戦力を分析しながら結論を出したてゐに、ウカノは小さく肩をすくめ首を振
﹁そかそか。んなら勝算があればいいんだな﹂
大事なの﹂
﹁勝算が見込めないと判断できた時点で、折れたわそんなもの。あたしはあたしが一番
﹂
﹁竹林荒らした狼藉者を懲らしめようという心意気は
?
にここで見失ったら次はいつ見つかるか⋮﹂
﹁被害が拡大する前に壊すよ。このまま行ったら俺の縄張りも荒らされそうだし。それ
!
?
十二本脚の闇蜘蛛
384
ある。全身を霊体化させていればむしろ物質界への干渉力を著しく欠き、かといって全
身を実体化させていると魂が器という殻に閉じ込められ力を出しにくくなる。
道理で〝その筋〟のお話を知っ
ちなみにこのことは、時折自分の本体は尻尾なんじゃないかと悩む原因の一つにも
なっていたが。
怪を使う者もいる。
神に討滅を指示されたの
だとか、何で尻尾が消えてんの
だとかてゐの中で疑問が
?
﹁なぁ、あれに効果あるような罠、まだあるか
﹂
出てくるが、しかしそれが口から発せられる前にウカノの言葉がそれを遮る。
?
その実は小間使いであることが多く、大抵は人間や動物がその対象なのだが、たまに妖
に、その神の代行となるべく契約し力を与えられた存在のことを言う。聞こえはいいが
てゐの言う神の眷属とは、その立場ゆえに動きにくい神が他に干渉しやすくするため
そも彼女には浮かばなかった。
言った。実際は自前なのだが、異なる質の力を同時に発生させているという考えはそも
ウカノの中で膨れ上がったのは妖力と、神力。てゐはその神力を借り物だと思いそう
ど⋮見るのは初めてだわ﹂
てるわけだ。妖怪の中にもそういう変わり者が極稀にいるって聞いたことはあったけ
﹁は⋮。あんた、神の眷属とかそういうのだったの
?
385
?
﹁ないわよ⋮。あんなのに効くような罠、冗談じゃなきゃ作らない││ぁ、あ∼、そうい
えば、一応使えそうなのが一つあったわ。罠じゃないけど﹂
けど、果てしなく使いにくいわよ。と補足し説明するてゐに、ウカノはそれでもいい
やと頷いた。
し、とは言ってもここで逃せない。やる時は君に任せる﹂
﹁そうか。悪いけど、それでちょっと手伝ってくれ。正直俺一人じゃやばそうな相手だ
もうゆっくりしてられないとばかりに少しまくし立てながら言い切り、ウカノはてゐ
の返事も聞かず黒い化け物に向けて降下した。化け物は糸を飛ばした時からがさがさ
﹂
と快活に動き始めており、そのことがウカノを少し焦らせたのだ。
⋮⋮あーもー、適当すぎんでしょうが
!
向とは別方向へと身体を向けた。
そんなウカノにてゐも文句を言うが、すぐに意味の無いことと悟りウカノの降りた方
﹁はっちょっまっ
!
軽く、気の抜けた音が幾度もウカノの耳に届く。これではまだポップコーンがはじけ
ぱすっ ぱすぱすっ
﹁いっそのこと、このまま逃げてやろうかな⋮あいつなんかむかつくし﹂
十二本脚の闇蜘蛛
386
る音の方が景気がいいじゃないか。そう心中で悪態をつきながら、強力な妖力弾を右手
に凝集させる。
鈍重に、どしどしぎしぎしと動く黒いものに近づいたウカノが最初にしたことは、小
手調べとばかりに妖力弾をばらまくことだった。しかし、その弾幕は全てそれの纏う靄
﹂
に阻まれ、身体に当たることすら出来なかった。
﹁っ
パキ ゴキ
を、今更ながらにウカノは思い出していた。
ていくのはよろしくない。そもそも、自身の追っていた足跡にそういう跡があったこと
ずと形を崩してゆく。ごっそりとは喰われてはいないが、在るだけでこうして浸蝕され
考えてしかるべきだった。少し視線を巡らせて見れば、黒い靄に触れたものがぐずぐ
﹁喰われた、か﹂
あまりにも不自然な力の減退を目の当たりにし、ウカノはひとつ舌を打つ。
与えられなかった。
き、最後に小さな力のものが本体に届きはしたものの、外殻に阻まれ少しのダメージも
う音とともに靄に突っ込んだ。しかしそれと同時に見る間に妖力弾の力は失われてゆ
数より質、二手目は一点集中の妖力弾を放つ。果たして、それはぼすっと最初とは違
!
387
突然聞こえた異音に、はっとウカノは黒いものに視線を戻した。それと同時にウカノ
に高速で迫る黒い巨大な鎌、ウカノは反射的に式符で左手に巨大な〝手〟を作りそれを
防いだ。
ガッとぶつぎれた音とともに弾かれる黒い鎌、ウカノはそれが飛んできた方へと目を
やった。
ウカノと黒いものの距離はおおよそ15mほど、それゆえウカノは油断していたとも
言える。鈍重な動きをしていて、そして脚もそれほど長くないそれの攻撃がすぐにこち
らに届くはずがないと、判断してしまったためだ。
が、その鎌状の脚の一本は、その距離を埋めてしまっていた。
﹂
!
に、無造作に振るわれた。
しかしそこに殺気など微塵もなく、ただ目の前に何かを排除するだけの凶器が機械的
てゆく。
て距離が開いた場所にいるウカノに届くように、殺意に満ちたカタチへとその姿を変え
本がその異形の逆関節などお構いなしに気味が悪い光景を見せながら持ちあがり、そし
先の異音の正体が、今度はウカノの目の前で展開される。地を踏みしめていた脚の一
パキ、ゴキゴキ。
﹁もう形も、お構いなしか⋮
十二本脚の闇蜘蛛
388
389
ガギィィッ
ウカノは今度は右手に形成した〝手〟でその鎌を払いのける。そうして、間髪入れず
に再び振るわれた最初の鎌を、これまた左の〝手〟で防いだ。そしてまた逆の鎌が。次
の鎌が。そのまた次も。
その間にもパキパキという音が響き、宙に浮かぶ狐を落とす凶器が徐々に増えてゆ
く。
そのまま押し切れるのは敵わない、その上回を追う毎に〝手〟が削れてゆく。こうし
て落とされるわけにはいかない。
急遽鎌をかわし、後ろへと下がりながら、今度は左手の式符を解体し、それらを黒い
ものにまるで砲弾のごとく飛ばした。式符は赤い軌跡を描きながら、その全てが高速で
黒いものに殺到する。
ボンボボンと連鎖的に幾つもの爆音を響かせながら、爆炎が黒いものを包みこんだ。
靄に式符が喰われる事を懸念し早めに破裂させたため、さしたるダメージは受けていな
いだろう。
ウカノはそんな事を考えながら、右手の式符を解体しそれらで頭上に術式を組み立て
た。そして残りもので円陣を組み、それらをいくつも自身の前に羅列させる。
その姿は、いつかの戦神相手に使ったような巨大な砲門とほとんど同一のものだっ
た。
頭上の術式がチカチカと明滅するとともに、それは凄まじい勢いで辺りの、そしてウ
カノ自身の禍気を吸い上げ、そして砲門へと惜しむことなく装填してゆく。
﹁ギギ■■ギギギ■ッ﹂
ごばっ、と集合する禍気を察知したのか、黒いものが爆煙を掻きわけ再びウカノの視
界に現れた。
その瞬間、今まで明確には見ることの出来なかった異形の姿がウカノの目に映る。
その姿は、〝全身真っ黒で、鋼のような剛毛がびっしりと生えており、全体的には﹃ず
んぐりむっくり﹄という印象を与えた。〟
﹂
!
冷たい黒紫の複眼と目が合い、ウカノの中の何かが一気に冷めた気がした。こいつ
ついている。そしてそのうち六本が無理やりに形を変え、ウカノを狙っている。
きっている。身体には八本ではなく十二本の脚がついており、さらに先端には鋭い鎌が
八つの黒紫の目はどこを見ているのか分からないが、しかしその全てが残らず濁り
その姿は、まさに禍蜘蛛、である。
マ ガ ラ ゴ
ことが出来た。そして一瞬その姿にウカノも息を呑む。
爆発によってか、一時的に纏っていた黒い靄が晴れ、はっきりと黒いものの姿を見る
﹁⋮っ
十二本脚の闇蜘蛛
390
は、禍蜘蛛というより闇蜘蛛という方が相応しい。ウカノは拳を握り締め、沸き立つ感
﹂
情を内に抑え込む。お熱い関係など築けそうもなく、むしろ絶対零度の壊し合いが、そ
の瞬間改めて幕を開いた。
﹁存分にっ、喰らえっ⋮⋮
上空から見れば、あるいはその光景は滝の中にある岩にでも見えたかも知れない。こ
かった。
だが、それほどの砲撃でありながら、闇蜘蛛の身体がそれに飲み込まれることは無
えた。
砲撃。辺りを気にする余裕はほとんどなく、飲まれた竹は根付いた地面を離れ宙へと消
以前使ったものほどではないものの、それでも有象無象を軽く蹴散らすほどの威力の
ゴオオオオオォォォォォォォォォォォォッ
た。
そしてその姿が再び靄に覆われるのと、砲撃が激突したのもまたほとんど同時だっ
のは、それとほぼ同時。
景色を歪めていた禍気は一斉に極太の光線へと姿を変え、闇蜘蛛に向けて発射された
対する闇蜘蛛はどういうわけかそれに向かって、いや、ウカノに向かって地を蹴る。
ウカノが、殺意の塊、砲撃﹃大禍鬨﹄の引き金を引いた。
!
391
の時、闇蜘蛛の巨体は豪快に砲撃を二つに割っていたのだ。
太い光線が闇蜘蛛を起点に二股に分かれ、辺りを蹂躙してゆく。そしてその激流に晒
されながら、なおも闇蜘蛛は前へ前へと脚を動かした。靄は禍気を次から次へと喰ら
い、しかし喰いきれない禍気が闇蜘蛛の外殻を削っている。だが、致命的なダメージな
﹂
どまるでほど遠く、この攻撃自体が無駄であることにウカノは気づいた。
﹁ちっ
た。
そして闇蜘蛛はそれには留まらず、他の六本の脚を動かし後退したウカノの後を追っ
次の瞬間には六本の鎌がウカノのいた場所に振り下ろされ、地を次々に穿った。
ヒュウッ ゴッ
てその勢いのまま思いっきり地面を蹴って後ろへと飛んだ。
舌打ち一つ、術式を全てキャンセルする。すかさず後退しながら一度地へ降り、そし
!
阻まれ妖力、禍気はまるで通じない。理不尽なほどの防御陣である。が、それでもウカ
とんでもなく硬い堅牢な外殻に、触れるものを喰らい削ってゆく黒い靄。その二層に
存外冷静に状況を見極めようとしていた。
一方ウカノは自身に迫る闇蜘蛛を見つめ、不愉快な気持ちを同居させたまま、しかし
︵妖力、禍気は相性が悪い、と。どうっすかね⋮︶
十二本脚の闇蜘蛛
392
ノには次策はあった。
妖力禍気が無理ならば、残りの神力で
が、闇蜘蛛自身はそれに堪えた様子はなく、歩みはまるで止まらないままウカノへの
つき、部位によっては抉れてすらいた。
弾がその役目を果たしてゆく。いくつもの弾幕が直撃してしまった闇蜘蛛の外殻は傷
パァンッパァンッと断続的に破裂音が響き、黒いものを飛び散らせながら数十の神力
の外殻に着弾する。
ることなく突き破った。淡い白色の軌跡が黒い靄を切り裂き、その向こうにある闇蜘蛛
て、それらの弾はウカノの目論見通り、闇蜘蛛と外界を隔てていた黒い靄をほぼ削られ
清廉な光をたたえ輝く神力の弾幕は、刹那のうちに闇蜘蛛との距離を埋める。そし
けて数十個の神力弾を放った。
を丸めた。そして再び後ろ向きに地を蹴り、それとは逆の方向、なおも迫る闇蜘蛛に向
それらも一瞬のこと、ウカノは浮いていた身体が地に着くと同時に、弄んでいた神力
ように出したり引っ込めたりを二、三度繰り返す。
には使わない上に、戦闘に使うのはそれに輪をかけて少ない。ウカノは感じを確かめる
ウカノは禍気、妖力を仕舞い、神力を主体に体外へと放出した。神力はそれほど頻繁
︵いってみるか︶
393
邁進を続行した。
後ろ向きに後退するウカノに、それを追いかける闇蜘蛛。闇蜘蛛が攻撃を受けダメー
ジを受けたにも関わらず、その構図はまるで変わっていない。そして忘れそうになるが
ここは竹林である。つまるところ、竹を避けながら移動するウカノと、竹をへし折りな
がらお構いなしに驀進する闇蜘蛛ではどうも分が悪い。空を飛べばいいのかも知れな
いが、それでも万が一を考え闇蜘蛛からあまり離れることは避けたかった。
﹂
!
ウカノは舞い散る式符に目もくれず地を蹴り、その一瞬止まった六本の鎌の間をすり
だが、その一瞬こそがウカノにとってはこの上ないほどの好機だった。
て、そして呆気なく元のバラの式符に戻り辺りに散らばった。
た〝手〟で相手をできるわけがない。拮抗は一瞬、六本の〝手〟は鎌を少しだけ止め
撃った。しかし巨大な一本の〝手〟ですら十分とは言えない鎌相手、さらに細分化させ
ノは予定調和とばかりに自身の二本の〝手〟を三本三本、合計六本に分割し鎌を迎え
瞬きすらする暇も許されず、ウカノ目掛けて六本の鎌が同時に振るわれる。が、ウカ
待ちうけるは悪夢のような巨体と、六本の歪な鎌。
後退を止めると、逆に闇蜘蛛の方へと真正面から飛びかかった。
後退を続けていたウカノが今度は神力を通した式符で〝手〟を作った。そして急に
﹁⋮⋮⋮
十二本脚の闇蜘蛛
394
抜け跳び上がる。そのまま闇蜘蛛の上を抜け、そして重力で落ちるのも待っていられな
いとばかりに空を飛び闇蜘蛛の後ろを取った。
ウカノは今度は後ろを振り向こうとする巨体を目にうつし、闇蜘蛛がそうしている隙
に少し腰を落とし全身に神力を漲らせた。中でも右手には集中的に神力を籠める。時
間にしてみればコンマ数秒にも満たない。だが、弾幕を撃つでもなく強化をするでもな
く、はち切れんばかりに限界まで凝縮された神力が今か今かと解放を待っていた。
すぎる音で、闇蜘蛛もまるで傷ついた様子はない。
そんな音が、闇蜘蛛の外殻と拳の間で鳴った。籠めた神力、また速度から考えても軽
ガツッ
淡い障害などモノともせずに、ウカノの右拳は闇を裂き闇蜘蛛にたどり着いていた。
靄が阻もうとするも、ウカノの皮膚は傷つけど皮肉にも致命傷にはまるで遠い。そんな
振り返りきっていなかった闇蜘蛛の胴体に向けて右拳を振りかぶった。闇蜘蛛の纏う
そもそも闇蜘蛛との距離はそれほどなく、瞬く間にその距離を埋めたウカノは、まだ
高速。
時のように、ウカノが射出される。およそ加速時間などなく、飛び出した時点で既に最
はち切れんばかりに漲る神力の影響か、まるで空気のたくさん入った風船を手放した
﹁││││ふっ﹂
395
﹁││││﹂
いや、そもそもその当てた拳はウカノにとってはまだ過程に過ぎなかった。
闇蜘蛛の身体に拳をぶつけ、ウカノは次の動作に移るまでの間に時間が停止したよう
な感覚に身を浸していた。それこそ、拳が当たったにも関わらず身体の勢いはまだ止ま
﹂
らない、それほど小さな細かい時間。拳と身体が連鎖的に止まるまでの、その間隙。
﹁││││喰、、、らえ
ウカノはばたばたと暴れだした闇蜘蛛から素早く飛びのき、少し息をついた。
胴体が弾け飛んだ。黒いものがそこから大量に飛び出し、辺りに攪拌してゆく。
それに間髪を入れずにボンッという音ともに、ウカノが拳を当てた反対側の闇蜘蛛の
られたが。
を響かせた。後ろ半分はノイズばかりなせいで、とても耳障りなものにウカノには感じ
打ち込まれ、体内を蹂躙する神力に、たまらず闇蜘蛛は金属を擦りあわせような悲鳴
﹁ギ、ギ■、ギィィィィィィィィィィィ■■■■■■■■■■■■■■■ッ﹂
二段階の射出。一点集中の、内部破壊がウカノの目的だった。
ち出した。
身体中の神力をその勢いに乗せ、右手の神力ごと右拳を媒介し、闇蜘蛛へと一息に撃
!!!
