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私と難聴 いくつもの壁をのりこえて・・・竹への執念
滋賀県立甲南高等学校 3年 藤江 私と難聴 私は、十三歳、中学一年の時に耳が聞こえなくな りました。今七十歳ですから、もう六十年近く昔の 新悟 でした。しかし、他にすることがなかった私は籠作 りを続けました。好奇心が強かったのでしょう。籠 の技に関心を持ちました。台所へ行っては籠を探し、 「この籠は、作ったことがない。今度は、これをや ことになります。だから、その間、話し言葉を全く ってみよう。 」と思い、また、近所や親戚の家でも、 聞いておりませんから、発音が怪しくなって、今こ 珍しいものがあると借用して、まねをして作ってお うして話していても、私の話が藤江さんに分かって りました。田んぼで使う農具の籠、小川の雑魚を捕 もらえるか心配になります。 る漁具や魚籠、手当たり次第に作った籠でしたが、 私は、大阪市の真ん中で生まれ育った都会っ子で した。ある日、学校から帰って、気分が悪く、熱も 母が村の市に持っていくと、子供の作ったものでも 結構買ってくれる人がいました。 高くなって、おかしいなと思って就寝したのですが、 二年程、こういう籠作りを続けた後、ある日、新 翌朝目が覚めていると、耳が聞こえなくなっていま 聞を見ていると、草津に県立養護学校があって、耳 した。父が話しかけてくれたのですが、口が動いて の聞こえない子供が、先生の口の動きを見て、話を いるだけで、話が聞こえませんでした。急いで入院 理解し、楽しく勉強していることを知り、私もこの し、やがて退院しましたが、再び聴力が回復するこ 学校へ行って、もう一度やり直そうと思ったんです。 とはありませんでした。学校へも戻りましたが先生 養護学校では、竹工の職業教育をしていました。こ の話が分からず、一人だけ離れていく状態でした。 れは大変役に立ちました。台所で使う籠の他に、土 次いでアメリカ軍の大阪空襲があって、学校から帰 産物の花籠も作っており、私はレパートリーを拡げ ってみると家がありませんでした。滋賀県は両親の ることが出来ました。しかし、口の動きを読みとる 生まれ故郷で、こちらに戻って来ました。やがて、 口話術は、難しくて上達しませんでした。又、学習 戦争は終わりましたが、私には行く学校がありませ 内容も遅れていて、普通に聞こえる生徒達と一緒に んでした。だから、雑誌を探して読んでは、時間を 勉強したいと希望しました。でも、当時は何処の公 潰していました。そうした時、たまたま近所の青年 立高校でも、「耳が聞こえないのでは、教える方法 達が、青年学級で竹細工の講習を受けたそうで、庭 がありません」と、相手にしてもらえませんでした。 先で籠を作っていました。都会育ちの私には、竹細 たまたま、近江八幡市の私立高校で、校長先生に障 工はとても興味がありました。 害者への深い理解と援助があって、私に働きながら それで、私も籠作りのまねをしたのです。家は野 学ぶ場を与えていただきました。先生は「人間、努 洲川の堤防の傍でした。川の決壊を譲るために、両 力の成果は誰にも必ず現れる。それが索直に認めら 岸には深い竹薮が設けられ、緑の濃い竹林が三上山 れる社会を作ろう」と、教えられました。私の生涯 から、河口の琵琶湖に向かって延々と続いていたの の、籠作りの座右の銘となりました。昼は謄写版や です。戦争に負けても、この美しい竹薮は印象的で タイプライターの仕事を、夜は通信教育を、そして、 した。竹林の近くに住んだことが、私と籠の結びつ 分からないところは、学園の先生方に教えてもらい きになりました。 ました。やがて、高校から大学へ通信教育を続けた 時、以前、私が養学校在住時に作って残しておいた いくつもの壁をのりこえて・・・竹への執念 籠が、県の林産評会で非常に高い評価を受けたこと 近所の青年は、二度と籠を作ることはありません を知り、再び竹細工に戻りました。台所の笊(ざる) −233− や籠から、竹の照明器具、ショッピング・バック、 は技の積み重ねがあるからです。 更に高級の花籠などの工芸品を作り始めました。 ある時、私の六つ目編みの作品をご覧になったお 客さんが言われました。「籠の胴の膨らんでいると 入賞するまでの足取り・・・挫折と喜び ころは、編み目も広く大きくなり、上下の縮んだと まず、滋賀県の県展部門に花籠を出品しました。 ころは、編んだ目も狭く小さくなるはずですが、ど 他人の作品と自分の作品を並べてみると、お互いに うして縮むのですか」風船のような膨らんだ形はこ その長所と短所がよくわかるのです。