﹁やっぱり、止めはこれになるかな⋮⋮﹂
十二本脚の闇蜘蛛
396
少し呟き、ウカノは絶対零度の表情で無慈悲に指を持ち上げた。
それに反応し、幾枚もの式符が宙を舞う。それはウカノの袖からではなく、闇蜘蛛の
周囲からだった。そう、先刻散らばった〝手〟の成れの果て、使えなくなる前にばらし、
伏せておいた式符だ。
それらは遠慮呵責一切なく暴れる闇蜘蛛の周囲を飛び回り、そして複雑な図形を描き
ながら囲い込む。それを完了すると式符は各々淡く光り、それぞれの式符同士で線を結
んだ。
点は線に。線は面に。面は結界に。
なおも暴れ身を捩る闇蜘蛛を余所に、本気で対象を消し去るつもりの捕殺結界が闇蜘
蛛をその内へと閉じ込めた。
そして、ウカノは結界を発動させるべく結界のスイッチに意識を向け、
らし粉々に破壊してしまった。本格的に発動する直前の捕殺結界、拘束効果こそあれ
しかし結界を発動させる直前、その一瞬で、唐突に発生した黒い竜巻が結界を吹き散
ギュ ゴゥッ
﹁死│││﹂
397
ど、それを上回る力に晒されれば壊れゆくのは当然の流れだった。そうしてばらばらに
なり、力を失った幾枚もの式符が今度こそ地に堕ち、そしてその形すらぐずぐずと失っ
﹂
てゆく。
﹁ぇ
そうして今度は脚を折り曲げ、前傾姿勢を取り││
くこの布石だったのだ。
少したなびきながらも竜巻を止める。闇蜘蛛が身体を捻っていたのは、苦しみ故ではな
それと同じように、闇蜘蛛が回転を停止させた。一段と濃い黒い靄も、それにつられ
天と地、まさに一瞬で変わってしまった状況に、ウカノの思考が停止する。
?
﹂
!?!?!?
ウカノが常時身体に張っている結界も、紙同然に破られていた。顔はかろうじて自力
そう、まるで、先ほどウカノ自身がやったことの再現のようだった。
とれないようになっている。
抜いただけだ。そして、他の鎌で手足を縫い付け、巨体もそのままのしかかり身動きが
ない、闇蜘蛛が﹃もの凄く速いスピード﹄で近づきウカノの腹をそのままの勢いでぶち
わった脚に腹部を貫かれ、何mも運ばれて最後には地面に磔にされていた。何のことは
ウカノにまともに見えたのはそこまで。闇蜘蛛の姿が霞み、次の瞬間には銛状に変
﹁
十二本脚の闇蜘蛛
398
で避けていたものの、しかし時間の問題かも知れない。
式符、いや、式玉を使って一旦こいつの身体ごとどかす。いや、手足が動かせないし
霊体化して脱出。鎧脱いでこの靄の中に生身の魂を晒せというのか。博打すぎる。
身体の修復。まずはこいつの銛、鎌を抜いてからか。
いや、今はそんなことはどうでもいい。
抜かれたらかなりやばくないか。
物と侮りすぎた、オリジナルには及ばずとも、今の俺には十分過ぎる。というか顔ぶち
鈍重を装っていたのはブラフか。いや、まだ本調子じゃなかったのか。しかし、紛い
どてっぱらに風穴を開けたままウカノは思考する。
ても、それでもこのまま貫かれたままなのはよろしくない。
て入った靄が万一魂の方にまで影響が出ては事だ。一応能力で無力化することは出来
すぎるのは危なかった。ましてや闇蜘蛛の身体が体内まで入り込んでいるのだ、そうし
痛みなど、今更ウカノの精神を苛むことはなかったが、しかしこうして靄の近くにい
い感覚が腹の辺りで蘇ってきている。
肉体の仕組みに沿い、収まらなくなった血が口から溢れだした。久しく忘れていた熱
﹁ご、、ごぶっ﹂
399
十二本脚の闇蜘蛛
400
その上丸ごとのしかかられてるせいで取り出すのに時間かかりそうだ。
⋮⋮あれ。俺結構やばげ
だ。
そうウカノが思った瞬間、凄まじい衝撃と轟音とともに闇蜘蛛の身体が大きく傾い
?
今回の原因、何ぞ
広大な竹林、それにつながるように座している山の斜面を、因幡てゐが飛ぶように駆
﹁ほっ、よっと﹂
﹂
け抜けていた。元いた落とし穴のあった場所とは正反対の方向だが、てゐは別に逃げて
いるわけではない。
﹁確かこの辺りだったと思うんだけど⋮⋮あ、あった
も意に介さずがっしりと発射台を固定させていた。
た弦が張られている。そして、これまた太い木で作られた頑丈そうな台座が、山の斜面
木を素材とした発射台と、その先端には三日月のように反った木枠、そこに張り詰め
座する大きな兵器が姿を現した。
をはいでゆく。そして最後に笹で織られた筵のようなものをどけると、堂々とそこに鎮
てゐは茂みに駆け寄ると、がさがさとそれらを掻き分けぽいぽいとかぶせられた覆い
み。てゐが用があったのはその向こう側に隠されているものだった。
乱立する木々の間に、さらに故意に集められたような不自然に盛り上がっている茂
!
401
全体的には非常に無骨な作りではあったが、その姿はまさに大型弩砲である。
ちなみに、こちらは落とし穴とは違いてゐ達が作ったものではない。
﹄ そう声高に叫んだ水辺の工作好きな知り合いたちが、人間の使う
性も著しく欠いている。
!
た。
ちなみにてゐがそれを知っているのは、単に彼らが吹聴していたのを聞いたためだっ
まの形でここに放置されていたのだ。
したために破棄されることとなった。しかし破壊するのも忍びなかったらしく、そのま
結局これが完成品になることはなく、彼らが﹃時代は小型化だ
﹄と唐突に路線変更
のみを考えられた機構。矢、というより槍一本作るのにもいちいち時間がかかり、汎用
使う度に基盤が狂い壊れてゆく欠陥兵器。照準なんてものはなく、ただ発射すること
弓に創作意欲をかきたてられ作り上げたもので、ついでにとんでもない欠陥品である。
﹃時代は巨大化だ
!
れは中途で不自然に二股に分かれ竹林を薙ぎ払ってゆく。
何事かとてゐが振り向くと⋮⋮極太の光線が竹林を事もなげにズバッと貫いた。そ
いた丁度その時。てゐの背後、竹林で光が瞬いた。
これまた先端に歪な鏃のついている槍を発射台に番えながら、そうてゐが胡乱気に呟
﹁これ、あたしの主義には反するんだけど⋮﹂
今回の原因、何ぞ
402
そんな光景に、てゐは一瞬言葉を失った。しかしすぐに我に返ると、打って変わって
﹂
本気の表情になり、先ほどまでの躊躇いはどこへやら、槍をセットし弦をぎりぎりとひ
くとスイッチ部分の機構に固定した。
一通りの操作が終わると、竹林の方へと視線を戻し地団太を踏みながら叫ぶ。
!
﹂
?
た。
そうなそれは、半ば折れ曲がりぎゅるぎゅると回転しながら竹林の方へと消えていっ
黒い巨体が傾ぐのと同時に視界に入る異様にでかい槍。鏃も無骨ながらやたら頑丈
︵ナイス⋮タイミング
︶
ニヤリと笑い、てゐは手を振り下ろした。
﹁くふふ、これで当たったらあんた、ツイてんね
到底標的に当たるはずもない鏃だが、しかしてゐの顔は自信に満ち溢れていた。
〝適当に〟仰角を合わせ、スイッチの前に立ち右手を持ち上げた。
や竹が大きく揺れた。てゐは構わずその辺りへと〝適当に〟発射台を向ける。そして
そうしているうちにも何やら地響きが断続的に響き、光線の走った発端辺りでまたも
﹁あああああいつらぁ∼、どっちか知らないけど、まずはでかい方に一発ぶちかます
!
403
やはり妖力弾だとかそういうものではなく、純粋に物理的な攻撃の方がこいつにはよ
く効くようだ。
俺は身体にかかった力が緩んだ隙にすかさず式玉を取り出し、それを闇蜘蛛の体の下
に転がした。そしてすぐに式符で俺の体をカバーする。
幾数の意味ある式で構成された式玉は、使い方次第で様々な効果を得られるが、今回
という爆裂音とともに俺の腹に刺さっていた黒い銛が、ず
はとても単純、あの巨体を吹き飛ばすほどの斥力を生む事だけだ。ある意味、爆弾のよ
うな使い方でもある。
その目論見通り、バガン
ちなみに、直前に体を覆った式符は、この至近での爆裂の余波を防ぐためのものだ。
ぶりと抜けた。それについで、何かが地に落ちるドスンという音も。
!
済ませ、俺は少し頭をひねった。
俺の腹も修復を始めているが、完全には今は治しきれない。とりあえずの応急処置で
た。
くと、少し前に派手に穴が開いたはずの上部の外殻は既にほとんどが塞がりきってい
見えた。身体の下部からは煙がぷすぷすと立ち上り、爆発の残滓を思わせる。ふと気づ
少し咳き込みながら立ち上がると、俺から少し離れた場所に闇蜘蛛が伏せているのが
﹁けほっ﹂
今回の原因、何ぞ
404
身 体 を 形 作 る 核 み た い な も の も あ り そ う な も の だ け ど ⋮ 分 っ か ん な い
︵身体を壊してもやっぱり無駄っぽいな。本体はそもそも身体じゃなくてあの靄みたい
な闇かな
なー︶
﹂
消し飛ばすのが一番なのだろう。
れも同じ物に見え、核を判別するなどまるで不可能。こいつを倒すには結局、まとめて
そして目を凝らし見ても、その蜘蛛の中に魂は無く空っぽだ。身体を取り巻く闇もど
いのだ。
していたのだろう。おそらく俺同様、明確な身体がなければ周囲に対する干渉力に乏し
今まで追ってきた足跡が飛び飛びだったのも、身体を構成したりばらしたりを繰り返
?
ぶつかる音をよそに、その場で手をかざし目を細めた。
闇蜘蛛のことは〝朱色〟達にしばし任せ、俺は鳴り響く蜘蛛の鎌と〝朱色〟の武器が
キィィィィィッン
色〟に姿を変えると、闇蜘蛛に式符で編み上げられた即席の剣状の武装を向けた。
ぱぱっと朱の光を発すると同時に、式玉は周囲の禍気を吸い上げ八体の式神││〝朱
髪入れず、それら全てを再度動き始めた闇蜘蛛の方へと放り投げる。
俺は両手を袂に突っ込み、右に四個、左にも四個、合計八個の式玉を取り出した。間
﹁んじゃ、大盤振る舞いだ
!
405
無論〝朱色〟で蜘蛛を倒す算段があるわけではなく、あくまでこれをするための時間
稼ぎである。
ただ結界を張っても、あの蜘蛛には容易く破られてしまった。今度は式符ではなく、
﹁⋮⋮そ﹂
より頑丈な結界式を編める式玉を使うつもりだが、それでも万が一ということもある。
なら、杭でも身体にぶち込んで動けないように固定してやればいい。俺の辿りついた
その結論は、結構エグイもののような気もする。なんだかんだで、俺はマガラゴの殻を
被ったこいつのことが存外気に入らなかったらしい。温度の無い複眼も、言の葉のない
鳴き声も、意志のない動作の一つ一つも、何もかもが気に入らない。眼前から、さっさ
と消してやりたいほどに。
次から次へと構造式が頭の中を流れてゆき、それにつれてだんだんと手の中の結晶は
今回の俺は本気だった。
と昔にやった、
﹃ダイヤモンドダスト∼﹄を今更思い出すとかなり恥ずかしいが、しかし
をばらし、集め、炭素原子同士の共有結合が織り成す新たな式を組み上げる。ずいぶん
きぱきとそれらを反映した透明の結晶が形を作り始めていた。周囲から炭素を持つ式
だが今俺の頭の中は濃密な炭素の構造式に埋め尽くされている。かざした手では、ぱ
﹁炭素、炭素炭素炭素炭素炭素炭素炭素炭素炭素炭素炭素炭素│││﹂
今回の原因、何ぞ
406
大きさを増していった。式こそ一定のパターンで、ほとんどルーチンワークだが、如何
せんその量が膨大に過ぎる。能力を使う事をサボっていれば、おそらくかなりの時間を
要したことだろう。
果たして一分半後、俺の目の前には巨大な透明の結晶が出来上がっていた。ひたすら
でかいそれに、俺は仄かながら感動すら覚える。
光にきらきらと反射する様はこの上なく綺麗だが、しかしその形状はこの上なく凶悪
である。何せあの蜘蛛に突き刺し貫き通すことを主眼に置いていたために、先端のとが
り具合は半端ではない。
そしてこれに神力を通し強化すれば、うん
繰り返す〝朱色〟の方が消耗されているというのが現状だ。
くなってきている。一対八でありながら、蜘蛛の方はまるで堪えた様子はなく、攻撃を
〝朱色〟では役者不足、黒い靄のせいで既に〝朱色〟の身体は維持する事もままならな
しかし、聞こえてきた音にすぐに蜘蛛の方へと視線を戻させられた。やはりあれには
キンッ キンッ ギシッ
満足気に頷いた。
俺はぼんやりと発光している炭素の同素体の結晶、望外に巨大な金剛石の杭を前に、
﹁完璧だ﹂
407
だがそれでも足止めとしてはこれ以上ない成果だった。
俺は式符で大きな〝手〟を作り、先ほど組み上げた大きな水晶の杭を持ち上げ、そし
て空へと飛んだ。
すぐに竹の高さを越え、蜘蛛を軽く見下ろせる位置に来た所で、俺はすぐに〝手〟を
振りかぶった。〝朱色〟はもう長くもたない、そのことを、術者である俺自身が詳細に
感じ取っていたためだ。
上から見ると、蜘蛛と〝朱色〟が戦っている様子もよく分かる。八体でそれぞれが邪
魔にならないように動き回る〝朱色〟、そしてそれを適当に止め、叩き落とす蜘蛛。全
く似てはいないが、パターンにはまったような動きがどうにも俺をイラつかせた。
これから蜘蛛を磔にする杭を強く握り、大きく腕を引くと、力の全てでもって蜘蛛へ
﹁⋮さっさと終わらせてやる﹂
と一切の躊躇いなくぶん投げた。狙ったのは先刻開いていた穴の辺り。いくらか他の
部位より脆いだろう。
ズゴン
﹂
めていた。靄も意に介さず、蜘蛛の殻を容易くぶち抜き、蜘蛛を地面に貼り付ける。杭
淡白な思考の中、俺は凄まじい音とともに、透明の杭が自身の役目を果たすのを見つ
!!!
!!
﹁ギィィィイィィィィ■ィイイィイ■■ィィィ■ィ■ィィイイイィ■ィッッ
今回の原因、何ぞ
408
は殻を貫通すると地面に深く深く突き刺さっていた。
ばたばた、どすんどすんと、十二本の脚が蜘蛛の悲鳴とともに地を揺るがしながら暴
れ始めた。それは痛みゆえか、反射のようなものか、杭を抜くための行動か、しかし深
く突き刺さった杭は抜ける様子もなく、逆に暴れる度にさらに蜘蛛の硬質な身体に食い
込んでゆく。黒い靄ですら、神力で強化された杭を喰うことは容易ではないらしく、杭
は靄に未だ浸蝕されないでいる。
そして俺はと言えば、杭をどうにかしようとする蜘蛛を待つ気など微塵もなく、既に
結界の準備を始めていた。
く。
れが八個、それら全てが複雑に、かつ規則的に絡みつき俺の意図した式を組み上げてゆ
ことはなく、式玉だったものは立体的なまるで網のような朱い図形へと姿を変えた。そ
ガラスが割れたような音は純粋に式玉が破裂したため。しかし破片などが飛び散る
なしていた。
色〟としての身体は破棄され、式玉へと戻っていたそれらは忠実に迅速に俺の指令をこ
は式玉から、もっと言えば少し前は〝朱色〟を形成していたものからである。既に〝朱
俺の呟きとともに、ガラスが割れるような涼やかな音がその場に鳴り響いた。その音
﹁壱﹂
409
﹁弐の﹂
それはドーム上になり、ばたばたと暴れる蜘蛛を完全に閉じ込めた。無数の面が蜘蛛
を取り巻き、脱出を式符の時よりもより困難にしている。ドームはぴかぴかと朱色に淡
く光り、俺の合図を待っているかのようだった。
勿論そのドームは捕殺結界、しかも不殺設定ではなく、殺意に満ち溢れたまさに殺し
のためのもの。むしろそれは滅殺結界と言った方がいいかも知れない。皮肉なものだ
と、俺はマガラゴに使った不殺の捕殺結界を思い出し、そう思った。生きているものを
﹂
殺さず、生き物でないものを殺すことになろうとは。
﹁参っ、と
掻き消され、それ以外の全ての音も轟音のみに塗りつぶされた。
に埋め尽くされた。蜘蛛のノイズ混じりの悲鳴は、蜘蛛、及び靄を滅ぼす朱の雷の音に
閃光の色が辺りを染め上げる。朱と、蜘蛛の黒が一瞬拮抗するが、次の瞬間には黒は朱
そして俺の最後の合図とともに、凄まじい光量の閃光が結界内から迸り、同時にその
!
も折れていた竹も完全に消えうせ、地肌が見えている。今回は手加減が出来なかったた
結界内の一切合切を滅ぼしつくした後、俺は結界を解除した。結界のあった場所は草
﹁⋮うーん﹂
今回の原因、何ぞ
410
めに、蜘蛛のみを対象にすることは出来なかった。全てを靄の消滅にまわしたために、
この有様である。
が、俺の視線の先にはなぜか一筋だけ残る黒い靄⋮⋮。
俺はそれに手を伸ばし、ぐっと掴んだ。しかし靄はするりと俺の手を抜け出し、する
すると空気に溶けてゆく。そこにあった形跡など微塵も残さず、もう残り香すら嗅ぎ取
れない。
いや、消滅に成功した考えるべきだろうか
﹁うーん⋮﹂
﹁朱と黒、朱と黒⋮⋮赤と黒
あー⋮﹂
いた。先の結界内の光景が、俺のいつかの記憶を刺激するのだ。
あれを追いかけてきた当初から引っかかっていた何かが、また俺の中で引っかかって
?
事象とは今の今まで結びつかなかった。
?
リ
ス
タ
女の大型弩砲
バ
に助けられた事を思うと、なかなか頭の下がる思いだ。しかし、よくも
と、空から聞こえてきた声に顔を上げると、兎の少女がこちらを見下ろしていた。彼
﹁あーもう、わけ分かんない。さっきの光、何
目潰れそうになったんだけど﹂
と結合し次々と昔のものが蘇ってきた。決して、忘れていたわけじゃない。ただ今回の
あれの少し変質した匂いや、黒い靄、そして赤黒い場所が、俺の頭の中の薄れた記憶
?
411
?
、よく当たったな。距離も結構あっただろ
まぁ当たったもんだ。期待してなかったんだけど。
﹁おー。あの、矢
﹂
?
﹂
?
たはずの存在。親友の封印を侵そうとした、紅蓮の炎と、黒い靄。
ごもった嫁さん。神焼きの炎に飲まれ地上で死に、魂を強固な封印の向こうに封じられ
会った〝俺〟にとっての初めての、そして俺に名前をくれた親友と、その親友の子を身
脆弱な狐だった頃、そしてその時より少し強くなり、人型にもなれた頃。その時に出
よりさらに昔のことを思い出していた。
不敵に笑いそう言う少女に手を振りながら、俺は半ばそっちのけでマガラゴがいた頃
ロツメクサぐらいの幸運じゃない
﹁あんたとあたし、今日は大吉ってことだね。ま、標的もでかかったんだし、十八葉のシ
?
何者もいないその場所は、しばらく前はある神の聖地であったはずの土地。今はその
幾本もの折れた石柱に、荒れきった地を晒す場所で、ぽつりと一つの雫が落ちた。
太陽も沈み、夜も更けた頃。
多分、間違いない。
﹁イザナミさんだ⋮﹂
今回の原因、何ぞ
412
413
面影もなく、何もかもを夜闇が覆いつくしている。いや、それは聖地が壊される前から
そうだった。ただ、今まではあったはずの堤防が決壊しただけ。
ぽ つ り ぽ つ り と、誰 も い な い そ の 場 所 で、夜 の 闇 に 逆 さ ま に 黒 い 雫 が 堕 ち て ゆ く。
ゆっくりゆっくり、だが確実に夜の闇に溶け、攪拌してゆく。
それに気づくものは誰もいなかった。それに相反する存在、太陽神を除いて。
そう聞かれれば、俺は迷わず﹃生の彩﹄と答える
嵐の前の静けさというわけではない
俺にとって、酒とは何だろうか
﹂
手放したくないと思う。そう、昔々に呑んだイザナギの酒に劣らないこれをだ。
なる。少なくとも俺の瓢箪に住む酒精の造る酒の味を知ってからは、つくづくこの味を
いた。不便な肉球のついた手足しかなかった狐時代のことを思うと、今更ながらに鬱に
だろう。事実、長い時間酒を呑まなかった俺の口内にはすっかり唾が溜まってしまって
?
それからどうしたの
?
!?
とその距離は大分近づいている。表面こそ紫に威嚇することはあるが、それでも心の内
紅花と紫の間は身二つ半ほど、微妙な距離感こそ変わらないが、しかし当初と比べる
かったが、とても興味深そうにしていることはすぐに分かった。
その紅花から少し離れた位置に紫が静かに座っていて、表情こそあまり動いてはいな
と輝いている。
出しながらそう言った。その顔は、俺の土産話の続きが待ちきれないように、きらきら
万感の想いで瓢箪を傾ける俺の向かいで、紅花が木のテーブルに手をつき、身を乗り
﹁それでそれで
嵐の前の静けさというわけではない
414
では少なからず紫を認め始めているのだろう。紫の持っている能力は確かに強力だが、
といったところだっ
紫自身はとても高潔な人柄だ。時間さえかければ、相互理解も深まろう。俺としては、
二人が屈託ない関係になってくれることを願うばかりである。
﹁んくっ⋮⋮ぷはー。そう、このまま俺、あわや頭を潰されるか
﹂
人間の使う弓とかだったら、そんなおっきなの射てないの ねぇ
ねぇお母さん、それ誰がやったの
!
!
そして紫はと言えば、紅花と同じように驚いた顔をすると、指をあごにあてがい小さ
ぱちぱちと手を叩いた。
ている紅花に兎││てゐがやったと教えると、とても驚いた顔をして、また楽しそうに
動的に発射するという発想自体が浮かばない。誰かが自力で矢を射っただろうと考え
そもそも弓矢自体がそれほど古い物ではないこの時代、複雑な機構を利用し矢を半自
?
﹁すごいすごい
花は楽しそうに笑い手を打つ。
語った。ひょうきんに話しながらも、相変わらず表情筋の動かない俺とは対照的に、紅
瓢箪から口を離しながら、大体真実、しかし少し脚色しながら、俺は今回の体験談を
ものだから、蜘蛛はたまらず俺をはなして景気よく吹っ飛んでいたよ﹂
の長さはなんと俺の腕五∼六本分といったところでさ、そんなものが勢いよく当たった
たが、そこで俺を救ったのが、びゅいーんと遠方から飛来した巨大な矢だったのさ。そ
!?
415
く呟いた。
﹁いったい、どうやったのかしら 兎の妖獣って体格もそれほどないし、力だって大き
くないはずなのに﹂
﹁からくりだ。台座に矢をつがえれば、あとは勝手に射ってくれる機構のものだった。
?
バ
リ
ス
タ
そんな、この日本にこんな頃からもうあるなんて⋮﹂
俺が見た時は、もう半分ばかり壊れてたがな﹂
﹁大型弩砲⋮
!?
方の〝俺〟が常駐し酒をかっ喰らい、しばらく我慢していたもう片方の〝俺〟が久方ぶ
ものにも変えがたい。ある意味、俺は酒を人一倍酒を楽しんでいるといえるだろう。片
久々に呑む酒は味わい深く、そして堪えていた唾とともに体内に流していく快感は何
ない。
や、むしろ生理的な欲求を失ったことで、逆に娯楽要素たる欲求が増しているかも知れ
なくなっても、食の必要がなくなっても、美味しいものに対する欲求は変わらない。い
ていた〝俺〟は毎日呑んでいたが、出かけていた〝俺〟にとっては久々の酒だ。人間で
そう言いながら、俺はまた瓢箪を傾けて中の酒を喉に流し込んだ。この地で留守番し
旺盛で、人間以上におかしな気質だからな、どういう方向に進むかは分からんが﹂
欠陥品だったが⋮それもこれからどうにでもなるだろ。あいつらは人間同様に好奇心
﹁いい加減、人間の常識で考えてるなよ。それに作ったのは河童の連中らしい。とんだ
嵐の前の静けさというわけではない
416
りの酒に舌鼓を打つ。一口で二度美味しい、というやつだろうか。
﹂
ちゃぽちゃぽと瓢箪を振り、幾度目かの酒を煽っていると、紅花が﹁ねえお母さん﹂と
言って俺の話の先を促した。
﹁それから、その矢が飛んできた後は、どうなったの
リ
ス
タ
﹁あぁ、それか。何でも能力を使ったらしいが⋮⋮﹂
わよ。いたらだけど。そもそも、こんな昔のものがそう簡単に標的に当たるかしら﹂
たわ。それ以上に、その兎が大型弩砲を使ってたなんて。大国主が知ったらきっと嘆く
バ
﹁それにしても、〝因幡の素兎〟なんて。神話のお話を実話で聞けるなんて思わなかっ
で量産出来るし﹂
してる高密度の術式を一気に解放したほうが出力も高いんだよ。式玉自体は俺の能力
がな。式神としての機能は、むしろ後から付け足したもんだ。使い捨てったって、封入
﹁式玉ってのは元々術を速攻、低燃費で使えるようにするために作ったものだったんだ
﹁式玉って、自律式神⋮〝朱色〟の核ですわね。使い捨てなんて、少しもったいないわ﹂
になるとは思わなかったけど﹂
ら、式玉でってな。あーいう時のために作った式玉だったしな。ま、使い捨てすること
﹁んー、その後か。なんのこたぁない、式玉の結界使ってやっつけたよ。式符が駄目な
?
417
﹁﹃人間を幸運にする程度の能力﹄
あれが一撃で当たったのは、その能力の産物か﹂
〝幸運〟になる代わりに、兎の能力を上回っているはずの蜘蛛の方が〝不運〟となり、
そして、その幸運はいったいどこからやってきているのだろうか。今回の場合、俺が
がら、その方向性はプラスに一貫している、というより確定している。
だった。どれほどの幸運をつかせられるのかは知らないが、起きる現象が曖昧でありな
その能力に対する俺の印象は、精度こそ低いがその実かなり問答無用、というところ
分ける幸運の度合いで調整も出来るけど。そう小さく付け足した。
わね﹂
も知れないし、はたまた隕石が降って来て当たった、なんてこともあったかも知れない
﹁あんたの場合、たまたまあたしの矢が当たったわけだけど、あるいは強風が吹いてたか
していないらしい。
の能力を語った。あくまで幸運にする程度であり、起こる結果に対してはそれほど認知
蜘蛛を倒した後の竹林で、荒れに荒れた光景に少し顔をしかめながら兎の少女は自身
﹁そ。人間、なんて銘打ってるけど、その実人外が対象でも問題ないんだけどね﹂
?
割りをくっていた。力の小さい兎の能力の影響にも関わらず、だ。
﹁存外、強力だな﹂
嵐の前の静けさというわけではない
418
﹁そう
と。
今回のはそれほど強運でもなかったけど﹂
日なんてメじゃないわ﹂
﹁そういやあんた、腹大丈夫
なんとまぁ、鮮やかな赤色に染まってるわね。うん、夕
古くから生きていることも、 〝因幡の素兎〟という名も伊達ではないということか、
そう事もなげに言う兎に、俺はなんとなく納得していた。直接的な力こそ小さいが、
?
素兎は、神を恨んではいないものの、少なくともよくは思ってはいないらしい。いや、そ
か本気の色も垣間見える。俺はその視線から目を逸らしながら、肩をすくめた。因幡の
少し据わった目で俺を見ながらそう言う因幡の兎。声音は冗談じみていながらなぜ
分かるわ。あー、あほらし、今ここで海水練りこんでやりたい気分だわ﹂
傷でもなんでもないんでしょう。あんたの鉄面皮見れば、大して堪えてないことぐらい
﹁別にー。あたしはあんたが気に入らないだけ。どうせそれぐらい、あんたらには致命
じまえとでも言うつもりか﹂
﹁﹃夕日﹄なんて言ってるところに、地味に悪意を感じる。なんだ、さっさと沈んで死ん
際、大半の修復は済んでいるが、
いただろうに、今更言うということは大して心配していないということだろうか。実
と、彼女は俺のべっとりと塗れた腹部を指差しながらそう言った。最初から気づいて
?
419
れぐらい当然か。俺を神連中の同類だと思っているようだが⋮。彼女の神話とは関係
ない神ではあるが、ウカノミタマ本人だと言えばどんな反応をするだろう。いや、そも
そも〝ウカノミタマ〟って知名度あるんだろうか。謎だ。
﹁それで、俺はまだ君の名前知らないんだけど。いつまでも﹃君、君﹄呼ぶのはキミが悪
い﹂
それが少し気になった俺は、赤く染まった腹の辺りを撫でながら彼女の名前を聞い
た。順当に話を持って行けば、自己紹介の流れになるだろうと。
果てしなくつまらない。⋮⋮ま、いいわ。あたしは〝てゐ〟。
ら、あんたも言ってよね﹂
頭に因幡国くっつけて、人呼んで〝因幡のてゐ〟よ。で、あたしのことは話したんだか
﹁何それ洒落のつもり
?
﹂
?
てゐの言葉に俺は心中で頷いた。てゐも知っているということは、どうやら俺の名も
﹁何だ、〝ウカノミタマ〟のことは知ってるのか﹂
ノミタマ〟の眷属
﹁ふーん⋮倉稲なんて珍しい名前がついているということは、もしかしてあんた〝ウカ
ウカノ
ゐは眉根を寄せて少し考え込むような顔をしてからこう言った。
案の定流れで俺も名前を言うことになり、用意していた口上を口にすると、兎││て
﹁俺は〝倉稲白式〟。住んでるのは、ここから東へ行った方の土地だったりする﹂
嵐の前の静けさというわけではない
420
そこそこ知られているらしい。
思えば、神奈子も俺のことを知っていた。すると、てゐの情報ソースだろう大国主が
俺のことを知っていても不思議ではない。そしてその大元も、全部ではないかもしれな
いが多分アマテラス。何を言ったかは知らないが、もう大抵の神に〝ウカノミタマ〟の
ことは広がっているのではないだろうか。
〝否〟とは言わない俺に、少し興味を引かれたのかてゐも言葉を続ける。
﹁否定しないってことは、当たりなの そいつのことはオオナムヂ様に聞いたことが
421
﹂
?