それから京都 のような技の工夫が必要になってきます。油断をす 工芸美術展、京展、関西展と出品のレベルを上げま ると全体の形がいびつになります。 した。次の目標は日展でしたが、壁が高く、初入選 「網代螺旋編み花籠」と、言う作品があります。こ には十年かかりました。「早春」と言う題名の作品 れは楕円体の籠を網代編みで包み込んだものです でした。長い冬に耐え、春を待つ思いを作品に込め が、網代の交差を広い胴では思い切り寝かせ、編組 ました。うれしかったです。その後、私はいろいろ の狭い上下部では、出来るかぎりたててみました。 立派な賞を頂きましたが、これが最高でした。 すると網代の編み目は胴の膨らみに従って籠の上で (杉田さんにとって、竹細工といいますと。)私は 螺旋を描いた作品になりました。 籠を通して、自分を主張出来るのです。自分の生き (杉田さんの籠は二重籠が多いのはどうしてです 方を表現できます。私は籠作りも楽しいですし、そ か)籠の編み目をすかすかの物も同じ感じです。又、 の成果が社会から認めてもらえることも大きな喜び 籠を二つ重ねると、光と影が微妙に動いていてモア ですね。仕事場の真ん中に座っていると、とても心 レという現象が現れます。これをふっくらした形の が落ち着きます。 籠に使ってみたらどうかと思いました。竹ひごは細 く薄くするほどかごは美しい形になります。それは 竹への拘り・・・材料選び 同時に壊れやすくなります。ある時、苦労してそん (どこの竹を使われているというのか。)愛知川 な籠を作って輸送したら、途中で作品が破損しまし も野洲川も、電車が鉄橋にさしかかると、車窓から た。それからは涼しい感じの、美しい形の、そして 美しい緑の竹薮が見えて、何かホッとしたものでし 少しでも丈夫な籠を作ろうと思って、内籠と外籠を た。その野洲川も改修されて、平地になってしまい 重ね合わせる技法を取り入れました。モアレは偶然 ました。野洲川の竹を使って籠作りの道を歩んでき ですが、二つの籠を正しく合わせ、内、外の籠の編 た私にはとても寂しい思いです。滋賀県の川は山と み目を規則正しくずらせては新しい編み目の効果も 琵琶湖の距離が短く、流れが速くて砂がたまり、天 考えてみました。 井川なって治水が大変です。それで護岸の竹薮は大 籠一つを作るのに、どれくらい時間かかるかと言 切にされていました。昭和三十年頃でしょうか、プ いますと、スムーズに作れる時も、思うように進ま ラスチックで簡単に籠が出来るようになりました。 ない時もありますね。途中で振り出しに戻って、又、 水切りが悪いとカビがはえる籠は敬遠されて、材料 やり直すこともあります。 (森がどんな状態であるのが望ましいですか。) の竹材もあまり売れなくなり、竹薮の手入れも行き 竹は春から夏にかけて、水分を吸って成長し、秋か 届かなくなりました。 私の籠の制作には真竹を使います。真竹は節と節 ら冬にかけて丈夫な竹になるので、この時期に伐採 の間が長く、実に気持ちよく竹が割れます。ゴムまり します。自分で竹薮に入って、節間の長い索直な材 のような弾力があって、これを使うと籠編みにもリ を探し、仕事場に運んでいましたが、今は竹屋さん ズム感があります。孟宗竹は、もろいので籠には向 で良材を選び仕入れています。時々竹薮の傍を通る きません。節間が長いと大きい籠が作れます。私の ことがありますが、手入れがされず、ゴミが捨てら 仕事の半分は、竹を割る竹を細かく割る、幅や厚さ れた竹林を見ると泣きたくなります。先日、京都の を揃える、削るという下拵えです。こうして準備が 嵐山を歩きました。素晴らしい竹林で、手入れが良 出来ると、籠を編みます。四つ目編み、六つ編 く行き届き、大勢のお客様でした。観光的だと言え み・・・様々な編み方があり、作品のイメージに合 ばそれまでですが、日本人と竹の文化、竹林とのふ わせて選びます。縦、横、斜めと竹ひごは交差して れあいを取り戻したいものだと思いました。 編組みは拡がりますが、何処まで編んでも織物のよ うに平面です。これを立体に、更に球体に、楕円対 後継者 に、ゴム風船のように膨らんだ形の籠に仕上げるの −234− (一人前になるには、何年ぐらいかかりますかっ て。)私自身が一人前か、わかりません。周りから るのだといつも思っています。後継者には、手が回 は、一人前だと思われるでしょうが、自分ではまだ りません。残した作品を参考にして欲しいと願って まだですね。もっと頑張れば、もっといい作品が出来 います。 −235−