る程度の尻尾を見通せないとは思えない。
方、どこぞの人間が尻尾を霊体化させていた俺を見たのだろう。神連中が霊体化してい
いるらしい。そうでなければ、﹃尻尾がない﹄という表現がされることはあるまい。大
ミタマ〟の情報は、アマテラスからだけではなく、色々なところから混ざって錯綜して
それと尻尾は﹃ない﹄、というより、
﹃見えない﹄じゃなかろうか。どうやら〝ウカノ
う。あるいは色違いの紅花か。
てゐの言う、使役している狐とやらはおそらく式神、〝朱色〟や〝白色〟のことだろ
話も聞いたけど、あんたもその一人なわけ
んたの特徴と合致するわね。そういえば、自分と似た姿の狐をたくさん使役してるって
あるのよね。確か、穀物やら食べ物やらの神で、姿は尻尾のない狐の娘だって。⋮⋮あ
?
﹁んー、そういえば﹂
﹁何だ。俺の顔になんかついてんのか﹂
と、俺の顔や体をじろじろ見ながらてゐがこんな事を言った。
﹁会った時は口説きたい、みたいなことも言ってたわよ、オオナムヂ様﹂
そんなことを言われたのは初めてだ。そう思うとともに、何か苦いものが俺の中に広
﹁えー⋮﹂
がった。
うわー。ホントにあの人は封印されてもお盛んだわ。心配したのに損した。でも、そい
﹁何でも〝ウカノミタマ〟は見目麗しいって話だったから、食指を動かされたんだと思
つがあんたと似た顔してるってんなら噂もあながち嘘じゃないみたいね﹂
てゐの言うオオナムヂは、確か大国主と同一だったか。そういえば女たらしが過ぎて
封印されたという話を少し前に聞いた覚えがある。そこの事情に他の神の嫉妬があっ
たのか、あるいは本人が本当に奔放過ぎたのかは知らんが、女好きという噂は真実のよ
うだ。まさか俺が標的になるとは思わなかったが。
﹂
﹁そういや、封印されてても元気にやってるって噂を聞いたが、話しが出来る状況なのか
嵐の前の静けさというわけではない
422
そう聞くと、てゐはなんでもないように肩をすくめて俺の問いに答えた。
?
﹁それがねー、注連縄みたいなのでどこぞの亜空間に閉じ込められてるみたいなんだけ
ど、今はそこから出られないってだけで力を封じられてるわけじゃないらしいの。そこ
﹃わりと快適だから別にいい。毎日酒池肉林の限りじゃ﹄だってさー
の門越しに話も出来たんだけど、あたしが心配して会いに行ったってのにあの人なんて
言ったと思う
あの人なんで封印されたか分かってるのかしら。あたしもあんまり腹が立ったも
?
と、そこでてゐが顔を上げるとこちらにまた目を向けて、ばつが悪そうに言った。
〝神〟にそれを聞くのも野暮なものだろう。
閉じ込められているのにどうやって酒池肉林なのか、など疑問にも思うが、腐っても
てゐは言いながら、苛立たしそうにがーっと頭をかきむしった。
のだからそこ飛び出してね、そのまま近くにあったこの竹林に住んでるってわけ﹂
!
いたことから、いきなり敵意を向けられることもないだろう。俺がそう考えて瞬きをし
えを口にしていた。先ほど〝ウカノミタマ〟のことをそれほど嫌な顔もせずに話して
まくし立てるてゐを前に、言うか言わぬか悩んだのは一瞬。俺はてゐの誤解を解く答
﹁いや、俺がその〝ウカノミタマ〟なんだけど﹂
わよ﹂
恥ずかしいからさ。いや別にあたしはオオナムヂ様と親密な関係と言うわけじゃない
﹁あんた、〝ウカノミタマ〟にこのこと言うのは止めてよね。なんか身内の恥みたいで
423
ているてゐを見ていると、
﹁⋮⋮︵ふん︶﹂
何故か鼻で笑われた。
察するのもまた一興か。
路線を修正しても遅いか早いかの違いだけだ。それなら放っておいてどう変わるか観
だから、意識するしないに関わらずそれは仕方がない。俺の話がどう伝わるかも、今更
伝とは得てして中途で歪められるものだ。世代を越えた伝言ゲームみたいなものなの
いちいち自分の醜聞に気を遣うのも面倒くさい。なるようになるだろう。それに、口
ま、いいや。
か。そして俺はその〝ウカノミタマ〟に使役される狐の一体ということに⋮
識のままいけば、誰でもない架空の存在に〝ウカノミタマ〟がとられるんじゃなかろう
俺
雰囲気だったっけ。それに俺の分霊にも、そういう奴がいたような。もしかしてこの認
そういえば、信仰にしたがって地上に顕現してたアマテラスも、天上の本体とは違う
イメージなのかと。
なんら疑問を挟まないてゐの口ぶりに、俺はなんとなく頷いていた。あぁ、そういう
調してるわけないじゃん。本物なら馬鹿みたいに丁寧な話し方してるわね、きっと﹂
﹁そんな小奇麗な容姿の、それもご大層な名前の偉そうな神が、あんたみたいに粗暴な口
嵐の前の静けさというわけではない
424
﹁少しくらい信じてみようという気にはならんかね﹂
誰に言ってんのさ、誰に。神の言を信じて苦節幾年、そのあたしがそう簡単に
?
﹁あっそう。そもそもなんでこんな長居してたのよ。用が済んでたんならさっさと帰っ
は話を切り上げた。
それからしばらく言葉のドッヂボールに花を咲かせていたが、いい加減帰ろうかと俺
の酒瓢箪に抱き付きたい﹂
﹁そろそろ帰るわ。酒精中毒の俺にはこれ以上の我慢は厳しい。さっさと帰って、愛し
いたちごっこだしな。
﹁ほら信用してないじゃない﹂
﹁それぐらい想定済みだ﹂
してやるから﹂
﹁威張るところじゃないわよ、それ。ふん、いいわ、ならあたしも心置きなくあんたを騙
ぞ﹂
﹁信じるも何も、まだ俺は疑ってないじゃないか。てゐの話もちゃんと鵜呑みにしてる
て話よ﹂
他人の言葉を信用するはずないじゃん。信じて欲しいなら、まずはあたしを信用しろっ
﹁はぁ
425
てればよかったものを﹂
﹁えー、てゐが引き留めてたんじゃないか﹂
﹁なによ、あたしのせいにするわけ あたしはただあんたが物を聞くから、それに懇切
忙しくなるんだから﹂
﹁あーもう、どうでもいいわよ
レ
ほら、もう帰った帰った あたしは竹林の片付けで
はいさようならは味気なさすぎだろ﹂
何なものかと思うぞ。それに、わざわざ協力して蜘蛛を倒したんだから、終わったから
ア
﹁おいおい、てゐの方だって俺に話を聞いてたじゃないか。俺だけのせいにするのも如
丁寧に答えてただけじゃん。それをあんたときたら﹂
?
!
尾をゆらゆら揺らしててゐに背を向けた。
しっしっと虫を追い払うように手を振るてゐに俺はやれやれと溜息をつきながら、尻
!
てゐが少し思案気に佇みこんなことを聞いてきた。
?
だ、てゐも一重に事実を求めているわけではないだろう。単なる好奇心か、俺に探りを
俺はすぐには答えなかった。心当たりこそあったものの、確証はなかったから。た
﹁あんた、アレに妙に詳しかったみたいだけど、アレがどこから来たか知ってる
﹂
が、そうして飛ぼうとした時に何故かてゐが俺を止めた。何事かと俺が振り返ると、
﹁あ、ちょっと﹂
嵐の前の静けさというわけではない
426
入れてるのか。仮に後者だとしても納得は出来る。俺の存在はてゐからしてみれば怪
しいの一言だ。神力を持っているために神の関係者であることは証明できても、その神
自身が何も企んでいないとは証明しきれていない。てゐ自身、大国主以外の神はそれほ
ど信用してはいないだろう。
しかし、実際は〝ウカノミタマ〟は今回の裏には︵多分︶直接の関係はない。ならば
﹂
てゐの問いに俺が何を答えようと、それほどの意味はないはずだ。
﹁さて。地獄からでも這い出てきたんじゃないか
﹁ふーん﹂
そう返した。
俺が冗談めかしてそう言うと、てゐは肩を竦めてまるで信じていなさそうな口ぶりで
?
427
中から式符を一枚取り出した。
かさかさと、人が通るには適さない森の木々の間や茂みを抜けながら、紫はふと服の
時は留守だった。
途中神和ぎの社ものぞいてはみたものの、タクリは水浴びにでも行っているのかその
すれ違い、軽く挨拶をかわしながら歩みを進め、森へと向かう。
り、特に人でない事を気負うことなく人里へと入って行った。朝早くから働く里人達と
く、体力にまかせて疾駆するでもなく、山の麓へと続く階段を地道にゆっくり歩いて下
前。太陽が山から顔を出し始め、暗い空が白んできた頃だった。紫は空を飛ぶでもな
紫が今居候しているウカノミタマ、改め倉稲白式の屋敷を出たのは丁度一時間ほど
合う森の空気が、紫は好きだった。特にこんな天気のいい朝はなおさらである。
人間の科学に汚染された都市の空気とはうって変わって、〝美味しい〟という表現が似
イフスタイルと大して変わっていないためか、いつになってもこういう朝は清々しい。
ちちちと小鳥がさえずる早朝に、紫はなんとなく森で散歩をしていた。人間の頃のラ
キュッキュッキュー この話の主人公は狐である
キュッキュッキュー この話の主人公は狐である
428
429
それは独りでに、
︵とはいっても紫の意のままに、だが︶ふわりと浮かび上がりくるく
ると紫の周りを回る。そして仄かに発光し、光球へと姿を変えると直にぱっと弾けて消
えた。これは、力だ。紫が自分自身の身を守るための。
人里が近いからといって、決して森の中は安全というわけではない。毒をもった虫も
いれば、獰猛な獣だっている。
そして人に害をなす妖怪もいる。里人達も、森に入る時は神和ぎ同伴、あるいは神和
ぎ、白式の作った護符を持つことは必須事項だった。
紫が神の守護するこの地に来てから既に二十年。もう、紫が他の妖怪に怯えることは
なくなっていた。妖怪の要である妖力が紫は他の者と比べ年若いわりに多く、その上そ
の妖力を活用した術、妖術とでも言おうか、それも異常なほど卓越している。
二十年前、最初にこの森に入ったのは、自分を追う者から逃げ回っていた時だった。
紫の能力を危険視して狙ったというのに、それゆえに身を守るために紫が強くなろうと
し、そして結果的に強力な妖怪が生まれたというのはなんとも皮肉な話である。そして
これでもまだ齢二十、妖怪としては短すぎるほどだ。これからさらに紫は強くなり続け
るのだろう。
しかしそんな紫の外見は、二十年前とまるで変わっていない。ここに来た時のまま、
いつまで経っても若々しいままである。そんな自分が嫌で、紫は自分の服を変えたり髪
キュッキュッキュー この話の主人公は狐である
430
形を変えたりしたものの、結局自身の胸の裡に飛来する虚しさは止められなかった。
白式の守護する里に住む人間は、紫に恐怖することはない。まるで親しい隣人にする
ように普通に話しかけ、普通に笑いあう。いつまでも変わらない姿の、妖怪である紫に
怯えるものは一人もいなかった。
それは白式や神和ぎが妖怪から里を守っているために、妖怪への恐怖心が少ないこと
と、またいつまでも年をとらない筆頭が山の上にいるため、不老の者に対する違和感が
ほとんどないためである。
だがそれゆえに、紫は自分が人間だと錯覚してしまっていた。
いや、頭ではもう自分が妖怪なのだと分かっていても、無意識のうちに人間のような
考え方をしたり、人間のような行動をすることが多々あるのだ。
ちなみに近くにいる某神がしばしば非常に人間くさいことも関係しているのだが、本
人は全く気づいていない。
紫は自分の中にあるその落差に、よく悩まされていた。
人間でないと、妖怪だと分かっているのに、いつの間にか人間だった時と同じことを
している。それがいけないというわけではないが、それでも紫はそのどっちつかずの言
いようもない気持ち悪さをはっきりさせたかった。
そうして悩んだ時は、紫はこうしてのんびり散歩をしたり、はたまたタクリに会った
431
りしていた。散歩は純粋に他のことを忘れそれ自体を楽しめるから。タクリに会うの
は、よく顔を合わせる彼女がだんだんと老けていく様子が分かるからだったりする。
そう言うと、タクリはもちろん怒るのだが。
そうすることで、自分が人間でないことが確認することが出来るが、同時に悲しくも
なる。自分はタクリや里人達とは違うのだと、そう認識することが必ずしもいいとは限
らないのだ。それも当たり前の話かも知れないが。
今はまだぴんぴんしているタクリも、いつかは紫をおいて死んでしまうのだ。早朝に
冷水を浴び、空を飛び回り妖怪退治をしている今はそんな様子もないが、それだけに紫
を置き去りにして老いていくタクリの姿は、紫にとって耐え難いものがあった。
いや、いつまでも変わらない二人が紫の傍にいなければ、きっと耐えられなかっただ
ろう。
ふと思うところのあった紫は、自分が人間だったころのことを思い出そうとした。相
変わらず霧がかかったような曖昧な頭の中。どこで生まれて、どこで育って。どんな親
でどんな兄弟でどんな家族で。それらのことはまるで思い出すことは出来なかった。
だがその霧がかった記憶の中で、大切な親友がいたことだけは良く覚えていた。いた
ことだけは、だが。大切な、自分が人間だったころの、人間の親友だ。今はもう、紫と
親友は別のものになってしまった。
キュッキュッキュー この話の主人公は狐である
432
今のこの生活に、妖怪としての生に寂寥感はない。里人や神和ぎは妖怪である紫に過
ぎるほど優しく、庇護者である白式は分かりづらいが確かに良くしてくれていた。紅花
は一人敵意を向けてくるものの、それも会った当初と比べるとかなり和らいでいる。
それらに、紫自身は充足感すら感じていた。
だが、それで人間だった頃の自分の全てを諦められるほど紫は潔くはなかった。
時折、想ってしまうのだ。
どんな名前だったかどんな顔だったか、それもはっきりしないのに、親友に会いたい、
一緒にいたいと。切実に何よりも強く、そう思ってしまう。
たとえ、それが何千年も先のことだとしても、紫は諦め切れなかった。
たとえ、人間だった頃の自分のいた時代に妖怪やその他もろもろの特殊な存在がいな
いことを知っていて、それが今の妖怪である自分の消滅の可能性を意味していたとして
も。
もう一度、彼女と同じ時間を生きたいと、そう思うことを、紫は止められなかった。
ぱきっ
自分の足で踏んだ乾いた枯れ枝の折れる音が、思考の海に沈んでいた紫の意識を浮上
させた。有体に言えば、はっとした。
気づけば普段の散歩コースを外れた場所に紫はいた。似たような木々が並ぶ森では
あるが、何度も何度も二十年単位で歩いていればそれぞれの木の細かい特徴、並び方な
ど少しの差異も見逃しはしない。
﹂
?
その中では、むしろ他と異なるその音は雑音のように際立って紫の耳に入ってきた。
異音に、紫は耳を傾ける。早朝の、静かな森の中。しかしその実様々な音で溢れている
木々の葉が擦れ合う音、小鳥のさえずる声、風が吹きぬける音。それに混じる微かな
﹁⋮⋮
こかから微かな音がするのを、以前より鋭くなった紫の聴覚が捕らえた。
と、近くまで戻ったのだからもう帰ろうかと紫が里の方に足を向けた丁度その時、ど
紫にはさしたる問題はなかったりするのだが。
が、その程度の違いは紫には些細なことだった。仮に道に迷ったところで、空を飛べる
と見ても飽きることはなかった。今の季節は緑の色に溢れ、風景も大分変わってはいる
か来たことはあったのだ。その季節の、枯れ落ちる前の葉の鮮やかな色彩は、何十何百
そこは普段散歩で通る場所ではなかったが、秋の収穫の際にタクリに連れられて何度
紫は少し見覚えのある周囲の木々を見渡してそう思った。
︵遠くまで歩いたつもりだったのに、結局里の近くまで戻ってきちゃってるわね︶
433
静かに意識を集中させていると、少しずつ明確な音が聞こえてくる。それは何かが地
面を引っかいているような音だった。それだけなら異音として聞こえるはずもなく、そ
れと同時に何かが暴れて地面を弱く叩く音、さらには何か動物の鳴き声まで聞こえてき
たのだった。
れていて、今はばたばたとあちらこちらへ右往左往している。小さな耳が頭の上に二
太陽の光にわずかに反射し弱く輝く体毛。尻尾は一本、先っちょは少し白い毛で覆わ
方に絡まってしまったのだろう。
は引っかかったのは足だけだったのだろうが、わけも分からず暴れているうちに身体の
複雑に絡まり、それがもがく度にさらに強くその身体を締め付けている。おそらく最初
大きさはわずか30センチほどの小さな体躯に藁のようなもので編まれた細い縄が
ものにひっかかってもがいている、一匹の小動物だった。
茂みをかき分け、紫が少し歩いた先で見つけたのは、罠、おそらくくくり罠のような
が、果たしてその結果がことさらに悪い方へと転ぶことはなかった。
が、気分のいい散歩中ということが災いし、好奇心の趣くまま茂みへと深入りしてゆく。
できたが、気になった紫はそちらへと改めて足を向けた。普段はまだ用心深い紫なのだ
その音は里とは反対方向、紫の背中側から聞こえてくるようだった。無視することも
﹁こっち、かな﹂
キュッキュッキュー この話の主人公は狐である
434
つ、せわしなく動いていた。
﹁キューー
﹂
転がっている白い化け狐を見かけるぐらいである。
ことはなく、こちらの時代に来てからは式神の偽の狐や、時折屋敷に無造作にごろりと
実物のキツネは初見である紫は少し戸惑った。人間だった頃は写真の類でしか見た
!
﹂
﹂
それは哺乳綱ネコ目イヌ科の肉食に近い雑食動物、いわゆる、
﹁キツネ
?
キューー
﹁キュー
!
﹂
!
ちょ、ちょっと、今からほどくから待ってて⋮⋮﹂
!
のだ。細いながらも普通なら切ることは出来ないだろう縄だが、妖怪である自分なら引
暴れる子狐の様子をはたから見ていた紫は、罠にかかった子狐が酷く可哀想に見えた
そう言いながら、紫は子狐の方へと一歩一歩ゆっくりと近づいた。
﹁だ、駄目よ暴れちゃ
悲痛な叫びをあげる子狐に、紫はわたわたとことさらに慌てる。
﹁ギューーーーーー
くるくると身体に巻きつく縄はどこまでも残酷で執念深かった。
縄から抜け出そうともがいている。しかしそんな必死な子狐を哀れむでもなく、さらに
紫の姿に気づき、より一層激しく暴れだす子狐。小さな前足と後ろ足で地面をかき、
!
435
きちぎることも出来るだろう。そう考え、紫は子狐を罠から解放しようと暴れる子狐の
方に手を伸ばした。
しかし紫は手前数十センチではたとその手を止めてしまった。
︵でもこれ、どう見ても人が作った罠よね︶
そうなのだ。この罠を誰かが仕掛けたということは、今ここに引っかかっているこの
狐はその罠の主のものということになる。紫が何の関係もない自由奔放な妖怪だった
ならば、ここで躊躇する必要はなかった。ただ自分の考え赴くままに行動してしまえば
いいのだ。だが面倒なことに今紫は人の中で生活していた。それも、この場所に罠があ
るということは間違いなくあの里の者が仕掛けた罠なのだろう。人の中にある以上は
そのルールに従わなければならない。このままこの子狐に手を出すことは、同じ里で暮
らしている紫の立場としてはかなり危ういものだった。
人としての感情が子狐へと手を伸ばし、そして皮肉なことに人としての常識が紫の手
を止めていたのだ。
そう必死に考えながら、紫はするすると手を引いてゆく。けけ決して名残惜しいなん
て、言え、ないわよ、ね︶
まうけどそれはしょうがないことで。うん、私もよく肉を食べてるんだから、文句なん
︵そ、そうよ、これはきっと自然の摂理なんだわ。このままこの子は誰かに食べられてし
キュッキュッキュー この話の主人公は狐である
436
てことはない。
このままここにいては、私の中の何かが危ない。と紫は考え、足を後退させようとし
た。
この時、そのまま踵を返し後を見ずに立ち去ればよかったのだが、紫はうっかりちら
りと子狐の方を見てしまった。最後にもう一度だけ⋮そんな軽い気持ちで子狐の方へ
目をやったのだったが、しかし紫はそれをした後にすぐ後悔した。
目が、合ったのだ。
紫の足元で、伏せた状態で進もうとする子狐。しかし今度は逃げようとするのではな
かりかりと、子狐のか細い鳴き声をあげながら再び地面を引っかきはじめた。固まる
﹁キューーー﹂
ていた手は宙で留まり、退こうとしていた足は棒のように固まってしまっていた。
目が離せない。いつの間にか出てきた冷や汗が、紫の頬をつつつと伝う。引こうとし
つぶらな二つの瞳は、何かをうったえかけているように、紫には見えた。
かに伏せていた。そして顔を持ち上げ、何もしてこない紫の顔をじっと見つめている。
子狐はいつの間にか暴れる事を止め、身体に絡まった縄はそのままの状態で地面に静
﹁キュー⋮﹂
﹁う﹂
437
く、紫の方へと進もうとしていたのだ。子狐が何を考えているかは紫には分からなかっ
たが、しかしその姿は紫の中の何かを強く掻き立てた。
必死に紫の方に進もうとする子狐、だがそれに反し身体は一向に進む様子はなかっ
た。ふかふかした尻尾はもぞもぞと動く子狐の身体に合わせてゆるゆると揺れ動き、や
がてへたりと地に垂れた。
︶
!!
まっていることに、紫は気づかない。
けが頭の中で暴走する。いつの間にか、罠から解放して逃がすという選択肢も消えてし
う連れ帰るかというプランすらすぐには浮かばず、連れ帰ってどうするかという妄想だ
もうこのまま子狐を置いて去る、という選択肢は紫の中にはなかった。かといってど
想像の中だけで。
尾を存分に堪能し、小さな身体をぐりぐりと撫でさする。
たまらず子狐を抱きしめ、そのたまらない小動物的な愛嬌に悶絶した。ふかふかの尻
その様をつぶさに見つめていた紫は、心の中で絶叫をあげる。
︵かわいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ
声を漏らし、尻尾に続き少し持ち上げていた上体をぺたんと地面につけてしまった。
自分の行動がまったく無駄なことに気づいたのか単に諦めたのか。子狐は切なげな
﹁キュゥ⋮﹂
キュッキュッキュー この話の主人公は狐である
438
︵そうだわ、今の私は人間じゃないんだから、無理に人間のルールに従うことは⋮ないわ
よね。あ、でも今はウカノ様の屋敷に暮らしてるんだし、お伺いをたてなきゃいけない
かしら。でもあの人は絶対反対するわよね。﹃郷に入りては郷に従え﹄って。大抵のこ
とは大らかというか不干渉なのに、なんでこういうことにはお堅いのかしら︶
なんとか自分の中に理由をつくろうと苦闘する紫だったが、こういう時に限ってなか
なかいい案は思い浮かばなかった。既に罠から助けることが前提として決定している
ゆえに、視野が狭まってしまっているのだ。
とか適当な言い訳を言えばいい。証拠はないのだから、ばれはしないだろう。
罠から解放した後に子狐を連れている紫を誰かに見られたとしても、
﹃森で拾った﹄だ
り進んでいないこの時代、獲物が逃げ出すことはよくあることだったのだ。
げられたということで片付けられるだろう。白式や紫がいるとはいえ、罠の開発があま
縄をほどき罠を元の状態に戻しておくか、最悪そのままにしておいても、おそらく逃
してしまう。
いわゆる泥棒の類ではあるが、しかしそんなものは子狐救出の大儀の前にほっぽりだ
︵ばれなきゃ、大丈夫よね︶
が、そんな葛藤も子狐の鳴き声ですぐに吹き飛んでしまった。
﹁キュゥ﹂
439
そこまで考え、紫の顔に喜びが浮かぶ。
白式が嘘を見抜くことはすっぱり忘れてしまった、緩んだ笑顔だった。
子狐を見つけてから数分、ようやく再び動き出す紫。紫は後退しようとしていた足を
︵そうと決まったら、急がないと。陽も昇ってきたし、誰かが今来ないとは限らないわ︶
戻し、子狐の前で少し身をかがめた。
﹁まーったく。罠ぁ仕掛けとるん忘れるんて、おまどうしよらね。昨日のうちにみんな
が、次の瞬間そのテンションゲージは一気に0へとすとんと落ちた。
んと上がりっぱなしだった。
る。その様子がさらに紫を行為へと駆り立てた。紫のテンションはさっきからずんず
めていた。手が伸ばされても警戒した様子はなく、おとなしく紫の行為を見守ってい
一方子狐はといえばそんな紫を、何をするでもなく相変わらず静かにじーーーっと眺
︵どきどき︶
は言われないだろう。そうに違いない。
が。しかし縄に触る前に、うっかり子狐を撫でてしまってたしても、きっと誰にも文句
・・・・
そろそろと、子狐の方へと手を伸ばす。正確には子狐の身体に絡まっている縄に、だ
︵どきどき︶
キュッキュッキュー この話の主人公は狐である
440
集めとんやろ
﹂
?
Ж☆
︶
!?!?!?
らなかった。
が、その三秒が致命的だった。
?
﹁だーらそれはこの前おまがどうしても言うてから⋮⋮ん
﹂
紫の逡巡はまさに一瞬。子狐へと飛びつき縄から解放することはものの三秒もかか
を迫られる状況だった。
れとも縄を引きちぎって、姿を見られないうちに逃げられることに賭けるか、急遽選択
だが現状はそんな事を考えている場合ではなく、このまま子狐を置いて逃げるか、そ
別の話だし、それも二十年前の話だ。
こんな状況で、グッドタイミングで助けられたような気もするが、それとこれとはまた
さに最悪のタイミングで現れた彼らに、紫は惜しみなく恨めしい感情を贈った。以前は
突然、すぐ近くから聞こえてきた声に紫は飛び上がって驚いた。このタイミング、ま
︵○♯♪
×
具忘れた時は、おらが助けてやったとかぁ。お互い様だがや﹂
﹁だら、悪かった言うとばやー。こうすて今日きたんの、勘弁してな。第一、おまんが道
441
﹁およー
だれぞおるんかいな﹂
こそ見られなかったものの、ほぼ現行犯である。
え、紫の足元には途中で縄が千切れた罠が転がっている。まさに決定的、犯行
﹁キュ
﹂
?
心地よさそうに鳴いて小さく首をかしげた。
子狐を抱き締めてうめく紫とは対照的に、抱き締められた子狐は無邪気に、そして居
?
の瞬間
何せ、子狐を抱きかかえているところをばっちり見られてしまったのだ。あまつさ
めに、余計に気まずかった。
入る際には一人では絶対に入らないためだ。そして紫も二人の顔には覚えがあったた
その時茂みから現れたのは、里人の二人。以前同様二人組みだが、これは里人が森に
?
﹁うぅ⋮﹂
キュッキュッキュー この話の主人公は狐である
442
気になる視線はスキマから
紫は焦燥の混じった頭でぎゅるぎゅると思考する。多彩な言い訳が泡のように浮か
び上がり、そして泡のように消えていった。どのパターンも、最終的には子狐を渡すこ
とになってしまう。そうして、どの言い訳も紫自身で考えた瞬間に棄却していくのだっ
た。紫の考える言い訳は言い訳らしくどれも合理的で理路整然としたもので、〝可哀想
〟などという紫本来の感情など入り混じる隙はなかった。
理性的で感情的な一見相反した紫の内面、うまく扱えば十分な利点でもあるそれは、
この時に限ってはマイナスに働いていた。
︵いっそ能力を使って記憶を消す 駄目だわ、自分の境界だってまだ満足にいじくれ
443
その間僅か0.3秒、しかしその一瞬の間にも状況は悪化の一途を辿る。
み出すこともない。
あまつさえ能力を使って実力行使という思考さえ浮かぶが、失敗を恐れその一歩を踏
のウカノ様でもきっと怒るわよね︶
ないのに、他人のだなんて。もしも失敗してこの人達の境界を狂わせようものなら、あ
?
﹁トリさーん、ニワさーん。こんな朝早くに二人だけで森に入るのは止めてくださーい。
私も同伴させるようにって、前言ったじゃないですかー﹂
朝日の照らす森の上で、声が聞こえたのは丁度その時。その声は失敗を隠そうとする
里人を探しに来たタクリの声だった。
こうなってしまっては能力行使、ついでに考慮していたわけではないがその他の実力
行使も不可能。理由は単純明快、現時点の紫ではタクリに勝てないのだ。妖力や強力な
能力を合わせての総合力は紫の方が断然上だったが、経験の差か仮に戦闘となればタク
リの方がまだずっと強かった。それでも、初代名代の全盛期の方が強かったというのだ
から恐ろしい。能力の有る無しを加味せず、だが。
あらゆる可能性を塞がれ、紫は思わず子狐を抱いたまま一歩後ずさった。
︵どどどどうしよう︶
﹂
?
最も困惑していたのは、事の当人でもある足を踏み外した紫だった。
・・・・・・・
分からず、それぞれが直面した現象に唖然とする。
その時、間の抜けた声がその場で唱和された。どの声が誰のものかは発したものすら
﹁え﹂
﹁は
﹁あれ﹂
気になる視線はスキマから
444
混乱したまま意図せず一歩足を引いた紫だったが、しかし足を引いた先では何故か地
面がなくなってしまっていた。その拍子に、紫の上体は完全に崩れてしまう。
無論ここは森の中、決して崖っぷちだとかそういうわけでもなく、どこぞ竹林のよう
に唐突に落とし穴があるわけでもない。しかしそれにも関わらず、紫の足を引いた先に
は何も無く││いや、というよりそこにあったのはぽっかりと口を開いた真っ暗な穴。
しかも、その穴の中には何故かきろきろとあちらこちらを見つめる無数の目が⋮。
﹁地獄は、特に変わりはありません﹂
だった。
それを一から十までしかと見ていた里人二人は、最後までぽかんと口を開けたまま
不気味な穴。
の姿が完全に消えてしまった後に、それを追うように何事も無かったかのように閉じる
そうして、紫はそのまま悲鳴をその場に残し、穴の中へと消えていったのだった。紫
自身の直面した最高にホラーな光景に、紫は飛ぶ事も忘れて悲鳴をあげる。
﹁きぃやああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ││⋮⋮⋮﹂
445
閻魔の使いの死神は、山道を歩いていた俺を見つけるなり前置きもそこそこにそう
言った。
西方から戻ってからこちらも閻魔のところへと式を飛ばしていたが、わざわざ死神を
こちらに寄越してきたのは少し予想外だった。
用件は無論ここ最近の地獄の様子である。ひいては地獄にある封印のこともだが。
黄泉、煉獄、色々な名で呼ばれるが、今は地獄と呼ぶのが共通らしい。ならば閻魔の
いる空間はさしずめ冥府と言ったところか。
今回のことで
?
んだが﹂
思い当たる要因といえば、あそこしかない。何もない、なんてことはありえないはずな
﹁封印⋮今は大灼熱地獄の辺りだっけか 本当に何もなかったのか
?
だった。それならそれ以前⋮そう、俺が意識を飛ばす前はどうだったのだろうか。世代
クがあるなら流石に関係ない、のか。いやまて、確か地獄はしばらく止められてたん
数億年⋮今日から遡り、恐竜謳歌が始まる時代あたりからだろう。そこまでのブラン
魔の知っていることをそのまま俺に言っているに過ぎない。
た。ちなみにこの死神は、自身が数億年生きて体験をしていた、というわけではなく、閻
鎌を持った着物姿の死神は、赤い髪の生えた頭をふって、丁寧な物腰で俺に否と答え
﹁いえ、ここ数億年ほど、小康状態を保っているようです﹂
気になる視線はスキマから
446
を越えるほどのインターバルだが、もしかしたら何か痕跡や兆候か何かがあるかもしれ
ない。
﹂
?
﹂
?
﹁あー⋮。大体予想はつくが、原因は
﹂
性も示唆され、またそれも加味したその他の事情により凍結することになりました﹂
前のこと、大灼熱地獄が活発になっていた時期があるそうです。封印に異常がある可能
﹁はい。私はもちろんのこと生まれていなかったので知らないのですが、凍結される以
﹁二つ
と、ふらつかせていた視線を俺に戻して、死神がそう言った。
﹁二つ、あるそうです﹂
魔に任せる気満々だったのでそれほど気にしていなかった。
マテラスのせいでうやむやになったというのも事実だが、俺もあの時は地獄のことは閻
しかし、こんなことなら以前行ったときにもう少し詳しく聞いておくべきだった。ア
この場合は閻魔と念話でもしているのだろう。
少し首を傾げ、視線を宙に迷わせる。言うことをためらっているようにも見えるが、
﹁ん⋮﹂
の全機能は凍結されてただろ。その凍結以前なら、何か異変はなかったのか
﹁⋮じゃあ、恐竜真っ盛りの前、月人の連中が地上にいた頃はどうだ。かなり長い間地獄
447
?
﹁おそらく、その時期に地上で起きた爆発の余波かと﹂
﹁やっぱりか⋮﹂
地上の生物のほとんどを死滅させたらしい、ついでに俺を完全に殺しかけたあのあほ
み た い な 爆 弾。今 は 月 面 で 暮 ら し て い る だ ろ う ツ ク ヨ ミ の 仕 掛 け た 最 後 っ 屁 で あ る。
何か能力でも使ったのか、地上のみに作用するように作ったようだが、さすがに破壊の
余波は免れなかったらしい。アマテラス曰く、天界の方でも少し騒ぎがあったようだ
が、それはイザナギが収めたとか。
こんにち
﹁厄介な爪あとを残してくれたもんだ、阿呆め﹂
﹁しかし今日までの空白期間を考えれば、こちらは直接の関係はないのではないでしょ
うか。大灼熱地獄も現在は大きい動きは確認されていませんし﹂
あいつなら地獄に時々来てるだろ﹂
?
責任は果たすさ。⋮と、そんな感じで伝えといてくれ﹂
上に残ってるのも未練みたいなところがあるしな。そうして残っている以上、最低限の
﹁丸投げかよ、あいつらしくないなー。⋮ま、いいや。俺がアマテラスの誘いに乗らず地
﹁﹃万が一の時は任せる﹄と﹂
テラス通じて伝言か何かはあるんじゃないか
だしも、今は上にいるし、まだしばらく下に降りられないだろうしな。そういや、アマ
﹁んー。どちらにしろ、あそこの封印は俺も迂闊にはいじれない。イザナギがいればま
気になる視線はスキマから
448
﹁分かりました﹂
ツクヨミ関連以外となると、俺もさっぱり分からんな﹂
?
﹂
?
いつを、そこらの侵入者ごときが倒せるものか﹂
﹁ありえないだろ。あそこには確かイザナギが門番を置いてたはずだぞ 神獣級のそ
﹁はい﹂
﹁そいつは、裂け目から侵入したのか﹂
なく、また別の││
の者では通れない障害があるはずなのだ。それは入り口を塞ぐために置かれた岩では
は裂け目を通って侵入したのだろうが⋮あそこには空間的な隔たりとはまた違う、普通
れているため、〝侵入者〟などと表現することはないだろう。となると、侵入者とやら
空間の穴か、あるいは昔イザナギが使った地の裂け目しかない。前者は通れる者が限ら
地獄への入り口は、俺やイザナギ、アマテラスのように高次の者だけが通れる特殊な
﹁⋮はぁ
方に侵入者があったようです﹂
﹁異変と言うほど大きなことでもなかったのですが⋮先の件が起きる少し前に、地獄の
目の内容について促した。
俺の言葉に頷く死神を見ながら、俺は〝地獄であった変わったこと〟の気になる二つ
﹁それじゃ、二つ目は
449
?
イザナミさんを封印し、地上に戻る前にイザナギは穴を岩で塞いだ。しかしその前
に、イザナギは岩の向こうに誰をも拒む門番を置いていたのだ。
一本の剣を核に、地獄の濃い禍気で形成された肉体を持つ八又の頭の大蛇。妖怪のプ
ロトタイプともいえるそいつは、イザナギの直接創造対象であるがゆえに、そして地獄
の環境もあいまって地上の妖怪より一線を画す力を持っていた。
それこそ俺かイザナギ、マガラゴ、あるいは三貴子あたりでなければ相手ができるよ
うなやつではない。
回ってしまったようですが⋮オロチが倒されているのは確認されたようです。ただ、核
﹁しかし、事実そこ以外に侵入口はないようでした。当時の地獄には鬼もおらず、後手に
たる剣と、地獄に入ったはずの侵入者はどこにも見つからなかったそうです﹂
なるほど。八又の大蛇が倒されて、侵入者と、ついでに剣も見つからなかった、と。
ふーん、どこかで聞いたようなお話かもしれない。
﹂
?
﹁はぁ⋮﹂
﹁いや、なんでもない。大体分かった﹂
﹁は
者が誰かなんて一目瞭然じゃないか﹂
﹁⋮いや、失念してたな。〝ヤマタノオロチ〟を倒したのが誰だったか覚えてれば、侵入
気になる視線はスキマから
450
怪訝な表情をする死神はおいて、俺は視線を少し下げて物思いに耽った。
あれを倒せるのは、俺が知る限りで俺、イザナギ、マガラゴ、三貴子。第三者の可能
性は⋮材料がない以上今はともかく放置。
俺とイザナギは元よりありえない。マガラゴはあの当時は人間との諍いに終始して
いたので、無理。ツクヨミもほぼ同様で、それにあいつが都市を離れることはほとんど
なかった。そしてアマテラスはあっちのルートを使う理由がない。冥府に行きたいの
ならば、わざわざ地の裂け目を使う必要はないのだ。
﹂
﹂
ならば、残るは⋮
﹁ん
?
手 を 煩 わ せ て 悪
?
﹁あ、いえ、構いません。地上の動向も、私達側では重要なことですので。⋮それではウ
の時間が必要らしい。そりゃ忙しいわ。
化も計画されているようだが、現在の業務を滞らせるわけにはいかないせいで千年単位
以前以上に人間が増えてきたために、地獄の方でも改善改革で慌しい。地獄のスリム
かった﹂
﹁い や、ご 苦 労 様。も う 帰 っ て い い よ。地 獄 の 方 も 忙 し い ん だ ろ
うつむかせていた顔を上げた俺に、死神は鎌をかちゃりと鳴らしながら首を傾げた。
﹁はい
?
451
カノ様、これで失礼いたします﹂
﹁はいよ﹂
死神は深く、丁寧に頭を下げると、きびすを返すとともに足を一歩踏み出した。
そして、その動作ひとつで彼女の姿が俺の目の前から掻き消える。術の気配はなかっ
たので、何か能力を使ったのだろう。
﹁紫やツクヨミみたいな空間系かな﹂
一歩で、一瞬で遠く離れた場所まで移動した死神を意識の端で確認し、つぶやく。
正確には空間操作に限定された能力ではないが、間接的にしか使えない俺より間違い
なく長けているだろう。
﹂
?
このまま視線の主が逃げる気ならば、俺は何もできないだろう。俺の能力は大抵のも
姿を消している、というわけではないらしい。
る。
目の擬態も解いてみたがそれでも姿は見えず、手を伸ばしてみたがそれも虚空をき
覚。
し俺の感覚は確かにその方向からの視線を捉えていた。ちくちくと感じる、独特の感
と、俺は意識を切り替えてある方向に目を向けた。そこには誰もいなかったが、しか
﹁さて、それで、何か用か
気になる視線はスキマから
452
のに対応できるが、どうにも初見の能力相手には弱い。
なんだ、紫か﹂
?
い。こちら側にいるより、亜空間の中にいる方が心地いいとまで言い出す紫は、確かに
うろたえたもののすぐに持ち直し、むしろ自分に合った空間であることに気づいたらし
いた空間で、逃げようとしたときに勝手に開いたとのこと。最初こそ近年稀に見るほど
何故か妙に緊張している紫は、俺の問いに素直に答えた。曰く、境界を操る能力で開
中にあまり居たら酔いそうだな﹂
﹁あんだけじろじろ見てりゃ、空間隔ててようが分かるわ。何だその悪趣味な空間は。
緊張と、何故ばれたのか、という表情が見て取れる。どうも紫の表情は読みやすい。
俺がそれを見ながら無言でいると、そこから紫がおずおずと顔を出した。その顔には
カオスすぎる光景が広がっていた。
ンで縛られており、さらにその向こう側には無数の目がきょろきょろと頒布していて、
ついたバッグを開いたかのような口が、ぽっかりと宙に浮いている。何故か両端はリボ
すると、俺が見ていたあたりの空間がぱくりと横に裂け開いた。まるでファスナーの
﹁ん
﹁││⋮⋮﹂
せてくれないかな﹂
﹁おぉい、このままじゃ俺が可哀そうなやつになるだろ。用があるんならさっさと顔見
453
リラックスした表情をしていた。この様子では、将来は覗き見が趣味になるかも知れな
い。
が逃げを選ぶような相手はいなかったと思うんだが﹂
﹁その空間のことは分かった。しかし逃げようとしたって、何なんだ。この近辺には紫
しかし俺がそう問うと、紫の表情は再び緊張で強張ったものになった。
紫は少し固まっていたが、やがてそろそろと腕を持ち上げ抱えていたものを俺の方に
見せた。
﹁キュ∼⋮﹂
﹁⋮何だこいつ﹂
その身体
紫の差し出した腕の中にいたのは、目を回した子狐だった。でろーっとだれてどこと
なく気持ち悪そうにしているのは、あの亜空間に当てられたせいだろうか
しかし、この狐を差し出してきた紫の意図が、俺には分からなかった。
ろうか。俺と体毛の色は違うが、俺の弱かった獣時代を髣髴とさせる。
は紫に抱えられるほど小さく弱弱しい。それから考えると、巣立ちして間もないころだ
?
﹂
﹁この狐がどうかしたのか あんまりにも可愛すぎて、親狐からさらってきたとかか
気になる視線はスキマから
454
?
冗談めかして聞いてみると、紫は首を横に振った。
?
﹁その⋮実はこの子が罠にかかってて。それで、つい連れてきちゃって﹂
﹂
か。
!
﹁話が見えない。結局、何から逃げてたんだ﹂
?
﹁だから 人の獲物をとっちゃったから、私は里人やタクリから逃げてきたの
里
しかし、だからどうだというのだろう それでいったい何から逃げていたというの
罠から解放し、それから連れてきた、と。
言葉足らずに語る紫に俺は首を傾げた。子狐が罠にかかっていたのを見つけたので
﹁
???
﹁⋮何を
﹂
﹁もしかして、紫は知らなかったか﹂
それにしても獲物って。
はおけなかったのだろうが⋮
ているのが、俺には意外だった。ある意味一目ぼれのようなものか、どうしても放って
いている紫も最近では妖怪側に染められてきていたが、それだけにここまで必死になっ
子狐一匹を間において、やけに悲壮な表情をしている紫。人間と妖怪の境界でふらつ
なくて﹂
から逃げようと思ったけど、や、やっぱり離れがたくて。もうどうしたらいいか分から
!
455
?
﹁この里じゃ狐は禁食なんだよ。もしも狐が罠にかかっても、逃がすのが常になってる﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ぇ﹂
ピシリと固まった紫を、少し憐れに思う。何せ悲壮な覚悟をして、ずっと一人で空回
りしていたのだから。
ここらでは狐は食卓に上がらず、そして里人達には当たり前という認識で浸透してい
るために誰かと話していてもまず話題に上がるということはない。それゆえに今まで
知らずにいたのだろうが⋮少し考えれば分からないだろうか。ここの神をしているの
は俺、というか〝狐〟なのだ。別に俺が制限したわけではなく、彼らが勝手に禁食した
のだが、確かに自分たちが崇める者と同族の肉を進んで食べることはしないだろう。
ましてや食物の豊富なこの地ならば、なおさらだ。わざわざ食べずとも余裕があるの
だから。
この習慣が通例化したのも、随分と昔のこと。今では人間が人肉を食べないことと同
じほどの意識レベルで定着してる。
呆然としたり、うろたえたり、安堵したりと忙しなく表情を変えていた紫は、最後に
﹁それじゃあ、私はこの子といていいのかしら﹂
気になる視線はスキマから
456
少し不安をにじませながらそう言った。
それはそいつ次第だろ﹂
?
﹁いや、私は分からないから。何それ、狐語、とかかしら
﹂
のものなので、読み取れる情報は非常に大雑把で、もしも詳しいことが知りたければ自
俺は大体狐限定だが、その鳴き声を読み取ることができた。しかしあくまで合図程度
ないし、意思のやり取りをするならば鳴き声の合図さえあれば、それで十分なのだ。
妖怪化しているならまだしも、動物は基本言葉を持たない。それほどの頭は持ってい
﹁⋮⋮︵イラッ︶﹂
﹁ははは、馬鹿だなぁ。そんなものあるわけないじゃないか。何を言ってるんだ紫は﹂
?
たな紫﹂
﹁ほうほうなるほど⋮そうか。キュッキュッキューと。⋮うん、分かった。││よかっ
と鳴いた。
﹁キューキュ、キュッキュキュッキュ。キュー﹂
いたが、おもむろに、
当初目を回していた子狐はもう持ち直したのか、きょろきょろと俺と紫を交互に見て
もなく、当事者である子狐だ。
俺は、それに子狐を指差しながら答える。そう、決めるのは俺でもなく、紫のエゴで
﹁さぁ
457
前の頭で相手の意思を補填しなければならない。
つがい
﹁結構、紫に懐いてるらしい。こいつも紫と寝食を共にしたいそうだ。あ、別に番になっ
﹂
て欲しいって意味じゃないから﹂
﹁え、ホントに
﹁ほんとほんと﹂
?
ということで。
?
と思いながら詳しい話を聞いてみると、どうやらその姿はまだ確認して
!
いないが、空間に穴を開けて紫をさらっていったらしい⋮。それを目撃した里人二人の
づかなかった
聞くところによると、何でも紫以上の妖怪が里付近に来ているらしい。え、マジか、気
ついでに、紫と入れ違いにタクリが慌てた様子でやって来た。
プ
気揚々と亜空間に戻っていった。また子狐が目を回しそうだが、まぁそれもスキンシッ
一応罠を回収に来た里人にはこのことを言っておいた方がいいということで、紫は意
それから本当に嬉しそうな笑みを浮かべて、子狐を抱きしめるのだった。
なる。それを紫がおかしそうに笑った。
まるで言葉を理解しているかのような反応を子狐が返し、故意か偶然か俺の返事と重
﹁キュー﹂
気になる視線はスキマから
458
459
話によると、紫は突然の自体に何もできずに悲鳴をあげながら穴に落ちていったとか。
幸いその里人二人は襲われることなく無事で、そのまま里に戻ったが、連れ去られた
紫が心配だ、と焦燥をにじませながら語るタクリ。
その犯人紫じゃね。
つまるところ、キツネは普通3∼4年、長くとも10年ほどしか生きることは出来な
獣、ひいてはキツネが妖怪化することは極稀なことだった。
ツネとしてその生涯を終える。ましてや、そのイメージが根付く前の日本においては
ただ、そうして妖獣化するキツネなどはそれこそ全体の一握りで、他の大半は獣のキ
ネの溝は深まった。
それらのキツネへのイメージは、むしろ妖狐を増やす切欠ともなり、余計に人とキツ
口伝などがキツネのイメージダウンに拍車をかけることとなった。
歩きし始め、だんだん悪い方向に進んだのも事実で、その上海外からの悪狐、九尾狐の
を感じさせるほどのかわいい俗説でしかなかった。ただその話がいつの間にかひとり
ほどキツネに親密だ。人を化かすいたずら好きの動物、そんな話もむしろ当初は親近感
ネを精霊や妖怪として見る民族は日本以外にもあるが、日本においては信仰とも言える
日本において、キツネといえば大抵は茶色っぽい毛のアカギツネのことを指す。キツ
紅と紫と藍
紅と紫と藍
460
461
い。
らん
例え体毛が茶色であろうがなかろうが、キツネであるのならば、それは仕方のないこ
とだ。
紫が拾った子狐には、紫自身が自分の名前に準えて〝藍〟と名付けた。藍を罠から解
放したことに関しては、紫の妄想していたような悶着は無論なく、藍の存在は里でも概
ね好意的に捉えられた。紫の後ろをちょこちょこと健気に付いて回る姿を見て、誰が文
句を言えようか。
ただ、もっとも顕著な反応を示したのは意外なことに紅花だった。藍を見て目を輝か
せ、撫でようと手を伸ばしていた。当の藍にはすげなく避けられていたが。
藍が白式や式神の狐と違い、純正の狐であったことも理由のひとつだが、それ以上に
紅花よりも子供っぽい藍の様子に興味をひかれたのだ。まるで自分よりも年下の子供
を見つけた子供のように、紅花は藍を追いかけるようになり、自分に目を向けさせよう
と夢中になった。
しかし藍はといえば、紫の後を追いかけるばかりで紅花の方には目もくれない。紫
に、以前ほど露骨ではないにしろあまり近寄りたがらない紅花としては、それはけっし
ておもしろいことではなかった。
﹁バリバリ。ボリボリ﹂
﹁ムギュー﹂
その日、紅花はようやく隙を見つけて藍を捕獲した。紫と白式が話があると屋敷の奥
に引きこもり、その間藍が置いてけぼりにされていたのでその時を狙ったのだ。
縁側に座り、白式の焼いたせんべいをかじりながら紅花は藍を抱きしめる。無論手加
減はしているが、もともとの力が強い上に手加減そのものも得意ではない紅花にとって
は、つぶしていないこと自体が上出来と言えた。
藍は紫に置いていかれしょんぼりしていたところを紅花に捕まえられ、最初こそ暴れ
﹂
ていたが今は紅花の腕の中で居心地が悪そうに、しかしぱっと見は大人しくしていた。
﹁食べる
べいではなく醤油せんべいだったのは、無論紅花が少なからず気を使った結果ではあっ
紅花のついと差し出した醤油せんべいも、ふいっと顔をそらして拒否する。激辛せん
?
たが、しかしそれもあくまで紅花の都合である。紅花の心遣いも、藍の知ったことでは
ない。
﹁むー﹂
紅と紫と藍
462
したたかに拒む藍に、紅花は頬を膨らませる。万単位で藍や紫よりも歳上のくせに、
それを感じさせないほど紅花は精神的に幼い。
この原因は紅花を創った白式も知らないことではあるが、白式自身が自分にそうあれ
かしと願ったせいである。紅花はもともと白式の寂しさを発端として生み出された存
在で、白式の理想や願望が多分に篭められている。紅花が白式のコピーでありながら情
緒豊かなのも白式の願いのためであり、そうするには必然的に幼い精神のままでいる必
要があったのだ。他人と触れ合うようになりそれも改善されつつあるが、まだまだ時間
が必要だった。
せんべい食べろとは言わないけど、ねぇ、私と遊ぼうよー﹂
!
﹁⋮⋮﹂
﹁ねえねえ遊ぼうよー﹂
花の望んでいたことなのだ。
して不機嫌になりかけはしたものの、それでもこうして身近で藍に触れられることは紅
れる。反対に紅花は楽しそうに藍の頭を撫でた。思い通りになってくれないことに対
抱きついたまま藍の身体を器用に揺する紅花に、藍は対応に疲れたとばかりにうなだ
﹁キュー﹂
よ
﹁紫は母さんとお話中なんだから、今はお姉ちゃんと大人しくしてなきゃいけないんだ
463
そっぽを向く藍を、紅花が笑顔で追いかけ覗き込む。それを避けるようにまた藍が他
所を向き、またそれを追いかける。だんだんと楽しそうになってくる紅花、そしてそれ
とは対照的に藍はただ鬱陶しそうにしている。しかし、それを繰り返していると突然藍
﹂
がもぞもぞと動き始めた。どうしたのかと紅花は聞こうとしたが、それは背後からの声
に遮られた。
﹁何やってるの
﹁⋮⋮紫﹂
﹁あ、もしかして藍と遊んでくれてたのかしら
﹂
紅花を見つめる紫の視線から逃れるように、今度は紅花がそっぽを向く。
かなかった。
た。その顔には少し蔭があったが、白式以外の他人の顔色にうとい紅花はそれには気づ
白式との話が終わったのだろう、紫が腰に手を当て怪訝な表情で紅花を見下ろしてい
?
?
に、絶対に目を合わせないことが癖になっていた。付き合いのあまり長くない紫ですら
いつも相対していたのが白式なせいか、紅花は嘘をつく時はその眼力から逃げるよう
ふてくされたように紫の問いに答えた。
紅花自身、藍を無理やり拘束していたことは自覚しているのか、そっぽを向いたまま
﹁⋮⋮うん﹂
紅と紫と藍
464
それを知っており、それゆえ頷いた紅花が嘘をついているということは紫にはすぐに分
かった。
﹁そう⋮⋮。ありがとう、紅花﹂
しかし、紫はそれに気づかない風でニコリと笑ってお礼を言った。
紅花が紫を避けているからといって、紫が紅花を敵視しているわけではないのだ。む
しろ同じ屋根の下で暮らすうちに、外見に似合わず中身が子供の紅花を微笑ましい目で
見るようになっていた。
今藍をがっちり捕まえていることも、藍がぱたぱたと暴れていることも見えてはいた
が、紅花がいつも藍と遊びたがっていたことも知っていたので、嘘をついていることも
含めて大目に見ていた。
﹁⋮⋮﹂
嘘を言ったのにお礼を言われた紅花は、バツが悪そうに藍を抱きしめていた力を緩め
た。藍はその隙に紅花の腕の中から飛び出し紫の胸に飛び込んだ。
﹁キュー﹂
﹂
目をそらし立ち上がった。そうしてどこかへ行こうとする紅花を、それに気づいた紫が
紅花は楽しそうに言葉︵鳴き声︶を交わす紫と藍を羨ましそうに眺め、しかしすぐに
﹁お帰り。うーん、ただいま、かな
?
465
呼び止める。
﹁あ、ちょっと待って﹂
﹂
?
に答える。紫は特にそれを気にはせず、気になっていたことを聞いた。
紅花も、同じような子狐の式神は作れるでしょう
?
紫の言ってることはおかしい。同じじゃないの、全然違うの。だって、私が作るの
き、首を傾げながら答える。
が、それは紅花には考えることもないような質問だった。不思議そうな顔で振り向
﹁どうして藍なの
﹂
でもあったのか素直に立ち止まった。しかし、振り返らずに立ち止まった体勢のまま紫
普段は聞こえないふりをしてそのまま行ってしまう紅花だったが、今回は後ろめたさ
﹁⋮⋮何
?
となんじゃないかしら
﹂
﹁生き物じゃないって⋮⋮そうかも知れないけど、姿かたちは似てるのだから些細なこ
は生き物じゃないの﹂
﹁
??
?
好きなの。何も入ってないのは、母さんはおいしいっていってたけど、私はつまらない
藍とは全然違うの。お餅も、私は何も入ってないのより、らーゆが入ってるお餅の方が
つ式神は中身がないんだって。式神は何体いても何匹、何人にはならないの。だから、
﹁全然違うの。見た目が似てるだけじゃ全然ダメなの。母さんが言ってたの、はんじり
紅と紫と藍
466
の。だから、式神と遊ぶより、藍と遊んだ方がずっとずっと楽しいの﹂
紅花は、頭の中では話すことが分かっていても、明確な言葉の羅列にして伝えること
はあまり得意ではない。長文を話す時はいつも、普通の相手では少し分かりにくい内容
になるのだ。
しかし頭の回転が速い紫は紅花の言わんとしていることをすぐに概ね理解し、再び問
いを重ねる。
ウカノ様は確かその
?
私は、母さんの創った式神だよ。私の本体
?
持っている式神だから、母さんのゆいいつの子供なの﹂
は、魂と同じぐらいの力を持つ式玉なの。私は式神だけど、他と違ってゆいいついしを
﹁そうだよ。紫は母さんに聞いてないの
﹁ちょっと待って。それじゃあなたもまるで式神みたいな言い方じゃない﹂
違うんだって、言われたの﹂
も何となく感じてればそれでいいんだよって。私には魂が入ってるから、他の式神とは
いことを言ってたんだけど⋮⋮よく分かんなくて忘れちゃったの。けど、分からなくて
﹁うーん⋮⋮そう考える方が分かりやすいって母さんは言ってたの。本当はもっと難し
方面の分野に詳しいのよね﹂
もかく、あなたの言う〝中身〟って、魂とかそういうのかしら
﹁大体分かったわ。それで⋮⋮ラー油入りの餅が妙に気になるけど⋮⋮いえ、それはと
467
﹁え⋮⋮﹂
聞いてない。
そう口から言葉が出ず、紫は改めてまじまじと紅花を眺めた。⋮⋮今更ながらに、紅
花と白式が、そして二人の作る式神たちも同様に、似すぎていることを再認識する。二
人に限っては違いは表情と色だけで、体格背丈に至るまで何もかもが同じなのだ。
あるいは、仮にも神様なのだから命一つ作るぐらいは容易いことなのかもしれない。
そう思い直し、紫は一人頷いた。
式神は〝朱色〟や〝白色〟だけでも十分事足り
?
ない〟ともなるが、紅花は深くは考えなかった。無論、紫とて嫌味を言っているつもり
紅花は紫の言葉を大して気にもせず、紫の質問に答えた。解釈次第では〝紅花は必要
らない。
ただのキツネだったのか、どうしてあれほど節々が人間臭いのか、そのどれをも紫は知
は白式のことをあまり知らなかった。一体どれほどの時を生きているのか、本当に元は
は頻繁に会話はするものの、実際は白式があまり自身のことを語ろうとしないので、紫
紫は今度は聞きようによってはこの上なく失礼なことを紅花に聞いた。紫は白式と
るんじゃないかしら﹂
とん合理的な性格みたいでしょう
﹁けど、失礼だけど、ウカノ様はどうしてあなたを創ったのかしら。ウカノ様って、とこ
紅と紫と藍
468
はさらさらない。
﹂
?
﹂
?
﹁でしょう
﹂
﹁む⋮⋮むー、やだ﹂
う
﹁そうよ。あなたも、ウカノ様がいなくなるのは、ウカノ様に会えなくなるのは嫌でしょ
紅花は首を小さく傾げてそう聞くも、
﹁そうなの
私は嫌だわ﹂
﹁そうよね⋮⋮大切な誰かに会えなくなるのも、自分だけになってしまうのも、やっぱり
も本当に無感情であったのなら、こんな子供が生まれるわけがない。
る姿はまるで想像できない。しかし、改めて紅花のとぼけた表情を見て納得する。もし
意外そうに、紫はそうつぶやいた。あの終始無表情の神が、
﹃寂しい﹄などと言ってい
﹁さび、しい⋮⋮。あのウカノ様でも、そう思うのかしら﹂
そう思うの﹂
て思って、私を創ったの。大きいトカゲや自己のない式神とは友達になれないの。私も
一人だけになったの。それで、独りが寂しくなったんだって。それなら創ればいいやっ
﹁えっと、ね。ずーっとずーーーっと昔に、母さんの友達がみんないなくなっちゃって、
469
?
紫に言い返されるなりすぐに顔をしかめ、髪を振り乱して首を振った。その様子に紫
は苦笑し、それから今度は腕の中で大人しくしていた藍を見た。藍は紫を見上げ、紅花
と同じように首を傾げる。
﹂
﹁ねぇ、藍。私と一緒に、私の夢を叶えてくれる 長い時間がかかりそうだけれど、私
とずっと一緒にいてくれる
?
に聞いてくる
﹂
﹁んーん。私はキツネじゃないの。キツネの鳴き声は母さんしか分からないの。母さん
﹁⋮⋮ねぇ、紅花。あなたは藍がなんて言ったか、分かるかしら﹂
て、てしと紫の胸に前足を置いた。
た。藍の方は、紫の言わんとしていることを理解しているのかしていなのか一声鳴い
諦めの浮かぶ笑顔で少し悲しそうに、しかし仄かな期待を滲ませながら紫はそう言っ
?
⋮⋮んー、うー。私は藍に会いたいだけなの
紫は知らないの
!
﹂
﹁⋮⋮そう言えば、あなたとこうして長話をしたのは初めてね。これからもこうだと嬉
﹁ふーん﹂
﹁そうだったわね⋮⋮いえ、やめとくわ。自分で分かるようになりたいしね﹂
?
!
しいのだけど﹂
!
﹁そう﹂
﹁あ
紅と紫と藍
470
りにうたた寝をしていた。
そして今回の立役者である藍はといえば、そんな対照的な二人の間で我関さずとばか
が、そんな頑なな態度の紅花を見ていることも紫は嫌いではなかった。
の始まりが始まりだっただけに、紅花もなかなか素直に仲良くなろうとはしなかった
もともと、紅花が紫を避けていたのも本能からという曖昧な理由からだったのだ。そ
の距離は間違いなく近くなっていた。
紫はニコニコ笑いながら、紅花はふてくされた顔のまま、しかし藍を間において二人
﹁⋮⋮むー﹂
471
どうしてこんなことになってしまっているのか。
しまうかも分からないほどそれは薄弱だ。
ふんふんすーすーと、半ば無意識のうちに必死に呼吸は続けるものの、いつ途絶えて
頭の中はごった煮の闇鍋よろしく混濁し、思考は現在進行形で混沌と化している。
掻き、今自分が寝転がっているのかどうかすら定かではない。
いていた。身体を起こそうにも、下がどちらかすら分からない。足はいつの間にか宙を
立っているつもりで一歩踏み出せば世界はひっくり返り、気づけば背中は〝下〟につ
か。そんなことを思ってしまうほどの熱が、身体を蝕んでいる。
まい。今冷えた水に飛び込めば、自分の身体はひび割れて砕け散ってしまうのではない
たとえ砂漠の中央で中天に掲げられた太陽に焼かれようと、これほどの感覚は味わえ
頭も熱に侵され、視界も盛大に揺らめいている。
臓物も骨も筋肉も何もかもがぐらぐらと煮立っている。
熱い。たまらなく熱い。まるで身体中が沸騰しているかのよう。
ただちょっと間が悪かっただけ
ただちょっと間が悪かっただけ
472
473
今日は何があった
い。閉じられてゆくそれに抵抗する気力は、もうない。眠いというよりは、だるい。何
歪んだ視界が、少しずつ閉じられてゆく。どうやら目蓋にも鉛が乗ってしまったらし
けど、そんな余裕もなくなってしまった。
送り込まれているかも不明瞭で、まるで鉛が埋められたかのよう。吐いてしまいそうだ
もう足をから回せることすらできず、身体は完全に下に縫い付けられる。肺に空気が
熱い、熱いんだ、今は。
違う、違う。
い。
赤いのはそんなことはないと言っていたような気がするけど、自分にはよく分からな
いて、それでいて他を下に見ない。そのためか、他者との関わり合いもとても淡泊だ。
そういえば、神様が自分を撫でるのは珍しいことだったか。神様はいつも超然として
あの人が撫でて赤いのが撫でて神様が撫でて。
何もなかったのだ。
れは唐突で、発端はまるで想像がつかないし見当たらない。特別なことなどは一貫して
そうして気が付けば、身体が煮えたぎるような熱が内に生まれていて、この有様。そ
起きて、食べて、寝て、起きて、食べて、転がって。
?
ただちょっと間が悪かっただけ
474
でもいいから、早く楽になってしまいたい。
これを閉じてしまえば、自分は眠れるのだろうか。
何もかもを閉じてしまえば、自分は楽になれるのだろうか。
違う
このまま、永遠に消えてしまうのだろうか。
違う
!
⋮⋮⋮⋮違う
!
!
頭。動かない。
足。動かない。
びてみせよう。
神。たとえ閻魔帳に私の運命が記されていようとも、私はそれを噛み裂いてでも生き延
ことになろうとも、私は今ここでは死んではやらない。絶対に。だから、地獄へ帰れ死
だからあっちに行け死神。私はまだ生きている。たとえこの先未来永劫生き続ける
死ぬのを認めるのは、死んだ後だけだ。
それならば、私は死んでしまうその瞬間まで、生きることをやめない。
自分の行く先を決めたんだ。
永久の眠りなど、私は求めていない 私はあの人と約束したんだ。私は私の意志で
!
475
口。動かない。
舌。⋮⋮動く。
舌だけ動いたところで何が出来るというわけじゃないけれど。動かし続けていれば
意識が沈むことは避けられるだろうか。
そうだ。私は死ねない。死んで、たまるか。
鎌を、一度壁に立てかけ、床に横たわるその身体を抱き上げる。苦しそうに、細い息
を何度も繰り返している。服越しにも異常なまでの体温が伝わってきて、素肌をちりち
りと焦がす。目蓋は落ち切る手前でぴくぴくと絶えず動いている。身体は小さくふる
ふると震えており、その様はとても痛ましい。
その身体を片手で抱えたまま、壁に立てかけていた鎌を取った。
現代より二千年ほど離れたその時代でも、日本の四季はその様相を変えない。むしろ
冬の寒さは鋭さすらあわせ持ち、春の到来を震える生き物たちに切望させる。内陸部に
位置するその場所でもそれは変わらず、前年から新年にかけて降り積もった雪は現代の
東北にも負けないほどだった。
それらの雪が溶け、新芽がその下から顔を出す頃、何年経とうとおよそその様を変え
ないその屋敷の一角で、紫は藍を探していた。
まったく、どこに行ったのかしら﹂
はできない。
白式も、客が来る気がするとか言ってどこかに行ってしまい、藍の居場所を聞くこと
な違いももうどうでもいいことだった。
た。正確には覚えていないのではなく、思い出す能力が落ちているのだが、そんな些細
く日常に埋もれ、物事をあまり記憶しようとしなかった弊害がはっきりと表れ始めてい
ぼんやりとしか思い出せない記憶を、首をひねりながら絞り出す。のんびりと過ぎ行
だるまを作ると言ってた紅花を見送ったような﹂
﹁朝はいたし、昼にも顔を出していたし⋮⋮あら、その後私どうしてたかしら。確か、雪
春と冬の境目の縮図のようでもあり、その様は幻想的だった。
外の違いは見るに著しい。境内に近づけば近づくほど植物が芽吹き、雪が溶けている。
言おうか、結界と結界外の境界は張った当人の趣向で曖昧にはなっているものの、内と
定に保たれており、その吐いたため息が白く染まることはない。その中は常春、とでも
はぁ、と紫はため息をつく。この屋敷の敷地内は、白式の張った結界で環境はほぼ一
﹁藍│
?
﹁ぶーーん﹂
ただちょっと間が悪かっただけ
476
と、その時タイミングよく紅花がご機嫌にふわふわと飛んで帰ってきた。両手をお椀
のように重ねて掲げており、その手には小さな雪だるまが乗せられている。頬を赤く染
﹂
めながら、紅花はそれを見てにこにこと笑っている。
﹁あら紅花。お帰りなさい。早かったわね
﹂
?
に苦笑しながら答えた。
?
﹁何それ
﹂
﹁ふふ。抜かりはないの﹂
た。
しかし、紅花の表情は曇ることなく、不敵に笑いながら一枚の式符を懐から取り出し
う。
いるには適さないものでもある。ものの数分で、雪だるまは水へとかえってしまうだろ
快適な環境を保持している、結界の張られた境内。しかしその気温は、雪が溶けずに
﹁そうね。いいんじゃないかしら。でも雪だし、ここじゃすぐ溶けちゃうわよ
﹂
に降り立った。そして少し不格好な雪だるまをずいと紫の眼前に差し出す。紫はそれ
以前の紫への苦手意識はすっかり払拭され、紅花は無邪気な笑顔を向けながら紫の前
いやつもあるけど、それは下に置いてきたの。ね、紫。これ、うまくできたでしょ
﹁あ、ただいま紫│。うん、せっかく作ったんだし、これを藍に見せようと思って。大き
?
477
?
﹁母 さ ん に 作 っ て も ら っ た の。こ れ を 雪 だ る ま に 貼 り 付 け て お く と、溶 け な く な る ん
だって。えーと、雪だるまを構成する氷の結晶がほにゃらかで、水分子の分子間距離が
うんたらかんたら﹂
﹁あーはいはい。大体分かったわよ。相変わらず応用範囲の広い力ね﹂
言いながら、紅花はぺたりと式符を雪だるまに貼り付けた。外観は変わってはいない
﹁えー。けど、この程度なら能力を使うまでもないって言ってたよ﹂
﹂
?
﹂
が、しかし確かに何かの力が雪だるまを覆っていることが分かる。
﹁これで大丈夫なの。ね、紫。それで、藍はどこにいるの
いないの
﹁あら。そういえば私も探していたんだったわ﹂
﹁そなの
?
?
が、少なくとも今の時代とは一線を画していることは違いない。
休めるように換気面でも綿密に計算されている。台所は他とは違う造りとなっている
る襖の数もゆうに二十を越える。座敷には大小ともに余すことなく畳が敷かれ、快適に
この屋敷は数人で住むには無駄に広い。綺麗な板敷の廊下や軒先、それと座敷を隔て
そう言って、紫は開け放たれていた座敷へと上がった。
から、そのあたりを探してみましょう﹂
﹁ええ。多分、屋敷のどこかにいるとは思うのだけど。まだ探していないところもある
ただちょっと間が悪かっただけ
478
紫が探したのはそれらの座敷のうち、半分と少し程度。もしも藍が移動しているとす
れば、また同じところも探さなければならないが。
﹁ん。紫﹂
と、一つ目の座敷を終え二つ目に差し掛かろうとした時、紅花が紫を止めた。紫は怪
﹂
訝な顔で紅花の方を振り返った。
﹁何、いたの
﹂
﹂
むー、この感じ、前も感じたような感じたことないような﹂
﹁あっ、ちょ、ちょっと待って
﹁知らない。行ってみるの﹂
﹁どっちよ。⋮⋮ウカノ様の言ってたお客かしら
?
の屋敷に来た時に初めて入った座敷だった。
じきに紅花は一つの襖の前に立ち、そこを開け放った。その部屋は、奇しくも紫がこ
ていない座敷に行くのだからと、紫は自分を納得させた。
由に生きる紅花に、紫は小さく息を吐いた。藍探しは少し中断、どちらにしろまだ探し
は、おそらく好奇心に沸き立っているということを示しているのだろう。相変わらず自
襖を開けて座敷の外に出た紅花を、紫は慌てて追いかけた。ふりふりと揺れる尻尾
!
?
でもない⋮⋮
﹁違うの。奥の方の座敷に、誰か入ってきたの。むーん⋮⋮人間じゃないみたい。妖怪
?
479
﹁え
﹂
﹂
﹁む﹂
?
者であることは知っていた。白式は、どういうわけか冥界の関係者と交流があるという
聞いたところ、詳しいことは教えられなかったものの、彼女たちが死神で地獄からの使
同様の特徴を持った者が、白式と接触していたのを隙間から覗き見ていたのだ。白式に
紫にとっては五年ほど前、そう、丁度紫が藍と出会った日か。今目の前にいる女性と
?
た。
﹂
紅花も紫も、その女性に見覚えはなかったが、似たような特徴を持つ者を見知ってい
ころが、非常に特徴的だ。
つけは、肩に引っ掛けている大きな鎌である。刃部分が刃紋に合わせて波打っていると
かりでないことは明らかだ。鮮血のように赤い髪の色は、彼岸花を彷彿とさせる。極め
着物の襟は左前と、とても縁起が悪い。他に一寸の乱れもないところから、それがうっ
た。茶色い帯を腰で締めており、ついでにそれで大きめの胸を押し上げている。さらに
その部屋の中にいたのは、白色と青色を基調とした着物を着こんだ一人の女性だっ
六つの目がめいめいに交差し、それぞれの口から声が漏れる。
﹁あら
?
﹁死神⋮⋮
ただちょっと間が悪かっただけ
480
のだ。
紅花にとっては遥か昔、白式に連れられ地獄に訪問していた時に教えられていた。
白式の言っていた客人とは、やはり彼女のことか。
そう頭で結論づける前に、しかし紫は死神が抱えている存在のことに気付いた。
﹂
﹁あなた
藍に何したの
﹂
!
﹂
こうとはしなかった。しかしそれを補って余りある怒気で、物理的にではなく精神的な
抱えられている具合の悪そうな藍を慮ってか、紫と紅花はすぐに死神にぶつかってい
﹁返答によってはぼこぼこにしてやるの
!
!
紅花もまたすぐに状況を察したのか、紫に便乗して憤懣やるかたない様子で吠える。
カッと頭に血が上り、紫は死神に向かって叫んだ。
い。
き、その間隙から絶えずか細い呼吸を漏らしており、間違っても普通の状態には見えな
しまったかのように光沢が失われている。ぐったりと死神の腕の中に埋もれ、口は半開
いつもは元気に揺れる尻尾は、しなびた菜っ葉のように萎れ、その毛並すらも萎びて
しているものの、比較的背の高い死神と比べればその身体はやはり小さく見える。
そう、それは金色の毛を持つ狐だった。もう以前のように子狐とは言えないほど成長
﹁藍
!?
481
重圧を死神へとぶつけた。そこらの人外を軽く超える力の持ち主二人に盛大な怒気を
私はウカノ様に用があって今ここに来ただ
!?
ただのお使い、サボれる上に容易い仕事だとのんびりやって来たつもりがこの状況。一
その上、たまたま今回白式の屋敷に来ていた死神は特に荒事を苦手とする者だった。
ある。
相手どるのは荷が勝ち過ぎた。そもそも片方は上位神族の複製体、分が悪いにもほどが
とはいえまったくの無力というわけでもないのだが、さすがに紫と紅花二人を同時に
の本懐である。
岸をまたぐ渡し守だ。死に瀕した者の迎えや、彷徨える魂の道先案内こそが彼女ら死神
持ってはいない。あくまでその役目は閻魔方の小間使いのようなものであり、彼岸と此
で彼女達の上司である閻魔方であり、死神自身は強力無比と言えるほどの力は決して
死〝神〟、とは言っても、他の上位神族に負けず劣らずの力を持っているのはあくま
!
!?
てただけで⋮⋮べっ、別にこの子が心配だったわけじゃないんだからね
﹂
そしたらこの子が苦しそうに唸ってたから、ウカノ様に診せようと思っ
うかそもそも私なんもしてないからね
ってい
紫色のもそっち
ぶつけられた死神はといえば、哀れにも目に見えてうろたえ始めた。
何この展開、ちょっと待ってちょっと待って、君ら怖いよ
!
の赤い色のも。あれ、そっちの赤いのの顔は見たことがあるような。色違い
!
けだからね
?
﹁ええ
ただちょっと間が悪かっただけ
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重に、彼女の今日の運勢が悪かったのだろう。
紅花は死神の言葉を聞いてすぐに怒りを引っ込めたが、紫はまだ警戒を解いていな
かった。それもそのはず、紫は前の死神のことを思い出すとともに、その頃に白式に言
われたこともまた思い出していたのだ。
共に生きるにしても、その生は紫のものと比べてい
?
﹁とりあえずただの通りすがりではないと思うの﹂
﹁私はただの通りすがりの善良な普通の死神さんなんですぅ、あぁもう勘弁してぇ⋮⋮﹂
ますます険を増す紫の視線に、死神はますます身を縮こませ卑屈な顔をした。
あの世へと連れ去る前という風情だった。
道理はない。加えて死神に抱えられている明らかに不調な藍という、その構図はまさに
紫の懸念と死神の先の言は矛盾しているものの、そもそも紫が死神の言葉を信用する
そのタイミングは絶妙過ぎた。
白式に宣告された時から既に五年、藍のお迎えだと言われても違和感がないほどに、
今藍を抱えている彼女が、死神であることが問題なのだ。
ささか以上に短すぎる﹄
狐として一生を終えると思うよ
﹃いやいや、俺みたいに生き物を逸脱するやつなんてそれこそ一握りだし。藍は普通の
﹃五年ぐらいかなぁ⋮⋮。え、何って藍の寿命。狐の寿命としては妥当じゃないかな﹄
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﹁火 に 油 を 注 ぎ な が ら 揚 げ 足 を 取 る よ う な 真 似 は 止 め て
﹁││
そうだったわ。ねぇ、藍を渡して﹂
れている藍だった。
も う お 腹 い っ ぱ い な ん で
ぽんぽん。紅花が紫の肩を叩いて宥める。もう片方の手で指差す先は、死神に抱えら
べきことがあると思うの﹂
﹁紫、紫。この死神を睨むのもそれはそれで面白いんだけど、今はそんなことより優先す
﹁⋮⋮﹂
す、私もう紫色の人に視線で呪殺されちゃいそうなんですー﹂
!
熱い
﹂
紫
急いで母さんに診せないと
﹂
!
!?
今はまだか細いながらも呼吸を続けているものの、それもいつ途切れるかも分からな
めだった。放っておけばどうなるか、考えるまでもなく、別離の危機感が二人を襲う。
紅花は、藍には触れなかった。それは、触れずともその身体の発する熱に気付いたた
自身も心配になって手を伸ばした紅花が、顔をしかめて言った。
!
藍を渡した。紫は藍を抱えた途端、その身体に宿る異常に目を見張った。
できるだけ揺らさないよう、少ない動きで紫の目の前までやって来た死神が、静かに
﹁はいはい。わかったわかった、わかりましたよぅ﹂
!
!
﹁これは⋮⋮
!
﹁││
ただちょっと間が悪かっただけ
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い。今の藍は、それほどに危険な状態だった。
早く母さん探してきて
!
﹁だから私もそうしようと⋮⋮﹂
﹂
﹁何ボサッと突っ立ってるの
﹁はぃいっ
!
﹂
!
485
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